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縄文人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/195.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 6 月 20 日 13:41:44: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


縄文人の起源


ハプログループ D1a2a (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/173.html

ハプログループC1a1 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/174.html

ハプログループ C2 (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/175.html


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現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は、漢人系統(84.3%)と「縄文人」系統(15.7%)の混合、もしくは朝鮮人系統(87.6%)と縄文人系統(12.4%)の混合としてモデル化され、両者を統計的に区別できません。

この分析が示唆するのは、日本の「本土」系統が直接的に漢人もしくは朝鮮人によりもたらされた、ということではなく、まだ古代DNAデータの得られていない、漢人と朝鮮人の系統に大きな割合を残した集団と関連した祖先的集団からもたらされた、ということです。

7人の「縄文人」は、紀元前1500〜紀元前1000年頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡の1人と、紀元前3500〜紀元前2000年頃となる千葉市の六通貝塚の6人です。

船泊遺跡の方は、高品質なゲノム配列が得られている女性個体ではなく、男性個体が分析対象となっており、この男性個体はmtHg-N9b1で、YHgは以前D1a2a2b(旧D1b2b)と報告されていましたが(関連記事)、今回はDとのみ報告されています。

北海道の「縄文人」の高品質なゲノム配列
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html


六通貝塚の6人のmtHgはいずれもN9bで、さらに詳細に分類されている3人のうち2人がN9b1、1人がN9b2aです。

六通貝塚の6人のうち3人が男性で、YHgはD1a2a1c1(旧D1b1c1)です。

現代日本人のYHg-Dのうち多数派はYHg-D1a2a1(旧D1b1)ですが、これまで「縄文人」で詳細に確認されていたのは現代日本人では少数派のYHg- D1a2a2(旧D1b2)のみでした。本論文はまだ査読前ですが、これは「縄文人」としては初めて確認されたYHg-D1a2a1の事例になると思います。

これまで、「縄文人」ではYHg-D1a2a1が確認されておらず、YHg- D1a2a2のみだったので、YHg-D1a2a1が弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も想定していたのですが(関連記事)、これでYHg-D1a2aが「縄文人」由来である可能性はやはり高い、と言えそうです。

天皇のY染色体ハプログループ
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_44.html

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2020年04月26日
古代ゲノムデータに基づくアジア東部における現生人類集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html


 古代ゲノムデータに基づくアジア東部における現生人類(Homo sapiens)集団の形成史に関する研究(Wang et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。世界でも農耕・牧畜が早期に始まった地域であるアジア東部には、現在世界の1/5以上の人口が居住しており、主要な言語は、シナ・チベット語族、タイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、ミャオ・ヤオ語族、インド・ヨーロッパ語族、アルタイ語族(モンゴル語族、テュルク語族、ツングース語族)、朝鮮語族、日本語族、ユカギール語族、チュクチ・カムチャツカ語族の11語族に分類されます。過去1万年に、アジア東部では大きな経済および文化の変化がありましたが、採集から農耕への移行期における遺伝的多様性と主要な交雑事象や集団移動と遺伝的構成の変化に関しては、チベット高原と中国南部の現代人の多様性の標本抽出が少ないため、現在でも理解は貧弱です。また、ユーラシア西部および中央部では人口史の解明に貢献してきた古代DNAデータが、アジア東部では不足していることも、人口史理解の妨げとなっています。

 本論文は、中国とネパールの46集団から、383人(中国は337人、ネパールは46人)の現代人の遺伝子型を特定し、191人のアジア東部古代人のゲノム規模データを報告します。その多くは、まだ古代DNAデータが公開されていない文化集団からのものです。モンゴルからは、紀元前6000〜紀元後1000年頃の52遺跡の89人のゲノムデータが報告されます。中国からは、紀元前3000年頃となる新石器時代の陝西省楡林市靖辺県の五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡の20人です。日本からは、紀元前3500〜紀元前1500年頃となる縄文時代の狩猟採集民7人です。ロシア極東からは23人が報告されています。18人は紀元前5000年頃となる新石器時代のボイスマン2(Boisman-2)共同墓地から、1人は紀元前1000年頃となる鉄器時代のヤンコフスキー(Yankovsky)文化から、3人は中世となる紀元後1000年頃の黒水靺鞨(Heishui Mohe)および渤海靺鞨(Bohai Mohe)文化から、1人はサハリン島の歴史時代の狩猟採集民です。台湾東部では、漢本(Hanben)のビルハン(Bilhun)遺跡と緑島の公館(Gongguan)遺跡から、紀元前1400〜紀元後600年頃となる後期新石器時代〜鉄器時代の52人です。このうち、ボイスマン2遺跡の両親と4人の子供の核家族を含む、近親関係が検出されました。これら新たなデータは、縄文時代の4人、「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡からのアムール川流域の新石器時代の8人(関連記事)、アジア南東部の新石器時代から鉄器時代の72人、ネパールの8人という、以前報告されたデータと併せて分析されました。

 主成分分析では、アジア東部の人口構造は、重要な例外があるものの、地理および言語分類と相関しています。中国北西部とネパールとシベリアの集団は主成分分析ではユーラシア西部集団に寄っており、70〜5世代前に起きたと推定されるユーラシア西部関連集団との複数回の混合事象を反映しています。ユーラシア西部関連系統が最小の割合のアジア東部集団は3クラスタです。そのうち、まず「アムール川流域クラスタ」は、古代および現代のアムール川流域に住む集団と地理的に、また言語的にはツングース語とニヴフ語を話す現在の先住民と相関します。次に「チベット高原クラスタ」は、ネパールのチョクホパニ(Chokhopani)とメブラク(Mebrak)とサムヅォング(Samdzong)の古代人と、シナ・チベット語族話者でチベット高原に居住する現代人において最も強く表れます。最後に「アジア南東部クラスタ」は、古代台湾集団およびオーストロアジア語族とタイ・カダイ語族とオーストロアジア語族話者であるアジア南東部と中国南部の現代人で最大となります。漢人はこれらのクラスタの中間にあり、北部漢人は中国北部に位置する新石器時代の五庄果墚遺跡個体群の近くに位置します。モンゴル内では2クラスタが観察されます。一方は地理的にはモンゴルの東方に位置するアムール川流域クラスタとより近く、もう一方は後期銅石器時代〜前期青銅器時代にかけてアジア中央部で栄えたアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の個体群とより近く、こちらはモンゴルの西方となります。一方、何人かの個体はこれら2クラスタの中間に位置します。

 モンゴル「東部」クラスタの最古級の2人はモンゴル東部のヘルレン川(Kherlen River)地域で発見され、推定年代は紀元前6000〜紀元前4300年で、アジア北東部では早期新石器時代に相当します。この3人は、遺伝的にバイカル湖周辺地域の新石器時代個体群と類似しており、ユーラシア西部関連集団との混合の最小限の証拠が見られます。モンゴル北部の他の7人の新石器時代狩猟採集民は、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連した系統から5.4±1.1%の影響を受けている、とモデル化されます。これはユーラシア東西の混合の勾配の一部で、西に行くほどユーラシア西部系統と近縁になります。モンゴルの「西部」クラスタの最古の2人は、ひじょうに異なる系統を示します。この2人はアファナシェヴォ文化と関連したシャタールチュルー(Shatar Chuluu)墳墓遺跡で発見され、年代は紀元前3316〜紀元前2918年頃です。この2人は現在のロシアのアルタイ地域のアファナシェヴォ文化個体群と区別できず、同様にヤムナヤ(Yamnaya)文化個体群とも類似しているので、ヤムナヤ文化集団の東方への移住がアファナシェヴォ文化の人々に大きな影響を与えた、との見解が支持されます。本論文で分析されたこの時代より後のモンゴルの全個体群は、モンゴル新石器時代集団とより西方の草原地帯関連系統との混合です。

 本論文は、この後のモンゴル人の混合史を定量化しました。モンゴル古代人の単純な混合モデル化は、モンゴル東部系統(65〜100%)とWSHG系統(0〜35%)になります。ヤムナヤ関連系統は無視できる程度で、ロシアのアファナシェヴォおよびシンタシュタ(Sintashta)文化集団関連系統によりもたらされました。このモデルに当てはまるモンゴルの集団は、新石器時代の2集団(WSHG系統が0〜5%)のみではなく、青銅器時代〜鉄器時代にも存在します。アファナシェヴォ文化との強い関連で発見された個体のうち、紀元前3316〜紀元前2918年頃の個体ではアファナシェヴォ関連系統がほぼ100%でモデル化され、ヤムナヤ関連系統の強い影響が見られますが、それよりも後の紀元前2858〜紀元前2505年頃の男児には、ヤムナヤ関連系統の証拠が見られませんでした。この男児は、アファナシェヴォ文化との強い関連で埋葬されながら、ヤムナヤ関連系統が見られない最初の個体となります。アファナシェヴォ文化は、ヤムナヤ関連系統を有さない個体群により採用された可能性がありますこれは、人々の移動というよりはむしろ、アイデアの伝播を通じて文化が拡大した事例もある、と示唆します。その後になる紀元前2571〜紀元前2464年頃となるチェムルチェク(Chemurchek)文化の2個体は、アファナシェヴォ文化関連系統の強い影響でモデル化されます(49.0±2.6%)。

 モンゴルの中期青銅器時代以降、アファナシェヴォ文化地域に拡大したヤムナヤ関連系統が存続した確たる証拠はありません。代わりに後期青銅器時代と鉄器時代以後には、ヤムナヤ関連系統はアファナシェヴォ文化移民ではなく、その後の中期〜後期青銅器時代に西方からモンゴルに到来した、2/3はヤムナヤ関連系統で1/3はヨーロッパ農耕民関連系統のシンタシュタおよびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団によりもたらされた、と推測されます。シンタシュタ関連系統は、モンゴルの後期青銅器時代個体群で5〜57%程度見られ、西方からの到来が確認されます。早期鉄器時代以降、モンゴルでは漢人系統からの遺伝子流動の証拠が検出されます。漢人を外集団に含めると、新石器時代と青銅器時代の全集団はモンゴル東部系統・アファナシェヴォ関連系統・シンタシュタ関連系統・WSHG系統の混合でモデル化できますが、早期鉄器時代の個体や匈奴とその後のモンゴル集団ではモデル化できません。匈奴とその後のモンゴル集団における漢人系統の割合は20〜40%と推定されます。

 アファナシェヴォ関連系統は、後期青銅器時代までにモンゴルではほぼ消滅しましたが、中国西部では紀元前410〜紀元前190年頃となる鉄器時代の石人子溝(Shirenzigou)遺跡では持続していた、と推測されます。この集団は、モンゴル東部系統とアファナシェヴォ関連系統とWSHG系統の混合としてモデル化できます。アファナシェヴォ文化とモンゴル新石器時代の典型的系統は石人子溝個体群に寄与し、タリム盆地のトカラ語が、ヤムナヤ草原地帯牧畜民の東方への移住を通じて拡大し、アファナシェヴォ文化の外見でアルタイ山脈やモンゴルに拡大し、そこからさらに新疆へと拡大した、とする見解が支持されます。これらの結果は、インド・ヨーロッパ語族の多様化に関する議論にとって重要となります。インド・ヨーロッパ語族の既知で二番目に古い分枝であるトカラ語系統が、紀元前四千年紀末には分岐していたことになるからです。

 ロシア極東では、紀元前5000年頃となる新石器時代のボイスマン文化と、鉄器時代となる紀元前1000年頃のヤンコフスキー文化と、紀元前6000年頃となる「悪魔の門(Devil’s Gate)」の個体群が遺伝的にひじょうに類似しており、この系統がアムール川流域では少なくとも8000年前頃までさかのぼることを示します。この遺伝的継続性は、Y染色体ハプログループ(YHg)とミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)でも明らかです。ボイスマン遺跡個体群では、YHg-C2a(F1396)とmtHg-D4・C5が優勢ですが、これは現在のツングース語族やモンゴル語族や一部のテュルク語族でも同様です。新石器時代のボイスマン遺跡個体群は、縄文人との類似性を共有しています。また、アメリカ大陸先住民集団は、ボイスマン個体群やモンゴル東部系統と、他のアジア東部集団よりも多くのアレル(対立遺伝子)を有しています。ボイスマン個体群と他のアジア東部集団では、アメリカ大陸先住民集団のゲノムに1/3程度寄与したとされる、24000年前頃の古代ユーラシア北部系統個体(関連記事)と共有アレルの割合が同じなので、アメリカ大陸先住民集団からの遺伝子の「逆流」の可能性は低そうです。なお、古代ユーラシア北部系統は、より広範に拡散していた、さらに古い年代の古代シベリア北部集団の子孫と推測されています(関連記事)。この遺伝的知見は、ボイスマン個体群とモンゴル新石器時代系統が、アメリカ大陸先住民集団にアジア東部関連系統をもたらした集団と深く関連していた、という想定で説明できそうです。また、バイカル湖周辺の新石器時代および前期青銅器時代個体群は、モンゴル東部系統とのかなりの(77〜94%)共有でモデル化され、この系統がバイカル湖とモンゴル東部とアムール川流域という広範な地域に拡大していた、と明らかになります。アムール川流域の現代人の中には、もっと南方の漢人と関連するアジア東部集団に由来する系統を13〜50%有する集団もいます。紀元後1050〜1220年頃となる黒水靺鞨の1個体では、漢人もしくはその関連集団からの系統が50%以上見られるので、少なくとも中世初期にはアムール川流域集団と漢人関連集団との混合が起きていたようです。

 標高4000m以上のチベット高原は、人類にとって最も過酷な生活環境の一つです。チベット高原における人類の拡散は更新世までさかのぼりますが、永続的な居住の証拠は3600年前頃以降と推測されています(関連記事)。本論文は、チベット高原の現代人を遺伝的に17集団に分類しています。「中核チベット人」は、チョコパニ(Chokopani)のような古代ネパール人個体群(関連記事)と密接に関連しており、ユーラシア西部系統や低地アジア東部系統とは過去数十世代にわたって最小限の混合(交雑)しかしていない、と推測されます。「北部チベット人」は中核チベット人とユーラシア西部系統との混合で、高地と低地をつなぐチベット高原東端の「チベット・イー回廊」集団は、チベット語話者だけではなく、チャン語やロロ・ビルマ語話者を含み、この系統はアジア南東部クラスタ関連系統を30〜70%ほど有します。チベット人と遺伝的に近い集団として、新石器時代五庄果墚集団・漢人・チアン人(Qiang)があり、チベット人は、他の現代アジア東部集団よりもチアン人と漢人の方に遺伝的影響を残した新石器時代五庄果墚集団と密接に関連する集団系統を有する、と示唆されます。この混合は80〜60世代前(1世代28年として2240〜1680年前頃)に起きた、と推定されます。これは2集団の混合の下限年代なので、じっさいの混合は、チベット高原で農耕の始まった3600年前頃に始まっていた、と本論文は推測します。黄河上流〜中流域の農耕民が新石器時代から青銅器時代に中原と同様にチベット高原に拡散してきて、5800年前頃以降となるYHg-Oの分枝をチベット高原にもたらした、と推測されます。チベット人のYHg-Dは、在来の狩猟採集民集団に由来する可能性が高いように思われます。

 南方では、少なくとも紀元前1400〜紀元後600年頃となる台湾の漢本(Hanben)および公館(Gongguan)文化の個体群が、遺伝的には現代オーストロネシア語族話者およびバヌアツの古代ラピタ(Lapita)文化集団と最も類似しています。これは、漢本および公館文化の鉄器時代個体群において支配的なYHg-O2a2b2(N6)とmtHg-E1a・B4a1a・F3b1・F4bが、オーストロネシア語族話者の間で広く見られることでも明らかです。本論文は、現代のオーストロアジア語族話者である台湾のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)を、多様なアジ集団と比較しました。古代台湾集団とオーストロネシア語族集団は、他のアジア東部集団よりも、中国本土南部および海南省のタイ・カダイ語族話者と顕著にアレルを共有しています。これは、現代タイ・カダイ語族話者と関連した古代集団が、台湾に5000年前頃に農耕をもたらした、との仮説と一致します。「縄文人」は、他のアジア東部集団と比較して、古代台湾個体群と顕著に多くアレルを共有していますが、例外はアムール川流域クラスタです。

 漢人は世界で最多の人口の民族とされます。考古学と言語学に基づき、漢人の祖先集団は中国北部の黄河上流および中流域の早期農耕民で構成され、その子孫の中には、チベット高原に拡散し、現在のチベット・ビルマ語派の祖先集団の一部になった、と推測されています。考古学と歴史学では、過去2000年に漢人(の主要な祖先集団)がすでに農耕の確立していた南方に拡大した、と考えられています。現代人のゲノム規模多様性分析では、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、本論文の分析でも改めて確認されました。新石器時代の五庄果墚集団と現代のチベット人およびアムール川流域集団は、アジア南東部クラスタと比較して、漢人と顕著に多くのアレルを共有しています。一方、アジア南東部クラスタは、五庄果墚集団と比較して、漢人の大半と顕著により多くのアレルを共有しています。これらの知見から、漢人は、五庄果墚集団と関連した集団と、アジア南東部クラスタと関連した集団との間で、さまざまな混合割合を有している、と示唆されます。現代漢人はほぼ全員、黄河流域の新石器時代五庄果墚集団と関連した系統(77〜93%)と、長江流域の稲作農耕民と密接に関連した古代台湾集団と関連した集団の混合としてモデル化できます。これは、長江流域農耕民関連系統が、オーストロネシア語族およびタイ・カダイ語族話者のほぼ全系統と、オーストロアジア語族話者の約2/3の系統と関連している、という本論文の推定と一致します。五庄果墚集団のゲノムが現代人に汚染されている可能性はありますが、そうだとしても、混合の推定値に3〜4%以上の誤差はもたらさないだろう、と本論文は推測しています。北部漢人集団におけるユーラシア西部関連系統との交雑の年代は45〜32世代前で、紀元後618〜907年の唐王朝と、紀元後960〜1279(もしくは1276)年の宋王朝の時期に相当します。歴史的記録からも、この時期の漢人(の主要な祖先集団)と西方集団との混合が確認されますが、これは混合の下限年代で、もっと早かった可能性があります。

 現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は、漢人系統(84.3%)と「縄文人」系統(15.7%)の混合、もしくは朝鮮人系統(87.6%)と縄文人系統(12.4%)の混合としてモデル化され、両者を統計的に区別できません。この分析が示唆するのは、日本の「本土」系統が直接的に漢人もしくは朝鮮人によりもたらされた、ということではなく、まだ古代DNAデータの得られていない、漢人と朝鮮人の系統に大きな割合を残した集団と関連した祖先的集団からもたらされた、ということです。7人の「縄文人」は、紀元前1500〜紀元前1000年頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡の1人と、紀元前3500〜紀元前2000年頃となる千葉市の六通貝塚の6人です。船泊遺跡の方は、高品質なゲノム配列が得られている女性個体ではなく、男性個体が分析対象となっており、この男性個体はmtHg-N9b1で、YHgは以前D1a2a2b(旧D1b2b)と報告されていましたが(関連記事)、今回はDとのみ報告されています。六通貝塚の6人のmtHgはいずれもN9bで、さらに詳細に分類されている3人のうち2人がN9b1、1人がN9b2aです。六通貝塚の6人のうち3人が男性で、YHgはD1a2a1c1(旧D1b1c1)です。現代日本人のYHg-Dのうち多数派はYHg-D1a2a1(旧D1b1)ですが、これまで「縄文人」で詳細に確認されていたのは現代日本人では少数派のYHg- D1a2a2(旧D1b2)のみでした。本論文はまだ査読前ですが、これは「縄文人」としては初めて確認されたYHg-D1a2a1の事例になると思います。これまで、「縄文人」ではYHg-D1a2a1が確認されておらず、YHg- D1a2a2のみだったので、YHg-D1a2a1が弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も想定していたのですが(関連記事)、これでYHg-D1a2aが「縄文人」由来である可能性はやはり高い、と言えそうです。

 本論文は、以上の知見をまとめて、アジア東部における集団形成史を図示しています。アジア東部集団は、古代の2集団から派生したとモデル化できます。一方は、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類(Homo sapiens)個体(関連記事)と同系統のユーラシア東部北方集団(以下、北方集団)で、もう一方はアンダマン諸島のオンゲ(Onge)集団と密接に関連したユーラシア東部南方集団(以下、南方集団)です。アジア東部集団の系統はこの祖先的2集団に由来し、それぞれの割合はさまざまです。

 このモデルでは、モンゴル東部系統とアムール川流域のボイスマン関連系統は、北方集団関連系統からの割合が最大で、他のアジア東部集団と比較して、南方集団関連系統からの割合は最小限に留まっています。モンゴル東部系統の近縁系統は、チベット高原に拡大し、南方集団関連系統の在来狩猟採集民と混合しました。台湾の古代漢本集団は、南方集団関連系統(14%)と北方集団関連系統(86%)の混合としてモデル化されます。縄文人は南方集団関連系統で早期に分岐した系統(45%)と北方集団関連系統(55%)との混合としてモデル化されます。これらの知見は、後期更新世にアジア南東部から日本列島を経てロシア極東まで、沿岸経路での移住があった、との仮説と一致します。上部旧石器時代(後期旧石器時代)のアジア東部の古代ゲノムデータが少ないので、アジア東部の祖先的集団の深い分岐の復元は限定的になってしまいます。そのため、この混合を示した図は角に単純化されており、より詳細な関係は将来の研究に委ねられます。以下、本論文の図5です。


画像
https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2020/03/25/2020.03.25.004606/F5.large.jpg

 最終氷期の終わりには、ユーラシア東西で複数のひじょうに分化した集団が存在しており、これらの集団は他集団を置換したのではなく、混合していきました。ユーラシア西部では、ヨーロッパ集団とアジア東部集団との遺伝的違い(平均FST=0.10)と同じくらいの、遺伝的に異なる少なくとも4集団が存在し、新石器時代に混合して異質性は低下していき(平均FST=0.03)、青銅器時代と鉄器時代には現代のような低水準の分化(平均FST=0.01)に至りました。ユーラシア東部では、アムール川流域集団、新石器時代黄河流域農耕民、台湾鉄器時代集団の間で、比較的高い遺伝的違い(平均FST=0.06)が存在したものの、現在では低くなっています(平均FST=0.01〜0.02)。今後の課題として優先されるのは、まだ仮定的存在で、現代人集団のアジア南東部クラスタの主要な系統になったと推測される、長江流域集団の古代DNAデータを得ることです。これにより、アジア南東部の人々の拡散が、古代人の移動と相関しているのか否か、理解できます。

 以上、ざっと本論文の内容について見てきました。もちろん、これまでにもアジア東部の古代DNA研究は進められていましたが、本論文は初の包括的な研究結果を示した画期的成果と言えそうです。ただ、本論文でも指摘されているように、アジア東部に限らず、アジア南東部、さらにはオセアニアの古代DNA研究に不可欠と言えそうな長江流域集団の古代DNAデータが得られておらず、ヨーロッパをはじめとしてユーラシア西部の水準にはまだ遠く及ばないように思います。上述の図からは、(ユーラシア東部)北方集団からアジア東部北方および南方系統が分岐し、長江流域早期農耕民集団はおもに南方系統、五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡集団に代表される黄河流域早期農耕民集団はおもに北方系統に由来すると考えられますが、アジア東部の南北両系統、さらにはその祖先となった(ユーラシア東部)北方集団がいつどのような経路でアジア東部に到来したのか、まだ不明です。ヤムナヤ関連系統、さらにはその祖先の一部である古代シベリア北部集団の遺伝的影響が漢人など華北以南のアジア東部集団ではひじょうに小さいことを考えると、北方集団はヒマラヤ山脈の北方(北回り)ではなく南方(南回り)経由でアジア東部に到来し、年代と場所は不明ながら、南北両系統に分岐したのではないか、とも考えられます。ともかく、アジア東部を含めてユーラシア東部の古代DNAデータがユーラシア西部と比較して明らかに少ない現状では、ユーラシア西部のような精度での集団形成史はまだ無理なので、アジア東部圏の日本人である私としては、大いに今後の研究の進展に期待しています。


参考文献:
Wang CC. et al.(2020): The Genomic Formation of Human Populations in East Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.25.004606


https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html
 

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コメント
1. 中川隆[-12315] koaQ7Jey 2020年6月20日 13:43:43 : aJzrYhZXuM : UGtFb2ZLS0s2Vy4=[11] 報告
日本人のガラパゴス的民族性の起源


1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 最新ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

2-1. mtDNA ハプロタイプ 2019年5月21日取得 最新ツリー改訂版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

0-1. 日本人のY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-1.htm

0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

1-2. 日本と関連民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度 rev.1
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm

2-3. 日本民族mtDNAハプロタイプ頻度リスト
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-3.htm

1-3. 日本民族 Y-DNA調査まとめ 日本人は三重遺伝子構造の民族!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-3.htm

1-5. Y-DNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#1-5

1-5. Y-DNA/mtDNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#2-2

1-8. 縄文遺伝子近縁度調査 Y-DNA「D」とY-DNA「C」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-8,30-11,30-12,19-14.htm#1-8

1-4. 琉球列島のY-DNA遺伝子構成
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-4,16-5,19-12,19-13.htm#1-4

0-3. 日本人のガラパゴス的民族性の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-3,19-8,30-31.htm#0-3

30-23. Y-DNAから見た日本語の成り立ち考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/16-2,30-23,30-24,30-25.htm#30-23

2. 中川隆[-12310] koaQ7Jey 2020年6月21日 06:54:42 : bK79sxhxJ9 : OThFc3ZjV20uLmc=[2] 報告
縄文時代に関する記事のまとめ: 雑記帳
https://sicambre.at.webry.info/201812/article_24.html


 縄文時代に関する当ブログの記事もそれなりの本数になったので、一度まとめておきます。今後、縄文時代に関する記事を掲載したら、追記していきます。


縄文時代の平均寿命について
https://sicambre.at.webry.info/200701/article_10.html

縄文時代の推定平均寿命の妥当性をめぐる議論
https://sicambre.at.webry.info/200701/article_11.html

松木武彦『日本の歴史第1巻 列島創世記』(2007年11月刊行)
https://sicambre.at.webry.info/200711/article_16.html

縄文人の遺伝的分析
https://sicambre.at.webry.info/201002/article_20.html

縄文時代の平均寿命についての新たな研究
https://sicambre.at.webry.info/201011/article_17.html

木下正史『日本古代の歴史1 倭国のなりたち』
https://sicambre.at.webry.info/201307/article_28.html

佐藤宏之「日本列島の成立と狩猟採集の社会」
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_32.html

3. 中川隆[-12309] koaQ7Jey 2020年6月21日 06:55:19 : bK79sxhxJ9 : OThFc3ZjV20uLmc=[3] 報告
『岩波講座 日本歴史  第1巻 原始・古代1』
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_1.html

『週刊新発見!日本の歴史』第49号「旧石器・縄文 日本人はどこから来たか」
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_12.html

『週刊新発見!日本の歴史』第50号「弥生時代 稲作の伝来と普及の謎」
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_19.html

海部陽介「港川人の来た道」『人類の移動誌』第3章「日本へ」第1節
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_20.html

松本直子「縄文から弥生へ 農耕民の移動と新しい文化の誕生」『人類の移動誌』第3章「日本へ」第2節
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_26.html

小林青樹「縄文と弥生 日本列島を縦断する移動と交流」『人類の移動誌』第3章「日本へ」第3節
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_27.html

石田肇「北から移動してきた人たち」『人類の移動誌』第3章「日本へ」第4節
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_29.html

高宮広土「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」『人類の移動誌』第3章「日本へ」第5節
https://sicambre.at.webry.info/201407/article_1.html

中橋孝博「大陸から移動してきた人たち」『人類の移動誌』第3章「日本へ」コラム3
https://sicambre.at.webry.info/201407/article_3.html

山田康弘『老人と子供の考古学』
https://sicambre.at.webry.info/201410/article_25.html

日本最古級の埋葬?
https://sicambre.at.webry.info/201412/article_14.html

石川日出志『シリーズ日本古代史1 農耕社会の成立』第3刷
https://sicambre.at.webry.info/201412/article_16.html

縄文時代の寒冷化をめぐる議論
https://sicambre.at.webry.info/201412/article_18.html

小林謙一「縄紋土器にみる新人の文化進化」
https://sicambre.at.webry.info/201505/article_17.html

4. 中川隆[-12308] koaQ7Jey 2020年6月21日 06:56:01 : bK79sxhxJ9 : OThFc3ZjV20uLmc=[4] 報告
松本直子「縄文から弥生への文化変化」
https://sicambre.at.webry.info/201505/article_20.html

NHKスペシャル『アジア巨大遺跡』第4集「縄文 奇跡の大集落」
https://sicambre.at.webry.info/201511/article_10.html

山田康弘『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_30.html

海部陽介『日本人はどこから来たのか?』
https://sicambre.at.webry.info/201602/article_21.html

縄文時代における暴力死亡率
https://sicambre.at.webry.info/201604/article_2.html

小畑弘己『タネをまく縄文人 最新科学が覆す農耕の起源』
https://sicambre.at.webry.info/201604/article_3.html

縄文時代の人類の核DNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_3.html

縄文時代の妊娠・出産回数の地域的違い
https://sicambre.at.webry.info/201611/article_19.html

松本直子「人類史における戦争の位置づけ 考古学からの考察」
https://sicambre.at.webry.info/201707/article_5.html

斎藤成也『核DNA解析でたどる日本人の源流』
https://sicambre.at.webry.info/201712/article_3.html

バヌアツの人類集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_6.html

縄文時代と現代日本
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_7.html

縄文時代における九州と朝鮮半島との交流
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

縄文時代から弥生時代への移行
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_12.html

「縄文人」の起源
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_28.html

5. 中川隆[-12307] koaQ7Jey 2020年6月21日 06:56:35 : bK79sxhxJ9 : OThFc3ZjV20uLmc=[5] 報告
現代東南アジア人の形成過程
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_11.html

日本列島における土器利用の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_27.html

『洋泉社ムック歴史REAL 日本人の起源』
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html

日本の潜在的鎖国体質
https://sicambre.at.webry.info/201812/article_37.html

近世アイヌ集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html

山田康弘『縄文時代の歴史』
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_42.html

篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_39.html

現代日本人のY染色体DNAハプログループDの起源
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_11.html

「縄文人」ゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_24.html

現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_43.html

北海道の「縄文人」の高品質なゲノム配列
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html

日本列島の言語
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_4.html

愛知県の「縄文人」のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_9.html

Y染色体DNA解析から推測される縄文時代晩期の人口減少
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_38.html

「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_32.html

6. 中川隆[-12306] koaQ7Jey 2020年6月21日 06:57:11 : bK79sxhxJ9 : OThFc3ZjV20uLmc=[6] 報告
天皇のY染色体ハプログループ
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_44.html

縄文人と日本人には、遺伝的に何の繋がりも無いんだが
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_53.html

Y染色体ハプログループDの改訂
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html

オホーツク文化人のハプログループY遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_5.html

注目が高まるY染色体
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_13.html

北條芳隆編『考古学講義』第2刷
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_20.html

大西秀之「アイヌ民族・文化形成における異系統集団の混淆―二重波モデルを理解するための民族史事例の検討」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_24.html

考古資料から人類集団の遺伝的継続・変容の程度を判断することは難しい
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_31.html

松本克己「日本語の系統とその遺伝子的背景」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_44.html

梅津和夫『DNA鑑定 犯罪捜査から新種発見、日本人の起源まで』
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_53.html

皇位男系継承を「日本の存亡に関わる問題」とする竹内久美子氏の認識はある意味で正しい
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_12.html

北海道の縄文時代のコクゾウムシ混入土器
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_15.html

太田博樹「縄文人骨ゲノム解析から見えてきた東ユーラシア大陸へのホモ・サピエンスの拡散」
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_14.html

古代ゲノムデータに基づくアジア東部における現生人類集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html

7. 2020年6月23日 06:16:53 : SdKRyXdLoU : YWNCOS4wZ0FhbTY=[1] 報告
国内にない材質 中国や朝鮮から渡来か 下仁田・下鎌田遺跡で出土 7000年前の縄文時代耳飾り

 1987〜90年に群馬県下仁田町馬山の下鎌田遺跡から出土した約7000年前の装飾品「●状耳飾(けつじょうみみかざり)」について、
下仁田町は9日、中国や朝鮮半島からの渡来品の可能性があると発表した。主成分をX線で解析し、日本国内にはない材質と判明した。
縄文時代の渡来品が科学的に証明されるのは国内でも珍しいという。
町は、縄文時代にアジア大陸と何らかの交流があった可能性を示す貴重な資料だとしている。

中略

 群馬県立歴史博物館の右島和夫特別館長によると、土器や石器の製作技術の分析といった考古学研究から、
7000年ほど前の日本に大陸との交流があった可能性は以前から指摘されていたという。
「(今回は)自然科学的なアプローチで裏付けられたなら興味深い。今後の研究の展開に期待したい」と評価した。

https://news.yahoo.co.jp/articles/7abb4a557cc83b5cf8fed415d4c3b6eeefbe223a

8. 中川隆[-11948] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:41:53 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[11] 報告
神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393

『韓国で、釜山・加徳島の獐項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内部)情報が伝えられた。(2019/11/24)
この情報が、どんな内容で何時 公表されるかに 関心がある。分子生物学者の発表なら早期に期待できるが..


