★阿修羅♪ > 近代史5 > 199.html
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ ★阿修羅♪
琉球人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/199.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 6 月 22 日 08:37:45: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


琉球人の起源


ハプログループ D1a2a (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/173.html

ハプログループC1a1 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/174.html

ハプログループ C2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/175.html

ハプログループ O1b2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/176.html

ハプログループ O2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/177.html


▲△▽▼


琉球列島のY-DNA遺伝子構成 rev.2
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

rev.1

  基本的に日本本土との違いは小さく地方差程度であることがわかりました。

  北琉球はほぼ本土と同じY-DNA頻度なので、間違いなく日本列島そのものです。
  ところが南琉球はShinka氏の報告通りなら、北琉球とは全く異なり実は先住縄文系に後発の弥生系が取って代わったことになります。
本土では、縄文系と弥生系は意外に棲み分けし、遺伝子頻度に影響するような深刻な殲滅戦はなかったと思われる遺伝子頻度なのですが、 南琉球は縄文系が僅か4%しか現代に残っていないという報告があることは、あまりにも狭い島内では遺伝子頻度に大きく影響する 戦いがあったということなのでしょう。

  今回の再調査で、2010年の論文が見つかりました。しかし知りたいことが半分しか触れられておらず当方にとっては 極めて中途半端な論文でした。 YAP+度やmt-DNAなどの情報から台湾の影響が南九州にはおよんでいなかったことを証明するための内容なのでY-DNA「D」 つまりYAP+度しか報告しておらず、 Y-DNA「O2」や「O3」の結果は全くないのです。読みながら全部調べろよ〜〜と文句を言っていました。 しかしこれで1つわかったことは沖縄本島と宮古島は遺伝子的にはほぼ同じであったことと、 石垣島はYAP+が九州並みに低いことでした。宮古島と石垣島の間に何かあるようです。

  もうひとつ前からあった情報が、添付の表の下の2行です。北琉球と南琉球に分けた遺伝子調査で出典がわからなかったのですが、 やっと見つけました。 ところがダウンロードできない学術誌の掲載なので、結局データの真偽はわからずじまいでした。 この情報では南琉球のY-DNA「O2b」度は67%と極めて高いのですが、 「O2b1」に進化した集団なのか韓半島から直接南下してきた「O2b」のまま進化しなかった集団なのかが全く分からないのです。 「破壊する創造者」的には主にY-DNA「D2」との遭遇で「O2b」から「O2b1」に西日本で進化したと欧米の研究者は考えています。 南琉球の「O2b」は一体どこから渡ってきたのか?本土からなら「O2b1」のはずですが、朝鮮半島から直接渡ってきたのなら 「O2b」のままのはずなのです。 これは大問題のはずなのですが、研究者はそのような捉え方はしないようです。困ったものです。

rev.2
  北琉球と南琉球問題で情報を集めたところ、4年前の記事ですが、琉球大学が中心になって調査した研究結果が、 宮古毎日新聞に紹介されていました(2014年9月18日(木) 9:00 )。 この結果はまさしくShinka氏の報告通りで、理由・原因はわかりませんが南琉球では南下してきた弥生系が縄文系を駆逐し 取って代わったことを示しました。 島の狭さと少ない耕作適地をめぐる確執があった可能性が大ですね。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

19-12. 石垣島で国内最古の全身人骨発掘

  関連の学会や研究機関では大変話題になっている報告です。紹介するのは2017/5/21の朝日新聞の記事です。

沖縄群島が日本人の「先祖の系統の一つ」を考察するうえで非常に重要であることがまた裏ずけられました。

1.オーストラロイドでしょう。

  縄文草創期の港川人はオーストラロイド似(恐らくY-DNA「C1a1」)であることは既に研究機関の復元顔が報告されていますが、 弟遺伝子亜型と考えられるオーストラリアのアボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)は50,000年前には既にサフール大陸 (ニューギニア島とオーストラリア大陸が一つの大陸に繋がってころの大陸名)に上陸していたことは 欧米の研究で報告されています。

  つまりニューギニア高地人(ラニ族やダニ族など:Y-DNA「C1b2a1c」)やオーストラリア・アボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)より古い 兄Y-DNA亜型を持つ縄文人の一系統である海洋性ハンターのY-DNA「C1a1」は 少なくとも同じころにはヤポネシア列島に上陸していてもおかしくはないのです。

Y-DNA「C」系統の中で最も古い亜型が日本列島から検出されているのです。 日本列島は少なくとも数万年以上まえから、遺伝子の吹き溜まり(最終到達地)となり 極めて古い亜型がそのまま残っている希少な価値を持つ唯一の「先進国家」なのです。

2.主要な遺伝子亜型の入れ替わりがあったようです。

  今回の発掘の価値は、遺伝子亜型入れ替えの可能性が求められることにあります。
  これまでの国内のY-DNA調査では現代石垣島はY-DNA「O1b2」つまり弥生農耕民亜型が60%近くを占める弥生系世界のようです。 日本列島の中で最も弥生度の高い地域と思われるのです。

  ところがもっと古い時代は沖縄本島と同様の縄文系の世界であることが今回判ったのです。

  縄文系精神風土の石垣島に、南下してきた稲作農耕民が移住し多数派になり精神風土が弥生系に変わったと考えられます。 沖縄の中でも独特な石垣島の精神風土は支配層の遺伝子亜型の違いによるものかもしれません。 沖縄群島は縄文でひとくくりにされる単純な文化/精神風土地域ではないのです。

  かと言って台湾との接点は現在全く検出されていません。台湾の先住民の遺伝子型はY-DNA「O1a1a」で楚系の集団と考えられます。  この楚系遺伝子亜型は石垣島では検出されず、むしろ本州の中国地方で高頻度で検出され、中国地方が日本の中でも 特異な地域(吉備氏が代表か?)であることが判っています。

  石垣島の農耕民遺伝子は現代のY-DNA調査では、台湾からではなく朝鮮半島から九州経由で南下してきたと考えるのが妥当です。

  但しこの調査研究報告は若干古く、報告された弥生系の亜型は満州、朝鮮半島や日本の一部でも検出されるオリジナル 呉系のY-DNA「O2b2」か、 縄文と交配し分化した日本独自のY-DNA「O2b2a1a1」かどうかまでは踏み込んではいません。 つまり水田稲作農耕文化民が満州から朝鮮半島経由で南下し一気に石垣島まで移住してきたのか、九州で独自亜型に分化してから 南下してきたのかはまだわからないのです。

