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「オウムの村」で監視を続け、写真千枚を撮った男性は今も「地下鉄サリン事件は防げたんだ…」と悔やむ サティアン並ぶ上九一色村で教団と対峙(上)(地下鉄サリン事件30年)
http://www.asyura2.com/21/idletalk42/msg/330.html
投稿者 舞岡関谷 日時 2025 年 3 月 28 日 13:30:24: WhJzJfVQuFVTY lZGJqorWkko
 

「オウムの村」で監視を続け、写真千枚を撮った男性は今も「地下鉄サリン事件は防げたんだ…」と悔やむ サティアン並ぶ上九一色村で教団と対峙(上)【地下鉄サリン事件30年】
2025/03/27 共同通信

https://www.47news.jp/12364293.html

 高さ3メートルの塀が立ち並び、中の様子は見えない。そこから白装束の団体が出てきて行進をし、大音量のお経のような「マントラ」を夜通し流す。目が見えにくくなるような異臭が漏れてくることもあった。
 オウム真理教によるテロ「地下鉄サリン事件」から3月20日で30年。教団が猛毒「サリン」を作っていたのは、山梨県の旧上九一色村で高い塀に囲まれ、何棟も造られた教団施設「サティアン」だった。
 オウムの村と呼ばれたその場所で、生活を守ろうと苦闘した住民たちがいる。そのうちの1人、地区の「オウム真理教対策委員会」の代表委員として先頭に立った竹内精一さん(96)は、監視のため千枚以上の写真を撮った。今も悔しさを募らせる。「地下鉄サリン事件は防げたんだ…」(共同通信=河野在基)

 ▽入植地に入ってきた教団

 上九一色村は、富士山の麓、静岡県境にほど近い山梨県にあった。地図上には、もうない。「平成の大合併」で2006年に分村し、サティアンがあった富士ケ嶺地区を含む南部は山梨県富士河口湖町に、北部は甲府市に編入された。
 竹内さんは戦時中、14歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」として旧満州(現中国東北部)に渡り、終戦後4年間、シベリアに抑留された後、1949年、何もなかった富士ケ嶺に入植者として移り住んだ。
 水や電気を通し、酪農や大根栽培が栄えた富士ケ嶺。そこにオウム真理教の信者が移り住んできたのは、竹内さんの入植の40年後、1989年の夏だった。

 ▽サティアン

 「当初、住民は何も知らなかった。初めて違和感を抱いたのは年が明けた1990年2月。何もないところに突然、背丈よりもはるかに高い金属板の塀が次々と建った」
 サティアンはサンスクリット語で「真理」を意味するという。教団の拠点で、上九一色村には第1と第4を除く第12サティアンまでが建設された。第1と第4は、10キロほど南の静岡県富士宮市にあった。サリン工場、印刷工場、武器工場―。各サティアンが特定の役割を担った。

 ▽対策委員会

 塀の中で何をしているか分からない。門番の信者に話しかけると「バカ!この野郎!帰れ!」と罵倒される。正体不明の廃液が垂れ流され、周辺の牧草が枯れる被害もあった。住民たちは1990年5月、集会を開いた。
 「前年の坂本堤弁護士一家殺害事件への関与もささやかれていた。おかしな団体だとだんだん分かってきた」
 6月には代表委員5人、委員20人の計25人からなる「富士ケ嶺オウム真理教対策委員会」を設立。教団追放の決意を固めた。竹内さんは代表委員の1人を務めた。

 ▽「お化けが出る」

 塀の内側では、昼夜問わずに建設作業が続く。お経のような「マントラ」が、拡声器を通じ地区中に響き渡った。睡眠不足の信者が多いのか、信者による交通事故も増えた。
 1991年8月には、全身を白装束に包んだ400人超の信者が村を大行進。目と鼻しか出ていない姿に村の子どもたちはおびえた。「お化けが出るよ。怖いから外へ出たくない」。夏休み中の学校行事に行かない子どもが続出した。

 ▽見回り、撮影を開始

 教団とトラブルが起きると、「証拠はあるのか!」と必ず言い返された。そこで竹内さんは、カメラを持ち歩くようになった。撮りためた写真は千枚を超える。時には塀の下を掘り、内部を撮影した。
 「毎日欠かさず、2時間かけてサティアンの見回りを続けた」
 1995年2月には、事故を起こした教団のトラックの写真を撮った。このトラックは1994年6月、長野県で起きた「松本サリン事件」でサリン噴霧に使われた車だった。この写真は後に、捜査機関に重要証拠として提出された。

