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悲しい酒 古賀政男(1904年11月18日 - 1978年 7月25日)
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/702.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 12 月 08 日 17:52:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本のミュージシャン 投稿者 中川隆 日時 2021 年 12 月 06 日 16:40:09)

古賀政男(1904年11月18日 - 1978年 7月25日)


美空ひばり・悲しい酒 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A+%E6%82%B2%E3%81%97%E3%81%84%E9%85%92  

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コメント
1. 中川隆[-14683] koaQ7Jey 2021年12月08日 18:01:45 : SJtHPiXsUc : Sm45S0QzRkFPMFE=[60] 報告
美空ひばり あの丘越えて - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A++%E3%81%82%E3%81%AE%E4%B8%98%E8%B6%8A%E3%81%88%E3%81%A6

美空ひばり  人生一路 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cl6HNmFTOkI

美空ひばり・悲しい酒 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZHDRClbBqKc

日本の女性歌手で、だれが記憶の底に残っているかといえば、それはやはり「美空ひばり」なのであります。うまいとか、声がいいとか、そんなことは、あたしには関係ない。

人に歴史あり、我々の世代が思春期のころよりヒバリを聴いていたかといえばとんでもない。

ヤクザと仲がいいと、朝日新聞にさんざん叩かれていたころ、アタシは美空ひばりは極道の情婦だと思っていた。つまらないオンナだと思っていたわけだ。
21歳で自宅に戻り、アタシは黒衣を着て生きていくことにした。
詩をやめて大学にいき、就職をし、両親を安堵させようと決めたのだ。
観音様のもとに還るのは50過ぎてだから、それまでは、異星の地球で生きていくと。

人生を巡航するには楽しみごとが必要だから、それは、思索・車・囲碁・音楽・絵画・セックスとした。

アタシは凝り性だから、その道をいくと決めたら、けっこうコダワル。
そして、ひとの話を聞くのは大嫌いだから、ほとんど、ひとりで始める。
時間もかかるし、遠回りもする。
こーゆう人間は社会から受け入れられないから大成しない、せいぜい、大家業で「お山の大将」となるだけだ。

音楽も、全部聴かないといけないと、思った。
16歳で高校入学のお祝いに買ってもらったステレオ、うれしくてレコードを買ってきた。
最初に聴いたのはペレス・プラードのラテン音楽。
そしてジャズ・クラシック・邦楽・歌謡曲・カンツオーネ・シャンソン・南米やアフリカの音楽。

で、ひばりが体調を崩しはじめたころ、死ぬ前にいちどきちんと聴かないといかんと思って、全集を買ってきた。

いや、あなた、ヒバリの裏声を聴いたときには驚いた。
当時はALTECの416ってスピーカーにホーンをのせて聴いていたんですが、地声から裏声にのせていくところで、声の太さ、肉感が衰えないどころか、自在に強弱、響きを変化させていく。
天童よしみのような、太いだけの腑抜けな声質じゃなく、魂のコアが粒子となって詰まっている。

じっと耳を澄ませて聴いていると、たとえようもない寂しさをたたえて歌っている曲が多い。

あの丘越えて、っていう唄があります。
この歌詞は、ひばりが天才であるが故に生涯背負うであろう孤独を、万城目正+菊池一夫が見抜いて創り上げた名作なのですが、多くの国民は単なる恋愛歌だと思っている。

この歌を、ひばりは生涯に何百回も歌っているのでしょうが、40過ぎに歌っているのを聴くと、寂しさの通低感に驚く。

30代のころの熱い歌い方とまったくちがう。
後楽園コンサートの放映をみて、おそらくヒバリは私のなかで確固としたものになった。

美空ひばり  人生一路 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cl6HNmFTOkI

激痛の中で歌うヒバリをみて、ファン層が根本的に入れ替わったといわれた時です。
ピカソと同じで芸が進化かつ深化していく、天才。
悲しい酒は、なんど、装置の調整に使ったかわからない。


美空ひばり・悲しい酒 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZHDRClbBqKc


ベースが低くテンポを刻むなかで、彼女の細からず・太からず・消え入りそうで消えない声を再現しようと。。
https://sniperfon.exblog.jp/25835674/

