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中国人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/272.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 25 日 11:23:14: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 縄文人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 6 月 20 日 13:41:44)

中国人の起源


石峁遺跡 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%9F%B3%E5%B3%81%E9%81%BA%E8%B7%A1


陝西省 - Google マップ
https://www.google.co.jp/maps/place/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD+%E9%99%9D%E8%A5%BF%E7%9C%81/@35.5626154,103.8784447,6z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x36637a6013eba79f:0x41c96e6fcb615716!8m2!3d35.3939908!4d109.1880047


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4千年前の中国・石峁遺跡、謎のヒスイと要塞
初期の中国文明はどのように変遷したか、新たな見方を提示
2020.08.23
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/081700471/


階段状ピラミッドを冠した4300年前の要塞都市、石峁(シーマオ)遺跡。初期中国史の定説に疑問を投げかけている。 (PHOTOGRAPH BY BEN SHERLOCK, NATIONAL GEOGRAPHIC
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/081700972/?P=2


 中国の黄土高原の砂ぼこりが吹き荒れる丘に、朽ちかけた石垣がある。近くに暮らす人々は長らく、この石垣を万里の長城の一部と信じていた。無理もない。2000年以上前に北方民族との最前線として造られた万里の長城は、黄河が北に大きく屈曲するちょうどこの辺りを通過している。

 だが、ここでは場違いなものも見つかった。ヒスイだ。破片だけでなく、円盤や刀剣、笏(しゃく)などに加工されたものも見つかっている。ヒスイはここ陝西省最北部では産出せず、最も近い産地でさえ、およそ1600キロも離れている。万里の長城の特徴とも合わない。オルドス砂漠に近いこの不毛の地で、なぜヒスイが大量に見つかったのか?

 中国の考古学者チームがこの地を発掘調査したところ、意外なことがわかった。その石垣は、万里の長城の一部ではなく、壮大な要塞都市の名残だった。発掘は今も行われているが、高台にあるピラミッドやその周囲を取り囲む全長10キロを超える防壁、壁画やヒスイの工芸品に彩られた聖なる場所、そしておぞましい生け贄の証拠が見つかっている。

 2020年の初め、新型コロナウイルスのパンデミックによって発掘が中止になる前に、考古学者たちは、石に彫られた見事なレリーフを70個も発掘した。大蛇や怪物、半人半獣などの図像で、後の青銅器時代の中国のものに似ていた。


石峁遺跡で見つかった石垣の彫刻。考古学者の報告によると、「この階段状ピラミッドに特別な宗教的な力を授けたのかもしれない」という。 (PHOTOGRAPH BY BEN SHERLOCK, NATIONAL GEOGRAPHIC)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/081700972/


 さらに驚くべきことに、放射性炭素による年代測定の結果、ここ石峁(シーマオ)遺跡の一部は、4300年前に遡ることが明らかになった。万里の長城の最も古い部分より2000年近くも古く、確認されている中国最古の王朝、殷(商)が現れる500年も前のことだ。

 石峁は、この僻地とも思える地で、紀元前2300年頃から紀元前1800年頃まで繁栄し、突然、放棄された。その理由は謎に包まれている。

 中国考古学の道しるべとなってきた古文書のいずれにも、この古代都市に関する記述はない。だが石峁は大きく複雑なだけでなく、外部の文化とも活発に交流していた。面積はおよそ4平方キロと、米ニューヨーク市のセントラルパークより広い。その芸術や技術は北方文化の流れをくみ、歴代の中国王朝にも影響を与えた。

 石峁だけではない。近年は各地の遺跡で発見が相次ぎ、歴史学者は中国文明の発祥について再考を迫られている。

「石峁は、今世紀最大の考古学的発見の1つです」と話すのは、陝西省考古研究院の院長で、石峁遺跡発掘のリーダーを務めた孫周勇氏だ。「中国の初期文明の発達に関する新たな見方を提示しています」


丘の上のピラミッド
 石峁は、絶えず危険にさらされることを考慮して設計されたようだ。それは、禿尾河に近い丘の上に建設されたことからもうかがえる。石峁の支配層は、敵からの防衛手段として、周辺で一番高い丘の上に、長方形の20段のピラミッドを建立した。

 これは、街のあらゆる場所から見えた。高さは、ほぼ同時期(紀元前2250年)にエジプトで建造されたギザの大ピラミッドの半分ほどだったが、底面積は4倍も広かった。石峁の支配層は安全を求めて、高台の最上部に住んだ。そこには、専用の貯水槽や工房、さらには儀式用の神殿と見られる建造物を備えた複合施設もあった。


厚さ2.5メートル、全長10キロにも及ぶ壁が、街をぐるりと取り囲む。石峁遺跡は1970年代に発見されたが、長らく万里の長城の一部と考えられていた。最近の発見で、それよりはるかに古いことが判明した。(PHOTOGRAPH BY LI MIN, UCLA)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/081700471/?P=2


 街の周囲は、何キロもの内壁と外壁に取り囲まれていた。これは、古代を通じて中国の都市でよく用いられた初期の都市設計だ。この壁だけでも、12万5000立方メートルもの石が必要だった。これは、オリンピック用プール50個分に相当する。人口1万〜2万だったと考えられる新石器時代の社会では、巨大事業だった。そのすさまじい規模から、この周辺で近年発見されている小都市の労働力によって建設されたと、考古学者たちは考えるようになった。

 現在、石峁と同じ龍山時代(新石器時代後期)の石造りの町が、陝西省北部で70以上も発掘されている。そのうちの10の町は、石峁が位置する禿尾河流域にある。「こうした衛星都市が強固な社会基盤となり、初期の石峁を形成していたのです」と孫氏は話す。

 石峁は要塞としての工夫も凝らされていた。楼門(塔を備えた門)や一方からのみ通行可能な門、稜堡(複数の方向へ防御射撃ができるように城壁の突き出た部分)などがあった。また、攻め寄せる敵を守備兵が3方向から攻撃できる「馬面(マーミエン)」構造も採用していた。後に、中国の防衛建築の定番となる設計だ。

 孫氏らのチームは、石垣の内側で革新的な技術をもう1つ発見した。補強に使われた木の梁だ。年代測定の結果、紀元前2300年の木とわかったが、こうした工法は従来、後の漢王朝の時代に考案されたと考えられてきた。

おぞましい発見
 一方、最もおぞましいものは東の壁の下で発見された。6つの穴に80個もの人間の頭蓋骨が詰め込まれていたのだ。体の骨はなかった。(石峁の正門である東門に最も近い2つの穴からは、それぞれ24個の頭蓋骨が見つかった)。頭蓋骨の数や配置から、壁の基礎を敷設する際の儀式で首を切られたことが示唆された。知られている限り、中国史上最古の人身御供の例だ。法医学者たちによると、犠牲者のほぼすべてが若い少女であり、おそらく敵対勢力に属していた捕虜だと考えられる。


壁の下の穴からは、切断された頭部が80個も発見された。犠牲者はすべて10代の女性で、都市を建設する際の儀式で生け贄にされたのかもしれない。(PHOTOGRAPH BY SHAANXI ACADEMY OF ARCHAEOLOGY)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/081700471/?P=2

「石峁で見られるような規模の儀式的暴力は、初期中国では前例がありません」と、石峁を訪れ、石峁について広範に記した米カリフォルニア大学ロサンゼルス校の考古学者リー・ミン氏は話す。石峁の頭蓋骨は、何世紀も後(紀元前1600年頃〜紀元前1046年)の殷(商)による大規模な人の生け贄の予兆でもあった。

 東門は別世界への入り口だったのだろう。敷居をまたぐとすぐに目に入るのが、東門をにらむように壁に施された菱形模様の彫刻だ。石垣には一定の間隔で、黒やダークグリーンのヒスイが埋め込まれている。邪悪なものを追い払い、石峁の支配層の力と富を表すための装飾だろう。ヒスイ鉱山を持たない石峁からヒスイの遺物が豊富に見つかることは、遠くの交易相手から大量に輸入していたことを示している。


石峁は外界から隔絶していたわけではなかった。アルタイ草原から黄海沿岸地域まで、他の様々な文化と、アイデアや技術、商品を交換した。

「石峁や他の遺跡が示している重要な点は、中国文明は多くのルーツを持ち、黄河中流の中原でのみ発達したわけではないということです」と、英オックスフォード大学の中国美術・考古学の教授ジェシカ・ローソン氏は話す。「いくつかの特徴は、現在の中国北部よりも広い範囲から取り入れたものです。例えば、石造りの構造物は、中原よりも北の草原地帯に関わりが深いものです。牛や羊などの家畜や冶金などがそうです。実はこれらは、中国が取り入れ、自らの文化に融合させた、とても重要な技術なのです」


壁の下から見つかった頭部の骨の一部。(SCREENGRAB BY NATIONAL GEOGRAPHIC)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/081700471/?P=3


 石峁では、ヒスイ以外にも、はるか南の湿地帯から来たと思われるワニ革の遺物も見つかっている。ワニ革の太鼓は、儀式の際に使われた可能性が高い。これは、音楽が石峁の宮中生活で重要な役割を果たしていたことの1つの表れだ。

 もう1つの発見に、孫氏らの研究チームは困惑した。薄く滑らかで湾曲した、まったく同じ骨片が、20個も出土したのだ。考古学者たちは、櫛かヘアピンではないかと推測した。だが、ある音楽学者はそれを、口琴と呼ばれる原始的なリード楽器の一種ではないかと言う。

「石峁は、口琴の発祥の地なのです」と孫氏は話す。石峁から世界中の100を超える民族に広まったのだという。「人と文化の初期の流れを探る貴重な手がかりとなる、重要な発見です」

残された謎と手がかり

 石峁遺跡のうち、これまでに発掘されたのはほんの一部にすぎない。発見は、これからも続くだろう。最近では石の彫刻に加え、かつて東門の近くの壁に設置された人間の胸像や立像の証拠が見つかっている。彫刻の解釈は始まったばかりだが、擬人化表現は、「とても革新的で珍しい試み」だとUCLAのリー・ミン氏は言う。

 石峁については、多くのことが謎に包まれたままだ。経済がどう機能していたのか、その他の先史文化とどのように交流していたのか、文字はあったのか、考古学者たちは今も解明しようと努力を続けている。


これまでに発掘されているものは、石峁遺跡のほんの一部にすぎない。考古学者は、さらに多くの発見に期待を寄せている。 (PHOTOGRAPH BY RACHEL VAKNIN, NATIONAL GEOGRAPHIC)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/081700471/?P=3


 一方、石峁が500年後に見捨てられた理由に関しては、手がかりがいくつかある。地震や洪水、疫病ではなかった。戦争は、彼らが逃げ出す一因になったかもしれない。だが気候変動こそが、決定的要因だったという証拠がより多く見つかっている。

 石峁が作られた当時は、気候が比較的温暖、湿潤で、黄土高原に人口が流入していた。だが紀元前2000年から紀元前1700年にかけて急激な気候変動が起こり、乾燥した寒冷な気候になったと、歴史の記録が示している。湖は干上がり、森は消え、砂漠が広がった。そして石峁の人々は、どこかへ移り住んでいった。

 かつては遠く離れていたオルドス砂漠は、今や石峁のすぐ下、禿尾河のほとりに迫り、この古代の遺跡は砂ぼこりと岩に覆われ、静寂に包まれている。だが4300年後の現在、世界最古の都市の1つ石峁は、もう歴史の中に消えても、見捨てられてもいない。その石垣は、隠していた貴重な秘密を明かし、中国文明の最初期に関する私たちの理解に疑問を投げかけている。間違いなく、さらに多くの新しい発見がなされることだろう。

文=BROOK LARMER/訳=牧野建志
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/081700471/?P=3


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2020年08月25日
中国陝西省の石峁遺跡の発掘成果
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_33.html

 中国陝西省の石峁(Shimao)遺跡の発掘成果について報道されました。紀元前2300〜紀元前1800年頃の石峁遺跡では、高台にある長方形の20段のピラミッド状建築物(ギザの大ピラミッドと比較して、高さは半分ですが、底面積は4倍とのことです)やその周囲を取り囲む全長10km以上の防壁、壁画や翡翠といった工芸品、生贄の証拠が見つかっているそうです。高台の最上部には、専用の貯水槽や工房、儀式用の神殿と見られる建造物を備えた複合施設もあったそうです。翡翠の産地は、石峁遺跡から最も近くても1600km離れているそうです。石には70個の浮き彫り細工(レリーフ)も見つかり、大蛇や怪物や半人半獣などの図像があり、中華地域における後の青銅器時代のものに似ているそうです。

 陝西省北部では、石峁遺跡と同じ時代の石造りの町が、70以上も発掘されているそうで、そのうち10の町は石峁遺跡と同じく禿尾河流域にあり、こうした衛星都市が強固な社会基盤となり、初期の石峁を形成していた可能性が指摘されています。石垣の内側では革新的な技術が見つかりました。それは、補強に使われた木の梁で、年代測定の結果、紀元前2300年の木と明らかになりましたが、こうした工法は以前には、後の漢王朝の時代に考案されたと考えられてきました。

 東壁の下では、6つの穴に80個もの人間の頭蓋骨が詰め込まれていましたが、体の骨は見つかりませんでした。頭蓋骨の数や配置から、壁の基礎を敷設するさいの儀式で首を切られた、と示唆されています。これは、中国史上最古の人身御供の事例となりそうです。犠牲者のほぼ全員が少女で、おそらくは敵対勢力に属していた捕虜だろう、と推測されています。これが、後の殷(商)王朝による大規模な人の生贄につながっていったのかもしれません。

 この記事は、僻地とも思える場所に紀元前2300年〜紀元前1800年頃にこうした大規模な都市が栄えていたことは意外であるかのように示唆しますが、これは近世以降の関中の状況を当てはめた偏見のように思います。古代から中世にかけて、現代の陝西省一帯にはたびたび王朝の都が置かれましたし、先史時代においては、西方世界に近いその位置は、「先進的な」文化の導入に有利だった、とも考えられます。この記事でも、石峁が、東方の黄海沿岸地域だけではなく、西方のアルタイ地域も負決めてさまざまな地域との文化・技術・物資の交換していた、と指摘されています。ウシ・ヒツジなどの家畜や冶金技術など、中華地域は西方世界から「先進的な」文化を多く取り入れ、「発展」していった、と考えられます。

 石峁遺跡が紀元前1800年頃に放棄された理由については、地震・洪水・疫病ではなく、気候変動だった、と推測されています。紀元前2300年頃には、気候が比較的温暖・湿潤で、黄土高原に人口が流入していましたが、紀元前2000年から紀元前1700年にかけて急激な気候変動が起こり、乾燥した寒冷な気候になって、湖は干上がり、森は消え、砂漠が広がった、と推測されています。石峁遺跡については、経済がどう機能していたのか、その他の同時代文化とどのように交流していたのか、文字はあったのか、といった問題があり、今後の研究の進展が期待されます。

 後期新石器時代となる石峁遺跡については、最近注目していたので、この報道を取り上げました。それは、石峁遺跡の人類遺骸からゲノムデータが得られているためです(関連記事)。石峁遺跡の後期新石器時代個体群は、遺伝的には黄河中流域の中期新石器時代個体群と類似しています。この黄河流域新石器時代個体群と類似した遺伝的構成の集団が、現代のチベット人および日本人の主要な遺伝的祖先と推測されています(関連記事)。チベット人の形成過程については、最近より詳しく検証した研究が公表されています(関連記事)。

 黄河流域新石器時代集団がどのように形成されたのか、アジア東部の更新世人類のゲノムデータがほとんど得られていないため、不明です。日本列島やチベットと黄河流域の農耕開始の年代差から考えると、まず黄河流域で農耕集団が確立し、日本列島やチベットへと拡散していった、と想定するのが妥当でしょう。これら古代ゲノム研究により、シナ・チベット語族の起源は黄河流域新石器時代集団にある、と推測されています。

 一方、日本語はシナ・チベット語族とは大きく異なり、系統関係を追うことができません。同じく黄河流域新石器時代集団の遺伝的影響を強く受けているのに、日本列島の言語がシナ・チベット語族とは大きく異なる日本語である理由は、最近取り上げてみたものの(関連記事)、私の知見・能力ではよく分かりませんでした。この問題は、永久に確証が得られないかもしれませんが、古代ゲノム研究の進展に伴いより妥当な推測が可能かもしれず、その点でも今後の古代ゲノム研究に注目しています。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_33.html
 

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コメント
1. 中川隆[-11683] koaQ7Jey 2020年8月25日 15:23:01 : WTRIxbreSo : SmdhZHJZU2RGaVE=[24] 報告
雑記帳 2020年06月03日
新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_3.html


 新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史に関する研究(Ning et al., 2020)が公表されました。中国は近東の次に独自に穀物栽培の始まった地域で、南部の長江流域では天水稲作農耕が、北部の黄河(YR)流域では乾燥地帯雑穀農耕が行なわれました。中国北部は、黄河中流から下流の中原を含む広大な地域で、世界でも比較的古い都市文化の起源地として知られています。しかし、中国北部は中原を越えて広がっており、異なる生態地域にいくつかの他の主要河川系が含まれます。とくに、中国北東部の西遼河(WLR)地域は、雑穀農耕の採用と拡大において、黄河地域とは異なる重要な役割を果たした、と今では一般に受け入れられています。アワ(Setaria italica)とキビ(Panicum miliaceum)の両方が、少なくとも紀元前6000年以降、まず西遼河地域と黄河下流地域で栽培されました。その後の5000年間、中国北部の雑穀栽培はユーラシア東部全域とそれを越えて拡大しました。雑穀は、とくにトウモロコシとサツマイモが紀元後16〜17世紀に導入されるまでは、アジア北東部において主要な基本食糧の一つでした。

 黄河と西遼河はともに、雑穀農耕に大きく依存した豊富な考古学的文化で知られています。中期新石器時代(紀元前4000年頃)までに、雑穀農耕へのかなり依存を伴う複雑な社会が、西遼河流域では紀元前4500〜紀元前3000年頃となる紅山(Hongshan)文化として、黄河流域では紀元前5000〜紀元前3000年頃となる仰韶(Yangshao) 文化として発展しました。紅山文化では、多くの翡翠装飾品を含む重要な供物を備えた公共儀式用の祭壇が発見されており、その中でも牛河梁(Niuheliang)遺跡の「女神神殿」が最も有名です。中期新石器時代の複雑な社会の確立は、急速な人口増加および文化的革新と関連していたようで、二つの主要な語族である、黄河流域のシナ・チベット語族と西遼河流域のトランスユーラシア諸語の拡散と関連していたかもしれませんが、後者の系統的統一性に関しては議論もあります。

 中期新石器時代までに支配的な生計戦略として作物栽培が確立していた黄河地域と比較して、西遼河地域の作物栽培への依存水準は、気候および文化の変化と関連して頻繁に変わりました。たとえば、古植物学と同位体の証拠から、西遼河地域の人々の食性への雑穀の寄与は、興隆窪(Xinglongwa)文化から紅山文化を経て紀元前2200〜紀元前1600年頃となる夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化まで着実に増加しましたが、その後の紀元前1000〜紀元前600年頃となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化では、遊牧に部分的に置換されました。考古学者の多くは、この生計戦略の変更を気候変化への対応と関連づけましたが、かなりのヒトの移動がこれらの変化を媒介したのかどうか、まだ調べられていません。

 西遼河地域は北東部でアムール川(AR)地域と隣接しており、アムール川地域では有史時代まで、雑穀・オオムギ・マメ科植物のいくらかの栽培と組み合わせた狩猟や漁労や畜産への依存が続いてきました。中国北部と周辺地域での雑穀農耕の拡散に影響を及ぼした、黄河社会と西遼河社会との間の接触と相互作用の程度はほとんど知られていません。一般的には、これまでの古代ヒトゲノムの限定的な利用可能性を考えると、先史時代のヒトの移動と接触は、現代集団への影響と同様にこの地域に関してはまだよく理解されていません。本論文では、中期新石器時代以降の中国北部全域の主要な文化を表すさまざまな遺跡で発見された55人の古代ゲノムの遺伝的分析を提示します。その遺伝的構成の時空間比較により、中国北部における過去のヒトの移動と混合事象の概要を提供し、生計戦略の変化と比較します。

 中国北部全体で19遺跡の古代人107個体のDNAが解析されました。内訳は、アムール川地域では紀元前5525〜紀元後250年頃となる3遺跡、西遼河地域では紀元前3694〜紀元前350年頃となる4遺跡、黄河地域では紀元前3550〜紀元前50年頃となる10遺跡、中間的な地域である陝西省の紀元前2250〜紀元前1950年頃となる1遺跡と内モンゴル自治区の紀元前3550〜紀元前3050年頃となる1遺跡です。このうち、DNAがじゅうぶんに保存されている55個体でゲノムデータが得られました。常染色体ゲノムの網羅率は0.03〜7.53倍です。集団に基づく分析では1親等の関係は除外されました。以下、本論文で対象となった遺跡の地理的関係と年代を示した図1です。

画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41467-020-16557-2/MediaObjects/41467_2020_16557_Fig1_HTML.png


●中国北部古代個体群の遺伝的分類

 2077人の現代ユーラシア人の主成分分析では、中国北部の古代個体群は異なる集団に別れます。PC1軸では、中国北部の古代個体群はユーラシア東部現代人に分類され、アジア東部現代人に特徴的で適応的表現型に関連しているかもしれない、派生的アレル(対立遺伝子)を有しています。しかし、中国北部の古代個体群はPC2軸では異なる位置にあり、それはユーラシア東部現代人をほぼ南北で分離し、頂点はシベリア北部のガナサン人(Nganasan)、底は台湾のオーストロネシア語族集団です。

 本論文で対象となった古代個体群は3つの大きなクラスタを形成し、頂点がアムール川地域個体群、底が黄河地域個体群、西遼河地域個体群はその中間で、ほぼ地理的起源を反映しています。アジア東部人の多様性に焦点を合わせるため、高地チベット人を多数含むアジア東部現代人9集団が対象とされました。最初の2つの主成分分析では、オロチョン人(Oroqen)やホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)やシーボー人(Xibo)といったツングース語族と、チベット人、低地アジア東部集団が分離されました。ADMIXTURE分析では類似したパターンが示され、全古代個体群は3つの祖先的構成を有し、同じ河川流域の古代個体群は類似した遺伝的構成を共有しており、主成分分析と一致します。


●アムール川地域集団の長期の遺伝的安定性

 ユーラシア人とアジア東部人両方の主成分分析で、アムール川地域の前期新石器時代の2人および鉄器時代の3人と、西遼河地域の遊牧文化の青銅器時代の1人は、ほぼツングース語族話者であるアムール川地域現代人集団の範囲内に収まる密集したクラスタを形成します。アムール川地域の鉄器時代の1人は、アムール川地域集団クラスタの範囲外となり、主成分分析ではPC1軸でわずかにモンゴル語族話者に移動していますが、この個体のゲノムの低網羅率(0.068倍)と少量の汚染に起因する歪みの可能性があります。古代および現代のアムール川地域集団は、ADMIXTURE分析でも類似した遺伝的構成を示します。

 アムール川地域集団の組み合わせでは、アムール川下流地域の古代人も現代人も同様に、密接な遺伝的類似性が示されます。さらに、これらの集団が相互にほぼクレード(単系統群)であることも確証されます。例外的にアムール川地域集団に近い外部集団はシベリアのガナサン人とイテリメン人(Itelmen)で、この2集団は歴史的にアムール川地域集団関連遺伝子プールとの遺伝的交換を経てきました。またqpWave分析では、アムール川地域集団の組み合わせを外群との類似性の観点から区別できません。アムール川地域集団はアムール川地域外の集団との類似性に関して、時間の経過に伴う実質的な変化を示しませんが、厳密な意味での遺伝的連続性に関する既知の検証では、本論文の古代アムール川地域集団が現代アムール川地域集団の直接的祖先である、という仮説は棄却されます。これは、アムール川地域集団遺伝子プール内の層別化と、おそらくは現代アムール川地域集団形成期におけるアムール川地域集団間の遺伝子流動を示唆します。


●黄河地域個体群の遺伝的構成の経時的変化

 主成分分析では、中原の古代黄河地域個体群は、アムール川地域個体群と異なるクラスタを形成し、ADMIXTUREでは類似した遺伝的構成を共有します。しかし、古代黄河地域個体群間で、小さいものの有意な違いも観察されます。後期新石器時代の龍山(Longshan)文化個体群は、それ以前となる中期新石器時代の仰韶文化個体群よりも、中国南部およびアジア南東部の現代人集団の方と遺伝的により密接です。これは、中期新石器時代の仰韶文化期と後期新石器時代の龍山文化期の間の、黄河中流および下流地域における稲作農耕の顕著な増加の観察との遺伝的並行現象を示します。

 この後の青銅器時代と鉄器時代の個体群では、さらなる変化は検出されません。アムール川地域とは異なり、黄河地域の青銅器時代および鉄器時代個体群とクレードを形成する現代人集団は見つかりませんでした。現在中原において優勢な民族集団である漢人は、明確に中国南部およびアジア南東部集団との追加の類似性を示します。中国南西部のチベット・ビルマ語派のナシ人(Naxi)は、古代黄河地域集団から、大きく減少しているものの、依然として有意な違いを示します。これらの結果は、黄河地域集団間の長期にわたる遺伝的関連を示唆しますが、中国南部、たとえば長江流域の集団の移動による稲作農耕の北方への拡大と関連しているかもしれない、外因性の遺伝的寄与の重要な軸を有しています。

 中原の周辺地域の新石器時代個体群のゲノムは、黄河地域個体群の遺伝的構成が地理的に広範に分布していた、と示します。中期新石器時代となる内モンゴル自治区の廟子溝(Miaozigou)遺跡と、後期新石器時代となる陝西省の石峁(Shimao)遺跡の個体のゲノムは両方、黄河地域と西遼河地域の個体群の間に位置し、遺伝的に相互および古代の黄河地域集団と類似しています。黄河上流の後期新石器時代個体群は斉家(Qijia)文化と関連しており、類似の遺伝的パターンを示します。黄河地域農耕民とアムール川地域狩猟採集民の混合としてこれらの集団をモデル化すると、80%程度は黄河地域集団に由来します。黄河上流鉄器時代個体群のゲノムは、より高い黄河地域集団系統の割合を示し、ほぼ100%(94.7±5.3%)となります。

 考古学的研究は、紀元前1600年頃後のチベット高原の恒久的なヒトの居住において、斉家文化が存在したチベット高原北東周辺の中程度の標高地域の重要な役割を示唆します。最近の言語学的研究は、シナ・チベット語族の北部起源を支持しており(関連記事)、仰韶文化起源の可能性が高い、と示唆します。混合モデリングを利用して、現代のシナ・チベット語族集団と古代黄河地域集団との間の遺伝的つながりが調べられました。チベット人は、シェルパ人(Sherpa)と黄河上流後期新石器時代集団の混合としてモデル化されますが、他の起源集団も機能します。これは、以前に報告された混合兆候の在来起源の可能性を提供します。本論文のデータセットにおける他のシナ・チベット語族集団間では、ナシ人と中国南西部のイ人(Yi)は、本論文の解像度では黄河地域中期石器時代集団と区別できませんが、雲南省のラフ(Lahu)人と湖南省や湖北省のトゥチャ人(Tujia)や漢人は、中国南部およびアジア南東部集団と関連する遺伝子プールからの影響を示します。本論文の結果は、上述の言語学的および考古学的仮説適合的ですが、他のモデルも本論文の遺伝的データの解決にわずかに機能します。

●西遼河地域の遺伝子と生計の相関する変化

 西遼河地域は黄河地域とアムール川地域の間に位置し、頻繁な経時的遺伝的変化を示します。中期新石器時代の西遼河地域個体群は、主成分分析ではアムール川地域クラスタと黄河地域クラスタとの間に位置します。西遼河地域中期新石器時代となる紅山文化の3人(WLR_MN)は黄河地域クラスタにより近く、その近くの遺跡の1個体(HMMH_MN)はアムール川地域クラスタのより近くに位置します。f4統計では、この両集団は前期新石器時代個体群で表されるアムール川地域集団と中期新石器時代個体群で表される黄河地域集団の中間と確証されます。

 WLR_MNとHMMH_MNの両集団をアムール川地域集団と黄河地域集団の混合としてモデル化すると、アムール川地域集団の寄与はHMMH_MNで75.1±8.9%、WLR_MNで39.8±5.7%となります。同時代となる内モンゴル自治区の廟子溝遺跡の中期新石器時代個体群を考慮に入れると、中期石器時代の600kmの範囲内では、中原からの距離に比例して、おもに黄河地域集団関連構成からアムール川地域集団関連構成への急激な移行が観察されます。言語学的には、西遼河流域はトランスユーラシア諸語の起源と関連づけられてきており、アムール川地域集団と黄河地域集団の間の混合は、青銅器時代以降ますます強くなる、トランスユーラシア諸語下位集団と中国語下位集団との間の借用語の相関を見つけるかもしれません。

 中期石器時代西遼河地域のこの遺伝的不均質性に加えて、西遼河地域内の経時的比較も、遺伝的変化の興味深いパターンを示します。まず、夏家店下層文化関連の後期新石器時代個体群のゲノムは、主成分分析では古代黄河地域クラスタと重なり、西遼河地域中期石器時代個体群と比較して、シベリア集団との類似性は低くなっています。QpAdmモデリングでは、主要な黄河地域集団の寄与は、第二のソースとして、アムール川地域前期新石器時代集団を用いると88%、西遼河地域中期石器時代集団を用いると74%と推定され、中期新石器時代と後期新石器時代の間で、黄河地域関連集団からのかなりの北方への流入が示唆されます。

 興味深いことに、夏家店上層文化と関連する青銅器時代西遼河地域個体群は、再度遺伝的変化を示しますが、それは中期新石器時代から後期新石器時代の変化とは反対で、そのうち1個体(WLR_BA_o)は古代アムール川地域集団と区別できなくなります。WLR_BA_oはアムール川地域前期新石器時代集団と比較して、後の鉄器時代アムール川地域個体群および現代の複数のツングース語族集団と遺伝的類似性が高くなっています。WLR_BA_oは、アムール川地域集団関連遺伝子プールから西遼河地域集団への比較的近い過去の移動を表しているかもしれません。じっさい、西遼河地域青銅器時代の残りの2人は、西遼河地域後期新石器時代集団とWLR_BA_o(21±7%)の混合としてモデル化されます。以前の考古学的研究では、夏家店下層文化から夏家店上層文化への移行は、雑穀農耕により適さない乾燥した環境への気候変化と関連づけられ、西遼河地域内での南方への移動につながった、と示唆されていました。本論文の結果は、この過程の他の側面を強調します。それは、気候変化が牧畜経済をより有利として、すでに牧畜を営んでいた人々の流入につながったかもしれない、という可能性です。以下、中国北部における各地域個体群の遺伝的構成の変化を示した本論文の図2です。

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https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41467-020-16557-2/MediaObjects/41467_2020_16557_Fig2_HTML.png


●まとめ

 本論文は、中国北部の全てではないにしても主要な遺跡のヒト遺骸の古代ゲノムの大規模な調査結果を提示します。とくに、黄河流域の仰韶文化や西遼河地域の紅山文化といった中国北部最初期の複雑な社会に生きた人々の最初のゲノムデータという点で、注目されます。これらの地域でゲノムデータの時系列を示すことにより、各地域の経時的な遺伝的変化が検出され、外部の遺伝的起源や社会経済的および環境的変化と関連づけることができました。

 限定的な食料生産を行なっていたアムール川地域集団の遺伝的構成の長期の安定性と対照的に、黄河地域と西遼河地域という複雑な雑穀農耕社会の二つの中心地では、過去6000年の頻繁な遺伝的変化が観察されます。西遼河地域の遺伝的構成は時間の経過に伴い、生計戦略の変化と密接に関連して変化します。より具体的には、中期新石器時代から後期新石器時代の間の雑穀農耕への依存の増加が、後期新石器時代西遼河地域集団におけるより高い黄河地域集団との遺伝的類似性と関連している一方で、青銅器時代の夏家店上層文化における牧畜への部分的移行は、黄河地域集団との類似性の低下と関連しています。また中期新石器時代には、西遼河地域で黄河地域集団関連遺伝的構成からアムール川地域集団関連遺伝的構成への地理的に急激な移行が観察されます。そうした空間的な遺伝的不均質性は、青銅器時代と鉄器時代の西遼河地域で持続したかもしれませんが、本論文のデータはそのように仮説を検証するのに充分ではありません。

 黄河地域における中期新石器時代から後期新石器時代への遺伝的変化もまた、中原における稲作農耕の強化と関連しており、人々の拡散による生計戦略変化の別の事例を提供するかもしれません。本論文のデータセットには、中原に稲作農耕をもたらしたかもしれない集団、とくに山東省と長江下流地域の新石器時代の人々の古代ゲノムが欠けています。中国全域の将来の研究、とくに最初の農耕民のゲノムが、本論文で報告されたゲノムの代表性の検証、精細な遺伝的・考古学的・地理的規模で検出された遺伝的変化の理解、考古学的文化と言語と遺伝子の間の進化的相関の検証に重要となるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。上述のように、本論文のデータセットには、中原に稲作農耕をもたらしたかもしれない、山東省と長江下流地域の新石器時代集団のゲノムが欠けています。最近公表された研究では、山東省と福建省の新石器時代個体群のゲノムデータが報告されています(関連記事)。しかし、稲作農耕の起源地と考えられる長江流域の新石器時代個体群のゲノムデータはまだ公表されていません。今後の課題はそこですが、アジア東部集団のさらに詳細な起源の解明には、旧石器時代個体群のゲノムデータが必要となるでしょう。

 山東省と福建省の新石器時代個体群のゲノムデータを報告した研究でも、アジア東部現代人が中国南北のさまざまな混合により形成された、と指摘されていますが、その主要な混合は新石器時代後に起きただろう、と推測されています。一方、本論文では、中国南部から中国北部への遺伝子流動が新石器時代に起きた、と推測されています。あるいは、新石器時代のこの遺伝子流動は現代人の遺伝的構成には大きな影響を与えていないのかもしれませんが、この問題の解明には、さらに地域と時代を拡大した古代ゲノム研究が必要となるでしょう。

 最近公表された別の研究(関連記事 )でも、漢人が中国南北の新石器時代集団に由来する集団間の混合で形成されていった、と指摘されています。アジア東部の古代ゲノム研究は、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたのですが、最近になって相次いで大規模で重要な研究が報告されており、今後の研究の進展が楽しみです。現時点では、新石器時代の中国には、アジア東部現代人により近い遺伝的構成の集団が北部に、オーストロネシア語族現代人集団と密接な遺伝的構成の集団が南部に存在した、と考えられます。これらの集団がどのように形成されたのか、また現代人集団はこれら祖型集団からどのように形成されていったのか、今後はより詳細に解明されていくでしょう。

 また、魏晋南北朝時代や唐代後期から五代十国時代やモンゴル帝国の拡大期などで、中国北部住民の遺伝的構成がどのように変わっていったのか、あるいはどの程度継続性があるのか、という問題も注目されます。現時点の解像度では、この期間の違いは検出されにくいかもしれませんが、今後の研究の進展で、より詳細に解明されていくのではないか、と期待されます。アジア東部における現代人集団その形成過程はかなり複雑と予想され、理解は困難でしょうが、すこしでも追いついていきたいものです。その形成過程はかなり複雑と予想され、理解は困難でしょうが、すこしでも追いついていきたいものです。


参考文献:
Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2

https://sicambre.at.webry.info/202006/article_3.html

2. 中川隆[-11682] koaQ7Jey 2020年8月25日 15:26:18 : WTRIxbreSo : SmdhZHJZU2RGaVE=[25] 報告
雑記帳 2020年04月26日
古代ゲノムデータに基づくアジア東部における現生人類集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html


 古代ゲノムデータに基づくアジア東部における現生人類(Homo sapiens)集団の形成史に関する研究(Wang et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。世界でも農耕・牧畜が早期に始まった地域であるアジア東部には、現在世界の1/5以上の人口が居住しており、主要な言語は、シナ・チベット語族、タイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、ミャオ・ヤオ語族、インド・ヨーロッパ語族、アルタイ語族(モンゴル語族、テュルク語族、ツングース語族)、朝鮮語族、日本語族、ユカギール語族、チュクチ・カムチャツカ語族の11語族に分類されます。過去1万年に、アジア東部では大きな経済および文化の変化がありましたが、採集から農耕への移行期における遺伝的多様性と主要な交雑事象や集団移動と遺伝的構成の変化に関しては、チベット高原と中国南部の現代人の多様性の標本抽出が少ないため、現在でも理解は貧弱です。また、ユーラシア西部および中央部では人口史の解明に貢献してきた古代DNAデータが、アジア東部では不足していることも、人口史理解の妨げとなっています。

 本論文は、中国とネパールの46集団から、383人(中国は337人、ネパールは46人)の現代人の遺伝子型を特定し、191人のアジア東部古代人のゲノム規模データを報告します。その多くは、まだ古代DNAデータが公開されていない文化集団からのものです。モンゴルからは、紀元前6000〜紀元後1000年頃の52遺跡の89人のゲノムデータが報告されます。中国からは、紀元前3000年頃となる新石器時代の陝西省楡林市靖辺県の五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡の20人です。日本からは、紀元前3500〜紀元前1500年頃となる縄文時代の狩猟採集民7人です。ロシア極東からは23人が報告されています。18人は紀元前5000年頃となる新石器時代のボイスマン2(Boisman-2)共同墓地から、1人は紀元前1000年頃となる鉄器時代のヤンコフスキー(Yankovsky)文化から、3人は中世となる紀元後1000年頃の黒水靺鞨(Heishui Mohe)および渤海靺鞨(Bohai Mohe)文化から、1人はサハリン島の歴史時代の狩猟採集民です。台湾東部では、漢本(Hanben)のビルハン(Bilhun)遺跡と緑島の公館(Gongguan)遺跡から、紀元前1400〜紀元後600年頃となる後期新石器時代〜鉄器時代の52人です。このうち、ボイスマン2遺跡の両親と4人の子供の核家族を含む、近親関係が検出されました。これら新たなデータは、縄文時代の4人、「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡からのアムール川流域の新石器時代の8人(関連記事)、アジア南東部の新石器時代から鉄器時代の72人、ネパールの8人という、以前報告されたデータと併せて分析されました。

