62. 中川隆[-6341] koaQ7Jey 2025年6月12日 00:58:59 : C0KKCKk7wE : aFUyYXFsL3JXNWM=[1]
原田昌博『ナチズム前夜 ワイマル共和国と政治的暴力』
https://sicambre.seesaa.net/article/202506article_7.html
集英社新書の一冊として、集英社より2024年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はワイマル(ヴァイマル)期のドイツ政治を暴力の観点から検証し、ナチ党台頭と政権獲得に至る前提について考察しています。ワイマル期は三区分されることが多く、暴力的な内戦状況が続いた「戦後混乱期」である前期(1918〜1923年)、経済の安定に伴って政治や国際関係が安定した「相対的安定期」である中期(1924〜1929年)、世界恐慌を契機に政治と経済と社会が再び混乱状況となり、ナチスが台頭した後期(1930〜1933年)です。本書は、この中期と後期において、政治的暴力が社会に深く入り込み、常態化していたことを重視し、それがワイマル共和国の政治的安定性を動揺させたのではないか、との見通しで、ベルリンを中心に一般国民の視点も取り入れて、ワイマル期のドイツを検証します。
ただ本書は、ワイマル共和国の前期と中期および後期ではおもな政治的暴力の種類が異なる、と指摘します。前期では成立したばかりの議会主義体制の打倒を狙った、右翼や左翼の急進的反共和国勢力が体制(公権力)に向けて暴力を行使し、その反作用として体制側から反共和国勢力に対して暴力が行使されており、本書では「体制転覆志向型暴力」と呼ばれています。中期および後期では、敵対する党派間で暴力が行使され、体制は党派間の暴力の監視および抑制の役割を担っており、本書では「党派対立型暴力」と呼ばれています。この暴力の主体となった党派は、ナチ党とその武装組織であるナチス突撃隊(SA)、共産党とその武装組織である赤色前線兵士同盟(RFB)やその後継組織、社会民主党を中心とする共和国擁護派の国旗団、右翼の鉄兜団などです。
ワイマル共和国は、第一次世界大戦でのドイツの敗北の結果として成立します。ワイマル共和国前期は、さらに複数の局面に区分されています。第一期は、ドイツ革命とその余波が続いた1918年11月から1919年春で、左翼革命勢力と反革命勢力の闘争が中心となります。第二期は、1920年春に発生したカップ=リュトヴィッツ一揆とそれに続くルール地方での闘争段階です。第三期は、「三月行動」と呼ばれる共産党の蜂起と、急進的右翼による政治的暗殺が横行した1921年春から1922年です。最後の第四期は、フランスとベルギーによるルール地方占領に対するドイツ側の武装闘争に始まる1923年の緊迫した状況で、共産党の「ドイツの十月」やナチスのミュンヘン一揆が発生した秋に、緊張は頂点に達します。
本書はまず、ドイツ革命の推移を開設し、軍部の議会主義体制移行を図る社会民主党など政党勢力への不満、共和制支持者の間の分裂と深刻な対立など、すでにワイマル共和国を決定づける対立の萌芽が見られることを指摘します。ドイツ革命初期の1918年11月において、全体的に大規模な暴力はありませんでしたが、翌月にはベルリンで流血の事態が発生するようになります。そうした混乱の中でも、1919年1月19日には国民議会選挙が実施され、多くの国民が穏健な改革を支持していることは明らかな結果だった、と本書は評価します。1919年2月6日、国民議会は混乱するベルリンを避け、中部の小都市ワイマルに召集され、社会民主党と中央党と進歩人民党(民主党)の「ワイマル連合」が形成されます。これに左翼急進派が不満を抱き、ドイツ各地へと騒乱が拡大しますが、1919年春にはおおむね鎮静化します。ただ、これによってワイマル共和国の秩序維持で国防軍への依存度が高まります。
