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邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/246.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 25 日 05:12:06: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇家は2世紀に伊都国から日向・大和・丹後に天孫降臨した 投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 24 日 05:14:09)

邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい


邪馬台国をなぜ 「ヤマタイ国」と読むようになったのか −皇国史観の呪縛ー
2019年05月18日 |

 これは先の私のブログ ー「ヤマタイ国」はなかったー の続編に当たる。どう考えても「ヤマト国」としか読めない「邪馬台国」を無理やり「ヤマタイ国」と読ませるようになったのはなぜか。その理由を書く。(「台」は万葉仮名で乙類の「ト」であり、「古事記」表記の「夜麻登(ヤマト)」の「登」も同じく乙類の「ト」であり一致している)

 −『日本書紀』の編者は「ヤマト国」と読んでいたー

 日本で「魏志倭人伝」の記事が最初に登場するのは『日本書紀』の「神功皇后紀」である。そこに2ヵ所「倭人伝」の本文(倭女王の魏への遣使部分)をそのまま筆写して載せている。それには「魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝献・・・」とある(「倭人伝」と多少の違いはあるが)。これは何を意味しているのか。「書紀」編纂の史官たちは「魏志倭人伝」にある「邪馬台国」を「ヤマト国」と正確に読んでいたからである。つまり、「ヤマト国」である以上、それは大和朝廷にほかならず、女王・卑弥呼にふさわしい人物を探すと、当然、神功皇后以外には見当たらない。そこで、卑弥呼は神功皇后のことであろうと考え、「書紀・神功皇后紀」に書き入れたと思われる。(「書紀」によると、神功皇后は優柔不断な夫、仲哀天皇の死後、半島に出兵し新羅を征討した。まさに女帝にふさわしい事蹟がある)。

 勿論、「書紀」史官の見た『魏志』は残っていないが、そこには「邪馬台国」とあった証明にもなる。もし、古田武彦の言うように「邪馬壱国」とあったら、史官たちは大和朝廷とは違う別の国だと判断して無視したはずである。古田氏が使っている『魏志』はずっと後の12世紀、南宋代の版木本である。五世紀に書かれた『後漢書』にはちゃんと「邪馬台国」はあるのである。それと、この部分(倭人の条)、『後漢書』は明らかに『魏志』(三世紀末成立)をそっくり写している。また、七世紀初頭に成立した『梁書』も『魏志』を筆写しており、そこにも「邪馬台国」と「台与」はある。(今でいうコピペである)

 −江戸時代に「邪馬台国」はどう認識されていたのかー

 本居宣長(1730 〜1801)は「書紀」編者とは全く別の見方をした。ただ、「邪馬台国」を「ヤマト国」と読むのは同じだが、「魏志倭人伝」にある女王遣使記事は大和朝廷の女帝ではなく、九州の熊襲(くまそ)あたりの女酋長が、大和の神功皇后の名をかたって勝手に魏に遣使したものだと断定した(熊襲偽僭説)。つまり、大和の天皇家が中国(魏)に朝貢などするはずがないとの皇国史観の魁(さきがけ)である。(本居宣長著『 馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』)

 これを受けて幕末の国学者、鶴峯戊申は中国や朝鮮の史書にある「倭」「倭人」「倭国」などすべて大和朝廷ではなく、南九州の「襲(そ)」の国が大和の天皇家をかたって通交したものだと主張した。なんと、五世紀の「宋書・倭国伝」にある「倭の五王」すら襲国の王が大和の天皇を勝手に僭称したものだと言って憚らなかった(『 襲国偽僭考 』)。 明治の世になっても歴史学者(国学者でもある)の古代日本の認識は江戸時代とさほど変わらなかった。しかし、これら皇国史観にどっぷりつかっていた国学者たちでさえ、邪馬台国は「ヤマト国」と正しく読んでいた。だからこそ、大和の天皇家ではないと否定したかったのである。大和朝廷の天皇が中国に朝貢して冊封を受ける、そんなことは絶対にあってはならないことなのである。この時点では「ヤマタイ国」は生まれていなかった。ではいつから奇妙な「ヤマタイ国」が出現したのか・・。

 −東大の白鳥庫吉と京大の内藤湖南の論争ー

 この二人は共に最幕末の生まれであり、明治の教育を受けた人である。江戸後期の狂信的な国学者とは一線を画していた。当然、邪馬台国は「ヤマト国」と読むべきであると考えていたであろうが、時代的制約があり、そこで妥協案として思い付いたのが「ヤマタイ国」という世にも不思議な架空の国名であったと思われる。「ヤマタイ国」は大和朝廷とは違うとの言い訳ができる。日本人のこのような思考法は得意技でもある。現行憲法には陸・海・空の戦力を保持しないとあるのに、実際は強力な軍隊を持っている。かって、自衛隊は戦力ではないとの迷答弁をした首相もいた。

 それはさておいて、この両人の論争、白鳥の九州説、内藤の大和説の激しい論争は有名である。そうしてこの論争は今も続いている。しかし、戦後、日本と中国での考古学上の発掘の結果、京大系の大和説はすでに破綻している。それでも、いまだに三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった魏鏡であるとの自己信念のみに固執しているのが現状である。本家の中国では、後漢、魏、晋(二〜五世紀)の発掘調査が飛躍的に進み、出土した鏡も写真入りで出版されている。ごく最近、なんと魏王朝の開祖・曹操の墓さえ発見された。それでも三角縁神獣鏡はただの一枚も出ていない。中国の学者は日本製と断定している。(元々、鏡の神獣文様は中国南部の呉地方で流行したもので、北部の魏領域ではまず使われない。実際、呉地方では神獣鏡は数多く出土している・・中国学者の見解)。それと、いまだに「ヤマタイ国」という架空の国名が使われている不思議さ。それなのに、「宗女・台与」は「トヨ」と万葉仮名で読ませる矛盾、奇妙としか言いようがない。「記紀」を編纂した八世紀の史官も江戸時代の国学者たちも「邪馬台(ヤマト)国」と正しく読んでいたのに・・。戦前の皇国史観はいまだに日本に生きているのである。

 なお、津田左右吉は自著『古事記及び日本書紀の研究』の中で「魏志倭人伝」の邪馬台国を「ツクシのヤマト国」と正確に読んでいる(津田は九州説)。しかし同時に、ヤマトの大和朝廷は悠久の昔からヤマトにあり、この両者の関係についての言及はない。あえて避けたようである。この本で、神武東征や神功皇后の三韓征伐を史実ではないと否定したため、紀元2600年祝典(昭和15年)前に不敬罪に問われ、早稲田大学教授の職を追われた。

 <追記>

 いまでも古代史や考古学で、日本の古墳時代の始まりは三世紀中葉とか三世紀末と書かれた論文や出版物を数多く目にする。三世紀にこだわる理由は、女王・卑弥呼が三世紀半ばの人だからである。三世紀中葉説の人は箸墓古墳は卑弥呼の墓だと決めてかかり、三世紀末説の人は箸墓古墳は宗女・台与の墓に比定しているからである。この両説とも何の根拠もない。発掘調査すらされていない古墳を、実在した歴史上の人物の墓だと決め付けることに学者としてのうしろめたさを感じないのであろうか。(こんな例は世界に無い)

 21世紀にノーベル科学省をもらった人の数では日本が世界一である。自然科学の世界では当然、英語で論文を発表するので世界中の学者の批判に耐えなければならない。日本の古代史といえども、鏡の場合は本家の中国の学者の意見にも耳を傾けるのが常識であろう。それとも、中国の古鏡研究能力など低すぎて論評にも値しないとでも思っているのだろうか。日本には虫メガネの鑑定で中国(魏)製か日本(倭国)製か判別できる神の目を持った学者がいるのだからと・・!? 卑弥呼がもらった銅鏡百枚は三角縁神獣鏡だとの説は学問というより最早宗教に近い。この学説に反論する者は宗教的異端者として排斥されるのがオチであろう。(勿論、中国の学者も異端者である)

 少し前、テレビで大英博物館特集番組があり、そこの日本コーナーには鎧、甲冑、刀剣など貴重な品々と共に、古墳時代の出土物も数多く展示されていた。私が驚いたのは英語と日本語の説明文であった。そこには、日本の古墳時代の始まりは三世紀中期と明確に書かれていた。おそらく、この古墳時代展示物に日本の邪馬台国・大和説の学者が協力したのであろう。同じような事例は日本全国の歴史博物館にも少なからず見うけられる。地元の古墳から出土した三角縁神獣鏡を「中国・魏鏡(三世紀)」と説明している。かって、故・森浩一氏は強く批判していた(森氏は日本製説)。しかし、選挙のように投票で決めたら、邪馬台国=大和説派が圧勝するのが現実である。三角縁神獣教(鏡)というカルト宗教そのものである。日本人の病根は深い。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/466e4dfe3d9d414815e583481321a835   

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コメント
1. 中川隆[-12054] koaQ7Jey 2020年7月25日 05:13:36 : 22PGs39hPI : aXVLa29nSWFVV0k=[2] 報告

2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生  伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

1.伊都国と邪馬台国  柳田康雄先生


私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。

平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。

今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。

■ 弥生時代のクニと国の出現

弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。

現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。

そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。

銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15〜16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。

弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。

少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8〜10個出土した甕棺が出現する。

福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。

比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。

弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。

これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。

三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。


2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。

なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。


井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。


最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。

九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。

このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

■ 平原遺跡

平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。

王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。

王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。

鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。

棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。

10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。

墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。

頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。

墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。


出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。

この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。

また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。

しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。

また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。

つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。

平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。

平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。

耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。

耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。

平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。

平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。

右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。

平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。

三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。

ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。

伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。

■ 弥生終末から古墳時代

福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。

このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。

弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。

この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。

北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。

近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。

近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。

近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。

弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。

考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。

平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。

2.柳田先生の論点                             安本美典先生


邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。

■ 考えの一致する部分と異なる部分

柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。

また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。

邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。

いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。

北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。

骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。


■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について

洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。

下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。

平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。

奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147〜160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。

柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。

ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。


3.対談                         柳田康雄先生 VS 安本美典先生


■ 平原遺跡について

安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?

柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。

安本:女性の墓か?

柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。

また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。

■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現

安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?

柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。

■ 庄内式土器

安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?

柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。

庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。

九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

■ ホケノ山古墳

安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留T式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?

『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。

柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。

一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。

また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。

ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

■ 三種の神器

安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?

柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?

安本:璧という字は下に玉がついているので・・・

柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)

璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。

東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm  

2. 中川隆[-12053] koaQ7Jey 2020年7月25日 05:31:20 : 22PGs39hPI : aXVLa29nSWFVV0k=[3] 報告

邪馬台国=大和説に引導(いんろう) ― 曹操の墓から鉄鏡出土 ―
2019年09月15日

 朝日新聞(2019年9月6日)に邪馬台国=九州説を裏付ける決定的な物証発見の記事が掲載された。それは戦前、京都大学の考古学者であった梅原末治が美術商から手に入れた 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 (きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)という名称の鉄鏡と、ほゞ同じものが、なんと2008年発見された魏の開祖・曹操の墓からも出土していたとの記事であった。

梅原はその美術商の話から出土地の大分県日田市に行き、実際、発掘に立ち会ったという地元の人の話を聞いて調査し、その遺跡を「ダンワラ古墳」と名付けたが、梅原自身が発掘したわけでないので本当にこの古墳かどうかは不明である。がしかし、わざわざ、京都から日田市まで行き、発見されたとき現場にいた人の話を聞いているので、この周辺であることは間違いないであろう。その後、昭和38年、美術研究誌『国華』でこの鉄鏡の写真を載せて紹介した。今、この鉄鏡は重要文化財に指定され、そのレプリカが日田天領資料館で常設展示されている。(本物は東京国立博物館所蔵)

 ―ほゞ同じ鉄鏡が曹操の墓から出土の衝撃 ―

 同記事によると、この時、東京国立博物館で開催中の「三国志展」の学術交流座談会で中国河南省文物考古研究院の中国人研究者が驚くべき発表をした。2008年発見された魏の開祖・曹操の墓(曹操高陵)から出土した鉄鏡を X 線で調べたところ、象嵌の龍と思われる文様が見つかったとのこと、同研究員は「画像で見る限り、文様も装飾も日本の大分県日田市から出土したという鏡に酷似している。直径も21センチでほゞ同じ大きさだ」と興奮気味に語ったとのことだった。この証言は決定的である。魏の皇帝が所有する鏡とほゞ同じ鏡、このような権威あるものを下賜される倭国の人物、それは「親魏倭王」の金印を与えられた女王・卑弥呼もしくは後継者・台与以外考えられない。そうして、その鏡の出土地はやはり北部九州であった。日田市は邪馬台国・日田説で盛り上がっているようであるが、それは早計であろう。邪馬台(ヤマト)国は九州北部の筑後川流域またはその近辺のどこかであることは間違いない。

 ―それでも大和説に固執する日本の学者ー 

 同記事には邪馬台国・大和説の学者が「中国でも最高級の鏡が日田地域で出土したことの説明が困難で・・・近畿などの別の土地に当初持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる」と述べている。この学者の頭の中は邪馬台国=畿内大和はすでに日本では決まったことなのに、なぜこんなところ(北部九州)からこんな鉄鏡が出るのか、だから説明がつかないと言っているのである。もうこうなると学問というより宗教である。学問とは新発見により旧説は書き換えられるものなのに、天動説が地動説に変わったように・・。

 <追記>

 この記事の翌日(9月7日)同じ朝日新聞の関西版にやはり大和説のトンデモ記事が出た。見出しは「最古級の前方後円墳」であった。京都府向日市(京都市の西南)にある前方後円墳の五塚原古墳が発掘調査され、その後円部頂上から竪穴式石室が発見された。この古墳は航空写真で計測すると大和の箸墓古墳の1/3の大きさで形状はピッタリ合うとのこと。つまり、箸墓古墳の縮尺版である。発掘者は箸墓古墳は陵墓であるので発掘は無理だが、箸墓古墳と同時代であるので箸墓の内部を知る手がかりになるとのこと。そうして、この古墳の築造年代は卑弥呼と同時代(三世紀中期から末期)としている。 

 とんでもない。いつから、箸墓古墳が卑弥呼の墓と決定したのか(発掘調査もされてないのに)。「魏志倭人伝」には倭人の墓は「棺あり槨なし」とあるのに、この五塚原古墳にはちゃんと石組みの石室(槨)がある。竪穴式石室も色々あるが、木棺のまわりを大小の石で囲み、上に板石で蓋をしたものである。規模の大きいものは竪穴式石槨とも呼ばれる。(近年、発掘調査され、33枚の三角縁神獣鏡が出土した箸墓古墳のすぐ近くの黒塚古墳は規模も大きく、明らかに竪穴式石槨である)。それに、卑弥呼の墓は「径百余歩」(せいぜい50メートルぐらい)とあるのに、箸墓古墳は全長280メートルもある大型古墳である。むしろ、今回の発掘で五塚原古墳は黒塚古墳と同じく、卑弥呼の時代ではないと証明されたようなものである。つまり、四世紀i以降の古墳。それでも、黒塚古墳の発掘調査報告書によると、築造年代は三世紀末(邪馬台国時代)としている。「魏志倭人伝」の記事などまるで眼中にないようである。

 なぜ、「倭人伝」の記事を無視するのか・・。それなら、「倭人伝」のすべては著者・陳寿の創作だとの説も成り立つ。我々が高校世界史で学ぶ漢帝国と匈奴との覇権争いは、司馬遷の『史記』や『漢書』の「匈奴伝」「西域伝」を元にしている。中国の歴史書を否定するなら古代の東アジア史などは書けない。この学者も曹操の鉄鏡の学者も共に邪馬台国は大和とすでに証明された事実として、すべての論考を組み立てている。やはり、学問ではなく宗教である。宗教は教祖様の言ったことは一字一句変えてはいけないが、学問は違う。本当に韓国の噓とねつ造だらけの妄想的反日教を笑えない・・。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/b3221c58f8ae13a3bea224d56746618b