  新しい研究が進む事を期待します。


19-13. 石器晩期−縄文草創期の港川人はオーストラロイドのようだ。

  今まで縄文人顔とされてきたのは典型的なY-DNA「D2」のジャガイモ顔です。 ところが16000〜18000年前頃(旧石器時代最晩期から縄文時代草創期)のとされる港川人の顔は 最近の再調査で下記の記事のように完全にオーストラロイド顔と判明したそうです。 これはY-DNA「C1」はY-DNA「C2」100%の西ニューギニアのLani族(オーストラロイド)に似ていたはずだという 当ガラパゴス史観の意見と完全に一致します。 そして沿岸狩猟採集系遺伝子集団で、貝文土器など土器の製作集団だったのです。

  それでは2010年6月28日asahi.comの港川人の記事をご紹介します。
=================================
  港川人、縄文人と似ず 顔立ち復元、独自の集団か

  新しい研究をもとに、国立科学博物館が作り直した港川人の復元図(右図)


  左図は国立科学博物館に展示されている港川人の復元像。縄文人の祖先と考えられたので、日本人の雰囲気だ。 沖縄で見つかった旧石器時代の人骨「港川人」の再調査を進めている国立科学博物館(科博)が、顔立ちの復元図=写真上、 科博提供=を作り直した。縄文人の祖先とされてきた従来のイメージ=写真下=から大きく変わり、 オーストラリアの先住民といった雰囲気だ。

  上左図の縄文人は眠そうな目ですが、本来の「D」は左図のアンダマン諸島のY-DNA「D*」100%のOnge族やJarawa族のような ジャガイモ顔ですがパッチリした目の鋭い二重だったはずです。 そして本来の「C1」は右図の西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族のような奥目のいかつい彫深顔だったはずです。 どちらも今の日本人に時おり見かける顔です。 しかも当然のことながら古代遺伝子集団や先住民に特有の見事な鯨面です。これが大人のY-DNA「D2」縄文人と「C1」縄文人の オリジナルの顔の現代版なのです。 国立博物館の復元像は鯨面にした方が良かったですね。古代人の特徴をあらわすからです。

  港川人は1967〜76年に沖縄本島南端の石切り場で見つかった。5〜9体分の人骨と考えられ、 出土地層は約2万年前と推定されている。 全身の骨格と顔面が残っている旧石器時代の人骨は、日本ではその後も発見はない。 顔の彫りが深く、 手足が長いといった港川人の特徴が、縄文人によく似ていることから、 縄文人の祖先は南から渡ってきたとの考えの大きな根拠となってきた。その縄文人に大陸から渡ってきた弥生人が融合して 日本人が形成されたと考えられてきた。 科博はそうした日本人形成論の再検討に取り組んでおり、その一環として港川人を再調査してきた。

  CTなど最新の技術で調べると、発見当初の復元にゆがみが見つかった。下あごが本来はほっそりとしており、 そのゆがみを取り除くと、横に広い縄文人の顔立ちと相当に違っている。 現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い。

  縄文時代の人骨は、列島の北から南まで顔立ちや骨格が似ていることから、縄文人は均質な存在と考えられてきた。 だが、縄文人の遺伝子を分析した結果、シベリアなど北回りの集団、朝鮮半島経由の集団など多様なルーツのあることが見えてきた。

  これを正確に言うと、縄文男性は前述のように「D2」「C1a」と「C3a」の3亜型があり、全国に分布するのが圧倒的多数の「D2」、 日本列島部分を北上した「D2」と一緒に北上したため青森など北に多く分布するのが「C1a」、 ナウマン象など大型獣を追ってシベリアから朝鮮島経由で南下してきたため九州や西日本に多いのが「C3a」。 一方女性は民族性を持たないことや、Y-DNA「D」「C」が出アフリカ後移動途中のインド亜大陸や、 スンダランドや東シナ海−黄海ランドなどで巡り合ったmtDNA遺伝子の女性が集団に その都度新たに加わるためmtDNAの調査でも男性より種類がやや多い遺伝子構成になっています。

  新たな復元図は、そうした研究を総合したものだ。科博の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文人とは異なる集団だったようだ。 港川人は5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高い」と語った。 その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、 港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたと考えることができそうだ。(渡辺延志)

=================================
  その後、石垣島の白保竿根田原洞穴からこれまでの20000年前より更に古い国内最古の24000年前頃の人骨が発掘された、 というニュースがありました。
  旧石器時代の人骨として最も有名な港川人も沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)で見つかっており、 全て琉球列島の遺跡という驚くべきことですが、骨が残りやすい土壌のようです。

  縄文人(正しくは石器−縄文人)にはY-DNA遺伝子の3亜型があり、

・Y-DNA「D2」;現代日本人のY-DNAの実に41%を占め、小柄でジャガイモ顔で二重瞼の日本人の基盤です。

・Y-DNA「C1a」: 4%、小柄なオーストラロイド系海洋性ハンター、

・Y-DNA「C3a」; 3% ナウマン象を追ってきた大陸性ハンター

  縄文系は合計日本人男性の実に48%も占める田舎的な親切な日本人気質の源になった遺伝子です。 そして3亜型とも出アフリカ当時に近い古代性を残したシーラカンス遺伝子です。 田舎独特のホスピタリティはこの石器−縄文人から受け継ぐ古代気質です。 これらの遺伝子集団の草創期の遺跡は海面上昇後の大陸棚に大部分が沈んでおり草創期の文化の構築は難しいものがあります。 もし沿岸大陸棚の研究が進めば縄文時代の草創期は14000年前ごろとされる今よりもっと遡る可能性が極めて大なのです。

  50000年前ごろにはオーストラロイド(Y-DNA「C2」、「C4」)は既にスンダランドと海で分離していた サフール大陸(オーストラリア/ニューギニア大陸)に上陸していたことが明らかになっています。 渡海技術が50000年前ごろには既にあったのです。ということは、当然陸続きだった日本列島部分 に同じ頃に「C2」や「C」より古い古いY-DNA「C1」が住みついていたとしても至極当然のことでしょう。 ということは、「C」と行動を共にしていたとされる「D」も一緒に住み着いたはずです。といっても、 住みついたのは今は海面下に沈んだ120m下の大陸棚部分のはずですが。 つまり、50000年前頃には遅くても20000年前頃には日本列島部分にY-DNA「D」「C」は定住していた可能性は極めて大です。

