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イベリア半島人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/291.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 01 日 15:22:37: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ヨーロッパ人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 25 日 16:02:53)

イベリア半島人の起源


雑記帳 2019年05月05日
イベリア半島南部の最初期現生人類をめぐる議論
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_9.html


 今年(2019年)1月に、イベリア半島南部における43400〜40000年前頃の現生人類(Homo sapiens)拡散の可能性を報告した論文(Cortés-Sánchez et al., 2019A)が公表されました(関連記事)。この論文(以下、C論文)は、イベリア半島南部にも、ヨーロッパ西部の他地域とさほど変わらない年代に現生人類が拡散してきた可能性を提示したことから、注目されました。その根拠となったのは、イベリア半島南部に位置するスペインのマラガ(Málaga)県のバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)遺跡の中部旧石器時代後期〜上部旧石器時代の年代です。以下、この記事の年代は基本的に、放射性炭素年代測定法による較正年代です。

 C論文は、バホンディージョ洞窟では第19層〜第14層(新しいほど上層となります)までが中部旧石器時代となり、まず間違いなくネアンデルタール人が担い手のムステリアン(Mousterian)インダストリーが46000年前頃まで続き、第13層では石刃や小石刃が出現するようになり、第12層は典型的な上部旧石器、第11層は発展オーリナシアン(Evolved Aurignacian)、第10層はグラヴェティアン(Gravettian)インダストリーになる、との見解を提示しています。C論文は第13層石器群について、数が少ないこと(100個未満)や骨器が共伴しないといった問題を指摘しつつも、プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)もしくは早期オーリナシアン(Early Aurignacian)と分類しています。第13層の年代は43400〜40000年前頃です。

 この見解がなぜ重要かというと、今ではヨーロッパにおいてネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)はおおむね4万年前頃までに絶滅したと考えられているものの(関連記事)、イベリア半島南部への現生人類の拡散は、エブロ川を境とする生態系の違いによりヨーロッパ西部の他地域よりも遅れ(エブロ川境界仮説)、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が4万年前以降も生存していた、との見解(ネアンデルタール人後期絶滅説)が根強いからです(関連記事)。ヨーロッパにおいては、ムステリアンはネアンデルタール人のみ、オーリナシアンは現生人類のみが担い手だった、との見解が通説となっています。C論文が妥当だとすると、イベリア半島北部に42868〜41686年前頃に出現したオーリナシアンは、ほとんど変わらない年代でイベリア半島南部にも拡散していたことになります。


 このC論文の見解にたいして、2本の批判論文とC論文の著者たちによる反論が掲載されました。まずは、おもに石器技術に関するC論文への批判論文(de la Peña., 2019)です(以下、P論文)。P論文はまず、バホンディージョ洞窟第13層石器群は以前には多くの文献で、特徴的なムステリアン剥片と上部旧石器要素の両方を有する曖昧な技術と説明されており、C論文も第13層石器群がプロトオーリナシアンもしくは早期オーリナシアンと明確に区分できるだけの充分な証拠がないことを認めている、と指摘します。

 そこでP論文は、第13層石器群の説明と定義が問題になり、プロトオーリナシアンもしくは早期オーリナシアン以外で説明することも可能だ、と指摘します。P論文がまず問題とするのは、第13層石器群には明確に石刃と関連しているものの、オーリナシアン石器群と異なる技術的特徴も有するのならば、まだ識別・定義されていない上部旧石器時代のインダストリーとしての定義も可能ではないか、ということです。P論文は、イベリア半島南部の早期上部旧石器時代においては、ヨーロッパの他地域とは異なり、よく発展した剥片戦略が見られる、と指摘します。次にP論文が挙げているのは、第13層がムステリアン集団による石刃技術の採用を反映している可能性です。P論文は、この二つの可能性のどちらが妥当なのか、判断は困難だと指摘しています。

 さらにP論文が明代としているのは、層序学的混乱です。第13層には明らかな上部旧石器時代インダストリーである発展オーリナシアンの第11層との接触が見られ、土壌が下方に移動していく仮定も報告されているのに、C論文はこの重要な堆積物形成過程を無視している、とP論文は指摘します。C論文は第13層石器群をオーリナシアンとよく関連づけられておらず、現生人類がイベリア半島南部へ43400〜40000年前頃というヨーロッパ西部の他地域とさほど変わらない年代に拡散した、とする根拠は弱いと結論づけています。


 次に、同じくC論文への批判論文(Anderson et al., 2019)です(以下、A論文)。A論文は、バホンディージョ洞窟の土壌の移動が第11層〜第13層で識別されており、第14層〜第11層は層序的混合の疑いのために以前は年代測定計画から除外されていた、と指摘します。さらにA論文が問題とするのは、第13層は遺跡の中央部の限られた部分にしか存在せず、その下のムステリアン層およびその上の発展オーリナシアン層の両方と接触している、ということです。それにも関わらず、C論文は説明なしに混合のないオーリナシアンとしての第13層石器群という解釈を提示している、とA論文は指摘します。

 A論文は、石器技術的にも第13層の石器群がオーリナシアンと分類できるのか、疑問視します。以前の文献では、第13層の石器群の分類が、「中部旧石器/上部旧石器」、「中部旧石器?」、ムステリアンとオーリナシアンもしくは上部旧石器要素のおそらくは混合というように、曖昧というわけです。またA論文は、第13層石器群には石刃要素があるものの、剥片要素も強く見られることも問題としています。またA論文は、第13層石器群の掻器が発展オーリナシアンの第11層の掻器とは異なり、石刃よりもむしろ剥片から製作されている、と指摘します。第13層の掻器は中部〜上部旧石器時代の再加工剥片と類似しており、オーリナシアンと関連させる理由はない、というわけです。

 またA論文は、ムステリアンの第14層と比較して第13層では石刃が増加するものの、それだけではオーリナシアンへと分類する根拠にはならず、第13層石器群が年代的に中部旧石器時代のムステリアンと明らかな上部旧石器時代の発展オーリナシアンの間に位置することも、第13層石器群がオーリナシアンである根拠にはならない、と指摘します。オーリナシアンをどのように区分するのか、議論が続いているものの、いずれにしても、ある石器群をオーリナシアンと分類するには、広義のオーリナシアンと共通する特別な技術的特徴を示す必要がある、とA論文は指摘します。現時点で第13層石器群をオーリナシアンと分類し、現生人類のイベリア半島南部への4万年以上前の拡散と関連づけるのは時期尚早だ、というのがA論文の結論です。


 これら2本の批判にたいして、C論文の著者たちの一部による反論(Cortés-Sánchez et al., 2019B)が掲載されています(以下、C反論)。C反論は全体として、批判論文2本がバホンディージョ洞窟の層序と石器分類に関する研究の進展をしっかりと抑えていない、と強調しています。これらの問題はC論文では補足情報としてまとめられているものの、参考文献はスペイン語なので、見落とされているところが少なからずあるのかもしれません。また年代に関しても、2016年のイベリア半島地中海沿岸部の放射性炭素年代測定計画において、バホンディージョ洞窟遺跡の標本が計画の分析基準を満たしておらず、年代が採用されなかったことから、古い年代観が根強く残り、誤解を招来しているのではないか、とC反論は指摘します。バホンディージョ洞窟に関する研究の進展が周知されない状況にあったのではないか、というわけです。

 まず第13層石器群の分類について、決してムステリアンではなく、一貫して上部旧石器として識別されている、とC反論は主張します。またC反論は、オーリナシアンおよびその下位区分の定義は一貫しているわけではない、と指摘します。P論文は第13層石器群がまだ識別されていない上部旧石器時代インダストリーである可能性を示唆していますが、C論文は、明確に上部旧石器である第13層石器群を「最も適切な」分類としてオーリナシアンと解釈している、とC反論は指摘します。

 バホンディージョ洞窟の層序撹乱の可能性について、C反論は否定する根拠を2点挙げています。一つは、第13層石器群には撹乱を示唆するような転移の証拠は見られない、というものです。次に、第13層石器群の発見場所の燃焼構造の基づく分析です。植物オパールと放射性炭素年代測定から、中部旧石器時代水準の炉床とは燃焼要素および温度の両方とは明らかに対照的なパターンが示される、とC反論は指摘します。こうした知見から、第13層石器群の年代を上部旧石器時代と判断するのは妥当だろう、というわけです。

 C反論は、バホンディージョ洞窟に関する研究の進展が広く知られておらず、古い年代観と組み合わせて推測に推測を重ねた結果、第13層石器群が後代の嵌入であることを示唆するような批判がなされたのだ、と指摘します。C論文にたいする批判は、誤解の積み重ねだろう、というわけです。C反論は、C論文の提示した新たな年代観は、ヨーロッパ西部において、ネアンデルタール人の絶滅は4万年以上前、現生人類の拡散も遅くとも4万数千年前までさかのぼるとする、近年の知見と整合的だと指摘します。


 以上、C論文にたいする批判論文2本と反論をざっと見てきました。バホンディージョ洞窟第13層の攪乱を懸念する批判論文2本にたいして、C反論は的確に対応できているのではないか、と思います。やはり問題となるのは、第13層石器群の分類で、「広義のオーリナシアン」とするのが適切なのか、門外漢の私には的確な判断ができませんが、今後の研究の進展が期待されます。これは、ヨーロッパだけではなく、アジア南西部も含めての大規模な研究となるので、すぐに結論の出る問題ではなさそうですが。

 ヨーロッパ西部の他地域とほぼ変わらない43400〜40000年前頃に、イベリア半島南部に現生人類が拡散してきた、との見解については、現時点では保留しておくのが無難かな、と思います。それは、第13層石器群を「明確に」オーリナシアンと分類できないからでもありますが、何よりも、ヨーロッパの中部旧石器時代〜上部旧石器時代移行期の遺跡では人類遺骸が少ないため(それでも他地域よりはずいぶんと恵まれているのでしょうが)、この時期の各インダストリーの担い手の人類系統を多くの場合でまだ確定できないからです。担い手について議論が続いていますが、現生人類の影響を受けているかもしれないとはいえ、シャテルペロニアン(Châtelperronian)の担い手がネアンデルタール人だった可能性は低くないでしょうから(関連記事)、ネアンデルタール人がイベリア半島南部の上部旧石器的なインダストリーの担い手であった可能性も想定しておくべきだと思います。


参考文献:
Anderson L, Reynolds N, and Teyssandier N.(2019): No reliable evidence for a very early Aurignacian in Southern Iberia. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 713.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0885-3

Cortés-Sánchez M. et al.(2019A): An early Aurignacian arrival in southwestern Europe. Nature Ecology & Evolution, 3, 2, 207–212.
https://doi.org/10.1038/s41559-018-0753-6

Cortés-Sánchez M. et al.(2019B): Reply to ‘Dating on its own cannot resolve hominin occupation patterns’ and ‘No reliable evidence for a very early Aurignacian in Southern Iberia’. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 714–715.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0887-1

de la Peña P.(2019): Dating on its own cannot resolve hominin occupation patterns. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 712.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0886-2

https://sicambre.at.webry.info/201905/article_9.html  

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コメント
1. 2020年9月01日 19:49:24 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[44] 報告
雑記帳 2020年02月12日
早期新石器時代ピレネー山脈における虐殺
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_28.html


 早期新石器時代ピレネー山脈における虐殺に関する研究(Alt et al., 2020)が公表されました。中期〜後期更新世にはヒトは基本的に狩猟採集民でしたが、平等主義の倫理のため本質的には善良で平和的だった、という考えがかつては浸透していました。この仮説では、12000年前頃の農耕開始以後(もちろん、地域により農耕開始年代は異なりますが)、とくに定住・階層・財産と密接に関連した適応的な社会経済的戦略が、根本的に本来の生活様式を壊した、と想定されます。財産と所有物を守るため、ヒトは暴力の使用を余儀なくされた、というわけです。

 しかし、こうした非暴力的な過去の人類史は今では反証されており、それは攻撃的行動が先史時代と現代の狩猟採集民共同体で一般的に示されてきたからです(関連記事)。しかし、狩猟採集民共同体における暴力の程度と役割についてはまだ議論が続いています。ヒトの暴力が進化的遺産なのか、という問題は高い関心を集めている、と言えそうです。本論文は、ヒトの暴力が進化的遺産であることは明らかで、それはヒトだけが同種を殺す大型類人猿の唯一の種ではないからだ、と指摘します。ヒトの攻撃性は、その本質に深く根ざした重要な系統発生要素がある、というわけです(関連記事)。ヒトは自身を、合理的で行動制御のメカニズムを備えていると考える傾向にあるため、これを受け入れるのはなかなか困難です。

 本論文は、スペイン王国ウエスカ(Huesca)県のピレネー山脈に位置するエルストロクス(Els Trocs)洞窟遺跡の発掘成果を報告しています。この標高1500m以上の地点の斜面に、エルストロクス洞窟の入口があります。エルストロクス遺跡では、土器や石器などの物質残骸に加えて、子供や成人のヒト骨格遺骸や屠殺された家畜および野生動物の骨が含まれています。これまでに特定された13人は、年代的に離れた新石器時代の異なる3期(第1期・第2期・第3期)に分類されます。したがって、これらの「埋葬」は単一事象の1集団ではありません。本論文は、第1期(紀元前5326〜紀元前5067年)の9人(成体5人と子供4人)を分析しています。第1期の9人の放射性炭素年代は密集しており、全員に死亡前後の暴力の痕跡が見られます。

 これら早期新石器時代の9人の年代および形態学背景に関して、その遺骸に見られる暴力の痕跡は、この9人が紛争の犠牲となった珍しい事象であることを示唆します。成人は頭蓋骨にのみ一貫して矢傷を示し、成人に加えて子供は、頭蓋と全体骨格へ類似した鈍器による暴力の痕跡を示します。紛争状況における弓矢のような投射武器の使用は、近隣の同時代のラドラガ(La Draga)遺跡の矢だけではなく、さまざまな暴力活動を描く同時代の岩絵でも証明されています。敵対集団間の戦闘場面を含むそうした描写は、イベリア半島の岩絵にも存在します。エルストロクス遺跡のヒト遺骸の直接的で明確な暴力の痕跡に加えて、こうした間接的な証拠は、エルストロクス遺跡の第1期の9人が虐殺の犠牲者になった、という仮説を裏づけます。

 エルストロクス遺跡の重要性は、新石器時代の意図的な暴力の初期の証拠を提示していることです。既知の情報では、エルストロクス遺跡の集落共同体全体の虐殺は、集団的暴力の直接的証拠としては最初期のものとなります。エルストロクス遺跡の第1期は、年代的にはヨーロッパ中央部における最初の農耕文化である線形陶器文化(Linear Pottery Culture、LBK)の最終段階で、紀元前6千年紀末〜紀元前5千年紀初頭となり、大変動の時期です。線形陶器文化末期のヨーロッパ中央部において、こうした大量殺戮は孤立した事例ではなく頻繁に生じていた、との見解も提示されていますが(関連記事)、イベリア半島の他地域では同時代のこうした虐殺はまだ報告されていません。エルストロクス遺跡第1期で見られる集団的暴力の注目される珍しい特徴は、エブロ渓谷沿いというイベリア半島の早期新石器時代における主流の移住経路から離れている、その地理的位置です。

