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[政治・選挙・NHK267] <錯乱>安倍総理、事実上”虚偽答弁”認める!「招待者の取りまとめに関与」していたどころか、総理推薦枠が1000人も!しかも… 赤かぶ
23. 2019年11月21日 02:36:37 : fPJAvU5aVQ : Rm1hdThxcHljblU=[1]

なんでもかんでも反対して文句ばかり言えば良いと思っているバカ。


https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AHBK45RITFCL4TLCDIIYLICQ7ODQ/ref=cm_cr_arp_d_gw_btm?ie=UTF8
http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/501.html#c23

[政治・選挙・NHK267] 「桜を見る会」巡り安倍総理を告発“公選法違反だ”(ANN) 赤かぶ
35. 2019年11月21日 15:39:44 : fPJAvU5aVQ : Rm1hdThxcHljblU=[2]

中国の戦争宣伝の内幕―日中戦争の真実 | フレデリック・ヴィンセント ウイリアムズ, Frederic Vincent Williams, 田中 秀雄 |本 | 通販 | Amazon
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通州事件 P33
 私か住んでいた北支の150マイル以内のところに、二百名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。二十名はほんの子供のような少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
 日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937 年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼らの血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。
 これは通州のことである。古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されることだろう。この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。しかし120人は逃げおおせた。犯され殺された者の多くは子供であった。この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。
 セオドアールーズベルト・ジュニア夫人は中国から帰ってきて、『サタデー・イヴニング・ポスト』(1937年10月21日号)に、中国人の品行問題について、啓発的意見を述べている。
 「……突然私たちは叫び声を聞いた。それは不機嫌なわめき声に変わっていった。私たちの直ぐ下で、一塊の群衆が激怒した暴徒と化し、大声で叫びながら5人の日本人を追っていた。4人はうまくバスの中に逃げ込んだ。奇妙だが、中国人は日本人を引きずり出そうとしなかった。1人がよろけて落ちた。彼らはそこに襲いかかった。それから彼は血だ らけになるまで蹴られた。殴られた。踏みつけられた。肋骨が折れ、顔がどろどろと血まみれだった。そこに白いターバンのシーク教徒の交通警察官が南京路の交差点から鞭を持ってやってきて、暴徒をうさぎのように追い散らした。それから救急車を呼んだ。暴徒がまた集まってきた。明らかにやり返しに来たのだ。私はあの日本人が死んでいると確信した。しかし担架に乗せられたとき、彼の手が動くのを見た」

http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/504.html#c35

[近代史3] 日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが… 中川隆
27. 2019年11月21日 17:09:46 : fPJAvU5aVQ : Rm1hdThxcHljblU=[3]

極左脳は日本を滅ぼす。。。。。。。
そんなに日本が嫌なら特亜に帰ればいい。
桜を見る会叩きとか、捏造モリカケで2年も国会をハイジャック。
北朝鮮の将軍様の所にでも、習近平でも、江沢民でも、文在寅でも、
極左の尊敬してやまない指導者の国へ早く帰ればいい。
チュチェ思想も、武者小路公秀も、山口二郎も、基地外Dr.リカも
日本にはいらない、不要、ただの癌細胞、ゴミ、トンスル‼

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「証拠写真」として通用する写真は一枚もなかった>
 完全な検証への決め手を求めて

