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[近代史5] ギリシア人の起源 中川隆
2. 2020年9月02日 02:28:22 : wpXk3w6zIY : LjZzUlJFRWgzbWM=[1]
雑記帳 2011年03月17日
手嶋兼輔『ギリシア文明とはなにか』
https://sicambre.at.webry.info/201103/article_17.html

 講談社選書メチエの一冊として、2010年8月に刊行されました。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AB%E3%81%8B-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E6%89%8B%E5%B6%8B-%E5%85%BC%E8%BC%94/dp/4062584794

著者は後書きにて、「学問の最前線からは遠ざかり、専門家たちの常識にも疎い私には、とんだ見当違いや自分勝手な思い込みに陥っている点、恐らく多々あろう」と述べており、この点に不安はあるのですが、狭義の古代ギリシア史ではなく、対象としているのが地理的・時間的に広範で、壮大な見通しが提示されているということもあって、専門家ではない私はひじょうに面白く読み進めました。私のように、古代ギリシア史に関心はあるものの、それほど詳しいというわけではない、という人にはとくにお勧めです。

 現在の高校の世界史教科書ではどう扱われているのか、よく知りませんが、おそらくは学校教育などを通じて現代の日本でも根強く浸透しているであろう、ギリシアをヨーロッパと位置づけ、エジプト・メソポタミア・ペルシアといったギリシアよりも東方の世界と対照的であることを強調し、ヨーロッパ文化の直系の源流として古代ギリシアを想定するような、「ギリシア・ヨーロッパ正統史観」とも言うべき歴史認識を克服するにあたって、本書は有用なのではないか、と思います。ただ、古代ギリシア史に関心のある人の多くにとっては、本書の提示する大きな枠組みは目新しいものではないでしょう。

 本書の特徴は、古代ギリシア史を西方世界、つまりヨーロッパよりも、エジプト・メソポタミア・ペルシアといった東方世界と結びつけて認識することにあります。もちろん、東方世界とはいっても、ギリシアとの結びつきの強弱はさまざまで、アレクサンドロス大王による征服事業と、考古学的に確認できるギリシア文化の遺構はあるにしても、けっきょくのところギリシア人は東方世界内陸部に大きな影響力を残したとは言い難く、おもにエジプトやレヴァントといった東地中海へ進出していくことになります。

 こうして東地中海に一体的なギリシア語文化圏が成立し、それはラテン語文化圏の西地中海とは異なる文化圏でした。地中海はローマ帝国により政治的には統一されますが、文化圏が統一されることはなく、ローマ帝国の東西分裂もこうした背景があったのではないか、と指摘されています。また、起源前5世紀〜4世紀にかけての、いわゆる古典期における学芸での華々しい成果はあるものの、古代ギリシアは、同時代のエジプト・メソポタミア・ペルシアといった東方世界と比較して、富と文化の蓄積が大きく劣っていたということも強調されており、「貧しく後進的な」ギリシア世界と「豊かで先進的な」東方世界という構図が提示されています。

 近代以降のヨーロッパにおいて強調された、輝かしい先進的文化圏としての古代ギリシアという枠組みは、ギリシア世界とローマ帝国との接触にその源流が認められます。ギリシア世界と比較して「後進的」だったローマ帝国には、ギリシア世界との直接的な接触にともないギリシア文化への憧憬が生じますが、それは、ローマ帝国の支配下に置かれつつある惨めな現実のギリシア世界にたいしてではなく、古典期のギリシア世界にたいしてでした。このローマ人の古典期への憧憬は、ギリシア人の古典期にたいする理想化を押し進め、それが近代以降のヨーロッパの歴史認識にもつながる、ギリシア優位の言説を生じました。

 そうした言説はギリシア本土が発信地となっていくのですが、その前提として、東地中海に成立したギリシア語文化圏において、東方世界との融合が進み発展したエジプトやレヴァントとは異なり、ギリシア本土が停滞していた、という事情があります。現実のギリシア世界と古典期との乖離は、近代ヨーロッパのことだけではなく、起源前2世紀においても生じていた、というわけです。しかし、近代ヨーロッパと、日本などその影響を強く受けた他の地域においては、古典期と現実のギリシアとを結びつけるような歴史認識が主流になっていきます。