3. 2020年7月25日 05:37:52 : 22PGs39hPI : aXVLa29nSWFVV0k=[4] 報告
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
中国・曹操陵の発掘責任者が見解 2020/1/3


国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」(後漢時代・2〜3世紀、東京国立博物館蔵 )

ダンワラ古墳から出土したと伝わる鉄鏡を確認する潘偉斌氏(左)=福岡県太宰府市の九州国立博物館拡大する


 「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。佐賀新聞社の取材に応じた。

 卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。

 ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21・1センチ。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長=。孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。

 潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。

 「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。

 潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。

 二つの鉄鏡も直径が21センチと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。研究者らは「いずれも2〜3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した。

用語解説
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう) 1933(昭和8)年に鉄道の線路工事で見つかったとされ、出土状況の確実な情報はない。考古学者の梅原末治氏が63年に発表、64年に国重文に指定された。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520

4. 2020年7月25日 05:45:15 : 22PGs39hPI : aXVLa29nSWFVV0k=[5] 報告


第385回 邪馬台国の会
「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんきょう)と卑弥呼の鏡(安本先生)
「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」と曹操墓出土鉄鏡 (宮代先生)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku385.htm

 
1.「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と卑弥呼の鏡 安本美典先生
大分県の日田市で見つかったと言われる「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」がある。

・日田出土といわれる「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」画像

この「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」について、最初のディスカッションポイント

(1)「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」の読み方(どこで切れるか)?
「金銀錯・嵌珠・龍文・鉄鏡」と切れると考えられる。
つまり、金銀でメッキをして、珠(たま)をくみこんだ、龍の文様(もんよう)がある鉄鏡といった意味となる。

(2)文様は「虺龍文(きりゅうもん)」か、「夔鳳文(きほうもん)」か、「夔龍文(きりゅうもん)」か?
梅原末治氏は「虺龍文(きりゅうもん)」としている。「虺」は蛇のマムシのことである。中国の学者は「夔鳳文(きほうもん)」としている。岐阜県国府(こくふ)町名張一宮(なばりいちのみや)神社古墳から出ている鉄鏡の文様は「夔鳳鏡」である。

ここで名張一宮神社古墳についての説明

岐阜一宮神社蔵鉄鏡(当時:岐阜県吉城郡国府町、現在:高山市国府町)この鉄鏡は明治の初めごろ、同神社境内西北にあった古墳が取り壊されたさい、副葬品の直刀・鉄鏃・勾玉・須恵器などとともに神社に寄進され、倉庫に保管されていた。1985年7月、廃寺。調査に訪れた三重大の八賀晋教授により、同年八月には工業用X線撮影で夔鳳鏡とわかった。この直径21.2センチ、厚さ4ミリの鉄鏡には中央の鈕の周囲に「長」「宜」「孫」の銘が入っており、鉄製夔鳳鏡として日本で確認されたものとしては初めてのものであった。
さらに同年十月には八賀教授の鑑定により、同時出土の鉄剣のつばに銀の象嵌があることがわかり、この特徴などから、この古墳は七世紀前半頃のものと位置づけられた。

『アサヒグラフ』1985年12月27日号で次のように述べられている。

「本家の中国にもない最大の鉄鏡は直径21センチ」(岐阜県国府(こくふ)町・名張一宮(なばりいちのみや)神社古墳)
二羽の鳥が向かい合っている文様から「夔鳳(きほう)鏡」と呼ばれる鏡が、飛騨高山の北隣の町から見つかった。それも鉄製で、直径21.2センチもあり、これまでみつかった同種の鏡では、最大のものと関心を集めた。
四方を山で囲まれた平地の中に建つ名張一之宮神社が、明治四年に拡張するとき、隣り合った古墳から直刀や銅鈴などとともに出土、宝物として保管されていたが、この七月、廃寺調査に訪れた三重大の八賀晋教授が持ち帰り、工業用エックス線をかけたところ、鉄鏡としては珍しい文様が浮かび上がった。中央の鈕の周囲に「長」「宜」「孫」のめでたい銘が入っている。

夔鳳鏡は、中国の後漢から三国、晋時代(紀元二十五年から三百年ぐらい)に多く用いられたが、ほとんど銅製・わが国でみつかった十二枚も白銅製で、鉄製は初めて。中国でも鉄製はわずか二、三枚で、大きさは16センチが最大だ、という。
八賀教授は、「中国製だと思うが、飛騨の山中までどんなルートをたどったか興味深い。古墳は七世紀ごろのもので、飛騨の匠は、律令完成前から、中央にその技術を認められていた。その技術集団の長に与えられた鏡ではないだろうか」とみている。
日田市出土鏡と岐阜県出土鏡との共通点
@ともに、鉄鏡である。
A面径が21.3センチと21.2センチとかなり近い。
Bともに「長宜子孫」と見られる銘がある。
Cともに四葉座の鈕がある。
鋳造の時期は、かなり近いと見られる。

・夔鳳鏡の説明
「夔」は、山にすみ、竜に似ていて一本足の怪物。「鳳」は、想像上の大きな鳥で、めでたいしるしとしてあらわれるという。「夔鳳」は、本来、一匹の鳳をさす。鈕を中心とした糸巻形[四角凸出(よすみとっしゅつ)の方形]に四葉のついた文様で、四分割されている。 四つの各区に、あい向うおおよそ左右対称のペアの形で、二つの鳥(またはこうもり)を配置している。
日本では、ペアになっている二つの鳥を夔鳳と解釈している。縁には、十六の連弧文がある。


中国では、後漢代から六朝にかけて製作された。
中国社会科学院考古研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる(傍線にしたのは、安本)。

「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・夔鳳鏡・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。

従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以下の五種類のものである可能性が強いのです。位至三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265〜316)に大層流行しましたが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸出できなかったものと考えられます。」(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊)

『魏の時代にはいわゆる 位至三公鏡』が新たに出現しております。これは後漢の双頭竜鳳文鏡から変化してできたもので、西晋時代になって特に流行しました。ちなみに、洛陽の西晋時代の墓から出土した沢山の銅鏡のうち、三分の一がこの位至三公鏡でして、数量ではベストワンです。西晋の墓からは、そのほか様々な銅鏡が出土していますが、例えば内行花文鏡・変形獣首鏡・夔鳳鏡・方格規矩鏡・盤竜鏡などは、魏の時代の銅鏡と何ら違いはありません。また洛陽を中心としてその周辺の地点、例えば河南省の陜(せん)県・鄭州市・安陽市・焦作(しょくさく)市・また陜西省の西安などで行なわれた調査発掘の成果によりますと、後漢の末期から魏晋時代にかけての墓から出土します銅鏡は、洛陽出土のものと何ら変わるところがありません。」(以上、『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊)385-04

「曹魏〔三国の魏〕の時代になって尚方工官は回復し、『右尚方』が銅鏡の製作を担当した。鋳造された銅鏡の様式は、すべて後漢以来の旧式鏡で、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・夔鳳鏡・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡などである・曹魏の時に新しく登場した『位至三公』鏡の花紋は、後漢の双頭竜鳳文鏡を踏襲したものである。西晋の時、この『位至三公』鏡は特に流行した。」(「三国、両晋、南北朝の銅鏡」『三角縁神獣鏡の謎』全日空、1984年刊)

右上の図を見れば、頭が大きく、足のように見えるのは模様だとすれば、一本足では無い。やはり蛇のようだし、マムシとした方が良いようだ。


■日田の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」について、2019年9月6日(金)に宮代栄一氏の朝日新聞記事がある。

記事補完説明:

・「錯」は金属の上に金属を重ねおいて、メッキすることで、『世界大百科事典』平凡社刊「めっき」の項では、「600年ころの作である飛鳥(あすか)大仏は銅製の仏像に金めっきがされ、その後奈良の大仏その他の仏像もすべて金めっきが施されたが、これらの金めっきの方法は、あらかじめ金を水銀に溶かしたもの[金のアマルガム。これを滅金(めっき)と呼んだ]を塗布して後、加熱して水銀を蒸発させ、金を銅の表面に残したものであった。このような操作のこともめっきと呼び、塗金または鍍金と書いた。また金ぱく(箔)をおいて、熱して固着させる方法は(金着せ)といった。」とある。

・大塚初重編『日本古墳大辞典』東京堂出版で、ダンワラ古墳のことを以下のように掲載している。「大分県日田市大字日高字東寺、ダンワラと通称する日田盆地南部の丘陵の西裾にあったという。 1933年(昭和8)国鉄久大線の敷設工事に伴って発見されたと伝えるこの古墳の実態は現在不詳であるが、工事に際して採集された鏡は、金銀錯の手法で虺龍文等表現し、随所に珠玉を嵌入した鉄鏡で、本邦唯一の出土例として、著名である。同時に鉄刀・轡等が出土したとも伝える。ほかに伝日田市刃連町出土と称する金銀錯鉄帯鉤も共伴遺物とみられている。〔文献〕梅原末治「豊後日田出土の漢金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」国華853、1963。」

・京都大学教授の岡村秀典氏は、「日本では五世紀の大阪百舌鳥大塚古墳・福岡の沖ノ島遺跡のほかに金銀象嵌品が大分ダンワラ古墳出土の竜文鏡や岐阜一の宮神社藏夔鳳鏡にあり、後漢後期から魏晋代のものと考えられる。また唐代のものとして忍冬唐草文のある金銅板を背面に貼った小型の鉄鏡が滋賀県崇福寺塔跡の舎利埋納品にあり、奈良正倉院にも無文の鉄鏡が一面ある。」と『日本考古学辞典』(三省堂、2002年)にて述べられている。

・卑弥呼にふさわしい魏からの贈り物「金銀錯鉄鏡」
大手前大学教授の上垣外憲一(かみがいとけんいち)氏著『古代日本謎の四世紀』(学生社、2011年刊)から、

私は、「親魏倭王」と刻まれた金印でも出ない限り、卑弥呼の墓は確定できない、と書いた。「青龍三年鏡」方格規矩鏡のようなものであれば、百枚の魏鏡をもらった卑弥呼であれば、魏鏡がざくざく三十枚以上でてほしいところである。
ところが、そうした私か写真を最初見た瞬間に、卑弥呼にふさわしい魏皇帝からの贈り物は、このようなものだったに違いないと思った遺物がただ一つある。魏の皇帝から「倭国の主だった皆さん(豪族の長たち)」に送られたのではなく、その上に一段も二段も高く君臨する女王にふさわしいとして、卑弥呼その人に、ただ一つ贈られた、「卑弥呼宛の鏡」にふさわしい鏡が現実に存在するのである。それが、口絵に掲載した大分県日田のダンノワラ古墳出土と伝えられる、「金銀錯嵌(さくがん)珠龍文鉄鏡」である。

この種類の鏡で中国の文献に載るのは魏の曹操が献帝に献上した(太平御覧巻七百十七)と伝えられ、金錯鉄鏡とよばれる大型鏡である。何より、その豪華な材料、そうして皇帝の御物でなければ、とうていこのような優美繊細にして精密な模様を、職人たちが精魂込めて作り上げることがないだろう。その細工の出来ばえが、たとえようもなく素晴らしい。曹操の金錯鉄鏡は「尺二寸」と伝えられ、当時(後漢から三国)の尺度で二十九センチを数える大型のものだった。このダンノワラ古墳出土の金銀錯鉄鏡は二十ニセンチ、すなわち九寸であり、四分の三の大きさである。そのまま魏の皇帝と、「親魏倭王」の格式の差に対応すると私は思う。
纒向遺跡付近から、あれほど丁寧な発掘作業が行われているのに、我国の製造と特定できる鏡は、付近の古墳を含めて一つも出土していない。仮に、纒向古墳群の一つ、つまり卑弥呼の没年に近いと思われる、纒向石塚、ホケノ山等の古墳から、このような後漢末の製作か、と思われる豪華絢爛たる鏡が出ていれば、私もかなり邪馬台国奈良県説に傾くだろう。

もう少しく考えてみよう。『太平御覧』巻七百十七には、魏武帝、すなわち曹操が献帝に献上した「雑物」の中に、御物[ぎょぶつ](皇帝の持ち物)として、一尺二寸(後漢末から魏の時代の尺で二十九センチ)の金錯鏡があったとしている。

原文を引用すると次の通り。

魏武帝上雑物疏曰御物有尺二寸金錯鏡一枚皇太子雑(用物*)純銀錯七寸鉄鏡四枚貴人至公主九寸鉄鏡四十枚
注:*『格致鏡原』により補う、注:『公主(こうしゅ)』天子の息女。皇女。

皇太子の持ち物としては、七寸の、「純銀錯鉄鏡」が四枚あったということである。これを見ると、皇帝は金錯鏡、皇太子は銀錯鏡であり、金錯の鏡は皇帝の特徴であったことがわかる。さらに皇太子の鏡の大きさは七寸であり、ダンノワラ古墳出土の金銀錯鉄鏡より一段小さい。こうしてみれば、ダンノワラの「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、皇太子以上、皇帝以下、すなわち卑弥呼の称号、「親魏倭王」にふさわしい持ち物と格付けすることができる。細工の精妙さは、これ以上考えられないほどであり、皇帝の鏡の細工に等しいものといえる。
この「鉄鏡」は、魏の時代に、中国の南方で呉が成立して魏と対立したために、江南に偏在していた銅資源を北方の魏は使用することができず、鉄鏡を多く作ったこととあわせて考えるならば、この金銀錯鉄鏡が魏の時代に製作された可能性は、かなり高いと見なければならない。

つまり、この種の金銀錯鉄鏡は、まさしく邪馬台国の時代、中国の魏と西晋の時期に、中国北方に流行したものなのである。
ダンノワラ古墳出土の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が、魏あるいは西晋から、卑弥呼あるいは台与に贈られた可能性は、充分にあり得ることだと、私は思う。
・「洛陽晋墓」のばあい
「洛陽晋墓的発掘」(『考古学報』2、1957年、中国・科学院考古研究所編、中国・科学出版社刊)を参照すると、、「洛陽晋墓」のばあいは総数五十四基の墓から、二十四面の銅鏡、七面の鉄鏡が出土している。385-07
そして、杉本憲司・菅谷文則両氏の論文に、洛陽晋墓出土鏡について、右表のような表が示されている(「中国における鏡の出土状況」[森浩一編『鏡』社会思想社、1978年刊所収]参照)。


ここで、この朝日新聞の記事における4つのディスカッションポイントを設ける。

D-1(ディスカッションポイント1)
1933年の鉄道工事の際に出土したものと推定

D-2(ディスカッションポイント2)
中国では後漢末に銅銭が乱造され銅の価値が下がり、鉄鏡の方が貴重品になった。

D-3(ディスカッションポイント3)
近畿などの別の土地に当初持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる。

