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独裁者列伝 _ ポル・ポト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/803.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 4 月 17 日 09:26:30: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 独裁者列伝 _ アドルフ・ヒトラー 投稿者 中川隆 日時 2020 年 4 月 16 日 18:50:14)

独裁者列伝 _ ポル・ポト


【日本語字幕】ポル・ポト 最後のインタビューと死 - The last interview with Pol Pot




【大日本帝国敗戦後の亜細亜】 Hc カンボジア ポル・ポト



ポル・ポトは政府との和解交渉を試みた腹心のソン・センとその一族を殺害した。


しかしその後クメール・ルージュの軍司令官タ・モクによって「裏切り者」として逮捕され、終身禁錮刑(自宅監禁)を宣告された。1998年4月にタ・モクは新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った。


伝えられるところによれば、1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死去した。


遺体は兵士によって古タイヤと一緒に焼かれた後、埋められた。
火葬にはポル・ポトの後妻と後妻との間に生まれた1人娘が立ち会った。


後妻と娘は「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり、父でした」と語った。
埋葬直後には墓は立てられなかったが、のちに墓所が建てられた。
https://www.youtube.com/watch?v=BACFUwE19SU
 

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コメント
1. 中川隆[-13229] koaQ7Jey 2020年4月17日 09:29:57 : R3c9pf36SU : dEVkTUMvd3ZaM0U=[4] 報告

原理主義。純度が高まれば高まるほど劣性が極大化していく


2016年7月1日にバングラデシュのダッカで起きたテロ事件の実行犯のひとりは資産家の息子でダッカ有数の私立学校に通っていたエリートだった。

エリートが過激な「原理主義」に取り込まれてテロの実行犯になったというのは、日本でも例がある。

オウム真理教という薄気味悪いカルトに取り込まれて地下鉄サリン事件のような凶悪テロ事件を引き起こしたのも、エリートたちだった。

「原理主義」はその思想を100%の純度まで培養し、先鋭化し、「それ以外は存続を認めない」という「純粋」な思想である。

「純粋」と言えば、何かとてもクリーンな感じがして良い印象を抱くはずだ。混じりっけなし。完全無欠。そういったものは、清潔で素晴らしいというイメージがある。

「純度100%」に、悪い印象を持つのは難しいかもしれない。しかし、実のところ、非常に危険なのだと気がつかないと、取り返しの付かないことになる。

純粋であろうとすればするほど、それは非常に強い「毒」となって自分や社会を傷つけることになる。「純粋」が危険であることの理由は分かるだろうか……。


純度が高まれば高まるほど劣性が高まる事実

純粋であるというのは、単純に言うと、緩衝物(クッション)になるものがすべて省かれて、まったく融通が利かないものである。

あまりにも純化されていると、妥協ができないので少しでも間違うと、目的を達成するよりも破壊する方が強くなる。これは、あらゆる分野ですべて共通することである。

たとえば、人間の「血」に関してはどうか。人間の「血」で純度を高めるというのは、近親相姦をずっと繰り返して「余計な血を入れない」ということである。

意図的にそれをやった一族がいる。ハプスブルグ一族だ。この名門一族は、あまりにも名門だったので、自分たちの血を身分の低い他人の血と混ぜるわけにはいかないと考えた。

そこで、純血主義を徹底して、一族間の近親相姦を繰り返したのだが、その結果、どんどん心身に問題を抱えた子供たちが生まれたのである。

純血は、良い遺伝子と良い遺伝子が組み合わされればさらに良くなるが、劣性の遺伝子が組み合わされると問題が大きくなって場合によっては命に関わってしまう。

ハプスブルグ一族も、劣性遺伝子と精神疾患に悩まされるようになり、とうとうその血は断絶した。

これは人間だけでなく、一般的にすべての動物で言えることである。たとえばペットの犬や猫でも、「純血種」は身体が弱かったり病気にかかりやすかったりする例が多いのはよく知られている。

そもそも、極端に足が短い、極端に鼻が低い、極端に小さいというのは「劣性遺伝子」による奇形がどんどん突き進んだ結果なのだ。

純度を高めることによって、劣性の部分を極大化させていき差別化している。それが純血種という存在である。純度が高まれば高まるほど、純度が高まるがゆえに劣性が高まる。


共産主義思想をとことん純化させた国があった

政治に関してはどうか。共産主義はマルクス主義が主流となって1900年代から爆発的に浸透していった思想だ。この思想は、単純に言えばこうだ。

「財産をすべて国のものとして、国が国民に平等に分配し、平等な社会を作る」

これはレーニンやトロツキーや毛沢東によって支持されて、ソビエト社会主義連邦や中華人民共和国として結実した。

結局、国の分配はうまくいかず、1980年で事実上、共産主義の思想は破綻していくことになるのだが、1970年代に、この思想をとことん純化させた国があった。

カンボジアだ。

1974年、カンボジアのポル・ポト政権はアメリカの傀儡政権を崩壊させて権力を奪取したが、その翌日から異様な共産主義を実行し始めた。

国の通貨をすべて廃止し、インテリ層を皆殺しにし、プノンペンを無人にし、国民をすべて農村に送り出して共同生活を強いたのである。

つまり、カンボジアはポル・ポト政権が政権を取った1974年から国民の職業は1つになった。農民である。「医者も、学者も、いらない」とポル・ポトは豪語した。

共産主義を極度に純化させたそれを「原始共産主義」と彼らは呼んだ。

しかし、その純度を高めた原始共産主義で国民が100万人も死んでいき、カンボジアはたった5年でアジア最貧国となって国家崩壊していった。

朝日新聞は、このポル・ポト政権の共産主義国家が誕生した時に「アジア的優しさ」などと能天気に評して「新生カンボジアは、いわば『明るい社会主義国』として、人々の期待にこたえるかもしれない」と馬鹿な記事を載せていたので有名だ。

