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ジャレド・ダイアモンド「弥生人は朝鮮人」
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/281.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 30 日 06:05:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本人のガラパゴス的民族性の起源 日本人の源流考 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 29 日 09:17:03)


ジャレド・ダイアモンド「弥生人は朝鮮人」。

ジャレド・ダイアモンドは、その世界的なベストセラー『銃、病原菌、鉄』で、

「朝鮮半島から先進文明を持った人々が大量に渡ってきて先住の縄文人を殺したので、
弥生時代という縄文時代とは根本的に性格を異にする新しい時代が始まった」

という主張をかなりの説得力を持って示している。読めば納得、というやつだ。

しかしなんと、『銃、病原菌、鉄』が和訳される時、その章だけ訳されなかった。
マンガのような話だが事実。大笑いw。
ほんと糞ジャップは赤ん坊w

「ジャップ=朝鮮人」という真実がそんなに都合悪いのかw。

その訳し飛ばされた部分を訳してくれた人がいる。


ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』2005年版追加章
ジャレド・ダイアモンド著、山形浩生訳
https://cruel.org/diamond/whoarethejapanese.html


概要
 日本人の起原については、議論がわかれる。遺伝的な証拠と言語学的な証拠が一致しないのが大きな難点だし、また縄文の狩猟採集社会がちょっと特殊で、やたらに長く続いたことも理由。だが、その展開もおそらく『銃、病原菌、鉄』の環境要因重視でかなり説明ができそうだ。日本人の特殊性は、日本があまりに地理・気候的に恵まれすぎていたこと。定住した狩猟採集社会でかなりの豊かさを実現できてしまい、初期のヘナチョコ農業などとても太刀打ちできなかった。それが BC400 あたり、中国や朝鮮半島で農業が本格的な優位性を獲得した時点で、朝鮮半島から人が稲作などの技術とともに渡来した。その人々やその子孫が縄文人(後のアイヌ)を駆逐して弥生文化をつくり、古墳文化へとつながる。ただし言語学的な証拠を見ると、日本語と朝鮮語は五千年前に分岐したはずで、いまの議論と矛盾する。これはいまの朝鮮語(新羅語)と日本に移住した百済・高句麗系の言語がちがっていたせいなのではないか。

 また、『銃、病原菌、鉄』の、環境要因がすべてという議論は、初版刊行後さらにいろいろ応用が見られるので、今後の議論の深化発展に期待したい。

日本人とは何者だろう?
 現代の世界列強のうち、文化と環境の面で最も特徴的なのは日本人だ。日本語の起源は、言語学で最も議論の多い問題の一つだ。というのも、世界の主要言語の中で他の言語との類似性が未だに疑問視されているのは日本語だけなのだ。日本人とはだれで、いつ日本にやってきて、どうやってその独特の言語を発達させたのか? これらの問題は日本人の自己イメージや、他の人々から見たイメージにとっても中心的なものとなる。日本の勢力の台頭と、ときに微妙な近隣国との関係もあって、今こそしつこい神話をはぎとって答を見つめるべきときだ。

 『銃、病原菌、鉄』のこれまでの版で日本にほとんど触れなかったのは、本書で最も大きな地理的欠落となっていた。日本人の遺伝子と言語の起源について、新しい情報が本書の初版以来集まってきたので、いまや日本がわたしの全体的な枠組みにどう収まるかを試してみてよさそうだ。

 答を探すのはむずかしい。証拠はいろいろ対立しているからだ。片方では、日本人は生物学的に他の東アジア人、特に朝鮮人とほとんどちがわず、外見も遺伝子もそっくりだ。日本人が強調したがるように、日本人は文化的にも生物学的にもかなり均質だ。日本各地の人々の間には、日本最北の島である北海道に暮らすアイヌがかなりちがっているのを除けば、ほとんどちがいはない。こうした事実はすべて、日本人がかなり最近に東アジア本土からやってきて、先住民であったアイヌにとってかわった、と示唆しているようだ。でもそうであるなら、日本語はどこかの東アジア本土の言語と明らかな強い親近性を示すはずだ。ちょうど英語が他のゲルマン系言語と近い親戚関係にあるように。というのも、大陸からのアングロサクソンがイングランドを制圧したのは、ごく最近の6世紀のことだったからだ。どうも古そうな日本の言語と、日本人の起源が最近だと語る他の証拠との矛盾はどう解決すべきか?

 四つの対立する理論が提唱されており、それぞれ一部の国では人気があるが、他の国では不人気だ。日本でいちばん人気があるのは、日本は紀元前二万年以上前に日本を支配していた、古代氷河期人類からゆっくり進化してきた、というものだ。日本でこれまた広まっている理論は、日本人は中央アジアの遊牧騎馬民族の末裔で、かれらは4世紀に朝鮮半島経由で日本を制圧しにきたが、絶対に朝鮮民族ではなかった、というものだ。多くの西側考古学者と韓国人が気に入っている理論で、日本の一部では不人気なのが、日本は紀元前400年頃に水田稲作とともにやってきた、朝鮮からの移民の子孫だ、という理論だ。そして最後に、これまでの理論に出てきた各種の人々が混合して、現代の日本人を形成したという理論がある。

 他の民族の起源について、似たような疑問が生じた場合は、冷静な議論ができる。でも日本人の起源についてはそうはいかない。日本が、他の多くの非ヨーロッパ諸国とはちがって、19世紀末に孤立を脱して産業社会を作り出すにあたり、政治的独立と独自の文化を維持できたのは驚異的なことだ。いまや日本人は、無理もないことだが、すさまじい西洋の文化的影響に直面して、伝統を維持できるかどうか正当にも懸念している。そして、自分たちの言語や文化が実に独特であり、その発達にも独特の複雑な発展プロセスが必要で、世界の他のところとはちがうのだと信じたがっている。日本語が他のどこかの言語と類縁関係にあると認めるのは、文化的アイデンティティの敗北を認めることのように思えるのだ。

 1946年まで、日本の学校は 712 年と 720 年の最古の日本年代記に基づいた日本史神話を教えていた。この年代記によれば、創造神イザナギの左目から生まれた太陽神アマテラスが、孫のニニギを地上の日本の九州島に遣わし、地上の神を娶らせた。ニニギのひ孫となる神武は、敵を無力にしてしまう輝く聖なる鳥の助けを借りて、BC660年に日本の初代天皇となったという。BC660 年から、歴史記録にある最古の日本王朝との間のギャップを埋めるため、この年代記はこれまた架空の天皇を13人発明した。

 第二次世界大戦の終戦で、裕仁天皇はついに日本国民に対して自分が神の子孫などではないことを告げたが、それまでの日本の考古学者や歴史学者たちは、自分たちの解釈をこうした神話的記述にあわせなくてはならなかった。今日ではずっと解釈の自由度は高まっているものの、いまだに制約は残っている。日本の最も重要な考古学的記念碑——AD300 年から 686 年にかけて築かれ、古代天皇とその一家の遺物を収めているとされる 158 基の巨大な古墳——はいまだに宮内庁の所有物だ。この古墳の発掘は禁止されている――冒涜行為だから、ということもあり、そしてそれが日本の天皇家の本当の出自(たとえば朝鮮出身とか?)を明らかにしかねないからだ。

 アメリカの考古学的な遺物は、ほとんどの現代アメリカ人とはつながりのない人々(アメリカ先住民)が遺したものだが、日本の遺物は、どんなに古いものだろうと、現代日本人の先祖が遺したものだと信じられている。だから日本の考古学は天文学的に巨大な予算で支えられており、世界の他の場所では考えられないほどの世間的な注目を集める。日本の考古学者たちは、毎年一万以上の遺跡を発掘し、作業員最大五万人を雇う。中国全土に比べて、日本では新石器時代の遺跡が二十倍も発見されている。テレビや全国紙の一面は毎日のように遺跡発掘のニュースを流す。現代日本人の先祖がはるか昔に日本にきたことを証明すべく、発掘の考古学報告書も日本の古代住民が当時の他地域の人々といかにちがっていたかを強調し、また今日の日本人といかに類似しているかを強調する。たとえば考古学者が二千年前の遺跡について講演するときには、遺跡住民たちが生ゴミを捨てたゴミの穴を指摘して、はるか昔の日本人もすでにきれい好きだったと述べる。その子孫だとされるいまの日本人も、きれい好きを誇りにしているからだ。

 日本の考古学を冷静に議論するのが特に難しいのは、過去についての日本人の解釈が現在の行動を左右するからだ。東アジアの人々の間で、だれがだれに文化をもたらし、だれが文化的に優位でだれが野蛮人で、だれがだれの土地に対して歴史的な権利を有するのか? たとえば AD300-700 の時期には、日本と朝鮮との間には人や文物が大量にやりとりされていたとする考古学的な証拠が大量にある。日本人はこれを、日本が朝鮮を支配して、朝鮮の奴隷や職人を日本につれてきたのだと解釈する。朝鮮側の解釈はむしろ朝鮮が日本を支配しており、日本の天皇家の始祖が朝鮮人だったのだ、というものだ。

 したがって日本が朝鮮に軍を送って1910 年に併合したとき、日本の軍司令部はそれを「古来の正当な秩序の回復 (the restoration of the legitimate arrangement of antiquity)」として祝した。その後 35 年にわたり、日本の占領軍は朝鮮文化を根絶して、学校で朝鮮語のかわりに日本語を教えようとした。朝鮮人一家は日本で何世代も暮らしても、いまだになかなか日本国籍を取得できない。日本の「鼻塚」は、いまでも 16 世紀に日本が朝鮮を侵略したときに勲章がわりに持ち帰られた朝鮮人二万人の鼻を収めている。無理もないことだが、日本人に対する嫌悪は朝鮮では一般的だし、朝鮮人に対する蔑視も日本では広まっている。

 一見すると専門的な考古学的論争がいかに感情的な議論を巻き起こすかという一例として、日本の有史以前の遺物として最も有名なものを見てみよう。AD5世紀の江田船山の剣だ。これは国宝に指定され、現在は東京国立博物館に収蔵されている。鉄剣に銀がかぶせられて、そこに漢字で銘文が刻まれており、大王とその家臣、そして張安という朝鮮人書記が登場している。漢字の何文字かは不完全か錆びているか欠落しており、推測するしかない。日本の学者は伝統的に、欠落した漢字について、それが 8 世紀の日本の年代記に登場する美しい歯の瑞歯別尊なのだと解釈してきた1。だが 1966 年に韓国の歴史家Kim Sokhyongが、欠落した文字のなまえが実は朝鮮(百済)の蓋鹵王 (King Kaero) だと示唆して、名前の出ている家臣は実は当時日本の一部を占拠していた朝鮮人領臣だと主張したことで、日本の学者たちに衝撃を与えた。何が「古来の正当な秩序の回復 (the restoration of the legitimate arrangement of antiquity)」なのだろうか?

