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釈迦の悟りとは何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html
投稿者 富山誠 日時 2013 年 1 月 22 日 00:31:51: .ZiyFiDl12hyQ
 

(回答先: 釈迦の本当の教え 投稿者 富山誠 日時 2013 年 1 月 20 日 07:31:26)


釈迦は森林に住まう修行者の群に身を投じ、教えを求め、様々な師を訪ね歩きます。 しかし、満足することはできず、6年間の激しい苦行の生活を行います。死にギリギリまで近づき、断食で皮と骨だけになるほどの修行でした。 釈迦は限界まで苦行を極めましたが、結局は苦行では悟りは開けないことを知り、苦行を捨てることにします。

釈迦は当初、2人の仙人のもとで思想を学んだが、どの教えも彼を満足させず、釈迦は5人の修行仲間と共に苦行に突入した。 しかし、体を痛めつけたり断食をしても悟りに至る事はなく、“何事も極端に走るのではなく中道が肝心”と苦行の無意味さに気づき、35歳で6年続けた苦行を止めた。 他の苦行者は彼を脱落者として嘲笑した。

釈迦はネーランジャラー河の岸辺で村娘スジャータが作ってくれた“牛乳がゆ”を食べて体力を回復させると、ガヤー村の菩提樹の下で静かに座禅を組んで瞑想に入った。

悪魔が悟りを妨害する為に大軍を送ったが、釈迦はこれをことごとく調伏し、瞑想開始から49日後の12月8日未明に悟りを開き、彼は「菩薩(修行者)」から「仏陀(覚醒者)」となった。 ガヤー村は後に仏陀が悟った場所として“ブッダガヤ”と呼ばれるようになる。

釈迦はブッダガヤで悟った後、さらに49日間禅を組んだまま悟りの法悦の余韻にひたり、人生はここに極まったとして何も食べず死を選ぼうとした。

するとインド神話の創造神・梵天が目の前に現れ、彼に

「悟りの内容を人に伝え広めなさい」

と3回告げたという。


釈迦は伝道にあたり、最初に5人の苦行仲間がいるバラナシ郊外へ向かい、サールナートの鹿野苑で初の説法“初転法輪”を行なった。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic24.html

仏教の創始者であるブッダは菩提樹の下で命がけの座禅をした。

何日も何日も断食をし、不眠不休の座禅。

彼は精神と肉体を極限まで追い込んでいた。

それもこれも悟りを開き、人類を救済しようという大義のためだけに。

座禅瞑想の果てにブッタは遂に魔境にたどり着いた。 そこには魔羅というとてつもない力を持つ魔界の王が居たのである。

実はブッタは悟りを開く前に魔境の支配者である魔羅(マーラー)と戦っている。一説によれば魔羅はブッタの闇の部分と言われているが彼は見事に魔羅に勝利し己の闇を克服した。 そしてブッタは深い瞑想状態から覚醒し、見事に悟りを開いたのである。

このように悟りを開こうとするものは己の中にいる魔物と戦わなければならない。精神分析者のユングは己の中にいる魔物をシャドー(影)と言っていた。 つまり涅槃の境地を体得したいのであれば己の中に潜む魔を退治しなければならないのである。
http://religion.dot.thebbs.jp/1070291638.html


釈尊がさとったあと、榕樹のもとで瞑想していたとき、次のような想念が浮かんだという。

『わたしによって証得された(adhigata)この法は、甚深であり、理解しがたく、さとりがたく、寂静で、すぐれており、分別の領域を超えており、微妙であり、賢者によって知られるべきものである。』(ヴィナヤ)

即ち、『さとり』に現れる『法』は、直感的、瞬間的な感得するようなものであって、いわゆる、思考によって得られるものではない。そういう意味で、主体的(その人だけに現れるという意味で)であり、『さとり』で得られたものは、本来、言葉で表現しがたいものであり、概念によって(言葉によって)表現し、考える(思惟する)対象にはなりがたいものである。
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shotenporin.htm


 

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コメント
 
01. 2013年1月28日 23:23:14 : W18zBTaIM6


幻覚剤を服用することで自我への執着が喪失して、全体的な共有感が醸成されるという。そうすることで癌患者のうつ、強迫神経症、寿命末期不安、外傷後ストレス症候群とドラッグかアルコール依存症を治療することができるという。

ブッダが悟りを開いた瞬間はまさしく幻覚状態であった。宗教の根源にやはり幻覚が存在することのこれは証である。後世神学者が宗教に神学的要素を加えてわけのわからないぼやけた状態にしたが、初期の宗教は明らかに幻覚から誕生していた。

個人としての絶対的自由と真理を得る理想は、ヨガにより体験できるとし、家族から去り、悟りを求めて全ての社会的絆と責務を放棄し、隠遁生活に入ることであった。紀元前538年頃シッダッタ ゴータマという青年は、ベナレスの北160kmにあるカピラヴァストゥにある豪奢な屋敷や美しい妻や息子を捨てて、托鉢行者になった。煩悩の惨状に驚愕しながら、彼の周囲の全てに見ることができる苦痛の存在を終わらせることができる方法を必死に探し求めた。

6年間ヒンズー僧達を訪問し、贖罪に身を置いたが、得るものは何もなかった。高僧の教義も彼に訴えるものがなく、苦行は絶望をもたらすだけであった。ある夜 実行すべき方法がすっかりなくなり、自立心を捨て無我の状態になっていたら、忽然と悟りの境地が見えてきた。

それは全宇宙が退けられ、地球が揺れ動き、天国から花々が落下し、何とも言えぬ芳香が漂い、天国にいる仏達が歓喜している世界だった。それは仏達と自然と人類が大慈悲によって一体になった世界であった。

これは煩悩からの解放に対する新たな希望であり、涅槃への到達による煩悩からの解脱であった。そしてゴータマはブッダになった。
http://meimai.cocolog-nifty.com/twgt/2010/04/post-bf1b.html


02. 中川隆 2013年3月05日 00:43:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

 仏教は宗教ではない。という見解がある。

 宗教とは、人間と神の関係を<信仰>を軸に構築したものである。そこにおける神とは、ユダヤ教や、イスラム教のように創造神であったり、キリスト教のように創造神/聖霊/メシアの統合体(三位一体)、クリシュナ教徒のように近代化された古代神だったりするが、ある種の霊的超越者であり、多くは宇宙創造神である。

 ところが、仏教は成立の初期において、教祖自身にこの種の信仰心が希薄なのである。教祖シッタータ王子は、人間として真理に到達したが、自分が神であると宣言した訳ではないし、神の預言者であった訳でもない。

 そもそも釈迦族のシッタータ王子は、クシャトリア階級の出目であるからバラモン階級のように精神世界に没入する訳にはいかなかった。インドのカースト制度において伝統的な神事は、バラモン階級の専売特許であった。そこで、かれは当時流行の精神世界ヒッピーである「沙門」になる道を選んだ。沙門になるのは、簡単である。身分も問われない。「わたしは、沙門になった。」と宣言し、林住期や遊行期の老バラモンのように無一文で修行三昧の生活に入れば良いのだ。

 かれは様々な行者に倣い瞑想を深め、宇宙と人のあり方を追求した。その意味で、シッタータ王子は宗教家と言うよりも実践的哲学者、精神修行者であった。かれが求めたのは宇宙構造、なかんずく人間(小宇宙)と大宇宙の関係に関する真実(真理)であり、輪廻という循環構造からの自己の解放であった。最近のひ弱な修行者のように精神的な安寧や、既存の神話体系を借定したヌミノース体験を追求した訳ではない。

 その意味で、かれはニューエイジ・サイエンスを極めたと言っても良い。

 そして、<12因縁の順観と逆観>という瞑想法を経て<成仏>したのである。

 シッタータ王子が悟りを開いた後、その悟りを開くプロセスを<現法的梵行>と呼んだ。現法的梵行とは、津田博士の言を借りると「八正道の本質というのは、<現法的梵行>、すなわち、一生の間性的貞潔を守る、要するにセックスをしないということです。」(参考文献F参照)ということだ。つまり、仏教において、最大の戒律は、<不犯>であった。 もちろん、これは人間の本能に著しく反する行為である。インド人にとって、性生活を営むことと生きることはほとんど同義語であり、<現法的梵行>に従うことは、生きることを放棄せよと命令するのに等しい。

 悟達したシッタータ王子、いや釈迦無二仏陀は、この非人道的なシステムに人間が耐えられる訳がないと判断し、教えを伝授するのを断念(これを<不説>という。)し、そのまま涅槃に入ろうとした。いかに真理であろうと、多数の人間が賛同できるか、少なくとも甘受できるシステムでないと、衆生の絶望を深めるだけだからだ。このときのシッタータ王子の判断は、良く理解できる。かれは衆生のために真理探究の道に入った訳ではない。深刻な実存的疑問を味わって、その解決のために天才的な能力を傾けた青年なのである。大宇宙と小宇宙に通底する真理を会得したからには、それを理解できず、まして、実践するなどおよそ不可能であろう大多数の人間に、無理な教えを提示するよりは、自得した理法を用いて、存在の次の位相に転移し、先を探ろうとするのは、探求者としては自然な成行きである。

 ところが、伝承によると、梵天王(ブラーフマン)が釈迦無二菩薩の<不説>をいち早く知り、その場に伺候して熱心に説法を勧請する。つまり、「世界に教えを説くまで、涅槃に入るのを思いとどまる」ように懇願した。釈迦が法を説かねば人間社会(六道を含めると人間以外も含まれるが)が敗壊する。世界そのものが敗壊すると、梵天は惑乱したという。梵天は、いわば上位霊的存在であったが、人間のように活動界に根を置いていないため、輪廻を解脱する方法を開発できなかったのだ。また、護法天としての本能が、いまや六界に教えを説く立場となった仏陀が責任を放棄して、自分の手の届かない領域に避難してしまうのを阻止するという使命感にも燃えていたのであろう。この勧請は成功し、釈迦はこの熱意に打たれて、あらためて世界を慈悲の目で見て説法に踏み切る。これを<梵天勧請>と言う。

 ところで、津田眞一博士は、ここに梵天を使嗾した上位の無名神を想定する。かれの作業仮説である<開放系の神>においては、梵天勧請がなされるまで釈迦が<不説>に傾いていたことから、釈迦の<慈悲>を外部からもたらした存在、<閉鎖系>である釈迦の仏法をも内包する<開放系>の神を想定したのだ。

 この<開放系の神>とは、『リグ・ヴェーダ』に言及される根源神プルシャのように、世界を身体とする神、地球そのもの、或いは生命の自然の流れの総体のようなものと考えられる。<出家主義的な現法的梵行>という生命の潮流に反する行為は、巨大な宇宙の順流に対する部分的な反流を発生させる。そして、この意図的に起こされた反自然のベクトルが、「世界を敗壊させない」ために必要な刺激となっている。

 梵天勧請により、釈迦が不説を撤回し、人間の生命潮流に僅かな反流を発生させた。

 生命潮流とは、何か。それは、個々の生命が織りなす巨大な潮流である。その一端は、『リグ・ヴェーダ』にある宇宙の開闢に端を発し、インド神の宇宙論によれば無窮の未来において目覚めたヴィシュヌ神(または、シヴァ神)が新羅万象を破壊し尽くす、宇宙の終焉までの長い時間軸を中心に螺旋状に存在するすべての生命の軌跡である。その一部のみが地上の生命として現れ、目にすることができるが、インド的輪廻転生の思想によれば生と死はひとつの道の表と裏であり、生命潮流の螺旋は、その上昇弧では誕生、成長、老衰、死という生命の顕在部分を、下降弧においては、輪廻転生を準備する同じ生命の糸の未顕現部分を表すことになる。そして、幾億とも知れぬ生命の支流の総体が、意志をもつ、プルシャ、すなわち未顕在の<梵(ブラーフマ)>と無数の目覚めた<神我(アートマン)>として、<開放系の神>を形作る。この巨大で、かつ微小の存在が、自らの運動の正常値を保つために、<現法的梵行>という反流、または生命潮流からの逸脱を必要としていた。

 星ひとつ分の生命、インド人の思想によれば、その中には人間のみならず、鳥獣草木はおろか、六道の精霊、魔獣すべてが含まれる巨大な生命のうねりに比べると、仏教の一僧侶の生命は余りにも小さいが、その生命の輝き(津田博士は、<intensite>(激烈さ)という用語を使っているが)において、神と対面し、神を癒すほどの働きをもつのであると言う。当代随一の仏教思想家(哲学者)の思想が、SF作家光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』と同じような結論に導かれるのも面白い。

 津田博士の仮説は大胆であるので、その後の歴史的動きを見てみよう。

 仏陀の生存中の教団は、その哲学を科学的正確さで追求した。理法の内容からして、一般の社会人が、たとえ王侯貴族であろうと、身分を保持し、社会生活を営みながら<最初期の解脱プログラム>を履修できるものではない。そのためには社会生活と肉親の全てを犠牲にし、出家する必要があった。仏陀が懸念したように、ほとんどの人間には実修できるものではない。しかも、後に<波羅密の方法>(パーラミターナヤ)と呼ばれる釈迦の教えは、非常に時間を必要とした。人間の一生ではまかない切れず、<三阿僧祇劫>という膨大な時間をかけて、何度も生まれ変わり、僧として修行を繰り返して、初めて解脱できるのである。大多数の衆生は、仏陀の教え、最終的な解脱からは切り離されていた。仏陀の教団についていける者たちは小数のエリートだったのだ。

 従って、当然のことだが、カリスマ的指導者である仏陀の没後に、教団は崩落した。

 それは<神秘哲学の閉鎖的実践集団>から、<教祖を神格化した布教集団>への変貌、或いは教えの民衆化という運動に現れた。これを追求した者たちは、自分たちの運動を<大乗>と呼び、仏陀の本来の教えに忠実な者たち(上座部仏教)を侮蔑の念をこめて<小乗>と呼んだ。「乗」とは<乗り物>の意味であり、<大乗>の方が多くの民草を救えるという自負が呼ばせたものだ。

 しかし、仏陀の発見した真理の本質的部分が変化した訳ではない。大乗仏教の僧侶は、トリックを使ったのだ。釈迦の方法論は、人間の業や煩悩を無くすために否定的な努力を重ねる<止滅の道>(ニヴリッティ・マールガ)と、世間的活動を積極的に行い心活動を活発にする<促進の道>(プラヴリッティ・マールガ)という二つの相反する方法論に集約できるが、上座部仏教では主として<止滅の道>を、大乗仏教では主として<促進の道>を励行した。正しい行為を積み重ねれば、仏陀への信仰心を維持し、「やがては安心往生できる」というのは<促進の道>としても、かなり欺瞞的な教えである。単なる善行のレベルで、修行もしない衆生が輪廻の枠の外に出ることはないからだ。

 ユダヤ教のハシドのように、日々の生活のなかにティクーンを織り込み<殻>(クリパー)の内部に聖なるものを満たすことにより、<神聖なる火花>(フンケ)をひとつひとつ解放していこうという運動に似ていなくもないが、ハシドにしても<輪>(ギルガル)から離脱するためには超人的な刻苦勉励が必要なのである。ハシディズムの教えでは、毎夜、人間の霊魂は眠りとともに肉体を離れ、その一日分の罪科について天使の審判を受けるとされた。そして、死の瞬間に罪科が重ければ、抜き身の剣を保持した天使が、復活もままならぬように死者の霊体をぎざぎざに切り刻んでしまうのである。

 大乗仏教の僧都が、衆生の目から真理を隠して、道徳性で埋めて教えた動機は、あまりにも残酷な真理(在家信徒は所詮、解脱できない。)から目をそらす<大慈悲>であっただろう。そこにはドストエフスキーの『大審問官』がクリストスを非難する感動的な場面に通じる「神に離反しても民草を愛する」という覚悟が読みとれる。しかし、哲学的立場から見れば、嘘は嘘である。

 後に、この欺瞞が密教の発展とともに自然解消し、<真言の方法>(マントラナヤ)と呼ばれる現在の時間短縮の手段が開発される。弘法大師は、これを<即身成仏>と呼んだ。ある意味では「嘘から出た誠」である。

<真言の方法>にもいくつものやり方がある。日本に伝教し真言密教では、『大日経』において、真口意の<三密行>が説かれ、『金剛頂経』では<五相成身観>が説かれた。ところが、後期密教においては、成仏実現のリアリティを高めるため、三密のうち身体要素が強調され、生理的行法や、性的行法が導入され、それを理論化、細密化していく。

 性を否定した仏教が、インドにおける最後の発展形態である後期密教において、性を肯定するがごとき教義に変化していったのは、興味深いものがある。

 チベット仏教のサキャ派の碩学サチェン・クンガーニンポは、著書『密教概論』において、大乗仏教の顕教と密教の違いを次のようにまとめている。

 顕教は、愛欲などの煩悩を打ちきる必要があり、<法身>と<色身>を成就するための菩薩としての修行期間が長い。それ故に<因乗>と呼ばれる。

 密教は、愛欲を立つ必要がない。短い期間で果を得るので、<果乗>と呼ばれる。

 つまりは、シッタータ王子が反自然的かつ直線的な技法で得た果を、自然かつ迂回的な技法で達成しようとするのが密教であるとも言える。システムは常に進化するのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/1anti.html


03. 2013年3月05日 01:43:15 : W18zBTaIM6

Q :splacupさん
仏教において、性行為が否定される理由は何だと思いますか?

Answer1 : vitaminmin09さん

性行為自体は、全否定されてません。出家者だけに禁じられているだけです。

仏教では「性欲」は観念的な欲求で、そのため性行為は生きていくために必要な行為だとは考えられていません。

また、性行為による「オルガズム」や薬物による「トリップ」は、それに達した後、脳が恒常性を保とうとして、「死」や「悟り」によく似た「感覚」をもたらします。ブッダは、それが最終的な「真」の解脱を目指す者に悪影響を与えると考えたのです。このような性質をもつために「性行為」を禁じているのです。


仏教では、自我の執着を消し去り、心の平安を得ることを涅槃寂静といいますよね。出家されている方はそれを目指されているのですから、「性欲」を断とうと努力してもいいですよね。別に違法行為ではありません。



>なぜ、快楽を追求する方向を否定するのでしょうか?

仏教の哲学をある程度知っている方なら、理解されているでしょう。

快楽=苦だからです。

自我(心)の妄執から来る欲望がすべての「苦」を生みだすからです。

生老病死、求不得苦、愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦の四苦八苦はすべて自我の妄執から来るのです。これを滅すれば涅槃寂静、仏教理想の安寧な状態になれるというわけです。すなわち仏教では、性行為よりもそちらのほうがいいと考えているのです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1274067922


Answer2 :

冥想中は、セクシュアルなことは邪魔になるんですね。

冥想とはものにとらわれない別世界を作るものであり、セックスというのはものすごく相手にとらわれる行為です。そのときには徹底的に外の世界に支配されてしまうのです。ですから出家者には男女関係は禁じられています。
http://www.j-theravada.net/qa/gimon20-21.html

Q :ものにとらわれない自分の心を守るために、行動としての、男女関係が禁じられているということですか。


Answer:
そうですが、行動として男女関係を持たないことはそれほど難しいことではありません。大事なのは行動よりも心の状態です。相手と関係を持たなくても、欲のあるまま戒律を一生懸命守ろうとするあまり、女性の姿が目に入っただけでもかえって心が汚れ、どんどんコントロールできなくなって精神的な病気になってしまう恐れもあるのです。だいたいやるなといったら余計やりたくなってしまうのが「心」というものです。

そのように当然起こってくるであろう精神的な問題も、仏教では計算済みです。

たとえば男性の出家者が女性の信者に説法を頼まれても、密室では決して話してはならない、もう一人、大人の男性がいなければならないといったさまざまな戒律が厳しく定められています。

女性に触れたら毒蛇に触れたように感じなさい、女性の声を心地よいと聞くのではなく災いの元だと思って聞きなさいなどの話もあります。

一瞬ぎょっとするようなこれらの教えも女性を馬鹿する観点で作られたきまりではなくすべて、心を守り、修行の成功を目指すためなのです。女性の出家者についても、性に関しては男性の出家者と同じように厳しい戒律が定められています。
http://www.j-theravada.net/qa/gimon20-21.html


Answer3 :
悟りに到達するための修行がちゃんと進むように、心を守るために、出家修行者には、禁欲が課せられる、ということではないでしょうか。

悟りに至るためには、性欲による邪魔を排除することが不可欠である、ということでしょう。

でも、そういうことであるならば、性欲を満たすことと併行して修行を進めても、性欲を満たしても、それに邪魔されなければいい、それなら、悟りに至れる、ということも言えそうです。

でも、果たしてそれは可能でしょうか。

一方、出家して、禁欲生活の果てに悟りを得たら、悟りを得た後は、なにものにも囚われることがないのであるから、性欲を満たしたとて、それに囚われる、煩わされる、苦しめられることがない、とも言えそうです。

でも、禁欲生活の果てに悟りを得た人には、性欲はあるのだろうか、という疑問が湧きます。

悟りを得た人にも性欲はもちろんある、悟りを得た人にだって食欲はあるだろう、それと同じことである、ということになるのでしょうか。

でも、悟りを得た人は、修行中には、味わってはならない、満腹まで食べてはならない、貪ってはならない、ということが求められました。食への執着を断つためです。

そういう人は、悟った後に、味に耽溺し、貪り食う、ということはありえない気がします。

であるなら、禁欲という修行の果てに悟りを得た人には、悟った以後は、性欲はないように思えます。

体のメカニズムとして、排泄現象は起きるかもしれません。でも、それは、性欲のなせる業ではない、と言えそうな気がします。

「頼んでもいないのに、お願いされたら、来たら来たでOK、ただ、行為に及ぶだけである」なんていうのは、やはり、釈迦の悟りにおいては、ありえないと思えますね。

来た人に、応じることが、それがその人を救うことにおいて、不可欠であった、なんて言うのでしょうか。

それは、言い訳ですよね。相手が来た、お願いされたことを認識したことで、性欲が生まれた、だからそれに応じた、ということのような気がします。

そういう状況で、行為に及んだら、たちまち性欲に縛られる気がしますね。

目の前に出された食事を、識別することなく、味わうことなく、満腹するまで貪ることなく食す、それと同じように、その行為に終始するなんてことが出来るでしょうか。

それが出来るのが、悟りを得た、ということなのだ、とでも言うのでしょうか。

それが可能になるために、どんな修行をしたのでしょう。やはり、性欲を満たしながら、それに囚われない、という修行でしょうか。実際に女性と交わりながら、それに囚われない、という修行をしたのでしょうか。

それで本当に悟りに至れるでしょうか。

悟りを得て無分別を実現している人には、それを分別して性欲が湧く、ということは、考えられないような気がします。
http://blogs.yahoo.co.jp/magagiok/54070588.html


04. 2013年3月05日 01:51:16 : W18zBTaIM6

要するに、修行者を女性に近付けると無意識の探求をするより女体の探求をする方が愉しいので、修行のアホらしさに気付いてしまうという事ですね:

こんな研究結果があります。

ドイツの研究者が男子学生を対象に、記憶力の変化を見る興味深い実験を行った。学生はまず一続きになった文字を記憶するテストを受け、その後7分間、男性あるいは女性とおしゃべりをしたあと、次のテストを受けたそうだ。男性とおしゃべりをした場合はテストの結果に何の変化もなかったものの、女性とおしゃべりをした場合はテストの点数が下がり、相手を魅力的だと感じるほどに、点数は低くなったという。
http://www.asylum.jp/2009/09/09/beautiful-women-render-men-stupid/

また、こんな記事も

女の子を確実に落とすタイミングは分かっていても、それ以前に男子諸君は注意すべき重要な点があるようです!海外発の最新研究結果によると、魅力的な女性と話している男子の脳は正気な状態で機能していないらしいのです。反対に女子の脳は「正気である」という結果が出たそうで、世の男性陣は憤慨しています。

この研究内容を発表したのはTelegraph.co.ukで、記事の内容によるとオランダにあるラドバウド大学の心理学者たちによる研究で、その学者の一人が実際に体験したことがきっかけになったのだとか。とある日、その男性は初対面の綺麗な女性に一目惚れし、「どこに住んでいるの?」と聞かれた時、自分の住所が思い出せなかったそうなのです!

この学者は女性に良い印象与えることで頭が一杯一杯になり、「認知資源を全て使い果たしてしまう」状況に陥ってしまったと自己分析。この症状は一般的にも言えるものかを調べるために、40名の学生を対象に研究を行ったところ、やはり男性は綺麗な女性と話していると脳内にある「認知資源」を最大限に使ってしまい頭の中が真っ白な状態になってしまうとのこと。魅力的と感じる女性と数分でも一緒にいるとその人をオトそうと一生懸命になりすぎて、咄嗟に単純なタスクを求められても実行できなくなってしまったそうなのです。

この結果を受け、研究者たちは社内恋愛している男性の仕事のパフォーマンスや共学校での男子生徒の成績などにも恋愛が影響しかねない、と言っています。

では女性はどうなのか?これが全く逆の結果になっていて、研究対象となった女子学生はイケメンを前にしてもその他タスクを難なくこなし、脳への影響はほとんどなかったそうなのです。性別よる差は、男性が「交配する機会を求める」本能にあるかもしれないとのこと。

研究者たちは、「魅力的な女性と接触した男性の認知機能は一時的に低下することが考えられる」としています。また、心理学者のジョージ・フィールドマン博士によると、この研究結果は「男性はどのようにして遺伝子を伝達していけばよいかを考えている…そのことを反映している」と言っています。

本当に美女は男子を盲目にしてしまうのか?(そして、その逆はないのか?)・・・この記事を読んだ人からは100件以上のコメントが寄せられていて、様々な意見が飛び交っています。
http://befriends.biglobe.ne.jp/News/column/20090915/Trendgyao_34659...

自分も男なので「わかる!」と笑ってしまいました。どうやらそういう生き物らしいですね。


05. 中川隆 2013年3月05日 02:24:48 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1031480190

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釈迦の悟りの法悦とはこういう状態

「臨死体験 生命(いのち)の響き」(鈴木秀子著 大和書房)
http://www.amazon.co.jp/%E8%87%A8%E6%AD%BB%E4%BD%93%E9%A8%93-%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E9%9F%BF%E3%81%8D-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E7%A7%80%E5%AD%90/dp/4479011854/ref=la_B001I7LLFM_1_3?ie=UTF8&qid=1362417313&sr=1-3


鈴木秀子さん (国際文学療法学会会長。文学博士。)が1977年不慮の事故で臨死体験をした時の描写です。 鈴木秀子さんは 愛の極致と至福感に包まれながら 生きた光からメッセージを受け取ります。


★限りない解放感と喜びが胸に溢れてきました。

一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、一面光の世界にいたのです。まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。

それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていました。

不思議なくらい、五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたっています。オリンピックの選手がベストコンディションで世界記録を破る瞬間とは、こんな状態なのでしょうか。

からだの全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされているのです。

その冴えわたった意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。

「この命そのもの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受け入れられ、許され、完全に愛しぬかれている」

これが愛の極致なのだと。

心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和しています。
そんな至福感に包まれていたとき、どこからか声が聞こえてきました。

「癒してください。癒してください」

その声には、少しつたない感じのアクセントがありました。

★その声が聞こえてきたとき、光であり命そのものの主が、

「現世に帰りなさい」

と言いました。そしてさらに、

「現世に戻ったとき、一番大切なのは、知ることと愛すること、その二つだけが大切なのだ」

というメッセージを受け取ったのです。

★あの光に包まれる体験をしてから、まるで別次元の境地に達したように、私の中ですべてが変化していきました。

それまで悩んでいたいろんなことが、とても小さく見え、いっせいに霧が晴れたように、私の人生はすがすがしく晴れ渡っていました。そして、私の心の中には、ある言葉が、美しい鐘の音のように響きわたっていました。

「大切なことは、知ることと愛すること。それだけが大切なのだ」

「知る」とは「叡智」、「愛する」とは「慈悲」の意味のようでした。


★あの光との出会いが夢や幻覚ではなかったことを、その後の、私の身に起きた数々の不可思議な出来事が裏づけてくれました。

事故の後、後遺症が残るといけないので、当時通院していた国立医療センターに検査のために入院することになりました。

私は、その事故の5~6年前から膠原病を患っており、ついでにその検査もしてもらうことにしました。

担当のお医者さんが首をひねりながら私の病室に入ってきました。

「鈴木さん、不思議ですねぇ。全部きれいに治っていますよ」

検査の結果、長年わずらっていた膠原病がすっかり治っているというのです。
私もお医者さんも驚きました。

「光に出会った人は超自然的な力をもらう」

その言葉が胸に響きました。 難病が突然治ってしまったのも、光の体験がもたらした奇蹟なのでしょうか。 自分の身に何か変化が起きている・・・・・。


★あの生きた光は、私の人生を無限の輝きで満たしました。

そしてその光は、私だけでなく、私と出会った人々にも、降り注ぐようでした。

それからというもの、誰かに会っているとき、突然、暖かい予感に満たされるようになったのです。

「あ、この人は幸せになる」と。

次の瞬間、

「あなたはきっと、来週の水曜の何時ごろにいいことがありますよ」

とふっと口にします。

それを聞いた相手は何日後かに、「先生の言ったこと、本当でしたよ」と、喜びの報告に来てくれます。


★あの光との出会いを思い出だすたびに、頼りなく思える肉体の奥に、こんこんと湧き出る泉のように、命の輝きがほどばしっているのを感じます。 しかも、それは、尽きせぬ泉であり、永遠の輝きなのです。私が出会った光の中に、時がなかったように。

永遠なる生命の光の中に、例外なくすべての人が受け入れられている。その圧倒的な愛の力を感じることができたら、大宇宙の気にぱっと入ることができて、病気も治ってしまうし、奇蹟だって起きるのでしょう。

そもそも生きていること自体が,何よりも素晴らしい奇蹟なのですから。


________

私の周囲にも臨死体験をされた方がおられますが、何れも同じような体験で、皆さん善い方向に進んでいます。

臨死体験の意義は「死後生」の絶対把握、これにより人生の意味付けが霊格の向上へと向かう事です。鈴木先生も体験されていますが「絶対的な無条件の愛」、これが直接心に響きますので、もうそれこそ

「それまで悩んでいたいろんなことが、とても小さく見え、いっせいに霧が晴れたように、私の人生はすがすがしく晴れ渡っていました。」

と言う心境になり、全ての「恐れ」が雲散してしまいます。素晴らしいですね。

ここに至って人間は本当の自由となり、束縛を超え、ご自身の力を取り戻す事が出来ます。勿論、全ての体験者がこのようになる訳ではありませんが、多くの場合、死に対する関門を突破し、人生の意味を悟る方が多いようです。

臨死体験による絶対直覚は所謂「奇跡」が起る事がありますね。これは間々ある事で、巷の宗教団体でも同じような事が起きますが、病気が治った事に意味がある訳ではなく、人間本来仏子(神の子)としての自覚が臨死体験の意味です。

今回の鈴木先生はカトリックのシスターですので、宗教的な素養は十分あり、臨死体験をされた事によりさらに神への認識が不動のものとなりました。正に「鬼に金棒」と言う所ですね。また「光に出会った人は超自然的な力をもらう」とは、これもまたよくある話ですが、要はその使い方が重要になり、能力を持った方はその責任が伴う事を忘れてはなりません。

この辺は勘違いされる方が多く、何か人と違う力、所謂「超能力」が身に付きますと、偉くなったような錯覚を持ち易く注意が必要です。サイキックとスピリチュアルは全く次元が違う話で、この辺が曖昧になりますと危険ですね。

本当に大切なものは能力ではなく、人生に於いて「何を思い、何を語り、何をなしたか」で、どんなに能力がありましてもその使い方いかんでは地獄にもなり、また極楽にもなりますね。
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51655830.html
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51656333.html


鈴木秀子さんが見たのは麻薬常用者が体験する天国・極楽浄土の世界で、ウパニシャドの梵我一如や釈迦の涅槃の世界にまでは到達していないと思いますが、何れにしろ日常的にどういう信仰生活を送っているかで、無意識の世界に入った時の到達点も全く違う様ですね:


・クリスチャンは無意識の世界で愛の神に出会う

・ヒンドゥー教の信者は無意識の世界でアートマンに出会う

・密教の信者は無意識の世界で大日如来に出会う

・浄土教の信者は無意識の世界で極楽浄土を見る

・禅宗の信者は無意識の世界で静寂な空の世界に入いる

しかし釈迦は涅槃の世界でいったい何を見たのでしょうか?


06. 2013年10月15日 13:43:22 : W18zBTaIM6


                                           ,. -―._====>ミ'ヽ、
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                                  レ'/ Y :/ /イ:/´。``':ミテメミト/ /   u  ,.ィ
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釈迦の言う悟りというのは誰でも簡単に到達できるものだった

阿羅漢と言う言葉がありますが、インドの宗教一般で、「尊敬されるべき修行者」をこのように呼んだようです。

初期仏教では修行者の到達し得る最高位をこのように呼び、学道を完成しこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を「無学位」と

もいいます。

それ以下は、不還果・一来果・預流果を「有学」(うがく)位といいます。

この阿羅漢果を得た人はお釈迦様と同等の悟りを得たものと考えてよいはずです。

 サンスクリット語経典の中でも初期に書かれたものは、

お釈迦さまもガヤでの成道(悟りを開かれたこと)のあとサルナートに向かい、
つい最近まで苦行を共にしていた五比丘を訪れ、
初転法輪(初めての説法)によって五人の比丘は「釈尊と同じ悟りに入った」とされます。

ただ説教しただけでなく、それによって五比丘はお釈迦様と同等の悟りを得たと表現されている場合があります。

 また、釈迦の十代弟子といわれる人のほとんどは、釈尊のお墨付きをもらっています。

 有名な話は説法第一といわれる 富楼那という仏弟子がいました。

彼は、弁舌巧みな布教者でした。

あるとき、気性が荒々しく、粗暴だといわれる地方へ布教に行くことになり、旅立ちにあたり、お釈迦様が質問しました。


「富楼那よ、その地の人々にののしられたり、あざけられたりしたらどうするつもりか?」

「世尊よ、『この国の人たちは、私を手をあげて打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」

「富楼那よ、手をあげてお前を打ったらどうするつもりか?」

「世尊よ、『この国の人たちは、私を棒で打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」

「富楼那よ、その地の人々がお前を殺したら、どうするつもりか?」

「世尊よ、『世の中には自ら命を絶つものもあり、誰か自分を殺してくれないかと願うものさえいる。願わなくとも殺してくれ

た』と思うことでしょう」


 これは、原始仏教聖典である『阿含経』の一部『相応部経典』にある一節です。

辺境の地での布教は、これほどの覚悟が必要だったということでしょう。

こうした問答の後お釈迦様は、富楼那の悟りを認め旅立つことを許したといわれます。
 
 しかし、釈尊滅後それではだんだんと都合が悪くなってくるようです。

お釈迦様を特別な存在にしておきたい人々が現れます。

それが大乗仏教のと呼ばれる仏教を提唱する人々です。

その時に大乗仏教たちがそれ以前の仏教にたいして「小乗(劣った乗り物)仏教」と呼びはじめたのはご存知だと思います。

大乗仏教教団ができる以前は、お釈迦様以外悟っていなかったということはなかったはずです。

お釈迦様が悟りにオッケー出してるんだから「阿羅漢」が仏と同等ということに文句の付つけようがありません。


 しかし、大乗仏教では「声聞」を阿羅漢と呼び、批判的に仏と区別しています。

大乗の修行者を「菩薩」と呼び悟りを得ることはできるが、

小乗の「阿羅漢」と自然との対話の中で独自に悟りを得る「独覚(どっかく・または縁覚ともいう)」は仏になれないとされ、

さらには「地獄」へも堕ちることができず、その位のまま輪廻が繰り返される
とする論書さえ存在しているようです。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3288558.html

中村氏は、コーンダンニャの目覚めを(さとり)と訳している。

「ああ、コーンダンニャはさとったのだ! ああ、コーンダンニャはさとったのだ!」

と言うゴータマ・ブッダのことばがそれである。

宮元氏が「了知した」と訳しているが、二つの訳は日本語で読む限り別な意味を持つように思える。

もっとも、中村氏の「さとった」という訳語を

「さとった=理解した=解かった」

というふうに読めば、宮元氏と同じ意味合いになる。

 だが、中村氏は同じ本の中でも、また、別な本の中でも、「さとった」を解脱を意味する「さとり」としている。

  「ともかく右の文からみるとコーンダンニャが最初にさとりを開き、他の四人は釈尊の教えを受けて遅れてさとりを開いたのである。」
(ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯)


  「(688の註より)アンニャー・コンダンニャは、最初の説法を聞いて弟子となった五人のうちの一人として最初に挙げられる。・・・。

ブッダが鹿野苑で五人の修行者にたいして、最初の説法をしたとき、最初に阿羅漢のさとりを開いた人である。

ブッダが「ああ、実にコンダンニャは悟った」とたたえたので、アンニャーとかアンニャータと呼ばれるようになった。」(仏弟子の告白 テーラガーター)


 この、五人の最初の弟子たちの「さとり」は、いろいろな意味で重要なものであろう。


というのも、ゴータマ・ブッダの入滅後(死後)、「さとり」をだんだん難しく考えるようになり、容易に達することのできない境地としていくからである。

部派仏教では、次第に、「さとり」「解脱」「涅槃」という仏教教団での修行の一番の目標をどんどん高く難しくしていったようです。

http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shotenporin.htm

142 名前:名無しさん@3周年:2006/08/28(月) 23:51:26 ID:L6V0iys+

ブッダという呼び名を釈尊にしか使わないだけで、悟った弟子はたくさんいました。

ブッダが悟った後、かつての修行仲間4人に教えを説きます。

その4人が最初の弟子です。 で、その4人も悟りを開きました。

その時ブッダは喜んで、 「ここに5人の阿羅漢が誕生した」 と言ったそうです。

ブッダ自身も含めて5人の阿羅漢。

240 名前:名無しさん@3周年:2006/09/05(火) 22:18:32 ID:hu3AQYw8


本経(転法輪経)の説時はアーサーラ月の十五日(日本では八月二十二日に当たる)であった。

コンダンニヤ長老は転法輪の終了時に、
ヴァッパ長老は十六日に、
バッディヤ長老は十七日に、
マハーナーマ長老は十八日に、
アッサジ長老は十九日にそれぞれ預流果に達し、

二十日無我相経の終了時に五人全員阿羅漢果に達した。

244 名前:釈迦原理主義者:2006/09/06(水) 08:48:39 ID:ggnk6gBu

 最近思うのですが、仏教の目標である解脱者となることをあまりにも難しい大事業のように捉えるのは間違いではないか、と。

先ず最初から軽く且つ硬く「できる」と思い込む事が大事だと感じます。

人生何事もそうですが、できると思う人はでき、できないと思う人はできないのです。

 ゴータマブッダ御存命中は多数の阿羅漢がでました。
ブッダという先生・お手本が目の前にあったからです。
ところが、大乗と称する人たちは仏教をえらく難しく神秘的にしてしまいました。
権威付けという賎しい動機もあったでしょう。

だから、反動で念仏を唱えるだけで成仏できるとする八正道無視の超単純ワープ論が跋扈してしまいました。
明らかにゴータマブッダの仏教ではありません。
 
 だから、先ず「できる」と積極的に気軽に捉えましょう。
http://um.denpark.net/1155998054.html

Q:  阿羅漢の人数

お釈迦様の時代には、阿羅漢は何人いたのでしょうか。第一回仏典結集の時には500人の阿羅漢が集まったといいますし、日本各地には500羅漢像などがあります。一説には1250人と経典にでているとも聞きました。

A: これは本当にわからないんですよう。Yasaという若い方の出家とともにたちまち阿羅漢たちは60人でしたし、それは釈尊が悟りを開いて一年足らずでしょう。それから、伝道に行きましたが、釈尊はJatila行者の三兄弟に説教するために出かけた。

そちらの弟子たちはまとめて1500人でしたそうです。皆、阿羅漢になったのです。

Sariputta, Moggallana両尊者の活躍も並大抵のものではなかった。経典では釈尊の説法会を説明するたびに沢山の人々は阿羅漢になったとrefrainでかくのです。

阿羅漢になったら、出家するでしょうし、これについてお釈迦様が、「家を破壊するために」くるのだと批判を受けたこともあった。当時の仏教界には悟りは決して珍しいことではなかったのです。在家の方々は中に第一段階の預流果に達した人々も沢山いました。

とにかく、現代私たち知っているのは記録に残している方々の情報だけです。
食事や住むところなどの問題も出てきますから、出家皆釈尊と一緒に旅をしたわけでもない。阿羅漢たちはほとんど一人でいるか、伝道して回るかでした。出家したばかりの人々は少々時間仏陀と一緒に旅をするが、仏教を十分理解したところで悟りに励むのです。ですから、一人で生活をする。 たまに、釈尊も大大会行います。そのときですね、大阿羅漢たちは一箇所に集まるのは。

仏典に記録してあるのは全てサンプルになる人格者です。知識の頂点に達していたSariputta尊者や、殺戮者のAngulimala,(極端な例ですが)などです。平の一般の出家者について記録するほどではなかったみたい。記録されている阿羅漢や在家信者の話は、すべて後輩に対するアドバイスと模範なのです。人類の性格のcross cutのようなものです。勉強になります。

阿羅漢の数はわかりません。結集のときも特別に選ばれた方々だそうです。阿羅漢なら皆OKではなかったのです。その特定の仕事に対して能力あるかないかは基準でした。「一説にある1250人は」そのときの集会に集まった方々の数でしょう。沢山いる、数えられない、旺盛、などの意味を語るためにPali聖典によく使う数字があります。84000です。かるがるく、仏陀の時代では阿羅漢たちは84000以上でしたと記録するのです。


Q: ところで、次の質問ですが、お釈迦様の時代には、なぜそんなに大勢の人々が阿羅漢に悟れたのでしょうか。なぜ、現代では阿羅漢は大変珍しい存在になってしまったのでしょうか。それとも、現代でも阿羅漢は結構たくさんいるのでしょうか。


A: 
次の質問ですが、お釈迦様の時代には、なぜそんなに大勢の人々が阿羅漢に悟れたのでしょうか。

@時代的に、同じ時代の人々はほとんど似たような興味をもっているのです。現代でもそうなんです。釈尊の時代では「食い物よりも精神の探検」だといえるような流行でしたし、Siddhatta王子も「なぜ皆探しているのに真理を発見しないのか」と言う疑問ももっていました。お釈迦様に出会った探求者たちは、もともと大物たちで、方法は変わっても「瞑想」などは日常的な当たり前のことでした。「お釈迦様がラッキーでしたとしか言いようがない。

A発見者自信の発表は生き生きして力強いでしょう。仏陀から直々説法聞くことと、仏陀に学んで伝えることはレベルは違います。自然の流れで仏法を伝統的に伝えられていくと、「あの説得力」は徐々に減ります。

B仏陀の方法論、指導法、言語力、影響力などは最高のレベルでしたし、それに大弟子たちの力も加えると。Purisadamma saarathiiとは仏陀の9徳の一つ、人々を導くことにおいて御者・リーダーと言う意味です。

C社会は限りない贅沢を欲しがってもいなかった。日々の食べ物ぐらいあれば、満足でした。それにインドはそれなりに豊かでした。どこまでも欲を目指す現代人と違って、現在は豊かでいるなら、「あの世の幸福に挑戦するそう」というのは一般常識でした。

D豊かであっても、悩み苦しみは常に目の前にあった。民主主義的な共和国家は壊れて、独裁国家(王政)があらわれる変換時期でした。国は滅びる、親戚が殺される、自分の財産まで、隣国の軍人に奪われる。俗世間は空しくてたまらなかったのです。

Eそれに対立して、現れたのは、宗教と哲学。知識人も一般人もそちらに居場所をみづけたのです。宗教も、論理学も、弁証方法もピンからキリまであったので、人々の基礎ができてあったので、お釈迦様が「ラッキー」でした。

  また、色々と理由がありましが、省略します。要するに「時代のながれ」かなぁ?皆、興味があったのです。

   > なぜ、現代では阿羅漢は大変珍しい存在になってしまったのでしょうか。 それとも、現代でも阿羅漢は結構たくさんいるのでしょうか。

 お釈迦様の時代のようにざらにいるとは決していえないのです。いるともいないとも、私個人としてはいえるものではない。

修行して経験に達した方々はいることはいるが、皆、それを大秘密にしているのは普通の決まりになっているようですね。ですから、私に報告をした方々のことも、公にしてはいけませんし、全然そんな気にもなりません。解脱を真剣に捜し求めている方々に簡単にみつかることだけは確かです、現代でも。

仏陀がいてもいなくても真理は真理ですから、その真理を発見する人は覚者なのです。悟る方法を教えているから、その通りにやればだれにでもできるというのは決まりです。

現代人の社会関係は価値観的に乏しい、豊かなのに、金儲かることにしか興味がない。(精神的貧乏)「将来は不安」といっても、結局は金のこと。開祖さまになって、新興宗教をつくっても、それは結局、金と権力を儲かる手段。宗教から人々は求めるのは人格向上ではなく、ただの「ご利益」。(どこまで、貧乏で、ケチか神のみしらずです)教育も金を儲かるためだけの勉強。真理・道徳・人生論などは毒物。娯楽などの誘惑はあり過ぎ。宗教は会社失敗する人の、人生を失敗する人の、精神的な問題あるひとの駆け込み寺と現代のバカモノたちが思っている。

従って、瞑想なんかは「格好悪い」に決まっている。修行する人さえもなんとなく後ろめたさをかんじる。これらは現代人にとってはハンディですがやればできる。何時の時代でも悟られると釈尊が説かれました。(女性の出家で、教えの寿命は半分になったとおっしゃっていたのにも関わらず)仏陀の教えは流行になるならば、覚者たちはいくらでも現れる。確か。価値観、興味などで汚染しているからといって人間の(こころの)能力は昔も今も同じ。 
http://www.j-theravada.net/qa/qahp72.html

悟ったからと言って人間的に成長した訳ではない


悟りの体験を何度も繰り返し得て、生きている間に、それを究極まで徹底できたとしても、その人は「その人のまま」、ごく普通の人間である。

ユング派分析家のウォルター・オダージンク著『瞑想とユング心理学』では、禅が特徴として、純粋意識、というべきセルフのウロボロス元型だけを活性化する。
個人的無意識を無視するために、悟りの体験を持ちながら、幼児的、暴力的な個人的心を持つことさえある。

プロセス指向心理学の創始者アーノルド・ミンデルは『自分さがしの瞑想』において悟りの落とし穴について述べています。

悟りを最終目標として、それに到達すればすべての問題が解決する考えは、東洋の瞑想の誤解であり、そこから、うぬぼれが出てくることがあります。
他人をレベルが低いとか、幼稚とかみなす傾向があるといっています。

オダージンクさんとミンデルさんがいっていることは、まさしくそのとおりではないかと思うのです。

大乗経典においても、悟りの体験者に対して慢心の罪は五逆の罪よりも重いとまでいうほど厳しく戒めています。

その矛先は自身にも、もちろん向けられているでしょうが、主に小乗の阿羅漢たちに向けられているようにも感じられます。
他人のそれには敏感であっても、自身のそれには気づかないことは大いにありうることです。

個人的な心の問題については手付かずのままということになるのではないでしょうか。

幼児的、暴力的な個人的心を持っていないなどとはいえない。また、対人関係の問題についても、葛藤を抱えたままであるでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/jd6j5rlure09f3/e/abddfac859553290baa3a16b86c396b0


07. 2013年10月15日 14:18:01 : W18zBTaIM6


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誰でも簡単に到達できる釈迦の悟り と バラモン教・ヒンドゥー教の高級な悟りとは全く違うもの

選ばれた聖者にしか到達できないバラモン教・ヒンドゥー教・密教の悟りとはどういうものなのか?

1) 梵我一如はエロスの世界

「輪廻」というのは、サンスクリット語で「サンサーラ」と言い、元々ウパニシャッド思想(紀元前8世紀から6世紀頃)において、梵我一如(「ブラフマン=梵」と「アートマン=我」は本質的に同一であるという思想)の原型と共に、輪廻の思想も形成されました。

ウパニシャッドの輪廻の考え方では、「太陽の道」と「祖霊の道」というものが考えられ、後者は、「転生」の概念にほぼ近い考えで、死んだ後、魂は、雨水などと一緒になって、天から下りてきて、また女性の胎内に入り、生まれて来るというような考えです。

「太陽の道」は、「祖霊の道」を歩むと、どこまで言っても、転生を繰り返すに対し、死後、ある方法で、太陽の道に進ことができると、もはや、この世には、再び転生して来ない道があるという考えです。

「輪廻」とは、転生のなかで、「業(カルマ=行い=生前にどういう行動・生き方であったか)」によって、次の転生先や転生のあるようが決まり、この決定規則は厳密なもので、機械的に起こり、動物をむやみに殺していると、転生先は、殺していた豚や牛になるとか、ブラフマ階級の者は、儀式を行っている限り、転生してもブラフマ階級であるとか、非常に細かく規則が決まって来ます(それには、長い時間がかかりましたが)。

ヒンドゥー教、ヒンドゥー思想では、この運命決定論的「輪廻思想」が正しいとされています。

その一方で、

「不二一元論=ブラフマンとアートマンは本質は一つであるという思想」

もヒンドゥー思想の中核にあり、輪廻論と、不二一元論は、どう調和するのかは、結局、輪廻もこの世の生も、すべて「幻(マーヤー)」であるということになります。

マーヤーから脱し、個人のアートマンが覚醒して、ブラフマンと一致するとき、輪廻の幻からも脱出するのであり、これを、「独存」とも言います
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa503252.html


今、テレビや雑誌などで、ヨガや瞑想が取り上げられ、若い女性を中心に流行っていますが、何も知らずに興味本位や健康法、趣味などで生活に取り入れると、取り返しのつかないことになります。

 何故、ヨガや瞑想が危険かと言うと、これらの起源は一般には良いこととしてしか知られていませんが、およそ健康法などとは全く関係の無いものだからです。
もともと、ヨガや瞑想は一般の人たちには縁の無い、インドやチベットなどの行者が「悟りを開く」と言う目的で行なっている修行法です。


 ヨガの起源はインドにおける「尸林(しりん)の宗教」にあります。

「尸林」とは中世インドの葬儀場のことで、大きな都市に隣接してこの尸林が存在していました。

死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ、荼毘にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられました。しばしば尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていました。


これらはまともな神経の人間には実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈する危険な場所であり、しばしば魑魅魍魎が徘徊する場所として恐れられていました。

 この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあり、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な秘儀を行なっていたのです。
尸林の土着の女神たちは、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていました。

それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術を生業としていました。その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)と言いました。

シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。

その聖地(墓場)に土着の女性たちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人)の出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていました。

彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式です。
ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は曼荼羅制作、護摩、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)などです。


 ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼です。


天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズはこの性行為の秘儀が元になっています。)します。

この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女の転移)(サンチャーラ)と言います。
女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない女性)を1名加えた9名と言う説もあります。

その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります。

この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになります。

 この儀式はインドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっています。
ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。


星辰の回転を象徴しながら、都合8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は「大楽(マハースーカ)」と呼ばれ、子の大楽が行者を「梵我一如」の境地に連れ去ると言われているようです。

 梵字はこの瑜伽(ヨガ)のポーズを記号化したものであることから、ヨガのポーズや梵字には多くの憑依霊や狐などの動物靈を呼び寄せる大変危険なものなのです。

 上記の尸林に集まる巫女の内、ダーキニーと呼ばれた人たちは、空海が日本に密教を持ち込んだ時に茶吉尼天(ダキニテン)という女神として現在の稲荷神社に祀ってしまいました。

稲荷神社でキツネを眷族として祀っているのは、このダキニテンからきています。


 というのは、もともとダキニテンはインドの墓場、尸林で性行為を伴う黒魔術をおこなっていたダーキニーであり、インドでは人肉を食らいながら裸で踊り狂い、左手には人の腎臓(もしくは心臓)、右手には人からもぎ取った手足を持っている姿で描かれていますが、何と日本の稲荷神社で茶吉尼天となったダーキニーは優しい姿で左手には宝玉、右手には剣を持って描かれています。

 そして、何故キツネかと言えば、もともとダーキニーは夜になると死肉をあさるゴールデンジャッカルの変身した姿だと言われていたり、ゴールデンジャッカルを人食い女神の眷族(けんぞく・使いっ走り)として使っていた、と言うことから来ていますが、日本にはジャッカルが存在しないため、ダーキニーとジャッカルのコンビが茶吉尼天とキツネのコンビに変容してしてしまったようです。

ヨガや瞑想が危険であるのは、健康法などとごまかしてヨガのポーズをとったり、瞑想したりしている内に、知らず知らずに黒魔術の儀式を行なっていることになり、そこに数多くの悪霊を呼び寄せ、額にある霊的な目(第三の目)を横目(正しくは縦目)に開き、サタン(悪魔)との契約を結ぶことになり、悪の強靭なエネルギーを得て、自らの体内に取り入れて、魂を悪魔に捧げることとなり、それが密教で言う「悟り」であるとされていますが、ヨガや瞑想に関わり続けることで、人生を台無しにし、魂をも堕落させ、取り返しのつかない過ちを犯すことになるからです。 
http://www2.tba.t-com.ne.jp/onmyoukai/newpage109.html


尸林の土着信仰

 尸林(しりん)、シュマシャーナとは中世インドの葬儀場のことである。
大きな都市に隣接して、この寂しい尸林が存在する。

死者の遺骸は、都市部から尸林に運ばれ、荼毘に付されるか、そのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられた。

しばしば、尸林は処刑場をかねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていた。

 これらは、まともな神経の人間には、実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈する危険な場所でもあった。そして、しばしば、魑魅魍魎が徘徊する場所として、恐れられていた。

インドの尸林には、嘗て女神が祀られていた。
そして、尸林自体もバドラカーリーなどのように女神の名前がつけられていた。
これらは土着宗教の女神たちであり、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か、仏教の女神(守護女尊)として崇拝されている。
それぞれの尸林の女神の祠には、巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術(Necromancy)を生業としていた。

その巫女は、苦行母(ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)という。
大神シヴァの神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に、彼女たちは、侍女兼巫女として仕えている。

その聖地(ピータ)に土着(クセトラジャー)の女性たちは、多くはアウト・カーストの出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていた。

彼女らは一年の特定の祭日、または、月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物((三昧耶>(サマーヤ))をとり、酒を呑み、歌舞音曲を楽しむというオルギアを行った。

古代のディオニュソスの祭儀か、どちらかと言うとキリスト教によりディフォルメされた魔女のサバトに似た狂乱の宴である。

もちろん、この土着の「尸林の宗教」は、文献も残さず、伝承も不確かな存在であり、ヒンドゥー教や、仏教サイドの文献から存在そのものを再構築するしかない。
しかし、その痕跡は現代にも残されている。

津田博士が1975年にカルカッタのカーリー寺院を訪れたときは、暗い回廊の下に黒衣をまとったダーキーニーが、黒い羊の首、四、五体を並べた前にひとり座していたという。


 もちろん、多かれ少なかれ性的儀礼を含む自然崇拝的宗教は、世界中に伝播している。
『旧約聖書』においても、IHVH神はバアル神と鋭く対立した。

何故なら、バアル(男性原理)及びバアラテ(女性原理)とは大地の豊饒を司る精霊で、その集合体が神格化、宗教化したバアル神だったからだ。
夫婦の神の交わりにより、土地を肥やし、作物を生む。
農民は、その神々に帰依する者となり、神々の交わりを模倣して神聖な性交を行うことで豊饒を祈る。

遊牧民の神であるIHVH神は、この性的な豊饒儀礼とは無縁であった。
性的祭儀はハムの子孫であるカナン人が発展させ、イスラエルに教えたのである。
聖書は、これを避難して(アモリ人の悪>(『創世記』15章16)と呼び、その祭儀に参加する者を「高きところでバアルと頸城をともにする者」と呼んだ。
潔癖主義のユダヤ教は、カナン人の信仰だけでなく、神殿娼婦を置き性の崇拝を織り込んだ古代の有力な宗教と対決を続けてきた。


 しかし、農耕神の素朴な性的儀礼と尸林の宗教は、かなり異なる。
バアルの聖なる交合は、大地の実りをもたらす開放的な営みであるが、墓所における性の儀礼は、人間の心の深奥部へ辿り着こうとする閉鎖的な営みだからだ。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式である。
中世インドまでの中期密教において、九想観等の死体が崩壊する様を瞑想する技術はすでに確立しており、宗教者が修行のためや、純粋に供犠のために尸林を訪問する機会はあったのである。
インドにおいて宗教者とは常に男性であり、タントラ行者は、土着宗教の巫女たちと性交を含む儀式を行ったと考えられている。

 ガナチャクラの構成員は9名である。 つまり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神パイラヴァを召喚した男性行者が1名、そして、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行う儀礼である。

天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽する。
この位置変換を(瑜伽女の転移>(サンチャーラ)という。

女性行者が8名に臨時のメンバー(行者ではない女性)を1名加えた9名という説もある。

その場合は、中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女一組に対して、円形に8名の女性行者が並び、曼陀羅が常時成立することになる。

この結果、中央の男性行者は、すべての女性行者と平等に和合することになる。
この儀式は、インドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっている。

 星辰の回転を象徴しながら、都合、8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は、(大楽>(マハースーカ)と呼ばれ、この(大楽>が行者を(梵我一如>の境地に連れ去るのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/2smshna.html

クンダリニー・ヨーガの瞑想においては、骨盤下部で覚醒したクンダリニーという蛇が脊柱に沿って上昇していくさまを観ずるのだが、この蛇の通り道には七つの中継点がある。

それらをチャクラと呼ぶ。

チャクラは神秘的な眠れるエネルギーの貯蔵センターである。

 クンダリニーは各チャクラを通過するとき、ひとつひとつに特有なエネルギーを解放していく。
すると、行者は身をもってそれらの働きを経験することになるのである。

主要なチャクラは七つあり、各々がクンダリニーの通り道、つまり脊柱沿いに位置を占めている。
これはもちろん目には見えないが、多くの先人のイマジネーションによって、たしかにその通りの造りになっていると認められてきた、からだの元型的内部構造なのである。
http://www.transview.co.jp/02/text.htm

クンダリニーは、悟りを得るために必要なシャクティ(性力)のこと。
クンダリニーの活性化を念頭においたヨーガは、「クンダリニー・ヨーガ」と呼ばれる。
クンダリニーを象徴化したものとしては、密教の軍荼利明王がある。

クンダリニーは、普段は尾てい骨付近のムーラーダーラチャクラに眠っているが、ヨーガの実践や宗教の各種修行によって活性化し始め、生涯をかけ各チャクラを開花させグランティ(=結節。ブラフマー結節、ヴィシュヌ結節、ルドラ結節の3種類がある)を破壊し、最終的には頭頂のサハスラーラを押し開け解脱に至る。
今世で解脱できる魂は極一部といわれている。
性欲を昇華させたものがクンダリニーとなるため、梵行(性的な事柄を避ける)修行が重要となる。


クンダリニー・ヨーガ (Kundalini yoga)
ムーラーダーラに眠るというクンダリニーを覚醒させ、身体中の気道やチャクラを活性化させ、悟りを目指すヨーガ。

ナーディとの関係
ナーディとチャクラの位置を表した図体内(霊体)にあると言われるナーディ(管)の中でも代表的なものは、

動的で男性的性質のピンガラー・ナーディ(別名・太陽の回路)、
静的で女性的性質のイダー・ナーディ(別名・月の回路)、
そして身体の中央を貫いており、調和をもたらすスシュムナー・ナーディ


の3つがある。ピンガラー・ナーディとイダー・ナーディの調和のとれた活性という条件の下、瞑想時にスシュムナー・ナーディ内をクンダリニーが上昇した結果訪れるサマーディに入定することが、サマーディより出定後も安全に高い霊性を維持していくための条件となる。

クンダリニー症候群

クンダリニーを思い通りに、意図的に上昇させようとするクンダリニー・ヨーガを実践する場合、その「思い通りに、意図的に」とは真我ではなく個我にとってのそれであるため、クンダリニーが動的なナーディであるピンガラー・ナーディのみを通ってサマーディに入定してしまうことがある。

そうなるとサマーディから出定後、クンダリニー症候群(英:Kundalini syndrome 中:走火入魔)と呼ばれる症状が現れ、程度の深浅こそあれ、自律神経系のうち交感神経系の暴走からくる自律神経失調症を呈し、そこから全身の激しい脈動、心拍数の増加と血圧の上昇、片頭痛、慢性疲労症候群、統合失調症、うつ病、神経症などを発症するおそれがあり、最悪のケースでは脳溢血や自殺などを招いてしまうという説もある。

よってイダー・ナーディを強力に活性化させる技法を知らぬままクンダリニー・ヨーガを行うことは無謀ということができる。

また、クンダリニー・ヨーガを実践するつもりでなくても、急進的な解脱願望を抱いた状態または神への絶対帰依を欠いた状態での修行の継続の結果や、さらには交通事故や出産時のショックなどによっても上記のような現象が起こる場合が稀にある。

このため、クンダリニー覚醒を目指す実践者はベジタリアニズムを実践し、刺激物の摂取を避け、過食、不規則な食事、わがままで否定的な態度を避けるべきである。

安全な隠遁生活がなかなか難しい現代社会において、社会生活を営みながら安全にクンダリニー覚醒を得るためにはどうしたらよいか、霊的潜在能力覚醒における課題である。


イマジネーションの拡大

クンダリニー覚醒が一定のレベル以上に達すると、人間に果てしない「イマジネーション」の拡大がもたらされるといわれており、実際その事例を見ることも多い。
クンダリニーの覚醒者と自称する人(その多くは覚醒者とはいえないレベルではあるが)は多くいるが、彼らの中の一部に「空想的世界観」を見ることができる。

人間が自分を”実際以上”のものである(あるいは実際以上のものでありたい)と思うたびに、イマジネーションの力がそこで働いている。
イマジネーションの力は、過去において不可欠であったのであり、さらに人類にとって今後もまだまだ必要な力である。

あまりに現実を見てしまうと、世界の進歩が阻害されてしまうのであり、クンダリニーにより神の夢を個々の人間の器に応じて実現させることができるのである。
しかし、修行者がイマジネーションの拡大に溺れてしまい、それを自分の力だと思い込み「欲望」のままに行動してしまうならば、「悟り」への道を逸脱することになってしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%BC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC#.E3.82.AF.E3.83.B3.E3.83.80.E3.83.AA.E3.83.8B.E3.83.BC.E3.83.BB.E3.83.A8.E3.83.BC.E3.82.AC_.28Kundalini_yoga.29

クンダリーニ・ヨーガと云う言葉は、今日多くの人に浸透しているように思えるが、人体におけるクンダリーニの役割や機能について、また、その現実的な活用についての理解・実践となると、まだまだ、実際には普及していない印象がある。

 そもそも、クンダリーニ自体の存在が、手足や内臓などのように、物理的に確認出来る人体の部位ではない。

 活動する人間の精神や魂が、聖なる事業の実現のために、肉体に生成されるエネルギーと結びついて、聖霊が住む高次な世界の扉を開こうとするとき、クンダリーニの覚醒が重要なプロセスとして存在する。

そして、その手段が、ヨーガであり、瞑想である。

 C.G.ユングが提唱したアクティヴ・イマジネーションの実践は、ミトラ教の大いなる時の神、デウス・レオントケファルスを彼自身に感得させた。

その姿は、巨大な光を放射する身体、炎の弓を持って振り上げられた腕、下半身は蛇で、下(しも)は大地を裂いて地獄にまで至り、上(かみ)は不思議な魔力で空から星を降らせた。

密教の甘露軍荼利もまた、星を降らせ、炎の光輪(大威日輪)を戴く。
三股金剛杵や輪宝を執って腕を振り上げ、全身に蛇を巻き着けている。
青蓮華を用いて盤石の上に立ち、或いは座して、毘那夜迦(魔族)の地上への出口を塞いでいる。

ユングは、1932年10月12日の「クンダリーニ・ヨーガの心理学」の講義の中で、チベット密教の曼荼羅の象徴学を熱心に語る傍ら、クンダリーニの覚醒法に関する興味深い見識を述べている。

 「クンダリーニは、正しい行ない(修行)に拠らなければ覚醒させることが出来ない。
私の心理学でも、無意識に対するはたらきかけはたったひとつだ。
それは、正しい行ないによって心を浄化させて、天の恵みを待つこと。
それが、クンダリーニなのだ。」と。
 


ユングがヨーガの取組み方について、

「自らの心の闇を避けて通っていくような始め方をするなら、ヨーガは何も実を結ばないし、無益である。」

と語ったのは、神仏の信仰による心の浄化が前提にある。

当たり前のことだが、ヨーガは元来、エクササイズではないし、美容と健康のためのお手軽な体操でもない。

スワミ・ヴィヴェカーナンダの米国でのヨーガの普及活動について、カイザーリングは、米国人を高次な世界に同通させるどころか、かえって病院や療養所行きになった者を多く出したと批判している。

さらに、本場のインドにおいても、クンダリーニ症候群が古代から現代まで連綿と後を絶たない。

その原因は、ユングが指摘するように、正しい行ないの認識不足によるものだ。

 空前のヨーガ・ブームを引き起こした日本でも、信仰を持たず、神秘思想を学ばずにいい加減なアーサナを指導した者や、また、その指導の下に、エクササイズだと思って神の姿を真似た人々は、今、米国やインドで起きている同じような大きな付けをやがて支払わなくてはならないときが必ずやって来る。

その時、心身の不調を訴えても、異常を裏付ける医学的な根拠がないため、誰も責任を取る者はいないだろう。

ヨーガを通じて幸福を与えると云うヒンドゥー教のドゥルガーやカーリーは、信愛厚き者の心の覚醒や人生の繁栄をもたらすと同時に、不信心なヨーガ行者を容赦なく殺戮してやまない。

彼女たちこそ、世界で最も恐ろしい血を好む女神たちであることを決して忘れてはならない。

 ユングが西洋人に対してヒンドゥー・ヨーガを積極的に奨励しない背景は、こうしたインドの女神たちの激しい気性を、彼自身が体験しているからだ。

 ユングは、1937年にインドを訪れた折、知らずに神殿儀礼を欠いたことで、カーリー女神の怒りを買ってカルカッタで赤痢に罹っている。

地元インドの敬虔なヒンドゥー教徒でさえ、女神の威光を畏れて、生きた動物による血の生贄の供養を現在も怠らない。

最近では、旅行気分でいそいそとわざわざインドにまで出向いて行って、形式ばかりのヨーガを少し修しただけで、さも深遠な教えを体得した気になって箔が付いたと思っている輩が多い。

全く救いようのないお馬鹿たちだが、こうした人は、むねに手を当ててよく考えて欲しい。

自分が本当に悟っているのかどうか。
ヨーガによって人を導く資格があるかどうかを…。

 それでは、クンダリーニ・ヨーガにおける正しい行ないとは何んであろうか? 
インドから中国に伝わった密教は、三武一宗の法難によって廃れた。

また、朝鮮半島の仏教も李氏朝鮮時代の弾圧によって壊滅状態になり、スリランカや東南アジアは上座部仏教が主流になって、密教の体系は失われた。

辛うじて、ひとりチベット密教だけがモンゴル帝国の庇護の下に無上ヨーガを完成させたが、クンダリーニ・ヨーガについては、トゥモのヨーガの断片的な発展を除いて、専門的な研究を進められないまま動乱の時代を迎えている。

わが国においても、内乱の世にいくつかの迫害や打撃を経験したが、比叡山や高野山は、民衆による法灯擁護の兵力を備えて果敢に危機を乗り越えてきた。
したがって、クンダリーニ・ヨーガが無傷のまま整然と体系化されるに至ったのは、日本密教のみである。


 さて、秘密仏教は概ね二つの修行形態が存在する。

一つは清浄ヨーガ(日本密教)の教理に基づくものであり、
もう一つは性ヨーガ(チベット密教)の教理に基づくものである。

前者は心身の霊的磁場を単身で樹立する瑜珈であり、後者は心身の霊的磁場を双身で樹立する瑜珈である。

清浄ヨーガの体系(ヨーガ・タントラ)の体現者を金剛薩埵(ヴァジュラサットヴァ)とし、
性ヨーガの体系(無上ヨーガ・タントラ)の体現者を持金剛(ヴァジュラダラ)及び金剛界自在母(ヴァジュラダートゥヴィーシュヴァリー)

としているが、修法の違いこそあれ、法界における悟りの境涯は同等である。
 
 クンダリーニ・ヨーガを何れの修行形態で実践するにしても、注意しなければならないのは、『ギュー・シ』や『アーユルヴェーダ』などのタントラ医学の修得が必須条件であることだ。

法華経などに説かれている文殊菩薩の女人成仏における五障を克服するサトル・ボディの救度法は、神変加持やクンダリーニの覚醒のプロセスで、女体に現れる無月経などの症状に対して、修道に則した解決法が時の医学や法律の良識にそぐわない点が懸念されるため、無上ヨーガを宝珠に譬えて悉地を与える法門が秘密裏に伝承されてきた。

ただ、そうした事例は現代において極めて稀であり、相当な法器に限られる。

女人への秘密仏教の伝授は、女体がこのような胎生のメカニズムを保有する性質上、クンダリーニ・ヨーガではなく、専ら桜閣生起(巫女型)の儀軌によって霊道を開かせることが多い。

女人成仏のメリットはまことに大きいが、無上ヨーガが如法によらず、あまりに世俗的な方向に傾くと、行に停滞が生じてデメリットが多くなり成就が得られない。
これが、釈迦仏教や高野山が教団発足当初、女人禁制とした決定的な理由である。
http://star.ap.teacup.com/senokublog/6.html


密教には 仏教には存在しない多くの呪法が数多く存在する。

それらは タントリズム行者たちが執り行った呪法をそのまま採用したものが大部分であり 硬直法・隠身法・招入法・恫喝法・粉砕法・呪殺法・解毒法・治病法といったこれら呪法は 本来仏教とは無縁ではある。

しかし実際仏教タントリズムが誕生する以前の初期仏教において呪法への依存から人々を遠ざけようとしたこと自体 密教時代 俗信・呪法が仏教の中に流れ込んでいた証拠と考えられる。

呪法自体はタントリズム以前の初期密教の時代から存在するものであり 遙か太古に遡る原始的心性に基づくシャーマニズムだ。

それら過去における禁止された呪法は 仏教タントリズム展開の過程で世間的・実践的重要な部分に値し 大衆の要求に合致したタントラ密教の思想の下敷きであることは間違いない。

こうして タントラ密教は 俗信や白魔術・黒魔術的な呪法を取り入れた新たな組かえと編集により変化してゆく。

密教には 仏教には存在しない多くの呪法が数多く存在する。

それらは タントリズム行者たちが執り行った呪法をそのまま採用したものが大部分であり 硬直法・隠身法・招入法・恫喝法・粉砕法・呪殺法・解毒法・治病法といったこれら呪法は 本来仏教とは無縁ではある。

しかし実際仏教タントリズムが誕生する以前の初期仏教において呪法への依存から人々を遠ざけようとしたこと自体 密教時代 俗信・呪法が仏教の中に流れ込んでいた証拠と考えられる。

呪法自体はタントリズム以前の初期密教の時代から存在するものであり 遙か太古に遡る原始的心性に基づくシャーマニズムだ。

それら過去における禁止された呪法は 仏教タントリズム展開の過程で世間的・実践的重要な部分に値し 大衆の要求に合致したタントラ密教の思想の下敷きであることは間違いない。

こうして タントラ密教は 俗信や白魔術・黒魔術的な呪法を取り入れた新たな組かえと編集により変化してゆく。


ガナ曼荼羅は,定まった日 ある特定の場所を選んで行なわれる集会(儀礼)である。

八人の瑜伽(ヨーガ)女と釈尊の役を演じる阿闍梨の合計九名が最少必要人員とされ現実態としての曼荼羅を実践する。

入檀希望の新たな弟子との飲食と性の饗宴をもってその実態とする。

動員される八人の女性はヘーヴァジュラ曼荼羅の八女尊に相応する生身の瑜伽女である。


阿闍梨が弟子を曼荼羅に引き入れ目を布で覆う。

次に弟子に曼荼羅を見ることが許される。

ガナ曼荼羅では 弟子は金剛阿闍梨によって受認される。

▼人身供犠

ところで中世インド社会では特異な儀礼内容の集会を行う瑜伽(ヨーガ)女たちの魔女集団が存在した。

へーヴァジュラの徒、瑜伽女たちは 節会をもち人身供犠を行う儀礼の集会日を月の満ち欠けによってを定めた。

ヘーヴァージュラ瑜伽女集団にとって人身供犠 つまり人間の殺害儀礼において 輪廻転生を前提とする仏教タントリストの論法により 「犠牲の合意のもと」集会へ招待する。

自己犠牲となったものから提供される丸薬は成仏の因として扱われ犠牲となった者は 輪廻転生から逃れ最終解脱を果たす。


また人身供犠の犠牲七生人(7回目の輪廻転生)の選別では 男女問わず話す声が麗しく 切れ長の眼に濁りなく麝香か樟脳のごとき芳香を持ち 同様に大いなるオーラの具え 影が7つとして存在するものである。

これを七生人と印づけ 吟味した上で丸薬を作りそれを食することで「虚空行」を果たす。(虚空行=空中飛翔)これらの儀礼は、ヨーロッパ古代ギリシア ローマへ入ったオリエントの密儀宗教の崇拝を想起させる。

瑜伽女たちの集会が人身供犠を伴うことは仏教徒外部からの影響と考えられるのではないだろうか。

以上後期密教としてのタントラ密教は その後ヒンドゥー教の隠された異端によって受け継がれていく。
http://d.hatena.ne.jp/mminazuki/20050619/1119188314


中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した後期密教が誕生した。

後期密教では仏性の原理の追求が図られた。

ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けて、男性原理(精神・智・方便・金剛界)と女性原理(肉体・感・般若・胎蔵界)との合体(性交)を修行する無上瑜伽も後期密教の特徴であり、
男尊(男性原理)と女尊(女性原理)が性交する歓喜仏も多数登場した。

ヨーガ・タントラの修行方法が探究されるにつれて、下半身のチャクラからプラーナを頭頂に導くこと(ジョル)が最上とされ、性交がその最も効果的な方法とされた。

しかし男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてセックスを強要したため、仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教(上座部仏教)への回帰もみられた。

また僧侶の破戒に対する批判を受けて、無上瑜伽も実際の性行為ではなくクンダリニー・ヨーガによる性的な瞑想へと移行する動きも生じた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99

中世のインドでは、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教という宗教の枠を超えて、性を重要なテーマとする宗教「タントリズム」が爆発的に流行した。
つまり後期密教がこの方向に走ったのは時代の潮流がその背景にあったということだ。

性的ヨーガ

仏教徒が輪廻からの解脱を実現する方法として、努力して少しずつ煩悩を排除してゆくという一般的方法をあえて採らず、ある秘密の技法によって一気に解脱に達しようとする方法が性的ヨーガ。

タントラとは、密教経典、とくに性的ヨーガの実践を主張する経典のこと。
それはつまり、「無上瑜伽タントラ」のことだ。

ある高名なタントラの成就者は、タントラの道について、それは選ばれた者だけが知ることができるのであって、余人に知らしめてはならぬという意味の文を書き残したそうだ。

「無上瑜伽タントラ」は「父(ふ)タントラ」「母(も)タントラ」「双入不二タントラ」に分けられ、それぞれにまた複数のタントラが存在する。
父タントラには敵を調伏する修法が多く、母タントラは性的ヨーガの実践に積極的だった。

双入不二タントラは父・母両タントラを統合止揚しようとするもの。

後期密教では、人間の体の中に「霊的な器官」があると思われていた。


身体論を導入したものとして大日経の「五字厳身観」がある。
これは、地水火風空を象徴するア・ヴァ・ラ・ハ・カの5字を身体の5箇所に観想する。

この5字に加持された行者の身体は大日如来の五輪塔となり、清浄な仏の身体に転化する。
このような身体の中の特別な場所は、後期密教ではチャクラと呼ばれるようになる。

「ヘーヴァジュラ・タントラ」では4つのチャクラが説かれ、それらは身体の臍・心臓・喉・頭頂にあり、そのうちの3つが如来の応身・法身・報身に対応する。
チャクラは蓮華の形をしていて、花弁の数はチャクラによって異なる。

また身体にはチャクラの他に脈管がある。

脊髄のそばに1本、その左右に各1本。
並行して走るこの3本は、上端・下端とチャクラの部分でだけ接合している。

これが当時のインドの生理学説で、「四輪三脈」説という。

脈管の中はそれぞれ精液、血液、その混合物が通る。

母タントラでは精液が「世俗の菩提心」と呼ばれ重視された。

精液は快感の源であり、これを脈管の下端から次第に上のチャクラへと送る。

それぞれのチャクラで得られる快感には名前が付けられ、4つ目の「倶生歓喜」を成就することが生理学的ヨーガの課題とされた。

前述のように精液は菩提心なので、射精は菩提心の放棄でありタブーだった。

行者は睡眠中の夢精すら許されなかった。

なお、上述の快感が下から上へ行く説の他に、上から下へ降りるとする説もあった。

一番下のチャクラは会陰部にあり、これはまだ性的な力にすぎない。
この力を順次上のチャクラに送り、次第に浄化し、頭頂にある最上のチャクラに送ると修行者は解脱するという。

現代では実際に性的な行為をするのでなく、観想によって精神的に修行するそうだ。
しかし8−10世紀頃のインドでは修行者が実際に女性と性交することでヨーガを実践していたらしい。

後期密教の灌頂はそれ以前のものよりも複雑になっている。
それは4つに分かれていて、まず瓶灌頂は、瓶から香水を取り出し受者の頭頂に灌ぐのでこの名が付いている。
この瓶灌頂では受者の本尊も決める。
またそれ以外にも複雑な儀礼が付加されている。

瓶灌頂は中期密教の灌頂の内容を継承したものになっており、もともと国王の即位式を真似たものだった。
そういえばキリスト教の洗礼ともどこか似ている。ここまでなら私にも納得できる。

ところが後期密教は、この国王の即位式を真似た最高の儀礼であるはずの瓶灌頂を格下げして灌頂の第1段階とし、その先におぞましいものを持ってきた。

第2の灌頂である秘密灌頂から先は、後期密教になって付け加えられた灌頂だ。

秘密灌頂では受者が阿闍梨に女性を献ずる。
あるいは阿闍梨が瞑想に入り女性を観想する。

阿闍梨はこの女性と交わり、「金剛杖の中の菩提心」つまり精液を取り出し、指でつまんで受者の口に入れる。

これで「菩提心を授けた」ことになる。
なお、精液だけでなく赤白二滴(経血と精液の混合物)を授けるとする文献もある。

次の般若智灌頂では、こんどは受者は阿闍梨から与えられた女性と交わる。

女性と交わりつつ受者はヤブユムの本尊の境界を悟る。

受者は射精を我慢して究竟次第の4つの歓喜を体験しなければならない。

そして受者が射精を我慢できなくなった時は女性の体内に菩提心を放出し、赤白二滴(経血と精液の混合物)を服用する。

最後の第4灌頂は、阿闍梨が受者に「言葉によって」大切な教えを授ける。


人は死ぬと「中有」になる。 最大で四十九日間。

中有はやがて未来の父母の性行為の場面に遭遇する。

それを見て失神し、赤白二滴(経血と精液)の中に吸着される。

父母の性行為をまのあたりにして
父に愛欲を起こして母に嫉妬すると中有は女になり、
母に愛欲を起こして父に嫉妬すると男になる。
http://blueclouds.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300688127-1

[3.85 射精し終わるや、ゆっくりと、適正に精液を吸い上げることを習熟すべし。

男性はもちろん、女性でもヴァジローリーに熟達することができる。]
(『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』より。)


ヴァジローリー(性器による吸引)に関しては「実際見せてもらったことがある」というスナックのママさんの話を聞いたことがあります。

曰く、温泉場で同伴した長年ヨーガを実践している女性が性器から湯を吸い上げたり、吐き出したりすることを自在にやって見せたそうです。

私は当時沖正広師の著作を読んでいたので、周囲の人ほど驚くこともなく聞いていましたが、ほとんどの人は話そのものを信じていない様子でした。

ただし、この女性はおそらくこれを「性技」として活用しているのだと思われました。

私の考えでは、ヴァジローリーとは、修練すれば性器でさえ自在にコントロールすることができる証しなのだと思うわけです。

もう少し突っ込んでいうなら、交接時に「受け身」である女性は性器を巧みに絞ったりゆるめたりすることで、男性の射精を適宜操ることができるのです。そしてこれは「女性の修行法」に相当します。


[3.88 ヨーガの道を心得た人は、かようにしてビンドゥを保全して、死を克服する。ビンドゥを漏らすことによって死があり、ビンドゥを保全することによって生がある。]

[3.90 人間の精液は心に依存し、生命は精液に依存する。それ故に、精液と心の保全につとめなければならない。]


「ビンドゥ」は精液と同義のようです。

「接して漏らさず」的な考え方がここにも表れています。


[3.98 ヨーギニー:男子が適正な行法を巧みに行なってビンドゥを回収した時、婦人がヴァジローリーをもってラジャスを保全するならば、彼女はヨーギニー(女行者)である。]


「ラジャスとは、ここでは交接時の女性の分泌物であろう」

との佐保田師の解説があります。

3.101には「ラジャスを回収し保全するならば、空中を歩むことができる」という記述もあります。

そしてこの部分も「女性の修行法」に相当すると思われます。

これはこの著作の際だって特異な記述です。

つまり、ヴァジローリーはともかくとして、女性も男性同様に「もらさない(下世話にいえば、イカナイ。多量の愛液をもらさない)」ことが健康法レベルでの禁欲的な実践になるのでしょう。

そしてヴァジローリーができない限りは、「絶頂感」は男女ともに慎んでおくべきなのです。
http://redsnake.seesaa.net/article/94566521.html

性的パートナーと性的ヨーガ 2008年 10月 27日

チベット仏教に精通している人っておられますか?