 ▽元信者を家族の元へ

 「こんな教団にいても将来がない。できることなら脱会して、待ってくれている家族の元に帰ってほしい」
 竹内さんは村に逃げ出してきた信者たちの支援も続けた。竹内さんを頼り、入信したわが子を捜しに来る親もたくさんいた。
 最初の逃亡は1992年7月。愛知県の女子大学生だった。両親に連絡し、静岡県富士宮市の駅まで車で送り届け、交通費を渡した。
 ところが翌朝、他の住民が「昨日の子がサティアンに戻ってきているよ」と竹内さんを呼びに来た。「そんなことあるか。昨晩送り届けたのに」。後に分かったことだが、教団は入信の際に親族や知人の連絡先、住所を書かせるという。女性は自宅にたどり着く直前、待ち伏せていた信者に捕まり、連れ戻されたという。
 土木作業員も逃げ出した。ある作業員は竹内さんにこう明かした。
 「大阪市西成区で『日当1万円、酒もたばこも好きなだけやる』と教団の名は伏せて誘われた。その後、和歌山の廃校に1カ月弱閉じ込められて教義の勉強をさせられた。でも、教団では飲酒も喫煙も禁止だ。約束が違うと訴えたら、『教義を勉強した以上、もう信者だ。日当も酒もたばこも不要だ』と言われた。だから逃げてきた」
 元信者たちの体験はサティアンの内部や教団の勢いを知る貴重な証言にもなった。

 ▽「サリン」を初めて聞いた日

 地下鉄サリン事件の2年以上前、竹内さんはサリンの存在を初めて知った。当時、竹内さんの家を拠点に教団を取材していた知り合いの記者から伝えられた。記者は教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚に同行取材した際、仙台市でこう言うのを聞いたという。
 「オウムにサリンがまかれた。私は『最終解脱者』だから生き延びた」
 竹内さんは「サリンなんてものがあるのか。イラン・イラク戦争で使われた猛毒らしい」と驚いた。

 ▽異臭と不安

 「防毒マスクをつけている信者が第7サティアンを出入りするのを、地元の警察官と目撃した。1994年5月ごろだ。何かやっているんだ。あんなマスクつけて」
 6月には松本サリン事件が発生。長野県松本市の住宅街でサリンが噴霧され、住民7人が死亡する事件だが、原因がサリンだと判明するのはもっと後のことだ。
 7月、上九一色村でも大きな異臭騒ぎが起きた。午後8時ごろ、近隣住民から「第7サティアン周辺が臭い」と連絡が来た。
 「住民が15人集まって、30分くらい周辺を嗅ぎ回った。発生源は第7サティアンで間違いない。ガスの臭いという人もいれば、肥料で使う石灰窒素の臭いという人もいた。警察官はしばらくすると『鼻がグシュグシュして目がおかしい』と言って、帰って行った」
 「オウムの言い分は、『近くに汚泥処理の工場がある。そこからの臭いだ』だった。化学的な臭いだと指摘したら、シャッターをぴしゃりと閉めて引っ込んでしまった」
 信者のガスマスク姿や、村で何度もあった異臭騒ぎ、教祖のサリン発言―。村の住民は、松本サリン事件と教団とが結びつかない当時の捜査や報道に、違和感を抱えていた。
 「私たちはオウムを疑っていた。マスコミにも警察官にも伝えたが、状況は変わらなかった」

 ▽阪神大震災、そして事件発生

 そんな中、年が明けた1995年1月。
 「月末にも警察がサティアンに強制捜査に入るという噂が広がった。でも17日、阪神淡路大震災が起きて、とても強制捜査に入れる状況ではなくなった。もっと早くやっていれば。チャンスはあったのに、どうして動かなかったのか」。竹内さんの怒り、失望は消えない。
 そして3月20日の朝となった。東京都心の地下鉄車内でサリンがまかれた。
 「とうとうやったか。テレビのニュースで事件を知り、オウムの仕業だとピンと来た。早く捜査していれば、あんなにたくさんの人が亡くなる事件は起きなかったんだ」。そう語る竹内さんの目に涙が光る。
 事件の2日後、やっと警察がサティアンへの一斉強制捜査に踏み込んだ。竹内さんは塀の外から捜査を見守った。
 強制捜査後、メディアと一緒にサティアンの建物内に入る機会があった。
 「第7サティアンに入って、びっくりした。あんなに毎日写真を撮っていたのに、いつの間にこんなに大きな構造物が運び込まれたのか。サリンを量産する機械の、張り巡らされたパイプを見て衝撃を受けた」

