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[近代史5] サンマ不漁と中国の戦略 中川隆
1. 2020年7月25日 04:27:47 : 22PGs39hPI : aXVLa29nSWFVV0k=[1]
トランプは天才なのか?メチャクチャやってるように見えるのに実に的確に秘孔を突いている!
2019/08/11





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[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
1. 中川隆[-12054] koaQ7Jey 2020年7月25日 05:13:36 : 22PGs39hPI : aXVLa29nSWFVV0k=[2]

2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生  伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

1.伊都国と邪馬台国  柳田康雄先生


私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。

平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。

今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。

■ 弥生時代のクニと国の出現

弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。

現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。

そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。

銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15〜16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。

弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。

少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8〜10個出土した甕棺が出現する。

福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。

比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。

弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。

これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。

三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。


2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。

なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。


井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。


最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。

九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。

このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

■ 平原遺跡

平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。

王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。

王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。

鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。

棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。

10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。

墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。

頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。

墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。


出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。

この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。

また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。

しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。

また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。

つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。

平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。

平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。

耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。

耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。

平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。

平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。

右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。

平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。

三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。

ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。

伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。

■ 弥生終末から古墳時代

福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。

このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。

弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。

この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。

北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。

近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。

近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。

近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。

弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。

考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。

平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。

2.柳田先生の論点                             安本美典先生


邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。

■ 考えの一致する部分と異なる部分

柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。

また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。

邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。

いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。

北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。

骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。


■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について

洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。

下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。

平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。

奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147〜160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。

柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。

ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。


3.対談                         柳田康雄先生 VS 安本美典先生


■ 平原遺跡について

安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?

柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。

安本:女性の墓か?

柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。

また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。

■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現

安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?

柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。

■ 庄内式土器

安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?

柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。

庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。

九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

■ ホケノ山古墳

安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留T式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?

『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。

柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。

一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。

また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。

ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

■ 三種の神器

安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?

柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?

安本:璧という字は下に玉がついているので・・・

柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)

璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。

東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm  
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html#c1

[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
2. 中川隆[-12053] koaQ7Jey 2020年7月25日 05:31:20 : 22PGs39hPI : aXVLa29nSWFVV0k=[3]

邪馬台国=大和説に引導(いんろう) ― 曹操の墓から鉄鏡出土 ―
2019年09月15日

 朝日新聞(2019年9月6日)に邪馬台国=九州説を裏付ける決定的な物証発見の記事が掲載された。それは戦前、京都大学の考古学者であった梅原末治が美術商から手に入れた 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 (きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)という名称の鉄鏡と、ほゞ同じものが、なんと2008年発見された魏の開祖・曹操の墓からも出土していたとの記事であった。

梅原はその美術商の話から出土地の大分県日田市に行き、実際、発掘に立ち会ったという地元の人の話を聞いて調査し、その遺跡を「ダンワラ古墳」と名付けたが、梅原自身が発掘したわけでないので本当にこの古墳かどうかは不明である。がしかし、わざわざ、京都から日田市まで行き、発見されたとき現場にいた人の話を聞いているので、この周辺であることは間違いないであろう。その後、昭和38年、美術研究誌『国華』でこの鉄鏡の写真を載せて紹介した。今、この鉄鏡は重要文化財に指定され、そのレプリカが日田天領資料館で常設展示されている。(本物は東京国立博物館所蔵)

 ―ほゞ同じ鉄鏡が曹操の墓から出土の衝撃 ―

 同記事によると、この時、東京国立博物館で開催中の「三国志展」の学術交流座談会で中国河南省文物考古研究院の中国人研究者が驚くべき発表をした。2008年発見された魏の開祖・曹操の墓(曹操高陵)から出土した鉄鏡を X 線で調べたところ、象嵌の龍と思われる文様が見つかったとのこと、同研究員は「画像で見る限り、文様も装飾も日本の大分県日田市から出土したという鏡に酷似している。直径も21センチでほゞ同じ大きさだ」と興奮気味に語ったとのことだった。この証言は決定的である。魏の皇帝が所有する鏡とほゞ同じ鏡、このような権威あるものを下賜される倭国の人物、それは「親魏倭王」の金印を与えられた女王・卑弥呼もしくは後継者・台与以外考えられない。そうして、その鏡の出土地はやはり北部九州であった。日田市は邪馬台国・日田説で盛り上がっているようであるが、それは早計であろう。邪馬台(ヤマト)国は九州北部の筑後川流域またはその近辺のどこかであることは間違いない。

 ―それでも大和説に固執する日本の学者ー 

 同記事には邪馬台国・大和説の学者が「中国でも最高級の鏡が日田地域で出土したことの説明が困難で・・・近畿などの別の土地に当初持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる」と述べている。この学者の頭の中は邪馬台国=畿内大和はすでに日本では決まったことなのに、なぜこんなところ(北部九州)からこんな鉄鏡が出るのか、だから説明がつかないと言っているのである。もうこうなると学問というより宗教である。学問とは新発見により旧説は書き換えられるものなのに、天動説が地動説に変わったように・・。

 <追記>

 この記事の翌日(9月7日)同じ朝日新聞の関西版にやはり大和説のトンデモ記事が出た。見出しは「最古級の前方後円墳」であった。京都府向日市(京都市の西南)にある前方後円墳の五塚原古墳が発掘調査され、その後円部頂上から竪穴式石室が発見された。この古墳は航空写真で計測すると大和の箸墓古墳の1/3の大きさで形状はピッタリ合うとのこと。つまり、箸墓古墳の縮尺版である。発掘者は箸墓古墳は陵墓であるので発掘は無理だが、箸墓古墳と同時代であるので箸墓の内部を知る手がかりになるとのこと。そうして、この古墳の築造年代は卑弥呼と同時代(三世紀中期から末期)としている。 