  石垣島の白保竿根田原洞穴の20000年前~24000年前頃の旧石器時代人は「C1a」か「D2」のどちらでしょう。

http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-12290] koaQ7Jey 2020年6月22日 08:39:14 : HvvjaF1TTA : ZG1mQ0ZHQmJ2MmM=[1] 報告
日本人のガラパゴス的民族性の起源


1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 最新ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

2-1. mtDNA ハプロタイプ 2019年5月21日取得 最新ツリー改訂版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

0-1. 日本人のY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-1.htm

0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

1-2. 日本と関連民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度 rev.1
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm

2-3. 日本民族mtDNAハプロタイプ頻度リスト
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-3.htm

1-3. 日本民族 Y-DNA調査まとめ 日本人は三重遺伝子構造の民族!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-3.htm

1-5. Y-DNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#1-5

1-5. Y-DNA/mtDNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#2-2

1-8. 縄文遺伝子近縁度調査 Y-DNA「D」とY-DNA「C」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-8,30-11,30-12,19-14.htm#1-8

1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

0-3. 日本人のガラパゴス的民族性の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-3,19-8,30-31.htm#0-3

30-23. Y-DNAから見た日本語の成り立ち考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/16-2,30-23,30-24,30-25.htm#30-23

2. 中川隆[-12289] koaQ7Jey 2020年6月22日 09:02:26 : HvvjaF1TTA : ZG1mQ0ZHQmJ2MmM=[2] 報告

高宮広土「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」『人類の移動誌』第3章「日本へ」第5節: 雑記帳
https://sicambre.at.webry.info/201407/article_1.html

「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係: 雑記帳
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_32.html

3. 2020年9月21日 09:33:23 : LRsxCcIg7A : TDBiLmtTMHg5Wlk=[7] 報告
2018年11月3日
九州語と琉球語からなる「南日本語派」は成立するか?:共通改新としての九州・琉球同源語に焦点を置いた系統樹構築
五十嵐 陽介


本土日本語(日本本土の諸言語)と琉球諸語(琉球列島の諸言語)に関する比較言語学的研究によると,本土日本語と琉球諸語は日琉祖語(Proto-Japonic)を共通祖先とする姉妹言語であるという。

この通説に従えば,日琉語族(Japonic language family)は「(本土)日本語派」と「琉球語派」という2大系統群から構成されることになる。

しかしながら,日本列島の諸言語の系統分類に関する従来の研究は,以下の2つの問いに対して満足のいく答えを与えていない。第1に,日本本土のすべての言語を含み,かつ,日本本土の言語のみからなる「日本語派」なる単系統群は果たして本当に存在するのだろうか?第2に,日本本土の一部の諸言語(特に九州の諸言語)と琉球列島のすべての言語からなる単系統群は成立しないのだろうか?

周知のように,系統関係のある諸言語を下位分類する際の唯一の基準は,共通の改新(shared innovation)である。もし琉球列島のすべての言語が共有する一連の言語改新を,九州の諸言語が共有しているのならば,日本本土のすべての言語を子孫に持つ「日本語派」なる単系統群の存在は否定され,九州の諸言語と琉球諸語のみからなる単系統群「南日本語派」が定義される。

本発表では,

1) 日本本土のすべての言語が共有するとみなされてきた言語改新を九州の言語の一部が共有していない事実を確認するとともに,

2) 琉球諸語と九州の諸言語のみが共有する同源語が相当数存在することを指摘し,

3) その少なくとも一部は日琉祖語から継承されてきた特徴の残存(shared retention)ではなく,共通改新であるとみなすに足る根拠があることを示し,

4) この事実に基づいて,九州の諸言語と琉球諸語のみからなる単系統群「南日本語派」を提案する。

また,九州と琉球とが共有する言語特徴の分布には含意階層(特徴Aの分布が特徴Bの分布を完全に含む関係)が認められ,それに基づくと,南日本語諸語の話者集団が,北部九州から南部九州を経て琉球列島へと拡散してゆく過程が再建されることを示す。
https://researchmap.jp/yos_igarashi/presentations/5035335

4. 2020年12月07日 08:37:28 : RlkyUiF9t2 : Ty4zTWNjL2I3QU0=[1] 報告
雑記帳 2020年12月07日
琉球諸島への人類最初の航海
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_9.html

 琉球諸島への人類最初の航海に関する研究(Kaifu et al., 2020)が公表されました。人類史において渡海は100万年以上前から行なわれていましたが、明らかな航海が確認されているのは、現時点では現生人類(Homo sapiens)だけです(関連記事)。現生人類の航海の最古の証拠となりそうなのは、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3となる5万年前頃のサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)への拡散です。MIS3には、西太平洋における別の航海の証拠も確認されています。それは琉球諸島で、35000年前頃までさかのぼります。琉球列島の近くの海域には南方からの黒潮があり、これは世界でも有数の規模と速さを有しています。そのため、人類が琉球諸島へ黒潮により偶然漂着した可能性も指摘されています。

 そこで本論文は、黒潮により人類が南方、その中でも可能性が高い台湾から琉球諸島へ到達した可能性があるのか、1989〜2017年に台湾沖またはルソン島北東沖を漂流した、138個の衛星追跡ブイの軌跡を調査しました。台湾沖を漂流した122個のブイのうち、114個は黒潮により北上し、そのうち3個は悪天候の中、琉球諸島中部と南部から20km以内に入っていました。また、ルソン島沖を漂流した16個のブイのうち13個が黒潮に乗って漂流しましたが、琉球諸島に向かって移動したのは1個のみで、これは台風の影響によるものでした。

 問題となるのは、現代よりも気温が低かったMIS3には、海面が現在より低く、地形が現在とは違うことです。海面変動の影響を調査した研究には違いも見られますが、本論文は、さまざまな調査結果を考慮して、黒潮の流れは過去10万年間、少なくとも東シナ海の入口では変わっておらず、その北方でも同様だっただろう、と推測します。ただ本論文は、黒潮の強度に関しては、過去と現在とで異なっている可能性も、異なっていない可能性もある、と指摘します。これらの知見から本論文は、漂流船に乗った人類が黒潮による偶発的な漂流によって琉球諸島に到達する確率は低い、と推測します。つまり、35000年前頃に人類が琉球諸島へと到達するには、黒潮を意図的にわたった可能性が高い、というわけです。また本論文は、台湾から琉球諸島へ到達した人々が、故地に戻って来た可能性も指摘します。