ところで、このポル・ポトとは何者だったのか。

この男は、実は国費でフランス留学した「エリート」教師だったことを知っている人は少ない。エリート教師が外国で極端な共産主義にかぶれて同じエリート仲間たちと祖国で革命を起こし、最後に祖国を破壊した。


100%でないと駄目だと考えた瞬間に、自滅する

世の中は何もかもが「純粋ではない」のだ。それにも関わらず、そこに純粋を持ち込むとどのようなことになるのか。

たとえば、自分が純粋であろうと努力することや、自分の純粋な理想を相手に押し付けて理想から外れることを許さないと、どのようなことになるのか。

純粋でないものを強制的に排除したいという動機が働くようになり、それが「自分たち以外の人間の皆殺し」の正当化に突き進んでいく。それがテロなのである。

理想を持つことや、純粋であることは、ほどほどであれば問題はないし、必要でもある。しかし、その純度を極限的なまでに高めようとして世界が歪む。

100%理想の哲学はない。100%理想の人はいない。100%理想の恋人や配偶者もいない。100%理想の友人もいない。また100%正しい物事もない。100%信じられる人もいない。

100%を目指すことの愚かさは、もっと多くの人が気がついてもいい。

リンカーンは奴隷解放宣言をした政治家だが、ある理想主義者を部屋に呼んでこのように諭したという。

「コンパスはあなたに真北を指し示す。しかし、あなたと目的地の間にある障害物については警告しない」

原理主義とは、まさに純度をとことんまで高めて妥協を知らない主義だが、真っ直ぐに突き進むと目的が達成できないので結果的に挫折してしまう。

なぜ挫折してしまうのか。融通性が利かず、一方向しか進むことができないからだ。

世の中には今でもあちこちで原理主義の組織や、社会が存在する。しかし、純度を高めれば高めるほど、急速な自壊に向けて突き進むことになってしまう。

危険なのは、多くの人は「純粋」であることに対して良いイメージしか持たず、「純粋」「純度100%」が理想であると考えている人もいることだ。危険だ。危険なだけでなく、そんな姿勢は人生を破滅させる。

ところで、この純度100%の原理主義に心酔しやすいエリートだが、このエリートという存在も学歴社会に純度100%で純粋培養された存在でもあるとも言える。


ポル・ポト。
純度100%の共産主義を目指したが、結果的に国民大虐殺につながり、カンボジアを根底から破滅させてしまった。ポル・ポトは、実は国費でフランス留学したエリート教師だったことを知っている人は少ない。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160705T1658130900

2. 中川隆[-13228] koaQ7Jey 2020年4月17日 09:30:45 : R3c9pf36SU : dEVkTUMvd3ZaM0U=[5] 報告

共産主義の独裁者はインテリを憎んで無学な子供たちを好む


カンボジアで狂気のポル・ポト政権が成立したのは1975年4月17日のことだった。狂気の指導者であるポル・ポトが当初から敵視していたのは「インテリ層」だった。

ポル・ポト自身は教師出身のインテリなのだが、極端な共産主義に染まっていたポル・ポトは、新しい国「民主カンプチア」を設立するにあたって知識人は不要だと考えた。

ポル・ポトは自分が支配するカンボジアを「原始共産主義」の国にしようと考えていて、「国には指導者と農民がいれば、あとは必要ない」と割り切っていた。

そのため、まだ西洋思想や民主主義や資本主義のような「堕落した思想」を知らない子供たちを親から引き離し、原始共産主義の思想を洗脳し、邪悪な思想に染まった人間を殺すように命令した。

子供たちは忠実にそれを実行した。インテリを敵視し、医師や教師や経営などの職に就いていた人間はことごとく殺害していった。

国からインテリが一掃できればできるほど「民主カンプチア」は理想に近づくとポル・ポトは本気で考えていた。それほど、ポル・ポトは「物を知った人間」を嫌ったのだ。


混じりっけのない純度100%の共産主義国家の樹立

ポル・ポトのこのインテリ嫌いにはお手本があった。

それは、中国の毛沢東である。毛沢東もまた独裁者となってからはインテリを激しく嫌っていた。

文化大革命では「知識人は反動(反革命勢力)だ。知識が多ければ多いほど反動だ」と言い放って、インテリを徹底的に自己批判させて迫害した。

自己批判というのは、インテリを公衆の面前に立たせて三角帽子をかぶらせ、自分がいかにブルジョア文化に染まっているのかを述べさせ、皆で吊し上げ、罵り、引き回すものだった。

そうやって、毛沢東はインテリを次々と吊し上げて殺害したり追放したりしていたのだった。

そして、人民には「教育は不要だ」「勉強するな」と呼びかけた。それは「叩き潰すべき古い文化」であると言われたのである。ただ、唯一読むことが勧められたのは「毛沢東語録」だけである。もちろん、それは洗脳の書でしかない。

(1)インテリはブルジョア(資本家階級)になる。
(2)資本家階級は人民を搾取する。
(3)資本家階級は共産主義の敵だ。
(4)インテリを吊し上げろ、追放しろ、殺せ。

