<■170行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> ガザにいるぼくが見た半年のこと おじは息子を失った。でも遺体も遺品もない。おじは嘆く「死をどう確認すればよいのか」 2025/05/17 共同通信https://www.47news.jp/12590509.html パレスチナ自治区ガザでは、イスラエル軍による攻撃が再開し、毎日犠牲者が出ている。ぼくが家族と避難生活を送る中部デールバラハの「人道地区」周辺でも、イスラエル軍が攻撃を予告する退避通告が出た。2023年10月に戦闘が始まった時より、攻撃は激しさを増していると感じる。ガザの人々は、終わりの見えない避難生活に疲れ果てている。 つかの間だった停戦期間、移動が自由になると、大勢の住民が自宅に戻った。おじは、死亡したとされている息子の遺品を捜し、病院を回った。厳しい人道状況は変わらず、停戦期間中にも赤ちゃんの凍死が相次いだ。そんな中、状況がさらに悪化する事態が起きた。イスラエルはイスラム組織ハマスへ人質解放を迫り、ガザへの支援物資搬入を止めたのだ。小麦粉や燃料が尽きた製パン店は閉鎖に追い込まれ、住民は国連施設の食料備蓄倉庫を破壊し食料を盗難している。目撃した男性は「私たちの心はすさんできている」と嘆いていた。 ガザ通信員のぼくがこの半年間で取材し、見てきた人々の様子を紹介したい。(共同通信ガザ通信員 ハッサン・エスドゥーディー、写真も撮影、年齢は取材当時) ▽攻撃を恐れて葬儀は短く、土地が足りずに数人を重ねて埋葬…「死者に尊厳を」 2024年12月後半、中部デールバラハのアルアクサ殉教者病院を訪れた。この地域の中核病院だ。薄暗い廊下を進むと、奥に遺体を整えるための部屋がある。3メートル四方もない狭い部屋は日光が入らず寒い。遺体を扱うイナアム・マスリさん(42)は「子どもの遺体を見ると、言葉をかけずにはいられない」と悲しげに語った。 2023年10月の戦闘開始直後、北部ガザ市のマスリさんの自宅はイスラエル軍の空爆を受け、長男マハムードさん=当時(13)=と長女ナスマさん=同(12)=を失った。10年間の不妊治療の末に授かった子どもたちだったという。マスリさんは「喪失感を埋めたかった。自分を忙しくしようと思い、この仕事を始めた」と打ち明けた。 部屋には、イスラエル軍による攻撃で死亡した赤ちゃんの遺体があった。攻撃で死亡すると「殉教者」とみなされ、遺体は水で洗わずに布で包まれる。この赤ちゃんはマスリさんが包んだ。すぐ土葬することが望ましいが、1〜2週間待っても身元が分からなければ、治安当局が引き取る。 「アラー・アクバル(神は偉大なり)」。病院の外ではジャラル・グルさん(70)の葬儀が営まれていた。長男ラミさん(36)によると、薬が入手できず、グルさんは持病の糖尿病が悪化し、体調を崩していた。「戦闘で父親も友人も失った」。ラミさんは言葉少なにつぶやいた。 デールバラハ中心部の墓地では、マハムード・アブユセフさん(45)が葬儀を執り行っていた。「本来ならば死者に敬意を示すため、モスク(イスラム教礼拝所)で営むのが理想だ」が、いつ攻撃があるか分からないため、病院や墓の前で手短に済まさざるを得ない。 墓地には、シャベルで墓を掘るボランティア住民の姿もあった。ラミ・アベドさん(48)は23年10月、長男マハムードさん=当時(15)=を亡くしてから墓を掘る活動を始めた。遺体が増えすぎて土地が足りないため、埋葬済みの墓を深く掘り直し、2〜3人を重ねて埋葬しているという。 アベドさんは「多くは子どもや高齢者、女性だ。罪のない人たちが犠牲になっている」と訴えると、また作業に戻っていった。 ▽停戦の朝、爆発音の代わりに鳥のさえずりが聞こえた 「ハッサン、もう仕事は終わりにして。今夜は家族で祝おうよ」。停戦合意発表の1月15日、母が、ノートパソコンを開いてニュースを見ていたぼくの腕を引いた。ぼくたち家族5人はガザ中部デールバラハの避難先で母の手作りのポテトチップスを食べ、戦闘前の思い出を語り合った。