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日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが…
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 14 日 00:01:42: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 03 日 11:40:09)

日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが…


今週、チャンネル桜で大東亜戦争についての討論会があったけど、出演者の知的レベルがあまりにも低いので驚いた。
とりわけ酷いのは、小堀桂一郎や高山正之、田中英道、岩田温であった。

彼らは大東亜戦争を検討するにあたり、日本の「自存自衛」を強調していたが、これは戦後になってから偽装保守が吹聴した言い訳である。

かつての大日本帝国の行いを何とかして正当化し、美化したい人たちの中には、

「米英に対する日本の戦争(大東亜戦争)は、アジア人を欧米人の頸から解放する為の戦争だった」

と今なお強弁する人もいるが、もしそうなら、蒋介石政府と事を構える必要はなく、そのまま仏印や蘭印に攻め込めばよかった訳だし、韓国には「韓国人による韓国人の為の政府」を作るように促せばよかったのだ。

一般の兵卒は、大切な家族、郷里の先輩後輩、親友、祖国、皇室のためなら歯を食いしばって戦うが、見ず知らずの南方土人を救うために、自分の命を「鴻毛」の如く考えることはない。作戦参謀や政治家が、前線の若者に向かって

「可哀想なフィリピン人やビルマ人のために、女房子供、両親兄弟を諦めて命を懸けてください」

と言えるのか?

普通の日本人がアジア人に接すれば、「何だ、こいつらは !」と生理的な拒絶反応を抱いてしまうだろう。
例えば、漢文の教科書に登場する支那人は、君子とか詩人、大人(たいじん)といった立派な人物なのに、大陸で目にする支那人は、詐欺師よりも悪質な嘘つきで、弱者に対して残酷、強者に対して卑屈であったりする。
朝鮮人の場合は、もう救いようがないアカンタレで論外。小便で洗顔し、糞で作った薬を飲むような賤民には、なるべく近寄りたくない。

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【アホ右翼の討論】もし大東亜戦争の開戦が無かったら?[桜H30-8-11] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=mZ0_wOxSUyY

◆もし大東亜戦争の開戦が無かったら?

アホ右翼のパネリスト:
 岩田温(政治学者・大和大学政治経済学部専任講師)
 上島嘉郎(元産経新聞社『月刊正論』編集長・ジャーナリスト)
 小堀桂一郎(東京大学名誉教授)
 山正之(コラムニスト)
 田中英道(東北大学名誉教授)
 西岡力(「救う会」全国協議会会長・モラロジー研究所歴史研究室室長)
 林千勝(戦史研究家)
 宮崎正弘(作家・評論家)
司会:水島総

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無敵の太陽 高山正之の異常な怨念 - 自存自衛を掲げて隷属国となった日本 2018年08月15日
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68729501.html


チャンネル桜の蛸壺会議
Takayama 1(左 / 高山正之 )

  保守派論客と称される知識人の中には、常識に欠ける人が珍しくない。今週、チャンネル桜で大東亜戦争についての討論会があったけど、出演者の知的レベルがあまりにも低いので驚いた。とりわけ酷いのは、小堀桂一郎や高山正之、田中英道、岩田温であった。彼らは大東亜戦争を検討するにあたり、日本の「自存自衛」を強調していたが、これは戦後になってから偽装保守が吹聴した言い訳である。もし、我が国の自存自衛を考えるなら、東南アジアにある西歐の植民地支配を攻撃せず、満洲を狙うソ連に向かって進撃すべきであった。つまり、「南進」という愚策を捨て去り、真に重要な「北進」へと舵を戻すべきであったのだ。

  ところが、小堀・高山・田中・岩田の四氏は、歐米諸国の人種差別を理由にして、日本軍の南進を正当化していたのである。南進や海軍の害悪については、中川八洋先生が『大東亜戦争と「開戦責任」』(第三章)と『山本五十六の大罪』(pp.225-253)で詳しく述べているから、ここでは立ち入らない。ただ、我々は大東亜戦争の本質を確認すべきだ。先の大戦は日本の独立や安全の為ではなく、祖国を英米とぶつけて疲弊させ、あわよくば壊滅的状態に持ち込み、共産主義革命を実現したいと願う左翼分子の画策であった。日本の軍部や政界、官界、学界などに潜む反日分子は、自分達が司令塔になって社会の隅々までをも支配したい、出来ればソ連の傘下に入って官僚主導の統制経済や全体主義を実現したいと望んでいたのだ。

  現在の日本人からすればアホらしく思えるけど、経済を知らない武闘派軍人や議会を嫌う革新官僚からすれば、自分達の命令通りに動く統制社会は素晴らしい。エリート意識の強い大蔵官僚とか観念型の中堅軍人は、自分の知能・知識で社会を設計できると思い込む。つまり、知的設計主義(intellectual constructivism)に流れる傾向が強い。共産主義に憧れる連中というのは、だいたいが試験秀才で、自惚れ屋というのが定番だ。彼らは「難しい試験に落ちた庶民は、優秀な俺たちの云う事を聞いていればいい!」という傲慢な態度に出やすい。しかし、生身の人間が暮らす社会を理性で設計なんて考えは最初から間違っている。だいたい、莫大な数の材料や商品を、役人が一つ一つ計画し、合理的に生産して流通させて行くことは現実的に有り得ず、失敗するのがオチだ。実際、ソ連の計画経済は破綻し、従った民衆が塗炭の苦しみを味わったじゃないか。

  保守派知識人の議論は本質と周辺部分をごちゃ混ぜにして議論するから、一般国民は何が何だか分からなくなる。日米開戦となった時、なるほど普通の日本人は祖国のためと思って闘ったし、アメリカの理不尽な圧力に対して怒っていたことも確かだ。しかし、その一方で、ソ連とその手先となった日本人が、日本を英米と戦わせ、漁夫の利を得ようと謀っていたのも事実である。近衛文麿や昭和研究会に集まった左翼知識人、「良識派」を装った海軍の極悪人である米内光政、陸軍の松村知勝・作戦部長、浅田三郎・情報課長などを思い出せば察しが付くだろう。本来なら、チャンネル桜に出演する言論人は、政府や軍部に蔓延る赤い人物を炙り出す役目を担っているのに、それを故意に避けているのか、それとも頭が悪くて見抜けないのか、ことさら国民の目を西歐の人種差別に向けさせる。こんな論調は一種の陽動作戦だ。

  外国人工作員にとって、反日左翼とボンクラ保守を操るのはいとも簡単。日本人が好む「エサ」を目の前にばらまけば直ちに食いつき、好きな方角に誘導できるからだ。日本人は本質的に西歐白人に憧れ、彼らと対等になりたいと望むから、その願望が打ち砕かれてしまうと、理性を失った変質者になってしまう危険性がある。戦前の日本人を見ていると、まるで「俺が愛していると告白したのに、あの女め、俺様に肘鉄を喰らわしやがった。おのれぇ〜、刺し殺して家に火をつけてやる !!」と憤慨するストーカーとそっくり。西歐人の白人至上主義とか植民地支配を非難する人ほど、白人に対する横恋慕が強い。だいたい、イギリス人やフランス人がアジアないしアフリカを征服したからといって、なぜ日本人が「解放」の天使になる必要があるのか? 何千、何万もの日本人が失う生命と、だらしないアジア人の独立が釣り合うとは思えない。たとえ、征服されたアジア人が日本の犠牲で白人支配から抜け出せても、我が国が帝國陸海軍を失い、米国の属州になってしまうのなら、何の為の戦争なのか分からなくなる。日本人は武士の伝統があるから「独立不羈」を渇望するが、アジア人は隷属が“自然状態”となっているので、独立しても少し時間が経つと、再び誰かの支配下になって元の木阿弥だ。第一、マレー人やインド人、ビルマ人、フィリピン人が真に自国の独立を望むなら、まず自分自身で強くなってから蹶起すべきで、日本人が流血を伴って支援すべき事柄ではない。

Colonial rule 1Colonial rule 2
(左: 西歐支配下のアジア人 / 右: 帝国時代のアフリカ人 )

  そもそも、安全地帯にいる作戦参謀や政治家が、前線の若者に向かって「可哀想なフィリピン人やビルマ人のために、女房子供、両親兄弟を諦めて命を懸けてください」と言えるのか? 一般の兵卒は、大切な家族、郷里の先輩後輩、親友、祖国、皇室のためなら歯を食いしばって戦うが、見ず知らずの南方土人を救うために、自分の命を「鴻毛」の如く考えることはない。機関銃を知らず鉛筆くらいしか持たない知識人は、勝手な「アジア人像」を拵えて、「アジア解放の大義に基づく聖戦」とか「東亜の新秩序」なる宣伝文句を口にするが、普通の日本人がアジア人に接すれば、「何だ、こいつらは !」と生理的な拒絶反応を抱いてしまうだろう。例えば、漢文の教科書に登場する支那人は、君子とか詩人、大人(たいじん)といった立派な人物なのに、大陸で目にする支那人は、詐欺師よりも悪質な嘘つきで、弱者に対して残酷、強者に対して卑屈であったりする。朝鮮人の場合は、もう救いようがないアカンタレで論外。小便で洗顔し、糞で作った薬を飲むような賤民には、なるべく近寄りたくない。

  日本国内で東南アジアを論じる知識人は、現地人の実態に触れず、もっぱら西歐白人に虐げられた憐れな東洋人と位置づける。しかし、実際に南方へ出向いた日本人には、違う感情が渦巻いていた。例えば、シンガポールには日本企業から派遣されたビジネスマンとか、ひと稼ぎしようと目論む商売人が結構住んでいた。当時の日本人居留者は、主に二つのグループに分かれていたという。一つは、「グダン族」と呼ばれる人々で、三井物産や台湾銀行、横浜正金銀行、日本郵船の支店などに勤めるエリート社員たちだ。もう一つは、「下町族」と呼ばれる人々で、南洋に骨を埋めるつもりでやって来た流れ者たちである。この移住者たちは、これといった学歴も無く、総領事やエリート社員たちとは違った世界に住んでいたようだ。つまり、一流企業に勤める「グダン族」とは口をきくような間柄ではなく、気心の知れた者同士で寄り添い合う庶民である。

  ただし、ほとんどの在留邦人は南洋に移り住んでも、おしなべて「日本的生き方」を貫こうとした。なぜなら、彼らは日本に帰っても幸せになれぬ人を除いて、誰しも日本に帰ることを希望していたからである。特に、エリート社員の日本人は、常日頃から「純粋なる日本人」を心掛けていたそうで、「現地の“土人”とは違うんだ」という意識が強かった。「グダン族」にはカイゼル髭を生やし、西洋帽子を被っていた者もいたらしい。中には、五つボタンが附いた詰襟の洋服を着ていた者まで居たというから驚きである。太陽が照りつけるインドシナの気候で、この服装だとかなり暑かったんじゃないか。現在でも、きちんとした服装を心掛けるサラリーマンは、真夏でも背広を着込んで山手線に乗ったりするけど、日本の気候でイギリス人紳士を真似るなんて馬鹿げている。敬虔なピューリタンでもないのに、ダーク・スーツを身に纏う日本人は滑稽だ。蒸し暑い日本なら、アロハ・シャツの方がよっぽどいい。

  もっとも、「南洋」支店に“飛ばされた”「本土族」の中には、「場末」に左遷されたと歎く者もいたそうで、日本人の見栄をかなぐり捨てて、だらしないステテコ姿になっていた人もいたようだ。しかし、選良族であれ下町族であれ、在留邦人が共通して持っていたのは、華僑や土民とはちがう「一等国民」という矜持(プライド)だった。スポーツを楽しむ時も、エリート社員はテニスやゴルフに興じ、下町族は野球や武道、相撲大会などを開いていたそうだ。確かに、立派な帝國海軍を持つ日本人には、アジア人とは違った上流意識があり、自分の身に何かあれば祖国の戦艦が助けてくれるという安心感と自慢があった。だから、「俺たちはヨーロッパ人の支配に甘んじている南洋土人なんかとは同類じゃない。日本は一等国だ。こんな茶色い連中と一緒にされては困る」と思っていた。こんな調子だったから、いくらインテリどもがアジア人との連帯を叫んでも、現地の日本人には通じなかったのである。

  世界の情勢に直面するとき、日本人の精神は矛盾と欺瞞に悩まされる。西歐列強のアジア支配に危機感を覚えてアジア民族との連携を考えるが、実際のアジア人を見ると、「こんな奴らが本当に頼りになるのか?」と不安になるし、「科学技術や生活水準で劣った民族」にしか思えないから、対等な民族とは考えない。むしろ、日本人にとって「お荷物」になる可能性の方が高いと見なしてしまう。実際、台湾は蛮族が棲息する島国だったし、朝鮮は乞食より貧乏なエタが住む後進国だった。日本の周辺を見渡すと、本当に情けない国ばかり。日韓併合なんて、腐った鶏肉を食べたようなものだ。いざ、朝鮮民族を統治してみると、支配による利益より、民度を高めるために投じた資金の方が大きく、税金の無駄遣いという後悔の方が強かった。今では常識になっているが、朝鮮半島に注ぎ込むお金があるなら、東北地方の日本人に投資した方がよっぽど有意義である。日本の議員や官僚は、幕府側についた日本人を無視するかのように、碌でなしの朝鮮に立派な学校や道路、橋、ダム、発電所など建設するんだから、冷血漢としか言いようがない。また、朝鮮に大量の税金を注ぎ込むことで、南満洲の防禦策が手薄になり、対ロシア戦略にとってマイナスとなった。

白人を憎むコラムニスト

  日本の保守派言論人は、こうした生々しいアジアを語らず、矢鱈と西歐白人に敵意を燃やす人が多い。例えば、ジャーナリストの高山正之は異様なくらいアメリカに憎悪を抱くが、日本の国益を考えればアメリカ人を味方につけた方が賢いはずだ。チャンネル桜の討論会に出演した高山氏は、セオドア・ローズヴェルト大統領が「白人の重荷」となる朝鮮を日本に押しつけたと憤る。(高山正之 / 藤井厳喜、 「新・大東亜戦争肯定論」、『WiLL』8月増刊号p.24) しかし、朝鮮半島を併合したかったのは、伊藤博文や陸奥宗光らを嫌った山縣有朋たちの一派だ。そもそも、なぜ伊藤博文が暗殺されたからといって、あの愚劣な朝鮮を吸収せねばならないのか? それに、伊藤が暗殺されたとき、兇弾の入射角度に疑問が湧き上がったが、なぜか調査は行われずうやむやにされてしまった。これはどう考えてもおかしく、普通なら納得できない。いくら何でも、総理大臣になった元勲が殺されたというのに、科学的検証が中止されたのだから、裏に何かあると思われても仕方ないだろう。筆者は陰謀論に組しないが、こうした“いかがわしい”事件が起きた場合、たいてい内部犯行という線が濃厚だ。(案外、伊藤を邪魔に思っていた山縣の差し金だったりして。)

Theodore Roosevelt 1Ito Hakubun 2Mutsu Munemitsu 1Yamagata Aritomo 1
(左: セオドア・ローズヴェルト / 伊藤博文 / 陸奥宗光 / 右: 山縣有朋 )

  高山氏は米国のフィリピン領有にも怒っていたけど、米国海軍がフィリピンに駐留することで我が国の背後が安全となったから良かったじゃないか。原始的なタガログ族とかイロカノ族を日本が統治したら、税金の浪費にしかならず、日本国民の方が搾取されてしまうだろう。でも、高山氏は日本がフィリピンを占領した方が国益に適うと考えているようだ。アメリカ白人に対し私怨でも抱いているのか、 高山氏は米国がハワイを占領・併合し、フィリピンまでも支配して、日本包囲網を構築したと述べていた。しかし、アメリカ国民に我が国への領土的野心があったのか? 合衆国政府にさえ日本占領の意思はなく、それどころか帝國海軍に対する脅威の方が強かった。日本だって米国との対決は望んでおらず、昭和天皇が英米との友好を望まれていたことは有名だ。日露戦争で苦労した帝國陸軍に至っては、ロシアが一番の敵であり、北進が伝統的な基本方針だったはず。しだかって、日本が英米を敵に回すのは愚の骨頂である。逆に、アメリカやブリテン、オーストラリアと組んでロシアに対抗するのが正論だ。「白人がアジア諸国を蹂躙したから、奴らを叩きのめせ !」というのは幼稚な書生論で、日本の国家戦略を考える大人の意見ではない。

  討論で熱弁をふるっていた高山氏は、西歐白人の植民地支配を激しく非難していたが、インドネシアやビルマ、インド、フィリピンが白人に征服されると、具体的にどんな被害が日本に及ぶのか教えてもらいたい。フランス人がベトナムを支配し、オランダがインドネシアで御主人様になってもいいじゃないか。日本の戦国時代を思い出せば分かると思うが、強い軍隊を持つ武将が他の領地に攻め込むのは当り前だった。現在の日本人は西歐列強の植民地を一方的に非難するが、植民地経営はそれほど儲からず、却って何かと出費が嵩むし、現地人の叛乱が起これば鎮圧部隊を派遣せねばならぬから、ひと苦労だ。日本人は根が真面目だから気付かないが、ビルマ人やインド人に手こずる英国の苦境は日本にとって好都合。中立的な日本が「善意の第三者」を演じて、叛乱軍と話をつければイギリス人に「貸し」を作ることができるし、現地人も非白人の日本人なら面子を保つことが出来るので妥協の余地が生まれてくる。日本の保守派知識人は無邪気にインドやビルマの独立を後押しするが、そうなると日本の重要性が減ってしまうので、我々にとってはマイナスだ。

  韓非子的な考え方になるけど、イギリス人に厄介者を持たせ続けて、「悩みの種」を増やすことは、日本人への依存度を高めることになるから、我々にとっては得策である。異民族支配に多額の税金を使う英国は、極東地域にまで艦隊を派遣する余裕が無くなるので、必然的に我が国と組もうとするはずだ。そこで、一流の諜報組織を持つ英国と昵懇になれば、日本にとって有益な情報が流れてくるから、我が軍の将兵の命が助かる場合も出てくる。また、オーストラリアを攻撃して反日感情を高めるなど暴挙としか言いようがなく、オーストラリアの白人を取り込んで英国社会に浸透する方が得である。西歐の上流社会にはお金を浪費するボンボンが多く、体面を保つためにお金で寝返る奴もいるから、そうした馬鹿を利用して人脈を開拓し、良質な情報を掴んだり、日本側にとって都合のいい情報を流すことも可能となるはずだ。「白人はケシカラン !」と興奮する高山氏は幼稚で、日本の為に友好関係を結ぶ方が遙かに賢明である。

Franklin Roosevelt 1Herbert Hoover 2Hamilton Fish 1
(左: フランクリン・ローズヴェルト / 中央: ハーバート・フーヴァー / 右: ハミルトン・フィッシュ )

  日本人は戦艦や戦闘機の製造・開発になると才能を発揮するが、宣伝戦や心理戦になると極端に能力が低下する。高山氏は合衆国政府の対日政策やアメリカのマスコミ界を糾弾するが、当時のアメリカ国民にはグローバリストが少数派で、自国優先主義に賛成する国民の方が多かった。したがって、日本政府は米国内の社会主義者や介入主義者を標的にした対外工作を実行すべきだった。日本の味方になりそうな保守派議員と民間団体を取り込み、彼らに赤いグローバリストを批判させれば対日戦争は回避できたし、米国内にジャパン・ロビーをつくれたはずだ。日米開戦となって日本兵が大量に死ぬことを考えれば、世論工作に大量の資金を投じた方が安上がりである。日本はローズヴェルト大統領や赤いニューディーラーに反対する保守的な大学生やキリスト教徒を育て、ハーバート・フーバー元大統領やロバート・タフト(Robert A. Taft)上院議員、ハミルトン・フィシュ(Hamilton Fish)下院議員、ジョン・W・ブリッカー(John W. Bricker)上院議員、ヘンリー・スタイルズ・ブリッジ(Henry Styles Bridge)上院議員などの政治家と連携すればよかった。特に、アメリカの内部には保守的な民衆党員が多かったので、ソ連を支援するようなユダヤ人官僚とか共産主義にかぶれたピンク左翼の正体を暴いて、民衆党員同士を反目させることも出来たはずである。

John Bricker 1Henry Styles Bridge 1Robert Taft 1
(左: ジョン・ブリッカー / 中央: ヘンリー・スタイルズ・ブリッジ / 右: ロバート・タフト)

朝鮮人並の感情論

  とにかく、アメリカ人やヨーロッパ人を酷評する高山氏の表情を見ていると、何らかの個人的な恨みでもあるのかと邪推したくなる。「白人だから悪い」とか「アメリカ人は根っからの悪党だ」との前提で国際政治を判断すると、物事の本質が見えなくなる。たとえ、日本人を嫌うアメリカ白人がいたとしても、どんな魂胆で反日言論を展開しているのか分からない。単に挑発的な記事や刺戟的なネタを書いて注目されたい記者かも知れないし、外国からお金をもらって故意に反日論評を書いているのかも知れないのだ。そもそも、日本人を称讃する良識的な記事より、残虐な日本人をテーマにして特集を組んだ方が編集部のウケがいい。また、アメリカの一般国民は驚くほど無知だから、嘘のような記事でも簡単に信じてしまう癖がある。

  高山氏が念頭に置く「アメリカ白人」とは、日本を貶すことで快感を得る下郎のジャーナリストか、地理を勉強したこともない底抜けの馬鹿、白人であること以外に自慢が無いクズ、「日本批判なら問題なし」と思っているリベラル派とかじゃないのか。産経新聞社時代、高山氏はロサンジェルス支局に勤めていたというが、どのようなアメリカ人と接触し、如何なる情報を貰っていたのか? 優秀なジャーナリストであれば、上質なネタを仕入れるために、ワシントンの政界やウォール街に詳しいアメリカ人と個人的に親しくなるはずだが、高山氏には何人くらい現地の友人がいたのか? もし、白人の友人が一人もいなくて、アジア系やヒスパニック、黒人ばかりだとネタが偏ってしまう危険性がある。アメリカで良質な情報を得ようとすれば、やはり上流階級にコネを持つ白人の存在が不可欠で、上院・下院議員はもちろんのこと、連邦政府の高級官僚、ペンタゴン勤務の軍人、政党の中堅職員、国際金融業界や軍需産業に顔が利くビジネスマン、大手シンクタンクの上級研究員などの人脈が必要だ。ジャーナリストが情報源を隠すのは分かるけど、高山氏は過去にどんな人物と会っていたのかを告白すべきだろう。

  これは筆者の勝手な推測だが、高山氏には個人的に親しいアメリカ白人が居なかったんじゃないか。日本での取材なら、仕事を離れた場所でも人脈を築くことができる。それに、いくら口の堅い官僚や議員といえども、長く付き合っていれば情が湧いてくるから、時折、上等なネタをリークしてくれるし、酒場で雑談しながら内部情報を聞き出すことも可能だろう。しかし、アメリカだと日本国内のように簡単ではない。まず、言葉と容姿が違うから、西歐系アメリカ人に近づくのが難しいし、たとえ接触できても親しくなるまでが大変だ。だいいち、高山氏にアメリカ人を籠絡するほどの英語力があるとは思えない。外人訛りの発音だと聞き取りづらいので、日本人と話していると鬱陶しく思うアメリカ人は結構多いのだ。でも、いくら日本人記者だからとはいえ、プロのジャーナリストであれば、「道具」としての英語は身に付けておくべきだろう。最もキツイのは、日本人に興味の無いアメリカ人を振り向かせるために、ユーモアのセンスを磨き、アメリカ人が好みそうな笑い話やジョークを予め仕込まねばならない事だ。落語家のように普段からネタ話を練習し、英語であっても流暢に披露できるよう準備せねばならない。官僚の留学なら気楽だが、民間企業から派遣される日本人は、現地で人脈を広げるために相当苦労する。

Korea old times 9Korea old time 4
(写真 / 貧乏時代の朝鮮人)

  これは言いづらい事だが、白人の植民地支配にケチを附ける高山氏を眺めていると、日本を激しく罵る夜郎自大な朝鮮人に見えてくる。外国の歴史や冷徹な国際政治を知らない朝鮮人は、国内で勝手な意見を吐くことで有頂天になるが、いざ日本に留学してみると、自分の愚かさと視野の狭さに気づくことがある。朝鮮の若者は同胞の教師から「日帝は朝鮮人の国土や文化、名前、言語を奪った。しかも、日本兵は朝鮮の少女を攫って性奴隷にしたんだ」と習う。ところが、先進国の日本に留学し、一次資料を調べてみると、朝鮮人教授の話が嘘っぱちだと分かる。また、アメリの名門校に留学すると、朝鮮人など全く相手にされず、朝鮮が何処にあるのかも知らないアメリカ人が多い事に驚く。朝鮮が「世界五大文明の一つ」という“歴史”は明らかな妄想である。

  日本にやって来て目が覚める朝鮮人はまだマシな方で、日本語が苦手で日本人との交流が少ない朝鮮人は、思い出に残るような喜びを味わえず、日本人の友人すら作れず日本を去ることになるる。こうした朝鮮人は、日本での孤独感や屈辱感を抱いたまま帰国するので、朝鮮に戻ってからも反日言論を繰り返し、冷たかった日本人への復讐に燃えてしまうのだ。もし、憧れの日本で優しい友人を持ち、日本人との親睦を通して朝鮮の過去を調べれば、朝鮮人の不甲斐なさに気付き、一方的な反日史観に疑問を抱くようになるだろう。高山氏はふて腐れた朝鮮人と似たような心情を抱き、邪悪なアメリカ人を主流とする合衆国を思い描いている。確かに、合衆国政府の閣僚や補佐官などには、他国を征服し、裏から操って覇権を握ろうとする連中がいるのも事実だが、その一方で、米国の介入主義と帝国主義に反対する保守派が少なくない。

Robert E. Wood 1(左 / ロバート・E・ウッド)
  とにかく、国際社会は弱肉強食の世界で、認識の甘いボンクラ国家が強国の餌食になってしまうのは常識だ。もし、米国が宣伝工作で日本の権益を脅かすなら、日本も米国社会に(第五列の)工作員を浸透させ、ワシントンの政界を攪乱すればいい。高山氏は支那人を使った反日宣伝を非難するが、それなら我が国も保守的アメリカ人を買収して、民衆党政権に反撃を企てればよかった。日本の知識人は米国の心理戦を批判するばかりで、積極的な対策や攻撃を提案しない癖がある。1930年代とか40年代には、国際介入を目論むグローバリストに反対する保守派がいたから、日本政府は国内優先主義(アメリカ・ファースト)の勢力を支援すべきだった。例えば、共和党系の軍人であったロバート・E・ウッド(Robert E. Wood)将軍、シカゴの名門家族出身で「シカゴ・トリビューン」紙の発行者であったロバート・R・マコーミック(Robert Rutherford McCormic)、毛沢東の共産党に反対していたウィリアム・ノウランド(William Knowland)上院議員、「ミスター・リパブリカン」と呼ばれたロバート・タフト上院議員、さらにネバダ州の有力者であったパトリック・マッカラン(Patrick A. McCarran)上院議員、ミシシッピー州の大物ジェイムズ・イーストランド(James Eastland)上院議員などを加えてもいいだろう。

Robert McCormic 1William Knowland 1Patrick McCarran 1James Eastland 2
(左: ロバート・マコーミック / ウィリアム・ノウランド / パトリック・マッカラン / 右: ジェイムズ・イーストランド )

  感情的にアメリカを批判する高山氏は、パワー・ポリテックスを知らない朝鮮人と同じで、もし、高山氏が軍事大学の教授や欧州貴族の外政官を前にして、自説を披露すれば大爆笑間違いなしだ。地政学や核戦略を勉強する日本人が高山氏を見れば、同胞として恥ずかしくなり、「日本では言論の自由があるので、ああいう人も存在可能なんです」と言い訳するしかない。昭和初期における日本の軍事力や経済力、ソ連の侵掠的脅威、庶民の生活水準を熟知している人は、英米との衝突を避けるべきと考えるはずだ。亡くなった岡崎久彦大使は、若い頃から歴史に詳しく、戦後ケムブリッジ大学で英国の教養人と接触した外政官だから、日英の格差をよく判っていた。しかも、特命全権大使として活躍し、自衛隊の装備や米軍との関係にも精通していたから、アングロ・サクソンとの協調が日本の安全保障になると確信していた。

