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東海アマ 山の歩き方
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/556.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 7 月 25 日 04:31:57: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 東海アマ 名古屋の記憶 投稿者 中川隆 日時 2019 年 6 月 20 日 13:17:09)


東海アマのブログ 山の歩き方
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2143495.html

十数年前から痛風発作を繰り返すようになり、足の関節が変形して古い登山靴が履けなくなったりして、昔のように自由な山歩きができなくなったが、25〜40歳くらいまでは年間50回以上のペースで山歩きを続けていた。

 20歳頃から意識した日本百名山は前世紀の90年頃、とりあえず完全踏破することができた。(噴火立入規制などで山頂を踏んでいない山がいくつかあるが)
 今は友人などとともに二巡目の百名山ハイキングを楽しんでいる。

 通算では40年ほどの登山歴ということになり、まだ死んでいないところをみると、おそらく自分の山歩きが間違っていなかったように思っている。

 そこで今回は、おこがましいながら、私なりの山歩きの知恵をブログに書き残しておきたい。

 このところ冬山登山の遭難ニュースが非常に多いので、ハイキング気分で冬山に入るような甘い考えの人たちに警告を書かねばとも思っていた。

 私は若い頃から道に興味があり、登山道についても数千回の経験から、それが、どのように変遷するのか、ある程度理解することができたと思う。

 そこで、「登山道」の成り立ちについて私なりの考えを書いてみたい。

 山の主は基本的に人間ではない。それは獣たちである。人間は、獣たちの道を借りながら登山道を造り出すのである。だから、ほとんどの山で、登山道の原型は「獣道」であることを知っておかねばならない。

 山では、人道と獣道が無数に交差している。有名山岳では、しっかりした登山道が造られ、まず迷うことも少ないが、無名の藪山では、人道と獣道の区別はないと思う必要があり、その見分け方を叩き込んでおかねばならない。

 獣たちだって、通過の大変な藪漕ぎなんかしたくない。だから、山の中では一番歩きやすい場所を歩くことになり、そこに道ができる。

 ただし、人間ほど背の高い獣は希なので、おおむね狸や狐、イノシシや熊などの背丈に合わせた道ができあがることに注意が必要だ。

 すなわち、獣道と人間道を見分ける原則は、その高さにある。多くの場合、踏み跡だけでは見分けがつきにくいが、獣道は、すぐに人間が通るのが困難な腹より高い位置の枝葉や藪が出てくるから分かる。顔に枝葉が当たるような道は獣道である。

 それに人の道よりも歩幅が狭いし、多くの獣は人より軽いので人道ほど踏み固められていない。そこで、紛らわしい踏み跡があったとき、踏み込んでみれば獣道は柔らかく、人道は固いものだ。

 獣道は生活道路だ。餌場と水飲み場、寝場所を行き交うために踏みつけられる。
 獣たちがもっとも多く通う道は水飲みの道で、したがって沢筋に踏み跡が多く、これを利用するために人道も沢筋が第一になる。

 山の道は基本的に沢筋である。人が山菜採り、炭焼き、木材運搬などに利用するのも9割以上が沢筋である。しかし日本の沢には多くの滝があり、急峻危険なため、大滝やゴルジュ(水流に掘られた洞窟状水路)などで迂回路や他の安全な沢筋に移るトラバースルートが成立することになる。

 「沢筋に危険箇所が出てくると避難路がつけられる」これも覚えておく必要がある。

 次に、テリトリー拡大のため獣の峠越えルートもある。獣だって一番安全なルートを探すから、人様の峠道も獣道を利用することが多い。

 最後に、藪の多い道よりも歩きやすく、かつ外敵に遭遇したとき、いち早く逃げられる視界良好なルートということで尾根筋が利用される。もっとも、尾根筋に関してだけは、獣よりも人間の利用がはるかに多い。

 それは、一番高い場所で見晴らしが良いので、里などとの位置関係を確認できるからであり、尾根道というものは動物よりも人間が、より多く利用するものである。

 だから、尾根道は下界集落にまでつながっている場合が多く、山で迷ったときは、決していきなり沢筋に降りず、最初に尾根に登り、道を確認してから人間様ルートを利用して下界に向かうのが遭難しない大切なコツである。

 迷うと喉が渇くから沢に降りたくなり、そのまま人里につながっていると安易に想像してしまうが、決してそうではない。日本の沢は滝の連続であり、沢を下るのは危険に満ちている。

 冬山遭難以外の大半は、迷って沢に迷い込み、そのまま下って滝で滑って負傷・死亡するというケースである。

 ちなみに、獣たちは尾根道のてっぺんを歩くことは少なく、笹や藪の少ない北側の斜面の尾根より5〜20mほど下側に尾根に沿った獣道があることが多い。ベテラン猟師たちは、この道を使って猟を行う。

 歩きにくい笹藪が繁茂するのは南側の日当たりの良い場所で、北側の風雪に晒される場所は植生が悪く、逆に歩きやすいものだ。

 尾根のてっぺんにつけられた踏み跡は人間様のものであることが多い。日本中の尾根で、人道の皆無というルートは希で、そんなとき、その尾根は断崖絶壁に消えると覚悟すべきだ。

 山の道は、1・沢筋 2・尾根筋 3・峠道 4・滝・ゴルジュ迂回路 5・トラバース というように整理して覚えよう。今歩いている踏み跡は、獣道か人道か? 沢か尾根かトラバースか? などと、その属性を考え、記憶しながら歩けば、まず迷うことは少ない。

 最近は、わかりにくい場所に赤テープなどをつけても「クリーン作戦」などと余計なお節介の環境美化運動で剥がされてしまうことも多いが、迷いやすい藪山で、目印をつけるのは登山の大切な基本テクニックである。

 赤テープがダメなら、昔のようにナタで目印をつけよう。下山時の目標であるから、必ず上から降りてくるときに見えるよう人間の目の位置の皮を剥ぐ。これは自分の記号であるから、独特の分かりやすい形にする。

 マタギは目印に数十種類の共有暗号を含ませていた。形を見れば、この道が持つ情報が分かる仕組みになっていた。

 木を傷つけるのも良心が咎めるが、迷わないよう帰路を確認し、命を守る方が大事だ。必要もないのに、むやみに傷つけるのはもってのほかだが、安全のために、ためらってはいけない。

 最近は、警察検問で、車にナタやナイフが置いてあると逮捕されるらしい。必ず登山ザックに入れて、「理由なき所持」にならないように工夫する必要がある。

 私が山で目印をつけているとき、たまたま見ていた人から「自然破壊」と糾弾されたこともあった。山も難しくなったものだ。

 十分な標識が設置されているなら別だが、藪山でテープもアカン、目印もアカンじゃ困る。冬山では細い赤布をたくさん持参し、頭より高い位置の枝に縛りながら行く。一晩で2mも積もることもあり、低い位置では雪に埋もれてしまうことがある。木のない場所では、細い竹などを刺して結ぶことになる。

 結び目の作り方で、どちらが上下か分かるようにする。帰路、回収するのが常識なようだ。もちろん上から見る下山標識であることを忘れずに。

 次に、歩き方のコツを伝授する。

 歩き始めは、必ずゆっくり、最初の30分は持てる実力の三分の一しか使ってはいけない。これが準備運動だ。次の30分は二分の一の力でゆっくり歩き、十分に休んでお茶や菓子を飲食し、いよいよ本番だ。

 準備運動をしないで、いきなりハイペースで歩くと、必ずバテることになる。そんな人たちは結局、上の方で息が切れて苦しくなり、我々カメさんに追い抜かれてしまい、山歩きが楽しいものではなくなってしまう。

 1時間歩いてから、実力の8分目を出して山頂に向かう。休憩はおおむね1時間に5分程度。ほとんどの人が同じように休憩するので、有名山岳では、その位置に休憩所のような場所ができていることが多い。

 決して休みすぎてはいけない。軽く息を整える程度で、できるだけお菓子などを飲食しよう。糖尿病になりそうな甘いジュースも山ではOKだ。

 疲れてきたら、休むのではなく、「ゆっくり歩く」ことを心がける。休んでしまうと疲労が吹き出し、ますますバテることになる。

 飲食しながら、ゆっくり歩いていれば、疲れは消えてゆく。老人だって、若者のように早く歩けないが、ゆっくり山頂に着くことができる。体力のない人だって、ゆっくり歩けば、高体力の人と同じように楽しめる。

 最近、経験不足の中高年による遭難事故が多発しているが、最大の問題点は、「自分を知らないこと」である。

 自分を実力以上に過剰に評価するクセのある人は遭難しやすい。自分の実力に対して謙虚な姿勢が必要だ。

 山は大変なスポーツだ。準備があれば、困難を克服できる。装備を準備するだけではダメだ。体力・精神力を準備しなければならない。

 最初から苦しい大変な山など行ってはいけない。まずは高尾山や筑波山のような山を十数回も登り、基本的な歩き方の訓練を行い。普段から2時間程度歩く訓練を重ねる必要がある。

 そして、体力の必要な重い登山では、必ず「ゆっくり歩く」ようにすれば大丈夫、バテこそ遭難の第一歩であることを肝に銘ぜよ。

 バテない基本テクニックは、第一にゆっくり歩くこと。第二に、頻繁に軽い飲食を行うこと。第三に、こまめに衣類を脱着することだ。

 衣類を調節して、体温を一定に保つことは、非常に重要なテクニックで、山では非日常的な体験をしているので、普段の感覚が分かりにくくなる。

 体が寒がっているのに、本人は暑いと勘違いしている場合があり、着重ねしなければならない状況下で、強風に吹かれて体温が低下し、意識が朦朧としながら、そのまま死亡することも珍しくない。

 寒いと疲労度が加速する。体が熱を作るために余分なエネルギーを浪費するからだ。だから暖かく快適にすることが疲労を少なくするテクニックなのである。

 最近ではトムラウシ・ツアー登山の遭難が風に吹かれた低体温遭難だったようだ。

 強風で、少しでも寒さを感じたら、必ず、防風ヤッケ(雨具でもよい)を着ること。肌着は登山用か純毛薄手セーターを着ること。

 汗や雨に濡れて肌着の保温性が落ちたなら、純毛セーターを直接肌に着込むこと。純毛セーターは最後の命の綱である。どんなハイキングでも持参すること。

 雨中登山では、稜線に出ると凄まじい強風に遭って、とてもじゃないが、着替えなど不可能なことが多い。

 だから稜線に出る前に、藪の中で状況を予測して、先に着替えや着重ねを済ませること。

 冬山は、同じ山であっても、他のシーズンとは基本的に別世界だと思う必要がある。
 私は若い頃から鈴鹿の鈴北岳・御池岳をトレーニング場所にしていて鞍掛峠などから百回以上も登っているが、慣れきって地図も持参しないで、すべて知っているつもりでいた。

 ところが、ある冬、もの凄い暴風雪のときに登って、ホワイトアウトという現象に出くわした。これは降雪と薄い太陽光により、雪と空間の境目が認識できなくなる現象である。

 このとき、隅から隅まで知り抜いているはずの鈴北の地形が、今どこにいるのか、まったく分からなくなった。積雪で地形も変わり、自分が歩いている場所が尾根なのか、いつものルートなのかも完全に見失い、彷徨する羽目になった。

 このとき冬山が、どれほど恐ろしい魔物であるのか思い知らされることになった。
 ゲレンデとして百回も通っている地形でさえ、まったく理解できなくなる。

 1000m前後の低山でさえ、そんな現象が起きる。まして3000mの世界は凄い。
 正月に、吹雪の中で立派な登山道や標識のある間ノ岳から北岳に向かう尾根が、どうしても発見できなかったことがある。1時間も彷徨い、奇跡的に北岳への稜線が見えて助かった。

 冬山をなめてはいけない。数千回の登山経験があっても、見るも無惨に打ちのめされることがあるのだ。

 迷ったとき、行き先を確かめるのは、地図とコンパス、それに踏み跡や視界などだが、位置を確認するのに、一つや二つではダメで、高度計やGPS、無線機など、少なくとも五つくらいのアイテムを用意しておきたい。

 そして冷静に、自分を信じ、普段から訓練している自分は、必ず助かると確信して、自信をもって臨むのでなければ、冬山は地獄であり、命を奪いにくる魔物でしかない。
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2143495.html  

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コメント
1. 中川隆[-8864] koaQ7Jey 2019年7月25日 04:37:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3850] 報告

東海アマのブログ 続 山の歩き方 2010年01月08日

 前回は獣道と人道の見分け方、疲れない歩き方などについて説明した。
 まだ少し言い足りない部分を補足しておきたい。

 前回、安全登山のために大切な姿勢は「ゆっくり歩く」ことだと説明したつもりだが、これでは説明不足で、急傾斜の山道を歩く上で意識しなければならないことは、ゆっくり歩き、かつ歩幅を狭くするということである。

 筆者は若い頃、先達から「猫のように、しなやかに歩け」と教わったことがある。一歩一歩、無理のないダメージの少ない歩き方を心がければ、長丁場では大きな違いになって返ってくる。

 「ゆっくり、歩幅を狭く、しなやかに歩く」

 これが基本だが、これでも、まだ足りない。筆者は16歳から今日まで約二千回程度の山歩きを行っていると思うが、この経験の蓄積から言わせていただくと、「余分な力を抜いて歩く」ということが一番大切である。全部力を抜いてしまえば当然歩けないので、歩くために本当に必要な筋肉だけを瞬時に使い、必要でなくなったら、瞬時に休ませるのである。

 必要なときにだけ筋肉を働かせ、必要でない筋肉は瞬時に完全にリラックスさせていることが、登山で疲れない、バテない最大の秘訣であると指摘しておきたい。

 このために、本当に力が必要な瞬間だけ筋肉が働くように、普段から感覚を養い、「無駄な力は使わない」訓練が必要である。

 もちろん、登山だけでなく、あらゆるスポーツに共通する深い奥義というべきだが、フリークライミングに凝った経験のある人なら、これがもの凄く身にしみて理解できるはずだ。

 クライミングを上手に行うコツは「力の抜き方」であり、必要な筋肉だけを、必要なタイミングだけに使い、それ以外では完全にリラックスさせ、疲労回復するテクニックがクライミングの真の奥義であることを思い知らされるはずだ。

 登山でも同様に考えるのである。「力を抜きなさい」

 この奥義こそ、普段は酒かっくらって寝ているだけの中年メタボ、ダメ親父が、10クラスの難ルートをあっというまに登って見物人を驚かせる本当の理由である。

 さて、ここまでは少しスポーツを囓った人なら誰でも知っている。この先は筆者のオリジナル奥義を伝授しよう。

 山頂から下山するとき、下り坂で滑って転倒した経験を持つ人も多いだろう。これは、単に足を滑らせたというだけでなく、実は山歩きのなかで大切な歩行メカニズムが隠されているのである。

 雪国の人なら、アイスバーンでの基本的な歩き方を知っているはずだ。それは、決してカカトで歩かない。つま先で歩くのである。つま先に力を入れ、足指を多用する。これが凍結路で滑らないコツである。

 だから凍結の多い寒い地域の人たちは、歴史的に足指が長くなる傾向がある。日本海側の人たちは、太平洋側に比べて足指が長いのである。このため、短距離走は若干苦手ということになる。

 実は、急傾斜の山道・坂道を歩くコツも、まったく同じメカニズムであり、滑らないような歩き方は、カカトではなくつま先に力を入れて歩くのである。

 これは山の場合、主に下りということになる。急傾斜の下りで、つま先に力を入れて足指を最大に利用しながら下れば滑らない。

 ところが、それでも滑って転ぶ人がいる。実は、このとき、つま先に力を入れているつもりでも腓腹筋が疲労して力が入らなくなってしまい、カカトだけで歩くような投げやりな歩行姿勢になっているのである。

 本人は登山で興奮しているから腓腹筋の疲労が分からないが、ベテランがまったく滑らない下りで滑ってばかりいる人は「カカト歩き」という状態に陥っていることを知っておく必要がある。

 どううして「カカト歩き」だと滑りやすいのだろう?

 それは、凍結路における「カカト歩き」と「つま先歩き」の違いと同じもので、つま先歩きの場合は、滑ってバランスが崩れたときに重力バランスを立て直す筋肉の可動域、幅が、足先全体にあって広いため容易に対応できるが、カカト歩きでは、足が棒状になっていて、滑ったときに、それを補正する動きが限定されるために転倒しやすくなるのである。

 滑ったとき、つま先に力が入っていれば、膝・足首・足指と三つの関節を動かして対応できるが、カカト歩きだと、事実上、膝だけで対応することになる。

 これで、急傾斜の下山時に、つま先歩きが必要なことが理解できると思うが、登山用筋肉が衰えている人、未発達な人は、意識しても、これができずにカカトで歩いてしまい、どうしても滑りやすくなる。

 このとき、補助アイテムとして活躍してくれるのがストックである。

 筆者がストックを一般登山に使い出したのは、30年前、1980年頃で、当時は、もちろんスキーストックなど無雪期に使う人などいなかったから、すれ違う人は奇異な目で見ていたが、今では、折りたたみの優秀なストックが開発されたこともあり、ダブルストックで歩く人は珍しくもない。

 筆者は1970年代、冬になると北鈴鹿の山々で山スキー歩行に凝っていて、ストック歩行が、どれほど役に立つか、さんざん思い知らされていたから、夏山でもスキーストックで歩くようになったのだ。

 今では痛風による膝関節のダメージ、衰えもあって、ストックなしでは山を歩けなくなってしまった。二本足よりは四本足の方がはるかに効率よく、山では安全なのである。イノシシや熊に遭遇したときも心強い。

 中高年の登山ハイキングには、ダブルストックは膝を守るために欠かすべからざる必須アイテムである。

 登山ハイキングで決して忘れてはいけないものとして、次のものをあげたい。


 1・ 純毛厚手セーターとヤッケ(雨具も可) これは軽ハイキングも含めて、最後の命綱と思っていただきたい。肌着が濡れたなら、セーターを肌に直接着込むこと。

 2・ ライト・スペア電池・地図 当然の装備、この他に水(ペット飲料可)食料、雨具ということになる。

 3・冒頭に述べた理由で、折りたたみストック二本を加えていただきたい。これは、どうしても必要とはいわないが、長い歩行積み重ねのなかで、あなたの膝を守ってくれる大切なアイテムだ。

 特殊装備について

 筆者は若い頃から、一般的な登山に飽きたらず、ロッククライミングや沢登りにも夢中になった。普通の人が敬遠する藪漕ぎも数多くこなした。
 そこで、あまり一般的とはいえないが、山のすべてを知りたいと思っている人のために、特殊な装備についても言及しておきたい。

 沢登りは登山道の整備されていなかった古典的な山登りでは常識であり、昔は沢道を経由しなければ頂上に立つことができず、今でも北海道では日高などで多くの登山道が沢を利用している。

 沢はコケがついていて滑りやすいのが普通で、昔は地下足袋ワラジや荒縄を靴に巻き付けて対処したものだ。80年あたりから沢用フェルト底靴が出てきたが、面倒な大荷物になるので、荷を減らしたい場合、古い穴のあいた毛糸靴下を代用すればよい。

 靴の代わりに使う靴下なので、三枚以上履き重ねることになる。靴の上から履ければ、それでもよい。これは凍結路でも役立つことを知っておいて損はない。

 下山時や出水時に、希にロープが必要になるときがある。本格的なロッククライミングなら9ミリ・40m以上、沢登りなら8ミリ・30m以上、非常装備なら1パーティで1本、7ミリ・20m程度(1キロ程度)を持参する。

 これで簡単な懸垂下降や徒渉を行う。懸垂下降は器具のいらない肩・股絡み下降を普段から訓練すること。
http://members.at.infoseek.co.jp/kuma3_3/kura/1.htm

 非常ロープはツエルトを張るときなども役に立ち、転落時に真の命綱になることもあり、誰でも一本は所持しておいたほうがよい。

 徒渉のときは、ロープを張るために特殊な結び方を覚える必要がある。筆者はトラック運送で覚えた「万力縛り」を利用することが多い。
http://www1.ocn.ne.jp/~tatsujin/ropework/truck/index.htm

 筆者の40年間の登山経験で、ヘルメットが必要だと思ったことは、ほとんどない。氷雪クライミングで確保のとき、上から氷が落ちてくるのに役に立ったくらいだ。ヒマラヤクラスなら必要だろうが、日本の沢登りくらいで持参するのはナンセンスだと思う。ロッククライミングでも、ゲレンデならほとんど無用だ。

 山は必要な装備を絶対に忘れてはいけないが、無用な装備を何一つ持参してもいけない。本当に役立つものだけを持って行こう。

 あって助かったものはザ・エクストラクター、ポイズンリムーバーという名の毒吸引器(3000円程度)だ。山ではアブ・ヒルから蜂など毒虫にやられることが少なくないので、マムシ・アブ・スズメバチ刺傷に有効な、この器具は必需品と位置づけてもよい。

 これまで、どれほど助けられたか分からない。これを使えばアブに刺されても数日で完治する。ブヨに刺されたときも腫れ上がらずにすむ。

 沢登りにヒルはつきもので、とりわけ鈴鹿は凄い。一度、足に百匹くらい貼り付いているのを見て卒倒しそうになったことがある。後で完治するまでに数ヶ月を要した。

 ヒル避けはいろいろあるが、簡単なのは塩や灯油、酢やクエン酸で、濃い溶液を百円噴霧器に入れて持参し、ときどき膝下に噴霧するだけでよい。帰宅後きちんと洗わないと金属部品が錆びてしまう。

 山の危険としては、迷い込みなど地理的条件以外に動物の危険がいわれる。
 99%は上にあげたように虫や小動物だが、希にヒグマや熊、イノシシとの遭遇がある。最近では、昨年、秋、御岳「ヒメシャガの湯」の近く巖立峡で子熊と遭遇した。

 過去40年間に、熊と遭遇したのは数十回、ヒグマとも5回以上あり、最大数メートルというニアミスもあった。

 しかし、熊に襲われたことは皆無で、みんながいうほど心配なものではない。

 それでも日本登山界の鉄人、山野井君が奥多摩でトレーニング中に熊に襲われたニュースを聞いて驚いた。おそらく、子連れでいた熊に気づかず、走って近づいたために母熊が母性本能で恐怖して攻撃したのだと思う。

 実は、動物が人間を襲うとき、人間のように攻撃してやろうという凶暴な意図で襲うことなど希であって、ほとんどは恐ろしさに震えて無我夢中で攻撃するのである。人間ほど怖い動物はないのだ。

 だから、熊に自分の存在を気づかせる鈴などの工夫が大切で、もし「いる」と分かったときは、優しい声で「おーい、おーい」と切れ目なく声をかけるのがよい。
 ほとんどの動物は、優しい声なら恐怖せず、その主を確かめようとする好奇心があり、攻撃本能は出てこない。

 筆者はこの手で、牛ほどの巨大なカモシカに5mまで近寄ったことがある。
 これまでの40年の経験で、イノシシと真正面から遭遇したことは皆無、姿を見たのも数回にとどまる。

 もし襲われたなら、ストックを使って対峙するしかないと思っている。襲うとしても、アホな猟師がしとめ損なった手負いくらいだろう。
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2149175.html

2. 中川隆[-8863] koaQ7Jey 2019年7月25日 04:41:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3851] 報告

東海アマブログ 山の歩き方 その32019年07月24日 (水) 16:16
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-816.html


 
 数年前に「山の歩き方」を、続編とともに掲載した。
 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2143495.html

 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2149175.html

 それから病気で肺機能が衰えたせいで、大きな山には行けなくなったのだが、今でも、毎日1時間以上の山林歩行を欠かさないでいる。

 長い山歩きの経験をブログにしておけば、これから山歩きを始める人に、少しは役に立つかも知れないと考え、その3を書いておきたいと思った。

 若い頃から、ずいぶんたくさんの山を歩いてきたが、この時期(7月8月)は、なんといっても沢登りに夢中になった。

 かつては、鈴鹿や日本アルプスの沢を毎週、全身ずぶ濡れになって登り歩いていた。

 中央アルプスの沢に単独で入って、瀧で滑落して数カ所を骨折しながら這うように逃げ帰ってきたこともある。

 北海道の山、とりわけ日高山地では、登山道が沢道であることが多く、どこに行っても沢登りを強いられる。

 しかし、夏場の沢登りでは、さまざまな危険が待ち受けている。

 どんな危険があるのか? 最大の危険は、滑って岩場で転倒することである。

 沢にはコケがつきもので、足下の岩場がヌルヌルになっている沢も多い。

 このヌルで滑らないようにするには、私が一番一生懸命登ったのは、今から40年くらい前なのだが、1980年代までは、ワラジが主流だった。

 当時の価格は、一双で300円くらいだったと思う。今は700円くらいしてるようだ。
 
yamaaruki1.jpg


 裸足に直にワラジをつけるのは、刺激が強いので、必ず地下足袋を履いてから装着した。農業用厚底足袋なら、そのまま山歩きをすることもできた。

 ワラジの滑り止め効果は非常に高いものだが、縦には強いが横滑りには弱かった。それは見てのとおり、繊維が横に走っているためだ。

 1980年代の半ばあたりから、釣り用のフェルト足袋が開発されて普及した。これはワラジほどの効果はないが、縦横ともに滑り止めになり、藁紐が切れる心配もなく、使いやすかった。

 ワラジが一回限りの使い捨てであるのに対し、フェルト足袋は数十回も使うことができた。だから3000円程度でも十分元はとれる。

 yamaaruki2.jpg
 

 そのうち、長靴フェルト底とか、短靴フェルト底とか、たくさんの種類が開発されて、今でも、滑りやすい沢道で多用されている。

 実は、このフェルト底、アイゼンが必要な凍結坂道でも滑り止めに使えるのだ。もちろんアイゼンほどの効果はないが、滑りにくくなるのは確かだ。

 私は、冬の低山で、アイゼンを持参しなかったときは、靴の上から純毛の靴下を履いて滑り止めに使った。

 これは山歩きの知恵として覚えても損はない。

 なお、長時間歩行を必要とする登山では、必ず複数の履き物を用意する必要がある。

 もちろんゴツイ登山靴を予備に持つのはアホらしいので軽量靴だが、地下足袋やフェルト足袋を予備靴として選択するのも悪くない。

 山では、予期しない靴擦れや、ゴム底の剥離なども珍しくなく、北海道のように沢ルートが多いと、予備靴がないと困ることも多い。

 沢登りの危険としては、滑り事故の次に、滝の直登における滑落事故だが、よくあるのは、いい加減に打ち込まれたハーケンを掴んですっぽ抜けで落下する事故である。

 滝のハーケンは絶対に信用してはいけない。岩場のハーケンのように丁寧には打ち込んでいないからだ。

 滝登りで事故を起こさないようにするためには、訓練によってフリークライミングの技量を上げるしかない。ハーケンが抜けたとき、掴んでる石が落下したとき、次にどうするという次善策を、いつでも考えながら 登らなければならない。

 フリークライミングの訓練をしないまま、危険な沢の直登をするのは自殺行為である。必ず、納得のゆくまで基礎的な岩登り訓練を行ってから沢に向かっていただきたい。

 私自身の滑落事故も、クライミングの技量が未熟なうちにアルプスの沢に入るという無謀行為を行ったせいだった。

 岩場の多い山歩きは非常に多い。有名なところでは、宝剣岳や槍穂高縦走、不帰険だが、日帰りでも秩父では普通だし、御在所や鎌ガ岳でもキレット状の危険地帯がたくさんある。

 ここで事故を起こさないために必要なことは、恐怖心を克服することである。

 高所恐怖症など、恐怖に硬直すると、実力の半分も出せなくなる。だから、自分の潜在力を出し切って岩場を乗り越えるには、まずは「怖くない、自分は絶対に落ちない」と自己暗示をかけ、全身の筋肉をリラックスさせることである。

 クライミングの上手な人は、そうした心のコントロールが上手な人である。「こうすれば絶対に安全」と確信を持てる行動パターンを持っていれば、その範囲から逸脱しない限り、安全は保証されると自分自身で信ずればよいのだ。

 力を抜きなさい、恐怖や緊張から解放されてリラックスしなさい、こういう行動をしていれば危険はないと、信じながら無理をせずに進みなさい。

 乾徳山などの長いハシゴを登るときも、「この手が、しっかりと桟棒を掴んでいれば、絶対に落ちない」と信じていれば、問題なく通過することができる。

 この、失敗すると命に関わるような行動で、恐怖心を克服しながら、自分を信じて前進するという登山の経験は、人生のあらゆる場所で、自分を守ってくれる大切な宝物になるだろう。

 なお、どうしても高所恐怖症を克服できない人が同行メンバーにいる場合、リーダーは安全確保しなければならない。

 通常は7ミリ20mのザイルを持参し、確保者には、テープスリングを八の字にして足を通して簡易ハーネスを作り、腰にもテープを巻き、ザイルに結んで確保する。これで懸垂下降も楽々こなせる。(以下は方法が異なるが簡単なので覚えておきたい) 
https://www.youtube.com/watch?v=WAbCqTInDAo

カラビナ一個あれば、懸垂下降が可能である。
 https://www.youtube.com/watch?v=VunyYaj_H7M


 実は、山でのトラブルで、もっとも多く、重要なのは、岩場事故や熊の襲撃ではなく、虫の襲撃である。

 わけても

@ブヨ Aアブ B蛭 Cマダニ Dドクガ 

に警戒が必要だ。

 ブヨは、ありふれた虫だが、刺されると被害が大きい点では、一番警戒が必要かもしれない。

 これは昨年、10月18日に、笠置山でブヨに刺されたときのもの。
  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-514.html

以下は、7月20日に、高峰湖畔でブヨに刺され、4日後の本日、撮影したもの。

 buyo1.jpg


 ブヨの被害は、刺されたときには痛いだけだが、後から激しく現れる。指先を刺されると、筆記具が使えなくなるほど腫れるし、肩まで腫れ上がることもある。

 ムヒアルファのようなステロイド剤しか効果がないが、治癒まで十日以上もかかることがある。

 ブヨが刺しにくるのは、冷涼で湿度の極めて高い日が多い。晴れて28度以上もあるときに刺されることは少ない。気温が25°以下で、雨が降ったりやんだりのときが危ない。

 ブヨは極めて環境汚染に弱く、水質が非常に良い小沢にしか繁殖できない。
 もっぱら露出した肌が狙われるが、上の写真はTシャツの下を刺された。

 ブヨを忌避するには、ハッカ油が良いといわれる。ハッカ油をエタノールで50倍くらいに薄めたものをスプレーに移して、肌に散布しておくのだが、上の写真は、ジーグフリートの木の葉のように、塗り残した、わずかな場所が狙われた。

 ハッカ油は、アブにも高い効果があり、山歩きの前にスプレーしておくと多くの虫害を防除できる。

 ただし、ヤブ蚊にはあまり効果がない。マダニや蛭、ムカデには効果が高い。私の場合、6月から10月まで、山歩きの前には、携帯用スプレーに入れたハッカ油スプレーをたっぷり、全身にかけておく。一回かければ二時間程度は効くが、薄いと1時間もたないこともある。

 腐らないので、400CC瓶を購入しておけば、たっぷり長く使える。
 
yamaaruki3.jpg

 蛭は、奥駿河・遠州・鈴鹿のように極端に繁殖している場所では、行けば必ずやられるほどで、とりわけ雨の日、高湿度の日には警戒が必要だ。

 蛭を伝播するのは鹿なので、鹿が多い山、鹿の食害によりアセビが増えている山では、特にひどい。鹿がいれば蛭がいると思った方がいい。

 市販の蛭避け剤は高価なので、昔からの知恵として、山に入る前に、膝下に灯油をかけたり、塩やクエン酸をかける人もいるが、金属部品が錆びてしまう。

 やはりハッカ油スプレーに強い忌避効果がある。私は一度に100匹近くも貼り付かれたことがあるが、血を吸われた痕の治癒に一ヶ月以上を要した。

 なお、遠州・駿河の山では蛭が木の上から降ってくる。だから首や肩にも散布する必要がある。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-96.html

  https://yamahack.com/220

 吸われた直後の対策としては、蛭の溶血酵素を洗い流しておくのが良い。

 以下の携帯洗浄機は、お尻用のものだが、私はザックの備品として、さまざまに使っている。
 https://item.rakuten.co.jp/apade/yew350/?scid=af_pc_etc&sc2id=af_113_0_10001868

 野糞(お花摘み)のとき、本当に清潔で便利だし、これで目を洗浄したり、虫刺されや、蛭害を洗浄するのに極めて有効。圧力が出るので、傷口に吹きかければ蛭毒を洗い流すこともできる。もう手放すことはできない。

 ただし、アブやブヨに刺された場合、ポイズンリムーバのような吸い取り器が必要になる。これも必需品といってよいだろう。
 https://sakidori.co/article/101872

 なお、女性用の密度の高いストッキングは、蛭の口器が入らないといわれる。私もハッカ油スプレーを、ビタビタにかけて愛用している。

 マダニは、わが東濃地方には、とても多く、私は恵那山で噛みつかれた。笠置山の山上休憩所にも出ている。
 https://www.hohto.co.jp/pmpnews/pmp370_2/

 私は家に帰ってから膝下に潜り込んでる黒い物体に気づいたのだが、マダニと知ってウイスキーをたっぷり流して、数分後にピンセットで除去できた。高濃度のアルコールに対して、マダニは食いつく力を失うようだ。

 放置するとライム病などの致死率の高い病気にかかることがあるので、早めにエタノールなどを使って自分で除去すべきだと思う。
 https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB/22-%E5%A4%96%E5%82%B7%E3%81%A8%E4%B8%AD%E6%AF%92/%E5%88%BA%E5%92%AC%E7%97%87/%E3%83%9E%E3%83%80%E3%83%8B%E5%92%AC%E5%82%B7

 ドクガの被害は、南アルプスの黒法師山の帰路で起きた。

 最初は、腕に強い痛みを感じたが、みるみるまだら状に赤く腫れて、治癒に一か月程度もかかった。
 http://www.city.kawasaki.jp/350/cmsfiles/contents/0000006/6005/dokuga.pdf

 これはツバキ科につく毒虫で、山の中では、ドクガが体に触れただけでひどい目に遭う。我が家でもチャドクガが出て、原因となるサザンカの木を見つけて、焼き払うまで被害が続いた。

 なお毒素は43度の湯に5分浸かれば解毒されるようだ。炎症を起こしてる部位だけでもいい。

 以上、自分が被害を受けた経験のあるものばかりを並べたが、襲われた経験のないことまで書いておく必要があるものがある。

 それは熊だ。

 中津川市は、中央アルプス恵那山が市街地に隣接していて、熊が頻繁に出没する地域だ。今年に入って、2回、近所の高山大橋の上の雑木林で見かけた。

 また笠置山山頂付近や、高峰山鎮之峠にも出没している痕跡を見つけた。去年は、我が家の裏山に出没していた。恵那神社では、最近、釣り人が襲われて大怪我をしている。

 襲われた経験がないのに申し訳ないが、これだけ熊が増えると、山登りに熊避けは必需品になったと思う。

 私の場合は、ザックにハンドベルを結びつけて、歩きながら自然に鳴るようにしている。
 
 yamaaruki4.jpg


 柄の部分に穴を開けてナイロン紐でザックに垂らしておくと、歩く刺激で自然に鳴っている。なお、ラジオやガラガラ鈴は、効果が乏しく、なるべく高音の鈴が良いそうだ。

 カーマでは山菜キノコ採取用に千円程度で販売されている。

 以前は、カウンターアソールトという熊専用スプレーを携帯していたが、1万円近い高価だし、自然に漏れて、ひどいことになるので使うのをやめた。

 代わりに爆竹をザックに忍ばせていて、糞を見つけると点火できるようにしている。

 また、危ないと感じるとき、ダブルストックを持参し、現れたら突いてやろうと思っている。

 熊は、年間を通じて定まった行動パターンがあり、好物であるタケノコや栗や柿などの果樹園近くに潜んでいることが多い。食物の縄張り意識があると、持ち主が採取したとき、自分の食物を横取りされたと思い込んで怒り狂って襲うことがあるようだ。

 以前、高山の展示民家を訪れたとき、果樹園の持ち主が、そのようにして殺害された話を詳しく聞いた。

 笠置山では、山頂付近のブナ林の実が落ちているときと、木イチゴなどの果物が出ているとき、よく徘徊していて、6月頃が危ない。真っ黒で、未消化物の含まれたベチャ糞が点々と落ちているときなど熊がいると思った方がいい。

 こちらが金属音を立てているときに襲ってくることは滅多にないようだ。
 糞が新しければ、必ず近くにいると思うべきで、すぐに爆竹を鳴らした方がいい。

 イノシシは、最近、あまりにも多すぎて、空気のように存在を忘れてしまうほどだ。

 我が家の周りや散歩先にも大量に生息している。今日も出会ったばかりだ。

 特徴は、ミミズを探すための掘り返しが登山道脇に広く見られることで、掘り返した土の新しさと気配の音で、近くにいることを知る。

 やは鈴が有効だと思う。近所にいれば爆竹を鳴らしておけばよい。

 また気づいたことがあれば、「山の歩き方 その4」を書きたいと思う。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-816.html

3. 中川隆[-10554] koaQ7Jey 2019年10月26日 11:48:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2315] 報告

東海アマブログ よきかな山々 2019年10月25日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-915.html

 私が深田久弥の選定した「日本百名山」 を完登したのは、確か1990年頃だったと記憶していて、年齢は30歳台だったと思う。

 初めて百名山に登ったのは、まだ高校に入学したばかりの1968年頃だった。上宝村栃尾から焼岳に登ったのだが、当時は、まだ焼岳が火山活動中で、中尾峠までしか行くことができなかった。
 それでも、私は一発で登山に魅入られてしまった。
 山頂は、そこから40分近くかかるので完登ではないのが心残りだ。
 同じように、浅間山も山頂へ立入が禁止されていたし、阿蘇山も同じだったので、残念ながら、私の百名山登山には大きな瑕疵が残っている。

 そこで、2巡目を始めたのだが、それからは深刻な病気や、体調の悪化もあって、なかなか進んでいない。
 まあ、百名山だけではなく、二百名山も、三百名山も、相当の割合で登っているから、登山数だけでいえば、1000は軽く超えているはずだし、同じ山の登山も回数に含めれば、2000どころじゃないはずだ。
 おかげで、結婚もできないまま人生を終える寂しい運命に至ってしまった。

 1980年代から、山歩きを「山浮浪記」という紀行文にまとめて知人に配っていた。当時の文章は、フロッピーディスクに保管していたのだが、今は探しても出てこないし、たぶん、再生もできないだろう。
 わずかな文章だけが、残っていて、私のHPの片隅に掲載している。
 http://tokaiama.minim.ne.jp/tokaiama/omake.htm

 とくに沢登りのルート紹介の記事が残っていないのが残念だ。まだ当時は、装備もワラジくらいしかなかったし、ポピュラーな登山ではなかったので、誰も紹介していない未開の沢概念図は貴重だった。
 中央や南アルプスの沢は、ずいぶんたくさん出かけて、ときには単独行で滝から転落して、何カ所も骨折したまま這々の体で逃げ帰ってきたこともあった。帰宅して、母親が訪ねてきたとき、人相が変わってしまって私を認識できなかったほどだった。

 今、間質性肺炎を患ってしまい、もうアルプスのような激しい山行ができなくなって、当時の思い出が蘇るたびに胸を締め付けられるような郷愁を感じている。
 私の、たぶん数千回の山歩きの経験から、とりわけ心地よい思い出を振り返ることも、だんだん記憶が薄らいできて、困難になりつつあるので、少しはブログに書き留めておきたい。

 まず、最初に、鮮烈な記憶が残っている山は、なんといっても北海道だ。
 70年代初め頃、初めて北海道の百名山を訪れたとき、恵庭岳など、行く先々でヒグマの影がちらついていたのだが、十勝岳で、いきなり巨大なヒグマと至近距離での遭遇を経験させられた。
 白金温泉から、十勝岳・富良野岳の周回コースがあったのだが、ホロカメットクの手前で、バケツをひっくり返したような糞塊がたくさんあって「これは!」と思った、そのとき、目の前に巨大な漆黒のヒグマと遭遇した。

 それは、漆黒でありながら、毛皮がギラギラと輝き、まるで黄金の毛で包まれているような光り輝く印象だった。そして、出会って、私を認識したヒグマは、山頂付近の広大な笹原に消えていったのだが、このとき感心させられたのは、熊が笹原のなかを移動するとき、まったく音を立てなかったことだった。
 おそらく毛皮の表面が消音作用を持っているのだろうと思った。

 後に、この種の熊を「金熊」と読んでいることを知った。金熊は、ヒグマのなかでも、成獣を超えて老獣に達しつつある個体で、みんな大きい。牛ほどの大きさで、たぶん200キロ以上はあったはずだ。
 ヒグマは、幼獣から成獣に成長するたびに、最初は薄い赤毛で、だんだん黒さを増してゆき、最後は光り輝く金熊になるのだ。
 この種の老熊が、人間に危害を及ぼすことはないといわれる。危険性の高い熊は、老獣になる前に駆除されてしまうからだ。

 私は、生まれて初めて出会った野生のヒグマに、ひどく感動してしまった。それから、北海道で、何回もヒグマを目撃することになった。
 羅臼岳では、至る所ヒグマの痕跡だらけだが、登山道から100mくらい下で、鹿を食べているヒグマを見た。まだ赤茶の若い個体で、あまり気分は良くなかった。

 斜里岳は沢登りルートなのだが、やはり至る所に独特の獣臭いヒグマの痕跡があって怖かった。
 もっとも怖い思いをしたのはトムラウシだ。山頂付近の避難小屋で寝たのだが、朝、藪の中で用を足していると、どこからともなく「フーフー」とフイゴを吹くような大きな音がしてくる。

 瞬時に背筋が寒くなった、ヒグマがいるのだ。 立ち上がって、背の低い藪を見渡しても、ヒグマはどこにも見えない。
 私は恐怖のあまり、すぐに下山を開始した。
 そもそも、トムラウシ登山は、すでに二回もヒグマ出没によって、登山禁止令が出ていて登れなかった。三度目の正直だったのである。

 北海道の山々は、どこも、みんな若い娘が憧れのスターに出会うような心のトキメキを与えてくれる。嫌な思い出など一つもない。ヒグマの恐怖だって魅力のうちなのだ。
 何せ、大自然のスケールが大きくて、人が少なくて、みんな純朴で親切で、私は、若い頃から何度、北海道に移住したいと思ったか分からない。

 北海道の山に恐ろしいヒグマが棲んでいる=人間と共存してきたということは、北海道の本当の魅力を考える上で、とても大切なことだ。
 世界のどこにでも、猛獣や象やバッファローや毒蛇や、人食い鮫や、マラリア蚊など、恐ろしい生物と人間は共存し、人間に死のリスクとともに、共存のための知恵を授けてきたのだ。
 もし彼らがいなかったなら、社会はずいぶん無防備で、遅れていたのかもしれない。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html

 山の魅力としては、やはり大雪山は素晴らしい。ちょうど9月中旬ころに2回行ったが、二回とも車泊中に、車内のガラスがバリバリに凍り付き、旭岳では激しい吹雪に遭った。
 最初に単独で行ったときは、地図に温泉マークを見つけて寄ってみたら、沢に湧き出す自然温泉で、コッヘルで湯船を広げて無理やり入った。中岳温泉と名付けられているが施設はない。後に、自衛隊員が勝手に施設を作ったので検挙されたとのニュースがあった。

 大雪は、9月中旬の紅葉の景観が、この世のものとは思えない錦秋の素晴らしさである。今では簡単にロープウェイで登れるので、死ぬまでに一度は見ておきたい。
 もし、大雪の紅葉に匹敵する景観があるとすれば、たぶん、尾瀬か八甲田山だろうか?
 尾瀬は、周辺の山々、平ヶ岳や会津駒を含めて、どの山も北海道のように景観が素晴らしい。歩きやすい山ではないのだが、池塘の景観が素晴らしいのだ。

 尾瀬は東京電力が、発電ダムを造る計画で、ダムの底に沈むはずだった。
 これに対し、長蔵小屋の親父をはじめ、たくさんの自然愛好者が、必死の戦いを行って、当時の大石環境長官の判断で、尾瀬縦断作業道路計画が中止に追い込まれたが、すると、東電は、ちゃっかりと作業拠点を山小屋に改造して営業を始めた。

 尾瀬の景観の凄さは、私が初めていった1970年代初めでも、言葉で表現できないほどの絶妙な桃源郷に思えたが、ところどこと空缶が捨てられて山になっていた。
 これを老いた平野長蔵が、コツコツと持ち帰って自分の小屋の脇に埋めた。
 すると、尾瀬の大自然をこの世から消そうとした東電が、これを告発し、長蔵さんは、廃棄物法、自然公園法によって逮捕されたのである。

 この頃から、私は東電に対してなんとも重い不快感を抱いていた。そして、その強烈な違和感が、福島原発事故で鮮明に姿を現した。
 尾瀬は放射能で汚染された。平ヶ岳などは空間線量が数マイクロシーベルトに達している。

 八甲田山も尾瀬に似た景観である。2回目はロープウェイでチョンボ登山をしたのだが、終点から10分も歩いたところに、日本で一番美しいといわれる池塘の景観が待ち構えている。
 私が行ったとき、外国女性が、池の端で何時間も見つめ続けていた。
 八甲田山の稜線も、人生に一度行ってみる価値は間違いなくある。何よりも、付近の温泉が素晴らしいの一語である。

 日光周辺の山々、皇海山や武尊山は、鹿の大繁殖地になってしまった。これは、鹿やイノシシをコントロールする「山の神」=カムイを失ったからだ。
 行けば、登山道の至る所に鹿の骨が散乱していて、鹿の好まないアセビなど、毒性植物ばかりが残るようになってしまった。
 私が行った、1980年前後は、これらの山々に、田中角栄の「日本列島改造論」の触手が伸びていて、素晴らしい原生林が、もの凄い勢いで皆伐され、次々にゴルフ場や、カンポホテルなどの施設に変わっているときだった。
 私は、この頃、日本社会は必ず滅亡すると確信を抱いた。

 日本アルプスは、とりあえず、著名な高峰は、70年代に、すべて登ったつもりでいて、80年代以降は、もっぱら長大な沢を一人で歩き続けた。
 この頃は、私の人生で、体力精神力ともにピークの時期で、なにものも怖れず、一人で、どんな深い危険な山でも、確実な地図がなくとも突入し、どんな困難でも克服する自信に満ちていた。

 甲斐駒の沢では、途中に人骨を発見したこともある。当時はアマチュア無線にも凝っていて、誰も行かない深い山の彼方から、遠方と交信する楽しさを味わっていた。
 複数で行くよりも、単独で行った方が、安全な場合が多い。自分だけで歩けば、相方を気にする必要もなく、どんな危険なことも突破できたからだ。

 我が家から近い中央アルプスには、たぶん50回くらいは登ったと思う。
 自分の山歴の白眉としては、3月末くらいに、恵那山から木曽駒ヶ岳まで縦走した。完全な冬山で、荷物は40キロ以上、スノーラケットをはいて、スコップを持って雪洞を掘りながら一週間以上かかって突破した。
 このときは、凍傷と日焼けで、顔がものすごいことになった。

 この頃、人里から遠く離れた深山で、夜中に、人の声を多数聞いて驚いた。ときには汽笛の音や、車の通過音まで聞こえた。
 後に、こうした擬音が、カラスやカケスなど、鳥たちのイタズラであったことを知った。

 御嶽山も、何度も厳冬期に、濁河温泉から入って木曽側の八海山ルートに、山スキーで滑り降りた。
 嶽の湯の奥さんが、私が出発するとき「誰か、この人を止めて!」と叫んだことも懐かしい。
 実際に、凍結した斜面で転倒したままハイマツ帯に突っ込んで遭難しかけたこともあったので、まあ、命の大切な人がやる遊びではない。
 私は、ずっと独身で、死んでも困る人が少なかったので、やれただけだ。

 北アルプスの魅力としては、薬師や雲ノ平なんかは素晴らしかった。上高地、尾瀬、乗鞍五色ヶ原なんてところは素晴らしいが、誰でも簡単に行ける。
 しかし、雲ノ平は、たぶん今でも三日くらいかかる。ここで出会う人たちは、正真正銘の山好きである。
 だが、今では、ヘリの手当がつかずに、補給が途絶えて、食事が出せない小屋が多くなっているらしいので、十分な準備が必要だ。
 本来は、国立公園の維持のために国=環境省がやるべき仕事を、自然保護に無関心な安倍政権が怠慢で放置しているため、深刻な事態になっているらしい。
 https://diamond.jp/articles/-/216591

 私は、このブログで、山の歩き方について、何回か書いてきた。
 
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2143495.html

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-10.html

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-816.html

 私のブログは、明らかに政治的に検索から排除される傾向にあるので、題名をそのまま検索しても出てこないことが多い。だから、読者は非常に少ないので、せっかく書いても、あまり意味がないことが多いが、いずれ評価されることもあるだろうと期待している。

