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[近代史3] 東海アマ 山の歩き方 中川隆
7. 中川隆[-9475] koaQ7Jey 2020年12月04日 12:20:28 : 4s3wqcyaJc : eUxXbXdqZnJBZ3c=[1]

30年前に書いた「白山巡礼」全編を再掲します
2020年12月04日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1331.html

 私の通った小中学校は名古屋駅に近い中村区にあって、もう今ではビルに囲まれて昔の面影はないが、通学した当時は、広々とした田園地帯のなかにあって、遮るもののない展望に恵まれていた。

 私は授業に集中できないで教師に怒られてばかりいる問題児童だったから、学校の授業が大嫌いだった。かといって学校をサボルほどの知恵もなく、授業中は、教室の窓から遠くに広がる風景をキョロキョロ、ときにボーッと眺めて過ごすことが多かった。

 まじめに授業に取り組んだ記憶はあまりないが、それでも昔はのんびりしたもので、暇つぶし程度に教科書をながめてさえいれば十分にテストについてゆけたから、今の子供からみれば羨ましい時代だっただろう。

 教師も、まわりの大人達も、激しい戦争に苦しみ、身内を失った人たちばかりで、みんな大らかで包容力があった。「何でもいいから、生きてろよ!」そんな感じだった。

 学校の2階の窓からは、中村区を象徴した豊清神社のコンクリート製の赤い大鳥居と、パルテノン神殿風の水道塔が見えた。というより、名古屋駅の西には、この二つ以外に目立つものはなかった。中村区には兵器工場があって、爆撃の攻撃目標にされたのだ。

 軍需都市のため、戦災で微塵に破砕された殺風景な名古屋に似つかわしく、これらは、ひどくやすっぽい名所であった。その水道塔の向こうの意外に近くに、屏風のようにそそり立つ山々を眺めることができる。それが、多度山と呼ばれる養老山地の端っこの山々であった。

 子どもの頃、すぐ近くに見えるこの山に向かって何度も自転車を走らせたが、結局途中で挫けて一度もたどり着くことができなかった。
 というのも、途中には日本有数の木曾三川の大障壁があって、その広大な河原に立つと、そこから先ははるかに遠い異国のように思え、恐れを抱かずにいられなかったからである。

 豊国神社の大鳥居は、当時(たぶん今でも)日本一大きいもので、名古屋市内のどこからでも真っ赤に目立って見えたのだが、今でははるかに大きなビルに囲まれてしまって、目の前の道路以外に見える場所はない。

 当時は、この鳥居の背景が、鈴鹿山脈の藤原岳か伊吹山であった。それらの山は東海の名物であって、濃尾平野のどこからでも仰ぎ見ることができた。でも、今ではもう、学校の窓からこれらの山も見えなくなっただろう。

 伊吹山は、今でも中村区から見える山々のなかで、もっとも派手な鋭峰である。我が地方では、冬の季節風のことを「伊吹おろし」と呼び、この風の吹く日は、骨の随まで凍りつくような底冷えが名古屋を覆うのである。

 近所の鹿島屋という酒屋の奥さんは、京都市左京区の出身だが、名古屋と京都の気候の比較について尋ねると、
 「夏の暑さは京都も相当なものですが、冬の寒さは名古屋の方が上です。北風の吹く日は、いてもたってもいられまへん。」
と言われた。

 以前、札幌から転勤してきた同僚も、名古屋の方がケタ違いに寒いとボヤいていた。北海道の気温は低くとも、住宅は名古屋より防寒設備に優れているので、実際の生活空間は暖かいのである。ちなみに、伊吹おろしの体感温度は、真冬の釧路に匹敵するという新聞記事を見たこともある。

 伊吹おろしの正体は、西高東低の気圧配置のもとで、日本海とその延長にひとしい琵琶湖をわたった気団が伊吹山地にたっぷりと雪を落としたのち、乾燥して冷気ばかりになって濃尾平野に吹き降りる気流である。
 この冷たい下降気流をボラーといい、もしも暖かい下降気流ならフェーンと呼ぶ。日本全国、なんとかオロシなどという名のついた季節風は、およそ同じメカニズムだと思えばよい。

 この伊吹山と、好一対をなして濃尾平野に君臨するのが木曾御岳山である。濃尾平野にはじめての季節風が吹いた翌朝は、清澄な空気がピーンと張りつめて平野を取り囲む山々の壁が姿を現すのだが、そんななかで目だって白くなっているのは、いつも御岳山と伊吹山であった。

 御岳山は、山の高さといい懐の深さといい神秘的な原生林といい、まさしく大名物というにふさわしく、私はこの山に惹かれて登山・山スキー・キノコ採りに20回以上も登っている。

 何度登っても、奥の見えない神秘的で巨大なマッスだ。私は、御岳とともにあることを心から誇りに思う。だから、今日の名鉄グループによる御岳の無惨な破壊は耐え難いほどに辛い。あの、すばらしい原生林が、自然保護の機運の高まるこの御時世に次々に伐採されてゆくのだ。これは御岳を観光産業に利用するため、公園保護規制を政治力で阻止した名鉄グループの努力の賜である。

 東へ目を転ずれば、中央アルプスと恵那山がひときわ高くそびえ、際だって白いが、中村区からは名古屋市街を挟むので、やや見える地点が限定されるのが惜しまれる。

 御岳山と伊吹山の間に、あまり世間に知られることのない地味な奥美濃・両白山地が、それこそ海の波頭のように延々と続いているのだが、そのなかでも春先から初夏にかけて、いつまでも白さの残る山がいくつかあった。

 伊吹山の雪が消えてもなお白さを保ち続ける一頭抜きんでたピークは能郷白山であったが、御岳山の雪が消えてからでさえなお白い小さなピークに気づいたのは最近のことである。

 大気の澄みきった早春の日、長良川の堤防道路を走りながら、あるいは名古屋港に近い臨海工業地帯から奥美濃の山々を同定していて、高賀三山の付近に異様に白い山を見いだし、何であるか考えた末に、これは白山ではないかと思うようになり、どう検討しても白山以外ありえないと結論した。
 「名古屋から白山が見えた」
 これは思いもよらぬ新鮮な衝撃であった。私は、白山に対する思いを新たにせざるをえなかった。

 そして、それまで窓外の山といえば御岳か伊吹山という固定観念で考えていたものが、格段の広がりを与えられることになった。白山もまた、自分たちの山ということになったのである。

 それだけでなく、私と白山はある特別の縁を結ぶ機会があった。
 個人的なことで恐縮だが、私の友人に、以前の会社の同僚で、郡上高鷲出身のOさん、Yさんがいる。Oさんは、名古屋の会社を辞して故郷にユーターンし、高鷲村のスキー場に務めているが、今でも年に何度もお邪魔して、お世話になっている。私が白山に深くかかわるきっかけになったのは、この人たちの存在であった。

 私がスキーを覚えたのも、スキーを乳母車のようにして育ったような彼らの指導のおかげといっていい。O家やY家をたびたび訪ねるうち、やがて山スキーの楽しみも覚え、石徹白や平瀬の山々にも登るようになった。Oさんのお母さんには、六厩や鷲ヶ岳周辺のキノコの穴場も教わり、それらの山の殖生にも詳しくなった。

 白山には、太古から手つかずの自然が豊富に遺されている。そのすばらしさは、とても文章に表せるようなものではない。だが、この数年というもの、過疎脱却にあせり、土建屋事業で目先の利益を追う自治体の手によって、激しく喰い荒らされ、無惨な変貌をとげるようになった。

 もはや決して失ってはならない人類の遺産としての残り少ない原生林でさえ、目先のゼニに釣られ、そのかけがえのない価値を理解できない人々の手によって、あたかも雑草を刈るように葬り去られてゆく。私は、白山周辺の山を登るたびに、自然に触れる喜び以上に、人災に対する激しい憤りを覚えざるをえなかった。その感情は、自分の慕う人が権力をカサにきた他人に辱められることの怒りに共通するかもしれない。

 三方崩山 2059m 1989年6月

 白山は日本海側に位置する山でありながら、日本海と太平洋の分水嶺をなしている。その規模は想像以上に巨大で、関連する山々全部を合わせれば関東山地、奥秩父連峰や中央アルプスを上まわり、飯豊朝日連峰に匹敵する規模をもっていよう。

 この雄大な山岳地帯から、豊富な水量をもつ大河川が流域を潤している。そのうちで代表的なものは、太平洋に向かって長良川があり、日本海に向かって九頭龍川、庄川、犀川、手取川などがある。

 わけても長良川は、その流域が広大であること、日本で唯一(この原稿を書いている1990年の時点では)本流にダムがないため、自然の生態系が保たれ生物相が豊富であること、人家の多いわりに水質が非常に良いことなど、特筆すべき美点の多い川である。

 長良川は、古来、美濃に住む人々にとっての誇りであった。
 その長良川に沿った郡上街道を北上し、高鷲村の大規模なスキー場群を左右に見て、最後にゆるやかな蛭ヶ野高原を過ぎると、そこはすでに飛騨の国、合掌造りの民家で知られた白川郷である。

 大日岳(1709m)の裾野にひろがる蛭ヶ野は、長良川と庄川の源流にあたり、太平洋と日本海との分水嶺である。とはいっても、ここは広くゆるやかな高原地帯なので、分水嶺も飛騨美濃国境もまことに明確さを欠いたありふれた林のなかにある。

 このため、水源地帯の小河川が複雑に入り組み、狂ったようにデタラメの方角に流れ、この山々に入った人々を惑わせ、恐れさせてきた。古く、旅人や行商人は、おそるべき難所を越えねばならない白川郷を、さいはての魔境のように思い、覚悟を決めて立ち入った。

 飛騨といっても西飛騨白川郷は、越中庄川の奥深く山また山の秘境であって、匠の名を轟かせた建築職人の里、高山・東飛騨とは深い山地によって隔絶していて、明治初期に高山と庄川村を結ぶ六厩(むまい)・軽岡峠と、白川村荻町と高山を結ぶ天生(あもう)峠が整備されるまで、とりわけ雪の季節には事実上飛騨とは無縁の孤立した地域だったといっていい。

 白川郷は、むしろ越中や加賀の国と真宗や煙硝製造を通して深い関係にあったようである。建築様式や民俗についても東飛騨とは疎遠で、文化的には越中・加賀に共通するものがある。ただし、この地域は日本有数の貴金属鉱床に恵まれ、内ヶ島氏滅亡後、飛騨金森氏の領下に入ってからは、東飛騨との間に密接な関係を持つようになった。

 東飛騨を結ぶ軽岡峠は、かつて辞職峠と呼ばれ、つい戦前頃まで、高山を経て白川郷に赴任する教員や行政官があまりの山深さに恐れをなして、ここで辞職を決意し引き返す者が多かったのだという。(ただし、辞職峠の伝承は全国の山村僻地にある)

 冬季には豪雪に閉ざされ、越後・信州の秋山郷と同様、完全に孤立するのが常であった。冬季、白川街道が完全除雪されるようになってから、まだ30年ほどしか経っていない。除雪されるようになったのは、大規模な御母衣ダム工事によって道路が整備されてからである。

 そして、そのとき白川郷はすでに消えてしまっていた。というのも、本来存在した白川郷の主要部分が御母衣ダム湖の下に沈んでしまったからである。
 現在残っている白川郷は、当時の面影を僅かに残すにすぎず、数分の一にも満たない集落が観光用に残されているだけである。

 かつての白川郷の住人たちは、年に一度だけ移植された庄川桜に集い、かつての賑わいを偲ぶという。
 明治や昭和初期の飢饉は相当に辛い状況だったらしい。享保・天明の大飢饉のおりには壊滅的なダメージを受け、秋山郷と同じく大部分の人が餓死した部落もあった。後に述べる天正地震とこの飢饉では、白川郷は一新されるほどの変貌があったといわれる。

 白川郷の住人は、飢饉におびえて暮らさねばならなかった。そこに東洋最大のダム計画がもちあがったとき、反対運動は興ったが、それは豆腐に包丁を入れるようにすみやかに実現してしまった。

 この地域では、封建的な家父長制に縛られ、底辺の人々の声は上に届かない時代が続いた。それを利用して、国家権力は民衆の歴史的生活を自在に蹂躙したのである。

 庄川村から岩瀬橋を渡り、御母衣ダム湖の沿岸の洞門の連なる危うい道を行くと、ダム堰堤を右手に見て白川村平瀬の集落に入って行く。
 途中、もしも残雪期ならば、平瀬部落の真上にひときわ高くそびえ、際だって白く輝く鋭峰に心を奪われぬ人はいないだろう。気の早い人は、「あれが白山か」などと思ったりするのである。

 それが白川郷を直接とりまく山々のなかでもっとも高く、もっとも鋭く、もっとも白い、それ故もっとも美しい三方崩山である。

私が登ったのは梅雨期のさなか、晴れたかと思うと突然土砂降りになったりする不安定な天候の日であった。前日、麓の平瀬温泉まで来て浴場前の広場に車泊した。

 この山のありがたいところは、なんといってもこの温泉である。山とペアになった温泉ほど心を豊かにしてくれるものはない。立派な公衆浴場が設置されていて、230円で入浴できる。微かな塩味のある良い温泉で、この周辺の山々を訪れたおりに何度入浴したかわからない。

 源泉は白山平瀬登山口にある白水湖の湖畔に湧き出ていて、100度を越す高温蒸気を冷やして、平瀬部落まで管送している。その間、15キロ以上もあるのに、湯口では60度の高温が保たれている。

 登山口は、公衆浴場の広場脇の神社から林道を上がって行く。大きな砂防堤が車の入る限度で、その先は崩壊していた。とことこ歩いて行くと、立派な舗装道路になり、トンネルの手前に左手に山肌を登る階段があった。

 雨の強く降り注ぐあいにくの天気で、急な草むらは、いかにも蛇の多そうな雰囲気で気持ち悪かった。しばらくで、白山らしい超500年級の深いブナの極相林を行くようになる。

 白山山系にはまだ林野庁の手にかからない原生林が多く残されていてほっとした気分になるが、この森もいつまで官僚の魔手から無事でいられるだろうか。軽薄な使い捨て文明の餌食にならぬよう祈らずにはいられない。

 三方崩山の荒谷は昔から熊の名所で、新しい熊のテリトリー標識(爪痕)を探したが視界にはまったく見あたらず、他の動物達の棲息痕もほとんどなかったのが妙に気にかかった。極相林はよいが、動物のいない原生林というのもどこかおかしい。

 ジグザグのブナ帯を抜けると尾根道になり、森林限界が早い。このあたり、ため息の出るほどの美しさである。潅木にときおりヒメコ松・黒桧(ネズコ)・コメツガなどの針葉樹も混じる。

 ひどく急で滑りやすい尾根を辿ると、2時間ほどでガレ場が多くなり、尾根が痩せて左右に崩壊し、神経を使う場所もある。地元では刃渡りと言うそうだ。ガスの切れ目の左奥に三方崩の立派な山体が見え、南アに似た崩壊地が荒々しく迫り異様な迫力を与える。

 「こりゃ、見事に崩れたもんだ。」とため息をついた。
 この大崩壊は風化ではなく、400年前の地震によるものであった。
 伝承によれば、天正13年(1582年)11月29日、日本史に記録された大地震が白川郷一帯を襲った。

 このとき、三方崩山東北の保木脇にあった白川郷領主の内ヶ島氏の帰雲城とその城下町が、三方崩山と対岸の猿ヶ馬場山から発生した大規模な山津波に呑まれ、一瞬にして城主の氏里以下、城下町300戸・住民500名もろとも土砂に埋まって全滅したのである。(城を埋めたのは、猿ヶ馬場山中腹の帰雲山の崩壊である)

 この時の地震で埋没し滅亡したのは、帰り雲と呼ばれたこの城下町の他に、折立(高鷲村西洞)、みぞれ(明方村)の3カ所であったが、中部地方有数の不便な山中の事情のために、天正地震と帰雲城埋没が世に知られるようになったのは古い話ではない。

 戦国時代、戦いに破れて滅んだ大名は多いが、地震で滅んだ大名はこの内ヶ島氏をおいて他にはない。だが、四代百年余も続いた内ヶ島氏でありながら、西飛騨の山深さに隠されて戦国正史には登場しない。しかし、この史実には、人々の興味を引きつけずにはおかないミステリーを含んでいた。

 かつて、作家の佐々克明氏が帰雲城について調査し、内ヶ島氏は豊富な砂金に目をつけて白川郷を領土にしていたので、この土砂の下には推定5000億から10兆円にのぼる金塊が埋まっているかもしれないと発表して話題になった。そして、この歴史的財宝に注目する人々が大勢でてきたのである。

 だが、史実をあたってみると、豊臣秀吉に敵対した佐々成政についたために、秀吉輩下の武将、金森長近に攻撃された内ヶ島氏は、戦い破れて金森氏に講和を求め、大量の金を持参して許しを請うた可能性が強い。

 しかも白山長滝神社に残された古文書には、地震埋没後のわずか7年後に、金森氏によってこの付近で大量の金の採取が行われたと記録されているので、埋没金の残存については懐疑的にならざるを得ない。

 ましてや、荻町城主で内ヶ島氏の家老であった山下大和守時慶(後に家康の武将となり、江州蒲生郡を与えられ、徳川義直の名古屋城築城に携わった。大久保長安の採金にも関係している。)など多くの家臣が無事で、金森氏の家来になっているのである。みすみす埋没金を見逃すことは考えられない。だが、今なお確定的史実は明らかでない。

 いずれにせよ、おそらく白山の爆発的噴火にともなって一カ月間続いたこの地震で三方崩山も甚大な破壊を受け、今日見るように、猿ヶ馬場山とともに凄惨で大規模な崩壊地を荒々しく晒すことになったし、付近の山々に崩壊地が多いのも、この天正地震によるものと考えられる。

 頂上へは、崩壊地の尾根を辿って着く。山頂はコメツガなどの低い針葉樹林に囲まれていた。さほど広くないが立派な標識がある。晴れていれば御母衣湖の雄大な眺めが見えるはずだが、この日はガスに視界を遮られていた。

 登山口からおよそ3時間程度の行程であった。もちろん、絶好の登山日和にすらほとんど登山者を見かけないこの山に、こんな日に登る物好きがいるはずがない。いつ来ても、静かな登山を満喫できる山である。

 山の風格といい荒らされていない自然の美しさといい、掛け値なしに素晴らしい名山で、その魅力は100名山の荒島岳など遠く足元にも及ばない。私は、この山が白山山系のなかでもっとも素晴らしいと思っている。

 この先に1時間ほどで最高点の奥三方岳があるが道はなく、雨がひどくなって行く意欲は起きなかった。日本最多登山者の宮崎日出一さんは、奥三方を天上の楽園と表現されておられているから、きっと素晴らしい場所なのだろう。いつか、ここから白山北稜(マナゴ頭)へ抜ける山旅を予定している。

帰路は急な尾根で何度もこけた。登山者が少ないので土が浮き、雨でヌルヌルになっていた。トラロープが各所に設置されているが、ほとんど役にたたない。夢中で下って、平瀬温泉にたどりついたときには全身泥だらけになっていた。

 日照岳 1751m 1990年4月

 戦国時代、茶道の創立者として名を残した金森宗和の父は、越前大野を経て飛騨高山の城主となった金森長近である。
 長近は尾張中村に生まれ、抜きんでた有能さを買われて織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。その生涯は、なぜか白山を巡るものであった。

 天正13年(1582年)、飛騨白川郷の領主、内ヶ島氏は、情勢を見誤り豊富秀吉に叛意をもつ佐々成政に連携してしまった。その結果、自ら大軍を率いて佐々討伐にあたっていた秀吉は、越前大野城主であった長近に内ヶ島氏攻めを命じた。

 8月2日、長近軍三千名は内ヶ島氏の意表を突き、白山別山の尾根を伝って白川郷に攻め入った。
 長近軍は内ヶ島氏を激しく攻めたが、岩瀬橋(庄川村)で内ヶ島方の尾神氏の頑強な抵抗に遭い、大きな損害を被った。一時は、壊滅的な敗北を喫するかにみえたが、美濃白鳥から迂回して攻め入った可重の軍勢に助けられ、苦戦の末辛うじて尾神氏に勝利し、内ヶ島氏を降参に追いこんだ。

 内ヶ島氏は秀吉に和を請い、許されて金森氏との講和を終えた直後、山津波に埋没したのである。以来、白川郷の豊富な鉱物資源は、金森氏の領有に帰すことになった。

 この時、長近軍が通ったと思われるのが、別山東稜尾根であって、日照岳はその上のピークである。日照岳と大日岳にはさまれた大きく深い谷を尾上郷谷といい、アルプス級のすばらしい渓谷に恵まれた秘境である。