  戦前もそうだったが、敗戦後の日本人は戦国時代の思考を忘れている。生死を賭けた戦(いくさ)に邁進した大名たちは、決戦はもちろんのこと、小競り合いにまで細心の注意を払い、敵陣の籠絡、情報攪乱、内部分裂の工作活動などにも熱心だった。秀吉や家康は「戦わずして勝つ」ことを狙って、他の武将を自陣に寝返らせたり、スパイを送り込んで偽情報を流していたという。心理戦に長けた秀吉は猜疑心も強く、軍師の黒田官兵衛にさえ疑念を抱き、豊臣家の安泰を考えていた。家康の方も用心深く、自分の軍事力が強大になるまで辛抱を貫いた。若い頃は今川家や織田家に服従していたし、秀吉が天下人になれば、その傘下に入って機会を伺っていたんだから狡猾だ。領地と家臣を守る為に、家康は多くの屈辱に耐え、将来を見据えていたから凄い。中国の覇者だった毛利家も「おしん」の典型で、コ川時代に領地を激減され、萩に暮らす羽目になっても爆発しなかった。コ川家のイジメによく200年以上も堪えたものである。支那事変の頃の日本人も、世界情勢を考慮して、どの国と妥協して、如何なる同盟を組み、誰を敵とするかを考えるべきだった。高山氏が好きな「植民地解放の為に西歐と戦う」という戯言(たわごと)を秀吉や家康が聞いたら、「この、たわけ者 !」と怒るに違い。戦国武将なら必ずや英米を味方につけ、ロシアの東進に対抗しようとするはずだ。戦争は国家の命運を賭けた外政だから、軽率なスローガンで始めてはならない。「歐米諸国の植民地統治を完全にひっくり返したから、政治的に勝ったのは日本だ」(上掲対談 p.21)と発言する高山氏には附ける薬が無い。米軍の補助部隊に零落れた自衛隊を毎日見る自衛官に意見を聞いてみたいもんだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68729501.html

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「日韓併合」の正当性を唱える人たちへの最終メッセージ 2013年10月28日
松本 徹三

ここ数週間はデジタル教科書問題を書いてきたが、その前の6週間は日韓問題ばかり書いた。その為に今でも私のTwitterではこの関係の議論が多い。

そこでの最も典型的な私への反論は、「日本による韓国の併合は正当なものであり、あの時代に韓国が自らの力で完全な独立を維持する事は元々不可能だったのだから、韓国にとってもむしろ一番良いシナリオだった。だから日本があれは悪い事だった等と認める必要はないし、謝罪等は論外」という趣旨のものだ。


しかし、日本人がこう言い募っている限りは、日韓のわだかまりは永久になくならないだろう。しかも、こういう人たちに限って、当時の韓国人の近代文明への理解の低さをあげつらって、無神経な論調に終始するのだから、反発が収まらないのは当然だ。

いつも申し上げているように、私は歴史問題を議論する時には「事実関係」と「評価(善悪)」を明快に切り分けて議論すべきだと考えている。

「慰安婦問題」などで韓国側が言い立てている事(元を質せば、一人の奇妙な日本人が売名の為に言い出し、朝日新聞などが自らの思惑によって拡散し、最後は宮澤首相—河野官房長官が「臭いものに蓋」の感覚で認めてしまった事なのではあるが)は、「事実関係」が歪められている故に、韓国と韓国人に対して相当強い親近感を持つ私自身でさえも承服し難いのだが、「日韓併合の正当性」という事になると、これは「評価(善悪)」の問題になるから、これを肯定する多くの日本人と私は真っ向から議論したい。

「日韓併合の正当性」を肯定する論者の論点は、
1.遅ればせながら世界の列強の仲間入りをしつつあった日本としては、至極当たり前の行動であり、列強もこれを認めたのだから、今から遡ってとやかく言われる筋合いのものではない(まして「謝罪」を求められるのは筋違い。それなら、欧米各国は、アジア、アフリカ、中南米の各国にそれに数百倍する謝罪を繰り返さなければならない事になる)。

2.当時の日本にもしそうするだけの国力がなかったら、当然ロシアが韓国を支配下に置いたであろうし、自国と合体させて多額の投資を行った日本に比べ、ロシアの場合は単に植民地として収奪の対象としただけだっただろうから、韓国民にとっては遥かに良かった筈だ。そのように考えると、日本による併合は、結果として韓国民の為に良かった筈なのだから、感謝こそされ、恨まれる筋合いはない。
3.日韓併合は、「二国間の条約」に基づいてなされたものであり、国際法に照らしても合法である。韓国の皇帝はハーグの国際司法裁判所に密使を送ってこの非をなじろうとしたが受け入れられず、頼みのロシア皇帝の支援も取り付けられなかったのだから仕方がない。当時の韓国は国際世論から見捨てられていたのだから、その事実を遡って覆そうとしても無理。

上記の何れに対しても、私は、特に「事実関係」が歪められているとは思っていない。しかし、上記に言われていない事が下記の通り幾つかあるので、その事をきっちりと付け加えた上で、あらためて「評価(善悪)」の議論に進みたい。
1.当時の大韓帝国(清の冊封国家だった李氏朝鮮が、日清戦争の結果として清がその地位を失った為、清と同格の帝国となった)の主権者は皇帝の高宗であり、彼と彼を支える人たちは日本の支配を望まず、むしろロシアとの関係強化を望んでいた。

2.しかし、日露開戦を間近に控えた日本にとっては、兵站の輸送経路である韓国が「局外中立」であっては絶対に困るので、武力を背景に威嚇し、日本側が望む形での「議定書」を締結。日露戦争に勝利した後は、欧米諸国の暗黙の了承のもとに、次第に権益を拡大して、遂には「併合条約」の締結に至った。その全ての局面で、韓国政府は常に武力による恫喝の下で交渉せざるを得なかった。
3.「併合条約」締結後は「大韓帝国」は国号を「朝鮮」と改称させられ、朝鮮総督府が支配する「植民地」として運営された。伊藤博文等は、悪質な日本人が善良な韓国人の利益を不当に害する事のないように気を使ってはいたが、実際には悪質な日本人も多かったので、恨みを買う事も多かった。
4.また、この間、日本の歴史学者たちは、「日韓同祖論」をベースに、強引な「同化政策」の推進に加担した。「同祖論」といっても、「神功皇后による三韓征伐(日本書紀)」という真偽も定かでない一つの「伝承」だけをベースに「古来日本は韓国を支配下においていた」と論ずるとか、その時点での経済力のみを比較して「日本は成功した本家で、朝鮮は落ちぶれた分家」と勝手に決め付けたりしての議論であり、際立って公正さを欠いていた。

さて、私は、「日韓併合条約」は「日本が自らの利己的な目的(国益)の為に、独立国であった大韓帝国の主権者の意志に反して、武力による威嚇を背景に強制的に締結したものである」と理解している。この理解が正しくないと考える人は、上記に含まれる「利己的な目的」「主権侵害」「武力による威嚇」の三要素がなかったと主張されるのだろうから、もしそうであるなら、その根拠を示して頂きたい。先ずは、「それが事実だったかどうか」のみに絞って議論して頂き、その上でその事の「善悪」についてのコメントが欲しい。

次に、私は、日韓併合を正当化する論者に、私が追加した上記四点の最終項目である4)と、日韓併合期間中に日本人の多くが持っていたと思われる「日本人の優越意識と朝鮮人蔑視」についてのコメントを聞きたい。先ずは「そういう事実はあったのかなかったのか」についての考えを聞かせて頂き、次に、その事の「妥当性」及び「善悪」についてはどう考えられるかを聞きたい。

そして、最後に、正当化論者が常に挙げる前述の三点についての私の見解を下記の通り申し上げたい。
1.当時は列強による植民地争奪戦が世界の常識だったのだから、日本人がこの事に何等「道義的な罪悪感」を持っていなかったのは当然であり、私もその事を難詰するつもりはない。しかし、もし現時点で、「それが道義的に良い事だったかどうか」と問われれば、控え目に言っても「現時点での道義観から言えば、良い事ではなかったと思う」と答えるのが当然ではないだろうか?

ちなみに、「インカ帝国を滅ぼして大量の金を奪ったスペインの行為をどう思うか」「清国に対してアヘン戦争を仕掛けた英国の行為をどう思うか」という質問も同時にすればよい。肯定であれ否定であれ、この二つの質問に対する答えは、「日韓併合」についての質問に対する答と同じであるのが当然だ。

要するに、これまでの人類の歴史は、「基本的に暴力が全て正当化される歴史」だった訳だが、現代においてはそれが反省され、暴力ではなく「法と正義」「人道と人権」が全ての行動規範となるべきだというのが世界の常識になっている。そうであれば、「日韓併合」を今の時点で論じるに際しては、そのような「現時点での道議的評価」がなされて然るべきだ。

「謝罪」については、「英国やスペインが謝罪していないのだから、我々も謝罪する必要はない」とするのは全く意味をなさない。他者がどうであれ、自らが「謝罪に値する」と考えれば謝罪すればよく、そう思わなければしなければよいのだ。それは自らの認識と評価の問題である。その上で「欧米列強も過去の行為に関しては、日本同様に公式に遺憾の意を表するべきだ」とコメントするのは一向差し支えないし、むしろそうするべきだろう。

(なお、かつての大日本帝国の行いを何とかして正当化し、美化したい人たちの中には、「米英に対する日本の戦争(大東亜戦争)は、アジア人を欧米人の頸から解放する為の戦争だった」と今なお強弁する人もいるが、こんな欺瞞に満ちた綺麗事を言うのはやめてほしい。もしそうなら、蒋介石政府と事を構える必要はなく、そのまま仏印や蘭印に攻め込めばよかった訳だし、韓国には「韓国人による韓国人の為の政府」を作るように促せばよかったのだ。「欧米の真似をして植民地が欲しかった」と正直に言った方が、余程話が簡単になる)

2.当時の日本が韓国を支配下におさめようとしなかったら、ロシアがそうしたであろう事は勿論だろう。しかし、当時の韓国の主権者がそれを望んだのだとしたら、それが結果として韓国の民衆の為になったかどうかは別として、それを尊重すべきというのが道義的には妥当である。
当時は「民主主義」は普遍的な価値観としては未だ確立されていなかったので、「絶対君主が民衆の利益を害している事が明らかなら、周辺国がその事態を正そうとするのは道義的に妥当」という論議は、誰が「民衆の利益」についての判断をするかが明確でないので、容易には受け入れられないだろう。

現在でも、「他国の主権尊重の原則」に優先するのは、「自国の主権に対する侵害」「自国の安全への直接的な脅威」「国際法への明確な抵触」「人道と人権の侵害」「核兵器、生物兵器の拡散の可能性」位である(「民族自決原則の侵害」は微妙なところ)。また、これらの理由があっても、実力行使に至るまでには、国際連合等の場での誠実な協議が求められている。

しかし、この議論に関連してそれ以上に問題なのは、「ロシアの支配より日本の支配の方が良かった筈」という「日本人の立場からの決め付け」をする「独断的な姿勢」である。そんな事は、日本人ではなく、当の韓国人が考える事だ。

成る程、「支配層だけと手を結んで、ひたすら民衆からの収奪だけを考えただろう当時の帝政ロシアの支配」よりは、「資本主義に目覚めつつあった日本の支配」の方が、経済的には韓国にプラスとなったかもしれないが、人間は経済のみによって生きるものではない。

日本人の優越性を露骨に前面に打ち出して、一方的な同化政策を推進し、先祖伝来の姓を捨てさせたり、神社への参拝を強制したりする日本よりは、そんな事には関心のないロシアのほうが、韓国人にとっては「誇りを傷つけられる」事がないだけ良かったかもしれないではないか。

3.これは簡単な問題で、条約の形式的な合法性などには、誰も関心を持っていない。誰がやろうと、外部からの批判を受けぬよう、形式を整えるのは当然の事だからだ。武力による威嚇をもってすれば(場合によれば反対者を事故を装って謀殺したり、或いは決定的な場面に居合わせる事が出来ないように幽閉したりすれば)このような形式を整える事は比較的容易である(アメリカのハワイ併合条約も、反対者だった女王を監禁する事によって締結が実現したと聞いている)。

以上、私がこの問題に殊更熱心なのには理由がある。自己本位で、「相手の心情を推し量ろう」等という考えはさらさらなさそうな「国粋的(国家主義的)な人たち」の、過去を引き摺った「上から目線」の「論の立て方」と「言葉遣い」に、心底辟易しているからだ。この人たちの存在は、日本が「公正で偏らない判断をベースにした是々非々の議論」を行い、近隣諸国との友好関係を確立する事の阻害要因になっている。
http://agora-web.jp/archives/1565424.html

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コメント
1. 中川隆[-12221] koaQ7Jey 2019年2月12日 21:44:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告


大東亜戦争写真紀行 ありがとう日本軍 アジアのために勇敢に戦ったサムライたち
井上 和彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%88%A6%E4%BA%89%E5%86%99%E7%9C%9F%E7%B4%80%E8%A1%8C-%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%A8%E3%81%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E5%8B%87%E6%95%A2%E3%81%AB%E6%88%A6%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%81%9F%E3%81%A1-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E5%92%8C%E5%BD%A6-ebook/dp/B0169LBHEG


内容紹介


百聞は一見にしかず――。

日本国内や中韓など一部の国々からは、日本の「戦争責任」について問う声が数多く上がる。だが、実際にかつての戦場を歩いてみれば、むしろ欧米諸国の植民地支配から解放してくれた日本軍に対する感謝と賞賛の声、大東亜戦争の功績を讃える声が満ち溢れている。

実際に日本軍が力戦奮闘した地に幾度も足を運んだ著者が現地で見聞した感動のエピソードを、貴重な現地の写真をふんだんに交えて一挙紹介。

そこから現れるのは、戦後日本ではほとんど語られなかった日本軍の姿であった。次々にアジアの国々を独立させたことが後世に与えた、あまりに大きな影響。

南方の島々でも、決して一方的で愚かな敗戦を重ねたのではなく、敵軍に多大の損害を強いる勇猛果敢な戦いを繰り広げていたこと。そして、アジア解放のために、国を守るために毅然と戦った若者たちの立派な姿……。

封印された歴史の真実が一目瞭然で明らかになり、胸が熱くなる感動の書。


マレーシア、シンガポール、インド、ベトナム、インドネシア…そして南太平洋の島々―。

アジアを解放し、敵を驚嘆させた雄々しき戦い。実際にかつての戦場を歩いてみれば、日本軍の功績を讃える声が満ち溢れている!


▲△▽▼

2019.02.09
【恥トンデモ】『ありがとう日本軍:アジアのために勇敢に戦ったサムライたち』(井上和彦|PHP研究所, 2015)
https://rondan.net/556


Contents

1 とてつもなく恥ずかしい本

2 公平な資料の扱いとは

3 フィリピンを例に誤謬を糺す

4 まとめ


とてつもなく恥ずかしい本

保守本は世間に余多あれど、この本、井上和彦『ありがとう日本軍:アジアのために勇敢に戦ったサムライたち』(PHP研究所, 2015)ほど恥ずかしいものはなかなかありません。

なにせ、アジア諸国に趣いて、日本を褒めてくれる人にインタビューして、それをまとめただけという究極の「日本スゴイ」本。

複数人にアンケート調査をとって統計を取ったわけでもなく、単に自分に都合のよい現地民のインタビューを延々と羅列することで、自説を他人に語らせるだけという究極の「自画自賛本」と評価できるでしょう。

しかもこの著者は、このようなインタビューを複数出版しているというから、ただただ呆れるしかありません。しかも同著者の本は、Amazonにおいて極めて高評価を得ていることも驚くしかありません…。

公平な資料の扱いとは

このような自画自賛本に共通する問題点は、確かにそのように日本を持ち上げてくれる現地人がいたとしても、それとは逆に日本を非難する人もいるという事実を紹介しないことです。

こういう問題を考察する場合には、大規模な調査を行わない限り客観的な結論は出せないのですが、井上氏はそんな面倒なことはせず、ただただ日本礼賛のインタビューをあげていくだけ。ここまでデタラメだと、もしや井上氏は、日本が感謝されているのは必然であるから、そんな煩瑣な手順を取る必要はないと思っていらっしゃるのかもしれません。

フィリピンを例に誤謬を糺す

このようなあまりに一方的なご都合主義は、フィリピンの箇所を例に取れば明瞭ですので、それを言及したいと思います。

戦中、日本軍は、フィリピンにおいて「バターン死の行進」と呼ばれる事件を起こしています。この事件は、アメリカ軍とフィリピン軍の捕虜を収容所まで88kmも歩かせ、そのあいだ十分な食料を与えず、さらに虐待・虐殺なども発生し多数の死者が出てしまったものです
(この詳細については、永井均『フィリピンと対日戦犯裁判』岩波書店, 2010, pp. 95-114を参照)。


この「バターン死の行進」は、保守が神格化するパル判事ですらも「実に極悪な残虐である」と評価しています。(パル『共同研究 パル判決書 』下巻, 講談社, p. 672)

このように「バターンの死の行進」は保守にとっても否定し難い日本軍戦争犯罪の一つなのです。したがってフィリピンにもこれを記念するモニュメントが建っているのですが、井上氏はこれらを、


もとより、フィリピンの戦跡では執拗に”Death March”の記念碑を目にするが、日本を悪玉に仕立てるためのアメリカのプロパガンダでもあった。

と一方的にアメリカのプロパガンダであると決めつけてしまっています。もしかしたらアメリカ軍兵だけでなくフィリピン軍兵も多数亡くなられた事実をご存じないのかもしれません。

またこの「バターンの死の行進」が戦後軍事裁判にかけられたことについては、


戦後、一民間人であった本間雅晴を無理やり逮捕して、マニラ軍事裁判なる復讐劇で、「バターン死の行進」という罪状を押し付けて処刑したのである。

と述べ、アメリカ側の復讐劇としてこの「バターンの死の行進」が裁かれたことになってしまいます。なおこの僅か数行にも誤解(あるいはミスリードを誘う要素)が多く含まれています。

まず、本間雅晴は「バターン死の行進」のあった1942年当時は中将であり、軍属でした。また、「罪状を押し付けた」というのは誤解であり、日本側(陸軍中央)も本間雅晴に「バターン死の行進」の責任があると理解していました。
(永井均『フィリピンと対日戦犯裁判』岩波書店, 2010, p. 100)


このように誤解に誤解を重ねつつ、都合のいい日本賛美の声だけを紹介して、次のように宣言します。


目覚めよ、日本人。歴史の真実を、今こそフィリピンの人々に学ぼうではないか!

この結論の一言ですら事実誤解を招くので、反証を挙げておきます。というのも、戦後、フィリピン人は日本軍・在留日本人に対して大変激しい憎悪を向けたことが記録に残っています。終戦時、戦車第二師団工兵隊所属の矢野正美上等兵は、これを次のように書き残しています。


私達もあのサンフェルナンド上陸以来、比島の住民達にして来た事を考えてみると、その罪の大きさを思わずにはいられない。殺人、放火、強盗、強姦、ありとあらゆる罪を重ねて来ている。彼等との戦争でもないのに、何で彼等に大きい被害を与えたのであろう。何でこの遠い他国まで来て戦ったのであろうか。あの老婆の憎しみが分かる。私達は本当に罪人であろう。

 矢野正美『ルソン島敗残実記』三樹書房, 2013, p. 271(1945年12月10日の項)
日本軍は残虐行為をしなかったと声高に叫ぶ保守論客は、当時者であった一兵卒の真摯な反省の言葉に耳を傾けるべきでしょう。この終戦後フィリピンにおける対日感情の分析については永井均『フィリピンと対日戦犯裁判』(岩波書店, 2010, pp. 38-57)に詳しく載っていますが、日本に憎悪の念を持っていたフィリピン人が数多くいたことが解ります。

これらの戦場日記・研究書は、『ありがとう日本軍:アジアのために勇敢に戦ったサムライたち』が出版される前に刊行されていましたが、井上氏がこれらを参照した形跡は確認されませんでした。

まとめ

本書をまとめれば、誠にくだらない自己満足本という点に尽きるでしょう。同じ日本人として言えることは、このような恥ずかしい本が売られていること、そして売れてしまっていることが恥ずかしく情けない限りです。

https://rondan.net/556

2. 中川隆[-12220] koaQ7Jey 2019年2月12日 21:54:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

2019.02.09
【トンデモ】渡部昇一「日本は植民地を解放した」『正論』1994.5
https://rondan.net/533


Contents

1 「知の巨人」は何を語るか。
2 日本は植民地を解放した
3 満州事変において日本側に侵略意図が無かった
4 結果論的には大東亜戦争は植民地が独立する契機になった
5 まとめ:虎の威を借る狐


「知の巨人」は何を語るか。

一部界隈から「知の巨人」と崇められた故・渡部昇一氏は、刊行した書籍・論文の量からしても、保守論壇に最大級の影響力を持った人物であったと評価できるでしょう。

ただし、渡部氏の日本近現代史に関する膨大な業績は、歴史の専門家からは批判どころか、ほとんど等閑視されているという状況です。このような無視されている状況を、もちろん保守の方々は「WGIPと東京裁判史観の結果だ!」と怒られるかもしれません。

しかし、歴史専門家から相手にされる、信頼できる保守論客の一人・秦郁彦氏も、渡部昇一氏の歴史観を「アマチュア」「事実や因果関係の論証よりも、汚名返上とか精神覚醒といった政治的次元でのキャンペーン」と評価して、ほとんど一笑のうちに付していることは忘れてならないでしょう
(『陰謀史観』新潮社, 2012, p. 135, p. 152)。

そこで今回は、早川タダノリさんがTwitterで呟いていた資料を入手することが叶いましたので、それを紹介したいと思います。



日本は植民地を解放した

今回取り上げるのは、渡部昇一「日本は植民地を解放した」(『正論』1994.5)です。もちろんタイトルからも明らかなように、大東亜戦争は解放戦であり侵略戦争ではなかったと主張する内容です。

この様な言説は本記事を書いている2018年現在でもあるのですが、その論証方法がやや異なります。現在では「解放されたアジア諸民族の声」などとして当時から現在にいたる「解放してくれて日本ありがとう!」を列挙したり、「マッカーサーは日本の戦争目的が自衛だと言った!」としてお決まりのsecurityの語をあげて「大東亜戦争(or近代日本のアジア進出)は自衛(security)とアジア解放が目的だった」論を展開します。しかし、その様な言説は本論文には確認されません。

本論文で強調される点は、@満州事変において日本側に侵略意図が無かった、A結果論的には大東亜戦争は植民地が独立する契機になった、という二点のようです。このニ点を続いて詳しく見ていきたいと思います。

満州事変において日本側に侵略意図が無かった

まず、渡部氏は「満州事変において日本側に侵略意図が無かった」ことを次のように説明しています。


1満州人が満州に独立国を持つのは当然、日本はそれを手助けしたに過ぎない。

2満州国が日本の傀儡政権であるというアメリカからの批判は不合理である。なぜならアメリカはハワイ王朝に侵略戦争をして、傀儡政権すらたてず征服した。ある意味で、日本もアメリカの傀儡政権であった。そして当時、パナマや中南米諸国もアメリカの傀儡政権であった。

3日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件において、日本(および石原莞爾)に侵略意図はまったくなかった。

4盧溝橋の北に日本軍がいた理由は国際協定に基づいたものである。それが悪いというなら、韓国駐留アメリカ軍や、日本駐留アメリカ軍も批判の対象になる。

5盧溝橋事件の後、戦線が拡大した理由は通州事件で日本人200人が殺されたからであり、居留日本人を保護するためである。日本や韓国にいるアメリカ人が200人も殺されたら、アメリカはすぐに日本や韓国に派兵するだろう。湾岸戦争では、アメリカ人が殺されたわけでもないのに戦争を始めた。日本も同じようなことをしただけ。

6当時の満州の状況を知るには、トレビニアン著の小説『しぶみ』(1979年発表)が参考になる。その小説では当時の資料を丁寧に扱い、蒋介石軍が日本を戦争に巻き込むために自国の百貨店まで爆破して戦乱を拡大させていく様子が描かれている。

ここで興味深いのは、これまでのアメリカの歴史を振り返って、「日本もアメリカと同じようなことをしたまでだから批判される筋合いはない」理論を展開している点です。しかし結局、満州国が日本の傀儡政権であることを否定できてはいません。よって、「日本に侵略意図はなかった」ことの証明は実はできていません。

また、Eにおいて1979年に刊行された小説『しぶみ』が根拠とされていることは失笑を禁じ得ません。

そして、在留邦人の保護のために軍隊を送るというのは、戦争を起こす口実としてよく用いられるものです。中東戦争においては在留自国民保護などの大義名分を掲げてイギリスやフランスはエジプト領内に軍を進め、スエズ運河を支配しました。しかしこんな大義名分を信じる人はほとんどいないわけで、両国とも侵略的行為だとして国際社会から非難され、結局、スエズ運河の実効支配権を失いました。これと同じことが渡部氏にも言えるでしょう。どうして、渡部氏は、自らの思想信条に合致する大義名分を盲目的に信じて、「非侵略的だった」と主張することができるのでしょうか。

結果論的には大東亜戦争は植民地が独立する契機になった

このように満州事変に関して日本に侵略意思はなかったと強弁した後、「結果論的には大東亜戦争は植民地が独立する契機になった」論を展開します。

すなわち、大東亜戦争で宣戦布告した相手は植民地支配国であり、植民されている民族に宣戦布告したのではない、満州人のために満州国をつくってやったようにこれら諸民族を独立させてやった、そして結果的にこれら諸民族は第二次世界大戦後に欧米諸国から独立した、です。

しかし大東亜戦争下でアジア諸民族を独立させたといっても、大東亜共栄圏・八紘一宇の属国な訳で、結局のところ日本の傀儡政権でしかないわけです。先ほども述べたように、この難点を渡部氏は全く弁護できていません。

そして渡部氏の想像力は広がり、二十世紀までは白人を主人とした世界であったが、日本のおかげで、アパルトヘイトがなくなり、アジア諸国が独立し、はてまたアフリカ諸国までも独立し、さらにアメリカでの黒人解放の市民権運動にまで波及したと述べています。二つの出来事の間に無理やり因果関係を見出すことは、保守論壇の常套手段ですが、十分な客観性が確保されているとは言い難いでしょう。

また、独立した東南アジア諸国は日本をモデルにしており、日本が手本になったとも強弁していますが、これも渡部氏の想像の産物であり、何の根拠も示されておらず客観性があるとは言い難いようです。

まとめ:虎の威を借る狐

このように渡部氏の「日本は植民地を解放した」論の問題点を指摘してきました。小説を根拠にしたり、自分に都合のいい大義名分だけを錦の旗にしたりする議論に妥当性があるとは言い難いでしょう。

渡部氏自身、満州国が日本の傀儡政権であったことを暗に認めている以上、日本に侵略意思が無かったことを証明できていません。この問題に関して渡部氏は、「アメリカも同じことをしてきた、アメリカに文句を言われる筋合いはない」という逆ギレ的論調を展開しています。虎の威を借る狐とはまさにこのことでしょうか。

なお近年では「日本に感謝するアジアの声!」というやり方で、大東亜戦争は侵略戦争ではなかった論が主流になっています。

https://rondan.net/533

3. 中川隆[-12217] koaQ7Jey 2019年2月13日 08:03:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

2019.02.09
【トンデモ】「日本は、大東亜戦争で人類最高のよいことをしたのだ」
(安住順一『現代教育科学』49(8), 2006, pp. 49-52)
https://rondan.net/14


巷で話題になっていた論文「日本は、大東亜戦争で人類最高のよいことをしたのだ」を、さっそく国立国会図書館で入手してみました。

(入手先リンク)
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I8032653-00


Contents

1 はじめに
2 人類最高のよいこと
3 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
4 日本は自衛の戦争をした
5 リメンバー・パールハーバー
6 まとめ


はじめに

この衝撃的なタイトルの論文は、雑誌『現代教育科学』の「特集「あの戦争」を子どもにどう語るか」という小中学生教育特集のなかに収められています。論文の著者である安住順一氏は、小学校の先生のようです。