2. 中川隆[-14659] koaQ7Jey 2021年12月09日 15:22:23 : jKojnsGz2s : NS5ieTFFVDVmWWc=[16] 報告
「柔」(やわら)1964年11月20日 関沢新一(作詞)古賀政男(作曲)


柔 美空ひばり - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9F%94++%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A

3. 中川隆[-14658] koaQ7Jey 2021年12月09日 15:31:28 : jKojnsGz2s : NS5ieTFFVDVmWWc=[17] 報告
「無法松の一生」1958年7月 吉野夫二郎(作詞) 古賀政男(作曲)


無法松の一生 村田英雄 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%84%A1%E6%B3%95%E6%9D%BE%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%94%9F++%E6%9D%91%E7%94%B0%E8%8B%B1%E9%9B%84

無法松の一生 美空ひばり - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%84%A1%E6%B3%95%E6%9D%BE%E3%81%AE%E4%B8%80%E7%94%9F++%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A

4. 2021年12月10日 01:03:29 : jKojnsGz2s : NS5ieTFFVDVmWWc=[56] 報告
古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18日 - 1978年(昭和53年)7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。明治大学商学部(旧制)卒業。本名は古賀正夫(読み同じ)。

少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王「古賀政男」になり、昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、数多くの流行歌をヒットさせた。その生涯で制作した楽曲は5000曲ともいわれ、「古賀メロディー」として親しまれている。また、小林幸子をスカウトしたことでも知られる[1]。

生涯

幼少期
1904年(明治37年)、福岡県三潴郡田口村(現・大川市)に8人きょうだいの6番目として誕生。近くには水の都柳川があり、その風景は後年の『誰か故郷を想わざる』のモチーフになった。5歳のときに父が他界し、母と姉、弟とともに7歳で故郷を離れ、働いている長兄がいる朝鮮に渡り感情起伏の激しい少年時代を過ごした。故郷喪失の悲しみは『人生の並木路』のモチーフとなった。朝鮮では最初は仁川に、その後は京城で暮らした。従兄弟から大正琴をもらったのもこの頃である。古賀政男が初めてマンドリンを手にしたのは中学3年(京城善隣商業学校)のときで、一番仲の良かったすぐ上(4番目)の兄からマンドリンを贈られた[2][3]。この時期から音楽家への道を志すようになる。

青年期
善隣商業学校を出て大阪の商店に勤めたのち、1923年(大正12年)に明治大学予科に入学し、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画した。当時の明大マンドリン倶楽部では、ボッタキアーリ、ラウダス、バッチなどのマンドリンの大曲が演奏されていたが、古賀自身も難曲「幻想的狂想曲」(ロマーノ)を独奏するなどの活動が見られている。1928年(昭和3年)夏には旅先の青根温泉付近の山中で剃刀自殺を図るが、同行していた友人の発見により未遂に終わる[4]。そのときに見た蔵王の夕暮れから名曲『影を慕いて』の詩が浮かんだといわれている。1980年に同地に『影を慕いて』の歌碑が建立された[5](関連:青根洋館)。1928年の秋の定期演奏会は同年春に開館したばかりの明治大学記念館講堂で開催されたが[6]、このとき佐藤千夜子の知遇を得た。また、この頃「音楽は和也(なり)」の理念が生まれた。

1929年(昭和4年)春の大学卒業後は指導者となり音楽活動を続けた[4]。6月、明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で『影を慕いて』(ワルツ・ギター合奏)を発表。その年の暮れには、佐藤千夜子の歌唱とマンドリンオーケストラを率いて、『文のかおり』など自作品をビクターで吹き込んだ。1930年(昭和5年)秋にはビクターで、『影を慕いて』と『日本橋から』を佐藤千夜子の歌唱によって吹き込む。このときは、まだマンドリン・ギター演奏家「古賀正男」だった。また、この歌は宮城県川崎町の風景をモチーフにしたといわれている。当時、死の淵に追われた古賀が川崎町の森林を歩いているうちに我に返りこの歌を書いたという。1931年(昭和6年)1月、新譜でレコードは発売されたが、売れ行きは芳しくなかった。尚、『影を慕いて』の創作過程については、菊池清麿の『評伝古賀政男 青春よ永遠に』に詳細に記されている。