 現在は岐阜県大野郡庄川村に含まれる尾上郷は、戦国時代には比較的開けていたようで、内ヶ島氏の家老を務めた屈強な尾神氏の支配下にあった。ここに人が集まった理由は、豊富な砂金の存在であっただろう。

 戦後、御母衣ダムが完成するまで、尾上郷は白川郷の一部として少なからぬ居住者もいたようだが、現在はすでにその面影もなく、人気のない白山有数の秘境として、野生動物の楽園の趣をみせている。

 もしも白山周辺で、最後まで熊が生き残ってゆける地域があるとすればこの一帯であろうといわれていたのだが、近年、御他聞に漏れず林野庁の猛烈な収奪にさらされ、さらに御母衣ダムの補助ダムの建設も進行し、野生動物への打撃はすくなからぬものがある。

 別山東稜を含む尾上郷ルートは、白山信仰が最盛期の頃、白川郷へのエスケープルートとして利用され、また、白川郷から越前への間道としても使われたようだ。「登り千人下り千人」とうたわれた全盛期の白山の稜線には、多くの道が開かれていたであろう。

 この道の存在は、柳田国男の白川郷紀行文にもわずかに紹介されているが、現在ではすでに痕跡をとどめず、正確なルートはわからなくなってしまった。

私の訪れたのは、まだ残雪の点在する4月末であった。2・5万図に途中まで破線路が記載されているので、それを辿ってみようと思った。
 まず登山口を探すのが一苦労であった。岩瀬橋を渡った御母衣ダム湖沿いの、トンネルとスノーシェンドのある国道を行ったり来たりし、地形図とにらめっこして、やっと右手に大きな切り開きの広場があり、左手の沢筋に木製の梯子のかかった登路を発見することができた。

 入り口は頼りないが梯子の上からは立派な登山道となり、わずかに登ると営林署の作業小屋として使われているパオのようなテントがあった。その上は送電線の巡視路として整備されているようだった。

 送電線の付近は、白山を象徴するブナの純林など跡形もなくて、根こそぎの皆伐地帯になっていた。この付近で営林署の原生林略奪が進行中のようだ。2キロほども登り、3番目の高圧線を過ぎてしばらくでいつのまにか道が消えてしまった。

 そこから尾根を外さぬように薮を分けて登ると、ピンクのヤシオツツジが咲き乱れ、心をなごませてくれた。
  高度1200m前後から残雪が出現し、雪のない山肌にも一面に雪と見誤るような、綿のような白いものが大量に目についた。この時期、雪のような花に包まれる木といえば、コブシ・モクレン・ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)などだが、それはタムシバの花であった。

 香りの素晴らしいタムシバはモクレン科の落葉木で、白山山系の二次林に非常に多く見かける。ただし、私にはコブシとの区別がつかなかった。
 手元にある薬草辞典でひいてみると、コブシはガクが小さく緑色で3枚、花弁は6枚、葉は卵を逆さにしたような形で裏は緑色になっている。

 タムシバはガクが花と同質、葉は針を押しつぶしたような形、裏は白い。
昔はカムシバ、またはサトウシバと言ったそうだ。葉を噛むと芳香があり、甘い液が出るからである。この花は辛夷(しんい)という生薬名で、その香気成分を利用して漢方では蓄膿症の薬にしている。

 ただし、タムシバ・コブシともに日本特産種で外国には存在せず、中国ではモクレンが辛夷である。だから漢字名がないのだが、「多虫歯」なんてのはどうだろう。

 タムシバは移植栽培が非常に困難で、生薬業者がこのような場所を見つけると、花の時期に根こそぎ採取してしまい、群落が消滅することも多いという。例えば、長野県水内郡などにそうした例がある。

 尾根筋は完全に雪が消えていたが、切り開かれたばかりの枝の下から、4月末というのに大きな赤マムシが這い出てきてびっくりさせられた。今年初めて見た毒蛇で、その先からビクビクして歩く羽目になった。

 白山には、泰澄大師が1000匹の悪蛇を封じ込めたと伝説される池がいくつかあり、古来から毒蛇の多かったことを示している。マムシは、歩行振動の出る登山道では逃げてくれるが、ゆっくりした薮漕ぎでは咬まれる確率が高くなる。道無き頃の白山では、さぞ咬傷が多発したことだろう。

 道が消えた後は、尾根の微かな踏跡をたどり薮を分けた。破線路は左手の谷筋になっているが、どうやら消滅しているようだ。やがて1410mのピークに達すると、上に真っ白な日照岳のピークが現れた。しかし、その先は濃密な根曲がりの笹薮になった。

 薮に突入して笹を分け、しばらくで後ろを振り返ると、ほとんど進んでいないのにショックを受けた。残雪さえ残っていればヒダリウチワの行程のはずだが、チシマザサの密生地帯は私にとって谷川岳一ノ倉沢に等しいのである。

 京都の78才になられる超人的登山家の伊藤潤治さんは、この猛烈な薮をスイスイと分けて鼻歌まじりに奥日照岳まで行かれたそうである。
 私は100mでダウンした。もう一歩も進む気力が失せた。恥知らずにも、そこで引き返すことを決めた。

 日照岳という名前からは、麓の白川郷の雨乞祈願所といった印象を受けるが、白川郷のような重畳たる山岳地帯で水に不自由するというのも考えにくいし、ここで水稲作が行われたのは大正以降だから、あまりややこしく考えないで、「よく日の当たる山」とでも解釈すべきなのだろうか。

帰路はマムシの影におびえ、棒で薮を叩きながら帰った。われながら情けない奴だと思った。

 追記、このとき私は鉈で笹藪を切り開いたが、後に、これは絶対行ってはならない過ちだったことを知った。竹笹類を刃物で切ると、切り口に必ず槍のように危険な刃を作ってしまう。それが通行者にとってきわめて危険な罠になる。これによって命を落としたり、失明する者も多い。絶対やってはいけない。笹藪は、泳ぐように手で分け、乗り移るのである。藪山を行く読者は十分に注意されたい。

 経ヶ岳 1625m 1990年6月

経ヶ岳は、白山信仰の歴史のなかで、加賀馬場・美濃馬場とならんで栄えた越前馬場・平泉寺の背後にそびえる名山である。平泉寺から経典を奉納したのが経ヶ岳山頂であった。

 中央アルプスの経ヶ岳もそうなのだが、この名のついた山では、古く修験道の修行のうちでも法華経典にある如法経修行というものが行われていたことを示している。それは、法華経28章(品)のそれぞれに対応する経塚を設け、写経を奉納埋没する修行であり、天台宗の慈覚大師がはじめたと伝えられる。

 したがって、麓に天台宗系の修験道寺をもっていた山に経ヶ岳という名が与えられることが多いと考えてもよい。
 馬場というのは、そこに馬を繋ぎ徒歩で歩きはじめねばならない登山口に相当する広場である。それぞれの馬場に、白山を祀った寺社と禊場(みそぎば)がおかれ、牛馬、ときに女性も、それ以上立ち入ることができなかった。

 中世の修験道による白山信仰登山で、もっとも古く開かれたのがこの越前(白山)馬場であったようだ。平泉寺の歴史は古く、泰澄が白山を開いた8世紀にすでに開山していたと考えられるが詳細はわからない。往時の登山ルートは、ここから石徹白を経由したと考えられる資料もある。

 12世紀には、美濃馬場・長龍寺と同じく天台宗・比叡山の傘下に入り、白山修験道が行われた。その頃には平泉六千坊といわれ、数万人の僧徒が居住し、当時の比叡山に匹敵し、現在の高野山のような広大な寺院都市であったらしい。

 しかし、この寺の僧衆徒は地民を奴隷のように支配し、暴虐をはたらくのでひどく評判が悪く、耐えかねた農民は、加賀一向(真宗)一揆の余勢をかって、一六世紀、天正年間に平泉寺勢力を攻め滅ぼしてしまった。
 このとき、一向一揆・農民兵の拠点であった村岡山は、勝利を祝って勝山と改められ、それがこの地域の地名になった。

 現在の平泉寺は、その後、金森氏などの庇護を受けて細々と再興されたものである。しかし、江戸期には徳川家菩提の上野寛永寺の系列に入り、幕府の保護を受けることができた。そのおかげで寺の格式は高く、大いに威張っていたのだが、明治の平田国学派による排仏毀釈の際、白山権現をまつっていた平泉寺は仏教を放棄して白山神社になった。長年の徳川家の恩を蹴飛ばして、一転天皇家側についたわけである。

 江戸期最後の住職であった義障は平田派の尊王思想に影響され神職に衣変えし、その孫の東大史学部教授、平泉澄も右翼皇国史観学者として有名になった。

 平泉澄については、偉ぶって硬直した人物像など、多くの不快な逸話が残っている。東大教授時代、民俗学を志向した学生が農民の生活レポートを提出したところ、「農民や家畜の生活は歴史ではない」と一蹴し、権力者の歴史のみ、それも皇国史観に都合の良い歴史以外、絶対に評価しようとしなかった。

 この男こそ、石原寛爾らとともに、思いあがった帝国主義者たちによる太平洋戦争の最大の戦犯に他ならなかった。

 神職、平泉一族の頭の堅さのおかげかどうか分からないが、由緒の立派なわりに、平泉寺の周辺は永平寺のような喧噪もなく、静かで落ちついた自然環境が保たれている。散策には素晴らしい場所である。

 白山や経ヶ岳に登る道は、ひと昔前まで、ここから法恩寺山を経て長い道程を辿らねばならなかった。しかし今では、経ヶ岳にはいくつかの直登ルートが整備されている。現在、平泉寺からの尾根には法恩寺林道が横切り、そこに法恩寺山経由の立派な登山道があり、林道を南に下ると、保月山尾根コースと谷コースもあり、どちらも3時間かからずに登頂できる。

 私の登ったのは法恩寺コースだった。前夜、小京都と讃えられ、歴史的景観の残る勝山市街の旨い焼鳥屋でいっぱいひっかけた後、平泉寺付近に車泊し、翌朝、女神川沿いの林道を車で遡ると、スレ違い不能の恐ろしく頼りない道になった。

 ハラハラしながら詰めるとゲートがあって、カンヌキを抜いて進むと、立派な法恩寺林道になった。この道は南六呂師から良い道が通じていたことを後に知った。
 登山道の知識はなかったが、平泉寺からの尾根に決まっていると踏んでいたのでそちらへ向かうと、はたして道標と立派な登山道があった。しかし、このルートが経ヶ岳のルート中最長コースであることまでは気づかなかった。

 朝五時に出発するとき、すでに初夏の陽光がきらめき暑い一日を予感させた。 法恩寺峠に登る古い禅定道(修験登山道)は尾根のうえに緩くつくられ、丈の低い潅木に展望を遮られた道を害虫の攻勢に悲鳴をあげながら登ってゆくと、すぐにひどく立派な山小屋があり、そこから1時間ほどで法恩寺山の山頂に達した。

 途中、新しい伐採地がやたらと目につき、よく見ると、そこに「リゾート開発」と書かれた測量杭が打ちこまれていた。
 「ここもか・・・・・・」と、思わず苦い思いでわらった。

 スキー場に手ごろな傾斜の地形で、ここが数年後にどのように変貌するのか調べなくとも容易に予想できた。
 自治体が目先の利益を追って狂ったように開発ブームに沸くようになったきっかけは、将来、戦後最悪の悪法と評されるかもしれないリゾート開発法であった。

 膨大な自然破壊を狂気のように重ね連ね、やっとその成果が具体的に検証されるようになった今日、当然の結果ながら、思惑通りに利益を得た自治体は極小数にすぎず、大部分は貧困な財政に追い打ちをかけるように事業の赤字に苦しみ、残されたものは回復不能なほどの自然破壊と人心の荒廃にすぎなかったという現実が明らかにされてきている。

 すでにその結末が誰の目にも見えはじめたというのに、地元の自治体役人の目は暗黒の住人のように固く閉ざされているようだ。彼らの目を開かせぬものは、土建事業の利益なのだろうか。彼らはもはや、戦前のマインドコントロールされた皇国日本人と同様、何が大切なものかという判断能力を失ってしまった。彼らの目に見える美しいものは、札束だけなのだろう。

 越前馬場、平泉寺からの禅定古道は、法恩寺峠からいったん小原村のワサモリ平に下り、再び小原峠を越えて市之瀬に下り、そこから現在観光新道の通る尾根を経由する複雑なルートがとられた。

 だが、美濃馬場に残る古文書に、泰澄の開いた当時、ここから経ヶ岳、赤兎山を経て石徹白に下り、再び別山を経由するルートがあったことを示唆するものがあるという。この尾根伝いの道は、幸いなことに登山道が整備されていて、現在誰でも通ることができる。

 経ヶ岳へ伝う尾根道はしっかりしていたが、ワサモリに下る古道はすでに荒廃し、深い薮に隠されて登山の痕跡も見えなかった。
 尾根道には背丈を超える潅木が密生しているため、ほとんど展望がなく、約1時間というもの黙々と暑く苦しい道を歩いているうち、突然、森林限界に達した。そこはすばらしく広大な景観で、それまでの道が閉塞的であった分だけ、心身ともに解放されるような何ともいえない思いがした。赤兎山への分岐であった。

 わずかな吊り尾根をたどると経ヶ岳山頂が広がった。そこは期待どおり、遮るもののない360度の広潤な展望であった。
 真正面には別山と白山が、まだ大きな残雪をいたるところに残して神々しく鎮座していた。左右の谷にも豊富な雪渓が残っていた。このうえなく爽やかな景観であった。

 南六呂師高原を望む山腹は異様な地形だったが、後にこれが噴火口であることを知った。経ヶ岳は、白山の兄貴分にあたる火山であった。
 はるか下に林道が見え、そこから延びた登山道に大勢の登山者が見えた。すばらしい日曜日だ。

 六呂師(ロクロシ)という地名は、福井県に多い。山の民俗に関心をもつ方なら、「木地屋だ!」とピンとこられるであろう。

 トチ・ホウ・ケヤキなどをロクロで削って木地椀の製造を生業とした木地屋は、ロクロに関連する工作を生活の糧とした。ロクロといえば、土器を制作する縦型ロクロと木器を制作する横型ロクロがあって、それぞれ大いに関連しているにちがいないのだが、どちらが先だったのかはよくわからない。というのも、土器は保存性がよく遺物も多いが、木器は腐るからである。
 弥生式土器は明らかにロクロを使用していて、この技術が中国江南地方、揚子江下流域の米作地帯から、2500年前に米作農耕とともに伝わった技術であることを窺わせるのである。

 さらに、山岳高地の尾根に居住した木地屋の民俗習慣が、雲南・ブータン系の高地族の生活習慣と極めて似ている点も見逃せないし、現代に到る彼らの子孫の人相も雲南諸民族に非常に似ているような気がしている。

 2500年前というのは、最近ではかなり確定的になってきていて、それも臥薪嘗胆の故事で知られる呉の国の住民が(越に追われて?)集団で日本に移住し、邪馬台国などを開いたのではないかという可能性が、東夷伝の「我らは呉の太伯の後なり」という記録の傍証として考えられるようになっている。

 木地屋は、近江小倉郷(滋賀県永源寺町君ヶ畑)を根元地とし、清和天皇(源氏の祖)の兄にあたる惟喬親王を開祖とする全国的な伝承をもっているのだが、8世紀の天皇家は、チベット・ブータン・中国雲南・江南地方からの渡来人であったはずの弥生人の子孫とは無関係であり、朝鮮半島を経由して渡来したモンゴル系の民族であって、すなわち(源平藤橘姓に代表される)騎馬民族系の天皇家とロクロの関連は薄いとも思えるが、フヨと呼ばれた彼らの祖先が、伝承されるように秦(始皇帝の)の子孫であったなら車輪や鉄製刃物も含めた高度な轆轤系技術がすでに完成していたはずで、それを持参するのも容易であり、なかなか推理が難しい。

 君ヶ畑に伝わるロクロの由緒も、親王が巻経をほどいたとき、なかの軸が回転したことからひらめき思いついたと伝承されているが、これも、轆轤が車輪系技術から継承されたことを窺わせる。

 轆轤技術の発生考察はさておいて、木地屋が、ことさら惟喬親王伝承をもちだして自らを権威づけ、さらに天皇家の菊の紋章を自紋として使ってきた理由は、全国の山中で所有者に無断で伐採をするところから、権威を利用してトラブルを未然に防ごうとした訳にちがいない。

 木地屋は明治初年、全国のすべての土地について地租を確定するために所有権を定める布告が出されたことによって、公的に伐採権を失い、一千年以上にわたる流浪の山岳住民としての歴史的権利と社会的認証を奪われた。
 大部分の木地屋は、半強制的に山奥の土地に定着させられ農耕生活を営むようになった。だが、その伝統的なロクロ技術が重宝され、近代機械の移入とともに旋盤などの技術職に転じたものも多かった。現在の、大蔵鉄工や小椋機械、パイロットやセーラーなどの万年筆工業の創業者が木地屋であったことはよく知られている。

 全国の木地屋の子孫は、現在でも年に一度、その根元地である君ヶ畑に集まって惟喬親王に礼を捧げる祭祁を行うことになっている。その名簿をながめると、やたらにオクラに類する姓が多いのは、開祖惟喬親王の命によってロクロを伝えたとされるのが小倉氏であったことによるものにちがいない。

 したがって、木地屋を開祖とする集落にはオクラ姓が多いことを知っておいたほうがよい。(小倉・大倉・小椋・筒井・佐藤など)
 現在の六呂師の集落で以上のような木地屋の痕跡を見いだすのは困難だが、北六呂師の上には木地山峠という名が残されているところから、関連は疑いない。

 経ヶ岳山頂から南を見渡す眺望は、荒島岳がひときわ見事であった。能郷白山はその背後に隠れて見えない。谷向かいの野伏ヶ岳(1674m)を中心とした油坂峠方面の主稜尾根は、白山山地で唯一踏み跡がなく、原始の風格を残している。だが、この数年、石徹白の大型レジャー施設(ウィング)の開発によってひどく荒廃がすすみ、面影は変貌してしまった。

 おそらく、日本でもっともたくさんの山を登っている東大阪市の宮崎さんは、ここで牛ほどの巨大な熊に出遭ったと書かれている。日本の山を五千回も登ってこられたこの人が、それ以来ザックに鈴をつけるようになったのだから、よほど恐ろしかったのだろう。

 今日、ハンターの高性能ライフルの前に、100キロを超える大熊はきわめて希になったといわれる。過去最大の月の輪熊は250キロ程度と記録されている。野伏山の熊がそれに近いほどに育っているとすればまことに貴重極まりなく、ばかげた射殺の勲章を誇りたがるハンターに撃たれぬように保護してやらねばと思うのである。

 別山 2399m 1990年7月

 別山は白山の真の骨格である。
 数万年前に、水成岩からなる隆起山脈であった別山連峰のうちに噴火活動がはじまり、膨大な噴出物が経ヶ岳、白山、大日山を形成した。

 それらの山は、別山が数千万年という気の遠くなるような時間のうちに、海の底に静かに醸成されたことを思うなら、あまりに僅かの時間で突如出現したのであって、インスタントに成立した軽薄さを免れない。

 人々の印象からいうなら、ぱっとせず、ダラダラとふんぎりのつきにくい水成岩山地の山々よりも、さわやかな容貌をもつ火山独立峰に人気が集中するのは当然であって、日本の名山と称される山々の大部分が、富士山以下の切れ味鋭い火山独立峰になってしまうのは、いたしかたないことかもしれない。

 だが、インスタントに登場したスターの命がはかないのは、どこの世界でも変わらない。日本を代表する火山諸峰の寿命の短さはどうであろう。富士大沢などは、私の記憶のなかにすら、すでに大幅に姿を変えつつある。御岳地獄谷も、白山別当谷もしかりである。

 だが、別山は違う。その上に覆いかぶさった白山の火山性噴出物のメッキが自然のメスによってはがされるにつれて、別山は隠していた重くいかつい正体を現し、凄みをかいまみせるのである。崩壊によって再びこの世に現れはじめた別山の山体は、1万年前に隠されたときといくらも変わらない姿であろう。

 別山の山体の大部分をなすものは、海底に沈澱した水成岩であるが、3億年以上前に古日本海に繁栄した珊瑚礁や放散虫の遺骸も含まれている。そして、それらが隆起し、広大な湿原平野を成立させたとき、そこに琵琶湖の数倍もある巨大な湖が成立し、恐竜とシダ植物を主とする動植物の壮大な楽園になった。それを手取湖という。

 手取湖の膨大な生物性堆積物からなる地層を手取層という。今日、地質学者や考古学者の関心をあつめる手取層基盤こそ白山山地の真の正体であり、真の骨格なのである。

 私は過去4度白山に登った。しかし、いずれのときも別山を踏まなかった。それまで、私は別山を白山中腹の1ピークくらいに軽く考えていた。だが、周辺の山々に登って仰いだ別山の姿は、決して白山の属峰ではなかった。それは、白山から疑いもなく独立した堂々たる大山であった。