もち、密教は仏教のなかの一部なんだけど、歴史的にインド仏教が後に興隆したヒンドゥー教に押されてしまいインド仏教の高僧が人里はなれたチベットに移り住みそこでインド仏教を根付かせた。

チベット密教の本を手に取ればそこには性的パートナーっていう、俗に言うセックスフレンドというかセックスパートナーを公認している。

そのセックスパートナーとは性的ヨーガによりつながり互いの性の力の高まりにより悟りを開くというものだから、、、ちょいと驚くよね。

このセックスパートナーって言うのは夫婦関係以外のことも多いからよけい驚く。
インドの仏画をみたりしたら男女が裸体で性器を突き入れているっていう感じのものがよくあるよね。

それが性的ヨーガを一部現したようなものなんだそうな。

ただし注意しないといけないのは、この性的ヨーガをするならばチベット密教の密教的原理だけを理解していて実践するのは絶対にダメだということ。

釈迦が説いた数多くの説法を読み込んでからにしたほうがいい。

そうじゃないと女性がいいように他人に操られるようになってしまう。

おそらくしっかり仏教経典を読み込んでいれば人間の生命場をあらわした超能力的な不思議な目に見えないような世界の話もでてくることがわかるだろう。

だがそれだけじゃなくて仏教の土台を理解してそのうえにひとつの教義としてチベット密教の考え方がある、そう受け止めちゃえば変ないかがわしい人間の甘言や脅しなどにも抗し得るだろう。

そうやって仏教に対してのバランス感覚がよくなった人ならば安心だろう。
チベット密教はやはり私たちの常識では計り知れない叡智がある。

性的ヨーガで得られる悟りを開けるほどのトランスとエクスタシーはそれを我が身で体験した女性は性的に熟練し若さを保て魅力的になるにとどまらず人生観までも転機するといったような。。。。。。。

ぞくぞくっとするような。あのチベット密教の寺院にこだまする読経の声こそ深くこの世の世界から天界へと意識をトリップさせるためのマントラのパワフル極まりないエネルギーに満ちたものだった。

そのことは僕が実際に女性とのセックスをしたときにBGMがチベット密教の寺院で読経された音源だったからこの身をもって体感した。

だけどもチベット密教での性的ヨーガはヨーガの修行体系のひとつでもあり瞑想の行でもあるわけだから、それなりに男女とも修行って言うものがひとしきりする覚悟がないといけない。

そこは安直な簡単で短時間にとかいったような浅薄なことに慣れて面倒なことをしたくないっていう人には向かないよね。

それにチベット密教の行をする過程でリンガといった男性性器が力をつけていくしヨーニという女性性器も変わっていくのを感じた。

セックスのとき極々従順にすべてを受け入れてくれる女性が、セックスの回数を重ねるたびに美しくなっていくっていう秘密のひとつがこういったものなんだよね。
性的パートナーとして整体師さんである僕の性技を味わえば、セックスで整体していく感覚を持てるのかもしれない。
http://sexbody.exblog.jp/8834718/


 初期仏教から7、8世紀頃までの仏教は、その最大の手段は、業と煩悩の止滅を追求する(止滅の道>であった。

この多分に都会的な形而上学的、自己探求型の宗教は、当時の豊かな商業経済に裏付けられた都市型の文明に支えられていた。

シッタータ王子も生まれてから青年に達するまで宮殿をほとんど出たことがない。
仏教は、アーバンな衒学的な色彩を有した貴族の宗教たり得たのである。
ところが、貿易相手の西ローマ帝国の滅亡とともに、社会のあり方が、重商経済国家から、帰農国家に様変わりしていったのだ。

農村中心の社会が再構成されるに従い、仏教も土臭い庶民の心に対応していくことになる。

つまり、出家僧個人の精神的至福の追求から、在家信徒の現世利益追求型へのゆるやかな転換である。


 その過程において、4、5世紀頃から徐々に7、8世紀頃にかけて、護摩祭などの集団的祭礼、血骨皮を用いる土着信仰儀礼の浸食、性的オルギア、そして、憑依現象の利用などが顕著になってきた。

ただし、こと憑依に関しては、完全な忘我状態にあるのではなく、自意識を有して観想状態に入るというというという優位性を主張できたのではあるが。


 チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパは、ラマ行者ウマパに師事し、(成就法(サーダナ)>を収めて、文殊菩薩に会い、その姿をいつでも目の当たりにすることができたと言う。

のちに、かれは『大真言道次第』(ガクリムチェンモ)という著作のなかで、生起次第を本格的に履修してから約1年ほどで「神々が面前にはっきりと現れる」ことを示した。

かれは文殊菩薩から直接教えをもらっていたのである。
これは現代風に言えば、チャネリングになるのだろう。

心霊科学では(憑依>と呼ばれる。

ある精神回路が開き、かれの心は見神状態で固定されたのだ。
この種の宗教体験は珍しいものではない。

ラーマクリシュナは、いつでも母神カーリーを現前に見ることができた。
主イエス・キリストの花嫁として恍惚状態に陥る尼僧ヒルデガードの例など枚挙に暇はない。

しかし、チベット仏教の場合は、その手段をシステム化することに成功している。

たとえば、後世のゲルク派は、(ヤマーンタカ成就法>を完成させた。

(閻魔を殺す者>(ヤマーンタカ)とは、宗祖ツォンカパの(守護尊>(イダム)となった神であり、ヒンドゥー教の破壊神シヴァが憤怒の相を表したときの神格ヴァジュラ・パイラヴァと同一視されている。

また、ヤマーンタカはゲルク派自身の守護尊とも呼ばれ、後世のゲルク派の(三密教>(サンデジクスム)とは、父タントラに属する(秘密集会>、母タントラに属する(チャクラサンヴァラ>そして、(ヤマーンタカ>である。

さて、その修行法は、次の三段階に区分される。

 その1は、初加行三摩地である。

この段階では、本尊であるヤマーンタカを観想し、修行者がヤマーンタカ神そのものにほかならないことを体得する。

このとき(死の光明>を通過し、歓喜とともに(空性の智>の体験が得られる。

さらに(中有>において、身体が浄化されると(幻身>が構成される。

その後、月輪観及び日輪観を経てヤマーンタカが種字から顕現する。

そして、ヤマーンタカが単体ではなく本尊(ヤプ)と明妃(ユム)になり、種字が性器となり交合するさまを観想する。

修行者は双子のアンドロギュノス的体験をする。

明妃を貫く本尊の男性的快楽と、本尊に貫かれる明妃の女性的快楽の双方を(大楽>として感じるのである。

しかも、それら全てが万物の空性の故であると悟らねばならない。

むろん、神格と自己の融合は、一種の憑依現象であるが、修行者は手綱を放すことなく、憑依をコントロールしている。


 その2は、曼陀羅最勝王三摩地である。

ヤマーンタカの十三尊からなる曼陀羅全体を観想する。
その曼陀羅は修行者の心臓のなかに置かれる。

交合する本尊(ヤプ)の全身から光明が発せられ、そのなかに万余の仏と菩薩が招来され、本尊の口から呑み込まれて凝集されひとつの滴(ティクレ)となる。
ティクレは、喉から、心臓へ、そして男性器へと下降し、明妃(ユム)の女性器のなかに射精される。

ティクレは女性器から明妃の心臓へと上昇し、そこで2分割される。
片方のティクレは、宮殿と座を表象する種字となり、もう一方のティクレは、十三対の歓喜仏となり、先の座につく。

生起の門の完成である。

この曼陀羅となってティクレは、心臓から女性器に再度降下し、本尊の男性器に吸い込まれて本尊の心臓に戻る。

そこで、修行者は曼陀羅を身体の外に放出する。

放出の門である。

曼陀羅は虚空に無限に拡散し行為の門となり、極微に収斂し点となり集約の門となり、再度、拡大し正しい位置に戻り安住の門となる。
これが五門の成就である。

魔術の召喚技法において、神格を纏った術者が、神の権威で下位神格や、霊を統制する場面を想起してもらいたい。

また、I∴O∴S∴の神殿儀式における精密なアストラル・ライトの投射も、同様の(性魔術部分は、通常の祭儀には執行されないが)プロセスを辿る。


 その3は、羯摩最勝王三摩地である。

細部を記述するときりがないが、(外供養>、(内供養>、(秘密供養>の三つの供養を行い。微細な生起次第を学び。

生起を思念し。念踊を行い。ヤマに供物を捧げて謝し、曼陀羅を収斂させて終える。

技術的には豪華絢爛な儀軌の連続であり、いかに視覚的な細部を固めながら人間の精神を変質させていったかが理解できる。

住する段階を越えるダイナミックな変化を変容というが、まさしく儀典による精神の変容を目的としている。


 これまで見たとおり、召喚の根源となる仕組みは憑依のプロセスであり、それは世界の主要な宗教のなかに変質して潜んでいる。

チベット密教は、その(憑依>のプロセスを応用、改善し、より高度な意識変容システムを完成させた。

そして、憑依のシステムに力動的な推進力を与えているのが、初期の古怪な性魔術(尸林の儀軌)とは、一線を画する精密な性の哲学と技術である。


 むろん、他のシステムにも性の密儀は存在する。

カバリストは、完全な性的結合の上にシェキナーが訪れることを知っていた。
ハシドたちによって発展した神聖なる交わりの奥義は、ラビ・フリッシュが「・・・家庭を神殿とし、寝室を至聖所となす。

・・・低き交わりと高き交わりをともに完成させるために、性愛のさなかに・・・」

と語り、ラビ・ヴィダスが

「男女が性の交わりにおいてひとつの霊魂とひとつの身体になり、ついに一個の人格に融合するとき、聖なるかな、誉むべき主はその上に宿られる。」

などと語ったことなどが含まれている。


 その本質は、性の喜びをシェキナーに帰することであるが、性愛の前後の複雑な手順と最中の瞑想を含んでいる。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/3posss.html

大印契(ザ・グレート・ライト)
 チベット仏教がインド後期密教からその精緻な教えを伝承したとき、当然のことだが、大印契(マハー・ムドラー)などの教義に融合した尸林の土着信仰の残滓を飲み込むこととなった。

密教が象徴主義による直接的な悟りを得る技法を追求した段階で、人間の営みの全てを捧げることになるのは、ある意味で自然の流れである。
むろん、宗祖である釈迦の(現法的梵行>という枠を大きく逸脱しているのは事実であるが。

 尸林の宗教において、性交を伴う儀式集会(メーラー)が行われたことはすでに述べた。

その儀式に召喚される主神は、パイラヴァ神であったが、これがチベット化してヘールカ神となり、同様の儀式構成を取るようになったのが(ヘーヴァジュラ・タントラ>である。

 ガナチャクラは、通常のパターンのほかに、儀式の施主を招いて灌頂を授けるという参入儀礼スタイルのものも実施されていた。

中央の阿闍梨を囲む8人の女性たちは(印>(ムドラー)と呼ばれる。

(印契女>たちは、性ヨガの経験を積んだ在家信者たちであるが、入門儀礼のために初めて参加する(大印>(マハー・ムドラー)と呼ばれる「月経期間中の16歳の美しい処女」が準備される。

彼女が祭礼の中心になる。

8人の(印契女>たちは、女尊を召喚し、独自のヨガに入る訳だが、この霊威が円の中心において最初に阿闍梨と交わる(大印>にすべて集中する。

従って、すべての(印>を束ねる(大印>たりうるのだ。

入門儀礼でなければ、阿闍梨は、(印契女>たちを転移させながら、都合8回和合することになるか、さらに複数の侍僧が円の外周で同時に(印契女>と和合するという次第になるが、入門儀礼では転移するのは阿闍梨の側である。


 入門儀式は、いくつかの段階に分かれる。

 第1の段階では、先に述べたように阿闍梨自身が性魔術を実践する。

 阿闍梨は、大印と交わる。

このとき般若波羅密を体現する処女(大印)と阿闍梨の和合により生じた体液の混合物(アレイスター・クロウリーならば、「Birth of Elixir(精液)とElixir Rubaeus(月経血)の混合物」と呼ぶであろう。)を(菩提心>と呼び、この液体を志願者の口に含ませる。

いや、植え付けるのである。

これが秘密灌頂である。


「みめ美しい一六歳になる女を得て、加持の三句をもって秘密裡に供養を始めるべし。
如来の大いなる妃であるローチャーナー等として観相すべし。
二根交合によって、仏(となる)悉地を得ることになろう。」


 第2の段階では、阿闍梨は脇に移動し、志願者は先ほどの16歳の乙女と和合する。
志願者は、射精しないように自己をコントロールしながら、性魔術ではカレッアと呼ばれる技法であるが、菩提心を下から徐々に頭頂に導き、サンスクリットの種字に変成し、いわゆるポワを完成させる。
これが般若智灌頂である。


 ここまでで精緻な象徴主義により、構築された入門儀礼は終了する。


 だが、さらに、第3の段階がある。
第4灌頂と呼ばれるその儀軌は、逆説的に言葉で伝授される。
これまでの課程が、性エネルギーによって活性化された自己の変容であるとすると、言葉での伝授は即時性はなく、その意味が志願者の心に徐々に染み込んでいくまで完成はしない。

津田博士は、第4灌頂を密教の自己否定、つまり。反密教と捕らえている。
密教の方法論を自ら否定することで、自らを完結させる。
このとき伝授される秘密の言葉は公開されていない。
しかし、『ヘーヴァジュラ・タントラ』の末尾にある次の偈のようなものであろうと推測される。


「この智慧はきわめて微妙であり、金剛曼陀であり、

 虚空のごとくである。

 離塵であり、静寂であり、解脱をもたらす。

 『汝は自ら、汝の父である』。」


 これが象徴化され洗練されてチベットに導入された。

 ゲルク派の『大印契の滴』(チャクチェン・ティクレ)によると(大印契>とは、四灌頂を正しく授かり、生起次第の修行を満了した後に収める行である。

「『手(チャク)』とは空性の智慧であり、

 『印(ギャ)』は輪廻の在り方から解放されることである。

 『大いなる(チェンポ)』は、二つのものが合一することであり、

 『大いなる手印(チャクチェン)』と呼ばれている。」


 その技法には、金剛身たる修行者の外的な手段、つまり、儀軌、呼吸、その他の条件付けなどによる環境整備を行い、修行者の内的手段、主として観想技法により、風(ルン)を中央脈管に導き、停止させ、溶解していく。

この過程で生まれるのが純粋な歓喜、性的歓喜を超越するとも呼ばれる大楽の光明である。

しかも、この光明を通じて空性をイメージとして理解することが必要とされている。

ゲルク派は、サムィエーの宗論のカマラシーラの末裔とも言える立場にあり、かれらは中観思想の立場を発展させ、無自性を中心に組み立てていく。
従って、大印契の行においても、光明によって空性を直接自覚することが重視されている。

 このとき方便(手段)である大楽は、智慧である空性と不可分一体になるのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/4gtrite.html


08. 2013年10月15日 14:41:39 : W18zBTaIM6


光が乱舞する心の深層の世界

仏教タントラではブラフマン(創造神)とアートマン(真我)の合一を体験することをサマジー(三昧耶)・・・暝想の極致という。

ダンマ(真理)に接近しこれと合一する(即身成仏)ことを目的にした、究極的な高度で、深い暝想のはてに、浄化がある。


○想像力は目にみえないものを見させる

 ハワイのフラダンスは、もともと神に奉げれていた神舞であった。
フラの巫女には、女神ペレのマナ(霊力)が感応してくる。
ハワイ語でマナとはスピリチャル・パワーのことだという。
そこで、もともとフラは神霊との交流の儀式であった。

 始めに、詔(みことなり)や、リズムと歌で、神々しい雰囲気と聖なる場を整える。
「真如」の導入である。

次に、フラのダンサーは、そのリズムで踊りながら陶酔し、やがて「没我」となる。
そこに、神霊が「感応」する。
恍惚が踊り手を支配する。
すると、神からの返答が現れ、「天恵」が現象化する。

こうしたプロセスをもつ古代儀式は、世界中に普遍的にある。
ダンスがそもそも交霊術であることを示してくれる明確な例はスーフィのダンス、鎌倉時代に起きた一遍の「踊念仏」などが上げられよう。
不乱の舞は、「没我」に至るには欠かせなかったのだろう。


 古代的な交霊は、表面的にしか物事を見ない人々には理解できない。
エンタテインメント化されたショウとしてのフラよりも、マナ(スピリチャル・パワー)と一体になったフラは偉大で神聖である。
ハワイ島では、古代と同じ”のり”で女神ペレへの感謝のフラが、今でも行われている。
これが奇跡なのだろう。

 なんであれ、音楽とダンスとは一体であり、それは神楽(かぐら)だった。
日本の祭の神輿(みこし)の”のり”が、それなのだろうか。
洸惚感、あの陶酔感は、御輿(御神体)を担ぐことによって、はじめて感じることができる。

神輿を担ぐことは、スピリチャル・ダンスだった。
真の芸能には、「真如」「天応」「没我」「天恵」の4つのプロセスが必ず組み込まれている。
だからこそ喜びと生きる力を与えていた。
現代では、真のイベントは少なく、その一部か、残り物だけとなってしまっている。
それは、大音響のロックの陶酔感とはあきらかに違うものである。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/008.html

○男性原理と女性原理


 マンダラは金剛界マンダラと胎蔵界マンダラと2つのマンダラが常に一対のものとして見られている。

般若とは完全な知恵という意味があるが、ヒンズータントラでは、般若(プラジニヤ・ー)といい、女性原理(シャクティ)を示し、行動と知恵であり、男性原理は方便(ウ・パーヤ)シヴァといい、自らは何の活動もしない。

方便(シヴァ)と般若(シャクティ)が一体になったときをアーナンダ(恍惚たる喜び)という。

後期のチベット密教の無上ヨーガタントラは性的技法が説かれている。

タントラの根本は男性より女性のほうが多量の霊的エネルギーをもっていると信じられ、このため男性は女性との性的結合によってはじめて悟りの境地に到達し、神的なるものを認識するという後期のタントリズムを生んだ。
基本的には男性は射精によって精力を費やすことなく、女性のオルガスムスによって生じた液体を吸収し、長時間性交を保ち、大楽の観相をする生理的ヨ−ガである。

女神との合一している神仏の当体のごとくなろうとする儀式の体系を秘密灌頂という。

 後期の無上瑜伽タントラはヒンズー教、梵教の神母信仰と習合したもので、本来、禁欲的な仏教とは相容れないので、「タントラ密教」として本来の仏教と区別する。

 インドのカジュラーホーのヒンズー寺院群、コナーラクの太陽寺院の外壁を飾る男女の交歓像(ミトナ像)は、けた外れに官能的な浮き彫りで、おびただしく曝している。
リンガをヨーニに結合し、女性は永遠のオルガスムスに至福の笑みを浮かべている。
シヴァ神とカーりー女神の合一を表すリンガ(男根)・ヨーニ(女陰)がそもそも神体であるので、ヒンズータントラは性的結合が万物の根本であるという原理にたったものである。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html


○マンダラの普遍性
 
 マンダラはタントラ(仏教教典)によった仏界の見取り図といわれている。
しかし、単に「金剛頂経」のから生まれ出た産物なのではない。

この幾何学的な構図や色彩は、真実の仏界と心のリアリティ=元型(イデア・プリンシパル)の像であり、かつ普遍的なものである。

だからこそ、太古からその像は連綿と描かれてきた。
そもそも、マンダラは意図されることなく、始まりのない宇宙そのものであった。

ところで、瞑想ってなんだろう? 

チベットの僧侶たちは、「マンダラ」に対座して暝想をする。
チベットの密教では暝想が必須の行だ。
暝想を実践しなくては、生ある間に、どんな人間も聖なる領域へつながることはない。

チベットの僧侶の暝想は、朝、昼、晩、夜にと、各時間帯に継続して行なわれている。
ゴンパ(寺)の中は暗く、蝋燭の火で灯す。
すると、マンダラは眼前に迫るように浮き上がり、揺らめく炎が煙のようにその前を立ち昇る。
その煙は、自分の体から立ち昇る気の炎であることに気づく。

と、やがて、目の前は青紫色に、やがて黄金色に輝き始める。 
それは、次元を透過する超越した偉大なる光だ。

「空性」の体験はこうして現われる。
大空の世界からの橋渡しが為されており、それは、この幻の光に他ならない。


 マンダラは超越しており、特定の人間のものだけではない。
マンダラを外なる図画として語るだけでは、マンダラに近接できないと言ったのは、実は、こうした体験こそ大切なことだからだ。

マンダラは内なる存在として、すべての俗的な権威を越える至高の存在であり、それは、同時にあなた自身であるからだ。
マンダラは「空」の世界の究極の「相」であり、空の本質であり、円く輝くさまざまな色彩に満ちた光の像となって顕れる。

永遠なるもの、マンダラの本質、それは、同時に一人一人の「魂」に輝き、万物に平等にある。
生あるものは、それがマンダラなのだ。

 暝想は誰もが大悟を得るために通らねばならない偉大なステップだ。
宇宙原理(ブラフマン)と個我(アートマン)とは本来、同一であるという考え方は、バラモン正統派の伝統的な疑いえない真理なのだ。

アートマン、その表れはあくまで肯定的な「有」の存在であり、肯定的な有産力をもった力となって表れる。

さまざまなトーンをもち、色彩をもち、形をもって存在し、あらゆる存在するものなかをつらぬいて全空間をおおいつくしている。
それゆえに、アートマンは現象のすべてを包み、生産するむシャクティ(母性)の役割を担う。

それは、空域と物質界がもともと一つである事の確証であり、2つの領域は別物ではないことを示している。
そして、それと不二だと思うとき、彼は至福をえるのである。
彼の外からけっして来るものでなく、それははじめから内蔵されていたものであった。


 さて、インドでは仏教はヒンズー教に、また、イスラム教に圧倒されてしまったが、チベットにはタントラ仏教(ラマ教)がいまでも残されている。

そして、チベットには数々のゴンパ(寺)があり、なかでもリンチェンサンポ方式の堂は、ただ、ひたすら暝想を行なうための場とされている。

とりわけ堂内の壁にはマンダラが所狭しと描かれ、そのなかで、独り、宇宙と自分の合一を体感するために暝想に耽る。

宇宙のエネルギーが彼自身を全く貫いている。
すべては、原初仏のもとに一つなのだと・・・。


 密教タントラのあらゆる実践は、ラマによって灌頂、直接伝授されなければ成就できないとされる。

また、タントラ密教の三帰依戒は、導師(グル)、守護神(デーヴァ)、ダーキニーで、仏教とは出発から異なっている。
仏教の三宝帰依は”仏法僧”である。

 チベットの修行で、導師は一人とは限らない。
はじめは何人もの導師に教えを乞う。

しかし、最終的な悟りに導く導師を根本導師といい、グルに絶対的に帰依する。
口伝だけでなく、あらゆる動作を含めて、それらは書物だけでは伝えることができない。


 ヨーガとはサンスクリット語で、馬をくびきに「縛りつける」といった意味だ。
肉体の感覚器官を暴れる馬にたとえると、その統御を意味する。転じて、暝想という意味の言葉になった。

荒々しい五感煩悩に、手綱をつけるという伝統的な意味をもっている。
それが、ヨーガである。

 タントラとは、[tantri]が語源で「縦糸、織物」を表し、転じて、「知識を広める」という意味。

自らに目覚めるための知識、体験の体系を意味し、単純に教典をさすようになった。

タントラのうち、第4の無上ヨーガ(最高のヨーガ)は中国・日本には伝わらなかった。
一方、いわゆる後期の密教がチベットでは一世を風靡し、土着的ボン包含しながら発展したといわれる。

チベットでは、タントラヨーガに、無常の魂の励起が約束されており、多くの人々を高い境地に導く実践がいまでもなされている。
日本の密教は、中期の密教に属している。

 瞑想のビギナーは、瞑想中に不思議な挙動をしめす光にでくわす。
それらは、ブラフマンを顕す兆候だ。

なぜなら、その光はまさしくわたしの意志によらない挙動をしめし、わたしはただ感動しているからだ。

禅では、これと魔境(雑念、妄想)と区別しない人が多い。
しかし、これらは、たいへん良い瑞兆なのである。

「密教は4つの段階に別れている。

一、所作タントラ 
二、行タントラ 
三、ヨーガタントラ 
四、無常タントラ。 

第1の「所作タントラ」は、呪文、陀羅尼、諸仏の供養の仕方、壇の作り方、手印の結び方などの作法を主要な内容とする。「蘇悉地経」、「蘇婆呼童子経」、「不空絹索経」などがある。 

第2の「行タントラ」は7世紀の成立と言われる「大日経」で、マンダラをつくり、悟りを中心にした観想法を発展させた。観想法とは、精神集中によって眼前に神仏をありありと描くことである。しかし、この行タントラの大日マンダラはほんのわずかの点数が残されていること以外、あまり知られていない。 

第3の「ヨーガ・タントラ」は「金剛頂経」である。この教典の出現は8世紀で、行者はこの金剛界曼陀羅と一体になる暝想を行じる。 第4の「無上ヨーガ・タントラ」は精神・生理学的なヨーガの技術を用いる。さらに、奥深い秘密を残しているが、この暝想は、ある観相マンダラを持ちいて直接、光の場に降り立とうとする。 

 チベットの観相修業にもちいる第4段階以降のマンダラは、日本に知られていなかった。

「悟り」の第一段階は、シューニャータ(空)の光とエネルギーが、いつも真我に透過しているという真実を見ることからはじまる。

それが透過しているゆえに、万物がマンダラの(構成の)一部であり、わたしたちもマンダラの元型を刻印された「仏」に他ならないことを感得することができる。


○チベット・ゾクチェン密教

「無意識をさらに突き抜けたところに光の領域があらわれる。この光の領域こそ、意識の原初の場を示している。

これは、『ダルマ(法)の本性』ともいうべき(光の)場、精神現象の「法」すべてが、この『法の本性』の場に立ちあらわれる。

『法の本性』という光の場において、輪廻する現象界のすべてと、それを抜け出した解脱の状態を示すものすべてがあらわれである。

したがって、この『法の本性』とは違うところからあらわれでるものはなにひとつとしてない。

すべては、とぎれることなく、『法の本性』という場の中にあり、その場から立ちあらわれる。だからこれを、一切の土台と呼んでもいい。

仏教の修業は最終的には、ここに直接おりたとうとする。

 経験的な知覚意識よりもさらに奥深く、光の領域がある。
この光の元型がマンダラである。

そのマンダラはまさに「ダルマ」の本性であり、さまざまに呼ばれるているが、もともと一つのものだ。

この他に、「空」とも「中道」とも、さらに「縁起」とも名づけられる。
これらも、そう名づけられているが、皆、一つのものを言い表している。

マンダラは光の領域、または、光の場にあり、自然(じねん)的で、なにものにも影響されない(無碍)ばかりか、いっさいの精神現象のエネルギーの源になっている。

つまり、ここから、無限の生命力が絶え間なく供給されている。すべてのエネルギーがそこから流出している。

ダルマカーヤ(法身)とはマンダラにほかならない。

マンダラは永遠で無限の光を、他からエネルギーを与えられずに活動する超越的な存在である。

つまるところ、原初の太陽といってもいい。

この太陽は、なにものにも影響されず、消滅せず、また、なにものにも汚されない純粋な光を放つ性質をもっている。

その存在する領域は空性であり、永遠で、清浄で、破壊されず、減ることも増えることもない。終わりなく、始まりもないので、創造した、あるいは創造されたということもない。

 この永遠の光の領域は、3つの純粋な光に分かれ、それらは堅く結び合わされている。

そして、図画としてのマンダラもまた、光の法身を直接顕そうとする。
マンダラがパンテオンのようでもあるが、実は、一つである。
したがって、マンダラはわたしたちに秘密をもって立ち表れる。

自己の内部には、必ず光り輝く空性の領域(仏の世界)がある。
外なるマンダラは、内なるマンダラを招来するための聖なる像であり、同時に伝法の手段である。 

そもそも、マンダラを自己のものとしてとらえるのには暝想する以外にない。
暝想はマンダラを捉える最上位の手段である。マンダラが描かれた訳はたとえていうなら、図画は多くの情報を瞬間的に訴えることができるからといえる。
無意識の内奥に刻印された形は、文書で説明するのは極めて難しい。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html

仏の世界は「空」の場、そのものなのだ。

般若心経の解釈では「空」は「実体がない」つまり、相がないと学者は解釈するが、実は心の目で見ると全く反対となる。

空は、全く形なきものではなく、「光」(クリアーライト)で成り立ち、実は形もあり、動き回わる。

それがマンダラなのだ。

無と空 そもそも、「無」を対象として、それと合一することはできない。

「無」とは、主語ともなりえず、また、一切の形容を受けつけない。

空性はわれわれの意識と連続しており、万象がまた連続しており、一切が一つの空性(マンダラ)のなかに息づいている。

なにもないことを無というのでない。
存在のなかに無がある。

彼は、はっきりと実在の「光」を観相する。
それは現実の光線ではない。

そして、しばし己れを忘れる。

そういった体験から、空性は「無」ではなく、輝き、あるがままに自在に運動する実体なのである。

激しく活動する光り・・・マンダラは、その所在地を「空」の場に置く。
空界がイコール、そのままマンダラなのだ。 


マンダラはわたしたちをも包含した神仏の世界、それは広大なる、「空」である。
そこには、実在の「光」があり、それは振動の乱舞であり、エネルギーに満ちている。
無限のエネルギーの波動であり、永遠に尽きず、宝石のような美しさに溢れている。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html


09. 2013年10月15日 15:06:38 : W18zBTaIM6

           / 乃了   `ヽ  ヽ∨∧ヽ \`、
              //_/7 ′     ハ `、〈〈_ノ ノ   ヽヽ
       r,ニY/」 ′〃   , ' l| ト、 l l ̄l「`、   | ハ
       __〉イ〃 ,  /, l   / ,イ!} |リ 八 ヽ |ハ
       〈 rク// ,′ ,'/l‖ ,' /厶‐十ナ/}小、ヽ ∨/  、
    , -ァ7イ {  l   |l ハ ト、 { l /ィ乏f千ァ l |ヽ}_ノ   、、 `、
  // 〃l ハ  、 レイ下丶、j′'ヾ゙ジ  // rヘ川 U ヽ ヽ
//   {l { い、、\V,ィf赤       //  ,ィ|l |  ト、 \
{_/    ヾ \/ ヽ\ヾ`ー'′       { !  仆//  ,′ | ヽ  ヽ
         ノ{ {  八_〉、   ` , - ァ  ゝ, ' V ハl /   ハ }   \
      , -‐'´/ハ 、 { |lヽ、      ∠ニ-V リ / /  ∨
  ,.|ヽ .ヽヽ、ヽ| ,'  ,..-,, `ヽ''-''-'、 __ヾ  ,,. -‐ V"´ __ `ヽ、_ ,
r''".| ヽヽ _,.´,, ',´´        `ヽ、'   ,.. - ''"´   ``ヽ 、`ヽ、ィ
|  ,|  川ヽ、/ /ト-;:::、        u丶 '´         .....ヽ、 i  /l
| ハ  |! j/ ./::`:::::、                        .:::r::、::.ヽ レ'  |
   ヽヽヽ .、 i   : : : : : : : : : : : : u: :/   、: 。: : . . .  . : : : : : ': : : :|    k   もっと光を注入して
    ヽヽヽヽ、ヽυ : : : : : : : : : : :, :'´: : : : : :ヽ : : : : : j : : : : : : : : : : :,'r;;=;;、  \
     \\ヽ ヽ、: : : :υ: : , : : : : : : : : : : : : : : : : : ι: : : : : : : : ιl L;;;ノ    \
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  `ヽ 、   丿 ヽゝ,, ::' "´        . . . . . . . . . .: : : : : : : : : :/ ,'.   ' ̄ \::::r';;ヾ /
     ``ヽl. |   y \          ``''''     . :-、、: : : ,' ,'.、     ̄ ̄ :::ヾソ ,'
        ヽヽ  ト、 `` フ                 : :ヽ-く ,'  ヽ、  __    _,(,,,,,,,,,..--
: : : : : .     ヽ、|!: :`‐‐': : :                。 : : : :\ u  ,,,ι- ''"´´
: : : : : : : .      ,,,.. -- ーー-、 __             : : :,, -‐''´
: : : : : : : : : : . .    u     // `ヽ、        ,,,  ''´

イエスの神の国はノン・セクシャルな釈迦の涅槃の世界を翻案したもの


トマスの福音書3

神の国はあなたたちの内側にある。
常に自分を認識する人は、神の国を見出すであろう。


トマスの福音書22

イエスは乳を飲んでいるいくにんかの幼な子をごらんになった。
そして彼は弟子たちに言われた。

”乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている”。

彼らは彼に言った。

”それではわたしたちは幼な子として神の国に入るのでしょうか”。

イエスは彼らに言われた。


”あなたがたがふたつのものを ひとつにするとき、

そして、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、

そして男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、女性が女性ではないようにするとき、

そしてひとつの目の代わりに目を、ひとつの手の代わりひとつの手を、一つの足の代わりにひとつの足を、ひとつの像の代わりにひとつの像をつくるとき、


あなたがたは神の国に入るであろう”。
http://www.mars.dti.ne.jp/~fenot/jesus/cr_tomas.html


イエスは クンダリーニ・ヨーガ と ヒーリング の技術を何処で学んだのか?

聖イッサ伝
十三歳になったイエスはひそかに両親の家を離れ、エルサレムを立ち、商人とともにシンド (Sindhはパキスタン南部の州) に向けて出発した。

神のことばにおける完成を目指し、大いなるブッダの法を学ぶために。

若いイエスは十四歳のとき、シンドのこちら側に来て、神の愛された地、アーリア人の間で一人立ちしていた。

イエスはジャイナの謝った信仰を捨てて、オリッサの国ジャガナートに行った。
そこにはヴィアーサ・クリシュナの遺骸が安置されており、バラモンの白い僧らがイエスを歓迎した。

彼らはイエスにウェーダを教え、祈祷によって病人を治すことを教えた。
聖典を講じ解釈することを教え、人体から悪霊を払い、正気に戻すことを教えた。

イエスは、夜に紛れてジャガナート地方を去り、山に入って、仏教徒の国、唯一にして崇高なブラフマンを信じる人々の間に住むことにした。

すなわち、かの偉大なブッダ・シャカムニ誕生の地である。

義の人イエスは、パーリ語を完全に習得した後、聖なる仏典の研究に専念した。

六年後、聖なる教えを広めるため、ブッダが選んだ人イエスは聖典の完全な講術者になった。

その後は、ネパール、ヒマラヤ山地を離れ、ラージプータナの谷へ降り、さまざまな国の民に、人間の究極の完成について説きながら、西へ向かった


われらの主、神のご加護により、イエスは苦しむことなく自分の道を進んだ。


堕落して、真の神に背いた人間に警告するために、創造主が選んだ人イエスは、二十九歳のときイスラエルに帰った。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/374.html


ユダの福音書

キリストはユダに対し、自分達を取り巻く圧迫が最終局面に至っている事を語り、それへの「最終的な打開策」を打ち明け、最も信頼する弟子と考える彼に対し「最後の助手としての役割」を果たす事を要求した。


「過越(すぎこし)の祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」

これは秘密の啓示である・・・。

イエスは過越しの祭りの3日前にユダにこう語られた・・・

イエスは地上に出現されたとき、人々を救う奇跡を行われた。

正しい道を歩くものもいれば、誤った道を歩く者もいたので、12人の使徒を集められた。

イエスは時にご自身としてではなく、子供として姿をお見せになった。


福音書の初めの部分で、イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。 この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。

そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。


イエスがユダヤに居たある日の事・・・

12人の使徒たちは信心深く食事をしていた。
イエスは祈りを捧げている使徒たちに近付き笑い出した。

彼は使徒たちの間違った信仰を笑っていた。

使徒たちは世界の創造主を崇拝していた。
だが、ユダだけは違っていた

イエスは言う・・・

イエス「なぜ怒るのだ?あなたたちの中で強い心をを持つ者が立って私に示すがよい・・・・
己の内にある真の魂を」

ユダを除く使徒たち「私たちは強い心を持っています!」

しかし、言葉には出しても本当に立ち上がる者はいなかった。
・・・イスカリオテの『ユダ』を除いて・・・。

ユダはたった一人立ち上がってイエスに向かってこう言った。

ユダ「私は、あなたが何者か存じています・・・
あなたを送られた方の名は畏れ多くて申し上げられません。」

イエスはユダに近付きいて彼にこう言う・・・

イエス「他の者たちから離れよ・・・私はあなたに王国の秘密を教えよう。
     そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の
     心には想像さえ及ばぬ世界。その国に名前はない。」


■『キリスト』が『ユダ』に自分を『ローマ』に売るように諭す場面。

キリスト「You will be greater than all others. Judas, you will sacrifice the man that clothes me. 」

 (あなたは誰よりも素晴らしい。ユダよ。犠牲にするのだ。私の魂の衣ある者を。)


■『キリスト』が『天国の秘密』を『ユダ』に明かす場面。

キリスト「Step away from the others, and I shall tell you the mysteries of kingdom. It is a great and boundless realm which no eye of an angel has ever seen, no thought of the heart has ever comprehended.」

(他の者から離れよ。あなたに教えよう。王国の秘密を。そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の心には想像さえ及ばぬ世界。)

http://wildoldboy.cocolog-nifty.com/wild_old_boy/2006/04/the_gospel_of_j_eab8.html


イエスはユダに語ります。

「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」

「他の者たちから離れなさい。そうすれば、お前に[神の]王国の神秘を語って聞かせよう。その王国に至ることは可能だが、お前は大いに悲しむことになるだろう」

「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」
 
「お前はこの世代の他の者たちの非難の的となるだろう
   ――そして彼らの上に君臨するだろう」


ユダは他の弟子たちから猛反発を受ける幻視を見たと語ります。

「幻視の中で、私は12人の弟子から石を投げつけられ、[ひどい]迫害を受けていました」

「ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった」

地上の人間たちは雲から聞こえる声を耳にします。


福音書の記述は、次のような場面で唐突に終わっています。

「彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、
『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/373.html

イスカリオテのユダの悟境

【イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。】

「お前たちの神」とは、自分とは別の存在として位置する神という認識のことを言っているのであり、自らのうちに神があるのを知らないと指摘しているのだと思う。


イエスがこの私を直視し、真の姿を理解せよと迫ったところは、バガヴァッド・ギータで、全能の聖者クリシュナが弟子のアルジュナに同じ言葉で迫ったのと同じ響きがある。全能の神の顕現として現れたイエスが、もう少しで覚醒しようとしている弟子たちに「神のありのままを目をそらすことなく見なさい」と詰め寄っているのである。

この話の中では、ユダが裏切り者でなかったことよりは、ユダの悟境が他の弟子より進んでいたことが確認されていたことのほうが意義は大きい。


【イエスがユダにこう語りかける場面もあります。「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」】

これは、長い講義が終わったから、一息ついて空の星を見ようというものではなく、ひとつの冥想状態の中で、見なさいと指示しているもので、「雲とその中の光」とは、神そのもののこと、それを囲む星々とは、実際の空の星に仮託された神々の一柱のことだろう。

「目を上げ」というのは、肉体の目を上げることではないだろう。いずれにせよこれで、ユダが13人の弟子の中で最上位であったことがわかる。


死海文書によると洗礼のヨハネはエッセネ派に属し、イエスもエッセネ派に属していたと推測されているが、イエスもクンダリーニ・ヨーガ系の技法が伝わるその集団のメンバーと見られる。

クンダリーニ・ヨーガ系では、神々の姿をありありとイメージするトレーニングがよく行われている。

星々とは、イメージ対象の神々であり、ここは、その冥想過程の中の出来事を書いたものではないかと思う。

師弟相承のルールというものは、師匠を超えるレベルの弟子を出すことが師匠の責務であるということ。禅の場合でも、一人でも半人でも本物の弟子を出すことが師匠の最低限の責務であり、かつ師家(老師)以上の力量の弟子を出さねばならないことになっている。

イエスの場合でも、その例外ではなく、自分が神を知っている師家である以上は、自分以上の力量のある弟子を育成することが、覚者としての責務であったと考えられ、イスカリオテのユダが正に力量ある弟子であったと考えられる。

また師匠を超える弟子を出すというのは、当時の考え方からすれば、革命的なことであり、一人一人が神の顕現であるニューエイジ(アクアリアン・エイジ)の考え方の先駆と見ることができる。

【ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった。】
光輝く雲は、例の荘子の見た混沌であり、神の姿であり、それに入って行ったというのは、神と合一したことを言うと考えられ、これは見神や見性などという軽いものではなく、神人合一を指しているように思う。これでユダの力量のほどが証明されている。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/99ffcbce33957c1622488284f1e54d21

詳細は

イエスが殺された本当の理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html


10. 2013年10月16日 00:33:08 : W18zBTaIM6

マグダラのマリアによる福音書

ペトロは、

「マグダラのマリアよ、イエスが他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。あなたの思い起こすイエスの言葉を、私たちに話して下さい。あなたが知っていて私たちの知らない、私たちが聞いたこともないそれらの言葉を」

と要請する。


 ペトロの求めに応じ、マグダラのマリアは、彼女がイエスから示された教えの内容を語り始める。


 可視的な世界は、以下の七つの「権威」(アルコーン)たちによって支配されている。

  第一の権威 闇
  第二の権威 欲望
  第三の権威 無知
  第四の権威 死ぬほどの妬み
   第五の権威 肉の王国
  第六の権威 肉の愚かな知恵
  第七の権威 怒っている人の知恵

 七つの天を通り抜け、プレーローマ界に帰昇しようとする魂に対して、権威たちは尋問を行う。魂は、イエスから教えられたとおりの言葉を語ることにより、彼らに打ち勝ってゆく。


________________

・・・・・・・・そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。

「私は」

と彼女は言った、

「私は一つの幻の内に主を見ました。

そして私は彼に言いました、


「主よ、あなたを私は今日、一つの幻の内に見ました。」


彼は答えて私に言われました、

「あなたは祝されたものだ、私を見ていても動じないから。

というのは叡知のあるその場所に宝があるのである。」


私は彼に言いました、

「主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、魂か霊か、どちらを通してなのですか。」


イエスは答えて言われました、

「彼が見るのは、魂を通してでもなければ、霊を通してでもなく、それら二つの真ん中にある叡知、幻を見るものはその叡知であり、その叡知こそが・・・・・・・


(このあと欠落)


・・・・・・・・・を。


そして欲望が言った、

「私はお前が降るところを見たことがないのに、今お前が昇るところを見ている。

お前は私に属しているのに、どうして私を騙すのか。」


 魂が答えて欲望に言った、


「私はあなたを見た。

あなたは私を見たこともないし、私を知覚したこともない。

私はあなたにとって着物のようであったのだが、あなたは私を知らなかった。」


これらのことを言った後、魂は大いに喜びつつ、去って行った。


 それから魂は第三の権威、無知と呼ばれるもののところに来た。

その権威が魂を尋問した、


「お前が行こうとしているのはどこへなのか。

お前は悪の内に支配されてきた。

お前は支配されてきた。裁くな。」


と魂に言って。そこで、魂が言った、


「あなたが私を裁くのはなぜなのか、私は裁いたりしたことなどないのに。

私は支配したことがないのに、私は支配されてきた。

私は知られなかったが、私の方は、地のものであれ、天のものであれ、すべてものが解消しつつあるときに、それらのものを知っていた。」

・・・・・・・・・・・魂は第三の権威にうち勝ったとき、上の方に去って行った。


そして第四の権威を見た。

それは七つの姿をしていた。

第一の姿は闇であり、第二のは欲望、第三のは無知、第四のは死ぬほどの妬みであり、第五のは肉の王国であり、第六のは肉の愚かな知恵であり、第七のは怒っている人の知恵である。

これらが怒りのもとにある七つの権威なのである。


彼らが魂に

「人殺しよ、お前が来るのはどこからなのか。

それとも場所にうち勝った者よ、お前が行こうとしているのはどこへなのか」


と尋問すると、魂は答えて言った、


「私を支配するものは殺された。

私を取り囲むものはうち負かされた。

そして私の欲望は終りを遂げた。

また無知は死んだ。

世にあって、私が解き放たれたのは世からであり、また範型の内にあって私が解き放たれたのは天的な範型からであり、一時的な忘却の束縛からである。

今から私が沈黙の内に獲ようとしているのは、時間の、時機の、そして永久の安息である。」


マリアは以上のことを言ったとき、黙り込んだ。

イエスが彼女と語ったのはここまでだったからである。・・・・・・・・・・
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth017.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/375.html


11. 2013年10月16日 00:38:29 : W18zBTaIM6

『仏教の思想1』業について(梅原猛)


 業をどう見るか

 この問いに答えるのは「業」の思想のように私は思います。仏教がただ慈悲の思想につきるものであるならば、それはどうしてこのような危機における思想として有効でありえましょうか。仏教は一方で、慈悲を強調しながら、他方、人間の深い煩悩の世界を凝視しています。

 そのような点で、「業」の思想は、今後仏教の現代的意味を考えるとき、たいへん重要な思想であると思うのです。この業の思想の深さについて、私は最近やっと気づいたばかりであり、いつか稿を改めて論じたいと思います。ここでは簡単に触れるだけにとどめるよりしかたがないと思います。

業の思想が、例の十二因縁の思想と深いつながりを持っていることは確かであります。十二因縁とはなんでしょうか。その点、増谷先生のくわしい説明がありますので、ここではくわしく触れる

必要がないかと思います。

 木村泰賢氏によれば、十二因縁の解釈には、三つの解釈の仕方があるというのであります。第一は論理的な解釈、つまり十二因縁、無明から老死までの十二因縁を、論理的範疇として考える考え方であります。第二は、それを心理的あるいは倫理的、現代の哲学用語を使えば、実存的に解釈する道であります。つまり、老や死を、苦と思うことの原因を、渇愛と無明に求める、これが十二因縁の意味であるという解釈であります。それから第三に、十二因縁を実在的に、宇宙的生の発展のあり方を述べたものであるという説があります。つまり、無明から存在するものは発生し、行識を通り、最後に人間が出て老死が生じたという解釈であります。

 このうち、のちの仏教において、とくに部派仏教において有力になったのは、第三の実在的な因果の考え方であったようです。因果はまさに生命の理法を示したものというわけです。しかもその因果が、道徳の問題と結合するとき、善因善果、悪因悪果、三世の因果という考え方が生まれます。

われわれが長い間、因果の概念で知っていたのは、このような因果概念でありました。私は子どものころ、縁日に見世物を見に行きましたが、そこにはロクロ首の女や熊女などがいました。このロクロ女や熊女は親の因果が子に報いて、このような片輪者になったといわれました。明治以前までわれわれ日本人はよいことがあると、先祖のおかげでといって喜び、悪いことがあると、親の因果と思ってあきらめたものでした。

 因果の概念には宿命論的ひびきがあります。そこには、おのれの運命への諦めがあります。そして同時に、このような現世の運不運を、人間の理解できない前世の因縁と結びつけることによって、仏教は、はなはだしく、理性の正しい行使を傷つけます。因果の概念は、まさに、日本人を諦観にしばりつけるとともに、日本人の理性をマヒさせた最大の元凶のようでした。

 長い間、仏教は因果の概念をつかって、民衆に道徳を教えましたが、その概念の拡張解釈は、人問に諦観を与えるとともに、人間理性の正しい行使を妨げることに役立ったようです。近代の精神は、このような因果因縁の概念を否定することから生じるのであります。近代的理性にとって、このような因果因縁の概念こそ、まさに仏教のインチキ性を証明するものと映ったにちがいありません。

 このような因果因縁の概念は、まさに仏教の恥部であったわけです。明治以後、日本の仏教学者が、仏教の束縛を離れて、ヨーロッパから、直接に釈迦仏教を研究する方法を学びとったとき、彼らは、彼らが従来釈迦の教説と思っている仏教が、実は釈迦の仏教でもなんでもなく、はるか後代において、釈迦の名にかこつけて作られた経典編集者の思想にすぎないことを知ってビックリしたものでありました。

そればかりか、釈迦以来、二千何百年という年月は、同じことばの意味をも、まったく変えてしまったようでありました。釈迦の十二因縁の思想は、どうやら、因縁・因果の名でもって、われわれの現実に知られていた思想とまったく別な思想のようでありました。因縁の思想を釈迦それ自身において考える必要があります。明治以来の根本仏教と解する原始仏教の研究は、結局この因縁の概念、因果の概念を明らかにすることにあったといってよいかもしれません。因縁をあの伝統的な汚名から解放すること、それほあたかも、文明開化の時代の文化人に不評となった仏教を、その迷信の汚名から解放するかのような意味をもっていました。


 因縁の論理的解釈

 このうち、論理的解釈はもっとも近代的解釈のようであります。このような解釈の代表が、宇井伯寿氏の『十二因縁の解釈−縁起説の意義−』と和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』であるといわれます。じつは、この解釈には、すでに先例があり、新カント派の哲学者マックス.ワレーザーが、『原始仏教の哲学的基礎』という本を書き論理的解釈の先鞭をつけたといいます。

ワレーザーの本を私は読んでいませんので、はっきりしたことは申しかねますが、日本においてこのような理解がはなばなしく、出てきたときは、まさに新カント学派の全盛時代であったことに注意する必要があります。新カント学派は、ヴィンデルバントやリッケルトに代表されるカント復興運動でありますが、それは、当時ドイツに広がったカント以後の非合理主義的な思想に反対して、カントの合理主義に帰れという運動でありました。いわば、それは小市民の合理主義を代表するものでありましょうが、なんでもドイツ哲学を最高の真理として学ぶ日本の哲学者のサル真似主義が大正デモクラシー運動と結びつき、日本の哲学者はほとんど新カント派の哲学者になりました。このとき秀才の文献学的仏教学者宇井伯寿氏と、秀才哲学者和辻氏のみごとな理性主義的仏教解釈が生まれたのです。

 新カント派は非合理主義、人間の本質を非合理な意志や感情におく非合理主義に深いにくしみをもっていました。そして彼らが、もっともきらったのはショウペンハウエルでした。なぜなら、ショウペンハウエルは、彼らの尊敬する師カントを非合理主義のほうにねじまげたからです。

 ところがまさに仏教は、とくに原始仏教は、従来ショウペンハウエルの見地で見られていたわけです。ショウペンハウエルは、世界を動かしているものを、近代哲学の伝統に反して、理性として考えず、盲目の意志として考えます。われわれの生命を支配する盲目の意志、この盲目の意志は、必然的に人間を苦悩におとしいれます。意志の世界は必然的に苦の世界であります。この苦の世界から、人間を救い出す必要かあります。そのためには、この意志を否定すること、我の意志を否定することが必要であるとショウぺンハウエルは考えます。ショウぺンハウエルは、釈迦の思想中に、このような意志否定の哲学を見て驚くわけです。ショウぺンハウエルは、釈迦の涅槃をこのような意志否定の境地として解釈します。

 ショウぺンハウエルの弟子、ドイッセンは、この師の思想に啓発されて、仏教の研究を志します。

つまりヨーロッパは、ショウぺンハウエル思想によって、仏教を発見するわけです。そして、西洋の仏教学をそのまま学んだ明治以前の日本の仏教学も、またショウぺンハウエルから仏教を見ていたわけです。仏教学者姉崎正治氏は、ショウぺンハウエルの『意志と現識としての世界』の訳者でありますし、木村泰賢氏もショウぺンハウエルに大きな影響を受けています。

 ヨーロッパの哲学、ドイツの哲学がショウぺンハウエルから抜け出そうとしていたのです。ドイツの哲学、とくに現在流行しているドイツの流行哲学を最高の哲学と無邪気に思っている日本の哲学者が、このような風潮により、仏教解釈においても、ショウぺンハウエルを抜け出て、カントに帰ろうとしたのは当然であります。そこから和辻氏の解釈が出てまいります。和辻氏の解釈は、死の解釈において、その本質をむき出しています。死は彼によれはVergehenすることです。つまり過ぎてゆくことであります。死ははたして単なる過ぎてゆくことでありましょうか。

ここで、釈迦の人間の苦悩を語ったかの偉大なる教説が、論理的範疇(はんちゅう)論に化するのです。ハイデッガーはExistenzialistat実存範疇ということばを作っています。それは実存的人間存在を表わす範疇であり、それはKategorie論理的範疇とまったく違うというのです。退屈や不安はエキジステンチアリテートに属しますが、カテゴリーには属しません。和辻氏はまさに、ここで一つの誤謬を犯したのです。それは実存範噂に属することを、論理的範疇の意味に解釈したという誤謬です。宗教的不安なしに仏教を見たすぐれた文献学者宇井氏が、そのような誤謬を犯したのは当然かもしれません。和辻氏は、この宇井氏の解釈を哲学的に根拠づけたわけです。まことに才気あるさっそうたる誤謬であります。

 従来から私は和辻氏に対して、きびしすぎる批判をくだしてきましたが、別に和辻氏に恨みがあるわけではありません。私は和辻氏を、むしろ私どもの仕事の先輩として、尊敬すらしています。

しかし私は、和辻氏の青年時代はまだヨーロッパの最先端の哲学に真理そのものが住んでいるという幻想を脱却することができなかったのではないかと思うのです。

 十二因縁を論理的に解釈すること、それはまさに仏教の合理化であり、近代化であるようでありました、この因縁という仏教の汚点のように見える思想を、長い間の不名誉から救うすばらしい行為のようでありました。しかし、因果・因縁を論理的カテゴリーとして解釈して、いったいどういう利益があるというのでしょう。われわれはそこに、ただ、不明確に語られたカント哲学を見るだけであります。釈迦の思想を不明瞭に語られたカント哲学としてみることは、はたして釈迦にとって名誉でありましょうか。当時のインテリの目からみれば、それは名誉なことであったのでしょう

が、いかんながら、釈迦の十二因縁を、論理的カテゴリーとして解釈することは、まったくの誤解のようであります。

 因縁の実存的解釈

 このような解釈より、さきに述べた木村氏の第二の解釈のほうが、ほるかに正しい解釈であると思います。つまり釈迦は、やはり生病老死の原因を求めるのです。どうして人間の世界に苦があるか、世界の苦の原因は何か。そしてその原因をわれわれの心の中にある渇愛と無明に求めます。渇愛は欲望を欲望の側から、無明はむしろ知の側からそれがわれわれの知をくらませるものとしてとらえるわけです。つまりこの老死の苦の原因が、渇愛または無明、すなわち盲目の意志というわけです。このような解釈はショウペンハウエル的ですが、同時に、明治時代の日本の原始仏教研究家の多くの意見です。私はこの見方は一応正しいのではないかと思います。

 人間には苦がある。苦の原因は何か。渇愛あるいは無明。この渇愛、無明を滅ぼせ。このような苦の原因の追求と、同時に苦の滅びに関する追求、それはけっして論理的追求ではなく実存的追求といわれるべきものと思います。釈迦の思想は実存的なものであります。したがって、このような実存的な釈迦は論理的な解釈よりはるかに正しさをもちます。

 人間における渇愛と無明の深さ、のちの仏教はそれを煩悩といいます。そして仏教はじっとおのれの心の姿を見ているところがあります。暗い闇の心の凝視、それが仏教に、キリスト教以上の深みを与える思想的特質なのです。ヨーロッパの哲学では、人間を理性的自我としてとらえます。しかし、人間は理性的自我に尽きません。人間の中には深い煩悩の相がありノます。無明は無知と違います。無知は知らない心ですが、無明は知っていても止められない心であります。このような心、深い煩悩の心の考察は、ヨーロッパにおいて、ショウペンハウエル以後においてはじめて自覚に上されました。近代的な無意識の発見者フロイドは、ショウペンハウエルとニーチェから思想的示唆を得たというわけです。このように煩悩の世界、無明の世界は西洋において、ショウペンハウエル以来の哲学の一潮流にすぎないのですが、仏教ではこの間題が思想の中心問題となります。闇の煩悩の凝視、そこに仏教思想の深さがあります。

 このように解された十二因縁の説は、はなはだ倫理的にして、しかも実存的な説であります。死の苦の原因は、無明渇愛にある、その渇愛無明を捨てたまえ。

 このような十二因縁の見方は、はなはだ倫理的、実存的であります。たしかにこの理解は仏教理解の解釈として実存的であります。まさにこれこそすぐれた十二因縁の解釈であるといえます。

 しかし、はたして十二因縁はこのような意味に尽きるでしょうか。木村泰賢氏は、十二因縁はこのような意味には尽きない、そこには実在する生命の発展過程を、時間的に説明するという面もあると言うのです。たとえば、無明行識の識といわれるものは、受胎の状態に比せられます。つまり十二因縁はすべての存在するものが発生し、老死を生み出すまでの時間的契機を明らかにしたものだと言うのです。

 このような実在的生命観は、因果理解に、道徳的要求が加わった場合、あの善因善果、悪因悪果の説すなわち、よい行為にはよい結果が伴い、悪い行為には悪い結果が伴うという考え方が生じます。しかしこのような縁起の概念をとる仏教学者は現代では少ないようです。むしろ、それは宗派を代表する古い仏教学者の意見に多いようです。木村泰賢氏は、第二の実存的な思想が因果概念にあることを認めながら、同時に、実在的な因果概念も仏教においては無視できない思想であると言われます。


 人類の業

 私はこの第二のいわば、倫理的、あるいは心理的、あるいは実存的な因果理解は、たしかに近代的な正しい因縁概念の理解と思いますが、それはいささか不十分なのではないかと思うようになりました。なぜなら、そこではあくまで個人の存在が問題の中心でありました。実存は、むしろ個人に尽きています。

したがって、十二因縁の否定は、個人の内面のみでよいわけです。けれど、はたして、原始仏教は現代哲学のように個人中心主義的でしょうか。あるいほ、はたして因果関係に、個人を越えて拡大されることはないでしょうか。個人は個人を越えた因果関係によってしばられない、それはむしろ、近代的個人主義の立場の前提です。しかしはたしてそうでしょうか、親の因果ははたして、子に報いないでしょうか。祖先のしわざがわれわれの滅びの原因になることがまったくないのでしょうか。われわれが何万年の間になってきた運命によって、われわれが左右されることははたしてよいのでしょうか。われわれが本能という名で呼んでいる能力、これはやはりわれわれが祖先から伝えた一つの潜在能力ではないでしょうか。われわれの祖先がわれわれに投げかけた運命に、われわれが支配を受けることはないのでしょうか。

 私はやはり、因縁の問題を単なる倫理的、心理的、あるいは実存的問題に限定するのは正しい解釈ではないのではないかと思います。やはり、人間が、自己を越えた因果、いってみれば、普遍なる宇宙の生命発生以来の運命の支配を受けているという考えが、十二因縁の思想の中にあるように思うのです。

こういう宇宙発生以来の生命の無意識の支配力を「業」というのでありましょう。仏教ではこのような業を認めますが、仏教では自己を業のままに流させるのではなく、業からの脱出をはかるのであります。業にまとわれるかぎり、人間は永遠に苦の世界に坤吟します。この菅の世界、永遠の輪廻(りんね)の世界をまぬがれるには、因果のくさびを切る必要があります。人類が発生以来、になっている重い煩悩の鎖の環を切り取ること、ここに仏教の教説があるわけです。


12. 2013年10月16日 09:15:02 : W18zBTaIM6

北インドの町ファテプル・シークリーの城門アーチに刻まれた刻文

「イエス-汝に祝福あれ-が言った、

『この世は橋である。/渡って行きなさい。/しかしそこに/棲家を建ててはならない』。」


トマスの福音書42

イエスが言った

過ぎ去り行く者となりなさい。


13. 2014年12月06日 10:29:08 : uYK3ge0MDc
村西とおるは素晴らしい
http://withnews.jp/article/f0141001001qq000000000000000W0110401qq000010889A?ref=kijiranking#

伝説のAV監督・村西とおる氏、ろくでなし子事件を語る

 「わいせつ」を理由に、公権力が芸術に介入する事例が相次いでいる。自身の女性器の3Dデータをネットで頒布したとして、芸術家のろくでなし子さんが逮捕され、愛知県美術館の写真展では、警察が男性の陰部などを写した鷹野隆大さんの作品の撤去を要請した。わいせつとは、エロスとは何か。「昭和最後のエロ事師」こと、AV監督の村西とおるさんに話を聞いた。
――芸術家のろくでなし子さんが、自分の女性器を3Dスキャンしたデータをネットでダウンロードできるようにしたとして、わいせつ物頒布容疑で警視庁に逮捕されました。
(警察が女性器をわいせつとみなしていることに対して)まだそんなことをやってんのか、という感じですよね。
 
――ろくでなし子さんは「女性器は女性の体の一部であるにもかかわらず、『わいせつ』という言葉によって遠い存在になっている」と考え、女性器アートを発表してきたそうです。
 今ここで問われるべきは、女性の性器がわいせつなのかということです。性器というのは、モノに過ぎない。物体、肉体の一部なんですね。
 たとえば、ここにナイフがあったとする。ナイフはモノだから、それ自体は何ら犯罪的な色彩を帯びることはないわけですよ。それが人を傷つけた時に初めて、「凶器」ということになるんですね。

 性器もそう。それ自体は何の意味も持たない。だから、性器に罪があるという認識はどこから来てるんだろうな、と。

 スケベという観点から考えてみましょう。エロチシズムとはどういうことか。
 性器それ自体がスケベになるかというと、そんなことはない。私どものスタッフでも、「あなたは、スケベとかエロチシズムをどういう風に考えますか」と聞いた時に、「それはアソコです」と答えてクビになったのが何人かいます。そんなことを言っているようじゃ、こういう仕事は向かないよ、と。

 スケベというのは、性器それ自体ではなく、人間の頭のなかで考えることなんですよ。エロチシズムにおいては、生と死というものが対極にある。生と死の持つ、絶望と希望。この心の揺れ幅がエロスなんです。振れ幅によって、ドキドキハラハラ、感動する、興奮するということ。エロスとは心の落差なんですね。

 ひざとひざの間の部分。それ自体を見ても、実は何も感じないんです。それが、「お姫様のようなあの方のものだ」と想起した時に、興奮するんですよ。「誰々のもの」という所有者のイメージがないと、性器それ自体は何も物語らないんですね。人の心を揺さぶらない。だから、性器を「わいせつではない」とおっしゃった、ろくでなし子さんは正しいわけです。

 エロチシズムとは何か、スケベとは何か、ということをお考えになると、何がわいせつかということも明らかになってくると思います。その辺りまで深く考えを巡らせることが必要ではないでしょうか。

 わいせつそのものが悪いのかどうか。不特定多数の前でそういったものをお見せしてはならない、というのはその通りです。見たくない人の権利も守らなきゃいけない。また、一方においては表現の自由がございますから、見たい人の権利も守らなきゃいけない。

 だいたい、性的衝動を持っているということ自体が人間の原罪ですよね。人間は、自分たちのすべてを掌握している、感情でさえも自分たちの所有物だと思いがちなんだけども、まったくそんなことないんです。
 
 たとえば、性欲なんて訓練したり、どっかの塾に通って見つけたものじゃないでしょう。自然と我々が受け継いでいるんですね。そういう感情っていうのは、DNAのなかに刻まれてあるものです。理性ですべてコントロールできるんだというのは、人間の増上慢、うぬぼれに過ぎないんですよね。

 エロスの世界にも、SMやフェチの世界があったりするわけです。納豆が好きだ、塩辛が好きだ、という食生活の話と同じ。人の好き嫌いを、倫理の斧でもって裁いたりしてはいけない、ということだと思いますね。道徳で縛れるものじゃないんです。衣食住の、あるいは性的な世界というのは、まさしく自由で、守られるべき世界なんですよ。

村西とおるさん=瀬戸口翼撮影


村西とおるさん=瀬戸口翼撮影

出典: 朝日新聞

――村西さん自身、裏本のチェーン店を展開して、1984年にわいせつ物頒布の容疑で逮捕されていますね。
 裏本と呼ばれるヤツを販売して捕まったんです。当時は毛が1本出たってダメな時代。3本だったら懲役ですよ。カツラを股間に持ってきて、「これでも捕まるんですか」と聞いたら、「捕まる」と言うんですよ。カツラでもダメなんです。ベラボーな話ですよね。

 前科者になったし、懲役になった仲間もたくさんいますから、憤りはあるんですよ。しかし、わいせつの概念というのは時代とともに変わっていくからね。一方では仕方がない、というあきらめもありました。

――当時は「その世界で日本一になる」という野望を抱いていたわけで、摘発に対して悔しい思いもあったのでしょうか。
 ありました。しかし、そういうお店(裏本店)を全国に160店舗ぐらいつくったりして、あれは狂ってましたね。北海道だけでも50店舗近くあって、札幌東署の隣にも店をつくったんです。ある日、署長さんがいらっしゃって、「商売の自由を侵すものではないが、あんまりにもあんまりだ。真隣につくるなんてどういうつもりだ」とおっしゃった。私は「恐縮でございますが、署長さん。おととい来い、というお話でございますよ」と申し上げました。で、最終的にはこの札幌東署から全国指名手配になって、ご用になっちゃったのよ。
 
――それでも、まったく懲りずに……。
 懲りようがないよね。1番困っちゃうのはね、わいせつ罪というもので捕まったりすると、反省ができないわけよ。なかに入っているお仲間、悪漢のみなさんは、人のものをかっぱらったり、人を傷つけたり、刑務所に入っていても仕方がないわけですよ。

 私のように人を喜ばせて入ってくるなんて、いないんだから。絶対悪というのは世の中にありますけど、自分の場合は時代がついて来なかっただけ。諸外国ではこんなもの解禁になってるわけですから。ああ不条理だなと思っても、そこはソクラテスの世界ですよ。悪法といえども……ということで、納得はしました。でも反省ができないのは困っちゃうね。
 
 たまにシャブ中(覚醒剤中毒)の人が入ってきてね、「自分の体に注射して、どこが悪いんだ!」とうそぶいてるけど、そんなレベルじゃないんですよ。私は本人が喜ぶだけじゃないんだから。みなさんに喜びを分け与えて、大向こうから「いよっ!」という声がかかってもおかしくないぐらいの貢献はしたつもりですよ。
 
 税金だって、当時は北海道日産に次いで、道内で2番目に納税してたんだから。税務署に行ったらね、署長さんが出てきて、こう言われました。「がんばってくださいね」って。ウソだと思うでしょ。
 
 「私どもは、こういうビニ本がどこから仕入れられているか、どういうルートで来ているか、まったく興味がありません。私どもから警察に色々とお話しすることもありませんから、ご安心ください。ただ、仕入れた金額、売った金額、これだけはハッキリと正確に報告していただけませんか」と。だから、税務署もなかなかのものですよ。

――1986年、ハワイでの撮影中にスタッフ15人とともに逮捕され、不道徳行為や旅券の資格外活動(違法ビザ)の罪で起訴されました。
 高級レストランがあるようなカハラという地域の大豪邸で撮影していたら、突然、扉が開いてドーンと踏み込まれました。ハワイ州警察、ホノルル市警察、イミグレーション(入国管理事務所)、あとFBI。50人ぐらい来て、みんなマシンガンとかを持ってるんですよ。

 45口径のピストルをこめかみに突きつけられて、じゅうたんの上に転がされちゃって。その辺のソファも全部、斧で引き裂かれて。海外ではクスリをやりながら撮影している人が多いから、そういうイメージだったんでしょうね。「リラックス! リラックス!」と興奮して叫んでくるんだけど、リラックスなんてできるわけないよね。

――さすがに肝を冷やしましたか。
 それはそうですよ。しかも、懲役370年という求刑をされましたからね。370年なんて、何回死ななきゃいけないんだってことですよ。ああ、もうこれはダメだと。この地で人生を終えなきゃいけないのかと、追い詰められた気持ちになりましたよね。
 当時ナンバーワンの日系の弁護士を雇って、裁判になったんですけど、16人一緒に捕まっているから、弁護士も8人ぐらいつけるわけ。弁護士費用だけで5千万円は払いました。日本と違って「先生、私の目をみてください」は通用しない。いい弁護士雇おうと思ったら、お金がないとダメなんです。
 日本の弁護士先生だと、法廷でも結構相手の検事とやりあって、にらめっこしてくれたりする。だけど、アメリカは違うんだ。法廷ではやり合うよ。でも、終わった瞬間、「オー、ジョン」「ヘイ、スティーブ」なんて始まっちゃうんだから。「今日の法廷はどうだった」「今日は俺の負けだ」とかね。それをずっと見せられていると、どこまで裏でつながっているんだろう、とか猜疑心を持っちゃうわけ。

 私は知らなかったんだけど、アメリカには司法取引ってあるんですよ。裁判が終わった後、弁護士が検事に電話して「○万ドルでどうだ」「とんでもない」「じゃあ×万ドルで」なんて、司法取引のお金のやり取りをしてるわけです。結局、当時のレートで2千万円を超える罰金を支払って解決しました。弁護士費用に罰金、それとスタッフの給料、滞在費も全部合わせて、最終的には1億円ちょっとかかりましたね。
 
――撮影した映像の内容についても問題化したとか。
 証拠として、過去何年にもわたって撮ってきた映像をあげられちゃった。なかには、ヨセミテ国立公園やグランドキャニオンで撮ったハレンチな映像もありました。ハワイでは、零戦がパールハーバーめがけて滑空したのと同じコースに、セスナを2機飛ばして撮影したりしましたからね。

――アメリカの人たちは怒り心頭だったでしょうね。懲役370年という求刑の背後には、そうした事情もあったのでしょうか。
 「コイツは何だ。星条旗を何だと思ってるんだ」となったんじゃないですか。

――なぜ、アメリカ人の感情を逆なでするような、真珠湾での撮影を行ったんですか。
 私は戦後、昭和23年(1948年)の生まれです。進駐軍のトラックを追っかけて、「ギブミー、チョコレート」なんてやっていた時代ですよね。チョコレートではないんですが、GIがミカンを食べていて、ミカンの皮をポンと投げてよこしたことがありました。一生懸命、拾って食べた記憶があります。

――皮、ですか。
 皮です。朝から晩までみんなおなかをすかせていた時代ですからね。それに、私の親父は5人兄弟だったんですが、弟3人が戦争で死んでいる。お袋の唯一の弟も、台湾海峡で特攻して戦死しているんですよ。
 親父は戦争でやさぐれて、国鉄の職員だったのに復員後に辞めちゃった。で、傘と鍋の修理の行商になりました。ウチの(父方の)じいさまは、子どもを3人も亡くしたものだから、精神的におかしくなってしまった。

 こういう経緯があるので、なんだアメリカは、という気持ちがあったんですね。パールハーバーの撮影の時、上空からミカンをバーッとバラまいてやったんです。スタッフは「監督、なんでミカンなんてバラまいているんだろう」と思ったんじゃないですか。反米だなんだと言うけど、私みたいに体張って、セスナ機飛ばしてミカンをバラまいた人間はいないでしょう。あの世でじいさまや親父、お袋に会ったら、それなりに評価してもらえると思いますよ。

――米国以外でも、世界中でAVの撮影をしていますね。
 ヨーロッパにアジア、あらゆる国に行きました。世界をグルグルまわって撮ったんだけど、本当のエロっていうのはそんなところにないのよ。四畳半の片隅、玄関口、お風呂場でいいの。ちょっとした場所で、お互いに全身全霊、全力投球でやる。後ろにロココ調のベッドが置いてあるとか、ゴージャスな応接間があるとか、見ている人には関係ないんです。アメリカで捕まったり、前科7犯になったりして、ようやく気がつきましたね。

――性表現に対する日本の規制は、国際的にも厳しいと言えるのでしょうか。
 1点、そういうものを見せてはいけない、という法律はありますよ。私に言わせれば、まあ時代錯誤なんですけど、それはいったん横に置きましょう。しかし、その1点を除けば、日本のAV業界、性表現の世界は、世界に冠たる自由で豊かな世界です。

 海外でAVなんか撮ったとするでしょう。女性が「イヤ」「ダメ」「許して」とちょっとでも拒んだり、恥ずかしそうにしたりするとダメなんですよ。だからアメリカのAVなんか完成しますとね、心理カウンセラーのところに持って行って「どうでしょう」と見てもらう。カウンセラーはそれを見て、「ちょっと笑いが少ないな。楽しさが出てないよ」と言う。そうすると「もう少し笑って、トークを入れよう」となるわけですよ。行為の最中にも笑顔を見せなくちゃいけない。

 恥ずかしいというのは、何も日本人だけの雅やかな感性ではないんです。インターナショナルなんです。恥ずかしいと言いながら、体が開いていくことだってあるわけですよ。でも「恥ずかしい」なんて言おうものなら、そこでアウト。「恥ずかしがっている人に、なぜそんなことをしているんだ」と言われてしまう。とにかく、いつもにこやかにトークをしなきゃいけない。

 音楽や映画であれほど世界を席巻しているアメリカですけど、ことエロチシズムの、雅の世界においては、少なくとも日本はじめアジアの「恥ずかしい」という文化圏では評価されていないですよね。日本では、毎月数千本のAVが出ているんですけど、米国のものは5本もありません。駆逐されてしまうんです。なぜかというと、人間の本性に寄り添った作品、琴線に触れる作品がないからです。
 
 エロスというのはファンタジーなんですね。非現実的な世界。私たちが日常生活をしていて、こんな世界があったらいいな、こんなシチュエーションだったらもっと興奮するだろうな、と思いながらも思うに任せないものをご提案し、ご提供するのが、私どもAV業界の存在意義なんですね。
 ファンタジーのなかには、SMチックなものもあれば近親相姦もある。「金蹴り」と言って、男性が女性に股間を蹴られるというジャンルは、最近とみに好評を博しています。いじめられたい男が増えているんですね。

 巨乳じゃないと興奮しない。背が高い方がいい、低い方がいい。暴力的な女性がいい。日本のAVは、あらゆるジャンルを網羅しています。あるいは、40、50、60代のおばさまがいいだとかね。世界のAV業界で、50、60代が我が世の春を謳歌しているなんて、ほかにありませんよ。最近では、多くの女性たちもネットでAVを視聴しています。
 制約がない。人の性の好みに、倫理のタガをはめない。道徳の縛りをしない。そういう自由さが日本にはありますね。

 だから、私どもからすると、(性器を)見せる、見せないなんていうのはどうでもいいことなんです。エロスは性器そのものには宿っていないから。アメリカのように性器そのものを消費していくと、すぐ飽きられちゃう。でもそのプロセスのなかで描けるもの、人間の深層の世界だとか、人間のもう一つの側面を描いていくことで、引き込まれていくんですね。エロチシズムを描ききれるかどうか。落差を見せ得るかどうかが勝負なんです。

村西監督作品に出演し、話題になった黒木香(くろき・かおる)さん=都内で、1987年7月20日


村西監督作品に出演し、話題になった黒木香(くろき・かおる)さん=都内で、1987年7月20日

出典: 朝日新聞

――ご自身のキャリアを振り返って、「生と死の落差」を表現できた会心作を挙げていただくとすると、何になりますか。
 チャプリンのように「ネクスト・ワン」と申し上げたいところですが……。あえて言うと、日本のAVの黎明期、性の文化史の1ページとして、とても大きなインパクトを与えたのは、黒木香さん主演の「SMぽいの好き」(1986年)という作品ですね。

 それまで、AVでは女性が暴力的に抑圧されたり、犯されたり、男の所有物として存在しているんだ、という描き方があったんですね。しかし、黒木さんのあの作品では、女性の性が男の性と拮抗し、時に凌駕している。女性も自由奔放に耽溺していい、貪っていいんだ。暴れていい、遊んでいい、感じていいんだということをお見せしたわけです。
 みんなビックリしたんですね。こんなことをしていいのか。ようやくして知らしめられた。あれから、日本の女性の性の形が変わっていきましたね。

――AVに対しては、フェミニズムの立場から批判もありますが。
 AVが日本の女性をおとしめているということがよく言われたりするんですけど、まったく違う。AVの歴史は、女性の性の復権、命の復権に大きく貢献してきたと言えるんです。
 昔はね、皆さん信じられないかもしれないけど、女性が声を出したらはしたないと言われていた。グッと奥歯を食いしばって、シーツに口を埋めてね、気がついたらシーツがボロボロになっていたという時代があったわけです。

 かつては(婚姻時に)処女じゃなかっただけで、反社会的人物として断罪されたんだから。しかし、そういうものを覆してきたのが、AVの歴史、AVの世界なんですね。女性を解放して、生きやすい時代へと変えてきた。はなはだ恐縮ですけど、それが事実ですよ。

 日本と言えば富士山と思っている人も多いかと思いますが、中国や韓国、東南アジアの方々が、日本に来て何としても会いたいのはスーパースターやアイドルじゃない。AV女優なんです。

――AVが売れて稼ぎまくったかと思うと、会社が潰れて巨額の借金を背負うことになったり、村西さんの人生そのものも「落差」が激しいですね。
 エロチシズムですね。
 

――「もう生きているのが嫌だ」と思ったことはないのですか。
 私には日本一になった、という何回かの成功体験があります。セールスマンとしてもそう。ビニ本時代もそう。AVの世界でもそう。「やれば必ずやれる」という錯覚がある。だから(AV会社のダイヤモンド映像が)倒産した時も、50億円ぐらいの借金ではメゲないです。その時は年商100億円ぐらいあったから、そんなもんひとまくりだと思ってました。

 よく中小企業のおとっつぁんが「会社が倒産した。死にたい」なんてことを言うんですよ。
 あなた、どうして死にたいんですか。
 「借金があります」
 いくらですか。
 「3千万円」
 私から言うと、片腹痛いっていうんですよ。ね。前科はございますか。
 「めっそうもないです」
 私はね、倒けつ転びつ、転びつ倒けつ、前科7犯ですよ。ね。じゃあ、あなたが借金していることを世間はご存じですか。
 「いや、取引先ぐらいです」
 私はね、何百万人の方に知られていますよ。それもね、借金のカタにとられて流出した映像に、お尻の穴まで開帳しているんですよ。ね。あなたはご開帳していますか。
 「いや、冗談じゃありませんよ」
 だったら、どうして「死にたい」なんて言葉が出てくるんだと。そんな時はまず、私のことを思い出していただきたい。「村西なんかよりも俺の方がよっぽどマシだな」と。

 私は借金をして、10カ月ぐらい家賃を払えなかったことがあります。ある日家に帰ったら、マンションの入り口に「村西カネ返せ」「詐欺師」「ペテン師」と、50枚ぐらい貼り紙がしてある。150棟ぐらいのマンションなんですが、自分の部屋に行こうとしたら、私と関係のない家にまで、全部貼り紙がしてあるわけです。

 子どもを幼稚園まで送る途中、大家さんに「子どもを幼稚園に行かせるぐらいだったら、家賃を払えよ!」と言われたこともあります。私は土下座しましたよね。子どもはゲームか何かだと思ったのか、「パパどうしたの?」という感じでまとわりついてくるんです。「すみません。必ず家賃はお支払いしますから、もうちょっと待っていただけませんか」と、一生懸命お願いいたしました。

 街を歩いていて、「借金」「借金」という声が聞こえるんですよ。ふと後ろを見たら、高校生が私の顔を見て「借金」「借金」と言っているんです。
 だから、「まだアイツより俺の方がマシだな」と思っていただければ、私の存在意義もあるのかな、と思いますよ。勝ち続けることはなかなか難しいけど、負け続けることもない。そんなちょっとしたヒントさえあれば、元気になれる。頑張れる。生意気なようですけど、そうしたメッセージを皆さんにお届けできれば、と思いますね。


――村西さんと言えば「ナイスですね」というセリフが有名ですが、使いどころを教えてください。
 男が女性に使うべき、二つの言葉があります。
 まず一つは、いたした後の「ありがとう」ですね。この地球上で、縁あって運命的に出会い、ひととき過ごし合ったわけですよ。そこには単なる肉体的なもの以上の何かが生まれてくるんです。信頼し合う者同士の精神の昇華というのはね、経験した人でないとわからないエクスタシー、心の充足があるんですよ。そのことに対して「ありがとう」を言うべきですよね。この「ありがとう」が言えるようになったら、男性も女性も一人前です。

 そして、もう一つが「ナイスですね」なんですよ。ひとときを過ごすなかで、女性のひざとひざの間の部分を見ますね。でも、男性はそれを見て、余計なことを言ってはいけないんです。乙女心は傷つきやすい。女性というのは好きな男を前にしてなお、「お手入れ不足と思われているんじゃないかしら」「醜いアヒルの子と思われるんじゃないかしら」と不安をお持ちになるんです。
 そんな思いを全部すくってひと言、「ナイスですね」。これを言えないような野郎は、パンツを脱いじゃいけません。「ナイスですね。ナイス過ぎます」。これでいいんですね。「すごいね」「かわいいね」じゃ、どこか届かないでしょ。私も試行錯誤しましたが、結局は「ナイスですね」しかない。女性は「こんな気配りのできる、言葉の魔法使いのような男性なんだ」ということで極まるんですよ。

――最後に、今後の展望・抱負をお聞かせください。
 かつて人類が相まみえたことのない映像をつくりたいですね。今まで見ることができなかったものを、きっと見せてくれるんじゃないか。そんなファンの皆さまの期待があるような気がいたします。ぜひ、そういう世界を皆さまにお届けできれば、と思うんですね。僭越ではございますけれども、自分にしか撮れないもの、提供できないものが絶対にあるハズだと思っております。そこを頑張っていきたいなと。

 私は今年で66歳になるんですけどね、人生の頂点を80歳ぐらいに持ってこられたら、と思うんです。若い時は早く成功したい、早く落ち着きたいと思うんだけど、なかなかままならないですよね。ままならないのが人生で、今にして思えばそれが良かったんですね。もし私がままなっていたら、こうしてインタビューを受けることもなかったでしょう。とんでもなく嫌らしい、えげつない人間になっていたような気がしますよ。

 私の好きな言葉に、「失望するな。失望からは何も生まれない」というのがあるんです。チャンピオンになれないことは、恥ずかしいことでも、プライドを失うことでもないんですね。闘いをやめるとか、挑戦することをあきらめることの方が、よっぽど人間として恥ずかしい、まさしくプライド無き人間のとるべき道だろうと。

 人間というのは、どんな英雄であれ、死というのがあるからね。いくつになっても人間は死にたくない。でも一方において、「死を恐れるな」という言葉もある。
 考え方を変えると、人間に死はない、とも言えるんです。有史以来、自分の死を見た人間はいないから。見ないということはないのと同じ。だから死を恐れることは何もないと。ないものを恐れる愚か者になってはいけません。

 どんな時でも満足して死ぬなんてことはありえない。いつだって憤死なんですよ。なぜなら、いつでも目標を持っているから。どんな状況でも希望を持っているから。でも、死は必ずやってくる。そう考えれば、自分自身の足らざる状況、絶望的と思える逆境も俯瞰して見ることができると思います。

 人生というのは螺旋階段。エロもそうです。色んなものをグルグルグルグルまわりながら、求め続けながら、最終的に頂上まで到達する。生きていくうえでは、凝り固まらずに、多くのことを知る必要があります。世の中、色々な世界がある。生き方がある。価値観がある。生意気ではありますけど、申し上げたいと思います。

(むらにし・とおる)
 1948年、福島県いわき市生まれ。高校卒業後、英会話教材のセールスマンなどを経て、裏本の販売を始める。全国に裏本店のネットワークを築くも、わいせつ物頒布容疑で逮捕。出所後にAV監督に転身すると、特異なキャラクターが受けてヒット作を連発、「AVの帝王」と呼ばれた。だが、実質的なオーナーを務めるダイヤモンド映像が、衛星放送事業への過大投資などで92年に倒産。巨額の借金を抱えることに。2014年現在も「生涯現役」を掲げ、AV監督として活動中。



14. 中川隆 2015年1月18日 10:07:06 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
>>13 は僕の投稿ではないので悪しからず。

最近はこういう僕の投稿を標的にした長文の嫌がらせコメントが増えてきました:


これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html

悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html


15. 中川隆[2286] koaQ7Jey 2016年4月28日 00:44:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2489]

2016年4月5日 危篤状態に陥った人の40%が経験する。臨死体験に関する最新研究(アメリカ)2016-04-05
http://golden-news2.com/technology/2016-04-05-1081.html


カラパイア さんのサイトより
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52214970.html

【転載開始】


人は死の間際に何を見て、何を感じるのだろう?臨死体験に関しての研究が進んでいるアメリカの最新の研究においても、臨死体験者は文化、宗教、国家を問わず共通した体験をすることがわかったという。

動画 Near-death experiences; life after death?
https://www.youtube.com/watch?v=6F_nV612zIQ


危篤状態に陥った人の40%が何らかの臨死体験をしている

アメリカ在住のエリン・ダイは30年前、車で事故を起こし、一旦「死亡」が確認された。エリンは奇跡的に蘇生したが、彼女は事故直後の光景を憶えていた。

彼女は肉体を抜け出し、車の上から車体を見下ろしていたと言う。その後、光のトンネルを抜け、他界した親族に出会ったと彼女は話す。


欧米では、1980年代、死の淵から生還した人々の体験が似通っていることが統計を元に指摘され、科学的に臨死体験を説明しようとする試みが始まった。

最近の調査によれば、危篤状態に陥った人の40%が何らかの臨死体験をしているという結果が出ている。現代では、臨死体験はもはやオカルトではない。実際に起きている「何か」のようだ。


なぜ人は臨死体験をするのか?

もっとも、臨死体験が、脳内で起きている医学的な特定の状態なのか、それとも霊魂などの超自然現象に属するものなのかについては、まだ結論は出ていない。

科学的に臨死体験を説明しようとする主張では、次のようなものがある。

ひとつは、5分間心停止状態が続いても神経細胞の活動は続いていることから、脳の中で臨死体験のようなイメージが創作されるという説。

またもうひとつは、よく知られる科学的な解釈として、心停止状態になった際、脳が生きるための手段を検索しているという説だ。

しかし、脳が機能していない状態(脳波計で脳波が観測されない状態)でも臨死体験が報告された例が多数あることから、現在ではこの主張は下火になっている。


臨死体験で見る共通したイメージ

臨死体験者が、死に際して、恐怖ではなく安らぎや快さを覚えるケースは多く報告されている。他にも、「トンネルを抜ける」、「光につつまれる」、「親族に会う(声が頭に響く)」などが臨死体験において類似する現象だ。

臨死体験をした人の報告例を2,000例以上集めた精神科医、エリザベス・キューブラー・ロスは「あまりに似た例が多いのでそれ以上集めるのを止めた」とすら話している。国や文化、言語の壁を越え、臨死体験は共通した現象が起こるのだ。

臨死体験が神秘的に見えるからといって、霊魂が存在するとは言えないし、死後の世界があることの証明にもならない。一方で、なぜ起きているのか、どのように起きているのかについての、医学的な解答はまだ無い。

ただひとつたしかなのは、死に臨む時、人間は不可思議な体験をすることがあるという事実だけだ。
http://golden-news2.com/technology/2016-04-05-1081.html


16. 中川隆[5360] koaQ7Jey 2016年12月09日 07:51:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5796]

釈迦はコーカソイドだった

ガウタマ・シッダールタ Y染色体ハプログループR1a1a1b系統 【アーリア系】


インド・アーリア系(注1)シャーキャ族(注2)の尊者であるガウタマ・シッダールタ(注3)のY染色体は、ハプログループR1a1a1b1a2(R-Z280)(注4)であると推定されている(注5)(注6)。

これは、シャーキャ族王族の男系子孫であるパキスタン人男性から得られたデータと、仏舎利の調査に基づくものである(注7)。

ガウタマ・シッダールタの火葬骨である仏舎利は、マウリヤ朝のアショーカ王の時代に8万余に分骨され膨大な寺院に再配布された。
日本へは推古天皇の時代に舶来(注8)し、推古元年正月15日(西暦593年)には、法興寺の刹の柱の礎の中に置かれた(注9)。

http://famousdna.wiki.fc2.com/upload_dir/f/famousdna/8e8fbd1f41170b337bd75b24281163cd.jpeg


picture from Wikipedia

注1)A study headed by geneticist Z. Zhao et al. (2009) based on an analysis of "32 Y-chromosomal markers in 560 North Indian males collected from three higher caste groups (Brahmins, Chaturvedis and Bhargavas) and two Muslims groups (Shia and Sunni) were genotyped" found that "a substantial part of today's North Indian paternal gene pool was contributed by Central Asian lineages who are Indo-European speakers, suggesting that extant Indian caste groups are primarily the descendants of Indo-European migrants."

