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[番外地12] 科学博物館の篠田謙一館長は遺伝子研究の進展と共にその学説を大幅に変えていってるよ: 中川隆
1. 中川隆[-6836] koaQ7Jey 2025年5月17日 07:04:29 : 0mY2jmDEpg : eUd2RU5ycE8wRWc=[1]
<■94行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
科学博物館の篠田謙一館長は遺伝子研究の進展と共にその学説を大幅に変えていっています。
核DNAの解析結果が沢山出てきてから、日本人の遺伝子の90%は渡来人の遺伝子だとわかったのです。
核DNAの解析は難し過ぎて宇山卓栄さんの様なド素人には絶対に理解できません:

核ゲノム解析の進歩に伴う篠田謙一の学説の変化
日本人の先祖は南満州 西遼河流域の黍(キビ)農耕民で、日本への渡来後、縄文人とは殆ど混血しなかった

篠田謙一
昔 「縄文人と弥生人は仲良く混血!」「虐殺はなかった!」
今 「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」

篠田著書(2007年出版)
「征服による融合では、基本的に(征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし渡来人が縄文時代から続いた在来社会武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは著しく頻度を減少させたでしょう。縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明がつきません。また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。」


弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(2018年放送)
篠田謙一「実はですね、現代日本人は、もう既に、この辺りだということが分かったんですね。つまり、弥生人って、混血していけば恐らく、混血する相手は、この縄文人になりますから、当然、現代日本人の位置っていうのは、こちらにずれてくるはずなんですよね。ところが、そうならなくてこっちに来てしまったということで、ちょっと考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり、こっち(韓国人)に引っ張る、何かがなければいけないということになるんですね・・・。」


シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。

「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。(2020年記事)

▲△▽▼

核DNAの解析結果が出てきてから、日本人の遺伝子の90%は渡来人の遺伝子だとわかったのです。
核DNAの解析は難し過ぎて宇山卓栄さんの様なド素人には絶対に理解できません。

日本人の遺伝子の10%は縄文系と言われていますが、実際には日本列島の縄文人の遺伝子D1a2a2 と現代日本人に断然多い縄文系遺伝子D1a2a1 とは全く違っています。
アイヌ人と琉球人と被差別同和部落民は D1a2a2 で日本列島の縄文人の子孫、一方、現代日本人は D1a2a1 なので、日本の縄文人の遺伝子は受け継いでいません:

YHg-D1a2aは日本人固有ですが、18000〜15000年前頃と推定されているYHg-D1a2a1(Z1622)とD1a2a2(Z1519)の分岐は日本列島ではなくユーラシア東部大陸部で起きた可能性が高いです。

この推測には古代DNAデータの間接的証拠もあります。カザフスタン南部で発見された紀元後236〜331年頃の1個体(KNT004)は、日本列島固有とされ、縄文人でも確認されているYHg-D1a2a2(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される祖先系統(アムール川地域集団関連祖先系統)の割合が高く、アムール川地域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)はYHg-DEです(Mao et al., 2021)。アムール川地域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。これを、日本列島から「縄文人」が拡散した結果と解釈できないわけではありませんが、ユーラシア東部大陸部にも更新世から紀元後までYHg-Dが低頻度ながら広く分布しており、YHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐は日本列島ではなくユーラシア東部大陸部で起きた、と考える方が節約的であるように思います。

 上述の現代日本人の形成過程の推測と合わせて考えると、現代日本人のYHg-D1a2 は、アムール川地域などアジア東部北方に低頻度ながら存在し、青銅器時代以降に朝鮮半島を経て日本列島に到来した可能性が高いです。
https://sicambre.seesaa.net/article/202109article_6.html

日本列島に渡来した民族の Y-DNA ハブロタイプ
40.000年前 C1a1(ポリネシアン)
35.000年前 D1a2a2 (日本列島固有)
34.500年前 C2a2(日本列島固有)

3.000年前 O1b2(江南)
1.300年前 O2(百済、新羅、高句麗)

▲△▽▼

日本人の遺伝子の 90% は朝鮮からの渡来人で、縄文系は僅か10%
琉球人の遺伝子の 30% は縄文系
アイヌ人の遺伝子の 70% は縄文系

▲△▽▼

現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系


現在のニヴフ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
C2 38.1%: オホーツク文化人系
O1b2 28.6%: 長江人系
Q 19.0% : トルコ系
R1a 9.5% : ロシア人系


沖縄先住民は10世紀の段階で既に日本人に征服・レイプされまくって、言葉も日本語の方言の琉球語に変わってしまった

現代琉球人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2--45.1% : 縄文系
O1b2-23.3%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---18.9%(旧表記O3):漢民族系
C2----1.5% :縄文系
C1----6.8% :縄文系
O1b1--0.8%(旧表記O2a) :長江系稲作民


現代日本人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2a1--32% :以前は縄文系だと言われていたが否定された、西遼河の焼畑農耕民の可能性が高い
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民
O2---20%(旧表記O3):漢民族系
C2----6% :縄文系
C1----5% :縄文系
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1% : 長江系稲作民
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)


韓国人のY-DNAハプロタイプの出現頻度
漢民族 O2 : 43.3%
長江人 O1:30.0%
モンゴル系 C2: 11.3%


現在の台湾の先住民系民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 11.7% : 漢民族系
O1 :80.3% : 長江系


現在の中国の自称漢民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度
O2 53.3% : 漢民族系
O1 24.5% : 長江系稲作民
C2 7.8% : モンゴル・ツングース系
N 6.9% : トルコ系


ハプロに付く*マークはその下のサブグループのうちのいずれかという意味であり、
D1a2a* の中に D1a2a2 は含まれる
http://www.asyura2.com/24/ban12/msg/461.html#c1

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
59. 中川隆[-6835] koaQ7Jey 2025年5月17日 16:39:28 : 0mY2jmDEpg : eUd2RU5ycE8wRWc=[2]
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アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚
2025.05.17
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html

アメリカは圧倒的な戦力を持ちながら日本軍を恐れ、ソ連に対日参戦してもらうため、欧州の東半分を譲渡した。それがノルマンディ上陸作戦

overlord-1024x784
引用:http://format.net.au/site/wp-content/uploads/2014/01/overlord-1024×784.jpg
ノルマンディ上陸は不合理な作戦

第二次大戦でドイツにとどめを刺したのがノルマンディ上陸作戦なのは良く知られていて、何度も大作映画になっています

だがこの作戦を決めたのがソ連の指導者スターリンだったのは、まったく知られていない

アメリカ軍の上陸地点がノルマンディだった事で東西ドイツが分割され、ソ連の全盛期や中国の発展までつながった

スターリンがそれほどの影響力を持った理由は日本軍で、アメリカは日本を絨毯爆撃しながら日本軍にビビリまくっていた

アメリカの恐れにスターリンがつけ込んだのが『テヘラン会談』で、ここで戦後の枠組みが決定しました

テヘラン会談に参加したのは英チャーチルと米ルーズベルト、ソ連スターリンの3人と側近達だが終始スターリンが主導権を握った

ルーズベルトは1933年3月から1945年4月まで大統領の職にあり、第二次大戦の全期間を通してアメリカ大統領に選任された

最後は4月12日に脳卒中で倒れ、副大統領トルーマンが大統領に昇格して終戦を迎えた

ルーズベルトは同じ1933年に政権の座に就いたドイツのヒトラーを最大の敵と見做し、欧州の戦争に参加したがっていた

ドイツは米国との戦争を避けようとしたので、同盟国の日本に「南京事件」をでっち上げて、経済封鎖をして挑発した

経済封鎖すれば日本は何らかの軍事行動を起こさざるを得ず、アメリカはドイツと戦って英国を支援することが出来る

この時点で日本についてはどうでも良く、アメリカ軍に対抗できるとは考えていなかった

日本軍に狼狽したアメリカの錯覚
だが戦争を開始した日本軍は予想外に強く、アメリカ軍は連戦連敗でもう少しで全艦隊が全滅するところだった

いくらアメリカの国力が強大でも、戦える軍艦がなくなれば負けを認めて停戦交渉に応じざるを得ない

そうならずに済んだのはフランス、オランダ、オーストラリア、イギリスなどの弱小部隊が、日本海軍を引き付けて分散させたからだった

日本軍は米軍に圧勝していた頃、中国やソ連とも対峙し欧州各国の残存部隊とも戦い、アジア人の武装勢力とも戦っていた

米艦隊との決戦に備えるべき海軍主力部隊は、オーストラリアやインド洋まで出かけて、どうでも良い作戦に使われていました

日本が敗戦に向うきっかけになったミッドウェー海戦では、開戦以来一度も定期整備されなかった軍艦や軍用機に故障が続発し、過労から兵士のミスも続出した

逆に開戦から殆ど働いていなかった米空母は気力充分で、故障も起こさず、存分に力を発揮して圧勝した

アメリカ海軍は負けそうになったのを英蘭仏豪などが日本軍を引きつけたおかげで、やっと戦況を挽回できたのだった

大戦前半のアメリカがどのくらい日本軍を恐れたかというと、海軍が全滅したらハワイとグアムを譲渡して和平交渉しようなどと言っていました

ルーズベルト大統領は1943年になってもまだ日本軍にはかなりの戦力が残っていて、米軍だけで勝つのは困難だと考えていた

この錯覚が日本への過剰な絨毯爆撃やマンハッタン計画になり、ソ連への参戦依頼となって現れました

1943年10月から11月の『カイロ会談』『テヘラン会談』ではスターリンがルーズベルトの弱気を読み、条件を飲まないならソ連は対日参戦しないとハッタリをかました

ソ連は樺太、千島列島を得ることを確約させたが、後に北海道と日本の東半分の要求にエスカレートしている

🖼️ミッドウェー海戦で日本側はほとんど偵察機を発進させず、米空母を発見できずに敗北した。
開戦以来英仏豪蘭などと戦い続け、故障のため発進できる偵察機がなかった。
米軍だけが相手だったら日本海軍は米艦隊を全滅させていた

img4992
引用:http://nisei.hawaii.edu/docs/IO/4992/img4992.jpg
スターリンが支配した1945年
さらにスターリンはドイツへの上陸地点をバルカン半島からフランスに変更させ、ルーズベルトは了承しました