 別山に登った日、当初の予定は打波川水系の源頭に位置する願教寺山だったのだが、登路が確認できず、山容があまりに悪絶なので、予定を変更して白山主稜に取り付くことにした。前夜、鳩ヶ湯鉱泉の奥の打波川源流の上小池の駐車場に車泊して、6時に出発した。

 上小池から数百mも下ると林道を歩くようになり、そこにかかる橋を渡れば刈込池である。
 刈込池は、白山を修験道の道場として開山した泰澄が千匹の悪蛇を封じこめたと伝説される三つの池のひとつで、径200mほどの小さな池であるが、日本最大のアカショウビン(カワセミ科)の生息池として知られる。
 悪蛇の伝説とは以下のようなものである。

 泰澄が白山を開いたころ、大蛇が千匹もいて白山に立ち入った大勢の人々を呑んで恐れられていた。
 泰澄は、大蛇たちを集めて言った。
「そのように人を喰ったのでは、人の種がなくなってしまうではないか。しばらくこの池のなかで休めよ。岸に麦を蒔くから、その芽がでたらまた出なさい。」

 といって蛇たちを封じこめ、そこに雪を降らせ、決して麦の芽を出さぬようにしたという。この池は、山頂の千蛇ヶ池と蛇塚池、それにこの刈込池の三つであるとされる。

 さて、この大蛇伝説。私は、これまでありふれた空想と思ってきたのだが、全国各地の民話や、今昔物語などの古文献を調べるうちに、どうにも大蛇の実在を前提としなければ説明のつかない文献が多すぎることに気づくようになった。

 大蛇ばかりでなく、それ以上の頻度で登場する狒々やカッパもそうである。そこで発想の大転換をして、これらの空想的動物がかつてなんらかのかたちで実在し、現在は滅亡したものと考えることにした。

 そのきっかけになったのは日本オオカミの研究であった。オオカミは、幸いなことに明治時代まで実在し、各地の伝承についても実証的な研究が進んでいる。しかし、それが現代に実在せず、証拠も残っていなかったなら、空想的動物の扱いをうけるにちがいないと思えた。

 私は伝承の動物について研究をはじめた。とりわけ狒々については多くの資料を得て、世間がびっくりするような結論に至った。無論、生物学者が一笑に伏すにちがいないことは百も承知である。

 狒々については、その正体がヒマラヤの雪男として知られ、現代に実在するものであり、中国で紅毛人、大怪脚、野人などと呼ばれてきたものと同一であり、先史時代、人類進化の傍流に取り残されたラマピテクスやピテカントロプスの子孫であろうと確信するにいたった。

 しかも、それらは今昔物語(白川郷猿丸の話)や柳田国男の遠野物語(猿の経立)など非常に多くの文献に登場し、実に明治時代まで日本に生存したものと結論づけることになった。

 大蛇についても、さまざまの文献を総合すれば、錦蛇クラスのものが江戸時代初期までは確実に日本に実在したと確信せざるをえなかった。これらについては、いずれ項を改めて語ることにしよう。

 刈込池の付近から登山道を見つけるのには骨がおれたが、結局踏跡の一番はっきりした道で正解だった。山菜取りが大勢入っていた。
 六本桧へ向かう道は予想以上に荒れていた。通行者は少なくないのだが、手入れをする者がいないようだ。6月なので草薮も多い。

 稜線へ出るまで落ちつかない道が続く。稜線に、名の通り六本の合木桧が生えていた。ここで赤兎からの尾根道を併せ、三ノ峰に向かう。
 わずかに登ると、泰澄が剣を刺して悪蛇を封じたとされる剣岩だが、どれがそうなのかよく分からない。このあたりから森林限界を超し急登が続くが、見晴らしもよく快適である。

 登山口から2時間ほどで主稜線に達した。わずかで三ノ峰の立派な避難小屋があり、石徹白からの美濃禅定道を併せる。
 ここから別山がはじめて姿を現した。すでに書いたように、この山は白山連峰主脈のなかで火山体でない最高峰であり、まさに真の骨格である。

 その南面は、雪崩に磨かれた水成岩の大岩壁になっていて、太平スラブという名がつけられている。それが初夏の朝陽を受けてキラキラと輝いていた。
 胸を洗われるようなすばらしい景観であった。別山の風貌は、古武士のように重厚であった。足元にはシーズン最初のお花畑が広がっていた。登山者の多くは三ノ峰で満足して引き返してゆくようだが、私はまだ余裕があり、別山に向かった。

 稜線のあちこちで雪渓の切れ目にお花畑が出現し、心をなごませてくれた。30分ほど歩くと、天上の楽園のような美しい高原に出た。
 無人の広大な高原で、登山の最大の醍醐味を味わえる秘境といっていい。径20mほどの池があり、きれいな水で飲用に利用できそうだが、御手洗池と名づけられていて、どうも連想上よろしい命名とはいえない。

 そこからハイマツ帯になり、30分ほどで別山の山頂に到達した。一面のハイマツの稜線の最高点に、小さなみすぼらしい堂宇があった。拍子抜けするほど質素な山頂である。

 8世紀に、泰澄が修験道の行場としてここを開いたとき、主要な三つのピークにそれぞれ権現を祭った。
 現在では、白山神社はイザナギ・イザナミを祭っているのだが、これは明治の天皇独尊政策に沿って古くからあった修験道の権現を葬りさって神道に変更したものであり、元々は、剣ヶ峰大御前に妙理大権現、大汝峰に越南知権現、別山に別山大行事権現がおかれ、別山のそれは泰澄自身を祭ったものであった。

 権現というのは、仏が神道の神の姿をとって仮に現れたと考えるもので、これを本地垂迹説といい、修験道がそうであるように道教の影響下に成立した仏教の崇拝対象である。

 白山妙理大権現は、本地である十一面観音が菊理姫という女神のかたちをとって現れた(垂迹した)と考えるのである。こうすれば、渡来以来の古い道教系の民俗(古神道)と、百済から新たに導入された新仏教思想(小乗仏教)を融和させることができた。

 それは、明治初年、薩長政権が天皇信仰を国家の基盤とする政策をとり、権現信仰を暴力的に破壊し、全国の神道を天皇崇拝思想のために伊勢神道を中心にして再編統一するまで、およそ一千年以上続いた。

 そのあいだ、神道の実体は権現信仰にほかならなかった。神社の神主は祭主にすぎず、実態は別当と呼ばれた僧に支配されていたのである。神道とは、代表的な八幡信仰に見られるように、もともと朝鮮渡来系の騎馬民族がもちこんだ新羅系道教の祭祀風俗から生まれたものだったが、泰澄の時代、本地垂迹説として仏教の理論に組み込まれ、さらに修験道に包摂され、天台宗系の山王神道、真言宗系の両部神道に系列化されていた。神道でいうところの両部が、すなわち仏教の権現信仰なのである。

 白山権現は、全国の権現信仰のうちでももっとも強力で大きな組織をもっていたことと、神道がもともと新羅系の道教であり、それが「シラ」信仰と呼ばれ、「シラヤマ」と呼ばれた白山が、新羅系神社の総本山のような印象をもたれていたことから、天皇家が朝鮮由来であることを隠蔽し、国粋主義を全面に打ち出した天皇神道(伊勢神道)を国家イデオロギーの要にしたいと考えた明治政府の国学ナショナリスト(大久保利通や山県有朋)から象徴的に激しく弾圧されたのである。

 別山山頂に大きな堂宇をつくって崇拝されていたはずの本地仏も多くは叩き壊され、運がよくても引き降ろされ谷に投げ捨てられた。幸運にも破壊され残った仏像は、山麓の林西寺に保存されている。

 これらの排仏毀釈(迦)と呼ばれた一連の仏教や権現信仰に対する攻撃は、武士階級の政権が仏教(特に禅宗)を国教イデオロギーとしていたために、革命的な思想転換をする必要があった明治政権が、伊勢神道や天皇信仰を利用したものとも考えられる。

 明治維新にいたる倒幕運動のイデオロギー的支柱になっていたのが、本居宣長や平田篤胤の天皇制復活の復古神道であったことを考えれば容易に理解できよう。尊皇擾夷という中国のスローガンが大同団結の要にもちだされた。革命勢力には、美しい名目と、それにふさわしい権威が必要だったのだ。

 帝国主義侵略戦争の時代であった幕末明治、強力な国家主義はナショナリズムに不可欠であった。明治政権は、東アジア諸国が欧州列強に蹂躙され隷属させられて苦しむ姿を見せつけられていた。民主主義は、民衆のうちに赤子ほどにも育っておらず、この時点では、より統一的な権威こそ未来を照らす松明であったといえよう。

 国家主義は、人々の観念の上に築かれる虚構にすぎないから、それを支える見せかけの合理的根拠と観念の教育体制がなければ成立できない。明治政府は、日本国家という虚構の本尊に天皇を祭り、神道思想による教育的洗脳を行うことで、それに絶対的権威を与え、同時に、日本国民に他民族に対する優越感を与えた。

 以来、天皇家に生まれた世襲者は、大東亜で最も優れた国民の、最も優れた大将ということにされたことにより、一生物としての生身の存在を主張する権利を奪われ、気の毒なことに観念のうえで「人」を超越しなければならなくなり(その実態は、自由に泡屋に出入りすることさえかなわぬ独身中年のナントカノ宮の悲劇を思いたまえ)、そんな残酷な悲劇を、国民と自称する妄想集団がおめでたく、かつありがたく担ぐという奇妙にして滑稽な社会的現実が続いているのである。洗脳の、なんと強力であったことか。
 少々、横道にそれすぎた。

 別山の山頂の展望は、いわずもがな絶景である。南白山の下には、神秘的なエメラルド色の白水湖がすばらしく、尾上郷谷には千古の原生林が一斉に新緑の協奏曲を奏で、ひとりで静かに景観を独占できる喜びに酔いしれた。
 山頂直下の太平壁は巨大なお花畑になっていて、名も知らぬ高山植物の可憐な競演であった。まさしく、至福のひとときであった。

 だが、尾上郷に微かに見える林道の荒廃も見逃すことはできなかった。ここには、御母衣ダムの補助ダム建設が進行中だという。
 わが、中部圏の山々のうちで、もっともすばらしい自然の残る白山。人々の子孫にいつまでも美しいままで残してやりたい。


 赤兎山1629m・大長山1671m  90年7月

 白山主脈南稜、三ノ峰で西へ分岐した尾根は、杉峠から赤兎山を盛り上げ、経ヶ岳・法恩寺山を噴出させて大野盆地に消えるものと、小原峠・大長山から1000m前後の起伏を保ちながら延々と50キロ近くも連なり、大聖寺の日本海に消える非常に長大な尾根とがある。

 福井・石川県境をなすこの障壁の途中には、加賀大日山(1368m)・富士写ヶ岳(942m)などの著名な山も含まれている。
すでに書いたように、経ヶ岳は白山本峰と同じく火山性の山体で、地質の関連からも主脈とはいえないが、大日山を中心に置くこの尾根は、大日山自体は白山の兄弟ともいえる大規模な火山であるが、別山と同じく堆積岩からなる古成層(手取層)を基盤としていて、文字どおり白山西稜と呼ぶにふさわしい。

 白山主脈というのは、普通、富山・石川県境および石川・岐阜県境をなす稜線をいい、北は医王山(ブナオ峠からとする説もある)から、南は大日岳・油坂峠あたりまでをいう。それより南は、能郷白山を盟主とする奥美濃の領域に含まれる。

 主脈から西に派生する最大の尾根がこの稜線であって、刈安山(548m)あたりを始点とするのが妥当かと思われる。東への尾根は、無理に考えれば大日岳から鷲ヶ岳へとつなげぬこともないが、蛭ヶ野で終わりとするのが一般的である。

 国土地理院は、白山に関連する山々に加えて、油坂峠以南、伊吹山以北、北国街道以東、長良川以西(武儀郡や郡上郡の山も含める場合が多いが)にひろがるいわゆる奥美濃の広大な山々も含め、どちらの最高峰にも白山の名がつけられているところから、この膨大な山域に両白山地という呼称を与えた。

 白山山系だけでも広さは相当なものなのに、両白山地にいたっては、南北120キロ・東西80キロにも及ぶもので、国内最大の南アルプス連峰に匹敵するかもしれない。
 ところが、この山々は登山の対象としてはひどく渋く、白山本峰や伊吹山を除いてほとんど知られていない。一部のモノズキしか通わないようなパッとしない山が多く、ポピュラーな解説書・案内書も少ない。

 私は、この十数年の間に、おそらく100回以上も両白山地に足を向けたが、エアリアマップの「白山」を除けば参考資料が入手しにくくて、いつも当てにならない2・5万地形図頼りの行きあたりばったりの登山であった。
 それでも積雪期は雪の上を歩けるからよいが、夏季は、猛烈な笹薮に行く手を阻まれて逃げ帰ったことも10回を超えているだろう。この山域では、整備された登山道があることが奇跡と思わなければならない。

 両白山地は日本海と琵琶湖に接し、冬季は日本を代表する豪雪地帯であって、登山適期が短く、しかも薮がひどくて展望が悪く、東北のような美しい高層湿原もあまり見かけない。おまけに、すぐ近所に日本を代表する北アルプス連峰が鎮座しているので、大部分の登山者がそちらにひかれていってしまうのである。

 まことに不遇な山々といわざるをえないが、かえってそれがために、この山域に惹かれる者は、できの悪いわが子を人一倍いとおしむ親の気持ちに似た気分にとらわれ、人知れぬこの山の良さを見いだすことに情熱を傾けずにいられないのではないだろうか。

 前置きが長くなった。白山西稜を代表するピークの赤兎と大長山は、小原峠をはさんで隣り合わせ、良い道が整備され、手ごろな縦走が楽しめるハイキングの山である。
 この山は、両白山地のぼさっとした低山群のなかで、経ヶ岳などとともに、珍しくスッキリした亜高山帯登山の気分が楽しめ、しかも白山主脈の展望台としてこの上なく素晴らしい眺望をもっている。いってみれば、全然両白山地らしくない山なのである。

 前夜、勝山市に来て「みずばしょう」という市営の温泉保養センターを見つけた。夜7寺以降は半額になるとかで、400円払って入った。サウナなどもあって豪勢な温泉であった。駐車場で一夜を明かした。

 朝、金沢へ抜ける国道157号線を行き、地図通り小原の集落に入った。入り口には「資源保護のため入山禁止」という看板がたてられていた。「栽培わさび」と書かれた看板の下のワサビを平然と持ち帰る福井のハイカーの姿を思い起こし、どう考えていいのか混乱したのを思い出した。

 ここで集落の風情を見て驚きに打たれた。それは、明治の田舎がそのまま冷凍保存されているような、異様な懐かしささえ感じるたたずまいであった。だが、ここが文化財として保存されているわけではない。かつての妻篭と同様、貧しいということのみの結果なのである。

 小原の部落から登山口へは、山慣れた私が相当な不安を感じるほどの、狭い未舗装の林道を行く。10数キロ走ると、ワサモリ平と呼ばれる高原に達する。ここは今でも名の通りワサビの栽培地であるらしい。

 法恩寺山からここへ降り、さらにこれから行く小原峠を超えて加賀市ノ瀬に抜ける道が、越前馬場の古道(越前禅定道)であった。したがって、ワサモリ平には、昔は参詣のお助け小屋が建てられていただろうが、今は無人の野である。杉の植林が進んでいた。

 その先に、「赤兎山登山道」の標識柱が立っていて、そこから立派な登山道が続いていた。ブナの多い二次林を1時間ほど登ると小原峠に着いてしまう。苦しい登りもなく、誤る分岐もなかった。赤兎へは、峠から40分ほどであった。ひどくあっけなく感じた。

 山頂の手前で経ヶ岳からの尾根道を併せた。そこからキスゲの咲く高原状の山頂が広がっていた。広々とした快適な山頂広場で、方向指示板や案内標識などがあり、この山の人気のほどがうかがえる。
 300m先に避難小屋が見え、その付近は高層湿原になっているようだった。同じ両白山地とはいっても、奥美濃の山頂とはエライ違いである。冬季の猛烈な季節風が、東北風のこのような山稜をつくるのだろう。

 早朝なので誰もいなかったが、小原峠におりるとものものしい装備の登山者に出会った。私はズック靴にジーパン、軽快第一である。
 大長山に向かうルートは、やや荒れているが登山者は少なくなさそうだ。一時間ほど尾根道をたどると、再び亜高山帯の風貌をみせるようになり、大長山の細長いが大きな山頂の一角に達する。

 山頂は本当に広くて、一面のキスゲのお花畑であった。どこまでいってもキスゲの群落が絶えることがなかった。これまで出逢った山頂のうちでも、もっとも美しいもののひとつといっておきたい。
 寝転がって、眼前の雄大な白山主脈を眺めたくなった。

 白山の眺望も、これまで登った山々のうちで、ここがもっともすばらしい。多くの残雪を纏った白山と別山が好一対の対照をなし、それから四方に向かって無限の山なみが伸びやかに続く姿は、いつまで見ても見飽きない。
 別山の風格が、想像以上にすばらしいことを発見したのもこのときであった。それは、白山と同体の山格であった。

 帰路、小原峠に大勢のハイカーが登ってきた。珍しく若者の多い集団で、明るい男女の笑い声が山々に響きわたっていた。


 白山 2702m

 「白き山」という命名は、いつのころか自然に生まれたものにちがいない。モンブランもダウラギリもその意味は同じであり、日本アルプス最高峰の北岳も甲斐の白峰と呼ばれた。

 白山が名古屋から認められる時期は、大気の清澄な冷たい季節に限られるが、それはいつも白い。
 朝鮮半島からやってきた季節風は、日本海でたっぷりと水蒸気を摂取し、なぐりつけるような暴風になって白山の壁にぶちあたり、そこに激しく雪を雪を降らせる。白山は日本有数の豪雪地帯であって、冬期数十mの積雪さえ珍しくない。ただ、伊吹山のように積雪観測がされていないので、正確な記録は分からない。

 2700mという高度は、日本アルプスを除けば内陸の八ツ岳にしかなく、越前沖の日本海では、沖へ出た漁師たちのよき目印になったにちがいない。
 それどころか、朝鮮半島から日本海に出漁した漁師たちにとっても方位を決める大切な目標であったにちがいなく、古来、この山をめざして日本海を渡った渡来人たちにとっても単なる目印を超えた霊的な存在としてとらえられた。

 白山に霊性をみいだし、修験道の行場として開いた越前の僧泰澄も、そうして白山をめざして朝鮮新羅からやってきた渡来人、三神安角の子であった。
 泰澄の一族が朝鮮からやってきたことなど驚くに値しない。

 日本列島に人類が棲みつきはじめたのは、明石原人や牛川人などの発掘をみれば、数十万年前、すなわちホモサピエンス以前からであることが確実だが、リス・ウルムの氷期には大陸と地続きであったことから、ゾウなどとともに多くの人々がやってきたにちがいなく、同時に、黒潮に乗って、南方から大勢の人々が北上して日本列島に棲みついた。

 彼らは、今日縄文人と呼ばれるようになり、優れた土器石器文化を遺した日本列島先住民であった。彼らが日本列島の主役であった時代は1万年ほど続いたことが分かっているが、2500年ほど前に、中国揚子江下流に開かれていた米作農耕民族国家(おそらくは越に滅ぼされた呉)の住民が高度な文化とともに北九州に移住してきて以来、主役の座を明け渡すことになったようだ。

 今日、弥生人と呼ばれることになった渡来民族は、組織的に移動して、九州、西日本の河口沿岸部を中心に大いに勢力を広げ、原始的な氏族社会を形成していた縄文人を北方や山奥に追いやった。

 以来、日本列島に灯された弥生文化に引き寄せられるように、大陸や朝鮮半島からの民族移動が絶えることなく続いた。
 3世紀から8世紀にかけて、中国北東部に勢力をのばしていたツングース系の騎馬民族まで国家的規模で大量に渡来し、彼らは江南から渡来した弥生人の氏族王権を制覇し、みずからの古墳文化王朝を成立させた。後に、これが天皇家と呼ばれるようになる。

 本来、ツングース騎馬民族の王権継承の基準は、世襲ではなく、王としての能力であった。したがって、8世紀まで天皇家の血脈の交代は数度に及んだようだ。白山山麓の新羅系渡来人の王であった継体が王権を掌握した時代もあった。だが、朝鮮半島南部の百済の王であった聖徳太子の一族が、その圧倒的な教養によって崇敬され、王権を得ることによって、天皇家の血脈に決着をつけたかとも思える。