 本論文の見解は興味深いものの、過去の地形と黒潮や風の影響に関しては今後さらに調査が進み、検証されていく必要があるとは思います。琉球諸島への人類最初の移住に関しては、形態やミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究が進められています(関連記事)。そうした研究では、更新世における琉球諸島最初期の人類は南方から到来し、現代人も含めて完新世人類集団とのつながりは明確ではないというか、どちらかというと否定的に考えられているようです。

 おそらく、琉球諸島最初の人類は、現代人ではアンダマン諸島集団、更新世〜完新世の人類ではアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団と近縁な集団(ユーラシア東部南方系統)だったのでしょう。あるいは、オーストロネシア語族集団の主要な祖先となったアジア東部南方系統か、両者の混合系統だったかもしれません。この琉球諸島最初の人類集団と現代人との関係については、更新世琉球列島の人類の核ゲノムデータが得られるまで、断定を避けておくのが妥当だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:旧石器時代に、水平線の彼方の琉球諸島へ船出した現生人類

 現生人類は、航海に出た時点で琉球諸島は見えていなかったにもかかわらず、意図的に海を渡って琉球諸島に移住したと考えられることを示した論文が、Scientific Reports に掲載される。

 人類は、旧石器時代(3万5000〜3万年前)に台湾東部から海を渡って琉球諸島に移住したと考えられている。しかし、琉球諸島にたどり着いたのは黒潮による偶発的な漂流の結果なのか、計画的な船旅だったのかが明らかになっていなかった。黒潮は、フィリピンのルソン島沖から台湾沖を経由して日本へ流れ込んでいる。

 今回、東京大学の海部陽介(かいふ・ようすけ)たちの研究チームは、黒潮による偶発的な漂流によって人類が琉球諸島に到達した確率を調べるため、1989〜2017年に台湾沖またはルソン島北東沖を漂流した138個の衛星追跡ブイの軌跡を調査した。台湾沖を漂流した122個のブイのうち、114個は黒潮によって北上し、そのうち3個は悪天候の中、琉球諸島中部と南部から20キロメートル以内に入っていた。また、ルソン島沖を漂流した16個のブイのうち13個が黒潮に乗って漂流したが、琉球諸島に向かって移動したのは1個のみであり、これは台風の影響によるものだった。黒潮の流れは10万年前から変わっていないと考えられていることから、今回の研究結果は、漂流船に乗った人類が黒潮による偶発的な漂流によって琉球諸島に到達する確率が低いことを示している。以上の知見は、約3万5000年前に人類が琉球諸島に移住するために、世界で最も強い海流の1つである黒潮を意図的に横切ったことを示唆している。

 琉球諸島の中で台湾東部に最も近い与那国島は、台湾の海沿いの山々から時々しか見ることができない。海部らは、人類が、船旅の後半になって初めて視野に入ってくるような島々に向かって航海したと考えている。


参考文献:
Kaifu Y. et al.(2020): Palaeolithic voyage for invisible islands beyond the horizon. Scientific Reports, 10, 19785.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-76831-7


https://sicambre.at.webry.info/202012/article_9.html

5. 2021年6月15日 06:57:28 : BsjI37zTPI : c2ZHUHFuMmFlQTY=[1] 報告
2021年06月15日
港川人のミトコンドリアDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_15.html

 港川人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Mizuno et al., 2021)が報道されました。ユーラシア大陸と北アメリカ大陸と太平洋とフィリピン海プレートの境界に位置する日本列島は、1500万年前頃までにアジア大陸から分離して形成されました。考古学的証拠からは、4万〜3万年前頃に日本列島に最初の人々が出現した、と示唆されます(関連記事)。旧石器時代後の日本列島の先史時代は、一般的に対照的な時代である縄文時代と弥生時代に区分されます。縄文時代は1万年以上続き、狩猟採集民の生計により特徴づけられます。

 一方、弥生時代は水田稲作農耕により特徴づけられます。稲作はアジア本土からの移民により日本列島にもたらされた、農耕移民は日本列島に弥生時代以降に到来した、と考えられています。19世紀半ば以降、現代日本人の人口史に関していくつかの仮説が提案されてきましたが、現在一般的に受け入れられている見解は、現代日本人が少なくとも2つの祖先系統(祖先系譜、ancestry)から構成され、一方はアジア南東部起源の「縄文人」、もう一方はアジア北東部起源の「弥生人」である、というものですが、旧石器時代人に関してはほとんど知られていません(関連記事)。

 日本列島は火山灰の酸性土壌に広く覆われており、古代DNA研究は困難です。本論文は、日本列島における旧石器時代人のミトコンドリアゲノム配列を初めて報告し、旧石器時代と縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々の完全なミトコンドリアゲノム配列を用いて日本列島の人口動態を調べ、ハプログループ多様性の観点から、母系遺伝子プールにおける連続性を明らかにします。日本列島の2000個体以上を用いての人口統計分析を通じて、狩猟採集から農耕への文化的変化における劇的な人口爆発が観察されます。これは、温度が短期間で急激に変化したことで知られている時期です。最終氷期(LGP)から完新世の移行期において、ヤンガードライアスとして知られる氷期への一時的な揺り戻しもありました。この急速な気候変化は、大型動物の広範な絶滅と強く関連していることが示されています。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)Mは、現代のアジア人口集団において高頻度で観察されますが、現代のヨーロッパ人口集団では見られません。しかし、最終氷期前となる後期更新世のヨーロッパの人類遺骸では、複数の個体がmtHg-Mに分類されています(関連記事)。これは、母系遺伝子プールにおける劇的な変化を示唆します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。完全なミトコンドリアゲノム配列を得ることにより、旧石器時代とその後の狩猟採集の縄文時代および農耕の弥生時代の人々における遺伝的関係が調べられ、さらには現代日本人集団の過去の人口史が明らかになります。現代アジアの人口集団では見られないmtHgが見つかった場合、ヨーロッパで観察されたように、母系遺伝子プールの劇的な変化の可能性があります。しかし、現代アジアの人口集団で見られるmtDNAと密接に関連する配列のmtDNAが見つかった場合、母系遺伝子プールの劇的な変化の可能性は低くなり、つまりは人口集団の連続性が示されます。


●旧石器時代の人類遺骸のミトコンドリアゲノム

 本論文は、おそらく日本列島最初の人類の直接的子孫であろう、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号の完全なミトコンドリアゲノム配列結果を報告します。港川1号の発見場所は、以下の本論文の図1で示されています(図1の1)。
画像