 主成分分析では、アジア東部の人口構造は、重要な例外があるものの、地理および言語分類と相関しています。中国北西部とネパールとシベリアの集団は主成分分析ではユーラシア西部集団に寄っており、70〜5世代前に起きたと推定されるユーラシア西部関連集団との複数回の混合事象を反映しています。ユーラシア西部関連系統が最小の割合のアジア東部集団は3クラスタです。そのうち、まず「アムール川流域クラスタ」は、古代および現代のアムール川流域に住む集団と地理的に、また言語的にはツングース語とニヴフ語を話す現在の先住民と相関します。次に「チベット高原クラスタ」は、ネパールのチョクホパニ(Chokhopani)とメブラク(Mebrak)とサムヅォング(Samdzong)の古代人と、シナ・チベット語族話者でチベット高原に居住する現代人において最も強く表れます。最後に「アジア南東部クラスタ」は、古代台湾集団およびオーストロアジア語族とタイ・カダイ語族とオーストロアジア語族話者であるアジア南東部と中国南部の現代人で最大となります。漢人はこれらのクラスタの中間にあり、北部漢人は中国北部に位置する新石器時代の五庄果墚遺跡個体群の近くに位置します。モンゴル内では2クラスタが観察されます。一方は地理的にはモンゴルの東方に位置するアムール川流域クラスタとより近く、もう一方は後期銅石器時代〜前期青銅器時代にかけてアジア中央部で栄えたアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の個体群とより近く、こちらはモンゴルの西方となります。一方、何人かの個体はこれら2クラスタの中間に位置します。

 モンゴル「東部」クラスタの最古級の2人はモンゴル東部のヘルレン川(Kherlen River)地域で発見され、推定年代は紀元前6000〜紀元前4300年で、アジア北東部では早期新石器時代に相当します。この3人は、遺伝的にバイカル湖周辺地域の新石器時代個体群と類似しており、ユーラシア西部関連集団との混合の最小限の証拠が見られます。モンゴル北部の他の7人の新石器時代狩猟採集民は、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連した系統から5.4±1.1%の影響を受けている、とモデル化されます。これはユーラシア東西の混合の勾配の一部で、西に行くほどユーラシア西部系統と近縁になります。モンゴルの「西部」クラスタの最古の2人は、ひじょうに異なる系統を示します。この2人はアファナシェヴォ文化と関連したシャタールチュルー(Shatar Chuluu)墳墓遺跡で発見され、年代は紀元前3316〜紀元前2918年頃です。この2人は現在のロシアのアルタイ地域のアファナシェヴォ文化個体群と区別できず、同様にヤムナヤ(Yamnaya)文化個体群とも類似しているので、ヤムナヤ文化集団の東方への移住がアファナシェヴォ文化の人々に大きな影響を与えた、との見解が支持されます。本論文で分析されたこの時代より後のモンゴルの全個体群は、モンゴル新石器時代集団とより西方の草原地帯関連系統との混合です。

 本論文は、この後のモンゴル人の混合史を定量化しました。モンゴル古代人の単純な混合モデル化は、モンゴル東部系統(65〜100%)とWSHG系統(0〜35%)になります。ヤムナヤ関連系統は無視できる程度で、ロシアのアファナシェヴォおよびシンタシュタ(Sintashta)文化集団関連系統によりもたらされました。このモデルに当てはまるモンゴルの集団は、新石器時代の2集団(WSHG系統が0〜5%)のみではなく、青銅器時代〜鉄器時代にも存在します。アファナシェヴォ文化との強い関連で発見された個体のうち、紀元前3316〜紀元前2918年頃の個体ではアファナシェヴォ関連系統がほぼ100%でモデル化され、ヤムナヤ関連系統の強い影響が見られますが、それよりも後の紀元前2858〜紀元前2505年頃の男児には、ヤムナヤ関連系統の証拠が見られませんでした。この男児は、アファナシェヴォ文化との強い関連で埋葬されながら、ヤムナヤ関連系統が見られない最初の個体となります。アファナシェヴォ文化は、ヤムナヤ関連系統を有さない個体群により採用された可能性がありますこれは、人々の移動というよりはむしろ、アイデアの伝播を通じて文化が拡大した事例もある、と示唆します。その後になる紀元前2571〜紀元前2464年頃となるチェムルチェク(Chemurchek)文化の2個体は、アファナシェヴォ文化関連系統の強い影響でモデル化されます(49.0±2.6%)。

 モンゴルの中期青銅器時代以降、アファナシェヴォ文化地域に拡大したヤムナヤ関連系統が存続した確たる証拠はありません。代わりに後期青銅器時代と鉄器時代以後には、ヤムナヤ関連系統はアファナシェヴォ文化移民ではなく、その後の中期〜後期青銅器時代に西方からモンゴルに到来した、2/3はヤムナヤ関連系統で1/3はヨーロッパ農耕民関連系統のシンタシュタおよびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団によりもたらされた、と推測されます。シンタシュタ関連系統は、モンゴルの後期青銅器時代個体群で5〜57%程度見られ、西方からの到来が確認されます。早期鉄器時代以降、モンゴルでは漢人系統からの遺伝子流動の証拠が検出されます。漢人を外集団に含めると、新石器時代と青銅器時代の全集団はモンゴル東部系統・アファナシェヴォ関連系統・シンタシュタ関連系統・WSHG系統の混合でモデル化できますが、早期鉄器時代の個体や匈奴とその後のモンゴル集団ではモデル化できません。匈奴とその後のモンゴル集団における漢人系統の割合は20〜40%と推定されます。

 アファナシェヴォ関連系統は、後期青銅器時代までにモンゴルではほぼ消滅しましたが、中国西部では紀元前410〜紀元前190年頃となる鉄器時代の石人子溝(Shirenzigou)遺跡では持続していた、と推測されます。この集団は、モンゴル東部系統とアファナシェヴォ関連系統とWSHG系統の混合としてモデル化できます。アファナシェヴォ文化とモンゴル新石器時代の典型的系統は石人子溝個体群に寄与し、タリム盆地のトカラ語が、ヤムナヤ草原地帯牧畜民の東方への移住を通じて拡大し、アファナシェヴォ文化の外見でアルタイ山脈やモンゴルに拡大し、そこからさらに新疆へと拡大した、とする見解が支持されます。これらの結果は、インド・ヨーロッパ語族の多様化に関する議論にとって重要となります。インド・ヨーロッパ語族の既知で二番目に古い分枝であるトカラ語系統が、紀元前四千年紀末には分岐していたことになるからです。

 ロシア極東では、紀元前5000年頃となる新石器時代のボイスマン文化と、鉄器時代となる紀元前1000年頃のヤンコフスキー文化と、紀元前6000年頃となる「悪魔の門(Devil’s Gate)」の個体群が遺伝的にひじょうに類似しており、この系統がアムール川流域では少なくとも8000年前頃までさかのぼることを示します。この遺伝的継続性は、Y染色体ハプログループ(YHg)とミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)でも明らかです。ボイスマン遺跡個体群では、YHg-C2a(F1396)とmtHg-D4・C5が優勢ですが、これは現在のツングース語族やモンゴル語族や一部のテュルク語族でも同様です。新石器時代のボイスマン遺跡個体群は、縄文人との類似性を共有しています。また、アメリカ大陸先住民集団は、ボイスマン個体群やモンゴル東部系統と、他のアジア東部集団よりも多くのアレル(対立遺伝子)を有しています。ボイスマン個体群と他のアジア東部集団では、アメリカ大陸先住民集団のゲノムに1/3程度寄与したとされる、24000年前頃の古代ユーラシア北部系統個体(関連記事)と共有アレルの割合が同じなので、アメリカ大陸先住民集団からの遺伝子の「逆流」の可能性は低そうです。なお、古代ユーラシア北部系統は、より広範に拡散していた、さらに古い年代の古代シベリア北部集団の子孫と推測されています(関連記事)。この遺伝的知見は、ボイスマン個体群とモンゴル新石器時代系統が、アメリカ大陸先住民集団にアジア東部関連系統をもたらした集団と深く関連していた、という想定で説明できそうです。また、バイカル湖周辺の新石器時代および前期青銅器時代個体群は、モンゴル東部系統とのかなりの(77〜94%)共有でモデル化され、この系統がバイカル湖とモンゴル東部とアムール川流域という広範な地域に拡大していた、と明らかになります。アムール川流域の現代人の中には、もっと南方の漢人と関連するアジア東部集団に由来する系統を13〜50%有する集団もいます。紀元後1050〜1220年頃となる黒水靺鞨の1個体では、漢人もしくはその関連集団からの系統が50%以上見られるので、少なくとも中世初期にはアムール川流域集団と漢人関連集団との混合が起きていたようです。

 標高4000m以上のチベット高原は、人類にとって最も過酷な生活環境の一つです。チベット高原における人類の拡散は更新世までさかのぼりますが、永続的な居住の証拠は3600年前頃以降と推測されています(関連記事)。本論文は、チベット高原の現代人を遺伝的に17集団に分類しています。「中核チベット人」は、チョコパニ(Chokopani)のような古代ネパール人個体群(関連記事)と密接に関連しており、ユーラシア西部系統や低地アジア東部系統とは過去数十世代にわたって最小限の混合(交雑)しかしていない、と推測されます。「北部チベット人」は中核チベット人とユーラシア西部系統との混合で、高地と低地をつなぐチベット高原東端の「チベット・イー回廊」集団は、チベット語話者だけではなく、チャン語やロロ・ビルマ語話者を含み、この系統はアジア南東部クラスタ関連系統を30〜70%ほど有します。チベット人と遺伝的に近い集団として、新石器時代五庄果墚集団・漢人・チアン人(Qiang)があり、チベット人は、他の現代アジア東部集団よりもチアン人と漢人の方に遺伝的影響を残した新石器時代五庄果墚集団と密接に関連する集団系統を有する、と示唆されます。この混合は80〜60世代前(1世代28年として2240〜1680年前頃)に起きた、と推定されます。これは2集団の混合の下限年代なので、じっさいの混合は、チベット高原で農耕の始まった3600年前頃に始まっていた、と本論文は推測します。黄河上流〜中流域の農耕民が新石器時代から青銅器時代に中原と同様にチベット高原に拡散してきて、5800年前頃以降となるYHg-Oの分枝をチベット高原にもたらした、と推測されます。チベット人のYHg-Dは、在来の狩猟採集民集団に由来する可能性が高いように思われます。

 南方では、少なくとも紀元前1400〜紀元後600年頃となる台湾の漢本(Hanben)および公館(Gongguan)文化の個体群が、遺伝的には現代オーストロネシア語族話者およびバヌアツの古代ラピタ(Lapita)文化集団と最も類似しています。これは、漢本および公館文化の鉄器時代個体群において支配的なYHg-O2a2b2(N6)とmtHg-E1a・B4a1a・F3b1・F4bが、オーストロネシア語族話者の間で広く見られることでも明らかです。本論文は、現代のオーストロアジア語族話者である台湾のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)を、多様なアジ集団と比較しました。古代台湾集団とオーストロネシア語族集団は、他のアジア東部集団よりも、中国本土南部および海南省のタイ・カダイ語族話者と顕著にアレルを共有しています。これは、現代タイ・カダイ語族話者と関連した古代集団が、台湾に5000年前頃に農耕をもたらした、との仮説と一致します。「縄文人」は、他のアジア東部集団と比較して、古代台湾個体群と顕著に多くアレルを共有していますが、例外はアムール川流域クラスタです。

 漢人は世界で最多の人口の民族とされます。考古学と言語学に基づき、漢人の祖先集団は中国北部の黄河上流および中流域の早期農耕民で構成され、その子孫の中には、チベット高原に拡散し、現在のチベット・ビルマ語派の祖先集団の一部になった、と推測されています。考古学と歴史学では、過去2000年に漢人(の主要な祖先集団)がすでに農耕の確立していた南方に拡大した、と考えられています。現代人のゲノム規模多様性分析では、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、本論文の分析でも改めて確認されました。新石器時代の五庄果墚集団と現代のチベット人およびアムール川流域集団は、アジア南東部クラスタと比較して、漢人と顕著に多くのアレルを共有しています。一方、アジア南東部クラスタは、五庄果墚集団と比較して、漢人の大半と顕著により多くのアレルを共有しています。これらの知見から、漢人は、五庄果墚集団と関連した集団と、アジア南東部クラスタと関連した集団との間で、さまざまな混合割合を有している、と示唆されます。現代漢人はほぼ全員、黄河流域の新石器時代五庄果墚集団と関連した系統(77〜93%)と、長江流域の稲作農耕民と密接に関連した古代台湾集団と関連した集団の混合としてモデル化できます。これは、長江流域農耕民関連系統が、オーストロネシア語族およびタイ・カダイ語族話者のほぼ全系統と、オーストロアジア語族話者の約2/3の系統と関連している、という本論文の推定と一致します。五庄果墚集団のゲノムが現代人に汚染されている可能性はありますが、そうだとしても、混合の推定値に3〜4%以上の誤差はもたらさないだろう、と本論文は推測しています。北部漢人集団におけるユーラシア西部関連系統との交雑の年代は45〜32世代前で、紀元後618〜907年の唐王朝と、紀元後960〜1279(もしくは1276)年の宋王朝の時期に相当します。歴史的記録からも、この時期の漢人(の主要な祖先集団)と西方集団との混合が確認されますが、これは混合の下限年代で、もっと早かった可能性があります。

 現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は、漢人系統(84.3%)と「縄文人」系統(15.7%)の混合、もしくは朝鮮人系統(87.6%)と縄文人系統(12.4%)の混合としてモデル化され、両者を統計的に区別できません。この分析が示唆するのは、日本の「本土」系統が直接的に漢人もしくは朝鮮人によりもたらされた、ということではなく、まだ古代DNAデータの得られていない、漢人と朝鮮人の系統に大きな割合を残した集団と関連した祖先的集団からもたらされた、ということです。7人の「縄文人」は、紀元前1500〜紀元前1000年頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡の1人と、紀元前3500〜紀元前2000年頃となる千葉市の六通貝塚の6人です。船泊遺跡の方は、高品質なゲノム配列が得られている女性個体ではなく、男性個体が分析対象となっており、この男性個体はmtHg-N9b1で、YHgは以前D1a2a2b(旧D1b2b)と報告されていましたが(関連記事)、今回はDとのみ報告されています。六通貝塚の6人のmtHgはいずれもN9bで、さらに詳細に分類されている3人のうち2人がN9b1、1人がN9b2aです。六通貝塚の6人のうち3人が男性で、YHgはD1a2a1c1(旧D1b1c1)です。現代日本人のYHg-Dのうち多数派はYHg-D1a2a1(旧D1b1)ですが、これまで「縄文人」で詳細に確認されていたのは現代日本人では少数派のYHg- D1a2a2(旧D1b2)のみでした。本論文はまだ査読前ですが、これは「縄文人」としては初めて確認されたYHg-D1a2a1の事例になると思います。これまで、「縄文人」ではYHg-D1a2a1が確認されておらず、YHg- D1a2a2のみだったので、YHg-D1a2a1が弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も想定していたのですが(関連記事)、これでYHg-D1a2aが「縄文人」由来である可能性はやはり高い、と言えそうです。

 本論文は、以上の知見をまとめて、アジア東部における集団形成史を図示しています。アジア東部集団は、古代の2集団から派生したとモデル化できます。一方は、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類(Homo sapiens)個体(関連記事)と同系統のユーラシア東部北方集団(以下、北方集団)で、もう一方はアンダマン諸島のオンゲ(Onge)集団と密接に関連したユーラシア東部南方集団(以下、南方集団)です。アジア東部集団の系統はこの祖先的2集団に由来し、それぞれの割合はさまざまです。

 このモデルでは、モンゴル東部系統とアムール川流域のボイスマン関連系統は、北方集団関連系統からの割合が最大で、他のアジア東部集団と比較して、南方集団関連系統からの割合は最小限に留まっています。モンゴル東部系統の近縁系統は、チベット高原に拡大し、南方集団関連系統の在来狩猟採集民と混合しました。台湾の古代漢本集団は、南方集団関連系統(14%)と北方集団関連系統(86%)の混合としてモデル化されます。縄文人は南方集団関連系統で早期に分岐した系統(45%)と北方集団関連系統(55%)との混合としてモデル化されます。これらの知見は、後期更新世にアジア南東部から日本列島を経てロシア極東まで、沿岸経路での移住があった、との仮説と一致します。上部旧石器時代(後期旧石器時代)のアジア東部の古代ゲノムデータが少ないので、アジア東部の祖先的集団の深い分岐の復元は限定的になってしまいます。そのため、この混合を示した図は角に単純化されており、より詳細な関係は将来の研究に委ねられます。以下、本論文の図5です。

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https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2020/03/25/2020.03.25.004606/F5.large.jpg

 最終氷期の終わりには、ユーラシア東西で複数のひじょうに分化した集団が存在しており、これらの集団は他集団を置換したのではなく、混合していきました。ユーラシア西部では、ヨーロッパ集団とアジア東部集団との遺伝的違い(平均FST=0.10)と同じくらいの、遺伝的に異なる少なくとも4集団が存在し、新石器時代に混合して異質性は低下していき(平均FST=0.03)、青銅器時代と鉄器時代には現代のような低水準の分化(平均FST=0.01)に至りました。ユーラシア東部では、アムール川流域集団、新石器時代黄河流域農耕民、台湾鉄器時代集団の間で、比較的高い遺伝的違い(平均FST=0.06)が存在したものの、現在では低くなっています(平均FST=0.01〜0.02)。今後の課題として優先されるのは、まだ仮定的存在で、現代人集団のアジア南東部クラスタの主要な系統になったと推測される、長江流域集団の古代DNAデータを得ることです。これにより、アジア南東部の人々の拡散が、古代人の移動と相関しているのか否か、理解できます。

 以上、ざっと本論文の内容について見てきました。もちろん、これまでにもアジア東部の古代DNA研究は進められていましたが、本論文は初の包括的な研究結果を示した画期的成果と言えそうです。ただ、本論文でも指摘されているように、アジア東部に限らず、アジア南東部、さらにはオセアニアの古代DNA研究に不可欠と言えそうな長江流域集団の古代DNAデータが得られておらず、ヨーロッパをはじめとしてユーラシア西部の水準にはまだ遠く及ばないように思います。上述の図からは、(ユーラシア東部)北方集団からアジア東部北方および南方系統が分岐し、長江流域早期農耕民集団はおもに南方系統、五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡集団に代表される黄河流域早期農耕民集団はおもに北方系統に由来すると考えられますが、アジア東部の南北両系統、さらにはその祖先となった(ユーラシア東部)北方集団がいつどのような経路でアジア東部に到来したのか、まだ不明です。ヤムナヤ関連系統、さらにはその祖先の一部である古代シベリア北部集団の遺伝的影響が漢人など華北以南のアジア東部集団ではひじょうに小さいことを考えると、北方集団はヒマラヤ山脈の北方(北回り)ではなく南方(南回り)経由でアジア東部に到来し、年代と場所は不明ながら、南北両系統に分岐したのではないか、とも考えられます。ともかく、アジア東部を含めてユーラシア東部の古代DNAデータがユーラシア西部と比較して明らかに少ない現状では、ユーラシア西部のような精度での集団形成史はまだ無理なので、アジア東部圏の日本人である私としては、大いに今後の研究の進展に期待しています。


参考文献:
Wang CC. et al.(2020): The Genomic Formation of Human Populations in East Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.25.004606

https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html

3. 中川隆[-11681] koaQ7Jey 2020年8月25日 15:28:39 : WTRIxbreSo : SmdhZHJZU2RGaVE=[26] 報告
雑記帳 2020年08月17日
分断・孤立と交雑・融合の人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_23.html


 人類史に限らず広く生物史において、地理的障壁の形成などにより分類群が分断され、生殖隔離が生じた後に地理的障壁が消滅もしくは緩和し、比較的近い世代で祖先を同じくする異なる分類群同士が交雑する、ということは一般的であるように思います。2007年の時点で現生人類(Homo sapiens)と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との交雑を指摘した研究は、これを「孤立・交雑モデル」と把握しています(関連記事)。人類以外の具体例としてはヒヒ属があり、分岐と交雑と融合を含むその複雑な進化史が推測されており、その中には分岐した2系統が遺伝的にほぼ同じ影響を残して形成された新たな系統も含まれます(関連記事)。

 こうした分断・孤立による生殖隔離は、もちろん地理的障壁のみが原因で生じるわけではないものの、地理的障壁が大きな要因になっていることも間違いないでしょう。人類史に即して言えば、概して穏やかな間氷期には人類の居住範囲は拡大したようで、サハラ砂漠やアラビア砂漠のような居住に適さない地域も、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5・3の頃には、モンスーン活動の増加により植物が繁茂したこともありました(関連記事)。このような場合、他地域との「回廊」が開き、分断・孤立した分類群同士の再会の機会が訪れます。

 詳しくデータを提示できるほど勉強は進んでいませんが、人類史においては、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とが交互に訪れたのではないか、と思います。これは他の生物も同様ですが、生物としては生息域がかなり広範な部類に入るだろう人類にとっては、重要な意味を有する、と私は考えています。すでにホモ属出現前に人類はアフリカ東部と南部に拡散しており、古代型ホモ属はアフリカからユーラシアへと拡散し、西はイベリア半島、東はアジア東部および南東部にまで分布していました。それだけに、気候変動による環境変化に伴う地理的障壁の形成の結果として、分断されて孤立していき生殖隔離が生じるとともに、その後の気候変動による地理的障壁の消滅・緩和により、再会して交雑・融合することも起きやすかったというか、その影響を受けやすかったように思います。もちろん、各地域が一様に変化していくわけではなく、分断・孤立が大勢の時代にも交雑・融合が進んだ地域はあったでしょうし、逆に交雑・融合が大勢の時代にも孤立した集団が存在したことはあったでしょうが、大きな傾向として、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とに区分できるでしょう。


●人類進化のモデル

 こうした孤立・分断と交雑・融合の時代が相互に訪れていたことを前提とすると、人類進化のモデルとして注目されるのは、現生人類の起源に関する複雑な仮説です(関連記事)。この仮説では、メタ個体群(対立遺伝子の交換といった、あるレベルで相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群のグループ)モデルにおける、分裂・融合・遺伝子流動・地域的絶滅の継続的過程としての、進化的系統内の構造と接続性の重要性が強調されます。これは構造化メタ個体群モデルと呼ばれます。気候変動による地理的障壁の形成・強化などに伴う分裂・分断と、地理的障壁の消滅・緩和によるメタ個体群間の融合により、現生人類は形成されていった、というわけです。また、メタ個体群はある地域にずっと存続し続けるのではなく、環境変化を招来する気候変動や他のメタ個体群からの圧力などにより、移動することも珍しくない、という視点も重要になるでしょう。

 構造化メタ個体群モデルは、現生人類を特徴づける派生的な身体的形質が1地域で漸進的に現れたわけではない、という化石記録と整合的です。もちろん、メタ個体群の中には、現代人に大きな影響を残しているものも、ほぼ絶滅と言ってよいくらい現代に遺伝的影響が残っていないものもあるでしょう。その意味で、ひじょうに複雑な仮説であり、その確証は容易ではないでしょうが、今後の人類進化研究において重視されるべきモデルである、と私は考えています。

 分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しとは、異質化と均質化の繰り返しとも言えます。異質化とは、多様性の増加でもあります。ここで重要なのは、川端裕人『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』が指摘するように、多様性は分断・孤立に起因するところが多分にある、ということです(関連記事)。同書はアジア南東部を対象としており、中期〜後期更新世における人類の多様化を指摘しますが、アフリカでも、中期更新世後期でもなお、現生人類とは大きく異なる系統だろうホモ・ナレディ(Homo naledi)が存在していました(関連記事)。

 また同書が指摘するように、現在では多様性が善と考えられています。しかし、それが多分に分断や孤立に起因するとなると、手放しで賞賛することはできません。一方で、現在では交流もまた善と考えられていますが、これが均質化・多様性の喪失を招来している側面も否定できません。現生人類のこれまでの行動から、もはや均質化の流れは止められないだろう、と同書は予測しています。深刻な矛盾をもたらしかねない「崇高な」諸々の価値観をどう共存させていくのか、現代社会の重要な問題になると思います。


●初期ホモ属の進化

 上記の構造化メタ個体群モデルは現生人類の起源を対象としていますが、ホモ属の起源にも当てはまるかもしれません。首から下がほとんど現代人と変わらないような「真の」ホモ属が出現したのは200万〜180万年前頃のアフリカだと思われますが、それ以前、さらにはそれ以降も、ホモ属的な特徴とアウストラロピテクス属的な特徴の混在する人類遺骸が発見されています。これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。

 これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。南アフリカ共和国では、ホモ属的な特徴を有する200万年前頃の人類遺骸群が発見されていますが、これはアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)に分類されています(関連記事)。一方、分類に関して議論が続いているものの(関連記事)、アウストラロピテクス属的特徴も有するホモ属として、ハビリス(Homo habilis)という種区分が設定されています。

 ホモ・ハビリスは240万年前頃から存在していたとされていますが、ホモ・エレクトス(Homo erectus)が出現してからずっと後の144万年前頃までケニアで存在していた可能性も指摘されています(関連記事)。233万年前頃のハビリスと分類されている人類遺骸からは、ホモ属が当初より多様化していった可能性も指摘されています(関連記事)。またエチオピアでは、ホモ属的特徴を有する280万〜275万年前頃の人類遺骸も発見されています(関連記事)。

 300万〜200万年前頃の人類遺骸は少ないので、ホモ属の初期の進化状況は判然としませんが、ホモ属的な派生的特徴が300万〜200万年前頃のアフリカ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により「真の」ホモ属が形成されていった、との構造化メタ個体群モデルの想定には、少なくとも一定以上の説得力があるように思います。ホモ属の出現に関して、現時点ではアフリカ東部の化石記録が多いと言えるでしょうが、最古のホモ・エレクトスとも主張されている204万〜195万年前頃の化石が南アフリカ共和国で発見されており(関連記事)、アフリカ北部では240万年前頃(関連記事)、レヴァントでは248万年前頃(関連記事)の石器が発見されているので、あるいはアフリカ全域とレヴァントまで含めて、ホモ属の形成を検証する必要があるかもしれません。


●ネアンデルタール人の進化

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の進化に関しても、当然現生人類とは異なる側面が多分にあるとしても、構造化メタ個体群モデルが一定以上有効かもしれません。中期更新世のヨーロッパには、異なる系統のホモ属が共存していた可能性が高そうです。ポルトガルの40万年前頃のホモ属遺骸にはネアンデルタール人的特徴が見られない一方で(関連記事)、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)ネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが混在しており、フランスの24万〜19万年前頃のホモ属遺骸でもネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが確認され(関連記事)、イタリアの45万年前頃のホモ属の歯にもネアンデルタール人的特徴が見られます(関連記事)。

 こうした形態学からの中期更新世のヨーロッパにおける異なる系統のホモ属の共存の可能性は、考古学的記録とも整合的と言えそうです(関連記事)。遺伝学でも、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸とネアンデルタール人との類似性が指摘されており、さらには、中期更新世にアフリカから新技術を有して新たに拡散してきた人類集団が、ネアンデルタール人の形成に影響を及ぼした可能性も指摘されています(関連記事)。形態学・考古学・遺伝学の観点からは、ネアンデルタール人的な派生的特徴が中期更新世のヨーロッパ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流によりネアンデルタール人が形成された、と考えるのが現時点では節約的なように思います。

 じっさい、ネアンデルタール人が気候変動などにより移動していた証拠も得られています。おそらく、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返しており、寒冷期に人口が減少し、温暖期に人口が増加したのでしょう。ドイツの中部旧石器時代の遺跡の検証から、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返していたのではないか、と推測されています(関連記事)。当然この過程で、時には集団(メタ個体群)が絶滅することもあったでしょう。じっさい、西方の後期ネアンデルタール人集団の間では、相互に移動・置換があったのではないか、と推測されています(関連記事)。


●ネアンデルタール人とデニソワ人の関係

 ネアンデルタール人とその近縁系統となる種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関係でも、孤立・分断と交雑・融合の繰り返しが示唆されます。ネアンデルタール人とデニソワ人の推定分岐年代には幅がありますが、現時点では70万〜50万年前頃の間と想定しておくのが無難でしょうか(関連記事)。この分岐は孤立・分断の結果なのでしょうが、ネアンデルタール人遺骸の主要な発見地がヨーロッパとアジア南西部および中央部で、デニソワ人遺骸の発見地が現時点では南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡とチベットに限定されていることから、両者の主要な生息域は一部重なりつつも大きく異なっていた可能性が高く、地理的障壁の結果と考えるのが妥当でしょう。

 デニソワ人の現代人への遺伝的影響はアジア東部でも見られますが、パプア人やオーストラリア先住民にはそれよりもずっと強い影響が残っており(関連記事)、アジア東部から南東部にかけて分布していた、と考えられます。デニソワ洞窟における人類の痕跡は断続的なので(関連記事)、デニソワ人の主要な生息域はアジア東部および南部で、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。ネアンデルタール人はヨーロッパからユーラシア草原地帯を西進してアルタイ地域に到達し、異なる遺伝的系統のネアンデルタール人個体がアルタイ地域で確認されていることから(関連記事)、デニソワ人と同じく、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。

 大まかには、ネアンデルタール人はユーラシア西部、デニソワ人はユーラシア東部を主要な生息域として、時に両者の生息域の端(辺境)である南シベリア(ネアンデルタール人にとっては東端、デニソワ人にとっては西端)で遭遇していた、と言えそうです。気候変動による環境変化により、両者が接触しなかった期間は短くなかったと考えられ、それ故に分岐していったのでしょうが、おそらく気候が温暖な時期には、ネアンデルタール人による(何世代を要したのか不明ですが)ユーラシア草原地帯の長距離移動もあったのでしょう。

 アルタイ地域では、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑は一般的と推測されており、交雑による遺伝的不適合の強い証拠が見られない、と指摘されています(関連記事)。ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統が現生人類系統と分岐した後にネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐したため、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑では、現生人類との交雑の場合よりも遺伝的不適合が生じない可能性は高いだろう、と思います。

 上述のヒヒ属の事例からは、遺伝的不適合度の低そうなネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が同じくらいの遺伝的影響を有する融合集団の存在も想定されます。じっさい、そうした融合系統(ネアンデルタール人よりもややデニソワ人の方の影響が大きい、と推定されます)が、アジア東部および南部・パプア・オーストラリア先住民の共通祖先集団と交雑した、との見解も提示されています(関連記事)。それでもネアンデルタール人とデニソワ人が完全に融合せず、別系統として存続し続けてきたのは、両者の遭遇自体が一般的ではなく(遭遇した場合の交雑は一般的ですが)、基本的には地理的障壁によりそれぞれ分断・孤立していたからなのでしょう。


●ユーラシアの現生人類における分断と融合

 出アフリカ後のユーラシアにおける現生人類の動向も、分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しにより解釈することが必要なように思います。最終氷期の終わりには、ユーラシア東西で複数のひじょうに分化した集団が存在しており、これらの集団は他集団を置換したのではなく、混合していった、と指摘されています(関連記事)。ユーラシア西部では、現代のヨーロッパ集団とアジア東部集団との遺伝的違い(平均FST=0.10)と同じくらいの、遺伝的に異なる少なくとも4集団が存在し、新石器時代に混合して異質性は低下していき(平均FST=0.03)、青銅器時代と鉄器時代には現代のような低水準の分化(平均FST=0.01)に至りました。ユーラシア東部では、アムール川流域集団と新石器時代黄河流域農耕民と台湾鉄器時代集団との間で、比較的高い遺伝的違い(平均FST=0.06)が存在したものの、現在では低くなっています(平均FST=0.01〜0.02)。こうした完新世における遺伝的均質化の動因としては、農耕の採用やウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などといった生業面での優位性が大きかったように思います、

 これらユーラシア現生人類集団は、元々単一の(7万〜5万年前頃の)出アフリカ集団に主要な遺伝的起源があると推測されますが(関連記事)、末期更新世には多様化していたのでしょう。しかし末期更新世と比較すると、現代ユーラシアでは東西ともに遺伝的には均質化が進んでおり、完新世を交雑・融合傾向の強い時代と把握できそうです。5万年前頃には比較的均質だった出アフリカ現生人類集団が、末期更新世の頃までには多様化していき、完新世において遺伝的均質化が進展した、という大まかな見通しを提示できるでしょう。ただ、完新世の人類集団は更新世と比較して一般的に大規模なので、これは均質化への抵抗要因として作用する、とも考えられます。

 こうしたユーラシア現生人類集団における末期更新世までの遺伝的多様化は、拡大により相互の接触が困難になった、という事情もあるものの、その後でユーラシア東西ともに遺伝的均質化が進展したことを考えると、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)によりユーラシア各地域の現生人類集団は分断・孤立していき、遺伝的違いが大きくなった、と考えられます。LGMをやや幅広く設定すると(関連記事)、33000〜15000年前頃です。これは、遺伝的にだけではなく、文化的にも違いをもたらすのに充分な時間です。語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘されています(関連記事)。

 LGMを含む前後の15000〜20000年間ほどが分断・孤立傾向の強い時代だとしたら、5万〜4万年前頃には類似した言語を有していた集団間で、異なる語族が形成されても不思議ではありません。おそらく、末期更新世にはユーラシアにおいて多様な言語が存在しており、それらが消滅・吸収されていった結果、現代ユーラシアのような言語状況が形成されたのでしょう。それでも、ヨーロッパのバスク語やアジア東部の日本語・アイヌ語・朝鮮語のように、孤立的な言語が今でも存続しています。この問題に関しては、アメリカ大陸の事例も考えねばならないのですが、私の知見があまりにも不足しているので、今回は取り上げません。


●日本人とチベット人の遺伝的構造の類似性と言語の違い

 集団の遺伝的構造と言語は相関していることも多いものの、違うこともあります。日本人とチベット人はその典型かもしれません。ここでは、「日本人」でもおもに本州・四国・九州を中心とする「本土」集団が対象です。上述のように、ユーラシア東部の人類集団は末期更新世には遺伝的に多様でしたが、完新世には均質化していき、アジア東部に限定しても同様です。アジア東部の広範な地域を対象とした古代DNA研究(関連記事)では、アジア東部現代人集団は複雑な分岐と融合を経て形成された、と示されます。まず、出アフリカ現生人類はユーラシア東西系統に分岐します。ユーラシア東部系統は南北に分岐し、ユーラシア東部北方系からアジア東部北方系とアジア東部南方系が分岐します。現時点のデータでは、ユーラシア東部南方系と、ユーラシア東部北方系に由来するアジア東部北方系およびアジア東部南方系の複雑な融合により、アジア東部現代人の各地域集団が形成された、とモデル化されます。アジア東部北方系とアジア東部南方系の分岐は、おそらくLGMによる分断・孤立を反映しているのでしょう。

 この見解を前提とすると、日本人とチベット人は、類似した遺伝的構造の形成過程を示します(関連記事)。それは、おもに狩猟採集に依拠していた古層としての在来集団と、後に到来したアジア東部北方新石器時代集団との混合により形成され、遺伝的には後者の影響の方がずっと高い、ということです。古層としての在来集団は、チベット人の場合はユーラシア東部南方系で、アンダマン諸島現代人集団や後期更新世〜完新世にかけてのアジア南東部狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団が含まれます。古層としての在来集団は、日本人の場合は「縄文人」で、ユーラシア東部南方系統とユーラシア東部北方系から派生したアジア東部南方系統との混合だった、と推測されます。現代日本人と現代チベット人において高頻度で見られる、現代世界では珍しいY染色体ハプログループ(YHg)Dは、おそらくユーラシア東部南方系に由来するのでしょう。

 アジア東部北方系は、仰韶(Yangshao)文化や龍山(Longshan)文化といった黄河中流および下流域農耕集団に代表されます。言語学では、チベット・ビルマ語族が含まれるシナ・チベット語族の起源は7200年前頃で(関連記事)、シナ・チベット語族の拡散・多様化は5900年前頃に始まった(関連記事)、との見解が提示されています。チベット人に関しては、集団の遺伝構造と言語との間に強い相関がある、と言えそうです。もちろん、新石器時代においてすでにアジア東部北方系とアジア東部南方系との混合が推測されているように(関連記事)、集団の遺伝的構造と言語とをあまりにも単純に相関させることは危険で、現代の中国語(漢語)にしても、アジア東部北方系のシナ・チベット語族と、おそらくはアジア東部南方系の先オーストロネシア語族などとの混合により形成されていったのでしょう。

 一方、日本人に関しては、アジア東部北方系の言語をシナ・チベット語族系統と想定すると、集団の遺伝的構造と言語とが相関しません。これは朝鮮人に関しても同様と言えるでしょう。日本語も朝鮮語も、おそらくはLGMによる分断・孤立でユーラシア東部において形成された多様な言語群の一つだったのでしょうが、完新世において同系統の言語群が消滅・吸収され、現在は孤立言語のようになったのでしょう。日本語の形成に関しては、アイヌ語との関係も含めて以前短くまとめましたが(関連記事)、その後も勉強が進んでおらず、確たることはとても言えません。