 本論文は、理論的および分析的観点から、エルストロクス遺跡のヒト遺骸の複雑な暴力的知見から、二つの基本的な問題を提起します。一方は加害者について、もう一方は高齢の成人および子供の集団に見られた、一見すると抑制されていない過剰な暴力の動機についてです。本論文は、加害者の問題には直接的に答えられない、と指摘します。考古学的に、加害者はほとんど証拠を残さなかったからです。しかし、全体的な文脈に基づくと、代替的な仮説をいくつか提示できます。

 集団遺伝分析からは、エルストロクス遺跡の犠牲者は早期新石器時代移住者として特徴づけられます。それは、イベリア半島で農耕と畜産を確立した共同体の構成員です。ストロンチウムおよび酸素の同位体データと考古学的文脈から推測すると、犠牲者たちが移住民の第一世代だったかどうか、確定できません。ほとんどの新石器時代の移住民は肥沃な三日月地帯から地中海経由でヨーロッパ西部に到達しましたが、エルストロクス遺跡第1期の個体群がローヌ渓谷経由でヨーロッパ中央部から北方から到来した可能性は除外できません。この仮定の根拠は集団の遺伝的特徴です。エルストロクス遺跡第1期の成人男性(CET 5)はミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)ではN1a1a1で、早期新石器時代ヨーロッパ中央部では一般的ですが、スペインではまだ確認されていません。CET 5は、イベリア半島では最古となる、ヨーロッパ中央部新石器時代の農耕民集団のmtHgと合致する早期新石器時代個体です。最近になって、フランス北東部では、ヨーロッパ中央部から南西部への仮説的移住経路に沿った、新石器時代のmtHg- N1a個体群が報告されており、エルストロクス遺跡第1期の個体群がローヌ渓谷経由で北方から到来した可能性を示唆します。

 本論文は、エルストロクス遺跡集団がイベリア半島の他の早期新石器時代移民集団と異なり、虐殺された理由について考察しています。早期新石器時代のエルストロクス遺跡集団も他のイベリア半島集団も、ともに比較的急速に在来の共同体と混合したと考えられます。本論文は、エルストロクス遺跡集団が殺戮された理由として、イベリア半島の新石器時代移住民の主流から少し離れた孤立した地域に存在した可能性を検証しています。考古学的文脈・動物および植物考古学的データと、エルストロクス遺跡の犠牲者集団の人口統計学的構成から示唆されるのは、犠牲者たちがより大きな新石器時代共同体における高齢の構成員と子供を表し、彼らは集団の大半から離れており、季節的移牧、つまり家畜の移動の過程でピレネー山脈において夏を過ごしていた、ということです。

 本論文は、加害者集団とその動機に関して二つの仮説を提示します。たとえば、原因が本質的に領土であるならば、加害者たちは、自分たちの採集領域に侵略してきた新石器時代集団を見て、残忍に殺害した在来の狩猟採集民だったかもしれません。あるいは、領土をめぐる紛争がエスカレートした二つの新石器時代集団間の紛争だったかもしれません。この推論では、暴力的事象が起きた地形は多くの資源を提供する台地である、と想定されます。また、行動の一般的パターンからも加害者の動機が推測されています。地域的な集団間の紛争の一般的原因は、時間と場所、起源もしくは民族に関わらず、所有物(家畜・女性・収穫物)の獲得と、希少な資源(土地・水・狩猟)をめぐる紛争です。しかし、現在の「人種」間もしくは民族間の紛争とは対照的に、共同体の体系的な皆殺しは、お互いをよく知っており、社会文化的根源を共有するかもしれない近隣集団間の暴力の応酬においてはむしろ稀になる、と本論文は指摘します。

 エルストロクス遺跡における虐殺は、完全に詳細に明かされることはないかもしれませんが、本論文が注目しているのは、ピレネー山脈の奥地で行使された暴力の程度は、加害者側のひじょうに高い潜在的攻撃性で、それは法医学で「過剰殺害」とされる現象です。明らかなのは、二つの競合集団が衝突したことです。上述のように、加害者は在来の狩猟採集民だったかもしれませんし、競合する地元もしくは他地域の新石器時代農耕民集団だったかもしれません。本論文は、犯罪者プロファイリングの観点からは、エスカレートした偶然の遭遇である可能性はほとんどない、と指摘します。殺害手順は体系的に計画されて実行され、行為の動機は深刻である、というわけです。ただ、その背景については、いくつかは未解決のままとなりそうです。

 国も含めての近隣集団間、多民族社会内の異なる民族集団間、多数派集団と少数派集団との間の暴力的対立はしばしば、人々の外見・言語・宗教・イデオロギー・生活および文化様式もしくは民族的帰属の利用に基づいています。現在と過去の無数の争いの事例は、「文明」によりヒト社会における暴力への根本的性質を克服する、という見解を揺るがしてきました。暴力が自身を守るため、あるいは共同体を保護するのに役立つならば、社会的に許容されます。しかし、暴力が第三者もしくは平和な人々の繁栄と生活に対する搾取と権力を目指している場合、否定的な意味合いを有します。その構造的形態では、暴力は力の行使に役立ち、間違いなくヒトの文化的進化の産物です。「えこひいき(ネポチズム)」により繰り返し揺さぶられる世界では、条約と法律は常に一時的にのみ平和をもたらすようです。人道に対する注目すべき犯罪は、法律もしくは国際法により防止されることは決してありませんでした。「えこひいき(ネポチズム)」とは、非血縁者を犠牲にして、自らの血縁者を身びいきすることで、他の霊長類に見られる社会行動です(関連記事)。

 本論文は、早期新石器時代ピレネー山脈における虐殺を、人類史の文脈に位置づけようとしています。上述のように、系統発生学的および神経犯罪学的研究は、暴力と犯罪が生物学的起源を有する、といういくつかの証拠を提供します。しかし、ヒトは誰も殺人者として生まれるわけではなく、社会的過程が我々の行動を深く制御する、と本論文は指摘します。進化生物学では、ヒトはその始まり以来、他の個体群に依存し、脅威に晒されてきた、と論じられます。つまり、ヒトの進化的基盤は、一方では自身の集団や親族を強く結びつける原因として、他方では異質な個体群への恐怖や拒絶と強く結びつける原因として存在するはずだ、と本論文は指摘します。民族的ネポチズムの概念は、この二重の行動傾向の原因の説明として機能し、そこに民族紛争の起源も見られる、というわけです。したがって紛争は、均質な社会よりも人々が密接に関連しつながっている異質な多民族社会で多く発生するだろう、と本論文は指摘します。

 ネポチズムの起源に関する仮説は、包括適応度や血縁選択や遺伝的類似のような社会生物学的理論に焦点を当てます。民族的ネポチズムへの否定できない傾向はヒトの本質に深く根差しているように見えるため、政治的もしくは社会的危機状況における民族中心主義・ナショナリズム・人種差別・外国人嫌悪を促進するかもしれず、最悪の場合は大量虐殺にまで到達する、と本論文は指摘します。本論文はこれらの知見を踏まえて、ポストコロニアル理論や過去の人類は平和で(非暴力部族社会論)集団内および集団間の暴力は現代的現象という理論は、かつてたいへん人気だったものの、さまざまな証拠はそうした見解を論駁してきており、対照的に暴力は太古の昔からヒトの歴史に存在してきたことを示している、と指摘します。

 本論文はエルストロクス遺跡第1期の虐殺について、おそらく異なる起源や世界観の人々の間、先住民と移住民もしくは経済的あるいは社会的競合の集団間暴力の早期のエスカレーションで、敵対的集団間の衝突のような排外的な印象を伝えている、と指摘します。このような対立はいつくかの社会的動物種でも発生します。チンパンジーはヒトのように世界を「我々」と「彼ら」に分けます。したがってヒトでは、暴力は本質的現象の意味で理解されるべきで、ヒトは善悪を問わず暴力を制限できるものの、完全に克服することはできない、と本論文は指摘します。本論文は持続可能な未来について、継続的な対話による文化と宗教の間の障壁の除去と同様に、多民族社会への相互の敬意・寛容・開放性を通じてのみ達成されるだろう、との展望を提示しています。

 以上、ざっと本論文について見てきました。本論文は、早期新石器時代ピレネー山脈におけるヒト集団の虐殺について、ヒトの暴力の深い進化的起源を示す一例になると指摘しつつ、それを克服するような特質もヒトは進化の過程で得てきたことを強調しています。持続可能な未来に関する本論文の提言は尤もではありますが、総論賛成各論反対は人類社会の普遍的事象とも言え、実行は容易ではないでしょう。とはいえ、文字記録の残っている以前も含めて人類史から知見を得て、試行錯誤していくしかない問題である、とも思います。

 本論文は戦争の起源との関連でも注目されます。戦争の起源に関しては、注目が高いこともあり、今でも激しい議論が続いています(関連記事)。この問題は通俗的には、「本能」なのか「後天的」なのか、「タカ派」なのか「ハト派」なのか、といった単純な二分法的議論が浸透しているように思います。しかし、本論文の知見からも示されるように、ヒトに集団暴力へと向かわせる深い進化的基盤があることは否定できません。とはいえ、ヒトの暴力は常に発動されるわけではなく状況次第でもあり、少なくとも一定以上は制御可能であることも確かです。その意味で戦争の起源に関する論点は、更新世の狩猟採集社会が暴力的で、国家の成立によりそうした暴力が抑制されるようになったのか、あるいはその逆なのか、ということなのかもしれません。もちろん、それも単純にすぎる見方で、もっと複雑で包括的な説明が可能なのかもしれません。戦争の起源については、人類の今後にも大きく関わってくる問題なので、今後も地道に調べていくつもりです。


参考文献:
Alt KW. et al.(2020): A massacre of early Neolithic farmers in the high Pyrenees at Els Trocs, Spain. Scientific Reports, 10, 2131.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-58483-9


https://sicambre.at.webry.info/202002/article_28.html

2. 中川隆[-11551] koaQ7Jey 2020年9月01日 19:56:31 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[47] 報告
雑記帳 2020年03月02日
地中海西部諸島における新石器時代以降の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_3.html


バレアレス諸島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%B9%E8%AB%B8%E5%B3%B6

サルデーニャ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A3


 地中海西部諸島における新石器時代以降の人口史に関する研究(Fernandes et al., 2020)が報道されました。紀元前3000年頃、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を起源とする人々が西進し始め、ヨーロッパ中央部の在来農耕民と交雑し、縄目文土器(Corded Ware)文化集団の系統の1/3に寄与し、鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化集団との関連においてヨーロッパ西部で拡大しました。イベリア半島では、草原地帯系統が紀元前2500年頃までに外れ値の個体群に出現し、紀元前2000年頃までにイベリア半島集団へと完全に混合しました。地中海東部のクレタ島では、紀元前2400〜紀元前1700年頃となる中期〜後期青銅器時代のミノア文化期の報告されている個体群では、草原地帯系統がほとんど確認されませんが、早期イラン牧畜民と関連した集団由来の系統(イラン関連系統)の約15%がゲノムで見られます。

 しかし、草原地帯系統はクレタ島とその近隣のギリシアに、紀元前1600〜紀元前1200年頃のミケーネ期には到達していました。地中海中央部および西部諸島では、青銅器時代の移行は古代DNA分析で調査されてきませんでした。バレアレス諸島における最初の永続的な人類の居住は、紀元前2500〜紀元前2300年頃にさかのぼります。紀元前1200年頃、タライオット文化(Talaiotic culture)が食資源の管理強化と記念碑的な塔の出現により特徴づけられ、その一部はサルデーニャ島のヌラーゲ文化との類似性が示唆されています。同様に、青銅器時代ヌラーゲ文化期のサルデーニャ島の農耕民もまた、地中海東部からの集団と交易しました。サルデーニャ島とシチリア島は紀元前2500年以後のビーカー文化の拡大に影響を受けましたが、一方でミケーネ文化期にエーゲ海の影響を受けました。これらの文化的交流が人々の移動に伴っていたのかは未解決の問題で、本論文は61個体のゲノム規模古代データを生成することで検証しました。バレアレス諸島・サルデーニャ島・シチリア島の61個体から約124万ヶ所の一塩基多型配列が決定され、ゲノム規模データが得られました。46人では遺骸から直接放射性炭素年代が得られました。1親等の関係にある個体が1人除外されました。常染色体DNAの平均網羅率は2.91倍(0.11〜12.13倍)です。

 まず本論文の分析結果を概観すると、バレアレス諸島では青銅器時代の3人がヨーロッパ新石器時代および青銅器時代集団の変異内に収まり、草原地帯系統も見られます。早期青銅器時代と中期青銅器時代と後期青銅器時代の間で、顕著な違いが明らかになりました。3人の考古学的背景はひじょうに異なるので、個別に処理されました。シチリア島では中期新石器時代の4人がヨーロッパ早期農耕民と近縁で、シチリア島中期新石器時代集団として分類されます。これと比較して早期青銅器時代のシチリア島個体はすべて、早期青銅器時代の外れ値となる2人とともに東方集団へと接近しています。この外れ値の2人は草原地帯系統を有し、シチリア島早期青銅器時代集団として4人とはやや異なります。中期青銅器時代の2個体は早期青銅器時代個体群とは区別されるクレードで、シチリア島中期青銅器時代集団と分類されます。後期青銅器時代の5人は全員クレードを形成します。サルデーニャ島では、新石器時代の始まりから青銅器時代末まで、ヨーロッパ本土の早期および中期新石器時代農耕民と遺伝的に近縁で、2人を除いて系統構成を区別できません。この外れ値となる2人は、レヴァントおよびアフリカ北部新石器時代個体群と類似した銅器時代の個体と、地中海東部系統をわずかに有する青銅器時代の個体です。鉄器時代の2人はクレードを形成せず、1人はイラン関連系統を、もう1人は草原地帯系統を有します。古代末期の2人はサルデーニャ島の早期中世個体とともにクレードを形成しますが、早期中世の個体は主成分分析では分離し、年代も離れているのでサルデーニャ島早期中世人として個別に分析されました。


●バレアレス諸島

 バレアレス諸島で人類の居住が永続的となったのは早期青銅器時代以降で、青銅器時代以降の4人のDNAが解析されました。この4人のうち最古となる紀元前2400年頃の早期青銅器時代個体は、そのゲノムのうち38.1±4.4%が草原地帯系統に由来する、と推定されています。この早期青銅器時代個体は、草原地帯系統を有するイベリア半島ビーカー(Beaker)文化関連個体の子孫と推測されます。バレアレス諸島に草原地帯系統をもたらしたのはイベリア半島からの移民と考えられますが、早期青銅器時代でDNAが解析されたのは1人だけなので、この個体がバレアレス諸島の最古の入植者の代表的な遺伝的構成を表していないかもしれない、と本論文は注意を喚起します。

 中期および後期青銅器時代の2人はそれぞれ、早期青銅器時代個体よりも草原地帯系統の推定割合が低く、20.4±3.4%、20.8±3.6%です。この2人は、草原地帯系統の割合が比較的高い集団と、もっと古いヨーロッパ農耕民関連系統を有する集団との混合と推測されます。これは、さまざまな割合の草原地帯系統がバレアレス諸島に移住して混合したか、より多くヨーロッパ農耕民系統を有する集団からの遺伝子流動の結果かもしれません。また後期青銅器時代個体は、中期青銅器時代個体の属する集団の直接的な子孫かもしれません。バレアレス諸島のタライオット文化とサルデーニャ島のヌラーゲ文化との遺伝的関連の証拠は得られませんでしたが、タライオット文化期では1人しかDNAが解析されておらず、また移住なしの文化的接触もあり得る、と本論文は注意を喚起します。