作曲家としての誕生・活動
1931年、日本コロムビア専属となった。当初は作曲に自信がなく文芸部の社員を希望していたが、結局、作曲家として契約した。このとき、東京音楽学校在籍中の藤山一郎と出会ったことが古賀政男の人生を大きく変えることになった。藤山一郎の歌唱表現が古賀政男の才能を開花させたのである。『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』の3曲がSPレコードで発売され、以降多くのヒット曲を世に出した(なお、藤山は東京音楽学校卒業後、ビクター専属となる)。

1933年(昭和8年)には、松平晃が歌唱した『サーカスの唄』がヒットしたが、直後に離婚騒動などもあって体を壊し、1933年の晩秋から翌年にかけて伊東で静養した。翌1934年、コロムビアからテイチクに移籍。ビクターから迎えた藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などを擁し、『緑の地平線』『二人は若い』『東京ラプソディ』『あゝそれなのに』『青い背広で』『人生の並木路』などのヒット曲を発表した。

1938年(昭和13年)秋、外務省の音楽文化親善使節として渡米し、ハワイ、アルゼンチンを訪問。渡米直前にコロムビアに復帰した。1939年(昭和14年)秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、全世界に向けて15分間にわたって放送された。帰国後は『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』などがヒット曲となった。

戦後の活動

1948年

1954年
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に近江俊郎が吹き込んだ『湯の町エレジー』がヒット。同年には「古賀ギター歌謡協会」(後の古賀ギター学院)を設立した。

1960年代には過去に自らの前で『悲しき竹笛』(万城目正作曲の『悲しき口笛』とは異なる)を歌った美空ひばりの歌の作曲を手がけた。1964年(昭和39年)発表の『柔』は190万枚を売り上げ、1965年(昭和40年)の第7回日本レコード大賞を受賞。翌1966年(昭和41年)発表の『悲しい酒』も145万枚を売り上げるミリオンセラーとなった。

作曲活動の傍らで1959年(昭和34年)には日本作曲家協会を創設し、初代会長となる。このときに服部良一らとともに創設したのが日本レコード大賞である。

1965年(昭和40年)以降は大正琴の普及にも努め、自作曲の大正琴レコード、オリジナルブランドの改良大正琴「KOGA TONE(古賀トーン)」を販売した。

晩年・死後

築地本願寺和田堀廟所にある古賀政男の墓
1974年(昭和49年)には平和への祈りを込め、広島平和音楽祭を開催した。

1978年(昭和53年)6月17日、明治大学マンドリン倶楽部・第102回定期演奏会(杉並公会堂)で指揮者を務めたのが、古賀自身最後の公の姿となった。

それから約1か月後、1978年7月25日の午後1時15分、東京・代々木の自宅で急性心不全により死去、享年73。その死から10日後の同年8月4日、前1977年(昭和52年)の王貞治(プロ野球選手)に次ぎ史上二人目、また、作曲家としては初となる国民栄誉賞を贈られた[注釈 1][注釈 2]。

