★阿修羅♪ > 近代史5 > 274.html
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ ★阿修羅♪
ヨーロッパ人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/274.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 25 日 16:02:53: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

ヨーロッパ人の起源


ヨーロッパ諸語のルーツは東欧。DNA分析で判明
論争が続く英語を含むヨーロッパ諸語の起源。論争に終止符を打つ新発見となるか
2015.03.06
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150305/438058/

4500年以上前にドイツ中部で埋葬された男性の人骨。この後、東欧から移住した考えられる集団とは、共通の祖先を持たないことがわかった。(PHOTOGRAPH BY JURAJ LIPTAK, LDA SACHSEN-ANHALT)

 ヨーロッパ大陸全域で話されている言語のルーツはどこにあるのか。このほど行われたDNA分析で、約4500年前、現在のロシアとウクライナにまたがる草原地帯から移動してきた牧畜民が使った言語がルーツとする説が発表された。

 長く狩猟採集が続いた先史時代のヨーロッパで、農耕が始まったことは画期的な出来事と位置付けられている。ヨーロッパでの農耕は、東方の農耕する集団がヨーロッパへ移動したことから始まったとされる。

 ところが2015年3月2日、科学誌「ネイチャー」に、ヨーロッパへの集団の大移動は1度だけではなく、2度あったとする研究論文が発表された。この説では、最初の集団の移動は新石器時代に現在のトルコにあたるアナトリアからのもの、そして第2波は4000年後、現在のロシアに当たるステップ地帯から中央ヨーロッパへの大移動だったという。そして英語を含むヨーロッパ言語の基礎になったのは、ステップ地帯から移動した集団がもたらした言語だというのだ。

 論文の共著者で、ハーバード大学医学大学院の遺伝学者ヨシフ・ラザリディス氏は、「ヨーロッパに最初にやってきた人々は狩猟採集民でした。そこへ農耕民がやってきて狩猟採集民と混ざり合いました。その後、東から新たな集団がたくさん移動してきたのです」と語る。

 今回、第2の大移動があったことが明らかになったのは、ラザリディス氏らの研究チームが現代ヨーロッパ人の起源を解明しようと、ヨーロッパの古代人69人の骨から採取したDNAを調べたことがきっかけだった。標本となった古代人の人骨は3000〜8000年前までと幅広いもの。標本同士だけでなく、現代ヨーロッパ人との間でもDNAが比較された。

 調査の過程で、古代の狩猟採集民と新石器時代に流入した農耕民の痕跡が見つかった。これは、これまでの説を裏付けるもので、予想通りだった。ところが彼らを驚かせたのは、約4500年前、ロシアとウクライナにまたがる平地や草原からの大集団が移住したことを示す痕跡が見つかったからだ。予想だにしない結果だった。

ヨーロッパへの
集団移動は2段階
 数千年間、狩猟採集民の小集団が暮らしていたヨーロッパ大陸に、初めて変化が起こったのは、約8000年前のこと。アナトリアから北上した農耕民が、新しい技術と生活様式をヨーロッパにもたらし、現在の定住生活の基礎を築く。考古学者の間では、この出来事を「新石器革命」と呼んでいる。

 その数千年後に、再び外からヨーロッパ大陸に人類の大移動があったことを決定づけたのは、ある2つの集団のDNAに多くの共通性が見られたため。1つは黒海の北岸で見つかった5000年前の人骨で、考古学で「ヤムナ」と呼ばれる集団に属するものだった。もう1つは、約4500年前に現在のドイツ中部ライプチヒ近郊で葬られた4人の人骨だ。こちらは「コーデッドウェア文化」に属する人々だった(「コーデッドウェア」とは、ヨーロッパ北部で広範囲にみられる当時の土器の特徴的な文様のことで、それにちなんでこう呼ばれる)。

 ヤムナ文化に属する集団と、コーデッドウェア文化に属する集団の間には、500年の開きがある。さらに地理的にも1600キロは離れている。それにもかかわらず、両者は判明できた部分で75%(おそらくは100%)共通の祖先をもつと考えられたのだ。論文の著者の1人で米ハートウィック大学の考古学者デビッド・アンソニー氏は、「両集団の間には、直接の遺伝的関連がみられる」と話す。「控えめに言っても、近い親類だということです」

 そして、着目すべきは、コーデッドウェア文化に属する人のDNAが、それより数千年前の現在のドイツにあたる地域に暮らしていた農耕民のDNAと共通性が認められなかったことのほうだろう。つまり、これは過去に「侵略」と言ってもいいほど劇的なヨーロッパへの流入があったことを示す証拠だ。「集団が丸ごと入れ替わったと言っても過言ではない出来事だったのではないでしょうか」とラザリディス氏は考えている。

ルーツ論争は決着か?
 今回、遺伝学から示された「ステップ地帯からヨーロッパへの大規模な移動があった」という事実は、言語学者や考古学者の間でインド・ヨーロッパ諸語の起源をめぐる論争を再燃させるだろう。インド・ヨーロッパ諸語には400以上の言語が含まれ、英語、ギリシャ語、アルバニア語、ポーランド語といった現代の言語から、ラテン語、ヒッタイト語、サンスクリット語など古い言語まで数多い。

 言語学者らは、すべてのインド・ヨーロッパ諸語の生みの親であるインド・ヨーロッパ祖語が最初に話されていた場所をめぐり、数十年もの間も議論してきた。「アナトリア仮説」派は、1万年前かそれ以前に現在のトルコに住んでいた農耕民が最初にインド・ヨーロッパ語を話していたと主張する。紀元前6000年ごろ彼らがヨーロッパにたどり着き、言語もそのときに流入したというのだ。

 対する「ステップ仮説」は、黒海とカスピ海の北に広がる広大な平原をインド・ヨーロッパ祖語の生まれた土地と考える。アンソニー氏は、この地に車輪が伝来して「ステップ地帯の経済に革命を起こした」と話す。この説を支持する人々は、多くのインド・ヨーロッパ諸語で「車軸」(axles)、「(家畜に荷車を引かせる棒)ながえ」(harness poles)、「車輪」(wheel)といった単語が共通していると指摘する。どれも、ヨーロッパで新石器革命が始まってからずっと後に考案されたものだ。

 だが、どちらの説も決定的な裏付けがなく、議論は長いこと前進していなかった。そんな中、今回の研究成果は両者の勢力図を変えるかもしれないと多くの研究者が考えている。ステップ仮説に説得力を持たせるのに必要な移住の証拠がつかめたからだ。

 とはいえ、これでインド・ヨーロッパ諸語のルーツをめぐる論争に決着がついたとはいえない。まだ説を補強しなくてはいけないことも多いからだ。確かに、遺伝学と言語学のデータは、インド・ヨーロッパ祖語が約4500年前にステップ地帯を経てヨーロッパに入ったという説を支持するものだ。だが、バルセロナ大学の遺伝学者カルレス・ラルエサ=フォックス氏によれば、「祖語の最も古い系統がどこで生まれたのかは、依然としてはっきりしない」だという。同氏によれば、インド・ヨーロッパ祖語発祥の地は、さらに別の地域かもしれず、ステップ地帯は源流の言語が南欧、イラン、インドなどに入った複数のルートの一つにすぎない可能性もあるという。

 今回の研究論文を発表した著者らも、その点は認めている。しかし、彼らの主張は揺らいでいない。ラザリディス氏は「ステップ地帯がインド・ヨーロッパ諸語の唯一の発祥地かどうかは不明だ」としながらも、「この地域についてもっとデータが集まれば、多くの疑問に答えられるはずだ」と強調した。

4000年以上前にドイツで埋葬された若い女性の人骨。DNAを分析したところ、東欧から移住してきた牧畜民との関連が強いことがわかった。(PHOTOGRAPH BY LDA SACHSEN-ANHALT)
文=Andrew Curry/訳=高野夏美
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150305/438058/



▲△▽▼

2015年06月12日
青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動
https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html

 新石器時代〜青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動に関する、『ネイチャー』に掲載された二つの研究が報道されました。『ネイチャー』には解説記事(Callaway., 2015)も掲載されています。5000〜3000年前頃のユーラシアの青銅器時代には、精巧な武器や馬に牽引させる戦車が拡散し、埋葬習慣の変化が広範に確認されるなど、大きな文化的変容が生じた、とされています。この大きな文化的変容が、おもに文化のみの拡散によるのか、それとも人間集団の移動に伴うものだったのか、ということをめぐって議論が続いてきました。この問題は、インド-ヨーロッパ語族の拡散とも関係して論じられてきました。

 5000〜1300年前頃のユーラシアの住民101人のゲノムを解析した研究(Allentoft et al., 2015)では、青銅器時代のヨーロッパにおける大きな文化的変容は人間集団の移動に伴うものであり、インド-ヨーロッパ語族が青銅器時代にヨーロッパに拡散したとする仮説が支持される、との見解が提示されています。5000年前頃には、ヨーロッパ中央・北部のゲノムは中東からの初期農耕民やそれ以前のヨーロッパの狩猟採集民のゲノムに似ていました。しかし、ヨーロッパ中央・北部集団のゲノムは4000年前頃までには、カスピ海〜黒海の北側の草原地帯に存在したヤムナヤ(Yamnaya)文化集団のゲノムにもっと類似していました。

 この研究は、薄い肌の色は青銅器時代のヨーロッパにおいてすでに高頻度で存在したものの、乳糖耐性はそうではなかったことも明らかにしています。以前には、ヨーロッパの初期農耕民において畜乳はカロリー摂取の重要な手段であり、新石器時代から乳糖耐性には正の淘汰が働いていたのではないか、と考えられていたのですが、乳糖耐性に関しては、正の淘汰が働いたのは青銅器時代以降のことではないか、と指摘されています。この乳糖耐性は、ヤムナヤ文化集団によりヨーロッパにもたらされた、と推測されています。

 もう一方の研究(Haak et al., 2015)では、8000〜3000年前の69人のヨーロッパ人の全ゲノムデータが作成され、解析・比較されました。その結果、やはり青銅器時代における東方草原地帯(現在の国境線ではウクライナを中心とします)からヨーロッパへの大規模な人間集団の移動が示唆されました。ヨーロッパにおいて新石器時代の始まりとなる8000〜7000年前頃に、遺伝的にはヨーロッパの先住狩猟採集民とは異なり、初期農耕民と密接に関連した集団がドイツ・ハンガリー・スペインに現れました。一方でその頃のロシアには、24000年前頃のシベリア人と高い遺伝的類似性を有する狩猟採集民集団が存在していました。

 6000〜5000年前までには、ヨーロッパの大半の農耕民はその祖先集団よりも多くの狩猟採集民集団のDNAを有していました。一方でこの時期の東方草原地帯の牧畜民であるヤムナヤ集団は、ヨーロッパ東部の狩猟採集民だけではなく、中東の農耕民集団のDNAも継承していました。ドイツの後期新石器時代縄目文土器(the Late Neolithic Corded Ware)文化集団はそのゲノムのうち75%をヤムナヤ集団から継承しており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 この東方草原地帯由来のDNAは、遅くとも3000年前までには中央ヨーロッパ人の全標本に存在し、現在のヨーロッパ人には広く確認されます。この研究は、ヨーロッパのインド-ヨーロッパ語族の少なくともいくつかは、東方の草原地帯に起源があるだろう、と指摘しています。また、中央ロシアのアルタイ山脈近くの4900〜4500年前頃の集団にもヤムナヤ集団の遺伝的痕跡が確認され、インド-ヨーロッパ語族のアジアへの拡散との関連が想定されます。最近では、青銅器時代のヨーロッパにおいて男性人口の拡大があったのではないか、との見解も提示されており(関連記事)、青銅器時代のヨーロッパにおける文化変容は、大規模な人間の移動に伴っていた可能性が高そうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(Allentoft et al., 2015の引用と、Haak et al., 2015の引用)です。


集団遺伝学:青銅器時代のユーラシアの集団ゲノミクス

集団遺伝学:青銅器時代のユーラシアの集団変化

 青銅器時代は大きな文化的変化の時代であったが、その要因は知識の伝達と大規模な人の移動のどちらにあったのだろうか。今回、ユーラシア各地の古代人101人の標本から低カバー率のゲノム塩基配列を得て解析した研究で、この時代に起こった大規模な集団の移動や入れ替わりが明らかになった。得られた解析結果は、青銅器時代のヨーロッパ人では、淡色の皮膚はすでに普通になっていたが乳糖耐性はあまり広まっていなかったことを示しており、乳糖耐性に対する正の選択が働き始めたのは従来考えられていたよりも新しい年代だったことが示唆された。この研究で得られた知見は、インド・ヨーロッパ語族が前期青銅器時代に広がったとする別の報告(Letter p.207)とも一致する。


集団遺伝学:ステップからの大移動がヨーロッパでのインド・ヨーロッパ語族の成因の1つとなった

集団遺伝学:ヨーロッパの言語を変えたステップからの大きな一歩

 今回D Reichたちは、8000〜3000年前に生存していたヨーロッパ人69人の全ゲノムデータを作成した。その解析から、8000〜7000年ほど前に現在のドイツ、ハンガリーおよびスペインに当たる地域で、先住の狩猟採集民とは異なる初期農耕民の血縁集団が出現したことが明らかになった。同時代のロシアには、2万4000年前のシベリア人との類似性が高い独特な狩猟採集民集団が生活していた。6000〜5000年前までに、ロシアを除くヨーロッパの広い地域で狩猟採集民系統が再び現れた。西ヨーロッパ集団と東ヨーロッパ集団は約4500年前に接触し、現代のヨーロッパ人にステップ系統の痕跡が残された。これらの解析から、新石器時代の人口動態に関する新たな手掛かりに加えて、ヨーロッパのインド・ヨーロッパ語族の少なくとも一部がステップ起源だとする説の裏付けが得られる。この研究で得られた知見は、青銅器時代の古代人101人のゲノムについて調べた別の研究結果(Article p.167)とも一致する。


参考文献:
Allentoft ME. et al.(2015): Population genomics of Bronze Age Eurasia. Nature, 522, 7555, 167–172.
http://dx.doi.org/10.1038/nature14507

Callaway E.(2015): DNA data explosion lights up the Bronze Age. Nature, 522, 7555, 140–141.
http://dx.doi.org/10.1038/522140a

Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
http://dx.doi.org/10.1038/nature14317

https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html


▲△▽▼


2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189

https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html



▲△▽▼

2018年06月17日
人類史における移住・配偶の性的非対称
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_35.html


 人類史において、移住・配偶で性的非対称が生じることは珍しくありません。そもそも、有性生殖の生物種において、雄と雌とで繁殖の負担が著しく異なることは一般的で、大半の場合、雄よりも雌の方がずっと負担は重くなります。もちろん人類もその例外ではなく、人類史における移住・配偶の性的非対称の重要な基盤になっているのでしょう。とはいっても、それらが繁殖負担の性的非対称だけで説明できるわけではないのでしょうが。当ブログでも、人類史における移住・配偶の性的非対称についてそれなりに取り上げてきましたので、一度短くまとめてみます。

 霊長類学からは、人類の旅は採食だけではなく繁殖相手を探すものでもあり、他の類人猿と同じく人類の祖先も、男が生まれ育った集団を離れて別の集団に入り配偶者を見つけるのは難しかっただろうから、ゴリラのように男が旅先で配偶者を誘い出して新たな集団を作るか、チンパンジーのように旅をしてきた女を父系的つながりのある男たちが受け入れることから集団間の関係を作ったのではないか、との見解が提示されています(関連記事)。人類系統がチンパンジー系統と分岐した時点で、すでに配偶行動において何らかの性的非対称が存在した可能性は高いと思います。

 初期人類については、「華奢型」とされるアウストラロピテクス属や「頑丈型」とされるパラントロプス属において移動の性差が見られる、と指摘されています(関連記事)。具体的には、アウストラロピテクス属ではアフリカヌス(Australopithecus africanus)、パラントロプス属ではロブストス(Paranthropus robustus)です。240万〜170万年前頃のアフリカヌスとロブストスのストロンチウム同位体含有比の分析の結果、小柄な個体のほうが、発見された地域とは異なるストロンチウム同位体組成を有している割合が高い、と明らかになりました。初期人類では体格の性差が大きかった(性的二型)との有力説を考慮すると、初期人類においては、女性は男性よりも移動範囲が広く、出生集団から拡散していくことが多かったのではないか、と言えそうです。つまり、父方居住的な配偶行動があったのではないか、というわけです。ただ、初期人類の性的二型については、大きかったとの見解が有力ではあるものの、異論もあるので(関連記事)、体格の違いによる性別判断の信頼性は高くない可能性もあると思います。

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)についても、父方居住的な配偶行動の可能性が指摘されています(関連記事)。イベリア半島北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡で発見された49000年前頃のネアンデルタール人遺骸群のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析の結果、3人の成人女性がそれぞれ異なるハプログループに分類されるのにたいして、3人の成人男性は同じハプログループに分類されました。もっとも、これは父方居住的な配偶行動の証拠となり得るものの、そうだとしても、あくまでもイベリア半島の49000年前頃の事例にすぎず、ネアンデルタール人社会全体の傾向だったのか、現時点では不明です。

 ただ、現代人への遺伝的影響はほとんどなかったとしても、同じホモ属で現代人と近縁なイベリア半島のネアンデルタール人と、現代人とは属が違い、おそらくは現代人の祖先ではなさそうなアフリカヌスやロブストスにおいて、父方居住的な配偶行動が存在したのだとしたら、人類系統において父方居住的な配偶行動が一般的だった可能性は高い、と思います。元々人類社会は父系的な構造だったものの、ある時期から社会構造が多様化していったのではないか、というわけです。それが、現生人類(Homo sapiens)の出現もしくは現生人類系統がネアンデルタール人系統と分岐した後なのか、ホモ属が出現してネアンデルタール人と現生人類の共通祖先が存在した頃なのか、あるいはもっと古くアウストラロピテクス属の時点でそうだったのか、現時点では分かりませんが、早くてもホモ属の出現以降である可能性が高いかな、と考えています(関連記事)。

 現生人類とネアンデルタール人との交雑についても、性的非対称の可能性が指摘されています(関連記事)。現代人のミトコンドリアでもY染色体でも、ネアンデルタール人由来の領域は確認されていません。したがって、母系でも父系でも、現代人にネアンデルタール人直系の子孫はいない可能性がきわめて高そうです。しかし、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人の遺伝的影響は、X染色体では常染色体の1/5程度であることから(関連記事)、現生人類とネアンデルタール人との交雑では、現生人類の女性とネアンデルタール人の男性という組合せの方が多かったというか、一般的だったのではないか、とも指摘されています。現生人類女性とネアンデルタール人男性の組合せでは、その逆よりもネアンデルタール人のX染色体が交雑集団に伝わりにくい、というわけです。

 しかし、配偶行動の性的非対称だけで、現代人のX染色体と常染色体においてネアンデルタール人の遺伝的影響が大きく異なるとも考えにくく、適応度の低下も関わってくるのではないか、と思います。ネアンデルタール人のゲノムは領域単位で現代人に均等に継承されているのではなく、現代人において排除されていると思われる領域も存在します。ネアンデルタール人のX染色体上でも、繁殖に関連すると思われる遺伝子を含む領域の排除が指摘されています(関連記事)。また、Y染色体の遺伝子における現生人類とネアンデルタール人との違いから、遺伝的不適合が原因となって、ネアンデルタール人由来のY染色体が現代には継承されなかった可能性が高い、との見解も提示されています(関連記事)。現生人類と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)との交雑でも、X染色体と精巣に関わる遺伝子領域では、現代人にデニソワ人の痕跡がひじょうに少ない、と指摘されています(関連記事)。現時点では、現生人類とネアンデルタール人やデニソワ人など古代型ホモ属との交雑において、性的非対称があったのか、推測は難しいと思います。

 現代人では多様な移住・配偶行動が見られ、その中には強い性的非対称が存在する事例もあります。たとえば、15世紀末以降、アメリカ大陸にはヨーロッパから多数の人々が移住してきて遺伝的にも大きな影響を及ぼしましたが、この事例では大きな性的非対称が見られます。現代パナマ人は、mtDNAでは83%がアメリカ大陸先住民系ですが、Y染色体DNAでは約60%が西ユーラシアおよび北アフリカ系、約22%がアメリカ大陸先住民系、約6%がサハラ砂漠以南のアフリカ系、約2%がおそらくは中国またはインドの南アジア系となります(関連記事)。これは、単身男性を中心としたイベリア半島勢力によるラテンアメリカの征服という、歴史学など他分野からの知見と整合的です。

 ヨーロッパの事例と併せて考えると、大規模な征服活動では、移住・配偶行動に性的非対称が見られる傾向にある、と言えるかもしれません。青銅器時代のヨーロッパにおいては、ポントス-カスピ海草原のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団から精巧な武器やウマに牽引させる戦車が拡散し、埋葬習慣の変化が広範に確認されるなど、大きな文化的変容が生じ、古代ゲノム解析からも大規模な移動が推測される、と指摘されています(関連記事)。さらに、このヨーロッパにおける青銅器時代の大きな文化的・人的構成の変容にさいしては、男性人口拡大の可能性も指摘されています(関連記事)。精巧な金属器とウマを用いての、機動力に優れた男性主体の集団による広範な征服活動がヨーロッパで起きたのではないか、というわけです。

 ヨーロッパにおける青銅器時代と新石器時代初期の大規模な移住を比較した研究では、青銅器時代の大規模な移住は男性主体で、女性1人にたいして男性は5〜14人と推定されているのにたいして、新石器時代初期にはそうした性差はなかった、と推測されています(関連記事)。ヨーロッパの新石器時代は中東からの農耕民集団の移住により始まりましたが、外来の農耕民集団と在来の狩猟採集民集団とがじょじょに融合していったと推測されているように(関連記事)、征服的な移住ではなかったのかもしれません。

 ヨーロッパにおいては、青銅器時代の征服活動的な大規模移住において、男性が主体になって広範に拡散していった様子が窺えますが、それは例外的な事例だったかもしれません。上述したように、人類史において父方居住的な配偶行動が一般的だった可能性は高い、と思います。後期新石器時代〜初期青銅器時代の中央ヨーロッパにおいても、成人女性が外部から来て地元出身の男性と結婚し、地元の女性は他地域に行って配偶者を得たのではないか、と推測されています(関連記事)。mtDNAの解析の結果、時間の経過とともに母系が多様化していき、同位体分析の結果、大半の女性は地元出身ではなく、一方で男性と未成年では大半が地元出身である、と明らかになりました。また、地元出身ではない女性の子孫は確認されませんでした。

 中世初期のバイエルンにおいても、男性よりも女性の方が遺伝的に多様で、女性は婚姻のために外部からバイエルンに移住してきたのではないか、と推測されています(関連記事)。ヨーロッパに限定しても一般化できるのか、まだ確定したとは言えないでしょうが、征服的な移住では男性が主体となり、そうではない移住では性差があまりなく、安定期には人類史の古くからの一般的傾向が反映されて、男性が出生集団(地域)に留まる一方で、女性は配偶のために他集団(地域)に移住する、という傾向があるのかもしれません。こうした傾向が人類史全体に当てはまるのか、現在の私の知見ではとても断定できませんが、今後、そうした観点から色々と調べていこう、と考えています。
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_35.html  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-11680] koaQ7Jey 2020年8月25日 16:07:46 : WTRIxbreSo : SmdhZHJZU2RGaVE=[27] 報告
News Release 5-Sep-2019
中央および南アジア由来の古代DNAからユーラシア大陸における人々と言語の拡散が明らかに


中央および南アジアから得られた500人以上の古代DNAの全ゲノム解析から今回、この地域に現在住む人々の複雑な遺伝的祖先について新たな光が当てられることを、新しい報告が明らかにしている。

この研究は、ユーラシア・ステップ、中近東および東南アジアに由来する集団における遺伝子交換を記述しているだけでなく、古代ヨーロッパに認められるものと類似し並行したゲノムパターンを反映する集団の歴史をも明らかにしており、これらの所見は印欧語族の文化的拡散を例証するものと考えられる。

はるか昔に生きていた人々の遺伝子が保存された遺物は、古代の様々な集団の移動と相互関係だけでなく、文化的革新(農業、牧畜、言語など)の世界規模での拡散の様子を明らかにしてくれる。

Vagheesh Narasimhanらは、およそ8,000年前に生きていた523人の古代DNAを用いて、中央および南アジアへの、またこれらの地域内における、先史時代の人類の拡散について理解を深めることを試みた。Narasimhanらによれば、

現代アジア人の祖先は主として、インダス文明の崩壊後にやってきた中近東の農民集団、ならびにヤムナ文化として知られるヨーロッパのステップ地帯に由来する青銅器時代の牧畜民集団に遡るという。

これまでの研究では、同じ集団が東ヨーロッパ地域にも移動しており、このことがインド・イラン語派およびバルト・スラヴ語派の広範な拡散に貢献した可能性が示されている。

関連するPerspectiveでNathan ShaeferとBeth Shapiroは「今回のデータセットの規模により、Narasimhanらはかつてない広範な空間および時間にわたってゲノムの比較を行うことができ、それにより数年前には答えることのできなかった、増加しつつある特定の疑問に焦点を当てることが可能になった」と記している。
https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2019-09/aaft-5_2090319.php

▲△▽▼


2019年09月08日
アジア南部の人口史とインダス文化集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_23.html


 アジア南部の人口史関する二つの研究が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。日本語の解説記事もあります。なお、以下の主要な略称は以下の通りです。アンダマン諸島狩猟採集民(AHG)、古代祖型インド南部人関連系統(AASI)祖型北インド人(ANI)、祖型南インド人(ASI)、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)、シベリア東部狩猟採集民(ESHG)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)、中期〜後期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯牧畜民(WSMLBA)、前期〜中期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯牧畜民(WSEMBA)、バクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化。

 一方の研究(Narasimhan et al., 2019)は、すでに昨年(2018年)、査読前に公開されていました(関連記事)。その時点よりデータも増加しているので、今回改めて取り上げます。本論文は、中石器時代以降のアジア中央部および南部北方の、新たに生成された古代人523個体のゲノム規模データと、品質を向上させた既知のゲノムデータ19人分を報告しています。これらと既知のデータを合わせて、古代人837個体分のデータセットが得られました。現代人では、686人のゲノム規模データと、アジア南部の246民族の1789人の一塩基多型データが比較されました。

 本論文(サイエンス論文)はこれらの個体を地理的に3区分しています。それは、182人分のゲノムデータが得られたイランおよびトゥーラーン(アジア中央部南部、現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・アフガニスタン・キルギスタン)、209人分のゲノムデータが得られた草原地帯と北部森林地帯(ほぼ現在のカザフスタンとロシアに相当します)、132人分のゲノムデータが得られたパキスタン北部です。文化的に区分すると、(1)中石器時代・銅器時代・青銅器時代・鉄器時代のイランおよびトゥーラーンの集団で、紀元前2300〜紀元前1400年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化も含まれます。(2)シベリア西部森林地帯の早期土器(陶器)使用狩猟採集民で、北部ユーラシア人の早期完新世の遺伝的傾向を表します。(3)ユーラシア草原中央部の銅器時代・青銅器時代の牧畜民で、青銅器時代カザフスタン(紀元前3400〜紀元前800年)を含みます。(4)アジア南部北方で、後期青銅器時代と鉄器時代と歴史時代を含み、現在のパキスタンに相当します。

 イランおよびトゥーラーンでは、アナトリア農耕民関連系統の比率が西から東にかけて減少するという勾配が見られます。紀元前九千年紀〜紀元前八千年紀のイラン西部ザグロス山脈の牧畜民は、特有のユーラシア西部関連系統を有していたのにたいして、広範な地域のもっと後の集団は、この独特なユーラシア西部関連系統とアナトリア農耕民関連系統との混合系統です。銅器時代から青銅器時代にかけて、アナトリア農耕民関連系統の比率が、アナトリア半島で70%、イラン東部で31%、トゥーラーン東部で7%というように、東から西へと減少していく勾配が見られます。アナトリア半島でもイラン農耕民系統が見られるようになり、農耕と牧畜を担う集団が双方向に拡散し、在来集団と混合した、と推測されます。

 紀元前三千年紀には、イラン東部とトゥーランでは、最小限のアナトリア農耕民関連系統だけではなく、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)系統の混合も検出され、イラン農耕民関連系統の拡大前にこの地域に存在した、まだ標本抽出されていない狩猟採集民からの交雑を反映している、と本論文は推測しています。ユーラシア北部関連系統は、ヤムナヤ(Yamnaya)遊牧文化集団の拡大前にトゥーラーンに影響を及ぼしました。ヤムナヤ文化集団の遺伝的構成では、WSHG関連系統よりもヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)関連系統の方が多いので、ヤムナヤがこのユーラシア北部関連系統の起源だった可能性は除外できます。また、ヤムナヤ文化集団にはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)U5aとY染色体ハプログループ(YHg)R1bもしくはR1aが高頻度で存在するものの、これらのハプログループは標本抽出されたイランおよびトゥーラーンの銅器時代〜青銅器時代には見られないことからも、この見解は支持されます。

 紀元前2300〜紀元前1400年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化集団は、アジア南部集団の主要な起源ではありませんでした。イランおよびトゥーラーンの青銅器時代のBMACとその直後の遺跡から、紀元前3000〜紀元前1400年頃の84人のゲノム規模データが得られました。この84人の大半はトゥーラーンの先住集団と遺伝的に近縁で、BMAC集団の起源集団の一つと考えられます。BMAC集団の遺伝的構成は、早期イラン農耕民関連系統が60〜65%、アナトリア農耕民関連系統が20〜25%、WSHG系統が10%程度です。BMAC集団は、先行するトゥーラーンの銅器時代個体群とは異なり、追加のアンダマン諸島狩猟採集民(AHG)関連系統を2〜5%ほど有しています。アジア南部におけるこの南方から北方への遺伝子流動は、インダス文化とBMACの間の文化的接触と、アフガニスタン北部のインダス文化交易植民地を示す考古学的証拠と一致しますが、アフガニスタン北部のインダス文化交易植民地では古代DNAは得られていません。一方、逆の北方から南方への遺伝子流動は検出されませんでした。BMAC集団のアナトリア農耕民関連系統比率はやや高いので、古代および現代のアジア南部人類集団の起源集団にはならないだろう、と本論文は推測しています。

 以前の研究(関連記事)では、BMAC集団をアジア南部の現代人集団の祖先集団の一つとする可能性が提示されていましたが、対象となる標本数が本論文の36点に対して2点と少なく、BMAC期もしくはアジア南部の古代DNAが欠けており、本論文はその見解に否定的です。紀元前2300年頃、BMAC関連遺跡でWSHG関連系統を有する外れ値の3人が観察されます。紀元前三千年紀には、カザフスタンの3遺跡とキルギスタンの1遺跡で、この3人の起源として合致したデータが得られています。紀元前2100〜紀元前1700年頃には、BMAC関連遺跡で西方草原地帯前期〜中期青銅器時代(EMBA)系統から派生した系統を有する3人の外れ値が観察されており、ヤムナヤ派生系統は紀元前2100年までにトゥーランに到達した、と考えられます。ヤムナヤ系統は紀元前二千年紀の変わり目までにアジア中央部へと拡大した可能性が高そうです。

 紀元前2500〜紀元前2000年頃のBMAC遺跡と紀元前3300〜紀元前2000年頃のイラン東部遺跡から、11人の外れ値が観察されます。その遺伝的構成は、AHG関連系統が11〜50%で、残りはイラン農耕民関連系統とWSHG関連系統の混合(50〜89%)です。こうした外れ値の個体群では、BMAC関連系統では20〜25%となるアナトリア農耕民関連系統が検出されず、BMAC集団が起源である可能性は否定されます。インダス文化集団の古代DNAなしに、これらの外れ値がインダス文化で一般的な遺伝的構成だった、と明確に述べることはできません。しかし、アナトリア農耕民関連系統が検出されず、11人全員でAHG関連系統の割合が高く、そのうち2人では現在おもにインド南部で見られるYHg- H1a1d2が確認され、インダス文化との交易の考古学的証拠があり、アジア南部関連の人工物が共伴していることから、この外れ値の11人はインダス文化後のインダス川上流近くの古代人86人の祖先として適合的だろう、と本論文は推測します。また、この11人におけるイラン農耕民関連系統とAHG関連系統との混合が紀元前5400〜紀元前3700年頃に起きたと推定されることから、11人の遺伝的構成がインダス文化集団を表している可能性は高い、と本論文は指摘します。

 ユーラシアの草原地帯および森林地帯系統の遺伝的勾配は、農耕出現後に確立しました。ユーラシア北部の後期狩猟採集民は、西方から東方へと、アジア東部系統が増加する勾配を示します。新石器時代と銅器時代には、この勾配に沿った異なる地域の狩猟採集民が、異なる地域の系統を有する人々と交雑し、5つの勾配を形成しました。そのうち2つは南方(アジア南西部とインダス川周辺部)で、残りの3つはユーラシア北部に存在しました。草原地帯および森林地帯の最西端にはヨーロッパ勾配があり、アナトリア農耕民の拡大により紀元前7000年後に確立し、ヨーロッパ西部狩猟採集民と交雑しました。黒海からカスピ海に及ぶ緯度のヨーロッパの東端の勾配は、ヨーロッパ東部狩猟採集民関連系統とイラン農耕民関連系統の混合から構成され、いくつかの集団では追加のアナトリア農耕民関連系統が見られます。ウラル山脈の東ではアジア中央部勾配が検出され、一方の端のWSHG個体と、もう一方の端のトゥーラーンの銅器時代〜早期青銅器時代の個体で表されます。

 紀元前3000年頃に、ユーラシアの多くの集団の遺伝的構成は、西方のハンガリーから東方のアルタイ山脈まで、コーカサス起源のヤムナヤ文化集団系統に転換していきました。この前期〜中期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯(WSEMBA)系統は、次の2000年にわたってさらに拡大して在来集団と混合し、西はヨーロッパの大西洋沿岸、南東はアジア南部まで到達しました。アジア中央部および南部に到達したWSEMBA系統は、最初の東方への拡大ではなく、第二の拡大によるもので、WSEMBA系統を67%、ヨーロッパ関連系統33%を有する集団でした。この中期〜後期青銅器時代ユーラシア西方草原(WSMLBA)集団は、縄目文土器(Corded Ware)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化やシンタシュタ(Sintashta)文化やペトロフカ(Petrovka)文化集団を含んでいます。WSMLBAとは異なる中期〜後期青銅器時代ユーラシア中央草原地帯集団(CSMLBA)も検出され、おもにWSHG関連系統の中央草原地帯の青銅器時代牧畜民に由来する系統を9%ほど有しています。

 シンタシュタ文化集団では、50人のうち複数の外れ値が検出されました。外れ値の一つはWSHG関連のCSMLBA系統の比率が高く、二番目はWSMLBA系統の比率が高く、三番目はヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)系統の比率が高い、と明らかになりました。現在のカザフスタンとなる中央草原地帯では、紀元前2800〜紀元前2500年頃の1人と、紀元前1600〜紀元前1500年頃の複数個体が、イラン農耕民関連系統からの顕著な混合を示し、トゥーランを経由してのアジア南部へのCSMLBAの南進とほぼ同時期の、トゥーランから北方への遺伝子流動を示します。紀元前三千年紀半ばから始まったこうした人類集団の移動は、考古学的証拠で示される物質文化と技術の動きと関連しています。

 クラスノヤルスク(Krasnoyarsk)市の草原地帯遺跡で発見された紀元前1700〜紀元前1500年頃の複数個体は、シベリア東部狩猟採集民(ESHG)関連系統と25%程度のアジア東部関連系統と、残りのWSMLBA系統という遺伝的構成を示します。後期青銅器時代までに、ESHG関連系統はカザフスタンからトゥーラーンまで至る所で見られるようになります。これら紀元前千年紀から紀元後千年紀にアジア南部において文化的・政治的影響の見られる文化集団は、アジア南部現代人にアジア東部系統がほとんど見られないことから、アジア南部現代人の草原地帯牧畜民系統の重要な起源ではありません。その起源として有力なのは、草原地帯の中期〜後期青銅器時代集団で、トゥーラーンへと拡散してBMAC関連系統と混合しました。総合すると、これらの結果は、アジア南部に現在広範に見られる草原地帯系統がアジア南部に到達したのは、紀元前二千年紀の前半と推定します。ヤムナヤ文化に代表される草原地帯牧畜民集団の拡大前後での遺伝的構成は、本論文の図3で示されています。