バルカン半島はクロアチア、ボスニア、ブルガリアなど大戦後に共産圏に組み込まれた国々で、ソ連側に近い

ここにアメリカ軍が上陸したらバルカン半島は米英側が支配する「西側」になり、ソ連はドイツ侵攻すら不可能になるかも知れない

ソ連がドイツに侵攻するには東欧諸国を占領しながら進撃するが、そこにアメリカ軍が居座っていたら、どうする事もできません

チャーチルには事の重大さが分かっていたのでバルカン半島を強く主張したが、ルーズベルトはもうボケかけていたのか、頭が回らずフランスに変更してしまった

この結果東欧諸国は全てソ連が占領し、ドイツは東西に分割されて、「ソビエト連邦」という強大な超大国が出現しました

ソ連の出現によって中国も共産化し、こんにちの「中華人民共和国」が出現する原因も作りました

日本軍はルーズベルトの間抜けぶりに狼狽しながら、なるべく多くの領土を「アメリカに占領してもらう」作戦を展開しました

米ソに分割されたら、ソ連に取られたほうは未来永劫真っ暗闇になるのは分かっていたからで、特に朝鮮半島南側と北海道をソ連に取られるかどうかが焦点だった

だがアメリカ側はトルーマン大統領に替わっても「日本に上陸したら大量の犠牲者を出す」と言って停戦交渉に応じようとしなかった

そこで外務省と海軍は弱気になっていた昭和天皇を説得し、終戦の詔勅を録音してラジオ放送した

ソ連参戦は8月9日でラジオ放送は15日、アメリカ軍は突然の日本の降伏にオロオロし、日本や朝鮮に上陸しようとはしない

戦後世界は偶然生まれた
ソ連軍はシベリア鉄道で大量の物資と兵士を輸送して、日本上陸と朝鮮半島での決戦に備えつつありました

そこへやってきたのがパイプを咥えたマッカーサーで、米軍の方が先に日本と朝鮮南部に達した事で、ソ連軍は占領を断念した

終戦はこのように奇跡的なタイミングで行われ、数日でもずれていたら北海道や韓国がソ連領になった可能性が高い

逆にアメリカ軍がもっと迅速に動いていたら、北朝鮮や千島列島にソ連軍が到達できなかった可能性もあった

固定不変のように思われている領土や国家の枠組みは、このように偶然決まる事もあります

そして強大になったソ連を中心に戦後数十年が始まり、戦勝国アメリカは思ってもみなかった苦戦をするのでした
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c59

[近代史3] アフター・ヒトラー 中川隆
34. 中川隆[-6834] koaQ7Jey 2025年5月17日 16:39:44 : 0mY2jmDEpg : eUd2RU5ycE8wRWc=[3]
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アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚
2025.05.17
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html

アメリカは圧倒的な戦力を持ちながら日本軍を恐れ、ソ連に対日参戦してもらうため、欧州の東半分を譲渡した。それがノルマンディ上陸作戦

overlord-1024x784
引用:http://format.net.au/site/wp-content/uploads/2014/01/overlord-1024×784.jpg
ノルマンディ上陸は不合理な作戦

第二次大戦でドイツにとどめを刺したのがノルマンディ上陸作戦なのは良く知られていて、何度も大作映画になっています

だがこの作戦を決めたのがソ連の指導者スターリンだったのは、まったく知られていない

アメリカ軍の上陸地点がノルマンディだった事で東西ドイツが分割され、ソ連の全盛期や中国の発展までつながった

スターリンがそれほどの影響力を持った理由は日本軍で、アメリカは日本を絨毯爆撃しながら日本軍にビビリまくっていた

アメリカの恐れにスターリンがつけ込んだのが『テヘラン会談』で、ここで戦後の枠組みが決定しました

テヘラン会談に参加したのは英チャーチルと米ルーズベルト、ソ連スターリンの3人と側近達だが終始スターリンが主導権を握った

ルーズベルトは1933年3月から1945年4月まで大統領の職にあり、第二次大戦の全期間を通してアメリカ大統領に選任された

最後は4月12日に脳卒中で倒れ、副大統領トルーマンが大統領に昇格して終戦を迎えた

ルーズベルトは同じ1933年に政権の座に就いたドイツのヒトラーを最大の敵と見做し、欧州の戦争に参加したがっていた

ドイツは米国との戦争を避けようとしたので、同盟国の日本に「南京事件」をでっち上げて、経済封鎖をして挑発した

経済封鎖すれば日本は何らかの軍事行動を起こさざるを得ず、アメリカはドイツと戦って英国を支援することが出来る

この時点で日本についてはどうでも良く、アメリカ軍に対抗できるとは考えていなかった

日本軍に狼狽したアメリカの錯覚
だが戦争を開始した日本軍は予想外に強く、アメリカ軍は連戦連敗でもう少しで全艦隊が全滅するところだった

いくらアメリカの国力が強大でも、戦える軍艦がなくなれば負けを認めて停戦交渉に応じざるを得ない

そうならずに済んだのはフランス、オランダ、オーストラリア、イギリスなどの弱小部隊が、日本海軍を引き付けて分散させたからだった

日本軍は米軍に圧勝していた頃、中国やソ連とも対峙し欧州各国の残存部隊とも戦い、アジア人の武装勢力とも戦っていた

米艦隊との決戦に備えるべき海軍主力部隊は、オーストラリアやインド洋まで出かけて、どうでも良い作戦に使われていました

日本が敗戦に向うきっかけになったミッドウェー海戦では、開戦以来一度も定期整備されなかった軍艦や軍用機に故障が続発し、過労から兵士のミスも続出した

逆に開戦から殆ど働いていなかった米空母は気力充分で、故障も起こさず、存分に力を発揮して圧勝した

アメリカ海軍は負けそうになったのを英蘭仏豪などが日本軍を引きつけたおかげで、やっと戦況を挽回できたのだった

大戦前半のアメリカがどのくらい日本軍を恐れたかというと、海軍が全滅したらハワイとグアムを譲渡して和平交渉しようなどと言っていました

ルーズベルト大統領は1943年になってもまだ日本軍にはかなりの戦力が残っていて、米軍だけで勝つのは困難だと考えていた

この錯覚が日本への過剰な絨毯爆撃やマンハッタン計画になり、ソ連への参戦依頼となって現れました

1943年10月から11月の『カイロ会談』『テヘラン会談』ではスターリンがルーズベルトの弱気を読み、条件を飲まないならソ連は対日参戦しないとハッタリをかました

ソ連は樺太、千島列島を得ることを確約させたが、後に北海道と日本の東半分の要求にエスカレートしている

🖼️ミッドウェー海戦で日本側はほとんど偵察機を発進させず、米空母を発見できずに敗北した。
開戦以来英仏豪蘭などと戦い続け、故障のため発進できる偵察機がなかった。
米軍だけが相手だったら日本海軍は米艦隊を全滅させていた

img4992
引用:http://nisei.hawaii.edu/docs/IO/4992/img4992.jpg
スターリンが支配した1945年
さらにスターリンはドイツへの上陸地点をバルカン半島からフランスに変更させ、ルーズベルトは了承しました

バルカン半島はクロアチア、ボスニア、ブルガリアなど大戦後に共産圏に組み込まれた国々で、ソ連側に近い

ここにアメリカ軍が上陸したらバルカン半島は米英側が支配する「西側」になり、ソ連はドイツ侵攻すら不可能になるかも知れない

ソ連がドイツに侵攻するには東欧諸国を占領しながら進撃するが、そこにアメリカ軍が居座っていたら、どうする事もできません

チャーチルには事の重大さが分かっていたのでバルカン半島を強く主張したが、ルーズベルトはもうボケかけていたのか、頭が回らずフランスに変更してしまった

この結果東欧諸国は全てソ連が占領し、ドイツは東西に分割されて、「ソビエト連邦」という強大な超大国が出現しました

ソ連の出現によって中国も共産化し、こんにちの「中華人民共和国」が出現する原因も作りました

日本軍はルーズベルトの間抜けぶりに狼狽しながら、なるべく多くの領土を「アメリカに占領してもらう」作戦を展開しました

米ソに分割されたら、ソ連に取られたほうは未来永劫真っ暗闇になるのは分かっていたからで、特に朝鮮半島南側と北海道をソ連に取られるかどうかが焦点だった

だがアメリカ側はトルーマン大統領に替わっても「日本に上陸したら大量の犠牲者を出す」と言って停戦交渉に応じようとしなかった

そこで外務省と海軍は弱気になっていた昭和天皇を説得し、終戦の詔勅を録音してラジオ放送した

ソ連参戦は8月9日でラジオ放送は15日、アメリカ軍は突然の日本の降伏にオロオロし、日本や朝鮮に上陸しようとはしない

戦後世界は偶然生まれた
ソ連軍はシベリア鉄道で大量の物資と兵士を輸送して、日本上陸と朝鮮半島での決戦に備えつつありました

そこへやってきたのがパイプを咥えたマッカーサーで、米軍の方が先に日本と朝鮮南部に達した事で、ソ連軍は占領を断念した

終戦はこのように奇跡的なタイミングで行われ、数日でもずれていたら北海道や韓国がソ連領になった可能性が高い

逆にアメリカ軍がもっと迅速に動いていたら、北朝鮮や千島列島にソ連軍が到達できなかった可能性もあった

固定不変のように思われている領土や国家の枠組みは、このように偶然決まる事もあります

そして強大になったソ連を中心に戦後数十年が始まり、戦勝国アメリカは思ってもみなかった苦戦をするのでした
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/405.html#c34

[近代史4] 英米はドイツ軍がソ連に勝てないとわかる迄は、ウォール街のエージェントのヒトラーと戦う気は全く無かった 中川隆
33. 中川隆[-6833] koaQ7Jey 2025年5月17日 16:40:03 : 0mY2jmDEpg : eUd2RU5ycE8wRWc=[4]
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アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚
2025.05.17
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html

アメリカは圧倒的な戦力を持ちながら日本軍を恐れ、ソ連に対日参戦してもらうため、欧州の東半分を譲渡した。それがノルマンディ上陸作戦

overlord-1024x784
引用:http://format.net.au/site/wp-content/uploads/2014/01/overlord-1024×784.jpg
ノルマンディ上陸は不合理な作戦