 単純化すると、集団の遺伝的構造と言語とは相関しないこともある、と言って終えられます。まあ、これでは何も言っていないのに等しいので、もう少し考えると、アジア東部北方系の言語が基本的にはシナ・チベット語族系統のみだったとすると、バヌアツの事例(関連記事)が参考になるかもしれません。これは以前に、日本語の形成過程で参考になるかもしれない事例として取り上げました(関連記事)。遺伝的には、バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人はパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなくオーストロネシア諸語のままです。

 日本語の形成過程にたとえると、オーストロネシア系集団が「縄文人」、パプア系集団がアジア東部北方系の影響のひじょうに強い、おそらくは弥生時代以降に日本列島に到来した集団に相当します。アジア東部北方系集団の日本列島への到来が短期間に多数の人々によりなされたのではなく、長期にわたる緩やかなもので、その後の人口増加率の違いにより現代日本人のような遺伝的構成が形成されたとすると、交易などの必要性から先住民集団である「縄文人」の言語が大きな影響力を維持した、とも考えられます。

 一方、アイヌ語と日本語とが大きく違うことを考えると、「縄文人」の言語は地域的な違いがあれども基本的にはアイヌ語系統で、上記のような日本語が選択された過程は日本列島ではなく遼河地域から朝鮮半島のどこかで起き、そこから日本列島にもたらされた、とも考えられます。しかし、現時点では東日本に限定されているものの、「縄文人」は時空間的にかなり異なる集団でも遺伝的に均質ですから(関連記事)、更新世に日本列島に到来した(4万年前頃以降)集団が、外部とはさほど遺伝的交流なしに進化した、とも考えられます。

 北海道「縄文人」の祖先集団と他地域の「縄文人」の祖先集団とが、LGMによる分断・孤立で分岐していったとすると、日本語とアイヌ語がとても同系統と確認できないくらいに分化していっても不思議ではありません。「縄文人」の言語は、北海道もしくは東北地方か関東か東日本までと、西日本とで大きく異なっており、日本語は西日本の「縄文人」の(一部集団の)言語に起源がある、というわけです。ただこの場合、「縄文人」の遺伝的多様性がもっと高くてもよさそうにも思いますが、あるいは、今後西日本の「縄文人」のゲノムが解析されれば、東日本「縄文人」との一定以上の違いが明らかになるのでしょうか。

 もう一つ想定されるのは、アジア東部北方系の言語は、後にはシナ・チベット語族に一元化されたものの、新石器時代のある時点までは多様だった、というものです。集団の遺伝的構造と言語が相関しているとは限りませんから、LGMによる分断・孤立で言語が多様化していき、その後の融合過程で遺伝的にはアジア東部北方系が成立したものの、その言語は均質ではなく、日本語祖語も朝鮮語祖語も含まれていた、という想定です。チベットに拡散したアジア東部北方系集団の言語はシナ・チベット語族で、朝鮮半島やさらに日本列島に向かった集団の言語は大きく異なっていた、というわけです。

 結局のところ、自分の勉強不足のため日本語の形成過程はよく分からず、単に複数の想定を列挙しただけで、しかもこれらの想定以外に「正解」がある可能性も低くないので、何ともまとまりのない文章になってしまいました。日本語の起源はたいへん難しい問題ですが、おそらくはアイヌ語とともに、LGMによる分断・孤立で多様化した言語が、現代では孤立した言語として生き残っている事例で、バスク語と同様なのでしょう。現代世界でも言語の喪失は大きな問題となっていますが、LGMの後から現代までに、現代人がもう永久に知ることのできない、少なからぬ喪失言語があったのでしょう。

https://sicambre.at.webry.info/202008/article_23.html

4. 2020年8月25日 18:26:50 : WTRIxbreSo : SmdhZHJZU2RGaVE=[41] 報告
雑記帳 2020年08月24日
古代DNAに基づくユーラシア東部の人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_32.html

 古代DNAに基づく近年のユーラシア東部の人類史研究を整理した概説(Zhang, and Fu., 2020)が公表されました。古代DNA研究により、人類の歴史と進化に関する知識が増えました。ユーラシア西部での研究により、人類集団の移動と混合に関する既存の仮説を比較して評価し、以前には考慮されていなかった新たな仮説の提唱が可能となりました。古代DNA研究はまだ揺籃期にあり、ユーラシア東部での研究はユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して遅れており、ユーラシア東部に関するほとんどの大規模な古代DNA研究は、ユーラシア草原地帯を対象としていました。多くの問題が未解決ですが、古代DNA研究は前進しており、ユーラシア東部の人類集団史に新たな知見を提供しつつあります。本論文は、ユーラシア東部集団に関する最近のさまざまな古代DNA研究を検証し、異なる系統と移住を論じ、現代人の遺伝的歴史への影響を強調します。


●後期更新世のユーラシア東部における現生人類集団

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)以前に、現生人類(Homo sapiens)はシベリア北東部からイベリア半島までユーラシア全域に拡散しました。しかし、ユーラシア東部の後期更新世のゲノム規模データはほとんどなく、ユーラシア東部南方(アジア東部南方とアジア南東部)からはまだ得られていません。本論文はまず、ユーラシア東部北方の後期更新世ゲノム規模データにより明らかになった、ユーラシア東部の現生人類の異なる系統をまとめます。

 ユーラシア東部の後期更新世においては主要な3人類集団が報告されています。まず、現代人への遺伝的寄与は実質的になかったと考えられる、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された45000年前頃の個体(関連記事)に代表される集団です。このウスチイシム個体のY染色体ハプログループ(YHg)はユーラシア東部で典型的なNOで、ゲノム規模データからは、ユーラシア西部の古代狩猟採集民とアジア東部の古代人および現代人の双方から同じ遺伝的距離にある、と示されています。これは、ウスチイシム個体がユーラシア東西の現代人の祖先の前、もしくは同時に分岐した集団に区分されることを示唆します。

 次に、アジア東部現代人と関連する現生人類集団で、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類男性1個体に代表されます(関連記事)。この田园個体は、ヨーロッパの古代人もしくは現代人よりも、アジア東部現代人・ほとんどのアジア南東部現代人・アメリカ大陸先住民の方と遺伝的に密接で、東方アジア人集団とヨーロッパ人集団が遅くとも4万年前頃までに分岐していたことを明らかにしました。この田园個体は、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)との遺伝的つながりを示しており、早期ヨーロッパ人と早期東方アジア人との間の分離は、単一集団の分岐ではなかった、と示唆されます。

 最後に、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される、古代シベリア北部集団(ANS)です(関連記事)。ANS はヨーロッパ人関連系統(71%)とアジア東部人関連系統(29%)との混合と推定され、ヨーロッパ人関連系統との推定分岐年代は39000年前頃です。バイカル湖地域の24000年前頃のマリタ(Mal’ta)遺跡の1個体(関連記事)と、17000年前頃のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の2個体は、他のユーラシア西部狩猟採集民よりもANSと密接に関連しており、ANS系統の子孫としてモデル化できます。これらの研究から、ANS関連系統は古代シベリア人においてかつて広範に拡散していた、と示唆されます。25000±1100年前頃には、ANS関連系統とアジア東部人関連系統の混合により、アメリカ大陸先住民祖型集団(38%程度がマリタ個体関連系統)が形成されました(関連記事)。これらの異なる系統は、後期更新世のユーラシア東部における現生人類集団の多様性を強調します。

 現生人類の地域的な遺伝的違いと適応を形成するうえで、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との交雑が重要な役割を果たしてきました(関連記事)。ユーラシア東部では、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)という、2つの異なる分類群の古代型ホモ属が確認されています。非アフリカ系現代人のゲノムに残るネアンデルタール人由来の領域は、おもに6万〜5万年前頃の出アフリカ現生人類とネアンデルタール人との間の交雑によりもたらされた、と推測されています。デニソワ人は南シベリアとチベット高原で確認されており(関連記事)、アジア東部現代人もわずかにデニソワ人からDNAを継承している、と推定されています(関連記事)。今後、上部旧石器時代の人類のDNA解析が蓄積されていけば、現代人に見られる古代型ホモ属系統の多様性と、いつどこで交雑が起きたのか、ということもより解明されていくでしょう。


●ユーラシア東部における前期新石器時代の人口構造

 ユーラシア東部の前期新石器時代集団は、遺伝的に異なっていました。本論文はその中で主要な集団として、古代シベリア人(APS)と古代アジア東部北方人(ANEA)と古代アジア東部南方人(ASEA)と異なる基底部アジア人2集団(BA1およびBA2)を取り上げます。

 APSは9800年前頃となるシベリア北東部のコリマ(Kolyma)遺跡の個体(Kolyma1)に代表されます(関連記事)。APSは遺伝的にはおもにアジア東部人関連系統で構成され、ANS関連系統からも多少(16.6%程度)遺伝的影響を受けており、アメリカ大陸先住民と類似した遺伝的構成を示します(アメリカ大陸先住民よりもアジア東部系統の影響をやや強く受けています)。シベリアでは完新世に、現代シベリア人につながる新シベリア集団(NS)が拡散していき、おおむねAPSを置換しましたが、APSの遺伝的影響を強く残している集団も存在します。

 ANEAには、極東ロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡個体群(関連記事)や、淄博(Boshan)遺跡など中国山東省の新石器時代個体群(関連記事)、南シベリアのバイカル湖地域の7100〜6300年前頃の15個体(関連記事)が含まれます。これら前期新石器時代個体群はクレード(単系統群)を形成し、アジア東部南方の古代人および現代人集団も含めてアジア他の全人類よりも、東部北方の現代人集団と近縁です。しかし、APS関連系統も淄博遺跡や悪魔の門遺跡やバイカル湖地域の個体群で攪乱されており、APS関連が遅くとも8000年前頃までにはANEAとつながりを有していた、と示唆されます。大規模な集団置換のない完新世に、悪魔の門遺跡地域では高水準の遺伝的連続性が観察されています。対照的にバイカル湖地域では、集団置換的事象があり、上部旧石器時代のAPS関連系統が前期新石器時代にはANEA関連系統を有する集団におおむね置換されましたが、APS、さらには一部がその母体となったANS関連系統が、青銅器時代集団でもわずかに確認されています(関連記事)。これらのパターンは、アジア東部北方全域におけるアジア東部北方系統の共有と、シベリアへの北上を示唆します。

 ASEA系統は、福建省の前期新石器時代個体群に代表されます(関連記事)。ASEA系統はANEAと大きく異なり、4600〜4200年前頃の福建省の個体群でも確認されます。ASEA関連系統集団は、アジア南東部のいくつかの集団とオーストロネシア語族集団の主要な祖先となりました。ASEA関連系統の拡大の詳細は後述されます。

 BA1はおもに、8000〜4300年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)個体群に代表されます(関連記事)。BA1は現代人ではアンダマン諸島のオンゲ(Onge)人とクラスタ化します。オンゲ人はアジア南部集団の系統の「第1層」となります。BA1は他のユーラシア東部集団と古くに分岐し、おそらくは田园個体に代表される系統と同じ頃で、ほとんどのアジア東部現代人には外群となります。BA2は日本列島の縄文文化の後半期(3800〜2500年前頃)の集団と関連しており(関連記事)、アジア東部現代人および古代人の系統とはひじょうに早く分岐した、と推測されます。これら縄文文化関連個体群(縄文人)は、田园個体やホアビン文化狩猟採集民よりもアジア東部の南北の両個体群とより密接な関係にありますが、アメリカ大陸先住民の主要な祖先となった集団より早く、アジア東部の南北両系統と分岐した可能性が高い、と推測されます。

 チベット人系統は、チベット高原の古代人(関連記事)および現代チベット人により表されます。現代チベット人はアジア東部現代人と密接に関連しています。しかし、古代ユーラシア東部人との比較では、チベット人はアジア東部北方人とより密接に関連している、と明らかになります。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究では、現代チベット人において5200年前頃から部分的な母系継続性がある、と推測されており(関連記事)、まだ検出されていないチベット高原のより古い系統が示唆されます。現時点での証拠から、古代チベット人は以前の想定よりも複雑で多様だった、と示唆されますが、チベット高原の古代DNAはまだ不足しており、さらなる研究が必要です。以下、これらの系統の関係を示した本論文の図1です。

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●完新世のユーラシア東部における南方への移動

 完新世の人類集団の移住も、ユーラシア東部現代人の人口構造の形成に大きな役割を果たしました。完新世において、ユーラシア東部では少なくとも3つの主要な南方への移動があり、アジア東部南方におけるアジア東部北方関連系統の増加、アジア南東部のBA1と現在の中国からのアジア東部系統との混合、中国南部の古代人のゲノムに見られるオーストロネシア語族と密接に関連した系統により証明されます。

 アジア東部南方では、アジア東部北方人関連系統が増加していきました(関連記事)。アジア東部南方の後期新石器時代個体群では、ANEA関連系統の増加が見られます。さらに、アジア東部大陸部の全現代人は、ASEA関連系統よりもANEA関連系統の方と多くの類似性を示します。混合モデルでは、ANEA関連系統がアジア東部南方大陸部現代人に強い影響を与えたものの、ASEA関連系統は依然としてある程度存続している、と示されます。アジア東部北方の前期新石器時代集団では、黄河下流域の山東省集団が、アジア東部現代人全員に見られるANEA系統と最も密接に関連しています。一方、いくつかのアジア東部北方集団では、ASEA関連系統がわずかに見られます。

 アジア東部人関連系統のアジア南東部への拡大は4000年前頃に始まり、アジア東部南方からの遺伝子流動がアジア南東部現代人の遺伝的構成大きな影響を与えた、と示されています(関連記事)。しかし、アジア南東部の狩猟採集民に代表されるBA1の痕跡は、アジア南東部現代人において依然として見られ、アジア東部関連系統集団の複数回の移住とアジア南東部先住民集団との混合により特徴づけられる、複雑な移行が示唆されます。古代DNA研究からは、「第1層」としてのBA1と後に到来した「第2層」のアジア東部南方系の農耕民との混合により、アジア南東部現代人の遺伝的多様性が形成されたと推測され、これは以前の仮説と一致します。

 ASEA関連系統はオーストロネシア語族現代人と最大のつながりを示し、オーストロネシア語族の起源が中国本土南東部沿岸にある、という仮説と一致します。祖型オーストロネシア語族の子孫は台湾へと拡散したかもしれず、台湾先住民系統と漢人系統との最初の分岐は10000〜8000年前頃と推定されています。バヌアツの3000年前頃の個体群は、アジア東部南方古代人でも前期新石器時代(8400〜7500年前頃)よりも後期新石器時代(4600〜4200年前頃)個体群の方と密接に関連しています。

 1900年前頃以降のフィリピンの個体群は、インドネシアの現代人および2300〜1800年前頃の個体群とクラスタ化し、オーストロネシア語族関連系統とオーストロアジア語族関連系統の混合としてモデル化できます。これは、アジア南東部へのオーストロネシア語族の拡大が遅くとも、インドネシアでは2100年前頃までに、フィリピンでは1800年前頃までに起きたことを示唆します。全体的に、中国南部とオセアニアの古代DNAデータは、アジア東部南方からアジア南東部と太平洋南西部の島々への南下の波を示唆します。こうした南方への移動はユーラシア東部現代人集団の形成に大きな役割を果たし、遺伝子流動がユーラシア東部集団の歴史に大きな影響を与えた、と強調します。以下、これらの集団移動を示した本論文の図2です。

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●まとめ

 ユーラシア東部の古代DNA研究は進展していますが、アジア東部大陸部の研究はまだ不足しています。最近では、上述のようにアジア南東部やオセアニアの古代DNA研究も進展しており、高温多湿地域での古代DNA解析がますます期待されます。高温多湿地域での更新世遺骸のDNA解析は困難ですが、中国広西チワン族自治区で発見された22000年前頃のジャイアントパンダ(Ailuropoda melanoleuca)の遺骸のmtDNAが解析されており(関連記事)、人類遺骸への応用も可能でしょう。

 将来の研究は多くの未解決の問題に対処し、アジア東部におけるより高密度の標本抽出によって、集団変化と相互作用をより詳細に調べられます。たとえば、狩猟採集から農耕への移行はどのように進んだのか、遺伝的にはかなりの置換があったのか、それとも在来集団が農耕を採用したのか、といった問題です。よく研究されていない地域のデータは、過去の集団拡大への新たな洞察を提供し、現生人類の歴史をより深く解明するのに役立ちます。たとえば、チベット高原の古代DNAデータは、いつどのように農耕集団がチベット高原に拡大してきたのか、証拠を提供するでしょう。古代DNAデータは、古代型ホモ属からの自然選択と適応、たとえば高地適応が、どのように現生人類に影響を及ぼしたのか、解明するのに役立ちます。今後の古代DNA研究はユーラシア東部集団の複雑な歴史の解明に役立つでしょう。


 以上、ざっと本論文を見てきました。本論文は、近年のユーラシア東部の古代DNA研究を整理しており、たいへん有益だと思います。本論文を読めば、後期更新世から完新世にかけてのユーラシア東部の現生人類史に関する、現時点での概略を把握できるでしょう。ただ、おそらく本論文の投稿までに間に合わなかったために、本論文では研究されていない論文が査読前のものも含めてあり、ユーラシア東部関連でも古代DNA研究が急速に進展していることを示しています。

 査読前論文では、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究があります(関連記事)。本論文では、「縄文人」はBA2とされましたが、この研究では、本論文の表記を用いると、「縄文人」はBA1関連系統(45%)とASEA関連系統(55%)の混合と推定されています。近縁な分類群間の関係を系統樹で表現することには限界がある、という問題とも言えるでしょう。もちろん、「縄文人」がBA1とASEAの混合という推定もモデル化にすぎず、単純化されているわけで、どこまで妥当なのか、よりよいモデル化があり得るのではないか、といった問題は今後の研究の進展を俟つしかありません。

 新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究(関連記事)では、アジア東部北方の黄河地域集団において、新石器時代に稲作農耕の北上に伴ってASEA関連系統が増加する、と示されています。本論文でも指摘された、アジア東部における人類集団の移動は、北方から南方だけではなくその逆もあった、というわけです。チベット人の形成過程に関しても、査読前論文が公開されており(関連記事)、本論文で指摘されたチベット高原のより古い系統がBA1関連系統と推測されています。最近、ヨーロッパと比較すると大きく遅れていたユーラシア東部の古代DNA研究が飛躍的に発展したので、今後の研究の進展にたいへん期待しています。


参考文献:
Zhang M, and Fu Q.(2020): Human evolutionary history in Eastern Eurasia using insights from ancient DNA. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 78-84.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.06.009


https://sicambre.at.webry.info/202008/article_32.html

5. 中川隆[-11374] koaQ7Jey 2020年9月14日 06:37:39 : VEXdTyYfng : dGNaOEsyMFFsbDI=[1] 報告
中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(関連記事)のモデルでは、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団はまず、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐し、ユーラシア東部系統は南方系統と北方系統に分岐します。ユーラシア東部南方系統に位置づけられるのは、現代人ではパプア人やオーストラリア先住民やアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。

 ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに南方系統と北方系統に分岐します。アジア南東部北方系統は新石器時代黄河地域集団、アジア東部南方系統は新石器時代の福建省や台湾の集団(おそらくは長江流域新石器時代集団も)に代表され、オーストロネシア語族現代人の主要な祖先集団です(関連記事)。

現代において、日本人の「本土集団(本州・四国・九州とその近くの島々の人々)」や漢人やチベット人などアジア東部現代人集団の主要な遺伝的祖先はアジア東部北方系統ですが、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、チベット人はユーラシア東部南方系統との、日本人「本土集団」は「縄文人」との混合により形成されました。

「縄文人」は、ユーラシア東部南方系統(45%)とアジア東部南方系統(55%)との混合と推定されており、HHV-6は、アジア東部北方系統ではなく、アジア東部南方系統人のゲノムに3万年前頃組み込まれたのかもしれません。アジア東部南方系統集団が当時どこにいたのか、まだ不明なので、今後の研究の進展が期待されます。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_17.html

6. 2021年1月17日 14:33:05 : qyJgLmnfmM : Z3VUUGFqUlBLSzY=[14] 報告
「河洛古国」双槐樹遺跡で中国最古の宮殿跡 河南省鄭州市
新華社 2021/01/17
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E6%B2%B3%E6%B4%9B%E5%8F%A4%E5%9B%BD-%E5%8F%8C%E6%A7%90%E6%A8%B9%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%A7%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%AE%AE%E6%AE%BF%E8%B7%A1-%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E9%84%AD%E5%B7%9E%E5%B8%82/ar-BB1cOwjH?ocid=msedgntp


「河洛古国」双槐樹遺跡で中国最古の宮殿跡 河南省鄭州市© 新華社


鞏義市河洛鎮の双槐樹遺跡。(2019年8月27日撮影、小型無人機から、鄭州=新華社記者/李安)

 【新華社鄭州1月17日】中国河南省の鄭州市文物考古研究院は13日、同省鞏義(きょうぎ)市にある新石器時代仰韶文化期の双槐樹遺跡で、中国最古の宮殿跡を発見したと明らかにした。

 同遺跡では2020年5月にも5300年前の大規模な都市遺構の発見が発表されている。専門家は「河洛古国」と命名し、黄河文明の起源ではないかとみている。今回発見された宮殿遺構は「版築(はんちく)」と呼ばれる土を突き固める工法で築かれた大型の高台の上に、二つの宮殿が並列して建てられており、公的エリアと皇帝・国王の生活エリアを前後に分ける「前朝後寝」、一つの門に三つの通路を設ける「一門三道」など後世の中国様式の宮殿の特徴を備えている。

「河洛古国」双槐樹遺跡で中国最古の宮殿跡 河南省鄭州市© 新華社 「河洛古国」双槐樹遺跡で中国最古の宮殿跡 河南省鄭州市
鞏義市河洛鎮の双槐樹遺跡。(2019年8月27日撮影、小型無人機から、鄭州=新華社記者/李安)

 中国考古学会の王巍(おう・ぎ)理事長は「中国の宮室制度は双槐樹遺跡でその輪郭が形成された。黄河文化が中華文化の主根、主脈であり、主魂であることを説明しており、中華5千年文明を裏付ける証拠でもある」と述べた。

 同研究院の顧万発(こ・ばんはつ)院長によると、宮殿跡が見つかった4300平方メートルの版築高台には、建築遺構が密集しており、これらの建物の基礎土台もすべて版築工法で築かれていた。これまでの発掘で1号、2号院落(塀で囲まれた区画)の配置が判明している。

 高台の西半部を占める1号院落の平面は長方形で、面積は1300平方メートル余り。院落の南壁の外には880平方メートル近くの大型広場があり、「前朝後寝」の配置となっている。東半分を占める2号院落の面積は1500平方メートル余り。城門3カ所が見つかり、うち南壁東寄りの「1号門」は「一門三道」形式だった。

「河洛古国」双槐樹遺跡で中国最古の宮殿跡 河南省鄭州市© 新華社 「河洛古国」双槐樹遺跡で中国最古の宮殿跡 河南省鄭州市
鞏義市河洛鎮の双槐樹遺跡で見つかった2号院落「一門三道」遺構。(資料写真、鄭州=新華社配信)

 中国社会科学院考古研究所の何努(か・ど)研究員は「このような大型院落の空間配置や『前朝後寝』様式の宮城配置は、中国の宮室制度の先駆けとなった」と指摘。これらの配置がその後の陶寺や二里頭、偃師商城などの夏王朝・商(殷)王朝時代の都城制度に直接影響を及ぼしたとの見方を示した。

 顧氏は、同遺跡の「一門三道」遺構が二里頭遺跡1号宮殿や偃師商城3号、5号宮殿の城門遺構、またそれよりも遅い時期の高等建築の城門と基本的に一致していると説明。双槐樹の大型建築基壇の高等性と起源性を顕著に示しており、夏・商・周三代の宮室制度の起源を模索するための重要材料になると述べた。

 中国ではこれまで、二里頭遺跡の宮室建築が最古の「宮殿」とされており、その後は山西省の陶寺遺跡でも宮殿に類似する建築が見つかっている。専門家は今回の発見が中国の宮室制度を1千年前後さかのぼらせたとしている。(記者/桂娟、史林静)

https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E6%B2%B3%E6%B4%9B%E5%8F%A4%E5%9B%BD-%E5%8F%8C%E6%A7%90%E6%A8%B9%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%81%A7%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%AE%AE%E6%AE%BF%E8%B7%A1-%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81%E9%84%AD%E5%B7%9E%E5%B8%82/ar-BB1cOwjH?ocid=msedgntp

7. 中川隆[-8194] koaQ7Jey 2021年1月17日 14:37:33 : qyJgLmnfmM : Z3VUUGFqUlBLSzY=[15] 報告
河南省「河洛古国」は黄河文明の起源 考古調査で重要成果
2020年5月11日 20:08 発信地:中国
https://www.afpbb.com/articles/-/3282420

【5月11日 Xinhua News】中国河南省(Henan)鄭州市(Zhengzhou)文物考古研究院は7日、同省鞏義市(Gongyi)双槐樹遺跡で見つかった古国時代の都邑遺跡における段階的かつ重大な考古学研究の成果を発表した。中華文明がどこで起こり、どのように発展してきたかについては、かねてから関心が寄せられてきた。

 中国社会科学院学部委員、中国考古学会理事長の王巍(Wang Wei)氏は「双槐樹遺跡での重要な考古学的発見は、約5300年前の中華文明の起源の黄金期における河洛地区の代表性と影響力を裏付けるもので、中華文明の起源の鍵となる時期、鍵となる地域を補填(ほてん)する重要な資料だと言える。双槐樹遺跡を中心とする仰韶文化中〜末期の文明が、間違いなく黄河文化の根源であることを示している」と述べた。

 黄河南岸の高台に位置する双槐樹遺跡は、伊水と洛水(らくすい)が黄河に流れ込む同省鞏義市河洛鎮にある。近年、中国社会科学院考古研究所と合同で遺跡の考古学調査を続けている同研究院は、複数の著名な考古学者による実地視察と研究・検討、論証を経て、同遺跡が今から約5300年前の古国時代の都邑遺跡であるとの結論を下した。また、遺跡が河洛の中心エリアにあることから、「河洛古国」と命名することを提案した。

 同研究院の顧万発(Gu Wangfa)院長は、記者会見で次のように説明した。河洛古国では仰韶文化中末期の3重の大型環壕や最古の甕城(おうじょう)構造を持つ外壁、閉鎖式で規則的に並んだ大型の中心住居跡、厳格な計画に基づく3カ所1700基余りの大型公共墓地および版築(はんちく)による祭祀台遺跡3カ所が見つかっている。また重要人物が住んだとみられる大型建築と融合した九つの陶罐(とうかん)で北斗九星を模した天文遺跡、シルクの起源と重要な関わりがあるイノシシの牙に彫られた最古の家蚕の彫刻、祭祀遺跡、製陶工房エリア、道路システムなどが見つかるとともに、仰韶文化期のさまざまな文化的遺物が出土した。

 北京大学教授で夏商周年代プロジェクト・チーフサイエンティストの李伯謙(Li Boqian)氏ら専門家は、双槐樹遺跡がこれまで発見された黄河流域の仰韶文化中〜末期という中国文明形成の初期のものとしては、最も整い、都邑遺跡の性質を持つ中心的集落であるとし、入念な用地選定と科学的な計画を経て、複数の遺跡が同遺跡を守るように取り囲んでいたとの認識で一致している。

 一連の重要な考古学的発見は、双槐樹遺跡に代表される「中原文明の発展モデル」が、中心と文化的包摂を重視し、民生と農業・養蚕を重視することで生み出された社会的富を、適度に神霊にささげ、社会的再生産に投じられていたことを示している。同モデルの主体は後の時代の主流となる政治・社会によって継承・発揚され、中華文明の歴史プロセスにおける最も代表的でけん引性のある主流の発展モデル・思想となった。

 専門家らは、天地の中心という宇宙観や天命により天下を治めるという儀礼的思考、ハイレベルで大規模な建築、整然と並ぶ集落の配置、中国の地理的中心ならびに最古の都市群における中核的位置など、双槐樹遺跡が示す内包、特にその社会発展モデルや思想、観念は、古国時代の王都の雰囲気を表しているとし、北斗九星や礼制への重視といった多くの現象が、後の時代の夏・商・周などの王朝と文明でも継承、発揚されてきたことから、5千年以上の歴史を誇る中華文明はまさに、このような根源によって、絶えることなく続いてきたとの考えを示した。(c)Xinhua News/AFPBB News

https://www.afpbb.com/articles/-/3282420

8. 2021年3月11日 16:18:39 : tMihqEAZ8k : OWp0eGdKVXNEQ3M=[44] 報告
雑記帳 2021年03月11日
前期新石器時代〜漢代の山東省の人類の母系の遺伝的構造
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_11.html


 前期新石器時代〜漢代にかけての、現代の中華人民共和国山東省の人類の母系の遺伝的構造に関する研究(Liu et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。古代DNA研究により、アジア東部の南北の古代人口集団間の遺伝的区別など、ユーラシア東部の人口史と進化が明らかにされてきました(関連記事)。山東省は中国の北部沿岸地域に位置し、中国の南北を地理的に接続しています。山東省は多文化の中心地として、大汶口(Dawenkou)文化(6000〜4600年前頃、黄河下流域)や山東省龍山(Longshan)文化(4600〜4000年前頃、龍山文化の地域的文化)が存在しました。以前の古代DNA研究では、いくつかの山東省で発見された人類遺骸のミトコンドリアDNA(mtDNA)の短い超可変領域1に焦点が当てられていましたが、ハプログループを識別する能力は限定されていました。

 最近、ゲノム規模研究(関連記事)とユーラシア東部の人口史の概説(関連記事)により、古代山東省個体群はアジア東部の人口集団の遺伝的歴史と過去の移住の特定に重要な役割を果たした、と明らかになりました。4ヶ所の前期新石器時代遺跡の古代山東省6個体(9500〜7700年前頃)は、アジア東部北方人口集団と関連する祖先系統を有し、これは後にアジア東部南方への拡大した祖先的系統構成要素だった、と示されました。しかし、これらの研究は標本の不足により限定的で、山東省およびその近隣地域の経時的な変化する遺伝的関係の理解には大きな間隙があります。

 本論文は、山東省の12ヶ所の遺跡(図1a)で発見された古代人86個体(9500〜1800年前頃)の高品質で完全なmtDNA配列(16569塩基対)の分析と、mtDNAハプログループ(mtHg)の分類を提示します。本論文は、山東省の母系の遺伝的構造に関する人口集団動態と、これらの人口集団が山東省外の人口集団とどのようにつながっていたのか、説明するにあたって、以前の研究よりも時空間的に広範で精細な解像度を提供します。以下、本論文の図1です。
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●4600年前頃までに分離された遺伝的構造

 山東省の古代人86個体(9500〜1800年前頃)から、合計56個のハプロタイプが特定されました。A5aやB5b2a2など特定のハプロタイプは、蓓倩(Beiqian)遺跡の同じ墓に葬られた2〜5個体に共有されている、と明らかになり、これら被葬者間の母系親族関係が示唆されます。母系親族関係の可能性がある標本に関しては、その後の遺伝的分析のために1個体のみが対象とされ、10個体は除外されました。56個のハプロタイプは13個の基底的mtHgに分類され、それはA・B・C・D4・D5・F・G・M8・M9・M11・N9a・R・Zです。AMOVAを用いて、標本の年代に基づきどの人口集団グループ化が山東省の全遺跡の遺伝的構造を最もよく表すのか、検証されました。その結果、最大の分散は人口集団が4600年前頃よりも古いものとそれよりも新しいものとに区分した時に観察され、これは6000〜4600年前頃の大汶口文化期と4600〜4000年前頃の龍山文期との間隔に一致します。


●4600年前頃以前の山東省における母系の遺伝的構造

 28個体が4600年前頃以前となります。その内訳は、9500年前頃の變變(Bianbian)遺跡1個体、8200年前頃の小高(Xiaogao)遺跡の1個体、8200年前頃の淄博(Boshan)遺跡の1個体、8000〜7700年前頃の小荆山(Xiaojingshan)遺跡の3個体、6000〜4600年前頃の伏佳(Fujia)遺跡の3個体、5500〜5300年前頃の蓓倩遺跡の19個体です。これらの個体群のうち、4600年前頃よりも古い標本は、mtHg-B(B4c1とB5b2で24.14%)とD(D4とD5で37.93%)の高頻度を示します。

 mtHg-B4はおもに現代人ではアジア中央部〜東部に分布していますが、mtHg-B4c1は、アジア東部南方(61.70%)と、ムアン(Mueang)やタイ(Tay)やフラ(PhuLa)やキン(Kinh)やラフ(LaHu)といった、アジア東部南方人と密接に関連するアジア南東部人口集団(25.53%)でおもに見られます。mtHg-B5bはアジア東部全域で広範に見られ、現代朝鮮人で最も高い多様性が示されます。mtHg-B5b2は、おもに漢人(Han)やホジェン人(Hezhen、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)やミナン人(Minnan)やマカタオ人(Makatao)で見られるmtHg-B5b(63.64)の派生mtHgですが、キン人やブリヤート人(Buryat)やハムニガン人(Khamnigan)やキジ人(Kizhi)など他のアジア東部人でも見られます。

 mtHg-Dの場合、D4とD5の両方がアジア東部北方の古代人口集団において高頻度ですが(17.60〜43.75%)アジア東部南方の古代人口集団ではそれよりも低頻度です(0〜20%)。さらに、mtHg-N9aが8200年前頃の小高遺跡の1個体で見つかっています。mtHg-N9aはユーラシア東部系統に属し、おもにアジア東部に分布しています。これらの結果から、山東省の人口集団は4600年前頃以前にはアジア東部の南北両方と関連するmtHgを含んでいた、と示唆されます。


●4600年前頃以後の山東省における母系の遺伝的構造

 山東省の遺跡のほとんどでは、mtHg-BとDが本論文の標本抽出期間(9500〜1800年前頃)で高頻度(20%超)を維持していますが、mtHg-C(6.00%、C7a1とC7b)、M9(6.00%、M9a1)、F(2.00%、F1a1とF2aとF4a1)は4600年前頃よりも新しい標本でのみ観察されます(図3b)。これら新たにもたらされたmtHgから、山東省人口集団の母系の遺伝的構造は、龍山文化期(4600〜4000年前頃)の開始期により多様になった、と示唆されます。

 これら新たなmtHgの起源を調べると、mtHg-Cは、たとえばオロチョン人(Oroqen)集団(29.55%)のようなアジア東部の北方民族集団において優勢で、それはmtHg-Cが北方の民族集団でより多様である、という以前の観察と一致します。mtHg-M9aは、アジア南東部から北に向かってアジア東部本土へと15000年前頃に拡大したと提案されており、アジア東部北方現代人では限定的な分布になっています(0〜4.20%)。

 mtHg-F1・F4は、アジア東部南方とアジア南東部でアジア東部北方よりも一般的ですが、mtHg-F2はアジア東部北方人においてより高頻度で分布しています。これらのより最近のmtHgはアジア東部の南北両方で見つかっているので、山東省の人類遺骸におけるこれらの出現は、4600年前頃以前に観察されたmtHgの置換なしに、4600年前頃以後の山東省の外部からの人口集団の流入を表しているかもしれません。

 さらに、mtHg頻度の主成分分析を用いて、4600〜1800年前頃の各遺跡の人口集団が調べられました(図1b)。アジア東部の北方と南方の現代人はPC1軸で区別でき、それはおもにmtHg-D・B・Fの異なる割合に起因します。アジア東部北方現代人は、たとえば、モンゴル人で39.58%、吉林省漢人で35.29%、山東省漢人で36.00%と、mtHg-Dのより高い割合を示しますが、mtHg-B・Fは、たとえば、Bが江西省漢人で34.78%、広東省漢人で30.43%、Fがヴァ人(Va)で31.82%、ラフ人で33.33%、ペー人(Bai)で25.00%と、アジア東部南方現代人においてより高頻度です。

 龍山文化期およびその後の4400〜3300年前頃となる城子崖(Chengziya)遺跡と、龍山文化期となる4600〜4000年前頃の桐林(Tonglin)遺跡の個体群は、PC1軸の中心に位置し(図1b)、それはおもに、この2遺跡がアジア東部人の南方もしくは北方で割合の高いmtHgを高い割合で有することに起因します。具体的には、この2遺跡のmtHg-Bの頻度は37.50%よりも高く、mtHg-Dの頻度は城子崖遺跡で20.00%、桐林遺跡で37.50%です。mtHg-Fも桐林遺跡において12.50%の頻度で見つかります。

 3050〜1800年前頃の新智(Xinzhi)遺跡と、3050〜2750年前頃の後李(Houli)遺跡の個体群は、PC1軸ではアジア東部北方人により近づいており(図1b)、mtHg-Dのより高い割合で説明できます(新智遺跡では50.00%、後李遺跡では33.30%)。3100〜1800年前頃の劉家荘(Liujiazhuang)遺跡の集団はアジア東部北方現代人とクラスタ化し(図1b)、これは現代の山東省人口集団とmtHg- A・B・D・G・M11・M8・N9aを59.40%共有することに起因します。他方、2300〜1800年前頃の一席(Yixi)遺跡個体群は、mtHg-Fを40.00%有し、PC1軸でアジア東部南方人とより近づいています(図1b)。


●古代山東省人口集団とアジア東部現代人との間の関係

 次に、古代山東省人口集団がアジア東部現代人とどのように関連しているのか、調べられました。まず、古代山東省人口集団とアジア東部現代人(漢人および他の民族集団から選択された15人口集団)との間のΦst(集団の遺伝的分化を示す指標)が計算されました(図1c)。5500〜5300年前頃の蓓倩遺跡個体群は遺伝的に、アジア東部現代人とのより多くの類似性を示す(0〜4人口集団が有意なΦstを示します)より新しい山東省人口集団と比較して、アジア東部現代人とはより大きく異なっている(8人口集団が蓓倩遺跡個体群と有意なΦstを示します)、と明らかになりました。さらに、古代山東省人口集団とアジア東部現代人との間の、(ハプロタイプ頻度の相関に反映される)ハプロタイプ構成が調べられました。古代山東省人口集団は、他のアジア東部現代人カと比較して、ザフやウズベクやウイグルといった北方民族集団、およびペー人やジーヌオ人(Jino)といった南方民族集団とはあまり類似していない、との観察結果が得られました(図1d)。