右翼急進派は、ヴェルサイユ条約がドイツにとってあまりにも過酷と受け取られたことから、対ドイツ強硬派のフランスだけではなく、ワイマル共和国政府への不満も高めます。第一次世界大戦でのドイツの敗戦が、ドイツ国内での戦闘がない段階でのことだっただけに、敗戦の実感を持てない国民も多くいたようで、銃後(国内)からの一刺し(裏切り)がドイツを敗戦に追い込んだ、との「匕首伝説」が広がることになりました。1919年6月28日のヴェルサイユ条約調印後、翌月31日には新憲法となる「ドイツ国憲法(ワイマル憲法)」が国民議会で採択され、翌月(8月)14日に発効します。ワイマル憲法は当時、最も民主的な憲法と呼ばれました。
1920年3月13日に、ワイマル共和国政府の転覆と新政権樹立を企図したカップ=リュトヴィッツ一揆が発生すると、支持したのは国防軍でも一部の部隊だけで、国民議会内のほぼすべての政党が反対を表明したので、この蜂起は1週間も経たずに失敗に終わります。この失敗を見た右翼急進派は、ワイマル共和国に対する軍事的蜂起が困難だと認識し、秘密結社化して政府要人を狙った個別テロ行為へと移っていきます。左翼側もカップ=リュトヴィッツ一揆を契機に急進化していき、国防軍との間の武力衝突で犠牲者が増えていきます。これ以降、ワイマル共和国への左右両方からの攻撃が激化します。
この状況下で1920年6月6日にワイマル憲法下において初の国会選挙が実施され、それまで国民議会で3/4を占めていたワイマル連合は大きく議席を減らし(得票率では76.1%から43.6%への低下)、ワイマル共和国に懐疑的な国家国民党や国民党や急進的な独立社会民主党が躍進しました。政治志向の区分での得票率の比較は、ブルジョア・プロテスタント(国家国民党と国民党と民主党)は33.2%から37.3%、カトリック(中央党とバイエルン国民党)は19.7%から18.0%、左翼(社会民主党と独立社会民主党と共産党)45.5%から41.7%で、政治志向は全体的に変わらなかったものの、共和国擁護派から批判派へと票が移動したわけです。この選挙の結果、ワイマル共和国では連立政権が不安定な政権運営を余儀なくされ、政権が短命化し、最大勢力だった社会民主党の野党化が進行します。ワイマル共和国の議会政治における連立パターンは4種類あり、それは、(1)共和国擁護派3党(社会民主党と中央党と民主党)による「ワイマル連合内閣」、(2)中道諸政党による「ブルジョア少数派内閣」、(3)中道諸政党と国家国民党による「ブルジョア右派内閣」、(4)中道諸政党と社会民主党による「大連合内閣」です。議席数で最も安定する(4)は、外交政策では一致可能でも、労使関係から内政での対立が顕著でした。(3)は内政での合意は容易でしたが、右派の強硬な反対に曝されます。(1)は共和国前期のみに存在しました。
選挙後に独立社会民主党は分裂し、左派が共産党と合体して、勢力が拡大した共産党は急進的な行動へと移ります。共産党の攻勢は1921年3月のザクセン地方における「三月行動」から始まり、ドイツ全土での革命的行動の誘発が企図されていました。しかし、政権側は戒厳令で対応してこれを抑え込み、そもそも共産党に呼応する労働者も少なく、共産党の党員数はこれ以後、急激に減少します。上述のように、カップ=リュトヴィッツ一揆の失敗後、右翼急進派は個別テロへと移行し、「三月行動」の失敗の後に激化していきます。テロ実行の右翼政治犯の多くは、州政府が右傾化し、住民の暴力が横行していたバイエルンへと逃げ込みました。また、ここまでの政治的殺人の多くは右翼側からでしたが、量刑は左翼側にひじょう厳しかったことが示されています。
1923年、フランス軍とベルギー軍によるルール地方占領と記録的なインフレによって、ワイマル共和国は危機的状況を迎えます。ルール地方占領に対してドイツ国内では、右翼も左翼も一致して反対し、ヴェルサイユ条約での軍備制限によってフランス軍に対抗できないドイツは、ゼネストによって抵抗しますが、フランスによるルール地方の職場復帰しない職員の追放に対して、ワイマル共和国政府がルール地方への財政支援を行なうことで、財政が圧迫されていき、フランスへの石炭やコークスの供給停止で経済にも打撃となり、ワイマル共和国政府が紙幣を増刷したことで、超インフレが進行します。ワイマル共和国政府では政権が交代し、新政権はフランスへの消極的抵抗を中止し、新通貨を導入することで、インフレは終息していきます。