 今日の日本と朝鮮(韓国)はどちらも大経済国で、対馬海峡を挟んでにらみあい、お互いをまちがった神話と本物の過去の残虐行為という毒されたレンズ越しに眺めている。この二つの偉大な人々が共通の基盤を見いだせなければ、東アジアの未来にとって禍根を遺す。日本人が本当は何者なのか、そして近親である朝鮮人とどのように別れたのかという正しい理解は、その共通基盤を見いだすために不可欠となる。

 日本のユニークな文化を理解する出発点は、その独特の地理と環境だ。一見すると、日本は地理的に見てイギリスとかなり似ているように思える。どちらも大きな群島で、それぞれユーラシア大陸の東と西に寄り添っている。だが両者には細かいちがいがあって、それが重要だ。日本のほうがちょっと大きくて、本土からも距離がある。日本の面積およそ38万平方キロは、イギリスの五割増しで、ほぼカリフォルニア州に等しい。イギリスとフランスの距離はたった35キロだが、日本はアジア本土の至近部(韓国)から180キロあるし、ロシア本土からは 290 キロ、中国本土からは 740 キロある。

 そのせいだろうか、イギリスは歴史を通じて、ヨーロッパ本土との関係が日本とアジア本土との関係に比べてずっと密接だった。たとえば、紀元後になってから大陸からイギリスへの成功した侵攻は4回あったがが、日本侵攻で成功したものはない(ただし有史以前の日本を本当に朝鮮が占領していたなら話は別だが)。また逆に、イギリス軍は 1066 年のノルマン侵略以来、毎世紀のように大陸で戦っているのに、19世紀後半までは、有史以前の朝鮮と、16 世紀末の最後の十年を除けば、アジア本土に日本軍が侵攻したことはない。つまり地理的な細部のおかげで日本はもっと孤立し、したがってイギリスよりも文化的な独自性を持つようになった。

 日本の気候はといえば、その降水量は年間最大で4,000 ミリ(160 インチ)にも達し、温帯国としては世界で最も湿潤となる。さらにヨーロッパの大半では降水は冬に起こるが、日本の雨は夏の植物育成期に集中している。この降水量の多さと夏の雨の組み合わせのおかげで、日本は温帯国のどの国よりも植物生産性が高い。農地の半分は、労働集約型の高収量水田耕作に向けられており、これは湿潤な山から斜面となった低地の平野に流れる川に支援されている。日本の土地の8割は農業に不向きな山岳で、農地は 14 パーセントしかないが、単位農地面積あたりで見れば、日本はイギリスの八倍の人口密度を養っている。実は農業適地との比率で見ると、日本は世界で最も高密な主要社会となっているのだ。

 日本の高い降水量は、その森林が伐採後もすぐに再生するということだ。何千年も高密に人が暮らしてきたのに、だれもが日本について最初に感じるのはその緑だ。というのも、日本の7割はいまでも森林だからだ(イギリスだとこれはたった 1 割だ)。逆に、それだけ森があるので、自然の草地や自然の牧草地はないということだ。伝統的に見て、日本で大規模に食用飼育された家畜はブタだけだ。羊やヤギはあまり多くないし、牛は鋤や荷車を引くのには使われたが、食用にはならなかった。日本産の牛肉はいまでも少数の金持ち向けの贅沢品で、1 キロ二万円にもなる。

 日本の森林構成は緯度と高度によって変わる。南部の低地では常緑広葉樹、日本中部では落葉広葉樹林、北部と高地では針葉樹林となる。有史以前の人々にとって、最も生産的な森林は落葉広葉樹林だ。というのもクルミ、栗、栃、ドングリ、ブナといった食用ナッツを大量に生産してくれるからだ。日本の森林と同様に、日本の水域もきわめて生産性が高い。湖や川、内海、西の日本海や東の太平洋は、サケ、鱒、マグロ、鰯、サバ、ニシン、タラなどの魚だらけだ。今日の日本は世界最大の水産国であり、水産物輸入国であり、水産物消費国だ。日本の水域はまたハマグリや牡蠣などの貝類、カニやエビやザリガニ、海草なども豊かだ。これから見るように、この土地や淡水や海の高い生産性は日本の前史に大きな意味を持った。

 考古学的な証拠を検討する前に、まず日本人の起原を生物学、言語学、初期の肖像、歴史記録などの証拠から見当しよう。このおなじみの四種類の証拠が一致しないことで、日本人の起原は実に論争含みとなっている。

 南西から北東に向かって、日本の四大島は九州、四国、本州(最大の島)、北海道となる。19 世紀末に日本人移民が大量に北海道に入植するまで、この島(および本州北部)は歴史的には主にアイヌが暮らしていた。アイヌは狩猟採集民族で農業は限られていた。残りの三島には日本人が住んでいた。遺伝子や骨格で見ても、外見から見ても、日本人は他の東アジア人ととても似ている。たとえば北部中国人、東シベリア人、そして特に朝鮮人と似ているのだ。わたしの日本人や韓国人の友人たちも、顔を見ただけでは日本人と朝鮮人を見分けるのはむずかしいことがあると言う。

 アイヌはと言えば、その独特の外見のおかげで、地上の他のどんな民族よりも、その起原や関係について記述されることとなっている。アイヌ男性は豊かなひげをたくわえ、他のどんな民族より体毛が多い。この事実と、他の遺伝形質、たとえば指紋のパターンや独特の耳垢などから、かれらはコーカソイド(通称白人)に分類されたりしてきた。コーカソイドが何らかの形でユーラシアを通って東に移住し、日本にたどりついたというわけだ。だが全般的な遺伝子構成でみると、アイヌは日本人、朝鮮人、沖縄人を含む他の東アジア人と親類だ。その独特の外見は、アジア本土から移住して日本諸島で孤立した後に、性的淘汰で生じた比較的少数の遺伝子のもたらしたものなのかもしれない。アイヌの独特の外見と狩猟採集生活、および日本人のあまり特徴のない外見と集約農業的なライフスタイルのおかげで、しばしばアイヌが日本の初期の狩猟採集民族の子孫であり、日本はアジア本土から最近になって侵略してきた人々の子孫なのだ、というあまりひねりのない解釈が示唆されることが多い。

 だがこの見方は、日本語の独特性と折り合いがなかなかつかない。日本語が世界の他のどの言語とも、細部にわたる類似性を持たない(フランス語とスペイン語との類似性のようなものはない)というのはだれもが認めることだ。言語的な類縁性に関する限り、多くの学者はトルコ語属、モンゴル語属、東シベリアのツングース語属などが属するアジアのアルタイ系言語の孤立した一員だと考えている。朝鮮語もまたこの語属の孤立した一員と思われており、その中で見れば日本語と朝鮮語は他のアルタイ系言語よりは類縁性がある。だが日本語と朝鮮語の類似性は全般的な文法的特徴と、基本語彙の15パーセント程度に限られ、フランス語とスペイン語のように、文法や語彙の細部まで共有されたりはしていない。仮に日本語と朝鮮語が、遠いとはいえ親類関係を持つと認めれば、語彙の共通部分がたった15パーセントということは、この両言語はフランス語とスペイン語が分離したたった二千年前ではなく、五千年以上も前に別れ始めたということを示唆している。アイヌ語はとえいえば、その類縁関係は完全に疑問視されていて、日本語とはまったく関係がないかもしれない。

 生物学と言語に続く、日本人の起原に関する第三の証拠は古代の肖像だ。日本の住民に似せた最初期の似姿として残っているのは、埴輪と呼ばれる像で、千五百年ほど前の墳墓の外に立てられている。特にその目の形を見ると、明らかに現代の日本人や朝鮮人と同じ東アジア系だ。ヒゲだらけのアイヌとは似ていない。北海道以南の日本で日本人がアイヌを駆逐したのであれば、その駆逐は AD500 年以前に起こったことになる。日本人が1615年に北海道に交易所を設けた後、日本人は北海道のアイヌを、アメリカ白人がアメリカ先住民を扱ったのと同じやり方で扱うようになった。アイヌは制圧され、居留地に押し込められ、交易所で働くことを強制され、日本農民の望む土地からは追い立てられ、叛乱を起こせば殺された。日本が 1869 年に北海道を併合すると、日本の学校教師は決然とアイヌ文化やアイヌ語を根絶しようとした。今日ではアイヌ語はほぼ絶滅状態であり、純血のアイヌはたぶん一人も残っていない。

 日本に関する最古の文献情報は中国の年代記のものだ。中国は、漢字が朝鮮や日本に伝わるはるか以前に文字を発達させていたからだ。108BC からAD313 まで、中国は北朝鮮の居留地を占領しており、日本と使節団をやりとりしていた。そのときに生じた「東夷」と呼ばれる各種民族に関する中国の記述の中で、日本は倭と称され、その住民たちは百以上の小国に別れて激しく戦争を繰り広げていたという。AD700 以前には、朝鮮や日本の文献はほとんど残っていないが、AD712 と 720 年には詳しい年代記が日本で書かれ、後に朝鮮でも書かれた。日本と朝鮮の年代記はそれ以前の歴史を記述したと称してはいるものの、どちらも支配一族を華々しく描いて正当化しようとする露骨な捏造だらけとなっている——たとえば日本の天皇が、太陽の女神アマテラスの末裔だといった話だ。それでも、こうした年代記を見れば、日本には朝鮮そのものからも、そして朝鮮経由で中国からも大量の影響があったことは十分にわかる。これは仏教、文字、冶金、他の技術、官僚制などを日本に伝えた。こうした年代記はまた日本における朝鮮人や朝鮮における日本人に関する記述だらけだ——日本人と朝鮮人の学者はそれぞれ、それを日本が朝鮮を占領していた証拠と見たり、その反対だと見たりしている。

 というわけで日本の先祖は書字以前に日本に到達し、生物学的にはかなり最近にやってきたはずだが、言語で見れば少なくとも五千年前には到来していたはず、というのがわかった。こんどは考古学の証拠を見て、この謎を解決してみよう。日本社会は世界で最も驚異的なものだったことがわかる。

 日本と東アジアの大半は、浅い海に取り囲まれている。したがってこの海は、氷河期には多くの水が氷河に取られていたし、海面がいまと比べて180メートル低かったので、陸となっていた。当時は日本の最北の島である北海道は、いまやサハリン島となったものを経由して、ロシア本土とつながっていた。日本最南の島である九州は、別の陸でいまや対馬海峡となっているものを経由して、いまの韓国とつながっていた。日本本土のすべての島は、お互いに地続きだった。そして今や黄海や東シナ海となっているものは、中国本土の陸地とつながっていた。したがって、その陸橋を経由して日本に歩いてきたほ乳類には、現代日本のクマやサルの祖先のみならず、当然ながら船を発明するはるか以前のヒトも含まれていた。日本北部の石器はシベリアや中国北部のものとそっくりだが、日本南部の石器は朝鮮と中国南部のものと似ているので、北部の陸橋と南部の陸橋はどちらも使われたようだ。

 氷河期の日本はあまり暮らしやすい場所ではなかった。日本の大半は、イギリスやカナダを覆った氷河は逃れたものの、冷たく乾燥して、ほとんどが針葉樹とカンバに覆われ、ヒトの食用植物はほとんど提供されていなかった。こうした欠点は、氷河期日本の早熟ぶりをなおさら驚異的なものとしている。ほぼ三万年前に、日本人は世界で打製石器ではなく磨製石器を開発した、最初期の民族の一つとなっている。イギリス考古学では、磨製石器は旧石器時代と新石器時代を分ける、偉大な文化的進歩だと見なされている。でもイギリスでそれが登場するのは、七千年前にも満たない、農業到来以降のことだ。

 一万三千年ほど前、氷河が世界中で溶けた頃に、日本の状況は人間から見る限り、すさまじく好転した。気温、降水、湿度はすべて増え、植物生産性は現代日本が温帯国で突出している現代の水準にまで高まった。ナッツのとれる落葉広葉樹林は、氷河期には日本南部にしかなかったが、それが針葉樹林を抑えて北部に進出した。そして人間にとってはいささか不毛だった森林が、いまやずっと生産性の高いものとなった。海面上昇で陸橋は分断され、日本はアジア大陸の一部から、巨大な群島となり、かつては平原だったものが豊かな浅海となり、何千もの生産的な新しい海岸が生じて、無数の島や湾、干潟、大陸棚などが生じ、そのすべてにシーフードが大量に発生した。

 氷河期の終わりと共に、日本史上最大の二つの変化のうち、最初のものがやってきた。土器の発明だ。人類史上初めて、人々は水を蓄えられる容器を好きな形で作れるようになった。食物を茹でたり蒸したり煮たりできるようになったので、それまでは利用しにくかった食料資源も大量にアクセス可能となった。葉の多い植物は、それまでなら焼くと燃えたり焦げたりしてしまったものが食べられるようになったし、貝もすぐに口を開くようになった。そしてドングリや栃の実のように、有毒だったり苦かったりするがそれ以外は栄養価の高い食物も、煮ることで有毒成分を取り除けるようになった。柔らかく茹でた食物は子供にも食べさせられるので、子供は乳離れが早まり、母親はあまり間隔を置かずに再び妊娠できるようになった。歯のない高齢者は、文字以前の文化では情報の貯蔵庫だったが、いまや食事を与えて寿命を引き延ばせた。こうした土器の大いなる影響はすべて、人口爆発を生み出し、日本の人口は推定数千から、25万人程度にまで増えた。

 当然ながら、土器を発明したのは日本人だけではなかった。古代世界の多くの時代や場所で、何度も独立に発明されている。だが世界最古の土器は、12,700年前に日本で作られたものだ。1960 年にその放射性炭素年代測定結果が発表されたときには、当の日本の科学者ですら、当初はそれを信用しなかった。考古学者の通常の経験では、発明は本土から島嶼部へと伝搬するはずだった。小規模の周縁社会は、その他世界に対する革命的な進歩をもたらしたりはしないはずなのだ。特に日本考古学者の経験からすると、東アジアの文化的ブレイクスルーをもたらすのは、農業にしても、書字、冶金など重要なものすべてにおいて中国のはずだった。今日、日本土器のこの早期年代が計測されてから 40 年近くたったが、考古学者たちはいまだにこの炭素 14 の計測結果と呼ばれるものに驚いている。他の初期の土器が中国やロシア東部(ウラジオストック近郊)で発見されてはいる。アジアの考古学者は日本の記録を打ち破ろうと一生懸命だ(実は、中国やロシアがその記録を破りそうだという噂も聞いている)。でもいまだに世界記録を保持しているのは日本で、肥沃な三日月地帯やヨーロッパに比べて、日本の土器は数千年も古い。