上記の核DNA分析結果は、「韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析」2019/06 で諭文名は検索できるが、
内容は、韓国文化財研究院の論文集でのみ公開されており、日本国内の公共図書館(国会図書館、国立科学博物
館、山梨大学)には所蔵されていない。
推察するに、韓国の新石器人骨が縄文人的であったため、韓国国内で広く公表することを控えているように思われる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

9. 2020年8月19日 13:17:38 : weQPwHWYfs : M1k3bE5sNXExL00=[14] 報告
2019年05月07日
現代日本人のY染色体DNAハプログループDの起源
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_11.html


 現代日本人のY染色体DNAハプログループ(YHg)では、Dが30〜40%と高い割合を占めています。YHg-Dは現代では珍しいハプログループで、おもにアジア東部の一部地域とアンダマン諸島で見られます。アンダマン諸島ではYHg-Dは高頻度で見られ、アジア東部では日本列島とチベットを除くときわめて低頻度でしか存在しません。そのため、YHg-Dを現代日本人の独自性の根拠とする言説をネットでよく見かけます。とくに、「縄文人」においてYHg-Dが確認されてからは、長期にわたる日本の独自性が強調される傾向にあるように思います。「縄文人」の父系は現代日本人においてもその多くが継続している、というわけです。

 確かに、現代日本人で高頻度なのはYHg-D1b(ちなみに、チベットで高頻度なのはYHg-D1aです)で、これは「縄文人」でも確認されていますから、そうした言説に一定以上の根拠があることは否定できません。ただ、現時点で確認されている「縄文人」およびゲノム解析で「縄文人」の変異内に収まる東北地方の弥生時代の男性は全員YHg-Dに分類されるものの、より詳細に分類できる個体は全員、YHg-D1b2aです(関連記事)。一方、現代日本人で多いのはYHg-D1b1です。YHg-D1bは、D1b1 とD1b2に分岐し、D1b2からD1b2aが派生します。つまり現時点では、現代日本人のYHgにおいて多数派のD1b1は「縄文人」では確認されていないので、弥生時代以降にアジア東部から到来した可能性も一定以上想定しておかねばならないだろう、と私は考えています。

 この問題は十数年前より考えていましたが、少なからぬ人も考えているであろうように、YHg-Dがかつてアジア東部に一定以上の頻度で広範に存在していた可能性は低くないように思います(関連記事)。もちろん、「縄文人」の核DNA解析数はまだ少なく、東日本に遍在しているため、今後西日本の「縄文人」の解析が進めば、YHg-D1b1がかなりの頻度で発見されるかもしれません。ただ、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域はせいぜい20%程度にしかならないと予想されており(関連記事)、父系の30〜40%が「縄文系」だと多いかな、とも思います。もちろん、あり得ない数値ではありませんし、仮に現代日本人のYHg-D1b1のうち一定以上の割合が弥生時代以降の「渡来系」だとしても、現代日本人の父系の一定以上の割合は「縄文系」だと思いますが。

https://sicambre.at.webry.info/201905/article_11.html

10. 2020年8月19日 13:23:54 : weQPwHWYfs : M1k3bE5sNXExL00=[15] 報告
2019年07月13日
「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_32.html

 日本列島の人類集団は、大別すると、北海道のアイヌ、本州・四国・九州を中心とする「本土」、南方諸島の琉球に三区分されます。日本列島も含めてユーラシア東部圏の古代DNA研究は、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較すると大きく遅れているのですが、進展しつつあるのは間違いないでしょう。日本列島に関しても、縄文時代の人類のDNA解析結果が蓄積されつつあります。近年では、解析の容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)だけではなく、核DNA解析も報告されており、「縄文人」の遺伝的データは以前よりもずっと豊富になった、と言えるでしょう。現時点での縄文人の核DNA解析結果は、3000年前頃となる福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚(関連記事)、2500年前頃となる愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)、3800年前頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡(関連記事)からのものが報告されています。このうち高品質のゲノム配列が得られているのは、船泊遺跡の縄文人です。

 これら縄文人の核DNA解析から現時点でまず言えるのは、縄文人は既知の古代および現代の各地域集団との比較において、一つの分類群を形成するほど遺伝的に類似している、ということです。もちろん、今後ユーラシア東部において、縄文人と遺伝的により類似した古代集団が発見される可能性は低くありませんが、おそらく縄文人はユーラシア東部から日本列島到来した複数の集団の融合により形成されたので、縄文人そのものという遺伝的構成の古代集団が発見される可能性はかなり低いでしょう。考古学的にも、縄文文化は比較的孤立していることから(関連記事)、今後西日本の縄文人のDNA解析が進展しても、縄文人が、既知の古代および現代の各地域集団との遺伝的比較において、一つの分類群を形成する可能性はたいへん高い、と私は考えています。おそらく縄文人は、完全に一致するわけではないとしても、おおむね日本列島限定の孤立した文化集団で、遺伝的にも近隣地域の各地域集団とは明確に区別できただろう、と私は考えています。

 次に言えるのは、縄文人は現代の各地域集団との遺伝的比較で、大きくはアジア東部集団の変異内に収まりますが、その中でも日本列島も含めて沿岸部の地域集団とより類似している、ということです。これは、縄文人の祖先集団が、アフリカからユーラシア南岸経由でアジア南東部まで東進し、そこから北上したことを示唆します。あるいは、両者の類似性は一定以上の遺伝子流動の結果かもしれません。考古学的観点からは、シベリア中部のバイカル湖周辺地域に由来すると思われる細石刃が、北海道では25000年前頃以降、日本列島「本土」では20000年前頃以降に見られるので、縄文人の祖先集団の一源流として、北方からの流入も想定しておくべきかもしれません。また、縄文人は更新世に日本列島に拡散してきた集団の子孫である可能性が高いことも、縄文人のDNA研究では指摘されています。

 日本列島の各集団と縄文人との関係について諸研究で一致しているのは、縄文人との遺伝的近縁性の順番が、近い方からアイヌ集団→琉球集団→本土集団になる、ということです。船泊遺跡の縄文人のゲノムデータからは、縄文人の遺伝的影響は、アイヌ集団では66%、本土集団では9〜15%、琉球集団では27%と推定されています。もちろん、これは幅の大きい推定値なので、今後修正される可能性は高いでしょう。とくに問題となるのは、西日本の縄文人のゲノムデータが得られていないことです。西日本の縄文人との比較では、本土集団への縄文人の遺伝的影響が20%程度になる可能性も提示されています(関連記事)。また、西日本の縄文人の遺伝的構成は既知の東日本の縄文人のそれとは一定以上異なっている可能性が高そうです。そうだとすると、縄文人の遺伝的多様性は現時点での推定より高くなりそうですが、それでも、古代および現代の各地域集団との比較において、縄文人が一つの分類群を形成する可能性は高いと思います。遺伝的影響の推定値に幅がありますし、各集団の違いも大きそうですが、現代日本人が縄文人の遺伝的影響を一定以上受けていることは間違いないでしょう。

 この縄文人と現代の日本列島の各集団との遺伝的継続性についてネットでよく言われているのが、Y染色体DNAハプログループ(YHg)です。縄文人ではYHg- D1bが確認されており、それは現代の日本列島の各集団でも高い割合で確認されています。本土集団でも35.34%と高いのですが、アイヌ集団では81.3%と顕著に高くなっています(関連記事)。このことから、現代日本人の独自性および朝鮮半島や中華地域など近隣地域との違いを強調する見解が、「愛国的な」人々の間では常識になっている感があります。うっかり本土集団と朝鮮人集団や漢人集団との遺伝的類似性を指摘しようものなら、最新の「科学的知見」を無視して捏造に励む「反日左翼」扱いされかねません。じっさい、最近の研究でも、現代日本人のYHg- D1bは縄文人由来と推測されています(関連記事)。しかし、複数の縄文人の核DNA解析で明らかなように、そもそも縄文人は、ユーラシア東部集団という枠組みの中では、既知および古代の各地域集団とは遺伝的に遠い関係にあり、現代日本人の圧倒的多数派である本土集団が、縄文人よりも朝鮮人集団や漢人集団の方と遺伝的に近縁であることは、とても否定できません。mtDNAハプログループ(mtHg)でも、現代日本人と朝鮮人や漢人との類似性が指摘されています。

 では、YHgとmtHgや核DNA(この場合、常染色体DNAと言うべきかもしれませんが)で、現代日本人とその近隣集団との遺伝的類似性が異なることはどう説明されるべきなのでしょうか。一つ考えられるのは、縄文時代の後に、アイヌ集団は本土集団とは異なり、朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統の遺伝的影響をほとんど受けなかったために高頻度でYHg- D1bが残り、一方本土集団は朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統から強い遺伝的影響を受けたものの、6世紀前半に父系継承の王族(皇族)を確立した氏族がYHg- D1bだったため、臣籍降下した天皇の父系子孫である武士(源氏や平氏、もちろん父系が皇族にさかのぼらない武士も多数いましたが)の勢力拡大により、再度YHg- D1bの頻度が本土集団において増加した、ということです。

 もう一つ考えられるのは、現代日本人のYHg- D1bのうちかなりの割合が、弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した、朝鮮人集団や漢人集団と近縁な系統の農耕民もしくは特定の技術集団に由来する、ということです(関連記事)。現在、朝鮮人集団や漢人集団にはYHg- D1bがほとんど見られませんが、これは南北朝時代や五代十国時代なども含めてユーラシア東部における青銅器時代以降の人類集団の移動の結果で、かつてはアジア東部にも広範にYHg- D1bが存在したのではないか、というわけです。この仮説の検証は、ユーラシア東部における古代DNA研究の進展を俟つしかありませんが、傍証として、縄文人のYHg- D1bでは、最近までYHg-D1b2aしか確認されておらず(関連記事)、最近公表された船泊縄文人もYHg- D1b2bだったことが挙げられます。しかし、現代日本人のYHg- D1b のうち、多数派はYHg- D1b 1です。YHg- D1bにおける合着年代は19400年前頃と推定されており(関連記事)、アジア東部でYHg-D1b1とYHg-D1b2が分岐し、日本列島へは、末期更新世までにYHg-D1b2系統が、弥生時代以降にYHg- D1b2bが拡散した、とも考えられます。もちろん、まだ西日本の縄文人のYHgは明らかになっていないので、それがYHg-D1b1で、YHg-D1bの分岐は後期更新世に日本列島で起きた可能性も考えられます。やはり、この仮説の妥当性も古代DNA研究の進展を俟つしかありません。

 なお、「アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した」というような見解がネットで拡散されつつあるようですが、その遺伝学的根拠は北海道の人類集団におけるmtHgの構成の変容を誤解したもので、とても通用する話ではありません(関連記事)。これまでのDNA解析からは、現代の日本列島の各集団のなかで、アイヌ集団が最も強く縄文人の遺伝的影響を保持していることは否定できないでしょう。もちろん、アイヌ集団は縄文人の「純粋な子孫」ではなく、オホーツク文化集団の遺伝的影響も強く受けています。

 縄文人の文化、とくに言語の影響については、以前当ブログで短く取り上げましたが(関連記事)、確定はほぼ不可能でしょう。現時点で考えられる組み合わせは、アイヌ語と日本語がそれぞれ縄文人の言語系統だったのか否か、という4通りです。どちらも縄文人の言語系統だった場合、縄文人の言語は地域により大きく異なり、別系統が共存していたことになります。この場合、アイヌ語系統はサハリン経由で北海道へ流入した細石刃文化集団に由来し、日本語系統はその他の経路で日本列島へ流入した集団に由来した、と推測されます。日本語が縄文人の言語に由来しない場合、弥生時代にアジア東部から日本列島へと農耕をもたらした集団か、弥生時代に先駆けて縄文時代後期〜晩期に、ユーラシア東部から日本列島に渡来してきた集団に由来している、と推測されます。アイヌ語が縄文人の言語に由来しない場合、その起源となる有力候補はオホーツク文化集団でしょう。

 日本語系統(日本語および琉球語)もアイヌ語も「系統不明」とされていますが、それは、近縁な言語がかつてユーラシア東部に少なからず存在したものの、後に絶滅してしまったためではないか、と考えられます。なお、本土集団では弥生時代以降にアジア東部から日本列島へと流入してきた農耕民および特定技術集団の遺伝的影響が縄文人よりもずっと高いと推定されているのに、日本語が縄文人の言語に由来するとは考えにくい、との批判もあるとは思います。しかし、弥生時代以降にアジア東部から日本列島へと到来した集団が、大挙して押し寄せたのではなく、じょじょに流入してきて、後に人口増加率の違いから縄文人系を遺伝的影響度で圧倒したのだとしたら、縄文人の言語が日本列島で話され続けたとしても不思議ではないと思います(関連記事)。バヌアツの事例(関連記事)からも、遺伝的構成の大規模な変容を経ても、在来集団の言語が話され続ける可能性はじゅうぶんあるでしょう。

https://sicambre.at.webry.info/201907/article_32.html

11. 2020年8月19日 13:37:56 : weQPwHWYfs : M1k3bE5sNXExL00=[16] 報告
雑記帳 2018年03月07日
縄文時代と現代日本
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_7.html

 これは3月7日分の記事として掲載しておきます。一つ前の記事で取り上げた、バヌアツにおける人類集団の形成史に関する研究は、日本列島における人類集団の遺伝的構成の変遷と言語の形成過程に関する議論にも参考になりそうだという点でも、大いに注目されます(関連記事)。日本列島の人類史における縄文時代の位置づけについては、まだ不明なところが多分にある、と言わざるを得ないでしょう。現代日本社会の「愛国的な見解」においては、縄文時代から現代まで継続する一貫した「日本」が措定され、現代日本社会の「確たる基盤・源流」として縄文時代が賞賛される傾向にあるように思います。現代日本社会の「愛国的な見解」は、皇国史観とも共通する要素を有しているものの、皇国史観において縄文時代はほとんど視野に入っていなかったことを考えると、縄文時代の評価は現代日本社会の「愛国的な見解」と皇国史観との大きな違いと言えるでしょう。そもそも、山田康弘『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』によると、縄文時代という時代区分が定着したのは第二次世界大戦後で、その前には縄文時代と弥生時代は石器時代として一括して区分されることが多かったそうです(関連記事)。

 現代日本社会の「愛国的な見解」における縄文時代像は、たんなる妄想というよりは、「一国史」的枠組みを前提とした近代歴史学から生じた、偏った一つの方向性を表している、とも言えそうです。この「一国史」的枠組みを前提とした日本史像への反省として、とくに1980年代以降、「開かれた日本列島」という歴史像が提示されてきました。そうした歴史像では、たとえば、朝鮮半島と縄文時代の九州北部との交流が強調されたこともありました。しかし、『つくられた縄文時代』では、両者の交流が一部で想定されたよりも少なく、その理由として言語の違いがあったかもしれない、と指摘されています。東野治之『遣唐使』では、「開かれていた日本」という発想は、常識化した鎖国史観への批判として有効であり、傾聴すべきではあるものの、それに偏ると、日本の潜在的鎖国体質を無視してしまうことになる、と指摘されています(関連記事)。「開かれていた日本(列島)」の強調に、開かれた日本であるべきだ、との願望・思い込みが過剰に投影されていないか、慎重に検証すべきでしょう。

 「開かれていた」縄文時代の日本列島(の一部)という歴史像に行きすぎもあったかもしれないとはいえ、とくに弥生時代以降、日本列島がユーラシア東部の影響を大きく受けてきたことは否定できないでしょう。その具体的な様相は、狩猟採集社会から農耕社会への移行において、人間の移動が大きな役割を果たしたのか、それとも人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が重要だったのか、という世界史において普遍的な議論の一部と言えるでしょう。漠然とした印象にすぎませんが、「愛国的な見解」では人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が、「愛国的な見解」や「一国史」的枠組みに批判的な「(進歩的で)良心的な見解」では人間の移動が、それぞれ支持される傾向にあるように思います。

 20世紀後半には、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、との見解も提示され、「(進歩的で)良心的な見解」の側では支持されてきたように思われます。この問題の解決にたいへん有効になるのが、古代DNA研究です。古代DNA研究は、DNAの保存に適した環境であることからも、ヨーロッパが中心地となってきました(近代化がヨーロッパで始まった結果としてのヨーロッパ中心主義という社会的要因もありますが)。古代DNA研究によると、ヨーロッパにおける狩猟採集社会から農耕社会への移行はアナトリア半島の農耕民のヨーロッパへの拡散によるもので、全体的には先住の狩猟採集民集団との交雑・同化がゆっくりと進行していったものの、地域によっては交雑・同化が早期に進行した、とされています(関連記事)。西アジアでは、少なくとも一部地域において、人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が農耕の拡大に重要な役割を果たしたのではないか、と示唆されています(関連記事)。狩猟採集社会から農耕社会への移行の具体的様相は、各地域により異なっていた可能性が高そうです。

 本格的な水稲耕作など弥生時代の新規要素の多くがユーラシア東部起源であることは否定できないでしょうが、では、縄文時代〜弥生時代への移行の具体的様相はどうだったのでしょうか。重要な手がかりとなる古代DNA研究では、日本列島の縄文時代の住民は遺伝的には現代日本人に大きな影響を与えていない(アイヌ人と沖縄の人々を除く現代の「本土日本人」に継承された縄文人ゲノムの割合は推定で15%程度)、と推測されています(関連記事)。もちろん、現時点では縄文時代の日本列島の人類の古代DNA解析数は少なく、縄文時代とはいっても、地域・時代による違いはあったでしょうが、縄文時代の日本列島の人類集団よりも、弥生時代以降に日本列島に渡来した人類集団の方が、現代日本人に及ぼした遺伝的影響はずっと大きい、という可能性が高そうです。

 これは、上述した、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、という20世紀後半に提示された見解と整合的と言えそうです。弥生時代以降に日本列島に渡来してきた人類集団が、縄文時代の先住民をおおむね遺伝的に置換したとなると、縄文時代に現代日本社会の「確たる基盤・源流」を想定する「愛国的な見解」にたいして、「(進歩的で)良心的な見解」の側からの、時として嘲笑や冷笑も伴うような否定論が提示されるかもしれません。

 しかし、上述したバヌアツにおける人類集団の形成史に関する研究は、縄文時代の日本列島の人類集団の遺伝的影響が現代日本社会において小さくとも、言語に代表される文化的影響は小さくない可能性が想定され得ることを示唆しています。バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人は遺伝的にはパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなく、オーストロネシア諸語のままです。バヌアツにおいては、遺伝的にはオーストロネシア系からパプア系への置換が起きたものの、言語では置換が起きなかったのではないか、というわけです。バヌアツにおける遺伝的置換がある時期の急激なものだったのか、それとも漸進的なものだったのか、まだ確定的ではありませんし、言語の転換が起きなかった理由については不明です。しかし、これは、日本列島における人類集団の遺伝的構成の変遷と言語の形成過程に関する議論にも参考になるのではないか、と思います。

 上述したように、現時点での古代DNA研究からは、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、という見解が支持されそうです。しかし、別の解釈もじゅうぶん可能だと思います。弥生時代以降におもに朝鮮半島から渡来してきた集団は日本列島の縄文時代以来の先住民集団よりも小規模で、交易などの必要性から先住民集団の言語が大きな影響力を維持したものの、弥生時代以降の渡来集団は、自分たちが新たに導入した本格的な水稲耕作や戦争文化などにより縄文時代以来の先住民集団よりも人口増加率が高かったため、後に日本列島における遺伝的影響力で縄文時代以来の先住民集団を圧倒した、とも考えられます。弥生時代の開始年代に関する議論は決着がついていないようですが(関連記事)、紀元前300年前頃という一昔前(二昔前?)の有力説よりもさかのぼる可能性は高そうです。そうすると、弥生時代の期間はじゅうらいの想定よりも長くなるわけで、短期間で区切った場合の日本列島への移住者数はさらに少なく推定することも可能ですから、小規模集団の言語が在来の先住民集団の言語を置換する可能性は低いだろう、とも考えられます。

 この想定は現時点では思いつきにすぎず、検証するには、縄文時代および弥生時代以降の日本列島の人類集団のみならず、朝鮮半島も含めてユーラシア東部の人類集団の古代DNA解析数を蓄積していくしかないわけですが、少なくとも現時点では、無視してよいほど低い可能性ではない、と確信しています。もちろん、現代日本語の形成において縄文時代の日本列島(の一部地域?)の言語が大きな影響力を有しているとしても、その言語と現代日本語とは大きく違うでしょうし、弥生時代以降に漢文などから大きな影響を受けた可能性はじゅうぶん想定されます。

 なお、日本語が「系統不明」とされるのは、現代人(Homo sapiens)が現生種のなかで特別な存在とも言えるところがあることと多分に共通しているのではないか、と思います。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などの他のホモ属各種や、それ以前に存在したアウストラロピテクス属各種など、現代人の近縁種がことごとく絶滅してしまったので、現代人は現生種のなかで特異的なところのある存在になったのではないか、というわけです(関連記事)。現在、消滅しつつある言語が少なくないようですが(関連記事)、過去にも絶滅した言語は多数あったのでしょう。日本語と近縁な言語はユーラシア東部に少なからず存在したかもしれませんが、それらが絶滅してしまったため、日本語は「系統不明」とされているのかもしれません。

https://sicambre.at.webry.info/201803/article_7.html

12. 2020年8月26日 09:24:43 : A8G0BLxAv2 : RVYxTWFSbTlPYms=[8] 報告
2020年08月26日
愛知県の縄文時代の人骨のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_34.html


 愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の人骨(IK002)のゲノム解析に関する研究(Gakuhari et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。本論文は、すでに昨年(2019年)、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようなので、今回は昨年の記事で言及していなかったことや、査読前の論文公開後の関連研究などを中心に簡単に取り上げます。

 昨年の記事では省略しましたが、下書きを読み返して思い出したのが、伊川津貝塚遺跡だけではなく、同じく愛知県田原市の保美町貝塚遺跡と、大分県中津市本邪馬渓町の枌洞穴遺跡の、縄文時代の合計12人からのDNA抽出が試みられた、ということです。このうちIK002と枌洞穴遺跡の1個体(HG02)のみ、内因性DNA含量が1.0%以上でしたが、典型的な古代DNA損傷パターンを示したのはIK002だけでした。昨年、査読前論文を読んだ時にはとくに意識しませんでしたが、大分県の縄文時代遺跡の人類遺骸からの古代DNA解析に成功していたら、西日本では最初になるだろう「縄文人(縄文文化関連個体)」のゲノムデータが得られていたわけで、残念です。おそらく、西日本の「縄文人」のDNA解析の試みは続けられているでしょうから、今後の研究の進展に期待しています。また、昨年の記事では言及していませんが、性染色体の比率に基づく方法では、IK002は女性と推定されています。

 本論文は、IK002も含めて東日本の縄文人の密接な遺伝的近縁性を示すとともに、縄文人の祖先集団の拡散経路を検証しています。縄文人以外でIK002と遺伝的に比較的近縁なのは、現代人ではアイヌ集団で、古代人ではラオスの8000年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民個体(La368)です(関連記事)。バイカル湖地域の24000年前頃のマリタ(Mal’ta)遺跡の1個体(MA-1)は、遺伝的にはユーラシア西部系と近縁ながら、アメリカ大陸先住民とのつながりも指摘されています(関連記事)。このMA-1の系統は、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される、古代シベリア北部集団(ANS)の子孫と推測されています(関連記事)。ANS はヨーロッパ人関連系統(71%)とアジア東部人関連系統(29%)との混合と推定され、ヨーロッパ人関連系統との推定分岐年代は39000年前頃です。

 IK002には、MA-1系統からの遺伝子流動の痕跡はほとんど検出されず、これはアジア東部および南東部の現代人も同様です。そのため本論文は、IK002にはユーラシア大陸を北方経路(ヒマラヤ山脈の北側)で東進してきた現生人類(Homo sapiens)の遺伝的影響は見られず、南方経路で東進してきた集団の子孫だろう、と推測します。ただ本論文は、他の縄文人個体では北方経路集団の遺伝的痕跡が見つかる可能性も指摘しています。本論文は、縄文人がユーラシア東部でもひじょうに古い系統で、南方経路で拡散してきた可能性を指摘し、現代人でもアメリカ大陸先住民やアジア東部および北東部集団は、おもに南方経路で東進してきた現生人類集団の子孫だろう、と推測しています。以下、昨年の記事でも掲載しましたが、より高画質なので、改めてIK002の系統関係を示した本論文の図4を掲載します。

画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs42003-020-01162-2/MediaObjects/42003_2020_1162_Fig4_HTML.png


 以上、本論文についてごく簡単に見てきましたが、今年になって大きく進展した中国の古代DNA研究を踏まえると(関連記事)、本論文とはやや異なる想定も可能ではないか、と思います。とくに重要だと思われるのは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究(Wang et al., 2020)です(関連記事)。この研究では、出アフリカ現生人類集団は、まずユーラシア東西両系統に分岐します。ユーラシア西部系の影響を強く受けたのがANSで、アメリカ大陸先住民にも一定以上の影響を残し、アジア北東部(シベリア東部)の現代人も同様ですが、縄文人も含めてアジア東部集団は基本的にユーラシア東部系統に位置づけられます。

 ユーラシア東部系統は南北に分岐し、ユーラシア東部南方系統に分類されるのは、現代人ではアンダマン諸島のオンゲ人、古代人ではホアビン文化個体のLa368です。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が分岐し、アジア東部系統はさらに北方系統と南方系統に分岐します。北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類男性1個体(関連記事)は、本論文ではユーラシア東部系統で最も早く分岐した系統と位置づけられていますが、Wang論文では、ユーラシア東部北方系統から早期に分岐した系統と位置づけられます。Wang論文で注目されるのは、縄文人がユーラシア東部南方系統(45%)とユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部南方系統(55%)の混合とモデル化されていることです。

 一方、本論文では、IK002系統からの遺伝的影響の推定は難しく、かなり幅があるのですが、本州・四国・九州を中心とする「本土日本人集団」に関しては8%程度の可能性が最も高い、と推定されています。しかし、台湾先住民のアミ人(Ami)へのIK002系統からの遺伝的影響は41%と「本土日本人集団」よりずっと高く、統計量で示された、「本土日本人」の方がアミ人よりもIK002と遺伝的類似性が高い、との結果とは逆となります。これは、アミ人がIK002系統から早期に分岐した異なる集団からの強い遺伝的影響を受けたからではないか、と本論文は推測しています。しかし、Wang論文のモデル化を踏まえると、これは台湾先住民であるアミ人と縄文人がともに、アジア東部南方系統から強い遺伝的影響を受けたのに対して、「本土日本人集団」ではアジア東部北方系統からの影響が強い(84〜87%)ことを反映している、と整合的に解釈できそうです。もちろん、Wang論文のゲノムデータも充分とはとても言えないでしょうから、今後のゲノムデータの蓄積により、さらに改良されたモデルが提示され、縄文人、さらには現代日本人の起源もより正確に理解できるのではないか、と期待されます。以下、これらの系統関係を示したWang論文の図5です。

画像
https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2020/03/25/2020.03.25.004606/F5.large.jpg

 また本論文は、アジア東部および北東部(シベリア東部)やアメリカ大陸先住民の主要な祖先が南方経路で東進してきた、と推測していますが、Wang論文を踏まえると、これも異なる可能性が考えられます。これらの地域の現代人の主要な祖先はアジア東部北方系統と推測されますが、これはユーラシア東部北方系統から派生しており、北京近郊の4万年前頃の田园個体の系統もこれに分類されます。ユーラシア東部北方系統は4万年前頃までにはアジア東部沿岸地域まで到達していた可能性が高く、ANS集団のシベリア北東部への到達がそれより遅れたと考えると、アジア東部北方系統も北方経路で拡散してきた可能性が考えられます。ANSはユーラシア西部系統とアジア東部人関連系統との混合により形成されており、これはアジア東部北方系統の南方経路東進説とも矛盾しませんが、北方経路説とも矛盾しません。アジア東部北方系統、さらにはその祖先系統であるユーラシア東部北方系統がどの経路で東進してきたのか、現時点では確定できませんが、初期上部旧石器群(Initial Upper Paleolithic)の分布がユーラシア北方における現生人類拡散の指標だとすると、北方経路説の方が妥当だろう、と私は考えています。


参考文献:
Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2

Wang CC. et al.(2020): The Genomic Formation of Human Populations in East Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.25.004606


https://sicambre.at.webry.info/202008/article_34.html

13. 2020年8月27日 06:31:13 : 84g9nuhfWg : cVpXQXpGOS9odDY=[1] 報告
2020/08/25
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
覚張 隆史(金沢大学人間社会研究域附属 国際文化資源学研究センター 助教)
太田 博樹(生物科学専攻 教授)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/

発表のポイント

伊川津貝塚(注1)遺跡出土の縄文人骨(IK002)の全ゲノム配列を解析し、アフリカ大陸からヒマラヤ山脈以南を通り、ユーラシア大陸東端に到達した最も古い系統の1つであることを明らかにした。
本州縄文人(IK002)の全ゲノム・ドラフト配列の詳細な解析から東ユーラシア全体の人類史の新たなモデルを示した。
縄文人ゲノムは、東ユーラシアにおける現生人類集団の拡散及び遺伝的多様性を理解するのに不可欠であり、高精度縄文人ゲノム解読を進め、日本列島人ゲノムの総合的理解に貢献する。

発表概要
アフリカで誕生したホモ・サピエンスが、ユーラシア大陸の東端まで如何に到達したかは、いまだ明らかではなく、ヒマラヤ山脈以北および以南の2つのルートが考えられている。東アジアに最初にたどり着いた人々は、考古遺物から北ルートと想定されてきたが、最近のゲノム研究は、現在東ユーラシアに住んでいる全ての人々が南ルートであることを示している。

東京大学大学院理学系研究科 生物科学専攻の太田博樹教授と金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覚張隆史助教は、コペンハーゲン大学やダブリン大学と国際研究チームを結成し、この矛盾の解決に取り組んだ。

古くから縄文遺跡として知られる伊川津貝塚遺跡から出土した女性人骨(図1)の全ゲノム・ドラフト配列を詳細に解析し、縄文人骨(IK002)のゲノムは、東ユーラシアのルーツともいえる古い系統であり、南ルートに属し、北ルートの影響をほとんど受けていないことを明らかにした。

図1:左の写真は、伊川津貝塚出土人骨(女性)IK002。右の写真は、側頭骨錐体という頭蓋骨の一部をダイヤモンドカッターで切断している様子。

このことは、縄文人が東ユーラシアで最も古い系統の1つであることを示唆する。現在の東ユーラシアの人々の遺伝的ランドスケープを理解するためには、より高精度の縄文人ゲノム解読が不可欠であり、今後、高精度縄文人ゲノム解読を進め、日本列島人ゲノムの総合的理解に貢献する。

発表内容
研究の背景・先行研究の問題点
近年の研究から、ホモ・サピエンスはいまから約7〜6万年前に、アフリカ大陸からユーラシア大陸へ拡散したことが明らかになっている。ユーラシア大陸の東側、すなわち東南アジア、東アジア、北東アジアへは、約5〜4万年前までにホモ・サピエンスがたどり着いていたと考えられている。しかし、どのような経路(ルート)を通って到達したかは、いまだ定説はない。

アフリカ大陸からユーラシア大陸の東端までのホモ・サピエンスの拡散は、後期旧石器時代に相当する。石器など考古遺物はヒマラヤ山脈以北および以南どちらからも見つかるので、拡散の経路として北と南の2つのルートがあったはずだ。ただし、南北で石器の特徴は異なり、東アジアから北東アジアにかけては、北ルートの特徴をもつ石器が主に見つかる。このため、日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスは、北ルートを通ってやって来たと考えるのが自然だ。ところが、近年劇的に蓄積されている人類集団ゲノム情報を解析すると、現在ユーラシア大陸の東側に住んでいる人々は、南ルートで来たことを示す。つまり、考古遺物から考えられてきた人類史とは異なるストーリーであるが、この矛盾はこれまであまり議論されてこなかった。

東京大学大学院理学系研究科 生物科学専攻の太田博樹教授と金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覚張隆史助教らの研究グループは、縄文人(ここでは“縄文文化をもった人々”と定義する)の骨からDNAを抽出しゲノム解読するプロジェクトを約10年前から進めてきた。そして2018年、コペンハーゲン大学を中心とする国際チームが解析した東南アジアの古い人骨のゲノム配列データとともに、伊川津貝塚遺跡から出土した縄文人骨(IK002)の全ゲノム・ドラフト配列を発表した(McColl et al. 2018)。この論文では、約2千500年前の本州日本に住んでいた女性IK002が、ラオスで出土した約8千年前の狩猟採集文化を伴う人骨(La368)と、東南アジア・東アジア各地に現在住む人々の誰よりも、遺伝的に近縁であることを報告した。

今回、太田博樹教授と覚張隆史助教は、ダブリン大学トリニティー校の中込滋樹助教、コペンハーゲン大学のマーティン・シコラ准教授らとともに国際チームを結成し、伊川津縄文人(IK002)を主役とした論文をCommunications Biologyに発表した。この新たな論文(Gakuhari & Nakagome et al. 2020)では、(i) IK002は日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスの直接の子孫か否か?(ii) IK002は南ルートの子孫で北ルートでやってきた人々の遺伝的影響はないのか?の2つを明らかにする目的で詳細な全ゲノム解析をおこなった。

研究内容
過去から現在の東ユーラシア人類集団のゲノム情報をもちいて系統樹を構築した。この系統樹では、ラオスのLa368(約8千年前)とバイカル湖近くのマルタ遺跡出土人骨(MA-1:約2万4千年前)を南北の指標として含めた。もしIK002が北ルートのゲノムを多く引き継ぐなら、“樹”でIK002はMA-1の近くの“枝”に位置するだろう。反対にIK002が南ルートのゲノムを多く引き継ぐなら、La368の近くに位置するはずだ。結果は後者であった。MA-1とLa368が分岐した後、La368の枝のすぐ内側で中国東部の田園洞人骨(約4万年前)が分岐し、つづいて現代のネパールの少数民族・クスンダが分岐し、その次にIK002が分岐した。現代の東アジア人、北東アジア人、アメリカ先住民は、さらにその内側で分岐した。この結果は、IK002のみならず、現在の東アジア人、北東アジア人およびアメリカ先住民が、南ルートのゲノムを主に受け継いでいることを示している。IK002の系統は東ユーラシア人(東アジア人、北東アジア人)の“根”に位置するほど非常に古く、東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つであった。そして、IK002は日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスの直接の子孫である可能性が高いことが判明した。

また、先行研究(Jinam et al. 2012)で発表された北海道アイヌの人々のデータなど日本列島周辺の人類集団との関係を分析したところ、本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスターに含まれた。この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析(Kanzawa-Kiriyama et al. 2019)と一致し、アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つである可能性が高いことを示している。

さらに、IK002と現在および過去の東ユーラシア人へのマルタ人骨(MA-1)からの遺伝子流動(集団間の交雑)の痕跡をD-testと呼ばれる統計解析で検証した。これまでの研究から、現在の北東アジア人およびアメリカ先住民へは、MA-1からの遺伝子流動が有意な値で示されてきている(Raghavan et al. 2014)。しかし、本解析では、現在の東アジアおよび東南アジア人類集団へのMA-1からの遺伝子流動はほとんど検出されず、IK002へもMA-1からの遺伝子流動の統計学的に有意な証拠は示されなかった。すなわち、北ルートでやってきた人々のゲノムの影響は、IK002のゲノムで検出されなかった。

社会的意義・今後の予定
本研究の成果は、日本列島・本州に約2千500年前に縄文文化の中を生きていた女性が、約2万6千年前より以前に、東南アジアにいた人類集団から分岐した「東ユーラシア基層集団(東アジア人と北東アジア人が分岐する以前の集団)」の根っこに位置する系統の子孫であることを明らかにした(図2)。

図2:東アジア人類集団の形成史をモデル化した図

すなわち、縄文人が東ユーラシアの中でも飛び抜けて古い系統であることを意味し、延いては、縄文人ゲノムが現在のユーラシア大陸東部に住む人々のゲノム多様性を理解する鍵を握っていることを示している。

ただ、本研究はIK002という1個体の詳細なゲノム解析であり、したがって、これらの結果はIK002という個体について言えることで、すべての地域・時代の縄文人について言えるわけではない。たとえば、本研究では「北ルートでやってきた人々のゲノムの影響は検出されなかった」と結論づけているが、これはIK002についての結論であり、別の個体では北ルートのゲノムが検出されるかもしれない。さらに、大陸から日本列島への移住ルートについては、今後、列島内のさまざまな地域の縄文人骨を分析することによって解明されてくるもので、いまは分からないことは注意すべき点である。

今後、(I) 個体数を増やすこと、(II)より高精度のゲノム解読をおこなうことの2つが近々の課題である。太田博樹教授らのグループは既に愛知県田原市・伊川津貝塚遺跡から出土した他の5個体や千葉県市原市から出土した縄文人9個体の高精度ゲノム解析を進めている。

参考文献
・McColl et al. (2018) The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science 361:88-92.
・Kanzawa-Kiriyama et al. (2019) Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science 127: 83-108.
・Jinam et al. (2012) The history of human populations in the Japanese Archipelago inferred from genome-wide SNP data with a special reference to the Ainu and the Ryukyuan populations. Journal of Human Genetics 57: 787-95.
・Raghavan et al. (2014) Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of Native Americans. Nature 505: 87-91.