1998年(平成10年)7月には、日本コロムビアから16枚組CD-BOX『古賀政男大全集』が発売され、3000セットを売り上げた[7]。

主な作品

丘を越えて(キネマ映画「姉」主題歌)(1931年) 歌:藤山一郎
酒は涙か溜息か(1931年) 歌:藤山一郎
私此頃憂鬱よ(1931年) 歌:淡谷のり子
窓に凭(もた)れて(1931年) 歌:関種子
キャンプ小唄(1931年) 歌:藤山一郎
月の浜辺(1931年) 歌:河原喜久恵
スキーの唄(1931年) 歌:藤山一郎
影を慕いて(1932年、1968年) 歌:藤山一郎(1932年版)、森進一(1968年版)
日本橋から(1932年) 歌:関種子
強くなってね(1933年、1937年) 歌:渡辺光子(1933年版)、杉狂児・美ち奴(1937年版)
サーカスの唄(1933年) 歌:松平晃
ほんとにそうなら(1933年) 歌:赤坂小梅
来る来るサーカス(1933年) 歌:淡谷のり子
旅がらす(1933年) 歌:中野忠晴
東京祭(1933年) 歌:不明
夕べ仄(ほの)かに(1935年) 歌:松島詩子
男のまごころ(1935年) 歌:楠木繁夫
緑の地平線(日活映画「緑の地平線」主題歌)(1935年、1958年) 歌:楠木繁夫(1935年版)、青木光一(1958年版)
二人は若い(日活映画「のぞかれた花嫁」主題歌)(1935年) 歌:ディック・ミネ、星玲子
ゆかりの唄(1935年) 歌:ディック・ミネ
白衣の佳人(1935年) 歌:ディック・ミネ
白い椿の唄(1935年) 歌:楠木繁夫
ハイキングの唄(1935年) 歌:楠木繁夫
東京ラプソディ(1936年) 歌:藤山一郎
男の純情(1936年) 歌:藤山一郎
東京娘(1936年) 歌:藤山一郎
慈悲心鳥(日活映画「慈悲心鳥」主題歌)(1936年) 歌:楠木繁夫
女の階級(日活映画「女の階級」主題歌)(1936年) 歌:楠木繁夫
回想譜(1936年) 歌:藤山一郎
啄木の唄(1936年) 歌:楠木繁夫
ああそれなのに(1936年) 歌:美ち奴
うちの女房にゃ髭がある(1936年) 歌:杉狂児・美ち奴
細君三日天下(1936年) 歌:杉狂児・美ち奴
愛の小窓(1936年) 歌:ディック・ミネ
青い背広で(1937年) 歌:藤山一郎
人生の並木路(1937年) 歌:ディック・ミネ
のばせばのびる(1937年) 歌:楠木繁夫
真実一路の唄(1937年) 歌:楠木繁夫
国境を越えて(1937年) 歌:楠木繁夫
青春日記(1937年) 歌:藤山一郎
道行シャンソン(1937年) 歌:楠木繁夫・美ち奴
そんなの嫌い(1937年) 歌:美ち奴
軍国の母(日活映画「国家総動員」主題歌)(1937年) 歌:美ち奴
銃後の赤誠(1937年) 歌:奥田英子
東京盆踊り(1937年) 歌:藤山一郎・美ち奴
お父さんの歌時計(1937年) 歌:古賀久子(菅原都々子) - 古賀の養女。
小楠公(1937年) 歌:古賀久子(菅原都々子)
動員令(1937年) 歌:楠木繁夫
人生劇場(1938年、1959年) 歌:楠木繁夫(1938年版)、村田英雄(1959年版)
歓喜の丘(1938年) 歌:藤山一郎
誰か故郷を想わざる(1940年) 歌:霧島昇
なつかしの歌声(1940年) 歌:藤山一郎・二葉あき子
目ン無い千鳥(1940年、1965年、1969年) 歌:霧島昇・ミス・コロムビア(1940年版)、島倉千代子(1965年版)、大川栄策(1969年版)
新妻鏡(1940年、1965年、1969年、1970年) 歌:霧島昇・二葉あき子(1940年版)、島倉千代子(1965年版)、アントニオ古賀(1969年版)、大川栄策(1970年版)
新妻模様(1940年) 歌:霧島昇・ミス・コロムビア
春よいずこ(1940年) 歌:藤山一郎・二葉あき子
花ある人生(1940年) 歌:霧島昇
相呼ぶ歌(1940年) 歌:霧島昇・菊池章子
蛇姫絵巻(1940年) 歌:志村道夫・奥山彩子
熱砂の誓ひ(建設の歌)(1940年) 歌:伊藤久男
紅い睡蓮(東寶映画「熱砂の誓ひ」主題歌)(1940年) 歌:李香蘭
紫紺の歌(明治大学第一応援歌)(1941年) 歌:霧島昇
そうだその意気(国民総意の歌)(1941年) 歌:霧島昇・松原操・李香蘭
総進軍の鐘は鳴る(1941年) 歌:不明
山の凱歌(1941年) 歌:伊藤久男・霧島昇
茜の雲の燃ゆる時(1941年) 歌:霧島昇・松原操
思い出の記(1941年) 歌:霧島昇
素晴らしき首途(1942年) 歌:霧島昇
母を呼ぶ歌(1942年) 歌:霧島昇・高峰三枝子
南の花嫁さん(1942年) 歌:高峰三枝子