 記録破りの日本土器がかくも衝撃だったのは、島の住民が本土から学ぶはずだという偏見のせいだけではない。これに加えて、初の日本土器制作者たちは明らかに狩猟採集民で、これまた確立した見方に違反するものだったのだ。ほとんどの場合、土器は定住社会に属する。遊牧民があれこれ重たい土器を抱えてうろつきたいはずもない。それ以外に、武器や赤ん坊を宿営地移動のたびに抱えてまわることになるのだから。狩猟採集民は、通常は土器を持たない。世界の他の地域では、定住者界は農業の採用以後にしか生じなかったからだ。でも日本の環境は生産的すぎたので、人々は狩猟採集民として暮らしつつも、定住して土器を作れた。土器のおかげで、日本の狩猟採集民たちは環境が与えてくれる豊かな食料源を、集約農業が日本に伝わる一万年も前から活用できるようになった。これに対し、肥沃な三日月地帯で土器が生まれたのは、農業採用の千年ほど後のことだった。

 当然ながら、古代日本の土器は、技術的には今日の基準から見て単純なものだった。釉薬もなく、ろくろを使わずに手で作られ、竈ではなく焚き火の中で焼かれ、かなり低い温度で焼かれていた。でも時代が下るにつれて、どんな時代の基準から見てもすばらしいアートと呼べるような、驚くほど華やかな形態を持つようになった。そのほとんどは、粘土がまだ柔らかいうちに、縄をそこに転がしたり押しつけたりすることで装飾されていた。日本語では、「縄による文様」は「縄文」と呼ばれるので、この土器自体も縄文土器と呼ばれ、それを作った人々も縄文人となり、土器の発明にともなう日本前史すべてが縄文時代と呼ばれ、それが終わるのは一万年後となる。

 最古の縄文土器は、日本最南端の九州から出土した 12,700 年前のものだ。その後、土器は北に伝わり、九千五百年ほど前に現代の東京周辺に達し、最北の北海道には七千年前に到達した。土器の北進は、ナッツの豊かな落葉樹林の北進を追うものであり、定住と土器の爆発を可能にしたのは食物の爆発だと示唆している。土器が南部で発明されて、それがその一つの源から広まったという解釈をさらに強化しているのは、最初期の縄文土器の様式が日本中でかなり一様だということだ。時代を追うにつれて、何十もの地域的な様式が、日本列島の全長 2,400 キロに渡って生じている。

 縄文人はどんな暮らしをしていたのだろうか? これについては、かれらが何千もの発掘遺跡に遺したゴミや日本中の巨大な貝塚から豊富な証拠が得られている。実はかれらは、狩猟採集漁民だったが、驚くほど多様でバランスの取れた食事をしており、現代の栄養学者も感心するほどのものだ。

 大きな食べ物のカテゴリーはナッツ、特にクリやクルミで、さらに栃の実や、苦い毒を抜いたドングリだった。ナッツは秋にいくらでも採れたし、冬の間は地下の貯蔵庫(幅 2 メートル、深さ 2 メートル)に貯めておけた。他の食用植物としてはイチゴ、果実、種子、葉、タケノコ、球根、根などがあった。縄文時代のゴミ捨て場を漁る考古学者たちは、食用植物64種類を見つけている。

 当時も今も、日本の住民は世界トップの海産物消費者だった。マグロは大洋で銛漁で捕られた。イルカは今日の日本とまったく同じように、浅瀬に追い込まれて殴り殺されたり槍で殺されたりした。アザラシは浜辺で殺された。季節的な鮭は川で捕まえられた。多種多様な魚が網や延縄、鹿の角でできた釣り針で捕らえられた。そして貝やカニや海藻は干潟で集められたり、素潜りで採取されたりした。縄文人の頭蓋骨を見ると、病理学者が外耳道狭窄と呼ばれるものが高率で見られる。これは今日ではダイバーにしばしば見られるものだ。

 狩猟された陸の動物としては、イノシシや鹿がいちばんありがちで、続いてヤギやクマだった。こうした動物は落とし穴でつかまえたり、弓矢を使ったりして、犬に狩り立てられたりした。縄文時代には、ブタが自生していないところでブタの骨が見られるので、縄文人はブタの家畜化を始めていたのではないかという説もある。

 縄文の食料確保について最も激しい論争があるのは、そこで農業が行われていたかという問題だ。縄文遺跡はしばしば、日本で野生に見られるが現在は栽培もされている作物、たとえば小豆、緑豆、ヒエなどが発見される。縄文時代のこうした遺物は、作物とその祖先である野生種との形質的な差をはっきりとは示していないので、それが野生種を集めてきたのか、意図的に育成されていたのかはわからない。また遺跡では日本土着ではない食用植物や有用植物の残骸も見られるので、これは価値が高いためにアジア本土から導入されたものだろう。ソバ、瓜、ヒョウタン、大麻、紫蘇などだ。1200BC 頃の縄文末期、米や大麦、アワ、キビなど東アジアの主食穀物が登場し始める。こうした魅力的な証拠はどれも、縄文人たちが焼き畑農業を実施し始めていた可能性を高めているが、どう見てもそれは片手間で、食生活には限られた貢献しかしていない。

 今まであげた食物がすべて、縄文時代の日本で一つ残らず食べられていたと主張しているのではない。日本北部のナッツが豊かな森林では、ナッツの貯蔵穴は特に重要で、くわえてアザラシ猟と海洋漁が重要だった。ナッツのあまりない南西部では、貝の果たす役割が大きかった。でも縄文食生活の大きな特徴はその多様性だし、個別の縄文時代の食事もそうだ。たとえば食べ残しの残骸を見ると、縄文人はクリとクルミの粉に、ブタや鹿の肉と血と鳥の卵を各種の比率で混ぜ合わせ、炭水化物の多いマダム縄文クッキーか、あるいは高タンパク質のマック縄文バーガーを作っていた。最近のアイヌの狩猟採集民は、陶器のシチュー鍋をずっと火にかけっぱなしにして、そこにありとあらゆる食べ物を投げ込んだ。その縄文人の先祖は、同じ場所で同じ食べ物を食べていたので、同じことをしていたかもしれない。

 土器を見ると(中には高さ 1 メートルにも達する重量級もある)、縄文時代の狩猟採集民は遊牧ではなく定住だったはずだと述べた。定住のさらなる証拠は、その重い石器にも見られるし、半地下式で改築の跡が見られる住居や、百以上の住戸を持つ大集落遺跡や墓地などでも見られる。こうした特徴はすべて、数週間ごとに拠点を移し、作るのは小屋程度で、所有物も少なく簡単に持ち運びできるものだけという現代の狩猟採集民とは大きくちがっている。この定住生活が可能なのは、ある中心的な居住地からわずかな距離内で縄文人の手に入った、多様な資源豊富な居住地があったからだ。内陸の森林、川、海岸、湾、海洋などにすぐ到達できたのだ。

 縄文人は、狩猟採集民としては史上最高クラスの人口密度で暮らしていた。特にナッツの豊かな森林、鮭の季節、生産性の高い海のある中央日本と北部日本ではそれが顕著だった。縄文時代の日本の人口は最高25万人——もちろん現代日本と比べればわずかだが、狩猟採集民としては相当な数だ。現代でこれに比肩する規模といえば、太平洋北西岸やカリフォルニアのアメリカインディアンくらいだ。かれらも同様にナッツの豊かな森林、鮭の季節、生産性の高い海を持っている——人間社会の収束進化の事例としては見事なものだ。

 これまでは縄文人が何を持っていたかについて強調してきたので、何を持っていなかったかについてもはっきりさせておこう。集約農業はなく、そもそも少しでも農業があったかもはっきりしない。犬(そしてひょっとしたらブタ)以外は家畜もなかった。金属道具も持たず、書字も布もなかった。縄文集落や墓地は、豊かな装飾付きの家や墳墓が、他の特色のないものと対比されているような構成にはなっていない——つまり首長と平民といった社会の階層化はほとんどなかったということだ。土器の様式の地域ごとの差を見ると、政治的な中央集権化や統合に向かう様子はあまりない。こうしたマイナスの特徴はどれも、縄文時代の日本からほんの数百キロ離れていただけの、中国や朝鮮の同時代社会とは著しい対照を見せている——そして、400BC 以降に日本自体を襲った変化とも好対照だ。

 当時の東アジアにおいてさえ特異だった縄文日本といえど、完全に孤立した世界ではなかった。土器と黒曜石の分布を見ると、縄文時代の船舶が東京から南に290キロ伸びる伊豆諸島を往き来していたことがわかる。土器、黒曜石、釣り針なども、縄文人が朝鮮、ロシア、沖縄と取引していたことを示している。すでに述べたような、本土の作物半ダースほどの到来もそれを告げている。でも縄文時代の日本を研究する考古学者たちは、中国からの直接の輸入品はほとんど見つけていない。その後の日本に対する中国の大きな影響とは好対照だ。後の時代に比べると、縄文時代の日本で驚異的なのは外部世界との接触が多少はあったということではなく、その接触が縄文社会にほとんど影響しなかったということだ。縄文時代の日本は、保守的なミニ世界で、一万年にわたり孤立を保ち、ほとんど変化しなかった——脆弱で急変する当時の世界の中で、安定の島だったのだ。

 縄文時代の日本の特異性を当時の環境の中で考えるには、縄文時代の暮らしが終わりかけていた 400BC 頃に、数百キロ西のアジア本土では人類社会がどんなものだったかを思い出そう。当時の中国は各種の王国で構成され、豊かなエリートと貧しい庶民がいて、城壁都市に暮らし、世界最大の帝国となるための政治的統一目前だった。7500BC 頃から、中国は北部ではアワやヒエ、南部では米を中心とした集約農業を発達させ、ブタとニワトリと水牛を家畜化していた。少なくとも九百年前から書字を持ち、千五百年前から金属道具を使っていた。そしてちょうど世界初の鋳鉄生産を実施したところだ。こうした中国の発明品は朝鮮にも伝わった。朝鮮はすでに数千年にわたり農業が営まれていた(米は 2200BC 以来栽培されていた)し、金属は 1000BC 以来使われていた。

 日本から対馬海峡と東シナ海を渡ってすぐのところで、これだけの発展が数千年にわたり起こっていたのに、日本が朝鮮と交流があったとはいえ 400BC の時点でまだ文字もなく、石器を使う狩猟採集民に支配されていたというのは驚くべきことに思える。金属兵器を持ち、高密農業人口に支えられた中央集権国家は、石器使いの低密の狩猟採集民など一掃してしまうのが人類史の常だ。縄文時代の日本はどうやってそれを長期間生き延びたのか?

 このパラドックスへの答を理解するには、400BC までの対馬海峡は、豊かな農民と貧しい狩猟採集民を分断していたのではなく、貧しい農民と豊かな狩猟採集民を分断していたのだということを思い出そう。中国そのものと縄文時代の日本とは直接の接触はなかった。日本の貿易相手は、主に朝鮮だった。でも米は暖かい華南で栽培植物となり、ずっと寒冷な朝鮮へと北上するにはかなりの時間がかかった。新しい寒冷地に強い米の新種を開発するのに時間がかかったからだ。朝鮮における初期の稲作は水田耕作ではなく乾田耕作であり、あまり生産性が高くなかった。だから初期の朝鮮農業は、縄文日本の狩猟採集に太刀打ちできなかった。縄文人たち自身はおそらく、朝鮮農業の採用をすべき優位性をまったく見いだせなかっただろうし、農業の存在を知っていたかも怪しい。そして貧しい朝鮮の農民たちは、無理に日本に渡っても何の得もなかった。これから見る通り、その優位性がやっと逆転した時には、その変化は実に急激で劇的なものとなった。

 すでに述べたように、12,700 年前頃の九州での土器の発明と、それに伴う縄文の人口爆発は、日本史における二つの決定的変化のうち最初のものだ。もう一つの決定的な変化は、第二の人口爆発を引き起こしたものだが、南朝鮮から新しい生活様式(そして人々?)がやってきたことで始まる。この第二の変異により、縄文人たちは朝鮮からの移民に取って代わられ、それが現代日本人の先祖となったのか? それとも単に、日本にもとからいた縄文人たちがそのまま暮らしつつ、新しい有益な技を学んでいったのか?