●山東省の沿岸部と内陸部の間の遺伝的交換の可能性

 沿岸部の蓓倩遺跡と内陸部との間の人口動態も経時的に調べられました。沿岸部の蓓倩遺跡個体群には、mtHg-M(10.50%)とA(5.30%)が含まれていました(図3b)。しかし内陸部遺跡群では、これら2つのmtHgは3100年前頃よりも新しい遺跡の個体群(M8が10%、Aが16%)でしか観察されませんでした(図3b)。さらに、沿岸部の蓓倩遺跡の人口集団と3100年前頃よりも古い(4600〜3100年前頃)内陸部遺跡の人口集団は、沿岸部の蓓倩遺跡およびより新しい(3100〜1800年前頃)内陸部遺跡群との間の遺伝的距離と比較して、遺伝的距離の値がより大きい、と明らかになりました。

 AMOVA分析で類似のパターンが観察され、沿岸部の蓓倩遺跡とより古い内陸部遺跡群は、沿岸部の蓓倩遺跡とより新しい内陸部遺跡群との間の分散値よりも大きな分散値を有しています。これらの結果から示唆されるのは、沿岸部と内陸部の人口集団間の遺伝的交換は3100年前頃以前にはより低頻度だということで、それは、龍山文化期およびそれ以前には沿岸部と内陸部との間の文化的違いがあった、という考古学的知見と一致します。代替的な説明は、mtHg-M8・Aをもたらしたアジア東部の他地域からの祖先系統を有する人々の流入に起因するかもしれない、というものです。以下、本論文の図3です。
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●山東省におけるmtHg-B5b2の発見

 以前の研究では、mtHg-B5bを有する人口集団はアジア東部本土北西部から他のアジア東部地域へと移住した、と推測されていました。それは、アジア東部本土北西部の3000年前頃の個体群に基づくmtHg-B5bが、古代山東省の人類遺骸では観察されていなかったからです。本論文では、山東省の6ヶ所の遺跡(9500〜1800年前頃)において、mtHg-B5bの個体群が識別されました。内訳は、變變遺跡で1個体、蓓倩遺跡で4個体、後李遺跡で1個体、桐林遺跡で1個体、新智遺跡で1個体、城子崖遺跡で1個体です。

 mtHg-B5bをより詳細に調べるため、アジア東部現代人20個体のmtHg-B5bの完全な配列が得られました。内訳は、北部漢人2個体、南部漢人3個体、ホジェン人1個体、ミナン人1個体、マカタオ人1個体、客家(Hakka)1個体、キルギス人2個体、ティンリー人(Tingri)1個体、ブリヤート人1個体、ハムニガン人1個体、キジ人1個体、日本人1個体、スワイ人(Suay)1個体、シャン人(Shan)1個体、キン人2個体です。ミトコンドリアゲノムの合着(合祖)年代は、BEASTを用いて完全なデータから推定されました。

 mtHg-B5b2では、蓓倩遺跡の5500〜5300年前頃の個体(BQ-M2*)の下位系統B5b2a2が、現代人ではホジェン人1個体(HGDP01238)・ブリヤート人1個体(JN857016)・ハムニガン人1個体(JN857039)と共通祖先を有しています(図2a〜c)。mtHg-B5b2a2の最新の共通祖先(TMRCA)の推定年代は、95%最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)で8056年前です。さらに、蓓倩遺跡の2個体(BQ-M31-AとBQ-M24*)は、共通のmtHg-B5b2a祖先を13040年前頃(95% HPDで20329〜7595年前)に有しています。蓓倩遺跡の1個体(BQ-M139-D)と新智遺跡の1個体(XZ-M59)は、共通のmtHg-B5b2b祖先を、南方漢人1個体(HG00690)および北方漢人1個体(NA18643)と11513年前頃(95% HPDで18102〜6368年前)に有しています。

 したがって、これらの個体は全員、9500年前頃の變變遺跡1個体と関連する共通のmtHg-B5b2祖先を17293年前頃(95% HPDで26726〜10503年前)に有しています。これらの結果から、9500年前頃の變變遺跡1個体で見られるmtHg-B5b2は、アジア東部人およびアジア北部人の祖先である可能性が高い、と示唆されます(図2a〜c、図3a)。これは、以前の研究で提案された、アジア東部の西方と南方への拡大、および仰韶(Yangshao)文化のような他の文化との相互作用を有する、山東省における人口動態と一致します。以下、本論文の図2です。
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●まとめ

 本論文では、過去9000年にわたる山東省人口集団の母系の遺伝的構造が再構築されました(図3)。9500年前頃以降、アジア東部北方および南方の現代人の主要なmtHgは、山東省の古代人口集団で観察できます。4600年前頃以後、山東省の内外の人口集団間で追加の接続が識別されました。3100年前頃以後、山東省内の沿岸部と内陸部の間での遺伝的交換の可能性が観察されました。さらに、山東省人口集団で新たに発見されたmtHg-B5b2では、9500年前頃の變變遺跡1個体がアジア東部人および北部人の祖先的系統に属する可能性が高いことと、9500年前頃の變變遺跡1個体から5500〜5300年前頃の蓓倩遺跡人口集団への継続的な母系の遺伝的構造が観察されました。より広範囲の時空間的なY染色体および核ゲノムデータが、これらの洞察に基づいてさらに構築され、古代山東省の人々の遺伝的歴史と人口移動のより包括的な全体像を提供できるでしょう。以下、本論文の要約図です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文が指摘するように、mtDNAからは母系の遺伝的関係しか明らかにならないので、今後はY染色体および核ゲノムデータが望まれます。しかし、mtDNAは核DNAよりもずっと解析が容易で、Y染色体とは異なり全員が保有しているため、核ゲノムよりも多くの標本数を得やすい、という利点があります。その意味で、これまでの研究よりも時空間的に分析範囲を広げた本論文の意義は大きいと思います。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていた、アジア東部も含むユーラシア東部の古代DNA研究が近年大きく進展しつつあるように思われるので、今後がたいへん楽しみです。


参考文献:
Liu J. et al.(2020): Maternal genetic structure in ancient Shandong between 9500 and 1800 years ago. Science Bulletin.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2021.01.029


https://sicambre.at.webry.info/202103/article_11.html

9. 中川隆[-6571] koaQ7Jey 2021年3月14日 21:54:17 : FkYaVG3LgQ : LkJjWkNxOWJTRmc=[23] 報告
雑記帳 2021年03月14日
古代ゲノムデータに基づくアジア東部各地域集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_15.html


 古代ゲノムデータに基づくアジア東部各地域集団の形成史に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文はすでに昨年(2020年)3月、査読前に公開されていましたが(関連記事)、その後に公表された複数の重要な研究を取り入れ、データと図がかなり修正されているようなので、改めて取り上げます。本論文は、この研究がアジア東部の人口史の理解における重要な進歩を示しており、氷河期以前のアジア東部個体と中国南部の完新世個体の古代DNAデータがより多く分析されれば、さらなる洞察が得られるだろう、と指摘しています。本論文はアジア東部の包括的な古代DNA研究成果を提示しており、この問題を調べるならば、現時点でまず読むべき重要な文献と言えるでしょう。

 アジア東部は動物の家畜化と植物の栽培化の最初期の中心地の一つで(関連記事)、シナ・チベット語族、タイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、ミャオ・ヤオ語族、インド・ヨーロッパ語族、モンゴル語族、テュルク語族、ツングース語族、朝鮮語族、日本語族、ユカギール語族、チュクチ・カムチャツカ語族など、ひじょうに多様な語族を有しています。しかし、チベット高原と中国南部の現代人の遺伝的多様性の標本抽出が最小限であるため(関連記事)、アジア東部における人口史の理解は不充分なままです。

 この研究は、人口史の広範な研究への使用に同意した中国(337人)とネパール(46人)の46人口集団から383人のDNAを収集し、約60万ヶ所の一塩基多型の遺伝子型が決定されました。古代DNA分析に関しても、現代の共同体とのつながりの可能性が高い時には、共同体からの許可が得られました。本論文は、新たに166個体のデータを報告します(図1)。その内訳は、紀元前5700〜紀元後1400年頃となるモンゴルの82個体、中国の黄河流域の紀元前3000年頃となる1ヶ所の遺跡の11個体、紀元前2500〜紀元前800年頃となる日本の縄文時代の狩猟採集民7個体、ロシア極東では紀元前5400〜紀元前3600年頃となるボイスマン2(Boisman-2)共同墓地の18個体および紀元後900年頃の1個体と紀元後1100年頃の1個体、紀元前1300〜紀元後800年頃となる台湾の2ヶ所の遺跡の46個体です。集団析では、汚染の証拠がある16個体、5000〜15000ヶ所の一塩基多型データしか得られなかった10個体、データセットで他のより高い網羅率の個体の密接な親族となる11個体を除外して、130個体に焦点が当てられました。これらのデータは、公開されている古代人1079個体、および16人口集団の現代人3265個体のデータと統合されました。地理と年代と考古学的文脈と遺伝的クラスタにより、これらの個体群はまとめられました。

 主成分分析が実行され、古代の個体群は現代人を用いて計算された軸に投影されました。人口構造は地理および言語と相関していますが、例外もあります。中国北西部とネパールとシベリアの集団はユーラシア西部人に向かってそれており、平均して5〜70世代前の混合を反映しています。初期完新世のアジア東部人では、現代(FST=0.013)と比較して遺伝的分化がずっと高く(FST=0.067)、深いアジア東部系統間の混合を反映しています。現在、最小限のユーラシア西部関連祖先系統を有するアジア東部人は、これらの極の間でじょじょに変化します。「アムール川流域クラスタ」は、アムール川流域の古代人および現代人と相関し、言語ではツングース語族話者およびニヴフ人と相関します。「チベット高原クラスタ」は古代ネパール人と在来チベット人で最も強く表されます。「アジア南東部クラスタ」は、古代台湾人および、タイ・カダイ語族とオーストロアジア語族とオーストロネシア語族を話すアジア東部人で最大化されます。自動クラスタ化でも類似の結果が得られます。

 本論文は、主題に沿って調査結果を整理します。第一に、深い時間を考慮します。アジア東部人に寄与する初期に分岐した系統は何か、という問題です。第二〜第四は、言語の拡大とその農耕拡大とのあり得るつながりについて、3通りの仮説を検証することにより、人口構造がどのようにして現在のものになったのか、明らかにします。第五に、ユーラシア西部人とユーラシア東部人とが地理的な接触地帯に沿ってどのように混合したのか、説明します。以下、本論文の図1です。
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●後期更新世の沿岸部拡大

 アジア東部で利用可能な氷河期前のゲノムは2個体だけです。一方は、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類(Homo sapiens)1個体(関連記事)で、もう一方はモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された35000年前頃の現生人類1個体(関連記事)です。それにも関わらず、重要な洞察は氷河期後のゲノム分析から収集できます。一つの問題は、アジア東部の現生人類の移住が沿岸と内陸部のどちらの経路だったのか、ということです。チベット人が深く分岐したY染色体ハプログループ(YHg)D1(M174)を高頻度(50%)で有しているように、示唆的な遺伝的証拠はY染色体に由来します。YHg-D1は、現代日本人(および日本列島の縄文時代の狩猟採集民)およびベンガル湾のアンダマン諸島先住民と共有されています。

 qpGraphを用いて、データと一致する人口集団分岐および遺伝子流動が調べられ、本論文の主成分分析で祖先系統の両極端に寄与する主要系統の深い歴史に関して、節約的な作業モデルが特定されました。本論文の適合からは、アジア東部人祖先系統の大半は2つの古代人口集団の異なる割合の混合に由来する可能性がある、と示唆されます。一方は4万年前頃の田园個体と同じ系統、もう一方はアンダマン諸島先住民(オンゲ人)と同じ系統です。

 北方に分布する田园個体関連系統は、モンゴルの新石器時代の人々の祖先系統の98%、(現代チベット人を形成するチベット狩猟採集民から推測されるオンゲ関連系統と混合した)黄河上流域農耕民の90%に寄与した、と推測されます。より南方に分布する別の田园関連系統は、中国南東部沿岸の紀元前6300〜紀元前5600年頃の前期新石器時代となる福建省の粮道(Liangdao)遺跡の狩猟採集民の祖先系統の73%と、日本の縄文時代狩猟採集民の56%に寄与しました(関連記事)。日本列島には氷河期の前後に人類が居住するようになり、南北の「縄文人」は形態学的に異なっているので、本論文で検出された混合と関連しているかもしれません。北部の田园個体関連系統は、西遼河農耕民(67%)と台湾農耕民(25%)の両方にも寄与し、その祖先系統の残りは、粮道遺跡の南部狩猟採集民と関連しています。北部の田园個体関連系統は、黄河上流域農耕民に寄与した系統とは関連しているにも関わらず異なる、という事実から、黄河流域農耕民の拡大とは関係していない、台湾への北部農耕民の拡大の可能性が高い、と示唆されます。

 オンゲ関連系統の寄与は、沿岸部集団に集中しています。この系統は、アンダマン諸島人で100%、「縄文人」で44%、古代台湾農耕民で20%と推定され、アンダマン諸島人と日本人に見られるYHg-D1に基づいて仮定された沿岸経路拡大と一致します。当然チベットは沿岸部に位置していませんが、古代チベット人へのこの系統の比較的高い推定される寄与(24%)と、現代チベット人におけるYHg-D1の50%の割合は、YHg-D1とオンゲ関連系統との間のつながりを強固にします。チベットの狩猟採集民は、内陸部に拡大してチベット高原に居住したこの後期更新世沿岸拡大の早期に分岐した枝を表す、と本論文では仮定されます。


●トランスユーラシア仮説の精緻化

 農耕・言語拡散仮説では、栽培化・家畜化の中心およびその周辺における人口密度増加が、言語を拡大させる人々の移動の推進に重要だった、と提案されますが、アジア東部では、この仮説を検証する利用可能なデータが限られていました。まず、共有された農耕用語を含む再構築された特徴に基づいて、モンゴル語族とテュルク語族とツングース語族と朝鮮語族と日本語族などの大語族を提案している、「トランスユーラシア仮説」の遺伝的相関関係が調べられました。トランスユーラシア仮説では、これらの語族は、モンゴルへと西方に、シベリアへと北方に、朝鮮半島と日本列島へと東方に拡大した、中国北東部の西遼河周辺の初期雑穀農耕民の拡大と関連する祖型言語に由来する、と提案されます。

 この言語拡大のあり得る遺伝的相関への洞察を得るため、まずアムール川流域の年代区分調査が行われました(関連記事)。紀元前5500年頃の初期新石器時代個体群と紀元前5000年頃のボイスマン(Boisman)遺跡個体群から、紀元前900年頃となる鉄器時代のヤンコフスキー(Yankovsky)文化、および紀元後50〜250年頃となる鮮卑(Xianbei)文化まで、アムール川流域個体群は一貫して、qpWaveではクレード(単系統群)であることと一致します。この局所的に継続した人口集団も、後の人口集団に寄与しました。それは、ボイスマン遺跡個体群のYHg-C2a(F1396)とミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)D4・C5に反映されています。これらのハプログループは現代のツングース語族やモンゴル語族や一部のテュルク語族話者において優勢で、紀元後1100年頃の黒水靺鞨(Heishui Mohe)文化と関連する1個体でも確認されます。この黒水靺鞨文化関連1個体は、43±15%のアムール川流域新石器時代祖先系統を有する、と推定されています(歴史時代に南方からの移民があった場合に予想されるように、残りの祖先系統は漢人によりよくモデル化されます)。

 この古くに確立されたアムール川流域系統は、東方のより多くの縄文人関連性と、西方のほとんどのモンゴル新石器時代関連祖先系統との勾配の一部でした。バイカル湖狩猟採集民(関連記事)における77〜94%のモンゴル新石器時代関連祖先系統が推定され、残りは、氷河期にバイカル湖地域に居住していた、ユーラシア西部関連系統と深く分岐した、古代北ユーラシア人に由来します(関連記事)。ボイスマン遺跡のようなアムール川流域狩猟採集民では、モンゴル新石器時代関連祖先系統が87%(残りは縄文人関連祖先系統)と推定されます。アメリカ大陸先住民は、ボイスマン遺跡やモンゴルの新石器時代個体群の方と、他のアジア東部人よりも多くのアレル(対立遺伝子)を共有し、この系統の初期の分枝は図2の田园関連分枝の北部の分布を反映しており、アメリカ大陸先住民におけるアジア東部関連祖先系統の起源です。

 トランスユーラシア仮説は、モンゴル語族とテュルク語族とツングース語族と朝鮮語族と日本語族の祖型言語が西遼河地域の農耕民により広がった、というものです。西遼河地域の農耕民は、本論文の分析(図2)では、黄河上流域関連祖先系統(67%)と粮道関連祖先系統(33%)の混合を示します。祖先系統のこの特徴的な混合は、本論文の対象ではモンゴルとアムール川流域の時代区分で欠如している、と観察されます(図3)。これは、西遼河農耕民の拡大がモンゴル語族とツングース語族を広めた、とする仮説の予測でありません。対照的に、西遼河農耕民祖先系統は、おそらくさらに東方に影響を及ぼしました。たとえば、現代日本人は青銅器時代西遼河人口集団(92%)と縄文人(8%)の2方向混合としてモデル化でき、黄河流域農耕民集団が本論文のqpAdm分析での外群として含まれ、そのモデルが適合されるので確認されるように、黄河流域農耕民関連集団からの無視できる程度の寄与を伴います。この祖先系統は、朝鮮半島を経由して伝わったことと一致します。それは、日本人が朝鮮人(91%)と縄文人(9%)の混合としてモデル化できるからです。

 本論文で取り上げられた縄文人6個体は、毛髪の太さや直毛度、エクリン汗腺密度、耳たぶや下顎の形態にも影響を与えているエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の370V/A多様体の派生的アレル(関連記事)を有していません。EDAR遺伝子の370V/A多様体の派生的アレルは中国本土で3万年前頃に出現したと推定されており、アジア東部本土とアメリカ大陸の完新世の人口集団で高頻度に達しました。この派生的アレルが縄文人にはほぼ欠如しているという事実は、アジア東部本土集団と比較しての縄文時代の人口集団の遺伝的相違を強調します。以下、本論文の図2です。
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●シナ・チベット語族の北部起源

 チベット高原には現生人類が4万〜3万年前頃以来居住してきましたが(関連記事)、恒久的居住の証拠があるのは、農耕到来の紀元前1600年頃以降です(関連記事)。先住チベット人も、中国沿岸部平原の言語とつながるシナ・チベット語を話します。これらの密接に関連する言語の起源に関する「北部起源仮説」では、黄河上流および中流域でアワを栽培していた農耕民がチベット高原へと南西に拡大し、現在のチベット・ビルマ語族を広げ、中原および東岸へと東方と南方に拡大して、祖型的中国語を広めた、と提案されています(関連記事)。「南部起源仮説」では、祖型シナ・チベット語は高地を低地とつなぐチベットのイー(Yi)回廊で出現し、早期完新世に拡大した、と想定されます。

 チベット人の祖先系統と、中国語話者の祖先系統との関係を明らかにするため、現代の17の人口集団が3つの遺伝的クラスタにまとめられました。それは、「中核チベット人」、中核チベット人およびユーラシア西部人と関連する系統間の混合である「北部チベット人」、qpAdmでは30〜70%のアジア南東部人と関連する系統を有し、チベット語話者だけではなく、チアン人(Qiang)やロロ・ビルマ語話者も含む「チベット・イー回廊」人口集団です。古代黄河流域農耕民と現代漢人とチアン人は、中核チベット人と最も多くの遺伝的浮動を共有しており、チベット人と漢人とチアン人は全て、新石器時代黄河流域農耕民と関連する人口集団からの祖先系統を有する、との仮説と一致します。混合連鎖不平衡の崩壊を通じて、中核チベット人における大規模な混合(最小で22%ですが、おそらくはるかに高く、図2の推定値84%と一致します)が確認されました。これは、中核チベット人とその遺伝的にほぼ区別できない古代ネパールの近縁集団が、チベットの狩猟採集民の継続的な子孫を表している可能性は低い、という独立した証拠を提供します。単一混合モデルでは、混合は平均して紀元前290〜紀元後270年頃に起きた、と推定されますが、混合の始まりは、チベット高原への農耕拡大の紀元前1600年頃までさかのぼるかもしれません。

 現代漢人は南北の遺伝的勾配が特徴です。黄河上流および中流域の新石器時代農耕民とチベット人は、アジア南東部クラスタと比較して、現代漢人とより多くのアレルを共有していますが、アジア南東部クラスタ集団は、黄河流域農耕民と比較すると、ほとんどの漢人の方とより多くのアレルを共有しています。qpWaveを用いると、2つの起源集団がほとんどの漢人の全ての祖先系統への寄与と一致し、例外は本論文で2〜4%のユーラシア西部関連系統との混合が推定される北部漢人である、と決定されました。このユーラシア東西の混合は32〜45世代前に起きた、と推定されます。これは、紀元後618〜907年の唐王朝および紀元後960〜1279年の宋王朝の時期と重なります。唐代と宋代には、漢人(の主要な祖先集団)と西方民族集団との統合の歴史的記録があります。他の漢人全員に関しては、黄河上流および中流域の農耕民と関連する祖先系統が59〜84%、残りは古代粮道遺跡狩猟採集民と関連する人口集団に由来する、と推定されました。粮道遺跡狩猟採集民集団は、長江流域の稲作農耕民と遺伝的構成が一致すると推測されます。この推論は、粮道遺跡狩猟採集民祖先系統が、おもに多くのオーストロネシア語族話者、海南島(Hainan Island)のタイ・カダイ語族話者のリー(Li)人(66%以下)、青銅器時代アジア南東部人の主要な系統で、一部のオーストロアジア語族話者の祖先系統の2/3である、という事実(図3)により裏づけられます(関連記事1および関連記事2)。

 現在のシナ・チベット語族話者と黄河上流および中流域の新石器時代農耕民との間の特有のつながりが検出されたので、本論文の結果はシナ・チベット語族の「北部起源仮説」を裏づけます。考古学的に証明されているこの地域からの農耕の拡大と同じ時期であることは、紀元前3800年頃の単一の男性祖先に由来する、漢人とチベット人との間で共有されているYHg-O2a2b1a1(M117)の証拠でも裏づけられます。現在の南部漢人における増加する粮道遺跡狩猟採集民関連祖先系統の勾配はおそらく、漢人(の主要な祖先集団)が中国南部に拡大したと歴史的文献で記録されているように、拡大する漢人と南部集団との混合に起因します。しかし、これは最初の南方への移住ではありませんでした。それは、中国南部の漢人が遺伝的に、中期新石器時代の中国南部農耕民よりも、後期新石器時代黄河流域農耕民の方と遺伝的に近く(関連記事)、古代台湾農耕民では約25%の北方系統も観察されるからです(図2)。


●稲作農耕の拡大が言語を広めます

 アジア南東部の以前の古代DNA分析では、アジア南東部最初の農耕民は、おそらく中国南部農耕民に関連するアジア東部人からの2/3の祖先系統と、深く分岐した狩猟採集民系統から1/3の祖先系統を有していると示され、これはオーストロアジア語族話者において最も強く明らかで、言語の拡大との関連が示唆されるパターンです(関連記事1および関連記事2)。古代台湾農耕民からの約2000年にわたる時系列の利用により、これがより広範なパターンだと確証されました。古代台湾の個体群は、現代のオーストロアジア語族話者と強い遺伝的つながりを示します。これは、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)によりさらに裏づけられます。古代台湾の個体群では、YHgはO2a2b2(N6)が、mtHgはE1a・B4a1a・F3b1・F4bが優勢です。これらのハプログループは現代の台湾先住民に共有されており、おそらくは太平洋南西部に最初のオーストロネシア語族をもたらした(関連記事)、バヌアツのラピタ(Lapita)文化個体群(関連記事)にも存在しています。

 古代台湾集団とオーストロアジア語を話す現代台湾先住民は、中国南部本土のタイ・カダイ語族話者の方と、他のアジア東部人よりも有意に多くのアレルを共有しています。これは、現代のタイ・カダイ語族話者と関連し、長江流域農耕民(まだ古代DNAでは標本抽出されていません)からそれ以前に派生した古代の人口集団が、紀元前3000年頃に台湾へと農耕を広めた、との仮説と一致します。意外な発見は、古代中国北部個体群が、台湾海峡の本土側の初期完新世狩猟採集民よりも、本論文における台湾の時代区分の古代個体群の方とより密接に関連している、との観察です。これは、新石器時代中国北部から台湾への遺伝子流動を示唆し、黄河流域農耕民の2集団系統の一方に派生するとモデル化する場合、25%の遺伝的影響が推定されます。この祖先系統は、黄河流域農耕民自体から由来すると仮定するならば適合せず、南北の移住はこれらの農耕民の拡大とは関連しない、と示唆されます。推測できる可能性としては、この祖先系統が紀元前8000年頃までに中国北部で栽培化されたアワの耕作者により伝えられ、中国南部では紀元前3000〜紀元前2500年頃となる台湾新石器時代の大坌坑(Tapenkeng)文化で比較的早期に出現した、というものです。


●ユーラシア東西の混合

 モンゴルはユーラシア草原地帯の東端近くに位置し、考古学的証拠では、完新世を通じてユーラシア東西の文化的交換の水路だった、と示されています。たとえば、ヤムナヤ(Yamnaya)草原地帯牧畜民文化の東方への拡大である紀元前3100年頃のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化は、モンゴルに最初の酪農をもたらし、紀元前2750〜紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化のようなその後の現象に文化的影響をもたらしました。

 本論文におけるモンゴルの時代区分では、紀元前6000〜紀元前600年頃の4起源集団に祖先系統が由来します。最初に確立し、おもにアジア東部人と関連する唯一の起源集団は、紀元前6000〜紀元前5000年頃となるモンゴル東部の新石器時代狩猟採集民2個体において基本的にほぼ100%で表され、本論文のデータセットでは最初期の個体群となります(図3)。第二の起源集団は、紀元前5700〜紀元前5400年頃のモンゴル北部の新石器時代狩猟採集民7個体で最初に現れ、以前に報告されたシベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連する祖先系統(関連記事)を5%程度有するとモデル化できます。第三の起源集団はアファナシェヴォ文化個体群で最初に現れ、遺伝的にはヤムナヤ草原地帯牧畜民とひじょうに類似しており、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群のパターンと一致します。第四の起源集団は紀元前1400年頃までに現れ、シンタシュタ(Sintashta)文化の牧畜民のような祖先系統を有する人々に由来するとモデル化されます。シンタシュタ文化牧畜民は、ヤムナヤ関連祖先系統(約2/3)とヨーロッパ農耕民関連祖先系統(約1/3)の混合に由来します。

 モンゴルにおける混合史を定量化するため、qpAdmが用いられました。多くのモンゴル東部人は、新石器時代のモンゴル東部人(65〜100%)とシベリア西部狩猟採集民の単純な2方向混合としてモデル化できます。このモデルに適合する個体群は、新石器時代集団(0〜5%のWSHG)だけではなく、アファナシェヴォ・クルガク・ゴビ(Afanasievo Kurgak govi)遺跡の前期青銅器時代の子供(15%)、ウルギー(Ulgii)集団(21〜26%)、中期青銅器時代のムンクカイルカーン(Munkhkhairkhan)文化の主要な集団(31〜36%)、モンゴル中央部・西部地域の後期青銅器時代結合集団(24〜31%)、モングンタイガ(Mongun Taiga)の個体群(35%)です。クルガク・ゴビの子供はアファナシェヴォ文化との関連および年代にも関わらずヤムナヤ関連系統祖先系統を有しておらず、ヤムナヤ関連祖先系統を有さないアファナシェヴォ伝統で埋葬された個体の最初の事例となります。モンゴルに拡大したヤムナヤ期の遺産は、紀元前2750〜紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化の2個体で継続し、その祖先系統は、ヤムナヤ・アファナシェヴォを一方の起源集団として用いてのみモデル化できます(33〜51%)。これは、古代ヨーロッパ農耕民を外群で含める場合でも適合し、人々の長距離の移動はヨーロッパ西部の巨石文化伝統をチェムルチェク文化の人々に広めた、という仮説の証拠を提供しません。

 紀元前600年頃より前の4起源集団モデルが適合しない1事例は、チェムルチェク文化の1個体ですが、ずっと南方のトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)地域と関連する人口集団からの15%の追加の祖先系統でモデル化できます。最近の研究では、トゥーラン集団とボタイ(Botai)遺跡の初期カザフスタン牧畜民の混合としてチェムルチェク文化関連個体群がモデル化され、本論文において全てのチェムルチェク文化関連個体で検出された他の3祖先系統はいずれも確認されませんでした(関連記事)。本論文の最適モデルは、ボタイ文化関連個体群が参照セットにある時に合格するので、本論文と他の研究の知見は、どちらも正しいならば、ボタイ文化集団関連祖先系統を有する一方の移住の波と、それを有さないもう一方の移住の波を伴うような、チェムルチェク文化関連個体群のひじょうに複雑な起源を示唆します。

 中期青銅器時代以降、モンゴルの時代区分データでは、アファナシェヴォ文化とともに拡大したヤムナヤ派生系統の持続に関する説得力のある証拠はありません。代わりに、ヤムナヤ関連祖先系統は、中期〜後期青銅器時代のシンタシュタ文化およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化の人々と関連する後の拡大に由来するものとしてのみモデル化できます。シンタシュタ文化およびアンドロノヴォ文化の人々は、2/3のヤムナヤ関連祖先系統と1/3のヨーロッパ農耕民関連祖先系統の混合です。シンタシュタ文化関連祖先系統は、中期〜後期青銅器時代の集団で0〜57%の割合で検出され、モンゴル西部でのみかなりの割合となります。これら全集団に関して、qpAdm祖先系統モデルは、外群にアファナシェヴォ文化関連個体群を用いて合格しますが、起源集団としてのアファナシェヴォ文化関連個体群と外群にシンタシュタ文化関連個体群を用いるモデルは全て却下されます(図3)。

 新たな祖先系統は後期青銅器時代から大きな割合で到達し始め、qpAdmでは、新石器時代モンゴル東部個体群を、フブスグル(Khövsgöl)やウラーンズク(Ulaanzukh)やモンゴル中央部・西部地域の一部後期青銅器時代個体群、石板墓(Slab Grave)文化と関連した前期鉄器時代2個体、匈奴や鮮卑やモンゴル時代の個体群において、単一のアジア東部人起源集団としてモデル化すると失敗します。しかし、漢人を起源集団として含めると、これらの個体群の9〜80%の祖先系統の割合が推定されます。トゥーラン派生祖先系統は、紀元前6世紀〜紀元前4世紀までに、鉄器時代のサグリ(Sagly)文化の複数個体において再度モンゴルに拡大しました。明るい肌の色素沈着と関連する2ヶ所の遺伝子多型(rs1426654とrs16891982)、およびヨーロッパ人で青い目と関連する1ヶ所の多型(rs12913832)のアレルは、サグリ文化個体群で高頻度ですが、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する多型(rs4988235)のアレルは、本論文で分析されたアジア東部人全員でほぼ欠如しています。

 ヤムナヤ・アファナシェヴォ関連系統が中期〜後期青銅器時代までにモンゴルでほぼ消滅したことで一致している一方、ヤムナヤ・アファナシェヴォ関連系統拡大の遺産が中国西部で紀元前410〜紀元前190年頃となる鉄器時代の石人子溝(Shirenzigou)文化の時期に存続したことを示唆する、以前の古代DNA分析が確認・補強されました。石人子溝文化個体群の多くと5つの遺伝的に均質な下位クラスタのうち3クラスタを別々に考慮すると、唯一の節約的なモデルは、アファナシェヴォ文化個体群と関連する集団からのユーラシア西部関連祖先系統に全てが由来し、後にアジア中央部とモンゴルで出現した特徴的なヨーロッパ農耕民関連混合のないアファナシェヴォ文化個体群関連祖先系統は現在の新疆ウイグル自治区で持続した、と確認されます。

 たとえば、最もユーラシア西部関連祖先系統を有する2個体(石人子溝文化)にとって、3方向モデルに適合する全モデルは、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群関連祖先系統を71〜77%含みます(図3)。さらに、そのようなモデルにおいて小さな割合で適合できる他のユーラシア西部関連2集団からの祖先系統の合計は、常に9%未満です。国家以前の社会では、言語はおもに人々の移動を通じて拡大すると考えられているので、これらの結果は、タリム盆地のトカラ語がヤムナヤ文化の子孫のアルタイ山脈およびモンゴルへの移住を通じて(アファナシェヴォ文化の外観で)拡大し、そこからさらに新疆ウイグル自治区へと拡大した、との仮説に重要な意味を追加します。これらの結果は、インド・ヨーロッパ語族の多様化の仮説にとって重要です。なぜならば、インド・ヨーロッパ語族系統樹における二番目に古い分枝の分岐は紀元前四千年紀末に起きた、という仮説を支持する証拠が増加しているからです。以下、本論文の図3です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文で取り上げられていない最近の研究では、まだ査読前ですが、チベット人の形成過程と地域差を詳細に分析した論文(関連記事)や、上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部の複雑な人口史を分析した論文(関連記事)や、前期新石器時代〜漢代の山東省の人類の母系の遺伝的構造を分析した論文(関連記事)があります。本論文が指摘するように、アジア東部の更新世人類遺骸と、新石器時代長江流域個体群の古代DNAデータが得られれば、アジア東部、さらにはアジア南東部における現在の人口集団の形成史の理解は大きく進むと期待されます。

 上述のように、本論文は昨年3月に査読前に公開された時からかなり修正されており、それは昨年の公開時以降に公表された研究を取り入れているからでもあります。まず、査読前論文では、アジア東部における主要な祖先系統の大きな区分はユーラシア東部で、それが南北に分岐し、さらにユーラシア東部北方祖先系統から分岐したアジア東部祖先系統が南北に分岐した、とされていました。この大きな祖先系統間の関係は本論文でも変わっていませんが、ユーラシア東部系統の南北の分岐が、南方は沿岸部祖先系統、北方は内陸部祖先系統と名称が変わっています。4万年前頃の田园個体はユーラシア東部内陸部祖先系統に位置づけられるものの、アジア東部現代人の直接的な祖先集団とは早期に分岐し、現代人には殆どあるいは全く遺伝的影響を残していない、と推測されています。

 ユーラシア東部内陸部祖先系統(以下、内陸部祖先系統)は南北に分岐し、これが査読前論文のアジア東部南方祖先系統とアジア東部北方祖先系統に相当します。黄河流域新石器時代集団では内陸部北方祖先系統の割合が、前期新石器時代となる福建省の粮道遺跡2個体では内陸部南方祖先系統の割合がひじょうに高くなっていますが、それぞれユーラシア東部沿岸部祖先系統(以下、沿岸部祖先系統)の遺伝的影響も多少受けています。長江流域新石器時代集団は、粮道遺跡狩猟採集民と類似の遺伝的構成と予想されていますが、現時点ではまだゲノムデータが公表されていないと思います。上述のように、アジア東部の古代DNA研究における今後の注目点の一つが、長江流域新石器時代集団の遺伝的構成でしょう。

 黄河流域で新石器時代に成立した遺伝的構成をアジア東部北方祖先系統、中国南部新石器時代集団の遺伝的構成をアジア東部南方祖先系統とすると、現代中国における各人口集団の南北それぞれの割合は図3aで示されています。査読前論文と比較すると、漢人では全体的にアジア東部北方祖先系統の割合の方が高いものの、以前よりもアジア東部南方祖先系統の割合が高くなっています。これは、アジア東部北方祖先系統を表すのが、紀元前3000年頃となる後期新石器時代の陝西省楡林市靖辺県の五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡個体群から後期新石器時代黄河上流域個体群に、アジア東部南方祖先系統を表すのが、台湾の紀元後1〜4世紀の漢本(Hanben)遺跡個体群から前期新石器時代となる福建省の粮道遺跡2個体に変わったことが大きいようです。後期新石器時代黄河上流域個体群は、新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史に関する研究(関連記事)で取り上げられた、ともに青海省に位置する、紀元前2461〜紀元前2208年頃の金蝉口(Jinchankou)遺跡と紀元前2866〜紀元前2237年頃の喇家(Lajia)遺跡の個体群で表されます。

 モンゴルでは改めてユーラシア西部関連祖先系統の流入が確認されましたが、最初に到来した祖先系統が消滅し、後に別の祖先系統が流入するなど、ユーラシア草原地帯における完新世の複雑な人口史が示唆されます。ユーラシア西部関連祖先系統の流入は、上述のようにトカラ語との関連でも注目されます。現代チベット人は内陸部北方祖先系統の圧倒的な割合と、沿岸部祖先系統の比較的低い割合とで構成され、内陸部南方祖先系統の影響はほとんどないようですが、上述のチベット人形成史に関する詳細な研究では、現代チベット人内部では明確な遺伝的地域差があり、地域によってはユーラシア西部関連祖先系統や内陸部南方祖先系統が明確に示されています。

 日本人の私は、やはり自分が属する現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団の形成過程に注目してしまいます(まあ、自分のゲノムを解析してもらったことはないので、じっさいに「本土」集団の遺伝的構成の範囲内に収まるのか、確定したわけではありませんが)。本論文では、縄文時代の7個体が分析されました。内訳は、紀元前2500〜紀元前800年頃の千葉市の六通貝塚の6個体と、紀元前1500〜紀元前1000年頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡の1個体です。六通貝塚の6個体では1親等の関係にある2個体が確認されたので、そのうち網羅率のより低い1個体は集団遺伝分析から除外されています。