D-4(ディスカッションポイント4)
「出土地について古美術商が言うことは必ずしもあてにならない。・・・」


D-1(ディスカッションポイント1)
1933年の鉄道工事の際に出土したものと推定

・梅原末治氏から
梅原末治氏による発見の状況の記載

「昭和8年(1933)に此の鏡の見出された地は、大分懸(豊後)日田市日高町小字東寺の俗に「ダンワラ」と呼んでいる、國鐵九大線三芳驛の東方約四百米のところである。そこは高い丘陵性の臺地の西の裾で、發見者たる渡邊音吉氏の居宅の背後の一隅に當って(第四圖)、現在削り取られてやゝ崖状を呈し、上邊に三四の横穴の遺存する部分に沿うて、いまは菜圉となってある。幅六米に近い右の地區は鐵道工事の爲に五米程も採土されたところで、その際にたまたま見出されたのであった。實地に就いて渡邊氏から様子を聽き糺すと、當時既に表面に墳丘など全く認められなかったが、もとの地表からかなり下(現在の地面よりやゝ上位)に南北の方向から三十度東に偏位した細長い區劃の形迹が約八米を距てゝ相並んでいて、鏡はその西の一方に遺存したと言う。その状況も氏が古物に興味を持って、工事の際自からそれの顯出に從うたので略ぼ知られるのである。即ち長さ四・五米もあったろうと言う細長いこの部分は、周圍とやゝ土質が違うて、自から所謂古式古墳(竪穴式)の主躰たることを示すもので、鏡はその西邊に近く完形を保って遺存、更に鏡の東北方、長軸に沿うて片側に鐵刀、轡、等の馬鐵槍身が點々と遺存したのであった。するとこれもまた所謂古式古墳に通じて見るところである。序に擧げるが、東方の相似た一つでも、その東邊から碧玉の管玉・水晶の切子玉、玻璃の小玉類が見出されて、いまもその大部分を渡邊氏が保存している。

もと西枕に伸展葬された頭邊に副葬してあった本古鏡をはじめ他の品々に對しでは、氏が保存の上で留意して、手許にとゞめたが、出土を傳え聞いて訪れる好事家に依って、それが鐵器の故でもあったろうが、すべて氏の手から離れて、鏡なり馬具類は日田市の岡田義勇氏の有に歸したとのことである。從うて鏡以外の副葬品に就いても記憶のよい渡邊氏のかたるところに從うと、鐵刀は三つに折れていて、細身のあまり長くない直刀であったと見られ、また轡は丸形の鏡板(鑣)のもので、他に角形をした金属製品を伴うたものであった。最近同じ玉林氏が齎したその馬具の一部と云う雲珠(辻金物)二個は、中央に卷具を嵌め飾ったものである。それ等殊に辻金物の作りより見ると時代は五世紀を遡らないものである。然らば、遺跡の營まれたのはこの馬具から推される時期を遡らず、またその構造副葬品よりして特に有力者のものであったとも考えられないのである。この點からすると中國前漢時代の同種の鏡として優れたものが現實に出土したことは、鏡が造作されて此の國に舶載されてから、異域の珍寶として珍重、久しく傳世したことを物語るものであり、同時に、この優れた遺品の舶載の上に中國文物の傳来の古いことが強くて意識されることである。」

なお、梅原末治は、大正から昭和時代にかけての大考古学者で、『講談社日本人名大辞典』によれば、「【梅原末治(うめはらーすえじ)】(1893-1983)大正〜昭和時代の考古学者。明治26年8月13日生まれ。同志社普通学校在学中から京都帝大考古学教室に出入りし、浜田耕作、内藤湖南らに師事。昭和14年京都帝大教授。銅鐸、中国青銅器、古墳などの研究によって東洋考古学の基礎を確立した。38年文化功労者。昭和58年2月19日死去。89歳。大阪出身。著作に「鑑鏡の研究」「考古学六十年」など。」とある。

梅原末治は、多くの発掘出土品の精密な記録を残した人であった。
その梅原末治ですら、梅原末治が伝橿原市出土、大和鳥屋千塚[とりやせんづか](橿原市)出土などのように記して、古代の勾玉として紹介したものの八割以上が、現代技法によって作られたものであるとして、ガラス工芸の専門家の由水常雄(よしみずつねお)氏から、徹底的な批判をあびたことがある(『芸術新潮』1972年1月号、『週刊新潮』1972年1月23日号、由水常雄著『火の贈り物』[せりか書房、1977年刊])。鉛ガラスでなく、ソーダガラスであること、ビール瓶を溶かして作られた独特の色をしているもののあることなどが指摘されている。
・深野秀久「展望(金銀錯嵌珠龍文鏡の周辺)」(『季刊邪馬台国』85号、2004年10月、梓書院刊)

「大分県日田市出土の鉄鏡と帯鉤(たいこう)」

ダンワラ古墳(大分県日田市)出土金銀錯嵌珠竜文鉄鏡、この鉄鏡の出土および発見経緯などは『国華』853号(1963)に梅原末治氏が詳しく述べられている。それによると梅原氏は偶然にこの鉄鏡を奈良の古美術店より入手され、白木原和美氏(熊本大教授)の協力を得て鉄サビなどを取り除き、研磨したところ背面の金銀錯文がその鏡面の半分ほどに遺存していることが確認された。この鉄鏡は1933年国鉄九大線敷設工事にあたり、採土の行なわれた三芳駅東方約450メートルのダンワラ台地裾に存在した竪穴式石槨を主体とした古墳からの出土であったことをつきとめられた。さらに古墳長軸に沿って片側に鉄刀、轡(くつわ)などの馬鉄槍身が点々と遺存していたとのことで、近年日田から買上げられて重文となった金錯鉄帯鉤(きんさくてつたいこう)(大形22.8センチ、小形7.7センチの2品、中国の漢代の鉄製品で腰帯の留金具)もダンワラ古墳より出土したものではないかと言われている。
この鉄鏡は鋳鉄製で径21.3センチ、中国鏡としては中等ぐらいよりやや大きく、厚さは2.5ミリの薄い扁平な造りである。

これらから、梅原末治論文を信じるしかないが、国鉄九大線敷設工事で発見されたとする可能性は高いと考えられる。


D-2(ディスカッションポイント2)
中国では後漢末に銅銭が乱造され銅の価値が下がり、鉄鏡の方が貴重品になった。

大阪府立狭山池博物館の西川寿勝先生は何を根拠にこのような意見を述べているのか分からない。この時代は銅材料が不足していたのではないか。以下の記述がある。

■中国北方では、銅原料が不足していた

魏や晋の時代、中国の北方では、銅材が不足していた。中国からわが国には、銅原料のはいりにくい時期があった。

このことについて、中国の考古学者、徐苹方氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)という文章のなかで、つぎのようにのべている。

「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけてさらに流行しました。ただしそれは、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳鏡(きほうきょう)に属し、金や銀で文様を象嵌しているものもあり、極めて華麗なものでした。『太平御覧』〔巻七一七〕所引の『魏武帝の雑物を上(のぼ)すの疏(そ)』(安本註。ここは「上(たてまつ)る疏(そ)」と訳すべきか)によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に。”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。西晋時代にも、鉄鏡はひき続き流行しました。洛陽の西晋墓出土の鉄鏡のその出土数は、位至三公鏡と内行花文鏡に次いで、三番目に位置しております。北京市順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関などの魏晋墓にも、すべて鉄鏡が副葬されていました。銅材の欠乏によって、鉄鏡が西晋時代の一時期に北方で極めて流行したということは、きわめて注目に値する事実です。」

魏王朝は、卑弥呼に、240年前後に、銅鏡百枚を贈った。しかし、魏は、それほど長く厖大な量の銅鏡を贈りつづけることができた状況にはなかったようにみえる。
ところが、このころわが国からは、そうとうな量の「小形仿製鏡」「広形銅矛」「広形銅戈」「近畿式銅鐸」「三遠式銅鐸」などの国産青銅器が出土している。そして、それらの銅原材は、鉛の同位体比からみて、中国から輸入したものであるようにみえる。これは、中国の南北がまだ統一されていた後漢の時代に、大量に鋳造された「貨泉」が中国にあり、それを、中国の北方で銅材が不足した時代に、わが国で銅原料として輸入したものではないか。

とすれば、そのような状況は、280年に南方の呉が滅ぶまでつづいたはずである。238年9月に、公孫氏が滅んで倭が魏に通じることができるようになった。そののち、280年に呉が滅びるまでのおよそ40年の期間が、おもに、「貨泉」などが、わが国に輸入された時期にあたるのではないか。


D-3(ディスカッションポイント3)
近畿などの別の土地に当初持ち決まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる。

・梅原末治氏の弟子でその後熊本大学教授の白木原好美氏の下記の記事がある
『春の日に』金関恕(ひろし)先生追悼文集、2019年3月刊、白木原好美「漢金銀錯嵌珠龍文鐵鏡」
「鐵銹の研ぎ出しも進み、錯紋を配置する仮の台も出来た頃、研ぎ出し用の磨粉の付着を御覧になった先生(注:梅原末治氏のこと)は、「石灰じゃ、証拠じゃ---」と狂喜され、「未完成です。作業の途中です---」と追い縋る私を無視して、「ようでけた、ようでけた」と呟かれながら持ち去ってしまわれた。これが鏡を目にした最後だが、写真等に依る限り、更に手を加えた様子は全くない。いまだに未完成のままである。

其の後、鏡の重文指定を知って仰天した。当時の考古の領城は略々プロトヒストリであり。編年は鑑鏡に拠った。従って鏡については皆相当の見識を持っており、例の鏡を一見すれば異常を感じる事を私は信じて疑わなかった。現に別府大学の賀川氏など、日田市出土と称する金銀錯の帯鉤などを紹介する傍、該鏡については誤認であると公言されていた。」

「その後、九州博物館がとんでも無いことを始めた。あの鏡を中心に置き、邪馬台国那辺と問いかけながら展覧会を始めた。心ある研究者は色めき立って私に詰め寄り始めた。私は進退に窮した。」
「当時一連の遺物の物流の小拠点が、日田市と鹿児島方面の二ヶ所に在る事を察知していた。」

この白木原氏の文章は、「日田出土鏡説」に対し、「中国での盗掘鏡輸入説」と「中国での捏造品輸入説」を示唆した。

しかし、梅原末治論文に関連したその後のパネルディスカッションから、渡邊音吉氏の発言がまったくのでたらめとも思えない。


・インターネット『西日本新聞』2016年3月10日(木)朝刊(日田、久珠版)より
2016年3月6日(日)

「渡辺(音吉)氏の次女京子さんも、パネルディスカッションに参加し、梅原(末治)氏が自宅を訪ねてきた様子を紹介。」
この当時は高橋忠平氏は日田の鏡としていた。


・その後の経緯

2019年12月16日(月)
九州国立博物館での検討会で高島忠平氏は日田の鏡では無いとした。
[広瀬七郎氏(渡辺音吉氏の甥で高校の校長だった)のお話]
「この鏡が、日田から出土したという確証はない。現在、当時のことを知っている人は誰も生存していない。

真相は、永遠にわからないのではないか。(広瀬七郎氏は、高島忠平氏の最近の説についてはご存じであった。)
もし、この鏡が、日田から出土したとすれば、その情報などは、仮梨清氏を通じて、関西の骨董品業の人、さらには、梅原末治氏に達したのではないか。」

・この鉄鏡に対する見解
1933年(昭和8年)この鏡が出現。
1962年(昭和37年)7月3日梅原末治氏、この鏡を奈良の古美術商玉林善太郎氏から購入。
1962年と1963年の間に梅原末治氏は渡邊音吉氏宅を訪問調査。(天理大学参考館で、白木原好美教授が、表面の研ぎ出し?論文では「月余にわたる白木原君の協力」)

1963年(昭和38年)4月1日『国華』発行、梅原末治氏、この鏡についての論文を発表。
梅原末治氏が、話を創作したとすれば、出土地を畿内に設定したほうが、畿内派にとって、好都合であったはず。なぜ九州の日田にしたのか。
この鏡が、たとえば奈良県から出土したとすれば、「邪馬台国=奈良県説」にとって大変有利になる。

また、梅原末治論文発表時、渡邊音吉氏は存命中で、しっかりしていた。梅原論文発表後、多くのマスコミや、研究者が、この地をおとずれたようである。
もし、梅原論文が虚構の話であるとすれば、渡邊音吉氏は、質問に対して、返答に困ったはず。(「金銀錯嵌珠鉄鏡出土地の写真」など。)
このように難しい問題ではあるが、この鉄鏡は1933年当時、中国では存在が知られていない。そのような中、「中国での盗掘」と「中国での捏造品」と考えるより、古物商から購入と不明点があるが、日田出土と考えた方が、一番可能性があるように思える。

■九州と大和の地名の一致

わが国の地名学の樹立に大きな貢献をした鏡味完二(かがみかんじ)氏は、その著『日本の地名』(1964年、角川書店刊)のなかで、およそつぎのようなことを指摘している。

「九州と近畿とのあいだで、地名の名づけかたが、じつによく一致している。すなわち、右表のような、十一組の似た地名をとりだすことができる。そしてこれらの地名は、いずれも、

@ヤマトを中心としている。

A海のほうへ、怡土(いと)→志摩(しま)[九州]、伊勢(いせ)→志摩[近畿]となっている。

B山のほうへ、耳納(みのう)→日田(ひた)→熊(くま)[九州]、美濃(みの)→飛騨(ひだ)→熊野(くまの)[近畿]となっている。

これらの対の地名は、位置や地形までがだいたい一致している。
これは、たんに民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる。」

このことは下の地図で、九州の朝倉市付近に耳納(みのう)山があり、その東に日田(ひた)があることで確認できる。そして、岐阜県に美濃(みの)があり、その北東に飛騨(ひだ)があるのと同じである。
そして、両方から鉄鏡が出土している。

更に、九州の朝倉市付近に遠市の里、岐阜県に遠市の郷がある。

このことは、狭い地域にあった地名が人の移動で、広い地域に移ったことにより、地名間の距離が離れた可能性がある。
これは下記にあるように、香山(かぐやま)でも同じことが言える。

■大和にも、北九州にもある香山(かぐやま)

日本神話に「香山」の名がしばしばあらわれることが、「高天の原=大和説」の、ひとつの根拠となっていた。

さて、古くは、大和の天の香山は、天にある香山がくだってきたものであると考えられていた。
鎌倉時代中期にできた『日本書紀』の注釈書、『釈日本紀』は、『伊予風土記』を引用して、つぎのようにのべている。

「伊予(いよ)の国の風土記に曰(い)はく、伊予の郡。郡家(こほりのみやけ)[郡役所]より東北のかたに天山(あめやま)あり。天山(あめやま)と名づくる由(ゆゑ)は、倭(やまと)に天香具山(あめのかぐやま)あり。天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分(わか)れて、片端(かたはし)は倭(やまと)の国に、片端(かたはし)は此(こ)の土(くに) に天降(あまくだ)りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂(い)う。本(このもと)なり。」

すなわち、「天の香具山は、天から天(あま)くだるときに、二つにわかれて、ひとつは大和に、ひとつは伊予に天降った。大和にくだったものが、大和の天の香具山であり、伊予にくだったものが、天山である。」という意味内容である(久松潜一校註の日本古典全書『風土記下』〔朝日新聞社刊〕には、これに近い内容の逸文が、大和の国風土記逸文「香山」、阿波の国風土記逸文「アメノモト山」の条にみえている)。

『万葉集』巻三にも、鴨君足人(かものきみたりひと)の「天降(あも)りつく 天の芳来山(かぐやま)[天からくだりついた天の香具山]……」(257)という歌がのせられている。同じく巻三には「天降(あも)りつく 神の香山……」(260)という歌もみえる。

ここで、「天」を、「高天の原」であると考えてみよう。すると、大和にある天の香山は「高天の原」すなわち、九州にある香山の東にうつった姿であることになる。そして、九州から大和への政治勢力の移動にともない、地名が移った可能性があらわれてくる。
では、北九州に、天の香山にあたるような山があるであろうか。もしあれば、『古事記』神話に五回あらわれる天の香山は、畿内の香山ではなく、北九州の香山をさしている可能性がでてくる。