 新しい生活様式がまず登場したのは、日本の南西端にある九州の北部、南朝鮮から対馬海峡をはさんですぐのところだった。新しい要素として最も重要なものは、日本初の金属道具、鉄器であり、そして初の文句なしの大規模農業だ。この農業は水田耕作の形をとり、水路、堤、土手、水田、米の残留物などが考古学的な発掘で見つかっている。考古学者たちはこの新しい生活様式を「弥生」と名付けている。これは 1884 年に、その特徴となる土器が初めて発見された東京の地名にちなんだものだ。縄文土器とちがい、弥生土器は同時代の南朝鮮土器ととても似た形をしている。新しい弥生文化の特徴のうち、それまでの日本にはなくて確実に朝鮮からきた多くの要素としては、青銅器、布織り、ガラス数珠、地下の米貯蔵穴、死者の遺骸を甕で埋葬する習慣、朝鮮式の道具や家屋などがある。

 弥生時代の作物として最も重要だったのは米だが、それまでの日本にはなかった 27 の新種の作物や、まちがいなく家畜化されたブタなども育成されていた。弥生農民は二毛作も行っていたかもしれない。夏には水田で米を作り、冬にはその同じ水田の水を抜いて、アワやヒエ、大麦や小麦を育てるのだ。当然ながら、この集約農業によるきわめて生産性の高い仕組みはすぐに九州の人口爆発をもたらした。九州では考古学者が縄文遺跡よりはるかに多くの弥生遺跡を見つけている。時間的には、縄文時代のほうが 14 倍も長かったのだが。

 ほとんど一瞬のうちに、弥生農業は九州から、隣接する四国と本州に飛び火して、たった二百年で東京近辺に達し、さらに百年後には本州最北部に到達している(九州における初の弥生集落から 1600 キロも離れている)。九州最古の弥生遺跡は、新しい弥生様式の土器と古い縄文様式の土器が両方出土している。でも弥生文化と弥生土器が本州に広まるうちに、縄文土器はもはや見られなくなった。それでも縄文文化の一部の要素は、完全に消えたわけではない。弥生農民は相変わらず縄文式の石刃道具を使い続けた。これは朝鮮や中国では完全に金属道具に置き換わっていた。一部の弥生時代家屋は朝鮮式で一部は縄文式だった。特に弥生文化が東京から北へ広まるにつれて、そこは稲作の生産性が低い寒冷地となり、また縄文の狩猟採集民の密度が最も高いところだったので、弥生縄文混合文化が生じた。そこでは釣り針は金属製だが縄文文化の形で、土器も弥生式の変形ながら縄文式の縄目がついている。本州北端をしばらく占拠したものの、弥生農民はその地域を放棄している。たぶん稲作がそこでは縄文式の狩猟採集生活に太刀打ちできなかったからだろう。その後二千年にわたり、本州北部は未開の地となり、その先の北海道やそこのアイヌ狩猟採集民にいたっては、19 世紀に併合されるまで日本の一部とすら見なされていなかった。

 初期の弥生鉄器は朝鮮から大量に輸入されたものだった。でも数世紀後に、日本国内で鉄の精錬と生産が始まった。また弥生期の日本が社会階層の初期の兆候を見せ始めるにも数世紀かかっている。これは特に、墓地に現れている。100BC 以降、墓地の区切られた一部は、明らかに台頭してきたエリート層の墓と見られるもののために取っておかれている。その墓は中国から輸入された贅沢品、たとえば美しい翡翠や銅鏡などが副葬品となっている。弥生時代の人口爆発が進むにつれて、そして水田耕作に最適な沼地や灌漑可能な平野が埋まるにつれて、戦争の考古学的な証拠がますますひんぱんに見られるようになる。矢尻の大量生産、村を囲む防衛用の濠、矢や槍に貫かれて埋められた頭蓋骨などだ。こうした明らかな戦争の徴は、中国の年代記における日本についての最初期の記録でも裏付けられている。それによれば、倭の国は百の小さな政治ユニットに別れて、お互いに戦争し合っているという。

 AD300-700 年の時期には、考古学的な発掘資料と、後の年代記に書かれた苛立たしいほど曖昧な記述により、政治的に統一された日本がおぼろげながら浮かび上がってくる。AD300 年以前のエリートの墓は小さくて、地域ごとに多様性があったが。AD300 年頃、ますます巨大な鍵穴型の墳墓、通称古墳が、本州の畿内地方で作られるようになった。そしてそれが、九州から東北地方まで、かつての弥生文化地域すべてに広がる。なぜ畿内地方だったのだろうか? そこが日本最高の農地を擁するからかもしれない。そこは日本の超高価な神戸牛が育てられるところだ。さらに日本の古代首都も、1868 年に東京に移るまでは、この畿内地方の京都に置かれていた。

 古墳は全長最大500メートル、高さ30メートル以上にも達するので、古代世界における墳墓型の墓としては最大と言えるかもしれない。これを築くのに必要なすさまじい量の労働と、日本中でその様式が共通しているということは、大規模な労働力を動員できて、日本全国を統一しようとしていた強力な支配者がいたことを示している。発掘された古墳では華やかな副葬品が見つかっているが、最大級のものはどれも、日本の皇室の先祖の墓とされているために未だに禁じられている。古墳で見られる明らかな政治的中央集権は、ずっと後になって日本や朝鮮の年代記に記録された古墳時代の日本天皇の記述を裏付けている。古墳時代における日本への朝鮮からのすさまじい影響——それが朝鮮による日本支配を通じてのものだろうと(朝鮮の見方)、日本が朝鮮を支配した結果だろうと(日本の見方)——は、仏教や書字、騎馬、新しい陶芸手法や冶金技術を、アジア本土から日本にもたらした。

 やっと AD712 年に日本初の年代記が完成した。一部は神話で一部は史実を改ざんしてはいるが、それによって、日本は完全に記録された歴史を持つに至る。712年の時点で、日本に暮らしていた人々は文句なしの日本人で、その言語(古代日本語と呼ばれる)はまちがいなく現代日本語の祖先だ。いまの天皇である明仁は、その AD712 年の年代記執筆を命じた天皇の直系82代目の子孫となる。彼は伝統的には、伝説上の初代天皇である神武、太陽神アマテラスのヒイヒイひ孫の 125 代目の直系子孫ということになっている。

 弥生時代 700 年の間に、日本文化は縄文時代一万年をはるかに越える壮絶な変化をとげた。縄文時代の安定性(もとい保守性)と過激な弥生時代の変化との対照ぶりは、日本史で最も驚かされる特徴だ。明らかに、BC400 年に何かすさまじいことが起こったようだ。何だろう? 現代日本人の先祖は、縄文人なのか弥生人なのか、その混合なのか? 弥生時代に、日本の人口は驚異の 70 倍となった。何がその変化を引き起こしたのか? 三つの仮説が主張されて熱い論争の的となっている。

 一つの理論は、縄文の狩猟採集民自身がだんだん現代日本人に進化した、というものだ。すでに何千年にもわたり、村落定住を行ってきたので、農業を受け容れる基盤はできていたかもしれない。弥生の大変化で生じたのは、単に縄文社会が寒冷地に耐えられるもみと、水田耕作についての情報を朝鮮から得ただけで、それで食料生産が増えて人口も増えただけなのかもしれない。この理論は一部の現代日本人にウケがいいようだ。というのも日本人の遺伝子プールに、歓迎されざる朝鮮の遺伝子があまり入ってこないし、日本人が少なくとも過去 12000 年にわたって独自の存在だったと描くからだ。

 第二の理論は、第1の理論を好む日本人には不評だが、弥生変革は朝鮮からの大量の移民流入を示す、と論じる。それに伴い朝鮮の農業方式、文化、遺伝子も持ち込まれたという。九州は、朝鮮の稲作農民には天国に思えただろう。朝鮮よりも温暖で沼地が多く、したがって稲作には朝鮮よりずっと向いている。ある推計によれば、弥生時代の日本には朝鮮から数百万人の移民がやってきて、縄文人(弥生変革直前の推計人口 7 万 5 千人)の遺伝的貢献を完全に圧倒したという。もしそうなら、現代日本人は朝鮮移民の子孫で、独自の変異文化を過去二千年で発達させたことになる。

 最後の理論は、韓国から移民があったという証拠は認めるが、それが大量だったことは否定する。むしろ、きわめて高収量の農業は少数の稲作農家が縄文狩猟採集民よりずっと急速に再生産することを可能にして、やがてそれが数の上でも縄文人を上回ったのだと述べる。たとえば、朝鮮人五千人が九州にやってきたとしよう。でも、稲作のおかげで赤ん坊を食わせられ、人口を年率 1 パーセントで増やせたとする。この増加率は、狩猟採集民で見られるよりはずっと高いが、農民では簡単に実現できる。ケニアの人口は現在年率 4.5 パーセントで増えている。五千人の移民は七百年間で五百万の子孫を残し、これまた縄文人を圧倒することになる。第2の理論と同じく、これは現代の日本人をちょっと変異した朝鮮人だと考えるが、大規模移民は必要ないという。

 世界の他の部分での同様の変異と並べると、第1の理論よりは第 2、第3の理論のほうがもっともらしいように思える。過去12000年で、農業は世界で最大9箇所でしか誕生しなかった。中国、肥沃な三日月地帯などだ。一万二千年前には、地上のあらゆる人が狩猟採集民だった。こうした少数の農業発祥の地から農業が広がるのは、通常はよその狩猟採集民が農業を採用した結果ではない。狩猟採集民は、縄文人が 10,700BC から 400BC まで明らかにそうだったように、保守的なものだ。農業が拡大したのは主に農民が狩猟民より急速に増えたせいだ。そしてもっと強力な技術を発明し、狩猟民を殺したり、農業に適した土地すべてから狩猟民を追い払ったりしたのだ。現代では、ヨーロッパの農民が北アメリカ東部のインディアン狩猟民を駆逐し、アボリジナルのオーストラリア人を駆逐し、南アフリカのサン人を駆逐した。同じように、石器を使う農民も前史時代にはヨーロッパ、東南アジア、インドネシアの至るところで狩猟民を駆逐した。こうした前史時代の拡大期には、農民は狩猟民に対して大した優位性を持っていなかったのだが、400BCの朝鮮農民はおそらく縄文狩猟民に対してすさまじい優位性を持っていただろう。当時の朝鮮人はすでに鉄器を持ち、かなり高度な集約農業を実施していたからだ。

 この三理論のうち、日本に当てはまるのはどれだろう? この疑問に直接答える唯一の方法は、縄文人と弥生人の骨と遺伝子を、現代日本人とアイヌに比べることだ。いまや骨格については大量の計測値がある。さらに近年になって分子遺伝学者たちは古代人骨から DNA を抽出しはじめ、古代の日本人と現代の日本人の遺伝子が比較できるようになった。その結果を見ると、縄文人と弥生人の骨は平均的に見て、すぐ見分けがつく。縄文人は背が低めで、上腕部が長目で脚は短め、目の間隔が広く、顔は短くて広く、顔面の「等高線」がずっと強調されており、ものすごく眉の稜線が盛り上がり、鼻や鼻柱が高い。弥生人は平均で3-5センチほど身長が高く、目は寄っていて、顔は細長く、眉の稜線や鼻は平たい。弥生時代の人骨の一部はまだ縄文的な特徴を持つものもあるが、これは縄文/弥生変革のどの理論でも予想されるものではある。古墳時代までに、アイヌ以外の日本全土の骨格は、現代の日本人や朝鮮人と似た均質な集団となっている。

 こうしたあらゆる点で、縄文人の骨は現代日本人のものとちがっていて、現代アイヌのものといちばん似ているし、弥生人の骨は現代日本人と似ている。現代日本人は、朝鮮系の弥生人とアイヌ系の縄文人の混血ではないかという想定で、遺伝学者はこの二つの遺伝子プールの貢献を計算しようとした。結果として、朝鮮/弥生系の貢献が一般に圧倒的だ。アイヌ/縄文の貢献は、南西部(九州)で最も低い。ここは朝鮮からの移民の多くが到来したところだし、縄文人口は少なかったからだ。そして森林が豊かにナッツを作り、縄文人の人口密度が高く、弥生式稲作が一番不利だった日本北部(東北地方)では縄文系の貢献が最も高い。

 というわけで、朝鮮移民は確かに現代日本人に大きな貢献をしている。ただしそれが大量移民によるものか、それとも少数の移民が高い人口増によりそうなったのかはまだはっきりしない。アイヌは古代縄文人の子孫にずっと近く、それが弥生植民者たちの朝鮮系遺伝子や現代日本人と混血している。