 とんでもない。いつから、箸墓古墳が卑弥呼の墓と決定したのか(発掘調査もされてないのに)。「魏志倭人伝」には倭人の墓は「棺あり槨なし」とあるのに、この五塚原古墳にはちゃんと石組みの石室(槨)がある。竪穴式石室も色々あるが、木棺のまわりを大小の石で囲み、上に板石で蓋をしたものである。規模の大きいものは竪穴式石槨とも呼ばれる。(近年、発掘調査され、33枚の三角縁神獣鏡が出土した箸墓古墳のすぐ近くの黒塚古墳は規模も大きく、明らかに竪穴式石槨である)。それに、卑弥呼の墓は「径百余歩」(せいぜい50メートルぐらい)とあるのに、箸墓古墳は全長280メートルもある大型古墳である。むしろ、今回の発掘で五塚原古墳は黒塚古墳と同じく、卑弥呼の時代ではないと証明されたようなものである。つまり、四世紀i以降の古墳。それでも、黒塚古墳の発掘調査報告書によると、築造年代は三世紀末(邪馬台国時代)としている。「魏志倭人伝」の記事などまるで眼中にないようである。

 なぜ、「倭人伝」の記事を無視するのか・・。それなら、「倭人伝」のすべては著者・陳寿の創作だとの説も成り立つ。我々が高校世界史で学ぶ漢帝国と匈奴との覇権争いは、司馬遷の『史記』や『漢書』の「匈奴伝」「西域伝」を元にしている。中国の歴史書を否定するなら古代の東アジア史などは書けない。この学者も曹操の鉄鏡の学者も共に邪馬台国は大和とすでに証明された事実として、すべての論考を組み立てている。やはり、学問ではなく宗教である。宗教は教祖様の言ったことは一字一句変えてはいけないが、学問は違う。本当に韓国の噓とねつ造だらけの妄想的反日教を笑えない・・。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/b3221c58f8ae13a3bea224d56746618b
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html#c2

[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
3. 2020年7月25日 05:37:52 : 22PGs39hPI : aXVLa29nSWFVV0k=[4]
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
中国・曹操陵の発掘責任者が見解 2020/1/3


国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」(後漢時代・2〜3世紀、東京国立博物館蔵 )

ダンワラ古墳から出土したと伝わる鉄鏡を確認する潘偉斌氏(左)=福岡県太宰府市の九州国立博物館拡大する


 「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。佐賀新聞社の取材に応じた。

 卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。

 ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21・1センチ。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長=。孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。

 潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。

 「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。

 潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。

 二つの鉄鏡も直径が21センチと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。研究者らは「いずれも2〜3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した。

用語解説
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう) 1933(昭和8)年に鉄道の線路工事で見つかったとされ、出土状況の確実な情報はない。考古学者の梅原末治氏が63年に発表、64年に国重文に指定された。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html#c3

[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
4. 2020年7月25日 05:45:15 : 22PGs39hPI : aXVLa29nSWFVV0k=[5]


第385回 邪馬台国の会
「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんきょう)と卑弥呼の鏡(安本先生)
「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」と曹操墓出土鉄鏡 (宮代先生)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku385.htm

 
1.「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と卑弥呼の鏡 安本美典先生
大分県の日田市で見つかったと言われる「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」がある。

・日田出土といわれる「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」画像

この「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」について、最初のディスカッションポイント

(1)「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」の読み方(どこで切れるか)?
「金銀錯・嵌珠・龍文・鉄鏡」と切れると考えられる。
つまり、金銀でメッキをして、珠(たま)をくみこんだ、龍の文様(もんよう)がある鉄鏡といった意味となる。

(2)文様は「虺龍文(きりゅうもん)」か、「夔鳳文(きほうもん)」か、「夔龍文(きりゅうもん)」か?
梅原末治氏は「虺龍文(きりゅうもん)」としている。「虺」は蛇のマムシのことである。中国の学者は「夔鳳文(きほうもん)」としている。岐阜県国府(こくふ)町名張一宮(なばりいちのみや)神社古墳から出ている鉄鏡の文様は「夔鳳鏡」である。

ここで名張一宮神社古墳についての説明

岐阜一宮神社蔵鉄鏡(当時:岐阜県吉城郡国府町、現在:高山市国府町)この鉄鏡は明治の初めごろ、同神社境内西北にあった古墳が取り壊されたさい、副葬品の直刀・鉄鏃・勾玉・須恵器などとともに神社に寄進され、倉庫に保管されていた。1985年7月、廃寺。調査に訪れた三重大の八賀晋教授により、同年八月には工業用X線撮影で夔鳳鏡とわかった。この直径21.2センチ、厚さ4ミリの鉄鏡には中央の鈕の周囲に「長」「宜」「孫」の銘が入っており、鉄製夔鳳鏡として日本で確認されたものとしては初めてのものであった。
さらに同年十月には八賀教授の鑑定により、同時出土の鉄剣のつばに銀の象嵌があることがわかり、この特徴などから、この古墳は七世紀前半頃のものと位置づけられた。

『アサヒグラフ』1985年12月27日号で次のように述べられている。

「本家の中国にもない最大の鉄鏡は直径21センチ」(岐阜県国府(こくふ)町・名張一宮(なばりいちのみや)神社古墳)
二羽の鳥が向かい合っている文様から「夔鳳(きほう)鏡」と呼ばれる鏡が、飛騨高山の北隣の町から見つかった。それも鉄製で、直径21.2センチもあり、これまでみつかった同種の鏡では、最大のものと関心を集めた。
四方を山で囲まれた平地の中に建つ名張一之宮神社が、明治四年に拡張するとき、隣り合った古墳から直刀や銅鈴などとともに出土、宝物として保管されていたが、この七月、廃寺調査に訪れた三重大の八賀晋教授が持ち帰り、工業用エックス線をかけたところ、鉄鏡としては珍しい文様が浮かび上がった。中央の鈕の周囲に「長」「宜」「孫」のめでたい銘が入っている。

夔鳳鏡は、中国の後漢から三国、晋時代(紀元二十五年から三百年ぐらい)に多く用いられたが、ほとんど銅製・わが国でみつかった十二枚も白銅製で、鉄製は初めて。中国でも鉄製はわずか二、三枚で、大きさは16センチが最大だ、という。
八賀教授は、「中国製だと思うが、飛騨の山中までどんなルートをたどったか興味深い。古墳は七世紀ごろのもので、飛騨の匠は、律令完成前から、中央にその技術を認められていた。その技術集団の長に与えられた鏡ではないだろうか」とみている。
日田市出土鏡と岐阜県出土鏡との共通点
@ともに、鉄鏡である。
A面径が21.3センチと21.2センチとかなり近い。
Bともに「長宜子孫」と見られる銘がある。
Cともに四葉座の鈕がある。
鋳造の時期は、かなり近いと見られる。