 港川1号のミトコンドリアゲノム配列の平均深度は52倍で、mtHg-Mに分類されましたが、既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換は見つかりませんでした。mtHg-Mは、現代のアジア人とオーストラリア先住民とアメリカ大陸先住民で高頻度です。港川1号で見られるmtHg-Mの祖先型の配列は、本論文で新たに決定された現代日本人2062標本、既知の現代日本人672標本、中国の漢人21668標本(関連記事)では見つかりませんでした。以下の図2では、日本列島の古代人18個体と現代人171個体のミトコンドリアゲノムのベイズ系統樹が示されています。
画像

 以下の図3では、日本列島の旧石器時代1個体(港川1号)と縄文時代13個体と弥生時代4個体と現代2062個体のミトコンドリアゲノムのMDS(多次元尺度構成法)プロットが示されています。
画像

 これらの結果は、港川1号が他のどの標本とも明確なクラスタを形成しない、と示しており、港川1号が縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々とは直接的に関連していないことを示唆します。しかし、港川1号のmtHgはMの基底部近くに位置します。これは、港川1号が現代日本人の祖先集団だけではなく、アジア東部現代人の祖先集団にも属していることを示唆します。同様の事例はアジア本土で報告されており、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)は、4ヶ所のシングルトン(固有変異)を有する祖先型のmtHg-Bと報告されています。つまり、現代人のmtHg-Bの共通祖先というわけです。

 地球規模の気候変動のため、旧石器時代の最終氷期は生存困難な時期と考えられており、遺伝子プールの変化は世界中のさまざまな人口集団で起きる、と予測されています。しかし、港川1号と田園個体を含む系統発生ネットワークの結果(図4a・b)から示唆されるのは、最終氷期における母系遺伝子プールの劇的な変化はアジア東部では起きなかった、ということです。なぜならば、港川1号と田園個体が母系ではアジア東部現代人の祖先集団に属するからです。以下、本論文の図4aおよび図4bです。
画像

画像


●縄文時代狩猟採集民のミトコンドリアゲノム

 さらに、8300〜3700年前頃の縄文時代6遺跡の10個体(図1)の完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました(網羅率の平均深度は11〜1577倍)。縄文時代の個体は全て、系統発生ネットワークと系統樹とMDSプロットにおいて現代日本人と同じクラスタに収まりました(図2・3・4)。これは、日本列島における縄文時代から現代までの人口集団の継続性を示し、旧石器時代から新石器時代の日本列島の人類集団における母系遺伝子プールでは劇的な変化がなかったことを意味します。この結果は、本論文の縄文時代個体のほとんどがmtHg-MもしくはNに分類され、その多くは下位区分ではmtHg-M7aもしくはN9bとなることも示します。これは、PCRに基づく以前の結果と一致します。mtHg-M7aとN9bはともに現代日本人でも見られ、その割合は、mtHg-M7aが7.9%、mtHg-N9bが1.3%です。


●弥生時代農耕民のミトコンドリアゲノム

 弥生時代の人類遺骸4個体(佐賀県神埼町の花浦遺跡と山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡から2個体ずつ、図1)の完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました(網羅率の平均深度は13〜5891倍)。弥生時代は、移民が日本列島にもたらした水田稲作農耕生活様式により始まりました。弥生時代の4個体はmtHg-D4に分類されました。mtHg-D4は現代日本人では最も一般的で(34.3%)、アジア東部全域でも一般的です(関連記事)。

 縄文時代の個体群と同様に、弥生時代の個体は全員、系統発生ネットワークとMDSとベイズおよび近隣結合系統樹のクラスタのいずれかに収まり、そのクラスタは現代日本人とともに構築されますが、縄文時代と弥生時代の個体群はそれぞれに特徴的なmtHgの下位区分を有します(図2・3・4)。港川1号と縄文時代の標本群の結果を組み合わせると、日本列島では後期更新世から現代の人口集団で少なくともある程度の連続性がある、と示されます。


●過去の人口動態傾向の推定

 本論文の結果は、旧石器時代に始まり狩猟採集の縄文時代と農耕の弥生時代を通じて1万年以上にわたり、日本列島の人々の遺伝的多様性の全てを飲み込み、現代日本人の遺伝子プールが確立されてきたことを示します。現代日本人2062個体を用いてのベイジアンスカイラインプロット(BSP)分析では、45000〜35000年前頃と15000〜12000年前頃と3000年前頃となる、3回の大きな人口増加が明らかになりました(図5)。これらはそれぞれ、後期更新世における気温上昇、アジア東部における農耕の始まり、弥生時代の開始と対応しています。

 アジア東部に関する最近の研究(関連記事)では、現代中国の漢人21668個体のミトコンドリアゲノム配列から人口史が推測され、最終氷期末に向かって45000〜35000年前頃に人口が増加し、その後、別のより急速な人口増加が15000〜12000年前頃に起きた、と推測されています。本論文の分析で示された最初の2回の人口増加は、現代の日本と中国(漢人)の人口集団で共通していますが、3番目の人口増加は現代日本人に特有です。この3番目の人口増加は弥生時代開始後に起きており、現代日本人の人口規模に大きく寄与しました。

 この知見と組み合わせると、現代日本の人口集団で見られる最初の2回の人口増加は、おもに弥生時代以降に農耕民が日本列島へと移住してくる前に起きた人口増加を反映しているはずです。容易に予測できますが、水田稲作農耕を日本列島にもたらした弥生時代以降の移民は、日本列島における人口およびその構造に大きな影響を及ぼしたはずです。2800年前頃もしくは4200年前頃に起きた完新世の気候変動が朝鮮半島の人口集団に影響を及ぼし、日本列島への移住を促進した、と示唆されています。

 その後のさらなる人口増加は、日本列島への鉄器導入と関連している可能性があり、鉄器導入はより効率的な水田稲作農耕とより安定した食料供給を可能としました。得られた全ての知見を踏まえると、本論文の結果から、現代日本の人口集団の遺伝的構成は、弥生時代の農耕民の移住事象と、その後のアジア本土からの複数の移住により作られた、と示されます。しかし、現代日本の人口構造への縄文時代の人々の寄与は無視できません。