 鉄器時代のバレアレス諸島にはフェニキア人が植民してきます。鉄器時代の1個体の年代は紀元前361〜紀元前178年頃で、青銅器時代の3人とはクレードを形成せず、異なる遺伝的構成を有します。この鉄器時代個体の遺伝的構成をモデル化するには、モロッコの後期新石器時代系統が必要で、青銅器時代の先住集団の遺伝的影響をまったく受けていない可能性もあります。バレアレス諸島現代人集団は、アナトリア農耕民系統とヨーロッパ西部狩猟採集民系統に加えて、草原地帯系統・イラン系統・アフリカ北部系統の混合としてモデル化できます。これは過去の異なる系統の混合を反映しており、そのうちのいくつかは地中海南部および東部からと推測されます。バレアレス諸島現代人集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)はともに、古代に見られるmtHg-J2・H・U5およびYHg- R1bを有していますが、いずれも古代バレアレス諸島に特有ではないので、地域的な集団継続が証明されるわけではありません。


●シチリア島

 シチリア島では、中期新石器時代個体群が典型的な早期ヨーロッパ農耕民系統を有し、アナトリア新石器時代系統とヨーロッパ西部狩猟採集民系統の混合としてモデル化できます。また、ビーカー文化関連個体には草原地帯系統が見られない、と確認されました。早期青銅器時代になると、当初は紀元前2200年頃までに草原地帯系統が見られるようになります。2個体はとくに草原地帯系統の割合が高く、そのうち1個体はバレアレス諸島早期青銅器時代個体とクレードを形成するので、近い世代での祖先集団が同じと考えられ、その起源地としてとくに有力なのはイベリア半島です。早期青銅器時代における草原地帯系統の存在はY染色体の分析でも明らかで、男性5人のうち3人がYHg-R1b1a1a2a1a2(R1b-M269)です。この3人のうち2人はYHg-R1b1a1a2a1a2a1(Z195)で、現在はおもにイベリア半島に存在し、紀元前2500〜紀元前2000年頃に分岐した、と推定されています。これらの知見からの節約的な説明は、イベリア半島からシチリア島およびバレアレス諸島への遺伝子流動があった、というものです。

 シチリア島では、中期青銅器時代となる紀元前1800〜紀元前1500年頃までにイラン系統が検出され、主成分分析におけるミノア人とミケーネ人への方向変化と一致します。中期青銅器時代個体群は、イラン新石器時代関連系統が15.7±2.6%としてモデル化されます。またモデル化において、年代の近い系統では、ミノアやアナトリア早期青銅器時代が必要とされます。現代イタリア南部集団はイラン関連系統を有しており(関連記事)、シチリア島とイタリア南部ではイラン系統がギリシアの植民地となる前に出現した、と示されます。

 後期青銅器時代個体は、アナトリア新石器時代系統81.5±1.6%、ヨーロッパ西部狩猟採集民系統5.9±1.6%、草原地帯系統12.7±2.1%としてモデル化されます。現代人集団では、青銅器時代までに示された草原地帯系統とイラン関連系統がそれぞれ、10.0±2.6%と19.9±1.4%存在しますが、主要な系統は46.9±5.6%のアフリカ北部系統です。これらの結果は、鉄器時代以降にシチリア島に流入したのがほぼアフリカ北部系統だったことを示します。シチリア島現代人集団は、バレアレス諸島フェニキア期個体とクレードを形成します。これらの結果は青銅器時代以降のシチリア島におけるほぼ完全な系統転換と一致しますが、青銅器時代集団が現代人集団に少ないながら遺伝的影響を残している可能性も排除できません。現代人集団のmtHg- H・T・U・Kも、25%ほど存在するYHg-R1b1a1a2a1a2(R1b-M269)も、青銅器時代に見られます。


●サルデーニャ島

 サルデーニャ島では、新石器時代から銅器時代を経て青銅器時代まで、ほぼ全ての個体がアナトリア新石器時代系統とヨーロッパ西部狩猟採集民系統の混合としてモデル化され、高い遺伝的継続性が推測されます。新石器時代の個体群は、74〜77%がフランス中期新石器時代系統と、23%がハンガリー早期新石器時代系統もしくはクロアチアのカルディウム文化系統と関連しています。サルデーニャ島の早期農耕民の起源は、まだ古代DNAデータがほとんど得られていないイタリア北部やコルシカ島にあるだろう、と本論文は推測しています。ビーカー文化個体群でも、草原地帯系統は検出されませんでした。これはシチリア島およびイベリア半島のビーカー文化関連個体群と類似しており、ビーカー文化関連個体群にかなりの草原地帯系統が見られるヨーロッパ中央部および北部とは対照的です(関連記事)。

 このように、サルデーニャ島では新石器時代から青銅器時代にかけて、ヨーロッパでは例外的な遺伝的連続性が見られますが、外れ値も2個体確認されています。銅器時代となる紀元前2345〜紀元前2146年頃の個体は、アナトリア新石器時代系統22.7±2.45%とモロッコ早期新石器時代系統77.3±2.4%としてモデル化されます。この個体は、ほぼ同年代となる紀元前2473〜紀元前2030年頃のイベリア半島中央部のカミノ・デ・ラス・イェセラス(Camino de las Yeseras)遺跡個体(関連記事)と遺伝的に類似しています。この遺跡の個体はアフリカ北部系統を有し、mtHg-M1a1b1、YHg-E1b1b1で、ともにアフリカ北部で典型的です。こうしたアフリカとヨーロッパの間の遺伝子流動は、それが増加し、より大きな人口への影響を有するようになった古典期のずっと前に、地中海全体の広範な移動があったことを示します。

 外れ値の2番目の個体は、年代が青銅器時代となる紀元前1643〜紀元前1263年頃で、サルデーニャ島在来集団と、ミケーネ文化やヨルダン早期青銅器時代のような地中海東部系統、もしくはイタリアやフランスの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化の草原地帯の混合としてモデル化されます。サルデーニャ島の銅器時代の1個体のmtHgは、サルデーニャ島では珍しく、早期青銅器時代バルカン半島やアジア西部で知られているU1aです。また、サルデーニャ島青銅器時代の1個体のYHgは、現在バルカン半島や中東において最高頻度で見られる J2b2aで、青銅器時代以前にはバルカン半島や中東にほぼ固有です。

 サルデーニャ島における草原地帯系統とイラン系統の最初の出現は、鉄器時代の2個体で見られます。一方は紀元前762〜紀元前434年頃で、草原地帯系統が22.5±3.6%、もう一方の紀元前391〜紀元前209年頃の個体ではイラン系統が12.7±3.5%と推定されています。イラン系統は、古代末期の個体群の複数個体ではより高くなります。サルデーニャ島の古代末期集団は、バレアレス諸島のフェニキア期個体とクレードを形成し、フェニキア人によりもたらされた、と推測されます。サルデーニャ島の中世個体は限定的な一塩基多型網羅率のためモデル化されていませんが、そのYHg-E1b1b1b2は、サルデーニャ島銅器時代個体およびヘレニズム期エジプトの個体群のYHg-E1b1bと同じ系統で、地中海東部起源を示唆します。

 これらの知見から、鉄器時代2人・古代末期2人・中世前期1人というサルデーニャ島の比較的新しい個体群では、新石器時代から青銅器時代の先住民の遺伝的影響は比較的小さいと推測されます。この5人は全員沿岸の遺跡で発見されており、サルデーニャ島外の集団からの移住を示唆します。内陸部などサルデーニャ島で古代DNAデータが得られていない地域では、おそらく鉄器時代より前の先住民系統を高い割合で保持しており、その先住民系統は、サルデーニャ島現代人集団に寄与した最大の単一系統と推測されます。

 サルデーニャ島現代人集団は、4〜5系統の混合としてのみモデル化でき、以前の推定よりも複雑な形成過程が示唆されます。サルデーニャ島現代人集団における先住民系統の割合は、新石器時代系統で56.3±8.1%、青銅器時代系統で62.2±6.6%と推定され、アフリカ北部(モロッコ)関連後期新石器時代系統の割合は、前者で22.7±9.9%、後者で17.1±8.0%と推定されます。このアフリカ北部関連系統はおそらくサハラ砂漠以南アフリカ系統との混合で、サルデーニャ島現代人集団でも複数の研究で検出されています。この56〜62%という割合は、鉄器時代よりも前のサルデーニャ島先住民を唯一の祖先源と仮定して推定しているので、上限値となります。

 これらの知見は、サルデーニャ島ではヨーロッパ最初の農耕民関連系統の割合がヨーロッパの他地域よりも高いことを確証しますが、以前には知られていなかった新石器時代後の主要な遺伝子流動があったことも明らかにします。これは、サルデーニャ島現代人集団において、新石器時代から青銅器時代までに一般的だったYHg-R1b1aとmtHg-HV・JT・Uとともに、青銅器時代以前には確認されていないYHg-R1b1a1a2a1a2が高頻度で見られることからも明らかです。最近の研究でも、サルデーニャ島現代人集団において、以前の推定よりも大きい青銅器時代後の遺伝子流動と、サルデーニャ島沿岸における青銅器時代以前の先住民系統の低さが指摘されています(関連記事)。アルプスのイタリアとオーストリアの国境付近で発見されたミイラの5300年前頃の「アイスマン」のゲノムは、サルデーニャ島現代人集団とひじょうに近いと言われていますが、その一致率は100%よりはるかに低くなります。


●まとめ

 本論文は5つの結果を強調します。まず、バレアレス諸島とシチリア島の両方で、青銅器時代の人々の主要な起源としてイベリア半島を特定したことです。バレアレス諸島の早期の住民の中には、少なくとも一部がイベリア半島系統由来だった人々もいました。早期青銅器時代のシチリア島の2人では、イベリア半島に特徴的なYHg-R1b1a1a2a1a2a1(Z195)が確認されました。イベリア半島は、東方から西方への人類の移動の目的地だけではなく、西方から東方への「逆流」の起源地でもあったわけです。しかし、この期間のイベリア半島の人口史は地中海諸島とは異なっており、たとえばイベリア半島では、銅器時代に一般的だったYHgが青銅器時代にはほぼ完全に置換されましたが(関連記事)、シチリア島ではYHgのほぼ完全な置換は起きておらず、新石器時代および草原地帯関連のYHgが両方見られます。

 第二に、ミノアおよびミケーネ文化と関連して中期青銅器時代までにエーゲ海で広まったイラン系統が、遅くともミケーネ期までにシチリア島へと西進し、かなりの割合を有するようになったことです。これはミケーネ文化の拡大に伴っていたかもしれません。しかし、ミケーネ文化最盛期の前に、マルタ島・ギリシア・アナトリア半島でシチリア島のカステラッチョ文化(Castellucian culture)と関連した人工物が見つかっており、それ以前の遺伝子流動の可能性も考えられます。バレアレス諸島やサルデーニャ島では、フェニキア期の前にイラン系統の高い割合の証拠はありませんが、それは地中海東部からの孤立を意味しません。考古学的証拠では、たとえば後期青銅器時代のサルデーニャ島におけるキプロス島の銅の輸入のように、地中海東部から西部へのかなりの物資の移動がありました。

 第三に、銅器時代と青銅器時代におけるアフリカ北部からヨーロッパへの広範な人類の移動です。具体的には、上述のサルデーニャ島における紀元前2345〜紀元前2146年頃の個体で、イベリア半島中央部の紀元前2473〜紀元前2030年頃の個体と類似しています。また、紀元前1932〜紀元前1697年頃のイベリア半島の個体にもアフリカ北部関連系統が認められます。現時点では、5000〜3000年前頃の地中海ヨーロッパの191人のうち1.6%に、数世代前のアフリカ北部移民系統の証拠があります。

 第四に、フェニキアおよびギリシア植民地期と、それに続く地中海西部諸島の移民の影響です。たとえば、バレアレス諸島鉄器時代以降の個体群は、在来の先住集団からの系統を有していないかもしれません。以前の研究と併せて考えると、鉄器時代以降、地中海西部の沿岸地域は、地理的に近接して共存していた移民と在来集団の民族的分離により特徴づけられます。じっさい、イベリア半島北東部のギリシア植民地アンプリアス(Empúries)では、遺伝的に異なる個体群2系統が共存しており、ストラボンの歴史的記述と一致します。バレアレス諸島やシチリア島のような地域では、鉄器時代後の集団のほぼ完全な置換が推定されますが、ある程度の在来集団の継続性も除外できません。

 最後に、サルデーニャ島現代人集団は初期農耕民の定着後比較的孤立していた、という一般的な見解に疑問を呈していることです。本論文は、新石器時代から銅器時代を経て青銅器時代まで、サルデーニャ島集団が典型的なヨーロッパ早期農耕民系統を有し、それがヨーロッパ他地域よりも長く続いたことを明らかにしました。しかし、地中海東部および北部とアフリカからの移民は、鉄器時代以降にサルデーニャ島集団の遺伝的構成にかなりの影響を及ぼし、それは地中海西部沿岸の他地域と同様です。サルデーニャ島現代人集団の系統の少なくとも38〜44%は、明らかに在来集団と混合した移民系統で、そのうちアフリカ北部系統は17〜23%と推定されます。このように、サルデーニャ島は新石器時代以来混合と移民から完全に隔離されていたというよりはむしろ、ヨーロッパの他地域のほとんどと同様に、移動と混合を経て現在の住民の遺伝的構成が形成されました。


参考文献:
Fernandes DM. et al.(2020): The spread of steppe and Iranian-related ancestry in the islands of the western Mediterranean. Nature Ecology & Evolution, 4, 3, 334–345.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1102-0

https://sicambre.at.webry.info/202003/article_3.html

3. 2020年9月01日 19:59:28 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[48] 報告
雑記帳 2019年09月15日
イベリア半島西部への現生人類の拡散
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_37.html


 今月(2019年9月)19日〜21日にかけてベルギーのリエージュで開催予定の人間進化研究ヨーロッパ協会第9回総会で、イベリア半島西部への現生人類(Homo sapiens)の拡散に関する研究(Haws et al., 2019)が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます(P83)。以下の年代は較正されたものです。イベリア半島への現生人類の拡散に関しては、とくに南部というかエブロ川以南をめぐって議論が続いています。ヨーロッパにおける現生人類拡散の考古学的指標となるのはオーリナシアン(Aurignacian)です。イベリア半島北部では、較正年代で43270〜40478年前頃にオーリナシアンが出現した、と推定されています(関連記事)。ヨーロッパでは、現生人類の拡散から数千年ほどの4万年前頃までにネアンデルタール人は絶滅した、と推測されています(関連記事)。

 しかし、イベリア半島南部というかエブロ川以南に関しては、上部旧石器時代となるオーリナシアンの出現が他のヨーロッパ西部地域よりも遅れ、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)によるムステリアン(Mousterian)の中部旧石器時代が37000〜36500年前頃まで続いた、との見解も提示されています(関連記事)。生物地理学的にはイベリア半島はエブロ川を境に区分される、という古環境学的証拠が提示されています。この生態系の違いが現生人類のイベリア半島への侵出を遅らせたのではないか、と想定されています(エブロ境界地帯モデル仮説)。