・夔鳳鏡の説明
「夔」は、山にすみ、竜に似ていて一本足の怪物。「鳳」は、想像上の大きな鳥で、めでたいしるしとしてあらわれるという。「夔鳳」は、本来、一匹の鳳をさす。鈕を中心とした糸巻形[四角凸出(よすみとっしゅつ)の方形]に四葉のついた文様で、四分割されている。 四つの各区に、あい向うおおよそ左右対称のペアの形で、二つの鳥(またはこうもり)を配置している。
日本では、ペアになっている二つの鳥を夔鳳と解釈している。縁には、十六の連弧文がある。


中国では、後漢代から六朝にかけて製作された。
中国社会科学院考古研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる(傍線にしたのは、安本)。

「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・夔鳳鏡・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。

従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以下の五種類のものである可能性が強いのです。位至三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265〜316)に大層流行しましたが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸出できなかったものと考えられます。」(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊)

『魏の時代にはいわゆる 位至三公鏡』が新たに出現しております。これは後漢の双頭竜鳳文鏡から変化してできたもので、西晋時代になって特に流行しました。ちなみに、洛陽の西晋時代の墓から出土した沢山の銅鏡のうち、三分の一がこの位至三公鏡でして、数量ではベストワンです。西晋の墓からは、そのほか様々な銅鏡が出土していますが、例えば内行花文鏡・変形獣首鏡・夔鳳鏡・方格規矩鏡・盤竜鏡などは、魏の時代の銅鏡と何ら違いはありません。また洛陽を中心としてその周辺の地点、例えば河南省の陜(せん)県・鄭州市・安陽市・焦作(しょくさく)市・また陜西省の西安などで行なわれた調査発掘の成果によりますと、後漢の末期から魏晋時代にかけての墓から出土します銅鏡は、洛陽出土のものと何ら変わるところがありません。」(以上、『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊)385-04

「曹魏〔三国の魏〕の時代になって尚方工官は回復し、『右尚方』が銅鏡の製作を担当した。鋳造された銅鏡の様式は、すべて後漢以来の旧式鏡で、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・夔鳳鏡・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡などである・曹魏の時に新しく登場した『位至三公』鏡の花紋は、後漢の双頭竜鳳文鏡を踏襲したものである。西晋の時、この『位至三公』鏡は特に流行した。」(「三国、両晋、南北朝の銅鏡」『三角縁神獣鏡の謎』全日空、1984年刊)

右上の図を見れば、頭が大きく、足のように見えるのは模様だとすれば、一本足では無い。やはり蛇のようだし、マムシとした方が良いようだ。


■日田の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」について、2019年9月6日(金)に宮代栄一氏の朝日新聞記事がある。

記事補完説明:

・「錯」は金属の上に金属を重ねおいて、メッキすることで、『世界大百科事典』平凡社刊「めっき」の項では、「600年ころの作である飛鳥(あすか)大仏は銅製の仏像に金めっきがされ、その後奈良の大仏その他の仏像もすべて金めっきが施されたが、これらの金めっきの方法は、あらかじめ金を水銀に溶かしたもの[金のアマルガム。これを滅金(めっき)と呼んだ]を塗布して後、加熱して水銀を蒸発させ、金を銅の表面に残したものであった。このような操作のこともめっきと呼び、塗金または鍍金と書いた。また金ぱく(箔)をおいて、熱して固着させる方法は(金着せ)といった。」とある。

・大塚初重編『日本古墳大辞典』東京堂出版で、ダンワラ古墳のことを以下のように掲載している。「大分県日田市大字日高字東寺、ダンワラと通称する日田盆地南部の丘陵の西裾にあったという。 1933年(昭和8)国鉄久大線の敷設工事に伴って発見されたと伝えるこの古墳の実態は現在不詳であるが、工事に際して採集された鏡は、金銀錯の手法で虺龍文等表現し、随所に珠玉を嵌入した鉄鏡で、本邦唯一の出土例として、著名である。同時に鉄刀・轡等が出土したとも伝える。ほかに伝日田市刃連町出土と称する金銀錯鉄帯鉤も共伴遺物とみられている。〔文献〕梅原末治「豊後日田出土の漢金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」国華853、1963。」

・京都大学教授の岡村秀典氏は、「日本では五世紀の大阪百舌鳥大塚古墳・福岡の沖ノ島遺跡のほかに金銀象嵌品が大分ダンワラ古墳出土の竜文鏡や岐阜一の宮神社藏夔鳳鏡にあり、後漢後期から魏晋代のものと考えられる。また唐代のものとして忍冬唐草文のある金銅板を背面に貼った小型の鉄鏡が滋賀県崇福寺塔跡の舎利埋納品にあり、奈良正倉院にも無文の鉄鏡が一面ある。」と『日本考古学辞典』(三省堂、2002年)にて述べられている。

・卑弥呼にふさわしい魏からの贈り物「金銀錯鉄鏡」
大手前大学教授の上垣外憲一(かみがいとけんいち)氏著『古代日本謎の四世紀』(学生社、2011年刊)から、

私は、「親魏倭王」と刻まれた金印でも出ない限り、卑弥呼の墓は確定できない、と書いた。「青龍三年鏡」方格規矩鏡のようなものであれば、百枚の魏鏡をもらった卑弥呼であれば、魏鏡がざくざく三十枚以上でてほしいところである。
ところが、そうした私か写真を最初見た瞬間に、卑弥呼にふさわしい魏皇帝からの贈り物は、このようなものだったに違いないと思った遺物がただ一つある。魏の皇帝から「倭国の主だった皆さん(豪族の長たち)」に送られたのではなく、その上に一段も二段も高く君臨する女王にふさわしいとして、卑弥呼その人に、ただ一つ贈られた、「卑弥呼宛の鏡」にふさわしい鏡が現実に存在するのである。それが、口絵に掲載した大分県日田のダンノワラ古墳出土と伝えられる、「金銀錯嵌(さくがん)珠龍文鉄鏡」である。