これが文化大革命の嵐として吹き荒れていったのが毛沢東時代の中国だった。

クメール・ルージュ率いるポル・ポトは、この毛沢東に心酔しており、それを自分の国で徹底的に行うことを決意していた。そしてカンボジアに混じりっけのない純度100%の共産主義国家を樹立しようと目論んだ。

そのためには、共産主義思想とは相容れない「民主主義や資本主義に染まったインテリ、ブルジョアども」を根絶やしにしなければならない。

また、ブルジョア的な生活に染まった都市住民を全員「再教育」しなければならない。

それが都市住民の農村への強制移住となり、インテリやブルジョアの皆殺し政策となって結実したのである。

文化大革命。インテリを公衆の面前に立たせて三角帽子をかぶらせ、自分がいかにブルジョア文化に染まっているのかを述べさせ、皆で吊し上げ、罵り、引き回す。


自分の政策を批判する人間を排除する政治システム

毛沢東とポル・ポトはインテリを嫌悪したが、自分たちはインテリであるというところも似ている。ふたりとも共産主義の活動家になる前は教師だった。

毛沢東は自ら進んで勉学に励み、北京大学の図書館で司書補として働き、アダム・スミスの国富論を読み耽り、さらに思想を中心とした出版社すらも立ち上げている。

毛沢東はそれほどまで書物を愛する生粋のインテリだったのである。

しかし、やがて日中戦争や蒋介石との戦争を経て、中華人民共和国建国の指導者となった毛沢東は自分の政策に批判的なインテリたちを疎ましく思うようになり、やがては資本主義者やインテリを迫害し、弾圧し、粛清していくような独裁化への道を歩むようになっていった。

ポル・ポトはこの毛沢東を手本にしていたので、政権を樹立してから一気呵成に過激な粛清に入って超独裁政権に入った。

独裁というのは、自分の政策を批判する人間を排除する政治システムである。

自分の政策を批判する人間というのは、その政策を多角的に見ることができて、分析ができて、欠点を見つけて、それを言葉にすることができる人間だ。

それこそがインテリである。

だから、独裁者がインテリを嫌って排除するようになるのは、独裁主義を取る以上は必然的な流れとなる。

インテリは自分の政策や思想に反対してくる強敵であり邪魔者だ。だから、物理的に彼らを抹消するのが良いと独裁者は考える。それを共産主義の世界では粛清と呼んでいる。

逆に、独裁者は無垢な子供たちを好む。そして無学な者を好む。なぜなら自分の言いなりに洗脳できるし、狂気の命令であってもその善悪を考えずに粛々と従うからだ。

独裁者は無垢な子供たちを好む。そして無学な者を好む。なぜなら自分の言いなりに洗脳できるし、狂気の命令であってもその善悪を考えずに粛々と従うからだ。


そこでは凄まじいキリング・フィールドが出現していた

独裁を志向する政治家は、教育をないがしろにする。なぜなら、無駄に教育を与えて人民に知識が付いたら、自分を崇拝させることができなくなってしまうからである。

教育を与えたら、自分の政策の矛盾や思想の欠陥を指摘して独裁の世界を破壊する可能性が高い。

だから、共産主義系の指導者は絶対に人民に教育を与えず、単なる労働だけをする人間を賛美し、インテリや資本主義者に対して敵意を植え付ける。

人民が無知であればあるほど指導者は安泰でいられる。だから、独裁者は異様なまでに無学の労働者、農民、学生、子供が好きなのである。

共産主義の指導者は毛沢東のやり方を研究しているので、今でも「無学な人間、無学な子供たち」が好きだ。

たとえば、偏差値28くらいの頭の悪い子供たちなんかは、共産主義の指導者が最も好む子供だ。よく言うことを聞くし、簡単に洗脳できるし、操りやすい。

子供たちに何らかの思想を植え付け、自分たちの望む方に運動させ、活動させる。そして、それを賛美する。今どき共産主義の活動をする時点で頭がおかしいのだが、洗脳された子供たちはそれに気付かない。

子供たちは基本的に無学である上に強固な洗脳状態にあるので、自分たちが操られているということに気付かない。それを指摘されても聞く耳はない。

かくして、指導者に洗脳された子供たちは、指導者の手先となって共産主義を支えていくようになっていく。

共産主義者が無学な若者たちを使って、勉強させずに活動をさせるようになったら注意した方がいい。それは、結果的に極端な暴力活動に結びついていくからである。

そしてどうなるのかは、毛沢東の文化大革命が何を生み出したのか、そしてポル・ポト政権の原始共産主義が何を生み出したのかを見れば分かる。

そこでは凄まじいキリング・フィールドが出現していた。

誰がキリング(殺戮)を行っていたのか。それは、無学な子供たちである。共産主義者の指導者が子供を使って何をしていたのか、私たちは改めて知っておかなければならない。

ポル・ポト派兵士。子供たちは基本的に無学である上に強固な洗脳状態にあるので、自分たちが操られているということに気付かない。それを指摘されても聞く耳はない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160914T0616450900.html

3. 中川隆[-13227] koaQ7Jey 2020年4月17日 09:33:55 : R3c9pf36SU : dEVkTUMvd3ZaM0U=[6] 報告

妄想はすぐに伝染する

フォリ・ア・ドゥ folie à deux
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html


@ 精神病の感染

 果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。

 人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。

 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。

 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。
 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。

 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。

 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。

この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。

A 宇宙語で会話する夫婦

 まずは精神医学1995年3月号に掲載されている堀端廣直らによる「Folie a deuxを呈し“宇宙語”で交話する一夫婦例」というものすごいタイトルの論文から紹介してみよう。