 私が、何度も繰り返し訪れた山としては、比較的近いので日帰りが可能な、奥遠州、台高山地や大峰山地、鈴鹿山地が多く、これらの山々については、歴史を調べた長いブログもたくさん書いている。
  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-96.html

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-95.html

 しかし、山の楽しみとしての高層湿原とか、爽快な稜線とかは、あまりなくて、アルプスや、東北・北海道の山々に遠く及ばないが、人間との関わりの深い歴史があって、民俗学をやっている人にとっては興味が尽きない。

 西日本で爽快な山々を挙げるとするなら、九州高地まで行かないとダメだ。
 とりわけ九重や阿蘇が素晴らしい。九重高原の坊ガツルなんかは、東北の池塘群と比べても遜色のない美しさなので、生きているうちに、一度は温泉と併せて散歩を楽しんでいただきたい。

 坊ガツル華院温泉には、一度宿泊をお勧めしておきたい。

 また九州は、鹿児島や屋久島の山々が素晴らしい。
 鹿児島は、開聞岳や高千穂、桜島と凄い山々があって、みんな素晴らしい温泉がついている。

 屋久島は、私が登った70年代には、何の制約もなかったが、今ではガイドをつけないと登れないらしい。とても残念だ。

 このブログは、「疲れない長さ」を念頭に書いているので、これ以上では長すぎてしまう。そろそろ切り上げるが、山の話を書き出すと止まらない。まだ四国や越後の山々と温泉を書きたい。

 もう大きな山には呼吸能力の問題で登れないのだが、もしも回復することがあったなら、今度は動画をYouTubeにでも挙げたいと思っている。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-915.html

4. 中川隆[-12620] koaQ7Jey 2020年5月21日 18:50:50 : ERKrZ2ctDs : Y3Z2aS5Ga1NRVi4=[25] 報告
死と向き合う 2020年05月21日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1129.html

 私は、若い頃から「死」について考えてきた。

 私は集団行動が苦手なので、どんな危険な登山でも一人で行動した。

 若い頃は、沢登り、単独クライミングに凝っていて、アルプスの沢登りに向かえば、必ず大きな滝をたくさん越えてゆかねばならない。このとき、いつでも死のリスクと向き合わねばならなかったからだ。

 ザイルは一応持っているのだが、よほど危険な場所でなければ、時間的な問題で、高度差十数メートル程度なら確保なしで登ってしまうことが多い。

 ザイルを出して、ハーケンを打ちながら確保用具をセットし、登ってから回収して、再び歩き出すまでに、あまりにも多くの時間を浪費してしまうので、「確保しなければ転落する」と確信できるとき以外は、まずフリーソロでやっつけてしまう。

 一人だから、確保にあたって、二人の場合の三倍以上の時間を必要とするからだ。

 だが、一度だけ、そんな滝登りに失敗して10メートル近くを転落したことがある。中央アルプスの2級程度の沢だった。

 河原に叩きつけられてから、しばらく動けなくなった。単独だから救助者はいない。一番近い人家まで徒歩で半日以上はかかるだろう。

 やがて、少しだけ体が動かせて状況を確認してみると、手の甲や肋骨など、4箇所程度が折れていたようだ。

 それでも激痛を我慢しながら、登攀を諦めて退避した。半日かけてヨタヨタとバス停にたどり着き、来たバスに乗り込んだ。

 乗客は、私を見て、みんな硬直してしまった。打撲で、もの凄い人相をしていたからだ。

 だが、ボコボコにされた姿でも、名古屋に帰り着くことができた。翌日、私のアパートに尋ねてきた母親が私を見て「あなた誰!」と叫んだ。

 あまりの人相の変貌で、母親ですら、自分の息子を認識できなかったのだ。
病院に行って、失敗を咎められるのが嫌で、かなりの期間、会社も休んで、自宅で療養を続けた。骨折した場所は、やがて偽関節になってしまった。
 いびつに曲がった自分の骨を見て、私は一罰百戒の教訓を得たわけだ。

 治ったら、再び、沢登りを復活させたが、このときの教訓から、フリークライミングの技術を磨くために、ゲレンデに通って5級程度のフリーソロを安全に登れる程度の実力を身につけることにした。おかげで、とりあえず10Aを安全に登れる自信ができた。
 沢登りやヒマラヤ登山程度なら、この程度で十分なのだ。以来、事故はない。

 こうした経験のなかで、私は「死の危険」に満ちた登山の場合は、「普段から訓練している自分が失敗するはずがない」と、強烈な確信=自信を持って、現場では、ネガティブな予想をせずに、ポジティブな成功への信念だけで登れば安全が確保できると信ずるようになった。

 こうした「死と紙一重」の体験で、心の持ち方の教訓を得た私は、それ以来、タクシーの運転中に、後ろの乗客にナイフを突きつけられても、食堂で向かいの客が「殺すぞ!」と恫喝しても、ヤクザに威圧されても、ウソのように動じることがなくなった。
 どんな危険が目の前に迫っても、平然としていられるのだ。
 もちろん、それまでの登山で、いきなり大熊やイノシシと鉢合わせになったり、クライミング進退窮まったりという経験をたくさん積んでいたことも大きい。

 ピンチに際して「慌てない、動じない」という姿勢は、相手が人間だった場合、ずいぶん薄気味悪く思うらしく、ヤクザに脅されていても、平然としているので、逆に、相手が勢いを失ってしまうのだ。
 また、岩場で進退が極まっても、屁のカッパのように力を抜いて冷静にしていれば、すぐに脱出経路が見えてくる。
 体が恐怖で硬直しないので、行動に大きな余裕が生まれているのだ。

 今の中津川市に移住してから、ネット上の発言について、ずいぶんたくさん脅迫を受けた。ほとんどの場合、単なるはったりにすぎないから、「アホか!」と聞き流していたが、一度だけ、「これは本気で襲われるかも」と心配したことがある。
 後に、相手が現職の自衛官だったことがわかり、彼の所属する各務原部隊は、民主党政権に対しクーデターを計画していたほどの自衛隊内極右暴力集団だったのだ。
 このときは、監視カメラをセットして、殺されても証拠だけは残そうと考えた。

 今、私を誹謗中傷している連中は、臆病者の口先右翼しかいないので、全然心配していない。素性の悪い駄犬が吠えているだけだ。
 先に書いたように、私は、自分の意見表明が理由で殺されることになっっても、名誉なことだと考えているし、もし襲撃があったなら、命と引き換えでもタダで返すつもりなどない。

 しかし、7年前に、再び、死と真正面から向き合わねばならないことになった。
 あることが原因で、間質性肺炎になってしまったのだ。
 最初は、単なる喘息だと思っていたら、呼吸音にブツブツバリバリという奇妙な音が聞こえるようになり、日常の小さな所作で激しく息切れするようになった。

 ネットで調べて見ると、間質性肺炎IPF(繊維化)の症状そのものであり、発症後の平均余命は5〜6年と書かれていたから慌てた。
 おまけに、山に行っても、それまで登れた時間が、どんどん長くなってゆく。
 おまけに、近所に住んでいるAという、絵に描いたような嫌がらせマニアの老人が、車をパンクさせたり、木ネジを道路に撒いたり、呼吸を悪化させる煤煙を出したりと、とんでもない悪さを繰り返すので、症状が悪化してしまった。
 このときは怒り心頭で、Aにガソリンをぶっかけて火をつけてやろうと本気で思ったが、辛うじて良心が押しとどめた。

 すでに私の死期は過ぎているので、生きているのが不思議だが、毎日欠かさない早朝の呼吸トレーニングが効いているのだろうと思ってる。
 今日、この文章を書いている本題は、「自分が病気でジワジワと死んでゆく」という現実を直視させられたとき、自分が、どのような反応を起こしたかである。

 この病気は、本当にジワジワと呼吸機能が悪化してゆき、空咳が出て、息切れがひどいので、何か、長い時間をかけた拷問に遭っているようだ。
 やがて、酸素供給をしなければ、日常生活も不自由になってしまい、インフルエンザなどに罹患すると、急性増悪という病態になって急死するパターンだ。

 ネットでIPFを確認し、自分の死亡宣告を受けたように感じてから、「死生観を悟って、度胸が据わっているはずの」私は、うろたえた。
 「死に対して覚悟ができていた」はずの私が、この先、どうやって生きてゆけるのか、絶望的な気分になった。
 そうして、いつのまにか、私が私でない別の人格に離脱していることに、ある日、気づいた。

 「病気で死を宣告されているのは、私ではない別の人間だ」と、いつのまにか思い込んでいる私がいた。
 そうして、別の人間、人格として生きようとしている自分を見ることになった。それは、傍から見たら、とんでもなく滑稽で、異常者としか思われない人格だ。
 人間というのは、追い詰められると、本来の自分以外の何者かに変身したがるのだと、私は、はじめて気づいた。

 ちょうど、今、黒川弘務検察官問題で、国会で、追い詰められて珍奇な答弁している森まさこ法相が、なんだが私に似てるなと思うようになった。
 いわき市出身の彼女は、目がぱっちり、ぽっちゃり型で、おそらくアイヌの血を引く、縄文人タイプである。
 人相学を学んだ人なら、この種の、大きなお目目、とぽっちゃり女性は、おしなべて感受性が強く、逆境への耐性が弱いことが分かるはずだ。
 私も、どちらかといえば、アイヌの血を引いていると思われる形質がたくさんある。

 この種の、縄文人型、高感受性女性は、圧力に弱く、迎合しやすい傾向がある。彼女は、本来、法相など担えるような器ではないのだが、たぶん、負けん気が強くて、自分の精神的な弱さを弁護士と議員とかの「権威の威力」でカバーしようとしたのだろう。
 だが、どんなに権威をまとってみても、心の弱さが克服できるわけではない。

 だから、国会で正論によって追い詰められると、心のプライドの行き場を失って、右往左往したあげく、とうとう精神離脱して自分を見失ってしまうのだ。
 同じように、縄文人の血を引く私も、死と直面させられて、なんとか逃げたくて仕方なく、心の離脱が起きてしまった。

 「心優しい」という形質は、言い換えれば「離脱しやすい」ということになる。
 私は、アイヌのユーカラなど、民俗学的資料を調べていて、「アイヌ人が冷静さを失って我を見失いやすい」という事実に気づいていた。
 みんな争いごとが嫌で仕方ない。他人の不幸を見たくない、心の優しい人ばかりだ。
 アイヌには、詐欺師や泥棒は非常に少ないが、感情に左右されて衝動的に罪を犯す人は少なくない。

 こういうタイプの人々が、自分たちの滅亡や、死を覚悟させられたとき、「心の離脱」が起きやすくなる。

 今、私は、自分の人格が幾重にも離脱分裂して、死を直視せずにすむ時間を得たいと思っている。

 もし、私が、本当に自らの死に向き合うとすれば、これまで私に嫌がらせしてきた連中を、襲いに行くことになってしまうだろう。

 なるべく、そうせずにすむように、しばらく離脱したままにしておきたい。 

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1129.html

5. 2020年9月18日 18:25:25 : EyOd7aj3LE : ckY3ZTFXMUNXRlk=[21] 報告

冒険の薦め 2020年09月18日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1252.html

 と偉そうに書き出してはみたが、実は、私は海外に出たことさえない。国内に面白い、行きたい場所が多すぎて、特に海外の情報に魅力を感じなかったこともあるが、やはりカネがなかったことが大きい。

 私は、16才の頃から一人で日本中を歩き回った。主に山歩きが多かったが、手当たり次第に面白そうな場所を徘徊することが、たまらなく好きだった。
 山の方は、相当に本格的に歩いた。1990年には、深田百名山を完登している。
 とはいっても、当時は、山頂への入山規制が多くて、焼岳・浅間山・焼山(妙高)などの火山の山頂を踏むことはできなかった。

 ただ、本当にヒグマの徘徊する羅臼岳・斜里岳・十勝岳・幌尻岳・トムラウシでは、実際に牛ほどの大きさのヒグマと数メートルの至近距離で遭遇し、また鹿を食べている姿を目撃し、雪渓を転がって遊ぶ姿を目撃した。
 トムラウシでは、小屋近くの藪で「お花摘み」をしているときに、フイゴのような呼吸音を間近に聞いて震え上がった。

 「非日常的体験」を存分に味わえる「プチ冒険」が、登山の醍醐味だ。私の場合は、凝り性だったので、プチを超えて、一人で厳冬期の中央アルプス単独全山縦走に挑んだり、各地のクライミングゲレンデに見参したり、単独でアルプスの沢登りを、ずいぶんたくさんこなした。
 これらは、難易度からいえば、十分に冒険の範疇に入れても文句は出ないと思う。

 今、老人の域に達して振り返ってみれば、若い頃にしかできない、こうした冒険は、私の人生観・世界観・困難に対する強靱性を育てるのに、ずいぶん役に立ったと思う。あの冒険がなければ、自分の人生は、ずいぶん違うものになっていただろう。

 私の場合は、子供の頃、ヤクザ子弟にひどく虐められたことが原因なのか、対人関係にPTSDがあって、他人と要領よく付き合うことが苦手だったので、何もかも一人で決断し、一人で冒険を決行した。仲間を作るのは嫌だった。

 冒険という定義を考えれば、「安全が保証されていない困難」というべきだろう。
 普通の人が怖がってやりたがらないこと。何もかも、遭遇する困難を自分の責任で対処しなければならないこと。
 「死を決意」して行うことであれば、冒険で自分が死ぬことは、十分に想定しなければならない。

 これで人に度胸がつく。この度胸だけは、実際に困難や恐怖を体験しなければ身につかないものだ。
 私の場合は、中央アルプスの沢で一人で滝を登っている最中に転落し、4カ所を骨折した。最初は立ち上がることもできなかったが、1時間後に体が動くようになり、激痛に耐えて誰の助けも借りずに自宅まで帰還した。
 母親や、知人は文字通りのお岩さんのようになったボコボコの私を認識することさえできなかった。

 ロッククライミングでは、御在所や豊橋の立岩あたりなら、五級コースをほとんどフリーソロで上っていたから、とにかく恐怖心が嘘のように消えてしまった。
 厳冬の南アでは、農鳥小屋から雪が降り積もり、ルートはまるで不明、間ノ岳では、とうとうルートを失い、マイナス20度の稜線を1時間以上彷徨うことになった。北岳では胸までの積雪だったが、ルートを想像しながら、雪に倒れ込むようにラッセルを重ね生還した。

 こんな経験を積むうちに、後にタクシー運転手をやっていて、後ろからナイフを突きつけられたり、酒場でヤクザに恫喝されたりしたときも、ほとんど恐怖がなく、逆に、こちらの落ち着きをみて相手が怖がった。

 もしも、冒険に医学上の効能があるとすれば、それは、自分の死や負傷を含めた、あらゆる事態に恐怖心が消えることかもしれない。
 滝で墜ちて大怪我しても、まるで他人事のように自分の怪我を眺めていられた。

 こんな経験が重なると、人はなぜか他人に対して優しくなる。私は、他人の笑顔を見ることが好きになった。自分がいつ死ぬか分からないと、他人に親切にせずにはいられないのだ。

 自分の死よりも上の恐怖はないのだから、死が怖くなくなれば、この世のあらゆる異常事態に遭遇しても怖くない。ひたすら、運命を素直に受け入れるようになる。
 また、他人と違う特別なことをやって、後ろ指を指されて孤立することにも恐怖を感じない。天上天下、唯我独尊の人生観が成立するのだ。
 どんな恥ずかしいことでも、特に他人に迷惑がかからないなら躊躇しない。

 ただ、私は自分の行ってきた「冒険」を自慢するつもりなどサラサラない。
 誰でも、決意すればやれることだからだ。自分にしかできないことはなかった。また、自分のやれたことを他人に強要するつもりもない。
 「人生万事塞翁が馬」であり、誰が何をするのか、できるのかは見た目からでは分からない。臆病で気が小さいと思っていた人でも、とんでもない勇気を見せることが珍しくもない。

 我々が大切に守るべき人生観として、私は「立って半畳、寝て一畳、食べても二合半」という信長?の訓を大切にしたい。
 一人の身の丈にあった生活をせよという意味だが、「立って半畳」のなかでできることは、思いのほかに大きいと思うから、「冒険を薦める」のである。

 人間、無謀とも思える冒険を強行できるのは、独身時代、未婚の私でも40才くらいまでだった。大きな山歩きをして、20代までは、その日の内に疲れが出て、翌日にはケロリとしていたが、30代では、翌日に疲れ、翌々日まで苦しくなった。
 40代になると、三日もしてから疲労感が出て、全身が痛くなり一週間も治らない。
こうなると、さすがに、生死の境を彷徨うような冒険に出ることをためらうようになる。

 まあ、せっかく命と健康をもらったのなら、40才までに、全身全霊でことに当たって、全力を使い果たすような冒険を経験しておくのは、とても大切なことだ。
 60才になったら、もう本当に冒険ができない。まあ、その代わりに経験と知恵が蓄積してるから、多少の困難は、甲羅の苔のおかげでなんとかなるのだが……。

 もう一度書くが、若い頃から本当の冒険を重ねた人は、人生の引き出しの数が違う。
 どんなことでも対処できる自身があるから、他人に対して優しくなれるのだ。
 学歴を自慢して他人を小馬鹿にしたがる某医師を知っているが、ずいぶん経験が狭く、与えられたレールをはみ出すこともできなかった気の毒な人だと思うしかない。
 あれでは、患者に同情して、思いやりをもって治療にあたることもできず、自分をペラペラと自慢するだけの鉋屑のような人生で終わってしまう人だと思う。

 もしも、自分の人生に深みをつけて、人間性に優しさを加えたいのなら、今すぐにでも冒険に旅立つべきだ。ただし、年寄りの冷や水はやめた方がいい。
 冒険というのは、意外に綿密な計画性を必要とするものだ。もし、計画もせず準備もせずに、やるなら、それは無謀というのだ。

 私の場合は、アルプスの3000メートルを縦走するまでに、一人で高尾山から始まって奥多摩の山々、大菩薩やら乾徳山やらを歩き、奥秩父を縦走して、それからやっと南アルプスを歩いた。
 その間に十分に足腰を鍛え、苦痛を我慢することを覚え、道に迷わないための知恵をつけ、足に合う靴を探し、山の栄養を考えた。

 こんな地道な長い計画性の上に、困難な冒険が成立している。もし計画性がないなら、それは冒険ではない。思い立って厳冬の北アルプスや富士山に向かえば、たちまち死んでしまう。
 準備や計画のない思いつき登山に巻き込まれて、殺された人を私はたくさん知っている。無謀な冒険は、自分だけが死ぬことで済むことはなく、必ず周囲を巻き込む。
 山では遺体の回収だって、大変な危険、困難が伴うのだ。死後硬直した遺体を背負って10キロ以上も歩いて下に下ろす隊員の苦痛を想像してもらいたい。

 冒険は必要だ。だが、その前に、慎重すぎる計画と準備が必要なのだ。
 老人の山岳遭難が激増した理由は、老人になったことに気づかない人たちが、ろくな準備(訓練)もせずに、若い頃の感覚で危険な山域に入ってしまうことだ。
 西穂縦走路や剣山など、どのルートも、まっすぐ歩けない70才代には無理なのだ。経験もないままジャンダルムに向かえば、帰路は棺桶の中だ。

 まずは、徹底した訓練と準備、そして計画

  http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2143495.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-10.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-816.html


http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1252.html

6. 中川隆[-10577] koaQ7Jey 2020年10月26日 16:51:19 : dmSeYzZ7jM : dUcuNGFwLk1nYUU=[23] 報告


若者たちが自民党政権を容認する理由 2020年10月26日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1291.html
 
 私は、最近の若者と接点がないので、正直、若者の気持ちが理解できず、共感するところもない。
 しかし、1990年頃から普及した、パソコンゲームによって、それに長時間、没頭する若者たちが、自然との触れあいもなく、他者との大きなコミニュケーション、邂逅もないまま大人になってしまって、人工的な空間に埋没して、とても狭い穴蔵のような価値観の人生を送るようになるのではないか、という危惧は強く抱いてきた。

 私が山歩きを始めたのは、1960年代の末だが、1990年くらいまでは、日本中のどこの山に行っても、若者たちで溢れていたと思う。
 みんな、ザイルを持ってカラビナをチャラチャラさせながら岩場に取り付いている者たちに憧れていた。当時は、まだ植村直己や小西政次=山岳同志会の冒険全盛期で、「危険な冒険をできないような人間は、価値ある人間じゃない」と決めつけるような風潮もあった。

 だから、谷川岳や穂高、剣で、わずか数十年のうちに数千名が死亡するような苛酷な登山がもてはやされ、命がけ、捨て身の登山に向かう若者は、高倉健のヤクザ物語のようなかっこよさがあった。
 私も影響されて、厳冬期の中アを単独縦走したり、南アルプスの深い沢を数日かけて単独遡行するような登山をやって、映画の主人公にでもなったつもりで、肩肘を張って自己陶酔していたものだ。

 「命がけの冒険をできねえようなヤツは男じゃねー!」
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1252.html
 まあ、苛酷な経験を積んだ者は、他人に対して優しくなれる。別の言い方をすれば、人間の懐が深くなる。

 だいたい、こんな連中を当時は「山屋」と呼んだものだ。
 厳冬クライミングに向かうようになると、死亡率だって、たぶん太平洋戦争の戦場なみだったような気がする。だから冬山から下山すると、「シャバに帰ってこれた」という安堵感で、いつも抜け殻のようになった。

 だいたい、山屋というのは、世間並みの価値観なんて持っていない。出世や地位なんかに拘泥していては山に行けるはずがない。山じゃ学歴も関係ない。
 だからテレビや映画、ゲームなんかにも興味がなかった。そんなものに使うゼニが山への交通費になったからだ。

 ついでに書いておくが、私は「日本人凄い、日本人は優秀」なんて評価が出てくる理由は、日本全土にある山のせいだと思っている。
 日本ほど、山を利用した難度の高い冒険ができる国は少ない。山が人を鍛えるのだ。
 だから同じような条件を持った台湾人もニュージーランド人も、アルプスを抱えたスイス人もイタリア人もフランス人も、日本人に共通する精神性を持っているはずだ。

 書いているうちに、話が逸れていってしまったので戻るが、冒険は人を鍛え、巨視的な人生観を与えてくれる。
 長い人生を泳ぎ渡るには、他人に釣られない、迎合しない強い意思の自分が必要だ。それを鍛えてくれるのが冒険なのだ。

 冒険を重ねた人間は、死と紙一重でのせめぎ合いの体験を積むことで、自分の死と直接向き合う「死生観」を知ることができる。
 自分の死の価値を考えながら生きてゆくことで、「今、何を、どこまで行うべきか?」という決断を容易に決めることができるようになる。
 社会に迎合しない自分を確立し、雰囲気に流されない、確乎たる自分を作り出すことができる。腹が据わるのだ。

 そこで、社会や政治に対しても、自分の人生観、社会観から独自の観点で判断するようになり、私の知る限り、体制に順応するような保守的傾向になる者はいない。
 迎合しないことで不利益が生じても、冒険者にとっては、たいしたことではない。
 ここで、今日の本題に入りたい。

 冒険しない者は、周囲に迎合的になり、姑息に自分を守ろうとするようになる。社会性、政治性についても、どうしても自分の利権を守りたい一心で、保守的になってゆく。
 私は、今の若者の保守性=自民党への高い支持率の意味は、「冒険しない」穴蔵人生から来ているのではないかと思うのだ。
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 なぜ若者は、安倍晋三に続いて「菅義偉も」支持するのか
彼らが自民党政権に親和的な「真の理由」(現代ビジネス10月25日)

 アベからスガへ引き継がれる若者の支持

「なぜ若者は自民党を支持するのか?」
「若者は自民党や安倍晋三をリベラルだと考えているというのは本当なのか?」

――などと年長者から尋ねられることが、近頃多くなった。『なぜ若者は、それでも「安倍晋三」を支持するのか』という小論を現代ビジネスでリリースしたのは、そうした問いかけに対する回答のつもりだった。だがむしろ、この記事をリリースしてからますますそうした質問を受ける機会が多くなった。

安倍政権が幕を閉じ、そのあとを引き継いだ菅政権が発足した。朝日新聞世論調査によると、やはり政権発足直後ということもあって全世代にわたって支持率は高い。しかし特筆すべきは、29歳以下、39歳以下の世代において不支持率が低いことだろう。
ちなみに安倍政権末期(2020年7月)の調査でも同様の傾向がみられた。この時期になると、ほとんどの世代で安倍政権への不支持が支持を上回っていたが、そのような状況でもなお29歳以下の世代だけは支持46%・不支持29%だったのである。

とくに自民党政権に批判的な立場の方々の意見をうかがっていると、「物事の道理をただしく理解さえすれば、若者たちはとてもではないが自民党やアベ・スガなど支持できるはずがない」という前提を自明として考えていることがわかってきた。

「自民党支持者」に対する先入観

若者たちは、政治に対する勉強も理解も足りていない。ただ「少数派になるのが嫌だ」という付和雷同、あるいは同調圧力によって自民党政権を支持しているにすぎないのだと彼らは推測する。

〈駒沢大学法学部の山崎望教授は、2017年後期のゼミを振り返って言う。「学生たちに『共感』というか、ああ、そう考えちゃうよねと腑に落ちました」

 当時、世間を騒がせていた森友・加計学園の問題を議論した。安倍政権を肯定する意見がゼミ生25人の7割を占めた。 「何政権であろうと、民主主義国家としてよくないのでは? 私がそう水を向けると、彼らはきょとんとした顔でこう言うんです。『そもそも、総理大臣に反対意見を言うのは、どうなのか』って」

 政権に批判的な残りの学生に対しても、肯定派は冷たかった。「空気を読めていない、かき乱しているのが驚き、不愉快、とまで彼らは言うんです」

 なぜ、そう考えるのか? 学生たちにリポートを書いてもらうと、「政治の安定性を重視しているから」という理由が多かった。不安定でも臨機応変に対応すればいいんじゃないの? 山崎氏がさらに問うと、肯定派はみな言葉に詰まってしまったという。

 「理屈ではなく感覚なんです。安定に浸っていたい、多数派からはじかれて少数派になりたくない。そんな恐怖が少数派は罪という考えまで至るのではないでしょうか」〉

 (朝日新聞GLOBE+『なぜ若者の政権支持率は高いのか 学生との対話で見えた、独特の政治感覚』(2020年9月30日)より)
 「(ただ感覚的に、多数派から疎外される恐怖によって自民党を支持しているにすぎないのだから)根気よく説明してものの道理を理解させれば、若者たちは自民党支持などやめるはずだ」と、政権や自民党に批判的な人は少なからず考えているようだ。
 つまるところ「自民党を支持するということは、どこか社会や政治について理解度が低い部分があるに違いない」と。もっと言い方を選ばずに表現すれば「コイツはどこか阿呆なところがあるから、自民党など支持しているのだ」という前提を抱いているということだ。

 しかし残念ながら、このような認識では、若者たちの考えていることをとてもではないが理解できるはずがない。もし彼らに政権支持をやめさせたいと思うのであればなおさらだ。

 若者たちは「放っておいてほしい」

 「どうして君たちは政権を支持するの?」と尋ねられても、若者たちは、おそらくは即答できない。往々にして答えを濁してしまうだろう。

 だからといって「とくに確たる根拠や信念があるわけではないが、ただ少数派になるのを嫌がり、付和雷同的に支持している」わけではない。彼らがそのような態度を見せるのは、どちらかといえば「放っておいてほしい」からではないだろうか。

 〈中央メーデーの式典に先立つ文化行事では今年70年を迎えた東京のうたごえの仲間が壇上いっぱいに並び、アメリカのLGBT(性的少数者)権利獲得運動で歌い継がれる「いのちをうたおう」などを合唱。ラッパーのATSさんはラップ調の「がんばろう」を熱唱し、参加者と一緒に「安倍はやめろ」とコールしました〉(しんぶん赤旗『第89回中央メーデー 多彩な行動 各地で文化行事』2018年5月2日より)

 数年前から、野党やリベラル派を中心として、若者に政治的問題意識を訴求する手段として「ラップ」が使われ始めている。若者になじみ深い文化を取り入れれば、関心と親しみを向けてくれるはずだという狙いがあってのことだ。その端緒はおそらく、2016年に結成されて2018年まで活動した学生左派運動「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)」にあるだろう。

 だが「なんとなく若者が好んでいるカルチャーだから」という理由で、SEALDsのようなインテリ・リベラル学生たちから借り物の方法論としてラップを導入したところで、大多数の若者には響かない。

 たとえば同じラップでも、いま若者たちの間で爆発的な人気を誇るHIPHOPユニット「BADHOP」の楽曲の歌詞を1バースでも読めば、多くの若者たちが政権あるいは自民党のポリシーを支持している背景が見えてくるはずだ。「育ちのよいインテリ・リベラル学生が活用していたから、政権批判をラップにすれば若者に受けるはず」という程度の理解では、なにも見えてこない。

 成功しこの街に恩返す

 ゼロからじゃねぇマイナスから巻き返す
何にでもなれる誰だってやれる
夢を見せれるなら貧乏も歌う

 正直歌いたくねぇ金がねぇあの日々
でもなんか響くなら歌うあの子に
前にならえ出来ねぇ育ちのせい
壊すだけ破壊していく

 後ろ盾無く自分の腕でメイク
リスク抱える壊れかけのレーン
燃料が切れるたび何度も止まりかける
ここで権力に媚びたら俺たちじゃねぇ

 街に借りた恩なら腐った環境すらも楽しむ事
金じゃ買えない物
地位や名声手にするのがゴールではなくて
次に繋ぐ事が俺達の役目
(BADHOP [2020]『Hood Gospel』より引用)

 「自己責任」と「共同体主義」の折衷

 若者たちは、自分や自分の身内による自助努力と自力救済とを重視して成功を望む。だが自分たちだけで完結させようとするのではなく、自らの属する共同体でその繁栄を継承しようとしているのだ。身内や気心知れた仲間に有効範囲を限定した共同体主義、いうなれば「マイクロ共同体主義」の原理で彼らは動いている。

 もちろん彼らは自由主義や個人主義を当然のように享受しこれを肯定しているが、しかし最終的には地元を愛し、仲間を愛し、そして後輩や家族に自分たちの成功を引き継いでもらいたいと願う共同体主義をも折衷している。それは、かつて地方の商店や中小企業がつくってきた地域社会の形と相似形であり、まさしく自民党の支持基盤、自民党を支持する心性と重なり合っている。

 自分たちは自分たちでうまくやる、そして自分たちの手の届く範囲の中でささやかな幸せを次代へ引き継いでいく。だから、せめて邪魔するのだけはやめてくれ――若者たちはそう考えているからこそ「とりあえず余計なことはせず現状を守ってくれそう」という理由から安倍政権を支持し、そして今度は菅政権を支持するのである。

 これは政治的な安定を志向しているというよりも、むしろ「政治から自分たちに対する干渉を最小限に留めたい」というインセンティブに基づいていることを強調しておきたい。若者たちが、一見すると矛盾しそうな「新自由主義的な自己責任論」と「共同体主義的な世界観」をともに違和感なく受け入れていることは、このように見ると説明がつく。
 
 本音はシンプル「興味がない」

 「まともに考えれば自民党政権の支持などしていられないはずだ」などと内心見下しながら考えているようでは、こうした若者たちの社会に対するまなざしを読み解くことはできない。

 「安定した政治が良いから」という理由で政権を支持する若者は確かに少なくない。だがそれは先述した朝日新聞の記事が指摘するように「少数派になりたくない」という不安感や、事なかれ主義が動機にあるせいではない。

 端的に言えば、若者たちは政権や総理大臣が個人としてなにをしようが、正直に言ってしまえば大して興味はないのである。かりに総理大臣やその周囲の人物がスキャンダルにまみれていようが、とにかく自分たちに累を及ぼすようなことはくれぐれも慎んでもらえれば、政権の椅子に座っているのは、安倍だろうが菅だろうがあるいは他のだれであろうがかまわない。

 しかし「どうでもいい/興味がない」と率直に言ってしまうと、「最近の若者はけしからん」と憤慨する人や、自分たちのことをバカだと嘲笑する人が現われるかもしれない。だから「政治の安定性を重視している」と、慎重に言い換えているのだ。

 「まともに政治を勉強し理解すれば、政権や自民党を支持することなどできないはずだ」――という物言いは、まさに「目の前の悪をなぜ批判しないのか?」という前提に立脚しているからこその言明であるが、しかしそんなことは、自分や自分の仲間の栄達を求める今どきの若者にとっては「どうでもいいこと」の極みなのである。

 「政治家への批判や政治行動など、自分たちの貴重なリソースを割いてまでやることではない」という判断をオブラートに包んで答えているのに、「いや、臨機応変に批判していこうよ」などと言われても「だからやらねえって言ってるだろ。ていうかなんでそんな必死なの?」と呆れてしまうというわけである。

 そうした非干渉的・無批判的な態度が、周囲の人びと(とりわけ政権や自民党に批判的な人びと)からすれば「若者の政治的無関心」とか「付和雷同」とか「頭が悪い」「ネトウヨ」などと見えてしまうのは無理もないことだ。しかし若者の側もそういう風に思われることを承知しているからこそ、とくに与党に批判的な人の前では、ますます政治の話をしたがらなくなる。

 もし若者が選挙に行ったとしても…

 ツイッターで大きな声を出す若者を集めても「若者」の姿は見えない。

 冒頭で引用した山崎教授は、政権に肯定的な若者たちの、政治批判に対する反応――「空気を読めていない」「かき乱すな」「不愉快」――に、たいへん驚いてしまったようだ。

 だからといって、もちろんこうした「政権批判に対する拒否」は、若者たちが「政権に異論をはさむ人間は許さない!」という、さながらファシズム的な心情を抱いているために発せられるわけではないことはいうまでもない。与党を支持する若者を見て「若者たちが右傾化している」とか「ファシズム支持者になっている」などと突拍子のない分析を表明する人がたまにあるが、いずれも的外れである。

 若者たちのこうしたリアクションが出るのも、先ほど述べたように「現状でも自分たちは身内でうまくやれているんだから、『批判すべき』だのと騒いで波風を立てようとするな、自分たちに道義的義務を要求するな」という思いがあるからだ。

 現在の若者の投票率が低い点については、政治的関心の低さが反映されていることは間違いない。だがそうした若者に投票行動を喚起したとしても、おそらくは左派・リベラル派の期待とは裏腹に、若者の多くは自民党に票を投じることになるだろう。
 自民党のポリシーは、先に見たような若者たちの基本的なスタンスである「新自由主義(自分や自分の仲間で自力救済)とマイクロ共同体主義(身内に成功を継承していく)の共存」にもっとも適合しているからだ。

 政権に対して旺盛な批判精神を発揮してクリーンな政治や社会を目指すとか、旧来の社会を批判してポリティカルにコレクトな制度設計を提案するといった「リベラル」な方向性は、地元の因習を軽蔑・嫌悪して都会の大学にやってきた、あるいは豊かな生まれで自力救済を目指さなくても生活に困らない、ごく一部の恵まれたインテリの若者たちが支持しているにすぎない。

 そうした都市生活を送るインテリの若者のほうが、自力救済に親和的で、地元密着型で、地縁的結合のもとであくせく働くその他大勢の若者よりもはるかに余暇が豊富にあるため、彼らの声がSNSとりわけツイッター上では実態以上に大きく聞こえてくるだけだ。実態を見誤ってはならない。

 多くの若者は、周囲の人びとが想像するよりもずっと「生活者」の視点に立って懸命に生きている。リベラルな大人たちが、ひとりの生活者として自力救済に勤しむ彼らを「大局的な視野で物事を見られない愚か者」と見なすのは仕方ないことだろうし、それは実際のところ部分的には当たっているかもしれない。

 だがそのような態度で若者と接している限りは、彼らの政権支持の深層を見通すのは、途方もなく困難なことであり続けるだろう。
****************************************************************

 引用以上

 上の文章を読み進んで、「彼らはきょとんとした顔でこう言うんです。『そもそも、総理大臣に反対意見を言うのは、どうなのか』って」
 という下りまできて、私は、「こいつら本当に地球人なのか?」という強烈な違和感、不可解な思いに駆られた。

 同時に、冒頭に述べた、「穴蔵人生」の若者をイメージした。幼い頃から、ゲームに没頭して、冒険もせず、多人数の社会的訓練を受けないまま、与えられるだけの人生を重ねて大人になってしまうと、こうした穴蔵人生観が育つのだろうかと思った。

 いや、彼らなりに多様な冒険を重ねているのだろうが、それは、ほとんどパソコンのモニター上のことだ。実際に、体が傷ついて血が吹き出るわけでもなく、疲労困憊して筋肉が痙攣するわけでもなく、人が死んで、腐敗する生臭い悪臭を知ることもない。
 すべて、スクリーン上に描かれた虚構世界のなかで起きている中途半端な仮想体験にすぎない。

 そうしたバーチャル世界を生き抜く前提は、食事や環境の世話をしてくれる両親に対する無条件の従属だったのだろう。だから「総理大臣に反対意見を言うのは、どうなのか?」という発想になる。
 また自民党政権にとっても、戦争が始まったとき、かつてのような肉弾戦になる前に、ミサイルやドローンのゲーム戦争になるのは確実なので、こんな穴蔵青年でも戦力になるので大切にするかもしれない。ただし、最初の半月だけだが。

 何度もEMP兵器のことを書いてきたが、現在、米ロ中国はもとより、北朝鮮も韓国もEMPを配備しているといわれるので、地域紛争がエスカレートすれば、必ずEMP爆弾が使われる。
 それは地上400キロメートルで爆発し、一瞬で径1000キロの、あらゆる電子・電気インフラを破壊するから、ゲーム戦争は終わり、肉弾戦になる。
こうなれば、バーチャル戦争のプロであっても、無力な家畜の群れのようなものだ。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-411.html

 ただ、一斉に逃げ出し、何をやっていいのか分からなくなった集団が右往左往するだけになる。これが自民党政権を支持する若者たちによるバーチャリズムの帰結といっていい。
 日本人の若者の大半が、こんなレベルに落ちてしまっていれば、もう日本は救いがたい。滅亡だけが待っていると覚悟すべきだ。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1286.html

 本当に、日本の人類の未来を確保できる人間というのは、大自然と触れあい、たくさんの動物たちと触れあって育ち、命の大切さ、暖かい人間性を育てた若者であり、冒険を怖れない若者である。
 もう少し言えば、山登りに慣れ親しんだ若者たちだ。コンピュータを扱う技術なんか、どうでもいい。それはEMPによって一瞬で滅ぶのだから。

 この社会の電子・電気インフラが破壊されて、江戸時代、明治時代のライフスタイルを余儀なくされたとき、本当に必要な能力は、コンピュータ操作やお化粧や着こなしなんかじゃないんだよ。 畑を耕す腕力であり、どんな困難でも怖れずに立ち向かう精神力である。病気になっても自然治癒力で治す。医療なんか頼らなくてもいい。

 野生児、自然児だけが生き抜いてゆける。だから、大都会に生活している子供たちは、まずキャンプの経験をたくさん積むことだ。
 可能ならば、学校が、過疎地の山岳地帯で林間学校を開き、家畜をたくさん飼育して、動物たちとの触れあいのなかで人間性を豊かにしていってほしい。

 ちなみに、この数年、うちの近所の笠置山キャンプ場(望郷の森)は、凄い人気で、いつでも満員だ。もう17年も通っているので、推移が手に取るように分かる。
 去年あたりから、キャンプ生活の大変なブームが始まっているようだ。 
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1291.html

7. 中川隆[-9475] koaQ7Jey 2020年12月04日 12:20:28 : 4s3wqcyaJc : eUxXbXdqZnJBZ3c=[1] 報告

30年前に書いた「白山巡礼」全編を再掲します
2020年12月04日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1331.html

 私の通った小中学校は名古屋駅に近い中村区にあって、もう今ではビルに囲まれて昔の面影はないが、通学した当時は、広々とした田園地帯のなかにあって、遮るもののない展望に恵まれていた。

 私は授業に集中できないで教師に怒られてばかりいる問題児童だったから、学校の授業が大嫌いだった。かといって学校をサボルほどの知恵もなく、授業中は、教室の窓から遠くに広がる風景をキョロキョロ、ときにボーッと眺めて過ごすことが多かった。

 まじめに授業に取り組んだ記憶はあまりないが、それでも昔はのんびりしたもので、暇つぶし程度に教科書をながめてさえいれば十分にテストについてゆけたから、今の子供からみれば羨ましい時代だっただろう。

 教師も、まわりの大人達も、激しい戦争に苦しみ、身内を失った人たちばかりで、みんな大らかで包容力があった。「何でもいいから、生きてろよ!」そんな感じだった。

 学校の2階の窓からは、中村区を象徴した豊清神社のコンクリート製の赤い大鳥居と、パルテノン神殿風の水道塔が見えた。というより、名古屋駅の西には、この二つ以外に目立つものはなかった。中村区には兵器工場があって、爆撃の攻撃目標にされたのだ。

 軍需都市のため、戦災で微塵に破砕された殺風景な名古屋に似つかわしく、これらは、ひどくやすっぽい名所であった。その水道塔の向こうの意外に近くに、屏風のようにそそり立つ山々を眺めることができる。それが、多度山と呼ばれる養老山地の端っこの山々であった。

 子どもの頃、すぐ近くに見えるこの山に向かって何度も自転車を走らせたが、結局途中で挫けて一度もたどり着くことができなかった。
 というのも、途中には日本有数の木曾三川の大障壁があって、その広大な河原に立つと、そこから先ははるかに遠い異国のように思え、恐れを抱かずにいられなかったからである。

 豊国神社の大鳥居は、当時(たぶん今でも)日本一大きいもので、名古屋市内のどこからでも真っ赤に目立って見えたのだが、今でははるかに大きなビルに囲まれてしまって、目の前の道路以外に見える場所はない。

 当時は、この鳥居の背景が、鈴鹿山脈の藤原岳か伊吹山であった。それらの山は東海の名物であって、濃尾平野のどこからでも仰ぎ見ることができた。でも、今ではもう、学校の窓からこれらの山も見えなくなっただろう。

 伊吹山は、今でも中村区から見える山々のなかで、もっとも派手な鋭峰である。我が地方では、冬の季節風のことを「伊吹おろし」と呼び、この風の吹く日は、骨の随まで凍りつくような底冷えが名古屋を覆うのである。

 近所の鹿島屋という酒屋の奥さんは、京都市左京区の出身だが、名古屋と京都の気候の比較について尋ねると、
 「夏の暑さは京都も相当なものですが、冬の寒さは名古屋の方が上です。北風の吹く日は、いてもたってもいられまへん。」
と言われた。

 以前、札幌から転勤してきた同僚も、名古屋の方がケタ違いに寒いとボヤいていた。北海道の気温は低くとも、住宅は名古屋より防寒設備に優れているので、実際の生活空間は暖かいのである。ちなみに、伊吹おろしの体感温度は、真冬の釧路に匹敵するという新聞記事を見たこともある。

 伊吹おろしの正体は、西高東低の気圧配置のもとで、日本海とその延長にひとしい琵琶湖をわたった気団が伊吹山地にたっぷりと雪を落としたのち、乾燥して冷気ばかりになって濃尾平野に吹き降りる気流である。
 この冷たい下降気流をボラーといい、もしも暖かい下降気流ならフェーンと呼ぶ。日本全国、なんとかオロシなどという名のついた季節風は、およそ同じメカニズムだと思えばよい。

 この伊吹山と、好一対をなして濃尾平野に君臨するのが木曾御岳山である。濃尾平野にはじめての季節風が吹いた翌朝は、清澄な空気がピーンと張りつめて平野を取り囲む山々の壁が姿を現すのだが、そんななかで目だって白くなっているのは、いつも御岳山と伊吹山であった。

 御岳山は、山の高さといい懐の深さといい神秘的な原生林といい、まさしく大名物というにふさわしく、私はこの山に惹かれて登山・山スキー・キノコ採りに20回以上も登っている。

 何度登っても、奥の見えない神秘的で巨大なマッスだ。私は、御岳とともにあることを心から誇りに思う。だから、今日の名鉄グループによる御岳の無惨な破壊は耐え難いほどに辛い。あの、すばらしい原生林が、自然保護の機運の高まるこの御時世に次々に伐採されてゆくのだ。これは御岳を観光産業に利用するため、公園保護規制を政治力で阻止した名鉄グループの努力の賜である。

 東へ目を転ずれば、中央アルプスと恵那山がひときわ高くそびえ、際だって白いが、中村区からは名古屋市街を挟むので、やや見える地点が限定されるのが惜しまれる。

 御岳山と伊吹山の間に、あまり世間に知られることのない地味な奥美濃・両白山地が、それこそ海の波頭のように延々と続いているのだが、そのなかでも春先から初夏にかけて、いつまでも白さの残る山がいくつかあった。

 伊吹山の雪が消えてもなお白さを保ち続ける一頭抜きんでたピークは能郷白山であったが、御岳山の雪が消えてからでさえなお白い小さなピークに気づいたのは最近のことである。

 大気の澄みきった早春の日、長良川の堤防道路を走りながら、あるいは名古屋港に近い臨海工業地帯から奥美濃の山々を同定していて、高賀三山の付近に異様に白い山を見いだし、何であるか考えた末に、これは白山ではないかと思うようになり、どう検討しても白山以外ありえないと結論した。
 「名古屋から白山が見えた」
 これは思いもよらぬ新鮮な衝撃であった。私は、白山に対する思いを新たにせざるをえなかった。

 そして、それまで窓外の山といえば御岳か伊吹山という固定観念で考えていたものが、格段の広がりを与えられることになった。白山もまた、自分たちの山ということになったのである。

 それだけでなく、私と白山はある特別の縁を結ぶ機会があった。
 個人的なことで恐縮だが、私の友人に、以前の会社の同僚で、郡上高鷲出身のOさん、Yさんがいる。Oさんは、名古屋の会社を辞して故郷にユーターンし、高鷲村のスキー場に務めているが、今でも年に何度もお邪魔して、お世話になっている。私が白山に深くかかわるきっかけになったのは、この人たちの存在であった。

 私がスキーを覚えたのも、スキーを乳母車のようにして育ったような彼らの指導のおかげといっていい。O家やY家をたびたび訪ねるうち、やがて山スキーの楽しみも覚え、石徹白や平瀬の山々にも登るようになった。Oさんのお母さんには、六厩や鷲ヶ岳周辺のキノコの穴場も教わり、それらの山の殖生にも詳しくなった。

 白山には、太古から手つかずの自然が豊富に遺されている。そのすばらしさは、とても文章に表せるようなものではない。だが、この数年というもの、過疎脱却にあせり、土建屋事業で目先の利益を追う自治体の手によって、激しく喰い荒らされ、無惨な変貌をとげるようになった。

 もはや決して失ってはならない人類の遺産としての残り少ない原生林でさえ、目先のゼニに釣られ、そのかけがえのない価値を理解できない人々の手によって、あたかも雑草を刈るように葬り去られてゆく。私は、白山周辺の山を登るたびに、自然に触れる喜び以上に、人災に対する激しい憤りを覚えざるをえなかった。その感情は、自分の慕う人が権力をカサにきた他人に辱められることの怒りに共通するかもしれない。

 三方崩山 2059m 1989年6月

 白山は日本海側に位置する山でありながら、日本海と太平洋の分水嶺をなしている。その規模は想像以上に巨大で、関連する山々全部を合わせれば関東山地、奥秩父連峰や中央アルプスを上まわり、飯豊朝日連峰に匹敵する規模をもっていよう。

 この雄大な山岳地帯から、豊富な水量をもつ大河川が流域を潤している。そのうちで代表的なものは、太平洋に向かって長良川があり、日本海に向かって九頭龍川、庄川、犀川、手取川などがある。

 わけても長良川は、その流域が広大であること、日本で唯一(この原稿を書いている1990年の時点では)本流にダムがないため、自然の生態系が保たれ生物相が豊富であること、人家の多いわりに水質が非常に良いことなど、特筆すべき美点の多い川である。

 長良川は、古来、美濃に住む人々にとっての誇りであった。
 その長良川に沿った郡上街道を北上し、高鷲村の大規模なスキー場群を左右に見て、最後にゆるやかな蛭ヶ野高原を過ぎると、そこはすでに飛騨の国、合掌造りの民家で知られた白川郷である。

 大日岳(1709m)の裾野にひろがる蛭ヶ野は、長良川と庄川の源流にあたり、太平洋と日本海との分水嶺である。とはいっても、ここは広くゆるやかな高原地帯なので、分水嶺も飛騨美濃国境もまことに明確さを欠いたありふれた林のなかにある。

 このため、水源地帯の小河川が複雑に入り組み、狂ったようにデタラメの方角に流れ、この山々に入った人々を惑わせ、恐れさせてきた。古く、旅人や行商人は、おそるべき難所を越えねばならない白川郷を、さいはての魔境のように思い、覚悟を決めて立ち入った。

 飛騨といっても西飛騨白川郷は、越中庄川の奥深く山また山の秘境であって、匠の名を轟かせた建築職人の里、高山・東飛騨とは深い山地によって隔絶していて、明治初期に高山と庄川村を結ぶ六厩(むまい)・軽岡峠と、白川村荻町と高山を結ぶ天生(あもう)峠が整備されるまで、とりわけ雪の季節には事実上飛騨とは無縁の孤立した地域だったといっていい。