 太子もまた騎馬民族の子孫であったことは、記録された衣服が乗馬に必要不可欠なズボンやブーツを用いていたことによって証明できよう。米作農耕の民族にズボンは不要かつ邪魔であって、必要なものは「呉服」と呼ばれたスソからげの可能な衣服と、湿地帯に適したワラジであった。ズボンやブーツは、騎馬の必需品であって、スカートしかなかった欧州でこれが用いられるようになったのも、中央アジア騎馬民族の影響に他ならない。

 さらに、古墳時代に用いられた剣などの武具は、すべて騎馬戦争に適した直剣式の突くタイプであることにも注目する必要があろう。農耕民族には切るタイプの曲剣が必要なのである。

 京都を開いた秦氏も、相模や武蔵の先住民となった秦氏、埼玉の高麗人たちも、皆朝鮮からやってきた。というよりは、古墳時代以降の日本文化と称されるものは、おもに朝鮮文化であったと断言してさしつかえないのではないか。さらにいえば、日本という国家そのものさえ、朝鮮から移されたことを旧唐書が示唆している。旧唐書という唐の国史には、日本国が朝鮮半島にあると書かれているのである。

 このような、人と、それにともなう文化の渡来の大規模なものは、鎌倉時代、フビライの元帝国によって滅ぼされた南宋の住民の大規模な渡来によって終止符をうつ。同時期の元冦と、その報復として盛んになった倭冦によって、政権は国境の交通にたいする警戒を厳しくせざるをえなくなったからである。

 8世紀、泰澄の時代、騎馬民族が日本の支配階級として圧倒的な勢力を確立したころ、宗教界を中心とする知識人階級も渡来人とその子孫によって占められていた。天台宗の最澄も、真言宗の空海も、行基も、役の小角も、著名な宗教界の覇者たちはすべて渡来人の子孫であった。

 というより、このころすでに日本先住民は追われて大部分が日本海側か北方に移動しており、本州西部太平洋側では、よほどの山奥か離島にしか残っていなかったと考えられよう。最後の縄文人、日本先住民であった蝦夷(えみし)も征伐殺戮され、その一部は北海道にアイヌ族として残った。縄文人は、非常に気の小さな優しい人々で、おそらく戦争を好まなかったにちがいない。

 歴史に記録された日本は、この時代、権力も言語も民俗も、文化というものことごとく渡来のものになった。渡来人の文化は、すでに中国で体系として確立していた密教・道教・儒教を基礎としたものであっただろう。これらを厳密に区分することは困難で、相互に影響を与えあい不可分の巨大なイデオロギーとして日本にもちこまれた。

 それらは、すでに日本人の血肉として定着し、論ずることさえ不可能な日本的風景そのものになってしまった。つまり、それが日本ということになった。
 日本の精神的原型と主張される神道も、その要素を厳密に追ってゆくならば、明らかに朝鮮新羅系の道教に到達し、天皇家の出自を証明する傍証にもなろう。祝詞も社殿も狛犬も、道教のものであり、その祭神はひとつの例外なく朝鮮のものであった。我々は今日、朝鮮の人々にもっとも近い人相・風俗を天皇家に発見することができるのである。歴史的日本とは、朝鮮に他ならないのである。

 新羅から渡来したと思われる古神道は、同じく百済から渡来した仏教に包摂され、習合し、修験道を成立させたとされる。修験道は、道教の要素をもっとも濃厚に伝えた宗教といわれるが、あるいは、すでに朝鮮の段階で習合成立していたかもしれない。

 それは、道教の山岳修行による神仙到達の思想をそのまま踏襲し、修行者は山々の高き峰のうえで超能力を得て変身し、里に降りて人々を救うのである。

 修験道の開祖は、大和葛木の行者、役の小角だとされる。小角はその超能力を朝廷に恐れられ、やがて日本を去って唐に赴いた。唐にあっては道士(道教僧)として崇敬され、実に唐四十仙のうち第三座を占めたと伝承されている。晩年は、唐の領土であった朝鮮新羅に過ごしたと伝えられる。この伝説は、修験道と神道と新羅の関係について一定の示唆を与えるものである。

 泰澄が白山を開いたのは、それからわずか後のことで、同時代といってよい。泰澄もまた、小角に劣らぬ超能力者であったと記録されている。小角と同様、念力によって自由に飛行し、呪文によって石つぶてを投げることができたとされる。

 また、空海や行基と同じく、虚空蔵求聞持法によって能力を開発した。これは、虚空蔵菩薩に念仏を捧げることによって頭の働きを百倍良くしようという能力開発法である。三カ月間というもの野山をさまよい歩きながら念仏を唱え、満願の日に天空から無数の星が落ちてくる夢を見ることによって成就するという。

 泰澄が越前平泉寺に足場をつくり、やがて美濃石徹白を経由し、別山を経て白山山頂に達したのは養老元年(717年)の夏であった。泰澄は、その頂に朝鮮新羅神社の坐女ともいわれる菊理姫をまつった。本地仏は、夢のお告げとして十一面観音であるとされた。

 以来、白山は今日まで絶えることなく、霊山として人々の信仰をあつめてきた。とりわけ、朝鮮の帰化氏族から崇敬が篤かった。白山が、かつてシラヤマと呼ばれたのは、朝鮮の新羅(シラ)と直接の関係を示唆するものであろう。日本には「シラ」と名付けられた民間信仰が多く遺されているが、これらも新羅そして白山(シラヤマ)との関係を示唆するものにちがいない。

 朝鮮帰化氏族は仏教界にあっては天台宗系の勢力であって、比叡山山王権現の修験者がシラヤマを行場とした。白山修験は、やがて本家であった熊野大峰修験さえ圧倒し、山岳宗教の覇者となった。
今日、白山神社は全国に2700社を数え、圧倒的に首位にある。だが、白山神社は白山修験道の直接の継承ではない。

 開山以来、最大の受難は明治維新に意図的につくりだされた。
 新政府は、天皇家の権威を利用して国家イデオロギーの統一を策謀し、天皇を唯一無二の神格にすえ、それを証明する理論として古事記を教典とする神道神話を絶対のものとして民衆に強制した。それまで天皇は、民衆の意識のなかに伊勢神宮の神主程度のものでしかなかった。それを、いきなり徳川将軍を上回る権力者にして絶対神にでっちあげようとしたのだから、なみたいていの事業ではなかった。

 古事記の虚構を真実らしく糊塗するために、神道にかかわるすべての理屈を統一しなければならなくなった。一番邪魔になったのが、民衆のうちに根強い人気のあった習合神道、つまり権現信仰であった。白山権現は、その代表格であり、最大にして最強のものであった。

 神道は、断じて仏教に包摂されるものであってはならなかった。天皇の権威は唯一絶対のものであり、かつ本源的なものでなければならない。そのために、真実の歴史を曲げ、それを伝える形象としての修験道を弾圧廃棄しなければならなくなった。

 かくして神道を支配するところの仏教にたいして排仏毀釈が行われ、激しい弾圧が行われた。修験道は禁止され、伊勢神道の配下の神社になるか、さもなくばもともとの密教宗派に戻るよう指示された。天台宗の影響下にあった白山修験は、天台宗に帰依し、それらの宗教的形象は廃棄、あるいは破壊された。

 白山権現は十一面観音を本地とする権現であり、菊理姫をまつっていたが、本地仏は破壊され、一部は牛首(現白峰村)林西寺に引き取られ、祭神もイザナギ・イザナミに改められた。
 権現は廃棄され、白山神社に変わった。以来、白山から修験道は消えた。

 私の過去の白山登山は、岐阜県側の平瀬からが多かった。平瀬登山道は白山信仰の古道ではなく、明治初年、大白川湯からの猟師道を整備したものである。しかし、このコースは飛騨方面からの最短ルートであって、古くから白山のエスケープルートとして利用されていたことは疑いない。

 平瀬道は、御母衣ダムの補助施設である白水ダム湖畔まで車が入り、夏期はそこに営林署の経営する山小屋が営業している。以前は通行するだけで恐ろしい道であったが、現在はかなり改良された。

 白水湖の水は酸性の温泉水が多量に湧出しているためか、神秘的なエメラルド色の輝きをたたえている。お花畑を前景に湖に落ちる夕陽を眺めるならば、一種異様な彼岸の情景さえ思う景観であった。
 今では湖畔に露天風呂がつくられ、観光客も多くなり、かつてのような静けさも情感も失われつつあるが、それでも大資本の進出する観光リゾート地とは雲泥の開きがあり、味わい深い原始の風格が漂っている。私の好む場所である。

 かつては、ミルク色の硫黄臭い効能抜群の秘湯としてその道の通に知られ、私もひそかに日本三大名湯と考えていたのだが、十年ほど前の集中豪雨で泉源が崩れ、今では透明のありきたりの温泉に変わってしまったのが残念だ。

 もともとの白水温泉、大白川湯は、名瀑白水の滝の真下にあって、その名が白川郷の名の元になった。今では白水の滝は林道の下におかれて風格を下げ、大白川湯はダム湖の水面下に沈んだ。

 このルートは日本有数の、おそらくは白神山地に次ぐ規模のブナ原生林を抱き、大倉尾根のカンクラ大雪渓は万年雪となり、室堂手前の日本有数(最大ではないかと思っている)のお花畑には無数の黒百合の群落があった。
 山頂まで、登山口からわずか四時間ほどで行ける。

 白山登山道でもっともポピュラーなのが、石川県白峰村から入る市ノ瀬口である。私は、これが当然加賀馬場ルートだと思っていたのだが、調べてみると実は越前馬場ルートであって驚いた。

 加賀の国一ノ宮である白山ひめ神社から手取川を遡れば、当然この市ノ瀬に達するのだが、途中、今では白峰湖に沈んだ牛首村周辺の去就をめぐって幕府と加賀藩とのあいだで激しい領有争いがあったことが原因で、加賀馬場のルートは複雑な変転を経ているようだ。

 加賀馬場のルートは、鶴来町の白山神社(下宮)を起点として、中宮の一里野を経て、長大な長倉尾根にとりついて大汝峰に至る苦しいコースであった。
 加賀禅定道といわれるこのコースは、九世紀にはひらかれていたと思えるが、明治政府の樹立とともに修験道が禁止され、白山信仰が衰退した過程のなかで荒廃し、廃道になってしまった。だが、1988年に、地元有志によって再建されたのだが、長大であるために歩かれず、再び廃道に化す日も近い。

 越前馬場は、平泉寺から法恩寺峠と小原峠を越えて市ノ瀬に下り、現在の観光新道の尾根を登るものである。長いだけでなく、上下の多い苦しいコースで、現在は歩く者もなく、すでに一部廃道に化している。

 白山馬場を代表したのは、長いあいだ美濃馬場の石徹白道であった。
 石徹白の御師は全国の白山神社講中を組織し、白山信仰を喧伝し、このルートは「登り千人、下り千人、宿に千人」といわれたほど繁盛したと伝えられる。

 明治以降、白山信仰登山が衰退し、近代スポーツ登山が勃興すると、その登山口は交通の便の良い加賀方面に集中するようになった。現在では、登山者の大部分が市ノ瀬口を利用するようになった。

 夏のある日、はじめて市ノ瀬口から登った。
 別当の駐車場に前夜遅く着いたのだが、さすがに車泊登山者が少なくなかった。朝4時には、暗いなかを大勢が出発していった。大部分が砂防新道を利用するようだ。観光新道は、大雨による崩落のため通行禁止になっていた。

 5時に出発したが、室堂に着くまでに先発組を追い越して先頭にたってしまった。皆、休憩が多すぎるのだ。
 このルート、やたら林道を横切るので面白くない。車で7合目近くまで行けそうだ。右手に見える不動滝が、一歩一歩近づいてくる。

 甚ノ助ヒュッテの手前、海抜2000m付近で、玉石の多く含まれた砂礫がたくさん露出していた。玉石は石英で、径数センチはある。それは、この付近が、かつて水に洗われる環境にあったことを示していた。

 近ごろ、白山周辺で恐竜の発掘が話題になることが多い。この石は、白山周辺で地質学者や考古生物学者の注目をあつめている手取層に関係している。白山火山体の基盤をなす層は、別山に顕著に現れている堆積岩、水成岩である。その表層には豊富な化石生物が含まれている。これを手取層という。

 3億年ほど前に海底でサンゴや放散虫が堆積した基盤が徐々に隆起し、1億年ほど前に、白山一帯に巨大な湖が出現し、これは手取湖と名づけられた。手取湖一帯は、ジュラ期、恐竜をはじめとする動植物のまれにみる楽園となった。先の玉石は、この手取湖の湖畔で波に洗われたか、もしくはそこから流れ出る河川流域にあったと考えられるのである。

 現在の白山の山体ができあがったのは、わずか1万年ほど前のことで、ひどくインスタントに成立した。その後の激しい侵食によって、ところどころでこのような古白山の景観にお目にかかれるのである。

 手取湖の生物堆積層は手取統ともよばれるが、これは白山周辺の九頭竜川付近や白水湖付近、福井県側など広範に存在していて、学者やマニアの注目をあつめ、化石探索者がひきもきらない。私もその一人である。
 九頭竜川周辺は、手取統のなかでも汽水領域の化石が出ることで知られ、それ以前のデボン期石灰岩からは三葉虫やアンモナイトも発見される。私の好みからいえば、石灰岩化石のほうが好ましい。美しいハチノスサンゴを発見し、磨いたときの感動はたまらない喜びである。

 ひと汗かいて着いた弥陀ヶ原の景観は、すばらしいの一語に尽きる。
 広大な高原のほとんど全部がお花畑といってよい。白山に尽きせぬ魅力があるとすれば、その幾分の一からの部分はこの高原に負っている。このような楽園は、全国600を超える登山を行ってきた私の経験のうちでも、北海道の大雪連峰や苗場山、尾瀬、平ヶ岳などわずかでしかない。

 八甲田や八幡平の高層湿原は、無謀な観光開発によって著しく価値を落としたうえに汚染された。このような楽園を見つければ、ロープウェイをかけて金儲けのタネにしたがる地元の低俗なバカ資本家が、どの町にも例外なくいることを思えば(たとえば、御岳における名鉄資本のように)、私は非力であっても、断固としてこの楽園を守り抜くことをここに宣言しておきたい。ここは、私にとって、神のおわす魂のふるさとである。(ふだんは完全無神論者なのだが)

 室堂の巨大な山小屋には大勢の人々がたむろしていた。かつて小屋の脇にあったはずの黒百合の群落は見あたらなくなっていた。
 白山神社奥宮の若い宮司に話しかけてみた。彼は、廃仏棄釈の意味すら知らない無知無能な(権威をふりまわすことだけが得意な)神主が多いなかで、白山権現の歴史を多く知っていた。

 山頂の桧の堂宇は健在で、純金の金具も盗まれていなかった。が、この付近にあった角閃石の結晶はまったく見あたらなかった。
 南竜ヶ馬場に向かった。
 縦走路をたどった。静かな道で出逢う人はいなかった。エコーラインには大勢の登山者が歩いているのが見えた。あちらは巨大なお花畑だ。誰もいない縦走路のお花畑では、静かに心ゆくまで美しさを堪能した。賑わっているのは皆が歩きたがるところばかり。一歩外れれば、すばらしい静けさのなかに恍惚とする大自然の桃源境が待っている。


 銚子ヶ峰 1990年6月

 白山信仰登山の歴史のうちで、岐阜県側に位置する美濃馬場こそ白山詣を代表する主役であったといえる。美濃馬場は、天台宗長龍寺(岐阜県郡上郡白鳥町長滝)であった。そこには、かつて数百の僧坊が建てられ、中部地方有数の古い歴史をもつ信仰拠点として、鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を極めた。

 だが、やがて越前、美濃における浄土真宗の勃興によって民心は天台宗や権現信仰を離れ、明治政府の神道至上政策によって弾圧を受け、さらに明治における大規模な火災が長滝のありし日の栄華を苔の下に埋もれさせた。
美濃馬場、長滝を訪れた権現講中の人々は、そこから阿弥陀滝を経て海抜千mの険しい桧峠を越え、石徹白に向かった。石徹白には白山中居神社(中宮)がおかれていた。

 人々は、さらに、そこから銚子ヶ峰や別山を越えて、白山奥宮に向かって上昇してゆく長く辛い山道を歩いていった。その行程といえば、今日、我々がアルプス山脈の大縦走を行うに等しいほどのものであった。

 往時、「登り千人、下り千人、宿に千人」とうたわれた白山詣の情景は、石徹白のありさまを語ったもので、その賑わいは、全国三千社の白山権現の講中組織を背景にして江戸中期まで絶えることがなかった。
 白山講中の賑わいは、富士講や御岳講に代表されるように、多くの山岳講を啓発したにちがいない。それは、娯楽の少ない民衆にとって大切なリクレーションの場だったのである。

 石徹白には、友人のYさんの実家があった。彼に連れられて、はじめてここを訪れたとき、どんよりと濁った空の下に荒涼たる田園がひろがっている風景を見て、私はロシアの田舎を連想した。

 いったいなぜ、これほどの山深い苛酷な生活条件の地に人里が成立しえたのか、実に不思議であった。だが、Yさんの実家の建物の格式や造作は、とても名古屋あたりではお目にかかれないほどの重厚で立派なものであった。
 そこは、伝統ある白山神社社家の家だったのだ。

 白山神社とは廃仏棄釈以降の呼び名で、それまでは白山権現といったのだが、それは黙っていれば向こうから信者がやってきてくれるほど甘くはなかった。どの権現信仰も、御師(おし)と呼ばれる社家の人々の、懸命な勧誘努力によって支えられていた。御師を大切にしない権現は、たちまち寂れていった。

 御師は、旅行ブローカー・セールスマンのようなもので、全国に散在する権現の講中組織へ出かけていって、あるいは講中そのものを組織し、ご利益を宣伝してまわったのである。

 地方の権現社に付随した講組織を檀那といった。御師は、檀那で白山権現の護符を売り、白山詣を組織し、旅行の段取りを行い、さらに自分で組織した講中の人々を連れて白山に向かい、石徹白にあっては自分の家に泊めた。だから石徹白の家は旅館のようなもので、その格式が御師の格式として認識されることになった。冷涼な山奥の石徹白の集落は、この信仰によって食べることができた。

 詣客が来なければ死活問題であって、米の採れない石徹白ではたちどころに飢えねばならない。だから、石徹白の御師たちは命がけで白山信仰を広めたのである。したがって今日、白山神社が日本最大数を維持しているのは、まったく石徹白の御師たちの努力に負う部分が大きいといえよう。
 だが、石徹白の歩んだ道は平坦ではなかった。江戸時代中ごろ、宝暦年間に、信じがたいような大事件が勃発したのである。

 石徹白は、美濃郡上藩の領地で、郡上藩は宝暦年間まで金森氏が支配した。
 最初、織田信長の家来になり、やがて秀吉旗下に属し、越前大野の領主となった金森長近は、秀吉の命を受けて飛騨白川郷の内ヶ島氏を攻めた。

 内ヶ島一族は金森氏に敗北して講和を申し入れ、その直後、帰雲城もろとも山津波に呑まれて滅んだ。飛騨一帯は金森氏の所有に帰した。飛騨は鉱物資源の宝庫であり、金森氏はおおいに潤ったにちがいない。

 その経済力は、飛騨の寒村にすぎなかった高山に名城と美街を築き、息子の宗和の時代には優れた茶道の文化をつくりだした。それは、今日まで春慶塗りや宗和膳の名で残されている。金森氏は、名実ともに飛騨高山文化の父であった。

 だが、江戸時代を迎えると、幕府は鉱物資源を領有する諸藩を厳しく監視するようになった。というのも、家康の軍資金供給に功績のあった佐渡の大久保長安が、金山の利益の多くを私物化していたことが死後露見し、その子らが全員切腹させられるという事件があったからである。

 幕府は鉱物資源を独占し、大名に経済力をつけさせないために、外様大名の有力鉱山をとりあげ、天領に変える政策をとった。六代目金森氏は飛騨から追われ、貧しい上ノ山(山形県)に移封されることになった。

 しかし、元禄十年(1692年)、再び元の領地に近い美濃郡上藩が与えられることになった。金森氏は、小笠原家や吉良家とともに茶道礼法の家元であって儀礼に詳しく、将軍の身近にあって特別の配慮を受けたのかもしれない。

 七代頼錦の時代、幕府の儀典役に任命されていた金森氏は、交際上出費が多く、窮乏する藩財政に苦しめられていた。家老は増収にあせり、領民からの収奪を無謀に厳しくした。郡上の農民は悪政に苦しむことになった。

 江戸中期、それまで比較的安定していた気候が火山活動などの影響で寒冷化し、全国的規模で飢饉が発生するようになっていた。百姓の生活は、かつてないほど圧迫される状況が続いた。

