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[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
39. 私は普通の人です[12] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月16日 20:05:42 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[1]
善が先に生まれたのか、悪が先に生まれたのか、恐らくは善ではないでしょうか。

善と言っても善が正しいという意味ではありません。
人によって何が善かは違います。おそらく、はじめに何か問題がおき、それに対する取り決めの様なものができたか、その問題を起こしたものを責めたかでしょう。責めた方は自分は間違っていないと思っていたことでしょう。責められた方は何故自分が悪いのか理解していなかったでしょう。誰も悟りを得ずに何が良くて何が良くないか解っていなければ仕方の無いことです。

おそらくこれが善の始まりだと思います。そして問題を起こした側が悪とされた。
問題を起こすのは当事者ですが、その当事者が問題を起こす様に成長したのは、周りの全ての影響です。その当時はそこまで解っていなかったでしょうから責めることは出来ませんが、それが解ったら素直に認めることが大事なのです。

認めなければ責められるのは当然ですし、また良くないにも成らずに悪のままです。
悪とは自身にある責任を認めないことです。責任を認め、反省すれば、悪から良くない部分に成り、いずれは良くなる。

自身の悪い部分を認めれば謝罪したくなり、和解に至る。しかし、謝罪される側が拒めばそれも成り立たない。謝罪される側にも問題があり、謝罪を受け入れる責任があり、それを認めなければ謝罪される側もまた悪です。被害者であっても悪なのです。

また当事者にはあたらない部外者も、当事者らを見て見ぬふりするのは、悪です。部外者に何が出来るかは人それぞれ異なりますが、問題に対して自身にやれる事をやらないのは悪といえます。

もちろん、悟りを得なければそれらは解らないでしょう。ですが、悟りを得れば解る様になります。皆さんがすべき事は悟りを得る努力をする事です。つまりは悟りを得る事が皆さんのやるべき事です。

ちなみに悟り悟りと言っていますが、私は仏教徒ではありません。他宗教にも入ってはいません。悟りを得てよく考えれば、悟りを得ていない何者かによって産み出された思想に占脳される事も無くなります。

私もまだまだ未熟な部分は多々ありますが、悟りを得られれば、その未熟な部分もふとしたキッカケで改良する事ができます。

知らなかったら大丈夫、みたいな事を思ってる人も居るかもしれませんが、知らなかろうと問題は問題です。責任の重さに多少違いはあれど、その責任から逃れることはできません。悟りを得なければ、その負の螺旋からは抜け出せません。

皆さんが真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c39

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
40. 私は普通の人です[13] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月17日 05:36:11 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[2]
ボランティアについて考えます。

私は悟りを得る少し前、地元の海岸がゴミで溢れかえっているのが耐えられなくてゴミ拾いをしました。ボランティアには参加していませんが掃除をしました。少しは綺麗になったと思います。

掃除することは良いことです。ですが、それは自分が出しだゴミや汚れに関して言える事です。平気でポイポイとゴミを捨てる人の分まで掃除する必要はありません。ですが、海岸を綺麗にしたい、町を綺麗にしたい、という想いは良い事です。

ではどうすれば良いのでしょうか。

ゴミを捨てる人を注意すれば良いと言う人が居るかもしれませんが、それでも捨てる人は捨てますし、新たに捨てる人も出てきます。

ゴミを捨てても良い様に、自然に返る素材でゴミとなるものを作れば良いのでしょうか。これも良い事ですが、自然には返るまでは見た目はゴミですし景観は損なわれます。

結局のところ、各々がゴミを捨てたら色んな人が嫌な想い、理不尽な想いをするという事を、捨てる人、ゴミの元を作る人、ボランティアをする人、それらに関わっていない人全てが気付かなければなりません。

結局は、最良は各々が悟りを得る事です。それを気付かせるまでは、ボランティアはしない方が本当は良いのです。ですが、ボランティアをやりながら気付かせることができるのならば、それに越したことはありません。しかし、大きな問題にならない限り重くは受け止めないのではないでしょうか。