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2755252/

An increasing number of studies have found South Asia to have the highest level of diversity of Y-STR haplotype variation within R1a1a, such as those of Kivisild et al. (2003), Mirabel et al. (2009) and Sharma et al. (2007, 2009).

注2)平凡社『世界大百科事典』釈迦族

注3)Sengupta et al. in their 2006 paper in the American Journal of Human Genetics say that "Our overall inference is that an early Holocene expansion in northwestern India (including the Indus Valley) contributed R1a1-M17 chromosomes both to the Central Asian and South Asian tribes".

注4)Haplogroup R1a as the Proto Indo-Europeans and the Legendary Aryans as Witnessed by the DNA of Their Current Descendants http://www.pnas.org/content/103/4/843.full

注5)A prehistory of Indian Y chromosomes: Evaluating demic diffusion scenarios

注6)Polarity and Temporality of High-Resolution Y-Chromosome Distributions in India Identify Both Indigenous and Exogenous Expansions and Reveal Minor Genetic Influence of Central Asian Pastoralists, by Sanghamitra Sengupta,1 Lev A. Zhivotovsky,2 Roy King,3 S. Q. Mehdi,4 Christopher A.

Edmonds,3 Cheryl-Emiliane T. Chow,3 Alice A. Lin,3 Mitashree Mitra,5 Samir K. Sil,6 A. Ramesh,7 M. V. Usha Rani,8 Chitra M. Thakur,9 L. Luca Cavalli-Sforza,3 Partha P. Majumder,1 and Peter A. Underhill3, 1Human Genetics Unit, Indian Statistical Institute, Kolkata, India; 2N. I. Vavilov Institute of General Genetics, Russian Academy of Sciences, Moscow; 3Department of Genetics, Stanford University, Stanford; 4Biomedical and Genetic Engineering Division, Dr. A. Q. Khan Research Laboratories, Islamabad; 5School of Studies in Anthropology, Pandit Ravishankar Shukla University, Raipur, India; 6University of Tripura, Tripura, India; 7Department of Genetics, University of Madras, Chennai, India; 8Department of Environmental Sciences, Bharathiar University, Coimbatore, India; and 9B. J. Wadia Hospital for Children, Mumbai, India http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=1380230

注7)"R-Z280(R1a1a1b1a2) Origin of the Saka Races"

注8)『日本書紀』、推古元年正月15日(西暦593年)に、「仏の舎利を以て、法興寺の刹の柱の礎の中に置く」とある。

注9)仏舎利は593年に芯礎に安置されたが、1196年に落雷のため仏塔が焼失した。そのため、翌年いったん仏舎利は掘り出され、新しい舎利容器を木箱に入れて、ふたたび仏塔の芯礎部分に埋められた。1956年に行われた飛鳥寺周辺の発掘調査により、法興寺の遺構の仏塔跡地の芯礎から木箱に収められた仏舎利が発見されている。
http://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93R1a%E7%B3%BB%E7%B5%B1


ハプログループR1aはインド北部から中央アジアや東ヨーロッパに高頻度に分布している。

ロシア人(ベルゴロド州)に59.4%[2]、ポーランド人に55.9%[3]、パシュトゥーン人に51%[4]、インド北部に48.9%[5]、アルタイ人に46.9%[6]、タジク人に44.7%[7]など。したがって、インド・ヨーロッパ語族に属する集団が、このハプログループR1a系統(特にR1a1a)と、ほぼ同等であろうと考えられている[8] [9] 。

「クルガン仮説」および「:en:Proto-Indo-Europeans」も参照

このハプログループはいわゆるアーリア人の子孫の分布を示している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97R1a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)


インド・ヨーロッパ語族の拡散モデル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97R1a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#/media/File:IE_expansion.png

R1aの下位系統の拡散
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97R1a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#/media/File:R1a1a1_Migrations.jpg

R1aの系統樹と分布
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97R1a_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#/media/File:Aryan_migration_map_and_haplogroup_tree.jpg

多民族国家のY-DNA遺伝子調査 インド
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9-4.htm

インド 主要 Y-DNA「R1a」と「H」

  インドはY-DNA「G」〜「T」までの新興遺伝子全てが古代遺伝子の一つのY-DNA「F」から分化した、近代国家の故郷の亜大陸になります。 このためインド亜大陸はあらゆる新興遺伝子が分布しておりこのため何と2000以上の民族/部族/集団があると言われています。 その中でも公式に認定されている民族/部族だけでも700以上になると言うなんとも遺伝子の混沌な土地です。

  州ごとの人口データ(下左図)はありましたが、民族別の人口データは見つかりませんでした。 民族の多さもさることながら言語族と宗教に加えカーストまである3重構造になっているため、インド政府も統計には容易に出せないようです。 言語族分布図(下右図)がありましたのでご紹介します。

  さすがにY-DNA「G」以降の全ての新興遺伝子の親遺伝子の古代遺伝子Y-DNA「F」が分化した新興遺伝子の故郷インド亜大陸です、混沌としているのは当然なのでしょう。 と言う訳でインドの民族毎の遺伝子調査はギブアップしますが、4大言語族のY-DNA頻度データが入手できましたのでご参考にアップします。 おまけに縄文人の代表のY-DNA「D2」の祖形のY-DNA「D*」と弥生人のY-DNA「O2b」の祖形の「O2a」の情報も追記します。

     カーストは部外者にはわかりにくいのですが遺伝子頻度調査で浮かび上がったのは予想通り、上流カーストは支配階級の「R1a」頻度が高く、 下層カーストは「H」頻度が高いことです。これが「H」がジプシー化した根本原因ではないかと推察出来ます。 本来なら少数民族として定着をするのでしょうが、「R1a」の支配の抑圧を嫌い定着を拒んだのかもしれません。 しかし基本的には入り混じっているので新興勢力「R1a」と先住勢力「H」の遺伝子間の交配はかなり進んでいるようです。

645種と書かれている指定部族(州でダブって指定されているのを除いても460種ぐらいある)の極く一部と一部のカーストのデータを集めましたのでご参考に掲載します。 残念ながら調査対象部族・カーストの人口合計も2億人強に過ぎず12億人と言われるインド人口の17%程度に過ぎません。

  あまりに一部のデータなので、これがインドだ、と言える物はないのですが、ドラヴィダ系、インドアーリアン系、 オーストロアジア系とチベット・ビルマ系の一般部族の特徴は良くわかると思います。 日本人の弥生系の主役Y-DNA「O2b」/「O2b1」の兄遺伝子のY-DNA「O2a」水田稲作農耕民がオーストロアジア系民族のみならず ドラヴィダ系やインドアーリアン系にも深く入り込み水田稲作農耕をインド亜大陸に広く広めたことがよく理解できます。

  ところが一般部族とは異なり、カースト集団になると状況は一変し、下層と差別されてきた極東モンゴロイド遺伝子Y-DNA「O2」も「O3」も カースト集団からは誤差程度にしか検出されません。Y-DNA「R1a」を基盤とするインドカースト集団がいかにモンゴロイドを下層民として 差別し集団から排斥してきたか過去の歴史が結果としてこれほど見事に現れるとは思いませんでした。日本人は世界3位のGDPでインド人と付き合えていますが、 中国が人口力でGDPを上げた様に、人口で中国を近い将来追い越すと確実視されているインドがGDPで日本を凌ぐようになると、途端に今の中国のように、 日本いじめを始める可能性もあるかもしれません。

  それにしても部族名がありながらも遺伝子が純系の部族はもはやなく、インド亜大陸の長い歴史の間にY-DNAは相当混じり合い、 さすがに全ての近代Y-DNA亜型が発祥した亜大陸の奥の深さが感じられます、あまりにも深すぎてこれ以上追うのはむりなので止めますが、 興味のある方は更に深堀りしてみてください。


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  日本人の遺伝子を構成するY-DNAもmtDNAも全てがこのインド亜大陸で分化しサハラ以南のアフリカ以外の全世界に拡散をしたと言われています。

  つまりホモサピエンスの故郷はアフリカ大陸東部ですが、現代人の故郷はインド亜大陸なのです。

  遺伝子調査を進めると、民族は基本的に言語族と対応していますが、過去の歴史でから遺伝子の移動拡散もかなり追えるようです。

1. インド亜大陸で最も古い遺伝子は全新興遺伝子の親の古代遺伝子Y-DNA「F」です。古代遺伝子「C」と「F」は 出アフリカ後の中東地域でネアンデルタール人と交配しネアンデルタール人が数十万年かけて獲得したエピジェネティクス形質を一気に手に入れたようです。 赤毛碧眼・金髪・彫深顔・色白肌・大柄等々は全てネアンデルタール人のオリジナル形質と思われます。

2 「F」の長男遺伝子のY-DNA「G」はコーカサス遺伝子と呼ばれるようにインド亜大陸には留まらずコーカサス一体に移動をしたようです。 コーカサスの高原・山脈地帯が好みだったようです。

3. 二男遺伝子の「H」はインドの重要な遺伝子として今も残っていますが、その後のインダス文明人やインド・アーリア人の興隆でインド亜大陸の主役ではなくなりました。 一部は定住できずに放浪するジプシー民族となりました。

4. 次の「I」はどんどん西に進みヨーロッパ大陸でクロマニヨン人として遺跡を残し、氷河の後退とともに地中海沿岸から北上し後にノルマン人として活躍することになりました。 一部はヴァイキングとなりヨーロッパ大陸沿岸を荒らしまわり、一部は現ロシア地域に進出し公国等を興し、子孫にトルストイを残しました。

5. 次の「J」はセム族遺伝子としてまたメソポタミア文明遺伝子として「I」同様西に進みヨーロッパ大陸に最先端の農耕文化をもたらし、 その後アラブの主要遺伝子となり地中海両岸の主要民族となっています。

6. 次の「K」は移行段階の遺伝子でインド亜大陸に留まったようですが、「L」以降の全ての遺伝子の親遺伝子となりました。

7. 「L」はインダス文明の遺伝子と認知されたようです。と共に「L」を主遺伝子とするドラヴィダ人がインダス文明人の子孫であることも認知されつつあるようです。

8. 「T」は遺伝子頻度が低く本来「L2」でも良かった子亜型タイプなのですが、米国第三代ジェファーソン大統領の遺伝子であることがわかり、 主要ハプロタイプに格上げされました。ところが「S」まで既に埋まっていたため「T」となったのです。

9. 「M」はインド亜大陸を東に進みスンダランドから更にサフールランドに進み、ニューギニア・メラネシアの主要遺伝子になりました。

10. 「N」は移行タイプの「NO」時代に東進し華南に移動しそこで「O」と分化し、更に北上しシベリアに住み付きシベリア系遺伝子となり寒冷地適応しましたが、 多くが北ユーラシアを西進しバルト海・スカンジナヴィア周辺に住みつきウラル系遺伝子ともなりました。

11. 「O」は言わずと知れた極東遺伝子です。先進だった「O1」(楚系?!),「O2a」(越系?!),「O2b」(呉系?!)が長江文明を興し、 後進だった「O3」は北上し自然が厳しい黄河流域で黄河文明を興しその後中華大陸の覇者になり、現在は極東のほとんどの先進国の支配階級遺伝子として君臨しています。 現在は世界の覇者「R1b」に覇者交代を目論み戦いを挑んでいます。

12. 「P」は基本的にはインド亜大陸に留まりました。やはり移行段階の遺伝子で「Q」と「R」の親遺伝子となりました。

13. 「Q」は大冒険者遺伝子で北上しベーリング陸橋を渡り南アメリカ大陸の南端まで拡散し、南北アメリカ大陸の長い間主役の遺伝子でした。

14. 「R」はインド亜大陸に留まりましたが、その中から「R1」が分化し更に「R1a」と「R1b」が分化し、「R1a」はインド・アーリア人としてインド亜大陸の主役となり、 一方北西に「R1b」と共に移動した集団はスラブ人としてロシアに留まり主役になりました。しかし更に西進した「R1b」の中で純血を好んだ一部はケルト系民族としてヨーロッパの先住民となり、 多くは「I」や「N」と交配しケルト・ゲルマン系となり、古代遺伝子「E1b1b」と交配した集団はローマ・ラテン系としてローマ帝国を興隆させました。いずれにせよ現代ヨーロッパの主役であり、 「R1b」は世界の覇者の遺伝子です。

15. 「S」はハプロタイプとしては不思議な存在です。何故「S」が分化する必然性があったのか全く謎ですが、しかも何故ニューギニアに存在するのか? ニューギニア・オーストラリアのサフール大陸には古代遺伝子「C2」が少なくとも4万年前にはマグロ漁を行っていたことが報告されています。 そこに新興遺伝子の「M」がインド亜大陸から移動をしニューギニアからメラネシアに進出しました。過酷な土地なのでそれ以上の遺伝子は必要なかったはずなのに突如「S」が出現したのです。 しかも「C2」や「M」同様ニューギニアとその東の太平洋の島々のみに生存しているのです。今のところの仮説はネアンデルタール人のアジア型のデニソワ人がシベリアから南下する途中で 「R」と交配し分化したのではないかと言うものです。

  インド亜大陸の遺伝子調査で判明したことの中で、日本人にとってもっとも重要なことは;

  
1. インド亜大陸そのものではなくインド洋上のアンダマン諸島には縄文人Y-DNA「D2」の祖形「D」の直系子孫Y-DNA「D*」100%のJarawa族とOnge族が残っていること。

  
2. 同じくアンダマン諸島の南に続くニコバル諸島には長江文明の子孫で弥生人呉系Y-DNA「O2b」の祖形「O2」の直系子孫で越系Y-DNA「O2a」100%のShompen族が残っていること。

  
3. 大野教授が日本語のルーツと発表し話題になったドラヴィダ系タミール人はなんと平均14%もの「O2a」頻度があることや、他のドラヴィダ人には「O2a」98%もの純系にちかい部族もいること。 この長江文明越系子孫の「O2a」遺伝子集団がタミール語を含むドラヴィダ語族に水田稲作農耕の語彙を持ち込み、日本語の稲作関連語彙と強い相関を持つのが当然だったのです。 黄河文明との戦いに敗れた長江文明の子孫はそのまま留まり黄河文明に飲み込まれた集団もあれば、ある越系「O2a」集団は南へ逃げ遠くインド南部まで逃げ 先進の水田稲作農耕という食糧生産法を持つためにインド亜大陸でも現在まで生き延びることに成功したのです。

一方呉系「O2b」集団は北へ逃げ満州に遺伝子を残し 稲作適地を求め南下し朝鮮半島南部に30%もの遺伝子頻度を残し、更に南下した一部は日本列島に入り弥生文化を残し30%強の頻度を現在でも残したのです。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9-4.htm


17. 中川隆[5849] koaQ7Jey 2017年1月03日 11:52:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6291]

第371回 右脳の世界

 右脳だけで生きている人間はいない。だが、ハーバード大学の女性脳科学者ジル・ボルト・テイラー博士は37歳のある朝、とつぜん脳卒中に見舞われ、左脳が機能しなくなり、回復するまでの期間、右脳のみで生きることになった。


 そのときの感覚を博士は、自分の体が溶けて(つまり固体ではなく流体になって)、宇宙と一体になったみたいだという。左脳の方向定位連合野は自分の体がどこから始まりどこで終わるかを判別しているが、ここがやられると肉体の境界線がなくなってしまうのだと。


 話は変わるが、現場でセックスをしていて自分を明け渡すような深いオーガズムを迎えそうになったとき、「溶けちゃう!」と言い出す女の子がいる。深いオーガズムへのプロセスでは、「スタッフとかまわりの人が1人ずついなくなり、最後には私もいなくなった」と言う子もいた。また、ある女性はオーガズム後のインタビューで、「宇宙とか世界とか、いろんなものをひっくるめて全部私なんだ」と語った。


 左脳には、右脳が感じた情報を時間軸に沿ってきちんと整理し、分析して、言葉化する機能が備わっている。それに対して右脳はこの瞬間瞬間を感じ取るだけだ。だから右脳にとっては過去も未来もなく、あるのは現在だけである。


 セックスの最中に相手のテクニックを過去の男と比べる子がいる。自分が密かに想いを寄せる人からされてるんだと妄想しながらしている子もいる。これらは意識が過去や未来に行っているわけだが、オーガズムは自分が今この瞬間にいないかぎり絶対に起きない。


 テイラー博士は著書『奇跡の脳〜脳科学者の脳が壊れたとき』(竹内薫訳、新潮文庫)の中で、右脳の世界をこんなふうに記している。


 〈左の脳の「やる」意識から右の「いる」意識へと変わっていったのです。小さく孤立した感じから、大きく拡がる感じのものへとわたしの意識は変身しました〉


 〈左脳は自分自身を、他から分離された固体として認識するように訓練されています。今ではその堅苦しい回路から解放され、わたしの右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。もう孤独ではなく、淋しくもない〉


 〈この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです〉


 テイラー博士の受けた治療とは左脳の機能を取り戻すことだったのだが、その過程で別の学者2人が、チベットの僧侶とフランシスコ会の修道女を呼んで、ある実験をした。僧侶と修道女には瞑想や祈りをしてもらい、そのときの彼らの脳内を画像に撮った。すると、瞑想のクライマックスや神と一体になったとき、言語中枢そして方向定位連合野の活動が減少し、右脳が前面に出てくることがわかった。つまり、テイラー博士は科学者だけに、自分の体験のみならず、第三者の検証をもって自らの考えを二重に証明したことになる。


 『奇跡の脳』は全米で50万人の人々が読んだと聞く。そして日本でも影響を受けた人は少なからずいるはずである。博士はなぜこの本を書いたのだろう。脳卒中を体験し、結果として芽生えた利他の心や慈悲性が、自然とこの本を書かせたように僕には思える。


 深いオーガズムを体験した女の子たちが「こういうふうになればもっと幸せになれるのに」と気づき、開花した母性が他者に対して「苦しみを取って、楽にしてあげたい」とその子を突き動かすように……。


 言語化するのはたしかに左脳だけれど、左脳で勉強したことを書いたわけではないから、読んだ人は共感・共鳴したのではないだろうか。


 今は左脳が尊重される世の中だ。分析も論理も計算も言語も、そして右脳をコントロールするのも、それは左脳の働きである。だが、その左脳から右脳が自由になったとき、博士は悟りとも言える境地に達した。


 だからと言って、左脳が悪者というわけではない。生きていくうえでは両方が必要だ。しかし、右脳の世界を体験してみると、新たな気づきが起きるはずである。そのために脳卒中になるわけにはいかないけれど……。次回は、一般の人でも利他や慈悲の境地に至る方法論と言われる「マインドフルネス」について見ていきたい。
http://blog.livedoor.jp/yoyochu/archives/54689464.html


18. 中川隆[5850] koaQ7Jey 2017年1月03日 11:56:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6292]

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫) 2012/3/28 Jill Bolte Taylor (原著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E8%84%B3%E2%80%95%E8%84%B3%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E8%84%B3%E3%81%8C%E5%A3%8A%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88-%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/4102180214


19. 中川隆[7718] koaQ7Jey 2017年4月13日 12:35:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8208]

1週間ほぼ寝ず水と塩だけ 円教寺で妙覚院住職が荒行

神戸新聞NEXT 4/13(木) 8:30配信

100回目の座を行う中安剛円住職=姫路市書写


 天台宗のみで行われる密教の荒行「宇賀大弁財天修儀頓成」を、妙覚院(兵庫県姫路市書写)の中安剛円住職(56)が12日、書写山円教寺で達成した。1週間ほぼ眠らず、水と塩だけでお経を唱え続けた。「何度も眠りに落ちそうになったが、弁天様が支えてくれた」と憔悴した表情で語った。(木村信行)

【動画】荒行の苦しさを語る
https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/movie/new/201704/0010090425.shtml


 鎌倉時代の聖典に基づく荒行。同寺によると、達成した僧侶は過去に20人ほどという。

 昨年12月19日から108日間、身を清めた中安住職は今月6日朝、円教寺の法華堂にこもった。ろうそく4本と、手元を照らす電気スタンドがあるだけの暗闇で、一座(約1時間20分のお経)を7日間で100回繰り返した。

 合間に水と塩を少しだけなめ、体を横たえるのは1日に1時間ほど。ほかの僧侶が交代で付き添った。12日未明には水を飲んだ瞬間、発作が起き、呼吸ができなくなったという。

 通常なら非公開の荒行を公開した理由について同寺は「不安が多い世の中。平和を祈る僧侶の願いを社会に伝えたかった」と話した。

■「今は、オレンジジュースが飲みたい」

 中安剛円住職は、1週間の荒行を終えた直後、インタビューに応じた。内容は以下の通り。

 荒行を決意したのは、仏様に向き合い、ただひたすらに祈りをささげる行為が自分を光り輝かせるのではと思ったから。他者を輝かせるために、まず自分がやらねばと。

 荒行前と今で何が変わったかはまだ分からない。少し穏やかになった気がする。初日が一番つらく、「あと10分寝かして」と言ってしまった。3日目以降は何も考えず、脱力して唱え続けることができた。

 何度も眠りそうになったが、弁天様が支えてくれた。自分の力だけではできなかった。

 今は、オレンジジュースが飲みたいですね。


20. 中川隆[-7985] koaQ7Jey 2017年4月30日 12:48:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

21. 中川隆[-7890] koaQ7Jey 2017年5月01日 08:42:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


23. 中川隆[-7658] koaQ7Jey 2017年5月13日 08:03:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

釈迦が見た地獄とはどんな世界だったのか 2


セックスと暴力。このふたつが密接に結びついている理由


戦場で殺戮とレイプが密接に結びつくのは深い理由がある

中東に吹き荒れる狂気の暴力集団ISISの戦闘員が今求めているのは何か。

それはバイアグラだ。人道援助のグループが現地ラッカの医師から聴取した話によると、ISISの戦闘員は性奴隷にした妻を痛めつけながらの過激なセックス行為を行っており、猥褻な下着を買い与えて着せている。

そして、殺人をしていないときはセックスを、セックスをしていないときは殺人をしているのだと言う。自分の支配下においた人々には厳格なまでのイスラム法を敷いているにもかかわらず、そうなのだ。

セックスに狂うことをISISの幹部は奨励している。

「子孫を増やして、我が同胞で世界を埋め尽くせ」というのが上層部の命令であり、ひとりでも多くの女性を妊娠させるのは彼らの「義務」なのだ。

殺戮とレイプ、暴力とセックスが見事なまでに結びついているのがISISの姿からも分かる。そうなのだ。人間が野獣になると、暴力とセックスが剥き出しになって現れてくる。
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20150225T0256310900.html

治安悪化、暴力蔓延はレイプの時代の幕開け、経済崩壊後の世界 2011年8月29日
http://ginga-uchuu.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0a55.html

そろそろ、学習したほうがいいかもしれない。これから暴力の時代に入っていき、そうなると真っ先に狙われるのは女たちであることを。

戦争が起きたり、国が無法地帯になったとき、もっとも弱い存在になるのが女性たちだ。これから女たちにとって受難の時代がやって来る可能性がある。

戦争が起きたらレイプが横行する現実

日米欧で経済悪化が深刻化しているのが今の状態で、いずれ先延ばしができなくなって様々な国が破綻していくことになる。

当然、どこの国でも治安が悪化し、暴動が起きたり、内乱が起きたり、最期には恐らく戦争になる。

日本もグローバル社会に組み込まれているし、今まで圧倒的な軍事力で守ってくれていたアメリカが衰退することによって近隣国家から侵略も受ける可能性もゼロではない。

法の庇護がなくなれば、あとは肉食獣のような男たちが、暴力や、権威や、金で女たちを貪り尽くしていくことになる。

外国からの侵略を受けた国・民族・組織の女性は、常にレイプされているのはよく知られている。

ヒトラー率いるドイツ軍がロシアで何をしたか。アウシュビッツのユダヤ女性に何をしたか。日本軍が中国で何をしたか。敗戦したナチスドイツになだれ込んだロシア兵がドイツ女性に何をしたか。

そこではレイプが吹き荒れていたのではなかったか。

もちろん、遠い過去の話ばかりではない。独立運動を戦っていた東ティモールでインドネシア軍が民兵と共に何をしたか。

ルワンダでツチ族、フツ族の女性たちがそれぞれどうなったか。セルビアでの民族浄化とは何だったのか。 コンゴの女性たちはどうなっているのか。

コンゴの集団レイプ事件は、いまだに終わっていない。国連軍の目と鼻の先で女性が家族の前でレイプされているのである。


レイプされ、焼き殺されそうになったコンゴの女性
レイプされ、目をつぶされたコンゴの女性

・戦略的に女性をレイプ。史上最悪の暴力国家コンゴ
・コンゴのレイプ地獄から逃げて国境でも輪姦

マン・アルオベイディ。
カダフィ派の兵士15人にレイプされたと訴えて泣いている。

戦争になれば正義など吹っ飛んでいく
歴史が冷酷に示しているのは、女性は略奪・レイプの対象だという事実だ。

有事になった瞬間に、人権という概念が失われる。剥き出しの暴力と欲望が秩序に取って変わる。歴史がそれを教えてくれている。

イラクの「治安維持」のために駐屯しているアメリカ軍でさえ、アブ・グレイブ刑務所で、イラク女性をレイプしていたという事実が英紙によってすっぱ抜かれた(レイプ写真まで出回った)。

ちなみにレイプされた女性の多くは自殺、妊娠した状態で保釈された女性は家族に一族の屈辱だと言われて殺されたという。

オバマ大統領はそういった写真の公開を見送って、今も事実が公開されていない。 一部の写真が漏れ伝わっているが、氷山の一角である。

正義がそこにあると思ってはいけない。戦争になれば、正義など吹っ飛んでしまうのである。

2011年エジプトのムバラク追放の民主化デモの際、取材に行っていたララ・ローガンは、独裁主義を倒す正義の集団と喧伝されていた民主化デモの男たちにレイプされたのは記憶に新しい。


レイプされたララ・ローガン

実は彼女がレイプされていた場面は動画としてあったようで、それを見た関係者は「彼女は6人の男に膣を犯され、無数の男が肛門もレイプ、さらには片方の乳首も噛みちぎられたように見える」と記している。

誰も助けに行かなかった

暴力時代になったとき、真っ先に女が犠牲になる例を挙げよと言われれば、いくらでも例を上げることができる。

スハルト政権が崩壊する寸前、スハルトは暴徒の矛先を華僑に向けるために、特殊部隊を使ってジャカルタ北部のコタを襲撃するように煽動したが、その際も華僑の女性たちが片っ端からレイプされて殺されていった。

このときのレイプ写真もやはり一部で出回っていたが、白昼の混乱した街で女性が男たちに羽交い絞めにされたままレイプされているものだった。

レイプされる華僑の女性
レイプされたあとは焼き殺されていた

写真と言えば、東ティモールで兵士たちが女性を踏みづけにしたり、上半身裸にして取り囲んだり、殺害した女性の死体を穴に棄てている写真も出回った。

最初から拷問し、殺してしまうことを目的にしてやっているのである。このような人権侵害が起きていることは20年間も訴え続けられていたが、国際政治は完全に「無視」を決め込んでいた。

アメリカも、ASEAN各国も、国連も、東ティモールの女性たちがレイプされ続けているのを知りながら、誰も助けに行かなかった。

こちらは東ティモールの実態を描いた書籍にも収録されているので知っている人も多いのではないか。

軍や警察が国民の敵になっていく

女性の時代というのは、平和時にのみ存在する概念であることを女性たちは気がついているだろうか。

それは非常にもろい基盤の上に成り立っているものであり、法と秩序が失われた瞬間に、すべての女は身の安全が保証されなくなってしまう。

治安悪化が当たり前になるときは、経済も破綻しているときだから、公務員の汚職、モラルの低下も起きている。これは何を意味するのかというと、警察までがアテにならない存在になっていくということである。

いや、軍や警察が国民の敵になっていくこともある。

インドネシア警察が売春婦を逮捕しては署内で「セックスすれば保釈してやる」と言っているというのはよく新聞沙汰になっていた。

インド・ゴアで、三人の警官が道端に立っている娼婦を捕まえて車内に押し込み、そのまま脅してレイプした事件があった。

この警官たちはそれを携帯電話でビデオに記録していて、同僚たちに見せて「自慢」して回っていたという( THE TIMES OF INDIA より)。

それだからこそ、世界が平和であることは女性にとっては最重要事項である。いざとなったら警察が守ってくれるなど、そんなことはあり得ない。警察こそが女性の最大の敵になるのである。


狂気のような犯罪者も解き放たれる

また治安が悪化していけば、当然のことながら犯罪も増えていく。女性をターゲットにしたレイプ犯罪も増えるだろう。

連続レイプ殺人が増えるのも、だいたいが警察権力が弱いときである。

もともと世の中には一定数のサディスト、ネクロフィリア、ネクロサディストといった危険な嗜好を持った男たちがいる。

普段は妄想の中にしかなかった彼らの性癖は、警察組織が弱まったと分かったら、弾けるように世の中に出ていくのである。

彼らは暴力を振るうことによって性的な快感を得る。

最初は、殴りつけたり、首を締めたりしているだけで満足を得ているのだが、そのうちにそれで飽きたらなくなり、一線を超えてしまう。

狙いをつけた女を殴り殺し、レイプし、死体を損壊し、ときには食べてしまったりする。このひとつひとつの行為に薄気味悪い名前がつけられている。

殴りつける サディスト
殺してレイプ ネクロフィリア
死体を壊す ネクロサディスト
死体を食べる カニバリズム

治安が悪化していくと、おおよそ正気とは思えない男たちが夜の街を徘徊して事件を起こすようになる。治安の悪化によって、狂気の犯罪者が解き放たれるのである。


レイプ殺人の現場

乳首がちぎられている。
犯罪者にネクロサディストの心理が見える
乳房の損壊を見ても、サディスティックな殺人であることが分かる


激しく損壊されている女性の死体。
腕が切り落とされ、内臓が取り出されている。
典型的なネクロサディストの殺人だ。


・ 暴力性愛・死姦・死体損壊は、どのような快楽なのか
・おぞましき屍姦の事件に、心の闇をのぞき込む


そろそろ暴力時代が来ることの覚悟を

平和が失われる理由はいろいろある。宗教問題、領土問題、民族問題、経済問題。

日本を含めた先進国が瓦解していくのは、経済問題が立ち行かなくなった時だろう。

日本でも、失業者が増え、財政がパンクし、債務不履行(デフォルト)を起こして世界中から信用を失くす時が来るかもしれない。

そうなると、今の日本では軍事力もなく、政治的交渉力もないので、そのまま侵略の対象となってもおかしくない。

世界を見渡してみれば、ほとんどの国の男たちが好戦的であり、無慈悲であり、銃の扱いを知っている。

第二次世界大戦後、日本はアメリカの庇護の下で、すっかり平和に慣れてしまったが、そのせいですっかり平和主義になって、銃の扱いすら知らないでいる。

今まではそれでよかった。しかし、もうこれからはそうはいかない。

治安悪化、テロ、暴力で満ち溢れていくので、これまでのような状態のままだと抵抗すらできないのである。

しかし、アメリカの覇権が失われていくと共に、日本に対する庇護が消えていく。

いよいよ日本も、自ら血と暴力の世界に足を踏み入れるしかない。そういう時期に来ている。

冒頭に書いた通りだ。無法地帯になったとき、もっとも弱い存在になるのが女性たちだ。

法の庇護がなくなれば、あとは肉食獣のような男たちが、暴力や、権威や、金で女たちを貪り尽くしていく。

日本人はそういう時代が来る可能性もあることを覚悟したほうがいいのではないだろうか。
http://ginga-uchuu.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0a55.html


(ヒューマン・ライツ・ウォッチが、ソマリアでもレイプが蔓延していることを報じています。ソマリアと言えば、国全体が無法地帯と化して暴力に満ち溢れている国です。暴力とセックスが結びつきを書いた記事を再度トップに上げたいと思います。)

この地球上で、最も女性にとって危険な場所は「コンゴ」であると言われている。コンゴでは殺戮とレイプが吹き荒れていて、未だ止まらない。
(戦略的に女性をレイプ。史上最悪の暴力国家コンゴ)


アフリカでは、コンゴの他にもスーダンや中央アフリカでも女性が戦略的にレイプされている。

そして、最近では無法地帯ソマリアでも、レイプが恒常的に行われていることがヒューマン・ライツ・ウォッチによって報告されている。レイプの被害者の3分の1は、18歳未満の未成年である。

戦場では殺戮とレイプがしばしば密接に結びつく。つまり、殺戮という究極の暴力と、レイプという究極のセックスが、そこに結びついている。

もっと端的に言うと、セックスと暴力は、切り離せないものになっている。


セックスと暴力の相性

セックスと暴力は、いったいどうして結びつくのだろうか。様々な要因があって、たとえばセックスというのは元々肉体的なものであり、その肉体性が暴力を喚起するという説がある。

セックスは本能であり、本能は動物的であり、動物的なものは暴力性が垣間見える。だから、セックスと暴力は相性がいいと一般的には言われている。

科学者は別の見方をしていて、たとえば、セックスと暴力の相性は、脳の仕組みに関連していると考えているようだ。

・性ホルモンの中枢
・性行動の中枢
・攻撃性の中枢

この3つの中枢が、人間の脳の非常に狭い部分に隣接している。

性ホルモンの中枢と性行動の中枢は同じ間脳の視床下部付近にあるのだが、攻撃性の中枢は間脳に近くの扁桃核にある。

性的な刺激を受けると、その刺激は攻撃性をも誘発する。逆に、攻撃性の刺激を受けると性行動をも誘発する。恐らく刺激が強ければ強いほど、その刺激が放射状に別の中枢に拡散していくのだろう。

だから、セックスと暴力は一体化することもあるのだというのが科学者の説明だ。


動物の交尾でも同じ

セックスが暴力と結びついているというのは、人間社会ではレイプやボンデージやサディズムやネクロフィリアなどがすぐに挙げられる。

売春女性を殺しまくる連続殺人鬼は、たいていはレイプしてその後に殺すのではなく、殴って蹴って刺して食いちぎって血まみれになった女を見て興奮しているのが損壊した死体を見ても分かる。(娼婦49人殺しロバート・ピックトン。典型的な死体加虐者)

レイプという犯罪がバレないように殺して証拠隠滅するのではなく、殴り殺しながらレイプするのが目的なのである。死体の処置に困ったら、今度は切り刻んで食べてしまったりする。

脳の中では、食欲の中枢も実は暴力の中枢に近い。これは、狩りで動物を殺したら、そのあとは食べるという一連の行動が、本能によっても強化されているということでもある。脊椎動物はほとんどがそのような脳の作りになっている。

ネクロフィリアがネクロサディストになって、さらにはカニバリズムにまで行き着くのは、すべて本能の為せる業だったのかもしれない。

動物の交尾も、オスがメスを攻撃する形で始まることが多いのだという。アカゲザルの場合でも、猫の場合でもそうだ。

また、オスは他のオスにメスを取られないように、攻撃性を剥き出しにしながら交尾に入る。

あるいは、一匹のメスを巡って最初にオス同士で闘いあって、勝ったほうがメスと交尾するというスタイルを取る。そこでも暴力が関わっている。


根源的な「本能」の結びつき

平和な時代が続いていると、なぜ暴力が存在するのか忘れてしまうし、誰でも暴力を振るわれるのは嫌なので先進国になればなるほど暴力を封じ込める。

そうすると、余計に暴力が縁遠いものになって、暴力とセックスが結びつくというのが犯罪的だとすら思うようになる。

しかし、アメリカ兵がどこででも敵地で女性をレイプしていたり、アフリカの暴力闘争には必ずスレイブ(奴隷)にされる女たちの姿があったりするように、暴力の現場には必ずセックスがそこに見え隠れする。

どんな時代の、どこの国の戦争でも、必ず暴力の現場には、レイプがある。

売春地帯でも同じだ。最初から暴力を振るうために来ている男の存在もある。レイプも罵倒も、売春地帯ではごくありふれた犯罪だ。


今でも暴力とセックスは切り離せない現状がそこにある。

暴力とセックスは根源的な「本能」の結びつきだった。


ボスニアでは戦略的レイプが行われた


相手を殴りつけて勝敗を決める

人間の三大欲望というのは「食欲」「性欲」「睡眠欲」とよく言われている。

「三大欲望」とはよく言われるが、「三大本能」とは言われない。三大本能という言い方をすると、恐らくこうなる。

食欲、性欲、暴力欲。

かつては獲物を採るにも暴力が必要だった。かつては女を取り合うにも暴力が必要だった。

食欲と性欲は密接に暴力と結びついていたので、脳も暴力を本能として格上げしているのである。

暴力を否定するのはまっとうな社会人としては当然だ。それは人間社会ではあってはならないものである。

スポーツも暴力の代償みたいなものだから、本当であればあんなものは禁止すべきなのかもしれない。

ボクシングや格闘技を見れば分かるが、相手を殴りつけて勝敗を決める残酷なものである。ボクシングはスポーツであるが、同時に暴力行為でもある。

しかし、ルールを決めて行っているのだからそれはいいと人々は言う。そこに暴力があるというのは奇妙なことに、人々の頭からすっぽりと抜けている。

ボクシングや格闘技を見て喜ぶ人は大勢知っているが、「格闘系のスポーツ反対」と国会で訴える人は見たことがない。


レイプ。傷害。私生活も暴力まみれだったマイク・タイソン


人々は暴力に飢えている

人間が本当に暴力が嫌いだと思っているのであれば、スポーツは絶対に流行しない。暴力を見たいから、暴力がベースになっているスポーツを見る。

どう見ても、スポーツは暴力の代用か、暴力そのものであり、それを見て人間は喜んでいる。

映画でも暴力とセックスに溢れている。ホラー映画でもゾンビ映画でも暴力が主題になっているではないか。それをカネを払って見たいと人々は思っているのである。

客観的に言うと、人々は暴力に飢えているのだ。

あなたがスポーツをするのが好きだったり、スポーツを見て楽しんでいたり、人が死ぬ映画を見たりしていることがあったりするのであれば、あなたも本能で暴力を求めているということだ。

それでいて暴力はいけないと、したり顔で否定しているのかもしれない。それは、あなたの本能とは違う建前を口にしているだけかもしれない。

あなたは、食欲という本能を持ち、性欲という本能を持っている。あなたもそれを否定しないだろう。

では、なぜもうひとつの本能である「暴力」が自分からすっぽり脳から抜けていると思うのだろう。暴力は、間違いなくあなたの体内にも眠っている。

ここが、人間の恐ろしい部分である。
http://www.bllackz.com/2011/09/blog-post.html  


25. 中川隆[-7656] koaQ7Jey 2017年5月13日 08:46:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

セックスと暴力は脳内でリンク Sex and violence linked in the brain
Ewen Callaway 原文:Nature (2011-02-09)
http://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v8/n4/%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%A8%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E3%81%AF%E8%84%B3%E5%86%85%E3%81%A7%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF/36503


マウスの暴力行動にかかわる中枢を探して、交尾と関連する脳領域内のニューロ ン群に行き着いた。

マウスではセックスと暴力に関するニューロンが脳内で絡み合っていること が、カリフォルニア工科大学(米国パサ デナ)のDavid Andersonらにより明ら かにされた。雄マウスでは、出会った仲間と戦うか、それとも交尾するかを、脳の深部にある小さな細胞集団が判断して いることがわかったのだ。

こうした回路 は、ヒトの脳にもあると考えていいだろう。

Nature 2011年2月10日号に報告さ れたこの研究 1 では、雄マウスで問題のニューロンの活動を抑制したところ、本来なら攻撃を仕掛けるはずの、縄張りに 侵入した雄マウスを無視してしまった。

反対にこれらのニューロンを刺激して活性化させると、雄マウスは無生物の物体に対しても猛烈な攻撃を仕掛け、本来な ら求愛行動をとるべき雌にすら攻撃行動 をとった。

これらのニューロンは、視床下部にある暴力行動との関連が知られている領域内に存在する。

ネコやラットでは、その領域付近に電気刺激を与えると行動が凶暴になる。

しかし、数十年前に行われた 神経生理学実験では、刺激される脳領域 の範囲が広すぎて、暴力に特異的な脳回 路を特定するには至らず、ましてや、攻撃性に関与する個々のニューロンの特定などは不可能だった。 近年になって、特定遺伝子を欠損させ た遺伝子操作マウスの中に、正常なマウスよりも攻撃性の強いものが見つかった。

「こうした攻撃性の強いマウスの脳 のどの部分が異常になっているのかは、よくわかっていません。そのため、異常 な攻撃行動が何を意味しているのかが、 なかなか理解できずにいます」

と、論文 の第一著者で、現在ニューヨーク大学(米国)に所属するDayu Linは話す。

攻撃でも交尾でも活性化マウスでは、ネコやラットと違って、ただ雄の視床下部を電気刺激してもより好戦的にはならない。

そこで、どの領域が 暴力行動に関係しているのかを解明するため、研究チームはまず、雄マウスの縄張りに、雄・雄または雄・雌などの順番 でほかのマウスを連続して侵入させた。

続いて、最近活性化したニューロンを識別できる蛍光タグで脳細胞を標識して、 侵入個体との出会いで活性化された雄マウスの脳領域を調べた。

すると、意外なことがわかった。

攻撃の最中には視床下部腹内側核(VMH)の腹外側域内のニュー ロン群が活性化していたが、交尾の最中にも同じ領域が活性化していたのである。

研究チームはこの結果に当惑し、今度は、この領域内にある個々のニューロンの活動を計測できるように雄マウスの脳内に電極を植え込み、マウスが攻撃または交尾をしているときに何が起こっているかを観察した。

すると、大半のニューロンは交尾と暴力的攻撃のどちらか一方に 特異的にかかわっていたが、一部のニューロンは、一見相反する2つの行動のどち らの最中でも発火(活性化)していた。

研究チームは次に、光遺伝学と呼ばれ る技術を用いた。

この領域のニューロンを、細胞を青色光に反応させる遺伝子を組み込んだウイルスに感染させ、さらに マウスの脳に光ファイバーを埋め込ん で、遺伝子が組み込まれたニューロンを必要に応じて発火できるようにしたのである。

この方法でニューロンを発火させた ところ、雄マウスはほかの侵入マウスをすぐさま攻撃した。

興味深いことに、攻撃中枢にあるニューロンを活性化する と、通常では無視する去勢した雄や麻酔 をかけられ動かない個体、膨らませた実 験用手袋に対してまでも暴力的攻撃が引き起こされた。

しかしながら雌に対し ては、確かに攻撃行動が見られたが、程度があった。
雄が雌に初めて出会ったと きに問題のニューロンを活性化すると雄は攻撃行動を示すのだが、すでに交尾行動に入っている雄のニューロンを活性化しても攻撃行動は起こされなかったのだ。

「自分の世界に入ってしまっているような、聞く耳持たずの状態です」

と Lin は説明する。

しかし、交尾後に活性化すると、雌に対してすぐに攻撃を仕 掛けた。(脚註URL参照。)
一方、攻撃中枢の活動を停止させる と、雄マウスの暴力衝動に従った行動も止まった。

また、これらの細胞で攻撃行動を抑制するような遺伝子を発現したマウスは、雄の侵入マウスを攻撃しなかったが、性的欲求は保たれていた。

絡み合う2つの回路 今回の結果は、セックスに関与する ニューロンと暴力に関与するニューロン は別個ではあるが、脳内で巧妙に絡み合っていることを示唆している。

このことは侵入者が雄か雌かによって適宜対応するのに役立っているのではないかと、 LinとAnderson は考えている。

セックスによって活性化されるニューロンは、 見知らぬ雌に対する激しい攻撃衝動を抑制しているのだろう。

「侵入してきた雄からは自分の縄張り を守り、侵入してきた雌とは交尾する必要があります。言ってみれば、脳の回路 にそれが組み込まれているのです」

と、 ハーバード大学医学系大学院(米国マサ チューセッツ州ボストン)の神経科学者 Clifford Saper は話す。

「これは、動物 が自分の縄張りを守り、子を養うのに十 分な場所を確保するための術なのです」。

サンパウロ大学(ブラジル)の神経科 学者 Newton Canteras は、これと同じ脳回路はおそらくヒトにも存在している だろうと話す。

脳深部の電気刺激研究 で、VMHがパニック発作などの防御行 動とも関連していることが明らかになっており、この領域がヒトでも攻撃性にかかわっている可能性が高いと彼は言う。

Anderson も「これがヒトにも当てはま ると考えるに足る十分な根拠はあると思 います」と話す。

視床下部は脳の中で最も起源の古い構造の1つであり、サルでも攻撃性に関連することがわかっているからだ。

Andersonによれば、この脳内経路は おそらく、一部の暴力的な性犯罪者で機能異常を来たしているのではないかという。

「もしかすると、そうした人々では、 これらの脳回路に何らかの誤配線があっ て、そのため暴力の信号伝達とセックス の信号伝達が互いに適切に分離されてい ないのかもしれません」。
http://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v8/n4/%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%A8%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E3%81%AF%E8%84%B3%E5%86%85%E3%81%A7%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF/36503


26. 中川隆[-7652] koaQ7Jey 2017年5月13日 11:10:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

釈迦が見た地獄とはどんな世界だったのか 4


仏典の地獄を偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションにすぎないと考えるのなら、これはどう思われるか。…

「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。

泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、

妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。

死体の山に石油をかけて焼き尽くす。

木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。

背中に石を結わえて水中に投げ込む。

輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。

赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。

鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。

婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。

生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」

 これはフィクションではない。「正義」を掲げた日本軍が中国でやったことである。といっても、ここでは戦争の是非を論じようというわけではない。地獄は決してフィクションなどではなく、スーパーリアリズムの世界だと言いたかったのである。我々の心の内側にある畑が荒れ果てたとき、地獄はどこにでも出現する。地獄の発生は倫理や道徳では抑えられない。かつて倫理や道徳が声高に叫ばれていた時期に、戦争が絶えたことはなかった。いや、むしろ、戦争は倫理や道徳の意図的操作によって遂行されたと言ってもよい。これは歴史の教えるところである。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html


南京にいた日本兵たちの人間墜落と性的異常行為は限界がありませんでした。ちょうど退屈凌ぎに殺人コンテストが考案された様に、兵士たちはセックスの十分な供給に飽きると様々な気晴らしの強姦ゲームを創造しました。

おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。

南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。

また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。

そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。

さらに最も卑劣な性的拷問手段の中には家族に対する退廃があります。

日本兵は中国人男性に対して、父親は娘を、兄弟は姉妹を、息子は母親を強姦させる近親相姦を強制して、加虐的な喜びを味わいました。

中国軍大隊の司令官だったGuo Qiは、街が陥落して息詰まっていた3カ月の間に、少なくとも4、5回は日本兵が母親を犯すように息子へ強制して、拒んだ者はその場で殺されているのを見たり、聞いたりしました。

この報告書は、ある中国人男性が母親を強姦することを拒んでサーベルで突き殺され、直後にその母親も自殺したことについて報告したドイツ人外交官の証言で実証されています。

家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。


日本兵に捕らえられた女性たちは強姦された直後に殺され、生きる望みはほとんどありませんでした。

女性たちは様々な方法を用いて強姦から逃れようとしました。中には、すすを顔に擦り付けて老いて見せたり、病気にかかっているように見せたり、頭髪を剃って男性を偽ったりして変装する女性たちもいました。(ある利口な若い女性は金陵大学の安全地帯までの道のりを老婆に変装し、杖を持って足をひきずりながら、背中に借りた6才の子供を負ぶって歩いてきました。)また4日前に死んだ子供を生んだと日本兵に告げて病気を装ったり、中国人捕虜の助言を受けて指を喉に突っ込んで何回か嘔吐して見せた女性もいました。(彼女を捕らえた日本兵は慌てて建物から追い出しました。)中には人混みの中を屈んで進み、壁を敏捷によじ登って日本兵からの追撃を逃れた女性や、三階の日本兵を妨害して、庭の中国人男性が支える竹棒を滑り落ちて、辛うじて暴行から逃れた少女もいました。

しかし、あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。


金子安次
「昼間のうちにいい女に目をつけておいて、夜襲いに行く兵士もいた。頑強に拒んだ女性には膣に棒を押し込み、子宮を切り裂き、油をつけた綿を押し込み燃やしたこともしばしばあった。」

 金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。

子供は、慣例のごとく両親の目の前で殺された。


子供の前で母親を犯す。赤ん坊を火にくべる。または子供の前で親を焼き殺す。

生きたまま生体実験を行う。 慰安と称して女性の膣にガソリンを含んだ布を押し込み、火をつける。


日本兵が南京の居住民に与えた数々の拷問は人間の理解できる範囲を越えています。下記の例はそのほんの一部分です。

(生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。

(切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。

街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。

(火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。


また犠牲者たちを燃料でずぶぬれにして射撃し、炎上するのを観望するという娯楽も実施されました。ひどい事件の中には日本兵が何百人に上る男性や女性や子供たちをガソリンでびしょ塗れな広場の中に入れ、マシンガンで火を点火することもありました。

(氷による殺害)南京大虐殺中、 何千人に上る人々が故意に凍死させられました。何百人に上る中国人捕虜たちが凍結している池の辺まで行かされ、裸になって氷を壊し、水の中へ魚を捕まえに飛び込む様に命令され、水の中に入ると彼らの肉体は日本兵の銃弾に穴を空けられる浮いた的と化しました。また避難民集団を縛って浅瀬の池へ投げ入れ、そして手榴弾で爆破して「血と肉体の爆発雨」を引き起こすこともありました。

(狂犬による殺害)残虐非道な拷問方法の中には、犠牲者たちの腰部分まで土の中に埋めてジャーマンシェパード犬にかみ殺されるところを観望するというものもあります。日本兵が犠牲者を裸にして、肉体の敏感な部分をジャーマンシェパード犬に噛みつかせる指図をしているところを見物人が見ていました。犬たちは腹を噛み開き、腸を離れた場所へ引きずり出していたそうです。

これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。

日本軍はまったく人間性を喪失してしまい、少しもはぱかることなく女性を強姦・輪姦した。幼女からろうぱまで、はなはだしきにいたっては妊婦さえも免れることはできなかった。

数多くの女性は暴行されたのちまたむざんにも殺害された。日本軍が南京を占領して1か月の間に、2万回以上もの強姦事件が発生した。その時、南京にいた外国の人たちが日本軍のことを「きん獣の群れ」といったのである。

”輪姦の後、殺害された女性”とキャプションのあるこの写真では腹を割かれ、内臓がとび出している。少し開き加減の足。左足の先のほうにはズボンと覚しきものがからまりついている。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/magaz306.html


人前で中国人の首を斬殺さしたり、妊婦を銃剣でお腹を裂き見世物にしたとか、娘らを強姦したら殺す!(死人にくちなし、と言う事だそうです)

乳飲み子を母親から取り上げ谷へ投げ捨てた。

子供に”みの”をかぶせ火の中に投げ入れ、熱い熱いとみのがゆれるさまを喜んで”みの踊り”と言ったそうです

日本兵は「幼い娘は熟していない」といって、下腹部を切り開き輪姦を始めるのであった。妊婦でさえも容赦はなかった。

妊娠9ヶ月の17歳の少女を2人の日本兵が強姦する。この結果流産してしまい、彼女は発狂してしまった。HongWu門外では日本兵が農家の妊婦を強姦し、女性の腹部を切り開き、胎児を取り出した。また別のところでは、日本兵が妊婦を強姦しようとしたがお母さんが立ちふさがる。

そこで日本兵の超残虐な行為が始まる。日本兵は老婦を蹴飛ばし、妊婦の腹部をナイフで切った。数ヶ月たったばかりの胎児が中から飛び出した。

このようにして2人の尊い命が一瞬のうちに消えてしまった。多くの女性が強姦の後殺害されている。ある日本の上官は部下にこう言った。「後で厄介になるから、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」多くの女性はこの時の経験を話せない。

しかしそのような地獄から生還した女性もいる。彼女はJianYin通り6丁目に住んでいた。彼女は他の女性といっしょに日本軍に連れ去られた。日中は洗濯をさせられ、夜になると輪姦の道具となる。年増の女は一晩で10回から20回。若くてかわいい女はもっと多かった、と証言する。

正月元旦の日、二人の日本兵が彼女を連れ誰もいない学校にやってきた。そして彼女を10回銃剣で突き刺した。首の後ろに4回。腕に1回。顔に1回。背中に4回刺された。日本兵は彼女が死んだと思い、去っていった。あとで通行人に助けられ病院に担ぎ込まれ命を取り留めた。強姦の後幸運にも殺されなかったが性病に罹り、一生苦しんだ人たちもいることを忘れてはならない。


" 外国人の見た日本兵の蛮行 # という本の中に著者の TianBoLie 氏は南京の虐殺の事実を記録に残している。そのほとんどが強姦であった。それから少し例を拾ってみるだけでも日本軍の罪の重さがわかる。12月14日正午、日本兵は JianYing 通りの民家を襲った。4人の少女を誘拐し2時間かけて強姦した。12月14日夜、日本兵が民家を襲って女性を強姦し、連れ去った。12月15日夜、大勢の日本兵が Jinling 大学の講堂に押し入った。そこで30人の女性を強姦した。ある者は6人の日本兵から次々と輪姦された。 12月15日夜、大勢の日本兵が ShanTiao通りの民家に押し入り、多くの女性を強姦した。12月16日、日本兵は保育大学から7名の少女を誘拐した。年齢は16歳から21歳までの娘であった。そのうち5名が後に釈放された。18日におこなわれた事情聴取によると彼女らは一日に6回強姦されたといっている。

12月18日の夕暮れ時、4,5百人の女性がわれわれの事務所に保護を求めてやってきた。 この多くは日本兵に強姦されていた。 ここに記載した事件は南京陥落後のほんの数日間に起こった氷山の一角に過ぎない。 実際、 " 強姦は南京陥落後6週間に渡って大規模に行われた」のである。これらの犯罪は下級兵士の行動にとどまらず、指導者層にまで及んでいる。

南京虐殺の主犯格である日本軍第六師団長谷寿夫の証言によると、彼は ZhongHua 橋の近くで Din Lan という女性と他に二人を強姦している。また、SaiHongQiaoで Liu YuQingさんと他三名を強姦した。他のところで10名以上の強姦も認めている。日本軍の侵略者たちは強姦で動物本能を満たすだけでは終わらなかった。

彼らは集団で輪姦し、その後、殺して死体を切断するのであった。多くの女性は10人くらいの日本兵に輪姦された。そして女性は死んでいく。この種の経験をした女性の死体は数限りなくあった。虐殺の期間中、強姦の犠牲者には教授婦人、尼僧、労働者、教師、学生などがいた。


2月の終わりごろ、14人の難民の家族が日本軍により惨殺された。一番下の娘はほんの14歳。彼女は二つの正方形のテーブルの上に乗せられて死んでいた。上半身は服を着たままであるが、下半身はすべて剥ぎ取られテーブルは血の海であった。そして彼女の下腹部には銃剣で刺した後が二つあった。

お姉さんは妹と同様の格好でベッドの上に倒れていた。母親はテーブルのところで1歳の赤ん坊を抱きかかえ倒れていた。赤ん坊は腹部をナイフで切られ、内臓が飛び出していた。正視できない地獄絵巻である。国際委員会の委員は調査に乗り出した。
写真を撮り、それをアメリカの市民のもとに送った。日本大使館にも送った。


日本軍の地獄の苦しみを味わったのは主に女性であった。彼女らは強姦されてそれで終わりではなかった。日本軍から胸を切り落とされ骨が見えている女性。
下腹部を銃剣で刺され苦痛で泣き叫ぶ女性。また、下腹部に木材、竹、人参などを差し込まれ、かき回されて死んでいく女性。

これを端で見ている日本兵は拍手を送り高らかに笑っていた。日本軍に囚われコックとして働かされた中国人が脱走後次の話をしてくれた。12月16日、通りに出てみるとまだ火も残って煙が立ち込めていた。我が同胞の死体の山、山、山。特に女性の死体が目立つ。それらの中で10体のうち8体は腹部を切断され中から内臓が出ている。

血まみれの胎児を手にした母親の死体もある。女性の乳房は切り取られるか銃剣で刺され、血と肉の固まりと化している。南京市内外の虐殺の期間中、多くの女性の死体はこのような様子であった。XinZhong門の城壁近くの家で60歳代のおばあさんの死体が見つかった。おばあさんの下腹部は大きく膨らんでいた。

YangPi通りの北に少女の死体が見つかった。おなかは切り開かれ内臓は引き出され、2つの目は大きく見開き、口からは血が流れていた。 GuYiDian通りでは12歳の少女が死んでいる。下着は破られ、目は閉じたまま口は開いていた。この死体を見てわかることは、これらの女性が単に日本兵の刃に倒れただけでなく、辱めを受けているということだ。

日本兵の犯した強姦の罪は重い。その残虐さは彼らの殺戮に劣らなかった。日本軍の上官はこれらの残虐行為の手をゆるめることはなかった。むしろ兵士の動物本能を満足させるためにこれを奨励した。その結果、日本兵はどこに行っても強姦をやった。上海、SuZhu,WuXi, HangZhou でも日本兵は同じことをやった。

南京の女性の運命は特に悲惨なものであった。南京陥落後、日本兵は女性を求めて南京のいたるところを探し回った。そして見つけると集団暴行を行う。
http://www.geocities.com/Pipeline/Halfpipe/3791/katari2-2.html

日本兵の婦女暴行・強姦の実態

1.妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。興味本位で、得意気に。(元軍曹T)

2.死体処理の少年の証言、女性の死体は特にひどい。ある女性は両手両足をひろげてベッドに縛られ、局部にサイダーの壜を深く刺されて被殺。

3.多くの少女はベッドに縛りつけられ誰でもがすぐに犯せるようにしている。少女があまり泣きじゃくったり、性病に罹ったりしたら、すぐに殺されてしまう。路地や公園には女性の死体でいっぱいだ。 彼女らは死んだ後でも切断されたり、局部に物を差し込まれたりして辱めを受けている。

4.一月一日、呉昌生が光華門外の自宅に帰った時、七人の日本兵がひとりの中国人のおばあさんを連れてやってきた。彼らにおばあさんを犯せと命じた。日本兵はこの光景を見て笑っていた。

5.二月五日、三牌楼に住む六十歳を超える陳さんのところに三人の日本兵がやってきた。 一人が見張りで、他の二人は交代で強姦した。日本兵の一人はおばあさんにペニスをなめてきれいにしろと言った。

6.1944年の春頃、鈴木氏が分隊長として、討伐作戦に参加した際のある村の話であった。 彼の分隊が休憩していたある農家に、一人の憲兵が現れ、惨劇が始まった。村の女性に食事を作ることを強い、お湯を沸かせていた時のことだった。

突然、その憲兵は梅毒にまみれた自らの陰茎をとりだし、食事の準備中の、一人の女性に、これを舐めろと要求した。ところが毅然と拒絶したその女性に、憲兵は激怒し、服をちぎって沸騰したお湯を浴びせ、遂に殺害した。


7. 12月15日、またもや押し入ってきた日本軍の兵士が、数え年8歳の蔡さんを強姦した。蔡さんはその様子を次のように語る。「日本兵は、私の陰部に手をねじ込み、その時まだ幼かったので、非常に硬かったのを無理やり押し込んでこじ開けた。


8.「冬には、至るところで暖をとります。兵隊は、赤ん坊をひっ捉まえ、火の中に投げ込んだものです。」と、古参兵の一人が報告する。別の帝国陸軍の兵隊が語る。

彼の部隊は打ち棄てられた村で女をみつけ、裸にし、「膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました。皆それを見ていました。隊長もです。 部隊の慰安の一種だったんです。」


「暗い部屋に産褥の婦人ありて傍らにいとけなく眠る嬰児。銃剣で布団を跳ねのける。女は両手を合わせて拝んでいる。(略)彼女は衣服乱れて乳房一突き息絶えていた。」「先に高粱で隠された長持の中の娘もどうやら、輪姦の上刺殺した模様であった」(一一○頁)。

「掃討にあって残虐は付きもので、女をあさる。

輪姦、強姦と、又素裸にして乳房を刺突或は陰部にローソクを垂らし悶えるを見て悦び、恥毛に煙草の火をのせて焦げゆく興味。

タマゴを局部に挿入二個、三個と、更にトウモロコシを挿入或はピストン運動、トウガラシを詰め込み歓声を上げる。

銃剣の先で膣をつつく。こうして時間をもて遊んでいる。呻き苦しみ悶絶、出血滴る女と、掃討の修羅である」(一一二頁)。

「捕らえた女を丸裸にして寝かせて、両足を一ぱいに広げ杭に結びつけ尻したに枕して腰を浮かせて膣に、ナンパ大根と挿入できるようなもの等、刺激物のトーガラシとかをもって、いろいろなことをして、悶える表情に歓声を挙げていた。

更にローソクの垂汁をポトポトと膣に落し上手、下手を争って楽しんでいた。

乳房、腹上、局部にムカゼ・サソリ等を捕らえて這わせての興味を持っての蛮行が、いずこの部隊でも隠された所で行われることが、討伐作戦の楽しみであった。」

「捕虜の男と女を牢から出して来て裸体にして女に男の性器をくわえ吸わせ舐めさせ、性器が勃起するの見物と、性交させることの成り行きと、女の膣ネブリ、乳房と、ああしろ、こうしろと、注文をつけて、その表情を楽しんでいた。」(一一七頁)

 強い攻撃性は、攻撃の対象により強く大きな苦痛と恥辱を与えることで、自らの勝利感、征服感を満足させた。その対象が女性であるときは、性器への攻撃となって現われた(二六)。
http://park17.wakwak.com/~ueba/sankousakusen.4.html


まず、釣り針が連続して付いている釣り糸と竿を用意します。

そして、女の股をひらかせます。

女の膣に釣り糸を挿入。

釣り針も全て挿入し、挿入が終わったらウィンチで思い切り引っ張る。


これは第二次世界大戦時、日本軍が中国で行ったお遊びです。

男性に対しては行われず、女性のみを対象とした完全な性器刑。
失血死した人もいたそうです。


___

拷問の光景を見てみよう。

  土地の者ではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った綱にかかった」のである。名前を張文達といった。三十三歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄から見て班長級だな」ど、士屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それて先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。・・・
 
 まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは、「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀ででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ。士屋ど同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。

 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に、両手足を麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも一時間、二時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき。脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は十キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。・・・

 二日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しにした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と士屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューッという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。

 「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す。話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテを使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。・・・

 拷問は、さらに続いた。逮捕して二日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが三日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水を入れた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため、息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。この繰り返しだった。何回やっても同じだ。相手は気絶している。自白を得るという効果はなかった。・・・

 三日目は水責めで終わり、四日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を三本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。三本並ペ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚二人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。・・・

 足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を四、五本求めてきた。この針を男の手の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっていると、ほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとすると、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。

 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達三十三歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ以外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。

 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から二日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵十五師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋も見た。(p.81-86)
http://www.ne.jp/asahi/kuma/radical/dokusyo/special/kenpei_kiroku.htm


広東州の中央憲兵隊へ補助憲兵として私は派遣された。野戦補助憲兵といって、憲兵と同伴の時だけにかぎって憲兵の資格を有していた。主な任務は、保全地区(駐留日本軍の勢力圏内)での治安維持であった。特に、思想犯に目を光らせた。思想犯を捕え、拘留し、洗脳するのであったが、そのやり方は目を覆うものであった。

 コンクリートの上に、真っ赤に焼けた木炭を敷きつめ、その上に裸にした“囚人”を転がした。喚き、のた打つ“囚人”は隅へ隅へと転がってくるが、周囲には日本兵がいて、それを蹴飛ばして再び中央へ戻した。“囚人”の反応の仕方は、もはや人間のものとは思えなかった。多くの“囚人”は三日目を境に死んでいった。

 女に対してもその残虐度は同様であった。やはり全裸にして、獣のように四つん這いにさせ、丸太で打ちのめした。

私は、そればかりはどうしてもできなかった。すると、

「これしきのこと、できんのかッ」

 一人の憲兵が私を蹴飛ばしてから、丸太で渾身の力を込めて女を打ちすえた。

中国人は人間に非ず、否、生き物にさえ非ずとでも思っているような拷問であった。彼らの抵抗は死以外の何ものでもなかった。
http://page.freett.com/sokagakkai_komei/www.sokagakkai.or.jp/sokanet/HBK/Heiwa/hansen-7.html


日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口

 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。

1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、

鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、

あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。
http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言
http://www.youtube.com/watch?v=-qOV2saI5kQ


 昭和17年(1942年)春のことだった。入営以来の住み馴れた
東満国境の部隊から関東軍防疫給水部に転勤になったとき、私に与えられた職務は
教育部付きとして各支部に配属される衛生兵の教育だった。
それが終了した後、第一部吉村班に出向ということになった。

 ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行ったとき、たまたま
喝病〔原文ママ〕の生体実験が行われている最中だった。

それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、
初めて接する部隊の隠された側面にただ驚くばかりであった。

堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に
喝病にかかりやすい気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察し、
その病因を究明するためのものだった。

 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。
いかに苦しくとも束縛されていて身動きもできない。

やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。
耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり、狂声と変わっていく
あの凄まじい断末魔ともいえる形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。

私は初めて見るこの凄惨な光景をとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。
それにしても平然としてこのような実験に取り組んでいる人たちは、果たしてどんな神経の持ち主なのであろうか。……
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/05/post_44a5.html


実験その1。

厳冬の厳しい真冬の寒さの中に「マルタ」を長時間置き、凍傷を作りその治療をするという人体実験。

この場合限界まで外に置き完全に凍傷をさせる死の直前まで外に置く。

死んでは治療が出来なくなためです。そして体に出来た各部の凍傷を治療するという人体実験。

零下40度cの中に、長時間置かれるだけでも苦痛なのに。凍傷しているかを試すのに、
角材で、手、足を殴り、痛いうちはまだ凍傷になって
いないため更に、長時間、外に凍傷するまで置かれたという。

実験その2。

腹部に銃弾を撃ち込み、その銃弾の摘出手術をするという人体実験。
治癒するまでの時間がどの位掛かるのか。


実験その3。

無理やり全身麻酔の注射をして、人体を解剖し、足、腕、を切断し、接続する人体実験。
頭部を切り落とし脳の中の仕組みを調べる。


実験その4。

「マルタ」の男女にセックスをさせる実験。目的は梅毒に感染させるため。
日本兵が梅毒に感染した時の治療方法の研究。


実験その5。

細菌に感染させる人体実験。チフス、ぺスト、コレラ、赤痢、結核、梅毒等に感染させて、
その病状の変化の様子を克明に記録した。


実験その6。人間はどの位食べ物を摂らずに生きていられるかの実験。

兵士の背負う重装備の「背嚢」→はいのう。約30キロはある重い物を
背負わせ。5時間〜6時間歩かせ、水、食べ物をも与えず何日位位耐えられるのか。

あるいは飲料水と乾パンだけで、何日耐えられるか。

この実験には2人の中国人が使われた。何も与えない人。水と乾パンだけの人。
それぞれのデーターが記録された。


実験その7。

臓器摘出の人体実験。「マルタ」に全身麻酔をして、切り開かれた体内の臓器に、
刺激を与えどのような反応をするのかの人体実験。

そして摘出をして、ホルマリン漬けにする。まだぴくぴくと動いていたという。


実験その8。

「マルタ」を逆さつりにして、何時間何分で死に至るのかの人体実験。
身体の各部はどのように変化するるのかのテスト。


実験その9。

猿や馬の血液と人間の血液の交換実験。「マルタ」の体内血液を全て抜き取り、
どの位の分量の血液が搾り取る事が出来るかの人体実験。


凍傷の人体実験では、極寒の零下40度に長時間放置し、冷凍人間に近いものを作って
人体実験をした部分は記載中涙が止まらなかった。何故そのような事が行われたのか?

答えは、かってシベリア出兵の時日本軍は凍傷に悩まされた経験を持っていました。
この凍傷の克服のために731部隊では、凍傷実験が行われたのです。

この実験で手足を無くした「マルタ」の身体は、かろうじて残された頭部だけです。
そして最終的には毒ガス実験などに「再利用」されたという

その他「マルタ」を柱に縛り付け、空中から細菌爆弾を投下し効果がどの位あるのかを実験した。
「細菌の効力を確かめるため」

毒ガス実験では、ガラス張りの中に「マルタ」を入れ、毒ガスで死亡していく経過を映像に記録したり。絵画を描いたという。
http://homepage2.nifty.com/yocyan1854/ikari4.htm

そやね。私たちが片付けにいったとき、中国の女の人がありましたね。

梅毒の実験の。スペロヘータの実験の。それは思い出ありますね。

えーと、やられた先生は、園田中佐。教育隊の中佐のね。

それで私たちが入ったのは梅毒のそれをやったあとですから、恥部をずうっと切り開いとったですね。

その実験がどういうようにしたとかはお聞きになりましたか?

いやー、それは聞いてない。それは恥部と、それとあばらを開いとったですね。

その中をどうあたっていたかは覚えてないですね。顔とかはあたってないです。
まあ、そのような繰り返しです。
http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm


その真空試験いうのは?

結局カプセルの中に入れて空気を抜くわけです。そうすると穴という穴から腸とか全部飛び出してくるいうて、凄かったらしいです。

それを言われた方、覚えていますか?

はい、1班におったのですね。茨木の方です。4年次になってちょっとして聞いたですね。

何班ですか?

それは研究班になるんですね。岡本班ですね。どういう意味でやったのかそこまで聞かなんだけどね。
http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm

日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。

 「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中という者は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、
次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。

 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。

この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。

 ある日、田中という者は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に

「俺もしたから、お前もやれ」

とそそのかし、私に×××させた。 私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。

 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」

 日帝野獣は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。

かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、
乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。

 日帝は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、
死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。
http://www.piks.or.tv/date/japan/20040826.htm


『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』

耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で
切り落とすと傷口から真っ白な脂肪が溢れ出してきて、やがてそこから血が流れ出した。

731部隊やら南京大虐殺と並んで有名な従軍慰安婦問題。
A級戦犯が永眠る靖国を総理が未だに参拝している事が大陸で問題視されているのも、生の声を聞くと頷ける。
http://www.eigaseikatu.com/imp/14905/152813/


兵隊は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいまし た。ところが、両親は私たちを残して死ん でしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお 母さんに続いて死んだのです。

  住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして 弟たちを養いました。   私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋 に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。

彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。
弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだの で私は振り返ろうとしたのですが、
男たち に蹴られてトラックに押し込められました。

その中には、幼い少女から20歳前後までの 娘たちでいっぱいで100人くらいいました。
男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴っ たりして黙らせたのです。

  水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大 連へ連れて行かれました。
私たちが列車の 外をのぞこうとすると、「何を見ている」 と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりし ました。 私は、弟たちのことも心配だしこ れから何が起きるかという不安で泣き出し たのですが、そしたらまた殴られたのです。

兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江な どで娘たちの一部を汽車から次々と降ろし て行きました。 私は東寧県で汽車を降ろさ れ、20人くらいの女性たちとトラックでプ チャゴルに連れて行かれました。

到着する と将校が「天皇と軍の命令だ。言うことを 聞かないと殺す」と言いました。

私は5号室に入れられ、着いたその日か ら強姦されたのです。
あちこちの部屋から も悲鳴が聞こえてきました。
それからは、 少ない日でも30人くらいの日本兵の相手を しなければなりませんでした。

  ある日、2人の女性が兵隊の相手をする のを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。

兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。

その娘たちは兵隊に「犬のよう なお前たちの言うことなんか聞かない」と 言いました。

そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。

血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。

  彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って 沸いた湯の中に入れました。
そして、その 煮汁を私たちに飲めと強要しました。

拒否 すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。

  女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。

ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。

板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように
足の神経を切られてしまったのです。

  そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。
私は、 鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。

すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。

この時の火傷はケロイドになってし まったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。

  ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。
私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。

私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいま した。

私はここの「慰安所」に8年間いま した。

  体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。
1947年に帰国しましたが、 故郷には帰れませんでしたし、子どもを生 むこともありませんでした。
http://www6.ocn.ne.jp/~kitanisi/knews/knews0109.html


日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか:

A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのか
と尋ねたために、日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、
裸にされて、たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を
切られた。

さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で
『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』と述べ、死んだ女性の死体を
煮て食べるように強要した。


B. 韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令
され、そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。

C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を
切られ、ぶつ切りにされた。

D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦
の面前で引きちぎられて殺された。


E. 多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。

F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。

G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、

「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」

と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。

(上記の申立書、ならびにハウスフェルド法律事務所の各種資料は、

http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm



27. 中川隆[-7706] koaQ7Jey 2017年5月14日 07:33:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

>>22 の一番重要だった部分だけ削除されてしまいましたね
阿修羅管理人は完全なアホなのか、某筋から指示されたのか?