 鍼治療の仕事を営む夫婦の話である。

 夫婦は「温和で物静かな夫婦」とみられていたが、1986年8月中旬から、妻の方が「宇宙からの通信」を受け始めた。その内容は「病気はこうしたら治る」「宇宙から素晴らしい人がやってくる」といったものだった。また、それと同時に近所の人々によって嫌がらせをされるといった被害妄想も感じるようになった。

そして約1ヶ月後には夫も同様の被害妄想をもつようになり、宇宙からの通信を受け始めたのだという。妄想が感染したのだ。二人は治療を求める客に対して「あなたは価値のない人間だから」などといって断るようになる。昼間から戸を締め切り夜は部屋の電灯を一晩中ともして「宇宙からの使者を待つ」生活をして周囲から孤立していった。

 そして約二年後のこと。今度は夫の方から「宇宙語」と称する言葉をしゃべりはじめ、半年後には妻も同調して二人は「宇宙語」で会話するようになったのだという。近所に抗議に行ったり通行人を怒鳴り追いかけるときにも「宇宙語」を発して近所の人々を驚かすこともあった。

宇宙語は中国語やスペイン語に似た言葉のように聞こえたとのこと。子供が3人いたが、感化されることもなく宇宙語も理解できなかった。

1991年、妻が通行人に暴力をふるう行為があったので妻のみが入院。妻は、医師に対して「宇宙語を喋るのがなぜいけないのか。人間のレベルが高くなったからしゃべるのだ」と反論し、同席した夫と宇宙語で会話。しかし入院翌日からは落ち着きが見られ話も通じるようになった。

入院3週間後より夫との面会を許可したが、笑顔で落ち着いた様子で宇宙語は話さなかったという。退院してからは「あのときは自分は一生懸命だったのです。今となっては過去のことです。通らねばならない過程だったと思います」と冷静に振り返ることができたという。

 これは春日武彦『屋根裏に誰かいるんですよ。』にも紹介されている症例だが、おそらくこれは「愛」の物語だ。フォリアドゥの成立条件に「2人の親密な結びつき」がある以上、フォリアドゥの物語は、多くの場合、愛についての物語なのである。

 この症例で興味深いのは、もともとの妄想の発端は妻だったのにも関わらず、「宇宙語」を話し始めたのは夫の方からだというところ。最初妻が妄想を語り出したとき、当然夫はとまどったことだろう。その時点で病院に連れて行ったり誰かに相談したりすることもできたに違いない。しかし、結局夫はそれをせず、妻の妄想世界を受け入れる。それはつまり、二人の間にはそれほどまでに深い結びつきがあったということだ。それから二年後、夫は、世界を与えてくれた妻に対し「宇宙語」を伝え、さらに二人の世界を広げるのである。

 「宇宙語」はつまり、夫から妻へのプレゼントだったのかもしれない。


B 行者と女工

 もうひとつ、篠原大典「二人での精神病について」(1959)という古い文献に載っている事例も紹介してみよう。72歳の女行者と25歳の女工の話だ。

 まずは行者の方である。老婆は若い頃から信心に凝り、夫や子を捨てて住みこみ奉公をし、金がたまると神社仏閣を遍路するという生活を繰り返していた。いつのころからか病人をまじないし、狸がついているなどというので、昭和31年夏、I病院に入院させられた。病室の隅にお札やお守りで祭壇をつくり大声で祈り、ときどき気合いをかけたりしていた。

医師には「お稲荷さんもこの病院は嫌だといっておりますわ。いろんなことがありますが、いうと気狂いだといわれますさかい」と言っていた。

 一方、女工は18歳で母を亡くし、継母とはうまくいかず、郷里を出て工場を転々とし、苦労を重ねていた。入院1ヶ月前、3年間つきあっていた男性から別れ話を持ち出された。

その後、ほかの人が彼女には無断で男から手切れ金を取ったり、すぐあとで別の男から結婚を申し込まれるなどの事件が重なり、発病。「不動さんの滝に打たれていると自然に首が振れだし、止まらなくなりました。不動さんが私に乗り移り問答できるようになりました。故郷に帰れとお告げがあったので荷物をまとめていると、手切れ金の噂をする声が聞こえてきました」。彼女は昭和31年秋に入院した。

 1年後にこのふたりは同じ病棟で移る。すると2人はすぐさま一日中話し込み、ともに祭壇を拝み、女工は行者のお経を写すようになる。

このころ、女工は「私の病気の原因を知っていて治してくれたのです」「不思議な風が私をおさえつけもがいているときに○○さん(行者の名前)のお守りで楽になりました」と話している。

女工は、男に裏切られて以来始めて、信頼できる人に出会ったのである。このころの2人はまさに教祖と信者の関係であった。

しかしその関係は長くは続かなかった。いったんは救われたものの、行者の方が「腹の中にいる生き物がはらわたを全部食ったらおまえは死ぬ」「人を犯す霊がお前についている」などと女工を脅すようなことをいうようになり、女工は行者に不信を抱くようになる。

彼女は行者とは別に祈るようになったが、するとますます行者は怒る。結局3週間で2人は争い分かれてしまった。女工は言う。「○○さんは私を計略にかけたのです。○○さんは身寄りがないから私を治して退院させ、退院した私に引き取ってもらおうとしたのです」

 その後1ヶ月して面会させたが、語り合わずまた争うこともなかった。行者はその後も変化はなく、女工は症状が消え3ヶ月して退院、故郷に帰っていった。

 孤独な2人の、出会いと別れの物語である。


Cフォリアドゥの治療

 この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。

もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。

 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。

 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。

「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。

万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。2人は同じ妄想を共有していたのだった。

 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。

しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。

私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。
1.
今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。


D古いタイプの感応精神病 ← 幸福の科学信者はこのケース

 続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。

 昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。

父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。

悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。
 これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。

青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いたこっくりさんの例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。

 昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。
 発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。

どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師Kに祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。

その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。

 さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。

こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。

 こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。

まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、ものもいえず苦しげにもがいているものなど憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。

このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。

 さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」と提案した。

すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。
これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。

集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。


E 家庭内幻魔大戦

 さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。

 昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。

 彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。

 そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。

 さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。

 宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!