 縄文人は、内陸部南方祖先系統56%と沿岸部祖先系統44%の混合としてモデル化されます。この混合がいつどこで起きたのか、縄文人の年代・地域での遺伝的違いはどの程度だったのか、今後の研究の進展が期待されます。また、現代日本の「本土」集団の形成に関しては、縄文人とアジア東部大陸部から到来した集団との混合との見解が最近の研究でも改めて確認されており、アジア東部大陸部からの縄文時代以降のおそらくは2回(あるいはそれ以上)の移住が想定されています(関連記事)。本論文は、現代日本の「本土」集団は、縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と指摘します。縄文時代以降に日本列島に到来し、圧倒的な遺伝的影響(90%程度)を現代「本土」集団に残した集団は、考古学で強く示唆されているように、朝鮮半島経由で到来した可能性が高そうで、今後この推測が大きく変わることはなさそうです。もちろん、本論文の祖先系統モデル化は、あくまでも現時点でのデータに基づいており、今後の古代DNA研究の進展により、さらに精緻化されると期待されます。

 本論文で分析された縄文人7個体のmtHgはいずれもN9bで、さらに詳細に区分できた4個体のうち3個体がN9b1、1個体がN9b2aです。礼文島の1個体と六通貝塚の6個体のうち3個体は男性です。YHgは、礼文島の1個体がD1(F1344)、六通貝塚の3個体がD1a2a1c1(Z1570)とD1a2a1c1(Z1575)とD1a2a1c1a(CTS11032)です。アジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった、較正年代で4415〜4160年前頃の1個体(Ma911)のYHgもD1(M174)です(関連記事)。ホアビン文化狩猟採集民は遺伝的には本論文の沿岸部祖先系統の影響が圧倒的に強く、沿岸部祖先系統を有さないアジア東部の古代人ではまだYHg-D1は確認されていないと思いますので、アジア東部の個体群のYHg-D1は沿岸部祖先系統にのみ由来する可能性が高そうです。日本列島やチベットでは、内陸部祖先系統の遺伝的影響が圧倒的に強くなってもYHg-D1が残ったのに対して、農耕到来とともに内陸部祖先系統の遺伝的影響が強くなったアジア南東部では、YHg-D1がほとんど消えた理由に関しては、拡散の経緯や外来集団と在来集団との力関係や社会構造などの影響が大きいかもしれませんが、今後の研究の進展により解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2


https://sicambre.at.webry.info/202103/article_15.html

10. 2021年3月29日 08:02:52 : U6kLTmD2iU : cmZlNW1GRFFJREU=[15] 報告
中国の「謎の文明」で黄金仮面見つかる 3000年前の遺跡から出土
3/28(日)
https://news.yahoo.co.jp/articles/a877f179f06cbf5406a01adf9ce52f1ebe80ef7c


東方新報
新たに発見された主に顔の右半分の部分の黄金仮面(撮影日不明、映像より)。

【東方新報】中国国家文物局は20日、長江(揚子江、Yangtze River)上流域文明の中心とされる四川省(Sichuan)広漢市(Guanghan)の三星堆(Sanxingdui)遺跡で、約3000年前の黄金の仮面などを新たに発見したと発表した。中国王朝の起源とされる黄河文明と異なり、いまだ謎が多い「神秘の国」の実像を調べる手がかりとなりそうだ。

 三星堆遺跡は四川省成都市(Chengdu)から北へ約40キロ、成都平原北部に位置し、古くは5000年近く前までさかのぼる。面積は約12平方キロで中央には城壁のある都市遺構があり、古蜀国の中心地とされる。遺跡は1920年代末に広漢市の三星堆で見つかり、1980年代に発掘を開始。祭祀(さいし)坑や宮殿建築、住居跡、墓地、城壁などが確認された。

 当時、世界に最も衝撃を与えたのが青銅器や金製品の出土品だ。笑みを浮かべて目が飛び出した現代アートのような異形の「青銅縦目仮面」、全長4メートルに及ぶツリー状の「青銅神樹」、青銅製人物立像としては世界最大の高さ2.6メートルの青銅立人像、そして青銅器の顔に金箔(きんぱく)の仮面をつけた「貼金銅人頭像」など、精巧な技術と独創性が注目を集めた。

 発掘が終わった面積は全体の1000分の1程度で、調査は30年以上行われていなかったが、昨年後半から発掘作業を再開。新たに祭祀坑6基が見つかり、黄金仮面、青銅人物像や酒器、玉製礼器、絹、象牙など約500点が出土した。

 黄金仮面は主に顔の右半分の部分が見つかり、重さは約300グラム。全体の重さは約500グラムと推測され、これまで見つかった金製品の中で最も大きく、重い。四川大学(Sichuan University)考古文化博学院の于孟洲(Yu Mengzhou)教授は、「発掘した時は何か分からず、大きな金箔としか分からなかった」と振り返る。四角い顔に大きくくりぬかれた目、三角形の鼻、広い耳。これまでに三星堆遺跡で出土した仮面と同じ形状だ。遺跡から見つかった金製品は宗教的な儀式に関連し、何らかの権力や地位を象徴していると推測され、古代人の金信仰を反映しているという。

 調査メンバーの一人で中国考古学会理事長の王巍(Wang Wei)氏は「発掘を始めたばかりで大きな発見があったことは喜ばしいことだ」と話す。四方を山々に囲まれた蜀(しょく)の国で、金箔を精製するような技術はどのように生まれたのか。その後の中国文明の発展にどのような影響を与えたのか。古代へのロマンをかきたてる新たな発見が期待される。(c)東方新報/AFPBB News

※「東方新報」は、1995年に日本で創刊された中国語の新聞です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a877f179f06cbf5406a01adf9ce52f1ebe80ef7c

11. 中川隆[-5619] koaQ7Jey 2021年4月17日 09:02:59 : RSLdzPRb1s : Y0wwMFV6MDlreDI=[9] 報告
雑記帳 2021年04月17日
宮脇淳子『どの教科書にも書かれていない 日本人のための世界史』
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_18.html

 KADOKAWAより2020年11月に刊行されました。著者は岡田英弘氏の弟子にして妻で、「岡田史学」の継承者と言えるでしょう。著者や岡田氏の著書は、現代日本社会において、保守派や「愛国者」を自任している人々や、「左翼」を嫌っている人々に好んで読まれているように思います。ただ、碩学の岡田氏には、そうした人々が自分の著書を好んで読んでいることに対して、冷笑するようなところがあったようにも思います。まあ、これは私の偏見にすぎないかもしれませんが。岡田氏の著書は著者との共著も含めて随分前に何冊か読みましたが、著者の単独著書を読むのは本書が初めてです。

 著者が現代日本社会の言論においてどのように見られているのか、そうした問題を熱心に調べているわけではない私にもある程度分かるので、著者の本を読むこと自体に否定的な人も少なくないとは思います。ただ、私自身「保守的」・「愛国的」・「反左翼的」なところが多分にあるのに、そうした傾向の人々が読む歴史関連本をあまり読んでこなかったので、電子書籍で読み放題に入っていたこともあり、読んでみました。私の思想的傾向から、本書の諸見解をつい肯定的に受け入れてしまう危険性があると考えて、他の歴史関連本よりは慎重にというか、警戒しつつ読み進めました。その分、かなり偏った読み方になり、本書を誤読しているところが多分にあるかもしれません。

 本書は、現代日本社会における世界史認識の問題点を、その成立過程にさかのぼって指摘します。西洋史と東洋史が戦前日本の社会的要請もあって成立し、戦後は両者がまとめられて世界史とされた、という事情はわりとよく知られているように思います。したがって、戦後日本社会の世界史は体系的ではなく問題がある、という本書の指摘は妥当だとは思います。また本書は、西洋と東洋では歴史哲学が異なり、それに起因する偏りもある、と指摘します。そこで本書は、「中央ユーラシア草原史観」により歴史を見直し、日本の歴史を客観的に位置づけようとします。

 本書の具体的な内容ですが、「世界史」を対象としているだけに、各分野の専門家や詳しい人々にとっては、突っ込みどころが多いかもしれません。とくに、著者や夫の岡田氏の著書がどのような思想傾向の人々に好んで読まれているのか考えると、「左翼」や「リベラル」と自認する人々は本書をほぼ全面的に批判するかもしれません。私も、本書で納得できる見解は、世界史におけるモンゴルの影響力の大きさなど少なくないものの、気になるところは多々ありました。ただ、現在の私の知見と気力では細かく突っ込むことはとてもできないので、私の関心の強い分野に限定して、とくに気になったところを述べていきます。

 総説では、皇帝や封建制や革命といった用語で西洋史を語る問題点など、同意できるところは少なくありません。ただ、「中国」の史書が変化を無視するとの見解は、誇張されすぎているようにも思います。儒教に代表される「中国」の尚古的思想は、世界で広く見られるものだと思います。それは、神や賢者などによりすでに太古において真理は説かれており、後は人間がそれにどれだけ近づけるか、あるいは実践できるのか、というような世界観です。これを大きく変えたのが、近世から近代のヨーロッパで起きた科学革命です(関連記事)。

 本書の見解でやはり問題となるのは、「漢族」が後漢末から『三国志』の時代にかけて事実上絶滅した、との認識でしょう。その根拠は史書に見える人口(戸口)の激減ですが、これは基本的に「(中央)政権」の人口把握力を示しているにすぎない、とは多くの人が指摘するところでしょう。著者も岡田氏もそれを理解したうえで、このような見解を喜んで受け入れている「愛国的な」人々を内心では嘲笑しているのではないか、と邪推したくなります。そもそも、後漢の支配領域に存在した人々を「漢族」とまとめるのがどれだけ妥当なのか、という問題もありますが。

 これと関連して、隋および唐の「漢人」と秦および漢の「漢人」とは「人種」が違う、という本書の見解には、かなり疑問が残ります。「人種」というからには、生物学的特徴を基準にしているのでしょうが、「中原」の住民に関しては、後期新石器時代と現代とでかなりの遺伝的類似性が指摘されています(関連記事)。これは、アジア東部北方の歴史的な諸集団の微妙な遺伝的違いがよく区別されていないことを反映しているかもしれない、と以前には考えていました。ただ、「中原」以南とその北方地域との人口差を考えると、「中原」における後期新石器時代から現代までの住民の遺伝的安定性との見解は、素直に解釈する方がよいのではないか、と最近では考えています。もちろん、「中原」を含めて華北の現代人の主要な遺伝的祖先集団が、「中原」の後期新石器時代集団だとしても、支配層が北方から到来した影響は、政治はもちろん、言語を初めとして文化でも小さくはなかったでしょう。ただ、そうだとしても、それが「民族」の絶滅あるいは置換と評価できるのか、かなり疑問は残ります。そもそも、前近代の歴史に「民族」という概念を適用するのがどこまで妥当なのか、という問題がありますが。
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_18.html

12. 中川隆[-4090] koaQ7Jey 2021年6月23日 11:20:31 : 6pyAPtqAd2 : V2JzMGt3WEFjSkk=[12] 報告
2021年06月22日
アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_22.html


 最近、人類集団の地域的連続性に言及しましたが(関連記事)、その記事で予告したように、近年大きく研究が進展したアジア東部に関してこの問題を整理します。なお、今回はおおむねアムール川流域以南を対象とし、シベリアやロシア極東北東部は限定的にしか言及しません。初期現生人類(Homo sapiens)の拡散に関する研究は近年飛躍的に進展しており、その概要を把握するには、現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021、関連記事)や、現生人類に限らずアジア東部のホモ属を概観した総説(澤藤他., 2021、関連記事)や、上部旧石器時代のユーラシア北部の人々の古代ゲノム研究に関する概説(高畑., 2021、関連記事)が有益です。最近の総説的論文からは、アフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類が、拡散先で子孫を残さずに絶滅した事例は珍しくなかった、と示唆されます(Vallini et al., 2021、関連記事)。これらの総説を踏まえつつ、アジア東部における人類集団、とくに初期現生人類の拡散と地域的連続性の問題を自分なりに整理します。


●人類集団の起源と拡散および現代人との連続性に関する問題

 人類集団の起源と拡散は、現代人の各地域集団の愛国主義や民族主義と結びつくことが珍しくなく、厄介な問題です。ある地域の古代の人類遺骸が、同じ地域の現代人の祖先集団を表している、との認識は自覚的にせよ無自覚的にせよ、根強いものがあるようです。チェコでは20世紀後半の時点でほぼ半世紀にわたって、一つの学説ではなく事実として、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が現代チェコ人の祖先と教えられていました(Shreeve.,1996,P205)。これは、現生人類に共通の認知的傾向なのでしょうが、社会主義イデオロギーの影響もあるかもしれません。チェコというかチェコスロバキアと同じく社会主義国の中国とベトナムと北朝鮮の考古学は「土着発展(The indigenous development model)」型傾向が強い、と指摘されています(吉田.,2017、関連記事)。この傾向は、同じ地域の長期にわたる人類集団の遺伝的連続性と結びつきやすく、それを前提とする現生人類多地域進化説とひじょうに整合的です。中国では現在(少なくとも2008年頃まで)でも、現代中国人は「北京原人」など中国で発見されたホモ・エレクトス(Homo erectus)の直系子孫である、との見解が多くの人に支持されています(Robert.,2013,P267-278、関連記事)。ただ、中国人研究者が関わった最近の研究を見ていくと、近年の第一線の中国人研究者には、人類アフリカ起源説を前提としている人が多いようにも思います。

 20世紀末以降に現生人類アフリカ単一起源説が主流となってからは、2010年代にネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との混合が広く認められるようになったものの(Gokcumen., 2020、関連記事)、ホモ・エレクトスやネアンデルタール人やデニソワ人など絶滅ホモ属から現代人に至る同地域の人類集団長期の遺伝的連続性は、少なくともアフリカ外に関しては学術的にほぼ否定された、と言えるでしょう。そうすると、特定地域における人類集団の連続性との主張は、最初の現生人類の到来以降と考えられるようになります。

 オーストラリアのモリソン(Scott John Morrison)首相は、先住民への謝罪において、オーストラリアにおける先住民の65000年にわたる連続性に言及しています。その根拠となるのは、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された多数の人工物です(Clarkson et al., 2017、関連記事)。この人工物には人類遺骸が共伴していませんが、現生人類である可能性がきわめて高いでしょう。1国の首相が考古学的研究成果を根拠に、先住民の長期にわたるオーストラリアでの連続性を公式に認めているわけです。しかし、マジェドベベ岩陰遺跡の年代に関しては、実際にはもっと新しいのではないか、との強い疑問が呈されています(O’Connell et al., 2018、関連記事)。ただ、マジェドベベ岩陰遺跡の年代がじっさいには65000年前頃よりずっと新しいとしても、少なくとも数万年前にはさかのぼるでしょうし、20世紀のオーストラリア先住民のミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析からは、その祖先集団はオーストラリア北部に上陸した後、それぞれ東西の海岸沿いに急速に拡散し、49000〜45000年前までに南オーストラリアに到達して遭遇した、と推測されていますから(Tobler et al., 2017、関連記事)、長期にわたるオーストラリアの人類集団の遺伝的連続性に変わりはない、とも考えられます。

 ここで問題となるのは、近現代人のmtDNAハプログループ(mtHg)からその祖先集団の拡散経路や時期を推測することです。一昨年(2019年)の研究では、現代人のmtDNAの分析に基づいて現生人類の起源地は現在のボツワナ北部だった、と主張されましたが(Chan et al., 2019、関連記事)、この研究は厳しく批判されています(Schlebusch et al., 2021、関連記事)。Schlebusch et al., 2021は、mtDNA系統樹が人口集団を表しているわけではない、と注意を喚起します。系統分岐年代は通常、人口集団の分岐に先行し、多くの場合、分岐の頃の人口規模やその後の移動率により形成されるかなりの時間差がある、というわけです。またSchlebusch et al., 2021は、現代の遺伝的データから地理的起源を推測するさいの重要な問題として、人口史における起源から現代までの重ねられた人口統計的過程(移住や分裂や融合や規模の変化)の「上書き」程度を指摘します。mtDNAはY染色体とともに片親性遺伝標識という特殊な遺伝継承を表し、現代人のmtHgとY染色体ハプログループ(YHg)から過去の拡散経路や時期を推測することには慎重であるべきでしょう。また、mtDNAとY染色体DNAが全体的な遺伝的近縁関係を反映していない場合もあり、たとえば後期ネアンデルタール人は、核ゲノムでは明らかに現生人類よりもデニソワ人の方と近縁ですが、mtDNAでもY染色体DNAでもデニソワ人よりも現生人類の方と近縁です(Petr et al., 2020、関連記事)。

 系統樹は、mtDNAとY染色体のような片親性遺伝標識だけではなく、核DNAのように両親から継承される遺伝情報に基づいても作成できますが、片親性遺伝標識のように明確ではありません。それでも、アジア東部やオセアニアやヨーロッパなど現代人の各地域集団も系統樹でその遺伝的関係を示せるわけで、現代人がいつどのように現在の居住範囲に拡散してきたのか、推測する手がかりになるわけですが、ここで問題となるのは、系統樹は遠い遺伝的関係の分類群同士の関係を図示するのには適しているものの、近い遺伝的関係の分類群同士では複雑な関係を適切に表せるとは限らない、ということです。たとえば現代人と最近縁の現生分類群であるチンパンジー属では、ボノボ(Pan paniscus)とチンパンジー(Pan troglodytes)との混合(Manuel et al., 2016、関連記事)や、ボノボと遺伝学的に未知の類人猿との混合(Kuhlwilm et al., 2019、関連記事)の可能性が指摘されています。また、以下の現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021)の図3cで示されているように、ホモ属の分類群間の混合も複雑だった、と推測されています。
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 こうした複雑な混合が推測される分類群間の関係は、以下に掲載する上述のVallini et al., 2021の図1のように、混合図として示せば実際の人口史により近くなりますが、それでもかなり単純化したものにならざるを得ないわけで(そもそも、実際の人口史を「正確に」反映した図はほとんどの場合とても実用的にはならないでしょう)、現代人の地域集団にしても、過去のある時点の集団もしくは個体にしても、その起源や形成過程に関しては、あくまでも大まかなもの(低解像度)となります。ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との関係でさえ複雑なものと推測されていますから、現代人の各地域集団の関係はそれ以上に複雑と考えられます。起源や形成過程や拡散経路や現代人との連続性など、こうした複雑な関係をより正確に把握するには、片親性遺伝標識でも核DNAでも、現代人だけではなく古代人のDNAデータが必要となり、現代人のDNAデータだけに基づいた系統樹に過度に依拠することは危険です。
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 特定の地域における過去と現代の人類集団の連続性に関しては、上述のように最近の総説的論文から、アフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類が、拡散先で子孫を残さずに絶滅した事例は珍しくなかった、と示唆されます(Vallini et al., 2021)。具体的には、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体は、ヨーロッパ最古級(45000年以上前)の現生人類集団を表しますが、現代人の直接的祖先ではない、と推測されています(Prüfer et al., 2021、関連記事)。ズラティクンは、出アフリカ系現代人の各地域集団が遺伝的に分化する前にその共通祖先と分岐した、と推測されています。出アフリカ系現代人の祖先集団は遺伝的に、大きくユーラシア東部系統と西部系統に区分されます。

 その他には、チェコのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640〜42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響は小さかった、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる現生人類男性遺骸(Fu et al., 2014、関連記事)や、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)も、後のヨーロッパ人口集団に遺伝的影響を残していない、と推測されています。Vallini et al., 2021では、ウスチイシム個体とOase 1はユーラシア東部系統に位置づけられ、Oase 1はバチョキロ洞窟の現生人類個体群(44640〜42700年前頃)と近縁な集団が主要な直接的祖先だった、と推測されています。また、「女性の洞窟(Peştera Muierii、以下PM)」の34000年前頃となる個体(PM1)は、ユーラシア西部系統に位置づけられ、同じ頃のヨーロッパ狩猟採集民の変異内に収まりますが、ヨーロッパ現代人の祖先ではない、と推測されています(Svensson et al., 2021、関連記事)。


●アジア東部における人類集団の遺伝的連続性

 このようにヨーロッパにおいては、初期現生人類が現代人と遺伝的につながっていない事例は珍しくありません。アジア東部においても、最近では同様の事例が明らかになりつつあります。アジア東部でDNAが解析されている最古の個体は、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性(Yang et al., 2017、関連記事)で、その次に古いのがモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃となる女性(Massilani et al., 2021、関連記事)です。最近になって、そのサルキート個体に次いで古い、34324〜32360年前頃となるアムール川流域の女性(AR33K)のゲノムデータが報告されました(Mao et al., 2021、関連記事)。

 Mao et al., 2021は、4万年前頃の北京近郊の田園個体と34000年前頃のモンゴル北東部のサルキート個体と33000年前頃のアムール川流域のAR33Kが、遺伝的に類似していることを示します。アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統(祖先系譜、ancestry)は、まずユーラシア東部と西部に分岐します。その後、ユーラシア東部系統は沿岸部と内陸部に分岐します。ユーラシア東部沿岸部(EEC)祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部の後期更新世〜完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このユーラシア東部内陸部祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang et al., 2021の図2です。
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 田園個体とサルキート個体とAR33Kはおもに、南北に分岐する前のEEI祖先系統で構成されますが、サルキート個体には、別の祖先系統も重要な構成要素(25%)となっています(Mao et al., 2021)。それは、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される祖先系統です(Sikora et al., 2019、関連記事)。この祖先系統は、24500〜24100年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal'ta)遺跡の少年個体(MA-1)に代表される古代北ユーラシア人(ANE)の祖先とされ、Sikora et al., 2019では古代北シベリア人(ANS)と分類されています。MA-1はアメリカ大陸先住民との強い遺伝的類似性が指摘されており(Raghavan et al., 2014、関連記事)、MA-1に代表されるANEは、おもにユーラシア西部祖先系統で構成されるものの、EEI祖先系統の影響も一定以上(27%)受けている、と推測されます(Mao et al., 2021)。今回は、ANSをANEに区分します。ANE関連祖先系統は、現代のアメリカ大陸先住民やシベリア人やヨーロッパ人などに遺伝的影響を残しています。

 重要なのは、田園個体とサルキート個体とAR33Kの年代がいずれも、26500〜19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりも前で、現代人には遺伝的影響を残していない、と推測されていることです(Mao et al., 2021)。南北に分岐する前のEEI関連祖先系統でおもに構成されるこれらの個体に代表される集団は、アムール川流域からモンゴル北東部まで、LGM前にはアジア東部北方において広範に存在した、と推測されます。つまり、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団は、LGM前には他地域に存在した可能性が高く、アジア東部でもヨーロッパと同様に初期現生人類集団の広範な絶滅・置換が起きた可能性は高い、というわけです。もちろん、古代ゲノム研究では標本数がきわめて限定的なので、田園個体などに代表される絶滅集団とアジア東部現代人の主要な直接的祖先集団が隣接して共存していた、とも想定できるわけですが、その可能性は低いでしょう。

 アジア東部の古代ゲノム研究はユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して遅れているので、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団がいつアジア東部に到来したのか、ほとんど明らかになっていません。アムール川流域はその解明が比較的進んでいる地域と言えそうで、LGM末期の19000年前頃には、AR33Kよりもアジア東部現代人と遺伝的にずっと近い個体(AR19K)が存在し、14000年前頃にはより直接的に現代人と遺伝的に関連する集団(AR14K)が存在したことから、アムール川流域では現代にまで至る14000年以上の人類集団の遺伝的連続性が指摘されています(Mao et al., 2021)。AR19KはEEIでも南方系(EEIS)よりも北方系(EEIN)に近縁で、19000年前頃までにはEEIの南北の分岐が起きていた、と考えられます。以下、これらの系統関係を示したMao et al., 2021の図3です。
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●アジア東部現代人の形成過程

 かつてアジア東部北方に、4万年前頃の田園個体と類似した遺伝的構成の集団が広範に存在し、現代人には遺伝的影響を(全く若しくは殆ど)残していない、つまり絶滅したとなると、上述のように、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団は、LGM前には他地域に存在した可能性が高くなります。では、これらの集団がいつどのような経路でアジア東部に拡散してきたのか、という問題が生じます。初期現生人類のゲノムデータと考古学を統合して初期現生人類の拡散を検証したVallini et al., 2021は、ウスチイシム個体や田園個体やバチョキロ洞窟の4万年以上前の個体群に代表される初期のEEI集団が、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の担い手だった可能性を指摘します。IUPは、ルヴァロワ(Levallois)手法も用いる石刃製作として広範に定義され(仲田., 2019、関連記事)、レヴァントを起点として、ヨーロッパ東部・アジア中央部・アルタイ地域・中国北部に点在します。(仲田., 2020、関連記事)。

 Vallini et al., 2021は、その後、ユーラシア西部のどこかに存在した出アフリカ後の人口集団の「接続地」から、石刃および小型石刃(bladelet)の製作により特徴づけられ、装飾品や骨器をよく伴う上部旧石器(UP)の担い手であるユーラシア西部祖先系統でおもに構成される集団がユーラシア規模で拡大し、ユーラシア東部では、在来のEEI関連祖先系統を主体とする集団との混合により、31600年前頃となるヤナRHSの2個体に代表されるANE(もしくはANS)集団が形成された、と推測されます。上述のように、34000年前頃となるモンゴル北東部のサルキート個体はANE集団から一定以上の遺伝的影響を受けています。しかし、アジア東部でも漢人の主要な地域(近現代日本社会で一般的に「中国」と認識されるような地域)や朝鮮半島およびその周辺のユーラシア東部沿岸地域や日本列島では、古代人でも現代人でもユーラシア西部関連祖先系統の顕著な影響は検出されていません。Vallini et al., 2021は、これらの地域において、侵入してくるUP人口集団の移動に対するIUPの担い手だったEEI集団の抵抗、もしくはEEI集団の再拡大が起きた可能性を指摘します。

 EEI集団がどのようにアジア東部に拡散してきたのか不明ですが、文化面ではIUPと関連しているとしたら、ユーラシア中緯度地帯を東進してきた可能性が高そうで(ユーラシア南岸を東進してアジア南部か南東部で北上した可能性も考えられますが)、その東進の過程で遺伝的に分化して、田園個体やAR33Kに代表される集団と、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団とに分岐したのでしょう。もちろん、実際の人口史はこのように系統樹で単純に表せないでしょうから、あくまでも大まかに(低解像度で)示した動向にすぎませんが。アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団がLGMの前後にどこにいたのか、現時点では直接的な遺伝的手がかりはなく、アジア東部では更新世の現生人類遺骸が少ないので、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析(澤藤他., 2021)に依拠するしかなさそうです。

 ただ、EEIの南北の分岐(EEISとEEIN)が19000年前頃までに起きたことと、シャベル型切歯の頻度から、ある程度の推測は可能かもしれません。シャベル型切歯は、アメリカ大陸先住民や日本人も含めてアジア東部現代人では高頻度で見られ、北京の漢人(CHB)では頻度が93.7%に達しますが、アジア南東部やオセアニアでは低頻度です。シャベル型切歯はエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型rs3827760のV370A変異との関連が明らかになっており(Kataoka et al., 2021、関連記事)、この変異は派生的で、出現は3万年前頃と推測されています(Harris.,2016,P242、関連記事)。Mao et al., 2021は、この派生的変異がアジア東部北方では、LGM前の田園個体とAR33Kには見られないものの、19000年前頃となるAR19Kを含むそれ以降のアジア東部北方の個体で見られることから、LGMの低紫外線環境における母乳のビタミンD増加への選択だった、との見解(Hlusko et al., 2018、関連記事)を支持しています。

 これらの知見から、現代のアジア東部人やアメリカ大陸先住民において高頻度で見られるシャベル型切歯は、EEIN集団においてEEIS集団との分岐後に出現した、と推測されます。上述のように、EEISとEEINの分岐は19000年前よりもさかのぼりますから、シャベル型切歯の出現年代の下限は2万年前頃となりそうです。さらに、上掲のMao et al., 2021の図3で示されるように、アメリカ大陸先住民と遺伝的にきわめて近縁な、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River)で発見された1個体(USR1)は古代ベーリンジア(ベーリング陸橋)人を表し、ANE関連祖先系統(42%)とEEIN関連祖先系統(58%)の混合としてモデル化できます。古代ベーリンジア人の一方の主要な祖先であるEEIN関連集団は他のEEIN集団と36000±15000年前頃に分岐したものの、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(Moreno-Mayar et al., 2018、関連記事)。

 そうすると、25000年前頃までにはシャベル型切歯が出現していたことになりそうです。EEINとEEISは4万年前頃までには分岐し、シャベル型切歯をもたらす変異はEEINにおいて3万年前頃までには出現し、LGMにおいて選択され、アジア東部現代人とアメリカ大陸先住民の祖先集団において高頻度で定着した、と考えられます。この推測が妥当ならば、EEIN集団は、EEIS集団と遺伝的に分化した後、アムール川流域やモンゴルよりも北方に分布し、2万年前頃までにはアムール川流域に南下していた、と考えられます。一方、EEIS集団は、長江流域など現在の中国南部にLGM前に到達していたのかもしれません。私の知見では、この推測を考古学と組み合わせて論じることはできないので、今後の課題となります。またシャベル型切歯に関するこれら近年の知見から、シャベル型切歯を「北京原人」からアジア東部現代人の連続的な進化の根拠とするような見解(関連記事)はほぼ完全に否定された、と言えるでしょう。


●日本列島の人口史

 日本列島では4万年頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。4万年以上前となる日本列島における人類の痕跡としては、たとえば12万年前頃とされる島根県出雲市の砂原遺跡の石器がありますが、これが本当に石器なのか、強く疑問が呈されています(関連記事)。おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。現代日本人の形成という観点からは、日本列島では4万年前以降の遺跡のみが対象となるでしょう。

 日本列島の更新世人類遺骸のDNA解析は、最近報告された2万年前頃の港川人のmtDNAが最初の事例となり(Mizuno et al., 2021、関連記事)、ほとんど解明されていません。日本列島で古代ゲノムデータが得られている人類遺骸は完新世に限定されており、縄文時代以降となります。愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃となる縄文時代個体の核ゲノム解析結果を報告した研究では、「縄文人(縄文文化関連個体)」は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、という見解が支持されています(Gakuhari et al., 2020、関連記事)。しかし、港川人のmtDNAは、少なくとも現時点では現代人で見つかっておらず、ヨーロッパやアジア東部大陸部と同様に、日本列島でも更新世に到来した初期現生人類の中に絶滅した集団が存在した可能性は高いように思います。この問題の解明には、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析が大きく貢献できるかもしれません。

 「縄文人」のゲノムデータは、上述の愛知県で発見された遺骸のみならず、北海道(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)や千葉県(Wang et al., 2021)や佐賀県(Adachi et al., 2021、関連記事)の遺骸でも得られています。これら縄文時代の後期北海道の個体から早期九州の個体まで、これまでにゲノムデータが得られている縄文人の遺伝的構成はひじょうに類似しており、縄文人が文化的にはともかく遺伝的には長期にわたってきわめて均質だったことを示唆します。しかし、現代日本人の形成において重要となるだろう西日本の縄文時代後期〜晩期の個体のゲノムデータが蓄積されないうちは、縄文人が長期にわたって遺伝的に均質だったとは、とても断定できません。

 縄文人はEEIS関連祖先系統(56%)とEEC関連祖先系統(44%)の混合として、現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(Wang et al., 2021)。縄文人のシャベル型切歯の程度はわずかなので(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、この点からも、縄文人がEEIN関連祖先系統を基本的には有さない、との推定は妥当と思われます。一方で、EEIN関連祖先系統でおもに構成される青銅器時代西遼河集団を主要な祖先集団とする現代日本人(「本土」集団)においては、シャベル型切歯が高頻度です。これらは、シャベル型切歯に関する上述の推測と整合的です。

 縄文人はYHgでも注目されています。現代日本人(「本土」集団)ではYHg-D1a2aが35.34%と大きな割合を占めており、(Watanabe et al., 2021、関連記事)北海道など上述の縄文人でもYHgが確認されている個体は全てD1a2aで、日本列島外では低頻度であることから、YHg-D1a2aは日本列島固有との認識が一般的なようです。しかし、カザフスタン南部で発見された紀元後236〜331年頃の1個体(KNT004)はYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高く、悪魔の門遺跡個体群はAR14Kと遺伝的にきわめて密接です。また、アムール川流域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)は、YHg-DEです。アムール川流域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった、較正年代で4415〜4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。ほぼEEC関連祖先系統で構成されるアンダマン諸島現代人のYHgがほぼD1で、YHg-D1の割合が高い現代チベット人はEEC関連祖先系統の割合が20%近くと推定されます(Wang et al., 2021)。また、縄文人と悪魔の門遺跡個体群などアジア東部沿岸部集団との遺伝的類似性も指摘されています(Gakuhari et al., 2020)。EEC関連祖先系統を有する集団がアジア東部沿岸部をかなりの程度北上したことは、一部のアメリカ大陸先住民集団でアンダマン諸島人などとの遺伝的類似性が指摘されていること(Castro e Silva et al., 2021、関連記事)からも明らかでしょう。

 これらの知見からは、YHg-D1はおもにEEC関連祖先系統で構成される現生人類集団に由来し、ユーラシア南岸を東進してアジア南東部からオセアニアへと拡散して、アジア南東部から北上してアジア東部へと拡散したことが窺えます。カザフスタンの紀元後3〜4世紀の個体(KNT004)がYHg-D1a2a2aで、悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高いことからも、YHg-D1a2aは日本列島固有ではなく、アジア東部沿岸部を中心にかつては広範にアジア東部に存在し、縄文時代の始まる前に日本列島に到来した、と推測されます。現代日本人で見られるYHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐も、日本列島ではなくアジア東部大陸部で起きていたかもしれません。そうすると、4万年前頃までさかのぼる日本列島の最初期現生人類のYHgはD1a2aではなかったかもしれません。また、KNT004の事例からは、現代日本人のYHg-D1a2a2aの中には、弥生時代以降に到来したものもあったかもしれない、と考えられます。

 日本列島の最初期現生人類が縄文人の直接的祖先なのか否か、縄文人がどのような過程で形成されたのか、現時点では不明ですが、日本列島も含めてユーラシア東部の洞窟の土壌DNA解析により、この問題の解明が進むと期待されます。一方、おもにEEI関連祖先系統で構成される集団のYHgに関しては、田園個体が(高畑., 2021)K2bで、アムール川流域の19000年前頃以降の個体がおもにCもしくはC2であることから、CとK2の混在だったかもしれません。YHg-K2から日本人も含めてアジア東部現代人で多数派のOが派生するので、この点も核ゲノムではアジア東部現代人がおもにEEI関連祖先系統で構成されることと整合的です。

●まとめ

 人類集団の地域的連続性との観念には根強いものがありそうで、それが愛国主義や民族主義とも結びつきやすいだけに、警戒が必要だとは思います。近年の古代ゲノム研究の進展からは、ネアンデルタール人など絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現代人との特定地域における遺伝的不連続性はもちろん、現生人類に限定しても、更新世と完新世において集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されます。さらに、非現生人類ホモ属においても、こうした特定地域における人類集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されています。

 具体的には、アルタイ山脈のネアンデルタール人は、初期の個体とそれ以降の個体群で遺伝的系統が異なり、置換があった、と推測されています(Mafessoni et al., 2020、関連記事)。また、イベリア半島北部においても、洞窟堆積物のDNA解析からネアンデルタール人集団間で置換があった、と推測されています(Vernot et al., 2021、関連記事)。現在のドイツで発見されたネアンデルタール人と関連づけられそうな遺跡の比較からは、ネアンデルタール人集団が移住・撤退もしくは絶滅・(孤立した集団の退避地からの)再移住といった過程を繰り返していたことが窺えます(Richter et al., 2016、関連記事)。

 こうしたヨーロッパにおける複雑な過程の繰り返しにより後期ネアンデルタール人は形成されたのでしょうが、それはアフリカにおける現生人類も同様だった、と考えられます(Scerri et al., 2018、関連記事)。さらにいえば、ホモ属(関連記事)や他の多くの人類系統の分類群の出現過程も同様で、特定の地域における単純な直線的進化で把握することは危険でしょう。その意味で、たとえば中華人民共和国陝西省の遺跡に関しては、210万〜130万年前頃にかけて人類が繰り返し利用したかもしれない、と指摘されていますが(Zhu et al., 2018、関連記事)、それらの集団が全て祖先・子孫関係にあったとは限りません。

 その意味で、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における人類の連続性が根底にある現生人類アフリカ多地域進化説は根本的に間違っている、と評価すべきなのでしょう(Scerri et al., 2019、関連記事)。今回はユーラシア東部内陸部に関してほとんど言及できませんでしたが、バイカル湖地域では更新世から完新世にかけて現生人類集団の大きな遺伝的変容や置換があった、と推測されています(Yu et al., 2020、関連記事)。またモンゴルに関しては、完新世において最初に牧畜文化をもたらした集団の遺伝的構成は比較的短期間で失われた、と推測されています(Jeong et al., 2020、関連記事)。

 これらは上述したオーストラリアの事例でも当てはまるかもしれず、65000年前頃の人類の痕跡が本当だとしても、それが現代のオーストラリア先住民と連続しているかどうかは不明で、mtDNAで推測される5万年近くにわたるオーストラリアの人類の連続性との見解も、古代DNAデータが得られなければ確定は難しいでしょう(オーストラリアで更新世の人類遺骸や堆積物からDNAを解析するのは難しそうですが)。日本列島も同様で、4万年以上前とされる不確かな遺跡はもちろん、4万年前以降の人類、とくに最初期の人類に関しては、縄文人などその後の日本列島の人類と遺伝的につながっているのか、まだ判断が難しいところです。日本列島の人口史に関しては、人類遺骸からのDNA解析とともに、更新世堆積物のDNA解析が飛躍的に研究を進展させるのではないか、と期待しています。