そしてもうひとつ、見方を変えれば、これも裕福な商売人にとって都合の良いシステムです。自分たちは、ゴミの問題を気にせずにすみ、ボランティアにやらせておけばいい訳ですから。一見持ちつ持たれつの関係になっていますがどちらの為にもなっていません。

また、後進国でのゴミ問題もそうです。彼らは我々日本人と違って文明の利器を自ら開発したわけでは在りませんので、それらをどう処理すれば良いかも良く解っていません。当然ゴミ問題は生まれますし、そこから派生する有害物質による害や、そこから派生する奇形児や障害児問題もあります。

加えて、これはゴミ問題だけではありません。おおよそお金が絡む全ての生業に言えることです。そしてこれは人間だけの問題でもありません。人間以外の生物や植物、自然環境、ありとあらゆる全てに派生します。人間はそういったありとあらゆる全てから恩恵を受け、またそれらは人間と対等な関係であると気付かなければなりません。人間が一番偉い事などないのです。自惚れてはいけません。

いつの時代も問題を起こすのは、我欲の過ぎる人です。ですが、我欲が過ぎる人が問題を起こすに至る様に成るのは、その他全ての人も関係しているのです。悟りを得て、人の世の真理を理解しなければ、本当の意味での解決には至らないという事に、どうか気付いて下さい。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c40

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
41. 私は普通の人です[14] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 09:36:35 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[3]
>>28でも少し述べましたが、仏教では「捨てる」ことが良いとされているようです。
これも在り得ない事です。そもそも捨てるということ事態も我欲であり他欲でもあります。

悟りを得る為に捨てる事は我欲です。また捨てれば拾う人が出てくるでしょう。その人が拾えば拾った人の我欲が満たされ、自身の欲を捨てたいが為に他者に欲を発生させてしまう事になります。つまり捨てれば良いというのは間違いです。

また、悟りを捨てさせようとするのも欲です。そこに我欲が無く本当の親切心からそう想っているとしても、それは他欲にあたります。そんな事で悟りは得られないからです。得られないのに捨てさせるということ事態が間違っているので、良くない事です。他者に間違いを選択させてしまっています。

結局は、>>28に行き着きます。
自分がいない状態で全てを客観的にみて問題を見る。そしてそこに自分を置き問題を解決する。これをしないと捨てるの行き着く先は「死」そして「無」です。魂や霊魂などが在るとすればそれらも捨てる=消滅する事になります。

私個人としては、今の様な人の世で在り続けるのならば、それも選択肢のひとつだとおもいます。実際、私自身は今は無を望んでいます。

ですが、皆が悟りを得て、分別をわきまえ、自然の摂理の中では平和など在り得ない人間が、人の世の真理を成せば、本当の意味での平和が成るでしょう。そこに差別はありません。しかし区別はあります。区別が無ければ世は混沌と化すでしょう。

話を戻し、では何故、「捨てる」事が良しとされたのか。

ひとつは、釈迦の教えを取り違えた、でしょうか。これは少し楽観的過ぎると思いますが可能性としては一応あります。

ひとつは、釈迦が間違っていた、でしょうか。今ある仏教の話などを聞けばこれも在り得ますが、中には正しいと解釈もあるので、可能性は低いかと思います。

おそらくは、これもいつの時代かの権力者によって改ざんされたと見て良いでしょう。
捨てると言う事は他者が拾えると言う事です。得ないと言う事は得る者の取り分が増えると言うことです。持たないと言うことは持ちたい者が得をすると言う事です。

全て他者が得をする仕組みになっています。

そして、全ての人が「捨てる」を成せばどうなるでしょうか。
この世界から人間は居なくなるでしょう。得をするのはどういう存在でしょうか。

私自身は、これでも良いとは思います。我欲を抑えず、自分中心に物事を考え、自分以外の理不尽に目も向けず、思い込みや決め付けで物事を考え、自身に在る責任を認めず、正しい道を歩もうとしないどころか歩もうとする者の邪魔をし、愛を愛欲や独占欲とはき違える人間ばかり。