 東方世界と融合し発展していった「新世界」のギリシアと、停滞する「旧世界」のギリシアという構図は、アレクサンドロス大王の治世においてすでに見られます。現実の統治も考慮して「先進的な」東方世界の要素を取り込んでいこうとするアレクサンドロス大王にたいして、その配下の将兵の多くは、ギリシア的世界観から抜け出すことはなく、両者の間に緊張した関係をもたらした要因となりました。これは、偉大な学者でありながら、けっきょくはギリシア的世界観を脱することはなかった、アレクサンドロス大王の師であるアリストテレスと、アレクサンドロス大王との確執の背景とも考えられます。
https://sicambre.at.webry.info/201103/article_17.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/275.html#c2

[近代史5] ローマ人の起源 中川隆
5. 2020年9月02日 02:59:38 : wpXk3w6zIY : LjZzUlJFRWgzbWM=[2]
雑記帳 2015年11月13日
ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』第4刷
https://sicambre.at.webry.info/201511/article_13.html

 これは11月13日分の記事として掲載しておきます。ブライアン・ウォード=パーキンズ(Bryan Ward-Perkins)著、南雲泰輔訳で、白水社より2014年9月に刊行されました。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%B4%A9%E5%A3%8A-%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%8C%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89-%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BA/dp/4560083541


第1刷の刊行は2014年6月です。原書の刊行は2005年です。ローマ帝国が衰退・崩壊し、古代は終焉して暗黒の中世が始まった、との見解は今でも一般では根強いようです。これまで、ローマ帝国の衰退・崩壊には大きな関心が寄せられており、本書でも取り上げられているように、ある研究者によると、ローマ帝国の衰退の要因は210通りにも分類されるそうです。

 しかし近年では、ローマ帝国の衰退・崩壊を強調するのではなく、古代から中世への長い移行期として「古代末期」との時代区分を設定し、文化・心性の連続性を強調する見解が支持を集めており、現代日本社会において私のような門外漢にも浸透しつつあるのではないか、と思います(関連記事)。ローマ帝国およびローマ「文明」は西ローマ帝国とともに滅亡したのではなく、緩やかに変容していったのではないか、というわけです。そうした古代末期論では、宗教(キリスト教)の役割が重視されています。

 本書は諸文献も引用していますが、おもに考古学的な研究成果に依拠して、古代末期論の提示する見解には大きな偏りがあり、ローマ帝国の滅亡とともにローマ「文明」も崩壊したのだ、との見解を提示しています。もっとも、この場合の「ローマ帝国の滅亡」とは西ローマ帝国のことであり、本書がローマ「文明」の崩壊と把握するのも、西ヨーロッパ(ローマ帝国西方)が対象です。ローマ帝国東方では、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が西ローマ帝国の滅亡後1000年近く存続しました。

 本書がローマ「文明」崩壊の根拠としているものとして、識字率の低下もありますが、これは推定が難しいことを本書も認めており、決定的な根拠とはされていません。本書がローマ「文明」崩壊の重要な根拠としているのは、陶器や瓦といった身近な日常生活用品や貨幣です。このうち、瓦については、ローマ帝国期には社会の上層ではない人々の住宅でも瓦葺だったのに、西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパ社会では、瓦葺は一部の建築物に限定される、と本書では指摘されています。もっとも、これについては、瓦葺から茅葺への変化は、気候に対応した文化的な変容であり、「文明」衰退の根拠にはならないかもしれない、との懸念も取り上げられています。

 本書がローマ「文明」衰退の重要な根拠としているのは陶器です。4世紀以前には社会の中層・下層にまで、質の高い統一的な規格の陶器が用いられていたのにたいして、西ローマ帝国滅亡後には、そうした質の高い陶器が社会の中層・下層では見られなくなる、と本書は指摘します。ローマ帝国時代には、社会の中層・下層でも用いられていたそうした質の高い陶器はしばしば遠隔地で生産されており、大規模で複雑で広範な流通・経済の仕組みが存在していた、というのが本書の見解です。

 そうした「洗練」され複雑な経済の仕組みが、西ローマ帝国とともに崩壊していった、というわけです。西ローマ帝国の滅亡にともない、西ヨーロッパにおいて貨幣の使用が減少したと推定されるのも、そうした複雑な経済の仕組みが崩壊していったことと関連している、と本書では指摘されています。また、古環境の大気汚染に関する研究から、ローマ帝国時代と比較して、ローマ帝国崩壊後の数世紀の大気汚染の水準が先史時代に近い水準にまで落ち込み、汚染の水準がローマ帝国時代にまで上昇したのは16〜17世紀になってからである、とも指摘されており、「洗練」され複雑な経済の仕組みが崩壊した根拠とされています。