雑誌の編集後記によれば

「日本の側からすれば「大東亜戦争」は自衛戦争であったという主張もありますが、中国側からすれば当然「侵略戦争」であったと強調されるでしょう」

ということで、左右両立場から公平に描こうと努力した結果、かえって極端になってしまったということなのでしょうか(と思いきやakabishi2様のご指摘によれば、思いっきり右巻きの方々だそうです)。

さて、この論文の章割りは以下の通り。


1人類最高のよいこと
2ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
3日本は自衛の戦争をした
4リメンバー・パールハーバー

保守ウォッチャーなら、この章割りを見ただけでその内容におおよそ察しが付く筈。その予想を裏切らず、本論文の内容は、渡部昇一など保守論客の言説を見事にまとめたものとなっています。


人類最高のよいこと


まず第一章「人類最高のよいこと」の冒頭では、アムステルダム市長サンティン氏(正確にはヴァン・ティン van Thijn氏らしい)の発言が引用され、第二次世界戦後にアジア諸民族が植民地支配から脱して独立したことが、日本軍のおかげであると強調されます。タイトルにもある「人類最高のよいこと」は、サンティン氏が発したとされる次の一文に確認されます。


あなた方こそ、自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高のよいことをしたのです。

そして安住氏は、サンティン氏の発言を次のようにまとめます。



ヨーロッパの文化人や識者は、あの戦争は日本の方が勝ち、攻めた白人たちの方が負けて、植民地から追い出され、西洋の古巣に戻されてしまったことを知っているのである。

つまり、論文のタイトルにもなっている「人類最高のよいこと」とは、大東亜戦争で日本軍がアジアから白人を追い出した結果、アジアの諸民族が戦後独立を達成したことです。

これに続いて、大東亜戦争を植民地解放と位置付けて日本に感謝するアジア諸国の声が紹介されます。具体的には、マレーシアのラジャー・ダト・ノンチック元上院議員、インドネシアのサンパス元復員軍人省長官、インドネシアのブン・トモ元情報相の発言です。

これら諸発言は保守論客が好んで引用するものであり、よく知られているものですが、そのソースは必ずしも確かなものではありません。どうやらこれら諸発言の初出は、仙頭泰「大東亜戦争を世界はいかに評価しているか」『アジアと日本の大東亜戦争:終戦50周年をむかえて』(日本を守る国民会議, 1994)のようです。

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム

第二章「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」では、戦後GHQの占領政策が取り上げられ、


日本が再びアメリカの脅威とならぬよう、徹底した情報・教育面からの洗脳工作が行われた。その政策が「戦争責任周知徹底計画」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)である。

日本人自身が、日本人を全否定するよう誘導し、日本を断罪することによって「アメリカの正当化」を図ろうとしたのである。

と断言されています。占領期にGHQが厳しく検閲を行い、戦前・戦中に刊行された書物を焚書扱いにした事実はよく知られます。 論文中で安住氏はこの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム 」を「洗脳工作」と位置づけています。つまり、大東亜戦争で日本は「人類最高のよいこと」(植民地解放)をしたにもかかわらず、戦後GHQの「洗脳工作」によって日本人自身がそれを評価できずにいる、というのが論文の主張のようです。

日本は自衛の戦争をした

続く第三章「日本は自衛の戦争をした」では、大東亜戦争が侵略目的ではなく、「自衛」のためであることが主張されます。お決まりのように、マッカーサーの次の発言が引用されます。


したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障(筆者註:security)の必要に迫られてのことだったのです。

この「安全保障」(security)の語を 「自衛」(self-defense) の意味でとって、大東亜戦争は自衛戦争であって侵略戦争ではなかったという解釈を提示したのは、保守の重鎮・渡部昇一氏であることはよく知られます。もちろん本論文では、その解釈を是として、


東京裁判は、日本が侵略戦争を行ったと決めつけ、それを裁くことが目的の裁判であった。そして、それを推進したのはマッカーサーである。
ところが、その張本人が、日本の戦争は侵略戦争などではなく、日本は安全保障の必要性に迫られて戦争に突入したと公の場で証言したのだ。

と述べられます。

リメンバー・パールハーバー

最終第四章「リメンバー・パールハーバー」では、日本の真珠湾奇襲は、卑怯なだまし討ちではなく、大使館員の怠慢で宣戦布告の通知を手渡すのが遅れただけであると弁護されています。

さらにルーズベルト大統領は、真珠湾奇襲を事前に知っていたが、戦争に参加したいがためにこれをあえてハワイに知らせなかったとという理解が提示されています。


アメリカ側は真珠湾攻撃を事前に知っていた。しかし、日本の真珠湾攻撃作戦は事前にハワイ現地には知らされなかった。

ルーズベルト大統領は、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンを響き渡らせ、アメリカ国民を参戦賛成に向かわせるために、ハワイを犠牲にしたのである。

このルーズベルト陰謀説は保守論客が好んで引用しますが、秦郁彦『陰謀史観』(新潮社, 2012, pp. 173-199)が主張するように正統的な歴史学者からは全く相手にされていない仮説です。



まとめ

論文の最後は次のようにまとめられています。


日本は、戦争に情報で敗れ、戦後も情報でマインドコントロールされている。
今、われわれの歴史を取り戻すことが急務である。

以上を総括すれば、

「日本は自衛のためにやむをえず大東亜戦争を起こした。

真珠湾攻撃は決して卑怯なだまし討ちではなく、ルーズベルトはこれを事前に知っておきながら、参戦するためにハワイを見殺しにした。

そして大東亜戦争に日本は確かに敗れたが、アジアの諸民族を白人による植民地支配から解放するという、人類最高のよいことを達成した点では勝利した。

にもかかわらず、戦後日本は GHQ による洗脳工作の影響によりマインドコントロールされ、日本人自身が日本人を全否定するようになり、大東亜戦争で日本が人類最高によいことをしたことに気が付かないままにある。

この状況を打破して、われわれの歴史を取り戻すことが急務である」

ということになるでしょう。

様々な陰謀史観的要素が、わずか四ページの論文の中に凝縮されているという点で、注目に値します。これにあとコミンテルン要素が加われば、田母神論文と歴史観がほぼ一致する点でも興味深いものがあります。田母神論文が問題になったのは2008年ですから、本論文はまさに時代を先取りしていると言えるでしょう。

もちろん、内容が正しいかどうかは別問題ですが、保守ウォッチャーならどこかで聞いたことのある話を集めたものです。一番の驚きは、小学生にこれを教えるということですが…。

なお、同氏による小学生向け歴史クイズ本『日本がますます好きになる歴史クイズ』も同じようにスゴかったりします。仔細については下記のリンクをご参照ください。


【トンデモ】白人による世界制覇を防いだ日本人(安住順一『日本がますます好きになる歴史クイズ』明治図書出版, 2000)
2018年10月16日
https://rondan.net/54


そしてTOSS教育というのも、かなりキていますので、是非ご参照を。


【トンデモ】保守による「命」の授業(長野藤夫「命は他人事ではない:自尊心が当事者性を生み出す」『中学生に「命」の輝きを教える』明治図書, 2004)
2018年10月19日
https://rondan.net/191

https://rondan.net/14

4. 中川隆[-12186] koaQ7Jey 2019年2月13日 19:45:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

2019.02.09
【トンデモ】靖国英霊と我々はテレパシーで繋がっている
(武田邦彦|別冊正論33『國神社創立150年:英霊と天皇御親拝』「國に英霊はおられるか―の科学的結論」2018)
https://rondan.net/8989


Contents

1 宗教と科学
2 Y遺伝子論の曲解
3 テレパシーによって繋がっている
4 ルイセンコ主義?
5 日本スゴイ論
6 おまけ


宗教と科学

「科学的に証明された」などと言われると、客観的かつ普遍的にその正しさが証明されたような気がします。

中世において、自然科学の仮説が得られると、聖書と照らし合わせてその真正性が審議されました。たとえば地動説は、聖書の記述(天動説)に合致しないとして迫害されました。

近代になり啓蒙主義が起こると、宗教が権威を失うとともに、自然科学が権威を増しました。このため、現代では、自然科学を用いて宗教の真正性を証明しようとする動きもあります。

しかし宗教と自然科学はもともと異なる学問体系に属するため、この両者の親和性は極めて悪く、得てしてトンデモ説(いわゆる疑似科学)になりがちです。

今回はそのようなトンデモの一つ、靖国神社に祀られた英霊と、現代の我々がテレパシーによって繋がっているという説を紹介したいと思います。具体的には、武田邦彦 「靖國に英霊はおられるか―の科学的結論」『國神社創立150年:英霊と天皇御親拝』(別冊正論33, 産経新聞社, 2018)を取り上げます。

Y遺伝子論の曲解

保守にとって靖国神社はナショナリズムの牙城であり、その存在意義を確立することは重要な使命の一つです。

ところで虎ノ門ニュースなどで大活躍中の武田邦彦氏は、本職が科学者であるらしく、「科学」という観点から、天皇のありがたさ、靖国英霊の重要性を主張します。

まず天皇が万世一系の男系でなければならない根拠は、Y染色体論(男系に継承される遺伝情報)が採用されます。つまり、神武天皇から今上天皇に至るまで、同一のY染色体が受け継がれているというのです。

しかしこの説明がともかくオカシイ。


現在の象徴天皇の男性としてのY遺伝子は、神武天皇と全く同一である。つまり、今上陛下の男性としてのご性質・人格は神武天皇と全く同じである。

「男性としてのご性質・人格」という言葉をどの様な意味で用いているのか解りませんが、暴論であることは間違いないでしょう。というか、この理論を適用するならば、ヘイトスピーチのかどでYoutubeをBANされた竹田恒泰氏も、今上陛下も同じ性質・人格を持っていることになりますが、私には両者の性質・人格が同一であるとは到底思えません。

さらにトンデモは加速。



天皇と国民の身分の差、遺伝子の差はあまりにも広いために、天皇家と国民という二階級しか形成されず、支配的地位に就いた国民もその時々の臨時なものであり、いつでも交代するという下克上もあり得る社会を作り出した。


遺伝子の差を要因に階級を論じるという、人種差別そのものの発言。武田氏の理解によれば、先天的な要因によってその人の身分が決められるとお考えのようです。

テレパシーによって繋がっている

疑似科学で天皇のありがたさを垂れ流した後、武田氏は靖国神社に祀られている英霊と、現代の我々とに繋がりがあると説きだします。



私たちの肉体と精神は、今も國神社に祀られている人たちからの遺伝子、テレパシーで存在し、それで生を享け、人生を送っているのだ。


テレパシーによって英霊と我々が繋がっているそうです…。

このテレパシーのたとえも酷い。スマホによる切符予約を持ち出して次のよう説明します。


スマホを使って鉄道の改札機前で切符を予約し、数秒後に改札を通ると予約した切符が出てきて改札ゲートが聞く。これを「常識」で説明できる人はいないだろう。
「テレパシー」も同じで、遠くに離れて暮らすわが子の苦悩を感じられる母親がいる。「そんなことウソだ」と言っても、現在では光より早い通信手段が実験的にも見出されている。六十兆個の細胞同士の通信も存在するのだから、人間同士のテレパシーを否定する方が非科学的である


いくらでも「常識」で説明できる人はいると思うのですが、この人、本当に科学者なのかと疑うくらいの無知さです。きっと携帯電話で通話できることも、この人にとっては常識外の現象なのでしょう。

「光より早い通信手段」というのも、一体何を指しているのか解りませんが、疑似科学そのものでしょう。

ルイセンコ主義?

武田氏によるこのテレパシー論は、「ミーム」「ミラーニューロン」「アフォーダンス 」といった聴き慣れない言葉を駆使して説明されています。

どうやら、武田氏はルイセンコ主義(獲得形質遺伝)とよく似た思想をお持ちのようです。

このルイセンコ主義とは、キリンの首が長いの理由は、自然淘汰の結果ではなく、先祖代々高いところにある餌を食べているうちに「長い首」という遺伝情報を獲得したからであると解釈する疑似科学の一つです。

武田氏も過去の祖先の行いが、様々な形で現代の我々に影響を与えていると言います。


私の体もDNAも、命を捧げてくれた先人からいただいたものであり、先人とは今でもテレパシーでつながり、それがミーム、ミラーニューロン、そしてアフォーダンスとなって私自身を形成している。

生物は遺伝子以外にも様々な「非遺伝的形質、性質の獲得」や周囲環境からの「身体や性質に及ぶ直接的影響」を受ける。たとえば、ミーム(文化的遺伝子)による約三百年前からの共通情報の保有、ミラーニューロン(大脳の脳神経細胞構造)の類似性、アフォーダンス(環境からの人体や性質への直接的な働きかけ)などによって「非遺伝的共通性」を有する

さらに、現世の人間同士だけでなく、現世の人間と過去の人間、人間と自然の聞にも未解明の通信手段がある。それが、先述したミーム、ミラーニューロン、アフォーダンスと呼ばれる連絡である。


ここまでくると、なんだかサイエントロジーのパンフレットを読んでいるみたいですね…。

日本スゴイ論

この様に武田氏は、過去の日本人の行動が、テレパシーによって現代の私たちの存在そのものを規定していると考えています。

この理論に従うと、過去の日本人がスゴくないと、現代の日本人もスゴくなくなってしまいます。そこで武田氏は過去の日本を持ち上げまくり、これを靖国と結びつけます。


人類史上、初めて達成した諸国民の独立と平等!
この輝かしい偉業を自らの生命をかけて成し遂げた人たちが、今、國に祀られている。
私たち日本人は、人類の平等のために命を捧げた人たちを祀る場所を持っていることに誇りを持ち、外国の方が日本を訪れた時には、この三千年に及ぶ歴史と英霊の偉業を説明し、まずは國神社にお参りすることを勧めるのがもっとも大切なことだ。


大東亜戦争はアジア民族独立の聖戦だったから、当時の英霊はスゴイ、それとテレパシーで繋がっている日本人もスゴイ()

しかし日本の歴史が三千年に及ぶって、もしや天照大神から数えているのでしょうか? また外国の方に、英霊の偉業を説明することが大切だと言っていますが、結局、武田氏の英霊の偉業って特攻なんですよね。次の通り。



戦争中、もっとも高貴に命を捧げたのが特別攻撃隊(特攻隊)だった。特攻こそが軍隊の魂であり、もっとも正しい戦い方である。


特攻が「もっとも正しい戦い方である」って、終戦間際のヤケクソ記事みたいなことを現代になっても言ってしまうとは…。きっと武田氏の価値観は、今でも大戦下なんでしょう。

この人が為政者になって戦争になったら平然と特攻させるんだろうなぁと思うと恐ろしいことです。

こんな靖国擁護論は、逆に保守のトンデモさを際立たせているだけだと気が付かないのでしょうか?

というか、「百万歩譲って仮に武田の言う通り、英霊と俺らテレパシーで繋がってんのなら靖国参拝しなくていいじゃん」(by GEISTE)ってことになるのですが、そういう疑問は浮かばないのでしょうか?

おまけ

保守論壇の宿命か、武田氏はちゃんとインテリ層批判も忘れてはいません。



日本社会党に由来する政党や日本共産党、日教組、東大法学部教授、朝日新聞などがその典型だが、不完全な大脳と狭い了見しか持たず、日本人が世界的な偉業を達成したのが理解できない。

しかし「不完全な大脳」しか持っていないって、差別感情剥き出しですね…。

コメント

pipisan より: 2018年12月21日 11:03 PM

武田邦彦に箔を付けた名古屋大学の責任は重い。
旭化成を引退して芝浦工大の教授で終わっていればこんなことにならなかった。

こいつの招聘を決めた名古屋大の工学部長はアホである。
結局、何も実績を残さずに同じ愛知県内の中部大学に行って、地元民放を中心に言いたい放題コメンテーターになって、その揚げ句が今の状態だ。

武田の名古屋大学以降の研究実績は、ゼロと言っていい。
いまだに地上波(中部日本放送)でも出演している。
そして大学のブランディング(というか生徒募集の生き残りで必死の事業)にいそしむEだかFだかランクの中部大は、あろうことか武田を特任教授にしてしまった。他にもノーベル賞候補リストに載っている研究者もいるのに。たぶん、その2氏は武田のせいもあって絶対にプライズを取れないだろう。武田は死ぬまで中部大の特任教授で、元名古屋大学大学院工学部教授になってしまったわけだ。

山本弘が徹底批判した「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」は、百田同様に出典を明示しないパクリ、誤用、捏造、妄想が満ちあふれている。にもかかわらず、武田を講演会に呼んで、放射線対策を考えたいという右や左の市民団体(というかアタマの程度が下)がまだいっぱいいる(右派左派双方から問い合わせを受けた。下の方の人の相手は面倒なので「知らない」と答えた)。

百田と武田は同じインチキでのしあがってきた、売れるためには何をやってもいいと思っている屑だ。
そして日本国民の一定数は、そんなもんに騙される阿呆だと思っている。

https://rondan.net/8989

5. 中川隆[-12176] koaQ7Jey 2019年2月14日 07:01:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告


2019.02.09
【靖国神社】日本のおかげで植民地が独立したという構図
【韓国・北朝鮮は「独立」していないトンデモ説を披見】
https://rondan.net/7720

Contents

1 日本のおかげでアジアは白人支配から独立した!
2 第二次世界大戦後の各国独立
3 韓国と北朝鮮は独立していないという妙技


日本のおかげでアジアは白人支配から独立した!

大東亜戦争(アジア太平洋戦争)は、建前上は白人列強の植民地支配からアジアを解放し、大東亜共栄圏を建設する聖戦である、と今も昔も吹聴され続けています。

歴史を振り返ると、日本は戦争に敗れ大東亜共栄圏建設の夢は破れたわけですが、その敗北を受け入れられないのか「確かに太平洋戦争に負けても、その後、植民地は解放されたから大東亜戦争には勝った」的な逆ギレ理論が度々確認されます。

例えば、ヘンリー・S・ストークス氏の『大東亜戦争は日本が勝った』(ハート出版, 2017)は、タイトルからしてこれを示しているでしょう。


ところで、靖国神社に併設される博物館「遊就館」においてもこれと同じ逆ギレ理論が確認されます。


第二次世界大戦後の各国独立

遊就館の戦後コーナーにも次のようなパネルがあり、大東亜戦争におかげでアジア民族が独立したと言わんばかりの主張がなされています。


日露戦争の勝利は、世界特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。

アジア民族に独立が現実になったのは、太平洋戦争緒戦の日本軍の占領下で一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることは無く、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。
『靖國神社 遊就館 目録』靖国神社, 2008, p. 107.



そして、第二次世界大戦後に独立した各国を、その時期に応じて色分けして次のような地図を提示します。

https://rondan.net/7720
『國神社 遊就館 目録』靖国神社, 2008, p. 107.

アフリカの独立は全く無関係だろとツッコまずにはいられませんが、それよりも韓国と北朝鮮に色がついていないところがツボですね。

韓国と北朝鮮は独立していないという妙技

などと思いながら目を近づけて目録をよく見た所、すごい事実が判明しました。
拡大して比較したものを下にあげましたので、よく見比べてみてください。


https://rondan.net/7720
『靖國神社 遊就館 目録』靖国神社, 2008, p. 107.

そうです。東南アジアとアフリカの諸国は「独立」なのですが、韓国と北朝鮮だけは「成立」なのですね。何なのでしょかこの差は…。

「大韓帝国」を独立国と見做していて、日本は植民地支配などしておらず、したがって独立などしていないと言いたいのでしょう。それとも、いまでも朝鮮半島は日本の植民領土で、独立などしていないと主張したいのかもしれません。

そんな恐ろしい靖国史観の一端でした…。

https://rondan.net/7720

6. 中川隆[-12174] koaQ7Jey 2019年2月14日 07:37:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

大東亜戦争は日本が勝った -英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」 – 2017/4/17
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E5%8B%9D%E3%81%A3%E3%81%9F-%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88-%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8D-%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4802400292


内容紹介

「太平洋戦争」はアメリカの洗脳だった
この書は日本のプロパガンダではない。史実である。

日本よ 呪縛から解放されよ!

ヘンリー・S・ストークス 来日50年の総集編

世界史を俯瞰して明らかになった
大東亜戦争の真実

共産党などの左翼は、大東亜戦争は「侵略戦争」であったと言う。
そうであろうか? 史実を検証すると、そこには明らかに「アジア解放戦争」の側面が見て取れる。
アメリカの侵略戦争や、大英帝国の植民地支配での戦争とは、明らかに違った姿を現じている。

私は、大東亜戦争を日本がなぜ戦ったのか、その結果、何が世界に起こったのかは、世界文明史的な俯瞰をもってしてはじめて、明らかになるものだと、そう思い始めた。

世界文明史の中で、大東亜戦争を位置づけようというような野心的な試みは、一冊の本で果たせるものでもないが、その第一歩を英国人ジャーナリストの私が切り開くことで、世界中に多くの賛同者が出てくると、そう確信している。(本文より)


1章 日本が戦ったのは「太平洋戦争」ではない!
2章 「太平洋戦争」史観で洗脳される日本
3章 日本は「和」の国である
4章 世界に冠たる日本の歴史
5章 オリエントにあった世界の文明と帝国
6章 侵略され侵略するイギリスの歴史
7章 アメリカの「マニフェスト・デスティニー」
8章 白人キリスト教徒による太平洋侵略
9章 マッカーサー親子によるフィリピン侵略
10章 大日本帝国と西欧列強の帝国主義の違い
11章 大日本帝国は「植民地支配」などしていない!
12章 日本は中国を侵略していない
13章 アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」
14章 大統領がアメリカ国民を欺いた日
15章 大英帝国を滅ぼしたのは日本だった!


______

日本が果たした人類史に輝く大革命ー「白人の惑星」から「人種平等の惑星」へ – 2017/4/12
ヘンリー・S・ストークス (著), 植田剛彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E6%9E%9C%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%8F%B2%E3%81%AB%E8%BC%9D%E3%81%8F%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%83%BC%E3%80%8C%E7%99%BD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%83%91%E6%98%9F%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%8C%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E5%B9%B3%E7%AD%89%E3%81%AE%E6%83%91%E6%98%9F%E3%80%8D%E3%81%B8-%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4915237990

内容紹介

外国特派員協会の最長老が語った歴史の真実とは――

黒人のオバマ大統領や政治家、スポーツ選手達は、第2次大戦中の日本のめざましいアジア進攻がなければ、誕生しなかった…
人種差別の時代に、日の丸が燦然と輝き、アジア、アフリカの植民地は、次々と独立を果たし、世界の歴史は大転換した!

人種平等の、いまある世界を築いたのは、日本であった。

英国人ジャーナリスト、ストークス氏は、50余年前に来日、大英帝国の植民地をすべて奪った日本に、深い憎悪をいだき、邪悪な野蛮な残酷な民族である、との認識をもっていた。「日本=戦争犯罪国家」「南京大虐殺」を信じ込んでいた。

しかし、第三者的視点で日本とアジアの歴史を俯瞰したとき、その見方が誤りであると気づき、「欧米帝国主義下でのアジアや、アフリカの植民地支配と、日本の朝鮮、台湾統治やアジア同胞との関係は、まったく違ったものであることを、ハッキリと世界に知らせる必要がある」と語る。

植田剛彦氏は、150社が加盟する「マスコミ研究会」代表。韓国、朝鮮に精通している他、日本、欧米の近現代史に詳しい。幅広い教養、豊富な内外の情報にストークス氏も舌を巻き、「心から楽しみつつ、日本が取るべき道について、大いに実りある対談ができた」と絶賛。

出版社からのコメント

ヘンリー・S・ストークス氏は、64年、来日。『フィナンシャル・タイムズ』初代東京支局長、『ロンドン・タイムズ』東京支局長、『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長を歴任。外国特派員協会の重鎮。

「私はフェアでありたい」と英国ジェントルマン精神を発揮、東京裁判、南京虐殺、従軍慰安婦等の戦勝国プロパガンダの欺瞞を明確に指摘した『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』は、10万部超のベストセラーとなった。

ベテランジャーナリスト・植田剛彦氏との対談は、日本近現代史の裏表をくまなく明かし、ケント・ギルバート氏が「私には教えられることが多く、知的興奮をおぼえながら読んだ」と後書きに記している。


人種平等の世界を築いたのは、日本であった!
日本のめざましいアジア進攻がなければ黒人のオバマ大統領や政治家、スポーツ選手等は誕生しなかった。イギリス人の大記者と熱く語る。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

ストークス,ヘンリー・S.
1938年、英国生まれ。61年、オックスフォード大学修士課程修了後、64年、来日。『フィナンシャル・タイムズ』初代東京支局長、67年、『ロンドン・タイムズ』東京支局長、78年、『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長を歴任。三島由紀夫と最も親しかった外国人記者としても知られる

植田/剛彦
評論家、ジャーナリスト。1945年、甲府市生まれ。マスコミ研究会代表。報知新聞社、国際ニュース『ニューストラック・ジャパン』編集長などに就任後、執筆活動に入る(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



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2019.02.09
【トンデモ】『大東亜戦争は日本が勝った』H・S・ストークス|ハート出版, 201
https://rondan.net/624


Contents

1 自画自賛の変容
2 『大東亜戦争は日本が勝った』の目次
3 神武天皇の実在は信じるのに、アーサー王の実在は信じない不可思議さ
4 まとめ


自画自賛の変容

自分で自分を褒めてもみっともない。ましてや日本人が日本人を褒めだすというのは恥ずかしい。そこで、外国人に日本を称賛させようという、さらに恥ずかしい本が最近増えています。


たとえば、井上和彦『ありがとう日本軍:アジアのために勇敢に戦ったサムライたち』(PHP研究所, 2015)は、東南アジア諸国を歴遊して、日本を褒めてるくれる人にインタビューして、それを纏めて「日本スゴイ」本にしてしまったという恐るべき書です。

保守が言われる「美しい日本の心」を持っているのならば、とてもではないがそんな恥ずかしい本は出せない筈なのですが、この井上和彦氏はこの様な類書を数多く刊行されています。

また、外国人著者による日本語の「日本スゴイ」本も興隆を極めています。

ケント・ギルバート氏はこの典型であり、これまでに三十冊以上の書籍を刊行しています。もちろんこれはケント・ギルバート氏が一人で書いたものではなく、いわばプロデューサーがいて、代筆する人がいて、それを「ケント・ギルバート」というブランドで出すという意味です(『ニューズウィーク日本版』2018.10.30)。

したがってケント・ギルバート本は、同氏の思想を語るものではなく、それをプロデュースしているチームのイデオロギーを反映するものです。つまり、日本人が愛国嫌韓嫌中の発言をしても説得力が無いので、権威がありそうな外国人に語らせているだけのことです。

これとよく似た構造は、ヘンリー・S・ストークス氏の著書にも確認されます。同氏は植田剛彦氏との対談本『日本が果たした人類史に輝く大革命:「白人の惑星」から「人種平等の惑星」へ』を刊行しています。

この恥ずかしすぎるタイトルが物語っているように、内容は

「大東亜戦争は植民地解放の聖戦であり、そのおかげで有色人種が白人の植民地支配から脱却できた」

というものです。

今回取り上げたいのは、このヘンリー・S・ストークス氏の単著『大東亜戦争は日本が勝った』(訳・構成:藤田裕行)です。これまた恥ずかしすぎるタイトルですが、このオカシナ本を検討していきたいと思います。


『大東亜戦争は日本が勝った』の目次


目次を見れば、その内容に察しが付くため、少々長いですが目次をあげます。(興味のない方は飛ばされても大丈夫です)


はじめに

第一章 日本が戦ったのは「太平洋戦争」ではない!
 日本は本当に敗戦国だったのか?
 大英帝国を滅ぼしたのは誰か?
 大東亜戦争に勝ったのは日本だった!