どうぢゃね元気かね(大映映画「歌ふ狸御殿」主題歌)(1942年) 歌:楠木繁夫
花の生命(1942年) 歌:霧島昇・李香蘭
誓いの港(1942年) 歌:霧島昇
打倒米英(1942年) 歌:霧島昇
陥としたぞシンガポール(1942年) 歌:霧島昇
故郷の白百合(1943年) 歌:霧島昇・松原操
なつかしの蕃社(1943年) 歌:霧島昇・菊池章子
勝利の日まで(1944年) 歌:霧島昇
月夜船(1944年、1949年) 歌:波平暁男(1944年版)、近江俊郎(1949年版)
旅役者の唄(1946年) 歌:霧島昇
麗人の歌(1946年) 歌:霧島昇
悲しき竹笛(1946年) 歌:近江俊郎・奈良光枝
乙女船(1946年) 歌:霧島昇・奈良光枝
裏町セレナーデ(1946年) 歌:霧島昇・二葉あき子
青春の約束(1947年) 歌:霧島昇・渡辺はま子
旅の舞姫(1947年、1948年) 歌:霧島昇(1947年版)、霧島昇・二葉あき子(1948年版)
紅雀の歌(1948年) 歌:霧島昇
恋の曼珠沙華(1948年) 歌:二葉あき子
湯の町エレジー(1948年) 歌:近江俊郎
雨の夜汽車(1948年) 歌:奈良光枝
シベリヤ・エレジー(1948年) 歌:伊藤久男
三百六十五夜(1948年) 歌:霧島昇・松原操
あの夢この歌(1948年) 歌:霧島昇・二葉あき子
港の恋唄(1949年) 歌:鶴田六郎
人間模様(1949年) 歌:霧島昇
銀座シャンソン(1949年) 歌:霧島昇・二葉あき子
希望に燃えて(1949年) 歌:伊藤久男・霧島昇・近江俊郎・二葉あき子・奈良光枝・藤山一郎・高倉敏
トンコ節(1949年、1951年) 歌:久保幸江・楠木繁夫(1949年版)、久保幸江・加藤雅夫(1951年版)
赤い靴のタンゴ(1950年) 歌:奈良光枝
ハワイの夜(1950年) 歌:霧島昇
玄海しぶき(1950年) 歌:霧島昇
月が出た出た(1951年) 歌:霧島昇・久保幸江
青いガス燈(1951年) 歌:岡本敦郎
京都音頭(1951年) 歌:霧島昇・久保幸江
良いとこ節(1951年) 歌:霧島昇・久保幸江
ゲイシャ・ワルツ(芸者ワルツ)(1952年) 歌:神楽坂はん子
白虎隊(1952年) 歌:霧島昇
ギター月夜(1952年) 歌:霧島昇
浮草一座の歌(1952年) 歌:霧島昇
恋しあの町(1952年) 歌:霧島昇
こんな私じゃなかったに(1952年) 歌:神楽坂はん子
こんなベッピン見たことない(1953年) 歌:神楽坂はん子
見ないで頂戴お月さま(1953年) 歌:神楽坂はん子
石狩エレジー(1953年) 歌:霧島昇
港の町よさようなら(1953年) 歌:霧島昇
ザビエルの鐘(1953年) 歌:青木光一
モチのロン/若い時や二度ない(1953年) 歌:神楽坂はん子・青木光一
二十才の青春(1954年) 歌:青木光一
月の朝鮮海峡(1954年) 歌:青木光一
湖畔のギター(1954年) 歌:霧島昇
伊勢おどり(1954年) 歌:霧島昇・久保幸江
りんどう峠(1955年) 歌:島倉千代子
ピレネエの山の男(1955年) 歌:岡本敦郎
マドロス子守唄(1955年) 歌:霧島昇
白浪五人男(1955年) 歌:霧島昇・久保幸江・岡本敦郎 他
娘船頭さん(1955年) 歌:美空ひばり
怒涛の男(1956年) 歌:美空ひばり
都に花の散る夜は(1956年) 歌:青木光一
思い出は懐かしきかな(1956年) 歌:霧島昇
目ン無い化粧(1956年) 歌:霧島昇・島倉千代子
江戸の闇太郎(1957年) 歌:美空ひばり
青春サイクリング(1957年) 歌:小坂一也
永遠に答えず(1957年) 歌:島倉千代子
馬喰一代(1957年) 歌:村田英雄
流れの旅相撲(1957年) 歌:霧島昇・島倉千代子
愛情一路(1957年) 歌:霧島昇
無法松の一生(1958年) 歌:村田英雄
思い出さん今日は(1958年) 歌:島倉千代子
銀座地階の女(1959年) 歌:コロムビア・ローズ(初代)
白い小ゆびの歌(1960年) 歌:島倉千代子
花散る下田(1960年) 歌:島倉千代子
東京五輪音頭(1963年) 歌:三波春夫、他
柔(1964年) 歌:美空ひばり
ウソツキ鴎(1964年) 歌:小林幸子
お島千太郎(1965年) 歌:美空ひばり
柔の男(1965年) 歌:美空ひばり
宮本武蔵(1965年) 歌:村田英雄
鶺鴒(せきれい)の舞(1965年) 歌:村田英雄
敦盛哀歌(1966年) 歌:舟木一夫
悲しい酒(1966年) 歌:美空ひばり
世界平和音頭(1968年) 歌:都はるみ
浜昼顔(1974年) 歌:五木ひろし
ひろしまの母(1977年) 歌:島倉千代子