この種類の鏡で中国の文献に載るのは魏の曹操が献帝に献上した(太平御覧巻七百十七)と伝えられ、金錯鉄鏡とよばれる大型鏡である。何より、その豪華な材料、そうして皇帝の御物でなければ、とうていこのような優美繊細にして精密な模様を、職人たちが精魂込めて作り上げることがないだろう。その細工の出来ばえが、たとえようもなく素晴らしい。曹操の金錯鉄鏡は「尺二寸」と伝えられ、当時(後漢から三国)の尺度で二十九センチを数える大型のものだった。このダンノワラ古墳出土の金銀錯鉄鏡は二十ニセンチ、すなわち九寸であり、四分の三の大きさである。そのまま魏の皇帝と、「親魏倭王」の格式の差に対応すると私は思う。
纒向遺跡付近から、あれほど丁寧な発掘作業が行われているのに、我国の製造と特定できる鏡は、付近の古墳を含めて一つも出土していない。仮に、纒向古墳群の一つ、つまり卑弥呼の没年に近いと思われる、纒向石塚、ホケノ山等の古墳から、このような後漢末の製作か、と思われる豪華絢爛たる鏡が出ていれば、私もかなり邪馬台国奈良県説に傾くだろう。

もう少しく考えてみよう。『太平御覧』巻七百十七には、魏武帝、すなわち曹操が献帝に献上した「雑物」の中に、御物[ぎょぶつ](皇帝の持ち物)として、一尺二寸(後漢末から魏の時代の尺で二十九センチ)の金錯鏡があったとしている。

原文を引用すると次の通り。

魏武帝上雑物疏曰御物有尺二寸金錯鏡一枚皇太子雑(用物*)純銀錯七寸鉄鏡四枚貴人至公主九寸鉄鏡四十枚
注:*『格致鏡原』により補う、注:『公主(こうしゅ)』天子の息女。皇女。

皇太子の持ち物としては、七寸の、「純銀錯鉄鏡」が四枚あったということである。これを見ると、皇帝は金錯鏡、皇太子は銀錯鏡であり、金錯の鏡は皇帝の特徴であったことがわかる。さらに皇太子の鏡の大きさは七寸であり、ダンノワラ古墳出土の金銀錯鉄鏡より一段小さい。こうしてみれば、ダンノワラの「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、皇太子以上、皇帝以下、すなわち卑弥呼の称号、「親魏倭王」にふさわしい持ち物と格付けすることができる。細工の精妙さは、これ以上考えられないほどであり、皇帝の鏡の細工に等しいものといえる。
この「鉄鏡」は、魏の時代に、中国の南方で呉が成立して魏と対立したために、江南に偏在していた銅資源を北方の魏は使用することができず、鉄鏡を多く作ったこととあわせて考えるならば、この金銀錯鉄鏡が魏の時代に製作された可能性は、かなり高いと見なければならない。

つまり、この種の金銀錯鉄鏡は、まさしく邪馬台国の時代、中国の魏と西晋の時期に、中国北方に流行したものなのである。
ダンノワラ古墳出土の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が、魏あるいは西晋から、卑弥呼あるいは台与に贈られた可能性は、充分にあり得ることだと、私は思う。
・「洛陽晋墓」のばあい
「洛陽晋墓的発掘」(『考古学報』2、1957年、中国・科学院考古研究所編、中国・科学出版社刊)を参照すると、、「洛陽晋墓」のばあいは総数五十四基の墓から、二十四面の銅鏡、七面の鉄鏡が出土している。385-07
そして、杉本憲司・菅谷文則両氏の論文に、洛陽晋墓出土鏡について、右表のような表が示されている(「中国における鏡の出土状況」[森浩一編『鏡』社会思想社、1978年刊所収]参照)。


ここで、この朝日新聞の記事における4つのディスカッションポイントを設ける。

D-1(ディスカッションポイント1)
1933年の鉄道工事の際に出土したものと推定

D-2(ディスカッションポイント2)
中国では後漢末に銅銭が乱造され銅の価値が下がり、鉄鏡の方が貴重品になった。

D-3(ディスカッションポイント3)
近畿などの別の土地に当初持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる。

D-4(ディスカッションポイント4)
「出土地について古美術商が言うことは必ずしもあてにならない。・・・」


D-1(ディスカッションポイント1)
1933年の鉄道工事の際に出土したものと推定

・梅原末治氏から
梅原末治氏による発見の状況の記載

「昭和8年(1933)に此の鏡の見出された地は、大分懸(豊後)日田市日高町小字東寺の俗に「ダンワラ」と呼んでいる、國鐵九大線三芳驛の東方約四百米のところである。そこは高い丘陵性の臺地の西の裾で、發見者たる渡邊音吉氏の居宅の背後の一隅に當って(第四圖)、現在削り取られてやゝ崖状を呈し、上邊に三四の横穴の遺存する部分に沿うて、いまは菜圉となってある。幅六米に近い右の地區は鐵道工事の爲に五米程も採土されたところで、その際にたまたま見出されたのであった。實地に就いて渡邊氏から様子を聽き糺すと、當時既に表面に墳丘など全く認められなかったが、もとの地表からかなり下(現在の地面よりやゝ上位)に南北の方向から三十度東に偏位した細長い區劃の形迹が約八米を距てゝ相並んでいて、鏡はその西の一方に遺存したと言う。その状況も氏が古物に興味を持って、工事の際自からそれの顯出に從うたので略ぼ知られるのである。即ち長さ四・五米もあったろうと言う細長いこの部分は、周圍とやゝ土質が違うて、自から所謂古式古墳(竪穴式)の主躰たることを示すもので、鏡はその西邊に近く完形を保って遺存、更に鏡の東北方、長軸に沿うて片側に鐵刀、轡、等の馬鐵槍身が點々と遺存したのであった。するとこれもまた所謂古式古墳に通じて見るところである。序に擧げるが、東方の相似た一つでも、その東邊から碧玉の管玉・水晶の切子玉、玻璃の小玉類が見出されて、いまもその大部分を渡邊氏が保存している。