 稲作が最終的に、縄文狩猟民に対する圧倒的な優位性を朝鮮系農民に与えたことを考えると、朝鮮に農業がやってきて数千年間もほとんど日本進出ができなかったのに、なぜこの時点でいきなり急激な勝利を収めたのか、と不思議に思える。すでに述べた通り、朝鮮農業は比較的生産性が低く、結果として貧しい農民は豊かな狩猟民より低い地位にとどまっていた。最終的に農民側を有利にして弥生変革の引き金となったものは、四つの要因が同時にきたことだと思われる。生産性の低い乾田稲作にかわる、水田稲作の開発、寒冷地稲作に適した品種改良の継続、朝鮮農業人口の増大により移民圧力の増大、水田耕作に必要な木製のシャベルや鋤などを効率的に量産するための鉄器開発。鉄器と集約農業が同時に日本に到来したというのは、おそらく偶然ではないだろう。

 この章の冒頭で、特徴的なアイヌとあまり特徴のない日本人が日本に同居するようになったかについて、色眼鏡のない解釈を述べるところから始めた。一見すると、こうした事実を見れば、アイヌは日本先住民の子孫であり、日本人はもっと最近やってきたという示唆が得られそうだ。いまや考古学、身体人類学、遺伝学もこの見方を支持していることも見た。

 だが冒頭でやはり述べた通り、ほとんどの人(特に当の日本人)が別の解釈を探したくなるような有力な反論についても述べた。日本人が本当に最近になって朝鮮からやってきたなら、日本語と朝鮮語はかなり似通っているはずだ。もっと一般的に言えば、日本人が九州でごく最近になって、アイヌ的な縄文先住民と朝鮮からの弥生侵略者との混合で生じたのであれば、日本語は朝鮮語とアイヌ語の双方にかなり似ているはずだ。ところが日本語とアイヌには明らかな類縁性がなく、日本語と朝鮮語の類縁性もかなり遠いものだ。混血がたった2400年前に起きたなら、なぜそんなことになるのだろう? このパラドックスの解消として、私は以下の説を提案したい。縄文時代の九州の住人と弥生時代の侵略者たちの言語は、実は現代アイヌ語や現代朝鮮語とは、それぞれあまり似ていたとは考えにくいのだ。

 まずアイヌ語を見よう。現代の私たちが知っているアイヌ語は、日本北部の北海道にいるアイヌ人が最近しゃべっていたものだ。だから北海道の縄文住民もおそらく、現代アイヌ語に近い言語をしゃべっていただろう。でも九州の縄文住民はおそらく、ちがう言語をしゃべっていた。九州南端から北海道北端まで、日本列島はほぼ 2400 キロもある。縄文時代には、地域的な食料確保戦略にすさまじい多様性があったこともわかっているし、土器の様式も多様だし、政治的にも統一されていなかった。これに応じて縄文時代一万年の間に、縄文人たちは言語的にもかなりの多様性を発達させていただろう。考古学的な証拠が示唆するように、北部の縄文人がロシア経由の陸橋で到来し、南の縄文人が朝鮮から到来したなら、一万二千年前の時点ですでに両者の言語はかなりちがっていた可能性さえある。

 実は北海道や東北地方の日本の地名は、川を指すアイヌ語「内」「別」や岬を指すアイヌ語「尻」を含むが、日本のもっと南方にはそれがない。これを見ると、弥生人や日本の開拓者たちは多くの縄文現地名を採用したが(これはアメリカ白人がアメリカ先住民の地名、たとえばマサチューセッツやミシシッピーなどをたくさん採用したのと同じだ)、そのアイヌ語は日本最北部でのみ縄文言語として使われていたということが示唆される。九州の縄文言語は、むしろ南方のオーストロネシア語族と共通の先祖を持っていたかもしれない。この語族にはポリネシア語やインドネシア系言語や、台湾先住民の言語が含まれる。多くの言語学者が指摘するように、日本語は通称開音節 (open syllable、子音と母音がセットになって「Hi ro hi to」などとなるようなもの) を好むなど、オーストロネシア語族の影響が多少見られる。古代台湾人は、大海洋民族で、その子孫は遙か南、東、西へと広範に広がっている。一部は北の九州へ向かった可能性はある。

 ということは、北海道の現代アイヌ語は、九州の古代縄文言語のモデルにはならないということだ。同様に、現代朝鮮語は 400BC における朝鮮からの古代弥生言語のモデルとしては不適切かもしれない。現代朝鮮語は、新羅王国の言語から派生したものだ。この王国は朝鮮の内戦に勝利して統一朝鮮を作った王国だが、それに先立つ世紀に日本と密接な関係を持っていたのは、新羅ではなかった。初期の朝鮮年代記を見ると、朝鮮の各種王国はそれぞれ別の言語を使っていという。新羅に滅ぼされた王国の言語についてはあまりわかっていないが、こうした王国の一つ(高句麗)から残された数語は、対応する現代朝鮮語よりは、対応する現代日本語の単語にずっと近い。朝鮮の言語は、政治的統一により三王国時代が到来する以前の 400BC にはもっと多様だったかもしれない。私が見たところ、400BC に日本に運ばれて、現代日本語へと進化した朝鮮言語は、現代朝鮮語のもとになった新羅語とはかなりちがっていたのではないか。したがって、現代日本人と現代朝鮮人が、言語面ではあまり似ていないのに外見と遺伝子はずっと似ているのも無理はないだろう。

 この結論は、日本と韓国の双方で人気が出ないだろう。現在ではお互いに嫌い合っているからだ。歴史的にお互いにを嫌う理由は十分にある。特に韓国人が日本人を嫌う理由のほうは。アラブとユダヤ人のように、韓国人と日本人は血筋ではつながっているのに、伝統的な敵対にとらわれている。だが敵対は、東アジアでも中東でも相互破壊的だ。日本人も韓国人も認めたがらないが、両者はその草創期を共有する双子の兄弟のようなものなのだ。東アジアの政治的な未来は、相当部分がこの両者が古代の絆を再発見するのに成功できるかどうかにかかっている。

参考文献
 最も最近の本一冊を使った日本人の起原に関する記述は、Mark Hudson, Ruins of Identity: Ethnogenesis in the Japanese Islands (Honolulu: University of Hawaii Press, 1999) だ。それに先立つ主要な記述としては、C. Melvin Aikens and Takayasu Higuchi, Prehistory of Japan (New York, Academic Press, 1982), およびKenji Imamura, Prehistoric Japan: New Perspective on Insular Eastr Asia (Honolulu: University of Hawaii Press, 1996) がある。これに対応した朝鮮についての記述としては Sarah Milledge Nelson, The Archaeology of Korea (Cambridge: Cambridge University Press, 1993) を参照。

 Hudson 本は、日本国家成立までの時期に専念しているが、国家形成から現代までの歴史を扱ったのが Edwin Resichauer (訳注:原著ママ)Japan: The Story of a Nation, 3rd ed. (Tokyo, Tuttle, 1981) 邦訳ライシャワー『ライシャワーの日本史』(講談社学術文庫、2001) だ。Conrad Totman, Early Modern Japan (Berkeley: University of California Press, 1993) は1568-1868年に専念している。日本国家に対する朝鮮の貢献について、朝鮮側からの見方は Wontack Hong, Paekche of Korea and the Origin of Yamato Japan (Seoul: Kudara International, 1994) に書かれている。

 『銃、病原菌、鉄』における私の記述を補い更新するような、農業の拡大に関する最近の世界的な調査に興味がある読者に奨めたい本が二冊ある。Peter Bellwood and Colin Renfrew, eds., Examining the Farming/Language Dispersal Hypothesis (Cambridge: McDonald Institute of Archaeological Research, 2003) と Peter Bellwood, First Farmers: The Origins of Agricultural Studies (Oxford: Blackwell, 2005) だ。似たような分野をカバーする短いレビュー論文としては、拙稿 “Evolution, consequences and future of plant and animal domestication” Nature 418:34-41, および Jared Diamond and Peter Bellwood, “Farmers and their languages: The first expansions,” Science 300: 597-603 (2003) がある。

2003年エピローグ:現代の『銃、病原菌、鉄』
 『銃、病原菌、鉄』は、複雑な人類社会の台頭が、過去13,000年で大陸ごとにちがう展開を見せたのかを述べた本だ。原稿の改訂を終えたのは1996年で、本は1997年に刊行された。その後、私はほかの仕事、特に文明の崩壊に関する次の本の作業で忙しかった。だからいまや、『銃、病原菌、鉄』執筆と私との間には、7年の時間と集中力の隔たりがあることになる。振り返って見ると、本書はどうだろうか。そして刊行以来、その結論を変えたり拡張したりするようなことは起きただろうか? もちろん著者自身としてのバイアスはあるが、本書の中心的なメッセージはあまり損なわれることなく、刊行以来で最もおもしろい展開は、本書の物語を現代世界や近代史に広げる四つの展開だった。

 私の主要な結論は、社会が違う大陸でちがう発展を見せたのは、大陸の環境がちがっていたからであり、人間の生物学がちがっていたからではない、というものだった。先進技術、中央集権化された政治組織など、複雑な社会の各種特徴は、余剰食糧を貯蔵できる高密な定住社会でしか生じ得ない——つまり8500BC頃に始まった農業の台頭に食料を依存する人々が必要だった。だが、その農業の台頭に不可欠な、栽培可能な野生植物や家畜化できる動物は、各大陸にかなり不均一な分布を見せていた。もっとも価値の高い栽培・家畜化可能な野生種は、地球の九つの章地域にしか分布しておらず、その地域が農業最初期の故郷となった。こうした故郷にもともと住んでいた人々は、銃、病原菌、鉄の開発に向けて戦陣を切ることになる。こうした故郷の住民の言語や遺伝子、そしてその家畜や作物、技術、書字は、古代世界でも現代世界でも支配的なものとなった。

 過去六年ほどで、考古学者、遺伝学者、言語学者など各種専門家が発見した成果により、この物語についてのわたしたちの理解はもっと豊かになり、その主要なあらすじは変わっていない。三つの例を挙げよう。『銃、病原菌、鉄』の地理的なカバー範囲の中で、最大のギャップは日本についてのものだった。1996 年当時は日本の前史について、私はあまり言うべきことを持っていなかった。いまや最近の遺伝的証拠から、現代日本人は『銃、病原菌、鉄』で論じた他の農業拡大と似たものの産物だということが示唆されている。朝鮮の農民たちが 400BC 頃から日本南西部に拡大し、日本列島を北上したというわけだ。この移民たちは集約的な稲作と金属道具を持ち込み、日本原住民(現代のアイヌと類縁)と混血し、現代日本人を生み出した。これは肥沃な三日月地帯の農民たちが拡大してヨーロッパ原住民である狩猟採集民と混血し、現代のヨーロッパ人となったのと同様だ。

 別の例としては、考古学者たちはもともとメキシコのトウモロコシ、豆、瓜類は、メキシコ北東部とテキサスといういちばんの直線ルート経由でアメリカ南東部にやってきたと考えていた。でもいまや明らかになりつつあるように、この地域は乾燥しすぎて農業に向かなかった。こうした作物はむしろ遠回りして、メキシコからアメリカ南西部に広がり、アナサジ社会の台頭を引き起こしてから、ニューメキシコとコロラドへと大平原の川の峡谷を通って東に向かい、アメリカの南東部に到達したのだった。

 最後の例として、第十章で私はアメリカ大陸の南北軸に沿って、同じまたは類似の植物が繰り返し独自に栽培作物化され、そしてそれがなかなか広がらなかった様子について、ユーラシアの作物が一回だけ栽培作物化されて、急激に東西に広がったことと対比させた。こうした対照的なパターンの例はもっと見つかっているが、今ではユーラシアの五大家畜もまた、ユーラシアの各地で独立に家畜化されていたらしい——ユーラシアの植物とはちがい、アメリカ大陸の食物と似たパターンだ。

 これらを始めとする各種の発見は、古代世界において複雑な社会が台頭するにあたり、農業の勃興が引き金を引いたというもとの話に細部を追加してくれるもので、私は未だにこれに魅了される。だが『銃、病原菌、鉄』を基盤とした最大の進歩は、本書の主な焦点ではなかった分野への展開だ。本書の刊行以来、何千人もが手紙や電話やメールや対面で、彼らの研究している現代や最近のプロセスと、『銃、病原菌、鉄』で扱った古代の大陸プロセスとの類似や対照に気がついたことを話してくれた。こうした話題のうち、四つを採りあげるよう。手短にいうと、ニュージーランドのマスケット戦争の見事な例、だれもが不思議に思う「なぜヨーロッパであって中国ではなかったのか」の問題、細かく見たときの古代社会と現代ビジネス社会における競争の類似制、そしてなぜ今日の一部社会が豊かで他が貧しいかという議論に対して『銃、病原菌、鉄』が持つ関係だ。