第二次大戦でドイツにとどめを刺したのがノルマンディ上陸作戦なのは良く知られていて、何度も大作映画になっています

だがこの作戦を決めたのがソ連の指導者スターリンだったのは、まったく知られていない

アメリカ軍の上陸地点がノルマンディだった事で東西ドイツが分割され、ソ連の全盛期や中国の発展までつながった

スターリンがそれほどの影響力を持った理由は日本軍で、アメリカは日本を絨毯爆撃しながら日本軍にビビリまくっていた

アメリカの恐れにスターリンがつけ込んだのが『テヘラン会談』で、ここで戦後の枠組みが決定しました

テヘラン会談に参加したのは英チャーチルと米ルーズベルト、ソ連スターリンの3人と側近達だが終始スターリンが主導権を握った

ルーズベルトは1933年3月から1945年4月まで大統領の職にあり、第二次大戦の全期間を通してアメリカ大統領に選任された

最後は4月12日に脳卒中で倒れ、副大統領トルーマンが大統領に昇格して終戦を迎えた

ルーズベルトは同じ1933年に政権の座に就いたドイツのヒトラーを最大の敵と見做し、欧州の戦争に参加したがっていた

ドイツは米国との戦争を避けようとしたので、同盟国の日本に「南京事件」をでっち上げて、経済封鎖をして挑発した

経済封鎖すれば日本は何らかの軍事行動を起こさざるを得ず、アメリカはドイツと戦って英国を支援することが出来る

この時点で日本についてはどうでも良く、アメリカ軍に対抗できるとは考えていなかった

日本軍に狼狽したアメリカの錯覚
だが戦争を開始した日本軍は予想外に強く、アメリカ軍は連戦連敗でもう少しで全艦隊が全滅するところだった

いくらアメリカの国力が強大でも、戦える軍艦がなくなれば負けを認めて停戦交渉に応じざるを得ない

そうならずに済んだのはフランス、オランダ、オーストラリア、イギリスなどの弱小部隊が、日本海軍を引き付けて分散させたからだった

日本軍は米軍に圧勝していた頃、中国やソ連とも対峙し欧州各国の残存部隊とも戦い、アジア人の武装勢力とも戦っていた

米艦隊との決戦に備えるべき海軍主力部隊は、オーストラリアやインド洋まで出かけて、どうでも良い作戦に使われていました

日本が敗戦に向うきっかけになったミッドウェー海戦では、開戦以来一度も定期整備されなかった軍艦や軍用機に故障が続発し、過労から兵士のミスも続出した

逆に開戦から殆ど働いていなかった米空母は気力充分で、故障も起こさず、存分に力を発揮して圧勝した

アメリカ海軍は負けそうになったのを英蘭仏豪などが日本軍を引きつけたおかげで、やっと戦況を挽回できたのだった

大戦前半のアメリカがどのくらい日本軍を恐れたかというと、海軍が全滅したらハワイとグアムを譲渡して和平交渉しようなどと言っていました

ルーズベルト大統領は1943年になってもまだ日本軍にはかなりの戦力が残っていて、米軍だけで勝つのは困難だと考えていた

この錯覚が日本への過剰な絨毯爆撃やマンハッタン計画になり、ソ連への参戦依頼となって現れました

1943年10月から11月の『カイロ会談』『テヘラン会談』ではスターリンがルーズベルトの弱気を読み、条件を飲まないならソ連は対日参戦しないとハッタリをかました

ソ連は樺太、千島列島を得ることを確約させたが、後に北海道と日本の東半分の要求にエスカレートしている

🖼️ミッドウェー海戦で日本側はほとんど偵察機を発進させず、米空母を発見できずに敗北した。
開戦以来英仏豪蘭などと戦い続け、故障のため発進できる偵察機がなかった。
米軍だけが相手だったら日本海軍は米艦隊を全滅させていた

img4992
引用:http://nisei.hawaii.edu/docs/IO/4992/img4992.jpg
スターリンが支配した1945年
さらにスターリンはドイツへの上陸地点をバルカン半島からフランスに変更させ、ルーズベルトは了承しました

バルカン半島はクロアチア、ボスニア、ブルガリアなど大戦後に共産圏に組み込まれた国々で、ソ連側に近い

ここにアメリカ軍が上陸したらバルカン半島は米英側が支配する「西側」になり、ソ連はドイツ侵攻すら不可能になるかも知れない

ソ連がドイツに侵攻するには東欧諸国を占領しながら進撃するが、そこにアメリカ軍が居座っていたら、どうする事もできません

チャーチルには事の重大さが分かっていたのでバルカン半島を強く主張したが、ルーズベルトはもうボケかけていたのか、頭が回らずフランスに変更してしまった

この結果東欧諸国は全てソ連が占領し、ドイツは東西に分割されて、「ソビエト連邦」という強大な超大国が出現しました

ソ連の出現によって中国も共産化し、こんにちの「中華人民共和国」が出現する原因も作りました

日本軍はルーズベルトの間抜けぶりに狼狽しながら、なるべく多くの領土を「アメリカに占領してもらう」作戦を展開しました

米ソに分割されたら、ソ連に取られたほうは未来永劫真っ暗闇になるのは分かっていたからで、特に朝鮮半島南側と北海道をソ連に取られるかどうかが焦点だった

だがアメリカ側はトルーマン大統領に替わっても「日本に上陸したら大量の犠牲者を出す」と言って停戦交渉に応じようとしなかった

そこで外務省と海軍は弱気になっていた昭和天皇を説得し、終戦の詔勅を録音してラジオ放送した

ソ連参戦は8月9日でラジオ放送は15日、アメリカ軍は突然の日本の降伏にオロオロし、日本や朝鮮に上陸しようとはしない

戦後世界は偶然生まれた
ソ連軍はシベリア鉄道で大量の物資と兵士を輸送して、日本上陸と朝鮮半島での決戦に備えつつありました

そこへやってきたのがパイプを咥えたマッカーサーで、米軍の方が先に日本と朝鮮南部に達した事で、ソ連軍は占領を断念した

終戦はこのように奇跡的なタイミングで行われ、数日でもずれていたら北海道や韓国がソ連領になった可能性が高い

逆にアメリカ軍がもっと迅速に動いていたら、北朝鮮や千島列島にソ連軍が到達できなかった可能性もあった

固定不変のように思われている領土や国家の枠組みは、このように偶然決まる事もあります

そして強大になったソ連を中心に戦後数十年が始まり、戦勝国アメリカは思ってもみなかった苦戦をするのでした
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/615.html#c33

[近代史4] スターリンはなぜ北海道占領計画を放棄したのか? 中川隆
5. 中川隆[-6832] koaQ7Jey 2025年5月17日 16:40:40 : 0mY2jmDEpg : eUd2RU5ycE8wRWc=[5]
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アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚
2025.05.17
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html

アメリカは圧倒的な戦力を持ちながら日本軍を恐れ、ソ連に対日参戦してもらうため、欧州の東半分を譲渡した。それがノルマンディ上陸作戦

overlord-1024x784
引用:http://format.net.au/site/wp-content/uploads/2014/01/overlord-1024×784.jpg
ノルマンディ上陸は不合理な作戦

第二次大戦でドイツにとどめを刺したのがノルマンディ上陸作戦なのは良く知られていて、何度も大作映画になっています

だがこの作戦を決めたのがソ連の指導者スターリンだったのは、まったく知られていない

アメリカ軍の上陸地点がノルマンディだった事で東西ドイツが分割され、ソ連の全盛期や中国の発展までつながった

スターリンがそれほどの影響力を持った理由は日本軍で、アメリカは日本を絨毯爆撃しながら日本軍にビビリまくっていた

アメリカの恐れにスターリンがつけ込んだのが『テヘラン会談』で、ここで戦後の枠組みが決定しました

テヘラン会談に参加したのは英チャーチルと米ルーズベルト、ソ連スターリンの3人と側近達だが終始スターリンが主導権を握った

ルーズベルトは1933年3月から1945年4月まで大統領の職にあり、第二次大戦の全期間を通してアメリカ大統領に選任された

最後は4月12日に脳卒中で倒れ、副大統領トルーマンが大統領に昇格して終戦を迎えた

ルーズベルトは同じ1933年に政権の座に就いたドイツのヒトラーを最大の敵と見做し、欧州の戦争に参加したがっていた

ドイツは米国との戦争を避けようとしたので、同盟国の日本に「南京事件」をでっち上げて、経済封鎖をして挑発した

経済封鎖すれば日本は何らかの軍事行動を起こさざるを得ず、アメリカはドイツと戦って英国を支援することが出来る

この時点で日本についてはどうでも良く、アメリカ軍に対抗できるとは考えていなかった

日本軍に狼狽したアメリカの錯覚
だが戦争を開始した日本軍は予想外に強く、アメリカ軍は連戦連敗でもう少しで全艦隊が全滅するところだった

いくらアメリカの国力が強大でも、戦える軍艦がなくなれば負けを認めて停戦交渉に応じざるを得ない

そうならずに済んだのはフランス、オランダ、オーストラリア、イギリスなどの弱小部隊が、日本海軍を引き付けて分散させたからだった

日本軍は米軍に圧勝していた頃、中国やソ連とも対峙し欧州各国の残存部隊とも戦い、アジア人の武装勢力とも戦っていた

米艦隊との決戦に備えるべき海軍主力部隊は、オーストラリアやインド洋まで出かけて、どうでも良い作戦に使われていました

日本が敗戦に向うきっかけになったミッドウェー海戦では、開戦以来一度も定期整備されなかった軍艦や軍用機に故障が続発し、過労から兵士のミスも続出した

逆に開戦から殆ど働いていなかった米空母は気力充分で、故障も起こさず、存分に力を発揮して圧勝した

アメリカ海軍は負けそうになったのを英蘭仏豪などが日本軍を引きつけたおかげで、やっと戦況を挽回できたのだった

大戦前半のアメリカがどのくらい日本軍を恐れたかというと、海軍が全滅したらハワイとグアムを譲渡して和平交渉しようなどと言っていました

ルーズベルト大統領は1943年になってもまだ日本軍にはかなりの戦力が残っていて、米軍だけで勝つのは困難だと考えていた

この錯覚が日本への過剰な絨毯爆撃やマンハッタン計画になり、ソ連への参戦依頼となって現れました

1943年10月から11月の『カイロ会談』『テヘラン会談』ではスターリンがルーズベルトの弱気を読み、条件を飲まないならソ連は対日参戦しないとハッタリをかました

ソ連は樺太、千島列島を得ることを確約させたが、後に北海道と日本の東半分の要求にエスカレートしている

🖼️ミッドウェー海戦で日本側はほとんど偵察機を発進させず、米空母を発見できずに敗北した。
開戦以来英仏豪蘭などと戦い続け、故障のため発進できる偵察機がなかった。
米軍だけが相手だったら日本海軍は米艦隊を全滅させていた

img4992
引用:http://nisei.hawaii.edu/docs/IO/4992/img4992.jpg
スターリンが支配した1945年
さらにスターリンはドイツへの上陸地点をバルカン半島からフランスに変更させ、ルーズベルトは了承しました

