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<■110行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> 上記スレッド記事とは無関係だが、「東海アマ」氏が自分の人生を語っているブログ記事の前半を転載する。 まあ、同じような話を氏は何度もしているので、耳タコだとする読者も多いかと思うが、語られた中には貴重な情報もあるのではないか。私が「独断と偏見の人」と考えている東海アマ氏だが、とにかく、ここに語られた「出来事」自体は、8割がた事実だろう。だが、朝鮮人の心性を「儒教」のためだとするのは偏見だと私は思っている。そのほかにも、氏の偏見と独断は多いように思える。概して、海外の出来事に関する氏の情報源はネトウヨ系ユーチューブか「大紀元」などのCIA系であるのではないか。 しかし、氏が優れた頭脳(主に記憶力)と、政治的勇気と闘志の持ち主であるところは、私などがまったく及びもつかないものである。(ただし、氏の「言説」全体が信頼できるかどうかは別物だ。言うまでもないが、私はここに書かれた言説のすべてに同意するわけではまったくない。) 「アホな自分を隠して、立派な人間を装うことこそ、究極のアホではないだろうか?」 の「アホな自分を隠して、立派な人間を装う」など、世間の支配層の8割はそうだろう。それが「アホ」だというのは、氏の価値観にすぎない。私も、彼らは下種(品性下劣)だとは思うが、「アホ」だろうか? まあ、氏なりの「真実の人生」から見れば「アホ」なのだろうが、その真実の人生を送ってきたことへの後悔と無念の思いが、この手記には溢れているのではないか? (以下引用) ウソのない、自分を飾らない人生 2025年12月02日
私は子供のころから、在日朝鮮人の多い地域で育ったことで、学校でひどいイジメを受けた。小中学校へは、毎日殴られに通ったという記憶しかない。 私は鬱病を繰り返すようになっていた。 家では、父が「末は博士か大臣か」という立身出世価値観を私に押し付けていた。父は、私が優越的な学歴や地位を得ることを望んでいた。 父は結構な有名人だったが、職場で愛人を作り、家にはあまり帰らなかった。母は死ぬときまで父を恨んでいた。 私の子供時代は、毎日鬱屈した救いのない冷たい風の吹く世界だった。 何もかも絶望的な苦悩に溢れたなかで、救いは唯一、母の優しさだった。 いつのまにか、私は人を詳しく観察するようになった。そして、どういう基準で生きていったらよいのか、五里霧中で苦しんでいた。 私が育った時代は、ウソに満ちていた。ウソのない誠実な人生に憧れた。 子供時代の経験から、上昇志向の価値観、虚飾に満ちた階層を目指している人たちは、自分の地位や権威、学歴を自慢するナルシストが多いと確信していた。 たぶんだが、理由は、名古屋市中村区の場合、朝鮮から移住した人が非常に多く、朝鮮式儒教の価値観は、徹底した序列主義で、序列の上位に立ち、他人を見下すことが人生の価値であるように信じた人が多かったせいだと思う。 彼らは、学歴や地位で人間を判断するのだ。 1910年の朝鮮併合で、日本人となった彼らは、当時1300万人だった大韓帝国人口の実に4人に一人、300万人が日本にやってきた。 それは国境が消えたので、密入国という犯罪も消えてしまったためだ。朝鮮半島から、たくさんの人々が自由自在に日本のやってこれるようになった。 そして、儒教の差別価値観が蔓延した朝鮮に比べて、心優しい日本社会は、ずっと住みやすかったので、日本に定住した人が多い。 日本は、大東亜共栄圏思想で東アジア全体の支配を求めて、若者たちを徴兵し、送り出していたので、軍需産業が人手不足に陥り、そこに労働需要が生まれて朝鮮人が入り込んだ。 太平洋岸の産業ベルトや広島・呉・松山・福岡・北九州などに軍需産業地帯があった。たぶんだが、高市早苗氏の実家も、そんな地域だったと思う。 