 ▽オウム跡地は茂みに

 30年後の2025年2月、私(筆者)は、かつて竹内さんが毎日見て回ったサティアン跡地を案内してもらった。
 サティアンは強制捜査後、2年ほどで順次取り壊された。第2、第3、第5サティアンがあった区画は公園に整備され、「慰霊碑」とのみ刻まれた石碑が立つ。竹内さんは語る。
 「ここで何があったのか、オウムが何をしたのか、『慰霊碑』だけでは何もわからない。看板を立ててでも説明するのが当たり前。この碑はあまり好かない」
 他の跡地は空き地となり、雑草が茂る。茂みの中にぽつんと立つ古びた電柱だけが、かつてそこに建物があったことを感じさせる。

 ▽「申し訳ない」

 「オウムを止められなくて、事件を防げなくて申し訳ございません」
 竹内さんはオウムとの闘いの経験を各地の講演で語り残している。地下鉄サリン事件の遺族に会うと、後悔の思いを伝える。
 「住民はできることをやった。でも、事件を防げなかった。警察や行政は、住民の訴えにも動かなかった。もっと早く着手していれば。警察の落ち度だ」  

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コメント
1. 舞岡関谷[63] lZGJqorWkko 2025年3月28日 20:37:46 : HSyWgrSLaU : dHVLS1J2MVk4ZWc=[83] 報告
<■99行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
特異な経験「サリン被害」。向き合う痛み、ぬぐえぬ不安、生者の罪悪感。被害者3人の声を聞く
2025/03/26

https://www.47news.jp/12358530.html 共同通信

 体の痛みをかばいながら歩くと、背中が丸まり、歩幅は小さくなる。野坂秀幸さん(66)は夜勤明けで池袋駅構内をとぼとぼと進む。30年前、この駅から乗車した地下鉄丸ノ内線で被害に遭った。
 高校卒業後、北海道から上京。日本橋の百貨店の高級紳士服売り場で勤務した。「流行や時代の流れを感じられた。接客も好きだった」。あの日も出勤のため、いつもの車両に乗車。床で新聞紙に包まれて漏れ出す液体に気付いた。「酔っぱらいの汚物かな」
 間もなく異変を感じた。景色ははっきりと見えるが視界が暗い。サリン特有の症状「縮瞳」だ。
 1995年3月20日のオウム真理教による地下鉄サリン事件は、14人の命を奪った上、後遺症などで多くの人生を狂わせた。被害者の男女3人の半生を追った。(共同通信=地下鉄サリン事件取材班・武知司、渡辺健太郎、大根怜)

▽野坂秀幸さん「極度に疲れやすく」

 野坂さんは出勤後に事件だと分かり、病院を受診した。ただ、縮瞳以外に症状はなく、点滴を打ち即日帰宅する。数日後、仕事に復帰した。ただ体が異常に疲れやすい。一方で睡眠は極度に短くなり、1時間ほどで目が覚めてしまう。なぜか、足の中指が痛い…。
 10年勤務してきて一度もなかった接客に対するクレームを受けるようになった。「体がきつく、無意識に言葉がとがってしまったのだと思う。それまでは同僚へのクレームを私が対応する役目だったのに」。職場で頼られる存在だったはずが、37歳で店を去った。
 その後、工場でも働いたが、周囲より動きが遅く「使えない人間みたいな目で見られた」。定職と結婚は諦めた。足の指の痛みは、40代になると全身に広がっていた。毎月、通院を続けるが完治のめどは立たない。

▽深夜〜朝の仕事「体の動きが変でも…」

 還暦を過ぎ、夜10時から翌朝7時まで東京・渋谷の高層ビルで清掃員として働く。「体の動きが変でも時間内に終わらせればいいので」。痛む体で丁寧に汚れを落とす。
 国には「後遺症の治療支援を」と望む。今は自分で見つけた薬の量を調整しながら、自分なりに研究と工夫を重ねて痛みと向き合っている。
 痛みとともに感じてきたのが、「分からない」という恐怖だ。サリン被害という特異な経験。「急に死ぬのでは。さらに悪くなるのでは」
 他の被害者はどう暮らしているのか。被害者の追跡調査も望む。当時どのような状況で被害に遭い、今どのような状態で、どのような治療が効果的なのか。記録を残すことは、もし似たような事件が起きた時に必ず役立つと信じている。