 平成14年春から南京事件研究会の写真研究分科会と して始まった私たちの写真検証は、意外にも約3年の長 期に及んでしまった。それというのも、途中で、壁にぶ つかってしまったからである。私たちがどれほど検証し たとしても、それは決め手に欠ける独りよがりな検証で はないかと言われては、水の泡になりかねないという苦境に何度もおちいったからである。
 かつて『ロサンゼルス・タイムズ』が掲載した写真が 問題になったことがあった。よく見ると、一枚の写真に 同一人物が二人いることから、これは「改竄されている のではないか」という読者からの問い合わせを受けて、『ロサンゼルス・タイムズ』が調査した結果、撮影したカメラマンはほぼ同時撮影の同じ場面の二枚の写真をパ ソコンで一枚に合成したことを認めて、解雇された。知 らなかったとはいえ、合成写真を掲載した新聞社は謝罪広告を載せた。
 もう一つ例をあげておこう。それはまだ記憶に新しいイラクの邦人3人の人質事件の映像である。そのうち1人の男性が首を絞められ、助けを求めている姿にたいして専門家は「演技を振り付けたような動き」を見つけ、「演出」ではないかと疑問を呈していた。その後解放さ れた人質三人は強要されたことを大筋で認めた。
 つまり私たちも検証のさいに「改竄されているのでは ないか」「演出ではないか」と疑問に感じた点について は、然るべき人に問い合わせて検証し、そうして初めて南京大虐殺の証拠写真かどうかを判断すべきであろう。そうでなければ完全な検証とはなり得ないのではないか、そう、思ったのである。
 しかし、そうは言っても、ほとんどの写真は誰が撮影 したかもわからず、問い合わせる術もなかった。そこで 私たちは、その写真の初出を探し出すこと、その写真が掲載されているさまざまな書物を集めて見比べてみること、写真と同じような光景の場所を見つけて場所の特定に努めること、さらには当時の状況を物語る本をできるだけたくさん読むことで、「然るべき人」への問い合わせに代えることにした。このように多様な角度から追究することにより、私たちの検証はほぼ完全となりつつあった。
 ところが、ただ一つ、どうしても次の点が確認されな ければ、確実な検証とは言えないというもどかしさが、残ったままになっていた。それは、本書をご覧いただくとわかるように、南京大虐殺の写真としては妥当ではないという理由として、「この写真は、服装や背景などが春のころにあたるから、南京大虐殺が生じたと言われる冬にはそぐわない」と、何度も私たちは言っていた。しかしそれは、それすら状況証拠にすぎず、いまひとつ、 これという決め手に欠けていたのである。そもそも暖かい冬だったので人びとは春のような服装をしていたので はないかという反論も、一応は成り立つからである。
 そのようなとき、季節について二つのヒントが見つか った。
 一つは、本書136〜138頁に紹介したように、写 真に写っている影の長さを計算して季節を判断するという手法であった。
 もう一つは、おりしも発掘された国民党宣伝部の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』のなかの「撮影課工作概況」に見られる次の秘密報告であった。
 本処〔国際宣伝処〕の撮影事業の動機は、1938春、本処の指導する国際新聞撮影社が、すべての撮影機材や、その他の材料、取材したフィルム数千枚を、全て中央通信社撮影部へ渡し、並びに毎月手当てを出して、力を結集して、撮影功能の展開を期したことから始まる。
 すなわち国民党宣伝部国際宣伝処が、プロパガンダ写真をつくるため「撮影工作」に本格的に乗り出しだのは、1938(昭和13)年春だったことがわかったのである。
 このことは、『戦争とは何か』の出版作業にかんして、編者のハロルド・ティンパーリ記者がマイナー・ペイツ師に「ことに、写真代がかさみます…ゴランツ社〔「レフトブック・クラブ」というシリーズを出していたロンドンの出版社〕は、もちろんあの本に全部を使うはずはないのですが、200枚写真を要求しています」と、1938年3月14日、手紙に書いていること とも合致する。
 つまり、1938年7月に出た宣伝本、田伯烈(ティンパーリ)編『外人目撃中の日軍暴行』(『戦争とは何か』に写真を加えた漢訳版)に出てくる写真は、来るべき夏の出版に向けて、1938年春から大急ぎで収集ないしは「撮影工作」された写真であったと言えるのである。春から初夏にかけての写真がなぜ多く見られたのかという謎が、これで初めて氷解したのである。
 それにしても、なぜ国民党宣伝部は南京大虐殺が生じ たと言われる真冬の季節に注意を払わなかったのかと、読者は疑問に思われるかも知れない。その決定的な理由は、国民党宣伝部が「南京で虐殺」という認識をもちあわせておらず、ただたんに抽象的な戦争プロパガンダを展開していたということにあった。そのことについてはすでに『南京「虐殺」研究の最前線 平成15年版』や、「南京〈大虐殺〉を覆す決定的証拠を発掘した」において論じているが、詳しくは別の機会に論ずることにした い。
 ちなみに写真や、本書では取り扱わなかったが映画の、登場人物の動作が不自然だ、演出のようだと感じられた疑問についても、それが解けたことを紹介しておきたい。極秘文書は「海外向け宣伝用短編映画」の製作にかんして次のように秘密報告していた。
 本処〔国際宣伝処〕は多くの米国の専門家たちに特に委託して、ストーリー編成に協力してもらった。初めての仕事なので、人力、物力に不足を感じたが、背景のセットを造ったり演技者を雇うことはできないので、ドキュメン タリー方式で撮影製作するしかなく、大自然の環境を利用し、また一切の現実の事物をもって映画の製作をした。 例えば『建軍』の中の軍学校の学生、『怖いもの知らずの重慶』の中の冷静な大衆、『桐油(とうゆ)』の中の農民や工員などは、すべて我々の栄誉あるスターであり、『建軍』の中の各種の武器、『雲南ビルマライン』の無数の自動車は、すべて我々の道具である。
なるほど写真にも映画にも、ぎこちないシーンが出てくるが、それもこれも宣伝用映画や写真の「栄誉あるスター」となった学生や農民労働者の演技だったからではないか。そう考えれば納得がいく。今でいうエキストラを動員して、海外向け宣伝用短編映画や写真が宣伝部を中心にして作られていたのである。
「親中反日」の国際世論を創出せよ