 本論文が示すのは、mtHg多様性の観点から、旧石器時代の日本列島への最初の移住の波以来、母系遺伝子プールにおける連続性があったことと、現代日本人の祖先は3回の大きな人口増加を経たものの、最初の2回はおもにアジア本土で起きた、ということです。3番目の人口増加は比較的短期間で起きた急激なもので、縄文時代狩猟採集民の遺伝子プールは、弥生時代に農耕をもたらした移民の到来と、それに続く人口爆発の後でさえ生き残ってきました。以下は本論文の図5です。
画像

 弥生時代の移住後の各段階で、縄文時代からの在来狩猟採集民と日本列島に移住してきた農耕民が混合したのかどうか、もしそうならば、どのようなものだったのか、といったヨーロッパでは明らかになりつつあるような(関連記事1および関連記事2)重要問題は未解決です。本論文にはミトコンドリアゲノムのみが含まれており、その標本数は限定的です。したがって、より明確な結論に到達するには、古代人のより多くのゲノム情報を明らかにする必要があり、そうすれば、縄文時代の狩猟採集民と弥生時代の農耕民との間の友好的関係の存在に関するより明確な証拠を得られます。他の旧石器時代の人類遺骸のさらなるミトコンドリアゲノム調査と港川1号の核ゲノム分析は、日本列島の人口史解明のためのより多くの手がかりと詳細を与えてくれるはずです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、日本列島の旧石器時代の人類遺骸では初となるDNA解析結果を報告しており、たいへん意義深いと思います。港川1号はmtHg-Mで、Mの基底部近くに位置します。mtHg-Mはユーラシア西部現代人には基本的に見られず、ユーラシア東部やオセアニアやアメリカ大陸(先住民)の現代人にのみ存在します。本論文は、この新たな知見から、最終氷期における母系遺伝子プールの劇的な変化はアジア東部では起きなかった、と指摘します。確かに、更新世には存在したmtHg-Mがその後消滅したヨーロッパと比較すると、日本列島、さらにはアジア東部では母系遺伝子プールにおける劇的な変化は起きなかった、と評価できるかもしれません。

 しかし、本論文が示すように、港川1号のmtHg-Mは本論文で取り上げられた古代人および現代人のmtHgとは直接的に関連しておらず、消滅したようです(今後現代人で見つかる可能性は皆無ではありませんが)。さらに、43000年以上前のブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の現生人類のmtHgでは、Nの基底部近くに位置したり、Nの下位区分であるRに区分されるものも確認されています(関連記事)。また、44000年前頃と推定されるチェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された現生人類女性個体「ズラティクン(Zlatý kůň)」のmtHgはNで、基底部近くに位置します(関連記事)。

 確かに、ヨーロッパでは後期更新世の最初期現生人類に存在したmtHg-Mがその後消滅しましたが、一方で最初期現生人類においてmtHg-Nも確認されています。本論文の基準に従えば、ヨーロッパでも後期更新世からの母系遺伝子プールの連続性が確認される、と評価できるのではないか、との疑問が残ります。ヨーロッパの最初期現生人類ではmtHg-Mしか確認されていないのだとしたら、ヨーロッパの現生人類における母系遺伝子プールの劇的な変化との評価も妥当だとは思いますが。

 そもそも、本論文も指摘するように、遺伝的連続性の評価も含めて人口史の解明には、核ゲノムデータが必要になると思います。本論文は、田園個体もアジア東部における母系遺伝子プールの連続性の証拠としますが、田園個体的な遺伝的構成の集団は、北京近郊だけではなくアムール川地域からモンゴルまで4万〜3万年前頃にはアジア東部において広範に存在した可能性があるものの、現代人には遺伝的影響を残しておらず、3万〜2万年前頃に異なる遺伝的構成の集団に置換された、と指摘されています(関連記事)。

 ヨーロッパでも、ズラティクン的な遺伝的構成は、どの現代人集団とも近縁ではなく、現代人には遺伝的影響を残さず絶滅した、と推測されています。バチョキロ洞窟個体群は、ヨーロッパ現代人よりもアジア東部現代人の方と遺伝的に近縁ですが、現代人には遺伝的影響を残さず絶滅した、と推測されています(関連記事)。mtHg-L3から派生した、MやNといった大きな基準では、母系遺伝子プールに限定したとしても、遺伝的連続性を評価するのはあまり適切ではないように思います。

 これら最近の古代ゲノム研究から示唆されるのは、現生人類がアフリカから拡散した後、アフリカ外の各地域で初期に出現した集団がそのまま同地域の現代人集団の祖先になったとは限らない、ということです(関連記事)。これは現時点では、ヨーロッパとアジア東部大陸部だけで明確に示されていると言えるかもしれませんが、他地域にも当てはまる可能性は低くないように思います。日本列島も例外ではなく、後期更新世の最初期現生人類集団が、縄文時代、さらには現代まで遺伝的影響を残しているとは、現時点ではとても断定できません。本論文も指摘するように、日本列島は動物遺骸の保存に適していないので、更新世の人類遺骸はほとんど見つかっておらず、古代DNA研究での解明は絶望的かもしれませんが、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析(関連記事)が進めば、日本列島における人口史の解明は劇的に進展するかもしれない、と期待しています。

 現時点では、港川1号の日本列島、さらにはアジア東部の人口史における位置づけは困難ですが、本論文とアジア東部の古代ゲノム研究の進展(関連記事)を踏まえてあえて推測すると、港川1号も含まれる港川フィッシャー遺跡集団は、古代人ではアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団、現代人ではアンダマン諸島人と遺伝的に近いかもしれません。これらの集団は、おもにユーラシア東部沿岸部祖先系統で構成されています。これに対して、アジア東部現代人はおもにユーラシア東部内陸部祖先系統で構成されています。ユーラシア東部内陸部祖先系統は北方系統と南方系統に分岐し、アジア東部でより強い影響を有するのは北方系統で、オーストロネシア語族集団では南方系統の影響が強い、とモデル化されています。

 縄文時代個体群は、ユーラシア東部沿岸部祖先系統(44%)とユーラシア東部内陸部南方祖先系統(56%)の混合とモデル化されています。港川フィッシャー遺跡集団は、おもにユーラシア東部沿岸部祖先系統で構成されているか、ユーラシア東部内陸部南方祖先系統との混合集団で、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないものの、縄文時代個体群の直接的祖先とは遺伝的に近縁かもしれません。もちろん、これは特定の研究のモデル化に依拠した推測にすぎないので、今後の研究の進展により、さらに実際の人口史に近いモデル化が可能になるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Mizuno F. et al.(2021): Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences. Scientific Reports, 11, 12018.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-91357-2

https://sicambre.at.webry.info/202106/article_15.html

6. 中川隆[-15326] koaQ7Jey 2021年11月12日 15:26:51 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[27] 報告
宮古島の先史人は北方の縄文系 DNA100%一致、従来の「南方説」覆す 英ネイチャー誌論文
2021年11月12日
宮古島市の長墓遺跡周辺の発掘調査で出土した人骨=2008年7月