 やがて、江戸時代を通じても最大級の一揆が、金森氏の領下で起こるべくして起こった。後に宝暦農民一揆という。郡上周辺の五千名を超す百姓が結集し、金森氏の暴政を糾弾して立ち上がったのである。

 この事件の解決には四年を要し、同じ時期に石徹白に起こった大きな争いの処理をめぐっても幕府の追求を受けるところとなり、金森氏の断絶改易という大きな結果を招いた。宝暦一揆と石徹白の事件を併せて、世に宝暦郡上騒動と称され、長く語り伝えられることになった。

 金森氏は、七代二百余年で滅んだ。金森氏の滅亡を招いた宝暦騒動の一端である石徹白騒動とは、どのようなものだったのか。

 石徹白の村では、江戸初期から社家が二派に分裂対立する状況が続いていた。上在所の上村氏と下在所の杉本氏である。その原因になったのは、白山神道の主導権争いであった。

 当時、神道は、天皇家に近く天台宗の影響下にあった白川家に印可される勢力と、新興で徳川幕府に近い吉田家の影響下にある勢力とに二分されていた。石徹白でも、社家のうちに帰属をめぐって二派の激しい論争があった。
 神道印可支配をめぐる吉田・白川両家の争いは激しさを増し、木地屋の世界でも、氏子の印可帰属をめぐって全国的な対立を起こしていたことを記憶されている方も少なくないであろう。

 この地は、古くから白山権現に頼って暮らしをたててきたことから、全戸が社家かそれに準じる人々であったのだが、戦国時代末期に、越前から美濃にかけて浄土真宗の爆発的な勃興があり、天台宗の傘下にあった寺院に大きな影響を与え、真宗に信仰を変える者が続出していた。郡上一帯の民衆は、ことごとくといっていいほど、争うようにして真宗門徒に帰依しようとした。

 その影響は、石徹白にあっては白川神祇伯家の配下、つまり杉本派に著しかった。。下在所の人々は、社家のなかでは、どちらかといえば格下であって、上村派に比べて貧しかった。

 上村派は、上在所社家の権威を高めるために、幕府権力に近い存在である吉田神道に接近し、郡上藩の家老とも懇意であった。
 騒動の発端は、真宗をめぐるものであった。

 それは、杉本派の社家のうちに真宗に共感するものが多く、道場(現、威徳寺)を改築建立するために社家に寄付を募ったことから始まった。
 上村派頭領であった上村豊前は、白山神道の絶対的拠点でなければならない石徹白に真宗の勢力がのびてきたことに、著しい不快と恐怖を感じた。

 豊前は、京都の吉田家に石徹白の神道が危機的状態にあることを訴え、救いを求めることにした。書簡を送り、神道のすたれている現状を綿々と訴えたのである。
 これに対して吉田家は、自派の勢力拡大の好機だと考え、ただちに金森藩に対して建白書を送り、上村のために尽くした。

 藩の寺社奉行であった根尾甚左衛門は、上村とも懇意であり、この機会に上村派の勢力を味方につけようと考えた。
 そして、藩庁の命令として、杉本派社人に対し「以降、吉田家の支配下に入り、何ごとも上村豊前の命令に従え」と通達したのである。

 杉本派は驚き、反発した。彼らは、何ごとにも権威をカサに着たがる尊大な豊前をひどく嫌っていたのである。そのうちに、杉本派の社人が、真宗本山で豊前の悪行を訴えたという噂が流れた。豊前はひどく怒って、その社人を追放し、社家の持ち山の木を大部分伐採してしまった。

 杉本派頭領の杉本左近は、ただちにこの非道を藩庁に訴え出たが、寺社奉行の根尾はとりあわず、かえって左近を叱りつけた。
 左近はやむをえず、直接江戸の寺社奉行、本多長門守へ訴え出た。

 だが、長門守は時の郡上藩主、金森頼錦と懇意であったので、訴えをとりあげるどころか、金森家へただちに通報したのである。
 金森氏はこれに驚き、ただちに左近以下杉本派幹部を捕らえ、家財を没収したうえに領外に追放した。時、11月26日であった。

 上村豊前は、杉本派の執ような抵抗に怒り狂い、藩庁に対し、石徹白から杉本派を全員追放することを許可するよう迫った。
 時、12月25日、杉本派社人の64名とその家族、併せて400余名は、突然、着のみ着のままで領外への追放を宣告された。その日、石徹白は猛吹雪であった。老人、婦女子ともども人々は行くあてもなく追われた。

 豊前は、「白川伯の手のものなら白川郷へ行くのがふさわしいではないか」と、大声で笑った。
 桧峠には身の丈を超す積雪があり、老人や子供は凍えても暖をとることさえできなかった。途中の集落には、奉行から助けを禁ずる旨の通達がだされ、住民は戸を閉ざした。

 人々は、絶望的な死への行進をはじめた。
 桧峠を下ると、前谷村があった。前谷の衆は貧しかったが、定次郎をはじめ義侠に篤い人々が多かった。彼らは、藩庁に弾圧されるのを覚悟で、杉本派の人々を救おうとしたが、救援も空しく餓死凍死者は70余名にのぼったと記録されている。

 生き残った者の多くは、ただでさえ宝暦一揆のために辛い生活を強要されていた上之保筋(現、高鷲村)の農民の温情にすがったが、騒動終結後、無事に石徹白に戻ることのできたものは少なかった。

 その後、杉本左近による決死の直訴が実り、同じ時期の郡上一揆とともに、この事件が幕府の評定所で裁かれることになった。

 その結果は、一揆の農民側に大勢の犠牲者を出したが、郡上藩側にとってもとりかえしのつかない事態になった。
 事件の首謀者であった上村豊前は死罪になり、それを助けた根尾甚左衛門は切腹を命ぜられた。幕閣の本多長門も処分されたが、杉本左近は一か月の謹慎という微罪ですんだ。

 金森家は断絶改易された。
 後に、金森氏にとってかわって郡上藩を引き継いだ青山氏は、石徹白の宗教争議に関与することを極度に恐れた。このため石徹白は、明治維新を迎えるまで、一種自治共和国の様相を呈したのである。

 石徹白に秘められた歴史は凄惨なものであった。
 わが友、Yさんの家は上村姓である。柳田国男や宮本常一も泊まって取材している。今では、上在所、下在所とも区別のつかない集落になった。人々は助け合って明るく暮らしている。

 事件の原因になった威徳寺は健在である。そんな歴史も、スキー場を中心とする巨大なレジャー開発の鎚音の喧噪にかき消されてゆくようだ。

 石徹白の中心は、上在所の中宮、白山中居神社である。この由緒の古い神社の風景は実にすばらしい。彫刻も、まるで甚五郎作のように躍動感にあふれている。杉林も千年級の特筆に値するものである。わずかに山道をたどれば、巨大な合木の浄法寺杉がある。

 私は、中居神社の脇から、激しい雨の降り続く林道を車で辿った。終点から山道がのび、わずか上に、屋久島の杉にも匹敵する巨大な大杉を見た。
 樹齢1800年、老木の印象はいなめないが、ここに生き続けていることはひとつの奇跡であって、大きな感動をあたえてくれる。

 その脇をかすめて、草深い山道を分けて登った。緩い尾根を登り、後ろを振り返ると、雨あがりのガスのなかに石徹白の盆地が南海の孤島のように見え、神秘的な美しさを感じた。
 やがて神鳩宮の小屋があり、しばらくでガスに包まれた広い笹原にでた。わずかで銚子ヶ峰の標識の立ったピークに達したが、ひどい雨が降り出すなか、それ以上歩く意欲を失った。

 下山後、長滝に立ち寄った。ここには美濃馬場を継承する白山神社と若宮修古館がある。
 かつての長龍寺は、広大な美濃馬場の一角にひっそりと残されているが、主役は長滝白山神社である。明治維新による神仏分離政策までは、両方併せて白山権現であった。

 美濃馬場長滝寺は、廃仏棄釈のとき大きな破壊を受けなかった。その理由は、長滝周辺が白山権現の社家ばかりからなりたっていたこと、それに郡上一帯が熱烈な真宗信徒の拠点であったことによると思われる。これが、山向こうの飛騨川筋だったなら、平田国学徒によって破壊されていたことだろう。真宗は、天台宗の権現信仰を食いつぶしたのだが、皮肉なことに、それが美濃馬場の歴史的に貴重極まりない優れた財産を救った。

 社家の宮司を若宮家という。修古館の主である。実に、1300年の伝統を誇っている。
 ひとくちに1300年というが、これはとんでもない数字である。日本最古とされる血脈は天皇家であるが、これは研究がすすんでいて、現在の天皇家はどう有利に見積もっても推古王あたりまでで、やはり1300年程度といわれる。

 もっとも、本当の血脈などあるはずがない。1300年も遡れば、日本人のかなりの割合が天皇家の血脈子孫である。これは、万世一系という信仰のために強調されただけのことだ。

 私の知る限り、中部近辺の古家は、佐久間ダムの坂部熊谷家、京丸藤原家、水窪の山住家など遠州の古家が、鎌倉室町時代で800年程度。福井の千古の家、堀川家も同じくらい。武家大名でも、薩摩の島津氏、米沢上杉氏でさえ700年程度である。徳川氏など三河松平から考えても500年程度でしかない。

 大峰山脈前鬼の五鬼助家が1200年で、証拠のある家としては格段に古いが、最後の当主、五郎さんは5年前に独身のまま亡くなってしまった。とすると、この1300年はもの凄いといえる。

 ひどい雨足のなか、若宮修古館に立ち寄った。おかげで、観光客は皆無だ。
 門を一歩入ると、かつて見たこともない美しいたたずまいに圧倒された。まさしく日本美の真骨頂といっていい。「すばらしい!」と思うしかない。建築は、天明5年といういわくつきの大飢饉の年だ。

 笑顔の素敵な、気品のある初老の婦人が迎えてくれた。この方が、40代若宮家婦人であった。
 「この建物はね、雨が降らなければだめなんですよ」
 といわれた。なるほど、建物全体から受ける美の印象は、みずみずしい苔の果たす役割が大きいようにも思える。

 陳列品には、道端で蹴飛ばして遊びたくなるようなありふれた陶器が多い。どこかで見た記憶のある薄汚い黄土色の壷があった。

 「これは、重要文化財に指定された黄瀬戸でございます」
 「わたしどもでは値打ちがわからなくて、最近までお味噌なんか入れてましたのよ、フフフ」
 「これほどの黄瀬戸のコレクションならば、唐九郎が来ませんでしたか」
 「お客様、永仁の壷をご存知ですか」
 「昔ね、唐九郎さんがここに見にいらしたとき、隣の宝物殿で見つけた壷、ほら、その棚の上にあるミニチュアのモデルなんですけど、永和の壷といいます。それを見てお造りになったとうかがっております」
 「裏の倉にも、整理のつかないものがたくさんございますが、わたしどもでは分からなくて、よいものが出てくるのはこれからなのでございましょう。」
 「お庭の茶室では、谷崎潤一郎さんが細雪という作品をお書きになりました。わたしどももモデルになっていますのよ。フフフ」

 奥の陳列室には、さらに凄みのある工芸品があった。富士百景と銘ぜられた黒漆の宗和膳である。
 あまりの完成度に、ふるえてしまった。こんな逸品は徳川美術館にさえ多くはない。婦人も、その由来を知らないといった。

 「おそれいりました」と、ひそかにつぶやいた。


 野谷庄司山 1797m 1991年8月初旬

 野谷庄司山は、白山から能登半島へ向かって延びる長大な主稜線の途上にある平凡な突起である。登山ファンにもほとんど知られていない峰なのだが、三角点マニアには欠かすことのできない主要点である。

 約400年前、白川郷保木脇にあった帰雲城を埋めて内ヶ島氏を滅亡させた白山最後の噴火活動に伴う地震は、どうやら、この山の付近が震源地であったらしい。
 付近の山体の崩壊の度合いを調べてゆくと、三方崩山と猿ヶ馬場山(帰雲城を直接埋めた帰雲山は、この山の中腹のピークである)、それに、この野谷庄司山がもっともひどく、帰雲城はこの三山によって構成される三角形の中点に位置したのである。
 ひょっとすると、研究次第によっては、未発見のミステリアスな事実が浮かび上がるかもしれない。

 私は、この山に三度も訪れるハメになった。どういうわけか、この山にはスムーズに登らせてもらえなかった。といって、別段の困難があるわけではなく、単に天候の問題にすぎないのだが。
 最初に出かけたのは四月末で、異常暖冬の続く昨今、残雪があってもたいしたことはあるまいとタカをくくってでかけた。

 白川郷までは、まったく雪がなかった。ところが、御母衣ダムを過ぎて荻町まできたら、たまげたことに国道にメーター級の残雪が残っていた。そこから、冬期閉鎖中のスーパー林道へ向かうと、すでに集団移住した無人の馬狩の集落で、ここでは除雪された道路以外は丈余の雪が一面を覆い半端な雪景色ではなかった。驚くとともに、自分の考えが甘かったことを思い知らされた。日本有数の豪雪山岳なのである。日本海側の山岳では、太平洋側の常識が通用しないのだ。

 野谷庄司山の登山道は、白川村真狩大窪の鶴平民宿から始まるように地図に出ている。鶴平新道という。
 馬狩(マッカリ)という集落の名は、どう考えてもアイヌ語の印象である。マッカリという語が、アイヌ語で「山のなかに開けた里」あるいは「わずかな水面の里」を意味することはわかった。両方とも真狩の地形に符合しているが、はっきりした結論はだせなかった。

 奥飛騨のこの地は、上代、中国から渡来した弥生人たちの侵出がもっとも遅れた地域であった。弥生人は、米作農耕に依存した関係から、海岸部の照葉樹林に囲まれた湿原平野に拠点を定めることが多かった。もともとの、先住民である縄文人たちは、どちらかといえば山岳地帯に依存して生活していたようで、かなり明確な「棲み分け」があったと考えられる。

 もちろん、19世紀まで米作が不可能であった白川郷は、かなり遅い時期まで縄文人のナワバリだったにちがいなく、さまざまの民俗資料からそれを窺うことができる。
 アイヌは、もともと東南アジアから黒潮に乗って北上した海洋系の古いモンゴロイドだが、古代において、日本海沿岸、東北、北海道、樺太、千島に勢力をひろげていた蝦夷(えみし)のうちの主要部族であったと考えられている。

 人は最初、豊富な食料資源に恵まれる海洋沿岸部に棲みつくのが普通で、アイヌももともと小規模集団で漁撈採取主体の生活形態をとっていたと思われるが、河口沿岸部の湿地帯で米作農耕文化をもち、戦争に慣れた弥生人の大規模で組織的な渡来移住によって北方に追われたと考えられる。だが、一部は山中に残って落葉広葉樹林帯(ブナ帯)に縄文文化の生活圏をもっていたと考えるのが自然である。

 白川郷のような多雪の山岳僻地では米作農耕は不可能であって、弥生人の適応条件は極めて厳しく、したがって蝦夷の子孫が生き残ることができたにちがいない。ただし、太平洋側山岳地帯では、木地屋に見られるように、中国雲南地方の少数民族に似た弥生人の生活があったことに注意する必要がある。

 縄文人の子孫は、人種的に弥生人や騎馬民族とかなり異なった形質を受け継いでいて、海洋系古モンゴロイドの典型的特徴である、 血液はB型が多い  刹那的性格(気が小さく優しい)  毛深い  二重瞼で大きなぱっちり目(騎馬民族系の切れ長の一重目蓋と対照せよ)  べとべとタイプの耳垢  鼻稜が大きく、上部の凹も大きい  乳児の蒙古班が少ない  騎馬民族系人より酒に強いなど、モンゴル・ツングースで寒冷適応を受けた我慢強く残酷な新モンゴロイドや、山岳や低湿地に幅広く適応したチベット・雲南系弥生人と対照が可能である。
 これらの子孫の混血が極度に進んだのは、交通機関の発達した、この数十年にすぎないことに留意されたい。僻地や離島には、いまだ比較的純粋にこれらの形質を受け継いだ人々が現存しているのだ。

 白川郷については、源平戦争や南北朝戦争で落武者として飛騨山中に逃げこんだ騎馬民族の子孫が大勢いるので、以上に述べた特徴はつかみにくく、むしろ、洗練されたそれらの形質が優先的になっているように思えるが、私はこの付近の山中でときおり出会う髭だらけのギョロ目のオヤジを見かけると、「やはり蝦夷の子孫が生きているのか」と妙に安心するのである。

 貴重な高層湿原として知られる大窪沼の手前にある鶴平民宿はすでになかった。かつて大窪の主だった大杉家の名の由来になったと思われる大きな杉の脇に、登山ポストがあった。

 道は分からなかったが、一面の雪原を地図を頼りに見当をつけて適当に登ってゆくと、赤い標識がたくさんあった。登山用の目印かと思うと、「トヨタ自動車」の敷地境界標であった。真狩大窪の周辺は、トヨタによって買収されていた。

 私は、トヨタに対して実に不愉快な印象がある。三河地方から伊那谷に抜ける三州街道の途中に治部坂峠があり、ここに大川入山という希にみる名山がある。地元の手で登山道が整備され、すばらしいハイキングコースになっていたのだが、トヨタ系の会社がこの一帯を買い占めた。

 この会社は、唯一の登山道が自社の所有地に重なるのを嫌ったのか、こともあろうに入り口に金網のバリケードを築き、登山者を追放してしまった。いつのまにか立派な案内標識も撤去されてしまい、登山道は荒廃に任せることになった。トヨタとはこのようなものかと、不快な印象だけが残った。

 後に調べたところ、真狩の集落はこの土地をまとめてトヨタへ売却することを決めたが、大杉家だけはそれを頑強に拒んだ。鶴平さんは、先祖の土地を守り、愛する大窪沼を大切に守り続けたかったのだという。だから、真狩のトヨタ所有地は、大杉家の分だけドーナッツのように穴があいている。

 鶴平民宿は、真狩の人々が荻町などに集団移転した後も、かたくなに大窪を守って営業を続けた。しかし5年前に突然、原因不明の火災で全焼した。それからしばらくして、鶴平さんは亡くなってしまった。だが、息子さんは、父の意志を継いで買収に応じていないという。おかげで、鶴平さんの拓いた鶴平新道に、今のところ金網は設置されていない。

 喘ぎ喘ぎ強引に登った尾根は、幅の広い緩い傾斜で、山スキーのすばらしいゲレンデになりそうだった。ブナのさびた原生林に、雪化粧が美しかった。
 標高1400m地点で急に尾根が狭くなり、そこにネズコの合木があった。ここから、真狩一帯が見渡せ、箱庭のような美しい景観に見入った。
 この日、甘い考えでアイゼンを持参しなかった。ところが冷え込みが激しく、ここから急傾斜のアイスバーンが続いていた。恐れをなして引き返すことにした。登りは問題ないのだが、五体満足で下れるとは思えなかったのだ。
 二度目は6月中旬で、この日、鶴平民宿跡地に車泊したが、豪雨のため一歩も外へ出られなかった。高鷲村の友人のOさん宅に押しかけ、終日飲んで過ごした。私の運動は週に1度だけなので、体調精神状態ともに不良である。押しかけられたOさんは、いい迷惑だっただろう。

 3度目、8月初旬のこの日も終日雨にたたられた。鶴平新道を守護するかのように、大杉家の墓が登山道の真ん中に設けられている。今度は、はっきりと登山道をたどることができた。

 前回登った幅広い尾根は、夢見るように美しい極相のブナ原生林であった。幹回り数mもありそうなブナの表面には、無数の深い筋傷が見える。古い熊の爪痕なのだ。白山マタギとの格闘の歴史が思い浮かぶようであった。

 相当な雨に降られたが、深い原生林の道ではブナの葉に雨が遮られてほとんど濡れなかった。やがて前回到達点のネズコ(黒桧)に達した。そこから上は森林限界で、背丈の低い潅木帯になっていた。右手に三方岩岳の特異な岩屏風があたりの景観を圧している。急に痩せた尾根をどんどん登ると、赤茶けた土のむき出しになった激しい崩壊地が現れた。天正地震の爪痕である。
 ここから三方崩山に向かう尾根を念仏尾根というのだが、この付近で激しい崩壊を起こした場所は、どちらかといえば白川郷に向いた稜線であった。このときの地震は、噴火活動を伴っていたという記録が残されている。以来、400年間というもの、この地域に地震・噴火の記録はないが、火山の年齢から考えれば、400年など昨日のようなものということを肝に命じておきたい。白山は決して死んでいないのである。

 崩壊地の上は痩せた岩稜になり、鶴平宅跡から3時間ほどで白山スーパー林道の三方岩岳方面からの尾根道を併せる。主稜を左手にとり白山に向かって歩くと、美しい庭園風の草原が続き、わずかで山頂に達した。
 細長い山頂で、立派な標識が設置されていた。ガスのため展望はなく、雨は土砂降りとなり、早々と引き返すことにした。
 下山したら晴れてきた。なるほど、普段の行い通りだ。

