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[政治・選挙・NHK197] あるインタビューから(内田樹の研究室) 赤かぶ
5. 2015年12月08日 21:52:36 : rjv2V6vhPA : h@6vGWytyLE[1]
>2さん 「真実は常にシンプルである」 そうなんだろう?
  
英使サトウ滞日見聞記維新日本外交秘録
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921021

コマ番号(xx/325)は、上記の外交秘録 ・・・ にある番号に該当〉
〈英文を訳しても、 ・・・ として「秘密ですよ」ならわかりよい〉

幕末は、英仏であって米国は中立。 中立というより南北戦争で海外
に戦力を向けることはできない。 仮に、英仏と幕府に紛争が生じた
場合は、幕府は修好条約2条の仲裁履行を米国に求めることができた。 

米国外交(41/325) 西洋諸国の対日情勢 (133/325) 
(武器はグラバーといわれるが欧米各国の商社や商人が幕藩に売った)

和蘭密告
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_dutchnews_kingad_front.html
ジョン万次郎
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_jhonmanjiro_front.html

尊王攘夷と云えば、吉田松陰があげられる。 密航未遂は、ジョン万次郎の
幕府登用に端を発し、唆したのが佐久間象山(勝海舟の妹が妻)とされる。
佐久間象山は尊王攘夷に反する(西洋かぶれ)として、人斬り彦斎こと

河上彦斎が暗殺。 彦斎は尊王攘夷を貫いた結果が処刑であった。
〈三条実美と河上彦斎。 権力を握った者がシンプルかな。〉


京都で過激活動(テロリズム)をやっていたのは、主に長州と公卿。
〈西暦はwikiからの日付、今知られる歴史〉

(1863年9月)[8月18日の政変] 会津と薩摩により京都から一掃。
公卿([七卿落ち])も長州に逃げた。 明治天皇の祖父・中山忠能、
叔父の忠光も尊王攘夷。 忠光は天誅組の変から長州に保護される。
(忠光は外国船砲撃の攘夷決行にも参戦)。 
☆(1863年11月15日)薩摩は英国と講和 《生麦事件》

(1864年)[天狗党の乱] 水戸の尊攘派が決起し鎮圧される。 
徳川慶喜は水戸、黄門さま(光圀)から水戸学。 
☆(1864年8月18日)長州は英国などと講和 《外国船砲撃》
(1864年8月20日)[禁門の変] 長州は[一会桑]に敗退し朝敵となる。 
中山忠能も失脚。 
(1864年12月13日)中山忠光が長州藩内で暗殺される

(1865年1月12日)[功山寺挙兵] 高杉晋作・伊藤博文と力士隊。

(1866年8月29日)徳川家茂死去
(1866年10月8日)[長州征討]終結、9月孝明天皇は攻撃継続
「朕は解兵すべからずとの決心なれば、速に進発して功を奏すべし」

(1867年1月10日) 徳川慶喜将軍就任
(1867年1月30日)孝明天皇死去 
(1867年2月13日)明治天皇践祚

(1868年1月3日)[王政復古]中山忠能を始め、七卿の三条実美
などが復権、長州朝敵の赦免。 
(1868年10月12日)明治天皇即位

で、サトウの外交秘録 ・・・ に、何が書いていあるのか。

『それは、たった今公表されたばかりだと言った。 噂によれば、
天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その
間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、

毒殺されたのだという。 この天皇は、外国人に対していかなる
譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。 そのために、
きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との

関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に
殺されたというのだ。 この保守的な天皇をもってしては、戦争を
もたらす紛議以外の何ものも、おそらく期待できなかったであろう。 

重要な人物の死因を毒殺にもとめるのは、東洋諸国ではごくあり
ふれたことである。前将軍(家茂)の死去の場合も、一橋(慶喜)の
ために毒殺されたという説が流れた。 しかし、当時は、天皇に

ついてそんな噂のあることを何も聞かなかった。 天皇が、ようやく
十五、六歳になったばかりの少年を後継者に残して、政治の舞台
から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役立った
ことは否定し得ないだろう。』 (144/325)

『天皇の崩御は二月三日と公表されているが、実は一月三十日で
あった。 十五歳の年少の身をもって、天皇の息子(訳注 睦仁天皇)
が即位した。 この新帝は、外国と日本の政治に関する学問をしかる
べき教育によって正しく修めるならば、賢帝となる素質を有すると思わ
れていた。』 (146/325)

『一外交官の見た幕末維新』 アーネスト・サトウ 坂田精一訳
〈この書は、訳者によると終戦前25年間が禁書〉


今の常識と違うお公家さんをサトウが書いている。 一般論として、
お公家さんは暴力にほど遠い。 ヤクザ侠客渡世(稼業)の世界、
彼らが寺を賭場とし寺銭や開帳が隠語となったとかいわれる。 公家では

岩倉具視の家では収入源に賭場を開いていたことが知られる。 朝廷
公家は貧乏であったから、シノギである。 (このあたりは、正親町天皇の
前後3代をwikiに記述がある) サトウに例幣使を「野蛮人」だと言った

のが役人で、サトウと同居していた会津藩士・野口富蔵が説明している。
大名でさえ、例幣使一行と出会うと駕籠を降りて土下座となる。(168/325)
ユスリの語源も、駕籠を強請って金銭を要求したことによるとか?

一方、侠客とされる会津小鉄、清水次郎長、柳川熊吉は、旧幕府軍の
戦死者を埋葬した。 柳川熊吉は「死ねばみな仏」として、箱館での
戦死者を埋葬し、政府軍に死刑判決を受けることになる。

幕末の常識は、武士のほとんどは尊皇である。 幕府官学朱子学(儒教)
を学んだ。 歴史は「本朝通鑑」「中朝事実」「大日本史」〈wiki参照〉
しかし、伊藤博文は英国と講和後に、藩主が長州も開港を望むと伝え、

薩摩は西郷隆盛との会見が記述されている。 ((142/325))
尊攘思想はない。 貿易の経済的利益、《カネ》である。

http://www.asyura2.com/15/senkyo197/msg/642.html#c5

   

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