 こうして私たちの検証はかぎりなく完全な検証に近づ いたと自負している。
 検証の過程でさらに驚いたこともあった。以下は極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』のなかの「撮影課工作概況」における秘密報告である。
 廣光社〔廣光新聞撮影通信社〕が原稿を発送するようになって、世界中の新聞雑誌に掲載された我が国〔中華民国〕のニュース 写真の95パーセントは、本社〔廣光新聞撮影通信社〕提供のものである。重慶駐在の外国人記者は常に本社から写真を購入して、本人の名義で対外的に発表すると同時に、外来の外国人記者及び名士が我が国でニュース写真を収集する時にも、ほとんど本社が供給している。
 すでに述べたように、国民党宣伝部が撮影工作を中央通信社撮影部に一本化したのが1938年春であった。それから中央通信社撮影部が廣光新聞撮影通信社となっ た。その翌年の1939(昭和14)年になると、外国人記者の「名義」で全世界の新聞雑誌に掲載された中国関係のニュース写真の95パーセントが、この彩光新聞撮影通信社の「撮影工作」した「抗戦用写真」であった というのである。
 極秘文書は宣伝部が「取材協力」した外国人特派員の名前を秘密報告している。そのなかには世界で初めて 「南京大虐殺物語」を報じた『シカゴ・デイリー・ニューズ』のアーチボルド・スティール特派員の名前や、『二ューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン特派員の名前も散見される。備考欄を見ると、彼らのために「抗戦用写真を記事作成用に選定」などと記されている。本書にもたびたび出てくる写真雑誌『ライフ』の名も極秘文書に出てくる。
 抗戦用写真が外国人記者の名義で全世界の新聞雑誌に出るよう、国民党宣伝部は必死の努力をつづけていたのである。日本に反対するアメリカの中国支援こそ国民党の死活問題と見ていたからである。そのため、「アメリ カの新聞雑誌にウソをつくこと、騙すこと…アメリカ を説得するためなら、どんなことでもしてよい」(『歴史の探究』76頁)という政策が、「中国政府唯一の戦争戦略」(the only war strategy of the Chinese government)になっていた(76頁)、と回想するのは、後年の著名なジャーナリスト、セオドア・ホワイトである。 大学を出たばかりの彼は自修徳という名で国民党宣伝部の「顧問」となっていた。
 このように国民党政府の国策がさまざまな抗戦用写真を生み出した。その走りは、上海南停車場の線路で泣き叫ぶ子供の写真(本書78頁)である。そこで、最近ようやく判明したこの写真の撮影者についても付記しておきたい。国民党宣伝部副部長董顕光(とうけんこう)の明かすところによれば、中央通信社撮影部の有名なプロカメラマン王小亭(おうしょうてい)であった。「中国唯一の大通信社」である中央通信社の蕭同茲(しょうどうじ)社長と董顕光が「合作」したものこそ、中央通信社内に新設された撮影部であり、そこの専属カメラマンとなったのが王小亭であった。
 第二章でも述べたが、「H・S・ワン撮影」として『ライフ』1937年10月4日号に出たこの写真は、アメリカの世論を親中反日へと急転回させたと言われている。『ライフ』1938年1月3日号の「読者の選ぶ1937年の写真ベストテン」(13頁)では2位に選ばれている。その写真説明は「中国の戦争」であった。董顕光はこれを「傑作」と評している。
 しかし、このような抗戦用写真の宣伝工作こそナチス宣伝省顔負けの、ウソを「必要不可欠」とする戦争プロパガンダではなかったのだろうか。日本も世界も、国民党宣伝部のプロパガンダ写真に惑わされ、70年前の戦争プロパガンダに今にいたるも完敗しているのである。