もと西枕に伸展葬された頭邊に副葬してあった本古鏡をはじめ他の品々に對しでは、氏が保存の上で留意して、手許にとゞめたが、出土を傳え聞いて訪れる好事家に依って、それが鐵器の故でもあったろうが、すべて氏の手から離れて、鏡なり馬具類は日田市の岡田義勇氏の有に歸したとのことである。從うて鏡以外の副葬品に就いても記憶のよい渡邊氏のかたるところに從うと、鐵刀は三つに折れていて、細身のあまり長くない直刀であったと見られ、また轡は丸形の鏡板(鑣)のもので、他に角形をした金属製品を伴うたものであった。最近同じ玉林氏が齎したその馬具の一部と云う雲珠(辻金物)二個は、中央に卷具を嵌め飾ったものである。それ等殊に辻金物の作りより見ると時代は五世紀を遡らないものである。然らば、遺跡の營まれたのはこの馬具から推される時期を遡らず、またその構造副葬品よりして特に有力者のものであったとも考えられないのである。この點からすると中國前漢時代の同種の鏡として優れたものが現實に出土したことは、鏡が造作されて此の國に舶載されてから、異域の珍寶として珍重、久しく傳世したことを物語るものであり、同時に、この優れた遺品の舶載の上に中國文物の傳来の古いことが強くて意識されることである。」

なお、梅原末治は、大正から昭和時代にかけての大考古学者で、『講談社日本人名大辞典』によれば、「【梅原末治(うめはらーすえじ)】(1893-1983)大正〜昭和時代の考古学者。明治26年8月13日生まれ。同志社普通学校在学中から京都帝大考古学教室に出入りし、浜田耕作、内藤湖南らに師事。昭和14年京都帝大教授。銅鐸、中国青銅器、古墳などの研究によって東洋考古学の基礎を確立した。38年文化功労者。昭和58年2月19日死去。89歳。大阪出身。著作に「鑑鏡の研究」「考古学六十年」など。」とある。

梅原末治は、多くの発掘出土品の精密な記録を残した人であった。
その梅原末治ですら、梅原末治が伝橿原市出土、大和鳥屋千塚[とりやせんづか](橿原市)出土などのように記して、古代の勾玉として紹介したものの八割以上が、現代技法によって作られたものであるとして、ガラス工芸の専門家の由水常雄(よしみずつねお)氏から、徹底的な批判をあびたことがある(『芸術新潮』1972年1月号、『週刊新潮』1972年1月23日号、由水常雄著『火の贈り物』[せりか書房、1977年刊])。鉛ガラスでなく、ソーダガラスであること、ビール瓶を溶かして作られた独特の色をしているもののあることなどが指摘されている。
・深野秀久「展望(金銀錯嵌珠龍文鏡の周辺)」(『季刊邪馬台国』85号、2004年10月、梓書院刊)

「大分県日田市出土の鉄鏡と帯鉤(たいこう)」

ダンワラ古墳(大分県日田市)出土金銀錯嵌珠竜文鉄鏡、この鉄鏡の出土および発見経緯などは『国華』853号(1963)に梅原末治氏が詳しく述べられている。それによると梅原氏は偶然にこの鉄鏡を奈良の古美術店より入手され、白木原和美氏(熊本大教授)の協力を得て鉄サビなどを取り除き、研磨したところ背面の金銀錯文がその鏡面の半分ほどに遺存していることが確認された。この鉄鏡は1933年国鉄九大線敷設工事にあたり、採土の行なわれた三芳駅東方約450メートルのダンワラ台地裾に存在した竪穴式石槨を主体とした古墳からの出土であったことをつきとめられた。さらに古墳長軸に沿って片側に鉄刀、轡(くつわ)などの馬鉄槍身が点々と遺存していたとのことで、近年日田から買上げられて重文となった金錯鉄帯鉤(きんさくてつたいこう)(大形22.8センチ、小形7.7センチの2品、中国の漢代の鉄製品で腰帯の留金具)もダンワラ古墳より出土したものではないかと言われている。
この鉄鏡は鋳鉄製で径21.3センチ、中国鏡としては中等ぐらいよりやや大きく、厚さは2.5ミリの薄い扁平な造りである。

これらから、梅原末治論文を信じるしかないが、国鉄九大線敷設工事で発見されたとする可能性は高いと考えられる。


D-2(ディスカッションポイント2)
中国では後漢末に銅銭が乱造され銅の価値が下がり、鉄鏡の方が貴重品になった。

大阪府立狭山池博物館の西川寿勝先生は何を根拠にこのような意見を述べているのか分からない。この時代は銅材料が不足していたのではないか。以下の記述がある。

■中国北方では、銅原料が不足していた

魏や晋の時代、中国の北方では、銅材が不足していた。中国からわが国には、銅原料のはいりにくい時期があった。

このことについて、中国の考古学者、徐苹方氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)という文章のなかで、つぎのようにのべている。

「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけてさらに流行しました。ただしそれは、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳鏡(きほうきょう)に属し、金や銀で文様を象嵌しているものもあり、極めて華麗なものでした。『太平御覧』〔巻七一七〕所引の『魏武帝の雑物を上(のぼ)すの疏(そ)』(安本註。ここは「上(たてまつ)る疏(そ)」と訳すべきか)によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に。”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。西晋時代にも、鉄鏡はひき続き流行しました。洛陽の西晋墓出土の鉄鏡のその出土数は、位至三公鏡と内行花文鏡に次いで、三番目に位置しております。北京市順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関などの魏晋墓にも、すべて鉄鏡が副葬されていました。銅材の欠乏によって、鉄鏡が西晋時代の一時期に北方で極めて流行したということは、きわめて注目に値する事実です。」