 帰路、白川村保木脇に立ち寄った。帰雲城の跡地である。保木脇の集落は、埋没事件以前からあったようで、もとは「歩危脇」と書き、これは川筋の街道の危険な断崖部分を指す一般的な地名であると柳翁が「地名の研究」に書いている。
 帰雲山の崩壊地は、ずいぶん遠くからでもはっきりそれとわかる爪痕を晒している。つまり、400年前の大災害が、あまり変わらずに残されている。

 凄絶な崩壊現場は、保木脇から500m以上も上の帰雲山の山頂付近が、縦横300mほどにえぐりとられている。単純な推計で、崩落した土砂はおよそ500万トン、ダンプ50万台分程度であろうか。不思議に思うのは、崩落のズリ面が凹状で、いくら強烈な地震であったとしても、崩落のメカニズムが理解できにくいのである。もう少しいえば、あれほどの巨大な土砂が崩落するために必要な条件としての、明らかな地滑り面が確認できないのである。

 土砂崩れというものは、雪崩と同じで明確な境界面を必要とする。それが凹状をなすことは考えられない。むろん、400年の歳月が地形を大幅に変更するのは当然のことであって、確実な推論はできないが、それにしても何かひっかかると書いておきたい。

 私は一瞬、崩落の原因が採金鉱道のせいではないかと思ったりしたが、この時代は川筋の砂金収拾に限られていたことを思いだし、想像を打ち消した。
 大久保長安が、ポルトガル練金術氏伝来の灰吹き水銀法による不可視金鉱床の採掘に成功したのは、帰雲城埋没の後であった。内ヶ島氏がもし含金鉱床の鉱道採掘を行っていたとしたら、日本鉱業史を書き換えねばならなくなるのである。

 ただ、内ヶ島氏が、米の採れない貧しい白川郷に侵出した理由が、この地域に豊富に産する金を中心とする鉱物資源であったことは疑う余地がない。

 鎌倉時代後期、建長年間に、親鸞の直弟子であった嘉念坊善俊が鳩谷に正蓮寺をおこして真宗の布教を行って以来、白川郷は真宗教団の強力な拠点になり、嘉念坊直系の子孫が代々白川郷の領主の役割を担ってきた。

 内ヶ島氏は、その9世教信(俗名三島將監)を攻め滅ぼして白川郷の主となったのである。彼らは白川郷の法主を殺害して乗っ取ったのだから、真宗門徒のなかに内ヶ島一族を敵視する空気がみなぎっていたにちがいない。
 正蓮寺に立てこもった三島一族は皆殺しにされたが、息子の明心だけは乳母の機転で女児と偽って逃げ延びることができた。しかし、やがて内ヶ島氏と和解し、明心は後の照蓮寺を復興するのである。この寺は、後に飛騨高山に移転し現在に至っている。

 4代、120年にわたって白川郷に君臨した内ヶ島一族が滅亡した天正13年11月29日は、教祖親鸞の命日にあたっていた。したがって、この日付については、いささか背景を考慮する必要がありそうだ。

 内ヶ島氏が、現在価値で数兆円にのぼる金を所有していたことはおそらく確かであろうが、埋没時にそれが城内に存在したかどうかについて論争がある。

 佐々成政に加担して金森氏に攻められ敗北した内ヶ島氏里は、講話を申し入れてあっけなく許された。この時代、いかに秀吉が寛容だったとて、手ぶらで講和することもできまい。おそらく、無類の金好きで知られた秀吉のために、巨額の金を奉納したにちがいない。

 城主氏里は、生きて戻れぬかもしれなかった帰雲城に帰還できた喜びもあらわに、盛大な祝宴をはった。祝宴は3日3晩続いた。そして、その最後の日に、突如、予期せぬ山津波に襲われ、一族もろとも埋没滅亡したのである。
 長滝美濃馬場の古文献には、埋没の7年後に、この付近の庄川で大規模な採掘が行われたと記録されている。また、内ヶ島氏の家老であった山下氏は徳川家康に仕え、後に江州(滋賀県)を拝領し、さらに尾張徳川家の名古屋城普請に活躍している。これらの記録は、埋没金の存在について、悲観的な材料と考えられよう。

 保木脇には、現在住家は2軒しかない。内ヶ島氏の集落跡地には、砂利プラントが稼働している。そこに立派な神社が建てられ、なぜか観音像もあって、公園のように整備され、池には鯉が泳いでいた。

 そこに作業服を着た老人がホウキをもって掃除に励んでいた。話しかけてみると、その人がプラントの田口土建会長の田口勇一さんであった。
 この付近の帰雲城を記念する施設は、田口さんが私財を投じて整備した。田口さんは史実に関心のある私を歓迎し、さまざまの話をしてくれた。

 田口さんの建立した神社には奇談があって、そもそも神社をつくった訳は、庄川河岸にあったプラントを水害の際に現在地に移したとき、田口さんの夢枕に戦国武将の亡霊が現れ、「ここにいる我らの霊を鎮めよ」と指示したのだという。
 私はこの手の話が大好きなので、食い入るように田口さんの話に聞き入った。

 田口さんは続ける。
「ごらんなさい、神社の石垣にね。そのときの武将が現れるんですよ。ほら、その位置に立って、じっと目を凝らしてごらん。見えますか。」
「だめです」
「うーん、見える人には見えるんだがね」
「信心の問題ですかね」

 帰雲城とその城下町の住人は、およそ500人であったと記録されている。一人として生き残った者はいない。たまたま、遠方に出かけていた者が数名あったが、帰りついたものの地形が変わってしまったために、自分の家の位置さえ分からなくなってしまって悲嘆にくれたという記述も見える。
 500人の犠牲者を呑みこんだまま一度も慰霊されたことのないこの地で、はじめて慰霊祭を行ったのも田口さんであった。

 田口さんは、数年前にこの付近をボーリング調査し、埋没前の地表面を確認している。そのとき、当時の民家の梁と思われる木材も出土した。堆積層の厚さは、数十mに達しているという。

 このときの調査結果から、帰雲山に発生した巨大な山津波は、山肌を駆け下って庄川に達してそれを埋めた後、今度は対岸に向かって舞い上がり、標高300m程度の尾根に達しているという。どれほどすさまじいものだったか想像できよう。
 この土砂によって自然のダムが築かれ、数年というものあたり一帯に大きな湖水が現れていたという。このために、歩危脇の地形が変わったと考えられる。

 ところで、帰雲城の位置については諸説あり、いまだ決着がついていない。
 というのも、江戸時代の地図には保木脇の庄川左岸(川の流れ下る方向を見て左右をいう)に城跡が記載されているので、庄川左岸説が一般的である。ちなみに、帰雲山は右岸のはるか高みにある。

 しかし、戦国時代の城は山城が原則であって、河岸に城があるのはおかしいという説もある。見晴らしのよい、攻めにくい場所に城をつくるのが普通であって、だとすれば、帰雲山そのものに城があったと考えた方が合理的というわけである。

 さらに、帰雲山からは白山本峰が見える。一国一城の主というものは、眺望明媚な場所を好むもので、帰雲城帰雲山説にも説得力があるように思える。私もそう思うのだが、田口さんは、常識通り左岸説をとっておられた。


 三方岩岳 1736m 91年3月

 笈ヶ岳をめざして白山スーパー林道に向かったのは3月末であった。
 むろん、スーパー林道は閉鎖されている。豪雪地帯の大山地に無理に造られたこの道が開通するのは、例年6月初旬なのである。

 笈ヶ岳1841mは、深田久弥が「日本百名山」に荒島岳と天秤にかけて迷ったあげく捨てた山で、日本200名山に指定されている。だが、道がなく、山稜は地に足がつかぬほどの深いチシマザサの密生地帯のため無雪期の通過が困難で、雪の締まった早春に登るしかない。

 この山はアプローチが長く、1日で達することが不可能なうえ、途中、どこから入ってもいくつもの峰を上下して尾根を行かねばならない。それらの峰のなかには通過困難な岩峰も多く、多くの危険をクリアしてゆかねばならない。三方岩岳は、白川郷側から入山する場合の途上にある大関門といっていい。

 前夜、スーパー林道の真狩ゲートに車泊した。ここまで道路が除雪されていて、ここから10キロほど先の小屋まで雪上車が走っている。一般人通行止めだが、たまにクロカンを担いで遊びに来る人の姿を見かける。
 真狩には野谷庄司山の登山口があり、何度も訪れている。鶴平新道は、真狩ゲートの手前にある集落のT字路を大窪沼に向かって左折し、鶴平民宿跡の先の大杉脇から登る。大杉家の墓が目印である。

 三方岩岳登山道は、真狩ゲートの手前の川に沿って登ってゆくが、林道開通以来ほとんど通る人がなく、手入れもされず荒廃している。

 翌朝、山中一泊の装備でこのルートをたどった。少し戻って川の右岸を500mほど歩き、左岸に渡渉する。早朝、冷えこんでいたので雪が凍り、沈まずに快適に歩けた。おまけに、幸い下山者の足跡があり、容易にルートをたどることができた。登山靴でないので、狩猟者らしい。

 正面には、念仏尾根が純白の雪を輝かせ、アルプス級の容姿を見せていた。この尾根は大部分、1700m前後の標高を保っている。本来の登山道ルートは荒廃にまかせ、雑木のために通りにくく、適当に尾根を登った。積雪は1〜2m程度で、陽が上るにつれて腐りはじめ、膝まで沈むようになった。やむをえず、持参のスノーラケットを使用したが、歩きにくく苦しい。一歩一歩ラケットを雪面に蹴りこんで、確実に登らねばならない。

 いたるところカモシカが縦横にかけめぐるこの尾根、上のスーパー林道に出るのに1時間半を要した。そこから再び三方岩尾根を登るが、上部は風が強く凍っていて、アイゼンをつけた。これなら楽だ。

 やがて、念仏尾根に異様な岩壁をめぐらして、あたりを睨みつける三方岩岳の雄姿が見えるようになった。なにか、一抹の不安感が胸をかすめた。

 1時間ほどで、気象観測ロボットに達する。ここから痩せて急なスノーリッジが続き緊張する。そこに、一條の獣の足跡がついていた。たぶん狐だろう。
 その足跡は尾根のうちの、ここ以外にないと思われる唯一安全な地点を通っている。私は途中何度も地形にだまされてルートを失ったが、戻ってみると、この足跡は必ず最短距離の正しいルートで三方岩岳に向かっていた。

 およそ1時間以上もつきあって歩いているうちに、この見ず知らずの狐に親しみがわいた。三方岩岳の手前で、足跡は別の尾根に降りていった。
 「元気でな」と、つぶやいた。

 途中、地図に記載されている三方岩岳小屋を探したが、とうとう発見することができなかった。数mの積雪に埋もれているのか、あるいはすでに倒壊してしまったのか、おそらく後者であろう。

 ここは、無事に笈ヶ岳に行けた場合、今夜の宿泊予定地として計画していたのだが、残念ながら利用できない。持参のツェルトでは凍えねばならない。

 陽がさしてきていて、やたらに喉が渇く。現代文明によって破壊されたオゾン層を通過してきた紫外線の作用が強烈である。日焼け火傷が心配になった。十年後には、紫外線による皮膚癌や白内症患者が現在の数十倍に達するという。

 レトルトのお粥を流しこんで、三方岩に向かった。わずかな距離だが、高さ50mほどの屏風のような山頂岩壁の基部に立って考えこんでしまった。
 岩壁を登るのは完全なロッククライミングになるが、もとよりその準備はない。基部を回りこんで夏道を登るには、50mほど急な凍結した雪面をトラバースをしなければならなかった。

 ところが、トラバースルートには上部の雪庇からの無数の雪崩の跡があり、一歩踏みこむと凍った堅雪で表面だけズルリと崩れた。アイゼンは、ダンゴになって役に立たなかった。実に嫌な予感が走った。

 というのも、私は過去に南アルプス悪沢岳のトラバースで滑落しているのである。ピッケルは腐雪のため役立たなかったが、露出したハイマツ帯につっこんで助かった。以来、私はトラバース恐怖症になってしまった。
 しばらく考え、「ザイル確保なしには無理だ」と思った。

 しばし呆然とし、回りの景色に見入った。行く手には大笠山の膨大な山体の手前に仙人窟岳が見え、笈ヶ岳を意地悪く隠していた。すべて新雪に光輝いている。ふりかえれば、遠く北アルプス連峰が美しく、白銀の峰が延々と続いていた。笈ヶ岳どころか、三方岩岳すら越えることができなかった。

(このトラバースは、後に、50mほど下にルートがあることが分かった)
 本当は、この山に登るだけならば、夏期にスーパー林道を利用すれば30分で来れるのである。笈ヶ岳のために、わざわざ積雪期に訪れたのだ。残念無念というしかない。

 しかし、抜群の眺望と、誰一人登山者のいないこの山域を独占できたことだけでも幸福であった。冬山では人に出逢わぬほうがいい。本当の自然を、たった一人で満喫できただけで幸せである。

(参考までに、スーパー林道を通れば三方岩トンネルまで、わずが1時間半ほどで行けるが、雪崩の常発地帯を横切り、しかも雪崩のため急傾斜のトラバースになる。後に、笈岳の帰路、無理に通過したが、恐ろしい思いをした。安全登山を心がける人は絶対に通るべきでない。)

 帰路、平瀬温泉で汗を流し、南のはずれにある遠山家を見た。
 遠山家は、白川村大字御母衣という集落があったときの代々の名主の家で、白川郷合掌家屋のうちでも屈指の規模をもっていることで知られる。
 持ち主の遠山氏は、1970年までここにお住まいだったが、現在は向かいの邸宅に移転された。現在は、白川村民俗資料館として公開されている。
 (平瀬の集落は、明治に西飛騨鉱山開発に伴って集落化したもので、合掌家屋はなく、古い白川郷の住人は少ない。)

 私には、柳田国男の紀行文に登場する遠山家が懐かしくてならないのである。
 柳田は、明治42年の旅行の紀行を「北国紀行」と「秋風帖」の両方に書いているが、秋風帖から遠山家に関する部分を抜き書きしてみよう。(6月4日、遠山喜代松氏宅で昼食をとったと北国紀行にある)

 御母衣にきて遠山某という旧家に憩う。今は郵便局長。家内の男女42人、有名なる話となりおれども、必ずしも特殊の家族制にあらざるべし。
 土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことはおりおりある例なり。ただこの村の慣習法はあまりに厳粛にて、戸主の他の男子はすべて子を持つことを許されず、生まれたる子はことごとく母に属し、母の家に養われ、母の家のために労働するゆえに、かくのごとく複雑な大家内となりしのみ。

 狭き谷の底にてめとらぬ男と嫁がぬ女と、あいよばい静かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりというべきか。
 首を回らせば世相はことごとく世紐なり。寂しいとか退屈とか不自由という語は、平野人の定義皆誤れり。歯と腕と白きときは来たりてチュウビンテンメンし、頭が白くなればすなわち淡く別れ去るという風流千万なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみこれを独占し、我らはとうていその間の消息を解することあたわず。

 里の家は皆草葺の切妻なり。傾斜急にして前より見れば家の高さの八割は屋根なり。横より見れば四階にて、第三階にて蚕を養う。屋根を節約して兼ねて風雪の害を避けんために、かかる西洋風の建築となりしなるべし。戸口を入れば牛がおり、横に垂れむしろを掲げてのぼれば、炉ありて主人座せり。

 遠山家の玄関を入ると、受付に若い女性が二人いた。
 壁には、柳田の「クラシックなり白川村」といううたい文句のポスターが貼ってあった。司馬僚の紀行文にも、遠山家に感じのよい娘さんがいたと書かれていたのを思いだした。

 「あなたがたがそうですか」と尋ねてみたが、違うといわれた。
 話を伺ってみると、どちらも平瀬の方で、30才前後と見受けたが、実は私より年上の40だという。平瀬では女性が老けないのだろうか。びっくりしてしまった。
 若いのは外見だけでなく、話しているうちに20才前の初々しいお嬢さんと向かい合っている気分になった。実に楽しいひとときになった。
 白川郷の有名な大家族制についてうかがったが、狭い家のなかの共同生活で問題になる性風紀について、想像を絶する厳しさであったことを知り印象的であった。例えば、女性に生理がはじまると、ただちに別棟の小さな不浄小屋に隔離され、子を産むときも同様であったという。

 通常、父の特定できない関係では母系氏族社会になるのが普通だが、白川郷では、子が母に帰属するのは当然として、その母は生家に帰属し、数十名を養う生家はただ一組の戸長夫婦が氏族を継承するというのである。封建制度も取り入れた変形母系社会とでもいうべきか。

 かつて、(御母衣ダムの完成以前まで)白川郷では、正式に結婚できるのは戸長夫妻に限られ、兄弟たちはその家の作男、下女として働いた。男は他の家の女に通い婚をしたのだが、子が産まれても、その子は母の家の子になった。独立は許されなかった。独立しようにも、土地がなかった。

 ただし、ひとたび契りを結んだ男女の関係について、倫理は厳格なものであったという。もしも浮気をしようものなら、郷一帯で口をきわめて罵られたというから、なみの結婚より厳しかった。

 明治の世界的な建築家であったブルーノ・タウトは、はじめて白川郷を訪れたとき、「まるでスイスではないか」と感嘆し、精妙な合掌造りとそこに住む人々の暮らしを絶賛したという。

 御母衣ダムによって、合掌家屋の大半は取り壊されたが、現存するもののうちとりわけ優れた家屋は、五箇山の岩瀬家、荻町の和田家、御母衣の遠山家と名古屋市東山公園に移築されたものだという。

 遠山家は、白川郷最大の集落の名主であって、合掌家屋として最大級のものである。御母衣ダムの堰堤は、ここから数百mほど上流だから、この家も風前の灯火であった。天明年間に建立、文政年間改築という歴史による保存運動がなされなければ消滅していたにちがいない。

 世間に思われている合掌家屋の印象は、4階建ての構造家屋であろうが、実際には居住空間は1階だけである。2階から上は蚕室に利用されていた。天井はスノコになっていて、イロリの煙を通してススが屋根の防虫防水に貢献するようになっている。養蚕の時期には、煙に神経を使ったであろう。
 入口を入ると、左手に厩がある。便所(べんちゃ)は厩の裏で、外から出入りする。深い升に板が渡してあり、一度に何人もが使える。終わったらワラで尻を拭き、そのまま捨てた。こうするとワラがほどよく下肥になじみ、好気性微生物による分解を促進し、すぐれた肥料になるのである。

 私の親戚の奥さんは白川郷の出身で、「拭くときはオシリが痛かった」と、よく昔のことを言われた。それでも、昔の健康な人の便は固かったから拭き残しはあまり問題にならなかったのだろう。酒飲みの私は軟便で、ワラではたまらない。

 現在では受付になっている最初の広間がオエである。ここに、菊や葵の文様のある立派な茶釜があった。本来、白川郷ではカマドを必要とする釜を用いない。ここは蝦夷文化圏だからである。カマドは弥生人が米作農耕とともに持ち込んだもので、弥生人居住圏に広がったが、縄文人の末えいたちはイロリを受け継いだ。カマドとイロリの分布は、まさしく古代の文化戦争を受け継ぐ象徴といっていい。

 茶釜は、遠山家の先祖が領主の金森家から与えられたものと考えられる。これほどの茶器を所有するのは、金森氏以外に考えられない。
 オエの隣がデイであり、ここに戸長以外の男子全員が寝起きした。その奥が仏間の内陣で、ここに立派な仏壇がおかれている。遠山家は浄土真宗東本願寺門徒である。白川郷は、もっとも早くから真宗門徒の拠点であった。かつて、東本願寺大門の再建のために、巨大な桧材を寄進したことがあるという。

 オエからまっすぐ奥に進むと、上階に登る狭い階段があり、奥がミンジャと呼ばれた勝手場で、ここでミソや名物のドブロクがつくられた。右手がダイドコという食堂であり、ここのイロリですべての調理を行った。

 イロリは、先に書いたように蝦夷文化圏に付属するもので、すなわち落葉広葉樹林帯食文化に付随するものである。白川郷で米が採れるようになったのは、大正時代以降である。明治までの主食は、ヒエ・ソバ・クリ・ヒダミ(ナラドングリ)などであった。

 調理の方法は、鍋で煮る場合が多かったが、イロリの灰に埋めて蒸し焼きにする方法もとられ、これこそ縄文式調理と考えられる。弥生式調理を代表するセイロ蒸しが白川郷に伝わったのは新しい。
 真宗門徒は殺生を禁じ獣肉食を戒めたが、食料の乏しい白川郷では、ウサギを鳥とし(何羽と数える)、猪や鹿をヤマクジラと称し食べ続けた。豊富な川魚も大切な食料であった。ただし、食物には戸長夫妻と長男と他の男女で明確な差別があった。普通の男女はヒエを常食とした。