それだけならまだ未熟なだけで済みますが、悟りを得る術が在るのに見向きもしないとなれば、それはもう救う意味など無いという事になるでしょう。

皆様が真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c41

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
42. 私は普通の人です[15] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 09:42:57 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[4]
上から2行目の、我欲であり他欲でもあります。を、我欲です。に訂正しておきます。

上から6行目の、悟りを捨てさせようとするのも欲です。の「悟りを」は間違いです。消し忘れました。捨てさせようとするのも欲です。に訂正しておきます。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c42

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
43. 私は普通の人です[16] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 22:05:34 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[5]
>>41の10行目11行目12行目、「これをしないと捨てるの行き着く先は「死」そして「無」です。魂や霊魂などが在るとすればそれらも捨てる=消滅する事になります。」は、仏教では、自分以外への執着を捨てる、とされている様なので「」内は私の間違いです。訂正しておきます。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c43
[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
44. 私は普通の人です[17] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 22:43:36 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[6]
>>41に補足しておきます。

自分以外への執着を捨てる、と仏教ではありますが、これもおかしいと気付くべきかと思います。

自分以外への執着を捨てれば、他者へのこうして欲しいとか、こうあって欲しいという願望を捨てるという事に繋がるので、他者を傷つけることは無くなります。ですが、これは皆がそうなればです。

また、他が自分以外への執着を捨てた者に危害を加えないとは言い切れません。人間は境遇次第で様々に変わります。加えて、自分以外への執着を捨てた者が、自分以外の他を救えるでしょうか。執着を捨てるという事はただ見ているだけだという事です。

結局は自分だけが執着を捨て気持ちよくなって、他の苦や悲しみ等に鈍感になり、気持ちに寄り添えず、機械的に、こうすれば良いなどと回答するだけになってしまいます。

他に執着する事は良くない事ですが、他を想う事は大事な事です。正しい道に導いてあげる存在が居なければ、人間が楽な方へ流れるのは自然な事です。今を見れば解るかと思います。

物質的な豊かさで幸せを感じているかもしれませんが、結局人間は、人と人との繋がりが在ってこそ真の幸福に気付きます。ですが、個人的にそれを成す為に、他を蔑ろにしていては、それは幸福とは呼べないでしょう。

結局は、悟りを得て、人の世の真理を元にしなければ、真の幸福は得られないという事です。

映画やドラマ、アニメ、漫画、こういった中では、一部分だけにスポットをあてて、さも、それが幸福であるかの様に表現しています。ですが、その幸福を得る為に他が理不尽な思いをしている現実があるのです。

皆さんが、真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c44

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
45. 私は普通の人です[18] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 22:52:21 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[7]
>>44の上から3行目4行目を訂正しておきます。

自分以外への執着を捨てれば、他者を傷つけることはなくなります。としましたが、訂正、補足しておきます。

執着を捨てた者が他者を、物理的に傷つけはしませんが、第三者が傷つける可能性は残りますし、また、他者の気持ちに寄り添えないので、心を傷つけてしまう可能性も残ります。としておきます。

結局のところ、自分以外への執着を捨てるだけでは不完全だという事です。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c45

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
46. 私は普通の人です[19] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月19日 01:39:42 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[8]
悟りを得るにあたって、>>28に記した事にもう少し付け加えておきます。

私自身は、悟りを得ようとして得たわけではありません。既に述べましたが、悟りを得ようとすること事態が欲だからです。

私は、とあるキッカケを元に、この世界から理不尽な思いをする人が居なくなり、本当の意味での平和を成すにはどうすれば良いのか、という様な事を考え続けていました。その途中で恐らく悟りを得たのだと思います。ので、悟りを得る事に執着していないので悟りを得た状態でなくなったとしても別にどうでも良いと思っています。

また私は、悟りを得るまで、また得てからも苦は続いています。何故なら今がそういう世の中だからです。釈迦が居た時代は今ほど文明は進んでいなかったでしょう。入ってくる情報が少ない分、また色んなものがない分、苦や悲しみの元も少なかった事は想像できるかと思います。