第二章 「太平洋戦争」史観で洗脳される日本
 大東亜戦争の果たした世界史的な偉業
 日本が閣議決定した正式な戦争名を、日本のメディアが使えない
 アジアを日本が侵略した?
 『人種戦争』が描く、大東亜戦争の姿
 世界で最初に、人種平等を訴えた日本
 有色人種に同胞意識を持っていた日本
 『人種戦争』による日本の戦争の大義
 中国人は、日本軍を救世主と崇めた
 日本軍を手助けし、イギリス人と戦った中国人
 全く逆転した人種の立場
 日本はアジアの「希望の光」だった

第三章 日本は「和」の国である
 日本人は、対立概念を超克しようとする
 神道は「エコ信仰」──二十一世紀の「世界の信仰」のモデル
 『古事記』に描かれた宇宙創始の世界
 日本では、神々も相談して物事を決める
 日本に民主主義をもたらしたのは、アメリカではない!

第四章 世界に冠たる日本の歴史
 古代からひとつの王朝が続く日本
 産経新聞の『歴史戦』コラムで取り上げられる
 物事は、見る人によって違って見える
 日本を西洋の尺度で測った愚かさ
 日本が世界に誇れる「万世一系」
 天皇によって一つの王朝を続けてきた日本
 先史時代の文明が断絶されているアメリカ
 地政学的に似ている日本とイギリス
 四千五百年前の遺跡「ストーン・ヘンジ」
 五千五百年前に地上六階建てのマンションと同じ高層建築物を建てていた日本
 世界四大文明よりも古い日本の文明
 旧石器時代から侵略されることなくずっと民族が続いて現在に至る国
 日本には、世界を驚愕させる古代からの来歴がある
 神武天皇は、実在した!

第五章 オリエントにあった世界の文明と帝国
 千年、万年のスパンで見なければわからない
 日本文明を独立したものと位置付けたハンチントン
 かつて偉大な文明は全てオリエントにあった
 混迷するイラクは、聖書の地
 古代メソポタミアの民族興亡
 独立し安定していたエジプト文明
 ギリシア文明は、西洋の文明にあらず
 ペルシア戦争とギリシア文化の広がり
 古代ローマとエジプトの接触
 短期間に巨大帝国となったイスラム
 「ユーラシアの覇者」モンゴル帝国
 インド・ムガール帝国の興亡

第六章 侵略され侵略するイギリスの歴史
 侵略されることから始まるイギリスの歴史
 ブリタニアの時代のブリテン島
 イギリス人の神話としての『アーサー王物語』
 ブリテン島におけるキリスト教の歴史
 イングランド王国の誕生とその波乱の歴史
 ブリテン島をめぐる四カ国の歴史
 ノルマン朝とイングランド王ヘンリー一世
 イギリスとフランスの関係を語る「二重王国」と「百年戦争」
 大航海時代の幕開け
 帝国を築く礎となった海賊たち
 清教徒革命の勃発
 イングランド共和国の樹立
 軍を抑制し始めた議会
 王政復古とその条件
 なぜ王政は、危機に陥ったのか
 国王の権力と暴力革命を抑制したイギリス議会
 太陽が沈まない帝国の誕生
 英仏によるインド争奪戦
 世界で始まった大英帝国による覇権戦争
 大英帝国の日本侵略「長崎フェートン号事件」
 支那で勃発した「アヘン戦争」
 インドにおけるイギリス植民地支配への抵抗運動

第七章 アメリカの「マニフェスト・デスティニー」
 「先コロンブス期」の南北アメリカ
 アメリカ大陸を植民地化したノース人
 秀吉の「伴天連追放令」の背景
 聖書の神のモーゼへの命令
 鎖国政策を取った幕府の鋭い外交方針
 ローマ法王によって、加速された大虐殺と奴隷制度
 新大陸で悲惨に酷使された黒人奴隷
 奴隷制度を支持したアメリカ民主党と廃止を訴えた共和党
 共和党初代リンカーン大統領就任と南北戦争
 アメリカの黒人奴隷時代に、日本では世界一の都市と文化が栄えていた
 江戸の治安は、東京よりも良かった
 江戸の庶民は、世界一文化的な生活を送っていた
 江戸の日本は、世界史に類例のないほど教育が普及していた

第八章 白人キリスト教徒による太平洋侵略
 黒船艦隊はシェルガンで武装し、日本をキリスト教化しようと脅迫した
 ヨーロッパのアジア侵略に慄然としたペリー提督
 「マニフェスト・デスティニー」の西部開拓は、太平洋の侵略へ
 大航海時代のスーパースター「クック船長」の大冒険物語
 クックの最期
 尊王攘夷は、日本防衛と国体護持のためだった
 ジャーディン・マセソン商会の暗躍

第九章 マッカーサー親子によるフィリピン侵略
 白人キリスト教徒によるフィリピン侵略
 ホセ・リサールとフィリピン独立運動
 米西戦争で、アメリカがスペインにとって代わる
 独立軍を殲滅にかかったマッカーサー親子
 日露戦争での日本の勝利に歓喜したフィリピン民衆

第十章 大日本帝国と西欧列強の帝国主義の違い
 大日本帝国は、侵略ではなく、防衛のための帝国だった
 白人帝国ロシア南下の脅威
 三国干渉という白人列強の侵略行為
 日英同盟はなぜ締結されたのか
 日本による人種差別撤廃提案はなぜふみにじられたか
 日英同盟廃止を望むアメリカの思惑
 ワシントン軍縮会議の謀略

第十一章 大日本帝国は「植民地支配」などしていない!
 日本はアジア最後の砦だった
 日本の朝鮮統治は「植民地支配」ではない
 日本の統治についてデタラメを書く韓国の国定教科書
 人種平等の理念に基づいた「皇民化」教育
 朝鮮王族に嫁いだ日本の皇族・李方子女王
 八紘一宇は、「世界は一家、人類は皆兄弟」という日本の理想
 大和の国・日本には、八百万の神々がいる

第十二章 日本は中国を侵略していない
 国連で「侵略戦争」が定義されたのは「一九七四年十二月」
 日本の満洲への進出は、侵略ではない
 日露戦争の勝利で満洲の権益を獲得した日本
 中国には匪賊が各地に割拠していた
 満洲の在留邦人の保護
 五族協和・王道楽土の満洲国
 日本の大陸への進出は、「パリ不戦条約」を侵していない!
 支那事変は、日本の侵略戦争ではない!

第十三章 アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」
 我々は、もっと真実を知る必要がある
 中国の航空部隊のパイロットは、アメリカの偽装「退役軍人」だった
 戦争を仕掛けたのは、アメリカか、日本か
 日本軍航空部隊との交戦
 中国で航空ビジネスを仕掛ける
 ルーズベルト大統領が、チャイナ・ロビーに応えた
 共同謀議をしていたのは、アメリカだった!
 シェノールトの「日本爆撃計画」
 武器貸与法を議会に提議したルーズベルト大統領
 アメリカによる対日経済封鎖と輸送船への攻撃
 日米戦争を引き起こした元凶の書

第十四章 大統領がアメリカ国民を欺いた日
 大統領による裏切り行為
 日本に対米戦争を起こさせるための八項目
 挑発目的での巡洋艦の出没
 合衆国艦隊司令長官がルーズベルトに反旗
 暗号解読を活用したマッカラム
 「真珠湾の奇襲」は、アメリカの罠だった!
 泳がされていた帝国のスパイ
 太平洋戦争は、アメリカの「侵略戦争」だ

第十五章 大英帝国を滅ぼしたのは日本だった!
 大東亜戦争の虚妄と真実
 大東亜戦争開戦七十周年記念での講演
 大英帝国が刺し違えた日本
 大東亜戦争を高く評価したイギリス人
 大東亜戦争は、アジア解放戦争だった
 “空の神兵”の偉業
 アジアの人々は、日本軍を歓喜して迎えた
 日本よ、大東亜戦争の大義を世界に伝えよ!
 神州不滅を期して


この目次の構成を見ていただければ解るように、タイトルと本の内容にはかなり隔たりがあり、大東亜戦争だけに絞った内容ではなく、保守が主張する歴史修正のエッセンスを散りばめた体裁とっています。

タイトルにもある「大東亜戦争は日本が勝った」とする根拠は、単に

「大東亜戦争は植民地解放戦争で、戦後、アジア諸民族は独立できたので当初の目的は達成された。ゆえに日本の勝利」

という逆切れ理論であり、これの独自性を検討しようにも、それ以上でもそれ以下でもない誠にありふれた保守言論のコピペです。

ところでヘンリー・ストークス氏はイギリス人だそうですが、イギリス的要素は、「第六章 侵略され侵略するイギリスの歴史」と、「第十五章 大英帝国を滅ぼしたのは日本だった!」くらいしかありません。

この様な構成内容からも、本書が「ヘンリー・ストークス」ブランドによって出された保守本であることは明確でしょう。


神武天皇の実在は信じるのに、アーサー王の実在は信じない不可思議さ

こういうSF小説を真剣に読んで粗探しすること自体エレガントではないのですが、既に目次の表題の段階で不思議な箇所もあるので指摘しておきます。

それは、第四章に収載される「神武天皇は、実在した!」項と、第六章に収載される「イギリス人の神話としての『アーサー王物語』」項です。

なんとストークス氏は神武天皇の実在を信じてしまい、それが信じられないのはGHQの占領政策の影響であり、これらは「神話」ではなく「現実の来歴」であると断言します。


古事記の中の天皇に関する記載が、神武天皇は多いのに、その後の八代の天皇の事績に関しては極めて少ない。そこで「欠史八代」などと言って、神武天皇の実在を疑問視する進歩的文化人が終戦後から跋扈し始めた。これもGHQの占領政策の影響である。
 ヘンリー・S・ストークス『大東亜戦争は日本が勝った』ハート出版, 2017, p. 77


これは「神話」ではなく現実の来歴であるが、外国人の私には、まるで「神話」のように、御伽噺のように聞こえてしまうのだ。それほど「有り得ない」ことが、この地上で起こっているのが、日本という国なのである。日本人は、このことに大いに誇りを持つべきだ。
 ヘンリー・S・ストークス『大東亜戦争は日本が勝った』ハート出版, 2017, p. 76
……。

いやいやいやいや、その古事記の記述は「神話」ですって! 
なんで、神話的記述が実際に起こったと信じれて、「日本スゴイ」って結論になるのよ!? 

と突っ込まずにはいられません。歴史家でもないストークス氏に神武天皇の実在性を語らせて何の意味があるのでしょうか。

一方、ストークス氏は、こんなに記紀神話をヨイショしてくれるのに、自国の誇りアーサー王については「神話」であって実在しないとあっさり片付けます。


ブリトン人のアーサー王については実在したという説もあるが、あくまで伝説である。五世紀頃のことがイギリスでは「神話」になっていると言ってもいい。
 ヘンリー・S・ストークス『大東亜戦争は日本が勝った』ハート出版, 2017, p. 102



皆さんどう思われますか? 紀元前660年ごろにいたとされる神武天皇の実在は信じられるのに、紀元後5世紀ごろにいたとされるアーサー王の実在が信じられないイギリス人って一体。

たとえば、ある日本人がいて、歴史の専門家でもないのに、檀君(西暦前2370年ごろいたとされる古朝鮮の王)の実在を主張して、聖徳太子(紀元後6世紀ごろ)の実在を否定する人物がいたら(しかも韓国で活動していたら)、普通「ちょっと半島に関係されているイデオロギーの持ち主なのかなぁ」と考えて、その人のその発言を「歴史」としては信用しませんよね。

これとほぼ同じ構造の発言をヘンリー・ストークス氏は平然としてしまっているのです。いったいプロデューサー達は何を考えているのか…。



まとめ

本書は「神武天皇の実在は信じるのに、アーサー王の実在は信じない」というイギリス人ジャーナリストに、歴史を語らせてしまったという奇書でしょう。この本が語る歴史を信じる読者がいるということに驚きです。

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7. 中川隆[-12171] koaQ7Jey 2019年2月14日 07:56:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

2019.02.09
【トンデモ】『日本が果たした人類史に輝く大革命:
「白人の惑星」から「人種平等の惑星」へ』H・S・ストークス×植田剛彦(自由社, 2017)
https://rondan.net/114

Contents

1 「白人の惑星」から「人種平等の惑星」へ人類史に輝く大革命
2 『日本が果たした人類史に輝く大革命』の目次
3 「人種平等の惑星」の大革命を達成したはずの日本がとる偏狭な態度

「白人の惑星」から「人種平等の惑星」へ人類史に輝く大革命

今回は、H・S・ストークス×植田剛彦『日本が果たした人類史に輝く大革命:「白人の惑星」から「人種平等の惑星」へ』(自由社, 2017)という自画自賛にも程があるタイトルの書を紹介したいと思います。

本書は、もとは2015年に刊行された『目覚めよ!日本』(日新報道)の改訂版のようで、新たにケント・ギルバート氏の解説を加えたようです。

タイトルからも予想できるようにその内容は、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)を「人類史に輝く大革命」と位置づけ、その大革命によって地球は「白人の惑星」から「人種平等の惑星」になったと主張します。


実際にあった出来事の主語と述語を極限まで拡大解釈して、自身の思想理念を語らせてしまうことは保守界隈の常套手段ですが、本書はその典型例でしょう。

本書のタイトルにある内容が事実であれば、大東亜戦争を起こした日本はノーベル平和賞を受賞していてもおかしくないはずなのですが、そのような気配は一向に見られません。どうも保守界隈の認識というものは、世界の常識とはかけ離れているようです。

もちろんこの常識を修正することが保守の目標なわけですが、あまりに荒唐無稽な理論を展開してしまうと、かえって目標を達成できなくなってしまうのないかと危惧します。

『日本が果たした人類史に輝く大革命』の目次

まずは目次を確認してみましょう。細目まであげます。


まえがき ヘンリー・S・ストークス

第一章 日本よ、目覚めなさい!連合国戦勝史観の呪縛からの脱却
 東京裁判は勝者の復讐劇≠セった
 ペリーが種を播き、マッカーサーが刈りとった
 反日思潮に惑わされず、歴史の真実を学び、誇りある国へ
 アジアを独立させたのは日本の進攻だった

第二章 「朝日新聞」の売国キャンペーン≠許してはならない
 日本を攻撃する中韓両国と、手を貸す朝日新聞
 韓国は日本の善意を蔑ろにした
 NHKまで中韓のプロパガンダのお先棒をかついでいる
 慰安婦とは売春婦そのものだった
 無責任な平和主義が日本人の背骨を冒している
 慰安婦をなくすのは戦争をなくすのと同じように難しい
 韓国はソウルの国会前とアメリカ大使館前に「慰安婦像」を設置すべきだ
 日本人が日本を貶める醜さ
 謝罪は罪を認めること、認めれば償いが伴う

第三章 日本なしに中国、韓国は近代化はできなかった
 満州国士官学校に血書志願した朴正煕大統領
 朝鮮は日韓併合によって近代国家になった
 日本はアジアを大きな家族と見て、朝鮮を豊かに発展させた

第四章 原爆許すまじ
 裁かれるべきはアメリカだ
 日本国憲法は日本「属国化」のための手枷足枷である
 大東亜戦争によって世界の秩序を変えた日本
 「大東亜戦争」を「太平洋戦争」にすり変えたアメリカの奸計
 日本はイギリスをモデルにして「諜報世界」に強くなる必要がある

第五章 南京大虐殺のウソ
 大東亜戦争は自衛戦争であり、同時にアジアを解放した
 東京裁判は「裁判」の名を偽った復讐劇だった
 東京裁判がデッチあげた南京大虐殺

第六章 三島由紀夫とは何だったのか
 三島由紀夫は「殉教」を選んだ
 三島は日本のダヌンツィオ≠セった
 いつ、三島の心≠ェ理解されるのか

第七章 日本の再生に向けて、過去を脱却し力強い未来を築け!
 世界一の日本文化をもっと発信しよう
 危機にあって、なお光る日本人の「思いやり」 ここが共通するイギリス人と日本人
 ユーモア感覚 イギリスと日本は共通項が多い
 日本は異質なものまで受け入れ、昇華して独自の文化を育んだ
 島国にはハイブリッドの文化が醸成される 日本は日本を取り戻せ

解 説 ケント・ギルバート

目次からも明らかなように、実際には「人類史に輝く大革命」だの「白人の惑星」だの「人種平等の惑星」だのといった大げさな話は殆ど出てきません。むしろ、朝日新聞批判、中韓批判、原爆投下批判、南京大虐殺否定論、慰安婦批判などがコンテンツの大部分を占めています。

タイトルが内容がほとんど一致しないという点も、昨今の保守本の傾向の一つです。


「人種平等の惑星」の大革命を達成したはずの日本がとる偏狭な態度

この手の保守本に散見される矛盾が本書にも如実に現れるので、その点を指摘したいと思います。

著者の一人、植田剛彦氏は、

黒人のオバマ大統領が登場したのは日本が白人支配を一掃したからだとか、
日本人は他のアジア人を身近な兄弟として感じていたとか、
日本には民族平等の世界を実現したいという悲願があったとか、
日本人がいかに平等を尊び慈愛と思いやりに満ちた善良な存在であるのか

を強調しています。

にもかからず中国・韓国については

「韓国は日本の善意を蔑ろにした」とか、
「中国と、韓国は日本の国際的な評価を傷つけて」いるとか、
「韓国は世界最大の売春婦の輸出国」だとか、
「日本なしに中国、韓国は近代化はできなかった」とか、
「慰安婦は売春婦そのものだった」とか、

極めて偏狭な言説をしています。これらの中韓への発言は、彼らが強調していた日本人の美徳と、全く矛盾しているように思えます。

著者の植田剛彦氏は、自身を「品行方正な男性」とまで自画自賛していますが(p. 66)、このような矛盾に全く気がついておられないところに、保守論壇の視野の狭さを感じずにはいられません。

https://rondan.net/114

8. 中川隆[-12159] koaQ7Jey 2019年2月14日 11:22:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

2019.02.09
【トンデモ】「半島が一番輝いたのは日本統治時代」(松木國俊×但馬オサム『WiLL』2019.1)
https://rondan.net/8306

Contents

1 根強く続く植民地支配正当化論
2 願望と現実の区別がついていない
3 「半島が一番輝いたのは日本統治時代」
4 プロパガンダをすぐに信じてしまう幼稚な精神構造

根強く続く植民地支配正当化論

先の2018年10月30日に韓国大法院(最高裁)が、新日鉄住金に対し、元徴用工四名に四億ウォンの損害賠償支払いを命じる判決を下しました。

これを受け、『WiLL』『Hanada』『正論』といった保守系オピニオン雑誌は普段以上に反韓記事一色です。

これら反韓記事の問題点は、日韓関係の改善を目指した建設的な議論なのではなく、「日韓断交」など極論を唱え煽情しているだけであること。つまり、鬱憤のたまったネトウヨ向けの、国内消費用コンテンツでしかない点です。

そんな国内消費用コンテンツの典型的記事がありましたので紹介します。その名も、松木國俊×但馬オサム「半島が一番輝いたのは日本統治時代」(『WiLL』2019.1)です。

願望と現実の区別がついていない

この対談「半島が一番輝いたのは日本統治時代」は、半島問題の専門家(?)である松木國俊氏と、『こんなに明るかった朝鮮支配』というタイトルからしてお察しの本を刊行した但馬オサム氏との間で交わされます。

出だしからスピード感。


松木 ……これでは徴用工問題ばかりか、統治時代のあらゆる不都合な出来事が訴訟の対象となるでしょう。日韓は実質的に断交となり、韓国は自滅するしかありません。日本側にもある程度被害は出るでしょう。
それを避けるには日韓両国民が「朝鮮統治時代」の真の姿を知る必要がありますね。



「断交」とか「韓国は自滅する」とかネトウヨが好きそうなキーワードが頻出しますが、20年以上前から同じことを言っているのに、一向に断交も自滅も起きていない事実を鑑みるべきでしょう。

そして「日韓両国民が「朝鮮統治時代」の真の姿を知る必要があります」という上から目線の発言。本当に一方的な見解です。韓国側も、同じく日本に対して真の姿を知る必要があると思っているでしょう。論壇というレベルでは、日韓共に同レベルのことを言い合っているだけなんです。

つまり「韓国は自滅する」とか「真の姿を知る必要がある」というのは、現実的な客観的事実を提示しようとしているのではなく、この記事を読むネトウヨ読者の願望を代弁しているに過ぎないということです。

「半島が一番輝いたのは日本統治時代」

そんな両者が主張する「朝鮮統治時代」の真の姿というものも、現実の有り様を全く反映していません。


但馬 ……日韓併合時代というのは、日本という押し込み強盗がそのまま居直って家を乗っ取ったの状況……これ自体が嘘っぱち



しかし、容疑者(日本側)が「強盗ではなかった」と幾ら強弁しても、原告側(韓国側)が「強盗だった」と主張している以上、このような容疑者(日本側)の居直り的発言は逆効果というものです。

たとえば強盗裁判のテレビニュースが流れていて、容疑者が「あれは押し込み強盗じゃない。俺がその家にいた時は、みんな幸せだと言っていた!」と弁護していたら、普通、視聴者は「うわぁ。キモ。現実が見えてねぇ」って思いますよね。それと同レベルのことを保守論壇もしているということです。

別の例を出せば、たとえば芸能人が逮捕されたら、事務所など関係各位は普通「世間を騒がせて申し訳ありません」と言いますよね? ここで「不当逮捕だ!」なんて言ったら、逆効果となり、社会の理解は得られません。普通はそこまで計算して、本心では不当だと思っていても、対外的には反省しているようにコメントするものです。それが社会常識です。

それができない保守というのは、ほんとキモい。


プロパガンダをすぐに信じてしまう幼稚な精神構造

また、この対談では、当時の新聞などに掲載された広告から半島統治の実態を探ろうとします。但馬氏は次のように述べています。


松木 『300枚のユニークな広告が語る こんなに明るかった朝鮮支配』 (ビジネス社)を読みましたけど、面白かったですね。……資料集めはどうされたんですか。

但馬 最初はネットで見つけてコツコツと。集め始めたら、これは面白いものになるぞ、とハマッてしまって。で、当時の新聞を探し出しては、広告を拾い集めたんです。



で、その広告を調べると、ファッションや美容体操の広告があったり、タイプライターの広告があったりしたので日本統治時代の半島は輝いていたとのことです。

うーん。広告主が、暗くつまらない内容の広告を出すとでもお考えなのでしょうか。どうやら、そもそも「購買意欲の沸かないような広告を掲載するわけがない」という常識すらないようです。

また政府による検閲もありましたから、日本を侵略者として非難する記事や広告が新聞(雑誌、ポスターなど)に掲載されるはずがありません。

つまり但馬氏と松木氏は、政府の検閲を受けた後の、プロパガンダ的性格を持つ媒体の記述を真に受けて「日本統治時代の半島は輝いていた」と決めつけるるという愚を犯しています。

少し調べれば誰にでも解ることですが、日本統治時代の半島が輝いていなかったことを示す地下文章などはごまんとあります。

この松本・但馬両氏には、自説に不利な根拠も検証したうえで、正しい歴史を描いていただきたいと思うばかりです。加えて、この馬鹿げた対談を読んで、その内容を真に受けてしまう読者がいないことを願います。


https://rondan.net/8306

9. 中川隆[-11277] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:16:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[729] 報告

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

10. 中川隆[-9870] koaQ7Jey 2019年6月01日 15:56:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2486] 報告


2018-11-08
死刑の代わりに現場射殺している国は本当にあった!
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/11/08/230042


日本で死刑が執行され、これをEUなどから非人道的だと批判されると、お前たちは犯人を死刑にする代わりに現場で射殺しているではないか、殺しているのは同じなのに偉そうに説教するな、と「反論」する人たちが必ず湧いてくる。

武装した凶悪犯を正当防衛や緊急避難の目的でやむなく射殺するのと、既に捕えられ、抵抗する手段を一切持たない囚人を刑罰として処刑するのとではまったく意味が違うのだが、この二つの区別がつかない困った人たちが、どうやらこの国には大量にいるらしい。


殺したいが、捕まえて裁判にかけても死刑にはできないからここで射殺(簡易処刑)してしまえ、なんて、そんな野蛮な国などあるはずがない・・・と思っていたのだが、いろいろ調べているうちに、そんな国が本当にあったことが分かってしまった。

この点については、自説を撤回しなければならない。

といっても、それは死刑制度を廃止してしまったヨーロッパの先進国などではない。73年前まで東アジアに実在した、「大日本帝国」という国である。

1910年、大日本帝国は、それまでもさんざん内政干渉や武力介入を続けてきた隣国朝鮮をついに「併合」し、植民地化した。当然ながら、国を奪われた朝鮮の人々は激しく反発し、民族の独立を回復しようとした。

1919年3月、宗教指導者らによる独立宣言を契機に、独立を求める大規模な示威運動が始まった。「3・1運動」である。[1]


(略)一月二二日徳寿宮に幽閉されていた高宗(李朝第二六代の王)が急死したことも、朝鮮人の民族的感情をたかめていた。葬儀の日は三月三日と定められ、参列のため全国から多数の人びとがソウル(京城)に集まってきた。
 この機会をとらえ、天道教の第三代教主孫秉熙らは、キリスト教徒・仏教徒と協議したうえ、三月一日ソウルで独立宣言を発した。各教団の組織などをつうじて計画がつたえられていたため、ソウルのパゴダ(塔洞)公園には数万の民衆があつまり、大極旗をかかげ、「独立万歳」を叫びながら、市街をデモ行進した。運動はたちまち全土に波及し、五月末までに示威回数一五四二回、延べ参加人員二◯五万人にたっし、鴨緑江をこえて間島や沿海州にもおよんだ。


 日本側は憲兵警察・軍隊を出動させ、在郷軍人や消防隊なども動員して、運動をきびしく弾圧した。このため、最初は平和的示威であった運動も三月中旬から激烈な闘争や蜂起へと転化し、かま・くわ・棍棒で武装した朝鮮人が、官公署を襲撃する事態となり、その数は合計二七八か所にたっした。
 原内閣は四月四日、内地から歩兵六大隊および憲兵・補助憲兵約四一五名を朝鮮に派兵することを決定して、武力弾圧を強化した。

闘争とか蜂起と言っても、一方は鎌や鍬程度しか持たない民衆、他方は近代兵器を装備した軍隊なのだからおよそ勝負にならない。実際に行われたのは、日本の官憲・軍隊によるほぼ一方的な殺戮である。この武力弾圧による朝鮮人側の被害は、殺された者7,509名、逮捕された者46,306名、焼かれた民家715戸、教会47と伝えられている。[2]

まだ中学生のときにこの三・一運動に参加して自らも逮捕・勾留された経験を持つ、ある朝鮮人革命家は、後に次のように語っている。[3]


(略)死刑になったものはなかった――死刑にするような合法的な口実がなかったのだ。「われわれはただ朝鮮独立のため闘うのであり、反日本の立場ではない」とデモ参加者たちが公然と強く唱えている限り、朝鮮の法律では死刑にできない。死刑は殺人の場合以外適用できないから、日本人は逮捕する代わり民衆を街頭で殺した――うまい手だ。

典型的な簡易処刑ではないか。しかも、死刑制度を廃止したために凶悪犯を逮捕・起訴しても死刑にはできないから殺しているのではなく、死刑制度はあるのに微罪すぎて死刑になどできないから殺しているというのだから、なお悪い。

「裁判抜きの簡易処刑」を非難する皆さんは、なぜこの卑劣な国を非難しないのだろうか。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.81-82
[2] 同 P.82
[3] ニム・ウェールズ 『アリランの歌 ―ある朝鮮人革命家の生涯―』 岩波書店 1987年 P.79
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/11/08/230042

11. 中川隆[-9814] koaQ7Jey 2019年6月06日 20:09:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2626] 報告

東南アジアの土人の為に戦った日本兵なんか一人もいなかった

『パトリオット(The Patriot)』
監督 ローランド・エメリッヒ
脚本 ロバート・ロダット
音楽 ジョン・ウィリアムズ
撮影 カレブ・デシャネル
配給 コロンビア映画
公開 2000年6月28日


動画
https://www.nicovideo.jp/search/The%20PATRIOT%20%20%2F6?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=

キャスト

ベンジャミン・マーティン メル・ギブソン
ガブリエル・マーティン ヒース・レジャー
マーガレット・マーティン ミカ・ブーレム
ウィリアム・マーティン ローガン・ラーマン
シャーロット・セルトン ジョエリー・リチャードソン
ハリー・バーウェル大佐 クリス・クーパー
コーンウォリス将軍 トム・ウィルキンソン
ウィリアム・タヴィントン大佐 ジェイソン・アイザックス