なお、本研究は次ぎの文部科学省及び日本学術振興会の研究助成補助金、25284157 (山田)、16H06408、17H05132、23657167、17H03738(石田・埴原・太田)、16H06279『ゲノム支援』(豊田)、及び『金沢大学超然プロジェクト』(覚張)、『九州大学生体防御医学研究所共同研究プログラム』(柴田)の助成を受け完遂されました。

発表雑誌
雑誌名 Communications Biology
論文タイトル Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations
著者 Takashi Gakuhari#, Shigeki Nakagome#, Simon Rasmussen, Morten E. Allentoft, Takehiro Sato, Thorfinn Korneliussen, Blánaid Ní Chuinneagáin, Hiromi Matsumae, Kae Koganebuchi, Ryan Schmidt, Souichiro Mizushima, Osamu Kondo, Nobuo Shigehara, Minoru Yoneda, Ryosuke Kimura, Hajime Ishida, Tadayuki Masuyama, Yasuhiro Yamada, Atsushi Tajima, Hiroki Shibata, Atsushi Toyoda, Toshiyuki Tsurumoto, Tetsuaki Wakebe, Hiromi Shitara, Tsunehiko Hanihara, Eske Willerslev, Martin Sikora*, Hiroki Oota*
DOI番号 10.1038/s42003-020-01162-2
アブストラクトURL https://www.nature.com/articles/ s42003-020-01162-2

用語解説
注1 伊川津貝塚
愛知県田原市伊川津町にある縄文後・晩期を代表する大規模な貝塚遺跡。1918年に最初の発掘が行われて以来、多くの考古学者、人類学者によって発掘がおこなわれてきた。叉状研歯を伴う抜歯の痕跡が見られる人骨が見つかっていることで有名である。今回の全ゲノム解析に用いられたIK002は、2010年に本論文の共著者・増山禎之らによって発掘された6体中の1体である。壮年期女性の人骨で、腹胸部に小児(IK001)を乗せていた。IK002の頭部に縄文晩期後葉のこの地方の典型的な土器である五貫森式土器が接し発掘されている。 ↑

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/

14. 中川隆[-11562] koaQ7Jey 2020年8月31日 22:30:16 : ZzdrO3ISFE : NUR6UUF3eGY4R0k=[6] 報告
31名無しさん@お腹いっぱい。2020/08/26(水) 07:34:39.32ID:8hlREdxp

鬼界噴火の影響で轟式土器集団が釜山周辺と山陰に進出した
https://i.imgur.com/MzGV2fP.png
https://i.imgur.com/uVpUZu9.png

15. 中川隆[-11247] koaQ7Jey 2020年9月21日 09:46:16 : LRsxCcIg7A : TDBiLmtTMHg5Wlk=[8] 報告
2019/06/17
現代人のゲノムから過去を知る
〜Y染色体の遺伝子系図解析からわかった縄文時代晩期から弥生時代にかけておきた急激な人口減少〜
渡部 裕介(生物科学専攻 博士課程3年生)
中 伊津美(生物科学専攻 特任研究員)
Seik-Soon Khor(研究当時:大学院医学系研究科国際保健学専攻 特任研究員、
現在:国立国際医療研究センター)
澤井 裕美(研究当時:大学院医学系研究科国際保健学専攻 助教、
現在:日本赤十字社)
人見 祐基(研究当時:大学院医学系研究科国際保健学専攻 助教、
現在:星薬科大学 特任講師)
徳永 勝士(研究当時:大学院医学系研究科国際保健学専攻 教授、
現在:国立国際医療研究センター.NCBN 中央バイオバンク センター長)
大橋 順(生物科学専攻 准教授)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2019/6431/

発表のポイント

日本人男性345名のY染色体全長の塩基配列解析を行い、縄文人に由来するY染色体系統を同定した。縄文人由来Y染色体の遺伝子系図解析によって、縄文時代晩期から弥生時代にかけて、急激な人口減少が起きていたことを明らかにした。
現代人のゲノムデータから縄文時代の人口の変化を推定した。
本研究の成果は、日本人の形成過程を解明する上で重要な知見となることが期待される。

発表概要

今回、東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介大学院生と大橋順准教授らのグループは、東京大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らのグループと共同で、日本人男性345名のY染色体の全塩基配列決定と変異解析を行った。他の東アジア人のY染色体データと併せて系統解析をすると、縄文人に由来するY染色体の系統が同定された。縄文人由来Y染色体の遺伝子系図(共通祖先から現在に至るまでの分岐過程)を推定したところ、縄文時代晩期から弥生時代にかけて人口が急激に減少したことが示された。縄文時代晩期は世界的に寒冷化した時期であり、気温が下がったことで食料供給量が減ったことが、急激な人口減少の要因の一つではないかと思われる。

本研究の結果は、縄文時代の遺跡数や規模などの変化から類推されてきた縄文時代後期・晩期に起きた急激な人口減少を裏付けるものである。

現代日本人のゲノム多様性を調べることで、その由来も含めて不明な点が多い縄文人の歴史、ひいては日本人の形成過程が解き明かされると期待される。

発表内容

現代日本人の成立過程に関しては諸説あるが、日本列島にいた縄文人と大陸から渡ってきた弥生人が混血したとする「混血説」が広く受け入れられている。日本列島人を対象としたゲノムワイドSNP解析においても、この説を支持する結果が得られている(Japanese Archipelago Human Population Genetics Consortium. 2012, J Hum Genet)。しかし、縄文人の歴史についてはいまだ不明な点が多い。

縄文人は、狩猟採集を生業としながらも定住生活を行い、非常に高い人口密度を達成した世界的にも注目される集団である。発見された遺跡数やその規模等をもとに、縄文時代の人口は縄文時代後期・晩期にかけて急減し、弥生時代に入って急増したと推定されている(Koyama. 1979, Senri Ethnological Studies)。しかし、遺跡の発見はそのロケーション等に依存しており、遺跡が無いのか(人口が少なかったのか)、それとも発見できていないのかを判断することは難しい。

今回、東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介大学院生と大橋順准教授らのグループは、東京大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らのグループと共同で、日本人男性345名のY染色体(注1)の全塩基配列決定と変異解析を行った。常染色体と異なりY染色体は組換えを受けないため、塩基配列の違いをもとにY染色体の系統を区別することができる。そこで、日本人男性345名のY染色体の系統解析(注2)を行ったところ、日本人のY染色体は7つの系統に分かれることが示された(図1)。さらに、韓国人・中国人を含む他の東アジア人を併せて解析した結果、日本人で35%の頻度でみられる系統1は、他の東アジア人集団ではほとんど観察されないことが示された(図2)。

図1. 日本人345名のY染色体の分子系統樹。数値は各系統のブートストラップ値。
図2. 各Y染色体クレードの東アジア集団における地理的分布。
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2019/6431/

系統1に属する日本人Y染色体の変異を詳細に解析したところ、系統1はYAP (注3)という特徴的な変異をもつY染色体ハプログループD1b (注4)に対応していることが示された。YAP変異は、形態学的に縄文人と近縁と考えられているアイヌ人において80%以上という高い頻度で観察されることが知られている。渡来系弥生人の主な母体である韓国人集団や中国人集団には系統1に属するY染色体が観察されなかったことも踏まえると、系統1のY染色体は縄文人に由来すると結論できる。ちなみに、同一検体のミトコンドリアDNA (注5)の系統解析も行ったが、明らかに縄文人由来と想定されるような系統は存在しなかった。

次に、系統1に含まれた122人の縄文人由来Y染色体を対象に遺伝子系図解析(注6)を行ったところ、縄文時代晩期から弥生時代にかけて、人口が急減した後、急増したことが示された(図3)。なお、本研究はY染色体を対象としており、厳密には男性の集団サイズの変化を推定したことになるが、男性の数のみが変化したとは考えにくいため、女性の集団サイズも同様の変化を示したと思われる。


図3. 系統1に含まれる縄文人由来Y染色体を用いて推定した集団サイズの変化。 縄文時代晩期から弥生時代にかけて縄文人の人口が減少したことを示している。本研究では系統1のY染色体のみを用いて推定しているため(バイアスがあるため)、相対的な人口の変化を示している。
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縄文時代晩期は世界的に寒冷化した時期であり、気温が下がったことで食料供給量が減ったことが、急激な人口減少の要因の一つではないかと思われる。また、その後人口が増加したのは、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられる。

本研究では、現代日本人のY染色体データをもとに縄文時代の人口の変化を推定した。現代日本人のゲノムデータを調べることで、その由来も含めて不明な点が多い縄文人の歴史、ひいては日本人の形成過程が解き明かされると期待される。本研究は、混血した集団の祖先集団における人口の変化を推定する良いケーススタディであり、本研究がとったアプローチは日本人のみならず他の集団の解析にも役立つことが期待される。


用語解説

注1 Y染色体
男性がもつ性染色体の一つであり、性別決定に重要なSRY遺伝子を含む。父性遺伝するため、集団遺伝学的研究ではY染色体の系統は父系を反映する遺伝マーカーとして利用される。↑

注2 系統解析
塩基配列またはアミノ酸配列を比較し、配列間の進化的関係(分岐のパタン)を調べる統計学的手法。↑

注3 YAP
Y-chromosome Alu Polymorphismの略。Y染色体の長腕部にある約300塩基からなるAlu配列の挿入変異。アフリカ人集団にも観察されることから、アジア人の祖先がアフリカを出る前に誕生した変異と考えられている。↑

注4 Y染色体ハプログループD1b
Y染色体上の多型サイトの組合せによって分類される系統をハプログループといい、YAP変異をもつハプログループDの下位系統の1つ。↑

注5 ミトコンドリアDNA
細胞小器官であるミトコンドリア内にあるDNA。母性遺伝するため、集団遺伝学的研究では、ミトコンドリアDNAの系統は母系を反映する遺伝マーカーとして利用される。↑

注6 遺伝子系図解析
全ての生物において、親の遺伝子が複製されたコピーが子どもに伝わる。したがって、時間を遡って遺伝子コピーの親を辿っていくと、最終的に一つの共通祖先遺伝子に到達する。この過程を表現したものを遺伝子系図といい、遺伝子系図からその集団の人口の変化を推測することができる。↑

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

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16. 中川隆[-9368] koaQ7Jey 2020年12月11日 14:04:39 : Nng3b6jurQ : OGxqUVpQN3pHeGs=[11] 報告
2020/08/25
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
覚張 隆史(金沢大学人間社会研究域附属 国際文化資源学研究センター 助教)
太田 博樹(生物科学専攻 教授)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/6987/


発表のポイント

伊川津貝塚(注1)遺跡出土の縄文人骨(IK002)の全ゲノム配列を解析し、アフリカ大陸からヒマラヤ山脈以南を通り、ユーラシア大陸東端に到達した最も古い系統の1つであることを明らかにした。
本州縄文人(IK002)の全ゲノム・ドラフト配列の詳細な解析から東ユーラシア全体の人類史の新たなモデルを示した。
縄文人ゲノムは、東ユーラシアにおける現生人類集団の拡散及び遺伝的多様性を理解するのに不可欠であり、高精度縄文人ゲノム解読を進め、日本列島人ゲノムの総合的理解に貢献する。

発表概要
アフリカで誕生したホモ・サピエンスが、ユーラシア大陸の東端まで如何に到達したかは、いまだ明らかではなく、ヒマラヤ山脈以北および以南の2つのルートが考えられている。東アジアに最初にたどり着いた人々は、考古遺物から北ルートと想定されてきたが、最近のゲノム研究は、現在東ユーラシアに住んでいる全ての人々が南ルートであることを示している。

東京大学大学院理学系研究科 生物科学専攻の太田博樹教授と金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覚張隆史助教は、コペンハーゲン大学やダブリン大学と国際研究チームを結成し、この矛盾の解決に取り組んだ。

古くから縄文遺跡として知られる伊川津貝塚遺跡から出土した女性人骨(図1)の全ゲノム・ドラフト配列を詳細に解析し、縄文人骨(IK002)のゲノムは、東ユーラシアのルーツともいえる古い系統であり、南ルートに属し、北ルートの影響をほとんど受けていないことを明らかにした。


https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/6987/

図1:左の写真は、伊川津貝塚出土人骨(女性)IK002。右の写真は、側頭骨錐体という頭蓋骨の一部をダイヤモンドカッターで切断している様子。

このことは、縄文人が東ユーラシアで最も古い系統の1つであることを示唆する。現在の東ユーラシアの人々の遺伝的ランドスケープを理解するためには、より高精度の縄文人ゲノム解読が不可欠であり、今後、高精度縄文人ゲノム解読を進め、日本列島人ゲノムの総合的理解に貢献する。

発表内容
研究の背景・先行研究の問題点

近年の研究から、ホモ・サピエンスはいまから約7〜6万年前に、アフリカ大陸からユーラシア大陸へ拡散したことが明らかになっている。ユーラシア大陸の東側、すなわち東南アジア、東アジア、北東アジアへは、約5〜4万年前までにホモ・サピエンスがたどり着いていたと考えられている。しかし、どのような経路(ルート)を通って到達したかは、いまだ定説はない。

アフリカ大陸からユーラシア大陸の東端までのホモ・サピエンスの拡散は、後期旧石器時代に相当する。石器など考古遺物はヒマラヤ山脈以北および以南どちらからも見つかるので、拡散の経路として北と南の2つのルートがあったはずだ。ただし、南北で石器の特徴は異なり、東アジアから北東アジアにかけては、北ルートの特徴をもつ石器が主に見つかる。このため、日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスは、北ルートを通ってやって来たと考えるのが自然だ。ところが、近年劇的に蓄積されている人類集団ゲノム情報を解析すると、現在ユーラシア大陸の東側に住んでいる人々は、南ルートで来たことを示す。つまり、考古遺物から考えられてきた人類史とは異なるストーリーであるが、この矛盾はこれまであまり議論されてこなかった。

東京大学大学院理学系研究科 生物科学専攻の太田博樹教授と金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覚張隆史助教らの研究グループは、縄文人(ここでは“縄文文化をもった人々”と定義する)の骨からDNAを抽出しゲノム解読するプロジェクトを約10年前から進めてきた。そして2018年、コペンハーゲン大学を中心とする国際チームが解析した東南アジアの古い人骨のゲノム配列データとともに、伊川津貝塚遺跡から出土した縄文人骨(IK002)の全ゲノム・ドラフト配列を発表した(McColl et al. 2018)。この論文では、約2千500年前の本州日本に住んでいた女性IK002が、ラオスで出土した約8千年前の狩猟採集文化を伴う人骨(La368)と、東南アジア・東アジア各地に現在住む人々の誰よりも、遺伝的に近縁であることを報告した。

今回、太田博樹教授と覚張隆史助教は、ダブリン大学トリニティー校の中込滋樹助教、コペンハーゲン大学のマーティン・シコラ准教授らとともに国際チームを結成し、伊川津縄文人(IK002)を主役とした論文をCommunications Biologyに発表した。この新たな論文(Gakuhari & Nakagome et al. 2020)では、(i) IK002は日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスの直接の子孫か否か?(ii) IK002は南ルートの子孫で北ルートでやってきた人々の遺伝的影響はないのか?の2つを明らかにする目的で詳細な全ゲノム解析をおこなった。

研究内容
過去から現在の東ユーラシア人類集団のゲノム情報をもちいて系統樹を構築した。この系統樹では、ラオスのLa368(約8千年前)とバイカル湖近くのマルタ遺跡出土人骨(MA-1:約2万4千年前)を南北の指標として含めた。もしIK002が北ルートのゲノムを多く引き継ぐなら、“樹”でIK002はMA-1の近くの“枝”に位置するだろう。反対にIK002が南ルートのゲノムを多く引き継ぐなら、La368の近くに位置するはずだ。結果は後者であった。MA-1とLa368が分岐した後、La368の枝のすぐ内側で中国東部の田園洞人骨(約4万年前)が分岐し、つづいて現代のネパールの少数民族・クスンダが分岐し、その次にIK002が分岐した。現代の東アジア人、北東アジア人、アメリカ先住民は、さらにその内側で分岐した。この結果は、IK002のみならず、現在の東アジア人、北東アジア人およびアメリカ先住民が、南ルートのゲノムを主に受け継いでいることを示している。IK002の系統は東ユーラシア人(東アジア人、北東アジア人)の“根”に位置するほど非常に古く、東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つであった。そして、IK002は日本列島にたどりついた最初のホモ・サピエンスの直接の子孫である可能性が高いことが判明した。

また、先行研究(Jinam et al. 2012)で発表された北海道アイヌの人々のデータなど日本列島周辺の人類集団との関係を分析したところ、本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスターに含まれた。この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析(Kanzawa-Kiriyama et al. 2019)と一致し、アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つである可能性が高いことを示している。

さらに、IK002と現在および過去の東ユーラシア人へのマルタ人骨(MA-1)からの遺伝子流動(集団間の交雑)の痕跡をD-testと呼ばれる統計解析で検証した。これまでの研究から、現在の北東アジア人およびアメリカ先住民へは、MA-1からの遺伝子流動が有意な値で示されてきている(Raghavan et al. 2014)。しかし、本解析では、現在の東アジアおよび東南アジア人類集団へのMA-1からの遺伝子流動はほとんど検出されず、IK002へもMA-1からの遺伝子流動の統計学的に有意な証拠は示されなかった。すなわち、北ルートでやってきた人々のゲノムの影響は、IK002のゲノムで検出されなかった。

社会的意義・今後の予定
本研究の成果は、日本列島・本州に約2千500年前に縄文文化の中を生きていた女性が、約2万6千年前より以前に、東南アジアにいた人類集団から分岐した「東ユーラシア基層集団(東アジア人と北東アジア人が分岐する以前の集団)」の根っこに位置する系統の子孫であることを明らかにした(図2)。

図2:東アジア人類集団の形成史をモデル化した図

すなわち、縄文人が東ユーラシアの中でも飛び抜けて古い系統であることを意味し、延いては、縄文人ゲノムが現在のユーラシア大陸東部に住む人々のゲノム多様性を理解する鍵を握っていることを示している。

ただ、本研究はIK002という1個体の詳細なゲノム解析であり、したがって、これらの結果はIK002という個体について言えることで、すべての地域・時代の縄文人について言えるわけではない。たとえば、本研究では「北ルートでやってきた人々のゲノムの影響は検出されなかった」と結論づけているが、これはIK002についての結論であり、別の個体では北ルートのゲノムが検出されるかもしれない。さらに、大陸から日本列島への移住ルートについては、今後、列島内のさまざまな地域の縄文人骨を分析することによって解明されてくるもので、いまは分からないことは注意すべき点である。

今後、(I) 個体数を増やすこと、(II)より高精度のゲノム解読をおこなうことの2つが近々の課題である。太田博樹教授らのグループは既に愛知県田原市・伊川津貝塚遺跡から出土した他の5個体や千葉県市原市から出土した縄文人9個体の高精度ゲノム解析を進めている。

参考文献
・McColl et al. (2018) The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science 361:88-92.
・Kanzawa-Kiriyama et al. (2019) Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science 127: 83-108.
・Jinam et al. (2012) The history of human populations in the Japanese Archipelago inferred from genome-wide SNP data with a special reference to the Ainu and the Ryukyuan populations. Journal of Human Genetics 57: 787-95.
・Raghavan et al. (2014) Upper Palaeolithic Siberian genome reveals dual ancestry of Native Americans. Nature 505: 87-91.

なお、本研究は次ぎの文部科学省及び日本学術振興会の研究助成補助金、25284157 (山田)、16H06408、17H05132、23657167、17H03738(石田・埴原・太田)、16H06279『ゲノム支援』(豊田)、及び『金沢大学超然プロジェクト』(覚張)、『九州大学生体防御医学研究所共同研究プログラム』(柴田)の助成を受け完遂されました。

発表雑誌
雑誌名 Communications Biology
論文タイトル Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations
著者 Takashi Gakuhari#, Shigeki Nakagome#, Simon Rasmussen, Morten E. Allentoft, Takehiro Sato, Thorfinn Korneliussen, Blánaid Ní Chuinneagáin, Hiromi Matsumae, Kae Koganebuchi, Ryan Schmidt, Souichiro Mizushima, Osamu Kondo, Nobuo Shigehara, Minoru Yoneda, Ryosuke Kimura, Hajime Ishida, Tadayuki Masuyama, Yasuhiro Yamada, Atsushi Tajima, Hiroki Shibata, Atsushi Toyoda, Toshiyuki Tsurumoto, Tetsuaki Wakebe, Hiromi Shitara, Tsunehiko Hanihara, Eske Willerslev, Martin Sikora*, Hiroki Oota*
DOI番号 10.1038/s42003-020-01162-2
アブストラクトURL https://www.nature.com/articles/ s42003-020-01162-2

用語解説
注1 伊川津貝塚
愛知県田原市伊川津町にある縄文後・晩期を代表する大規模な貝塚遺跡。1918年に最初の発掘が行われて以来、多くの考古学者、人類学者によって発掘がおこなわれてきた。叉状研歯を伴う抜歯の痕跡が見られる人骨が見つかっていることで有名である。今回の全ゲノム解析に用いられたIK002は、2010年に本論文の共著者・増山禎之らによって発掘された6体中の1体である。壮年期女性の人骨で、腹胸部に小児(IK001)を乗せていた。IK002の頭部に縄文晩期後葉のこの地方の典型的な土器である五貫森式土器が接し発掘されている。 ↑

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/6987/

17. 2021年3月10日 09:47:55 : Uj2DKea5PM : ZUhYTnd1dThoMDY=[16] 報告
【ゆっくり解説】時代を遡る!縄文時代の食事について
2021/02/28





18. 中川隆[-6558] koaQ7Jey 2021年3月15日 17:03:07 : ww05IaOXmY : czZLc3BxQU1mVkk=[15] 報告


[ゆっくり実況]縄文時代の食事




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〈縄文時代の人の顔の特徴〉
顔高が低く、丸顔である。
堀が深く、鼻が高い。
しかめっ面で、エラが張っている。
眼窩が四角で、やや目尻が下がる。
歯の噛み合わせが爪切りのよう。

〈ちょっとした蘊蓄〉
本州よりも北海道の人の方が縄文時代の人は虫歯が圧倒的に少ないみたいです。なぜかというと、北海道は木の実を付ける広葉樹が少なく、肉を主体とした食事を取っていたからです。
でんぷん質である木の実は糖になるので、それで縄文時代の人は虫歯になったみたいです。


19. 2021年3月16日 11:41:59 : uWuDdDGU4s : NDR5d1dyMHVOb2s=[12] 報告
【研究】縄文人、東アジアの最古級人類? 金沢大・東大などDNA解析 
「北側ルートを通った集団の影響を受けなかった可能性が高い」 [樽悶★]
2020年12月12日 ニュース速報+
https://snow-board-matome.com/%E3%80%90%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%91%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%80%81%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%8F%A4%E7%B4%9A%E4%BA%BA%E9%A1%9E%EF%BC%9F%E3%80%80%E9%87%91%E6%B2%A2/

ホモ・サピエンスのアジア東部への拡散ルート
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20201209001876_comm.jpg

 愛知県田原市の遺跡で見つかった「縄文人」とされる人骨から抽出したDNAの塩基配列を詳しく解析したところ、アフリカからアジア東部に到達したホモ・サピエンスの集団の中でも最古級の系統に属することがわかったと、金沢大や東京大のグループが報告した。日本列島人の成り立ちを探るための新たな手がかりとして注目される。

 DNAを調べたのは、伊川津(いかわづ)貝塚遺跡から出た人骨(約2500年前)。年代的には、約3千年前から始まるとされる弥生時代にあたるが、縄文晩期の土器が発掘されており、グループは「縄文人」とみなしている。



 アフリカで約20万年前に誕生したホモ・サピエンスは、4万〜5万年前にアジア東部へ到達し、日本列島には3万5千年前ごろにやってきた。この時期の人類の遺物はヒマラヤ山脈の北側でも南側でも見つかっており、どのルートを通って日本列島に達したかははっきりしていない。

 グループは、伊川津人骨のDNA情報をアジア東部のさまざまな人類集団や古人骨と比較し、その関係を示す系統樹を描いた。すると、現代の東アジア人などよりも、ヒマラヤの南側を通った集団の指標となるラオスの遺跡の人骨(約8千年前)に近く、ホモ・サピエンスがアジア東部や日本列島に到達した時期に近い4万〜2万6千年前に分岐したと考えられた。国立科学博物館などが昨年DNA配列を公表した、北海道礼文島の船泊遺跡の縄文人骨(約3800年前)とも近い関係にあった。



 一方、北側を通った集団の指標となるロシア・シベリアのマルタ人骨(約2万5千年前)は、伊川津人骨や現代の東アジア人などとは遠い関係だった。ロシア極東地方の北東アジア人やベーリング海峡を渡ったアメリカ先住民にはマルタ人骨からの遺伝的な影響が認められたが、伊川津人骨では認められなかった。

 グループの覚張(がくはり)隆史・金沢大助教は「伊川津の縄文人は、非常に古い時代に南側ルートでアジア東部へ入ってきた人類集団の直接の子孫にあたる。その形成には、北側ルートを通った集団の影響を受けなかった可能性が高い」と話す。

 伊川津人骨の祖先となった人々が、初めて日本列島へやって来たのがいつだったかは、まだよく分からない。また今回の1個体の検討結果だけで、北側ルートの遺伝的影響を完全に否定できるものではない。

 このためグループは、伊川津貝塚遺跡から出た他の人骨や、千葉県の遺跡から出た人骨などのゲノム解読に着手している。科博のグループも、北海道や東北などで見つかった古人骨の分析を別途進めている。

 日本列島に初めて定着した人類集団の姿を明らかにすることは、日本人の形成過程を探る上で欠かせない。太田博樹・東大教授は「伊川津人骨の分析から、アジア東部で他の人類集団と交ざることなく、1万5千〜1万2千年間くらい孤立していた縄文人のイメージが浮かんできた。これが妥当かどうかは、より多くの縄文人のゲノムを調べ、その違いを見ることで分かってくる」と研究の進展に期待を込める。



 この成果は科学誌コミュニケーションズ・バイオロジー(別ウインドウで開きます)に報告された。(米山正寛)

朝日新聞デジタル 2020年12月10日 11時00分

2020/12/10 23:49

20. 2021年4月11日 08:04:52 : QAcplW15Vw : UDVHQXBaTUZoLjY=[26] 報告
2021年04月11日
九州の縄文時代早期人類のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_12.html


 九州の縄文時代早期人類のDNA解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。日本列島の現代の人口集団の遺伝的構造は、移住のいくつかの層とその後の混合の結果です(関連記事)。縄文時代は16000〜2800年前頃まで続き(開始の指標を土器だけで定義できるのか、開始も終了も地域差がある、との観点から、縄文時代の期間について議論はあるでしょう)、「縄文人(縄文文化関連個体)」は日本列島先史時代の先住民でした。「縄文人」に関しては、考古学や人類学や遺伝学で長い研究蓄積があります。

 古代DNA研究は過去の人々の直接的な遺伝的証拠を提供し、近年著しく発展しています。しかし、縄文時代の人口集団間の遺伝的関係に関しては、これまでほとんど、核DNAよりも解析がずっと容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究に基づいていました。しかし、mtDNAは母系遺伝なので、mtDNAだけで人口集団の遺伝的特徴を明らかにすることには限界があり、近年の古代DNA研究では核ゲノムデータの分析が主流になっています。

 近年では、縄文人の核ゲノムデータも少ないながら提示されており、それは、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前となる男性と女性の2個体(関連記事)、北海道の礼文島の船泊遺跡の3800年前頃となる男性と女性の2個体(関連記事)、愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の2500年前頃となる女性1個体(関連記事)、千葉市の六通貝塚の紀元前2500〜紀元前800年頃となる6個体(関連記事)です。

 しかし、縄文時代は南北に長い日本列島で1万年以上前続き、これまでの核ゲノムデータは東日本の縄文時代中期末以降の標本に限定されていました。したがって、縄文人の遺伝的特徴は、少数の標本だけでは完全には表されない、と予想されます。じっさい、mtDNAを用いた以前の研究では、縄文人の地域差が示唆されていました。縄文人の遺伝的特徴を充分に解明するには、縄文時代の広範な地域と年代を網羅したゲノムデータの蓄積が必要です。


●東名貝塚遺跡

 本論文は、佐賀市の東名貝塚遺跡で出土した縄文人のDNA解析結果を報告しています。東名遺跡は有明海の海岸線から約12km離れた、佐賀平野中央部に位置します(図1)。以下、本論文の図1です。
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 東名遺跡は1990年に発見され、1993〜1996年に最初の本格的な発掘調査が行なわれ、2003年の工事中に貝塚が偶然発見され、2004〜2007年にかけて2回目の発掘調査が行なわれました。東名遺跡は厚さ5m以上の堆積物で覆われており、有機物が保存されていました。東名遺跡は攪乱されることなく保存されていたので、縄文人の生活に関する追加情報を推測できます。放射性炭素年代は、7980〜7460年前頃で、縄文時代早期に相当します。東名遺跡は日本列島で最古かつ最大の湿地帯貝塚で、発掘された人類遺骸は、九州の縄文時代では最古となります。