バルカン半島はクロアチア、ボスニア、ブルガリアなど大戦後に共産圏に組み込まれた国々で、ソ連側に近い

ここにアメリカ軍が上陸したらバルカン半島は米英側が支配する「西側」になり、ソ連はドイツ侵攻すら不可能になるかも知れない

ソ連がドイツに侵攻するには東欧諸国を占領しながら進撃するが、そこにアメリカ軍が居座っていたら、どうする事もできません

チャーチルには事の重大さが分かっていたのでバルカン半島を強く主張したが、ルーズベルトはもうボケかけていたのか、頭が回らずフランスに変更してしまった

この結果東欧諸国は全てソ連が占領し、ドイツは東西に分割されて、「ソビエト連邦」という強大な超大国が出現しました

ソ連の出現によって中国も共産化し、こんにちの「中華人民共和国」が出現する原因も作りました

日本軍はルーズベルトの間抜けぶりに狼狽しながら、なるべく多くの領土を「アメリカに占領してもらう」作戦を展開しました

米ソに分割されたら、ソ連に取られたほうは未来永劫真っ暗闇になるのは分かっていたからで、特に朝鮮半島南側と北海道をソ連に取られるかどうかが焦点だった

だがアメリカ側はトルーマン大統領に替わっても「日本に上陸したら大量の犠牲者を出す」と言って停戦交渉に応じようとしなかった

そこで外務省と海軍は弱気になっていた昭和天皇を説得し、終戦の詔勅を録音してラジオ放送した

ソ連参戦は8月9日でラジオ放送は15日、アメリカ軍は突然の日本の降伏にオロオロし、日本や朝鮮に上陸しようとはしない

戦後世界は偶然生まれた
ソ連軍はシベリア鉄道で大量の物資と兵士を輸送して、日本上陸と朝鮮半島での決戦に備えつつありました

そこへやってきたのがパイプを咥えたマッカーサーで、米軍の方が先に日本と朝鮮南部に達した事で、ソ連軍は占領を断念した

終戦はこのように奇跡的なタイミングで行われ、数日でもずれていたら北海道や韓国がソ連領になった可能性が高い

逆にアメリカ軍がもっと迅速に動いていたら、北朝鮮や千島列島にソ連軍が到達できなかった可能性もあった

固定不変のように思われている領土や国家の枠組みは、このように偶然決まる事もあります

そして強大になったソ連を中心に戦後数十年が始まり、戦勝国アメリカは思ってもみなかった苦戦をするのでした
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1016.html#c5

[リバイバル3] GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり 中川隆
16. 中川隆[-6831] koaQ7Jey 2025年5月17日 16:44:38 : 0mY2jmDEpg : eUd2RU5ycE8wRWc=[6]
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アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚
2025.05.17
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html

アメリカは圧倒的な戦力を持ちながら日本軍を恐れ、ソ連に対日参戦してもらうため、欧州の東半分を譲渡した。それがノルマンディ上陸作戦

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引用:http://format.net.au/site/wp-content/uploads/2014/01/overlord-1024×784.jpg
ノルマンディ上陸は不合理な作戦

第二次大戦でドイツにとどめを刺したのがノルマンディ上陸作戦なのは良く知られていて、何度も大作映画になっています

だがこの作戦を決めたのがソ連の指導者スターリンだったのは、まったく知られていない

アメリカ軍の上陸地点がノルマンディだった事で東西ドイツが分割され、ソ連の全盛期や中国の発展までつながった

スターリンがそれほどの影響力を持った理由は日本軍で、アメリカは日本を絨毯爆撃しながら日本軍にビビリまくっていた

アメリカの恐れにスターリンがつけ込んだのが『テヘラン会談』で、ここで戦後の枠組みが決定しました

テヘラン会談に参加したのは英チャーチルと米ルーズベルト、ソ連スターリンの3人と側近達だが終始スターリンが主導権を握った

ルーズベルトは1933年3月から1945年4月まで大統領の職にあり、第二次大戦の全期間を通してアメリカ大統領に選任された

最後は4月12日に脳卒中で倒れ、副大統領トルーマンが大統領に昇格して終戦を迎えた

ルーズベルトは同じ1933年に政権の座に就いたドイツのヒトラーを最大の敵と見做し、欧州の戦争に参加したがっていた

ドイツは米国との戦争を避けようとしたので、同盟国の日本に「南京事件」をでっち上げて、経済封鎖をして挑発した

経済封鎖すれば日本は何らかの軍事行動を起こさざるを得ず、アメリカはドイツと戦って英国を支援することが出来る

この時点で日本についてはどうでも良く、アメリカ軍に対抗できるとは考えていなかった

日本軍に狼狽したアメリカの錯覚
だが戦争を開始した日本軍は予想外に強く、アメリカ軍は連戦連敗でもう少しで全艦隊が全滅するところだった

いくらアメリカの国力が強大でも、戦える軍艦がなくなれば負けを認めて停戦交渉に応じざるを得ない

そうならずに済んだのはフランス、オランダ、オーストラリア、イギリスなどの弱小部隊が、日本海軍を引き付けて分散させたからだった

日本軍は米軍に圧勝していた頃、中国やソ連とも対峙し欧州各国の残存部隊とも戦い、アジア人の武装勢力とも戦っていた

米艦隊との決戦に備えるべき海軍主力部隊は、オーストラリアやインド洋まで出かけて、どうでも良い作戦に使われていました

日本が敗戦に向うきっかけになったミッドウェー海戦では、開戦以来一度も定期整備されなかった軍艦や軍用機に故障が続発し、過労から兵士のミスも続出した

逆に開戦から殆ど働いていなかった米空母は気力充分で、故障も起こさず、存分に力を発揮して圧勝した

アメリカ海軍は負けそうになったのを英蘭仏豪などが日本軍を引きつけたおかげで、やっと戦況を挽回できたのだった

大戦前半のアメリカがどのくらい日本軍を恐れたかというと、海軍が全滅したらハワイとグアムを譲渡して和平交渉しようなどと言っていました

ルーズベルト大統領は1943年になってもまだ日本軍にはかなりの戦力が残っていて、米軍だけで勝つのは困難だと考えていた

この錯覚が日本への過剰な絨毯爆撃やマンハッタン計画になり、ソ連への参戦依頼となって現れました

1943年10月から11月の『カイロ会談』『テヘラン会談』ではスターリンがルーズベルトの弱気を読み、条件を飲まないならソ連は対日参戦しないとハッタリをかました

ソ連は樺太、千島列島を得ることを確約させたが、後に北海道と日本の東半分の要求にエスカレートしている

🖼️ミッドウェー海戦で日本側はほとんど偵察機を発進させず、米空母を発見できずに敗北した。
開戦以来英仏豪蘭などと戦い続け、故障のため発進できる偵察機がなかった。
米軍だけが相手だったら日本海軍は米艦隊を全滅させていた

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引用:http://nisei.hawaii.edu/docs/IO/4992/img4992.jpg
スターリンが支配した1945年
さらにスターリンはドイツへの上陸地点をバルカン半島からフランスに変更させ、ルーズベルトは了承しました

バルカン半島はクロアチア、ボスニア、ブルガリアなど大戦後に共産圏に組み込まれた国々で、ソ連側に近い

ここにアメリカ軍が上陸したらバルカン半島は米英側が支配する「西側」になり、ソ連はドイツ侵攻すら不可能になるかも知れない

ソ連がドイツに侵攻するには東欧諸国を占領しながら進撃するが、そこにアメリカ軍が居座っていたら、どうする事もできません

チャーチルには事の重大さが分かっていたのでバルカン半島を強く主張したが、ルーズベルトはもうボケかけていたのか、頭が回らずフランスに変更してしまった

この結果東欧諸国は全てソ連が占領し、ドイツは東西に分割されて、「ソビエト連邦」という強大な超大国が出現しました

ソ連の出現によって中国も共産化し、こんにちの「中華人民共和国」が出現する原因も作りました

日本軍はルーズベルトの間抜けぶりに狼狽しながら、なるべく多くの領土を「アメリカに占領してもらう」作戦を展開しました

米ソに分割されたら、ソ連に取られたほうは未来永劫真っ暗闇になるのは分かっていたからで、特に朝鮮半島南側と北海道をソ連に取られるかどうかが焦点だった

だがアメリカ側はトルーマン大統領に替わっても「日本に上陸したら大量の犠牲者を出す」と言って停戦交渉に応じようとしなかった

そこで外務省と海軍は弱気になっていた昭和天皇を説得し、終戦の詔勅を録音してラジオ放送した

ソ連参戦は8月9日でラジオ放送は15日、アメリカ軍は突然の日本の降伏にオロオロし、日本や朝鮮に上陸しようとはしない

戦後世界は偶然生まれた
ソ連軍はシベリア鉄道で大量の物資と兵士を輸送して、日本上陸と朝鮮半島での決戦に備えつつありました

そこへやってきたのがパイプを咥えたマッカーサーで、米軍の方が先に日本と朝鮮南部に達した事で、ソ連軍は占領を断念した

終戦はこのように奇跡的なタイミングで行われ、数日でもずれていたら北海道や韓国がソ連領になった可能性が高い

逆にアメリカ軍がもっと迅速に動いていたら、北朝鮮や千島列島にソ連軍が到達できなかった可能性もあった

固定不変のように思われている領土や国家の枠組みは、このように偶然決まる事もあります

そして強大になったソ連を中心に戦後数十年が始まり、戦勝国アメリカは思ってもみなかった苦戦をするのでした
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/748.html#c16

[近代史4] ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト 中川隆
25. 中川隆[-6830] koaQ7Jey 2025年5月17日 16:45:29 : 0mY2jmDEpg : eUd2RU5ycE8wRWc=[7]
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アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚
2025.05.17
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html

アメリカは圧倒的な戦力を持ちながら日本軍を恐れ、ソ連に対日参戦してもらうため、欧州の東半分を譲渡した。それがノルマンディ上陸作戦

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引用:http://format.net.au/site/wp-content/uploads/2014/01/overlord-1024×784.jpg
ノルマンディ上陸は不合理な作戦