>>22 はここで見て下さい:


不可触民(ダリット)の世界 _ 釈迦が見た地獄とは何だったのか
http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/533.html#c83


28. 私は普通の人です[1] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月12日 22:19:03 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[1]
悟りを得るには煩悩を捨て〜みたいに言われていますが実際は違います。
なぜなら煩悩を捨てるという事自体が既に欲だからです。
加えて悟りを得ようとすること事態も欲です。得られるはずもありません。

悟りは得るものではなく、自然と身につくものです。
ではどうすれば身につくのか。簡単です。簡単ですが難しくもあります。

まず、自身が存在しない体で全てを見ます。そうすれば、そこに自身は居ないので自身の欲がない状態で全てを見ることが出来、何かに肩入れすることなく本当の意味での客観的な見方ができます。その状態で全ての問題を見ればどうすれば良いかが見えてきます。

ただし、その時点でのその人の価値観や、何に重きを置いているかなどが完全に影響しないようにしなければ、真に問題を解決することはできません。

そして自分が居ない状態で考え、しかし自分はそこに居る状態で、ありとあらゆる全ての良き調和を成す事を考えれば、全ての問題は解決するでしょう。ただし、自分が得ていない知識に関しては解決は出来ません。そうしたものはどうすれば解決できるかアドバイス程度は出来ます。

なので、悟りを得た人に頼るのではなく、自分自身が悟りを得れば、ありとあらゆる立場に居る人が自分自身で最良の解決策を見つけることが出来るようになるでしょう。

なぜ最善ではなく最良なのか、それは最善は人間が居なくなることだからです。人間が居なくなれば全ての問題は無くなります。解決ではなく無くなります。それはいきすぎなので最良で良いのです。

話を戻し、では煩悩はどうやって捨てるのか。苦から逃れるには。
上記で述べたことに加え、常に正しさを求める心、正しい道に導いてあげたいという思いやり、思い込まず決め付けない様にする意思、特定の何かに対する愛を全てにもつ(ここでいう愛は優しく強く時には厳しく場合によっては突き放し、しなやかに相手を見守るように想う心です)、これらを理解し、身につければ、自身の苦や悲しみなどは自身で解決できるようになり、また他の苦や悲しみも自身の苦や悲しみとして解決できるようになり、結果としてそれらを解決し、癒し、真実の幸福へと導くことが自身の幸福となり、全ての苦や悲しみは解決に至るようになるのです。

最終的には、世界から問題は最小値になります。何故最小値か、それは子が生まれてくる以上、常に問題は残るからです。また悟ったといってもそれは悟っただけで、何かを行えば、悟った人も人である以上、問題は起こりえます。が、悟っているので問題は最良の形で解決できるでしょう。

加えて、悟ったからといって苦や悲しみから永遠に逃れられる訳でもありません。
あなたが悟っても他者が悟っていなければ、それについての苦は経験の度合いによってついてきます。その時の苦に屈すれば、悟りを得た状態から悟りを理解だけしている状態になってしまいます。

欲を捨てるのではなく、欲を捨てて考え、欲を抑える術を知る事が肝要なのです。


29. 私は普通の人です[2] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月12日 22:44:33 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[2]
付け加えておきます。

自分中心で物事を考える時に現れるのは我欲です。>>28での欲は我欲としてください。自分が在っての愛する人、自分が在っての家族、会社、国、人類、地球、などなど、どれも自分中心で考えるので、いくらそれらを想っていたとしても、そこには自分が必ず存在します。なので皆、基準がばらばらになり、考え方が違ってきて問題が起こり争いになり、そこから苦や悲しみが生まれ、また新たな問題が生まれと負の連鎖となるのです。

下のほうのも欲ではないかと思う方も居るかもしれません。ですがこれらは、我欲でもなく他欲でもありません。自身が存在しない欲の無い状態で見たものなので、欲には含まれないのです。

もうひとつ、心を強くもってください。心を強く持つには覚悟することです。勝とうとするのではなく、全ての幸福の為に屈しないという想いです。

さらにもうひとつ、悟りを得ても、問題を解決出来る様になるだけで、解決するかどうかを決めるのは皆さん次第です。他者の幸福などどうでも良いと言うのであれば、悟りなど得ない方が良いでしょう。あなたの真意が試されるときですね。

最後に、これらは全て私が得たものであり、私の経験の結果です。皆さんはこれを完全に信じないようにして下さい。思い込まず決め付けずです。私に言えることは、これらは数学の公式の様なもので、誰にでも自分のものに出来るということだけです。


30. 私は普通の人です[3] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月13日 00:33:37 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[3]
>>29の下から5行目の「他者の幸福」は間違いで、「自分以外の幸福」です。訂正しておきます。

31. 私は普通の人です[4] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月14日 23:49:36 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[4]
これだけでは本当に悟りを得られるかどうか、疑問に思う方も居ると思うので、いくつか問題を解決しておきます。

偶像崇拝をしてはならない、というのがありますね。
一般的には、仏像を拝むなとか、そういう感じになっていますが、違います。

偶像とは、ありとあらゆる全てを指します。物質的に存在するもの、物質的に存在しないもの、全てです。

崇拝とは、それらを信じることです。身や心をゆだねてしまうことです。

なぜ偶像崇拝がいけないのかといえば、信じるということは、自分で考えずに他人任せにしてしまうことになり、自分自身では解決できなくなってしまうからです。

人間や、神、仏、救世主、天使、悪魔、善や悪といった創りだされた概念、その他全て、信じてしまうと、それらが言ったことや記したことは間違いないという風になってしまいます。

それらが本当に正しい事を言っていたり記していたりすれば、信じても旨くはいきますが、そうでなければ旨くいきませんし、場合によっては騙されます。

信じてはいけませんが、疑うな、信じるな、と言っている訳ではありません。
取りあえず信じてみて、それらを参考にして自分自身で考え、おかしいと思えば信じるのをやめれば良いのです。もしくは信じる対象をより正しく導けば良いのです。

こうしなさい、これが正しい、それは間違っている、などと、決め付けて言うのは簡単ですし、言われて従うのも簡単です。ですが、それらは偶像崇拝と同様に、言う人次第です。

そういった事を言う人に、そこは、これこれこういう理由でおかしくないかな、と説明しても聞く耳を持たない人は、貴方よりも未熟な人です。勿論、貴方の方が間違っている可能性もあるので、うぬぼれは禁物です。


32. 私は普通の人です[5] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 00:17:46 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[5]
因果応報というのがありますね。

良い行いをすれば良い行いが返ってきて、悪い行いをすれば悪い行いが返ってくる、みたいなかんじでしょうか。

自然界を見てみます。カマキリが蝶を食べました。そのカマキリを鳥が食べました。その鳥を人間が食べました。因果応報が在るのならば、人間は何かに食べられなければいけません。

食べることは悪いことではない、と言う方が居るかもしれません。では、人間が人間を食べることも悪いことではないのでしょうか。自然界の法則であるならば、悪いことではありません。が、人の世の法則では悪いことです。

人間が人間を食べて良いという事は、何をやっても良いという事に繋がってしまいます。ので、人間の世界では弱肉強食を行ってはならないのです。

話を戻しますが、因果応報が在るのならば、自然界では何も生き残れなくなります。全ての種は何かを糧にしているので、子孫は残らなくなるからです。

では人間界での因果応報を考えてみます。

良い事をすれば良い事が返ってくる。当たり前の様に聞こえますが、良い事をしても何も返さない人もいます。逆に、良かれと思ってやったことが裏目に出て、悪い事が返ってくることもあります。悪いことをした場合も同様です。全ては人次第です。

では何故、因果応報という概念が生まれたのか。
ひとつは、この概念が広まれば、何も考えずに信じる人は、良い行いをし、悪い行いをしなくなるからでしょう。ですが、何が良くて何が悪いかは人それぞれです。だから意見の違いから衝突が起こります。双方、よく解ってもいないのに、良い悪いを譲らないからです。

真に良い良くない(悪い)は、悟りを得なければ解りません。時々答えに辿り着く人も居ますが、的確な説明が出来ない人ばかりです。

もうひとつは、先ほど説明した事を利用して、争いを起こさせる事を目的としている場合です。もしくは、自分の基準を他者に刷り込み、自分が幸福になる事を望んでいる可能性もあります。そこに他者の幸福を望むという歌い文句はあっても詭弁です。

これらはなるべくそうではないと信じたいものですね。解決するには、近しい人が悟りを得て、それらを広めた人に問うしかありません。もしくは、それらを広めた人が悟りを得るかです。

ともかく、まずは貴方が悟りを得る事が肝要です。


33. 私は普通の人です[6] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 00:54:54 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[6]
輪廻について考えてみます。

輪廻とは、人は産まれて来る前に違う人生を経験し修行をして産まれてくる、また、死んだ後は産まれ変わり、また新たに修行をする、みたいな感じでしょうか。

私は産まれてくる前の記憶は在りません。また死んだ後どうなるかも知りません。産まれてくる前も死んだ後も、そんなの解るはずもありません。解ると言う方いらっしゃるなら是非お会いして話をしてみたいものです。

私は、変わった体験を何度かしました。人はそれを奇跡とよんだり、神の思し召しとよんだり、精霊が起こしたとよんだり、色んなことを言います。ですが、私は私の経験したことは、単に不思議な体験としかしていません。

不思議な体験をしたのですが、もしかしたら、それらは、私が今まで経験していなかっただけで、特別不思議な体験ではなかったのかもしれません。実際、麻薬や脳内麻薬などで、幻覚を見るなどと言われていますし、もしかしたらただの幻覚だった可能性もあります。

私にとって、その不思議な体験は、世の中常識で推し量れないことも在る、ということを学べた良いものだった、というだけにしています。これで十分だと思います。

話を戻します。
私は、輪廻は、因果応報と同様に、人間が作り出した概念に過ぎないと思います。
では何故、創られたのでしょうか。

ひとつは、生前死後が在るのならば、死は怖くない、恐れることは無い、死を悲しむことも無いと出来るからです。この考え方は、戦争にも役立ちます。戦争自体は良い事でも悪い事でも在りませんが、戦争を起こす人間が未熟であれば、当然悪くなります。火や刃物や核技術など、ありとあらゆる全ては人間次第で良くも悪くもなります。

もうひとつは、貧乏なのは生前悪いことをしたから、金持ちなのは生前良い事をしたから、とありますが、これはつまりは、お前は悪い事をしたから貧乏なんだ、そのまま貧乏でいろ、自業自得だ、となります。逆に金持ちは金持ちのままです。恐らくは、権力者が自分たちの都合にあわせて創ったものだと思われます。

加えて、仮に、輪廻が在ったとして、貴方は産まれかわりがあるのだから悟りを得るのは来世で良いとするのでしょうか。はっきり言いますが、悟りを得るのはわりと簡単です。貴方が覚悟を決めればわりとすぐです。輪廻があったとしても、貴方が悟りを得るのを先延ばしにすればするほど、他の存在が理不尽な目にあいます。

また、釈迦は何度も何度も生まれ変わってようやく悟りを得た、みたいな事が言われていますが、これも恐らくは、そんなにかかって悟りを得たということは、釈迦は特別で自分たちには無理だな、と思わせるためとも取れます。これも権力を維持するために都合がよいですね。いつまでたっても信者や他の民は悟りを得られず利用されつづけます。

ちなみに、これらは私の考えに過ぎないので、皆さんが悟りを得てご自信で考えて正しいかどうかを判断してください。


34. 私は普通の人です[7] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 01:51:21 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[7]
二極論について考えてみます。

二極論の代表例、善と悪、これは本来はないものです。この概念は二極論の中でもっとも争いを生むものと言っても良いかも知れません。

当然ながら、善と悪は対立します。場合によっては裏で繋がる場合も在ります。互いが妥協しあって仲良くすることも出来なくはありませんが、所詮はまやかしです。理不尽な目にあう存在は必ず出てきます。

人は誰しも産まれてきた時は無垢です。先祖代々受け継いだDNAの影響を受けて、性格や何を受け入れやすいかに個体差はあれど白紙の状態です。その白紙に、色んな人や物などに接して得た情報を取捨選択して、基準や価値観が形成されます。もちろん、輪廻などがある可能性も考慮しても良いですが、この問題にはさほど影響がないので置いておきます。

つまりは善と呼ぶ存在になるか、悪と呼ぶ存在になるか、これも人次第です。人とは本人だけではなく周りの人全てです。が、どちらになっても良くはありません。善が在るから悪が産まれます。なぜなら善は善の基準にあわない存在を悪とするからです。悪もまたしかり。

善も悪も無くした方が良い概念です。善は良い、悪は良くない、に置き換えましょう。そうすれば、対立は起きません。悪は善に置き換えられませんし、善は悪に置き換えられません。嫌っているから仕方の無いことです。しかし、良い良くないにすれば、良いところは伸ばし、良くないところは見直して良くする事ができます。

人は皆繋がっています。貴方と貴方の家族、友人、愛する人など、貴方と関わっている人に関わっている人、貴方に関わっている人に関わっている人に関わっている人、結果として、貴方は貴方以外の全てと関わっています。

貴方が何かをすれば、貴方以外の全ての人に貴方が影響し、誰かが何かをすれば、それは貴方にも影響してきます。つまりは、何かが何かをすれば、責任は全てに在るという事です。勿論責任の重さは違います。が、結果として解る事は、責任は誰か一人に取らせるものではなく皆で背負うものということです。

誰か一人に、特定の集団に、責任を取らせる事は楽ですよね。自分は関係ない、自分は悪くない、あいつが悪い、そう思いたいのは解りますが、それは良くないことです。なぜ、こんなことになっているのかと言えば、人間が未熟だからに他なりません。悟りを得るものが増えれば、こういったことはいずれなくせます。

そして未熟だけならまだ良いですが、悟りを得る術が在るのにそれを行わないのは愚かです。自分以外の幸福はどうでも良い、自分が関わっている範囲だけ良ければそれで良い、そういう考えが争いを生む原因となっている事にどうか気づいてください。


35. 私は普通の人です[8] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 04:11:00 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[8]
因果応報に関して、ひとつ忘れていたので付け加えておきます。

例えば、自分が誰かに何か嫌な事をされたとします。
馬鹿にされたり、いじめられたり、騙されたり、盗まれたり。因果応報があるからと、自分がこれらに対して何もしなければ、貴方以外の誰かが同じ目にあいます。

もちろん、貴方以外の誰かが何かしてくれる事もあるでしょうが、それは確実ではありません。その誰かが悟りを得ていれば良い解決は出来るでしょうが、そうでなければ必ず問題点は残ります。その場は解決できても最良ではないので問題は派生するのです。

かといってやられたらやり返せとは言っていません。あなた自身が考えて、やられた相手に貴方が思う最良の何かをすべきなのです。貴方に出来なければ貴方の身近な人に頼っても良い。とにかく相手がそれ以上貴方にやったような事をしなければそれで良いのです。

ですが、一番良いのはやはり、悟りを得て貴方自身が最良の解決をなす事です。悟りを得た者に頼るのも構いませんが、その者が居なければ、居なくなったら、どうしようもなくなります。

つまりは因果応報は、悪いことをしたい者にとっては都合の良いシステムだと言うことです。現在なら、まだ警察や軍隊や法などがあるので、悪いことをすれば、それ相応の報いを受けますが、結局はばれなければ報いは受けません。

また因果応報が創られたのは相当昔であろうと思います。その当時に、今のような警察や軍隊や法があったでしょうか。今よりははるかに悪い事をばれずにやりやすかったはずです。

結局のところ、これも悪い事をしたい人、いつの時代かの権力者が創りだした可能性があろうかと思います。もしくは、最初は普通に良い意味で作られたものが利用されたかです。


36. 私は普通の人です[9] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 05:00:23 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[9]
一応、悟りを得るにあたっての注意点というかアドバイスをしておきます。

釈迦は悟りを得るにあたって、魔から色々と妨害を受けたとされている様ですが、私も似たような経験をしました。一応言っておきますが、私は悟りという言葉を使っていますが、それが悟りかどうかは解りません。おそらく悟りだと思うので悟りという言葉を使っているだけだということをご理解ください。

私の場合は、色々不思議な体験をしただけで、それが魔かどうかは解りません。自然現象だったり、人工物だったり、人間だったり、夢だったりしました。

はっきり言える事は、どれも私の弱点に向けられていると言うことです。ので具体的な事は書きません。人それぞれ弱点は違います。

肝心なのは、それらを跳ね除けたり、無視したり、堪えたりすることではなく、理解することです。なぜそういった事をしてくるのか、起こるのか。なぜ理解なのか、それは理解すれば、それらに対する不必要な感情が生まれなくなるからです。

幼子が貴方の手をつねって、その幼子に何か嫌な感情が沸くでしょうか。幼子のすることだからたいした意味はないと本能的に理解しているから嫌な感情は沸かないはずです。結果として幼子とは仲良くやっていけます。これが赤の他人なら違ってくるはずです。

私はこれで結構しんどい思いをしました。少しの間ですが絶望感を味わったりもしました、が、深く考えれば理解に至るのですぐ立ち直ります。問題解決の最善は死です。では自殺が良いのか、となりますが、深く考えれば最善ではなく最良の生となります。ちなみにこれも私の考えなので信じないで御自身で考えてください。

ちなみに私は今、悟りは得ていないと思います。得てはいましたが、色々あって理解だけしている状態だと思います。なぜなら以前はありとあらゆる全ての良き調和を心から願い、心の底から全ての幸福を願っていたのに、今はそれがたぶんありません。

そういった事への執着がなくなりました。もしかしたら、こっちの方が本当の悟りを得た状態かもしれませんが、私にはよく解りません。私は私の人生が終わったら、もう消えてしまっても良いと思っています。今の私の理想は無です。今の世の中や人間を見ていたらそう思うようになりました。

ですが一応、自分が得たものは真に人の為になると感じるので残しておこうと思います。

弱点を克服するには心を強く持ち、深く考え理解することです。


37. 私は普通の人です[10] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 05:47:30 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[10]
人の嘘の見破り方を記しておきます。

人の嘘を見破るには、その人の信念を知ることです。言わせる事です。
信念などないと言う人は嘘を付くのに抵抗がないので信じない方が良いでしょう。

信念が解れば、その信念に沿わない事を言っている場合に、それを指摘し、それはこういう理由でおかしいのではないかとし、問いただす。問いただしても改めない場合は、単に心が弱いか、もしくは知っていて嘘をついているかです。

心が弱いだけなら正しい道へ導いてあげることができますが、知っていて嘘をついている人はそうはいきません。その場でハッキリさせなければ、また別の場所で同じ事をするでしょう。

なぜ知ってて嘘をつくのか、それは本当の信念が別にあるからです。嘘も方便と言いますが、この場合の嘘は良くありません。話が進まなくなるからです。解決するものが解決しなくなります。

人は皆、繋がっています。はじめは皆無垢で、そこから色々吸収していった筈です。おそらく最初は誰もが未熟だったでしょう。ですがある時何か問題が起こってそれを最良の形で解決できなかった。そこから負の連鎖が始まり今に至っているのでしょう。

知ってて嘘をつく人もそういった負の連鎖の被害者と言えます。
犯罪を起こす人、お金にがめつい人、戦争をしたがる人、またそういう人から被害を受ける人、人間以外のありとあらゆる全てもそうです。全て被害者です。

いいかげん責任の擦り付け合いはやめるべきです。悪いこともやめましょう。貴方の大事な人が同じ目かそれ以上の目に合うかもしれません。その時になって気付いても遅いのです。


38. 私は普通の人です[11] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 20:48:02 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[11]
>>37の下から3行目の、全て被害者です、を、全て被害者であり加害者でもあります。に訂正しておきます。

39. 私は普通の人です[12] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月16日 20:05:42 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[1]
善が先に生まれたのか、悪が先に生まれたのか、恐らくは善ではないでしょうか。

善と言っても善が正しいという意味ではありません。
人によって何が善かは違います。おそらく、はじめに何か問題がおき、それに対する取り決めの様なものができたか、その問題を起こしたものを責めたかでしょう。責めた方は自分は間違っていないと思っていたことでしょう。責められた方は何故自分が悪いのか理解していなかったでしょう。誰も悟りを得ずに何が良くて何が良くないか解っていなければ仕方の無いことです。

おそらくこれが善の始まりだと思います。そして問題を起こした側が悪とされた。
問題を起こすのは当事者ですが、その当事者が問題を起こす様に成長したのは、周りの全ての影響です。その当時はそこまで解っていなかったでしょうから責めることは出来ませんが、それが解ったら素直に認めることが大事なのです。

認めなければ責められるのは当然ですし、また良くないにも成らずに悪のままです。
悪とは自身にある責任を認めないことです。責任を認め、反省すれば、悪から良くない部分に成り、いずれは良くなる。

自身の悪い部分を認めれば謝罪したくなり、和解に至る。しかし、謝罪される側が拒めばそれも成り立たない。謝罪される側にも問題があり、謝罪を受け入れる責任があり、それを認めなければ謝罪される側もまた悪です。被害者であっても悪なのです。

また当事者にはあたらない部外者も、当事者らを見て見ぬふりするのは、悪です。部外者に何が出来るかは人それぞれ異なりますが、問題に対して自身にやれる事をやらないのは悪といえます。

もちろん、悟りを得なければそれらは解らないでしょう。ですが、悟りを得れば解る様になります。皆さんがすべき事は悟りを得る努力をする事です。つまりは悟りを得る事が皆さんのやるべき事です。

ちなみに悟り悟りと言っていますが、私は仏教徒ではありません。他宗教にも入ってはいません。悟りを得てよく考えれば、悟りを得ていない何者かによって産み出された思想に占脳される事も無くなります。

私もまだまだ未熟な部分は多々ありますが、悟りを得られれば、その未熟な部分もふとしたキッカケで改良する事ができます。

知らなかったら大丈夫、みたいな事を思ってる人も居るかもしれませんが、知らなかろうと問題は問題です。責任の重さに多少違いはあれど、その責任から逃れることはできません。悟りを得なければ、その負の螺旋からは抜け出せません。

皆さんが真に目覚めますように。


40. 私は普通の人です[13] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月17日 05:36:11 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[2]
ボランティアについて考えます。

私は悟りを得る少し前、地元の海岸がゴミで溢れかえっているのが耐えられなくてゴミ拾いをしました。ボランティアには参加していませんが掃除をしました。少しは綺麗になったと思います。

掃除することは良いことです。ですが、それは自分が出しだゴミや汚れに関して言える事です。平気でポイポイとゴミを捨てる人の分まで掃除する必要はありません。ですが、海岸を綺麗にしたい、町を綺麗にしたい、という想いは良い事です。

ではどうすれば良いのでしょうか。

ゴミを捨てる人を注意すれば良いと言う人が居るかもしれませんが、それでも捨てる人は捨てますし、新たに捨てる人も出てきます。

ゴミを捨てても良い様に、自然に返る素材でゴミとなるものを作れば良いのでしょうか。これも良い事ですが、自然には返るまでは見た目はゴミですし景観は損なわれます。

結局のところ、各々がゴミを捨てたら色んな人が嫌な想い、理不尽な想いをするという事を、捨てる人、ゴミの元を作る人、ボランティアをする人、それらに関わっていない人全てが気付かなければなりません。

結局は、最良は各々が悟りを得る事です。それを気付かせるまでは、ボランティアはしない方が本当は良いのです。ですが、ボランティアをやりながら気付かせることができるのならば、それに越したことはありません。しかし、大きな問題にならない限り重くは受け止めないのではないでしょうか。

そしてもうひとつ、見方を変えれば、これも裕福な商売人にとって都合の良いシステムです。自分たちは、ゴミの問題を気にせずにすみ、ボランティアにやらせておけばいい訳ですから。一見持ちつ持たれつの関係になっていますがどちらの為にもなっていません。

また、後進国でのゴミ問題もそうです。彼らは我々日本人と違って文明の利器を自ら開発したわけでは在りませんので、それらをどう処理すれば良いかも良く解っていません。当然ゴミ問題は生まれますし、そこから派生する有害物質による害や、そこから派生する奇形児や障害児問題もあります。

加えて、これはゴミ問題だけではありません。おおよそお金が絡む全ての生業に言えることです。そしてこれは人間だけの問題でもありません。人間以外の生物や植物、自然環境、ありとあらゆる全てに派生します。人間はそういったありとあらゆる全てから恩恵を受け、またそれらは人間と対等な関係であると気付かなければなりません。人間が一番偉い事などないのです。自惚れてはいけません。

いつの時代も問題を起こすのは、我欲の過ぎる人です。ですが、我欲が過ぎる人が問題を起こすに至る様に成るのは、その他全ての人も関係しているのです。悟りを得て、人の世の真理を理解しなければ、本当の意味での解決には至らないという事に、どうか気付いて下さい。


41. 私は普通の人です[14] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 09:36:35 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[3]
>>28でも少し述べましたが、仏教では「捨てる」ことが良いとされているようです。
これも在り得ない事です。そもそも捨てるということ事態も我欲であり他欲でもあります。

悟りを得る為に捨てる事は我欲です。また捨てれば拾う人が出てくるでしょう。その人が拾えば拾った人の我欲が満たされ、自身の欲を捨てたいが為に他者に欲を発生させてしまう事になります。つまり捨てれば良いというのは間違いです。

また、悟りを捨てさせようとするのも欲です。そこに我欲が無く本当の親切心からそう想っているとしても、それは他欲にあたります。そんな事で悟りは得られないからです。得られないのに捨てさせるということ事態が間違っているので、良くない事です。他者に間違いを選択させてしまっています。

結局は、>>28に行き着きます。
自分がいない状態で全てを客観的にみて問題を見る。そしてそこに自分を置き問題を解決する。これをしないと捨てるの行き着く先は「死」そして「無」です。魂や霊魂などが在るとすればそれらも捨てる=消滅する事になります。

私個人としては、今の様な人の世で在り続けるのならば、それも選択肢のひとつだとおもいます。実際、私自身は今は無を望んでいます。

ですが、皆が悟りを得て、分別をわきまえ、自然の摂理の中では平和など在り得ない人間が、人の世の真理を成せば、本当の意味での平和が成るでしょう。そこに差別はありません。しかし区別はあります。区別が無ければ世は混沌と化すでしょう。

話を戻し、では何故、「捨てる」事が良しとされたのか。

ひとつは、釈迦の教えを取り違えた、でしょうか。これは少し楽観的過ぎると思いますが可能性としては一応あります。

ひとつは、釈迦が間違っていた、でしょうか。今ある仏教の話などを聞けばこれも在り得ますが、中には正しいと解釈もあるので、可能性は低いかと思います。

おそらくは、これもいつの時代かの権力者によって改ざんされたと見て良いでしょう。
捨てると言う事は他者が拾えると言う事です。得ないと言う事は得る者の取り分が増えると言うことです。持たないと言うことは持ちたい者が得をすると言う事です。

全て他者が得をする仕組みになっています。

そして、全ての人が「捨てる」を成せばどうなるでしょうか。
この世界から人間は居なくなるでしょう。得をするのはどういう存在でしょうか。

私自身は、これでも良いとは思います。我欲を抑えず、自分中心に物事を考え、自分以外の理不尽に目も向けず、思い込みや決め付けで物事を考え、自身に在る責任を認めず、正しい道を歩もうとしないどころか歩もうとする者の邪魔をし、愛を愛欲や独占欲とはき違える人間ばかり。

それだけならまだ未熟なだけで済みますが、悟りを得る術が在るのに見向きもしないとなれば、それはもう救う意味など無いという事になるでしょう。

皆様が真に目覚めますように。


42. 私は普通の人です[15] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 09:42:57 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[4]
上から2行目の、我欲であり他欲でもあります。を、我欲です。に訂正しておきます。

上から6行目の、悟りを捨てさせようとするのも欲です。の「悟りを」は間違いです。消し忘れました。捨てさせようとするのも欲です。に訂正しておきます。


43. 私は普通の人です[16] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 22:05:34 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[5]
>>41の10行目11行目12行目、「これをしないと捨てるの行き着く先は「死」そして「無」です。魂や霊魂などが在るとすればそれらも捨てる=消滅する事になります。」は、仏教では、自分以外への執着を捨てる、とされている様なので「」内は私の間違いです。訂正しておきます。

44. 私は普通の人です[17] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 22:43:36 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[6]
>>41に補足しておきます。

自分以外への執着を捨てる、と仏教ではありますが、これもおかしいと気付くべきかと思います。

自分以外への執着を捨てれば、他者へのこうして欲しいとか、こうあって欲しいという願望を捨てるという事に繋がるので、他者を傷つけることは無くなります。ですが、これは皆がそうなればです。

また、他が自分以外への執着を捨てた者に危害を加えないとは言い切れません。人間は境遇次第で様々に変わります。加えて、自分以外への執着を捨てた者が、自分以外の他を救えるでしょうか。執着を捨てるという事はただ見ているだけだという事です。

結局は自分だけが執着を捨て気持ちよくなって、他の苦や悲しみ等に鈍感になり、気持ちに寄り添えず、機械的に、こうすれば良いなどと回答するだけになってしまいます。

他に執着する事は良くない事ですが、他を想う事は大事な事です。正しい道に導いてあげる存在が居なければ、人間が楽な方へ流れるのは自然な事です。今を見れば解るかと思います。

物質的な豊かさで幸せを感じているかもしれませんが、結局人間は、人と人との繋がりが在ってこそ真の幸福に気付きます。ですが、個人的にそれを成す為に、他を蔑ろにしていては、それは幸福とは呼べないでしょう。

結局は、悟りを得て、人の世の真理を元にしなければ、真の幸福は得られないという事です。

映画やドラマ、アニメ、漫画、こういった中では、一部分だけにスポットをあてて、さも、それが幸福であるかの様に表現しています。ですが、その幸福を得る為に他が理不尽な思いをしている現実があるのです。

皆さんが、真に目覚めますように。


45. 私は普通の人です[18] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 22:52:21 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[7]
>>44の上から3行目4行目を訂正しておきます。

自分以外への執着を捨てれば、他者を傷つけることはなくなります。としましたが、訂正、補足しておきます。

執着を捨てた者が他者を、物理的に傷つけはしませんが、第三者が傷つける可能性は残りますし、また、他者の気持ちに寄り添えないので、心を傷つけてしまう可能性も残ります。としておきます。

結局のところ、自分以外への執着を捨てるだけでは不完全だという事です。


46. 私は普通の人です[19] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月19日 01:39:42 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[8]
悟りを得るにあたって、>>28に記した事にもう少し付け加えておきます。

私自身は、悟りを得ようとして得たわけではありません。既に述べましたが、悟りを得ようとすること事態が欲だからです。

私は、とあるキッカケを元に、この世界から理不尽な思いをする人が居なくなり、本当の意味での平和を成すにはどうすれば良いのか、という様な事を考え続けていました。その途中で恐らく悟りを得たのだと思います。ので、悟りを得る事に執着していないので悟りを得た状態でなくなったとしても別にどうでも良いと思っています。

また私は、悟りを得るまで、また得てからも苦は続いています。何故なら今がそういう世の中だからです。釈迦が居た時代は今ほど文明は進んでいなかったでしょう。入ってくる情報が少ない分、また色んなものがない分、苦や悲しみの元も少なかった事は想像できるかと思います。

なんでもそうだと思いますが、何かを成すには、最初の方は困難も多いかと思います。ですが、いずれはその困難も少なくなり、やがて無くなっていく事でしょう。

私は、色んな情報を、思い込まず決め付けずを心得ながら見てきました。そう心得ていても意図せずに、思い込んだり決め付けたりしてしまっている場合はありました。そういう経緯を経て、>>28にまで辿り着きました。私自身は悟りを得るのに時間もかかり苦労もしましたが、>>28を参考にして頂ければ、おそらくは苦労もさほどなく、時間も短縮できると思います。

ですが、これは私の経験でしかありません。もしかしたら結構苦労するかもしれません。人それぞれだと思います。

一応、気休めかもしれませんが、私は基本何も考えずに生きてきました。なので考えることはたぶん苦手な方だったと思います。なので普段考えることが出来ている皆さんなら大丈夫ではないでしょうか。

加えて、私は予定調和にまったく入らないような子供でした。ですが色々と周りの影響を受けていやいや参加するような状態になっていきました。ので、思い込まず決め付けずや、正義とかをすんなり受け入れられたのかもしれません。

結局は人それぞれ向き不向きはあるとは思いますが、悟りを得るにあたっては色んな要素が絡んでると思うので、一概に向き不向きは決められないと思います。ので、私は誰にでも悟りは得られると思っています。

皆さんが真に目覚めますように。


47. 私は普通の人です[20] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月19日 12:20:19 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[9]
仏教にある「中道」について考えてみます。
中道とは、何事もほどほどに、など他にも色々解釈は在るようです。

まず、ほどほどに、を考えてみます。
当然ながら、人によってほどほどは違います。庶民にとってのほどほどは、想像しやすいと思いますが、それでも差は生まれます。では、物凄いお金持ちのほどほどはどうでしょうか。物凄いお金持ちが、これが自分のほどほどだと言ってしまえば、それはほどほどになってしまうでしょう。当然ながら、これはお金だけに限ったことではありません。全てにおいてそう言える事です。

他には、2つのものから離れて矛盾対立を超える、みたいな事も言われていますが、離れる距離が短ければその範囲しか解りません。少し的を得ていますが、表現が解りにくいので理解に苦しむかと思います。

結局は、信者やその他の民を縛る為の概念でしかありません。人は何かによって縛るのではなく、導かなくては成りません。そうでなければ健やかに成長しません。縛れば、あるとき騙されたと知ってしまえば、その反発で騙した相手や集団を憎んだり怨んだりしてしまう人も居るでしょう。敵わないと思い込み決め付け諦めてしまう人も居るでしょう。その中から目覚める人も出るかもしれませんが、その為に他の多くが理不尽な思いをしていては良くありません。

この中道という概念も、欲深いものにとって都合の良いシステムになるという事です。

何事も、人の世の真理を元に、法を創り、倫理観や道徳観を養わなければ良くは成りません。人の世の真理は、未熟な人間が創った法やしきたりや道徳観や倫理観とは違い、既に在るものです。私はそれを見つけたに過ぎません。そしてこれは悟りを得れば誰にでも見付けられる筈です。

皆さんが真に目覚めますように。


48. 私は普通の人です[21] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月19日 19:15:29 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[10]
悟りを得るにあたって、もうひとつ必要だと思われるものを>>28に加えておきます。

それは、無償の愛、です。自己犠牲も含まれる様に感じるかもしれませんが、自己犠牲は何かの為を想って行うものなので違うと思います。

無償の愛とは、一切の見返りを求めない愛〜、といった感じでしょうか。

ただし、無償の愛は、実行しては成らないものだと私は思っています。
無償の愛とは、言い換えれば究極の甘やかしだと思います。自分は何もせずにただただ与えてくれるだけでは、人間は甘えて堕落していくものです。もちろん全ての人がそうではないでしょうが。

また無償の愛は、生贄の儀式にも繋がってしまいます。抵抗しなければ格好の餌食です。もちろん抵抗してもされてしまう可能性は在りますが、しないよりはましです。他にも色々問題は孕んでいると思います。

したがって、無償の愛は、心得としてもっておくものに留め、実行には移さないが、正しいとします。この考え方が、悟りを得るにあたって必要になってくるかと思います。


49. 私は普通の人です[22] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月20日 13:51:48 : kzULm2l8MQ : KutvneUZQCM[1]
>>36の11行目12行目の、それらに対する不必要な感情が生まれなくなるからです。を、それらに対する不必要な感情が抑えられる様になるからです。に訂正しておきます。

50. 私は普通の人です[23] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月20日 18:10:18 : kzULm2l8MQ : KutvneUZQCM[2]
悟りを得るにあたって必要だと思われることを>>28に追記しておきます。

人には個性が在ります。これは持って生まれたものだと思います。
こういうのは自分ではなかなか気付かないものではないでしょうか。

私の場合ですが、私の個性のひとつとして、物凄く楽観的というのがあります。悟りを得るまで、もしくは得てからも、色々と苦はあると記しましたが、そういうのにもしかしたら耐性があるのかもしれません。

これがないともしかしたら、悟りを得るにあたって、人によっては苦しみに耐えられないのかもしれません。私が思うにこれは、最初の方であればあるほど苦しみは多いと思います。皆が一度に悟りを得れば、その苦しみも、その時点で最小値になるでしょうが、現実的には難しいでしょう。

私に似て楽観的で、ここで記した様な事が出来るという方であれば、今、悟りを得ても耐えれると思います。一応、私が居ると言うことが解っていれば心の支えになれるかと思います。。私は私以外に悟っていそうな人を知りません。ので、もしかしたら人間は悟れないのか、と希望が持てなくなっています。

楽観的に関してですが、楽観的は時には人を傷つけます。どんなことでもあまり気にしないからです。加えて私は考えるということを殆どしてこなかったので、問題を起こしていたとしてもすぐ忘れていました。ですが問題は問題です。それが解決しなければならない問題だと気付いたときには解決しなければならないと思います。

私は、悟りを得る前に、まず自分自身の記憶を辿り、自分が起こした問題を振り返りました。そしてそれらには自分なりに回答を出したつもりです。それにあたって本心からやらなければ良かった、もう二度と同じような事はしてはいけない、と思いました。

皆さんも悟りを得ようとする前に、まずは自分自身を振り返ってください。そして自分自身の問題を解決してください。そうしなければ、悟りを得れば解る人の世の真理と、自身が抱える問題とで矛盾が生じて耐えられなくなると思います。

ですが、これらの問題を乗り越えれば、貴方は産まれてきた時と同じ様な無垢な状態に成れると思います。赤ん坊の様に無垢な人に産まれ変われると思います。

そうなった状態がもしかしたら悟りの境地と言えるのかもしれません。

私が悟りだと思っていたのは、その悟りの境地を知る為の術でしかないのかもしれません。が、ありとあらゆる全てを客観的に正しく見るにはやはり必要だと思います。悟りの境地に立てても、ありとあらゆる全てを客観的に正しくみる事ができなければ問題を最良の形では解決できないと思います。ので私はこれら全てが出来て悟りの境地ではないかと思います。

この世の問題から遠ざけて、純粋なまま育てるという風習が、身分の高い家柄ではあったかと思います。ですがこれは単に問題の本質を理解していないから純粋で居られるだけだと思います。だから問題に直面したとき大した事が出来ず、そこから新たな問題が生まれるのだと思います。

自分以外の事ばかり言うなとは言っていません。言いたい気持ちは解ります。ですが、自分の事も見つめなおしてみましょう。そうすれば自分以外の事もよく解るようになってくる筈です。


51. 私は普通の人です[24] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月23日 13:55:52 : jbjebqnxog : 5UHyXR@J_Qo[1]
地球温暖化について考えてみます。

二酸化炭素とか温室効果ガスとか太陽だとか気象操作だとか温暖化はしていないだとか、色々言われています。
これらも考えられるとは思いますが、私は次の様に思います。

私が思う最大の要因としては、熱を発する全てが影響している、です。

太陽、地球、人間、動物、火を使うもの全般、車、テレビ、パソコン、他にもいくらでもあるでしょう。こうしたものから発せられる熱は、拡散し、ゆっくりと宇宙によって冷やされていくのだと思います。したがって熱を発するものが増えれば増えるほど熱は篭り易くなり冷却は遅くなります。

科学が発展し、熱を発するものは増えましたし、人口も増加しています。熱が篭るのも当然です。篭るといっても全体で見れば僅かかも知れません。しかし、熱を発するものを沢山有する地域ではより篭りやすくなるでしょう。全体で見れば1〜2度程度が、特定の地域ではそれ以上かと思います。

ではどうすれば解決できるのでしょうか。

熱を発するものを減らせば良いのでしょうか。これもひとつの手です。人間が欲を抑えた生活をすれば減らすことが出来ます。

逆に考えて、冷気を発する何かを作れば良いのではないでしょうか。熱だけを発するものが在るのだから冷気だけを発する何かも在るかもしれません。が、冷気だけを発する何かを作る際には熱が発生しそうな気もします。

結局のところは、人間の欲が強すぎるからです。人口増加は、子供が増えれば楽しいとか、人手が欲しいとか、色々あるでしょうが、いずれも先の事まで考えていません。

基本、人間の欲の過ぎることが温暖化の原因です。

そしてこれらも、結局は、ありとあらゆる全ての良き調和を成す事を目指す事で解決します。悟りを得る事は、それを成す為の通過点に過ぎません。

ちなみに、これらは私が得ている知識の範囲内で考えたものであって、私より、より多くの知識を得ている方が、悟りを得れば、より深く原因を追求し、より良い解決策を見つける事が出来るかと思います。

皆さんが真に目覚めますように。


52. 私は普通の人です[25] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月25日 09:08:18 : jbjebqnxog : 5UHyXR@J_Qo[2]
私は悟りを得た時、もしくは得る前に、今まで経験した事の無い様な幸福感を得ました。もし、そこで考える事をやめていたら私自身は幸福だったのかもしれません。ですが、自分は幸福でも自分以外が理不尽な目にあっていたら、それは本当の幸福ではないはずです。

自分は理不尽ではない、と全ての人が言ったとします。それは自分が理不尽な目にあっていないと思い込んでいるだけ、もしくはそう思いたいだけでしょう。また人だけではなく人以外もその対象となります。

皆さんは「気」という言葉をご存知でしょうか。気とは簡単に言えばエネルギーです。燃料や食事もエネルギーですが、気はそういった物質的なものではないものです。気をという言葉を使っていますが、気という言葉が使いやすいので使っているだけとしてください。

気には、良い気と、良くない気と、悪い気、が在ると私は感じています。良い気とは本当の意味での良い行いから発せられるものです。良くない気とは本当は良くないけれど良いと思い込んで行われるものから発せられるものです。悪い気とは悪いと解ってする良くない行いから発せられるものです。

良い気からは幸福感を得られます。良くない気からは幸福感と不幸感を得る事になります。悪い気からは不幸感を得てしまいます。もし、この世に他の不幸を幸福とするものが存在するのならば、悪い気から幸福感を得られるでしょう。逆に良い気からは不幸感を得てしまうのでしょう。

私の経験を踏まえて思うに、良い気で満たされれば病にもかからなくて済む様に感じました。しかし、世に良くない気や悪い気が在れば病にもかかってしまうでしょう。

病は気からと言います。自分だけが病にかからなくて良いのであれば、世に無関心になれば良いのでしょう。これは人里はなれた僻地でひっそり暮らすなら可能かもしれません。しかし世に無関心という事は、いずれはその僻地に無関心でいた事で手付かずだった良くない気や悪い気が押し寄せてくるという事です。

ありとあらゆる全ての良き調和を願い、悟りを得て、人の世の真理を理解すれば、良くない気や悪い気の元が解る様になります。結果として自分自身で解決できるようになります。ですが、一人で出来る事など限られています。皆が心をひとつにしない限りはありとあらゆる全ての良き調和は成りません。

いくら物質的な豊かさを得ても、内面が変わらなければ、同じことの繰り返しです。

結局は皆さん次第です。

皆さんが真に目覚めますように。


53. 私は普通の人です[26] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月25日 10:09:51 : jbjebqnxog : 5UHyXR@J_Qo[3]
食事の問題について考えてみます。

人間は人間以外ならば、口に出来るものは何を口にしても良いと私は思います。ですが、いくつか条件があります。その条件を守らなければ、人間は人間らしさを無くしてしまうでしょう。

ひとつは家畜を殺し家畜から得られるものを口にしてはなりません。家畜は自由に生きる権利を奪われ、ただ食される為だけに生きています。

ひとつは家畜を一箇所に集め自由な活動を阻害し対価を得てはなりません。人間も家畜も対等です。

ひとつは養殖を行ってはなりません。正確には、生物を特定の場所に閉じ込めて自由に生きる権利を奪ってはなりません。

ひとつは植物をその植物が元来生存するに適した環境以外で育ててはなりません。植物にも自由に生きる権利はあります。子孫を残す権利もあります。人間が自分たちの都合で、その権利を奪ってはなりません。

これらは全て奴隷制度と同等、もしくはそれ以上に良くない行いです。

かつて日本は第二次世界大戦、または大東亜戦争という戦争を行ったそうです。そこには奴隷解放という大義名分があったのではないでしょうか。その日本が、その当時なくそうとした悪しき制度を自ら行っているとは目も当てられません。

自然に生きる生物、植物を食す事は自由を奪っているのではないかと思われるかもしれません。しかし、人間と生物、植物の間でルールを交わすことは出来ません。したがって人間とその他には自然の摂理である弱肉強食があてはまります。ので、食べる事は悪い事ではありません。良い事でも良くない事でもないと思います。ただただ自然な事です。

ですが、伝統だからとか、シキタリだからとか、皆が食べているからだとか、美味しいからだとか、食べなくても他で補えるのに、己が欲を満たす為に食すのは良くないことです。

食に関して述べましたが、食以外の全てに言える事です。人間が己が欲を満たす為に他を犠牲にしすぎる事は良くない事です。

皆さんが真に目覚めますように。


54. 私は普通の人です[27] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月25日 10:50:04 : jbjebqnxog : 5UHyXR@J_Qo[4]
食事に関してもうひとつ記しておきます。

食事を作る際に持ちる道具についてです。宗教では、食事を作る際に用いる道具に関して、特定の生物を用いた食事を作った際に使った道具は穢れている、などとしているようです。

では食される生物は穢れているのでしょうか。残念ながら、穢れているのは食される生物ではなく人間の心です。加えて食される生物を穢れているとすることは、差別にあたります。全ての存在は対等です。これを忘れてはなりません。

皆さんが真に目覚めますように。


55. 中川隆[-7122] koaQ7Jey 2017年7月27日 09:46:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
【ガチ】会話中の2人の脳は“シンクロ”していたことが判明!
脳波でわかった相互脳コミュニケーションの不思議(最新研究)2017.07.24.
http://tocana.jp/2017/07/post_13938_entry.html

■会話が成り立つ不思議

 我々にとって“会話”は、あまりにも自然であるため、日常生活の中でその不思議さに驚くことはほとんどないように思われる。ほとんどの人が毎日誰かしらと普通に会話しているだろうし、たとえ自室から一歩も出ない人でも、会話する能力は持ち合わせているはずだ。

 だが、会話を極めて特異な現象と見ることもできる。お笑いコンビ・アンジャッシュが得意とする「勘違いコント」のように、ある言葉が私の意図したように相手に伝わる保障はどこにもないからである。

 食べると甘酸っぱい丸くて赤い果物を意味して、私が「リンゴ」と発言したとしても、相手はどういうわけだかビートルズのドラマーだった「リンゴ・スター」や、日本人シンガーの「椎名林檎」を思い浮かべるかもしれない。これほど大胆な勘違いならば、文脈で認識の違いに気付くことは容易と思われるが、たとえば「痛み」や「痒み」といった感覚を意味する言葉の場合、事はそれほど単純ではないだろう。


■会話中の人の脳がシンクロしていることが判明

【ガチ】会話中の2人の脳はシンクロしていたことが判明! 脳波でわかった相互脳コミュニケーションの不思議(最新研究)の画像2画像は

「Daily Mail」
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-4719214/Human-s-brains-synchronize-conversing.html

より引用


 会話とは考えてみると不思議な現象であるが、この度、会話を成立させている要因が明らかになったとのニュースが報じられた。なんと、会話中の2人の人間の脳活動が“シンクロ”していることが分かったというのだ。

 英紙「Daily Mail」(7月21日付)によると、同研究はスペイン・サンセバスティアンにある「バスク認知・脳・言語センター」で行われ、研究者らは、互いに初対面の同性の15組の被験者を仕切りで区切られた空間に置き、それぞれの脳波をEEG(脳波図)で測定したという。

 研究チームのホン・アンドニ・ドゥニャベイティア博士によると、会話中に発話された音声の物理的性質に従い、話し手と聞き手の被験者の脳波のリズムが著しく一致していたとのことだ。

また、この一致には前言語的な相互―脳コミュニケーションが関与している可能性もあり、言語そのものの理解や対人関係を成立させている可能性まであるという。人類学や言語学では、しばしば音楽が言語の起源であると言われてきたが、それを裏付ける研究成果とも言えるだろう。

「2人の人間の脳は言葉により同期します。そして、コミュニケーションにより、外面から分かる以上の繋がりが両者の間に創造されているのです」(ドゥニャベイティア博士)

「脳波を分析するだけで両者が会話しているかどうか分かりますよ」(同)


 まだ研究は端緒についたばかりだが、今後、会話中の脳活動の全貌が明らかになれば、心理学、精神医学、社会学、教育の分野において応用することも可能であり、将来的には会話やコミュニケーションに困難を抱える人々の理解にも役立つかもしれないとのことだ。

 会話が成立する秘密はどうやら脳の特異なシンクロ能力にあったようだ。今後の研究次第では、未だ解明されていない「言語の起源」にも迫ることができるのではないだろうか。さらなる驚愕の発見に期待しよう。
http://tocana.jp/2017/07/post_13938_entry.html


56. 中川隆[-6635] koaQ7Jey 2017年8月17日 22:32:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

肉体の死の後も魂は生き続け、宇宙に還ることを科学者が認める 2017.08.13
http://www.el-aura.com/wake-up-japan20170813/


「(臨死体験は」幻覚であると考える人が多くいますが、しかしこのような経験は実際に起きた出来事と合致しているようです」

肉体の死の後も魂は生き続け、宇宙に還ることを科学者が認める


生きている以上、死は避けられないということは考えるのも憂鬱なことですが、トンネル(苦しみ)の後に見えてくる光を発見したかもしれない、と科学者が認めました。

臨死体験や幽体離脱に関し、医学的に最大規模の研究が行われ、そこで脳が完全に死亡した後にも意識は残り続ける可能性があることが明らかになったのです。

近年は無神論的思想が広がり、死後の世界は最近までは反論の強いテーマでした。

しかしサザンプトン大学はイギリスやアメリカ、オーストラリアの15の病院で心拍停止になった人2,000人以上を対象に調査を行いました。

画期的なプロジェクトで蘇る死者

その研究では対象者の心臓が再開するまでの間、臨床的には死亡した状態の間もある種の「意識」があった、と生き返った人の40%が経験を語っていました。

一人の男性は自分の体から完全に遊離し、自分の蘇生のプロセスを部屋の片隅から見ていたことさえ覚えていました。

サザンプトン出身でソーシャルワーカーの57歳の男性は、3分間の間は意識がなく「死亡」していたにもかかわらずその間の看護師の行動を詳細に説明し、聞こえた機器の音についても話していました。

元サザンプトン大学の研究員で現在はニューヨーク州立大学に勤め、この研究を主導したサム・パルニア (Dr. Sam Parnia) 博士は、次のように話しています。

「心臓が心拍を停止した時、脳は機能できないということを私たちは知っています」

「しかしこのケースでは、心臓鼓動が停止から最高で3分間の間は意識が継続していたようです。

一般的に脳は心臓停止から20〜30秒で機能停止するのですが」

「この男性は室内で起きたことをすべて説明してくれました。室内にあった3分毎にピーという音を発する機械から、二回ピーと音が鳴ったのを聞いたということです。

そのためこの経験がどれだけの長さ継続したのかを知ることができました」

研究対象になった心拍停止を経験した患者2,060人のうち330人は蘇生し、そのうち調査を受けた140人の対象者の39%は蘇生処置中に一種の意識状態を経験したと話しています。

その経験を特に詳しく思い出せる人は多くはありませんでしたが、興味深いテーマが浮かび上がってきました。

5人に1人はとてつもない平安さを感じ、3分の1近くの人は時間の流れがスローダウン、あるいは速くなったと話しています。

中には黄金のフラッシュや太陽の光のようなまぶしい光を見た人もいました。

また一部は溺れたり、あるいは深い水の中を引っ張られる恐怖を感じていたと物語っています。

肉体から離れたことを感じた人は13%いましたが、感覚の高まりを感じた人も13%いました。

パルニア博士は、臨死体験を経験した人はもっといるものの、蘇生処置で使用された薬や鎮痛剤が原因で思い出せないだけなのではないかと考えています。

「臨死の際に鮮明な経験をしたことのある人の数は数百万人になることと推定されていますが、科学的な証拠はせいぜい曖昧である、という程度のものです」

「(臨死体験は」幻覚であると考える人が多くいますが、しかしこのような経験は実際に起きた出来事と合致しているようです」

「さらに、鮮明な臨死体験を経験したことのある人の数はもっと多いものの、脳の損傷や記憶回路への鎮静剤の効果が原因でその経験を思い出すことができていない、という可能性が考えられます」

「このような経験については、さらなる研究が必要とされています」

心理学者であるデイビッド・ワイルド博士とノッティンガム・トレント大学は現在、それぞれの幽体離脱経験に共通するパターンを見つけ出すことを目的に、データを集積しています。
博士はこの最新の研究が、臨死体験という議論の激しいトピックに関する新しい研究がなされる刺激となるよう期待しています。

「10〜20年前、ほとんどの研究は遡及的に考えていましたが、(今回は)研究者グループは事例を探し求め、さらに相当大規模なサンプルサイズが用いられているため、この研究はかなりの信頼性があるものです」

「これらの経験は、被験者が実際に医学的に死亡した後に起きたものであることを示す非常に重要な証拠があります」

「死んだ後に何が起こるのか、私たちは依然として真っ暗闇の中にいる状態で、何もわかっていません。しかしこの研究によって、科学のレンズを通した光を差し込めることを期待しています」

この研究内容は、Resuscitation(蘇生に関する、医学ジャーナル)上に公開されたものです。

Resuscitationの編集長、ジェリー・ノラン博士は次のように話しています。

「パルニア博士と博士のチームは、私たちが死んだときに起きることに関するより広範囲な研究への扉を開くことになる、興味のそそられる研究を完成させたことで祝われるべきでしょう」

【参考】http://www.telegraph.co.uk/science/2016/03/12/first-hint-of-life-after-death-in-biggest-ever-scientific-study/

《ココヘッド さんの記事一覧はコチラ》
http://www.el-aura.com/writer/wake-up-japan/?c=118390


57. 中川隆[-6568] koaQ7Jey 2017年8月31日 00:33:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

チベット死者の書 死と再生の49日 1992 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%80%80%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%AE49%E6%97%A5%E3%80%801992+

ドキュメンタリードラマ 死と再生の49日

photo05.jpg チベット仏教ニンマ派の伝統に属し、生と死に関する深遠な考えが込められた経典「バルド・トドゥル」。

 死に臨む人の耳元で49日間にわたって読み聞かされる内容を老僧と少年僧との対話やアニメーションを用いて解説するドキュメンタリードラマ。


1993年9月24日放送(NHKスペシャル)


58. 中川隆[-6404] koaQ7Jey 2017年9月26日 13:27:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


15年間植物状態だった男性、神経の刺激に反応 仏研究
2017.09.26 Tue posted at 12:46 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35107780.html


刺激装置に神経を接続することで、植物状態にあった脳の活動が著しく増大したという

(CNN) 自動車事故で15年間、植物状態にあった患者の胸部に装置を埋め込んで神経を刺激したところ、意識の兆候が表れたという研究結果が25日の生物学会誌に発表された。

35歳の男性患者は20歳の時の自動車事故が原因で、これまで15年の間、意識がなく自力で動くこともできない植物状態にあった。研究チームでは今回の研究結果について、12カ月を超す長期の意識障害は回復不可能とされてきたこれまでの定説に異議を唱えるものだと指摘している。

フランスにあるマルク・ジャンヌロー認知科学研究所のアンジェラ・シリグ氏の研究チームは、迷走神経を刺激する装置を使って植物状態にある患者の意識を取り戻すことができるかどうか、実験することにした。

迷走神経は脳から心臓や肺、腸などの臓器につながる神経で、この神経の活動は覚醒や注意、闘争・逃走反応に重要な役割を果たす。

刺激装置は胸部に埋め込み、皮下に配線したコードで迷走神経に接続する。この神経を通して脳幹に電気信号を送信し、脳の特定の領域に刺激を伝える仕組み。

シリグ氏によれば、迷走神経を刺激することで、自然な生理学的メカニズムが活性化されるという。

研究チームが被験者として選んだ患者は、事故に遭って以来15年間、容体が変わる徴候は見られなかった。この患者を選んだのは、もし迷走神経の刺激によって変化が起きた場合、偶然ではあり得ないという理由からだという。

https://www.cnn.co.jp/photo/l/785890.html
迷走神経刺激の前後で脳に表れた変化を示す画像。特定領域で代謝の増加がみられる

刺激装置を使って迷走神経を1カ月にわたって刺激したところ、患者の意識や動作、脳の活動の大幅な増大が確認された。特に動作や身体感覚や意識に関係する脳の領域で、脳のリズムが大幅に改善し、脳を画像スキャンするPET検査でも、脳の代謝の増加が確認されたという。

この研究について米コーネル大学医学校の神経科学者ニコラス・シフ氏は、「重度の損傷を負った人間の脳には、これまで考えられていたよりもずっと大きな潜在的可能性があることがはっきりした」と解説する。

シリグ氏の研究チームでは、複数の研究機関と連携して、迷走神経刺激療法の可能性を探る研究を進める意向。


59. 中川隆[-6403] koaQ7Jey 2017年9月26日 13:29:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


昏睡に陥った米高校生、目覚めると突如スペイン語が堪能に
2016.10.25 Tue posted at 09:43 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35091048.html?tag=mcol;relStories


目覚めるとスペイン語が堪能になっていたというルービン・ネンセモさん

(CNN) サッカーの試合中に脳震とうを起こして倒れ、意識が戻ると突然、スペイン語がネイティブ並みに堪能になっていた――。米アトランタ郊外に住む高校生がこのほど、そんな症状に見舞われていたことを明らかにした。

高校2年のルービン・ネンセモさん(16)は先月下旬、サッカーの試合中に頭を蹴られて意識を失った。数日後に目覚めると、母語の英語ではなくスペイン語を話し始めたという。

両親によると、それまでも片言のスペイン語は話せていたが、流暢(りゅうちょう)なスペイン語にはほど遠かったという。その後徐々に英語が戻ってくると、スペイン語の流暢さは失われていった。

意識を回復後は物事に集中するのも難しくなり、またサッカーができるようになるのかどうか不安だったとネンセモさんは振り返る。

脳のけがによって話し言葉が変わってしまう「外国語アクセント症候群」は極めてまれな症例で、世界で最初に報告されたのは1941年。

ノルウェー人の女性がドイツによる爆撃で破片を浴びて脳を損傷し、突然ドイツ語なまりで話すようになった。

以来、報告された症例は数十例ある。3年前には米海軍の元兵士がカリフォルニア州のホテルで意識を失い、目覚めるとそれまでの記憶をすべて失ってスウェーデン語しか話さなくなっていた。

オーストラリアではバスの運転手だった女性が衝突事故で重傷を負い、フランス語なまりの英語を話すようになった。

こうした症状について外国語アクセント症候群に詳しいカレン・クルート医師は、「発語は極めて複雑な仕組みで成り立っていて、さまざまな動作部分の調整に脳中枢がかかわっている。その一部が損傷すると、発語のタイミングや旋律やテンションに影響を及ぼすことがある」と解説していた。


60. 中川隆[-6414] koaQ7Jey 2017年9月28日 07:01:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

木は会話する〜人間が知らない驚くべき地中界の樹木社会とは⁉︎
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/453204318.html

恐竜の時代から地球に存在していた樹木。木は地球の歴史とともに地中界に根をはって住み続け、地球の大地を知り尽くしている生物です。

あまり知られていなかった樹木は、驚くことに木々同士で会話し合い、時に助け合う地中の社会が存在していたことが分かりました。

これはスピリチャルな幻想でも仮説でもないです。生態学者のスザンヌ・シマードが30年間カナダの森を研究して、木々はお互いに会話をしている大発見をしました。それは有名なTEDで全世界に配信され世界で注目されました。


驚きの地中界ネットワーク。これが木の社会だ。

スザンヌ氏は、森の中のカバノキ、モミ、ヒマラヤスギの三種類の木を実験対象とし、この木をビニール袋で覆いました。

そして、カバノキに放射線と似た炭素ガス14を袋に入れ、モミに別の炭素ガス13を入れたところ、それぞれお互い炭素を交換し合い炭素を補っていたことが分かったのです。

つまり、苗木などが炭素不足の時は一方の木が必要炭素をカバーする為に自分の炭素を送るのです。この実験結果で樹木たちは地中に張り巡らされた根を通じ、会話をしてお互い依存し合って生きていることが証明されました。

http://shinhakken-blog.up.n.seesaa.net/shinhakken-blog/image/E3818DE381AEE38193.jpg?d=a0
↑この地下の樹木社会には、何百キロもの菌糸体が存在しています。

山や森林を歩くとよく見るキノコは代表ですが、キノコなどの菌糸体は地中で樹木の根に繁殖して情報ネットワークが作られているのです。

同じ種類の樹木間だけでなく、カバノキやモミの木など異なる樹種間も繋ぎ、まさに地下のインターネットのように菌糸体ネットワークを使って木々同士がチャットや情報交換をしていたのです。

スクリーンショット 2017-09-03 21.38.54.png
↑また、面白いことに木も皆同じ役割ではなく、人間社会でもあるようにネットワークのハブとなるような情報を把握し相手に伝えたり、世話役をする「母なる木」の存在が分かりました。(濃い緑の丸がハブとなり情報伝達を広げていく)

リサーチによると、一つの森のエリア内には1本の古い「母なる木」が存在し、何百もの木々と繋がっていることが発見されました。

「母なる木」は、まだ若い低木の世話(子育て)をするためにたくさんの炭素を送るそうです。その結果、母なる木の近くにいる苗木の生存率は4倍に上がることが証明されています。

また、ある実験で母なる木の側に苗木を植えると自分の子と認識することが確認されました。

母は子供のために地下の菌糸ネットワークを広げ始め、子に炭素がしっかり行き渡るようにし、同時に子供も根が伸ばせるようスペースを作ってあげると言うのです。

また、感動なのは、母なる木が傷つき死にかけると、自分の菌糸体ネットワークを最大限使って次世代を担う子供たちに炭素や防御信号などを送り生命維持のための伝達をしていることも分かったのです。

森は、単なる木の集まりではなく、人間社会と同じように社会共同体や家族のコミュニティを作り、会話を交わしながら強く生きるために依存し合っていたのです。

もはや単なる「木」とは思えなくなってきましたね(笑)

木の住む社会に人間が土足で踏み込む結末とは?


そんな木の社会など関係ない!と言わんばかり、人間社会の都合だけで太古から地球に住む生命体の樹木はいとも簡単に破壊されまくっています。表現は荒いですが、もはや「殺されている」という表現の方が正しいかもしれません。

スザンヌ氏は訴えます。

森は母なる木の存在とともにお互いが交流をしながら、自分達の共同体である森ができています。森の再生能力を高めるのは、多くの母なる木の存在があるからなのです。

それも知らずに母なる木が人間の手により伐採されたら森は元に戻れなくなります。

こうした森林破壊(大量殺戮)は、水循環にも悪影響を及ぼし、野生動物の生殖環境を乱し、温暖化の原因を作り、気候変動が起き、結果として残っている樹木にも立ち枯れが増える最悪の環境循環となっています ❞

最近、世界中で頻繁に起きている異常気象もこうした人間による自然破壊の影響が大きいと考えられそうですよね。

最後にスザンヌ氏は人間たちに提案をしました。

❝ 気候変動など深刻な地球環境問題を克服するために森林を強化させていかなければなりません。森林のコミュニティシステムは、自分達の自己回復力(再生力)があるのです。

人間と同様に自然治癒力を持つ森林の回復力を活かすには、その地域地域の森の管理の仕方が重要となります。

その為に原生林を残さなくてはなりません。原生林には、「母なる木」が存在し、その遺伝子と菌根ネットワークの宝庫です。

従って、原生林の伐採は極力減らさなくてはなりません。その伐採も太古から受け継がれてきた「母なる木」は生かし続けなくてはなりません。

そうすれば、母なる木からたくさんの次世代の若い木に生き抜くための知恵が伝わり、木同士の助け合いによって強い森林の再生力が生まれるのです。

強い再生力には、母なる木を生かし様々な種や遺伝子が備わる森でなければなりません

死にかけている森たちが息を吹き返すには、免疫力の強い自然治癒力のある体質にするための自然保護に人がもっと真剣にとりくまねばならないんですね。

このスザンヌ氏の発見は、木の生命を痛烈に感じる内容だと思いませんか?

地球に住む人間は、木の住む社会に土足で踏み込み好き勝手に殺戮するのではなく、地球の自然ともっと共生していかないと、とんでもない地球、人類の終わりがやってくる気がしてなりません。


参考

「森でかわされる木々の会話 原題: How trees talk to each other」
https://www.ted.com/talks/suzanne_simard_how_trees_talk_to_each_other/transcript?language=ja

より


61. 中川隆[-6413] koaQ7Jey 2017年9月28日 07:08:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

人の心を理解する植物・野菜・果物たちにも心がある
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/438374260.html

「植物は記憶し、感じ、考えたりできる知性を持つ生命体である」

といわれたら、思わず 「は?」というリアクションしちゃいますよね。しかし、この話は昔から真面目に科学者が数々の実験をして発表しており、近年でも様々な研究が行われているのです。

目も耳も脳もない植物にそんな訳ない、と思いがちですが、生命体は未だ科学では解明できてないことだらけです。生命が宿るということは、人間の持つ知識や常識、科学だけでは考えも及ばない力が隠されていることはあるものです。

エセ科学者呼ばわりされたクリーブ・バクスターの驚きの実験結果とは?

遡ること約50年前以上の1964年、嘘発見器の専門家だったクリーブ・バクスターは、ライターでドラセナ葉を焼いてみようと心の中で思った瞬間うそ発見器が反応し、焼く気がないが焼くぞという脅しの気持ちだけの時は反応しなかったという実験結果が発表されました。

この結果は多くの人に注目され、以来、植物が人間の心- 気持ちを読み取る(感じる)ことができるという定説ができ、それを「バクスター効果」と呼ぶようになりました。

しかし、その10年後には正しい環境下での実験とは言えなかったという新たな論文により、バクスター効果は否定されることになります。

しかし、このバクスター効果は、本当にデタラメと言い切れるのか。今でも科学的には立証できない事実として多くの研究やデータが発表されているのです。

2010年に出版されたPlant Signaling & Behaviorでは、植物は "細胞光のメモリ機能 を持つ知性ある生命体で、様々な環境下での高い応用性や情報処理能力を持っていると発表しています。

この情報処理能力には、植物は記憶された情報を処理できるメカニズムを備えているという結論を出しています。例えば、近い将来に自分が病原体の攻撃される情報を予測し記憶していくことができるというのです。

また、植物は自分が必要としている以上の光合成をして光エネルギーを吸収するそうです。それは、まだ世間知らずで何も分かっていない若葉にベテランの葉が自分のエネルギーを使ってトレーニングするためなのだそうです。

ベテランの葉が様々な自然環境下で生きていく術を記憶して若葉に伝えていける応用性を持った知性を兼ね備えているということなんですね。

生命が宿っている限り野菜にも果物にも心が宿る


さて、こうした実験結果をバカバカしいとか、だから何なの?とか、科学的には論外である!と意に介さない人もいるでしょうし、反対に何でも生きている以上は当然あり得る話だ!と受け止める人もいるでしょう。

常識では考えられない無農薬、無肥料のりんご栽培を成功させ一躍時の人となった木村秋則さんをご存知でしょうか。木村さんが成功させるまでの苦労は想像を絶する長い年月を費やしました。そこから出てくる木村さんの言葉には説得力があります。

なぜ肥料も与えず、農薬を使った虫の駆除もしないで2年近く放置しても腐らないほどの生命力あるりんごを育てられたのか。

木村さんは、どうしても栽培過程でダメになるりんごを見て上手く育てらないことに申し訳ない気持ちになり、ある時りんごの樹に謝ったことがあったそうです。しかし、その時、全てのりんごの樹には謝ることができなかったのですが、その後その謝らなかったりんごだけが腐ってしまった という体験をしたそうです。

自然界で育つ難しさを極限まで見てきた木村さんは気がついたのです。本当にりんごが育つ為には農薬や肥料で周りの環境を変えるのではなく、どうやって自然に生きる生物にとって最良に心地よい自然環境を作ってあげられるかが大事であるいうことに。

そして強い生命力の源は、肥料や農薬ではなく、深く愛情を掛けて心から育てていくことが人間に限らず、野菜や果物も大きく元気に美味しく育とていくと悟るのです。

こうした木村さんのやってきたこと、体験から、
「植物や野菜、果物は記憶し、感じ、考えたりできる知性を持つ生命体である」
ことが100%否定できるとは言い切れないと思いませんか。

日頃何気なく口にする野菜や果物。これも実は心ある命を頂いていることを意識すれば、より食べ物に対して感謝の気持ちを持つようになりませんか?

また、自然界に存在する木との共存を忘れ、どんどん自然破壊をする今の世の中を改めて考えたりする機会にもなるのでないでしょうか。


62. 中川隆[-6412] koaQ7Jey 2017年9月28日 07:13:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「植物も夜寝て朝起きる」研究発表―植物も人間と同じ生き物だ
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/441030101.html

「ひまわり」という漢字は誰がつけたのか「向日葵」と書きます。太陽に向かって咲く花からきていると言われています。しかし、なぜひまわりは太陽に向かって咲くのか誰も分かりませんでした。

ジャーナルサイエンス誌で発表された研究結果はとても興味深いものでした。それは、若いひまわりもまさに人間の1日24時間の活動と同じサイクルをしている動きだと分かったのです。

植物も生命が宿っている。自然破壊や植物への感謝を忘れがちな人間が、改めて地球上で皆が一緒に「生きている」ことを痛感させられる内容です。


植物も人間と同じ生命活動サイクルをしている!

研究により分かったひまわりの24時間リズムですが、体内時計が自分の体内活動をコントロールすることが定義付けられています。つまり人間で言うと、24時間の中で寝る(眠くなる)→起きる(目覚める)という体内時計です。

これが同じようにひまわりでも起こっていることが分かりました。科学者の研究によると、成長段階のひまわりは、常に太陽(東から西)に向いているが、一旦成長すると常にずっと東を向いたまま止まってしまうのだそうです。

太陽の光が強いのは午前の時間であるため、ある程度成長をすると朝の時間の太陽だけを浴びれば良いように東を向いたままとなるからとのことです。

この実証実験では、研究者がひまわりを動けないよう紐で結びつけ(かわいそう〜)、ひまわりの正面を太陽から離してみました。

すると、明らかに通常のひまわりよりも生命力を失い、葉も小さくなっていったそうです。同時にひまわりの花粉媒体を行う代表的な蜂は、陽の光を浴びる温かい植物を好み、より惹きつけられることが分かりました。

また、別の実験では、時間をランダムにした人工光でひまわりがどのような動きをするか調べてみました。すると、24時間のサイクルではきちんとした動きをしましたが、30時間のサイクルでは動きが無くなったそうです。

❝ 夜は植物も自分の体をリセットする時間を持っている事実が分かったことは、驚くべき事実です ❞

と、USデービスの生物学者であるステーシー・ハーマー氏はコメントしています。
また、ナショナルサイエンスの植物ゲノム研究プログラム責任者のアニー・シルベスター氏も以下のように述べています。

❝ ひまわりのように太陽の動きに合わせて活動する。植物も人間のように身体を機能させるために日中と夜のリズムを持っているのです。これは植物の遺伝子情報の研究解明に大いに関係する事実です ❞

生命の原理を忘れた病人続出の現代人


この研究結果は、地球で生命を授かり生きているのは人間だけではない。人間も植物も全く同じ生命体なのだ。ということを思い知らされます。

人が生きるには生命を頂かないと生きていけません。それは、肉や魚だけでなく、野菜、植物もみな一緒であり、自然を食して生きていけることに感謝をしなくてはならないのです。

太陽の陽の光を感じず、十分な睡眠を取らず、自然なものではなく人工的な食品、自然を捻じ曲げて作られた遺伝子組み換え作物など、地球の生命体として現代の人間はふさわしい行動をしていないことが分かります。

また、電気のなかった時代、昔の人は日が沈んだら寝て、日が昇ったら活動するという正に植物と同じ生活をしていました。結局、人間も植物と同じように生きていくことが本当の健康的な生命活動であると改めて感じます。

地球上の生命活動に反した結果、生命の異常=病気が発症するのですね。
便利な時代、地球を我が物として振る舞う生活をするようになった人間がこのシンプルな「事実」をどう受け止め自分へ問いかけるか、とても重要な気がしてなりません。


参考:
Why Do Sunflowers Turn To The Sun? Researchers Find An Answer
http://naturalsociety.com/why-do-sunflowers-turn-to-the-sun-9534/


63. 中川隆[-5793] koaQ7Jey 2017年11月29日 21:17:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

古来より宗教的体験はその記述を追ってみると病気の症状である場合が多い。
マイケル・ガザニガによれば、モーセやブッダ、ムハンマドについても側頭葉てんかんが疑われるという

側頭葉てんかんと神秘体験。


宗教的・神秘的な体験は
側頭葉の癲癇(てんかん)
によって起こると言われています。


側頭葉てんかんとは、てんかんの一種。

側頭葉てんかんの原因は、
仮死分娩、
脳炎・髄膜炎の後遺症、
はしか、
突発性発疹、
先天性脳腫瘍、
大脳皮質の形成障害、
脳血管障害、
頭部外傷など、
非常に多岐にわたる。


意識の喪失・痙攣はせず、
患者は発作が起きると
聴覚・視覚・嗅覚・触覚に異常を覚える。
茫然自失状態となったり、
よくわからない言葉を話したりする。


側頭葉てんかんの障害を持つ患者は、
発作が起きてなくても、
ゲシュヴィント症候群と称せられる特色を持つ。


@過剰書字(たくさん文章を書かずにいられない)
A過剰な宗教性・道徳性
B攻撃性
C粘着性
D性に対する極端な態度


側頭葉てんかんで有名な人は、
ゴッホ、
ドストエフスキー、
ルイス・キャロル、
アイザック・ニュートン、
ギュスターブ・フローベール


天才ばかり。

さらには、
パウロ、
ムハンマド、
モーセ、
仏陀、
ジャンヌ・ダルク

宗教関係者は、
伝記から推測するに
てんかん発作を経験していると思われる。


側頭葉は、
強烈な宗教体験を知覚するとき、
幻聴が聞こえるときに活動するとされている。

特定の電気を頭に流す事で、
神秘体験、宗教体験をする研究は盛んだ。
脳に流れているのは、
微弱な電流。

すでに、操作することが可能だと言う。

特定の電流を頭にあてることで、
頭が良くなるヘルメットなどもすでに開発されている。

オウム真理教のヘッドギア。
あれも似たような効果を狙っていたはずだ。

教祖の体験した、
側頭葉てんかんによる宗教体験を、
ストーリーを聞き、
左脳が理解し、
擬似的に、間接的に体験する事で
宗教というものは産まれているのですね。

側頭葉てんかんの患者は、
しばしば神の降臨・神との接触など
神秘体験をすることが知られています。

「神は側頭葉にいる」

そんなジョークもあるのです。


この、
側頭葉てんかんと神秘体験について、
擬似体験させてくれる小説があります。


山田正紀著 
『神狩り』
『神狩り 2 リッパー』


側頭葉の発火で
目の奥が、
バチバチッと光る感じで
超能力が発動して、
天使見えるようになっちゃう。
そんな話。

おすすめのSF小説。


そうだ。

今日、
てんかんについて書いたのは、
京都は祇園にて、
花見客6人をひき殺した事件。事故?

その死亡した運転手が、
てんかん患者だったというからだ。

てんかん患者、
パニック障害、
これらは似た症状が起きるのだが、
身近で見た事があれば、
運転が危険だと言う事は明らかだ。


てんかん患者に対する、
運転免許証の交付は、危険。
事故に直結します。
てんかん協会の対応が求められます。
https://ameblo.jp/zion69noiz/entry-11222862687.html

てんかん患者として知られる著名人 (Wikipedia)


俳優

ヒューゴ・ウィーヴィング(俳優)
ダニー・グローヴァー(俳優)

音楽家

アダム・ホロヴィッツ(ビースティ・ボーイズのMC兼ギタリスト)
リチャード・ジョブソン(ザ・スキッズのボーカル)
ニール・ヤング(シンガーソングライター)
大江光(作曲家)
沢田泰司(TAIJI)元Xのベーシスト)

イアン・カーティス(ジョイ・ディヴィジョンのボーカル)
ステージ上で発作を起こすこともあり、自殺の一因になったとの説もある。

ジョージ・ガーシュウィン(作曲家)
多型性神経膠芽腫の最初の徴候として、めまいや短時間のブラックアウトと同時に、焼けたゴムの様な臭いがしていたという。そして、腫瘍を取り出す手術を施されたにもかかわらず、6ヵ月後に死亡した。

芸術


エドワード・リア(画家)
子供の時に発症し、姉のジェーンも頻繁な発作に罹っていて、早世したことから、遺伝からくるものだったのではないか、と推測されている。彼は自身のてんかんを恥じていて、生涯周囲には隠していたという。しかし、自身の日記で各々の発作の様子を記していた。


フィンセント・ファン・ゴッホ (画家)

スポーツ選手

ピート・アレクサンダー(元メジャーリーグ選手、300勝クラブ投手)
バディ・ベル(元メジャーリーグ選手)
トニー・ラゼリ(元メジャーリーグ選手)
フローレンス・ジョイナー(陸上選手・ソウルオリンピック金メダリスト)

作家

フィリップ・K・ディック(SF作家)
フョードル・ドストエフスキー(作家)
ビョルンスティエルネ・ビョルンソン(作家、ノルウェー国歌の作詞者)
晩年に脳卒中に倒れた後、部分てんかんに罹った。


ギュスターヴ・フローベール(作家)

宗教

ピウス9世(カトリック教会の司祭)


ジャンヌ・ダルク(カトリック教会の聖女)


ギュイヨン夫人(神秘主義思想家)
ジョセフ・スミス・ジュニア(末日聖徒イエス・キリスト教会の設立者)
リジューのテレーズ(カトリック教会の聖人)

パウロ(新約聖書の著者の一人)

アビラのテレサ(スペインのローマ・カトリック教会の神秘主義思想家)
慢性的な頭痛や一時的なブラックアウトに悩まされ、酷いときには4日間も昏睡状態に陥ることもあったという。

ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(イスラム教の開祖)
側頭葉癲癇が、彼にインスピレーションを与えていた原因の一つである、という分析がある。


エゼキエル(預言者)
スウェーデンのビルギッタ(スウェーデンの聖職者)

学者

ソクラテス(哲学者)

エマヌエル・スヴェーデンボリ(科学者・政治家・神秘主義思想家)

カール・グスタフ・ユング(精神科医・心理学者)
幼少時、失神を伴う痙攣発作をたびたび起こしていた。

君主・王族

ミカエル4世(東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝)
イヴァン5世(ロマノフ朝第4代のモスクワ大公)
ジョン(イギリス王子)
ヴェストマンランド公エーリク(スウェーデン王子)
フェルディナント1世 (オーストリア皇帝、ハンガリー王、ボヘミア王)

政治家

ガイウス・ユリウス・カエサル(軍人・政治家)
ハリエット・タブマン(奴隷解放運動家)
イーダ・サクストン・マッキンリー(ウィリアム・マッキンリー第25代アメリカ合衆国大統領夫人)

ナポレオン・ボナパルト(軍人・政治家)
夜中に短時間しか眠らなかったというエピソードは、睡眠中に発作を起こすため、連続した睡眠が得られなかったことに起因している。

なお、彼は一般に「3時間しか眠らなかった」と言われるが、実際は昼寝をしていて、それを含めれば6〜8時間に達していた(当時彼に仕えていた人の日記などからそう判断される)。

ウラジーミル・レーニン(ソビエト連邦建国者)
亡くなる最後の数ヵ月前に発病し、てんかん重積が原因で死亡した。ちなみに、その発作は50分間も続いた。

その他

ダニエル・タメット(円周率暗唱のヨーロッパ記録保持者)
https://blogs.yahoo.co.jp/smkss434/3285585.html

大宗教の誕生と「側頭葉てんかん」


エドガ・ケイシーの眠りながらする予言、療法なども「てんかん」なのではないかと思う。ケイシー自身は「てんかん」を頭の病ではなく腸の問題であると喝破しているところがすごい。

「てんかん」を次のように考えているようだ。

ケイシーは、テンカンになる原因として、主に、

1.頚椎、脊椎の歪み

2.出産時もしくは出産前に発生したトラブル、

3.内分泌腺の不均衡

4.腸の乳び管の癒着や炎症

などを
あげています。

※(妊娠中の母親の不適切な食事が原因のものもある)

さらに、魂の選択して、自分の魂の成長のためにテンカンとして生まれた。あるいは
両親の魂の成長のために自分がテンカンで生まれることを選択した(病を持った
子どもの世話をすることで、両親が精神的、霊的に成長していく)というものもあるようです。(ameblo.jp/sorakazeum)

お腹への「強打」あるいは殴打のような、傷害あるいは外傷

* 付着に帰着するお腹の炎症を作り出す幼年期の発熱
*脊柱の傷害(特により低位背骨)
*妊娠合併症
*困難あるいは異常分娩に起因する出産時外傷

より明確に、ケイシーは、てんかんのほとんどのケースに腹部癒着が乳糜管にあると述べました。
乳糜管はリンパ系の一部です。
それらは腸を通し消化された食物の通路として小腸から栄養素を吸収します。
乳糜管中の付着は、栄養素(特に脂肪およびタンパク質)の吸収を阻害をすることができます。
また、付着は血液リンパ循環とを阻害し、バランスあるいは「調整」から神経系を影響外にします。
神経系不調整はてんかんにおいてケイシーリーディングで引用された主要な要因です。

(blog.kushiroph.com)

側頭葉てんかんと宗教の誕生

(blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime)

「脳の中の倫理」(マイケル.S.ガザニガ著、梶山あゆみ訳、紀伊國屋書店)という本を読んでみた。

脳という臓器が、

(1) 辻褄を合わせようとする(左脳の「解釈装置」で辻褄の合う物語を作る)臓器であり、

(2) 記憶も書き替えられるし、
(3) 不都合なことは忘れる臓器

だ、という研究の紹介だ。

著者自身が、特に、左右の脳を分離した状態の研究の大家であり、左脳の「解釈装置」に詳しいので、この本の後半の説明は面白い。犯罪の目撃証言がいかにあやふやなものかがよく分かるし、自分の記憶も簡単に信用してはいけないということもまた分かる。

「信じたがる脳」と題された第9章では、宗教的な体験と側頭葉てんかんの関連性

についての面白い仮説があった。

側頭葉てんかん は、てんかんの一種だが、意識の喪失や痙攣を伴わない。

患者は発作が起きると、 聴覚、視覚、嗅覚、触覚に異常を覚え、 しばらく茫然自失状態となったり、 口をぺちゃくちゃ動かすような症状が現れたりする。

側頭葉てんかんの患者は、発作が起きていない状況でも、ゲシュヴィント症候群と称せられる特色を持つとされこれは、

1. 過剰書字(たくさん文章を書かずにいられない).......作家、音楽家
2. 過剰な宗教性・道徳性......宗教家、心理学者
3. 攻撃性..........政治家、スポーツ
4. 粘着性..........学者
5. 性に対する極端な態度(非常に強まるか、弱まるか).....英雄

を示すという。典型的には画家のゴッホがそうだ。

ゴッホ以外にも側頭葉てんかんと考えられている有名人は、

ドストエフスキー、ルイス・キャロル、
アイザック・ニュートン、ギュスターブ・フローベール

などの天才、さらには、

パウロ、ムハンマド、
モーセ、仏陀、ジャンヌ・ダルク

などの宗教関係者が伝記から てんかん発作を経験していると思われるという。

側頭葉は強烈な宗教体験を知覚するときや、幻聴が聞こえるときに活動するとされており、弱い磁場を発するヘルメットで、側頭葉を刺激して、側頭葉てんかん発作のような明確な宗教体験をした(カナダのローレンシアン大学のマイケル・パーシンガーの研究)という研究もある。かつての、オウム真理教のヘッドギアも似たような効果のものだったのだろうか。

ガザニガの仮説は、大まかにいえば、

教祖の側頭葉てんかん発作ないしはそれに近い脳活動が宗教体験のもと になって、これが

左脳の解釈装置で現実と(ないしは物語と)一緒に解釈され、

ゲシュヴィント症候群の特徴を持った教祖が他人に影響を与える

ことによって、これが

現実生活に合ったものであった場合に、その宗教が大きくなっている のではないか、というようなストーリーだ。


側頭葉てんかん

(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa)

現在の脳科学では側頭葉癲癇患者が発作時に神秘体験をするといわれていますし、かなりの宗教的聖人とされている人が側頭葉癲癇であったろうとされています。

確かユングも側頭葉癲癇が疑われてるはずです。

側頭葉電気刺激で正常者でも神秘体験が再現性があるので、一定の脳への刺激で(激しい宗教的修行や臨死体験などの脳の低酸素状態で出現します)人間に内在してる宗教感覚が体感できる能力は遺伝子的に組み込まれてるのは明らかなんです。

彼はそれを癲癇患者なりに直感で人類共通にある宗教感覚と思ったんでしょう。

太古の昔から人類の進化には宗教とは切っても切れない関係があります。

氷河期などの環境の激変を乗り越え、飢餓や捕食者との戦いの連続の危機的な状況で集団で狩猟採取生活をし、子供を育て、農耕文化へと発展する進化の過程で集団をまとめるのは強いリーダーとシャーマニズムであると思われます。

自然を畏怖し死者を敬っていたのはかなり太古のネアンデルタール人でさえ遺跡に痕跡があるのです。

それこそが彼の言う文化や地域関係なく人類の共通の集団感覚なんでしょう。

あなたの思考する脳は人類200万年の進化の結晶であり、行動・思考はあなた個人の独創的なものでなくDNAに組み込まれた一定のパターンの中で選択してるはずです。

東京女子医大脳神経センター 脳神経外科
(soufusha.co.jp/hori/)


平沢研一、林 基弘、山根文孝、堀 智勝


日本全国において てんかん患者は120万人に達し、うち難治性は成人例で25%、小児例で13%、全体で17% (20万人)である。

これらの中で、側頭葉てんかん は、手術治療の最もよい適応の一つと考えられている。以下に側頭葉てんかんを概説し、我々の取り組みについて述べる。

発作: まず、

1. 上腹部のこみ上げるような不快感、

2. 異次元にいるような感じ、

3. ものが大きく見えたり、小さく見えたりする、

4. 恐怖感やいやな臭い、

5. 既視感

などの前兆から始まり、

6. 意識が混濁

する。

この際、

7. 動作を停止し、虚空を凝視する

ことが多い。さらに典型的には

8. 舌なめずりや、

9. 手でものをいじる、

10. 部屋の中を歩き回る

、といったいろいろなタイプの自動症がみられる。

一回の発作が1分程度と長いことが多く、また、発作後も意識混濁が数分間続くことが特徴的である。
https://blogs.yahoo.co.jp/smkss434/3285722.html







宗教とは何か(1)宗教とは宗教でないものではない
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150331/1427727600

 「宗教とは何か」ということについて、少しずつ考えてみようと思う。

 「宗教」とは何なのか。われわれは、たしかに何かを宗教と呼んでいる。しかし、「とは何か」ということになると、話は簡単ではない。

 これは、学問的に定義するのも難しければ、一般的な言葉で答えるのも難しいであろう。多くの場合、宗教とは何かと問われたら、「たとえば、キリスト教とか仏教とか」と個別の宗教を挙げるのではないかと思われる。あるいはそれから共通点を探そうとする。

 しかし、あらゆる「宗教」に共通のものは存在するのだろうか。われわれは、それが何であるとき、それがどのようであるとき、あるものを宗教と呼ぶのか。そのことは明らかに自明ではない。宗教の定義は、宗教学者の数だけあると言われている。

 上にあげたような、個別の宗教の名前を列挙することで「宗教」なるものを見出そうとする作法は、結局のところ「宗教なるものは存在しない」という態度を表していると言える。つまり、存在するのは個別の宗教だけであり、それらの上位概念たる「宗教」は、名称だけが存在するとみる。

 あるいは、これと対立するものとしてあえて挙げるなら、個別の宗教を超えた「宗教なるもの」が確かに存在するとみる立場もあるだろう。つまり、先に「宗教なるもの」があり、個別の宗教は全てその一つの表れのとみる。どちらをとるかは議論する価値があるだろう。

 一方で、この二つは「個別の宗教は複数ある」という認識は共有しているが、それすらもない場合もある。つまり、ある個別の宗教こそが普遍的実在だとみなす場合である。これは「原理主義」と呼ばれるが、こうなった時、他の宗教に対する非寛容が生じる。宗教は場合によっては、人間生活のあらゆる側面を規定するからである。

 宗教が個人の内面の問題だとされている場合は、人間生活の「それ以外」の領域は宗教からは自由である。しかし、宗教によっては、教義的に、「それ以外」の領域が存在しないものもある。たとえば国家の法律や社会の慣習が、宗教の教義と一致している場合である。そこでは、実践の領域も宗教の制限下にある。そのような場合、内部での連帯は強くなるが、異質なものへの排斥の念は強くなる。「他のもの」が入り込む隙間がないからである。

 しかし、他の宗教に対してどういう態度をとるのか、とってよいのか、とるべきなのかも宗教によっていろいろある。そして、それが教義上明らかにされている場合とされていない場合、あるいは教義にはなくてもコミュニティ内では暗黙的に決まっている場合がある。こうした複雑な実感のからみあいが個別の宗教を成立させている。

 もっとも、何かが「宗教である」ことが、われわれにはなぜかわかるとは言えるだろう。それを言葉にするのが難しくとも、われわれには、あるものが「宗教」あるいは「宗教的」であるのかないのかの判断はできている。そこには何か基準があるはずである。

 宗教とよく対立するのは「科学」である。科学者の多くは、宗教を過去のものとする。宗教は確かに、たとえば連帯を成り立たせ、想像の力を育て、倫理観を培ってきたと、「歴史的に」宗教に意義があったことは認める。しかし、理性を十分に使えるようになった人類には、もはや宗教は必要ないというのがそこでの考えである。このような発想は、本人が明示的に主張している場合と、暗黙の前提としている場合がある。

 こうした主張に対して、宗教の側からは、たとえば科学も一つの宗教であり、あらゆるイデオロギーも宗教であるとする反論がみられることがある。確かに、あらゆる体系を宗教とみなせば、それは宗教に見えるだろう。もっともそれは、メタファーの持つ性質による。メタファーとは、Aというものを理解するために、AをBであるととらえることによって、AのもつB的側面だけを強調するものだからである(ジョージ・レイコフ/マーク・ジョンソン『レトリックと人生』参照)。

 しかし、ここで重要なのは、それが便宜的な理解ための一つの方法であるということである。AをBであるととらえることが可能でも、AをBであるととらえること「によって」AがBであることを保証するわけではない。たとえば科学を宗教ととらえたところで、科学が宗教であることを証明するわけではない。

 それは、たとえば人間をサルであるととらえたところで、人間がサルであることを証明しているわけではないのと同じである。人間をサルであるととらえると、確かに人間のもつサル的側面が強調される。しかし、それは人間がサルであることの証明ではない。われわれは、人間をふつう人間だと思っており、サルだとは思っていないし、「違い」の方に注目しても、同じくらい見出されるからである。

 つまり、科学を宗教であるととらえるのは自由だが、そう考えたところで、われわれが科学を「科学」と呼び、「科学教」と呼んでいないのはなぜなのかという問題が生じる。「宗教とは何か」という問いに答える糸口は、一つはこのあたりにあるのではないかと思われる。

 もっとも、「科学も一つの宗教である」という宗教の側からの反論が、単に宗教の自己保身のための主張だとする判断は早計である。宗教の側と科学の側では、「宗教とは何か」ということに対する根本的な実感が異なるかもしれないからである。実際には、追求すべきなのはそうした対立の一つ上の視点からの理解である。

 いずれにしても、われわれが「あるものが宗教である」ことを判断していると考えられること、そして、あるものが「宗教ではない」ことも同様に判断していると考えられることから、「宗教とは何か」を問うにあたっては「宗教とは何でないか」という問いも掲げておくと、求める答えが得られる可能性は高くなるであろう。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150331/1427727600

宗教とは何か(2)少なくとも宗教は「信じる」ものである
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150401/1427884200


 前回、宗教と科学の関係について少しだけ触れたが、これについて「宗教とは信じるものであり、科学とは認めるもの」ではないかというコメントをいただいた。一般的には根強い考え方だが、今回はこれについて考えてみたい。

 「宗教とは信じるものであり、科学とは認めるものである」を解釈すると、ここで言われていることは、それとかかわるに際しての「態度」の区別であろう。つまり、宗教とは信じるという態度とともにあり、科学とは認めるという態度とともにある。このように考えれば、たしかに納得する人はたくさんいるだろう。日常的な言葉での表現としてはきわめて簡潔である。

 もっとも、ここで分析的な態度をとれば、ただちに「信じることと認めることの違いは何か」という問いが生じる。あるいは、「違いは何か」以前の問題として、信じることと認めることは別のことであるのかという問いもあるだろう。後者から考えてみることにする。

 単純に考えれば、言葉が違うのだから、違うものだと言えそうである。しかし、そのことは必ずしも自明ではない。なぜなら、「信じる」と「認める」という言葉を使い分けているのは、単に日本語という言語体系における習慣かもしれないからである。それが認知的なものと対応しているかは、必ずしも定かではない。

 とは言え、ここでは「違うものである」という態度をとりたい。私の実感では、同じものについて、「信じる」という時と「認める」という時では、思い描いているものが違うからである。これは、あくまでも私自身の実感に根差した判断であるが、多くの人は同意されるところではないかと思う。

 もっとも、信じることと認めることが別のことであり、それらに違いがあるとしても、それが宗教と科学の違いを説明するわけではない。なぜなら、宗教的な主張であっても納得すればわれわれは認めることがあるし、また科学的な主張でもたとえば「それは科学である」というお墨付きだけで信じている場合もあるからである。

 もっとも、宗教が基本的に「信じるもの」であるのは確かであろう。以下、特定の宗教を「信じる」ことについて少し考えておきたい。

 ちなみに、ここでおもしろいのは、ふつう、信じるのは個別の宗教のみであり、「宗教なるもの」を「信じる」人はいないということである。「○○教を信じる」とは言えても、「宗教を信じる」という言い方にはどこか「頭痛が痛い」と同じようなものを感じるのは、おそらく「宗教とは信じるものである」という前提がそこにあるからであろう。「私は宗教を信じる」と言う時、多くの場合の返答は「どの宗教?」であり、それなら「宗教なるものを信じる」ことは可能ではないと考えられているか、少なくとも一般的ではないと考えられる。

 では、特定の宗教を信じるようになるそれぞれのケースについて考えてみる。

 一つは、いつの間にか信じている場合である。このケースでは、子どものころから、あるいは社会にとりこまれる過程で、ある宗教を信じているのが当然だという認識を受け入れざるをえなかったというものが多いであろう(別のケースには、過去を否定する形で特定の宗教を信じ始める場合、たとえばある種の「洗脳」があった場合などがある)。

 もっとも、そうした事情で言わば「はじめから」特定の宗教を信じている場合でも、ある機会にその宗教を離れるケースは存在する。反対に、「その宗教を離れる」という選択肢を知る機会そのものがない場合もある。ドーキンスが『神は妄想である―宗教との決別』の冒頭で描いている「私は、そんなことができるとは知らなかった」である。こうした場合、その宗教の教義によっては、危険なものを生み出す可能性がある。そこでは、場合によっては不可避的に他者を排斥しなければならないからである。