画像
https://science.sciencemag.org/content/sci/365/6457/eaat7487/F4.large.jpg

 以前の研究では、アジア南部現代人集団は、ユーラシア西部集団と近縁な祖型北インド人(ANI)と、ユーラシア西部集団とは近縁ではない祖型南インド人(ASI)との混合により形成された、と推測されました。本論文はまず、インダス文化との接触が考古学的に示されている遺跡で確認された、上述の外れ値の11人を取り上げます。この11人は、2集団の混合としてモデル化できます。一方は、AHG関連系統集団、もう一方は90%程度のイラン農耕民関連系統と10%程度のWSHG関連系統の混合集団です。このインダス川流域系統に合致する人々は、アジア南部現代人の祖先の大半を構成します。これはアジア南部に特有の系統をもたらす西方からの遺伝子流動というよりも、インダス川流域集団の人々のもっと後のアジア南部人への寄与です。

 アジア南部北方の紀元前1700〜紀元後1400年の間の117人では、紀元前2000年以降に草原地帯系統が見られます。これは2集団の混合としてモデル化され、一方はインダス川流域集団、もう一方は41%程度のCSMLBAと比較的高いイラン農耕民関連系統を有する59%程度のインダス川流域集団の亜集団です。現代インド人で見られる遺伝的勾配の形成に合致したモデルは起源集団として、CSMLBAもしくはその近縁系統と、インダス川流域集団と、AHG関連系統もしくはAHG関連系統を比較的高頻度で有するインダス川流域集団の亜集団を含みます。

 インド南部のいつくかの集団では、CSMLBA系統が見られません。これは、ASIのほぼ直系の子孫が現在も存在することを示し、ASIはユーラシア西部関連系統を有していないかもしれない、という以前の見解の反証となります。つまり、インド南部のユーラシア西部関連系統はANI のみがもたらしたのではなく、ASIはイラン農耕民関連系統を有していただろう、というわけです。イラン農耕民関連系統とAHG関連系統の混合は紀元前1700〜紀元前400年頃と推定され、インダス文化の時点では、ASIは完全には形成されていない、と推測されます。

 インドには、パリヤール(Palliyar)やジュアン(Juang)といった、ユーラシア西部系統の影響の小さいオーストロアジア語族集団も存在します。ジュアン集団は、更新世からアジア南部に存在したと考えられ、ユーラシア西部系統要素のない古代祖型インド南部人関連系統(AASI)系統(48%)およびアジア東部起源のオーストロアジア語族の混合集団(52%)の混合系統と、AASI(70%)とイラン農耕民関連系統(30%)の混合集団としてのASIとの混合としてモデル化されます。農耕技術から、オーストロアジア語族はアジア南部に紀元前三千年紀に到来した、と推測されています。ANIは、草原地帯牧畜民系統との混合年代が紀元前1900〜紀元前1500年頃と推定されることから、インダス文化衰退後に形成されたと推測されます。つまり、現代インド人の勾配を形成する主要な2集団であるASIとANIは、どちらも紀元前二千年紀の前には完全に形成されていなかっただろう、ということになります。

 アジア南部最北端となるパキスタンのスワート渓谷(Swat Valley)の青銅器時代・鉄器時代の複数個体では、草原地帯系統が、常染色体において20%程度になるのに、Y染色体では、草原地帯においてはほぼ100%となる系統(YHg- R1a1a1b2)が5%と顕著に低く、おもに女性を通じて草原地帯系統が導入された、と推測されます。しかし、現代のアジア南部では、常染色体よりもY染色体の方でCSMLBA関連系統がずっと多い集団も見られます。これは、おもに男性により草原地帯系統が拡散したことを示唆します。類似の事象はイベリア半島でも見られますが(関連記事)、アジア南部はイベリア半島ほど極端ではありません。アジア南部でY染色体において草原地帯系統の比率の高い集団は、司祭の地位にあると自任してきた集団に見られますが、この相関はまだ決定的とまでは言えません。私の説明が下手で分かりにくいので、以下に本論文の図5を掲載します。

画像
https://science.sciencemag.org/content/sci/365/6457/eaat7487/F6.large.jpg


 本論文は以上の知見から、アジア南部における完新世の人口史を以下のようにまとめます。紀元前2000年まで、イラン農耕民関連系統とAASI系統の異なる比率を有するインダス川流域集団が存在し、本論文はこれを多くのインダス文化集団の遺伝的特徴と仮定します。ASIは紀元前2000年以後に、このインダス川流域集団とAASI関連系統集団の混合として成立しました。紀元前2000〜紀元前1000年の間に、CSMLBA系統がアジア南部へと拡大し、インダス川流域集団と混合してANIを形成しました。紀元前2000年以後、ASI とANIが混合し、現代インド人に見られる遺伝的勾配を形成していき、アジア南部の現代の多様な集団が形成されました。

 インダス川流域集団はインダス文化の発展前となる紀元前5400〜紀元前3700年に形成されます。これは、インダス川流域集団のイラン農耕民関連系統はインダス川流域狩猟採集民の特徴で、それはコーカサス北部およびイラン高原農耕民の特徴と同様だった可能性を提示します。イラン北東部の狩猟採集民におけるそうした系統の存在も、この可能性と整合的です。もう一つの可能性は、イラン高原から農耕牧畜集団が紀元前七千年紀にアジア南部へと拡大した、というものです。しかし、この仮説は、インダス川流域集団ではアナトリア農耕民関連系統がほとんど存在しない、という知見と整合的ではありません。

 そのため本論文は、アナトリア農耕民関連系統の東方への拡大がイラン高原およびトゥーラーンへの農耕拡大と関連していたという見解を支持しているものの、アジア南西部からアジア南部への大規模な移動は、イラン高原において全員にかなりのアナトリア農耕民関連系統が見られる紀元前6000年以後にはなかった、と推測しています。国家成立以前の言語は人々の移動に伴うのが通常なので、アジア南部のインド・ヨーロッパ語族は、アジア南西部の農耕民拡大の結果ではないだろう、との見解を本論文は提示しています。

 これは、アジア南部のインド・ヨーロッパ語族が草原地帯起源であることを示唆します。しかし、中期〜後期青銅器時代の中央草原地帯とアジア南部の物質文化の類似性はひじょうに少ない、と指摘されています。ただ本論文は、ヨーロッパ西部起源と考えられるビーカー複合(Beaker Complex)文化が、ヨーロッパ中央部ではヤムナヤ文化に代表される草原地帯牧畜民系統を50%程度有する集団と関連していることから、物質文化のつながりの欠如は遺伝子拡散を否定するわけではない、と指摘しています。ヨーロッパでは、草原地帯系統集団が在来の物質文化を取り入れながら、遺伝的には在来集団に大きな影響を及ぼした、というわけです。

 本論文は、アジア南部集団が、ヤムナヤ文化集団に代表されるWSEMBAから、その影響を受けたCSMLBAを経由して(30%程度)、20%程度の影響を受けた、と推定しています。以前の研究(関連記事)では、アジア南部に草原地帯牧畜民系統をもたらしたのは直接的にはヤムナヤ文化集団ではない、と推測されていましたが、間接的にはヤムナヤ文化集団のアジア南部への遺伝的影響は一定以上あるようです。さらに本論文は、インド・ヨーロッパ語族のサンスクリット語文献の伝統的な管理者と自任してきた司祭集団において、男系を示すY染色体においてとくに草原地帯牧畜民系統の比率が高いことからも、インド・ヨーロッパ語族が草原地帯系統集団によりもたらされた可能性が高い、と推測します。

 アジア南部で2番目に大きな言語集団であるドラヴィダ語族の起源に関しては、ASI系統との強い相関が見られることから、インダス文化衰退後に形成されたASIに起源があり、インダスインダス文化集団により先ドラヴィダ語が話されていた、と本論文は推測しています。これは、インダス文化の印章の記号(インダス文字)がドラヴィダ語を表している、との見解と整合的です。また本論文は、先ドラヴィダ語がインダス川流域集団ではなくインド南部および東部起源である可能性も想定しています。この仮説は、インド特有の動植物の先ドラヴィダ語復元の研究と整合的です。

 ヨーロッパとアジア南部は、農耕開始前後にアジア南西部起源の集団が流入した後、銅器時代〜青銅器時代にかけて、ユーラシア中央草原地帯起源の牧畜民が流入してきて遺伝的影響を受けたという点で、よく類似しています。しかし、更新世から存在したと考えられる狩猟採集民系統の比率が、アジア南部ではAASIとして最大60%程度になるのに対して、ヨーロッパではヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)として最大で30%程度です。これは、ヨーロッパよりも強力な生態系もしくは文化の障壁がアジア南部に存在したからだろう、と本論文は推測しています。

 これと関連して、草原地帯牧畜民系統の到来がアジア南部ではヨーロッパよりも500〜1000年遅くて、その影響がアジア南部ではヨーロッパよりも低く、Y染色体に限定しても同様である、ということも両者の違いです。本論文は、この状況はヨーロッパ地中海地域と類似している、と指摘します。ヨーロッパでも地中海地域は、北部および中央部よりも草原地帯系統の比率はかなり低く、古典期には多くの非インド・ヨーロッパ語族系言語がまだ存在していました。一方、アジア南部では非インド・ヨーロッパ語族系言語が今でも高い比率で使用されています。これは、やや寒冷な地域が起源の牧畜民集団にとって、より温暖な地域への拡散は難易度が高かったことを反映しているのかもしれません。


 もう一方の研究(Shinde et al., 2019)はオンライン版での先行公開となります。インダス文化の遺跡では何百人もの骨格が発見されていますが、暑い気候のためDNA解析は困難です。しかし近年、内耳の錐体骨に大量のDNAが含まれていると明らかになり、熱帯〜亜熱帯気候の地域でも古代DNA研究が進んでいます。本論文(セル論文)は、インダス文化最大級の都市となるラーキーガリー(Rakhigarhi)遺跡で発見された、多数の錐体骨を含む61人の遺骸からDNA抽出を試み、そのうち有望とみなされた1個体(I6113)から、31760ヶ所の一塩基多型データを得ることに成功しました。I6113は性染色体の配列比較から女性と推定され、mtHg-U2b2と分類されました。このハプログループは、アジア中央部の古代人では現時点で確認されていません。

 I6113は、上述のサイエンス論文で云うところの、インダス川流域集団に位置づけられ、アジア南部現代人集団の変異内には収まりません。つまり、I6113もアナトリア農耕民関連系統を有していないわけです。I6113は、イランのザグロス山脈西部遊牧民とアンダマン諸島狩猟採集民(AHG)との混合としてモデル化されます。つまり、イラン系統と更新世からアジア南部に存在した系統の混合というわけです。上述のように、サイエンス論文では紀元前2500〜紀元前2000年頃のBMAC遺跡と紀元前3300〜紀元前2000年頃のイラン東部遺跡の外れ値となる11人はインダス文化集団からの移民との見解が提示されており、本論文(セル論文)でその具体的証拠が得られたことになります。インダス文化期のラーキーガリー遺跡ではI6113のような遺伝的構成が一般的だっただろう、と本論文は推測しています。

 本論文は、サイエンス論文の外れ値となる11人とラーキーガリー遺跡のI6113を合わせてインダス文化集団と把握しています。I6113には草原地帯系統が見られず、イラン系統が87%と大半を占めます。このインダス文化集団におけるイラン系統は、イラン系統が狩猟採集民系統と牧畜民系統に分岐する前に分岐した系統と推定されています。その推定年代は紀元前10000年よりもさかのぼり、イラン高原における農耕・牧畜の開始前となります。これは、インダス文化集団におけるイラン系統が、農耕開始前にアジア南部に到来したことを示唆します。紀元前7000年以後、イラン高原ではアナトリア農耕民関連系統が増加し、サイエンス論文で示されているように、西部ではアナトリア農耕民関連系統の比率が59%と高く、東部では30%と低い勾配を示します。私の説明が下手で分かりにくいので、以下に本論文の図3を掲載します。

画像
https://marlin-prod.literatumonline.com/cms/attachment/39fa94c3-2fb2-46ec-8afb-d11af2e98911/gr3_lrg.jpg

 本論文はこれらの知見から、アジア南部ではヨーロッパと同様に、最初に農耕の始まった肥沃な三日月地帯からの直接的な移住により農耕が始まったわけではない、と指摘します。ヨーロッパの場合は、アナトリア半島東部の狩猟採集民が外部からの大規模な移住なしに農耕を始め(関連記事)、その後でヨーロッパに拡散していきました。アジア南部の場合は、まだ特定されていない地域の狩猟採集民が、外部からの大規模な移住なしに農耕を始めたのだろう、と本論文は推測しています。ただ本論文は、アジア南部内で初期農耕民による大規模な拡大が起き、農耕の拡大とともに集団置換が起きた可能性も想定しています。そのような事象が起きたのか否かは、本論文が指摘するように、農耕開始前後の古代DNA研究で明らかになるでしょう。

 インダス文化集団は、アナトリア農耕民関連系統を有さず、イラン高原の古代の農耕民系統とは異なるイラン系統を有するため、アナトリア半島からアジア南部へ初期農耕民がインド・ヨーロッパ語族をもたらしたとする仮説と整合的ではない、と本論文は指摘します。本論文はサイエンス論文と同様に、アジア南部にインド・ヨーロッパ語族をもたらしたのは紀元前二千年紀に到来した草原地帯牧畜民系統集団だろう、と推測します。本論文は、I6113に代表されるインダス文化集団がインダス文化全体の遺伝的構成に共通している可能性を主張しつつも、まだ標本が少なく、今後広範囲で標本数を蓄積していき、定量的に分析していく必要がある、と指摘しています。サイエンス論文とセル論文の著者の一人でもあるパターソン(Nick Patterson)氏は、インダス文化集団は遺伝的にたいへん多様だっただろう、と推測しています。


参考文献:
Narasimhan VM. et al.(2019): The formation of human populations in South and Central Asia. Science, 365, 6457, eaat7487.
https://doi.org/10.1126/science.aat7487

Shinde V. et al.(2019): An Ancient Harappan Genome Lacks Ancestry from Steppe Pastoralists or Iranian Farmers. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2019.08.048

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_23.html

2. 2020年8月31日 07:58:39 : 1W8zcIRgE2 : aUhEYmQ0L2hWREU=[4] 報告
雑記帳 2020年08月31日
古代DNAに基づくユーラシア西部の現生人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html


 古代DNAに基づく近年のユーラシア西部の現生人類(Homo sapiens)史研究を整理した概説(Olalde, and Posth., 2020)が公表されました。ユーラシア西部における現生人類の遺伝的歴史は、過去10年にたいへん注目されてきた研究分野です。これまでの研究の大半は、新石器時代と青銅器時代に起きた大規模な文化的移行をより理解するため、超地域的視点に焦点を当ててきており、おもに8500〜3000年前頃の個体群が対象でした。

 最近では、そうした大規模な手法は学際的な小地域研究により補完されており、それは過去の社会の通時的な再構築を目指し、古代DNA研究の将来の主流の方向性となる可能性が高そうです。さらに、ユーラシア西部全域の刊行された人類ゲノムの時間的分布を考慮すると、一方の側は上部旧石器時代と中石器時代、もう一方の側は鉄器時代に広く対応しています。この期間の研究もひじょうに興味深いものの、固有の課題もあり、それは、狩猟採集民遺骸としばしば乏しい古代DNA保存という利用可能性の低さと、歴史時代の集団間の減少した遺伝的差異を含みます。本論文は、最近明らかになってきたような、ユーラシア西部の古代DNA研究における新たな動向を取り上げます。


●ユーラシア西部狩猟採集民

 45000年前頃以降の大半において、ヨーロッパと近東の現生人類は狩猟採集戦略に依存していました。上部旧石器時代および中石器時代と新石器時代の一部地域では、集団の生活様式は狩猟採集でした。8500年前頃以降になって初めて、農耕が近東からヨーロッパに拡大してきました。この狩猟採集に依拠していた期間が長いにも関わらず、ヨーロッパと近東の刊行された古代ゲノムのうち、狩猟採集民個体群に由来するのは10%未満です。

 ヨーロッパの狩猟採集民に関する最初の大規模なゲノム規模研究は2016年に公表され、45000〜7000年前頃の50人のゲノムが分析されて、その後のいくつかの研究の基礎となりました(関連記事)。遅くとも37000年前頃以降、ヨーロッパの全個体は後のヨーロッパ人集団とある程度の遺伝的類似性を有します。しかし、その研究ではヨーロッパの現生人類のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)系統は経時的に減少したと推定されましたが、最近の研究では、ヨーロッパの現生人類におけるネアンデルタール人系統の割合はほぼ一定だった、と推定されています(関連記事)。

 後のヨーロッパ人集団に寄与した最古のゲノムは、ロシア西部のコステンキ−ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で1954年に発見された37000年前頃の若い男性個体(関連記事)と、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)です。この2個体は相互に、ひじょうに異なる2系統の初期の分岐を表しており、より新しい別々の狩猟採集民集団と関連しています。

 ヨーロッパ全域で観察された最初の明確な遺伝的クラスタは、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群に因んでヴェストニツェと命名され、チェコからベルギーとイタリア南部までの34000〜26000年前頃のゲノムを含みます。これらの個体群はグラヴェティアン(Gravettian)技術複合と関連しており、コステンキ14個体およびその姉妹系統である34000年前頃のロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡集団と、高い遺伝的類似性を共有しています。さらに、クリミア半島からの提案されたグラヴェティアン個体もまた、ヴェストニツェ遺伝的クラスタのより新しい個体群との類似性を示し、グラヴェティアン関連遺伝的構成の西方から東方への拡大が支持されます。

 最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の後、Goyet Q116-1個体で特定された遺伝的系統は、考古学的にはマグダレニアン(Magdalenian)と関連した個体群に現れ、その年代はイベリア半島では19000年前頃、ヨーロッパ中央部では15000年前頃です。15000年前頃のヨーロッパでは温暖化が起き、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に因んで命名された新たな遺伝的系統であるヴィラブルナの存在と同時に発生し、このヴィラブルナ系統は現代および古代の近東集団と有意なつながりを示します(関連記事)。このかなり均質な遺伝的構成は、イタリア(関連記事)からブリテン島(関連記事)にまたがるヨーロッパ全域に広範に拡大しました。

 ヴィラブルナ系統の起源はまだ議論されていますが、近東の上部旧石器時代個体群の最近の分析では、ジョージア(グルジア)とアナトリア半島でそれぞれ26000年前頃と15000年前頃に混合したそのような系統存在が明らかになっています。しかし、近東からヨーロッパへの長期的拡大というよりもむしろ、ヨーロッパ南東部の気候的な待避所からの二重の集団拡散が、これら2地域の遺伝的な祖先構成の説明として提案されてきました。他の氷期の待避所としてイベリア半島が提案されており、そこではマグダレニアン関連系統が、広範囲のヴィラブルナ系統とともに、中石器時代まで高い割合で残存していました(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では遅くとも8000年前頃までには、東部狩猟採集民(EHG)と命名された他の異なる遺伝的系統を有する個体群が、西部狩猟採集民(WHG)ヴィラブルナ系統と関連する個体群とともに東西に沿って遺伝的勾配を示します。スカンジナビア半島の中石器時代の狩猟採集民は、さらに東方に位置する集団と比較してずっと高い割合のEHG関連系統を有するので、この勾配の顕著な例外を表します(関連記事)。そのため、氷期後のスカンジナビア半島の定住は、北方からEHG、南方からWHGの拡大を伴っていたという二重経路で、その後で混合が起きた、と提案されています(関連記事)。

 ヨーロッパのほとんどで、狩猟採集民系統はその後に、新石器時代の拡大の結果として、農耕関連遺伝的構成にほぼ置換されました。しかし、バルト海地域のようなヨーロッパ北部の周辺では、狩猟採集民の遺伝的構成が中期新石器時代の5500年前頃まで、ヨーロッパにおける農耕民到達後も3000年ほど維持されました。ロシア西部のサマラ(Samara)地域の個体群は、EHG関連系統の東限となり、ウラル山脈のすぐ東のシベリア狩猟採集民は、ユーラシア東部集団との遺伝的類似性を示します。


●鉄器時代から歴史時代

 過去3000年の歴史は、現代人集団の最終的な形成の理解に重要です。人類の移動性が高まっているため、この期間の人口統計学的事象は小規模でも大規模でも豊富で、そのほとんどは歴史的な情報源で描かれています。しかし、歴史的記録の解釈は決定的ではないかもしれず、古代DNA研究には、記録にある事象の人口統計学的影響をよりよく理解するのに有益な手法となる可能性があります。じっさい、この分野の焦点はより最近の歴史に移り始めており、鉄器時代から現代までのヨーロッパと近東の遺伝的歴史を扱う研究が増加しています。

 ヨーロッパ南西部では、鉄器時代のイベリア半島人が、先行する青銅器時代にヨーロッパ全域に拡大した草原地帯関連系統を有するヨーロッパ中央部および北部集団から、引き続き遺伝子移入を受けていました。これは、大きな社会文化的変容の期間で、人口統計学的転換を伴っており、究極的にはヤムナヤ(Yamnaya)文化草原地帯牧畜民と関連する集団はまずヨーロッパ東部および中央部で、後にはヨーロッパ西部で、在来集団とのかなりの混合を通じて、大きな影響を残しました(関連記事)。侵入してくる草原地帯集団は、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの導入と関連しており、鉄器時代イベリア半島の非インド・ヨーロッパ語族地域もまた、この遺伝子流動の影響を受け、過去と現在の言語境界が明確な系統区分と必ずしも相関しないことを示します(関連記事)。

 ヨーロッパ北東部では、最近の研究により、ウラル語族現代人に特徴的なシベリア人関連系統の痕跡が、フェノスカンジアに遅くとも3500年前頃、バルト海地域東部には2500年前頃に到達していた、と明らかになりました(関連記事)。ポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)は、鉄器時代にはスキタイ人に支配されており、スキタイ人は広範な地域で文化要素を共有するさまざまな遊牧民部族族の連合です。これらの古代集団からのゲノムデータにより、スキタイ関連個体群は遺伝的に均質な集団ではない、と明らかになりました(関連記事)。スキタイ人は後期青銅器時代草原地帯牧畜民およびアジア東部集団と関連する系統のさまざまな割合でモデル化できます。

 レヴァントでは、遺伝子流動の兆候が鉄器時代とローマ期の個体群で検出されました。これらの個体群は、青銅器時代および現代の集団と全体的には遺伝的継続性を有するにも関わらず、おそらくは早期の歴史的事象と関連するヨーロッパ人関連構成をわずかに示します(関連記事1および関連記事2)。

 古代DNA研究で注目を集め始めている大きな事象は、紀元前三千年紀のギリシア人とフェニキア人の拡大です。これらの文化は長距離海上ネットワークの確立を通じて地中海沿岸に交易所を設けましたが、在来集団との統合の程度や、後の集団への遺伝的寄与といった重要な問題はさほど理解されていません。スペイン北東部のギリシア植民地の24個体のゲノム規模研究では、遺伝的に異なる2集団が報告されており、一方は在来のイベリア半島集団と、もう一方は同時代のギリシア集団との遺伝的類似性が指摘され、移民の継続的到来もしくは在来集団との限定的な交雑が示唆されます(関連記事)。

 スペインのイビサ島とイタリアのサルデーニャ島のフェニキア・カルタゴ文化個体群は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析(関連記事)とゲノム規模分析(関連記事)によって、遺伝的に先住集団とは異なるところがあり、在来集団からの多様な割合の遺伝的寄与とともに、地中海東部関連系統およびアフリカ北部関連系統を有する、と明らかになっています。同様のゲノム規模データの痕跡が、イベリア半島南部で少なくともローマ期には観察されていますが、より早期の同地域のフェニキア・カルタゴ文化関連個体群にさかのぼることができるかもしれず(関連記事)、これらの文化と関連した人類の移動が、長期間持続する遺伝的影響を地中海の一部集団に残した、と示唆されます(関連記事)。

 ローマは共和政確立後、ユーラシア西部で最大かつ最強の都市となりました。最近の研究では、帝政期のローマの成長は、地中海東部からの移民の影響を受けており、西方からの遺伝的影響の証拠はほとんどなかった、と明らかになっています(関連記事)。1500〜1000年前頃となる中世前期には、文献に西ローマ帝国の支配地だった地域における「蛮族」集団の拡大が見え、しばしば大移動期とされます。西ゴートやランゴバルド(関連記事)やバイエルン(関連記事)やアレマン(関連記事)関連の墓地の被葬者の遺伝的構成に関する研究で一貫して明らかなのは、大規模な集団間の不均質性で、ヨーロッパ南部起源よりもむしろ、高頻度でおもにヨーロッパ中央部および北部関連系統の個体群が示されています。同様に複雑な状況はヴァイキングの拡大と関連した集団のゲノム分析でも示されるようになっており、1200〜900年前頃となるヴァイキングの時代とその前には、スカンジナビア半島における人類集団の出入が文献に見えますが、それが確証されました(関連記事)。


●小地域の研究

 人類の古代DNA研究の新しい重要な動向は遺跡固有の分析で、古代社会の構造を解明するために学際的手法が用いられています。大規模な研究では複数のゲノムが同じ遺跡から得られ、密接に関連した個体群(たとえば、2〜3親等程度)がしばしば見つかっています。これまで、そうした親族関係にある個体群は一般的に、集団遺伝分析から除外されていました。この手法は統計的検定で関連性バイアスを回避するのに適していますが、これら近親者の関係を調べることで、対象集団に関して多くの追加の情報が得られます。こうした研究には学際的手法が必要で、ゲノム・同位体・放射性炭素年代・形態・物質(考古学)のデータが統合されることで、集団内の社会文化的動態の理解を最大化します。

 そうした古代DNA分析に基づいて社会的構造を検証した研究の最初の事例が、装飾品など豪華な副葬品で有名なロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡です(関連記事)。スンギール遺跡の34000年前頃の4個体は遺伝的に密接な関係にない、と明らかになりました。さらに、有効人口規模の減少にも関わらず、近親交配の水準が低いことから、多くの現代狩猟採集民集団と同様に同族婚が避けられていた、と示唆されます。

 後の時代の集団では、複数の新石器時代と青銅器時代の遺跡で、遺跡固有の古代DNA研究により徹底的な調査が行なわれました。その一例は、ポーランドの球状アンフォラ(Globular Amphora)文化関連墓地です(関連記事)。この墓地の全被葬者には暴力的な死の痕跡が見られ、墓地内の4核家族を伴う拡大家族を表しています。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)の高い多様性とは対照的に、Y染色体ハプログループ(YHg)の多様性が低い場合には、父方居住体系と解釈されています。

 アイルランドやイギリスやスウェーデン(関連記事)やチェコやスイス(関連記事)の新石器時代の巨石埋葬遺跡文でも、社会構造が調査されました。一般的な傾向として、女性よりも男性の方が被葬者は多く、とくにブリテン島とアイルランド島とスイスの巨石墓でその傾向が見られます。さらに、YHgは経時的に維持されており、これらの巨石墓地が父系社会と関連している、と改めて示唆されました。興味深いことに、同時代の異なる遺跡に埋葬された個体群間の密接な近縁関係の事例も明らかになっています。これは、アイルランドの2ヶ所の巨石墓、エストニアの石棺墓、イングランドの鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化の3ヶ所の遺跡で確認されており、これら複雑な埋葬構造が、選択された集団のために建てられた、と示唆されます。

 考古遺伝学的研究はまた、同位体分析や放射性炭素年代測定と効率的に組わせることができ、その事例として、後期新石器時代から中期青銅器時代のドイツ南部のアウグスブルクに近い地域に焦点を当てたものがあります(関連記事1および関連記事2)。中期青銅器時代のドイツ南部では、100個体以上のゲノム比較から、関連していな個体群よりも中核的家族の方が副葬品は多く、副葬品と親族関係との間に正の相関があると明らかになり、社会的不平等の証拠が提示されました。さらに、複数世帯が同じ遺跡に同じ家系で最大5世代にわたって埋葬されており、一般的には女性外婚制と父方居住により特徴づけられます。

 中世前期に関しては、上述のランゴバルドとアレマンとバイエルンという3ヶ所の小地域研究で、親族関係と社会構造が取り上げられています。ランゴバルドに関する研究(関連記事)では63個体が調査され、ハンガリーも含むパンノニアとイタリア北部のピエモンテ州の2ヶ所のランゴバルド人遺跡間および内部の比較が行なわれました。両遺跡の個体群は生物学的親族の周囲に葬られ、遺伝的にはヨーロッパ南部系統とヨーロッパ中央部および北部系統の割合はさまざまで、ヨーロッパ中央部および北部系統は墓地の豊富な副葬品と正の相関を示します。

 ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州のアレマン関連墓地は、性的な偏りのある埋葬遺跡を表しており、成人も幼児も男性のみで、戦士階級集団の可能性があります(関連記事)。さらに、このうち5個体は異なる3文化の副葬品と関連しているにも関わらず、父系では関連しています。ドイツ南部のバイエルンの6ヶ所の遺跡では紀元後500年頃の36人のゲノムが分析され、男性は現代の同地域集団と類似しているのに対して、女性は遺伝的異質性が高い、と明らかになりました(関連記事)。興味深いことに、細長い頭蓋骨を有するこれらの女性は、おそらく究極的にはヨーロッパ南東部起源です。

 まとめると、既知の学際的な小地域研究は、複数の証拠を通じて、ヨーロッパの過去の社会の埋葬が、しばしば父系的体系で組織されていると示唆するものの、他の地域と期間も対象とする将来の研究は、ユーラシア西部における変化する社会文化的動態のよりよい理解を、間違いなく提供するでしょう。


●まとめ

 本論文は、現在注目を集めている3分野を強調することで、ヨーロッパと近東の人類古代DNA分野の可能な研究方向性を検討しました。この発展を可能にするためには、ひじょうに分解されたDNAの分離と配列の新たな分子生物学的手法を開発する必要があります。それにより、追加の狩猟採集民遺骸やより困難な環境からのゲノムデータを回収できます。

 一方、ユーラシア西部集団間の遺伝的分化は広範な混合のために時代が降ると顕著に減少することが観察されており(関連記事)、伝統的なアレル(対立遺伝子)頻度に基づく手法ではしばしば検出困難な、微妙な遺伝的パターンをもたらしました。これは、歴史時代における増加する集団内の遺伝的異質性とともに、古代DNAに合わせた、より大規模な標本群の使用と、より高解像度の分析手法の開発を要求します。詳細で場合によっては自動化された血統復元を通じての地域の歴史調査の後には、学際的枠組み内の世界的傾向を識別できるよう、時空間を通じて社会的構造を比較するために、再度俯瞰する必要があるでしょう。


 本論文は、近年のユーラシア西部における古代DNA研究の進展を整理するとともに、新たな研究動向と今後の方針をも提示しており、たいへん有益だと思います。ユーラシア西部、とくにヨーロッパの古代DNA研究は他地域よりもずっと進展しているため、本論文で言及された論文のうち当ブログで取り上げたものも少なくありませんが、未読の論文も多く、既読の論文の内容を改めて整理できたとともに、新たな知見も多く得られました。古代DNA研究の進展は目覚ましいので、頻繁に本論文のような概説を読んでいく必要がある、と改めて思ったものです。

 本論文の提示した古代DNA研究の新たな動向は、小地域、場合によっては1遺跡での学際的な研究です。DNA分析と、同位体分析や放射性炭素年代測定や遺物分析(考古学)や遺骸分析(形態学)を組み合わせることにより、当時の社会構造が浮き彫りにされていきます。これは歴史時代にも有効な手法で、文献を補完できます。歴史学でも、今後は古代DNA研究がさらに重視されるようになっていくでしょう。日本人の私としては、日本列島でもそうした学際的研究が進展するよう、期待しています。また本論文は、そうした詳細な研究の蓄積の後には、改めて俯瞰していく必要があることも指摘しています。どの分野でも、専門化・蛸壺化が指摘されて久しく、専門的で詳細な研究の蓄積は基礎としてたいへん重要ではあるものの、広い視点でそれらを統合する必要があることも確かだと思います。


参考文献:
Olalde l, and Posth C.(2020): African population history: an ancient DNA perspective. Current Opinion in Genetics & Development, 62, 36-43.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2020.05.021


https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html

3. 2020年9月01日 11:15:28 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[11] 報告
雑記帳 2020年05月24日
ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係に関する研究(Nikitin et al., 2019)が公表されました。線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)は、ヨーロッパ中央部の新石器時代の始まりにおいて重要な役割を果たしました。文化的・経済的・遺伝的に、LBKは究極的にはアナトリア半島西部に起源がありますが、在来のヨーロッパ中石器時代狩猟採集民社会の明確な特徴も示します。LBKの起源に関しては、いくつかのモデルが長年にわたって提案されてきました。在来モデルでは、LBKはアジア西部の新石器時代一括要素への適応を通じて、在来の中石器時代狩猟採集民集団により、境界での接触および文化的拡散を通じて確立された、と示唆されます。

 統合モデルでは、LBKの形成は植民化・境界移動および接触のようなメカニズムを通じての、中石器時代狩猟採集民の農耕牧畜生活様式への統合として説明されます。このモデルでは、スタルチェヴォ・ケレス・クリシュ(Starčevo-Körös-Criş)文化(SKC)と関連する小集団、おそらくはヨーロッパにおけるLBKの先行者が、祖先の大半がアナトリア半島から早期に到来したバルカンの故地を離れ、北西部へと新たな領域に定着した、と想定されます。在来の中石器時代集団との接触および生産物の交換は、狩猟採集民の農耕民共同体への同化をもたらし、そこでは農耕慣行が採用されました。そうした相互作用の証拠は、明確なSKC関連墓地のあるハンガリー北東部のティスザスゼレス・ドマハザ(Tiszaszőlős-Domaháza)遺跡に存在し、ほぼ狩猟採集民の遺伝的系統の個体群の埋葬を含みます。

 移民モデルでは、中石器時代ヨーロッパ中央部の低人口密度地域が、SKC文化と関連する開拓者の農耕牧畜集団に取って代わられ、しだいに在来の狩猟採集民集団は撤退させられていき、その狩猟採集民は到来してきたスタルチェヴォ移住民に顕著な影響を与えなかった、と想定されます。このモデルでは、在来集団の物質文化特徴の組み込みなしに、新たな到来者たちはその祖先的物質文化を新たに定着した領域で複製した、と想定されます。新たな環境と資源への技術革新と適応に起因して、いくつかの変異的文化が生まれ、石器や土器や建築物質技術において変化が見られます。同時に、装飾的デザインのような象徴的な体系は変化ないままでした。このモデルは1950年代末に出現し、20世紀後半に広く支持されました。

 現在まで、古代DNA研究により、新石器時代ヨーロッパ農耕民集団は、おもにアナトリア半島中央部および西部の新石器時代農耕民(ANF)の遺伝的子孫と示されてきました。それらの遺伝的痕跡は、在来のヨーロッパ中央部の中石器時代狩猟採集民(WHG)とは、ミトコンドリアDNA(mtDNA)やY染色体のような単系統でもゲノム規模でも異なります。それにも関わらず、新たな到来者たちが文化的および遺伝的に在来の狩猟採集民とどの程度相互作用したのか、不明確なままです。つまり、統合主義もしくは移行主義のモデルがどの程度正確なのか、不明です。

 遺伝的に、新石器時代ヨーロッパ中央部農耕民はWHG集団の遺伝的祖先特徴をわずかしか有していませんが、アナトリア半島農耕民のヨーロッパ新石器時代の子孫の遺伝子プールにおけるWHG混合の程度と時期は、ヨーロッパ中央部全域で様々です。ヨーロッパ新石器時代農耕民におけるWHG系統の量は、現在のハンガリーとドイツと他のヨーロッパ地域において、新石器時代を通じて増加する傾向にありますが(関連記事)、その混合の最初の程度は未解決のままです。それは部分的には、新石器時代農耕民移住民の最初の段階と同時代の人類遺骸が少ないためです。