 本論文は、東名遺跡個体の完全なミトコンドリアゲノムと部分的な核ゲノムを報告します。これは、九州の縄文人の遺伝的特徴および縄文時代早期の最初のゲノムに関する初めての報告です。これらの調査結果は、縄文人の地域差と経時的変化の理解のための重要なデータを提供します。東名遺跡では、人類遺骸8個体と、貝塚などで69個の散在する人類遺骸が発見されました。東名遺跡の人類遺骸の保存状態は一般的に悪く、本論文では、2004年の調査で発見され、標本012と命名された保存状態の良好な遊離した右下第一大臼歯がDNA解析に用いられました。標本012は遊離していたので、どの人類遺骸のものなのか、特定できませんでした。標本012の遺伝的データは、他の縄文人(六通貝塚の個体群は対象とされていません)も含めての古代人や現代人と比較されました。


●DNA分析

 標本012のミトコンドリアゲノムの深度は約47倍で、mtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1aでした。標本012のmtHgは、系統的にM7a1aの基底部に位置します。これは、標本012の年代が縄文時代早期と推定されていることと一致します。これまでに分析された九州と沖縄のほとんどの縄文人はmtHg-M7a1aでした。東名遺跡の標本012もmtHg-M7a1aだったことから、縄文時代の九州ではmtHg-M7a1aが優勢だった、と示されます。これは、mtHg-N9bが優勢だった東日本とは対照的です。

 標本012の核ゲノムの深度は0.086倍でした。Y染色体とX染色体の読み取りの比率から、標本012は男性と推測されました。標本012のY染色体ハプログループ(YHg)はD1bに分類されましたが、データ不足のためさらなる細分化はできませんでした。標本012では、YHg-D1bを定義する6ヶ所の一塩基多型の変異が確認されましたが、それらがどの変異に基づくのか、補足データでも見つけられませんでした。したがって、断定できませんが、現在の分類ではYHg-D1bはD1a2aになると思います。以下、()内で現在の分類を示します。標本012の2ヶ所の一塩基多型では、YHg-D1b2(D1a2a2)を定義する変異が見つからなかったので、千葉市の六通貝塚の縄文人3個体で確認されているYHg-D1b1(D1a2a1)に分類できるかもしれせん。

 東名遺跡の標本012と遺伝的に近い現代および古代の人口集団が調べられました。主成分分析では、標本012は他の縄文人とクラスタ化し(図4)、本論文で分析対象とされた縄文人全個体が同じ遺伝的集団に属する、と示唆されます。以下、本論文の図4です。
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 外群f3統計では、他の縄文人が遺伝的に標本012と最も近く、それに続くのが、日本人、ウリチ人(Ulchi)、朝鮮人、アミ人(Ami)やタイヤル人(Atayal)といった台湾先住民、カンカナイ人(Kankanaey)やイロカノ人(Ilocano)といったフィリピン人など、沿岸部および海洋地域のアジア東部人です。f4の結果からも、標本012が漢人よりも日本人やウリチ人や朝鮮人とより多くのアレル(対立遺伝子)を有意に共有する、と明らかになりました。これらの識別特性は、船泊遺跡の縄文人であるF23個体のそれと類似しています。そこで、縄文人の間の共通する特徴が平等に共有されているのか、調べられました。その結果、本論文で分析された検証対象の人口集団のどれも有意なf4値を示さず、これは縄文人3個体、つまり船泊遺跡のF23と伊川津貝塚遺跡のIK002と東名遺跡の標本012の全員が、検証対象の人口集団から等しく離れていることを意味します。

 次に、縄文時代人口集団の遺伝的構造が調べられました。f4統計では、どの組み合わせでも有意なf4値は示されませんでした。これは、地理的もしくは時間的に近い縄文人の間での有意な特定の類似性がなかったことを意味します。最尤系統樹でも、縄文人3個体はクラスタ化し、全ての現代ユーラシア東部人およびアメリカ大陸先住民の外群に属する、と明らかになりました。縄文人3個体のうち、標本012の位置づけは60万ヶ所の一塩基多型データと全ゲノム配列データでは不安定で、前者では標本012がF23とIK002の外群に(図5)、後者ではIK002がF23と標本012の外群に位置します(補足図2)。この不一致は、低網羅率のゲノムデータに起因する可能性があります。

 最後に、現代人口集団における縄文人のDNAの割合が推定されました。60万ヶ所の一塩基多型データに基づく系統樹で3回の遺伝子流動事象を想定すると、東名遺跡標本012から日本人およびウリチ人への遺伝子流動が検出されました。全ゲノム配列データを用いた場合、遺伝子流動事象は厳密には推定されませんでした。朝鮮人を人口集団Bとして用いた場合(人口集団Bはf3統計の結果に基づいて選択されました)、f4比検定では日本人のゲノムにおける縄文人由来領域の割合は9.7%で、これはTreeMix分析の結果に近いものでした。縄文人祖先系統は朝鮮人とウリチ人でそれぞれ5%と6〜8%でした。もちろん、これはあくまでも現時点でのデータに基づくモデル化にすぎず、朝鮮半島に縄文人が拡散して(少なくとも一時的に)遺伝的影響を残した可能性は高そうですが(関連記事)、現代朝鮮人やウリチ人の祖先に縄文人が直接的に遺伝的影響を残したとは限らず、近い世代で共通祖先を有するなど、縄文人と遺伝的に密接に関連する集団が現代朝鮮人やウリチ人の祖先にいることを示している、とも解釈できるでしょう。以下、本論文の図5と補足図2です。
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●考察

 本論文の結果は、縄文人が主成分分析と系統樹で相互にクラスタを形成する、と示唆します。この知見は、縄文文化関連の人々が共通祖先集団に遺伝的に由来する可能性を示唆します。この仮説は、船泊遺跡縄文人で見つかったYHg-D1b(D1a2a)が、東名遺跡標本012でも検出された事実により裏づけられます。なお、船泊遺跡縄文人のYHgはD1b2b(D1a2a2b)とさらに細分化されており、標本012は、上述のようにYHg-D1b1(D1a2a1)の可能性があります。

 これまでに分析された縄文人標本全てで観察されたYHgから判断すると、YHg-D1b(D1a2a)は縄文時代人口集団で一般的だった、と予測されます。興味深いことに、YHg-D1b(D1a2a)を含むYHg-Dは、現代ではおもに、アンダマン諸島やヒマラヤ地域や日本列島などアジアの海や山岳で隔てられた地域に残っています。これらの知見から、YHg-Dは元々広く分布しており、後に孤立した、と示唆されます。海に隔てられた日本列島の地理的環境は、旧石器時代に流入してきた人々とアジア東部大陸部人口集団との間の相互作用を妨げ、その結果として縄文人固有の遺伝的特徴が形成されたかもしれせん。

 縄文人3個体、つまり船泊遺跡のF23と伊川津貝塚遺跡のIK002と東名遺跡の標本012では、f4検定と系統樹の結果は、起源の大きな地理的および年代的違いを反映していませんでした。縄文人は共通祖先の子孫ですが、その形成過程はまだ不明です。しかし、その起源は、縄文人のmtHgの分布と23000〜22000年前頃となるその分岐年代、および核ゲノム分析における系統発生的な基底部の位置に基づくと、旧石器時代にまでさかのぼります。

 f4検定と系統樹の結果から、祖先的人口集団は系統発生的に3分枝の多分岐だった、と示唆されました。この知見から、縄文人および/もしくはその祖先的集団の分化と拡散は急速だったかもしれず、この分化と拡散の後において、地域的な相互作用は限定的だったか、ほとんどなかった、と示唆されます。さらに、縄文時代には遺伝的構成を顕著に変化させた移住はなく、遺伝的分化は縄文時代を通じて地域化の進展により促進されたかもしれせん。

 現代日本人における、縄文人の代表的なmtHgであるM7aとN9bの割合に基づくと、現代日本人におもに遺伝的に寄与したのは、西部縄文人だった可能性があります。しかし、核ゲノム分析は、東名遺跡の西部縄文人が他の縄文人よりも現代日本人と密接に関連している、という証拠を提供しません。ただ、東名遺跡の標本012では核ゲノムの6.9%しか読めなかったので、結果が不明瞭になっているかもしれせん。船泊遺跡縄文人の研究では、現代日本人のゲノムにおける縄文人由来領域の割合は10%程度と推定されており、本論文の分析では、縄文人の地域差を明らかにできませんでしたが、古代DNAは縄文人の人口史に独自の洞察を提供する、と明らかになりました。

 本論文の分析結果は、縄文時代早期から後期まで、遺伝的に類似した人口集団間の遺伝子流動が最小限だった、と示唆します。日本列島における孤立と移住と遺伝的浮動の歴史は、縄文人独自の遺伝的特徴を生み出しました。独自の分化を形成した縄文人の間の相互作用へのより高い解像度と追加の洞察を提供するには、広範な地域と年代にまたがる多くの縄文時代人口集団の高品質なゲノムデータの蓄積と、それらできるだけ高い精度のデータを比較対照する必要があります。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、これまで核ゲノムデータが報告されていなかった年代(縄文時代早期)と地域(西日本)の縄文人の核ゲノムデータの分析結果を提示しており、たいへん注目されます。形態学的分析から、縄文人が長期にわたって遺伝的に一定以上均質であることは予想されており(関連記事)、他の現代人および古代人との比較で、地理的には北海道から九州まで、年代的には早期から晩期までの縄文人が遺伝的にクラスタ化することは、意外ではありませんでした。

 しかし、縄文人で現代日本人に遺伝的影響を残したのはおもに西日本集団だった、と推測されていたたけに、九州の縄文時代早期の個体(佐賀市東名遺跡の標本012)でさえ、北海道の後期の個体(船泊遺跡のF23)との比較で、現代日本人との遺伝的違いに差が確認できなかったことは、かなり意外でした。本論文の結果から、縄文人が私の想定以上に時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質だった可能性も考えられます。

 ただ、東名遺跡の標本012は、系統樹における位置づけが不安定であることにも示されるように、ゲノムデータの網羅率が低いので、東名遺跡個体群で高品質なゲノムデータが得られれば、また違った結果が示される可能性もあるように思います。また、7300年前頃の鬼界カルデラの大噴火で東名遺跡個体群も含めて九州の縄文人集団は大打撃を受けた可能性があるので、その後で九州も含めて西日本に定着した縄文人集団は、東名遺跡の標本012とも東日本の縄文人ともやや遺伝的に異なっており、現代日本人と遺伝的により近い可能性も考えられます。

 いずれにしても、縄文人の起源も含めて縄文時代の人口史のより詳細な解明には、本論文が指摘するように、時空間的により広範囲の縄文人のゲノムデータが必要になるでしょう。最近、アジア東部の古代DNA研究が大きく進展しており、現時点では、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系統が沿岸部系統と内陸部系統に分岐し、両者の混合により縄文人が形成された、というモデルが、YHg-D1の分布を上手く説明できることからも、縄文人の起源に関して最も説得的だと思います(関連記事)。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132


https://sicambre.at.webry.info/202104/article_12.html

21. 2021年5月09日 15:36:58 : pH7LB4YiqE : NWpMZVlHRmxRT0E=[23] 報告
【ゆっくり日本史解説】縄文時代『日本文明と呼ばれた最も平和な時代』
2020/12/19




縄文時代は1万年以上に渡って続いたとされています。
日本の歴史の中で最も争いがなく、平和な時代だったともされています。
縄文時代は交易を行ったり、巨大竪穴式住居に住むなど、
多くの方が思っている以上に、文明が進んだ時代だったと感じています。
日本文明とも呼べる縄文時代のゆっくり解説となっております。
22. 2021年6月23日 11:19:33 : 6pyAPtqAd2 : V2JzMGt3WEFjSkk=[11] 報告
2021年06月22日
アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_22.html


 最近、人類集団の地域的連続性に言及しましたが(関連記事)、その記事で予告したように、近年大きく研究が進展したアジア東部に関してこの問題を整理します。なお、今回はおおむねアムール川流域以南を対象とし、シベリアやロシア極東北東部は限定的にしか言及しません。初期現生人類(Homo sapiens)の拡散に関する研究は近年飛躍的に進展しており、その概要を把握するには、現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021、関連記事)や、現生人類に限らずアジア東部のホモ属を概観した総説(澤藤他., 2021、関連記事)や、上部旧石器時代のユーラシア北部の人々の古代ゲノム研究に関する概説(高畑., 2021、関連記事)が有益です。最近の総説的論文からは、アフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類が、拡散先で子孫を残さずに絶滅した事例は珍しくなかった、と示唆されます(Vallini et al., 2021、関連記事)。これらの総説を踏まえつつ、アジア東部における人類集団、とくに初期現生人類の拡散と地域的連続性の問題を自分なりに整理します。


●人類集団の起源と拡散および現代人との連続性に関する問題

 人類集団の起源と拡散は、現代人の各地域集団の愛国主義や民族主義と結びつくことが珍しくなく、厄介な問題です。ある地域の古代の人類遺骸が、同じ地域の現代人の祖先集団を表している、との認識は自覚的にせよ無自覚的にせよ、根強いものがあるようです。チェコでは20世紀後半の時点でほぼ半世紀にわたって、一つの学説ではなく事実として、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が現代チェコ人の祖先と教えられていました(Shreeve.,1996,P205)。これは、現生人類に共通の認知的傾向なのでしょうが、社会主義イデオロギーの影響もあるかもしれません。チェコというかチェコスロバキアと同じく社会主義国の中国とベトナムと北朝鮮の考古学は「土着発展(The indigenous development model)」型傾向が強い、と指摘されています(吉田.,2017、関連記事)。この傾向は、同じ地域の長期にわたる人類集団の遺伝的連続性と結びつきやすく、それを前提とする現生人類多地域進化説とひじょうに整合的です。中国では現在(少なくとも2008年頃まで)でも、現代中国人は「北京原人」など中国で発見されたホモ・エレクトス(Homo erectus)の直系子孫である、との見解が多くの人に支持されています(Robert.,2013,P267-278、関連記事)。ただ、中国人研究者が関わった最近の研究を見ていくと、近年の第一線の中国人研究者には、人類アフリカ起源説を前提としている人が多いようにも思います。

 20世紀末以降に現生人類アフリカ単一起源説が主流となってからは、2010年代にネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との混合が広く認められるようになったものの(Gokcumen., 2020、関連記事)、ホモ・エレクトスやネアンデルタール人やデニソワ人など絶滅ホモ属から現代人に至る同地域の人類集団長期の遺伝的連続性は、少なくともアフリカ外に関しては学術的にほぼ否定された、と言えるでしょう。そうすると、特定地域における人類集団の連続性との主張は、最初の現生人類の到来以降と考えられるようになります。

 オーストラリアのモリソン(Scott John Morrison)首相は、先住民への謝罪において、オーストラリアにおける先住民の65000年にわたる連続性に言及しています。その根拠となるのは、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された多数の人工物です(Clarkson et al., 2017、関連記事)。この人工物には人類遺骸が共伴していませんが、現生人類である可能性がきわめて高いでしょう。1国の首相が考古学的研究成果を根拠に、先住民の長期にわたるオーストラリアでの連続性を公式に認めているわけです。しかし、マジェドベベ岩陰遺跡の年代に関しては、実際にはもっと新しいのではないか、との強い疑問が呈されています(O’Connell et al., 2018、関連記事)。ただ、マジェドベベ岩陰遺跡の年代がじっさいには65000年前頃よりずっと新しいとしても、少なくとも数万年前にはさかのぼるでしょうし、20世紀のオーストラリア先住民のミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析からは、その祖先集団はオーストラリア北部に上陸した後、それぞれ東西の海岸沿いに急速に拡散し、49000〜45000年前までに南オーストラリアに到達して遭遇した、と推測されていますから(Tobler et al., 2017、関連記事)、長期にわたるオーストラリアの人類集団の遺伝的連続性に変わりはない、とも考えられます。

 ここで問題となるのは、近現代人のmtDNAハプログループ(mtHg)からその祖先集団の拡散経路や時期を推測することです。一昨年(2019年)の研究では、現代人のmtDNAの分析に基づいて現生人類の起源地は現在のボツワナ北部だった、と主張されましたが(Chan et al., 2019、関連記事)、この研究は厳しく批判されています(Schlebusch et al., 2021、関連記事)。Schlebusch et al., 2021は、mtDNA系統樹が人口集団を表しているわけではない、と注意を喚起します。系統分岐年代は通常、人口集団の分岐に先行し、多くの場合、分岐の頃の人口規模やその後の移動率により形成されるかなりの時間差がある、というわけです。またSchlebusch et al., 2021は、現代の遺伝的データから地理的起源を推測するさいの重要な問題として、人口史における起源から現代までの重ねられた人口統計的過程(移住や分裂や融合や規模の変化)の「上書き」程度を指摘します。mtDNAはY染色体とともに片親性遺伝標識という特殊な遺伝継承を表し、現代人のmtHgとY染色体ハプログループ(YHg)から過去の拡散経路や時期を推測することには慎重であるべきでしょう。また、mtDNAとY染色体DNAが全体的な遺伝的近縁関係を反映していない場合もあり、たとえば後期ネアンデルタール人は、核ゲノムでは明らかに現生人類よりもデニソワ人の方と近縁ですが、mtDNAでもY染色体DNAでもデニソワ人よりも現生人類の方と近縁です(Petr et al., 2020、関連記事)。

 系統樹は、mtDNAとY染色体のような片親性遺伝標識だけではなく、核DNAのように両親から継承される遺伝情報に基づいても作成できますが、片親性遺伝標識のように明確ではありません。それでも、アジア東部やオセアニアやヨーロッパなど現代人の各地域集団も系統樹でその遺伝的関係を示せるわけで、現代人がいつどのように現在の居住範囲に拡散してきたのか、推測する手がかりになるわけですが、ここで問題となるのは、系統樹は遠い遺伝的関係の分類群同士の関係を図示するのには適しているものの、近い遺伝的関係の分類群同士では複雑な関係を適切に表せるとは限らない、ということです。たとえば現代人と最近縁の現生分類群であるチンパンジー属では、ボノボ(Pan paniscus)とチンパンジー(Pan troglodytes)との混合(Manuel et al., 2016、関連記事)や、ボノボと遺伝学的に未知の類人猿との混合(Kuhlwilm et al., 2019、関連記事)の可能性が指摘されています。また、以下の現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021)の図3cで示されているように、ホモ属の分類群間の混合も複雑だった、と推測されています。
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 こうした複雑な混合が推測される分類群間の関係は、以下に掲載する上述のVallini et al., 2021の図1のように、混合図として示せば実際の人口史により近くなりますが、それでもかなり単純化したものにならざるを得ないわけで(そもそも、実際の人口史を「正確に」反映した図はほとんどの場合とても実用的にはならないでしょう)、現代人の地域集団にしても、過去のある時点の集団もしくは個体にしても、その起源や形成過程に関しては、あくまでも大まかなもの(低解像度)となります。ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との関係でさえ複雑なものと推測されていますから、現代人の各地域集団の関係はそれ以上に複雑と考えられます。起源や形成過程や拡散経路や現代人との連続性など、こうした複雑な関係をより正確に把握するには、片親性遺伝標識でも核DNAでも、現代人だけではなく古代人のDNAデータが必要となり、現代人のDNAデータだけに基づいた系統樹に過度に依拠することは危険です。
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 特定の地域における過去と現代の人類集団の連続性に関しては、上述のように最近の総説的論文から、アフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類が、拡散先で子孫を残さずに絶滅した事例は珍しくなかった、と示唆されます(Vallini et al., 2021)。具体的には、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体は、ヨーロッパ最古級(45000年以上前)の現生人類集団を表しますが、現代人の直接的祖先ではない、と推測されています(Prüfer et al., 2021、関連記事)。ズラティクンは、出アフリカ系現代人の各地域集団が遺伝的に分化する前にその共通祖先と分岐した、と推測されています。出アフリカ系現代人の祖先集団は遺伝的に、大きくユーラシア東部系統と西部系統に区分されます。

 その他には、チェコのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640〜42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響は小さかった、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる現生人類男性遺骸(Fu et al., 2014、関連記事)や、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)も、後のヨーロッパ人口集団に遺伝的影響を残していない、と推測されています。Vallini et al., 2021では、ウスチイシム個体とOase 1はユーラシア東部系統に位置づけられ、Oase 1はバチョキロ洞窟の現生人類個体群(44640〜42700年前頃)と近縁な集団が主要な直接的祖先だった、と推測されています。また、「女性の洞窟(Peştera Muierii、以下PM)」の34000年前頃となる個体(PM1)は、ユーラシア西部系統に位置づけられ、同じ頃のヨーロッパ狩猟採集民の変異内に収まりますが、ヨーロッパ現代人の祖先ではない、と推測されています(Svensson et al., 2021、関連記事)。


●アジア東部における人類集団の遺伝的連続性

 このようにヨーロッパにおいては、初期現生人類が現代人と遺伝的につながっていない事例は珍しくありません。アジア東部においても、最近では同様の事例が明らかになりつつあります。アジア東部でDNAが解析されている最古の個体は、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性(Yang et al., 2017、関連記事)で、その次に古いのがモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃となる女性(Massilani et al., 2021、関連記事)です。最近になって、そのサルキート個体に次いで古い、34324〜32360年前頃となるアムール川流域の女性(AR33K)のゲノムデータが報告されました(Mao et al., 2021、関連記事)。

 Mao et al., 2021は、4万年前頃の北京近郊の田園個体と34000年前頃のモンゴル北東部のサルキート個体と33000年前頃のアムール川流域のAR33Kが、遺伝的に類似していることを示します。アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統(祖先系譜、ancestry)は、まずユーラシア東部と西部に分岐します。その後、ユーラシア東部系統は沿岸部と内陸部に分岐します。ユーラシア東部沿岸部(EEC)祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部の後期更新世〜完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このユーラシア東部内陸部祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang et al., 2021の図2です。
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 田園個体とサルキート個体とAR33Kはおもに、南北に分岐する前のEEI祖先系統で構成されますが、サルキート個体には、別の祖先系統も重要な構成要素(25%)となっています(Mao et al., 2021)。それは、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される祖先系統です(Sikora et al., 2019、関連記事)。この祖先系統は、24500〜24100年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal'ta)遺跡の少年個体(MA-1)に代表される古代北ユーラシア人(ANE)の祖先とされ、Sikora et al., 2019では古代北シベリア人(ANS)と分類されています。MA-1はアメリカ大陸先住民との強い遺伝的類似性が指摘されており(Raghavan et al., 2014、関連記事)、MA-1に代表されるANEは、おもにユーラシア西部祖先系統で構成されるものの、EEI祖先系統の影響も一定以上(27%)受けている、と推測されます(Mao et al., 2021)。今回は、ANSをANEに区分します。ANE関連祖先系統は、現代のアメリカ大陸先住民やシベリア人やヨーロッパ人などに遺伝的影響を残しています。

 重要なのは、田園個体とサルキート個体とAR33Kの年代がいずれも、26500〜19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりも前で、現代人には遺伝的影響を残していない、と推測されていることです(Mao et al., 2021)。南北に分岐する前のEEI関連祖先系統でおもに構成されるこれらの個体に代表される集団は、アムール川流域からモンゴル北東部まで、LGM前にはアジア東部北方において広範に存在した、と推測されます。つまり、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団は、LGM前には他地域に存在した可能性が高く、アジア東部でもヨーロッパと同様に初期現生人類集団の広範な絶滅・置換が起きた可能性は高い、というわけです。もちろん、古代ゲノム研究では標本数がきわめて限定的なので、田園個体などに代表される絶滅集団とアジア東部現代人の主要な直接的祖先集団が隣接して共存していた、とも想定できるわけですが、その可能性は低いでしょう。

 アジア東部の古代ゲノム研究はユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して遅れているので、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団がいつアジア東部に到来したのか、ほとんど明らかになっていません。アムール川流域はその解明が比較的進んでいる地域と言えそうで、LGM末期の19000年前頃には、AR33Kよりもアジア東部現代人と遺伝的にずっと近い個体(AR19K)が存在し、14000年前頃にはより直接的に現代人と遺伝的に関連する集団(AR14K)が存在したことから、アムール川流域では現代にまで至る14000年以上の人類集団の遺伝的連続性が指摘されています(Mao et al., 2021)。AR19KはEEIでも南方系(EEIS)よりも北方系(EEIN)に近縁で、19000年前頃までにはEEIの南北の分岐が起きていた、と考えられます。以下、これらの系統関係を示したMao et al., 2021の図3です。
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●アジア東部現代人の形成過程

 かつてアジア東部北方に、4万年前頃の田園個体と類似した遺伝的構成の集団が広範に存在し、現代人には遺伝的影響を(全く若しくは殆ど)残していない、つまり絶滅したとなると、上述のように、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団は、LGM前には他地域に存在した可能性が高くなります。では、これらの集団がいつどのような経路でアジア東部に拡散してきたのか、という問題が生じます。初期現生人類のゲノムデータと考古学を統合して初期現生人類の拡散を検証したVallini et al., 2021は、ウスチイシム個体や田園個体やバチョキロ洞窟の4万年以上前の個体群に代表される初期のEEI集団が、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の担い手だった可能性を指摘します。IUPは、ルヴァロワ(Levallois)手法も用いる石刃製作として広範に定義され(仲田., 2019、関連記事)、レヴァントを起点として、ヨーロッパ東部・アジア中央部・アルタイ地域・中国北部に点在します。(仲田., 2020、関連記事)。

 Vallini et al., 2021は、その後、ユーラシア西部のどこかに存在した出アフリカ後の人口集団の「接続地」から、石刃および小型石刃(bladelet)の製作により特徴づけられ、装飾品や骨器をよく伴う上部旧石器(UP)の担い手であるユーラシア西部祖先系統でおもに構成される集団がユーラシア規模で拡大し、ユーラシア東部では、在来のEEI関連祖先系統を主体とする集団との混合により、31600年前頃となるヤナRHSの2個体に代表されるANE(もしくはANS)集団が形成された、と推測されます。上述のように、34000年前頃となるモンゴル北東部のサルキート個体はANE集団から一定以上の遺伝的影響を受けています。しかし、アジア東部でも漢人の主要な地域(近現代日本社会で一般的に「中国」と認識されるような地域)や朝鮮半島およびその周辺のユーラシア東部沿岸地域や日本列島では、古代人でも現代人でもユーラシア西部関連祖先系統の顕著な影響は検出されていません。Vallini et al., 2021は、これらの地域において、侵入してくるUP人口集団の移動に対するIUPの担い手だったEEI集団の抵抗、もしくはEEI集団の再拡大が起きた可能性を指摘します。

 EEI集団がどのようにアジア東部に拡散してきたのか不明ですが、文化面ではIUPと関連しているとしたら、ユーラシア中緯度地帯を東進してきた可能性が高そうで(ユーラシア南岸を東進してアジア南部か南東部で北上した可能性も考えられますが)、その東進の過程で遺伝的に分化して、田園個体やAR33Kに代表される集団と、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団とに分岐したのでしょう。もちろん、実際の人口史はこのように系統樹で単純に表せないでしょうから、あくまでも大まかに(低解像度で)示した動向にすぎませんが。アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団がLGMの前後にどこにいたのか、現時点では直接的な遺伝的手がかりはなく、アジア東部では更新世の現生人類遺骸が少ないので、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析(澤藤他., 2021)に依拠するしかなさそうです。

 ただ、EEIの南北の分岐(EEISとEEIN)が19000年前頃までに起きたことと、シャベル型切歯の頻度から、ある程度の推測は可能かもしれません。シャベル型切歯は、アメリカ大陸先住民や日本人も含めてアジア東部現代人では高頻度で見られ、北京の漢人(CHB)では頻度が93.7%に達しますが、アジア南東部やオセアニアでは低頻度です。シャベル型切歯はエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型rs3827760のV370A変異との関連が明らかになっており(Kataoka et al., 2021、関連記事)、この変異は派生的で、出現は3万年前頃と推測されています(Harris.,2016,P242、関連記事)。Mao et al., 2021は、この派生的変異がアジア東部北方では、LGM前の田園個体とAR33Kには見られないものの、19000年前頃となるAR19Kを含むそれ以降のアジア東部北方の個体で見られることから、LGMの低紫外線環境における母乳のビタミンD増加への選択だった、との見解(Hlusko et al., 2018、関連記事)を支持しています。

 これらの知見から、現代のアジア東部人やアメリカ大陸先住民において高頻度で見られるシャベル型切歯は、EEIN集団においてEEIS集団との分岐後に出現した、と推測されます。上述のように、EEISとEEINの分岐は19000年前よりもさかのぼりますから、シャベル型切歯の出現年代の下限は2万年前頃となりそうです。さらに、上掲のMao et al., 2021の図3で示されるように、アメリカ大陸先住民と遺伝的にきわめて近縁な、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River)で発見された1個体(USR1)は古代ベーリンジア(ベーリング陸橋)人を表し、ANE関連祖先系統(42%)とEEIN関連祖先系統(58%)の混合としてモデル化できます。古代ベーリンジア人の一方の主要な祖先であるEEIN関連集団は他のEEIN集団と36000±15000年前頃に分岐したものの、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(Moreno-Mayar et al., 2018、関連記事)。

 そうすると、25000年前頃までにはシャベル型切歯が出現していたことになりそうです。EEINとEEISは4万年前頃までには分岐し、シャベル型切歯をもたらす変異はEEINにおいて3万年前頃までには出現し、LGMにおいて選択され、アジア東部現代人とアメリカ大陸先住民の祖先集団において高頻度で定着した、と考えられます。この推測が妥当ならば、EEIN集団は、EEIS集団と遺伝的に分化した後、アムール川流域やモンゴルよりも北方に分布し、2万年前頃までにはアムール川流域に南下していた、と考えられます。一方、EEIS集団は、長江流域など現在の中国南部にLGM前に到達していたのかもしれません。私の知見では、この推測を考古学と組み合わせて論じることはできないので、今後の課題となります。またシャベル型切歯に関するこれら近年の知見から、シャベル型切歯を「北京原人」からアジア東部現代人の連続的な進化の根拠とするような見解(関連記事)はほぼ完全に否定された、と言えるでしょう。


●日本列島の人口史

 日本列島では4万年頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。4万年以上前となる日本列島における人類の痕跡としては、たとえば12万年前頃とされる島根県出雲市の砂原遺跡の石器がありますが、これが本当に石器なのか、強く疑問が呈されています(関連記事)。おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。現代日本人の形成という観点からは、日本列島では4万年前以降の遺跡のみが対象となるでしょう。

 日本列島の更新世人類遺骸のDNA解析は、最近報告された2万年前頃の港川人のmtDNAが最初の事例となり(Mizuno et al., 2021、関連記事)、ほとんど解明されていません。日本列島で古代ゲノムデータが得られている人類遺骸は完新世に限定されており、縄文時代以降となります。愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃となる縄文時代個体の核ゲノム解析結果を報告した研究では、「縄文人(縄文文化関連個体)」は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、という見解が支持されています(Gakuhari et al., 2020、関連記事)。しかし、港川人のmtDNAは、少なくとも現時点では現代人で見つかっておらず、ヨーロッパやアジア東部大陸部と同様に、日本列島でも更新世に到来した初期現生人類の中に絶滅した集団が存在した可能性は高いように思います。この問題の解明には、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析が大きく貢献できるかもしれません。

 「縄文人」のゲノムデータは、上述の愛知県で発見された遺骸のみならず、北海道(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)や千葉県(Wang et al., 2021)や佐賀県(Adachi et al., 2021、関連記事)の遺骸でも得られています。これら縄文時代の後期北海道の個体から早期九州の個体まで、これまでにゲノムデータが得られている縄文人の遺伝的構成はひじょうに類似しており、縄文人が文化的にはともかく遺伝的には長期にわたってきわめて均質だったことを示唆します。しかし、現代日本人の形成において重要となるだろう西日本の縄文時代後期〜晩期の個体のゲノムデータが蓄積されないうちは、縄文人が長期にわたって遺伝的に均質だったとは、とても断定できません。

 縄文人はEEIS関連祖先系統(56%)とEEC関連祖先系統(44%)の混合として、現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(Wang et al., 2021)。縄文人のシャベル型切歯の程度はわずかなので(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、この点からも、縄文人がEEIN関連祖先系統を基本的には有さない、との推定は妥当と思われます。一方で、EEIN関連祖先系統でおもに構成される青銅器時代西遼河集団を主要な祖先集団とする現代日本人(「本土」集団)においては、シャベル型切歯が高頻度です。これらは、シャベル型切歯に関する上述の推測と整合的です。

 縄文人はYHgでも注目されています。現代日本人(「本土」集団)ではYHg-D1a2aが35.34%と大きな割合を占めており、(Watanabe et al., 2021、関連記事)北海道など上述の縄文人でもYHgが確認されている個体は全てD1a2aで、日本列島外では低頻度であることから、YHg-D1a2aは日本列島固有との認識が一般的なようです。しかし、カザフスタン南部で発見された紀元後236〜331年頃の1個体(KNT004)はYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高く、悪魔の門遺跡個体群はAR14Kと遺伝的にきわめて密接です。また、アムール川流域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)は、YHg-DEです。アムール川流域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった、較正年代で4415〜4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。ほぼEEC関連祖先系統で構成されるアンダマン諸島現代人のYHgがほぼD1で、YHg-D1の割合が高い現代チベット人はEEC関連祖先系統の割合が20%近くと推定されます(Wang et al., 2021)。また、縄文人と悪魔の門遺跡個体群などアジア東部沿岸部集団との遺伝的類似性も指摘されています(Gakuhari et al., 2020)。EEC関連祖先系統を有する集団がアジア東部沿岸部をかなりの程度北上したことは、一部のアメリカ大陸先住民集団でアンダマン諸島人などとの遺伝的類似性が指摘されていること(Castro e Silva et al., 2021、関連記事)からも明らかでしょう。