あらすじ

18世紀アメリカ。13植民地が次々とイギリス帝国に対する独立戦争に加わる中、ベンジャミン・マーティンが暮らすサウスカロライナ植民地も、開戦か恭順かの選択を迫られていた。

マーティンは、フレンチ・インディアン戦争の英雄であったが、家族を持った今は開戦に反対していた。一方でそんな父親に反発し、長男のガブリエルは大陸軍に志願して戦場へ赴き、次男のトーマスも従軍を希望していた。

しかし2年後、負傷したガブリエルが帰還する。それに伴ってマーティンの住む家のすぐそばまで迫った戦火は、ガブリエルを敵兵の囚われの身とし、トーマスを死に至らしめた。トーマスを失った怒りからマーティンは昔の本能を呼び起こし、ガブリエルを救出した後、再び戦場へと赴く。

そして旧友のバーウェル大佐を頼って大陸軍に就役し、民兵を組織してイギリス軍に襲撃を始める。その神出鬼没な戦い様から、イギリス軍から“ゴースト”の異名を受け、敵軍のタヴィントン大佐から追撃を受ける様になった彼とその仲間達は、さまざまな犠牲を払いながらもアメリカ独立の大義のために戦う。

そしてついに決戦の日が訪れ、マーティン率いる民兵隊は大陸軍の正式な一員と認められて参加。乱戦のさなか、マーティンは宿敵タヴィントン大佐と対峙する。

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『パトリオット(The Patriot)』で残酷なイギリス人を演じたユダヤ人 / 戦場に赴く愛国者(前編)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68766919.html


異人種が演じる英国軍人
Patriot 22patriot 8


  ハリウッド映画の中には優れた作品があるけど、時々トンデモない代物や駄作としか言い様がない失敗もある。さらに、感動と憤慨が入り交じった迷作もあるから、映画の評価というのは案外難しい。こうした作品の一つが、2000年に公開されたアメリカ映画の『パトリオット(The Patriot)』である。これはメル・ギブソン主演の映画なので、日本でもかなり観客が入ったはずだ。もちろん、他国でも観客が入ったから、興行的には成功だった。海外の評価はどうであれ、アメリカ人というのは愛国心を揺さぶるような映画を好む。とりわけ、勝利で幕を閉じる独立戦争だと万々歳。泥沼となったベトナム戦争には嫌な思い出が多いけど、遙か昔の独立革命ならギリシア神話みたいで好奇心が湧く。それに、大半のアメリカ人にとったら祖先の過去じゃなくて、馴染みのある「外国史」となるので、気軽に楽しむことができる。日本人はあまり意識しないけど、アメリカの「白人」といったって、家系を辿れば曾祖父が南イタリアの貧民だったり、曾祖母がポーランドの百姓とか、ギリシアの寒村から抜け出した労働者の祖父、ハンガリーから女中として渡ってきた祖母、と十人十色、ご先祖様も人それぞれだ。

  アメリカ人でも歴史に興味を持つ人はいるが、困った事に、青史を繙いて勉強する人より、映画を観て学ぶ人の方が圧倒的に多い。ハリウッドの時代劇には虚構と史実をごちゃ混ぜにした作品が多く、大筋では「歴史っぽい」が、所々に「フィクション」がちりばめられている。つまり、本当のような嘘が巧妙に織り込まれているということだ。したがって、映画を鵜呑みにすると、後で赤っ恥を掻くことになる。特に、日本軍による真珠湾攻撃とか、ナチス・ドイツによる虐殺などを扱った映画は、あくまでも「娯楽作品」と考えた方がよく、絶対に頭から信用しないことだ。

Michael Bay 1(左 / マイケル・ベイ)
例えば、ベン・アフレックが出演した『パール・ハーバー』は荒唐無稽な作品で、史実は無視。例えば、日本軍が機銃掃射を行い、民間人や病院を攻撃しているシーンは物議を醸した。だいたい、天皇陛下の帝国海軍が、そんな卑劣な真似をする訳ないじゃないか。(例えば、南雲中将が帰還して、昭和天皇に戦果をご報告したとしよう。その時、中将は「陛下、アメリカの女子供をぶっ殺してきました !」と言えるのか。もし、陛下のお叱りを受けたら切腹ものだぞ ! ) でも、監督のマイケル・ベイ(Michael Benjamin Bay)は気にしなかった。このユダヤ人監督にとったら、ナチスも日本も同じ穴の「悪魔」で、倫理道徳を踏みにじっても気にしない外道となっている。ちなみに、彼が手掛けた作品は日本でもヒットした。スティーブン・スピルバーグと一緒に作った『トランスフォーマー』シリーズや、ベン・アフレックとブルース・ウィルスが共演した『アルマゲドン』、2009年に制作された『13日の金曜日』、1作目のリメイクである『エルム街の悪夢』(2010年)などがある。

  アメリカの観客は『パトリオット』を気分良く鑑賞したが、イギリス人は快く思っていなかった。というのも、映画ではイギリス軍部隊を率いるウィリアム・タヴィントン(William Tavington)大佐が卑劣な悪役になっていたからだ。もちろん、この大佐は歴史上の人物ではない。おそらく、イギリス軍の連隊を率いていたバナスター・タールトン(Banastre Tarleton)をモデルにして設定されたキャラクターと思われる。彼はウィリアム・ハーコート大佐の部隊に属し、チャールストン占領にも加わっていた。タールトン大佐の評判が悪かったのは、彼が入植者のゲリラと闘い、呵責無い決断を下していたからだ。「ワックスホウズの虐殺」(1780年5月29日)で非難を浴びたのは、悪質なゲリラ兵を処分したことに由来する。しかし、彼が入植者の負傷兵や女子供を虐殺したという記録は無い。

Banastre Tarleton 1Jason Isaccs 3


(左 : バナスター・タールトン / 右 : ウィリアム・タヴィントン大佐)

  ところが、架空のタヴィントン大佐は、冷酷非情なイギリス人となっている。映画の中で、彼は主人公であるベンジャミン・マーティン(メル・ギブソン)の宿敵となっており、反抗的な入植者(アメリカ大陸で生まれ育ち、そこで人生を送るイギリス人)を“あっさり”と処刑したり、マーティンが所有する農園に火をつけたりするのだ。さらに、タヴィントンはマーティンの次男であるトマスをスパイの容疑で捕らえ、縛り首にしようとする。トマスが連行されると、父のベンジャミンは助け出そうとするが、運悪くトマスはタヴィントンによって撃たれてしまう。この冷酷なイギリス人指揮官の蛮行はまだ続く。彼は協力を拒む黒人たちを殺し、その兇行はウェイクフィールドの住民にも及んでいた。この村はマーティンたちゲリラ兵の拠点となっていたから、タヴィントンは村人達に容赦が無い。彼は教会に集まっていた人々に、マーティンの情報を教えるよう脅しをかけた。しかし、誰も応じなかったので彼らを始末することにしたのだ。(一人だけ情報提供者が名乗り出たが、タヴィントンは彼の話を聞くと「助命する」という約束を反故にした。)

  タヴィントン大佐は部下に命じて教会の扉を閉めさせる。大勢の村人たちは教会の中に閉じ込められ、誰も逃げ出すことはできない。反抗的な入植者を罰することに躊躇しないタヴィントンは、部下のウィルキンス大尉に教会を燃やすよう指示した。命令を受けた大尉は戸惑うが、情けを捨てて鬼となり、持っていた松明を建物に向かって投げつける。さらに、松明を手にしたイギリス兵が教会の周りを取り囲み、燃え上がった炎は教会を包み込む。聖堂の中では女達が泣き叫び、男達はたじろぐばかり。建物の外にまで悲鳴は轟(とどろ)く。絶叫を聞くウィルキンス大尉は自失呆然。恐ろしい殺戮を犯してしまったことに動揺しているようだ。しかし、イギリス兵は誰一人として中にいる村人を助けようとはしなかった。タヴィントン大佐はキャンプファイヤーでも終えたかのように現場を後にした。

Patriot church burning 2Patriot church burning 1

(左 : 放火された教会 / 右 : 教会を取り囲むイギリス軍)

Roland Emmerich 1(左 / ローランド・エメリッヒ )
  『パトリオット』を劇場で観たイギリス人はさぞ憤慨したことだろう。支那人じゃあるまいし、イギリス紳士に率いられる正規軍が、片っ端から無辜の民を焼き殺すなんてあり得ない。これは完全な作り話だ。たぶん、焼き討ちのシーンはナチスの蛮行を連想させるよう仕組んだものに違いない。監督のローランド・エメリッヒ(Roland Emmerich)は、1955年、ドイツのシュトットゥガルトで生まれたユダヤ人である。彼はオープン・ゲイ、すなわち世間に自分がゲイであると公表した同性愛者で、ついでに民衆党の熱心な支持者ときている。「進歩派」を気取るエメリッヒは、綺麗事を並べるヒラリー・クリントンのファンで、彼女が大統領選挙に出馬した時は、手弁当で資金集めに奔走したそうだ。こんな人物なら、ありもしない虐殺をでっちあげ、あたかも「史実」のように描くことなど朝飯前だろう。残酷なイギリス人を印象づけるには、ナチスをモデルにすればいい。しかし、ドイツ兵だってこんな虐殺はしないだろう。もし、ナチ党に反対するドイツ人がいても、同じ国民を焼き殺すなんてできない。女子供を焼き殺したのはイギリス軍の方で、ドレスデンの空爆を見れば明らかじゃないか。戦後のユダヤ人はナチスの殺戮を一方的に断罪するが、処刑されたり虐殺されたユダヤ人の中には、ドイツ兵を殺したゲリラやテロリスト、ゴロツキ、共産主義者などもいたから、一概にドイツ軍を責めることはできない。

  「野蛮なイギリス軍将兵」を描いた『パトリオット』は、ある意味、入植者を絶賛してアメリカ白人の「仲間」になろうとしたユダヤ人の作品とも言えるんじゃないか。なぜなら、エメリッヒ監督の他にもユダヤ人がいて、プロデューサーのマーク・ゴードン(Mark Gordon)やゲリー・レヴィンソン(Gary Levinsohn)、ディーン・デルヴィン(Dean Delvin)もユダヤ人だ。ゴードンは日本でもヒットしたTVドラマ『グレイズ・アナトミー』や『クリミナル・マインド』を手掛た大物プロデューサー。相棒のレヴィンソンは、第二次世界大戦を描いた映画『セイヴィング・プライベート・ライアン』やトム・クルーズ主演の『ジャク・リーチャー』を制作したやり手だ。アジア系に見えるデルヴィンは、母親がフィリピン人だけど、父親がユダヤ人という混血児。彼はエメリッヒとダッグを組んで大ヒット作の『インディペンデンス・デイ』とその続編『ID / リサージェンス』を世に送り出した。エメリッヒにはヒット作が多く、ジャン・クロード・ヴァンダム主演の『ユニヴァーサル・ソルジャー』とかハリウッド版『ゴジラ』、異常気象を描いた『ザ・デイ・アフター・トゥモーロー』などがある。

Mark Gordon 1Gary Levinson 1Dean Devlin 11
(左 : マーク・ゴードン / 中央 : ゲリー・レヴィンソン / 右 : ディーン・デルヴィン )

  ちなみに、タヴィントン大佐を演じたジェイソン・アイザックは、通常「イギリス人男優」と紹介されるが、実際は英国で生まれ育ったユダヤ人。彼の曾祖父はリヴァプールのユダヤ人・コミュニティーに住んでいたそうで、父親の代にロンドンへ移り住んだそうである。少年時代のジェイソンは、週に2回ほどユダヤ人学校に通っていたらしい。役者になったジェイソンは、ユダヤ人の出自には触れたくなかったそうである。当時の英国だと、まだユダヤ人に対する暗黙の嫌悪感が残っていたので、「ユダヤ人の役者」と思われたくなかったそうだ。ユダヤ人に疎い日本人だと、彼の容姿を見ただけではユダヤ人と気づくことはないだろう。たぶん、ほとんどの日本人はジェイソンを「イギリス人」と思ったはずだ。

  そう言えば、大ヒットシリーズの『ハリー・ポッター』でハリーを演じたダニエル・ラドクリフ(Daniel Radcliff)をユダヤ人と知らない日本人も結構多い。彼の父親アレンはプロテスタントのアイリス人であるが、母親のマーシャはロシア系ユダヤ人の家系に生まれたイギリス系ユダヤ人。ダニエルはあるインタビューの中で母親の血統に触れ、ユダヤ教の信仰心は持っていないけど、自分のアイデンティティーは「ユダヤ人」と断言していた。(Kevin Sessums, Dirty Harry, Daily Beast, January 26, 2009.) 異人種の家庭に生まれたダニエルだが、取材記者から英国のことを訊かれると、「イギリス人」であることをとても誇りにしていると答えていた。しかし、「自分は王党派(royalist)ではない」と釘を刺していた。なぜなら、英国の君主は英国が犯してきた過ちを象徴する人物だかであるという。つまり、イングランドの国王は「悪の象徴」という訳だ。ユダヤ人というのは、いくら愛国者を自称しても、心のどこかでイギリス人を憎んでいる。とにかく、「イギリス人」を強調するダニエルだが、君主政を斥け「共和政」を支持しているそうだ。また、ユダヤ人のダニエルは「差別」が嫌いなようで、社会的に差別される同性愛者を熱心に擁護している。

Jason Isaacs 1Daniel Radcliff 3Daniel Radcliff 5
(左 : 「タヴィントン」役のジェイソン・アイザック / 中央 : ダニエル・ラドクリフ / 右 : 『インペリウム』でのラドクリフ)

  イギリス人の観客はユダヤ人が残酷な“イギリス人”を演じた時、どのような感想をいだくのか? 普通なら、ユダヤ人俳優のジェイソン・アイザックが、イギリス人士官を演じるだけでも不愉快なのに、アングロ・アメリカ人を焼き殺すなんて、いくら映画でも承知できない。こんなのは反英プロパガンダじゃないか。でも、これはある意味、イギリス人にとって良かった。なぜなら、いつもドイツ軍を悪者にしているイギリス人が、ドイツ人の悔しさを理解できるからだ。一方、悪役を演じているアイザックには良心の痛みなど無いだろう。どうせ映画はフィクションだし、彼が演じている軍人は「異教徒のイギリス人」で、同胞のユダヤ人じゃない。ユダヤ人というのは、時たま悪党を演じるが、そのほとんどはユダヤ人の才能を発揮するマフィアとかグローバリストじゃなく、アメリカ人やヨーロッパ人の恥部を描き出す下郎である。ダニエル・ラドクリフは『インペリウム(Imperium)』という映画で「ネオ・ナチ」を演じたが、これはFBIの潜入捜査官というキャラクターであった。ユダヤ人の俳優は人種差別を行う白人を懲らしめるため、敢えて下劣な役を演じたりする。彼らは幼い頃からユダヤ人を毛嫌いする白人を肌で知っているので、レイシストの白人を演じさせたら天下一品だ。

  日本人は『パトリオット』を娯楽作品として楽しんでいたが、もし、日本版の『パトリオット』が作られたら大変なことになる。想像したくないけど、ユダヤ人が大東亜戦争の映画を作り、支那大陸やフィリピンで虐殺を行う日本軍を描いたらどうなるのか? ハリウッドのユダヤ人監督なら、どんな蛮行を捏造しても平気である。例えば、南京で100万の民間人を殺す日本兵とか、フィリピンに侵攻した日本兵による戦争犯罪など、いくらでも考えつく。目つきの鋭い日本兵が現地の女を強姦し、赤ん坊を銃剣で突き刺す場面とか、数名の老人を縄で束ね、ダイナマイトをくくりつけて吹き飛ばすとか、日本人では思いつかない残虐行為を創作できるのがユダヤ人だ。ハリウッドの脚本家や監督は、ショッキングな映像を客に見せつけて世間の話題を攫おうと考える。よく映画の始めに豪快なアクション・シーンを挿入するのは、客の度肝を抜くための「摑み」だ。「あっ!」と思うようなシーンがあれば、観客は銀幕にのめり込む。

  日本人の俳優ならいくら頼まれても、「狂気の帝国軍人」役なんて嫌だし、所属事務所がOKを出すことはないだろう。しかし、朝鮮系俳優なら「OK」を取れるかも知れない。彼らはハリウッド映画にデビューできるなら、どんな役だって構わないと考える。朝鮮系役者なら、「日本国内で燻るなんて御免だ ! オレはもっと広い世界に出て有名になり、脚光を浴びるんだ!」と鼻息を荒くしてもおかしくはない。彼らは日本国籍を持っていても、心は「朝鮮人」のままだ。朝鮮系の役者なら残虐な日本兵を演じても良心は痛まない。むしろ、役者魂をフル稼働させて、迫真のの演技を見せるだろう。そして、場合によっては、アメリカの映画制作者から「いゃあ〜、すごいねぇ !」と絶賛を受けるかも知れないぞ。

  一方、日本人の観客は、「何だ、あの朝鮮野郎 ! 柄の悪い朝鮮人を再現しているだけじゃないか !」と反撥するだろう。しかし、ハリウッドの制作者なら、もっと恐ろしい企画を持ち出す可能性もある。例えば、アジア侵略を裏で指図する昭和天皇といった虚構だ。アメリカ人からすれば、「エンペラー」と呼ばれる独裁者が膨張主義を掲げ、配下の軍人が遠征軍を派遣しても不思議ではない。彼らは学者を含めて日本の文献を読めないし、日本の歴史も勉強したことがないから、どんな空想でも適当に膨らますことができる。それにもし、日本人が抗議してくれば、「これはフィクションなので、我々の自由です」と反論すれば済む話だ。演技を褒められた朝鮮系俳優だって、世間から非難されれば、「いや〜、あれは指示された役柄なので・・・」と巧みに躱(かわ)せばよい。そもそも、ドキュメンタリー映画じゃないんだから、「何を作ろうが私の勝手でしょ」と言われて終わりだ。日本人からすれば腹立たしいけど、「藝術の自由」を楯にされると反論のしようがないので、矛を収めるしかない。

  『パトリオット』の筋書きには納得できない点もあるが、別の場面には素晴らしい演出があるので、後編でそのシーンを紹介したい。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68766919.html


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『パトリアット』 娘の涙と父の勇気 / 戦場に赴く愛国者(後編)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68767023.html


「パパ、行かないで !」と懇願する娘
Skye McColeBartusiak 1Mel Gibson 5

(写真 / 『パトリアット』に出演したスカイ・マコール・バートシアクとメル・ギブソン)

  日本と同じく歐米でも、軍人は愛する者を守るために戦場へ赴く。しかし、武器を取る愛国者は、大切な家族のもとに戻る事ができるとは限らない。むしろ、愛する者を残して天に召されることが多い。『パトリオット』でもこの葛藤が描かれており、主人公のベンジャミン・マーティン(メル・ギブソン)は家族を残して決戦に挑もうとする。彼にはエリザベスという妻がいたが、七番目の子供であるスーザンを産んだ後、病に冒され亡くなってしまう。幼くして母を失った末娘のスーザンは言葉を発することができなくなり、彼女がやっと話したのは、英軍の襲撃を受けた後、兄のガブリエルに対して口を開いた時だ。まぁ、物心ついた頃から母親が居ないというのは、幼い子供にとって耐えがたいことであるから、スーザンが心を閉ざしたのも不思議ではない。

  妻を亡くし鰥(やもめ)となったベンジャミンは、七人の子供を抱えて農園を切り盛りする。しかし、英国に対する入植地の反撥は日増しに強まり、その嵐はマーティン一家が住むサウス・カロライナへも押し寄せてきた。しかし、ベンジャミンは積極的に武器を取ろうとしない。なぜなら、彼は以前フレンチ・インディアン戦争に参加し、恐ろしい体験をしたので、二度とあのような辛い目に遭うのは御免だと思っていたからだ。ところが、長男のガブリエル(ヒース・レジャー)は血気盛んな若者だから、入植地の仲間を救うべく腕まくりをしてやる気満々。喜んで地元の軍隊に入り、イギリス兵をやっつけようとする。

  最初は消極的だったベンジャミンも、息子が英軍に囚われたり殺されたりしたので、次第に植民地軍に加担するようになった。「ゴースト(The Ghost)」なる渾名を持つマーティンは、植民地軍の大佐となり、地元の民兵を率いてイギリス兵を倒してゆく。ある時、英軍が彼の農園にまで押し寄せたので、戦に備えるベンジャミンは亡き妻の妹であるシャーロット(ジョエリー・リチャードソン)に子供達を託すことにした。義理の妹であるシャーロットはベンジャミンに思いを寄せ、やがて彼の妻となる。

Patriot Gabriel Martin 1Joely Richardson 1Joely Richardson 3


(左 : 「ガブリエル」役のヒース・レジャー /  中央 : 「シャーロット」役のジョエリー・リチャードソン / 右 : ベンジャミン・マーティンとシャーロット )

  『パトリオット』のクライマックスは、両軍が激突する戦闘シーンにあるが、出征を前にした親子の愛情も見逃せないシーンである。特に、四歳になる末娘のスーザン(スカイ・マコール・バートシアク)が見せる表情が実にいい。入植地アメリカの独立を勝ち取るため、ベンジャミンは長男のガブリエルを伴って戦場に向かおうとする。新たな妻となったシャーロットの脇には、父を見送る子供達がずらりと並んでいた。「これが最後かも・・・」と思うベンジャミンは、愛すべき子供達一人一人に向かって別れを告げ、ギュッと抱きしめる。そして、シャーロットに後を託すベンジャミンは、彼女の唇にキスをした。これを見て、シャーロットに懐いている子供達には笑顔がこぼれた。

 次は、幼いスーザンの番だ。彼女の前に立ち、「グッバイ」と告げるベンジャミン。しかし、母親の死で口が利けなくなった少女は、人形を抱えたまま、険しい表情で父親を見つめている。それでも別れを告げようとするベンジャミンは、彼女の顔をのぞき込むように言葉を掛けた。ところが、スーザンは意外な反応を示す。いとしい娘を抱きしめようとするベンジャミンに対し、スーザンは後ずさりをして父を拒んだのだ。この態度に戸惑ったベンジャミンは無理強いをせず、微笑みを浮かべて諦めた。彼は馬に飛び乗り、息子のガブリエルと共に立ち去ろうとした。

Mel Gibson 2Skye McColeBartusiak 6


(写真 / 父と別れる「スーザン」を演じた スカイ・マコール・バートシアク)

  その時である。娘のスーザンは二、三歩前に出て、込み上げてくる感情を口にした。父と兄が遠ざかってしまうことに堪えきれぬスーザンは、勇気を振り絞って「パパ、行かないで !」と言葉を発し、泣きながら父の背中を追うように走り出した。この奇蹟の言葉を耳にしたベンジャミンは、すかさず馬を降り、娘のところに駆け寄る。彼は涙を流しながら走り寄る娘を固く抱きしめた。スーザンが「パハ、何処にも行かないで。約束して !」と懇願する姿を見れば、我々も胸が締め付けられ、自然と目頭が熱くなる。スーザンの顔をしっかりと見つめるベンジャミンは、「約束する。必ず帰ってくるから !」と言い聞かせた。「信じてくれるかい?」と父が問うと、スーザンは首を縦に振って答える。今まで喋ったことがないスーザンが話しただけでも嬉しいのに、彼女はその感情を素直に表した。ベンジャミンはどれ程喜んだことか。彼は何度も確認するようにスーザンを抱きしめた。

  娘を残して戦場に行かねばならぬ父親には、心臓が切り裂かれるほどの悲しみが押し寄せる。というのも、「もう二度とこの子に会えないんじゃないか・・・」という不安が頭をよぎるからだ。死への恐怖より別れの方が辛いこともある。しかし、軍人は祖国を守るため、家族のもとを去らねばならない。たとえ、子供達が孤児(みなしご)になろうとも、自分の生命を国家に捧げることが軍人の義務であり、子々孫々にまで語り継がれる名誉となるのだ。

祖国に殉じる自衛官と日本にぶらさがる帰化人

  こうしたシーンを見ても平和ボケの日本人にはピンと来ないかも知れないが、実際に戦闘を経験するアメリカの軍人には心に突き刺さるものがある。なぜなら、幼い子供を持つ海兵隊や陸軍の将兵は、「もしかしたら、自分も帰ることができないのでは・・・」という予想がリアリティーをもつからだ。事実、戦場ではさっきまで元気だった戦友が兇弾に倒れたり、爆発で命を失ってしまうことは珍しくない。敵の銃弾を喰らった戦友からは鮮血が止めどなく流れ出す。近くに居る仲間は彼を背負って現場を離れようとするが、敵の攻撃が激しくて自分も撃たれてしまう危険性さえある。それでも、戦友を見捨てることはできないから、必死で助けようとする。が、致命傷を負った兵士からは急激に生気が失われてゆく。衛生兵のところに連れて行く頃には、既に死亡しているという場合も少なくない。歴史教科書では、戦没者というのは「数」でしかないが、現実では一人一人が家族や友人を持つ「人間」である。ゆえに、たとえ一兵卒の死であっても、多くの人を不幸にするものだ。哀しいけど、戦場では1ドルもしない銃弾で一人の命が消えてまうから、実戦というのは誠に残酷なものである。戦争を決断する政治家は、自分の評判ばかり気にしないで、この「重み」を認識すべきだ。

  法的に「軍隊」が無い日本で、実戦を経験する者はほとんど居ないけど、少なくとも自衛官はちょっとくらい生死を考えたことがあるはずだ。たとえ、イラクやアフガニスタンに派遣されないとしても、訓練で実弾を使用する自衛官は、戦場で同じような弾が自分に向かって飛んでくると分かる。戦争では何が起きるか予測できないから、運が悪ければ百戦錬磨のベテラン軍曹でも即死となる。この現実を理解できれば、軍人となった者は、自分が何を守っているのか、真剣に考えるようになるだろう。大抵の軍人は「祖国を守るため」と答えるが、「どんな人間が住む国家なのか」という点にまで考えが及ぶ者は少ない。アメリカの海兵隊員や陸軍兵は星条旗ばかり見ているが、祖国の各地に住む「国民」を目にしたとき、どんなことを考えるのか? ちょっと頭のいい白人兵なら判るけど、「アメリカ国民」といってピンからキリまで様々である。南部の白人兵の中には現状に怒っている者がいて、彼らは街角にうろつく黒人やヒスパニック、金目当てでやって来たアジア移民、難民としてやってくるアフリカ人や中東のイスラム教徒などを「同胞」とは思っていないのだ。テキサスやジョージアに代々住んでいる白人は、自分たちの故郷と「仲間」を守るために軍人となったのであり、メキシコからネズミのようにやって来た密入国者のために闘っている訳じゃない。

fat American boys 1New American citizen 11

(左 : アメリカの軍人が守る子供たち / 右 : 新たに「アメリカ国民」となった移民)

  有事の際に命懸けで日本を守ろうとする自衛官は、いったい「誰のため」に闘おうとするのか? 現在の日本には、個人的な都合で帰化する在日朝鮮人や、福祉をもらうために来日する支那人、日本国籍をボーナスと考えるインドネシア人介護師、水商売で来日し、そのまま居着いてしまったフィリピン人、貧困から抜け出すためにやって来るベトナム人など大勢いる。我が国の自衛官は、こうした移民を守るために、自分の家族を犠牲にできるのか? もし、イラクやアフガニスタンへ派遣された自衛官がゲリラに殺されれば、その女房子供は深い悲しみに包まれるだろう。夫を亡くした妻は子供を抱えて戸惑うし、父親を突然失った息子や娘はショックのあまり呆然となる。戦場での死亡となれば、その遺体は挽肉のようになっている場合もあるので、幼い子供たちは父親の遺体を見ることはできまい。場合によるけど、子供達は実感の無いまま親の葬儀に参列し、言いようのない悲しみだけを背負って父を見送る破目になる。