魏王朝は、卑弥呼に、240年前後に、銅鏡百枚を贈った。しかし、魏は、それほど長く厖大な量の銅鏡を贈りつづけることができた状況にはなかったようにみえる。
ところが、このころわが国からは、そうとうな量の「小形仿製鏡」「広形銅矛」「広形銅戈」「近畿式銅鐸」「三遠式銅鐸」などの国産青銅器が出土している。そして、それらの銅原材は、鉛の同位体比からみて、中国から輸入したものであるようにみえる。これは、中国の南北がまだ統一されていた後漢の時代に、大量に鋳造された「貨泉」が中国にあり、それを、中国の北方で銅材が不足した時代に、わが国で銅原料として輸入したものではないか。

とすれば、そのような状況は、280年に南方の呉が滅ぶまでつづいたはずである。238年9月に、公孫氏が滅んで倭が魏に通じることができるようになった。そののち、280年に呉が滅びるまでのおよそ40年の期間が、おもに、「貨泉」などが、わが国に輸入された時期にあたるのではないか。


D-3(ディスカッションポイント3)
近畿などの別の土地に当初持ち決まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる。

・梅原末治氏の弟子でその後熊本大学教授の白木原好美氏の下記の記事がある
『春の日に』金関恕(ひろし)先生追悼文集、2019年3月刊、白木原好美「漢金銀錯嵌珠龍文鐵鏡」
「鐵銹の研ぎ出しも進み、錯紋を配置する仮の台も出来た頃、研ぎ出し用の磨粉の付着を御覧になった先生(注:梅原末治氏のこと)は、「石灰じゃ、証拠じゃ---」と狂喜され、「未完成です。作業の途中です---」と追い縋る私を無視して、「ようでけた、ようでけた」と呟かれながら持ち去ってしまわれた。これが鏡を目にした最後だが、写真等に依る限り、更に手を加えた様子は全くない。いまだに未完成のままである。

其の後、鏡の重文指定を知って仰天した。当時の考古の領城は略々プロトヒストリであり。編年は鑑鏡に拠った。従って鏡については皆相当の見識を持っており、例の鏡を一見すれば異常を感じる事を私は信じて疑わなかった。現に別府大学の賀川氏など、日田市出土と称する金銀錯の帯鉤などを紹介する傍、該鏡については誤認であると公言されていた。」

「その後、九州博物館がとんでも無いことを始めた。あの鏡を中心に置き、邪馬台国那辺と問いかけながら展覧会を始めた。心ある研究者は色めき立って私に詰め寄り始めた。私は進退に窮した。」
「当時一連の遺物の物流の小拠点が、日田市と鹿児島方面の二ヶ所に在る事を察知していた。」

この白木原氏の文章は、「日田出土鏡説」に対し、「中国での盗掘鏡輸入説」と「中国での捏造品輸入説」を示唆した。

しかし、梅原末治論文に関連したその後のパネルディスカッションから、渡邊音吉氏の発言がまったくのでたらめとも思えない。


・インターネット『西日本新聞』2016年3月10日(木)朝刊(日田、久珠版)より
2016年3月6日(日)

「渡辺(音吉)氏の次女京子さんも、パネルディスカッションに参加し、梅原(末治)氏が自宅を訪ねてきた様子を紹介。」
この当時は高橋忠平氏は日田の鏡としていた。


・その後の経緯

2019年12月16日(月)
九州国立博物館での検討会で高島忠平氏は日田の鏡では無いとした。
[広瀬七郎氏(渡辺音吉氏の甥で高校の校長だった)のお話]
「この鏡が、日田から出土したという確証はない。現在、当時のことを知っている人は誰も生存していない。

真相は、永遠にわからないのではないか。(広瀬七郎氏は、高島忠平氏の最近の説についてはご存じであった。)
もし、この鏡が、日田から出土したとすれば、その情報などは、仮梨清氏を通じて、関西の骨董品業の人、さらには、梅原末治氏に達したのではないか。」

・この鉄鏡に対する見解
1933年(昭和8年)この鏡が出現。
1962年(昭和37年)7月3日梅原末治氏、この鏡を奈良の古美術商玉林善太郎氏から購入。
1962年と1963年の間に梅原末治氏は渡邊音吉氏宅を訪問調査。(天理大学参考館で、白木原好美教授が、表面の研ぎ出し?論文では「月余にわたる白木原君の協力」)

1963年(昭和38年)4月1日『国華』発行、梅原末治氏、この鏡についての論文を発表。
梅原末治氏が、話を創作したとすれば、出土地を畿内に設定したほうが、畿内派にとって、好都合であったはず。なぜ九州の日田にしたのか。
この鏡が、たとえば奈良県から出土したとすれば、「邪馬台国=奈良県説」にとって大変有利になる。

また、梅原末治論文発表時、渡邊音吉氏は存命中で、しっかりしていた。梅原論文発表後、多くのマスコミや、研究者が、この地をおとずれたようである。
もし、梅原論文が虚構の話であるとすれば、渡邊音吉氏は、質問に対して、返答に困ったはず。(「金銀錯嵌珠鉄鏡出土地の写真」など。)
このように難しい問題ではあるが、この鉄鏡は1933年当時、中国では存在が知られていない。そのような中、「中国での盗掘」と「中国での捏造品」と考えるより、古物商から購入と不明点があるが、日田出土と考えた方が、一番可能性があるように思える。

■九州と大和の地名の一致

わが国の地名学の樹立に大きな貢献をした鏡味完二(かがみかんじ)氏は、その著『日本の地名』(1964年、角川書店刊)のなかで、およそつぎのようなことを指摘している。

「九州と近畿とのあいだで、地名の名づけかたが、じつによく一致している。すなわち、右表のような、十一組の似た地名をとりだすことができる。そしてこれらの地名は、いずれも、

@ヤマトを中心としている。

A海のほうへ、怡土(いと)→志摩(しま)[九州]、伊勢(いせ)→志摩[近畿]となっている。

B山のほうへ、耳納(みのう)→日田(ひた)→熊(くま)[九州]、美濃(みの)→飛騨(ひだ)→熊野(くまの)[近畿]となっている。

これらの対の地名は、位置や地形までがだいたい一致している。
これは、たんに民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる。」

このことは下の地図で、九州の朝倉市付近に耳納(みのう)山があり、その東に日田(ひた)があることで確認できる。そして、岐阜県に美濃(みの)があり、その北東に飛騨(ひだ)があるのと同じである。
そして、両方から鉄鏡が出土している。