 しかし最近、イベリア半島南部に位置するスペインのマラガ(Málaga)県のバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)遺跡の調査から、現生人類はオーリナシアンを伴ってイベリア半島南部に43000〜40000年前頃に到達した、との見解が提示されました(関連記事)。これに対しては、年代測定結果と、石器群をオーリナシアンと分類していることに疑問が呈されており、議論が続いています(関連記事)。再反論を読んだ限りでは、年代測定結果に大きな問題はなさそうですが、石器群をオーリナシアンと分類したことに関しては、議論の余地があるように思います。

 本論文は、ポルトガル中央部のラパドピカレイロ(Lapa do Picareiro)洞窟遺跡の石器群を報告しています。ラパドピカレイロ遺跡の石器群には特徴的な竜骨型掻器(carinated endscraper)や石核や小型石刃が含まれ、早期オーリナシアンと分類されてきました。この石器群は、中部旧石器時代の47000〜45000年前頃の層と、38000〜36000年前頃のまだ分類されていない考古学的層との間に位置します。本論文はこの放射性炭素年代測定結果と堆積データから、ラパドピカレイロ遺跡の早期オーリナシアンの年代を40200〜38600年前頃となるハインリッヒイベント(HE)4と推定しています。これは、イベリア半島西部への現生人類の拡散が、以前の想定より5000年ほど早かったことを意味します。

 本論文は、オーリナシアンはイベリア半島北部経由でイベリア半島西端へと拡大した、と推測します。また本論文は、ドウロ(Douro)とタホ(Tejo)というイベリア半島の主要2河川経由でオーリナシアンがイベリア半島西端へと到達した可能性も指摘します。一方、上述のように、イベリア半島でもエブロ川以南では4万年前頃以降もネアンデルタール人が生存していた、との見解が提示されており、ラパドピカレイロ遺跡の近くのオリベイラ洞窟(Gruta da Oliveira)遺跡も、4万年前頃以後のネアンデルタール人の存在の可能性が指摘されています。本論文は、イベリア半島西部や南部で、現生人類とネアンデルタール人が数世紀もしくは数千年にわたって共存していた可能性を指摘します。イベリア半島における中部旧石器時代〜上部旧石器時代への移行期はかなり複雑だったかもしれず、ネアンデルタール人の絶滅理由の解明にも重要となるでしょうから、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Haws J. et al.(2019): Modern human dispersal into western Iberia: The Early Aurignacian of Lapa do Picareiro, Portugal. The 9th Annual ESHE Meeting.

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_37.html

4. 2020年9月01日 20:24:59 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[53] 報告
雑記帳 2019年03月17日
イベリア半島の人類集団の長期にわたる遺伝的歴史(追記有)
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_28.html


 イベリア半島の人類集団の長期にわたる遺伝的歴史に関する2本の論文が報道されました。ユーラシア西部の古代DNA研究は盛んで、イベリア半島も例外ではありません。当ブログでも、イベリア半島の人類集団に関連する古代DNA研究を複数取り上げてきましたが、包括的なものとしては、新石器時代〜青銅器時代を対象とした研究があります(関連記事)。末期更新世〜青銅器時代までのイベリア半島の人類史を概観すると、アナトリア半島西部の農耕民がイベリア半島へと東進してきて新石器時代が始まり、在来の狩猟採集民集団と融合していきます。その後、銅器時代〜青銅器時代にかけて、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)起源の集団がヨーロッパに拡散し、イベリア半島も影響を受けました。こうした大雑把な認識を前提に、以下、2本の論文を取り上げます。


 一方の研究(Villalba-Mouco et al., 2019)は、13000〜6000年前頃のイベリア半島の人類集団の遺伝的構成とその変容を検証しており、オンライン版での先行公開となります。最終氷期の後、ヨーロッパ西部・中央部では狩猟採集民集団の置換があった、と推測されています。それまでは、文化的にはマグダレニアン(Magdalenian)と関連する集団系がイベリア半島も含めて広範に存在しており、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された19000年前頃のゴイエットQ2(Goyet Q-2)個体に代表されます。その後、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に代表される系統が、マグダレニアン集団(ゴイエットQ2)系統をほぼ置換した、と推測されています。最終氷期極大期(LGM)には、ヨーロッパではイタリアとイベリア半島が待避所的な役割を担い、人類も他の動物とともに南下して寒冷期を生き延びたのではないか、と推測されています。

 本論文は、後期上部旧石器時代2人・中石器時代1人・早期新石器時代4人・中期新石器時代3人のゲノム規模データを新たに得て、既知のデータと比較しました。すると、イベリア半島北東部のエルミロン(El Mirón)遺跡の18700年前頃の個体には、ゴイエットQ2系統とヴィラブルナ系統との混合が確認されました。さらに、アナトリア半島西部からの農耕民がイベリア半島に拡散してきた後の中期新石器時代の住民にも、異なる狩猟採集民2系統の痕跡が確認されました。本論文は、イベリア半島がヨーロッパでは例外的に新石器時代までゴイエットQ2系統の残存した地域で、アナトリア半島西部起源の農耕民とイベリア半島在来の狩猟採集民集団との混合が改めて確認された、と指摘します。

 イベリア半島では、遅くとも19000年前頃までにはゴイエットQ2系統とヴィラブルナ系統が融合しており、本論文は両系統の早期の融合を指摘します。本論文はイベリア半島における両系統の融合に関して、ゴイエットQ2系統がイベリア半島に存在し続け、ヴィラブルナ系統がイベリア半島に拡散してきた可能性を想定しています。また本論文は、両系統ともイベリア半島外起源で、独立してイベリア半島に到達して両系統が交雑したか、すでにイベリア半島外で交雑していた可能性も指摘しています。この問題の解決には、もっと多くの更新世ヨーロッパの現生人類(Homo sapiens)のゲノム解析が必要となるでしょう。


 もう一方の研究(Olalde et al., 2019)は、中石器時代から歴史時代まで、約8000年にわたるイベリア半島の住民のゲノム規模データを報告しています。内訳は中石器時代4人・新石器時代44人・銅器時代47人・青銅器時代53人・鉄器時代24人・歴史時代99人で、既知の古代人1107人および現代人2862人のゲノム規模データとともに分析・比較されました。本論文で分析対象となった個体のうち、中石器時代のイベリア半島で最古の個体は19000年前頃のエルミロン個体と類似していましたが、その後はヨーロッパ中央部の狩猟採集民との強い近縁性が見られるようになります。本論文はこれを、イベリア半島北西部には影響を及ぼしたものの、南東部には影響を及ぼさなかった遺伝子流動を反映している、と解釈しています。

 新石器時代〜銅器時代には、アナトリア半島新石器時代農耕民系統・エルミロン系統・ヨーロッパ中央部狩猟採集民系統の混合が見られます。ただ本論文は、早期新石器時代の標本数は限定的なので、アナトリア半島西部から拡散してきた農耕民と先住の狩猟採集民との相互作用の詳細な解明には、より広範な地域の多くの標本数が必要になる、と指摘しています。中期新石器時代と銅器時代には、6000年前頃以降、狩猟採集民系統の増加が改めて確認されました。農耕民と狩猟採集民との融合が進展したのでしょう。中期新石器時代〜銅器時代の狩猟採集民系統は、上部旧石器時代後期のエルミロン系統よりも、中石器時代のイベリア半島北部系統の方と類似しています。

 青銅器時代早期となる4400〜4000年前頃のイベリア半島中央部のカミノ・デ・ラス・イェセラス(Camino de las Yeseras)遺跡の男性は、後期更新世アフリカ北部系統と早期新石器時代ヨーロッパ系統の混合としてモデル化される、と本論文は指摘します。イベリア半島におけるアフリカ北部系の遺伝的影響はすでに中期新石器時代〜銅器時代にも確認されており(関連記事)、本論文の知見はじゅうらいの見解と整合的と言えるでしょう。ただ本論文は、アフリカ北部からイベリア半島への遺伝子流動は、銅器時代と青銅器時代には限定的で、アフリカ北部系の遺伝的影響がイベリア半島で増加したのは過去2000年のことだった、とも指摘しています。

 4400〜2900年前頃となる青銅器時代には、イベリア半島においてポントス-カスピ海草原地帯系統の遺伝的影響が増加します。4500〜4000年前頃の14人には草原地帯の遺伝的要素が確認されない一方で、4000年前頃以降には、草原地帯系統の遺伝的影響が増加し、ゲノムでは40%ほどになる、と推定されています。銅器時代のイベリア半島で一般的だったY染色体DNAハプログループI2・G2・Hは、ほぼ完全にR1b系統に置換されました。つまり、草原地帯系統集団はイベリア半島において、女性よりも男性の方が強い遺伝的影響を及ぼした、というわけです。これは、X染色体上の非イベリア半島在来系の低い遺伝的影響からも支持されます。青銅器時代のカスティレヨ・デル・ボネテ(Castillejo del Bonete)遺跡の墓でも、草原地帯系統の男性と銅器時代のイベリア半島集団系統の女性が発見されています。本論文は、古代DNA研究は交雑の性差を確認できるものの、その過程を理解するには、考古学および人類学的研究が必要だ、と指摘しています。

 鉄器時代には、ヨーロッパ北部および中央部集団と関連する系統の増加傾向が見られます。この傾向は、後期青銅器時代もしくは早期鉄器時代におけるイベリア半島への遺伝子流動を反映しており、おそらくは骨壺墓地(Urnfield)文化の導入と関連している、と本論文は推測しています。また本論文は、草原地帯系統がインド・ヨーロッパ語族をもたらしたヨーロッパ中央部または北部とは異なり、イベリア半島では、草原地帯系統の遺伝的影響の増加がインド・ヨーロッパ語族への転換を常に伴ったわけではない、と示唆します。これは、現在ヨーロッパ西部で唯一の非インド・ヨーロッパ語族であるバスク人には、かなりの水準の草原地帯系統の影響が見られるからです。本論文は、バスク人は草原地帯系統の遺伝的影響を強く受けたものの、言語はインド・ヨーロッパ語族に置換されなかった、と指摘します。バスク人に関しては以前、新石器時代になってアナトリア半島西部からイベリア半島に進出してきた初期農耕民の子孫ではないか、との見解が提示されていました(関連記事)。本論文の見解はそれと矛盾するわけではありませんが、草原地帯系統の強い遺伝的影響が指摘されています。バスク人に関しては、旧石器時代や中石器時代からイベリア半島で継続してきた集団で、比較的孤立していたのではないか、と長い間考えられてきましたが、そうした見解は現時点では支持しにくいように思います。ただ、草原地帯系統の強い遺伝的影響を受けた後、バスク人系統は比較的孤立していたようです。

 歴史時代では、紀元前5世紀から紀元後6世紀の24人のデータにより、地中海中央部・東部やアフリカ北部からの遺伝的影響があった、と推測されています。これに関しては、ローマの拡大による強い影響が想定されますが、それよりも前のギリシアや、さらにその前のフェニキアの植民活動の影響も指摘されています。また歴史時代では、地中海東部系と鉄器時代イベリア半島系に大きく二分され、多民族的な状況の町があった、と指摘されています。フェニキアの影響は、Y染色体DNAハプログループJ2の存在からも支持されます。こうした地中海中央部・東部の遺伝的影響はイベリア半島全域に及びましたが、バスク地方は例外だったようで、上述したようにバスク地方の孤立性が想定されます。また、ユダヤ系を反映しているだろうレヴァント関連系統も確認されました。ローマ帝国衰退期には、古典期とは対照的に、大きな長期的影響は小さかった、と推測されています。ただ、ユーラシア東部系のmtDNAハプログループC4a1aも見られ、東方からのローマ帝国への侵略を反映しているかもしれません。

 アフリカ北部からイベリア半島への遺伝子流動はイスラム期にも継続し、イスラム期前には見られない遺伝的痕跡と、アフリカ北部およびサハラ砂漠以南のアフリカ系統の増加が確認されます。イベリア半島南部の現代人はイベリア半島のイスラム期のムスリムの埋葬者よりもアフリカ北部系要素が少なく、ムスリムの追放とイベリア半島北部からの再移住の結果と推測されます。歴史学では長く通説だったというか、おそらくヨーロッパでは一般常識だろう、イベリア半島におけるイスラム教勢力の支配とその後のイスラム教勢力追放(レコンキスタ)が、古代ゲノム研究でも改めて確認されたのは、予想されたこととはいえ、興味深いものです。


参考文献:
Olalde I. et al.(2019): The genomic history of the Iberian Peninsula over the past 8000 years. Science, 363, 6432, 1230-1234.
https://doi.org/10.1126/science.aav4040

Villalba-Mouco V. et al.(2019): Survival of Late Pleistocene Hunter-Gatherer Ancestry in the Iberian Peninsula. Current Biology, 29, 7, 1169–1177.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2019.02.006


追記(2019年3月19日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

https://sicambre.at.webry.info/201903/article_28.html

5. 2020年9月01日 20:29:09 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[54] 報告
雑記帳 2019年01月28日
アフリカからイベリア半島への先史時代の遺伝子流動
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_52.html


 アフリカからイベリア半島への先史時代の遺伝子流動に関する研究(González-Fortes et al., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文の年代は基本的に、放射性炭素年代測定法による較正年代で、以下のアフリカとは、明記しない限りサハラ砂漠以南のアフリカを指します。現代ヨーロッパ人のゲノム解析ではアフリカ系集団の遺伝的影響がわずかに確認されており、その割合は南西から北東に向かうにつれて減少します。つまり、ヨーロッパでもイベリア半島において、アフリカ系集団の遺伝的影響が最も高い、というわけです。

 これが先史時代の移住の結果なのか、それとも歴史時代のことなのか、不明です。現代人のゲノム規模解析からは、ヨーロッパにアフリカから移住があったのはイスラム教拡散の頃のことだと推定されています。しかし、現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAの分析では、もっと前の10000〜8000年前頃の交雑が示唆されています。強力な証拠の一つは、基本的にはアフリカでのみ見られるmtDNAハプログループLのヨーロッパ特有の亜系統が存在することで、これはヨーロッパにおける早期の到達とその後の地域的な進化を示唆しています。

 地理的に近接したイベリア半島とアフリカ北西部の間では、古代DNA研究により、遺伝子流動があった、と明らかになりつつあります。アフリカ北西部(モロッコ)では、15000年前頃の集団にサハラ砂漠以南のアフリカからの(関連記事)、5000年前頃となる後期新石器時代の集団には、それまで見られなかったヨーロッパ、おそらくはイベリア半島からの(関連記事)遺伝的影響が見られます。しかし、先史時代におけるアフリカからイベリア半島への遺伝子流動はこれまで確認されていませんでした。

 本論文は、、中期新石器時代〜銅器時代〜青銅器時代のイベリア半島の人類のうち、4人の核ゲノムを(網羅率は0.39〜4.78倍)、またこの4人も含めて17人のmtDNAを解析しました。核ゲノムが解析された4人は、スペイン南部のルセーナ(Lucena)にある「天使の小さな洞穴(Covacha del A´ngel)」遺跡の標本「COV20126」と「天使の穴(Sima del A´ ngel)」遺跡の標本「LU339」、ポルトガル北部の「食事の広場(Lorga de Dine)」遺跡の標本「LD1174」と「LD270」です。年代は、COV20126が3637±60年前、LU339が4889±68年前、LD1174が4467±61年前、LD270が4386±128年前です。

 mtDNAハプログループは、1人を除いてヨーロッパで以前に確認されたものでした。しかし、COV20126は、サハラ砂漠以南のアフリカ、とくに西部と西部・中央部に現代では典型的に見られるL2a1でした。非アフリカ地域では基本的にmtDNAハプログループL3から派生したM・Nしか見られませんが、L2系統とL3系統の分岐年代は73000年前頃と本論文では推定されています。L2a1は、これまで先史時代の非アフリカ地域においては確認されていませんでした。