 白川郷は、むしろ越中や加賀の国と真宗や煙硝製造を通して深い関係にあったようである。建築様式や民俗についても東飛騨とは疎遠で、文化的には越中・加賀に共通するものがある。ただし、この地域は日本有数の貴金属鉱床に恵まれ、内ヶ島氏滅亡後、飛騨金森氏の領下に入ってからは、東飛騨との間に密接な関係を持つようになった。

 東飛騨を結ぶ軽岡峠は、かつて辞職峠と呼ばれ、つい戦前頃まで、高山を経て白川郷に赴任する教員や行政官があまりの山深さに恐れをなして、ここで辞職を決意し引き返す者が多かったのだという。(ただし、辞職峠の伝承は全国の山村僻地にある)

 冬季には豪雪に閉ざされ、越後・信州の秋山郷と同様、完全に孤立するのが常であった。冬季、白川街道が完全除雪されるようになってから、まだ30年ほどしか経っていない。除雪されるようになったのは、大規模な御母衣ダム工事によって道路が整備されてからである。

 そして、そのとき白川郷はすでに消えてしまっていた。というのも、本来存在した白川郷の主要部分が御母衣ダム湖の下に沈んでしまったからである。
 現在残っている白川郷は、当時の面影を僅かに残すにすぎず、数分の一にも満たない集落が観光用に残されているだけである。

 かつての白川郷の住人たちは、年に一度だけ移植された庄川桜に集い、かつての賑わいを偲ぶという。
 明治や昭和初期の飢饉は相当に辛い状況だったらしい。享保・天明の大飢饉のおりには壊滅的なダメージを受け、秋山郷と同じく大部分の人が餓死した部落もあった。後に述べる天正地震とこの飢饉では、白川郷は一新されるほどの変貌があったといわれる。

 白川郷の住人は、飢饉におびえて暮らさねばならなかった。そこに東洋最大のダム計画がもちあがったとき、反対運動は興ったが、それは豆腐に包丁を入れるようにすみやかに実現してしまった。

 この地域では、封建的な家父長制に縛られ、底辺の人々の声は上に届かない時代が続いた。それを利用して、国家権力は民衆の歴史的生活を自在に蹂躙したのである。

 庄川村から岩瀬橋を渡り、御母衣ダム湖の沿岸の洞門の連なる危うい道を行くと、ダム堰堤を右手に見て白川村平瀬の集落に入って行く。
 途中、もしも残雪期ならば、平瀬部落の真上にひときわ高くそびえ、際だって白く輝く鋭峰に心を奪われぬ人はいないだろう。気の早い人は、「あれが白山か」などと思ったりするのである。

 それが白川郷を直接とりまく山々のなかでもっとも高く、もっとも鋭く、もっとも白い、それ故もっとも美しい三方崩山である。

私が登ったのは梅雨期のさなか、晴れたかと思うと突然土砂降りになったりする不安定な天候の日であった。前日、麓の平瀬温泉まで来て浴場前の広場に車泊した。

 この山のありがたいところは、なんといってもこの温泉である。山とペアになった温泉ほど心を豊かにしてくれるものはない。立派な公衆浴場が設置されていて、230円で入浴できる。微かな塩味のある良い温泉で、この周辺の山々を訪れたおりに何度入浴したかわからない。

 源泉は白山平瀬登山口にある白水湖の湖畔に湧き出ていて、100度を越す高温蒸気を冷やして、平瀬部落まで管送している。その間、15キロ以上もあるのに、湯口では60度の高温が保たれている。

 登山口は、公衆浴場の広場脇の神社から林道を上がって行く。大きな砂防堤が車の入る限度で、その先は崩壊していた。とことこ歩いて行くと、立派な舗装道路になり、トンネルの手前に左手に山肌を登る階段があった。

 雨の強く降り注ぐあいにくの天気で、急な草むらは、いかにも蛇の多そうな雰囲気で気持ち悪かった。しばらくで、白山らしい超500年級の深いブナの極相林を行くようになる。

 白山山系にはまだ林野庁の手にかからない原生林が多く残されていてほっとした気分になるが、この森もいつまで官僚の魔手から無事でいられるだろうか。軽薄な使い捨て文明の餌食にならぬよう祈らずにはいられない。

 三方崩山の荒谷は昔から熊の名所で、新しい熊のテリトリー標識(爪痕)を探したが視界にはまったく見あたらず、他の動物達の棲息痕もほとんどなかったのが妙に気にかかった。極相林はよいが、動物のいない原生林というのもどこかおかしい。

 ジグザグのブナ帯を抜けると尾根道になり、森林限界が早い。このあたり、ため息の出るほどの美しさである。潅木にときおりヒメコ松・黒桧(ネズコ)・コメツガなどの針葉樹も混じる。

 ひどく急で滑りやすい尾根を辿ると、2時間ほどでガレ場が多くなり、尾根が痩せて左右に崩壊し、神経を使う場所もある。地元では刃渡りと言うそうだ。ガスの切れ目の左奥に三方崩の立派な山体が見え、南アに似た崩壊地が荒々しく迫り異様な迫力を与える。

 「こりゃ、見事に崩れたもんだ。」とため息をついた。
 この大崩壊は風化ではなく、400年前の地震によるものであった。
 伝承によれば、天正13年(1582年)11月29日、日本史に記録された大地震が白川郷一帯を襲った。

 このとき、三方崩山東北の保木脇にあった白川郷領主の内ヶ島氏の帰雲城とその城下町が、三方崩山と対岸の猿ヶ馬場山から発生した大規模な山津波に呑まれ、一瞬にして城主の氏里以下、城下町300戸・住民500名もろとも土砂に埋まって全滅したのである。(城を埋めたのは、猿ヶ馬場山中腹の帰雲山の崩壊である)

 この時の地震で埋没し滅亡したのは、帰り雲と呼ばれたこの城下町の他に、折立(高鷲村西洞)、みぞれ(明方村)の3カ所であったが、中部地方有数の不便な山中の事情のために、天正地震と帰雲城埋没が世に知られるようになったのは古い話ではない。

 戦国時代、戦いに破れて滅んだ大名は多いが、地震で滅んだ大名はこの内ヶ島氏をおいて他にはない。だが、四代百年余も続いた内ヶ島氏でありながら、西飛騨の山深さに隠されて戦国正史には登場しない。しかし、この史実には、人々の興味を引きつけずにはおかないミステリーを含んでいた。

 かつて、作家の佐々克明氏が帰雲城について調査し、内ヶ島氏は豊富な砂金に目をつけて白川郷を領土にしていたので、この土砂の下には推定5000億から10兆円にのぼる金塊が埋まっているかもしれないと発表して話題になった。そして、この歴史的財宝に注目する人々が大勢でてきたのである。

 だが、史実をあたってみると、豊臣秀吉に敵対した佐々成政についたために、秀吉輩下の武将、金森長近に攻撃された内ヶ島氏は、戦い破れて金森氏に講和を求め、大量の金を持参して許しを請うた可能性が強い。

 しかも白山長滝神社に残された古文書には、地震埋没後のわずか7年後に、金森氏によってこの付近で大量の金の採取が行われたと記録されているので、埋没金の残存については懐疑的にならざるを得ない。

 ましてや、荻町城主で内ヶ島氏の家老であった山下大和守時慶(後に家康の武将となり、江州蒲生郡を与えられ、徳川義直の名古屋城築城に携わった。大久保長安の採金にも関係している。)など多くの家臣が無事で、金森氏の家来になっているのである。みすみす埋没金を見逃すことは考えられない。だが、今なお確定的史実は明らかでない。

 いずれにせよ、おそらく白山の爆発的噴火にともなって一カ月間続いたこの地震で三方崩山も甚大な破壊を受け、今日見るように、猿ヶ馬場山とともに凄惨で大規模な崩壊地を荒々しく晒すことになったし、付近の山々に崩壊地が多いのも、この天正地震によるものと考えられる。

 頂上へは、崩壊地の尾根を辿って着く。山頂はコメツガなどの低い針葉樹林に囲まれていた。さほど広くないが立派な標識がある。晴れていれば御母衣湖の雄大な眺めが見えるはずだが、この日はガスに視界を遮られていた。

 登山口からおよそ3時間程度の行程であった。もちろん、絶好の登山日和にすらほとんど登山者を見かけないこの山に、こんな日に登る物好きがいるはずがない。いつ来ても、静かな登山を満喫できる山である。

 山の風格といい荒らされていない自然の美しさといい、掛け値なしに素晴らしい名山で、その魅力は100名山の荒島岳など遠く足元にも及ばない。私は、この山が白山山系のなかでもっとも素晴らしいと思っている。

 この先に1時間ほどで最高点の奥三方岳があるが道はなく、雨がひどくなって行く意欲は起きなかった。日本最多登山者の宮崎日出一さんは、奥三方を天上の楽園と表現されておられているから、きっと素晴らしい場所なのだろう。いつか、ここから白山北稜(マナゴ頭)へ抜ける山旅を予定している。

帰路は急な尾根で何度もこけた。登山者が少ないので土が浮き、雨でヌルヌルになっていた。トラロープが各所に設置されているが、ほとんど役にたたない。夢中で下って、平瀬温泉にたどりついたときには全身泥だらけになっていた。

 日照岳 1751m 1990年4月

 戦国時代、茶道の創立者として名を残した金森宗和の父は、越前大野を経て飛騨高山の城主となった金森長近である。
 長近は尾張中村に生まれ、抜きんでた有能さを買われて織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。その生涯は、なぜか白山を巡るものであった。

 天正13年(1582年)、飛騨白川郷の領主、内ヶ島氏は、情勢を見誤り豊富秀吉に叛意をもつ佐々成政に連携してしまった。その結果、自ら大軍を率いて佐々討伐にあたっていた秀吉は、越前大野城主であった長近に内ヶ島氏攻めを命じた。

 8月2日、長近軍三千名は内ヶ島氏の意表を突き、白山別山の尾根を伝って白川郷に攻め入った。
 長近軍は内ヶ島氏を激しく攻めたが、岩瀬橋(庄川村)で内ヶ島方の尾神氏の頑強な抵抗に遭い、大きな損害を被った。一時は、壊滅的な敗北を喫するかにみえたが、美濃白鳥から迂回して攻め入った可重の軍勢に助けられ、苦戦の末辛うじて尾神氏に勝利し、内ヶ島氏を降参に追いこんだ。

 内ヶ島氏は秀吉に和を請い、許されて金森氏との講和を終えた直後、山津波に埋没したのである。以来、白川郷の豊富な鉱物資源は、金森氏の領有に帰すことになった。

 この時、長近軍が通ったと思われるのが、別山東稜尾根であって、日照岳はその上のピークである。日照岳と大日岳にはさまれた大きく深い谷を尾上郷谷といい、アルプス級のすばらしい渓谷に恵まれた秘境である。

 現在は岐阜県大野郡庄川村に含まれる尾上郷は、戦国時代には比較的開けていたようで、内ヶ島氏の家老を務めた屈強な尾神氏の支配下にあった。ここに人が集まった理由は、豊富な砂金の存在であっただろう。

 戦後、御母衣ダムが完成するまで、尾上郷は白川郷の一部として少なからぬ居住者もいたようだが、現在はすでにその面影もなく、人気のない白山有数の秘境として、野生動物の楽園の趣をみせている。

 もしも白山周辺で、最後まで熊が生き残ってゆける地域があるとすればこの一帯であろうといわれていたのだが、近年、御他聞に漏れず林野庁の猛烈な収奪にさらされ、さらに御母衣ダムの補助ダムの建設も進行し、野生動物への打撃はすくなからぬものがある。

 別山東稜を含む尾上郷ルートは、白山信仰が最盛期の頃、白川郷へのエスケープルートとして利用され、また、白川郷から越前への間道としても使われたようだ。「登り千人下り千人」とうたわれた全盛期の白山の稜線には、多くの道が開かれていたであろう。

 この道の存在は、柳田国男の白川郷紀行文にもわずかに紹介されているが、現在ではすでに痕跡をとどめず、正確なルートはわからなくなってしまった。

私の訪れたのは、まだ残雪の点在する4月末であった。2・5万図に途中まで破線路が記載されているので、それを辿ってみようと思った。
 まず登山口を探すのが一苦労であった。岩瀬橋を渡った御母衣ダム湖沿いの、トンネルとスノーシェンドのある国道を行ったり来たりし、地形図とにらめっこして、やっと右手に大きな切り開きの広場があり、左手の沢筋に木製の梯子のかかった登路を発見することができた。

 入り口は頼りないが梯子の上からは立派な登山道となり、わずかに登ると営林署の作業小屋として使われているパオのようなテントがあった。その上は送電線の巡視路として整備されているようだった。

 送電線の付近は、白山を象徴するブナの純林など跡形もなくて、根こそぎの皆伐地帯になっていた。この付近で営林署の原生林略奪が進行中のようだ。2キロほども登り、3番目の高圧線を過ぎてしばらくでいつのまにか道が消えてしまった。

 そこから尾根を外さぬように薮を分けて登ると、ピンクのヤシオツツジが咲き乱れ、心をなごませてくれた。
  高度1200m前後から残雪が出現し、雪のない山肌にも一面に雪と見誤るような、綿のような白いものが大量に目についた。この時期、雪のような花に包まれる木といえば、コブシ・モクレン・ヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)などだが、それはタムシバの花であった。

 香りの素晴らしいタムシバはモクレン科の落葉木で、白山山系の二次林に非常に多く見かける。ただし、私にはコブシとの区別がつかなかった。
 手元にある薬草辞典でひいてみると、コブシはガクが小さく緑色で3枚、花弁は6枚、葉は卵を逆さにしたような形で裏は緑色になっている。

 タムシバはガクが花と同質、葉は針を押しつぶしたような形、裏は白い。
昔はカムシバ、またはサトウシバと言ったそうだ。葉を噛むと芳香があり、甘い液が出るからである。この花は辛夷(しんい)という生薬名で、その香気成分を利用して漢方では蓄膿症の薬にしている。

 ただし、タムシバ・コブシともに日本特産種で外国には存在せず、中国ではモクレンが辛夷である。だから漢字名がないのだが、「多虫歯」なんてのはどうだろう。

 タムシバは移植栽培が非常に困難で、生薬業者がこのような場所を見つけると、花の時期に根こそぎ採取してしまい、群落が消滅することも多いという。例えば、長野県水内郡などにそうした例がある。

 尾根筋は完全に雪が消えていたが、切り開かれたばかりの枝の下から、4月末というのに大きな赤マムシが這い出てきてびっくりさせられた。今年初めて見た毒蛇で、その先からビクビクして歩く羽目になった。

 白山には、泰澄大師が1000匹の悪蛇を封じ込めたと伝説される池がいくつかあり、古来から毒蛇の多かったことを示している。マムシは、歩行振動の出る登山道では逃げてくれるが、ゆっくりした薮漕ぎでは咬まれる確率が高くなる。道無き頃の白山では、さぞ咬傷が多発したことだろう。

 道が消えた後は、尾根の微かな踏跡をたどり薮を分けた。破線路は左手の谷筋になっているが、どうやら消滅しているようだ。やがて1410mのピークに達すると、上に真っ白な日照岳のピークが現れた。しかし、その先は濃密な根曲がりの笹薮になった。

 薮に突入して笹を分け、しばらくで後ろを振り返ると、ほとんど進んでいないのにショックを受けた。残雪さえ残っていればヒダリウチワの行程のはずだが、チシマザサの密生地帯は私にとって谷川岳一ノ倉沢に等しいのである。

 京都の78才になられる超人的登山家の伊藤潤治さんは、この猛烈な薮をスイスイと分けて鼻歌まじりに奥日照岳まで行かれたそうである。
 私は100mでダウンした。もう一歩も進む気力が失せた。恥知らずにも、そこで引き返すことを決めた。

 日照岳という名前からは、麓の白川郷の雨乞祈願所といった印象を受けるが、白川郷のような重畳たる山岳地帯で水に不自由するというのも考えにくいし、ここで水稲作が行われたのは大正以降だから、あまりややこしく考えないで、「よく日の当たる山」とでも解釈すべきなのだろうか。

帰路はマムシの影におびえ、棒で薮を叩きながら帰った。われながら情けない奴だと思った。

 追記、このとき私は鉈で笹藪を切り開いたが、後に、これは絶対行ってはならない過ちだったことを知った。竹笹類を刃物で切ると、切り口に必ず槍のように危険な刃を作ってしまう。それが通行者にとってきわめて危険な罠になる。これによって命を落としたり、失明する者も多い。絶対やってはいけない。笹藪は、泳ぐように手で分け、乗り移るのである。藪山を行く読者は十分に注意されたい。

 経ヶ岳 1625m 1990年6月

経ヶ岳は、白山信仰の歴史のなかで、加賀馬場・美濃馬場とならんで栄えた越前馬場・平泉寺の背後にそびえる名山である。平泉寺から経典を奉納したのが経ヶ岳山頂であった。

 中央アルプスの経ヶ岳もそうなのだが、この名のついた山では、古く修験道の修行のうちでも法華経典にある如法経修行というものが行われていたことを示している。それは、法華経28章(品)のそれぞれに対応する経塚を設け、写経を奉納埋没する修行であり、天台宗の慈覚大師がはじめたと伝えられる。

 したがって、麓に天台宗系の修験道寺をもっていた山に経ヶ岳という名が与えられることが多いと考えてもよい。
 馬場というのは、そこに馬を繋ぎ徒歩で歩きはじめねばならない登山口に相当する広場である。それぞれの馬場に、白山を祀った寺社と禊場(みそぎば)がおかれ、牛馬、ときに女性も、それ以上立ち入ることができなかった。

 中世の修験道による白山信仰登山で、もっとも古く開かれたのがこの越前(白山)馬場であったようだ。平泉寺の歴史は古く、泰澄が白山を開いた8世紀にすでに開山していたと考えられるが詳細はわからない。往時の登山ルートは、ここから石徹白を経由したと考えられる資料もある。

 12世紀には、美濃馬場・長龍寺と同じく天台宗・比叡山の傘下に入り、白山修験道が行われた。その頃には平泉六千坊といわれ、数万人の僧徒が居住し、当時の比叡山に匹敵し、現在の高野山のような広大な寺院都市であったらしい。

 しかし、この寺の僧衆徒は地民を奴隷のように支配し、暴虐をはたらくのでひどく評判が悪く、耐えかねた農民は、加賀一向(真宗)一揆の余勢をかって、一六世紀、天正年間に平泉寺勢力を攻め滅ぼしてしまった。
 このとき、一向一揆・農民兵の拠点であった村岡山は、勝利を祝って勝山と改められ、それがこの地域の地名になった。

 現在の平泉寺は、その後、金森氏などの庇護を受けて細々と再興されたものである。しかし、江戸期には徳川家菩提の上野寛永寺の系列に入り、幕府の保護を受けることができた。そのおかげで寺の格式は高く、大いに威張っていたのだが、明治の平田国学派による排仏毀釈の際、白山権現をまつっていた平泉寺は仏教を放棄して白山神社になった。長年の徳川家の恩を蹴飛ばして、一転天皇家側についたわけである。

 江戸期最後の住職であった義障は平田派の尊王思想に影響され神職に衣変えし、その孫の東大史学部教授、平泉澄も右翼皇国史観学者として有名になった。

 平泉澄については、偉ぶって硬直した人物像など、多くの不快な逸話が残っている。東大教授時代、民俗学を志向した学生が農民の生活レポートを提出したところ、「農民や家畜の生活は歴史ではない」と一蹴し、権力者の歴史のみ、それも皇国史観に都合の良い歴史以外、絶対に評価しようとしなかった。

 この男こそ、石原寛爾らとともに、思いあがった帝国主義者たちによる太平洋戦争の最大の戦犯に他ならなかった。

 神職、平泉一族の頭の堅さのおかげかどうか分からないが、由緒の立派なわりに、平泉寺の周辺は永平寺のような喧噪もなく、静かで落ちついた自然環境が保たれている。散策には素晴らしい場所である。

 白山や経ヶ岳に登る道は、ひと昔前まで、ここから法恩寺山を経て長い道程を辿らねばならなかった。しかし今では、経ヶ岳にはいくつかの直登ルートが整備されている。現在、平泉寺からの尾根には法恩寺林道が横切り、そこに法恩寺山経由の立派な登山道があり、林道を南に下ると、保月山尾根コースと谷コースもあり、どちらも3時間かからずに登頂できる。

 私の登ったのは法恩寺コースだった。前夜、小京都と讃えられ、歴史的景観の残る勝山市街の旨い焼鳥屋でいっぱいひっかけた後、平泉寺付近に車泊し、翌朝、女神川沿いの林道を車で遡ると、スレ違い不能の恐ろしく頼りない道になった。

 ハラハラしながら詰めるとゲートがあって、カンヌキを抜いて進むと、立派な法恩寺林道になった。この道は南六呂師から良い道が通じていたことを後に知った。
 登山道の知識はなかったが、平泉寺からの尾根に決まっていると踏んでいたのでそちらへ向かうと、はたして道標と立派な登山道があった。しかし、このルートが経ヶ岳のルート中最長コースであることまでは気づかなかった。

 朝五時に出発するとき、すでに初夏の陽光がきらめき暑い一日を予感させた。 法恩寺峠に登る古い禅定道(修験登山道)は尾根のうえに緩くつくられ、丈の低い潅木に展望を遮られた道を害虫の攻勢に悲鳴をあげながら登ってゆくと、すぐにひどく立派な山小屋があり、そこから1時間ほどで法恩寺山の山頂に達した。

 途中、新しい伐採地がやたらと目につき、よく見ると、そこに「リゾート開発」と書かれた測量杭が打ちこまれていた。
 「ここもか・・・・・・」と、思わず苦い思いでわらった。

 スキー場に手ごろな傾斜の地形で、ここが数年後にどのように変貌するのか調べなくとも容易に予想できた。
 自治体が目先の利益を追って狂ったように開発ブームに沸くようになったきっかけは、将来、戦後最悪の悪法と評されるかもしれないリゾート開発法であった。

 膨大な自然破壊を狂気のように重ね連ね、やっとその成果が具体的に検証されるようになった今日、当然の結果ながら、思惑通りに利益を得た自治体は極小数にすぎず、大部分は貧困な財政に追い打ちをかけるように事業の赤字に苦しみ、残されたものは回復不能なほどの自然破壊と人心の荒廃にすぎなかったという現実が明らかにされてきている。

 すでにその結末が誰の目にも見えはじめたというのに、地元の自治体役人の目は暗黒の住人のように固く閉ざされているようだ。彼らの目を開かせぬものは、土建事業の利益なのだろうか。彼らはもはや、戦前のマインドコントロールされた皇国日本人と同様、何が大切なものかという判断能力を失ってしまった。彼らの目に見える美しいものは、札束だけなのだろう。

 越前馬場、平泉寺からの禅定古道は、法恩寺峠からいったん小原村のワサモリ平に下り、再び小原峠を越えて市之瀬に下り、そこから現在観光新道の通る尾根を経由する複雑なルートがとられた。

 だが、美濃馬場に残る古文書に、泰澄の開いた当時、ここから経ヶ岳、赤兎山を経て石徹白に下り、再び別山を経由するルートがあったことを示唆するものがあるという。この尾根伝いの道は、幸いなことに登山道が整備されていて、現在誰でも通ることができる。

 経ヶ岳へ伝う尾根道はしっかりしていたが、ワサモリに下る古道はすでに荒廃し、深い薮に隠されて登山の痕跡も見えなかった。
 尾根道には背丈を超える潅木が密生しているため、ほとんど展望がなく、約1時間というもの黙々と暑く苦しい道を歩いているうち、突然、森林限界に達した。そこはすばらしく広大な景観で、それまでの道が閉塞的であった分だけ、心身ともに解放されるような何ともいえない思いがした。赤兎山への分岐であった。

 わずかな吊り尾根をたどると経ヶ岳山頂が広がった。そこは期待どおり、遮るもののない360度の広潤な展望であった。
 真正面には別山と白山が、まだ大きな残雪をいたるところに残して神々しく鎮座していた。左右の谷にも豊富な雪渓が残っていた。このうえなく爽やかな景観であった。

 南六呂師高原を望む山腹は異様な地形だったが、後にこれが噴火口であることを知った。経ヶ岳は、白山の兄貴分にあたる火山であった。
 はるか下に林道が見え、そこから延びた登山道に大勢の登山者が見えた。すばらしい日曜日だ。

 六呂師(ロクロシ)という地名は、福井県に多い。山の民俗に関心をもつ方なら、「木地屋だ!」とピンとこられるであろう。

 トチ・ホウ・ケヤキなどをロクロで削って木地椀の製造を生業とした木地屋は、ロクロに関連する工作を生活の糧とした。ロクロといえば、土器を制作する縦型ロクロと木器を制作する横型ロクロがあって、それぞれ大いに関連しているにちがいないのだが、どちらが先だったのかはよくわからない。というのも、土器は保存性がよく遺物も多いが、木器は腐るからである。
 弥生式土器は明らかにロクロを使用していて、この技術が中国江南地方、揚子江下流域の米作地帯から、2500年前に米作農耕とともに伝わった技術であることを窺わせるのである。

 さらに、山岳高地の尾根に居住した木地屋の民俗習慣が、雲南・ブータン系の高地族の生活習慣と極めて似ている点も見逃せないし、現代に到る彼らの子孫の人相も雲南諸民族に非常に似ているような気がしている。

 2500年前というのは、最近ではかなり確定的になってきていて、それも臥薪嘗胆の故事で知られる呉の国の住民が(越に追われて?)集団で日本に移住し、邪馬台国などを開いたのではないかという可能性が、東夷伝の「我らは呉の太伯の後なり」という記録の傍証として考えられるようになっている。

 木地屋は、近江小倉郷(滋賀県永源寺町君ヶ畑)を根元地とし、清和天皇(源氏の祖)の兄にあたる惟喬親王を開祖とする全国的な伝承をもっているのだが、8世紀の天皇家は、チベット・ブータン・中国雲南・江南地方からの渡来人であったはずの弥生人の子孫とは無関係であり、朝鮮半島を経由して渡来したモンゴル系の民族であって、すなわち(源平藤橘姓に代表される)騎馬民族系の天皇家とロクロの関連は薄いとも思えるが、フヨと呼ばれた彼らの祖先が、伝承されるように秦(始皇帝の)の子孫であったなら車輪や鉄製刃物も含めた高度な轆轤系技術がすでに完成していたはずで、それを持参するのも容易であり、なかなか推理が難しい。

 君ヶ畑に伝わるロクロの由緒も、親王が巻経をほどいたとき、なかの軸が回転したことからひらめき思いついたと伝承されているが、これも、轆轤が車輪系技術から継承されたことを窺わせる。

 轆轤技術の発生考察はさておいて、木地屋が、ことさら惟喬親王伝承をもちだして自らを権威づけ、さらに天皇家の菊の紋章を自紋として使ってきた理由は、全国の山中で所有者に無断で伐採をするところから、権威を利用してトラブルを未然に防ごうとした訳にちがいない。

 木地屋は明治初年、全国のすべての土地について地租を確定するために所有権を定める布告が出されたことによって、公的に伐採権を失い、一千年以上にわたる流浪の山岳住民としての歴史的権利と社会的認証を奪われた。
 大部分の木地屋は、半強制的に山奥の土地に定着させられ農耕生活を営むようになった。だが、その伝統的なロクロ技術が重宝され、近代機械の移入とともに旋盤などの技術職に転じたものも多かった。現在の、大蔵鉄工や小椋機械、パイロットやセーラーなどの万年筆工業の創業者が木地屋であったことはよく知られている。

 全国の木地屋の子孫は、現在でも年に一度、その根元地である君ヶ畑に集まって惟喬親王に礼を捧げる祭祁を行うことになっている。その名簿をながめると、やたらにオクラに類する姓が多いのは、開祖惟喬親王の命によってロクロを伝えたとされるのが小倉氏であったことによるものにちがいない。

 したがって、木地屋を開祖とする集落にはオクラ姓が多いことを知っておいたほうがよい。(小倉・大倉・小椋・筒井・佐藤など)
 現在の六呂師の集落で以上のような木地屋の痕跡を見いだすのは困難だが、北六呂師の上には木地山峠という名が残されているところから、関連は疑いない。

 経ヶ岳山頂から南を見渡す眺望は、荒島岳がひときわ見事であった。能郷白山はその背後に隠れて見えない。谷向かいの野伏ヶ岳(1674m)を中心とした油坂峠方面の主稜尾根は、白山山地で唯一踏み跡がなく、原始の風格を残している。だが、この数年、石徹白の大型レジャー施設(ウィング)の開発によってひどく荒廃がすすみ、面影は変貌してしまった。

 おそらく、日本でもっともたくさんの山を登っている東大阪市の宮崎さんは、ここで牛ほどの巨大な熊に出遭ったと書かれている。日本の山を五千回も登ってこられたこの人が、それ以来ザックに鈴をつけるようになったのだから、よほど恐ろしかったのだろう。

 今日、ハンターの高性能ライフルの前に、100キロを超える大熊はきわめて希になったといわれる。過去最大の月の輪熊は250キロ程度と記録されている。野伏山の熊がそれに近いほどに育っているとすればまことに貴重極まりなく、ばかげた射殺の勲章を誇りたがるハンターに撃たれぬように保護してやらねばと思うのである。

 別山 2399m 1990年7月

 別山は白山の真の骨格である。
 数万年前に、水成岩からなる隆起山脈であった別山連峰のうちに噴火活動がはじまり、膨大な噴出物が経ヶ岳、白山、大日山を形成した。

 それらの山は、別山が数千万年という気の遠くなるような時間のうちに、海の底に静かに醸成されたことを思うなら、あまりに僅かの時間で突如出現したのであって、インスタントに成立した軽薄さを免れない。

 人々の印象からいうなら、ぱっとせず、ダラダラとふんぎりのつきにくい水成岩山地の山々よりも、さわやかな容貌をもつ火山独立峰に人気が集中するのは当然であって、日本の名山と称される山々の大部分が、富士山以下の切れ味鋭い火山独立峰になってしまうのは、いたしかたないことかもしれない。

 だが、インスタントに登場したスターの命がはかないのは、どこの世界でも変わらない。日本を代表する火山諸峰の寿命の短さはどうであろう。富士大沢などは、私の記憶のなかにすら、すでに大幅に姿を変えつつある。御岳地獄谷も、白山別当谷もしかりである。

 だが、別山は違う。その上に覆いかぶさった白山の火山性噴出物のメッキが自然のメスによってはがされるにつれて、別山は隠していた重くいかつい正体を現し、凄みをかいまみせるのである。崩壊によって再びこの世に現れはじめた別山の山体は、1万年前に隠されたときといくらも変わらない姿であろう。

 別山の山体の大部分をなすものは、海底に沈澱した水成岩であるが、3億年以上前に古日本海に繁栄した珊瑚礁や放散虫の遺骸も含まれている。そして、それらが隆起し、広大な湿原平野を成立させたとき、そこに琵琶湖の数倍もある巨大な湖が成立し、恐竜とシダ植物を主とする動植物の壮大な楽園になった。それを手取湖という。

 手取湖の膨大な生物性堆積物からなる地層を手取層という。今日、地質学者や考古学者の関心をあつめる手取層基盤こそ白山山地の真の正体であり、真の骨格なのである。

 私は過去4度白山に登った。しかし、いずれのときも別山を踏まなかった。それまで、私は別山を白山中腹の1ピークくらいに軽く考えていた。だが、周辺の山々に登って仰いだ別山の姿は、決して白山の属峰ではなかった。それは、白山から疑いもなく独立した堂々たる大山であった。

 別山に登った日、当初の予定は打波川水系の源頭に位置する願教寺山だったのだが、登路が確認できず、山容があまりに悪絶なので、予定を変更して白山主稜に取り付くことにした。前夜、鳩ヶ湯鉱泉の奥の打波川源流の上小池の駐車場に車泊して、6時に出発した。

 上小池から数百mも下ると林道を歩くようになり、そこにかかる橋を渡れば刈込池である。
 刈込池は、白山を修験道の道場として開山した泰澄が千匹の悪蛇を封じこめたと伝説される三つの池のひとつで、径200mほどの小さな池であるが、日本最大のアカショウビン(カワセミ科)の生息池として知られる。
 悪蛇の伝説とは以下のようなものである。

 泰澄が白山を開いたころ、大蛇が千匹もいて白山に立ち入った大勢の人々を呑んで恐れられていた。
 泰澄は、大蛇たちを集めて言った。
「そのように人を喰ったのでは、人の種がなくなってしまうではないか。しばらくこの池のなかで休めよ。岸に麦を蒔くから、その芽がでたらまた出なさい。」

 といって蛇たちを封じこめ、そこに雪を降らせ、決して麦の芽を出さぬようにしたという。この池は、山頂の千蛇ヶ池と蛇塚池、それにこの刈込池の三つであるとされる。

 さて、この大蛇伝説。私は、これまでありふれた空想と思ってきたのだが、全国各地の民話や、今昔物語などの古文献を調べるうちに、どうにも大蛇の実在を前提としなければ説明のつかない文献が多すぎることに気づくようになった。

 大蛇ばかりでなく、それ以上の頻度で登場する狒々やカッパもそうである。そこで発想の大転換をして、これらの空想的動物がかつてなんらかのかたちで実在し、現在は滅亡したものと考えることにした。

 そのきっかけになったのは日本オオカミの研究であった。オオカミは、幸いなことに明治時代まで実在し、各地の伝承についても実証的な研究が進んでいる。しかし、それが現代に実在せず、証拠も残っていなかったなら、空想的動物の扱いをうけるにちがいないと思えた。

 私は伝承の動物について研究をはじめた。とりわけ狒々については多くの資料を得て、世間がびっくりするような結論に至った。無論、生物学者が一笑に伏すにちがいないことは百も承知である。

 狒々については、その正体がヒマラヤの雪男として知られ、現代に実在するものであり、中国で紅毛人、大怪脚、野人などと呼ばれてきたものと同一であり、先史時代、人類進化の傍流に取り残されたラマピテクスやピテカントロプスの子孫であろうと確信するにいたった。

 しかも、それらは今昔物語(白川郷猿丸の話)や柳田国男の遠野物語(猿の経立)など非常に多くの文献に登場し、実に明治時代まで日本に生存したものと結論づけることになった。

 大蛇についても、さまざまの文献を総合すれば、錦蛇クラスのものが江戸時代初期までは確実に日本に実在したと確信せざるをえなかった。これらについては、いずれ項を改めて語ることにしよう。

 刈込池の付近から登山道を見つけるのには骨がおれたが、結局踏跡の一番はっきりした道で正解だった。山菜取りが大勢入っていた。
 六本桧へ向かう道は予想以上に荒れていた。通行者は少なくないのだが、手入れをする者がいないようだ。6月なので草薮も多い。

 稜線へ出るまで落ちつかない道が続く。稜線に、名の通り六本の合木桧が生えていた。ここで赤兎からの尾根道を併せ、三ノ峰に向かう。
 わずかに登ると、泰澄が剣を刺して悪蛇を封じたとされる剣岩だが、どれがそうなのかよく分からない。このあたりから森林限界を超し急登が続くが、見晴らしもよく快適である。

 登山口から2時間ほどで主稜線に達した。わずかで三ノ峰の立派な避難小屋があり、石徹白からの美濃禅定道を併せる。
 ここから別山がはじめて姿を現した。すでに書いたように、この山は白山連峰主脈のなかで火山体でない最高峰であり、まさに真の骨格である。

 その南面は、雪崩に磨かれた水成岩の大岩壁になっていて、太平スラブという名がつけられている。それが初夏の朝陽を受けてキラキラと輝いていた。
 胸を洗われるようなすばらしい景観であった。別山の風貌は、古武士のように重厚であった。足元にはシーズン最初のお花畑が広がっていた。登山者の多くは三ノ峰で満足して引き返してゆくようだが、私はまだ余裕があり、別山に向かった。

 稜線のあちこちで雪渓の切れ目にお花畑が出現し、心をなごませてくれた。30分ほど歩くと、天上の楽園のような美しい高原に出た。
 無人の広大な高原で、登山の最大の醍醐味を味わえる秘境といっていい。径20mほどの池があり、きれいな水で飲用に利用できそうだが、御手洗池と名づけられていて、どうも連想上よろしい命名とはいえない。

 そこからハイマツ帯になり、30分ほどで別山の山頂に到達した。一面のハイマツの稜線の最高点に、小さなみすぼらしい堂宇があった。拍子抜けするほど質素な山頂である。

 8世紀に、泰澄が修験道の行場としてここを開いたとき、主要な三つのピークにそれぞれ権現を祭った。
 現在では、白山神社はイザナギ・イザナミを祭っているのだが、これは明治の天皇独尊政策に沿って古くからあった修験道の権現を葬りさって神道に変更したものであり、元々は、剣ヶ峰大御前に妙理大権現、大汝峰に越南知権現、別山に別山大行事権現がおかれ、別山のそれは泰澄自身を祭ったものであった。

 権現というのは、仏が神道の神の姿をとって仮に現れたと考えるもので、これを本地垂迹説といい、修験道がそうであるように道教の影響下に成立した仏教の崇拝対象である。

 白山妙理大権現は、本地である十一面観音が菊理姫という女神のかたちをとって現れた(垂迹した)と考えるのである。こうすれば、渡来以来の古い道教系の民俗(古神道)と、百済から新たに導入された新仏教思想(小乗仏教)を融和させることができた。

 それは、明治初年、薩長政権が天皇信仰を国家の基盤とする政策をとり、権現信仰を暴力的に破壊し、全国の神道を天皇崇拝思想のために伊勢神道を中心にして再編統一するまで、およそ一千年以上続いた。

 そのあいだ、神道の実体は権現信仰にほかならなかった。神社の神主は祭主にすぎず、実態は別当と呼ばれた僧に支配されていたのである。神道とは、代表的な八幡信仰に見られるように、もともと朝鮮渡来系の騎馬民族がもちこんだ新羅系道教の祭祀風俗から生まれたものだったが、泰澄の時代、本地垂迹説として仏教の理論に組み込まれ、さらに修験道に包摂され、天台宗系の山王神道、真言宗系の両部神道に系列化されていた。神道でいうところの両部が、すなわち仏教の権現信仰なのである。

 白山権現は、全国の権現信仰のうちでももっとも強力で大きな組織をもっていたことと、神道がもともと新羅系の道教であり、それが「シラ」信仰と呼ばれ、「シラヤマ」と呼ばれた白山が、新羅系神社の総本山のような印象をもたれていたことから、天皇家が朝鮮由来であることを隠蔽し、国粋主義を全面に打ち出した天皇神道(伊勢神道)を国家イデオロギーの要にしたいと考えた明治政府の国学ナショナリスト(大久保利通や山県有朋)から象徴的に激しく弾圧されたのである。

 別山山頂に大きな堂宇をつくって崇拝されていたはずの本地仏も多くは叩き壊され、運がよくても引き降ろされ谷に投げ捨てられた。幸運にも破壊され残った仏像は、山麓の林西寺に保存されている。

 これらの排仏毀釈(迦)と呼ばれた一連の仏教や権現信仰に対する攻撃は、武士階級の政権が仏教(特に禅宗)を国教イデオロギーとしていたために、革命的な思想転換をする必要があった明治政権が、伊勢神道や天皇信仰を利用したものとも考えられる。

 明治維新にいたる倒幕運動のイデオロギー的支柱になっていたのが、本居宣長や平田篤胤の天皇制復活の復古神道であったことを考えれば容易に理解できよう。尊皇擾夷という中国のスローガンが大同団結の要にもちだされた。革命勢力には、美しい名目と、それにふさわしい権威が必要だったのだ。

 帝国主義侵略戦争の時代であった幕末明治、強力な国家主義はナショナリズムに不可欠であった。明治政権は、東アジア諸国が欧州列強に蹂躙され隷属させられて苦しむ姿を見せつけられていた。民主主義は、民衆のうちに赤子ほどにも育っておらず、この時点では、より統一的な権威こそ未来を照らす松明であったといえよう。

 国家主義は、人々の観念の上に築かれる虚構にすぎないから、それを支える見せかけの合理的根拠と観念の教育体制がなければ成立できない。明治政府は、日本国家という虚構の本尊に天皇を祭り、神道思想による教育的洗脳を行うことで、それに絶対的権威を与え、同時に、日本国民に他民族に対する優越感を与えた。

 以来、天皇家に生まれた世襲者は、大東亜で最も優れた国民の、最も優れた大将ということにされたことにより、一生物としての生身の存在を主張する権利を奪われ、気の毒なことに観念のうえで「人」を超越しなければならなくなり(その実態は、自由に泡屋に出入りすることさえかなわぬ独身中年のナントカノ宮の悲劇を思いたまえ)、そんな残酷な悲劇を、国民と自称する妄想集団がおめでたく、かつありがたく担ぐという奇妙にして滑稽な社会的現実が続いているのである。洗脳の、なんと強力であったことか。
 少々、横道にそれすぎた。

 別山の山頂の展望は、いわずもがな絶景である。南白山の下には、神秘的なエメラルド色の白水湖がすばらしく、尾上郷谷には千古の原生林が一斉に新緑の協奏曲を奏で、ひとりで静かに景観を独占できる喜びに酔いしれた。
 山頂直下の太平壁は巨大なお花畑になっていて、名も知らぬ高山植物の可憐な競演であった。まさしく、至福のひとときであった。

 だが、尾上郷に微かに見える林道の荒廃も見逃すことはできなかった。ここには、御母衣ダムの補助ダム建設が進行中だという。
 わが、中部圏の山々のうちで、もっともすばらしい自然の残る白山。人々の子孫にいつまでも美しいままで残してやりたい。


 赤兎山1629m・大長山1671m  90年7月

 白山主脈南稜、三ノ峰で西へ分岐した尾根は、杉峠から赤兎山を盛り上げ、経ヶ岳・法恩寺山を噴出させて大野盆地に消えるものと、小原峠・大長山から1000m前後の起伏を保ちながら延々と50キロ近くも連なり、大聖寺の日本海に消える非常に長大な尾根とがある。

 福井・石川県境をなすこの障壁の途中には、加賀大日山(1368m)・富士写ヶ岳(942m)などの著名な山も含まれている。
すでに書いたように、経ヶ岳は白山本峰と同じく火山性の山体で、地質の関連からも主脈とはいえないが、大日山を中心に置くこの尾根は、大日山自体は白山の兄弟ともいえる大規模な火山であるが、別山と同じく堆積岩からなる古成層(手取層)を基盤としていて、文字どおり白山西稜と呼ぶにふさわしい。

 白山主脈というのは、普通、富山・石川県境および石川・岐阜県境をなす稜線をいい、北は医王山(ブナオ峠からとする説もある)から、南は大日岳・油坂峠あたりまでをいう。それより南は、能郷白山を盟主とする奥美濃の領域に含まれる。

 主脈から西に派生する最大の尾根がこの稜線であって、刈安山(548m)あたりを始点とするのが妥当かと思われる。東への尾根は、無理に考えれば大日岳から鷲ヶ岳へとつなげぬこともないが、蛭ヶ野で終わりとするのが一般的である。

 国土地理院は、白山に関連する山々に加えて、油坂峠以南、伊吹山以北、北国街道以東、長良川以西(武儀郡や郡上郡の山も含める場合が多いが)にひろがるいわゆる奥美濃の広大な山々も含め、どちらの最高峰にも白山の名がつけられているところから、この膨大な山域に両白山地という呼称を与えた。

 白山山系だけでも広さは相当なものなのに、両白山地にいたっては、南北120キロ・東西80キロにも及ぶもので、国内最大の南アルプス連峰に匹敵するかもしれない。
 ところが、この山々は登山の対象としてはひどく渋く、白山本峰や伊吹山を除いてほとんど知られていない。一部のモノズキしか通わないようなパッとしない山が多く、ポピュラーな解説書・案内書も少ない。

 私は、この十数年の間に、おそらく100回以上も両白山地に足を向けたが、エアリアマップの「白山」を除けば参考資料が入手しにくくて、いつも当てにならない2・5万地形図頼りの行きあたりばったりの登山であった。
 それでも積雪期は雪の上を歩けるからよいが、夏季は、猛烈な笹薮に行く手を阻まれて逃げ帰ったことも10回を超えているだろう。この山域では、整備された登山道があることが奇跡と思わなければならない。

 両白山地は日本海と琵琶湖に接し、冬季は日本を代表する豪雪地帯であって、登山適期が短く、しかも薮がひどくて展望が悪く、東北のような美しい高層湿原もあまり見かけない。おまけに、すぐ近所に日本を代表する北アルプス連峰が鎮座しているので、大部分の登山者がそちらにひかれていってしまうのである。

 まことに不遇な山々といわざるをえないが、かえってそれがために、この山域に惹かれる者は、できの悪いわが子を人一倍いとおしむ親の気持ちに似た気分にとらわれ、人知れぬこの山の良さを見いだすことに情熱を傾けずにいられないのではないだろうか。

 前置きが長くなった。白山西稜を代表するピークの赤兎と大長山は、小原峠をはさんで隣り合わせ、良い道が整備され、手ごろな縦走が楽しめるハイキングの山である。
 この山は、両白山地のぼさっとした低山群のなかで、経ヶ岳などとともに、珍しくスッキリした亜高山帯登山の気分が楽しめ、しかも白山主脈の展望台としてこの上なく素晴らしい眺望をもっている。いってみれば、全然両白山地らしくない山なのである。

 前夜、勝山市に来て「みずばしょう」という市営の温泉保養センターを見つけた。夜7寺以降は半額になるとかで、400円払って入った。サウナなどもあって豪勢な温泉であった。駐車場で一夜を明かした。

 朝、金沢へ抜ける国道157号線を行き、地図通り小原の集落に入った。入り口には「資源保護のため入山禁止」という看板がたてられていた。「栽培わさび」と書かれた看板の下のワサビを平然と持ち帰る福井のハイカーの姿を思い起こし、どう考えていいのか混乱したのを思い出した。

 ここで集落の風情を見て驚きに打たれた。それは、明治の田舎がそのまま冷凍保存されているような、異様な懐かしささえ感じるたたずまいであった。だが、ここが文化財として保存されているわけではない。かつての妻篭と同様、貧しいということのみの結果なのである。

 小原の部落から登山口へは、山慣れた私が相当な不安を感じるほどの、狭い未舗装の林道を行く。10数キロ走ると、ワサモリ平と呼ばれる高原に達する。ここは今でも名の通りワサビの栽培地であるらしい。

 法恩寺山からここへ降り、さらにこれから行く小原峠を超えて加賀市ノ瀬に抜ける道が、越前馬場の古道(越前禅定道)であった。したがって、ワサモリ平には、昔は参詣のお助け小屋が建てられていただろうが、今は無人の野である。杉の植林が進んでいた。

 その先に、「赤兎山登山道」の標識柱が立っていて、そこから立派な登山道が続いていた。ブナの多い二次林を1時間ほど登ると小原峠に着いてしまう。苦しい登りもなく、誤る分岐もなかった。赤兎へは、峠から40分ほどであった。ひどくあっけなく感じた。

 山頂の手前で経ヶ岳からの尾根道を併せた。そこからキスゲの咲く高原状の山頂が広がっていた。広々とした快適な山頂広場で、方向指示板や案内標識などがあり、この山の人気のほどがうかがえる。
 300m先に避難小屋が見え、その付近は高層湿原になっているようだった。同じ両白山地とはいっても、奥美濃の山頂とはエライ違いである。冬季の猛烈な季節風が、東北風のこのような山稜をつくるのだろう。

 早朝なので誰もいなかったが、小原峠におりるとものものしい装備の登山者に出会った。私はズック靴にジーパン、軽快第一である。
 大長山に向かうルートは、やや荒れているが登山者は少なくなさそうだ。一時間ほど尾根道をたどると、再び亜高山帯の風貌をみせるようになり、大長山の細長いが大きな山頂の一角に達する。

 山頂は本当に広くて、一面のキスゲのお花畑であった。どこまでいってもキスゲの群落が絶えることがなかった。これまで出逢った山頂のうちでも、もっとも美しいもののひとつといっておきたい。
 寝転がって、眼前の雄大な白山主脈を眺めたくなった。

 白山の眺望も、これまで登った山々のうちで、ここがもっともすばらしい。多くの残雪を纏った白山と別山が好一対の対照をなし、それから四方に向かって無限の山なみが伸びやかに続く姿は、いつまで見ても見飽きない。
 別山の風格が、想像以上にすばらしいことを発見したのもこのときであった。それは、白山と同体の山格であった。

 帰路、小原峠に大勢のハイカーが登ってきた。珍しく若者の多い集団で、明るい男女の笑い声が山々に響きわたっていた。


 白山 2702m

 「白き山」という命名は、いつのころか自然に生まれたものにちがいない。モンブランもダウラギリもその意味は同じであり、日本アルプス最高峰の北岳も甲斐の白峰と呼ばれた。