 宮古島市平良島尻の長墓遺跡周辺から出土した先史時代の人骨と、日本の縄文時代の人骨はDNAのゲノム(全遺伝情報)が100%一致するとの結果を含む研究論文を、ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に沖縄を含む日本や韓国、中国、米国などの研究者42人が共著で11日までにまとめた。従来、宮古島の先史時代の人々はフィリピンや台湾など南から渡ってきたとする「南方説」が有力だった。今回のゲノム解析結果は沖縄島など北から渡ってきた可能性を示しており、今後の研究の進展が注目される。

 論文名は「トランスユーラシア言語が農耕と共に新石器時代に拡散した―歴史言語学、考古学と遺伝子の学際的研究成果」。日本語、琉球語、朝鮮語、モンゴル語などを使う人々の移動経路を研究し、英科学誌ネイチャーで発表した。

 長墓遺跡は2005年から発掘調査を実施して、先史時代の人骨や装飾品などが見つかった。出土した人骨のDNAを解析し、今回の論文にまとめた。

 論文は新石器時代に中国の西遼河地域でキビやアワを栽培した農耕民を起源に、農耕や言語が朝鮮、九州を経て沖縄へ伝わったことを想定する。論文共著者の鹿児島大学国際島嶼教育研究センターの高宮広土教授=那覇市出身=は「琉球列島の方言と人の起源が明らかになり、農耕の変遷時期も分かった。人骨や農耕による穀類などデータをさらに蓄積することも必要だ」と指摘した。

 同じく共著者で、宮古島市教育委員会文化財係の久貝弥嗣さんは「宮古の先史時代の人骨をDNA分析したことはなかった。日本の遺跡から出た人骨のDNAと比べる新しい視点が入ってきたことは大事なことだ」と指摘した。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1422520.html

7. 中川隆[-13178] koaQ7Jey 2022年4月24日 16:17:45 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[7] 報告
雑記帳
2022年04月23日
村井章介『古琉球 海洋アジアの輝ける王国』
https://sicambre.seesaa.net/article/202204article_24.html


https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E7%90%89%E7%90%83-%E6%B5%B7%E6%B4%8B%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%BC%9D%E3%81%91%E3%82%8B%E7%8E%8B%E5%9B%BD-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%9D%91%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%BB%8B/dp/4047035793

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2019年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。「古琉球」とは伊波普猷の造語で、1609年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に薩摩藩に征服される以前の琉球を指します。古琉球の時代には、琉球は日本の国家領域外にありました。本書は琉球語を採用して、前近代の「日本」を「ヤマト」と呼びます。琉球はアジアの南東部と東部をつなぐ海の道の結節点に位置しており、アジア東方海域の歴史において重要な役割を果たしましたが、継続的に推移が追えるようになるのは、紀元後14世紀(以下、紀元後の場合は省略します)半ばすぎに、沖縄本島にあった三つの小王国(中山と山南と山北)が明との間に朝貢・回賜の関係を結んでからです。明が倭寇対策として施行した「海禁」により海外、とくにアジア南東部産品を入手する経路が閉ざされたため、琉球はその窓口に位置づけられ、交易活動により繁栄しました。一方、その頃の琉球は言語など文化面で距離が近いヤマトとの関係は深くなく、「中央政府」である室町幕府より、島津など西日本の大名や、倭寇勢力の構成員である商人や武士、琉球とヤマトを往復した僧侶などと交渉が盛んでした。15世紀後半になると、ヤマトや明やヨーロッパの海上勢力が競争者として現れ、繁栄の基盤が掘り崩されるようになった琉球は、相対的にヤマトとの関係の比重が高まります。とくに重要だったのが薩摩の島津との関係で、その帰結が1609年の薩摩藩による琉球征服でした。古琉球は、多種多様な人や物や文化が混合・雑居する世界でした。

 琉球の歴史は、旧石器時代→貝塚時代→グスク時代→琉球王国時代(第一尚氏王朝→第二尚氏王朝→薩摩藩支配)→琉球藩→沖縄県→アメリカ合衆国統治期→沖縄県と続きます。貝塚時代がヤマトの縄文時代〜平安時代中期に、グスク時代がヤマトの平安時代中期〜室町時代に相当します。琉球人の起源はよく分かっていませんが、形質人類学では、ヤマトからのヒトの流入とともに、アジア南東部の人類集団の要素も見られる、と指摘されています。文化的には、琉球語とヤマト語は、語彙や音韻の面ではほとんど通じないほど異なっていますが、文法構造や品詞体系では同一系統の言語と考えられています。衣食住や行事・習慣などの観点では、琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されています。また、琉球の文化は一様ではなく、奄美・沖縄文化圏と宮古・八重山文化圏に二分する見解も提示されています。グスク時代には、ヤマトから奄美を経由して琉球へとヒトの移動があり、形態学的変化をもたらした、と指摘されています。これは熊野信仰・仏教・仮名の伝播からも裏付けられ、琉球王権は仏教を信仰し、仮名を公式文字として採用します。文化的には本書は、琉球語とヤマト語(日本語)の親縁性から、琉球人の優位集団を構成したのはヤマト方面から渡来した、と推定しつつ、その前の時代にはアジア南東部方からのヒトの流入もあっただろう、と指摘しています。なお、『隋書』の「流求国」がどこを指すのかについては長い議論があり、現在も決着していませんが、台湾説が多数派とされています。しかし本書は、「流求国」を琉球に比定しています。