 家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。
Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。

 長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。

父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。

 しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。

この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。

 その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。

 昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。

昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。
昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。

「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。

長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。

 28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」

 彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。

「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」

 やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」

 家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。

「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」

「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」

「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」
「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」

「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。

笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。

 昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。

「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」

「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」

 「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには

「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。

また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。

 昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。

「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。

体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。
きのう書いたとおり、困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。

入院3日目より陽子は「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」と訴え、母の名を叫びながらノートにも

「お母さんお月さんはありますね」

「お母さんを離れては私はありません」

「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」

などと書いた。母と会わせると抱き合って

「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」と語り合っていた。

 入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。

 第2週、娘は

「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」

「地球も宇宙も月も捨ててしまう」

「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」

と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると

「あれは亡霊です人間ではありません」と逃げ出した。

主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、
「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」

と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。

 母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。

 しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。

 昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。

「よい月が出ているから安心しなさい」と主治医が言うと一応鎮まり、

「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」と質問したという。

 かくして陽子は再入院。第1週には

「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」

「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」

などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。
入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、
「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」

といい、2、3時間後には「先生! オールマイティになってください」と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり

「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。

しかし飛べずに興奮し始め、

「過去も現在もなくなってしまえ」

と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。

 念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。

 論文の著者はこう結んでいる。「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。

 つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。


F フォリアドゥと家族


 さて最後にちょっと違った視点からフォリアドゥを見てみよう。共同生活をしている家族などの中で狂気が伝染していくというのは、確かに気味の悪い現象ではあるのだけれど、ある意味、感染して同じ狂気を共有するようになった人は幸せといえよう。

抵抗をやめて吸血鬼(or屍鬼orボディスナッチャーorボーグ)になってしまえば楽になるのと同じようなものだ。

 それでは、狂うことができなかった家族はどうなるのだろう。
 家族を正気に戻すために戦う? 家族を捨てて逃げる? 

映画ならともかく、現実にはどちらもよほどの覚悟がないとできそうにない。それに、もし、戦うことも逃げることもできない無力な子どもだとしたら? 

家族は狂気を共有することを強要するだろう。暴力も振るうかもしれない。狂うこともできない子どもは家族からの虐待に耐えつつ、ただひとり孤立するほかあるまい。狂気に陥っている集団の中では、正気を保っている人物こそが狂人なのである。

 これは、狂気に感染した家族よりもはるかに悲惨なんじゃないだろうか。しかし、どういうわけか、これまでの文献は、感染した家族には興味を示すのに、狂気に陥らなかった家族についてはほとんど触れていない。「宇宙語」の論文でも、感染しなかった子どものことはほとんど書かれていないし、「家庭内幻魔大戦」の論文でもそうだ。無視しているといってもいいくらいである。

 このへん、精神医学という学問の偏りがよく現れていますね。派手な精神病症状には興味を示すくせに、狂気を耐え忍んできた人の心にはまったく無関心。今でこそPTSDなどが話題になってきているけれど、つい最近までの精神医学はこんな具合だったのだ。
フォリアドゥそのものではなく「狂えなかった家族」に焦点をあてた文献はあまりないのだが、それでも皆無というわけではない。酒井充らによる『いわゆる被虐待児症候群の事例化』(社会精神医学1987年12月)という論文から事例を引いてみる。

発端者は母親であったらしく、結婚前の18歳ごろから

「近所の人たちが自分のことをバカにして笑っている」

とくってかかるなどの行動があったという。21歳で結婚するが、しだいに夫も妄想を共有するようになり、次男Kが生まれた頃には、夫婦そろって近隣といざこざを起こし転居を繰り返していた。

 次男のKは4歳のときに幼稚園に入園したが、両親はKが保母に不当にいじめられているという被害妄想を抱き、中途退園させてしまう。またその頃父から「家族は家族だけでやっていくから、もう二度と外の人とは遊ぶな」と言われ、子どもたちは外出を禁じられるようになる。

 6歳でKは小学校に入学するが、やはり父は担任の家に電話してどなりつけたり、教育委員会に抗議に行ったりしていた。まもなく両親はKの登校を禁止。Kが登校しようとすると、両親、ときには兄も加わってベルトで鞭打つ、金槌で殴りつける、煙草の火を押しつける、鉄パイプで眼を突くなどの身体的虐待が加えられた。そのため、小学3年生以降はほとんど学校に出席できなくなった。

 他の兄弟は親に従ったがKだけは抵抗したため、Kは親の言うことを聞かない子として、兄に行動を監視され、他の家族員から仲間はずれにされていた。Kは自宅内で一人で教科書や本を読みながら過ごすようになる。