  死亡率の高い陸自の兵卒は、自分の妻や子供に辛い思いをさせても、アジア系帰化人のために命を犠牲にできるのか? 愛する我が子が「父(てて)無し子」になるのに、国籍目当てでやって来た支那人は、快適な環境で子孫を増やす。愛国心に燃えた立派な自衛官が大量に死んでも、何百万もいるアジア系移民は一人も戦場で死ぬことはない。中には、北鮮の工作員や人民解放軍に協力する「忍び(スリーパー)」すらいるのだ。有事の際、戦場に赴く自衛官は、泣きじゃくる幼い娘に向かって「お国のためだから・・・」と言えるのか? もし、娘から「パパ、行かないで !」と懇願されたら、どんな自衛官だって涙が込み上げてくるだろう。しかし、国家に殉じることを誓った自衛官は、それを振り切らねばならない。そして、たとえ自信が無くても、「きっと帰ってくるから。約束だ。ママと一緒に待っていなさい」と言い聞かせるんじゃないのか。

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(左 : フィリピンの子供たち / 右 : 日本にやって来る支那人)

  一方、日本に潜り込んだ朝鮮人や支那人、フィリピン人、タイ人、ベトナム人の親子は、ぬくぬくと日本で暮らし、老後まで安全に暮らすことができる。自衛官の何名かは遺体か、片輪、ダルマ(手足を無くした状態)で帰ってくるのに、「元移民」は最新医療で元気そのもの、心配なのは糖尿病とか腱鞘炎くらいだ。日本人は外人に対して気前が良すぎる。だいたい、ゼニ儲けや快適な環境を求めてやって来る支那人が、体を張って国家に尽くそうと考えるのか? 支那人からすれば、せっかく「より良い生活」を求めて来日したのに、戦争で命を失っては意味が無い。命と銭があっての幸せだ。そもそも、日本人のために命を懸ける支那人なんて、未だかつて見たことがない。

  戦後の日本人は手放して「デモクラシー」とやらを称讃しているが、民衆政治が機能するには、その構成員が戦闘員でなければならない。自分の命と直結するからこそ、公民は祖国の政治を真剣に考えるようになる訳で、「国防は他人に丸投げ」じゃ「パンとサーカス」だけを求めるローマ人と同じで、アリストテレスやプラトンが恐れた衆愚政治への転落だ。米国の属州と成り下がった日本では、一般国民に軍事・外政の興味は無く、誰が防衛大臣なのか知らない者が多い。岩屋毅と聞いたって「誰なの?」と尋ねる国民がほとんどで、大臣となった議員に如何なる国家哲学や軍事知識があるのか判らない。過去には田中直紀が防衛大臣になったけど、軍事を全く解っていない素人だった。単に真紀子の亭主というだけで、政治家としての資質なんかゼロ。民主党の一川保夫に至っては、安全保障の素人を自認し、軍事に無知な者が就任すれば、シヴィリアン・コントロールと思っていたのだ。嘘みたいな話だけど、これが日本の現状である。自民党の林芳正も、なんで大臣になれたのか疑問に思う人物で、キャバクラとかマッサージ店に関してなら少し解るが、国防に関しては素人以下。

Bruce Willis 1Monica Bellucci 5Taraji Henson 3Queen Latifah 3


(左 : ブルース・ウィルス / モニカ・ベルッチ / タラジ・ハンソン / 右 : クィーン・ラティファ)

  日本人は自分が戦闘員にならぬ限り、政治を真剣に考えることはないだろう。自分の命や家族を犠牲にしまでも守りたい日本とは、如何なる国家なのか? 選挙権を有する日本人は、生野区(大阪)や大泉町(群馬)、新宿、荒川区、西川口(埼玉)、北池袋、新大久保などを歩いてみるべきだ。こうした地区に住むアジア人を見た後で、自分の命を危険に晒そうと考える者は、いったい何名いるのか? そういえば、2003年に『ティアーズ・オブ・ザ・サン』というアクション映画があった。海軍特殊部隊のウォーターズ大尉(ブルース・ウィルス)は、紛争地帯となったナイジェリアからリーナ・ケンドリックス(モニカ・ヘルッチ)という女性医師を救出する任務を受けたけど、助ける人物が美女だから観客は納得したものだ。もし、救出すべき女性がウッピー・ゴールドバークとかタラジ・ハンソン、クィーン・ラティファじゃ任務をキャンセルしたくなる。命を懸けるなら、それ相応の貴婦人でないとねぇ〜。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68767023.html

12. 中川隆[-9793] koaQ7Jey 2019年6月07日 09:54:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2648] 報告

【林 千勝】日米戦争を策謀したのは誰だ!【WiLL増刊号 #016】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BooWecBvfjY

2019/02/22 に公開


【WiLL増刊号 #016】

新刊『日米戦争を策謀したのは誰だ!』を上梓された近現代史研究家の林千勝さんが登場!

平和を企んだ「好戦家・ルーズベルト」と「国際金融資本家・ロックフェラー」、さらに国際共産主義の策動…

そして、彼らと対峙した「非戦派・フーバー」、「ピエロ・近衛文麿」はなぜ破れたのか。

前作『近衛文麿 野望と挫折』に続く渾身のノンフィクション作品です。


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【我那覇真子「おおきなわ」#70】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[桜R1-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E

【我那覇真子「おおきなわ」#71】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
戦争の黒幕「国際金融資本」とは?[桜R1-5-31] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU

司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)
ゲスト:林千勝(戦史研究家)

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「陸軍の勝算」秋丸機関の真実 林千勝 偕行社 平成27年11月29日 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=om_F35kgO3w
https://www.youtube.com/watch?v=ddMi4D8N8-w
https://www.youtube.com/watch?v=eMrNOsVgtLc

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林千勝氏(戦史研究家・つくる会東京支部幹事)
『 国を護るにはリーダーが大事!−近衛文麿にみる大日本帝国敗北(崩壊)の教訓−』
2017.6.25〈歴史・公民〉新東京塾・第3回講演会 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cjBdtLIX-O0

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林 千勝・講演会【日米開戦・陸軍の勝算!日本の勝算と敗北ー現代への教訓】
広島原爆の日 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fVUFNGm_Qv0


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林千勝先生講演「日本の勝算と敗北 - 現代への教訓 – 近衛文麿の野望と挫折 」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yQKdjoLZxQ0
https://www.youtube.com/watch?v=-DXJpXr-T38
https://www.youtube.com/watch?v=gwc-DEka1N4


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近衛は自殺したのではない!近衛の野望と挫折 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5f17npsMuG0  

13. 中川隆[-9792] koaQ7Jey 2019年6月07日 09:56:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2649] 報告

日米戦争を策謀したのは誰だ!
ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿 そしてフーバーは── – 2019/2/20
林 千勝 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E7%AD%96%E8%AC%80%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A0-%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%80%81%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%80%81%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF-%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%81%AF%E2%94%80%E2%94%80-%E6%9E%97-%E5%8D%83%E5%8B%9D/dp/4898314813/ref=sr_1_2?qid=1559859790&s=books&sr=1-2&text=%E6%9E%97+%E5%8D%83%E5%8B%9D
内容紹介

なぜ、「平和」は「戦争」に負け、第二次世界大戦が勃発したのか。
なぜ、避けることが可能だった日米戦争が起こったのか。
その不条理を追究し、偽りの歴史を暴く!


戦争を企んだ「国際金融資本家・ロックフェラー」と「好戦家・ルーズベルト」。そこにつけこむスターリン・コミンテルンなどの国際共産主義運動の策謀。
その危険性を見抜き、彼らと対峙したフーバー。

そういった、アメリカが攻め込まれない限り、戦争はしないという「不干渉主義者」だったフーバーたちは「孤立主義者」と貶められた。

日本では、フーバーとも会ったことのある近衛文麿は、尾崎秀実、風見章、牛場友彦、松本重治、白洲次郎らを初めとする「問題人物」を手玉にとったつもりで、実は「ピエロ」としての役割しか果たせず、自滅し敗れ去って行った‥‥。


前作『近衛文麿 野望と挫折』に続く、渾身のノンフィクション大作

(著者の言葉) →
世界は今も戦争の危険と恐怖が絶えません。
「なぜ、人類は戦争をしなければならないのか?」。

私は、現実的な観点から平和な世界をつくる手がかりを探る試みとして、本書を世に問います。

ルーズベルト、フーバー、近衛の動き、ロックフェラーの関与を並列的に叙述しました。
日米共通の歴史認識が必要との問題意識がそうさせたのです。


プロローグ──なぜ、人類は戦争をするのか

第一章 ロックフェラーの世紀
「世界大戦」の惨禍
ロックフェラーの世紀
油売りから帝王へ
巨大財団 光と影
太平洋問題調査会という魔宮

第二章 悪魔の使い ルーズベルト
悪魔の使い
アメリカ共産党
社会主義的な経済運営
干渉主義
武器貸与法という策謀
ドイツを挑発
日本を追いつめた共産主義者たち

第三章 平和の天使 フーバー
平和の天使
共産主義への警戒
不干渉主義
欧州戦争の始まり
「悪魔の使い」との闘い

第四章 「平和」が「戦争」に負けた日
チェックメイト
天使の日本理解
極東部長の対日政策
日本圧迫!
騙された天使たち
「腹切り」への「生贄」

第五章 「平和」が「戦争」に負けた訳
藤原(近衛)文麿というピエロ
蠟山政道の昭和研究会
太平洋問題調査会が演出した訪米
大抜擢、謀略
風見章の日本革命
尾崎の足音
松本と白洲の影
牛場友彦の牙城
「英米本位の平和主義を排す」!
「平和への努力」のふり
ソビエトは討つな!
陛下の避戦を覆せ!
裏切りの真珠湾攻撃
第六章 顚末と苦難
ピエロの執念
ピエロの死
再始動
悪魔の使いの死
第二次世界大戦の惨禍
世界の苦悩

エピローグ──「平和」が「戦争」に負ける訳


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カスタマーレビュー


澤間譲治
コミンテルンと国際金融の動きを知らずして大東亜戦争の実相は把握出来ない 2019年3月12日

F.Dルーズベルト政権がコミンテルンに汚染され、国際共産主義と言うグローバリズムに動かされて戦争に向かって其の政策が収斂されて行くプロセスを、フーバー前大統領著『裏切られた自由』を丹念に追いかけながら実証しています。

一方、日本側の近衛内閣に於いても全く同様に主要ポストがコミンテルンに占領され、日華事変を限りなき拡大に巻き込んで行く実態が見事に描かれています。

そして両国のコミンテルンの背後で、彼等を操る存在として、ロックフェラーを始めとした国際金融の存在があった事を其の人的ネットワークを実証的に引用しながら分かりやすく説明されています。

特に日本に於けるコミンテルンの活動については、ゾルゲ事件の主人公である尾崎秀実を筆頭に、風見章、有沢広巳、西園寺公一、蝋山政道らを実名で挙げて、其の所業が述べられおり、国際金融に繋がる者として松本重治、牛場友彦、白洲次郎等との人間関係が近衛文麿を要とした位置付けで展開された様子が明らかにされています。

日本側の登場人物の中では近衛文麿、風見章の動きが『敗戦革命』『敗戦利得者』と言う言葉と結びついて特に印象に残ります。

近衛は敗戦革命によって平安時代の摂政の地位を得んとし、夢破れて死去(自殺か他殺か?)。

風見章は戦争開始前に疎開し、戦後は公職追放の処分を受けるも1955年に社会党に入党、日中国交回復国民会議理事長、世界平和評議会評議委員等を務めて、其の健在振りを示した。

此の本では真珠湾攻撃が日本の運命にもたらした負の側面を明確に述べられているが、其の決定プロセスに登場する永野修身、米内光政、山本五十六についての筆者の視点も大変参考になる。

従来に無かった視点からと、既にヴェノナ文書等で明らかになった視点を合わせて、実証的に描かれた画期的な著作だと思います。戦後レジームと言われるものの実態と、平和を成立させる世界構造を考える上での必須の歴史に残る書籍になるのではないでしょうか?

著者が冒頭に述べられている本書の目的を引用して、私の当該書籍への感想文と致します。

『世界は今も戦争の危険と恐怖が絶えません。「なぜ、人類は戦争をしなければならないのか?」私は、現実的な観点から平和な世界をつくる手がかりを探る試みとして、本書を世に問います。』


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bilderberg54 5つ星のうち3.0
最大の謎:国際資本主義者がなぜ国際共産主義者とタッグを組んだか? 2019年3月31日

ロックフェラー財閥が、資金援助したIPR(太平洋問題調査会)と日本に巣食った近衛内閣の内閣書記官長だった風見章など国際共産主義者との交わりを研究した本。

風見らの国際共産主義者は、近衛内閣のなかで日本の反共勢力を牽制するために、日本が北進せず南進するようにけしかけたり、中国国民党の蒋介石との和平を阻害しようとする。

IPRは、国際資本主義者と国際共産主義者が交わる場でもあり、日本の大陸進出政策には反対的だった。

戦後、戦前のIPRの中心人物で、国際資本主義のグループに属する人々がロックフェラー家の支援を受けて、戦後日本の親米勢力としての立て直しを行う。

IPRは、マッカーシーの赤狩りの際に、国際共産主義者の巣窟だったとして閉鎖に追い込まれている。

林千勝はこの本を書く上で、「国際共産主義者」(ルーズヴェルト、ノーマン、風見)らと「国際資本主義者」(ロックフェラー)そしてその間で権力を維持した近衛文麿一派(松本、牛場など)の3つの勢力に便宜上区分し、両者を天秤にかけたはずの権力志向の近衛がピエロだったとしている。

この本でも明らかにされなかったのが、国際資本主義者があまりにも安易に国際共産主義者を受け入れたことに対する謎解きだ。国際共産主義者が浸透するのが上手かったのか、国際資本主義者もまた国際共産主義者を利用していたつもりになっていたのか、そのへんの謎解きがないのが残念だ。

この辺の話は、いわゆる陰謀論者は「ロックフェラー万能説」に、右派の歴史修正主義者は「コミンテルン万能説」に傾いていると思うが、実際はどうなのか、この辺の絡み合いを解き明かさないと、第二次世界大戦のなぞは解けないと思う。

国際共産主義の恐ろしさをいち早く気づいた、ハーバート・フーバーの慧眼は称賛すべきだが、なぜロックフェラーが終戦時まで容共だったのか、がわからない。だからこの本は星3つ。

赤狩りを経て、アメリカの資本家たちも、表向きは反共になっていく。その中でロックフェラーはソビエトとしっかりビジネスをしていたわけで、資本家の方が一枚上手だったと私は思うのだが。


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オージッタ
昭和10年代の日米関係史は本書を基に書き変へられなければならない 2019年5月23日

いはゆるグローバリズム(国際金融資本主義)とコミンテルンに代表される共産主義が同根であつたことは、昨年自裁した西部邁氏が生前、チャンネル桜の討論会などで指摘してゐたし、また近年では馬渕睦夫氏が''ディープ・ステート''といふキーワードでいくつかの著作の中で同様の指摘をしてゐる。しかし、日米関係史の具体的な史実としてこれを明らかにしたのは本書が初めてではないか。

本書の前半ではフーバー米元大統領の「裏切られた自由」を丁寧に引用しながら、ルーズベルト政権が如何に「帝国主義戦争を内乱へ!」といふレーニンの敗戦革命テーゼを地でいく共産主義勢力に影響され、戦争への道に突き進んだか、またフーバーがこれを阻止しようしながら惜しくも挫折した経緯が描かれてゐる。

後半では著者の前著「近衛文麿 野望と挫折」に引き続き近衛内閣のブレーン達の暗躍を暴いてゐるのであるが、前著が近衛と一心同体であつた確信的共産主義者の風見章を中心に展開されてゐたのに対し、本書では同じ近衛の側近のなかでも英米派とでも呼ぶべき牛場友彦、松本重治、白洲次郎らの動向が詳細に記述されてゐる。

キーワードはIPR(太平洋問題調査会)である。この戦前・戦中・戦後を通して一貫して反日イデオロギーの砦であつた民間シンクタンクに牛場、松本、白洲らが深く関はつてゐたのである。

IPRについては昨年刊行された江崎道朗氏の「日本占領と敗戦革命の危機」の中でもアメリカ側IPRにいかに多くの共産主義者が浸透してゐたかが触れられてゐる(同書p.70「コミンテルンはいかにしてIPRを乗っ取ったか」を参照のこと)が、本書では日本側IPRには上記英米派とともにゾルゲ事件関係者の尾崎秀実や西園寺公一ら共産主義者も関はつてゐたことが明らかにされてゐる。

本書の第一章ではこのIPRにロックフェラー財団がいかに多額の援助をしてゐたかが述べられてゐる。そして松本、牛場、白洲らはそれぞれ親の世代から国際金融資本と深い繋がりを持つてゐたのである。

ずばり本書の肝はp.204に掲載されてゐる近衛内閣のブレーン達の人物相関図である。実は評者は昨年8月末、千葉県佐倉市で行はれた著者の講演会で示されたこの図を見て急ぎメモをとつたが、翌日FBにアップしたレポートではこの図の詳細は伏せてゐた。本書が今春刊行されることが予告されてゐたからである。

https://www.facebook.com/100004141752702/posts/1115001441981237?s=100004141752702&sfns=mo

この図を傍らにハーバート・ノーマンやトーマス・ビッソンらGHQに巣食う共産主義者の動向を重ねて近衛上奏文を読めば、準備万端整へて極東軍事裁判に臨まうとした近衛が何故出頭当日、昭和20年12月16日の早朝に怪死しなければならなかつたのかといふ実相が見えてくる。

かくして昭和十年代の歴史はこの図を基に書き変へられなければならない。

55. 中川隆[-9801] koaQ7Jey 2019年6月07日 07:24:57: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2639] 報告
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近衛文麿 野望と挫折 – 2017/11/24
林千勝 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF-%E9%87%8E%E6%9C%9B%E3%81%A8%E6%8C%AB%E6%8A%98-%E6%9E%97%E5%8D%83%E5%8B%9D/dp/4898314651/ref=sr_1_2?qid=1559855342&s=books&sr=1-2&text=%E6%9E%97+%E5%8D%83%E5%8B%9D

内容(「BOOK」データベースより)

昭和天皇、陸軍、尾崎秀実、東条英機らを操り、敗戦革命を計画。
戦後、一転してマッカーサーに取り入り、天皇退位を画策。
復権を試みた近衛だが、彼のシナリオは思わぬところで破綻した。


内容紹介

現代史を覆す、決定的真実に迫る!
渾身のノンフィクション大作 一挙書き下ろし770枚!!

近衛は自殺したのではない! 実は謀殺だった!?
近衛は、単なるポピュリストに非ず!
用意周到に己の野望を実現するための布石を着々と打っていた──


近衛は、首相時代は赤色分子(風見章・尾崎秀実ほか)を重用し、「敗戦革命」を夢見つつ、戦争末期には近衛上奏文(反共宣言)でアリバイ工作。

そして戦後はいち早くマッカーサー詣でをして、自ら改憲の音頭をとり、あわよくば昭和天皇を退位させて親米政権を樹立しようとしました。

勢力均衡の中で生き抜いてきた公家の名家としてのDNAをフル回転しての巧みな遊泳術ともいえます。
あと一歩で、その目論見が成就する寸前、それに危機感を抱き、挫折させようとした勢力がありました。
彼らは、近衛を東京裁判の被告人の席に追いやり、そして永遠に葬ろうとし、実現するのです。

近衛を葬ったのは誰だったのか?
そうした知られざる近衛の全生涯を、「自殺」とされる謎にまで踏み込みつつ、描ききったのが本作品です。


──彼は、極めて自己本位的に利用できるものは、昭和天皇でもコミュニストでも自分の子供(文隆)でも見境なく利用しました。

青酸カリを使っての「自殺」とされている彼の荻外荘での最期の日々の数々の矛盾や不可解な行動も本書で解き明かしていきます。
こういう叙述で、近衛の生涯を追求したノンフィクション作品は、初めての試みといっていいかもしれません……(「はじめに」より)。


カスタマーレビュー


オージッタ
近衛文麿の死によつて東京裁判は成立した 2018年1月10日

この正月に昨秋より保留してゐた江崎道朗「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」(PHP新書)と林千勝「近衛文麿 野望と挫折」(ワック)の2冊の書籍をほぼ同時に併読・読了した。

昨年8月刊の江崎氏の本については、すでに高い評価がなされてゐるので、ここでは詳しくはふれない。ただ11月末刊の林氏の著作との関連で云へば、江崎氏の本の最後は「おわりにー近衛文麿という謎」となつてゐるが、まさにちやうどその謎を解いたのが林氏の本だといふことができる。

これまでにも近衛内閣の戦争責任にふれた書籍はいくつか読んではゐたが、いづれも隔靴掻痒の感があつた。それらのなかでは中川八洋「近衛文麿の戦争責任」(PHP)が一番はつきり近衛の戦争責任を指摘してゐたが、あまりにも衝撃的なその内容は俄かには信じ難いものがあつて、とりあへずはひとつの仮説として受け止めてゐた。

ところが平成28年5月号の正論に掲載された林氏の「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」といふ論文を読んで驚いた。

近衛内閣で内閣書記官長(現在の内閣官房長官)を務めた風見章といふ人物が一貫して確信的な共産主義者で、後にゾルゲ事件で逮捕される尾崎秀実らとともに、陸軍参謀本部の事変不拡大・和平の方針に反して、朝日新聞などのメディアを使つて戦意を煽り、泥沼の日中戦争に導いたといふではないか。

その背景には「帝国主義戦争を内乱へ」といふレーニン以来のコミンテルンの方針があつたといふ。

いはば中川氏の仮説に風見章といふ補助線が引かれ近衛内閣の戦争責任が実証されるに至つたのである。そして、今度の林氏の書籍では、近衛内閣をめぐる様々な人士一人一人に吟味を加へ、結局近衛と風見は一身同体であつたと結論づける。かくして仮説は完全に証明されたのである。

江崎氏は先の本の末尾で晩年の近衛に親しく接した井上日召の言を引いて近衛の性格の弱さを指摘し、その弱い近衛が勇気を振り絞つて告白したのがあの有名な近衛上奏文であるといふ。

しかしこれは林氏の今回の証明からすれば、噴飯物で、近衛は初めから一貫してナチスのヒトラーに憧れたファシストで、全体主義のためには偽装した共産主義者の風見らをも利用したのである。

しかしながら敗戦が色濃くなるに至つて、ほんたうに敗戦革命が起きてしまふかもしれないとおそれ、自らの戦争責任を陸軍と共産主義者に転嫁するために近衛上奏文を書いたのである。

そして終戦後はマッカーサーに取り入つて、実は自分は平和主義者であると装はうとした。

ところがGHQ内の路線争いから突如戦犯として扱はれることとなり、さうなると、裁判で近衛上奏文の内容が公けにされてしまふ。

かくして近衛の出頭直前突然の死は GHQ内とかつて近衛内閣に協力した共産主義者にとつて都合のよいものであつた。東京裁判(史観)は近衛の死によつて成り立つたといふのが、林氏の書の意味するところだらう。


これこそがあるべき歴史研究のあり方! 2017年12月1日

戦前戦後の日本外交・政治の中枢である近衛文麿は、いままで「優柔不断」、「弱い人間」などの言葉で取り繕われてきた。

それは彼の真相を知る手掛かりが、GHQや国際共産主義者に徹底的に抹殺されたことや、真相を知る人物らがそうゆうプロバガンダを流してきたことが原因と思われるが、著者は長年、決して本質を見せてはくれない資料を丹念に読み込んで、わかりうるわずかな輪郭を元に、真の近衛文麿像を抽出することに成功した。

戦前日本の外圧の真相が明らかになる反面、内部から呼応した人々の研究は進んでいない。この著書は内部から鍵を開けた最重要人物の真実を暴き出した瞬間であり、戦後レジーム脱却の大きな一歩となると思う。このような研究をただひたすら真摯に取り組んでこられた氏に敬意を表します。


kei-toshie
ルーズベルトに日米戦争を引き起こさせる要因を作ったのは近衛文麿だったのか! 2019年2月23日

最近の殆どの著書は「日米戦争はルーズベルトによって引き起こされたのであり、日本人が仕掛けたのではない。」とするものが殆どである。では「何故ルーズベルトをその気にさせたのか?」が良く分からなかった。

但し、ルーズベルトが日本の行動に対して不満な要因が少なくとも二つあった。

一つは昭和12年に支那事変から始まった日中戦争の長期化(太平洋戦争終戦までの8年間)であり、もう一つは昭和15年に締結した日独伊三国同盟であった。

支那事変に関しては、当初支那(国民党)側から停戦の申し入れがあったが、近衛は「国民党は相手にせず」と言って拒否したことにより戦争は長期化していく。

三国同盟に関しては松岡洋右の考えを支持し、積極的に支持した。

私は支那事変が長期化したのは、近衛の責任だと思っていたが、今回この著書を読み、その背景には近衛内閣を支える共産分子である尾崎秀実や岡見章がいて、彼らが支那事変の長期化を熱望していたことがわかった。

第一次近衛内閣の閣僚の中に尾崎秀実や岡見章がいる。
又第二次近衛内閣の中には松岡洋右がいるのである。

したがって、尾崎秀実、岡見章、松岡洋右、等々がルーズベルトに日米戦争を引き起こさせたと言っても過言ではない。
(但し彼らの上司は近衛文麿であった。)

過去に読んだ本の中で{昭和20年2月に近衛文麿は「敗戦は遺憾ながらもはや必至」と昭和天皇に戦争終結を提案した。}とあり、良い提言をすることもあったなと思っていました。ところが、今回「近衛上奏文」(263頁)を読み、戦争終結提案は、自分の保身のための様々な提案の中の一環であることが分かり私としては怒り心頭に達しました。

終戦を迎えるに当たっても、マッカーサーやGHQに昭和天皇の配置転換や憲法改正等々、自分に都合よい事ばかり提案しています。これを読んでいて近衛文麿と言う人物に嫌気がさしました。本人は自殺したのか他殺だったのか知りませんが、このような卑怯な人間は死んで当然だと思いました。近衛文麿についてこれだけ詳細に書いて下さった著者に感謝を申し上げます。


プライベートもパスワード
「ノンフィクション」と捉えても過言ではない。「テロルの決算」以来の読み応え有り。 2017年12月20日

近衛文麿の「ノンフィクション」と捉えても過言ではないこと。ここまで調べあげた筆者の執念に完敗(乾杯)。
沢木耕太郎の「テロルの決算」以来の読み応えが有りました。

登場人物が沢山出てきて、人物相関で混乱した人もいるかと思います。
戦国時代に例えるなら、まだ登場人物は少ない方。
筆者は、キーマンとなる人物を登場させては、すぐに「近衛文麿」に話を戻す点は実に巧妙である。

「近衛文麿」は“いったい”何がしたかったのか?
そもそも戦争をしたがる人間がこの世にいるのか?

近衛文麿は若き頃、「英米本位の平和主義を排す」という論文を著し、国際関係の革新を唱える一方で、陸軍と共産主義者に戦争責任の全てを押し付ける。そして天皇退位までもくろむ。

近衛にとっての共産主義者とは誰なのか?