憎悪の感情の連鎖反応を断ち切るために

 検証が終わった今、私たちは次の3点を結論とする。
 一つは、日本軍が南京で6週間にわたって、大量虐殺、強姦、放火、掠奪をしたという「証拠写真」は一枚もなかったということである。誤解のないように言っておくが、私たちは「虐殺があったか、なかったか」を検証しようとしたのではない。あくまでも南京大虐殺の証拠に使われている写真が、はたして証拠写真として通用する ものなのかどうかを検証したのである。その間、私たち が見てきた写真はざっと見ても延べ三万枚以上になるが、南京大虐殺の「証拠写真」として通用するものは一枚もなかったということである。
 二つ目は、18〜19頁の「流れ図」から浮かび上がってくるように、今日流布する南京大虐殺の「証拠写真」なるものは、田伯烈(ティンパーリ)編『外人目撃中の日軍暴行』と国民政府軍事委員会政治部編『日寇暴行実録』の2冊を源流としていたということである。第二章でも述べたように、この2冊の宣伝本に少なからず出てくるのは、自国民とアメリカを反日親中に向かわせる抗戦用写真として収集、盗作ないしは撮影工作されたプロパガンダ写真であった。
 三つ目は、これも「流れ図」から浮かび上がってきたように、この2冊の宣伝本をもとに、こんどは中国共産党の新たな情報戦が1970年代から始まったということである。
 1970年代の共産党の政策と方針の一端は次の回想に垣間見られるので、ご参考までにご紹介しておきたい。有名な魯迅こと周作人(しゅうさくじん)の孫にあたる周令飛(しゅうれいひ)は、『北京よ、さらば』(昭58)のなかで祖父の魯迅の写真について、次のような体験談と目撃談を記している(205頁)。
 1976年、中共は祖父の業績を記念するため、一組の記念写真集を出版した…祖父が何人かといっしょに写った写真も、何枚かは複製されたが、かれらはそのときには祖父といっしょに写っている人がだれであるかを前もって調べ、それが「反革命」の人物、あるいは祖父 といっしょにするには不適当だと断定した場合には、必ず修正室でその人たちを消し去るか、ほかの人と首をすげ換えるかしてから複製していた…私の父は…真実の姿を残して欲しい、と申し入れたが、中共当局は私たちの申し入れに対して全然振り向いてもくれなかった。大陸では写真の修正など日常茶飯事で、しかも大っぴらに行なわれている。私は「解放軍画報社」で仕事をしている問に、この目で何度もそれを見た。
 あれは毛沢東の追悼大会のときだったが、江青、姚文元らが入場してきたので、当然彼らの姿がカメラに収められた。だが写真がまだ発表されないうちに「四人組」 が粉砕されてしまった。このニュースが伝わると、社長がアタフタと私たちのところへやって来て、写真の修正技術を利用し、あの乾板から「四人組」に関係ある者をすべて抹消するように、指示をした。
 中国共産党の時代になっても写真の修正など「日常茶飯事」であり、それは現在までつづいている。平成16 (2004)年9月3日付のシンガポールの『ストレー ツ・タイムズ』と翌日付の『産経新聞』が伝えたところによれば、江沢民主席をはさんでケ小平と胡錦濤両氏が握手する江沢民時代の写真が、胡錦濤時代になると、江沢民を消した写真に変わったという。不都合な人物は写真から消され、不都合な写真説明は新たな写真説明に変えられていったのである。
 1972(昭和47)年に出版された本多勝一 『中国の日本軍』中の掲載写真も、国民党のプロパガンダ写真に、改竄された説明を付したものをふくんでいた。
 これを皮切りにして、日本中に、否、世界中に「南京 大虐殺」が広まり、いまやしっかりと定着しつつある。 しかし、南京大虐殺の証拠と称される写真、最近入館無料となって入館者で混雑するという南京大虐殺記念館の展示写真、日本で南京大虐殺写真と称して展示される写真、その他多くの本に掲載されている写真のほとんどは、本書の検証によれば南京大虐殺の証拠写真としては決して通用するものではなかった。
 しかし、私たちはそこまでしか言えない。あとは写真を展示する人、それを見る人の良識と、ウソはいけないという良心に待つよりはかない。ウソを取り払おうとする努力を妨げようとする人こそ、日中関係の真の構築を妨げているのである。このウソが取り除かれなければ、ウソによって作りだされた憎悪の感情が、中国における反日と日本における嫌中の悪しき連鎖反応を生み出していく。そして、このままでは、それがどこまでもつづいていくのではないか。このウソが取り除かれるとき、はじめて真の日中友好が始まるであろう。日中間に突き刺 さった刺、私たちが書物や展示会で目にする、いわゆる南京大虐殺の「証拠写真」なる剌を引き抜くうえで、本書の検証は大いに役だつと期待している。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html#c27

[原発・フッ素52] 残酷!台風直後の福島で1万1000ベクレル超の放射能!  赤かぶ
22. 2019年11月21日 17:16:10 : fPJAvU5aVQ : Rm1hdThxcHljblU=[4]