12歳、中学校に進学したが一日も出席できず、学校から自宅に届けられた教科書で勉強し、父に命じられて自宅の敷地内の草取りをしたり、自宅内で飼っている豚の世話をしたりしていた。

この頃から、両親の近隣に対する被害妄想はますます強くなり、両親は自宅周囲をトタン板で囲い、月に一、二度のリアカーでの買い出し以外外出をしなくなる。

外出のときには両親はカメラやテープレコーダーを持ち歩き、「いやがらせの証拠」を探していたという。その際にもKは外出を許されず、父から訪問者の声の録音を命じられていた。

 15歳ごろより、Kはマンガ家になりたいと思うようになり、マンガの添削教育を受け始める。しかし両親は「マンガなど描くのはやめろ。豚の世話をしろ」と反対し、Kの描いたマンガを破き、届いた郵便物を焼き捨てる。反抗すると、両親はKに暴力を加えた。

Kは両親の妨害を避けるため、自宅の隅に家具やガラクタを積み上げて「バリケード」を築き、その中に閉じこもってマンガを描くようになった。Kの態度に父は逆上、バリケードに灯油をぶちまけて火をつけ、自宅は全焼、Kは右半身に火傷を負い、翌日外科病院に入院した。

 入院したKは病院で植皮術を受ける。しかし、手術痕の回復に従い、問題行動が始まった。看護婦の体に触る、夜間徘徊して眠らない、注射・服薬を拒否するなどの行動を繰り返し、病院側から治療半ばにして退院させられてしまう。

病院は通院治療を勧めたが、父は「一旦家から離れた者は家族ではない」といって、Kを父の信奉する宗教施設に預けた。

しかしKはそこでも問題行動を起こし、自宅に帰された。両親はやむなくKを家に置くことを許したが、やはり自宅外への外出を禁じたため、Kは再びバリケード内にこもった生活を続けることになった。

痛ましい話である。Kにとってはまさに地獄のような家だったに違いない。15歳で入院し、家から離れたときになぜきちんと助けを求めなかったのかと不思議に思う人もいるかもしれないが、それは無理な話だろう。

それまで家族以外との接触がほとんどなかったKには、他者とうまくコミュニケーションをとることができなかったのだろう。

 さてこのあと、Kは意外な方法で地獄からの脱出を図る。

17歳頃になると、Kは両親が話しかけても「あなたは誰でしゅか」などと幼児語しか話さなくなり、昼夜かまわず奇声を発するようになった。

また布団の上や鍋の中に大小便をしたり、糞尿を身体をなすりつけて転げまわるなどの異常行動が徐々に激しくなり、両親も対応に困り、翌年11月、救急車で精神病院に入院することになった。

 入院したKは、主治医の質問も待たず一方的に喋りだし、

「親から離れて入院できたのは本当にラッキーでした。でも僕は本当のことは言いません。狂気を装っているんです。催眠療法してもだめでしょう」

とうれしそうな表情で話した。入院前の異常行動については

「親が鉄パイプで殴ったり、僕のものを燃やしたりするのが鬱積して、精神病の方へ出ちゃったんです」

「虐待ばかりで学校へも行かせてくれず、訴訟ばかりしている親に反抗して、家から脱出したいと思って、親の方から僕を嫌いにさせようとして狂うふりをしたんです」という。

また「これは父にやられた、ここは母にやられた」と体中の傷痕や火傷痕についてしきりに説明した。
病棟では他の患者や看護婦に一方的に話しかけ、苦情が出るほどだった。また自分の要求が通らないと大声でわめきちらし、逆に強く注意されるとその場で土下座して謝ったりと、周囲の人たちとどのように接したらよいのかわからない様子だった。

 両親への憎悪は強く、「もう自宅には戻りたくない。親戚に連絡して引き取ってもらいたい」と要求。入院が長引くにつれ、

「自分の親は被害妄想狂です。だから僕ではなく親のほうを入院させて下さい」と攻撃的な口調で退院を要求した。

 一方両親は、入院時「一生退院させない」と言って面会にも現れなかったが、月に2、3回の手紙は必ず送って来た。

Kは両親が「被害妄想狂」である証拠として、主治医に手紙の一部を見せた。手紙は、警察や近隣、福祉事務所などへの被害的内容が主で、当初は病院に対して好意的だったが、徐々に

「病院も警察とグルになって一家をバラバラにしようとしている」

と被害妄想の対象になっていった。そして、それとともにしだいにKの退院を認めてもいいとも書くようになっていった。

 翌年7月、突然父が病院を訪れ、Kを自宅に引き取りたいと申し入れ、即日退院となった。その後もKは以前のように自宅に閉じこもった生活を続けているようだが詳細は不明だという。
こうして、Kは結局地獄の家に帰ってしまうのである。おいおい、そりゃないだろ、と思うのは私だけではないはずだ。

 Kが本当に狂気に陥っていたのか、それとも本人の言う通り狂気を演じていたのか、この論文でははっきりとした結論は出していない。

それでも、Kは、両親の狂気に対して、それを上回る狂気という奇策によって脱出を図り、必死に助けを求めてきたわけだ。そんなKを、父親に言われるままにあっけなく自宅に引き取らせてしまっていいんだろうか。いくらなんでもこの結末はないだろう。

 確かにこの患者は未成年でもあることだし、普通は親が退院させたいと言えば、法的には退院させるほかはない。たとえ親の方がおかしいと思おうが、この両親を無理矢理入院させるわけにはいかない。でも、このような場合には何かほかの方法があったんじゃないかなあ(例えば親戚に介入してもらうとか)。

