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By_q_x6lBF4 コメント履歴 No: 100000
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[議論31] 《真理はシンプルなもの》人間はどこから来て、どこに向かうべきなのか? お天道様はお見通し
4. 2018年9月14日 13:08:51 : yOtvkiLihg : By_q_x6lBF4[1]
>3
神出鬼没を装って他人の投稿に張り付いて監視する「異常者診断ネットワーク」のボランティアさん。
今日もご精が出ますな。ごくろーさん。
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/633.html#c4
[議論31] 《真理はシンプルなもの》人間はどこから来て、どこに向かうべきなのか? お天道様はお見通し
5. 2018年9月14日 15:27:38 : yOtvkiLihg : By_q_x6lBF4[2]
「言葉」は簡単に「履き違え」される。
誰かが「感覚で理解したもの」を言葉に変換するのは容易い。しかしその逆は困難である。
そうして誰かによって感覚的に悟られた真理は「言葉に置換された言葉」となって一人歩きする過程では洋々に間違いを起こしかねないものとなる。

政木氏の逸話に対する所感は別として、これは塩谷氏に関しても同じ記述を見る事が出来るが、その真理を悟りたいとするものに取ってすべきことは、理屈をただ頭に言葉にインプットするということではない。それで何かが済む、良い変化が期待できると云う話には至らない。これを信じる事で何かに依存できるという考えをまず捨てなければならない。
誰でも「ただの理屈」を「紛れも無い知識」へと昇華するには「同様の過程を経ることだけが確かなもの」だということとなる。

よってまず、言葉で語られる「真理性をとじこめた理屈」へは疑ってかかるのがよい。
疑っても良いが、それで済む事もまた無い。
またはそれを信じてみたいとする人間もまたそれだけで済む話では無い。
だから否定する側と、疑いを晴らして証明したいとする側双方の立場はなべておなじである。

良い変化を求めると云うなら、まず自己が持つ日常へ対しての違和感を明確にさせなければ、その後に良い変化は期待できない。苦痛や圧といったものとは、そこから抜け出すことを示唆し、促すために存在するのである。

だからまずは、こうした話はすべて、「意識の変革を自己に促し、その道程へと自ら足を踏み込ませるきっかけとなりえるもの」にすぎないと心得る事だ。

「欲望を捨てよ」という"ことば"を理解するには、まず、その「言葉がかかる本質部分が何か」を感覚的に掴まなくてはなら無い。「真理を別の理屈に閉じ込めてしまわぬよう」に。

「感覚的につかむために何をすべきか」は"感性の領域"で掴むべき問題だ。
それは「脳の働きに頼ってどうこうする」ということではない。
そこにある真理めいた理屈を「別の理屈に閉じ込める」ことなく、「どのように感覚的な理解に落とし込むか」にある。

謂わばこれはほぼ「思い出す」という作業に等しいと言えるのではないか。
そう考えれば、受け入れ態勢は自然と整ってくる。

つまり、何かに「依存して今この場から離れよう」とするのではなく、あらゆる抵抗を捨てて、すべてを「理屈を介さず」"受け容れる"ということだ。

そこで提案がある。
例えば、こう想像してみる。

「自分の額の奥、脳の前方に小さな石が埋め込まれていると想像する。
その石は結石のように石灰がこびりついていて、白く濁って塊となっている。
そこに上方から一筋の温かな水が流れ落ちてくる。
その水は額の中心から中に降り注いで、その額の中の白く濁った石へと注がれていく。
綺麗な水はそののち、そのまま首の後ろ側(頸椎)から出ていき、背中側後方に消えて行く。
日光が乱反射する輝きを写し取った綺麗な水は白い石にゆっくりとあたたかく注がれ続ける。
額の中の石はしずかにゆっくりと洗い流されていく。
そうして石の表皮が洗われていくと、ほどなくして外側にこびり付いていた歯石のような塊は剥がれ落ちていく。
そしてその中から綺麗な光を宿す透明なクリスタルが真実の姿を露にして行く。

そのようにただ、その想像による水の流れを受け入れるだけにして数分間リラックスして過ごしてみる。

こうしたことで頭脳の働きを制限し、感情に振り回されたり、神経を逆撫でしたりという無益な活動を止め、知覚の働きを鋭敏に保つことに専念するようにクセを付ける。
理屈や思念のフィルターを通さず、あらゆる現場の状況を直接的に感性にただ楽しむだけにする。