 白山が名古屋から認められる時期は、大気の清澄な冷たい季節に限られるが、それはいつも白い。
 朝鮮半島からやってきた季節風は、日本海でたっぷりと水蒸気を摂取し、なぐりつけるような暴風になって白山の壁にぶちあたり、そこに激しく雪を雪を降らせる。白山は日本有数の豪雪地帯であって、冬期数十mの積雪さえ珍しくない。ただ、伊吹山のように積雪観測がされていないので、正確な記録は分からない。

 2700mという高度は、日本アルプスを除けば内陸の八ツ岳にしかなく、越前沖の日本海では、沖へ出た漁師たちのよき目印になったにちがいない。
 それどころか、朝鮮半島から日本海に出漁した漁師たちにとっても方位を決める大切な目標であったにちがいなく、古来、この山をめざして日本海を渡った渡来人たちにとっても単なる目印を超えた霊的な存在としてとらえられた。

 白山に霊性をみいだし、修験道の行場として開いた越前の僧泰澄も、そうして白山をめざして朝鮮新羅からやってきた渡来人、三神安角の子であった。
 泰澄の一族が朝鮮からやってきたことなど驚くに値しない。

 日本列島に人類が棲みつきはじめたのは、明石原人や牛川人などの発掘をみれば、数十万年前、すなわちホモサピエンス以前からであることが確実だが、リス・ウルムの氷期には大陸と地続きであったことから、ゾウなどとともに多くの人々がやってきたにちがいなく、同時に、黒潮に乗って、南方から大勢の人々が北上して日本列島に棲みついた。

 彼らは、今日縄文人と呼ばれるようになり、優れた土器石器文化を遺した日本列島先住民であった。彼らが日本列島の主役であった時代は1万年ほど続いたことが分かっているが、2500年ほど前に、中国揚子江下流に開かれていた米作農耕民族国家(おそらくは越に滅ぼされた呉)の住民が高度な文化とともに北九州に移住してきて以来、主役の座を明け渡すことになったようだ。

 今日、弥生人と呼ばれることになった渡来民族は、組織的に移動して、九州、西日本の河口沿岸部を中心に大いに勢力を広げ、原始的な氏族社会を形成していた縄文人を北方や山奥に追いやった。

 以来、日本列島に灯された弥生文化に引き寄せられるように、大陸や朝鮮半島からの民族移動が絶えることなく続いた。
 3世紀から8世紀にかけて、中国北東部に勢力をのばしていたツングース系の騎馬民族まで国家的規模で大量に渡来し、彼らは江南から渡来した弥生人の氏族王権を制覇し、みずからの古墳文化王朝を成立させた。後に、これが天皇家と呼ばれるようになる。

 本来、ツングース騎馬民族の王権継承の基準は、世襲ではなく、王としての能力であった。したがって、8世紀まで天皇家の血脈の交代は数度に及んだようだ。白山山麓の新羅系渡来人の王であった継体が王権を掌握した時代もあった。だが、朝鮮半島南部の百済の王であった聖徳太子の一族が、その圧倒的な教養によって崇敬され、王権を得ることによって、天皇家の血脈に決着をつけたかとも思える。

 太子もまた騎馬民族の子孫であったことは、記録された衣服が乗馬に必要不可欠なズボンやブーツを用いていたことによって証明できよう。米作農耕の民族にズボンは不要かつ邪魔であって、必要なものは「呉服」と呼ばれたスソからげの可能な衣服と、湿地帯に適したワラジであった。ズボンやブーツは、騎馬の必需品であって、スカートしかなかった欧州でこれが用いられるようになったのも、中央アジア騎馬民族の影響に他ならない。

 さらに、古墳時代に用いられた剣などの武具は、すべて騎馬戦争に適した直剣式の突くタイプであることにも注目する必要があろう。農耕民族には切るタイプの曲剣が必要なのである。

 京都を開いた秦氏も、相模や武蔵の先住民となった秦氏、埼玉の高麗人たちも、皆朝鮮からやってきた。というよりは、古墳時代以降の日本文化と称されるものは、おもに朝鮮文化であったと断言してさしつかえないのではないか。さらにいえば、日本という国家そのものさえ、朝鮮から移されたことを旧唐書が示唆している。旧唐書という唐の国史には、日本国が朝鮮半島にあると書かれているのである。

 このような、人と、それにともなう文化の渡来の大規模なものは、鎌倉時代、フビライの元帝国によって滅ぼされた南宋の住民の大規模な渡来によって終止符をうつ。同時期の元冦と、その報復として盛んになった倭冦によって、政権は国境の交通にたいする警戒を厳しくせざるをえなくなったからである。

 8世紀、泰澄の時代、騎馬民族が日本の支配階級として圧倒的な勢力を確立したころ、宗教界を中心とする知識人階級も渡来人とその子孫によって占められていた。天台宗の最澄も、真言宗の空海も、行基も、役の小角も、著名な宗教界の覇者たちはすべて渡来人の子孫であった。

 というより、このころすでに日本先住民は追われて大部分が日本海側か北方に移動しており、本州西部太平洋側では、よほどの山奥か離島にしか残っていなかったと考えられよう。最後の縄文人、日本先住民であった蝦夷(えみし)も征伐殺戮され、その一部は北海道にアイヌ族として残った。縄文人は、非常に気の小さな優しい人々で、おそらく戦争を好まなかったにちがいない。

 歴史に記録された日本は、この時代、権力も言語も民俗も、文化というものことごとく渡来のものになった。渡来人の文化は、すでに中国で体系として確立していた密教・道教・儒教を基礎としたものであっただろう。これらを厳密に区分することは困難で、相互に影響を与えあい不可分の巨大なイデオロギーとして日本にもちこまれた。

 それらは、すでに日本人の血肉として定着し、論ずることさえ不可能な日本的風景そのものになってしまった。つまり、それが日本ということになった。
 日本の精神的原型と主張される神道も、その要素を厳密に追ってゆくならば、明らかに朝鮮新羅系の道教に到達し、天皇家の出自を証明する傍証にもなろう。祝詞も社殿も狛犬も、道教のものであり、その祭神はひとつの例外なく朝鮮のものであった。我々は今日、朝鮮の人々にもっとも近い人相・風俗を天皇家に発見することができるのである。歴史的日本とは、朝鮮に他ならないのである。

 新羅から渡来したと思われる古神道は、同じく百済から渡来した仏教に包摂され、習合し、修験道を成立させたとされる。修験道は、道教の要素をもっとも濃厚に伝えた宗教といわれるが、あるいは、すでに朝鮮の段階で習合成立していたかもしれない。

 それは、道教の山岳修行による神仙到達の思想をそのまま踏襲し、修行者は山々の高き峰のうえで超能力を得て変身し、里に降りて人々を救うのである。

 修験道の開祖は、大和葛木の行者、役の小角だとされる。小角はその超能力を朝廷に恐れられ、やがて日本を去って唐に赴いた。唐にあっては道士(道教僧)として崇敬され、実に唐四十仙のうち第三座を占めたと伝承されている。晩年は、唐の領土であった朝鮮新羅に過ごしたと伝えられる。この伝説は、修験道と神道と新羅の関係について一定の示唆を与えるものである。

 泰澄が白山を開いたのは、それからわずか後のことで、同時代といってよい。泰澄もまた、小角に劣らぬ超能力者であったと記録されている。小角と同様、念力によって自由に飛行し、呪文によって石つぶてを投げることができたとされる。

 また、空海や行基と同じく、虚空蔵求聞持法によって能力を開発した。これは、虚空蔵菩薩に念仏を捧げることによって頭の働きを百倍良くしようという能力開発法である。三カ月間というもの野山をさまよい歩きながら念仏を唱え、満願の日に天空から無数の星が落ちてくる夢を見ることによって成就するという。

 泰澄が越前平泉寺に足場をつくり、やがて美濃石徹白を経由し、別山を経て白山山頂に達したのは養老元年(717年)の夏であった。泰澄は、その頂に朝鮮新羅神社の坐女ともいわれる菊理姫をまつった。本地仏は、夢のお告げとして十一面観音であるとされた。

 以来、白山は今日まで絶えることなく、霊山として人々の信仰をあつめてきた。とりわけ、朝鮮の帰化氏族から崇敬が篤かった。白山が、かつてシラヤマと呼ばれたのは、朝鮮の新羅(シラ)と直接の関係を示唆するものであろう。日本には「シラ」と名付けられた民間信仰が多く遺されているが、これらも新羅そして白山(シラヤマ)との関係を示唆するものにちがいない。

 朝鮮帰化氏族は仏教界にあっては天台宗系の勢力であって、比叡山山王権現の修験者がシラヤマを行場とした。白山修験は、やがて本家であった熊野大峰修験さえ圧倒し、山岳宗教の覇者となった。
今日、白山神社は全国に2700社を数え、圧倒的に首位にある。だが、白山神社は白山修験道の直接の継承ではない。

 開山以来、最大の受難は明治維新に意図的につくりだされた。
 新政府は、天皇家の権威を利用して国家イデオロギーの統一を策謀し、天皇を唯一無二の神格にすえ、それを証明する理論として古事記を教典とする神道神話を絶対のものとして民衆に強制した。それまで天皇は、民衆の意識のなかに伊勢神宮の神主程度のものでしかなかった。それを、いきなり徳川将軍を上回る権力者にして絶対神にでっちあげようとしたのだから、なみたいていの事業ではなかった。

 古事記の虚構を真実らしく糊塗するために、神道にかかわるすべての理屈を統一しなければならなくなった。一番邪魔になったのが、民衆のうちに根強い人気のあった習合神道、つまり権現信仰であった。白山権現は、その代表格であり、最大にして最強のものであった。

 神道は、断じて仏教に包摂されるものであってはならなかった。天皇の権威は唯一絶対のものであり、かつ本源的なものでなければならない。そのために、真実の歴史を曲げ、それを伝える形象としての修験道を弾圧廃棄しなければならなくなった。

 かくして神道を支配するところの仏教にたいして排仏毀釈が行われ、激しい弾圧が行われた。修験道は禁止され、伊勢神道の配下の神社になるか、さもなくばもともとの密教宗派に戻るよう指示された。天台宗の影響下にあった白山修験は、天台宗に帰依し、それらの宗教的形象は廃棄、あるいは破壊された。

 白山権現は十一面観音を本地とする権現であり、菊理姫をまつっていたが、本地仏は破壊され、一部は牛首(現白峰村)林西寺に引き取られ、祭神もイザナギ・イザナミに改められた。
 権現は廃棄され、白山神社に変わった。以来、白山から修験道は消えた。

 私の過去の白山登山は、岐阜県側の平瀬からが多かった。平瀬登山道は白山信仰の古道ではなく、明治初年、大白川湯からの猟師道を整備したものである。しかし、このコースは飛騨方面からの最短ルートであって、古くから白山のエスケープルートとして利用されていたことは疑いない。

 平瀬道は、御母衣ダムの補助施設である白水ダム湖畔まで車が入り、夏期はそこに営林署の経営する山小屋が営業している。以前は通行するだけで恐ろしい道であったが、現在はかなり改良された。

 白水湖の水は酸性の温泉水が多量に湧出しているためか、神秘的なエメラルド色の輝きをたたえている。お花畑を前景に湖に落ちる夕陽を眺めるならば、一種異様な彼岸の情景さえ思う景観であった。
 今では湖畔に露天風呂がつくられ、観光客も多くなり、かつてのような静けさも情感も失われつつあるが、それでも大資本の進出する観光リゾート地とは雲泥の開きがあり、味わい深い原始の風格が漂っている。私の好む場所である。

 かつては、ミルク色の硫黄臭い効能抜群の秘湯としてその道の通に知られ、私もひそかに日本三大名湯と考えていたのだが、十年ほど前の集中豪雨で泉源が崩れ、今では透明のありきたりの温泉に変わってしまったのが残念だ。

 もともとの白水温泉、大白川湯は、名瀑白水の滝の真下にあって、その名が白川郷の名の元になった。今では白水の滝は林道の下におかれて風格を下げ、大白川湯はダム湖の水面下に沈んだ。

 このルートは日本有数の、おそらくは白神山地に次ぐ規模のブナ原生林を抱き、大倉尾根のカンクラ大雪渓は万年雪となり、室堂手前の日本有数(最大ではないかと思っている)のお花畑には無数の黒百合の群落があった。
 山頂まで、登山口からわずか四時間ほどで行ける。

 白山登山道でもっともポピュラーなのが、石川県白峰村から入る市ノ瀬口である。私は、これが当然加賀馬場ルートだと思っていたのだが、調べてみると実は越前馬場ルートであって驚いた。

 加賀の国一ノ宮である白山ひめ神社から手取川を遡れば、当然この市ノ瀬に達するのだが、途中、今では白峰湖に沈んだ牛首村周辺の去就をめぐって幕府と加賀藩とのあいだで激しい領有争いがあったことが原因で、加賀馬場のルートは複雑な変転を経ているようだ。

 加賀馬場のルートは、鶴来町の白山神社(下宮)を起点として、中宮の一里野を経て、長大な長倉尾根にとりついて大汝峰に至る苦しいコースであった。
 加賀禅定道といわれるこのコースは、九世紀にはひらかれていたと思えるが、明治政府の樹立とともに修験道が禁止され、白山信仰が衰退した過程のなかで荒廃し、廃道になってしまった。だが、1988年に、地元有志によって再建されたのだが、長大であるために歩かれず、再び廃道に化す日も近い。

 越前馬場は、平泉寺から法恩寺峠と小原峠を越えて市ノ瀬に下り、現在の観光新道の尾根を登るものである。長いだけでなく、上下の多い苦しいコースで、現在は歩く者もなく、すでに一部廃道に化している。

 白山馬場を代表したのは、長いあいだ美濃馬場の石徹白道であった。
 石徹白の御師は全国の白山神社講中を組織し、白山信仰を喧伝し、このルートは「登り千人、下り千人、宿に千人」といわれたほど繁盛したと伝えられる。

 明治以降、白山信仰登山が衰退し、近代スポーツ登山が勃興すると、その登山口は交通の便の良い加賀方面に集中するようになった。現在では、登山者の大部分が市ノ瀬口を利用するようになった。

 夏のある日、はじめて市ノ瀬口から登った。
 別当の駐車場に前夜遅く着いたのだが、さすがに車泊登山者が少なくなかった。朝4時には、暗いなかを大勢が出発していった。大部分が砂防新道を利用するようだ。観光新道は、大雨による崩落のため通行禁止になっていた。

 5時に出発したが、室堂に着くまでに先発組を追い越して先頭にたってしまった。皆、休憩が多すぎるのだ。
 このルート、やたら林道を横切るので面白くない。車で7合目近くまで行けそうだ。右手に見える不動滝が、一歩一歩近づいてくる。

 甚ノ助ヒュッテの手前、海抜2000m付近で、玉石の多く含まれた砂礫がたくさん露出していた。玉石は石英で、径数センチはある。それは、この付近が、かつて水に洗われる環境にあったことを示していた。

 近ごろ、白山周辺で恐竜の発掘が話題になることが多い。この石は、白山周辺で地質学者や考古生物学者の注目をあつめている手取層に関係している。白山火山体の基盤をなす層は、別山に顕著に現れている堆積岩、水成岩である。その表層には豊富な化石生物が含まれている。これを手取層という。

 3億年ほど前に海底でサンゴや放散虫が堆積した基盤が徐々に隆起し、1億年ほど前に、白山一帯に巨大な湖が出現し、これは手取湖と名づけられた。手取湖一帯は、ジュラ期、恐竜をはじめとする動植物のまれにみる楽園となった。先の玉石は、この手取湖の湖畔で波に洗われたか、もしくはそこから流れ出る河川流域にあったと考えられるのである。

 現在の白山の山体ができあがったのは、わずか1万年ほど前のことで、ひどくインスタントに成立した。その後の激しい侵食によって、ところどころでこのような古白山の景観にお目にかかれるのである。

 手取湖の生物堆積層は手取統ともよばれるが、これは白山周辺の九頭竜川付近や白水湖付近、福井県側など広範に存在していて、学者やマニアの注目をあつめ、化石探索者がひきもきらない。私もその一人である。
 九頭竜川周辺は、手取統のなかでも汽水領域の化石が出ることで知られ、それ以前のデボン期石灰岩からは三葉虫やアンモナイトも発見される。私の好みからいえば、石灰岩化石のほうが好ましい。美しいハチノスサンゴを発見し、磨いたときの感動はたまらない喜びである。

 ひと汗かいて着いた弥陀ヶ原の景観は、すばらしいの一語に尽きる。
 広大な高原のほとんど全部がお花畑といってよい。白山に尽きせぬ魅力があるとすれば、その幾分の一からの部分はこの高原に負っている。このような楽園は、全国600を超える登山を行ってきた私の経験のうちでも、北海道の大雪連峰や苗場山、尾瀬、平ヶ岳などわずかでしかない。

 八甲田や八幡平の高層湿原は、無謀な観光開発によって著しく価値を落としたうえに汚染された。このような楽園を見つければ、ロープウェイをかけて金儲けのタネにしたがる地元の低俗なバカ資本家が、どの町にも例外なくいることを思えば(たとえば、御岳における名鉄資本のように)、私は非力であっても、断固としてこの楽園を守り抜くことをここに宣言しておきたい。ここは、私にとって、神のおわす魂のふるさとである。(ふだんは完全無神論者なのだが)

 室堂の巨大な山小屋には大勢の人々がたむろしていた。かつて小屋の脇にあったはずの黒百合の群落は見あたらなくなっていた。
 白山神社奥宮の若い宮司に話しかけてみた。彼は、廃仏棄釈の意味すら知らない無知無能な(権威をふりまわすことだけが得意な)神主が多いなかで、白山権現の歴史を多く知っていた。

 山頂の桧の堂宇は健在で、純金の金具も盗まれていなかった。が、この付近にあった角閃石の結晶はまったく見あたらなかった。
 南竜ヶ馬場に向かった。
 縦走路をたどった。静かな道で出逢う人はいなかった。エコーラインには大勢の登山者が歩いているのが見えた。あちらは巨大なお花畑だ。誰もいない縦走路のお花畑では、静かに心ゆくまで美しさを堪能した。賑わっているのは皆が歩きたがるところばかり。一歩外れれば、すばらしい静けさのなかに恍惚とする大自然の桃源境が待っている。


 銚子ヶ峰 1990年6月

 白山信仰登山の歴史のうちで、岐阜県側に位置する美濃馬場こそ白山詣を代表する主役であったといえる。美濃馬場は、天台宗長龍寺(岐阜県郡上郡白鳥町長滝)であった。そこには、かつて数百の僧坊が建てられ、中部地方有数の古い歴史をもつ信仰拠点として、鎌倉時代から江戸時代にかけて隆盛を極めた。

 だが、やがて越前、美濃における浄土真宗の勃興によって民心は天台宗や権現信仰を離れ、明治政府の神道至上政策によって弾圧を受け、さらに明治における大規模な火災が長滝のありし日の栄華を苔の下に埋もれさせた。
美濃馬場、長滝を訪れた権現講中の人々は、そこから阿弥陀滝を経て海抜千mの険しい桧峠を越え、石徹白に向かった。石徹白には白山中居神社(中宮)がおかれていた。

 人々は、さらに、そこから銚子ヶ峰や別山を越えて、白山奥宮に向かって上昇してゆく長く辛い山道を歩いていった。その行程といえば、今日、我々がアルプス山脈の大縦走を行うに等しいほどのものであった。

 往時、「登り千人、下り千人、宿に千人」とうたわれた白山詣の情景は、石徹白のありさまを語ったもので、その賑わいは、全国三千社の白山権現の講中組織を背景にして江戸中期まで絶えることがなかった。
 白山講中の賑わいは、富士講や御岳講に代表されるように、多くの山岳講を啓発したにちがいない。それは、娯楽の少ない民衆にとって大切なリクレーションの場だったのである。

 石徹白には、友人のYさんの実家があった。彼に連れられて、はじめてここを訪れたとき、どんよりと濁った空の下に荒涼たる田園がひろがっている風景を見て、私はロシアの田舎を連想した。

 いったいなぜ、これほどの山深い苛酷な生活条件の地に人里が成立しえたのか、実に不思議であった。だが、Yさんの実家の建物の格式や造作は、とても名古屋あたりではお目にかかれないほどの重厚で立派なものであった。
 そこは、伝統ある白山神社社家の家だったのだ。

 白山神社とは廃仏棄釈以降の呼び名で、それまでは白山権現といったのだが、それは黙っていれば向こうから信者がやってきてくれるほど甘くはなかった。どの権現信仰も、御師(おし)と呼ばれる社家の人々の、懸命な勧誘努力によって支えられていた。御師を大切にしない権現は、たちまち寂れていった。

 御師は、旅行ブローカー・セールスマンのようなもので、全国に散在する権現の講中組織へ出かけていって、あるいは講中そのものを組織し、ご利益を宣伝してまわったのである。

 地方の権現社に付随した講組織を檀那といった。御師は、檀那で白山権現の護符を売り、白山詣を組織し、旅行の段取りを行い、さらに自分で組織した講中の人々を連れて白山に向かい、石徹白にあっては自分の家に泊めた。だから石徹白の家は旅館のようなもので、その格式が御師の格式として認識されることになった。冷涼な山奥の石徹白の集落は、この信仰によって食べることができた。

 詣客が来なければ死活問題であって、米の採れない石徹白ではたちどころに飢えねばならない。だから、石徹白の御師たちは命がけで白山信仰を広めたのである。したがって今日、白山神社が日本最大数を維持しているのは、まったく石徹白の御師たちの努力に負う部分が大きいといえよう。
 だが、石徹白の歩んだ道は平坦ではなかった。江戸時代中ごろ、宝暦年間に、信じがたいような大事件が勃発したのである。

 石徹白は、美濃郡上藩の領地で、郡上藩は宝暦年間まで金森氏が支配した。
 最初、織田信長の家来になり、やがて秀吉旗下に属し、越前大野の領主となった金森長近は、秀吉の命を受けて飛騨白川郷の内ヶ島氏を攻めた。

 内ヶ島一族は金森氏に敗北して講和を申し入れ、その直後、帰雲城もろとも山津波に呑まれて滅んだ。飛騨一帯は金森氏の所有に帰した。飛騨は鉱物資源の宝庫であり、金森氏はおおいに潤ったにちがいない。

 その経済力は、飛騨の寒村にすぎなかった高山に名城と美街を築き、息子の宗和の時代には優れた茶道の文化をつくりだした。それは、今日まで春慶塗りや宗和膳の名で残されている。金森氏は、名実ともに飛騨高山文化の父であった。

 だが、江戸時代を迎えると、幕府は鉱物資源を領有する諸藩を厳しく監視するようになった。というのも、家康の軍資金供給に功績のあった佐渡の大久保長安が、金山の利益の多くを私物化していたことが死後露見し、その子らが全員切腹させられるという事件があったからである。

 幕府は鉱物資源を独占し、大名に経済力をつけさせないために、外様大名の有力鉱山をとりあげ、天領に変える政策をとった。六代目金森氏は飛騨から追われ、貧しい上ノ山(山形県)に移封されることになった。

 しかし、元禄十年(1692年)、再び元の領地に近い美濃郡上藩が与えられることになった。金森氏は、小笠原家や吉良家とともに茶道礼法の家元であって儀礼に詳しく、将軍の身近にあって特別の配慮を受けたのかもしれない。

 七代頼錦の時代、幕府の儀典役に任命されていた金森氏は、交際上出費が多く、窮乏する藩財政に苦しめられていた。家老は増収にあせり、領民からの収奪を無謀に厳しくした。郡上の農民は悪政に苦しむことになった。

 江戸中期、それまで比較的安定していた気候が火山活動などの影響で寒冷化し、全国的規模で飢饉が発生するようになっていた。百姓の生活は、かつてないほど圧迫される状況が続いた。

 やがて、江戸時代を通じても最大級の一揆が、金森氏の領下で起こるべくして起こった。後に宝暦農民一揆という。郡上周辺の五千名を超す百姓が結集し、金森氏の暴政を糾弾して立ち上がったのである。

 この事件の解決には四年を要し、同じ時期に石徹白に起こった大きな争いの処理をめぐっても幕府の追求を受けるところとなり、金森氏の断絶改易という大きな結果を招いた。宝暦一揆と石徹白の事件を併せて、世に宝暦郡上騒動と称され、長く語り伝えられることになった。

 金森氏は、七代二百余年で滅んだ。金森氏の滅亡を招いた宝暦騒動の一端である石徹白騒動とは、どのようなものだったのか。

 石徹白の村では、江戸初期から社家が二派に分裂対立する状況が続いていた。上在所の上村氏と下在所の杉本氏である。その原因になったのは、白山神道の主導権争いであった。

 当時、神道は、天皇家に近く天台宗の影響下にあった白川家に印可される勢力と、新興で徳川幕府に近い吉田家の影響下にある勢力とに二分されていた。石徹白でも、社家のうちに帰属をめぐって二派の激しい論争があった。
 神道印可支配をめぐる吉田・白川両家の争いは激しさを増し、木地屋の世界でも、氏子の印可帰属をめぐって全国的な対立を起こしていたことを記憶されている方も少なくないであろう。

 この地は、古くから白山権現に頼って暮らしをたててきたことから、全戸が社家かそれに準じる人々であったのだが、戦国時代末期に、越前から美濃にかけて浄土真宗の爆発的な勃興があり、天台宗の傘下にあった寺院に大きな影響を与え、真宗に信仰を変える者が続出していた。郡上一帯の民衆は、ことごとくといっていいほど、争うようにして真宗門徒に帰依しようとした。

 その影響は、石徹白にあっては白川神祇伯家の配下、つまり杉本派に著しかった。。下在所の人々は、社家のなかでは、どちらかといえば格下であって、上村派に比べて貧しかった。

 上村派は、上在所社家の権威を高めるために、幕府権力に近い存在である吉田神道に接近し、郡上藩の家老とも懇意であった。
 騒動の発端は、真宗をめぐるものであった。

 それは、杉本派の社家のうちに真宗に共感するものが多く、道場(現、威徳寺)を改築建立するために社家に寄付を募ったことから始まった。
 上村派頭領であった上村豊前は、白山神道の絶対的拠点でなければならない石徹白に真宗の勢力がのびてきたことに、著しい不快と恐怖を感じた。

 豊前は、京都の吉田家に石徹白の神道が危機的状態にあることを訴え、救いを求めることにした。書簡を送り、神道のすたれている現状を綿々と訴えたのである。
 これに対して吉田家は、自派の勢力拡大の好機だと考え、ただちに金森藩に対して建白書を送り、上村のために尽くした。

 藩の寺社奉行であった根尾甚左衛門は、上村とも懇意であり、この機会に上村派の勢力を味方につけようと考えた。
 そして、藩庁の命令として、杉本派社人に対し「以降、吉田家の支配下に入り、何ごとも上村豊前の命令に従え」と通達したのである。

 杉本派は驚き、反発した。彼らは、何ごとにも権威をカサに着たがる尊大な豊前をひどく嫌っていたのである。そのうちに、杉本派の社人が、真宗本山で豊前の悪行を訴えたという噂が流れた。豊前はひどく怒って、その社人を追放し、社家の持ち山の木を大部分伐採してしまった。

 杉本派頭領の杉本左近は、ただちにこの非道を藩庁に訴え出たが、寺社奉行の根尾はとりあわず、かえって左近を叱りつけた。
 左近はやむをえず、直接江戸の寺社奉行、本多長門守へ訴え出た。

 だが、長門守は時の郡上藩主、金森頼錦と懇意であったので、訴えをとりあげるどころか、金森家へただちに通報したのである。
 金森氏はこれに驚き、ただちに左近以下杉本派幹部を捕らえ、家財を没収したうえに領外に追放した。時、11月26日であった。

 上村豊前は、杉本派の執ような抵抗に怒り狂い、藩庁に対し、石徹白から杉本派を全員追放することを許可するよう迫った。
 時、12月25日、杉本派社人の64名とその家族、併せて400余名は、突然、着のみ着のままで領外への追放を宣告された。その日、石徹白は猛吹雪であった。老人、婦女子ともども人々は行くあてもなく追われた。

 豊前は、「白川伯の手のものなら白川郷へ行くのがふさわしいではないか」と、大声で笑った。
 桧峠には身の丈を超す積雪があり、老人や子供は凍えても暖をとることさえできなかった。途中の集落には、奉行から助けを禁ずる旨の通達がだされ、住民は戸を閉ざした。

 人々は、絶望的な死への行進をはじめた。
 桧峠を下ると、前谷村があった。前谷の衆は貧しかったが、定次郎をはじめ義侠に篤い人々が多かった。彼らは、藩庁に弾圧されるのを覚悟で、杉本派の人々を救おうとしたが、救援も空しく餓死凍死者は70余名にのぼったと記録されている。

 生き残った者の多くは、ただでさえ宝暦一揆のために辛い生活を強要されていた上之保筋(現、高鷲村)の農民の温情にすがったが、騒動終結後、無事に石徹白に戻ることのできたものは少なかった。

 その後、杉本左近による決死の直訴が実り、同じ時期の郡上一揆とともに、この事件が幕府の評定所で裁かれることになった。

 その結果は、一揆の農民側に大勢の犠牲者を出したが、郡上藩側にとってもとりかえしのつかない事態になった。
 事件の首謀者であった上村豊前は死罪になり、それを助けた根尾甚左衛門は切腹を命ぜられた。幕閣の本多長門も処分されたが、杉本左近は一か月の謹慎という微罪ですんだ。

 金森家は断絶改易された。
 後に、金森氏にとってかわって郡上藩を引き継いだ青山氏は、石徹白の宗教争議に関与することを極度に恐れた。このため石徹白は、明治維新を迎えるまで、一種自治共和国の様相を呈したのである。

 石徹白に秘められた歴史は凄惨なものであった。
 わが友、Yさんの家は上村姓である。柳田国男や宮本常一も泊まって取材している。今では、上在所、下在所とも区別のつかない集落になった。人々は助け合って明るく暮らしている。

 事件の原因になった威徳寺は健在である。そんな歴史も、スキー場を中心とする巨大なレジャー開発の鎚音の喧噪にかき消されてゆくようだ。

 石徹白の中心は、上在所の中宮、白山中居神社である。この由緒の古い神社の風景は実にすばらしい。彫刻も、まるで甚五郎作のように躍動感にあふれている。杉林も千年級の特筆に値するものである。わずかに山道をたどれば、巨大な合木の浄法寺杉がある。

 私は、中居神社の脇から、激しい雨の降り続く林道を車で辿った。終点から山道がのび、わずか上に、屋久島の杉にも匹敵する巨大な大杉を見た。
 樹齢1800年、老木の印象はいなめないが、ここに生き続けていることはひとつの奇跡であって、大きな感動をあたえてくれる。

 その脇をかすめて、草深い山道を分けて登った。緩い尾根を登り、後ろを振り返ると、雨あがりのガスのなかに石徹白の盆地が南海の孤島のように見え、神秘的な美しさを感じた。
 やがて神鳩宮の小屋があり、しばらくでガスに包まれた広い笹原にでた。わずかで銚子ヶ峰の標識の立ったピークに達したが、ひどい雨が降り出すなか、それ以上歩く意欲を失った。

 下山後、長滝に立ち寄った。ここには美濃馬場を継承する白山神社と若宮修古館がある。
 かつての長龍寺は、広大な美濃馬場の一角にひっそりと残されているが、主役は長滝白山神社である。明治維新による神仏分離政策までは、両方併せて白山権現であった。

 美濃馬場長滝寺は、廃仏棄釈のとき大きな破壊を受けなかった。その理由は、長滝周辺が白山権現の社家ばかりからなりたっていたこと、それに郡上一帯が熱烈な真宗信徒の拠点であったことによると思われる。これが、山向こうの飛騨川筋だったなら、平田国学徒によって破壊されていたことだろう。真宗は、天台宗の権現信仰を食いつぶしたのだが、皮肉なことに、それが美濃馬場の歴史的に貴重極まりない優れた財産を救った。

 社家の宮司を若宮家という。修古館の主である。実に、1300年の伝統を誇っている。
 ひとくちに1300年というが、これはとんでもない数字である。日本最古とされる血脈は天皇家であるが、これは研究がすすんでいて、現在の天皇家はどう有利に見積もっても推古王あたりまでで、やはり1300年程度といわれる。

 もっとも、本当の血脈などあるはずがない。1300年も遡れば、日本人のかなりの割合が天皇家の血脈子孫である。これは、万世一系という信仰のために強調されただけのことだ。

 私の知る限り、中部近辺の古家は、佐久間ダムの坂部熊谷家、京丸藤原家、水窪の山住家など遠州の古家が、鎌倉室町時代で800年程度。福井の千古の家、堀川家も同じくらい。武家大名でも、薩摩の島津氏、米沢上杉氏でさえ700年程度である。徳川氏など三河松平から考えても500年程度でしかない。

 大峰山脈前鬼の五鬼助家が1200年で、証拠のある家としては格段に古いが、最後の当主、五郎さんは5年前に独身のまま亡くなってしまった。とすると、この1300年はもの凄いといえる。

 ひどい雨足のなか、若宮修古館に立ち寄った。おかげで、観光客は皆無だ。
 門を一歩入ると、かつて見たこともない美しいたたずまいに圧倒された。まさしく日本美の真骨頂といっていい。「すばらしい!」と思うしかない。建築は、天明5年といういわくつきの大飢饉の年だ。

 笑顔の素敵な、気品のある初老の婦人が迎えてくれた。この方が、40代若宮家婦人であった。
 「この建物はね、雨が降らなければだめなんですよ」
 といわれた。なるほど、建物全体から受ける美の印象は、みずみずしい苔の果たす役割が大きいようにも思える。

 陳列品には、道端で蹴飛ばして遊びたくなるようなありふれた陶器が多い。どこかで見た記憶のある薄汚い黄土色の壷があった。

 「これは、重要文化財に指定された黄瀬戸でございます」
 「わたしどもでは値打ちがわからなくて、最近までお味噌なんか入れてましたのよ、フフフ」
 「これほどの黄瀬戸のコレクションならば、唐九郎が来ませんでしたか」
 「お客様、永仁の壷をご存知ですか」
 「昔ね、唐九郎さんがここに見にいらしたとき、隣の宝物殿で見つけた壷、ほら、その棚の上にあるミニチュアのモデルなんですけど、永和の壷といいます。それを見てお造りになったとうかがっております」
 「裏の倉にも、整理のつかないものがたくさんございますが、わたしどもでは分からなくて、よいものが出てくるのはこれからなのでございましょう。」
 「お庭の茶室では、谷崎潤一郎さんが細雪という作品をお書きになりました。わたしどももモデルになっていますのよ。フフフ」

 奥の陳列室には、さらに凄みのある工芸品があった。富士百景と銘ぜられた黒漆の宗和膳である。
 あまりの完成度に、ふるえてしまった。こんな逸品は徳川美術館にさえ多くはない。婦人も、その由来を知らないといった。

 「おそれいりました」と、ひそかにつぶやいた。


 野谷庄司山 1797m 1991年8月初旬

 野谷庄司山は、白山から能登半島へ向かって延びる長大な主稜線の途上にある平凡な突起である。登山ファンにもほとんど知られていない峰なのだが、三角点マニアには欠かすことのできない主要点である。

 約400年前、白川郷保木脇にあった帰雲城を埋めて内ヶ島氏を滅亡させた白山最後の噴火活動に伴う地震は、どうやら、この山の付近が震源地であったらしい。
 付近の山体の崩壊の度合いを調べてゆくと、三方崩山と猿ヶ馬場山(帰雲城を直接埋めた帰雲山は、この山の中腹のピークである)、それに、この野谷庄司山がもっともひどく、帰雲城はこの三山によって構成される三角形の中点に位置したのである。
 ひょっとすると、研究次第によっては、未発見のミステリアスな事実が浮かび上がるかもしれない。

 私は、この山に三度も訪れるハメになった。どういうわけか、この山にはスムーズに登らせてもらえなかった。といって、別段の困難があるわけではなく、単に天候の問題にすぎないのだが。
 最初に出かけたのは四月末で、異常暖冬の続く昨今、残雪があってもたいしたことはあるまいとタカをくくってでかけた。

 白川郷までは、まったく雪がなかった。ところが、御母衣ダムを過ぎて荻町まできたら、たまげたことに国道にメーター級の残雪が残っていた。そこから、冬期閉鎖中のスーパー林道へ向かうと、すでに集団移住した無人の馬狩の集落で、ここでは除雪された道路以外は丈余の雪が一面を覆い半端な雪景色ではなかった。驚くとともに、自分の考えが甘かったことを思い知らされた。日本有数の豪雪山岳なのである。日本海側の山岳では、太平洋側の常識が通用しないのだ。

 野谷庄司山の登山道は、白川村真狩大窪の鶴平民宿から始まるように地図に出ている。鶴平新道という。
 馬狩(マッカリ)という集落の名は、どう考えてもアイヌ語の印象である。マッカリという語が、アイヌ語で「山のなかに開けた里」あるいは「わずかな水面の里」を意味することはわかった。両方とも真狩の地形に符合しているが、はっきりした結論はだせなかった。

 奥飛騨のこの地は、上代、中国から渡来した弥生人たちの侵出がもっとも遅れた地域であった。弥生人は、米作農耕に依存した関係から、海岸部の照葉樹林に囲まれた湿原平野に拠点を定めることが多かった。もともとの、先住民である縄文人たちは、どちらかといえば山岳地帯に依存して生活していたようで、かなり明確な「棲み分け」があったと考えられる。

 もちろん、19世紀まで米作が不可能であった白川郷は、かなり遅い時期まで縄文人のナワバリだったにちがいなく、さまざまの民俗資料からそれを窺うことができる。
 アイヌは、もともと東南アジアから黒潮に乗って北上した海洋系の古いモンゴロイドだが、古代において、日本海沿岸、東北、北海道、樺太、千島に勢力をひろげていた蝦夷(えみし)のうちの主要部族であったと考えられている。

 人は最初、豊富な食料資源に恵まれる海洋沿岸部に棲みつくのが普通で、アイヌももともと小規模集団で漁撈採取主体の生活形態をとっていたと思われるが、河口沿岸部の湿地帯で米作農耕文化をもち、戦争に慣れた弥生人の大規模で組織的な渡来移住によって北方に追われたと考えられる。だが、一部は山中に残って落葉広葉樹林帯(ブナ帯)に縄文文化の生活圏をもっていたと考えるのが自然である。

 白川郷のような多雪の山岳僻地では米作農耕は不可能であって、弥生人の適応条件は極めて厳しく、したがって蝦夷の子孫が生き残ることができたにちがいない。ただし、太平洋側山岳地帯では、木地屋に見られるように、中国雲南地方の少数民族に似た弥生人の生活があったことに注意する必要がある。

 縄文人の子孫は、人種的に弥生人や騎馬民族とかなり異なった形質を受け継いでいて、海洋系古モンゴロイドの典型的特徴である、 血液はB型が多い  刹那的性格(気が小さく優しい)  毛深い  二重瞼で大きなぱっちり目(騎馬民族系の切れ長の一重目蓋と対照せよ)  べとべとタイプの耳垢  鼻稜が大きく、上部の凹も大きい  乳児の蒙古班が少ない  騎馬民族系人より酒に強いなど、モンゴル・ツングースで寒冷適応を受けた我慢強く残酷な新モンゴロイドや、山岳や低湿地に幅広く適応したチベット・雲南系弥生人と対照が可能である。
 これらの子孫の混血が極度に進んだのは、交通機関の発達した、この数十年にすぎないことに留意されたい。僻地や離島には、いまだ比較的純粋にこれらの形質を受け継いだ人々が現存しているのだ。

 白川郷については、源平戦争や南北朝戦争で落武者として飛騨山中に逃げこんだ騎馬民族の子孫が大勢いるので、以上に述べた特徴はつかみにくく、むしろ、洗練されたそれらの形質が優先的になっているように思えるが、私はこの付近の山中でときおり出会う髭だらけのギョロ目のオヤジを見かけると、「やはり蝦夷の子孫が生きているのか」と妙に安心するのである。

 貴重な高層湿原として知られる大窪沼の手前にある鶴平民宿はすでになかった。かつて大窪の主だった大杉家の名の由来になったと思われる大きな杉の脇に、登山ポストがあった。

 道は分からなかったが、一面の雪原を地図を頼りに見当をつけて適当に登ってゆくと、赤い標識がたくさんあった。登山用の目印かと思うと、「トヨタ自動車」の敷地境界標であった。真狩大窪の周辺は、トヨタによって買収されていた。

 私は、トヨタに対して実に不愉快な印象がある。三河地方から伊那谷に抜ける三州街道の途中に治部坂峠があり、ここに大川入山という希にみる名山がある。地元の手で登山道が整備され、すばらしいハイキングコースになっていたのだが、トヨタ系の会社がこの一帯を買い占めた。

 この会社は、唯一の登山道が自社の所有地に重なるのを嫌ったのか、こともあろうに入り口に金網のバリケードを築き、登山者を追放してしまった。いつのまにか立派な案内標識も撤去されてしまい、登山道は荒廃に任せることになった。トヨタとはこのようなものかと、不快な印象だけが残った。

 後に調べたところ、真狩の集落はこの土地をまとめてトヨタへ売却することを決めたが、大杉家だけはそれを頑強に拒んだ。鶴平さんは、先祖の土地を守り、愛する大窪沼を大切に守り続けたかったのだという。だから、真狩のトヨタ所有地は、大杉家の分だけドーナッツのように穴があいている。

 鶴平民宿は、真狩の人々が荻町などに集団移転した後も、かたくなに大窪を守って営業を続けた。しかし5年前に突然、原因不明の火災で全焼した。それからしばらくして、鶴平さんは亡くなってしまった。だが、息子さんは、父の意志を継いで買収に応じていないという。おかげで、鶴平さんの拓いた鶴平新道に、今のところ金網は設置されていない。

 喘ぎ喘ぎ強引に登った尾根は、幅の広い緩い傾斜で、山スキーのすばらしいゲレンデになりそうだった。ブナのさびた原生林に、雪化粧が美しかった。
 標高1400m地点で急に尾根が狭くなり、そこにネズコの合木があった。ここから、真狩一帯が見渡せ、箱庭のような美しい景観に見入った。
 この日、甘い考えでアイゼンを持参しなかった。ところが冷え込みが激しく、ここから急傾斜のアイスバーンが続いていた。恐れをなして引き返すことにした。登りは問題ないのだが、五体満足で下れるとは思えなかったのだ。
 二度目は6月中旬で、この日、鶴平民宿跡地に車泊したが、豪雨のため一歩も外へ出られなかった。高鷲村の友人のOさん宅に押しかけ、終日飲んで過ごした。私の運動は週に1度だけなので、体調精神状態ともに不良である。押しかけられたOさんは、いい迷惑だっただろう。

 3度目、8月初旬のこの日も終日雨にたたられた。鶴平新道を守護するかのように、大杉家の墓が登山道の真ん中に設けられている。今度は、はっきりと登山道をたどることができた。

 前回登った幅広い尾根は、夢見るように美しい極相のブナ原生林であった。幹回り数mもありそうなブナの表面には、無数の深い筋傷が見える。古い熊の爪痕なのだ。白山マタギとの格闘の歴史が思い浮かぶようであった。

 相当な雨に降られたが、深い原生林の道ではブナの葉に雨が遮られてほとんど濡れなかった。やがて前回到達点のネズコ(黒桧)に達した。そこから上は森林限界で、背丈の低い潅木帯になっていた。右手に三方岩岳の特異な岩屏風があたりの景観を圧している。急に痩せた尾根をどんどん登ると、赤茶けた土のむき出しになった激しい崩壊地が現れた。天正地震の爪痕である。
 ここから三方崩山に向かう尾根を念仏尾根というのだが、この付近で激しい崩壊を起こした場所は、どちらかといえば白川郷に向いた稜線であった。このときの地震は、噴火活動を伴っていたという記録が残されている。以来、400年間というもの、この地域に地震・噴火の記録はないが、火山の年齢から考えれば、400年など昨日のようなものということを肝に命じておきたい。白山は決して死んでいないのである。

 崩壊地の上は痩せた岩稜になり、鶴平宅跡から3時間ほどで白山スーパー林道の三方岩岳方面からの尾根道を併せる。主稜を左手にとり白山に向かって歩くと、美しい庭園風の草原が続き、わずかで山頂に達した。
 細長い山頂で、立派な標識が設置されていた。ガスのため展望はなく、雨は土砂降りとなり、早々と引き返すことにした。
 下山したら晴れてきた。なるほど、普段の行い通りだ。

 帰路、白川村保木脇に立ち寄った。帰雲城の跡地である。保木脇の集落は、埋没事件以前からあったようで、もとは「歩危脇」と書き、これは川筋の街道の危険な断崖部分を指す一般的な地名であると柳翁が「地名の研究」に書いている。
 帰雲山の崩壊地は、ずいぶん遠くからでもはっきりそれとわかる爪痕を晒している。つまり、400年前の大災害が、あまり変わらずに残されている。

 凄絶な崩壊現場は、保木脇から500m以上も上の帰雲山の山頂付近が、縦横300mほどにえぐりとられている。単純な推計で、崩落した土砂はおよそ500万トン、ダンプ50万台分程度であろうか。不思議に思うのは、崩落のズリ面が凹状で、いくら強烈な地震であったとしても、崩落のメカニズムが理解できにくいのである。もう少しいえば、あれほどの巨大な土砂が崩落するために必要な条件としての、明らかな地滑り面が確認できないのである。

 土砂崩れというものは、雪崩と同じで明確な境界面を必要とする。それが凹状をなすことは考えられない。むろん、400年の歳月が地形を大幅に変更するのは当然のことであって、確実な推論はできないが、それにしても何かひっかかると書いておきたい。

 私は一瞬、崩落の原因が採金鉱道のせいではないかと思ったりしたが、この時代は川筋の砂金収拾に限られていたことを思いだし、想像を打ち消した。
 大久保長安が、ポルトガル練金術氏伝来の灰吹き水銀法による不可視金鉱床の採掘に成功したのは、帰雲城埋没の後であった。内ヶ島氏がもし含金鉱床の鉱道採掘を行っていたとしたら、日本鉱業史を書き換えねばならなくなるのである。

 ただ、内ヶ島氏が、米の採れない貧しい白川郷に侵出した理由が、この地域に豊富に産する金を中心とする鉱物資源であったことは疑う余地がない。

 鎌倉時代後期、建長年間に、親鸞の直弟子であった嘉念坊善俊が鳩谷に正蓮寺をおこして真宗の布教を行って以来、白川郷は真宗教団の強力な拠点になり、嘉念坊直系の子孫が代々白川郷の領主の役割を担ってきた。

 内ヶ島氏は、その9世教信(俗名三島將監)を攻め滅ぼして白川郷の主となったのである。彼らは白川郷の法主を殺害して乗っ取ったのだから、真宗門徒のなかに内ヶ島一族を敵視する空気がみなぎっていたにちがいない。
 正蓮寺に立てこもった三島一族は皆殺しにされたが、息子の明心だけは乳母の機転で女児と偽って逃げ延びることができた。しかし、やがて内ヶ島氏と和解し、明心は後の照蓮寺を復興するのである。この寺は、後に飛騨高山に移転し現在に至っている。

 4代、120年にわたって白川郷に君臨した内ヶ島一族が滅亡した天正13年11月29日は、教祖親鸞の命日にあたっていた。したがって、この日付については、いささか背景を考慮する必要がありそうだ。

 内ヶ島氏が、現在価値で数兆円にのぼる金を所有していたことはおそらく確かであろうが、埋没時にそれが城内に存在したかどうかについて論争がある。

 佐々成政に加担して金森氏に攻められ敗北した内ヶ島氏里は、講話を申し入れてあっけなく許された。この時代、いかに秀吉が寛容だったとて、手ぶらで講和することもできまい。おそらく、無類の金好きで知られた秀吉のために、巨額の金を奉納したにちがいない。

 城主氏里は、生きて戻れぬかもしれなかった帰雲城に帰還できた喜びもあらわに、盛大な祝宴をはった。祝宴は3日3晩続いた。そして、その最後の日に、突如、予期せぬ山津波に襲われ、一族もろとも埋没滅亡したのである。
 長滝美濃馬場の古文献には、埋没の7年後に、この付近の庄川で大規模な採掘が行われたと記録されている。また、内ヶ島氏の家老であった山下氏は徳川家康に仕え、後に江州(滋賀県)を拝領し、さらに尾張徳川家の名古屋城普請に活躍している。これらの記録は、埋没金の存在について、悲観的な材料と考えられよう。

 保木脇には、現在住家は2軒しかない。内ヶ島氏の集落跡地には、砂利プラントが稼働している。そこに立派な神社が建てられ、なぜか観音像もあって、公園のように整備され、池には鯉が泳いでいた。

 そこに作業服を着た老人がホウキをもって掃除に励んでいた。話しかけてみると、その人がプラントの田口土建会長の田口勇一さんであった。
 この付近の帰雲城を記念する施設は、田口さんが私財を投じて整備した。田口さんは史実に関心のある私を歓迎し、さまざまの話をしてくれた。