▽森瀬郁乃さん「これからはお釣りの人生」と言われて

 森瀬郁乃さん(52)は事件当日、日比谷線で職場へ向かっていた。途中の小伝馬町駅で降ろされるとホームはびちゃびちゃにぬれており、呼吸困難になり搬送された。
 頭痛、めまい、倦怠(けんたい)感の日々で、誰かに言われた言葉が強く刺さった。「これからはお釣りの人生だね」
 受験も就職も周りの意見に流されてきた。人はいつ死ぬか分からない。後悔なく好きに生きてみようと思い立ち、1年後に退職した。
 興味があった電気工事業界に転職。店舗の電気設備の設計を手がける現場監督を務め、照明デザイナーの資格も取得した。接客業にも挑戦したいと写真館、自転車屋などでアルバイトもした。
 サリンについて知りたくて海外ニュースを見るように。英会話教室にも通い、事件前は行こうともしなかった海外旅行に足を延ばす。フォトグラファーの活動も始めた。
 精力的だった一方で体調は好転しない。めまいでベッドから落ち、はいつくばってトイレに行くこともしばしば。病院を転々とするも効果的な治療法は分からなかった。

▽地下鉄に乗るときはドアの近くに

 ただ、転職を契機に親友と呼べる女性(52)と出会えた。気遣いが似ており、多くを口にしない。ただ、体調が悪いときは自宅に来てくれる。彼女が交流サイトに書き込んだ言葉に、涙を流したこともある。「いくちゃん(郁乃さん)を生かしてくれた神様に感謝したよ。出会ってどれだけ人生が豊かになったか」
 夢は老犬ペットのデイケアの立ち上げだ。だがここ数年で両手の指の痛みは我慢できないほどに増した。
 今年1月下旬の平日朝、森瀬さんは事件の時と同じ地下鉄日比谷線に乗って、2カ月に1回の診察に向かっていた。混雑する車内では、逃げ場のない怖さからか、ドア近くに立つのが習慣化した。手のひらが汗でびっしょりになることも珍しくない。
 医師に「指の痛みはあるけど肩と首の凝りは減ったかな」と薬の効き目を答えた。和やかな15分。この医師の定年退職はそう遠くなく、この先新たな後遺症が出てきたら誰に相談すればいいのか。将来への尽きない不安は胸の内にどどめた。

▽宮崎真澄さん。サバイバーズギルトに向き合う

 日産社員だった宮崎真澄さん(63)は通勤で地下鉄日比谷線に乗っていた。途中、降ろされた小伝馬町駅で強烈なシンナー臭に襲われた。めまいと呼吸困難で立てなくなり、はうように地上に出た。路上に倒れている人、心臓マッサージをする人たちの姿が今も目に焼き付いている。
 いち早く、通行人が止めてくれたタクシーで聖路加国際病院に運ばれた。入院して翌日に帰宅。視界の暗さに悩んだが、1カ月程度で症状は治まった。ただ気分はずっと沈んでいた。事件で亡くなった人、自分より重い症状の人が大勢いる。助けてくれた人たちにはお礼も言えていない。

▽後悔は「胸のどす黒い水」に

 「自分が最初に逃げたのでは、という疑念が消えなかった」。あれで良かったのか、という後悔。宮崎さんはそれを「胸の中にどす黒い水が残っている」と表現した。もっとできることがあったのでは。現場に残って人を助けることができたのでは…。自ら被害者でありながら、生き残ったことで抱える罪悪感。「サバイバーズ・ギルト」と呼ばれるものだ。
 数年後、何げなく見ていたテレビで、災害や事件事故で生き残った人が抱くストレスがあることを知った。「自分の罪悪感は『普通なんだよ』と言われた気がして、肩の荷が下りた」。胸の中で、水をざーっと瓶に封じ込めることができたと感じた。

▽人助けで薄れる「どす黒さ」

 以来、人を助けることに積極的に取り組むようになった。あの日できなかった救命措置を学び、急病人を助けた経験は何度もある。東日本大震災では首都圏の中古車をかき集め、被災地に送った。西日本豪雨の際も職場から支援物資を届けられるだけ届けた。「誰かのためではなく、水を減らすため。それが原動力なんです」
 水の量は減り、色も薄まってきた感覚がある。だが完全になくなることはないという。「なくさなくて良いのかもしれない、とも思う。瓶は墓場まで持って行くでしょうね」。あの現場から生き残った自分にできることは、きっとまだある。

2. 舞岡関谷[68] lZGJqorWkko 2025年4月01日 17:40:47 : DukK4wQOjs : Tk9kWVNmb2ZlQ3c=[96] 報告
<■64行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
オウムは24時間マントラを流して次々と施設を建設。静かな酪農の村で、住民たちは団結し立ち上がった   サティアン並ぶ上九一色村で教団と対峙(下)【地下鉄サリン事件30年】
2025/04/01 共同通信

https://www.47news.jp/12387342.html

 酪農が盛んな静かな村に、突如、異様な集団が押しかけてきたのは、1989年の8月だった。一日中騒音を出し、お経のような「マントラ」を響かせ、「サティアン」と呼ばれる施設を次々と建設。山梨県上九一色村(現富士河口湖町、甲府市)に入ってきた者たちの正体は、オウム真理教の信者たちだった。
 村の住民たちは、自力で教団との攻防を繰り返した。住民たちが待ち望んだ警察によるサティアン一斉捜索は、教団が1995年3月20日、東京で地下鉄サリン事件を起こした2日後だった。それから30年がたった。
 住民の活動の中心になったのは「オウム真理教対策委員会」。最後にはサティアンの解体、信者の退去を達成した。委員長を務めた江川透さん(88)が、当時を振り返る。(共同通信=高野陽子)