 オーストリアのウィーン南方に位置する、ブルン複合遺跡(the Brunn am Gebirge, Wolfholz archaeological complex)の一部であるブルン2(Brunn 2)遺跡は、オーストリアで最古の新石器時代遺跡で、ヨーロッパ中央部でも最古級となります。ブルン2遺跡はLBKの最初の段階に区分され、形成期と呼ばれています。放射性炭素年代測定法では、ブルン2遺跡の較正年代は紀元前5670〜紀元前5350年前です。ブルン2遺跡形成期のおもな特徴は、洗練された土器の欠如と明確なスタルチェヴォ文化の特徴を有する粗放な土器の使用です。ヨーロッパ最初の農耕民の文化的属性の形成におけるアナトリア半島からの移民の主導的役割は、ブルン2遺跡の人工物の比較類型学的分析で明らかです。

 ブルン2遺跡では、土器や石器といった豊富な人工物とともに人形や笛などいくつかの象徴的遺物が発見されており、儀式活動が行なわれた大規模なLBK共同体の「中央集落」の一部だった、と示唆されています。ブルン2遺跡では4人の埋葬が確認されています。この4人の被葬者は、個体1(I6912)・2(I6913)・3(I6914)・4(I6915)です。4人全員の歯はひじょうに摩耗しており、おもに植物性食料を摂取していた、と示唆されます。放射性炭素年代測定法により、この4人の年代はブルン複合遺跡の最初の段階と確認され、最初のヨーロッパ中央部新石器時代農耕民となります。本論文は、これら4人の遺伝子と同位体を分析し、その起源と食性と移動を調査します。

 ブルン2遺跡の4人のうち、3人(I6912・I6913・I6914)で有用な遺伝的データが得られました。この3人は男性で、mtDNAハプログループ(mtHg)は、I6912がJ1、I6913がU5a1、I6914がK1b1aです。Y染色体ハプログループ(YHg)は、I6912がBT、I6913がCT、I6914がG2a2a1aです。I6912とI6913は、網羅率が低いため、さらに詳細に区分できませんでした。全ゲノム配列からは一塩基多型データが得られました。核DNAの網羅率は、I6912が0.035倍、I6913が0.006倍、I6914が0.497倍です。

 主成分分析では、I6912とI6914がANFおよびそれと密接に関連するヨーロッパ新石器時代農耕民(ENF)と集団化する一方で、I6913はWHGに最も近いものの、ENFとANFにより近づいています。ただ、I6912とI6913、とくに後者の網羅率は低いので、主成分分析における位置づけには注意する必要がある、と本論文は指摘します。また本論文はf統計を使用し、WHG関連系統の割合を、I6912は12±3%、I6913は57±8%、I6914は1%未満と推定しています。さらに、I6912のWHG系統は、ヨーロッパ南東部の狩猟採集民よりもヨーロッパ西部および中央部の狩猟採集民の方に近い、と推定されました。I6913では、この区別が正確にはできませんでした。I6914はANFおよびヨーロッパ南東部のスタルチェヴォ関連個体群とほぼ対称的に関連している一方で、ヨーロッパ中央部の他のLBK集団と過剰にアレル(対立遺伝子)を共有しています。I6914と他のLBK個体群とのI6912およびI6913と比較しての高い遺伝的類似性は、これまでに研究されているアナトリア半島およびヨーロッパ南東部の農耕民とは共有されないわずかな遺伝的浮動を経験した集団出身である、と示唆します。

 安定同位体(炭素13および窒素15)の有用なデータが得られたのはI6914と I6915です。安定同位体分析では、ブルン2遺跡個体群はアナトリア半島およびヨーロッパの新石器時代農耕民の範囲内に収まり、C3植物もしくはそれを食べた草食動物におもに食資源を依存していた、と推定されます。歯のエナメル質のストロンチウム同位体分析では、幼児期の場所が推定されます。ブルン2遺跡個体群では、I6912はブルン2遺跡一帯の出身で、I6913は外部出身と推定されます。同位体分析では、窒素15の値から、より新しい個体で高くなっている、と示されます。これは、ヨーロッパ中央部の初期農耕民ではアナトリア半島の栽培植物が気候の違いから不作となり、農作物よりも動物性タンパク質に依存するようになったことを示しているかもしれません。あるいは、家畜の増加によるものである可能性もあります。

 ヨーロッパ中央部の早期新石器時代の遺骸は比較的豊富ですが、同時期の狩猟採集民の遺骸はほとんど知られていないので、とくにヨーロッパ新石器化の最初期段階における、狩猟採集民の生活様式や拡散してきたアナトリア半島起源の農耕民との統合に関する理解は難しくなっています。上述のように、この時期のヨーロッパにおける拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との混合は限定的と推測されていますが、農耕民から狩猟採集民への生産物の流通が報告されてきており、両者の交流は少なくとも一定以上存在した、と考えられます。

 ブルン2遺跡個体群の生物考古学的分析は、ヨーロッパ中央部における早期ENFの生活史の推測を可能とし、アナトリア半島起源の移住してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の最初期の相互作用の証拠を提示します。ブルン2遺跡の3人のmtHgのうち2系統(J1とK1b1a)は、近東の新石器時代個体群とヨーロッパにおけるその子孫たちで一般的に見られるものです。一方、I6913のmtHg-U5a1などU5は、ヨーロッパの狩猟採集民に特徴的と考えられてきましたが、最近、アナトリア半島中央部のチャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡の個体でU5b2の個体が確認されています(関連記事)。I6914はYHg-G2a2a1aで、ANFおよびENF集団に特徴的なG2a系統です。カルパチア盆地とヨーロッパ南東部の早期新石器時代遺跡のLBK関連遺骸の以前の研究では、YHg-G2aは早期ENFで優勢とされています。同時期のmtHgの高い多様性は、早期LBK共同体におけるYHgの減少を示唆します。しかし、LBK集団における性比偏りの証拠は見つかっていません(関連記事)。

 I6914は遺伝的にはほぼANF関連系統となり、LBKやSKCを含むENF関連個体のほぼ全員と一致します。WHG関連系統は、I6914にはほとんど見られませんが、I6912とI6913では確認されます。アナトリア半島起源のANF関連系統の個体群がヨーロッパ南東部を経てヨーロッパ中央部に拡散する過程で、ヨーロッパ在来のWHG関連系統個体群と混合したと考えられますが、その年代は特定できなかったので、それがブルン2遺跡一帯とヨーロッパ中央部到来前のどちらで起きたのか、不明です。あるいは、ブルン2遺跡の移民が、ブルン2遺跡よりも600年ほど早くアナトリア半島からバルカン半島に移住し、WHG関連系統個体群を取り込んだ集団と交流したか、その子孫だった可能性も考えられます。しかし、I6913ではWHG関連系統の割合が高く、それよりは低いものの有意にWHG関連系統を有するI6912では、ヨーロッパ南東部よりもヨーロッパ西部および中央部の狩猟採集民の方に近いWHG関連系統と推定されているので、ヨーロッパ中央部に到達してからの最近の混合である可能性が高そうです。

 ブルン2遺跡の石器群からは、早期ENFと在来の狩猟採集民との間の活発な相互作用が示唆されます。ブルン複合遺跡の15000個におよぶ石器群は、新石器時代農耕民が在来の狩猟採集民との交易のために狩猟用として製作した、と本論文は推測しています。早期LBK地域では暴力の証拠が欠如しており、LBK農耕民と在来の狩猟採集民との間の関係が悪くなかったことを示唆します。上述のようにI6913は外部出身と考えられますが、I6913の墓の石器は形成期LBKの集落が発見されたハンガリーのバラトン湖(Lake Balaton)の石で製作されたので、I6913はバラトン湖周辺地域の出身かもしれません。また本論文は、ブルン2遺跡の石器の製作には狩猟採集民社会出身者が関わっている可能性を指摘しており、そうだとすると、I6913における高い割合のWHG関連系統を説明できるかもしれません。

 ブルン2遺跡は、ヨーロッパ中央部における最初期新石器時代農耕民が、在来の狩猟採集民と文化的・遺伝的にどのような関係を築いたのか、検証するための格好の事例を提供します。ブルン2遺跡の個体群は、ANFとWHGの混合の第一世代だった可能性もあり、ヨーロッパ中央部の最初期新石器時代において、外来の農耕民集団と在来の狩猟採集民との間で、後期新石器時代程ではないとしても、一定以上混合が進んでいたことを示唆します。本論文は、ヨーロッパにおける新石器化に関して、アナトリア半島からの農耕民の移住が関わっており、さまざまな程度で在来集団と混合していった、と指摘します。この在来集団には、狩猟採集民だけではなく、より早期にバルカン半島に進出していた農耕民も含まれるかもしれません。今後の課題は、ヨーロッパにおけるANFと在来の狩猟採集民との関係をより広範に調査することです。


参考文献:
Nikitin AG. et al.(2019): Interactions between earliest Linearbandkeramik farmers and central European hunter gatherers at the dawn of European Neolithization. Scientific Reports, 9, 19544.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-56029-2

https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html

4. 2020年9月01日 11:21:06 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[12] 報告
雑記帳 2020年07月12日
ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_14.html


 ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係についての研究(Betti et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。近東では完新世初期に、ヒトの生存戦略が狩猟採集から農耕牧畜への依存度の高い生計へと大きく変わりました。この新石器時代の新たな生活様式により、人口密度の増加や長期的な定住など社会が大きく変わりました。紀元前7000年頃、農耕はヨーロッパへと拡大し、まず近東に近い南東部で出現しました。ヨーロッパにおける農耕拡大は、おおむね南東から北西へと進み、狩猟採集民による農耕採用というよりは、近東起源の農耕民集団のヨーロッパへの急速な拡散によるものでした。新石器時代ヨーロッパにおいて、農耕民と在来の狩猟採集民とは遺伝的に大きく異なり、農耕民はアナトリア半島の初期農耕民と遺伝的によく似ています。

 また、考古学的データの蓄積とともに、ヨーロッパにおける農耕拡大の速度に大きな地域差があることも明らかになってきました。放射性炭素年代測定法による結果から、とくに北海とバルト海に近づくと、農耕拡大が著しく減速する、と示唆されています。これに関しては、近東から一括して導入された作物がヨーロッパ北部の寒冷湿潤な気候では上手く育たなかった、といった説明が提示されています。また新石器時代において、アジア南西部やヨーロッパ南東部と比較して、ヨーロッパ中央部および北西部の穀類と豆類の種の多様性は顕著に低い、と報告されています。これに関しては文化的要因が指摘されていますが、気候条件も一因と考えられています。

 この減速の代替的な説明は、ヨーロッパ北部では中央部もしくは南部と比較して、狩猟採集民の人口密度が高かった、というものです。その要因として、ヨーロッパ北部沿岸環境では狩猟・漁撈・採集の信頼性が高く生産的だったから、と推測されています。在来の大規模な狩猟採集民共同体の存在は、農耕民集団の拡散を妨げたかもしれない、というわけです。また、ヨーロッパに農耕が拡大した後、南部と中央部で普及様式が変わり、在来の狩猟採集民集団が次第に重要な役割を果たようなす文化変容が伴った、との見解も提示されています。

 本論文は、ヨーロッパ全域の農耕牧畜の最初の到来年代の大規模なデータベースの作成と、古気候復元と関連する速度変化の分析により、ヨーロッパにおける農耕拡大の速度を促進する気候の役割を検証します。また本論文は、観察された気候要因パターンの文脈において、早期農耕民と在来の狩猟採集民との間の相互作用を定量化するため、古代DNAデータを合成して再分析します。

 本論文は、ヨーロッパ全域の1448ヶ所の新石器時代遺跡のデータベースを分析しました。その結果、拡大は均一ではなく、いくつかの主要軸に沿って進んだ、と明らかになりました。その主要軸とは、地中海沿岸を西進してイベリア半島へと到達する経路(地中海軸)、現在のドイツなどヨーロッパ中央部へと北西方向へ進みブリテン島へと到達する経路(中央軸)、ヨーロッパ中央部を北進してスカンジナビア半島へと到達する経路(スカンジナビア軸)、北東方向へ進みヨーロッパ東部から現在のロシア西北端へと到達する経路(北東軸)です。各軸に沿った経路では、当初は急速に拡張し、隣接地域への拡大は遅くなる傾向が見られます。当初の急速な拡大に続き、中央軸では紀元前6200年頃、スカンジナビア軸では紀元前5400年頃、北東軸では紀元前5700年頃に著しい拡大の減速が見られます。中央軸の減速は大西洋沿岸に到達する前に起きているので、イギリス海峡を渡る必要性の結果ではありません。一方、航海を含んでいただろう地中海軸では、イベリア半島大西洋沿岸に到達するまで減速は見られません。

 この農耕拡大速度データと気候データを組み合わせると、農耕拡大速度は5度に設定された有効積算温度(GDD5)と明確に対推しており、GDD5が2000未満で減速が発生しました。また夏の平均月間気温も、GDD5ほどではありませんが、減速と対応しており、16度を下回ると減速が発生します。対照的に、冬の平均気温や最も乾燥した月の降水量や年間平均気温などは、減速とは関連していませんでした。これらの知見は、減速の要因が、近東で最初に栽培化された種には不適切な気候条件の地域へと到達と関連している、という仮説を裏づけます。これは、地中海軸において減速が見られないことにも支持されます。

 次に本論文は、ヨーロッパにおいて近東起源の外来農耕民集団と在来の狩猟採集民集団との間の関係が、両集団間での混合の増加に伴って変化したのかどうか、調べました。公開された295人のヨーロッパ新石器時代個体のゲノム規模データから、狩猟採集民系統の相対的寄与が定量化されました。新石器時代後半に起きた狩猟採集民系統の漸進的な増加を考慮しても、GDD5の減少に伴って狩猟採集民系統の顕著な増加があり、GDD5が1700未満の地域でとくに目立ちます。農耕拡大の遅い地域は、外来の農耕民と在来の狩猟採集民との間のより高い遺伝的混合でも特徴づけられます。また、農耕拡大の減速とそれに伴う農耕民と狩猟採集民との混合の増加が、狩猟採集民の人口密度の高さに起因するのか、調べられました。人口密度は遺跡密度で代用され、遺跡密度と混合増加との間に明確な関連性は見られませんでしたが、標本抽出の点での偏りも想定され、じっさいの人口密度を反映していないかもしれません。

 本論文の結果は以前の諸研究と合致しており、ヨーロッパにおける農耕拡大は北部で著しく減速し、農耕拡大は連続的な過程ではなくさまざまな速度で進んでいった、と示されます。本論文はこの減速の明確な仕組みを提供し、それは気候条件、より具体的にはGDD5の低下で、つまりは新石器時代の作物の成長における夏の重要性です。その適合度が低いと農耕拡大は減速する、というわけです。ヨーロッパ北部の気候条件は近東とは大きく異なるので、近東起源の作物の栽培が制約されました。農耕がヨーロッパにおいて中央部と北部に拡大する過程で、作物の種類が減少したことも先行研究で指摘されています。好みなど文化的要因だけで、ヨーロッパにおける農耕拡大の減速を説明するのは妥当ではない、というわけです。

 ブリテン諸島とスカンジナビア半島では紀元前4600〜紀元前4000年頃に作物栽培が確立されましたが、その後、数世紀にわたって考古学的記録から穀類が急速に減少・消滅し、それらの穀類の収量が充分ではなかったか、予測困難なために放棄された可能性を示唆します。ブリテン諸島やスカンジナビア半島の一部では、穀類の栽培が続いても、寒さや一般的なストレスにより耐性のあるオオムギへと顕著に移行していきましたが、当初ヨーロッパに導入された近東起源の穀類には、秋に播種して翌年夏に収穫するものが含まれていました。ヨーロッパ北部のような寒冷地域では、元々は秋に播種されて翌年夏に収穫されていたオオムギが、春に播種されて秋に収穫されるようになりました。ブリテン諸島では前期青銅器時代に春に播種するオオムギ品種が導入された、という可能性も指摘されています。

 ヨーロッパにおいて、外来の農耕民と在来の狩猟採集民との混合は、近東起源の穀類の栽培に適していない地域に農耕民が拡散してくると増加しました。これは、以前に指摘された、より高緯度での狩猟採集民系統の増加を説明できます。食糧生産の信頼性が低下したため、農耕民はしだいに狩猟採集に依存するようになり、在来の狩猟採集民共同体と接触して、モノや知識を交換するようになった、と考えられます。ヨーロッパにおける、農耕民と狩猟採集民との最初期かそれに近い時期の接触と考えられる事例も報告されるようになり(関連記事)、農耕民と狩猟採集民との関係の年代・地域による違いが、今後さらに解明されていくのではないか、と期待されます。

 今後の課題として本論文が重視するのは、ヨーロッパにおける農耕拡大の減速に続くその後の拡大です。この後期の農耕拡大は速く、農耕技術の改善が示唆されますが、新たな農耕拡大地域では、農耕民と狩猟採集民との間の混合が高率で続きました。これは、農耕技術が改善されても、気候条件により恵まれた地域と比較すると狩猟採集に依存しており、農耕拡大速度に関係なく、農耕民が狩猟採集民と接触したためかもしれません。この問題の解明には、本論文の対象範囲を超えたより詳細な調査が必要です。本論文と以前の研究で示された、気候条件と強く関連するヨーロッパにおける農耕拡大の顕著な減速とともに、他の期間ではより緩やかな減速の地域もある、との見解も提示されています。この緩やかな減速は、人口や社会文化的条件など、気候以外の要因も想定されます。

 本論文は、遺跡・古気候復元・古代DNAに関する情報を統合することにより、気候がヨーロッパ新石器時代における農耕拡大、および農耕民と狩猟採集民との相互作用にどのような影響を与えたのか、一貫した見通しを提示できました。この見解の重要な検証が、現時点では放射性炭素年代測定結果が少ない、さらに東方の地域における農耕拡大の詳細な分析となります。たとえば、アジア東部における農耕拡大は、ヨーロッパと比較して充分には特徴づけられていませんが、最近の古代DNA研究では、より高緯度で狩猟採集民系統が増加するという、ヨーロッパと類似したパターンが示唆されています。今後の研究でとくに興味深いのは、近東の東部山脈地帯を起源とする農耕民が拡散した地域で、そうした厳しい気候条件で栽培化された作物はアナトリア半島の作物よりも耐寒性があったかもしれず、より厳しい気候条件下での農耕拡大減速を予測できる可能性があります。


参考文献:
Betti L. et al.(2020): Climate shaped how Neolithic farmers and European hunter-gatherers interacted after a major slowdown from 6,100 BCE to 4,500 BCE. Nature Human Behaviour.
https://doi.org/10.1038/s41562-020-0897-7

https://sicambre.at.webry.info/202007/article_14.html

5. 2020年9月01日 11:32:05 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[14] 報告
2020年03月15日
ヨーロッパ東部における後期新石器時代の漸進的な遺伝的混合
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_28.html

 ヨーロッパ東部における後期新石器時代の漸進的な遺伝的混合に関する研究(Immel et al., 2020)が公表されました。ヨーロッパ東部の考古学的記録では、農耕生活様式の最初の証拠は紀元前六千年紀に現れ、その頃に、たとえば紀元前5400〜紀元前4900年頃となる線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)のようなドナウ川流域の新石器時代社会が、カルパティア山脈地域に拡大し始めました。これらの早期農耕文化に続いて、新たな社会であるククテニ・トリピリャ(Cucuteni-Trypillia)文化複合(CTC)が、現在のルーマニア東部・モルドヴァ・ウクライナ西部および中央部を含む広大な地域に出現しました。CTCは、新石器時代末期から前期青銅器時代にかけて、2000年(紀元前5100〜紀元前2800年)にわたってヨーロッパ東部で繁栄し、一般的には前期・中期・後期に区分されます。

 CTCはその地理的位置のため、紀元前5000〜紀元前3400年頃となるレンジェル(Lengyel)文化や、紀元前4000〜紀元前2800年頃となる漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker、略してFBC)や、紀元前3100〜紀元前2400年頃となる球状アンフォラ文化(Globular Amphora、略してGAC)のようないくつかの同時代文化と関係がありました。紀元前4100〜紀元前3600年頃の中期CTCには数百人もしくは数千人の居住者がいたかもしれず、巨大集落の大規模遺跡、確立した農業経済、高水準の社会組織、高度な冶金術がCTCの特徴です。しかし、その後、これらの集落はほとんど放棄されました。後期CTCの個体群には、前期青銅器時代のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団のような、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を中心とするユーラシアの広大な草原地帯に居住していた集団との相互作用の考古学的証拠があります。

 先史時代ヨーロッパ東部のCTCの重要性にも関わらず、CTCと関連する人々の遺伝的構成、近隣集団との混合の程度、もしくは連続する文化的集団との継続性の水準については、ほとんど知られていません。これは、CTC関連遺骸の顕著な不足に起因します。これまでに発見されたCTC関連ヒト遺骸はおもに後期のもので、ウクライナのヴァーテバ洞窟(Verteba Cave)と呼ばれるトリピリャ文化遺跡の遺骸のDNAのみが解析されていました。紀元前3700〜紀元前2900年頃となるヴァーテバ洞窟の8人に関するミトコンドリアDNA(mtDNA)研究は、アナトリア半島およびヨーロッパ中央部農耕民に典型的な6系統の母系を明らかにしました。そのうち2個体はmtDNAハプログループ(mtHg)U8b1で、ヨーロッパの狩猟採集民から派生したかもしれません。その後、紀元前3900〜紀元前3600年頃となるヴァーテバ洞窟の男性4人のゲノム規模分析からは、主要な新石器時代系統(80%)と小さな狩猟採集民系統(20%)が推定されています。

 本論文は、ポクロフカ5(Pocrovca V)とゴーディネスティ1(Gordinești I)という、現在のモルドバ共和国の2ヶ所の後期CTC遺跡で発掘された女性4人のゲノム規模データを提示します。内訳は、ポクロフカ5遺跡が成人3人(ポクロフカ1・2・3)、ゴーディネスティ1遺跡が推定年齢9歳の子供1人です。この女性4人の年代は紀元前3500〜紀元前3100年頃で、ヴァーテバ洞窟の男性の数百年後となります。本論文は、これら新たな標本群と既知のデータを組み合わせて、ヨーロッパ東部先史時代のこの重要な時期における集団移動と動態をより詳細に提示します。

 mtHgは、9歳のゴーディネスティ1がU4a1、20〜25歳のポクロフカ1がK1a1、35〜40歳のポクロフカ2がT2c1d1、60〜65歳のポクロフカ3がT1aです。この4人の間で親族関係は確認されませんでした。この4人には、ペスト菌や結核菌などの感染の兆候は検出されませんでした。主成分分析では、ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3が、ヴァーテバ洞窟遺跡の男性4人と密接なドイツとハンガリーのより新しい年代の鐘状ビーカー文化(Bell Beaker、略してBBC)個体群と近縁な一方で、ポクロフカ2はLBK個体群と近縁で、その次にアナトリア半島とセルビアのスタルチェヴォ(Starčevo)の新石器時代農耕民と近縁です。

 モルドバの後期CTCの女性4人は、混合モデルではアナトリア新石器時代農耕民系統が最も多く、次に狩猟採集民系統となります。また、ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3はかなりの草原地帯系統を有しています。ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3はヴァーテバ洞窟遺跡のCTC男性4人と近縁な一方で、ポクロフカ2はスタルチェヴォの個体群と系統のほとんどを共有しています。モルドバの後期CTCの女性4人は、アナトリア新石器時代農耕民系統よりもLBK系統から、また草原地帯関連系統よりもヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)系統の方から強い遺伝的影響を受けている、と推測されます。草原地帯系統関連系統のなかでは、ウクライナ中石器時代とヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)とヤムナヤ系統の影響はコーカサス狩猟採集民系統(CHG)よりも高く、この3系統の影響はほぼ同等と推定されています。ある程度明確に混合モデル化できたのはポクロフカ1で、LBK系統が41〜60%、草原地帯関連系統が8〜18%、WHG系統が29〜41%です。

 上述のように、CTCはヨーロッパ東部先史時代において重要な役割を果たしていますが、ヒト遺骸の不足に起因する古代DNA研究の停滞により、CTCに関連する人々の起源についての現在の知識はかなり限定されています。これまで、CTC個体群のゲノム規模データは、ヴァーテバ洞窟遺跡の男性4人に限定されていましたが、そこで発見されたヒト遺骸の大半は頭蓋と下顎で、死亡前後の外傷や死後の人為的痕跡が明確に示されています。一方、本論文で新たに分析された後期CTCの女性4人の遺骸には、対人暴力の痕跡は見られません。この4人が発見されたポクロフカ5遺跡とゴーディネスティ1遺跡は近接しており、ヴァーテバ洞窟遺跡からそれぞれ数百km離れています。最近、CTC大規模集落はその高い人口密度によりユーラシア全域に拡大するペスト菌系統の発祥地になった、との見解が提示されました(関連記事)。上述のように、後期CTCの4人の女性ではペスト菌感染の痕跡は検出されませんでしたが、ポクロフカ5遺跡の女性3人は、暴力の痕跡がなく、複数の埋葬地で発見されたことから、本論文は伝染病による死の可能性も指摘します。

 後期CTCの4人の女性は、ゲノム規模データから、アナトリア農耕民とLBK個体群に共通の新石器時代農耕民系統と、草原地帯関連系統と、WHG系統を示します。このうち、新石器時代農耕民系統が最大の割合(41〜60%)を示しますが、そのうちアナトリア農耕民よりもLBK個体群の方と近縁です。CTCでも、ヴァーテバ洞窟遺跡の個体群では新石器時代農耕民系統が同様に大きな割合を示しますが、むしろアナトリア農耕民起源と推測されています。CTC集団とLBK集団の遺伝的近縁性は、考古学的証拠によっても裏づけられます。CTCの経済と文化の基礎はヨーロッパのボイアン(Boian)およびスタルチェヴォ文化で見られ、LBKからさらに影響を受けた、と本論文は推測します。

 上述のように、後期CTCの女性4人では草原地帯関連系統が検出されました。草原地帯関連系統からCTC集団への遺伝子流動は、紀元前3500年頃には起きていたことになります。この頃、草原地帯ではトリピリャ関連の発見物が増加します。草原地帯関連系統は、ヨーロッパ東部紀元前2800年頃の縄目文土器文化(Corded Ware、略してCWC)の前に、草原地帯よりも西方のヨーロッパ東部に出現していたわけです。ヨーロッパ東部は、在来集団と侵入してくる草原地帯関連集団との間の古い遺伝的接触地域で、これはウクライナで発見された、紀元前4045〜紀元前3974年頃と紀元前3634〜紀元前3377年頃の2個体でも確認され、この2個体ではアナトリア新石器時代関連系統と草原地帯関連系統との混合が見られます。しかし、ウクライナのこの2人はまだ狩猟採集民の生活様式だったのに対して、後期CTCの女性4人は農耕文化生活様式でした。

 CTC集団に草原地帯関連系統をもたらした可能性のある集団として、本論文はユーラシア東部中石器時代集団を挙げています。たとえば、ウクライナの中石器時代集団やEHGですが、本論文はもっと後のヤムナヤ牧畜民集団の可能性も指摘しています。後期CTC集団と近隣の前期青銅器時代ヤムナヤ文化集団との混合は、紀元前3300〜紀元前2600年頃の考古学的記録にも見られます。ヤムナヤ文化と後期CTCとの共存期間は短いものの、両方の集落では物資交換の証拠が発見されています。考古学的および本論文の遺伝的知見からは、ヨーロッパ東部における、完全な置換ではなく、継続的な接触と漸進的な遺伝的混合と緩やかな文化的変化が想定されます。しかし、この仮説は、ヤムナヤ文化集団の騎馬民がヨーロッパ中央部に多数で征服的に移動してきた、との仮説(関連記事)と競合します。ゴーディネスティ1とポクロフカ1および3が、もっと後の青銅器時代もしくはBBC個体群と遺伝的類似性を示したことはとくに驚くべきではなく、それは異なる集団からそれぞれ独立してかなりの草原地帯関連系統が流入してきたからです。

 後期CTC個体群と同時代のFBCおよびGAC個体群との遺伝的類似性は、共通の起源および/または進行中の相互作用を示します。ヴァーテバ洞窟のmtDNA研究ではすでに、CTCとFBCの個体群間の母系での高い類似性が示されています。これは、CTCとFBCの地理的範囲が近いことで説明できます。CTCとFBCの集落遺跡は重なっており、CTCからFBCやGACへの定期的な接触および交易が考古学的に確認されています。後期CTC個体群の遺伝的構成は比較的高い多様性を示唆し、数百kmという近さを考えると驚くべきことです。本論文の知見は、ある文化内の人口動態を示し、特定の考古学的集団と関連した個体群の明らかに安定して均一な構成という概念に疑問を呈しています。考古学と古代DNA研究の政治的悪用の阻止という観点(関連記事)からも、本論文が提示した疑問は重要だと思います。


参考文献:
Immel A. et al.(2020): Gene-flow from steppe individuals into Cucuteni-Trypillia associated populations indicates long-standing contacts and gradual admixture. Scientific Reports, 10, 4253.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-61190-0

https://sicambre.at.webry.info/202003/article_28.html

6. 2020年9月01日 11:33:16 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[15] 報告
雑記帳 2020年04月23日
完新世ヨーロッパにおけるヒトの拡大と景観の変化との関連
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_34.html


 完新世ヨーロッパにおけるヒトの拡大と景観の変化との関連についての研究(Racimo et al., 2020)が報道されました。8500年前頃まで、ヨーロッパはおもに比較的低密度で暮らす狩猟採集民集団で占められていました。このヨーロッパの人口構造は、新石器時代にアナトリア半島から農耕民が到来したことで変わりました。第二のヨーロッパにおける大規模な移動は、青銅器時代初期に、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化と関連した集団が、東方からヨーロッパに到来してきたことです(関連記事)。ヤムナヤ文化と関連した集団は、西方に移動してヨーロッパ中央部および北部の縄目文土器(Corded Ware)文化と関連し、その後にヨーロッパ北西部の鐘状ビーカー(Bell Beaker)現象と関連して、家畜ウマとインド・ヨーロッパ語族祖語をもたらしたかもしれません。

 過去1万年にわたって、ヨーロッパは土地被覆構成で大きな変化を経てきましたが、新石器時代とヤムナヤ文化のヨーロッパへの移住がその変化にどの程度寄与したのか、まだ不明です。最近の花粉に基づく研究では、広葉樹林の劇的な減少が6000年前頃から現在までに起きた、と示唆されます。この森林喪失は2200年前頃から激化し、ヨーロッパ大陸全体で草原や耕作地に置換されていきました。しかし、これらの過程は全地域で均一に進行したわけではありません。たとえば、ヨーロッパ中央部では広葉樹林のかなりの減少が4000年前頃から始まりましたが、大西洋沿岸ではそのずっと前に半開植生で占められていました。一方、スカンジナビア半島南部では、森林の顕著な現象は少なくとも中世までありませんでした。より早期の狩猟採集民集団は、周囲の植物相と動物相に限定的な影響しか及ぼさなかった可能性が高いので、おそらくこれらの現象は、森林伐採や農耕・牧畜の確立を含む新たなヒトの景観利用活動により部分的に影響を受けました。気候変化パターンもまた、植生変化に影響を与えたかもしれません。さらに、植生変化は集団の拡大する新たな領域を開いたかもしれません。しかし今まで、古植生の変化を特定のヒト集団の移動と明示的に関連づける、もしくは因果的役割を仮定して、気候要因とヒトに基づく要因を区別する取り組みはほとんど行なわれていませんでした。

 本論文は、ヨーロッパ大陸全体で主要な完新世の移動が時間の経過とともにどのように展開したのか追跡し、それが植生景観の変化とどう関連しているのか、理解することを目的とします。本論文は、古代ゲノムの系統推論と地球統計学的手法を統合します。これらの手法の使用により、系統移動の詳細な時空間的地図を提供し、農耕の拡大と植生変化の関係を明らかにします。さらに、これらの移動の最前線の速度を推定し、その結果を放射性炭素年代測定された考古学的遺跡から得られた文化的拡散の復元と比較します。広葉樹林の減少と牧草地・自然草原の植生増加は、狩猟採集民系統の現象と同時に発生し、青銅器時代の草原の人々の速い移動と関連していたかもしれません。また、この期間中の気候パターンの自然変動は、これらの土地被覆変化に影響を与えた、と見出します。本論文の手法は、古代DNA研究と考古学的データセットを統合する将来の地球統計学的研究への道を開きます。

 本論文は、ヨーロッパの人類集団の遺伝的構成について、上部旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民(HG)、アナトリア半島から拡散してきた新石器時代農耕民(NEOL)、ヤムナヤ文化関連集団(YAM)の3系統の割合の推移をモデル化しました。当然、より多くの系統で詳細なモデル化は可能ですが、本論文は、ボトルネック(瓶首効果)とゴースト集団との交雑による混乱を避けるため、この3系統の推移に基づいて検証しています。NEOLは新石器時代農耕文化と、YAMはヤムナヤ関連文化と密接に関連していますが、系統と文化は常に一致しているとは限らない、と本論文は注意を喚起します。HGはヨーロッパ西部狩猟採集民系統(WHG)とほぼ対応しています。

 本論文はまず、放射性炭素年代測定法による較正年代を利用して、各系統の割合がヨーロッパにおいてどのように推移していったのか、地図化します。これにより、YAMの移動速度はNEOL(1.8km)の2倍以上と明らかになりました。次に本論文は、ヨーロッパ完新世における土地被覆構成の変化を地図化します。その結果、ヨーロッパ全土の水準においては、広葉樹林の減少と牧草地・自然草原の増加は、NEOLの到来後ではなく、YAM到来後に起きた、と明らかになりました。ただ、本論文は地域差もあることを指摘します。フランス中部では、YAMの増加と広葉樹林の減少が一致します。対照的に、ヨーロッパ南東部と南西部では、YAMが増加しても森林被覆は低水準で安定していました。これが人為的なものだとすると、地中海沿岸の農耕牧畜体系の樹木栽培の結果かもしれない、と本論文は推測します。ヨーロッパ全土の水準においては、耕作可能な土地の大幅な増加は、NEOLの到来よりずっと後の完新世後期となります。総合的に、HGと広葉樹林の割合の高さが、またYAMと牧草地・自然草原の高い割合とが相関しますが、NEOLは植生との関連が弱いか存在しない、と本論文は指摘します。

 NEOLの拡大は、放射性炭素年代測定法による年代の得られている新石器時代農耕集団遺跡の拡大とおおむね一致しており、ヨーロッパでは、中央部を北進する方向と、地中海沿岸を西進する方向に二分されます。文化区分では、これは線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化とインプレッサ・カルディウム(Impressa/Cardial Pottery)文化に相当し、両文化がおそらくは人々の移動により拡大した、との見解が支持されます。上述のように、YAMの拡大はNEOLの拡大より速く、これはウマの使用を含む多くの理由が考えられます。YAMはヤムナヤ文化および縄目文土器(Corded Ware)文化と関連した個体群に高い割合で見られ、ユーラシア草原地帯からヨーロッパへと拡散した、と推測されます。ただ、縄目文土器文化集団がウマを飼っていた証拠は限定的で、混合農業を営んでいた可能性が指摘されています。

 ヨーロッパにおける各系統と植生景観との関連では、まずHG は広葉樹林と正の相関がある一方で、YAMは広葉樹林植生と負の相関があり、草原および耕作地と正の相関があります。また、気候と土地被覆タイプの間の関連も確認されました。たとえば、気温の上昇は、低木地や牧草地および草原や耕地の増加と関連していました。上述のように、NEOLと植生の変化との強い関連は見いだされませんでした。この理由として、本論文のモデルでは効果を明確に検出するにはあまりにも小規模だったか、局地化されていたことが指摘されています。以前の研究では、少なくともヨーロッパ北西部では、新石器時代共同体がある程度は地域的な環境を変えた、と指摘されています。ヨーロッパ北部や北西部のような地域では、NEOLの増加と一致して広葉樹林がわずかに減少していますが、これはヨーロッパ全土の水準では観察されません。広葉樹林の顕著な減少はヨーロッパ西部および北西部ではずっと後に起き、YAMの増加と一致します。なお、地中海沿岸で栽培されているオリーブやクリやクルミの広葉樹林に含まれるので、これらの栽培種のある地域に関しては、本論文の森林変化を推測する能力は限定的となります。