ただ、これによって右傾化していたバイエルン州政府とワイマル共和国政府との対立が激化し、国防軍もバイエルン州政府に加担するような動きを見せます。この騒然とした状況で、共産党の武装蜂起が鎮圧され、1923年11月8日、ナチス党首のヒトラーが第一次世界大戦の軍事的英雄で右翼急進派の領袖だったルーデンドルフを擁立して武装蜂起しますが、このミュンヘン一揆は直ちに鎮圧されます。これによって右翼急進派の信用は失墜し、バイエルン州政府はワイマルに歩み寄り、ドイツの情勢は安定に向かいます。本書はこのミュンヘン一揆を、ドイツ革命から続いた体制転覆志向型暴力の最後の局面と位置づけています。
上述のように、1924〜1929年のワイマル共和国は、経済の安定に伴って政治や国際関係が安定した「相対的安定期」とされ、政治と暴力との直接的結びつきはほぼ見られなくなり、社会保障制度が整備されていき、この期間の文化は「ワイマル文化」と呼ばれています。政治的には、この安定期の内閣は上述の4種類のうち「ブルジョア少数派内閣」もしくは「ブルジョア右派内閣」でした。この期間の内閣は、内政や外交に起因する閣内対立によって短命化しましたが、ある程度の連続性が維持されました。ただ、この期間に社会内部の対立が深刻化し、それに伴って党派対立の明確化も進行します。1925年の大統領選では、ワイマル共和国擁護派のヴィルヘルム・マルクス前首相が、反ワイマル共和国陣営によって擁立された第一次世界大戦の軍事的英雄であるパウル・フォン・ヒンデンブルクに敗れ、ワイマル共和国の政治史における画期となります。
この相対的安定期で暴力が顕在化していく起点と本書が評価しているのは、ミュンヘン一揆によって禁止されたナチ党の再建です。釈放されたヒトラーは武装蜂起路線から合法路線に転換し、そのためには、ナチ党の武装組織であるナチス突撃隊(SA)を、少なくとも表面的には非武装化する必要がありましたが、ヒトラーにとって自立志向のあるSAの制御はずっと難問で、ついには政権獲得後の粛清につながります。ヒトラーは釈放されましたが、1925年2月27日のヒトラーの演説がワイマル共和国に敵対的だったため、バイエルンなどほとんどの州政府がヒトラーの公開集会での演説を禁じましたが、1927年頃からじょじょに解除されていきます。ヒトラーは収監されていたため、ナチ党の全権掌握には多少の時間を要しましたが、全権掌握の結果として、ナチ党はワイマル期の他の主要政党とは異なり、「個人商店」的性格を強く有するようになります。ヒトラーはドイツ全土に組織を構築し、ヒトラーを頂点とする垂直的構造とともに、社会集団および階層に応じた水平的構造も築いていきます。その結果、ナチ党にはさまざまな社会集団を包含する「国民政党」への可能性が開けてきます。ドイツでは20世紀初頭以降、街頭での政治的行為が活発化し、ナチスはそこに合法路線での権力獲得の道を見いだします。この時期、ナチスとともに共産党も、感覚に訴える街頭政治を主導していき、ナチスではゲッベルスが大きな役割を果たしました。ナチスにとって街頭政治で最も重要な活動は「行進」で、その主体はSAで、表面的には非武装化されていたものの、他の政治勢力との紛争などで、軍事組織的性格を示していました。ナチス集会も重視し、集会の後に参加者が街頭に繰り出すため、集会と行進は地続きの関係にありました。
こうしたSAのような政治活動に軸足を置く準軍事組織が私的武装勢力の中心となり、他には、右翼の鉄兜団や青年ドイツ騎士団(騎士団)、ワイマル共和国擁護派の「国旗団─黒・赤・金」、共産党の赤色前線兵士同盟(RFB)が有力でした。こうした組織は、体制転覆志向型暴力を担っていたワイマルの前期の後、「相対的安定期」と言われる中期には存在価値が弱まり、組織の弱体化や解散が相次ぎ、そうした中からSAなどは試行錯誤して組織の改革による維持と大衆化による拡大を図っていき、政党からの自立性の高かった鉄兜団は国家国民党、騎士団は民主党との関係を強めます。これらの政治的な準軍事組織は、前期の体制転覆志向型暴力を抑制し、選挙や街頭での宣伝に努めます。