映画音楽
からくり歌劇(1936年、大谷俊夫監督)
ジャズ忠臣蔵(1937年、伊賀山正徳監督)
銃後の赤誠(1937年、水ケ江竜一監督)
弥次㐂夛道中記(1938年、マキノ正博監督)
新妻鏡(1940年、渡辺邦男監督)
熱砂の誓ひ(1940年、渡辺邦男監督)
歌ふ狸御殿(1942年、木村恵吾監督)
サヨンの鐘(1943年、清水宏監督)
麗人(1946年、渡辺邦男監督)
七つの宝石(1950年、佐々木啓祐監督)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7

5. 中川隆[-14614] koaQ7Jey 2021年12月11日 08:35:53 : qXeKzjshCU : Q0syeHVlV3REUHM=[11] 報告
酒は涙か溜息か 1931年9月発売 作詞 高橋掬太郎 作曲 古賀政男

酒は涙か溜息か 藤山一郎 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%85%92%E3%81%AF%E6%B6%99%E3%81%8B%E6%BA%9C%E6%81%AF%E3%81%8B++%E8%97%A4%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E

6. 2021年12月12日 06:10:21 : 2HgCum6vhM : dEUvbTVqOG9EN0k=[4] 報告
熱砂の誓ひ 李香蘭 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%86%B1%E7%A0%82%E3%81%AE%E8%AA%93%E3%81%B2++%E6%9D%8E%E9%A6%99%E8%98%AD


『夕月乙女』『紅い睡蓮』 李香蘭 映画「熱砂の誓ひ」(熱砂的誓言) 挿入歌
★旧北京站、紫禁城、天壇、頤和園、景山、北海公園等が出て来ます。
1940年/民國29年/昭和15年 - YouTube





熱砂の誓ひ(1940) - YouTube







『熱砂の誓ひ』は、東宝映画・華北電影公司製作、1940年(昭和15年)公開の日本の国策映画、およびその主題歌である。映画の主演は長谷川一夫、李香蘭。主題歌「熱砂の誓ひ」は作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌唱:伊藤久男。

監督 渡辺邦男
脚本 木村千依男 渡辺邦男

昭和15年(1940年)、東宝と華北電影公司の合作で製作された国策映画。長谷川一夫・李香蘭の主演による「大陸三部作」(「白蘭の歌」、「支那の夜」、「熱砂の誓ひ」)の3作目。北京を舞台に、日本の土木技師(長谷川一夫)と、日本に声楽の勉強に来ている中国人学者の娘(李香蘭)のラブロマンス。