 ただ、上述した西ローマ帝国の滅亡と東ローマ帝国の長期の存続の問題とも関わってきますが、本書は、ローマ帝国の経済の様相は地域により大きく異なっていた、と強調します。西ヨーロッパ(ローマ帝国西方)においては、ローマ帝国(西ローマ帝国)の崩壊にともない、「洗練」され複雑な経済は崩壊します。しかし、その西ヨーロッパにおいても、地域により様相がかなり異なることを本書は指摘しています。たとえばイタリアでは、4世紀の間に衰退が始まり、5世紀になるとやや加速しつつも、600年頃まで緩やかに経済的指標が低下していきます。

 もっとも、緩やかな低下とはいっても、長期的にはその間ほぼずっと低下し続けているわけで、300年頃と600年頃とを比較すると、推定される経済の複雑さには大きな違いが生じています。西ヨーロッパにおいて経済的複雑さがローマ帝国時代の水準に回復するのがいつなのか、諸見解があるようですが、上述した大気汚染の研究からは、西ローマ帝国の滅亡後1000年以上要したとの見解もあり得るわけで、ローマ帝国における経済的水準の高さが窺われます。西ヨーロッパでもブリテン島では、5世紀初頭に経済水準の劇的な低下があり、それ以降700年頃までほとんど回復していない、と推定されています。本書は、ブリテン島ではローマ帝国の崩壊(ブリテン島におけるローマの統治体制の崩壊)とともに、その経済的複雑さが先史時代の水準にまで低下してしまった、との見解を提示しています。

 一方、ローマ帝国東方は西方とは様相がかなり異なります。たとえばエーゲ海地域では、その経済的水準は300年頃から5世紀前半まで多少低下したくらいで、その後に6世紀前半にかけて上昇していき、それ以降7世紀初頭にかけて緩やかに低下していき、7世紀初頭以降に急激に低下します。レヴァントでは、300年頃から6世紀前半にかけて上昇していき、その後に緩やかに低下していきます。こうしたローマ帝国の西方と東方における経済的水準の変化の違いは、西ローマ帝国の滅亡と東ローマ帝国の存続とを反映しているようですが、本書は、元々の経済的仕組みの堅固さに差があったのではなく、地理的な違いなどの偶然の事情により、ローマ帝国の東方は西方と違い崩壊を免れたのだ、との見解を提示しています。

 本書はこのように、考古学的研究成果から推定される経済的水準を根拠に、ローマ帝国西方においてローマ帝国とともに「文明」も崩壊したのだ、と強調します。古代末期論は、ローマ帝国東方の5世紀以降も続く経済的繁栄や心性史を重視するあまり、ローマ帝国全体が緩やかに変容していった、との偏った見解を提示している、と本書は批判します。しかし本書は一方で、古代末期論が多くの魅力的な見解を提示してきたことも認めており、本書の見解と古代末期論とが両立し得ることを指摘しています。本書が指摘するように、ローマ帝国の崩壊や古代〜中世への移行とはいっても、地域により様相がかなり異なるようなので、ローマ帝国の分裂・(西方での)崩壊を考察するさいには、ローマ帝国を一括して把握することは大いに問題がある、と言うべきなのでしょう。

 本書の見解は、現代社会への重要な示唆を提示しています。本書を読むと、ローマ帝国の複雑で巨大な政治体制が、大規模で複雑な経済の仕組みを可能にしていた側面が多分にあるように思われます。この経済的仕組みは、もちろん近代以降と比較すると未熟だったとはいえ、分業化の進展したものでした。ローマ帝国の統治体制が、「外敵」たる「蛮族」の侵入や「内乱」などにより崩壊すると、それに依拠していた大規模で複雑な経済の仕組みも崩壊していきます。本書は、ローマ帝国の西方における統治体制の崩壊が5世紀の時点で必然だったわけではない、との見解を提示しています。数々の避けられ得る判断の誤りの結果、西ローマ帝国は滅亡した、というわけです。「蛮族」はローマ帝国の「快適な」体制を破壊しようとしたのではなく、それに参入したかった、というのが本書の見解であり、そこからも現代社会が汲み取るべき教訓は多いように思われます。