尾崎秀美?
風見章?
風見鶏?(ダジャレ)

この書物はそれらを少しずつ明らかにしていく。
読者は常に“どうしてそうなったか”の理由(根拠)が知りたい。その点では、この本は充分に期待にそえる。

「近衛文麿」は自殺では無く、暗殺されたのか?誰の手によるものか?
「大東亜戦争」とは何だったのか。「第二次世界大戦」とは何だったのか。

筆者は「第二次世界大戦」という言葉を使用していないが、「第二次世界大戦」で連想する世界共通の答えは、老若男女問わず「パールハーバー」、「ヒトラー」、「アンネの日記」、「アウシュビッツ」、「ノルマンディー」、「ヒロシマ・ナガサキ」です。

残念ながら、「近衛文麿」の名は出てきません。

日本でも同じ。中学生に聞いたら「アンネの日記」、「ヒロシマ・ナガサキ」です。
やはり「近衛文麿」の名は出てきません。

本書では、「近衛は内外の諸勢力から、国民から、天皇から、歴史から世絶されたのです。」と言及しています。


話は第一章に戻します。

いきなり「近衛文麿」の祖先である「藤原鎌足」の話から始まります。実に面白い。

私が知り得た「藤原鎌足」は、百済最後の王の「扶余豊璋(ふよ ほうしょう)」であったという説があります。日本の統治は天皇血族であり続けるべきであるという「厩戸王(うまやとおう)」(聖徳太子)を押しのけ藤原氏だけの世を作り出したが、「近衛文麿」は、まるで同じ行動ですね。

真偽は歴史研究家にゆだねるとして、筆者は読者をグイグイと導いてくれます。
本書では、「近衛文麿」は戦争責任を逃れるため「大化の改新のごとくと称して東条英機の暗殺を説いた」としています。

然しながら、わからないことが多いのがこの「近衛文麿」。


第二章では、なぜスパイであるゾルゲと親交深かった共産主義者の尾崎秀美を重用したのか、にメスが入ります。それを少しずつ解き明かしてくれます。
諜報者としてではなく扇動者として利用していく過程を、です。尾崎の志と才能を利用していく過程は実に判り易い。

「近衛文麿」は自分をヒトラーに重ね合わせ、何をしたかったのか。

悪い見方をすれば、目的を達成させるには、共産主義者であろうが、利用する。
一方で、「秋丸機関」に治安維持法で検挙されていた者が参加していたことを考えると、政治や宗教感に左右されることなく多くの人材を集めた、とも考えられます。

「秋丸機関」については、筆者の「日米開戦 陸軍の勝算」に詳細が書かれておりますが、本書でも第三章で少しふれています。

「秋丸機関」には他国の調査をすべく、国ごとの研究班が存在したことは「日米開戦 陸軍の勝算」で明らかにされていますのでご一読意をお勧め致します。

ベトナム戦争で例えるなら、

@北ベトナム政府の思惑
Aソビエトの思惑
B南ベトナム政府の思惑
Cアメリカの思惑、

といった四通りの考え方が存在したハズです。この四通りの考え方を把握してこそ、戦争の原因が見えてくると考えます。

無学な私の個人的感想ですが、「大東亜戦争」の始まりは、「満州事変」なのか、「日中戦争」なのか、「パールハーバー」なのか、それすら判りません。
いずれにせよ、日本が参戦する過程で「近衛文麿」を抜きに考えられないことを本書で知りました。


第四章では、いよいよ「真珠湾攻撃(パールハーバー)」に触れます。

最終章では、「近衛文麿」が、利用した共産主義者や昭和天皇に戦争責任の全てを押し付け、自身には責任が無いこと、終戦に努力したこと、に奔走します。
ポツダム宣言の履行後に天皇の退位を画策したり、利用してきた共産主義者の企図を告発したりで、多くの協力者の信頼を失ったのではなかろうか。殺されても仕方がない。

現代社会に照らし合わせると、このような人物は「やはり」います。会社でウロウロしています。いつの時代も変わらない。
上長に良い顔して自分には非常に甘い人。すごく社内で嫌われています。

現代のテクノロジー社会では電子データのファイルを“クリック”ひとつで消すことができます。一方、関係者の回顧(録)を消す削除キーがないところが人間たるゆえんである。筆者は、様々な事実や証言を少しずつ積み上げて、真実を明らかにした点で功績は大きい。

織田多宇人
中臣鎌足を祖とする名家藤原北家の藤原道長の末裔、貴族社会の頂点に位置していた近衛家の御曹司近衛文麿の意外な人生のノンフィクションの作品に圧倒された 2018年2月1日

中臣鎌足を祖とする名家藤原北家の藤原道長の末裔、貴族社会の頂点に位置していた近衛家の御曹司近衛文麿の意外な人生のノンフィクションの作品に圧倒された。

以前著者の講演会で近衛文麿の周りに巣食う共産主義者の話を聞いた時に意外な事実にびっくりしたことがあるが、この本を読み、近衛が己の名誉と栄光を手にするために、天皇陛下でも共産主義者でも自分の子供でも見境なく利用したと言うことが分かり、衝撃を受けた。

昭和12年6月に大命降下を受けて総理大臣になる三箇月前に近衛は仮装パーティーでヒットラーに扮した。このことを政治評論家の阿部真之助は『文藝春秋』昭和12年7月号で

「十年前、左翼華やなりし頃は彼の姿が自由主義より、もっと左に寄った位に映ったのであるが、今では時代と共に、漸次右へ移動して、自ら国家社会主義者と公然と名乗るのを辞さないまでになった。

彼が仮装会で、ナチス独逸のヒットラーに扮したのも、仮装の裏に、彼の本心が潜んでいたのだった。林大将の後に、ヒットラーを気取る近衛が出て来て、どうして世の中が、後戻りしたと言うことが出来るのだ」

と辛口に評している。

近衛は第一次近衛内閣の要である書記官長に抜擢した共産主義者風見章や後にゾルゲ事件で逮捕されるソ連のスパイ尾崎秀美、その他の革命児たちを周りに置き、支那事変を解決不能にこじらし大東亜戦争へのレールを敷いて行ったと言っても過言ではない。

それでいて、戦争責任は被らないように用意周到の準備をし、戦後の覇権を掴もうとした。

結果的には思っていたようなシナリオ通りにはならずに戦犯容疑者としてGHQから逮捕命令が出され、巣鴨拘置所への出頭日の前に青酸カリ自殺を遂げた。著者は青酸カリ自殺には疑問を抱き近衛は薬殺されたのではないかと推理している。


近衛のシナリオ通り行かなかったのは、GHQ対敵諜報局調査分析課長ハーバート・ノーマンの、義理の伯父に木戸幸一内大臣を持つ都留重人や、(すでに近衛から心が離れていた)家族ぐるみの付き合いのあった風見章からの詳細な情報の提供による近衛への心証が大きく影響していたようである。

風見章は近衛の側近として共に戦犯となってもおかしくないが、戦後は中国共産党との交流の日本側窓口のトップとして歓迎され、「日ソ協会」副会長、「日中国交回復国民会議」理事長に就任し政界の親中親ソ派を率いている。

自虐史観と謝罪外交の元祖たる風見の戦後の事績は、そもそも近衛が風見を内閣書記官長に抜擢したことの置き土産である。このような近現代史を見つめ直し、背筋が寒くなる思いと我々自身の迂闊さへの気付きを共有することが必要だ。


himawari
闇 2018年11月20日

ch桜討論で林千勝さんの意見を聞き興味が沸きました。

なぜ真珠湾へ行ったのかはアメリカルーズベルト批判から始まった開戦への疑問。
これまで日本側からこれを分析する本は出ませんでした。

 林千勝先生「日米開戦陸軍の勝算」は決定版と言えるような内容。

本当の闇の部分山本五十六周辺の情報は無いのですが、公開情報を元に陸軍側から見た理詰めの勝算分析を示しています。

もちろん本当の闇は公開情報からは出てきません。
我々ができることは公開情報を元にした分析。秘密情報なしでも十分に当時を知ることができます。

本の評価から言うと「日米開戦陸軍の勝算」が10に対して「近衛文麿野望と挫折」は5くらい。
両方とも所謂陰謀論ではなく、文献を元に分析を加えています。


最初に読んだのは「近衛文麿野望と挫折」、これを読めば両方の内容が読めるという討論上での林先生の説明があったのでこれにしましたが、不足を感じたので「日米開戦陸軍の勝算」も読みました。

「近衛文麿野望と挫折」は近衛文麿という淡い個性が扇の要となり日米開戦まで引っ張って行ったという意見。
自分はこれはカモフラージュではないかと思っています。

中心議題は日米開戦に至る人物の行動分析。
主要人物の行動分析を行うことでこれからの研究の土台作りになっています。


  一番心に残ったのは敗戦後の秋丸次朗、有沢広巳の行動。
秋丸機関を反戦平和のための機関だったとして、その業績自体を全否定しています。
定期的に会合を開いて口裏合わせをするという念のいりよう。

有沢広巳は共産党シンパになり「日本はアメリカには感謝し続けよう中国には謝罪し続けよう」と言い続けます。
そして研究成果、蔵書のすべてを中国共産党に寄付します。

なぜ秋丸機関の提言は実行されなかったのか(大東亜戦争という名称をはじめとした一部は実行されたのですが)。

鍵は欧米植民地支配、人間支配の手法にあります。
彼らは家畜を支配するがごとく巧みに人間を支配します。
日本の中枢、東京に彼らの代理人工作の実行者が隠れていたのではないでしょうか。

どんなに巧みな計画を立てても中枢にいる人間に逆方向へ走らせます。
ルーズベルトにとってジャストタイミングの真珠湾、ミッドウェーは指令が正確に伝わっていたことを示しています。

代理人の正体は不明ですがキリスト教徒国際人であることは間違いないと思います。
そして東京にいる人。

 ガダルカナルでの役割を終った山本五十六はアメリカ軍機に追い回されて殺されます。
口をふさぐ必要があると判断されたのでしょう。

戦後日本は敗戦へ導いた黒幕たちの支配が強まります。
秋丸次朗も有沢広巳も変節を余儀なくされました。
秋丸次朗、有沢広巳にとって秋丸機関こそが一生に一度の大仕事。
それが終わった後はどうでもよかったのだと思います。

もちろん作戦が実行されて日本軍が勝利したなら活動は継続したはずです。
端から作戦を壊してしまう人物がいる日本軍。
二人とも絶望したでしょう。

北京に送った蔵書などは有沢広巳にとってはゴミだったのではないでしょうか?
すべては秋丸機関に掛けたのだと思います。

 わずかな資料から林千勝がよみがえらせた昭和史。
日本人はここから出発する必要がある。

 戦後日本は東条英機を大悪人に仕立て、「ニイタカヤマノボレ」山本五十六の神格化が図られます。


国士応援
本書の評価自体は難しいが、アメリカの対日観が滲んでいる・・・(ネタバレあり) 2018年3月3日

前作「日米開戦 陸軍の勝算」(祥伝社新書)で紫電一閃、卑屈なアメリカ追従史観を斬り捨てた英才、林千勝氏の最新作ですが
存外、評価が難しいです。

近衛文麿が天皇陛下にも、ご皇室にも大した敬意を払っていなかっただろうことは良くわかりましたが
「そもそもソ連の「黒幕」と通謀していたのか?」という事は証拠隠滅(林千勝氏によれば)もあって状況証拠のみです。

概略は

@ 近衛文麿は公卿政治家として、日本を支配しようとしてきた。

A 日本支配の布石のために国内の動乱を必要とした近衛は、国外のシナ事変、国内では共産主義を利用し、後には対米戦争を画策する。

B 近衛はソ連をかばうためにソ連への侵攻を企図した「北進論」ではなく、列強のアジア植民地へ侵攻し、列強と対立せざるを得ない「南進論」へと舵を切らせた。

C 近衛文麿が共産主義の傀儡だったことは、「アジア解放のための資本主義の打破」
という公約演説に集約されている。

D 近衛は個人的な野望でアメリカとの戦争を画策した、本来、日本はアメリカと対立する要素はなかった


大体、まとめるとこんな感じですが
この@とAは状況証拠のみでよくわかりません。

Bはいささか無理があり、ABCD包囲網で資源獲得に苦しんでいた日本が重要資源の生産地である南方進出を企図するのは国防上の必然であり、
逆に北に侵攻してソ連と対峙した場合、資源を手にできる可能性はほぼなく、加えて冬の満州の−20℃よりもはるかに低気温の−40℃地帯のロシアで、貧弱な対寒冷装備しか持たない帝國陸軍が有効な組織戦闘を展開できるとも思えず、何より南方地域を攻略しないでソ連を攻めるとすれば、満州から内蒙古、外蒙古とほぼ単線の補給線しか確保できないので北進は地獄になるでしょう。

Cの資本主義の打破という言葉も、冷戦が顕在化した後の「資本主義陣営」という言葉とはかなり様相を異にし、「植民地の収奪と囲い込みによる、持てる国の経済」という意味合いが強い言葉でした。

それに対して、挙国一致して資源を計画的に戦力増強に振り分け、国内の完全雇用体制から強国として列強のブロック経済を破壊して自給自足の経済、アウタルキーを目指すというのが、植民地支配国から締め出された日本やドイツなどの生き残りをかけた戦略でした。

ヒットラーでさえ、「ドイツ社会主義労働党」から出てきた事を考えれば、
当時の資本主義の打破=共産主義勢力というのは無理があるでしょう。

このあたりの事情は前作の「日米開戦の真実 陸軍の勝算」に詳しいので林千勝氏の方が私より良くご存じだと思います。 


D のアメリカと対立する要素は無かったは、全くの暴論で
アメリカの外交官ジョージ・ケナンはその著作「アメリカ外交50年」で誠実に述べているように「十年一日のごとく日本に嫌がらせをした」のであり、
シナ事変において蒋介石に指示して日本を泥沼のゲリラ戦に引き込み、さらに莫大な援助によってそれを助けていました。

シナの戦争の仕方がどのようなものであったのかと言えば
東中野 修道氏の著作「南京虐殺の徹底検証」によれば、

シナに常時いくらでも存在している流民を駆り集めてきて、塹壕を掘らせて銃器を持たせ、その脚を鎖でつないで動けなくして、帝國陸軍を足止めさせる。
足止めした所を、戦を監督する「督戦隊」が機関銃で味方ごと撃ち殺す。

という酷薄な使い捨ての奴隷制軍隊を用いていました。

目的は帝國陸軍に勝つことではなく、日本の国力を削ぐために日本男児をけずる事であり、アメリカは奴隷戦術をシナ人に仕込みながら、日本には常に「公正で人道的な対応」を求めて、あらゆる宣伝、空言を用いて効果的な戦術を封じました。

対米戦争の印象が強いせいで、シナ事変の困難は忘れられがちですがアメリカ自身がこれより後に、ベトナム戦争のゲリラ戦で七転八倒した後に、あらゆる価値観がひっくり返され、分断された不安定な国家に堕していった事を考えれば、大日本帝國の損傷は決して小さくは無かったでしょう。

日本男児の強さと、責任感、人々を守らんとする優しさ、に頭が下がります。

倉山満氏も最近、似たような近衛文麿が諸悪の根源、といった本を出していましたから、おそらくアメリカあたりのはやりの学説なのだと思いますが、
根本的に「ヴェノナ文書」によってルーズベルト・ホワイトハウスがソ連共産党の意のままに操られていたという事を認められない連中がこじつけた感が拭えません。

アメリカの本音とすれば

「日本が無傷のまま北進を決めて、我々がそれに乗っかっていれば日本に多大な苦痛だけを押し付けつつ、アジアに進出し莫大な権益をただ取りできたのに・・」

という所でしょう。それに対して

「日本が滅びるならば、犠牲となるのは女子供だ。日本男児ならば誰でもそれを座視するよりは、己の身を擦り潰す事になっても刃を抜かずにはおかぬ。武士の時代から今に至るまで何も変わらない」

と笑って言い返すべきでしょう。

特に不利な立場に立たされているなら、尚の事、気概をもって現実を乗り越える強さを希求する必要があるのですから。

56. 中川隆[-9800] koaQ7Jey 2019年6月07日 09:00:08: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2641] 報告
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日米開戦 陸軍の勝算 (祥伝社新書) – 2015/8/1
林 千勝 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E9%96%8B%E6%88%A6-%E9%99%B8%E8%BB%8D%E3%81%AE%E5%8B%9D%E7%AE%97-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%9E%97-%E5%8D%83%E5%8B%9D/dp/439611429X/ref=sr_1_3?keywords=%E6%9E%97%E5%8D%83%E5%8B%9D&qid=1559859231&s=gateway&sr=8-3

内容紹介

■負けはしない戦争だった!  

七十年前のあの戦争は、本当に無計画で非合理なものだったのか。
開戦を決意した陸軍は無謀にも、勝算のない戦いに、やみくもに突入したのか。
 
そんなはずはない。

近代史を研究する著者は「陸軍戦争経済研究班」の報告書を詳細に調査し、少なくとも陸軍は、科学性と合理性に基づいて開戦に踏み切ったことを知る。  

秋丸機関と呼ばれた研究班は、第一級の英才を動員し、英米の経済力を徹底研究。
報告書に基づいて策定された戦争戦略は、大本営政府連絡会議に上げられたのだった。  

報告書の真相は戦後、意図的に歪曲化(わいきょくか)され、闇に葬られた。

そこには何が書かれていたのか。報告書の真の意図を探り、戦後の常識に一石を投じる驚愕(きょうがく)の研究書!


出版社からのコメント

戦後70年。 あの戦争はどうやって始まったのか。勝算は本当になかったのか。
なぜ、負けたのか。 改めて検証する動きが各所で行なわれています。

著者はある重要な研究報告に着目し、それを徹底研究することによって、開戦の謎を解き明かしていきます。

陸軍の科学性と合理性が開戦の決断を促した! 
事実をもってそう結論つける過程がスリリング!
現代史の常識に一石を投じる、知的興奮の書!


____


カスタマーレビュー


うさぎ1919
山本五十六はハニートラップに掛かったのか。 2018年1月12日

本書には日米英開戦に先立ち、国家総力戦で勝利するため陸軍が立案した大戦略の作成経緯が詳述されている。

この折角の大東亜戦争開戦の大戦略「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」を破壊したのは、山本五十六連合艦隊司令長官ですね。

開戦劈頭の真珠湾攻撃は、そもそも「腹案(行動計画)」には無かったし、この愚策により米国世論は「リメンバー・パールハーバー」の大合唱となり米国を参戦に導いた。

その後の「ミッドウェー海戦」や「ガダルカナル攻防戦とソロモン海戦」も「腹案(行動計画)」には無く、あまりの錯誤と稚拙ゆえに大敗北となった。

まるで意図して帝国海軍を破滅させようとしているようではないか。
山本五十六は工作員か、あるいはフリーメーソンかと囁かれるのも無理はなかろう。

山本の愛人は、16歳年下の芸者鶴島正子と、20歳年下の新橋芸者河合千代子の二人が良く知られている。これら愛人を囲う費用の出所はどこかの疑問はあるが、両名とも日本人芸者であり外国のハニートラップとは断定出来ないだろう。

しかし「見えざる日本の支配者フリーメーソン」という著書には、山本にはフランス女との間に男児の隠し子があったとの記述がある。証言者は「ダフニス・スワンソン」という戦前から日本在住のスウェーデン人で、元香港ロッジのパスト・グランド・マスターのメーソンだという。

ジャーナリストの問いに、スワンソンが答えた肝心な部分を以下に抜き出します。


スワンソン;私、山本五十六長官に会っているんですよ。


ーーー山本長官に会っているんですか。

スワンソン;終戦前ですよ。どうしてかというと、山本長官の息子が私と同じ学校で、私、彼の家に何回も行ったことがあるんです。山本さんはこれがね (小指を示して) いたのですよ。正式の奥さんでは無かったが、私は、その息子と同級生だった。


ーーー長官のお子さんだったのですか。


スワンソン;フランス人の女性との間に出来た子供、ビリー・ヤマモトという名前でした。私はアメリカンスクールに通っていて、これは1933年の卒業のときの写真です。これがビリー・ヤマモトです。この人は公認の戸籍には入っていないでしょう。(これが卒業アルバムです。と言って見せてくれた)


ーーー確かにヤマモトと書いてありますね。アジア人系の顔でハーフのような端正な顔のビリー・ヤマモト。


スワンソン;ビリー・ヤマモトは田園調布に住んでいたんですよ。お父さんの家です。私は、このビリーと大変仲が良くて、よく家に遊びに行っていたのですよ。そしたらお父さんが帰ってきて「おい」って「誰だ」っていう。山本五十六だった。他にも同級生でハル・ライシャワー夫人がいます。(ほら、ここですとアルバムを示す) ここにいますよ、 ハル・マツカタ 松方ハルさん。


松方ハル(後のライシャワー駐日米国大使夫人)は1933年に「アメリカンスクール・イン・ジャパン」を卒業している。この年に18歳の同級生ビリー・ヤマモトがいたとすれば、1915年山本五十六31歳の隠し子であろう。

山本の年譜を見ると、1909年にアメリカに駐在、1911年に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になるとある。(米内光政は無類の女好きでロシア女との間に隠し子がいたはずだ) 

山本が1909年からの滞米時期か帰国後にハニートラップに掛かったのか、若干30歳程の海軍士官にフランス女を囲う費用の出所はどこか。山本五十六には、もっと明らかにされるべき下半身の秘密があるようだ。


読書家
『勝算が実際に正しかったか』が重要なのではない 2016年12月11日

本書はよくある、後知恵で『こうしてれば勝てた』的な他人事批評本ではありません。

『陸軍の勝算』とタイトルにあるので、軍部賞賛家が書いた敗けた戦争の言い訳本か、という先入観を持ってしまいそうですが、そんな本でもありません。

実際、敗けたので『勝算』は立てていたが見通しが甘かった、というのが厳然たる事実です。

ただ、本書で重要なのは『見通しが正しかったか』、ではなく『日本は合理的に、開戦した場合としない場合の分析を行い、具体的で勝算の十分にある戦争遂行プランと終戦に至るまでの戦略を持って、開戦の判断を行なっていた事実があった』ことで、

それは、一般に周知されている『日本は陸軍を中心とした軍部が暴走して何の勝算も無く無謀な戦争に国民を追いやった』という通説とは全く異なっている、ということで、それが戦勝国アメリカによって意図的に改竄されたものであった、ということです。それも戦略を立てた当事者達に隠蔽、改竄工作を主導させるという徹底ぶりで。

それが終戦直後にGHQによるWGIPの中で行われていただけでなく、2011年になっても日経新聞のような権威のある新聞の一面で、秋丸機関の報告に関する嘘のプロパガンダ記事が掲載された、ことに代表されるように、今もマスメディアが自分達の信念である陸軍、軍部悪玉論を覆す史実の証拠を必死に隠蔽、改竄していることが、本書の扱う内容が今私達が当事者として直面している『自分達やその子供達が誇りを持って生きていけるか』という問題であることを示しています。

GHQによる焚書も驚愕の事実でしたが、本書の内容は思想戦が今も続く我が国の厳しい現状を改めて痛感させられます。

ただ、合理的な戦略が立てられていても、それが実行されなければ絵に描いた餅なので、海軍、山本五十六長官によって開戦時に政府決定していたプランが滅茶苦茶にされてしまったのが事実であっても、それを許した日本の組織運営の非合理性や統制力の弱さは、正に国の存亡をかけた総力戦を戦うにあたっては致命的であったということだと思います。

それは、現在日本においても厳然として存在する問題ですが、和や義理人情を尊ぶ日本人の良い点と裏腹な面もあるので、一概に悪い点としてあげつらうような単純な話ではないですが、今後も弱肉強食の国際社会を日本が生き抜いていくためには目を背けずにしっかり研究していくべきことだと思います。本書ではその点は踏み込まれていないので、今後の著者の研究に期待したいです。

本書は、これまで流布されてきた通説を覆す史実を世に知らしめる、ということだけでなく、それを証拠となる一次資料を掲載することで説得力を持たせていること、論旨も悪戯に情緒的にならずに事実を冷静に分析してわかり易いことが、素晴らしいと思います。

職業としての研究者ではない中で、これだけの研究をされて書籍化された著者には敬服します。
西尾幹二さんのGHQ焚書図書開封シリーズと合わせて読むと本書では簡単にしか触れられていない点もその根拠や真意がより理解できてよいと思います。

本書を多くの人が読まれることを願い、その際に当レビューの冒頭に書いたような誤解を受けないよう、当レビューが役に立てば何よりです。


にゃんこもち
陸軍悪玉論を問い直す 2018年2月2日

70年前のあの戦争は、本当に無謀な戦争だったのか? 無計画な一部の指導者が、アメリカを相手に、勝算のない戦争をはじめてしまったのか? 

当時の陸軍には、優秀な経済学者を集めたシンクタンク「陸軍省戦争経済研究班」(通称、秋丸機関)があった。その報告書によると、日本は科学的な調査・研究に基づき、開戦に踏み切ったことが明らかになった。

秋丸機関では、米英との戦争に備え、日本が「総力戦」をいかに戦い抜くかが研究されていた。国家の経済力の観点から、日米英の国力を比較し、戦争の期間や規模、戦費や動員兵力、資源調達能力、輸送能力などを子細に分析、何度もシミュレーションを行っていた。

その結果、同機関は、以下のような負けない戦略を考え出したという。

・米国との戦争は極力避ける
・統制経済により、資源を軍備に集中させる
・主戦場を太平洋ではなく、インド洋に設定する
・インド洋に展開する英国軍を屈服させる
・英国の敗北により、戦意を喪失した米国と早期に講和する
・講和後、日本は大東亜共栄圏の維持・発展を図り、自国の資源不足を補う

そして、日本が持久戦に耐えられるのは、長くて1年半から2年と試算。その後の長期戦を有利に戦えるかどうかは、広域経済圏、すなわち大東亜共栄圏の運営にかかっているとした。

ではなぜ、太平洋ではなく、インド洋なのか? 当時のインド洋は、米英にとって軍事と経済の大動脈であり、通商・資源の輸送ルートになっていたからだ。敵の部隊をたたくより、輸送路を遮断することで継戦能力をくじく作戦である。極めて合理的な判断だったといえよう。

ここで注意すべきなのは、あくまで主戦場は東アジアだった、ということだ。戦後、GHQの洗脳教育により、先の戦争は「太平洋戦争」と呼ばれた。いかにも太平洋で戦っていたような印象があるが、本来の呼称は「大東亜(東アジア)戦争」であり、それが当時の閣議決定でもあった。

しかし、事態は思わぬ方向へ進んでいった。こうした陸軍の戦略をぶち壊したのが海軍であり、なかでも連合艦隊司令長官の山本五十六だったと著者はいう。

1941年12月8日、海軍がハワイの真珠湾を奇襲したことで、米国との戦端が開かれたわけだが、前述したように、秋丸機関の報告書に「真珠湾」の文字はない。山本は当初、真珠湾攻撃により、米国の士気をくじき、講和に持ち込もうと考えていた。

だが、結果は裏目に出た。米国民の戦意は猛烈に高揚し、日本は貴重な戦力を東の太平洋に割く羽目になったのである。これを著者は山本の「暴走」と見る。

その後のミッドウェー海戦での大敗北を見ても、日本軍は米国の挑発にまんまと乗ってしまったような感すらある。日本は、陸軍が想定していた東アジアへの西進戦略もままならないうちに、対米戦へと舵を切った。戦線は大幅に拡大し、少しずつ敗戦への道を歩み始めたのである。

世間には「陸軍は無謀で不合理、海軍は先進的で合理的」と、頑なに信じている人もいるかもしれない。本書に書かれていることがすべて正しいとは思わないが、歴史をより多面的に理解する意味でも一読をおすすめしたい。


himawari
具体案は描けたが人間支配で負けた日本 2018年11月19日

粛々とこの作戦を遂行すれば勝てた戦いでした。
何故に勝てなかったか?