 琉球における10世紀前後の貝塚時代からグスク時代への移行は、狩猟採集経済から農耕および窯業生産の開始と交易の展開により特徴づけられます。グスクについては、聖地や集落とする説と城塞説との間で議論が続いています。グスク時代には、沖縄本島で首長たちが南部の山南と中部の中山と北部の山北(琉球三山)にまとまっていきます(三山時代)。琉球三山で最初に明と外交関係を結んだのは中山で(1372年)、1380年には山南が明に入貢し、その後は三山で対明通交の主導権をめぐる抗争に突入します。明の初代洪武帝の説諭にも関わらず三山の紛争は収まらず、朝鮮を巻き込んで激化します。この三山の紛争を制したのは中山でしたが、その正確な年代については異論もあり、1420年代に実質的な統一がなされたようです。琉球と明との間の交易の中心品目は、初期の20年間ほどでは、輸出が硫黄と馬、輸入が陶磁器と鉄釜でした。その後、1390年頃からは、輸出品に胡椒と蘇木と乳香が新たに登場し、これらはアジア南東部海域からもたらされた、と考えられます。琉球の繁栄を支えたのは、このアジア南東部と明とをつなぐ中継貿易でした。琉球は明にとって海外産品入手の貴重な窓口だったので、朝貢回数に制限がないことや海船の賜与など、交易活動で明から手厚い助成策を受けました。ヤマトとの関係では、琉球は室町幕府将軍の臣下に準じて扱われ、琉球側もそれを受け入れていましたが、対明の場合と同様に、国家意思の形成や領土・人民支配において琉球が独立国家だったことは明白です。琉球国の機構整備や外交や交易では、華人の果たした役割が大きかったようです。

 琉球の繁栄と高い「国際的地位」を支えていた中継交易は、15世紀半ば以降に相次ぐ競争者の出現で変わっていきます。まず、博多や対馬の倭人勢力が、ヤマトや朝鮮との往来から琉球船をほぼ締め出します。明も琉球を優遇する利益が薄れてきたことから、琉球への厚遇を見直します。さらに、1511年にポルトガルがマラッカを占領したことにより、琉球は南海貿易の重要な拠点を失いました。ポルトガルはジャワ島やシャムや華南にも到来し、琉球船の活動の場はますます狭くなり、1570年のシャムとの通交を最後に、琉球船はアジア南東部に現れなくなります。こうした海外交易の退潮により、琉球では航海術も劣化していきます。1609年、琉球は薩摩藩に征服されますが、これは対明交渉経路の確保と版図拡大が目的で、どちらかと言えば、幕府は前者、薩摩藩は後者に重点を置いていました。この薩摩藩による征服の結果、琉球は幕藩体制の知行体系において薩摩藩の一部とされたものの、「異国」としての体裁は保たれ、国家機構や風俗は前代のまま存続し、明、および明滅亡後にはダイチン・グルン(大清帝国)という中華地域を支配した勢力との冊封関係も維持されました。琉球が薩摩藩に征服された一因として、中継交易の衰退により、相対的にヤマトとの交易への依存度が高まっていたこともあるようです。本書は、支配層と庶民との間の格差拡大など、古琉球の自立性を支えていた基盤自体がもはや空洞化していたことも、琉球が征服された背景として指摘します。


 本書を読んだ機会に、琉球の人類集団の起源について、本書では言及されていない最近の古代DNA研究を短くまとめておきます。琉球諸島でDNAが解析された最古の人類遺骸は港川人(港川1号)となり、年代は2万年前頃です(関連記事)。港川1号はミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析されているものの、核DNAはまだ解析されておらず、現代人とのつながりがあるのか、あるとしてどの程度なのかは不明です。ただ、港川1号のmtDNAハプログループ(mtHg)では既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換が見つからなかったので、現代人とは遺伝的につながらない絶滅集団を表している可能性は低くないように思います。

 琉球諸島で核DNAが解析された最古の個体は沖縄県宮古島市の長墓遺跡で発見されており、年代は2800年前頃です(関連記事)。この個体は遺伝的には、既知の古代人および現代人集団と比較して、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の縄文時代の個体群(縄文人)と密接にまとまります。本書でも、古琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されていますが、遺伝的には、貝塚時代の遅くとも紀元前千年紀には、琉球諸島の人類集団は遺伝的には、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団ではなく、日本列島の近い年代の「縄文人」の方とずっと密接に類似していた可能性が高そうです。もちろん、当時の琉球諸島に、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団と類似した集団が存在した可能性はありますが、「縄文人」と遺伝的に類似した集団が優勢で、ほぼ排他的に存在していた可能性は低くないように思います。

 その後、17世紀までには、長墓遺跡の人類集団は遺伝的に、ほぼ琉球諸島現代人集団そのものへと変わります。琉球諸島現代人集団は日本列島「本土」現代人集団と遺伝的には密接であるものの、「縄文人」構成要素の割合が「本土」集団より高い、と示されています。本書の指摘も踏まえると、貝塚時代には「縄文人」と遺伝的にきわめて密接な集団が存在し、グスク時代に「本土」から到来した集団との(遺伝的には後者の優位下での)融合により、琉球諸島現代人集団が形成された、と考えられます。琉球諸島現代人集団において「本土」現代人集団よりも「縄文人」構成要素の割合が高いのは、グスク時代に「本土」から到来した集団が、「本土」現代人集団と同程度かそれ以上の割合の「縄文人」構成要素を有しており、遺伝的には「縄文人」そのものの琉球諸島在来集団と混合したからでしょう。

 しかし文化面では、本書が指摘するように、古琉球には台湾やアジア南東部やポリネシアとの近縁性も見られます。縄文文化の影響がないと言われていた先史時代の先島諸島において、遺伝的には「縄文人」そのものの集団が存在したと可能性はきわめて高く、朝鮮半島の後期新石器時代でも、遺伝的にほぼ「縄文人」と言える個体が見つかっています。現時点では、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島でしか見つかっていませんが、先島諸島や朝鮮半島南岸の事例からその文化は一様ではないと考えるべきで、文化と遺伝的構成を安易に結び付けてはならない、と改めて思います。琉球語が日本語と同系統と言えるほど似ていながら、大きな違いが見られるのは、おそらく琉球語が貝塚時代の集団の言語とグスク時代に「本土」から到来した集団の言語との混合言語で、後者の影響力の方が強かったからなのでしょう。しかし、貝塚時代の集団は遺伝的には、アイヌ集団の主要な祖先集団だっただろう続縄文文化集団にきわめて近かったでしょうが、両者の分岐は1万年以上前までさかのぼる可能性もあり、貝塚時代の集団の言語は、アイヌ語系統だっただろう続縄文文化集団の言語とは同系統と判定できないほど違っていた可能性が高いのではないか、と思います。

https://sicambre.seesaa.net/article/202204article_24.html

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史5掲示板 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
最新投稿・コメント全文リスト  コメント投稿はメルマガで即時配信  スレ建て依頼スレ

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史5掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
近代史5掲示板  
次へ