 これらの知見からは、YHg-D1はおもにEEC関連祖先系統で構成される現生人類集団に由来し、ユーラシア南岸を東進してアジア南東部からオセアニアへと拡散して、アジア南東部から北上してアジア東部へと拡散したことが窺えます。カザフスタンの紀元後3〜4世紀の個体(KNT004)がYHg-D1a2a2aで、悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高いことからも、YHg-D1a2aは日本列島固有ではなく、アジア東部沿岸部を中心にかつては広範にアジア東部に存在し、縄文時代の始まる前に日本列島に到来した、と推測されます。現代日本人で見られるYHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐も、日本列島ではなくアジア東部大陸部で起きていたかもしれません。そうすると、4万年前頃までさかのぼる日本列島の最初期現生人類のYHgはD1a2aではなかったかもしれません。また、KNT004の事例からは、現代日本人のYHg-D1a2a2aの中には、弥生時代以降に到来したものもあったかもしれない、と考えられます。

 日本列島の最初期現生人類が縄文人の直接的祖先なのか否か、縄文人がどのような過程で形成されたのか、現時点では不明ですが、日本列島も含めてユーラシア東部の洞窟の土壌DNA解析により、この問題の解明が進むと期待されます。一方、おもにEEI関連祖先系統で構成される集団のYHgに関しては、田園個体が(高畑., 2021)K2bで、アムール川流域の19000年前頃以降の個体がおもにCもしくはC2であることから、CとK2の混在だったかもしれません。YHg-K2から日本人も含めてアジア東部現代人で多数派のOが派生するので、この点も核ゲノムではアジア東部現代人がおもにEEI関連祖先系統で構成されることと整合的です。

●まとめ

 人類集団の地域的連続性との観念には根強いものがありそうで、それが愛国主義や民族主義とも結びつきやすいだけに、警戒が必要だとは思います。近年の古代ゲノム研究の進展からは、ネアンデルタール人など絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現代人との特定地域における遺伝的不連続性はもちろん、現生人類に限定しても、更新世と完新世において集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されます。さらに、非現生人類ホモ属においても、こうした特定地域における人類集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されています。

 具体的には、アルタイ山脈のネアンデルタール人は、初期の個体とそれ以降の個体群で遺伝的系統が異なり、置換があった、と推測されています(Mafessoni et al., 2020、関連記事)。また、イベリア半島北部においても、洞窟堆積物のDNA解析からネアンデルタール人集団間で置換があった、と推測されています(Vernot et al., 2021、関連記事)。現在のドイツで発見されたネアンデルタール人と関連づけられそうな遺跡の比較からは、ネアンデルタール人集団が移住・撤退もしくは絶滅・(孤立した集団の退避地からの)再移住といった過程を繰り返していたことが窺えます(Richter et al., 2016、関連記事)。

 こうしたヨーロッパにおける複雑な過程の繰り返しにより後期ネアンデルタール人は形成されたのでしょうが、それはアフリカにおける現生人類も同様だった、と考えられます(Scerri et al., 2018、関連記事)。さらにいえば、ホモ属(関連記事)や他の多くの人類系統の分類群の出現過程も同様で、特定の地域における単純な直線的進化で把握することは危険でしょう。その意味で、たとえば中華人民共和国陝西省の遺跡に関しては、210万〜130万年前頃にかけて人類が繰り返し利用したかもしれない、と指摘されていますが(Zhu et al., 2018、関連記事)、それらの集団が全て祖先・子孫関係にあったとは限りません。

 その意味で、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における人類の連続性が根底にある現生人類アフリカ多地域進化説は根本的に間違っている、と評価すべきなのでしょう(Scerri et al., 2019、関連記事)。今回はユーラシア東部内陸部に関してほとんど言及できませんでしたが、バイカル湖地域では更新世から完新世にかけて現生人類集団の大きな遺伝的変容や置換があった、と推測されています(Yu et al., 2020、関連記事)。またモンゴルに関しては、完新世において最初に牧畜文化をもたらした集団の遺伝的構成は比較的短期間で失われた、と推測されています(Jeong et al., 2020、関連記事)。

 これらは上述したオーストラリアの事例でも当てはまるかもしれず、65000年前頃の人類の痕跡が本当だとしても、それが現代のオーストラリア先住民と連続しているかどうかは不明で、mtDNAで推測される5万年近くにわたるオーストラリアの人類の連続性との見解も、古代DNAデータが得られなければ確定は難しいでしょう(オーストラリアで更新世の人類遺骸や堆積物からDNAを解析するのは難しそうですが)。日本列島も同様で、4万年以上前とされる不確かな遺跡はもちろん、4万年前以降の人類、とくに最初期の人類に関しては、縄文人などその後の日本列島の人類と遺伝的につながっているのか、まだ判断が難しいところです。日本列島の人口史に関しては、人類遺骸からのDNA解析とともに、更新世堆積物のDNA解析が飛躍的に研究を進展させるのではないか、と期待しています。

 もちろん、上記の私見はあくまでも現時点でのデータに基づくモデル化に依拠しているので、今後の研究の進展により大きく変えざるを得ないところも出てくる可能性は低くありません。また、今回は特定の地域における人類集団の長期の連続性という見解に対する疑問を強調しましたが、逆に、安易に特定の地域における人類集団の断絶を断定することも問題でしょう。たとえば、現代日本社会において「愛国的な」人々の間で好まれているらしい、三国時代の前後において「中国人」もしくは「漢民族」は絶滅した、といった言説です。古代ゲノムデータも用いた研究では、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)における長期の遺伝的類似性・安定性の可能性が指摘されています(Wang et al., 2020、関連記事)。もちろん、遺伝的構成と民族、さらに文化は、相関する場合が多いとはいえ、安易に結びつけてはなりませんが、「中国」における人類集団の連続性を論ずる場合には、こうしたゲノム研究を無視できない、とも考えています。

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仲田大人(2019)「IUP(初期後期旧石器石器群)をめぐる研究の現状」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P125-132


仲田大人(2020)「日本列島への人類移動を考えるための覚え書き」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P84-91


吉田泰幸(2017)「縄文と現代日本のイデオロギー」『文化資源学セミナー「考古学と現代社会」2013-2016』P264-270
https://doi.org/10.24517/00049063


https://sicambre.at.webry.info/202106/article_22.html


23. 中川隆[-5072] koaQ7Jey 2021年7月09日 07:25:55 : MMSUDjOWSU : MHAzRzVjV3poUVk=[4] 報告
雑記帳
2021年06月29日
西北九州弥生人の遺伝的な特徴
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_29.html
 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、西北九州「弥生人(弥生文化関連個体)」の遺伝的な特徴に関する研究(篠田他., 2019)が報道されました。最近、「弥生人」の遺伝的構成に関するやり取りを見かけたこともあり、「弥生人」の遺伝学的側面の基本文献となる本論文を取り上げるとともに、本論文刊行後の研究にも言及します。

 弥生時代は、日本列島に本格的な水田稲作がもたらされ、在来の「縄文人」と稲作を持ち込んだ主体と考えられるアジア東部本土(大陸部)から到来した人々との混血が始まる時期とされています。そのため、この時期の日本列島には在来集団と大陸から渡来した集団の双方が存在した、と考えられています。形質人類学的な研究から、最初に渡来系集団が侵入した九州ではその情況を反映して、渡来系集団と在来の「縄文人」の系統である西北九州の「弥生人」が存在し、さらに独特の形質を持つ南九州の「弥生人」が暮らしていた、と指摘されています。しかし、各集団の関係や、その後の混血の状況については、依然として多くが不明です。

 長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡では、2個体の弥生時代人骨(成人女性の下本山2号と成人男性の下本山3号)が出土しています。放射性炭素年代測定法による較正年代では2001〜1931年前頃と推定されています。この遺跡は西北九州「弥生人」の居住地域にあり、出土した人骨の形質も「高顔傾向が見られる点に留意しなければならない」と指摘されつつも、全体的には北部九州の「渡来系弥生人」よりは縄文時代の人々と類似する、との結論が提示されています。つまり、下本山岩陰遺跡の弥生時代の2個体は、形質の面からは他の西北九州の弥生時代の人々と同じく、「縄文人」の系統を引く集団の構成員と判断されます。

 本論文は、次世代シークエンサ(NextGeneration Sequencer、NGS)を用いて核DNA を分析し、この問題の解決を目指します。核ゲノムは両親から継承されるので、遺伝的に異なる集団からの遺伝子の寄与についての情報を得られます。2010 年以降、NGSは古代人遺骸のDNA分析に用いられるようになり、得られた核ゲノムの情報は、分析された標本の由来や形質に関して、以前の方法では得られなかった精度の高い推定が可能になっています。日本でも北海道の礼文島の船泊遺跡(関連記事)や愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された「縄文人」の核ゲノムが解析されており、その系統的位置についての情報が得られるようになっています。アジア東部本土から稲作農耕民が最初に侵入したとされる北部九州地域の情況を知ることは、現代日本人の成立を知る上で重要な知見となります。その意味でも西北九州「弥生人」の核ゲノム解析は重要です。


●DNA解析結果

 性染色体のDNAのリード数から、下本山2号は女性、下本山3号は男性と判定されました。下本山3号のY染色体ハプログループ(YHg)はOの可能性が高い、と推定されましたが、それ以上の下位区分はできませんでした。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の系統解析では、同一の石棺に合葬された上記の2 体のうち、2号女性のmtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1a4、3号男性はD4a1で、前者は典型的な「縄文人」の系統、後者は「渡来系弥生人」の系統のmtHgと判明しています。この異なる2つのmtHgが同一の遺跡、しかも同じ石棺墓に埋葬されていたことは、2号と3号が夫婦関係にあることともに、在来の縄文系集団と弥生時代以降の渡来系集団との混合が始まっていることを予想させますが、母系遺伝のmtHgのデータだけでは、その程度について結論を提示することは困難です。

 そこで、核ゲノムデータでの分析が行なわれました。1KG(1000人ゲノム計画)およびSGDP(サイモン図ゲノム多様性計画)のデータとの比較の結果、下本山2号および3号(以下、両者をまとめての分析では下本山弥生人と表記します)は主成分分析ではともに、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」人と縄文人との間に位置します。日本列島の本土とアイヌと沖縄人という3集団との比較でも、下本山弥生人は本土および沖縄集団とアイヌ集団との間に位置し、アイヌ集団の一部とは重なっています。

 外群f3統計(ムブティ人;検証集団X、下本山弥生人)で集団間の遺伝的類似性を比較すると、下本山弥生人は伊川津縄文人や船泊縄文人と最も多く遺伝的浮動を共有し、両者と遺伝的に近い集団と示されました。また、その次に近いのは日本列島の3人類集団で、これは主成分分析の結果と一致します。f4統計(ムブティ人、船泊縄文人;下本山弥生人、検証集団X)でも、下本山弥生人は現代のどの集団よりも縄文人との遺伝的類似性を示しました。また、有意ではないものの、下本山弥生人は船泊縄文人よりも伊川津縄文人の方と遺伝的に近い傾向を示し、外群f3統計の結果とも一致します。

 次に、f4統計(ムブティ人、検証集団X;下本山弥生人、船泊縄文人)で、下本山弥生人に弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系の遺伝的要素が含まれるのか、検証されました。その結果、有意ではないものの、下本山弥生人は船泊縄文人と比較してアジア東部本土集団との遺伝的類似性を示す傾向が確認されました。最後に、弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系要素が下本山弥生人と現代日本人のどちらに多く含まれるのか検討するため、f4統計(ムブティ人、検証集団X;下本山弥生人、現代日本人)が実行され、現代日本人がアジア東部本土か集団との遺伝的類似性が有意に高い、と示されました。


●考察

 上述のように、下本山3号はYHg-Oで、それ以上の下位区分はできませんでしたが、これは渡来系弥生人に由来する、と推測されます。下本山3号はmtHg-D4aで、父系でも母系でも弥生時代以降にアジア東部本土から到来した系統と考えられます。しかし、核ゲノム解析では、下本山3号も縄文人系の遺伝子を有していると示され、在来の縄文集団と弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系集団の双方に由来するゲノムを有している、と明らかになりました。同様に、縄文人系のmtHg-M7a1a4を有していた下本山2 号女性人骨も、核ゲノム解析からは渡来系弥生人に由来すると考えられる遺伝子も有している、と示されました。このような集団内に異なる系統の遺伝子が混在している状況をmtDNAやY染色体DNAの情報で明らかにするには、同一の遺跡から出土した多数の標本を分析する必要があります。しかし、わずかな個体を解析するだけでも混血の状況を明らかにできる核ゲノム解析は、得られる標本が少ない遺跡の解析にはとくに有効であることを示しています。

 日本列島の人類集団の形質は、縄文時代から弥生時代にかけて大きく変化したことが知られており、弥生時代は現代日本人の成立を考える上で重要な時期です。この形質の移行期の九州には、出自の異なる3集団が存在した、と指摘されています。そのうち、西北九州弥生人の顔面部の形態は、低顔性が強く、眉間から眉上弓へかけての高まりが著明で、鼻根部は深く陥没します。男性の身長は160cm以下とやや低く、四肢骨の比率でも、四肢骨の末端が比較的長い縄文人と共通した特徴を有しています。その形態学的な特徴をまとめた研究では、四肢骨の形状に古墳時代の人々につながる特徴も認められていますが、西北九州弥生人は人骨形質と考古学的所見を合わせて、「縄文人の継続であって、新しい種族の影響を受けたとは考えにくい」との結論が提示されています。西北九州弥生人の歯の形態に関する研究でも、北部九州弥生人が縄文人および西北九州弥生人と比較して大きな歯を有し、縄文人と西北九州弥生人との間にはほとんど有意差がなかったことを見いだしており、西北九州弥生人は縄文人の系統の集団である、との結論を提示しています。

 下本山岩陰遺跡は1970 年に発掘されており、以前の研究で西北九州弥生人の遺跡分布の範疇として指摘された地域内に位置します。下本山岩陰遺跡の人骨形態に関する研究では、箱式石棺に埋葬されていた2 号と3 号骨は、縄文人と共通する低顔、凹凸のある鼻根部の周辺形態、四角い眼窩などの特徴を備えている、と報告されています。したがって形態学的な研究からは、下本山岩陰遺跡人骨は縄文人の形質を強く残した西北九州の弥生人集団に含まれる、と判断されます。

 一方、これまで紀元前3世紀から紀元後3世紀までの約600年間と考えられてきた弥生時代の年代幅は、大きく修正されつつあります。21世紀になっての高精度の炭素14 年代法による年代研究の結果、水田稲作が始まったのは、当時考えられていた紀元前5 世紀ごろではなく、約500年古い紀元前10世紀までさかのぼる可能性がある、と指摘されました。ただ、弥生時代の開始年代については議論が続いています(関連記事)。弥生時代が従来の想定よりも長期間に渡る可能性の提示から、この時代における集団の形質の変化についても、千年を超える時間範囲を念頭において考える必要があります。こうした情況において、九州の弥生集団を系統の異なる集団として固定的に把握することが適切なのか、改めて検討する必要があります。

 人骨の試料的な制約もあって、これまで弥生時代における形質の変化を追う研究は困難でした。しかし、高精度の核ゲノム解析が可能になったことで、これまで渡来系や在来系の集団と位置づけられていた弥生人も、時間の中で変化していくものとして把握することが可能となりました。本論文の分析では、下本山弥生人の遺伝的な特徴は、いずれも縄文人と現代の本土日本人の中間に位置する、と明らかになりました。また、下本山弥生人が船泊縄文人よりも伊川津縄文人に近い傾向を示したことから、地理的に近い縄文人が混血に寄与した可能性も示されました。

 主成分分析では下本山弥生人とアイヌの一部の個体が重なっていますが、これは一部のアイヌが本土日本人と混血することで類似の位置にいると考えられ、集団として互いが直接的に関係するわけではない、と推測されます。下本山弥生人は、放射性炭素年代法により弥生時代後期に属すると推測されているので、本論文の結果から、弥生時代末には西北九州地域でも在来の縄文集団と渡来系集団の混血がかなり進んでいた、と示唆されます。形態学的な研究では縄文人系と把握される集団でも、ゲノムの解析では混血が進んでいる、と明らかになったわけです。古代核ゲノム解析により、形態の変化からは定量的には把握できなかった縄文時代から弥生時代への移行の状況の解明が可能であることも示されました。

 本論文の最重要点は、九州の弥生社会が祖先を異にするいくつかの系統に分かれていたという図式から、弥生時代の状況を誤って解釈する可能性を示したことにあります。少なくとも、渡来系弥生人集団と西北九州の弥生人集団の間には、形態学的な研究が予想するよりもはるかに大規模な混血があり、双方は弥生時代の全期間にわたって明確に分離した集団ではなかった、と考えられます。ただ、その交雑の状況は、地域・遺跡ごとにさまざまだった可能性があり、本論文の分析から西北九州弥生人の遺伝的な性格を代表させることはできません。しかし、西北九州弥生人という集団は固定的なものではなく、時代とともに変化していった流動性のあるものだった、と把握する視点は重要でしょう。渡来集団が長い時間をかけて在来集団を取り込んでいったと考えれば、形態学的な研究が定義している渡来系弥生人と西北九州弥生人は、混血の程度の地理的・時間的な違いを固定化して見ているだけである、との解釈も成り立ちます。

 本論文は、1ヶ所の遺跡のわずか2個体を分析したものなので、この結果をそのまま九州全体の弥生時代の状況に演繹することは困難です。しかし、解析個体を増やしていくことで、古代核ゲノム解析は、九州における縄文時代から弥生時代にかけての集団の変遷について、更に詳細なシナリオを描くことになるはずです。日本列島本土では、弥生時代の幕開けとともにアジア東部本土から稲作農耕を行なう集団が渡来し、在来集団と混血していくことで現在につながる集団が形成されていきました。北部九州は、その渡来が最初に始まった地域であり、この地域での混血の状況を明らかにすることは、その後の日本列島での集団形成史を知るための重要な知見を提供します。幸いなことに、北部九州地域は、先人の努力により相当数の渡来系弥生人と西北九州弥生人の人骨が発掘され、保管されています。これらの人骨の核ゲノム解析を進めることで、日本人成立のシナリオは更に精緻なものになるはずです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。弥生人の核ゲノム解析はまだ始まったばかりで、本論文が強調するように、少ない事例から時空間的に広範囲の状況を安易に推測してはならないでしょう。弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析では、渡来系弥生人とされている福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1個体は現代日本人の範疇に収まり、東北地方の弥生人男性は遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。弥生時代の日本列島の人々の遺伝的構成は、縄文人とアジア東部本土集団の間で時空間的に大きな変動幅が見られるのではないか、と予想されます。日本列島の人類史において、弥生時代が最も遺伝的異質性の高い期間だった可能性も考えられます。

 本論文刊行後の研究では、縄文人はユーラシア東部内陸部南方祖先系統(56%)ユーラシア東部沿岸部祖先系統(44%)の混合として、現代本土日本人は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(関連記事)。九州の縄文時代早期の人類遺骸のDNA解析からは、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的にはかなり均質だった可能性も示唆されています(関連記事)。まだ縄文人と弥生人の核ゲノムデータは少なく、現代日本人の形成過程には不明なところが少なくありません。関東地方に関しては古墳時代における人類集団の遺伝的構成の大きな変化の可能性が(関連記事)、現代日本人の都道府県単位の遺伝的構造からは、古墳時代以降における近畿地方へのアジア東部本土からの移住の影響の可能性(関連記事)が示唆されているように、現代日本人の形成過程においては地域差と年代差も大きいと予想され、その解明には、時空間的により広範囲の古代人の核ゲノムデータが必要となります。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231


https://sicambre.at.webry.info/202106/article_29.html


▲△▽▼


雑記帳 2021年07月09日
佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html

 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。同じ著者たちによる長崎県佐世保市下本山岩陰遺跡の弥生時代の人類遺骸のDNA解析結果を報告した研究を当ブログで取り上げたさい(関連記事)、コメントで佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代人骨の核DNA分析に関する研究を教えていただき、調べてみたところ『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集に本論文が所収されていると分かったので、購入しました。他にも興味深い論文が多く掲載されているので、今後当ブログ取り上げていく予定です。

 本論文は、佐賀県唐津市呼子町大友の玄界灘に面した砂丘上に位置する大友遺跡の第5次調査で発見された、弥生時代人骨の核DNA解析結果を報告しています。大友遺跡では、1968〜1980年にかけての4次の調査、1999年の第5次調査と2000年の第6次調査により、それぞれ100個体以上と28個体と22個体の人類遺骸が発見されました。これら人類遺骸の副葬品の分析から、年代は弥生時代早期〜古墳時代初期と推測されています。大友遺跡は、朝鮮半島由来の支石墓をはじめとして、さまざまな様式の埋葬施設があることで知られています。大友遺跡の人類遺骸の特徴は、支石墓人骨を中心に「縄文人(縄文文化関連個体)」と共通する形質および抜歯風習を有する西北九州型とされています。これに関して、在来集団が朝鮮半島の墓制だけ取り入れたか、現時点では朝鮮半島の弥生時代相当期の人類遺骸が少なく判断困難ではあるものの、墓制の保守性・伝統性重視の観点から、被葬者はアジア東部大陸部起源だった、との見解があります。

 大友遺跡の人類遺骸の由来の解明は、日本人、とくに本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」集団の成立過程の考察において重要です。日本人の成立に関して形態学的研究では、弥生時代にアジア東部大陸部から朝鮮半島経由で九州北部に到来した多数の「渡来人」が在地の縄文系と集団と混合して成立したという、「二重構造説」が提唱されています。しかし、二重構造説が依拠した人類遺骸の年代は弥生時代中期以降が大半で、最重要である縄文時代〜弥生時代の移行期における人類遺骸を解析の対象としてないことに要注意です。その後、二重構造説は現代人や古代人を対象としたDNA研究からも支持されており、現代「本土」日本人の成立の大枠を説目しています。

 日本列島の古代DNA研究は1990年頃から始まり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)が分析対象とされてきました。mtDNAは細胞内に数百コピー存在するので、核DNAよりも解析が容易です。mtDNAでは、蓄積した変異に基づいたハプログループという分類体系が確立しています。mtDNAハプログループ(mtHg)は、人類拡散の過程で集団に共有されたり、新規に形成されていったりするので、その分布調査により、古代から現代における人類集団の移住と拡散の歴史を解明できます。

 ただ、これまでの分析では既存のmtHgに基づいてmtDNAの一部領域のみを分析しているので、情報量が限られています。また、mtDNAは母系遺伝なので、男系の情報が欠落します。さらに、「縄文人」と「渡来系弥生人」の混血度合といった定量的分析では誤差も多く必ずしも有効な手段ではないなど、複数の点で課題がありました。この状況は、2010年から次世代シーケンサー(NGS)が古代DNA研究でも利用されるようになったことで、大きく変化しました。NGSにより古代人遺骸のDNAの網羅的分析が可能になり、mtDNAよりもはるかに多くの情報を有する核DNAの解析が可能になりました。mtDNAに関しても、新規のmtHgや個体特異的な変異の検出も可能となりました。そうした解析から描かれる集団成立史の想定は、以前よりも精緻なものとなっています。

 これまでの形態学的研究から、西北九州「弥生人」は「縄文人」系統の集団と考えられてきました。しかし、上述の下本山岩陰遺跡の弥生時代人類遺骸2個体のDNA解析結果から、縄文系と「渡来系弥生人」双方のDNAが示され、両系統の混血がかなり進んでいた、と明らかになりました(関連記事)。しかし、混血の地理的・時期的な変遷はまだ不明なので、本山岩陰遺跡の弥生時代人類遺骸2個体のDNA解析結果から、西北九州の弥生時代の人類の遺伝的構成について結論づけるのは時期尚早です。そこで本論文は、大友遺跡の弥生時代早期の人類遺骸の核DNA解析結果を報告し、西北九州の弥生時代の人類の遺伝的構成に新たな知見を加えます。


●DNA解析

 本論文がDNA解析の対象とした人類遺骸は、側頭骨が残存する個体のうち、オオツタノハ貝製腕輪を装着した5次8号支石墓の熟年女性(以下、大友8号)です。年代は弥生時代早期で、支石墓の下部構造は土壙墓です。側頭骨錐体部はDNAの保存状態が良好な部位とされます。大友8号は、X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から女性と判断され、これは人骨の形態学的所見と一致します。大友8号のmtHgはM7a1a6です。大友8号は、一塩基多型データに基づいて、主成分分析でアジア東部の現代人および古代人と比較されました。アジア東部大陸部の集団は、北から南にかけて、集団ごとにクラスタを形成しながら中央付近で左右方向に連続的に分布しました。日本列島本土現代人は上方に離れてクラスタを形成し、さらに上方に縄文人が位置しています。この分布は、縄文人がアジア東部で遺伝的に特異的な集団であることに加えて、日本列島本土現代人が縄文人由来の遺伝要素を受け継いでいる、と示します。弥生時代早期の西北九州弥生人型である大友8号は、縄文人の分布範囲内となり、アジア東部大陸部や日本列島本土現代人から大きく離れています。一方、同じく西北九州弥生人とされる弥生時代末期の本山岩陰遺跡の2個体は、縄文人と日本列島本土現代人の間に位置します。


●考察

 大友遺跡出土人骨は、形態学的には典型的な西北九州弥生人型で、縄文人と共通する形質を有することから、その遺伝的背景と由来が注目されます。大友8号は、土圧などによる歪みが強く計測されていないものの、形質的には著しい低顔傾向など縄文人的な特徴が指摘されています。大友8号のmtHgはM7a1a6で、縄文人に典型的なmtHgです。南西諸島の古代人のmtDNA分析(本書に所収されている別論文、今後当ブログで取り上げる予定です)から、南西諸島集団のmtHg-M7aは下位区分では九州以北の古代人や日本列島本土現代人集団とも異なる、と明らかになっており、大友8号のmtHg-M7aは本土集団と共通します。大友8号の副葬品は南海産のオオツタノハ貝製腕輪ですが、遺伝的に母系では南西諸島集団からの影響は見られません。

 核DNAを用いた主成分分析では、大友8号は縄文人クラスタの範疇に収まり、大陸系集団との混血の影響は見られませんでした。これは人骨の形態的特徴と矛盾しません。支石墓は朝鮮半島に起源がある墓制なので、(1)土着住民が朝鮮半島の墓制を取り入れたか、(2)朝鮮半島で支石墓を墓制とする集団に起源がある、と考えられます。(2)では、朝鮮半島にも西北九州弥生人のように人々がいたのか、問題となります。現時点では人骨の形態学的証拠は乏しいものの、韓国釜山市の加徳島の獐項(ジャンハン)遺跡の6300年前頃の2個体の核DNAが解析されており、現代韓国人よりも縄文人的と明らかになっています(関連記事)。しかし、獐項遺跡の2個体の縄文人的な遺伝的構成の割合は日本列島本土現代人と同程度かそれ以下で、西北九州弥生人である大友8号や下本山岩陰遺跡の弥生人2個体とは遺伝的に大きく異なります。これらの知見を踏まえると現時点では、朝鮮半島に西北九州弥生人と遺伝的に同質の集団を想定するよりも、西北九州在来集団が朝鮮半島の墓制を取り入れた、と想定する方が妥当なようです。

 西北九州弥生人の中でも、早期の大友8号とは異なり、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は渡来集団との混血がかなり進んでいます。これを地域差と年代差のどちらと解釈すべきなのか、現時点の限定的データからは明らかではありません。大友遺跡人類遺骸の同位体分析による食性分析では、時代が下るとともに、当初の漁撈依存から穀物依存の度合が高まる、と明らかになっています。大友遺跡の古墳時代初期の人類遺骸の中では、1個体だけ九州北部弥生人との強い類似性が示され、渡来系弥生人の流入の可能性が指摘されています。これらの知見から、西北九州弥生人でも、時期的・地理的に差はありつつ混血が進んだと考えられますが、今後、同時期の朝鮮半島南部および九州北部集団の古代人のDNA分析を継続することで、その実態がより精緻なものになる、と期待されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析では、渡来系弥生人とされている福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1個体は現代日本人の範疇に収まり、東北地方の弥生人男性は遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。弥生時代早期の九州の大友8号も遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と明らかになったことで、改めて弥生時代の人類集団の遺伝的異質性の高さが示されたように思います。日本列島の人類史において、弥生時代が最も遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 その形態から縄文人的と評価されてきた西北九州弥生人のうち、早期の大友8号は核DNAの解析で既知の縄文人の範囲に収まりますが、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は、縄文人と日本列島本土現代人集団との間に位置し、縄文人系集団と弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団との混合集団だった、と示唆されます。本論文が指摘するように、これが地域差と年代差のどちらを反映しているのか、現時点では不明ですが、いずれにしても、弥生時代にはアジア東部大陸部に最も近い西北九州でも、遺伝的には縄文人そのものの集団が早期に存在し、末期においても、日本列島本土現代人集団よりもずっと縄文人の遺伝的影響の強い個体が存在したことになり、弥生時代の日本列島本土ではまだ縄文人の遺伝的影響が根強く残っていた、と示唆されます。

 日本列島本土人類集団の遺伝的構成が、縄文人的なものからアジア東部大陸部現代人的なものに近づく過程は弥生時代もしくは縄文時代晩期に始まって長期にわたり、地域・年代差が大きかった、と推測されます。今後、時空間的に広範囲の古代DNA研究が進むことで、日本列島本土現代人集団の形成過程がより明らかになっていくと期待されます。アジア東部の古代DNA研究も進んでおり(関連記事)、縄文人や弥生時代以降に日本列島に到来したアジア東部集団の形成過程、さらには弥生時代以降に日本列島に到来したアジア東部集団にどのような年代差と地域差があるのか、といった問題の解明も今後進んでいきそうです。

 また本論文は、縄文人の遺伝的構成が長期にわたってかなり均質だった可能性を改めて示します。最近、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された縄文時代早期の人類遺骸の核DNAが解析され、既知の縄文人の範疇に収まる、と明らかになりました(関連記事)。形態学的分析から、縄文人が長期にわたって遺伝的に一定以上均質であることは予想されていましたが(関連記事)、縄文時代早期と弥生時代早期の西北九州の個体から縄文時代後期の北海道の個体(関連記事)まで遺伝的に古代および現代の人類集団と比較して緊密なまとまりを示すとなると、縄文人は長期にわたって広範囲に遺伝的には均質だった可能性が高そうです。

 最近、中国南部の広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11000年前頃の1個体(隆林個体)が、未知の遺伝的構成だと明らかになりました(関連記事)。未知の遺伝的構成とはいっても、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)ユーラシア東部集団の範疇に収まり、その中では他の古代人および現代人と比較して異質の遺伝的構成というわけで、縄文人と位置づけが似ています。おそらく、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の前後でユーラシア東部に拡散してきた現生人類集団は各地で孤立して遺伝的に分化していき、固有の遺伝的構成を形成していったのではないか、と推測されます。そうした集団の中には、隆林個体的集団のように絶滅したものや、縄文人のように一部の現代人に遺伝的影響を残したものもいたのでしょう。孤立性の高い日本列島において、縄文人は長期にわたって独自の遺伝的構成を維持し続けた、と推測されます。

 上述の韓国釜山市の加徳島の獐項遺跡の6300年前頃の2個体の事例からも、縄文人が日本列島から朝鮮半島に渡海したか、縄文人的な遺伝的構成の集団が日本列島だけではなく朝鮮半島南部にも存在した、と考えられます。しかし、縄文時代の日本列島と同時代の朝鮮半島の文化的交流は限定的で、対馬海峡で文化的に区分される、と指摘されています(関連記事)。その意味で、もちろん文化と遺伝を安易に同一視できないとはいえ、縄文時代と同時期の朝鮮半島において縄文人的な遺伝的構成の集団が大きな影響を有したとは考えにくく、縄文人が日本列島から朝鮮半島へと渡海しても、その影響は限定的で、獐項遺跡の6300年前頃の2個体も、その後の朝鮮半島や日本列島の人類集団に遺伝的影響を残さなかった可能性もじゅうぶんあるとは思います。弥生時代には、遺伝的にアジア東部大陸部の現代人集団と類似して縄文人とは大きく異なる集団が、大陸部から改めて到来したのではないか、と現時点では想定していますが、今後の古代DNA研究の進展により、大きな修正が必要になるかもしれません。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたユーラシア東部の古代DNA研究も最近になって目覚ましく発展しており、今後の研究の進展が楽しみです。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393


https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html

24. 2021年7月27日 20:28:58 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[24] 報告
雑記帳 2021年07月27日
鹿児島県内出土縄文人骨のミトコンドリアDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_28.html

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。出水貝塚は鹿児島県出水市にある縄文時代後期の遺跡です。1919年には貝塚と確認され、1954年には本格的に発掘調査され、4体の人骨が出土しました。この出水貝塚人骨は、現時点では南九州最古の人骨と考えられており、この時代の九州縄文人の遺伝的特徴を知るための貴重な資料です。本論文は、出水貝塚で出土した人骨3体と、鹿児島県垂水市柊原貝塚で出土した人骨1体のミトコンドリアDNA(mtDNA)分析結果を報告します。これらの人骨の放射性炭素測定法による較正年代は、紀元前2280〜紀元前1975年頃です。