SAはナチ党、RFBは共産党の実質的な政党軍でしたが、上述のようにSAの自立志向とその制御はヒトラーにとってずっと難問でした。1920年代後半の段階で、政治的な準軍事組織所属者の半数以上を国旗団と鉄兜団が占め、SAやRFBは少数派でしたが、戦闘性や急進性の点では、国旗団や鉄兜団や騎士団はSAやRFBと比較すると受動的でした。こうした政治的な準軍事組織の大衆化は、政治的暴力の「市中化」をもたらし、すでに「相対的安定期」から暴力事件が認められます。1925年1月から1926年11月までにベルリンでは政治的暴力事件が73例確認されており、ほとんどは左翼と右翼の対立で、上述のように党派対立型暴力と分類されていますが、共産党(RFB)と社会民主党(国旗団)の紛争もあります。左翼側の当事者はほぼすべて共産党でしたが、右翼側は多様でした。ただ、この73件のうち死者が出たのは1件だけで、多数の犠牲者が出た前期の体制転覆志向型暴力とは異なります。
ベルリンでは左翼勢力(社会民主党と共産党)が強く、ナチスは左翼勢力から労働者の支持を奪うべく、SAを攻撃的な街宣活動に投入しましたが、もちろんナチスが常にそうした政治的暴力事件の当事者だったわけではなく、政党間の競合が背景にあるわけです。ただ、ベルリンでの知名度が低かったナチスは、暴力事件を起こして報道されることで、知名度を上げていく、とのゲッベルスの方針もあり、1927年3月にリヒターフェルデ東駅で起きた衝突で、SAから共産党員のいる車両への約40発の発砲があったことを、ベルリンの政治的暴力の状況を変える契機になったとして、本書は重視しています。これ以降、政治的暴力における銃器の使用が一般的になり、1930年代には日常化していきます。また、党派対立型暴力の一方の「主役」が、それまでの右翼諸組織からナチスに絞られていき、面目を失った警察が政治的暴力に対して厳格に対峙するようになります。ゲッベルスがベルリンに赴任した1926年11月から1928年末までは、1925年1月から1926年11月までと比較して、ナチスが政治的暴力の右翼側の当事者となる事例は増大します。ただ、ナチスも国旗団も鉄兜団も警察への攻撃は避けようとしたのに対して、共産党は、現場の警官に保守派が多く、共産主義に敵対的だったこともあり、警察への暴力行使が多くなっています。1929年のメーデーでは、社会民主党の指導層は警察権力に共産党に対して厳しい措置を取るよう命じており、元々この時期の共産党はコミンテルンの方針で社会民主党を「主要敵」とみなしていたこともあって、社会民主党と共産党の対立が深刻化していきます。この事件も、政治的暴力が過激化していく契機となります。
こうして「相対的安定期」と呼ばれるワイマル共和国の中期後半には政治的暴力が過激化していき、一般的にワイマル共和国は世界恐慌の発生後(後期)に不安定化した、と言われていますが、すでに世界恐慌の前からその兆候はあったようです。ナチ党も、1929年6月のバイエルン州北部のコーブルク市議会選挙で過半数の議席を占め、同年11月のベルリン市議会選挙で得票率5.8%を獲得するなど、すでに世界恐慌の影響が拡大する前から躍進の兆候が見られました。とはいえ、ドイツは世界恐慌で経済的に大打撃を受けたわけで、政治的暴力を含めて社会全体への影響も当然甚大でした。ドイツでは、世界恐慌の深刻な影響によって政治が急進化します。1930年3月にミュラー内閣が社会民主党の非妥協的方針によって退陣したことは、ワイマル共和国の政治の転換点となり、大統領のヒンデンブルクは、憲法第53条の大統領による首相任命権を根拠に、ハインリヒ・ブリューニングを首相に任命し、これは国会での多数派形成ではなく憲法第48条の大統領非常大権に基づく大統領緊急令に依拠する、「大統領内閣」となります。1930年7月18日、ブリューニング内閣は大統領緊急令を無効とする決議が国会で可決されたため、国会を解散しましたが、この選挙でナチ党が大躍進します(前回の得票率2.6%で12議席から、得票率18.3%で107議席)、共産党も議席を増やしました(得票率は前回の10.6%から13.4%)。ナチ党は、社会民主党などの「老舗」政党に対して、「新しさ」で有権者を惹きつけ、多様な社会階層および集団から「万遍なく」支持を集めました。このような「国民政党」は、それまでのドイツには存在しなかった、との評価もあります。