だから、高市氏は「てっぺんに行く」という上昇志向が著しく強い。 彼らは、朝鮮式価値観を持ち込んだ。それは男尊女卑、学歴主義、序列主義などだ。朝鮮人移住者の少なかった裏日本、東北などの地域では、日本古来の反差別的価値観が残っている。 私が育った地域は、まさに在日者が主導的な地域であり、民団や総連の本部があり、パチンコの正村氏の娘も同級生にいた。そして中村赤線の従事者も多くが在日者だった。名古屋の暴力団は9割以上が在日といっていい。 底辺の生活者は、創価学会という韓国系の宗教の互助組織に依存していたから、中村区は、いたるところから「南妙法蓮華経」が聞こえた。 だから、私は彼らの暴力的支配を身を持って体験させられた。 人を見下す差別価値観が著しい人間関係だった。おまけに反社会的集団だったので、いわゆる良識が通用せず、ダイレクトな暴力が支配する社会になっていた。子供たちの世界は、とりわけそうだ。 私は、当時の日本で、もっとも嫌な社会に育ったのだ。 だから、私の思想はひねくれた。父が社会党の役員だったこともあり、既存の立身出世価値観に対して強い違和感があった。父は私に立身や学歴を望んだが、私には、既存の秩序に対する嫌悪感が育っていた。 私は、序列上位の人達が、自分を飾りたがるのにうんざりしていた。そこに人間の真実など存在しないと思った。 人間の価値は、学歴や地位、蓄財の多寡で定まるものではない。どんなに見下される人であっても、人間として尊敬に値する価値は存在する。人に貴賤は存在しない。 そう信じるようになり、学歴を得て特権階級を目指す人生ではなく、ウソのない、心が直接触れ合うような人間関係にいたかった。 人間の本当の姿は何だろうと考えるようになり、私は世間から蔑まれるような世界に真実があるのではないかと思った。 私は、鳶職とかトラック運転手とか、作業員とか社会の底辺で生きていた。他人を見下すような立場の人間には、なりたくなかった。 もっとも勉強は嫌いではなかったので、学歴の代わりにたくさんの資格を取得することにした。 そして、社会を評価する学問として、民俗学に夢中になった。当時、宮本常一という素晴らしい研究者がいたからだ。 彼は人間の真実を情け容赦なく記録した。その最高傑作は、「土佐源氏」だと思う。その作品を見ていて、私は、結局、人間社会を究極で動かしているものの正体は、「優しさ」だと気づくようになった。 人は優しさを求めて彷徨う動物なのだと思った。私は世間体や地位蓄財を重視する価値観には不快感があったので、彼ら地位や権力のある人間の、自慢したり威張ったりする心の補償行動としての性欲世界に興味を持った。 性欲こそ、ウソのない人間の真実があからさまに見える場面だと思ったのだ。 まあ、この問題には強烈なトラウマを抱えた人が多いので、私がエロ小説を書いていたなどと漏らすと、凄まじいアレルギー反応が起きて、排除されることが分かっている。人は、自分の正体を隠したいものであり、それを励起されたり暴露されると、いてもたってもいられない不快感を抱くのだ。 それでも、私は自分の本質を隠し、社会的評価の価値観のなかで自分を飾ることには強い反感がある。人はウソをついてはいけない。正直さこそ人間の本当の価値だと思う。 私はもうすぐ、この物資的人生を終わらせなければならなのだが、結局、私が何を求めてきたのかといえば、それは「真実」だと思う。ウソのない本当のことを示すことが私の役割ではないかと思った。 本当なら、自分がいじめられたこととか、失敗したことを話すのはとても恥ずかしいことであって、人前ではタブーにしておかねばならないという価値観が社会標準なのだが、私は、あえて、自分を隠したり飾ったりすることをやめようと思った。 私がアホだと思われても、実際にアホなのだからどうしようもないのだ。アホな自分を隠して、立派な人間を装うことこそ、究極のアホではないだろうか?
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