 1996 年に私は、短い段落一つ(十三章)使って、19世紀ニュージーランド史におけるマスケット戦争なるものを、強力な新技術伝搬の例として挙げた。マスケット戦争というのは、1818 年から 1830 年にかけて、ニュージーランド先住民マオリ人たちが行った一連の部族間戦争で、あまりよく理解されていない。これらの戦争は、それまで石器や木製武器で戦っていた部族の間に、ヨーロッパ製の銃が広まったことで生じた戦争だった。その後、本が2冊刊行されて、ニュージーランド史におけるこの混沌とした時期の理解を深め、それをもっと広い歴史的な文脈に位置づけて、それが『銃、病原菌、鉄』にどう関係していたかをなおさらはっきりさせてくれた。

 1800年代初頭に、ヨーロッパの交易人や宣教師や捕鯨人たちがニュージーランドを訪れるようになったが、そこはそれまで六百年にわたり、マオリ人と呼ばれるポリネシア系の農民や漁民が暮らしていた。最初のヨーロッパ人訪問者たちはニュージーランド北端に集中した。ヨーロッパ人ともっとも早く交流をもった北部のマオリ部族が、初めてマスケット銃を手に入れた部族となり、マスケット銃を持たない他のすべての部族に対し、すさまじい軍事的な優位性を獲得した。彼らはまずその優位性を利用して、伝統的に敵対していた周辺部族に意趣返しをした。でも彼らはマスケット銃を使って、新種の戦争を始めたのだ。何百キロも離れたマオリ部族に対して遠距離襲撃をかけ、奴隷獲得と名誉の面でライバルとなる部族を殲滅させたのだ。

 こうした遠距離襲撃を可能にした点で、ヨーロッパのマスケット銃と少なくとも同程度には重要だったのが、ヨーロッパ渡来のジャガイモだ(もとは南米産)。これはサツマイモを主体とする伝統的なマオリ農業より、農民一人あたりまたは土地一定面積あたりずっと多くの食物を提供した。それまでマオリ部族が遠征を仕掛けられなかった主要な理由は、故郷から離れた戦士たちを長期間食わせておくという問題と、戦士となるはずの村民が家に残ってサツマイモを育てるのに依存する、女子供の留守番人口という二重の問題だった。ジャガイモはこのボトルネックを解消した。したがってマスケット戦争をもっと泥臭く呼ぶなら、ジャガイモ戦争と言うべきか。

 名前はどうあれ、マスケット/ジャガイモ戦争はきわめて破壊的で、当初のマオリ人口の四分の一を殲滅させた。死人の数が最大だったのは、大量のマスケット銃とジャガイモを持つ部族が、そうしたものをほとんどまったく持たない部族を襲撃したときだった。まっ先にマスケット銃やジャガイモを手に入れられなかった部族の中には、それに触れるまでにほぼ絶滅させられたところもあり、それ以外の部族は何とかしてそれらを入手して、かつての軍事均衡を復活させようと必死になった。こうした戦争の一例が、第二章で述べたマオリ部族による他のマオリ部族の制圧と大量虐殺だ。

 マスケット/ジャガイモ戦争は、過去一万年を通じて一貫した主要プロセスを示している。銃、病原菌、鉄、あるいは初期の技術軍事的優位性を持った人間集団が、他の集団を犠牲に拡大し、やがてその他の集団は駆逐されるか、あるいはみんなが新しい優位性を共有するようになる。最近の歴史を見ると、ヨーロッパ人が他の大陸に拡大するにつれて無数の例が生じている。多くの場所では、非ヨーロッパの地元民は銃を獲得する機会をまったく持てずに、結局は殺されたり自由を失ったりしている。だが日本は銃を獲得(正しくは再獲得)するのに成功し、たった五十年でその新たな銃を使って、1904-05 年の日露戦争でヨーロッパ列強を打破している。北米の平原インディアンたち、南米のアラウカニアンインディアンたち、ニュージーランドのマオリ人、エチオピア人は銃を獲得して、ヨーロッパ人による征服に長いこと抵抗した(最終的には負けたが)。今日では、第三世界諸国は最新技術や農業的な優位性を獲得することで、必死で第一世界に追いつこうとしている。こうした技術や農業の拡散は、結局は人間集団同士の競争のせいで生じるのだが、過去一万年で無数の地域や時代に起こっていたはずだ。

 その意味で、ニュージーランドのマスケット/ジャガイモ戦争に風変わりなところは何もない。ニュージーランドに限られた、局所的な戦争ではあって、それが世界的な関心事となるのは、似たような無数の局所的現象が、実に時間空間的に限られたところに狭く限定され、きわめて明瞭な事例を提供してくれているからだ。マスケット銃とジャガイモは、ニュージーランド北端に導入されてから二十年以内に、千四百キロ離れたニュージーランド南端に広がっていた。それまでは、農業、書字、改良型の銃以前の武器は、もっと大きな距離を伝搬するのにずっと長い時間がかかったが、人口の入れ替わりと競争という根底の社会プロセスは基本的に同じだ。現代の我々は、同様のしばしば暴力的なプロセスを通じて、核保有八カ国から核兵器が世界中に拡散するだろうかと案じているわけだ。

 1997年以来活発に議論された第二の分野は、「なぜヨーロッパであって中国ではなかったのか」とでも題することができる。『銃、病原菌、鉄』の大半は、大陸間のちがいを問題にしていた。つまり、過去千年で世界中に広がったのが、なぜユーラシア大陸人であってオーストラリアのアボリジナル人、サブサハラのアフリカ人、アメリカ先住民ではなかったのか、ということだ。でも、多くの読者が「なぜそのユーラシア大陸人の中でも、世界に広がったのはヨーロッパ人で、中国人とか他の集団ではなかったのか?」と不思議に思ったのには気がついた。だから『銃、病原菌、鉄』を終えるにあたり、この当然の疑問についてほっかむりしたままでは見逃してもらえないだろうとはわかっていた。

 だからこの点については、本のエピローグでささっと触れた。ヨーロッパが中国を支配したのは、ほとんどの歴史家が示唆する直接要因(たとえば中国の儒教VSヨーロッパのユダヤキリスト教の伝統、西洋科学の台頭、ヨーロッパの資本主義と重商主義、イギリスの森林伐採と石炭)より深い理由があるのでは、と私は示唆した。これらを含む直接要因の背後に、私は「最適分断原理」を見いだした。中国が早期に統一され、その後おおむね統一状態が続いたのに対し、ヨーロッパがずっと分断されていたことを説明する究極の地理要因だ。ヨーロッパの分断は、国同士の競争を促進し、イノベーターに各種の支援源と訴追からの逃げ場を提供することで、技術、科学、資本主義の発展をうながした。統一中国ではそうならなかったのだ。

 その後、歴史家たちはヨーロッパの分断、中国の統一、ヨーロッパと中国の相対的な強さはどれも、私の記述よりずっと複雑なんだと指摘してくれた。まず「ヨーロッパ」「中国」と便宜的に区分できる政治社会領域の範囲は時代を追うにつれて変化した。中国は少なくとも15世紀まではヨーロッパより技術的に進んでいたし、将来またそうならないとも限らない。そうなったら「なぜヨーロッパであって中国ではなかったのか」という問題は、特に深い理由などない一時的な現象の話になってしまうかもしれない。政治的な分断は、建設的な競争の場を提供するよりも複雑な影響をもたらす。競争は、建設的とは限らず破壊的にもなる(両世界大戦をごろうじろ)。分断という概念自体が、一枚岩ではなく多面的だ。それがイノベーションに与える影響は、分断の境界を越えて人やアイデアがどこまで自由に移動できるかにもよるし、その分断された同士が似た者同士ではなく、独自性を持つかにもよる。分断が「最適」かどうかは、どんな最適性の尺度を使うかでも変わる。技術革新に最適な政治分断は、経済的な生産性や政治的安定や人の幸福にとっては最適ではないかもしれない。

 私見では、社会科学者の相当部分はいまでも、ヨーロッパと中国の歴史的道筋の差を説明するのに、直接的な説明のほうが好きだ。たとえば最近出た思慮深い論説で、ジャック・ゴールドストーンはヨーロッパ(特にイギリス)の「エンジン科学」の重要性を強調している。つまり、科学を機械やエンジンの開発に応用することだ。ゴールドストーン曰く「エネルギーを巡り、あらゆる前工業経済が直面した二つの問題があった。量と集中だ。あらゆる前工業経済が使える力学エネルギーは、水流と、食わせられる動物や人、利用できる風力に限られていた。地理的に固定された領域では、この絶対量はがっちり固定されていた。(中略)化石燃料のエネルギーを抽出して有用な仕事にふりむける手段を考案した、初の経済や軍事政治勢力がどれほどの優位に立てたかは、いくら強調しても強調し足りない。(中略)蒸気の力を紡績や、水運・陸運、煉瓦造り、脱穀、製鉄、掘削、建設など、各種の工業プロセスに適用できたことが、イギリス経済を一変させた。(中略)だから、エンジン科学の豊かな発達は、ヨーロッパ文明の必然的な発展などではまったくなく、17世紀・18世紀のイギリスにたまたま生じた、個別の(きわめて条件つきとはいえ)条件の偶然の産物だったのかもしれないのだ」。もしこうした理由づけが正しいなら、深い地理的・生態的な説明など探しても無駄ということだ。

 『銃、病原菌、鉄』エピローグで私が述べた見方に近い、正反対の少数意見としては、グレアム・ラングが詳細に論じたものがある。「ヨーロッパと中国の、生態環境や地理のちがいは、両者における科学や学問自体のきわめて異なる展開を説明するのに役だった。まず、ヨーロッパは(降水依存)農業で国の役割がほとんどなく、このために国家は地域コミュニティとはほとんどの場合にかなり縁遠い存在だった。そして農業革命がますます農業余剰を増やすようになると、中世末期になって中央集権国家が誕生する以前に、かなり自立的な町と、大学のような都市的機関が成長できるようになった。中国における(灌漑と水の制御による)農業は、これに対して大河峡谷沿いに、介入的で強圧的な国家が早い時期に発達するのを有利にしたし、町やその期間はヨーロッパのような地域自立性の水準を確立することは一度もなかった2。第二に、中国の地理はヨーロッパとはちがって、広大な地域にわたる征服と統一を有利にしていた。それが起きたら、その後は帝国支配下の比較的安定した時期が長く続く。結果として生じた国家体制は、現代科学の登場に必要な条件の大半を抑圧するものだった。(中略)ここに述べた説明はもちろんあまりに単純化しすぎている。でもこの種の記述が持つ有利な点は、ヨーロッパと中国の社会文化的なちがいにとどまる説明にしばしば忍び込む、循環論法を逃れることができるという点だ。そうした説明は常に、さらなる疑問をぶつけることができる。なぜヨーロッパと中国は、そうした社会文化要因の点でちがっていたのですか、と。だが最終的に地理と生態環境に基づく説明は、いちばん根底にたどりついているのだ」

 歴史家にとって、こうしたちがったアプローチで折り合いをつけて「なぜヨーロッパであって中国ではなかったのか」という問題に答えるのは大きな課題となっている。その答えは、今日の中国とヨーロッパの最高の統治方法についても重要な意味合いを持つかも知れない。たとえば、ラングや私の見方からすれば、1960年代と1970年代の中国文化大革命の惨劇は、ユニークな一回限りの異常現象ではなく、中国が政治システムにずっと大規模な地方分権を導入できない限り、将来の同様な最劇の予告編となっているのかもしれない。逆にヨーロッパはといえば、今日におけるその政治経済統合への性急な歩みは、過去五世紀におけるヨーロッパ成功の根本要因をどうやって解体せずにすますか、という点についてもっと十分に考える必要が出てくる。

 『銃、病原菌、鉄』のメッセージを現代に拡張する第三の最近の試みは、私にとって最も意外なものだった。本書刊行後まもなく、ビル・ゲイツから好意的な書評を受けた。すると、他のビジネス人や経済学者たちから、『銃、病原菌、鉄』で論じた人類全史と、ビジネス界における集団の歴史との間に類似性がありそうだという手紙が舞い込むようになったのだ。このやりとりは、以下の大きな問題に関するものだった:人間の集団や組織や企業を組織して、生産性や創造性、イノベーション、富を最大化する最高の方法は何か? 中央集権化した方向性(極端な場合は独裁者)を持つべきなのか、それともリーダーシップは分散させるか、あるいは極端にはアナーキーがいいのか? その集団は一つのグループにまとめるべきか、あるいは少数のグループまたは多数のグループに分けるべきなのか? 外部に対しては保護主義的な関税の壁を設けるべきなのか、それともビジネスを自由な競争にさらすべきなのか?