 ダイドコの奥がチョウダで、ここに戸長妻以外のすべての女が寝た。男部屋のデイとは直接出入りできないようになっている。チョウダの奥に戸長夫妻の四畳半の個室がある。隠居夫婦は、チョウダに設けられた二畳の押入に寝たという。

 個室が許されるのは戸長夫妻のみで、他の人々にはプライバシーもクソもあったものじゃない。しかし、戸長夫妻も、チョウダに寝る女たちが聞き耳をたてるなかでナニを行うには神経を使ったであろう。他の男女は屋外ホテルのみだから、こちらの方がかえって安気だったかもしれない。
 奥のチョウダと内陣の間に奥のデイという六畳間があり、ここは客室にあてられた。廊下の奥には専用トイレが設けられていた。

 遠山家は1827年建築として重要文化財に指定されているが、柱などにチョウナハツリ目が残されているところをみると、実際にははるかに古い建て替え建築であることが分かる。江戸末期には、すでに大部分の建物にカンナが使われ、チョウナが用いられたのは目に見えぬ梁に限られていた。

 柱の材にはクリが多く使われている。杉や桧材にはカンナがかけられている。人の手によってイロリのススをワックス代わりにしてピカピカに磨きあげられている。独特の雰囲気である。
 明治以前の住宅にはクリを使用したものが多い。現在使われなくなったのには重大な理由がある。それは、明治初期に、鉄道建設の枕木に使用するために、全国の優良なクリの大木を根こそぎといっていいほど伐採したからである。

 それまでクリは建築材だけでなく、アク抜き不要の旨くて扱いやすい準主食として貴ばれ、山村ごとに先祖から大切に受け継がれてきた。明治以前のクリ林の規模は、現在とは比較にならぬほどのものだっただろう。伐採が山村民俗の荒廃にはたした役割は極めて大きいといわねばならない。

 さて、ここで重要な未解決の問題を提起しておきたい。
 鉄砲火薬についてである。
 江戸時代、鉄砲火薬の販売元が加賀藩であったことを知る人は、本当の歴史通といえる。さらに、その産地が越中五箇山から白川郷にかけての合掌家屋であったことを知る人は、本物の歴史家であると保証する。

 さらに、その原料が下肥と青草であったことを知る私は、タダの人であった。
 日本に火薬が伝来したのは、種子島であった。鉄砲記という記録にそれが載っているのだが、それによれば同時に火薬の製法も伝授されたことになっている。

 ところが、現在の日本史研究者の定説では、戦国時代、日本に煙硝と呼ばれた火薬原料は存在せず、すべてを南蛮貿易に頼っていたとされるのである。今のところ、この考えに異議を唱える学者はいない。
 だが、この解釈では、日本史に大きな不都合が生じる。織田信長の三千丁にのぼる、当時世界最大数量の鉄砲の製造所有も、長篠の武田氏との決戦も、歴史的背景に疑問が生じるのである。私は、この問題で、日本史学者の程度の低さにウンザリし続けてきた。

 すべての歴史的事件の、背景の物質的条件を証明しなければ歴史研究というべきでない。現在の学者たちは、学問の権威にアグラをかき、恣意的な思いつきで学説をゴマかしているように思える。読者諸士には、タダの人にすぎない私に批判される日本の歴史学のあさはかさを知っていただきたい。

 南蛮貿易が盛んであったといえども、戦国時代すでに万に達していた鉄砲の火薬を、諸大名はどのように調達していたのか。南蛮貿易で、必要なすべての火薬が供給されたと考えるのは事実に反している。
 よく知られているように、初期の鉄砲火薬は黒色火薬と呼ばれ、硝石・硫黄・木炭を混ぜたものであった。硝石の主成分は、硝酸カリウムであって、現在ではナチス化学者の発明した空中窒素電圧固定法によって製造されている。

 それまで、チリなどから輸入された、海鳥の糞が堆積してできる硝石を利用していたことは大くの人が知っておられよう。
 日本では硝石を産しなかった。(実際には、僅かにあったらしい)
 日本では、「煙硝」を代用したのである。煙硝とは、古い民家の便所の付近の床下などに、白く薄い皮膜として被っている代物である。昔の人なら、たいてい記憶を残されているのではないか。なめると塩っぽいので、塩硝ともいわれた。

 種子島で鉄砲とともに伝えられた火薬の製法は、疑いなく煙硝の製法であったと推論することができる。煙硝は、糞尿と家屋につきものだからである。それは人間生活の日常に付随するものであり、どこでも得ることができた。13世紀、元帝国で使用された最初の大砲も、煙硝を原料にしたにちがいない。

 白川郷合掌家屋に伝わる煙硝の製法は、床下を深く堀り、そこに大量の青草を敷き、上に大量の厩肥下肥を積み、さらに青草を重ね、何層ものサンドイッチにして床に達するまで積み上げた。
 数年すると、そのなかに氷のような煙硝の結晶ができた。それに灰を混ぜ、大鍋で煮つめると製品ができあがった。これは非常に水に溶けやすいので、必ず屋根の下で、しかも冷涼な豪雪地の気候が適していた。
 戦国時代、金森氏の領地となった白川郷で、煙硝の製造と合掌家屋の発達が無縁であったとは考えられない。合掌家屋は、まるで煙硝製造のために設計されたようにさえ見える。

 江戸時代、煙硝製造は極秘にされ、加賀藩の専売事業となった。白川郷の煙硝も、ブナオ峠という秘密のルートを使って加賀藩にもちだされた。
 遠山家の床下でも、例外なく煙硝がつくられた。さぞ臭ったことだろう。建物の改築頻度からも、それを窺うことができる。湿度の高い床下があっては、建物の寿命が短くなるのは当然である。

 さて、戦国時代の戦争史を考えるうえで、火薬供給を解明することがどれほど重要か理解されるだろうか。信長は、なぜ三千丁の鉄砲を所有する気になったのか。その火薬のアテをどこに求めていたのか。白川郷の煙硝製造はどのような歴史をもっているのか、興味が尽きないのである。

 平瀬からの帰り道は、御母衣ダムの堰堤を過ぎ、左手に巨大な御母衣湖を見る。この日、冬の渇水期のため極端に水量が減り、満水面から数十m下が現れていた。
 庄川村に入ると、湖の中に大きな平原が見えた。そこに規則正しい石の配列を認め、あわてて車を路肩に寄せた。
 御母衣湖に沈んだ、庄川最大の集落であった岩瀬の里が現れていたのである。

 すぐに薮をかきわけて湖畔に降りていった。
 そこには、池があり、田があり、井戸があり、道があり、肥桶が埋まり、家の礎石が整然とならび、石垣は昨日組んだばかりのように整然としていた。

 私の脳裏には、合掌集落のならぶ岩瀬の里で、縄文のいにしえから続けられてきた、人々の暖かい生活の有り様が浮かんでは消えた。小さな踏み減った石段で、無数の人々が、泣き、笑い、怒り、楽しみ、ふるさとを愛し、人々が助け合って生き、そして死んでいった光景を想った。

 この楽園を、「国民生活の向上」とやらが襲い、人々を追放し、里というかけがえのない宝を葬り去った。
 電力はきた。車も買えた。だが、とてつもなく大切ななにかが消えていった。本当に豊かになったのだろうか。この岩瀬の里にあった、美しいものはなんだったのだろう。私たちは、物質文明によって、実は本当の豊かさを奪われたのではなかったのか。

 分業を歴史の発展の必然段階であるとするならば、分業から生じるすべての矛盾は避けられないものかもしれない。分業がなければ、岩瀬の里は滅びずにすんだ。分業が人々を豊かにし、そして滅ぼしてゆく。
 帰り道、こんなことを想った。


 鷲ヶ岳 1672m 91年11月

 高鷲村にOさんという古い友人が住んでいる。名古屋の会社に勤めていたときに知り合って、もう十数年のつきあいである。
 今は、ふるさとにユーターンして鷲ヶ岳スキー場に勤めているのだが、もう100年も前からそこの主でいるように存在感があって、包容力のある人柄がまわりの人々の信頼をあつめている。

 キノコのシーズンになると毎年訪ねてゆくことになっている。しかし、今年は少々時期が遅いので心配だった。
 11月末、O家に着くと、ちょうどわが友、ご主人様の御帰宅とハチ合わせした。今年、41才になるO氏とひさしぶりのご対面。穏やかな顔の額が、以前より明らかに後退し、てっぺんも白さを増したのが侘びしい。

「よー、やっとかめだなん、元気かい。」
「おいさ、ちっとくたぶれとるわいな、仕事ができんでメシの食いあげよ。」
「キノコがようできとるわい、うめーぞ。」
「もう遅いと思ったけんど、なんだいな」
「ほれ、例のナメコとヒラタケよ。シイタケもええぞ」
「山のキノコはどうだいな。」
「山のはもう遅いわ、ありゃー紅葉までだ。今年はシモフリゴケ(土生菌をコケという)がようとれた、だけど、ロウジはさっぱりだわい。モタセ(木材腐朽菌)はできがええ、アカゴケもあんまりようなかった。」
「そりゃあかん。ロウジ喰いたさにわざわざ来たんだいな。」
「ぜいたくぬかすな。ほれ、あがってナメコ喰え。」
 「ロウジ(クロカワ)とアカゴケ(ショウゲンジ)が悪いのは、いよいよ酸性雨だろうかな。」
 「そうかもしれんなー、杉が痛むようになったでなー。」

 山のナメコは旨い、こいつは醤油をつけて焼くのが一番いい。口のなかにうまみがジューっとひろがるのがたまらない。オガクズ栽培のものとは大きさ、形、味ともに似ても似つかない。ヒラタケも、スーパーなんかで売っているシメジと同じ菌なのだが、原木栽培のものは味が全然違う。うまみがケタ違いである。

 これらは、5年ほど前に私が津市の森種菌から種駒を購入して、Oさんと一緒に種付けしたものである。(種駒は一律千個1袋2400円)Oさんの山では、今では、毎年食べきれないほどのキノコができる。出荷したくても、忙しくてできないのが残念である。

 焼酎をウーロン茶で割って、ぐいぐいやりながら世間話に花が咲いた。聞けば、名古屋育ちの愛妻も慣れぬ田舎暮らしにも馴染み、今度ダイナランドの社員になったという。
 田舎は給与水準が低いので、家族が多いと生活も大変だ。もっとも、通年雇用する側も稼ぎ時が限られ、確実性のある見通しを前提にできない事情もある。(高鷲村のスキー場は、古川興業などの名古屋資本ばかりである。)

 それでも、Oさんも奥さんも名古屋の生活に戻りたいとはいわない。子供達も名古屋のようなイジメもなく、比較にならないほど伸びやかで健やかに成長してゆくのが楽しみだという。

「おい、ぼちぼちこいつを出荷したいのう。」
「そうじゃ、出荷せんと腐らせるばっかりでもったいないわ。来年はなんとかしたいな。どこぞの生協にでも話をつけて、自然食品として出すことにするか。」
「オレとこのは、野菜でもキノコでも薬なんか使っとらんし、みんなうめーぞ。たまにマーケットで買う野菜なんぞ、カスのようで食えんわい。」
「おいさ、来年はやるべさ。」

 翌朝、Oさんの案内で、鷲ヶ岳スキー場からの登山口を教えてもらった。場所は、一番高いトリプルリフトの終点にあるのだが、この時期、そこまで延びている林道を車で利用できる。

 案内を書いておこう。鷲ヶ岳スキー場に向かうと冬季の通行料徴収ゲートがあるが、その先でスキー場へ行く道は左手に曲がってゆく。角に銅板製の鷲ヶ岳由緒の説明看板があるが、そこの直進する狭い林道を行くと、ゴルフ場を抜けてしばらくでT字路になる。それを左に行ったつきあたりがトリプルの終点で、その付近の林道の待避場に車を停めることになるが、4WDでないと危うい。

 この登山口は、鷲ヶ岳から西に延びてスキー場を結ぶ一番大きな尾根を行く道である。立派な標識がでていた。「鷲ヶ岳まで4・5K」と書いてある。
 残念ながら天候には恵まれず、冬型気圧配置特有の、どんよりと濁った空で、いつ雪になっても不思議でない。

 わずかに歩くと、この幅の広い尾根を幅5mほどに伐採してスキーコースがつくられていた。人の歩いた跡は少ない。30分ほどで、1403mの三角点のあるピークに達する。ブナノキ平といい、数本の大きなブナがある。

 すると、左手に延びる尾根の上に4台ものユンボが現れ、尾根をかきむしっていた。あたり一帯に轟音が響きわたっている。左手の鷲見の集落にいたるまで見渡す限り皆伐してあって、むきだしの漆黒の土が空恐ろしい。

 どうやら鷲見集落に、新しい、それもかなり規模の大きなスキー場を建設中で、しかも、そこから鷲ヶ岳スキー場へ抜けるコースとして整備されているようだ。高鷲村一帯は、リゾート開発法が施行されて以来、間断のないすさまじい開発がすすんでいる。長良川源流地帯のかつての原生林の面影は、完全にむきだしのリゾート地に変わってしまった。

 これだけのゴルフ場とスキー場ができるまえの原生林のもっていた保水力保土力は、莫大なものだったはずである。それが失われて、その機能に代わるものが用意されたのだろうか。まったくゼロである。

 ということは、最大級の保水保土能力を要求される大規模降水があった場合、モロに長良川に降水と土砂が集中するのは自明であって、大水害が発生するのも自明である。その対策も「ゼロ」である。いったい、どういうつもりなのだ。

 長良川といえば、土建業者の仕事つくりのための河口堰が問題になっているのだが、この巨大な保水保土破壊の末端で、あのような障害物がつくられることを考えると恐ろしいというしかない。

 かつて富士川であったような、「数千年分の侵食が1日で行われた」といわれたほどの水害がもたらされるのは必至と考えるべきだろう。金欲に目が眩んでしまっている人々には、このような常識さえ見えなくなってしまっているのである。

 そこから道は普通の登山道になって、右手にカーブしてゆく。いくつかの尾根を上下すると左手が広大な皆伐地帯で、杉の植林がされている。右手は、伐採される前の美しいブナ林の様相を残している。小雪が降りはじめた。

 あとでOさんに聞いたのだが、皆伐された直後、ここで地元のおじいさんが座ってブナの林を見つめたまま死んでいたという。おじいさんは何を思って、ここを死に場所にしたのだろう。

 しばらくで、再び林道に飛び出した。これには唖然。どうやら、先のT字路を右折するとここに来るようだが、工事中である。
 わずかで、できたての御堂がつくられていた。「いっぷく平」と書かれていて、鷲ヶ岳の名の由来となった鷲を射抜いた源氏武者をまつっている。今なら、さしずめ特別天然記念物保護法違反で懲役だ。野鳥の会の人たちならメクジラをたてるだろう。

 林道はここでおしまい。道も踏跡程度になった。急なコブをいくつか上下すると、道はいよいよ悪くなって、背丈をはるかに超えるチシマザザの密生を分けながら行くようになる。
 急な傾斜を登る頃になると、踏跡も定かでなく完全なヤブコギである。このあたりからササに雪が載っていて雨具をつけていても体が濡れる。ガスのため、ルートファインディングも困難だ。

 必死になってササを分け、ようやく稜線にでると、庄川スキー場方面からの踏跡を併せるが、こちらの道もよいといえるほどではない。右手20mほど先に、山頂の標識があった。ここまで、登山口から2時間半程度。

 運動靴と軍手で雪を被ってきたので、ガタガタふるえがきて手足が凍えた。あわてて手袋と靴下を替える。
 狭い頂上に「平成元年歩け歩け大会」という柱が立っているが、道は苔むして全然歩かれた跡がない。ここを訪れる登山者は希なようだ。         
 もう寒いばかりで展望はなく、降雪もひどくなったので休むヒマなく下山開始。
 いっぷく平まで戻ると暖かくなり、ほっとした。林道経由で車まで1時間半。どうも、自然破壊のエゲツない場面に悪酔いしてしまって、その夜のOさんとの宴会は盛りあがらなかった。


 大笠山 1822m 1992年8月中旬

 白山北稜を代表する大笠山に登ったのは、暑い暑いお盆の連休であった。
 長期の連休がとれたのだが直前まで予定がたたず、フラッと部屋を出て、思いつくまま、登り残していた会津付近の山々を歩き、次に朝日連峰に向かい、最後に大笠山に登るという気ままな登山旅行を行った。

 どういうわけか、このときは一等三角点の山が多くて、会津駒・浅草岳・大朝日岳に一等標石を見いだし、最後のこの山にも一等点の標石を見いだした。私は測量ライセンスも取得していて、一等点には感慨が深いのである。
 登りはじめの尾瀬平ヶ岳は、体調不良でしんどかったが、最後のこの山も、疲労の蓄積のため、かつてないほどしんどい思いをした。本当をいえば、疲労以上に恐怖心によって、あまり後味のよいものではなかった。

 この山には、五月中旬に一度訪れているのだが、白川郷を経て登山口の桂に出向くと、境川(越飛国境)ダムの建設工事が進行中で、立入禁止区域のため現場監督に追い返されてしまった。(1993年10月再開、但し積雪期には入口の吊橋の踏板が外されている)

 すでに桂の集落など跡形もなくて、ダム工事も大部分が終了し、後は貯水を待つばかりになっていた。古い桂登山道には新築の立派な吊橋がかかっていたが、その先の登山道は工事中であった。いずれ、遊歩道風の散策ルートを整備するつもりかもしれない。

 桂は、越中五箇山(上平村)最奥の合掌集落であったが、すでに30年も前に集団離村して廃村になっていた。越飛国境でもある、集落の背後の小さな尾根を超えると、飛騨白川郷最奥の集落である加須良の合掌集落があった。

 この二つの集落は国が異なるとはいえ、事実上ひとつのカヅラ村(名の由来は双方とも葛橋による)として機能していたが、加須良も桂の後を追うようにして集団離村してしまった。加須良の合掌集落は、現在荻町に移築され、合掌集落記念館として公開されている。

 この二つの集落の離村した時期が、この集落に念願の道路が開通した時期に一致しているのは、なにごとかを物語っているようだ。人々は、開通したばかりの道路を利用して出てゆき二度と戻らなかった。過疎地住民の熱望する道は、彼らを離散させる道なのだ。私はこれと同じ例を全国で聞いている。日本の過疎山村に共通するパターンなのである。

 大笠山には、石川県側の福光を経てブナオ峠から入った。午前中にブナオ峠に到着し、その日のうちに登れるところまで登っておこうと思っていたのだが、ブナオ峠で荷物の支度をしているうちに、なにやら疲労が出て眠くなり、登る気力が失せてしまった。

 会津や朝日の山々では、さんざん虻に苦しめられ、両足はボコボコに腫れあがってしまっていた。ブナオ峠の虻はウシアブよりもクサアブが多かったが、会津といささかも変わらぬしつこさで、うんざりしてしまった。この先、憂欝である。

 早朝、幕営道具一式と、5リットルの水を担いで登り始めた。地図で見る限り、すべて尾根ルートで、水が得られる地形とは思えなかったからである。結局、この予想は正しかった。
 ブナオ峠からは、自然公園として整備された立派な登山道がついていた。この上にある大門山(1572m)への登山者が多いと見えて、しっかりと踏まれた道である。

 しかし、役所仕事を象徴するように無用な整備の度が過ぎていて、高低差の大きい丸太土止めの階段が実に迷惑であった。少し山慣れた方なら日本中の山で同様の経験をされているはずで、役所の事業とは、思いやりとは無縁のものであることを端的に思い知らされるのである。連中は金を使いさえすればよいのだ。

 2時間で、左に赤摩古木山への分岐があり、そちらに向かう。白山主稜尾根で、白山を経て油坂峠をつなげば、実に関ガ原の国道1号線まで尾根が絶えることなく続く。右へ向かえば、延々と能登半島の先端まで尾根が続いている。

 緩い尾根道を上下して、30分ほどで赤摩古木山の山頂に立った。すでに陽は高く、暑苦しい1日を予感させた。手前の笹薮に、赤茶のマムシが3匹出ていて、アブの襲撃とともに憂欝になった。
 山頂には、傾いた木製のテーブルと椅子が設置されていて、なぜか避雷針まであった。自然歩道のように整備されているが、訪れる人は少ない。よく晴れていたが、雲が多く、展望は得られなかった。