 ▽「勝つまでやろう」

 オウム真理教は1989年8月、土地を取得して私が住む上九一色村に入ってきた。何か変なものが来たぞと思っていたら、ショベルカーで瞬く間に土地をひっくり返していった。
 信者らは24時間、マントラを流しながら作業するため、住民らは睡眠を妨害された。こういう集団とは一緒には暮らせない。最初は「気をつけろ。やめろ。静かにやれ」と注意したが、教団側は聞き入れない。追い出せなかったら、もうここはおしまいになる。だから負けない、勝つまでやろう、となった。

 ▽住民で対策委員会を結成

 1990年6月に住民らで「オウム真理教対策委員会」を設立した。私は代表委員の1人に就任し、信者とも意見交換を重ねた。
 信者の様子を見ていて、どうしてこんなものを信じるのか?と疑問だった。自宅の周辺では信者が白装束と覆面を身につけ、列をなして一日中歩いていた。
 私の家は丘に作られた第2、第3、第5サティアンから見える場所にあった。信者から監視されていただろう。

 ▽異臭騒ぎと体制強化

 1994年7月9日、サティアン周辺で異臭騒ぎが起き、住民は未明に避難を強いられた。現場から検出された物質は、サリンに構造が似た有機リン系の化合物だと後に判明した。
 対策委員会の体制を強化しようと、複数の代表委員で運営していた組織を1995年4月から1人の代表制とし、私は2代目委員長になった。この頃から、住民が「本当にオウムを追放しなきゃだめだ」と話すようになった。私はこれで「勝負あり」と確信した。住民が団結し始め、オウムが好きなことができなくなったのだ。

 ▽逃げ出す信者

 信者が村に逃げ込んでくることもしばしばあった。ある男性信者はサティアンから逃げ出し、住民の家を訪ねてきた。約25キロ離れた静岡県のJR富士宮駅まで送ってほしいという。
 住民が、遠いからと断ると、信者は「私は富士宮駅で降りてここまで来たから、近くにいると思っている」と答えた。ここに来て数年たつというのに、自分がいる場所も知らないのかと驚いた。
 逃がす時は、車の後部座席に乗せ、見えないよう毛布をかぶせた。ひげも髪の毛も伸び放題だったため、かみそりを買ってひげをそらせ、村に近い富士急行の河口湖駅まで送った。
 この男性信者は「今度仲間を迎えに来る。計画があって夜中に待ち合わせるから、また来る」という。後日、私の家の前にお金が置かれていた。仲間を迎えに来て、無事脱出できたんだと思う。

 ▽教団の退去、対策委解散

 地下鉄サリン事件の後、信者は全員が退去し、1996年に教団施設、翌年にはサティアンの解体が始まった。1999年3月末で、対策委員会も解散した。上九一色村からは1人のけが人、死者も出なかった。
 住民の活動は、地域の連帯を実感する機会になった。オウムとの闘いは、いい勉強になった。

 ▽痕跡

 第2、第3、第5サティアン跡地は公園になり、サティアンの痕跡はない。一帯は、合併して富士河口湖町となり、上九一色村も、もうない。住民にはオウム真理教の存在を忘れている人もいる。
 だが、サティアン解体時に回収したガスマスクやヘルメット、ノートなど、信者らが持っていた約千点の資料を地域で保管している。活用方法は決まっていない。上九一色村の住民がオウム真理教をどうやって追放したか分かるように、保存し展示できないかと考えている。

3. 舞岡関谷[69] lZGJqorWkko 2025年4月02日 12:26:50 : dVDvEFbiWI : WThBYU9XR0FkclU=[2] 報告
「麻原信じたことが一番の罪」 妻に語った土谷正実元死刑囚
2025年03月17日 06時01分 共同通信