 こうした問題は、多くの種類のグループにとって、多くのちがった水準で生じる。国全体のまとめかたにも当てはまる。最高の統治形態が優しい独裁者型か、連邦型か、アナーキー的な何でもありか、という昔ながらの議論を思い出そう。同じ問題は、同業界内の各種企業の組織についても持ち上がる。最近はマイクロソフトが好調で、かつては好調だったIBMが後塵を拝したが、その後大規模な組織改編を行って、再び成功したというのをどう説明しよう? 私がボストンで育っていた頃には、ボストンを取り巻く産業地帯ルート128 は科学的創造性と想像力で世界のトップだった。でもルート128 は落ち込んで、いまやイノベーションの中心はシリコンバレーだ。シリコンバレーとルート128 とでは、企業同士の関係がかなりちがっているので、それがひょっとしたらこの結果の差を生んだのかも知れない。

 もちろん、国全体の経済生産性の差も名高い。たとえば日本、アメリカ、フランス、ドイツなどだ。だが実は、同じ国の中ですら、ビジネスセクターがちがえば生産性と富も大きくちがってくる。たとえば、韓国の製鉄産業の効率はアメリカと同じだが、その他の韓国産業はすべて、アメリカに効率性で劣っている。こうした同一国内での生産性の差を説明できるのは、各種韓国産業の組織面でどういったところだろうか?

 当然ながら、こした組織成功のちがいに関する問題への答の一部は、個人の差に依存している。たとえばマイクロソフトの成功はまちがいなく、ビル・ゲイツの個人的な才能に一部は関係している。企業組織が優れていても、リーダーが無能ならマイクロソフトは成功できなかっただろう。それでも、やはり問うことはできるだろう:他の点が等しければ、あるいは長期的には、あるいは平均的には、どんな人間集団組織形態が最高なのだろうか?

 『銃、病原菌、鉄』のエピローグで行った、中国、インド亜大陸、ヨーロッパの歴史比較は、国全体の技術イノベーションにこの問題を適用した場合の答を示唆している。前節で述べたように、私は地理的に分断されたヨーロッパでは政治的まとまり同士の競争がイノベーションを促進し、統一中国ではそうした競争がなかったのでイノベーションが阻害されたと示唆した。だったらヨーロッパよりもっと政治的な分断が進んでいれば、もっとよかったのだろうか? たぶんちがう。インドは地理的にはヨーロッパよりもっと分断していたが、技術的なイノベーションは低かった。ここから私は「最適分断原理」を思いついた。イノベーションが最も急速に進むのは、最適な中程度の分断を持つ社会だ。あまりに統一されすぎた社会は不利だし、あまりに分断しすぎた社会も不利だ。

 この示唆は、ワシントンDC にあるマッキンゼー・グローバル研究所のビル・ルイスら重役たちの琴線に触れた。この研究所は、世界中の国や産業の比較経済研究をやっている大手コンサルティング企業だ。この重役たちは自分たちのビジネス体験と私の歴史的な示唆との類似にとても感銘を受けて、同社の数百人のパートナーたちにGGSを送りつけ、さらにアメリカ、フランス、ドイツ、韓国、日本、ブラジルなどの各国経済に関する報告書を私に送ってくれた。彼らもまた、イノベーション促進における競争と集団規模との重要な役割に気がついたのだった。マッキンゼー重役やその報告書から私が得た結論の一部を示そう。

 私のようなアメリカ人はしばしば、ドイツや日本の産業は超効率的で、アメリカの各種産業を生産性で上回っているのだと妄想しがちだ。現実には、そんなことはない。全産業平均で見ると、アメリカの産業生産性は日本とドイツのどちらよりも高い。でも、この平均だけでは見えないことだが、産業ごとに見ると大きな差があって、それは組織のちがいに関係している——そしてその差はとても示唆的だ。マッキンゼーの事例研究から、ドイツのビール産業と日本の食品加工業を例に挙げよう。

 ドイツ人はすばらしいビールを作る。夫婦でドイツを訪れるたびに、私たちは空のスーツケースを抱えていって、帰りにはドイツビールのボトルを詰め込んで一年にわたりそれを楽しむ。だがドイツのビール生産性は、アメリカビール産業の43パーセントでしかない。一歩ー、ドイツの金属加工や製鉄産業は、アメリカと同じ生産性を持つ。明らかにドイツ人は産業をうまく組織化する方法を知っているのに、なぜビールではそれができないのだろう?

 実はドイツのビール産業は、小規模生産に苦しんでいるのだった。ドイツには小規模ビール企業が千社あり、ビール会社ごとに地域独占体制なので、競争から守られている。アメリカには大ビール会社が 67 社あり、年間 230 億リットルのビールを生産している。ドイツでは、全千社あわせてもその半分だ。だから平均的なアメリカのビール会社は、平均的なドイツのビール会社に比べて 31 倍ものビールを生産しているのだ。

 この現象は、地元の嗜好とドイツの政策によるものだ。ドイツのビール好きは地元ブランドを熱烈に支持しており、このためアメリカのバドワイザーやミラーやクアーズに相当するような全国ブランドはない。ドイツビールのほとんどは、醸造所の 50 キロ以内で消費されている。だからビール産業は規模の経済の恩恵を活用できない。ビール事業でも、他の事業と同じく生産費用は生産規模とともに激減する。ビール製造の冷蔵装置が大きいほど、そしてビールを瓶に詰めるラインが長いほど、ビール生産の費用は下がる。小規模なビール会社は比較的効率が低い。競争がない。千の地域独占があるだけなのだ。

 ドイツ人個々の地元ビール忠誠ぶりをさらに強化しているのがドイツの法律で、外国ビールがドイツ市場で競争しづらくしている。ドイツ政府は通称純粋ビール法なるものを持っていて、ビールの材料として使えるものを厳密に指定している。ご明察の通り、政府による純粋ビールの指定は、ドイツのビール醸造所がビールに入れるものに基づいていて、アメリカやフランスやスウェーデンのビールメーカーが使いたがるものは入っていない。こうした法律のおかげで、ドイツには外国ビールがあまり輸出されず、そして非効率と高価格のおかげで、あのすばらしいドイツビールならもっと輸出されるはずだと思いがちだが、実はあまり外国には出回らない(ドイツのレーベンブロイはたくさん見かけるぞ、と言いたくなったあなた、こんどレーベンブロイを飲むときにはボトルをよく見てほしい。あれは実はドイツ産ではなく、アメリカでのライセンス生産で、アメリカの生産性と規模の経済を供えた大工場で生産されているのだ)。

 ドイツのせっけん産業や消費者家電産業も同じく非効率だ。ドイツのこうしたメーカー同士は競争しないし、外国からの競争にも直面しないので、国際産業のベストプラクティスを採用しない(ドイツ製の輸入テレビを買ったことのあるアメリカ人はなかなかいないだろう)。でもドイツの金属製鉄産業は、こうした欠点を持っていない。ドイツ企業はお互いに競争するし、国際競争もあるので、国際的なベストプラクティスを採用するしかない。

 マッキンゼー報告書でいちばん私の好きな事例は、日本の食品加工業だ。私たちアメリカ人は、日本の効率性をやたらに恐れるし、確かに一部産業では侮れない——でも食品加工はちがう。日本の食品加工業の効率性は惨めで、日本のたった32パーセントでしかない。日本には食品加工企業が67,000社あるが、日本の二倍の人口を持つアメリカにはたった 21,000 社しかない——だから平均的なアメリカの食品加工業社は、日本の六倍の規模だ。なぜ日本の食品加工産業は、ドイツのビール産業のように、地域独占の小企業だらけなのか? 答は基本的に、ドイツのビール産業と同じ二つの理由だ:地元の嗜好と政策。

 日本人は新鮮な食品となると目の色を変える。アメリカの牛乳は、容器には日付が一つしかない。消費期限だ。私が妻と、妻の日本人いとこといっしょに東京のスーパーマーケットに出かけたら、日本では牛乳の容器に日付が三つもついている。製造日、スーパーへの納品日、そして消費期限日だ。日本の牛乳生産は常に、深夜一分過ぎから始まる。そうすれば朝に市場に出回る牛乳は、当日生産だと表示できるからだ。11:59PM に生産されたら、容器の日付は昨日のものとなり、日本の消費者はだれも買わなくなる3。

 結果として日本の食品加工業は、地元独占を享受できる。日本北部の牛乳メーカーは、南部では競合できない。南部まで牛乳を輸送するのに1-2日余計にかかり、それは消費者から見れば致命的な欠陥になってしまうのだ。こうした地元独占は日本政府によって強化されている。外国からの加工食品輸入には10日の検疫期間など各種の規制がかけられる(一日古いだけの食品を嫌う日本の消費者が、10日前の食品をどう思うか考えてほしい)。だから日本の食品加工業は国内でも競争がなく、外国からの競争もない。一部はこのせいで、日本の食品価格はとても高い。最高の牛肉は一キロ4万円だし、ニワトリは百グラム500円する4

 日本の産業の中には、食品加工業とはまったくちがう構造のものも多い。日本の製鉄、金属、自動車、自動車部品、カメラ、消費者家電メーカーは、すさまじい競争をして、アメリカの同業他社よりも生産性が高い。でも日本のせっけんやビールやコンピュータ産業は、食品加工業と同じで、競争に直面せず、ベストプラクティスを導入せず、アメリカの同業他社より生産性が低いのだ(家の中を見れば、テレビやカメラや車なども日本製かもしれないが、コンピュータやせっけんはちがうはずだ)。

 最後に、こうした教訓をアメリカ国内の各種の産業地帯や企業に適用してみよう。『銃、病原菌、鉄』刊行以来、私はシリコンバレーやルート128 からの人々といろいろ話をしてきたが、その話では両産業地帯は企業エートスの面でかなりちがっているという。シリコンバレーは熾烈な競争を展開する多くの企業で構成されている。それでもかなりの協力がある——アイデアや人や情報が企業の間で自由に往き来している。これに対し、ルート128 の企業はずっと秘密主義的で、日本の牛乳メーカーと同じく相互に隔離されているのだという。

 マイクロソフトと IBM の対比はどうだろうか? 『銃、病原菌、鉄』刊行後、マイクロソフトに友人ができて、同社の特徴的な組織について教わった。マイクロソフトには、5-10人くらいのユニットがたくさんあり、ユニット間では自由にコミュニケーションが行われ、しかもそのユニットが細かく管理されることもない。独自のアイデアを追究するかなりの自由度を与えられているという。こうしたマイクロソフトの風変わりな組織——要するに、多くの競争する半独立ユニットに分割されているということ——はIBM の組織とは好対照をなす。IBM は数年前までは、ずっと相互に隔離されたグループで構成されており、これが IBM の競争力低下につながった。その後 IBM の CEO が変わって組織を大改革した。IBM はいまや、ずっとマイクロソフト的名組織を持ち、そしてIBMのイノベーションもその結果として改善したという。

 これらすべてを見ても、集団組織についての一般原理が抽出可能ではないかと思われる。イノベーションと競争力がほしいなら、過剰な統一性や、過剰な分断は避けたい。むしろ、国でも産業でも産業地帯でも企業でも、相互に競争しつつも比較的自由なコミュニケーションを保つグループに分割するのがいいようだ——そしてアメリカの連邦政府制度は、まさに五十州同士が相互に競争するようになっているのだ5。

 『銃、病原菌、鉄』の応用として最後のものは、世界経済の中心的な問題への応用だ。なぜ一部の国は(アメリカやスイスのように)豊かで、他の国(パラグアイやマリ)は貧乏なのか? 世界最富裕国の一人当たり国民総生産(GNP)は、貧困国の百倍以上だ。これは経済学の教授に雇用を与えるための理論的問題としておもしろいだけではなく、重要な政策的意味合いを持っている。もしその答がわかれば、貧困国は貧乏を維持させているものを改変するのに専念して、他の国を豊かにしているものを導入するようがんばればすむことになるからだ。

 もちろん、答の一部は人間制度のちがいに依存している。こうした見方の最もはっきりした証拠は、同じ環境を共有しているがまったくちがった制度を持ち、その制度のおかげでちがった一人当たり GNP を持っている 2 国を比較することで得られる。実に露骨な四例は、韓国と北朝鮮、旧東独と旧西独、ドミニカ共和国とハイチ、イスラエルと近隣アラブ諸国だ。それぞれのペアで前者が相対的に豊かな理由を説明するのに挙げられる「よい制度」の例としては、法治、契約強制、雌雄財産権保護、腐敗の不在、暗殺頻度の少なさ、貿易開放度、資本流動の自由、投資インセンティブなどが挙げられる。