私は、まえに、『邪馬台国への道』という本のなかで、北九州に、香山はないらしいと書いた。ところが、その後、福岡県朝倉郡旧志波村(甘木市より十キロメートルほど大分県の日田市よりで、あとで考察する高木村の隣村)出身で、現在福岡県の小郡市(おごおり)[甘木市の西]に住む林国五郎氏から、甘木市ふきんの地名などを、詳細に検討されたお手紙をいただいた。その中で、林国五郎氏はのべられる。

「志波村に香山という山はございます。現在は高山(こうやま)と書いていますが、少年の頃、昔は香山と書いていたのだと、古老からよく耳にいたしました。」
私はこの手紙を読んだとき、あっと思った。『万葉集』では、天の香山のことを、「高山」と記しているからである。

たとえば、かの有名な、「香山(かぐやま)は、畝火雄雄(うねびをを)しと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき 神代より斯(か)くにあるらし……」(巻一、13)の原文は、「高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代従如此余有良之……」で、「高山」と記しているのである。

『古事記』『日本書紀』は、「かぐやま」を、「香具山」とは記さず、「香山」と記している。私は、「高山」の存在を、地図の上で知っていながら、それを「たかやま」と読んでいたため、「香山」との関係に気がつかなかった。「高山」を「こうやま」とよむのは、重箱よみであるから、これは、あて字と考えられる。

藤堂明保編『学研漢和大字典』(学習研究社刊)によれば「高」の上古音は、「kɔg」であった。『万葉集』が、「高」を、「カグ」の音にあてでいるのは、十分理由がある。

そして、さらに、江戸時代前期の元禄十六(1703)年に成立した貝原益軒(篤信、1630〜1714)の『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』にあたってしらべてみると、たしかに、「志波村の香山」と記されている。

香山は、夜須町や甘木市の東南にある。戦国時代に、香山に、秋月氏の出城があった。天正九(1581)年のころ、秋月種実が、大友氏との戦いにおいて、八千余人で「香山」に陣取ったことなどが、『筑前国続風土記』に記されている。香山には、現在、「香山城址」の碑が立っている。

林氏は、高山(香山)の比較的近くに、金山という山もあることを指摘されている(『古事記』神話に、「天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて」という記事がある。なお、高山の近くには多多連(たたら)という地名があるのも、おそらくは、製鉄と関係しているのであろう)。

また、『伊予風土記』は、天から山が降(くだ)ったとき、伊予にくだった片端が天山(あめやま)であると記しているが、夜須町の比較的近くには、「天山」という山もある。伊予の天山も、夜須町の近くの天山も、比較的小さな孤立丘である。

『古事記』神話にあらわれる畿内の十一例の地名のうち、六例までは、昔の話ではなく、『古事記』撰録当時存在していた神社について記したものである。そして、神々の行動をいくらかともなっているようにみえる残りの五例は、すべて「天の香山(かぐやま)」という地名である。神々は、天の香山から、鹿や、波波迦(ははか)[朱桜(かにわさくら)]や、常磐木(ときわぎ)や、ひかげのかずらや、ささの葉をとってきている。この「香山」は、九州に存在し、おそらくは祭事などで重要な位置を占めたものであり、大和の香山は、北九州勢力の大和への進出とともに、名前が移されたものであろう。このように考えれば、『古事記』神話には、古くからの伝えと考えられる畿内の地名は一例もないことになってしまう。

さらに、『筑前国続風土記』によれば、北九州の香山(高山)のある旧志波村のふきんは、ふるくは、「遠(とほ)市の里」とよばれていた。いっぽう、畿内の天の香山は、『延喜式』に十市郡にあると記されていることからわかるように、ふるくは、「十市(とをち)郡」(「とをち」の読みは『延喜式』による)に属していた。そして、『和名抄』にみえる「美濃国本巣遠市郷」が、藤原宮出土の木簡では、「三野国本須郡十市・・・」となっている例がある。古代においては、「遠市(とほち)」と「十市(とをち)」の音は、等しかったか、または、きわめて近かったと考えられる。

北九州の香山と大和の天の香山とは、その相対的位置からいっても、「遠市」「十市」に存在したことなどからも、たがいに対応しているということができよう[宮崎県臼杵(うすき)郡の天の香山(かぐやま)、後世の命名と思われる]

なお、福岡県朝倉郡の「香山」の頂上には、現在、地元の実業家によって、観音様がたてられている。

・日田と朝倉は近い
日田は北九州の中心地にあると言える。そして、朝倉市にも近い。
(下図はクリックすると大きくなります)385-10

「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が卑弥呼の鏡とすれば、邪馬台国北九州説を強化することになる。

2.「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」と曹操墓出土鉄鏡 朝日新聞社編集委員 宮代栄一先生
二つの鏡をめぐるこれまでの動き

●「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」
1933年 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土?
1962年? 梅原末治氏が奈良の古美術商で鏡を視認
1963年 梅原末治氏が論文「豊後日田出土の漢金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(『国華』第七十二編第四冊、853号 1963)で鏡を紹介
1964年 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が重要文化財に
2006年 保管先が東京国立博物館から九州国立博物館に移る(貸し出し)
2019年 鏡を研ぎ出した白木原和美氏が金関恕先生追悼文集で出土地に疑問を提起

●「曹操墓出土鉄鏡」
2008年 西高穴2号墓(曹操高陵)の発掘調査で鉄鏡が出土
2019年5月 河南省文物考古研究院の潘偉斌研究員が、朝日新聞の取材に対し、曹操墓の鉄鏡に象嵌が確認された旨を示唆。ダンワラの写真を見せると「よく似ている」
2019年8月 東京国立博物館で開かれた学術交流団座談会で、潘研究員が「曹操墓の鉄鏡で見つかった象嵌文様が大分県出土とされる鏡と酷似している」と発言
2019年9月 朝日新聞に記事「卑弥呼がもらった?曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に」掲載
2019年12月 九州国立博物館の検討会で曹操墓出土鉄鏡のX線画像が初めて公開

まとめ−これまでの経緯等から見えてくること

・「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が出土したとされるダンワラ古墳には謎が多い
→「古墳」と名前がついているが、遺構としては横穴。でも主体部は竪穴系?
→一緒に出たという人もいる貝製の雲珠は6世紀末〜7世紀の製品。たぶん遺跡自体も雲珠と同じ時期。3世紀のものと考えられる鏡とは数百年の年代差がある
→鏡の研磨を行った白木原和美氏の発言「梅原先生は勘違いしている。あの鏡はたぶんダンワラ古墳出土のものではない」=根本的な疑問の提起

・「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」の分析・検討はいまだ十全とは言えない
→初めて公開された鏡のX線CTスキャン画像
→潘氏は2019年8月の座談会で「酷似」と発言。でも、本当に似ているの?
→精緻な象嵌文様が入っていることは間違いない=鏡は最高級品。でも、出土地の前提が崩れると議論ができなくなる

朝日新聞以外のメディアの論調(2019年12月の検討会を受けて)
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」中国・曹操陵の発掘責任者が見解 2020/l/3(金) 14:48配信 佐賀新聞
「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。佐賀新聞社の取材に応じた。卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。

ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21.1センチ。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長宜■孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。

「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。二つの鉄鏡も直径が21センチと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。研究者らは「いずれも2〜3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した。
鉄鏡の謎は永遠に… 古賀 英毅 2020/1/11 11:17 配信 西日本新聞
1枚の鉄鏡を巡って専門家の見方が分かれている。重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」である。

直径約21センチ。ほぼ同じ大きさの鉄鏡が中国の曹操(220年没)の墓から出土しており、両者の関係を考える検討会が昨年末、九州国立博物館であった。曹操墓を調査した研究者、潘偉斌さんらは「似ていると言えば似ているが…」と断定を避けた。
重文鉄鏡の論点は二つ。一つは、鏡の価値と意味だ。潘さんによると、金や銀をはめ込んだ象眼鉄鏡は、邪馬台国時代に当たる3世紀の中国で、皇帝など位の高い人が持つ権威の象徴だった。出土例は多いが、日本では重文鉄鏡だけだという。
曹操の鏡は金の象眼が確認されているものの、重文鉄鏡と文様が酷似すると断言できるまでには至っていない。潘さんは「装飾が重要」とし、重文鉄鏡も中国ならば高位の大物のものだと認めた。「(中国の魏王が下賜した)卑弥呼の鏡は装飾鉄鏡」と言う日本の研究者もいる。
論点のもう一つは重文鉄鏡の由来だ。戦前、大分県日田市で見つかったとされるが、大きな古墳というわけではなく「なぜ日田から?」との疑問がまずある。「筑後から運ばれた」「博多湾沿岸から」「近畿の豪族が持ち込んだ」と研究者の見解も分かれる。

そもそも重文鉄鏡は日田で出土したものなのか、との意見もある。「邪馬台国九州論者」の高島忠平さんらだ。日田出土と発表した故・梅原末治京都大名誉教授が、奈良の古美術商から買い入れたこの鏡の調査に関わった白木原和美・熊本大名誉教授も日田出土ではないとする文章を昨年発表している。検討会で辻田淳一郎・九州大准教授は、装飾鉄鏡が国内でほぼ出土していない理由について、副葬が予想される大型前方後円墳が未調査であることなどを挙げた。大型の古墳から見つかれば日本でも高位の人の所有物だったことが裏付けられる。同時に重文鉄鏡が日田以外の場所で出土していた可能性も高まる。

だが、大型前方後円墳の多くは天皇や皇族の陵墓であるため、調査は難しい。真相は永遠に明かされないのかもしれない。(伊万里支局長)

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku385.htm

5. 2020年7月25日 12:02:26 : YLHKqgJkDo : bGdCZGx0emtUSkE=[7] 報告
NHKの 「歴史秘話・ヒストリア」 を見て(2019・2・6)
2019年02月07日

 今回は古代日本の最大の謎「銅鐸」についてであった。この番組の前半は非常に科学的で、銅鐸を再現するものであった。さすが、NHKでなければこれほどの資金を注ぎ込んで出来なかったであろう。石製の銅鐸の鋳型断片が出土していることから、その石と同じもので鋳型を作ることから始め、銅職人に依頼してその時代の工法でやってみたが、うまく行かず、試行錯誤のすえに完成した。私もここまでは非常によくできた番組と見ていたが、最後にとんでもないドンデン返しがあった。NHKはいつもそうであるが、邪馬台国=大和説に国民を誘導するものであった。最後に大和説の学者が出てきて、銅鐸が地中に埋められたり、破壊されたのは女王・卑弥呼の時代であり、その後、邪馬台国は銅鐸に代わって銅鏡を祀るようになったとの説明であった。突然、科学から漫画の世界に引き戻された感があった・・・。

 −邪馬台国は軍事国家かつ大陸国家ー

「魏志倭人伝」には 「兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」とあり、兵士は矛(ほこ)、盾(たて)、弓(ゆみ)を用い、すでに鉄の鏃(やじり)を使っていた。また、卑弥呼は南の狗奴國男王(肥後・・熊本県であろう)との戦争で帯方郡に救援を求め、郡は軍事顧問「張政」を派遣して 詔書、 黃幢(錦旗)をもたらし、督戦している(為檄告喻)。また、卑弥呼の遣使二人は皇帝から魏の官職をもらい、銀印を授けられている。これらの記事を読むと、この時代、倭国はすでに大陸国家と言えるほど魏と親密な関係を有していた。 「親魏倭王」の金印綬受は当然とも言える(卑弥呼の200年ほど前の倭奴国王は後漢皇帝から印綬をもらっている・・AD57年)。考古学上の発掘でも北部九州から鉄製の鏃(やじり)は大量に出土しているし、後漢の鏡も同様に数多く出土している。この時代、畿内大和からは鉄製品は何も出ていないし、後漢鏡もほとんど出土例がない。大和から鉄製品が出土するのは4世紀以降である。

 −纏向(まきむく)遺跡は平和そのものー

 邪馬台国・大和説の学者は近年発掘調査された纏向遺跡の大きな建物あとがあたかも卑弥呼の宮殿のように宣伝しているが、そこからは「倭人伝」に書かれているようなものは何一つ出土していない。銅鐸は平和な農耕社会の象徴であり、この番組でも、ある銅鐸に刻まれた絵は春夏秋冬の田んぼの様子を図案化したものであるとのこと。たしかに、私の子供の頃の田んぼには、春にはメダカやフナ、夏にはカエルやカメ、秋には赤トンボが舞っていた。二千年前と変わりなかった。

 銅鐸の出土する地域、出雲、吉備、阿波、淡路島、畿内、近江、尾張こそ「倭人伝」にある「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」のことであろう。北部九州に住む卑弥呼も東の方に同じ倭人の国があることを知っていたのである。紀元前から大陸との交流で軍事的に優位であった北部九州の邪馬台(ヤマト)国が東に移り、4世紀に大和政権となったと考えるのが一番無理がない。そのことを「記紀」は神武東征神話として書き残している。九州から来た征服者は鏡の愛好者たちであった。そのとき、銅鐸は地上から消えた。だが、銅鐸作りの技術はそのまま三角縁神獣鏡作りに受け継がれた。

 <追記>

 邪馬台国・大和説はすでに破綻している。卑弥呼は景初二年(239年)初めて魏に遣使している。後漢から魏に王朝が変わってわずか20年ほど後である。そのとき「賜汝好物」として銅鏡百枚をもらっている。この鏡が大和説の人はすでに五百枚以上も出土している三角縁神獣鏡だと断定しているが、中国の学者はすべて日本製と言っている。中国からはただの一枚も出土していない。つまり、卑弥呼がもらった銅鏡はすべて後漢鏡であるとのこと・・。おかしな話である。魏皇帝のいう「賜汝好物」との意味は、倭国と中国王朝との交流は200年以上も前からあり、その頃から、倭人が鏡に異常とも言えるほどの愛着を持っていたことを魏の官僚たち(そのすべては後漢官僚・・魏は後漢王朝をそっくり受け継いだ)から聞いていたからこその発言だったと思われる。

では、その200年間に後漢から倭国に渡った鏡はどこから出土するのか? 大半は北部九州である。伊都国(福岡県)があった平原遺跡からはなんと40枚もの後漢鏡が出ているし、鉄製の素環頭太刀一振りも出土している。卑弥呼が居たはずの畿内大和から後漢鏡はほとんど出ていない。たしかに出土例はあるが、ごく僅かである。椿井大塚山古墳では32枚の三角縁神獣鏡と3枚の後漢鏡が出土している。近年発掘された箸墓古墳のすぐ近くの黒塚古墳では33枚の三角縁神獣鏡が出土しているが後漢鏡はない。ただ一枚の画文帯神獣鏡が被葬者の棺内と考えられる位置から発見されている。

 画文帯神獣鏡は中国南部の呉地域、のちの南朝(3〜5世紀)で流行した鏡である。邪馬台国が交流したのは北部の魏と晋王朝である。この二つの古墳は明らかに四世紀以降の大和政権の時代であり、後漢鏡の出土数は北部九州が圧倒的に多い。先に述べたように、瀬戸内海の東から東海地方にかけて出土するのは銅鏡ではなく銅鐸である。つまり、後漢・魏との交流があったのは北部九州の倭人であった証明でもある。「倭人伝」には女王・卑弥呼の前には男王があり、倭国が乱れ、数年戦争状態にあったとある(倭國亂相攻伐歴年)。そこで共立されたのが卑弥呼である。卑弥呼の宮殿は北部九州以外ありえない。