第二次大戦でドイツにとどめを刺したのがノルマンディ上陸作戦なのは良く知られていて、何度も大作映画になっています

だがこの作戦を決めたのがソ連の指導者スターリンだったのは、まったく知られていない

アメリカ軍の上陸地点がノルマンディだった事で東西ドイツが分割され、ソ連の全盛期や中国の発展までつながった

スターリンがそれほどの影響力を持った理由は日本軍で、アメリカは日本を絨毯爆撃しながら日本軍にビビリまくっていた

アメリカの恐れにスターリンがつけ込んだのが『テヘラン会談』で、ここで戦後の枠組みが決定しました

テヘラン会談に参加したのは英チャーチルと米ルーズベルト、ソ連スターリンの3人と側近達だが終始スターリンが主導権を握った

ルーズベルトは1933年3月から1945年4月まで大統領の職にあり、第二次大戦の全期間を通してアメリカ大統領に選任された

最後は4月12日に脳卒中で倒れ、副大統領トルーマンが大統領に昇格して終戦を迎えた

ルーズベルトは同じ1933年に政権の座に就いたドイツのヒトラーを最大の敵と見做し、欧州の戦争に参加したがっていた

ドイツは米国との戦争を避けようとしたので、同盟国の日本に「南京事件」をでっち上げて、経済封鎖をして挑発した

経済封鎖すれば日本は何らかの軍事行動を起こさざるを得ず、アメリカはドイツと戦って英国を支援することが出来る

この時点で日本についてはどうでも良く、アメリカ軍に対抗できるとは考えていなかった

日本軍に狼狽したアメリカの錯覚
だが戦争を開始した日本軍は予想外に強く、アメリカ軍は連戦連敗でもう少しで全艦隊が全滅するところだった

いくらアメリカの国力が強大でも、戦える軍艦がなくなれば負けを認めて停戦交渉に応じざるを得ない

そうならずに済んだのはフランス、オランダ、オーストラリア、イギリスなどの弱小部隊が、日本海軍を引き付けて分散させたからだった

日本軍は米軍に圧勝していた頃、中国やソ連とも対峙し欧州各国の残存部隊とも戦い、アジア人の武装勢力とも戦っていた

米艦隊との決戦に備えるべき海軍主力部隊は、オーストラリアやインド洋まで出かけて、どうでも良い作戦に使われていました

日本が敗戦に向うきっかけになったミッドウェー海戦では、開戦以来一度も定期整備されなかった軍艦や軍用機に故障が続発し、過労から兵士のミスも続出した

逆に開戦から殆ど働いていなかった米空母は気力充分で、故障も起こさず、存分に力を発揮して圧勝した

アメリカ海軍は負けそうになったのを英蘭仏豪などが日本軍を引きつけたおかげで、やっと戦況を挽回できたのだった

大戦前半のアメリカがどのくらい日本軍を恐れたかというと、海軍が全滅したらハワイとグアムを譲渡して和平交渉しようなどと言っていました

ルーズベルト大統領は1943年になってもまだ日本軍にはかなりの戦力が残っていて、米軍だけで勝つのは困難だと考えていた

この錯覚が日本への過剰な絨毯爆撃やマンハッタン計画になり、ソ連への参戦依頼となって現れました

1943年10月から11月の『カイロ会談』『テヘラン会談』ではスターリンがルーズベルトの弱気を読み、条件を飲まないならソ連は対日参戦しないとハッタリをかました

ソ連は樺太、千島列島を得ることを確約させたが、後に北海道と日本の東半分の要求にエスカレートしている

🖼️ミッドウェー海戦で日本側はほとんど偵察機を発進させず、米空母を発見できずに敗北した。
開戦以来英仏豪蘭などと戦い続け、故障のため発進できる偵察機がなかった。
米軍だけが相手だったら日本海軍は米艦隊を全滅させていた

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引用:http://nisei.hawaii.edu/docs/IO/4992/img4992.jpg
スターリンが支配した1945年
さらにスターリンはドイツへの上陸地点をバルカン半島からフランスに変更させ、ルーズベルトは了承しました

バルカン半島はクロアチア、ボスニア、ブルガリアなど大戦後に共産圏に組み込まれた国々で、ソ連側に近い

ここにアメリカ軍が上陸したらバルカン半島は米英側が支配する「西側」になり、ソ連はドイツ侵攻すら不可能になるかも知れない

ソ連がドイツに侵攻するには東欧諸国を占領しながら進撃するが、そこにアメリカ軍が居座っていたら、どうする事もできません

チャーチルには事の重大さが分かっていたのでバルカン半島を強く主張したが、ルーズベルトはもうボケかけていたのか、頭が回らずフランスに変更してしまった

この結果東欧諸国は全てソ連が占領し、ドイツは東西に分割されて、「ソビエト連邦」という強大な超大国が出現しました

ソ連の出現によって中国も共産化し、こんにちの「中華人民共和国」が出現する原因も作りました

日本軍はルーズベルトの間抜けぶりに狼狽しながら、なるべく多くの領土を「アメリカに占領してもらう」作戦を展開しました

米ソに分割されたら、ソ連に取られたほうは未来永劫真っ暗闇になるのは分かっていたからで、特に朝鮮半島南側と北海道をソ連に取られるかどうかが焦点だった

だがアメリカ側はトルーマン大統領に替わっても「日本に上陸したら大量の犠牲者を出す」と言って停戦交渉に応じようとしなかった

そこで外務省と海軍は弱気になっていた昭和天皇を説得し、終戦の詔勅を録音してラジオ放送した

ソ連参戦は8月9日でラジオ放送は15日、アメリカ軍は突然の日本の降伏にオロオロし、日本や朝鮮に上陸しようとはしない

戦後世界は偶然生まれた
ソ連軍はシベリア鉄道で大量の物資と兵士を輸送して、日本上陸と朝鮮半島での決戦に備えつつありました

そこへやってきたのがパイプを咥えたマッカーサーで、米軍の方が先に日本と朝鮮南部に達した事で、ソ連軍は占領を断念した

終戦はこのように奇跡的なタイミングで行われ、数日でもずれていたら北海道や韓国がソ連領になった可能性が高い

逆にアメリカ軍がもっと迅速に動いていたら、北朝鮮や千島列島にソ連軍が到達できなかった可能性もあった

固定不変のように思われている領土や国家の枠組みは、このように偶然決まる事もあります

そして強大になったソ連を中心に戦後数十年が始まり、戦勝国アメリカは思ってもみなかった苦戦をするのでした
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1037.html#c25

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
44. 中川隆[-6829] koaQ7Jey 2025年5月17日 16:46:06 : 0mY2jmDEpg : eUd2RU5ycE8wRWc=[8]
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アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚
2025.05.17
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html

アメリカは圧倒的な戦力を持ちながら日本軍を恐れ、ソ連に対日参戦してもらうため、欧州の東半分を譲渡した。それがノルマンディ上陸作戦

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引用:http://format.net.au/site/wp-content/uploads/2014/01/overlord-1024×784.jpg
ノルマンディ上陸は不合理な作戦

第二次大戦でドイツにとどめを刺したのがノルマンディ上陸作戦なのは良く知られていて、何度も大作映画になっています

だがこの作戦を決めたのがソ連の指導者スターリンだったのは、まったく知られていない

アメリカ軍の上陸地点がノルマンディだった事で東西ドイツが分割され、ソ連の全盛期や中国の発展までつながった

スターリンがそれほどの影響力を持った理由は日本軍で、アメリカは日本を絨毯爆撃しながら日本軍にビビリまくっていた

アメリカの恐れにスターリンがつけ込んだのが『テヘラン会談』で、ここで戦後の枠組みが決定しました

テヘラン会談に参加したのは英チャーチルと米ルーズベルト、ソ連スターリンの3人と側近達だが終始スターリンが主導権を握った

ルーズベルトは1933年3月から1945年4月まで大統領の職にあり、第二次大戦の全期間を通してアメリカ大統領に選任された

最後は4月12日に脳卒中で倒れ、副大統領トルーマンが大統領に昇格して終戦を迎えた

ルーズベルトは同じ1933年に政権の座に就いたドイツのヒトラーを最大の敵と見做し、欧州の戦争に参加したがっていた

ドイツは米国との戦争を避けようとしたので、同盟国の日本に「南京事件」をでっち上げて、経済封鎖をして挑発した

経済封鎖すれば日本は何らかの軍事行動を起こさざるを得ず、アメリカはドイツと戦って英国を支援することが出来る

この時点で日本についてはどうでも良く、アメリカ軍に対抗できるとは考えていなかった

日本軍に狼狽したアメリカの錯覚
だが戦争を開始した日本軍は予想外に強く、アメリカ軍は連戦連敗でもう少しで全艦隊が全滅するところだった

いくらアメリカの国力が強大でも、戦える軍艦がなくなれば負けを認めて停戦交渉に応じざるを得ない

そうならずに済んだのはフランス、オランダ、オーストラリア、イギリスなどの弱小部隊が、日本海軍を引き付けて分散させたからだった

日本軍は米軍に圧勝していた頃、中国やソ連とも対峙し欧州各国の残存部隊とも戦い、アジア人の武装勢力とも戦っていた

米艦隊との決戦に備えるべき海軍主力部隊は、オーストラリアやインド洋まで出かけて、どうでも良い作戦に使われていました

日本が敗戦に向うきっかけになったミッドウェー海戦では、開戦以来一度も定期整備されなかった軍艦や軍用機に故障が続発し、過労から兵士のミスも続出した

逆に開戦から殆ど働いていなかった米空母は気力充分で、故障も起こさず、存分に力を発揮して圧勝した

アメリカ海軍は負けそうになったのを英蘭仏豪などが日本軍を引きつけたおかげで、やっと戦況を挽回できたのだった

大戦前半のアメリカがどのくらい日本軍を恐れたかというと、海軍が全滅したらハワイとグアムを譲渡して和平交渉しようなどと言っていました

ルーズベルト大統領は1943年になってもまだ日本軍にはかなりの戦力が残っていて、米軍だけで勝つのは困難だと考えていた

この錯覚が日本への過剰な絨毯爆撃やマンハッタン計画になり、ソ連への参戦依頼となって現れました

1943年10月から11月の『カイロ会談』『テヘラン会談』ではスターリンがルーズベルトの弱気を読み、条件を飲まないならソ連は対日参戦しないとハッタリをかました

ソ連は樺太、千島列島を得ることを確約させたが、後に北海道と日本の東半分の要求にエスカレートしている

🖼️ミッドウェー海戦で日本側はほとんど偵察機を発進させず、米空母を発見できずに敗北した。
開戦以来英仏豪蘭などと戦い続け、故障のため発進できる偵察機がなかった。
米軍だけが相手だったら日本海軍は米艦隊を全滅させていた