 6000年前頃に始まる広葉樹林の減少に続いて、ヨーロッパ大陸の一部の地域で草原と攪乱地がわずかに増加します。これらの植生タイプは地中海および黒海地域において完新世初期を通じて自然に存在し、現在までかなり安定していました。対照的にヨーロッパ西部では、これらの植生はYAMが増加し始めた青銅器時代に中間水準に達し、その後も増加し続けました。ヨーロッパ南部と東部では、YAMの増加と草原および攪乱地の増加が一致しませんでした。これは、過去3000年の人口密度の劇的な増加も反映しているかもしれません。そのため土地利用に強い変化が生じ、結果として大陸全体の植生が攪乱されたかもしれない、というわけです。新石器時代と青銅器時代の人口増減も、小規模ではあるものの植生景観に影響を与えたかもしれません。本論文は、将来の研究では人口密度やヒトの活動の他の要素を組み込む必要があるかもしれない、と指摘します。ただ本論文は、遺伝的構成の変化が古代DNA研究に依存しており、それは環境や歴史的な偏りに左右されるものであることに注意を喚起しています。また上述のように、HG・NEOL・YAMの3系統でモデル化していることも本論文は指摘しています。こうして単純化したモデル化は、じっさいの複雑な移動・混合を反映しているのではなく、その近似値になる、というわけです。

 古代DNA研究と植生景観の変化を関連づけた本論文の手法はたいへん注目され、今後発展していく分野だろう、と期待されます。ただ、本論文が指摘するように、ヒトのさまざまな活動も考慮していかねばなりませんし、栽培植物が解析能力を限定的としているところもあります。また、遺伝的構成の変化は古代DNA研究に依存していますが、これは環境や歴史的な偏りに標本が左右され、ヨーロッパ全土のような広範囲での考察のさいに、偏りが生じてしまう危険性もあります。ただ、このような研究が可能なのも、ヨーロッパの古代DNA研究が他地域よりも大きく進展しているためで、この点で日本列島も含めてアジア東部が大きく遅れていることはとても否定できず、日本人の私としては残念です。今後、アジア東部、さらにはユーラシア東部での古代DNA研究の進展が期待されます。


参考文献:
Racimo F. et al.(2020): The spatiotemporal spread of human migrations during the European Holocene. PNAS, 117, 16, 8989–9000.
https://doi.org/10.1073/pnas.1920051117

https://sicambre.at.webry.info/202004/article_34.html

7. 2020年9月01日 20:23:24 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[52] 報告
雑記帳 2019年03月02日
ヨーロッパの巨石文化の拡散
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_4.html


 ヨーロッパの巨石文化の拡散に関する研究(Paulsson., 2019)が公表されました。ヨーロッパには35000点ほどの巨石遺物があります。それらは、墓や直立したものや直線的に配置されたものや環状のものや建築物(寺院)などです。こうした巨石遺物の大半は新石器時代〜銅器時代のもので、ヨーロッパ北部のバルト海や大西洋沿岸から地中海沿岸まで広範囲に分布しているにも関わらず、類似もしくは同一の構造上の特徴が見られます。本論文では、カタルーニャの支石墓(ドルメン)の写真写真が掲載されています。

 巨石文化に関しては、100年以上にわたって議論が続いてきました。19世紀後半〜1960年代頃までは、巨石文化は中東に起源があり、地中海と大西洋の沿岸を経由して拡散した、という単一起源海路拡散説が有力でした。1970年代になると、放射性炭素年代測定法により、複数地域、たとえばポルトガル・アンダルシア・ブルターニュ・イングランド南西部・デンマークなどで独立して巨石文化が出現した、という仮説が提示されました。初期の放射性炭素年代測定結果は、拡散仮説を支持しなかったからです。本論文は、巨石文化前から巨石文化期および巨石文化と同年代の非巨石文化の放射性炭素年代測定結果2410点(較正年代)を、ベイズモデリング手法で分析しました。その結果、本論文は、巨石文化の拡散には主要な3段階があった、との見解を提示しています。以下に、本論文の図5を掲載します。

画像
https://www.pnas.org/content/pnas/116/9/3460/F5.large.jpg


 巨石墓は、フランス北西部・地中海・イベリア半島の大西洋沿岸で、紀元前5千年紀後半に200〜300年以内に出現した、と推測されます。これが第1段階の拡散です。現時点では、ヨーロッパで巨石文化前の記念碑から巨石遺物への移行が見られる地域はフランス北西部だけなので、ここが巨石文化の起源地として示唆されます。カタルーニャやフランス南部やコルシカ島やサルデーニャ島といった、その他の紀元前5千年紀の初期巨石文化拡散地域では、この時代には巨石墓が例外的で、地下への埋葬が依然として一般的でした。

 その後、紀元前4千年紀の前半に巨石文化の新たな拡大が起きました。これが第2段階の拡散です。数千もの羨道墓がイベリア半島・アイルランド・イングランド・スコットランド・フランスの大西洋沿岸に建てられました。この羨道墓の分布は、海路での拡散と、これらの地域が海路で強いつながりを有していた、と示唆します。また、羨道墓の拡散は、ヨーロッパの経済および社会的変化を反映しており、埋葬儀式の急激な変化の指標になる、と指摘されています。

 紀元前4千年紀後半には、羨道墓はスカンジナビア半島へと到達します。これが第3段階の拡散です。この地域の最初期の羨道墓は、バルト海のエーランド島とゴットランド島にあります。本論文は、巨石文化の起源がフランス北西部にあり、地中海と大西洋海岸沿いに拡散し、それは年代的には連続した主要な3段階で区別される、との見解を提示しています。こうした巨石文化の拡大は、新石器時代および銅器時代社会の社会的・経済的変化と一致しており、当時の航海技術と海に関する知識はじゅうらいの推定よりもはるかに発達していた、と本論文は指摘しています。これはたいへん興味深い見解で、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Paulsson BS.(2019): Radiocarbon dates and Bayesian modeling support maritime diffusion model for megaliths in Europe. PNAS, 116, 9, 3460–3465.
https://doi.org/10.1073/pnas.1813268116

https://sicambre.at.webry.info/201903/article_4.html

8. 2020年9月01日 20:39:26 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[59] 報告
雑記帳 2018年08月18日
ヨーロッパの人類史
https://sicambre.at.webry.info/201808/article_30.html


 中期更新世〜青銅器時代までのヨーロッパの人類史を遺伝学的観点から検証した研究(Lazaridis., 2018)が公表されました。近年の遺伝学的諸研究が整理されており、たいへん有益だと思います。とくに、図はよく整理されていて分かりやすいと思います。本論文には当ブログで近年取り上げた研究が多く引用されており、それらを再度参照しつつ、読み進めていきました。また、最近刊行された『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(関連記事)と併せて読むと、さらに理解が深まると思います。私も、近いうちに同書を再読しようと考えています。

 下部旧石器時代(前期〜中期更新世)〜中部旧石器時代(中期〜後期更新世)までのヨーロッパには、現生人類(Homo sapiens)とは異なる系統のホモ属が存在していました。これらの人類の遺伝学的情報に関しては、今年(2018年)3月に一度まとめました(関連記事)。ヨーロッパで最古となる人類のDNAは、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃の人骨群から得られており、核DNAでは種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)よりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の方に近縁で、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では現生人類やネアンデルタール人よりもデニソワ人の方と近縁となります(関連記事)。本論文が対象とするのは、このSH人骨群の存在した43万年前頃以降のヨーロッパとなります。ただ本論文は、43万年前頃〜現生人類が拡散してくるまで(45000年前頃?)のヨーロッパの人類史をネアンデルタール人系統に集約させていますが、もっと複雑だった可能性が高いように思います(関連記事)。

 45000年前頃かそれ以前より、ヨーロッパには現生人類が拡散してきて、中部旧石器時代から上部旧石器時代へと移行します。ヨーロッパのネアンデルタール人は4万年前頃には絶滅したとされていますが(関連記事)、イベリア半島ではさらに3000年ほどネアンデルタール人生存の可能性が指摘されています(関連記事)。ただ、現時点では、遺伝的に明確に現代ヨーロッパ人系統とつながる最古の個体は、ヨーロッパロシアで確認された39000〜36000年前頃の個体までしかさかのぼらず(関連記事)、西ヨーロッパの35000〜34000年前頃のベルギーの個体がそれに続きます。一方、クロアチアの42000〜37000年前頃の現生人類個体は、その4〜6代前にネアンデルタール人と交雑し、現代には子孫を残していない、と考えられています(関連記事)。そのため、4万年前頃のナポリ近郊の大噴火により、ヨーロッパの現生人類とネアンデルタール人は絶滅して後続の現生人類に置換された、とも考えられますが、この大噴火がヨーロッパの初期現生人類を絶滅させたわけではない、との見解も提示されています(関連記事)。

 ベルギーの、現代ヨーロッパ人系統とつながる最初期の個体は、他の同年代の西ユーラシア人よりも多くの対立遺伝子を近い年代の東アジア人と共有しており(関連記事)、しかもmtDNAハプログループでは、ユーラシア東部やオセアニアでは高頻度で見られるものの、現代のユーラシア西部ではほとんど確認されていないM系統に分類されます。これは例外ではなく、21000年前頃となる最終氷期極大期前のヨーロッパには、他にもmtDNAハプログループMが存在していました。こうしたユーラシア東部やオセアニアとの遺伝的類似性は、グラヴェティアン(Gravettian)と関連する31000〜26000年前頃のイタリア・ベルギー・チェコの集団や、マグダレニアン(Magdalenian)と関連する19000〜15000年前頃のスペイン・フランス・ドイツ・ベルギーの集団では消滅していました。ヨーロッパの大半では15000年前頃までには、西ヨーロッパ更新世狩猟採集民集団(WHG)が優勢となり、現代の南部および北部ヨーロッパ人に遺伝的影響を残しています。WHGには、ヨーロッパの周辺地域、とくにアナトリア半島の集団との遺伝的類似性も見られます。東ヨーロッパでは、WHGと上部旧石器時代シベリア狩猟採集民との混合により、狩猟採集民集団(EHG)が形成されました。EHGは北ヨーロッパの狩猟採集民に遺伝的影響を及ぼしました。

 ヨーロッパには9000年前頃よりアナトリア半島から農耕民が拡散してきて、しだいに農耕が定着していきます。WHG系統は前期新石器時代のハンガリーや6000〜5000年前頃までのドイツではまだ強い遺伝的影響力を有していたものの、しだいにアナトリア半島からの農耕民と融合し、その独自の遺伝的構成は失われていきました。このアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民は、仮定上の存在である「基底部ユーラシア人」の遺伝的影響を受けていました。基底部ユーラシア人は、他の非アフリカ系と101000〜67000年前に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けていない、と推定されています。後期〜末期更新世を通じて、おそらくは自然選択もあり、ヨーロッパの現生人類におけるネアンデルタール人の遺伝的影響は減少していきました。そこへ、基底部ユーラシア人の遺伝的影響を受けたアナトリア半島からの農耕民がヨーロッパに拡散してきて在来のWHGやEHGと融合したので、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人の遺伝的影響はさらに低下し、現在では東アジア系現代人よりも低くなっています。基底部ユーラシア人は中東の農耕民とコーカサスの狩猟採集民に遺伝的影響を及ぼし、後にはユーラシア西部集団に強い影響力を有することになりました。

 現代ヨーロッパ人の基本的な遺伝的構成は、この新石器時代に確立した集団に、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯の遊牧民がヨーロッパに拡散してきて融合したことで成立します。銅石器時代〜青銅器時代の間の草原地帯の集団は、東ヨーロッパに8000年以上前に存在したEHGと、現代アルメニア人と関連する南方集団と、コーカサスの狩猟採集民と、イランの農耕民との混合の結果成立しました。この草原地帯の集団が騎馬遊牧民となり、5000年前頃からヨーロッパに拡散したことで、とくに中央部と北部に関しては大きな影響を及ぼした、と明らかになっています。ただ、草原地帯遊牧民のヨーロッパにおける遺伝的影響については、地域的な違いが見られる、とも指摘されています(関連記事)。この草原地帯遊牧民は、おもにヤムナヤ(Yamnaya)文化集団と考えられており、東方にも拡散して南および西アジアとヨーロッパにインド・ヨーロッパ語族を普及させた、と想定されているのですが、南および西アジアに関しては、この見解に疑問も呈されています(関連記事)。

 このように、古代DNA研究の進展によりヨーロッパの人類史に関して多くのことが解明されました。しかし、同時に多くの問題が新たに浮かび上がってきた、と本論文は指摘します。35000年前頃以降にヨーロッパに出現した現代ヨーロッパ人と遺伝的につながっている最初の人類集団はどこから到来したのか、中東集団は基底部ユーラシア人とどのよう過程を経て交雑したのか、基底部ユーラシア人系統が直接ヨーロッパに拡散しなかった理由、WHGが15000年以上前に最終氷期以前の人類と事実上置換した理由、EHGを創出することになった古代シベリア集団の西進理由、草原地帯からの移住民がヨーロッパで大きな遺伝的影響力を有するようになった理由などです。今後、こうした問題も古代DNA研究の進展により解明されるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Lazaridis I.(2018): The evolutionary history of human populations in Europe. Current Opinion in Genetics & Development, 53, 21-27.
https://doi.org/10.1016/j.gde.2018.06.007

https://sicambre.at.webry.info/201808/article_30.html

9. 2020年9月02日 07:15:30 : AUv6HyK3b2 : OW1XSExYVDc0dHc=[9] 報告
雑記帳 2018年05月11日
インド・ヨーロッパ語族の拡散の見直し
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_20.html

 おもに5500〜3500年前頃となる、内陸アジアとアナトリア半島の74人の古代ゲノムの解析結果と比較を報告した研究(Damgaard et al., 2018A)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。インド・ヨーロッパ語族の拡散については複数の仮説が提示されていますが、有力なのは、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の遊牧民集団の拡散にともない、インド・ヨーロッパ語族祖語も広範な地域で定着していった、というものです。

 この「草原仮説」においては、ヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の拡散が、ヨーロッパから西・中央・南アジアにまで及ぶ、インド・ヨーロッパ語族の広範な定着に重要な役割を果たしたのではないか、との想定もあります(関連記事)。ヤムナヤ文化集団は5000年前頃からヨーロッパへの大規模な拡散を始め、ヨーロッパに大きな遺伝的影響を残した、と推測されています(関連記事)。ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を各地に定着させ、やがて言語が多様化していったのではないか、というわけです。ヤムナヤ文化集団が初めてウマを家畜化したとの見解も提示されており、ウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などによる移動力・戦闘力の点での優位が、ヤムナヤ文化集団の広範な拡散と大きな遺伝的影響をもたらした、と考えられます。

 しかし、ウマの家畜化については議論が続いており、カザフスタン北部のボタイ(Botai)文化集団が、初めてウマを家畜化した、との見解も提示されています(関連記事)。しかし、この研究では、現代におけるボタイ文化集団の遺伝的影響は小さく、中期〜後期青銅器時代に他集団に駆逐され、置換されたと推測されています。これは、ボタイ文化の初期家畜馬は現生家畜馬に2.7%程度しか遺伝的影響を及ぼしていない、という知見(関連記事)と整合的です。ボタイ文化集団は、3人のゲノム解析結果から、ヤムナヤ文化集団とは遺伝的に近縁関係にはなく、それぞれ独自にウマを家畜化したのではないか、と推測されます。ボタイ文化集団は、近隣の集団が農耕・牧畜を採用した後も長く狩猟採集生活を維持し続けたので、孤立していたとも考えられていましたが、ウマの埋葬儀式に関しては他のアジアの文化との共通点があり、他集団との交流は一定上あったと考えられます。

 ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に拡散させた、との仮説の検証で重要なのは、インド・ヨーロッパ語族の使用が最初に確認されている、アナトリア半島を中心に繁栄した古代オリエントの強国ヒッタイトの住民と、ヤムナヤ文化集団との関係です。この研究では、アナトリア半島の住民の古代ゲノム解析の結果、古代アナトリア半島ではヤムナヤ文化集団の遺伝的影響は確認されませんでした。また、シリアの古代都市エブラ(Ebla)の記録から、インド・ヨーロッパ語族はすでにアナトリア半島で紀元前2500〜2400年前頃には用いられていたのではないか、と推測されています。この研究は、インド・ヨーロッパ語族集団はヤムナヤ文化の拡大前にアナトリア半島に到達していただろう、と指摘しています。

 中央・南アジアに関しても、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はほとんど確認されませんでした。これまで、アジアにおけるユーラシア西部集団の遺伝的影響は、ヤムナヤ文化集団の拡散の結果と考えられ来ました。しかし、この研究は、その可能性が低いと指摘し、5300年前頃にユーラシア草原地帯の南方にいたナマズガ(Namazga)文化集団が、ヤムナヤ文化集団の大移住の前に、ユーラシア西部系住民の遺伝子をアジア人集団にもたらしたのではないか、と推測しています。

 ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はヨーロッパにおいて大きかったものの、アジアではたいへん小さかったようです。もちろん、文化的影響は遺伝的影響を伴うとは限りませんが、この研究で報告されたゲノム解析結果と比較は、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に定着させ、インド・ヨーロッパ語族は各地で多様化していった、という仮説と整合的とは言えないでしょう。インド・ヨーロッパ語族の拡散に関しては、この研究のように、学際的な研究の進展が欠かせない、と言えるでしょう。その意味で、この研究の意義は大きいと思います。


参考文献:
Damgaard PB. et al.(2018A): The first horse herders and the impact of early Bronze Age steppe expansions into Asia. Science, 360, 6396, eaar7711.
http://dx.doi.org/10.1126/science.aar7711

https://sicambre.at.webry.info/201805/article_20.html

10. 2020年12月08日 16:46:44 : lLc7YEFIro : MUlJdEVVZjhSQ2c=[20] 報告
雑記帳 2020年12月08日
旧石器時代ヨーロッパの女性像の意味
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_10.html

 旧石器時代ヨーロッパの女性像の意味に関する研究(Johnson et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。狩猟採集社会では肥満は稀ですが、農耕開始前の後期更新世となる38000〜14000年前頃のヨーロッパでは、肥満の女性の小像が数十個も確認されています。これらの小像は、しばしば現実的な肥満を表しており、全裸かほぼ裸です。これらの小像は胴と性的特徴に焦点を当てており、頭部は通常顔がなく、腕は小さく足はありません。しかし、こうした特徴は技術の欠如に起因するわけではなく、フランスのブラセンプイ(Brassempouy)で発見された26000〜25000年前頃の小像では、顔の細かい特徴が表現されています。多くの小像は出産可能年齢もしくはその前後と推測され、妊娠中のように見えるものもあれば、腹部肥満もしくは臀部脂肪膨張(脂臀)を示しているものもあり、栄養過剰を示唆します。女性小像には思春期に入る頃のものもあり、中年女性のものもあります。しかし、肥満は女性の小像に限定されており、既知の男性の小像はほっそりとしています。

 肥満の小像は常に女性で、そのうちいくつかは妊娠中であるため、これらは繁殖能力もしくは美しさを表す、と以前より解釈されており、「ヴィーナス」像と一般には言われてきました。しかし、この仮説の検証は困難でした。本論文は、これら女性小像の意味が、当時の気候および環境変化と、それらに影響される栄養と生存により最もよく説明できる、と提案します。具体的には、小像は狩猟採集民バンドの生存率向上を目的としていた、という仮説です。とくに妊娠中、肥満は深刻な食料不足期の生存保障に役立ちました。本論文はこの仮説を検証するため、旧石器時代ヨーロッパの気候変動と、それが初期現生人類の栄養にどのような影響を及ぼしたのか、調べます。


●上部旧石器時代のヨーロッパにおける気候変動

 (狭義の)現生人類(Homo sapiens)のヨーロッパへの拡散は47000年前頃までさかのぼる可能性があり(関連記事)、明確な現生人類の文化と考えられている(広義の)オーリナシアン(Aurignacian)は、43000年前頃にはイベリア半島南部にまで到達し、ヨーロッパに広く拡散していました(関連記事)。東方からヨーロッパに到来したオーリナシアン集団は、ヨーロッパ北部全域の1600mの高さに及ぶ氷河のすぐ下のドナウ川沿いに移動しました。この海洋酸素同位体ステージ(MIS)3間氷期において、新たに出現した平原に分布したマンモスやウマやトナカイが初期現生人類の狩猟対象となり、夏から秋にかけては、魚やベリーやナッツなどが肉の多い食事を補いました。現生人類がヨーロッパに到達した当初、気候は穏やかでしたが、38000年前頃には気温が低下して氷床が再び発達し、新たな生存戦略が要求されるようになりました。イタリア半島やヨーロッパ南西部(現在のフランスやスペイン)に退避した人々もいましたが、オーリナシアンの担い手は34000〜26000年前頃にグラヴェティアン(Gravettian)の担い手に置換された、とも推測されています(関連記事)。

 グラヴェティアンは、オーリナシアンよりも高品質の「背付き」尖頭器により、環境悪化のなか技術的な優位性をもたらしました。グラヴェティアン集団は、ウマやトナカイの群に続いて北緯50度を超えて拡散し、季節ごとに800km移動しました。MIS2となる28000年前頃前後から、気温は4度〜8度と大幅に低下し、22000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に達しました。この頃には、最も寒い月には-10度〜-15度に達した可能性があり、降雨量が減って植物の成長期が短くなりました。こうした極端な寒冷期には、氷河の近くの一部集団は絶滅しましたが、他集団は南方の森林地帯へと移動しました。大型動物が過剰に狩られたので、人類はウサギやマーモットや鳥類など小型動物に依存していきました。

 1年のうち食料が不足する時期には人口が劇的に減少し、29000〜25000年前頃には、33000〜29000年前頃と比較して人口は1/3に減少した、との推定もあります。栄養摂取量を反映して、身長は22000年前頃までに平均7.6〜10.2cm低下しました。また、栄養ストレスを示唆する、歯の横縞(エナメル質形成不全)は、上部旧石器時代早期の16%から22000年前頃までには29%にまで増加しました。38000〜14000年前頃となるこの厳しい環境の最終氷期の24000年間に、肥満の女性小像のほとんどが作られました。そこで本論文は、小像の肥満の程度が、栄養ストレスと氷期に最大になるかもしれない、という仮説を検証しました。


●気候変動と相関する女性小像の肥満度

 枝角など寸法が制限されている素材で作られた女性小像や、未完成もしくは断片的な小像を除いて、既知の全ての女性小像のウエストとヒップおよびショルダーの比率(それぞれWH比とWS比)を測定することで肥満の程度が推定され、氷河からの距離との関係が検証されました。女性小像は、氷河の前進期(38000〜22000年前頃)または後退期(21000〜14000年前頃)、氷河に近接していた(ヨーロッパ北部およびロシア草原地帯の川沿い)か離れていた(イベリア半島やフランス南部やイタリアを含むヨーロッパ南部)かにより、4クラスタに区分されました。

 第1集団には、フランス北部とヨーロッパ中央部とロシアで発見された、氷河前進期の17体の女性小像が含まれます。第2集団には、ヨーロッパ南部で発見された、氷河前進期の5体の女性小像が含まれます。第3集団には、ロシアで発見された、氷河後退期の8体の女性小像が含まれます。第4集団には、ヨーロッパ南で発見された、氷河後退期の11体の女性小像が含まれます。氷河前進期には、氷河近く(ヨーロッパ北部および中央部とロシア)の女性小像はWH比とWS比の両方で、氷河から離れた地域(ヨーロッパ南部)の女性小像よりも大きい、と示されます。同様に、氷河前進期の女性小像は、氷河後退期(LGM後)の女性小像よりも、WH比とWS比が大きい、と示されます。個々の女性小像におけるWH比とWS比との間にも、正の相関がありました。


●考察

 ヴィーナス像とも呼ばれる旧石器時代ヨーロッパの女性小像は、人類の最初期の芸術的表現の一つです。女性小像は、その強調された性的特徴により、一般的には繁殖能力と美の象徴として、またより想像力豊かに女神として解釈されます。女性小像の顔の特徴は、とくに強調されていません。ほとんどの女性小像は長さが6〜16cmで、マンモスの牙や角や石や稀に粘土で作られました。女性小像のいくつかは、お守りとして糸を通して着用されていた、と推測されます。牙や石の女性小像の表面の輝きは、何世代にもわたって扱われてきたことを示唆します。本論文は、女性小像が、若い女性、とくに氷河の近くに住む人々のために体の理想的大きさを伝えた、と提案します。

 この仮説を検証すべく、本論文では、上部旧石器時代ヨーロッパの既知の女性小像を体系的に測定し、氷河からの距離との関係が考慮されました。その結果、氷河に近い女性小像が、氷河から遠い女性小像と比較して肥満度が大きい、と示されました。また、氷河前進期が終わって氷河後退期に入ると、肥満度が減少することも示されました。こうした知見から、人々は栄養ストレスを経験するにつれて、より肥満度の大きい女性小像を制作し、食料確保がより予測可能になると、よりほっそりした女性小像を制作した、と考えられます。

 これらの比較は、飢餓と栄養ストレスが女性小像の表現方法に直接関係していることを示唆します。体脂肪の蓄積により栄養ストレスをどのように軽減できるのか伝えることも、精神的もしくは神秘的意味合いを有していたかもしれません。出産期の女性は、繁殖の成功に必要な体重増加のために、女性小像を扱っていたのでしょう。女性小像は女性の望ましい肖像を表しており、その印象には、受胎や不安定な妊娠や出産や育児にまたがる、より健康な母子をもたらす力があります。脂肪の増加は、離乳を通じての妊娠期のエネルギー源と、育児に必要なエネルギー源の両方を提供します。

 体脂肪の増加は、氷河に近い北緯49度から北緯52度の旧石器時代ヨーロッパでは、適応的戦略だった可能性があります。肥満の促進により、小さな狩猟採集民のバンドの生存可能性が高まりました。子供を離乳させるには、子供1人あたり2回の北極圏のような冬に耐える必要があります。女性は男性よりも多くの脂肪を必要とし、その体脂肪率は、月経を支える場合は約17%、理想的な妊娠を支える場合は約22%です。食料がない場合、平均的な身体サイズの女性は、子供の出産と3ヶ月以上の母乳育児に必要なカロリーのために、16kgの脂肪を必要とします。体脂肪が少ないと無月経を引き起こす可能性があるだけではなく、母親が母乳育児の能力を失うと、新生児の死亡につながる可能性があります。

 ただ、本論文には限界もあり、測定が写真から行なわれ、円周測定を含められませんでした。さらに、女性小像全ての正確な年代が明らかになっているわけではなく、関連する発見物や考古学的背景に基づいての推測もあります。よりほっそりした女性小像への移行は、南方への移動を表しているかもしれず、とくにスペインでは、気候ストレスと関連しない、文化的変化や民族的下位集団や他の変化を表している可能性もあります。

 まとめると、上部旧石器時代ヨーロッパの環境および栄養ストレスは、肥満の女性小像の出現と相関しています。これは、ヨーロッパの狩猟採集民が、人口を減少させ、身長を低下させ、一部地域では完全な絶滅をもたらした環境ストレス要因に適応したからです。この時期に、女性小像はイデオロギー的道具として出現し、母親の繁殖能力および母親と新生児の生存率を改善するのに役立ちました。したがって、芸術の美意識は、ますます厳しくなる気候条件に順応するために、健康と生存の強調において重要な機能を有していました。


参考文献:
Johnson RJ, Lanaspa MA, and Fox JW.(2020): Upper Paleolithic Figurines Showing Women with Obesity may Represent Survival Symbols of Climatic Change. Obesity.
https://doi.org/10.1002/oby.23028

https://sicambre.at.webry.info/202012/article_10.html

11. 2021年1月24日 10:39:59 : kqBY7beTjw : V3J5dllMME5LdEk=[2] 報告
雑記帳 2021年01月24日
ヨーロッパ東部の石器時代から青銅器時代における人類集団の遺伝的変化
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_31.html


 ヨーロッパ東部の石器時代から青銅器時代における人類集団の遺伝的変化に関する研究(Saag et al., 2021)が公表されました。現在のロシア領の西部は、先史時代のいくつかの移動・変容過程の焦点でしたが、古代DNA研究ではかなり過小評価されたままです。上部旧石器時代のスンギール(Sunghir)遺跡(関連記事)やコステンキ14(Kostenki 14)遺跡(関連記事)など、ヨーロッパで最古の遺伝的に研究された個体群の一部はロシア西部に由来しますが、全体的には古代の遺伝的情報は希薄です。

 ヨーロッパ東部および北部の森林地帯への人類の移住は、紀元前一万三千年紀から紀元前九千年紀にかけての更新世末と中石器時代初めに、2回の大きな波で起きました。両方の事例では、ヨーロッパの広範な地域に拡大した文化と類似した物質文化を有する人々の集団が、移住過程に加わりました。この地域の中石器時代の居住に関しては、ブトヴォ(Butovo)やクンダ(Kunda)やヴェレティエ(Veretye)やスオムスエルヴィ(Suomusjärvi)など、いくつかの異なる考古学的文化が識別されています。居住のより古い段階では、物質文化はひじょうに類似しているので、単一の文化圏としても扱われてきました。

 しかし、紀元前九千年紀の半ばから、明確に区別された文化的違いを有する在来人類集団が、すでにこの地域に存在していました。中石器時代(農耕ではなく土器製作に基づくロシアの時代区分によると部分的に前期新石器時代)に起きた一連の小さな変化にも関わらず、それらの集団の一般的な傾向としての文化的継続性は、紀元前五千年紀の始まりまで経時的に観察され、一部の地域では紀元前四千年紀の始まりまで続き、その頃には、いわゆる櫛目文土器(Pit-Comb Ware)文化がヨーロッパの広範な地域で形成されました。ロシアのヴォルガ・オカ河間地域では、櫛目文土器とその地域的変形を有するリヤロヴォ文化(Lyalovo Culture)が報告されました。この文化圏の人々は、とくにロシアの広大な地域で区別できる狩猟採集のヴォロソヴォ文化(Volosovo Culture)に、紀元前四千年紀から紀元前三千年紀に特有の考古学的文化における一連の発展を促進した可能性があります。

 ヨーロッパの中石器時代の狩猟採集民は、その遺伝的系統に基づいて2集団に区分できます。いわゆる西部狩猟採集民集団(WHG)は、イベリア半島からバルカン半島へと拡大し、後期中石器時代にはバルト海東部まで到達しました(関連記事)。東部狩猟採集民集団(EHG)は、さらに東方からの遺伝的影響(現代のシベリア人と遺伝的につながっています)を受け、これまでロシア西部では紀元前9400〜紀元前5500年頃となる6個体が含まれます。これら6個体のうち4個体のゲノムは、ロシア北西部のカレリア(Karelia)の紀元前7500〜紀元前5000年頃の遺骸に由来し、残り2個体のゲノムはヨーロッパロシア東部のサマラ(Samara)地域の紀元前9400〜紀元前5500年頃の遺骸に由来します。

 遺伝的研究では、ヤムナヤ(Yamnaya)文化複合と関連する人々がヨーロッパ東部平原の草原地帯から拡大し、紀元前2900〜紀元前2800年頃に縄目文土器(Corded Ware)を製作し始めたヨーロッパ集団の系統にかなり寄与した、と示されてきました。本論文は簡潔化のため、埋葬慣行や時期など考古学的背景が特定の文化に関連づけられてきた個体群について言及する時には、文化名を用います。重要なのは、実際には、文化と遺伝的系統との間のつながりは決めてかかるべきではない、と強調することです。

 ヤムナヤ文化集団の移住は、それよりも数千年早いアナトリア半島初期農耕民(EF)のヨーロッパへの移住よりも2倍速いと推定されてきており、ヨーロッパ西部における広葉樹林の減少および草地・牧草地の増加と一致している、と推定されました(関連記事)。縄縄目文土器(Corded Ware)複合(CWC)は広範な地域に拡大し、東方ではタタールスタン、北方ではフィンランドの南部とスウェーデンとノルウェー、西方ではベルギーとオランダ、南方ではスイスとウクライナに達しました。その最東端の拡大であるファチャノヴォ文化(Fatyanovo Culture)は、有名なヨーロッパ東部のCWCで、ヨーロッパロシアの広範な地域に拡大し、畜産とおそらくは穀物栽培を森林地帯にもたらしました。これまで、ファチャノヴォ文化に関してはわずか14点の放射性炭素年代が刊行されており、紀元前2750〜紀元前2500(もしくは2300)年となります。文化の特徴的な埋葬習慣には、平らな土の墓に死者を安置することが含まれ、ほとんどは曲がっており、その側(男性ではおもに右側、女性では左側)には、副葬品として軸穴石製斧や燧石の道具や土器の容器が共伴します。

 ヤムナヤ文化の複雑な牧畜民は、EHGおよびコーカサス狩猟採集民(CHG)と系統を共有します。遺伝的研究で明らかになってきたのは、おもにヤムナヤ系統を有するCWC個体群は、アナトリア系統のヨーロッパEFとある程度の混合を示し、ヨーロッパ東部および北部の現代人集団と最も類似している、ということです。ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)は、現代のヨーロッパ中央部および北部において高頻度ですが、CWC個体群ではまだ低頻度で、その後すぐに急速に頻度が上昇しました(関連記事)。ヤムナヤ文化の拡大は男性に偏っていましたが(関連記事)、CWC個体群におけるアナトリア半島EF系統は、女性系統を通じてより多く得られています。

 本論文は、ヨーロッパ北東部の森林地帯における漁撈狩猟採集から食料生産への変化に伴う人口統計学的過程に光を当て、現在のロシアの西部における石器時代から青銅器時代の移行と関わる遺伝的変化を調べることが目的となります。ロシア西部からの28点の新たな放射性炭素年代が追加され、狩猟採集民とファチャノヴォ文化農耕民の遺伝的類似性が特徴づけられます。研究の一環として、完新世にヨーロッパの他地域で見られる大きな人口移動がこの地域に影響を与えたのかどうか、また与えたとしてどの程度だったのか、調べます。それは、ロシア北西部の住民の遺伝的系統は何だったのか、ファチャノヴォ文化集団はヨーロッパ東部草原地帯からの直接的な移住の結果だったのか、それともより西方のCWC集団と同様に関わるヨーロッパEF系統なのか、という問題です。さらに、考古学的証拠に示唆された、ヴォロソヴォ文化とファチャノヴォ文化の人々の間の潜在的な混合のような局地的過程に光を当てることも本論文の目的です。


●標本と考古学的背景

 現代のロシア西部とエストニアの18ヶ所の遺跡(図1)で発見された、48個体の歯根からDNAが抽出されました。DNA保存率が高かった30個体では10〜78%の内在性DNAが得られ、汚染率は3%未満でした。これらの個体のショットガン配列により、平均ゲノム網羅率0.01倍以上2個体、0.1倍以上18個体、1倍以上9個体、5倍1個体(PES001)が得られました。提示されたゲノム規模データは、3個体(WeRuHG)が石器時代(紀元前10800〜紀元前4250年頃)、26個体が青銅器時代のファチャノヴォ文化(紀元前2900〜紀元前2050年頃)、エストニアの1個体が縄目文土器文化(紀元前2850〜紀元前2500年頃)です。これらの個体のゲノムデータは、既知の古代および現代の人類集団とともに分析されました。

 放射性炭素年代測定の場合、石器時代の狩猟採集民が消費した川と湖の魚により、顕著なリザーバー効果が引き起こされるかもしれません。これは、人類の歯や骨から得られる放射性炭素年代が、実際の年代よりも数千年ではなくとも数百年古くなるかもしれません。残念ながら、特定の事例ごとにリザーバーの規模を推定するデータはまだありません。しかし、これは本論文の石器時代個体群に関して全体像を変えるものではありません。以下、本論文の図1です。
画像