 COV20126は、mtDNAでは明確なアフリカ起源を示しましたが、核DNAではアフリカ系の影響は見られませんでした。しかし、イベリア半島の他の標本、とくに地中海沿岸地域と高原地域では、中期新石器時代〜銅器時代にかけての複数個体には見られます。また、ポルトガルよりもスペインの方が、またより新しい時代の方が、より高いアフリカ系との類似性を示します。考古学的にも、イベリア半島南部とアフリカ北部との間で、新石器時代の類似性が指摘されています。本論文は核とミトコンドリアの両方で、先史時代におけるアフリカからヨーロッパへの遺伝子流動の直接的証拠を初めて報告したことになります。

 本論文はこれらの知見を根拠に、アフリカからイベリア半島南部への少なくとも1回の遺伝子流動事象があった、と解釈しています。この遺伝子流動については、大西洋北西端には到達していないか、その影響が小さかった、と本論文は考えています。この遺伝子流動がいつ起きたのか、正確な年代は不明で、より正確な検証には中石器時代のイベリア半島南部のゲノム解析が必要です。COV20126の核ゲノムにアフリカ系要素が見られなかったことについては、その年代がやや新しいので、ヨーロッパ系との混合が進んでアフリカ系要素が希釈されたことと、網羅率が0.39倍と低いことも影響しているかもしれません。古代DNA研究の進展は、とくにヨーロッパにおいて目覚ましく、とても追いついていけいてない状況なのですが、少しでも多くの論文や本を読んでいこう、と考えています。


参考文献:
González-Fortes G.. et al.(2019): A western route of prehistoric human migration from Africa into the Iberian Peninsula. Proceedings of the Royal Society B, 286, 1895, 20182288.
https://doi.org/10.1098/rspb.2018.2288

https://sicambre.at.webry.info/201901/article_52.html

6. 2020年9月01日 20:33:07 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[55] 報告
雑記帳 2018年09月30日
イベリア半島北部における中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行年代
https://sicambre.at.webry.info/201809/article_53.html

 取り上げるのが遅くなりましたが、イベリア半島北部における中部旧石器時代〜上部旧石器時代の移行年代に関する研究(Marín-Arroyo et al., 2018)が公表されました。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の洞窟壁画の年代を見直した論文(関連記事)にて本論文が引用されており、重要だと思ったので取り上げます。ユーラシア西部における中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行は、現生人類によるネアンデルタール人の置換と関連していると考えられることから関心の高い問題で、その解明には各遺跡の精確な年代測定が必要となります。

 この十数年ほど、ヨーロッパの旧石器時代の年代の見直しが続いており(関連記事)、それは中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行年代の推定にも大きな影響を及ぼしています。年代見直しの根拠となるのは、じゅうらいの放射性炭素年代測定法で用いられた試料は汚染の可能性が否定できず、その場合にはじっさいよりも新しい推定年代が得られてしまう、ということです。試料汚染の問題を解決するために前処理として限外濾過が用いられ、汚染の影響を受けにくいコラーゲンが精製され、年代測定されるようになりました。ただ、この方法は、コラーゲンの得られない遺跡では適用できない、という難点があります。

 本論文もこの改善された方法を用いて、イベリア半島北部でも中央部となる、スペイン北部のカンタブリア(Cantabria)州の諸遺跡の新たな年代を提示しています。文化的には、ムステリアン(Mousterian)の末期からシャテルペロニアン(Châtelperronian)期とオーリナシアン(Aurignacian)期を経てグラヴェティアン(Gravettian)期となり、新たな年代の報告とともに、既知の信頼性の高い年代と統合して、カンタブリア州における中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期の年代的枠組みを提示しています。ヨーロッパにおける中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行は、異なる地域で異なる時期に起きた、と明らかになりつつあるので、本論文のように各地域の精確な年代を提示することが重要となります。以下の年代はすべて、放射性炭素年代測定法による較正年代ですが、シャテルペロニアンに関しては新たな年代が得られませんでした。

 各インダストリーの開始および終焉の推定年代(確率95.4%)は以下の通りです。なお、()は確率68.2%の年代です。ムステリアンの終焉は47914〜45078(47298〜46048)年前、シャテルペロニアンの開始は42868〜41686(42508〜41930)年前で終焉は42406〜41370(42142〜41632)年前、オーリナシアンの開始は43270〜40478(42406〜41000)年前で終焉は34376〜33784(34604〜336140)年前、グラヴェティアンの開始は35914〜35206(36818〜35030)年前です。

 カンタブリア州におけるムステリアンの終焉は、イベリア半島北東部やフランス南西部のムステリアンの終焉より早く、カンタブリア州においてはムステリアンとシャテルペロニアンの間に明確な空白期間が存在します。シャテルペロニアンの担い手と起源についてはさまざまな議論がありますが、その担い手の少なくとも一部がネアンデルタール人であった可能性はきわめて高いでしょう(関連記事)。本論文は、カンタブリア州のシャテルペロニアンが外来インダストリーだった可能性と、空白期間に未発見の遺跡があり、ムステリアンから派生した可能性を指摘しています。

 シャテルペロニアンをめぐる議論との関連では、カンタブリア州においてシャテルペロニアンとオーリナシアンが500〜1000年ほど重なっていることも注目されます。そのため本論文は、カンタブリア州におけるネアンデルタール人と現生人類との一定期間の共存の可能性を指摘しますが、一方で、カンタブリア州の後期ムステリアン・シャテルペロニアン・最初期オーリナシアンには明確な人類遺骸が共伴していない、と注意を喚起しています。カンタブリア州における各インダストリーの担い手は確定していない、というわけです。じっさい、シャテルペロニアンの担い手の一部が現生人類である可能性も指摘されており(関連記事)、カンタブリア州のシャテルペロニアンに関しても、その可能性を考慮に入れておくべきだと思います。カンタブリア州においては、オーリナシアンとグラヴェティアンの年代も重なっています。イベリア半島北部のグラヴェティアンは、西部より東部の方で早く出現しますから、イベリア半島北部のグラヴェティアンは東方に起源があると考えられます。

 各インダストリーの担い手について色々と議論はありますが、カンタブリア州においては、ムステリアンの担い手がネアンデルタール人で、オーリナシアンの担い手が現生人類である可能性はきわめて高そうです。グラヴェティアンの担い手は、議論の余地なく現生人類と言えるでしょう。問題となるのはシャテルペロニアンの担い手で、ネアンデルタール人だとしても、現生人類の影響を受けた可能性は高そうです。フランス南西部のシャテルペロニアンに関しても、とくに後期は、ネアンデルタール人が担い手だったとしても、現生人類の一定以上の影響を想定するのが妥当かもしれません。


参考文献:
Marín-Arroyo AB, Rios-Garaizar J, Straus LG, Jones JR, de la Rasilla M, et al. (2018) Chronological reassessment of the Middle to Upper Paleolithic transition and Early Upper Paleolithic cultures in Cantabrian Spain. PLOS ONE 13(6): e0194708.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0194708

https://sicambre.at.webry.info/201809/article_53.html

7. 2020年9月01日 20:42:12 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[60] 報告
雑記帳 2018年06月27日
新石器時代におけるイベリア半島からアフリカ北西部への移住
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_48.html


 新石器時代におけるイベリア半島からアフリカ北西部への移住に関する研究(Fregel et al., 2018)が公表されました。新石器時代には農耕が始まり、人類史における一大転機とされています。農耕の始まりに関して議論になってきたのは、農耕技術など関連文化の定着にさいして、交易などを通じた交流による伝播と、人々の移住のどちらが主流だったのか、ということです。現時点での証拠からは、文化伝播と集団移住のどちらもあり得て、地域・時代により状況は多様だった、と考えられます(関連記事)。

 本論文は、マグレブの新石器時代の住民はゲノム解析から、新石器時代への移行、さらには新石器時代における遺伝的構成の変容の具体的様相を解明しています。本論文は、モロッコの初期新石器時代となるIAM(Ifri n’Amr or Moussa)遺跡の7人、後期新石器時代となるKEB(Kelif el Boroud)遺跡の8人、イベリア半島の初期新石器時代となるTOR(El Toro)遺跡の12人のゲノムを解析し、中央アジア・西アジア・ヨーロッパの古代人のゲノム配列と比較しました。

 まず、紀元前5000年前頃までとなる初期新石器時代のIAM集団は、アフリカ北西部の新石器時代よりも前(後期新石器時代)の住民と遺伝的に類似しており、ベルベル人など現代のアフリカ北西部集団特有の遺伝的構成のみを示しています。これは、更新世〜現代にわたるアフリカ北西部の長期の遺伝的継続と、後期更新世〜完新世となる紀元前5000年前頃までの、アフリカ北西部の人類集団の遺伝的孤立を示唆します。もちろん、ベルベル人は歴史的に他地域集団の影響をある程度以上受けており、すでにローマ帝国の支配以前にヨーロッパ人と交雑していたと推測されていますが、IAM集団には、そうした他地域からの大きな遺伝的影響は確認されませんでした。

 レヴァントも含む西アジアは世界で最初に農耕が始まった地域と言えそうですが、レヴァントの農耕開始直前とも言える、紀元前9000年前頃までとなるナトゥーフィアン(Natufian)の狩猟採集民集団は、IAM集団とは遺伝的関係はかなり遠いと明らかになりました。したがって、アフリカ北西部集団、少なくともIAM集団における農耕の始まりは、地域的な集団が外部の遺伝的影響をさほど受けずに継続し、近隣地域から農耕関連技術・概念を取り入れた、と考えるのが妥当だと思われます。

 一方、紀元前3000年前頃となる後期新石器時代のKEB集団には、ヨーロッパ人、おそらくはイベリア半島集団の遺伝的影響がある、と明らかになりました。同じ頃に、イベリア半島ではアフリカゾウの象牙やダチョウの卵のような遺物が見つかっており、ジブラルタル海峡を通じてアフリカ北西部とイベリア半島との交流があった、と確認されています。KEB集団の遺伝的構成は、そうした考古学的知見と整合的です。後期新石器時代には、初期新石器時代とは異なり、アフリカ北西部地域集団は他地域から遺伝的影響を受け、その遺伝的構成は変容していきました。

 さらに本論文は、後期新石器時代以降にも、アフリカ北西部はイベリア半島などヨーロッパからの人類集団の流入による遺伝的影響を受けたのではないか、と推測しています。IAM遺跡やKEB遺跡では、後期新石器時代よりも新しい層で鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)陶器が発見されており、イベリア半島などヨーロッパとの交流が窺えます。もちろん、本論文の見解はあくまでも2遺跡の事例に基づいているので、今後アフリカ北西部で古代ゲノム解析が進めば、この地域の人類集団の遺伝的構成の変容について、また違った様相が見えてくるかもしれません。


参考文献:
Fregel R. et al.(2018): Ancient genomes from North Africa evidence prehistoric migrations to the Maghreb from both the Levant and Europe. PNAS, 115, 26, 6774–6779.
https://doi.org/10.1073/pnas.1800851115


https://sicambre.at.webry.info/201806/article_48.html

8. 2020年9月01日 20:53:28 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[65] 報告
雑記帳 2018年03月19日
新石器時代〜青銅器時代のイベリア半島の人類史
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_19.html


 これは3月19日分の記事として掲載しておきます。新石器時代〜青銅器時代のイベリア半島の人類のゲノム解析結果を報告した研究(Valdiosera et al., 2018)が報道されました。完新世の先史時代ヨーロッパにおいては、大きな移住の波が二つありました。一つは西アジア起源の農耕民集団で、アナトリア半島を経由してヨーロッパに拡散し、ヨーロッパに初めて農耕をもたらしました。大まかな傾向としては、更新世からのヨーロッパ在来の狩猟採集民集団は東方からの初期農耕民集団にゆっくりと同化されていったものの(関連記事)、その具体的な様相は地域により違いも見られます(関連記事)。もう一つの大きな移住の波は、5000年前頃に始まる、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの遊牧民集団の拡散です。これは、ヨーロッパにおいて大きな遺伝的影響を及ぼした、とされています(関連記事)。

 本論文は、放射性炭素年代測定法による較正年代で7245年前〜3500年前頃となる13人のゲノム配列を決定し、現代および過去のヨーロッパ人から得られたゲノムデータと比較しました。網羅率は0.01倍〜12.9倍です。性別は、男性が11人、女性が2人です。ミトコンドリアDNA(mtDNA)のハプログループでは、13人9人がヨーロッパの初期農耕民と関連するK・J・N・Xに、2人がヨーロッパの初期農耕民および狩猟採集民と関連するHに分類されます。Y染色体のハプログループでも、ヨーロッパの初期農耕民と関連するG2a2やH2が見られる一方で、ヨーロッパの初期農耕民および狩猟採集民と関連するI2が見られます。

 分析・比較の結果明らかになったのは、この期間のイベリア半島内の農耕民集団の遺伝的違いは、地域間ではさほど大きくなく、各年代間では大きい、ということです。イベリア半島の初期農耕民集団は、ヨーロッパの他地域の初期農耕民集団と同様に、西アジアからアナトリア半島を経由して(おそらくは地中海北岸沿いに)東進してきましたが、中央ヨーロッパの初期農耕民集団とは遺伝的に区分され得ます。これは、東方からのアナトリア半島経由の初期農耕民集団のヨーロッパにおける拡散が、複数存在したことを示しています。また、イベリア半島の初期農耕民集団の遺伝的多様性はヨーロッパの他地域の初期農耕民集団よりも低く、ボトルネック(瓶首効果)があったことを示唆しています。このイベリア半島の初期農耕民集団と、サルデーニャ島の現代人とは遺伝的に強い関係が見られます。サルデーニャ島の現代人には、東方からの初期農耕民集団の遺伝的影響が今でも強く残っているようです。

 イベリア半島の農耕民集団の遺伝的多様性は、新石器時代中期には他地域と比較してさほど変わらないまでに増加します。これは、人口増加と、イベリア半島の狩猟採集民集団との混合が進んだためだと推測されています。上述したように、5000年前頃に始まる、ポントス-カスピ海草原からの遊牧民集団の拡散は、ヨーロッパにおいて大きな遺伝的影響を及ぼした、とされます。しかし本論文は、イベリア半島においては、ヨーロッパの他地域と比較して、この遊牧民集団の遺伝的影響は顕著に小さかった、と指摘しています。また本論文は、イベリア半島の農耕民集団における食性が、狩猟採集民集団との相互作用にも関わらず、長期にわたって大きな変化はなく、地域差も小さかった、と指摘しています。イベリア半島の農耕民集団はC3植物に依存する食性を変えず、水産タンパク質源の消費は少なかった、というわけです。