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引用:http://nisei.hawaii.edu/docs/IO/4992/img4992.jpg
スターリンが支配した1945年
さらにスターリンはドイツへの上陸地点をバルカン半島からフランスに変更させ、ルーズベルトは了承しました

バルカン半島はクロアチア、ボスニア、ブルガリアなど大戦後に共産圏に組み込まれた国々で、ソ連側に近い

ここにアメリカ軍が上陸したらバルカン半島は米英側が支配する「西側」になり、ソ連はドイツ侵攻すら不可能になるかも知れない

ソ連がドイツに侵攻するには東欧諸国を占領しながら進撃するが、そこにアメリカ軍が居座っていたら、どうする事もできません

チャーチルには事の重大さが分かっていたのでバルカン半島を強く主張したが、ルーズベルトはもうボケかけていたのか、頭が回らずフランスに変更してしまった

この結果東欧諸国は全てソ連が占領し、ドイツは東西に分割されて、「ソビエト連邦」という強大な超大国が出現しました

ソ連の出現によって中国も共産化し、こんにちの「中華人民共和国」が出現する原因も作りました

日本軍はルーズベルトの間抜けぶりに狼狽しながら、なるべく多くの領土を「アメリカに占領してもらう」作戦を展開しました

米ソに分割されたら、ソ連に取られたほうは未来永劫真っ暗闇になるのは分かっていたからで、特に朝鮮半島南側と北海道をソ連に取られるかどうかが焦点だった

だがアメリカ側はトルーマン大統領に替わっても「日本に上陸したら大量の犠牲者を出す」と言って停戦交渉に応じようとしなかった

そこで外務省と海軍は弱気になっていた昭和天皇を説得し、終戦の詔勅を録音してラジオ放送した

ソ連参戦は8月9日でラジオ放送は15日、アメリカ軍は突然の日本の降伏にオロオロし、日本や朝鮮に上陸しようとはしない

戦後世界は偶然生まれた
ソ連軍はシベリア鉄道で大量の物資と兵士を輸送して、日本上陸と朝鮮半島での決戦に備えつつありました

そこへやってきたのがパイプを咥えたマッカーサーで、米軍の方が先に日本と朝鮮南部に達した事で、ソ連軍は占領を断念した

終戦はこのように奇跡的なタイミングで行われ、数日でもずれていたら北海道や韓国がソ連領になった可能性が高い

逆にアメリカ軍がもっと迅速に動いていたら、北朝鮮や千島列島にソ連軍が到達できなかった可能性もあった

固定不変のように思われている領土や国家の枠組みは、このように偶然決まる事もあります

そして強大になったソ連を中心に戦後数十年が始まり、戦勝国アメリカは思ってもみなかった苦戦をするのでした
https://www.thutmosev.com/archives/66119291.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c44

[近代史5] ギリシャ・イタリアの歴史と現代史 中川隆
37. 中川隆[-6828] koaQ7Jey 2025年5月17日 16:53:10 : 0mY2jmDEpg : eUd2RU5ycE8wRWc=[9]
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雑記帳 2025年05月17日
井上文則『異教のローマ ミトラス教とその時代』
https://sicambre.seesaa.net/article/202505article_17.html

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 講談社選書メチエの一冊として、2025年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、ローマ帝国においてキリスト教にとって宗教での競合相手として「最大の敵」だった、とも言われるミトラス教(ミトラ教、ミスラス教)に焦点を当てたローマの宗教史です。ローマの宗教史は、キリスト教の「勝利」という結果が大前提としてあるので、専門家でも歪んだ歴史像を提示してしまう危険性があるように思いますが、私のように専門家ではない人間はなおのこと、的外れな歴史観を有してしまう可能性が高い、と言えそうです。ミトラ教は、ペルシア(アーリア系)の神と考えられていたミトラ(ミスラ、ミトラス、ミフル)を崇拝する宗教で、ミトラ神はローマ帝国では太陽神と同一視され、「不意の太陽神ミトラス」とも呼ばれました。ミトラ教は、キリスト教にとって「最大の敵」だったことと共に、紀元前千年紀から千年紀のメソポタミアやイラン高原において、レヴァント(地中海東岸)発の「聖書ストーリー」の影響力がきわめて強く、宗教(信仰)は基本的に西方から東方と流入した中で、ミトラ教のみが例外だった、との指摘もあるので(関連記事)、以前から関心を抱いていました。しかし、これまでミトラ教についてはローマ史の概説などで断片的に情報を得ていただけなので、本書を読むことで少しでも体系的に理解しようと考えました。

 ローマ帝国期において東方(オリエント)起源の神々の信仰は「オリエント宗教」と呼ばれ、多くは密儀宗教の形態でした。つまり、特別の儀式を経て入信した者だけに秘密の教義が明かされるわけで、その起源は古代ギリシアにおけるエレウシスの秘儀とされています。ローマ帝国には東方世界から多くの信仰が流入し、多彩な宗教が存在しました。本書はこれらの宗教を三種類に区分し、それは、ギリシアおよびローマの伝統宗教とオリエント宗教と一神教(ユダヤ教とキリスト教)です。ミトラス教はローマ帝国において繁栄しましたが、考古学的遺物は豊富であるものの、文献はほとんど乗っていないそうです。そうした制約の中で、本書はミトラス教の全体像を復元し、キリスト教が「勝利」した理由とその意味を考察します。近代におけるミトラス教研究では当初、ミトラス教はマズダー教の一派で、小アジアに起源があり、紀元前1世紀にはローマ市に伝わっていたものの、本格的に浸透したのは紀元後1世紀後半以後と考えられていました。1970年代以降、ミトラス教は新たな段階に入り、ミトラス教とマズダー教との関係を否定し、ミトラス教はローマ世界で形成された星辰崇拝に他ならなかった、との見解が提示されます。

 本書はミトラス教の前提として、古代オリエント世界の宗教の様相を検証します。古代オリエントの神々は、都市や「民族」との結びつきの強さが特徴です。メソポタミアでは神と都市との結びつきが強かったのに対して、都市国家が発達しなかったエジプトでは神は「民族」と結びついていた、と本書は指摘します。それだけに、エジプトの神々のエジプト外への勢力伸長は限定的だったようです。アケメネス(アカイメネス、ハカーマニシュ)朝ペルシアの神々は特定の都市と結びついていない点ではエジプトに近かったものの、エジプトの神々とは異なって人格化されておらず、自然崇拝に近かったようです。それだけに、むしろメソポタミアやエジプトの神々よりも普遍的性格が強かったものの、ペルシア帝国の領域外に広まることはほぼありませんでした。その例外がミトラ神で、東方では日本まで、西方ではローマ帝国まで広がりました。平安時代〜室町時代の日記の具注暦の日曜日の欄に記された「蜜」は、中世ペルシア語のソグド語のミール(太陽神ミトラ)のことでした。ミトラ神の歴史はインド・イラン語派祖語話者の頃までさかのぼるようで、ミトラ神が初めて記録に見えのるは、メソポタミア北部のミタンニ王国においてです。インドのミトラ神は紀元前1200年頃に成立した『リグ・ヴェーダ』では、ミトラ神はヴァルナ神とともに最高位でしたが、両神ともに人気は低かったようで、ヴァルナ神は後に仏教に取り入れられ、水天とされました。ミトラ神はインド経由ではなくイランを媒介として、仏教に入ったようです。イランではミトラ神の信仰は紀元前1000年頃にもたらされ、ミスラと呼ばれました。イランのミスラは契約の神であり、太陽神そのものではありませんでしたが、生命の神でもありました。アケメネス朝では、ミスラ神は王権の守護者とされました。ヘレニズム時代にもミスラ神崇拝は続きますが、まだ紀元後のミトラス教のようなミトラスを主神とした密儀宗教ではなく、多くの神々の一人にすぎませんでした。ただ、後のミトラス教のような太陽神や戦神や王家の守護者としての特徴は明確に認められます。

 ローマ市に最初に現れたオリエント宗教の神は、小アジアのキュベレおよびアッティスで、紀元前204年のことでした。続いてローマ市に入ってきたオリエント宗教の神はエジプトの女神イシスで、紀元前1世紀前半にはローマ市内に神殿があったようです。ただ、当時エジプトを支配していたのはプトレマイオス朝で、ローマと敵対することも多かったので、イシス信仰はローマ当局に何度も弾圧されました。本書は、ミトラス神の起源がオリエント世界にあるとしても、ミトラス教はローマ市で紀元後1世紀に誕生した可能性が高く、最初期の段階ですでにかなり完成されているので、時間をかけた形成ではなく、一人の教祖によって一気に創出されたのではないか、と推測します。ミトラス教の最初期の信者には、兵士や奴隷もしくは解放奴隷が多く、解放奴隷によってミトラス教が創出された可能性を本書は指摘します。兵士や奴隷や解放奴隷は移動することが多く、そうした最初期の信者によってミトラス教はローマ帝国において拡大していったようです。ただ、初期には信者数の増加は限定的だったようで、2世紀後半以降にローマ帝国全体としてミトラス教徒数の増加が確認できるようになります。五賢帝以後、太陽神を信仰するローマ皇帝がたびたび現れ、これはミトラス教に有利に作用した可能性があります。308年には、元皇帝のディオクレティアヌスと現役の皇帝であるガレリウスおよびリキニウスがパンノニア地方のカルヌントゥムでミトラス神殿を再建し、その碑文には「帝権の守護者」とありました。ただ、ローマ皇帝の守護神は公的にはユピテルとヘラクレスで、ミトラス教への敬意は局所的な意味しかなかっただろう、と本書は推測します。このようにミトラス教はローマ帝国に広がり、皇帝も認識していましたが、支配層である元老院議員や騎士や都市参事会員といった階層にはほとんど浸透しなかったようです。ミトラス教の信者の多く(約8割)を占めていたのでは兵士と奴隷もしくは解放奴隷でした。ローマ帝国内では、ミトラス教の浸透には地理的な偏りがあり、ほとんど広がらなかったのは、ガリアやイベリア半島やアフリカ北部やバルカン半島中南部やギリシアや小アジアやシリアやエジプトでした。その一因とし考えられるのは、ガリアやイベリア半島やバルカン半島中南部には軍があまり駐屯していなかったことですが、小アジア東部やシリアやエジプトにはそれなりの規模の軍が駐屯していたので、軍隊だけが原因ではないようです。ミトラス教の分布の東端はシリアのドゥラ・エウロポスで、ユーフラテス川以東に広がっていた形跡はありません。