●ロシア西部狩猟採集民の類似性

 まず、ロシア西部の石器時代狩猟採集民3個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体の多様性が評価されました。最古の個体(PES001)はmtDNAハプログループ(mtHg)U4で、これはヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)およびスカンジナビア半島狩猟採集民個体群で見られます。他の2個体のmtHgはT2とK1で、これは注目されます。なぜならば、農耕拡大前のヨーロッパ狩猟採集民ではmtHg-Uの頻度が群を抜いて最も高かったからです。しかし、mtHg-H11・T2も狩猟採集民個体群で見つかっており、ロシア西部2個体の系統(mtHg-T2a1b1・K1)の推定年代は、それぞれ11000±2800年前と22000±3300年前で、2個体の年代(8500〜8300年前頃と6500〜6300年前頃)に先行する可能性が高そうです。Y染色体ハプログループ(YHg)では、PES001とBER001がそれぞれR1a1b(YP1272)とQ1b1a(L54)で、両YHgともEHG個体群で以前に明らかになっています。

 次に、常染色体データを用いて、ロシア西部石器時代3個体(WeRuHG)が利用可能な古代および現代の集団と比較されました。主成分分析では、古代の個体群がユーラシア西部現代人に投影されました。主成分分析では、WeRuHGの3個体全員が、ヨーロッパ狩猟採集民勾配のEHGの端に位置する個体群とともにクラスタ化しました(図2A)。次に、ADMIXTURE分析を用いて、古代の個体群が世界規模の現代人標本に投影されました。K=3からK=18で計算されましたが、本論文はK=9について説明します。このKの水準は、最高の対数尤度値に達する10%超の実行でひじょうに類似した結果が得られる、最大の推定される遺伝的クラスタの数を有しました。分析の結果、WeRuHG個体群はEHGと最も類似しており、ほぼ、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)で最大化される構成要素(図2では青色)と、ロシア極東現代人(橙色)および古代コーカサス・イラン人(オリーブ色)で最も高頻度の構成要素のかなりの割合で構成されます(図2B)。以下、本論文の図2です。
画像

 次に、FST と外群f3およびD統計を用いて、他の関連する集団とWeRuHG の遺伝的類似性が比較されました。WeRuHG とEHGは、他の古代および現代の集団両方との遺伝的類似性において似ている、と明らかになりました(図3A)。一方、WeRuHG を後のファチャノヴォ集団と比較すると、WeRuHG は比較的より多くの遺伝的浮動を、EHG的集団、シベリア西部狩猟採集民、古代イラン人、シベリアの現代人集団と共有しているものの、ファチャノヴォ文化集団は、古代ヨーロッパおよび草原地帯集団と、近東とコーカサスとヨーロッパの現代人集団のほとんどと、より多くの遺伝的浮動を共有している、と明らかになりました(図3B)。

 より高い網羅率(5倍以上)の狩猟採集民個体PES001(紀元前10785〜10626年頃)の遺伝的類似性が、ロシアの中石器時代狩猟採集民のうちより高い網羅率の3個体、つまりPES001、紀元前6773〜紀元前5886年頃となるユヅニー・オレニ・オストロフ(Yuzhnyy Oleni Ostrov)遺跡の1個体(I0061)、紀元前9386〜紀元前9231年頃となるシデルキノ(Sidelkino)遺跡の1個体(Sidelkino)と、ヨーロッパおよびシベリアのさまざまな地域の中石器時代および旧石器時代狩猟採集民との類似性の比較による外群f3統計を用いて、さらに調べられました(図2C)。

 ロシアの中石器時代3個体全員は、それぞれ1万年以内にヨーロッパロシアもしくはシベリアに居住していた個体群と最もよく類似しており、つまり、相互、シベリア西部新石器時代集団、シベリア南部中央のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の1個体(アフォントヴァゴラ3)とです。これらに、同じ時間枠のヨーロッパ中央部の個体群が続きます。紀元前3万年以上前となる地理的に密接な旧石器時代のスンギール遺跡とコステンキ遺跡の個体群は、ヨーロッパ中央部の年代が近接した狩猟採集民よりも、ロシアの中石器時代個体群の方との共有が少なくなっています。またqpAdmを用いて、PES001 を、WHGとコーカサス狩猟採集民(CHG)もしくはシベリア南部中央のマリタ(Mal'ta)遺跡の少年(Mal' ta 1)もしくはアフォントヴァゴラ3の混合としてモデル化が試みられましたが、3モデル全てが棄却されました。以下、本論文の図3です。
画像


●ファチャノヴォ文化個体群におけるEF系統

 青銅器時代のファチャノヴォ文化個体群では、mtHgがU5・U4・U2e・H・T・W・J・K・I・N1a、YHgがR1a1a1(M417)となり、ヨーロッパの他地域のCWC個体群でも見られます。YHgを充分な深度で決定できた6個体全ては、ヨーロッパで一般的なR1a1a1b1(Z283)ではなく、現在ではアジア中央部および南部に拡大しているR1a1a1b2(Z93)です。データ不足のため、より浅い深度のYHgの個体群がYHg-R1a1a1b2(Z93)の可能性も否定されません。

 主成分分析では、ファチャノヴォ文化の個体群(およびエストニアのCWC個体)は、多くのヨーロッパの後期新石器時代〜青銅器時代(LNBA)および草原地帯の中期・後期青銅器時代個体群と、ヨーロッパ北部および東部の現代人の上部で密集します(図2A)。この古代のクラスタは、ヤムナヤ文化集団を含む草原地帯の前期・中期青銅器時代集団と比較して、アナトリア半島およびヨーロッパの初期農耕民(EF)の方へと移動しています。同じことはADMIXTURE分析でも見られ、ファチャノヴォ文化個体群はヨーロッパ中央部とスカンジナビア半島とバルト海地域東部のLNBA系統集団と最も類似しています(図2B)。これらの集団は、ヤムナヤ文化集団と同様に、WHG(青色)および古代コーカサス・イラン(オリーブ色)構成要素と、少ないロシア極東(橙色)構成要素から成ります。しかし、ファチャノヴォ文化集団を含むヨーロッパのLNBA集団は、ロシアのヤムナヤ文化集団には存在しない、アナトリア半島およびヨーロッパEF集団(薄緑色)で最高頻度の構成要素も示します。

 異なる集団のFST・外群f3統計・D統計の結果の比較により、ファチャノヴォ文化個体群の類似性が調べられ、ファチャノヴォ文化集団はヤムナヤ文化サマラ集団よりも、EF集団および近東現代人の方とより多くを共有している、と明らかになりました(図3C)。この兆候は、より少ない一塩基多型を有するデータセットの常染色体の代わりに、124万のデータセットからの常染色体もしくはX染色体を用いても見られます。ヤムナヤ文化サマラ集団とファチャノヴォ文化集団の類似性もD統計で比較され、ファチャノヴォ文化集団はヤムナヤ文化サマラ集団よりもほとんどのEF集団と有意に類似しており、同様に、ヤムナヤ文化サマラ集団は、ファチャノヴォ文化集団よりもほとんどの草原地帯集団の方と有意に類似していました。混合f3統計を用いてファチャノヴォ文化集団におけるEF系統の流入がさらに調べられ、さまざまなヤムナヤ文化集団と広範なEF集団との間の混合に関して有意な結果が得られました。さらに、ファチャノヴォ文化集団とヨーロッパ中央部CWC集団に関してf3統計とD統計の結果を比較すると、さまざまな古代人もしくは現代人集団との類似性に明確な違いはありません(図3D)。

 以前の分析では、ファチャノヴォ文化個体群の遺伝的構成は移住してきたヤムナヤ文化個体群と同時代のヨーロッパ集団との間の混合の結果と示唆されていたので、2つの補完的方法(qpAdmおよびChromoPainter/NNLS)を用いて、混合集団の適切な代理と混合割合が決定されました(図4)。サマラもしくはカルムイク(Kalmykia)のヤムナヤ文化集団と多様なEF集団を含むqpAdmモデルを検証すると、両方のヤムナヤ文化集団と最高のP値を有する2つのEF集団は、球状アンフォラ(Globular Amphora)文化とトリポリエ(Trypillia)文化です。混合割合は、ヤムナヤ文化サマラ集団(65.5%)と球状アンフォラ文化集団(34.5%)もしくはヤムナヤ文化カルムイク集団(66.9%)と球状アンフォラ文化集団(33.1%)と、ヤムナヤ文化サマラ集団(65.5%)とトリポリエ文化集団(34.5%)もしくはヤムナヤ文化カルムイク集団(69.6%)とトリポリエ文化集団(30.4%)です。この割合は、ヨーロッパ中央部およびバルト海地域のCWC集団(69〜75%のヤムナヤ文化集団と25〜31%のEF集団)と類似しています。

 ヴォロソヴォ文化狩猟採集民1個体(BER001)を「正しい」集団に追加して、ヴォロソヴォ文化集団とファチャノヴォ文化集団との間の共有される浮動があるのかどうか、これら4モデルが検証されました。これにより、この浮動なしの混合集団を有するモデルが却下されます。4モデル全ては依然として却下されず、ヴォロソヴォ文化集団の寄与はファチャノヴォ文化集団のモデル化に必要ない、と示唆されます。ChromoPainter/NNLSパイプラインを用いての系統割合の結果は、ファチャノヴォ文化集団に関してはヤムナヤ文化サマラ集団37・38%と球状アンフォラ文化集団63・62%で、ヨーロッパ中央部およびバルト海地域CWC集団に関してはヤムナヤ文化集団51〜60%とEF集団40〜49%です。両方とも他集団と比較してファチャノヴォ文化集団でEF系統の推定される割合がより高いものの、その違いはモデルでトリポリエ文化集団とのみ有意です。qpAdmは集団間の混合を計算しますが、ChromoPainter/NNLSはソースとして単一の個体群のみを用いており、結果に影響を及ぼすかもしれないことに注意が必要です。

 ヤムナヤ文化集団とEF集団との間の2方向の混合は、ファチャノヴォ文化集団の遺伝的多様性の説明に充分ですが、狩猟採集民集団が追加されたqpAdmモデルも、EHGとWeRuHGとヴォロソヴォ文化では却下されません。ファチャノヴォ文化集団は、60〜63%のヤムナヤ文化サマラ集団と33〜34%の球状アンフォラ文化集団と3〜6%の狩猟採集民集団の混合としてモデル化できます。この結果は、2〜11%の狩猟採集民系統を有するヨーロッパ中央部およびバルト海地域のCWC集団と類似していますが、ヨーロッパ中央部のCWC集団の起源としてヴォロソヴォ文化集団は除きます。以下、本論文の図4です。
画像

 DATESを用いて、ファチャノヴォ文化集団を形成するヤムナヤ文化集団とEF集団の混合が、ヤムナヤ文化サマラ集団と球状アンフォラ文化集団との組み合わせでは13±2世代前、ヤムナヤ文化サマラ集団とトリポリエ文化集団との組み合わせでは19±5世代前と推定されました。1世代25年でファチャノヴォ文化個体群の平均較正年代が紀元前2600年頃とすると、混合は紀元前3100〜紀元前2900年頃に起きたことになります。

 次に、ファチャノヴォ文化集団と他のCWC集団(ヨーロッパ中央部およびバルト海地域)との間の類似性における潜在的な違いが調べられ、1方向qpAdmモデルでは、ファチャノヴォ文化集団とヨーロッパ中央部CWC集団、もしくはヨーロッパ中央部CWC集団とバルト海地域CWC集団の同一性が却下できないので、これらの集団は相互に類似している、と明らかになりました。一方、集団内の混合割合にはかなりの変異があり、主成分分析(図2)とADMIXTUREで示され、ファチャノヴォ文化集団における球状アンフォラ文化系統が4〜47%(図4B)、他の2集団における球状アンフォラ文化系統が7〜55%を示す、個体ごとのqpAdmモデルにより確認されます。第二主成分構成(PC2軸)、もしくは個体のqpAdm系統割合および構成された放射性炭素年代を用いて、系統の変動が時間と相関するのかどうか、検証されました。その結果、ファチャノヴォ文化集団において時間と系統割合の間には相関がないものの、PC2軸を用いてのバルト海地域CWC集団と、qpAdm系統割合を用いてのヨーロッパ中央部およびバルト海地域両方のCWC集団におけるより多くのEF系統への有意な変化はある、と明らかになりました。

 さらに、ファチャノヴォ文化集団において、エストニアやポーランドやドイツのCWC個体群で以前に見られた性的に偏った混合の存在(関連記事)が確認されました。まず、常染色体とX染色体の外群f3結果が比較されました。不等分散を仮定した2標本両側検定では、EF集団の平均f3値が、X染色体ではなく常染色体に基づく狩猟採集民と草原地帯系統集団のそれよりも有意に低い、と示されました。次に、qpAdmおよび常染色体と同様に同じモデルを用いてのX染色体の混合割合が計算されました。常染色体データ(ヤムナヤ文化サマラ集団と球状アンフォラ文化集団もしくはトリポリエ文化集団)4モデルのうち2モデルのみが、X染色体の一塩基多型の利用可能な数が少ないため、有意なP値をもたらしました。信頼区間はトリポリエ文化集団ではひじょうに広かったものの、X染色体のデータは、ファチャノヴォ文化集団における40〜53%の球状アンフォラ文化系統を示し、常染色体データを用いて推定された32〜36%とは対照的です。性的に偏った混合は、ファチャノヴォ文化2個体におけるmtHg-N1aでも裏づけられます。mtHg-N1aは、線形陶器文化(Linear Pottery Culture、Linearbandkeramik、略してLBK)のEF集団では高頻度ですが、ヤムナヤ文化個体群ではこれまで見られません。また、全男性がYHg-R1a1a1(M417)で、これは草原地帯からの移住後にヨーロッパに出現します。

 最後に、READを用いて、ファチャノヴォ文化標本における密接に関連した個体が調べられました。二親等もしくはより密接な近縁関係の確認された事例はありませんが、二親等の関係は、いくつかの組み合わせでは除外できません。それは、推定の95%信頼区間が浸透の関係性の閾値の95%信頼区間と重なっているからです。


●ロシア西部における表現型に有益なアレル頻度変化

 食性(炭水化物や脂質やビタミン代謝)や免疫(病原体や自己免疫や他の疾患への反応)や色素沈着(目や髪や肌)と関連する、113個の表現型の情報をもたらす遺伝子型が推定されました。本論文と以前に刊行されたバルト海地域東部の個体群が、比較のために用いられました。それは、ロシア西部石器時代3個体(WeRuHG)、ラトビアの狩猟採集民5個体、エストニアとラトビアのCWC集団7個体、ファチャノヴォ文化集団24個体、エストニアの青銅器時代10個体、エストニアの鉄器時代6個体、イングリアの鉄器時代3個体、エストニアの中世4個体です。本論文では、色素沈着(39ヶ所の一塩基多型)、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連するMCM6遺伝子(rs4988235およびrs182549)、脂肪酸代謝と関連するFADS1-2遺伝子(rs174546T)と関連する多様体に焦点が当てられます。

 標本規模が小さいので、結果は慎重に解釈されねばなりませんが、調べられたWeRuHG個体群が、茶色の目、濃褐色から黒色の髪、中間もしくは濃い肌の色素沈着と関連するアレル(対立遺伝子)を有していた一方で、ファチャノヴォ文化個体群の約1/3は青い目および/もしくは金髪を有していました。さらに、LPと関連する2個のアレルの頻度は、WeRuHG個体群では0%、本論文の分析に基づくファチャノヴォ文化個体群では17±13%で、同じ時期のバルト海東部地域集団と類似しているものの、バルト海東部地域では後期青銅器時代までに40%と顕著に増加しました。一方、血清におけるコレステロールの増加と関連するアレル(FADS1-2遺伝子のrs174546T)は、バルト海地域東部およびロシア西部の狩猟採集民における90%から、バルト海地域東部の後期青銅器時代個体群では45%と顕著に減少しました。これは、代替的なアレルCの増加が観察された以前の研究でも示されています。この変化は、高コレステロールへの負の選択の兆候か、あるいはこのアレルのより低い頻度の集団からの移住の結果かもしれません。


●考察

 最終氷期の後、紀元前一万年紀末と紀元前九千年紀初めに、バルト海地域東部とフィンランドとロシア北部の広大な地域は、狩猟採集民集団により比較的早く移住されました。バルト海地域東部とヨーロッパロシアにおけるいくつかの地点に起源がある燧石と、石器および骨器技術と人工物の類似性から、最終氷期後のヨーロッパ東部および北部の森林地帯における広範な社会的ネットワークの存在が示唆されます。これは、ポーランド東部からヨーロッパロシア中央地域にかけての旧石器時代最終期の狩猟採集民がこの過程に加わり、その起源とつながったまま、やや延長された社会的ネットワークを作った、という仮説につながります。

 しかし、ほとんど地元の石材で石器を製作したことから分かるように、これらのつながりは数世紀後に終わり、新たな地理的により小さい社会単位が、紀元前九千年紀半ばに出現しました。この地域の古代DNA研究には、紀元前八千年紀もしくはより新しい年代の中石器時代個体群が含まれており、上述のように、バルト海地域東部のヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)とロシア北西部のヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)という、2つの遺伝的集団が明らかにされてきました。しかし、これまで移住期の人類のゲノムは刊行されておらず、その遺伝的系統については議論の余地があります。

 本論文で提示された紀元前10700年頃の網羅率5倍の個体(PES001)は、移住期に近い年代のロシア北西部におけるEHG系統の証拠を提供します。これは次に、バルト海地域東部の最初の人々の系統に関する問題を提起します。バルト海地域東部の最初の人々は、移住期における2地域の共有された社会的ネットワークにより示唆されるように、EHG系統を有していましたか?後のWHG系統の人々の流入は、考古学的物質の変化を伴っていませんでしたが、あるいは、WHG系統の人々は最初からバルト海地域東部に居住しており、類似の文化を共有する異なる系統を有する集団の事例を表していますか?これらの問題は、将来の研究により解明されるかもしれません。

 ファチャノヴォ文化の形成は、ヨーロッパ東部森林地帯のそれ以前の狩猟漁撈採集文化およびその集団と生活様式に影響を及ぼした、主因の一つです。ファチャノヴォ文化の人々は、この地域における最初の農耕民で、農耕文化の到来は移住と関連していました。これは、石器時代狩猟採集民と青銅器時代ファチャノヴォ文化個体群が遺伝的に明確に区別できるように、本論文の結果により裏づけられます。本論文における狩猟採集民の標本規模は小さいものの、3個体は以前に報告されたEHG個体群と遺伝的に均質な集団を形成し、新たに報告された1個体(PES001)は、これまでで最高の全ゲノム配列網羅率で、将来の研究に貴重な情報を提供します。

 さらに、他のCWC集団と類似したファチャノヴォ文化個体群は、ほぼ草原地帯系統を有するだけではなく、この地域では以前に存在しなかったEF系統もいくぶん有しているので、ファチャノヴォ文化集団の起源として、草原地帯系統のみのヤムナヤ文化集団の北方への移住は除外されます。考古学的物質におけるファチャノヴォ文化の最も強いつながりは、現在のベラルーシとウクライナに広がったドニエプル川中流文化で見られます。現在のウクライナでは、ヨーロッパのEF系統を有する最も東方の個体群と、最も西方のヤムナヤ文化個体群が、既知のゲノムデータに基づいて確認されます(図1)。

 さらに考古学的知見からは、LBK(線形陶器文化)がウクライナ西部に紀元前5300年頃に到達し、ヤムナヤ複合(墳丘墓)はヨーロッパ南東部に紀元前3000年頃に到達し、ルーマニアとブルガリアとセルビアとハンガリーにまでさらに拡大した、と示されます。これは、一方の混合起源集団としてロシアのヤムナヤ文化2集団(カルムイクもしくはサマラ)のどちらかの系統を有する、ファチャノヴォ文化集団の妥当な混合起源集団と証明された2集団が、ウクライナとポーランドの個体群を含む球状アンフォラ文化集団と、ウクライナの個体群で構成されるトリポリエ文化集団だった、という本論文の遺伝的結果と一致します。これらの知見は、現在のウクライナが、ファチャノヴォ文化と一般的な縄目文土器文化の形成につながる移住起源地だった可能性を示唆します。

 ヨーロッパロシアにおけるファチャノヴォ文化の出現およびその後の局所的過程に関わる正確な年代と過程も、不明確なままです。最近まで、ファチャノヴォ文化は他のCWC集団よりも遅く、長い期間に発展した、と考えられてきました。しかし、最近刊行された放射性炭素年代は、本論文で提示された新たな25点の年代と、本論文で調べられたファチャノヴォ文化個体群におけるヤムナヤ文化集団とEF集団との(ファチャノヴォ文化個体群から)300〜500年前頃の混合との推定とを組み合わせると、より速い過程が示され、CWC集団がバルト海地域東部およびフェノスカンジア南部に到達した年代と類似しています。考古学的文化は、地域間で明確に区別されます。

 さらに、ファチャノヴォ文化集団はヨーロッパロシアに到来後、在来のヴォロソヴォ文化狩猟採集民と混合した、と示唆されてきました。本論文の結果はこの仮説を裏づけません。それは、他の2つのCWC集団と比較して、ファチャノヴォ文化集団においてより多くの狩猟採集民系統が明らかにならなかったからです。このファチャノヴォ文化集団と他の2つのCWC集団は、却下されない一方向qpAdmモデルにより類似していると示され、主成分値もしくはqpAdmの系統割合と放射性炭素年代を相関させると、本論文の標本群の期間におけるファチャノヴォ文化集団の系統割合に変化はない、と明らかになります。

 ロシア西部とバルト海地域東部におけるアレル頻度変化は、両地域における類似のパターンを明らかにします。LP(乳糖分解酵素活性持続)と関連するMCM6遺伝子および血清におけるコレステロールの増加と関連するFADS1-2遺伝子の頻度変化は、新石器時以降の食性変化に起因して変わってきた、との仮説が提示されてきており、青銅器時代に顕著に変わりましたが、変化の最初の兆候はすでに新石器時代に見られます。最近のLPに関する研究(関連記事)と一致して、最初の草原地帯系統標本群におけるrs4988235Aアレルの低頻度(90%信頼区間では、最近の研究で0〜2.7%、本論文で0〜33.8%)が明らかになりました。これが示唆するのは、以前の研究で示唆されてきたように(関連記事)、これらのアレル頻度の経時的変化は複雑で、いくつかの環境要因と遺伝的力学が関わっているかもしれない、ということです。


参考文献:
Saag L. et al.(2021): Genetic ancestry changes in Stone to Bronze Age transition in the East European plain. Science Advances, 7, 4, eabd6535.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd6535

https://sicambre.at.webry.info/202101/article_31.html

12. 中川隆[-17458] koaQ7Jey 2021年8月04日 16:27:12 : K38sCEWWu6 : d3ZiOGE4QkZ4eTY=[32] 報告
雑記帳 2018年05月11日
インド・ヨーロッパ語族の拡散の見直し
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_20.html

 おもに5500〜3500年前頃となる、内陸アジアとアナトリア半島の74人の古代ゲノムの解析結果と比較を報告した研究(Damgaard et al., 2018A)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。インド・ヨーロッパ語族の拡散については複数の仮説が提示されていますが、有力なのは、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の遊牧民集団の拡散にともない、インド・ヨーロッパ語族祖語も広範な地域で定着していった、というものです。

 この「草原仮説」においては、ヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の拡散が、ヨーロッパから西・中央・南アジアにまで及ぶ、インド・ヨーロッパ語族の広範な定着に重要な役割を果たしたのではないか、との想定もあります(関連記事)。ヤムナヤ文化集団は5000年前頃からヨーロッパへの大規模な拡散を始め、ヨーロッパに大きな遺伝的影響を残した、と推測されています(関連記事)。ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を各地に定着させ、やがて言語が多様化していったのではないか、というわけです。ヤムナヤ文化集団が初めてウマを家畜化したとの見解も提示されており、ウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などによる移動力・戦闘力の点での優位が、ヤムナヤ文化集団の広範な拡散と大きな遺伝的影響をもたらした、と考えられます。

 しかし、ウマの家畜化については議論が続いており、カザフスタン北部のボタイ(Botai)文化集団が、初めてウマを家畜化した、との見解も提示されています(関連記事)。しかし、この研究では、現代におけるボタイ文化集団の遺伝的影響は小さく、中期〜後期青銅器時代に他集団に駆逐され、置換されたと推測されています。これは、ボタイ文化の初期家畜馬は現生家畜馬に2.7%程度しか遺伝的影響を及ぼしていない、という知見(関連記事)と整合的です。ボタイ文化集団は、3人のゲノム解析結果から、ヤムナヤ文化集団とは遺伝的に近縁関係にはなく、それぞれ独自にウマを家畜化したのではないか、と推測されます。ボタイ文化集団は、近隣の集団が農耕・牧畜を採用した後も長く狩猟採集生活を維持し続けたので、孤立していたとも考えられていましたが、ウマの埋葬儀式に関しては他のアジアの文化との共通点があり、他集団との交流は一定上あったと考えられます。

 ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に拡散させた、との仮説の検証で重要なのは、インド・ヨーロッパ語族の使用が最初に確認されている、アナトリア半島を中心に繁栄した古代オリエントの強国ヒッタイトの住民と、ヤムナヤ文化集団との関係です。この研究では、アナトリア半島の住民の古代ゲノム解析の結果、古代アナトリア半島ではヤムナヤ文化集団の遺伝的影響は確認されませんでした。また、シリアの古代都市エブラ(Ebla)の記録から、インド・ヨーロッパ語族はすでにアナトリア半島で紀元前2500〜2400年前頃には用いられていたのではないか、と推測されています。この研究は、インド・ヨーロッパ語族集団はヤムナヤ文化の拡大前にアナトリア半島に到達していただろう、と指摘しています。

 中央・南アジアに関しても、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はほとんど確認されませんでした。これまで、アジアにおけるユーラシア西部集団の遺伝的影響は、ヤムナヤ文化集団の拡散の結果と考えられ来ました。しかし、この研究は、その可能性が低いと指摘し、5300年前頃にユーラシア草原地帯の南方にいたナマズガ(Namazga)文化集団が、ヤムナヤ文化集団の大移住の前に、ユーラシア西部系住民の遺伝子をアジア人集団にもたらしたのではないか、と推測しています。

 ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はヨーロッパにおいて大きかったものの、アジアではたいへん小さかったようです。もちろん、文化的影響は遺伝的影響を伴うとは限りませんが、この研究で報告されたゲノム解析結果と比較は、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族祖語を広範な地域に定着させ、インド・ヨーロッパ語族は各地で多様化していった、という仮説と整合的とは言えないでしょう。インド・ヨーロッパ語族の拡散に関しては、この研究のように、学際的な研究の進展が欠かせない、と言えるでしょう。その意味で、この研究の意義は大きいと思います。


参考文献:
Damgaard PB. et al.(2018A): The first horse herders and the impact of early Bronze Age steppe expansions into Asia. Science, 360, 6396, eaar7711.
http://dx.doi.org/10.1126/science.aar7711


https://sicambre.at.webry.info/201805/article_20.html

9. 2021年8月04日 16:13:51 : K38sCEWWu6 : d3ZiOGE4QkZ4eTY=[31] 報告
▲△▽▼
雑記帳2021年08月04日
イタロ・ケルト語派の起源
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_4.html

 イタロ・ケルト語派の起源に関する研究(Fehér et al., 2021)が公表されました。コッホ(John T. Koch)氏とカンリッフ(Barry Cunliffe)氏が率いる過去20年のケルト研究は、長きにわたる理論「ハルシュタット(Hallstatt)鉄器時代=原ケルト文化」の妥当性に疑問を提起し、一連の「西方からのケルト」において初期ケルト大西洋青銅器時代を主張しました。ギュンドリンゲン(Gündlingen)様式の剣術は青銅器時代後期のブリテン島と低地諸国に起源があり、後に西方から東方へと拡大し、ハルシュタット・アルプス鉄器時代からさらに広がった、との議論があります。鉄器時代前のイベリア半島南西部からのタルテッソスのケルト的性質も、原ケルト人の初期大西洋起源の証拠となります。父系継承のY染色体DNAと両親から継承される常染色体の古代DNAの結果は、「西方からのケルト」をますます裏づけており、本論文はさらに進んで、北西部から到来した「イタリア・ケルト人」を論じます。

 最近の考古遺伝学的研究(関連記事1および関連記事2)では、現在ヨーロッパ中央部および西部で優勢なY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a1b(M269)が、現在のウクライナとロシア南部のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)起源だったことを証明しました。YHg-R1b1a1b(M269)以前ではあるものの、YHg-R1b1a1a(M73)ではない系統、つまりYHg-R1b1a1(P297)からYHg-R1b1a1b(M269)へと至る祖先は、ヴォルガ川流域に位置するロシア西部のサマラ(Samara)文化の紀元前5500年頃の男性個体で見つかっています。また、クルガン(墳丘墓)を建造するヤムナヤ(Yamnaya)文化の草原地帯牧畜民と、その東方の分派でおそらくはトカラ語(Tocharian)祖語を話したアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の男性は、おもにYHg-R1b1a1b1b(Z2103)でした。

 その後の研究では、「真のアーリア人」が話していた後期インド・ヨーロッパ語族祖語は、紀元前2900〜紀元前2350年頃の縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)で話されていた可能性が最も高い、と明らかになりました。CWC集団はヤムナヤ関連の西方草原地帯牧畜民(WSH)の常染色体の祖先系統(祖先系譜、ancestry)を顕著に示し、特定の下位系統の拡大と一致する地理的下位集団を有しています。インド・ヨーロッパ語族祖語は、紀元前2900〜紀元前2200年頃となるCWCのファチャノヴォ・バラノヴォ(Fatyanovo-Balanovo)文化の東側から到来した、紀元前2200〜紀元前1800年頃となるシンタシュタ(Sintashta)文化に由来し、父系はほぼYHg-R1a1a1b2(Z93)です。

 原バルト・スラブ語派集団は、YHg-R1a1a1b1a2(Z280)で、北方に移動して中石器時代のナルヴァ(Narva)文化を置換した、紀元前3200〜紀元前2300年頃となるCWC中期のドニエプル(Dniepr)文化集団の子孫候補です。紀元前2800〜紀元前2300年頃となる戦斧(Battle Axe、略してBA)文化は、スカンジナビア半島におけるCWCの分枝であり、YHg-R1a1a1b1a3a(Z284)とYHg-I1(M253)が優勢で、中石器時代の円洞尖底陶(Pitted Ware、略してPW)文化を置換しました。単葬墳(Single Grave、略してSG)文化は北ドイツ平原とデンマークの漏斗状ビーカー(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker、略してTRB)文化を置換し、後の紀元前2500年頃以降となる鐘状ビーカー(Bell Beaker、略してしてBB)文化の祖先となり、そのYHgはR1b1a1b1a1(L11/P311)です。


●原ケルト人の故地

 以前の研究(関連記事)では、YHg-R1b1a1b1a1a1(U106)およびR1b1a1b1a1a2(P312)につながるようなYHg-R1b1a1b1a1(L52)がCWC期に現在のウクライナとの国境近くのポーランド南東部に存在した一方で、ドイツからポーランド北部を経てエストニアに至るほとんどの他のCWC標本は、YHg-R1a1a1(M417)だった、と示されました。ポーランド南東部のCWC個体群も、他地域のCWC個体群よりも後の鐘状ビーカー文化個体群の方との高い遺伝的類似性を示します。この集団と関連する唯一のCWC集団は、ライン川下流およびエルベ川下流地域の単葬墳文化です。

 したがって、YHg-R1b1a1b1a1(P311)の祖先は、インド・ヨーロッパ語族祖語の故地からカルパティア山脈北方のポーランド南東部を経て、紀元前2900〜紀元前2500年頃に北海沿岸に向かって移動した、と確実に結論づけられます。この経路は、常染色体の研究で裏づけられており、イベリア半島(YHg-R1b1a1b1a1a2のみ)外の鐘状ビーカー文化個体群は、ヨーロッパ北部新石器時代集団とヤムナヤ関連祖先系統の混合ではあるものの、イベリア半島新石器時代集団の祖先系統との混合ではない、と結論づけられています。

 CWC集団は常染色体では混合されていないインド・ヨーロッパ語族祖語の人々の起源で、イタロ・ケルト語派祖語(単葬墳文化の人々)とゲルマン祖語(戦斧文化の人々)と原バルト・スラブ語派(ドニエプル川中流)とインド・イラン語派祖語(ファチャノヴォ・バラノヴォの人々)の起源になった、と結論づけられます。常染色体の証拠から明らかなのは、Y染色体DNAでも示されているように、鐘状ビーカー文化期と戦斧文化期以降の、ブリテン諸島とオランダ北部とデンマークを含むスカンジナビア半島の完全な常染色体の連続性です。

 YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の鐘状ビーカー文化個体群が、ラインラントで紀元前2566年頃にのみ出現することにも要注意です。紀元前2800年頃となるアルザス地域のヘーゲンハイム(Hégenheim)標本には草原地帯祖先系統が欠けており、紀元前2574〜紀元前2452年頃となるフランス北東部のサルソーニュ(Salsogne、CBV95)標本はほぼ100%ヤムナヤ関連祖先系統で遺伝的に構成され、ヤムナヤ文化集団で優勢なYHg-R1b1a1b1b(Z2103)に分類されます。以上の点を考慮すると、常染色体遺伝子の結果は、YHg-R1b1a1b1a1(L11/P311)がライン川下流およびエルベ川下流地域で最も多様であり、YHg-R1b1a1b1a1a1(U106)とR1b1a1b1a1a2(P312)が稀なYHg-R1b1a1b1a1a3(S1194)とR1b1a1b1a1a4(A8053)とともに、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の分枝が鐘状ビーカー文化の拡大を始める前の紀元前2800〜紀元前2500年頃に、相互に隣り合って存在していたかもしれません。

 父系で最も「ケルト的な」YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)は、ブリテン諸島とイベリア半島のケルト地域(50%以上)で最も頻度が高く、フランス(40〜50%)で顕著に見られ、ヨーロッパ中央部および東部に向かってその頻度は減少します。ブリテン諸島で典型的なYHg-R1b1a1b1a1a2c1(L21)は、最初の鐘状ビーカー文化住民で見つかりました。ケルト語祖語のカルパティア盆地とアルプス北部もしくはカルパティア盆地とイタリアという移住経路を予測するのは、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の頻度に基づくと合理的ではありません。これは、初期鐘状ビーカー文化標本で示されているように、常染色体DNAの証拠でも強調されており、現代人集団からの遺伝的距離が計測されました。ブリテン諸島の鐘状ビーカー文化標本は、ゲルマン語話者であれケルト語話者であれ、現代のヨーロッパ北部人口集団とクラスタ化します。ほとんどの遺伝的距離(10.00 未満)から、これら現代の人口集団が鐘状ビーカー文化集団の直接的な常染色体子孫で、混合がなく、青銅器時代および鉄器時代の遺伝子流動の北から南および西から東への方向を証明していることも注目されます。


●ライン川下流の故地からのイタロ・ケルト語派の拡大

 もう一つのYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の下位区分はYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)で、イタリア北部およびフランスでとくに高頻度です。既知の最初のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)標本は、ドイツのオスターホーフェン・アルテンマルクト(Osterhofen-Altenmarkt)の紀元前2571〜紀元前2341年の個体です。YHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の系統は、鐘状ビーカー文化のアルプス北部のボヘミアへの拡大とポーランドへの「逆流」に相当し、ドナウ川沿いに紀元前2500〜紀元前2000年頃にブダペストへと南下しました。ボヘミアとバイエルンは鐘状ビーカー文化の起源ではなく目的地だったという間接的な主張も、この地域のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の均質性(YHg-R1b1a1b1a1a2b1のみ)により強調され、初期鐘状ビーカー文化のブリテン諸島人の均質性(YHg-R1b1a1b1a1a2c1のみ)を反映しています。

 ボヘミアとライン川下流へのポーランド南東部からの経路沿いの停車場だったならば、YHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)以外のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の男性がもっと多くいるでしょう。ブダペストのチェペル(Csepel)地区の紀元前24世紀の鐘状ビーカー文化標本も、ハンガリーが鐘状ビーカー文化拡散の起源地ではなく終点だったことを証明しています。ここでは、「純粋なCWC由来(ケルト語派とゲルマン語派)」系統と直接的な草原地帯関連(CWCのないヤムナヤ文化)系統とラエティア・エトルリア語派系統の混合した、原イリュリア語派集団の常染色体の混合が見つかります。YHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)標本は、ブリテン諸島や、スカンジナビア半島とブリテン諸島の常染色体のつながりを特徴とする元のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)標本と比較して、「南部」集団から常染色体上の遺伝的影響を幾分受けた、と分かります。