https://www.47news.jp/12314697.html

 オウム真理教による地下鉄サリン事件から30年を前に、教団幹部だった土谷正実元死刑囚の妻が、17日までに共同通信の取材に応じた。元死刑囚はかつて法廷で松本智津夫元死刑囚=教祖名・麻原彰晃=への帰依を口にしたが、妻とのやりとりを通じ事件の悲惨さを認識し、「麻原を信じたのが一番の罪」と語ったという。
 土谷元死刑囚はサリンを製造するなど多くの事件に関わった。妻によると、中学2年の時、塾講師だった元死刑囚と知り合いに。高校受験を機に疎遠となり、以降は連絡を取っていなかった。だが、刑事裁判中だった元死刑囚から2006年に突然手紙が届き、交流を再開。08年に結婚した。
 交流当初は、教団を自衛するためにサリンを製造したとし「こんなことになって訳が分からない」と人ごとのような受け止めだった。妻から「被害者が私だと考えたら?」などと尋ねられるうち、重大性を認識するようになったという。妻は、もっと内省を深めてほしい部分があったとしながら「自尊心が人一倍強い人だったから、本人なりの後悔、全否定と感じた」と話した。

4. 舞岡関谷[104] lZGJqorWkko 2025年5月11日 13:14:38 : LvcIUlj6UU : cS85SVd6MjNqUjY=[18] 報告
<■71行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
オウム死刑執行、処断の内幕。「執行はいつに」。絡まり合った要因、天皇退位、五輪…
2025/05/11 共同通信

https://www.47news.jp/12562260.html

 オウム真理教の松本智津夫元死刑囚(教祖名麻原彰晃)は、東京地裁での公判途中から意味のあるやりとりをしなくなったとされる。
 収容先の東京拘置所は自殺を警戒し、特に慎重に対応した。他の死刑囚が入るフロアとは別の階の単独室に収容。周囲の居室には収容者がおらず、関係者は「がらんとしたところにぽつんといた」と明かす。持ち物はほとんどなく、年に数回、居室を移された。
 通常は「衛生係」と呼ばれる受刑者が配膳など死刑囚の世話を手伝うが、職員だけで対応した。健康診断の際にはパーティションを張り巡らせた。人目につかないようにするためだった。
 松本元死刑囚への特別対応は2018年7月に終わる。松本元死刑囚を含む13人の死刑が執行されたからだ。執行の決断にはどんな背景があったのか。関係者の証言をたどる。(共同通信=地下鉄サリン事件取材班・今村未生)

▽重い負担、極秘の準備

 死刑執行が現実味を帯び始めたのはその半年近く前の2018年1月下旬だった。地下鉄サリン事件で送迎役だった高橋克也受刑者(67)の無期懲役が確定し、一連の裁判が終結した。
 関係者によると、以降、執行を起案する法務省刑事局と、大臣官房のごく一部がひそかに動き始める。遅くとも3月上旬には「執行の検討準備に入ってもいいのではないか」との意見が出ていた。
 刑事施設を所管する法務省矯正局はその頃、東京拘置所にいる13人の元死刑囚を分散する準備を開始。裁判終結で法廷に出る機会もなくなり、全員を同じ場所にとどめておく必要がなくなったためだ。矯正局元幹部はこう明かす。「風呂や面会のたびに元死刑囚同士を会わせないよう神経を使い、拘置所の負担は大きかった」

▽表向きは広域警備訓練

 情報公開請求による開示文書や取材によると、3月1日に東京拘置所長が矯正局長に移送を上申している。矯正局は3月12日、関係先に対し、3月14日と15日に広域警備訓練を実施すると発令し、表向きは訓練目的で職員を動員した。そして13日に訓練の中止を告げ、移送を伝えた。
 元死刑囚13人のうち、このとき対象となった7人が出発したのは3月14日早朝だった。バス7台で1人ずつ秘密裏に全国の拘置所などに向かった。ある元死刑囚の関係者によると、告知は前日夜。バスは外が見えないよう完全に目隠しされていた。
 執行に向け水面下での検討も続いた。当時の社会情勢などから、法務省元幹部は「タイミングを逃せばしばらく執行できないと考えた」。
 国家的行事に近い時期の執行は避ける傾向にあり、上皇さまの天皇退位が2019年4月末、東京五輪・パラリンピックが2020年夏に予定されていた。

▽平成のうちに

 当時の法務大臣は上川陽子氏。元幹部はこう振り返る。「上川氏は100代目の法相。節目の大臣により、平成のうちにとの考えはあった」
 上川氏は5月の連休よりも相当前から裁判資料を読み込んでいたという。7月6日、松本元死刑囚ら7人の刑を執行後、会見に臨んだ。記者会見で上川氏は次のように述べている。「さまざまな時代の中のことも考え、これからのことも考え、慎重に判断した」
 法務省の元幹部はこの発言を次のように読み解く。「退位や五輪などさまざまなことを踏まえ、『時代の中で』と表現したのだろう」
 7月6日の執行後、残ったのは6人。うち1人と面会した関係者によると、名残惜しそうにしながらも覚悟を決めた様子だったという。7月26日に、6人の刑が執行された。
 当時関わった複数の幹部は、死刑制度廃止の見通しがあるわけではないとしつつ、異口同音にこう打ち明けてもいた。「仮に将来、議論が持ち上がった時のため、オウム関係者の執行は終えている必要がある」