久しぶりの夜更かしだった。 2023年10月の戦闘開始後、就寝中に攻撃されるかもしれない不安を抱え、よく眠れなかった。停戦発効の翌朝、爆発音や無人機の音の代わりに、鳥のさえずりが聞こえた。 イスラエル軍は停戦合意に基づき、ガザ南北を隔てる軍事区域を開放。南部の避難民は大挙して自宅のあった北部へ向かった。ぼくも1月28日、取材で群衆と共に北部ガザ市中心部へ行った。約15カ月ぶりのガザ市は見慣れたビルや住宅が消えた別世界だった。火薬とがれきの臭いが漂っていた。 「家は残っているか」。大学時代の友人アフメド(27)に再会し、抱き合った後に自宅の様子を尋ねた。ガザ北部では、あいさつの次に交わされるのがこの会話だ。「2時間捜したが、分からない」とアフメド。イスラエル軍が自宅周辺をブルドーザーで更地にしたという。 ガザ市東部、イスラエルとの境界近くにあるぼくの自宅も更地になったと聞いている。イスラエル軍が近づかないよう警告しており、行けそうにない。家族一部屋で暮らす生活は当分続きそうだ。 一方、おじバケル(50)はフォトジャーナリストの長男アナス(25)の遺品を求め北部の病院を訪れた。アナスはイスラエル軍の攻撃で死亡したとされるが、遺体は見つからず、おじは服やカメラ、指輪など遺品を捜す。「息子の死をどう確認すればよいのか」。泣き崩れるおじに返す言葉がなかった。 ガザ北部では、荒廃してもなお、自宅のあった場所でテントを張り生活する住民がいる。その姿からは再建への強い意志を感じる。ガザのパレスチナ人はこの地に根ざしている。ぼくたちはここから離れない。 そう感じた直後だった。トランプ米大統領が突然、ガザを翻弄するような発言をしたのだ。 ▽トランプ発言、住民の迷う胸の内は トランプ米大統領は2月、ガザを米国が所有し、住民を域外に移住させるべきだと主張した。住民らは構想に猛反発し、パレスチナ人の存在を無視するトランプ氏への憤りと不信感をあらわにした。 ガザ中部デールバラハで避難生活を送るハテムさん(54)は、不安げな表情を浮かべた。風で激しく揺れるビニールのテントは、所々破れた箇所から雨水が入り込む。体を寄せた4人の子どもがくるまる毛布は湿っていた。 「ガザから離れない」。ハテムさんは言い切った。米国は常にイスラエルの後ろ盾だとして、トランプ氏の発言に驚きはなかった。「域外に出ても難民として屈辱的な扱いを受ける。今より苦しい生活を送りたくない」と漏らした。 ガザではこれまでもイスラエルとハマスの戦闘が繰り返されてきた。3児の父親の避難民ムハンマドさん(34)は「家族と共にガザの外で平和に暮らしたいと思うこともある」と打ち明ける。 トランプ氏の主張については、本気でガザを所有する意図はなくイスラエルに占領させるつもりだろうと推測しているそうだ。「われわれの領土だ。復興に何年かかろうが、ここにいる」。ムハンマドさんは強い口調で訴えた。 パレスチナは1948年のイスラエル建国で、約70万人が難民となったナクバ(大惨事)を経験した。トランプ氏の主張が実行に移されれば「第2のナクバ」になると住民らは危惧する。 壊滅的な被害を受けたガザ北部でも、第1段階の停戦合意に基づき、避難民の帰還が進んだ。イスラエル軍はガザを南北に分ける要衝「ネツァリム回廊」からも撤収した。 ただ、北部では電気や水が確保できない。住民らは砂ぼこりの中、傾いた建物や不発弾を気にしながら歩いている。国連によると1月27日以降、56万人以上が北部に帰ったが、4万5千人以上が再び南側に向かった。 教師ユセフさん(28)も北部に帰還後、中部デールバラハでのテント生活に戻った一人だ。「今のガザでは自分の青年期を無駄にするかもしれない。死や破壊のないガザで新たな生活を始めたい」と願う。 ユセフさんは、域外移住も頭をよぎるという。しかし、住民が去ればイスラエルにガザを占領されると予想する。「占領されればガザを離れた自分を許せなくなってしまう」。迷う胸の内を明かした。 ▽「できることは全てやった。だが娘を失った」 2月末、ガザでは子どもが凍死する事案が相次いだ。