 もちろん、上記の私見はあくまでも現時点でのデータに基づくモデル化に依拠しているので、今後の研究の進展により大きく変えざるを得ないところも出てくる可能性は低くありません。また、今回は特定の地域における人類集団の長期の連続性という見解に対する疑問を強調しましたが、逆に、安易に特定の地域における人類集団の断絶を断定することも問題でしょう。たとえば、現代日本社会において「愛国的な」人々の間で好まれているらしい、三国時代の前後において「中国人」もしくは「漢民族」は絶滅した、といった言説です。古代ゲノムデータも用いた研究では、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)における長期の遺伝的類似性・安定性の可能性が指摘されています(Wang et al., 2020、関連記事)。もちろん、遺伝的構成と民族、さらに文化は、相関する場合が多いとはいえ、安易に結びつけてはなりませんが、「中国」における人類集団の連続性を論ずる場合には、こうしたゲノム研究を無視できない、とも考えています。

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13. 2021年6月27日 11:27:05 : 09g8CAKyOE : dExIekMuL1J3cVk=[36] 報告
2021年06月27日
11000年前頃以降の中国南部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_27.html


 11000年前頃以降の現在の中華人民共和国広西チワン族自治区一帯の人口史に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。アジア東部および南東部における現生人類(Homo sapiens)の歴史は長く、古代人のDNAに基づく最近の研究では、アジア南東部と中国南部(本論文ではおもに現在の行政区分の広西チワン族自治区と福建省が対象とされます)で異なる人口統計学的パターンが明らかになっています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。これらの研究で明らかになったのは、アジア南東部の8000〜4000年前頃となるホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民が、深く分岐したアジア祖先系統(本論文ではホアビン文化祖先系統と呼ばれます)を有しているのに対して、4000年前頃以降となるアジア南東部最初の農耕民は、中国南部の現代人と関連する祖先系統(祖先系譜、ancestry)とホアビン文化祖先系統の混合を示す、ということです。

 中国南部では、福建省の9000〜4000年前頃の個体群が、中国北部とは異なる祖先系統を示しますが、ホアビン文化祖先系統ほどには深く分岐していません(ホアビン文化祖先系統と比較すると中国の南北間の祖先系統は相互に近縁です)。本論文では、この祖先系統は福建省祖先系統と呼ばれ、現代の中国南部人口集団で部分的に見られ、アジア大陸部から数千年前にアジア南東部やオセアニアへと航海で拡散した人口集団の子孫である、オーストロネシア語族現代人で見られる祖先系統と密接に関連しています(関連記事)。これらの知見から、古代DNA技術を用いて祖先人口集団および早期、とくに農耕移行前の人口動態を調べることは、過去の人口史をよりよく理解するのに重要である、と示されます。

 人類学的および考古学的証拠も、アジア東部および南東部における人口統計学的複雑さを浮き彫りにします。物質文化の調査により、ホアビン文化祖先系統と関連する文化は中国南部でも存在したかもしれない、と示唆されています。中国南部とアジア南東部の境界で発見された先史時代人骨格形態の比較から、アジア東部と南東部の現代人で観察されたものとは異なる、深い祖先系統を示唆するパターンが示されます。以前の比較考古学的研究で示唆されるのは、中国南部において2つの異なる文化伝統が存在し、一方はおもに中国南部沿岸とその近隣の島々で、もう一方はベトナムとの国境地域で見られ、これはアジア南東部と中国南部の古代の個体群で観察される2つの異なる遺伝的パターンを反映している、ということです。

 アジア東部および南東部の歴史がより明確になってきているにも関わらず、中国におけるベトナムとの国境地帯の広西チワン族自治区のような地域は、中国南部とアジア南東部全域の人口史がまだ充分に確立されていないことを示します。広西チワン族自治区では、隆林洞窟(Longlin Cave)において1万年以上前となる祖先的特徴と現代的特徴の混合した頭蓋が見つかっており(関連記事)、ホアビン文化祖先系統と類似しているか、もしくはそれ以前に分岐した祖先系統の可能性が指摘されていて、これは現時点でアジア東部および南東部の古代人では観察されていないパターンです。

 ホアビン文化的な物質文化は中国南部の他地域でも見られますが、ホアビン文化祖先系統はアジア南東部外の古代人ではまだ見つかっていません。広西チワン族自治区の現代の人口集団はタイ・カダイ(Tai-Kadai)語族話者とミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族話者で、福建省祖先系統と中国北部祖先系統の混合を示します(関連記事)。中国南部とアジア南東部をつなぐ広西チワン族自治区の中心的位置にも関わらず、古代DNA技術は広西チワン族自治区の古代人には適用されておらず、これはおもに、高温多湿地域での古代DNAの保存が不充分なためです。

 この標本抽出の困難にも関わらず、この研究は過去11000年の広西チワン族自治区の古代人に関して、広西チワン族自治区で深く分岐した祖先系統が果たした役割、とくに隆林洞窟個体に関してと、ホアビン文化祖先系統と福建省祖先系統がこの地域に拡大したのかどうか、もしそうならば、どのように相互作用したのか、ということと、広西チワン族自治区の古代人が現代の人口集団にどのように寄与したのか、ということを調べます。


●DNA解析

 これらの問題に対処するため、広西チワン族自治区の30ヶ所の遺跡から170点の標本が調べられました。上述のように広西チワン族自治区は古代DNA研究に適した地域ではありませんが、30個体で10686〜294年前頃(放射性炭素年代測定法による較正年代で、以下の年代も基本的に同様です)のゲノムデータを得ることに成功し、この中には上述の1万年以上前と推定されている隆林洞窟の人類遺骸も含まれます。また、福建省の斎河(Qihe)洞窟遺跡の追加の個体(11747〜11356年前頃となる斎河3号)からもゲノムデータが得られました。隆林遺骸と斎河3号の年代は12000〜10000年前頃で、更新世から完新世の移行期におけるアジア東部の遺伝的多様性を調べられます。広西チワン族自治区で標本抽出された古代DNAは、アジア南東部や中国南部の福建省など他地域で観察されたものとは異なる遺伝的歴史を明らかにします。

 120万ヶ所の一塩基多型で内在性DNAが濃縮され、合計31個体で遺伝的情報が得られました(網羅率は0.01〜4.06倍)。まず親族分析が実行され、広西チワン族自治区の30個体のうち7組で密接な親族関係(1親等および2親等)が見つかりました。これら7組のうち得られた一塩基多型数が最も多い個体以外は集団遺伝学的分析で除外され、親族関係にない23個体が残りました。これら広西チワン族自治区の古代人23個体について、主成分分析(図1C)と外群f3統計とf4統計とADMIXTURE分析が実行され、9集団に分離されました(図1A・B)。福建省の斎河3号は、同遺跡の以前に報告された個体と遺伝的にクラスタ化します。以下は本論文の図1です。
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●11000年以上前の広西チワン族自治区個体で見つかった未知のアジア東部祖先系統

 この研究で標本抽出された最古の個体は広西チワン族自治区の隆林洞窟で発見された10686〜10439年前頃の個体で、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属、絶滅ホモ属)的特徴と初期現生人類的特徴が混合した頭蓋形態を示します。しかし、隆林個体の遺伝的特性は、現代のアジア東部人口集団で見られる遺伝的多様性内に収まり、非現生人類ホモ属に由来する祖先系統の割合はアジア東部現代人で観察される水準と類似しています。

 中国で標本抽出された9000〜4000年前頃の個体群との比較から、隆林個体は現時点で標本抽出されたアジア東部人と密接に関連していない、と示されます。隆林個体は外群f3分析では、アジア東部現代人と密接に関連する古代人、つまり中国北部の山東省で発見された9500〜7700年前頃の個体群、および中国南部の福建省で発見された8400〜7600年前頃個体群と、遺伝的類似性をほとんど共有していません。じっさい、山東省前期新石器時代(EN_SD)集団と福建省前期新石器時代(EN_FJ)集団は、相互に隆林個体とよりも密接な関係を共有しており、どちらも隆林個体と過剰な類似性を共有していません。

 こうした知見から、隆林個体の系統は、北方の山東省祖先系統と南方の福建省祖先系統が分離する前に分岐した、と示唆されます。混合グラフとTreemix分析の両方(図2A・B)を用いた、隆林個体と新石器時代アジア東部人との間の系統関係をモデル化した後、隆林個体が山東省および福建省の新石器時代集団に代表される南北のアジア東部祖先系統の外群である、という想定のさらなる裏づけが見つかります。以下は本論文の図2です。
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 隆林個体がアジア東部人からどれくらい深く分岐しているのか調べるため、隆林個体および新石器時代アジア東部人と、深く分岐したアジア祖先系統を有する他の個体群が比較されました。後者には、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性(関連記事)と、現代のパプア人およびアンダマン諸島のオンゲ人(関連記事)と、アジア南東部の8000年前頃の1個体(関連記事)が含まれます。比較の結果、隆林個体は深く分岐したアジア祖先系統のどれよりも山東省および福建省の新石器時代集団と密接に関連している、と明らかになりました。本論文の遺伝的分析から、隆林個体はアジア東部現代人系統の側枝で、深く分岐したアジア祖先系統との密接な関係はない、と示されます。

 縄文文化と関連する愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃となる個体(関連記事)は、アジア東部人および田園個体など深く分岐したアジア人に対して、隆林個体と同様のパターンを示します。伊川津「縄文人」と隆林個体は、深く分岐したアジア人とよりも相互に密接な関係を共有します。どれがアジア東部人とより密接に関連しているのか評価するため、伊川津縄文人と隆林個体が山東省および福建省の新石器時代集団と比較されました。f4分析では、山東省および福建省の新石器時代集団は隆林個体および伊川津縄文人と同様に関連しており、隆林個体と伊川津縄文人は両方、他の個体では見られない山東省および福建省の新石器時代集団とのつながりを有しています。これらのパターンは、隆林個体と伊川津縄文人と新石器時代アジア東部人は同時に相互に分離した可能性が高いことを示唆します。

 したがって、隆林個体関連祖先系統(以下、広西祖先系統)は、中国南部およびアジア南東部に囲まれた地域で以前に観察された福建省祖先系統およびホアビン文化祖先系統の両方と異なっている、と分かります。日本列島の伊川津縄文人で見られる縄文人祖先系統と同様に、広西祖先系統は田園個体やホアビン文化祖先系統など深く分岐したアジア人祖先系統よりも、アジア東部人祖先系統の方と密接に関連しています。しかし、伊川津縄文人とは異なり、隆林個体は地理的に他の大陸部アジア東部人から孤立していませんでした。これらのパターンは、11000年前頃のアジア東方における遺伝的多様性が、人類の歴史のその後の期間よりも高かったことを示唆します。


●9000〜6400年前頃までの中国南部における混合

 11000年前頃の1個体(隆林個体)で広西祖先系統が観察されたので、次に、広西チワン族自治区のより新しい人口集団にも広西祖先系統が見られるのか、調べられました。9000〜6400年前頃となる、広西チワン族自治区の独山洞窟(Dushan Cave)遺跡と包󠄁家山(Baojianshan)遺跡の2個体のゲノム規模データが得られました。8974〜8593年前頃となる独山洞窟の男性1個体が、隆林個体よりもアジア東部南北の人々とより密接に関連する人口集団の子孫ならば、f4(ムブティ人、隆林個体、独山個体、アジア東部人)~0と予想されます。しかし、代わりに、シベリア(関連記事)および福建省の一部のアジア東部人と関連して、f4(ムブティ人、隆林個体、独山個体、悪魔の門新石器時代個体および斎河遺跡個体)<0と観察され、隆林個体と独山個体との間での遺伝的つながりの存在が示唆されます。外群f3分析で隆林個体をアジア東部および南東部の古代人と比較すると、最高値は独山個体で観察され、隆林個体は独山個体と最も遺伝的類似性を共有している、と示されます。これらのパターンは、広西祖先系統が独山個体に存在することを示唆します。

 しかし、独山個体の外群f3分析では、独山個体が単に広西祖先系統を有するよりも、福建省新石器時代集団およびアジア南東部農耕民と高い遺伝的類似性を共有している、と示され、これは隆林個体では観察されないパターンです。移住事象を表せる系統発生分析(図2A・B)は一貫して、独山個体を隆林個体関連起源集団(17%)と福建省(斎河遺跡)個体群関連起源集団(83%)との混合としてモデル化します。f4分析では、独山個体がシベリア関連アジア東部北方集団および山東省集団と比較して、福建省祖先系統の集団とつながりを共有する、と裏づけます。独山個体で観察された遺伝的パターンから、9000年前頃までに、広西祖先系統を有する集団と福建省祖先系統を有する集団との間で遺伝子流動がおきており、両祖先系統の混合集団が誕生した、と示唆されます。

 独山個体と福建省祖先系統を有する人口集団(図2B)との間で共有されるアレル(対立遺伝子)の増加を考慮して、混合した広西および福建省祖先系統が福建省の人口集団に影響を及ぼしたのかどうか、次に検証されました。その結果、独山個体は、斎河遺跡と亮島(Liangdao)遺跡の個体群でまとめられる福建省前期新石器時代人口集団と比較して、渓頭(Xitoucun)遺跡と曇石山(Tanshishan)遺跡でまとめられる後期福建省人口集団の方とより多くの類似性を示す、と明らかになりました。このパターンは塩基転換(ピリミジン塩基からプリン塩基の置換およびその逆の置換)でのみ持続しました。さまざまな遺跡の個体を分離しておく拡張分析では、12000年前頃の斎河3号と比較して、独山個体への類似性が評価されました。独山個体との類似性は、4100〜2000年前頃の後期福建省人口集団だけではなく、1900〜1100年前頃となる台湾の漢本(Hanben)個体群でも持続します。

 ベトナムのマンバク(Man_Bac)遺跡とヌイナプ(Nui_Nap)遺跡の個体群に代表される4100〜2000年前頃のアジア南東部人口集団と、1500年前頃の広西チワン族自治区の人口集団で、同じ独山個体との類似性が観察されました。BH(Benjamini-Hochberg)補正により、古代アジア南東部人口集団はもはや有意な類似性を示しませんが、広西チワン族自治区のBaBanQinCen(Banda遺跡とQinCen遺跡とBalong遺跡)個体群は示します。塩基転換の場合のみ、独山個体の類似性は渓頭個体で持続しました。全体としてこれらのパターンは、おそらくは広西祖先系統と福建省祖先系統の混合である独山個体と関連する祖先系統が、中国南部の先史時代には重要な役割を果たした、と示唆します。

 広西祖先系統と福建省祖先系統の混合は、包󠄁家山遺跡の8300〜6400年前頃の女性1個体で見られる遺伝的パターンに基づくと、広西チワン族自治区では数千年持続したようです。独山個体と同様に、包󠄁家山個体は福建省新石器時代人口集団およびアジア南東部農耕民と最高の遺伝的類似性を共有します。また包󠄁家山個体は、山東省および福建省新石器時代集団の両方と比較して、独山個体とより多くの祖先系統を共有しています。

 包󠄁家山個体は、独山個体と祖先系統を共有する一方、独山個体および他の先史時代広西チワン族自治区個体群とは異なり、アジア南東部の深く分岐したホアビン文化狩猟採集民ともアレルを共有します。f4分析では、ホアビン文化狩猟採集民は、隆林個体および独山個体では観察されないアジア東部北方人と比較して、包󠄁家山個体とのつながりを示します。qpAdmで混合の割合を推定すると、包󠄁家山個体は独山個体関連祖先系統(72.3%)とホアビン文化関連祖先系統(27.7%)の混合としてモデル化でき、qpGraph分析の推定と類似の割合となります(図2B)。移住事象を示すTreemix分析では、包󠄁家山個体は独山個体とクラスタ化し、隆林個体系統からの移住事象を共有し、ホアビン文化集団からの追加の移住事象が推定されます(図2A)。したがって、福建省祖先系統とホアビン文化祖先系統の両方が、8300〜6400年前頃の広西チワン族自治区で見つかり、まとめると、南方の3祖先系統全てが包󠄁家山個体を通じて広西チワン族自治区において混合の形で見られます。

 9000〜6400年前頃には、中国南部とアジア南東部の境界の先史時代人口集団において混合が重要な役割を果たしました。独山個体は広西祖先系統と福建省祖先系統の混合を有する人口集団に属していましたが、包󠄁家山個体は独山個体と類似しているものの、追加のホアビン文化祖先系統を共有しています。これらのパターンが裏づけるのは、一部の中国南部の遺跡の物質文化の研究で示唆されてきたように、ホアビン文化祖先系統が中国南部に拡大した、ということです。しかし、これらのパターンは、ホアビン文化祖先系統と福建省祖先系統のどちらも、中国南部とアジア南東部の境界に存在した人口集団の説明に充分ではないことを浮き彫りにします。広西祖先系統は少なくとも6400年前頃まで部分的に存続し、独山個体と関連する祖先系統は、同様に広西チワン族自治区外の先史時代人口集団に影響を及ぼした可能性が高そうです。

 本論文の知見から、広西チワン族自治区の9000〜6400年前頃の先史時代は、アジア東方南部の各祖先系統のさまざまな水準を含む混合人口集団で満ちている、と示されます。これら混合人口集団の年代と考古学的関連から、混合はアジア南東部の4000年前頃の標本(関連記事)で示されているような農耕文化発展のずっと前に、中国南部とアジア南東部で大きな影響を及ぼした、と示唆されます。広西チワン族自治区では、これらの混合個体群は隆林個体と密接には関連していません。これは、同じ頃の福建省個体群で観察されたパターンとほぼ対照的で、後期新石器時代福建省人口集団は、前期新石器時代福建省人口集団との密接な遺伝的関係を示します。


●広西チワン族自治区の歴史時代の人口集団における変化

 1500〜500年前頃の広西チワン族自治区の標本で、歴史時代における上述のアジア東方南部の3祖先系統(福建省と広西とホアビン文化)の役割が評価されました。その結果、歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、主成分分析では先史時代人口集団とクラスタ化しない、と明らかになりました(図1C)。代わりに、1500年前頃の歴史時代の個体群の大半は類似の遺伝的特性を共有し、タイ・カダイ語族話者と緊密なクラスタを形成して重なります。しかし、500年前頃となるGaoHuaHua(広西チワン族自治区のGaofeng遺跡Huaqjao遺跡とHuatuyan遺跡)人口集団は1500年前頃のクラスタとは異なり、主成分分析(図1C)と外群f3分析の両方でミャオ・ヤオ語族話者の近くに位置します。

 現代の人口集団との関係を直接的に比較するため、f4(ムブティ人、アジア東部現代人、1500年前頃の広西チワン族自治区集団、500年前頃の広西チワン族自治区集団)が実行され、ミャオ・ヤオ語族話者は常に500年前頃のGaoHuaHua人口集団と有意な類似性を示す、と明らかになりました(図3A)。広西チワン族自治区の全ての歴史時代人口集団は、洞窟埋葬遺跡から標本抽出されました。碑文と棺の類型に基づいて、広西チワン族自治区の洞窟埋葬はタイ・カダイ語族であるチワン人(Zhuang)の祖先のものと考えられていました。しかし、GaoHuaHua人口集団が標本抽出された500年前頃となる洞窟埋葬は、ミャオ・ヤオ語族人口集団とつながっていた、と仮定されてきました。本論文の遺伝的分析から、以前に提案されたように、これら2期の広西チワン族自治区の人口集団はじっさい遺伝的にかなり異なっており、異なる人口集団に属する、と示唆されます。したがって、これらの人口集団が広西チワン族自治区の現代のタイ・カダイ語族集団とミャオ・ヤオ語族に最終的に寄与したと仮定すると、少なくとも500年前頃までに強い遺伝的構造が見つかります。

 qpAdmを用いて歴史時代の広西チワン族自治区人口集団の遺伝的構造がさらに調べられ、さまざまな起源祖先系統から混合割合がモデル化されました。その結果、歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、独山個体もしくは斎河3号関連祖先系統(58.2〜90.6%)とアジア東部北方関連祖先系統(9.4〜41.8%)の混合としてモデル化できます。BaBanQinCenを除く全ての人口集団で、独山個体と関連する深い祖先系統の有意な兆候は見つからず(図2D)、これら歴史時代の広西チワン族自治区人口集団で見られる南方祖先系統は、福建省祖先系統と密接に関連している、と示唆されます。

 アジア東部南方現代人と同様に、1500年前頃以降となる歴史時代の広西チワン族自治区人口集団も、アジア東部北方人からの混合を示します。アジア東部北方のさまざまな地域からの既知の古代人口集団を比較し、どの祖先系統が歴史時代の広西チワン族自治区人口集団に最も強い影響を及ぼしたのか、検証されました。外群f3分析では、歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は黄河下流近くで見つかる古代の人口集団と最も密接な遺伝的類似性を示します。たとえば、變變(Bianbian)遺跡と小荆山(Xiaojingshan)遺跡の個体群に代表される9500〜7900年前頃となる山東省の人口集団(関連記事)と、4225〜2000年前頃となる中原の人口集団(関連記事)です(図3B)。

 歴史時代の広西チワン族自治区人口集団と7900年前頃となる小荆山遺跡個体群との間の遺伝的区類似性は、1688年前頃以降となる歴史時代最初期のBaBanQinCen集団から持続しています。したがって、1500〜500年前頃となる歴史時代の広西チワン族自治区人口集団で見られる北方からの遺伝的影響は、9500〜7700年前頃の山東省祖先系統と最も密接に関連しています。以下は本論文の図3です。
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●考察

 中国南部の広西チワン族自治区の11000〜6000年前頃の個体群の分析は、以前には標本抽出されていなかった、アジア東部人と深く分岐した遺伝的系統を明らかにします。この系統は11000年前頃の隆林個体により最もよく表され、山東省および福建省の新石器時代個体群に存在するアジア東部の南北両方の祖先系統の外群として機能し、アジア東部系統の深い分岐が、日本列島の縄文人のような孤立した地域だけではなく、アジア東部本土でも見つかることを明らかにします。もう一方の12000年前頃の個体は中国南部沿岸の福建省地域で標本抽出され、隆林個体とは異なり、福建省祖先系統を示します。これら2個体から、12000〜10000年前頃には、中国南部は少なくとも2つのひじょうに多様な人口集団により特徴づけられていた、と示されます。しかし、斎河3号に代表される福建省関連祖先系統は12000〜4000年前頃で存在しましたが、このパターンは広西チワン族自治区には当てはまりません。

 もっと最近の標本抽出では、人口集団の継続性は広西チワン族自治区の特徴ではなく、遺伝子流動が9000〜6400年前頃に形成的な役割を果たした、と示されます。9000年前頃の独山個体は、福建省祖先系統と隆林個体に代表される広西祖先系統の混合として最もよく特徴づけられ、独山個体と関連する祖先系統は、後に渓頭遺跡個体群に代表される4000年前頃の福建省人口集団に現れます。対照的に、8300〜6400年前頃となる広西チワン族自治区の包󠄁家山遺跡個体は、福建省祖先系統および広西祖先系統と追加のホアビン文化祖先系統の混合です。ホアビン文化祖先系統は深く分岐したアジアの祖先系統で、4000年前頃以前にはアジア南東部に広範に存在しました(関連記事)。

 包󠄁家山遺跡個体におけるホアビン文化祖先系統の存在は、ホアビン文化祖先系統の範囲がアジア南東部から中国南部へと拡大したことを示唆します。しかし、福建省祖先系統と広西祖先系統とホアビン文化祖先系統の混合で構成される人口集団は、アジア南東部と中国南部の境界に位置する広西チワン族自治区が、単純に単一の人口集団と関連する祖先系統により特徴づけられないことを示します。中国南部とアジア南東部におけるこれら多様な3祖先系統間の混合から、混合は広西チワン族自治区とアジア南東部において農耕導入前に先史時代人口集団に顕著な影響を及ぼした、と示されます。

 以前の研究では、日本列島と広西チワン族自治区の先史時代人口集団の頭蓋形態がオーストラロパプア人と類似性を共有しており、アジア南東部のホアビン文化個体群と類似している、と示唆されていました(関連記事)。アジア東部と南東部に祖先系統の2層が存在する、とのモデルが提案されてきており、第1層はオーストラロパプア人と密接に関連する先史時代人口集団と関連する初期祖先系統により表され、第2層はアジア東部北方起源で、農耕拡大とともに第1層をしだいに置換していった、と想定されます。

 しかし、第1層としてまとめられてきた中国南部とアジア南東部と日本列島の標本全体の類似した頭蓋の特徴は、本論文や他の研究(関連記事1および関連記事2および関連記事3)では遺伝的に類似のまとまりを示しません。これは、研究されてきた頭蓋の特徴が、これら農耕開始前の人口集団全体の多様性を正確に把握していないかもしれない、と示唆します。ホアビン文化祖先系統のような深いアジア祖先系統は存在しますが、広西チワン族自治区や福建省や日本列島も含めてアジア東部全域の過去11000年の標本抽出された人類遺骸は、相互により多くの共通祖先系統を有しており、アジア東部系統の多くの側枝を明らかにします。

 1500〜500年前頃となる歴史時代の広西チワン族自治区人口集団では、黄河流域のアジア東部北方人と関連する山東省祖先系統が顕著で、中国南部とアジア南東部全域で観察されるパターンです(関連記事1および関連記事2)。11000〜6400年前頃の広西チワン族自治区の個体群では北方祖先系統は観察されておらず、山東省祖先系統を有する人口集団の移動は6400〜1500年前頃に起きた、と示唆されます。歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、オーストロネシア人とは異なり、アジア東部北方祖先系統を有する人口集団からの大きな影響を示します。検出可能な広西祖先系統の欠如から、広西祖先系統が中国南部ではこの時期までに消滅し、この地域で現在見られる遺伝的多様性に実質的には寄与していない、と示唆されます。

 歴史時代の広西チワン族自治区人口集団の標本抽出は、広西チワン族自治区の最近の人口史と関連するいくつかの議論を解決します。現在広西チワン族自治区では2つの主要な言語集団が見られ、一方はタイ・カダイ語族話者、もう一方はミャオ・ヤオ語族話者と関連しています。本論文のデータにおける歴史時代の広西チワン族自治区人口集団は、タイ・カダイ語族話者と関連する祖先系統が少なくとも1500年前頃までに見られる一方で、ミャオ・ヤオ語族話者と関連する祖先系統は500年前頃の個体群に見られることを示します。したがって、これら2つの人口集団は、少なくとも500年間広西チワン族自治区に継続して居住してきました。

 11000年前頃までに、広西チワン族自治区はホアビン文化祖先系統もしくは福建省祖先系統と関連しない深く分岐した祖先系統を示し、この広西祖先系統は9000〜6400年前頃までにひじょうに混合した人口集団に取って代わられました。福建省とは異なり、広西チワン族自治区におけるひじょうに混合した人口集団の存在から、広西チワン族自治区は、広西チワン族自治区在来の人口集団、福建省からの人口集団、アジア南東部のホアビン文化と関連する人口集団間の相互作用地帯だった、と示唆されます。アジア南東部とは異なり、農耕開始のずっと前の遺伝子流動が、これらの地域における農耕開始前の人口集団の形成に重要な役割を果たした、と明らかになりました。

 これらの先史時代個体群は、広西チワン族自治区の現在の人口集団とは密接な関係を共有していませんが、1500年前頃以降、現在のタイ・カダイ語族話者およびミャオ・ヤオ語族話者と関連する祖先系統が見つかりました。長江および中国南西部近くの地域における標本抽出により、6000〜1500年前頃に中国南部で現在見られる遺伝的構成をもたらすに至った遺伝的変化と、さらに、アジア南東部全域の人類の顕著に多様な遺伝的先史時代が明らかになります。以下は本論文の要約図です。
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 本論文は最後に、限界も指摘しています。本論文での標本抽出は限定的な数の個体に基づいているので、この期間のアジア東部と南東部に存在した遺伝的多様性を充分に表していないかもしれません。12000年前頃から現在に至るアジア東部および南東部のより広範な地域にわたるさらなる標本抽出が、この地域の先史時代人類の遺伝的相互作用のさらなる調査に必要となるでしょう。


 以上、本論文についてざっと見てきました。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたユーラシア東部における近年の古代DNA研究の進展には目覚ましいものがあり、本論文は気候条件から古代DNA研究には適さないアジア東部南方の古代人、それも1万年以上前の個体も含めてのDNA解析結果を報告しており、たいへん重要な成果と言えるでしょう。アジア東部南方やアジア南東部の更新世人類遺骸の古代DNA解析はかなり難しいでしょうし、そもそも人類遺骸自体少ないわけですが、気候条件がDNA解析に厳しいものの、最近急速に発展している洞窟堆積物のDNA解析が成功すれば、さらに詳しい人口史が明らかになるのではないか、と期待されます。

 本論文は、完新世最初期の時点でのアジア東部の現生人類集団の遺伝的異質性が現在よりもずっと高かったことを、改めて示しました。アジア東部では完新世に人類集団の遺伝的均質化が進んだわけですが、それが現在の広西チワン族自治区など一部の地域では農耕開始前に始まりつつあったことを示したのは、大きな成果だと思います。とくに、ホアビン文化集団の北方への移動の可能性が高いことを示したことは、大いに注目されます。おそらく、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)など寒冷期に、人類集団が孤立して遺伝的に分化していった地域は多く、遺伝的分化が進展していき、その後の温暖化により人類集団の広範な地域への移動と相互作用が活発化し、遺伝的に均質化していったのではないか、と考えられます。

 また本論文は、特定の地域における長期の人類集団の連続性を自明視すべきではないことも、改めて示したと言えるでしょう。この問題には最近言及しましたが(関連記事)、アジア東部南方についてはほとんど言及できなかったので、本論文は私にとってたいへん有益でした。本論文は改めて、現代の各地域集団の遺伝的構成から過去の同地域の集団の遺伝的構成や拡散経路や到来年代を推測することは危険である、と示したように思います。多くの地域において、現生人類が拡散してきた後期更新世から完新世にかけて、絶滅・置換・変容が起きたのでしょう。また本論文は、非現生人類ホモ属である可能性さえ指摘されていた隆林個体が、遺伝的にはユーラシア東部の現生人類の変異内に収まる、と示しており、形態学的特徴による区分がいかに難しいのか(関連記事)、改めて確認されました。

 本論文は、隆林個体と伊川津縄文人と新石器時代アジア東部人は同時に相互に分離した可能性が高いことを示唆します。ただ、最近の研究で、縄文人が(本論文の云う)ホアビン文化祖先系統(とより密接な祖先系統)と福建省祖先系統(とより密接な祖先系統)の混合だと推測されているように(関連記事)、じっさいの人口史はずっと複雑である可能性が高いように思います。系統樹は遠い遺伝的関係の分類群同士の関係を図示するのには適しているものの、近い遺伝的関係の分類群同士では複雑な関係を適切に表せるとは限らず、隆林個体や伊川津縄文人の位置づけに関しては、今後の研究の進展によりさらに実際の人口史に近づけるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018

https://sicambre.at.webry.info/202106/article_27.html

14. 2021年9月07日 11:12:19 : r5z45lvW9w : b2RKcGJ1YVo0ZE0=[24] 報告
雑記帳
2021年09月06日
ユーラシア東部の現生人類史とY染色体ハプログループ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html


 当ブログでは2019年に、Y染色体ハプログループ(YHg)と日本人や皇族に関する複数の記事を掲載しました。現代日本人のYHg-Dの起源(関連記事)、「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係(関連記事)、天皇のY染色体ハプログループ(関連記事)と、共通する問題を扱っており似たような内容で、じっさい最初の記事以外は流用も多く手抜きでしたが、皇位継承候補者が減少して皇族の存続が危ぶまれ、女系天皇を認めるのか父系を維持するのか、との観点から現代日本社会では関心が比較的高いためか、天皇のYHgについて述べた2019年8月23日の記事には、その1ヶ月半後から最近まで度々コメントが寄せられています。

 2019年に掲載したYHgと日本人や皇族に関する複数の記事の内容は、その後のYHgに関する研究の進展を踏まえた現在の私見とかなり異なるので、正直なところ今でもコメントが寄せられるのには困っていました。そこで、ユーラシア東部における現生人類(Homo sapiens)の歴史とYHgについて現時点での私見をまとめて、上記の記事に関しては追記でこの記事へのリンクを張り、以後はコメントを受け付けないようにします。また、現生人類がユーラシア東部を経て拡散したと思われる太平洋諸島やオーストラリア大陸やアメリカ大陸についても言及します。なお、最近(2021年6月22日)、「アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性」と題して類似した内容のことを述べており(関連記事)、重複というか流用部分も少なからずあります。


●ユーラシア東部現代人の遺伝的構成

 ユーラシア東部への現生人類の初期の拡散は、とくにその年代について議論になっています。とくに、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカよりも古くなりそうな、7万年以上前となるユーラシア東部圏の現生人類の痕跡が議論になっており、そうした主張への疑問も強く呈されています(Hublin., 2021、関連記事)。仮に、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカが7万年前頃以降ならば、7万年以上前にアフリカからユーラシア東部に現生人類が拡散してきたとしても、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していない可能性が高そうです。それは、非アフリカ系現代人の主要な祖先とは遺伝的に異なる出アフリカ現生人類集団だけではなく、遺伝的に大きくは出アフリカ系現代人の範疇に収まる集団でも起きたことで、更新世のユーラシア東部に関しては、アジア東部の北方(Mao et al., 2021、関連記事)と南方(Wang T et al., 2021、関連記事)で、現代人に遺伝的影響をほぼ残していないと推測される集団が広く存在していた、と指摘されています。現生人類が世界規模で拡大し、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に代表される氷期には分断が珍しくない中で、更新世には遺伝的分化が進みやすく、また集団絶滅も珍しくなかったのだと思います。

 これは、スンダ大陸棚(アジア東部大陸部とインドネシア西部の大陸島)を含むアジア南東部本土とサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)との間の海洋島嶼地帯であるワラセア(ウォーレシア)に関しても当てはまります。ワラセアのスラウェシ島南部のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞で発見された完新世となる7300〜7200年前頃の女性遺骸(以下、LP個体)は、現代人では遺伝的影響が確認されていない集団を表している、と推測されています(Carlhoff et al., 2021、関連記事)。LP個体の遺伝的構成要素は二つの大きく異なる祖先系統(祖先系譜、ancestry)に由来しており、一方はオーストラリア先住民とパプア人が分岐した頃に両者の共通祖先から分岐し、もう一方はアジア東部祖先系統において基底部から分岐したかオンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されています。LP個体はユーラシア東部における現生人類の拡散を推測するうえで重要な手がかりになりそうですが、その前に、現時点で有力と思われるモデルを見ていく必要があります。

 アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang CC et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統は、まずユーラシア東部(EE)と西部(EW)に分岐します。その後、EE祖先系統は沿岸部(EEC)と内陸部(EEI)に分岐します。EEC祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人やオーストラリア先住民やパプア人、古代人ではアジア南東部の後期更新世〜完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。EEC祖先系統は、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素と言えるでしょう。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このEEI祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 このモデルを上述のLP個体に当てはめると、LP個体における二つの主要な遺伝的構成要素は、EEC 祖先系統(のうちオーストラリア先住民とパプア人の共通祖先系統)と、EEI祖先系統もしくは(EEC 祖先系統のうち)オンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されます。ここでまず問題となるのは、LP個体における一方の主要な遺伝的構成要素が、EEI祖先系統である可能性も、オンゲ人関連祖先系統である可能性もあることです。次に問題となるのは、Wang CC et al., 2021では、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素であるEEI祖先系統が、ユーラシア東部祖先系統においてEEI祖先系統と分岐したとモデル化されているのに対して、最近の別の研究では、出アフリカ現生人類集団がまずオーストラレーシア人とユーラシア東西の共通祖先集団とに分岐した、と推定されています(Choin et al., 2021、関連記事)。

 こうした非アフリカ系現代人におけるオーストラレーシア人の系統的位置づけの違いをどう解釈すべきか、もちろん現時点で私に妙案はありませんが、注目されるのは、遺伝学と考古学とを組み合わせて初期現生人類のアフリカからの拡散を検証した研究です(Vallini et al., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021では、パプア人の主要な遺伝的構成要素に関して、EE祖先系統内で早期にEEI祖先系統(というかアジア東部現代人の主要な祖先系統)と分岐した可能性と、EEとEWの共通祖先系統と分岐した祖先系統とアジア東部現代人の主要な祖先系統との45000〜37000年前頃の均等な混合として出現した可能性が同等である、と推測されています。以前は、オーストラレーシア人の主要な祖先系統である、EEおよびEWの共通祖先系統(EEW祖先系統)と分岐した祖先系統を「原オーストラレーシア祖先系統」と呼びましたが(関連記事)、今回は、ユーラシア南部(ES)祖先系統と呼びます。以下はVallini et al., 2021の図1です。
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 非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域の割合に大きな地域差がないことから、非アフリカ系現代人のネアンデルタール人的な遺伝的構成要素は単一の混合事象に由来し、その混合年代は6万〜5万年前頃と推定されています(Bergström et al., 2021、関連記事)。したがって、ES祖先系統はネアンデルタール人と混合した後の現生人類集団においてEEW祖先系統と分岐した、と考えられます。

 Vallini et al., 2021に従うと、ES祖先系統およびEEW祖先系統の共通祖先系統と分岐したのが、チェコ共和国のコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体(Prüfer et al., 2021、関連記事)に代表される集団の主要な祖先系統です(ズラティクン祖先系統)。ズラティクンも非アフリカ系現代人と同程度のネアンデルタール人からの遺伝的影響を受けており、出アフリカ現生人類集団とネアンデルタール人との混合後に、出アフリカ現生人類集団において早期に分岐した、と推測されます。