 田口さんの建立した神社には奇談があって、そもそも神社をつくった訳は、庄川河岸にあったプラントを水害の際に現在地に移したとき、田口さんの夢枕に戦国武将の亡霊が現れ、「ここにいる我らの霊を鎮めよ」と指示したのだという。
 私はこの手の話が大好きなので、食い入るように田口さんの話に聞き入った。

 田口さんは続ける。
「ごらんなさい、神社の石垣にね。そのときの武将が現れるんですよ。ほら、その位置に立って、じっと目を凝らしてごらん。見えますか。」
「だめです」
「うーん、見える人には見えるんだがね」
「信心の問題ですかね」

 帰雲城とその城下町の住人は、およそ500人であったと記録されている。一人として生き残った者はいない。たまたま、遠方に出かけていた者が数名あったが、帰りついたものの地形が変わってしまったために、自分の家の位置さえ分からなくなってしまって悲嘆にくれたという記述も見える。
 500人の犠牲者を呑みこんだまま一度も慰霊されたことのないこの地で、はじめて慰霊祭を行ったのも田口さんであった。

 田口さんは、数年前にこの付近をボーリング調査し、埋没前の地表面を確認している。そのとき、当時の民家の梁と思われる木材も出土した。堆積層の厚さは、数十mに達しているという。

 このときの調査結果から、帰雲山に発生した巨大な山津波は、山肌を駆け下って庄川に達してそれを埋めた後、今度は対岸に向かって舞い上がり、標高300m程度の尾根に達しているという。どれほどすさまじいものだったか想像できよう。
 この土砂によって自然のダムが築かれ、数年というものあたり一帯に大きな湖水が現れていたという。このために、歩危脇の地形が変わったと考えられる。

 ところで、帰雲城の位置については諸説あり、いまだ決着がついていない。
 というのも、江戸時代の地図には保木脇の庄川左岸(川の流れ下る方向を見て左右をいう)に城跡が記載されているので、庄川左岸説が一般的である。ちなみに、帰雲山は右岸のはるか高みにある。

 しかし、戦国時代の城は山城が原則であって、河岸に城があるのはおかしいという説もある。見晴らしのよい、攻めにくい場所に城をつくるのが普通であって、だとすれば、帰雲山そのものに城があったと考えた方が合理的というわけである。

 さらに、帰雲山からは白山本峰が見える。一国一城の主というものは、眺望明媚な場所を好むもので、帰雲城帰雲山説にも説得力があるように思える。私もそう思うのだが、田口さんは、常識通り左岸説をとっておられた。


 三方岩岳 1736m 91年3月

 笈ヶ岳をめざして白山スーパー林道に向かったのは3月末であった。
 むろん、スーパー林道は閉鎖されている。豪雪地帯の大山地に無理に造られたこの道が開通するのは、例年6月初旬なのである。

 笈ヶ岳1841mは、深田久弥が「日本百名山」に荒島岳と天秤にかけて迷ったあげく捨てた山で、日本200名山に指定されている。だが、道がなく、山稜は地に足がつかぬほどの深いチシマザサの密生地帯のため無雪期の通過が困難で、雪の締まった早春に登るしかない。

 この山はアプローチが長く、1日で達することが不可能なうえ、途中、どこから入ってもいくつもの峰を上下して尾根を行かねばならない。それらの峰のなかには通過困難な岩峰も多く、多くの危険をクリアしてゆかねばならない。三方岩岳は、白川郷側から入山する場合の途上にある大関門といっていい。

 前夜、スーパー林道の真狩ゲートに車泊した。ここまで道路が除雪されていて、ここから10キロほど先の小屋まで雪上車が走っている。一般人通行止めだが、たまにクロカンを担いで遊びに来る人の姿を見かける。
 真狩には野谷庄司山の登山口があり、何度も訪れている。鶴平新道は、真狩ゲートの手前にある集落のT字路を大窪沼に向かって左折し、鶴平民宿跡の先の大杉脇から登る。大杉家の墓が目印である。

 三方岩岳登山道は、真狩ゲートの手前の川に沿って登ってゆくが、林道開通以来ほとんど通る人がなく、手入れもされず荒廃している。

 翌朝、山中一泊の装備でこのルートをたどった。少し戻って川の右岸を500mほど歩き、左岸に渡渉する。早朝、冷えこんでいたので雪が凍り、沈まずに快適に歩けた。おまけに、幸い下山者の足跡があり、容易にルートをたどることができた。登山靴でないので、狩猟者らしい。

 正面には、念仏尾根が純白の雪を輝かせ、アルプス級の容姿を見せていた。この尾根は大部分、1700m前後の標高を保っている。本来の登山道ルートは荒廃にまかせ、雑木のために通りにくく、適当に尾根を登った。積雪は1〜2m程度で、陽が上るにつれて腐りはじめ、膝まで沈むようになった。やむをえず、持参のスノーラケットを使用したが、歩きにくく苦しい。一歩一歩ラケットを雪面に蹴りこんで、確実に登らねばならない。

 いたるところカモシカが縦横にかけめぐるこの尾根、上のスーパー林道に出るのに1時間半を要した。そこから再び三方岩尾根を登るが、上部は風が強く凍っていて、アイゼンをつけた。これなら楽だ。

 やがて、念仏尾根に異様な岩壁をめぐらして、あたりを睨みつける三方岩岳の雄姿が見えるようになった。なにか、一抹の不安感が胸をかすめた。

 1時間ほどで、気象観測ロボットに達する。ここから痩せて急なスノーリッジが続き緊張する。そこに、一條の獣の足跡がついていた。たぶん狐だろう。
 その足跡は尾根のうちの、ここ以外にないと思われる唯一安全な地点を通っている。私は途中何度も地形にだまされてルートを失ったが、戻ってみると、この足跡は必ず最短距離の正しいルートで三方岩岳に向かっていた。

 およそ1時間以上もつきあって歩いているうちに、この見ず知らずの狐に親しみがわいた。三方岩岳の手前で、足跡は別の尾根に降りていった。
 「元気でな」と、つぶやいた。

 途中、地図に記載されている三方岩岳小屋を探したが、とうとう発見することができなかった。数mの積雪に埋もれているのか、あるいはすでに倒壊してしまったのか、おそらく後者であろう。

 ここは、無事に笈ヶ岳に行けた場合、今夜の宿泊予定地として計画していたのだが、残念ながら利用できない。持参のツェルトでは凍えねばならない。

 陽がさしてきていて、やたらに喉が渇く。現代文明によって破壊されたオゾン層を通過してきた紫外線の作用が強烈である。日焼け火傷が心配になった。十年後には、紫外線による皮膚癌や白内症患者が現在の数十倍に達するという。

 レトルトのお粥を流しこんで、三方岩に向かった。わずかな距離だが、高さ50mほどの屏風のような山頂岩壁の基部に立って考えこんでしまった。
 岩壁を登るのは完全なロッククライミングになるが、もとよりその準備はない。基部を回りこんで夏道を登るには、50mほど急な凍結した雪面をトラバースをしなければならなかった。

 ところが、トラバースルートには上部の雪庇からの無数の雪崩の跡があり、一歩踏みこむと凍った堅雪で表面だけズルリと崩れた。アイゼンは、ダンゴになって役に立たなかった。実に嫌な予感が走った。

 というのも、私は過去に南アルプス悪沢岳のトラバースで滑落しているのである。ピッケルは腐雪のため役立たなかったが、露出したハイマツ帯につっこんで助かった。以来、私はトラバース恐怖症になってしまった。
 しばらく考え、「ザイル確保なしには無理だ」と思った。

 しばし呆然とし、回りの景色に見入った。行く手には大笠山の膨大な山体の手前に仙人窟岳が見え、笈ヶ岳を意地悪く隠していた。すべて新雪に光輝いている。ふりかえれば、遠く北アルプス連峰が美しく、白銀の峰が延々と続いていた。笈ヶ岳どころか、三方岩岳すら越えることができなかった。

(このトラバースは、後に、50mほど下にルートがあることが分かった)
 本当は、この山に登るだけならば、夏期にスーパー林道を利用すれば30分で来れるのである。笈ヶ岳のために、わざわざ積雪期に訪れたのだ。残念無念というしかない。

 しかし、抜群の眺望と、誰一人登山者のいないこの山域を独占できたことだけでも幸福であった。冬山では人に出逢わぬほうがいい。本当の自然を、たった一人で満喫できただけで幸せである。

(参考までに、スーパー林道を通れば三方岩トンネルまで、わずが1時間半ほどで行けるが、雪崩の常発地帯を横切り、しかも雪崩のため急傾斜のトラバースになる。後に、笈岳の帰路、無理に通過したが、恐ろしい思いをした。安全登山を心がける人は絶対に通るべきでない。)

 帰路、平瀬温泉で汗を流し、南のはずれにある遠山家を見た。
 遠山家は、白川村大字御母衣という集落があったときの代々の名主の家で、白川郷合掌家屋のうちでも屈指の規模をもっていることで知られる。
 持ち主の遠山氏は、1970年までここにお住まいだったが、現在は向かいの邸宅に移転された。現在は、白川村民俗資料館として公開されている。
 (平瀬の集落は、明治に西飛騨鉱山開発に伴って集落化したもので、合掌家屋はなく、古い白川郷の住人は少ない。)

 私には、柳田国男の紀行文に登場する遠山家が懐かしくてならないのである。
 柳田は、明治42年の旅行の紀行を「北国紀行」と「秋風帖」の両方に書いているが、秋風帖から遠山家に関する部分を抜き書きしてみよう。(6月4日、遠山喜代松氏宅で昼食をとったと北国紀行にある)

 御母衣にきて遠山某という旧家に憩う。今は郵便局長。家内の男女42人、有名なる話となりおれども、必ずしも特殊の家族制にあらざるべし。
 土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことはおりおりある例なり。ただこの村の慣習法はあまりに厳粛にて、戸主の他の男子はすべて子を持つことを許されず、生まれたる子はことごとく母に属し、母の家に養われ、母の家のために労働するゆえに、かくのごとく複雑な大家内となりしのみ。

 狭き谷の底にてめとらぬ男と嫁がぬ女と、あいよばい静かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりというべきか。
 首を回らせば世相はことごとく世紐なり。寂しいとか退屈とか不自由という語は、平野人の定義皆誤れり。歯と腕と白きときは来たりてチュウビンテンメンし、頭が白くなればすなわち淡く別れ去るという風流千万なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみこれを独占し、我らはとうていその間の消息を解することあたわず。

 里の家は皆草葺の切妻なり。傾斜急にして前より見れば家の高さの八割は屋根なり。横より見れば四階にて、第三階にて蚕を養う。屋根を節約して兼ねて風雪の害を避けんために、かかる西洋風の建築となりしなるべし。戸口を入れば牛がおり、横に垂れむしろを掲げてのぼれば、炉ありて主人座せり。

 遠山家の玄関を入ると、受付に若い女性が二人いた。
 壁には、柳田の「クラシックなり白川村」といううたい文句のポスターが貼ってあった。司馬僚の紀行文にも、遠山家に感じのよい娘さんがいたと書かれていたのを思いだした。

 「あなたがたがそうですか」と尋ねてみたが、違うといわれた。
 話を伺ってみると、どちらも平瀬の方で、30才前後と見受けたが、実は私より年上の40だという。平瀬では女性が老けないのだろうか。びっくりしてしまった。
 若いのは外見だけでなく、話しているうちに20才前の初々しいお嬢さんと向かい合っている気分になった。実に楽しいひとときになった。
 白川郷の有名な大家族制についてうかがったが、狭い家のなかの共同生活で問題になる性風紀について、想像を絶する厳しさであったことを知り印象的であった。例えば、女性に生理がはじまると、ただちに別棟の小さな不浄小屋に隔離され、子を産むときも同様であったという。

 通常、父の特定できない関係では母系氏族社会になるのが普通だが、白川郷では、子が母に帰属するのは当然として、その母は生家に帰属し、数十名を養う生家はただ一組の戸長夫婦が氏族を継承するというのである。封建制度も取り入れた変形母系社会とでもいうべきか。

 かつて、(御母衣ダムの完成以前まで)白川郷では、正式に結婚できるのは戸長夫妻に限られ、兄弟たちはその家の作男、下女として働いた。男は他の家の女に通い婚をしたのだが、子が産まれても、その子は母の家の子になった。独立は許されなかった。独立しようにも、土地がなかった。

 ただし、ひとたび契りを結んだ男女の関係について、倫理は厳格なものであったという。もしも浮気をしようものなら、郷一帯で口をきわめて罵られたというから、なみの結婚より厳しかった。

 明治の世界的な建築家であったブルーノ・タウトは、はじめて白川郷を訪れたとき、「まるでスイスではないか」と感嘆し、精妙な合掌造りとそこに住む人々の暮らしを絶賛したという。

 御母衣ダムによって、合掌家屋の大半は取り壊されたが、現存するもののうちとりわけ優れた家屋は、五箇山の岩瀬家、荻町の和田家、御母衣の遠山家と名古屋市東山公園に移築されたものだという。

 遠山家は、白川郷最大の集落の名主であって、合掌家屋として最大級のものである。御母衣ダムの堰堤は、ここから数百mほど上流だから、この家も風前の灯火であった。天明年間に建立、文政年間改築という歴史による保存運動がなされなければ消滅していたにちがいない。

 世間に思われている合掌家屋の印象は、4階建ての構造家屋であろうが、実際には居住空間は1階だけである。2階から上は蚕室に利用されていた。天井はスノコになっていて、イロリの煙を通してススが屋根の防虫防水に貢献するようになっている。養蚕の時期には、煙に神経を使ったであろう。
 入口を入ると、左手に厩がある。便所(べんちゃ)は厩の裏で、外から出入りする。深い升に板が渡してあり、一度に何人もが使える。終わったらワラで尻を拭き、そのまま捨てた。こうするとワラがほどよく下肥になじみ、好気性微生物による分解を促進し、すぐれた肥料になるのである。

 私の親戚の奥さんは白川郷の出身で、「拭くときはオシリが痛かった」と、よく昔のことを言われた。それでも、昔の健康な人の便は固かったから拭き残しはあまり問題にならなかったのだろう。酒飲みの私は軟便で、ワラではたまらない。

 現在では受付になっている最初の広間がオエである。ここに、菊や葵の文様のある立派な茶釜があった。本来、白川郷ではカマドを必要とする釜を用いない。ここは蝦夷文化圏だからである。カマドは弥生人が米作農耕とともに持ち込んだもので、弥生人居住圏に広がったが、縄文人の末えいたちはイロリを受け継いだ。カマドとイロリの分布は、まさしく古代の文化戦争を受け継ぐ象徴といっていい。

 茶釜は、遠山家の先祖が領主の金森家から与えられたものと考えられる。これほどの茶器を所有するのは、金森氏以外に考えられない。
 オエの隣がデイであり、ここに戸長以外の男子全員が寝起きした。その奥が仏間の内陣で、ここに立派な仏壇がおかれている。遠山家は浄土真宗東本願寺門徒である。白川郷は、もっとも早くから真宗門徒の拠点であった。かつて、東本願寺大門の再建のために、巨大な桧材を寄進したことがあるという。

 オエからまっすぐ奥に進むと、上階に登る狭い階段があり、奥がミンジャと呼ばれた勝手場で、ここでミソや名物のドブロクがつくられた。右手がダイドコという食堂であり、ここのイロリですべての調理を行った。

 イロリは、先に書いたように蝦夷文化圏に付属するもので、すなわち落葉広葉樹林帯食文化に付随するものである。白川郷で米が採れるようになったのは、大正時代以降である。明治までの主食は、ヒエ・ソバ・クリ・ヒダミ(ナラドングリ)などであった。

 調理の方法は、鍋で煮る場合が多かったが、イロリの灰に埋めて蒸し焼きにする方法もとられ、これこそ縄文式調理と考えられる。弥生式調理を代表するセイロ蒸しが白川郷に伝わったのは新しい。
 真宗門徒は殺生を禁じ獣肉食を戒めたが、食料の乏しい白川郷では、ウサギを鳥とし(何羽と数える)、猪や鹿をヤマクジラと称し食べ続けた。豊富な川魚も大切な食料であった。ただし、食物には戸長夫妻と長男と他の男女で明確な差別があった。普通の男女はヒエを常食とした。

 ダイドコの奥がチョウダで、ここに戸長妻以外のすべての女が寝た。男部屋のデイとは直接出入りできないようになっている。チョウダの奥に戸長夫妻の四畳半の個室がある。隠居夫婦は、チョウダに設けられた二畳の押入に寝たという。

 個室が許されるのは戸長夫妻のみで、他の人々にはプライバシーもクソもあったものじゃない。しかし、戸長夫妻も、チョウダに寝る女たちが聞き耳をたてるなかでナニを行うには神経を使ったであろう。他の男女は屋外ホテルのみだから、こちらの方がかえって安気だったかもしれない。
 奥のチョウダと内陣の間に奥のデイという六畳間があり、ここは客室にあてられた。廊下の奥には専用トイレが設けられていた。

 遠山家は1827年建築として重要文化財に指定されているが、柱などにチョウナハツリ目が残されているところをみると、実際にははるかに古い建て替え建築であることが分かる。江戸末期には、すでに大部分の建物にカンナが使われ、チョウナが用いられたのは目に見えぬ梁に限られていた。

 柱の材にはクリが多く使われている。杉や桧材にはカンナがかけられている。人の手によってイロリのススをワックス代わりにしてピカピカに磨きあげられている。独特の雰囲気である。
 明治以前の住宅にはクリを使用したものが多い。現在使われなくなったのには重大な理由がある。それは、明治初期に、鉄道建設の枕木に使用するために、全国の優良なクリの大木を根こそぎといっていいほど伐採したからである。

 それまでクリは建築材だけでなく、アク抜き不要の旨くて扱いやすい準主食として貴ばれ、山村ごとに先祖から大切に受け継がれてきた。明治以前のクリ林の規模は、現在とは比較にならぬほどのものだっただろう。伐採が山村民俗の荒廃にはたした役割は極めて大きいといわねばならない。

 さて、ここで重要な未解決の問題を提起しておきたい。
 鉄砲火薬についてである。
 江戸時代、鉄砲火薬の販売元が加賀藩であったことを知る人は、本当の歴史通といえる。さらに、その産地が越中五箇山から白川郷にかけての合掌家屋であったことを知る人は、本物の歴史家であると保証する。

 さらに、その原料が下肥と青草であったことを知る私は、タダの人であった。
 日本に火薬が伝来したのは、種子島であった。鉄砲記という記録にそれが載っているのだが、それによれば同時に火薬の製法も伝授されたことになっている。

 ところが、現在の日本史研究者の定説では、戦国時代、日本に煙硝と呼ばれた火薬原料は存在せず、すべてを南蛮貿易に頼っていたとされるのである。今のところ、この考えに異議を唱える学者はいない。
 だが、この解釈では、日本史に大きな不都合が生じる。織田信長の三千丁にのぼる、当時世界最大数量の鉄砲の製造所有も、長篠の武田氏との決戦も、歴史的背景に疑問が生じるのである。私は、この問題で、日本史学者の程度の低さにウンザリし続けてきた。

 すべての歴史的事件の、背景の物質的条件を証明しなければ歴史研究というべきでない。現在の学者たちは、学問の権威にアグラをかき、恣意的な思いつきで学説をゴマかしているように思える。読者諸士には、タダの人にすぎない私に批判される日本の歴史学のあさはかさを知っていただきたい。

 南蛮貿易が盛んであったといえども、戦国時代すでに万に達していた鉄砲の火薬を、諸大名はどのように調達していたのか。南蛮貿易で、必要なすべての火薬が供給されたと考えるのは事実に反している。
 よく知られているように、初期の鉄砲火薬は黒色火薬と呼ばれ、硝石・硫黄・木炭を混ぜたものであった。硝石の主成分は、硝酸カリウムであって、現在ではナチス化学者の発明した空中窒素電圧固定法によって製造されている。

 それまで、チリなどから輸入された、海鳥の糞が堆積してできる硝石を利用していたことは大くの人が知っておられよう。
 日本では硝石を産しなかった。(実際には、僅かにあったらしい)
 日本では、「煙硝」を代用したのである。煙硝とは、古い民家の便所の付近の床下などに、白く薄い皮膜として被っている代物である。昔の人なら、たいてい記憶を残されているのではないか。なめると塩っぽいので、塩硝ともいわれた。

 種子島で鉄砲とともに伝えられた火薬の製法は、疑いなく煙硝の製法であったと推論することができる。煙硝は、糞尿と家屋につきものだからである。それは人間生活の日常に付随するものであり、どこでも得ることができた。13世紀、元帝国で使用された最初の大砲も、煙硝を原料にしたにちがいない。

 白川郷合掌家屋に伝わる煙硝の製法は、床下を深く堀り、そこに大量の青草を敷き、上に大量の厩肥下肥を積み、さらに青草を重ね、何層ものサンドイッチにして床に達するまで積み上げた。
 数年すると、そのなかに氷のような煙硝の結晶ができた。それに灰を混ぜ、大鍋で煮つめると製品ができあがった。これは非常に水に溶けやすいので、必ず屋根の下で、しかも冷涼な豪雪地の気候が適していた。
 戦国時代、金森氏の領地となった白川郷で、煙硝の製造と合掌家屋の発達が無縁であったとは考えられない。合掌家屋は、まるで煙硝製造のために設計されたようにさえ見える。

 江戸時代、煙硝製造は極秘にされ、加賀藩の専売事業となった。白川郷の煙硝も、ブナオ峠という秘密のルートを使って加賀藩にもちだされた。
 遠山家の床下でも、例外なく煙硝がつくられた。さぞ臭ったことだろう。建物の改築頻度からも、それを窺うことができる。湿度の高い床下があっては、建物の寿命が短くなるのは当然である。

 さて、戦国時代の戦争史を考えるうえで、火薬供給を解明することがどれほど重要か理解されるだろうか。信長は、なぜ三千丁の鉄砲を所有する気になったのか。その火薬のアテをどこに求めていたのか。白川郷の煙硝製造はどのような歴史をもっているのか、興味が尽きないのである。

 平瀬からの帰り道は、御母衣ダムの堰堤を過ぎ、左手に巨大な御母衣湖を見る。この日、冬の渇水期のため極端に水量が減り、満水面から数十m下が現れていた。
 庄川村に入ると、湖の中に大きな平原が見えた。そこに規則正しい石の配列を認め、あわてて車を路肩に寄せた。
 御母衣湖に沈んだ、庄川最大の集落であった岩瀬の里が現れていたのである。

 すぐに薮をかきわけて湖畔に降りていった。
 そこには、池があり、田があり、井戸があり、道があり、肥桶が埋まり、家の礎石が整然とならび、石垣は昨日組んだばかりのように整然としていた。

 私の脳裏には、合掌集落のならぶ岩瀬の里で、縄文のいにしえから続けられてきた、人々の暖かい生活の有り様が浮かんでは消えた。小さな踏み減った石段で、無数の人々が、泣き、笑い、怒り、楽しみ、ふるさとを愛し、人々が助け合って生き、そして死んでいった光景を想った。

 この楽園を、「国民生活の向上」とやらが襲い、人々を追放し、里というかけがえのない宝を葬り去った。
 電力はきた。車も買えた。だが、とてつもなく大切ななにかが消えていった。本当に豊かになったのだろうか。この岩瀬の里にあった、美しいものはなんだったのだろう。私たちは、物質文明によって、実は本当の豊かさを奪われたのではなかったのか。

 分業を歴史の発展の必然段階であるとするならば、分業から生じるすべての矛盾は避けられないものかもしれない。分業がなければ、岩瀬の里は滅びずにすんだ。分業が人々を豊かにし、そして滅ぼしてゆく。
 帰り道、こんなことを想った。


 鷲ヶ岳 1672m 91年11月

 高鷲村にOさんという古い友人が住んでいる。名古屋の会社に勤めていたときに知り合って、もう十数年のつきあいである。
 今は、ふるさとにユーターンして鷲ヶ岳スキー場に勤めているのだが、もう100年も前からそこの主でいるように存在感があって、包容力のある人柄がまわりの人々の信頼をあつめている。

 キノコのシーズンになると毎年訪ねてゆくことになっている。しかし、今年は少々時期が遅いので心配だった。
 11月末、O家に着くと、ちょうどわが友、ご主人様の御帰宅とハチ合わせした。今年、41才になるO氏とひさしぶりのご対面。穏やかな顔の額が、以前より明らかに後退し、てっぺんも白さを増したのが侘びしい。

「よー、やっとかめだなん、元気かい。」
「おいさ、ちっとくたぶれとるわいな、仕事ができんでメシの食いあげよ。」
「キノコがようできとるわい、うめーぞ。」
「もう遅いと思ったけんど、なんだいな」
「ほれ、例のナメコとヒラタケよ。シイタケもええぞ」
「山のキノコはどうだいな。」
「山のはもう遅いわ、ありゃー紅葉までだ。今年はシモフリゴケ(土生菌をコケという)がようとれた、だけど、ロウジはさっぱりだわい。モタセ(木材腐朽菌)はできがええ、アカゴケもあんまりようなかった。」
「そりゃあかん。ロウジ喰いたさにわざわざ来たんだいな。」
「ぜいたくぬかすな。ほれ、あがってナメコ喰え。」
 「ロウジ(クロカワ)とアカゴケ(ショウゲンジ)が悪いのは、いよいよ酸性雨だろうかな。」
 「そうかもしれんなー、杉が痛むようになったでなー。」

 山のナメコは旨い、こいつは醤油をつけて焼くのが一番いい。口のなかにうまみがジューっとひろがるのがたまらない。オガクズ栽培のものとは大きさ、形、味ともに似ても似つかない。ヒラタケも、スーパーなんかで売っているシメジと同じ菌なのだが、原木栽培のものは味が全然違う。うまみがケタ違いである。

 これらは、5年ほど前に私が津市の森種菌から種駒を購入して、Oさんと一緒に種付けしたものである。(種駒は一律千個1袋2400円)Oさんの山では、今では、毎年食べきれないほどのキノコができる。出荷したくても、忙しくてできないのが残念である。

 焼酎をウーロン茶で割って、ぐいぐいやりながら世間話に花が咲いた。聞けば、名古屋育ちの愛妻も慣れぬ田舎暮らしにも馴染み、今度ダイナランドの社員になったという。
 田舎は給与水準が低いので、家族が多いと生活も大変だ。もっとも、通年雇用する側も稼ぎ時が限られ、確実性のある見通しを前提にできない事情もある。(高鷲村のスキー場は、古川興業などの名古屋資本ばかりである。)

 それでも、Oさんも奥さんも名古屋の生活に戻りたいとはいわない。子供達も名古屋のようなイジメもなく、比較にならないほど伸びやかで健やかに成長してゆくのが楽しみだという。

「おい、ぼちぼちこいつを出荷したいのう。」
「そうじゃ、出荷せんと腐らせるばっかりでもったいないわ。来年はなんとかしたいな。どこぞの生協にでも話をつけて、自然食品として出すことにするか。」
「オレとこのは、野菜でもキノコでも薬なんか使っとらんし、みんなうめーぞ。たまにマーケットで買う野菜なんぞ、カスのようで食えんわい。」
「おいさ、来年はやるべさ。」

 翌朝、Oさんの案内で、鷲ヶ岳スキー場からの登山口を教えてもらった。場所は、一番高いトリプルリフトの終点にあるのだが、この時期、そこまで延びている林道を車で利用できる。

 案内を書いておこう。鷲ヶ岳スキー場に向かうと冬季の通行料徴収ゲートがあるが、その先でスキー場へ行く道は左手に曲がってゆく。角に銅板製の鷲ヶ岳由緒の説明看板があるが、そこの直進する狭い林道を行くと、ゴルフ場を抜けてしばらくでT字路になる。それを左に行ったつきあたりがトリプルの終点で、その付近の林道の待避場に車を停めることになるが、4WDでないと危うい。

 この登山口は、鷲ヶ岳から西に延びてスキー場を結ぶ一番大きな尾根を行く道である。立派な標識がでていた。「鷲ヶ岳まで4・5K」と書いてある。
 残念ながら天候には恵まれず、冬型気圧配置特有の、どんよりと濁った空で、いつ雪になっても不思議でない。

 わずかに歩くと、この幅の広い尾根を幅5mほどに伐採してスキーコースがつくられていた。人の歩いた跡は少ない。30分ほどで、1403mの三角点のあるピークに達する。ブナノキ平といい、数本の大きなブナがある。

 すると、左手に延びる尾根の上に4台ものユンボが現れ、尾根をかきむしっていた。あたり一帯に轟音が響きわたっている。左手の鷲見の集落にいたるまで見渡す限り皆伐してあって、むきだしの漆黒の土が空恐ろしい。

 どうやら鷲見集落に、新しい、それもかなり規模の大きなスキー場を建設中で、しかも、そこから鷲ヶ岳スキー場へ抜けるコースとして整備されているようだ。高鷲村一帯は、リゾート開発法が施行されて以来、間断のないすさまじい開発がすすんでいる。長良川源流地帯のかつての原生林の面影は、完全にむきだしのリゾート地に変わってしまった。

 これだけのゴルフ場とスキー場ができるまえの原生林のもっていた保水力保土力は、莫大なものだったはずである。それが失われて、その機能に代わるものが用意されたのだろうか。まったくゼロである。

 ということは、最大級の保水保土能力を要求される大規模降水があった場合、モロに長良川に降水と土砂が集中するのは自明であって、大水害が発生するのも自明である。その対策も「ゼロ」である。いったい、どういうつもりなのだ。

 長良川といえば、土建業者の仕事つくりのための河口堰が問題になっているのだが、この巨大な保水保土破壊の末端で、あのような障害物がつくられることを考えると恐ろしいというしかない。

 かつて富士川であったような、「数千年分の侵食が1日で行われた」といわれたほどの水害がもたらされるのは必至と考えるべきだろう。金欲に目が眩んでしまっている人々には、このような常識さえ見えなくなってしまっているのである。

 そこから道は普通の登山道になって、右手にカーブしてゆく。いくつかの尾根を上下すると左手が広大な皆伐地帯で、杉の植林がされている。右手は、伐採される前の美しいブナ林の様相を残している。小雪が降りはじめた。

 あとでOさんに聞いたのだが、皆伐された直後、ここで地元のおじいさんが座ってブナの林を見つめたまま死んでいたという。おじいさんは何を思って、ここを死に場所にしたのだろう。

 しばらくで、再び林道に飛び出した。これには唖然。どうやら、先のT字路を右折するとここに来るようだが、工事中である。
 わずかで、できたての御堂がつくられていた。「いっぷく平」と書かれていて、鷲ヶ岳の名の由来となった鷲を射抜いた源氏武者をまつっている。今なら、さしずめ特別天然記念物保護法違反で懲役だ。野鳥の会の人たちならメクジラをたてるだろう。

 林道はここでおしまい。道も踏跡程度になった。急なコブをいくつか上下すると、道はいよいよ悪くなって、背丈をはるかに超えるチシマザザの密生を分けながら行くようになる。
 急な傾斜を登る頃になると、踏跡も定かでなく完全なヤブコギである。このあたりからササに雪が載っていて雨具をつけていても体が濡れる。ガスのため、ルートファインディングも困難だ。

 必死になってササを分け、ようやく稜線にでると、庄川スキー場方面からの踏跡を併せるが、こちらの道もよいといえるほどではない。右手20mほど先に、山頂の標識があった。ここまで、登山口から2時間半程度。

 運動靴と軍手で雪を被ってきたので、ガタガタふるえがきて手足が凍えた。あわてて手袋と靴下を替える。
 狭い頂上に「平成元年歩け歩け大会」という柱が立っているが、道は苔むして全然歩かれた跡がない。ここを訪れる登山者は希なようだ。         
 もう寒いばかりで展望はなく、降雪もひどくなったので休むヒマなく下山開始。
 いっぷく平まで戻ると暖かくなり、ほっとした。林道経由で車まで1時間半。どうも、自然破壊のエゲツない場面に悪酔いしてしまって、その夜のOさんとの宴会は盛りあがらなかった。


 大笠山 1822m 1992年8月中旬

 白山北稜を代表する大笠山に登ったのは、暑い暑いお盆の連休であった。
 長期の連休がとれたのだが直前まで予定がたたず、フラッと部屋を出て、思いつくまま、登り残していた会津付近の山々を歩き、次に朝日連峰に向かい、最後に大笠山に登るという気ままな登山旅行を行った。

 どういうわけか、このときは一等三角点の山が多くて、会津駒・浅草岳・大朝日岳に一等標石を見いだし、最後のこの山にも一等点の標石を見いだした。私は測量ライセンスも取得していて、一等点には感慨が深いのである。
 登りはじめの尾瀬平ヶ岳は、体調不良でしんどかったが、最後のこの山も、疲労の蓄積のため、かつてないほどしんどい思いをした。本当をいえば、疲労以上に恐怖心によって、あまり後味のよいものではなかった。

 この山には、五月中旬に一度訪れているのだが、白川郷を経て登山口の桂に出向くと、境川(越飛国境)ダムの建設工事が進行中で、立入禁止区域のため現場監督に追い返されてしまった。(1993年10月再開、但し積雪期には入口の吊橋の踏板が外されている)

 すでに桂の集落など跡形もなくて、ダム工事も大部分が終了し、後は貯水を待つばかりになっていた。古い桂登山道には新築の立派な吊橋がかかっていたが、その先の登山道は工事中であった。いずれ、遊歩道風の散策ルートを整備するつもりかもしれない。

 桂は、越中五箇山(上平村)最奥の合掌集落であったが、すでに30年も前に集団離村して廃村になっていた。越飛国境でもある、集落の背後の小さな尾根を超えると、飛騨白川郷最奥の集落である加須良の合掌集落があった。

 この二つの集落は国が異なるとはいえ、事実上ひとつのカヅラ村(名の由来は双方とも葛橋による)として機能していたが、加須良も桂の後を追うようにして集団離村してしまった。加須良の合掌集落は、現在荻町に移築され、合掌集落記念館として公開されている。

 この二つの集落の離村した時期が、この集落に念願の道路が開通した時期に一致しているのは、なにごとかを物語っているようだ。人々は、開通したばかりの道路を利用して出てゆき二度と戻らなかった。過疎地住民の熱望する道は、彼らを離散させる道なのだ。私はこれと同じ例を全国で聞いている。日本の過疎山村に共通するパターンなのである。

 大笠山には、石川県側の福光を経てブナオ峠から入った。午前中にブナオ峠に到着し、その日のうちに登れるところまで登っておこうと思っていたのだが、ブナオ峠で荷物の支度をしているうちに、なにやら疲労が出て眠くなり、登る気力が失せてしまった。

 会津や朝日の山々では、さんざん虻に苦しめられ、両足はボコボコに腫れあがってしまっていた。ブナオ峠の虻はウシアブよりもクサアブが多かったが、会津といささかも変わらぬしつこさで、うんざりしてしまった。この先、憂欝である。

 早朝、幕営道具一式と、5リットルの水を担いで登り始めた。地図で見る限り、すべて尾根ルートで、水が得られる地形とは思えなかったからである。結局、この予想は正しかった。
 ブナオ峠からは、自然公園として整備された立派な登山道がついていた。この上にある大門山(1572m)への登山者が多いと見えて、しっかりと踏まれた道である。

 しかし、役所仕事を象徴するように無用な整備の度が過ぎていて、高低差の大きい丸太土止めの階段が実に迷惑であった。少し山慣れた方なら日本中の山で同様の経験をされているはずで、役所の事業とは、思いやりとは無縁のものであることを端的に思い知らされるのである。連中は金を使いさえすればよいのだ。

 2時間で、左に赤摩古木山への分岐があり、そちらに向かう。白山主稜尾根で、白山を経て油坂峠をつなげば、実に関ガ原の国道1号線まで尾根が絶えることなく続く。右へ向かえば、延々と能登半島の先端まで尾根が続いている。

 緩い尾根道を上下して、30分ほどで赤摩古木山の山頂に立った。すでに陽は高く、暑苦しい1日を予感させた。手前の笹薮に、赤茶のマムシが3匹出ていて、アブの襲撃とともに憂欝になった。
 山頂には、傾いた木製のテーブルと椅子が設置されていて、なぜか避雷針まであった。自然歩道のように整備されているが、訪れる人は少ない。よく晴れていたが、雲が多く、展望は得られなかった。

 ここから見越山のコルまで150mほどダウンするのがもったいないが、ここまで来る人はさらに希で、まさしく秘境の雰囲気が漂う。気分を損なう伐採地のトラ刈は見えず、実に気分の良い原生林ばかりである。
 道に、真新しい湯気の立ちそうな緑色の大きな糞を見つけた。径3、4cmほどで、体重100Kg以上の動物のものであろう。イノシシか熊のものと思ったが、おそらく後者だろう。この時期、緑葉ないし緑実を食べているのだろうか。

 コルに水場を期待したが、得られそうになかった。ここから見越山頂まで、250mほどの急登がはじまる。
 途中、犀川源流の大笠山にいたる主稜尾根が見渡せ、雄大で美しい原始の雰囲気に酔った。「すばらしい!」の一語だ。これほどの犯されざる山岳景観は、白山全域を通じても白眉といわねばならない。日本人は、これほどの美を21世紀までにどれほど残しておけるのだろう。我々にとっての美は、林野庁官僚にとっては旨そうなエサなのだ。次回来るとき、この景観は望めそうにない。
 左手に、異様な崩壊地の岩磐が見えた。非常に印象的な景観であった。

 見越山の登りは、台風によるものか相当に荒廃していた。階段状の土止めはバラバラになり、急傾斜なのでスリップに神経を使う。おまけに、途中数匹のマムシが顔を出していた。異様に多い。

 持ち帰れば数千円で売れるそうだから結構な稼ぎになるが、私は長いものに巻かれるのが得意でない。本職のマムシ採りは、スルメと女の髪の毛を焼く臭いでマムシをおびき寄せ、一網打尽にするそうである。

 マムシはハブやガラガラヘビと同じクサリヘビ科のマムシ亜科で、毒性はハブより弱いと思われがちだが、実は五倍ほど強い。それなのに、被害がハブほど深刻にならないのは、毒量の多寡によるものである。
 日本では年間数百名が咬まれているが、後遺症を伴う被害は少なく、死亡例は年間数名にすぎないから、それほど恐れる必要はない。

 咬まれたらすぐに血清を、と考えるのはあさはかで、毒による害よりも、血清蛋白による抗原抗体ショックの害の方が重い場合が多いという。したがって、慣れた医師は、よほど症状を見きわめなければ血清を使用せず、殺菌程度にとどめるという。血清は、かなり遅れても有効だという。

 ただし、吸毒については賛否両論あって、切開による細菌汚染を考えれば有害という意見があるが、私自身は、スズメバチやウシアブなどの刺傷の経験を考えれば、絶対に有効だと考えている。ただし、咬まれて30分以内でなければ吸毒の有効性はない。登山用品店にアメリカ製の吸毒キットが売られていることがあるので、おすすめしたい。これは、アブとハチにも有効である。

 マムシの咬害が問題になるのは、夏から秋にかけてである。8月から9月にかけて、マムシは7〜10匹の子を産む。マムシは腹中で子が卵を破り、成体で出生する。これを卵胎性という。抱卵期のマムシは神経質で、攻撃的になる。この時期は動作が鈍く、すばやい逃避ができないので攻撃に頼るしかないのである。このようなマムシはトグロを巻き、鎌首をもたげ、追っても逃げようとせず、およそ50センチもジャンプして攻撃することがあるので要注意である。

 温血動物を咬むときは、目と鼻の間のくぼみにあるピット機関という赤外線センサーで相手をとらえ、ジャンプして咬むのだが、これはマムシ亜科に共通する特徴で、赤外線センサーを装着したミサイルがサイドワインダー(ガラガラヘビの別名)と命名されているのは、この原理によるものだからである。

 以前、東北の林道を車で走行中、道端のマムシがマフラーに向かって飛びついたことがあった。
 今回、白山周辺で多くのマムシを目撃するうちに、私は出没地点にある共通点があるのに気づいた。それは笹薮の存在で、それも枯れるか伐採するかして、マムシが身を隠すに十分な笹の葉に覆われた場所であった。普通の薮混じりの樹林では姿を見ず、笹の存在が大きな条件だったのである。

 ところで、マムシは集団生活するということも覚えていた方がよい。つまり、マムシを一匹発見したならば、その付近に数十匹いると思わねばならないということである。
 こんなことを書くと、山に対する恐怖感を煽りたてるようだが、実際には、熊やマムシの害など事実上ほとんど問題にならない。私の知人にも、数十年にわたって千回を超える登山を重ねてこられた方がいるが、マムシや熊の害を受けた話など聞いたことがない。私自身、600回そこそこの登山経験だが、数えきれないほど遭遇経験はあっても、被害経験はない。大部分、向こうが先に逃げてくれるからである。むしろ、虻やヒルの方が問題になるのである。

 それに、登山者たるもの救助設備のない山中を歩くこと自体に価値を見いだすべきであって、いざという場合の覚悟を定め、漢祖劉邦のごとき天命主義を自覚すべきだろう。危険も含めた自然と人生を楽しむべきなのである。危険ばかりを思えば、人間の逞しい想像力は無制限に恐怖をつくりだすものであって、自分自身の空想にがんじがらめに縛られることになりかねない。

 見越山(1621m)の山頂は、狭いが展望雄大。ブナオ峠から3時間半程度、軽量ならもっと早いだろう。赤茶けた火山灰の土質で、テントを設営するスペースはなかった。

 ひどく暑くなり、水を大量に飲んだ。汗のため股ズレをおこし、ジーパンを脱いでパンツ一丁で歩きだす。この広大な山地に人影はない。奈良岳へ向かう下降路でスリップ、倒木で膝を切り出血。心配になるが、これも天命。
 見越山から30分程度で奈良岳(1644m)山頂。2等三角点主点である。立派な標識があった。辛うじて1張り程度幕営可能。帰路の幕営地点候補地だ。

ここに石川県側からの登路が記されているが、荒廃して通過困難。
 いよいよ大笠山へ向かう。すでに昼になった。時間節約のため、食事は黒砂糖とレトルトのお粥で我慢。黒砂糖は非常に良かった。

 奈良岳を下降すると、広い尾根上の湿原地帯になった。ところどころ池があるのだが、水は完全に腐敗し飲める代物ではない。道も不明瞭になり、ルートファインディングを必要とする場所もある。
 しばらく、歩きにくい鋸の刃のような上下を繰り返す。猛暑のせいか、マムシは影をひそめた。笹を伐採してあって、歩きやすかった。感謝。だが、荷物が肩に食い込むのを自覚するようになり、バテを感じた。

 やがて、緩い登りになり、左奥に苫屋に似た笈ヶ岳が見えた。赤摩古木山からみた巨崖が目の前に現れ、岩というよりザレであることを確認した。これも、ことによると天正地震の遺物かもしれない。

 最後に、急登をつめて大笠山の広い山頂の一角に達し、桂からのルートを併せた。そこから10分ほど水平に歩いて、とうとう大笠山の山頂広場に達し、そこに一等三角点標石を見た。
 負傷したヒザは血まみれになり、ひどく疲労を感じた。ブナオ峠から、実に8時間。一人で万歳三唱しているうちに、ジーンときてしまった。残念ながらガスのため視界不良。

 山頂は、立派な広場につくられ、椅子やテーブルが自然公園のように整備されている。こんな山奥に設備をつくっても、利用する人がいるのか半信半疑である。いったい、どういうつもりなのだろう。

 山頂広場は幕営に十分な広さがあるが、残念なことに水が得られない。地図で見ると近くに池があるが、激しい笹薮漕ぎが必要になる。もし得られるとすれば、大畠谷の源頭であろうか。ここは傾斜が緩く、下の方に水音も聞こえた。
 笈ヶ岳方面には、わずかに笹を分けた跡があった。標識テープも付いている。どうやら夏期の縦走者があったらしい。

 この日、余裕があれば笈まで縦走する予定ではいたのだが、少々歩いてみると、猛烈な笹籔のなかに体が浮いて、足が地につかないほどの厳しい籔漕ぎが要求されそうだった。結局、負傷が心配で引き返すことにした。

 山頂で1時間ほど休憩し下山、奈良岳で5時になり幕営を考えたが、涼しくなったせいか、いたるところにマムシが出没しだした。気持ち悪くて、無理にでも帰ることにした。

 これほどにマムシが増えた理由は、一説によれば、麓の山村の住人がいなくなってマムシを採らなくなったこと。それ以上に、マムシを主食する猛禽類が減ったことだという。すなわち、自然破壊のツケなのだ。
 見越山までは元気だったが、赤摩古木山ですこぶる苦しんだ。大門分岐からヘッドランプを使用しなければ歩けなくなった。すっとばして、8時にブナオ峠に帰着。通算14時間の歩行になった。


 笈ヶ岳 1994年4月末

 笈ヶ岳は、私にとって幻の山だった。あるときはブナオ峠から挑み、あるときは馬刈口から挑んだが、過去2度退けられていた。
 遠い、遠い遥かな幻の峰、その姿を望むことすら困難な深山中の深山の名峰、見るものの心を打つ千金の茶碗も、笈に見られるなら恥を知って姿を隠すだろう、と名文調で書きたくなるほど、この山は一癖を自認する山好きたちの憧れの的である。

 これほどに見事な錐峰は、私の知る限り、北アに槍ヶ岳、南アに甲斐駒そして池口岳、北海に利尻、南海に開聞と数あるなかでもベストを争うものであろう。形が中途半端にシンメトリックでないところが実に渋い。実際に登ってみての味わいは、さらに渋い。なんといっても登山道がついてないのである。そのくせ、山頂からの眺望は360度の豊潤な大景観で、期待を裏切らないばかりか、白山連峰の未知の視座をも与えてくれるという至り尽くせりの絢爛豪華な山でもある。

 深田久弥が、笈ヶ岳を百名山から漏らし荒島岳に変えた理由は、ただ彼が登れなかったという事情によるものだが、晩年に中宮温泉から登頂に成功したとも記されている。

 荒島岳も、山頂の電波搭さえなければ決して悪い山とはいわぬが、笈ヶ岳をさしおいて百名山に選ばれるだけの内容はない。それは、両者に登ってみればすぐに分かる。歴然とした風格の差があるのだ。

 私は昨年、一応百名山を完登したのだが、笈ヶ岳の風格は、百名山並べたなかでも上位に位置するものと評価したい。深田久弥は、笈ヶ岳に登った後、百名山の差し替えを行なう必要があっただろうが、あまりに権威化しすぎて本人も手がつけられなくなってしまったのだろうか。

 三度の挑戦にして、雪と藪を分けてようやく立つことのできた山頂は、眺望、景観ともに荒らされぬ大自然の真っ只中にあり、期待に違わぬすばらしいものだった。何よりも、この山がザラにない本物の名山であることを実感することができた。

 単独行専門の私にしては珍しく、この山行には同伴者がいた。アマチュア無線で知り合ったJO2SOX加納さんで、加納さんは54歳になるにもかかわらず、仕事で鍛えた体力にものをいわせたクライミングが得意で、私と連れ立って何度も近郊の岩場に出かけている。

 私が案内役ということなので、コースは勝手知る白山スーパー林道馬刈口からの縦走に決めた。この山には登山道がなく、籔もひどいので、登山適期は積雪期に限られる。以前、大笠山頂から伺った様子では、背丈を超える密生した根曲りの笹藪が行く手を阻み、夏季縦走は厳冬のアルプスより条件が厳しいように思われた。

 5月の連休は、最後にして最高のチャンスである。この時期、全国の秘峰愛好家達が登頂を狙って押しかけてくるので、ルートが明確に示されることになる。
 初日は生憎雨で、白川村とならぶ合掌の里として知られる上平村に遊びに行って、平瀬遠山家と共に最大級の合掌家屋として遺された赤尾の岩瀬家を見学した。

 岩瀬家は、もともと越中上平村、煙硝支配の藤井家が江戸末期に途絶えたときに、これを買取って維持した家系で、先祖はどうやら三河岩瀬からでているというようなことを当年米寿の矍鑠とした当主が説明されたので、ひょっとすると私の父方の遠縁の親戚筋に当たるかもしれない。

 内部の柱は欅の尺角物で、梁は松と桧で、栗材が少ないのは建築年代が新しく(江戸後期であろう)、相当な権力階級に属した家系であった証拠と思われる。
 内部の造作も、簡潔にして機能的にできている。やはり真宗大谷派に属すると思われる絢爛豪華な仏壇があり、脇に棟方志向作、赤尾道宗の版画が掛けてあった。

 当主は、これこそ志向が当家に滞在したおりに道宗の行跡に感動して彫り上げたものと言われた。赤尾道宗は蓮如の弟子で、一向一揆の軍事的指導者であったらしいが、その行跡は埋もれている。いずれ世に紹介されるときも来ようが、誰の手になるか楽しみだ。

 版画に挿入された、「くれぐれも油断あるまじき候」という語句が、この人物の世界観を象徴しているようで、ひどく印象に残った。
 西赤尾から、笈ヶ岳に到る大笠山境川(桂)ルートと加賀に抜けるブナオ峠道があり、様子を見に行くことにした。ブナオ峠は、積雪のため通行止めであったが、境川は通行できた。以前訪れたときはダム工事で通行止めとなっていたのが、その工事も完成し、10年ぶりに登山道入口まで車で入ることができた。

