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[政治・選挙・NHK214] 党名を自由党と変更し、新たなスタートを切ることとなりました。ご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。 小沢一郎(事務所 赤かぶ
67. 母系社会[1237] leqMbo7Qie8 2016年10月17日 15:34:02 : SurwB33bIk : HdE3WdA_2Bo[1]
>>66さん

新潟で米山氏が勝ちましたね。グッドです。とにかく、現在の連合の欠陥が誰の目にも明確になったのは良かったです。

原発の問題は万一の場合、取り返しができないわけですから、連合内の反原発派の組合は脱退して、民進党から再稼働派を追い出し、社・共と自由党を応援すべきです。

柏崎刈羽原発が事故を起こしたら、中国は許可しないでしょうから、日本人の半数ぐらいはシベリアとか、南米にでも移住するしかなくなります。

>そうしたら絶対に正しい宗教があるはずだと思うのが逆説的アプローチになると思いませんか?

この件は、人間の知性=理性を、@全知全能の神の知性に近いものと考えるか、A神とサルの中間と考えるのかで、違ってくると思います。

「相対性理論」と「量子力学」を前提にする廣松哲学の信者であるわれわれとしては、Aの立場で、人間の知性=理性には限界があると考えます。これは「パラダイム」についての考え方とも関連し、われわれ人類は、大小様々な「パラダイム」を暗黙の前提として思考し、生きていると考えます。

人類はそれぞれ、歴史的、文化・社会的な「思考の枠組み」としての「パラダイム」に従って思考しているので、この「パラダイム」を全面的に乗り越えて、「生の現実」を認識するというようなことは、人間には不可能という立場です。

この「パラダイム」は、ヨーロッパ中世までは、部分よりも全体を重視する有機体論的な「生物論的自然観」でしたが、これが粒子的原子論が優勢になった近代は、全体よりも部分を重視する「要素主義」の「機械論的自然観」へと変わり、人間観も「個人主義」が優勢になりました。

その後、量子力学により、波的な、雲的な原子論が出現したので、システム論のような新しい科学が始まりましたが、まだ、大半の科学者は「機械論的自然観」と素朴反映論を前提に研究しています。

ただし、「生物論的自然観」も「機械論的自然観」も、完全な誤謬であれば、既に人類は滅亡しているはずなので、それらは全くの誤りではないわけで、それぞれが、ある角度から世界を視ているということです。(ついでに言えば、「事的世界観」=「関係主義的自然観」も、ある角度から世界を視ているに過ぎませんが)

それで、人間の確信=自分自身の確信も余りあてにならないものと考えるので、自分の確信=「相対性理論」や「量子力学」、関係主義、弁証法など=も含めて、常に「全てを疑え」=常に何度も「吟味・検証せよ」ということになります。

つまり、「全てを疑え」という現実への対処方法=実践的「姿勢」=「知の構え」がマルクス思想の神髄であり、この「全てを疑え」=「全てを吟味せよ」以外は相対的真理と考える「歴史的相対主義」が廣松哲学だと思います。

「絶対に正しい宗教」を「絶対に正しい教義=客観的な真理」を説く宗教のことだとすると、まずは、普遍的な客観自体が存在しないと考えます。ですから、その普遍的な客観についての知=通常の意味での真理も無いことになります。

というのは、「相対性理論」によれば、この宇宙には秒速30万キロの「光速度不変の原理」以外には普遍的なものは無く、時間と空間自体が<慣性系>毎に異なるからです。しかも、それぞれの<慣性系>は並立しているだけであり、この宇宙には絶対的で格別な<慣性系>というものは無いことになるので、普遍的な客観というものは存在しないことになります。

この立場は、普遍的な客観は存在するが、人間の知性=理性には限界があるので、せいぜいが近似的にしか把握できないというような意味の相対論ではなく、そもそも、文字通りの意味の普遍的な客観自体が実在しないという立場なので、不可知論でもありません。

しかし、全く客観的なものが無いというわけでもなく、実在するのは個々の<慣性系>ですから、少なくとも個々の<慣性系>毎の客観は存在します。人類の場合なら、人類が帰属している<慣性系>での客観が人類にとっての客観ということになります。

これは、別の学問で言えば、すべての動物はそれぞれの「種」特有の知覚世界で生きているというヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した「環世界」(環境世界)の世界観と整合する世界観=相即する世界観です。

しかし、普通の常識では、これは奇妙だと思うはずです。なぜならば、人類は長い間、全知全能の神が存在し、その神の認識が真理だと考えてきたので、真理という概念には、この世界を上空から俯瞰した時に見える知、人間も客観の一つとして、神の視点で見た知という意味、つまり人間が関係していない知という意味があります。

そして、大半の唯物論者は、一方では神を否定しながらも、一方では、この上空飛翔的、俯瞰的な認識が真理という真理についての概念は、そのまま維持しています。そして、これは「主観ー客観」という構図での認識論ですから、大半の唯物論者は、実質的には、まだ、客観とは無関係に独立自存する自己(自我)が実在するという前提で物事を考えています。

龍とかドラゴンのような架空の存在であれ、それを想像できたということは、何らかの媒介物があったから想像できたのであり、人間には100%の空想、純粋な空想など不可能です。また、そもそも、純粋な空想が可能だとしても、人間との間に、一定の関係が生じないものは、人間の脳は「ノイズ」としか認識しません。

このことは、最高に奇想天外なSF小説を書こうとして、人間の生活と全く無関係な「物語」を書いてしまうと、意味不明となってしまい、「SF小説」として成立しないことでもわかります。

つまり、人間の広い意味での生活様式、人間という存在が認識の基準ですから、「主観ー客観」という構図で認識を考えること、つまり、主観である人間とは無関係に、それ自体として客観が独立自存していて、それの「生の姿」を認識出来るという反映論的認識論は間違いです。

ですから、あくまでも「真実」とか「真理」とは人間的な「真実」や「真理」であり、人間が「原理」なので、近代科学の「客観主義」は誤りです。

とは言え、「人間原理」と言っても、「主観ー客観」という構図で「主観」や「客観」を考えること自体が、「主観」や「客観」を独立自存的なものと見なしていることなので、「客観主義」の対極である「主観主義」も誤りで、真理という概念に含まれる客観性とは、実質的には人間界での共通認識性=共同主観性のことです。

そこで、この色あり、音ありの日常的世界では「 "所与" がそれ以上の或る者として『誰か』としての或る者に対してある」という廣松の認識論である「四肢構造論」や「物象化論」が登場するわけです。

しかし、あくまでも廣松哲学は「相対性理論」や「量子力学」を前提にしているので、将来「相対性理論」や「量子力学」自体が否定=止揚されるかもしれませんから、「四肢構造論」も踏み台でしかないことは、廣松自身が最も良く理解していたわけで、われわれ信者も、廣松哲学を絶対的真理と見なしているわけではありません。

また、廣松理論を批判する論者は多いのですが、単に既存の理論の立場から批判するだけで、一人も廣松理論を否定する独自の理論を提起することは出来ていないのが現状です。

しかし、当然ですが、人間の知性=理性を高く評価したり、また「相対性理論」や「量子力学」を前提にしなければ、別の話になると思います。

http://www.asyura2.com/16/senkyo214/msg/331.html#c67

   

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