▽松本元死刑囚の様子は

 松本元死刑囚は死刑執行直前、どんな様子だったのか。訴訟記録によると、法務省の照会を受けた拘置所が執行直前の2018年6月29日、松本元死刑囚の診療状況などを文書で回答している。
 6月4日の様子として「痛み検査で医師が『多少痛いよ』と伝えると手足を引っ込めようとする」などと記述。「狭義の精神疾患を示す所見は認められない」とし、医師の問診に応じない状況は詐病の可能性があると指摘した。
 執行後に対面した安田好弘弁護士によると、髪は短く刈られてひげもそられており「若く見えた」という。

▽遺体はどうなったのか

 遺体は東京都内で火葬された。ただ、拘置所が保管する遺骨や遺髪を巡る争いは決着していない。帰属先に関する遺族間の訴訟は、次女を取得者とした司法判断がいったん確定した。ただ、国が引き渡さなかった。
 次女が国を相手に起こした訴訟で東京地裁は引き渡しを命じたが、国が控訴。国側は、究極の崇拝対象である松本元死刑囚の体の一部が教団の後継団体に渡れば、公共の安全を脅かす懸念があると主張している。

5. 舞岡関谷[133] lZGJqorWkko 2025年5月22日 19:22:55 : FYxUkrNUpV : UVd5bXpDa1dnclk=[36] 報告
<■108行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
人びとはこれを望んだのか 特別寄稿「オウム全死刑囚処刑」
2018年08月27日 14時59分 共同通信   作家 辺見庸     