 次に、自らの判断で特定の宗教を信じ始める場合である。そこでは、もともと宗教を信じていなかった、あるいは別の宗教を信じていたが、自分の意思と判断で特定の宗教に入信する。たとえば、自分の実感と最も合致する考えを持っている宗教を選ぶ場合もあるだろう。

 しかし、新たに入信する場合の多くは、比較検討したうえで選ぶというよりも、ある一つの宗教との強烈な「出会い」体験に根差している場合が多いと言える。それは、「どれかの宗教にかならず入信していなければならない」という制約でもない限り、わざわざいくつかの宗教を比較検討してどれかを選ぼうという動機が得られることがまずないからでもある。特定の宗教を信じることを、たとえば国家に強いられる場合は、そこでの主張は「この宗教を信じよ」であり、「どれでもいいからどれか一つを信じよ」ではない。

 「出会い」体験に根差している場合、どの宗教を選ぶかというのはつまり、こちら側から選ぶというよりも、「宗教の方からやってくる」場合が多い。そこでは、実はその人の内面ではすでにその宗教に親和的な、あるいはその宗教のものそのものである認知体系ができあがっている。なぜなら、知らない概念に名前はつけられないからである。そこでは、名前がついていることが存在を保証するのであり、「求めていたものが、確かにあった」ことに人は感動する。

 ここで、「信じる」というものはあくまでも内面的なものであると考えておきたい。われわれは、ある宗教を内面的に信じている場合と、ある宗教にかかわることを外面的に「実践している」場合がある。もっとも、「実践する」というとすでにある何らかの内面に照らして何かを実行に移すというニュアンスがあるから、ここでは単に「行う」と言った方がよいかもしれない。

 外面的という場合、たとえばその宗教の認知体系をもっているかどうかとは関係なく、その宗教と関係のある儀式なり行事に参加することを指す。そのような場合をわれわれはふつう「信じている」とは呼ばない。

 典型的な例は、日本で多くの人が仏教や神道、あるいはその他の宗教に関わる物事に接していながら、多くの人が「私は無宗教である」と言うことである。つまり宗教は、内面的生活がないところでは、文化や社会の一部となる。したがって、特定の宗教を「信じている」状態にあるには、特定の内面状態を持っている必要があると考えられる。

 その意味で言えば、「自分の意思と判断で入信する」場合も、多くは内面的にはすでに「信じて」おり、入信のための何らかの手続きを行うのは、あくまでも公的に、つまり外面的に「信じているとみなされる」ためであると言える。

 では、ある宗教を信じている時の「内面」はどのようなものであるのか。

 次回はそれについて考えてみたい。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150401/1427884200


宗教とは何か(3)宗教を知るには、心から信じるしかない
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150402/1427976000

 前回、「ある宗教を信じている時の内面はどのようなものであるのか」という問いを残した。今回はそれについて考えることにする。

 ある宗教を信じている時の実感がどのようなものであるかは、外からの理解は難しいであろう。そこでは、本人に話をきくのがひとまずの方法ではないかと思う。

 たとえば、「神がいるから信じるのではなく、信じるから神がいる」という主張がある。これは特に唯一神の存在を前提とする宗教を信じる人の主張であり、そうした人の実感を伝えるものであると思う。

 言いかえればこれは、認識についての問題であろう。つまり、「神がいるから信じる」という場合、神をどのように認識するのかという問題がある。

 それが、五感で感じられるものの場合は、他者との共有は容易であろう。「これだ」と示せばよい。しかし、多くの場合、神に限らず宗教的なものは五感では感じられないと言える。別の宗教を信じている人どうしでは時に、文字通り話が通じないからである。

 もっとも、人間は五感で感じられる世界にまずは生きているのであり、たとえば見たり触ったりできるものが、「宗教的なもの」として登場する場合もある。しかし、何らかの道具を使う場合も、それはあくまでも「向こう側」に到達するための手段であると言える。宗教における「リアル」は、精神的な領域にしか現れないのである。そのことが、他者からの理解を難しくする。

 言いかえれば、「信じていない人に信じさせることはできない」と言えるであろう。「信じるから神がいる」とは、「信じている」という状態になることによって、「神が認識できるようになる」ことを指す。そこではやはり、信じることが先なのである。それなら、信じるという行為によって宗教が生まれたのだから、宗教が「信じる」ものであるのは当然かもしれない。

 そこでは、あくまでも信じた結果として「神がいる」のである。しかし、いったん神を信じれば、あらゆる物事が、神が存在する証拠に見えてくる。神を信じていなければ、「これが証拠だ」とみせられても、神は見えないのである。なぜなら、その人の内面にはまだ「神はいない」からである。

 布教を行う場合に「まず、問答無用で神を信じてください」という態度になりがちなのは、裏から言えばつまり、それしか入り口がないからであろう。もっとも、ここにあげたようなパターンは、個人の内面を重視する宗教におけるものである。特に一神教の発想であろう。たとえばキリスト教である。

 キリスト教では、「神」が「イエスを救世主として遣わした」と心から信じれば、それだけでキリスト教徒になる。洗礼その他の儀式は、あくまでも他者からキリスト教徒であると「みなされる」入り口である。

 逆のパターンは、内面に信仰がなくても、外面的な行いに参加しているうちにいつしか内面も変化してゆくことである。そこでは、教義を理解している必要はない。時には、教義がわからなくても、実践してさえいれば「救われる」からである。これは、たとえば中世のカトリックにみられる。宗教においては、教義の理解と実践は別なのである。

 逆に言えば、教義を理解するだけでは、ある宗教を知ったことにはならないということになる。なぜなら、信仰という内面的実践を持っていない限りは、実感が異なるだろうからである。

 しかし、内面がいったんある宗教の認知体系になってしまえば、それ以外はみえなくなると考えられる。二つ以上の宗教を同時に信じている人がいないのは、そのためであろう。ある宗教を知るには、その宗教を「心から信じる」しかないのである。いくつもの宗教を「同時に」心から信じることは、構造的にできないのであろう。宗教理解が難しいのは、この点にある。

 前回「科学」と対比した際に、科学の側と宗教の側では「宗教とは何か」についての理解が根本的に異なるのではないかとしたが、それは確からしいと思われる。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150402/1427976000

「神秘体験」とは何か(1)サードマン現象
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150408/1428501600


 「宗教」について考えることの延長として、親和性が高いと思われる「神秘体験」について考えてみたい。

 いわゆる「神秘体験」を定義するのは難しいが、

(1)日常的に起こるものではないこと、
(2)多くの人にとって不可解な現象であること、

くらいを確認しておけばとりあえずは問題ないであろう。

 一般的によく言われるのは「科学では説明がつかない」ということだが、これは話が逆で、実際には神秘体験と呼ばれる多くの現象は科学ではけっこう説明がついている。つまり、どちらかと言えば「科学で説明できない」のではなく「日常的な実感で説明がつかない」もので、科学で説明がつかないと「思われている」のが神秘体験なのである(要するに、他のあらゆる領域でもそうであるように、一般的な実感は専門的な説明とはかけ離れていることが多いのである)。

 「サードマン現象」というものがある。一言で言えば、とくに非日常的な場面において、何らかの危機的状況に陥った時、そこにいないはずの「誰か」(サードマン=第三の人)が現れて助けてくれるというものである。実例については新潮文庫の

『サードマン: 奇跡の生還へ導く人』
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3-%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E7%94%9F%E9%82%84%E3%81%B8%E5%B0%8E%E3%81%8F%E4%BA%BA-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC/dp/4102184910

にたくさんある。

 たとえば雪山で遭難したとき、誰かの励ます声が聞こえる。あるいは正しい道を教えてくれる。共通するのは、自分ではない「誰か」の存在を感じることで、生還した人は決まって「誰か」に「助けられた」と言う。

 これは実際には幻覚と呼ばれるものの一種であるが、本人にとっては強烈な体験であるために、とても自分で起こしているとは信じないことが多い。しかし、実際は自分の脳が起こしている。人間の心に起こることは、最終的にはすべて脳が起こしているのである(脳と心は、同じ一つの存在だからである)。

 たとえばわかりやすい例は、夜道を一人で歩いている時に誰もいないのに気配を感じるというものである。あるいは幽霊が見えたとか自分の部屋に誰かいたとかでもよい。いずれも、自分がそう思ったことがリアルに「見えてしまう」。これは、前回あげた「信じるから神がいる」のメカニズムに通ずる。

 実は人の脳は、外部刺激、つまり感覚器官からの入力が単調になると、スクリーンに映画を映すかのように外部に内面状態を映すようになる。それは、脳にとっての整合性を保つためである。実際にはこれは四六時中やっているのだが、環境が単調になるとその傾向が明白に強まる。

 たとえば夜道なら、ふつうは真っ暗、つまり視覚的変化に乏しく、周囲は静まり返っているから、聴覚的にも変化に乏しい。そこでは、小さな刺激にも過敏に反応して、「何か」を見出し、「意味」を作り出してしまう。わざわざ木を人と見たり、風の音を人の声と聞いたりするのである。これがひどくなるとサードマンも現れる。

 もちろん、サードマン現象が起こる要因は一つではない。というより、「誰か」の存在を感じたという部分が共通しているだけであり、実際にはいくつかの異なる現象がまとめてサードマン現象と呼ばれていると言えるだろう。しかし、このように要素を追ってみると説明は可能である。

 そもそも、人間の脳は生存のために情報処理を行うべく動いているのであり、非日常的な状況になればなるほど、非日常的な体験をしやすくなる。たとえば雪山の例では、低体温、低酸素、孤独感といったストレスも認識に大きく影響を与えている。サードマン現象では、幻聴とはとても思えないようなリアルな呼びかけを聴いたりもするが、人間の認識が常に「外部刺激」とそれによって引き出される「記憶」の「統合」により生じていることを考えれば、それとて不可解なものではない。

 上のような例は、状況次第で誰にでも起こるものである。宗教と関連付けて言えば、「誰か」をたとえば「神」だと認識してしまえば、信仰心が篤くなることは容易に想像される。

「宗教とは何か(2)少なくとも宗教は「信じる」ものである」
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150401/1427884200

で「出会い体験」について書いたが、宗教と神秘体験の親和性が高いのはこのようなことからも説明可能だろう。逆に言えばそれは人間の認知構造に根差しているために、宗教という体系性を持ったものとセットで認識されると、なかなか離れがたいものになるのである。

 この「極限状態」の軽いバージョンが、もろもろの宗教的な「場」であろう。「場」には物理的な「場所」と、特定の「機会」を両方含むが、前者ならいわゆる「聖地」や教会、聖堂、寺院、祭壇等、後者は儀式・儀礼である。

 こうした場では、日常とは異なる体感を引き起こす要素、とくに視覚的、聴覚的にうったえかけるものが多い。あるいは大人数で歌を歌う時の肉体的同調、お経のように単調で一定周波数の音を聞く、炎を見つめるなど、いずれにしても環境的に非日常的な外部刺激がつくられている。だからこそ、そこでは神や仏も感じられるのである。

 さて、神秘体験については、上に挙げた状況的に起こりやすい場合のほか、先天的、あるいは後天的な体質により起こりやすい場合、そして自ら起こす場合があるであろうが、それらについては次回以降にふれることにする。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150408/1428501600

「神秘体験」とは何か(2)神秘体験が起きやすい体質
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150409/1428584400


 「宗教」について考えることの一環として「神秘体験」を取り上げているが、前回は「状況的に起こりやすい」場合に注目してみた。今回は、「先天的、あるいは後天的に体験しやすい体質を持っている場合」について考えてみたい。先天的という場合は遺伝的特質によるもの、後天的という場合は怪我などによる損傷によるものだが、いずれにしても肉体的、身体的ということである。

 「幻覚」を頻繁に体験する場合は、現代社会では何らかの病気と診断されていることが多い(幻覚そのものが病気なのではなく、症状の一つとして幻覚が起こる)。しかし、何が病気かはあくまでもそれぞれの時代にそれぞれの場所で文化的に定義されるものである。われわれは常に、自らを基準にして物事を測るからである。

 たとえば、ジュリアン・ジェインズは、文献からの分析で、四千年ほど前までの人々はみな現代でいう「統合失調症」の状態にあったのではないかと推測している

(『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E6%B2%88%E9%BB%99%E2%80%95%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%81%A8%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E8%88%88%E4%BA%A1-%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BA/dp/4314009780


そこでは、「病気」という概念はおそらくなく、今でいう「幻覚」は日常体験だったと考えられる。これは、古代人の信仰心の篤さと関係があるかもしれない。古代では、およそ信仰のないところに歴史は生まれていない。

 あるいは、統合失調症は精神障害であるが、より物理レベルに近いところで言えば、側頭葉てんかんがある。側頭葉はもともと宗教的体験と関係が深い領域であるとされるが、たとえばよくあげられるのはサウロの例である(サウロはパウロの改宗前の名前である)。

 記述によれば、サウロはダマスコへ向かう旅路で突然強い光を受けて倒れ、目が見えなくなった。その時、「なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞いたという。側頭葉てんかんでは発作が起きると五感に異常を覚え、幻覚を体験することが多い。もちろん、これだけで断定できるわけではないが、その他の記述ともあわせてみれば、サウロが側頭葉てんかんだった可能性は高いとされている。

 このように、古来より宗教的体験はその記述を追ってみると病気の症状である場合が多い。マイケル・ガザニガによれば、モーセやブッダ、ムハンマドについても側頭葉てんかんが疑われるという

(『脳のなかの倫理―脳倫理学序説』)
https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE%E5%80%AB%E7%90%86%E2%80%95%E8%84%B3%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6%E5%BA%8F%E8%AA%AC-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BBS-%E3%82%AC%E3%82%B6%E3%83%8B%E3%82%AC/dp/4314009993


このように考えれば、ある時代までは、ある種の病気を持つ人は「異常」とレッテルを貼られるどころか、尊敬される対象だったのである。各地にみられるシャーマンも何らかの特異な体質を持っていることが多い(あるいは、幻覚作用のある植物を使うことも多いが)。

 神秘体験を得てそれが宗教と結びつく場合、特定の宗教の敬虔な信者となる場合と、本人が新たな宗教の教祖になる場合、あるいはサウロのように伝道者となる場合がある。いずれにしてもここで重要なのは、本人が、それが宗教的経験であると本気で信じているということである。実際には自分の脳によるものであるが、そうした知識がなければ宗教的体験であると解釈するのも無理はない。

 一般に、いかなる話であれ第三者が語るよりも本人が語る方が説得力が増すのは、身体的に空間を共有していると体感が伝播するからであるが、ここでは、本人が本当に強烈な体験をした経験を臨場感をもって思い出しながら語ることで、時にその体感とともに信念体系をも伝播させる。こうして本人が知らないうちに教祖なり伝道者なり、敬虔な信者となるのである。

 このように、宗教的体験が人間の認知構造に根差していると考えれば、人間は誰もが宗教的体験を覚える可能性があることになり、常に一定程度の宗教家や信者がいることは理解される。特定の宗教を知る者にはその宗教のリアリティが高まるであろうし、宗教を知らなければむしろ、そのような体験をすることで人間は宗教を作り出したと言えるのかもしれない。

 その意味では、人間にとって「宗教」とは、信じる方が普通であるようなものかもしれないだろう。つまり、どちらかと言えば、「信じる」ことを選択するのではなく、「信じない」ことを選択するのである。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150409/1428584400

「神秘体験」とは何か(3)自ら起こす場合
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150415/1429095600


 宗教を考える延長上で「神秘体験」に注目しているが、前回と前々回ではそれぞれ「状況的に起こりやすい場合」と「体質として起こりやすい場合」をとりあげた。今回は、「自ら起こす」場合について考えてみたい。少しあやしくなってきた。

 宗教において神秘体験を自ら起こすというと、いわゆる「修行」というものがかかわってくるであろう。「修行」というともっぱら東洋的な語感であるが、ここでは何にせよ、「何らかの形で身体にはたらきかけることで、心理状態あるいは脳内状態を自発的に変化させること」を指すことにする。つまり、心と身体が一つであることを利用している。

 宗教的行為のほとんどは、もともとはその意味での修行である。これは、伝統宗教でも民族宗教でも、新興宗教でもかわりはない。その本来的な意味からずれて表面的なところだけが残ったとき、それは文化に取り込まれるのだとも言えるであろう。そもそも各宗教にある聖地の巡礼にしても、もともとは祈ったり拝んだりすることが目的というよりも、そこに行くまでの行程が修行であった。修行はすべて、特定の精神状態に行きつくための一連の手段であり、最後のところだけをやっても意味がないのである。

 修行は、必ずしも苦行ではないと言われる。しかし、苦しいかどうかは本人の感覚によるだろう。外から見てどんなに苦しそうでも、本人の中では至福体験であるかもしれないから、これを区別することにあまり意味はないと思われる。苦行でも行きすぎると死んでしまうであろうから(それだから死んでしまう人もいる)、いずれにしてもどこかの段階でいわゆる脳内麻薬が出ていることは間違いないと考えられる。たとえばエンドルフィンであればいわゆる「ランナーズハイ」と同じメカニズムである。身体に負荷がかかりすぎると、脳の方が「もういいでしょう」と言ってくる。

 あるいは運動を促すドーパミンや、危機状態において「fight or flight」(闘争か逃走か)の判断を迫るノルアドレナリンも、出すぎると「行き過ぎ」を止めて精神状態を安定させるために相応のセロトニンが出る。セロトニンが大量に出ているときはいわば「落ち着いて」気分がよくなるから、思い切り身体を使ったり頭を使ったり、危ない状態になればなるほど、相対的にその後の「心の平穏」も強くなるのである(自傷行為のメカニズムもこれである)。これが修行や至福体験と関係が深いことは容易に想像される。

 もっとも、宗教ではそうした心と身体のメカニズムについて明示されない場合が多い。というか、それを明らかにしていたら宗教にならない。多くは、ただ教義に則って何事かを行っていれば、いつしか自然に特定の状態が生じる。そこで生じるのはあくまでも「体感」であり、その意味付けを行うのは本人である。したがって、人間の性質として自然に起こると本人が知らなければ、何らかの超越的なものを感じるほかなくなる。そこでは言わば、宗教は頭よりも先に身体を取り込むのである。

 その意味では、布教においては「とりあえず信じてもらう」のとは別に、「とりあえずやってみてもらう」というのがあり、その前提として「とりあえずふれておいてもらう」というのがあるのであろう。修行以前に環境として慣れ親しんでいること、つまり特定の宗教にかかわる何かが身の回りにあることは、動機づけとして重要な意味をもつと考えられる。つまり、文化の中からも布教するのである。そうして外堀を埋める。

 たとえばヨーロッパ文化におけるキリスト教を考えてみると、教会建築、聖歌、パンとぶどう酒、あるいはクラシック音楽は神の世界を表現するためにはじまったものであるし、絵画も当初はもっぱら宗教画である。さらには「科学」でさえも、当初の科学者たちは「神が創ったこの世界の素晴らしさを知るために」研究している場合が少なくない。こんな環境にいたら、無縁でいる方が無理があるだろう。

 キリスト教については、布教の過程でヨーロッパがキリスト教化すると同時にキリスト教がヨーロッパ化したと言われるくらいだから、文化と一体になることもまた宗教の宿命なのであろう。一般に宗教は、伝播した先ではもとのそれとは似ても似つかないものに変形する。これはキリスト教でも仏教でも同じである。そうしないと成立しないのであろう。

 逆に言えば、構造的に変形できない宗教は広められる範囲に限界がある。歴史的にイスラム教が日本に入ってこなかったのはそのためだという人もある。キリスト教がこれほど拡大できたのは、おそらく信仰の第一義を内面生活にのみ置くからである。そこでは、頭の中で信じてさえいれば、外面的に何をやっているかは言わば関係がない。「隠れクリスチャン」はクリスチャンだからこそ可能なのである。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150415/1429095600



シャーマンの病

 イタコの入魂儀礼も時代と場所によって多様であるが、いずれにしても神懸かりになる為に大変な苦行をする。寒い冬の水垢離は冷気に耐えかねて逆に身体に熱を発生させる。下半身に発生した熱が背骨を通って頭まで達成して変化が生じるのである。蛇や龍はこの熱エネルギーの象徴である。不動明王が右手にもつ、倶利伽藍(くりから)の剣に蛇が巻きついているのは、このことを表しているように思える。正常な意識では耐えられないので思考から切り離すため祝詞や祭文といったマントラを延々と唱え続ける。イタコは変成意識状態の中で神や仏と出会うのである。

 右耳の上にある大脳の右側頭葉は魂の座と呼ばれている。自己と意識の接点があり、右側頭葉を刺激するとテレパシー、光のヴィジョン、音の幻聴、人格の変容、体外離脱体験が起きることが解っている。この領域に脳の損傷がおきると魂の抜けた自動機械の状態になり、さながら生きる屍のようになる。


イタコの入魂儀礼は堪え難い疲労と緊張によるストレスが引き金になり大脳の右側頭葉の回路にスイッチが入るのだ。儀礼はスイッチが入るまで続く。

そうして右脳の中から声が聞こえるようになって、はじめてイタコが誕生するのだ。

イタコ系は人為的だがカミサマ系の教祖達は人生の中で極端な不幸、災難、困難を経験して発狂寸前まで追い込まれる。病気や苦悩の頂点でカミサマと出会うのである。

日常を超えたこのような体験はシャーマンの病と呼ばれる。


意識の成長・進化


 体験を否定して自我の崩壊、分裂が起こることもある。自我がある程度発達していないと恐怖のあまり退行してしまうのだ。閉じこもってそこから出て来ようとしなくなる。退行してしまうと、自我を越えることも社会にも適応できない状態に置かれてしまう。

 体験が肥大化すると、自分は凄い人間なんだとうぬぼれてしまう。教祖が信徒に攻撃的になったり人に対して抑圧的、支配的になってしまうのは抑圧された無意識のエネルギーに巻き込まれてしまっているからである。カルトや新興宗教の教祖にこのようなタイプがいるので注意が必要だ。

 私たちは自分の思考や感情を波動として周囲に放射しているので自我の境界が薄くなった人は気をつけなくてはいけない。霊能や特殊な能力をえて人に認めてもらいたいというのは自己評価欲求が満たされていない段階なので、問題を生じやすいのである。

 不思議なヴィジョンを見たり、異常な肉体の感覚を経験したり、このような普通では考えられない体験を大いなる自己に統合できれば意識の成長・進化がおこる可能性がある。

 それには抑圧されたエネルギーを解放し、体験を否定も肯定もせずただあるがままに見てゆく観察的な自我を育てることが必要だ。
http://homepage.mac.com/iihatobu/work/itako.html#anchor11




「神の存在」という幻想(1)
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/09/26/100035


ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』
https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B3%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE%E5%B9%BD%E9%9C%8A-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%EF%BC%B6%E3%83%BB%EF%BC%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3/dp/4042982115


ラマチャンドランは、局所発作(てんかんの発作)が大脳辺縁系に起こると、次のような症状になるという。


患者は、強い恍惚感から深い絶望、破滅のときが迫っているという気持ち、はては極度の怒りや恐怖まで、「感情がもえさかる」という。女性はときどき発作の最中にオーガズムを感じることがある。理由ははっきりしないが男性にはない。しかしなかでも一番注目に値するのは、神聖な存在を感じたり、神と直接コミュニケーションしたと感じるなど、感動的な霊的体験をする患者たちだ。周囲のあらゆるものが宇宙的な意味に満たされていると患者は言う。「私はようやく、すべてを理解しました。このときをずっと待っていたんです。不意にすべてがのみこめました」。「ついに私は宇宙の真髄を見抜きました」。

皮肉なことだが私は、この悟ったという意識、真実がついに啓示されたという絶対的な確信は、情動に関与する辺縁系からくるはずで、思考をつかさどる合理的な脳領域――真実と偽物を識別する能力をおおいに誇っている領域――からくるはずがないと理解している。

大脳辺縁系を理解しておこう。

http://www.cis.twcu.ac.jp/~asakawa/BrainScience2008/Pictures/Pinel002.jpg


辺縁系には、海馬・扁桃体・中隔・視床前核・乳頭体・帯状回などが含まれる。脳弓は長い神経線維束で、海馬と乳頭体をつなぐ。辺縁系は感覚や運動に直接かかわるのではなく、事象から抽出された情報や事象の記憶、事象に関連する感情などを扱う、中核的な処理システムを構成している。


http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/d0/c319628432589f964219719493388cf9.jpg


辺縁系はすべての感覚系(視覚・触覚・聴覚・味覚・嗅覚)から入力を受ける。辺縁系の出力は、主として情動の体験と表出に向けて調整される。情動体験は前頭葉との相互結合によって媒介されており、内面の感情の豊かさの多くは、恐らくこれらの相互作用によっていると思われる。これらの感情を外界に向かって表出するには、視床下部と呼ばれる、小さな核が密に集まった部位の関与が必要になる。

もう一つ、てんかん(癲癇)についても理解しておこう。


てんかんは、突然意識を失って反応がなくなるなどの「てんかん発作」をくりかえし起こす病気ですが、その原因や症状は人により様々で、乳幼児から高齢者までどの年齢層でも発病する可能性があり、患者数も1000人に5人〜8人(日本全体で60万〜100万人)と、誰もがかかる可能性のあるありふれた病気のひとつです。「てんかん発作」は、脳の一部の神経細胞が突然一時的に異常な電気活動(電気発射)を起こすことにより生じますが、脳のどの範囲で電気発射が起こるかにより様々な「発作症状」を示します。しかし症状は基本的に一過性で、てんかん発作終了後は元通りの状態に回復することが特徴です。原因は様々で、脳腫瘍や頭部外傷後遺症などの明らかな原因がある場合は「症候性てんかん」、原因不明の場合は「特発性てんかん」と呼ばれます。(厚労省 http://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_epilepsy.html

ラマチャンドランの説明では、


「てんかん」と聞くと、たいていは、ひきつけを起こして倒れる人を思い浮かべるだろう。こうした症状は、大発作と呼ばれる、最もよく知られているタイプのてんかんの特徴である。こうした発作はふつう、脳のどこかでニューロンの小集団が混乱した発火を行い、その活動が野火のように広がって脳全体をのみこんでしまうことによる。しかし発作には「局所的な」発作、すなわち1カ所の狭い範囲にほぼとどまっているものもある。この局所発作が運動皮質で起こると、連続した筋肉の痙攣が生じる(ジャクソンてんかん)。局所発作が大脳辺縁系に起こると、感情の症状がもっとも顕著となる。[以下、冒頭の引用に続く]

以上の記述によれば、辺縁系のどこかに異常な電気活動が起こると、神秘的な体験をするということのようだ。


この患者たちは神の目をまっすぐに見つめるという、類のない特権を発作のたびに享受している。こういう体験が(どんな意味においても)「本物」かそれとも「病的」か、誰が決められるだろう。医師はこういう患者に薬を飲ませて、全脳の神が降臨するのを阻止すべきなのだろうか?

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この問いは、意外に重要な問いであるかもしれない。普通の「正常」な人は、このような神秘体験を病気とみなし治療すべきというのではないだろうか。しかしそれは「類のない特権」を否定するという抑圧的行動になる可能性を考慮したものであるかどうか。人類の進化を否定する行為になるかもしれないと考えた結果であるのかどうか。他方、それは後天的な経験の発現(単なる願望)という単純なことであるのかもしれない。
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/09/26/100035


「神の存在」という幻想(2) 神秘体験(宗教)は、精神疾患である?
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/10/26/210000


神秘体験(スピリチュアル/宗教体験)は病気(精神疾患)なのかどうかに関して、ラマチャンドランは、神経科学者として興味深い議論をしている。


大脳辺縁系のなかを神経インパルスの衝撃が大量かつ頻繁に通過すると、ある回路が永久的に「促進」されるか、あるいは大雨の水が丘陵をどっと流れ、新しい小川や溝や水路をつくるように、新しいルートが開かれるのかもしれない。このキンドリングと呼ばれる現象が、患者の内的な感情のあり方を永久的に変化させる――そしてときには豊かにする――のかもしれない。

こうした変化は、一部の神経科医が「側頭葉人格」と呼んでいるものを生み出す。患者は情動が強まり、ささいな出来事に宇宙的な意味を見出す。彼らはユーモアに欠け、ひどく尊大で、毎日の出来事をことこまかに日記に記録しつづける傾向(過書字と呼ばれる特徴)があるとされている。患者たちはときおり私に、神秘的なシンボルや記号でいっぱいの何百頁にもおよぶ書き物をくれる。患者の一部は、理屈っぽくて細かいことにうるさく、自分本位である(もっとも科学者仲間の多くにくらべればまだましだが)。そして哲学的、神学的な問題にとりつかれたように没頭する。

「理屈っぽくて、細かいことにうるさく、自分本位である」ことは、神秘家のみならず、似非科学者(似非評論家)の特徴である。やたら屁理屈をこね、些細などうでもよいことに拘り、自分は間違うはずがないと自信満々に主張する者に接すると、私は一体どうしたものかとおおいに悩む。


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「メルクマニュアル医学百科 家庭版」は、「側頭葉の損傷」について、次のように述べている。


右の側頭葉が損傷を受けると、音や形の記憶が障害される傾向があります。言語が左半球優位である人が左の側頭葉に損傷を受けた場合は、言葉の記憶や言語の理解能力が著しく低下することがあり、これはウェルニッケ失語症(受容性失語)と呼ばれます。ときとして、側頭葉の一部が損傷を受けると、ユーモアがなくなる、狂信的になる、性欲がなくなるなど、人格の変化が生じることがあります。

ラマチャンドランは、ポールというてんかん患者を診察した。


ポールは、自分の考えに夢中で、信者としての尊大さは持っていたが、深い宗教心の謙虚さはまるでなかった。…彼は歓喜を覚え、ほかのものは何もかも色あせた。歓喜の中で神をはっきりと感知した――カテゴリーも境界もなく、創造主との一体感だけがあった。彼はこの話を細部まで念入りに、とてもしつこく説明した。…翌日ポールは私の研究室に、派手な装飾の緑色の表紙を付けた膨大な量の原稿を持ってやってきた。彼が数か月前から取り組んでいる課題である。それには哲学や神秘主義や宗教に対する彼の見解、三位一体の神の本質、ダビデの星の図、霊的な題材を描いた精緻な絵、一風変わった神秘的なシンボルや図などが並んでいた。…ポールがフラッシュバックの話をしているときに「あなたは神を信じていますか」とふいに問いかけてみた。彼は当惑したような様子で「だって、ほかに何があるんです?」と言った。


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ポールのような患者は、なぜ宗教的な体験をするかに関して、ラマチャンドランは4つの可能性をあげている。

第1の可能性は「神が本当に彼らを訪れている」というもの。


もしこれが事実なら、それはそれでいい。神の無限の叡智にだれが疑問をさしはさめるだろう。残念だがこの可能性は、実験的に証明したり除外したりはできない。

これは科学者としては良心的な態度だろう。実験的に証明できないからと言って、この可能性を排除していない。しかし、ラマチャンドランがこのように言うとき、彼には「神」がどのようなものであるかについての一定の観念があると思われる。私にはそれがどのようなものであるかよく分からないので、実験的に証明できないと言われても、本当に?と疑問に思ってしまう。

第2の可能性は、「ありとあらゆる奇妙で不可解な感情の体験に対処するために、宗教的な静謐という、穏やかな沐浴を求める」というもの。


こうした患者は、まるで大釜が煮えたぎるように、ありとあらゆる奇妙で不可解な感情を体験するので、唯一の頼みの綱として宗教的な静謐という、穏やかな沐浴を求める。

精神安定剤としての宗教という考えは、かなり説得力あるように思える。免疫力が弱い子どもや老人(精神年齢)には、「ありとあらゆる奇妙で不可解な感情」が押し寄せてきても抵抗できるように宗教という精神安定剤を処方しようということになるのだろうか。

ラマチャンドランは次のような説明も検討している。


ごたまぜの感情が別の世界からの神秘的なメッセージとして、誤って解釈されるのかもしれない。

しかし、この説明はありそうもないとして、退けられる。


前頭葉シンドロームや精神分裂病、躁鬱病、それに単なる抑鬱などの神経および精神障害でも感情が混乱するが、こうした患者がこれほど宗教に心を奪われるケースはめったにない。…精神分裂病患者には、側頭葉てんかん患者のような強い熱情や、強迫観念めいた形は見られない。したがって、没我的な信心を、感情の変動だけで説明することはできない。

第3の可能性は、「キンドリング現象」によるというもの。


世界の不確かさに対処するには、辺縁系の他の部位や海馬にメッセージを送って闘争か逃走かに備える指令を出す前に、事象の顕著な特徴を何らかの方法で評価する必要がある。ところが辺縁系に発作が起こり、そこから出た偽のシグナルがこれらの経路を流れるとキンドリングが起こる。「顕著な特徴」の経路が増強され、脳組織どうしのコミュニケーションが増加する。人や事象を見たり、声や音を聞く感覚領域は、情動中枢とより密接に結合するようになる。その結果は? 顕著なものだけでなく、あらゆる物体と事象に深い意味がふきこまれ、患者は「一粒の砂の中に宇宙を」見たり、「自分の掌の中に無限を」つかんだりする。そして宗教的恍惚の海にただよい、宇宙の潮にのって涅槃の岸へと運ばれていく。

キンドリングにより、「宗教的恍惚の海にただよい、宇宙の潮にのって涅槃の岸へと運ばれていく」のならば、意図的に辺縁系に刺激を与えたくなるのではないか。…あなたは、「経験機械」につながれたいですか?(2015/2/20)で紹介したハッピーサプリが思い浮かぶ。

ラマチャンドランは、この可能性を実験的に検証した。その結果は?(次回に紹介)

第4の可能性は、「人間は、宗教的経験を伝達することを唯一の目的とする、特別な神経回路を進化させてきた」というもの。


超自然的な存在を信じる傾向が世界中のあらゆる社会にあまりに広く見られる。…生物学的な基盤があるとするなら、鍵となる疑問「どんな種類の選択圧がそのような機構を引き起こすのか」に答えなくてはならない。もしそのような機構があるとしたら、主として信仰や霊的な学習に関与する遺伝子あるいは遺伝子グループがあるのだろうか? 無神論者は、この遺伝子を持っていないか、これを出し抜くコツを習得しているのだろうか(これは冗談)。

この種の議論は進化心理学(社会生物学)の分野で行われているそうで、興味深いものがあるが、ここではラマチャンドランの話を聞くにとどめよう。


進化心理学の中心的な教義によれば、人間の特性や性向の多くは、ふつう「文化」によるとされがちなものでさえ、実は、適応的な価値を持っているので自然選択に導かれて特異的に選ばれてきた。…他方、こうした「進化心理学」の理論がいきすぎないように注意する必要がある。ある特性が普遍的に見られても、それだけではその特性が遺伝的に規定されているとは言えない。

では、進化心理学は宗教の起源をどのように説明するのか。


宗教(あるいは神や霊性を信じること)は、文化が主たる役割を果たしている料理に似ているのか。それとも強い遺伝的基盤を持っていると思われる一夫多妻婚のほうに似ているのか。

一つの可能性として、権威ある象徴を求める人類普遍の傾向が遵奉的な特性を促進し、同じ遺伝子を共有する社会集団(血縁集団)の安定性に寄与するのではないかと考えられる。したがって遵奉的特性の育成を促進する遺伝子は、繁栄し増加する。そしてこれを持たない人は社会的に逸脱した行動をとるために排斥され処罰される。…宗教遵奉の「遺伝子」を信じるかどうかに関わらず、側頭葉の特定の部位がこのような宗教的経験に、他のどの部位よりも直接的な役割を果たしていることは明らかである。

「宗教遵奉の遺伝子」は、誰かがまじめにその存在を証明しようとしているのだろうか。「権威ある象徴を求める性向」の遺伝子といったら、どうだろうか。もう少しブレークダウンしたら実験可能になるかもしれない。


患者にとってはどんな変化も本物で、ときには望ましくさえあり、医師には、人格に秘儀的な色合いがあることの価値を判断する権利はない。神秘的体験を正常であるとか異常であるとかを、誰がどんな根拠で決められるだろうか。「変わった」ことや「稀な」ことを異常と同等にみなす傾向が一般にあるが、これは論理的に間違っている。天才は稀だが非常に価値の高い特性であり、虫歯はごく普通にあるが、あきらかに望ましくない。

心に留めて欲しいのは、(側頭葉が宗教に関係しているという)まったく同じ証拠が、使いようによっては神の存在に対する反証ではなく、神の存在を支持する証拠にもなるということだ。例えば、大半の動物は色覚に関するレセプターや神経機構を持っていない。特権的な少数者だけが持っているのだが、だからと言って色が実在しないという結論になるだろうか? ならないのは明らかだが、ではなぜ同じ論法が神には適用されないのか。もしかすると、「選ばれた」人たちだけが、神の存在を知るのに必要な神経結合を持っているかもしれないではないか。

人格神を想定していると、全くナンセンスなことを議論していると思われるかもしれないが、次のような汎神論を考慮に入れて、もう一度ラマチャンドランの記述を読み返してみるのも面白いかもしれない。


汎神論…存在するものの総体(世界・宇宙・自然)は一に帰着し、かつこの一者は神であるとする思想をいう。「一にして全(ヘン・カイ・パン)」「梵我一如(ぼんがいちにょ)」「神即自然」などが標語として用いられる。世界そのものが神であるとするから、有神論のように世界の外にある神と被造的世界との絶対的対立を認めず、すべてのものは神の現象であり、あるいは神を内に含むとする点で、創造以後は神は被造物に干渉しないとする理神論と異なる。神を世界を統一する普遍的原理、法則性として考える点で合理的側面をもつが、その反面で自我の神への帰入、主観と客観との絶対的合一を説いて神秘主義に至りやすい。神と世界とについて明確な概念が形成された後で登場するのが普通である。ウパニシャッド、古代ギリシアの一部に最初にみられる。西欧近世以降のブルーノ、スピノザ、ドイツ観念論とその周辺の思想家たちの汎神論的思想は、宗教の非合理性を排して、近代自然科学と調和させようという意図で築かれたものである。[藤澤賢一郎/日本大百科全書(ニッポニカ)]
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/10/26/210000


「神の存在」という幻想(3) 「神モジュール」と「婚約数」
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/11/12/210000

今日、「神経科学」は、急速に進歩しつつあるようだ。Wikipediaによると、


神経科学は脳と心の研究の最先端に位置する。神経系の研究は、人間がどのように外界を知覚し、またそれと相互作用するのかを理解するための基盤となりつつある。

認知レベルにおいての研究(認知神経科学)では、神経回路がどのように心理・認知機能を生み出すのかが研究の対象となっている。近年、ニューロイメージング(例:fMRI、ポジトロン断層法 (PET)、単一光子放射断層撮影 (SPECT)、近赤外線分光法 (NIRS) )や電気生理学、経頭蓋磁気刺激法 (TMS)、ヒトの遺伝子解析などの強力な研究手段が発達してきたことにより、神経科学者(特にこのレベルの科学者を認知脳科学者とも言う)は、ヒトの認知や感情などのより抽象的な機能がどのような神経回路によって担われているかということについて研究を行うことが出来るようになった。従来は科学的に還元不可能と考える研究者さえいた多くの複雑な精神的なプロセスが神経活動と強固に結びついていることが解明されつつある。

「神の存在」を信じるというような「宗教的な体験」は、「認知や感情などの神経活動」の一種であるという観点から、「科学的な解明」を試みることは、「宗教対立」を「どうしようもないもの」と考えたり、「信仰の自由」を無条件に認めたりするような、「思考停止」に陥らないために有効な方途であろうと思われる。

ラマチャンドランは、側頭葉てんかんの患者が宗教的体験をする理由について、4つの仮説をあげていた。(前回の記事参照)


01.神が本当に彼らを訪れている

02.ありとあらゆる奇妙で不可解な感情の体験に対処するために、宗教的な静謐という、穏やかな沐浴を求める

03.キンドリング現象

04.人間は、宗教的経験を伝達することを唯一の目的とする、特別な神経回路を進化させてきた


ラマチャンドランは、第3の可能性を実験的に検証した。このキンドリング現象については、ラマチャンドランの説明より、次のブログ記事がわかりやすい。


キンドリングは元々てんかんのモデルとして考えられました。1967年にGraham Goddardがラットの脳を研究していて偶然見つけた現象です。彼は,ラットの脳をいろいろ電気刺激したけど,非常に低い電圧でどんなタイプの痙攣も起きない筈でした。ところが数週間実験を続けたら,その電圧で痙攣を起こすようになり,数ヶ月後でも同様に起こしたのです。つまりラットは電気刺激に感作されたのです。

この現象は,焚き木を燃やす時の焚きつけに似ていることからキンドリング(焚きつけ,燃え上がり)現象とよばれました。その後電気刺激でなく,化学物質の刺激でも同様の事が起きる事が分かりました。

てんかんでは,これと同じような事があって,痙攣が自然に起きる状態と考えられました。また抗けいれん薬の薬効を検定するのに動物のキンドリング・モデルが有効でした。

脳神経の条件付けによる過敏反応だとか,発作の反復により新たな神経ルートが構築され、小さな刺激で発作が再発するようになるなどが,想定されていますが,完全には解明されていません。(2004-11-12)

http://m2fazami.blog26.fc2.com/blog-entry-17.html 

ラマチャンドランの実験というのは、


キンドリングが側頭皮質から扁桃体までのすべての結合を無差別に増強するという説は、患者の電気皮膚反応を調べることで直接の検討ができる。通常、物体は側頭葉の視覚野で認識される。情動的な重要点――親しい顔あるいは恐ろしいライオン――のシグナルが扁桃体から出て辺縁系に伝えられると、情動が喚起されて発汗が始まる。しかし、キンドリングによってこの経路のすべての結合が増強されていると、なにもかもが重要点になってしまう。何を見ても――何の特徴もない見知らぬ人や、椅子やテーブルを見ても――辺縁系が強く活性化され、発汗が起こる。


ラマチャンドランは、この可能性を検証するために、同僚に紹介してもらった2人の患者に実験した。その患者は、過書字[毎日の出来事をことこまかに日記に記録しつづける傾向]があり、霊的なものを好み、宗教に対する自分の気持ちや形而上学的なテーマについて取りつかれたように話した。


(ラマチャンドランは)患者に、単語やイメージのランダムサンプルを数種類見せた。ごく普通の無生物の物体をあらわす単語、馴染みのある顔、馴染みのない顔、性的刺激となる単語や画像、性に関する4文字語、ひどい暴力や恐怖、宗教的な単語やイコンなど。

キンドリング仮説で予測すると、すべてのカテゴリーに対して一様に高い反応が出るはずだ。だが、驚いたことに、2人の患者は主として宗教的な単語とイコンに高い反応を示したが、他のカテゴリーに対する反応は、通常なら強い反応が出る性的な単語や画像に対する反応も含め、正常な人と比較して異様に低かった。

ここでラマチャンドランは、注意を喚起している。


側頭葉てんかんの患者がみな信心深くなるわけではない。側頭皮質と扁桃体の間には並行した結合がたくさんある。そのどれに問題があるかによって、人格が他の方向にそれて、取りつかれたように文章を書く患者や、絵を描く患者、哲学を論じる患者もいるし、稀にはセックスに夢中になる患者もいる。こうした患者のGSR[電気皮膚反応]をとれば、恐らく宗教的なイコンよりもそれぞれが夢中になっているものに関する刺激に大きく反応するだろう。この可能性については、私たちのところでも、他でも、いま研究が進行中である。

こういう話を聞くと、健常者と障害者との境界は曖昧なもので、「程度の差」に過ぎないように思えてくる。…本書は1998年に発行されたものであり、その後どれだけ研究が進展しているのだろうか。

さて、以下のような、ラマチャンドランの神経科学者らしからぬ話が面白い。これが本書の魅力である。(以下、「GSR」と訳されているところを「電気皮膚反応」に置き換える。)


神が電気皮膚反応装置を通して私たちに直接語りかけてきたのだろうか? 私たちは天国への直通ホットラインを手にしているのだろうか? 

宗教的な単語やイコンに対する反応が選択的に増幅されることで何ができあがるにせよ、この実験結果によって、提示した仮説の一つ――彼らが霊的になるのは、ただ周囲のすべてが重要点になり、深い意味を持つからだという説――が排除された。

キンドリング仮説は排除された。しかし、


結果は、あるカテゴリーの刺激(宗教的な単語やイコンなど)に対する反応が選択的に増強され、性的な意味合いの強いものなど他のカテゴリーに対する反応が実際に減少することを示している。とするとこれらの所見は、側頭葉に宗教や霊性を専門にする神経組織があって、それがてんかん発作によって選択的に強められていることを意味しているのだろうか? 

これは魅力的な仮説だが、他の解釈も成り立つ。私たちが知る限りでは、この患者たちの宗教的な熱情の引き金を引く変化は、どこでも起こる可能性があり、側頭葉で起こるとは限らない。それでもその活動性は最終的には辺縁系になだれ込み、宗教的イメージに対する電気皮膚反応の増強という同じ結果をもたらす。したがって電気皮膚反応が強いこと自体は、側頭葉が宗教に直接関係していることを保証するものではない。

辺縁系とは、次のようなものであった。(2015/9/26 の記事:「神の存在」という幻想(1)を参照)


辺縁系はすべての感覚系(視覚・触覚・聴覚・味覚・嗅覚)から入力を受ける。辺縁系の出力は、主として情動の体験と表出に向けて調整される。情動体験は前頭葉との相互結合によって媒介されており、内面の感情の豊かさの多くは、恐らくこれらの相互作用によっていると思われる。これらの感情を外界に向かって表出するには、視床下部と呼ばれる、小さな核が密に集まった部位の関与が必要になる。

以上のことから、ラマチャンドランは次のように結論する。


人間の脳には宗教的な体験に関与する回路があって、一部のてんかん患者ではこれが過活動になる。この回路が信仰心のために特別に進化したのか、それとも信仰心を誘導するような別の感情を生み出しているだけなのか(但しこれでは多くの患者の信仰心を支えている熱情を説明することはできない)は未だわかっていない。したがって脳に遺伝的に規定されているらしい「神モジュール」があることを示すのはまだまだ先のことになるが、神や霊性に関する疑問に科学的に取り組めるようになったというだけで、私にとっては十分に刺激的である。

「神モジュール」という考えは面白い。…私は、それは「恐れ」(地震や雷などの自然現象に対する恐れ)に由来しているのではないかと想像している。根拠はない。ちょっと言ってみたかっただけ。


人間の本質的な特性である信仰心…これはいまだ解明されない人間の本性の謎の一つに過ぎない。このほかの人間独自の特性――例えば音楽や数学やユーモアや詩作の能力――はどうなのだろう。モーツァルトが交響曲を頭の中でつくりだしたり、フェルマーやラマヌジャンのような数学者が段階的な証明を積み重ねることなしに、欠陥の無い推論や定理を「発見」するのを可能にしているのは何なのか。ディラン・トマスのような詩人が心を揺さぶる詩をつくりだすとき、脳の中ではいったいどんなことがおこっているのだろうか。創造の火花はすべての人のなかに存在する天与の火花のあらわれなのだろうか。皮肉なことにこの手がかりは「イデオ・サヴァン・シンドローム」(より政治的に正しい表現としては、サヴァン・シンドローム)と呼ばれる奇異な状態から得られる。精神遅滞がありながら高い才能を持つこの人たちは、人間の本性の進化――前世紀の偉大な科学者たちがとりつかれた主題――について貴重な洞察を提供してくれる。

確かに、人間の本性は謎だらけだ。私のような俗物にとっては、音楽家や数学者や詩人は、謎の生物だ。

イデオ・サヴァン・シンドロームとは、weblioによると、


精神障害や知能障害を持ちながら、ごく特定の分野に突出した能力を発揮する人や症状を言う。

重度の精神障害を持つ人に見られる、ごく限られた特定の分野において突出した能力を発揮する人やその症状のことです。1887年に、J・ラングドン・ダウン博士により「イディオ・サヴァン(天才的白痴)」と名付けられ、のち「サヴァン症候群」と呼ばれるようになりました。その能力については特に規則性や傾向はありませんが、○月×日の曜日をすぐ当てられる、膨大な書籍を1回読むだけですべて暗記できる、一度聞いただけの曲を最後まで間違えずに弾ける、航空写真を一瞬見ただけで描き起こせるなど、異常なほどの記憶力・再現力が特徴といえます。一般的に男性に多く、また自閉症の人に多く見られます。サヴァン症候群についてはまだ解明すべき謎が多く残されていますが、現在では、左脳の損傷によるという説が有力視されています。

http://www.weblio.jp/content/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3

こう見てくると、神を信じる人・信仰心が篤い人とは、モーツァルやフェルマーやトマスのようなサヴァン・シンドロームの症状を呈する人と同類なのかもしれない、と思ったりもする。

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https://www.youtube.com/watch?v=aNdUqBQ2r5k 

(余談)婚約数について

数学の未解決問題に、いろいろ面白い問題があるようだ。素人には、問題自体が理解できないものが多いが、次の問題は理解できる。Wikipediaより、


婚約数とは、異なる2つの自然数の組で、1と自分自身を除いた約数の和が、互いに他方と等しくなるような数をいう。準友愛数とも呼ばれる。現在まで知られる婚約数の組はすべて偶数と奇数の組である。

一番小さな婚約数の組は (48, 75) である。…48の1と自分自身を除いた約数は、2,3,4,6,8,12,16,24で、和は75となる。一方、75の1と自分自身を除いた約数は、3,5,15,25で、和は48である。

【未解決問題】

・婚約数の組は無限に存在するか?

・偶数同士、奇数同士の婚約数の組は存在するか?

「全能の神」は、「婚約数の組は無限に存在するか?」の問いに、何と答えるのだろうか。…私は知っているが、人間には教えない、とか。
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/11/12/210000

「神の存在」という幻想(4) 「自然選択説」は「潜在能力」を説明できない
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/12/09/221912


前回「サヴァン症候群」の話が出てきた。サヴァン症候群とは、「精神障害や知能障害を持ちながら、ごく特定の分野に突出した能力を発揮する人や症状」であったが、ラマチャンドランはこれに関心を持っているようだ。自然選択の話もこれに関連してのことだろう。でも「天才」の話が出てきたりしてなかなか面白い。

音楽や美術や文学の才能は、「自然選択説」で説明できるのだろうか? 自然選択説とは、


生物の進化を要約すると次の通りである。

生物がもつ性質が次の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化する。

01.生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られる。(変異)

02.そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(遺伝)

03.変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(選択)


上記のメカニズムのうち、3番目に関わるのが自然選択である。一般に生物の繁殖力が環境収容力(生存可能数の上限)を超えるため、同じ生物種内で生存競争が起き、生存と繁殖に有利な個体はその性質を多くの子孫に伝え、不利な性質を持った個体の子供は少なくなる。このように適応力に応じて「自然環境が篩い分けの役割を果たすこと」を自然選択という。(Wikipedia)

「進化論」は面白い話題なので、いずれ取り上げたいと思う。ここでは「自然選択」について、wikipediaの解説のごく一部を引用しておくにとどめる。

ラマチャンドランはこう述べている。


ダーウィンは自然選択の原理で、指や鼻などの形態的な特性の出現だけでなく、脳の構造も、したがって精神的能力も説明できると考えていた。言い換えると、音楽や美術や文学の才能や、そのほかの人類の知的な業績も自然選択で説明がつくと考えた。ウォレスはそうではなかった。ダーウィンの原理で指や足指が説明でき、単純な精神特性も説明できるかもしれないというところまでは認めたが。数学や音楽の才能といった人間の本質をなす一定の能力は、偶然による行き当たりばったりの作用では生まれてこないと考えたのである。

ウォレスがなぜそう考えたかというと、


(第1に)いったん文化や言語や文字が生まれると、人類の進化はラマルク流になった――即ち人が生涯に蓄積した知恵を子に伝えることができた。この子孫は文字を持たない者の子孫よりも賢くなるが、それは遺伝子が変化したかえらではなく、(文化という形の)知識が親の脳から子の脳へ伝えられたためである。このように脳は文化と共生関係にある。

(第2に)例えばあなたが現存しているアポリジニの社会から、ほとんど読み書きのできない先住民の子どもを連れてきて(それともいっそタイムマシンを使ってクロマニヨン人の子どもを一人連れてきて)、リオデジャネイロかニューヨークか東京で現代の公教育を受けさせたとする。彼はもちろん、そういう都市で育った子どもたちと全く違わない。ウォレスの考えによれば、これはアポリジニもクロマニヨン人も、彼らの自然環境の中で必要とされる知能をはるかに超える潜在的知能を持っているからだ。

数学の能力が、生存競争において有利に働くのだろうか。ネアンデルタール人やクロマニオン人が数学的潜在能力を持っていたのは何故か。


http://www.wakingtimes.com/wp-content/uploads/2013/05/Flickr-NASA-NASA-Goddard-Photo-and-Video.jpg

ラマチャンドランはこう書いている。


潜在能力を出現させた選択圧とはどんなものなのだろう。自然選択では、生物が表出している実際の能力の出現しか説明できない――潜在能力は説明できないのである。能力は、それが有益で生存を高めるものであれば、次世代に受け継がれる。しかし潜在的な数学力の遺伝子など作って何になるのか。文字を持たない人にどんな利益になるのだろう。行き過ぎのように思える。

ここが問題のところだ。道具が所有者の必要に先立って発達してきた。だが私たちは進化が先見性を持たないことを知っている! ここに進化が予知力を持っているように思える例がある。なぜそんなことが可能なのか。

ウォレスはこのパラドックスに力強く取り組んだ。数学の技能と言う特殊な能力が(潜在的なかたちで)向上することが、どのようにしてこの潜在能力を持つ一族の生存や、持たない一族の絶滅に影響を及ぼせるのか。ウォレスはこう書いている。「現代の著述家たちは、みな人間が非常に古い歴史を持つことを認めているのに、その大半が、知能はごく最近になって発達したと主張し、われわれと同等の知的能力を持つ人間が先史時代に存在していた可能性をほとんど考えないのは、いくぶん奇妙な事実である」

現代の私たちは、そういう人間が存在していたことを知っている。ネアンデルタール人やクロマニヨン人の脳容量は、実際に私たちの脳容量よりも大きく、彼らがホモ・サピエンスと同等あるいはそれを上回る潜在的知能を持っていたというのは考えられないことではない。

だとすれば、先史時代に出現した驚異的な潜在能力が、つい1000年前になってようやく認識されたことになるが、なぜそんなことがありうるのか? ウォレスが出した答えは神の御業(!)だった。「より高い知的存在が人間の本性の発達過程を導いたに違いない」。したがって人間の資質は、この世に表出された「神授の資質」である。

ウォレスとダーウィンの意見が対立したのはここのところである。ダーウィンは、自然選択が進化の主たる原動力であり、最も特殊な精神特性の出現も神の手を借りることなく自然選択で説明できる、と断固として主張した。

「神の御業」とは面白い。「より高い知的存在」は「現在の科学では解明できない」という代わりの修辞学的表現なのだろうか。


現代の生物学者ならウォレスのパラドックスをどのように解決するだろうか? 恐らくは、音楽や数学の能力といった限定的かつ「高等な」人間の特性は、通常「一般的知能」と呼ばれているもの――300万年の間に「暴走し」、爆発的に大きく複雑になった脳が到達した頂点――の特殊な発現であると論じるだろう。論理はさらに続く。一般的知能の進化によって、会話や狩猟、食物の貯蔵、複雑な社会儀礼などを始めとする多数の人間の行為が可能になった。そしてこの知能がいったん備わると、計算や音楽や、感覚の及ぶ範囲を超える科学的な道具の設計など、ありとあらゆる物事にそれを使えるようになった。

ラマチャンドランは、音楽や数学の能力に関して、この見解に反対している。「サヴァン症候群」の知見にたちかえり、次のように述べている。


「サヴァン」とは、精神的能力あるいは一般的知能が非常に低いにもかかわらず、驚異的な才能の「島」を持っている人たち。例えば、報告されているサヴァンの中には、IQが50以下で普通の社会生活がほとんどできないのに、8桁の素数を簡単に言えるという人たちがいる。これは終身在職権をもつ数学教授でもめったにできない離れわざである。

美術や音楽の世界には、ときどきサヴァンが登場して、その才能が後々まで人を驚かせ喜ばせる。…盲目で自分の靴の紐が結べない13歳の少年トムは、どんなかたちにせよ音楽の指導を受けたことは一度もないが、ほかの人の演奏を聴くだけでピアノを弾くことができた。歌を聴いて旋律を聴き取り、どんな曲でも1回で、熟練した演奏家と同じくらい見事に演奏した。

…こうした例は、特殊化した才能が一般的知能から自然発生的に出てくるのではないことを示している。もしそれ[特殊化した才能が一般的知能から自然発生的に出てくる]が事実なら、精神遅滞者がこうした能力を示すはずがない。それにこの点を立証するのに、サヴァンという特異な例を引き合いに出す必要もない。才能のある人や天才はみな、このシンドロームの要素を持っているからだ。「天才」というのはよくある誤解とは裏腹に、超人的な知能の同義語ではない。私が光栄にも面識を得た天才のほとんどは、本人たちは認めたがらないだろうが、サヴァンに良く似ている――限られた分野ではなみはずれた才能を持っているが、その他の面ではごくふつうなのだ。

ラマチャンドランは、サヴァンの例として、インドの天才数学者ラマヌジャン(1887-1920)の話を紹介しているが、ここではwikipediaから、若干引用しておこう。


ラマヌジャンは、極貧の家庭に生まれたが、奨学金を得て大学に入学。数学に没頭し、他の科目の試験に不合格。大学中退後、港湾事務所に勤務。…周囲の勧めもあって、1913年、イギリスのヒル教授等に研究成果を記した手紙を出したが黙殺された。しかしケンブリッジ大学のG.H.ハーディは、ラマヌジャンの手紙を読み、最初は「狂人のたわごと」程度にしかとらなかったものの、やがてその内容に驚愕した。というのも、ラマヌジャンの成果には明らかに間違っているものや既知のものもあるが、中には「この分野の権威である自分でも真偽を即断できないもの」、「自分が証明した未公表の成果と同じもの」がいくつか書かれていたからである。…ハーディは1から100までの点数で数学者をランク付けするのが好きだった。それによると、ハーディ自身は25点、リトルウッドが30点、偉大なるヒルベルトが80点、そしてラマヌジャンが100点だった。

ラマヌジャンの逸話として有名なものの一つに次のものがある。

1918年2月ごろ、ラマヌジャンは療養所に入っており、見舞いに来たハーディは次のようなことを言った。

「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」。これを聞いたラマヌジャンは、すぐさま次のように言った。「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」。実は、1729は次のように表すことができる。1729 = 123 + 13 = 103 + 93。すなわち、1729が「A = B3 + C3 = D3 + E3」という形で表すことのできる数 A のうち最小のものであることを、ラマヌジャンは即座に指摘したのである。この逸話のため、1729は俗にハーディ・ラマヌジャン数やタクシー数などと呼ばれており、スタートレックやフューチュラマなどのSFや、ハッカー文化の文脈では「一見すると特に意味のない数」のような文脈でこの数が使われていることがある。

最後の「一見すると特に意味のない数」にも意味があるという指摘は面白い。これを拡張すれば、「一見すると特に意味のない事象にも、重大な意味があるものがある」となろう。

では、サヴァンや天才はどのようにして生まれるのか? 遺伝と関係あるのか? それは、次回に。
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/12/09/221912

「神の存在」という幻想(5) 宇宙信仰と創造性
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/12/25/200000

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(15)

サヴァンや天才はどのようにして生まれるのか? 遺伝と関係あるのか? (サヴァン症候群とは、「精神障害や知能障害を持ちながら、ごく特定の分野に突出した能力を発揮する人や症状」をいう)

ラマチャンドランの推論はおもしろい。


靴の紐が結べない、あるいは普通の会話ができないという人が、いったいどうして素数を算出できるのか。その答えはひょっとすると左半球の角回と呼ばれる領域にあるのかもしれない。…サヴァンが誕生の前あるいは直後に脳に損傷を受けて…彼らの脳が、幻肢患者で見られたような地図の再配置をしているという可能性はないだろうか?…ある部位が何らかの理由で、通常よりも多くの入力あるいはそれに相当する刺激を受け取るようになって、大きく密になっているのだろうか。それは数学的な能力にどんな結果をもたらすのか。これが8桁の素数を言える子どもを生み出すのだろうか? 実を言うとニューロンが抽象的な作業をする仕組みはほとんど分かっていないので、こうした変化の影響を予測するのは難しい。角回の大きさが2倍になると数学の能力がただ2倍になるのではなく、対数的に増加したり100倍になったりする可能性もある。この脳の体積の単純なしかし「異常な」増加が才能の爆発を引き起こすと推測することもできる。同じ論法が絵画や言語をはじめ、どんな人間の特性にもあてはまる。

「ニューロンが抽象的な作業をする仕組みはほとんど分かっていない」…こういう教科書風でない書きっぷりは好感が持てる。


この議論は滑稽なほど奇抜なうえに全くの推論だが、少なくとも検証可能である。数学サヴァンは左の角回が肥大しているはずだし、美術サヴァンは左の角回が肥大しているのではないかと考えられる。私の知る限りでは、こうした研究はまだ行われていないが、右の頭頂葉(角回がある場所)が損傷されると、(左側の損傷で計算力が損なわれるのと同じように)美術的な技能が大きく損なわれることがわかっている。

現在(2015/12)は、検証されているのだろうか。仮に否定されていたとしても、こういう検証可能な仮説を提起する能力は重要だ。他人の「議論」「提案」「仮説」「作品」等を紹介・批判するだけでなく、自らの「議論」「提案」「仮説」「作品」等を産み出せるようになることが望ましい。


同様の理論を使って、正常な人たちのなかにときどき天才や並はずれた才能が出現するわけを説明することもできる。あるいは、そもそも進化の過程でそうした才能がどのようにして生じたのかという、厄介な疑問に答えることができる。おそらく脳の大きさがある臨界に達すると、予期しない新しい特性が、自然選択によってとくに選ばれたというのではなく、ただ出現するのだろう。

「自然選択」ではなく、「ただ出現する」。「自然選択」については、別途考えてみたい。ここでは、「ただ出現する」という言い方が面白いのでメモしておこう。


サヴァンに関する私の基本的な議論――特殊化した脳領域のあるものが他の領域を犠牲にして拡大しているのではないか――は、いずれ正しいか正しくないか判明するだろう。しかしもし本当だったとしても、留意してほしいのはピカソやアインシュタインのようになるサヴァンは一人もいないということだ。真の天才になるには、才能の孤島だけでなくほかの能力も必要なのだ。大半のサヴァンは真に創造的ではない。…欠けているように思えるのは、創造性という、言葉で表現できない資質、すなわち私たちを人間であるとはどういうことかの本質にむきあわせるものである。…猿にタイプライターを与えておけば、いずれはシェイクスピアの戯曲ができるという言い回しは有名だが、意味のあるセンテンスがたった一つ出てくるまでに寿命が10億年ほど必要になるだろう−ソネットだの戯曲は論外だ。


https://i.ytimg.com/vi/WLHfFaWzFqs/maxresdefault.jpg

ラマチャンドランは、サヴァンは創造的ではなく、天才になりえないという。天才には創造性が必要だ。猿は創造性を発揮することができるだろうか。


少し前、自分が創造性に関心を持っていることをある同僚に話したことがある。すると彼は、頭の中でアイデアをとことんまでいじり、ランダムな組み合わせをしているうちに、審美的に心地よいものにぶつかるのだという、言い古された議論を繰り返した。それで私は、それならいくつかの単語やアイデアを「いじりまわして」、「ばかばかしく過度な行為をする」あるいは「物事をやりすぎる」という状態を表わす、心に響くメタファーを一つつくってみてくれと挑発した。彼は一時間ほどたって、頭をかきながら、オリジナルなものは全く思いつかなかったと白状した(非常に高い言語IQを持っているにもかかわらずと付け加えておこう)。私は彼に、シェイクスピアは一つのセンテンスにそういうメタファーを五つも盛り込んでいると指摘した。

@純金に金箔をはり、Aユリの花に絵の具を塗り、Bスミレに香水をふりかけ、C氷をなめらかにし、D虹にもう一つ別の色をつけ加える……は無駄で、ばからしい、余分なことでありましょう。

ひどく簡単に聞こえる。しかしなぜシェイクスピアがこれを思いつき、他の人は誰も思いつかなかったのか。私たちはみな、同じ単語を思いのままに使える。伝えられている概念には複雑なところも深遠なところもない。それどころか一旦説明されると全く明白なことで、「なぜ自分は思いつかなかったんだろう」という反応を引きだす。これは独創的で見事な洞察の特徴である。しかしあなたや私が、心の中で言葉をかき集めたりでたらめに混ぜ合わせたりするだけで、同じくらいエレガントなメタファーを思いつくことは決してない。欠けているのは天才の創造の火花である。この特性は現代の私たちにも謎のまま残されているが、ウォレスにとってもそうだった。神の介入を引き合いに出さずにいられなかったのも無理はない。

今回で、第9章「神と大脳辺縁系」を終わるが、最後に、ラマチャンドランが本章冒頭に引用しているアインシュタインの言葉をあげておこう。


この宇宙信仰の感情を、それが全くない人に説明するのは非常に難しい…。あらゆる時代の宗教上の天才は、この教義を持たない宗教的感情によって特徴づけられる…。私の見解では、芸術や科学の最も重要な機能は、この感情を呼び覚まし、感受性のある人たちのなかで、それを生き続けさせることだ。

私には、この教義なき(神なき)宇宙宗教が、芸術や科学の駆動力たりうるのではないかと思われる。

世界(宇宙)は分からないから面白い。
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/12/25/200000


64. 中川隆[-5492] koaQ7Jey 2018年3月23日 06:41:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8578]

「ユング 魂の現実性」


ユング――魂の現実性(リアリティー) (岩波現代文庫) – 2015/9/17 河合俊雄 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0%E2%80%95%E2%80%95%E9%AD%82%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E6%80%A7-%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E4%BF%8A%E9%9B%84/dp/4006003307

河合俊雄氏は、ユングにとって魂は最も重要なキーワードであろうけれども、
それだけにほとんど定義不能であると言います。

魂というのは、ユングにとって個人が所有している自分の心のようなものでは

なく、むしろ、魂における存在、あるいは魂の内の存在ということが言われる

ように、逆に、魂の内に自分が住んでいるのであって、魂とはそこに自分が

住んでいる世界のようなものだというのです。

しかし、魂は何か容器のようなものではなくて、ファンタジーという働きに

よって現実性(リアリティ)を生み出していくだともいう。

だから、物理的で文字通りの「現実」に主観によって媒介された心的現実が

付け加わるのではなくて、「心的現実がわれわれの直接に経験できる現実」

なのだということです。

また、魂は自分の魂のイメージという意味にも使われているようです。異性

像としてのイメージとして現れる魂というのがその典型的な例ですが、ユング

は魂のイメージを、こころの相補性と全体性のために異性像で現れることに

気づき、女性像をアニマ、男性像をアニムスと名づけます。アニマは気分と

して現れたり、現実の女性に投影されたり、女優、女神、魔女などの女性像

で現れることもあるとしています。

一方、アニムスはむしろ意見と現れ、アニマと同様、男性に投影されたり、

様々な男性像で登場したりするということです。

よって、これらイメージとしての魂は、自我や意識にとっての他者のように

なり、また、ひるがえっては、ユングの石の体験のように、あらゆる他者が

魂でもあると思えるとしています。

その他に、魂には、精神と身体、精神と物質をつなぐというニュアンスも

あるようであり、ユングにギリシャ的な精神、身体、魂という三分論が

見られるとしています。

ところで、ユングは死というものをどのようにとらえていたのでしょうか?

「死は心的に誕生と同じくらい重要で、誕生と同様に人生を統合する構成要素で

ある」そして、また、「死は心理学的に正しく見るならば、終わりではなく目標

であり、それ故に正午の高みを過ぎるやいなや死への人生がはじまる」と述べて

いるように、人生の後半を重視する心理学を提唱したユングにとって、死は常に

中心的なテーマであったようです。

来世や死後の世界は、ユングがその中に生きたイメージやユングの心を打った考え

の記憶から成り立っていて、それはある意味ではユングの著作の底流をなしており、

ユングにとっては、死や死後の世界というのは、真に実感を伴ったものであって、

現実性を持ったものであったということです。

しかし、ユングは、死後の世界、死後の生命については物語を語る以上のことは

できないと言っているようです。これが神の問題にしろ、存在の問題にしろ、

常にそれの心理学的なイメージしか対象にせず、それを物語るという形で拡充

していくというユングのスタイルであるという。

ともかく、ユングは夢によって、多くの神話的世界観と同じように、死者の世界

や死後の生命を実感していたようですが、そのなかで、伝統的に、死者は偉大な

知識の所有者であると考えられてきたけれども、死者は自分が死んだときに知って

いたことしか知らないとしているのは興味深いことです。

また、河合氏は、ユングが母親の死に際して遭遇した矛盾した感情、一方では深く

悲しみに沈みつつ、心の底では悲しむことができず、喜びを感じるという感情の

パラドックスについても次のように述べています。

「ユングはこのパラドックスを、死ということがあるときは自我の視点から見ら

れ、あるときは心全体から見られたためだと解している。自我の観点からすると

死は破局である。「死とはおそろしい残忍性である」として、死がいかに残忍で

あるかを言葉を尽くして強調している」「しかし他の観点からすると死は聖なる

結婚であり、喜ばしいことなのである」と。

そして、母の死に対して結婚式のようなお祭り騒ぎを聞いたとあるように、死と

いうものを結合として捉えるのもユングの特徴のようです。

ともかく、ユングの言うことは神話的世界観に共通しているけれども、それは、

たとえば、先祖は山にいると信じられているといった、単にある文化で伝承

されてきた世界観というわけではなく、ユングが経験的に確かめてきたもの

だということです。

ユングの臨死体験についても、特徴的なことが述べられています。

ユングは、70歳になる直前に心筋梗塞等で危篤状態に陥ったそうです。

そのとき見たビジョンでは、ユングは地球を離れて完全に向こう側から、

宇宙の側から地球を見ているのであるが、多くの臨死体験で体を抜け出

した魂が上の方から自分を見ているのに対して、ユングは地球のはるか

上に昇っていって、地球を見ていたという。河合氏は、個人を越えた無

意識や魂を提唱した人にふさわしい臨死体験ではないかと述べています。

また、臨死体験で言われる光の体験や至福感はユングにも認められるが、

苦痛があるというのが興味深いとしています。様々なことが脱落していく

のがいかに苦しかったかを強調しており、それが薄っぺらい至福感がやたら

強調される臨死体験よりも余計に本物らしいインパクトを与えてくれると

いうのです。

その後の回復過程で、ユングは来世における彼の結婚式のビジョンを見た

ということですが、ここからも、死とは婚礼であり、結合の神秘である

というユングの思想が、まさに彼自身の体験に基づいていることが

わかるとしています。

ユングは、85歳で亡くなります。彼の死に対しては、英雄視し、ほとんど

聖人伝説のような扱いをするものもあるが、一方で、ユングは悟った聖人など

ではなく、混乱の迷いのうちに死んでいったという報告もあるようです。

河合氏は、これほど死について考え、また、体験していながら、まだ分から

ないことや迷いがあったことが大切なように思われるとして次のように述べ

ています。

「臨死体験や死後の生命、異界などのイメージを取り上げてしまうと、逆説的

なことに、これらが「この世」の話になってしまいがちである」「もしも神に

ついて知ってしまっているならば、それは神は人間の世界の中に位置づけられ

てしまって、神でなくなってしまっている。死ぬ数日前のユングが、「まだ

欠けているところがある」と述べたように、知っているということは、知らない

ということに同時に裏打ちされてこそ意味を持つのである」「だから死について

もユングは知っていたし、知らなかったと考えられるのである」と。

ユング自身も、「われわれ自身の独自性―すなわち、究極的には限定されている

こと―を知ることにおいて、われわれはまた無限性を意識する力をもつことに

なる」と「自伝」で述べています。
http://cs2593.blog.fc2.com/blog-entry-88.html


65. 中川隆[-11813] koaQ7Jey 2018年5月03日 12:12:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12976]

これから社会の暗部を猛毒入りでお届けします2018.05.03


どうしようもない闇を抱えて猛毒を外に吐き出す

ところで、社会の暗部に潜んでいる「猛毒」ですが、この猛毒は誰もが持っているものです。そして、この猛毒の正体も分かっています。それは「欲望」です。

人間の欲望の中で、最も強いものは「性欲」であると言われております。

もはや誰もが知っているように、人間は「性欲」のためには愛する人をも裏切り、道徳も踏み越え、暴力を生み、レイプし、殺し、心に闇を抱えます。

いつの時代でも、どこの国でも、人間は抑えても抑えきれない自分の中にあるどす黒い「性欲」を抱えてアンダーグラウンドに行き着くという点では変わりません。

この「猛毒」を私はずっと見つめていると言っても過言ではありません。人間は美しい心を持っている反面、どうしようもない闇を抱えて猛毒を外に吐き出すのです。

ブラックアジア会員制の中に横たわっているのは、人間が捨てることができない「闇(ブラック)」を抱えた男女の人生であり、事件であり、社会です。

自分の本能の中に潜んで時おり突き上げるように襲いかかってくる「性の本能」に、闇を意識することもあると思います。人々は日常でこの闇をうまく消して生きているのですが、うまく消しているから闇がないわけではありません。

人は誰でも「性」によって闇を抱えており、その闇が時おり隠せないほどの衝動となって外部に現れ、毒々しい世界を生み出すことになります。

本能の奥底に潜む「性」が自分を変質させるとき

表社会では欲望が愛に昇華しますが、アンダーグラウンドでは欲望が猛毒となって人々に襲いかかります。そして深く底なしの闇が生まれます。

その闇は人間をどこに導くのか。もし、この闇を不用意に解放してしまったら、本能の奥底に潜む「性」は、自分をどのように変質させてしまうのか。

その「性」が抱えた闇こそが、ブラックアジア会員制の奥底にある膨大な記事が描いているものです。

誰でも持っている性の闇は、時に人間を狂わせて暴走させてしまいます。社会全体が性を歪めることもあれば、ひとりの人間が性を暴発させてしまうこともあれば、誰かが誰かの性を暴くこともあります。

こうしたアンダーグラウンドに横たわっている「性」の様々な形をブラックアジアは膨大な量の記事で埋め尽くしています。この全世界のアンダーグラウンドでのたくっているリアルな「性」を私は忘れたくありません。

悪夢のようなセックスの現実、恐怖を催す性の暴力、性に生きる女たちのリアルな息吹き、売春、貧困、歪んだ性の文化や社会、性によって追い詰められていく女たち……。

今でも私はそうした世界を見つめています。そして、この欲望が猛毒となって吐き出される邪悪なアンダーグラウンドという世界に私は触れています。

この新しいサイトでも、深く追求していきたいと思います。

アンダーグラウンドで何が起きていたのか、そして何が起きているのかを知りたい方は、どうぞブラックアジアの内部に触れて下さい。
https://blackasia.net/?p=6628


66. 中川隆[-12026] koaQ7Jey 2018年5月05日 13:16:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13276]

人間の認識能力の限界は予想よりも高そうです。生まれつき持っていない感覚を補うことが出来る能力が脳にはあるようです。これをみると脳が世界を見せているという話もますます信ぴょう性が高まります。


人間に新たな感覚を作り出すことは可能か?
David Eagleman / 青木靖 訳 2015年3月 (TED2015)
http://www.aoky.net/articles/david_eagleman/can_we_create_new_senses_for_humans.htm
https://www.ted.com/talks/david_eagleman_can_we_create_new_senses_for_humans?language=ja


私たちの体はとても小さなものからできていて、すごく大きな宇宙の中にいるわけですが、そのようなスケールの世界を私たちはあまり上手く把握できません。私たちの脳は、そういうスケールで世界を理解するようには進化して来なかったからです。私たちの認識はむしろ真ん中のほんの薄い領域に捕らわれています。さらにおかしなことに、私たちが自分の居場所と思っているその薄い領域においてすら、私たちは起きていることの多くを見てはいないのです。

たとえば世界の色を例に取って見ましょう。これは光波で、物に反射した電磁波が目の後方にある専用の受容体に当たることで認識されますが、私たちはすべての波長を見ているわけではありません。実際私たちが見ているのは、全体のほんの10兆分の1にすぎません。だから電波やマイクロ波やX線やガンマ線が今まさに体を通り抜けているにも関わらず、まったく気付かないのです。それを捕らえられる感覚受容体が備わっていないからです。何千という携帯電話の会話が今まさに体を通り抜けているというのに、それがまったく見えません。

そういったものが本質的に見えないという訳ではありません。ヘビに見えている世界には赤外線の一部が含まれているし、ミツバチが見る世界には紫外線が含まれています。そして私たちの車のダッシュボードにはラジオ周波数帯の信号を捕らえる機械があるし、病院にはX線領域の電磁波を捕らえられる機械があります。しかし私たち自身はそういったものを感じ取ることができません。少なくとも今のところは。そのためのセンサーを備えていないからです。

それが意味するのは、私たちの体験する現実は生物としての肉体に制約されているということです。私たちの目や耳や指先は客観的な現実を伝えているという思い込みに反して、実際には私たちの脳は世界のほんの一部をサンプリングしているに過ぎないのです。生き物の世界を見渡してみれば、異なる生き物は世界の異なる部分を見ているのが分かります。視覚も聴覚も欠くダニの世界で重要となるシグナルは温度や酪酸です。ブラック・ゴースト・ナイフフィッシュの感覚世界は電場で豊かに彩られています。エコーロケーションするコウモリにとっての現実は空気圧縮波から構成されています。それが彼らに捕らえられる世界の断片なんです。

科学でそれを指す言葉があって、Umwelt (環世界)と言います。「周りの世界」という意味のドイツ語です。どの生き物もきっと自分の環世界が客観的現実のすべてだと思っていることでしょう。立ち止まって自分の感覚を越えた世界があるかもしれないなどと考えはしません。自分に与えられた現実をみんなただ受け入れるのです。

ひとつ意識喚起をしましょう。自分がブラッドハウンド犬だと思ってください。世界の中心にあるのは「におい」です。2億という嗅覚受容体を備えた長い鼻を持ち濡れている鼻孔はにおいの分子を引き寄せて捕らえます。鼻孔には切れ目さえあって、鼻いっぱいに空気を取り込むことができます。犬はすべてをにおいで捕らえます。ある日ふと気づいて足を止めるかもしれません。そして飼い主の人間を見上げて思います。「人間みたいに貧弱で情けない鼻を持っているというのはどんなものなんだろう?」(笑)「空気をほんのちょびっとしか取り込めず、たった百メートル向こうに猫がいることや、お隣さんが6時間前この場所にいたことさえ分からないというのは?」(笑) 私たち人間はそのようなにおいの世界を体験したことがないので、そのことを特に残念とも思いません。私たちは自分の環世界にすっかり馴染んでいるからです。しかし私たちはずっとそこに捕らわれているしかないのでしょうか?

私は神経科学者として技術が私たちの環世界を拡張できる可能性や、それが人間としての体験をいかに変えることになるかに興味があります。技術を生物的な肉体に組み込みうることを私たちは知っています。何十万という人が人工的な聴覚や視覚を使って歩き回っています。その仕組みはマイクを使って信号をデジタル化し電極を直接内耳に繋ぐ、あるいは網膜移植なら、カメラを使って信号をデジタル化し格子状の電極を視神経に直接繋ぎます。15年前という比較的最近まで、そういった技術はうまくいかないと考える科学者がたくさんいました。なぜならそういった技術が話すのはシリコンバレーの言葉で、それは生物的感覚器官の言葉とは違っているからです。しかし実はうまくいくんです。脳はそういった信号の使い方をちゃんと見つけられます。どのようにしてか?

実を言うと、脳というのはそういったものを見も聞きもしてはいないのです。脳は音も光もない頭蓋骨の中に収められています。脳が見るのは様々なケーブルから入ってくる電気化学的な信号だけです。脳が扱うものはそれだけです。脳というのは、そのような信号を取り込んでパターンを抽出し意味付けを行うことに驚くほど巧みで、この内的な宇宙からストーリーをまとめ上げて、皆さんの主観的な世界を作り出しているんです。ここで鍵になるのは、脳というのはそういうデータがどこから来ているのか知らないし、気にもしないということです。何であれ情報が入ってきたら脳はその使い方を見つけ出すのです。脳というのとても効率的な機械です。それは基本的には汎用計算装置で、どんなデータに対してもどう使えばいいか見出すことができ、 母なる自然が様々な入力チャネルを作り出す自由を生み出しています。私はこれを「進化のPHモデル」と呼んでいます。ここではあまり専門用語を使いたくありませんが、PHは「ポテト・ヘッド」の略です。この名前を使っているのは、私たちがよく知り気に入っている感覚器というのは目にせよ耳にせよ指先にせよプラグアンドプレイの周辺装置に過ぎないことを強調するためです。差し込むだけで準備OK、脳は入ってくるデータの使い方を見つけ出します。

動物の世界を見渡すと、様々な周辺機器が見つかります。ヘビには赤外線を感知するピット器官があり、ブラック・ゴースト・ナイフフィッシュには電気受容器があり、ホシバナモグラは鼻先の22本の突起を使って周囲を探って世界の3次元モデルを作り出し、鳥類の多くは磁鉄鉱を備えていて地球の磁場を感じ取れます。これが意味するのは、自然は脳を再設計し続ける必要はないということです。脳機能の基本が確立されたなら、あとは新たな周辺装置のデザインだけ気にすればいいんです。それが意味するのは、我々に備わる器官は別に特別で根本的なものではない、ということです。進化の長い道のりで受け継いできたものというに過ぎず、我々はそれにしがみついている必要はないのです。

そのことの良い例として「感覚代行」と呼ばれる現象があります。これは通常とは異なるチャネルを通じて脳に情報を送るということで、脳はその情報をどうすべきかちゃんと見つけ出します。空論に聞こえるかもしれませんが、これを実証した最初の論文が1969年のネイチャー誌に出ています。ポール・バキリタという科学者が、改造した歯科用椅子に盲人を座らせ、ビデオカメラを設置してその前に何か物を置き、被験者はその映像を格子状に並べた筒型コイルによって背中で感じるようにしました。だからコーヒーカップをカメラの前で動かすとそれを背中に感じるわけです。盲目の人たちは背中の小さな部分の刺激からカメラの前にあるものを驚くほど正確に言い当てられるようになりました。

その後これをより現代化したものがいろいろ現れました。「ソナー眼鏡」は目の前にある物の映像を音の風景に置き換えます。物が近づいたり遠ざかったりすると「ジジジジジジジジジ」と音がします。雑音みたいですが、何週間かすると盲目の人はその音をたよりに目の前に何があるかを非常に良く把握できるようになります。これは別に耳を使う必要はなく、こちらのシステムでは格子状の電気触覚を額に貼り付けて目の前にあるものを額で感じ取ります。なぜ額かというと、他に大して使う用がないからです。最も新しい例はBrainPortと呼ばれるもので、小さな電極の格子を舌に付け、ビデオ映像を電気触感信号に変換します。盲目の人はこれを驚くほどうまく使うことができ、ボールをカゴに投げ入れたり複雑な障害物コースを通り抜けたりできるようになります。舌で見るようになるんです。

突拍子のない話に聞こえるかもしれませんが、視覚は脳の中を流れる電気化学的信号でしかないということを思い出してください。脳はその信号がどこから来たのか気にしません。単にそれをどう使ったらよいか見出すんです。

私の研究室で関心を持っているのは、聴覚障害者のための感覚代行です。ご紹介するのは私が大学院生のスコット・ノーヴィックと一緒にやっているプロジェクトで、彼は博士論文に向けてこの研究を主導しています。私たちがやりたいのは、周囲の音を何らかの形に変換し、聴覚障害者が言われたことを理解できるようにすることです。私たちは携帯機器の性能と遍在性を生かし、携帯電話やタブレットで使えるものにしたいと思いました。またこれは身に付けて服の下に着られるものにしたいと思いました。

コンセプトを目にかけましょう。私が話すと、その音をタブレットが捕らえてチョッキに埋め込まれたたくさんのバイブレータに対応付けます。携帯に入っているようなモーターを使っています。私が話した言葉がチョッキの振動パターンへと変換されるわけです。これはただのコンセプトではありません。このタブレットはブルートゥース通信をしていて、私は今そのチョッキを身に付けています。だから私がしゃべると、その音がダイナミックな振動パターンへと変換されます。これによって周囲の音響世界を肌で感じ取ることができます。私たちはこれを聴覚障害者に試してもらっていますが、ほんのわずかな期間でチョッキの言葉を感じ取り理解できるようになることが分かりました。

彼はジョナサン、37歳で修士号を持っています。生まれもっての重度聴覚障害者です。普通の人の環世界の一部が彼には欠けているわけです。それで彼にこのチョッキの訓練を4日間、日に2時間ずつしてもらい、5日目の様子がこちらです。

(映像中 ノーヴィック) You

スコットが言葉を言い、ジョナサンがそれをチョッキから感じ取ってホワイトボードに書いています。

(映像中 ノーヴィック) Where

ジョナサンは複雑な振動パターンを解釈して、言われた言葉を理解することができます。

(映像中 ノーヴィック) Touch

ジョナサンはこれを意識的にやっているわけではありません。パターンがあまりにも複雑なためです。彼の脳がパターンを紐解いて、データの意味を理解するようになっているのです。私たちの予想では、このチョッキを3ヶ月も着ていれば彼は直接的な聴覚の感覚を持つようになるでしょう。ちょうど盲目の人が点字の上に指をすべらせたときに意識的な努力なしに意味が直接ページから飛び込んでくるように感じるのと同じように。

この技術は大きな変化をもたらす可能性を持っています。現在聴覚障害の唯一の解決法は人工内耳ですが、それには外科手術が必要です。しかもこのチョッキは人工内耳の40分の1以下の値段で作ることができ、この技術を広く世界に、最も貧しい国々にも行き渡らせることができます。私たちは感覚代行での結果に強く勇気づけられ、「感覚追加」について考えるようになりました。このような技術を使ってまったく新しい感覚を人間の環世界に付け加えることはできないでしょうか? たとえばインターネットからリアルタイムデータを直接人の脳に送り込んで直接的な認知経験を発達させることはできないでしょうか?