監督:渡辺邦男

出演
杉山憲治:長谷川一夫
李芳梅:李香蘭
李月琴(李芳梅の従妹):汪洋
李鴻明:進藤英太郎
陳蘇延:藤田進
杉山一郎、杉山貢:江川宇礼雄
大川博士:丸山定夫
楊宗資:華風
李高福:高堂国典
佐野藤助:鳥羽陽之助
趙寒山:坂内永三郎
平井明男:鉄一郎
黄福生:江藤勇
柳田先生:小島洋々
憲治の母・淑子:水町庸子
長女・那美子:里見藍子
三男・譲:伊東薫
四男・進:竹下富四郎
次女・峰子:三谷幸子
三女・雪子:加藤照子
五男・昭:小高たかし


主題歌・挿入歌
昭和15年(1940年)公開の国策映画「熱砂の誓ひ」の主題歌。同映画の挿入歌として「紅い睡蓮」がある。「熱砂の誓ひ」は別名「建設の歌」ともいい、大陸の荒野の開拓・建設に寄せる熱情を伊藤久男が朗々と歌い上げている。

挿入歌「紅い睡蓮」の歌唱は李香蘭。「大陸三部作」の前2作では所属レコード会社(テイチク)が作曲家の所属(日本コロムビア)と異なっていたため吹き込めなかったが、「熱砂の誓ひ」製作時には日本コロムビアに移籍していた。

「熱砂の誓ひ」(1940年10月発売)
作詞:西條八十
作曲:古賀政男
歌:伊藤久男

「紅い睡蓮」(1940年10月発売)
作詞:西條八十
作曲:古賀政男
歌:李香蘭

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E7%A0%82%E3%81%AE%E8%AA%93%E3%81%B2
7. 中川隆[-14482] koaQ7Jey 2021年12月23日 12:56:16 : awWxEb0EXI : N3piT1lTNzRsWVk=[6] 報告
横浜でメーカー勤めだった時
会社が力を入れていた液晶TVのパブリシティ&セールをしろというので
関内のテレビ神奈川のホールを借りてできる事になりました

イベントの一つとしてVICTORらしく歌手を呼んで生演奏をする事になりました
その時に来て頂いたのがアオキマミさんという方でした

レーベルの方が事前に一度聞かせるからと言って、神奈川支店に来て頂いたのです
ギター奏者の方とお二人でお見えになりました

小柄な可愛らしい方でしたが、JAZZの世界では期待の新星と言われています
こちらがとてもフランクな人で、年配のお客さんが多いからと伝えるとこんな曲で如何ですか?と

「蘇州夜曲」・・・李香蘭で大ヒットした戦前の日中合作映画の挿入歌・・・を、会社の会議室で歌って下さいました

恥ずかしながら涙しましたね、居合わせた当社の幹部連中(相応のお年)も全員啜っていました

アオキマミ さんの情報
https://www.hmv.co.jp/en/news/article/912170010/

もう、今日のブログなんか如何でもいいや

李香蘭=山口淑子さんの代表曲を3曲貼っておしまいにします

最後に「蘇州夜曲」1950年のNYライブ音源貼っておきます
上部のオリジナルサウンドトラックとの違いを聞いていただければ、今日の記事の言いたいことは以上です


あっしはこれにてドロンしやす・・・号泣

http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-550.html

8. 2021年12月23日 12:59:13 : awWxEb0EXI : N3piT1lTNzRsWVk=[7] 報告
蘇州夜曲(新婚旅行)−李香蘭




映画「支那の夜」(1940)より

作詞/西条八十 作曲/服部良一 歌/李香蘭

 君がみ胸に
  抱かれて聞くは
 夢の船唄
  鳥の唄
 水の蘇州の 
  花散る春を
 惜しむか柳が
  すゝり泣く

 髪に飾ろか
  接吻しよか
 君が手折りし
  桃の花
 涙ぐむよな
  おぼろの月に
 鐘が鳴ります
  寒山寺
9. 2021年12月23日 13:00:38 : awWxEb0EXI : N3piT1lTNzRsWVk=[8] 報告
夜来香_山口淑子(李香蘭)