 この論文は、「今後はさらに、本事例児のみならず、他の兄弟の発育についても、慎重に経過を追う必要があると思われる」と結ばれているのだが、本当にそれだけでいいのか?
 その後この家族がどうなったのか、気になって仕方がないのだが、残念ながら続報は発表されていない。
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html

4. 2020年6月05日 17:23:09 : CHEpe0BMzk : Zy4uZzNMa2NtWDY=[12] 報告
極端(エクストリーム)な主義主張で「完全なる平等」を実現した指導者がいた
2020.06.05
https://blackasia.net/?p=18651


「平等の実現」は、とても美しい主張のように聞こえる。こんなものが実現するとは今の私たちには想像もできない。そして、そんなことを成し遂げた政権はないと思いがちだ。それは正しくない。実は、強烈なイデオロギーを持って「平等の実現」を実現した政権が1970年代にあった。それは1974年にカンボジアで生まれた。100%の平等がそこでは実現した。(鈴木傾城)


社会を完全に激変させる超弩級の変化を引き起こす

すべての国の経済は、中国発コロナウイルスによってボロボロになっているのだが、これによって最も大きな影響を受けているのは、当然のことながら貧困層である。

仕事が消えた。家にいろと言われて働けない。政府の支給金では2ヶ月も3ヶ月も生きられない。そして、コロナの問題が長期化すればするほど多くの企業が潰れるので、仕事そのものがなくなって失業したままになる。

しかし、各国の中央銀行は無尽蔵の金融緩和とゼロ金利政策によって金融市場を支えているので、富裕層はしっかりと救済されている。

ふと気づけば、富裕層は大した打撃になっていないにも関わらず、貧困層は極限の貧困にまで追い詰められるかもしれない。そうなっても不思議ではない。

そうなると、今度は「資本主義を破壊しろ」「国民全員を平等にしろ」という主張も現れ、暴力的に資本主義を破壊して「平等」を目指す勢力などが彗星の如く登場し、人々を先導し、「平等社会」の実現に向けて走り出すかもしれない。

そういう国が、世界のどこかで生まれるかもしれない。

「平等の実現」は、とても美しい主張のように聞こえる。こんなものが実現するとは今の私たちには想像もできない。そして、そんなことを成し遂げた政権はないと思いがちだ。

それは正しくない。実は、強烈なイデオロギーを持って「平等の実現」を実現した政権が1970年代にあった。それは1974年にカンボジアで生まれた。100%の平等がそこでは実現した。

それを実現した男は、ポル・ポトと言った。

国民は平等になったとポル・ポト政権は自画自賛した

私は東南アジアの各国の歴史を見つめるのが好きだが、いつも忘れられないのは、ベトナム戦争後に激変したカンボジアのことだ。

ベトナム戦争で最も激しい社会転換が起きたのは、ベトナムだと思う人は多い。しかし、ベトナムは戦争中からホー・チ・ミン率いる共産主義勢力(ベトコン)の力は強く、ベトナム戦争後の共産化はそれほど大きな社会転換だったわけではない。
むしろ、世界がショックを受けるほどの社会転換を遂げたのは、隣国のカンボジアだった。ベトナム戦争に巻き込まれて国土が泥沼の戦場になった後、1975年4月17日にカンボジアはポル・ポト政権となった。

このポル・ポト政権は、オートジェノサイド(国民大虐殺)を引き起こした狂気の政権として知られている。

この政権が異質なのは、政権を取ったその瞬間、カンボジア国内から一切の資本主義を強制停止してしまったことだ。つまり、「貨幣経済を廃止」した。信じられないが、国民の財産はすべて「無」になった。

ポル・ポトが貨幣経済を廃止したのは、別に悪気があったわけではない。ポル・ポトは「国民を平等にしたい」という目標があったのだ。資本主義は格差を生み出す。だから、ポル・ポトは資本主義を停止することで国民を平等にした。

そして、都市住民はほぼ全員が農村に強制配置されて、国民全員が農民になった。カンボジアには一切の職業がなくなり、ただ農民だけが残ったのだ。これによって職業上の階層もなくなった。資本主義もなくなり、階層も消えた。

これによって「国民は平等になった」とポル・ポト政権は自画自賛した。

都市住民は農村の人々を搾取して肥え太った害虫

しかし、実際には「平等社会」ではなかった。平等社会を実行・監視するためにオンカーと呼ばれるポル・ポト政権に忠誠を誓った兵士が君臨していたし、農民の間でも「酷使する側」と「酷使される側」が分かれたからだ。平等社会を維持するために、結局は階層が必要になった。

砂埃が舞い上がるカンボジアも、高台から見ると熱帯の緑に囲まれていることに気がつく。ジャングル、村、沼、そして見渡す限りの畑が目の前に広がり、この国の雄大さや自然の美しさを際だたせてくれる。

緑色の地平線は濃い空気に霞み、時間はゆったりと流れる。アジアでは時間がとまったように感じる時が多いが、壮大な緑のパノラマを眺めていると、まさに時間がとまったような錯覚に陥ってしまう。

こういった光景を見つめると、アジアの豊穣を感じ、カンボジアとは何と素晴らしい国だろうかと再認識する。

しかし、眼下の田畑やジャングルは、いったい誰が開拓したのかを考えるとき、この壮大な光景が急に影のようなもので覆われてしまう。ジャングルの開墾は「新人民」と呼ばれる人々が、多大な犠牲を払いながら行った。