 一部のYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の男性とほとんどのYHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)からYHg-R1b1a1b1a1a2b3(Z56)の男性は、ライン川沿いにアルプスの西側を移動して、近縁のYHg-R1b1a1b1a1a2a(DF27)とともにフランス南部に到達し、地中海沿いに紀元前2000年頃以前にイベリア半島とイタリアのリグーリア州(Liguria)に拡散しました。YHg-R1b1a1b1a1a2b(U152)が最初に、アルプス経由の代わりにリグーリア州からイタリアに拡散したことを裏づける証拠が二つあります。古代のリグーリア州の標本と初期(ローマ共和政以前)ラテン人標本は、常染色体では相互に密接で、ともにヴァスコン人エトルリア人の混合を示しますが、YHgはR1b1a1b1a1a2(P312)です。

 一方、東部イタリック語派集団の子孫である可能性が最も高い帝政期ローマの標本は、顕著なスラブ化以前のバルカン人の混合(イリュリア人とギリシア人とミノア人)と、追加のラエティア・エトルリア語派集団の特徴を有しており、北東部からのイタリック語派のオスク・ウンブリア語群(ヴィッラノーヴァ人)が、後に異なる人口統計学的波で到来し、元々の西部イタリック語派集団(ラテン人や西シチリア人やおそらくはリグーリア人)よりもイタロ・ケルト語派集団との遺伝的類似性が低かったことを示唆します。

 これが意味するのは、イタリック語派祖語集団がすでに、後期新石器時代のアルプスの北側の「ラエティア・エトルリア語派的」人口集団と混合し、次にアルプスの西側経路でリグーリアとラティウムとシチリアに拡散したイタリック語派集団がアクィタニア(Aquitani)・ヴァスコン人(Vascon)と混合し、カルパティア盆地に拡散したイタリック語派東部集団がエトルリア人に加えてイッリョ・トラキア人(Illyro-Thracian)と混合した、ということです。以前の研究(関連記事)では、シチリア島とサルデーニャ島の人々は草原地帯牧畜民関連の遺伝子流入を紀元前2200〜紀元前2000年頃に部分的にバレアレス諸島人から受けており、それは独特な石造物で知られるヌラーゲ文化およびギリシア関連の中東からの遺伝子流入が紀元前1900年頃に到達する前のことでした。

 したがって、初期カルパティア盆地のヤムナヤ文化集団のイタロ・ケルト語派の識別に関するアンソニー(David W. Anthony)の見解を改良にする必要があり、むしろイッリョ・トラキア人がバルカン半島北側に到来した可能性があり、後にブチェドル(Vucedol)文化を通じてバルカン半島北側に拡大しました。同時に、ウサトヴォ(Usatovo)およびエゼロ(Ezero)文化は、原ゲルマン人ではなく原アナトリア半島人の拡大を示しているかもしれません。イタロ・ケルト語派の故地は、Y染色体DNAと常染色体DNAの証拠に基づくと、北ドイツ平原とライン川下流地域に確実に想定できます。


●まとめ

 イタロ・ケルト語派祖語話者は、父系ではYHg-R1b1a1b1a1(P311)に代表され、現在のウクライナからポーランド南東部を経てライン川下流地域に紀元前2900〜紀元前2500年頃に移動し、CWCの遺構に分類される単葬墳文化により識別されます。鐘状ビーカー文化は紀元前2500年頃に現在のオランダとドイツ北西部で形成され、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の男性とともに紀元前2500〜紀元前2000年頃にブリテン諸島へと拡散し、後にケルト語祖語集団となり、YHgではR1b1a1b1a1a2c1(L21)に代表されます。鐘状ビーカー文化はイベリア半島とフランス南部にはYHg-R1b1a1b1a1a2a(DF27)とR1b1a1b1a1a2b3(Z56)の男性とともに、デンマークとスウェーデンのスコーネ地方にはYHg-R1b1a1b1a1a1(U106)の男性とともに(後の西ゲルマン語群集団の祖先)、アルプス北部とボヘミアとポーランドにはYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)の男性(後のオスク・ウンブリア語群集団)とともに拡大しました。

 常染色体DNAは、混合されていてないイタロ・ケルト語派およびゲルマン語派人口集団がCWCだった一方で、アルプス北部とカルパティア盆地では、非インド・ヨーロッパ語族の常染色体構成要素(ラエティア・エトルリア語派集団やバスク人につながるヴァスコン人)が、後期青銅器時代と前期鉄器時代にまで顕著な存在感を示していた、と証明します。「気高きスキタイ人」と言われるジェロニア人(Gelonian)は、常染色体ではカルパティア盆地とウクライナの紀元前6〜紀元前3世紀のゴール人(Gaul)で、ハルシュタットC後のケルト人の広がりの最東端を示します。以前のキンメリア人とその後のサルマティア人は草原地帯牧畜民祖先系統を有しており、おもにイラン人関連祖先系統ですが、一部はコーカサスおよびテュルク人の祖先系統です。

 イタリック語派はこのように一貫性がありません。西方からイタリア半島への最初の波は、リグーリア語とラテン語とおそらくはシケル語をもたらし、同時にルシタニア語(直接的にはブリテン島から)とタルテッソス語(カタルーニャ地方経由で)がイベリア半島に到来しました。その後、骨壺墓地(Urnfield)文化・ヴィラノヴァ文化(Villanovan)期にカルパティア盆地とアルプスからの第二の移住がありました。エトルリア語系話者はリグーリア人とラテン人を分断し、イリュリア語の影響を受けたオスク・ウンブリア語群集団がアドリア海沿いに拡大しました。


参考文献:
Fehér T. (2021). Celtic and Italic from the West – the Genetic Evidence. Academia Letters, Article1782.
https://doi.org/10.20935/AL1782

https://sicambre.at.webry.info/202108/article_4.html

13. 2021年8月29日 20:41:00 : 81WT6IEYHk : OTBkZzJUY0I0ckU=[31] 報告
雑記帳2021年08月29日
紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_31.html

 紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部人類集団における遺伝的構成と社会構造の変化に関する研究(Papac et al., 2021)が公表されました。考古遺伝学は過去1万年のヨーロッパにおける2回の主要な人口集団交替を明らかにしてきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。最初のものは、紀元前七千年紀に始まり、アナトリア半島からの農耕民共同体の拡大と関連していました。ヨーロッパの前期新石器時代農耕民は当初、在来の狩猟採集民と遺伝的に異なっており、アナトリア半島農耕民とほぼ区別できませんでしたが(関連記事1および関連記事2)、その後数千年にわたって遺伝子プールに狩猟採集民祖先系統(祖先系譜、ancestry)を組み込んできました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 2番目の主要な人口集団交替は、紀元前三千年紀早期に縄目文土器(Corded Ware、略してCW)文化の個体群で起きました(関連記事1および関連記事2)。以下本論文では、ヒト骨格遺骸と考古学的文化(たとえば、副葬品や身体の向き)の標識の共伴を用いて、個体群と考古学的文化との間の関連が、たとえば「CW個体群」のように示されますが、これは統一された社会的実体を反映していないかもしれません。CWはヨーロッパ中央部と北部と北東部における主要な文化的変化を表しており、経済とイデオロギーと埋葬慣行に変化をもたらしました。

 CW個体群は、文化的にCWに先行する人々とは遺伝的に異なると示されており、その祖先系統の75%はポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化個体群と類似しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。その後、このヤムナヤ的「草原地帯」祖先系統は急速にヨーロッパ全域に拡大し、紀元前三千年紀末の前には、ブリテン島とアイルランド島とイベリア半島とバレアレス諸島とサルデーニャ島とシチリア島に到達しました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。

 紀元前三千年紀の重要性にも関わらず、現在の遺伝学的理解はおもに汎ヨーロッパ的な標本抽出戦略による研究に基づいており、地域的で高解像度の時間的区間にはほとんど重点が置かれていません。その結果、多くの時間的および地理的標本抽出の間隙が残り、社会と共同体の水準での過程、および文化的集団がどのように相互作用して影響を及ぼし、相互に生じたのかについて、知識が限定的です。さらに、地域を超えた考古学的現象を表す小さな標本規模の使用と、結果として生じる過度に単純化された文化・歴史的解釈は、考古学者から批判されてきました。

 未解決の問題は、CWと鐘状ビーカー(Bell Beaker、略してBB)個体群の遺伝的および地理的起源、両者の相互関係およびヤムナヤ個体群との関係、前期青銅器時代(EBA)のウーニェチツェ(Únětice)個体群の起源に関するものです。CWは遺伝的にヤムナヤ的な人々の男性に偏った西方への移住から形成された、と提案されてきましたが(関連記事1および関連記事2)、Y染色体系統の重なりは、いくつかの分類できないY染色体ハプログループ(YHg)I2を例外として、おもにYHg-R1aのCW男性と、おもにYHg-R1b1a1b1b(Z2103)を有するヤムナヤ男性との間で見つかってきました。

 草原地帯祖先系統はBB個体群にも存在しますが(関連記事)、そのYHgはおもにR1b1a1b1a1a2(P312)で、これはCWもしくはヤムナヤ男性ではまだ見つかっていません。したがって、草原地帯祖先系統の共有とかなりの年代的重複にも関わらず、現時点では、ヤムナヤとCWとBBの各集団を父系の供給源として直接的に結びつけることはできません。とくに、草原地帯祖先系統が男性主導で拡大したと示唆されていることと、これら3社会の父方居住・家長的社会親族制度が提案されていることを考慮すると(関連記事)、注目に値します。

 紀元前三千年紀のヨーロッパにおける文化的・社会的・遺伝的変化を理解するのに重要なのは、球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)のようなCWに先行する文化と、CWやBBやEBAウーニェチツェに分類される社会の存在(共存)を証明する、緻密な居住地域です。現在、そうした地域は考古遺伝学の観点では体系的に研究されていません。ヨーロッパの中心部に位置し、重要なエルベ川に密着する、現在のチェコ共和国西部であるボヘミアの肥沃な低地では、多くの主要な超地域的な考古学的現象が見られました(図1)。

 ボヘミアの密集した農耕定住は、早期新石器時代農耕民の到来とともに紀元前5400年後に始まり、これは線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化や後期刺突文土器(Stichbandkeramik、略してSTK)文化やレンジェル(Lengyel)文化です。これらの文化は、ヨルダヌフ(Jordanów)文化やミシェスベルク(Michelsberg)文化や漏斗状ビーカー(Funnelbeaker)文化やバデン(Baden)文化やリヴナック(Řivnáč)文化やGACや前期および後期CWやBBなど、二桁の考古学的文化集団と関連する、銅器時代(紀元前4400〜紀元前2200年頃)の多くの社会に継承されました。銅器時代には、重要な革新(冶金や車輪や荷馬車と犂や要塞化された丘陵や古墳)が見られ、ボヘミア周辺に地理的に集まった、拡大したEBAウーニェチツェ文化に継承されました。

 物質的および技術的発展に加えて、埋葬行動を通じて示されるようにイデオロギー的変化も明らかです。漏斗状ビーカー期(紀元前3800〜紀元前3400年頃、ボヘミアで100基の墓が知られています)には比較的一般的でしたが、通常の墓は中期銅器時代(紀元前3500〜紀元前2800年頃)となるバデン期やリヴナック期やGAC期にはほぼ消滅します(ボヘミアでは20基)。単葬墳は、現在では身体の位置と副葬品で厳密な性区分が伴いますが、紀元前2900年頃のCWでは多数再出現して(ボヘミアでは1500基)BB期に継続し(ボヘミアでは600基)、BBは先行するCWとは重要な違いを発展させ維持しました。EBAウーニェチツェ文化では単葬墳が継続しましたが(ボヘミアでは4000〜5000基)、再度身体位置の性差はなくなりました。

 これらの変化をよりよく理解するため、ボヘミア北部の271個体(新たに報告される206個体と既知の65個体)の高解像度の考古遺伝学的時期区分が分析されました(図1)。時空間的に重複する考古学的文化からの密な遺伝的標本抽出を通じての本論文の目的は、(1)ヨーロッパ中央部の銅器時代とEBAにおける文化的変化が非地元民の流入により引き起こされたのかどうかに取り組み、(2)CWの出現直前のヨーロッパ中央部の遺伝的多様性を特徴づけ、(3)ヤムナヤ的草原地帯祖先系統を有する個体群がヨーロッパ中央部に最初に出現した時期を特定して、その遺伝的起源と社会的構造を理解し、(4)CW出現後の「地元民」と「移民」との間の生物学的交換の性質と程度を特徴づけ、(5)遺伝的および考古学的変化と関連する社会的変容を特定することです。以下は本論文の図1です。
画像


●標本の概要

 37ヶ所の遺跡から古代人261個体が調べられ、219個体のゲノムで、1233013ヶ所の祖先系統(祖先系譜、ancestry)の情報をもたらす部位が濃縮されました(1240kキャプチャパネル)。濃縮後、3万ヶ所未満の部位もしくは汚染の兆候がある13個体は削除され、206個体の新たなデータセットが得られました。この新たなデータセットは、ボヘミアの既知の古代人65個体およびより広範な個体群と組み合わされ、それにより、ボヘミアの新石器時代および先CW銅器時代個体は7から58に、CW個体は7から54に、BB個体は40から64に、EBA個体は11から95に拡大されました。

 重要なのは、CW形成の頃(紀元前3200〜紀元前2600年頃)の個体の標本規模をかなり拡大したことです(1個体から50個体)。その内訳は、バデン文化とリヴナック文化とGACとなる最後の先CW個体が0から18に、前期CW個体が1から32に増加しており、ヨーロッパ中央部のCWの起源と、その移住の性質と、共存する先CWの人々との社会的相互作用を直接的に研究できるようになりました。一親等の親族関係はアレル(対立遺伝子)頻度に基づく分析(f統計、qpWave、qpAdm、進化的兆候の祖先系統の時間区間の分布を示すDATES、Y染色体分析)では除外されました。本論文は140点の新たな放射性炭素年代も報告し、より精細な時間的解像度を支援し、重要な紀元前三千年紀の文化的集団(たとえば、CWやBBやウーニェチツェ)の前期と後期の間の遺伝的変化を調べることが可能となります。


●紀元前2800年頃以前となる先CW期のボヘミア

 まず、ボヘミアの古代人を、ユーラシア西部現代人1141個体から構築された主成分分析の最初の2軸に投影することにより、ゲノム規模データが評価されました。その結果(図2A)、ボヘミアの全ての先CW個体(58個体)はアナトリア半島新石器時代(アナトリアN)とヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の間で、ヨーロッパ中央部の既知の文化的に先CWに分類される個体群と密接した状態に位置しました。これは、草原地帯祖先系統の欠如を示唆しており、qpAdmモデル化を用いても確認され、ボヘミアの先CW個体群はほぼアナトリアNとWHGの2方向混合としてモデル化できる、と明らかになりました(図3A)。狩猟採集民(HG)祖先系統の割合は年代と正の相関があり、以前に報告された新石器時代におけるHG祖先系統の増加傾向はボヘミアでも起きた、と示されました(関連記事1および関連記事2)。このHG祖先系統の増加は2段階の線形過程として最良にモデル化でき(図3A)、紀元前五千年紀にHG祖先系統が増加し、その後に停滞(有意ではない勾配)が続く、と明らかになりました。以下は本論文の図2です。
画像

 HG祖先系統がボヘミアの先CW個体群の遺伝子プールに組み込まれた過程への洞察を得るため、qpAdmを用いて、先CW文化的集団がそれぞれ、アナトリアNとルクセンブルクのヴァルトビリヒ(Waldbillig)のロシュブール(Loschbour)遺跡の中石器時代個体とケレス(Körös)遺跡狩猟採集民の3方向混合としてモデル化され、組み込まれたHG祖先系統の遺伝子移入された年代がDATESにより推定されました(図3B)。HG祖先系統の連続的な組み込みを伴う人口集団継続性のシナリオでは、後続の文化の遺伝子移入の平均年代は、図3Bの灰色の間隔(右側)で示唆されるように、経時的により新しくなる、と予測されます。逆に、さらなるHG祖先系統の組み込みがない人口集団の連続性では、混合年代は類似のHG割合を有する連続した文化的集団では類似したものになるはずです。

 本論文の結果は、両方の予測が満たされない、2つの文化的移行を示唆します。まず、ボヘミアのヨルダヌフと漏斗状ビーカーは類似の量のWHG祖先系統を有していますが、漏斗状ビーカーのWHGからの遺伝子移入の推定年代(図3B)はヨルダヌフ(紀元前4636〜紀元前4310年)よりも有意に早く(紀元前5079〜紀元前4748年)、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群がさまざまな人口集団(その祖先系統はさらに昔に組み込まれました)に由来することと一致し、ボヘミアではヨルダヌフ人口集団に取って代わりました。

 ヨルダヌフと漏斗状ビーカーとの間のこの移行は、3点の追加の観察により裏づけられます。第一に、f4統計(ムブティ人、ボヘミアの漏斗状ビーカー;ボヘミアのヨルダヌフ、ドイツの漏斗状ビーカー)は正で、ボヘミアの漏斗状ビーカーが、先行する在来のヨルダヌフ個体群よりも、ザクセン=アンハルト(Saxony-Anhalt)のバールベルゲ(Baalberge)遺跡とザルツミュンデ(Salzmünde)遺跡の漏斗状ビーカー個体と有意により大きな遺伝的類似性を示す、と明らかにします。逆に、f4統計(ムブティ人、ボヘミアのヨルダヌフ;ドイツの漏斗状ビーカー、ボヘミアの漏斗状ビーカー)は一貫して0と一致しており、ボヘミアのヨルダヌフ個体群に関して、ボヘミアとドイツの漏斗状ビーカー個体群間の系統発生的クレード(単系統群)化を示唆します。

 第二に、ボヘミアのヨルダヌフ個体群は、アナトリアNとケロスHGの2方向混合としてモデル化できるものの、アナトリアNとロシュブールの2方向混合としてはモデル化できない一方で、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群では逆が当てはまります。これは、さまざまな遺伝子移入年代に加えて、ボヘミアのヨルダヌフ文化的集団と漏斗状ビーカー文化的集団におけるHG祖先系統のさまざまな類似性を示唆します。第三に、qpWaveはボヘミアのヨルダヌフと漏斗状ビーカーの個体群間のクレード化を裏づけませんが、ボヘミアとドイツの漏斗状ビーカー個体群間のクレード化を却下できません。まとめると、これらの結果は、ボヘミアの漏斗状ビーカー個体群の大半(有意に50%以上)の非在来の遺伝的起源を示唆します。

 この第二のような事例は、リヴナックからGACへの文化的移行で見られます。GAC個体群はボヘミアの先CW文化的集団で最も高いHG祖先系統を有しており(25.7±1.4%)、リヴナック個体群よりも有意に多くにっています。しかし、GACにおけるHGとの混合の推定年代は、リヴナック個体群よりも遅いわけではなく(図3B)、GAC個体群はリヴナックとHGの起源集団の最近の混合に由来するのではなく、ボヘミアにおける最近の非在来の侵入を構成しており、それは、たとえばポーランドのように(関連記事1および関連記事2)より多くのHGからの遺伝子流動を受けた地域からの侵入で、考古学的証拠の解釈とも一致します。

 リヴナック個体群とGAC個体群の異なる遺伝的起源は、主成分分析とqpAdmモデル化によりさらに裏づけられます。主成分分析では、GACのTUC003個体を除いて、リヴナック個体群とGAC個体群は異なる一群を形成します(図3C)。これはqpAdmモデル化により確認され、GAC個体群はアナトリアNとロシュブールの混合としてモデル化できますが、アナトリアNとケロスHGの混合としてはモデル化できない一方で、リヴナック個体群にはその逆が当てはまります。その結果、リヴナック個体群とGAC個体群はHG祖先系統の量と供給源に基づいて区別でき、ボヘミアにはCW出現時にリヴナック個体群とGAC個体群という遺伝的に異なる集団が存在した、と示唆されます。リヴナック個体群の外れ値個体(TUC003)も、GAC集団で生まれたものの、リヴナック集団の文化的背景で埋葬された、という興味深い可能性を提起します。以下は本論文の図3です。
画像

 ボヘミアにおけるCWの出現と同時代かその後のリヴナックとGACの16個体間(図1B)では、草原地帯祖先系統の検出可能な痕跡は見つからず(図2A)、CW/ヤムナヤから文化的にCWに先行する人々(リヴナックやGACなど)への生物学的交換は低く、おそらく存在していなかった、と示唆されます。草原地帯祖先系統は、CW個体群とともに紀元前三千年紀初期のボヘミアに出現します。


●縄目文土器(CW)

 本論文は現時点で最初期となるCW個体群のゲノムデータを報告し、その中には、紀元前3010〜紀元前2889年頃となるボヘミア北西部のSTD003個体や、紀元前3018〜紀元前2901年頃となるボヘミア中央部のVLI076個体や、紀元前2914〜紀元前2879年頃となるボヘミア東部のPNL001個体が含まれ、CWはボヘミア全域に紀元前2900年頃までに広範に拡大した、と示されます。これら初期の放射性炭素年代は、これらの個体の遺伝的特性によっても裏づけられます。これらの個体は、最初のCWが地元民と混合した東方からの移民で、後の世代ではPC2軸の位置が中間になる、というシナリオで予測されているように、PC2軸では最も極端な位置にあります(図2B)。

 ボヘミアのCW個体群の遺伝子プールの形成を調べるため、草原地帯祖先系統を有しており平均年代が紀元前2600年以前のCWの27個体がボヘミアCW前期、残りの21個体がボヘミアCW後期とまとめられました。ボヘミアCW前期を、あらゆる既知のヤムナヤ供給源と、あらゆる在来のボヘミアもしくはポーランドやウクライナやハンガリーやドイツといった非在来の先CW供給源の2方向混合としてモデル化する統計的裏づけは乏しい、と明らかになりました。新石器時代祖先系統(アナトリアNと一連のHG供給源)の代理として遠方の供給源を用いると、3方向遠位混合モデルの一つを除いて強い裏づけは見つかりませんでした。しかし、この統計的に裏付けられた一つのモデルから、ヨーロッパにおける新石器時代祖先系統の以前には観察されていなかった比率が得られました。それは、アナトリアNとスウェーデンのムータラ(Motala)遺跡狩猟採集民との1:1の混合比の新石器時代人口集団です。さらに、前期CWを個々に、アナトリアNとWHGとヤムナヤ・サマラ(Yamnaya_Samara)の「標準」3方向混合としてモデル化すると、37%(27事例のうち10事例)で、このモデルが強い裏づけを欠いている、と明らかになりました。

 ヤムナヤとヨーロッパ新石器時代人口集団の供給源間の2方向近位モデルが、ボヘミアCW前期の遺伝的多様性を説明するのに不充分な理由を調べるため、よりよいモデル適合を得られる第三の供給源の追加が試みられました。ラトヴィア中期新石器時代(ラトヴィアMN)やウクライナ新石器時代(ウクライナN)や円洞尖底陶(Pitted Ware、略してPW)文化のいずれかを供給源として追加すると、ほぼ全てのモデル(285例のうち280例)の適合が改善し、その改善のほとんどは数桁に達しました。全ての2方向近位モデル(95例)が強い裏づけを欠いている一方で、ラトヴィアMN(95例のうち57例)かウクライナN(95例のうち53例)かPW(95例のうち32例)を供給源に追加すると、裏づけられたモデルの数が大幅に増加しました。

 これらの結果は、全ての既知のヤムナヤおよびヨーロッパ中央部新石器時代人口集団と比較して、ボヘミアCW前期における、ラトヴィアMN/ウクライナN/ PW的な祖先系統の存在を示します。本論文のモデルから、この祖先系統はボヘミアCW前期遺伝子プールの5〜15%を占める、と示唆されます。ボヘミアCW後期およびドイツCWをモデル化すると、これら第三の供給源のいずれかとのモデル適合の増加も観察され、この祖先系統が後のヨーロッパ中央部CWにも存在し、CW集団はヤムナヤよりも古代ヨーロッパ北東部集団と多くのアレルを共有すると示すアレル共有f4統計とも一致する、と示唆されます。

 本論文は、草原地帯祖先系統を有さないCW個体群からの最初のゲノムデータを提供し、それにより、CWとCWに先行する人々との間の相互作用の社会的過程を解明します。草原地帯祖先系統を有さない前期CW個体群間の女性のみ(4個体)の観察結果(図2Bおよび図3C)から、先CWの人々を前期CW社会に同化させる過程が女性に偏っていた、と示唆されます。この女性4個体のうち2個体(STD003とVLI008)は主成分分析ではボヘミアとポーランドのGAC個体群の近くに位置します(図3C)。これらを一群にまとめると、STD003とVLI008はボヘミアのリヴナック個体群よりもボヘミアのGAC個体群とより多くの遺伝的類似性を共有します。STD003とVLI008はポーランドのGAC個体群と比較してボヘミアのGAC個体群と遺伝的により密接ではなく、非在来の東部もしくは北東部起源(たとえば、ポーランド)の可能性が除外できないことを意味します。さらに、VLI009とVLI079は主成分分析では、標本抽出されたボヘミアの中期銅器時代(バデンとリヴナックとGAC)個体群の遺伝的多様性の範囲外に位置し、有意により多くのHG祖先系統を有しており、前期CW社会の遺伝的に先CW女性の大きな割合(50%か、STD003とVLI008を含めるとそれ以上)はボヘミア外に由来する、と示唆されます。

 ボヘミアCW後期はボヘミアCW前期と比較して、有意に先CW銅器時代的祖先系統をより多く有する、と明らかになりました。しかし、この兆候は草原地帯祖先系統を有さない前期CW女性を含めると失われます。ボヘミアCW前期と比較しての、ボヘミアCW後期におけるこの追加の先CW銅器時代的祖先系統は、地元の供給源に由来するものとしては上手くモデル化されず、ボヘミアのCW遺伝子プールに地元以外の遺伝的影響が経時的にあった、示唆されます。これは、ボヘミア外に由来する遺伝的に先CWの女性と一致し、類似の量の先CW銅器時代的祖先系統を有するにも関わらず、ボヘミアCW前期(草原地帯祖先系統を有さない女性を含みます)とボヘミアCW後期がqpWave分析でクレード化しない、という知見により裏づけられます。

 経時的な常染色体の遺伝的変化に加えて、前期CWの異なる5系統から後期CWの優勢な(単一)系統へと移行する、Y染色体多様性の急激な減少が観察されます(図4A)。フォワードシミュレーションを用いて、Y染色体多様性の観察された減少を説明できる人口統計学的シナリオが調べられました。ボヘミアCW前期で観察された開始頻度を中心としたYHg-R1a1a1(M417)の開始頻度で人口集団のシミュレーションが100万回実行され、この系統が、閉鎖集団と任意交配のモデル下で500年の時間枠において、ボヘミアCW後期で観察される頻度(11個体のうち10個体)に達する妥当性が評価されました。

 その結果、妥当な人口規模の広範囲を考慮すると、この頻度変化が偶然に起きたという「中立的」仮説は却下されました。代わりに本論文の結果から示唆されるのは、YHg-R1a1a1は無作為ではない増加を経ており、この系統の男性は他系統の男性と比較して1世代あたり15.79%(4.12〜44.42%)多く子を儲けた、ということです。Y染色体頻度におけるこの変化は、同じ男性内の充分に網羅された常染色体124万ヶ所におけるアレル頻度の変化と比較して極端だと明らかになり、常染色体の遺伝的多様性と比較してY染色体に不均衡に影響を及ぼした過程が示唆され、このY染色体多様性の急激な減少の原因として人口集団のボトルネック(瓶首効果)は除外されます。以下は本論文の図4です。
画像

 本論文の結果から、前期CW男性のY染色体系統の多様性は、無作為ではない過程により取って代わられ、それは選択か社会的構造か外来のYHg-R1a1a1の流入であり、Y染色体多様性の崩壊を引き起こした、と示唆されます。新石器時代にさかのぼるY染色体多様性の同時に起きた減少は、ほぼ全ての現存YHgで観察されており、おそらくは男性を中心とした家系間の紛争増加に起因します(関連記事)。本論文は、社会的構造の変化(たとえば、厳密に排他的な社会規範を有する孤立した婚姻ネットワーク)が別の原因かもしれないものの、基礎となるモデルパラメータで区別することは難しいだろう、と考えます。初期CW個体群内の最大の遺伝的分化は、ヴリネヴェス(Vliněves)遺跡個体で見られます。ヴリネヴェス遺跡のPC2軸上のCW個体群で最も高い3個体と最も低い3個体間の遺伝的違いは、全ての現代ヨーロッパの人口集団の組み合わせ比較よりも大きくなります(図5)。以下は本論文の図5です。
画像


●鐘状ビーカー(BB)

 最初期のBB個体群は、主成分分析ではCWと類似の位置を占めており(図4B)、ある程度の遺伝的連続性が示唆されます。前期BB個体群(ボヘミアBB前期、平均年代が紀元前2400年以前で、3個体)の遺伝的起源を調べるため、先行する文化的集団と同時代の文化的集団との間の2方向混合としてモデル化されました。その結果、地元起源の裏づけが明らかになりましたが、外来の代替案を除外できませんでした。しかし、本論文のボヘミアBB前期集団はわずか3個体の女性で構成されているので、供給源人口集団を識別するための代表性と解像度が制約されているかもしれません。

 後期BB個体群(ボヘミアBB後期、紀元前2400年以後で、56個体)は、ボヘミアBB前期と比較して有意により多くの中期銅器時代的祖先系統を有する、と明らかになりました。この遺伝的変化を調べるため、ボヘミアBB後期がボヘミアBB前期と地元の中期銅器時代供給源の2方向混合としてモデル化され、ボヘミアBB前期と比較してボヘミアBB後期では追加の20%程度の地元の中期銅器時代的祖先系統の裏づけが見つかりました。

 前期CWとBBで見つかったY染色体系統間では、後期CWもしくはヤムナヤおよびBBの場合より密接な系統発生関係が観察されます。YHg-R1b1a1b1a1a(L151)は前期CW男性では最も一般的なY染色体系統で(11個体のうち6個体)、YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)の祖先的系統であり(図4A)、BBでは優勢な系統です。YHg-R1b1a1b1a1a2の(複数の)変異がボヘミアの前期CWのYHg-R1b1a1b1a1a男性の1人で生じたのかどうか、判断できませんが、ほとんどのボヘミアのBB男性はさらに派生的なYHg-R1b1a1b1a1a2(S116)とYHg-R1b1a1b1a1a2b1(L2)を有しており、何人かはYHg-R1b1a1b1a1a2c1(L21)派生的変異を有するイングランドの男性とは対照的です。これは、イギリスとボヘミアのBB男性が相互の子孫ではあり得ず、むしろ並行して多様化したことを示します。YHg-R1b1a1b1a1a2(P312)がボヘミアとイングランドの間のどこか、おそらくはライン川の近くで生じ、その後で北西と東方へ拡大した、とのシナリオは、古代のYHg-R1b1a1b1a1a(L151)の派生的系統の系統地理に関する本論文の理解と一致します。


●EBAウーニェチツェ文化

 ボヘミアにおけるEBAへの移行は、先行する後期BBと比較して、PC2軸の正の変化と関連しています(図4B)。ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)もしくはシベリア西部狩猟採集民(WSHG)を、時空間的に近接するボヘミアにBB後期に加えて第二の供給源として用いると、f3統計の混合は最も負の値となり、ボヘミアウーニェチツェ先古典期への北東部からの寄与が示唆されます。あり得る追加の供給源人口集団の適切な代理を見つけるため、ボヘミア・ウーニェチツェ先古典期が、地元のボヘミアBB後期とPC2軸上のより正の値を示すさまざまな供給源の2方向混合としてモデル化されました。

 その結果、ボヘミアBB後期とヤムナヤ、もしくはボヘミアBB後期とCWを含む混合モデルは却下されました。ボヘミアBB前期63.5%とボヘミアBB後期36.5%の2方向混合モデルは却下できず、前期BB系統からの大きな割合が示唆されます。前期BB系統は後期BB段階(紀元前2400〜紀元前2200年頃)ではほぼ標本抽出されていませんが、青銅器時代開始期のあり得る新たな系統を表しています。Y染色体データはさらに大きな置換さえ示唆します。後期BBでは100%だったYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)が、先古典期ウーニェチツェ文化では20%に減少しており、EBA開始期における少なくとも80%の新たなY染色体の流入が示唆されます。

 しかし、ボヘミアBB前期の解像度が限定的なため(小規模で低解像度で大きな標準誤差)、先古典期ウーニェチツェ個体群について代替モデルが調べられました。ラトヴィアBAを供給源に含めると全てのモデル化が改善し、2つの追加のモデルが裏づけられます。ボヘミアBB後期とボヘミアCW前期とラトヴィアBAの3方向混合は、47.7%という人口集団置換の控えめな推定値を裏づけるだけではなく、先古典期ウーニェチツェで見つかるY染色体多様性も説明し、その中にはボヘミアBB後期のYHg-R1b1a1b1a1a2(P312)と、ボヘミアCW前期のYHg-R1b1a1b1a1a1(U106)およびI2と、ラトヴィアBAのYHg-R1a1a1b(Z645)があります(図4A)。

 この新たな祖先系統の地理的起源は正確に特定できませんが、3点の観察結果が手がかりを提供します。第一に、全てのモデル適合性を改善するラトヴィアBA祖先系統は、究極的な北東部起源を示唆します。第二に、YHg-R1a1a1bはEBAの始まりにボヘミア(およびより広範なヨーロッパ中央部)で初めて出現します。YHg-R1a1a1bはそれ以前にはバルト海地域に固定されており、スカンジナビア半島のCW男性で一般的で、北部・北東部からの遺伝的寄与を裏づけます。第三に、ウーニェチツェの遺伝的外れ値であるYHg-R1a1a1bの男性個体VLI051は、青銅器時代(BA)のラトヴィアの個体群と類似しており(関連記事)、北東部からの移住の直接的証拠を提供します。

 先古典期から古典期へのウーニェチツェの遺伝的移行も検出され、それは紀元前2000年頃以後のウーニェチツェ個体群のPC2軸における減少に反映されており、qpWaveとf4統計で確認されました。ボヘミアのウーニェチツェ古典期個体群は、ボヘミアのウーニェチツェ先古典期と地元の銅器時代の供給源の混合としてモデル化できます。後期BBと先古典期ウーニェチツェとの間の遺伝的変化とは対照的に、Y染色体多様性はウーニェチツェの両期間(先古典期と古典期)を通じて類似しており、同化と微妙な社会的変化を示唆します。


●考察

 ボヘミアにおける高解像度の遺伝的時間区間により、文化的集団の前期と後期を区別して個々に研究することが可能となり(たとえば、CWやBBやウーニェチツェ)、草原地帯祖先系統到来前後のいくつかの大きな過程を解明します(図6)。本論文の密な標本抽出により、厳密な文化史的観点を通じて見るならば、文化的集団内の新しく重要でおそらくは「予期せぬ」変化の検出が可能となりました(CWやBBなど)。以前の研究では、新石器時代の始まりと終わりにおける主要な移民の解明としておもに解釈されてきましたが(つまり、侵入集団が遺伝的にひじょうに異なる期間です)、本論文の結果は、追加の大きな遺伝的置換を明らかにします。連続的かつ部分的な同時代の文化的集団の標本抽出により、漏斗状ビーカーとGACの拡大は、ウーニェチツェの起源と同様に、短期間での大きな遺伝的変化を伴っており、おそらくは移住により説明される、と示されます。以下は本論文の図6です。
画像

