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[政治・選挙・NHK208] ≪憲法改正誓いの儀式≫ ≪自民党の中枢を牛耳る面々の恐ろしき式典の全貌が今明らかに!≫ 自民を絶対に勝たせてはいけない! 赤かぶ
26. 2016年6月22日 16:25:56 : Blrhc7Z6RY : XEELln1w9Lc[1]
>07さん 司馬遼太郎と違う幕末史を紹介。 自民党の改憲で、知る自由や表現の
自由を奪われた数十年後の書籍のイメージになるのかも。 (既読ならご容赦願いたい)

常識のような幕末から米国の影響説。 幕府に外交力が無く、不平等条約だったのか?
遣米は、万延元年遣米使節(1860年)と岩倉使節団(1871年)。 その前に、簡単な
幕末の宗教史。 幕末の宗教は、神仏混交であり(寺請制により国民のほとんど仏教徒)、
神道は「吉田神道」から「復古神道」(平田神道)が、宗教として尊王攘夷の原動力になった。

で、不平等条約で知られる「日米修好通商条約」の背景を「夜明け前」(島崎藤村)から
『日本の危難は落ちかかりおり申し候。それはイギリス、その他ヨーロッパ各国の事に御座候。
イギリスは日本と戦争いたし候儀を好んで心がけおり候。その次第を申し上げん。』

『アメリカ政府は英人らと力を合わせてシナと戦争したことはない。シナ争乱の基と言えば、
その一つはアヘンである。アヘンは英領東インドの産するところ。そのアヘンがシナの害には
なっても、英国では利益のためにすこしもそれを禁じようとしない。』と、タウンゼント・ハリス。

夜明け前  タウンゼント・ハリスの口上書は、第一章 四から
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1506_14587.html

(アヘン戦争後の清を『千歳丸』(1862年)で幕府派遣団が視察、歴史上の人物、高杉晋作・
五代友厚が清の酷い状況を目のあたりにしている)

ペリーの砲艦外交、ハリスの海外情勢による外交。 幕府はオランダ国王親書の開国要請や
ジョン万次郎による米国情勢もあって、幕末の三俊(水野忠徳・岩瀬忠震・小栗忠順)らが、
締結した条約。 他国の条約との違いは、日米修好通商条約に西欧との仲裁条項がある。

不平等といわれるのが、領事裁判権と関税自主権。 これは、当時の法で比較すべきこと。
ドラマ必殺の幕府役人(定廻り同心)中村主水でいうと、町奉行所(裁判権は町人のみ)は、
藩士を逮捕しても裁判権が無く藩に引き渡す、故に、『晴らせぬ恨みを晴らす』となる。

寺社領や僧侶も町奉行所の管轄外の法体系であり、法度が法の下の平等とする現代の
法体系をあてはめるのは、おかしなこと。 しかし、歴史は勝者が作りだし既成化される。


英使サトウ滞日見聞記維新日本外交秘録 (国会図書館近代デジタルライブラリー)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921021

この書は、『一外交官の見た明治維新』(坂田精一氏訳)の「訳者の言葉」から引用すると
「このサトウの著書『日本における一外交官』は、終戦前は(二十五年もの長い間)、わが国
では禁書として扱われてきた。 もっとも、昭和十三年に文部省の維新史料編纂事務局で

翻訳したものが、「維新日本外交秘録」という書名で「非売品」として配布され、一部の少数
研究者の閲覧に供されはしたが、「公表をはばかる個所は、全部削除」とあるように、カット
されたところが非常に多く、全章がそっくり抹殺されたところもある」と記述されている。

この書からいくつか紹介。 (伏字・墨塗りは天皇の記述 ページは、コマ番号xx)

【英一番館】 (コマ29 30)
ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店が「グラバー商会」。 亜米三は米国(R・スミス)。
兵器武器、当時にない皮革製品(靴や手袋など)などで西欧諸国商人も参入。 

【墨塗り】 (コマ38)
「足利時代の末期には、将軍は天皇(みかど)と同様に空名のものとなり」(坂田氏訳)
第三章は、日本の歴史(当時サトウが日本人から聞いたと思われる歴史)が書かれている。

宗教が仏教に変わったとするところも、「民族的な英雄や神々と釈迦の交替」としている。
天皇家も仏教徒で香華院(菩提寺)もあったが、神仏分離から約60年で神道が既成化。

武士は城下に居住して、政府から蔵米(年貢)。 薩摩の下級武士は土着で刀や鍬を持つ。
この違いが、藩兵論と農兵論、秩禄処分を通し、士族反乱(西南の役)の遠因ともいわれる。

【エージェントのはじまり】 (コマ81) サトウが、明治維新のジャパンハンドラー
伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が、英国密航留学から帰国し下関講和へ
伊藤(当時の身分で中間の子 武士の家来・奉公人)は松下村塾、井上(武士の次男で

志道家へ養子で武士)は藩校の明倫館。 高杉晋作は武士で、両方に通っていた。
下関講和は、攘夷を捨てる説得工作。 (藩債務は薩摩250年、長州17年の藩も
武士も返済に困窮していて、攘夷で報復されるより経済に関心が移っている)