では「新人民」とは誰のことを指しているのだろうか。それは1975年4月17日のプノンペン陥落によって、都市から追い出された人々である。

彼らは、元々農村にいた「旧人民」と区別(差別)されることになった。原始共産主義を標榜するポル・ポト政権にとって、都市住民は農村の人々を搾取して肥え太った害虫と見なされていた。

都市住民は今まで農村の人々を搾取したのだから、今後は農村の人々以上に働かなければならないとポル・ポト政権は革命的に考えたのだ。結果としてポル・ポト政権は数百万の人々を死に追いやったが、死者の大半が「新人民」であった。


ポル・ポト。生粋の共産主義者であったポル・ポトは、貨幣経済を完全に停止し、国民を全員農民にした。これによって「平等が実現した」と自画自賛した。

極端(エクストリーム)な主義主張を信じるな

ジャングルを切り開くのは並大抵のことではない。マラリア・寄生虫・毒虫・微生物・病原体が渦巻いており、それに強制労働による過労が重なって人々は次から次へと死んでいった。

それに加えてポル・ポト政権に逆らうものを片っ端から殺害していたので、カンボジアはたちまちにして大虐殺の地(キリング・フィールド)となった。

カンボジアの大地は、強制労働に追いやられた人々の汗と血と涙によって開墾され、疲労困憊して死んでいった人々の肉を肥やしにして育った大地なのである。
カンボジアは貧しい国だと言われている。しかし、土の恵みに関しては世界で一番豊かであるに違いない。なぜなら、カンボジアの大地には死んでいった人間の肉が土に還って養分となっているからだ。これ以上贅沢な肥料を存分に与えられた大地は他にはない。

殺されていった人々は、まさか自分たちを取り巻く世界がこのような極端な体制転換になるとは夢にも思わなかったはずだ。

ベトナム戦争も終結に向けて動いており、むしろこれで暮らしやすい時代が来ると安堵していた可能性もある。それは、クメール・ルージュ(ポル・ポト派ゲリラ)がプノンペンに入ってきた時、彼らはカンボジアの旗を振ってそれを歓迎していたことでも分かる。

しかし、その後に行われたのは世界でも類を見ない民族大虐殺(オートジェノサイド)の動きだったのだ。

資本主義を破壊し、国民全員を農民にして、ポル・ポト政権は世界で類を見ない「平等な社会」を作り上げた。しかし、それは当時のカンボジア人だけでなく、全世界の人の想像を絶する地獄(ディストピア)だったのだ。

資本主義を破壊しても国民全員を平等にしても、必ずしもそれで幸せな社会がやってくるとは限らない。そのことを、私はポル・ポト政権を見て知っている。
資本主義に関するものであれ、共産主義に関するものであれ、他の何かに関するものであれ、極端(エクストリーム)な主義主張を私は信じたことは一度もない。それは往々にして、危険思想に過ぎないのだから。

https://blackasia.net/?p=18651

5. 中川隆[-12195] koaQ7Jey 2020年7月01日 03:52:59 : Rjv7TUFu8A : THhLOTdQUHRmV0k=[3] 報告
【Front Japan 桜】文革輸出とBLM・ANTIFAそして香港[桜R2/6/30]


6. 2021年9月02日 07:45:30 : 3lgZtywAYU : ak1WYnZ3TXhvUEk=[8] 報告
【ゆっくり解説】史上最悪の首相...カンボジアの首相ポル•ポトについて
2021/09/01


7. 2022年1月21日 19:35:05 : 8TUb5hYdHg : dDF5OVNWVlpkLk0=[19] 報告
【ゆっくり解説】国民の4分の1を◯害で国を破壊。カンボジアってどんな国?
2022/01/21

8. 2023年10月16日 16:26:30 : iAzz8XuUjk : dEZtSC83Vy52NFU=[10] 報告
<△26行くらい>
【ポル・ポト】最悪の独裁者はなぜ誕生した?残虐すぎる大粛清の実態とは?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14037915


【ポル・ポト】最悪の独裁者はなぜ誕生した?残虐すぎる大粛清の実態とは?カンボジアの歴史からわかりやすく解説!
大人の教養TV
2021/02/20
https://www.youtube.com/watch?v=NqF3FwcfPw0&t=51s

史上最悪の独裁者はどのように生まれた?
工業学校でのマル秘エピソード?
原始時代に逆戻り?恐怖の「原始共産主義」とは?
独裁の恐ろしさ、共産主義の暴走がよくわかる!

【閲覧注意】世界最悪の拷問が行われたトゥールスレン虐殺博物館に潜入!恐怖の歴史を現地からわかりやすく解説
大人の教養TV
2022/12/24
https://www.youtube.com/watch?v=SAdvwNp4Ui8&t=87s

0:00 オープニング
0:50 カンボジア大虐殺
1:23 人口ピラミッド
1:58 原始共産主義
3:14 知識人の拷問・虐殺
5:55 有刺鉄線
6:19 旧校舎
6:54 鉄棒と鉄枠
8:07 糞尿の釜
8:48 脱臼した人形
9:30 A棟
10:05 拷問部屋
12:55 刑務所の規則
15:34 B棟
15:51 囚人番号
16:44 囚人の紹介
18:04 トゥールスレン刑務所の犠牲者数
18:47 C棟
20:10 監獄部屋
22:19 壁に書かれた記号
23:44 D棟
24:15 生還者の絵画
27:59 拷問が激化した理由
29:33 水責め部屋
30:15 拷問執行人は何者か?
32:25 遺骨
32:57 慰霊塔
34:50 エンディング

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