 また、昨日(2月27日)の同じ番組で、三角縁神獣鏡の銅原料が中国産であったことが科学的に証明されたことが、あたかも古代史の大発見のように言っていた。そんなことは以前から分かっていたことであり、大和説の学者の流すプロパガンダにすぎない。日本で初めて銅の鉱床が武蔵国・秩父郡で発見され、「和銅」(708年)と改元されたことは日本史教科書にも出ている。では、銅鐸の原材料も中国産と証明されたら、NHKは銅鐸は中国からの輸入品だと大々的に報道するのだろうか。こんな論理が通用するなら、日本製の自動車の大半は オーストラリア製になってしまう。バカバカしい話である。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/0fa3d6263b6f2f477a7ee9ecc24750cd

6. 中川隆[-12040] koaQ7Jey 2020年7月25日 15:47:27 : YLHKqgJkDo : bGdCZGx0emtUSkE=[23] 報告
卑弥呼は漢字を知っていた!
2007年11月03日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e6cdba43c1edbfec6862584f107bf66e


 邪馬台国時代(三世紀)には倭人は漢字を知らなかったというのが古代史の定説となっている。「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の地名、人名などは倭人の発音を聞いた魏の使者が漢字表記したものであると。日本に漢字が伝わったのは五世紀頃で、『古事記』にある百済から「王仁(わに)」の来朝記事がその根拠とされてきた。毎年、洪水のように出される邪馬台国関係の本や論考でもそれが自明のこととして書かれている。
 

しかし、これに異を唱える人が現れた。『邪馬台国はなかった』の著者・古田武彦である。古田氏は、倭人は前漢以来「以歳時来献見」(『前漢書』地理誌)と半島の楽浪郡に朝貢し、漢字文明と接触していること。「魏志倭人伝」にも「郡使倭国 皆臨津捜露 伝送文書」と文字を使った事務作業を行っていること。そうして、決定的なことは帯方郡使が卑弥呼に対して「奉詔書印綬」と書面を渡しており、それに対して卑弥呼は「倭王因使上表 答謝詔恩」と魏の皇帝に対して答礼の上表文を呈している。これらの記事を読むかぎり、卑弥呼の宮廷には漢字に習熟した人がいたことは明らかである。(その人が倭人であったかどうかは別として)
 古田氏は至極当り前のことを言っているのである。明治以来日本の学者は「倭人伝」を本当に真面目に読んできたのであろうか。ただし、古田氏の唱える「邪馬壱国」は支持できない。中国史書『後漢書』(五世紀) にはちゃんと「邪馬台国」とあるのである。日本の学者が「大和(やまと)」に合わせるため、勝手に「壱」を「台」に読み替えた訳ではないのである。それと、『後漢書』の「倭人の条」は『魏志』(三世紀末成立)をそっくり写している。現存している『魏志』はずっと後の12世紀(南宋代)の版木本のみである。
 私も邪馬台国には漢字に習熟していた人がいたと思っている。その根拠は「倭人伝」に記された「対馬国」と「末盧國」にある。

(1)対馬国
 「対馬」の表記は「倭人伝」以来、今日まで変わらない。七世紀の『隋書』「倭国伝」には対馬は「都斯麻」と万葉仮名で表記されている。これは中国人が当時の日本人の発音を聞いて書いた文字ではなく、すでに漢字で日本語を書き表す方法を習得していた日本側が隋の使者に示した文字であろう。万葉仮名というのは子音プラス母音で一音節を構成する日本語を、漢字一文字で書き表すものである。現代でも新彊ウイグル自治区の首都ウルムチは漢字で「烏魯木斉」、内モンゴル自治区の首都フホホトは「呼和浩特」と表記される。日本の万葉仮名そっくりである。もし、定説のように邪馬台国の倭人が漢字を全く知らず、「ツシマ」と倭人が発音したのを漢人が表記したとすれば、先の「烏魯木斉」「呼和浩特」の例のように漢字3文字になるはずである。時代は下がるが、『明史』「日本伝」にも「明智光秀」を「阿奇支」と表記した例もある。しかし、「つしま」は「対馬」と漢字2文字である。これは何を意味するのか。
 

 一つには対馬は三世紀には「ツマ」と2音節語であったのか。いや、私は対馬は三世紀も「ツシマ」であったと思う。なぜなら、対馬の語源は「津島」であるからである。「倭人伝」の「対馬」は倭国側で使っていた表記をそのまま魏使が書き写したものと考えられる。対馬は上下二つの島から成り立っている。正確には日露戦争のとき狭い水路を掘削して完全に二島に分離されたものだが、古くから二島と認識されていた。むしろ、二つの島が対(ペアー)になっているというのがより正確である。「対馬」はまさにそれに適っている。つまり、漢字の意味を借りたのである(訓借)。では、なぜ「対島」と表記されなかったのか、その理由は分からないが、「対馬」は邪馬台国側で使っていた表記であることは間違いない。                                  

(2)末盧國
 現在の長崎県松浦半島にあった「末盧國」も「マツラ」と3音節である。当然、魏使は漢字3文字で表記したはずである。ところが、実際は「末盧」と2文字である。なぜか、 それは一音節語の漢字「末 mat 」を倭人語風に「 mat-u (マツ)」と母音を加えて2音節にして使用しているからである。 これは漢字で日本語を書き表す手法を習得していた七世紀頃には一般的であった。筑紫の「筑」は漢字音 tik を tik-u 「チク」又は「ツク」と2音節で使う。 地名表記でも「信濃(シナノ)」は「 sin-a no 」、「讃岐(サヌキ)」は「 san-u ki 」というふうに使う。『魏志』より400年後に成立した『隋書』倭国伝には「筑紫」を「竹斯国」と表記している。「魏志倭人伝」の「末盧國」と同じ用法である。つまり、「竹 tik 」を tik-u と母音を加えて二音節として使っている。( 一音節の漢語「末 」や「竹」を「マツ」や「チク」と母音を加えてニ音節化して使う, この用法を国語学で「ニ合仮名」と言う)。なお、『古事記』には「末羅縣(まつらのあがた)」として出てくる。
 

 この用法はすでに五〜六世紀頃に造営されたと思われる埼玉・稲荷山古墳鉄剣銘文に現れる。それには「多加利足尼」とあり、この「足尼」が飛鳥・奈良時代の位階のひとつ「宿禰(すくね)」を意味する言葉であるとされている、(例、大伴宿禰家持)。 三世紀の邪馬台国時代にすでに、七世紀の飛鳥時代と同じ漢字使用法が定着していたのである。朝鮮漢字音では漢字はそのまま一音節で借用している。(例えば、「国」は kuk 、日本語の koku (コク) とは全く違う)
 

 これらの事実は驚くべき結論をさし示す。つまり、邪馬台国時代の倭人は漢字を知らないどころか、すでに漢字で倭人語を表記する方法を習得していた。その証拠が「対馬国」と「末盧國」である。倭人に漢字をもたらしたのは楽浪・帯方郡の漢人であろう。漢人のうち何人かは卑弥呼の宮廷に近侍していたはずである。そうして、倭人の中にも漢字に習熟していた人たちがすでに存在していた。そう考えなければ「倭人伝」にいう「倭王因使上表、答謝詔恩」などの文が理解できない。他にも、国々にあった「市(いち)」の監督官「大倭」、伊都国に置かれた政治・軍事の監察官「一大率」、この「大倭」と「一大率」などは邪馬台国が独自に決めて使っていた文字であることは明らかである。邪馬台国にやってきた漢人(魏使)がどうしてこんな漢字を思いつくだろうか、あり得ないことである。前漢以来の楽浪・帯方郡と倭国との密接な交流の歴史を再認識する必要があるのではないか。
 

 <追記>

 なぜ、明治以来の邪馬台国論争でこれらのこと(倭人が漢字を使っていた)が無視されてきたのか。その理由は単純なところにある。日本国家の中心は大和の天皇家であり、日本のすべての古代文化(古墳も漢字も仏教も)はまず大和から始まり、そこから列島の隅々まであまねく伝えられたという虚構(皇国史観あるいは大和中心史観)にある。今でも、地方で立派な出土物が出ると、大和朝廷の勢力はここまで及んでいたのか、と言う学者が少なからずいる。すべてはここにある。

 近年、九州の弥生時代遺跡(紀元前後)から相次いで、硯(すずり)石の断片が出土している。卑弥呼の時代の吉野ヶ里遺跡からも硯石と研石が発見されている。おそらく、楽浪・帯方郡から倭国に移住してきていた漢人が持ち込んだものであろう。「卑弥呼は漢字を知っていた」との私の論考の正しさを証明してくれている。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e6cdba43c1edbfec6862584f107bf66e

7. 2020年7月25日 18:55:46 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[1] 報告
「ヤマタイ国」はなかった
2007年05月23日

 30年ほど前、古田武彦氏によって提唱された「邪馬台国はなかった」をいまだ信奉している人が沢山いるようである。「魏志倭人伝」にはたしかに「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」とあるが、現存している『魏志』は後の南宋代(12世紀)の版木本であり、三世紀末に陳寿の書いた原本は残っていないし、古い写本も無い。『後漢書』(5世紀)にはちゃんと「邪馬台国」とあり、中国の歴史書には「邪馬台国」の文字は出ているのである。古田氏の言うように、後世の日本人が勝手に「壱」を「台」に置き換えた訳ではないのである。

 問題はこの「邪馬台国」の読みである。「邪馬」は万葉仮名で「やま」と読み、「台」はそのまま漢字音で「タイ」と読むのはどうみてもおかしい。漢字音で統一するなら「ジャバタイ国」であり、万葉仮名で統一するなら「ヤマト国」とすべきである。漢字「台」は万葉仮名では乙類の「ト」である。(古代日本語の「ト」は甲乙二種類あったが、現代語では「ト」一つしかない)。どちらかに統一すべきである。そのことを主張している人はこれまでにも沢山いた。

「邪馬台(ヤマト)国論争」だからと言って邪馬台国が奈良の大和とはかぎらない。「魏志倭人伝」に書かれている多くの産物(鉄類や絹片など)はそのほとんどが北部九州から出土している。また、中国の学者は卑弥呼がもらった銅鏡百枚はすべて後漢の鏡だと主張しているし、そのほとんどは北部九州から出土している。魏は後漢から禅譲された王朝で、その都城も官僚機構にも何の変化もなかった。このことから見て、私は「邪馬台国」は九州の筑後川流域にあったと思っている。その邪馬台(ヤマト)国が4世紀に畿内に移動して大和(ヤマト)朝廷になったという安本美典氏の説が正しいと思う(古くは和辻哲郎も同じ説を唱えている)。大和朝廷の創始者は九州から来たとの伝承は7〜8世紀の朝廷にも残っていたのであろう、「記紀」編纂者はそのことを神武東征神話として書いている。ただし、「ヤマタイ国」はなかったのである。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/ff1f10c0749e3980b5a2e8fe8a18cb81

8. 2020年7月25日 18:59:50 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[2] 報告

広開土王(好太王)碑文の新解釈 −「臣民」についてー
2017年12月10日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909

    「好太王碑文」の画像検索結果広開土王(好太王)碑文

 広開土王(好太王)碑文は鴨緑江北岸、現在中国・集安市にある。明治13年(1880年)地元の農民により発見され、明治17年、日本陸軍の酒匂大尉によって拓本が持ち帰られ、その後、日本で碑文の本格的研究が始まった。この碑文解釈に重要な見落としがある。それは碑文にある「臣民」の文字である。これまで「臣民」との文字を、単なる「家臣」とか「支配民」ていどの意味として、あまり深く考えてこなかった。これこそ古代の日本と朝鮮半島の関係を語る重要な文字である。

 −広開土王碑文の世界史的意味ー

 この碑文は西暦414年に広開土王の事績を顕彰するため息子の長寿王が建立したものである。世界四大碑文に相当すると私は思っている。時代の古さ(4世紀末〜5世紀初頭)、巨大さ(高さ6メートルほど、幅1・5メートル)、文字数の多さ(約1800字)、そうしてなによりもその時代の東アジアの激動の歴史を非常に克明に描写している。決定的なことはこの碑文の内容が、後世、高麗時代(1145年)に編纂された朝鮮の歴史書『三国史記』の記事と大体一致していることである。(勿論、高句麗側から見ているので、多少の誇張や粉飾は仕方がないがおおむね信用できる)。

 では、あとの三つとは、BC1286年頃、古代エジプト王国と小アジア(今のトルコ共和国)にあったヒッタイト帝国がシリア周辺の覇権を争ったカデシュの戦いの和平協定を記録した碑文、エジプトのラムセス2世のカルナック神殿に象形文字で残されている。ヒッタイトでは、楔形文字で刻まれた同文の粘土版が発掘され、解読された。次に、古代エジプトのツタンカーメン碑文や今、大英博物館にある有名なロゼッタストーン(アレクサンダー大王の後継王国、エジプトのプトレマイオス朝の碑文、BC196年)、これら一連の象形文字碑文、三つ目は古代ペルシャのベヒストゥン碑文(ダリウス碑文)、これは古代アケメネス朝ペルシャのダリウス大王の事績などを断崖絶壁に楔(くさび)形文字で刻んだもの(BC500年頃)。勿論、世界各地で発掘などにより様々な文字記録は出土しているが(突厥碑文など)、質量の点においても、歴史的記録の大型碑文はこの4例しかないのではないか。中国は意外とこのような碑文は残っていない。まず、次の王朝によって破壊されたのであろう。有名な「赤壁の碑」も後世のものである。

 −広開土王碑文の価値を貶(おとし)める韓国・北朝鮮ー

 この碑文を日本と中国の学者は漢文に忠実に読んでいる。これ「異」を唱えるのが韓国・北朝鮮の学者たちである。古代の時代に現在の国家間の問題を持ち込んでいる。いわゆる、感情移入である。碑文にある「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民 」(西暦391年)であるが、日本と中国の学者は「百済、新羅は元々(高句麗の)属民で朝貢していたが、倭が辛卯年に渡海して来て百済、新羅を破り臣民とした」と読んでいる。特に、漢文の本家の中国の学者の読みはすべて一致している。母国語であるので当然である。ところが、韓国・北朝鮮の学者は渡海したのは高句麗で、百済、新羅、倭を(広開土王が)臣民としたと読んでいる。荒唐無稽、無茶苦茶である。漢文の法則を無視しても自分たちに都合よく解釈する。そうして、絶対に自説を変えることはない。

 朝鮮サイドの人にとってはこの「臣民」は困る文字なのである。「倭」が百済・新羅を「臣民」にする。まさに明治の日韓併合の古代版になる(皇国臣民)。こんなことは絶対にあってはならないことである。そこで歴史を創るのである。とくに、高句麗も王であり、王が中国皇帝を差し置いて「臣民」にするなどは当時の東アジアの中華文明圏には有り得ないことである。

 また、碑文中に「新羅遣使白王 倭人満其国境 潰破城池」(西暦400年)とあり、倭人が国境に迫ってきていると、新羅が高句麗に救援を求めてきた。そこで、広開土王は歩騎五万を率いて出撃し、碑文には 「新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅」とあり、占拠していた新羅城から撤退する「倭賊」を「任那加羅」まで追撃したとある。このとき、高句麗は自軍を「官兵」と称している。「官兵」とは「高句麗王の軍」の意味であろう。その4年後には「倭不軌侵入帯方界 」と、今の韓国・ソウル付近まで侵入してきた倭を撃破して「倭寇潰敗斬敵無数」と表記している。この「倭賊」「倭寇」を韓国・北朝鮮の解釈では中世(室町時代)の「倭寇」、つまり、海賊集団と決め付けている。世界四大碑文の一つである広開土王碑文は、父親の大王が倭の海賊ていどを討ち破ったことを偉大な功績として顕彰したことになる。韓国・朝鮮人にとって、現在は中国領にあるとはいえ、これほど先祖の偉大な王を侮辱する行為をなぜ平然とやれるのだろうか。むしろ、その功績をきちんと評価しているのはなんと日本と中国である。つまり、この碑文は「倭」を撃破したことを誇る戦勝記念碑なのに・・。これほど皮肉なことはない。