参考文献:
Valdiosera C. et al.(2018): Four millennia of Iberian biomolecular prehistory illustrate the impact of prehistoric migrations at the far end of Eurasia. PNAS, 115, 13, 3428–3433.
https://doi.org/10.1073/pnas.1717762115

https://sicambre.at.webry.info/201803/article_19.html

9. 2021年11月28日 17:58:21 : buDTBzriJk : RjBUa0dYTlkueS4=[30] 報告
雑記帳2021年11月28日

イベリア半島南部における銅器時代から青銅器時代の人類集団の遺伝的変化
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_28.html


 イベリア半島南部の銅器時代から青銅器時代の人類集団の大規模なゲノムデータを報告した研究(Villalba-Mouco et al., 2021)が公表されました。紀元前三千年紀の最後の世紀に、ヨーロッパと近東とエジプトの社会は大規模な社会的および政治的激変を経ました。アッカド帝国とエジプト古王国の末における、集落の放棄、人口減少、交通網の消滅、大きな政治的混乱は、4200年前頃の事象として知られる、気候危機の観点でよく解釈されてきました。

 最近、紀元前三千年紀における社会的不安を引き起こす、かなりの人口移動の可能性が、ヨーロッパ中央部および西部における銅器時代末に観察された変化のさらなる説明として提案されました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。社会および経済の置換の兆候は、イベリア半島南部においてとくに顕著で、銅器時代は並外れた人口増加、記念碑的な集落と葬儀の構造の多様性、広範な銅の冶金、とりわけ象徴的な商品の、洗練されて大規模な生産および交換と関連しています。

 さらにこの期間は集落様式の多様性により特徴づけられ、要塞化したり、堀で囲まれたり、いわゆる大規模集落だったりし、そのうち一部の規模は、バレンシナ・デ・ラ・コンセプシオン(Valencina de la Concepción)やマロキエス・バホス(Marroquíes Bajos)のように100ヘクタールになり、その全ては紀元前3300〜紀元前2800年頃に形成されたので、鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化層位に先行します。この期間は、相互のつながりおよび移動性の大きな増加とも関連しています。利用可能な放射性同位体(ストロンチウム)の研究に基づき、イベリア半島南部の個体が育った場所以外で埋葬されていた割合は、8〜74%でした。アフリカや近東の象牙、シチリア島の琥珀、アフリカのダチョウの卵殻は、地域を越えたつながりを示します。しかし、強い政治的中央集権化と経済的不平等の証拠は、分かりにくいか結論が出ないままです。

 考古遺伝学では、イベリア半島(南部)青銅器時代における顕著な発展は、新石器時代以降の証明された強い人口連続性と結びついている、と示唆されてきました(関連記事1および関連記事2)。しかし、後期銅器時代のイベリア半島北部および中央部の人類学および考古学的記録は、鐘状ビーカー関連人工物とよくつながってはいるものの、独占的につながっているわけではない、紀元前2400年頃までの「草原地帯関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)」を有する5個体を示しており、同時にアフリカ人祖先系統も1個体で観察され、人々の別々の移動(性)を示唆します(関連記事1および関連記事2)。

 イベリア半島における前期青銅器時代(紀元前2200〜紀元前1550年頃)の始まりには明確な人口置換が示され、紀元前2200年頃以後の全個体における草原地帯関連祖先系統の遍在により示唆されます。男性のY染色体ハプログループ(YHg)の頻度ではさらに顕著な変化が観察でき、イベリア半島には紀元前2400年頃以前には完全に存在しなかった、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)がほぼ独占的となります(関連記事)。

 紀元前三千年紀末の後期銅器時代から前期青銅器時代(EBA)の転換では、イベリア半島南部において、ロス・ミリャレス(Los Millares)のような要塞化された集落や、バレンシナとペルディゲース(Perdigões)のような堀で囲まれた大規模集落が消滅した一方で、イベリア半島南東部では、より小さな規模(0.5ヘクタール未満)の新たな丘の頂上の居住が同時に出現します。かなりの密集した丘の頂上の集落は、特有の建物内埋葬儀式と特徴的な土器および金属の種類により区別され、紀元前2200年頃に、イベリア半島南東部沿岸と並行する山脈に囲まれた肥沃な第三期盆地に出現します。

 約3500km²のこの地域は、エルアルガル(El Argar)「文化」の中核と考えられています。エルアルガル「文化」は、ヨーロッパ先史時代における初期の複雑な社会の最も顕著な事例の一つで、社会的階層化の証拠があります。エルアルガルの起源は依然として不明で、それは、エルアガル要素が後期銅器時代に出現するか、その逆の混成の文脈がないからです。初期エルアルガルの記録は、V型の穴開きボタンや、パルメラ(Palmela)型尖頭器や、いわゆる「射手の手首防護」である穴開き石刃など、鐘状ビーカー複合といくつかの特徴を共有していますが、特徴的な鐘状ビーカー土器は欠けています。

 紀元前2200年頃となる、ラ・バスティダ(La Bastida)の丘の頂上の5ヘクタールの記念碑的要塞の発見に基づき、地中海東部の寄与の可能性が再考されました。大型貯蔵器(ピトス)の建物内埋葬、銀の指輪と腕輪の流通、特徴的な足のアルガル杯も、エーゲ海もしくは近東との接触の兆候として解釈されてきましたが、これら全ての特徴は、エルアルガルの後期段階に出現しました。後陣の建物、建物内埋葬、金属鋳造技術、著名な武器としての矛槍など、初期エルアルガルのさまざまな特徴的な物質的形質の系譜は、ヨーロッパの南東部と中央部と西部におけるいくつかの社会的発展を想起させ、まだ不明な起源のつながりの可能性があります。

 紀元前2000〜紀元前1800/1750年頃に、エルアルガルはイベリア半島南東部のより広範な地域に拡大し、メセタ(イベリア半島中央部の広大な乾燥地帯の高原)に進出しました。矛槍など特徴的なエルアルガルの道具も、この領域を越えて存在します。エルアルガル社会内の指導的人物は、矛槍と短剣で武装した戦士階級だったようです。これらの武器は、時には金の腕輪と関連づけられ、紀元前2000〜紀元前1800年頃にはヨーロッパ中央部の男性エリートの埋葬において、政治的支配の勲章にもなりました。同時に、人口の増加部分、とくに子供はエルアルガルの独特な集落内の、窯や人口的洞窟や土器の船や穴に埋葬されました。

 エルアルガルの最終段階(紀元前1800/1750〜紀元前1550年頃)には、経済的および社会的発展は顕著な水準に達しました。より大きな丘の頂上の集落(1〜6ヘクタール)で見つかった大量の研磨器具や大規模な作業場や貯蔵施設から、特定の集団がより広範な地域の資源と労働力の流れを管理していた、と示唆されます。支配的で遺伝的な階級の確立は、増加する社会的非対称性とともに、建物内埋葬、記念碑的建築物、および両者の間の空間的関係で認識できるようになります。

 以前の研究では、森林伐採と大規模な乾地農業に起因する社会的紛争と環境悪化が、紀元前1550年頃のエルアガルの放棄もしくは破壊につながる、と主張されました。しかし、他の研究者により強調されたように、内陸部アリカンテ(Alicante)における類似の経済組織と建築と葬儀の記録の出現から、エルアルガル最盛期には、少なくとも一部の集団は、イベリア半島南東部に位置する隣接した「文化的集団」である、バレンシアの青銅器時代文化に影響を受けた領域で自身を確立できていた、と示唆されます。

 本論文の目的は、ひじょうに動的なイベリア半島銅器時代世界の崩壊における人口動態の重要性、エルアルガルの台頭と発展、ヨーロッパ西部およびバレアレス後期青銅器時代(LBA)における隣接した青銅器時代集団間の関係の理解です。本論文は、イベリア半島およびバレアレス諸島の青銅器時代集団の遺伝的構成を、サルデーニャ島やシチリア島など他の地中海西部および中央部の集団との関係において調べます。合計で、エルアルガルおよび同時代の社会と関連する青銅器時代(BA)96個体、銅器時代34個体、後期青銅器時代6個体のゲノム特性が特徴づけられます。


●標本

 本論文は、後期新石器時代(紀元前3300年頃)から後期青銅器時代(紀元前1200/1000年頃)までの2000年にわたるイベリア半島南部の136個体の、124万ヶ所の情報をもたらす一塩基多型の型式で、ゲノム規模データをを報告します。これらのうち5個体は、将来の研究でユーラシア西部古代人の増加する記録に追加するため、1.5〜5.2倍のショットガン配列により完全なゲノムが再構築されました。

 本論文の新たなデータセットには、後期新石器時代(LN)/銅器時代(CA)では、埋葬洞窟のコヴァ・デン・バルド(Cova d’en Pardo)遺跡7個体とフクロウ洞窟(Cueva de las Lechuzas)10個体、鐘状ビーカー前の銅器時代の巨大遺跡であるバレンシナのPP4モンテリリオ(PP4-Montelirio)では11個体、後期銅器時代の集合地下墓であるカミノ・デル・モリノ(Camino del Molino)遺跡の6個体、前期青銅器時代の土坑墓であるモリノス・デ・パペル(Molinos de Papel)遺跡の3個体など、さまざまな集団と種類の遺跡が含まれ、この研究の中心であるアルガル社会の多様な比較データセットを提供します。

 アルガル社会については、ほぼ完全な考古学的によく定義されたラ・アルモロヤ(La Almoloya)遺跡67個体とラ・バスティダ(La Bastida)遺跡10個体に、セッロ・デル・モッロン(Cerro del Morrón)遺跡の3個体、ロルカ(Lorca)町では、マドレス・メルセダリアス教会(Madres Mercedarias Church)遺跡が1個体、ロス・ティンテス(Los Tintes)遺跡が1個体、ザパテリア(Zapatería)遺跡が1個体です。いわゆるバレンシナ青銅器時代の個体も分析され、その内訳は、カベゾ・レドンド(Cabezo Redondo)遺跡が1個体、ペノン・デ・ラ・ゾッラ(Peñón de la Zorra)遺跡が1個体、プンタル・デ・ロス・カルニセロス(Puntal de los Carniceros)遺跡が4個体、ラ・ホルナ(La Horna)遺跡が3個体です。カタルーニャの青銅器時代個体ではミケル・ヴィヴェス(Miquel Vives)遺跡1個体、バレアレス諸島のメノルカ(Menorca)島のエス・フォラト・デ・セス・アリトゲス(Es Forat de ses Aritges)6個体も分析されました(図1)。

 遺伝的性別決定では、性染色体がXXY(クラインフェルター症候群)の1個体とトリプルX症候群の1個体が観察されました。集団遺伝学的分析では、124万パネルで4万ヶ所以上の一塩基多型データが得られた個体に限定されましたが、下流分析では低網羅率の18個体は除外されます。また親族分析で1親等の個体のうち網羅率の低い方の個体も除外されました。これらの122個体の新たなゲノム規模データは、既知の古代人および現代人のデータと統合されました。以下は本論文の図1です。
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●イベリア半島銅器時代の遺伝的構造

 まず、ヒト起源(Human Origins)一塩基多型パネルで遺伝子型決定された現代ユーラシア西部人口集団一式から計算された主成分に投影された、関連する古代人との主成分分析の実行により、新たに決定された銅器時代個体群の遺伝的類似性が調べられました(図2A)。イベリア半島南部の新たな銅器時代個体群は、それ以前の中期新石器時代(MN)と中期/後期新石器時代(MLN)と銅器時代(非草原地帯)のイベリア半島集団と重なる位置に収まりますが、PC1軸では既知の前期新石器時代(EN)イベリア半島集団およびサルデーニャ島銅器時代の後の集団の方へとわずかに動いており、イベリア半島南部の銅器時代個体群における等しく小さな狩猟採集民(HG)祖先系統の寄与を示唆します。これらの結果は、バレンシナの物質文化の1要素における提案された型式の類似性に基づく、前期銅器時代におけるイベリア半島南部への草原地帯関連祖先系統の拡散に関する以前の提案に反しています。

 ヨーロッパ新石器時代農耕民における主要な狩猟採集民、つまり農耕前のヨーロッパ西部における祖先系統の支配的形態を表すいわゆるヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の異なる寄与を検証するため、f4統計(イベリア半島南東部および南西部CA、イベリア半島北部および北東部および中央部CA;WHG、ムブティ人)が計算され、イベリア半島北部CAとイベリア半島中央部CAで有意に負の値が得られました(図2B)。これは、イベリア半島北部および中央部CA個体群におけるより高いWHG祖先系統を示唆しており、f4統計(イベリア半島南東部および南西部MLN、イベリア半島北部MLN;WHG、ムブティ人)で示されるように、MLNに先行する期間においても存在した兆候です。

 ヨーロッパ西部における異なる狩猟採集民の遺産に関する以前の研究の洞察(関連記事1および関連記事2)を活用して、さまざまな方法で地理的に多様な銅器時代イベリア半島人の狩猟採集民祖先系統が調べられました。まず、f4統計(ゴイエットQ2、WHG;検証対象、ムブティ人)が計算され、検証対象は全てのMLNおよびCA集団を表します(図2C)。f4値の結果は全ての検証対象集団で有意に負となるにも関わらず(WHGとの混合を示唆します)、より低い負の値を示すMLNおよびCAのイベリア半島南部集団との地理的に関連する勾配が観察され、マドレーヌ文化(Magdalenian)関連祖先系統の代理として機能する、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された19000年前頃のゴイエットQ2個体とのさまざまな関係を示唆します(図2C)。

 qpAdmの外群に基づくアナトリア半島新石器時代集団、ルクセンブルクのヴァルトビリヒ(Waldbillig)のロシュブール(Loschbour)遺跡の8100年前頃となる中石器時代個体に代表されるWHG、ヨーロッパ東部の農耕開始前の主要な祖先系統であるヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)、遠位供給源としてのゴイエットQ2との祖先系統モデル化を用いて、この微妙な兆候が確証されます。イベリア半島南部の銅器時代集団は、狩猟採集民祖先系統の全体的な量に関しては異なりますが、後者も質的に異なる、と明らかになりました。イベリア半島南部銅器時代個体群におけるマドレーヌ文化(マグダレニアン)関連狩猟採集民祖先系統の割合推定値は6.1±1.3〜7.2±1.3%で、局所的な狩猟採集民集団の地理的構造を反映し、新石器時代以降のある程度の遺伝的連続性を示唆します(図2D)。

 イベリア半島南東部銅器時代個体群の事例では、第三の供給源としてゴイエットQ2を追加することで、モデルはわずかに向上します。イラン新石器時代(N)もしくはヨルダン先土器新石器時代B期(PPNB)を第四の供給源として追加すると、イベリア半島南東部銅器時代個体群では1桁のモデル適合性の改善が見られます。次に、第四の供給源として他の人口集団を追加しても、モデル適合性の改善は見られませんでした。イベリア半島南東部銅器時代集団に寄与する未知の供給源は、遠位供給源のアナトリア半島新石器時代と比較して、レヴァントおよび/もしくはイランN的な祖先系統を過剰に有していた可能性が高く、それは、これらがまとめてアナトリア半島およびレヴァント銅器時代集団において混合した(紀元前6000〜紀元前5000年頃)、と明らかになってきたからです(関連記事)。