これは私たちの研究室でやっている実験ですが、被験者はインターネットからのリアルタイムデータを5秒間体感します。その後2つのボタンが現れ、どちらかを選択します。被験者は何のデータか知りません。選択が正しかったか1秒後にフィードバックが与えられます。ここで見たいのは、被験者はパターンが何を意味するのかまったく知らないわけですが、どちらのボタンを押せばよいか正しく判断できるようになるものかどうかです。被験者は私たちの送っているデータが株式市場のリアルタイムデータで、自分がボタンで売買の選択をしていることを知りません。(笑) フィードバックで正しい選択をしたかどうか伝えています。私たちが見たいのは、何週間かの訓練の後に、世界経済の動きを直接把握する感覚を持つように人間の環世界を拡張することは可能か、ということです。結果がどういうことになったか追ってご報告します。(笑)

これは私たちが試しているもう1つのことですが、今朝のこのセッションの間、TED2015のハッシュタグがついたツイートを自動的に集めてセンチメント分析にかけています。みんなが肯定的な言葉を使っているか否定的な言葉を使っているかということです。この講演の間ずっと私はこれを感じていました。私は何千という人々の集合的な感情にリアルタイムで繋がっているわけで、これは人にとって新しい種類の経験です。みんなが今どうしていて、どれくらいこれを楽しんでいるか分かるんですから。(笑)(拍手) これは人が通常体験できるよりも大きなものです。

私たちはまたパイロットの環世界を拡張しようとしています。ここではチョッキにクアッドコプターから9種類のデータ—ピッチヨーロール方位方向などが送られていてパイロットの操縦能力を向上させています。パイロットの皮膚感覚が遙か向こうの機体にまで拡張されているようなものです。これはとっかかりに過ぎません。私たちはこれを計器で埋められた現代的なコックピットに適用したいと考えています。個々の計器を読み取る代わりに感じ取れるようにしたいのです。

私たちは情報の世界に生きていますが、ビッグデータにアクセスするのとそれを肌で感じ取るということの間には違いがあります。人間の地平を拡張することの可能性には本当に限りがないと思います。たとえば宇宙飛行士が国際宇宙ステーション全体の状態を感じ取れるというのを想像してみてください。あるいは自分の体の血糖値やマイクロバイオームの状態といった見えない健康状態を感じ取れるというのを。あるいは360度の視覚や赤外線や紫外線の視覚を持つというのを。ここで鍵となるのは、未来へと進む中で私たちは自らの周辺機器を選んでいけるようになるだろうということです。母なる自然が長いタイムスケールで感覚器官を与えてくれるのを待つ必要はありません。良い親が皆するように、世界に出て行って進む道を決めるために必要な道具は既に与えてくれているのですから。今私たちが問うべきことは、自分の世界をどう体験し探索したいかということです。ありがとうございました。(スタンディングオベーション)

アンダーソン これ感じていますか?

イーグルマン ええ、このチョッキで拍手を感じるのは初めてですが、良い気持ちです。マッサージされているみたい (笑)

アンダーソン ツイッターでみんな熱狂し、驚喜している! 例の株式市場の実験ですが、もし成功すれば研究資金に困ることはもうなくなりますね?

イーグルマン そうですね、もう国立衛生研究所に提案を書かなくて済みます。

アンダーソン ちょっとの間だけ懐疑的な見方をしてみましょう。これはすごいものだと思いますが、これまで得られた結果の多くは感覚代行が機能するということで、それは必ずしも感覚追加がうまくいくということではありませんよね? 盲目の人が舌で見ることができるのは視覚中枢があって情報処理できるからで、それが必要な構成要素だという可能性はありませんか?

イーグルマン 良い質問です。実のところ脳はどのようなデータを取り込めるのか理論的な限界を私たちは知りません。しかし一般論として、ものすごく柔軟だとは言えます。人が視覚を失うと、視覚中枢が他のものに引き継がれることになります。触覚や聴覚や言葉によって。それから分かるのは、皮質は単機能で、単にある種の計算を行うということです。たとえば点字のようなものに目を向けると、指で感じるでこぼこから情報を受け取っているのです。理論的な限界があると信ずべき理由はないと思います。

アンダーソン それが正しいとなったらみんな殺到することでしょう。非常に多くの応用が可能です。その準備はできていますか? もっとも期待していること、これが進む方向はどのようなものだと思いますか?

イーグルマン 応用はとてもたくさんあると思います。感覚代行を越えるという意味では、宇宙ステーションの宇宙飛行士という話をしましたが、監視に多くの時間費やす代わりに状況を感じ取れるようになるのではと思います。これが特に適しているのは多次元データだからです。鍵となるのは、私たちの視覚システムは塊や境界を検出するのには優れていますが、世界の状態を把握するのはうまくないことです。無数のデータを表示するたくさんの画面を1つひとつ注意して見ていく必要があります。だからこれは物事の状態を感覚的に把握するための方法になると思います。何もしないでいても自分の体の状態を知ることができるように、重機や安全性、工場や装置の状態を感じ取るというのは、すぐに応用できる領域だと思います。

アンダーソン デイヴィッド、本当に驚嘆させられる話でした。どうもありがとう。

イーグルマン ありがとうクリス。(拍手)
http://www.aoky.net/articles/david_eagleman/can_we_create_new_senses_for_humans.htm


▲△▽▼


人間の聴覚と音質について - Innocent Key
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214

このような資料を見つけました。コード社の資料ですがなかなか良く出来ています。最も先進的で個人的な経験とも一致する箇所が多い内容です。もちろんすべて同意ではありませんがここ近年でみた資料のなかではもっとも同意できる内容の多い資料だと思いましたので、同意できる部分についてのみですが、ここで紹介しておきたいです。

hugo_technology.pdf

ただし元の資料は当然ながらフル英語なのでかなり意訳というか自分の勝手な解釈による文章と、分かる範囲で個人的経験からの捕捉を追加しています。後半は持論の展開になりますので、原文の正しい解釈を求める方はそのまま原文の資料を御覧ください。

元はパワーポイントのファイルだったので原文はこちらでPDFにコンバートしておいておきます。


音の知覚

•既存の音響技術は単純な耳のキャパシティ(20-20kHzなどの聴覚の限界やスペック?)をもとにした測定値で評価されます。たとえば聴感補正された歪率やSN比です。

•画像認識では目から入るデータは10%で残り90%は脳内処理によるもので、オーディオでも同様です。

• 我々は個別の音を知覚しますが、これは耳からではなく脳から来ています。

• それらの分離した音は3次元空間に配置され、これも脳の処理によります。

• どのように個別の音を脳が分離しているかについての科学はまだ未発達であり、脳がどのように処理しているのかは乏しい理解しか持っていない。


ここで出ている話についてですが、たしかにオーディオ、いやこれは音楽制作のほうが個人的に経験が多いのでこちらで例えてしまいますが、非常に同意できる内容が多いです。耳の訓練によって聞こえる音=認識できる音の質と量は全く別物のように変わっていきます。それは脳の処理によって獲得された情報なのかもしれません。

たとえば音楽制作では音程やスケールの認識、コード進行、パート編成、音色、それらを組み合わせた楽曲の意図を正しく理解し、さらに表現するためには相当の訓練が必要です。音楽のエンジニアリングでもEQやコンプによる音の変化、そこからミックスやマスタリングへの応用、意図的な音づくり等、どちらも何年にも及ぶ訓練が必要な世界です。そして聞こえなかった音が聞こえる=認識できるようになるという経験は常に自分自身の成長とともにありました。

これはオーディオでも同じで部品や音質差の聞き分け精度は訓練で向上します。聞こえなかった音は頑張ればだんだん聞こえるようになるはずです。(もちろん自分自身も聞こえていない音がまだまだあるはずです)

そして現状では体系的な音質についての研究は進んでおらず、世間では音質議論そのものがヘタしたらオカルト扱いです。そもそも未だに従来の単純な測定スペックでしか評価ができないオーディオ機器の現状があります。見かけのスペックと音質の相関関係は事実上ほとんど崩壊しているのですが、そのような事実に対して納得の行く説明が未だにつかないのが現実です。

この資料で指摘しているのは、このような従来の指標のみではまったくオーディオ機器の性能を評価することは出来ないし、従来の常識に不足していることが多いということを訴えたいのでしょう。これはもちろん測定が無意味という意味では決してなくて測定には限界があるというのが重要な捉え方です。

バーでこのシーンを想像してみて


http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214

•あなたは楽器を別々に認識できます。

•あなたは誰かが隣で話している内容を理解できます。

•あなたは3次元空間で2つの音がどれくらい離れているか、実際の配置、高さ、左右、奥行きを認識できます。

•あなたが後ろに3メートル下がったとき、バンジョーはより遠くに聞こえます。それが20メーターならばその深さで感じ取れます。

•脳はそれらすべての処理と計算をリアルタイムで行います。

•科学は人間の脳が行うこれらの詳細な方法についての理解を持っていません。

•まだこの処理ができるように設計されたコンピュータはありません。

•そして私たちは当たり前のようにそれができます!


この話はまさに測定器と人間の感覚の違いを示しているように思います。個人的に思うオーディオでの音質差でこの内容が妥当だと思う根拠はノイズフロア内に埋もれた情報を聞き取ることが出来るという経験です。従来の学説ではそれは不可能ということになっていますが、オーディオ開発における経験ではそのような従来の説は完全ではないように感じています。

それはちょうど上記で言う、沢山の人や楽器の存在する実際の空間で、さらに反射音が複雑に絡み合っている環境で音を聞く例を使うと確かにうまく説明ができます。コンピュータや測定器がそのような環境で、どのような楽器がどんな曲を流しているのか、そしてまわりにいる誰が何を話しているかそれらを同時に全て認識することが出来るのかという話です。しかしそんなことはまず不可能です。人間でも母国語であれば騒音の中でも脳内補完で理解が出来ますが、それが聞き慣れない方言や覚えたての外国語だったら途端に聞き取れなくなってしまいます。

このように人間の聴覚は訓練に獲得された脳内処理によって成り立っており、単純なセンサーではないという話はそのとおりです。そして学習内容は人によって癖がありますから、オーディオにおける印象の個人差はそれらの経験の差によって方言のように生じていることでしょう。これがオーディオにおける評価の難しさではないかと思います。


ノイズフロア変調

•音楽信号に合わせてノイズが増減することは、ノイズフロア変調を生じます。

•耳と脳はこの問題に非常に敏感であり、それは脳が個々の実体へ音を分離するのを妨げます。

•リスニングテストは測定可能以下のレベルにあるノイズフロア変調に対する感度を示しました。

•ノイズフロア変調は音を明るく、固く、攻撃的にします。それは楽器の分離とピントを悪化させます。ノイズフロア変調を減らすことはなめらかさ、ピント、品位を改善します。それはより自然な音です。


ノイズフロア変調という意味はよくわかりませんが、この部分で述べられている実験結果は当サイトの基本的価値観である「音質=分離の良さ」と同じだと考えると、個人的な試行錯誤の経験と直接関係している内容です。特に測定限界以下にあるノイズフロアの成分変化=音質の変化というのは経験的にも確実にありました。

例えば当サイトで主張している電子ボリュームやアナログボリュームによる音質劣化、抵抗の音質差などがまさにこれに当てはまります。これらの熱雑音は音の分離を即座に確実に奪います。このようなランダムノイズは非常に音質にとって害のあるものです。しかしその変化は測定限界以下、ノイズフロア以下での変化でしかありません。そのような違いは認識不能ではないのです。ですがそこまで害があるようにはまだまだ主張されていないように思います。

たとえば100Ωと10Ωの違いなんてノイズレベルで言えば相当微小な差ですがそれでも耳で聞けば違いがわかります。実際にはそれよりずっと大きなノイズ要因を残した状態であっても、ずっと微小領域のノイズ源を除去したときにその違いはちゃんと聞こえるのです。これはノイズに埋もれた音は認識できないという俗説と反しています。たとえばノイズの多いオーディオ機器でも電源ケーブルや中の部品を変えたら音の違いがわかるという話です。それらの違いは完全にノイズに埋もれている超微小領域の差のはずですが、人間にはそれがわかるのはこのような耳の特性があってこそです。このような大きなノイズに埋もれた微小領域のノイズの差は測定することが不可能な領域ですが、音質にとっては違いが出てしまうのが事実です。この領域の精度はおそらく認識に個人差がありますがそれは訓練の多寡によるものでしょう。

上記のバーでの例えから見てみますと、人間の耳はノイズの中での特定の微小音を認識、特定できるように作られているようです。その理由はモガミ電線の方も書いていましたが、生命の進化の歴史に根拠があると思っています。たとえば風の音や水の音等さまざまな音が存在する自然界で天敵に襲われるときの状況を考えてみます。そのようなシチューエーションで外敵の存在を聞き分ける能力の有無は直接死活問題だったのでしょう。

このような特定の微小ノイズは測定限界以下の領域での変化であっても耳にとっては大きな影響があるということ…それはChord社も同様の見解のようです。ただし私自身は何でもノイズフロアを極限以下に持っていくことだけが重要という考えより、音質を悪化させる特定の要因に注目してそのような成分を減らすことが重要だと思っています。音質にとって害にならない=脳で分離処理できるノイズ成分はオーディオでは実はあっても構わないとも言えます。ですが測定器では害のあるノイズかそうでないかは区別が出来ません。測定器の単純なノイズフロアだけでは音質は評価できない可能性はあります。もちろん測定上でノイズフロアが極限に低ければ悪質なノイズも少ない可能性が高いというのは正しいです。逆にノイズフロアだけ低くても害のあるノイズばかりなら同じスペックの機器より音が悪いというのもありえます。

経験的に害のないノイズ、問題になりにくいノイズは振動とか電源の残留リップルとか歪成分とか発振波形も大丈夫のようです。これらの共通点は特定の周波数に依存している成分です。何らかの相関性があるノイズは耳で分離が出来る=これらは空間を埋めたり音を消したりしない(限度問題ですが…)ことが多いです。たとえばカップリングコンデンサの音質変化なども振動起因だと思っているので、こういうノイズは積極的に音作りに利用しても良いのではと思います。実際にハイエンドメーカーの設計を見てもコンデンサだけはそういう使い方を見かけます。ですが抵抗や半導体の発する完全なランダムノイズは音質の分離を即座に悪化させるので、出来るだけこういうノイズの発生を防ぐことが高音質への道、それがオーディオ開発での重要なポイントになるでしょう。


Chord社の主張するインターサンプルのタイミング精度について

私はChord社の主張しているタイミング精度の重要性、長大なFIRフィルタの必要性については同意していません。その理由を画像を使って説明したいとおもいます。もちろん画像と音声は性質が違うので単純比較は出来ませんが、ひとつの例えと思ってください。しかしこの例えではFIRフィルタの優位性はそこまで大げさな正当性があるのかどうか疑問という要点はなんとなく伝わるのではと思います。


オリジナル(生音)
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214

まずアナログの原音がこれだとします。この時点では情報量がめいいっぱいあるとします。

44.1kHz NOSのイメージ
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214


こちらは44.1kHzで収録されたデジタルデータのイメージです。この時点で情報はすでに失われてしまっています。NOSの場合はデジタルのカクカクをそのまま再生するのでこのようなイメージになるかと思います。


FIRフィルタのイメージ
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214


こちらはFIRフィルタのイメージ画像です。この画像自体はバイキュービックというフィルタですが、FIRフィルタに似ている特性のフィルタです。

ここで重要なのはNOSもFIRフィルタも元画像に近づいているわけではないということです。Chord社の主張はこのFIRフィルタの精度を高めるほど元のタイミングに近づくと主張しているようですが、実際には失われた情報は元に戻るわけではないのは画像で例えるとよりわかりやすいように思います。特に国内ではNOSがベストと主張するタイムドメイン派の存在もありますので両者の主張は真っ向から対立することになってしまいます。

ではどちらが正しいのでしょうか。

正直画像から優劣を判断するとしたら、元の画像(音源)の傾向によってフィルタが合う合わないは変わる=フィルタ自体に絶対の正解は無いのではないかというのが本当の答えのように思います。どちらにせよ決して元のデータに戻るわけではないなら、音源に合わせて好みに応じて選べるのが一番良いのではないでしょうか。

性質が違うとはいえ画像でこういう例えが成立してしまう以上Chord社の主張するフィルタの重要性は正しいのかかなり疑問に思っています。自社のFPGAが完全独自技術で超長大なFIRを使えることが既存メーカーに対する数少ない優位性なのでこのような主張をしているように考えてしまいますがどうでしょう?

Hugo等の高音質はこのFIRフィルタの長さによるタイミング精度の向上より、内部処理のハイサンプル化により内部SN向上と外部フィルタ回路を大幅に簡略化出来たことによる恩恵が殆どであって、実はフィルタはそれほど音質に貢献していないのではないかと考えてしまいます。実際彼らの言う貧弱なフィルタしか搭載していない典型的な既存DAC-ICであるAK4495でもHugoの音質は超えられました。この事実は彼らのフィルタの絶対的優位性の主張は完全ではない=音質にとって最重要な要素ではないことを示していると思います。

ついでですが、画像で例えるなら多分DSDはこんなイメージです。RGB各単色+ノイズによる拡散ですがそのかわり解像度は高いイメージです。もちろんハイレゾになればPCMもDSDよりも多くの情報量を持つことが出来ますので、この画像比較だけでDSDが良いっていう話じゃありません。あくまで一例なので厳密には違います。

DSDのイメージ
http://innocent-key.com/wordpress/?page_id=5214


67. 中川隆[-13519] koaQ7Jey 2018年6月23日 13:18:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16084]

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳 – 2018/2/15
アニル・アナンサスワーミー (著), 藤井 留美 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AF%E3%81%99%E3%81%A7%E3%81%AB%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%82%8B%E2%80%95%E2%80%95%E3%82%86%E3%81%8C%E3%82%93%E3%81%A0%E3%80%88%E8%87%AA%E5%B7%B1%E3%80%89%E3%82%92%E7%94%9F%E3%81%BF%E3%81%A0%E3%81%99%E8%84%B3-%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%BC/dp/4314011564/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1528700752&sr=8-1&keywords=%E7%A7%81%E3%81%AF%E3%81%99%E3%81%A7%E3%81%AB%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%82%8B


自分が存在しないという幻想は、どこからくるのか? 2018年6月22日
東嶋和子 (科学ジャーナリスト・筑波大学非常勤講師)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13099



 タイトルからして刺激的である。『私はすでに死んでいる』。表紙には、壊死したような、あるいは義手のような、とにかく血の通った自分の腕とは思われない黒い右腕を不安そうに見る白人男性。本を手にしたとき、キワモノかと疑ったが、読み始めてすぐ引き込まれた。

 「ゆがんだ<自己>を生みだす脳」という副題のとおり、神経科学の世界から「自己」とは何かを探る、知的刺激に富んだ本である。


(iStock/Pogonici)

 著者は、米国とインドを拠点に活躍するジャーナリスト。『ニューサイエンティスト』誌のニュース編集者を経て、現在は同誌のコンサルタントを務めている。英国物理学会の物理学ジャーナリズム賞、英国サイエンスライター・アワードの「最も優れた研究報道」に贈られる賞を獲得しているという。

 それだけに本書は、当事者でもなく、研究者でもない、科学ジャーナリストだからこそ書き得た壮大な脳探究の物語になっている。

私を私にしているものは何か

 コタール症候群、認知症、身体完全同一性障害(BIID)、統合失調症、離人症、自閉症スペクトラム障害、自己像幻視(対外離脱、ドッペルゲンガー、ミニマル・セルフ)、恍惚てんかんの順で、一章ごとに精神病理をとりあげる。

 著者は、さまざまな疾患を抱える当事者や家族、医療者、研究者らに話を聞き、思索し、結果として、神経科学の最先端へ読者を導いてくれる。

 たとえば、コタール症候群の患者は、自分が死んでいるとか、身体の一部や臓器が喪失したとか、腐敗しているなどと思いこんだり、強い罪悪感を抱いたりする。逆に、不死感を持つ患者もいる。

 自分が存在しないという幻想は、どこからくるのか?

 それを探れば、自己を自覚し、経験させている脳の働きに肉薄できるのではないか、と著者は考える。

<実に苦しい状態だが、私を私にしているものは何かという疑問を解く手がかりがそこにある。脳の病変や損傷が脳研究に役だつのと同じだ。こうした精神疾患は、自己という建物の正面にできたひび割れのようなもの。そこからのぞけば、休むことなく行なわれている神経活動を探ることができる。>


 <自己感覚を混乱させる神経心理学的な病気はたくさんあるが、この本では二つの基準を満たすものを選びだした。ひとつは、自己の諸側面を具体的に知ることができるかどうか。もうひとつは、自己とは何かという視点での研究が行なわれているかどうかだ。>

なぜ健康そのものの脚を切断する手術を受けるのか


『私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳』(アニル・アナンサスワーミー 著、藤井留美 翻訳、紀伊國屋書店)

 身体完全同一性障害では、自分の身体の一部(多くは手足)が自分のものでないと強く思いこみ、切断してしまいたいという観念にとりつかれる。

 手足を失ったあと、ないはずの手足を感じたり、痛みを感じたりする「幻肢」については、V・S・ラマチャンドランの著書などで知ってはいたが、その逆があるのかと驚いた。

 「アジア某国のにぎやかな都市」にある「町はずれの小さな病院」で、身体完全同一性障害の男性が健康そのものの脚を切断する手術を受けるくだりがある。

 患者や家族、関係者の苦悩に共感しながらも、客観的、科学的な態度で仔細を観察し、哀感に満ちた詩的な筆致で綴ったルポルタージュは、圧巻である。

 <次の日、ふたたびお見舞いに行った。点滴と尿バッグははずれている。松葉杖が二本、ベッドの脇に置いてあった。ドクターに言われたとおり、松葉杖でトイレまで行ってきたという。そんな話をするデヴィッドはずっと笑顔で、何度も声をたてて笑った。初めて会ったときからずっと、デヴィッドは張りつめた表情をしていたが、それがすっかり消えている。心から安堵し、満たされているのが私にもわかった。>

 <数か月後、デヴィッドにメールで様子をたずねた。切断手術に後悔は微塵もない。人生で初めて、自分が完全にまとまった存在になれたとデヴィッドは返事をくれた。>


「驚くほど強靭でありながら、危ういまでにもろい」


 身体自己意識は自己感覚の土台であり、それが損なわれることが、身体完全同一性障害、統合失調症、さらには自閉症を引きおこす。これらはいずれも「意識の中心はしっかり身体につながっている」のに対し、対外離脱やドッペルゲンガーでは、この中心すら揺れ動く。

 「身体からの信号を脳が正しく統合できなかった結果」、「脳の機能不全が引きおこした幻覚」が、対外離脱の二重感覚であるという。

 本書では、最新の画像診断装置や脳スキャン装置を使った数々の研究が紹介されており、著者自身も何度か被験者になっている。

 ヘッドマウントディスプレイを装着して脳スキャン装置に入り、うつぶせになった被験者の背中をロボットアームがなで、その様子がディスプレイに映されるという実験では、一部の被験者に位置感覚と身体所有感覚の混乱が生じた。なかには、「自分の身体を上から見ている」という報告もあった。

 こうした研究からわかってきたことは、「自己位置、自己同一性、一人称視点は脳の異なる領域が触覚、視覚、固有受容感覚、前庭感覚を各自で統合した結果生じるものであり、それが自己性の側面を構築している」ということである。

 <身体所有感覚、自己位置感覚、さらには自己が観察するときの視点まで、自己感覚を構成する側面を、私たちはあって当然、変わらなくて当たり前と思っている。ところが実際には、健康な人でさえあっけなく崩壊することがあるのだ。>

 実は、本書を読んでいる期間に出張などで過労になり、激しい頭痛と嘔吐で倒れてしまった。病院の救急外来にタクシーで駆けつけ、検査や点滴の結果、事なきを得たのだが、頭痛の数日間は、「首から上を切り離したい」と願うほどつらかった。

 ふだん脳が健康に働いているときは意識しないが、こうして不具合が起こると、「自己」の恒常性というものがいかに危うく脆いものであるかがわかる。

 それだけに、本書に登場する患者たちの困惑やあきらめや主張にも、共感するところが多かった。

 さまざまな精神病理が、元をたどれば脳の予測コーディングの不具合にあるのでは、という本書の指摘は、精神疾患を特別視せず、「驚くほど強靭でありながら、危ういまでにもろい」という矛盾を抱えた「自己」のゆらぎとしてとらえることを、私たちに促している。


68. 中川隆[-13555] koaQ7Jey 2018年6月30日 21:06:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16294]
250m滑落して遭難…

『エクスプローラーズ・グランドスラム』という言葉をご存知だろうか。

「北極点と南極点、エベレストやデナリなどの世界7大陸最高峰すべてを制覇すること」で、冒険家の南谷真鈴さんは世界最年少で達成した。

「幼少期の夢だったエベレストを上るという夢を叶えるプロジェクトを立ち上げたら、気がついたらエクスプローラーズ・グランドスラムを達成してました」とさらっと話すが、日本人ではただ1人しか成し遂げていない驚異的なことを、20歳の頃に成し遂げたのだ。



そんな南谷さんが経験した壮絶な経験は『滑落して遭難』。

長野県の阿弥陀岳を登っていた南谷さんは、下山中250mもの高さを頭から滑落。
その事故はニュースでも報道されていて、滑落のときは「頭の中はスローモーションでした。30秒くらいしか経ってないんでしょうけど、頭の中で色々考えていて1時間くらいに感じて。その時にまだ死にたくないって祈ったら、滑落が奇跡的に止まって無傷無骨折でした」と奇跡的な生還を明かした。

南谷さんはこの経験を生かして、トレーニングをさらに積み、安全登山をより心掛けるようになったという。
https://www.fnn.jp/posts/00311800HDK

南谷 真鈴(みなみや まりん、1996年12月20日 - )は七大陸最高峰日本人最年少登頂記録保持者[1]。神奈川県川崎市出身[2]。

早稲田大学政治経済学部2年在籍時の2016年7月4日に、デナリの登頂に成功し、七大陸最高峰制覇を達成[3]。それに先立つ2016年5月23日に、エベレストに日本人最年少登頂した[4]。また、2015年10月にはマナスルの登頂に成功し、日本人最年少の8000メートル峰登頂と女性世界最年少の同山登頂を達成している[2]。

2017年4月13日に北極点到達に成功し、「エクスプローラーズ・グランドスラム」[5](七大陸最高峰・北極点・南極点到達)を世界最年少の20歳112日で達成した[6]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%B0%B7%E7%9C%9F%E9%88%B4


69. 中川隆[-13856] koaQ7Jey 2018年8月05日 06:13:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17623]

Is Consciousness More than the Brain Interview with Dr. Gary Schwartz - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=x-6hosFAObI

現実とは幻である。神経科学者が教える「脳が現実を作り出すために幻覚を見せる方法」2017年08月18日
http://karapaia.com/archives/52244354.html


 これまでも、我々が現実と感じているものは、それまでの知識や経験に基づいたもので、脳が作り出した幻想であるとする研究結果が報告されていたが、つい最近、英サセックス大学の神経科学者アニル・セス博士が我々が認識する現実、つまり意識の起源について論じた。

 彼は議論を始めるにあたってまず、「意識はどのように発生するのだろうか?」と聴衆に問いかけた。セス博士によれば、意識は科学と哲学に残された最大のミステリーだという。

 この問いに続いて、セス博士はその重要性について説明した。


どの脳の中でも、それぞれが小さな生物マシンである数十億もの神経細胞による共同作業が行われており、それが意識体験を生み出しています。

しかもただの意識体験ではなく、あなた自身の今ここにおける意識体験です。一体これはどのようにして起きているのでしょうか?

私たちそれぞれにとっての意識はそこにあるものすべてです。だからこそ、この問いに答えることが重要なのです。世界がなければ、自己もいません。一切が存在しなくなります。


意識と生命は表裏一体。物質は意識の派生物である。

 マックス・プランクは「意識は基本的なものである。物質は意識の派生物である」と述べた。つまり、意識は物質の形成に必須であるということだ。

 どいうわけか、この2つのまったく別個に思える現象は、私たちがいまだ完全には理解していないやり方で絡み合っている。

 ある論文は、物理的現実の性質を形作る意識の役割を探るために二重スリット実験がいくども利用されてきたことを指摘する。

 セス博士は、意識と生命もまた表裏一体であると論じる。知性と自己認識が真の標識であると論じられることもある一方、彼は意識が「私たちを生かし続ける生物学的メカニズムによって形成」されたことを論証しようとする。


実のところ、意識のあるAIが生まれる見込みはかなり低いと思います。その理由は、私の研究が告げていることが、意識は純粋な知性とはあまり関係がなく、むしろ生きて呼吸する生命体としての私たちの性質に関係があるということだからです。

意識と知性はかなり別物です。苦しむために賢い必要はありませんが、おそらく生きている必要はあるでしょう。

制御された幻覚

 自分が脳になったところを想像してみよう。頭蓋骨の内部には光も音もない。何もかもを五感から届けられる電気的なインパルスに頼らなければならない。

 こう話したセス博士は、いくつか錯覚の事例を取り上げた。そこでは感覚が真実をごまかそうとしている。

 脳は受け取ったインプットを基にして、私たちが意識的に体験することがらを常に変化させている。

 セス博士が取り上げた事例は驚くべきものだが、究極的には、多くの場合、脳が受けとる感覚情報は変化していないことを示している。変化しているのは、私たちが体験していることがらに対する認識だ。


 プラトンは正しかった。感覚は本当に私たちを騙しているのだ。


つまり、そこに何があるのか理解しようとする認識は、情報に基づいて推測しようとする作業、つまり脳が感覚信号とその感覚信号を発する世界とはきっとこうであろうという従前の予測や信念を組み合わせるプロセスでなければなりません。

脳は音も聞かないし、光も見ません。私たちが認識しているのは、世界の様子についての妥当と思われる推測なのです。

脳と身体が意識を生じさせているのか?

 取り上げた事例からは、私たちがただ受動的に世界を認識しているのではなく、積極的に作り出していることも分かる。

 私たちが体験している世界とは、外部からもたらされるのと同じくらい、内部からももたらされているのである。


私たちは常に幻覚を作り出しています。今この瞬間にもです。その幻覚について同意するとき、それを現実と呼んでいるにすぎません。

あなたの自分という体験、すなわちあなたであるという特定の体験もまた脳によって作られた制御された幻覚です。


 この分野の多くの者たちが認めざるを得ないことがある。

 それはまだ完全には理解されていないことだが、物理物質世界の宇宙と私たちの体験は実は心が作り出したものであるということ、あるいはごく控えめに見ても意識がその創造に根本的な役割を果たしているということだ。
 
 ジョンズ・ホプキンス大学のR. H. ヘンリーはネイチャーで次のように述べている。
 

ジェームズ・ジーンズによれば、『次々ともたらされる知識は非機械的現実に向いている。宇宙は偉大な機械というより偉大な思考であるかのような姿を現し始めている。

もはや心は物質領域に偶然紛れ込んでしまった侵入者には思えない。むしろそれを物質領域の創造者や支配者として迎えるべきだ』……宇宙は非物質だ――精神的かつスピリチュアルなものだ。生きて、楽しむがいい。


Is Consciousness More than the Brain? | Interview with Dr. Gary Schwartz
via:collective-evolution/ translated by hiroching / edited by parumo
http://karapaia.com/archives/52244354.html


70. 中川隆[-13855] koaQ7Jey 2018年8月05日 06:17:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17623]

我々が認識している現実は脳が描いた虚像である。過去の経験や知識で判断するでっちあげの世界(ドイツ研究)2017年05月05日
http://karapaia.com/archives/52238258.html


 ある論争を巻き起こしている研究によると、現実とは脳が見えると予測するものに基づいた幻想にすぎないのだそうだ。

 これまでの専門家の見解では、我々が認識している現実は目や耳から入ってきた情報を用いて脳が構築したものだとされていた。この現象をボトムアップ処理という。

 ところが、今回

Philosophy and Predictive Processing
https://open-mind.net/about


というオンラインポータルで公開されている一連の論文によると、現実とはそれまでの知識や経験に基づいて脳が作り出したものであると示唆している。つまりトップダウン処理であるとうことだ。

 したがって、我々が現実であると解釈しているものは、実際には心によるでっち上げ、あるいは幻想にすぎないということになる。


過去の経験や得た知識に応じて判断される現実世界

 例えば、あなたが何かをつまみ上げたとしよう。そのとき感じる重さのほとんどは、実際の重量ではなく、脳が予測していたその物体の重さに基づいて認識されているということだ。

 その証拠として、大きさと重さの錯覚について調べた先行研究が挙げられる。実験では、被験者に重さは同じであるが、サイズが大きいものと小さいものの2種のボールを渡し、その重さを答えてもらった。すると大きなボールの方が重いと回答されるケースが頻繁に見られたのである。

 この現象は、過去の経験が現実の認識に影響を与えていることを示している。


予測処理と現実

 認識が部分的にトップダウン処理に基づくという考え方は新しいものではない(これは認識に関する通説がその役割を無視してきたことを否定しない)、とヨハネス・グーテンベルク大学マインツ校のヴァンヤ・ヴィーゼ(Wanja Wiese)氏とトーマス・K・メッツィンガー(Thomas K. Metzinger)氏は論じている。
 
 この予測処理という概念の新しい点は、それは感覚入力がはっきりしている場合でも、曖昧な場合でも、いつも行われており、トップダウン処理と知識の影響を認識における一般的な特徴であると徹底的に強調しているところにある。

 彼らによると、今発生してしているに違いないことについて推論を導くため、脳は体内や環境での出来事を常に監視している。

 そして、現実を最もうまく表していると考えられる予測を最優先する。その予測は階層的にまとめられているという。また見ているものの予測は、個人の経験や感情状態など、様々な要素に基づいているそうだ。

 2014年、人は科学的根拠に基づく事実を知ったところで、信じたくないものは信じないという研究結果が報告されている。

 であるならば、今ここにある現実は、自分の思考や価値観、経験から大きく歪められている可能性はなきにしもあらずだ。

via:How we perceive the world is based on what our brains expect to see, claims theory/ translated hiroching / edited by parumo
http://karapaia.com/archives/52238258.html


71. 中川隆[-13524] koaQ7Jey 2018年9月29日 04:06:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18889] 報告

生存する意識 – 2018/9/19
エイドリアン・オーウェン (著), 柴田 裕之 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/dp/4622087359?tag=swht-22&ie=UTF8


植物状態の患者の一部に「意識がある」と実証した研究者の記録『生存する意識──植物状態の患者と対話する』
https://diamond.jp/articles/-/180764

2018年9月28日 澤畑 塁 :HONZ

植物状態の患者の一部に「意識がある」と実証した研究者の記録『生存する意識──植物状態の患者と対話する』


 植物状態と診断されながらも、じつは意識がある人たち。そうと示すことがまったくできなくても、たしかな認識能力を持ち、どうしようもない孤立感や痛みを感じている人たち。そうした人たちが置かれている状況を想像し、悪夢とも思えるその可能性に身震いしてしまった経験が、おそらくあなたにもあるのではないだろうか。だが現在の科学は、その可能性を前にしてただ震えているばかりではない。誰かが現にそうした状況にあるかどうかは、なんと科学的に検証できるようになりつつあるのだ。

 本書『生存する意識──植物状態の患者と対話する』の著者エイドリアン・オーウェンは、その科学を「グレイ・ゾーンの科学」と呼ぶ。グレイ・ゾーンとは、おもに植物状態と診断されている患者の、「物事を満足に認識できないが、認識能力を完全には失っていない」状態である。そしてオーウェン自身は、グレイ・ゾーンの科学を力強く推し進めたことで広く世界に知られている。というのも彼は、一部の植物状態の患者に意識があることを初めて実証し、さらには、そうした患者と意思疎通することに初めて成功した研究者だからである。本書は、彼のこれまでの科学的探究を、それ以外のエピソードをも交えながら、わかりやすくドラマチックに紹介するものである。

 では、一部の植物状態の患者に意識があることなどいったいどうやってわかるというのだろうか。もちろん患者たちは、自らの身体を使ってそれを示すことはできない。だが、たとえ身体にはできなくても、脳ならできるのではないか。脳なら、自らの意識がそこに閉じ込められていることを示すことができるのではないか。いうなれば「身体に訊いても駄目なら脳に訊いてみな」というのが、ここでの基本的なアイデアである。

「意図の存在を実証できれば、 意識も存在すると推定できる」

 オーウェンは1997年から植物状態の患者に脳スキャンを行っている。その最初の患者がケイトで、それまで彼女は認識能力をまったく持たないとみなされていた。そこでオーウェンらが行ったのは、家族や友人の顔写真を彼女の目の前に置き、そのときの脳の活動を調べるという試みである。するとなんと、彼女の目の前に顔写真を置いたときに(そしてそのときにのみ)、人の顔に対して選択的に反応する脳の部位(紡錘状回)がしきりに反応したのである。そう、彼女は人の顔を認識できていたのだ!

 この驚きの発見はニュースとして世界を駆け巡り、オーウェンは一躍「時の人」となる。だが彼はその結果に飽き足ることなく、さらなる探究を進めていく。脳スキャンを用いた同様の、しかしそれぞれに工夫を凝らした実験によって、オーウェンたちはさらに次のことをも示していったのである。すなわち、植物状態の患者には音声を検知できる人がいること(第4章)と、その音声の意味を理解できる人もいること(第6章)である。

 さて、以上のことが示されたとすれば、それらの患者には意識があるといえるだろうか。いや必ずしもそうではない、とオーウェンは慎重に考える。というのも、先の実験で見られた脳の活動はあくまでも自動的な反応で、そこにはなんら意識が伴っていない、という可能性も考えられるからである。ならば、意識の存在(あるいは不在)はどうやったら証明できるのか。

 その点に関してオーウェンはじつにユニークかつ巧妙な方法を思いつく。ポイントは、患者から「意図的な反応」を引き出すことにある。つまり、彼らがそうしようと決定したからこそ生じた反応(具体的には特定の脳活動)を引き出すのである。もし、そのように意図的な決定がなされている証拠を挙げることができれば、それはまさに、彼らに意識があることの証拠となるだろう。「意図の存在を実証できれば、意識も存在すると推定できる」というわけだ。

 そう考えてオーウェンたちが具体的に行ったのは、患者に次のような課題を与えることである。すなわち、「テニスをしているところを想像してください」という課題と、「自宅で歩きまわっているところを想像してください」という課題である。健常者がそれぞれの場面を想像するとき、脳の特異な領域(前者の場合は運動前野、後者の場合は海馬傍回)がそれぞれ活性化する。そして、植物状態の患者にふたつの課題を与えたところ、なんということだろう、実際にそれらの領域が活性化したのである。とすれば、患者は課題に対して意図的に応じたのであり、それはつまり、その人に意識があることの証しではないか!

 オーウェンは以上のような方法で、一部の植物状態の患者に意識があることを実証する。そしてその方法は、彼らと意思疎通する方法にもつながっていく。2010年、最初の患者に脳スキャンを行ってから13年後、オーウェンはついに植物状態の患者と意思疎通することに成功する。それが具体的にどのような方法なのかは、ぜひ本書の該当箇所に当たってほしいと思う。

奇跡的な回復を果たした患者の痛切なメッセージとは

 ところで本書は、そこで紹介されている研究内容が刺激的であるだけではない。その筆致やストーリー構成もじつに見事なのである。なかでも、植物状態の患者と意思疎通するなかで、「痛みを感じているか」や「死にたいか」を訊くべきかどうかで紛糾する場面などは、その現場に走る緊迫感がこちらにも伝わってきてゾクゾクさせられる。また、本書の随所で挿入される、植物状態になった元恋人のエピソードも心を惹く。そのように、本書は読者の心をつねに鷲づかみにしたまま、刺激的な探究の旅へと連れていってくれるのである。

 最後に、本書が突きつけてくる問題について言及しておこう。オーウェンは、植物状態と診断されている患者の15〜20%が、「外部刺激にもまったく応答しないにもかかわらず、完全に意識がある」と推測する。わたしたちの周囲に存在する「声なき人」は、けっして少なくないというのである。その推測を重く受けとめるならば、わたしたちはグレイ・ゾーンの科学のさらなる発展を願うとともに、「声なき声」に耳を傾けるように努めなければならないだろう。締めくくりに、オーウェンの最初の患者であり、のちに奇跡的な回復を果たしたケイトの痛切なメッセージを引用したい。

“介護にあたる人たちは、私は痛みを感じられないと言っていました。とんでもない思い違いです。...[とくに肺から粘液を取り除かれるときなどは]どんなに恐ろしかったか、言い表しようもありません。”

“どうしても覚えておいてほしいことがあります。それは、私が先生とまったく同じで、一人の人間であること。そして、先生と同じで感情を持っているということです。”

72. 中川隆[-13529] koaQ7Jey 2018年10月02日 05:00:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18949] 報告


楽しい体外離脱
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/tanotai00.htm
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/index.html

 
★★プロローグ★★

あなたは「体外離脱」と聞いて、どんなことを想像するだろうか。いわゆる「幽体」とか「魂」とかいわれるモノが、カラダから抜け出す不可思議で超常的な現象だと考えている人も多いのではないだろうか。

たしかに私も自分で体験するまではそう考えていた。しかし現在の私は、自分自身で数百回もの体外離脱体験をした結果、それが「幽体」や「魂」がカラダから抜け出す不可思議な現象ではないと確信している。

では体外離脱現象の正体は何なのか?

答えは「幻覚」である。

あまりにもありきたりで普通の答えだが、もちろんタダの幻覚ではない。体外離脱体験者がよく「断じて夢や幻覚ではなかった」と言うが、すなわち断じて夢や幻覚ではなかったと錯覚するぐらい超リアルな「幻覚」のことだ。

一般的に「幻覚」という言葉には、夢のように不確かで曖昧な映像というイメージがあるので、体外離脱体験が現実の体験であったことを強調したいため、ついつい比較のために「幻覚」という言葉を使いがちである。

しかし本当にリアルな「幻覚」は、そう簡単にそれが幻覚だと自覚できるモノではない。私も何度も体外離脱体験をして、初めてそれが「幻覚」であると気付いたのだ。

そしてさらに何度も体外離脱を体験すると、その超リアルな「幻覚」である体外離脱現象が、じつは睡眠中にみる「夢」と同質のモノで、その差は睡眠の深さによる覚醒度の違いだけだと判ったのである。

では何度も体験しなければ自覚できないほどリアルな「幻覚」であり、しかも「夢」と同質のモノであるという体外離脱体験とはどんな体験なのか、次章から詳しく説明して行きたい。

 
★★金縛り時代★★

私の体外離脱体験を語るには、まず「金縛り」のことを語らなくてはならない。「金縛り」が私の体外離脱の基本であり、幻覚がいかにリアルであるかを語る上でも大変解りやすい事例であるからだ。

私は中学生になってからよく金縛りに遭うようになった。今でこそ金縛りは「カラダは眠っているが脳は起きている状態」という、科学的にも説明がつく現象なのだと理解しているが、当時は幽霊や悪霊が引き起こす心霊現象だと考えていたので、初めて金縛りに遭った時の私の恐怖は大変なものだった。

それでも何度も経験すると、そのうち慣れて恐怖も感じなくなり、金縛りの最中でも明日の予定を考えたり、電源を切り忘れたラジオの笑い話に耳を傾け、心の中で爆笑するという余裕さえでてきたのだった。

ただ恐怖は感じなくなっても、金縛り中はかなり息苦しく、決して気持ちのいい時間ではなかったので、当時の私は金縛りを解くためにいろんなことを試してみた。

カラダは動かなくても心臓や肺は自然に動いているわけだから、自発的に深呼吸をすることでカラダの感覚を取り戻そうとしたが、これはよけい息苦しくなっただけで失敗。

もっと頭を働かせて覚醒させれば金縛りも解けるだろうと、思いついた数字を適当に足したり引いたり掛けたりして暗算したこともあるが、これも効果なし。

高校生の時には、当時授業で覚えさせられた「枕草子」の序段「春はあけぼの」を心の中で暗唱してみたが、最後まで暗唱しても、やはり金縛りは解けなかった。

とにかくこのように金縛り中は、寝ぼけていたとかそんなレベルではなく、かなりハッキリ物事を考えることができるほど覚醒しているのだが、それでもカラダはまったく動かないのだった。

現在は金縛りに遭っても、これをチャンスとばかりに体外離脱してしまうので

(「体外離脱の方法」で詳しく説明)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/rhou.htm


息苦しさを感じることもなくなったが、当時はまだ体外離脱できなかったので、息苦しさの中、ひたすら金縛りが解けるのを待ち続けるしかなかったのである。

 
★★驚異の幻覚★★

さて、すっかり金縛りが日常の一部になったころのある晩、金縛りが解けるのを待っている間、他にすることもないので、寝室の壁に掛かったカレンダーの日付を見ながら、その週の予定などを考えていた。

ところが金縛りが解けた後、再び寝室の壁を見て私は驚いた。ついさっきまで見ていたカレンダーが無かったのだ。金縛り中はたしかに壁にかかっていたカレンダーが忽然と消えてしまったのである。

よくよく思い出してみると、たしかに以前はそこにカレンダーが掛かっていたのだが、2〜3日前に取り外して別の部屋に移していたのだった。

つまり、私が見たカレンダーは、カレンダーを取り外す以前の私の記憶を元にして現れた「幻覚」だったというわけである。

幻覚など薬物常習者が見るモノと思っていた私にとって、金縛り中にも幻覚を見ることができるとわかったのは、ちょっとした驚きであった。

ただ、その時点ではまだカレンダーだけが幻覚だと思っていたのだが、その後、じつはカレンダーだけでなく、金縛り中に見えるモノすべてが「幻覚」であるとわかった。

金縛り中に寝室の様子を眺めていた私が、金縛りから開放された時、本当は寝室を眺めることができない「うつ伏せ寝状態」だったということがあったのだ。

金縛り中、カラダは動かなくても眼だけは動くので、周囲の様子を眺めることもできるが、実際には眼は閉じていて、眼を動かしているつもりになって、幻覚の情景を眺めているにすぎなかったのである。

私はそれまでは幻覚という言葉に対し、夢のように不確かで曖昧な映像というイメージを持っていたのだが、私が見た「幻覚」は、カレンダーの数字が一文字一文字きちんと読み取れたし、寝室もタンスの形状から天井の木目まで、何ら現実と変わるところはなかった。

金縛り中に「幻覚」を見たことのない人には信じられないことかもしれないが、「カレンダー」の件や「うつ伏せ寝」の件のように、後で現実との相違点を発見することがなければ、それが「幻覚」であると自覚するのは極めて困難なことなのだ。

そしてもちろん「幻覚」はカレンダーや寝室の情景だけにとどまらない。時には人間の姿をした「幻覚」も現れた。

ある時、金縛り中に眼を開けると(実際は眼を閉じていて、開けたと錯覚しているにすぎない)、仰向けに寝ていた私のカラダの上に、私と向き合うような格好で、うつ伏せに寝ている浴衣姿の見たこともない老人の姿があった。

ハゲた頭に白い眉毛と白いあご髭、シワとシミだらけの顔の老人は、ほとんど歯の抜けた口に薄ら笑いを浮かべながら、気味の悪い眼で私を見つめていた。

すでに「金縛り中に見えるモノはすべて幻覚である」ことを学んでいた私であったが、不精ヒゲの1本1本までよく見えるこの不気味な老人に対しては、それが「幻覚」であるとは自覚できず、私は「幽霊が現れた」と思った。

「幽霊」に対し恐怖はあったが、それよりも、たとえ「幽霊」といえども私の安眠のジャマをしたこと対する怒りの方が強かったので、私は怒りをこめた右拳で老人の顔面をブン殴ってやった。すると老人の姿も消えた。

正確に言えば、金縛りで動かなかったカラダをムリヤリ動かして殴ったと思った瞬間、右手は布団を高く跳ね上げ、夢から覚めた時のように金縛りも解け、老人も消えていたのであるが、こうして私は、「金縛り中に見える人物像もまた幻覚」であることを学んだのだった。

 
★★幻視と幻聴★★

今までは「幻覚」という言葉を、主に視覚の幻覚、つまり「幻視」のことに対して使ってきたが、「幻覚」はなにも「幻視」だけではない。金縛り体験には、しばしば聴覚の幻覚である「幻聴」が伴う。

幻聴の音の種類は様々で、よく聞くのは扉の開閉音や、廊下を歩く音、階段の昇降音など日常でもよく耳にする音だが、「ドンドン」という大きな音や耳鳴りのような「キーン」という音もあれば、落ち葉が風でこすれ合うような「カサカサ」とか、木がきしむ時のような「ギシギシ」とかいう音もあるし、「ウギウギュギュ〜」とか何の音なのか形容もできない音も多々ある。

また美しい音色の音楽であることもあり、音楽の幻聴は何度経験しても素晴らしい時間である。知らない曲のこともあれば、よく知っている曲のこともあるが、共通して言えるのは、どちらも全くノイズのないクリアで澄んだ美しい音色であることだ。幻聴は不快な音であることも多いが、音楽の幻聴に限っては不快な思いをしたことは全くない。

かつて金縛り中に聴いたトランペットのソロが奏でる


「特捜隊の歌」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/tyuu.htm


は、まるでこの世のモノとは思えない美しい音色であった。トランペットのソロ版の「特捜隊の歌」なんて実際には聴いたこともないのに、幻聴とはなんとも不思議な現象である。

そして、なんと言っても極めつけの幻聴は人の声である。

友人や肉親の声もあれば知らない人の声もあるし、何語か解らない聞き取り不能の言葉(らしきモノ)を誰かがしゃべっていることもあれば、そんな言葉を大勢がしゃべっていることもある。

また人の声の「幻聴」は、人の姿の「幻視」とセットになって現われることが多い。たとえばこんなことがあった。

ある日の金縛り中、私は息苦しさの中、ひたすら金縛りが解けるのを待ち続けていた。するとそこに友人のB氏が「よっ!久しぶり〜」と現われ、私が「いま金縛りで動けへんのや、助けてくれ」と言うと、B氏は「しゃあないなあ〜、助けたろ〜」と言って私の腕を掴んだのだった。

B氏が私の腕を掴んだと思った瞬間金縛りは解け、同時にB氏も消えてしまったのだが、就寝中の深夜に友人B氏が我が家を訪れるハズもなく、もちろんそれは「幻視」と「幻聴」がセットになった「幻覚」であった。

すでに「金縛り中に見えるモノはすべて幻覚である」ということを学んでいた私であったが、時として「幻聴」を伴うリアルな「幻覚」に対しては、「現実」と錯覚してしまうこともよくあった。

しかしながらこのようなことを繰り返し、「幻視」の時と同じく、金縛り中に聞こえる音はすべて「幻聴」である、ということも学んでいったのだった。

だからある時など、金縛り中に「私は金星人だ!」と名乗る人物が現われ、「キミと友達になりたい」とか「宇宙に連れていってあげる」とか話しかけてきたこともあるが、もちろん私は「幻覚」だと自覚していたので動揺することもなく、ただ金星人の「幻覚」を楽しんでいた。

おもしろいのはその声が、もしテレパシーというモノがあるとすればこんな風に聞こえるのだろうと思うような、頭の中に直接響くよく通る声であったことだ。これは幻聴全般に言えることだが、幻聴は耳で聞いているという感じではなく、頭の中に直接聞こえているという感じなのである。

もし金縛りも幻覚も初体験というような人が私と同様の体験をすれば、「宇宙人」と接触したとか、「チャネリング」したとか考えてしまってもおかしくはない。

前章で述べた狂った老人もそうだが、金縛り中に「幽霊」や「宇宙人」を見たという類の話は、ほとんどがこのような「人物像の幻覚」で説明がつくのではないだろうか。

 
★★幽体離脱?★★

さて、高校生になると金縛り中にある変化が顕れた。まったく動かなかったカラダが少しづつ動くようになってきたのだ。

始めは手の指先だけだったが、次第に腕全体、そしてカラダ全体へと可動範囲が広がっていった。

しかし不思議なことに、どんなにカラダを動かしても、金縛りが解けた後は最初に寝ていた時の姿勢に戻っていた。どうやら動かしているのは現実のカラダではないようだった。

「幽体離脱」、私はそう思った。

肉体とはまた別の、俗に言う霊魂に相当する「幽体」というものが、カラダから抜け出す現象なのだと考えたのだ。ただし、そのまま簡単にすぐ「幽体離脱」とまでは行かなかった。

「幽体」は、動くといっても、かろうじて動くという程度で、チカラが全然入らないうえに、少しでも気を抜くと、すぐに現実のカラダの姿勢に戻されてしまうのだった。

しかし何十回となく金縛りを経験し、何十回となく「幽体離脱」にチャレンジした結果、ついに全身を動かし、完全に「幽体」を現実のカラダから離脱させることに成功した。

その体験は、まさに私が見聞きした通りの「幽体離脱」体験そのものであり、カラダはふわふわと宙に浮き、空中をすべるように移動し、扉や壁をカラダごと突き抜けることもできた。

このとき私は、「幽体」すなわち「霊魂」の存在を確信し、もう死を恐れることもないのだとさえ思った。

ところがその考えは、その後何度も「幽体離脱」を経験するうちに、完全な間違いであることがわかった。

 
★★幻体(げんたい)★★

何度も「幽体離脱」をしてわかったことは、離脱中に見えるモノ聞こえるモノは、実際の様子とは違うということだった。

たとえば離脱中に見た自室の本棚は、現実の本棚と本の配置が変わっていたり、実際には所有していない本まであった。

離脱中、居間に行くと母親が座ってテレビ見ていたが、後で確かめると実際は父親がテレビを見ていた。

離脱中、居間のテーブルの上に、大きな釜に入った炊き込み御飯がおいしそうに湯気をあげていたが、そんな大きな釜は我が家にはなかったし、もちろん実際には誰も炊き込み御飯など作らなかった。

離脱中、自宅を離れ友人の家に行き、友人と会話を交わしたことも何度かあったが、後で友人に確認を取っても、出会った事を肯定されたことは一度たりともなかった。

このように、離脱中の体験は、宙に浮いたカラダの感覚や手足を動かす感覚、モノに触った感覚がある以外は、金縛り中の「幻覚」体験とほとんど変わらなかった。

つまり、「幽体離脱」体験は、金縛り中に体験した視覚の幻覚である「幻視」と、聴覚の幻覚である「幻聴」に加え、運動感覚や触覚の幻覚である「幻触」(たぶん私の造語)までもが現れた「幻覚」体験だったのだ。

触覚の幻覚を何と呼べばいいのか辞書を調べても載っていなかったので、とりあえず今後も触覚の幻覚のことは「幻触」と呼ばせてもらうが、とにかくこの「幻触」こそが、「幽体離脱」体験者に「断じて夢や幻覚などではなかった」と言わせるほど「幻覚」にリアリティーをもたらしていたのだ。

その後も離脱経験が増えるにつれ、何度か味覚の幻覚である「幻味」も体験したし、たった一度ではあるが嗅覚の幻覚である「幻嗅」も体験した。すなわち「幽体離脱」体験とは、「五感」すべての感覚を伴う「幻覚」体験なのである。

現在ではこのような体験を、「幽体」説を主張する人も、私のように「幻覚」説を主張する人も、一般的に「体外離脱」体験と呼んでいるようなので、私も以後はこの「体外離脱」という言葉を使わせてもらうことにする。

そして体外離脱中の現実のカラダでないカラダのことを、「幻覚」の肉体という意味で「幻体(げんたい)」と命名させていただく。

 
★★脳の錯覚★★

前章では、金縛り中に現れたリアルな「五感」を伴った幻覚が「体外離脱」であり、離脱中のカラダを「幻体」と命名したと書いた。そこで、この章では、なぜ金縛り中に「体外離脱」という特殊な「幻覚」が現れるのかを自分なりに考えてみた。

「金縛り」は、

入眠時REM睡眠
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/tyuu.htm

などが原因の、科学的にも証明されている睡眠中によくある現象である。簡単に言えば「カラダは眠っているが、脳は起きている状態」だ。

つまり、金縛り中にカラダが動かないということは、「脳」は起きているので「カラダを動かしたい」と思うことはできるが、カラダが眠っているため、「カラダを動かしたい」という「脳」の命令が、カラダに伝わっていない状態だといえる。

したがって、もし金縛り中に眼を開けて周りの様子を見ようと思っても、「眼を開けろ」という「脳」の命令がカラダに伝わらないため、眼を開けることはできないのである。

しかし、「金縛り」という睡眠中の特殊な状況下では、「脳」はカラダが眠っていることを認識できないらしく、「眼を開けろ」という命令は実行され、すでに眼は開かれていると錯覚してしまう。

眼を開けているという感覚は「脳」の錯覚なので、もちろん眼からは視覚情報が入ってこない。しかし眼を開けているのに視覚情報が入ってこないということは、「脳」にとっては不測の事態である。

そこで「脳」は、眼を開けていれば入ってくるはずの視覚情報を、「脳」が持っている記憶情報で代用したのだと考えられる。特に、毎日毎日見ている寝室の視覚情報を記憶の中から引き出し、リアルな「幻視」として再現するのは「脳」にとってはそう難しいことではないだろう。

そして視覚の記憶情報から作られた「幻視」同様、金縛りで動かないカラダの代わりに、運動感覚や触覚の記憶情報から作られた感覚が「幻触」であり、「幻触」を持った幻覚のカラダが「幻体」なのである。

「幻体」が持つ独特の浮遊感については、本来は骨と筋肉でしっかり受けとめなければ得られない地球の重力感を、「幻体」では再現できないのだと私は推測している。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/tanotai00.htm 


★★壁ぬけ★★
よく聞く体外離脱中の特徴の一つに「壁ぬけ」がある。私も何度も体験したが、普通に壁を通りぬけるだけでなく、「幻体」の腕だけを壁の向こう側へ突き出すようなこともできる。

では「幻体」は、「幻視」として見えている物体に対して、すべて素通りして触わることができないのかといえば、そうではない。

たとえば私はよく「壁ぬけ」に失敗する。壁に勢いよく体当たりしても、「ガツン」という衝撃の感覚とともに「幻体」が壁に跳ね返されてしまうことが多いのだ。

そういうわけで、家の外に出る場合は「壁ぬけ」しないで窓や扉から出ることが多いのだが、その時、窓が閉まっていれば「幻体」の手で窓をスライドさせるし、扉が閉まっていれば「幻体」の手でドアノブを掴んで扉を開ける。カギが掛かっていれば「幻体」の指で外す。

つまり、基本的に「幻視」で見えているモノは何でも触われるし、触わった感覚である「幻触」が存在する。そして、閉まっている窓や扉を開けることができるというように、「幻体」の取った行動に対して、その結果がまた「幻視」や「幻触」によって現れるのだ。

こうなると逆に、何でも触われるのならどうして「壁ぬけ」できるのだと言われそうだが、じつは「幻触」の感覚は長時間は現れないのである。

たとえば「幻視」で見えている扉を開けるためにドアノブを掴めば、ドアノブの形状と固さを「幻触」で感じることができるが、いつまでもドアノブを掴んでいると、次第に形状や固さが感じられなくなり、ついには「幻触」は消えてしまう。

「壁ぬけ」も同じで、勢いよく体当たりすれば壁に跳ね返されるが、ゆっくり壁に手をつけば、次第に壁の固さは感じられなくなり、ついには壁など存在しないかのように通りぬけることも可能になるのだ。

 
★★空を飛ぶ★★

「壁ぬけ」と並んで体外離脱中の特徴でよく知られているのが「空中飛行」である。

空を飛びたいという人類の夢を手軽にかなえてくれる「空中飛行」は、私にとっても体外離脱中の大きな楽しみである。まるでアニメに登場する超人ように、「幻体」一つでどこへでも飛んで行くことができるのだ。

しかし、まったく自由自在に空を飛べるというわけではない。「幻体」はどこまでも高く高く上昇できるわけではなく、たいていの場合、一度に上昇できる高さは10〜20メートルぐらいで、いったん上昇しきってしまうと、後は少しづつ降下しながら進むしかなく、飛行スピードも、歩くよりは速いが走るよりは遅いという程度である。

それは「空中飛行」というより、重力の少ない世界でかろやかな大ジャンプをしているような感覚と言った方がいいかもしれない。これは私だけの感覚ではなく、体外離脱体験者の多くが同様のことを言っている。

したがって、上昇限度以上の高所に行きたいときは、より高所の足場(より高い建築物の屋根など)への大ジャンプ移動を繰り返し、少しづつ上昇して行くしかない。

では、どうして体外離脱中の「空中飛行」において、「幻体」は上昇し続けることができず、スピードも速くないのだろうか。

それは、私たちが何の推進力もなしに、カラダ一つで空を飛ぶというイメージを持っていないからだと思われる。

たとえば、地上を歩くのなら、「足を動かす」「手を振る」というように具体的に何をしたらいいかが明確であるが、「空中飛行」に関しては実体験がないだけに、何をしたら前に進み、どうしたら上昇できるのか、というようなイメージが皆無である。

したがって、地上を蹴るなり窓枠を蹴るなりして空中に飛び出した後、何の推進力も持たない「幻体」が、重力の影響でゆっくり降下して行くというイメージを私たちが持つことは自然なことであり、そのイメージをもとにした「空中飛行」の「幻覚」を、私たちは体験しているのだと推測できる。

では「幻体」が上昇し続けるのは不可能なのかと言えばそうではない。降下するのがイメージの産物なら、上昇するのもイメージの持ち方で何とでもなるのだ。

たとえば、ある体外離脱中、私は自宅のすぐ近くの高台に建っている高層マンションの屋上に行ってみたくなった。屋上から自宅周辺の景色を観たくなったのだ。

しかし当然その高さまでイッキに上昇するのは無理である。私は自宅の2階の窓から飛び出した後、まず電柱から延びる電線に飛びつき、両手で電線を掴むと、グイッと素早く引き付け、その反動でさらに上昇することができた。

しかしまだまだマンションの屋上にはほど遠かったので、今度は空中を平泳ぎの格好で泳ぎ始めた。これは私が空中を上昇するためによく使う手段なのだが、空中といえども水の中のようにスイスイ泳ぐことができ、まさに平泳ぎのイメージどおりに空中を進むことができるのだ。

しかしこの平泳ぎには大きな欠点があった。それは「幻体」の手や足を大きく動かさなければならないことである。「幻体」の手足を大きく動かすと、眠っている現実のカラダの手足の感覚を呼び起こしてしまい、「幻体」が現実のカラダに戻されてしまうのだ。

この時も、やはり屋上に到達する前に現実のカラダの感覚が現れ始め、そのまま平泳ぎを続けると現実のカラダに戻されてしまうため、平泳ぎを止めざるを得なくなった。

そこで次に私が考えたのは上昇気流を使うことだった。都会に住む鳥は、高層ビルに発生する上昇気流を利用して空高く舞い上がる、というようなことをどこかで聞きかじっていたからだ。

案の定、マンションの下の方から突き上げてくる強烈な上昇気流に乗って私は上昇し続けることに成功した。あまりにも強烈な上昇気流だったため、私は屋上にうまく降りることができず、マンションをはるか眼下に見下ろすほどに上昇してしまったのだが、もちろん当初の目的である「高所から景色を眺めたい」という望みは達成された。

このように、私は「電線の反動」「平泳ぎ」「上昇気流」というイメージを使い、見事に上昇し続けることができた。しかし、これはあくまで私のイメージである。よく体外離脱体験をするという私の知人は、「ウルトラセブンが空を飛ぶ時の格好」をすれば、自由自在に空を飛べるそうだし、自分が納得できる「空を飛ぶためのイメージ」さえあれば、どんなイメージでもいいのである。

 
★★友人との接触★★

「幻体(げんたい)」の章
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でも少し触れたが、私は体外離脱中に友人との接触を何度も試みている。当時はまだ、体外離脱が「幻覚」でなく、「幽体」が離脱する現象だと考えていたので、「現実」に体外離脱の足跡を残して体外離脱の証拠にしたかったからだ。

一番近い友人の家でも5〜600mは離れているので、体外離脱中としては異例の長距離移動であるが、おもしろいことに、「誰それに会いたい」と思いながら移動していると、いつの間にか会いたいと思った友人の家の前や部屋の中に移動していた。

体外離脱中の移動スピードがあまり速くないことは前章でも書いたが、ちんたらちんたら道路沿いに飛んで行かなくても、会いたい友人のことを思い浮かべるだけで距離に関係なく移動することができたのだ。

おかげで近所の友人だけでなく、京都在住の私が遠く離れた東京の友人に会いに行くこともできたのだが、もちろんそれは私の「幻覚」の中の出来事であり、それが体外離脱の証拠になることはなかった。

私の体外離脱体験の裏付けをとることについては友人たちも協力的だったので、離脱中に友人宅に行った時は、現実のカラダに戻るとすぐに友人宅に電話をし、その内容を逐一報告したのだが、離脱中の状況が現実の状況と一致したことは全くなかったのである。

たとえば東京の友人宅においても、私が見た部屋の間取りや家具の配置などは現実とは全く違っていた。私は東京の友人宅には一度も訪問したことはなかったので、「脳」の記憶からその部屋の「幻視」を再現することができなかったのだろう。

また友人たちとは体外離脱中によく会話もしたが、会話の内容はもちろん、会ったことを肯定されたことすらなかった。ただ私も友人に電話で確認を取るまでもなく、うすうす幻覚であることは気付いていた。

「幻視と幻聴」の章
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に書いた「金縛り中に現れた友人」の幻覚と、感覚が同じだったからだ。

こうして、体外離脱が「幽体離脱」した現象であるとの証拠を得られなかった代わりに、体外離脱が「幻覚」であるとの証拠を得た私は、次なる行動にでたのである。

 
★★最大の楽しみ★★

「体外離脱が幻覚なら何をしてもいいんだ!」と考えた私が次にしたことは、「幻覚」の女性を襲って無理矢理エッチすることだった。

現実世界では人権やモラルを考えれば絶対してはならない行為だが、「幻覚」の中なら誰からも非難されることはない。私は体外離脱をするたびに、道路を歩いている女性や、知らない家の中の女性を襲い始めた。

「幻覚」といえども襲われた女性は激しく暴れて抵抗する。その際、殴られたり蹴られたりする感覚もあるし(痛くはない)、手でブラウスを引き裂く感覚や、ショーツを降ろす時のゴムの伸びる感覚まである。そして女性たちは一様に恐怖と屈辱と侮蔑のまなざしを私に投げつけるのである。

あまりのリアルさに、私は本当は夢遊病者で、「現実に女性を襲っているのでは……」と考え、現実に戻ってから足の裏を触わって、砂がついてないか確かめたことも何度かあった。

ところで、私が女性を襲うのは、現実では絶対にできない行為が楽しいということもあったが、最も大きな理由は別にあった。じつは体外離脱中のSEXは、現実のSEXなどカスに思えるほど気持ちがいいのである。

いちおうピストン摩擦運動の「幻触」はあるが、その気持ちよさはピストン摩擦部分だけにとどまらず、全身を包む快感の嵐とでも言うべきモノで、延々と終わらない射精が続いている状態と言えば、男性諸氏にはわかってもらえるだろうか。

現実に戻ってからも、熱い風呂から出て来た直後のようにカラダが火照り、興奮状態が持続しているので、しばらくは再び眠ろうと思っても無理なほどである。

ではどうして体外離脱中のSEXは、現実のSEX以上の快感が得られるのであろうか。これは私の推測だが、体外離脱中のSEXにおいては、現実のSEX以上に

「エンドルフィン」などの「脳内麻薬」
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が大量に出ているのだと考えられる。

「REM睡眠中は、脳内の神経伝達物質が多量に分泌される」という話を私は聞いたことがある。「REM睡眠」といえば、「入眠時REM睡眠」に代表されるように、まさに金縛りを起こす要因であり体外離脱中の睡眠パターンである。体外離脱中に性的興奮をすることで、神経伝達物質であるエンドルフィンなどの脳内麻薬が大量に分泌されてもおかしくはない。

現実のSEXにおいても、気乗りがしないSEXは全然気持ちよくないように、脳内麻薬が分泌されないと、どんなにピストン摩擦運動を繰り返しても快感は得られない。しかし体外離脱中のSEXにおいては、無理矢理エッチするという(私にとって)メチャクチャ興奮する状況に加え、脳内の神経伝達物質を多量に分泌するREM睡眠中ということが、脳内麻薬の分泌に拍車をかけているのではないのだろうか。

もちろんこの説は、「脳」について詳しい知識があるわけでもない私が、聞きかじった知識を元に仮定した憶測の域を出ない推測であるが、これだけは真実であると言えることがある。それは、体外離脱中のSEXはホントにモノ凄い快楽であり、そしてこれこそが、「楽しい体外離脱」というタイトルのゆえんなのだ。

 
★★イメージコントロール★★

さて、壁をぬけ、空を飛び、エッチもできる体外離脱であるが、「楽しい体外離脱」をするためには、してはならないことが二つある。一つはマイナスのイメージを持つことだ。たとえばこんなことがあった。

まさにこれから女性のショーツを脱がそうとしている時、ふと「このショーツのゴム固そうだな……」と思ったばっかりに、女性のショーツは強固なゴムでがっちりカラダに張り付き、私はショーツに指をかけることさえできなくなった。

まさにこれからボーイッシュな女性とエッチしようとしている時、ふと「もしかしたら男かも……」と思ったばっかりに、ひきちぎったショーツの下から私のよりも立派なイチモツが現れた。

このように、ふと抱いたイメージがカタチある幻覚になり、さあこれから楽しもうと思っている人間にとっては致命的なダメージとなる。だから体外離脱中は決してマイナス思考のイメージをしてはいけないのだ。

「驚異の幻覚」の章
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に書いた「不気味な老人」も、じつはマイナスイメージの産物であった。そのときの金縛りは布団の上から押さえつけられるような感じだったので、ほんの一瞬、「布団の上に爺さんが乗ってたらイヤだな……」という考えが脳裏をよぎったのである。

なぜ「爺さん」なのかというと、子供のとき読んだ恐怖マンガに、就寝中に気味の悪い爺さんが布団の上に現れ「うえぇぇぇ〜」と血を吐くシーンがあり、どうもそのことが強い印象として心の奥底に残っていたようなのだ。

ところで、

「空を飛ぶ」の章
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でマンションの屋上に行くために「電線の反動」「平泳ぎ」「上昇気流」のイメージを使ったと書いたが、これはプラスのイメージである。このように、イメージはうまく使えば体外離脱をより楽しいモノにできるのだが、どちらかというと幻覚は不安や恐怖といったマイナスイメージに反応しやすく、イメージのコントロールは容易ではない。

「空中飛行」においても、少しでも「あそこまでは飛べない」とか「落ちそう……」とか考えれば、やっぱりその通りになるし、

「壁ぬけ」の章
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に書いたように、私がよく「壁ぬけ」に失敗するのも、「幻覚といえども、こんなリアルな壁を通りぬけられるのだろうか……」と考えてしまうからだ。

「楽しい体外離脱」をするためには、常に体外離脱が「幻覚」であることを自覚し、「幻覚なのだから何でもできるはずだ」という、強いプラスのイメージを持ち続けることが必要である。

 
★★体外離脱の限界★★

「楽しい体外離脱」をするために「してはならないこと」のもう一つは、幻覚に意識を集中しすぎることである。

たとえば、さあこれからエッチしようと押し倒した女性がとても美人だったので、その顔をしげしげ眺めていると顔が崩れてブスになったことがあった。これは「幻視」に意識を集中しすぎたためである。

このようなことは女性の顔に限ったことではなく、部屋の中の情景においても屋外の風景においても同じである。同じ場所、同じモノを見続けると、ハッキリ見えるどころか、視界が不鮮明になったり、暗くなったり、見ていたモノ が違うモノになったりする。

それは「幻触」においても同じである。「幻触」に意識を集中しすぎると、その感覚がアバウトになり、いずれは消えてしまう。

「壁ぬけ」の章
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で「幻触の感覚は長時間は現れない」と書いたのも、そのためである。

だから女性のカラダの同じ箇所ばかりを愛撫するのもよくない。「幻触」が消えてしまい、女性のカラダが溶けたかのように感じてしまうからだ。もちろん他の感覚である「幻聴」「幻味」「幻嗅」についても、意識を集中しすぎてはいけないことは同じである。

幻覚に意識を集中しすぎてはいけない理由はそれだけではない。幻覚に意識を集中しすぎると、現実のカラダの方がその意識に答えてしまい、感覚が現実のカラダに戻されてしまうという理由もある。

たとえば、女性の***を手の指で撫で回すというような繊細さが要求される行為では、極度に指の「幻触」に意識を集中させるため、現実のカラダの指の「触覚」をも呼び起こしてしまう。

つまり、「幻体」の指を動かそうとすると、現実のカラダの指までもが動きそうになり、もし現実のカラダの指が少しでも動いたら、その時点で体外離脱は終了してしまうのだ。

基本的に、感覚に敏感な手の指や、頭に近い箇所の触覚ほど現実のカラダの感覚を呼び起こしやすく、特に舌は指よりも敏感で頭にも近いため、女性の***をナメるという私の大好きな行為が、わずか数秒で現実の舌の感覚を呼び起こしてしまうのは残念至極である。

ただし、いったん現実のカラダの感覚が呼び起こされても、行為を中断し、使用中の感覚を数秒間ニュートラルな状態にすれば、感覚を「幻体」に戻すこともできる。これは「楽しい体外離脱」をするためには絶対必要なテクニックである。

このように、体外離脱がどんなにリアルな「幻覚」であるといっても、さすがに長時間の意識の集中に耐えられるほど確固たる感覚を得ることはできないようである。しかし逆に考えれば、その確固たる感覚があれば、もう何ら「現実」と変わるところはないと言っても過言ではない。

とにかく、「長い時間、同じ箇所を見ない」「長い時間、同じ箇所を触わらない」というように、幻覚に意識を集中しすぎないように心がければ、じゅうぶんに「楽しい体外離脱」を満喫できるのだ。
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★★長時間離脱★★
どんなに「楽しい体外離脱」であっても、それを長時間続けるのは難しいことである。

体外離脱を続けていると、いろんなモノを見たり触わったりするうちに、どんどん意識がハッキリして「脳」が覚醒してくる。そうなると、離脱中にも現実のカラダの感覚をチラホラ感じるようになり、ついにはすべての感覚が「幻体」から現実のカラダに戻ってしまう。

前章で、幻覚に意識を集中しすぎると、すぐに現実のカラダに戻されてしまうと書いたのも、意識を集中することで、半覚醒状態の「脳」を完全に覚醒させてしまうからだ。

では現実のカラダに戻されないためにはどうしたらいいのかというと、体外離脱中は、できるだけ意識をハッキリさせないことである。

離脱中は普通に移動しているだけでも、「脳」は様々な視覚や触覚などの「幻覚」を作り出すため活発に活動しているので、そのまま移動していると、いずれは「脳」が完全に覚醒し、現実のカラダに戻されてしまうことになる。

そこで、時々は「幻体」を立ち止まらせ、視覚や触覚を働かせないようにしながら、何も考えずに、そのまま眠りに就くぐらいの気持ちでリラックスするのである。そうすれば「脳」の覚醒度が下がるので、体外離脱はさらに続けられるようになる。これを何度も繰り返せば長時間の離脱が可能だ。

また、たとえ現実のカラダに戻されたとしても、それで体外離脱が終了したわけではない。現実のカラダと意識をうまくコントロールすれば、すぐにまた体外離脱することができるのだ。

現実のカラダに戻っても、現実のカラダを動かさないようにしながら、何も考えずに、そのまま眠りに就くぐらいの気持ちでリラックスする。そうすれば、現実のカラダが再度「金縛り」になるので、体外離脱も可能になる。

ただしこの時、絶対にビタ1ミリたりとも現実のカラダを動かしてはいけない。現実のカラダに戻ってきた直後は、再び「金縛り」になりやすい状態になっているのだが、ほんの少しでもカラダを動かしてしまうと、その状態がリセットされてしまい、完全に目が覚めた状態と同じになる。そうなると、再び「金縛り」になるためには、イチから眠り直さなければならなくなるのだ。

しかしながら、どんなに長時間離脱(現実のカラダに戻された直後の再離脱を含む)のための工夫をしても、やはり離脱していられる時間には限界がある。

普通、体重のかかっている箇所の血行不良を防ぐため、健康な人なら睡眠中に何度か「寝返り」をうつが、体外離脱中は、現実のカラダは金縛り中にあるため寝返りをうつことができない。

寝返りがうてず、体重がかかって圧迫されている部分の「痛み」は、体外離脱中でも「幻体」の感覚とは別に感じられるようになり、長時間の体外離脱を続ければ続けるほど、その「痛み」は大きくなっていく。

こうなると、もっと体外離脱を続けたいと思っても、徐々に現実のカラダの苦痛が「幻体」の感覚を上回り、ついには苦痛とともに、すべての感覚が現実のカラダに戻ってしまう。

苦痛を取り除くためには、現実のカラダを寝返りさせる以外に方法はなく、そうなると完全に目は覚め、再び「金縛り」になるためにはイチから眠り直すしかない。つまり、体外離脱をしていられる時間は、どんなに長くても最後に寝返りをうってから次の寝返りをうつまでの間ということになる。

 
★★リアリティー★★

これまで体外離脱中の「幻覚」が、いかにリアルなモノであるかを何度も説明してきた。しかし、離脱中の「幻覚」はすべてがリアルなわけではなく、じつはそのリアリティーも様々だ。

たとえば、最もリアルな「幻覚」は何かといえば、体外離脱を伴わない金縛り中の「幻視」だ。そのリアルさは、「幻覚」なのか「現実」なのか判別がつかないほどである。カラダが動かないため、寝ている場所から見える部分だけの「幻視」を「脳」の記憶情報から再現すればいいので、おそらく「脳」にとっても作りやすい幻覚なのだと考えられる。

体外離脱をすると、

「幻体(げんたい)」の章
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にも書いたように、「幻視」には現実との相違点がいくつも現れるようになるので、「幻視」のリアリティーという点では離脱を伴わない金縛り中に及ばなくなる。特に普段あまり行かない場所や自宅から遠く離れた場所に行くほど相違点は増えてゆく。

「幻視」の基本は「脳」の記憶情報からの再現なので、毎日毎日見ている自室や自宅をリアルに再現することはできる。しかし、あまり行かない場所や自宅から遠く離れた場所の記憶は正確ではないので、当然のことながら「幻視」も現実との相違点の多い不正確なモノになる。

そして全く知らない場所に来た時、たいていはどこかで見たような情景が眼前に展開される。全く知らない場所だけに、その場所の記憶情報はないので、その場所に最も適すると思われる視覚情報が記憶から引き出され、代用されているのだと考えられる。

この状態になると、いま見ていた情景が、次の瞬間、別のものに変わってしまうというように、「幻視」は全く安定しなくなる。その感覚は「幻視」を見ているというより、むしろ「夢」の中にいるような感じで、明らかにそれが「幻覚」であると自覚できる。

また、前章に書いたように、長時間離脱をするために「脳」の覚醒度を下げた時も、全く知らない場所に来たとき同様に、「幻視」が不安定になり「夢」の中にいるような感じになる。そもそも全く知らない場所に行くこと自体、そうとうな長距離&長時間移動なので、そのためには「脳」の覚醒度を下げなければならず、結果的には同じことなのだとも言える。

このように「幻視」は、体外離脱中に移動した場所や距離、移動時間や覚醒度の違いなどによって、そのリアリティーも様々に変化する。

ただし体外離脱は、「幻視」だけでなく「幻触」を含む「五感」の「幻覚」なので、たとえ「夢」の中にいるような感じで、明らかに幻覚だと自覚できる「幻視」であっても、一概に体外離脱という体験のリアリティーまでもがなくなるわけではない。「幻触」や「幻聴」にモノ凄いリアリティーがあることもあるからだ。

それに、この「夢」の中にいるような感じこそが、じつは「体外離脱」という現象の最も重要なポイントでもあるのだ。

 
★★明晰夢★★

体外離脱中、覚醒度を下げると「幻視」は不安定になり、「夢」の中にいるような感じになる。それでも、自分が見たいモノを見て、触わりたいモノが触われるというように、「五感」を感じられるところと、自分の意志で自由に行動できるところは「夢」とはまったく違う。

ところが、睡眠中になにげなくみる「夢」でも、これとまったく同じ状態になることがある。「夢」をみている時、「これは夢だ」と自覚すると、「夢」の中でも「五感」を感じられるようになり、「夢」の中を自分の意志で自由に行動できるようになるのだ。

これは一般的に「明晰夢(Lucid Dream)」と呼ばれる現象なのだが、つまりこのことは、「これは夢だ」と自覚することで覚醒度の上がった「夢」すなわち「明晰夢」と、覚醒度が下がって夢の中にいるような感じの「体外離脱」とが、まったく同じ現象だということを表わしている。

事実、私は長時間の体外離脱中、覚醒度を下げすぎて、いつのまにか意識がハッキリしなくなり、意識が「夢」の中に埋もれて、そのまま眠りに就いてしまうことがよくあるし、またその反対に、「夢」をみている時に「これは夢だ」と自覚した「明晰夢」でも、覚醒度を上げることで、いつのまにかリアルな「幻視」で再現された寝室に「体外離脱」していることもある。

つまり、「夢」も「明晰夢」も「体外離脱」も、それぞれが別々の現象ではなく、覚醒度の違いによって生じる「幻覚」のリアリティーの違いを、それぞれ別の言葉で言い換えたにすぎないのだ。

ところで、私の何百回という体外離脱体験も、じつはその90%ぐらいが「夢」を見ている時に「これは夢だ」と自覚した「明晰夢」体験のことなのだが、その場合、金縛りを経た通常の体外離脱にはない大きな楽しみがある。

「夢」の中では、時として子供の姿になっていたり、見知らぬ他人になっていたりというように、自分以外の誰かを演じていることがあるが、その「夢」の世界のキャラクター設定のまま、「五感」を感じ、自由自在に行動することができるのだ。

たとえば、私は「夢」の中でたまたま女性になっていた時、「これは夢だ」と自覚したため、女性の姿のまま「五感」と自由を手に入れたことがある。場所はワンルームマンションの一室のようであったが、鏡に映った私の姿は黒く長い髪をした美しい少女で、醜い現実の私のカラダになんて戻りたくないと思ったぐらいである。

もちろん少女のカラダがどうなっているのかは興味のあるところなので、股間に手を触れてもみたが、いつもそこに存在するはずのモノはなく、代わりに小陰唇や陰核まで再現された女性のモノがあった。ただ残念なことに陰核に触れても膣の奥まで指を入れてみても、女性特有の快感、あるいは痛みなどはまったく感じられなかった。

しょせん「幻覚」は自分の記憶の再現なので、女性になったことのない私が女性独自の触覚を再現するのはやはり無理だったのだ。

ところで、通常の体外離脱でも、「どこそこに行きたい」「誰それに会いたい」「美女よ現れよ」というようなイメージに反応して、その通りの「幻覚」が現れることがあるが、さすがに性転換までは無理である。

幻覚のリアリティーという点なら、金縛りを経て覚醒度をできるだけ下げないようにした体外離脱の方が上だが、幻覚のおもしろさという点では「夢」を自覚した体外離脱(明晰夢)の方が圧倒的に上だ。

「夢」というのは、「これが自分のイマジネーションの産物だとは到底思えない」というような突拍子もないモノも多く、突拍子もない「夢」であればあるほど「夢」を自覚した時の楽しみも大きくなる。

 
★★エピローグ★★

結局、「体外離脱現象は夢と同質の幻覚現象である」というのが私の結論であるが、私が本で読んだり、人に聞いたりした体外離脱体験の中には、体外離脱中に第三者と接触して、見たり聞いたりした内容が事実とピッタリ一致していたという話も少なくはない。

そういう話がある以上、第三者との接触で事実が一致したことのない私は、じつは体外離脱体験者としては未熟者なのかもしれないし、私が「体外離脱」と呼んでいる体験も、じつは体外離脱とはまったく関係のない、タダの「幻覚」である可能性も否定できない。

私は科学で証明できないからと言って、なんでも「ウソ」や「よまい言」で片付けてしまうのは好きではない。人類の歴史においては、地動説を唱えた者がキチガイ扱いされた時代もあったのである。

したがって、今後科学的見地から体外離脱現象のメカニズムの解明がなされ、もしかしたら驚くべき発見があるかもしれないと思うこともある。

しかし、少なくとも私の体外離脱体験においては、それが「幻覚」であることは疑いのない事実であり、このホームページを作ったのも、体外離脱が不可思議でオカルト的な現象としてではなく、こういう見方もあるのだと示したかったからだ。

そしてなによりその体験の楽しさは、映画やTVゲームを遥かに超えるモノであり、その素晴らしさをどうしても伝えたかったのだ。

このホームページを読んだ人に、「そっか体外離脱って楽しいモンなんだ」と思ってもらえれば幸いである。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/tanotai00.htm

73. 中川隆[-13528] koaQ7Jey 2018年10月02日 05:02:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18949] 報告

もう金縛りなんて怖くない!金縛り克服法
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/kanasi.htm

私は体外離脱の基本は「金縛り」であると考えているので、当HPでは金縛りになることを奨励したり、金縛りになるためのテクニックなど紹介してきた。しかしウチに来たメールや掲示板の書き込みを読むと、金縛りは大変な恐怖と苦痛で体脱どころではないという内容も多い。そこでこのページでは、金縛りに対する恐怖心や苦痛を取り除くための方法を紹介したい。 

金縛りは心霊現象ではない!