「夜中に娘を確認したら、動かなくなっていた」。ユセフ・シャンバリさん(29)が重い口を開き、生後2カ月だった次女シャムちゃんが亡くなった夜の話を始めた。当時避難していた南部ハンユニスからは引き揚げ、北部ベイトハヌーンに戻った。自宅は戦闘で破壊されていて、がれきの上に布のテントを張った。 ガザでは年末年始にも凍死する乳児が相次いだため、シャンバリさんら夫婦は交代で、寝ている子ども3人の状態を確認することにしていた。2月25日未明、降り続く雨で気温は下がり、海岸近くに張ったテントは風で大きく揺れていた。午前1時ごろ、シャムちゃんの鼻から血が流れ、シャンバリさんが触ると既に冷たくなっていた。 「できることは全てやった。だが娘を失った」。シャンバリさんは悔やみ切れない思いを抱える。「自分の生きる意味も見いだせなくなった」。シャンバリさんは無職で、一家は配布される支援物資で食いつなぐ生活だ。 ▽小麦がない、パンが焼けない…すさむ心 3月2日、ハマスに人質解放を迫るイスラエルは、ガザへの支援物資の搬入を停止した。食料や燃料の不足の影響は広がり、4月1日には、ガザの製パン店主協会が全域で製パン店が閉鎖したと発表する事態となった。 「戦闘中もずっと住民にパンを提供してきたのに…」。4月上旬、中部デールバラハの静まりかえった製パン店で、店主アハメド・バナさん(46)が肩を落とした。1日数千枚のパンを焼いていた4台の機械は小麦が入手できないため、稼働停止になった。連日押し寄せていた客は消え、通りも閑散としている。 ガザでは、中が空洞で円形のピタパンが主食だ。2023年の戦闘開始以降、食料や住宅事情が悪化し自宅のパン焼きも難しい中で、製パン店は重要な役割を担ってきた。そうした製パン店を支援したのが国連機関だ。バナさんの場合、世界食糧計画(WFP)から小麦粉の支援を受ける代わりに製造量の30%を住民に無料配布してきた。 イスラエルが物資搬入を停止した3月2日以降、世界食糧計画(WFP)からの小麦粉が減少し、ついには届かなくなった。イスラエルはイスラム組織ハマスに圧力をかけるためだと説明。「国際法が禁じる集団的懲罰だ」(国連)との批判が高まる中、イスラエルは3月18日に大規模攻撃を再開した。 バナさんの店に通った2児の父親(30)は「子どものため食料確保の必要があるが、どんどん難しくなる。自宅でパンを焼くしかない」と嘆く。 製パン店主協会によると、ガザには戦闘開始前、約140軒の製パン店があった。イスラエル軍の攻撃で破壊された店も多い。アブドルナセル・アジリミ会長(65)は「製パン店の消失で混乱が広がっている」と指摘した。パンの代わりに、支援物資のスープやお米、豆の缶詰などを食べる住民が増えた。 物資不足で食料価格は高騰し、国連や支援団体の備蓄庫が破壊される事件も起きている。デールバラハに避難するザキ・バズさん(70)は備蓄庫の小麦粉が盗まれるのを複数回目撃したと明かした。 自身も食料支援に頼るバズさんは「私たちは他の家族に気を配れなくなっている」とぽつりとつぶやいた。「戦闘が長く続き、住民の心はすさんできている」。バズさんは不安げな表情だった。 ガザ保健当局によると、2023年10月から始まった戦闘のガザ側の死者は5万1千人を超えた。イスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘は、1月に停戦合意に至った。しかしその後、停戦の進め方を巡る双方の主張は平行線をたどった。イスラエル軍は3月、ガザ全土を大規模空爆。停戦は事実上崩壊した。ハマスが拘束する人質の解放を求め、軍事圧力を強めている。 × × ×
ハッサン・エスドゥーディー 1997年8月、ガザ市生まれ。大学卒業後、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)や地元メディアを経て2023年から共同通信ガザ通信員。
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