 すでに水を湛えた湖面は青く、周辺には立派なトイレや駐車場など観光施設が整備されていた。登山道入口の日本百名谷、大畠谷(おばたきたん)には大きな鉄製吊橋がかけられていたが、その踏板は積雪期のために外されていた。数十メートル下には雨で増水した濁流が流れ、この谷の過酷な登攀遡行レポートを思いだし緊張させられた。

(後に、このルートは93年10月に登山者に開放されたことを知った)
 翌日、6月中旬まで閉鎖された馬刈料金ゲートに車を駐車し、三方岩岳旧ルートをたどったが、林道開通以来、登山道はさびれ、沢には工事消費目当ての無意味な砂防ダムが増設されていて、膝上の冷たい徒渉を強いられることになった。

 さらに道を失って、前回同様、籔漕ぎ構わずに尾根に取付き、強引にスーパー林道展望台に登りつめた。途中、規模の大きなブロック雪崩が雪煙土煙を巻きあげながら連続して起きるのが見えた。
加納さんは初めて見るらしく随分興奮していたようだ。地こすりと呼ばれるブロック雪崩は春の日本海側山岳の名物なのだ。

 展望台付近には休憩用家屋も建設され、幕営登山者の姿もあった。ここからは根雪の世界で積雪地帯にはトレースもあり、三方岩岳の手前の迷い尾根も難なく通過し、前回引き返したトラバースもあっけなくクリアした。

 ここは、凍ってさえいなければ容易な場所で、前回の失敗は凍結した急な岩場の基部を直接トラバースしようとしたことだった。実際には、それより50mほど下の緩い雪の斜面にルートがあった。ここは、夏道を経験していないと分かりづらい。

 三方岩岳の山頂は広いが風が強く寒い。しかし、笈ヶ岳の軽装往復なら、この付近に幕営するのが負担が軽くてよいかもしれない。
 我々は、瓢ヶ岳を越えて国見山頂に幕営した。極めて広い平坦な山頂で、快適な幕営地である。ここからは仙人窟岳が見事に眺められるが、笈は影に隠れて見えない。大笠山から医王山にかけての犀川源流の荒らされぬブナ帯が、雪に覆われて美しく心に染みいるが、この景観がいつまで保たれるのだろうか。

 臨調以来の林野庁独立採算制が、日本の真の自然を処刑破壊してしまった。中曾根康弘もメザシの土光敏光も、いずれ、劣悪卑劣な自然破壊犯罪人として歴史に記録され処断されることだろう。だが、他国の自然を凌辱して豊かさの幻影に酔う我々日本人が、自分たちだけ美しい自然環境を得るのは、もっとおかしい。日本は滅ぶべきなのだとも思う。

 山頂のテントから、UHF・1Wで島根県と無線交信することができた。距離にして400Km、山岳反射と海上ダクト性伝播などの好条件が重なったのであろう。

 用便に崖を下りると、そこは垂直に300m以上すっぱりと切れ落ちた断崖絶壁で、仙人窟岳に到るまで巨大な垂壁になっていることに気づいて冷や汗をかいた。これほどの規模の岩場が何故知られていないのか不思議に思った。これまで国見山のクライミングなど聞いたこともなかったが、いずれ、奥鐘山や海谷・明神とならぶ未開の岩場として開拓される運命にあろう。岩質は、名張に似た安山岩柱状節理のようだ。

 仙人窟岳は名の通り修験の行場であったことは疑いなく、実に行者好みの風格のある山だ。古には天台宗系白山権現の行者達の拠点となっていたのであろう。おそらく、溶岩洞窟が点在しているのではあるまいか。
 山頂には、どこからともなく熊の独特の体臭が漂っていた。近くに大物の熊がいるらしい。普段、人跡のない場所だけに、熊の縄張になっているようだ。

 翌朝、加納さんと仙人窟岳に向けて軽装で出発した。水をつくるのに燃料を大量に消費し、やや不安が残る。急な雪壁を下りると、途中に相当な大熊の足跡があった。幕営地点から100mほどの場所だ。遭遇できなくて残念だった。

 仙人窟に到る稜線では、遠くに春を告げる地こすりの号砲が絶え間なく聴こえる。我々の足元も、雪の状態が不安定で、雪庇がいつ崩壊するともしれない不安があった。クレバスが至るところに口を開け、転落を誘っているように見えた。

 強烈な日差しに灼かれて、ひどく咽が渇いたが、水が少なく憂鬱だった。仙人窟山頂手前で雪が消え、籔漕ぎを強いられたが、手強い根曲り笹ではなく容易に抜けることができた。これが大笠山からなら、こんな訳には行かない。

 仙人山頂からはすばらしい眺望で、笈ヶ岳のピラミッドが実に見事だ。これほど美しい山の姿は過去にあまり見たことがない。わざわざきた値打ちがあった。
 仙人窟と笈ヶ岳の中間には8mほどの岩場があって、3級のフリーソロでこなしたが、帰り道固定ロープがつけられているのを確認した。それほどたいした場所ではない。

 この付近から稜線の根雪が消え、藪がむきだしになっていた。笹と手強い灌木に悩まされながら、国見山頂から3時間ほどで笈山頂に達した。思ったより遠い。

 山頂は5坪ほどで、笹に囲まれていてあまり広くない。登頂者が多いのにびっくりした。話しを聞いてみると、境川ルートから登った人が多いようだ。あのルートなら、往復10時間もあれば登れてしまう。私は、この時点で桂ルートの開通を初めて知った。

 山頂からの眺望は、ゴールデンウイークらしく黄砂霞に閉ざされ、あまりよいとはいえなかったが、3度目ににして憧れの笈に立つことができ、嬉しさを噛みしめて楽しむ景観には格別の趣がある。

 とりわけ、白山の本峰の視座はこの山独特もので、他とはまったく異なる印象を与える。その雄大なスロープで山スキーを楽しみたい誘惑にかられた。この山域に通った回数も、50回ほどになっているだろう。指呼のなかに過去の記憶が蘇り、なつかしい山を思い起こした。

 ここから、清澄な時期には、日本海の向こうに韓国の漢奴山あたりも見渡せるかも知れない。過去、数千年にわたって、朝鮮半島からどれほど多くの人々がやってきたことだろう。人々は、白山を日本列島の灯台としてやってきたのだ。ゆえに、白山神社信仰こそ、秘密の日本史の鍵となるべきものなのだ。

 同行の加納さんは、無線機を取り出して交信をエンジョイしている。名古屋とは交信できなかったものの、福井に帰省中の知人のNさんとつながり大変喜んでいた。Nさんも、まさか北陸で名古屋の山仲間と交信できるとは思っていなかっただろう。これが無線の楽しいところだ。

 帰路、びっくりするほど大勢の中年パーティとすれちがった。明日は大雨の予報が出ていて、恐るべきブロック雪崩が多発することが確実なのにである。そのなかに、名古屋の知人の姿も見つけた。笈ヶ岳は、もう秘峰とはいえなくなってしまったようだ。

 三方岩トンネルの上に来たとき、休憩中の登山者に、スーパー林道経由で通行すると1時間半で展望台に行けると聞き、雪崩の不安はあったが、たくさんのトレースに誘われて行ってみることにした。午後3時を回っていたので、落ちるべき雪崩は落ちたと判断したからである。

 だが、歩いてみると、当然のことなのだが、そこが恐るべき雪崩の巣であることを思い知らされた。林道は雪の急斜面となっており、いたるところにデブリの痕跡があり、いつどこで崩壊するとも知れぬ不気味なブロックが上部にへばりついていて、命の縮む思いをした。地こすりに遭遇するなら落石津波にあうに等しい。

 トレースは、さきほどの無謀な中年パーティのつけたものらしい。彼らのマネをしていたら命がいくつあっても足らないと思った。
 人を恐れぬカモシカが、私達を見送ってくれた。はげしい渇きに悩まされながら、歯ごたえのある山行になったが、二人とも満足だ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1331.html

8. 2020年12月30日 09:55:43 : wwip1cR3BF : OGYwQ28xSnhaUVk=[2] 報告

 外出につき、1980年代末に書いた山歩き紀行(当時は「山浮浪紀」として知人に配布していた)ものを再掲紹介します。
2020年12月29日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1356.html


それぞれの山の物語  第五話
南アルプス深南部の山々

 静岡県西部、いわゆる遠江(とおとうみ)の国の山々である。したがって、遠州山地と呼ぶ人もいる。この南アルプス深南部の概念をまとめるにあたって、浜松・天竜・島田の図書館で文献を探したが、少ないのに閉口した。

 余多ある旅行観光紀行で、遠州を紹介したガイドは甚だ少ない。ましてや深南部の山々を紹介した文献は皆無に等しい。これは深南部が、いまだ観光産業による汚染を受けない処女地であることを示しているのかもしれない。

 実際、現地を訪れてみると、全国のどこよりも心の平安を掻き乱すケバケバしい宣伝と無縁で、深い山と谷に包まれた、静かで素朴な、心暖まる土地であることを知ることができる。「知られていない」ということは、実にすばらしいことでもあるのだ。

 しかし、ここには大和地方ほどではないにせよ、古くからの人間生活にまつわる歴史(必ずしも権力史ばかりでない)の強い馨りが漂っている。だから、民俗学的資料は少なくなく、興味深い文献にもであうことができた。

 「深南部」という山岳範囲は便宜的な名称であるから、確定的な境界が存在しないのは奥美濃などと同じである。一般的な通念では、西を国道152号線と天竜川、東南を国道362号線と大井川、北を南アルプス主稜最南端の、光岳から青崩峠までの稜線で囲む山々というところであろう。そして、これらのすべてが北の光岳 (三隅岳)に向かって収斂してゆく。それゆえに、深南部の盟主は疑いもなく光岳であって、むしろ「テカリ山地」と考えた方がよいかもしれない。

 このなかの主要な山は、光岳の南尾根には、池口岳、中ノ尾根山、不動岳、丸盆岳、黒法師岳など、南東尾根には、信濃俣、大無間山と、胸のときめく超2000m級のクセモノが揃っていて、山狂いを魅了してやまないが、どれも一般的観光登山とは無縁で、一筋縄ではいかない。それでも、整備された登山道ではないにせよ、狩猟や林業用の踏跡がそこかしこにあるので、比較的登りやすいともいえる。

 しかし、深南部主稜の山々には、南アルプス本峰を凌駕するほどの豊富な原生の自然が遺されていて、日本中見渡しても、これらの山のように熊やシカの跳梁する深山はザラにあるものではない。もっともこの場合、「知られない」という要素が逆に、膨大な赤字決済を迫られる林野庁につけ入られることになり、官僚機構による、すさまじい自然収奪の暴威に曝されていることを強く喚起しておきたい。

 黒法師岳は、西に向かって、麻布山、定光寺山を起こす山稜と、南に向かって蕎麦粒山を起こし、板取山、大札山、岩岳山、京丸山を持ち上げて春野町に降りる山稜を有するが、これらの山々は居住者が多いので、山道の整備は比較的ゆき届いている。そして、それゆえに、これらの山々には深い歴史のヒダが刻まれているのである。

 大井川鉄道の井川・千頭間や、黒法師岳より南の、水窪町、春野町、川根町に下る山稜には、都会人の常識では考えられないような深山の超僻地に、多くの部落が存在している。例えば、水窪町には門桁があり、春野町には京丸があり、中川根町には尾呂久保がある。これは、はじめて知る者に、一種異様な感銘を与えるほどの僻村である。なぜ、これほどの僻地に部落が存在するのか、民俗学上の大きな謎を秘めているといえる。

 秋葉信仰

 かつて今日ほど観光旅行の習慣がなかった頃、それは決して大昔のことではなく、まだ数十年ほど前のことなのだが、人々は気分転換のレジャーをハイキングも兼ねた神仏詣に求めるのが普通だった。

 それも、できることなら山岳の清浄な空気に親しみ、古刹の霊気に刺激を求めて、富士・御岳・白山・出羽三山・大峰山などには人気が集中し、講中を組織して登り、大気分転換を愉しんで帰るのが習わしだった。

 それほどの大登山をなしとげる余裕のない人たちは、地域に必ず存在した標高1000m以下の手軽に登れる山の名刹を訪ねたもので、遠州地方では、春埜山大光寺、法多山尊永寺、それに秋葉山大権現秋葉寺と秋葉神社などが大きな人気を集めた。秋葉山には、富士や御岳と似た秋葉講まで組織され、往事は栄華を極めたようだ。
 とりわけ秋葉山が名声を集めたのは、この神社に伝わる火防信仰が、当時深刻だった火災からの救済を求める人々の心情にマッチしたからであろう。

 秋葉山に参詣する道筋は、いつしか秋葉街道と呼ばれるようになり、信州方面からは、高遠から青崩峠を越えて水窪に抜ける街道がそう呼ばれ、駿河方面からは、掛川市大池から犬居に至る街道がそう呼ばれた。もっともよく歩かれたのは、浜松から光明山を経て登る道で、三河方面からの姫街道と併せて関西方面からの講中で賑わったという。

 江戸期の地誌である「遠江古跡図絵」に、行基の開山した山のうち、春に開いた山を春野山とし、秋に開いた山を秋葉山としたと記されている。そこで秋葉寺は、春野町をはさんで春埜山大光寺と兄弟関係にあることがわかる。

 開山は奈良時代の養老2年(718年)で、行基が大登山霊雲院を開創したときに始まると記される。それから1世紀後の大同4年(809年)に、越後国蔵王堂から修験者三尺坊が飛来してきて、この山の守護神となり、寺号が秋葉寺と改められたとも言われる。

 もっとも、役の行者や空海と同様に、行基の開山と伝えられる古刹などいくらでもあって、今日なおそうであるように、「有名人の名前を出せば、人々がありがたがって経営が楽になる」という、単純な原理による虚名であることはまちがいなかろう。実際には、仏法による衆生済度を決意した無名の民衆の使命感によって、このような寺院が拓かれていったのである。

 ところで、三尺坊は無名でありながら、今日秋葉山を世間に知らしめた本尊なのである。三尺坊は実在の人物で、信州木島平(野沢温泉村)の出身で、幼い頃から出家し、やがて阿闍梨となった。そして、越後蔵王堂一二坊のうちの三尺坊の主となり、火難救済を成就すべく誓願をたてて修行し、修験者としての名声を築いた。

 どういうわけか9世紀はじめに秋葉山に飛来し、その主になったと記される。超能力者であった三尺坊は、役の行者と同様、白狐に乗って空を飛んでしまうのである。(この当時の修験道は、超能力を磨くものであったらしい。現代からみれば空想的な虚構であっても、必ずしもそうとばかり決めつけられない事実もあった。あまり、頭ごなしにインチキと決めつけないほうが良さそうだ)

 秋葉山に三尺坊が登場すると、たちまち火防の山としての霊験が世に知れ渡るようになり、朝廷からも庇護を受け、1711年には正一位の神階を受け、1725年には勅願所に指定されるまでになった。これはひとえに、修験道の三尺坊の霊威によるものであり、秋葉寺の信仰に基づくものであった。

 しかしこの間に、秋葉山中でいかなる故か法力およばず、武田信玄による放火も含めて数回の大火が起こっている事情は他の山と全然変わることがないのだが、それを書くのは谷保天神というものだろう。

 90年に秋葉山頂社が再建されるまで、十数年の間、山頂社は火災のため存在していなかった。これほど当てにならない火防の神があったものではないが、神社側に言わせると、焼失した社は世界の大火災の身代わりになっておられるのだそうだ。モノもいいようである。

 秋葉神社の由緒には、開殿が和銅2年(709年)と、寺よりも古いことを言っていて、元明天皇の歌に、「あなたふと 秋葉の山にまし座せる この日の本の火防ぎの神」というのが紹介されている。神体は火之迦具土大神といい、イザナギ・イザナミの子で、火を統べる神である。

 中世、両部神道(神は仏の仮の姿、つまり権現と考える思想。本地垂迹説という)の影響を受けて、「秋葉大権現」と称するようになった。永い繁栄が秋葉権現を名刹として磨きあげ、勝軍地蔵のまつられた権現には、戦勝を祈念する足利尊氏や秀吉、信玄らが競って刀剣を奉納している。

 ところが明治維新に、神道天皇制を主張する本居・平田国学の影響を受けた神道至上主義者によって廃仏棄釈・神仏分離の嵐が吹き荒れ、両部神道を代表する秋葉権現は攻撃の矢面にたたされたのである。

 秋葉権現は、太政官布告によって強制的に神社と寺に分離され、このときから神社が山頂に残って静岡県社の指定を受け秋葉神社と称するようになり、秋葉寺は尾根下杉平の三尺坊に追いやられた。さらに明治6年、住職の死とともに廃寺にされ、仁王像や教典類は焼却され、仏像仏具は本山である万松山下睡斉(袋井市・曹洞宗)に移管された。しかし、信徒の執拗な再建運動が実り、明治13年、再び秋葉山秋葉寺(しゅうようじ)が再建されることになった。以来、秋葉山には統一された権現はなくなってしまったのである。

それでも、今日なお秋葉信仰は根強く残り、12月16日の火祭には全国の消防団が参詣におしかけ、大きな賑わいを見せるという。
 しかし、今では秋葉山から黒法師岳に至る長大な尾根にスーパー林道が敷設され、人々は汗を流して山を歩くことによってしか得られぬ感動を失い、本殿さえも、今年からみせかけばかりの味気のないコンクリート製に代わり、しらけた風が秋葉山の将来を暗示しているようにも思える。

 秋葉寺や三尺坊の宿泊所もヒト気はなく、私の目には山頂に残る巨杉も、なぜか寂しげに見えた。


 常光寺山  1439m
(磐田郡水窪町山住臼ヶ森より 89年2月17日)

 京丸山から北を見ると、樹林の合間に同じくらいの高さの山々が延々と連なっている。そのなかの、一番近い立派なピークが常光寺山である。
 池口岳、不動岳、丸盆岳、黒法師岳などの超2000m級の秘峰を起こして遠州平野に消えゆく光岳南山稜は、いまだ世に知られぬ名山をあまた隠し持っている。

 沢口山、板取山、蕎麦粒山、高塚山、竜馬ヶ岳、岩岳山、京丸山、白倉山、奈良代山、それに黒法師西稜から始まって、麻布山、竜頭山、秋葉山に至る長大な稜線上にあるこの常光寺山など、まったく数えきれないほどの高い峰と深い渓谷の立派な山々が連なっていて、しかもこれらの山々に分け入る登山者は本当に僅かで、観光臭を嫌う真の山好きにとって、実にこたえられない魅力的な山域なのである。

 しかし、これらの山々の信じられぬほどの奥地にまで、古くから人間の生活が息づいているのを知る人は少ない。遠州は日本でも最も温順な気候の地である。有数の険しい山岳地帯を抱えながら、これらの山々に冬の季節風も降雪も極めて少なく、それが、この山岳の奥地にまで人間を抱擁してきた理由であった。

 常光寺山のある遠州最奥の町、水窪町は、そんな都会の常識を外れた僻遠の山里ばかりから成りたっている。なにしろ、町の中心街に行くにすら、大型観光バスが余裕を持って通行できる道路がひとつもない。いちばん良い道路は、浜松市から天竜市を経由する国道152号線だが、これも龍山村あたりから1車線になってしまう。おまけに、水窪町から北は、旧秋葉街道に沿って高遠方面に抜ける国道が何十年も前から計画されているのだが、途中に青崩峠という、南アルプス特有のもろい地質帯があって、絶えまなき崩壊のために、道路接続計画はほぼ絶望的に中止されたままになっている。

 狭い林道の兵越峠が間道として利用できるが、大型車は通過不能である。つまり、水窪町は袋道のどん詰まりの町で、国道152号は、この時代にあってすら幻の分断道路のままなのである。ただ、旧国鉄飯田線が町を貫通しているので、これだけでも他の山村よりよほどマシだと地元の人達は思っている。

 ところが、この水窪町は、かつて天竜林業が盛んだった頃は、非常に大きなにぎわいを見せていた。現在の数倍の人口が、この天竜川界隈を活気づかせていたのである。
 かつて、日本の大河川の多くが重要な交通手段に利用されていた。河川水運である。今、ダムに侵食された天竜川から往時をうかがうすべもないが、明治、大正あたりまでは、天竜川には数百の運搬船が行き交い、伊奈谷と河口を結んで、流通経済の動脈となっていたという。

 小島鳥水の作品に、「天竜川」という紀行文がある。鳥水は、「日本山嶽誌」の著者、高頭式らと、南アルプスを飯田に下山して、当時、すでに衰退しつつあった天竜下りを体験した。
 やや装飾過多ではあるが、なかなか情緒にあふれた名作で、当時の河川水運の光景をまざまざと見せてくれる。一部を抜き書きしてみよう。

 「けれども、山の町から一直線に、はた目もふらず、広々とした南の国の、蜜柑が茂り、蘇鉄が丈高く生えている海岸まで、突き抜ける天竜川という道路があることを私は知っている。しかも日本アルプスで、最も美しい水の道路であり、水の敷石であることを知っている。」
 「薄っぺらの船板は、へなへなにしなって、コルクみたいに柔らかく水をいなすから、板といっても帆布製の船で、漂流するような気もされる。」

 鳥水は、変化に富んだ流れに使用される船の特性も書き残してくれている。文中にも指摘されているが、天竜川水運業を衰退させたのは、木曾谷の中央線鉄道の開業であった。
 天竜林業の隆勢は、天竜川あってのものであった。トラックのない当時は、川だけが材木の運搬手段だったのである。この点、木曽川とならんで有数の水量を誇る天竜川は、林業にとってかけがえのない味方であった。

 だが、道路と鉄道開発に伴って水運業は廃れ、都市工業の発展のために犠牲にされた形で林業や育蚕も衰退し、若者はテレビや雑誌に登場する生活様式に憧れて、次々に大都市に流出していった。
 水窪町は、20年ほど前から深刻な過疎に脅かされるようになった。住民の平均年齢は高齢化の一途をたどっている。

 「このままでゆけば、町は消滅する」
 住民の誰もが、口には出さないまでも、そんな危機感をもっているのではないか。それらの焦燥のうえに、この山域に無謀なスーパー林道が続々と建設され、太古から人間生活を支えてきてくれた原始の自然が次々に破壊されている。
 誰もが、「こんなバカなことをしなくとも」と思っていても、誰も口に出さない。「過疎救済」の大義の前に、自然保護は説得力をもちえないのである。

 2月16日の夕方、春野町気田から気田川沿いに狭い林道(県道)を門桁に向かった。途中、森山や勝坂といった辺境の部落を通る。
 石切もそうだが、どうして食っているのか不思議なほどの寂遠の山里ばかりである。
 このあたりの猿、鹿、猪の棲息密度は、確実に人間のそれを上回っているであろう。石垣の上の小さな平屋、猫額ほどの畑と急斜面の茶畑、こんな僻地でしたたかに生き抜いている人々の姿は、一種の感動をあたえずにはおかない。

 勝坂の部落には、竜頭山登山道の標識があった。だが、このコースを登ると頂上直下に秋葉スーパー林道があって、気分の良いものでないので、もはや登る人は少なかろう。
 その先に、夜間通行禁止の標識があった。落石の危険のためだと書いてある。だが、柵が設けられているわけでないので走ることにした。なるべくなら、その日のうちに門桁までたどり着きたかった。

 最初は甘く考えていたが、そのうち通行禁止の標識がダテでないのが分かってきた。狭い林道のいたるところに、人間の頭大の落石が大量に転げでていた。こうなると、落石にタイミングが合わないよう祈って突っ走るしかない。

 これは、おそらく南アルプス特有の破砕帯の露頭が出ているのであろう。南アルプスは、このような地質をもたらす天竜川〜糸魚川大地溝帯のために、本来、林道建設に向かないのである。造っても、崩落破壊される率が極めて高い。にもかかわらず、自然破壊が楽しくてしかたないように、無謀な林道建設が他地域の数倍のペースで強行され続けている。歯止めがないのである。

 門桁の部落に着いたのは、午後8時半頃だった。戸数は多かったが、明かりの点る家が少ないのは、このような山里の常である。
 部落のはずれのダムの上で車泊した。

 翌朝見た部落には、一軒の精密機械工場があった。このような流通僻地で採算を求めるのは難しい。ここは、安い労働力を求めてと考えるよりも、僻村の活性化(いやな言葉だが)のために一肌脱いだ工場と、好意的に考えるべきだろう。
 チロリン村と書かれた看板もあった。最近、このような僻村に、好んで住みつく若者が少なくないとも聞く。(もっともチロリン村では、もはや若くはあるまいが)私も、縁さえあればそうしたいと考えているが、なぜか無縁なのだ。

 門桁に自動車道路ができたのは、1959年のことであった。それは、私の通った気田川沿いの恐ろしい道で、最初の頃は、運がよければ通行できる、といった程度のものだったらしい。それまでは、営林署の森林軌道しかなかった。行政区域である水窪町への、山住峠越えの道路ができたのは、やっと1970年頃であった。

 道路のできるまで、門桁への生活物資は、一本の索道によって山住峠を越えて搬入された。土地の人達は、それを空輸作戦と呼んだという。一番近い公共交通の飯田線向市場駅に出るためには、およそ6時間も歩かねばならなかった。

 この部落の起源も、おそらく木地師の定着村であろう。水窪町の山あいの部落の大部分が、木地師の末裔といっていい。
 現在、44戸およそ100名が居住するという。だが、人口統計グラフは、確実な速度で、この部落が消滅に向かっていることを教えてくれる。もっとも、この傾向は天竜川流域の集落の全部に共通しているが。

 山住峠は標高1107mで、山住山と呼ばれ、樹齢千数百年の巨杉を境内に吃立させた立派な神社がある。山住神社という。
 この神社には、山姥の伝承がある。これは柳田国男も取り上げているので抜粋しよう。
  遠州奥山郷の久良幾山には、子生タワと名づくる岩石の地が明光寺の後ろの峰にあって、天徳年間に山姥ここに住し、三児を長養したと伝説せられる。

 竜頭峰の山の主竜築房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、すなわちともにその山姥の子であって、今も各地の神に祭られるのみか、しばしば深山の雪の上に足跡を留め、永く住民の畏敬を繋いでいた。
 「遠江国風土記伝」には、平賀・矢部二家の先祖、勅を奉じて討伐に来たと記してはあるが、後に和談成って彼らの末裔もまた同じ神に仕えたことは、秋葉・山住の近世の歴史から、これを窺うことができるのである。

 山住は地形が明白に我々に語るごとく、本来秋葉の奥の院であった。しかるにいつの頃よりか二処の信仰は分立して、三尺坊大権現の管轄は、ついに広大なる奥山には及ばなかったのである。街道一帯の平地の民が、山住様に帰伏する心持は、何と本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬を迎えて来て、魔障盗賊を退ける目的のほかに出なかった。(山の人生より)

 常光寺山の山頂には、山住神社の奥社が設けられている。奥の院の常光房は、常光寺山の主である。山姥の三男だというが、その正体について、柳田は狼とのかかわりをほのめかしている。山住神社は、春埜山大光寺とともに狼を御神体として祀っていて、神職の山住家には山犬絵図が伝わっている。

 山住神社のいわれは、和銅2年(709)に愛媛県越智郡大三島町の大山祇(おおやまずみ)神社から移し祭ったとされる。元は、門桁の部落に置かれていた。オオヤマズミノ神は山々を管理する国津神とされる。その娘がコノハナサクヤ姫で、高天原から日向に降臨した初めての神であるニニギノミコトとまぐあって海彦と山彦を産み、さらに、その孫が神武天皇ということまで知っている人は、古事記あるいは古代空想史のマニアであろう。

 家康が三方ヶ原の戦いの際、山住神社に武運長久を祈願し、信玄に敗れはしたものの一命難を逃れたのは、この社の神力のおかげなりとし、江戸時代には徳川家の手厚い庇護があった。

 門桁から狭い県道を登り詰めると、そこが山住神社で、境内の二本の巨大な杉が見事である。峠の上には茶店もあったが、この日は日曜でも閉ざされていた。
 登山道について何も知らなかったので、2・5万図の山住からの破線路を辿ることにした。

 峠の危うい急坂を降りきった部落が山住家のある河内浦(こうちうれ)で、8戸、30人余りが居住しているというが、洗濯もののかかった人間臭のある家は3軒だけだった。河内という地名は畿内で多く使われ、川中の小平地を意味し、浦は船着の入り江を意味するとされるから、この地名は、かつて上方の人間によって名付けられ、そして水運に関係していた場所であったのだろう。

 山住家当主、紀氏の家は、常光寺山山麓の小平地に築かれた、天竜界隈きっての見事な石垣の上にある。ここは代々、山住神社の神事を司ってきた旧家である。
 山住家の歴史は、守屋兵部大輔を祖とし、12世紀保元年間にまで遡ることができるという。おそらく、上方の人間であっただろう。江戸時代初期、この地方の代官であった山住大膳亮茂辰は、この山域に広大な植林を行なったことで知られる。それは、大膳が、吉野地方に旅したとき、杉の美林に感動したからだと伝えられる。

 登山口は、そこから300mほど下った右手の林道を、さらに500mほど登った臼ヶ森の部落にあるはずだった。
 未舗装の林道のどん詰まりに小さな空き地があって、右手に10戸ほどの部落があった。車は全く駐車してなく、静まりかえっている。

 朝7時頃で、エンジンの音に驚いたのか、一番下の家からおばあさんが顔を出した。おばあさんに「駐車していいですか」と尋ねると、「いいよ」とのことだった。登山道は部落のなかの道を上がればよいと教えてくれた。おばあさんは、私の姿が見えなくなるまで表に出て私を見ていた。

 部落に、生活の気配はなかった。山道も荒廃している。だが、かつて木馬道だったのだろう、緩くて幅の広い、歩きやすい道である。
 きびしい寒さのなかを登り詰めると、やがて急な尾根に出て踏跡程度になった。薮がうるさい。下から1時間半ほどで、突然、向市場駅上村部落方面からの立派な登山道に飛び出した。最新の2・5万図にも記されていない。最近、地理院の地図は、歩道についての記述が実にいいかげんになった。

 快適な道を右手にとって歩くと、雪道になり、しばらくで鳥居をくぐり、祠や立派な社もあった。常光寺奥の院である。この付近は、ちょっとした部落でも造れそうな、二重山稜の平原地形であった。この地域は、山稜にこうした舟窪平原地形が多いと思える。

 山頂には、カリカリのアイスバーンを踏んで、痩せた尾根をひと登りして達した。臼ヶ森から2時間半程度である。わりあい良い山頂といえる。しかし、黒法師岳に至るこの山稜の彼方は、舞い降りる雪のために霞んでいた。殖生に見るべきものはない。ヤシオとシャクナゲが目に着いた程度である。

 帰路は、山住峠方面にとった。小雪のちらつくアイスバーンの尾根を、簡易アイゼンを装着して降りていった。途中、最近では珍しく5人の中年男性登山者にであった。こんな日に登るモノズキがいるんだと、笑ってしまった。
 しばらくで山住峠からの林道に降りた。そこからテクテクと歩くと、奥三河国定公園整備地域という標識の付近に、広い遊園地が造られていた。だが、ゲートは封鎖されていた。

 山住神社には、あっけなく着いた。日曜というのに人気はない。旧歩道は、秋葉スーパー林道方面に、ツルツル滑る凍りついた道を20mほど歩いた右下にあった。
 滑落を心配したが取り越し苦労で、雪はあったが実に良く手入れされた立派な歩道だった。ほとんど駆け降りることさえでき、40分ほどで、見事な石垣の山住河内浦に降りたった。

 昼前に臼ヶ森に戻ると、私の車の先に1台の軽自動車が停まっていた。朝のおばあさんの家に人影があって、あいさつにゆくと、中年男性が出てきて、その人と1時間以上も話しこんでしまった。

 その人は、おばあさんの娘婿で、浜岡町に在住とのことだった。生まれ育ったこの部落を離れたがらないおばあさんのために、週に1度ずつ食料や日用品を届けにきていると話された。

 驚いたのは、この部落に住んでいるのは、そのおばあさんを含めて、80才を越した老婆が二人だけだという。この部落には、終末の日が忍び寄っていたのである。

 竜頭山  1352m
(磐田郡佐久間町大井字大輪より 90年3月10日)

 竜頭山には山姥の伝説があって、明光寺の裏のクラキ山(佐久間駅東の愛宕山)で、山姥が3人の子を産み、そのうちの長男の竜築坊が竜頭山の主になり、次男の白髪童子が戸口山の主になり、三男の常光坊が常光寺山の主となったことを「遠江(とおとうみ)風土記伝」が伝えている。

 山姥伝説が、遠江の民衆にとって何だったのか、それを伝える人はすでにいない。ただ、山の神が、山姥やオオヤマズミの娘の木花開耶姫のように女性であることについて、ほのかな想像をすることはできよう。

 私の思うところ、これは実に単純な理由である。自然界の2大存在は、すくなくとも日本にあっては山と海であった。儒教風土が男女の和合をもって社会の鎮めとした伝統思想(日本的体臭というべきか)を考えれば、山のイメージは荒々しい突出の陽物であって、したがってその鎮めは女性でなければならない。

 逆に、海のイメージは広く深い包容力の陰物であって、その鎮めは男性でなければならない。ゆえに、山の神に女性が多いのは、山と海からなる日本の風土が、ごく自然に醸しだしたまったくナチュラルな帰結であろうと思うのである。

 だが、今では山の神が恐妻の代名詞であったことを知る若者も少なかろう。かつて、山の民を代表した木地師達は、木工ロクロを回転させるのに妻の手助けを必要とした。だから、木地師の妻の発言力は強かった。それが、「山の神」というあだ名を生んだのではないかと私は考える。

 しかし、やがて動力を水車などで代用することが普及するにおよんで、山の神の威力も衰えたのかもしれない。もっとも、荒れ狂うと手のつけられぬ山の神も、訴訟ばやりの日本ではシラケてしまっているのではなかろうか。
 これらの民俗伝説も、日本中を金太郎飴のように平凡化し、管理に便利な組織化・統一化が図られようとする、おしとどめがたい画一化潮流のもとで激しく侵食され、風前のともし火といっていいのだろう。

 今、それらを書き留めるには、すでに遅きに失しているかもしれない。しかし、だからこそ、私はそのような伝承に惹かれ、いとおしく思い、遺さねばと焦らずにいられない。

 山住峠から秋葉山に至る稜線は、龍のうねるような長く明確な尾根である。天竜川の向かい側の、奥三河の山々からそれを望むと、ちょうど竜頭山こそがくっきりと頭をもたげた最高地点であることが分かる。龍の山と、龍の川なのである。

 かつて、山住神社が秋葉神社の奥社であった頃、この長い尾根には多くの参詣者や修験者が、山々の神気を心ゆくまで愉しんで通行したにちがいない。人々は、当時珍しかったはずの杉の美林に感嘆し、しばしば足をとめたかもしれない。山住や秋葉には、樹齢1000年を超す巨杉もあった。これらの杉も、室町前期の植林と伝えられる。

 山住家第23代の山住大膳は、江戸初期から、この稜線一帯に膨大な植林を行なった。「大膳亮手鑑」(たいぜんのすけ、てかがみ)によれば、吉野地方から入手した杉苗による植林本数は、実に36万本を超したと記される。
 そして、それらの見事に育った美林が、天竜林業の礎を築いた。しかし、その大部分はすでに伐採され、現在は2世代3世代目の植林地になっているものが多い。この山域は、いわば日本の植林事業の原点なのである。

 それらの針葉樹材は、江戸時代すでに大規模寺院建築に使用される大型用材が不足していたなかにあって、天竜川のおかげで運搬が容易なために人気をよび、多くは上方や江戸へ運ばれていった。

 また、今でこそダムのために面影はないが、浅瀬や瀞や激流と多彩な変化をみせていた天竜川のような河川では、通常の海船ではたちどころに座礁破損してしまうので、剛性よりも柔軟性に主眼をおいた、底が広く喫水の浅い形式の高瀬舟(角倉舟)が多く用いられた。良質の天竜杉は、それらの用材ともなり、天竜川の水運の主力となった。天竜杉は、天竜川と一体のものであったのである。

 前日、まだ明るいうちに浜松に着いた。ずいぶん夜が遠くなったものだ。浜松インターから天竜市を経由して天竜川沿いに152号を走ると、たいした時間もかからずに龍山村に達する。

 このあたりから伊奈谷にかけての山村では、部落が山の急斜面にへばりつくように点在していて、夜間は部落のある山がまるでクリスマスツリーのように幻想的に見える。このような集落の光景は、木地師村に特有のもので、冬期積雪の少ない一部の山間地方にしか見ることができない。木地師がこのような山地に住んだ理由は、柳田国男が「史料としての伝説」のなかで詳しく考察している。

 まだ寝るには早すぎる。することがないときは飲むしかない。最近見た静岡新聞に、龍山村の秋葉茶屋という長く休業していた村営レストランに、南アルプス二軒小屋ロッジにいた若夫婦が経営に入ったと書いてあった。懐かしい二軒小屋の管理人氏なら、どういう店か様子を見たくなった。

 国道の秋葉山入口を過ぎて数キロ走ったところに看板があった。右下に降りる旧街道をしばらく走ると、一回転するために方向感覚を狂わせるややこしい橋を渡って左にわずかでその店があった。明かりは点っていたが、すでに閉店していた。あまりに早い。どうやら、いっぱいひっかけの客層とは無縁のようだ。

 方向が定まらず、目的地に向かうのに苦労したが、秋葉茶屋の前の道は、天竜川の左岸道路になっていて、そのまましばらく走ると秋葉ダムに着いた。橋を渡った龍山村最大市街の生島の部落は、コンクリートの殺風景な建物もある。並びにあった仕出屋さんで飲んだ。

 地元の人か数人飲んでいて、竜頭山の登山口をたずねると、大輪部落からであることを親切ていねいに教えてくれた。龍山村の過疎について話をもちかけると、あまり触れたがらない様子だった。しかし、なかのひとりが、

 「33ナンバーなんかの豪勢な車に乗ろうとさえ思わなけりゃ、十分田舎で生活できるんだよな。なんてったって、メシ代が安くあがるんだから。」
 と語った。田舎暮らしは傍目で見るほど楽じゃないが、食えないというほどのものでもないという。

 「ここらあたりは、田舎でも夜の飲酒運転の取り締まりがキツイから気をつけろや。」
 という忠告を受けて、近くの駐車場で一晩を過ごした。
 翌朝、工事中の国道を走り、大輪橋で天竜川を渡ると、そこから佐久間町大輪であった。教えられた通り、立派なトイレと案内板の前を右手の川伝いに100mほど戻ると、左手のガケの上に竜頭山登山口の標識があった。

 右手は秋葉ダム水域になっているのだが、立小便をしていて真下に古い石地蔵を見つけた。それには「水没者一切の霊」と刻まれていて、ダム工事の犠牲者の碑かとも思ったが、よく考えてみると、天竜川水運の隆盛期に相当な水死者がでていたという記述を思いだして納得がいった。

 登山道は、びっくりするほどよく手入れされた立派な道である。木馬道であった。おまけに、桟木の上には幅50センチほどの擦り跡がついていて、これがバリバリの現役の木馬であることを示していた。私も数多くの木馬道を歩いてきたが、現役にでくわしたのはこれがはじめてである。感激であった。

 杉木立の木馬を緩い傾斜でトコトコと1時間半ほど歩くと、途中何本もの枝道を分けるが、かまわずにまっすぐ行けば、道は沢筋からはなれて尾根道を行くようになる。ここでやっと登山道らしい道になり、全山植林で埋め尽くされているかとも思えた竜頭山も、あたりまえの雑木林に変わった。

 上部は、山住家の植林地帯らしくて、樹齢200年以上の見事な杉林もあった。さすがに林業開闢の地だけあって、手入れが実にゆきとどいている。
 2時間半ほどで稜線に達した。そこは遊園地のように整備されていて、大アンテナ設備まである。スーパー林道が冬期閉鎖されているからいいようなものの、シーズン中なら車から500mも離れると大冒険をしているようなつもりのメデタメデタの大衆が、騒がしい場所である。といっても、私も数年前に車で訪れているのだからエラソーにと自分をわらうのであるが。

 山姥の子でもハダシで逃げだす人為的山頂の展望はないが、わずかに離れたあずま屋から、このところ通っている遠州山地の全貌を見渡すことができた。
 素晴しい天気のうえに、誰もいなくて、展望指示板のおかげで、京丸山・常光寺山・麻布山・黒法師三山・不動岳・大無間山などを指摘することもでき、見事な眺望を楽しんで飽きることがなかった。

 反対側の奥三河山地を見渡せば、ポツリと高いのが20分で登れる愛知県最高峰の茶臼山で、その右手奥のひときわ見事に吃立した白亜のピークは大川入山であろう。ここは一昨年登ったが、期待にたがわぬすばらしい山であった。その先に、恵那山から中央アルプスの尾根筋も見えた。

 頂上直下の雑木林で、キハダの樹皮を少々失敬した。整腸薬に使おうというのである。これは効くのだ。ただ、私の次に登ってきた男は、ナタを手にした私を一瞥して、挨拶も無視して横を向いて通り過ぎた。官僚機構の巨大犯罪にはおそれいるばかりで、このように些少な罪に対して鬼のように厳しい人物は大勢いるものだ。といいながら、私は後ろめたさを抑えることができなかった。


 奈良代山  1624m
(磐田郡水窪町地頭方戸中の水窪ダムより、90年 3月17日)

 16日は寒い雨の日だった。こんな天気では、高い場所では雪模様だろう。憂鬱だったが、条件反射的惰性のために、頭脳を無視して体が勝手に遠州に向かってしまった。
 水窪町には元禄茶屋という良い食堂があるが、良い飲屋はないかとグルグル探し回ると、水窪警察署のそばに「玉之屋」という看板がでていたので入ってみることにした。ちょっと裏に入りこんだところに店があって、ノレンをくぐると、マスターの他に一組の男女がいた。

 こぎれいな普通の酒場で、オデンなどがメニューで、とりたてて珍しいものはない。奈良代山のことをたずねたが二人とも知らないようだった。私が山登りに来たと言うと、男性は、

 「親の心配も考えずに、どうしてあんなことをしたがるのか。」
 と全然ユニークでない発想で語りかけてきた。このような質問には辟易していて返答に戸惑ったが、話題を変えて、いろいろ調べていた地誌について触れると、私が水窪史についてたくさん知っているので驚いていた。

 女性は、私を「魅力ある」と言ってくれた。私は、普段、浮浪者のような身なりをしているので、胡散臭そうに見られるだけなのだが、こんなこと初めて言われた。
 男性は、神原の耳塚氏と言い、姓氏のいわれを調べてくれと頼まれたので、後に、大日本姓名辞典で調べると、項目はあったものの記述がなく、期待に沿えなかった。

 しかし、戦国時代の激しい戦闘で首級を持ち運ぶ余裕のないときに、耳を切り取って働きの証拠にしたことは普通だったようで、それらは耳塚に埋葬されたにちがいなく、印象深いこの地名が姓名に変わるのは自然なことだ。

 この付近でそのような大規模な戦闘が行なわれたのは、1575年、織田信長と武田勝頼による長篠の戦いで、これは世界戦争史上初の画期的な鉄砲による近代戦だったから、これがおそらく耳塚の由来になっただろうと思う。耳塚氏は、私より5年ほど年上だが、女性と待ち合わせたりして、なかなかヤリテのようだ。うらやましい。

 奈良代山は、麻布山登山口の手前の左に分岐する林道に標識が出ていた。
 尾根を絡む道を車で走ると、急斜面の尾根にへばりついている峠や根の部落を見てどんどん高度をあげてゆく。ここらの家の破風には、菊の紋章が刻まれていた。しばらくで、「水窪自然クラブ」という宿泊所や体育館の完備した立派な施設がある。ここは夏期のみ営業で、この時期はヒト気がない。

 ここから、水窪湖を隔てた対岸に、視界いっぱいの麻布山が見え、その重厚で貫禄のある姿に圧倒された。安定感のあるすばらしい姿だ。
 このあたりから新雪がでてきた。林道は地図よりもはるかに奥まで伸びていて、ほとんど奈良代山の直下までいっていた。雪が深くなったが、4WDのおかげで終点まで行った。

 針葉樹林の歩道にはテープがたくさんついていて迷うこともなかったが、標識にしたがう切り拓かれたばかりの道は、山頂を巻くようにつけられたひどく歩きにくい道で、なんでこんな道がつけられたのか疑問だった。しばらくで尾根の分岐があって、まっすぐそのまま歩くと戸中林業事務所の方へ降りていってしまったが、コンパスを見て誤りに気付き、あわてて山頂方面に戻った。

 林道の終点から1時間もかからずに達した山頂は、全然展望がないのでがっかりである。黒沢山方面のヤブ尾根を歩くと、ところどころ腰まで雪に埋まり、ワカンがなければ歩行不可能であることを思い知らされた。しかし、そこに登り道と別の道を見つけたので降りて行くと、突然、幻想的なまでに美しい1ヘクタールほどの湿原とおぼしき空間にでくわした。これが山登りの醍醐味なのである。

 どうやら、これが山名の由来となった奈良代のようだ。このときは新雪に覆われて殖生を確認できなかったが、すばらしい高層湿原であることはまちがいない。これで、登り道が変なつけかたをされていた事情も納得がいった。こんなところに、手軽に来させないほうがよいのは当然である。これを見るのは、私だけでよろしい。

 帰路、新雪の下のアイスバーンに気づかず、なんでもない傾斜で滑落した。全然止まらず、ヤブに突っこんでやっと止まった。冬山セットを持参しなければ危険であった。なめてはいけない。

 これは、山神様のご機嫌を損ねているのであろう。宮崎日出一氏からいただいた手紙には、山神はオコゼが好きで、オコゼとはすなわち陽物のことであって、山中で困難が生じた際に見せることで、まことに霊顕あらたかであると記されていた。山神様は女性なのである。

 これは、助言に沿って見せねばならない。そこで、まわりにヒト気のないのを確認して、変態気分を満喫しながら見せてまわったのであるが、とたんに再び滑落してしまった。
 これはいけない。私の思うところ、山神様の好きな一物は、使い込んで黒光した見事な代物でなければならず、私の貧しい一物では逆効果のようだ。

 ところで、そのための代用品こそがオコゼであって、オコゼとはいっても本当の毒のあるオコゼではなく、柳田国男の「山神とオコゼ」によれば、ガシラと呼ばれるカサゴを干物にしたもののようだ。魚屋でガシラを望見すれば、それがいかに陽物の化身であるか一目瞭然なのである。

 秋田のマタギから九州椎葉の猟師にいたるまで、猟に入山するときは、オコゼを守神として持参したという。日向の猟師はオコゼを紙に包んで持参し、狩の前にこう祈る。
 「オコゼ殿、オコゼ殿、今日は一頭の猪をとらせてくだされ。そのお礼に、あなたにこの世の光を見せましょうぞ。」

 といって、紙でオコゼを包む。願いの通り猪がとれると、また紙で包む。なんのことはない、オコゼ殿をだますのである。だから、先祖から伝わった古いオコゼになると、とれた猪の数だけの紙に包まれていて、誰もその中身を見たものはいない、と柳田は書いている。なんという麗しい風習なのであろう。

 ところで、宮崎日出一氏は、金剛山六千回を含む一万回を超えるほどの比類なき登山を行っておられる方だが、氏の紀行文集である「山岳巡礼」を拝見すると、たびたび山中で一物をお見せになっておられるようだ。

 車に戻ったのは10時で、時間もあり欲求不満なので、秋葉山に行った。
 もう新雪は溶けていて、山頂駐車場に車を置いて歩いた。十年ぶりの再訪だが、前回とは大きく様変わりしていた。鉄骨製の回廊風階段が設置され、山頂の神社もコンクリート製の実に無愛想な代物に変わっていた。なるほど、これなら二度と消失することはないだろうが、こんなもの八百長だ。シラけるばかりである。

 この神社の経営者たちは、とんでもない思い違いをしているようだ。こんなコンクリートの低俗な建物に、神様が安らかに鎮座するとでも思っているのだろうか。神霊は、いにしえを好むものと相場が決まっているのである。
 およそ神様が住まわれるからには、建築後最低でも百年以上、できれば三百年以上を経ていなければならない。そうしてやっと、建物は自然に同化し、八百万の霊魂が棲みつくとともにジワジワと神気に包まれてゆくのである。

 私の見るところ、三尺坊の魂は再び越後に逃げ帰ったに違いない。ああ、これからは火事の多い厄年が続くことになろう。すべては、秋葉神社経営者の軽率に帰せられねばなるまい。
樹齢千年を超す巨杉は健在だった。そこから両部神道で有名な大権現秋葉寺に降りる尾根はヒト気もなかった。いまどきの参詣者は、車から数百メートルも歩かないのだろう。三尺坊の宿舎は、もう長いこと営業をしていないように見えた。世間は、何もかも車利用を前提に再編されてゆく。車に無縁な世界は滅び去るのみなのだろうか。


 黒法師岳 2067m (磐田郡水窪町水窪ダム戸中林道より 91年3月21・22日)