 出アフリカ現生人類集団において、ズラティクンに代表される集団が非アフリカ系現代人の共通祖先集団と遺伝的に分化する前に分岐したと考えられるのが、基底部ユーラシア人です。基底部ユーラシア人はネアンデルタール人からの遺伝的影響を殆ど若しくは全く有さない仮定的な(ゴースト)出アフリカ現生人類集団で、ユーラシア西部現代人に一定以上の遺伝的影響を残しています(Lazaridis et al., 2016、関連記事)。現時点で基底部ユーラシア人の遺伝的痕跡が確認されている最古の標本は、26000〜24000年前頃のコーカサスの人類遺骸と堆積物です(Gelabert et al., 2021、関連記事)。

 話をオーストラレーシア人の非アフリカ系現代人集団における遺伝的位置づけに戻すと、オーストラレーシア人の遺伝的構成要素がES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合に起因すると仮定すると、オーストラレーシア人の系統的位置づけが研究により異なることを上手く説明できるかもしれません。また、オーストラレーシア人でもオーストラリア先住民およびパプア人(以下、サフルランド集団)の共通祖先とアンダマン諸島人とでは、ES祖先系統とEE祖先系統との混合年代が異なるかもしれません。つまり、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団がサフルランド集団の共通祖先とアンダマン諸島人の祖先とに遺伝的に分化した後に、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団が、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするそれぞれの祖先集団と混合したのではないか、というわけです。Vallini et al., 2021に従うと、パプア人はES祖先系統とEE祖先系統の均等な混合としてモデル化されますが、アンダマン諸島人の混合割合は異なっているかもしれません。

 仮にこの想定が一定以上妥当ならば、LP個体もES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合により形成されたことになりそうです。LP個体で重要なのは、アジア東部からアジア南東部に新石器時代に拡散してきた農耕集団の主要な遺伝的構成要素(Yang et al., 2020)が、Wang CC et al., 2021に従うとEEIS祖先系統と考えられるのに対して、EEIS祖先系統と早期に分岐した未知のEE祖先系統が一方の主要な遺伝的構成要素と推定されていることです(Carlhoff et al., 2021)。LP個体の年代(7300〜7200年前頃)からも、農耕集団の主要な遺伝的構成要素であるEEISおよびEEIN祖先系統以外のEE祖先系統が、アジア南東部への農耕拡大前にオーストラレーシア人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と示唆されます。

 北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(Yang et al., 2017、関連記事)の主要な遺伝的構成要素が、Wang CC et al., 2021でもVallini et al., 2021でもEE(もしくはEEI)祖先系統であることから、ユーラシア東部系集団は4万年前頃までにはアジア東部北方にまで拡散したと考えられます。ユーラシア東部系集団がいつどのようにEW祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするオーストラレーシア人の一方の祖先集団(ユーラシア南部系集団)と遭遇して混合したのか不明ですが、ユーラシアを北回りで東進し、アジア東部に到達してから南下した可能性と、ユーラシアを南回りで東進してアジア南東部に到達してから北上した可能性と、アジア南西部もしくは南部で北回りと南回りに分岐した可能性が考えられます。その過程でユーラシア東部系集団(EE集団)は遺伝的に分化していき、ユーラシア南部系集団(ES集団)と混合したのでしょう。オーストラリア先住民とパプア人の遺伝的分化が40000〜25000年前頃と推定されているので(Malaspinas et al., 2016、関連記事)、ユーラシア東部系集団とサフルランド集団の祖先集団との混合はその頃までに起きた、と考えられます。この点からも、ユーラシア東部系集団が3万年以上前にアジア南東部というかスンダランドに存在した可能性は高そうです。

 ユーラシア東部圏やオセアニアの現代人および古代人集団は、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたと考えられますが、とくに注目されるのは、ユーラシア東部系もしくはアジア東部系集団で、現代人と掻器に分岐したと推定されている古代人集団です。具体的には、中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11510±255年前(Curnoe et al., 2012、関連記事)のホモ属頭蓋(隆林個体)と「縄文人(縄文文化関連個体群)」です。隆林個体(Wang T et al., 2021)と愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(Gakuhari et al., 2020、関連記事)はともに、アジア東部現代人の共通祖先集団と早期に分岐した集団を表している、と推測されています。おそらく両者とも、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により形成され、アジア東部現代人集団との近縁性から、アンダマン諸島人よりもEE祖先系統の割合が高いと考えられます。「縄文人」や隆林個体的集団のように、EE祖先系統とES祖先系統との単一事象ではなく複数回起きたかもしれない複雑な混合により形成された未知の遺伝的構成で、現代人への遺伝的影響は小さいか全くない古代人集団は少なくなかったと想定されます。

 隆林個体と地理的にも年代的にも近い(14310±340〜13590±160年前)の中華人民共和国雲南省の馬鹿洞(Maludong)で発見されたホモ属の大腿骨(馬鹿洞人)は、その祖先的特徴から非現生人類ホモ属である可能性が指摘されています(Curnoe et al., 2015、関連記事)。しかし、おそらく馬鹿洞人も隆林個体と同様に、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたのでしょう。隆林個体やオーストラリアの一部の更新世人類遺骸から推測すると、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団(ユーラシア南部集団)は、形態的にはかなり頑丈だった可能性があります。ただ、ユーラシア南部集団が出アフリカ現生人類集団の初期の形態をよく保っているとは限らず、新たな環境への適応と創始者効果の相乗による派生的形態の可能性もあるとは思います。この問題で示唆的なのは、オーストラリア先住民が、華奢なアジア東部起源の集団と頑丈なアジア南東部起源の集団との混合により形成された、との現生人類多地域進化説の想定です(Shreeve.,1996,P124-128)。多地域進化説は今ではほぼ否定されましたが(Scerri et al., 2019、関連記事)、碩学の提唱だけに、注目すべき指摘は少なくないかもしれません。

 Wang CC et al., 2021では、アジア東部現代人はおもにEEIN祖先系統とEEIS祖先系統の混合でモデル化され、前者は黄河流域新石器時代集団に、後者は長江流域新石器時代集団に代表される、と想定されています。中国の現代人はこの南北の遺伝的勾配を示し、北方で高いEEIN祖先系統の割合が南下するにつれて低下していく、と推測されています。また長江流域新石器時代集団だけではなく、黄河流域新石器時代集団にも少ないながら一定以上の割合でEEC祖先系統がある、とモデル化されています。「縄文人」はEEIS祖先系統(56%)とEEC祖先系統(44%)の混合としてモデル化され、青銅器時代西遼河地域集団でもEEC祖先系統がわずかながら示されています。

 EEC祖先系統がEE祖先系統とEW祖先系統の複雑な混合により形成されたとすると、Wang CC et al., 2021のEEC祖先系統は、オーストラレーシア人の祖先集団の遺伝的構成要素が混合と移動によりアジア東部北方までもたらされた、という想定とともに、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団となったユーラシア東部系集団と遺伝的に近縁な集団にも由来するか、あるいはその集団に排他的に由来する可能性も考えられます。そうだとすると、オーストラレーシア人関連祖先系統が南アメリカ大陸の一部先住民でも確認されていること(Castro et al., 2021、関連記事)と関連しているかもしれません。南アメリカ大陸の一部先住民のゲノムにおけるオーストラレーシア人関連祖先系統は、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団で、アジア東部現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないユーラシア東部系集団にその大半が由来する、というわけです。アメリカ大陸への人類の拡散については、最近の総説がたいへん有益です(Willerslev, and Meltzer., 2021、関連記事)。


●日本列島の人口史

 日本列島においてDNAが解析された最古の人類遺骸は2万年前頃の港川人(Mizuno et al., 2021、関連記事)ですが、これはミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析で、核DNAとなると、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980〜7460年前頃の男性となります(Adachi et al., 2021、関連記事)。日本列島における4万年前頃以前の人類の存在はまだ確定しておらず(野口., 2020、関連記事)、4万年前頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。この4万年前頃以降の日本列島の人類は、ほぼ間違いなく現生人類と考えられますが、4万〜8000年前頃の日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成は不明です。

 Vallini et al., 2021では、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするアジア東部の初期現生人類は初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とともに拡散してきた、と推測されています。IUPの定義およびその特徴は石刃製法で、最も広い意味での特徴は、硬質ハンマーによる打法、打面調整、固定された平坦な作業面もしくは半周作業面を半周させて石刃を打ち割ることで、平坦作業面をもつ石核はルヴァロワ(Levallois)式のそれに類似していますが、上部旧石器時代の立方体(容積的な)石核との関連が見られることは異なります(仲田., 2019、関連記事)。IUP的な石器群は、日本列島では最初期の現生人類の痕跡と考えられる37000年前頃の長野県の香坂山遺跡で見つかっていることから(国武., 2021、関連記事)、日本列島最初期の現生人類もEE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団だったかもしれません。一方、港川人の遺伝的構成は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の最初期現生人類集団とは異なっていた可能性があります。

 4万年前頃以降となる日本列島最初期の現生人類の遺伝的構成がどのようなものだったのか、そもそも日本列島、とくに「本土」における更新世人類遺骸がほとんどなく、今後の発見も期待薄なので解明は難しそうです。しかし、急速に発展しつつある洞窟堆積物のDNA解析(Vernot et al., 2021、関連記事)により、この問題が解決される可能性も期待されます。田園洞窟の4万年前頃の男性個体(田園個体)は、現代人にほぼ遺伝的影響を残していないと推測されていますが(Yang et al., 2017)、3万年以上前には沿岸地域近くも含めてアジア東部北方に広範に分布していた可能性が指摘されています(Mao et al., 2021)。したがって、日本列島の最初期現生人類が田園個体と類似した遺伝的構成の集団(田園洞集団)だった可能性は低くないように思います。また、港川人のmtDNAハプログループ(mtHg)が既知の古代人および現代人とは直接的につながっていないこと(Mizuno et al., 2021)からも、日本列島の最初期現生人類が現代人や「縄文人」とは遺伝的につながっていない可能性は低くないように思います。

 日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成が明らかになるのは縄文時代以降で、「縄文人」では複数の個体の核ゲノム解析結果が報告されています。上述のように、そのうち最古の個体は佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980〜7460年前頃の男性(Adachi et al., 2021)で、その他に、核ゲノム解析結果が報告された縄文人は、上述の愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の個体(Gakuhari et al., 2020)、北海道礼文島の3800〜3500年前頃の個体(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)、千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体(Wang CC et al., 2021)です。これら縄文人個体群は、既知の古代人および現代人との比較で遺伝的に一まとまりを形成し、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団であることを示唆しますが、これは形態学でも以前より指摘されていました(山田.,2015,P126-128、関連記事)。

 弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、これらの縄文人と遺伝的に一まとまりを形成します(神澤他., 2021A、関連記事)。中国と四国と近畿の縄文時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果を見なければ断定できませんが、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団である可能性はかなり高そうです。大友8号は、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、縄文文化とのみ関連していない可能性を示唆し、これは最近の査読前論文(Robbeets et al., 2021)の結果とも整合的です。Robbeets et al., 2021では、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9〜紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が、既知の縄文人(六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群)とほぼ同じと示されました。先史時代の先島諸島には、縄文文化の影響がほとんどないと言われています。

 さらに、縄文人的な遺伝的構成(縄文人祖先系統)は日本列島以外でも高い割合で見られます。朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の人類は、割合はさまざまですが、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団と縄文人との混合としてモデル化されます(Robbeets et al., 2021)。そのうち4000年前頃の欲知島(Yokchido)個体の遺伝的構成要素は、ほぼ縄文人祖先系統で占められています。また、大韓民国釜山市の加徳島の獐遺跡の6300年前頃の人類も縄文人祖先系統を有している、と示されています(関連記事)。これらの知見から、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、現地の環境への適応および/もしくは先住集団との混合により日本列島の縄文文化以外の文化の担い手になった、と考えられます。

 縄文人の形成過程が不明なので、朝鮮半島に縄文人祖先系統がどのようにもたらされたのか断定できませんが、その地理的関係からも、日本列島から朝鮮半島にもたらされた可能性が高そうです。考古学では、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになっており、人的交流もあったと考えられますが、この交流を過大評価すべきではない、とも指摘されています(山田.,2015,P129-133、関連記事)。日本列島の縄文時代において、日本列島から朝鮮半島だけではなく、その逆方向での人類集団の拡散もあったと考えられますが、現時点では縄文人にその遺伝的痕跡が検出されていません。しかし、核ゲノムデータが得られている西日本の縄文人は佐賀市東名貝塚遺跡の1個体だけですから、縄文時代の日本列島に朝鮮半島から紅山文化集団関連祖先系統がもたらされた可能性は低くないでしょう。ただ、弥生時代早期の西北九州の大友8号の事例からは、日本列島の縄文人において、紅山文化集団関連祖先系統など朝鮮半島由来のアジア東部大陸部祖先系統(Wang CC et al., 2021のEEIN祖先系統)が長期にわたって持続した可能性は低いように思います。もちろん、西日本の時空間的に広範囲にわたる人類遺骸の核ゲノム解析結果が蓄積されるまでは断定できませんが。

 弥生時代になると、日本列島の人類集団の遺伝的構成が大きく変わります。現代日本人は、縄文人祖先系統(8%)と青銅器時代遼河地域集団関連祖先系統(92%)の混合としてモデル化されています(Wang CC et al., 2021)。Robbeets et al., 2021では、現代日本人は遼河地域の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化されています。したがって、以前から指摘されているように、弥生時代以降に日本列島にはアジア東部大陸部から人類集団が移住してきて、現代日本人に大きな遺伝的影響を残した、と考えられます。

 ただ、これは「縄文人」から「(アジア東部大陸部起源の)弥生人」という単純な図式で説明できるものではなさそうです。まず、上述のように弥生時代早期の西北九州の大友8号は遺伝的に既知の縄文人の範疇に収まります(神澤他., 2021)。東北地方の弥生時代の男性も、核ゲノム解析では縄文人の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事)。弥生時代の人類でも「西北九州型」は形態的には縄文人に近いとされており、遺伝的には既知の縄文人の範疇に収まる大友8号も西北九州で発見されました。一方、弥生時代の「西北九州型」でも長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と縄文人との中間に位置付けられます(篠田他., 2019、関連記事)。

 縄文人との形態的類似性が指摘される「西北九州型弥生人」とは対照的に、アジア東部大陸部集団との形態的類似性が指摘される「渡来系弥生人」では、福岡県那珂川市の弥生時代中期となる安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)で核ゲノム解析結果が報告されており、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる、と示されています(篠田他., 2020、関連記事)。「渡来系弥生人」は、その形態から遺伝的には夏家店上層文化集団などアジア東部大陸部集団にきわめて近いと予想されていましたが、じっさいには現代日本人と酷似していました。また安徳台5号は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合が高いと推定されています(Robbeets et al., 2021)。同じく「渡来系弥生人」でも弥生時代中期となる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや低くなっています(Robbeets et al., 2021)。鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代中期〜後期の個体群は、縄文人祖先系統の割合に応じて、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる個体から、現代日本人よりもややアジア東部大陸部集団に近い個体までさまざまです(神澤他., 2021B、関連記事)。

 これら弥生時代の人類遺骸は形態に基づく分類の困難(関連記事)を改めて強調しており、それは上述の隆林個体(Wang T et al., 2021)でも示されています。このように、弥生時代の人類の遺伝的構成は、縄文人そのものから、現代日本人と縄文人との中間、現代日本人の範疇、現代日本人よりも低い割合の縄文人祖先系統までさまざまだったと示されます。さらに、アジア東部大陸部集団そのものの遺伝的構成の集団も存在したと考えられることから、弥生時代は日本列島の人類史において有数の遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 日本列島におけるこうした弥生時代の人類集団の形成に関して注目されるのが、2800〜2500年前頃の朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)です。Taejungni個体は、夏家店上層文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化され、現代日本人と遺伝的にかなり近いものの、縄文人祖先系統の割合は現代日本人よりもやや高めです(Robbeets et al., 2021)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が、アジア東部大陸部から日本列島に到来した夏家店上層文化集団的な遺伝的構成の集団と、日本列島在来の縄文人の子孫との混合により形成されたのではなく、朝鮮半島において紀元前千年紀前半にはすでに形成されていた可能性を示唆します。

 一方、上述の6000〜2000年前頃の朝鮮半島南端の縄文人祖先系統を高い割合で有する集団は、紅山文化集団関連祖先系統との混合を示しており、現代日本人への遺伝的影響は小さい可能性があります。また、6000〜2000年前頃の朝鮮半島南端の集団も、Taejungni個体に代表される朝鮮半島中部の集団も、現代朝鮮人への遺伝的影響は大きくなく、紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島の人類集団で大きな遺伝的変容が起きた可能性も考えられます。朝鮮半島の人類集団は5000年以上前から遺伝的構成がほとんど変わらず、弥生時代以降に日本列島に拡散して現代日本人の遺伝的構成に縄文人よりもはるかに大きな影響を残したので、日本人は朝鮮人の子孫であるといった言説が仮にあったとしても妥当ではないだろう、というわけです。

 夏家店上層文化集団関連祖先系統は、黄河流域新石器時代集団関連祖先系統よりも、アムール川地域集団関連祖先系統の割合の方が高い、とモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。アムール川地域集団の遺伝的構成は14000年前頃から現代まで長期にわたって安定している、と示されています(Mao et al., 2021)。また、アジア東部北方完新世集団の遺伝的構造は地理的関係を反映しており、アムール川と黄河流域が対極に位置し、遼河地域はその中間的性格を示し、この構造は前期完新世にまでさかのぼります(Ning et al., 2020、関連記事)。中国の現代人(おもに漢人)は、上述のように黄河流域新石器時代集団と長江流域新石器時代集団との地域によりさまざまな割合の混合の結果成立しましたから、現代漢人と現代日本人との遺伝的相違は、縄文人祖先系統の割合とともに、少なくとも前期完新世にまでさかのぼる遺伝的分化に起因する可能性が高そうです。また黄河流域新石器時代集団は、稲作の北上とともに長江流域新石器時代集団の遺伝的影響も受けていると推測されているので(Ning et al., 2020)、現代日本人は間接的に長江流域新石器時代集団から遺伝的影響(黄河流域新石器時代集団よりも低い割合で)と文化的影響を受けていると考えられます。以下、アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体・集団の遺伝的構成を示したRobbeets et al., 2021の図3です。
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 注目されるのは、Taejungni個体も「渡来系弥生人」の一部も、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや高いことです。さらに、高松市茶臼山古墳の古墳時代前期個体(茶臼山3号)は、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021C、関連記事)。出雲市猪目洞窟遺跡の紀元後6〜7世紀の個体(猪目3-2-1号)と紀元後8〜9世紀の個体(猪目3-2-2号)も、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021D、関連記事)。

 これらの知見は、本州の沿岸地域となる「周辺部」と「中央軸」地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との遺伝的違い(日本列島の内部二重構造モデル)を反映しているかもしれません(Jinam et al., 2021、関連記事)。「中央軸」地域は歴史的に日本列島における文化と政治の中心で、アジア東部大陸部から多くの移民を惹きつけたのではないか、というわけです。都道府県単位の日本人の遺伝的構造を調べた研究では、この「中央軸」地域に位置する奈良県の人々が、現代漢人と遺伝的に最も近い、と示されています(Watanabe et al., 2020、関連記事)。朝鮮半島において紀元前千年紀後半以降に、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合をずっと低下させ、遺伝的構成を大きく変えるようなアジア東部大陸部からの人類集団の流入があり、そうした集団が古墳時代以降に継続的に日本列島に渡来し、現代日本人の遺伝的構造の地域差が形成された、と考えられます。また、この推測が一定以上だとすると、現代日本人における縄文時代末に日本列島に存在した「縄文人」の遺伝的影響は、現在の推定値である9.7%(Adachi et al., 2021)よりもずっと低いかもしれません。


●Y染色体ハプログループ

 冒頭で述べたように、現代日本社会ではY染色体ハプログループ(YHg)への関心が高いようです。現代日本社会でとくに注目されているのは、世界では比較的珍しいものの日本では一般的なYHg-Dでしょう。これが日本人の特異性と結びつけられ、縄文人で見つかっていることから(現時点では、縄文人もしくは縄文人的な遺伝的構成の日本列島の古代人のYHgはDしか確認されていないと思います)、縄文人以来、さらに言えば人類が日本列島に到来した時から続いているのではないか、というわけです。注目されているようです。確かに、縄文人は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、との見解も提示されています(Gakuhari et al., 2020)。

 しかし、上述のように日本列島の最初期の現生人類集団が田園洞集団的な遺伝的構成だったとすると、縄文人にも現代人にも遺伝的影響をほぼ残さず絶滅したことになり、その可能性は低くないように思います。人類史において、完新世よりも気候が不安定だった更新世には集団の絶滅・置換は珍しくなく、それは非現生人類ホモ属だけではなく現生人類も同様でしたから、日本列島だけ例外だったとは断定できないでしょう(関連記事)。仮にそうだとしたら、YHg-D1a2aは日本人固有で、日本列島には4万年前頃から現生人類が存在したのだから、Yfullで18000〜15000年前頃と推定されているYHg-D1a2a1(Z1622)とD1a2a2(Z1519)の分岐は日本列島で起きたに違いない、との前提は成立しません。

 この推測には古代DNAデータの間接的証拠もあります。カザフスタン南部で発見された紀元後236〜331年頃の1個体(KNT004)は、日本列島固有とされ、縄文人でも確認されているYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される祖先系統(アムール川地域集団関連祖先系統)の割合が高く、アムール川地域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)はYHg-DEです(Mao et al., 2021)。アムール川地域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。これを、日本列島から「縄文人」が拡散した結果と解釈できないわけではありませんが、ユーラシア東部大陸部にも更新世から紀元後までYHg-Dが低頻度ながら広く分布しており、YHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐は日本列島ではなくユーラシア東部大陸部で起きた、と考える方が節約的であるように思います。

 上述の現代日本人の形成過程の推測と合わせて考えると、現代日本人のYHg-D1a2には、縄文人由来の系統も、縄文人が朝鮮半島に拡散して弥生時代以降に「逆流」した系統も、アムール川地域などアジア東部北方に低頻度ながら存在し、青銅器時代以降に朝鮮半島を経て日本列島に到来した系統もありそうで、単純に全てを縄文人由来と断定することはできないように思います。その意味で、仮に皇族のYHgが現代日本人の一部?で言われるようにD1a2a1だったとしても、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性は低くないように思います。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった4415〜4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。上述のように、ホアビン文化集団はユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測され、それは縄文人や隆林個体に代表される古代人集団やアンダマン諸島現代人も同様だったでしょう。縄文人やアンダマン諸島現代人のオンゲ人においてYHg-D1a2がとくに高頻度で、アジア東部北方の古代人でほとんど見つかっていないことから、YHg-Dはユーラシア南部系集団に排他的に由来する、とも考えられます。しかし、同じくユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測されるサフルランド集団ではYHg-Dが見つかりません。

 YHg-Dは分岐が早い系統なので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在し、創始者効果や特定の父系一族が有力な地位を独占するなどといった要因により、大半の集団ではYHg-Dが消滅し、一部の集団では高頻度で残っている、と考えるのが最も節約的なように思います。おそらくサフルランド集団の祖先集団にもYHg-Dは存在し、ユーラシア東部系集団との混合などにより消滅したのでしょう。YHgは置換が起きやすいので(Petr et al., 2021、関連記事)、現代の分布と地域および集団の頻度から過去の人類集団の移動を推測するのには慎重であるべきと思います。

 チベット人ではYHg-D1a1が多く、Wang CC et al., 2021ではチベット人はずっと高い割合のEEIN祖先系統とずっと低い割合のEEC祖先系統との混合とモデル化されています。おそらく、チベット人の祖先となったユーラシア南部系集団は、縄文人、さらには現代日本人の祖先となったユーラシア南部系集団とは遺伝的にかなり分岐しており、YHg-D1a共有を根拠に現代の日本人とチベット人との近縁性を主張するのには無理があるでしょう。Wang CC et al., 2021では、現代の日本人もチベット人もEEIN祖先系統の割合が高くなっていますが、日本人は青銅器時代遼河地域集団、チベット人は黄河地域新石器時代集団と近いとされているので、この点でも、現代の日本人とチベット人との近縁性を強調することには疑問が残ります。

 YHgでも非アフリカ系現代人で主流となっているK2は分岐がYHg-Dよりも遅いので、ユーラシア南部系集団には存在しなかったかもしれません。Vallini et al., 2021では、4万年前頃の北京近郊の田園個体はユーラシア東部系集団に位置づけられ、そのYHgはK2bです(高畑., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021で同じくユーラシア東部系集団ながら基底部近くで分岐したと位置づけられる、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃(Bard et al., 2020、関連記事)となる男性(Fu et al., 2014、関連記事)はYHg-NOです(Wong et al., 2017)。古代DNAデータでも、YHg-K2がユーラシア東部系集団に存在したと確認されます。

 YHg-CはYHg-Dに次いで分岐が早いので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在した可能性が高そうです。チェコ共和国のバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640〜42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響はほとんどない、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。この4万年以上前となるバチョキロ洞窟個体群ではYHg-F(M89)の基底部系統とYHg-C1(F3393)が確認されており、ユーラシア東部系集団には、YHg-CとYHg-K2も含めてYHg-Fが存在したと考えられます。Vallini et al., 2021ではこのバチョキロ洞窟個体群はユーラシア東部系集団に位置づけられ、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)の祖先集団と遺伝的にきわめて近縁とされます。「Oase 1」のYHgはFで(高畑., 2021)、ユーラシア東部系集団におけるYHg-Fの存在のさらなる証拠となります。

 サフルランド集団のYHgはK2(から派生したS1a1a1など)とC1b2が多くなっており、YHg-C1b2はユーラシア南部系集団に存在したかもしれませんが、YHg-K2はユーラシア東部系集団との混合によりもたらされたかもしれません。それにより、サフルランド集団の祖先集団には存在したYHg-Dが消滅した可能性も考えられます。もちろん、YHgについて述べてきたこれらの推測は、YHgの下位区分の詳細な分析と現代人の大規模な調査とさらなる古代人のデータの蓄積により、今後的外れと明らかになる可能性は低くないかもしれませんが、とりあえず現時点での推測を述べてみました。


●まとめ

 以上、現時点での私見を述べてきましたが、今後の研究の進展によりかなりのところ否定される可能性は低くないでしょう。それでも、一度情報を整理することで理解が進んだところもあり、やってよかったとは思います。まあ、自己満足というか、他の人には、よく整理されていないので分かりにくいと思えるでしょうから、役に立たないとき思いますが。今回は、出アフリカ現生人類集団が単純に東西の各集団(ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団)に分岐したのではなく、両者の共通祖先と分岐したユーラシア南部系集団という集団を仮定すると、パプア人の位置づけに関する違いも理解しやすくなるのではないか、と考えてみました。

 この推測がどこまで妥当なのか、まったく自信はありませんが、仮にある程度妥当だとしても、まだ過度に単純化していることは確かなのでしょう。現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)デニソワ人との間の関係さえかなり複雑と推測されていますから(Hubisz et al., 2021、関連記事)、生人類同士の関係はそれ以上に複雑で、単純な系統樹で的確に表せるものではないのでしょう。ただ、上述のように完新世よりも気候が不安定だった更新世において、現生人類の拡散過程で遺伝的分化が進んだこともあり、系統樹での理解が有用であることも否定できないとは思います。その意味で、出アフリカ現生人類集団からユーラシア南部系集団が分岐した後で、ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団が共通祖先集団から分岐した、との想定も一定以上有効だろう、と考えています。また今回は、考古学の知見を都合よくつまみ食いしただけなので、考古学の知見とより整合的な現生人類の拡散史を調べることが今後の課題となります。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science, 129, 1, 13–22.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132

https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html

15. 中川隆[-15331] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:07:46 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[21] 報告
雑記帳
2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793〜5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166〜4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373〜2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024〜3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
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 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300〜2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500〜300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
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 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761〜紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0〜95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期〜中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
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 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀〜紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるは不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761〜紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(捕捉図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
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 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。


参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html

16. 2022年2月18日 20:02:19 : EonKvGsRbw : eFRRamhWamM4T2M=[7] 報告
2022年02月18日
古代DNA分析から推測される龍山文化期の親族関係
https://sicambre.at.webry.info/202202/article_18.html


 龍山(Longshan)文化期の親族関係に関する研究(Ning et al., 2021)が公表されました。モーガン(Lewis Henry Morgan)や他の初期人類学者によりヒトの社会的進化に与えられた重要な役割は、エンゲルス(Friedrich Engels)など19世紀後半からの社会理論に大きな影響を及ぼしました。1960年代から、狩猟採集民の民族誌的野外研究では、母方居住から父方居住への歴史的変化を裏づけないたいへん柔軟な結婚後の居住配置が見つかり、古典的理論への社会人類学の批判が高まりました。

 しかし同時期に考古学では、新進化人類学への寄与を深めるために、先史時代社会組織の再構成に新たな関心が抱かれました。埋葬と土器の分析技術が検証され、後には頭蓋歯の計量および非計量分析や安定同位体分析など、生物考古学的手法で補足されました。しかし遺伝学は、古代人遺骸から抽出されたDNA分析により、先史時代のヒト個体群間の明らかな関係を論証できる唯一の分野です。次世代配列決定技術の適用により、古代の遺骸から回収されたDNAは、費用対効果の高い方法にて低網羅率(通常は1倍未満)で配列できるようになりました。この技術の急速な成長は、より低網羅率の古代ゲノムが毎年利用可能になることを意味します。

 しかし、ほとんどのそうした研究は人口史に焦点を当ててきており、古代の社会組織の再構成における親族関係分析の大きな可能性は、充分な注目を集めてきませんでした。この分野は、大規模な地域間の研究から社会経済的過程へのより局所的な観点へと移行する傾向が高まっていますが(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)、そうした研究はまだ比較的限られています。この主因の一つは、PLINKなど現代の個体群間の遺伝的関連性を特定するのに最も一般的に用いられる手法が、古代の個体群の検定ではかなりの偏りにつながることです。

 最近、低網羅率配列決定データから遺伝的親族関係を推定するために特別に設計された幾つかのプログラムが、古代の個体群間の関連性決定に大きな力を示してきました。本論文は古代DNA分析を、中華人民共和国河南省の淮河中流域に位置する後期新石器時代の龍山(Longshan)文化期の平糧台(Pingliangtai)古代都市遺跡(以下、平糧台遺跡)の骨格遺骸に適用します(図1A)。以下は本論文の図1です。
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 龍山文化(4500〜3800年前頃)は、独立した共同体から王朝国家への中国文化(本論文では「civilization」が用いられていますが、以前の記事で述べたように、当ブログでは基本的に「文明」を用いないことにしていますので、以下訳語は「文化」で統一します)の発展における重要な移行段階とみなされています。埋葬パターンと家屋の分布と食性同位体の研究は、龍山文化の社会組織の大きな変化を確証します。中期新石器時代の仰韶(Yangshao)文化と比較して龍山文化期には、公共墓地の縮小と、複数個体との二次埋葬など大規模な墓の消滅が見られます。同時に考古学は、多文化の人工物の統合とさまざまな食性習慣の人々の集団の集まりという両方の観点から、社会的移動性の向上を示唆します。

 これらの変化は考古学者に、龍山文化期には、恐らくは大規模な拡大家族から小規模な核家族へという親族関係組織の大きな変化があった、と示唆します。しかし、同じ共同体もしくはより具体的に同じ住居からの個体群の関連性の正確な識別なしには、そうした仮説は実証的には検証できません。したがって、龍山文化個体群の遺伝的親族関係を特徴づけることは、中国文化の形成期における、家族構造と配偶パターンと先史時代人口集団の社会的複雑さの根底にあることを理解する上で、ひじょうに重要です。

 後期新石器時代(LN)の平糧台遺跡から発掘された4個体が、本論文では分析対象となります。そのうち3個体(M310とM311とM313)は学童期(juvenile、6〜7歳から12〜13歳頃)です。M312は、骨学的特徴に20歳頃の若い男性と特定されました(図2C・D・E)。4個体全員は、公共墓地ではなく家屋の土台近くに埋葬されており、この種の埋葬パターンは中原の多くの龍山文化社会で一般的です。以下は本論文の図2です。
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 家屋の近くに埋葬された学童期個体は、生前にそこで暮らしており、家屋の所有者と密接な親族関係を共有していたかもしれない、と以前から仮定されてきました。平糧台遺跡の遺伝的親族関係パターンの可能性を調べるため、以前に報告された4個体(関連記事)で、より高い平均網羅率3.2倍となるショットガン配列が実行されました。考古学的調査結果を組み合わせるとともに、常染色体とミトコンドリアとY染色体の遺伝標識を用いて、個体間の密接な遺伝的親族関係が特定され、後期新石器時代の龍山文化における遺伝的親族関係に基づく拡大家族構造の直接的証拠が提供されます。

 その後、ROH(runs of homozygosity)分析により、これらの標本における血族単位の1事例が明らかになりました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(同型接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。考古学と人類学と考古ゲノム学を含む学際的手法により、複雑で変化する社会への洞察が得られます。この変容期の社会では、遺伝的親族関係は社会組織の焦点だったようで、拡大家族に基づく世帯単位がすでに4000年前頃の中国中央部に出現していた、という証拠があります。


●平糧台遺跡への考古学的および人類学的洞察

 平糧台遺跡は中華人民共和国河南省周口市淮陽(Huaiyang)区に位置します。平糧台遺跡は2014〜2016年にかけて、河南省文物管理局と北京大学考古文博学院の合同調査団により発掘されました。龍山文化期と年代測定された合計14基の墓が発掘され、8基の墓は整然と配置され、遺跡の南西部に小さな公共墓地を構成し、全て成人と同定されました。他の6基の墓は家屋の土台近くにあらゆる副葬品なしに散らばっており、20歳頃の1個体を除いて14歳未満の個体と同定されました。

 家屋は3列に並んでおり、F 26・F 22・F 23・F 34が北の列、F 28・F 36が南の列、F 30・F 40・F 41が中間の列に位置します(図2A)。F34の前に埋葬されたM313を除いて、他の3個体(M310とM311とM312)は全てF28の前に埋葬されています。F28は同じ列のF36から離れているので、考古学的観察に基づくその死の前にF28で暮らしていた、と考えられます。家屋の土台の前に学童期個体を埋葬することは、河南省東部では仰韶文化期と龍山文化期に一般的に見られる伝統です。M310とM311は両方、同じ層序と特定され、両者の埋葬の開口部がF28の初期の土壌を攪乱したので、F28の建築後に埋葬されました(図2A)。しかし、M312はM310とM311よりもわずかに後で埋葬されました。それは、M312の埋葬の開口部がF28の後の土壌を確認したからで、層序関係は骨格遺骸の放射性炭素年代と一致します(図2Bおよび表1)。

 これら4個体は全て、それぞれ副葬品なしに小さな墓で埋葬されており、龍山文化社会の他の上流階層被葬者とは大きく異なっていました。F28は2部屋のある家屋で、他の家屋の土台と明らかな違いはありません。これは、同じ世帯に暮らしていた個体群の遺伝的親族関係を特徴づけることにより、龍山文化社会の基礎的な世帯構造を検証する理想的事例を提供します。成人が埋葬された公共墓地からの学童期個体の分離は、新石器時代の黄河地域では広く行なわれた慣行でした。一部の考古学者は、これがある種の祖先崇拝と関連しているかもしれず、その祖先崇拝では若年もしくは婚姻前に死亡した個体は不吉とみなされ、公共墓地への埋葬を許可されなかった、と考えています。


●古代DNA確証と片親性遺伝標識の遺伝学的分析

 平糧台遺跡の家屋の土台近くの4個体が、0.74〜4.36倍と中程度の網羅率でショットガン配列されました。この4個体の放射性炭素年代は、紀元前2275〜紀元前1844年です(表1)。古代DNAの確証は、複数の手法で実証されました。この4個体は全て、古代DNAに特徴的な損傷パターンと、低水準の現代人のDNA汚染を示しました。この4個体の生物学的性別は、常染色体に対するX染色体とY染色体の網羅率比の比較により決定されました。その結果、M310とM313は、X染色体の比率がそれぞれ0.783と0.862で、Y染色体の比率はそれぞれ0003と0.01とごく僅かだったので、女性と分類されました。M311とM312は、類似のX染色体比(それぞれ0.412と0.392)とY染色体比(それぞれ0.44と0.28)だったので、男性と同定されました。

 この4個体全てで網羅率23〜274倍と完全なミトコンドリアDNA(mtDNA)配列が回収され、さらに明示的なmtDNAハプログループ(mtHg)に分類されました。同じ層の被葬者であるM310とM311とM312はmtHg-D4b1aを共有しており、その全てが同一のmtDNA一致を保持しています。しかし、その後で埋葬されたM313は、異なるmtHg-pre-F2hに分類されます。mtHg-D4b1a およびpre-F2h は両方、アジア東部の現代人集団では最も一般的です。mtHg-D4b1aは漢人や日本人や朝鮮人などアジア北東部人口集団と、アムール川流域および極東ロシアの人口集団で最高頻度となります。対照的に、mtHg-pre-F2hは台湾やタイなどアジア南東部人口集団においてかなりの頻度で見られます。

 M311とM312の2個体は、Y染色体ハプログループ(YHg)N1b2∗に分類され、このYHgはシナ・チベット語族話者人口集団などアジア北東部現代人で広範にみられる系統です。要するに、片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)の分析から、平糧台遺跡の4個体のうち3個体(M310・M311・M312)は母系で関連している可能性があり、男性2個体(M311・M312)はおそらく父系で関連していた、と分かりました。