 現代社会は、ローマ帝国時代とは比較にならないほど経済において分業化が進展しています。そうした社会は、一度崩壊すると、元の水準に回復するまで長期間を要する脆弱なものなのかもしれません。私も含めて、現代社会の経済的仕組みが劇的に崩壊することを実感しにくい人は少なからずいるかもしれません。しかし、ローマ帝国の西方における政治体制と大規模で複雑な経済的仕組みの崩壊を考えると、ローマ帝国時代の「快適さ」がローマ帝国の崩壊とともに失われた、と本書が指摘するように、現代社会の「快適さ」が避けられ得る判断の誤りの蓄積により失われてしまう可能性を、真剣に考えるべきなのでしょう。

https://sicambre.at.webry.info/201511/article_13.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/277.html#c5

[近代史5] ローマ人の起源 中川隆
6. 2020年9月02日 03:12:31 : wpXk3w6zIY : LjZzUlJFRWgzbWM=[3]
雑記帳 2015年11月05日
ベルトラン=ランソン『古代末期 ローマ世界の変容』
https://sicambre.at.webry.info/201511/article_5.html


 これは11月5日分の記事として掲載しておきます。ベルトラン=ランソン(Bertrand Lançon)著、大清水裕・瀧本みわ訳で、文庫クセジュの一冊として、白水社から2013年7月に刊行されました。原書の刊行は1997年です。

https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%AB%E6%9C%9F-%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9-%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B8%E3%83%A5-%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3-%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4560509816

「古代末期」との概念は、現代日本社会において私のような門外漢にも浸透しつつあるのではないか、と思います。古代末期という概念では、西ヨーロッパにおけるローマ帝国の衰退・滅亡による断絶を強調するのではなく、文化・心性の連続性を強調し、古代から中世への長期にわたる移行が想定されています。

 本書の解説にて、この古代末期との概念は今では日本の学界でも広く受け入れられているものの、その功績がピーター=ブラウン(Peter Robert Lamont Brown)氏一人に帰せられているのが問題だ、と指摘されています。本書を読むと、西ヨーロッパにおけるローマ帝国の崩壊から中世(あくまでも現代における一般的な用法)への連続性を強調する見解は、前近代においてすでに見られ、近代歴史学においても、複数の国で優れた研究者たちが提示していたことが分かります。

 本書は、西ヨーロッパにおいて5世紀にローマ帝国という政治体制が崩壊したことをもちろん認めつつも、文学・美術の衰退をはじめとして、ローマ文化はその高水準のままには中世に継承されず、文化的な断絶があったのだ、とする見解をさまざまな根拠により否定していきます。ローマ文化というか古典古代文化は、古代末期に決定的な影響を及ぼしたキリスト教を中心に変容しつつも継承されていった、というわけです。ローマ帝国を支えていた都市エリート層は、都市で帝国から課される過重な政治・行政・経済的負担を嫌い、それがローマ帝国の政治体制の崩壊にもつながりましたが、キリスト教の司教などに転身することにより、都市を指導していくとともに、古典古代文化を継承していった、との見通しが提示されています。

 また、キリスト教が西ヨーロッパにおいて異教的要素を多く取り入れていったことも以前から指摘されていますが、本書は、キリスト紀元(西暦)の算出が6世紀で、本格的な普及が7世紀以降だったことなどから、異教的要素が5世紀以降も根強く存在し、古代末期が古典古代的要素を強く残しつつ、中世の新たな要素も併存する時代だったことを改めて指摘しています。西ヨーロッパにおいて、初期のキリスト教はギリシア語で布教されていったのにたいして、やがてラテン語化していったことなども、古代末期を挟んで、ローマ帝国の時代と中世との連続性を示している、との見通しが提示されています。

 このように本書は、ローマ帝国はその文化とともに衰退・崩壊し、野蛮な中世との間には断絶が生じた、と古典古代期と中世との断絶を強調して、その移行期間を没落の時代とする根強い見解を否定し、古代末期における変容を挟んでの古代から中世への連続性を強調します。現在では、このように単純にローマ帝国の崩壊および古代と中世との断絶を強調する古典的な説に否定的な見解が重視されているようです。しかし一方で、考古学的分析から、西ヨーロッパにおけるローマ帝国の崩壊にともなう社会の崩壊を強調する見解も提示されているようなので、今後そうした見解に基づく一般向け書籍も読んでいく予定です。

https://sicambre.at.webry.info/201511/article_5.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/277.html#c6