更に、九州の朝倉市付近に遠市の里、岐阜県に遠市の郷がある。

このことは、狭い地域にあった地名が人の移動で、広い地域に移ったことにより、地名間の距離が離れた可能性がある。
これは下記にあるように、香山(かぐやま)でも同じことが言える。

■大和にも、北九州にもある香山(かぐやま)

日本神話に「香山」の名がしばしばあらわれることが、「高天の原=大和説」の、ひとつの根拠となっていた。

さて、古くは、大和の天の香山は、天にある香山がくだってきたものであると考えられていた。
鎌倉時代中期にできた『日本書紀』の注釈書、『釈日本紀』は、『伊予風土記』を引用して、つぎのようにのべている。

「伊予(いよ)の国の風土記に曰(い)はく、伊予の郡。郡家(こほりのみやけ)[郡役所]より東北のかたに天山(あめやま)あり。天山(あめやま)と名づくる由(ゆゑ)は、倭(やまと)に天香具山(あめのかぐやま)あり。天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分(わか)れて、片端(かたはし)は倭(やまと)の国に、片端(かたはし)は此(こ)の土(くに) に天降(あまくだ)りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂(い)う。本(このもと)なり。」

すなわち、「天の香具山は、天から天(あま)くだるときに、二つにわかれて、ひとつは大和に、ひとつは伊予に天降った。大和にくだったものが、大和の天の香具山であり、伊予にくだったものが、天山である。」という意味内容である(久松潜一校註の日本古典全書『風土記下』〔朝日新聞社刊〕には、これに近い内容の逸文が、大和の国風土記逸文「香山」、阿波の国風土記逸文「アメノモト山」の条にみえている)。

『万葉集』巻三にも、鴨君足人(かものきみたりひと)の「天降(あも)りつく 天の芳来山(かぐやま)[天からくだりついた天の香具山]……」(257)という歌がのせられている。同じく巻三には「天降(あも)りつく 神の香山……」(260)という歌もみえる。

ここで、「天」を、「高天の原」であると考えてみよう。すると、大和にある天の香山は「高天の原」すなわち、九州にある香山の東にうつった姿であることになる。そして、九州から大和への政治勢力の移動にともない、地名が移った可能性があらわれてくる。
では、北九州に、天の香山にあたるような山があるであろうか。もしあれば、『古事記』神話に五回あらわれる天の香山は、畿内の香山ではなく、北九州の香山をさしている可能性がでてくる。

私は、まえに、『邪馬台国への道』という本のなかで、北九州に、香山はないらしいと書いた。ところが、その後、福岡県朝倉郡旧志波村(甘木市より十キロメートルほど大分県の日田市よりで、あとで考察する高木村の隣村)出身で、現在福岡県の小郡市(おごおり)[甘木市の西]に住む林国五郎氏から、甘木市ふきんの地名などを、詳細に検討されたお手紙をいただいた。その中で、林国五郎氏はのべられる。

「志波村に香山という山はございます。現在は高山(こうやま)と書いていますが、少年の頃、昔は香山と書いていたのだと、古老からよく耳にいたしました。」
私はこの手紙を読んだとき、あっと思った。『万葉集』では、天の香山のことを、「高山」と記しているからである。

たとえば、かの有名な、「香山(かぐやま)は、畝火雄雄(うねびをを)しと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき 神代より斯(か)くにあるらし……」(巻一、13)の原文は、「高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代従如此余有良之……」で、「高山」と記しているのである。

『古事記』『日本書紀』は、「かぐやま」を、「香具山」とは記さず、「香山」と記している。私は、「高山」の存在を、地図の上で知っていながら、それを「たかやま」と読んでいたため、「香山」との関係に気がつかなかった。「高山」を「こうやま」とよむのは、重箱よみであるから、これは、あて字と考えられる。

藤堂明保編『学研漢和大字典』(学習研究社刊)によれば「高」の上古音は、「kɔg」であった。『万葉集』が、「高」を、「カグ」の音にあてでいるのは、十分理由がある。

そして、さらに、江戸時代前期の元禄十六(1703)年に成立した貝原益軒(篤信、1630〜1714)の『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』にあたってしらべてみると、たしかに、「志波村の香山」と記されている。

香山は、夜須町や甘木市の東南にある。戦国時代に、香山に、秋月氏の出城があった。天正九(1581)年のころ、秋月種実が、大友氏との戦いにおいて、八千余人で「香山」に陣取ったことなどが、『筑前国続風土記』に記されている。香山には、現在、「香山城址」の碑が立っている。

林氏は、高山(香山)の比較的近くに、金山という山もあることを指摘されている(『古事記』神話に、「天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて」という記事がある。なお、高山の近くには多多連(たたら)という地名があるのも、おそらくは、製鉄と関係しているのであろう)。

また、『伊予風土記』は、天から山が降(くだ)ったとき、伊予にくだった片端が天山(あめやま)であると記しているが、夜須町の比較的近くには、「天山」という山もある。伊予の天山も、夜須町の近くの天山も、比較的小さな孤立丘である。

『古事記』神話にあらわれる畿内の十一例の地名のうち、六例までは、昔の話ではなく、『古事記』撰録当時存在していた神社について記したものである。そして、神々の行動をいくらかともなっているようにみえる残りの五例は、すべて「天の香山(かぐやま)」という地名である。神々は、天の香山から、鹿や、波波迦(ははか)[朱桜(かにわさくら)]や、常磐木(ときわぎ)や、ひかげのかずらや、ささの葉をとってきている。この「香山」は、九州に存在し、おそらくは祭事などで重要な位置を占めたものであり、大和の香山は、北九州勢力の大和への進出とともに、名前が移されたものであろう。このように考えれば、『古事記』神話には、古くからの伝えと考えられる畿内の地名は一例もないことになってしまう。