 −臣民は中国皇帝の臣ー

『前漢書』「地理誌」に「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」とあり、倭人は紀元前から楽浪郡に朝貢している。次の『後漢書』「東夷伝」には、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」とあり、西暦57年、倭奴国が朝貢して後漢の光武帝から印綬を授かっている。そして、三世紀の「魏志倭人伝」には、倭の女王・卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」に叙任され、「金印」を賜っている。その後、卑弥呼の後継者「台与」が朝貢したあと(266年)、中国の文献からは「倭国」の記事は消える。この時代は日本古代史でも「謎の四世紀」と言われている。そうして、突然、四世紀末、広開土王碑文に「倭」「倭人」「倭賊」「倭寇」などが出てくる。この間、一体なにがあったのか。歴史史料は何も語ってくれない。次に中国史書に出てくるのは五世紀、『宋書』倭国伝の「倭の五王」の時代である。 

私はこの四世紀にも王朝は変わっても中国に朝貢して、皇帝の臣として冊封体制下にあったと思う。つまり、倭国の軍隊は中国皇帝の軍でもあり、倭国軍は官軍として朝鮮半島に出兵したのではないか。そのことを、当然、新羅・百済・高句麗にも宣伝していた。倭軍の先頭には中国皇帝の印(しるし)、黄色い旗が翻えっていたはずである。戦いを有利に進めるため、いつの時代でも大義名分は戦争に必要である。それを知っていた長寿王は倭が百済・新羅を破り、「以為臣民」と碑文に刻んだのではないか。自分たち高句麗でさえ百済・新羅は「属民」にすぎないのに。なぜ碑文に「臣民」があるのか。これしか理由が見当たらない。たしかに、この時期、西暦372年、百済も中国(東晋)に朝貢して冊封を受けてはいるが、「勝てば官軍」は今も昔も変わりない。

時代が下がって西暦478年の『宋書』倭国伝の有名な倭王武の上表文には「臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極」とあり、倭王は中国皇帝に対して自分を「臣」と称し、宋皇帝に忠節を誓っている(帰崇天極)。同じ頃、宋に朝貢した百済王も自分を「臣」と称している。「臣」は「臣下」と同じ意味であり、「臣民」はその支配下にある「国の民」をさす(つまり、中国皇帝の臣民)。とくに倭軍が「倭不軌侵入帯方界」と、いにしえの「帯方郡」近くまで進攻してきたことは、倭国の戦争の大義、つまり、中国皇帝の軍として帯方郡の復活を目論んでいたのではないのか。この倭軍の中には倭国に亡命してきた楽浪・帯方両郡の漢人が相当数いたのではないかと思う。(313年、楽浪・帯方両郡滅亡)

 −女王・卑弥呼も官軍として戦っているー

「魏志倭人伝」に「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之」とあり、卑弥呼は南の狗奴國との争いで、帯方郡に使者を送り、戦いの窮状を訴えた。そこで、郡は魏皇帝の名代として軍事顧問、「張政」を派遣し檄をとばした(為檄告喩)。そのとき、もたらされたのが「詔書」と「黄幢」である。この「黄幢」こそ、魏皇帝の軍の印(しるし)、日本でいう「錦旗(にしきのみはた)」にほかならない。このとき、卑弥呼の邪馬台国は官軍となったのである、(黄幢、錦旗説は多くの研究者が認めている、「幢」は丸い筒型の絹の幟で、朝廷の儀仗に使われる。黄色は中国皇帝の色)。その後、狗奴国との戦闘はどうなったのか「倭人伝」に記事はない。卑弥呼の死によって双方が和睦に合意したのかもしれない。

 この「倭人伝」の記事から分かるように、三世紀の「倭国」は半島の小国家郡とは違い、中国王朝からまるで別格扱いされている。魏は中央アジアの大国、大月氏国王にも「親魏大月氏王」の称号を与えているが、卑弥呼とこの二人だけである。この事実は重い、(大月氏国とは前漢の武帝が、宿敵匈奴を東西から挟み撃ちしようと同盟を求め、「張騫」を派遣したことでよく知られている。大月氏王は断ったが・・)。また、卑弥呼の遣使、「難升米」を率善中郎將 「牛利」を率善校尉という魏の官職を与えて銀印綬を下賜している。その理由はやはり倭人が前漢以来、中国王朝に朝貢して珍しい産物をもたらしたからであろう。「倭人伝」のいう「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹」がそれを物語っている。絹布や麻布は漢人にとっても好物であったろうし、返礼に「賜汝好物」として与えた銅鏡百枚など漢人にとってはまさに、「シメシメ」とほくそえむ程度のものでしかなかったであろう・・。この三世紀の魏と倭国の関係の延長線上に四世紀の「広開土王碑文」があると考えるのが一番自然である。つまり、倭軍は中国皇帝の軍、官軍であったのだとの認識は半島諸国にも共有されていた。そこから「以為臣民」の文字が刻まれた。

 <追記>

 「広開土王碑文」問題は現代の「慰安婦騒動」と根は同じである。韓国・朝鮮人は歴史の真実を追究しようという知性が欠如しているとしか思えない。歴史とは自分たちに都合よく創り上げるものであり、どのような事実を突きつけても絶対に認めない。異常なカルト性を持った民族である。古代に倭国が半島に攻め込んで来ることは有りえない。これが絶対的真実であり、中国の古漢文の専門家の意見など一顧だにしない。旧日本軍による慰安婦20万人の強制連行も絶対的真実であり、どのような議論にも耳を貸さない。このことを我々日本人は肝に銘じておく必要がある。

 だが、日本にもよく似た問題がある。三角縁神獣鏡を魏鏡だと断定し、中国の古鏡学者の見解(三角縁神獣鏡は日本製)を一顧だにしない。そして、いまだ発掘もされていない箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墳墓に間違いないとほぼ断定し、日本の古墳時代は卑弥呼の生きた三世紀中期に始まるとの説を、あたかも絶対的真理の如く宣伝する。その理由は大多数の古代史、考古学者の意見がそうであるからとのこと。学問は選挙のように多数決で決まるものではない。クレオパトラの墓もジンギスカンの墳墓も発掘調査してはじめて決定されるものであり、これが世界の常識である。韓国・朝鮮人を非難ばかりしておれない。

 思うに、邪馬台国論争は明治以来、九州か大和かの位置論争ばかりが先行し、「倭人伝」にある魏や帯方郡との外交交渉などは軽視されてきた。そうして、邪馬台国の倭人は漢字も知らなかったとの俗説が定説化している。これに「異」を唱える人はいるにはいるが、いまだ日本史教科書もそうである、(私のブログ「卑弥呼は漢字を知っていた」参照)。卑弥呼は「詔書」「黄幢」「金印」をもらうほどの密接な関係を魏と維持していた。同時代の半島諸国にはこのような事例はない。なぜ、このような事実が軽視されてきたのか。

 それは明治以後、戦前まで続いた天皇中心史観、いわゆる皇国史観にある。日本の古代の歴史は『古事記』『日本書紀』が正史であり、中国の史書ではないのである。例えば、日本に漢字が伝わったのは『古事記』にある五世紀の応神天皇のとき、百済の「王仁(わに)」によってである。このとき、倭人は初めて漢字を知ったのだと・・。とんでもない、「魏志倭人伝」を素直に読めばそんなことはあり得ないのに。卑弥呼は「詔書」の意味さえ分からなかったのであろうか? これを逆手に取られて、朝鮮サイドの人には古代の倭人、未開の土人説が定着している。未開の倭人を文明化してやったのは我々韓国・朝鮮人だと。漢字も知らないそんな未開の倭人が四世紀末に半島に軍事行動など起こせるわけがないと。朝鮮サイドの人にこう言わせる責任はいまだ皇国史観から抜け出せないでいる日本側にある。邪馬台国・大和説こそ皇国史観そのものである。日本の歴史は悠久の昔から大和の天皇家から始まるのであり、邪馬台(ヤマト)国はその前身であるとの・・。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909

9. 2020年7月25日 19:13:33 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[3] 報告

三角縁神獣鏡はやはり日本製 !
2015年11月02日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/aedd78e8bdc711bd615fefe9e84dcd95

2015年11月2日の朝刊各紙に卑弥呼の鏡ではないかと言われてきた三角縁神獣鏡がやっぱり日本(倭国)製であることがほぼ確実になった記事が出た。

 それによると、橿原考古学研究所の主任研究員・清水康二氏がこれまで魏鏡(舶載鏡)と認定されていた1枚の鏡と、倭国でそれを模倣して製作された鏡(倣製鏡)と鑑定されていた3枚ともすべて同じ鋳型から作られた鏡であることが判明したと発表した。つまり、これら4枚の鏡はすべて中国(魏)で作られたか、もしくは日本(倭国)で作られたか、いずれかであるとのこと。さらに清水氏は続けて、鋳型を中国から持ち帰る可能性は低いとも述べている。つまり、これら4枚は日本製であることを裏付ける結果ともなっている。(同氏はどちらかとも断定は避けているが)

 清水氏の根拠はこの4枚とも三角縁の部分に同じ形状のしわがピッタリ同じ位置に出来ていることである。鋳型に傷があると完成品にしわができるらしい。たしかに、これまでも同じ鋳型で製作された三角縁神獣鏡はかなりの量発見されてはいたが、中国(魏)製と断定され、それを鑑定した著名な学者の説をそのまま事実として定説化していた三角縁神獣鏡=魏鏡説の人たちにとっては痛烈なカウンターパンチとなった。

 <追記>

 虫メガネによる鑑定などいかにいい加減なものであることかがこれでハッキリしたと思う。以前、NHKの歴史番組で大阪大学の考古学の教授が、日本ですでに500枚以上も発見されている三角縁神獣鏡を、これは中国製、これは日本製とより分けられると豪語していた。この人はこの清水氏の発表にどう答えるのだろうか。それでも三角縁神獣鏡=魏鏡説の人たちは、たまたま中国(魏)製と鑑定したこの1枚を間違えただけで、その他の魏鏡説は正しいと言い張るつもりだろうか。こうなると、もはやかの小保方晴子氏の「STAP細胞はあります」と叫ぶのと何ら変わるところがない。もうそろそろ白旗を上げるときが来たのではないか。

 また、少し前、中国の洛陽(魏の都城)の骨董市で地元の農民から三角縁神獣鏡を手に入れたという中国の古鏡研究家の話が日本の新聞で紹介されていた。この話はどう考えてもおかしい。その鏡を所有していた農民は洛陽や西安の博物館に鑑定を依頼しなかったのだろうか。もし、専門の研究者によって魏時代の鏡だと認定されたら、博物館が数百万、いや数千万円で買い取ってくれるであろう。それを骨董市で取り引きする程度の値段で譲り渡すとは、その農民はそんなに愚かだったのか。

 今でも、古代中国の都城があったこの地域では地元農民の盗掘が横行しており、当局も手を焼いているのが実状である。盗掘品を地元の骨董市で売るためではない。中国ではそのような古代の物品を闇市場で売買するシンジケートが存在している。勿論、買うのは富裕層であるが、マスコミ報道によるとなんと正規の博物館も購入するという。中国の農民をバカにしてはいけない。たんなる偽物(模造品)だからこそタダ同然の値段で売ったのである。うがった見方をすれば、その中国人古鏡研究家は、日本の三角縁神獣鏡=魏鏡説の学者が、魏鏡説の証拠品だとして大金で購入してくれることを狙っての自作自演の猿芝居ではないのか、と勘ぐりたくもなる。魏の都城があった洛陽の骨董市、話が出来すぎている。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/aedd78e8bdc711bd615fefe9e84dcd95

10. 2020年7月25日 19:18:22 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[4] 報告
「みささぎ(天皇陵)」と前方後円墳
2009年02月16日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/82520c3488ff2ff1dbf778e1d611ec56?fm=entry_awp

 「みささぎ」(御陵)の語源については、「語源辞典」には諸説でている。私はこの言葉の語源のヒントは仁徳天皇にあると思っている。仁徳天皇の和名は『日本書紀』には「大鷦鷯(オホサザキ)」とあり、『古事記』には「大雀命」とある。「サザキ」とは「古語辞典」には「ミソサザイ」という鳥の一種とあるが、古代語では「サザキ」は鳥一般の意味に使っていたことが古事記の「雀」の漢字表記からも分かる。この「サザキ」は現代日本語で「かささぎ」として残っている。

 朝鮮半島の山野に生息する「カチ」は神聖な鳥と畏敬されている。この「カチ」は日本では「かささぎ」と呼ばれ、佐賀県などの北部九州にも生息している。俗称、「カチガラス」とか「朝鮮ガラス」と呼ばれている。「かささぎ」の「か」は「かみ(神)」であろう。「神楽(かぐら)」と同じ用法である。(「くら」は場所の意味、例、高御座 )。

 この「さざき」に敬語「み」が付いたものが「みささぎ」であろう。なぜこの言葉が生まれたのか。それには古代人の信仰にも踏み込まなければならない。そうして、前方後円墳の形状の持つ意味をも解明してくれる。

 ー古代人の鳥に対する信仰ー
 古墳からの出土物の中に鳥型の埴輪がある。この埴輪は全国的に分布している。応神天皇陵とされている誉田山古墳や継体天皇陵である可能性が高い今城塚古墳、大阪藤井寺の津堂城山古墳などの出土例がよく知られている。ごく最近にも、愛媛県・今治市の古墳時代の前方後円墳(高橋仏師1号墳)から鶏形埴輪が出土しているし、兵庫県・和田山の前方後円墳(池田古墳)の周濠部からは7個もの水鳥形埴輪が発見されている。発掘担当者の見解では、その他の出土埴輪と共に、墳丘上もしくはその周辺部でなんらかの祭祀が執り行われたのであろうとのことであった。また、すでに古墳の周濠から鳥形の木製品が出土した例もあり、これも被葬者を偲ぶ祭祀に使われたものだと考えられている。 つまり、鳥は天上と地上を結ぶ聖なる生き物であるとの考えに由来すると思われる。
 
 この考えは全世界的に分布しており、人類普遍的な思想であり、日本特有のものでもない。例えば、チベットの「鳥葬」やインドのムンバイ(旧ボンベイ)に住む古代ペルシャのゾロアスター教の伝統を受け継ぐパルシー(ペルシャ人の意味)が行う「沈黙の塔」に死者を置く葬礼など。だだし、これらの風習も今は政府により禁止されているようである。

 「記紀」の神話にも「天の鳥船」や「八咫烏(ヤタガラス)」など、鳥にまつわる話が出ている。また、九州の彩色古墳の中には、船の舳先に鳥を描いたものもあり(福岡県浮羽郡吉井町の珍敷塚古墳)、鳥が死者の魂を天上に運ぶという古代人の信仰生活に由来している。古事記にも「倭健命(ヤマトタケル)」の魂が伊勢国から河内国に飛翔し、そこに白鳥陵が築かれたとの神話も、同じ思想が投影されている。
 
 ー前方後円墳は上空から見るものー
 日本の前方後円墳は地上から見ると単なる小山に過ぎない。私たちが歴史書や教科書で見る前方後円墳はすべて上空からの写真(航空写真)によるものであり、それを見て、そのすごさ、巨大さを認識している。つまり、古代人も明らかに上空からの姿を意識している。つまり、天上の神にその姿を見せるための形状であったと考えるのが自然である。  古墳そのものが、天上に死者の魂を運ぶ「天の鳥船」であったのであろう。そのため、天皇や皇族の墳墓は「さざき(鳥)」と称されるようになり、尊敬の「み」が付いて「みささぎ」となったと考えられる。(日本語の音声上の特徴として、清音と濁音は容易に入れ替わる)。