[近代史5] ブリテン島人の起源 中川隆
3. 中川隆[-11550] koaQ7Jey 2020年9月02日 03:52:48 : wpXk3w6zIY : LjZzUlJFRWgzbWM=[4]
雑記帳 2015年11月13日
ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』第4刷
https://sicambre.at.webry.info/201511/article_13.html


第1刷の刊行は2014年6月です。原書の刊行は2005年です。ローマ帝国が衰退・崩壊し、古代は終焉して暗黒の中世が始まった、との見解は今でも一般では根強いようです。

 本書は諸文献も引用していますが、おもに考古学的な研究成果に依拠して、ローマ帝国の滅亡とともにローマ「文明」も崩壊したのだ、との見解を提示しています。

もっとも、この場合の「ローマ帝国の滅亡」とは西ローマ帝国のことであり、本書がローマ「文明」の崩壊と把握するのも、西ヨーロッパ(ローマ帝国西方)が対象です。ローマ帝国東方では、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が西ローマ帝国の滅亡後1000年近く存続しました。

 本書がローマ「文明」崩壊の根拠としているものとして、識字率の低下もありますが、これは推定が難しいことを本書も認めており、決定的な根拠とはされていません。本書がローマ「文明」崩壊の重要な根拠としているのは、陶器や瓦といった身近な日常生活用品や貨幣です。このうち、瓦については、ローマ帝国期には社会の上層ではない人々の住宅でも瓦葺だったのに、西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパ社会では、瓦葺は一部の建築物に限定される、と本書では指摘されています。もっとも、これについては、瓦葺から茅葺への変化は、気候に対応した文化的な変容であり、「文明」衰退の根拠にはならないかもしれない、との懸念も取り上げられています。

 本書がローマ「文明」衰退の重要な根拠としているのは陶器です。4世紀以前には社会の中層・下層にまで、質の高い統一的な規格の陶器が用いられていたのにたいして、西ローマ帝国滅亡後には、そうした質の高い陶器が社会の中層・下層では見られなくなる、と本書は指摘します。ローマ帝国時代には、社会の中層・下層でも用いられていたそうした質の高い陶器はしばしば遠隔地で生産されており、大規模で複雑で広範な流通・経済の仕組みが存在していた、というのが本書の見解です。

 そうした「洗練」され複雑な経済の仕組みが、西ローマ帝国とともに崩壊していった、というわけです。西ローマ帝国の滅亡にともない、西ヨーロッパにおいて貨幣の使用が減少したと推定されるのも、そうした複雑な経済の仕組みが崩壊していったことと関連している、と本書では指摘されています。また、古環境の大気汚染に関する研究から、ローマ帝国時代と比較して、ローマ帝国崩壊後の数世紀の大気汚染の水準が先史時代に近い水準にまで落ち込み、汚染の水準がローマ帝国時代にまで上昇したのは16〜17世紀になってからである、とも指摘されており、「洗練」され複雑な経済の仕組みが崩壊した根拠とされています。

 ただ、上述した西ローマ帝国の滅亡と東ローマ帝国の長期の存続の問題とも関わってきますが、本書は、ローマ帝国の経済の様相は地域により大きく異なっていた、と強調します。西ヨーロッパ(ローマ帝国西方)においては、ローマ帝国(西ローマ帝国)の崩壊にともない、「洗練」され複雑な経済は崩壊します。しかし、その西ヨーロッパにおいても、地域により様相がかなり異なることを本書は指摘しています。たとえばイタリアでは、4世紀の間に衰退が始まり、5世紀になるとやや加速しつつも、600年頃まで緩やかに経済的指標が低下していきます。

 もっとも、緩やかな低下とはいっても、長期的にはその間ほぼずっと低下し続けているわけで、300年頃と600年頃とを比較すると、推定される経済の複雑さには大きな違いが生じています。西ヨーロッパにおいて経済的複雑さがローマ帝国時代の水準に回復するのがいつなのか、諸見解があるようですが、上述した大気汚染の研究からは、西ローマ帝国の滅亡後1000年以上要したとの見解もあり得るわけで、ローマ帝国における経済的水準の高さが窺われます。

西ヨーロッパでもブリテン島では、5世紀初頭に経済水準の劇的な低下があり、それ以降700年頃までほとんど回復していない、と推定されています。

本書は、ブリテン島ではローマ帝国の崩壊(ブリテン島におけるローマの統治体制の崩壊)とともに、その経済的複雑さが先史時代の水準にまで低下してしまった、との見解を提示しています。
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