なんでもそうだと思いますが、何かを成すには、最初の方は困難も多いかと思います。ですが、いずれはその困難も少なくなり、やがて無くなっていく事でしょう。

私は、色んな情報を、思い込まず決め付けずを心得ながら見てきました。そう心得ていても意図せずに、思い込んだり決め付けたりしてしまっている場合はありました。そういう経緯を経て、>>28にまで辿り着きました。私自身は悟りを得るのに時間もかかり苦労もしましたが、>>28を参考にして頂ければ、おそらくは苦労もさほどなく、時間も短縮できると思います。

ですが、これは私の経験でしかありません。もしかしたら結構苦労するかもしれません。人それぞれだと思います。

一応、気休めかもしれませんが、私は基本何も考えずに生きてきました。なので考えることはたぶん苦手な方だったと思います。なので普段考えることが出来ている皆さんなら大丈夫ではないでしょうか。

加えて、私は予定調和にまったく入らないような子供でした。ですが色々と周りの影響を受けていやいや参加するような状態になっていきました。ので、思い込まず決め付けずや、正義とかをすんなり受け入れられたのかもしれません。

結局は人それぞれ向き不向きはあるとは思いますが、悟りを得るにあたっては色んな要素が絡んでると思うので、一概に向き不向きは決められないと思います。ので、私は誰にでも悟りは得られると思っています。

皆さんが真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c46

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
47. 私は普通の人です[20] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月19日 12:20:19 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[9]
仏教にある「中道」について考えてみます。
中道とは、何事もほどほどに、など他にも色々解釈は在るようです。

まず、ほどほどに、を考えてみます。
当然ながら、人によってほどほどは違います。庶民にとってのほどほどは、想像しやすいと思いますが、それでも差は生まれます。では、物凄いお金持ちのほどほどはどうでしょうか。物凄いお金持ちが、これが自分のほどほどだと言ってしまえば、それはほどほどになってしまうでしょう。当然ながら、これはお金だけに限ったことではありません。全てにおいてそう言える事です。

他には、2つのものから離れて矛盾対立を超える、みたいな事も言われていますが、離れる距離が短ければその範囲しか解りません。少し的を得ていますが、表現が解りにくいので理解に苦しむかと思います。

結局は、信者やその他の民を縛る為の概念でしかありません。人は何かによって縛るのではなく、導かなくては成りません。そうでなければ健やかに成長しません。縛れば、あるとき騙されたと知ってしまえば、その反発で騙した相手や集団を憎んだり怨んだりしてしまう人も居るでしょう。敵わないと思い込み決め付け諦めてしまう人も居るでしょう。その中から目覚める人も出るかもしれませんが、その為に他の多くが理不尽な思いをしていては良くありません。

この中道という概念も、欲深いものにとって都合の良いシステムになるという事です。

何事も、人の世の真理を元に、法を創り、倫理観や道徳観を養わなければ良くは成りません。人の世の真理は、未熟な人間が創った法やしきたりや道徳観や倫理観とは違い、既に在るものです。私はそれを見つけたに過ぎません。そしてこれは悟りを得れば誰にでも見付けられる筈です。

皆さんが真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c47

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
48. 私は普通の人です[21] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月19日 19:15:29 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[10]
悟りを得るにあたって、もうひとつ必要だと思われるものを>>28に加えておきます。

それは、無償の愛、です。自己犠牲も含まれる様に感じるかもしれませんが、自己犠牲は何かの為を想って行うものなので違うと思います。

無償の愛とは、一切の見返りを求めない愛〜、といった感じでしょうか。

ただし、無償の愛は、実行しては成らないものだと私は思っています。
無償の愛とは、言い換えれば究極の甘やかしだと思います。自分は何もせずにただただ与えてくれるだけでは、人間は甘えて堕落していくものです。もちろん全ての人がそうではないでしょうが。

また無償の愛は、生贄の儀式にも繋がってしまいます。抵抗しなければ格好の餌食です。もちろん抵抗してもされてしまう可能性は在りますが、しないよりはましです。他にも色々問題は孕んでいると思います。

したがって、無償の愛は、心得としてもっておくものに留め、実行には移さないが、正しいとします。この考え方が、悟りを得るにあたって必要になってくるかと思います。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c48

   

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