1958年 山口淑子(李香蘭)映画界20周年・引退記念
10. 2021年12月23日 13:01:55 : awWxEb0EXI : N3piT1lTNzRsWVk=[9] 報告
何日君再来(李香蘭)




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※夜来香(李香蘭)
https://youtu.be/LK41K_iTUmM

※蘇州夜曲(李香蘭)
https://youtu.be/2ZMnDwQBMjI

※蘇州の夜(李香蘭)
https://youtu.be/K8H2wUYk13o

1.
好花不常开,好景不常在。
愁堆解笑眉,泪洒相思带。
今宵离别后,何日君再来?
喝完了这杯,请进点小菜。
人生难得几回醉,不欢更何待!
喝完了這盃 請求進點小菜
今宵离别后,何日君再来?

2.
忘れられない あのおもかげよ
ともしびゆれる この霧の中
ふたり並んで 寄り添いながら
ささやきも ほほえみも
楽しくとけあい 過ごしたあの日
ああ いとし君 いつ又帰る
何日君再来

(備考)
停唱阳关叠,重フ白玉杯。
殷勤频致语,牢牢抚君怀。
今宵离别后,何日君再来?
喝完了这杯,请进点小菜。
人生难得几回醉,不欢更何待!
说白(省略)
今宵离别后,何日君再来?!

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----------------
★以下、引用ですが、出典がわからなくなりました。
----------------

この歌の歌詞は古文と現代文が混ざっていて、
歌詞の理解をする時にとても混乱しやすいです。

这首歌的歌词古文和白话文混杂在一起,很容易理解错。

五音句の漢詩を読む時、大原則があります、前の二文字と後の三文字と
分けて、別々のフレーズとして文の意味を考えます。
(もちろん例外もありますけど。)

读五言古诗时,很重要的一点、是把前面两个字
和后面三个字分成两个词组来考虑。

この歌の歌詞は一番も二番も三行目までは古文ですから、(30年代の歌詞は
四番までありましたが、おなじです。)
次のようにして理解しましょう。

这首歌的歌词无论是第一段或第二段,(30年代的歌词有四段,也一样。)
从第一行到第三行都是古诗,应该如此。

(一)
好花|不常开 (良い花|常には咲かない)
好景|不常在 (良い景色|常には現れない)
愁堆|解笑眉 (憂いが積もる|笑顔を無くす)
泪洒|相思带 (涙をこぼす|君への思いに)
今宵|离别后 (今夜|別れると)
何日|君再来 (いつ|君がまた来る)

(二)
停唱|阳关叠 (歌うのをやめる|陽関三畳)
重フ|白玉杯 (再び持ち上げる|白い玉の杯)
殷勤|频致语 (親切に|いろいろよく話す)
牢牢|抚君怀 (しっかり|君の胸を慰める)
今宵|离别后 (今夜|別れると)
何日|君再来 (いつ|君がまた来る)

現代文では以上のような原則はありません、自由です。
而白话文就没有以上规矩,很自由。
比べてみてください。
请比较一下:

歌の四行目は現代文で、四行目はフレーズとして三と二に分けます。
歌词的第四行是白话文,要分词组的话,应该如此。
喝完了|这杯 (飲み終える|この一杯)
请进点|小菜 (少し食べて|おつまみ)

ついて言いますが、七音の句を読む時、二、二、三に分けて理解します。
顺便说一句,读七言古诗时应是二、二、三。
興味のある方、試してみてください。
有兴趣者,不妨试试。
11. 2021年12月23日 13:03:13 : awWxEb0EXI : N3piT1lTNzRsWVk=[10] 報告
『蘇州夜曲』李香蘭 ライブ歌唱 (現場演唱) 1950年 於アメリカ・サクラメント市 (美國薩克拉曼多市)




この音源は、私が2013年に李香蘭 (山口淑子)さん御本人からいただいた貴重な物です。
這個音源是我在2013年從李香蘭女士本人領受的珍貴的東西。
1950年のアメリカ巡回公演の後、彼女はShirley Yamaguchiの芸名で、ブロードウェイやハリウッドで有名になりました。
1950年的美國巡演之後,她以Shirley Yamaguchi的藝名,在百老匯和好萊塢成名。

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