 前期CWは遺伝的にひじょうに多様で、一部はGACやヤムナヤと似ており、いくつかの個体は以前に標本抽出されたヨーロッパ中央部新石器時代の遺伝的多様性の範囲外に位置する、と示されます。そうした顕著に多様な兆候は、多様な文化的および言語的背景から、考古学的に類似しているものの多民族的もしくは複数社会への人々の密集の結果だった可能性があります。民族自認の重要な要素には、祖先系統と歴史とイデオロギーと言語が含まれます。草原地帯祖先系統の割合が高いか存在しない前期CW個体群間の遺伝的分化の水準(つまり、共通祖先以来の時間)は、長い生物学的孤立と、それ故の異なる歴史を示唆します。前期CWにおけるGAC的およびヤムナヤ的遺伝的特性の発見は、イデオロギー的に多様な社会(つまり、CWとは異なり、GACもヤムナヤも埋葬慣行で強い性差はありませんでした)から来た人々の統合を示唆します。GACとCW/ヤムナヤ個体群が異なる言語を話していた可能性はあり、それが意味するのは、ボヘミアの前期CW社会は明らかに異なる歴史を有しており、イデオロギー的に多様な文化に由来したかもしれず、異なる母語を話す人々が含まれていた、ということです。

 前期CW社会への草原地帯祖先系統を有さない個体群の同化過程は、女性に偏っていました。しかし、草原地帯祖先系統の最高量を有する個体群間でも女性が見つかっており(5個体のうち3個体、図2B)、移住してきたCW個体群間にも女性が存在したか、近隣のヤムナヤ集団から恐らくは同化されたことを示唆します(たとえば、現在のハンガリー)。前期CWにおける草原地帯祖先系統を有さない個体の発見は、先CWにおける草原地帯祖先系統を有する個体よりも一般的です(たとえば、先CWのGACではそうした個体が確認されていません)。同時代のGACとCWとの間の非対称的な遺伝子流動のこのパターンは、自分たちの共同体に重要な在来の知識(つまり、先CW文化からの知識)を有する人々を組み込むことでより多くの利益を得た、新来者(CW集団)を反映しているかもしれません。考古学的記録では、いくつかの地域におけるそうした知識(たとえば、土器製作や石材)の継続性が示されます。

 ヴリネヴェス遺跡は、高い草原地帯祖先系統を有する個体群と草原地帯祖先系統を有さない個体群間の相互作用の解明に重要です。ヴリネヴェス遺跡では、最初期のCW個体(紀元前3018〜紀元前2901年頃のVLI076)が見つかっており、VLI076は先CW個体群と遺伝的に最も分化していますが、ヴリネヴェス遺跡の標本抽出された前期CWの15個体のうち3個体は草原地帯祖先系統を有していません。興味深いことに、ヴリネヴェス遺跡とシュタッダイス(Stadice)遺跡の草原地帯祖先系統を有する個体と有さない個体との間の考古学的違いは観察されず、同じ考古学的文化内の、遺伝的に、および恐らくは民族的に多様な個体群の完全な統合が示唆されます。

 前期CWにおけるラトヴィアMN的祖先系統は、前期CWとヤムナヤの男性間で共有されるY染色体の欠如とともに、ヨーロッパ中央部へのCWの起源と拡大における既知のヤムナヤの限定的もしくは間接的役割を示唆します。本論文の結果は、前期CWへのヨーロッパ北東部銅器時代森林草原地帯(考古学的証拠の一部の解釈と一致する地域です)の寄与か、過剰なラトヴィアMN的祖先系統を有するこれまで標本抽出されていない草原地帯人口集団を示唆します。これは、紀元前3000年頃の草原地帯集団間の高水準の遺伝的均質性を考えると、ありそうにないことです。たとえば、ヤムナヤとシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)は、2500km離れているものの、遺伝的にはほぼ区別できません。紀元前4000〜紀元前2500年頃のヨーロッパ東部(北東部)の遺骸の大半は標本抽出されておらず、前期CW個体群の正確な地理的起源は理解しにくいままです。

 社会的親族制度は遺伝的多様性のパターンに影響を及ぼすので(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)、いくつかの異なる親族制度が紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部に存在したかもしれません。前期CWのひじょうに多様な遺伝的特性(常染色体とY染色体の両方)は、Y染色体パターンが厳密な父系を示唆する後期CWおよびBBとは異なる社会組織を示唆します。これが示唆するのは、さまざまな文化的集団が、多様な形態の物質文化と埋葬慣行を用いたことに加えて、その配偶パターンおよび/もしくは社会組織で表現されているような、異なるイデオロギーに従っていた可能性がある、ということです。これは、部分的に同時代の後期CWとBBとの間の完全に重複しないY染色体多様性の発見により裏づけられ、これら2集団間の父方の大規模な配偶孤立を示唆し、たとえばヴリネヴェス遺跡のように同じ遺跡でさえ見られます。

 先古典期ウーニェチツェ文化の始まりは、究極的には北東部に起源があり、後期CWとBBの性別による埋葬慣行の違いと厳密な父系を破壊した、40%以上の核DNAと80%以上のY染色体の寄与が伴いしました。これは、埋葬慣行でも物質文化でも明らかではありませんでしたが、バルト海地域との根底的なつながりを表しており、バルト海地域は、後に出現する琥珀路と関連する、ボヘミアにおけるEBAの琥珀の究極的な供給源だったかもしれません。したがって本論文の結果は、北東部からの遺伝的影響の2つの主要な期間(前期CWと前期ウーニェチツェ)を示唆し、その時期の人類遺骸の大半はヨーロッパの考古学的記録では標本抽出されていません(たとえば、ベラルーシなど)。

 本論文の結果は、新石器時代からEBAのヨーロッパ中央部の複雑でひじょうに動的な歴史を明らかにし、この期間には人々の移住と移動が急速な遺伝的および社会的変化を促進しました。大規模な人口拡大が、ヨーロッパにおける草原地帯祖先系統の出現の前後に複数回起きました。前期CW社会は多様で、強い文化的および遺伝的移行の最中に出現し、多様な起源とおそらくは民族性の男女が関わっていました。CWとBBとEBAの社会内では、物質文化の連続性にも関わらず、遺伝的変化が生じました。文化的役割が紀元前三千年紀の社会的行動に重要な役割を果たしましたが、究極的には経時的な新たな人々の流入に伴って変化しました。遺伝的多様性のパターンには社会的過程の影響が観察されますが、これらの変化の動因を小規模および大規模両方の地域的水準で特徴づけるには、さらなる学際的研究が必要です。


参考文献:
Papac L. et al.(2021): Dynamic changes in genomic and social structures in third millennium BCE central Europe. Science Advances, 7, 35, eabi6941.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abi6941

https://sicambre.at.webry.info/202108/article_31.html

14. 中川隆[-16590] koaQ7Jey 2021年9月05日 06:51:40 : FDWt7ypm4M : MW5mNThYUFZaaXc=[4] 報告
2021年09月05日
新石器時代と青銅器時代のクロアチアにおける人口史と社会構造
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_5.html


 新石器時代と青銅器時代の現在のクロアチアにおける人口史と社会構造エピに関する研究(Freilich et al., 2021)が公表されました。ヨーロッパ南東部のクロアチアは、連続した生態地域の多様な景観を有しており、東部のアドリア海沿岸と北部の温暖なパンノニア平原を隔てる嶮しい山々があります。クロアチアはヨーロッパ中央部とバルカン半島と地中海の接点に位置するため、アナトリア半島とエーゲ海と草原地域と黒海への経路として用いられてきており、北部の低地はカルパチア盆地を通ってヨーロッパへとつながっています。

 したがってクロアチアは、アナトリア半島西部からヨーロッパへの最初の移住農耕民にとって重要な回廊で、ヨーロッパ最初の農耕民はドナウ川沿いの内陸部とアドリア海沿岸東部の海岸経路を通ってヨーロッパの他地域に拡大しました。クロアチアはヨーロッパにおける人口集団と文化的変遷の理解に重要ですが、利用可能な人類遺骸が限定されており、先史時代人口集団の遺伝的祖先系統(祖先系譜、ancestry)と社会的複雑さについての詳細な知識は乏しいままです。

 以前の研究では、ユーラシア西部における中石器時代に続く遺伝的不連続性が示されてきており、それは初期農耕民の移住および農耕の拡大と関連しています(関連記事)。現在のクロアチアで発見された少ない古代人の刊行されたゲノム規模データで示されてきたのは、新石器時代と銅器時代の人々のゲノムがアナトリア半島の初期農耕民と類似の祖先系統を共有しているものの、一部の銅器時代個体と沿岸部青銅器時代個体群は、紀元前三千年紀にヨーロッパへと拡散した草原地帯牧畜民集団と関連する追加の祖先系統を示す、ということです。

 ヨーロッパ南東部の社会的複雑さの始まりは、考古学者の間で集中的に研究されてきた分野でもあります。古代DNA研究によりますます共同体内の社会組織が調べられてきており、過去の社会の居住パターンや生物学的親族関係や社会的地位が明らかになっています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。これらの研究では、たとえば、密接に関連した個体がヨーロッパ全域の後期新石器時代と青銅器時代の共同体において特定されてきており、多様性はミトコンドリアが高い一方でY染色体が低いことと関連しており、女性族外婚と父方居住の社会的組織が示唆されます。しかし、これまでクロアチアでは、そうした詳細で遺跡固有の研究はほとんど行なわれてきませんでした。

 現在のクロアチアの東部地域はパンノニア平原(カルパチア盆地とほぼ同義)の南端の境界を定めており、ドナウ川とサヴァ川とドラーヴァ川と他の大きな支流が交差しています。これらの支流には多くの先史時代集落があり、この地域の通交と交換のネットワークの重要な部分を形成しています。クロアチア東部における新石器時代の出現は、現在のセルビア西部および北方からカルパチア盆地にまで拡大したスタルチェヴォ(Starčevo)文化の到来にまでさかのぼりますが、沿岸部の遺跡では、前期新石器時代は紀元前6000年頃からのインプレッソ土器(Impressed Ware)文化の存在により示されます(図1)。

 紀元前5200年頃までに、スタルチェヴォ文化はソポト(Sopot)文化に取って代わられました。ソポト文化では、おもに子供や女性が家の床下や壁沿いか、集落内の他の場所に埋葬される、壁内埋葬の儀式が行なわれていました。古代DNA研究が対処できる一つの重要な問題は、そうした壁内埋葬には誰が選ばれ、生物学的親族関係が役割を果たしたのかどうか、ということです。さらに、遺伝的祖先系統と生物学的親族関係が、身体の位置や遺跡内の埋葬場所もしくは副葬品の分布など埋葬儀式における違いと関連しているのかどうか、解明し始められています。これらの埋葬の違いは、異なる社会的集団の存在を示唆し、故人もしくは会葬者の帰属もしくは業績の地位を表しているかもしれません。

 ヨーロッパ南部とトランスダニュービア(Transdanubia)東部では、後期新石器時代までに新たな埋葬慣行が生活空間から離れた墓の出現とともに現れました。これは被葬者間の増大する社会的分化を伴い、死者と人々の関係における重要な変化を示します。クロアチアの銅器時代(紀元前4500/4300〜紀元前2400年頃)には、現在のクロアチアにラシニヤ(Lasinja)文化やバデン(Baden)文化やコストラク(Kostolac)文化やヴチェドル(Vučedol)文化などの集落が見られ、交易ネットワークが成長し、身分の高い被葬者の出現に見られるように社会階層がより明確になりました。より明確な社会階層の発達は、現在のクロアチアでは紀元前2400〜紀元前800年頃となる青銅器時代における金属の使用増大と関連しているようで、社会的序列の上昇に伴い、ヨーロッパ東部草原地帯とエーゲ海地域とアナトリア半島からの移民がさらに増えます。

 パンノニア平原で共存していた多くの中期青銅器時代文化の一つがトランスダニュービア皮殻土器(Transdanubian Encrusted Pottery)文化(以下、TEP)で、これは現在のクロアチア東部において紀元前2000〜紀元前1500年頃に南北に分かれて存在していました。これまで、おもに火葬遺骸がTEPと関連して見つかってきましたが、今では新たに土葬遺骸が利用可能となって、その遺伝的および文化的構造の解明に古代DNAを用いることが可能となり、その遺伝的データを用いて、威信材の副葬品の分配で見られるような社会的地位についてより多くを知ることができます。

 本論文は、現在のクロアチア東部の2ヶ所の遺跡で発見された28個体の新たなゲノム規模データを提示します。その年代は中期新石器時代からローマ期(1個体)で、移住と混合の過程が、あまり研究されていないクロアチア東部のゲノム変化にどのような影響を与えたのか、調べられました。さらに、さまざまな期間の壁内埋葬地および壁外墓地の両方における異なる埋葬儀式の存在は、クロアチア東部において先史時代を形成した変化する生物文化的影響の文脈における、生物学的親族関係や人口統計学や社会組織への貴重な洞察を得る機会を提供します。以下は本論文の図1です。
画像


●標本と考古学的背景

 合計54個体が全ゲノムショットガン配列で調べられました。このうち、ベリ・マナスティル・ポポヴァ(Beli Manastir-Popova)遺跡(以下、BMP遺跡と省略)の中期新石器時代層の19個体が分析され(クロアチアPop_MN)、これはクロアチアでこれまで発掘された最大のソポト文化居住地遺跡を構成します。発掘された個体のほぼ半数は16歳未満で、亜成体の高い死亡率が示唆されます。これらの遺骸の2/3は女性でしたが、成人では男女が同数でした。ほとんどの個体は、大きな竪穴住居の壁に沿って、あるいは居住地内の他の竪穴に縮まった状態にて新石器時代埋葬儀式で葬られており、時には頭の近くに土器の副葬品や他の生活用用品が置かれていました。これらのうち3標本(POP07とPOP09とPOP14)には、比較的多くさまざまな副葬品が共伴しており、それらは家庭用や経済活動と関連する日用品で構成されています。別の4個体は、遺跡の東端に沿って、うつむけ若しくは仰向けになった状態で堆積しており、ほぼ副葬品はありませんでした。新たな放射性炭素年代が銅器時代の1個体(クロアチアPop_CA)とローマ期の1個体(クロアチアPop_RomanP)で得られました(図1a・b)。

 BMP遺跡から約12km南に中期青銅器時代のジャゴドヒャク・クルツェヴィネ(Jagodnjak-Krčevine)遺跡(以下、JK遺跡と省略)が位置し、TEP文化に分類されています。JK遺跡では土葬された7個体がさらに分析されましたが、同じ時期の火葬された30個体も発見されています。JK遺跡の土葬個体には、土器から金の装飾品までさまざまな程度の副葬品が含まれています。これらの新たな集団は、ユーラシア西部人口集団の既知のデータと共同分析されました。とくに比較対象となったのが、現在のクロアチアの複数遺跡の個体です。それは、同遺跡もしくは近隣地域では、中期新石器時代のオシイェク(Osijek)遺跡個体(クロアチアOsijek_MN)、銅器時代のBMP遺跡個体(クロアチアCroatia_Pop_CA)、より広範な地域では、銅器時代のラドヴァンチ(Radovanci)遺跡個体(クロアチアRadovanci_CA)やヴチェドル(Vučedol)遺跡個体(クロアチアVučedol_CA)、青銅器時代のダルマチア(Dalmatian)遺跡個体(クロアチアDal_BA)や、現在のハンガリーとバルカン半島のさまざまな期間の集団です。

 これら人類遺骸の錐体骨から最大1倍の全ゲノムショットガンデータが生成され、約124万ヶ所のゲノム規模一塩基多型を用いて擬似半数体が遺伝子型決定されました。遺伝的に15人の女性と13人の男性が特定されました(表1)。これらのデータが、既知の現代人1311個体および古代人1102個体と統合されました。これら現代人と古代人のデータに基づいて主成分分析が実行され(図2)、またADMIXTUREを用いて教師なし様式でクラスタ化が実行されました。


●新石器時代からローマ期への遺伝的変化

 本論文で新たに報告された個体群は主成分分析では、新石器時代農耕民集団と青銅器時代牧畜民集団との間に広がる、ヨーロッパ勾配に沿って位置します。クロアチアPop_MNは他のヨーロッパ南東部および中央部の新石器時代および銅器時代個体群と密接にまとまり、その中にはクロアチアのラドヴァンチ遺跡とヴチェドル遺跡の銅器時代個体群も含まれます。この個体群はさらなる分析でクロアチアの北東部銅器時代クラスタ統合され、アナトリア半島関連祖先系統(アナトリアN)からの主要な寄与とヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)関連祖先系統からのわずかな寄与を示す、類似のADMIXTURE特性を共有します。

 クロアチアPop_MNとクロアチアOsijek_MNが統合され、クロアチア北東部MNとまとめられてさらに分析されました。その後、外群f3統計(クロアチア北東部MN、検証集団;ムブティ人)で他の古代および現代のユーラシア西部人口集団と共有される浮動が検証されました。クロアチア北東部MNは、バルカン半島とヨーロッパ中央部の他の新石器時代人口集団およびサルデーニャ島現代人と、最も多くの遺伝的浮動を共有します。

 次に、ヨーロッパ人のゲノム多様性に寄与したと知られている、中石器時代狩猟採集民を表すWHGとアナトリア半島新石器時代農耕民を表すアナトリアNの遠位供給源を用いて、qpAdmで混合割合が定量化されました。クロアチア北東部MNは2.4±1%のWHGと97.6±1%のアナトリアNの混合としてモデル化でき、さらには100%のアナトリアNモデルがデータと適合し、これはバルカン半島とハンガリーの新石器時代集団におけるひじょうに低いWHGからの遺伝子移入を示す以前の研究と一致します(関連記事)。

 鉄門(Iron Gates)狩猟採集民(鉄門HG)をWHGの代わりに用いると、よく似た結果が得られます。DATESを用いて、これらの標本の前後関係の年代の前に、このWHGとアナトリアNとの混合が19〜42世代前に起きたと推定され、前期新石器時代に相当します。これは、追加のWHGからの遺伝子流動を示すヨーロッパ中央部および西部の中期新石器時代人口集団とは対照的に、中期新石器時代におけるクロアチアの人口集団の継続性をさらに裏づけます。以下は本論文の図2です。
画像

 新たな銅器時代個体POP39が、同じ遺跡と時代に由来する既知の個体I3499とまとめられました(クロアチアPop_CA)。主成分分析では、クロアチアPop_CAはPC2軸に沿ってさらに上に移動し、沿岸部ダルマチア遺跡の既知の青銅器時代3個体(クロアチアDal_BA)とまとまり、ブルガリアとハンガリーの青銅器時代個体群およびヨーロッパ南部現代人のゲノムの広範な分布に収まり、草原地帯関連祖先系統の存在が示唆されます。じっさい、qpAdmでの遠位混合モデル化では、71±8%のアナトリアNと29±8%のヤムナヤ・サマラ(Yamnaya_Samara)の寄与が推定され、新石器時代には欠如しているものの、ユーラシアの銅器時代と青銅器時代の人口集団間では広く見られる草原地帯関連祖先系統を表しています(図3a)。より近位の、広く同時代の先・草原地帯集団であるクロアチア北東部CA(64±8%)とヤムナヤ・サマラ(36±8%)では、より上手く2方向混合モデルが得られました(図3b)。

 新たに報告されたJK遺跡の中期青銅器時代個体群(クロアチアJag_MBA)のゲノムは、一般的な考古学的背景と主成分分析上のクラスタ化(図2)に基づいて、さらなる集団遺伝学分析では単一の人口集団とみなされました。PC1軸沿いにヨーロッパ西部および鉄門狩猟採集民に向かって顕著な移動が観察され、外群f3統計では最も多くの浮動が共有されます。供給源集団としてWHGとアナトリアNとヤムナヤ・サマラを用いての遠位混合モデル化は、クロアチアPop_CAとは対照的にクロアチアJag_MBAにおける大きなWHG構成要素(20±2%)を確証し、広く同時代のダルマチア遺跡青銅器時代個体で推定されたWHG断片の2倍以上です(図2a)。これは、その有意に正のf4検定(ムブティ人、WHG;クロアチアDal_BA、クロアチアJag_MBA)と一致します。JK遺跡集団は、より古いクロアチアPop_CAと比較してわずかに大きい草原地帯関連祖先系統も有しており(33±5%)、バルカン半島についての以前の知見と一致します。WHGを鉄門HGと置換すると、同等の結果が得られます。JK遺跡集団は主成分分析ではカルパチア盆地の青銅器時代人口集団の広範な分布やフランス人などヨーロッパ北西部現代人の左側に位置し、西方青銅器時代集団の痕跡の東方への拡大が示唆されます。

 ダルマチア遺跡青銅器時代個体群や他の個体群のゲノムに対するJK遺跡集団の異なる遺伝的類似性をさらに特徴づけるため、UMAPと既定のパラメータを用いて解像度を上げることで、クロアチアの新石器時代後の個体群のゲノム間の遺伝的下位構造が視覚化されました(図3c)。UMAPは遺伝的距離を直線的に反映していませんが、明確に定義されたクラスタが明らかになり、クロアチアPop_CAとクロアチアDal_BAは、おもに現在のイタリア北部人のゲノムとともに、ブルガリアとモンテネグロとルーマニアと一部のハンガリーの古代人ゲノムとまとまり、ヨーロッパ南部と一致する遺伝的特性を示します。qpWaveを用いた検定により、クロアチアPop_CAはダルマチア遺跡青銅器時代個体群にとって祖先系統の適した単一供給源を提供する、と確証されます。対照的にクロアチアJag_MBAは、ハンガリーとドイツとチェコとクロアチアの現代人のゲノムの左側に位置し、ヨーロッパ中央部の遺伝的痕跡が示唆されます。この一群における他の古代人ゲノムも、マコ(Makó)遺跡の前期青銅器時代個体やヴァタヤ(Vatya)遺跡の中期青銅器時代個体や後期青銅器時代個体に属する、カルパチア盆地の個体群を含みます。

 中期青銅器時代JK遺跡個体群に存在する過剰なWHG関連祖先系統から、この集団は追加のWHG関連祖先系統を有する人口集団の子孫で、それはより古いクロアチアの銅器時代もしくはダルマチア青銅器時代の個体群では欠けており、qpAdmモデル化と一致します(図3b)。考古学的証拠では、クロアチア東部の中期青銅器時代共同体とさらに北方の他の文化集団との間の交換ネットワークが示されています。カルパチア盆地におけるその年代と中核的分布、UMAPと主成分分析におけるクロアチアJag_MBAとのクラスタ化に基づくと、ハンガリーのマコ遺跡前期青銅器時代個体群(ハンガリーMakó_EBA)が、祖先系統の最も適切な祖先候補とみなされます。この選択は、クロアチアJag_MBAに対してWHGとの浮動の類似量を共有するハンガリーMakó_EBAによりさらに裏づけられます。じっさい、クロアチアPop_CA からの35±11%の寄与を有する2方向モデルとしてか、あるいは単一供給源として、ハンガリーMakó_EBAとの適したモデルが得られました(図3b)。以下は本論文の図3です。
画像

クロアチアJag_MBAについては、WHGとアナトリアNとの間の混合年代が、人口集団の放射性炭素年代と考古学的文脈の年代の統合より41±13世代前と推定されました。これは、銅器時代と重なる紀元前3424〜紀元前2412年の範囲と一致します。また、qpAdmを常染色体とX染色体に別々に適用して、祖先的構成要素の継承における性差の偏りの可能性が調べられました。その結果、有意な性差がないことと一致しましたが、こうした分析における大きな標準誤差は、低いか中程度の性差を隠す可能性があります。


●青銅器時代後の遺伝的変容

 JK遺跡とダルマチア遺跡の青銅器時代集団はどちらも、主成分分析では同地域の現代の人口集団に近くはなく、さらなる有意な人口集団変化がそれ以降に起きた、と示唆されます。本論文のBMP遺跡のローマ期の唯一の個体(クロアチアPop_RomanP)は、青銅器時代後のクロアチアの稀なゲノムデータ(関連記事)を提供します(図4a)。このBMP遺跡のローマ期の1個体は、主成分分析とUMAPでは、クロアチアとブルガリアとルーマニアの現代の人口集団とまとまる、と明らかになりました(図2および図3c)。

このクラスタ化をf4統計で調べると、この個体はヨーロッパの古代および現代の人口集団と比較して、現代クロアチア人とクレード(単系統群)化する、と確証されました。次にqpWaveで人口集団の継続性を検証すると、クロアチアPop_RomanPが現代クロアチア人およびブルガリア人もしくはハンガリー人との遺伝的クレード形成と一致しました。当時のより広範な人口集団を代表しているのか否か不明な単一個体に基づいていますが、このデータから、広く現代の遺伝的識別特性はすでにローマ期までに形成されており、さらなる人口集団の置換は以前ほどには顕著ではなかった、と示唆されます。


●人口集団内の遺伝的多様性と親族関係と人口統計学

 次に、個々の祖先系統、ハプロタイプ多様性、親族関係、ROH(runs of homozygosity)の分析により、と人口集団内の遺伝的不均質性と人口統計学パターンが調べられました(図4)。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。

 qpAdmでの個々の祖先系統モデル化は、全ての中期新石器時代個体間の高い遺伝的均質性を確証し、大半は、WHG関連祖先系統からの遺伝子移入がなかったか低かったことと、埋葬儀式間の有意な違いがなかったことを示します。JK遺跡中期青銅器時代個体群も構造化されていない祖先系統を示しますが、草原地帯関連祖先系統の割合では部分的により大きな程度の不均質性を示します。

 Haplogrepで分類されたミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプロタイプでは、BMP遺跡の新石器時代における高いハプロタイプ多様性が識別されました(表1、図4a)。1個体のmtDNAハプログループ(mtHg)はヨーロッパ狩猟採集民集団と関連するU5ですが、mtHgのほぼ60%はK およびT2系統です。これらのmtHgでは、mtHg-N1aおよびJとともに、クロアチア北部およびその隣接するカルパチア盆地の前期新石器時代のスタルチェヴォ文化および線形陶器(Linearbandkeramik)文化農耕共同体で報告された多様性のほとんどが見られ、遺伝的連続性が示されます。Y染色体ハプログループ(YHg)はYleafで分類され、同様に高度な多様性を示し、男性7個体は4つの異なるYHgで表されます(表1、図4a)。これらのうち、YHg-CおよびIは中石器時代人口集団で見つかりますが、YHg-G2aは一般的に新石器時代の拡大と関連しています。

 JK遺跡でも高いmtDNAハプロタイプ多様性が検出され、男性2個体はmtHg-T2b11の同じ定義変異を有していますが、中石器時代人口集団に存在する、mtHg-Uの下位3クレードとmtHg-Kの下位2クレードも見られます。YHgはG2aクレードに限定されますが、そのうち4個体は同じYHg-G2a2a1a2a2a1a(Z31430)です。第5の個体は変異決定の範囲を読み取れず、上位のハプロタイプに分類されます。これらの共有ハプロタイプは個体間の関連を共有しており、ゲノム規模親族関係分析でさらに調べられました。

 JK遺跡の個体群に関して、ペアワイズゲノム規模ミスマッチ率(図4a)では、JAG58がJAG06の一親等として特定され、その共有されるmtDNAとY染色体のハプロタイプは、この男性2個体が父子ではなく全兄弟(両親が同じ兄弟)だった、という解釈と一致します。さらに、JAG58はJAG34およびJAG82と二親等の関係にあります。JAG06とJAG34も、JAG78とJAG93の場合同様に、三親等もしくはそれ以上の親族関係を示す、ペアワイズミスマッチ率の低下が見られます。成人女性のJAG85は、親族関係が確認されていない唯一の個体です。

 中期新石器時代個体群間では一親等もしくは二親等の親族関係が特定されませんでしたが、BMP遺跡の個体POP05は、他の亜成体2個体(POP02とPOP04)とのより遠い親族関係を示す、低いペアワイズミスマッチ率が見られ、これら3個体は全て同じ竪穴住居に埋葬されています。POP05は、溝に埋まっていた年配男性のPOP24とも低いペアワイズミミスマッチ率を示します。これらのうち3個体も、同じmtHg-K1aを示します。高い近交係数は親族係数を上昇させますが、まとめると、これらの個体が同じ母系の一部だったことを示唆します。POP24も、POP02やPOP04やPOP07と遠い関連があるようで、同じYHg-I2a1b1(M223)を共有します。

 hapROH で4cM(センチモルガン)以上のホモ接合性の連続が推定され、近親交配の水準が評価されて、過去の配偶慣行が推定されました(図4a・c)。20 cM超の長いROHは最近の親族間配偶を示唆しますが、多くの短いホモ接合性の連続は、有効人口規模のより遠い制限を示唆します。中期新石器時代の8個体はROHを有さず、近親交配の欠如、したがって大きな配偶範囲を示します。しかし、残りの2個体(POP05とPOP09)は、多くの20 cM超となる長いROHを有しており、その合計は驚くべきことに95Cmを超えます。これは、POP05とPOP09がイトコもしくは同等の親族関係にある者同士の子供で、古代DNAの記録では珍しいことと一致します。別の3個体は、両親がマタイトコもしくは同等の親族関係同士であることを示す、20 cM超の長いROHをほとんど有していませんが、残りの個体は過去10世代以内の関連を示すROHを有しています。

 対照的に、JK遺跡個体群はROHの合計がずっと低く、20 cM超の長い連続はなく、全ての個体で短い連続がいくつかあり、より遠い関連が示唆されます。乳児のJAG93とJAG58は12cM超のROHを有しており、最大5世代前の両親の関連が示唆されますが、より短いROHがJAG58の一親等の親族であるJAG06で見つかっており、その混合特性に反映されている一部の不均質性を示します。銅器時代とローマ期の個体は、4cM以上のROHをほとんど若しくは全く示しません。以下は本論文の図4です。
画像

 最近の選択の対象となっている表現型特徴と関連する機能的一塩基多型(関連記事1および関連記事2および関連記事3)の分析の結果、より明るい皮膚の色素沈着(SLC45A2とSLC24A5)およびより明るい目の色(HERC2)の派生的アレル(対立遺伝子)が全期間の個体に存在する、と明らかになり、SLC24A5の派生的アレルは新石器時代に移住の結果として頻度が急速に増加した、とする以前の知見と一致します。さらに、ヨーロッパ人で成人期のラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する一塩基多型の祖先的アレル(LCT rs4988235)を全個体が有しており、成人期には乳糖を消化できなかった可能性が示唆され、ヨーロッパでは乳糖耐性が青銅器時代まで低頻度だった、とする以前の知見と一致します(関連記事)。


●考察

 本論文は、現在のクロアチアにおける人類集団の遺伝的構造の時空間的な変容を示しました。主成分分析におけるヨーロッパの勾配に沿ったゲノム分布は、何千年にもわたってヨーロッパ大陸全域を移動する人々にとって、現在のクロアチアが接触地帯として重要だったことを証明します。BMP遺跡のソポト文化共同体は、先行する前期新石器時代のスタルチェヴォ文化からの遺伝的連続性を示し、以前の知見を裏づけるとともに、銅器時代まで続く低水準のWHG関連祖先系統を示し、カルパチア盆地のいくつかの他の同時代人口集団の遺伝的特性を反映しています。さらに、BMP遺跡の銅器時代個体群は、ヴチェドル遺跡において、わずか60km離れた草原地帯集団到来前の銅器時代個体群と共存していただろう、現在のクロアチアにおける草原地帯関連祖先系統を有する人々の初期の存在を表しています。

 青銅器時代には、二つの遺伝的に異なるものの同時に存在した祖先系統が、異なる生態系地域で再度観察されます。セティナ(Cetina)文化と関連するダルマチア遺跡の2個体は、JK遺跡の最新の年代とほぼ同年代ですが、銅器時代BMP遺跡個体群と類似した祖先系統を有しています。この特性は、遺伝的に異なるJK遺跡個体群よりほぼ1000年遅いダルマチア遺跡の第三の個体でも持続しています。JK遺跡個体群と、さらに北方のヴァタヤ文化個体群との間で共有された遺伝的類似性は、高いWHG関連祖先系統により区別され、現在のクロアチア東部におけるカルパチア盆地と南部TEP共同体におけるさまざまな集団間の密接な相互作用と交換ネットワークについての考古学的証拠を裏づけます。

 TEP共同体の土器は近隣のヴァタヤ文化やカルパチア盆地のドナウ川沿いの他の同時代集団で見つかっています。さらに、その共有された類似性は、前期青銅器時代後期のキサポスタグ(Kisapostag)文化だと広く受け入れられている、共通の直接的前身についての考古学的証拠とも合致します。キサポスタグ文化自身は、広く分布するマコ・コシー・カカ(Makó-Kosihy-Čaka)文化複合の一部を基礎としています。したがって、これらの洞察は、ドナウ川とカルパチア盆地に沿って共存した、さまざまな中期青銅器時代文化単位間の関係についての長い議論に寄与し、現在のクロアチア東部とその隣接するカルパチア盆地の人口集団間の複数の期間にわたる遺伝的類似性を明らかにします。

 こうした時空間的関係を超えて、これらの共同体の人口統計学と社会組織への貴重な洞察が得られました。中期新石器時代遺跡全体の構造化されておらず均質な祖先系統は、多くの無関係な個体における高いハプロタイプ多様性および低いか全くない近親交配の兆候とともに、この共同体が大きく安定した族外婚人口集団であったことと一致し、現在のクロアチアにおける高い人口密度の考古学的証拠を裏づけます。しかし、この文脈では、ひじょうに密接な親との関係を示す、遺跡全体で散見されるわずかな個体も検出されます。5個体のうち4個体は同じmtHg-K1aに分類されますが、そのうち2個体(POP02とPOP05)は親族係数の上昇を示し、最大の竪穴住居で相互に隣接して埋葬されていました。まとめると、これらの個体は同年代だった可能性があり、同じ母系内の時として密接な親族単位の事例だったかもしれません。これらの個体を、遺伝的特性もしくは埋葬儀式の観点で同じ遺跡に埋葬された他の個体と区別する他の検出可能な違いはなく、これが社会的に受容された別の配偶選択だったことを示唆します。

 現在のクロアチアにおける壁内埋葬遺跡のこの最初のゲノム規模研究では、一親等もしくは二親等の親族関係が明らかになっておらず、POP05とPOP24のようにわずか数個体がmtHgと同様により遠い親族関係を共有しています。これはいくつかの母系関係の存在と、興味深いことに、溝に埋まった個体(POP24)と主要な壁内の場所に埋葬された他の個体との間のつながりも示唆しますが、密接な生物学的親族関係は埋葬の選択の基礎を形成せず、建物にともに埋葬された個体が拡大家族を表している、との提案に疑問を提供します。しかし、これが埋葬慣行の唯一の形態ではなく、生物学的親族は他の場所で埋葬されたかもしれません。

 子供、とくに少女の割合が高く、新生児の埋葬も多いことから、年齢と性別の選択および共同体の信念体系に基づく地位の付与を示している可能性が高く、その信念体系については、クロアチアにおける類似の新石器時代壁内遺跡に関してさまざまな説明がなされてきました。たとえば、建物は母系主義および祖先崇拝の考えと関連づけられており、社会の再生産と継続に結びついた空間であり、そこに埋葬されることで保護と繁栄がもたらされました。さらに、ここでは埋葬慣行との関連で遺伝的構造化は検出されません。

 副葬品の観点では、個人間の区別の表現は検定的で、埋葬の大半には土器の容器もしくは破片などの物質がほとんど含まれていません。しかし、さまざまな年齢と性別区分の少数の個体(POP07とPOP09とPOP14)には、社会的および経済的地位に基づく限定的な社会的分化を示すように見える、日常活動と関連する豊富な副葬品があります。これらのうち最年少個体は13〜15歳と推定されているので、全員が成人の作業に参加するのに十分な年齢で、それ故にこれらの個体がその地位を獲得したのか、それとも継承したのか知ることは困難です。

 居住区での屈葬と、おもに男性である溝の拡張埋葬も、検出された遺伝的祖先系統と相関しません。さまざまな溝での堆積の理由は不明ですが、本論文で見られるような混合した身体位置の存在は、パンノニア盆地の他のソポト文化遺跡で記録されており、さまざまな埋葬習慣と密着した社会的集団を表しているかもしれない、と提案されてきました。高い人口密度地域内のBMP遺跡における高度に族外婚の遺伝的特性を考えると、これを一つの可能な説明として除外できません。じっさい、新石器時代の埋葬儀式と人口構成は大きく異なると示されているので、BMP遺跡のようなより局所的な研究は、この現象の多様性についての理解を深めるのに役立つでしょう。