https://www.47news.jp/2705967.html

 さながら古代である。計13人の処刑が終わった。紀元前18世紀のハンムラビ法典の言葉が胸をよぎる。「目には目を、歯には歯を」。石を嚙(か)むようなおもいがいつまでも消えない。わたしたちはこれを真に望んだのだろうか。7月のうちに慌ただしく13人の命をうばったことで、どんな未来が拓(ひら)けるというのだろう。これが民主主義だろうか。いや、これは大いなる過誤ではないのか…。
 どうしても忘れえない顔がある。決壊≠オた顔だ。久しい前、拘置所がよいをしたことがある。接見ブースの透明アクリル板ごしに確定死刑囚と20分ほどの面会をしていたとき、つきそってきた中年の刑務官の表情が俄然(がぜん)くずれた。いかめしかった顔が、ある瞬間に紅潮し、目がうるみ、涙がふくらみ、唇と口角が細かにふるえだしたのだった。あわてた。処刑が近いのだとおもった。
 報道はじつに無機質に「死刑が執行された」とのみいう。処刑の実行主体がだれであり、死刑囚がどのように死にいたらしめられ、そのときどんな声と音とにおいが生じたか。刑場の空気はどう変わったか、苦悶(くもん)のはてに何分で絶命したか…伝えはしない。処刑の種別(絞首刑か銃殺か)さえ、なぜかいわない。まるでノーバディ(だれでもないもの)≠ェ、パソコン画面上の不要な映像をいくつか削除しただけ、とでもいうように。風景をどこまでも抽象化する。消音、消臭する。
 しかし、刑務官は知っている。死刑執行とは、ノーバディではなく、特定の生きた人間身体が、おなじく生きた人間身体を、どんなにはげしい抵抗をも実力で制圧して、絞縄(こうじょう)を首にかけ、重力を利用して刑場の階下の宙に落下させ、頸骨(けいこつ)を砕き、縊死(いし)せしめること。すなわち、他者身体にたいする自己身体による堪えがたいほどに具象的な殺人行為であることを、みずから体験するか見聞するかしている。
 表情がはからずも“決壊”してしまった刑務官も、生体の強制的死体化をまのあたりにした経験があったにちがいない。アクリル板ごしにわたしと話す死刑囚のきたるべき身体的変化を想像して、かれはおもわずパニックにおちいるか感情失禁をきたしたのではなかろうか。だとすれば、それは人としてごくまっとうな、尊いともいえる反応である。わたしはそうおもっている。
 死刑の執行とは、美しい観念や崇高な思想の実践ではない。いくら改心しようが生きたがっていようが、一切問答無用の、リアルな生身の抹殺である。言葉と声、身体の公的な抹消―そのような行為を、わたしたちはそれぞれの実存を賭して、わが手を汚してやっているのではない。刑務官にやらせているのである。われわれはもっと狼狽(ろうばい)し、傷つき、苦悩すべきなのだ。
 もう10年以上たつだろうか。かつてしばしばもちいた言葉をつかうのをかんぜんにやめにした。「人間的」という形容動詞である。「行動や考えに、人間として当然あるべき感情の感じられるさま。人間らしい配慮や思いやりのあるさま」というのが、「人間的」ふるまいにかんする辞書の説明である。では、処刑は「人間的」か。それとも「非人間的」なのか。
 10年前ならためらいなくいえたことが、いまはいうそばからなにか濡(ぬ)れた縄のように重くズルズルとまとわりついてくるものがある。なんなのだろう、これは。なぜなのだろうか。わたしにはひとつのすっとんきょうな仮説がある。人間はひょっとすると「人間的」であることを、とうに放棄したのではないか。
 7月6日の第1回大量処刑の前夜、首相や法相、防衛相らが「赤坂自民亭」と称して衆議院議員宿舎内でにぎやかな宴会を開いていた。法相はすでに死刑執行命令書に署名しており、翌朝には死刑が執行されることを知っていながら、万歳三唱の音頭とりをしたとも伝えられる。豪雨被害がでているのになにごとか。非難の声があがった。当然である。わたしはさらに、翌朝に7人の処刑をひかえながら笑いさんざめく大臣たちの心性がわからない。というより、おさえてもおさえても、軽べつの念が去らない。
 人はここまで荒(すさ)むことができるものか。死刑反対、賛成の別なく、人命にたいする畏(おそ)れとつつしみをなくしたら、人間はもはや「人間的」たりえない。オウム真理教というカルトは、人命への畏れを欠くことにより、国家悪を一歩も乗りこえることができず、奇形の「国家内国家」として滅んだ。その「ポア」の思想は、国家による死刑のそれと劃然(かくぜん)とことなるようでいて、非人間性においてかさなるところがある。上からの指示の忠実な実行、組織妄信、個人の摩滅、指導者崇拝という点でも、オウムは脱俗ではなく、むしろ世俗的だったのであり、われわれの分身≠ナあったともいえる。
 しかとはそれと感じられないほどのわずかな差で、目下、なにかが徐々に変わりつつある。しかし、未来像は不明だ。それが怖(おそ)ろしい。7人の処刑も、第2回の6人の処刑も、はげしい議論をまきおこしたわけではない。古語をもちいれば、「世のなりまかるさま」に、われわれはあまりにも無力であり、他人ごとのように眺め、おどろくべきことには、抵抗どころか、あらかじめあきらめと空(むな)しささえ感じているようだ。往時は多少なりとも意識された「黄金律」も、「世のなりまかる」勢いのなかで、冬の薄れ日のように衰えている。
 かんたんな道理がとおらなくなってきた。たとえば「人にしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたがたも人にしなさい」(新約聖書「マタイによる福音書」)あるいはその逆の「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」(『論語』)といったあたりまえの黄金律も乱暴に無視されることが多い。このたびの死刑もそうだ。わたしはこれをまったく望まなかった。望まないにもかかわらず、強行された。
 がんぜない子どものようになって、問いつづけるほかない。なぜ殺すのか。「確定死刑囚」とはなにか。確定とはなにか。かれらは人間ではないのか。人間なのに人権はないのか。それは古代ローマ法にいう「ホモ・サケル」とどうちがうのか。いっさいの権利をうばわれた「剥(む)きだしの生」と、いったいどのようにことなるのか。答えられないのに、議論もせず、殺すことがなぜ赦(ゆる)されるのか。
 村上春樹氏の意見にわたしは反対する。氏は書いた。「丸一年かけて地下鉄サリン・ガスの被害者や、亡くなられた方の遺族をインタビューし、その人々の味わわれた悲しみや苦しみ、感じておられる怒りを実際に目の前にしてきた僕としては、『私は死刑制度には反対です』とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる。『この犯人はとても赦すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい』という一部遺族の気持ちは、痛いほど伝わってくる」(7月29日付毎日新聞)
 死刑制度賛成派は、これにどれほど勇気づけられたことか。被害者感情と死刑制度は、ひとつの風景にすんなりおさまるようにみえて、そのじつ異次元の問題である。前者の魂は、後者の殺人によって本質的に救われはしない。わたしは死刑制度に反対である。それは究極の頽廃(たいはい)だからだ。

 (2018年7月31日配信)

辺見庸
1944年、宮城県生まれ。共同通信北京特派員などを務めた後、91年「自動起床装置」で芥川賞、「もの食う人びと」で講談社ノンフィクション賞。相模原障害者施設殺傷事件に想を得た小説「月」を今秋刊行予定。

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