ブリューニング内閣は不況下において外交を優先し、そのためのデフレ政策を進め、国民生活はさらに窮乏化します。ブリューニング内閣は行き詰って退陣し、1932年6月、フランツ・フォン・パーペンが首相に任命されますが、ヒンデンブルク大統領の側近である国防相のクルト・フォン・シュライヒャーの傀儡でした。議会での基盤をほとんど有さないパーペンは、直前の大統領選で善戦したヒトラーを取り込もうとして、国会解散とブリューニング内閣の出したSA禁止令の廃止というヒトラーの要求を受け入れます。パーペン内閣は国会選挙中にプロイセン州で起きた「血の日曜日」事件を口実に、社会民主党を首班とするワイマル連合政府のプロイセン州に対する国家強制執行によって州政府を罷免し、社会民主党が無力化された点で、これはワイマル共和国の政治史における決定的な出来事だった、と本書は評価します。1932年7月の国会選挙では、ナチ党が前回の得票率18.3%で107議席から得票率37.3%で230議席と大躍進し、共産党も得票率が前回の13.1%から14.3%へと増加しました。ワイマル連合の議席占有率は34.9%まで低下し、左右両極の反ワイマル共和国政党(ナチ党と共産党)で過半数が占められることになりました。ただ本書は、この国会選挙の直近の州議会選挙での得票率が40%を超えていたことから、ナチ党の勢いが絶頂を過ぎつつあることも示唆していた、と本書は指摘します。ナチ党は、完全な権力掌握を目指して野党に留まるか、それとも政権に参加するか、選択を迫られ、パーペン内閣からの政権参加への打診にもヒトラーは首相職を要求し、交渉は決裂します。
世界恐慌の影響が深刻化していったこの期間、ベルリンでは党派対立型暴力が急増し、さらに急進化したSAとナチ党指導部との軋轢が深まり、ヒトラーは急進派の助命措置によって、ナチ党指導部のSAに対する優位を強化しますが、根本的な解決には至らなかったようで、政権獲得後のSA粛清につながります。こうしたSAの急進化もあり、政治的暴力は「相対的安定期」よりも深刻化し、1931年には、政治的暴力によって、プロイセン州全体では105人(このうちナチスが51人)、ベルリンでは18人が死亡しています。この状況は1932年にはさらに悪化し、上半期だけでさえ、政治的暴力によってプロイセン州全体で86人(このうちナチスが38人)が死亡し、国会選挙が行なわれた同年7月には、ある統計では、プロイセン州全体で86人(このうちナチスが38人)が政治的暴力によって死亡しました。この政治的暴力には主要な準軍事組織すべてが関わっており、その中心はナチスと共産党で、銃器による襲撃も常態化し、武器が市中に氾濫していました。こうした政治的暴力が起きるのは、政敵の集会に参加した場合や、街頭での政治活動の場合でした。ただ本書は、世界恐慌後に「相対的安定期」よりも政治的暴力が激化したとはいえ、敵を殲滅するまで暴力を振るう意図が弱かったことは、「相対的安定期」から一貫していた、と指摘します。
こうした政治的暴力の激化において、政党指導層からの指示だけではなく、ワイマル期の社会全体における暴力の潜在性との観点から、社会の末端水準にも本書は注目します。ベルリンでは草の根の水準で「縄張り主義」が政治的街頭闘争を特徴づけており、さらには、たとえば共産党の牙城だった地区へのナチスの浸透により、そうした地区内の安定性が低下し、暴力として発現することも本書は指摘します。「縄張り主義」と、それを支えていた地区内の不安定化によって、政治的暴力は日常化していったわけです。こうした政治的暴力の日常化の背景には、ドイツでは帝政期において酒場が社会主義運動の拠点になっていたこともありました。ただ、帝政期とワイマル期では政治的酒場の性格に変化もあり、帝政期には階級的に同質化していたのに対して、ワイマル期には政治的イデオロギーで均質化されており、集会や会合の場となりました。さらに、世界恐慌後には、店主にとってまとまった売上を見込める政治的酒場への転換は魅力的な選択肢となり、これも政治的暴力の日常化につながったようです。店主が政治的立場を変えることもあり、それが暴力沙汰の原因になりました。