 この知見は、地中海沿いに初期に拡大した微妙な寄与、あるいは、本論文で用いられたアナトリア半島N集団と比較した場合に、レヴァントおよび/もしくはイランN的な構成要素をさまざまな割合で有する、新石器時代移行期における初期農耕民のさまざまな供給源を示唆します。外群からアナトリア半島狩猟採集民(AHG)を除外してもモデル適合性は改善し、新石器時代祖先系統は遠位代理としてアナトリア半島N集団を用いることによりよく表せず、アナトリア半島N集団よりもAHGに類似した別の農耕民集団に由来しているかもしれません。地中海全域の新石器時代および銅器時代のより多くの個体が、この寄与をより確実に追跡するのに必要でしょう。以下は本論文の図2です。
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 マドレーヌ文化関連祖先系統は、他の同時代の地中海人口集団、たとえばサルデーニャ島の新石器時代と銅器時代と前期青銅器時代の集団やシチリア島の前期青銅器時代集団やイタリア半島の銅器時代集団では検出れず、イベリア半島南部から地中海中央部への方向での遺伝子流動はありそうにない、と示します。しかし、qpAdmモデルを適用すると、サルデーニャ島の地中海中央部集団におけるイランN的祖先系統の以前には報告されていない量が検出され、それはサルデーニャ島銅器時代集団の2.8±1.2%からサルデーニャ島ヌラーゲ文化期青銅器時代集団の5.8±1%の範囲です。

 シチリア島EBA集団をモデル化するのに供給源としてイランN集団を追加すると、モデル適合性は改善しますが、P値が0.05以上に達することはなく、シチリア島からよりも、イタリア半島からサルデーニャ島への遺伝子流動の方が可能性は高そうで、イタリア半島CA集団もイランN的祖先系統を示します。とくに、シチリア島EBA集団をモデル化すると、3供給源モデル(アナトリア半島N、WHG、ヤムナヤ文化サマラ集団)で外群からAHGを除外するか、4供給源モデル(アナトリア半島N、WHG、ヤムナヤ文化サマラ集団、イランN)でモロッコのイベロモーラシアン(Iberomaurusian)狩猟採集民を除外すると、P値が0.05以上となり、草原地帯関連祖先系統の到来前の地中海における遺伝的下位構造が示されます。しかし、この知見は、他の地中海人口集団からイベリア半島南東部CA個体群への限定的な遺伝的流入を除外しません。


●イベリア半島南東部青銅器時代における遺伝的置換とエルアルガルの台頭

 先行する銅器時代(CA)集団と比較すると、エルアルガル青銅器時代(BA)およびイベリア半島南東部BAと関連する個体群は主成分空間では密接な群を形成し、ヨーロッパ中央部の草原地帯関連祖先系統を有する人口集団の方へと動いており、イベリア半島CA個体群とイベリア半島北部BA個体群との間に位置します(図3A)。類似の遺伝的変化はADMIXTUREの結果において顕著で、イベリア半島BA個体群は先行するCA個体群と比較すると追加の構成要素を示し、これはf4検定(アナトリア半島N、検証集団;ヤムナヤ文化サマラ集団、ムブティ人)によりさらに裏づけられ、検証集団は新たに報告されたCAおよびBA個体群で繰り返されます(図3B)。EBA個体群における負のf4値への変化は、ヤムナヤ文化サマラ個体群と共有される浮動を示唆し、これは以前のCA個体群では欠けています。

 この観察結果は、エルアルガルBA個体群におけるかなりの量の草原地帯関連祖先系統を示唆し、f4統計(アルガルイベリア半島BA/イベリア半島南東部BA、イベリア半島南東部CA;ヤムナヤ文化サマラ集団、ムブティ人)で直接的に検定されました。有意に正のf4値は、全てのBA個体群における草原地帯関連祖先系統の存在を確証します。次にf4(イベリア半島北部・北東部・中央部BA、アルガルイベリア半島BA/イベリア半島南東部BA;ヤムナヤ文化サマラ集団、ムブティ人)を用いて、南北のBA個体群を対比することにより、草原地帯関連祖先系統との類似性の違いが検証されました。その結果得られたf4値で、ラ・アルモロヤ遺跡とラ・バスティダ遺跡の個体群は、Y染色体記録で見られるYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)へのほぼ完全な置換(例外はラ・バスティダ遺跡の亜成人1個体)にも関わらず、イベリア半島の他のBA集団、とくに北部集団と比較して、草原地帯関連祖先系統の量が少ない、と確証されました。しかし、遺跡内の水準では、主成分分析およびf4統計に基づくと、ラ・アルモロヤ遺跡とラ・バスティダ遺跡で前期と後期との間の草原地帯関連祖先系統の量に関して有意な違いは観察されず、草原地帯関連祖先系統の寄与は人口集団全体で均質化している、と示唆されます。

 バレアレス諸島の新たに分析された後期青銅器時代個体群(アリトゲスLBA)は、マヨルカ(Mallorca)島の既知の後期銅器時代個体(以前にはマヨルカEBAと呼ばれていました)よりも草原地帯関連祖先系統の割合が少なく、経時的に草原地帯関連祖先系統が減少した、と確証されます。マヨルカ島の銅器時代の草原地帯関連祖先系統を有する個体における草原地帯関連祖先系統の量は、イベリア半島における最初の銅器時代集団(イベリア半島中央部CA_Stpおよびイベリア半島北西部CA_Stp)と類似しており、同時に到来した可能性があります。それは、この草原地帯関連祖先系統を有する集団の到来前に、バレアレス諸島にはヒトの居住の明確な証拠がないからです。

 以前の研究では、イベリア半島について、草原地帯関連祖先系統の最初の寄与は青銅器時代において在来の銅器時代集団の子孫との混合により希釈されたものの、第二波の後期青銅器時代から鉄器時代にかけて再度増加した、と提案されました(関連記事)。本論文では、バレアレス諸島におけるこの第二波は検出されず、メノルカ(Menorca)島の後期青銅器時代1個体の存在にも関わらず、別の研究(関連記事)の知見と一致します。

 イベリア半島南部で観察された状況は、紀元前2200年頃となる銅器時代社会から前期青銅器時代社会への移行期における人口動態変化の具体例を提供します。バレンシナの前期銅器時代(紀元前2900〜紀元前2800年頃)および、鐘状ビーカー層準と同時代となる(鐘状ビーカー土器は欠けています)後期銅器時代の集合墓洞窟であるカミノ・デル・モリノ遺跡からの、本論文で新たに提示された個体群における草原地帯関連祖先系統の欠如と、カミノ・デル・モリノ遺跡からわずか約400m離れて位置するモリノス・デ・パペル遺跡の鐘状ビーカー関連遺物を有する二重墓被葬者における草原地帯関連祖先系統の最初の出現は、イベリア半島南部における草原地帯関連祖先系統の到来に関する時間的枠組みを提供します。

 基準点としてカミノ・デル・モリノ遺跡の最新の年代(非較正で3830±40年前)と、モリノス・デ・パペル遺跡の最古の年代(非較正で3780±30年前)を考えると、両方の放射性炭素年代は95%水準で重なり、イベリア半島南部における草原地帯関連祖先系統の到来は紀元前2200年頃までとなります。地域を越えた規模では、分析されたイベリア半島南部銅器時代個体群はどれも現時点で草原地帯関連祖先系統を示せませんが、ラ・バスティダ遺跡のの2個体(BAS024とBAS025)とラ・アルモロヤの1個体(ALM019)のエルアガル遺跡では最古となる個体群は、そうした祖先系統の明確な証拠を示します。したがって、人口集団の混合は遅くともそれから過去150年間に起きたに違いありません。

 プログラムDATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals)を用いて、推測される供給源の混合年代を推定すると、全ての新たに提示された青銅器時代集団における混合年代は、紀元前2550±189年から紀元前1642±133年となります。これは、紀元前2350年頃となるバレンシナのような一部の集合大規模遺跡や、他では紀元前2300/2200年頃となるロス・ミリャレス遺跡などその前後の年代の遺跡の、銅器時代社会体系の崩壊後に起きた可能性があります。紀元前2350〜紀元前2200年頃となる銅器時代文化の消滅は、いわゆる4200年前の気候事象と関連しており、それは、イベリア半島について直接的で決定的な古気候証拠は疎らなままであるものの、この事象と巨大遺跡の崩壊との間の時間的重複があるからです。青銅器時代へとつながる社会的および経済的変化は、新たな遺伝的祖先系統の到来と同様に、イベリア半島北部から人部へと拡大したようなので、関連している可能性があります。しかし、この拡大が日和見的だった(つまり、潜在的な気候悪化の結果に続きました)のか、考古学で観察された実際の変化の原因だったのかどうか、不明なままです。

 注目すべきは、新たな遺伝的祖先系統の到来が、イベリア半島の全地域で同じ社会的変化と並行しているわけではない、ということです。イベリア半島南東部沿岸地域では、集落内の単葬もしくは二重埋葬の慣行への変化が紀元前2200年頃までに起き、エルアルガルの始まりと一致します。しかし、イベリア半島内陸部では、関連する副葬品と集落の土器は、初期エルアガルの「中核」領域の物質文化よりも、後期鐘状ビーカー銅器時代と関連しています(葉の形の有舌尖頭器、V型の穴開きボタン、刻文ビーカー土器)。スペイン中央高原の南部であるラ・マンチャ(La Mancha)では、確認された草原地帯関連祖先系統構成要素を有する最初の個体である、紀元前2100年頃のカスティリェホ・デル・ボネテ(Castillejo del Bonete)遺跡の4号墓の男性が、ラス・モティージャス(Las Motillas)要塞など記念碑的集落の創設と一致しています。

 これは、イベリア半島への草原地帯関連祖先系統の遺伝的寄与が紀元前2400年頃にイベリア半島北部および中央部地域で始まる長期の過程だった一方で、そこから約300年で南方へと拡大したことを示します。局所的規模では、この変化はより速く起きた可能性があります。類似の状況はポルトガル中央部にも存在した可能性があり、紀元前2300〜紀元前2200年頃となる、ガレリア・ダ・システルマ(Galería da Cisterna)遺跡やコヴァ・ダ・モウラ(Cova da Moura)遺跡など集合銅器時代埋葬において、草原地帯関連祖先系統を有さない個体が依然として見つかります。しかし、紀元前2100年頃以後は、全ての遺跡の全ての個体は草原地帯関連祖先系統を有しており、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)が、エルアルガルだけではなく青銅器時代イベリア半島の他地域にも存在する、主要なY染色体系統になることと一致します。


●イベリア半島青銅器時代集団における地中海とヨーロッパ中央部の遺伝的影響

 イベリア半島における遺伝的置換と新たに形成された青銅器時代(BA)の遺伝的特性への在来集団の寄与を調べるため、一連のqpAdmモデルが体系的に検証されました。遠位祖先系統供給源である、アナトリア半島新石器時代(N)集団、WHG、ゴイエットQ2、ヤムナヤ文化サマラ集団、イランN集団を用いて、イベリア半島BA集団の遺伝的祖先系統構成要素をモデル化することから始められました。その結果、イベリア半島南部の銅器時代(CA)個体群の、特徴的ではあるものの変動的な構成要素であるゴイエットQ2の局所的痕跡はもはや検出できず、狩猟採集民祖先系統に関して、イベリア半島青銅器時代における地理的下位構造の消滅が示唆されます。これは、イベリア半島北部から南部への草原地帯関連祖先系統の拡大により説明され、イベリア半島南部にイベリア半島北部および中央部の祖先系統をもたらし、検出限界を超える水準にまで微妙なゴイエットQ2の兆候を希釈しました。

 同じqpAdmモデルを用いることで、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル後期、イベリア半島南東部カベゾ・レドンド遺跡BA、ラ・バスティダ遺跡エルアルガル期の個体群は、単一の供給源としてヤムナヤ文化サマラ集団でモデル化できず、イランNとヤムナヤ文化サマラ集団の組み合わせでよりよい裏づけが見つかりますが、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期とカベゾ・レドンド遺跡BA個体群では、P値は0.05以上に達しません。これらエルアルガル集団(ラ・アルモロヤ遺跡とラ・バスティダ遺跡)もPC1軸では、イランN的祖先系統を有するものの草原地帯関連祖先系統を有さない「ミノア人」、もしくは両者の混合を有する「ミケーネ人」など(関連記事)、過剰なイランN的祖先系統を有する地中海BA集団の方向にわずかに右側に動き、それはシチリア島MBAの同じBA個体群とサルデーニャ島人(関連記事)についても示されます(図3A)。以下は本論文の図3です。
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 イベリア半島南東部BA集団で観察されるモデル却下の理由を調べるため、いくつかのqpAdmモデルが検証されました。2方向および3方向の競合qpAdmモデルを用いて、イランN的祖先系統を有する第三の供給源が必要なのかどうか、調べられました。2方向モデルでは、鐘状ビーカー個体群では最大数となるドイツの鐘状ビーカー(BB)が固定近位祖先系統供給源として、在来の銅器時代供給源(イベリア半島BAの北部か中央部か南東部)とともに用いられました。

 これら2供給源が却下された標的集団について、第三の供給源として地中海中央部および東部人口集団が繰り返し検証されました。それは、これらのうち一部がイランN的祖先系統を有すると知られているからです。祖先系統の在来供給源としてイベリア半島中央部CA、草原地帯祖先系統の代理としてドイツBBを用いると、標的としてラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期とのモデルのみが却下され、第三の構成要素がこれらイベリア半島BA集団に必要と示唆されました。

 第三の供給源として地中海人口集団を追加すると、P値が0.05を超えることはないものの、モデル適合性が改善します。しかし、第三の供給源としてイラン銅器時代を用いるとP値が0.05を超え、イランN的祖先系統のより高い割合が必要と示唆されます。注目すべきことに、イベリア半島中央部CAを在来のイベリア半島南部CAに交換すると、モデルはより多くのイベリア半島BA集団(イベリア半島の北部および南東部BA、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期、中央部CA_Stp)では裏づけが見つからず、この一群に第三の供給源を追加しても、モデルの適合性はどちらでも改善されませんでした(図4A)。以下は本論文の図4です。
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 ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期におけるドイツBB+イベリア半島中央部CAを含むモデルの却下が、イベリア半島における草原地帯関連祖先系統の供給源に存在しなかったドイツBBにおける特定のヨーロッパ北部/中央部LNの混合に起因することを除外するため、直接的な草原地帯関連祖先系統の供給源がヤムナヤ文化サマラ集団に固定されました。それは、全てのイベリア半島集団に寄与する同じ遠位草原地帯供給源が予測され、これらのモデルがCA(つまり新石器時代農耕民)祖先系統の100%に寄与する、近位在来CA供給源を通じて繰り返されるからです。必要な場合のみ、第三の供給源として遠位イランN(他の区別できない銅器時代祖先系統に寄与したかもしれないイランCAの代わりに)が追加されました。

 2方向モデルでイベリア半島中央部CAとヤムナヤ文化サマラ集団を用いることにより、全てのイベリア半島BA集団のモデル化に成功しましたが、再び、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期とカベゾ・レドンド遺跡BA集団は除外されました。注目すべきことに、ラ・バスティダ遺跡エルアルガル期も遠位モデル2で失敗しました。しかし、イランNを第三の供給源として追加すると、これら3集団は近位在来CA基層モデルではP値が0.05以上となりました。