 数年ぶりの寒い冬も、3月に入るとさすがに辛いほどの厳しさも薄れ、「暑さ寒さも彼岸まで」という先人の格言通りに、めまぐるしい周期で晴と雨の日が交互に続き、一雨ごとに山の色彩も密かに移ろってゆく。
 そんな彼岸の日、2日の連休をとって念願の深南部主稜へとでかけた。南アルプス主稜も、光岳以北は大部分を歩いているのだが、深南部の主稜については、池口岳などわずかしか登っていない。

 不動・丸盆・中ノ尾根・信濃俣などの魅力的な山域はまだこれからであるが、ヒルの多い夏期よりも、水の心配をしなくてすむ積雪期の方がよいかもしれないと考えている。今回めざすのは、あこがれの一等三角点である黒法師岳と、できれば丸盆岳や不動岳も行ってみたかった。だが、天候には恵まれない。

 水窪ダムの、戸中林道をどんどん走ると黒法師岳の登山口があるはずだった。途中、長者屋敷跡という古跡には、宝篋印塔という石灯篭が残っている。これは中世中国伝来の珍しいもので、なぜこのようなものがここにあるのか謎に包まれていが、どうやら、南北朝時代、ここを拠点に北朝に対してゲリラ戦を展開した南朝方宗良にまつわる遺跡であるらしい。

 水窪ダムから10キロほど走ると戸中林業事務所の大きな建物が見え、その前には頑丈なゲートが行く手を塞いでいる。9時頃に到着したとき、すでに数台の車が停車していた。ここから歩かねばならない。

 ここで、普段から車に積みっぱなしにしている装備をまとめた。さすがに、3月の2000メートル級山岳だから、まじめにピッケル・アイゼン・ワカンの冬山セットも持参することにした。テントや、悪場として有名な鎌ナギ通過用のザイルなども含めると、優に30キロ近い荷物になってしまった。

 ながらく重荷を担いでいなかったので、ひどく重く感じる。足どりも重く林道を進むと、2時間ほどで右上に目指す黒法師岳はじめ、丸盆や不動のきびしい姿が魅力的に見えるようになる。とりわけ、鎌ナギ付近の稜線のシルエットが、中アの仙崖嶺に似ていて個性的な見事さである。

 戸中ゲートから8キロも歩くと、右手に日陰沢林道の分岐があって、そこに黒法師と不動の看板がでていた。地元山岳会のものである。
 ここまで来る間にも林道は相当荒れていて、数トンもありそうな巨石が道路の中央に落ちていて、車の通行は不可能のようだった。日陰沢林道はもっと凄くて、崩壊が進んで完全な廃道になっている。

 荒廃したこの道を1キロも歩くと、右手に青いトタン葺きの小屋があって、左手の山腹に踏跡がついている。赤布が取り付けてあるから、ここが等高尾根の登山口なのだろう。小屋は充分に使用可能で、しかも快適そうだ。旧営林作業小屋を登山者の便宜に提供していてくれるようだ。これを見て、ここに泊まって軽装で駆け登った方がよいかとも思ったが、時間も早すぎるし、たまにはテントで泊まるのもよいと考え尾根に向かった。一服の後、出発は昼過ぎになった。

 しかし、登りはじめてしばらくで、重荷を背負ったことを後悔するハメになった。このコースはよく踏まれているとはいっても、笹薮は深く急で、かなり歩きにくい。おまけに、1500m地点あたりからアイスバーンになってしまった。まったくペースに乗れない。普段の運動不足が響いてか、珍しくバテてしまった。

 めったに休憩などしない私が、5分登っては5分休むような悪循環に陥ってしまった。ルートは、いつまでもカリカリの氷の斜面が続いている。斜面が急なので、滑落したら樹林帯といえどもただではすまないだろう。アイゼンを装着した。
 軽装なら1時間半もあれば充分な尾根道に3時間以上も費やして、稜線に飛び出したのは、すでに4時近かった。尾根の上部は、南アルプスらしいシラビソやブナの快適な樹林帯になる。

 稜線はさすがに雪が深くて、ところどころ股までもぐった。ワカンつけなければ全然歩けない。昨日の大雨で、雪が腐ってしまっているのだ。かと思うと、アイゼンの歯もたたないようなアイスバーンも出現したりする。

 これでは、丸盆や不動どころのはなしではない。黒法師岳でさえ、たどり着けるかどうか危ぶまれる。いずれにせよ持参のテントを設営することにした。 稜線の小広い地点に荷物を広げると、持参したはずのテントのポールが見あたらない。
 他にも、ラジオや飲料水用の濾紙なども忘れている。このときばかりは、とうとう早発性痴呆症か慢性アルコール中毒性脳変性を発現したのではないかと真剣に心配になった。でも、よく考えたら、これが私の本来の姿だったことを思いだして安心した。

 幸いナタがあったので、近くの木の枝を伐採してポール代わりに用立て、ことなきをえた。雪水も、昨日の新雪が残っていたので、濾紙を使うまでもなかった。ただ、ラジオを忘れたのは退屈で困った。この日は、ここでそのまま寝てしまうことにした。
 わりあい暖かい日で、3シーズンシュラフしか持ってきてなかったが、十分に寝ることができた。夜半、雨がテントを叩きだした。しかし、しばらくでその音も消えた。

 朝4時に起きてみると、天井が垂れ下がっている。チャックを開けると、テントの上に雪が積もっている。外には、およそ20センチの新雪があった。これは予想外だ。この日の天気は、それほど悪いという予報ではなかったはずだ。
 ところが、稜線の向こうに見える前黒法師岳は、明らかな上下の二重雲にとり巻かれていた。これはまずい、二重雲は悪天の確実な前兆である。数時間後には、豪雨になる可能性が考えられた。

 不動岳はともかく、ひとつも登らずに逃げ帰ったのではカッコウがつかない。せめて黒法師だけでも登らねばならない。食事も取らずに、あわてて駆け出した。ワカンを装着し稜線を行くと、右手にガレ場を見て急な尾根を登るようになり、等高尾根分岐より1時間ほどで山頂に達した。と書くと簡単だが、実際は結構大変な歩行になった。

 黒法師岳の本峰頂上付近は、実に美しい針葉樹の森である。ゆるやかな頭峰で、展望は皆無であった。それでも、森の雰囲気がすばらしいので充分に満足することができた。ここにはエックス字型の変則三角点標識があるはずなのだが、1mの積雪に埋もれて全然わからない。興味はあったがどうしようもなかった。

 深南部の山々のなかでは、三角点の置かれたこの黒法師岳と大無間山は、古くから知られていた。旧榛原郡誌に、明治42年7月の、孟八郎による黒法師岳登山記がでている。
 「黒法師岳に上るには、大間・河内より入る。湯山より西にはケヤキ・ハンノキ・モミ・栂等の混淆樹林にして、下湯沢より上湯沢に至り、これよりは斧鉞入らざる密林にして森の下草は概ね熊笹なり、この辺までは冬は猟師通ひ、夏は黐取り入るといふ。
 焼畑のあたりに山葵沢あり。これより深く入れば雑木は少なくして針葉樹となり、青ナギ沢より西沢山を上がり青ナギ點に出づ。ここにては、東及び東北に奥法師・前黒法師を見、西南に板取・たばねぼつ・川上等を望むべし。

 これより西北に下りて大久保の小屋にい出づ。更に東北にたどり二ツ山にい出づべし。ここには針葉樹・ブナ・樺等を生ず。黒法師には五尺余の熊笹簇生ず。頂上は樹木なく、円盤状の小平地にして一等三角点の設あり。
 さて、二ツ山より更に方向をかへて、前黒法師に上がるべし。前黒法師には熊笹はなくして栂の密林ありて、その下には高野万年苔・甲苔等を布き、間々梅鉢草・舞鶴草などを點綴す。

 頂上には黒松・唐桧・ビャクシン等簇生し、三等三角点を置く。これより南に下りて湯沢に至るべし。」

 これでみると、明治末にはすでに一等三角点が敷設されていたようで、その頃には頂上に樹木はなく、すばらしい眺望だったにちがいない。孟八郎は、現在の寸又峡温泉の源泉地を経て上ったようだ。

 さて私だが、黒法師山頂にやっとの思いで到達したものの、すでに小雪がちらつき始めていた。やがて本格的なミゾレとなり、もう丸盆岳にまで足をのばす意欲は失せた。急いでテントを畳み、7時には下山を開始した。

 昨晩のうちに新雪が積もったため、昨日の自分のトレースが完全に消えてしまっていた。等高尾根には標識テープがついているが、枝尾根が錯綜した恐ろしく複雑な地形で、テープを見失うと地形図とコンパスだけではとても下れそうもない。
 2、3回もルートを失い、元に戻って慎重に確認しなければならなかった。急なアイスバーンの下りはアイゼンをつけていても相当な危険を感じたが、1時間半ほどで日陰沢林道に降り立った。

 戸中山ゲートまでの道は長かった。雨は予想通り豪雨に変わり、ズブ濡れになって歩いていたのでひどく寒気がしてきた。車にたどりつき着替えると、心からホッとため息がでた。
 帰路、水窪の元禄茶屋名物のジンギスカンで腹ごしらえをして帰った。ここは肉屋も兼ねていて、旨い焼き肉を食べさせてくれる。そういえば、秋葉茶屋の名物もジンギスカンなのだが、この地方の名物がジンギスカンである理由は、平地が極端に少ないため、傾斜の強い山腹で飼育可能な羊を飼う農家が多いためであるという。


 麻布山  1685m
(磐田郡水窪町地双、水窪ダム湖、戸中大吊橋より 91年2月24日)

 麻布山は、秋葉山にはじまり常光寺山を経て黒法師岳に至る長い稜線に頭をもたげた、息をのむほど重厚な貫禄の山である。
 この山の背後に、前黒法師山1782m(前黒法師岳1943mとは違う)があって、その奥に鎮座する名峰黒法師岳に至る稜線伝いに踏跡があるという。この日は、前黒法師山をめざした。

 3月はじめに、京都の伊藤潤治さんから「日本山嶽誌」の深南部についての抄粋をいただき、添付の手紙には、山嶽誌に記された栃生山(戸中山)が麻布山であると書かれていた。ついでに書くと、恵儀岳は中ノ尾根山、西俣岳は塩見岳ということで見解が一致した。

 ちなみに伊藤さんは、過去にこの地域の多くの山を踏破されておられるヤブアルピニストの超ベテランで、77歳の今もバリバリの現役で、もはや超人というしかない方である。
 古い地図を見ると、戸中山の標高は、ほとんど麻布山のものになっているし、他の山々から望見した姿も、麻布山のピークの雄偉な姿がひときわ目立つので、かつて、この山が戸中山であったことは疑いない。現在の戸中山は、前黒法師山との間の1610mのピークに位置づけられている。

 登路の資料が得られなかったので、2・5万図通りに、水窪ダムの戸中吊橋からの破線路をめざした。
 ところが、この日、今冬最大で数年に一度しかないマイナス50度以下の寒気団が日本上空にきていた。天気予報は最悪で、日本全国(珍しく太平洋側も)雪模様であった。しかし、懲りもせず23日夜、出発した。まったく非常識というしかない。

 24日も、幸い戸中吊橋までは支障なく来れ、空模様も、ときおり薄暗くなるものの、青空の見えることもある程度だった。冬靴が壊れているので、スノーシューズを履いて出発した。
 吊橋を渡ると道は右手の山腹を上がる。キリキリする寒気のなか、最初からサラサラの新雪の中を歩くことになった。

 作業小屋を過ぎると、左手の尾根を上がる。右手に廃屋を見て、わずかで右の草むらに小さな石碑があって、板橋城水没記念碑となっている。水窪ダムによって水没した史跡を移したものらしい。
 その先5mほどに、右手に登る分岐があったのだが、この時は気づかずに真っすぐの良い歩道を歩いた。どんどん歩くと、伐採現業地の尾根になった。見事な杉と桧の植林地で、木曾の美林にも匹敵しよう。

 ここの切ったばかりの桧の年輪を数えると、約200〜250輪ほどであったので、これこそ山住家の植林地なのだろうと思った。
 年輪気象学というのがあって、その地域の過去の気象データは、古木の年輪によって正確に確認できるという。興味をもって、しばらく観察することにした。

 この植林は、江戸中期のものらしいが、後期までの100年間は、稀に見る順調な生育を示している。ということは、この地域は江戸後期まで非常に温暖な気候に恵まれたということである。徳川幕府が長期に渡る支配を確立しえたのも、この温暖の恵みによってであろう。民衆は、食える限りにおいて、権力のどんな横暴でも我慢することを、すべての歴史が証明している。

 ところが、百数十年前、浅間山の噴火やクラカトア火山の噴火に伴う大冷害の発生期、つまり天保天明の大飢饉の年前後は、異常なほど年輪が詰まり、この傾向は百年ほど前まで続いている。そして、食えなくなって明治維新が起きた。最近では、50年ほど前にも年輪が詰まっている。戦争中だろうか。

 このような観察は、ぜひお勧めしたい。各地域によっての差異を発見するのは興味深いものである。これこそが、学ぶというものだ。
 伐採用の道をつめると、上部で道は消えてしまった。新雪のなかなので見失っただけかもしれない。とにかく、強引に尾根に這い上がることにした。

 よじ登った主尾根に、立派な道があった。おそらく木馬道であろう。この地域の山は、登山者がほとんどいないわりに、しっかりした道の多いのは、古くから木地師が深い山奥に居住していたことと、現在もなお、山里の住人と山との日常的な結びつきが強いためであろう。

 この日、狩猟シーズンも盛りで、ここまで散弾銃の発射音が絶えることなく聞こえ続けた。もしもライフルなら、本気で流れ玉の心配をしなければならないほどであった。
 対岸の峠や戸中部落の付近からである。いったい、何千発撃てば気がすむのだろう。あれほどの玉が全部命中していたら、南アルプスの生きものが全部死んでしまう。だが、下手な鉄砲は数撃ってもあたらない。

 どんどん登ると、尾根が痩せて急登になった。このあたりからサラサラの新雪の下に恐怖のアイスバーンが出現した。簡易アイゼンでは歯がたたない。ピッケルも持参せず、怖い思いをした。

 稜線に出ると、積雪は1mほどあるようだった。大きな雪庇がでていて、吹き溜りでは腰まで埋まる場所もあった。ラッセルに苦しんだが、しばらくで山頂の平原地形に達した。ここまで、吊橋からおよそ3、4時間みればよかろう。雪上に踏跡は皆無であった。

 広大な山頂平原は、数ヘクタールはあろうか。シラビソなどの針葉樹林が密生し、見通し皆無で方向感覚が分かりにくい。帰路は自分のトレースに頼るしかない。
 樹林の中に半ば倒壊した小屋があったが、使用不能と思われた。その先に、山頂らしき切り開きがあった。だが、このときにわかに黒雲が天を覆い、心配していた風雪が舞いはじめた。これで前黒法師はあきらめ、ただちに下山することにした。途中から、非常にイヤな予感に包まれていたからである。

 やがて激しい降雪がはじまった。みるみるうちにトレースが埋まってゆく。あわてて降りようとするが、アイスバーンで何度も転倒し、雑木につかまりながら必死で降りた。
 やっとの思いで、緩くて歩きやすい山道に戻り、朝通らなかった良い道にしたがって下山すると、トタン葺の社のある伐採地を経て、石碑のそばで朝の道に合流した。そこに赤いポリ紐をつけ、無事に車にたどり着いた。

 帰路、水窪町から豊橋に出たが、この地域に珍しい積雪が始まっていた。豊橋インターから岡崎インターまで東名高速を走ったが、妖気とでもいうか、なにか異様に不安な印象を持った。
 余談だが、私は最近、トラックを運転中に突然、ある大きな橋の上で欄干を突き破って川に転落する幻想にとりつかれて怯えた。翌日、その場所にくると、車が川に転落していて、運転手は死亡したと新聞にでていた。

 この夜、この付近で、降雪によるスリップのため2台のJRバスを含めた80件の衝突事故が発生し、死者9名、負傷者100名余の大惨事になったことを知ったのは、白銀の世界となった翌朝であった。

 毛無山 1946m(90年5月26日)

 富士山の好展望台として知られる天子山地の毛無山は、全国に30座余りある毛無山の最高峰だそうである。東京にいたときに、このあたりの山は総ナメにしたつもりだったが、調べたら未踏で残っていた。しかし、200名山に取り上げられていなければ、わざわざ行かなかったかもしれない。

 土曜の夜、国道52号から4月に買ったばかりの4WDバンで身延町を目指した。下部温泉から湯の奥まではマシな道で、それから狭い林道になった。しかし、2・5万図の登山道の取りつきはまったく分からず、いつのまにか大きなトンネルを抜けて訳の分からぬ場所に出てしまった。手持ちの地図には、こんなトンネルの記載はない。ここが、どうやら朝霧高原であることが分かったのは、富士宮市の灯火が見えたからである。

 湯の奥に戻り、適当な道傍で車泊した。翌朝ゆっくりと車道を探すと、地図の位置から2Kmほど先の、右に沢が近づいた石の擁壁の上に標識があった。地図に記された中山尾根のコースは、廃道になっていることを後に知った。ところどころにある、中山金山の道標にしたがって登る道は、しっかりしているが急登である。

 やがて江戸時代の中山金山の、女郎屋敷跡や代官屋敷跡などの施設跡が現われる。隔離した場所で働かせる男たちの不満を緩衝するには、性的奴隷を置くに限る。このあたりの伝統は、第2次大戦中、従軍慰安婦として朝鮮の人々の子女を強制連行し、日本兵の慰みものにした日本人の体質に引き継がれている。このとき「処女供出」を命令した日本軍関係者は、戦後も断罪されることなく政権に復帰したのである。日本政府はいまだにこの事実を認めていない。

 女郎の多くは、朝鮮人・沖縄人子女の従軍慰安婦と同様、役に立たなくなれば真っ先に殺害されたであろう。ここと似た金山跡でしばしば見かける「女郎落とし」などという地名は、そのものズバリである。

 ここまで、奇妙なことに気がついていた。登山道のすべてに掘り返したような跡がある。よく見ると、道にある岩や石が取り除かれているのである。金山跡の広い敷地は立入禁止のロープが張られ、テント式の携帯トイレや休憩所まで設置されている。これで、誰かオエライサマのが登山するための準備であることが分かる。

 誰かといえば、おそらく「ナントカノミヤ」であろうと思われた。バカげた話である。日本人がかくも愚かであるとは。いろいろ書きたいが、ものを言う気力も失せそうだ。明治以前、京の貴族が地方へ行くと、土地の人間は、貴族の浸った湯をありがたがって飲んだそうだが、この人達も同じ類か。

 現代日本にも「裸の王様」の逸話が、まかり通り続けているとはアホラシの度が過ぎる。自分に自信のない者は、権威や肩書に頼るしかない。これを「虎の威を借るキツネ」という。

 登山口から1時間半ほどで、突然、富士山の巨望が飛び出す。稜線からの、雄大なすばらしい展望である。富士を狙うカメラマンは、馬鹿の一つ覚えのように三ツ峠山に集まるが、周囲にはいくらでも良いポイントがある。メダカのように群れたがる人間は、決して良いものを得られない。

 稜線の道はさらに急になるが、30分ほどでゆるい美しい尾根となる。ときどき南アルプスの眺めが良い。しばらくで毛無山の山頂に着く。登山口から2〜3時間というところだろう。富士山の眺めの良い、小広い草原である。一等三角点の測標が据付けられていた。

 ここには「天子山地の最高峰」という看板が立っているが、どう見てもその先のピークの方が数十メートルは高い。一体どういう目をしてるのかいな。
 そこで、最高峰を目指して40分ほど歩いたが、潅木と薮の、どこがどうだか訳の分からぬ山頂であった。200名山には、ここが大見岳という名で、1975mの標高であることが記されていた。

 帰路、久しぶりに登山者に出会った。やはり、中年の単独行であった。この人に、「ナントカノミヤですかね?」と聞くと、「たぶん、そうでしょう」といわれた。
 下部温泉の保養センターで一風呂浴びたが、瀘過された薬品臭い湯であった。湯舟から川を見ると、典型的な金鉱床の白い石英岩層が目についた。ヒマがあれば掘ってやるのだが、しかし、ヒマはない。


 大無間山 2348m 静岡市井川田代より 90年7月7・8日

 大無限山も深南部の盟主として君臨し、一度は登らねばならない。これまで登っていないのが不思議なくらいだ。金曜の夜、大無限山をめざして、岡崎ICから東名にのって袋井ICでおり、金谷から大井川を遡って井川の田代に入り、車中で泊った。途中、千頭の町は七夕でにぎわっていた。

 翌朝、いまにも雨が降り出しそうな曇天を出発した。
 田代の部落から始まるはずの地図に記された登山道は見つからず、地元の人に尋ねると、部落の北のはずれの神社の鳥井から尾根を登るとのことだった。
 教えられた通り参道を登ると、数分で左手に沼津カモシカ山岳会のつけた大無限山の道標があった。

 しばらく快適な小道が続いたが、不調でメシが食えなかったので早々とバテた。しかし、そこはなんとかゴマカシながら3時間ほどで電波反射版のある小無限小屋に着いた。ここまでの道の状態は、想像していた悪路と違って、なんの不足もない良道だった。

 小無間小屋は、中部電力の巡視用施設である。登山者に便宜をはかるために開放されてはいるが、避難小屋ではない。しかし、なかなか良い小屋で、一晩を過ごしてみたい魅力がある。当然、水場はないが、雨水をためるドラム缶が置いてあり、落葉が澱み大量のボウフラが湧いているが、漉して沸かせば飲めぬこともなかろう。ボウフラは良いダシがでる。

 ここからは南アらしい原生林の尾根を行く。踏跡もヤブに覆われ探しずらい。いきなり鋸刃の急登、急降下が続くが、言われるほど危険な場所ではない。しかし、なかなか手強い尾根だ。もう小無間の頂上かと思うと、まだ先にピークが続き、バテも手伝ってイヤケがさしてくる。

 やがて雨が落ち始めた。ヒルを心配したが、なんとか無事に、小屋から2時間で小無限山の頂上に達した。
 頂上は、美しい原生林のなかの快適な小平地である。すてきなテント場だが、大無限山に至るこのコースは水を下から持ち上げるしかない。

 ここまできて、メシヌキのバテが一度にやってきた。もう大無限山まで達するには肩と足が重過ぎる。雨もひどくなり、しばらく歩いた末に引き返すことを決断した。
 小屋に戻ったのは3時半であった。まだ十分降りられる時間だが、なんとなくこの小屋に泊まってみたくなった。

 やがて、雨はものすごい土砂降りとなって小屋のトタン屋根を激しく叩いた。誰もいない薄暗い小屋でラーメンを作ると、やっと食欲が戻ってきた。
 小屋には落書帳が置いてあり、思い付いたことを書き込んだ。夕闇を迎える前、一瞬空が明るくなったので外へ出てみた。電波塔の前は開けていて周りの山が見える。やがて、数キロ先の指乎の間に、霧の薄衣を纒ったピラミッドの大無限山が姿を現わした。威厳のある見事な姿であった。私は、ここまで来れたことだけでも満足できた。

 夜、再び豪雨となった。どうやら小屋泊は正解らしい。私のツエルトではこの雨は防ぎきれなかっただろう。
 翌朝も激しい豪雨は続いた。田代に着いたときは下着までビショ濡れとなった。

 大無間山の山頂には、1993年9月に登頂した。同じルートで、田代から山頂までおよそ8時間程度かかり、山頂の測量櫓の板の上で幕営した。
 小無間山から大無間山までは緩い尾根歩きで、登山者が増え踏跡がはっきりしてきたたこともあって迷うことはないが、水を持参したほうがよい。煮炊きを避けてパンなどですませれば、水も少なくてすむ。私はウーロン茶の2Lペットボトルを2本持参し、それで不足はなかった。

 8月にアマチュア無線のライセンス(JG2AHS後にJP2AVS)を取得し、交信を楽しみながらの山旅で、山の楽しみが増えて喜んでいる。ここから、わずか1Wの出力とハンディアンテナで奈良県と交信でき驚いた。
 帰路、いつもの接岨峡温泉に行ったところ、道路や建物が激変していて、またまたびっくりさせられた。バブル経済で余った金を、無理にこのような形で消費しているのだろうが、私には、数十年後の悲惨な廃虚のイメージしか見ることができない。愚かしいばかりだ。
 鄙びて落ち着いた雰囲気の良い鉱泉だったのだが、すっかりイメージが悪くなり、入浴の意欲も失せてしまった。


 これは深南部の山ではないが、ついでに掲示
 笊ヶ岳  2629m(91年8月4・5日)
 
 笊ヶ岳はイザルガ岳とも言う。ザルのような頭峰からつけられた名であることは明らかだが、大無間山のようにもう少し神秘的な名前がつけられていたら、これほど不遇でなかったかもしれない。だが本当は、行った誰もがうなる、日本有数の秘鋒といってよい名山である。

 金曜の夜、畑薙ダムサイトに車泊したが、遅くに来て駐車場でエンジンをかけ放しにするジープに眠りを覚まされ、いいかげんヒステリーが起きて、「エンジンを切れ」と怒鳴ってしまった。これではヨメさんの来手がない。翌朝、他の車泊者は、私を怖そうに眺めた。

 二軒小屋に至るこの林道は、赤石ダムの工事のため、平日はひっきりなしにトラックが通過して埃を舞上げ、日曜は沼平のゲートは閉ざされる。フォレストのリムジンバスは当分運休である。大井川基幹林道の通行は相当に不愉快である。この工事が終わるまで、ルートは国道52号から雨畑・布引山経由か、転付峠経由をお勧めしたい。それに、その方が荒れていないから快適であろう。

 沼平のゲート前に駐車し歩き出す。約40分で畑薙大吊橋を分け、そこから1時間と少しで、笊ヶ岳登山道の標識にしたがって新設された中の宿大吊橋を渡る。渡り終えた場所には左右に踏み跡があり、どちらをとっても良い。

 右にとれば、草薮のなかを河原に降りて上流に歩く。左にとれば、トラバースルートを上下しながら行く。約500mほどで右からの中の宿沢を渡り、梯子を上がったところに笊ヶ岳の所の沢コース取付点があり、標識がある。

 ここから標高差1000mの尾根を登る。
 最初の200mHは、薮をかきわけて歩く。やがて、うるさい薮も消え、普通の登山道になる。ところどころに海抜標高標識がある。

 1600mHで、ルートは一旦100mほど左にトラバースをして尾根を変えて登ることになる。しかし、このあたり草薮が繁茂して迷いやすいから要注意である。1900mHからは、所ノ沢への3Km程度の大トラバースに入る。前半は快適であるが、やがて崩壊地やトゲ木・トゲ草のオンパレードとなり、ガケの上の倒木帯を行くようになり神経を使う。相当荒れていることを覚悟した方がよい。

 ガレの崩壊を20mほど下がって巻き、二つの沢を越えると僅かで所の沢に到着する。朝6時に沼平を出て、昼にはここに着いてしまった。所の沢のテント場は、テント5張程度の小平地で、脇に小沢が流れている。真夏のためアブやダニ、ノミなどの害虫が多くて閉口した。ということは、ここは獣道にあたっているようだ。ツエルトは軽くてよいが、底の合目から虫が入ってたまらない。

 この上には水場はない。昨日から気になっていた台風はどうやら房総方面に向かうようだ。時間的にもっと上に行きたいが、風も出てきたしここで幕営することにした。
 翌朝、うまいぐあいに台風は去り、5時に頂上に向かった。所の沢越まで200m、それから尾根伝いに布引山に向かう。コブを越えると急に踏み跡が悪くなった。

 ここは伐採跡地である。林野庁が資源を略奪した後、見せかけの植林をしたものの、手入れを怠ったため、無残に荒廃しているありふれた風景である。林野庁は、伐採の理由について森林の再生を挙げる。だが、それがどれほどひどい欺瞞を並べたてたものか、私はさんざん見せつけられてきた。

 ルートは完全に草薮に覆われ、あちこち探してもわからない。やがて、自分の帰り道さえ見失ってしまった。やむをえず、コンパスをたよりに強引に尾根を進むと、しばらくして踏み跡が現われた。ここで40分損をした。

 布引山の登りは、右手の大きなガレ沿いに登る。涼風が吹いて気分がよい。所の沢から、およそ3時間で布引山頂に着く。山頂で雨畑へのよい道を分けると、すぐに快適なテント場がある。しかし、水が得られないのが非常に残念だ。ここは樹林の尾根なので、風の影響も少ない。

 笊ヶ岳まで、ここからゆるくて長い吊り尾根を歩くが、道はさほど悪くない。右手に富士山が美しく見えている。1時間と少しで頂上に達する。ここまでうるさい樹林の中を歩くので、展望への期待も薄れるが、頂上に着いたとたん、ハイマツと岩稜の尾根となり、「スゴイ!」とうなるような大展望が開ける。

 このような展望を「絶佳」というのだろう。これまで立った南アルプスの、どの山頂よりもすばらしい大パノラマである。
 東に小ザルを前景にした富士山が実に見事で、北には甲斐駒か北岳か、見事に吃立した鋭いピラミッドが胸を打つ。西には、膨大な山体の荒川三山と赤石岳が屏風のようにそそり立ち、南には深南部の峰峰が大きく広がり、赤石沢には、面白くない施設だが、赤石ダム湖がエメラルドに輝いてみえる。

 今日中に名古屋へ戻る予定なので、ゆっくりしていられない。30分程度でなごり惜しい山頂を後にした。9時半に下山を始め、所の沢着が12時。ツエルトを畳み、エサをかきこんで12時半に出発し、3時半に大井川林道に降り立った。ここへきてバテがきて、大休止をした後、沼平着が6時。

 沼平の飯場の北側の階段の下にビールの自動販売機がある。これは救いであった。ビールで栄養補給をするうち、チクチクと痛む腕を見ると、数百箇所の切り傷で血まみれになっていた。途中のタラやバラ、アザミなどで切り裂いたものである。暑くとも、半ソデはやめたほうがよい。

 車を飛ばし、田代のオデン屋に飛び込んだ。ここのモツ串は抜群に旨い。ビールで流しこんでやっと息がつけた。帰り、接阻峡の300円温泉に浸かった後、名古屋へ帰ったのは12時になった。


 これも、深南部でないが、オマケ
 農鳥岳 3026m(91年1月1日)

 最初に南アルプスに入山したのは、もう15、6年も前のことで、そのときは畑薙ダムから上河内・聖・赤石を踏んで再び畑薙に戻ってきた。その夏は雨が降り続き、ほとんど青空を見なかった記憶がある。山行中展望のあったのは僅かで、下山のときも豪雨によってバスが不通となり、井川まで歩かされた。

 土砂崩れの危険の中を一緒に下山したなかに、台東区で八百屋さんを経営しておられた島さんがいた。島さんは、後に自分のビルを惜しげもなく売り飛ばして縞枯山荘の経営者となられ、今では北八ツを代表する名物オヤジである。

 13号台風の直後に光岳に入山したときは、畑薙ダムに浮いた犠牲者の遺体を引き上げる場面に出くわした。この人は、林道が崩壊したので斜面のトラバース中に崖崩れに巻き込まれたらしかった。また、台風による猛烈な倒木を越えるのに必死で、何度も迷ったことが印象に残っている。

 悪沢岳では、腐った雪の斜面のトラバースを50メートルも滑落し、ピッケルのピックが刺さらず、ブレードに切り替えて辛うじて命拾いしたものの、以後、私はトラバース恐怖症になってしまった。

 南アルプスの入山には、いつも何かしら事件がつきまとっていた。しかし、なぜか南アルプスにくると気持ちが落ち着くのである。北アルプスはレストラン、南アルプスは大衆食堂、やはり私にはメシ屋が似合う。

 南アルプスのジャイアントは、農鳥岳・間の岳を含むこの山行で全部踏み終わったことになる。一番ポピュラーなコースが、一番最後になった。それというのも、北部に最初に入ったのが鳳凰山で、ここのゼニゲバ鉱泉(失礼!御座石鉱泉)の印象があまりに不愉快で、なんとなく北部のイメージが悪くなったせいかもしれない。

 89年の暮れまで仕事が忙しく、30日の夜、奈良田温泉に車泊した。ここの湯は、部落の共同洗濯泉の水が暖かいので、掘ったら温泉が出たそうである。非常にキレイな湯で、決してゼニゲバでない。だが、年末年始は飛び込みで泊まれようはずがない。
 31日の早朝、30Kgを超す荷物を背負って、大門沢を登り始めた。標識はないが、通行止めのトンネルの脇の林道を登れば、道なりに登山道になる。

 最近、南アルプスでは正月の降雪が少ない。本来、正月に沢コースをとるのは、雪崩の危険があって勧められないが、最近はまったく危険を感じない。この日も雪の舞う中を進んだが、大門沢小屋までラッセルらしいラッセルはなかった。朝から他の登山者を見かけなかったので、もの悲しい気分だ。

 大門沢小屋には昼過ぎに着いたが、この上は農鳥小屋まで施設がないのでここに泊まるしかない。冬は当然無人である。
 小屋には下山組らしい大学山岳会のパーティがいた。20畳ほどの小屋の隅に荷を置いて食事の支度を始めると、驚いたことに、彼等は小屋の板敷に早稲田大学と書かれた大きなテントを3張も設営し始めた。
 
 私は目を剥いた。以前、恵那山から富士見台に下山した際、小屋の中は雪上訓練中の中津川労山のバカモノどもがテントで占領して泊まれず、頭にきて下山したことを思い出した。そのときから、私は労山を軽蔑している。

 大学山岳会は、これほどに落ちぶれたのかと唖然とした。かつて、アルプスの入山者で、標高2000mに満たないこんな小屋で、小屋内に幕営するものはいなかったし、そんなことをしたら皆にバカにされただろう。ところが、この後にやってきた3人組の関西人登山者は、これを見て自分たちも小屋内にテントを設営した。

 それから初老の登山者がきた。この人は無言で彼等を睨み付け、外の雪原にテントを設営した。夜、このバカダ大学山岳部の学生どもはテントの中で酒宴を始め、大騒ぎを始めた。私は「うるさい!」と怒鳴りつけた。それで静かになったが、そんな配慮ができるなら、なぜ外で幕営しないかと無性に腹が立った。

 決して寒くない一夜が明けた朝、外は新雪が数十センチも積もっていた。私は一番に出発し、ラッセルを続けた。登山道沿いにカモシカの足跡が延々と続き、ルートファインデングの手間を省いてくれた。
 沢を詰め上がった頃、左手の尾根にカモシカの姿が見えた。このあたり農鳥の主稜が見えるが、ひどく遠い。

 広河内岳に向かっての最後の登りは、本当に厳しい。これほどに息の苦しい登りを経験することは稀であろう。最後の急登は10歩登って10息休まねばならなかったが、無事に大門沢下降点に着くと、それまでの苦労は簡単に忘れてしまった。しかしこのあたりは、下降のときはルートが分かりにくく、しかも非常に危険が多い。

 農鳥の登りは、これまでの登路に比べれば散歩道である。しかし、風雪がひどく、セーターとヤッケではひどく凍えた。正月だというのに、稜線は岩稜と土がむき出しになり、アイゼンをつける場所はなかった。そして視界がないので、ひたすら歩き続けることになった。

 西農鳥岳は、農鳥岳よりもわずかに高い。雰囲気から言えば、こちらが主峰といえるかもしれない。このあたり岩稜で、農鳥小屋への下りは悪いトラバースもあり、このコース中一番の難所である。
 風雪で気温が低い。おそらくマイナス20度以下だろう。体感温度はマイナス40度程度だろうか、ヤッケフードの口元が凍りついて閉じず、顔が吹き曝しになった。後で、鼻の頭や耳がひどい凍傷を起こすことになった。

 関西人の3人組は、私と同じペースできたからかなり強い人達だ。しかし、他の数人の登山者は誰も来ない。
 農鳥小屋は数十メートル手前まで分からなかった。大きな小屋だが、冬期小屋は15畳程度だろうか。だが、この小屋の中も、テントで占領されていた。今ではこれが冬山の常識なのだろうか。私は雪洞で泊まることが多く、小屋はあまり泊まらないので、この光景に驚くばかりだ。

 前日の学生たちに頭にきていたので、私は「小屋の中にテントを張らねばならぬほど寒ければ、冬山に来なければいいのに」と大声を張り上げた。するとテントの中がモソモソと動いた。
 一緒に着いた3人組は、その晩テントを張らなかったが、「寒い寒い」と呻き、私を恨めしそうに睨みつけた。

 「寒けりゃこんなとこに来るなよ」と言いたかったが、しかし本当のところ寒いから、稜線ならば設営もやむを得ないだろうか。この夜、マイナス30度近くまで下がったかもしれない。この日、他の登山者はとうとう現われなかった。次の朝も吹雪だった。やはり1番で出発し、間の岳に向かった。

 吹雪は強く、視界も踏み跡もなかった。だが、ところどころ雪が吹き飛ばされて地面の黄色ペンキが見えるので、それを頼りに歩く。間の岳へは尾根ではなく広い雪原のトラバースである。なかなかルートが分かりにくく、コンパスに頼ろうにも寒くて出せない。膝上のラッセルを重ねて高い方に登ると、やがて頂上に達した。頂上は腰までの新雪とアイスバーンに覆われた運動場のようなところである。

 展望皆無で、ガスと吹雪がひどい。道なりに歩くと三峰岳に行ってしまった。戻るには精神力を要した。間の岳の頂上で北岳への縦走路を探したがまったく分からない。コンパスで方向は分かるがどこから降りてよいのか見当が着かない。途方にくれていると、しばらくしてガスの切れ目に、ほんの一瞬尾根筋が見えた。「これだ!」と叫んだ。それは本当に頂上直下から真北にあった。腰までのラッセルで進むと踏み跡が現われた。

 北岳稜線小屋には、何度も迷いながらも昼頃に着いた。途中、誰とも出会わなかった。もうこれ以上進めるような天気でなかったので、ここに避難することにした。ここの冬部屋もやはりテントで満杯だった。しかし、ここはコンクリート床なので、テントもやむを得ないだろう。

 濡れた服を乾かすために、私もテントを張った。後で畳むつもりだったが、結局畳まずに寝てしまった。私もいいかげんな男だ。
 ここで以前、双六岳でお会いしたことのある千葉の石渡武夫さんと再会した。石渡さんは穏やかな人柄で、どう見ても40代の前半だが、実際には50才を越えているという。遅くから山を始められたが、単身北鎌尾根や鋸などの危険な縦走も済まされ、100名山の完登も近いモーレツおじさんである。石渡さんも、私のことを覚えていてくれて嬉しかった。

 夜になっても、農鳥小屋方面からは誰も来なかった。どうやら、大門沢を登った20名近いメンバーのうちで、ここまでたどり着いたのは私一人らしい。皆、引き返したのだろうか。

 翌朝はすばらしい快晴となった。出発は石渡さんが1番で、私が続いた。北岳へ向かう稜線は、朝のまばゆい光を浴びて輝いているようだ。日本アルプスや奥秩父の、見慣れた山々が全部見えた。ところどころ、新雪のトラバースの難所で緊張させられた。

 八本歯への分岐で石渡さんに追いついたが、今日中に帰宅したいとのことで、私が静岡まで送ることを申し出た。八本歯へは胸までのラッセルで苦労した。ここは岩尾根をたどらなければならない。八本歯は新雪でナイフリッジになっていて、相当に神経を使った。しかし、石渡さんが先導してくれたおかげで、私は出る幕がなかった。

 池山吊尾根のコースは、ここからボーコンの頭までは、雪さえなければ天上の楽園の遊歩道である。途中で登りの登山者に出会って、やっとラッセルから解放され、醍醐味を味わうことができた。

 石渡さんは、雪中歩行がうまく、ついて行くのがやっとだった。私はズボラで、アイゼンさえ外すのが面倒で(疲れたときはコケルとこたえる)、とうとうそのまま林道まで降りてしまった。だが、本当はスキーの達人なのですぞ。

 ここから奈良田まで、延々と凍結した林道を歩かねばならない。しかし、鷲住山を越えて芦安へ出るよりは多少マシなはずである。それでも、話し相手がいなければ1日で北岳小屋から奈良田まで歩く気にはならない。奈良田まで、およそ5時間は本当に辛かった。

 奈良田で石渡さんが家に電話をかけたら、奥さんが泣いていたと恥ずかしそうに言われた。この方は奥ゆかしい人なのだ。静岡駅では、石渡さんにおごらせてしまった。ごめんなさいね。


 熊伏山 1653m
(長野県下伊那郡南信濃村下和田より 90年8月20日) 

 「信州百名山」の著者、清水栄一さんが自著の中で遭難したと紹介した熊伏山は、日本300名山にも含まれている。
 南アルプス光岳から池口岳へ向かう稜線は、中の尾根山で黒法師岳に向かう長大な尾根を分け、兵越、青崩峠に落ちこんだ後、熊伏、観音を盛り上げて佐久間湖に消える。
南信の平岡は今でこそ過疎村だが、ところどころ、ありし日の栄華を偲ばせる建物が残り目を楽しませてくれる。

 かつてパルプ産業が盛んであった頃、また天竜水運華やかなりし頃、平岡は有数の花街として知られたこともあるという。
 日曜の夜は平岡から青崩峠に至る途中で車泊した。月曜の早朝、青崩峠の終点に車を止めたが、地図にある峠道のはずの小道の入口には「これは峠には行けません」という看板がかかっていた。

 2・5万図をどう読んでも、ルートはこの小道以外考えられなかった。はっきりしないまま、この道を詰めることにした。
 上部にきて、この道が青崩れガレの土留工事道で、本当のルートは左の尾根にあるらしいことが分かってきた。

 幸い工事の人達が登ってきたので聞いてみると、やはりそうだった。しかし、左のガレを強引に詰めれば熊伏山への稜線に出られるとのことだった。
 教えられたコースを行くと、しばらくして踏跡は消え、稜線まで100mほどの高さのガレ場となった。ところどころ土止柵があるので、岩ナダレの心配は少ないが、3歩登って2歩ズリ落ちるイヤな登りとなった。詰めは傾斜50度近くなった。とても立てないので、草につかまって四つんばいで進んだ。だが、やがて進退窮まる状態になり、冷や汗で背中が冷たくなった。

 万事窮したか、と思ったとき目の前にシカのフンがあるのを発見した。「シメタ!」と思った。ケモノ道なら踏み固められているだろう。案の定、そのわずかなベルトだけズリ落ちずにすんだ。ケモノ道を進むと、やがて稜線の踏み跡に達した。
 稜線には熊伏山への登山道があった。これはまた三方崩岳のような急登である。ガレで神経を使ってバテたが、やがてゆるい美しい原生林の尾根道になり、休み休みのぼっても下から2時間かからずに頂上に着いた。

 頂上は、鬼面山と同じく一等三角点であった。よい頂上だ。池口岳は鬼面山からの美しい姿と比べると、いくぶんボテッとしている。大沢渡のスカイラインが美しい。
 ここも鬼面山も、冬場の好天に登れば、向かいの小八郎鳥帽子と同じく、伊那谷の大観が得られるだろう。しかし、平岡側へ抜ける道は、ひどく荒れていた。頂上には落書ポストがあって適当なことを書いた。

 下りは青崩峠に降り立った。峠は丸太で展望台が拵えてあり、数百m先に4トントラックが止まっているのが見受けられた。どうやら、佐久間方面からの方が近そうだ。
 道はしっかりしていた。下に、小さな御堂があった。ここは秋葉街道、塩の道であり、武田信玄の史跡である。信州街道とも呼ばれる。

 下り着いた国道林道で、朝、間違えた理由が分かった。2・5万図では林道の終点から峠道が始まるが、実際の峠道は、終点より100mほど手前の、小屋の先にあった。入口に工事用資材が無雑作に置かれていたため、標識に気づかなかったのである。
 帰りの車中で、ズボンに黒いシミがべったりと付いているのに気付いた。血糊であった。「やられた」と呻いた。

 ヒルである。単独行でヒルにやられることは滅多にないのだが、ケモノ道を通ったせいだろう。これは完全に止血するまで3日かかった。


 七面山 1982m(90年9月2日)

 9月の声を聞いて、多少とも涼しくなってくれることを期待したが、まだまだ猛暑が続きそうである。こんな暑さのなかでは、1000m程度の稜線では苦しい。やはり2000m欲しい。ついでに温泉とビールが欲しい。私の願いは、ささやかで可愛い。

 200名山・300名山と睨めっこした末、近くて未踏の七面山に登ろうと思い立った。しかし52号経由ではゼニがかかる。安くあげ、前記の条件を満たすには、日帰りで梅ヶ島温泉経由がよいと決定した。登りは八紘嶺だけで、あとは長いが上下の少ない尾根道だからなんとかなりそうな気がする。

 土曜日、仕事が早く終わったので、国道1号線を静岡まで走ることにした。私はプロの運ちゃんなので、このくらいどうということはない。名古屋から静岡までおよそ4時間、梅が島温泉までは、さらに1時間程度かかる。ここに着いたのは夜の10時であった。

 登山口はすぐに見つかったが、ここから身延に抜ける林道が完成していたことは知らなかった。この道を利用すると、1時間以上も節約になるが、夜間は通行止めで、しかも朝は7時半にしか開けないそうである。これでは利用できない。だから旧道を辿ることにした。

 夜遅くまで走ると、なかなか寝つかれない。寝ついたのは12時過ぎだろうか。早朝4時前に、無遠慮な人の声で目が覚めた。大声で、「車に人が寝ている」と喋っている。「余計なお世話だ、早くあっちへ行け」と思った。

 再び目覚めたのは、今度は6時過ぎであった。とんでもない朝寝坊である。このコースで七面山を往復するには、おそらく5時前には出発しなければならないと踏んでいた。
 飛び起きて、インスタント焼きそばのエサを流し込んで出発した時刻は、6時40分を回った。

 安部峠の登山口は、梅ヶ島温泉街から5分ほど登ったところにある。よく踏まれた道で、最初は、最近では珍しく手入れの行き届いた杉林を登る。杉は、カラマツのように自然に放置してはうまく育たない。良い用材に育てるには、かなりの手入れが必要である。最近は林野庁が、現場で本当に必要な人々を削減して、不要無用のムダメシ官僚を温存しているので、植林の状態は劣悪なところが多い。

 良い杉は、強い殺菌力を持っている。昔は、酒造所で酒に雑菌が繁殖すると、杉の葉を漬込んで殺菌した。だが、こんな酒は杉の芳香成分が溶け込んでいて、悪酔いしやすい。しかし、燗をすれば大丈夫である。今の酒は、燗をつけなくとも悪酔いしない。むしろ、合成物質による慢性肝臓疾患の方が心配である。

 こんなわけで、昔の酒屋の看板は、酒林と呼ばれるクスダマのような杉の葉の玉か、杉の枝葉であった。今では酒林は都会ではみかけないし、このことを知る若者もほとんどいないだろう。

 この殺菌力を利用して、種菌を接種したキノコの原木を杉林に移して、雑菌から原木を守る方法が普及している。自然界で杉林に出るキノコは、杉の朽木に出るスギヒラタケくらいだが、栽培キノコは、杉林の中で育てられるのである。

 だが、杉のこんな性質が裏目に出て、杉林の中は腐殖が少なく、生命の温床ではない。また、動物の餌も生産せず、保水力も保土力も劣る。だから、杉林はみかけはキレイだが、生物の生活や崩壊防止に有利でないことを知っておいた方がよい。ただ、落葉が抜気式浄化槽のような役割を果たすので、良い水が出る。

 雑草すら生えないこの道を注意深く観察して歩けば、このことをよく理解できるだろう。(後日、林業者に聞いたところ、理想的な杉林には適度の下生えが必要だそうで、このような無毛地帯では土壌のバランスが悪く、杉の品質も悪いといわれた。)
 さて、1時間ほどこの道を登ると、先程の身延へ抜ける林道にでる。安部峠へは林道を歩き、八紘嶺へはすぐに左に登る道に入る。

 八紘嶺までは良い道が続くが、途中、富士見台と呼ばれる切り立ったガレの上では足元に注意しなければならない。初めて現われた、見事な富士山に見とれて転落すると、助からないかもしれない。
 尾根筋を1時間ほど歩くと、やがて左手にダケカンバ・ヒメコマツ・ブナ・カバなどの、ひどく混生した原生林が現われる。だが、右手の林は伐採後の二次林のように見受けられる。

 登山口から2時間半で、八紘嶺の頂上に着いた。頂上は広く、立派な、壊れた温度計の着いた標識が立っている。富士山や南アルプス南部の展望がよい。山伏方面には、これまでと同じ良い道がついていた。

 20分ほど休憩してから、七面山に向けて出発した。まだ9時半だが、時間的には苦しい。せめて4時前に梅ヶ島に帰り着かないと、温泉もビールもだめになってしまう。
 何を隠そう、私の山行の目的はピークハンティングではなく、実は温泉とビールなのである。山はビールのための、絶対に欠かせぬ調味料のようなものだ。というわけで、温泉に間に合うピークを目的地にすることにした。

