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[政治・選挙・NHK264] 文芸誌の懸念 肝話窮題
2. 2019年8月19日 20:11:18 : k77Et3x2fI : OWN3aS5PQXVZTlE=[1]
 「ならぬ」と言われれば、その逆のことをしたくなるのは、或いは人間の常なのかもしれない。もしそうなら、とりわけ虚構で以って構成される芸術作品であれば猶のこと、例えば「あの鯨を追いかけてはならぬ」と言われた船長は命懸けのリベンジに何度も執念を燃やしたわけだし、また舞台の上で「誰も寝てはならぬ」と歌われても客席の隣人はすでにスヤスヤと心地よい居眠りに余念がなかったわけである。およそ芸術作品の受容とは、市民社会の道徳的規範となったり、社交上の嗜みとしての教養であったり、政治的プロパガンタであったり、娯楽や気散じであったり、御国によって様々である。いずれにしても芸術作品に描かれる人間像とは「人間とは何か?」という問いへの具体的な答えでもあり、受容者たる我々は、そこに心の友人ばかりでなく、永遠のライバルすら見出すこともしばしばであろう。そして、それが虚構であることに気付きつつ、現実との距離感を推し量ることで、昨日よりも少しだけ人生経験を積んだような気にもなるというわけであろう。
 さて、近代以降の我が国では、「文学を教えねばならぬ」と命じられたお役人が、国家の忠実な僕を養成するための国語教科書に文芸作品を載せることを思い付いた。しかしながら、そもそも「何故にわざわざ文学なるものを教えねばならぬのか?」という疑問への答えを考えておく手間が端折られたせいだろうか、お役所の仕事として代々引き継がれることもなく、今頃になってようやく「何故なのだ?」と皆が騒ぎ出したということのようである。
 では、何故、国家は高校生に文学を教えねばならぬのか? その答えは、すでに出ているのかもしれない。つまり、冒頭に示したように「ならぬ」の逆をしたくなるのが人間であれば、文学など教えたくないというのが国家のホンネであろう。成程、私のような一介の老人にも高校生時代があって、読みかけの文庫本は授業中でも先生に隠れて必死で読もうとしたものだ。また、友人の誰某は、テスト勉強をしなければならぬ時期程、逆に現実から逃避し、結果として偉大なる長編小説を読み通したことを自慢していた。無学無教養な私の思い出話を基準にして恐縮の至りであるが、或いは私のような人間が再生産されてしまうことが十分予想されていたからこそ、国家が文学を教えたくなかったとも言えようか。高校生の文学受容については、国家によって厳選された文芸作品をテキストに国語運用能力の養成を期するというよりも、むしろ手当たり次第に読み漁るという冒険的な乱読経験に開放するほうが、より健全な気がしないでもない。何故なら、わざわざ先生から教わるまでもなく、読みたい生徒は一人で勝手に探し出して読んでいるものだからだ。そういう意味で、「教科書でなければ出会えない文芸作品もある」からこそ文学を教えねばならぬとする作家先生の答えには、目下スマホ全盛時代の高校生諸君のリサーチ能力を少々甘く見過ぎておられるような印象も受ける。また、「大昔の高校生」たる天声人語氏は、その力作が教科書の例文に採用される名誉を失うことに大いなる危機感を覚えておいでのご様子であるが、縮刷版が図書館の書庫に眠っておりさえすれば、いつか日の目を見よう。文献を探し当てる愉しさは、宝探しに似てスリル満点であり、検索も容易な電子書籍時代になっても変わることはない。文学など教科書で読んではならぬと言われれば、国家に隠れてこっそり読めばいいのである(笑)
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