 もちろん、よい制度は各国の豊かさの差についての答の一部だ。多くの、いやほとんどの経済学者はさらに先まで話を進めて、よい制度こそは圧倒的に重要な原因なのだとまで信じている。多くの政府、機関、財団は政策や開発援助、融資の根拠としてこの説明を採用し、貧困国の制度改善を最優先課題にしている。

 だがこの「よい制度」史観が不十分——まちがっているのではなく、不十分——で、貧困国が豊かになるには他にも対応すべき重要な要素がある、という認識はますます広まりつつある。この認識にもまた独自の政策的な意味合いがある。パラグアイやマリのような貧困国によい制度を導入するだけで、その国がその制度を採用してアメリカやスイス並みの一人当たりGNPになると思ってはいけないのだ。よい制度史観に対する批判には二種類ある。一種類目は、よい制度以外の公衆衛生や、土壌と気候からくる農業生産の制約、環境の脆弱性など、直接要因の重要性を認識するものだ。もう一つは、そのよい制度の起原を考慮する。

 後者の批判によると、よい制度を一次的な影響としてとらえ、その起原をそれ以上追究するのは現実的に無駄と考えるのは、不十分は発想だ。よい制度というのは、デンマークでもソマリアでも世界中どこでも登場できたようなランダム変数ではない。それどころか私が見る限り、これまでよい制度が登場したのは常に、地理に根ざした究極要因からの長い歴史的連鎖のつながりによって生じたもので、それが制度の直接従属変数となっている。よい制度のない国にそれを手早く構築したいなら、その連鎖を理解しなくてはならない。

 『銃、病原菌、鉄』執筆時点で、私はこうコメントした「(今日)新たな勢力へと台頭している国々は、食料生産に基づいた支配の古い中心に何千年も前に組み込まれたか、あるいはそうた中心からの人々に置き換わった地域の国々なのだ。(中略)8,000BCにおける歴史の方向性の威力は、いまだに我々に強く影響している」。経済学者たちによる論文2編(Olsson and Hibbs, およびBockstette, Chanda, and Putterman) は、この仮想的な歴史の威力に詳細な検討を加えた。すると、国家社会や農業の長い歴史を持つ地域は、そうした歴史の短い諸国に比べて、他の変数について調整した後でも一人当たりGNPが高いことがわかった。この効果でGNPのちがいに関するかなりの割合を説明できる。現在、あるいは最近まで低いGNPを持っていた国を見ても、国家社会や農業の長い歴史を持つ地域の諸国、たとえば韓国、日本、中国などは、そうした歴史の短いニューギニアやフィリピンなどに比べて成長率が高い。こうした短い歴史の国々のほうが、天然資源はずっと豊かなのにこれが成り立っている。

 こうした歴史の影響については、明らかな理由もいろいろある。国家社会と農業の経験が長ければ、行政官の経験も豊かになり、市場経済の経験も増え、等々。統計的には、そうした歴史の究極的な影響は、よい制度というおなじみの直接要因に仲介されていることがわかる。だが、よい制度の通常の指標について調整した後でも、歴史の影響は色濃く残っている。したがって、歴史の影響を仲介する他の直接要因もあるはずだということになる。というわけで、国家社会や農業の長い歴史から現代の経済成長に至る、長い因果の連鎖を詳細に理解することこそ、発展途上国がその連鎖をもっと急速に前進できるよう支援するための主要な課題となる。

 一言で、『銃、病原菌、鉄』の主題は古代世界を動かす原動力だっただけではなく、現代世界でも研究対象として重要な領域であるように私には思えるのだ。

参考文献
 植物と動物の作物化・家畜化、語属の広がり、語属の広がりと食料生産拡大との関係について、過去六年間における研究成果をまとめた論文2本と本一冊がある。“Evolution, consequences and future of plant and animal domestication” Nature 418:34-41, および Jared Diamond and Peter Bellwood, “Farmers and their languages: The first expansions,” Science 300: 597-603 (2003) 6、Peter Bellwood and Colin Renfrew, eds., Examining the Farming/Language Dispersal Hypothesis (Cambridge: McDonald Institute of Archaeological Research, 2003) だ。これらは最近の参考文献について詳しい。現代日本人の起原における農業拡大の役割について本一冊使って記述した最近の本は、Mark Hudson, Ruins of Identity: Ethnogenesis in the Japanese Islands (Honolulu: University of Hawaii Press, 1999) だ。

 ニュージーランドのマスケット戦争についての詳細な記述としては、R.D.Crosby, The Musket Wars: a History of Inter-Iwi Conflict 1806-45 (Aukland: Reed, 1999) を参照。こうした戦争をごく手短にまとめつつ、もっと大きな文脈の中に置いた本としては、 James Belich による以下の二冊を参照:The New Zealand Wars and the Victorian Interpretation of Racial Conflice (Auckland: Penguin, 1986), およびMaking Peoples: A History of the New Zealanders (Auckland: Penguin, 1996)。

 ヨーロッパと中国の方向性のちがいに関する直接要因を見つけようとする社会科学者による近年の試み二つとしては、Jack Goldstone, ’’Efflorecenes and economic growth in world history: rethinking the ‘rise of the West’ and the Industrial Revolution,’’ Journal of World History 13:323-89 (2002) 、およびKenneth Pomeranz, The Great Divergence: China, Europe, and the Making of the Modern World Economy (Princeton: Princeton University Press, 2000) がある。その正反対のアプローチ、究極要因の探究例としては、 Graeme Lang. “Sate systems and the origins of modern science: a comparison of Europe and China,” East-West Dialog 2:26-30 (1997)、およびDavid Cosandey, Le Secret de l’Occident (Paris: Arléa, 1997) がある。文中での私の引用は、この Goldstone とLang 論文からのものだ。

 現代の豊かさや成長率指標と、国家社会や農業との関係を分析する二つの論文は: Ola Olsson and Douglas Hibbs, “Biogeography and long term economic development,” European Economic Review, 近刊7、およびValerie Bockstette, Areendam Chanda, and LouisPutterman, “States and markets: the advantage of an early start.” Journal of Economic Growth 7: 351-73 (2002).

訳者コメント
 ジャレド・ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』の2005年版に追加されていた2章の翻訳。翻訳には W.W. Norton版 (2005) pp. 426-464 (参考文献は494-496) を使用している。参考文献の書き方などを見る限り、どうも「2003年版あとがき」は2003年に追加され(PB版か何かで追加したのか)、その後2005年に、日本人に関する章をさらに追加したらしい。というのも、2003年あとがきの参考文献で「近刊」となっている論文が、日本人についての章では(相当部分が反復されているうえ)、ちゃんと掲載ページまで出ているので。この両者が別の時期に書かれたのは明らか。

 我々日本人としては関心のある、日本人の起原の章についていえば、えーと、個人的にはこの程度の話は常識に属するし、小学校でも教わるようなことで、ダイアモンドがなぜこれを仰々しく一章設けてわざわざ語る必要があると思ったのかはわからない。日本の新聞は毎日一面で考古学ニュースを伝えるとか、ずいぶん変な情報ソースのようだし、朝鮮半島からの影響くらい周知のこと。縄文人と弥生人の争いなんてのは諸星大二郎かだれかのマンガのネタにもなってるし、その弥生人がいきなり湧いてきたとは思わないし、神話にもあちこちの影響があるのは知られていることだ。それをそんなに躍起に否定する人々ってそんなに多いの? ぼくが知らないだけ? それともかれの周辺には変な嫌韓厨やネトウヨしかいなかったのか? とはいえ、簡潔な整理としてはよくできているし、ダイアモンド自身の見方はさておき、他の見解も示されている。概観としてはよいのでは? もちろん、日本人の起原についての論争はまだまだ尽きないし、wikipedia などを見ると、遺伝子的にもまだまだ検討の余地はある模様。これは今後の研究の展開を待ちたいところ。

 一方、2003年版あとがきは……個人的にはあまり出来がよくないと思う。ないほうがよかったのではないか。生態環境的な要因が世界史の大きな発展に影響したのは、数千年、数世紀単位の見方としては文句なし。でもそれを安易に現代の個別状況に適用していいものか? 初版では、そこらへんについて結構慎重だったのが、この2003年版あとがきではきわめてルーズ。技術の発展のためには、競争がいるからあまり統一しすぎず、あまり分断されすぎないほうがいい、というのは一般論としてはOKだが、それを『銃、病原菌、鉄』の知見として述べるのはそもそも正当ではないだろう。初版ではそれは、エピローグ部分のほんのおまけでしかなかったんだし。そして、結局重要なのは、どんな場合にどのくらいの規模が適正か、ということ。それなしに『銃、病原菌、鉄』の知見が現代ビジネスに適用できます、などというのは、ぼくは有用だとは思わない。

 そして、それを現代のビジネスや産業にあてはめるにしても、日本の事例は明らかにもう少し調べてほしかったところ。さらに、ドイツのビールの話でも日本の食品加工の話でも、生産性の低い日独の業界VS生産性の高いアメリカ業界、という描き方をしているけれど、よく読むとそうではない。ドイツのビールはうまい、日本の食品は新鮮、というのが前提にある。だから、純粋に量的な生産性で見た比較というのをしていいのか? 高品質だが高価VS低品質ながら安価、というのを比較するならもっときちんと考える必要があるのでは? そして、この稿が出た2003年頃には、テレビやカメラは日本製が当然だったのに、そこから数年の2012年時点で事態がかなり変わっていること(テレビは、特に液晶なら韓国産がメインになってしまった)も、この話がどこまで一般性を持つかについて要注意だということを示唆している。また産業地帯でも、シリコンバレーVSルート128の話をこうした単なる伝聞で持ち出してくるのは、サクセニアン『現代の二都物語』などをちゃんとチェックしていないことを物語っており、ダイアモンドがあまりしっかり調べずににこの話をしているかが明確にわかる。

 そして最後の部分、途上国の発展も実は『銃、病原菌、鉄』の議論があてはまるという部分については、かつて CUT の書評https://cruel.org/cut/cut200008.htmlで漠然とした疑問として書いたことがモロに露呈している。これはかなり不用意な文化決定論になってしまっている。いまの途上国の貧しさまで歴史——ひいては環境的な初期条件——のせいだというなら、ぼくはダイアモンドのいう「連鎖」なんてものを学んでも意味はなく、開発援助なんて無駄だからほっとけ、という結論がまっ先に出てくるように思う。人間集団や知見の移動が制限されていた時代ならそれは言えたかもしれない。でも現代に本当にそれはあてはまるのか? ぼくはダイアモンドの議論を大変におもしろいと思う一方で、こうした安易さは大いに警戒する必要があると思う。

 訳注:これは反正天皇を指す解釈だが、1970年代までのずいぶん古い解釈で、その後別の資料から、これは雄略天皇を指すというのが定説らしいよ。↩

 訳注:すまん、この程度の話を最近の考案であるかのようにドヤ顔で言われるのはちょっと許せません。これははるか昔に、カール・ウィットフォーゲルが主張していた、中国における官僚制発達の基本理論そのものではないか! ある意味で、ダイアモンド的な議論というのは地域レベルでは昔からあちこちで提示されていて、かれの手柄というのはそれを全世界的に集めて一本化したことにすぎないとすら言える。むろん、それがまさにダイアモンドのコロンブスの卵的えらさではあるのだ。↩

 訳者注:……ねーよ。ふつうは賞味期限しか書いてねーよ! お高いスーパーの産直ナントカ牛乳でも買ったんじゃないの? だいたい牛乳ってクッキーじゃないんだから、牛からしぼった時点ですでに劣化は始まっているんだし、工場で「生産」ってのはいつのことなの? 殺菌時点? 容器に詰めた時点? むろん賞味期限に必要以上にこだわる人が多いのは事実だけどさ、もうちょっといい事例がほしいなあ。↩

 訳者コメント:おい! おい! 神戸牛がやたらに高いのは地域独占のせいじゃないし、百グラム500円ってどこのニワトリじゃ!↩

 訳者コメント:この節は本当にがっかり。この節に書かれた話は、どれも『銃、病原菌、鉄』から出てくる知見として挙げるべきものとは思えない。シリコンバレーVSルート128を、この時点でこんな伝聞として書くのは勉強不足のそしりをまぬがれないし、最後の部分も、競争しつつ情報自由に、というのがむずかしいからみんな苦労するんでしょうに。↩

 訳注:原文では「近刊」となっているが、前章にはちゃんと掲載ページが出ているのでそれにあわせて直した。↩

 訳注:49.4, 909-938, 2005. 正しい題名はlong term ではなくlong-runで、http://swopec.hhs.se/gunwpe/papers/gunwpe0026.pdfがほぼ同じものらしい。


https://cruel.org/diamond/whoarethejapanese.html  

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