 七面山への稜線は、いきなり足元の見えないササヤブである。だが、踏み跡はしっかりついている。8月は山中で誰とも出会わなかったが、この分では今日も貸し切りだろうか。
 笹薮の、これといって特徴のない尾根は、約200メートル下降してから、広く深い樹林の中を歩くようになる。だが、ここには尾高山や池口岳のような、動物の棲息痕は少ない。

 しばらくして、前方に気配を感じた。「熊か」と身構えたが、来たのは中年男女の4人連れであった。最近、こんな山で若者を見たためしがないが、7月以来の登山者との出会いで、嬉しかった。

 ついでにいうと、私は若い頃から、予知とテレパシーの超能力に優れているようだ。「だいじょうぶか、この人」と思うあなたは、自分自身で生きてきたことのない証拠である。
 自分以外に頼れない環境に置かれた人ならば、誰でも超能力を自覚するものである。私は、近いうちに起こる事柄がおぼろげに見えるのである。だから自分の死も、的確に予知できるだろう。

 このときも、何ものかと出会うことを予知したのは数百メートルも手前であったし、ミゾオチの奥に不快感を覚えれば、必ず悪いことが起こる。この予感で、過去何度も登山途中に引き返している。また、他人の腹づもりを知るのに、言葉など必要でない。

 さて、七面山への稜線は、このあたりで踏み跡も途絶えがちになるが、やがて急な登りを過ぎると、はっきりした道になる。八紘嶺から1時間半で登り着いたピークが、1964mの七面山第2三角点である。ここはシラビソの疎林で、南アルプス本峰の眺めがよく、ここから引き返しても後悔しないだけの値打がある。

 もうここまで来れば、七面山に登ったといってもウソではないが、温泉に間に合う時間で、行けるところまで行くことにした。ここからヤセた美しい、亜高山帯の樹林の尾根を縫うように行く。地図上も、七面山まで登降差はほとんどない。涼しく非常に快適である。

 約40分ほどで、急に樹林が開け、伐採跡の尾根に出る。少し行くと、希望峰と書かれた木板の打ちつけられた、小広い山頂に出た。ここからは、南アの眺めがすばらしい。山伏、笊ヶ岳、農鳥岳と、白峰山脈の全部が見えるのではあるまいか。上河内か聖だろうか、ぬきんでた風格の峰も見える。

 時間は12時を回った。私の超能力が、ビールの遠ざかるのと、何かしらの不安をを告げている。目の前に見える杉林の山頂が、七面山本峰に違いない。しかし、あそこまで行くと、かえってこのすばらしいイメージを壊すような予感もした。ここも十分に七面山だろう。私は、温泉とビールに引っ張られるように、引き返すことを決意した。登山口から5時間半の山頂であった。

 帰路、最近の恒例として、要所に冬用の赤標をつけながら戻った。この尾根は、冬でも危険の少ない、快適な縦走ができそうである。
 八紘嶺に戻ると、山頂はガスに巻かれ小雨が降り出した。これが雷雲だと厄介だが、幸い雷鳴は聞こえなかった。さっきの不安はこのことだったのだろう。急いでかけ下って、登山口に戻ったのが3時半である。温泉街に戻り、川向こうの梅ヶ島温泉共同浴場に行くと、日曜日だけあって超満員であった。

 幸い、温泉は4時まで営業で、無事に浸かることができたが、あまりのんびりと浸かる雰囲気ではなかった。ただ、この温泉は山あいの鉱泉かと思っていたら、なんと硫黄臭の強い火山性温泉であったのにはびっくりした。富士火山帯に属するのだろうか。そういえばフォッサマグナも近い。

 ビールは温泉街で入手できず、途中の酒屋で買って飲むことになった。1・5リットルの薄めたウーロン茶を持参したが、不足するほどの山行だったので、このビールの値打は数十万円級の銘酒を上回ったであろう。

前黒法師岳 1943m
(榛原郡本川根町寸又峡温泉より 90年4月13日)

 4月13日は仕事が暇で休みをもらえた。ところが、せっかくの連休はまたしても天候不順であった。土曜日の午後から大荒れになるという。せめて悪くなる前に、大急ぎでどこか登ってしまうことにした。狙い目は、不動・丸盆・中の尾根というところだが、残念だが、日帰りの山を選ばねばならない。

 12日の夜静岡方面に出発して、東名高速の車中で寸又峡温泉の山に決めた。途中、袋井インターで降りて、「静岡県の山147座」というガイドブックを購入し、寸又峡温泉の駐車場で前黒法師岳に決めた。この本には、寸又峡からは沢口岳・朝日岳・前黒法師岳の3つがでていた。寸又3山というそうである。

 寸又峡温泉は南ア登山の帰りに幾度も来ていて、よく知っている。駐車場には立派なトイレもあり、車泊には抜群の条件が揃っていて、温泉も、最近300円で入れる町営の露天風呂公衆浴場ができている。

 この温泉は子供の頃から記憶にあった。というのは、30年近くも前と思うが、キンキロウ事件というのがあって、在日朝鮮人の金氏がライフルを持って温泉に立て篭もった大事件があったからである。この事件は、臭いものにフタをしたがる日本人に、民族差別の現実を考えさせるきっかけになったと記憶している。

 この事件の当時は、義務教育に沖縄は存在せず、東アジアにおける日本人が民間人一千万人を殺害した暴虐も知らされず、朝鮮の婦女子が日本軍将校のための売春婦に強制徴用された事実も完全に隠蔽され、政府官僚は、「日本がそのような行為を行なった事実はない」と平然とシラをきっていた。

 上から下まで権威による嘘が充満する日本で、日本に大勢の朝鮮人が強制連行されて居住し、差別迫害されている事実を世間に知らしめたのがこの事件であった。これらの悪夢のような日本人の犯罪を考えれば、原爆やソ連のシベリア抑留などエラそうに弾劾できた義理でないことが思い知らされよう。

 寸又峡温泉は、1936年、大間ダムの建設現場で偶然発見された。といっても湯山・湯沢などの地名が昔からあったのだから、温泉が湧出することは古くから知られていたのだろう。現在は、奥大井渓谷最大の観光地になっている。この温泉が今日のように有名になったきっかけは、上記の事件だったようだ。だから、忘れ去られている恩人金氏のライフル所持像くらい建立してもよいのではないだろうか。実にユニークなのだが。

 13日、朝7時に出発すると、6時までは青空だった空も、すでに鱗状雲に包まれてどんよりとしてきた。異常に暖かい。
 桜・梅・椿・コブシ・ツツジと、全部まとめて一斉に花をつけた温泉街を過ぎて、ゲートから林道に入ると、わずかで右下が深く切れ落ちた寸又峡である。立派なトイレを見てトンネルをくぐると、高さ100mの飛竜橋に出る。途中右下の大間ダムに降りると「夢の吊橋」とやらがある。

 ここに、「日本の残したい自然100選、寸又峡谷」という大きな看板がかかっているが、目の下は殺風景なダムのコンクリート塊で、対岸には無謀な林道建設によって大規模な崩壊を起こした山肌が無惨で、遊覧歩道も猛烈な落石でズタズタに破壊されているのを見ると、皮肉以外のなにものでもないと思える。

 飛竜橋を渡って左手の林道に入ると、200mほどで前黒法師岳の標識のついた鉄梯子があった。 急な道を高距100mも登ると、突然石組の部落跡にでた。尾根にへばりついたこの部落跡は、戸数およそ20戸もあったかと思える。50年くらい前までは人が住んでいた形跡があって、朽ちた材木や鍋釜ストーブが残っていた。

 資料がないので詳しいことは分からないが、この西側の谷が湯沢と呼ばれ、寸又峡温泉の源泉地になっているので、ここは孟八郎が黒法師登山のおりに経由した湯沢の部落ではないだろうか。当然、木地師の里だっただろう。
急な斜面にあえいで杉の植林を1時間も登ると、広くて快適な尾根に合流する。ここに栗の木段と書かれた標識があった。この尾根上は、どこにでも幕営できそうだ。ここで休憩せずにはいられない。ここから気分のよい原生の疎林になる。

 しばらく幅広い尾根を緩やかに登り、ふたたび急で狭い尾根を喘登するようになると、しばらくで右手からの大きな尾根に合流する。この尾根にも踏跡がついていて、朽ちた標識もあるので、どうやら古い廃道のようだ。地形図を見ると、実に快適そうな尾根である。
ここから、道はしっかりしてはいるが歩きにくくなる。標高1700mのあたりでシロガレの頭と書かれた標識を見て、やっと前黒法師の本体が見えたが、すでにガスに包まれていた。

 突然、大音量の鹿の鳴き声がして驚いた。私も反射的に「ワ!」と叫んだので、向こうも驚いただろう。このあたりから雪がでてきて、道には大量の鹿のフンがいたるところに落ちている。
 このフンは、日本鹿とカモシカのどちらも同じような形なので見分けがつかないが、鹿が走りながら落とすので散在するのに対し、カモシカは止まってするのでまとまるのが特徴である。ここのは、まとまっていた。

ヤブのなかで「ドドド」という音がした。わずかで、道に真新しい掘跡があった。イノシシが何かの根茎を掘っていたようだ。ユリ根だろうか。
 前黒法師の登りは、両手足を使うような急登である。半月ぶりなので苦しい思いをした。傾斜が緩くなると山頂の広い尾根になり、残雪に50センチも埋まりながら100mほどで看板のある小広い山頂についた。

 ちょうど11時で、寸又峡の駐車場から標高差1400m、所要4時間だ。このルートでは山慣れない人は入らない方が良さそうだ。結構ボリュームのある行程であった。重装備の幕営縦走では、ここらまでで1日行程になってしまいそうだ。

 ところが、実はこの山には山犬段方面から林道がついていて、車利用では終点から30分程度でここに来てしまえるのだ。なんとも不愉快な話だ。実際、私のたどったコースの雪上には足跡が皆無だったのに、頂上には林道方面の切り開きから足跡がついていた。もっとも、現在、林道は崩壊して通行不能だから、歩いてきたのだろうが。

 山頂は四方を木に遮られて展望皆無だった。あったとしても、このガスでは同じことだ。雨も本降りとなり、独りで恒例の万歳三唱の後、直ちに下山を開始した。
下山途中、栗の木段から土砂降りになった。
 登山者が少なくて土が緩んでいるので、ズルズルと滑る。林道に降りると、高いガケの上からすぐ脇に大きな石が落ちてきた。猿か鹿が落としたのかもしれない。危うくお陀仏のところだ。林道にカモシカが出ていて、数mまで近寄ってゆくと、信じられないような急崖を寸又川に降りていった。寸又峡温泉には2時間で着いた。

 300円で露天風呂のチケットを買い、新設の風呂に行くと、番台には親切で感じの好い初老の男性がいて、「登山ですか」と話しかけてきた。「ヒルにやられなかったかい」と尋ねられ、「裸になってみないと分からないですね」と答えた。

 幸い、ヒルに喰われてはいなかったが、ここはこのような雨の日は、ヒルの名所なのだという。アルカリ性単純硫黄泉の、石鹸の泡立ちの好い風呂をゆっくり楽しんで着替えると、服にヒルがうねっていた。この時期、まだ動作が鈍いのかもしれない。

 一般に単独行はヒルにやられにくいようだ。昨年1年間で51回の登山のうち、ヒルにやられたのは1回だけだった。それも熊伏山のケモノ道だから、普通の登山道ではあまり心配する必要はなさそうだ。
駐車場までの数百mは、足がいうことを聞かなくなって辛い思いをした。車にたどり着いたら、全然歩く気がしなくなった。ややオーバーワークのようだ。

蕎麦粒山  1627m
(榛原郡中川根町大字上長尾字尾呂久保より 91年3月3日 )

 この日は、京丸伝承による伝説の親王、尹良(由機良)の首が祀られたはずの、高塚山に登るつもりだった。ここには、盗掘された痕跡のある墓塚らしきものがあると、文献に記されている。
 ルートは、2月10日に登ったばかりの大札山の先の蕎麦粒山から、前黒法師岳に結ぶ稜線の、千石平の手前で左手に分岐すればよいはずだった。

 2日夜は、尾呂久保部落の入口にあって、オロチ伝説の伝わる小さな池の小公園に車泊した。すばらしく整備されている場所で、清潔そのもののトイレもあって、快適であった。このトイレは、宿泊に使えそうだ。

 尾呂久保へ向かう道は、南アルプス赤石幹線林道(スーパー林道)の中川根町入口から入るのだが、分岐に標識がないので分かりにくい。中川根町(上長尾)に入ったら、国道の出光のスタンドが目印になる。そこに、小さな「ウッドハウスオロクボ」の看板があって、尾呂久保まで車で30分ほどである。

 まだ明るいうちに着いたので、部落を見てまわった。落ち着いたたたずまいの、本当に美しい部落である。ここは他の山村と違って、無人の家はなく、住人がこの部落をを心から愛して住んでいる様子がうかがえる。
 でも、いったいどうして食べてゆけるのだろう。広い茶畑があるにはあるが、農林水産業を壊滅させようとする現在の政治体制のもとで、山村の農林業だけで生計をたてるのは非常に厳しいと思える。

 夕暮れが迫って、近くの家で話し声が聞こえたので、訪ねてみた。御主人に、部落の起源などについて話をうかがうことにした。
 この家の方の話では、部落の伝説によれば、武田信玄の四天王が、遠山城落城の際に落武者としてこの地に逃れ先祖となったとのことだった。しかし、この部落の寺に残された伝承から、600年程度の歴史があるということで、だとすれば、武田家の滅亡は1576年前後なので、それよりも200年も古いことになる。

 600年前は南北朝の時代で、この地方にあまた存在する尹良伝説の時代にほかならない。そして、それをほのめかす僅かな地誌もあった。
 御主人に、「この部落の人は、どうやって食べているんでしょうかね」と失礼千万な質問をしたところ、
「食うや食わずで生きてるずらよ」
 という答えが返ってきた。

 オロクボの名は、部落の入口にある小さな沼の大蛇伝説から、オロチクボとされたところからなのは明らかだが、この伝説も、そしてオロクボの起源はおろか地名すら、図書館の郷土資料に含まれたいかなる地誌文献にも掲載されていないのが不思議である。
 ここも、かつては超僻地であった。ここは海抜700mの大札山の尾根に開かれている。このような僻地山村の起源については、だいたい次のことが考えられる。

  12世紀の源平合戦に敗れた、平家の落武者が探索を逃れるため住んだ。
  近江小椋郷(永源寺町)に起源をもち、中部山岳を渡り歩いた木地師が定着した。
  東北山岳を中心に、遊猟して歩いたマタギが定着した。(太平洋側には稀だが)
  南西山岳河川を広く渡り歩いたサンカが定着した。(これは意外に多い)
  14世紀の南北朝の乱の際、足利方に追われた南朝の落武者が逃げ住んだ。
  それ以外の落武者、野伏山賊、修験者(山伏)などが定着した。
  もともとの土着民。(柳田国男は、大和民族以前の先住日本人を想定している、)

 このうち、可能性の強いのは   である。このような急峻な山岳地帯の生活環境に、土着民が定住していた可能性は薄い。なにか特別な事情がない限り、こんな不便な場所に土着する必然性があると思えない。(ただし、柳田国男の考えた日本先住民[山人]なら話は別であるが、その証明はない。)
 遠州地方の山村に最も多い起源は、木地師の定着村である。木地師が冬期の降雪の少ない山地を選ぶのは、当然である。また、部落の伝説にある武田の落武者説は、安部川上流部には信玄の隠し湯があって、武田一族の落武者の部落もあるのだが、このような部落の家の破風には、武田菱の家紋が刻まれているのが普通で、比較的わかりやすい。だが尾呂久保の部落にはそれがなかった。それに、上記の通り年代が合わない。
 私は、京丸伝説と共通の、南朝方藤原一族の末裔ではないかと考える。
 「遠江風土記伝」に、長尾村藤川についての記述がある。旧榛原郡誌はこれに説明を加え、次のようにいう。

 藤川とは、藤原という姓の人々の住んだ地域を流れる川を指し、今の榛原川をいう。
 川根地方には、右衛門・左衛門を称する者が多く、これは古代における京の衛士を意味したものと考えられる。
 また、藤何と称する姓もすこぶる多く、長尾村久保尾(誤記で、小井平が正しい)の藤本は藤原の本家で、傍らに分家したものを藤脇といい、川上に分家したものを藤江または藤上という。
 
 長尾の地名について、風土記伝中に、
 「金吾八幡社 在 長尾 由機良親王供奉 侍奥山金吾正定則卒、後火葬於倉平 而植 杉木二株 為 誌祀霊於長尾」という一節があって、奥山金吾を長尾に祀っている。
 また、上長尾のウサジと呼ばれる家の系図に、ジンガハヤシの記述がある。
 伝えるところでは、後醍醐天皇の御物なる緞子の幕と御旗を所蔵していたが、その威霊を冒涜するのを恐れ、焼いて灰にしてこれを埋め、神が林と称して神霊を保ったという。(以上、榛原郡誌)
 
 奥山金吾は尹良の随臣で、水窪町、佐久間町一帯の領主であった奥山一族の祖とされる伝説の人物である。これで、どうやら尾呂久保の所属する上長尾も尹良伝説にかかわっていることが分かる。

 また、隣ともいえる榛原川では藤原一族が居住したとされ、京丸とのつながりを暗示している。さらに、年代も符合している。
 そこで、京丸と尾呂久保と藤川(榛原川)の位置関係を考えてみると、尾根伝いのルートを選べば、尾呂久保から高塚山まで10キロ4時間程度、そこから京丸まで5キロ2時間程度で近いし、上記藤川こと榛原川は、大井川支流だが大札山の尾根向こうで、尾呂久保からは3キロ1時間程度、そこから高塚山まで8キロ3時間程度であり、互いに完全に交流圏にあったことが分かる。

 おまけに、京丸・尾呂久保・榛原川流域のいずれも、高塚山を守護するように拡った要の位置にあることが注目される。
 ということで、私は尾呂久保部落の起源について、京丸と同様、尹良随臣説をとりたい。
 つまり、尹良の首塚を取り巻くようにして、京丸・尾呂久保・藤川に藤原一族が部落を開いたのではないか、という推理である。

 この説は、尾呂久保に「藤」のつく姓があれば確定的なのだが、役場に問い合わせたところ、鈴木・土屋・滝本・梶原であると教えてくれた。藤何はなかった。
 というわけで、証明は不可能であり、推理を超えることはできなかった。

 3日の朝は、まずまずの天気であったが、このところの寒さは相変わらずである。
 2月10日に大札山に登った際、山犬段の手前でスーパー林道が崩落して通行止めになっていることを確認した。蕎麦粒山への登路は、崩壊地点の手前に小さな標識がでていた。

 ここはすでに標高1000mを超しているので、山頂までの標高差はわずか600mほどしかない。にもかかわらず、痩せた尾根をたどると雪に足をとられて結構時間がかかり、山頂まで1時間半も要した。ワカンが必要なのに、甘く考えて持参しなかったのを後悔するハメになった。このコースは荒廃していて、あまり歩かれていないようだった。メインコースは山犬段からであろう。

 山頂は公園のように整備されている。大札山と同じで、山犬段広場からの家族向けハイキングコースに設定されているのであろう。眺望も良い。だが、ヤブ好きのヘソマガリにはやや敬遠されそうだ。
 千石平方面の標識にしたがって主稜をたどると、雪はますます深くなり、ところどころアイスバーンで、縦走は危険かつ困難なものになった。

 凍りついた雪はスイスイ歩けるが、その気になっていると、突然1mも落ちるのである。このような場所では、ワカンを裏返しにしてアイゼンを併用するのがベストだが、甘く考えて持ってこなかった。
 執念深くがんばったが、高塚山の分岐の手前で何度も雪の落し穴に腰まで埋まり、さすがにバンザイしてしまった。もう、今来たワナのようなルートを戻る気もせず、右下に見えた林道に降りることにした。

 これが誤りで、ササヤブをかきわけて降りて行くと身動きがとれなくなり、しかも林道の上は高いガケが続いていた。1時間以上も難渋して、必死になってヤブを戻り、沢筋からやっと林道に降り立った。寒い日に軍手だったので、濡れた手は青白く無感覚になり、あわてて純毛手袋に替えたが、しばらくして激しく痛んだ。
 もう気力は失せた。林道を戻ると、山犬段までのあいだ各所で激しく崩壊し、この道がすでに利用不能の廃道化していることを知った。救いのない自然破壊だけが遺されてゆく。

 山犬段には立派な山小屋があった。トイレも整備され、大きな駐車場になっているが、途中の大崩壊のため当分車は来れない。
 車に戻る途中、地元の人とすれちがった。鉄砲を持っていないので、なんだろうと聞いてみると、サルノコシカケ採りとのことだった。この付近には多いという耳寄りな話を聞いて、高塚山再訪も含めて、また来なければならなくなってしまった。こちらは私の専門といっていい。

 追記、 この文章を書いた後、事実関係の確認のため、中川根町役場や教育委員会に電話した際、地元の郷土史家のカワムラケイジ氏(Tel 0547−56−1037)を紹介された。
 カワムラさんの研究では、尾呂久保の起源について、やはり武田遺臣団、それも山本勘助の関連の落武者ではないかとのことだったが、古文書などの文献が不足しているために、確実な結論が出せないといわれた。

 池口岳  2392m
(長野県下伊那郡南信濃村大字和田字池口より 1990年6月)

 池口岳は南ア深南部の秘鋒である。ここを狙ったのは、深田クラブの日本200名山を見ていたからである。6月3日に、中ア経ヶ岳に登ったおり横浜の日本山岳会の高沢英雄さんとお会いし、高沢さんから「先週登った池口岳は実に良い山だった」と聞かされ、さらに心が動いていた。
 前日の深夜に、車で新城から平岡を経て秋葉街道遠山郷の池口の部落にたどり着き、そこで一夜を明かした。

 朝、地図通りに登山口を探したが、池口尾根の入り口にある遠山さん宅の脇の道は、登山道ではなく林道に変わっていて迷った。できたての林道を進むと、1Kmほどで池口岳の標識がある。しかし標識の矢印の先はさらに1Km先で行き止まりになる。本当の登山道はなんと、その標識のま横から始まるのだ。

 この標識は、将来完成予定の南赤石幹線林道(南部スーパー林道)のためにつけられたもので、池口尾根をたどり、植物学上極めて貴重な池口岳の頂上直下原生林をかすめて、加加森山との鞍部を越え黒法師山方面に進むものである。
 ここにも未来への遺産を食いものにする林野庁の魔手が伸びて来ているのである。名峰、池口岳にも霧が峰の車山がたどった運命が待ち構えているのだろうか。なんとしてもこの林道建設を阻止したいものだ。

 7時半にここを出ようとすると、会互いして地元の3人連れが登って来ていてなんとなく一緒に出発した。世間話をしながら登ったが、彼等はここのコチョウランを採取にきたとのことだった。シャクナゲやランは良いアルバイトになるらしいが、あまり気分の良い話ではなかった。しかし、私がここに育ったならば、疑いもなく彼等と同じことをするにきまっている。

 広い尾根には薮のうるさい登山道がついている。全体に赤松が多く、キノコ党の私にはマツタケの香りさえ漂うようだ。ここは、焼畑という地名からも分かるように、江戸時代からの隠し畠だったようだ。この高度では稗が作られていただろう。おそらく、木地屋が拓いたのではないだろうか。

 1時間ほどで樹種が本来のブナ・クヌギ・コナラ林に変わり、その大木の多くに奇妙な人面がナタで刻まれている。ここを面切平という。地元の人もそのいわれは知らなかった。
 さらに30分ほどで、右手奥に社を見る。ここに落ち葉の澱んだ小さな水場があるが、よほどでなければ飲む気はしない。このコースは水がないと考えた方がよい。社の脇のヒノキの大木は、この数日以内につけられたと思われる熊の皮剥きがあった。伐採によってエサが不足するため熊がヒノキの甘皮を食べるのだが、木には致命的なダメージかもしれない。

 鹿に刈られた笹原が続くこのあたりは、美しい原生樹林帯である。林野庁が、この見事な芸術品を根こそぎ破壊しようと狙い、すでに林道がわずか下まで延びてきているのを思うと、いてもたってもいられない気持ちになる。
 登山口から2時間ほどで右手に大きなガレを見る。ここを黒薙といい、コチョウランの名所である。ガレ越しに、初めて池口岳の美しい姿を捉えることができる。

 しかし、ここは非常に複雑な地形で、ひどく迷いやすい場所である。特にくだりは要注意である。というのも、ここの踏みあとはガレから遠ざかる迷いルートやケモノ道のほうがはっきりしているためである。本当のルートはガレ沿いの草薮のなかにかすかに見える。十分注意しよう。ただし、私は間違えたおかげで、産まれたてのバンビに出会うことができた。

 ここから踏みあとは心もとなくなり、右へ方向を変える。
 頂上へは、ここから原生林のヤセ尾根を2時間ほど登ることになる。ところどころに快適なテント場があるが、水はない。
 途中、上からみすぼらしい中年の登山者が降りてきた。こんな山に先行登山者がいるはずがないと決めつけていたので、非常にびっくりした。それが宮崎日出一さんだった。

 言葉を交わすうちに驚くことばかりであった。宮崎さんは、清水栄一さんの「信州100名山」に池口岳北峰が載り、そのなかに自分のことも紹介されていると切り抜きを見せてくれた。
 宮崎さんは、金剛山の6000回をはじめ、日本中の山を4000回以上歩いておられた。後で、中アのどこかで飯田山岳会の人から、そんな人物がいると聞いたことを思い出した。

 宮崎さんから「帰り乗せていってください」と頼まれ、一も二もなくOKした。とてつもない楽しみが増えそうな予感がした。
 急いで池口岳北峰にかけ上がる途中、踏跡の中央に比較的新しい、シカ毛と思われる毛玉フンを見た。毛玉フンはノロシ(狼煙)に使われるもので、日本オオカミの特徴のひとつでもある。後に、宮崎さんに問い合わせたら、熊の甘皮フン(繊維が毛玉フンに似ている)を見誤ったのではないかと答えられた。

 しかし、これは犬糞の形状だった。
 北峰の頂上は、樹林に遮られて展望はいまいちだが、はるばる来た甲斐のあるすばらしい頂であった。ナントカ大学ワンゲル部の標識がやたらに目についたのが少し興醒めだが、十分に満足できる雰囲気である。

 帰路、この日に限ってコンパスを忘れたため、頂上下の光岳への分岐と黒薙で迷い1時間近く損をしたので、宮崎さんとの待ち合わせ場所まで走って降りた。ゆるい尾根なので走るとたわいもなく下に着いてしまう。
 帰りの車中は、山の話で実に楽しいひとときだったが、佐久間ダム経由の道を選んだのは失敗だった。平岡からは、新野峠・151号経由で豊橋ICへ出るか、阿南町・151号経由で飯田ICへ出るか、さもなくば売木村・平谷峠418号を経て飯田街道から名古屋ICに出るべきである。

 池口を3時半に出て、名古屋駅に到着したのは9時になってしまった。
 宮崎さんに日本山岳会選定の日本300名山を送ってもらう約束をして別れたが、うかつにも連絡先のメモを紛失し、連絡がとれたのは1ヶ月後にNTT案内によってであった。

 鬼面山  1889m
(長野県上伊那郡大鹿村地蔵峠より 90年8月12日)

 鬼面山は、南アルプス伊那山脈の最高峰で、「信州100名山」に取り上げられていた。一度は行かねばならない。例のごとく、土曜の夜は大河原で車泊した。
 地蔵峠まで、道は狭いが舗装されている。舗装が終わると地蔵峠で、そこに鬼面山の登山口がある。朝一番の登山者は、露払いとクモノス払いを引き受けねばならない。最近は勤勉なので、いつもササの茎を上下に振りながら歩くはめになっている。その代わり、ヒルにやられることは少ない。

 地蔵峠は、伊那山脈の鬼面山と赤石山脈の奥茶臼、尾高山を結ぶ稜線である。割合やせた尾根道なので、迷うところは少ない。500mも行くと小屋がある。このあたりからササヤブがうるさい。朝露のおかげで、いくらも行かぬうちに全身ズブ濡れとなった。
 なんということもなく、頂上には1時間半程度で着いてしまった。頂上は一等三角点である。私は一等三角点が好きだ。それは標石が大きく座るのに都合が良いからだ。だが、ここの標石は航空測標がセットしてあって座れない。
 ここから、伊那側に比べて南ア本峰の見通しは悪い。だが、樹林の切れ目から、見事な鋭鋒が顔を覗かせている。池口岳であった。

 なんというすばらしい姿であろうか。まるで鹿島槍ではないか。私は、いつまでも飽きずに眺め続けた。
 頂上から伊那側に刈り上げて数年以内の道がついていた。また氏乗山方面にも縦走路があった。しかし、北への縦走路はまったく判らなかった。
 帰り道、冬期登山用の赤布を100本ほどセットした。

 地蔵峠に降り着いても全然物足らないので、熊伏山に登ることにした。伊那和田への狭い道を走ったが、青崩峠方面は工事通行止であった。やむをえず、地図を見ながら三河茶臼をめざした。
 三河茶臼山は愛知県の最高峰でありながら、登山の対象ではない。ありふれた三流観光地である。

 新野峠から登ると、駐車場には観光客が群がっていた。私は駐車場に車を止め、標高差200mの山頂に空身で駆け出した。頂上に12分で着いた。これで「信州100名山」いっちょうあがりである。

 94年、3月、無線仲間6名と再登したとき、積雪状態が悪くトレースもなく、山頂まで5時間を要した。ただし、車は4WDチェーンフル装備で、地蔵峠まで行けた。
 この付近は南アルプス特有の粉雪で、わかんでも踏みごたえがなく、苦しいラッセルを強いられる。おまけに雨のため表面だけが凍結したため、乗るとズボッと埋没し、なかなか次の一歩が踏み出せないと言う雪質だったのいで一同疲労困憊し、山頂ピークの手前で投了寸前になってしまった。

 辛うじて達した山頂は、中央と南アルプスの360度の大展望で、苦労した分、格別の満足感に包まれた。


 この山行記録集「南ア深南部」のメインは京丸山だったが、長いので独立させた。代わりに、南ア本峰の一部を入れた。私は、有名山岳にはあまり興味がないので、あまり紀行を書いていないが、一番最初に、例外的に北アルプス各山の紀行文集を書いた。要望があれば掲示するが、たいしたものでない。

 他に、この方面では以下の私の山行記録・紀行があるが、無数のフロッピーの奥深く隠れ、発見次第、合併する予定。
朝日山
 鶏冠山・中之尾根山 
 不動岳
 大谷嶺・山伏岳
 竜爪山・真富士岳
板取山・沢口山
 無双連山・春野山
 岩岳山
 92年〜96年、私は主にフリークライミングと沢登りに集中し、ほとんどの山行が遡渓・バリエーションルートになり、紀行紹介からルート紹介に変わった。鈴鹿については、遡行集を出している。読者の要望があれば、やや専門的な内容だが、遡行記録を掲示する予定。

 96年4月〜98年9月まで、私は精神的に非常な不調で、不可解な心霊現象(霊憑依現象)に遭い、まるで脳梗塞のような症状が多数出てひどいめに遭った。(実際、脳血管性の虚血障害を起こした。血液の粘度があがり、血管が詰まりやすくなった)痛風もひどく山行ができなくなった。今でも、それらの後遺症に苦しんでいる。おまけに、名古屋ツバメタクシー(中央交通)の運転手をしていて、過労でぼろ雑巾のようになってしまい山行ができなかった。
 腰痛、その他の理由で退職して、98年10月以降、山行を再開した。来年、観光バスなどの委託運転手を行う予定。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1356.html

9. 2021年12月29日 07:08:46 : 4VQSVloHlL : UzlOV0RUTW1FZXM=[1] 報告
 山が好きなアリョーナ
2021年12月28日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1718.html

 【生まれ変わり?】日本の山のおかげでまるで別人になりました。
 https://www.youtube.com/watch?v=y9OuP3pvsko

 南ロシア(クラスノダール?)からやってきて、東京大学に留学し、今では東京で仕事している(ユーチューバーで食べてる?)アリョーナの話が面白くて、純真素朴な感受性に癒やされるから、ときどき視聴している。

 友人は、「あの子はKGB→FSBのスパイじゃないか?」なんて疑ってるが、「山が大好きなスパイなんていないよ」と私は思う。とくに、上のリンク、コンテンツを見てから、アリョーナの自然な人間性に親しみを抱いた。

 アリョーナがクラスノダール出身なら、黒海東岸、ジョージアとの国境には、エルブルス山など5000m級、大山岳地帯が連なってるから、きっと信州の子供たちが日本アルプスを見て骨太に育つように、遠くに雄大なコーカサス山脈を見て育ち、豊かな感受性を身につけたのだろう。

 実は、親戚づきあいしてる知人が、ソ連時代にモスクワ大学に留学して帰国したとき連れてきた嫁さんが、ほぼ確実にFSBスパイだったので、ロシアや中国からやってきた若者たちを色眼鏡で見てしまうのだが、判別の基準として、国家権力が好きな人と、地球の自然が好きな人という具合に分けると、「人間よりも自然が好き」な人が国家権力に仕えるわけがないと思う。

 人間なんて、国家権力の虚構から離れれば誰でも同じ。飯を食えばウンコが出る、胃袋と糞袋に脳がついてるだけの弱い存在にすぎない。誰だって、基本的な人間性が異なるわけではない。スパイだとか政治家だとかは、虚構に洗脳されるだけのことだ。

 人間とは、愛情がなければ生きている意味さえ分からなくなるようプログラムされている弱い存在にすぎない。人生の最後には、虚飾・虚構が無意味なことを思い知らされるのだ。
 https://www.greatman-words.com/death-poem/hideyoshi-toyotomi-a-dream.html
 スパイだとか、権力だとか、そんなややこしい存在は、虚構に目を奪われて真実が見えなくなってしまっている人だけの世界だ。

 山を見て「素晴らしい」と感動し、憧れる感性ではスパイは無理なんだよ。だって、山に夢中になってると、ロールスロイスだろうが、ベンツだろうが、レクサスだろうが、無用な虚飾に何の魅力も感じなくなって「四駆の軽トラ」が欲しいと思うようになるのだから。四駆エブリでもいいが。

 権威主義や序列で人を差別したがる社会では、必ず「虚飾」が幅をきかせる文化が成立する。例えば軍人が、きらびやかに飾られた軍服に憧れを感じるとか、警察でも消防でも、序列社会に虚飾はつきものだ。

 私が親戚から話をきいた範囲では、ソ連・ロシア社会も、相当な階級序列社会で、権威が大好きな人が多いらしい。ロシアは大国のくせに、ロシア人は、まだもの足らないと見えて「大きいもの、凄いもの」が大好きだ。隙あらば他国の領土を奪い取って自慢したがる。
 でも、アリョーナには、東大卒であっても、そんな権威臭は微塵も感じられない。よほど、素直な人間性でなければ、あれほどの暖かさは出てこない。

 私は、16歳のとき栃尾にあった林間学校から焼岳に登ったのが最初で、一発で登山の虜になってしまった。以来、東京にいって奥多摩に登りはじめ、5万図が赤鉛筆で真っ赤になるくらい、歩き回った。
 1990年には、日本百名山を一応完登した。一応というのは、焼岳や浅間山など、山頂が立入禁止になってた山がいくつかあるからだ。

 これまで、たぶん数千回、山を歩いてきた経験からいうと、「ヤマノボラー」=登山愛好家は実に単純素朴だ。都会にいても、一週間に一回は山の空気を吸って緑を見つめないと心が安らがない。
 その虚飾のない単純な人間性を教えてくれるのが登山だ。だから登山用駐車場にフェラーリやポルシェが駐まっているのを見たことがない。

 私はアリョーナの人間性が、「ヤマナイズ」されて、人間にとって、何が本当に必要なものか? 何が真実か? 見抜けるようになっていることが、よくわかる。
 だから、アリョーナはロシア政府の官僚(スパイ)として誘われるだろうが、それを蹴って、信州の山村に行って旅館業か百姓でもやるのではないかと予想している。

 願わくば、私が常々書いているように、子供たちを過疎の山村で共同生活をさせて、山羊や牛や鶏など、たくさんの動物を育てて、子供たちが他の子供の幸福のために生きる「利他主義」と友情を育てるような施設を経営してほしいと思う。
 「山屋」というのは、物事の本質が見抜けるようになる。すると、人間にとってもっとも素晴らしい人生というものが、「大自然との触れあい」であることを思い知るようになる。
 もう都会には戻れないんだよ。

 昔書いたブログが、少しだけ残っているので紹介しておこう。

 30年前に書いた「白山巡礼」全編を再掲します 
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1331.html

 それぞれの山の物語 5 南アルプス深南部 中編 
  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-88.html?

 それぞれの山の物語 2 京丸山 
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-95.html

 それぞれの山の物語 3の続き 台高山地の山々
 https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12693790464.html

 それぞれの山の物語 1 藤原岳
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-96.html

 ブログ管理者に無断削除されてしまったコンテンツも多いので、自分が書いたものが、相当数失われてしまったのが残念だ。
 けっこう、民俗学的に貴重な文章もあったのだが……。
 
 
山の歩き方 2010年01月06日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-9.html

 続 山の歩き方 2010年01月08日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-10.html

 山の歩き方 その3
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/?mode=m&no=816


http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1718.html

10. 2022年7月04日 16:03:23 : lpQ4zZnxNY : bFlqWkNZWTZ3elk=[3] 報告
 山の歩き方 番外編
2022年07月04日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1913.html

 かつて、当ブログで「山の歩き方」という表題で三回ほど書いた。

山の歩き方 2010年01月06日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-9.html

 続 山の歩き方 2010年01月08日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-10.html

 これを書いたのは、実際には1990年代で、ヤフーブログに上げたのだが、ヤフーブログの身勝手な廃止とともに失われてしまったが、livedoorに辛うじて残っていたものを転載した。
 続続編まで書いた覚えがあるのだが、それは失われている。

 2012年以降は、「間質性肺炎患者の山の歩き方」に表題を変えないといけなくなった。
 私は、前世紀末まで、富士山五合目から山頂まで2時間程度で登る心肺能力と体力があったのだが、肺線維症で呼吸音にブツブツバリバリが出てからというもの、呼吸能力は常人の半分以下にまで落ちてしまった。
 今なら30分も歩けないで引き返してくるに違いない。だから、山歩きを云々する資格はすでにない。

 2014年には、自宅の2mの階段も一気に上がれなくなり、あらゆる仕事で息切れを起こして、布団も上げられず、自分の部屋さえも、ほとんど片付かなくなってしまって、家中が典型的なゴミ屋敷と化した。
 今は、苦しい呼吸トレーニングのおかげで、ある程度回復したと信じたいが、実際には、今でも、重いものを運んだりするだけで激しく呼吸しなければならない。

 だから、近所に住むAという泥棒ジジイが、汚い私の敷地を見て小馬鹿にし、舐めまくって何十回も盗みに入っても、その証拠保全の撮影さえできなかった。
 Aはベテランの泥棒=知能犯であるとともに、証拠隠滅の達人のつもりでいて、盗むときは、必ず、私が物忘れで見つからないと思い込むように工作するのだが、ゴミ屋敷の主の私は、息切れで片付けられないだけで、何が盗まれたのかを完璧に把握するだけの能力が残っていた。

 Aは、私の設置した8台もの監視カメラから自分の写ったSDカードを抜き取ったり、スマホで改竄したりした。また夜中に赤外線の照射能力を見きって敷地内に侵入した。「こいつは、どれほど場数を踏んでいるのか?」と驚嘆するほどだった。
 それを告発した中津川警察は、私の家がゴミ屋敷化しているのを見て、私を被害妄想の虚偽告発者と決めつけ、なんと精神病院に連行して診察させた。
 姉が「弟はウソをつく人間ではない」と断固入院を拒否しなければ、今でも強制入院させられれいたかもしれない。

 その後、Aの妻に詰め寄った私を逮捕(確保?)した中津川警察署まで、証拠の監視カメラのSDカードを改竄してしまった。私を多数の警官で逮捕したときの映像が全部消されていたのだ。やるだろうと思ったが、実際にそれを確認したときはショックだった。
 私は悔しくて悔しくて、自分の肺機能がこれ以上悪化したなら、Aを惨殺して自分もスパッとこの世と縁を切ることを考えていたのだが、Aと直接戦うために必死になって呼吸トレーニングを繰り返しているうちに、心肺機能が相当に戻り、畑仕事までできるようになったので、計画はもう少し先延ばしにしている。

 それに、殺してやりたいやつは他にもいる。私に長年にわたってネット上で嫌がらせを続けているヤツだ。私が、この年になって生きる意欲といえば、そんな低レベルの報復心だけかもしれない。
 まあ、並木良和も、バシャールも、多くのスピリチュアリストたちも、こんな私を見たら軽蔑するだろうとは思うが、私はただの気の短い凶暴な老人にすぎない。
 先ほどAの姿を久しぶりに確認したので、いろいろ深く考えるものがある。
 
まあ半分冗談だ(残りの半分は本気だが)。Aについては、必ず泥棒やパンク犯の証拠を掴んで地検に直接告訴してやるつもりでいる。弁護士に依頼すると一財産飛ぶので心配だが、いずれにせよ、私も先が長くないのは確実なので、無一文になってもやらねばなるまい。
 まったく、家族がいなくて良かったと思う。

 さて、前置きが長くなりすぎた。新型コロナ禍で、世界中の人々が感染し、重篤な呼吸疾患に陥った人も数億人に達すると思う。
 そのうち数割が、肺に取り返しのつかない間質性炎症を引き起こし、肺線維症に進んでいる可能性がある。
 世間では、肺線維症について、何を言っているのか?

 https://www.tmd.ac.jp/med/pulm/d1.html
 特発性肺線維症(IPF)と診断されるなら、余命は、3年を軸に最大5年というのが医学界の常識である。私は、すでに8年だから、「今生きていられるなら、それはIPFでなかった」と決めつけられることだろう。
 IPFと決めつけるためには、X線CTと肺の穿刺細胞診による診断が必須になっているので、私は、IPFの死亡例の大半が、このCTと細胞診による急性憎悪(サイトカインストーム)だろうと判断し、死んでも医療にかかるものかと決意した。

 IPFの診断など、本当は、ベルクロラ音という独特の呼吸音だけで十分だ。肺穿刺をやる理由は、ステロイドの適合を調べることだが、それは患者をサイトカインストームに追い込むことが多く、20ミリシーベルトものCT被曝量とともに、殺人的なものだ。
 「医療被曝は被曝ではない」と決めつける正真正銘の馬鹿が医学界を席巻している以上、こんな連中を信用してはいけない。

 まあ、新型コロナ禍で、もしも本気で生き延びたいなら医療は利用しないことだ。
 ほとんどの医者は、自分を特別な選ばれた人間と思い込み、高知能で優越的特権者だと思い込んでいて、患者を支配し、自分の権威を見せつけることしか考えていない。
 なかには、患者を見て、金を背中にくくりつけた鴨葱と思い込んでいる者も少なくない。患者の回復を心から願う本当の赤ひげ医は、たぶん100人に一人もいないだろう。

 もしも、そんな医師がいたなら、検査、投薬、手術なんか差し置いて、何よりも体液の循環とリハビリテーション、患者に生きる希望を与えることを考えるはずだ。
 私自身の体験からいえば、長生きしたければ医療を利用するな……だ。結局、病気になったなら、自分の回復しようとする意思に頼るしかないのだ。

 そして、その方法は歩くことしかない。何も考えずに、歩いて歩いて歩きまくるしかない。
 しかし、あえて屁理屈をつけるなら、一日7000〜8000歩、うち3割、20分程度は、早足やら坂道やら、やや強度の強い運動が望ましいことになっている。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1896.html

 歩いているうちに、肺線維症患者であっても、ある程度歩く能力が回復してきて、坂道でも苦痛が少なくなる。それにバリバリという呼吸音が消えてゆくのだ。
 それでも調子に乗って、本格的な登山に行こうものなら、2時間ほど歩いたとき、呼吸機能がハングアップを起こして、肺気腫のような状態になって、数十分も動けなくなることを何回か経験させられた。
 そんなときは、1時間のコースタイムを数時間もかけて、這うように帰ってくる。

 この数年間の経験を総括するなら、歩行は早朝2時間程度がいい。なぜか、呼吸心肺機能が落ちても、早朝はそれほど苦痛を感じない。午後になると、非常な苦しさを感じることが多い。何か重いものを持っただけで、激しい息切れが起きるときがある。

 早朝歩きには、可能なら100〜200mのアップダウン標高差があった方がいい。
 最初のうちは、坂歩きが猛烈に辛い。「この世の地獄とはこんなものか」と思うほどだ。それでも、フラフラになって歩き続けていると、だんだん楽に歩けるようになる。
 数年間も、こんな早朝歩行を繰り返せば、片肺切除の人の残った肺が肥大化するように、繊維化して失われた肺胞細胞が再生されるのではないかと期待するのだが、そうは問屋が卸さない。

 私の場合は、2014年から呼吸トレーニングをはじめて、2022年現在、肺胞細胞がどれほど回復したかと考えると、せいぜい1〜2割程度だと思う。
 呼吸トレーニングの目的は、実は、肺線維症の進行を防止することなのだ。毎日、肺に負荷をかけ続けていると、間質性肺炎の進行が止まり、急性増悪を起こしにくくなる。
 しかし、蚊取り線香や喫煙副流煙など大気汚染などで、急性増悪の入口に立ってしまうこともある。
 ただ、ブツブツバリバリの呼吸音は、確実に減り、1年程度で消えてしまう。

 最初の頃は、コンコンと小さな咳が止まらなかったが、それも消えていった。例え、肺胞細胞の回復が少なくても、肺全体の機能が強化され、血流との連携が強まり、呼吸そのものが格段に楽になる。
 だから、早朝歩行を行わないと、呼吸機能が悪化することを非常に恐れて、雨が降っていても歩くことが多い。

 発病後、最初の頃は、普通の布団で上を向いて寝ることができなかった。上半身だけ敷布団を二重や三重にして、体を起こすようにして寝ていた。
 また、左向きに寝ることが苦しくて、右を向いて寝てばかりいた。眠りも浅いので、昼間、上体を起こした上体でうたた寝することが多かった。
 現在では、左右どちらを向いても寝られるようになっている。

 新型コロナの後遺症で、間質性肺炎になっている人も、たぶん同じ症状が出ているだろうと思う。
 夜寝にくい症状が出ているときは、昼間、厚手の布団に上半身を委ねて、体が起きるように「拾い寝」して爆睡すれば、なんとか睡眠不足を食い止めることができる。
 早朝、無理して呼吸トレーニング歩行をしていれば、疲労感から快眠できるはずだ。
 ちなみに、右向寝は、右心房への戻り血流が阻害されていることを意味していて、肺の炎症が心臓にも悪影響を及ぼすからだ。

 間質性肺炎=肺線維症を治したければ、医療にすがるのではなく、自分の意思と対峙するしかない。
 早朝2時間を治療の時間と定めて、毎日、必死になって呼吸トレーニングにくらいついてゆくしかない。ステロイドなんかリバウンド炎症を引き起こすだけだ。
 必死になって毎日苦しんでいるうちに、小さな咳も、ベルクロラ音も去ってゆく。いつしか繊維化=蜂巣化した患部から出る音が聞こえなくなる。

 ほんの少しずつ、尺取り虫のように回復の希望に向かって歩んでいる自分に気づく。やがて、息切れが少なくなる。対峙する風景への暗い絶望感に光が差し込み、動かなかった体が動くようになり、片付けることさえできなくなっていたものを整理できるようになる。
 歩けば歩くほど、毎日、視界が広がり、明るさを増してゆくのだ。

 私の場合は、山中で突然動けなくなる可能性もあるので、必ず防寒具を兼ねた雨具と、ライトや保存軽食、水、虫除け、熊鈴など5Kg程度の荷物を背負っている。
 最悪、呼吸不全=肺気腫などを起こしたときは、その場に数時間も座り込まねばならないこともある。しかし、必ず歩ける程度には回復する。
 おかげで、最大5年しか生き延びられない病気でも、8年経っても生きていられるのだ。

 間質性肺炎と診断されても絶望せずに、医者を無視して必死に歩き続けることを薦めたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1913.html

11. 中川隆[-12309] koaQ7Jey 2023年10月06日 10:04:46 : 3en5ThmVuU : NVF4MGl3TnJFenM=[5] 報告
死の合コン!?登山を軽視した山ガールたちの末路...【ゆっくり解説】【2010年 沢口山遭難事故】
山の遭難ストーリー【ゆっくり解説】
2023/10/04
https://www.youtube.com/watch?v=PkqpEZzjoe8

今回は、登山ブームが起き「山ガール」という言葉が流行った2010年に起こった「沢口山遭難事故」を解説します。
静岡県にある寸又三山の一つである沢口山での遭難事故です。

山での合コン「山コン」が目的で集まった男女5人。
登山ブームに乗っかり、装備も知識も不十分の状態で登山を開始してしまった。
数々の山のタブーを犯して遭難した一行に待つ運命とは...

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