放射能中国人が日本に大量増殖中で大問題。


『SAPIO』2005年8月24日号
[緊急対論]「親日派」宣言で話題の元中国共産党エリートが激白

 これが中国「反日」世論のカラクリだ

鳴霞(Mei Ka 元中国共産主義青年団) 私は57年、旧満州の遼寧州瀋陽で生まれたんですが、少女時代、祖父からよく「満州時代はよかった」という話を聞きました。日本人は親切で礼儀正しく、約束を守り、治安が非常に良かったと。
 家に鍵を掛けたことなどなく、寒冷地なので、冬の夜、食料をベランダに置いて冷蔵庫代わりにしていたと言うんです。今は治安が悪く、ドアは二重にしないと危ないし、食料を窓の外に置いておけば、すぐに盗まれてしまう。
井沢元彦(作家) それはひどいですね。
鳴霞 今の中国にモラルなどありません。今年の6月、黒竜江省でダムからの洪水で200人以上の小学生が死にました。ダムの管理会社の担当者がダムで魚の養殖をやっていて、豪雨でダムの水位が急上昇し、魚が流出することを恐れ、勝手に水門を開けてしまったことが原因です。
 中国語に「向前看」という言葉があります。前を向けば希望がある、という意味です。でも、今は同じ発音で「向銭看」という言葉が使われています。「お金しか見ない」という意味です。
 何の処理もしないで汚水が垂れ流され、「長江は世界一長い下水道」と言われているんですけど、そのおかげで、2億人以上が汚染された水を飲み、30秒に1人の割合で障害児が生まれているんです。こんな具合だから国民の不満は大きく、全国で1日あたり150回のデモが起きているんです。
  話を元に戻しますと、文革前の小学生のとき、私は「紅小兵」になりました。「毛主席の忠実な少年兵」ということですが、成績が優秀で態度の良い子供が選ばれるんです。そして、中学入学と同時に共産主義青年団に入りました。これは中学生から18歳まで、共産党に入党する前の青少年エリートが入る組織です。
井沢 当時はどういう教育を受けていたのですか。
鳴霞 中ソ対立の時代なので、徹底的な反ソ教育ですよ。ソ連は中国人を何人殺したといったことを教え込まれ、新聞や雑誌も反ソ記事一色でした。
 私も「ソ連はなんて悪い国なんだ」と思っていましたよ。それとは反対に、日中関係は72年に国交を結び友好ムードでしたから、反日教育はほとんどありませんでした。私が中国にいた82年まではそうです。南京大虐殺のことなど教科書にも載っていないし、教わりませんでした。
井沢 私も83年に胡耀邦(当時の中国共産党主席)の招きで中国に行ったんですけど、あの頃はそうでしたね。中国が今のような反日に転じたきっかけは何だったんでしょう。
鳴霞 84年に本多勝一氏が『朝日ジャーナル』に「南京への道」という連載を始め、それと連動するように朝日新聞も日中戦争中の日本軍の「残虐行為」を書き立てたでしょう。あれがきっかけです。
井沢 南京大虐殺記念館が作られたのも、その翌年ですね。日本の中の反日日本人が中国に間違ったネタを提供し、反日を煽ったというわけですね。
鳴霞 その通りです。長年反日が徹底された結果、今年の6月にはこんな事件まで起こりました。
 広東省の幼稚園で、毎朝、あるマーチが流されていた。ところが、抗日戦争に参加した経験のある年配者が、それが日本の「軍艦マーチ」であることに気づき、ネットで非難したところ、幼稚園に抗議が殺到した、という事件です。私のように10代の時に反日教育を受けなかった40代も、毎日のように反日報道を目の当たりにして変わりましたね。
井沢 中国の場合、インターネットも政府が規制していますからね。
鳴霞 しばらく前、「新浪」という中国最大のポータルサイトが大学生や専門学校生にアンケート調査を行ないました。「もし戦争が起こったら、あなたは相手の国の女性、子供、捕虜を殺しますか」という質問に対し、なんと90%の人が「イエス」と答えたんです。
(中略)
鳴霞 日本の高校生がよく修学旅行で南京大虐殺記念館に行きますでしょう。あれで洗脳されちゃうんですね。50、60代の人が「私の父は元海軍兵士で、中国に対して悪いことをした。だから、私が代わりに謝罪しにきた」と記念館で話した、という話を聞きました。腹が立ちましたね。
井沢 日本人として情けなく思うと同時に、鳴霞さんのような方がいることに感謝したい気持ちです。
  
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