金縛りに対する恐怖心を取り除くには、まずは「金縛りは心霊現象ではない」と知ることが重要だ。私も思春期のころまでは、金縛りは幽霊や悪霊が引き起こす心霊現象だと思っていたので、いざ金縛りに遭うと大変な恐怖を味わったものである。しかし現在の私は金縛りに対し全く恐怖心はない。金縛りは睡眠中によくある生理的な現象だと理解しているからだ。

金縛りとは、医学的には「睡眠麻痺(sleep paralysis)」と呼ばれる状態で、レム睡眠中に起こる現象である。レム睡眠とは、閉じたまぶたの下で眼球がきょろきょろと不規則に動く急速眼球運動(Rapid Eye Movement)が見られる浅い睡眠状態のことで、その頭文字「REM」を取ってレム睡眠と呼ばれている。レム睡眠は入眠後およそ一時間半周期で起こり、はっきりとした「夢」を見るのもこの時だ。

人は睡眠中、このレム睡眠の状態になると骨格筋の弛緩が起こり、カラダが全く動かなくなる。よって無意識に手足を動かしたり、寝返りをうったりもしなくなる。レム睡眠は約一時間半周期で訪れるので、毎日6時間寝る人なら毎日4回はこの状態になっているというわけだ。もちろん寝ている本人は意識がないので、カラダが動かないことに気付くことはない。

ところが、時にその状態(レム睡眠時の骨格筋弛緩状態)のまま、意識だけが覚醒してしまうことがある。暑い…寒い…寝具が合わない…寝苦しい…、物音がした…、尿意を催した…など、レム睡眠中に意識だけが覚醒する要因は様々あるが、そうなると、骨格筋が弛緩しているため、意識はあるのにカラダは全く動かせないという状態になってしまう。つまり、これがいわゆる「金縛り」と呼ばれる状態だ。

このように、「金縛り」は通常の睡眠と比べると確かに特殊な状態ではあるが、あくまで睡眠の一形態と考えるのが自然である。我々は金縛りになって初めてカラダが動かないことに気が付くが、じつは毎日の睡眠中、何度も同じ状態(レム睡眠中の骨格筋弛緩状態)になっているのに気付いてないだけなのだ。よって金縛りを恐れる必要は全くないのである。

…補足…

不規則な生活をしたり、カラダが非常に疲れていたりすると、本来は一時間半後に訪れる最初のレム睡眠が、入眠直後に起こること(入眠時レム睡眠)がある。この時、特に金縛りになりやすい。

金縛りになっても完全に覚醒しているわけではなく、実際はレム睡眠の真っ最中であり半覚醒状態なのだが、意識が比較的ハッキリしているため、自分は目覚めていると感じるのである。
 

息苦しさを恐れるな!

時に金縛りの最中は、ひどい息苦しさを感じることがある。私も何度も体験しているが、息苦しさというより強烈な胸の痛みとして感じることもある。原因は、血圧や心拍の急激な変動である。

レム睡眠時の特徴には、先に述べた骨格筋の弛緩だけでなく、血圧値や心拍数が急激に上昇したり下降したりする現象がある。これは「自律神経の嵐」と呼ばれ、循環器系に疾患や障害を持つ人にとっては、その急変動はかなり危険なものだといわれている。そして、レム睡眠時に意識だけ覚醒した状態である金縛り時にも、この「自律神経の嵐」が生じているのだ。

実際、私は金縛り中にかなり心拍数が上昇していることを自分でも確認している。私には少々息苦しい程度だが、もし循環器系に疾患や障害をもつ人なら、循環器及び身体に、大きな負担になるのは間違いないだろう。

では循環器系に疾患や障害のない人なら、息苦しさや胸の痛みは無いのかと言えばそうではない。私は心拍の乱れと胸の痛みの最も大きな要因は別にあると思っている。それは金縛りに伴う「恐怖心」だ。

皆さんは怖い夢を見て、心臓が凄い速さでドキドキし、目覚めた後も、ハアハアと激しく呼吸が乱れた経験はないだろうか。夢を見ている最中(レム睡眠中)というのは、ちょっとした恐怖心や感情の起伏により、簡単に心拍や呼吸が乱れてしまうものなのだ。それは、夢と同じレム睡眠時の現象である金縛りの最中でも全く同じである。

つまり、金縛りが心霊現象だと思って恐怖を感じていると、アッという間に心拍数が急上昇する。心拍数が急上昇すると、息苦しくなるので呼吸も速くしたいところだが、先に説明したように、金縛り中は骨格筋が弛緩していて自分の意志で筋肉を動かすことができない。

自分の意志で筋肉が動かせないということは、横隔膜という筋肉を動かして、自分の意志で呼吸ができないということである。それどころが自分の意志で呼吸(深呼吸)しようとすると、胸に大きな痛みを伴うことが多い。

なぜ金縛り中に自分の意志で呼吸しようとすると、胸に痛みが生じるのかについては、今までに私が読んだ文献などには明確な答えは記されてはいなかった。よってこれは私自身の経験と知識からの推測だが、おそらくは金縛り中の呼吸が自律神経によって制御されていることが原因だと思われる。

金縛りという状況下では、自分の意志による筋肉の活動…つまり運動神経はすべて使えなくなっているため、呼吸もすべて自律神経によって制御されている。呼吸は意識しなくても自動的に行われている状態だ。

この状態では、自分の意志で呼吸しようとしても、実際には呼吸は自律神経によって制御されているので呼吸はできない。つまり頭で意識した呼吸リズムと実際の呼吸リズムには大きなズレが生じるのだ。このズレを、金縛り中は痛みとして感じてしまうのである。

では、金縛り中に息苦しさや胸の痛みを感じた場合、どうすればよいのか?

最も重要なのは、まずは金縛りに対する恐怖心を払拭し、心拍数を上げないことだ。心拍数を上げると、自律神経に制御された呼吸では追いつかなくなり、苦しいので意識的に呼吸を整えようとする。ところがその意識的呼吸が、さらに胸の痛みを誘発してしまうという悪循環に陥ってしまうからだ。

それを回避するためには、“金縛りは心霊現象ではなく、よくある睡眠の一形態”なのだと認識し、恐怖心を捨て、心からリラックスすることだ。リラックスすれば、自然に心拍数は下がり、息苦しさや胸の痛みも大いに軽減される。

しかしながら、金縛りに恐怖心を持っていなくても、やはり苦しいときは苦しいものだ。そんなときは、意識を胸(肺)に集中し、自律神経による自動呼吸のリズムをチェックすればいい。そうすれば、自分がどんなリズムで呼吸しているのかがよく判るはずだ。

そして、意識的な呼吸をできるだけ自動呼吸のリズムに合わせるようにすれば、ほとんどの息苦しさや胸の痛みは解消できるはずだ。
 

カラダの痛みを恐れるな!

金縛りの最中は、息苦しさや胸の痛みだけでなく、手足や腰などカラダの各所にひどい痛みを感じることがある。ウチの掲示板の書き込みの中には「ひどい痒み」を感じたという体験談もあった。私はくすぐったい感じを受けることも多い。これらの感覚は、金縛り中はカラダに感じる痛みや不快感を過剰に感じてしまう傾向があり、そのために起こる現象だ。

たとえば、私はある金縛り中、プロレスラーに左腕を逆関節で背中の方へねじり上げられたような猛烈な痛みに襲われた。金縛りが解けた後で自分のカラダの姿勢を確かめると、左腕が背中の下敷きになっていた。この時、背中の下敷きになっていた腕は、確かに軽い痛みとシビレはあったが猛烈な痛みではなかった。金縛り中は実際の痛みよりも大袈裟に増幅して感じていたのである。

また、脛(すね)に猛烈にくすぐったい感じがした時などは、金縛りが解けた後で確かめると、実際は扇風機の風で脛毛がそよいでいただけだったということもあった。

つまり、腕がカラダの下敷きになっていた…、両足が交差している部分が圧迫されていた…、寝ている姿勢が悪く腰がねじれていた…など、実際にはたいした痛みや不快感でもないのに、金縛り中はその痛みや不快感を大袈裟に増幅して感じてしまうという現象が起こるのである。

金縛り中の痛みに恐怖感を抱く人の中には、金縛りが解けた後も痛みや不快感が持続していたと感じる人も多いようだ。しかし、実際は痛みや不快感が持続していたわけではなく、寝ている姿勢や寝具の不具合などでカラダに痛みや不快感があったからこそ、金縛り中に増幅された痛みとして感じていたのである。

また、そもそも金縛りになること自体、じつはカラダに感じた痛みや不快感によって眠りが浅くなり、レム睡眠中に意識だけが覚醒してしまったということが多い。金縛りに対する恐怖心を払拭するためには、なぜ金縛りになったのか、なぜカラダに痛みが生じたのかを、金縛りが解けたあと検証することが必要だ。

金縛りが解けた後というのは金縛りにまた掛かりやすく、それを避けるために、すぐにカラダを動かしてしまいがちである。しかし、ここはぜひカラダを動かさないで、カラダに痛みが生じた原因を徹底検証してみてほしい。

腕がカラダの下敷きになってないか…、両足が交差している部分が圧迫されてないか…、寝ている姿勢が悪く腰がねじれてないか…など、徹底検証の結果、痛みの原因が判ることは多い。痛みの原因が判れば、金縛り時のカラダの痛みに対する恐怖心はかなり薄らぐはずだ。
 

幻覚を恐れるな!

金縛り中に得体の知れない人物を見た…、何者かの声が聞こえた…、誰かにカラダを触られた…、というような話をよく聞くが、これも恐れることはない。すべては幻覚である。

「入眠時幻覚」という言葉があるように、入眠時レム睡眠によって幻覚が引き起こされることはよく知られていることだが、私の経験からすると、別に入眠時でなくとも金縛り中(レム睡眠時に意識だけ覚醒)であれば、幻覚を体験することは珍しくない。

では金縛り中の幻覚の原因は何なのかと言うと、それは金縛り中に見る「夢」である。夢を見るのはレム睡眠中であるということは先にも述べたし、また世間一般的にもよく知られていることだが、金縛りもまたレム睡眠中の現象である。金縛りになった当事者は、意識が比較的ハッキリしているため目覚めていると感じているが、実際はまだレム睡眠の真っ最中であり、夢を見ているのと同じ状態なのだ。

ただし金縛り中に体験する夢は、夢と呼ぶにはあまりにもリアルすぎる。本人は目覚めていると思っているため、寝る直前に見ていた様子が夢になりやすく、寝ている部屋の壁や天井の模様から、家具や様々な小物まで、何でもリアルな幻覚として再現してしまうのだ。

もちろん幻覚は部屋の様子だけではない。時には得体の知れない人物も現れる。たとえば、私がかつて金縛り中に目撃した爺さんや花柄の和服の女性などは、いわゆる「幽霊」というよりは、ホンモノの人間を見ているようだった。また、上半身だけのサラリーマン風の男がスゥ〜と消えた時などは、まさに「幽霊」のイメージそのものだった。私もそいつらが幻覚だとハッキリ判るまでは、ずいぶん怖い思いをしたものである。

では、どうしてそいつらが幻覚だと判るようになったのかというと、じつはそいつら以外にも、私の肉親や友人などもよく金縛り中に現れたからだ。肉親や友人なら、後で私の部屋に来たかどうかを確かめることができるので、それが幻覚だったのか現実だったのかを確認するのは容易である。結局、金縛り中に現れた肉親や友人はすべて幻覚だったので、私は他のヤツラも幻覚だと理解することができたのだ。

ただし、幻覚は何も見えるモノだけとは限らない。私は何者かにカラダを触られたという体験が非常に多い。ウチのメールや掲示板にも、何者かに「触られた」「殴られた」「首を絞められた」というような様々な体験談が寄せられている。幻覚というのは五感すべてに存在するものなので、金縛り中は視覚の幻覚である「幻視」だけでなく、触覚の幻覚である「幻触」も存在するのだ。

私の経験から言えば、何者かに触られる感覚は極めてリアルである。ひんやりとした冷たい手にカラダをペタペタ触られる感じがして、しかもその触られている場所が、撫でられるようにス〜と移動するのだ。まさに「何者かにカラダを触られた」「何者かに手足を掴まれた」というようなイメージがピッタリである。

しかし、これもまた私の経験で言えば、その原因のほとんどは、寝ている姿勢や寝具の不具合によって生じた肉体の不快感にある。たとえば、乱れて引きつったパジャマの布地がカラダを圧迫し、その部分を何者かに触られているように感じたり、足を交差して寝ていると、交差して圧迫されている部分を、金縛り中は誰かに掴まれたように感じたりする。

このことは「カラダの痛みを恐れるな!」の章に書いたように、金縛り中はカラダに感じる痛みや不快感を増幅して感じてしまう傾向とも関係している。「カラダが痛い」あるいは「カラダに不快感がある」と感じた時、それを「何者かがカラダを触ったから」と考えてしまうのだ。

この「触られる感覚」というのは、私の経験から言えば「触っている相手の姿が見えない」ことが多いのだが、やはり時には人物像の「幻視」と、触られる感覚の「幻触」がセットになって現れることもある。金縛りになり、目を開けると見知らぬ人物がいて、そいつが自分のカラダを触っている…という体験は大変な恐怖だ。

ではそんな恐ろしい体験をしなくなるためにはどうすればいいのか…というと、それは、これまでの章で何度も説明してきたように、とにかく金縛りに対する「恐怖心」を払拭することである。金縛り中は非常に幻覚が現れやすいが、その幻覚はすべて自分の恐怖心が作り出しているということを自覚するのだ。

金縛り中に見えるモノ、体験することは、とてもリアルな幻覚ではあるが、基本的な原理は夢と同じである。潜在意識の願望や欲望、不安や恐怖心が夢になりやすいように、金縛り中の幻覚もまた、潜在意識のイメージや感情に敏感に反応する。金縛りに対して恐怖心を持っていると、その恐怖心に反応し、幻覚もまた恐ろしいモノとなる。

私も金縛り中に何度も経験があるが、「幽霊が現れたらイヤだなあ…」なんて思っていると、思った通り得体の知れない人物を目撃したり、「カラダを触られたらイヤだなあ…」と思っていると、思った通りカラダを触られる感覚を体験したものだ。

しかし、現在の私は金縛り中にこのような恐怖体験をすることは全くない。それどころか「体外離脱」という大変楽しい事もできるようになった。金縛りが心霊現象ではなく、睡眠中によくある生理現象だと理解しているため、金縛りに対する恐怖心がなくなり、恐怖心に反応した幻覚が現れなくなったのだ。

金縛りはレム睡眠中に意識だけが覚醒した状態なので、それ自体に害があるわけではない。金縛りに対し恐怖心を感じるか否かで幻覚の内容が変わり、恐怖の金縛り体験になったり、楽しい体外離脱体験になったりするのである。

ウチの掲示板の書き込みには、体外離脱するために「どうすれば金縛りになれますか?」という質問も多い。世の中には金縛りになりたくてもなれない人がたくさんいる。頻繁に金縛りになる人は、いつまでも「怖い」「苦しい」などと嘆いていないで、自分が素晴らしい体外離脱の才能を持っていることに早く気付いていただきたい。

あなたが金縛りに対する恐怖心を捨てた時、そこには素晴らしく楽しい体外離脱の世界が待っているのだ!(詳しくは楽しい体外離脱本編で…)

…補足…

金縛り中に何者かの声が聞こえる…という「幻聴」についての説明は省いたが、コレももちろん恐怖心により自分自身が作り出したモノである。

74. 中川隆[-13527] koaQ7Jey 2018年10月02日 05:10:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18949] 報告

超簡単!超使える!実践体脱法
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/rhou.htm#karadagaomoku

私の体脱の基本は金縛りである。金縛り中に体験する五感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)を伴う幻覚(明晰夢)こそが体外離脱という現象だと考えているので、まずは金縛りになることが体脱の第一歩なのだ。

金縛りとは、レム睡眠中の骨格筋が弛緩した状態で、意識だけが目覚めた状態である

(詳しくは「もう金縛りなんて怖くない!金縛り克服法」に)。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/kanasi.htm


簡単に言うと「身体は眠っているが意識だけ目覚めた」状態だ。

金縛りになるということは、この状態を睡眠中の偶然ではなく、身体と意識のコントロールによって、自分の意志で作り出すということである。


 


初級編 金縛りになるための工夫

夏の蒸し暑い夜、寝苦しくてふと目覚めると金縛りになっていて、目を開けるとそこに血みどろの女性の姿が…。なんて怪談をよく聞くが、タダの怪談とバカにすることなかれ! ここに金縛りになるためのヒントがあるのだ。
金縛りは極めて浅い睡眠状態のときに生じる生理現象である。“寝苦しい夜”というのは怪談によくある定型句だが、寝苦しいと眠りは浅くなり、「身体は眠っているが意識だけ目覚めた」状態になりやすくなる。つまり、寝苦しい状況というのは、それだけ金縛りになりやすい状況でもあるのだ。

すなわち、金縛りになりたいのであれば、怪談のような寝苦しい状況を作り出し、眠りを浅くするための工夫をすればいいのである。

昼寝をする 難易度★ 効果★★★

眠りを浅くする最も簡単な方法が昼寝だ。
昼寝をすることで夜の眠りが浅くなり金縛りになりやすくなる。また、昼寝そのものが浅い眠りになりやすく、昼寝時に金縛ることも多い。

ウチの掲示板でも、昼寝時または昼寝後の就寝時における体脱体験が非常に多く報告されている。

静かで真っ暗な場所でひたすら寝る 難易度★ 効果★★★★

金縛りの基本は、とにかく浅い睡眠状態を作り出すことである。よって長時間ダラダラと眠り続けるのも大変有効である。
ただし周りは静かで真っ暗な環境が望ましい。物音や明るい光は浅い眠りを妨げ、完全な覚醒を呼び起こしてしまう。

私の経験では、静かで真っ暗な場所で10時間以上眠ると、しばしば寝ているのか起きているのか判らない状態に陥り、身体感覚(五感)や時間の感覚が消失し、非常に金縛りやすくなる。

俯せ(うつぶせ)で寝る 難易度 ★★ 効果 ★★

眠るときの姿勢も睡眠の深さに影響する。寝苦しいほど重い布団をかぶったり、寝苦しい不自然な姿勢で眠れば睡眠は浅くなる。
私の場合、俯せで眠ると非常に高い確率で金縛りになる。私にとって俯せは、かなり寝苦しい姿勢なのだ。人によっては、仰向けや横向きの方が寝苦しいかもしれない。

重要なのは普段とは違う姿勢で眠ることだ。いろんな姿勢で試してみよう。ただし、寝苦しすぎると長時間の体外離脱ができないうえに、時には金縛りがキツすぎて体脱できないこともある。

小さくて伸縮性のない寝衣を着る 難易度 ★ 効果 ★★★

止めたボタンが弾けそう…なんて小さなサイズの寝衣を着ていると、当然胸が締め付けられ寝苦しくなる。
特に伸縮性のない素材の寝衣だと、寝返りを打つたびに布地が引きつり、身体を圧迫し、眠りを浅くする。

私は中学生のころ、成長期で小さくなった寝衣による毎日の金縛り攻撃にかなり悩まされたものだ(寝衣を大きなモノに変えるとピタリと止んだ)。

現在も、偶発的に遭遇する私の金縛り体験の40〜50%は、寝衣の不具合(不快感)によるものと思われる。

メザマシ時計を鳴らす 難易度 ★★ 効果 ★★★

メザマシを鳴らし、強引に浅い睡眠状態を作り出す。
金縛りはレム睡眠中に「意識だけ目覚めた」状態なので、メザマシも、レム睡眠の周期である1時間半の倍数時(3時間後や4時間30分後など)に鳴らすと効果的だ。

手で目覚ましを止めると、覚醒度が上がり過ぎてしまう可能性があるので、一定の時間アラームが鳴った後、自動的に切れるようにすれば尚良し。

私のお薦めは3時間後。

耳栓をする 難易度 ★ 効果 ★★

眠りを浅くするためのモノではないが、耳詮をして聴覚を遮断するのも効果的だ。感覚遮断が幻覚を誘発するのはよく知られていることである。
たとえば、幻覚を見たり体脱をするためによく使用されるアイソレーションタンクも、感覚を遮断するための装置だ。私も耳詮をして聴覚を遮断すると、かなり体脱しやすいコンディションになる。

ただし、市販されているスポンジタイプの耳栓だと、けっこう耳の中が痛くなるのが難点ではある。


ワンポイントアドバイス

◆ 眠りの海深く潜り 覚醒寸前まで浮上せよ!


金縛りになったことのある人なら誰でも、入眠直後うつらうつらしながら何度か瞬間的に意識を消失した後、「ハッ」と気が付くと金縛りになっていたという経験があるはずだ。
すなわち、金縛りになりたいのであれば、うつらうつらしながら瞬間的に意識を消失するということを意識的に何度も繰り返せば、金縛りになりやすいというわけである。

イメージとしては、眠りの海に素早く深く潜り、一瞬意識を消失した後、また素早く覚醒寸前まで浮上し、意識を回復する、といったところだ。完全に覚醒するところまで浮上しないのがミソ!


Q&A
金縛りになったけど全く身動きできません
どうやって体脱するの?

金縛りになっても、慣れないうちは、ついつい現実の身体を動かそうとしてしまい、身動きできないことが多いです。

そんな時は、比較的動かしやすい手の先から動かします。現実の手はまったく動いていないのに、幻覚の手が動いているという感覚を実感できるはずです。そうして、手の先から腕、肩、上半身と、順に動かしてゆけば全身を体脱することができます。

また、幻覚の手が動くのであれば、手の届く範囲にある柱やタンスのヘリ、テーブルの脚などを掴んで引っ張れば、幻覚の身体が掴んだモノの方へ引き寄せられて体脱することができます。寝返りを打つように横に転がって体脱するのも効果的です

(ローリング法)。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/dai_ra.htm#rollinghou


そして、これが最も重要なことですが、「身体が動かない」「動きにくい」「金縛りがキツい」と感じているときは、無理に身体を動かそうとしないで、「そのまま眠るぐらいの気持ちでリラックスする」のが基本です。ホンの2〜3秒リラックスするだけで、たいてい幻覚の身体を楽々動かせるようになります。ただし、リラックスしすぎるとホントにそのまま眠ってしまうので注意!
 

 

中級編 覚醒度のコントロール

初級編では、身体を寝苦しい状況に置いて眠りを浅くするという、身体感覚に主眼を置いた方法の紹介だったが、中級編では“意識”に主眼を置き、自分の意志の力で覚醒度をコントロールする方法を紹介する。

数かぞえ法 難易度★★ 効果★★★

目を閉じ、呼吸に合わせて「い〜ち〜(1)、に〜い〜(2)、さ〜ん〜(3)…」と頭の中で数を数える。「い〜」の時に息を吸い、「ち〜」の時に息を吐く、ということを繰り返す。10以降は「じゅ〜う」で息を吸い、「い〜ち〜」で吐く。
私の場合、覚醒度の低い時は20〜30、高い時でも60〜70ほど数えれば、いつのまにか数を数えることや、呼吸をしていることを忘れ、幻視(夢)を見ていることに気付く。瞬間的な意識の消失を何度も繰り返すことで、金縛りになったり、あるいはそのまま明晰夢の世界に突入することができる。

できるだけ、数をかぞえていることや、呼吸をしている感覚を忘れるように自分の意識を持って行くのがポイントだ。

イメージのしりとり 難易度 ★★★ 効果 ★★★★

目を閉じ、そのまま眠るぐらいの気持ちでリラックスしていると、その日の出来事の1シーンが急に頭の中に浮かんだり、何の脈絡もない人物や風景などのイメージがチラチラと頭の中に現れては消えるようになる。イメージは、覚醒度が下がれば下がるほど現れる頻度が増して鮮明になり夢っぽくなってゆく。
これらのイメージが現れ始めると、それはあと少しで眠りへ落ちてしまうという合図でもある。ここで何もしなければそのまま眠ってしまうが、自分の意志で、ある程度イメージをコントロールすることで、眠りに落ちることなく金縛りを誘発することができるのだ。

イメージが現れ始めたら、風景、人の顔、映画の1シーン、何でもいいから視覚的に思い出せるモノを、頭の中で細部に至るまで克明にイメージする。たとえば、ふと「学校」のイメージが現れたとしよう。ならば「学校」から連想するモノを、しりとりのように瞬時にイメージして行くのである。「学校」→「教室」→「机」→「教科書」→「教科書の中に出てきた福沢諭吉」……と、こんな感じだ。

ただしこのとき注意しなければならないのは、イメージするモノは必ず視覚イメージでなければならないということだ。言葉で「がっこう」→「きょうしつ」と思い浮かべてはいけない。言葉で思い浮かべると一気に覚醒してイメージが消失してしまうからだ。

イメージしたモノすべてが鮮明に現れるわけではないが、調子がよい時は、いつかどこかで見たようなモノや風景や人物などが鮮明な「幻視」となって現れる。こうして現れた幻視に注意をはらい、ある程度イメージをコントロールすることで眠りに落ちるのを防ぎ、金縛りになることができるのだ。

また、金縛ることなく、直接幻視(夢)の世界に突入することも多い(明晰夢)。

夢を見たらすぐ記録する 難易度 ★★ 効果 ★★★★

睡眠中、夢を見て目覚めたら、すぐに枕元の紙などに夢の内容を簡単に記入する。
普段から夢の内容をすぐに記入する癖をつけていると、目覚めて紙に書いたつもりで、じつは体脱中の幻覚の中で書いていた…ということがよくあるのだ。

また、夢を記入する前に、夢の内容を視覚的に思い出していると、「イメージのしりとり」と同じ効果が働き、そのまま金縛りになったり、幻視(夢)の世界に突入することがある。


ワンポイントアドバイス

◆ 金縛りの予兆振動を増幅せよ!


金縛りになる直前には、たいていその予兆が感じられるものである。最も一般的なのが身体に感じる振動だ。まるで弱い地震に揺られているような振動が身体に感じられると、あと少しで金縛りになるという合図である。
しかし、ここからが非常に難しい…。この振動が、さらに強く速くなれば、そのまま金縛りへと移行できるのだが、たいていの振動は微弱で、すぐに消えてしまう。

では、振動を強く速く増幅するためには、どうすればいいのか?

基本は、ここでも“そのまま眠るぐらいの気持ちでリラックス”である。リラックスして覚醒度を下げることができれば、振動は増幅され、金縛りへと移行できるのだ。

振動を感じると、ついつい「体脱しなければ!」と焦ってしまい、覚醒度を上昇させてしまいがちであるが、ここでは焦ることなく、冷静にリラックスすることが重要だ。

しかしながら、“そのまま眠るぐらいの気持ちでリラックス”というのも、これはコレで非常に難しいことである。慣れないと、頭の中で「リラックス、リラックス」などと唱えてしまい、実際にはリラックスするどころか、覚醒度が上昇し、完全に目覚めてしまったりする。

そこで、リラックスするのに最適なのが、前述した“イメージのしりとり”である。寝る前に、「振動を感じたらイメージのしりとりをする!」と決めておけば、焦ることなく冷静にリラックスし、振動を増幅できるはずだ。

慣れれば、たとえ微弱な振動であっても、そこから振動を増幅し、金縛りまで持ち込むことが容易になる。金縛りの予兆の感じ方は人によって様々で、振動だけでなく、「痺れた感じ」や「熱い感じ」、「浮いた感じ」などもあるが、予兆を感じたらソレを増幅するというプロセスは同じだ。

また、同じことをするにしても、入眠時ではなく、ふと目覚めた直後の出眠時に行えば、より効果的である(理由は↓)。


Q&A
入眠時と出眠時のどちらが体脱しやすいですか?

寝入りッパナの入眠時か、入眠後何時間かした後にふと目覚めた出眠時か、どちらが体脱しやすいのかといえば、それは間違いなく出眠時です。

初級編で説明したように、金縛りの基本を「瞬間的に意識を消失する(眠る)ことを繰り返す」こととしているのは、瞬間的にでも眠ることで、身体だけを眠らせ骨格筋の弛緩を促すためです。

しかし、入眠時にそれをしても、睡魔に負けて眠りに落ちやすいし、また骨格筋もなかなか弛緩してくれません。入眠時の身体というのは、始動直後でエンジンの暖まっていないクルマのフケが悪いのと同じで、まだまだ骨格筋が弛緩しにくいという感じなのです。

だったら、一度グッスリ眠り、強制的に骨格筋を弛緩させるのも一つの手段です。瞬間的に眠るのもグッスリ眠るのも、骨格筋を弛緩させるという目的と効果は同じです。だとすれば、普通に眠る方が断然簡単です。

そしてグッスリ眠った後の出眠直後は、まだ身体が完全に目覚めた状態ではなく、すでに骨格筋が弛緩しているか、あるいは骨格筋が弛緩しやすくなっています。そこで中級編で紹介した方法などを試みると、入眠時より遥かに容易に金縛ることができるのです。
 

 

上級編 体脱フリー状態をキャッチする

意図的に金縛りを作り出そうとするならば、初級、中級編で説明したように、寝苦しい状況に身を置いたり、意識的に覚醒度をコントロールしたり、といった方法が必要である。
しかし、そんな苦労もなく簡単に体脱できる方法がある。それは、金縛りを作り出すのではなく、金縛りになっていることに“気付く”ことだ。

金縛りとは、レム睡眠中の骨格筋が弛緩した状態で、意識だけが目覚めた状態である。言い換えるならば、レム睡眠中は誰でも意識のない金縛りになっているということだ。レム睡眠は入眠後約一時間半周期で訪れるので、毎日6時間寝る人なら、毎日4回は気付かないうちに金縛りになっているというわけだ。

つまり、金縛りを意図して作り出さなくても、レム睡眠中は誰でも金縛りになっているわけだから、そのことに気付いて体脱を試みさえすれば、体脱することができるのである。

また、その場合の体脱は、身体が動かないという金縛り特有の症状もほとんどなく、いともたやすく体脱できてしまう。よって私はこの状態を金縛りと区別して、体脱フリー状態と呼ぶことも多い。

もちろん、通常は意識のないレム睡眠中に、自分がレム睡眠の最中で、骨格筋が弛緩した金縛り状態であることに気付くのは大変難しいことだが、慣れてしまえば、これから紹介する体脱法が一番楽チンだ。

寝返る前に体脱する 難易度★★★★★ 効果★★★★

睡眠中、お年寄りや病気の人でもない限り、最初から最後まで全く同じ姿勢で寝ている人はいない。通常は何度か寝返りを打ち、そのたびに姿勢を変えるものである。
以前の私は、寝返りは無意識のうちに打っているものと思っていたが、最近の私は、じつは目覚めたときに覚えていないだけで、寝返りを打つ瞬間は、結構意識があることに気付いた。

寝返りを打つ直前というのは、寝ている最中、ずっと同じ姿勢を続けていたために身体の下になっている部分に痛みを生じ、寝苦しくなっていることが多い。よってその痛みを取り除くため、姿勢を変えようとする意識が働く。

そして、「あ〜…寝苦しいな…姿勢を変えなきゃ…」とふと思ったとき、ついでに「そうだ体脱しなければ!」と想起することができれば、ほとんどの場合、なんの苦もなく体脱できるのである。

想起できずに寝返れば、体脱フリー状態は解除され、体脱は失敗となる。

呼吸オートモードをキャッチする 難易度 ★★★★ 効果 ★★★★★

睡眠中には、寝ているのか起きているのか判らないような、うつらうつらした状態になっていることが多々ある。
じつはそんなとき、知らないうちに体脱フリー状態になっていることも多いのだが、体脱フリー状態は金縛りのように身体が動かない感覚もないので、気付かないでそのまま眠ってしまうことが多い。

そこで、自分が体脱フリー状態になっていることを、いち早く気付く方法が必要になってくる。それが、「呼吸オートモードをキャッチする」ことだ。

金縛りの特徴の一つに、身体が動かないだけでなく、呼吸が自分の意志で制御できないということがある。心臓の鼓動が自分の意志とは関係なく勝手に行なわれているのと同じで、呼吸も自律神経によって制御され、意識しなくても勝手に行なわれるのである。

そうなると、自分の意志で息を吸ったり吐いたりといったことはできなくなり、「オレの胸が勝手に呼吸をしてやがる…」といった状態になる。この状態こそが「呼吸オートモード」で、こうなれば、いつでも体脱OKだ。

金縛りの自覚もなく、自分はハッキリ目覚めていると感じているときでも、意外に「呼吸オートモード」になっていることはよくある。普段から、ちょっとでも覚醒度が下がった状態になれば、呼吸のチェックを行う癖をつけよう。そうすれば、体脱の回数もグンと増えるはずだ。


ワンポイントアドバイス

◆ 少しでも意識のあるときは体脱フリー状態を疑え!


睡眠中、少しでも目覚めているという自覚があったときは、まずは体脱フリー状態であることを疑い、とにもかくにも体脱を試みよう。「夢ごこち」「なんだか気持ちがいい」「とてつもなく眠い」「浮いた感じがする」なんてときは、体脱フリー状態である可能性が非常に高いゾ!


Q&A
体外離脱と明晰夢は何が違うの?

当サイトの

「脳内〜体験記」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/n_0000.htm

「たのたい掲示板」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/rh_tou.htm

では、便宜上、金縛りや体脱フリー状態から身体を抜けたような感覚がある体験を「体外離脱」、夢の中で「これは夢だ」と気付いた体験を「明晰夢」と区別していますが、基本的には、どちらも浅い睡眠時に生じる五感を伴うリアルな幻覚であり、全く同じ現象だと解釈しています。

夢の中で夢を自覚する方法は?

これもよく尋かれるのですが、私の中で「方法」と呼べるようなモノはまだ見つかっていません。私も何かしらの方法によって夢を自覚できるようになったというわけではなく、金縛り経由の明晰夢(体脱)を何度も何度も経験しているうちに、その感覚をカラダで覚え、夢の世界でも「あっ!コレいつもの体脱の感覚だ!」と、感覚的に解るようになったという感じです。

というわけで、今の私としては、とりあえず金縛りや体脱フリー状態経由の明晰夢をたくさん経験すれば、その感覚をカラダで覚え、夢の自覚も自然に出来るようになりますよ…としか言えないですね。
 

 

よく知られる一般的な体脱法

MILD(明晰夢誘導法)

明晰夢研究の世界的権威、スティーヴン・ラバージ氏の著書「明晰夢」(春秋社)の中に記載されている明晰夢を誘発するための方法。

1 早朝、自然に夢から覚めたら、記憶するまで何度も夢を思い返してたどる。
 
2 次に、ベッドに横になったまま眠りへと戻りながら、「次に夢を見るとき、私は、自分が夢を見ていると認識することを思い出したい」と自分に言い聞かせる。
 
3 リハーサルとして、夢の中に戻ったときの自分自身を視覚化する。ただし今度は、実際に夢を見ていると認識している自分を想像する。
 
4 自分の意図がはっきりしたと感じるか、寝入ってしまうまで、2と3の手順を繰り返す。

手を見るクセをつける

普段から頻繁に手を見ては「これは夢か?」と疑う癖をつけていれば、夢の中でも手を見て「これは夢か?」と疑うようになり、明晰夢化に役立つ。
夢見術関連の著書を数多く持つカルロス・カスタネダ氏の提唱。

 

体脱中のテクニック

視界が暗くてよく見えないとき
 

体脱したものの、視覚が働かず、真っ暗(あるいは真っ白)でよく見えない…というのは、よくあることだ。そんな時は、見えないことは気にしないで、とりあえず、部屋の外に出るなり、家の外に出るなりして、テキトーに移動しよう。たいていは、しばらくすると自然に視覚が鮮明になってくる。
視覚が働かないといっても、周囲の状況は微かに見える(感じる)はずなので、移動するのはそんなに怖くはないはずだ。

また、扉を開けたり、家の外に出たり、といった行動の節目節目で、突然視界が鮮明になることもよくあるので、できるだけ積極的に移動するようにしよう。

何も見えないと、目を開けようとしたり、もっとよく見ようと目を凝らしたりしたいところだが、それをすると、現実の目が開いて目覚めてしまったり、覚醒度が上昇して目覚めてしまったりする可能性が高いので、これはやめよう。

“目で見る”のではなく、空想したり記憶を思い出すときのように、頭の中に周囲の光景を思い描くような感じで視覚を“感じる”ことができれば、次第に視界は鮮明になり、長時間の体脱に耐えられる安定した視界になるはずだ。

カラダが重く、自由に動かせないとき

体脱したものの、カラダが重く、自由に動かせない…というのは、よくあることだ。そんな時は、カラダの一部をチラリと見よう。
やはり、一番見やすいのは“手”だ。たいていは、手をチラリと見るだけで、全身が自由に動くようになる。全身が自由にならないときは、胴や足も眺めよう。

ちなみに、あまり長時間見つめていると、覚醒度が上昇し目覚めてしまうので、チラリと見るぐらいがベストである。

カラダが自由に動かない状態とは、幻体(体脱中のカラダ)と現実体(寝ている現実のカラダ)の、両方の身体感覚が同時に現れている状態である。脳が、幻体と現実体のどちらの身体感覚を優先したらよいか迷っているという感じだ。そこで、目の前に“手”を示してやることで、脳は目の前にある幻視の手を本物と判断し、手の身体感覚及び運動感覚を、見えている位置にセットし直すのだと私は推測している。

関連ページ 「超B級体験記」より 幻肢&深層記憶

空を自由に飛ぶ方法

空中に飛び出したものの、そのまま落下したり、上手く上昇できなかったり、飛行距離が短かったり…というのは、よくあることだ。なぜ上手く飛べないのか…、それは、我々が何の推進力もなしに、カラダ一つで空を飛ぶというイメージを持っていないからだと思われる。
たとえば、地上を歩くのなら、“足を動かす”“手を振る”というように具体的に何をしたらいいかが明確であるが、“飛行”に関しては実体験がないだけに、何をしたら前に進み、どうしたら上昇できるのか、というようなイメージが皆無である。 よって、上手く飛行するためには、飛行に適した強力なイメージが必要なのだ。

すぐに落下してしまう人は、イキナリ高いところから飛び立たないで、まずはその場に浮いてみよう。高い場所は、体脱に慣れた人でも結構怖いモノである。その場で浮いてみて、自分は「浮けるのだ!」という確証と自信を得た後で、ゆっくり飛び立とう。

上手く上昇できない人は、普段から「これなら絶対飛べる!」と思えるイメージを反復して、体脱中にすぐに思いだし、使えるようにしよう。

たとえば、当サイトの掲示板の書き込みで多いのは、ウルトラマンやスーパーマンなどの超人タイプの飛行イメージだ。子供の頃から見慣れた超人たちと同じポーズで飛行をすると、自由に飛べるという人は多い。あと、箒に乗って飛ぶという人や、足の裏からジェットを出す人、リレーで使うバトンを持って飛ぶ人(理由は不明…)、などなど、人によって、いろんな飛び方、いろんなイメージがある。

要は、どんなイメージでもいいので、自分に適したイメージを見つけることが大事なのだ。

ちなみに私は、ほとんどの場合がグライダーのような風に乗った飛び方で、あまりスピードは出ないし、急上昇も得意でない。足裏ジェットも試してみたが、残念ながらジェットは出なかった…。しかし、だからといって、私は飛行を苦手にしているわけでもない。最近、得意としている飛び方があるからだ。

それは、「あそこまで飛ぶ!」と目標(目的地)を定めて飛ぶことだ。

目標を定めて飛ぶと、その目標がどんなに遠くても、どんなに高い場所でも、たいていは目標の場所に到達することができる。おそらくは、目標の場所を設定することで、飛行ルートや高度、飛行スピードなどが、イメージしやすくなるからだと思われる。

飛行が苦手な人は、ぜひこの方法を試してみよう。

関連ページ 「楽しい体外離脱」より 空を飛ぶ

覚醒防止法

(1) 何もしない
目覚めを防ぐために最も重要なことは、覚醒度を上げないことだ。体脱(明晰夢)はとても楽しいし、何でもできる。しかし、何かをすれば、五感と意識が活性化されるので、必ず覚醒度は上昇して行く。何かをよく見ようとすれば覚醒度UP! 何かを触れば覚醒度UP! 何かを食べれば覚醒度UP!…というように、体脱中の行為はすべて覚醒度UPとなり、その行きつく先は目覚めしかない。

では、覚醒度を上げないためにはどうすればヨイのか。

基本は、“何もしないこと”だ。

体脱しても、何も見ない、何も触らない、何も食べない…というように、体脱中は、できるだけ五感を働かせないことだ。そして、意識を活性化させないよう、思考もあまり働かせず、そのまま眠るぐらいの気持ちでボ〜ッとしていよう。

もちろん、それではせっかくの体脱がちっとも面白くないので、五感は「ここぞ!」という時に使うことが重要である。

体脱初心者であれば、体脱して寝室を見たり触ったりするだけでも満足かもしれないが、ある程度体脱に慣れた人間なら、体脱中の目的や目標があるはずだ。

ならば、体脱しても寝室などには注意を払わず、さっさと外に出よう。移動の際も、周囲の光景を見るのではなく、流れ行く光景を無心で受け流し、目的や目標を発見できたときのみ、思考を活性化させ、五感をフルに使おう。

五感をフルに使えば目覚めは必至だが、それまでに覚醒度の上昇を押さえておけば、ある程度の時間は稼げるので、目的は果たせるはずだ。

(2) 手を見る

目覚めが近付くと、体脱中でも現実体の感覚をチラホラ感じるようになり、目覚めが近いことがわかる。また、そうなると、幻体が動きにくくなることも多い。そんなときは“手を見る”のがお薦めだ。基本的には、カラダが重く、自由に動かせないときに手を見るのと同じ原理で、現実体に戻りかけた身体感覚を、幻体に戻す効果がある。

(3) コマのように回転する

明晰夢研究の第一人者であるスティーヴン・ラバージ氏は、目覚めを防ぐ方法として、夢の中で身体が前後や左右にコマのように回転させるとよいという。こうすることで、夢を見る「レム睡眠」を引き起こす前庭系が刺激されるので、再び「レム睡眠」に戻る事が出来ると考えられている。

参考文献 特命リサーチ200Xより 確実に見たい夢を見る方法を調査せよ!2

 

投稿された体脱法&体脱法リンク

● たのたい掲示板に投稿された体脱法
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/rh_tou.htm

● 体脱法リンク


体外離脱訓練日誌
体外離脱に真摯に取り組む作者の訓練日誌。体脱中の情景と心理を冷静かつ客観的に描写した日誌は、先入観や思い込みのない大変信頼性の高い体験談となっている。HP内に非常に優れた体脱法あり。

75. 中川隆[-13385] koaQ7Jey 2018年10月22日 07:22:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19450] 報告

右脳側のひらめき部位(けつ前部)大きいほど幸福感? 京大で解明 
2015-11-21

面白い研究が発表されました。幸福感を感じる人は所持しているお金や廻りの人、環境ではなく特定の右脳の部位「楔前部(けつぜんぶ)」が大きいことが分かったのです。物質がいくら恵まれていても右脳の楔前部(けつぜんぶ)が発達していない人は幸福感はないのです。お金持ちや見た目の幸福≒幸福ではないことが科学的に証明されようとしています。

又理化学研究所で将棋のプロ棋士を使った別の研究では「大脳皮質頭頂葉の楔前部(けつぜんぶ)」は「大脳基底核の尾状核」とともに第6感を司る重要な役割をしているようです。人間の幸福や第6感を使い危機を逃れる「楔前部(けつぜんぶ)」をいかに大きくするのか解明される時代が訪れるのかもしれません。化学的にも人間本当に大切なものは体や物ではなく心のようです。

ピンク色の右側半分が「幸福感をもたらす」楔前部(けつぜんぶ)

https://blog.goo.ne.jp/fukue0604/e/2bf42f77ae81d07f2c593ffb09d07e54

以下コピー1 

第六感を直感として科学的に研究する試みは、理化学研究所と富士通の合同プロジェクトである「将棋棋士の直観の脳科学的研究」が最新のデータを提供してくれている。

このプロジェクトは、プロの棋士が「次の1手」をひらめく瞬間を脳科学的にとらえようとする試みである。

そこでMRI装置内に入った将棋の棋士が、詰め将棋の問題や必至問題の盤面を解くときの脳活動を測定し、プロ棋士とアマチュア棋士で比較している。
その結果、プロ棋士の脳で特異的に活動する2個所の領域が特定できたとしている。

その箇所とは、「大脳皮質頭頂葉の楔前部(けつぜんぶ)」と「大脳基底核の尾状核」であると発表している。

前者の「大脳皮質頭頂葉の楔前部(けつぜんぶ)」は、将棋盤面を見て瞬時に駒組を認識するときに活動する部位である。

つまり、直観をお膳立てする前段階の準備の際に活動する。
そしてこの部位が活動したその直後、時間にしておよそ「0.01秒」ほどのスピードで、「大脳基底核の尾状核」部位で直観が発生しているという結果になっているのである。

以下コピー2 

幸福を強く感じる人ほど右脳の特定部位が大きいことを、京都大医学研究科の佐藤弥准教授らが突き止めた。幸福感と脳の構造の相関を解明したのは初めて。英科学誌に20日発表した。

 心理学では幸福感の強さを質問用紙で数値的に計測できるとされる。佐藤准教授らは、質問結果と磁気共鳴画像装置(MRI)で測定した脳の各部位の体積で相関を調べた。

 10〜30代の男女51人で実施。質問用紙を使い、幸福感について尋ねた。質問への回答を数値化し、各人の脳の各部位の体積と比べた結果、幸福感が強い人ほど右脳の内側にある「楔前部(けつぜんぶ)」が大きいと分かった。

 また、快・不快と人生の意味についても質問し、回答を数値化すると、同様に楔前部(けつぜんぶ)の体積と相関していた。快・不快と人生の意味の感じ方は幸福感と関わりがあるという心理学の知見を脳科学で裏付けた。

 楔前部は左右の大脳半球にある。右側の体積だけ大きかった理由は、右脳が感情を担うとする説と関連する可能性があるという。佐藤准教授は「幸せの意味は古代の哲学者以来、考えられてきた。脳科学的な視点で幸福の一端を解明できた」と話す
https://blog.goo.ne.jp/fukue0604/e/2bf42f77ae81d07f2c593ffb09d07e54

76. 中川隆[-13376] koaQ7Jey 2018年10月30日 07:34:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19687] 報告

向こうの世界を垣間見るには音楽と酒・麻薬が必要

クラシックの作曲家はアル中、ジャズ・ロックのミュージシャンは全員麻薬中毒


信じがたい数の「偉大な作曲家」が飲んだくれだった
https://gigazine.net/news/20161225-great-composer-was-drunk/

「Mozart and Liszt(モーツァルトとリスト)」あるいは「Brahms and Liszt(ブラームスとリスト)」という言葉は、英語圏では「酔っぱらい」の意味で使われます。この言葉通り、表だっては語られないものの、現代において「偉大だ」と言われている作曲家の多くが飲んだくれであり、誰がどう飲んだくれていたのかや醜態の様子がThe Spectatorに記されています。

A surprising number of great composers were fond of the bottle – but can you hear it?
http://www.spectator.co.uk/2016/12/a-surprising-number-of-great-composers-were-fond-of-the-bottle-but-can-you-hear-it/

「偉大な作曲家たちは飲んだくれだった」という話はあまり聞きませんが、ある時、ジャーナリストのダミアン・トンプソン氏は作家のオリバー・ヒルムズ氏の書いたリストに関する文書を読んでいたところ、「晩年のフランツ・リストのぞっとするような酔っぱらいエピソード」を目にしたとのこと。このことから作曲家たちの飲酒癖に興味を持ったヒルムズ氏は調査を開始。調べてみたところリストのバイオグラフィーは音楽学者のアラン・ウォーカー氏なども書いているのですが、ウォーカー氏の著作にはリストの飲酒癖について書かれていません。ウォーカー氏はリストが1日1瓶のコニャック、あるいは1日2本のワインを飲んでいたことを認めていますが、リストがアルコール中毒だっとは考えていない様子。一方で、リストの弟子であるフェリックス・ワインガルトナーはリストについて「確実にアル中」と述べていたそうです。

ブラームスは、売春宿やパブでピアノをよく演奏していました。多くの記事ではブラームスが売春宿などで演奏していた理由について「お金のため」と書かれていますが、実際には、売春婦にとって魅力的なブラームスは、サービスを利用することも多々あったようです。そして、あるパーティーにおけるブラームスの素行について、「酔った彼は、全ての女性たちに衝撃的な言葉を浴びせて、場をめちゃくちゃにした」という言葉も残されています。


by Joseph Morris

上記の2つから見るに、「ブラームスとリスト」という言葉は、意味のない比喩ではななく、史実を踏まえて作られたと言えそうです。

酔っぱらいエピソードが残されているのは、リストやブラームスだけに留まりません。シューベルトは若い頃からお酒を好み、「品行方正な家族のプライベートな宴会に招かれた時の嘆かわしく恥ずべき振る舞い」が複数の文書に記録されています。またベートーベンもシューベルトと同じような感じで、街路をふらふらとした足取りで歩いていたことが記録されています。また、シューマンは1830年に行われたドイツ南西部にあるハイデルベルクのカーニバルで「ラムの飲み過ぎで意識が混乱し道ばたで転倒、宿の女主人のスカートの下をまさぐる」という素行が確認されているとのこと。

このほか、モーツァルト、ヘンデル、ムソルグスキー、チャイコフスキー、シベリウスというそうそうたる面々が「酔っぱらいリスト」に入っていますが、バッハについては「飲んだくれていた」という報告がありません。ただ、2週間の旅路で支払ったビール代金がビール8ガロン(30リットル)分に相当するのでは?という指摘がされています。ベルリオーズとワーグナーはアルコールよりもアヘンを好んでいたようです。

作曲家たちの音楽にアルコールの影響を見いだすことができるかどうかは難しいところですが、ムソルグスキーの「死の歌と踊り」はアルコール中毒に苦しむ中で書かれた曲であり、作曲家の置かれた状況が不穏なハーモニーに反映されていると言えるとのこと。また、酔っ払った状態で正確な作曲活動を行うのは難しいため、シベリウスは人生の最後の30年において曲を完成させることがありませんでした。


by Brandon Giesbrecht

しかし一方で、聴覚を失い最悪の二日酔いに悩まされながらも、ベートーベンは言葉では言い表せないほどに荘厳な楽曲を創り上げました。ベートーベンはベッドで死の淵にいながらも、ドイツのラインランド州から送られてくるワインを楽しみにしていたのですが、ワインが到着して来た時にはほとんど意識がなく、ベートーベンは「なんて残念だ。遅すぎた」とささやき意識を失ったそうです。

一方のブラームスは、死の直前までお酒を楽しむことができました。ブラームスは何とかワインの入ったグラスを口元に持っていき、「おいしい」という言葉を残して亡くなったとのことです。
https://gigazine.net/news/20161225-great-composer-was-drunk/

因みに、クラシックの作曲家の殆どはアル中でしたが
ジャズやロックのミュージシャンはアル中ではなく麻薬中毒でした。


ジャズやロックは元々、マリファナや覚醒剤とセットになっているんです。
ジョン・レノンやポール・マッカートニーも重度の麻薬中毒者でした:

射殺、転落死…薬物に溺れた「ジャズの巨人」たちの悲劇 2016.03.08

 日本でも芸能界、スポーツ界のスーパースターたちの薬物汚染のニュースが世間を賑わせているが、そんなのはまだまだ「超絶甘い!!」といいたくなるような人々がいた。“ジャズの巨人”たちである!

 ジャズ界のスーパープレイヤーたちの歴史を紐解けば、ドラッグに溺れに溺れたとんでもない巨人たちがワンサと登場してくるのだ! いやもうその状況は『ジャズの巨人』というよりも『シャブの巨人』といってもいいくらいの壮絶なラインナップ!!

 しかも、彼らは決してドラッグの力で音楽を創造していたわけでもなんでもない。ほとんどのミュージシャンが、栄光の後にドラッグの泥沼に引きずり込まれ、往年のプレイは影をひそめ、あまりにも悲惨な結末を迎えている。

 以下、小学館の隔週刊CD付きマガジン『ジャズの巨人』に記されている、そんな彼らの生きざまである。

 あまりにもクスリをやり過ぎるので、あのジョン・コルトレーンがマイルス・デイヴィス・グループをクビになったのはつとに有名な話。そもそも当のマイルスもクスリで複数回逮捕されており、そのマイルスにクスリでクビにされるって、どんだけ大量にやってんだよ、って話。

“モダンジャズ創造主”といわれたサックス奏者のチャーリー・パーカーは、ドラッグで精神錯乱を起こし、療養施設に入所しカムバックを目指すが、35才の若さで死去。

 夭折の天才トランペッター、リー・モーガンはドラック治療に1年を費やすも、34才で亡くなる。死因はなんと内縁の妻からの射殺だ! しかも楽屋で!! 更にその場には本妻もいた!!!

 アート・ペッバー。このアルトサックス奏者は、ドラッグ所持による逮捕と収監を何度となく繰り返し、しまいには体がボロボロになって脾臓破裂! どうにか一命は取り止めた後、3年にも及ぶ矯正施設でのリハビリを行い、奇跡的なカムバックを果たすが、56才の時に脳溢血死。

 一番とんでもないのは、トランペッターのチェット・ベッカー。母国アメリカでドラッグ所持で逮捕された後、レコーディングで訪れたイタリアでも逮捕。出所直後に今度はイギリスでも逮捕され国外退去。かと思いきや、ギャングに襲われトラッペッターの命ともいえる前歯を折られるトラブルにまで巻き込まれる。

 そして最終的には、58才でアムステルダムのホテルから転落死。それもホテルの2階からの転落である。もう一度書く。ただの2階からの転落で死亡!! どれだけ骨が、内臓が、そして全身が、それどころか精神までもがボロッボロだったかわかるようなエンディングである。

 薬物というものが、どれだけ恐ろしく人間を蝕んでいくかわかるような巨人たちの悲劇である。巨人に憧れた番長への警鐘でもある。
https://www.news-postseven.com/archives/20160308_392240.html?PAGE=1

そもそも、ジャズ・ロックは原始民族が集団でトランス状態に入る為に行う儀式で奏する音楽そのものです。

毒キノコ、マリファナや LSD の様な 幻覚剤を飲んで、音楽と踊りで異世界に入っていくのです。

77. 中川隆[-13503] koaQ7Jey 2018年11月07日 12:00:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20245] 報告


巫女(みこ/シャーマン)
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/


御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

◆【性文化史関係一覧リスト】
http://miracle-jiyoudan.com/seibunka_yougo.html

をご利用下さい。

この文章は、

小論・【遊女(女郎)の歴史】
http://miracle-jiyoudan.com/yuuzyonorekisi.html


の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/

78. 中川隆[-13798] koaQ7Jey 2018年12月12日 09:00:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22042] 報告

記憶の脳回路痕跡 マウスでついに発見! 平成26年3月17日

東京大学大学院薬学系研究科


1.発表者:
池谷裕二(東京大学大学院薬学系研究科 薬学専攻 准教授)

2.発表のポイント:

  ◆ニューロン(神経細胞)で抑制性シグナルに打ち勝つほどの大きな興奮性シグナルが受け取られることにより記憶は思い出される(再生される)ことが分かりました。

  ◆学習後のマウスの脳スライス標本を調べることで、記憶の痕跡がニューロン間の信号伝達の増強により脳回路に保存されていることを発見しました。

  ◆記憶が脳内でどのようにしてできるのかを理解することで、逆に、記憶ができない疾患ではどのような問題が生じているのかを解明でき、認知症治療の糸口を探ることができます。

3.発表概要:

 東京大学 大学院薬学系研究科の池谷裕二准教授らの研究グループは、脳回路の中の記憶にかかわるニューロンで、興奮性シグナルが増強することが、記憶痕跡の実態であることを証明しました。

 一度つくられた記憶は、その後ノンレム睡眠(注1)時に脳内で再生(リプレイ、注2)されることが知られています。しかし、どのような形で記憶痕跡が脳回路に埋め込まれ、脳がどのようにしてその記憶痕跡を再び取り出し再生するかは、いまだに知られていませんでした。

 池谷准教授らは、記憶にかかわったニューロンを、そうでないニューロンとは区別できる特殊な遺伝子改変マウスの標本を用いて、記憶に関わったニューロンが優先的に活動しやすくなることで記憶の再生が起こることを示しました。これまで、脳回路ではニューロンの興奮(アクセル)と抑制(ブレーキ)は広くバランスが取れていることが常識でした。しかし、記憶にかかわったニューロンは抑制性シグナルに打ち勝つほどの大きな興奮性シグナルを受け取ることで、記憶を再生させることが明らかになりました。さらに記憶は「LTP(注3)」によって脳回路に保存されていることも証明しました。

 本研究成果により、脳が極めて精細な興奮性調節に基づいて記憶を再生するという画期的な発見がもたらされ、記憶のメカニズムの解明に向けた大きな研究の進展が得られました。これは、脳が記憶を再生する仕組みに関するデカルト以来350年の謎を解決したのみならず(附論参照)、今後、認知症など記憶ができない疾患ではどのような問題が生じているのかを解明する手がかりとなることが期待されます。

 本研究成果は、2014年3月16日(米国時間)発行の米国科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」オンライン版に掲載されます。


4.発表内容: 

 <研究の背景と経緯>

脳は神経細胞(ニューロン)の集まりです。しかし、単にニューロンを集めれば脳が機能するわけではありません。どう集まるか、つまり、どう回路を作るかが重要です。「脳回路」に着目した研究は、必要であることは以前より認知されていたものの、過去ほとんど行われていませんでした。それは、これまで適切な実験手法がなかったためです。東京大学 大学院薬学系研究科の池谷裕二准教授らは「多ニューロン画像法(注4)」を開発し、改良することで、どのような形で記憶痕跡が脳回路に埋め込まれ、脳がどのようにしてその記憶痕跡を再び取り出し再生するかという難題に挑みました。

「夢見る」脳スライス標本の発見

今回の研究成果に至った秘訣は「夢見る脳スライス」の発見にあります。記憶するときに活動したニューロンを、人工的に活性化させると強制的に記憶が思い出されることが、2年前に利根川進らの研究によって明らかにされています(Nature 484:381-385, 2012)。この事実は、記憶に関わったニューロンそのものが「記憶痕跡」であることを意味しています。一方、現実の脳は、この記憶痕跡を(人工的な刺激でなく)自然に再生(リプレイ)します。そして、近年の研究により記憶痕跡の再生は「鋭波(注5)」に現れていると考えられています。

 「鋭波」はノンレム睡眠中によく観察される脳波の一種で、記憶や学習を司る脳部位である海馬においても観察されることが古くから知られています。また「鋭波」は、一度つくられた記憶を脳回路に定着させるために重要な働きを担っていると考えられています。興味深いことに、「鋭波」が発生している時には、一度つくられた記憶が脳内でリプレイされていることが近年の研究で明らかになってきました。しかしながら、脳にどのような形で記憶痕跡が残り、どのような仕組みで一度たくわえた記憶痕跡を再び取り出し、記憶をリプレイすることができるのかについては明らかではありませんでした。

 記憶をリプレイする仕組みを明らかにするためには、記憶にかかわったニューロンと、そうでない大多数のニューロンとを区別する必要があります。従来のような固定された脳標本を観察する手法では、記憶のリプレイのような“生きたままの動物の脳”で起こる現象について明らかにすることは不可能でした。そこで今回、記憶にかかわったニューロンを蛍光タンパク質で生きたまま標識し、その後にマウスから海馬を取り出し、スライス標本にしたところ、このスライス標本は「鋭波」を自然に生じていることがわかりました。つまり、取り出された海馬は、自然と「睡眠中」の状態になるのです。

  さらに重要なことに、眠っている海馬のスライス標本が「鋭波」を発生している最中に、記憶に関わったニューロンが活性化されていたのです。つまり、かつてマウスの頭の中にあった頃の記憶を、海馬のスライス標本になっても、リプレイさせる(≒夢見る)ことができるというわけです。この「夢見る脳スライス」の発見を弾みとして、「では一体、何がこの記憶のリプレイを引き起こしているのか」「記憶に関わるニューロンと関わっていないニューロンとでは何が異なるのか」という重要な問いを追求できるようになり、本研究の布石となりました。

<研究方法と発見の内容>

 記憶にかかわったニューロンを標識できるArc-dVenusマウス(注6)からスライス標本を作製し、「鋭波」が発生しているときの、ニューロンの活動を観察しました。記憶にかかわったニューロンとそうでないニューロンを区別しながら活動を観察するために、独自に開発した特殊なカルシウム蛍光指示薬「CaSiR-1」を用いて、カルシウムイメージングを行いました。すると、記憶にかかわったニューロンのほうが、そうでないニューロンに比べて、「鋭波」が発生しているときに活動しやすくなっていることが判明しました。これは、「鋭波」が発生しているときには、まさに記憶のリプレイが起こっていることを意味しています。この記憶のリプレイ現象はLTPの維持過程を阻害することで観察されなくなりました(注7)。以上の結果から記憶は、LTPによって痕跡として脳回路に保存されることで、リプレイされることが示唆されました。

  この記憶のリプレイがどうして起こるのかをさらに詳細に調べるために、ひとつひとつのニューロンからパッチクランプ記録(注8)を行い、ニューロンに入ってくる興奮性シグナル、および抑制性シグナルをそれぞれ詳細に観察しました。この観察により、記憶のリプレイに関係するニューロンでは、興奮性シグナルと抑制性シグナルのバランスが興奮性側にシフトしていることが判明しました。さらに、ニューロンに人工的なシグナルを注入し、「鋭波」が起こっている際の神経活動のシミュレーションを行うと、興奮・抑制のバランスが興奮性側にシフトしているシグナルを受けることこそが、ニューロンの活動を再現良く引き起こすことができることも明らかになりました。

  そこで、興奮・抑制のバランスがどのような仕組みでつくられるのかについて、さらに詳細に調べたところ、ひとつひとつのニューロンはバラエティ豊かな、個性的な興奮性シグナルを受け取る一方で、それぞれのニューロンが受け取る抑制性シグナルは均一であり、脳回路内の興奮性シグナルの平均レベルを反映することが判明しました。この均一な抑制性シグナルの由来として、抑制性介在ニューロンの一種であるパルバルブミン陽性インターニューロン(注9)に着目し、その活動を観察したところ、パルバルブミン陽性インターニューロンは、脳回路内の興奮性シグナルを網羅的に受け取り、興奮性レベルを検知してそれに合わせた出力を行うことで、まわりのニューロンに均一な抑制性シグナルを送っていることが示唆されました。

 今回の実験結果から、以下のような流れで記憶が再生されると示唆されます(図1も参照ください)。記憶がつくられる時に活動したニューロンではLTPが起こり、上流のニューロン集団との結合性が高まります。そのため記憶にかかわったニューロンは平均よりも大きな興奮性入力を受けます。次に、パルバルブミン陽性インターニューロンは脳回路全体に入ってくる興奮性シグナルを網羅的に受け取ることで、脳回路全体の興奮性レベルを検知します。そのレベルに応じた発火活動を行うことで、近傍にあるニューロンに一様に抑制シグナルを送ります。このような多様性に富んだ興奮性シグナルと、一様な抑制性シグナルの組み合わせにより、記憶にかかわった一部のニューロンのみが活動することができ、記憶がリプレイされるという仕組みです。つまり記憶痕跡とは「抑制に打ち勝つことのできるほどの興奮をうみだすシナプス増強」であることが示唆されます。


<今後の展開>

 本研究では、興奮性シグナルが抑制性シグナルに打ち勝つことができるようになることこそが記憶のリプレイを支える仕組みであることが明らかになりました。この発見は、脳回路は記憶をリプレイするために、興奮・抑制のバランスを適切に調節できるようにきわめて巧妙に配線されていることを示しています。脳回路の興奮・抑制バランスの精密な調節は記憶・学習能に関わる基本的な生理メカニズムであると示唆されます。

 記憶の痕跡はLTPとして脳回路に保存されている一方で、刻まれた記憶が正確にリプレイされるためには抑制性ニューロンによる脳回路の興奮性シグナルの調節が重要であると示唆されます。これは、従来はあまり注目されてこなかった抑制性ニューロンが記憶障害の新たな治療の標的となりうる可能性を高めるものです。今後は、認知症、統合失調症、うつ病など、記憶の変調を伴う疾患において、興奮・抑制のバランスがどのように変化しているかを観察していく新たなアプローチが、精神神経疾患の病態に有益な解釈をもたらすと期待されます。

5.発表雑誌:
雑誌名:Nature Neuroscience(ネイチャー・ニューロサイエンス)
論文タイトル:Unbalanced excitability underlies offline reactivation of behaviorally activated neurons (アンバランスな興奮性が記憶痕跡をかたちづくる)
著者:Mika Mizunuma, Hiroaki Norimoto, Kentaro Tao, Takahiro Egawa, Kenjiro Hanaoka, Tetsuya Sakaguchi, Hiroyuki Hioki, Takeshi Kaneko, Shun Yamaguchi, Tetsuo Nagano, Norio Matsuki, Yuji Ikegaya*


7.用語解説: 

(注1)ノンレム睡眠:睡眠には主に2つの状態が交互に現れることが知られており、そのうちの一つ。急速な眼球運動や覚醒時と同じような脳波を示すレム睡眠ではない、睡眠状態を指します。

(注2)リプレイ:
記憶学習時の神経細胞集団の発火活動パターンが、後に圧縮再生される現象。

(注3)LTP(Long-term potentiation):長期にわたり、ニューロンからニューロンへ信号が伝達しやすくなる現象を指します。ニューロン間の接合部位(シナプス)が示す可塑性の一種であり、記憶の素過程と考えられています。長期増強とも呼びます。

(注4)多ニューロン画像法:従来の電気生理学的な手法とは異なり、カルシウム蛍光色素を用いることで、同時に多数のニューロンから発火活動を記録する方法。ここでは200個以上のニューロンから一斉に記録を行っています。

(注5)鋭波:
ノンレム睡眠時や静止覚醒時に海馬でよく観察される脳波。周波数が5-30Hzほどの鋭波には、約200Hzのリップル波が重なってあらわれます。鋭波の発生時に記憶がリプレイされることは記憶の固定化に重要な役割を果たしていると考えられています。

(注6)Arc-dVenusマウス:
Arcプロモーターの下流にdVenus配列を配置した遺伝子改変マウス。Arcは最初期遺伝子の一種で、神経活動依存的に発現する。dVenusは改変型GFPであるVenusに不安定領域を付加し、分解性を高めたもの。このマウスでは、活動したニューロンがその後数時間にわたってdVenusを発現します。

(注7)この記憶のリプレイ現象はLTPの維持過程を阻害することで観察されなくなりました:
本研究では、LTPの維持過程を阻害するペプチドZIP(zeta inhibitory peptide)を用いました。ZIPは一度起こったLTPを元に戻してしまう働きを持つことが知られています。

(注8)パッチクランプ記録:
先端に細孔の空いたガラス製の微細電極の先端部分に、特定の細胞の細胞膜を顕微鏡下で実験的に貼り付け電位差や伝導性などの電気的特性を調べる手法。
(注9)パルバルブミン陽性インターニューロン:
カルシウム結合タンパク質パルバルブミンを発現する抑制性介在ニューロン。鋭波発生時に活動率が上昇することが既に知られています。抑制性介在ニューロンは抑制性伝達物質GABAを放出して、興奮性ニューロンに抑制性シグナルを送ります。

8.添付資料:

20140317_01

図1:記憶のリプレイの仕組み
記憶にかかわったニューロン(緑)は、LTPにより平均よりも大きな興奮性シグナルを受け取る。そのため、回路の活動レベルを検知したパルバルブミン(PV)陽性インターニューロンから送られる抑制性シグナルに打ち勝つことができる。またLTPによる興奮性シグナルの増強こそが記憶の痕跡をかたちづくる。


附論:なぜデカルト以来なのか

デカルトは近代的な思弁アプローチにもとづいて脳の動作原理を正確に射抜いた最初の哲学者です。1649年に著した『情念論』でデカルトは、記憶のメカニズムについて考察し、次のように記しています。


心が或る事柄を想起しようと欲した場合、(中略)、思い出そうとする対象が残した痕跡の存在する箇所に出会うまで、脳の各所に精気を押し流すのである。けだしこの痕跡とはかつて問題の対象が現れたために精気がそこから流れ出した脳気孔にほかならず、その結果、この痕跡は精気が到達した場合、ふたたび同様にして開くことが、他の気孔と比べてはるかにたやすくなっているのである。したがってこの気孔に出会った精気は、(中略)、この対象こそ心の思い出そうとしていた物であることを心に教えるのである。

当時、シナプスはおろか神経細胞すら発見されていなかったため、このような難解な文章になったと思われます。そこで、「精気」を「活動電位」に、「気孔」を「シナプス」に読みかえると、以下のようになります。


ある事柄を思いだそうとしたとき、脳にたくえられた過去の記憶(痕跡)を探すために、脳の各所に活動電位を送りこむ。痕跡とは、過去に活動電位が通過したシナプスのことで、その結果として、次に活動電位が到達したとき、このシナプスが活動することが、はるかにたやすくなっている。したがって、このシナプスにたくわえられた記憶こそが、いままさに思いだそうとしていた物として想起されるのだ。

太字で示したデカルトの推察こそ、今回の発見した現象そのものです。記憶については、古代ギリシャ以来(アリストテレスなど)、多くの識者が洞察を重ねてきましたが、350年前のデカルトほど本質をついた洞察を示した人はいません。
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/p01_260317.html

79. 中川隆[-13803] koaQ7Jey 2018年12月12日 12:31:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22060] 報告

胎児、進化の旅は5億年、1日は160万年以上のスパンに相当する
2013-08-04


赤ちゃんの進化学 西原克成著
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E8%B5%A4%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%8C%96%E5%AD%A6%E2%80%95%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%82%92%E7%97%85%E6%B0%97%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E8%82%B2%E5%85%90%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6-%E8%A5%BF%E5%8E%9F-%E5%85%8B%E6%88%90/dp/453106352X

哺乳類の中でも、霊長類に属する人間の赤ちゃんは、どのような特徴をもつのだろうか?これが正しい伝承が途絶えて、忘れられた育児学の鍵となる。

“人間以前の段階”にあるのが“人間の赤ちゃん”である。

このことをよく理解しないと、進化学や動物学を知らない医師たちのように、とんでもない育て方を指導しかねないのである。

では赤ちゃんが、どのように「人間以前」なのか、それをお話しする前に、胎児とはどのような存在であるかを、進化学と発生学の観点から、もう一度おさらいしてみよう。

● 10カ月で5億年の進化をたどる

精子と卵子が出会って、受精卵の姿から、脊椎動物の始祖として海の中で“生”をうけた原始魚類、陸に上がった古代魚、そして鰓呼吸から肺呼吸へと移った両生類、陸の王者として一時代を築いた爬虫類、現在の地球上を支配する哺乳類……という具合に、その“姿”をつぎつぎと変えながら、胎児は大きくなってゆくのである。

つまり、5億年におよぶ生命進化の過程で、みずから形成してきた「形」を、もう一度再現しながら、現時点での進化の到達点である「人間の形」へと変容して行く……これが胎児である。

形態学では、この変容(変身)のことをメタモルフォーゼというが、これこそ、生命のもつきわめて厳粛な出来事であり、5億年にわたる壮大なスケールの“下敷き”があって、はじめて演じられる“進化の歴史”そのものである。

この地球上に、初めて生命が誕生したのが、今から30億年前だといわれている。約30億年前の先カンブリア紀、原始のスープとよばれる海に、単細胞の微生物が誕生した。やがてこれが多細胞の生物へと変身するが、カンブリア紀以降、生命は、5億年という長い長い進化の旅を始めることになる。

逆からいえば、30億年以上かけて、現代の私たちの姿形へとなっていった。そしてそのプロセスを、胎児は、母親のお腹の中で再現させているのである。

単細胞の生命から始まって、心臓が動き出し、受精後30日ぐらいから魚類になり、両生類になり、手が生まれ、爬虫類になり、哺乳類になり、やがて刻々と人間(ヒト)になっていく。

初期の胎児は、稚魚のような形だが、これは古代の宝飾品である。“勾玉”のようでもある。よく知られている勾玉の形(受精卵が割卵<=分裂>して、桑実胚・原腸胚・神経胚・咽頭胚(鰓腸胚)になる。咽頭胚の段階が、ふつうの勾玉である)になる以前が、タツノオトシゴのような形をしたものだ。この形は、“神経胚”の後期に相当し、この時期の勾玉がいわゆる“子持ち勾玉”である。

ドイツの学者であるヘッケルは5億年の歴史の再現を「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉で、これはカプート(頭)が繰り返すという意味のラテン語で「頭部が反復する説」、我が国の高祖皇宗は、この胎児の形が「生命と魂の象徴」であることを知っていたので、これを火打ち石で造り、皇位の継承の印とした。子持ち勾玉が神経胚のもので、丁字頭勾玉チョウジガシラマガタマが鰓腸胚(咽頭胚)のもので、臍の緒つきのものもある。

●悪阻ツワリとは何か

 5億年にも及ぶ進化の長い歴史を、わずか300日の妊娠期間中に再現してみせる胎児だが、この再現スピードは驚くほど速い。妊娠期間の一日は、160万年以上の進化のスパンに相当する。生命の神秘はすさまじいほどだ。

妊娠中に、多くの妊婦さんが、“悪阻”をおぼえる。これも胎内の進化と大いに関係する。この悪阻が起きる妊娠初期のころとは、進化のステージでいえば、どの段階だろうか。それは約4億年前の地球の状態を考える必要がある。4億年前、地球の大変動で海が浅くなり、干上がりかけた陸地に取り残された数多くの古代魚が、陸地で干上がる危機に瀕した古代魚は“のたうち回って”空気中から酸素の呼吸を余儀なくされた。重力が水中の6倍になり、過酷な環境にあって、古代魚は“のたうち回って”空気中から鰓エラで呼吸をし続けるうち、血圧が上がり空気呼吸に対応できる肺ができた。こうして、鰓から肺へと呼吸が移っていき、これらの古代魚は、やがて陸上での生息に適応できるようになったのである。

 これが古代魚の“上陸劇”である。ここから哺乳類型爬虫類と両生類・爬虫類・鳥類へと進むイクチオステガ(イクチオは魚という意味で、魚類型爬虫類のこと)の二つの流れが分かれる。

 胎児は5億年の進化を再現するのだが、上陸劇は、人間の胎児ではいつ再現されるのか。それは妊娠初期の32日目から38日目の6日間である。

そしてちょうどこの時期から“悪阻”が起きるのである。

 この時期の胎児は、かつて4億年前に、古代魚が上陸劇で味わった“のたうち回る”ような苦しみを、母親のお腹の中で再び体験しているのである。そして悪阻はちょうどこの時期から始まる。この時期が胎児の危機で、実際、息も絶え絶えの上陸劇がそっくり胎児において再現されるが、ヘタをすると死んだり、奇形が発生しやすい時期である。

 つまり、母親のお腹の中で進化を再現しつつある胎児の、上陸劇における“追体験”を、母親も“悪阻”という形で共有しているものと思われる。なぜなら、水棲の生き物から、陸上の生き物への“変容”は容易なものではなく、多くの生命がこの段階で失われる。胎児も実際、息が絶え絶えになって上陸劇のときとそっくり同じように、胎児の身体もまた「免疫システム」「造血システム」「自律神経」「体壁筋肉系」がおおきく変化している。第二革命の重力と空気呼吸への対応で血管系の変化がもっとも顕著に起こる。鰓呼吸用の血管から肺呼吸用の血管へと、大きく変化するからである。

胎児の苦しみに、母親の身体が反応するのである。このとき、お腹の胎児は、はるか4億年前の進化のステップアップをしているのであり、これを乗り切ることで、一歩一歩人間へと近づいているのである。

 悪阻は、母体の血液の酸素不足で強まるが、これは母体の腸の門脈の酸素不足によるから、横隔膜呼吸を充分にして、腸を冷やさないようにすれば、悪阻は克服することが出来る。生殖器も肺も、全ては腸からできることをわすれてはならない。(門脈とは、大動脈から腸に入り、消化された栄養を豊富に吸収して、肝臓の関係を通って、心臓に還る静脈のこと)

●赤ちゃんはホモ・サピエンスなのか

「進化の旅」は、いつ終着を迎えるのであろうか。胎児はどの段階で、ホモ・サピエンスとなるのだろうか。

 多くの人は、赤ちゃん誕生の瞬間だと漠然と考えておられるのではないだろうか。つまり、赤ちゃんは、完全な人間として生まれて来る……というふうに、ほとんどの人が考えているのであろうか。

 しかし、この世に誕生した瞬間に、進化の過程が全部完了して、人間として完成するということはありえない。実際に、赤ちゃんがホモ・サピエンスとしての特徴をもちはじめるのは、生後1年を過ぎた頃からである。

 正確にいえば、一歳を過ぎた頃から、赤ちゃんは段々に人間になっていき、二歳半の頃になってようやく「ホモ・サピエンスの子供」になる。

 つまり、一歳までの赤ちゃんは、ホモ・サピエンスではなく、他の哺乳類と同様の特徴をそなえているのである。

●赤ちゃんがホモ・サピエンスでない理由

 赤ちゃんは、母親の乳首や哺乳瓶に吸いついて、お乳やミルクをごくごく飲んでいる。しかも、“息をしながら”である。数分間、息継ぎもせずに、お乳を飲んでいる。これは、人間以前の哺乳類に出来るが、私たち大人の人間にはできないことである。

 つまり、私たちは食べ物や飲み物を“のみこむ”とき、息を止めるが、赤ちゃんは息を止めないでも“のみこめる”。

 私たち大人の場合は、食道と気管が交差していて、ミルクをのみながら、同時に、誤って息をしてしまうと、わたしたちはゴホゴホッと“むせて”しまう。肺に飲み物や食べ物がまぎれ込むと、誤嚥性の肺炎になる、窒息死を引き起こすことさえある。赤ちゃんの場合、この食道と気管が、きちんと分かれていて、食道と気管それぞれが、それぞれの働きを“同時に”行うことができるのである。

 サルやイヌ、ネコなど他の哺乳動物は、赤ちゃんと同じように、息継ぎせずに、食べ物を食べ続けることができる。

ということは、赤ちゃんの身体構造は、他の哺乳動物のグループに属しているといってもよいような段階にあるのである。乳児が“人間以前”といったのは、このような理由からである。

●「言葉を話す」という進化

 なぜ、成長した人間だけが、他の哺乳動物と異なる“喉の構造”なのか。人間が“言葉を話す”ようになったためである。

 声を発するメカニズムは、肺にある空気を、鼻ではなく、口へ向かって吐き出すことで、哺乳動物は声を発する。このとき、気管から鼻へ向かうべき空気が、喉の交差点で、口へと向かう。動物が“吠える”ときは気管を“一時的”に食べ物の道につなげて、喉から口へ、かなり努力を要する“特別な作業”である。なぜ、努力が要るかというと、喉をはげしく緊張させ、かつ運動させ、気管を強引に喉の方に近づけ、食べ物の道である口につなぎ、さらに声を発する(吠える・鳴く)作業をするからである。

次回に続きます

紹介者からの一言

赤ちゃんは母乳を飲む時、吸っているのではありません。赤ちゃんの口や舌は、腸の蠕動運動と全く同じ運動なのです。赤ちゃんは一歳過ぎまで、ストーローでミルクをのめません。スプーンやコップで、舌にミルクを置けば飲めます。赤ちゃんの口腔は腸と同じなのですから。

脳神経、呼吸、体温調節、消化機能、排泄、造血機能、全ての機能が未熟です。だから、呼吸も不安定、体温調節も不安定、吐きやすいし、黄疸も出ます。お母さんは卵を孵すように、赤ちゃんを守ってあげる必要があります、それが最低、一歳までは必要です。
https://ameblo.jp/m-6458/entry-11586347079.html


満二〜三歳ごろまでの育児の仕方を誤ると、その子は一生ハンディを背負って生きて行かなくてはならない 2013-08-05

 ブタやウマは、鼻からしか声をだせない。つまり吠えることができないので、ブーブーとか、決まった声しかだせない。鼻は、ほとんど動きの取れない薄い空洞でできているからである。

 だから、赤ちゃんが泣くときも、全身に力をこめるほどの大変な作業をすることで泣くのである。他の哺乳動物と同じように、気管を強引に喉につなげることで泣き声を発するからである。

 これが成人になると、食道と気管が喉で交差し、つながってしまうので、私たちは苦しまずに、声を発することができるのである。このことから考えると、赤ちゃんが言葉を話すのは、構造的に無理なのである。

 人間が“言葉をもつ動物”と定義するなら、やはり赤ちゃんはまだ人間以前である。

●“進化”は終わらない

 この事から考えると、人間は、赤ちゃんとして誕生した後も、進化の過程を再現しつづけていることになる。つまり生まれたての赤ちゃんは、日々刻一国と成長しながら、同時に“人間”へと進化しているのである。

 つまり生後も“系統発生”がつづくのだ。いつまでかといえば、仔として二歳半。“三つ子”といわれる時などで、成体のヒトとしては、約24歳頃までつづく。

哺乳類たる人間の最大の特徴は、言葉を話すことと直立(二足)歩行をすることの二点である。この二点ができはじめて、人間は高度な文明を築くことができたのだ。そして生まれたての赤ちゃんには、この二点ができないのである。

 ウマやイヌなどの動物は、誕生した直後から、自分の足で立つことができる。目もしっかり見開いているので、自分の方から母親のお乳を探して飲むこともできる。ヒトと比べれば、ウマやイヌの方が、はるかに完全な形態で生れて来るのである。

 さて気管と食道が交差し、つまり進化して、ある程度は“人間の構造”を備えてくるのが、約“一歳”ごろだといわれている。

 そして前述のように、乳児から幼児期、少年・少女期、青年期……という具合に成長のプロセスと同時並行しながら、やはりまだ進化はつづくのである。こうして進化学的に、本当に“ヒト”の成体として体制が完成するのが、前述のように、約24歳頃なのである。

 この年齢を過ぎる頃から、人間は“腰痛”や“痔”などの病気に悩まされるようになる。腰痛や痔は、人間特有の病気であり、自然に育った他の動物にないものである。

●進化の過程にある幼児

 二歳半といえば、言葉もだいぶ話せるようになった頃であり、自分のアンヨで立って歩くことも楽にできる頃である。したがってこの時期までは、「この子は今、必死で進化の過程を歩んでいるのだ」と考えることが大切である。

 昔の日本では、「三つ子の魂百まで」といわれていた。数え年の三歳、つまり二歳半ごろで、その子の“人生が決まる”という意味である。

 これはどういうことかというと、子供が誕生してから、満二〜三歳ごろまでの育児の仕方が、きわめて重要であるということである。この時期の育児の仕方を誤ると、その子は一生ハンディを背負って生きて行かなくてはならなくなる。

 つまり、育児がその子の“一生を左右する”ということだ。今の日本人は、これが間違っているから、日本の子供は、ほぼ全滅に近い形で、欠陥のある子供に育てられる道筋ができていて、そのまま欠陥のある大人となる。

 人間の赤ちゃんは、生命個体としては、未完成のまま誕生してくる。そして生後、成長しながら、つまり自己進化=系統発生を続けながら、必死に生きる技術を身につけようと努力する。したがってこの時期に“生きるための基本”を上手に身につけさせることが、何よりも大切である。

 生きるための基本とは、この地上でたくましく生きていけるだけの「健康な身体」のことであり、「健全な身体機能」のことである。つまり「半人間」である赤ちゃんを、人間として“健全な身体”にまでしっかり育てあげることが、育児の最大の使命である。このために育児学があり、小児科学があるはずなのである。

 この育児期が順調であれば、三〜五歳ごろに訪れる脳細胞の急激な発達時期に、うまく適応でき、聡明な子供に育って行くのである。しかし、聡明な子供に育てたいのなら、なおさら「健全な身体」に育つように、正しい育児を、よくよく実践せねばならない。

●育児はじっくり

 「這えば立て、立てば歩めの親心」というように、親というものは、子供に対して「早く大きくなって欲しい」と願うものだ。まして昔のように、伝染病などで早逝する幼児が多かった時代だったら、なおさら切実にそう願うことだろう。

 しかし焦ってはならない。急くような気持ちを抑え、赤ちゃんの発育と歩調を合わせるように、比較的ゆっくり育てる方が、実は望ましいのである。もちろん、赤ちゃんの自己進化のスピードも、一人一人まちまちである。

 もっとも最近は、病院(産婦人科)の医師や看護師の都合で、自然な出産時刻よりも早産させられて生まれてきた赤ちゃんは、未熟児も含めて、人間としての体制の未完成度が高い。赤ちゃんの自己進化のスピードを、人工的に早めることはできない。当然注意を要する育児となる。

 いずれにしても進化の程度の違いはあるが、二歳半ごろまでは、落ちついてじっくりと見守るような育児が必要である。

●早め早めの育児観念

 ところが……である。現代のお母さんたちは、子育てにおいては、およそ“ゆっくり”だとか、“のんびり”だとかいう認識はないようだ。

「早く大きくなあれ」とばかりに、他人よりも早めに早めに、子育てのプロセスを消化していこうという意識を持つお母さん方が、じつに多いのである。いわゆるカタログ世代の現代のお母さんたちは、出産や育児のノウハウを、町の書店で購入できる、数種類の雑誌や書籍から得ている。

 本や雑誌には、もちろん離乳時期や離乳食に関する情報も書いてあるし、インターネットなどのメディアでも、いろいろな情報を得ることができる。

 かつては、大家族の中で、姑から嫁へと伝授され伝承されてきた“出産・育児の技術”だったが、核家族社会の現代にあっては、若いお母さんは、誰に育児の相談をしたらよいのか、知る由もないのである。

 そこへきて、さまざまなメディアによる出産・育児情報の氾濫である。しかも出産・育児のあとに控えているのが受験・入学戦争である。若いお母さん方は、いやおうなしに一種の「育児戦争」に追いやられている。

 たとえば、若いお母さんが、何かの雑誌で「離乳食は、生後五ヶ月から離乳食を始めなければ……」という観念にかられてしまう。これができなかったら、自分は母親失格……とまで思ってしまう人がいる。

 こうして、赤ちゃんが嫌がってなかなか口を開かなくても、強引に口を開けて、離乳食を押し込めるような母親が登場して来るのである。

次回に続きます。

紹介者からの一言

私は赤ちゃんがお話をするのを何度も見ています。

生れて直ぐに、お母さんの腕で、お母さんが声をかけると、泣くのを止めて、じっとお母さんの声に耳を澄まして、そして、喉の奥の方から、アン、アンとお話し始めるのです。泣いているのではありません。お母さんの声にきちんと反応しています。泣き声であれば、お母さんの話しかけに無関係に声を発するのですが、そうではないのです。お母さんの声を聞いて、反応をしているのです。いつまでもお話しをする、おしゃべりの赤ちゃんもいます。それをお母さんは、ウン、ウンと応えています。まるで、お腹の中での生活をお母さんに話して聞かせているかのようなのです。この姿を見られるのは、生まれた直後、数時間の間だけです、その後は見られません。不思議です。周りの助産師に、赤ちゃんは、生まれてすぐにお話をするよ、と言っても、また、熊谷さんは変なことを言っていると思われて、フーンと返事するだけで、信じようとはしません。ほら、話しかけているよ、と見せても、ソーカナーという顔で、興味を示してくれません。悲しくなります。お母さんは、すんなりと受け入れてくれています。その後もずっと、反応があるかのように、赤ちゃんに話しかけ続けながら、育児をしています。

もし、子供が三歳以下で、御両親が離婚してしまったら、子供の心と身体の成長に悪い影響が出ます。それならば、三歳以後であれば、大丈夫なのか?経験者がおっしゃっていました。ぼくが六歳で、弟が三歳の時に両親が離婚した。兄弟が分かれ分かれで、育つこととなった。

ぼくは大学に行き、普通に就職して結婚ができたが、三歳だった弟は、ぐれてしまい、大学はもちろん行けず、就職もうまく行かず、自殺してしまったと言っていました。

もし、御両親が離婚する場合は、子供が三歳ではまだ早過ぎるようです。六歳になっていれば、悪い環境の元でもぐれずに普通に育つようです。子供が六歳になるまでは是非、離婚をしないで欲しいです。

人間は何のために生きているのでしょうか?それはDNAに秘められているようです。太古の時代に植え付けられた、高貴なDNAの可能性を、魚に植え付けられ、瀕死の環境を乗り越えて、DNAの開花のゴールに向かっている旅なのではないかと、私は考えています。そうすると、御両親の努めは、お子様の育つ環境を良くしてあげて、子供の保育を優先した方が良いのではないかと思います。もし、離婚をお考えになっていらっしゃれば、お願いがあります。どんなに争っていても、お子様は父親も母親も両方が大好きなのです、お子様が六歳過ぎまで離婚をしないで戴きたいと思います。御両親の生きる真の目的は、お子様がつないでくれています。お子様の成長を優先して欲しいと思います。それがDNAの願い、真の魂の叫びなのではないのでしょうか?
https://ameblo.jp/m-6458/entry-11587023386.html

80. 中川隆[-13640] koaQ7Jey 2018年12月21日 15:55:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

生存する意識――植物状態の患者と対話する 単行本 – 2018/9/19
エイドリアン・オーウェン (著), 柴田 裕之 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E5%AD%98%E3%81%99%E3%82%8B%E6%84%8F%E8%AD%98%E2%80%95%E2%80%95%E6%A4%8D%E7%89%A9%E7%8A%B6%E6%85%8B%E3%81%AE%E6%82%A3%E8%80%85%E3%81%A8%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E3%81%99%E3%82%8B-%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3/dp/4622087359


植物状態の「グレイ・ゾーン」にいる人にも、意識があるとしたら……
『生存する意識』 2018年12月21日
東嶋和子(科学ジャーナリスト・筑波大学非常勤講師)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14841


 『眠れる森の美女』のオーロラ姫を想像していただきたい。魔法をかけられたために、眠っているように見える、生きているのに意識があるのかないのかわからない状態。

 現実世界においては、魔法ではなく、予期せぬ事故や病気のせいで「グレイ・ゾーン」と呼ばれる曖昧な領域に閉じ込められる可能性がある。植物状態や昏睡状態の人たちだ。

意識があるのに伝えられないだけだとしたら……

 「死ぬ権利」をめぐって争われた米国のカレン・アン・クインラン裁判や、「生きる権利運動」と衝突した米国のナンシー・クルーザンのケースなどに象徴されるように、深刻な脳損傷がもたらす生死をめぐる問題は、法的にも社会的にも、そして患者本人や家族らの心理にも大きな波紋を投げかけずにはおかない。

 生命維持装置をはずすか否かの判断は、患者の事前指示書や「リビング・ウィル」だけに頼るべきなのか? もしそうなら、指示がない場合はどうするべきなのか?