 ミトラス教の重要な特徴は、明確に女性の信者が確認されていないことです。そのため、教義上の理由から、ミトラス教では女性が積極的に排除されていた、と考えられています。ミトラス神には母親と配偶神がいないことも、その傍証となりそうです。ミトラス教の信者には7段階の位があり、下から順にカラス→花嫁→兵士→ライオン→ペルシア人→太陽の走者→父です。これらの位階は、惑星でもある7柱の神々にそれぞれ対応していました。ミトラス教には専属の神官がおらず、この点では有力な政治家が交代で神官職に就任したローマの伝統的な宗教に近かったようです。ミトラス教の神話自体は伝えられていませんが、浮彫や壁画に残されており、ミトラス神は岩から生まれ、太陽神と争って同盟し、牡牛殺しと祝宴を経て、最後に太陽神を同伴して昇天する、と語られていたようで、つまりミトラス神はすでに存在した世界に生まれてきたのであり、世界の創造者ではなかったわけです。ミトラス教では、ギリシア神話の世界観が前提とされていたようです。

 ミトラス教のような密儀宗教の性格として、個人の魂の救済が挙げられてきました。ローマの伝統的な宗教が個人ではなく共同体を対象としていたことと対照的だった、というわけです。ただ、密儀宗教の教義は門外不出なので、よく分からないところもあります。ミトラス教の場合、教義を記したまとまった書物は現存していませんが、教理問答書の一部と思われる文献が残っています。ミトラス教の教義の中核には死後の魂の問題が置かれていたようですが、それは少なからぬ宗教にも当てはまるでしょう。ミトラス教ではとくに奴隷や解放奴隷や兵士の割合が高かったのは、主人や元主人や上官に仕える日常の労苦と、正式に家族を持てない孤独な環境の奴隷や解放奴隷や兵士にとって、岩から生まれて親がおらず、妻子もいないミトラス神は共感できる存在だったからではないか、と本書は推測します。本書は再構築されたミトラス教の教義から、その教祖の出身地はコンマゲネで、その成立時期は1世紀後半だろう、と推測しています。

 ミトラス教にとって結果的に転機となったのは、コンスタンティヌス帝が313年にキリスト教を公認したことです。コンスタンティヌス帝はキリスト教の聖職者にさまざまな特権を与え、教会には広大な土地と多額の財産を寄付し、キリスト教を積極的に支援するとともに、「異教」の神々への供犠を禁じました。これ以降、キリスト教の勢力が拡大し、ミトラス教など「異教」は衰退していきますが、「背教者」と呼ばれたユリアヌス帝や一部の元老院議員はキリスト教化の波に抵抗し、そうした人々にはミトラス教との関わりがありました。ユリアヌスは熱心な太陽神の崇拝者だったため、同じく太陽神を主神とするミトラス教に好意的で、じっさいに入信もしています。ユリアヌス帝の戦死後、「異教」はますます苦境に追い込まれ、ついに392年にはテオドシウス帝が全面的な異教禁令を出します。こうした動きに抵抗した元老院議員もおり、「異教徒」を皇帝に擁立する動きもありましたが失敗しました。こうしたキリスト教に抵抗した「異教徒」の元老院議員の間ではミトラス教が流行しており、中には、何世代にもわたるミトラス教の信者もいました。ただ、4世紀後半の時点ですでに、ユリアヌス帝や一部の元老院議員を除いて、ミトラス教の勢いは失われていたようです。ミトラス神殿の建設は4世紀になると低調になり、4世紀半ばにはほぼ停止していました。本書は、313年のキリスト教公認がミトラス教を衰退の原因になったのではないか、と推測します。機能中のミトラス教の神殿がキリスト教徒によって破壊されたと思われる事例もあるものの、大半のミトラス神殿は、キリスト教徒の直接的暴力ではなく、度重なる「異教」禁止令やキリスト教信仰の拡大によって信者を奪われたことで維持できなくなり、放棄されたのだろう、と本書は推測します。じっさい、破壊された痕跡のないミトラス神殿も多いようです。ミトラス教は他の「異教」よりも先に衰退し、5世紀まで存続した神殿は1ヶ所だけで、中世ヨーロッパでは完全に忘れ去られた存在だった、と本書は指摘します。

 ミトラス教はローマ帝国において、共同体的な伝統的宗教を破壊し、個人的宗教を広めて、キリスト教化の地均しをした、とも言われています。しかし本書は、ローマ帝国においてオリエント宗教が広がっていた当初、ミトラス教の分布域がもっぱら西方だったのに対して、キリスト教は西方にはほとんど浸透しておらず、おもに東方に分布していたことから、そうした見解に否定的です。このようにミトラス教とキリスト教の分布域が大きくずれた要因としてまず挙げられているのが、ミトラス教はローマ市に起源があるものの、外観はペルシア風で、そもそもミトラス神の名称自体がペルシアの神名として認識されていたため、パルティアとの戦いの前線にいたローマ帝国東方の人々には抵抗感があったのではないか、との推測です。また本書は、ローマ帝国の東方世界は古代オリエントや古代ギリシア以来の伝統的な「異教」が定着しており、ミトラス教が入り込む余地は少なかったのではないか、とも指摘します。一方、ローマ帝国西方でミトラス教が受容されたのは、ペルシアとの前線から離れており、直接的な脅威を受けていなかったことや、ペルシアは東方の神秘的な英知の国と考えられていたことがあるのではないか、と推測されます。一方で、キリスト教の主要な分布域がローマ帝国の西方ではなく東方だったことについては、雑多で複雑な異教を一神教の教義で一刀両断できるキリスト教は、東方のような新旧の宗教の飽和状態でこそ「福音」として響き、宗教的には素朴だった西方ではミトラス教のような東方起源を装った神秘的宗教の方が魅力的だったのではないか、と指摘されています。キリスト教がローマ帝国において最終的に勝ち残ったことについては、コンスタンティヌス帝のキリスト教支持が大きく、それがなければ西方は長く「異教世界」のままだった、と推測されています。ミトラス教がキリスト教に代わる「世界宗教」になった可能性について、本書は否定的で、それは、キリスト教のような全人類への宣教をミトラス教は考えていなかっただろう、との推測に基づいています。ミトラス教は、キリスト教のように宣教師を各地に派遣して積極的な布教したわけではなく、その拡大は人間の自然な接触を介しており、男性にしか入信を認めていませんでした。本書は、ミトラス教に類似した存在として、キリスト教よりも近代のフリーメイソンを挙げています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202505article_17.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/469.html#c37

[近代史3] イタリア半島の人口史 中川隆
7. 中川隆[-6827] koaQ7Jey 2025年5月17日 16:53:47 : 0mY2jmDEpg : eUd2RU5ycE8wRWc=[10]
<■201行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳 2025年05月17日
井上文則『異教のローマ ミトラス教とその時代』
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 講談社選書メチエの一冊として、2025年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、ローマ帝国においてキリスト教にとって宗教での競合相手として「最大の敵」だった、とも言われるミトラス教(ミトラ教、ミスラス教)に焦点を当てたローマの宗教史です。ローマの宗教史は、キリスト教の「勝利」という結果が大前提としてあるので、専門家でも歪んだ歴史像を提示してしまう危険性があるように思いますが、私のように専門家ではない人間はなおのこと、的外れな歴史観を有してしまう可能性が高い、と言えそうです。ミトラ教は、ペルシア(アーリア系)の神と考えられていたミトラ(ミスラ、ミトラス、ミフル)を崇拝する宗教で、ミトラ神はローマ帝国では太陽神と同一視され、「不意の太陽神ミトラス」とも呼ばれました。ミトラ教は、キリスト教にとって「最大の敵」だったことと共に、紀元前千年紀から千年紀のメソポタミアやイラン高原において、レヴァント(地中海東岸)発の「聖書ストーリー」の影響力がきわめて強く、宗教(信仰)は基本的に西方から東方と流入した中で、ミトラ教のみが例外だった、との指摘もあるので(関連記事)、以前から関心を抱いていました。しかし、これまでミトラ教についてはローマ史の概説などで断片的に情報を得ていただけなので、本書を読むことで少しでも体系的に理解しようと考えました。

 ローマ帝国期において東方(オリエント)起源の神々の信仰は「オリエント宗教」と呼ばれ、多くは密儀宗教の形態でした。つまり、特別の儀式を経て入信した者だけに秘密の教義が明かされるわけで、その起源は古代ギリシアにおけるエレウシスの秘儀とされています。ローマ帝国には東方世界から多くの信仰が流入し、多彩な宗教が存在しました。本書はこれらの宗教を三種類に区分し、それは、ギリシアおよびローマの伝統宗教とオリエント宗教と一神教(ユダヤ教とキリスト教)です。ミトラス教はローマ帝国において繁栄しましたが、考古学的遺物は豊富であるものの、文献はほとんど乗っていないそうです。そうした制約の中で、本書はミトラス教の全体像を復元し、キリスト教が「勝利」した理由とその意味を考察します。近代におけるミトラス教研究では当初、ミトラス教はマズダー教の一派で、小アジアに起源があり、紀元前1世紀にはローマ市に伝わっていたものの、本格的に浸透したのは紀元後1世紀後半以後と考えられていました。1970年代以降、ミトラス教は新たな段階に入り、ミトラス教とマズダー教との関係を否定し、ミトラス教はローマ世界で形成された星辰崇拝に他ならなかった、との見解が提示されます。