 次に、イベリア半島中央部CAを在来のイベリア半島南東部CA供給源と交換すると、モデルのほとんどが却下され、イベリア半島CA集団における遺伝的下位構造が確証されます。イベリア半島南東部CAを基層として用いる場合のみ、イベリア半島南東部集団のモデル適合性が改善し、イベリア半島に草原地帯関連祖先系統をもたらした最初の個体群はさまざまなCA集団と局所的に混合した、と示唆されます。注目すべきことに、イベリア半島南東部CAは、バレアレス諸島のCA_StpとBAとLBAの集団にとって、充分に裏づけられた在来の代理です。マヨルカ島CA_Stpおよびメノルカ島LBAはそれぞれ1個体により表されるので、この兆候は注意深く解釈されます。しかし、この兆候は、6個体で構成される新たに配列されたメノルカ島のアリトゲスLBA集団でよく裏づけられます。

 次に、これらを区別するための解像度の能力に影響を与えることなく、近位供給源のさらなる特定が試みられました。草原地帯関連祖先系統を有する最も近位の在来供給源としてヤムナヤ文化サマラ集団をイベリア半島中央部CA_Stpを交換し、これらを2方向モデルでさまざまなイベリア半島CA供給源と組み合わせ、必要な場合は第三の供給源としてイランNのみが追加されました。草原地帯関連祖先系統にとってより高い可能性のある近位供給源を用いることで、遠位モデルの結果を再現できました。しかし、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期、バスティダ遺跡エルアルガル期、カベゾ・レドンドBA、アリトゲス遺跡LBAは依然として、イベリア半島中央部CAおよびCA_Stpとの全てのモデルにおいて、第三の供給源としてイランNが必要になる、と示せます。対照的に、イベリア半島南東部CAを在来の基層として用いると、イランNは必要ではありませんが、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期は依然としてP値が0.05以下で却下されます。

 この知見はラ・アルモロヤ遺跡個体群の未解決の祖先系統か、あるいは、より単純なモデルを却下する統計的能力を提供する、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期の事例で見られるように、より多い個体で構成される集団でのみ微妙な兆候を検出する能力により、最適に説明されます。イベリア半島南東部CAをイベリア半島中央部CAの代わりに用いてラ・バスティダ遺跡集団をモデル化すると、このモデルは却下されなくなり、イベリア半島南東部BAへの在来CA集団の直接的寄与を示唆します。まとめると、分析結果は微妙ではあるものの追加のイランNに富む祖先系統を示唆しており、この祖先系統はイベリア半島南東部CAに存在するので、エルアルガルBAに先行する可能性があります。

 ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期が、イランNを地理的により近い地中海中央部や東部の人口集団などイランNの豊富な供給源に交換し、イランNを外群に移動させる場合にモデル化できるのかどうかも、検証されました。しかし、これは裏づけのあるモデルが得られませんでした。近位の地中海供給源は見つけられませんでしたが、地中海中央部人口集団を外群に追加すると(シチリア島EBAかギリシアEBAかギリシアMBA)、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期および後期について、モデルの裏づけ(P値)は減少し、間接的に地中海中央部BAの重要性を証明します。しかし、他の地中海集団を外群に追加しても、P値に変化は観察されませんでした。

 YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の派生系統であるR1b1a1b1a1a2a1(Z195)への完全な置換は、ラ・アルモロヤ遺跡の男性29個体全員とラ・バスティダ遺跡の6個体(例外は紀元前2134〜紀元前1947年頃の1個体のYHg-E1b)で観察され、おもに銅器時代から青銅器時代の移行期における遺伝子流動の証拠の別の独りした供給源です。とくに、イベリア半島BAで最も一般的なYHg-R1b-Z195は、究極的にはヨーロッパ中央部の共通祖先であるYHg-R1b-P312に由来しますが、ヨーロッパ中央部およびブリテン諸島で報告された他の派生的な鐘状ビーカー個体群のYHg-R1b多様体とはすでに異なっています。YHg-R1b-Z195はシチリア島CA_Stp(以前にはEBAに分類されていたので、外れ値とみなされていました)とシチリア島EBAで見られます(関連記事)。しかし、他のYHg-R1b多様体との系統学的および地理的つながりは、依然として不明です。エルアルガルにおけるイランN的祖先系統の微妙な存在と、シチリア島におけるYHg-R1b-Z195の存在は、イベリア半島からシチリア島だけではなく、その逆方向の遺伝子流動の可能性を開き、青銅器時代における地中海西部と中央部との相互接触を示唆しますが、直接的な接触は考古学的記録ではほとんど目立ちません。

 まとめると、これらの結果は、在来の銅器時代の遺伝的基層に加えて、イベリア半島南東部人の青銅器時代の遺伝的特性の形成への、二重の遺伝的寄与を示唆します。主要な追加の祖先系統供給源は、ヨーロッパ中央部の鐘状ビーカー集団と類似しており、まずイベリア半島北部に祖先系統を寄与し、続いてイベリア半島中央部CA_Stpの形態で南方へと拡大しました。第二のより影響の小さな祖先系統構成要素はイランNの豊富な供給源/地中海中央部供給源で、BAエルアルガル状況の個体群に限定されます。この構成要素寄与の年代は不明なままで、在来のCA銅器時代もしくは島嶼部地中海中央部BA集団とのつながりの微妙な痕跡を通じて持続した、新石器時代の遺産を示します。


●アフリカ北部および地中海中央部とつながるエルアルガルの遺伝的外れ値

 主成分分析も、新たに配列された個体群における遺伝的外れ値を明らかにしました(図3A)。後期エルアルガルのロルカ・ザパテリア(Lorca-Zapatería)遺跡の男性個体(ZAP002)は主成分分析ではイベリア半島BAの範囲外に位置し、地中海中央部に向かって明確に動いています。地中海東部と近東とアフリカの集団への特定の誘引について、f4混合検定(ZAP002、ラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期;地中海東部/アフリカ、チンパンジー)で検証されました(図5A)。その結果、f4値はゼロと一致し、ZAP002とラ・アルモロヤ遺跡エルアルガル前期(エルアルガル集団では最大の個体数)は地中海東部およびアフリカ集団と対称的に関連している、と示されます。しかし、モロッコのイベロモーラシアンについては、Z得点=2.4のほぼ有意な正のf4値だと示されました。類似のf4検定におけるムブティ人への誘引は、アフリカ人祖先系統もしくはモロッコのイベロモーラシアン集団およびナトゥーフィアン(Natufian)人と共有される高水準の基底部ユーラシア人(関連記事)祖先系統を示唆します。

 f4(検証集団、EHG;コーカサス狩猟採集民、ムブティ人)でゼロからの負の偏差も確認され、アフリカ人もしくは基底部ユーラシア人祖先系統が示唆されます。この検定では、EHG集団とコーカサス狩猟採集民(関連記事)集団の分岐は、あらゆる検証集団で負の値になるほど深く分岐している、と仮定されます。この理論的根拠に従って、負の値の発見は、ムブティ人との共有される深い祖先系統の多さを示唆し、他のエルアルガル個体と比較した場合の図3BにおけるZAP002の異なるf4値も説明します。ZAP002の負の値(Z得点=-2.14)は、モロッコのイベロモーラシアンおよびナトゥーフィアン個体群でも観察され、この主張の追加の裏づけを提供します(図5B)。

 qpAdmを用いて、イベリア半島CAやドイツBBなど異なる祖先系統の供給源候補と、サルデーニャ島およびシチリア島の地中海中央部供給源の候補一覧がさらに調べられました。主要なイベリア半島南東部BA集団の外群の同じ一式を用いると、ZAP002にとって統計的によく裏づけられたモデルは見つかりませんでした。しかし、モロッコのイベロモーラシアン個体群を外群から供給源に移すと、地中海中央部人口集団が供給源として含まれる場合、モデルが適合します。

 ZAP002は、在来のイベリア半島CA供給源を必要とせず、ドイツBBとモロッコのイベロモーラシアン個体群とシチリア島EBAもしくはサルデーニャ島EBAもしくはサルデーニャ島ヌラーゲ文化BAの3方向混合としてモデル化できる、と明らかになりました(図5C)。これらqpAdmの結果は、シチリア島EBA個体群とまとまるという、主成分空間におけるZAP002の位置と一致します(図3A)。同じモデルでイベリア半島CA供給源を外群に替えても、モデル適合性は依然として維持され(図5C)、ZAP002はエルアルガルの他個体と同じ埋葬(ピトスの埋葬とアルガル土器)の扱いを認められているにも関わらず、その起源は完全に外来と示唆されます(図5C)。以下は本論文の図5です。
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●銅器時代および青銅器時代のエルアルガル社会の表現型の変異と人口統計と社会的相関

 保存状態良好な全てのイベリア半島銅器時代および青銅器時代個体(40万ヶ所以上の一塩基多型)で、124万一塩基多型パネルに含まれる表現型の多様体が調べられました。乳糖とアルコールの消化能力、脂肪酸代謝の適応、セリアック病体質、感染症耐性と関連する14個の多様体に加えて、肌/髪および目の色素沈着をコードする41ヶ所の一塩基多型も調べられました。その結果、銅器時代と青銅器時代との間で、派生的アレル(対立遺伝子)の頻度で有意な増加もしくは減少は見つかりませんでした。

 銅器時代および青銅器時代における有効人口規模への洞察を得るため、hapROHを適用してROH(runs of homozygosity)が特定されました。ROHは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にあると推測され、人口集団の規模と均一性を示せます(関連記事)。2センチモルガン(cM)未満となる短いROHパターンでは、銅器時代と青銅器時代との間で顕著な違いは見られず、本論文で分析対象とされた全個体は、比較的充分に大きな有効人口規模の人口集団から抽出された、と示唆されます。青銅器時代前となる銅器時代人口集団の減少についての証拠も見つかりませんでした。両集団で、長いROH断片(20〜300 cM)で表される、近親交配の兆候は検出されませんでした(図6A)。

 以前に仮定された(関連記事)草原地帯関連祖先系統の寄与における性的偏りの可能性を評価するため、X染色体と常染色体に遠位および近位qpAdmモデルが適用されました(図6B)。男性の寄与は平均して次世代にはX染色体の1/3しかないので、常染色体よりもX染色体で祖先的構成要素の割合が低い場合は、各構成要素に関して男性の偏りが示唆されます(関連記事1および関連記事2)。同様に、祖先的構成要素が統計的にX染色体でより高ければ、女性の偏りが示唆されます。

 この理論的根拠に基づいて遠位もしくは近位供給源を用いると、草原地帯関連祖先系統における有意な男性の偏りは観察されませんでした(図6B)。男性の偏りが検出されないという事実は、以前の研究(関連記事)で反映されているように、両性におけるすでに均衡のとれた祖先の構成要素を示唆しているかもしれません。その研究では、草原地帯構成要素における男性の偏りは縄目文土器(Corded Ware)文化だけで検出され、鐘状ビーカーもしくはBA人口集団ではもはや検出されませんでした。また最近の大規模な発掘が利用され、ラ・アルモロヤ遺跡の適切な形態学的保存状態の86個体全てが標本抽出された結果、67個体で高品質なゲノム規模データが得られ、エルアルガル共同体への洞察が可能となりました。

 3つの手法の組み合わせを用いて、遺伝的関連性が推定されました。それは、1000以上の共有一塩基多型を有する個体群の組み合わせについての、ペアワイズミスマッチ率(PWMR)、READ(Relationship Estimation from Ancient DNA)、lcMLkinです。再構築されたすべての家系は、人類学的および考古学的文脈に完全に統合された、付属論文で刊行される予定です。したがって本論文は、高次水準での生物学的関連性の主要な観察結果を報告します。分析された30個体の成人女性間では、1親等の関係は見つかりませんでした。成人間の全ての1親等の関係は、少なくとも成人男性1人を含みます(3組の1親等の関係)。成人女性間では2親等の関係も見つかりませんでした。成人を含むいくつかの2親等の関係は、全て男性間でした(分析された成人男性18人のうち4人)。

 次に、ラ・アルモロヤ遺跡の男性には、同遺跡で女性よりも多くの親族がいるのかどうか、検証されました。f3(女性、女性;ムブティ人)とf3(男性、男性、ムブティ人)の形式の1親等および2親等の組み合わせを削除した後に、f3出力統計が計算され、女性:女性と男性:男性の比較における類似の平均値(図6C)にも関わらず、男性は女性よりもf3分布が偏っており、他の女性との女性との場合よりも、他の男性との男性および他の女性との男性との間のより密接な遺伝的関係(たとえば、3親等から4親等)を示唆します。

 READから抽出されたPWMRを用いて、父方居住を示唆する兆候について具体的に検証され、完全な集団への各成人個体の生物学的関連性を計算する行列が構築されました(図6D)。その結果、同遺跡において親族を有する一部の成人女性も存在するにも関わらず、男性は平均して女性よりも同遺跡の他個体と密接に関連している傾向が明らかになり、父方居住の検定は有意ではない、と示されました。遺跡内の水準では、この結果はより高い繁殖率の男性系統からの創始者効果も示唆しているかもしれません。以下は本論文の図6です。
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●考察

 本論文はイベリア半島南東部に焦点を当て、ヨーロッパにおけるより大規模な人口動態に照らして、地域的な水準での遺伝的分析の可能性を浮き彫りにします。全体として、銅器時代人口集団の構造は、新石器時代以来の遺伝的安定性と連続性を示す、と明らかにできました。これは、イベリア半島南東部銅器時代人口集団と地中海人口集団との間の初期接触の可能性に加えて、イベリア半島南部におけるさまざまな狩猟採集民祖先系統と結びついていました。

 紀元前2200年頃までのイベリア半島南東部における草原地帯関連祖先系統の微妙な証拠が提供され、この頃に、広範な社会的および文化的変化がイベリア半島南部の大半で起き、堀で囲まれた集落体系の終焉と、青銅器時代集団の出現が含まれます。イベリア半島南東部では、全ての標本抽出された青銅器時代集団が草原地帯関連祖先系統を有する、と示せますが、より広範に標本抽出されたエルアルガル集団はイランN的祖先系統も過剰に有しており、これは他の銅器時代および青銅器時代の地中海集団でも観察されてきました。エルアルガルの外れ値1個体の分析により、追加のアフリカ北部祖先系統を有する地中海中央部移民個体が明らかになりました。

 全体として、エルアルガルは、イベリア半島北部および中央部から到来した、すでにヨーロッパ中央部の草原地帯関連祖先系統(および優勢なY染色体系統であるYHg-R1b)を有していた新たな集団と、地中海東部および/もしくは中央部集団と類似したイランN的祖先系統を過剰に有していた点でイベリア半島の他地域とは異なっていた、イベリア半島南東部在来の銅器時代集団との混合から形成された可能性が高そうです。さらに、前期および後期エルアルガル集団の大きな標本規模から、在来の銅器時代基層におけるイランN的祖先系統の寄与は、祖先系統のこの種類をよく説明するのに十分ではなく、次に、遅くともエルアルガル期末までの、地中海青銅器時代との連続したつながりおよびそこからの遺伝的影響が主張されます。本論文は、遺跡内水準での青銅器時代前期エルアルガル社会の人口構造に光を当てることができました。ラ・アルモロヤ遺跡では、男性間のより密接な遺伝的関係が、父系性の強力な指標です。


Villalba-Mouco V. et al.(2021): Genomic transformation and social organization during the Copper Age–Bronze Age transition in southern Iberia. Science Advances, 7, 47, eabi7038.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abi7038

https://sicambre.at.webry.info/202111/article_28.html

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