 JK遺跡におけるさまざまな副葬品が豊富に供えられた中期青銅器時代土葬の回収は、現在までしばしば火葬埋葬儀式と関連づけられてきた文化の遺伝的特性を調査する、稀な機会を提供します。他のTEP文化埋葬遺跡やより広くヨーロッパの青銅器時代埋葬と同様に、本論文は、新石器時代と比較して増加する社会的分化を示唆する、威信材で構成される副葬品を明らかにしました。まず、密接に関連する親族であるJAG06とJAG58との間の埋葬処置の違いが観察されます(図4a)。JAG06の埋葬には、多数の土器とともに石製の鏃や青銅製品や穿孔された貝殻が含まれていたのに対して、JAG58の墓はより大きくて深いものの、わずかな土器や頭蓋から下の骨で構成されています。埋葬儀式におけるこの明らかな違いは、生涯を通じて獲得した地位の違いを反映している可能性があるか、出生順位が富もしくは地位の継承の要因だったのかもしれません。しかし、これらの埋葬には二次走査の兆候があるので、一部の副葬品や骨格要素が一次堆積に続いて攪乱された可能性があり、慎重な解釈を要します。

 副葬品の数と種類の観点で最も豊富な墓の一つは、成人女性JAG85のものです。この墓は土器の容器と金製髪飾りや多くの他の青銅製品から構成されており、JAG85が生家もしくは婚姻関係を通じて獲得した高い社会的地位を反映しているかもしれません。ピンや宝石青銅製品など青銅製の個人的装飾品は、JK遺跡では男女両方の墓で見つかり、個人もしくは家族の地位か富を示している可能性が高い一方で、鏃は成人男性の墓でしか見つからず、社会における個人のさまざまな地位を示唆します。乳児2個体(JAG82とJAG93)の墓では豊富な副葬品が観察され、JAG93には金製ヘアリングが含まれています。これらの個体は、自身で富もしくは地位を獲得するにはあまりにも幼く、家族からの垂直継承が示唆され、それは他のTEP文化や青銅器時代のドイツとセルビアの他の文化でも観察されます。

 相対的に高いミトコンドリアハプロタイプの多様性と、関連する男性間のひじょうに低いY染色体多様性から、埋葬された個体は女性族外婚と、父方居住社会組織の順守により特徴づけられる共同体に属していた、と示唆され、これはヨーロッパの後期新石器時代および青銅器時代墓地でも観察されます(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。これらの人々の有するホモ接合性の短い連続は、おそらく有効人口規模の過去の制限に起因する、いくつかの遠い共有祖先系統を有する人口集団と一致します。

 全体として、2人の兄弟、多くのより遠い男性親族、1人の無関係で高い地位の成人女性の埋葬は、他の5人の標本抽出されていない土葬男性とともに、父方居住と女性族外婚のある男性系統での、性別の偏った埋葬慣行の存在の可能性を示唆します(関連記事1および関連記事2)。TEP文化を含む現在のクロアチア東部で記録されている多くの青銅器時代遺跡は、地域の人口集団の相互作用の源だった可能性があり、パンノニア平原の縁に住む中期青銅器時代共同体の複雑な模様を示唆します。


参考文献:
Freilich S. et al.(2021): Reconstructing genetic histories and social organisation in Neolithic and Bronze Age Croatia. Scientific Reports, 11, 16729.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-94932-9


https://sicambre.at.webry.info/202109/article_5.html

15. 2022年5月12日 10:11:28 : 8cG3vrNSlI : eUh1elJKdG9nN1U=[1] 報告
雑記帳
2022年05月11日
ウクライナのヴァーテバ洞窟のトリピリャ文化個体群のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202205article_11.html

 ウクライナのヴァーテバ洞窟(Verteba Cave)遺跡(VC)のトリピリャ(Trypillia)文化期の個体群のゲノムデータを報告した研究(Gelabert et al., 2022)が公表されました。ヨーロッパの新石器化は、劇的な技術的および文化的変化をもたらし、新たな生計慣行が含まれていました。この新石器化を説明するモデルには二つの主要分類群があります。人口拡散モデルは新石器化を農耕民による植民過程として説明し、それは新石器時代の急激な人口増加特色により促進されます。もう一方の分化変容モデルは、新石器化の過程を、移行の少なくとも一部は在来狩猟採集集団を伴ものとして概略し、在来狩猟採集集団は近隣の外来農耕民との相互作用期間におけるさまざまな長さの期間に続いて農耕を採用した、とされます。

 ヨーロッパの大半では、新石器化は顕著な人口置換として遺伝学的に定義され、アナトリア半島からの人口拡散と一致します(関連記事1および関連記事2)。アナトリア半島農耕民はバルカン半島とヨーロッパ南東部の他地域に紀元前七千年紀に到達し、その後に地中海、さらにその後にはドナウ川を経由してさらに拡大し、実質的に在来の中石器時代ヨーロッパ人口集団を置換しました(関連記事)。ヨーロッパ中央部とは対照的に、現在のウクライナとモルドバとロシア西部とルーマニアを含むヨーロッパ東部地域では、農耕は後期新石器時代(紀元前4500年頃)まで採用されませんでしたが、ヨーロッパ東部におけるさまざまな定住および半定住狩猟採集民中石器時代集団は、早くも紀元前8500年頃には土器の使用を始めました。

 ククテニ・トリピリャ(Cucuteni-Trypillia)文化複合(CTCC)は、現在のウクライナとモルドバとルーマニアの一部に存在した、相互に関連するいくつかの中石器時代と新石器時代および銅器時代の考古学的文化の分類です。CTCCはトランシルバニア・アルプスからドニエプル川まで広がっており、ルーマニアとウクライナのキーウ(キエフ)州のトリピリャ(Trypillia)の2ヶ所の標準遺跡に因んで命名されました。トリピリャはロシアではトリポリエ(Tripolye)としても知られています。ククテニ文化とトリピリャ文化は、プレククテニ(Precucuteni)文化に共通の起源があります。最初のCTCC遺跡はカルパチア山脈の麓で見つかり、プレククテニ2期となる最古の放射性炭素年代は紀元前4800年頃です。CTCCはいくつかのドナウ川新石器時代集団の相互作用に起源があり、家屋建築や土器様式や石器製作における類似性の証拠があります。

 カルパチア山麓のこの文化複合の起源に続いて、CTCCは最終的に現在のウクライナとモルドバとルーマニアの領域の大半にまたがる地域に広がりました。最初の診断できる前期トリピリャ(トリピリャA)遺跡は、ドニエストル川流域で紀元前4500年頃にプレククテニ文化から分岐しました。後の人口移動は中期となるトリピリャBI期以降に起き、トリピリャ文化は西方では現在のウクライナ北西部のヴォルィーニ(Volhynia)、東方ではドニエプル川にまで拡大しました。この領域拡大はおもに、成功した農耕牧畜生計戦略と関連する人口増加、および新たな耕作に適した土地の探索の結果と考えられています。

 しかし、一部の人口増加は、バグ・ドニエストル(Bug-Dneister)文化の構成員など在来の狩猟採集(HG)集団を組み込んだ、トリピリャ文化人口集団の産物だったかもしれません。人口増加の別の形態は、現在のルーマニアとハンガリーとブルガリアにおける新石器時代の崩壊に続く難民の文化変容だったかもしれません。トリピリャ文化の中期〜後期(トリピリャBII〜CI、紀元前4100〜紀元前3400年頃)には、一部のCTCC集団はウクライナ中央部でひじょうに大きな集落を確立しており、100〜320haの規模に達する「巨大集落」もしくは「巨大遺跡」とよく呼ばれます。紀元前四千年紀の変わり目の頃のCTCC内での急速な人口増加は、新たな領域の開発を必要とし、以前の周辺地域への移住を促進しました。とくに、巨大遺跡の台頭に関する仮説はさまざまです。草原地帯牧畜民もしくはCTCC内の競合する下位集団による脅威への防御反応だった可能性か、ドニエストル地域からの大規模な移住に起因する人口密集の一時的な事象を単純に表している、と提案されてきました。

 トリピリャ文化人口集団はウクライナ西部および中央部に高密度の集落を確立しましたが、埋葬はほとんど行なわれませんでした。ウクライナのチャパイエフカ(Chapaievka)とモルドバのヴィフヴァティンツィ(Vykhvatyntsi)など、トリピリャ文化後期のわずかな墓地が1960年代と1970年代に発掘されました。これらの遺跡によりトリピリャ文化の埋葬行動を垣間見ることができますが、その時間的範囲は限定的で、現代の実験室分析は行なわれていません。

 CTCCの起源とつながりと多様性をよりよく理解するため、ウクライナのテルノーピリ(Ternopil)州のヴァーテバ洞窟遺跡(VC)の3ヶ所の玄室からヒト遺骸が収集されました。VCは、CTCCと関連するヒト遺骸を含む数少ない遺跡の一つです(図1)。ヒトと非ヒト動物遺骸の加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)放射性炭素年代測定法により、VCのトリピリャ文化期は紀元前3950〜紀元前3520年頃と位置づけられました。洞窟に存在する土器群と低解像度の液体閃輝走査法(scintillation)に基づくと、洞窟の居住はトリピリャ文化後期(CII)と前期青銅器時代の移行期へと続いた可能性があります。最近では、AMS放射性炭素年代測定により、中石器時代(紀元前7950〜紀元前7490年頃)と青銅器時代と鉄器時代と中世にまたがる、洞窟のさまざまな位置の堆積物も特定されました。

 骨格群はVCの3ヶ所の別々の玄室で採集されました(図1)。これらの玄室にはそれぞれCTCC物質文化が含まれますが、洞窟の埋葬は本質的には二次的で、古代のヒトの活動と生物攪乱により、洞窟の使用と年代の再構築が複雑になっています。本論文で分析されたほとんどの個体はVCの遺跡7(図1B)で発見され、遺跡7は土器分析と放射性炭素年代測定により広範に記載されており、トリピリャ文化期のCIとCII初期が居住の最盛期です(紀元前3900〜紀元前3350年頃)。洞窟の使用に関する解釈は、一時的な待避所や儀式場や埋葬場などさまざまです。洞窟の埋葬は大半が混ざり合って本質的には二次的で、戦争や生贄の犠牲者を表している、との考えを裏づける追加の証拠があります。以下は本論文の図1です。
画像


 トリピリャ文化人口集団の古遺伝学は、8個体の片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)とゲノム規模分析に限定されています。古代ユーラシアの農耕集団に典型的なmtDNAハプログループ(mtHg)はH・HV・T・K・Jで、洞窟で収集されたこれらの個体群で観察されました。以前の研究では、単一玄室内でmtHg-Wの証拠が見つかり、これは縄目文土器(Corded Ware)文化およびヴォルガ川中流域のウーニェチツェ(Únětice)文化と関連する草原地帯人口集団で観察されます。

 CTCC個体群のゲノム規模分析では、前期新石器時代農耕集団の遺伝的構成要素(推定60〜80%)が示され、ウクライナ西部および中央部に居住した初期農耕民はアナトリア半島およびヨーロッパ西部の農耕民と同じ供給源人口集団にほぼ由来する、と確証されました(関連記事)。残りの20%は、さほど確実ではありません。以前の研究では、この祖先的構成要素が、新石器時代のこの地域に居住していた狩猟採集民集団で見つかる、ヨーロッパの西部狩猟採集民(WHG)と東部狩猟採集民(EHG)の混合と明らかになりました。

 以前の研究では、ヴァーテバ洞窟より放射性炭素年代で5世紀新しい、モルドバ北部の紀元前3500〜紀元前3100年頃となるトリピリャ文化後期の2ヶ所の別々の遺跡に埋葬された4個体のゲノム規模データが回収され、草原地帯関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合がより大きいものの、標本抽出された個体でのその割合はさまざまと明らかになりました(関連記事)。この観察は、少なくともモルドバの集団については、在来の中石器時代および新石器時代狩猟採集集団のトリピリャ文化人口集団への漸進的同化により説明できます。

 トリピリャ文化の集落体系は、ヨーロッパ中央部および草原地帯の人口集団の両方と相互作用しました。草原地帯との相互作用の証拠は貝殻で捏ねた土器で見つかり、草原地帯様式土器と類似しています。これらの一部は草原地帯の遺跡で見つかる土器とほぼ同じに見えますが、他の土器はCTCC装飾文様と貝殻で捏ねることを組み合わせています。石製の矛の先端など草原地帯共同体により影響を受けたか、草原地帯共同体から直接的に輸入された象徴的物質は、トリピリャ文化の中期〜後期の一部の遺跡で見つかり、土器交換は早くもトリピリャ文化BII期で明らかです。

 間違いなく、トリピリャ文化の人口集団とドニエプル・ドネツ文化との間の相互作用はある程度ありましたが、トリピリャ文化とその後のヤムナヤ(Yamnaya)遺構との間の同時性は、ひじょうに短かった可能性が高そうです。しかし、それにも関わらず、一部のトリピリャ文化人口集団は、草原地帯共同体人口集団と持続的に接触していた可能性が高そうです。興味深いことに、紀元前3400年頃以後、トリピリャ文化の巨大遺跡はほぼ放棄されました。この放棄の原因は広く議論されてきており、一つの仮説は、草原地帯人口集団の西方への拡大に起因する紛争増加です。そうした仮説は、ヴァーテバ洞窟で発見された暴力的な死の高頻度の証拠に裏づけを見出すかもしれません。

 本論文は、ヴァーテバ洞窟に埋葬された20個体からゲノム規模配列データを回収し、そのうち8個体は直接的にAMS放射性炭素年代測定法が適用され、その年代は紀元前3790〜紀元前825年頃でした。本論文はこのデータを用いて、以下の問題を具体的に検証します。(1)以前の研究で示唆されたように、在来狩猟採集民との混合の証拠はありますか?(2)以前の研究(関連記事)よりも高い網羅率の拡張データセットを用いて、トリピリャ文化人口集団の新石器時代の祖先構成要素を識別できますか?つまり、トリピリャ文化人口集団は、アナトリア半島か線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)か他の初期農耕民とより類似していると示せますか?(3)CTCC個体群は草原地帯人口集団との近くに居住していたので、ヤムナヤ文化もしくはより古い草原地帯人口集団との遺伝的混合の証拠はありますか?(4)この地域の後の青銅器時代人口集団は、ヴァーテバ洞窟のCTCC集団と遺伝的類似性を共有していますか?


●標本

 標本20点のうち8点では直接的に放射性炭素年代測定され、遺跡7のうち6点(VERT-035、VERT-106、VERT-031、VERT-100、VERT-104、VERT-015)が紀元前3790〜紀元前3535年頃の後期銅器時代、1点(VERT-113)が紀元前1960〜紀元前1770年頃の中期青銅器時代(MBA)、遺跡17の1点(VERT-114)が紀元前980〜紀元前紀元前825年頃の後期青銅器時代(LBA)です。配列された標本では0.2〜2.2倍のゲノム網羅率が得られました。全個体で分子的な性別を決定でき、8個体が女性、12個体が男性でした。分子的な性別と形態学的性別は全て一致します。分析されたデータでは、親族関係は特定されませんでした。


●片親性遺伝標識

 一般的に銅器時代に由来すると考えられている分析された個体のmtHgは、T2b・H・HV・K1・N1・J1・U5・T2cです。中期青銅器時代(MBA)標本はmtHg-HVで、ヨーロッパ青銅器時代個体群と同様に、ALPC(ハンガリー平原東部LBK)などいくつかの新石器時代文化で典型的です。後期青銅器時代(LBA)1個体はmtHg-T2で、複数の青銅器時代個体および文化とも関連しています。これらのmtHgはヨーロッパの新石器時代と青銅器時代の人口集団で典型的に見られます。Y染色体ハプログループ(YHg)はG・I・Cを示し、ヨーロッパの新石器時代と青銅器時代の人口集団でも以前に報告されてきました。全個体のmtHgとYHgは両方、以前に報告されたデータと完全に一致します。


●集団遺伝学

 ヴァーテバ洞窟(VC)個体群を現代および古代のユーラシア人口集団内に位置づけるため、ヨーロッパと地中海沿岸の現代人729個体で構築された主成分分析(PCA)が用いられました。VCの20個体のゲノムとともに、追加の古代人478個体のゲノムがPCAに投影されました。VCの20個体のうち18個体は、LBKとヨーロッパ中央部の中期〜後期新石器時代標本やモルドバのトリピリャ文化個体群など、新石器時代および銅器時代のヨーロッパ人口集団の近くに配置されます(図2A)。PCAは、新たに報告されたトリピリャ文化の18個体と、以前に配列されたVCのトリピリャ文化4個体とり間の極度の類似性も証明したので、これら22個体はVCトリピリャとして分類され、さらにまとめて分析されました。

 青銅器時代2個体は明らかな外れ値です。VERT-114個体は鐘状ビーカー個体群の多様性内に収まり、チェコとハンガリーとポーランドの鐘状ビーカー集団と近い位置にあるようです。個体VERT-113はヨーロッパの縄目文土器文化およびスルブナヤ(Srubnaya)文化人口集団に近いようで、草原地帯標本との強い類似性を示します。次にqpWaveを用いて(主要なまとまりから22標本のみ使用)、トリピリャ文化人口集団における構造の存在が調べられました。その結果、トリピリャ文化人口集団の構造の存在が示されました。したがって、閾値0.05を用いた残りの統計的に有意な組み合わせの差を示した個体はいなかったので、全標本がまとめて分析されました(図2B)。以下は本論文の図2です。
画像

 次にADMIXTUREを用いて、VC個体群の遺伝的多様性が調べられました。銅器時代標本で類似性を示した主成分分析でVCトリピリャと分類された22個体は、アナトリア半島新石器時代個体群で優勢な祖先構成要素によりほぼ定義され、以前の研究と同様に(関連記事1および関連記事2)、ヨーロッパ新石器時代人口集団との強い関係が示唆されます。しかし、これらの標本は以前の研究で示されたようにEHGとコーカサス狩猟採集民(CHG)とWHGの存在も示し、例外はEHGとCHGの祖先系統が欠如しているようである1個体(I3151)です。後期青銅器時代(LBA)の1個体(VERT-114)は顕著なアナトリア半島新石器時代構成要素と、EHG構成要素の大きな存在を示します。中期青銅器時代(MBA)1個体(VERT-113))は、縄目文土器文化およびヤムナヤ文化の草原地帯人口集団との高度の類似性を示します(図2C)。

 次に、f統計を用いてVC個体群の遺伝的類似性が調べられました。f3外群統計を用いて、他の古代ヨーロッパ人口集団に対して検証された、VCトリピリャ、VERT-114、VERT-113の共有される遺伝的浮動量が定量化されました。全体的に、VCトリピリャ個体群は新石器時代ヨーロッパ人口集団とより多くの派生的一塩基多型(SNP)を共有しました(図3)。VERT-114個体は、後期新石器時代および青銅器時代人口集団に対してと共に、狩猟採集民人口集団との高水準の派生的SNPを示します。次にVERT-113個体は、狩猟採集民人口集団およびヨーロッパの縄目文土器文化などいくつかの草原地帯関連人口集団と派生的SNPを共有します。以下は本論文の図3です。
画像

 f4統計とqpAdmが実行され、遺伝子流動の方向性が推定されるとともに、祖先系統構成要素が定量化されました。外れ値を除くVCトリピリャの遺伝的構成と、VCトリピリャ集団の遺伝的混合の考えられる供給源を理解するため、いくつかの検定が実行されました。まず、CTCC個体群と年代の近い人口集団を用いて、qpAdmが実行されました。その結果、5モデルが機能し、最も単純なモデルは、ハンガリー後期C・EBAバーデン・ヤムナヤ祖先系統を約93%に加えて、ヤムナヤ関連人口集団からの7%を含み、ハンガリー後期C・EBAバーデン・ヤムナヤも草原地帯祖先系統を有しているので、トリピリャ文化人口集団と草原地帯人口集団との間のつながりが証明されます(図4)。次に、f4統計(ムブティ人、VCトリピリャ;ロシア・サマラEBAヤムナヤ、ウクライナEBAヤムナヤ)を用いて、特定の草原地帯関連人口集団との考えられるつながりが検証され、トリピリャ文化個体群とウクライナもしくはロシアのヤムナヤ人口集団とは統計的に関係していませんでした。以下は本論文の図4です。
画像

 次に、同じ個体群が調べられましたが、今回はCTCC遺伝子プールに寄与したかもしれないさまざまな基底部祖先系統を表している人口集団、つまりEHGとCHGとアナトリア半島N(新石器時代)とWHGとウクライナNが用いられました。その結果、1モデルだけが機能し、アナトリア半島N関連祖先系統を40%、WHGを20%、CHGを40%含みます。これらの結果は以前の研究でもよく似た割合で観察されましたが、モルドバのトリピリャ文化個体群では適していませんでした。

 VCトリピリャ22個体の狩猟採集民構成要素の考えられる供給源を調べるため、f4統計(ムブティ人、VCトリピリャ;ウクライナN、シベリア鉄門中石器時代)と(ムブティ人、VCトリピリャ;ウクライナN、コロス狩猟採集民)と(ムブティ人、VCトリピリャ;ウクライナN、コロス狩猟採集民)と(ムブティ人、VCトリピリャ;コロス狩猟採集民、シベリア鉄門中石器時代)が調べられました。その結果、コロス(Koros)狩猟採集民がウクライナのトリピリャ文化個体群と最高の遺伝的類似性を有するWHG供給源と示されます。

 ヨーロッパ中央部銅器時代人口集団と比較すると、銅器時代VC個体群は、f4統計(ムブティ人、VCトリピリャ;ハンガリー後期C・EBAバーデン・ヤムナヤ、トリピリャ・モルドバ)で示されるように、モルドバのCTCC人口集団と統計的に有意な類似性を共有していないようです。qpAdmでも、ウクライナNとWHGは、ハンガリー後期C・EBAバーデン・ヤムナヤに加えて、VCトリピリャへの狩猟採集民関連祖先系統の可能性が高い2つの供給源です。f4統計(ムブティ人、VCトリピリャ;ウクライナN、WHG)はWHGへの明確な傾向を示しており、VC個体群における在来の狩猟採集民からの祖先系統の存在がほとんどないことを示唆します。

 異なる個々の祖先系統構成要素を検出するため、qpAdm検定がVC22個体で個々に実行され、そのほとんどが、トリピリャ・モルドバかハンガリー後期C・EBAバーデン・ヤムナヤかハンガリー後期新石器時代(LN)ティサ(Tisza)の単一の供給源でモデル化できる、と示されます。これは、そうした人口集団が全て草原地帯構成要素の存在を示すので、草原地帯祖先系統を有するLN人口集団について、明確な類似性を示唆します。驚くべきことに、VCトリピリャ文化個体群は単一の供給源としてトリピリャ・モルドバを用いてモデル化できます。

 これらの個体の考えられる供給源間で統計的に有意な違いがあるのかどうか調べるため、f4統計(ムブティ人、VC個体;ハンガリー後期C・EBAバーデン・ヤムナヤ、トリピリャ・モルドバ)が個々に実行されました。その結果、1個体(VERT-035)のみがトリピリャ・モルドバとよりもハンガリー後期C・EBAバーデン・ヤムナヤの方と統計的に関連しており、ウクライナにおけるトリピリャ文化個体群内のある程度の変動性の存在が示されます。一般的な人口集団に対して行なわれたように、遠位供給源(EHG、CHG、アナトリア半島N、WHG、ウクライナN)を用いてqpAdmも実行されました。その結果、個体のほとんどはアナトリア半島Nに20%程度のWHG/ウクライナNを用いてモデル化できる、と示されます。f4統計(ムブティ人、VC個体;ウクライナN、WHG)が個々に実行されると、統計は違いを示しませんが、人口集団水準でのWHGとの類似性は、f統計に基づく評価の実行に、大規模な標本が重要だと明らかにします。

 MBAとなるVERT-113個体は草原地帯関連祖先系統の明確な兆候を示し、データセットでは、この祖先系統の強い流入を示す唯一の個体です。VERT-114個体での同じ検定は、統計的に有意ではありません。関連して、f4統計を用いるいと、ウクライナ・ヤムナヤに対するロシア・ヤムナヤへの大きな類似性が観察されます。さらに、f4統計(ムブティ人、VERT-113;ウクライナN、WHG)により示されるように、これは狩猟採集民関連祖先系統の供給源として、WHGに対してウクライナNへの大きな類似性を示す唯一の個体です。

 基底部祖先系統を用いてのqpAdmの遠位モデルにより明らかにされるのは、VERT-114個体が最大でウクライナNを33%とCHGを66%示すことで、大量の草原地帯関連祖先系統を裏づけます。年代の近い人口集団でモデル化すると、VERT-114個体は縄目文土器文化と関連する単一の供給源を必要とします。しかし、この兆候が、スルブナヤ文化個体群など、遺伝的に類似していながらVERT-113個体とより時空間的に近い人口集団に対応しているのかどうか、f4統計(ムブティ人、VERT-113;ポーランド南東部縄目文土器文化、ロシア・スルブナヤ文化)を用いて評価しようとしたものの、結果は、統計的関係がないことを示し、スルブナヤ文化起源を裏づける証拠はない、と示唆されます。

 LBAに近いVERT-114個体は、PCAとADMIXTUREでは鐘状ビーカー人口集団と近い遺伝的位置を示しました。VERT-114個体は、EHG人口集団からよりもWHG人口集団の方からの祖先系統の流入が多いことを示し、これはVC22集団で得られた結果と類似しています。VERT-114個体のqpAdmの結果は、単一の供給源として鐘状ビーカー人口集団との単一のモデルが機能する、と示します。2方向モデルの多くは、ウクライナの球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)人口集団および草原地帯人口集団と関連する人口集団を含み、その祖先系統の割合は、前者が約60%で後者が約40%です。

 VERT-114個体と、その同年代のキンメリア人(Cimmerian)との間のあり得る関係も調べられました。キンメリア人は現在のウクライナに紀元前1000年頃に定着しました。f4統計(ムブティ人、VERT-114;モルドバのキンメリア人SG、ポーランド南東部縄目文土器文化)および(ムブティ人、VERT-114;モルドバのキンメリア人SG、ハンガリーEBA鐘状ビーカー)は両方、キンメリア人よりも鐘状ビーカー個体群へのVERT-114個体の明確な類似性を示しました。VERT-114個体は、トルコN(67%)とウクライナN(33%)との間の混合としてもモデル化できます。

 以前の研究で提示された手法を用いて、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)の存在が調べられました。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。検証された標本は、ROH下のゲノム部分がごくわずかしか示さない、と観察され、大規模な人口集団の一部だったことを意味します。例外は長いROH断片を示したVERT-100個体で、親族関係の両親の子供だった、と示唆されます。


●表現型位置

 代謝や色素沈着や病原体抵抗性の表現型形質と関連する、105ヶ所のSNPが遺伝子型決定されました。これらの遺伝子型から、検証されたVC個体は、全員がSNP(rs4988235およびrs182549)の非耐性多様体を同型接合で有しているので、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)を有していなかったことが明らかです。また興味深いのは、VC個体群では2個体を除いて大半が青色の目と関連するSNP(rs12913832)の多様体を有しており、2個体は濃い色の目と関連する多様体を有していたことです。


●考察

 CTCCは、ヨーロッパ東部に農耕をもたらした重要な考古学複合です。先行研究では、CTCCのゲノム記録はVCの4個体とモルドバの4個体だけで構成されていました。それにも関わらず、以前に報告されたCTCC内の多様性では、CTCCの遺伝的多様性に関するより多くの研究が、その起源と動態と崩壊の理解に必要と示されていました。最近の研究では、特定の遺跡に焦点を当てた大規模計画の有用性と関連性が明らかにされました(関連記事)。

 本論文は、VCに埋葬された紀元前四千年紀と二千年紀と千年紀の20個体のゲノムデータを提示しました。これらの個体の遺伝的分析は、前期青銅器時代と後期青銅器時代両方での重要な遺伝的入替を明らかにしました。将来、これらの観察を明らかにするためにはより多くの個体が配列されるべきで、とくに紀元前三千年紀以降の個体をより多く得る必要があります。それは、青銅器時代のウクライナのゲノム記録が限定的で、紀元前三千年紀と紀元前二千年紀では6個体からしか得られていないからです。先行研究では、少なくとも中石器時代から現代まで繰り返し利用されたことに起因するVCの多様な物質の存在が論証されていたので、重要なことに、ひじょうに関連性の高い8個体の新たな放射性炭素年代も本論文では提供されます。

 CTCC個体のmtDNA超可変領域I(HVRI)の以前の分析は、初期新石器時代集団との密接な母系祖先系統を示唆し、H・HV・T・V・J・Kなど新石器時代「一括」を表す系統が伴います。mtHg-U5aの2個体を除いて、本論文の分析に含まれる他の18個体は全て、ヨーロッパ中央部新石器時代集団と類似したmtHgを示します。この多様性は、mtHg-Uのみのウクライナのそれ以前の非農耕新石器時代遺跡の個体群とはひじょうに対照的で、それ以前の中石器時代狩猟採集民との連続性の結果かもしれません。mtHgの多様性から、在来人口集団はトリピリャ文化と関連する人口集団によりほぼ置換された、と示唆されます。VC個体群の大半はYHg-G2a2を示し、これはアナトリア半島関連新石器時代ヨーロッパ個体群に広く存在します。他の特定されたYHgはC1とI2で、ヨーロッパ新石器時代人口集団でも報告されており、性別の偏りのある移住の過去がないCTCC個体群の起源を示し、青銅器時代における草原地帯からの移住とは対照的です(関連記事)。

 集団遺伝学的分析から、紀元前3790〜紀元前3535年頃となる後期新石器時代にVCに埋葬された個体群は、既知の他のCTCC個体群と遺伝的に類似しており、モルドバの他の既知のCTCC個体群と密接に関連している、と示唆されます。これらの観察から大まかには、銅器時代CTCC個体群は、同じか密接に関連した人口集団の子孫だった、と示唆されます。その起源集団はヨーロッパの大半で新石器文化を広め、狩猟採集民関連祖先系統で構成され、それ以前のウクライナの中石器時代もしくは新石器時代集団とは混合の兆候がなく、具体的にはハンガリーのバーデン(Baden)個体群を示します。じっさい、トリピリャ文化個体群の大半は、草原地帯祖先系統を有するヨーロッパの銅器時代人口集団によりモデル化できますが、20個体のうち4個体はモルドバのトリピリャ文化個体群としてモデル化できます。qpAdmモデル化でのこれらの結果から、VCのトリピリャ文化個体群の祖先系統構成に違いがあり、個体の狩猟採集民の割合と関連している可能性があるものの、この変動性はさまざまな人口集団へと個体を区別するのに充分ではない、と示唆されます。

 CTCC個体群の先行研究は、CTCC関連集団の狩猟採集民構成要素の明確な起源を提供できませんでした。本論文では、ウクライナNとWHGを含むモデルが機能しているように見える観察にも関わらず、f4統計はその狩猟採集民構成要素の供給源がおもにWHGだろう、と示唆します。さらに、供給源としてEHGを用いる単一のqpAdmモデルは機能せず、その観察を裏づけます。トリピリャ文化個体群で見つかるWHG祖先系統の顕著な割合(最大18%)は、ヨーロッパ中央部の他の中期新石器時代人口集団で見られる狩猟採集民の「回復」と関連しているかもしれず、CTCCの起源に先行するアナトリア半島関連新石器時代集団に由来するより高いWHG構成要素をすでに有していた、西方の集団との混合の可能性が高そうです。これは、ウクライナの狩猟採集民の新石器時代集団が、トリピリャ文化個体群に多くの祖先系統をもたらさなかったことも示唆します。さらに、モルドバで明らかになったように(関連記事)、これらの個体における草原地帯関連祖先系統の存在も観察されますが、VC個体群におけるその割合はより低く、紀元前四千年紀において、東方から西方への次第に増加するヤムナヤ文化関連祖先系統からの継続的な波を示唆する個体群の年代と相関するかもしれません。

 紀元前1960〜紀元前1770年頃となるMBAのVERT-113個体は、それ以前のCTCC個体群とはかなり異なる祖先系統特性を有しています。VERT-113個体は、有意に多いコーカサス狩猟採集民/ヤムナヤ祖先系統とEHG祖先系統を示すので、ヤムナヤ文化の拡大と関連していました。qpAdmの結果はVERT-113個体とポーランドの縄目文土器文化人口集団との間のつながりを示唆し、両者の間の類似性が示されます。また、VERT-113はWHGとよりもウクライナNの方とより高い遺伝的類似性を示す唯一の個体で、紀元前二千年紀にMBAを創始した人口集団が、ウクライナN人口集団と類似性を共有していたかもしれない、と示唆します。

 興味深いことに、LBAのVERT-114個体は、f3値によると、ヤムナヤ文化牧畜民と明確に関連するMBAのVERT-113個体と多くの遺伝的つながりを示しません。VERT-114のゲノム構成は、鐘状ビーカー現象の終焉よりほぼ1000年新しく、キンメリア人もしくはスキタイ人の方と年代がより近いにも関わらず、ビーカー関連人口集団との関係を示唆します。しかし、これらの文化集団とのqpAdm モデルは機能せず、f4結果はキンメリア人よりも鐘状ビーカー個体群との類似性を確証しているようです。強い西方との類似性を有するVERT-114個体の遺伝的背景は、LBAにおける草原地帯への西方からの流入の証拠を裏づけます(関連記事)。紀元前三千年紀のVCおよびその周辺地域の個体のさらなる配列と分析が、CTCC関連個体群により放棄された後のVCの使用の調査に重要でしょう。

 本論文の古ゲノム分析結果は、ヨーロッパ極東部の新石器化過程の理解に重要な意味を持ちます。CTCC人口集団はルーマニアとモルドバからウクライナ西部および中央部の森林草原地帯地域へと拡大するにつれて、おもに採食を生計体系とする在来のバグ・ドニエストル文化と関連する人口集団と接触するようになったでしょう。この集団は、中石器時代狩猟採集民の子孫だった可能性が高そうです。VC個体群の古ゲノミクスから、在来の中石器時代狩猟採集民は後のトリピリャ文化祖先系統に顕著には寄与せず、ウクライナ西部における新石器化の過程は、農耕慣行の在来民による採用ではなく、かなりの移住の産物だったことを示唆します。

 本論文の結果は、森林草原地帯の定住農耕民とその近隣のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からの遊動的な牧畜民との間に、長期にわたって境界が存在した、という見解の裏づけも提供します。この境界は、物質文化と生計制度の劇的な対照により特徴づけられ、先史時代には大きな言語の違いとともに生計要因の違いのために維持された可能性が高そうです。この文化的境界における混合の欠如の論証は、ヤムナヤ文化の移住が起きた背景を理解するのに重要です。

 結論として、本論文の結果は、VCが東方と西方をつなぐ重要な埋葬遺跡を表している、と示します。CTCC個体群の遺伝的構造は、西方のそれ以前の狩猟採集民および近東の農耕民の両方と関連する祖先系統と、モルドバのCTCC個体群の祖先系統と遺伝的に異なる祖先系統を含んでいます。ウクライナ新石器時代狩猟採集民と関連する在来祖先系統の欠如は、これらの農耕民が在来の採集民をほぼ置換し、近隣の草原地帯人口集団と混合しなかったことを示唆します。さらに青銅器時代においてVCは、最終的にはヨーロッパに顕著な遺伝的および文化的変化をもたらし、トリピリャ文化人口集団の在来の子孫と混合した、東方からの遊牧的な牧畜民の連続的な波に使用されました。これら後の期間の追加のゲノム標本抽出は、遺跡の年代の問題への回答に役立つでしょうし、トリピリャ文化が最終的にどのように崩壊したのか、示唆できるでしょう。


参考文献:
Gelabert P. et al.(2022): Genomes from Verteba cave suggest diversity within the Trypillians in Ukraine. Scientific Reports, 12, 7242.
https://doi.org/10.1038/s41598-022-11117-8


https://sicambre.seesaa.net/article/202205article_11.html

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史5掲示板 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
最新投稿・コメント全文リスト  コメント投稿はメルマガで即時配信  スレ建て依頼スレ

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史5掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
近代史5掲示板  
次へ