 本書はミトラス教の前提として、古代オリエント世界の宗教の様相を検証します。古代オリエントの神々は、都市や「民族」との結びつきの強さが特徴です。メソポタミアでは神と都市との結びつきが強かったのに対して、都市国家が発達しなかったエジプトでは神は「民族」と結びついていた、と本書は指摘します。それだけに、エジプトの神々のエジプト外への勢力伸長は限定的だったようです。アケメネス(アカイメネス、ハカーマニシュ)朝ペルシアの神々は特定の都市と結びついていない点ではエジプトに近かったものの、エジプトの神々とは異なって人格化されておらず、自然崇拝に近かったようです。それだけに、むしろメソポタミアやエジプトの神々よりも普遍的性格が強かったものの、ペルシア帝国の領域外に広まることはほぼありませんでした。その例外がミトラ神で、東方では日本まで、西方ではローマ帝国まで広がりました。平安時代〜室町時代の日記の具注暦の日曜日の欄に記された「蜜」は、中世ペルシア語のソグド語のミール(太陽神ミトラ)のことでした。ミトラ神の歴史はインド・イラン語派祖語話者の頃までさかのぼるようで、ミトラ神が初めて記録に見えのるは、メソポタミア北部のミタンニ王国においてです。インドのミトラ神は紀元前1200年頃に成立した『リグ・ヴェーダ』では、ミトラ神はヴァルナ神とともに最高位でしたが、両神ともに人気は低かったようで、ヴァルナ神は後に仏教に取り入れられ、水天とされました。ミトラ神はインド経由ではなくイランを媒介として、仏教に入ったようです。イランではミトラ神の信仰は紀元前1000年頃にもたらされ、ミスラと呼ばれました。イランのミスラは契約の神であり、太陽神そのものではありませんでしたが、生命の神でもありました。アケメネス朝では、ミスラ神は王権の守護者とされました。ヘレニズム時代にもミスラ神崇拝は続きますが、まだ紀元後のミトラス教のようなミトラスを主神とした密儀宗教ではなく、多くの神々の一人にすぎませんでした。ただ、後のミトラス教のような太陽神や戦神や王家の守護者としての特徴は明確に認められます。

 ローマ市に最初に現れたオリエント宗教の神は、小アジアのキュベレおよびアッティスで、紀元前204年のことでした。続いてローマ市に入ってきたオリエント宗教の神はエジプトの女神イシスで、紀元前1世紀前半にはローマ市内に神殿があったようです。ただ、当時エジプトを支配していたのはプトレマイオス朝で、ローマと敵対することも多かったので、イシス信仰はローマ当局に何度も弾圧されました。本書は、ミトラス神の起源がオリエント世界にあるとしても、ミトラス教はローマ市で紀元後1世紀に誕生した可能性が高く、最初期の段階ですでにかなり完成されているので、時間をかけた形成ではなく、一人の教祖によって一気に創出されたのではないか、と推測します。ミトラス教の最初期の信者には、兵士や奴隷もしくは解放奴隷が多く、解放奴隷によってミトラス教が創出された可能性を本書は指摘します。兵士や奴隷や解放奴隷は移動することが多く、そうした最初期の信者によってミトラス教はローマ帝国において拡大していったようです。ただ、初期には信者数の増加は限定的だったようで、2世紀後半以降にローマ帝国全体としてミトラス教徒数の増加が確認できるようになります。五賢帝以後、太陽神を信仰するローマ皇帝がたびたび現れ、これはミトラス教に有利に作用した可能性があります。308年には、元皇帝のディオクレティアヌスと現役の皇帝であるガレリウスおよびリキニウスがパンノニア地方のカルヌントゥムでミトラス神殿を再建し、その碑文には「帝権の守護者」とありました。ただ、ローマ皇帝の守護神は公的にはユピテルとヘラクレスで、ミトラス教への敬意は局所的な意味しかなかっただろう、と本書は推測します。このようにミトラス教はローマ帝国に広がり、皇帝も認識していましたが、支配層である元老院議員や騎士や都市参事会員といった階層にはほとんど浸透しなかったようです。ミトラス教の信者の多く(約8割)を占めていたのでは兵士と奴隷もしくは解放奴隷でした。ローマ帝国内では、ミトラス教の浸透には地理的な偏りがあり、ほとんど広がらなかったのは、ガリアやイベリア半島やアフリカ北部やバルカン半島中南部やギリシアや小アジアやシリアやエジプトでした。その一因とし考えられるのは、ガリアやイベリア半島やバルカン半島中南部には軍があまり駐屯していなかったことですが、小アジア東部やシリアやエジプトにはそれなりの規模の軍が駐屯していたので、軍隊だけが原因ではないようです。ミトラス教の分布の東端はシリアのドゥラ・エウロポスで、ユーフラテス川以東に広がっていた形跡はありません。

 ミトラス教の重要な特徴は、明確に女性の信者が確認されていないことです。そのため、教義上の理由から、ミトラス教では女性が積極的に排除されていた、と考えられています。ミトラス神には母親と配偶神がいないことも、その傍証となりそうです。ミトラス教の信者には7段階の位があり、下から順にカラス→花嫁→兵士→ライオン→ペルシア人→太陽の走者→父です。これらの位階は、惑星でもある7柱の神々にそれぞれ対応していました。ミトラス教には専属の神官がおらず、この点では有力な政治家が交代で神官職に就任したローマの伝統的な宗教に近かったようです。ミトラス教の神話自体は伝えられていませんが、浮彫や壁画に残されており、ミトラス神は岩から生まれ、太陽神と争って同盟し、牡牛殺しと祝宴を経て、最後に太陽神を同伴して昇天する、と語られていたようで、つまりミトラス神はすでに存在した世界に生まれてきたのであり、世界の創造者ではなかったわけです。ミトラス教では、ギリシア神話の世界観が前提とされていたようです。

 ミトラス教のような密儀宗教の性格として、個人の魂の救済が挙げられてきました。ローマの伝統的な宗教が個人ではなく共同体を対象としていたことと対照的だった、というわけです。ただ、密儀宗教の教義は門外不出なので、よく分からないところもあります。ミトラス教の場合、教義を記したまとまった書物は現存していませんが、教理問答書の一部と思われる文献が残っています。ミトラス教の教義の中核には死後の魂の問題が置かれていたようですが、それは少なからぬ宗教にも当てはまるでしょう。ミトラス教ではとくに奴隷や解放奴隷や兵士の割合が高かったのは、主人や元主人や上官に仕える日常の労苦と、正式に家族を持てない孤独な環境の奴隷や解放奴隷や兵士にとって、岩から生まれて親がおらず、妻子もいないミトラス神は共感できる存在だったからではないか、と本書は推測します。本書は再構築されたミトラス教の教義から、その教祖の出身地はコンマゲネで、その成立時期は1世紀後半だろう、と推測しています。

 ミトラス教にとって結果的に転機となったのは、コンスタンティヌス帝が313年にキリスト教を公認したことです。コンスタンティヌス帝はキリスト教の聖職者にさまざまな特権を与え、教会には広大な土地と多額の財産を寄付し、キリスト教を積極的に支援するとともに、「異教」の神々への供犠を禁じました。これ以降、キリスト教の勢力が拡大し、ミトラス教など「異教」は衰退していきますが、「背教者」と呼ばれたユリアヌス帝や一部の元老院議員はキリスト教化の波に抵抗し、そうした人々にはミトラス教との関わりがありました。ユリアヌスは熱心な太陽神の崇拝者だったため、同じく太陽神を主神とするミトラス教に好意的で、じっさいに入信もしています。ユリアヌス帝の戦死後、「異教」はますます苦境に追い込まれ、ついに392年にはテオドシウス帝が全面的な異教禁令を出します。こうした動きに抵抗した元老院議員もおり、「異教徒」を皇帝に擁立する動きもありましたが失敗しました。こうしたキリスト教に抵抗した「異教徒」の元老院議員の間ではミトラス教が流行しており、中には、何世代にもわたるミトラス教の信者もいました。ただ、4世紀後半の時点ですでに、ユリアヌス帝や一部の元老院議員を除いて、ミトラス教の勢いは失われていたようです。ミトラス神殿の建設は4世紀になると低調になり、4世紀半ばにはほぼ停止していました。本書は、313年のキリスト教公認がミトラス教を衰退の原因になったのではないか、と推測します。機能中のミトラス教の神殿がキリスト教徒によって破壊されたと思われる事例もあるものの、大半のミトラス神殿は、キリスト教徒の直接的暴力ではなく、度重なる「異教」禁止令やキリスト教信仰の拡大によって信者を奪われたことで維持できなくなり、放棄されたのだろう、と本書は推測します。じっさい、破壊された痕跡のないミトラス神殿も多いようです。ミトラス教は他の「異教」よりも先に衰退し、5世紀まで存続した神殿は1ヶ所だけで、中世ヨーロッパでは完全に忘れ去られた存在だった、と本書は指摘します。

 ミトラス教はローマ帝国において、共同体的な伝統的宗教を破壊し、個人的宗教を広めて、キリスト教化の地均しをした、とも言われています。しかし本書は、ローマ帝国においてオリエント宗教が広がっていた当初、ミトラス教の分布域がもっぱら西方だったのに対して、キリスト教は西方にはほとんど浸透しておらず、おもに東方に分布していたことから、そうした見解に否定的です。このようにミトラス教とキリスト教の分布域が大きくずれた要因としてまず挙げられているのが、ミトラス教はローマ市に起源があるものの、外観はペルシア風で、そもそもミトラス神の名称自体がペルシアの神名として認識されていたため、パルティアとの戦いの前線にいたローマ帝国東方の人々には抵抗感があったのではないか、との推測です。また本書は、ローマ帝国の東方世界は古代オリエントや古代ギリシア以来の伝統的な「異教」が定着しており、ミトラス教が入り込む余地は少なかったのではないか、とも指摘します。一方、ローマ帝国西方でミトラス教が受容されたのは、ペルシアとの前線から離れており、直接的な脅威を受けていなかったことや、ペルシアは東方の神秘的な英知の国と考えられていたことがあるのではないか、と推測されます。一方で、キリスト教の主要な分布域がローマ帝国の西方ではなく東方だったことについては、雑多で複雑な異教を一神教の教義で一刀両断できるキリスト教は、東方のような新旧の宗教の飽和状態でこそ「福音」として響き、宗教的には素朴だった西方ではミトラス教のような東方起源を装った神秘的宗教の方が魅力的だったのではないか、と指摘されています。キリスト教がローマ帝国において最終的に勝ち残ったことについては、コンスタンティヌス帝のキリスト教支持が大きく、それがなければ西方は長く「異教世界」のままだった、と推測されています。ミトラス教がキリスト教に代わる「世界宗教」になった可能性について、本書は否定的で、それは、キリスト教のような全人類への宣教をミトラス教は考えていなかっただろう、との推測に基づいています。ミトラス教は、キリスト教のように宣教師を各地に派遣して積極的な布教したわけではなく、その拡大は人間の自然な接触を介しており、男性にしか入信を認めていませんでした。本書は、ミトラス教に類似した存在として、キリスト教よりも近代のフリーメイソンを挙げています。
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