 これまでの九州北部と南西諸島の縄文時代相当期人骨のDNA分析では、mtDNAハプログループ(mtHg)はほとんどM7a1系統であるものの、南西諸島と九州北部の系統は1万年以上前に分岐している、と明らかになっています。しかし、南九州の「縄文人」に関しては、これまでDNA分析が報告されておらず、九州北部と南西諸島のどちらの系統なのか、明らかになっていません。そこで本論文は、詳細なmtHg分析により、この問題を解明します。

 APLP法(Amplified Product-Length Polymorphism method)による解析では、出水貝塚の3個体のうち2号と3号で詳細な結果が得られ、いずれもmtHg-M7a1でした。柊原貝塚個体は、APLP法ではmtHg-Dで、D5・D6・D4jではないもの、D4か否かは判定が分かれました。次世代シークエンサ(NGS)によるmtDNA分析でのmtHgは、出水貝塚1号がM7a1a*、出水貝塚2号がM7a1a2、出水貝塚3号がM7a1a2、柊原貝塚個体がM7a1a*でした。出水貝塚2号および3号に関しては、APLP分析と結果が一致していますが、2号は汚染率が高めなので、出水貝塚の他の2見たいよりも信頼性は低くなります。柊原貝塚個体は、APLP分析では結果が安定せず、NGSを用いたmtDNA全配列分析では異なる結果が得られました。

 mtHg-M7aは「縄文人」の主要系統の一つで、「縄文人的遺伝子型」と認識されています。現代の日本列島での頻度は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」では7.5%、沖縄本島では26%で、「本土」と南西諸島では明確に頻度分布に違いがあります。これまでの分析から、南西諸島貝塚前期の遺跡から出土した人骨のほとんどがmtHg-M7a、とくにその下位区分であるmtHg-M7a1aでした。九州の「縄文人」や「縄文人」の系統と考えられている西北九州「弥生人」でもmtHg-M7a1aが確認されていますが(関連記事)、九州北部と南西諸島で共通するmtHg-M7a1aの下位系統はまだ確認されていません。

 出水貝塚人骨のmtHg-M7a1aと、他の九州および沖縄の縄文時代から弥生時代の人骨のmtHg-M7a1aとを合わせて系統樹を作成すると、出水貝塚人骨は南西諸島集団の系統ではなく、九州北部の「縄文人」や「弥生人」の系統に分類されました。出水貝塚は熊本県との境の鹿児島県北部に位置するので、九州北部系統に近いことは不思議ではありません。今回の分析で、縄文時代における九州本土集団と南西諸島集団との遺伝的違いがより明確になりました。なお、柊原貝塚個体はmtHg-M7a1aの基底部からT720Cの変異だけを有しており、その変異を共有するmtHg-M7a1aの個体は、現代人でも古代人でも見つからなかったので、柊原貝塚個体のmtHg-M7a1aが九州系統と南西諸島系統のどちらなのか、判定できませんでした。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、安達登、角田恒雄、竹中正巳(2021)「鹿児島県内出土縄文人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P403-409

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25. 2021年7月30日 16:07:59 : FR7Mntvne3 : cFNhZkVmS0FoM2c=[35] 報告
2021年07月30日
徳之島出土人骨のmtDNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_31.html

 本論文(篠田他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。鹿児島県徳之島は、奄美群島のほぼ中央に位置する離島の一つで、その位置から、南方より日本列島への流入経路と考えられるだけではなく、古来より沖縄本島と九州南部をつなぐ交流の要所にもなっています。徳之島には縄文時代にさかのぼる遺跡も存在し、人骨も出土しています。したがって、この地域の「縄文人」のDNAは、古代人の移動経路と交流の範囲やその実態を知る鍵になると考えられます。本論文は、これまでの琉球列島や九州南部の「縄文人」のDNAデータを徳之島の「縄文人」と比較することで、この地域の集団の移住や拡散の状況を解明します。

 DNA解析に用いられたのは、徳之島伊仙町の面縄第1貝塚とトマチン遺跡、天城町の下原洞穴遺跡の人骨です。面縄貝塚は貝塚時代前1期(縄文時代早期〜前期並行期)からグスク時代(中世並行期)に欠けての複合遺跡で、面縄第1貝塚では1982年の発掘で石棺墓から保存状態良好な人骨が1体出土しています。その後、2007〜2015年の調査でも合計3体の人骨が出土しています。トマチン遺跡は1992年に最初の調査が行なわれ、2004〜2009年の発掘で石棺墓3基と土壙墓1基が発見され、石棺墓からは複数の人骨が出土しています。共伴遺物から、年代は貝塚時代前5期末(縄文時代晩期末〜弥生時代前期並行期)と推測されています。下原洞穴遺跡では、2016年度の調査で縄文時代晩期末(2500年前頃)の爪形文土器や貝装飾品を伴った、1次葬骨と見られる男女2体を含む複数の人骨が出土しています。

 これまで、トマチン遺跡から出土した人骨2体についてはミトコンドリアDNA(mtDNA)の予備的研究が行なわれていますが、面縄第1貝塚と下原洞穴遺跡で出土した人骨についてはDNA分析が行なわれていません。本論文は、次世代シークエンサ(Next Generation Sequencer、NGSを用いての、この3ヶ所の遺跡の人骨のmtDNA解析結果を報告します。分析に用いられた人骨は、面縄第1貝塚がC-5トレンチ5層標本(壮年男性)、トマチン遺跡が2号(熟年男性)・3(壮年男性)・4号(壮年女性)、下原洞穴遺跡が第2トレンチ人骨(性別不明)です。

 APLP法(Amplified Product-Length Polymorphism method)によるmtDNA分析では、mtDNAハプログループ(mtHg)は、面縄第1貝塚C-5トレンチ5層標本がMで、その他の4個体はM7a1と分類されました。NGSを用いた解析でのmtHgは、面縄第1貝塚C-5トレンチ5層標本がM7a1a、トマチン遺跡2号がM7a1a*、トマチン遺跡3号がM7a1a8、トマチン遺跡4号がM7a1a*、下原洞穴遺跡が第2トレンチ人骨がM7a1a*で、いずれもmtHg-M7a1aに分類されました。

 トマチン遺跡では同一の石棺に複数個体が埋葬されており、その血縁関係が問題となります。mtDNAは母系遺伝なので、同一の配列を有する個体同士は母系の血縁関係にある、と推定されます。しかし、全塩基配列を用いた系統解析からは、トマチン遺跡の3個体のmtDNA配列は細部で異なっている、と明らかになりました。したがって、これら3個体間には母系の血縁関係はなかったことになります。しかし、トマチン遺跡2号とトマチン遺跡4号は1塩基が異なるだけなので、ひじょうに近い関係にあると考えられます。

 これら徳之島の遺跡の5個体のmtHgは全てM7a1aで、沖縄本島の貝塚前期の遺跡から出土した人骨のほとんども、mtHg-M7a1aと明らかになっています。九州本土の「縄文人」や「縄文人」の子孫と考えられる西北九州「弥生人」でも、mtHg-M7a1が確認されていますが(関連記事)、沖縄と九州本土のこれらの個体は、同じmtHg-M7a1でも異なる系統と示されており、これまで九州と南西諸島で共通する系統は報告されていません。

 mtDNAの全配列が読めているトマチン遺跡の3個体について、他のmtHg-M7a1aの個体との系統解析が行なわれ、トマチン遺跡の3個体は2系統に分かれており、それぞれと同じ系統に南西諸島の人骨が含まれ、九州北部集団とは別の系統に属す、と示されました。したがって、徳之島の縄文時代相当期集団は、基本的には南西諸島集団の一部だった、と推測されます。mtHg-M7a1aの系統樹から、九州北部集団と南西諸島集団の分岐は10985±1442年前となる、縄文時代早期の初め頃と推定されます。mtHg-M7a1aからは、この頃に九州から南西諸島に人々が到来し、その後に独自集団として拡散していった、と推測されます。

 九州南部の「縄文人」である鹿児島県出水市の出水貝塚で出土した人骨3体のmtDNAも分析されており、いずれもmtHg-M7a1aでしたが(関連記事)、そのmtHgはトマチン遺跡出土個体とは異なり、九州北部個体と同じ系統に属します。九州と南西諸島の「縄文人」との間に母系での明確な違いがあることは、この地域の「縄文人」成立を解明する重要な手がかりとなります。今後は、九州南部の「縄文人」のmtDNA解析数の蓄積とともに、核DNAの解析も期待されます。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、安達登、角田恒雄、竹中正巳(2021)「鹿児島県徳之島所在遺跡出土人骨のミトコンドリアDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P449-457

https://sicambre.at.webry.info/202107/article_31.html

26. 中川隆[-16537] koaQ7Jey 2021年9月07日 11:13:17 : r5z45lvW9w : b2RKcGJ1YVo0ZE0=[25] 報告
雑記帳
2021年09月06日
ユーラシア東部の現生人類史とY染色体ハプログループ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html


 当ブログでは2019年に、Y染色体ハプログループ(YHg)と日本人や皇族に関する複数の記事を掲載しました。現代日本人のYHg-Dの起源(関連記事)、「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係(関連記事)、天皇のY染色体ハプログループ(関連記事)と、共通する問題を扱っており似たような内容で、じっさい最初の記事以外は流用も多く手抜きでしたが、皇位継承候補者が減少して皇族の存続が危ぶまれ、女系天皇を認めるのか父系を維持するのか、との観点から現代日本社会では関心が比較的高いためか、天皇のYHgについて述べた2019年8月23日の記事には、その1ヶ月半後から最近まで度々コメントが寄せられています。

 2019年に掲載したYHgと日本人や皇族に関する複数の記事の内容は、その後のYHgに関する研究の進展を踏まえた現在の私見とかなり異なるので、正直なところ今でもコメントが寄せられるのには困っていました。そこで、ユーラシア東部における現生人類(Homo sapiens)の歴史とYHgについて現時点での私見をまとめて、上記の記事に関しては追記でこの記事へのリンクを張り、以後はコメントを受け付けないようにします。また、現生人類がユーラシア東部を経て拡散したと思われる太平洋諸島やオーストラリア大陸やアメリカ大陸についても言及します。なお、最近(2021年6月22日)、「アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性」と題して類似した内容のことを述べており(関連記事)、重複というか流用部分も少なからずあります。


●ユーラシア東部現代人の遺伝的構成

 ユーラシア東部への現生人類の初期の拡散は、とくにその年代について議論になっています。とくに、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカよりも古くなりそうな、7万年以上前となるユーラシア東部圏の現生人類の痕跡が議論になっており、そうした主張への疑問も強く呈されています(Hublin., 2021、関連記事)。仮に、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカが7万年前頃以降ならば、7万年以上前にアフリカからユーラシア東部に現生人類が拡散してきたとしても、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していない可能性が高そうです。それは、非アフリカ系現代人の主要な祖先とは遺伝的に異なる出アフリカ現生人類集団だけではなく、遺伝的に大きくは出アフリカ系現代人の範疇に収まる集団でも起きたことで、更新世のユーラシア東部に関しては、アジア東部の北方(Mao et al., 2021、関連記事)と南方(Wang T et al., 2021、関連記事)で、現代人に遺伝的影響をほぼ残していないと推測される集団が広く存在していた、と指摘されています。現生人類が世界規模で拡大し、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に代表される氷期には分断が珍しくない中で、更新世には遺伝的分化が進みやすく、また集団絶滅も珍しくなかったのだと思います。

 これは、スンダ大陸棚(アジア東部大陸部とインドネシア西部の大陸島)を含むアジア南東部本土とサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)との間の海洋島嶼地帯であるワラセア(ウォーレシア)に関しても当てはまります。ワラセアのスラウェシ島南部のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞で発見された完新世となる7300〜7200年前頃の女性遺骸(以下、LP個体)は、現代人では遺伝的影響が確認されていない集団を表している、と推測されています(Carlhoff et al., 2021、関連記事)。LP個体の遺伝的構成要素は二つの大きく異なる祖先系統(祖先系譜、ancestry)に由来しており、一方はオーストラリア先住民とパプア人が分岐した頃に両者の共通祖先から分岐し、もう一方はアジア東部祖先系統において基底部から分岐したかオンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されています。LP個体はユーラシア東部における現生人類の拡散を推測するうえで重要な手がかりになりそうですが、その前に、現時点で有力と思われるモデルを見ていく必要があります。

 アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang CC et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統は、まずユーラシア東部(EE)と西部(EW)に分岐します。その後、EE祖先系統は沿岸部(EEC)と内陸部(EEI)に分岐します。EEC祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人やオーストラリア先住民やパプア人、古代人ではアジア南東部の後期更新世〜完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。EEC祖先系統は、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素と言えるでしょう。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このEEI祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 このモデルを上述のLP個体に当てはめると、LP個体における二つの主要な遺伝的構成要素は、EEC 祖先系統(のうちオーストラリア先住民とパプア人の共通祖先系統)と、EEI祖先系統もしくは(EEC 祖先系統のうち)オンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されます。ここでまず問題となるのは、LP個体における一方の主要な遺伝的構成要素が、EEI祖先系統である可能性も、オンゲ人関連祖先系統である可能性もあることです。次に問題となるのは、Wang CC et al., 2021では、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素であるEEI祖先系統が、ユーラシア東部祖先系統においてEEI祖先系統と分岐したとモデル化されているのに対して、最近の別の研究では、出アフリカ現生人類集団がまずオーストラレーシア人とユーラシア東西の共通祖先集団とに分岐した、と推定されています(Choin et al., 2021、関連記事)。

 こうした非アフリカ系現代人におけるオーストラレーシア人の系統的位置づけの違いをどう解釈すべきか、もちろん現時点で私に妙案はありませんが、注目されるのは、遺伝学と考古学とを組み合わせて初期現生人類のアフリカからの拡散を検証した研究です(Vallini et al., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021では、パプア人の主要な遺伝的構成要素に関して、EE祖先系統内で早期にEEI祖先系統(というかアジア東部現代人の主要な祖先系統)と分岐した可能性と、EEとEWの共通祖先系統と分岐した祖先系統とアジア東部現代人の主要な祖先系統との45000〜37000年前頃の均等な混合として出現した可能性が同等である、と推測されています。以前は、オーストラレーシア人の主要な祖先系統である、EEおよびEWの共通祖先系統(EEW祖先系統)と分岐した祖先系統を「原オーストラレーシア祖先系統」と呼びましたが(関連記事)、今回は、ユーラシア南部(ES)祖先系統と呼びます。以下はVallini et al., 2021の図1です。
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 非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域の割合に大きな地域差がないことから、非アフリカ系現代人のネアンデルタール人的な遺伝的構成要素は単一の混合事象に由来し、その混合年代は6万〜5万年前頃と推定されています(Bergström et al., 2021、関連記事)。したがって、ES祖先系統はネアンデルタール人と混合した後の現生人類集団においてEEW祖先系統と分岐した、と考えられます。

 Vallini et al., 2021に従うと、ES祖先系統およびEEW祖先系統の共通祖先系統と分岐したのが、チェコ共和国のコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体(Prüfer et al., 2021、関連記事)に代表される集団の主要な祖先系統です(ズラティクン祖先系統)。ズラティクンも非アフリカ系現代人と同程度のネアンデルタール人からの遺伝的影響を受けており、出アフリカ現生人類集団とネアンデルタール人との混合後に、出アフリカ現生人類集団において早期に分岐した、と推測されます。

 出アフリカ現生人類集団において、ズラティクンに代表される集団が非アフリカ系現代人の共通祖先集団と遺伝的に分化する前に分岐したと考えられるのが、基底部ユーラシア人です。基底部ユーラシア人はネアンデルタール人からの遺伝的影響を殆ど若しくは全く有さない仮定的な(ゴースト)出アフリカ現生人類集団で、ユーラシア西部現代人に一定以上の遺伝的影響を残しています(Lazaridis et al., 2016、関連記事)。現時点で基底部ユーラシア人の遺伝的痕跡が確認されている最古の標本は、26000〜24000年前頃のコーカサスの人類遺骸と堆積物です(Gelabert et al., 2021、関連記事)。

 話をオーストラレーシア人の非アフリカ系現代人集団における遺伝的位置づけに戻すと、オーストラレーシア人の遺伝的構成要素がES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合に起因すると仮定すると、オーストラレーシア人の系統的位置づけが研究により異なることを上手く説明できるかもしれません。また、オーストラレーシア人でもオーストラリア先住民およびパプア人(以下、サフルランド集団)の共通祖先とアンダマン諸島人とでは、ES祖先系統とEE祖先系統との混合年代が異なるかもしれません。つまり、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団がサフルランド集団の共通祖先とアンダマン諸島人の祖先とに遺伝的に分化した後に、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団が、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするそれぞれの祖先集団と混合したのではないか、というわけです。Vallini et al., 2021に従うと、パプア人はES祖先系統とEE祖先系統の均等な混合としてモデル化されますが、アンダマン諸島人の混合割合は異なっているかもしれません。

 仮にこの想定が一定以上妥当ならば、LP個体もES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合により形成されたことになりそうです。LP個体で重要なのは、アジア東部からアジア南東部に新石器時代に拡散してきた農耕集団の主要な遺伝的構成要素(Yang et al., 2020)が、Wang CC et al., 2021に従うとEEIS祖先系統と考えられるのに対して、EEIS祖先系統と早期に分岐した未知のEE祖先系統が一方の主要な遺伝的構成要素と推定されていることです(Carlhoff et al., 2021)。LP個体の年代(7300〜7200年前頃)からも、農耕集団の主要な遺伝的構成要素であるEEISおよびEEIN祖先系統以外のEE祖先系統が、アジア南東部への農耕拡大前にオーストラレーシア人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と示唆されます。

 北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(Yang et al., 2017、関連記事)の主要な遺伝的構成要素が、Wang CC et al., 2021でもVallini et al., 2021でもEE(もしくはEEI)祖先系統であることから、ユーラシア東部系集団は4万年前頃までにはアジア東部北方にまで拡散したと考えられます。ユーラシア東部系集団がいつどのようにEW祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするオーストラレーシア人の一方の祖先集団(ユーラシア南部系集団)と遭遇して混合したのか不明ですが、ユーラシアを北回りで東進し、アジア東部に到達してから南下した可能性と、ユーラシアを南回りで東進してアジア南東部に到達してから北上した可能性と、アジア南西部もしくは南部で北回りと南回りに分岐した可能性が考えられます。その過程でユーラシア東部系集団(EE集団)は遺伝的に分化していき、ユーラシア南部系集団(ES集団)と混合したのでしょう。オーストラリア先住民とパプア人の遺伝的分化が40000〜25000年前頃と推定されているので(Malaspinas et al., 2016、関連記事)、ユーラシア東部系集団とサフルランド集団の祖先集団との混合はその頃までに起きた、と考えられます。この点からも、ユーラシア東部系集団が3万年以上前にアジア南東部というかスンダランドに存在した可能性は高そうです。

 ユーラシア東部圏やオセアニアの現代人および古代人集団は、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたと考えられますが、とくに注目されるのは、ユーラシア東部系もしくはアジア東部系集団で、現代人と掻器に分岐したと推定されている古代人集団です。具体的には、中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11510±255年前(Curnoe et al., 2012、関連記事)のホモ属頭蓋(隆林個体)と「縄文人(縄文文化関連個体群)」です。隆林個体(Wang T et al., 2021)と愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(Gakuhari et al., 2020、関連記事)はともに、アジア東部現代人の共通祖先集団と早期に分岐した集団を表している、と推測されています。おそらく両者とも、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により形成され、アジア東部現代人集団との近縁性から、アンダマン諸島人よりもEE祖先系統の割合が高いと考えられます。「縄文人」や隆林個体的集団のように、EE祖先系統とES祖先系統との単一事象ではなく複数回起きたかもしれない複雑な混合により形成された未知の遺伝的構成で、現代人への遺伝的影響は小さいか全くない古代人集団は少なくなかったと想定されます。

 隆林個体と地理的にも年代的にも近い(14310±340〜13590±160年前)の中華人民共和国雲南省の馬鹿洞(Maludong)で発見されたホモ属の大腿骨(馬鹿洞人)は、その祖先的特徴から非現生人類ホモ属である可能性が指摘されています(Curnoe et al., 2015、関連記事)。しかし、おそらく馬鹿洞人も隆林個体と同様に、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたのでしょう。隆林個体やオーストラリアの一部の更新世人類遺骸から推測すると、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団(ユーラシア南部集団)は、形態的にはかなり頑丈だった可能性があります。ただ、ユーラシア南部集団が出アフリカ現生人類集団の初期の形態をよく保っているとは限らず、新たな環境への適応と創始者効果の相乗による派生的形態の可能性もあるとは思います。この問題で示唆的なのは、オーストラリア先住民が、華奢なアジア東部起源の集団と頑丈なアジア南東部起源の集団との混合により形成された、との現生人類多地域進化説の想定です(Shreeve.,1996,P124-128)。多地域進化説は今ではほぼ否定されましたが(Scerri et al., 2019、関連記事)、碩学の提唱だけに、注目すべき指摘は少なくないかもしれません。

 Wang CC et al., 2021では、アジア東部現代人はおもにEEIN祖先系統とEEIS祖先系統の混合でモデル化され、前者は黄河流域新石器時代集団に、後者は長江流域新石器時代集団に代表される、と想定されています。中国の現代人はこの南北の遺伝的勾配を示し、北方で高いEEIN祖先系統の割合が南下するにつれて低下していく、と推測されています。また長江流域新石器時代集団だけではなく、黄河流域新石器時代集団にも少ないながら一定以上の割合でEEC祖先系統がある、とモデル化されています。「縄文人」はEEIS祖先系統(56%)とEEC祖先系統(44%)の混合としてモデル化され、青銅器時代西遼河地域集団でもEEC祖先系統がわずかながら示されています。

 EEC祖先系統がEE祖先系統とEW祖先系統の複雑な混合により形成されたとすると、Wang CC et al., 2021のEEC祖先系統は、オーストラレーシア人の祖先集団の遺伝的構成要素が混合と移動によりアジア東部北方までもたらされた、という想定とともに、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団となったユーラシア東部系集団と遺伝的に近縁な集団にも由来するか、あるいはその集団に排他的に由来する可能性も考えられます。そうだとすると、オーストラレーシア人関連祖先系統が南アメリカ大陸の一部先住民でも確認されていること(Castro et al., 2021、関連記事)と関連しているかもしれません。南アメリカ大陸の一部先住民のゲノムにおけるオーストラレーシア人関連祖先系統は、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団で、アジア東部現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないユーラシア東部系集団にその大半が由来する、というわけです。アメリカ大陸への人類の拡散については、最近の総説がたいへん有益です(Willerslev, and Meltzer., 2021、関連記事)。


●日本列島の人口史

 日本列島においてDNAが解析された最古の人類遺骸は2万年前頃の港川人(Mizuno et al., 2021、関連記事)ですが、これはミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析で、核DNAとなると、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980〜7460年前頃の男性となります(Adachi et al., 2021、関連記事)。日本列島における4万年前頃以前の人類の存在はまだ確定しておらず(野口., 2020、関連記事)、4万年前頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。この4万年前頃以降の日本列島の人類は、ほぼ間違いなく現生人類と考えられますが、4万〜8000年前頃の日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成は不明です。

 Vallini et al., 2021では、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするアジア東部の初期現生人類は初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とともに拡散してきた、と推測されています。IUPの定義およびその特徴は石刃製法で、最も広い意味での特徴は、硬質ハンマーによる打法、打面調整、固定された平坦な作業面もしくは半周作業面を半周させて石刃を打ち割ることで、平坦作業面をもつ石核はルヴァロワ(Levallois)式のそれに類似していますが、上部旧石器時代の立方体(容積的な)石核との関連が見られることは異なります(仲田., 2019、関連記事)。IUP的な石器群は、日本列島では最初期の現生人類の痕跡と考えられる37000年前頃の長野県の香坂山遺跡で見つかっていることから(国武., 2021、関連記事)、日本列島最初期の現生人類もEE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団だったかもしれません。一方、港川人の遺伝的構成は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の最初期現生人類集団とは異なっていた可能性があります。

 4万年前頃以降となる日本列島最初期の現生人類の遺伝的構成がどのようなものだったのか、そもそも日本列島、とくに「本土」における更新世人類遺骸がほとんどなく、今後の発見も期待薄なので解明は難しそうです。しかし、急速に発展しつつある洞窟堆積物のDNA解析(Vernot et al., 2021、関連記事)により、この問題が解決される可能性も期待されます。田園洞窟の4万年前頃の男性個体(田園個体)は、現代人にほぼ遺伝的影響を残していないと推測されていますが(Yang et al., 2017)、3万年以上前には沿岸地域近くも含めてアジア東部北方に広範に分布していた可能性が指摘されています(Mao et al., 2021)。したがって、日本列島の最初期現生人類が田園個体と類似した遺伝的構成の集団(田園洞集団)だった可能性は低くないように思います。また、港川人のmtDNAハプログループ(mtHg)が既知の古代人および現代人とは直接的につながっていないこと(Mizuno et al., 2021)からも、日本列島の最初期現生人類が現代人や「縄文人」とは遺伝的につながっていない可能性は低くないように思います。

 日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成が明らかになるのは縄文時代以降で、「縄文人」では複数の個体の核ゲノム解析結果が報告されています。上述のように、そのうち最古の個体は佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980〜7460年前頃の男性(Adachi et al., 2021)で、その他に、核ゲノム解析結果が報告された縄文人は、上述の愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の個体(Gakuhari et al., 2020)、北海道礼文島の3800〜3500年前頃の個体(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)、千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体(Wang CC et al., 2021)です。これら縄文人個体群は、既知の古代人および現代人との比較で遺伝的に一まとまりを形成し、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団であることを示唆しますが、これは形態学でも以前より指摘されていました(山田.,2015,P126-128、関連記事)。

 弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、これらの縄文人と遺伝的に一まとまりを形成します(神澤他., 2021A、関連記事)。中国と四国と近畿の縄文時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果を見なければ断定できませんが、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団である可能性はかなり高そうです。大友8号は、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、縄文文化とのみ関連していない可能性を示唆し、これは最近の査読前論文(Robbeets et al., 2021)の結果とも整合的です。Robbeets et al., 2021では、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9〜紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が、既知の縄文人(六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群)とほぼ同じと示されました。先史時代の先島諸島には、縄文文化の影響がほとんどないと言われています。

 さらに、縄文人的な遺伝的構成(縄文人祖先系統)は日本列島以外でも高い割合で見られます。朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の人類は、割合はさまざまですが、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団と縄文人との混合としてモデル化されます(Robbeets et al., 2021)。そのうち4000年前頃の欲知島(Yokchido)個体の遺伝的構成要素は、ほぼ縄文人祖先系統で占められています。また、大韓民国釜山市の加徳島の獐遺跡の6300年前頃の人類も縄文人祖先系統を有している、と示されています(関連記事)。これらの知見から、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、現地の環境への適応および/もしくは先住集団との混合により日本列島の縄文文化以外の文化の担い手になった、と考えられます。

 縄文人の形成過程が不明なので、朝鮮半島に縄文人祖先系統がどのようにもたらされたのか断定できませんが、その地理的関係からも、日本列島から朝鮮半島にもたらされた可能性が高そうです。考古学では、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになっており、人的交流もあったと考えられますが、この交流を過大評価すべきではない、とも指摘されています(山田.,2015,P129-133、関連記事)。日本列島の縄文時代において、日本列島から朝鮮半島だけではなく、その逆方向での人類集団の拡散もあったと考えられますが、現時点では縄文人にその遺伝的痕跡が検出されていません。しかし、核ゲノムデータが得られている西日本の縄文人は佐賀市東名貝塚遺跡の1個体だけですから、縄文時代の日本列島に朝鮮半島から紅山文化集団関連祖先系統がもたらされた可能性は低くないでしょう。ただ、弥生時代早期の西北九州の大友8号の事例からは、日本列島の縄文人において、紅山文化集団関連祖先系統など朝鮮半島由来のアジア東部大陸部祖先系統(Wang CC et al., 2021のEEIN祖先系統)が長期にわたって持続した可能性は低いように思います。もちろん、西日本の時空間的に広範囲にわたる人類遺骸の核ゲノム解析結果が蓄積されるまでは断定できませんが。

 弥生時代になると、日本列島の人類集団の遺伝的構成が大きく変わります。現代日本人は、縄文人祖先系統(8%)と青銅器時代遼河地域集団関連祖先系統(92%)の混合としてモデル化されています(Wang CC et al., 2021)。Robbeets et al., 2021では、現代日本人は遼河地域の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化されています。したがって、以前から指摘されているように、弥生時代以降に日本列島にはアジア東部大陸部から人類集団が移住してきて、現代日本人に大きな遺伝的影響を残した、と考えられます。

 ただ、これは「縄文人」から「(アジア東部大陸部起源の)弥生人」という単純な図式で説明できるものではなさそうです。まず、上述のように弥生時代早期の西北九州の大友8号は遺伝的に既知の縄文人の範疇に収まります(神澤他., 2021)。東北地方の弥生時代の男性も、核ゲノム解析では縄文人の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事)。弥生時代の人類でも「西北九州型」は形態的には縄文人に近いとされており、遺伝的には既知の縄文人の範疇に収まる大友8号も西北九州で発見されました。一方、弥生時代の「西北九州型」でも長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と縄文人との中間に位置付けられます(篠田他., 2019、関連記事)。

 縄文人との形態的類似性が指摘される「西北九州型弥生人」とは対照的に、アジア東部大陸部集団との形態的類似性が指摘される「渡来系弥生人」では、福岡県那珂川市の弥生時代中期となる安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)で核ゲノム解析結果が報告されており、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる、と示されています(篠田他., 2020、関連記事)。「渡来系弥生人」は、その形態から遺伝的には夏家店上層文化集団などアジア東部大陸部集団にきわめて近いと予想されていましたが、じっさいには現代日本人と酷似していました。また安徳台5号は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合が高いと推定されています(Robbeets et al., 2021)。同じく「渡来系弥生人」でも弥生時代中期となる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや低くなっています(Robbeets et al., 2021)。鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代中期〜後期の個体群は、縄文人祖先系統の割合に応じて、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる個体から、現代日本人よりもややアジア東部大陸部集団に近い個体までさまざまです(神澤他., 2021B、関連記事)。

 これら弥生時代の人類遺骸は形態に基づく分類の困難(関連記事)を改めて強調しており、それは上述の隆林個体(Wang T et al., 2021)でも示されています。このように、弥生時代の人類の遺伝的構成は、縄文人そのものから、現代日本人と縄文人との中間、現代日本人の範疇、現代日本人よりも低い割合の縄文人祖先系統までさまざまだったと示されます。さらに、アジア東部大陸部集団そのものの遺伝的構成の集団も存在したと考えられることから、弥生時代は日本列島の人類史において有数の遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 日本列島におけるこうした弥生時代の人類集団の形成に関して注目されるのが、2800〜2500年前頃の朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)です。Taejungni個体は、夏家店上層文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化され、現代日本人と遺伝的にかなり近いものの、縄文人祖先系統の割合は現代日本人よりもやや高めです(Robbeets et al., 2021)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が、アジア東部大陸部から日本列島に到来した夏家店上層文化集団的な遺伝的構成の集団と、日本列島在来の縄文人の子孫との混合により形成されたのではなく、朝鮮半島において紀元前千年紀前半にはすでに形成されていた可能性を示唆します。

 一方、上述の6000〜2000年前頃の朝鮮半島南端の縄文人祖先系統を高い割合で有する集団は、紅山文化集団関連祖先系統との混合を示しており、現代日本人への遺伝的影響は小さい可能性があります。また、6000〜2000年前頃の朝鮮半島南端の集団も、Taejungni個体に代表される朝鮮半島中部の集団も、現代朝鮮人への遺伝的影響は大きくなく、紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島の人類集団で大きな遺伝的変容が起きた可能性も考えられます。朝鮮半島の人類集団は5000年以上前から遺伝的構成がほとんど変わらず、弥生時代以降に日本列島に拡散して現代日本人の遺伝的構成に縄文人よりもはるかに大きな影響を残したので、日本人は朝鮮人の子孫であるといった言説が仮にあったとしても妥当ではないだろう、というわけです。

 夏家店上層文化集団関連祖先系統は、黄河流域新石器時代集団関連祖先系統よりも、アムール川地域集団関連祖先系統の割合の方が高い、とモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。アムール川地域集団の遺伝的構成は14000年前頃から現代まで長期にわたって安定している、と示されています(Mao et al., 2021)。また、アジア東部北方完新世集団の遺伝的構造は地理的関係を反映しており、アムール川と黄河流域が対極に位置し、遼河地域はその中間的性格を示し、この構造は前期完新世にまでさかのぼります(Ning et al., 2020、関連記事)。中国の現代人(おもに漢人)は、上述のように黄河流域新石器時代集団と長江流域新石器時代集団との地域によりさまざまな割合の混合の結果成立しましたから、現代漢人と現代日本人との遺伝的相違は、縄文人祖先系統の割合とともに、少なくとも前期完新世にまでさかのぼる遺伝的分化に起因する可能性が高そうです。また黄河流域新石器時代集団は、稲作の北上とともに長江流域新石器時代集団の遺伝的影響も受けていると推測されているので(Ning et al., 2020)、現代日本人は間接的に長江流域新石器時代集団から遺伝的影響(黄河流域新石器時代集団よりも低い割合で)と文化的影響を受けていると考えられます。以下、アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体・集団の遺伝的構成を示したRobbeets et al., 2021の図3です。
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 注目されるのは、Taejungni個体も「渡来系弥生人」の一部も、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや高いことです。さらに、高松市茶臼山古墳の古墳時代前期個体(茶臼山3号)は、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021C、関連記事)。出雲市猪目洞窟遺跡の紀元後6〜7世紀の個体(猪目3-2-1号)と紀元後8〜9世紀の個体(猪目3-2-2号)も、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021D、関連記事)。