 そもそも、目の前で眠っているように見える患者本人には思考や感情が本当にないのか? 意識があるのに伝えられないだけだとしたら、彼らはどう思っているのか?

 本書は、機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)などの最新脳スキャン技術を用いて、グレイ・ゾーンにいる人びとに「意識」があることを見つけ出した神経科学者の自伝的科学読み物である。

 グレイ・ゾーンにいる人との意思疎通の方法を、著者らがどのようにして突き止めていったのか、そして、いまや急速な発展を遂げている脳科学のこの分野が、科学や医学のみならず、哲学や法律にどれほど大きな影響を与えているかを、著者の心の旅路をたどりつつ、描き出している。


植物状態の人の15〜20パーセントは、
応答できなくても完全に意識がある

 著者のエイドリアン・オーウェンは1966年、英国生まれの神経科学者。現在は、カナダのウェスタン大学脳神経研究所認知神経科学・イメージング研究部門のカナダ・エクセレンス・リサーチ・チェアーである。「植物状態の患者に関する研究により、脳損傷患者のケア、診断、医療倫理、法医学的判断といった幅広い分野に新たな観点をもたらした」と、著者略歴にある。

 英国とカナダにおける四半世紀にわたる認知神経科学分野の先駆的な研究によって、著者は、「物事を認識する能力が皆無だと思われている植物状態の人の15〜20パーセントは、どんなかたちの外部刺激にもまったく応答しないにもかかわらず、完全に意識がある」ことを見出した。「損傷した体と脳の奥深くに、無傷の心が漂っているのだ」と、著者は語る。


『生存する意識――植物状態の患者と対話する』(エイドリアン・オーウェン 著、柴田 裕之 翻訳、みすず書房)

 冒頭、女子大生エイミーのケースが紹介される。頭を縁石にぶつけた事故で植物状態になり、生命維持装置につながれている。

 延命措置の事前指示書がないのだから、生命維持装置をはずし、死なせてあげることを考えるべきではないか? 本人も望んだだろうことではないか?

 医師たちにやんわりと伝えられた両親は、愛娘を著者の研究室に搬送した。そこでは、深刻な脳損傷を負った患者や、アルツハイマー病やパーキンソン病といった神経変性疾患が進んだ患者を検査している。

 <私たちは、信じられないような新しいスキャン・テクノロジーを使って患者の脳と接触し、脳の機能を視覚化し、内部の様子を徹底的に調べる。すると、人間がどう考えたり感じたりするかが明らかになり、意識の基盤や自己感覚の構造もわかってくる。つまり、生きているとはどういうことか、人間であるとはどういうことかの本質が浮かび上がるのだ。>

 詳細なスキャンの結果、エイミーはただ生きているだけでなく、完全に意識があることがわかった。まわりで交わされる会話を一つ残らず耳にし、病室に入ってくる人を全員認知し、自分に代わって下される決定をすべて聴いていた。

 筋肉を動かせないので、「私は今もここにいます。まだ死んでいません!」と周囲に告げるすべがないだけなのだ。

患者の生命力のみならず、人間の愛の強さに圧倒される

 本書では、エイミーのように、著者が研究生活のなかで出会い、そこに確かに生きていることを見出してきた患者たちの事例が時系列に沿って語られる。

 fMRI装置に入った患者に、「答えがノーなら、テニスをしているところを想像してください」と指示したり、ヒッチコックのサスペンス映画を見せて、鮮やかな色の斑点として描き出される脳活動を健常者と比べたり。

 患者と家族のいまにも壊れそうな心にそっと寄り添いつつ、信頼性の高い方法をなんとか見出そうと試行錯誤する著者や同僚たちのたゆまぬ努力には、胸を打たれる。

 12年間も植物状態と思われながら、完全に近い認識能力を保っていたスコット。ヒッチコックの映画を使った検査で意識が確認された映画好きのジェフ。回復したあとで、グレイ・ゾーンにいたときの経験や気持ちを語るケイトやフアン。

 一人ひとりの患者と真摯に向き合い、検査方法を改善していくなかで患者とのコンタクトに成功し、意思の疎通ができたときの感動が、読者にも伝わってくる。

 植物状態と診断されても、愛する人には意識があり、いずれ回復するのだと固く信じている家族の奮闘にも胸が熱くなる。10年以上も毎週末に息子を映画に連れて行った人、床ずれを防ごうと19年間ずっと1時間おきに夫の体を動かした人。患者の生命力のみならず、人間の愛の強さに圧倒される。

 「私は何かせずにはいられなかった。モーリーン(著者の元恋人)や、私たちがスキャンした患者たちのためにだけではなく、スキャナーに入って、内なる声を聞いてもらう機会をまだ得ていない、無数の声なき人々のためにも」と、著者は吐露している。

「意識とは何か」をあらためて問い直す

 本書の全編を通じて通奏低音のように語られるのが、著者の母親とかつての恋人の脳の病気。さらに、著者自身の少年時代の悪性リンパ腫からの生還体験である。

 著者と同じ神経心理学者だったモーリーンとの恋と別れ。臨床か研究かと激しく口論した苦い思い出。運命のいたずらのように、モーリーンはくも膜下出血で植物状態と診断され、ついに回復することなく約20年後に逝ってしまう。

 こうした経験に育まれた共感や使命感が著者を衝き動かし、グレイ・ゾーンにとらわれた人の声をなんとか聞きたい、虚無の淵から救い出したい、と研究に向かわせるのだ。

 「グレイ・ゾーンの科学とは、あらゆる人生の価値を肯定すること」。そう語る著者と周囲の人びとの旅路に、何度も落涙した。

 「グレイ・ゾーンは私たちに、意識はあるかないかのどちらという問題ではないことを教えてくれる。オンかオフか、黒か白かで決着をつけるような問題ではない。グレイにはさまざまな色合いがある」と、著者はいう。そのとおりだと思う。

 脳科学の最新知見にとどまらず、意識とは何かをあらためて問い直す、心震わせる傑作ノンフィクションである。

81. 中川隆[-12166] koaQ7Jey 2019年2月14日 09:19:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

天才理論物理学者 保江邦夫は何時悟りを開いたのか?

保江邦夫 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BF%9D%E6%B1%9F%E9%82%A6%E5%A4%AB


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星辰館〜保江邦夫の公式 webサイト
https://yasuekunio.com/


amazon.co.jp 保江邦夫作品一覧
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ジャパニズム 40 (青林堂ビジュアル)
[対談] UFOが日本人に教える「保守の精神」 佐藤守 保江邦夫
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カスタマーレビュー
富士と桜 2017年12月10日

佐藤守氏と保江邦夫氏の対談「UFOが日本人に教える保守の精神」が面白い。
俄かには信じがたいが、両氏の体験からくる数々のUHO談からもその存在を否定できない気がする。

UFOの霊力が日本古来の神道に結び付くとしており、特にUFOに係る霊能者が佐藤空将を導き、嘉手納基地において日米の慰霊碑を建てたこと、開眼供養の時に現れた幻覚など神国日本の奥ゆかしさを感じさせる。

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2019.02.09
【スピリチュアル系保守】UFOが日本人に教える「保守の精神」【佐藤守×保江邦夫】
https://rondan.net/976


Contents

1 スピリチュアル系保守
2 日本人は宇宙人の子孫
3 真の保守的精神と、その復活法


スピリチュアル系保守

保守論壇はトンデモ議論がまかり通る不可思議な世界であることを、これまで何度も言及してきました。

「重大事件の背後には共産主義者がいた!」という類のコミンテルン陰謀説が今現在大人気ですが、かつてはユダヤ陰謀説も大人気でした。さすがにフリーメーソン陰謀説とかイルミナティ陰謀説が現れることは稀です。あまりに現実離れしていて、読者の心を掴みにくいのかもしれません。

しかし大人気のコミンテルン陰謀説も、既に飽和状態でネタ切れ状態が続いています。そろそろ次の市場が開拓される時なのではないかと観察しています。

そんな観察の折、突然、目に飛び込んできたのは、佐藤守×保江邦夫「UFOが日本人に教える「保守の精神」」『ジャパニズム』40(2017.9)です。

保守もとうとう来るところまで来てしまったか…と感慨に浸らずにはいられません。稲田朋美氏が「多様性尊重が保守の本来」と仰っていましたが、きっとそれはこういうことなのでしょう。

日本人は宇宙人の子孫

この対談「UFOが日本人に教える「保守の精神」」をまず開くと、地球の高度文明はUFOがもたらしたとか、東日本大震災の時にUFOを六機飛ばして放射能を拡散しないようにしたとか、左足で祠を蹴ったら戦闘機の左エンジンが故障したとか、ぶっ飛んだ話が目につき、流行りの保守本とは一線を画したハイレベルさに圧倒されます(さらに保江邦夫氏は、量子脳理論を専門とする、大学教授だったというので驚きです)。

肝心の「UFOと保守精神」の関係性については余り言及がないのですが、僅かな言葉のなかにも強力なインパクトを残しています。UFOと日本人と占領軍の関係について次のように説いてあります。


保江 アメリカのUFOは本来エリア51にあって、コロンブスがアメリカ大陸を発見する前からあった異星人のもの、その延長で異星人と協力して作ったものですが、日本上空を飛んでいるものとは種類、概念が違います。もちろんアメリカ政府が宇宙人との密約でつくったものも来ていますが、日本にもともとあったものも飛び続けているんです。

これは日本を守るという意味合いがあります。アメリカ政府も第二次世界大戦の途中から気づき始め、占領下で徹底的に日本のことを調べました。日本人は霊力が強い。特に先帝陛下は非常に強い方でしたから、なぜそこまで強いのかと研究し始めたのです。……

小さな島国にあそこまで手こずったアメリカは何かおかしいと思っていた。そして立ち去っていた宇宙人のようなものが、日本国民の遠い祖先で、現代まで脈々と続き、その精神は神道の世界に隠されている。だから占領軍は神道を解体させて骨抜きにするために、神社庁から意味のある祝詞を全部排除して、意味のない表面的なものだけに作りかえ、神道を形骸化してしまったんですよ。

内容もさることながら、日本語自体が不明瞭なのですが、恐るべき(?)事実を提供しています。次の点が確認できます。


1.古くからアメリカや日本など地域ごとにUFOがあった。日本にもUFOが来ていた。このUFOがいまも飛んでいる。

2.日本人は霊力が強い。特に昭和天皇のものは非常に強力であった。なぜなら、日本人の祖先は宇宙人であり、その精神を受け継いでいるからである。

3.アメリカは、島国なのにスゴ過ぎる日本を不審に思って、占領下で徹底的に調査した。

4.そのアメリカの調査の結果、日本人の精神は、祖先である宇宙人に由来することが明らかになった。そのため、占領軍は神道を解体して、意味のある祝詞を排除するなどして神道を形骸化した。


あまりにもスゴすぎてびっくりしますが、こういうトンデモ日本スゴイ論というのは昔からあり、今も絶えることのない現象のひとつです。たとえば、大本教や真光などは、ムー大陸の直系子孫が日本人だというような説を今でも信じています。「ムー大陸」の代わりに「UFO(宇宙人)」が入れ替わっているだけで、共に論理の構造は大体同じです。

真の保守的精神と、その復活法

日本人が宇宙人の子孫だというトンデモ説を用いて、民族の優位性を説くお二人ですが、その根拠は日本人は「どんなときにでも恥を知り、分をわきまえ、役割をきちんとして、暴走することはない」からだそうです。


保江 おそらく日本人が、唯一向こうから来て残った連中の末裔のような気がします。小野田少尉のように、どんなときにでも恥を知り、分をわきまえ、役割をきちんとして、暴走することはない。日本人でなければあんなことはできません。他の国の兵士はあんなふうには絶対できないと思うんです。


ここで宇宙人の末裔たる理想の日本人として言及される小野田寛郎氏は、終戦を知らず29年間もフィリピンでゲリラ戦を続け、帰国の際に「天皇陛下万歳」と叫び、その後は保守活動に専念された方です。小野田寛郎氏のような旧日本軍兵がいるから、日本人が唯一の宇宙人の末裔に違いないという理論は、あまりにも崩壊しすぎていて逆に頷いてしまいそうな勢い持っています。

ところで、同じく28年間グアムに潜んでいた横井庄一氏がここで言及されないのは、きっと彼が戦後の日本社会になじんでしまったからでしょう。

もちろん今の日本を見渡せば、両氏が思い描いているような理想の日本人が極少数しかいないことは誰の目からも明らかです。この事態について両氏は、現代日本人は社会の乱れにゆえに「気づかない」だけで、それに気付けば「本来あった日本の保守の姿」に戻ると説きます。


佐藤 しかし肝心の現代日本人が気づかない、気づかないようにさせられている。尤もやっと気づいた人たちが出始めていますが、その人たちでさえまだ現代の政治の乱れにまだ惑わされているため、本来あった日本の保守の姿になかなか戻れないだろうと思います。
保江 占領下に作られた現状の社会システムの中で、本来の保守に戻るのは難しいですね。皆さんがわからない間に覚醒させる。ふっと気が付く、今のこの生活じゃだめなんじゃないかと。自発的に気づくようなやり方が必要です。例えば一部の古い神道の祝詞の力とか、読経の音とかです。それらは気がつくと「ああ、そうか」と思える精妙さを持っています。

祝詞や読経の音を聞けば、「本来あった日本の保守の姿」を、つまり宇宙人の末裔たる日本人の精神に気がつくことがあるようです。しかしそれに気づいたところで、小野田寛郎氏のようなコテコテの旧日本軍兵になってしまうのですから、気がつかないままのほうが幸せというものでしょう。
https://rondan.net/976


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ジャパニズム46 – 2018/12/8
ソウル奉恩寺で得た年末南北統一という御託宣 保江邦夫
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2019.02.09
【スピリチュアル系保守】「年末南北統一という御託宣」
(保江邦夫|『ジャパニズム』2018.12)
https://rondan.net/8410


Contents

1 『ジャパニズム』は、保守界の『月刊ムー』
2 夢で見た光景が目の前に
3 ホテルでの霊能者との出会い
4 十二月末に南北朝鮮統一!


『ジャパニズム』は、保守界の『月刊ムー』

ある人はこんなことを言っていました。

「トンデモ保守とスピリチュアルには親和性がある」と。

まさにその言葉を具現化した雑誌が『ジャパニズム』です。本雑誌は、KAZUYA氏や杉田水脈氏などの流行りの保守論客が寄稿しているのと同時に、非常にサブカル・オカルト色が強いのが特徴です。今回は、そんな『ジャパニズム』46(2018.12号)に掲載された、保江邦夫「年末南北統一という御託宣」を紹介したいと思います。

夢で見た光景が目の前に

この記事では、著者の保江邦夫氏が、韓国にある大仏から「年末に南北統一する」という御託宣を受けるという話なのですが、その経緯も既にスピリチュアル。


同行の二人の楽しげな声を聞きながら窓の外を眺めていたとき、ふと半年ほど前に見た夢の一場面が蘇ってくる。……それが、今自分の眼前にあるソウルの南部市街地交差点の角地だったのだ!

半年前の夢を覚えてるってスゴイデスネー。

むしろ、今思いついたんじゃないんですか!?

ホテルでの霊能者との出会い

その後、古い寺に訪問するために、ホテルに泊まった保江氏。何とそのホテルの廊下で霊能者から話しかけられたそうです。


廊下で参加者のお一人に呼び止められてしまう。見ると霊能力者として知られる男性だったが、立ち話で教えて下さったのはその日の午前中にあった献茶式での不思議な出来事。日本側の献茶の最中に仏様が現れ、なんとこの僕への伝言を託されたとのこと。それは「くれぐれも身体に気をつけるように」というものだったのだが、それを聞いたときに男性は仏様にその理由を聞いたそうだ。すると「あの者にはもうひと働きしてもらわねばならなくなるから」とお答え下さったという。

普通、廊下で自称霊能力者から話しかけれたら、いろいろ疑ってしまいますが、さすが保江氏。これを素直に信じてしまったそうです。

しかも納得した理由が凄い。


もうひと働き……仏様からそんなお言葉を頂いたなどと聞いてすぐに納得できるわけはないのだろうが、そのときの僕にはスッと腑に落ちるものがあった。何故なら、ちょうど二ヶ月前に神様からのご依頼を受けて未曾有の大災害から日本を救ったばかりだったのだ。

そ、そうですか…。日本を救ってらっしゃったんですか…。

そういえばこの保江氏は、佐藤守氏との対談で、東日本大震災の時にUFOを六機飛ばして放射能を拡散しないようにしたなどと言っていましたね (;゚Д゚)

関連記事【スピリチュアル系保守】UFOが日本人に教える「保守の精神」【佐藤守×保江邦夫】
2018年11月7日
十二月末に南北朝鮮統一!

その後、目的地である古いお寺に行き、霊気の強い場所で写真を撮ろうとしたら持っていたカメラが全て動かなかっただのなんだの「ありきたり」な話が続きます。

そしていよいよお目当てだった仏像を拝すると、なんと保江氏は、占術を使ってその仏像に問いかけます。


僕自身の行動の背後に潜む霊的な意味を知りたいと思った僕は、陰陽師の家系に伝わる北斗七星の占術によって目の前の大仏に問いかけてみた。すぐに返ってきた御託宣は衝撃の内容だった……占術の驚愕の結果は、「十二月末における朝鮮半島南北統一」というものだった!

十二月末に朝鮮半島の南北統一という結果以前に、「朝鮮にある仏教の仏像でも、日本の陰陽道でOKなのか」という不思議な日韓(印)親睦に感動が生じてしまいます。

十二月末に朝鮮半島の南北統一……あともう二週間しかないけどどうなるんでしょうか!?

肥大化した保守運動は、このようなトンデモまで生み出してしまうのです。

https://rondan.net/8410


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みなさん、こんにちは。

ついに参議院選に出馬された保江邦夫博士と矢作先生。

「やすえくにお先生のごあいさつ」:国会で次元転移、愛魂道、ハトホルの秘儀を行う日が来るか?
https://quasimoto2.exblog.jp/22810372/

ご幸運をお祈りいたします。

さて、そんな保江邦夫博士の最新本に対するYouTube番組を見つけたので、一応ここにもメモしておこう。以下のものである。

【オカルト・超常現象・物理学】物理学者「保江邦夫」が超常現象や奇跡がなぜ起きるか?その研究結果は… - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=7RFIRozl6YE

この内容は、どうやらトカナというサイトのものをまとめたようである。

いずれにせよ、本格的な理論物理学者が国政に行くのは、故伏見康治博士以来のことかもしれないですナ。
ぜひ国会議員に当選して欲しいものである。そして、日本のこころを守って欲しい。
https://quasimoto2.exblog.jp/22939726/

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湯川秀樹の研究を引き継いだ異能の物理学者・保江邦夫に取材! 超常現象や奇跡はなぜ起きる? 2015.12.09.
https://tocana.jp/2015/12/post_8183_entry.html


湯川秀樹といえば、日本人初のノーベル賞を受賞した人物としてほとんどの日本人がその名を知っているだろう。だが湯川博士が最晩年に取り組んでいたある研究テーマについてはほとんど知られていない。湯川博士は1935年(昭和10年)、「素粒子の相互作用について」を発表し、原子核内の陽子や中性子を結合する核力を媒介する粒子として中間子を理論的に予言したことによってノーベル物理学賞を受賞した。しかしその後も中間子理論から非局所場理論、さらに素領域仮説へと湯川博士はあくなき探究を進めていたのである。


■保江邦夫教授の研究とは?

 湯川博士を輩出した京都大学の大学院において、その素領域仮説を専攻し、さらに同理論を形而上学まで適応することによって、従来の物理学では否定されてきた生命活動の背後にあってその本質を左右するような働きを持つ場(空間)の存在を明らかにした人物がいる。理論物理学者の保江邦夫教授(理学博士)がその人だ。今回は保江氏に直接取材した内容も含めて、新著『ついに、愛の宇宙方程式が解けました』に書かれた保江氏のこれまでの経歴と素領域理論について迫る。


■自らの身に起きた奇跡を解明するために


『ついに、愛の宇宙方程式が解けました』(徳間書店)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%AB%E3%80%81%E6%84%9B%E3%81%AE%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F%E3%81%8C%E8%A7%A3%E3%81%91%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-%E7%A5%9E%E6%A7%98%E3%81%AB%E6%BA%BA%E6%84%9B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E4%BF%9D%E6%B1%9F-%E9%82%A6%E5%A4%AB/dp/4198640483?SubscriptionId=AKIAIVZOEOBUIKZXXUSQ&tag=tocana-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4198640483


 保江氏は京大並びに名古屋大学大学院で理論物理学を学び、その後ジュネーブ大学理論物理学科講師、東芝総合研究所研究員を経て、現在はノートルダム清心女子大学の教授を務めている。専門は数理物理学だが身体運動科学や脳科学などにも精通し、物理学の基本方程式とされているシュレーディンガー方程式を導くより深いレベルの「ヤスエ方程式」(『量子力学と最適制御理論』を参照)を発見した世界的業績を持つ。一方で合気道をこよなく愛し、開祖植芝盛平が祝詞を奏上していた点に着目しつつ神降ろしの技としての愛魂(あいき)を実践・指導している。

 異能の物理学者が歩んできたこれまでの人生は“奇跡”の連続だったようで、北ドイツに向かうアウトバーンで突然浮かんだ宇宙の原理をあらわす数式(ヤスエ方程式)に始まり、52歳の時には末期の大腸癌手術の際、臨死体験をしている。その際マリア様への祈りによって無事生還し、術後はルルドの泉の水を飲んで全快、それ以降もさらなる奇跡が続く。保江氏の最新刊『ついに、愛の宇宙方程式が解けました』(徳間書店)では、その数奇な半生と共にさまざまな超常現象や奇跡がなぜ起きるのかについての解説がなされているのだが、そのキーワードとなるのがかつて氏が取り組んでいた「素領域理論」に他ならない。

素領域理論

■量子論よりも最先端!? 物質の“容れもの”とは?

 そもそもこの聞き慣れない素領域とはいったい何なのか? 従来の物理学では陽子、中性子、電子といった物質の最小単位を追い求め、現在は素粒子よりも小さなクォークという粒子を研究対象にしていることは一般によく知られている。それに対して素領域仮説では、物質ではなく、物質の容れものである空間を研究対象としており、空間の最小領域のことを素領域と呼ぶ。

 最初に空間の構造に着目したのがアインシュタインであり、継いで取り組んだのが湯川博士で、それを継承した保江氏はこの極めて専門性の高い抽象概念について次のように教えてくれた。

「数学者の岡潔先生は『空間には情とか愛のような粒々があって、その中に物質が詰まっている』というような主旨のことを述べられています。つまり、粒のような領域と領域の間には隙間があって、そこに“神”と呼んでもいい完全調和がある。すべてがひとつにつながっている空間、これが宇宙の本来の姿で、素粒子はその粒々の間をエネルギーとして飛び移っている。わかりやすいイメージでいうと、ジョッキに注がれたビールの泡、それが空間の正体です」と。

 つまり完全調和からあぶくのように生み出されたのが調和の崩れた素領域であり、その泡は0次元の泡、1次元の泡、2次元、3次元、4次元…など多様な構造を持ち、その泡(素領域)の一つが私たちのいる3次元空間の素領域となる。そして、素領域のエネルギーが素粒子であり、素粒子が集まって原子になり、分子になり、生き物をつくっているというわけだ。保江氏によると、最も発生頻度の確率が高いのが3次元で、それは数学的に証明できるという。
(後編に続く 文=小笠原英晃)
https://tocana.jp/2015/12/post_8183_entry.html


“魂の構造が説明できる”素領域理論とは? 物理学者・保江邦夫教授に取材! 2015.12.10.
https://tocana.jp/2015/12/post_8229_entry.html

前編で紹介した▼空間の解説

「数学者の岡潔先生は『空間には情とか愛のような粒々があって、その中に物質が詰まっている』というような主旨のことを述べられています。つまり、粒のような領域と領域の間には隙間があって、そこに“神”と呼んでもいい完全調和がある。すべてがひとつにつながっている空間、これが宇宙の本来の姿で、素粒子はその粒々の間をエネルギーとして飛び移っている。わかりやすいイメージでいうと、ジョッキに注がれたビールの泡、それが空間の正体です」


 空間の最小領域を規定する素領域理論は「場の量子論」とは何が違うのか? 前編に続いて世界で唯一湯川秀樹博士の研究を引き継いだ保江邦夫教授にわかりやすく解説してもらった。

 場の量子論ではゼロ点エネルギーの総和が計算上無限大になるという発散の問題をくりこみ理論によって回避しているものの、点状の粒子という従来の物理学上の矛盾は内包している。それに対して素領域理論では、粒子は最小領域(泡)の中で惹起されると捉えるのでその矛盾は生じず、また個々の粒子に対応する場を無限に想定する必要もなく、それぞれの泡の固有振動数の違い(鋳型)よって異なる粒子が惹起されると捉える。故にミクロからマクロのスケールにまで適応される統一場理論であり、超弦理論よりもはるかに時代を先駆けていたのが素領域理論なのである。


『ついに、愛の宇宙方程式が解けました』(徳間書店)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%AB%E3%80%81%E6%84%9B%E3%81%AE%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F%E3%81%8C%E8%A7%A3%E3%81%91%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-%E7%A5%9E%E6%A7%98%E3%81%AB%E6%BA%BA%E6%84%9B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87-%E4%BF%9D%E6%B1%9F-%E9%82%A6%E5%A4%AB/dp/4198640483?SubscriptionId=AKIAIVZOEOBUIKZXXUSQ&tag=tocana-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4198640483

 では、素領域というビールの泡の外と内はどのような構造になっているのか? 保江氏の解説はこうだ。

「泡の内側は素粒子で構成される物質の世界であるのに対して、外側は非物質で、ライプニッツのいうモナド(単一)のような絶対無限の世界。そこは完全調和なので何も起こらない。あるとき完全調和に崩れ(ゆらぎ)が起きたことによって泡が発生し、それぞれの泡の鋳型に応じた素粒子・物質が生まれるのです。そして人間が肉体の死を迎えると非物質の魂となって元の素領域(泡の外=霊界)に溶けていくんです」

■臨死体験エピソードが素領域理論と合致?

 実はこのイメージとまったく同じ体験をしている人物がいる。三度の臨死体験を持つ彗星捜索家の木内鶴彦氏で、木内氏は臨死状態で見た宇宙開闢の様子を著書の中で次のように記述している。

 保江氏によるとこの現象は素領域理論と合致するという。木内氏が見た渦が私たちの宇宙だとすると、物質はその中だけに存在し、渦の外は素領域と素領域をつないでいる完全調和の神の領域であり、それを保江氏は「愛」と仮定し、「愛や祈りには、時空を超え、奇跡を起こすほどのとてつもない力がある」と断言する。

 これは、神が自身を認識するために万物や人間を創造したとされる考え方に近い。つまり、真っ白な壁に1点のシミが生じることによってその壁が白と認識できるのと同じように、一旦調和が崩れることによって完全調和の在り様が認識され、認識されることで再び調和状態へと導かれる――保江氏はその調和を回復するのが人間の役割ではないかと考えているのだ。


■正しい物理学の知識をスピリチュアル探究者に学んでほしい

 だとしたら、本来私たちの肉体も完全調和(神)の意図でできており、病因などの異物を排除するには愛の作用で素領域の機能を復活させればいいということになる。

『ついに、愛の宇宙方程式が解けました』には、保江氏のさまざまな不思議な体験や能力が書かれている。その中には、門外不出の伯家神道の秘儀取得に加えて、スペイン人の神父からはキリスト由来の活人術という不思議な力を授かったり、ロシアのUFO研究者からはUFO操縦の秘訣を教わったことなど、一般的とはいえないエピソードも多々ある。また、保江氏が末期癌から奇跡的治癒を遂げたことなども書かれているが、祈りによって神への愛を示したことで、自身の大腸本来の素領域機能が復元した結果と考えればこれも説明がつく。

 保江氏は『ついに、愛の宇宙方程式が解けました』を上梓した理由について、

「スピリチュアル系の本を出している人たちがあまりにも物理学の知識が乏しく、誤った引用をしている。だから予め僕の体験を知ってもらった上で、スピリチュアルなことに関心のある人に物理学的なこともきちんと学んでもらえる本を出したかった」と語る。

 従来の常識を根底からくつがえし、軽薄な精神論をも排す素領域理論、“魂の世界”を科学的な視点で捉えた本書は、はたして読者諸氏の空間にどのような作用を及ぼすか?――まさにそれはあなたの愛と情に委ねられているに違いない。
(小笠原英晃)
https://tocana.jp/2015/12/post_8229_entry.html


因みに、湯川秀樹の業績で残っているのは戦前の物だけで、戦後は完全なアホになってしまって、理論物理の研究者からは相手にされなくなっていたそうです。
 

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保江邦夫 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E6%B1%9F%E9%82%A6%E5%A4%AB

保江 邦夫(やすえ くにお、1951年9月27日 - )は、日本の理学博士。

専門は数理物理学・量子力学・脳科学。岡山県出身。
ノートルダム清心女子大学 大学院人間生活学研究科人間複合科学専攻教授。同情報理学研究所所長。


量子脳理論の治部・保江アプローチ(英:Quantum Brain Dynamics)の開拓者。
少林寺拳法武道専門学校[1]講師。
冠光寺眞法・冠光寺流柔術創始・主宰。
大東流合気武術宗範佐川幸義直門。

特徴的な文体を持ち、45冊以上の著書を上梓。

日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
アメリカ数学会会員。身体運動文化学会会員。
日本サイマティクス・セラピー研究会顧問。


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経歴

1970年 岡山朝日高校を卒業。

1974年 東北大学理学部天文学科を卒業。

1976年 京都大学大学院理学研究科博士課程前期課程を修了。
名誉教授だった湯川秀樹が提唱していた「素領域理論」を題材として修士論文を提出し、当時日本唯一の理論物理専門の欧文学術雑誌『Progress of Theoreical Physics』に掲載された(Vol.57,pp.318-328 1977)。

1978年 名古屋大学大学院理学研究科博士課程後期課程を修了。
高林武彦教授に師事。その2年で8編の論文を欧米の数理物理学専門誌に発表。
「量子摩擦を含む開放系の量子力学理論」の論文を提出し、理学博士号を取得。

1978年 スイス連邦共和国へ渡欧。ジュネーヴ大学理学部理論物理学科講師。

1982年 東芝総合研究所の研究員。

その後、岡山のノートルダム清心女子大学大学院に教授として勤務し、現在に至る。


研究テーマは、

1.量子場脳理論による脳の基礎的情報処理過程と生命素過程の物理的解明についての理論的研究

2.武術極意における脳機能の役割についての理論的並びに実験的研究

3.確率過程による量子力学の数理物理学的基礎づけ、確率変分学の基礎とその応用[2][3]

2016年7月、第24回参議院議員通常選挙に日本のこころを大切にする党から比例区で出馬するも落選。


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武道の探求

高校時代から武道に憧れを抱いていた保江は東北大学時代、合気道部に所属。先輩である橋本敬三がたびたび合気道部に訪れ、彼から操体法を学ぶ。

ある理由により保江は2年次に退部を申し出る。それでも合気道部の仲間は保江を気遣い籍を残したままとし、4年次には副将の肩書を与えて復部するのを待ってくれていた。

名古屋大学大学院時代には合気道を再開する。また、同大学院にて木村達雄と邂逅。木村の合気道に対する純粋な思いに感銘を受ける。そして木村と共に名古屋大学の合気道部創設に関わり、山口清吾師範に学ぶ。

スイス滞在時において現地の合気道道場へ通う。ところがドイツ山岳地帯出身の大男には保江の合気道の技は通用しなかった。そうした折、たまたまスイスを訪れていた木村達雄から鍛練方法の一つである四股を学んだ。木村からは一日に2000回四股踏みを行えと言われたが、保江は一日300回四股を鍛練した。すると、そのドイツ人の大男を難なく投げれるようになる。

「秘伝日本柔術」(新人物往来社 松田隆智編)大東流篇佐川宗範の項を何度も読み返し、佐川宗範の自然で崇高な姿に魅せられた保江は木村に佐川道場の入門を取り次いでもらうよう懇願する。いったん断られるが「まあ、入門のためにスイスから帰国するくらい覇気のある奴なら許可してもいいだろう」との返事を得て、ようやく手に入れた職を辞し、帰国する決意をする。

1982年、佐川道場に入門するためにスイスから帰国。木村達雄の紹介により佐川道場に入門。佐川幸義直門となり大東流合気武術を学ぶようになる。後に佐門会への参加を許され、100回を越える稽古に参加する。ある時に妻の持病のため岡山へ帰らざるを得ない旨を佐川宗範に告げたところ、特別に10日間にわたる一対一の直伝講習を受けることを許された。これを最後に佐川宗範の直伝講習はなくなる。その後しばらくたって、岡山から東京へ行く機会を得るようになり、また佐川道場の稽古に参加できるようになる。

地元岡山にて戦前天才少女と言われた畠瀬幸枝に薙刀・天道流剣術を学ぶ。加えて、エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父から修道師に伝わる護身技法を学ぶ。その技法が後の冠光寺流柔術の基礎となる。

現在は、合気道星辰館道場(岡山市:責任者 北村 好孝 合気会所属)において、合気道の指導も行っている。


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スイス連邦共和国ジュネーヴ大学への奉職

ジュネーヴ大学では教授のチャールス・P・エンツに師事。エンツはスイスの天才物理学者ウォルフガング・パウリの最後の助手であった。保江は、スイスにて主に確率制御問題に没頭する。

ジュネーブでは4年間モレゾン通りに居をかまえる。ここで、確率変分学の基本となったヤスエ(保江)方程式を不思議な体験のもとに発見する。以下、ヤスエ方程式を発見した当時の記述の要約。

「スイスに来て2度目のクリスマス時期。セミナー講師招聘のためイタリアに向かった。

ドイツの国境を越えた辺りに、アウトバーンが広がりアクセルを踏み込んでいった。ランチャー特有の甲高いエンジン音が鳴り響き、スピードメータの時速190キロ近くになったとき、あれほど激しいエンジン音や風切り音が鳴り響いていた車内が、一瞬のうちにそれこそ何の音もしない完全な静寂の世界に変貌した。振動も消えた。まるで雲の絨毯の上を滑らかにすべっていくかのように車窓の外の景色だけがゆっくりと穏やかに流れていくのが見える。

時間が止まったような感じもあったが、不安とか怖さは全くなかった。むしろ、何か非常に大きな存在に暖かく見守られているという確信も生まれた。このまましばらく様子を見ようという気持ちになった。 そして、時速190キロで突如出現してきたこの静寂の世界の中で、自分の額の裏側としか表現できないところにフッと何か数式のようなものが浮かびあがってきた。 (中略)

あの状況はなんだったのだろう、あの数式は?どうやら自分の頭は一時おかしくなっていたのかもと考えた。あるいは疲労のため脳が混乱していたに違いないとも思った。しかし、その晩ホテルの部屋に入って便せんにその数式の詳細を書き込んでみた。しばらく紙の上の方程式を眺めて考えていくうち、ふと方程式に現れる関数の中に具体的な形を入れてみたらどうなるだろうかと思い、いくつか計算してみた。1964年にプリンストン大の数学者エドワードネルソンが発見していた方程式が導けてしまった。ということは、目の前にある不可思議な方程式は、既に知られていた重要な方程式をひとつの特殊ケースとして含む、より一般的で普遍的な基礎方程式に違いない」

「再度計算をチェックしてみたが、どこにもミスはない。その突然脳裏に浮かんだのは、原子分子のスケールはもちろん、日常的スケールから宇宙的スケールに至るまで成り立つ、最も普遍的な最小作用の法則そのものを表す具体的な数式だった。この数式は日常的スケールや宇宙的スケールの場合には既に物理学の基本原理として確立している最小作用の法則の数式そのものと一致することがわかった。では、原子や分子のスケールではどうなったかというと、いささか面倒な数式展開の果てに、あの方程式が出てきたのだ!僕はついに大学院のときからの希望を達成した。

これまで世界中の物理学者達によって基本方程式と考えられてきたシュレーディンガー方程式は単に最小作用の法則が成り立つことから派生的に導かれた浅いレベルの基本原理にすぎない」(「路傍の奇跡」から抜粋)

Stochastic calculus of variations Kunio Yasue

http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/0022123681900793


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量子脳理論および量子脳力学

梅沢博臣の1978年,79年の論文に起源を持つアプローチ。量子脳理論とも呼称する。

量子脳理論とは、脳のマクロスケールでの振舞い、または意識の問題に、系の持つ量子力学的な性質が深く関わっているとする考え方の総称。心または意識に関する量子力学的アプローチ(Quantum approach to mind/consciousness)、クオンタム・マインド(Quantum mind)、量子意識(Quantum consciousness)などとも言われる。具体的な理論にはいくつかの流派が存在する。

宇宙が創成されたとき、何もない無の状態、すなわち宇宙をひとつの量子力学系と考えたときのその真空状態(最低エネルギー固有状態)からトンネル効果による相転移で疑似真空状態としての比較的平坦な宇宙が出現したとされる。そして、その宇宙の上での踊る素粒子もまた、場の量子論により記述される。スケールこそ違え、これと同じ現象が人間の脳の中で生じているという、この考え方を量子脳力学(Quantum Brain Dynamics)と呼ぶ。

心とは、記憶を蓄えた脳組織から絶え間なく生み出される光量子(フォトン)凝集体であり、場の量子論によって記述されるその物理的運動が意識である。

脳をひとつの量子力学系と考えたとき、外部からの刺激を受けてその無の状態、すなわち真空状態からトンネル効果による相転移で準安定な疑似真空状態が出現する。これがその刺激の記憶に他ならない。新たなる刺激は再びトンネル効果の引き金となり、脳の量子力学系は別の真空状態と転移する。これは以前の刺激の記憶を加味した新たな刺激の記憶であり、したがって単なる新たな刺激のみの記憶ではない。つまり、脳の量子力学系の疑似真空状態はつねに過去は記憶の総体を表している。宇宙の上で踊る素粒子の運動に対応するものは、脳の場合は、過去の記憶上での人間の意識そのものと考える。意識とは、過去の記憶総体である脳の量子力学系における疑似真空状態の上に生成と消滅を繰り返す励起エネルギー量子の運動にほかならないとする。これを量子脳力学という。

1999年5月25日から28日まで、我が国ではじめてツーソン会議が東京青山の国際連合大学にて開催された。その内容は意識科学を中心とし、会議の幹事が保江であった。保江は、この国際会議を手作り国際研究集会と呼称し協力を各方面に仰いだ。開催が極めて難しい状況であったが、保江の熱意が国連大学高等研究所のデラ・センタ所長に通じて国連大学を開催場所として確保できた。保江によれば、後になって考えるとこれも合気(愛魂)の効果だったのかもしれないと回顧している。


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数理物理学方法序説

50歳を目前に「数理物理学方法序説」を記す。対象は高校2年生以上とあるが実際には大学理学部で理解できるような内容である。

(1) 複素関数論

複素平面上にルベーグ測度を簡潔に導入するところから出発し、その上で定義される解析関数の基本的な性質を解説する。実数直線上の関数に比べて圧倒的な美しさを持つ複素関数の世界が広がる。ページ数の制約から等角写像、保型関数、射影変換、超幾何微分方程式やそのモノドロミー表現といった魅力的な話題を割愛してある。最初の3分の1は測度論、2変数ルベーグ積分、超関数の入門書となり後半の3分の2がごく標準的な複素関数論への入門書となっている。一般的には見られないルベーグ積分入門に紙数を割いているのが特徴である。保江らしい記述は最終章の「可換多元体への誘い」にある。天文学の恩師である菊池定衛門先生が書いた「高階複素数論」を紹介している。標準的な複素関数論では見ることができない高度な内容である。

(2) ヒルベルト空間論

東北大学理学部2年次に在学中、数学の講義にて鶴丸孝司からヒルベルト空間上の完全作用素のスペクトル分解の解説を受ける。保江いわく「長引く大学紛争にうつつをぬかす自分たち学生の頭にガツーンと衝撃を与えるような内容だった」、そして学問を通じて学生運動で貴重な時間を浪費すべきでないことを身をもって伝えたという。 この気魄に満ちた空間論に多いに感銘を受け、一生ヒルベルト空間に浸っていたいとまで思うようになる。 ヒルベルト空間は複素関数を要素とする無限次元のベクトル空間なので実在する空間ではない。ヒルベルト空間のおかげで量子力学は数学的な正当性を与えられる。距離空間、ノルム空間、バナッハ空間そしてヒルベルト空間など関数解析の基礎を最短のルートで学ぶことができる。

2巻ヒルベルト空間論は、実は東北大学在学中に習った鶴丸教授の講義ノートそのものだという。学部に上がり、京大院や名大院に進学してからも、そしてスイスのジュネーブ大に就職してからも、常にこのノートを大事に携帯していたと後日供述している。

(3) 量子力学

量子力学はシュレディンガー流とハイゼンベルク流の定式化がある。1つは超準数学の無限小解析を確率力学および確率過程に組み込む方法、そしてもう1つは確率力学とニュートン力学を組み合わせる方法である。前者は1960年代に、後者は1980年代になって発見された。どちらの方法からでも量子力学の基礎方程式が見事に導かれる。

(4) 確率論

最初の3分の1は確率測度を使った確率論の導出、後半の3分の2は確率過程論である。確率過程というのは時間とともに変化する確率変数のことであり、ブラウン運動などの粒子のランダムな運動を数学的に記述するモデルとして利用されている。

定理や証明の存在はいつもルベーグ測度やヒルベルト空間論によって裏付けられている。確率論にしても同様。確率空間をはじめ確率変数やその期待値、分散、確率分布関数など基本的なことがらの存在が証明されていく。8章でブラウン運動など不確定な物理量で示される現象を時間を変数とする確率微分方程式を使って導く説明があるこの段階での理論は時間パラメーターについて対称的で、分子運動論でいえば粒子と粒子の間の相互作用はないという状況となる。

(5) 変分学

理論物理学の基礎方程式は、メタ理論としての変分学の枠組みに乗せることで数学的に整備され、見通しのよい議論が可能になる。この変分学の基本を、ヒルベルト空間上の解析学として数学的に解説してある。 全体的な流れとしては、多変数実関数の微分、バナッハ空間上で定義されるフフレッシェ微分など解析学系の話題からはじまり、微分形式やその微分と積分、ストークスの定理など幾何学的な話、そしてソボレフ空間を定義してからソボレフ空間上の汎関数の変分、フーリエ級数、フーリエ変換などが紹介される。種々雑多な分野の寄せ集めに見えるが、バナッハ空間やヒルベルト空間での微分や汎関数の変分問題として一意解が存在するという主張が全体を貫いている。

(6) 解析力学

通常の解析力学の本では一般化座標の座標変換あたりから始めるが、本書ではいきなり多様体が導入される。一般化座標は多様体上の点の位置で表され一般化運動量はそれを微分した多様体上の接ベクトルに対応する。接ベクトルは接ベクトル空間を張りる。多様体上に定義される接ベクトルバンドル(接ベクトル束)、ベクトル場、ベクトル場のフローなどはそれぞれ解析力学上の概念と対応付けながら説明が進んでいく。

解析力学としての展開はラグランジュ力学系からハミルトン力学系、正準変換と母関数、ポワッソン括弧積という通常の順番で行われる。式展開上の微分は面倒だが丹念に追えば理解できる。本書のユニークさはその応用例にある。著者は学部生ときに天文学を専攻していたことが強く反映されている。制限付き多体問題や多粒子の基準振動、衝突散乱問題、天体力学で行われる摂動法などは入門書では滅多にお目にかかれない例である。

天体力学での摂動法とは、天王星の軌道の乱れから海王星を発見できたという歴史が示すように、理想的な楕円軌道からのずれを近似法で求めることを言う。このような近似計算をハミルトン力学系という理想化された理論でどのように行えばよいかが説明されている。

特筆すべきは第15章「リー環とリー微分」の部分。解析力学の本でリー環やリー微分の記述は少ない。

ハミルトン系力学では正準方程式がポワッソン括弧で表されるというのが解析力学だが、それが多様体上で代数学のリー環の定義を満たし、さらにHフロー(ハミルトニアンのフロー)に沿うリー微分として定義される。多様体上にリー環があれば、それは(リー環の)構造定数によって完全に決定されるし、ハミルトニアンのフローも決定されることになる。ハミルトニアンのフローによって物体の運動が決定される。このように代数学と幾何学と力学が美しく結びついていることがこの章で示されている。本書は解析力学の範疇を超えて現代数学との関係を明確に示すことに成功している。

(7) 連続群論

連続群は別名「リー群」とも呼ばれる。物理学で扱う対象はなんらかの自由度についての連続的な変換からなる連続変換群がほとんどなので、この群が特に重要視される。

最初の6章は群論とは全く関係ないヒルベルト空間の簡潔な復習、有界線形作用素、スペクトル分解、解析ベクトルなど関数解析系の話が続く。 7章以降はじまる群論の解説を読み、やっとその理由がわかるような構成である。すべてが関連を持っているためである。 ニュートン力学における3次元ユークリッド空間、アインシュタインの4次元時空間、量子場の理論のゲージ場にそれぞれ対応するガリレイ群、ローレンツ群、ゲージ群はそれぞれ対応するリー群(連続群)の構造定数に対応し、リー群はリー環という代数構造に対応し、リー環はヒルベルト空間のユニタリー作用素によって表現される。またリー環に微分可能多様体が付随しているため、多様体上のベクトル、接ベクトル空間、ベクトル場のフローなどが関連している。最初の6章がヒルベルト空間論のユニタリー作用素など関数解析系の説明に割かれていたのはそのような理由による。量子場の理論と作用素環論という代数学の結びつきが順を追ってはっきりと示されている。

(8) 微分幾何学

曲った空間を数学的に取り扱うためのいくつかの概念(測地線、接続、共変微分、曲率など)を導入することから出発し、それをもとにして、一般相対性理論の基礎方程式とその簡単な解まで一気に論ずることを目指している。数式付きで解説される他の中級者向けの一般相対性理論入門とは異なり、多様体についての説明を導入部分に置き、現代微分幾何学との関わりを強く意識している。4次元の擬リーマン時空多様体は一般相対論では「曲がっている」わけだが、一般的なリーマン多様体ではこの「曲率」だけでなく「ねじれ」も定量化されること。そしてこの「ねじれ」が現代において最先端の多次元空間の非可換幾何学に結びついていること。保江は近年提唱されている「コンヌ博士の非可換幾何学」や「超ひも理論」などについて「人為的過ぎる」と懐疑的な考えを持っている。重力場の微分方程式を導くために変分法を使って説明している。ここでは全宇宙のエネルギー積分を表す汎関数に対して最小作用原理を使う。また作用積分に含まれている質点の質量は時空の4次元空間の計量から導かれる無限小の質点測度として与えること、この無限小の量の積分がディラックのデルタ関数として計算されていること、幾何学的な計量が質量という実在的な量に結びついていることも示している。

また、第3章と第18章で大数学者リーマンが1854年にゲッティンゲン大学で行った講演の内容を紹介している。


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ノートルダム清心女子大学大学院への奉職


スイスから帰国後、義兄の世話により東芝総合研究所の研究員となる。同社の提携先でコンピュータ研修を受けていた。その後、スイス渡欧時に世話になったローマカトリック教会の神父が保江の知らぬ間にバチカンへ推薦状を書いてくれた。その結果、ローマカトリック法王庁からノートルダム清心女子大に直接依頼が届き、同大学院に勤務する。


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佐川道場での大東流合気武術の修業

木村達雄から紹介をうけ佐川道場に入門する。はじめて会った佐川からは優しさがにじみ出るような雰囲気があり、とても武道の達人の様相ではなかったという。その際「きみのような優しい人間は、うちに来ても強くなれないよ。それでもよかったら通っておいで」との言葉をもらう。

佐川道場での教えはすこぶる厳格なものであり、佐川いわく「武を志して入門したからには、たとえ門人となって二日目だからといって逃げるわけにはいかないのだ。また何も教わっていなくても、武門の恥とならないよう、たった二日間で見てきた全てを工夫して敵を倒す。その心構えがないようでは、そもそも入門は許されない」(「Excelで学ぶ金融市場の予測の科学」(講談社 142頁)など、保江の書籍のいたるところに佐川道場で得た佐川語録が引用されている。

一方、合気道を基礎として武道の心得があった保江は佐川道場で異様な光景を目にする。鍛えた先輩方や他武道経験者が、90歳を超える高齢の佐川にいとも簡単に投げられ潰され倒されるのである。それも単に崩れるとか、よろめく程度ではなく、数メートル吹き飛ばされるような光景も何度も目にした。そこで、人間の底力、整然と秩序だった力の妙技、合気の技の数々を知ることになる(出典:「量子の道草」(日本評論社))。しかしそれは常識ではありえない光景であった。道場の先輩である木村達雄でさえ、「自分は無意識に(佐川)先生に遠慮して倒されているのだろうか」と自問自答するくらいの技の威力であった。

理学博士である保江は、佐川が使う大東流の技を、物理学的な面、心理学的な面、そして生理学的な面を含め多数から考察した。その最終的な結論は「佐川の合気は、そのいずれも超越した存在である」というものであった。佐川の考察可能な技法については、DVD「保江教授の合気テクニカル」でその一部を紹介している。


内容は以下の通り。


筋骨格系技法

1.弱腰 - 相手の身体骨格構造の弱点を攻める
2.平面骨格 - 相手を平面骨格構造に追い込む
3.緩い肘 - 運動量と慣性力を利用する
4.緩い膝 - 角運動量と重力を利用する


神経制御系技法

1.作用点を動かす - 連続移動作用点を使う
2.多自由度構造 - 相手の支えにならない多自由度構造を作る
3.錐体路系神経支配 - 相手の身体制御機能を停止させる
4.皮膚・脳神経支配 - 相手の脳神経機能を混乱させる


保江は仕事の時間の都合上、昼間の稽古に出ることが多かった。そこには木村をはじめ、少数の門人の参加しかなかった。強くなりたいという欲求よりも、むしろ達人である佐川の技を見たい、そして合気の技をかけてもらうことだけで幸せを感じていた保江は、直伝講習において、ある驚愕の事実に気づく。

以下、「合気開眼」(海鳴社)95頁からの記述を転記。

「僕の直伝講習を最後に、佐川先生とだけ一対一で教えていただく昔ながらの形はなくなり、他の先輩からの面前で先生が技をかけてみせて下さる形に変わったし、(中略)そして、思い出すのはその直伝で受けた合気の技のどれもが、(中略)柔らかく暖かく心地よく包み込まれたかのように自分の体がフワフワになり、(中略)

こんな不思議な体験を続けていくうちに、さらに不思議なこともわかってきた。それは、先生が僕の腕をつかんで技をかけとき、確かにつかんだかのような手の形にはなっているのだが、つかまれていた僕の腕の皮膚感覚では何もつかまれていないということ。つまり、佐川先生の手の内の皮膚が僕の腕の皮膚と接触して何らかの力を伝えてきて倒されるわけでないということだ」

佐川宗範の直伝を受けたものだけが知る、にわかに信じられない事実が語られている。


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実父輝義との世界一周旅行

保江の父である保江輝義(1998年4月1日没)は、陸軍二式単座戦闘機 鍾馗(しょうき)そして三式戦闘機 飛燕(ひえん)のパイロットであった。

保江は、この父を連れ二人で1996年9月1日から9月17日の16日間世界一周親孝行旅行に出かけた。ファーストクラスを使用した旅行であったが、何と航空運賃の全額は40万円弱であるという信じ難いものであった。チケットを外貨建てにし韓国をスタートとするなどの当時のやり方が紹介されている。詳細については、「戦闘機乗りジイさんの世界一周」(講談社)の後書きを参照。

この書籍では、高齢の輝義が戦闘機乗りであったという事実だけで、複数の異国の航空機パイロットが輝義に敬意を示し機長室に招き写真を特別に許可したなど、興味深い事実が語られている。


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末期ガンからの生還、奇跡の体験〜合気(愛魂)開眼

「数理物理学方法序説」を書き終えた直後から、片方の耳の聴力を失う。1年半以上にわたる睡眠時間4時間および体を酷使した過酷なスケジュールの結果、立つことさえできなくなるという多発性脳神経症と診断される。退院したあとも聴力を失ったままとなり、またそのころから腹部が膨れてくる症状が生じた。総合病院の救急受付にて検査を受けたところ、腸閉塞が進行したことによる大腸ガンを宣告される。保江本人はガンであっても隠遁者様(エスタニスラウ神父)にお願いし祈っていただければ、何とかなると考えた。


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冠光寺眞法

1990年前後より聖賢エスタニスラウ・マリア・ヨパルト[4](三原市羽倉のカトリック修業場「四方庵」の隠遁者)に師事し、聖母マリアを祀る修道騎士団寺院に伝わるイエス・キリスト伝来の秘技を伝授される。これは、もとは、イエス・キリストが直接使用した活人術である。 大脳由来の心象をイエスの説く「愛」そのものに変化させ思考を停止し凡そ人間全てに備わるその心の心の成立前提である生命現象を司る「魂」間の行動制御法である。その効果は日本武術の最高極意「合気」と酷似する。また、イエスが説いた「愛」により己を迫害する者をも受け入れ決して敵意を抱かないという原理故に、そもそも悪用は原理的に成り立たない。 これを世に広めるため、光り輝く冠をつけることを許された唯一の存在である聖母マリア=冠光、キリスト教寺院=寺ということから、「冠光寺眞法」(コムニタ、コミュニタ Comunitat)と保江が命名した。

平成26年6月現在、4名に冠光寺眞法免許皆伝が授与されている。そのうち一人は、空手道真義館館長麻山慎吾。


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冠光寺流柔術

元々は、如何なる場合にも敵意を抱かず相手を受け入れることで発現する冠光寺眞法を修得するために考えだされた、カトリックの聖地モンセラート山中において隠遁を選択した神父達によって密やかに行われてきた一見柔道や相撲に似た組み技系の荒行である。

自分を殺傷せんと加えられる相手の攻撃を受けてなお、相手を愛し受け入れることが可能になるように修練する目的を持つが、襲いくる敵を目の前に己の防御・反撃を完全に放棄しなければならないため、眞法共々至難の業といえる。 保江は、冠光寺眞法と併せて、物理法則に裏付けられた力学技法を加味した「冠光寺流柔術」を活人術と位置づけた。そのため、ロシア正教に伝わった同様の技法を基本とする旧ソビエト陸軍の格闘技として発展したロシア武術システマと類似点もあるとされる。最も大きな特徴は「汝の敵を愛せよ」というキリストの教えを柔術技法に活かして合気に似た効果を生み出すことで、筋力や運動能力に劣る者が優る者を制することができることにあるという。

冠光寺流柔術は、現在岡山市野山武道館、関西、名古屋、東京、およびハワイ(ホノルル)にて伝授している。 合気(愛魂)を取得するための方法として柔術形式の形をとっている。

DVD「合気を掴む!(基本編)」にて、柔和無拍子な合気の6技法が公開されている。

1.マザーテレサ効果 - 相手のことを本当に大切に思う。それにより相手の筋肉は自然に反応し動く。

2.支える力の効果 - 長年の友人に会えて「ああ嬉しい」という気持ちで握手するように掴む。

3.溶け込む力の効果 - 両手で持たれても、心配せず相手に溶け込む。

4.伝える力の効果 - 掴んできた相手の腕を愛する。「腕フェチ」になり、新しいコレクション増えて喜ぶように。

5.拡がる力の効果 - 「子供のような心」になる。自由で動ける状態を体で喜び、それを相手にぶつける。

6.包み込む力の効果 - 投げ飛ばすのではなく、我が子である赤ん坊をお風呂に入れるように包み込む。


DVD「合気を掴む!(実践編)」同、融合大円和な合気の6技法。

1.祈りの力の効果 - まず最愛の人が幸せに生きていけるように願う。頭で願ってもダメで心で願う。

2.湧き出る力の効果 - 愛情を持って進んで、相手にぶつかっていく。

3.絡み合う力の効果 - 相手と自分の間に“愛の接着剤”があると思い相手をペターとくっつけてしまおう”という気持ちで接する。

4.受け止める力の効果 - 相手との繋がりを“愛の糊”で作ると想像する。それから相手の骨格を徐々に変えていくと想像する。

5.今に生きる力の効果 - “愛の鳥もち”をネバネバと相手との間に出すと想像する。この鳥もちでベタベタベターっとの感じで。

6.真剣な力の効果 - 愛を全開にして前にだけ出る、それだけ。絶対に下がらない。躱したり逃げたりしたら終わり。


一例として、「秘伝」平成23年6月号に以下の記載がある。合気の仮説として、「合気とは敵の筋肉が無意識下で働くことで敵があたかも倒されたような動作を誘導する技法である」と定義。また、合気挙げの方法として意識による相手の変化を実例をあげて解説している。


ケース1 「相手を母親と思い、幸せを祈る」

ケース2 「ケース1に加え、全人類の幸せを祈る」

ケース3 「ケース1に加え、全人類と全天使の幸せを祈る」

ケース4 「ケース1に加え、全人類と全天使と神様の幸せを祈る」

合気挙げを行う場合の注意点として、抑えこんでくる相手が足の筋肉を鍛えている場合はよく挙がるが、反対に、鍛えてない相手の場合は挙がりにくいことが多いと指摘している。


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合気へのアプローチ


保江は、「秘伝」平成23年3月号で自らの合気へのアプローチを以下のように3つに総括している。

A 物理学者としてのアプローチ

B 特異体験をした一個人としての形而上学的なアプローチ

C 脳科学者としてのアプローチ

そのアプローチの目的は、世に出ている合気技法が定義なく使用されている現状を憂い、将来において武道界等において「合気」という意味不明な用語が一人歩きしてしまい、もはや何人たりともその真の意味や実像を求めることはおろか、言葉としての存在すら失われてしまいかねない懸念を払拭したいと語っている。

これらのアプローチにて合気を解読しようとし複数の書籍にてその成果を発表したことから、ある意味で誤解され、かつ混乱させたことを「身から出た錆」と自ら認め語っている。そして人間・保江邦夫の本音として、合気の原理とか作用機序というものは、形而上学的な色合いの濃いものであると考えていると告白。一方で、塩坂からは一番誤解を受けたと思われる形而上学的なアプローチについて、「道家や日本古来の神仙道・密教・修験道の中にも形而上学的な合気が確かに存在する」というコメントを引き出した。この点で両者の意見は一致する。

これら3つのアプローチを用いて既存の合気技法を篩にかけることにより、真の合気技法が存在するのか否かを問うていきたいと述べている。

現時点(平成21年)で、保江は合気の作用順序を以下のように定義づけている。(「脳と刀」194頁)

1.相手が攻撃してくる前から自分の精神的内面をあたかも夢想しているかのような状態、たとえば夢遊病疾患者や全ての執着を捨て去った赤ん坊のような内面をつくりあげる。このとき、眼は虚ろにして相手はもちろんのこと、どこにも焦点をあわさないで空(くう)を見て、自我意識による思考雑念は無視する。

2.このような内面操作により、自分の右脳が広範囲に活性化するだけでなく、大脳基底核が強く活性化する。

3.すると、攻撃してくる相手の大脳皮質の活性が一瞬の間だけ極度に低下し、その間は大脳皮質による精神機能が停止する。その結果、相手の意識に空白が生まれ、大脳皮質運動野による身体制御ができなくなる。

4.また、相手の大脳基底核の機能も低下し、その結果、パーキンソ病の症状と同じように身体骨格筋の正常動作が阻害され、身体運動の自由が効かなくなるとか、ハンチントン舞踊病と同様に何ら意図していないにもかかわらず、骨格筋を緊張させる神経電位信号が末梢に送られて手足が勝手に動いてしまうようになる。

これら合気発動の作用順序の公開理由については、広大無辺な合気実相のほんの入り口にすぎないと断った上で、これらの技法は、魂に導かれた調和に溢れる生き様を歩むことができる活人術技法にも繋がるためと称している。

一方で、こうした合気を武術技法まで昇華させるには細かい方法で補完する必要がある。大東流に見られる門外不出の扱いは、悪用しない厳選した人物を選ぶためでもあるという。

脳科学や神経科学については理論的考察が先行するため、机上の空論に陥りやすい危険性を有している。こうした点を厳に踏まえつつ実証実験や考察を継続している。


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ボディバランスコミュニケーション(BBC)

現在社会におけるコミュニケーションの延長上の一つとして、ボディバランスコミュニケーション(BBC)を山崎博通(少林寺拳法武道専門学校校長)とともに提唱している。BBCは、日本武道や少林寺拳法などの精神技法の昇華として位置づけられるという。

保江は、ノートルダム清心女子大において、身体科学の授業(1年から4年まで受講可能)として担当指導している。

第1講 歩き方 第2講 呼吸法 第3講 転び方 第4講 遊び 第5講 受け入れる 第6講 委ねる

この講座では、武道における身体運動をスタートとし、力学と精神の理解をこえて自者と他者との融合である自他融合まで説いている。自他融合は愛魂に通じる内容でもあるが、保江は、いずれ母親となる女子大生へ、賢く優しい母親になって欲しいとの願いを込めて全てを伝えている。


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NPO コムニタ活人塾

2012年2月18日、NPOコムニタ活人塾を設立し塾長に就任。理事長は冠光寺流柔術の弟子でもある服部徹。目的は愛の心に満たされた社会の実現を目指すコムニタの心を、多くの方々に伝えることであった。そして、2013年3月に目的を達成したため閉会した。 ここで、保江は武術を介することなく愛魂を伝える術をすべて伝授した。活人術の具体的な手法として、10の例を示した。活人術のエッセンスとしては「愛し、愛され、在るがまま」と伝えている。

1 損なクジをひく 
2 しもべになる 
3 自分の気持ちの中に何も留めおかない 
4 朝、目が覚めたら手を合わせる 
5 物を活かす 
6 人を神様と思う 
7 人に寄りそう 
8 愛する 
9 愛されていると思い込む 
10 在るがまま


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量子モナド理論

京都大学大学院時代からの盟友中込照明の提唱する量子モナド理論により、万物すべて物理学のみならず合気の存在でさえ説明可能としている。


兵器マニア

物理学の精華として兵器が存在することから、保江はかなり兵器について研究、精通している。また、ダグラス A-4C スカイホーク、ハリアー GR3 、陸軍二式単座戦闘機 鍾馗、超軽量偵察機、そしてエアストリーム CCD-24 などの機体の一部を自宅庭に保持している。


UFOと宇宙人

保江はUFOと宇宙人について深く研究している。もともとこうした興味から天文学科を目指した経緯がある。 「合気の道」及び「愛の宇宙方程式」にて、合気の技がUFOの操縦技術につながるものであるのとの見解を示した。

また、小惑星の一つに、保江の名前を冠したものがある。

名前は「(8101) 保江 (Yasue)」 仮符号「1993 XK1」発見日「 1993年12月15日」発見者「小林隆男」観測所「Oizumi」MPC「46681」

彼は岡山県美星天文台に依頼してこの小惑星を写真撮影してもらい、自分の名刺の裏面に印刷している。


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弟子

ジャンクロード・ザンブリニ
- フランス系スイス人。ジュネーヴ大学社会学部哲学科卒。同大学院にて理論物理学を専攻する。彼は保江の指導により理学博士号を取得し、アメリカのプリンストン大学数学教室の研究員として渡米した。


治部(じぶ)眞里
- 数理物理学の弟子。保江との共著・共訳多数。現在、スイスのOECD所属。元 文部科学省科学技術政策研究所第1調査研究グループ上席研究官。治部は文学部出身であるが、ノートルダム清心女子大情報理学研究所において保江のもとで助教授を経て、岡山大学にて医学博士を取得し、文部省に入省する。その後、マギル大にてMBA取得。The 11thEuropean Meeting on Cybernetics and Systems Researchにおいて最優秀論文賞受賞。 元北海道大学客員教授、元清心女子高等学校スーパーサイエンススクール(SSH)運営指導委員会副委員長、元岡山ESDプロジェクト相談役。


炭粉(すみこ)良三
- 冠光寺眞法・冠光寺流柔術の弟子。著名フルコンタクト空手道場で修業する有段者。当初、「合気」なるものを「そんなものがあるなら俺たちの試合に出てみろ」とその存在を全く信用していなかった。保江と立ち会った際、保江の合気に感服して弟子入り。著書に『合気解明』『合気真伝』『合気流浪』『合気深淵』『合気解体新書 - 冠光寺眞法修行叙説』(いずれも海鳴社)。この書籍の中で、炭粉は合気と時間の関係について記述している。今までの合気の書籍には触れられていない内容である。なお、保江との立ち会いの模様は『合気解明』(第二部)に、さらにその闘いの分析 は、『合気解体新書』(第二部)に詳しい。また合気に治療原理を発見し自身の施術体験として『零式活人術』『零式活人術II』(いずれも海鳴社)。


畑村洋数
- 冠光寺眞法・冠光寺流柔術の弟子。保江から許可を得て、既存のフルコン空手と合気(愛魂)を融合させ、氣空術を創始する。神戸にてフルコン空手拳友会を主催している。冠光寺流柔術5段・冠光寺眞法7段を允可。著書に『謎の空手・氣空術〜合気空手道の誕生(保江邦夫監修)』『続 謎の空手・氣空術(保江邦夫監修)』(いずれも海鳴社)。『合氣と空手の融合 氣空術 新次元の受けと突き(特別協力 保江邦夫)【DVD】』(BABジャパン)


木下淳人
- 冠光寺眞法・冠光寺流柔術の弟子。保江から関東支部長に任命される。某合氣道元世界チャンピオン。現在は合氣道眞伝会を主催。冠光寺流柔術7段を允許。


加藤久雄
- 自然学舎「どんぐり亭」亭主。保江の活人術を学び、森に建てられた山小屋で、不登校等で苦悩する親子を支える活動を行う。著書に『どんぐり亭物語』(海鳴社)。「65点の君が好き」弱虫先生の日記帳(風雲舎)


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DVD

すべて合気・冠光寺眞法・冠光寺流柔術の技術教伝ビデオである。

『冠光寺眞法』 - キリスト伝来の活人護身術 -(海鳴社)
『唯心論武道の誕生』 下記参照
『保江教授の合気テクニカル』 - VOL.1 筋骨格系技法編 - (BABジャパン)
『保江教授の合気テクニカル』 - VOL.2 神経制御系技法編 - (BABジャパン)
『合気を掴む!』 - VOL.1 基本編〜柔和無拍子な合気の6技法 - (BABジャパン)
『合気を掴む!』 - VOL.2 応用編〜融合大円和な合気の6技法 - (BABジャパン)

著書

数学・物理学・脳科学

日本評論社 数理物理学方法序説シリーズ

1巻『複素関数論』
2巻『ヒルベルト空間論』
3巻『量子力学』
4巻『確率論』
5巻『変分学』
6巻『解析力学』
7巻『連続群論』
8巻『微分幾何学』
別巻『物理数学における微分方程式』

この1〜8巻を1年半ですべて書き下ろした。別巻については、各巻の例題について補完する意味で出版。


講談社ブルーバックス

『早わかり物理50の公式』- 公式で読み解く物理のしくみ -
『数学版これを英語で言えますか?』
『数の論理』- マイナスかけるマイナスはなぜプラスか? -
『Excelで学ぶ量子力学』 - 量子の世界を覗き見る確率力学入門 -
『Excelで学ぶ金融市場予測の科学』 - 市場を動かす中心金融定理とは何か - 2000年版
『Excelで学ぶ金融市場予測の科学』- ブラック-ショールズ理論完全制覇 - 2003年版
『脳と心の量子論』 - 場の量子論が解きあかす心の姿 -(治部眞里との共著)


通常の単行本

単独執筆
『量子力学と最適制御理論』- 確率量子化と確率変分学への誘い -
『確率微分方程式』- 入門前夜 - (朝倉書店すうがくぶっくす)
『数値確率解析入門』 (朝倉書店すうがくぶっくす)
『量子の道草』- 方程式のある風景
『量子の道草』- 方程式のある風景 -(増補版) 増補版のみ桜井進との対談が掲載されている。

英文論文集『It appears!』(1993) 編纂:治部眞里 1976〜1992年に公表された保江の英語論文集


一部執筆

日本生物物理学会シリーズ・ニューバイオフィジックス刊行委員会編『脳と心のバイオフィジックス』
高橋康監修 SGCライブラリ 25『数理科学』2003年7月臨時別冊『量子場脳理論入門』-脳・生命科学のための場の量子論
『数理科学』2010年1月臨時別冊『多彩な量子の世界』 - その広がりに映し出される発展と深化 -
森毅 編『数値確率解析入門』
青木薫 編『この数学書がおもしろい』
林晋 編『パラドックス!』


以下、すべて治部眞里との共著

Quantum Brain Dynamics and Consciousness: An Introduction (Advances in Consciousness Research, V. 3)(英字論文)
『1リットルの宇宙論』- 量子脳力学への誘い
『1リットルの量子論』- アインシュタインのロマンと湯川秀樹の夢


金融工学

(上記を除く)
『笑ってわかるデリバティブ』(北村好朗との共著)

コンピュータプログラミング
『秘伝機械算術』-Unix流FORTRAN派入門 -
『秘伝機械算術』-正伝Unix流C派見参 - (共著)

亡き父へのレクイエム
『戦闘機乗りジイさんの世界一周』

合気
『合気開眼』
『唯心論武道の誕生』(DVD付き書籍)
『脳と刀』-精神物理学から見た剣術極意と合気 - フランスの脳科学者大谷悟との対談が含まれる。
『合気の道』
『合気問答』(塩坂洋一との共著)
『合気真髄』-愛魂、舞祈、神人合一という秘法
『合気の秘訣』

柔術
『武道の達人』
『武道vs.物理学』
『物理学で合気に迫る 身体「崩し」の構造』

ボディーバランス・コミュニケーション
『ボディーバランス・コミュニケーション』(宗由貴監修 山崎博通との共著)
『自立力育成のためのボディーバランス・コミュニケーション』(保江邦夫監修 山崎博通著)

自伝
『路傍の奇跡』

愛魂
『魂のかけら』(佐川邦夫というペンネームで執筆している)
『愛の宇宙方程式』
『人を見たら神様と思え』
『予定調和から連鎖調和へ』
『神さまにつながった電話』
『ついに、愛の宇宙方程式が解けました』

神意
『伯家神道の祝之神事(はふりのしんじ)を授かった僕がなぜ』
『古神道《神降ろしの秘儀》がレムリアとアトランティスの魂を蘇らせる時』
『ありのままで生きる』(矢作直樹との共著)
『神に近づくには波長をあわせればいい!』


UFOほか
『あの世飛行士 未来への心躍るデスサーフィン』(木内 鶴彦との共著)
『あの世飛行士 [予約フライト篇]死んでる場合じゃないよ 』(木内 鶴彦との共著)
『物理で語り尽くすUFO・あの世・神様の世界』(井口 和基との共著)


電子書籍
『サイレントクイーン』(でじたる書房)竹久おさむというペンネームで執筆している。


以下、すべて治部眞里らとの共訳。

梅沢博臣,ジョセッピ・ヴィティエロ共著『量子力学』- 変換理論と散乱理論 -日本評論社
マリリン・ファーガソン著『ライフ・チェンジ 』 - (たま出版 プラグマジック・シリーズ)
マリリン・ファーガソン著『マインド・チェンジ』 - (たま出版 プラグマジック・シリーズ) マリリン・ファーガソンは占星術的に見て現在水瓶座の時代であることを説いた著書『アクエリアス革命』(監訳:堺屋太一(のちの大臣))で知られる。


編集
高林武彦『量子力学』 - 観測と解釈問題 - (恩師の遺稿)
『No Matter, Never Mind』 - Proceedings of Toward a Science of Consciousness -(治部らとの共同編集。1999年に国際連合大学で開催した国際会議の資料)


受賞
最優秀論文賞

(BEST PAPER AWARD,in the 11th European Meeting on Cybemetics and Systems Research)1992


論文
A note on the derivation of the Schrödinger-Langevin equation 1977[5]
Derivation of Relativistic Wave Equations in the Theory of Elementary Domains 1978[6]
Stochastic quantization: A review 1979[7]
The Onsager-Machlup Lagrangian and the Optimal Control for Diffusion Processes 1980[8]
Schrödinger's variational method of quantization revisited 1980[9]
Stochastic calculus of variations 1980[10]
A path-probability representation for wavefunctions 1981[11]
Stochastic calculus of variations revisited 1986[12]
Computer stochastic mechanics 1988[13]
Stochastic neurodynamics 1988[14]
Quantum Measurement by Quantum Brain 1995[15]
Effect of anesthetics on the self-sustained oscillation in an artificial membrane induced by repetitive conformational change of DOPH molecules between hydrophilic and hydrophobic phases 1998[16]
保江邦夫: 物性若手夏の学校第41回「観測問題の本質と解決」(物性基礎論),1996
Y.Saito and K.Yasue: Frontier Perspectives, Vol.10,No.1(2001)28
Y.Saito and K.Yasue:大阪市立科学館研究報告 11,15-19(2001)


寄稿
『合気の継承』(木村達雄還暦記念文集)「兄弟子木村達雄の背中を見続けた四半世紀」平成19年


雑誌連載

『材料開発ジャーナル』
『数学セミナー』 理系のための知的好奇心 1995.6力学おもちゃから見た現代数学 1996.7方程式のある風景 ディラック方程式(上) 1996.12方程式のある風景 ディラック方程式(下) 1997.2
『素粒子研究』 量子論における最小作用原理(1)─確率解析学と確率変分学─‥‥70-6 (1985)量子論における最小作用原理(2)─確率量子化と量子の運動法則─‥‥71-2 (1985)量子論における最小作用原理(3)─最小作用の法則と量子力学─‥‥71-5 (1985)量子論における最小作用原理(4)─ザンブリニの構成理論─‥‥73-1 (1986)頭を使った場の量子論(治部 眞里)‥‥80-6 (1990)
『Futures Japan』 「なにわ金融工学道」と称し2002年6月から12月号に連載。
『ダ・ヴィンチ』第141号 一青窈のふむふむのヒトトキ:保江邦夫×一青窈 前編 テレポーテーションできるのは物質ではなく状態である
『ダ・ヴィンチ』第142号 一青窈のふむふむのヒトトキ:保江邦夫×一青窈 後編 エリア51の秘密について
『月刊秘伝』(BABジャパン)「物理学から見た崩しと合気」と称し隔月連載。平成22年10月号にて全18回終了。
『月刊秘伝』(BABジャパン 平成22年9月号「あの頃の佐川道場」佐川道場の先輩である塩坂洋一と対談。
『月刊秘伝』(BABジャパン)2011年3月号から「合気往復書簡集」と称して塩坂洋一と対談形式にて連載。
『月刊秘伝』(BABジャパン)2012年11月号「合気新時代への愛魂とチャックアーツ」
『月刊秘伝』(BABジャパン)2014年6月号「ミカエル・リャブコ(システマ創始者)と対談」


ブログ

空想科学私小説家顛末記という名のブログも存在する。


テレビ出演

ABCテレビ「クイズ!紳助くん」(大阪地上波では2010年3月15日放送)漫才コンビ「プラスマイナス」にアホ合気を野山道場にて指導。極真空手と対決。
NHK「ニュースコア6」(2010年4月22日 18:10〜)岡山武道館から道場での指導風景を生中継。
フジテレビ「クイズ!ヘキサゴンII」(2010年6月23日放送)物理学による護身術をスザンヌたちに教授したあと、「おバカさんは素晴らしい講座」を講義。
TBSテレビ「オールスター感謝祭」(2010年10月2日放送)早く物事に反応する方法をアホになることと解説し、芸人・演者にアホトレーニングを行い最強のアホガンマンが誕生。
OHKテレビ「ニョッキン7+th」(2010年10月22日放送)大学教授が教える、脳をダマしてウマく生活する方法とは!?
ABCテレビ「探偵ナイトスクープvsクイズ!紳助くん2010」(2010年12月31日放送)総集編を放送。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E6%B1%9F%E9%82%A6%E5%A4%AB


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関連投稿


阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい
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