●中国南部から黄河流域への新石器時代における遺伝的寄与

 遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を調べ、新石器時代の平糧台遺跡の4個体の先行人口集団および現代中国の人口集団との関係を判断するため、本論文のデータを「ヒト起源」調査対象者群や既知の古代96人口集団と統合することで、データセットが準備されました。次に、アジア東部現代人一式で主成分分析(PCA)が実行されました。その結果、平糧台遺跡4個体(平糧台遺跡LN)はアジア東部人遺伝子プールに収まり、文献(関連記事1および関連記事2)で報告されている黄河流域の他の後期新石器時代の龍山文化個体群(黄河LN)とまとまる、と分かりました(図3A)。これは、平糧台遺跡4個体が黄河LNと最高の類似性を共有する、という外群f3統計の観察(図3B)と一致し、地域的な後期新石器時代龍山文化人口集団の遺伝的均質性を示唆します。

 黄河流域の先行する中期新石器時代(MN)の仰韶文化個体群(黄河MN)と比較すると、平糧台遺跡4個体は主成分分析の位置で中国南部の人口集団の方に動いています(図3A)。同様の遺伝的パターンは教師なしモデルに基づくADMIXTURE分析でも観察されており、平糧台遺跡4個体は黄河LNと類似の遺伝的特性を共有しており、黄河MNよりも緑色の構成要素の割合が高く、この緑色の構成要素はアミ人(Ami)やタイヤル人(Atayal)など台湾の在来人口集団と、中国南部の他の人口集団で最大化されます(図3C)。この結果はさらに、対称性f4統計(ムブティ人、世界規模の検証集団;黄河LN/平糧台遺跡LN、黄河MNによりさらに裏づけられ、黄河MN集団と比較すると、後の黄河LNと平糧台遺跡LNの個体群は両方、中国南部およびアジア南東部の人口集団と有意な遺伝的類似性を示しました。これは黄河へのさらに南方からの広範な遺伝的寄与を記録しており、以前の研究で指摘されています(関連記事)。以下は本論文の図3です。
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 さまざまな古代黄河流域個体群や他の中国の現代人集団も比較され、共通の遺伝的土台を共有しているのかどうか、検証されました。予測されたように、漢人やナシ人(Naxi)やイー(Yi)人やチベット人やトゥチャ人(Tujia)など全てのシナ・チベット語族話者の中国の現代人集団と、チベット高原北東部の斉家(Qijia)文化やネパール(関連記事)の古代の人口集団の、新石器時代黄河流域人口集団との遺伝的類似性が観察されました。結果として、全ての現代シナ・チベット語族話者は、新石器時代黄河人口集団からの主要な祖先系統(35.1〜86.7%)を有している、とモデル化でき、これは、黄河からの新石器時代雑穀農耕民の拡大と一致するシナ・チベット語族言語の中国北部起源と適合します(関連記事1および関連記事2)。


●平糧台遺跡の3個体は相互に2親等の関連性を共有します

 平糧台遺跡4個体の遺伝的関連性をより詳細に推定するため、常染色体で個体間の遺伝的関連性の程度が決定されました。まず124万ヶ所の半数体遺伝子型のペアワイズ不適正塩基対率(PMR)が計算されましたが、さらにX染色体とY染色体上の一塩基多型が除外されました。この手法は、各個体の組み合わせのアレル(対立遺伝子)不一致率を計算し、個体の組み合わせ間の関連性の程度を推定します。本論文の全6組は、常染色体で4万ヶ所以上の一塩基多型が重複しており、充分なデータにより、組み合わせに基づくPMRの結果はひじょうに正確になります。

 結果として、4個体のPMR値の範囲は0.19〜0.24で、2つの主要なまとまりが観察されました。最初のまとまりは、M313と他の平糧台遺跡3個体(M310とM311とM312)の比較を含んでおり、ここでは高いPMR値(0.237〜0.241)が得られ、M313が他の3個体と密接な関連性を共有しない、と示唆されます。これは、M313のmtHgが他の平糧台遺跡3個体とは異なる、という観察と一致する発見です。第二のまとまりは、3個体の組み合わせ(M310とM311、M310とM312、M312とM313)を含んでおり、PMR値の範囲は0.19268〜0.2126で、基準値(無関係)の約7/8となり、この3個体は相互に2親等の関連性(SDR)を共有します。

 第二に、READを実行し、平糧台遺跡4個体間の遺伝的親族関係がさらに確認されました。この手法はデータを正規化する段階を含み、それはP0(それぞれ重複しない100万塩基対における不適正塩基対アレルの割合)を正規化する明示的関係のある個体群に追加のデータを要求するので、分析には同じ地域の5ヶ所の異なる新石器時代遺跡の全ての既知の古代人ゲノムが含められ、合計120組の比較が特徴づけられました。その結果、M310とM311とM312との間の正規化されたP0の範囲は0.8242〜0.9011で、無関係な個体群のそれは1.0084〜1.0286となり、標準誤差は0.005と小さくなります。このような結果は、M310とM311とM312が互いにSDRを有しているものとして推定される、という点でPMR分析を反映しています。

 第三に、観察された最尤枠組みではなく遺伝子型尤度からの情報を用いるlcMLkinが使用され、全体的な関連性係数と、個体の組み合わせ間の個々の遺伝的親族関係構成要素が推定されました。アレル頻度を推定するのに充分な数の個体を確保するために、平糧台遺跡標本が中国中央部および北部の他の利用可能な古代ゲノムデータと組み合わされました。完全に無関係の個体の場合、k0=1(二倍体の2個体が0アレルを共有する可能性)が予測されます。その結果、M310とM311とM312でk0の範囲が0.497〜0.673となり、相互に2親等の親族を表しています。

 他の個体については、本論文のM313を含めて、1に近い高いk0値が観察され、遺伝的に相互に無関係と示されます。本論文のデータ解像度の範囲内で最大3親等までのk0に対する血縁計数(r)を入れることで、平糧台遺跡個体間の関連性を直接的に可視化できました。M310とM311とM312は2親等の関係の範囲に収まり、M313(底の赤い点)と他の個体群は無関係と同定されました(図4)。こうした結論は、LcMLkinと同じ論理に従う手法であるNgsRelate2によりさらに確証されました。結論として、上述の分析は全て一貫して、M310とM311とM312が相互にSDRを共有する、と裏づけます。以下は本論文の図4です。
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●平糧台遺跡個体群における親の関連性

 ROHはゲノムにおいて変異を欠く連続領域で、これらの長いDNA断片の長さは、家系の近親交配を反映している可能性があります。長いROHがある場合、唯一の妥当な説明は、その個体が遺伝的に密接に関連した両親からゲノムを2コピー継承した、ということです。平糧台遺跡個体群が最近のある程度の近親交配の子孫なのかどうか識別するために、以前の研究で実行された手法に従って、選択されたゲノムのROHが推定されました。

 その結果、平糧台遺跡の3個体(M311とM312 とM313)は4 cM(センチモルガン)以上の長さの検出されたROHは有さないものの、M311およびM312とSDR(2親等の関連性)である M310はそのゲノムに、合計109 cM以上の長さのROH断片(20 cM超)を有しており、ハトコ(イトコ同士の予測される子供の断片の平均値は135 cMです)の子供の程度に近くなります。次に、この手法が中原の全ての利用可能な古代ゲノムデータに適用され、平糧台遺跡個体で検出された近親交配事象が古代中国で一般的なパターンだったのかどうか、さらに調べられました。

 その結果、選別された33個体のうち20個体は4 cM 以上の長さの検出されたROHを有さない、と分かり、3000年にわたる大きな地域人口集団規模を示します。中国中央部の漢代(2000年前頃)の1個体だけが、3親等かそれ以上の関連性を共有する両親の子供として特徴づけられました(図5A)。これは、族内婚が先史時代中国では限られていたことを示唆し、中国では新石器時代と鉄器時代の両方で特異な同族婚が検出されたかもしれない、という直接的証拠を提供します。以下は本論文の図5です。
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●考察

 本論文は古代のゲノムデータを利用し、中国の先史時代共同体の配偶戦略および基礎となる社会的組織を再構成しました。本論文で利用された遺伝標識の3種類、つまり片親性遺伝標識であるY染色体(父系)とmtDNA(母系)、より詳細な人口集団の混合史と遺伝的親族関係と親の関連性を反映できる常染色体です。平糧台遺跡の4個体のうち3個体(M310とM311とM312)は、2親等の親族として同定されました。遺伝学的に言えば、SDR(2親等の関連性)は相互にその遺伝子の1/4を共有する個体です。これには、曾祖父母と曽孫、オジ・オバとオイ・メイ、半キョウダイ(片方の親のみを同じくするキョウダイ)、イトコ同士が含まれます。具体的には、M310とM311とM312は同一のmtDNA配列を有し、同じmtHg-D4b1aとなります。mtHg-D4b1aは中国の他の古代の個体群では観察されていませんが、アジア東部現代人では広範に分布しています。これは、M310とM311とM312がおそらくは同じ母系の子孫で、共通の母親に由来する可能性さえあることを示唆します。

 Y染色体の証拠から、M311とM312はYHg-N1b2∗の特定の新規一塩基多型一式を共有している、と示されます。これは、M311とM312が父系で関連していることを示しますが、この2個体が同じ父系の子孫だと公式には主張できません。なぜならば、低網羅率で、情報の得られる利用可能な遺伝標識が限られているからです。上述の関連性と近親交配の兆候に従うと、M310ではいくつかのあり得る節約的家系図が再構築されました(図5C)。しかし、M311とM312が同じ父系を共有し、両方ともM310と同じ母系を共有していると仮定すると、この特徴づけられた関連性を説明できる唯一の家系図形態は、3個体(M310とM311とM312)のうち少なくとも2個体はソロレート婚(夫の死後に妻が夫の兄弟と結婚)かレビラト婚(妻の死後に夫がその姉妹と結婚)の子孫だった、というものです。レビラト婚とソロレート婚は、時として子孫を残して家系を継続するために、兄弟か姉妹がキョウダイと配偶する習慣です。

 中国でこの習慣が初めて確認されるのは、紀元前5世紀の『春秋左氏伝』など歴史的記録で、後期青銅器時代の周王朝に媵(Ying)として見え、上流階級社会では貴人と姉妹2人が配偶します。そうした事例では、M311とM312は、どちらかの母親もしくは父親が遺伝的に相互に関連しているので、厳密なSDRを示しません。したがって、M311とM312は、M310とよりも相対的に高い関連性を共有しなければなりません。これは、M311とM312が他の組み合わせとよりも相互で最高の遺伝的関連性を共有しているものの、M310とはSDRを共有する、という観察(図4)と一致し、またその観察により確証されます。

 死ぬ前に同じ世帯で暮らしていたと考えられる龍山文化期の個体の共有された2親等の遺伝的親族関係を考えると、以前に提案された、核家族を超えた拡大家族が、龍山文化社会の基礎的な世帯単位として機能した、という明確なDNAに基づく証拠が提供されます。この観察は、龍山文化がアジア東部の重要な新石器時代文化で、仰韶文化の後に続き、初期青銅器時代の二里頭(Erlitou)文化が龍山文化の後に続く、という考古学的調査結果と一致します。

 二里頭文化は通常、夏(Xia)と呼ばれる最初の中国王朝の根拠とみなされていました。先行する仰韶文化と比較して、龍山文化はより平等主義的な社会から、町に壁が建築され、暴力と戦争が広がった階層化された社会への社会的変化の過程を示し、地域的単位から定義された社会的もしくは政治的階層を有する集落への移行がありました。本論文の結果が示唆するのは、龍山文化の社会的単位は氏族に基づく仰韶文化もしくは歴史的記録で知られる後の中国王朝の父系家族とは異なっており、氏族に基づく社会から家族に基づく社会への移行期段階にある、ということです。

 中原はアワ(Setaria italica)やキビ(Panicum miliaceum)など雑穀が最初に耕作され、栽培化された世界で最初の中心地の一つで、それは遅くとも紀元前6000年頃に始まりました。狩猟採集生計から穀物農耕への移行により、人口規模の急速な成長が可能となりました。龍山文化期までに、強化したキビとコメの農耕が発達し、龍山文化遺跡のより高い密度により示されるように、先行する中原の仰韶文化と比較して人口規模が顕著に増加しました。これは本論文の遺伝学的結果と一致し、黄河流域古代人は人口密度の高い可能性がある遺伝学的に安定した共同体として示されます(図5B)。

 局所的な人口規模が増加すると、ROHの長さは減少する傾向にありますが、平糧台遺跡の1個体は長いROH断片を有しており、それはイトコ同士の子孫で予測されるものと類似しているので、4000年前頃の龍山文化社会における血族配偶の直接的証拠を提供します。密接な親族間の配偶は多くの社会で記録されており、ヨーロッパの王族や上流階層で広く行なわれていました(関連記事)。高い社会的地位を維持し、強い政治的同盟を確立するために、王族の構成員は庶民と結婚できず、唯一の実行可能な選択肢はその親族と結婚することです。たとえば、スペインのハプスブルク王朝(紀元後1516〜1700年)の歴代の王は、密接な親族と結婚し、多くのオジとメイやイトコ同士や他の密接な血族婚などが行なわれました。類似の配偶戦略は漢王朝(紀元前206〜紀元後220年)の中国の文献でもよく記録されており、『史記』と『漢書』によると、皇族の構成員は皇統の政治力を強化するため、その親族と結婚しました。本論文は、血族配偶がすでに4000年前頃の龍山文化社会で起きていたことを示します。

 紀元前2500〜紀元前1800年頃となる龍山文化期は、先史時代の中国における大きな文化的および人口統計学的変化の時期で、この時期の親族関係と社会組織と配偶慣行は、歴史学者や考古学者や人類学者にとって主要な関心事でした。本論文は学際的研究を通じて、この先史時代社会の遺伝的親族関係と配偶戦略と根底にある社会組織を再構成できます。本論文は、血族配偶が後期新石器時代社会において行なわれており、それが中国の歴史的記録での証明よりも約2000年早かった、という直接的証拠を提供します。

 さらに本論文は、同じ世帯の遺伝的親族関係を特徴づけることにより、龍山文化社会においては核家族を超えた拡大家族が基礎的な世帯として機能し、龍山文化期には遺伝的親族関係が依然として社会組織の主要な焦点として機能した、という明示的兆候を提供します。本論文の個体群が単一の遺跡に由来することは、強調されねばなりません。さまざまな地域と墓地のより大規模な標本でのさらなるこうした研究は、龍山文化社会の配偶慣行や埋葬パターンや社会組織について、より詳細な知識を提供するでしょう。以下は本論文の要約図です。
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●本論文の限界

 本論文では、中国河南省の平糧台遺跡の古代人4個体のゲノム規模データを調べ、その標本規模は比較的限られており、現在の分析は、最大3親等の親族の遺伝的関係の程度を正確に推定できる、124万タッチダウンアレルのみに制約されています。後期新石器時代のさまざまな遺跡のより多くの標本と、特に高網羅率の古代人ゲノムを伴うさらなる研究が、中原地域と中国全体の社会組織のより包括的な理解を得るために必要であることに要注意です。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は後期新石器時代の黄河流域における近親交配の事例を報告していますが、同時に中国で発見された先史時代個体群において近親交配が稀だったことも示唆しています。本論文が指摘するように、近親交配自体は人類史において珍しくありませんが、それは、太古の人類社会で近親交配が一般的だったことの名残で、「社会の発展」とともに倫理的に抑制されていったというよりは、人類にも他の動物と共通の起源に由来する近親交配を回避する生得的な認知的仕組み自体は備わっており、更新世(やさらにさかのぼって鮮新世や中新世)にも近親交配は避けられていたものの、近縁の現生分類群であるチンパンジー属やゴリラ属のように、その仕組みはさほど強力ではないので、時として近親交配が行なわれた、ということなのだと思います(関連記事)。

 近親交配を推進する要因としては、本論文で指摘されている、支配層の特権性があります。もう一つ想定されるのは人口密度と社会的流動性と移動性の低い社会で、近親交配を回避しない配偶行動の方が適応度を高めると考えられます。更新世の人類社会は後者の状況に陥ることが多かったでしょうから、完新世と比較して近親交配が多かったかもしれず、その可能性を示唆した研究もあります(関連記事)。じっさい、現生人類(Homo sapiens)ではありませんが、シベリア南部のアルタイ山脈のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)で近親交配の個体が確認されています(関連記事)。

 しかし、クロアチアで発見されたネアンデルタール人では近親交配の痕跡が確認されておらず(関連記事)、やはり更新世人類においても基本的に近親交配は避けられていたのでしょう。人類の「原始社会」を親子きょうだいの区別なく乱婚状態だったと想定する唯物史観的な「原始乱婚説」が成立するとは、現在の知見からはとても思えません。本論文が提示した龍山文化期の平糧台遺跡の事例は、人口規模が大きく、南方からの人類集団の移動も推測されるなど、移動性も比較的高かったと考えられるので、その理由は支配層の特権性維持の可能性の方が高そうです。


参考文献:
Ning C. et al.(2021): Ancient genome analyses shed light on kinship organization and mating practice of Late Neolithic society in China. iScience, 24, 11, 103352.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2021.103352


https://sicambre.at.webry.info/202202/article_18.html

17. 2022年3月29日 09:39:30 : JBj9dXvqXI : b3B6eXA1NFVKQXc=[1] 報告
2022年03月29日
漢代における黄河中流・下流域から河西回廊への男性主体の移住
https://sicambre.at.webry.info/202203/article_30.html


 漢代における黄河中流・下流域から河西回廊(Hexi Corridor)への男性主体の移住に関する研究(Xiong et al., 2022)が公表されました。人類史は、資源分配や社会的関係などの要因の変化により引き起こされた、新たな課題に対処した歴史とみなせます。それらの克服のため、ヒトは生計・社会・思想の技術など体外の方法を用いて、生存のための新たな生態的地位を創出してきました。適応的変化の研究で、ヒトの先史時代および歴史時代の生計戦略の顕著な変化につながる要因の評価は魅力的な主題です。気候変化、技術革新、急速な人口増加、大陸を越えた文化交流、ヒトの移住、地政学は、明らかに潜在的な候補です。気候変化はよく研究されており、生計戦略の変化の最も重要な原因の一つとみなされています。たとえば適切な気候は、雨天条件がアラビア半島南部〜東部において5100年前頃にオアシス農耕の発展を促進したので、農業開発の促進に役立ったでしょう。他方、ひじょうに過酷な気候は、「文明」崩壊をもたらす可能性があります。ヒトはそうした環境変化に対処して適応するために、さまざまな戦略を採用し、生計戦略を調節して、より好適な条件を探すために移住する必要さえあります。

 シルクロード東部の中心に位置する河西回廊(Hexi Corridor)はかつて、ユーラシア東西間の文化交流に重要な役割を果たしました。この地域は、「中国」内の農耕集団と遊牧集団の交差点でもありました。複数の証拠が示したのは、河西回廊沿いの生計戦略の顕著な変化が漢王朝期に起きた、ということです。『史記(Shiji)』から『漢書(Hanshu、Book of Han)』までの歴史的記録では、河西回廊(図1)は漢王朝の前には遊牧民により占拠されていた、と述べられています。この主張は、2900〜2100年前頃となる沙井(Shajing)文化および2700〜2100年前頃となる騙馬(Shanma)文化の遺跡群で発掘された遺物や動物相遺骸により裏づけられます。家畜化されたブタの重要性は同じ時期に急激に減少しましたが、ヒツジ・ヤギとウシとウマとラクダが、河西回廊沿いに主要な家畜動物として出現しました。沙井文化の遺跡群でも豊富な革製品や羊毛製品が発見されており、住民が家畜化された牧畜動物で二次製品革命をどのように始めたのか、示唆します。これらは全て、河西回廊人口集団がひじょうに遊動的な牧畜生活様式で生きていたことを示唆する兆候でした。

 しかし、漢王朝期(紀元前202〜紀元後220年)およびその後には農耕が急速に発展し、この地域の生計戦略となりました。オオムギやコムギやキビやハダカムギやエンドウ豆など多くの栽培化された作物種が遺跡で見つかり、鋤や鎌や踏みすきなど高度な鉄製道具が多くの漢王朝期遺跡で発掘されました。これは、この時期に河西回廊において発達した農業技術が普及したことを強く示唆します。黒水国(Heishuiguo)の漢王朝期の墓で識別されたニワトリやブタやヒツジ・ヤギやウシやウマの遺骸は、この文脈に置かれるべきです。ニワトリはこの時期の最も一般的な家畜動物として現れ、それに続くのがブタです。この黒水国の家畜の個体数は中原農耕民とともに見つかるものと類似していますが、遊牧民のもの(家畜動物はヒツジ・ヤギとウマとウシでした)とは大きく異なります。遊牧民は一般的に長距離移動のためラクダとウマを飼いますが、ブタとニワトリは定住した人々の家で見られる可能性が高くなるかもしれません。最後に、農耕と動物の放牧を描いた多数の壁画が河西回廊で発見されており、この漢王朝〜晋王朝にかけての顕著な混合経済が明らかになります。したがって、河西回廊の生計戦略が遊牧様式(先漢王朝期)から混合経済(漢王朝期からその後)へと移行したことは確実です。この主張は、安定同位体データによっても裏づけられます。以下は本論文の図1です。
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 乾燥気候の移行帯に位置する河西回廊は、環境変化にひじょうに敏感です。以前の研究はおもに、環境変化の鏡を通じて生計戦略の変化を説明しようと試みてきました。しかし本論文は、河西回廊の独特な地理的位置を考慮すると、人口移動の影響を見逃してはならない、と考えます。片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)は、ヒトの人口移動研究で広く用いられてきました。Y染色体の非組換え領域(NRY)が父系で厳密に継承される一方、ミトコンドリアDNA(mtDNA)は母系で継承されます。したがって、mtDNAとY染色体はそれぞれ母系と父系の人口史を提供し、過去の性別固有の過程の全体像を明らかにします。注目すべきことに、Y染色体により明らかにされた遺伝的歴史は、mtDNAのそれと同一である必要はありません。mtDNAとY染色体両方の遺伝標識を用いることにより、性比の偏った移住がヒト集団の研究では頻繁に見られるので、それは社会的行動の影響を真に反映しているかもしれません。漢王朝期における河西回廊の生計戦略の変化と人口移動との間の関係を議論するため、本論文は漢王朝期全体を網羅する黒水国遺跡の31標本のY染色体(485ヶ所の一塩基多型遺伝標識を含みます)とミトコンドリアゲノムを分析します。

 黒水国遺跡は中華人民共和国甘粛省張掖(Zhangye)市甘州(Ganzhou)区に位置し(図1)、2018年に発掘されました。黒水国遺跡の墓の分布は、家族の埋葬地と散在する埋葬群から構成される大規模な墓地を明らかにします。放射性炭素年代に基づいて、黒水国遺跡の墓の形態と副葬品と埋葬は4期に区分されました。第1期は西漢(前漢)中期(紀元前118〜紀元前49年)、第2期は前漢後期(紀元前48〜紀元後6年)、第3期は王莽(Wang Mang)の新王朝から東漢(後漢)初期(紀元後7〜67年)、第4期は後漢中期〜後期(紀元後67〜191年)です。本論文は、黒水国遺跡の31個体を前漢(第1期と第2期)と後漢(第3期と第4期)の2群に分類しました。黒水国遺跡の個体の性別は、骨盤と頭蓋形態により判断されました。


●Y染色体解析結果

 黒水国遺跡の男性30個体で、485ヶ所のY染色体一塩基多型を網羅する解析が行なわれました(図2)。以下は本論文の図2です。
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 Y染色体ハプログループ(YHg)は、ISOGG(遺伝子系譜学国際協会)の2019年版YHg系統樹(図3)にしたがって決定されました(以下、当ブログでは最新の2019〜2020年版にしたがいます)。以下は本論文の図3です。
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 全体的に(表1)、黒水国遺跡人口集団のYHgは、O2a1b(IMS-JST002611)が26.7%、O2a2b1a1(M117)が13.3%、C2(M217)が13.3%、N1a(F1206)が13.3%、O1b1a2(Page59)が10%、O1a(M119+, P203-)が6.7%、O2a2b(P164+, M134-)が6.7%、O2a2b1a2a1a(F46)が3.3%、O1b1a1a(M95)が3.3%、Q1a1a(M120)が3.3%です。以下は本論文の表1です。
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 YHgではO2a1b(26.7%)とO2a2b1a1(13.3%)とO2a2b1a2a1a(3.3%)が主要な創始者父系を表しており、現代の中国の漢人の40%以上はこれらの父系となります(O2a2b1a1が16%、O2a2b1a2a1aが11%、O2a1bが14%と推定されています)。これら3系統は黄河流域の新石器時代農耕民に由来する、と考えられています。この3系統は黒水国遺跡人口集団で最も高頻度となり(43.3%)、現代の漢人集団と類似しています。YHg-O2a2b(P164+, M134-)は、この3系統と同様に拡大したかもしれません。

 これらの父系で、YHg-C2(M217)とN1a(F1206)とQ1a1a(M120)は、中国とアルタイ山脈とウラル山脈とユーラシア北部のインド・ヨーロッパ語族人口集団で一般的です。中国におけるYHg-Cの大半はC2(M217)で、中国の漢人の10%ほどを構成し、モンゴル人やマンジュ(満洲)人やカザフ人など、(認められるならば)アルタイ語族話者の大きな割合を占めます。黒水国遺跡人口集団では、YHg-C2(M217)はさらにC2*(M217)とC2b1(F1144)に分類できます。

 YHg-N1a(F1206)はYHg-Nの北方クレード(単系統群)と呼ばれ、ユーラシア北部全域に広範に分布し、N1a1(TAT)とN1a2a1(F710)に区分できます。YHg-N1a1(TAT)の頻度が最も高いのは、アルタイ語族とウラル語族とインド・ヨーロッパ語族の人口集団で、91.525%となるヴィリュイ川(Vilyuy)ヤクート人(Yakut)、50.877%となるエヴェンキ人(Evenk)、41.441%となるブリヤート人(Buryat)、66.667%となるウドムルト人(Udmurt)、53.846%となるフィン人(Finn)、43.023%となるラトヴィア人(Latvian)などです。一方、YHg-N1a2a1(F710)はアジア北東部から南進して黄河流域に2700年前頃までに移動してきた、と考えられています。YHg-Q1a1a(M120)はシベリア南部起源で、中国北西部全域に5000〜3000年前頃に拡大しました。

 YHg-Q1a1a(M120)は古代華夏(Huaxia)人(現代漢人の主要な祖先集団の一つ)集団に2000年前頃以前に同化され、最終的には現代漢人集団の6系統の一つとなりました。最後に、YHg-O1b1a2(Page59)とO1a(M119+, P203-)とO1b1a1a(M95)は黒水国遺跡集団では20%を構成し、アジア東部南方の少数派起源です。後漢期の黒水国遺跡集団の父系の多様性は前漢期集団を上回っており、YHg-N1a2a1(F710)とC2b1(F1144)とO2a2b1a2a1a(F46)とQ1a1a(M120)の追加を特徴づけます。


●mtDNA分析結果

 黒水国遺跡の27標本でmtDNAハプログループ(mtHg)が決定されました(図4)。Y染色体とは異なり、ミトコンドリアの遺伝子プールはより不均一です。黒水国遺跡人口集団のmtHgは、D4が25.93%、D5が18.52%、B5が11.11%、R11が11.11%、B4が3.7%、C4が3.7%、F1が3.7%、G1が3.7%、M11が3.7%、M33が3.7%、M9が3.7%、N9が3.7%です。これらのうち、D4・D5・C4・G1・G3・M11・M9がアジア東部北方起源です。以下は本論文の図4です。
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 mtHg-D4は黒水国遺跡人口集団では最高頻度となり(25.93%)、アジア北部(平均16.7%)とアジア中央部(平均15.3%)とアジア東部(平均22.5%)の人口集団でも高頻度です。本論文では、mtHg-D4はさらに下位クレードのD4a3b*・D4a6・D4b2b*・D4j*に区分できました。mtHg-D5はアジア東部北方全域に中程度から低頻度で広がっており、25%のトゥバラー人(Tubalar)、15.38%の北京漢人、15%の山南(Shannan)チベット人、11.4%の河南省漢人、11.4%のオロチョン人(Orochen)、10.4%の中国の朝鮮人、10.4%の山東省漢人で最高頻度になります。本論文では、mtHg-D5には下位クレードとしてD5a2*・D5a2a・D5a2a1+@16172*・D5b1b*・D5c*が含まれます。mtHgの主要2系統(D4およびD5)は、黒水国遺跡集団では合計44.44%になり、アジア北部に起源があり、分布しています。残りのmtHg-C4・G1・G3・M11・M9は、アジア東部南方よりもアジア東部北方でより一般的です。

 mtHg-B5・B4・F1は黒水国遺跡集団では頻度が18.52%となり、アジア東部南方では比較的一般的で、これらの地域からの遺伝子流入を示唆しているかもしれません。mtHg-B5はアジア東部南方、とくにタイ北部における69.23%のシーク人(Seak)と40%のカルエング人(Kalueng)などのタイ・カダイ語族、タイ北東部における45.83%のブル人(Bru)などのオーストロ・アジア語族、湖南省ヤオ人(Hunan Yao)や貴州省漢人などのミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族人口集団では高頻度を維持しています。mtHg-B5はB5a*・B5a2a1a・B5b2a2*で構成されています。同様に、mtHg-F1・B4はアジア東部南方では一般的で、アジア南部起源です。最後に、mtHg-R11・N9・M33はアジア東部人口集団で散発的に見られます。黒水国遺跡では、前漢と後漢で人口集団間のミトコンドリアの遺伝的多様性の程度は類似していました。要約すると、D4・D5など黒水国遺跡人口集団で優勢なmtHgはアジア東部北方人口集団においてより高頻度な一方で、mtHg-B5・B4・F1は中国南部からの遺伝子流動を反映しているかもしれません。


●集団比較

 黒水国遺跡人口集団と参照人口集団との間の遺伝的関係を調べるため、ハプログループ頻度に基づいて主成分分析が実行されました(図5)。以下は本論文の図5です。
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 遺伝的距離(Fst)ヒートマップも視覚化され、人口集団の関係がさらに調べられました(図6および図7)。以下は本論文の図6です。
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 本論文では、黒水国遺跡人口集団は3集団に分類されました。それは、前漢、後漢、両者を統合する全体的な集団です。主成分分析図(図5)は、PC1軸に沿って前漢集団と後漢集団との間の区分を示します。Y染色体の主成分図(図5A)は、全体的な黒水国遺跡人口集団が南部漢人と北部漢人の勾配に投影されることを明らかにします。より具体的には、前漢集団は南部漢人集団、とくに福建省と広東省の漢人の周りに集まっているようです。以前の研究によると、福建省と広東省の漢人集団は、漢王朝期に始まる中国北部の移民の子孫でした。したがって、前漢期黒水国遺跡人口集団も、中原から河西回廊への移住を反映しているかもしれません。以下は本論文の図7です。
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 後漢集団は主成分分析では北部漢人集団と密接にまとまり、ヒートマップではさらに北部漢人および北西部フェイ人とまとまることから(図6)、経時的な先住の人々との遺伝的混合が示唆されます。母系側では、黒水国遺跡の3人口集団が密集しており(図5B)、前漢から後漢にかけての遺伝的連続性を反映しています。一方で、黒水国遺跡人口集団はブリヤート人などモンゴル語族話者および寧夏自治区漢人など北西部漢人集団の近くに位置づけられ、在来の母系起源が示唆されます。

 要約すると、人口集団間の比較により明らかになるのは、黒水国遺跡人口集団が父系構造の観点では中国の漢人と、母系構造の観点ではモンゴル語族および北西部漢人集団と密接な類似性を示す、ということです。これは、性比の偏った人口集団混合の明確な兆候です。


●黒水国遺跡人口集団の起源

 主成分分析図(図5)は、PC1軸に沿った東西の人口集団の勾配を示します。PC1値をさらに利用して遺伝的等高線図(図8)を生成し、黒水国遺跡人口集団の考えられる起源をさらに視覚化できます。父系側では、前期黒水国遺跡集団の等高線図(図8A)は、河西回廊で急激に低下する前に、中国北西部全域で東方から西方にかけてしだいに増加するPC1値を示します。これは、黒水国遺跡人口集団の外来および東方起源の可能性の手がかりとなります。そうしたパターンは後漢期黒水国遺跡集団では繰り返されません(図8B)。他方、母系側は別の全体像を描き(図8C・D)、前漢集団と後漢集団との間で有意な変動は観察されません。この結果は、黒水国遺跡人口集団における女性の在来起源と、漢王朝期全体の遺伝的連続性を示しており、本論文の主成分分析図と一致します。以下は本論文の図8です。
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●考察

 歴史的記録や考古学的発見や安定同位体分析など複数の証拠は、河西回廊沿いの生計戦略が、漢王朝期に遊牧的経済から混合経済(つまり牧畜と農耕)へとどのように変化したのか、示してきました。以前の研究は、漢王朝期の河西回廊における気候変化と生計戦略の変化との間の関係の調査に焦点を当ててきており、漢王朝の前には、寒冷で乾燥した気候がかなりの範囲の河川を干上がらせ、肥沃な土地を不毛とし、結果として遊牧生活が普及しました。漢王朝期以降の温暖湿潤化は、農耕の繁栄を促進しました。今まで、この移行を単純に気候要因に関連づけることは無理なように見えました。

 黒水国遺跡人口集団のY染色体とmtDNAの特性に基づくと、黒水国遺跡の父系人口集団は黄河流域起源のYHg、つまりO2a2b1a1(M117)とO2a2b1a2a1a(F46)とO2a1b(IMS-JST002611)とO2a2b(P164+, M134-)が全体の割合で50%を超えており、アジア東部南方起源のYHg、つまりO1aとO1bが20%ほどで、アジア東部北方起源のYHg、つまりC2(M217)とN1a(F1206)とQ1a1a(M120)が30%ほどです。黒水国遺跡の母系人口集団は、アジア東部北方のmtHg(D4やD5やC4など)が62.95%ほど、アジア東部南方のmtHg(B5やB4やF1など)が18.52%ほどで構成されています。南部漢人や北部漢人やフェイ人やモンゴル人やチベット人など参照母系人口集団との集団比較(主成分分析とFstヒートマップ)により、黒水国遺跡の集団における北部漢人およびフェイ人集団とのより密接な父系での遺伝的類似性を示せました。主成分分析を介して、経時的な南部漢人勾配から北部および北西部漢人・フェイ人勾配への変化が観察され、黄河流域移民間の遺伝的混合が示唆されます。

 歴史的記録と考古学的発見は、本論文の結果にさらなる信頼性を追加します。歴史学的文献によると、漢王朝政府は黄河流域の約20郡から、張掖(Zhangye)郡と酒泉(Jiuquan)郡と武威(Wuwei)郡と敦煌(Dunhuang)郡の河西4郡へと大規模に集団を移住させ、この地域の行政と管理を強化しました。簡牘はより詳細な情報を提供し、これら男性移民の起源地候補として黄河中流および下流の21郡の手がかりさえもたらします。その21郡とは、弘農(Hongnong)郡、河内(He’nei)郡、琅邪(Langya)郡、昌邑(Changyi)国、平干(Pinggan State)国、大河(Dahe)郡、陳留(Chenliu)郡、汝南(Runan)郡、巨鹿(Julu)郡、潁川(Yingchuan)郡、上党(Shangdang)郡、河南(Henan)郡、済陰(Jiyin)郡、南陽(Nanyang)郡、河東(Hedong)郡、趙国(Zhao State)、東(Dong)郡、梁国(Liang State)、張掖(Zhangye)郡、淮陽(Huaiyang)郡、魏(Wei)郡です(図9)。以下は本論文の図9です。
画像

 しかし、母系となるmtDNAの観点は、黒水国遺跡人口集団が特定のモンゴル人および北西部漢人集団と密接にまとまることと、漢王朝期全体の遺伝的連続性を示しており、黒水国遺跡人口集団の女性の在来起源の可能性が示唆されます。これは歴史的記録とも一致し、主要な移住事象は多くの場合男性主体で、高頻度で駐屯地建設のための移住や政治的移住や少数集団の移住を含みます。若い男性は通常、駐屯地建設のための移民で、小さな局所的駐屯地の外に家族を連れ出せませんでした。政治的移住には、政治犯や通常犯や自然災害の犠牲者が含まれます。少数集団の移住は、黄河上流域の狄人(Di)やチアン人(Qiang)など、境界地域の反逆者が標的とされました。これらのうち、軍の移住が大半でした。

 これは、性比の偏った混合を黒水国遺跡人口集団で明確に観察できる理由である可能性が高そうです。そうした性比の偏った混合パターンは、漢人とチベット・ビルマ語派話者の人口集団拡大でも観察されており、最近では貴州省のフェイ人でも報告されています(関連記事)。本論文は遺伝的等高線図を描き、黒水国遺跡人口集団の考えられる起源を視覚化しました。図8で示されるように、男性祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)のおもにアジア東部東方起源と、女性祖先系統の先住起源とが容易に観察できます。

 本論文では片親性遺伝標識の分析により、男性主体の混合事象が漢王朝期に起きた、と観察され、歴史的記録と考古学的発見によりさらに裏づけられます。ヒトの移住に伴う河西回廊住民のそうした変化していく生計戦略は、偶然ではあり得ません。人々の大量移住と生計生活様式の移植は、漢王朝期において河西回廊の以前の生計戦略に影響を及ぼしたでしょう。本論文は、人口集団混合が生計戦略の変化において重要な原因としてどのように機能したのか、ということへの新たな洞察を提供します。


参考文献:
Xiong J. et al.(2022): Sex-Biased Population Admixture Mediated Subsistence Strategy Transition of Heishuiguo People in Han Dynasty Hexi Corridor. Frontiers in Genetics, 13, 827277.
https://doi.org/10.3389/fgene.2022.827277

https://sicambre.at.webry.info/202203/article_30.html

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