1932年11月、同一年で2回目となる国会選挙で、ナチ党は34議席減となります。これは、直前のベルリン交通会社(BVG)ストライキをナチ党が支持したことで、労働者から新たに支持を獲得したと思われるものの、ブルジョア層からの離反の方が大きかったからではないか、と推測されています。一方で、共産党は議席数を89から100へと増やし、社会民主党の121議席に迫りました。新内閣をめぐる政界有力者の駆け引きの中で、ヒトラーは首相就任を要求したもののヒンデンブルク大統領に拒否され、パーペンはシュライヒャーに見放されて組閣を諦め、シュライヒャーが首相に任命されます。シュライヒャー内閣の陣容はパーペン内閣とほぼ同じでしたが、シュライヒャーはパーペン内閣の失敗から、権威主義的な大統領内閣でも、大衆的基盤なしの政権運営は難しいと認識しており、左翼からナチスまでの、労働組合を軸とする、広範な政治的結集を企図します。シュライヒャーは「ナチス左派(シュトラッサー派)」との連携を試みますが、首相職に拘るヒトラーはグレゴール・シュトラッサーを追放します。シュライヒャーは大衆的基盤の構築に失敗し、産業界や大農場主からも批判され、パーペンの暗躍もあって、退陣に追い込まれます。ヒンデンブルク大統領はパーペンに説得され、1933年1月30日、ヒトラーが首相に任命されます。
ナチ党の政権参加を推進した保守派は、ヒトラーを囲い込み、ナチスを飼い慣らすことが可能と考えていました。しかし、首相に就任したヒトラーは、ワイマル共和国の政治的および社会的秩序の転覆を一気呵成に進め、社会民主党や共産党も含めて政治的反対派を徹底的に排除していきます。プロイセンでは、内相のヘルマン・ゲーリングによって警察機構のナチス化が進みます。ヒトラーは経済界の代表に、マルクス主義の根絶と、権威主義的で反民主主義的で親起業家的な国家建設を訴え、半強制的に選挙活動資金の支援を約束させます。1933年2月27日の国会議事堂炎上事件を口実に、ヒトラー内閣は左翼系勢力の本格的弾圧に乗り出しますが、それでも、その翌月5日の国会選挙では、ナチ党単独での過半数獲得には至りませんでした。しかし、ヒトラーは1933年3月8日、共産党議員81名の議席を剥奪して議会の2/3を「確保」したうえで、同月23日、国会で「授権法(全権委任法)」と呼ばれる「国民と国家の危難を除去するための法」が可決されました。これによって、内閣(行政府)に立法権が付与され、内閣の立法が憲法に違反することも可能となりました。その後、地方分権(連邦主義)の破壊と中央政府への権力集中も実行され、1933年4月7日の「職業官吏再建法」で共産党や社会民主党の支持者およびユダヤ人が公職から追放されました。労働組合も弾圧され、ナチ党付属団体であるドイツ労働戦線(DAF)が結成されました。他の多くの職業分野でも、ナチ党付属団体による組織化が進められました。政党や鉄兜団などの諸団体は解散に追い込まれ、1933年7月上旬時点で、ドイツの政党はナチ党のみとなり、同月14日の「政党新設禁止法」で、ナチ党の一党支配体制が成立し、ワイマル憲法が規定する統治体制は、形骸化した憲法を残してほぼ消滅します。1934年8月2日にヒンデンブルク大統領が死去すると、「ドイツ国元首に関する法」に基づいて、ヒトラーが大統領首相を統合した「総統およびドイツ国首相」に就任し、ドイツは絶対的指導者であるヒトラーがすべての責任を負う「総統国家」となりました。