【米国は中立】 (コマ133) 
桂小五郎に友人の安否の友人は、伊藤と井上。 島津三郎は島津久光。 久光の行列で
生麦事件が起き、報復で英国が鹿児島攻撃。 久光の母は、お由羅、出自は品川宿辺り

の船宿の娘といわれる。 今上天皇の母、香淳皇后は久光の曾孫。(婚姻に、山縣有朋が
ヨコヤリをいれたといわれるのが「宮中某重大事件」)

【幕府の貿易利益独占阻止】 (コマ142) サトウと西郷の会話
西郷は久光の異母兄の斉彬(なりあきら)に見いだされ、斉彬の使いとして出向き、幕藩の
有力者との知遇を得たといわれる。 斉彬と久光の藩主争いが「お由羅騒動」。

【伏字】 (コマ144)  坂田氏訳で一部引用
「噂によれば、天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に
通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。 この天皇は、
外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。 そのために、

きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければ
ならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。 この保守的な天皇をもって
しては、戦争をもたらす紛議以外の何ものも、おそらく期待できなかったであろう。 

重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは、東洋諸国ではごくありふれたことである。
前将軍(家茂)の死去の場合も、一橋(慶喜)のために毒殺されたという説が流れた」
(どこかに、もっと詳しく書いたが、長文と主旨違いで非表示対象 今回?)

【野蛮人】 (コマ168) 今は賄賂(ワイロ)、江戸はマイナイで少し意味が違うが。
天皇家で3万石(加増で5万石になった?)、公家は数百石で詩歌などを教えたり、岩倉家の
ように賭場に貸し、生活の糧にしていたとされる。 (江戸開幕までの戦国時代の天皇の困窮も

後柏原、後奈良、正親町天皇はひどかったようである 武家も開幕時の禄高であり、インフレが
起きても加増はない。 その上に、半知(借上)として藩が武士から借り上げ(減給)である)
貧乏な公家が天皇の代理で江戸に出向き、様々な要求を行うから接待役の大名に費用の

負担がのしかかる。 忠臣蔵は、浅野家の忠臣を描く、一方で領民の年貢を考える藩主は
吉良のような指南役に賄賂を渡して接待役(饗応役)を辞退できるように工作していた。
藩主が死亡して赤穂藩領民が赤飯で祝ったとも。 浅野は二回勅使饗応役を引き受けた。  

公家の武闘派は、松下村塾塾生と尊王攘夷思想で行動し、天誅組の主将に担ぎ上げられた
中山忠光がいる。 明治天皇の叔父にあたる(長州に匿われていて暗殺された)。 
ものごと一をして全てとはならないが、ユスリ・タカリもお公家さんの江戸時代の一面である。


サトウは「イイジャナイカ イイジャナイカ」に出くわして開港祝賀と書いている。 (コマ223)
この「ええじゃないか」も「世直し」が常識とされるが、言葉にあるのが「世直り」。 弥勒により
世が直ると解釈されている。 伊勢神宮の神札が降ったといわれるが、江戸時代の伊勢神宮は
明治の系列化(社格制度)の最高位ではなく、神仏が習合、神も仏も同じ信仰対象の時代。


大英帝国に日本侵攻計画があった。 軍隊の派遣や兵站の費用から断念したとされる。
駐日公使オールコック、パークスは、アロー号事件(第二次アヘン戦争)で清への武力介入を
進めた当事者。 その彼らの要求を幕府は受け入れた。 きっかけの背景は攘夷、賠償金を

幕府が負い、それが改税約書(関税)のような要求である。 明治政府を樹立した尊王攘夷
行動の公家や薩長は、幕府を金銭面からも弱体化させた。 (コマ110−118) 


米国は、市民戦争(南北戦争 1861−1865年)で、外国干渉は無理だった!? 明治は
英国の思惑通りになったかどうかわからないが、女王陛下の外交官の助言によっている。
webで読めて、幕末の常識なるものを比較する史料として、自分で確かめられます。

因みに、自民保守は、中・北の儒教体制願望。 君主をもつ西欧諸国は多い。 仏・独・伊は
共和制。 英は「マグナカルタ」を民主主義の初とする。 自民保守の歴史観は明治以降だから。
「日の丸」も岩倉使節団(伊藤博文の日の丸演説)で明治? 海賊や私掠船の歴史を調べ

れば、信長・秀吉、家康の時代から使われたと推論できる。 後期倭寇により鉄砲が、同様に
ポルトガル宣教師である。 御朱印船に日の丸の船旗は、アジアに展開の西欧国家が、幕府
(日本)の認識があったからであろう。 家康は、ヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスに意味を

聞いていたであろうから、家紋(徳川の葵)を使わず、遠方からでもわかる日の丸を利用した。
「夜明け前」のハリス口上にも『日本も交易御開きに相成り候わば、御国の船印諸州の港にて
見知り候よう相成り申すべく候』と述べている。 元来、日本は家紋国家であった。

http://www.asyura2.com/16/senkyo208/msg/281.html#c26

   

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