さらに、『筑前国続風土記』によれば、北九州の香山(高山)のある旧志波村のふきんは、ふるくは、「遠(とほ)市の里」とよばれていた。いっぽう、畿内の天の香山は、『延喜式』に十市郡にあると記されていることからわかるように、ふるくは、「十市(とをち)郡」(「とをち」の読みは『延喜式』による)に属していた。そして、『和名抄』にみえる「美濃国本巣遠市郷」が、藤原宮出土の木簡では、「三野国本須郡十市・・・」となっている例がある。古代においては、「遠市(とほち)」と「十市(とをち)」の音は、等しかったか、または、きわめて近かったと考えられる。

北九州の香山と大和の天の香山とは、その相対的位置からいっても、「遠市」「十市」に存在したことなどからも、たがいに対応しているということができよう[宮崎県臼杵(うすき)郡の天の香山(かぐやま)、後世の命名と思われる]

なお、福岡県朝倉郡の「香山」の頂上には、現在、地元の実業家によって、観音様がたてられている。

・日田と朝倉は近い
日田は北九州の中心地にあると言える。そして、朝倉市にも近い。
(下図はクリックすると大きくなります)385-10

「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が卑弥呼の鏡とすれば、邪馬台国北九州説を強化することになる。

2.「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」と曹操墓出土鉄鏡 朝日新聞社編集委員 宮代栄一先生
二つの鏡をめぐるこれまでの動き

●「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」
1933年 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土?
1962年? 梅原末治氏が奈良の古美術商で鏡を視認
1963年 梅原末治氏が論文「豊後日田出土の漢金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(『国華』第七十二編第四冊、853号 1963)で鏡を紹介
1964年 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が重要文化財に
2006年 保管先が東京国立博物館から九州国立博物館に移る(貸し出し)
2019年 鏡を研ぎ出した白木原和美氏が金関恕先生追悼文集で出土地に疑問を提起

●「曹操墓出土鉄鏡」
2008年 西高穴2号墓(曹操高陵)の発掘調査で鉄鏡が出土
2019年5月 河南省文物考古研究院の潘偉斌研究員が、朝日新聞の取材に対し、曹操墓の鉄鏡に象嵌が確認された旨を示唆。ダンワラの写真を見せると「よく似ている」
2019年8月 東京国立博物館で開かれた学術交流団座談会で、潘研究員が「曹操墓の鉄鏡で見つかった象嵌文様が大分県出土とされる鏡と酷似している」と発言
2019年9月 朝日新聞に記事「卑弥呼がもらった?曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に」掲載
2019年12月 九州国立博物館の検討会で曹操墓出土鉄鏡のX線画像が初めて公開

まとめ−これまでの経緯等から見えてくること

・「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が出土したとされるダンワラ古墳には謎が多い
→「古墳」と名前がついているが、遺構としては横穴。でも主体部は竪穴系?
→一緒に出たという人もいる貝製の雲珠は6世紀末〜7世紀の製品。たぶん遺跡自体も雲珠と同じ時期。3世紀のものと考えられる鏡とは数百年の年代差がある
→鏡の研磨を行った白木原和美氏の発言「梅原先生は勘違いしている。あの鏡はたぶんダンワラ古墳出土のものではない」=根本的な疑問の提起

・「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」の分析・検討はいまだ十全とは言えない
→初めて公開された鏡のX線CTスキャン画像
→潘氏は2019年8月の座談会で「酷似」と発言。でも、本当に似ているの?
→精緻な象嵌文様が入っていることは間違いない=鏡は最高級品。でも、出土地の前提が崩れると議論ができなくなる

朝日新聞以外のメディアの論調(2019年12月の検討会を受けて)
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」中国・曹操陵の発掘責任者が見解 2020/l/3(金) 14:48配信 佐賀新聞
「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。佐賀新聞社の取材に応じた。卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。

ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21.1センチ。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長宜■孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。

「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。二つの鉄鏡も直径が21センチと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。研究者らは「いずれも2〜3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した。
鉄鏡の謎は永遠に… 古賀 英毅 2020/1/11 11:17 配信 西日本新聞
1枚の鉄鏡を巡って専門家の見方が分かれている。重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」である。

直径約21センチ。ほぼ同じ大きさの鉄鏡が中国の曹操(220年没)の墓から出土しており、両者の関係を考える検討会が昨年末、九州国立博物館であった。曹操墓を調査した研究者、潘偉斌さんらは「似ていると言えば似ているが…」と断定を避けた。
重文鉄鏡の論点は二つ。一つは、鏡の価値と意味だ。潘さんによると、金や銀をはめ込んだ象眼鉄鏡は、邪馬台国時代に当たる3世紀の中国で、皇帝など位の高い人が持つ権威の象徴だった。出土例は多いが、日本では重文鉄鏡だけだという。
曹操の鏡は金の象眼が確認されているものの、重文鉄鏡と文様が酷似すると断言できるまでには至っていない。潘さんは「装飾が重要」とし、重文鉄鏡も中国ならば高位の大物のものだと認めた。「(中国の魏王が下賜した)卑弥呼の鏡は装飾鉄鏡」と言う日本の研究者もいる。
論点のもう一つは重文鉄鏡の由来だ。戦前、大分県日田市で見つかったとされるが、大きな古墳というわけではなく「なぜ日田から?」との疑問がまずある。「筑後から運ばれた」「博多湾沿岸から」「近畿の豪族が持ち込んだ」と研究者の見解も分かれる。

そもそも重文鉄鏡は日田で出土したものなのか、との意見もある。「邪馬台国九州論者」の高島忠平さんらだ。日田出土と発表した故・梅原末治京都大名誉教授が、奈良の古美術商から買い入れたこの鏡の調査に関わった白木原和美・熊本大名誉教授も日田出土ではないとする文章を昨年発表している。検討会で辻田淳一郎・九州大准教授は、装飾鉄鏡が国内でほぼ出土していない理由について、副葬が予想される大型前方後円墳が未調査であることなどを挙げた。大型の古墳から見つかれば日本でも高位の人の所有物だったことが裏付けられる。同時に重文鉄鏡が日田以外の場所で出土していた可能性も高まる。

だが、大型前方後円墳の多くは天皇や皇族の陵墓であるため、調査は難しい。真相は永遠に明かされないのかもしれない。(伊万里支局長)

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku385.htm
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html#c4

   

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