 前方後円墳を上空から見ると明らかに「鳥」を腹から見た形状をしている。古墳の初期(弥生時代)には単純な円墳や方墳であったが、死者の魂を鳥が天上に運ぶとの信仰が日本に入ってきて以後、古墳の形状が鳥型(前方後円墳)に変化していったのであろう。しかし、日本に仏教が伝来してのち、この形状はすたれ、また元の単純な円墳や方墳に戻ってしまう。
 

 ーナスカの地上絵も同じ思想ー

 上空からの形状を意識する思想はなにも日本だけではない。南米ペルーの「ナスカの地上絵」も同じ考えに基つ"いていると考えられる。上空からの地上絵の写真を見ると、明らかに天上の神に見せようとした古代人の精神思想がうかがえる。その中でも一番有名な地上絵は、南米の鳥、コンドルを描いたものとされている。コンドルこそ天上の神と地上の人を結ぶ聖なる鳥であった。今でも、コンドルは霊鳥として南米の人々に畏敬されている。

 また、南北アメリカ大陸の先住民の戦士たちが、戦闘に際して鳥の羽根で身を飾るのも、自身が鳥となり霊力を身に付け、死後も鳥となって魂が天上に戻るとの信仰から生まれたものに他ならない。最近は人権上、インディアン討伐の西部劇は作られなくなったが、私の子供の頃はこの種の映画が花盛りであった。また、スペイン人に滅ぼされた南米のインカ、アステカの戦士たちも鳥の羽根で身を飾っていた。
 「みささぎ」(御陵)の語源は「鳥(さざき)」であり、前方後円墳の起源でもある。

 <追記>
 神社の前に必ずある「鳥居」も形状的に鳥を模したものと考えられ、まさに「鳥が居る」との意味である。(「居」は「居(ゐ)る」の名詞語幹(連用形)で、「居留守」「鴨居」「敷居」などと同じ用法である)。鳥居の起源はよく分かっていないが、弥生時代の遺跡からは鳥形木製品が出土している(大阪和泉市池上遺跡など)。古墳時代には、墳丘の周りで鳥型の埴輪や木製品を立てて、なんらかの祭祀を執り行ったことに由来しているのではないか。鳥居をくぐると、そこからは神々がいます神域である。神域と人域を、天上と地上に模していると考えるのが自然である。その間を取り持つのが鳥であり、神社の鳥居ではないのか。
 

 なお、日本の弥生時代の鳥形木製品を、韓国で今でも村の入り口に立てる「チャンスン」(鳥竿)と比較する人がいるが詳しくは解明されていない。私の考えでは韓国の「チャンスン」は村に厄病や災いを持ち込ませない一種のおまじないであり、日本のお地蔵さんと同じ思想であろう。ただ、竿の先に鳥を付けるのは、やはり鳥にたいする信仰が古代には日本と共通していたことを物語っていると思う。
 なお、中国清朝の発祥の地、瀋陽故宮(奉天行宮)には、竿の先にカササギの木像を載せたトーテムが今でも残っている。昔は北京の紫禁城にも同じものがあったらしいが今はない。清朝を打ち立てた満州族と朝鮮民族との近さを物語っている。新羅の王姓は「金」、清朝の王姓も「愛新覚羅」つまり、満州語の「アイシン(金)」である。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/82520c3488ff2ff1dbf778e1d611ec56?fm=entry_awp

11. 2020年7月25日 19:37:02 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[6] 報告

NHK 歴史秘話ヒストリア(2014・6・4)を見て
2014年06月09日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/bfc66e7f28b57fa64f11fbcb2a048083

 今回は「古代史ミステリー」と題して卑弥呼をとり上げていた。まず最初にびっくり仰天したのは、現在、多くの建物跡などが発掘されている纏向遺跡が三世紀の卑弥呼の時代のものであると、すでに決定された事実のごとく橿原考古学研究所の研究者が話していたことである。纏向遺跡が卑弥呼の時代と重なる決定的な証拠は何も出てきていない。これとワンセットになる箸墓古墳も卑弥呼の時代であるとの証拠はなにもない。

 番組はそのあと福岡県の平原遺跡(魏志倭人伝のいう「伊都国」の地)の古墳をとりあげ、後漢の内行花文鏡が出土していることから、二世紀の古墳と断定的に述べる地元の研究者の話があった。この古墳の出土物から、古代中国で女性しか身に着けない耳飾りが発見されたことから、この古墳の被葬者は女性であった可能性についても言及していた。このNHKの番組を見る限り、古代史に詳しい知識のない一般の人は、三世紀の邪馬台国は大和の纏向で、卑弥呼の墓は箸墓古墳、そうしてその国家の源流は北九州の二世紀の平原遺跡であると思い込まされる筋書きのようであった。とんでもないことである。

 前に「風立ちぬと三角縁神獣鏡」で述べたように、後漢を禅譲によって継承した魏(西暦220年)は三世紀初頭であり、その国家組織は後漢をそのまま継承したものである。卑弥呼が魏に遣使した景初3年(西暦239年)にもらった銅鏡100枚は後漢の鏡であるとの中国の考古学界の主張を紹介した。つまり、平原遺跡から後漢の鏡が出てきたからといって、その古墳が必ずしも二世紀のものだとは言えないのであり、二世紀から三世紀に渡る200年近い幅がある。ひょっとして卑弥呼の墓である可能性だってあるのである。確実な証拠がない限りだれも断定的なことは言えないのである。

 <追記>

 日本の古代史や考古学の論争を見るかぎり、これは日本人の国民性、物の考え方に問題がひそんでいると思う。私はこれまでフランスやロシアの学者が発掘、調査してきた中央アジア考古学の本を数多く読んできたが、かれら研究者は多くの可能性があるとき決して断定的な結論は出さないし、また出せない。学問研究に対する態度は非常に謙虚である。一方、日本の学者はなんの根拠もないのに自分の思い込みだけでこれが真実だと断定してはばからない。三角縁神獣鏡は魏の鏡だとか、発掘さえしていない箸墓古墳を卑弥呼の墓だと決めつけてしまう。まさに、歴史研究ではなく、歴史小説の世界である。それをマスコミが大々的に報道して一般人をそう思わせる。これはもはや学問ではなく政治や宗教と変わりない。これも日本人の精神文化の一つなのであろう。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/bfc66e7f28b57fa64f11fbcb2a048083

12. 2020年7月25日 19:42:06 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[8] 報告

閑話休題 − 「風立ちぬ」と三角縁神獣鏡 −
2014年02月15日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/2a857f14ebc63e61eebca696ce844d9b


宮崎駿監督のアニメ「風立ちぬ」がアカデミー賞にノミネイトされたが、惜しくも受賞を逃したニュースは耳新しい。ご存知のようにこれは戦前、世界最高の戦闘機「零戦」を製作した堀越二郎を描いたアニメである。堀越氏は純粋理科系の人である。世界のどの戦闘機よりもスピードが速く、航続距離が長く、かつ旋回能力に優れた飛行機を作ろうとして成功した。それに、当時の戦闘機では考えられなかった20ミリという陸軍の重機関銃と同じ破壊力のある機銃を装備していた(他国の戦闘機は7ミリほどの軽機関銃ていど)。当然、開戦当初は英・米の戦闘機をほぼパーフェクトに撃墜している。堀越二郎はごく単純な理論を実践したにすぎない。この考え方は戦後、造船や電機、自動車産業などに受け継がれ、日本の経済発展の土台となった。

 ー非論理の世界が闊歩する考古学ー

 これより少し前に、日本でのみ出土する三角縁神獣鏡は「魔境」であったとのニュースが全国・地方紙を問わず新聞紙上で発表された。それら記事はほぼすべて 「卑弥呼の鏡」 との見出しが躍っていた。私は唖然とした。「魏志倭人伝」に記す倭女王・卑弥呼が魏の皇帝からもらった銅鏡百枚がいつから三角縁神獣鏡であると決まったのであろうか。それら記事の要旨は次のとおり。

 「卑弥呼の鏡」と呼ばれる三角縁神獣鏡が、鏡面に太陽光を当て壁に反射させると、裏面の文様を映し出す「魔鏡」だったことが分かり、京都国立博物館の村上隆学芸部長(歴史材料科学)が1月29日、発表した。愛知県犬山市の東之宮古墳(3世紀後半)で出土した三角縁鏡を基に、3Dプリンターを使って精巧なレプリカを作って実験した。魔鏡は中国では紀元前からあるが、日本でしか出土しない三角縁鏡で確認されるのは初めて。

 上記の記事の問題点は、「犬山市の東之宮古墳(三世紀後半)」とあることである。この古墳が三世紀後半とは一体だれが決定したのか、なんの科学的根拠もない説である。 三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった鏡だから三世紀後半であろうとのことからの独断にすぎない。近年、奈良県柳本(箸墓古墳のすぐ近く)で発掘された黒塚古墳には33枚もの三角縁神獣鏡が発見された。私も黒塚古墳を実際見てきたが、「魏志倭人伝」にある倭人の墓は「棺あり郭なし」とは違い、黒塚古墳には石組みの大きな「郭」があり、三角縁神獣鏡は木棺(今は腐朽状態であるが)と「郭」のあいだに無造作に置かれているだけである。つまり、この古墳では三角縁神獣鏡は何らかの宗教的思想にもとずく葬送用具にすぎない。それに、三角縁神獣鏡はすでに日本で500枚以上も発見されている。卑弥呼がもらったのはわずか百枚であるのに。

 ー中国の考古学者の見解ー

 中国では近年、後漢、魏、西晋時代(2〜5世紀)の墳墓が数多く発掘、調査され、そこに埋葬されていた鏡の研究も相当進み、論文や本も多数出版されている。その中国の学者の一致した意見は、日本で出土する三角縁神獣鏡はすべて日本国内で作られたもので、中国(魏)製ではないとの結論である( 王仲殊編著『三角縁神獣鏡』学生社 )。 この指摘は重い。三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡説の人は、なぜ、実際にこの時代の鏡を発掘して調査、研究してきた中国の学者の意見を無視できるのであろうか。 

 日本でも最近亡くなった森浩一氏や安本美典氏も中国の学者と同じ立場で、以前からこのことを強く主張してきている。卑弥呼がもらった銅鏡百枚とは後漢時代の内行花文鏡などであり、これら後漢鏡の大半は北部九州から出土している。もともと魏王朝は後漢の丞相(総理大臣)を務めた曹操の子、曹丕が後漢の最後の皇帝から禅譲(平和裏にあとを継ぐこと)を受け、新王朝・魏の皇帝になったもので(西暦220年)、その政治組織や官僚機構も後漢をそのまま受け継いだものである。従って、卑弥呼が魏に遣使した西暦239年には魏の宮殿には後漢時代の大量の鏡が残されていたとしても不思議ではない。中国の学者は卑弥呼がもらった鏡は後漢の鏡であると断定している。勿論、本家の中国からはこの三角縁神獣鏡はただの一枚も出土していない。それと、鏡の神獣文様は中国南部の呉地方で流行していたもので、北部の魏領域ではほとんど使われない。これは実際に発掘調査した中国考古学者の結論である。

 <追記>

 三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏の皇帝からもらった鏡だと主張する人たちは、中国の学者の結論にはいっさい耳を貸さず、テレビや新聞などマスコミを総動員して鳴り物入りで宣伝にこれつとめている。学問とはデパートの大売り出しと同じで宣伝力で決まるものと勘違いしているようである。そこで、魏からもらったごく少数の三角縁神獣鏡を倭国で模倣して大量に作ったとの説を立て(倣製鏡説)、だからこそ日本国内で500枚以上も出土するのだというのが現在の三角縁神獣鏡イコール卑弥呼の鏡説の主流となっている。

 この説を受けて、大阪大学のある教授は虫メガネの鑑定で、これは中国(魏)製、これは日本(倭国)製とより分けられると、NHKの歴史番組で豪語していた。こうなるとこの人は学者ではなく宗教家である。弟子たちにとってこの教授は神の目をもった超能力者なのであろう・・。ほかにも、中国で今だに三角縁神獣鏡がただの一枚も出土しないのは、卑弥呼の使者が魏の皇帝にこのような鏡(三角縁神獣鏡)を特別に作って欲しいと頼んだからだ。つまり特別注文説、これは学問というよりもはや小説、漫画の世界である。これには中国の学者も絶句するであろう。日本人は中国の皇帝の権威を一体どう思っているのだろうかと・・。

 先の「零戦」の例を挙げるまでもなく、理科系部門で日本人は多くのノーベル科学賞をもらっている。また、それに近い研究成果を上げている人もたくさんいる。それなのに一方では、非科学的、非論理的、かつ宗教的な自己信念のみに固執する人間が文系学問の世界に数多くいるのもまた事実である。戦前の帝国軍人、特に陸軍にそういう人が多かった。明治38年製の歩兵銃による銃剣突撃で戦争に勝てるわけがない。一体全体、これはどのような原因・理由によるものなのか、興味深い。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/2a857f14ebc63e61eebca696ce844d9b

13. 2020年7月25日 19:53:53 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[9] 報告

 閑話休題 − iPS細胞と箸墓古墳ー
2013年02月24日

 この二つの項目は、理科系と文化系の代表として出したものである。京都大学の山中伸弥教授の研究成果を批判もしくは反論する人は世界中だれもいないであろう。理科系では当然のことである。ところが、文化系、例えば哲学、心理学、社会学、文化人類学などでは何の根拠もなく、証明さえ不可能な事象を、同じ京都大学教授などという権威ある肩書きでもって、あたかも証明された真実の如く主張する研究者があとを絶たない。もう何十年も前になるが、ある東大の女性教授が、日本人の国民性と日本の家の構造に因果関係があるとの本を出した。では古代匈奴帝国以来、二千年以上も天幕生活をしてきたモンゴル人やカザフ人の国民性はどうなるのか、一度、聞いてみたい。考古学や古代史の分野もそうである。

 ー箸墓古墳は未発掘ー

 ごく最近、箸墓古墳に宮内庁から立ち入り調査が許されたとのニュースを見た。これに参加した研究者のほとんどが、「邪馬台国・大和説」「箸墓古墳・卑弥呼の墓説」の人たちのようである。これほど馬鹿げた話はない。この人たちは、本当に「魏志倭人伝」を読んでいるのだろうか。ひょっとして全く読んでいないのではないかと疑いたくなる。「魏志倭人伝」にはちゃんと卑弥呼の墓についての記述がある。それには

 「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」とある。要約すると「卑弥呼が死んだとき大きな塚を作った。その直径は百歩ほどである」。「百余歩」と言えば、せいぜい、50メートルぐらいの長さである。箸墓古墳は全長280メートルもある巨大な前方後円墳である。箸墓・卑弥呼の墓説の人は、倭人伝のこの記事は信用できないとでも言うのだろうか。それなら、同様に「魏志倭人伝」そのもの自体すべて信用できないとの説も成り立つ。つまり、邪馬台国などという国はなかったし、卑弥呼もいなかった。あれはすべて「魏志」の作者・陳寿の創作、捏造だと主張することも可能である。「倭人伝」に書かれている卑弥呼の情報はワンセットで考えるべきであろう。「親魏倭王」は真実で「径百余歩」は虚偽であるなどと何を根拠に言えるのか。それなら逆に「径百余歩」は真実で「親魏倭王」は虚偽だとも言える。

「邪馬台国」「卑弥呼」を歴史的事実と認めるなら、卑弥呼の墓は50メートルぐらいなのであるから、箸墓古墳ではないとの基本原則に立って調査、研究すべきである。たしかに、箸墓古墳は日本の巨大古墳出現の謎を解く重要な古墳であることには間違いない。しかし、倭女王・卑弥呼とは何の関係もない。