これは感性のバランスを保つだけにあらず、情報察知能力を鋭利なものにする技術的な練習として役立つ。その為の時間を毎日数分取るだけでいい。


「自我」とはよく西洋的な概念が優勢な場所では「モンキーマインド/モンキーブレイン」と別称でいわれることがある。
だが自我とは「脳」という記憶媒体内に作り込まれたプログラム=新しいパーソナリティー(生命)だ。
それ自体を悪く言うことはしないほうがいい。あくまでそれは「塗り替える事が可能なもの」であるからだ。だから社会性としてそこに一体である古びた常識や理屈を変える為にいま人間が動いているのである。

その頭脳(自我)の働きが確立する前段階での人体において優勢なのは「腸と心臓にある脳細胞」である。
人間もまた家畜同様、食事で分解した栄養素がどの機関へと送られるべきかと云った指令や作業は頭脳とは別の司令塔が担当している。ふたつ以上脳を持っているというのは随分古くからある学術的な認識だ。

そこでもっとも大事なのは心臓(ハート/ヘルツ)である。ここが優勢なままで人格らしきものが形成されていない生き物は当然なから純粋に美しくある。ここが人体のすべての細胞の訴えを把握している。
そこからの情報を理屈によってパンクさせられた頭脳では汲み上げる事が出来ず、簡単に遮断してしまう。つまり脳の働きだけを優勢としている人間は人体と脳の連繋が出来ていない。だから欲に塗れる。

私もそう言う段階に入ったから言えるのだが、人生とはただ若さに任せて動ける活発な時期と、ただ落ちぶれて行く時期とで構成されているわけではなく、若さだけで動けなくなった時期とは、肉体面においても正しい真理性を掴む養成期間として存在するものと理解する事だ。ここでこそ正しい身体の使い方と云うものが理解できるようになるのである。

頭脳とは理屈を記憶に閉じ込めるに適したものだが、優れていると自覚するもの程、そこにはいわばワンマン経理によるワンマン経営だけがあり、容易に人の言う事を聞く耳を持たなくなる。それでは他の臓器器官、または神経細胞の訴えを遮断して理屈のみを優先するだけとなる。
それは、頭脳である自分だけがこの人体の全ての運命を任されていると気しょくばんでもいるからだ。

欲を捨てると言うのは単純に言えば、そうした社会性との関連づけによって自己のバランスを考えるような理屈に執着することを辞めよ、ということである。

身近な例を挙げれば、
身体は感覚的に「これはもうこれはたくさんだ」と訴えているのにも関わらず、その声を無視し、
「食べ放題だから食べないと損だ」、「肉を食べないと健康が心配だ」とい頭での理解のみを優先し、
肉を食べ過ぎたり、砂糖と人工保存料のたっぷりかかった甘いだけの菓子をたらふく食う、とかだ。

当然そうして自業自得でお医者さまのご厄介になることになっても、さらにそこで同様に、
「これはやめたほうがいい」と身体か訴えているのにも関わらず、
「医者が言っている事だから=自分は何も解らないから=だから"天に任せて"飲むほかない」と
薬漬けにされて、最終的に医薬の所為で寿命を縮めているとかだ。
例外無くこうした事を政策によって進めて、医療天国などと騒がせて、
それによって莫大な利権を築き、そこで不正学部入試事件、医療ミスなどという流れに歯止めが聞かなくなっているのが現状だな。その陰で日本はガン死亡率ナンバーワンで二人に一人がガンで死ぬなどと煽って、医療番組などだけがもてはやされるようになっている。
医療介護や医療保険、年金問題、どれももっと寛大で簡単な解決方法などいくらでもあるだろうに。


だから、「感覚からの訴え」を遮断したり制限している自分に気付いたらそこで立ち止まって、自分を頭ごなしに否定したり、理屈で物事を取り繕ったり捉えたりというのを止め、
今自分が感じているものを「ありのままのもの」とだけしてみればいい。

そうして自己を日々更新して新たにすること、確かな感覚にのみ専念するという事が大事だ。
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