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(回答先: 擦文からアイヌ ー農耕の縮小ー 投稿者 中川隆 日時 2025 年 6 月 01 日 19:55:31)

擦文文化は農耕文化で、日本人から鉄製農具を買って農耕していたのですが、擦文時代が終わってから、アイヌ人の祖先は日本人と対立する様になり、鉄製農具の売買を日本人が禁止する様になり、それでアイヌ人の祖先は農耕ができなくなったのです。それで、アイヌ人の祖先はニブフやシベリアの漁労民と交易する様になり、生業を農業から漁労に変えたのです。
アイヌ人の文化がニブフやシベリアの漁労民に近いのは、ニブフやシベリアの漁労民から漁労の方法を詳細に教えて貰ったからです:
第1回北海道WGミーティング
擦文からアイヌ ー農耕の縮小ー
https://www.chikyu.ac.jp/neo-map/file/fukasawa-01.pdf
東北大学大学院 国際文化研究科 深澤百合子
農耕の小規模化それとも・・・
禁農モデル
アイヌ社会においての農耕文化は擦文文化期以後アイヌ社会内の欲求により常に進展していたと考えられるにもかかわらず、「意図的なイデオロギー」によってその動きが禁止されるという、人為的行為によって阻害された結果、実践的な折衝としてアイヌ社会内で再生産され、その現象が変容した文化的要素として認められるようになったと考える。
これを禁農モデルと呼ぶ。
1786(天明6)年 佐藤玄六朗の報告
『蝦夷地之儀是迄見分仕候趣申上候書付』
「古来より蝦夷地において穀類を作立候儀は法度の様に相成り」
「先年イシカリと申候所の川上にて、稲を作り相応に出来在候処其段松前え
相聞、領主役人より申付候哉、又は商人共の仕業の候哉、籾、種子迄残ら
ず取り上、右作仕候蝦夷ともえは、ツクナイを出す為候由の風聞等之有り」
「田畑は少しも御座無き、去り乍遠方山中の蝦夷共は粟はムンシロ、稗はヒヤバと申、少々宛作り、則見および候処、農具等之れ無き候に付け、草木の間に種子を蒔き置き候のみ御座候得共随分相応に出来立て、夫食に相成候様子にて、其の所々蝦夷は臼、杵等も取り持ちいたし罷申候」
1857(安政4)年 『石狩日誌』松浦武四郎(1973年丸山道子訳)
「家のそばにはムニノカン(狸豆)、マーメ(いんげん豆)、ムンシロ(粟)、リテアママ(もち粟)、ヒヤハ(稗)などを作っているが、こういう農作業は女の仕事とされている。かれらはまだ鍬を持っていないので、まさかりの側面に木の柄をとりつけて鍬の代わりに使っているが、これは松前藩の方針で、かれらに農業を教えることを禁じているので、運上屋もアイヌには鍬を渡さないためである」
対雁方面では、大根ばかり作っていたので、なぜ穀類も作らないかとたずねたところ、そういう物はつくりたくとも鍬や種が手に入らない
「石狩川中流のトック(徳富)ベツハラの辺りでは場所の番人たちには見つからないように、(見つかると取り上げられるので)住居から少し離れた場所に、まさかりを利用して畑を耕し、いんげん豆、大豆、稗、粟などを作っており」
1857(安政4)年 『蝦夷草紙』最上徳内
彼の国法にて、蝦夷地への物の種を渡す事を停止なり。其故いかんといふ事を知らず」
「密かに按ずるに、蝦夷人農業に力尽くしては、干魚漁猟の産物も相減じ、請負人の交易も不足し、運上金も相減ぜんとの故なるべし」
耕作面積の縮小
1800年 68.0坪(224.4u)
1858年 33.3坪(109.9u)
(羽田野 1981)
1857(安政4)年 『石狩日誌』
松浦武四郎(1973年丸山道子訳)
松前藩の流言飛語
「アイヌが畑に種をまいたりすると、蝦夷地の神様が怒って悪い病気を流行らせるだろう。そうしたら、アイヌの子孫は絶えてしまうだろう」
「畑などを作ってアイヌの神の祟りで、病気になってしんでも良いというなら作れ、シャモのまねをして畑をどうしても作るというのなら、江戸のニシパのようにお前達もすぐにひげをそって、和人語を使え。
和人語を使うような奴はその名前を書いて弁天様の前で焼いてやる。そうすればすぐに死んでしまうからな」
安斉正人「対談:人類史の可能性」『現代思想』 1990
渡辺仁談
「樺太アイヌなんかも農耕などをうっかり真似してやると病気になるとか、子孫が不幸になるとかそういうことが言われていましたね」
▲△▽▼
日本人はこうやって千島アイヌを民族浄化した
とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化―
アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。
このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。
いまひとつの文章がある。主題とも深く関わるので一瞥してみよう。
「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。
日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。
シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。
このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。
明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。
千島アイヌの強制移住
1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。
これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与える恐れがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。
移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
因みに、生き残ったアイヌ人の青年は全員太平洋戦争で沖縄の最前線に送られ、そこで絶滅させられました。
- アイヌ人の祖先がカラフトから来たというのは間違いです。 北部東北・北海道の「ナイ」「ベツ」地名はすべてアイヌモシリ(アイ… 中川隆 2025/6/01 20:53:17
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