 これらの知見は、本州の沿岸地域となる「周辺部」と「中央軸」地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との遺伝的違い(日本列島の内部二重構造モデル)を反映しているかもしれません(Jinam et al., 2021、関連記事)。「中央軸」地域は歴史的に日本列島における文化と政治の中心で、アジア東部大陸部から多くの移民を惹きつけたのではないか、というわけです。都道府県単位の日本人の遺伝的構造を調べた研究では、この「中央軸」地域に位置する奈良県の人々が、現代漢人と遺伝的に最も近い、と示されています(Watanabe et al., 2020、関連記事)。朝鮮半島において紀元前千年紀後半以降に、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合をずっと低下させ、遺伝的構成を大きく変えるようなアジア東部大陸部からの人類集団の流入があり、そうした集団が古墳時代以降に継続的に日本列島に渡来し、現代日本人の遺伝的構造の地域差が形成された、と考えられます。また、この推測が一定以上だとすると、現代日本人における縄文時代末に日本列島に存在した「縄文人」の遺伝的影響は、現在の推定値である9.7%(Adachi et al., 2021)よりもずっと低いかもしれません。


●Y染色体ハプログループ

 冒頭で述べたように、現代日本社会ではY染色体ハプログループ(YHg)への関心が高いようです。現代日本社会でとくに注目されているのは、世界では比較的珍しいものの日本では一般的なYHg-Dでしょう。これが日本人の特異性と結びつけられ、縄文人で見つかっていることから(現時点では、縄文人もしくは縄文人的な遺伝的構成の日本列島の古代人のYHgはDしか確認されていないと思います)、縄文人以来、さらに言えば人類が日本列島に到来した時から続いているのではないか、というわけです。注目されているようです。確かに、縄文人は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、との見解も提示されています(Gakuhari et al., 2020)。

 しかし、上述のように日本列島の最初期の現生人類集団が田園洞集団的な遺伝的構成だったとすると、縄文人にも現代人にも遺伝的影響をほぼ残さず絶滅したことになり、その可能性は低くないように思います。人類史において、完新世よりも気候が不安定だった更新世には集団の絶滅・置換は珍しくなく、それは非現生人類ホモ属だけではなく現生人類も同様でしたから、日本列島だけ例外だったとは断定できないでしょう(関連記事)。仮にそうだとしたら、YHg-D1a2aは日本人固有で、日本列島には4万年前頃から現生人類が存在したのだから、Yfullで18000〜15000年前頃と推定されているYHg-D1a2a1(Z1622)とD1a2a2(Z1519)の分岐は日本列島で起きたに違いない、との前提は成立しません。

 この推測には古代DNAデータの間接的証拠もあります。カザフスタン南部で発見された紀元後236〜331年頃の1個体(KNT004)は、日本列島固有とされ、縄文人でも確認されているYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される祖先系統(アムール川地域集団関連祖先系統)の割合が高く、アムール川地域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)はYHg-DEです(Mao et al., 2021)。アムール川地域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。これを、日本列島から「縄文人」が拡散した結果と解釈できないわけではありませんが、ユーラシア東部大陸部にも更新世から紀元後までYHg-Dが低頻度ながら広く分布しており、YHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐は日本列島ではなくユーラシア東部大陸部で起きた、と考える方が節約的であるように思います。

 上述の現代日本人の形成過程の推測と合わせて考えると、現代日本人のYHg-D1a2には、縄文人由来の系統も、縄文人が朝鮮半島に拡散して弥生時代以降に「逆流」した系統も、アムール川地域などアジア東部北方に低頻度ながら存在し、青銅器時代以降に朝鮮半島を経て日本列島に到来した系統もありそうで、単純に全てを縄文人由来と断定することはできないように思います。その意味で、仮に皇族のYHgが現代日本人の一部?で言われるようにD1a2a1だったとしても、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性は低くないように思います。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった4415〜4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。上述のように、ホアビン文化集団はユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測され、それは縄文人や隆林個体に代表される古代人集団やアンダマン諸島現代人も同様だったでしょう。縄文人やアンダマン諸島現代人のオンゲ人においてYHg-D1a2がとくに高頻度で、アジア東部北方の古代人でほとんど見つかっていないことから、YHg-Dはユーラシア南部系集団に排他的に由来する、とも考えられます。しかし、同じくユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測されるサフルランド集団ではYHg-Dが見つかりません。

 YHg-Dは分岐が早い系統なので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在し、創始者効果や特定の父系一族が有力な地位を独占するなどといった要因により、大半の集団ではYHg-Dが消滅し、一部の集団では高頻度で残っている、と考えるのが最も節約的なように思います。おそらくサフルランド集団の祖先集団にもYHg-Dは存在し、ユーラシア東部系集団との混合などにより消滅したのでしょう。YHgは置換が起きやすいので(Petr et al., 2021、関連記事)、現代の分布と地域および集団の頻度から過去の人類集団の移動を推測するのには慎重であるべきと思います。

 チベット人ではYHg-D1a1が多く、Wang CC et al., 2021ではチベット人はずっと高い割合のEEIN祖先系統とずっと低い割合のEEC祖先系統との混合とモデル化されています。おそらく、チベット人の祖先となったユーラシア南部系集団は、縄文人、さらには現代日本人の祖先となったユーラシア南部系集団とは遺伝的にかなり分岐しており、YHg-D1a共有を根拠に現代の日本人とチベット人との近縁性を主張するのには無理があるでしょう。Wang CC et al., 2021では、現代の日本人もチベット人もEEIN祖先系統の割合が高くなっていますが、日本人は青銅器時代遼河地域集団、チベット人は黄河地域新石器時代集団と近いとされているので、この点でも、現代の日本人とチベット人との近縁性を強調することには疑問が残ります。

 YHgでも非アフリカ系現代人で主流となっているK2は分岐がYHg-Dよりも遅いので、ユーラシア南部系集団には存在しなかったかもしれません。Vallini et al., 2021では、4万年前頃の北京近郊の田園個体はユーラシア東部系集団に位置づけられ、そのYHgはK2bです(高畑., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021で同じくユーラシア東部系集団ながら基底部近くで分岐したと位置づけられる、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃(Bard et al., 2020、関連記事)となる男性(Fu et al., 2014、関連記事)はYHg-NOです(Wong et al., 2017)。古代DNAデータでも、YHg-K2がユーラシア東部系集団に存在したと確認されます。

 YHg-CはYHg-Dに次いで分岐が早いので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在した可能性が高そうです。チェコ共和国のバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640〜42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響はほとんどない、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。この4万年以上前となるバチョキロ洞窟個体群ではYHg-F(M89)の基底部系統とYHg-C1(F3393)が確認されており、ユーラシア東部系集団には、YHg-CとYHg-K2も含めてYHg-Fが存在したと考えられます。Vallini et al., 2021ではこのバチョキロ洞窟個体群はユーラシア東部系集団に位置づけられ、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)の祖先集団と遺伝的にきわめて近縁とされます。「Oase 1」のYHgはFで(高畑., 2021)、ユーラシア東部系集団におけるYHg-Fの存在のさらなる証拠となります。

 サフルランド集団のYHgはK2(から派生したS1a1a1など)とC1b2が多くなっており、YHg-C1b2はユーラシア南部系集団に存在したかもしれませんが、YHg-K2はユーラシア東部系集団との混合によりもたらされたかもしれません。それにより、サフルランド集団の祖先集団には存在したYHg-Dが消滅した可能性も考えられます。もちろん、YHgについて述べてきたこれらの推測は、YHgの下位区分の詳細な分析と現代人の大規模な調査とさらなる古代人のデータの蓄積により、今後的外れと明らかになる可能性は低くないかもしれませんが、とりあえず現時点での推測を述べてみました。


●まとめ

 以上、現時点での私見を述べてきましたが、今後の研究の進展によりかなりのところ否定される可能性は低くないでしょう。それでも、一度情報を整理することで理解が進んだところもあり、やってよかったとは思います。まあ、自己満足というか、他の人には、よく整理されていないので分かりにくいと思えるでしょうから、役に立たないとき思いますが。今回は、出アフリカ現生人類集団が単純に東西の各集団(ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団)に分岐したのではなく、両者の共通祖先と分岐したユーラシア南部系集団という集団を仮定すると、パプア人の位置づけに関する違いも理解しやすくなるのではないか、と考えてみました。

 この推測がどこまで妥当なのか、まったく自信はありませんが、仮にある程度妥当だとしても、まだ過度に単純化していることは確かなのでしょう。現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)デニソワ人との間の関係さえかなり複雑と推測されていますから(Hubisz et al., 2021、関連記事)、生人類同士の関係はそれ以上に複雑で、単純な系統樹で的確に表せるものではないのでしょう。ただ、上述のように完新世よりも気候が不安定だった更新世において、現生人類の拡散過程で遺伝的分化が進んだこともあり、系統樹での理解が有用であることも否定できないとは思います。その意味で、出アフリカ現生人類集団からユーラシア南部系集団が分岐した後で、ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団が共通祖先集団から分岐した、との想定も一定以上有効だろう、と考えています。また今回は、考古学の知見を都合よくつまみ食いしただけなので、考古学の知見とより整合的な現生人類の拡散史を調べることが今後の課題となります。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science, 129, 1, 13–22.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132

https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html

27. 中川隆[-16257] koaQ7Jey 2021年9月20日 13:17:45 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[18] 報告
雑記帳
2021年09月19日
縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html


 縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータを報告した研究(Cooke et al., 2021)が報道されました。日本列島には、少なくとも過去38000年間ヒトが居住してきました。しかし、その最も劇的な文化的変化は過去3000年以内にのみ起き、その間に住民は急速に狩猟採集から広範な稲作、さらには技術的に発展した「帝国」へと移行しました。これらの急速な変化は、ユーラシア大陸部からの地理的孤立とともに、アジアにおける農耕拡大と経済強化に伴う移動パターンを研究するうえで、日本を独特な縮図としています。

 農耕文化の到来前には、日本列島には土器により特徴づけられる縄文文化に区分される、多様な狩猟採集民集団が居住していました。縄文時代は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に続く最古ドリアス期に始まり、最初の土器破片は16500年前頃までさかのぼり、世界でも最古級の土器使用者となります。縄文時代の生存戦略は多様で、人口密度は時空間により変動し、定住への傾向がありました。縄文文化は3000年前頃となる弥生時代の始まりまで続き、その頃となる水田稲作の到来により日本列島に農耕革命がもたらされました。弥生時代の後には古墳時代が1700年前頃に始まり、政治的中央集権化と帝国の統治が出現し、日本を定義するようになりました。

 日本列島の現代の人口集団の起源に関する長く提唱されてきた仮説では二重構造モデルが提案されており、日本人集団は先住の「縄文人」と後に弥生時代になってユーラシア東部本土から到来した人々との混合子孫である、と想定されました。この二重構造モデル仮説は、もともとは形態学的データに基づいて提案されましたが、学際的に広く検証され評価されてきました。遺伝学的研究により、現代日本人集団内の人口層別化が特定されており、日本列島への少なくとも2回の移住の波が裏づけられます(関連記事)。

 以前の古代DNA研究も、現代日本人集団への「縄文人」と「弥生人」の遺伝的類似性を示してきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。それでも、農耕への移行とその後の国家形成段階の人口統計学的起源および影響はほとんど知られていません。歴史言語学的観点からは、日本語祖語(日琉祖語)の到来は弥生文化の発展および水田稲作の拡大と対応している、と理論化されています。しかし、弥生時代と古墳時代では考古学的文脈および大陸との関係が異なっており、知識や技術の拡大には大きな遺伝的交換が伴っていたのかどうか、不明なままです。

 本論文は、日本列島の先史時代から原始時代(先史時代と歴史時代の中間で、断片的な文献が残っている時代)までの8000年にわたる古代人12個体の新たに配列されたゲノムを報告します(図1)。本論文が把握している限りでは、これは日本列島の年代の得られた古代人ゲノムの最大のセットとなり、最古の縄文時代個体と古墳時代の最初のゲノムデータが含まれます。また既知の先史時代日本列島の古代人のゲノムも分析に含められました。具体的には、縄文時代後期の北海道礼文島(関連記事)の2個体(F5とF23)、愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された縄文時代晩期の1個体(IK002)、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡(関連記事)の弥生文化と関連する2個体です。以下は本論文の図1です。
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 下本山岩陰遺跡の2個体の骨格は、「移民型」よりもむしろ「縄文人的」な特徴を示しますが、他の考古学的資料は弥生文化との関連を明確に裏づけます。この形態学的評価にも関わらず、下本山岩陰遺跡の2個体は「縄文人」と比較して現代日本人集団との遺伝的類似性の増加を示しており、大陸部集団との混合が弥生時代後期にはすでに進展していたことを示唆します。これら日本列島古代人のゲノムは、草原地帯中央部(関連記事)および東部(関連記事)やシベリア(関連記事)やアジア南東部(関連記事)やアジア東部(関連記事1および関連記事2)にまたがるより大規模なデータセットと統合され、縄文時代の先農耕人口集団と、日本列島現代人の遺伝的特性を形成してきたその後の移民との混合をよりよく特徴づけることが、本論文の目的です。


●先史時代および原始時代の日本列島の古代人ゲノムの時系列

 本論文は、6ヶ所の遺跡で発掘された14個体のうち、新たに配列に成功した12個体のゲノムデータを報告します。平均網羅率は0.88〜7.51倍です。6ヶ所の遺跡は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚および岡山県倉敷市の船倉貝塚、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚、縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期となる石川県金沢市の岩出横穴墓です。12個体のうち9個体は縄文文化と関連しており、内訳は、上黒岩岩陰遺跡が1個体(JpKa6904)、小竹貝塚が4個体(JpOd274とJpOd6とJpOd181とJpOd282)、船倉貝塚が1個体(JpFu1)、古作貝塚が2個体(JpKo2とJpKo13)、平城貝塚が1個体(JpHi01)です。残りの3個体は古墳時代末期となる岩出横穴墓で発見されています(JpIw32とJpIw31とJpIw33)。これら12個体で親族関係は確認されませんでした。

 縄文時代の9個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はすべてN9bかM7a系統で、両者は縄文時代集団と強く関連しており、現代では日本列島外では稀です。縄文時代の9個体のうち3個体は男性で、そのY染色体ハプログループ(YHg)はすべてD1b1(現在の分類名はD1a2a1だと思いますので、以下D1a2a1で統一します)で、現代日本人には存在しますが、他のアジア東部現代人にはほぼ見られません。対照的に、古墳時代の3個体のmtHgはアジア東部現代人と共通しています(B5a2a1bとD5c1aとM7b1a1a1)。そのうち1個体は男性で、YHgはO3a2c(現在の分類名はO2a2bだと思いますので、以下O2a2bで統一します)で、これはアジア東部全域、とくに中国本土で見られます。

 本論文のデータをユーラシア東部の人口統計のより広い文脈に位置づけるため、日本列島古代人のゲノムが既知の古代人および現代人のデータと組み合わされました。本論文では、現代日本人集団はSGDP(Simons Genome Diversity Project)もしくは1000人ゲノム計画3期のデータであらわされます。ただ要注意なのは、現代の日本列島全体では祖先からの異質性が存在しており、この標準的な参照セットでは充分には把握できないことです。本論文で分析された他の古代および現代の人口集団は、おもに地理的もしくは文化的文脈のいずれかで分類されています。


●異なる文化期間の遺伝的区別

 f3統計(個体1、個体2;ムブティ人)を用いて、古代と現代両方の日本列島の人口集団の個体の全てのペアワイズ比較間で共有される遺伝的浮動を調べることで、時系列内の遺伝的多様性が調べられました(図2A)。その結果、縄文時代と弥生時代と古墳時代の異なる3個体群のまとまりが明確に定義され、古墳時代個体群は現代日本人とまとまり、文化的変化には遺伝的変化が伴う、と示唆されます。縄文時代データセットにおける大きな時空間的変異にも関わらず、ひじょうに高水準の共有された浮動が12個体全ての間で観察されます。弥生時代2個体は相互に他の個体と最も密接に関連しており、古墳時代の3個体とよりも縄文時代の個体群の方と高い類似性を有しています。古墳時代と現代の日本列島の個体群は、この測定では相互にほぼ区別ができず、過去1400年間のある程度の遺伝的継続性が示唆されます。

 さらに主成分分析を用いて、大陸部人口集団に対する日本列島古代人のゲノム規模常染色体類似性が調べられました。古代人が、アジア南部と中央部と南東部と東部のSGDPデータセットの、現代の人口集団の遺伝的変異に投影されました(図2B)。その結果、日本列島古代人はPC1軸に沿って各文化名称に分離する、と観察されます。全ての縄文時代個体は密集しており、他の古代人口集団やアジア南東部および東部現代人とは離れて位置し、持続した地理的孤立が示唆されます。弥生時代の2個体はこの縄文人クラスタの近くに現れ、以前に報告された遺伝的および地理的類似性を裏づけます(関連記事)。しかし、この弥生時代の2個体はアジア東部人口集団の方へと動いており、弥生時代2個体における追加のユーラシア大陸部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の存在が示唆されます。ユーラシア東部の古代人はPC2軸に沿って南から北への地理的勾配を示します。それは、中国南部→黄河→中国北部→西遼河→悪魔の門→アムール川→バイカル湖です。古墳時代の3個体は黄河クラスタの多様性内に収まります。

 ヒト起源配列(Human Origins Array)データセットでのADMIXTURE分析も、縄文時代末以後の日本列島への大陸部からの遺伝子流動の増加を裏づけます(図2C)。縄文時代個体群は異なる祖先的構成要素(図2Cの赤色)を示し、これは弥生時代2個体でも高水準で見られ、古墳時代の3個体と現代日本人では低水準のままです。弥生時代の2個体には新たな祖先的構成要素が現れ、アムール川流域やその周辺地域で見られる特性と類似した割合です。これらには、アジア北東部現代人で支配的なより大きな構成要素(図2Cの水色)と、ずっと広範なアジア東部現代人祖先系統を表すより小さな構成要素(図2Cの黄色)が含まれます。このアジア東部人構成要素は、古墳時代と現代の日本列島の人口集団で支配的になります。以下は本論文の図2です。
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●地理的孤立による縄文人系統の深い分岐

 「縄文人」の他の人口集団からの分離は、以前の研究で提案されているように、ユーラシア東部人の間で「縄文人」が異なる系統を形成する、という見解を裏づけます(関連記事)。この分岐の深さを調べるため、TreeMixを用いて他の古代人および現代人17人口集団と「縄文人」の系統発生関係が再構築されました(図3A)。その結果、「縄文人」の分岐は、上部旧石器時代ユーラシア東部人、具体的には北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)およびモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(関連記事)と、アジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)個体の早期の分岐後ではあるものの、アジア東部現代人や、3150〜2400年前頃となるのチョクホパニ(Chokhopani)のネパール古代人や、バイカルの狩猟採集民(前期新石器時代)や、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Chertovy Vorota Cave)個体(関連記事)や、末期更新世アラスカの幼児個体USR1(関連記事)を含む他の標本の分岐前と推測されます。

 さらに、f4統計(ムブティ人、X;ホアビン文化個体/悪魔の門新石器時代個体、縄文人)を用いての対称性モデル検定により、この系統樹の他の深く分岐した狩猟採集民2系統間の「縄文人」の位置が確証されました。これらの結果から示されるのは、縄文時代開始以降の本論文のデータセットにおける全てのアジア東部個体は、より早期に分岐したホアビン文化個体よりも「縄文人」の方と高い類似性を有するものの、悪魔の門新石器時代個体との比較ではより低い類似性を有している、ということです。これは、以前に提案された「縄文人」をホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりもむしろ、ユーラシア東部の異なる狩猟採集民3系統の推定される系統発生を裏づけます。また、検証された全ての移住モデルにわたって、「縄文人」から現代日本人への遺伝子流動が一貫して推定され、8.9〜11.5%の範囲の遺伝的寄与を伴います。これは、本論文のADMIXTURE分析(図2C)から推定された現代日本人の平均的な「縄文人」構成要素9.31%と一致します。これらの結果は、縄文人の深い分岐と現代日本人集団への祖先的つながりを示唆します。

 集団遺伝学モデル化を適用して、「縄文人」系統の出現年代が推定されました。本論文の手法は、ROH(runs of homozygosity)のゲノム規模パターンを用いて、最古にして最良の標本であるJpKa6904で観察されたROH連続体に最も適合するシナリオを特定します。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 8800年前頃となる縄文時代個体JpKa6904は高水準のROHを有しており、とくに短いROH(最近の近親交配よりもむしろ人口の影響に起因します)の頻度はこれまで報告された中で(関連記事)最高です(図3B)。このパターンは、縄文時代個体群で共有される強い遺伝的浮動と相まって、縄文時代人口集団が深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示唆します。人口規模と分岐年代のパラメータ空間検索では、縄文人系統は20000〜15000年前頃に出現したと推定され、その後は少なくとも縄文時代早期まで、1000人程度のひじょうに小さな人口規模が維持されました(図3C)。これはLGM末における海面上昇および大陸部からの陸橋の切断と一致しており、日本列島における縄文土器の最初の出現の直前です。

 次にf4統計(ムブティ人、X;縄文人、漢人/傣人/日本人)を用いて、「縄文人」がユーラシア大陸部の上部旧石器時代の人々と、分岐した後から日本列島において孤立する前に接触したのかどうか、検証されました。検証対象の上部旧石器時代個体のうち、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体のみが漢人や傣(Dai)人や日本人よりも「縄文人」と有意に密接です。この類似性は、これら参照人口集団を他のアジア南東部および東部人と置き換えても依然として検出可能で、「縄文人」と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流動を裏づけます。ヤナRHS個体も含まれる古代北シベリア人は、LGM前にユーラシア北部に広範に存在した人口集団です(関連記事)。

 最後に、縄文時代人口集団内の時空間的な変動の可能性が調べられました。縄文時代の早期と前期と中期・後期・晩期で定義される3つの時代区分集団は、古代および現代のユーラシア大陸部人口集団と類似の水準の共有された遺伝的浮動を示し、これら3時代区分における日本列島外からの遺伝的影響はわずか若しくはなかった、と示唆されます(図3D)。このパターンは、f4統計(ムブティ人、X;縄文人i、の縄文人j)で観察される、有意な遺伝子流動の不在によりさらに裏づけられます。縄文人iと縄文人jは、縄文時代の3時代区分集団の任意の組み合わせです。これら「縄文人」は同様に、地理により区分されたさいに(本州と四国と礼文島)、大陸部人口集団との遺伝的類似性において多様性を示しません。「縄文人」内で唯一観察される違いは、本州の遺跡群間のわずかに高い違いで、本州と他の島々との間の限定的な遺伝子流動を伴う島嶼効果を示唆します。全体的にこれらの結果は、縄文時代人口集団内の限定的な時空間にわたる遺伝的変異を示しており、アジアの他地域からの数千年にわたるほぼ完全な孤立との見解を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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●弥生時代における水田稲作の拡散

 弥生文化と関連する西北九州の2個体(図1)は、「縄文人」とユーラシア大陸部両方の祖先系統を有する、と明らかになりました(図2)。本論文のqpAdm分析は、「弥生人」が「縄文人」の混合していない子孫である、とのモデルを却下します。これは、この西北九州の弥生時代2個体を「縄文人」系統の一部に分類した以前の形態学的評価とは対照的です。西北九州の弥生時代2個体における非「縄文人」の祖先的構成要素は、日本列島に稲作を導入した人々によりもたらされた可能性があります。まずf4統計(ムブティ人、X;縄文人、弥生人)を用いて、あらゆる古代のユーラシア東部人口集団が「縄文人」よりも「弥生人」の方と高い遺伝的類似性を有するのか、検証されました(図4A)。その結果、黄河流域人口集団も含めてユーラシア大陸部の標本抽出された古代の人口集団のほとんどは、「弥生人」との有意な遺伝的類似性を示しません。黄河流域では稲作農耕が長江下流域からまず拡大しました。長江流域はジャポニカ米の起源地と仮定されています。

 しかし、「弥生人」との過剰な類似性は稲作と文化的関連を有さない人口集団で検出されました。それは中国北東部の西遼河流域の青銅器時代個体(WLR_BA_o)とハミンマンガ(Haminmangha)の中期新石器時代個体、バイカル湖のロコモティヴ(Lokomotive)前期新石器時代個体とシャマンカ(Shamanka)の前期新石器時代個体とウスチベラヤ(UstBelaya)前期青銅器時代個体、シベリア北東部のエクヴェン(Ekven)鉄器時代個体です。この類似性は、他の青銅器時代西遼河個体(WLR_BA_o)と同じ遺跡で発見された別の2個体(WLR_BA)では観察されませんでした。以前の研究でも、WLR_BA_oとWLR_BAでは系統構成要素に大きな違いが観察されていました(関連記事)。この2個体はWLR_BA_o(1.8±9.1%)よりもずっと高い黄河関連祖先系統(81.4±6.7%)を有しており、検証された古代黄河流域人口集団が「弥生人」の有していた非「縄文人」祖先系統の主要な供給源になった可能性は低そうです。

 ユーラシア大陸部祖先系統の6つの可能性がある供給源をさらに区別するため、次にqpWaveを用いて「弥生人」が「縄文人」と各候補供給源の2方向混合としてモデル化されました。混合モデルはこれらのうち3つで確実に裏づけられます。つまり、バイカル湖の狩猟採集民と西遼河中期新石器時代もしくは青銅器時代個体で、高水準のアムール川地域祖先系統を有します。これらの集団はすべて、支配的なアジア北東部祖先的構成要素を共有しています(図2C)。これら各3集団を第二供給源として用いると、qpAdmではそれぞれ55.0±10.1%、50.6±8.8%、58.4±7.6%の「縄文人」の混合率が推定され、西遼河中期新石器時代および青銅器時代個体を単一の供給源人口集団に統合すると、「縄文人」の混合率は61.3±7.4%となります。

 さらにf4統計(ムブティ人、縄文人;弥生人1、弥生人2)により、「縄文人」祖先系統は「弥生人」2個体間で同等と確認されます。これらの結果は、在来の狩猟採集民と移民の西北九州の弥生時代共同体への寄与がほぼ同等の比率であることを示唆します。この同等性はユーラシア西部の農耕移民と比較した場合とくに注目に値し、ユーラシア西部では最小限の狩猟採集民からの寄与が多くの地域で観察されており、その中にはユーラシアの島嶼地理的極限として日本列島を反映している、ブリテン諸島やアイルランドも含まれます(関連記事1および関連記事2)。本論文の混合モデルで用いられた西遼河人口集団は自身では稲作農耕を行なっていませんでしたが、日本列島への農耕拡大の仮定的な経路のすぐ北方に位置しており、本論文の結果はそれを裏づけます。これは、中国北東部の山東半島から遼東半島(朝鮮半島北西部)へと続き、その後で朝鮮半島を経由して日本列島へと到達しました。

 弥生文化が日本列島へどのように拡大したのか、外群f3統計を用いてさらに調べられ、「弥生人」と各「縄文人」との間の遺伝的類似性が測定されました。その結果、共有された遺伝的浮動の強さが「弥生人」の位置からの距離と有意に相関している、と明らかになりました(図4C)。つまり、縄文時代の遺跡が弥生時代の遺跡に近いほど、その遺跡の「縄文人」は「弥生人」とより多くの遺伝的浮動を共有します。この結果は朝鮮半島経由の稲作の導入と、その後の日本列島南部における在来の「縄文人」集団との混合を裏づけます。以下は本論文の図4です。
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●古墳時代の移民の遺伝的祖先系統

 歴史的記録は、古墳時代におけるユーラシア大陸部から日本列島への継続的な人口集団の移動を強く裏づけます。しかし、古墳時代3個体のqpWaveモデル化は、「弥生人」と適合する「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統の2方向混合を却下します。したがって、以前の形態学的研究と同じく、本論文のf3外群統計や主成分分析やADMIXTUREクラスタで裏づけられるように、「古墳人」はその祖先的構成要素の観点では遺伝的に「弥生人」と異なっています。古墳時代個体群の遺伝的構成に寄与した追加の祖先的集団を特定するため、f4統計(ムブティ人、X;弥生人、古墳人)を用いて「古墳人」と各ユーラシア大陸部人口集団との間の遺伝的類似性が検証されました(図5A)。その結果、本論文のデータセットにおける古代もしくは現代の人口集団のほとんどは、「弥生人」よりも「古墳人」の方と有意に密接と明らかになりました。この知見は、弥生時代標本と古墳時代標本のゲノムを分離する6世紀間に日本列島へ追加の移住があったことを示唆します。

 「弥生人」と、「古墳人」に有意により近いと本論文のf4統計から特定された人口集団との間の2方向混合の検証により、この移住の起源を絞り込むことが試みられました。この混合モデルは検証された59人口集団のうち5人口集団でのみ、P>0.05と確実に裏づけられました。次にqpAdmを適用して「弥生人」と各起源集団からの遺伝的寄与が定量化されました。2方向混合モデルは、さまざまな参照セットからの裏づけを欠いていたので、追加の2人口集団においてその後で却下されました。残りの3人口集団(漢人と朝鮮人と黄河後期青銅器時代・鉄器時代集団)は「古墳人」への20〜30%の寄与を示します。これら3集団はすべて強い遺伝的浮動を共有しており、そのADMIXTURE特性では広くアジア東部祖先系統の主要な構成要素で特徴づけられます。

 「古墳人」における追加の祖先系統の起源をさらに選抜するため、「弥生人」祖先系統を「縄文人」およびアジア北東部人祖先系統と置換することにより、3方向混合が検証されました。その結果、漢人のみが祖先系統の供給源としてモデル化に成功し(図5B)、あらゆるあり得る2方向混合モデルよりも3方向混合が大幅によく適合します。「弥生人」と「古墳人」との間で「縄文人」祖先系統が約4倍に「希釈」されていることを考えると、これらの結果から、国家形成段階でアジア東部人祖先系統を有する移民が大規模に流入した、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
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 次に、弥生時代と古墳時代の両方で観察されたユーラシア大陸部祖先系統が、アジア北東部とアジア東部の祖先系統の中間水準を有する同じ供給源に由来する可能性について調べられました。「古墳人」の2方向混合により適合すると明らかになった唯一の候補は、黄河流域の後期青銅器時代および鉄器時代個体群(YR_LBIA)でしたが、これは参照セット全体では一貫していませんでした。「縄文人」を除いて「弥生人」との統計的に有意な遺伝子流動を示さない(図4A)にも関わらず、YR_LBIAと「縄文人」との間の2方向混合モデルも「弥生人」に適合する、と明らかになりました。この黄河流域人口集団は、qpAdmにより推定されるように、アジア北東部祖先系統を約40%、アジア東部祖先系統を約60%(つまり漢人)有する中間的な遺伝的特性を有しています。したがって、これは特定のモデルで「弥生人」と「古墳人」の両方に適合する中間の遺伝的特性で、「弥生人」では37.4±1.9%、「古墳人では」87.5±0.8%の流入となります。これらの結果は、単一の供給源からの継続的な遺伝子流動が、「弥生人」と「古墳人」との間の遺伝的変化の説明に充分である可能性を示唆します。

 しかし、より広範な分析では、遺伝子流動の単一の供給源は移住の2回の異なる波よりも可能性が低そうである、と強く示唆されます。まず、ADMIXTUREで特定されたアジア東部祖先系統へのアジア北東部祖先系統の割合は、「弥生人(1.9:1)」と「古墳人(1:2.5)」との間で際立って異なっていました(図2C)。次に、ユーラシア大陸部の類似性におけるこの対比は、f統計のさまざまな形態でも観察され、「弥生人」がアジア北東部祖先系統との有意な類似性を有する、というパターンが繰り返されるのに対して、「古墳人」は漢人や黄河流域古代人口集団を含む他のアジア東部人とは緊密なまとまりを形成します(図5A)。

 最後に、DATESにより「古墳人」における混合年代から2つの波のモデルへの裏づけが見つかります。中間的な人口集団(つまり、YR_LBIA)との単一の混合事象は、1840±213年前頃に起きたと推定され、これは3000年前頃となる弥生時代の開始のずっと後になります。対照的に、2つの異なる供給源との2回の別々の混合事象が想定されるならば、結果の推定値は弥生時代および古墳時代のそれぞれの開始年代と一致する年代に適合し、「弥生人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合は3448±825年前、「古墳人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されます。これらの遺伝学的知見は、弥生時代と古墳時代におけるユーラシア大陸部からの新たな人々の到来を記録する、考古学的証拠および歴史的記録の両方によりさらに裏づけられます。