ナチスが政権を掌握すると、主要な政治的暴力は党派対立型から国家テロ型へと移行します。SAやナチス親衛隊(SS)など「政府を支持する用意のある組織や政党」に所属する5万人が、1933年2月22日に補助警察官に任命され、このうち半数がSA、30%がSS、20%が鉄兜団で、ベルリンだけで補助警察官が2万人近くいました。国家権力を背景としたSAの一方的な暴力が横行し、本書はこれを「国家テロ型暴力」と定義します。この政治的暴力は相手の殺害も厭わない残忍なもので、ワイマル共和国の中期や後期とは質的に異なっており、「下からの」街頭での政敵への統制されていない専横的暴力と、強制収容所を基盤に体系的に行使される「上からの」暴力に区分されています。そうした「下からの暴力」では、酒場が臨時の収容所とされることもあり、共産党系の酒場の店主の中には、転向してヒトラー政権への歓迎を示す者もいました。こうした「下からの暴力」に支えられて、ナチ体制は強化されていった、と評価されています。ただ、SAはさらに急進化し、「第二革命」を主張するようになり、1934年6月30日、SAは粛清され、SA幕僚長のエルンスト・レームは殺害されました。この粛清で、ヒトラーにとって「好ましからざる人物」だった、「ナチス左派」のグレゴール・シュトラッサーや、「ナチス左派」とかつて提携しようとしたシュライヒャー前首相も殺害されました。SAの暴力を忌避していた人は多く、この粛清はドイツでは好意的に受け止められ、ヒトラーの声望は高まります。SAの粛清後、ハインリヒ・ヒムラーを全国指導者とするSSがナチ党の暴力装置の中核となっていきます。
本書は、ワイマル共和国において政治的暴力は特定の集団や個人の特異な現象ではなく、左翼から右翼に至るまで暴力を忌避しない政治文化が広がり、「暴力の政治化」もしくは「政治の暴力化」とも言うべき状況が生まれていた、と指摘します。ワイマル共和国の公共的な議論において政治に暴力が入り込むことへの批判や異議はきわめて弱く、暴力への批判は常に党派性を帯びていたわけです。社会が政治的暴力に慣れ、それを許容し始めると、政治と暴力が結びつく異常さへの間隔は麻痺していき、政治的暴力は継続的負荷となってワイマル共和国の政治的および社会的安定性を動揺させた、との見通しを本書は提示しています。こうした見通しにおいて本書は、ワイマル共和国からナチ体制への転換を連続性の観点から把握しなおす必要があるだろう、と提言します。ワイマル共和国には暴力との親和性が内包されており、ヒトラー内閣成立直後からの政敵への激しい暴力とつながっているところもある、というわけです。
本書は最後に、身体的暴力が言語的暴力に置き換えられ、街頭がインターネット、とくにSNS空間に移っただけで、ワイマル共和国の歴史は決して「遠い昔」や「遠い場所」の話ではない、と指摘します。確かに、日本も含めて現在の政治状況はとても楽観視できません。ただ、一日本人として思うのは、まず、身体的暴力と言語的暴力の違いはやはり大きく、それは街頭政治とSNS空間も同様である、ということです。これは、身体的暴力が言語的暴力よりも、街頭政治がSNS空間よりも危険であることを意味しているのではなく、また違った危険性があるのではないか、と私は考えています。次に、ワイマル共和国と現在の日本を比較すると、詳しく調べていませんが、人口動態に大きな違いがあるはずで、ワイマル共和国の方が若い世代の割合はずっと高いでしょうから、これが身体的暴力と結びつきやすかった可能性はあると思います。さらに、ワイマル共和国のドイツは、徴兵などでの軍隊経験者が現在の日本よりずっと多かったでしょうし、第一次世界大戦での敗戦による軍備制限のため、元職業軍人も多かったでしょうから、この点でも身体的暴力が受け入れられやすい素地があったように思います。これらの点で現代日本はワイマル共和国と大きく異なっており、もちろんワイマル共和国は現代日本社会にとっても重要な教訓となりますが、現在、さらには今後の日本の危機は、ワイマル共和国が経験したものと大きく異なる可能性が高そうで、単純にワイマル共和国の事例を当てはめてはならないでしょう(もちろん、本書はそんな単純なことを主張していませんが)。現在の日本は、一定以上の規模の集団において人類史上初めて迎える少子高齢化社会だと思うので、さまざまな危機をどう回避するのか、対策を立てにくいところもあるのではないか、と昔から考えています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202506article_7.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/798.html#c62