 そこで、卑弥呼の宗女・台与(トヨ)の墓説を唱える人がいるが、卑弥呼の死後、男王をたてたが、また争乱が起き、台与(13歳)を立てて収まったとある。その間、さほど時間が立っているとは思えない。(卑弥呼の死は248年、台与は266年、晋に朝貢している。その間、わずか18年しか立っていない)当然、台与は卑弥呼とは同時代の人である。邪馬台国はその後、歴史から消えていることから考えても、突然、卑弥呼の5倍以上もの大きさの巨大古墳を築くほどの強大な国家を維持していたとはとても考えがたい。箸墓古墳は4世紀以後の大和政権下に築かれた古墳であろう。

 <追記>

この箸墓古墳、卑弥呼もしくは台与の墓説は日本人の性格、国民性を知るうえで非常に象徴的である。今もし、エジプトやアフガニスタンに常設の研究機関を持ち、発掘調査をやっている国立フランス考古学研究所のスタッフにこの話をしたとすると、彼らは当然、箸墓古墳が発掘され、その出土物の炭素14年代測定をやったり、その出土物の年代鑑定で論争していると思うであろう。いやそうではなく、古墳そのものが発掘すらされていないのだと答えると、おそらく絶句するであろう。日本人は超能力の透視術を持っているのかと、そのような論争じたい時間の無駄ではないかと・・。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/21b915db9103c45f3823a8e243365d76

14. 中川隆[-11981] koaQ7Jey 2020年7月30日 05:45:23 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[3] 報告
広開土王(好太王)碑文の新解釈 −「臣民」についてー
2017年12月10日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909?fm=entry_awp
    「好太王碑文」の画像検索結果広開土王(好太王)碑文

 広開土王(好太王)碑文は鴨緑江北岸、現在中国・集安市にある。明治13年(1880年)地元の農民により発見され、明治17年、日本陸軍の酒匂大尉によって拓本が持ち帰られ、その後、日本で碑文の本格的研究が始まった。この碑文解釈に重要な見落としがある。それは碑文にある「臣民」の文字である。これまで「臣民」との文字を、単なる「家臣」とか「支配民」ていどの意味として、あまり深く考えてこなかった。これこそ古代の日本と朝鮮半島の関係を語る重要な文字である。

 −広開土王碑文の世界史的意味ー

 この碑文は西暦414年に広開土王の事績を顕彰するため息子の長寿王が建立したものである。世界四大碑文に相当すると私は思っている。時代の古さ(4世紀末〜5世紀初頭)、巨大さ(高さ6メートルほど、幅1・5メートル)、文字数の多さ(約1800字)、そうしてなによりもその時代の東アジアの激動の歴史を非常に克明に描写している。決定的なことはこの碑文の内容が、後世、高麗時代(1145年)に編纂された朝鮮の歴史書『三国史記』の記事と大体一致していることである。(勿論、高句麗側から見ているので、多少の誇張や粉飾は仕方がないがおおむね信用できる)。

 では、あとの三つとは、BC1286年頃、古代エジプト王国と小アジア(今のトルコ共和国)にあったヒッタイト帝国がシリア周辺の覇権を争ったカデシュの戦いの和平協定を記録した碑文、エジプトのラムセス2世のカルナック神殿に象形文字で残されている。ヒッタイトでは、楔形文字で刻まれた同文の粘土版が発掘され、解読された。次に、古代エジプトのツタンカーメン碑文や今、大英博物館にある有名なロゼッタストーン(アレクサンダー大王の後継王国、エジプトのプトレマイオス朝の碑文、BC196年)、これら一連の象形文字碑文、三つ目は古代ペルシャのベヒストゥン碑文(ダリウス碑文)、これは古代アケメネス朝ペルシャのダリウス大王の事績などを断崖絶壁に楔(くさび)形文字で刻んだもの(BC500年頃)。勿論、世界各地で発掘などにより様々な文字記録は出土しているが(突厥碑文など)、質量の点においても、歴史的記録の大型碑文はこの4例しかないのではないか。中国は意外とこのような碑文は残っていない。まず、次の王朝によって破壊されたのであろう。有名な「赤壁の碑」も後世のものである。

 −広開土王碑文の価値を貶(おとし)める韓国・北朝鮮ー

 この碑文を日本と中国の学者は漢文に忠実に読んでいる。これ「異」を唱えるのが韓国・北朝鮮の学者たちである。古代の時代に現在の国家間の問題を持ち込んでいる。いわゆる、感情移入である。碑文にある「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民 」(西暦391年)であるが、日本と中国の学者は「百済、新羅は元々(高句麗の)属民で朝貢していたが、倭が辛卯年に渡海して来て百済、新羅を破り臣民とした」と読んでいる。特に、漢文の本家の中国の学者の読みはすべて一致している。母国語であるので当然である。ところが、韓国・北朝鮮の学者は渡海したのは高句麗で、百済、新羅、倭を(広開土王が)臣民としたと読んでいる。荒唐無稽、無茶苦茶である。漢文の法則を無視しても自分たちに都合よく解釈する。そうして、絶対に自説を変えることはない。

 朝鮮サイドの人にとってはこの「臣民」は困る文字なのである。「倭」が百済・新羅を「臣民」にする。まさに明治の日韓併合の古代版になる(皇国臣民)。こんなことは絶対にあってはならないことである。そこで歴史を創るのである。とくに、高句麗も王であり、王が中国皇帝を差し置いて「臣民」にするなどは当時の東アジアの中華文明圏には有り得ないことである。

 また、碑文中に「新羅遣使白王 倭人満其国境 潰破城池」(西暦400年)とあり、倭人が国境に迫ってきていると、新羅が高句麗に救援を求めてきた。そこで、広開土王は歩騎五万を率いて出撃し、碑文には 「新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅」とあり、占拠していた新羅城から撤退する「倭賊」を「任那加羅」まで追撃したとある。このとき、高句麗は自軍を「官兵」と称している。「官兵」とは「高句麗王の軍」の意味であろう。その4年後には「倭不軌侵入帯方界 」と、今の韓国・ソウル付近まで侵入してきた倭を撃破して「倭寇潰敗斬敵無数」と表記している。この「倭賊」「倭寇」を韓国・北朝鮮の解釈では中世(室町時代)の「倭寇」、つまり、海賊集団と決め付けている。世界四大碑文の一つである広開土王碑文は、父親の大王が倭の海賊ていどを討ち破ったことを偉大な功績として顕彰したことになる。韓国・朝鮮人にとって、現在は中国領にあるとはいえ、これほど先祖の偉大な王を侮辱する行為をなぜ平然とやれるのだろうか。むしろ、その功績をきちんと評価しているのはなんと日本と中国である。つまり、この碑文は「倭」を撃破したことを誇る戦勝記念碑なのに・・。これほど皮肉なことはない。

 −臣民は中国皇帝の臣ー

『前漢書』「地理誌」に「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」とあり、倭人は紀元前から楽浪郡に朝貢している。次の『後漢書』「東夷伝」には、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」とあり、西暦57年、倭奴国が朝貢して後漢の光武帝から印綬を授かっている。そして、三世紀の「魏志倭人伝」には、倭の女王・卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」に叙任され、「金印」を賜っている。その後、卑弥呼の後継者「台与」が朝貢したあと(266年)、中国の文献からは「倭国」の記事は消える。この時代は日本古代史でも「謎の四世紀」と言われている。そうして、突然、四世紀末、広開土王碑文に「倭」「倭人」「倭賊」「倭寇」などが出てくる。この間、一体なにがあったのか。歴史史料は何も語ってくれない。次に中国史書に出てくるのは五世紀、『宋書』倭国伝の「倭の五王」の時代である。 

私はこの四世紀にも王朝は変わっても中国に朝貢して、皇帝の臣として冊封体制下にあったと思う。つまり、倭国の軍隊は中国皇帝の軍でもあり、倭国軍は官軍として朝鮮半島に出兵したのではないか。そのことを、当然、新羅・百済・高句麗にも宣伝していた。倭軍の先頭には中国皇帝の印(しるし)、黄色い旗が翻えっていたはずである。戦いを有利に進めるため、いつの時代でも大義名分は戦争に必要である。それを知っていた長寿王は倭が百済・新羅を破り、「以為臣民」と碑文に刻んだのではないか。自分たち高句麗でさえ百済・新羅は「属民」にすぎないのに。なぜ碑文に「臣民」があるのか。これしか理由が見当たらない。たしかに、この時期、西暦372年、百済も中国(東晋)に朝貢して冊封を受けてはいるが、「勝てば官軍」は今も昔も変わりない。

時代が下がって西暦478年の『宋書』倭国伝の有名な倭王武の上表文には「臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極」とあり、倭王は中国皇帝に対して自分を「臣」と称し、宋皇帝に忠節を誓っている(帰崇天極)。同じ頃、宋に朝貢した百済王も自分を「臣」と称している。「臣」は「臣下」と同じ意味であり、「臣民」はその支配下にある「国の民」をさす(つまり、中国皇帝の臣民)。とくに倭軍が「倭不軌侵入帯方界」と、いにしえの「帯方郡」近くまで進攻してきたことは、倭国の戦争の大義、つまり、中国皇帝の軍として帯方郡の復活を目論んでいたのではないのか。この倭軍の中には倭国に亡命してきた楽浪・帯方両郡の漢人が相当数いたのではないかと思う。(313年、楽浪・帯方両郡滅亡)

 −女王・卑弥呼も官軍として戦っているー

「魏志倭人伝」に「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之」とあり、卑弥呼は南の狗奴國との争いで、帯方郡に使者を送り、戦いの窮状を訴えた。そこで、郡は魏皇帝の名代として軍事顧問、「張政」を派遣し檄をとばした(為檄告喩)。そのとき、もたらされたのが「詔書」と「黄幢」である。この「黄幢」こそ、魏皇帝の軍の印(しるし)、日本でいう「錦旗(にしきのみはた)」にほかならない。このとき、卑弥呼の邪馬台国は官軍となったのである、(黄幢、錦旗説は多くの研究者が認めている、「幢」は丸い筒型の絹の幟で、朝廷の儀仗に使われる。黄色は中国皇帝の色)。その後、狗奴国との戦闘はどうなったのか「倭人伝」に記事はない。卑弥呼の死によって双方が和睦に合意したのかもしれない。

 この「倭人伝」の記事から分かるように、三世紀の「倭国」は半島の小国家郡とは違い、中国王朝からまるで別格扱いされている。魏は中央アジアの大国、大月氏国王にも「親魏大月氏王」の称号を与えているが、卑弥呼とこの二人だけである。この事実は重い、(大月氏国とは前漢の武帝が、宿敵匈奴を東西から挟み撃ちしようと同盟を求め、「張騫」を派遣したことでよく知られている。大月氏王は断ったが・・)。また、卑弥呼の遣使、「難升米」を率善中郎將 「牛利」を率善校尉という魏の官職を与えて銀印綬を下賜している。その理由はやはり倭人が前漢以来、中国王朝に朝貢して珍しい産物をもたらしたからであろう。「倭人伝」のいう「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹」がそれを物語っている。絹布や麻布は漢人にとっても好物であったろうし、返礼に「賜汝好物」として与えた銅鏡百枚など漢人にとってはまさに、「シメシメ」とほくそえむ程度のものでしかなかったであろう・・。この三世紀の魏と倭国の関係の延長線上に四世紀の「広開土王碑文」があると考えるのが一番自然である。つまり、倭軍は中国皇帝の軍、官軍であったのだとの認識は半島諸国にも共有されていた。そこから「以為臣民」の文字が刻まれた。

 <追記>

 「広開土王碑文」問題は現代の「慰安婦騒動」と根は同じである。韓国・朝鮮人は歴史の真実を追究しようという知性が欠如しているとしか思えない。歴史とは自分たちに都合よく創り上げるものであり、どのような事実を突きつけても絶対に認めない。異常なカルト性を持った民族である。古代に倭国が半島に攻め込んで来ることは有りえない。これが絶対的真実であり、中国の古漢文の専門家の意見など一顧だにしない。旧日本軍による慰安婦20万人の強制連行も絶対的真実であり、どのような議論にも耳を貸さない。このことを我々日本人は肝に銘じておく必要がある。

 だが、日本にもよく似た問題がある。三角縁神獣鏡を魏鏡だと断定し、中国の古鏡学者の見解(三角縁神獣鏡は日本製)を一顧だにしない。そして、いまだ発掘もされていない箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墳墓に間違いないとほぼ断定し、日本の古墳時代は卑弥呼の生きた三世紀中期に始まるとの説を、あたかも絶対的真理の如く宣伝する。その理由は大多数の古代史、考古学者の意見がそうであるからとのこと。学問は選挙のように多数決で決まるものではない。クレオパトラの墓もジンギスカンの墳墓も発掘調査してはじめて決定されるものであり、これが世界の常識である。韓国・朝鮮人を非難ばかりしておれない。

 思うに、邪馬台国論争は明治以来、九州か大和かの位置論争ばかりが先行し、「倭人伝」にある魏や帯方郡との外交交渉などは軽視されてきた。そうして、邪馬台国の倭人は漢字も知らなかったとの俗説が定説化している。これに「異」を唱える人はいるにはいるが、いまだ日本史教科書もそうである、(私のブログ「卑弥呼は漢字を知っていた」参照)。卑弥呼は「詔書」「黄幢」「金印」をもらうほどの密接な関係を魏と維持していた。同時代の半島諸国にはこのような事例はない。なぜ、このような事実が軽視されてきたのか。

 それは明治以後、戦前まで続いた天皇中心史観、いわゆる皇国史観にある。日本の古代の歴史は『古事記』『日本書紀』が正史であり、中国の史書ではないのである。例えば、日本に漢字が伝わったのは『古事記』にある五世紀の応神天皇のとき、百済の「王仁(わに)」によってである。このとき、倭人は初めて漢字を知ったのだと・・。とんでもない、「魏志倭人伝」を素直に読めばそんなことはあり得ないのに。卑弥呼は「詔書」の意味さえ分からなかったのであろうか? これを逆手に取られて、朝鮮サイドの人には古代の倭人、未開の土人説が定着している。未開の倭人を文明化してやったのは我々韓国・朝鮮人だと。漢字も知らないそんな未開の倭人が四世紀末に半島に軍事行動など起こせるわけがないと。朝鮮サイドの人にこう言わせる責任はいまだ皇国史観から抜け出せないでいる日本側にある。邪馬台国・大和説こそ皇国史観そのものである。日本の歴史は悠久の昔から大和の天皇家から始まるのであり、邪馬台(ヤマト)国はその前身であるとの・・。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909?fm=entry_awp

15. 2020年8月08日 13:18:37 : 4D3OjxhHhg : TEswdkdERG1YZ0E=[75] 報告
日本書紀第一巻、故名づけて淡路州といふ、すなわち大日本、日本、此れをば耶麻騰といふ、下皆此れ効へ、だから、邪馬台国は大和国でいいわけよ。
16. 中川隆[-11450] koaQ7Jey 2024年2月28日 18:56:57 : gzV41Zk8zs : d01sMGl1RkNGcGM=[11] 報告
邪馬台国の謎
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/09/11
https://www.youtube.com/watch?v=O_3AGnmJJbs&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=4

葛木御歳神社の宮司が、邪馬台国の謎について語ります。まずは魏志倭人伝の記述がちょっと変!
ヤマトでも九州でもないような不思議な記述について。
邪馬台国は「女王国」と呼ばれます。古代日本には多くの「女王国」が存在していた!?
最新の茶臼山古墳を始め、遺跡からわかること等々・・・ぜひご覧ください。
葛木御歳神社公式HP https://www.mitoshijinja.jp/

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