●現代日本人における「古墳人」の遺伝的影響

 本論文で検証対象となった古墳時代の3個体は、遺伝的に現代日本人と類似しています(図2)。これは、古墳時代以降日本列島(の本州・四国・九州を中心とする「本土」)の人口集団の遺伝的構成に実質的な変化がないことを示唆します。現代日本人標本で追加の遺伝的祖先系統の兆候を探すため、f4統計(ムブティ人、X;古墳人、縄文人)を用いて、ユーラシア大陸部人口集団が「古墳人」と比較して現代日本人のゲノムと優先的な類似性を有するのかどうか、検証されました。その結果、古代の人口集団の一部は現代日本人よりも「古墳人」の方と高い類似性を示しますが、そのうちどれも「古墳人」に存在する祖先系統の追加の供給源としてqpAdmでは裏づけられません。意外にも、「古墳人」を除いて現代日本人との追加の遺伝子流動を示す古代もしくは現代の人口集団は存在しません。

 本論文の混合モデル化では、現代日本人集団は「縄文人」もしくは「弥生人」祖先系統の増加がないか、現代のアジア南東部人かアジア東部人かシベリア人に代表される追加の祖先の導入なしに、「古墳人」祖先系統により充分に説明される、と確証されます。現代日本人集団は「古墳人」における3方向混合として同じ祖先的構成要素の組み合わせを有しており、「古墳人」と比較して現代日本人においてアジア東部祖先系統のわずかな上昇があります。これは、ある程度の遺伝的連続性を示唆しますが、絶対的ではありません。

 「古墳人」と現代日本人集団との間の連続性の厳密なモデル(つまり、「古墳人」系統固有の遺伝的浮動がない場合)は却下されます。しかし、「古墳人(13.1±3.5%)」と比較して、日本人集団(15.0±3.8%)における「縄文人」祖先系統の「希釈」はなく、ユーラシア大陸部からの移住により「縄文人」祖先系統が顕著に減少した弥生時代と古墳時代の場合とは対照的です。「混合なし」モデルを伴うqpAdmによる「古墳人」と日本人との間の遺伝的クレード(単系統群)性を検証すると、「古墳人」は日本人とクレードを形成する、と明らかになりました。これらの結果から、歯の特徴と非計量的頭蓋特徴でも裏づけられているように、国家形成までに確立された3つの主要な祖先的構成要素の遺伝的特性が、現代日本人集団にとって基盤となりました。


●考察

 本論文のデータは、現代日本人集団の三重祖先系統構造の証拠を提供し、混合した「縄文人」と「弥生人」起源の確立された二重構造モデルを洗練します(図6)。「縄文人」はLGM後の日本列島内の長期の孤立と強い遺伝的浮動のため独自の遺伝的変異を蓄積し、それは現代日本人の内部における独特な遺伝的構成要素の基礎となりました。弥生時代はこの孤立の終わりを示し、遅くとも2300年前頃に始まるアジア東部本土からのかなりの人口集団の移住を伴いました。しかし、日本列島の先史時代および原始時代となるその後の農耕期と国家形成期に日本列島に到来した人々の集団間では、明確な遺伝的差異が見つかります。「弥生人」の遺伝的データは、形態学的研究で裏づけられるように、日本列島におけるアジア北東部祖先系統の存在を記録していますが、「古墳人」では広範なアジア東部祖先系統が観察されました。「縄文人」と「弥生人」と「古墳人」の各クラスタを特徴づける祖先は、現代日本人集団の形成に大きく寄与しました。以下は本論文の図6です。
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 「縄文人」の祖先的系統は、他のアジア東部の古代人および現代人とは深く分岐しており、アジア南東部に起源があった、と提案されています。この分岐の年代は以前には38000〜18000年前頃(関連記事)と推定されていました。ROH特性を有する本論文のモデル化では、8800年前頃の「縄文人」の分析によりこの年代が20000〜15000年前頃の下限範囲に絞り込まれています(図3)。日本列島は28000年前頃となるLGM開始の頃には朝鮮半島を通って到来できるようになり、ユーラシア大陸部と日本列島との間の人口集団の移動が可能となりました。海面上昇によるその後の17000〜16000年前頃となる対馬海峡の拡大により、「縄文人」系統はユーラシア大陸部の他地域から孤立したかもしれず、それは縄文土器製作の最古の証拠とも一致します。本論文のROHモデル化は、「縄文人」が縄文時代早期には1000人以下の小さな有効人口規模を維持した、と示しており、その後の縄文時代もしくは日本列島のさまざまな島々全域で、そのゲノム特性にほとんど変化が観察されませんでした。

 上述のヨーロッパの大半における新石器時代への移行で記録されているように、農耕拡大はしばしば人口集団の置換により特徴づけられ、多くの地域で観察される狩猟採集民人口集団からの寄与はごく僅かです。しかし、先史時代の日本列島における農耕への移行には、置換というよりもむしろ同化の過程が含まれており、西北九州の遺跡ではほぼ均等な在来の「縄文人」と新たな移民からの遺伝的寄与があった、との遺伝的証拠が見つかりました。これは、日本列島の少なくとも一部が、弥生時代開始期における農耕移民と匹敵する「縄文人」集団を支えていた、と示唆しており、それは一部の縄文時代共同体で行なわれていた高水準の定住に反映されています。

 「弥生人」に継承されたユーラシア大陸部の構成要素は、本論文のデータセットではアムール川祖先系統を高水準で有する西遼河流域の中期新石器時代および青銅器時代の個体群により最もよく表されます(HMMH_MN およびWRL_BA_o)。西遼河流域の人口集団は時空間的に遺伝的には不均質です(関連記事)。6500〜3500年前頃となる中期新石器時代から後期新石器時代への移行は、黄河祖先系統の25%から92%の増加により特徴づけられ、アムール川祖先系統は75〜8%へと激減し、これは雑穀農耕の強化と関連しているかもしれません。しかし、西遼河流域では3500年前頃に始まる青銅器時代に人口構造が変わり、それはアムール川流域からの人々の明らかな流入に起因します。これは、トランスユーラシア語族とシナ語族の下位集団間の集中的な言語借用の始まりと一致します。「弥生人」への過剰な類似性は、古代アムール川流域人口集団もしくは現代のツングース語族話者人口集団と遺伝的に密接な個体群で観察されます(図4)。

 本論文の知見から、水田稲作が、西遼河流域周辺のどこかに居住していたものの、さらに北方の人口集団に祖先系統の大半の構成要素が由来する人々により日本列島にもたらされ、稲作の拡大は西遼河流域の南側に起源があった、と示唆されます。古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、鍵穴型の塚にエリートを埋葬する習慣で、その大きさは階級と政治権力を反映しています。本論文の検証対象となった古墳時代の3個体はそうした古墳に埋葬されておらず、この3個体は下層階級だった、と示唆されます。この3個体のゲノムは、日本列島へのおもにアジア東部祖先系統を有する人々の到来と、「弥生人」集団との混合を記録します(図5)。この追加の祖先系統は、本論文の分析では複数の祖先的構成要素を有する漢人により最もよく表されます。最近の研究では、新石器時代以降人々が形態学的に均質になっていると報告されており、それは古墳時代の移民がすでに高度に混合していたことを示唆します。

 いくつかの一連の考古学的証拠は、おそらくは弥生時代と古墳時代の移行期における朝鮮半島南部からの可能性が最も高い、日本列島への新しい大規模な移民の到来を裏づけます。日本列島と朝鮮半島と中国の間の強い文化的および政治的類似性は、中国の鏡と貨幣、鉄生産のための朝鮮半島の原材料、剣など金属製道具に刻まれた漢字を含む、いくつかの輸入品からも観察されます。海外からのこれらの資源の入手は、日本列島内の共同体間の激しい競争を引き起こしました。これは、支配のための、黄海沿岸などユーラシア大陸部の国家との制度的接触を促進しました。したがって、古墳時代を通じて継続的な移住と大陸の影響は明らかです。本論文の知見は、この国家形成段階における、新たな社会的・文化的・政治的特徴の出現と関わる遺伝的交換の強い裏づけを提供します。

 本論文の分析には注意点があります。まず「弥生人」については、弥生文化と関連する骨格遺骸が形態学的に「縄文人」と類似している地域(西北九州)の2個体のみに分析が限定されています。他地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれません。たとえば、ユーラシア大陸部的もしくは「古墳人」的祖先系統です。次に、本論文の標本抽出は無作為ではなく、本論文で分析された古墳時代の個体群は同じ埋葬遺跡に由来します。弥生時代と古墳時代の人口集団の遺伝的祖先系統における時空間的変異を調べて、本論文で提案された日本列島の人口集団の三重構造の包括的な見解を提供するには、追加の古代ゲノムデータが必要です。

 要約すると本論文は、農耕と技術的に促進された人口集団の移動が、ユーラシア大陸部の他地域から孤立していた数千年を終わらせた前後両方の期間において日本列島に居住していた人々のゲノム特性を変化させたことについて、詳細な調査を提供します。これら孤立した地域の個体群の古代ゲノミクスは、人口集団の遺伝的構成への大きな文化的変化の影響の程度を観察する、特有の機会を提供します。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は縄文時代と古墳時代の複数個体の新たな核ゲノムデータを報告しており、とくにこれまで佐賀市の東名貝塚遺跡の1個体(関連記事)でしか報告されていなかった西日本「縄文人」の核ゲノムデータを、広範な年代と地域の複数個体から得ていることは、たいへん意義深いと思います。これにより、時空間的にずっと広範囲の「縄文人」の遺伝的構造がさらに詳しく明らかになりました。また、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)の年代は8991〜8646年前頃で、現時点では核ゲノムデータが得られた日本列島最古の個体になると思います。日本列島において更新世の人類遺骸の発見数がきわめて少ないことを考えると、この点でも本論文の意義は大きいと思います。

 本論文でまず注目されるのは、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団だった、と改めて示された点です。本論文で分析対象とされていない、7980〜7460年前頃となる東名貝塚遺跡の1個体や千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群(関連記事)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します(関連記事)。時空間的により広範囲の「縄文人」の核ゲノムデータがさらに蓄積されるまで断定はできませんが、本論文が指摘するように「縄文人」は長期にわたって遺伝的には孤立した集団だった可能性が高そうです。これは以前から予測されていたので(関連記事)、とくに意外ではありませんでした。縄文時代にアジア東部大陸部から日本列島にアジア東部祖先系統を有する個体が到来し、日本列島で在来の「縄文人」と混合して子供を儲けた可能性は高そうですが、「縄文人(的な遺伝的構成の個体)」のゲノムで明確に検出されるほどの影響は残らなかったのだろう、というわけです。

 一方で朝鮮半島南端では、8300〜4000年前頃にかけて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続していたようで、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団的な遺伝的構成要素と「縄文人」的な遺伝的構成要素とのさまざまな混合割合の個体が存在し、中には遺伝的にはほぼ「縄文人」と言える個体も確認されています(関連記事)。上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)から、遅くとも9000年前頃までには「縄文人」的な遺伝的構成は確立していたようですから、朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体の「縄文人」的な遺伝的構成要素は、日本列島から朝鮮半島に渡った「縄文人」によりもたらされたのでしょう。ただ、この朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体群は、日本列島や朝鮮半島の現代人に強い遺伝的影響を残していないかもしれません。

 「縄文人」の起源について本論文は、ホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりも、ユーラシア東部系集団において、ホアビン文化集団よりも後にアジア東部現代人の主要な祖先集団と20000〜15000年前頃に分岐した、とのモデルの方が妥当と推測しています。しかし、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属との混合でさえたいへん複雑で、単純な系統樹で表すことが困難ですから(関連記事)、現生人類集団間の関係を単純な系統樹で表すことには慎重であるべきだと思います。もちろん、現生人類がアフリカから世界中の広範な地域に拡散する過程で、LGMのような寒冷期もあり、集団の孤立と遺伝的分化が進みやすかったでしょうから、系統樹で表すことに合理性があることも確かだと思います。しかし、多くの集団は遺伝的に大きく異なる集団間の複雑な混合により形成されたでしょうから、単純な系統樹で表すことに問題があることも否定できないと思います。

 具体的に本論文の系統樹の問題点として、モンゴル北東部のサルキート渓谷で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(サルキート個体)が挙げられます。サルキート個体は本論文の系統樹では、出アフリカ現生人類集団がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系集団で最初に分岐した、と位置づけられています。サルキート個体の分岐後のユーラシア東部系集団では、まずパプア人、次に田園個体、その後でホアビン文化集団が分岐し、「縄文人」はその後の分岐となります。しかし、他の研究ではサルキート個体は田園個体と同じ系統に位置づけられています(関連記事)。この違いは、サルキート個体にはユーラシア東部系集団と遺伝的に大きく異なるユーラシア西部系集団からの一定以上の遺伝的影響があるため(関連記事)と考えられます。

 本論文の系統樹は正確な人口史を正確には表せていない可能性があり、「縄文人」が遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された可能性は、まだ否定できないように思います。より具体的には、出アフリカ現生人類集団のうち、ユーラシア東西系統の共通祖先と分岐した集団(ユーラシア南部系集団)が存在し、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により「縄文人」もホアビン文化集団も形成され、それぞれの(複数の)祖先集団も相互に遺伝的には深く分岐していた、と想定しています(関連記事)。

 本論文の見解で大きな問題となるのは、「弥生人」を佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることです。本論文でも、「弥生人」を形態学的に「縄文人」との類似性が指摘されている西北九州の弥生時代人骨の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることについて、地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれない、と指摘されていました。じっさい、弥生時代中期となる福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。同じく弥生時代中期の「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人の範疇に収まります。現代日本人の平均と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号がやや高く、隈・西小田遺跡の個体はやや低いと推定されています。

 弥生時代の日本列島の人類集団は遺伝的異質性がかなり高かったと考えられます(関連記事)。読売新聞の記事によると、篠田謙一氏は「弥生人の遺伝情報は、地域や時代で差があり、現代の日本人に近い例もある。当時の実態を解明するには、解析する人骨をさらに増やす必要がある」と指摘しており、その通りだと思います。安徳台5号も隈・西小田遺跡個体も下本山岩陰遺跡の2個体に先行し、下本山岩陰遺跡の2個体の頃(2001〜1931年前頃)には、少なくとも九州において現代日本人に近い遺伝的構成の集団が存在したわけですから、下本山岩陰遺跡の2個体を「弥生人」の代表として、弥生時代後期〜古墳時代にかけて日本列島にユーラシア大陸部から大規模な移民が到来した、との本論文の見解にはかなり疑問が残ります。

 本論文が検証対象とした岩出横穴墓の3個体は古墳時代終末期となり、年代は紀元後6〜7世紀です。同じ古墳時代でも岩出横穴墓の3個体よりは古い和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号個体(紀元後398〜468年頃)および2号個体(紀元後407〜535年頃)は、核ゲノム解析の結果、「縄文人」構成要素がそれぞれ52.9〜56.4%と42.4〜51.6%と推定されています(関連記事)。おそらく弥生時代だけではなく古墳時代にも、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の人類集団にはかなりの遺伝的異質性があり、時空間的な違いがあったと考えられますが、今後同一遺跡もしくは地域内で「古墳人」の核ゲノムデータが蓄積されていけば、階層差も確認されるようになるかもしれません。日本列島における現代人のような遺伝的構造の形成は、古墳時代の後もよく考慮しなければならないように思います。

 本論文は日本列島の人類集団の遺伝的構成において、縄文時代から弥生時代の移行期と弥生時代から古墳時代の移行期に大きな変化を見出し、「弥生人」にはアジア北東部祖先系統の影響が「縄文人」祖先系統に近いくらいの割合で見られ、「古墳人」ではアジア北東部祖先系統が優勢になる、と推測しています。しかし最近の別の研究では、現代日本人の遺伝的構成は低い割合の「縄文人」関連祖先系統と高い割合の遼河地域の夏家店上層文化集団関連祖先系統の混合と推定されており、朝鮮半島中部西岸に位置する2800〜2500年前頃のTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)の遺伝的構成が現代日本人に類似している、と指摘されています(関連記事)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が朝鮮半島において形成され、一方で朝鮮半島の人類集団ではその後で大きな遺伝的変化があり、現代朝鮮人のような遺伝的構成が確立したことを示唆します。

 上述のように「弥生人」は遺伝的異質性が高かったと考えられ、中には遺伝的に現代日本人の範疇に収まる集団も存在しました。本論文で提示された古代ゲノムデータとともに、本論文では取り上げられなかった日本列島の弥生時代個体群や朝鮮半島の古代人のゲノムデータも含めて、日本列島の人口史を再検討する必要があると思います。本論文と他の研究を組み合わせて解釈した現時点での大まかな想定は、朝鮮半島において紀元前二千年紀後半〜紀元前千年紀前半にかけて、遼河地域青銅器時代集団的な遺伝的構成の集団と「縄文人」構成要素を高い割合で有する集団が混合して現代日本人の基本的な遺伝的構成が形成され、その集団が弥生時代に日本列島に到来して在来の「縄文人」と混合し(縄文時代晩期に日本列島に存在した「縄文人」の現代日本人における遺伝的影響は数%程度かもしれません)、その後で紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島では黄河流域集団に遺伝的により近づくような大規模な遺伝的変化があり、そうした集団が古墳時代から飛鳥時代にかけて日本列島に継続的に到来し、奈良時代以降の日本列島内の歴史的展開を経て現代「本土」日本人が形成された、というものです。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html

28. 中川隆[-16220] koaQ7Jey 2021年9月24日 07:38:07 : 1H0S8K0ZRI : ODR2ai5DRXRaUGM=[2] 報告
“日本人”に第3のルーツ 富山の遺跡から出土した「人骨」が貢献
その他
2021年9月22日
https://www.tulip-tv.co.jp/news/news_detail.html?nid=6111&dd=20210922

 現代の日本人は、縄文人と弥生人がルーツと考えられてきましたが、遺跡から出土した人骨の遺伝情報、いわゆるゲノムデータの解析で「第3のルーツ」をもつことがわかりました。

 この日本人のルーツに迫る研究に富山市から出土した人骨が大きく貢献しているんです。

 県埋蔵文化財センターで日本人のルーツに迫った人骨を見せてもらいました。

 「これが今回分析に使った人骨の側頭骨の、耳の穴になるんですけど、そこから削って粉上にして分析をしたと」(県埋蔵文化財センター・河西健二所長)

 現代日本人のルーツについて新たな研究成果を発表したのは、金沢大学の覚張隆史(がくはり・たかし)助教を中心とする研究チームです。

 遺跡から出土した人骨のゲノムデータを抽出し解析する「パレオゲノミクス」という手法で、今回、縄文時代から古墳時代までの人骨と中国など大陸から見つかった人骨のデータを比較、解析しました。

 「これまであくまで2つの祖先集団を基本にして考えられているものですけど、今回少なくとも3つ、それ以上になる可能性があるという新しいモデルを提示したことが今回の論文のキモになります」(金沢大・覚張隆史助教)

 解析の結果、早期の縄文人は約2万年前から1万5000年前に大陸からやってきた1000人程度の小さな集団で、弥生時代には北東アジアから人々が日本列島に流入し、さらに古墳時代には東アジアに起源をもつ人々と混血していることがわかったということです。

 今回ゲノム解析された国内の12体の人骨のうち4体が富山市の小竹貝塚(おだけかいづか)から出土した人骨でした。

 「これが耳の穴になるんですが、穴の中の部分がすい体。そこに非常にゲノムがよく残っていると」「我々これ10年前に発掘した人骨なんですけど、10年前の技術ではでなかったんです。ところがどうも人骨の場所によって取れるということがわかってきたのがここ数年でありまして」(県埋蔵文化財センター・河西所長)

 富山市呉羽町の小竹貝塚は現在は海岸線から遠く離れていますが、6000年前はすぐそばに潟湖が広がっていて、人々は貝などを採取しながら定住していました。

 北陸新幹線の建設工事に伴う発掘調査で、小竹貝塚からは縄文前期では国内最多となる91体の人骨が見つかりました。

 人骨の保存状態がいいため、今回、縄文人のゲノムの基礎的なデータ作成に貢献しました。

 今回の研究成果について県埋蔵文化財センターの河西健二所長は。

 「古墳時代の人が現代人のほぼ原型、類似しているということがわかったというのは考古学的にはすごく衝撃的」「古墳時代に須恵器が入ってくるとか金属器が入ってくるという大きな動きがあることはわかっていたんです。それが人を伴って来たのかというところはなかなか検証できなかったので、今回古墳時代に血が混じってきているのがわかりましたから、これまでの研究に当てはめながら検証することができるようになる」(県埋蔵文化財センター・河西所長)

 ゲノムデータの進化した解析技術を使って、県埋蔵文化財センターでは今後、小竹貝塚そのものの謎の解明に着手したいとしています。

 「この12号さんは男性なんですけど、今でも亡くなった人の使っていた物を焼いたりするでしょ。そういう行為は縄文時代からあるんですよ。マイ石斧。この人は磨製石斧、これ7点あるんだけど、砥石を一緒に墓で埋葬している」「この方が他の人骨との兄弟関係とか家族関係とか見えてくるとどんどん面白いストーリーが見えてくるんだろうと」(河西所長)

 ゲノムデータの解析が新たな縄文ロマンの扉を開こうとしています。

 研究が進めば保管された91体以上の人骨の1人1人のプロフィールが見えてくるかもしれません。

 「小竹という土地に住んでいた縄文人がどんな人々でどんな生活をしていたのかが知りたいのが一番ですから。あとは人間関係ですよね、どんな親子関係だったのか、男性が何をしていたのか、女性が何をしていたのか、そういったところまでゲノムの解析で見えてくると、もっとリアルな縄文人の生活が見えてくるだろう」(河西所長)

 「縄文人」といえば「小竹貝塚」と言われるように、謎に包まれた縄文人のリアルに迫りたいとしています。

https://www.tulip-tv.co.jp/news/news_detail.html?nid=6111&dd=20210922

29. 中川隆[-16070] koaQ7Jey 2021年10月08日 06:45:36 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[7] 報告
雑記帳
2021年10月08日
縄文時代の人類のゲノム解析まとめ
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_8.html

 縄文時代の人類の核ゲノム解析数も次第に増えてきたため、私が把握している分を以下の図で一度まとめます。年代は基本的に直接的な放射性炭素年代測定法による較正年代です。mtHgはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ、YHgはY染色体ハプログループです。なお、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前頃の縄文時代個体(Kanzawa-Kiriyama et al., 2017)については、標本2点の塩基配列を合体して分析していることもあり、今回は省略します。縄文時代の人類遺骸は多数発見されているので、そのうち怠惰な私がこうしたまとめ記事を執筆する気にならないくらい、縄文時代の人類のゲノム解析数が蓄積されることを期待しています。以下は、参考として佐賀県唐津市の大友遺跡の弥生時代早期個体(大友8号)も含めた、核ゲノムが解析されている縄文時代の人類の一覧図です。

https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/822/60/N000/000/000/163343134066380552189.jpg

 これらの縄文時代の個体は全て、既知の現代人および古代人集団に対して一まとまりを形成します。以下は、東名貝塚標本012とF23とF5と三貫地貝塚遺跡個体とIK002を対象としたAdachi et al., 2021の主成分分析結果を示した図4です。

https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/822/60/N000/000/000/161796910375111925217.jpg

 大友8号はF23とF5と三貫地貝塚遺跡個体とIK002といった既知の縄文時代個体群と主成分分析では一まとまりを形成し(神澤他., 2021図3)、弥生時代にも遺伝的に縄文時代の個体群と一まとめにできる集団が西北九州に存在したことを強く示唆します。さらに、まだ査読前の論文(Robbeets et al., 2021)で遺伝子型が公表されていないため上記の一覧図には掲載しませんでしたが、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9〜紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が、六通貝塚の個体群とほぼ同じと示されました。先史時代の先島諸島には、縄文文化の影響がほとんどないと言われています。さらに、朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の人類は、割合はさまざまですが、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団と六通貝塚の個体群との混合としてモデル化されます(Robbeets et al., 2021)。

 縄文時代の人類は時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質で、そうした遺伝的構成の集団は大きく異なる物質文化の担い手になっていった、と示唆されます。もっとも、言語も含めて精神文化では重要な共通性があったと想定できなくもありませんが、それを否定することはできないとしても、証明することもほぼ無理ではないか、と思います。縄文時代の人類集団がどのように形成されたのか、まだ明らかではなく、今後の研究の進展をできるだけ追いかけていき、考えていくつもりです。新たな縄文時代の人類の核ゲノム解析結果が公表されれば、上記の一覧図も更新する予定です。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science, 129, 1, 13–22.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132


Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2


Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2017): A partial nuclear genome of the Jomons who lived 3000 years ago in Fukushima, Japan. Journal of Human Genetics, 62, 2, 213–221.
https://doi.org/10.1038/jhg.2016.110


Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415


Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Research Square.
https://doi.org/10.21203/rs.3.rs-255765/v1


Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021A)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393


https://sicambre.at.webry.info/202110/article_8.html

30. 中川隆[-13627] koaQ7Jey 2022年2月26日 12:48:10 : 7284w1h2Yo : ZEVCUFByRTFDb28=[14] 報告

2022年02月26日
設楽博己『縄文vs.弥生 先史時代を九つの視点で比較する』
https://sicambre.at.webry.info/202202/article_26.html

https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87vs-%E5%BC%A5%E7%94%9F-%E2%80%95%E2%80%95%E5%85%88%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E4%B9%9D%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%A6%96%E7%82%B9%E3%81%A7%E6%AF%94%E8%BC%83%E3%81%99%E3%82%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%A8%AD%E6%A5%BD-%E5%8D%9A%E5%B7%B1/dp/4480074511


 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2022年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は縄文時代と弥生時代とを、生業や社会や精神文化の観点から比較し、単に両者の違いだけではなく、縄文時代から弥生時代へと継承されたものについても言及しています。時代区分は、縄文時代については、草創期15000年前頃以降、早期が11300年前頃以降、前期が7000年前頃以降、中期が5400年前頃以降、後期が4500年前頃以降、晩期が3200年前頃以降で、弥生時代については、早期(九州北部地方)が紀元前9世紀以降、前期(九州北部地方)が紀元前8世紀以降、前期(近畿地方)が紀元前7世紀〜紀元前6世紀以降、前期(伊勢湾地方)が紀元前6世紀へ紀元前5世紀以降、前期(東日本)が紀元前5世紀〜紀元前4世紀以降、中期が紀元前4世紀以降、後期が紀元後1世紀以降となります。


●生業

 縄文時代の農耕の可能性は古くから指摘され、一時は有力とも考えられていましたが、その後の再分析により現在では、イネやアワやキビなどユーラシア東部大陸系穀物の確実な痕跡は、日本列島では縄文時代晩期終末をさかのぼらない、との見解が有力になっています。また縄文農耕櫓では、イネに先立って雑穀が栽培されていたと考えられていましたが、両者はほぼ同時に日本列島に出現することも明らかになってきました。弥生時代の農耕については、かつて発展段階論的に考えられており、水田稲作は粗放で生産性の低い湿田での直播から始まり、灌漑により半乾田での耕作という生産性の高い段階に達した、というわけです。しかし、福岡市の板付遺跡での発掘調査により、最初期の水田は台地の縁にあり、すでに灌漑水利体系という高度な技術を備えた完成されたものだった、と明らかになりました。このように、本格的な穀物栽培は弥生時代に始まりましたが、縄文時代にも、ヒョウタンやウリやアサやゴボウやエゴマやダイズなど、植物栽培はありました。ただ本書は、縄文時代を通じた植物栽培の特徴として、嗜好品的な性格を指摘します。また本書は、縄文時代の食料資源利用技術について、弥生時代と比較して劣っていると単純に言えるわけではない、と強調します。

 本書は縄文時代の栽培も「農耕」と呼び、縄文時代と弥生時代の農耕の質的差を指摘します。それは、縄文時代には農耕が生業のごく一部にすぎず、さまざまな生活道具が農耕用に特化しているわけではないのに対して、弥生時代の農耕は、地域的多様性があるものの、道具と儀礼は農耕用に特化している、ということです。文化要素の多くが農耕に収斂しているか否かが、縄文時代と弥生時代の違いというわけです。弥生時代の農耕について本書は、少ない種類の資源を集中的に開発・利用する選別型と、多くの資源を開発・利用する網羅型に二分しています。縄文時代の生業は基本的に網羅型なので、弥生時代の網羅型生業は縄文時代に由来しますが、ユーラシア東部大陸部の生業は、華南が選別型で華北は網羅型となり、これが朝鮮半島経由で日本列島にもたらされた可能性を、本書は指摘します。

 漁撈については、縄文時から弥生時代にかけての継承の側面とともに、環濠や水田の開発により形成された内水面環境で行なわれていた新要素もあった、と指摘されています。また、貝の腕輪など九州と南西諸島との交易の証拠から、広域的な活動範囲の海人集団の活動も推測されており、本書は、農耕集団の求めに応じての大陸との交通活発化にその要因がある、と指摘しています。狩猟民についても、農耕集団との相互依存関係が指摘されていますが、狩猟民は海人集団のように有力な政治的勢力になっていったわけではなさそうです。


●社会問題

 縄文時代には通過儀礼として耳飾りや抜歯や刺青がありました。耳飾りの付け替えの風習は縄文時代のうちに終了しましたが、抜歯と刺青は弥生時代に継承されました。耳飾りには複数の種類があり、集団間の違いとともに、集団内の地位の違いも示していたようです。抜歯は弥生時代まで継承されたものの、たとえば東海系の抜歯は弥生時代中期中葉に水田稲作とそれに付随する文化の到来とともに、急速に失われていったようです。また抜歯には、大陸系と縄文系の違いもあったようです。刺青については、人類遺骸での判断がきわめて困難なので、文献にも依拠しなければなりませんが、複雑だった縄文時代晩期終末の刺青が弥生時代中期以降に衰退し、紀元後3世紀に再度複雑化するというように、単純な経過ではなかったことが示唆されます。

 祖先祭祀については、縄文時代に定住が進み、竪穴住居の内側や貝塚から埋葬遺骸がよく出土するように、生者と死者の共住により芽生えていったのではないか、と推測されています。定住生活の進展により、資源領域の固定化と、資源の確保や継承をめぐる取り決めが厳しくなっていっただろうことも、祖先祭祀が必要とされた要因と考えられます。縄文時代中期には集落が大型化していき、何代にもわたって同じ場所に居住し続け、集落内部の埋葬小群は代々の家系を示しているのではないか、と推測されています。弥生時代には、縄文時代の伝統を継承しつつも、祖先祭祀のための大型建物が軸線上にあることなど、大陸由来の要素が見られるようになります。

 まとめると、縄文時代は複雑採集狩猟民社会で、定住化が進み、生活技術が高度化したものの、ユーラシア南西部や東部とは異なり、本格的な農耕社会には移行しませんでした。また縄文時代でも、西日本の集落が東日本と比較して小規模傾向であるように、東西の違いは大きかったようです。これについては、落葉広葉樹林帯の多い東日本と照葉樹林帯の多い西日本との違いも影響していますが、東日本は西日本と比較して資源の種類数が少ないため、集約的労働が必要となり、集落規模が大きくなる傾向にあった、とも指摘されています。階層化、つまり不平等は、副葬品の分析などにより、縄文時代にある程度進行していたことが窺えます。弥生時代の階層化の進展は、戦争の発生および大陸との交流増加に起因するところが大きかったようです。本書は縄文時代から弥生時代にかけて、階層構造がヘテラルキー(多頭)社会からヒエラルキー(寡頭)社会へと変わっていき、その最初の画期は弥生時代中期初頭だった、と指摘します。


●文化

 縄文時代の基本的な男女の単位は夫婦と考えられますが、生産単位では性別分業が進行していたようです。弥生時代になると、男女一対の偶像の出現かからも、農耕では他地域と同様に男女共業傾向が強かった、と示唆されます。芸術的側面では、縄文時代の動物の造形が立体的だったのに対して、弥生時代には平板になった、と指摘されています。これについては、森という立体的空間からさまざまな資源を得ていた縄文時代の網羅型生業体系から、大陸の影響を受けた弥生時代の農耕社会への移行が背景にあるのではないか、と指摘されています。

 土器については、弥生時代になって朝鮮半島の無文土器の影響を強く受けるようになったものの、近畿地方では前期のあっさりした文様が、前期後半から中期にかけて文様帯の拡張へと変わるように、一様ではなかったことと共に、弥生土器の形成に縄文土器が役割を果たしていたことも指摘されています。土器の伝播は、縄文時代から弥生時代への移行期において、九州北部から東方への伝播だけではなく、東日本から西日本への伝播もあった、というわけです。弥生時代以降の日本史を、大陸に近い西日本から東日本への単純な文化伝播として考えてはならないのでしょう。

 本書は弥生時代の多様性を強調し、農耕体系にしても、おもにイネを栽培対象として、灌漑による水田栽培を行なう遠賀川文化に代表されるものと、中部地方高地や広東地方の条痕文系文化に代表される、雑穀(アワやキビ)を主要な栽培対象として、畠で農耕を行なうものとでは、農具などの道具も違ってくる、と指摘します。後者は、縄文時代にも見られた複合的な網羅型生業体系で、前者と比較して縄文文化的要素が強くなっています。両者の境界は三河地方あたりで、これは縄文時代晩期の東西の文化の違いを反映しているのではないか、と本書は推測します。縄文時代晩期の東日本が複雑採集狩猟民なのに対して、西日本はそうではありませんでした。縄文時代から弥生時代への移行については、近年飛躍的に進展している古代DNA研究(関連記事1および関連記事2)が大きく貢献できるのではないか、と期待されます。


参考文献:
設楽博己(2022)『縄文vs.弥生 先史時代を九つの視点で比較する』(筑摩書房)

https://sicambre.at.webry.info/202202/article_26.html

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