 ここから見越山のコルまで150mほどダウンするのがもったいないが、ここまで来る人はさらに希で、まさしく秘境の雰囲気が漂う。気分を損なう伐採地のトラ刈は見えず、実に気分の良い原生林ばかりである。
 道に、真新しい湯気の立ちそうな緑色の大きな糞を見つけた。径3、4cmほどで、体重100Kg以上の動物のものであろう。イノシシか熊のものと思ったが、おそらく後者だろう。この時期、緑葉ないし緑実を食べているのだろうか。

 コルに水場を期待したが、得られそうになかった。ここから見越山頂まで、250mほどの急登がはじまる。
 途中、犀川源流の大笠山にいたる主稜尾根が見渡せ、雄大で美しい原始の雰囲気に酔った。「すばらしい!」の一語だ。これほどの犯されざる山岳景観は、白山全域を通じても白眉といわねばならない。日本人は、これほどの美を21世紀までにどれほど残しておけるのだろう。我々にとっての美は、林野庁官僚にとっては旨そうなエサなのだ。次回来るとき、この景観は望めそうにない。
 左手に、異様な崩壊地の岩磐が見えた。非常に印象的な景観であった。

 見越山の登りは、台風によるものか相当に荒廃していた。階段状の土止めはバラバラになり、急傾斜なのでスリップに神経を使う。おまけに、途中数匹のマムシが顔を出していた。異様に多い。

 持ち帰れば数千円で売れるそうだから結構な稼ぎになるが、私は長いものに巻かれるのが得意でない。本職のマムシ採りは、スルメと女の髪の毛を焼く臭いでマムシをおびき寄せ、一網打尽にするそうである。

 マムシはハブやガラガラヘビと同じクサリヘビ科のマムシ亜科で、毒性はハブより弱いと思われがちだが、実は五倍ほど強い。それなのに、被害がハブほど深刻にならないのは、毒量の多寡によるものである。
 日本では年間数百名が咬まれているが、後遺症を伴う被害は少なく、死亡例は年間数名にすぎないから、それほど恐れる必要はない。

 咬まれたらすぐに血清を、と考えるのはあさはかで、毒による害よりも、血清蛋白による抗原抗体ショックの害の方が重い場合が多いという。したがって、慣れた医師は、よほど症状を見きわめなければ血清を使用せず、殺菌程度にとどめるという。血清は、かなり遅れても有効だという。

 ただし、吸毒については賛否両論あって、切開による細菌汚染を考えれば有害という意見があるが、私自身は、スズメバチやウシアブなどの刺傷の経験を考えれば、絶対に有効だと考えている。ただし、咬まれて30分以内でなければ吸毒の有効性はない。登山用品店にアメリカ製の吸毒キットが売られていることがあるので、おすすめしたい。これは、アブとハチにも有効である。

 マムシの咬害が問題になるのは、夏から秋にかけてである。8月から9月にかけて、マムシは7〜10匹の子を産む。マムシは腹中で子が卵を破り、成体で出生する。これを卵胎性という。抱卵期のマムシは神経質で、攻撃的になる。この時期は動作が鈍く、すばやい逃避ができないので攻撃に頼るしかないのである。このようなマムシはトグロを巻き、鎌首をもたげ、追っても逃げようとせず、およそ50センチもジャンプして攻撃することがあるので要注意である。

 温血動物を咬むときは、目と鼻の間のくぼみにあるピット機関という赤外線センサーで相手をとらえ、ジャンプして咬むのだが、これはマムシ亜科に共通する特徴で、赤外線センサーを装着したミサイルがサイドワインダー(ガラガラヘビの別名)と命名されているのは、この原理によるものだからである。

 以前、東北の林道を車で走行中、道端のマムシがマフラーに向かって飛びついたことがあった。
 今回、白山周辺で多くのマムシを目撃するうちに、私は出没地点にある共通点があるのに気づいた。それは笹薮の存在で、それも枯れるか伐採するかして、マムシが身を隠すに十分な笹の葉に覆われた場所であった。普通の薮混じりの樹林では姿を見ず、笹の存在が大きな条件だったのである。

 ところで、マムシは集団生活するということも覚えていた方がよい。つまり、マムシを一匹発見したならば、その付近に数十匹いると思わねばならないということである。
 こんなことを書くと、山に対する恐怖感を煽りたてるようだが、実際には、熊やマムシの害など事実上ほとんど問題にならない。私の知人にも、数十年にわたって千回を超える登山を重ねてこられた方がいるが、マムシや熊の害を受けた話など聞いたことがない。私自身、600回そこそこの登山経験だが、数えきれないほど遭遇経験はあっても、被害経験はない。大部分、向こうが先に逃げてくれるからである。むしろ、虻やヒルの方が問題になるのである。

 それに、登山者たるもの救助設備のない山中を歩くこと自体に価値を見いだすべきであって、いざという場合の覚悟を定め、漢祖劉邦のごとき天命主義を自覚すべきだろう。危険も含めた自然と人生を楽しむべきなのである。危険ばかりを思えば、人間の逞しい想像力は無制限に恐怖をつくりだすものであって、自分自身の空想にがんじがらめに縛られることになりかねない。

 見越山(1621m)の山頂は、狭いが展望雄大。ブナオ峠から3時間半程度、軽量ならもっと早いだろう。赤茶けた火山灰の土質で、テントを設営するスペースはなかった。

 ひどく暑くなり、水を大量に飲んだ。汗のため股ズレをおこし、ジーパンを脱いでパンツ一丁で歩きだす。この広大な山地に人影はない。奈良岳へ向かう下降路でスリップ、倒木で膝を切り出血。心配になるが、これも天命。
 見越山から30分程度で奈良岳(1644m)山頂。2等三角点主点である。立派な標識があった。辛うじて1張り程度幕営可能。帰路の幕営地点候補地だ。

ここに石川県側からの登路が記されているが、荒廃して通過困難。
 いよいよ大笠山へ向かう。すでに昼になった。時間節約のため、食事は黒砂糖とレトルトのお粥で我慢。黒砂糖は非常に良かった。

 奈良岳を下降すると、広い尾根上の湿原地帯になった。ところどころ池があるのだが、水は完全に腐敗し飲める代物ではない。道も不明瞭になり、ルートファインディングを必要とする場所もある。
 しばらく、歩きにくい鋸の刃のような上下を繰り返す。猛暑のせいか、マムシは影をひそめた。笹を伐採してあって、歩きやすかった。感謝。だが、荷物が肩に食い込むのを自覚するようになり、バテを感じた。

 やがて、緩い登りになり、左奥に苫屋に似た笈ヶ岳が見えた。赤摩古木山からみた巨崖が目の前に現れ、岩というよりザレであることを確認した。これも、ことによると天正地震の遺物かもしれない。

 最後に、急登をつめて大笠山の広い山頂の一角に達し、桂からのルートを併せた。そこから10分ほど水平に歩いて、とうとう大笠山の山頂広場に達し、そこに一等三角点標石を見た。
 負傷したヒザは血まみれになり、ひどく疲労を感じた。ブナオ峠から、実に8時間。一人で万歳三唱しているうちに、ジーンときてしまった。残念ながらガスのため視界不良。

 山頂は、立派な広場につくられ、椅子やテーブルが自然公園のように整備されている。こんな山奥に設備をつくっても、利用する人がいるのか半信半疑である。いったい、どういうつもりなのだろう。

 山頂広場は幕営に十分な広さがあるが、残念なことに水が得られない。地図で見ると近くに池があるが、激しい笹薮漕ぎが必要になる。もし得られるとすれば、大畠谷の源頭であろうか。ここは傾斜が緩く、下の方に水音も聞こえた。
 笈ヶ岳方面には、わずかに笹を分けた跡があった。標識テープも付いている。どうやら夏期の縦走者があったらしい。

 この日、余裕があれば笈まで縦走する予定ではいたのだが、少々歩いてみると、猛烈な笹籔のなかに体が浮いて、足が地につかないほどの厳しい籔漕ぎが要求されそうだった。結局、負傷が心配で引き返すことにした。

 山頂で1時間ほど休憩し下山、奈良岳で5時になり幕営を考えたが、涼しくなったせいか、いたるところにマムシが出没しだした。気持ち悪くて、無理にでも帰ることにした。

 これほどにマムシが増えた理由は、一説によれば、麓の山村の住人がいなくなってマムシを採らなくなったこと。それ以上に、マムシを主食する猛禽類が減ったことだという。すなわち、自然破壊のツケなのだ。
 見越山までは元気だったが、赤摩古木山ですこぶる苦しんだ。大門分岐からヘッドランプを使用しなければ歩けなくなった。すっとばして、8時にブナオ峠に帰着。通算14時間の歩行になった。


 笈ヶ岳 1994年4月末

 笈ヶ岳は、私にとって幻の山だった。あるときはブナオ峠から挑み、あるときは馬刈口から挑んだが、過去2度退けられていた。
 遠い、遠い遥かな幻の峰、その姿を望むことすら困難な深山中の深山の名峰、見るものの心を打つ千金の茶碗も、笈に見られるなら恥を知って姿を隠すだろう、と名文調で書きたくなるほど、この山は一癖を自認する山好きたちの憧れの的である。

 これほどに見事な錐峰は、私の知る限り、北アに槍ヶ岳、南アに甲斐駒そして池口岳、北海に利尻、南海に開聞と数あるなかでもベストを争うものであろう。形が中途半端にシンメトリックでないところが実に渋い。実際に登ってみての味わいは、さらに渋い。なんといっても登山道がついてないのである。そのくせ、山頂からの眺望は360度の豊潤な大景観で、期待を裏切らないばかりか、白山連峰の未知の視座をも与えてくれるという至り尽くせりの絢爛豪華な山でもある。

 深田久弥が、笈ヶ岳を百名山から漏らし荒島岳に変えた理由は、ただ彼が登れなかったという事情によるものだが、晩年に中宮温泉から登頂に成功したとも記されている。

 荒島岳も、山頂の電波搭さえなければ決して悪い山とはいわぬが、笈ヶ岳をさしおいて百名山に選ばれるだけの内容はない。それは、両者に登ってみればすぐに分かる。歴然とした風格の差があるのだ。

 私は昨年、一応百名山を完登したのだが、笈ヶ岳の風格は、百名山並べたなかでも上位に位置するものと評価したい。深田久弥は、笈ヶ岳に登った後、百名山の差し替えを行なう必要があっただろうが、あまりに権威化しすぎて本人も手がつけられなくなってしまったのだろうか。

 三度の挑戦にして、雪と藪を分けてようやく立つことのできた山頂は、眺望、景観ともに荒らされぬ大自然の真っ只中にあり、期待に違わぬすばらしいものだった。何よりも、この山がザラにない本物の名山であることを実感することができた。

 単独行専門の私にしては珍しく、この山行には同伴者がいた。アマチュア無線で知り合ったJO2SOX加納さんで、加納さんは54歳になるにもかかわらず、仕事で鍛えた体力にものをいわせたクライミングが得意で、私と連れ立って何度も近郊の岩場に出かけている。

 私が案内役ということなので、コースは勝手知る白山スーパー林道馬刈口からの縦走に決めた。この山には登山道がなく、籔もひどいので、登山適期は積雪期に限られる。以前、大笠山頂から伺った様子では、背丈を超える密生した根曲りの笹藪が行く手を阻み、夏季縦走は厳冬のアルプスより条件が厳しいように思われた。

 5月の連休は、最後にして最高のチャンスである。この時期、全国の秘峰愛好家達が登頂を狙って押しかけてくるので、ルートが明確に示されることになる。
 初日は生憎雨で、白川村とならぶ合掌の里として知られる上平村に遊びに行って、平瀬遠山家と共に最大級の合掌家屋として遺された赤尾の岩瀬家を見学した。

 岩瀬家は、もともと越中上平村、煙硝支配の藤井家が江戸末期に途絶えたときに、これを買取って維持した家系で、先祖はどうやら三河岩瀬からでているというようなことを当年米寿の矍鑠とした当主が説明されたので、ひょっとすると私の父方の遠縁の親戚筋に当たるかもしれない。

 内部の柱は欅の尺角物で、梁は松と桧で、栗材が少ないのは建築年代が新しく(江戸後期であろう)、相当な権力階級に属した家系であった証拠と思われる。
 内部の造作も、簡潔にして機能的にできている。やはり真宗大谷派に属すると思われる絢爛豪華な仏壇があり、脇に棟方志向作、赤尾道宗の版画が掛けてあった。

 当主は、これこそ志向が当家に滞在したおりに道宗の行跡に感動して彫り上げたものと言われた。赤尾道宗は蓮如の弟子で、一向一揆の軍事的指導者であったらしいが、その行跡は埋もれている。いずれ世に紹介されるときも来ようが、誰の手になるか楽しみだ。

 版画に挿入された、「くれぐれも油断あるまじき候」という語句が、この人物の世界観を象徴しているようで、ひどく印象に残った。
 西赤尾から、笈ヶ岳に到る大笠山境川(桂)ルートと加賀に抜けるブナオ峠道があり、様子を見に行くことにした。ブナオ峠は、積雪のため通行止めであったが、境川は通行できた。以前訪れたときはダム工事で通行止めとなっていたのが、その工事も完成し、10年ぶりに登山道入口まで車で入ることができた。

 すでに水を湛えた湖面は青く、周辺には立派なトイレや駐車場など観光施設が整備されていた。登山道入口の日本百名谷、大畠谷(おばたきたん)には大きな鉄製吊橋がかけられていたが、その踏板は積雪期のために外されていた。数十メートル下には雨で増水した濁流が流れ、この谷の過酷な登攀遡行レポートを思いだし緊張させられた。

(後に、このルートは93年10月に登山者に開放されたことを知った)
 翌日、6月中旬まで閉鎖された馬刈料金ゲートに車を駐車し、三方岩岳旧ルートをたどったが、林道開通以来、登山道はさびれ、沢には工事消費目当ての無意味な砂防ダムが増設されていて、膝上の冷たい徒渉を強いられることになった。

 さらに道を失って、前回同様、籔漕ぎ構わずに尾根に取付き、強引にスーパー林道展望台に登りつめた。途中、規模の大きなブロック雪崩が雪煙土煙を巻きあげながら連続して起きるのが見えた。
加納さんは初めて見るらしく随分興奮していたようだ。地こすりと呼ばれるブロック雪崩は春の日本海側山岳の名物なのだ。

 展望台付近には休憩用家屋も建設され、幕営登山者の姿もあった。ここからは根雪の世界で積雪地帯にはトレースもあり、三方岩岳の手前の迷い尾根も難なく通過し、前回引き返したトラバースもあっけなくクリアした。

 ここは、凍ってさえいなければ容易な場所で、前回の失敗は凍結した急な岩場の基部を直接トラバースしようとしたことだった。実際には、それより50mほど下の緩い雪の斜面にルートがあった。ここは、夏道を経験していないと分かりづらい。

 三方岩岳の山頂は広いが風が強く寒い。しかし、笈ヶ岳の軽装往復なら、この付近に幕営するのが負担が軽くてよいかもしれない。
 我々は、瓢ヶ岳を越えて国見山頂に幕営した。極めて広い平坦な山頂で、快適な幕営地である。ここからは仙人窟岳が見事に眺められるが、笈は影に隠れて見えない。大笠山から医王山にかけての犀川源流の荒らされぬブナ帯が、雪に覆われて美しく心に染みいるが、この景観がいつまで保たれるのだろうか。

 臨調以来の林野庁独立採算制が、日本の真の自然を処刑破壊してしまった。中曾根康弘もメザシの土光敏光も、いずれ、劣悪卑劣な自然破壊犯罪人として歴史に記録され処断されることだろう。だが、他国の自然を凌辱して豊かさの幻影に酔う我々日本人が、自分たちだけ美しい自然環境を得るのは、もっとおかしい。日本は滅ぶべきなのだとも思う。

 山頂のテントから、UHF・1Wで島根県と無線交信することができた。距離にして400Km、山岳反射と海上ダクト性伝播などの好条件が重なったのであろう。

 用便に崖を下りると、そこは垂直に300m以上すっぱりと切れ落ちた断崖絶壁で、仙人窟岳に到るまで巨大な垂壁になっていることに気づいて冷や汗をかいた。これほどの規模の岩場が何故知られていないのか不思議に思った。これまで国見山のクライミングなど聞いたこともなかったが、いずれ、奥鐘山や海谷・明神とならぶ未開の岩場として開拓される運命にあろう。岩質は、名張に似た安山岩柱状節理のようだ。

 仙人窟岳は名の通り修験の行場であったことは疑いなく、実に行者好みの風格のある山だ。古には天台宗系白山権現の行者達の拠点となっていたのであろう。おそらく、溶岩洞窟が点在しているのではあるまいか。
 山頂には、どこからともなく熊の独特の体臭が漂っていた。近くに大物の熊がいるらしい。普段、人跡のない場所だけに、熊の縄張になっているようだ。

 翌朝、加納さんと仙人窟岳に向けて軽装で出発した。水をつくるのに燃料を大量に消費し、やや不安が残る。急な雪壁を下りると、途中に相当な大熊の足跡があった。幕営地点から100mほどの場所だ。遭遇できなくて残念だった。

 仙人窟に到る稜線では、遠くに春を告げる地こすりの号砲が絶え間なく聴こえる。我々の足元も、雪の状態が不安定で、雪庇がいつ崩壊するともしれない不安があった。クレバスが至るところに口を開け、転落を誘っているように見えた。

 強烈な日差しに灼かれて、ひどく咽が渇いたが、水が少なく憂鬱だった。仙人窟山頂手前で雪が消え、籔漕ぎを強いられたが、手強い根曲り笹ではなく容易に抜けることができた。これが大笠山からなら、こんな訳には行かない。

 仙人山頂からはすばらしい眺望で、笈ヶ岳のピラミッドが実に見事だ。これほど美しい山の姿は過去にあまり見たことがない。わざわざきた値打ちがあった。
 仙人窟と笈ヶ岳の中間には8mほどの岩場があって、3級のフリーソロでこなしたが、帰り道固定ロープがつけられているのを確認した。それほどたいした場所ではない。

 この付近から稜線の根雪が消え、藪がむきだしになっていた。笹と手強い灌木に悩まされながら、国見山頂から3時間ほどで笈山頂に達した。思ったより遠い。

 山頂は5坪ほどで、笹に囲まれていてあまり広くない。登頂者が多いのにびっくりした。話しを聞いてみると、境川ルートから登った人が多いようだ。あのルートなら、往復10時間もあれば登れてしまう。私は、この時点で桂ルートの開通を初めて知った。

 山頂からの眺望は、ゴールデンウイークらしく黄砂霞に閉ざされ、あまりよいとはいえなかったが、3度目ににして憧れの笈に立つことができ、嬉しさを噛みしめて楽しむ景観には格別の趣がある。

 とりわけ、白山の本峰の視座はこの山独特もので、他とはまったく異なる印象を与える。その雄大なスロープで山スキーを楽しみたい誘惑にかられた。この山域に通った回数も、50回ほどになっているだろう。指呼のなかに過去の記憶が蘇り、なつかしい山を思い起こした。

 ここから、清澄な時期には、日本海の向こうに韓国の漢奴山あたりも見渡せるかも知れない。過去、数千年にわたって、朝鮮半島からどれほど多くの人々がやってきたことだろう。人々は、白山を日本列島の灯台としてやってきたのだ。ゆえに、白山神社信仰こそ、秘密の日本史の鍵となるべきものなのだ。

 同行の加納さんは、無線機を取り出して交信をエンジョイしている。名古屋とは交信できなかったものの、福井に帰省中の知人のNさんとつながり大変喜んでいた。Nさんも、まさか北陸で名古屋の山仲間と交信できるとは思っていなかっただろう。これが無線の楽しいところだ。

 帰路、びっくりするほど大勢の中年パーティとすれちがった。明日は大雨の予報が出ていて、恐るべきブロック雪崩が多発することが確実なのにである。そのなかに、名古屋の知人の姿も見つけた。笈ヶ岳は、もう秘峰とはいえなくなってしまったようだ。

 三方岩トンネルの上に来たとき、休憩中の登山者に、スーパー林道経由で通行すると1時間半で展望台に行けると聞き、雪崩の不安はあったが、たくさんのトレースに誘われて行ってみることにした。午後3時を回っていたので、落ちるべき雪崩は落ちたと判断したからである。

 だが、歩いてみると、当然のことなのだが、そこが恐るべき雪崩の巣であることを思い知らされた。林道は雪の急斜面となっており、いたるところにデブリの痕跡があり、いつどこで崩壊するとも知れぬ不気味なブロックが上部にへばりついていて、命の縮む思いをした。地こすりに遭遇するなら落石津波にあうに等しい。

 トレースは、さきほどの無謀な中年パーティのつけたものらしい。彼らのマネをしていたら命がいくつあっても足らないと思った。
 人を恐れぬカモシカが、私達を見送ってくれた。はげしい渇きに悩まされながら、歯ごたえのある山行になったが、二人とも満足だ。
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