アメリカによって中枢部が支配されていた結果です。
裏切るトップがいる国が日本。

日露戦争の大借金でアメリカの影響力、金融支配が強まります。
日露戦争自体が日本ロシア双方に送り込まれた工作員によって引き起こされた可能性が高い。

徐々にですが中枢部まで支配されてしまった日本。
関東大震災時には工作がなされた可能性が高い。
官僚軍人の無謬性を謳うことで日本は工作を防げない国になってしまいました。

戦後日本は東条英機を大悪人に仕立て、インパール作戦の無謀。「ニイタカヤマノボレ」山本五十六の神格化が図られます。

それらがすべて嘘だとわかるのがこの本。
戦前の工作はひどいのですが、アメリカによって書かれた戦争史は日本人の誇りを奪いました。
正義感を持って戦った歴史が忘れ去られてしまった。



面白い視点、ただし歴史はご都合では動かない 2018年8月13日

陸軍の世界戦略の勝算と真珠湾奇襲による破滅に関する視点については政治・軍事系まとめサイトなどで時折見かける書き込みの中にあり、信頼に堪えない書き込みが多い中では自分が納得できるものだと思っていました。

これは良くある山本元帥スパイ説や無能説を裏付ける説得力を持つ内容だと思っています。

ただ面白い説だと認めた上で私は全面的には賛同はできません。むしろ否定的です。
仮説を立てることは自由でありそれを表現することは素晴らしいことです。しかしそのためにありがちなことが自説に都合の悪い事実に蓋をしてしまうという危険性です。
現に自然科学の分野でもデータの改ざんが頻繁に行われているという報道がなされている現状があります。
この本に関してもその匂いがすることを感じざるを得ません。

私は軍事関係者ではありませんが、割合本格的なシミュレーションゲームを長期間行ってきています。そのために一応戦略的な思考を持っているという自覚があります。
その点から言わせて頂ければ、この論を疑心なく支持できるためにはいくつかの前提条件が必要となると思います。


一、真珠湾奇襲を行わない場合、絶対にアメリカが大戦に参加しないこと。
一、ドイツが優勢を維持していること。
一、時代の変化と戦略、戦術の変化に適合すること。


アメリカの参戦については真珠湾奇襲の実施如何に関わらず、恐らくかなりの確率で、あっただろうと推察します。

当時アメリカの参戦が無く、もし英国がドイツに屈し、ドイツの傘下に下った場合、アメリカは第三帝国と正面で対峙しなければなりません。
この事態を看過できるかということになります。

アメリカにモンロー主義があったとしても南北アメリカ大陸に外部の勢力の手が及ぶ場合、それ(モンロー主義)を維持できたかどうかいささか疑問が生じます。実際南米諸国にはナチスの政治的謀略工作が活発に起こされています。

モンロー主義とはアメリカ南北大陸のブロック経済圏を意味します。ここが浸食されるされるわけですよ。
日本が真珠湾を攻撃しなくても、アメリカはいずれ何らかの形で参戦する口実を作り上げるとみた方が合理的ではないでしょうか。

アメリカが対独戦に参戦したいという意向があるとすれば、ドイツと同盟関係にある日本が南・東南アジアへの進出を行っているという名目で、同盟国英国を支援する目的をもって十中八九参戦してきただろうと私は考えています。

次に当時のドイツの情勢ですが、1941年末には攻勢において陰りが見られるようになります。実際日本が参戦した後モスクワ攻略に失敗しています。

したがって中東での合流は難しかったのではないかと判断せざるを得ません。
攻勢限界点の知識がおありならこの事態の意味を理解すべきだと思います。

本書が批判する海軍の真珠湾攻撃の意図も私には意味があるように思えます。

史実を見れば山本元帥の真珠湾攻撃の博打は成功しました。その結果半年程度の時間を稼ぐことができ、その間日本軍は後背の危険を心配することなく初期の戦略目標を達成できています。

もし真珠湾攻撃を実施せず、マリアナで米艦隊を待ち受けていたら確かに勝てたかもしれませんが、損失もかなり被っていた可能性が高いと思います。第一、機動艦隊がマリアナに貼り付けになり他方面の作戦に使えません。アメリカの機動艦隊が健全ということになれば初期の南方作戦において連合国は簡単に降伏しなかった可能性があります。

加えて、当時の南洋群島の陸上攻撃機の数は数十機にすぎず、陸海共同での航空作戦は不可能。

ミッドウエイ海戦では、米軍は100機以上の陸上機と200機以上の空母艦載機(これだけで日本海軍とほぼ同戦力)で待ち受けていたわけです。アリアナで待ち構える想定においては機動部隊ワンセットしかなく、こういう状況にならないのです。

結論として、ハワイを攻略せずして日本の勝機(敗北しないということも含め)はない。これが私の見解です。

ハワイを占領しなければ、ハワイを基地とした米潜水艦による通商破壊戦や、空母によるヒットエンドラン攻撃に常にさらされます。実際史実ではこの通りになりました。

日本軍は海戦劈頭ハワイの敵艦隊をたたき一時足止めをし、アジア各方面での作戦を完遂したのち可能ならばハワイを占領するという作戦大綱に切り替えたとみるのが正しいのではないでしょうか。

誤算はミッドウエイの賭けに負けたことです。

ミッドウエイに完勝する必要があり、敵空母を殲滅する必要がありますが、ハワイを占領できた場合、ハワイに基地航空隊を重点的に配備し、空母艦隊とで待ち伏せすれば2セットの戦力配置が可能となります。

これにより逆ミッドウエイの防御態勢が敷けることになりハワイが奪還されることはなかったかもしれません。

そうなればここで初めて講和を俎上にあげることが可能となるからです。

ハワイを攻略できていたらアメリカによる潜水艦攻撃の損害は激減し、日本軍の兵站線は切られることがなく、補給も維持されます。兵站兵站としか言わない戦略家気取りの無能人間さんにも少しは納得できるような結果は上げられたと思います。
(この人達は旧日本軍が無能とするなら、それより遙かに無能で国にとっての害悪だと思いますが・・・)

もう一点。よく批判されることですが、日本がなぜ戦線を拡大したのかということ。

これは航空機の性能(航続距離とペイロードの拡大)によるものです。本土で米軍を待ち伏せるということは当時の日本には難しかったでしょう。イギリスは本土決戦においてドイツ空軍に勝利しますが、それでも大損害を受けます。

重要なことは英軍には後方支援があり、物資には困らなかったということです。
レーダーに劣っていた日本はそういう作戦は立てられませんし補給もありません。

前進し、そこから相手に打撃を与えるという前進戦略は全く間違っていませんし、漸減作戦の本質を変えたものでもありません。時代を超えた同義の作戦行動なのです。

日本には勝機があった。作者とは全く違う意味でですが。そういう感想です。
一応戦略ゲームぐらい遊んで、効率的に勝利できる結果をもって世界情勢を眺めてみたらとお勧めしたいと思います。

ただ、本書の意図は日本に合理的な判断があり、決して無謀な戦争に国民を追いやったものではないということを述べることであると思います。戦後レジーム・戦勝国史観に対する反証の一石としては支持したいと思っています。


ビールもう一本
歴史修正主義の面目躍如かね 2015年8月17日

歴史修正主義者というのは陰謀大好き、特務機関大好き、という人間が多く、山本五十六スパイ説まで紹介している。

武藤軍務局長、その下の岩畔軍事課長というラインは、中期的には開戦不可避と考えていただろうが、1941年のこの当時では陸軍省内部では避戦派だった。ハルノートを巡っては、岩畔は武藤の意を受けて訪米し、外交的に戦争回避に向けて交渉した人物である。

ハルは後に、岩畔をして「岩畔大佐は日本陸軍の美徳と欠点を併せ持っていた」と評したという。
(イワクロ.comを参照)

避戦派であるかれらの要請に基づいて設置された秋丸機関がどのような性格を帯びたものであったかは、明らかであろう。秋丸自身が戦後、

「対英米戦の場合、経済戦力の比は20対1程度と判断するが、開戦後二年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以後は我が経済戦力は耐えがたいと言った結論であった。

すでに開戦不可避と考えている軍部にとっては都合の悪い結論であり、消極的平和論には耳を貸す様子もなく、大勢は無謀な戦争へと傾斜したが、実情を知るものにとっては薄氷を踏む思いであった。」

と回想しているのである。ところが、歴史修正主義者である筆者によれば、これは秋丸の「嘘」になってしまうのである。

回想録には、時間の経過とともに合理化や美化が入り込むことは考えられるが、
回想録を第三者から正反対の「嘘」と断定されてはかなわない。

41年の10月には、海軍も1から2年は何とかしてもその先はわからないといい、企画院も燃料は1942年の半ばで枯渇する、徴用船も2年で不足することになると主張しており、秋丸機関の報告の趣旨とほぼ一致している。

それを荒唐無稽に捻じ曲げて、日本は「負けはしない戦争だった!」とは呆れる。

この筆者は、どんな人間かと思って調べてみたら、

12年の衆議院選挙に維新の党から出馬して、落選。
遡ると、他にも県議選や市長選に出て、見事に落選。

有権者はどんな人物かよく見ているなぁ。

読むべき本に非ず。

誰かが出版助成金でも出しているのではなかろうか。
出版社には、横浜事件などに思いを至らせてほしい。


シャルツ1993 5つ星のうち1.0
印刷していなければ、他に使い道があるのに。☆ゼロかマイナス星がほしい。 2015年8月29日

1円の価値もない文。

このような人は、敗戦後のアメリカ支配、それが70年続いている。そのきっかけが「日米開戦」なんだと言う思考が抜ける。
また、どのような作戦をたてようが、負ければどうなるのかが見えていないようだ。

まず、1941年8月、英米で調印された「太西洋憲章」を見過ごしては行けないと思う。

「太西洋憲章」をまじめに理解すれば、日本の帝国主義は受け入れられない。
戦争になることははっきりしている。

また、対独戦を戦っていた英国は、米国に参戦してほしかったし、米国政府もそうしたかった。米国国民を戦争に誘導するかだった。

また、このとき対独戦終了後のヨーロッパ支配に付いて話し合っていた。
2国で世界を支配する事を目指した。それが戦後、国際連合(連合国)になった。

それが戦略。


また、なんで、WWII開戦前、アメリカの財閥が、ヒットラーに金を渡していたのか。(フォード、など)
それはヨーロッパのユダヤ資本の一層を狙ったから。
最初英国(チャーチルなど)もヒットラーを支持していた。

戦後、ドイツ、イタリアのロスチャイルド家は消え。経済は行きずまった。
マーシャルプランによって、西欧は復活するが、米英の経済支配は如実になった。

-----1946年には、統一ヨーロパの考えが思考され、それが現代のユーロ圏誕生につながった。それは米英の経済支配からの独立に他ならない。

ドイツは、中国との和平を仲介しようと提案し、その後、米開戦をするなと警告していた。ことごとく日本は、ドイツの提案を蹴った。

日本軍官僚は、戦争を拡大したかった。それだけが思考の中心だったように思う。後戻り、停止できないのが、官僚の性(さが)だが、止めるべき青磁は機能しなくなっていた。

リヒャルト・ゾルゲは、日本がソ連に侵攻しないと情報を送り、ソ連はシベリアに展開していた部隊を西部戦線に投入できた。
それは稚拙な作戦で完敗した「ノモンハン事件」が伏線にある。

著者は、「西進」が本来すべきだったと述べたが、それは、インパール作戦の思考と同一。結局滅んだ。

そして、今日本は、アメリカの属国として、70年存在する。これからもそうかもしれない。

どこの国で、他国の軍隊に特権的権利を与えているか。アメリカ軍には、日本は一切手がつけられない現状をどう思うのか。

この現状のきっかけになったのが、日米開戦。
紙の上でどのような作戦をたてようが、戦略がなければ、結果は見えている。


千保川隼人 5つ星のうち1.0
作戦部と前線が乖離していては戦争に勝てない 2018年8月27日

司馬遼太郎、城山三郎、大岡昇平、会田雄次、山本七平などの作家や評論家は日本軍の内実を本にしている。

司馬氏はタンクの装甲の劣悪さに生き残ったのは奇跡であると述べ、

ノモンハン戦争の敗北を秘匿し、北支・満州での戦闘を教材に南進政策を進め、暑さに弱い馬は役に立たず、人力で輸送したなどの時代遅れの戦術に悲嘆の声を出した。

城山氏はビンタ攻撃で保持された日本軍の規律を悲憤に堪えないとした。

大岡昇平はフィリピンのジャングルをさ迷ったが、食料不足で苦しめられ、戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」の縛りを受けた。

世界戦史史上で70%に及ぶ病死者・餓死者を出した日本軍の非道を訴えている。

日本の捕虜は自殺することが多くアメリカ軍を困らせたが、一方軍の機密を洗いざらい喋ることはアメリカ情報将校を驚かせた。捕虜になった時のの教育がなされていなかった。
 
大本営の作戦部が現場を知らないで、真珠湾攻撃をしたためアメリカの反撃を強めたのは山本五十六の間違いといっているが山本五十六は宣戦布告の遅延を心配しており、外務省が宣戦布告のアメリカへの通告を遅らせたのが原因である、

海戦、ガダルカナル争奪戦に敗れたのちも和戦を考えずずるずると相も変わらぬ戦いを続けたことを海軍の山本五十六に責を負わせる著者の考えに違和感を覚えざるを得ないし、インド洋戦略が実現していれば日独同盟が勝ちを得たのではないかという「たられば」物語を語るにいたっては嗟嘆の限りであった。

 両面作戦が無理であったことは否定できず、北支・満州に9割の兵士が張り付けられたままで世界最強の米軍を迎え撃ち、アメリカ軍には飛び石作戦を敢行され、多くの戦士を戦闘に参加させられず、ラバウル基地、グアム基地は放置されたままになったのは、かえって兵士の生き残りを喜んであげるべきと考えた。

14. 中川隆[-9791] koaQ7Jey 2019年6月07日 09:59:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2650] 報告

日米戦争を策謀したのは昭和天皇か、近衛文麿か?


鬼塚英昭 昭和天皇による日米戦争策謀論

日本の真相1 明治天皇すりかえ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=igJ12gwRtvQ&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-

日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_YfXIhybq5U&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=2

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=3

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=34HEcM9qvqc&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=4

日本の真相5 すべての戦争は八百長である - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kIXzkY8VtLU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=5

日本の真相6 操り人形がリーダーをする日本 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wlfyvOL-OVg&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=6

日本の真相7 超天才の悪魔 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1ToSe8A7_wE&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=7

日本の真相8 中曽根、正力工作員の原発 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TuVjmXdufS4&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=8

日本の真相9 原発・使い捨て人形からの反乱 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3glGABd52fk&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=9

偽天皇と田布施システム【The False Emperor】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BNLdWvMNSuU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=10

15. 中川隆[-9790] koaQ7Jey 2019年6月07日 10:00:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2651] 報告

ディビット・バーガミニ 昭和天皇による日米戦争策謀論


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元 訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm#mokuji
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80+%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%9F%E3%83%8B&i=stripbooks&adgrpid=52019632743&gclid=EAIaIQobChMIssrhk7DJ4gIVCwYqCh2RjwzYEAAYASAAEgIyRvD_BwE&hvadid=338580746102&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=b&hvrand=831006335091229886&hvtargid=kwd-334760778916&hydadcr=4073_10899429&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_3otvhjudwd_b


ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。

私は裕仁を子供の頃から存じている。

彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


▲△▽▼

私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。
しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。

たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、
彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、
彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。

彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。

また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。

また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。

当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。

それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。

それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。


国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。

私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。

日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。

過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。

私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。

1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

16. 中川隆[-9789] koaQ7Jey 2019年6月07日 10:02:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2652] 報告

櫻井ジャーナル 昭和天皇による日米戦争策謀論

櫻井ジャーナル2019.05.02

日本で天皇の代替わり儀式が行われる中、米政府はベネズエラでクーデターに失敗

 日本のマスコミは天皇が退位する、即位すると騒いでいる。彼らにとって天皇とは「至高の存在」なのだろう。日本は第2次世界大戦で降伏する前と同じように天皇制官僚国家であり、その元首は天皇だということである。


 しかし、徳川時代の天皇は忘れ去られた存在だった。当時の天皇は生活に困窮し、短歌を売っていたという話を聞いたこともある。徳川の拠点である江戸に住む人びとが「公方様」として意識していたのは徳川家だ。


 その忘れられた天皇を発掘し、徳川に代わる体制の象徴にしようとした人びとがいた。その人びとによって現在の天皇制、明治王朝が誕生した。その後ろ盾がイギリスの支配層だ。


 徳川から明治へ移行する時期、つまり明治維新の頃、イギリスはビクトリア女王が君臨していた。心霊術にのめり込んでいた人物として知られている。


 女王は夫のアルバート(ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男で、夫妻はいとこの関係)からアドバイスを受けていたとされているが、それ以上に影響力を持っていたと思われるのがネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)など。


 言うまでもなくロスチャイルドは強大な金融資本の支配者でローズのスポンサー。ステッドはジャーナリストで、ブレッドはビクトリア女王の相談相手だ。後にブレッドはエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。


 当時のイギリスはいわゆる産業革命で生産力が上がったものの、商品が思うように売れない。国内では貧富の差が拡大、民の貧困化が深刻になる。そこで始めたのが麻薬取引と侵略戦争。中国(清)の富を奪うためにアヘン戦争を始めたのが1840年。その年にビクトリア女王とアルバートが結婚している。イギリスが「世界経済の覇者」と呼ばれるようになるのはそれ以降だ。大英帝国とは侵略と略奪で成り立っていた。


 中国より前にイギリスが植民地化していたインドでは1857年に傭兵(セポイ)が武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になった。鎮圧されたのは1859年。その年にアヘンと武器の取り引きで大儲けしていたジャーディン・マセソンは日本へふたりのエージェントを送り込む。ひとりは歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 明治政府は1872年の琉球併合から台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争というように東アジア侵略を開始、その背後にはイギリスが存在していた。日本人はイギリスの支配者に操られていたと言える。


 そのイギリスは1899年からボーア戦争(南アフリカ戦争)を開始、金やダイヤモンドを産出する南アフリカを制圧する。その直前に南アフリカではダイヤモンドが発見され、その利権に目をつけたイギリスの支配者たちが引き起こした戦争だった。後に首相となるウィンストン・チャーチルもこの戦争で頭角を現している。この戦争で世界の金をイギリスが支配するようになり、金本位制を採用する国々の通貨も支配できるようになった。


 ちなみにチャーチルは貴族階級の家に生まれたが、父親のランドルフ・チャーチルは甘やかされて育ったプレーボーイで、46歳のときに梅毒が原因で死亡している。


 生前、ランドルフはネイサン・ロスチャイルドから多額の借金をしていたことでも知られ、その額は現在の価値に換算すると数百万ポンド、つまり数億円。いくらでも借りられたという。ランドルフがロスチャイルドを裏切らない限り、借金は返済する必要がなかったようだ。


 ネイサン・ロスチャイルドと親しい関係にあったジョージ・ピーボディーは銀行を経営していたが、そのパートナーがジュニアス・モルガン。その息子がジョン・ピアポント・モルガンだ。ネイサンはこの若者をアメリカにおけるビジネスの責任者にしている。そして巨大銀行のJPモルガンが生まれる。関東大震災以降の日本に大きな影響力を及ぼすことになるのはこのJPモルガン。


 この銀行が中心になり、アメリカでは1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒し、ファシズム体制を樹立させようというクーデターが計画されている。


 そのJPモルガンが駐日大使として日本へ送り込んできたのがジョセフ・グルー。本ブログでは繰り返し書いてきたが、グルーと親しかった日本人には秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右などが含まれる。中でも親しかったのは松岡。戦争が始まり、離日する直前にグルーがゴルフした相手は岸だ


 要するにイギリスとアメリカの金融資本はつながっているのだが、その金融資本を中心とする支配層がベネズエラの石油を狙っている。


 4月30日にもクーデターが試みられたが失敗、フアン・グアイドと反政府派の象徴になっているレオポルド・ロペス(2014年のクーデター未遂で自宅軟禁中だったが、クーデター派によって解放されていた)はスペイン大使館へ逃げ込み、クーデターに参加した兵士25名はブラジル大使館へ逃げ込んだ。


 クーデタの失敗を受け、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官はメディアに対し、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は航空機でキューバへ逃げようとしていたが、ロシアの説得で留まったと主張している。実際はごく狭い地域で混乱があっただけで、基本的に国内は安定、逃亡するような状況ではなかった。ポンペオは失笑を買っただけ。


 アメリカ支配層が発する嘘の質が急速に劣悪化している。アメリカを中心とする支配システムの崩壊は早いかもしれない。アメリカの支配システムが崩れれば、日本の天皇制官僚制も維持できなくなる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010001/


櫻井ジャーナル 2019.04.24

米支配層が維持しようとした天皇制官僚体制の恥部がひとつ明らかに

 インドネシアのバンカ島で日本軍の兵士は1942年2月、22名のオーストラリア人看護師を銃殺したという。海の中を行進させ、機関銃で射撃、ひとりを除いて殺害したのだが、その前に看護師は兵士から性的暴行を受けていたことを示す証拠の存在が明らかにされた。(​英語​、​日本語​)証拠を隠滅し、なかったことにするという手法は今でも使われている。NGT48のケースもその一例だが、隠しきれないこともある。


 日本のアジア侵略は1872年の琉球併合から始まるが、アメリカとの戦争は1941年12月7日の真珠湾攻撃から。1942年6月のミッドウェー海戦で日本の艦隊が敗北するまで日本側は勝ち戦だと考えていたようだ。そうした中、バンカ島での虐殺は引き起こされたことになる。


 外国へ攻め込んだ軍隊の兵士が女性に性的に暴行するという話はしばしば聞く。日本軍に限った話ではない。日本軍の特徴はブレーキがきかなくなることにあると言えるだろう。性的暴行への対策として日本軍が作り上げたのが慰安婦の仕組みだ。戦争経験者は次のような文章を残している。


 「日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと『慰安所』の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。」(高見順著『敗戦日記』)


 「あえて言いますが、ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では兵士に女性を強姦することも許し、南京では虐殺もした。そのにがい経験に懲りて、日本軍は太平洋戦争が始まると、そうしたことはやるな、と逆に戒めた。」(むのたけじ著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、2008年)


 「そこで、出てきたのが『慰安婦』というものです。その主体は朝鮮から来た女性たちでした。日本の女性も来ましたが、これは将校専用です。』(前掲書)


 「女性たちにここへ来た事情を聞くと、だまされた、おどされた、拉致された、というように、それは人によってさまざまだった。」(前掲書)


 「何人もの女性たちを船に乗せてインドネシアまで連れてくるためには、軍の了解が絶対に必要です。・・・やはり、慰安婦は軍部が一つの作戦としてやったことで、まったく軍の責任だった。」(前掲書)


 敗戦後、日本の将兵が戦場で行ったことを批判的に語るおとなもいたが、多くの「元兵士」にとって身に覚えのある話であり、口にすることはできなかっただろう。勿論、事実を否定することもできない。1945年に20歳代だった人は1975年でも50歳代だ。日本社会には戦場の記憶が鮮明に残っていた。荒唐無稽な話はできない。


 戦争経験者が少なくなるに連れ、妄想を平然と口にする人が増えてくる。メディアもそうした妄想の拡散に協力した。


 それでも慰安婦の存在を否定できないため、商売として行っているのだから問題がないと言う人もいるが、その考え方は日本人の堕落、退廃を示している。


 第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。


 バンカ島での出来事をオーストラリア政府が封印したのは日本の「国体護持」を望むウォール街の意向に沿った行動だと言えるだろう。その国体に関わる儀式が近く行われる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/

17. 中川隆[-9788] koaQ7Jey 2019年6月07日 10:03:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2653] 報告

長周新聞 昭和天皇による日米戦争策謀論

アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。


国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。


アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/2902


対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。


マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。


米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。

 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm


負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。

日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/2873


大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった

まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった

武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した

敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした

そして日本はアメリカの属国になった


あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。

日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。


丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/2907

日本は海外に巨大な権益を持つ帝国主義国であるがアメリカの屈辱的な植民地的隷属下にあるという特質を持っている。

 このような日本社会のさんざんな崩壊状況は第二次大戦に根源がある。
あの戦争では320万人が犠牲となった。あらゆる家族で親類に戦死者がいないところはないというほど殺された。

あの戦争は天皇を頭とする独占資本集団が、国内をさんざんに搾取収奪して、
狭隘な国内市場から海外に求めて侵略につぐ侵略、戦争につぐ戦争を繰り返し、
最後に中国への全面侵略戦争を引き起こし、米英仏蘭列強の植民地争奪戦に突入して敗戦となったものであった。

 ところがアメリカの対日参戦は、アジアをファシズム国の侵略から解放するためでも、社会主義ソ連とともに日独伊ファシズムとたたかって民主主義の世界を実現するためでもなかった。

アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。

 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。

自らすすんでアメリカによる日本支配を担うこと、日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばすことによって、自分たちの支配の地位を守ってもらう道を進んだ。


現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。

かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。

かつてマッカーサーは「天皇は一〇〇万の軍隊に匹敵する」といったが、
四万人ほどの米軍で日本を隷属支配しているのは、アメリカの意向をくんで自分から進んで働いて地位を得るという売国的な支配勢力の存在があるからである。
https://www.chosyu-journal.jp/column/11624

▲△▽▼

長周新聞
第二次大戦はおかしな戦争だった ほとばしる体験者の証言 2005年11月26日
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/3064

 戦後60年をへたいま、戦争体験者のあいだで当時の苦しかった経験、目撃したほんとうのことを語りつがねばならないという思いはつのる一方である。下関で開催中の「原爆と下関空襲展」(主催・下関原爆被害者の会)では、これまで子どもや孫にも語ったことがなかったなまなましい体験が、堰(せき)を切ったように語られている。論議は、これまで疑問に思っていたことやおおいかくされてきた真実を明るみにしつつ発展している。こうしたなかで、戦争中から、戦後の今日にいたるまで一貫して、あの戦争で体験したほんとうのことを語らせぬ力が働いてきたことが浮き彫りにされている。


 米軍にも大本営にもつのる疑問

 「原爆と下関空襲展」のとりくみをとおして、市内各所で埋もれていた体験が掘り起こされ、米軍の関門海峡への機雷投下にはじまる下関空襲の全貌(ぼう)がより鮮明にされてきたことが、市民に歓迎されている。日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している。

 そのなかで、これまでかくされてきた事実、「おかしな戦争だった」という体験者の特徴的な声を、いくつか上げてみたい。

 「真珠湾攻撃のとき、日本を北上して真珠湾にむかったが、すでにアメリカは日本が攻撃に来ることを知っていて、カナダの沖で潜水艦を二隻沈めた。そんなことは戦後かくしてきた」

 「海軍は一年しかたたかえないとわかっていた。そのとおり一年は戦果があったがその後海軍の母艦は四隻とも南方で沈められていた。もう戦地に行けば死ぬことはわかりきっていた」

 「ガダルカナルの海戦でも日本海軍は壊滅させられたが、アメリカは沈没して海に投げ出された兵隊たちにむかって機銃掃射して皆殺しにした」

 「硫黄島付近では、一隻に200人の兵隊を乗せて十数隻の船で移動したが、グラマンが機銃掃射し、助かったのは一隻だけだった。その一隻に80機のグラマンが集中攻撃してきた。必死で逃げてやっと助かった」

 「後田から石神町にかけて、民家の一軒に3、4人ずつのフィリピンにむかう兵隊を出港までのあいだ、泊めたことがあった。子ども心に表情が暗かったのを覚えている」

 「あのころは空で守る戦斗機も、護衛する戦艦もなかった。輸送船が丸裸で南方にむかうが、バシー海峡にかくれていたアメリカの潜水艦にみなやられて沈没させられた。大本営はなぜあんなことをしたのか」

 「戦艦大和に出撃命令が出たときに乗り組んだが、徳山港を出るときは片道の石油しか積まなかった。海上特攻隊と命名されて生きては帰れぬといいわたされた。豊後水道にさしかかるころには、すでに米軍の偵察機に発見され、種子島のところでアメリカの航空機500機以上が襲いかかって爆弾や魚雷の雨を降らせた。護衛艦もなく、迎え撃つ飛行機は一機も飛ばなかった。沈没して油と炎が漂うなかをたくさんの日本兵が必死に泳いで助けを求めていた。米軍機が海上に浮かんでいる一人一人を狙って機銃で撃ってきた。あれは人間のやることではない」

 「山口の連隊に召集され、昭和20年はじめに中国に渡った。ほんとうの銃を持たされたのは5人に一人だけで、あとの4人は木製の銃だった。短剣は竹だった。腰に巻く弾倉の中身は空だった。戦斗訓練もないまま貨車に乗って、B29の空襲をさけて、昼は動かず夜だけの行動だった。米軍は中国でも焼夷弾や機銃掃射を毎日のようにやっていた。日本軍は中国人に顔を覚えられるのを恐れて、顔に墨を塗って行軍していた」

 「中国に召集されて湖南省の長沙にいたとき、米軍のB29の編隊が来て、25万都市を一夜にして焼け野原にしたことを目のまえで見た。中国人に聞くと“日本軍がいるから、アメリカは都市をみんな焼いていく”といっていた。日本は中国に侵略したが、アメリカも蒋介石をおして中国を占領しようとしていたのだ」

 「兄は関東軍だったのでシベリア送りにならずに帰ってきた。満蒙開拓団や、一般の兵隊はやられたのに、すぐ帰ってきたのはうれしかったが、おかしいと思ってきた」

 このような体験はなにをものがたるか。


  体験は何を、物語るか  気脈通じた日米支配層

 1941(昭和16)年12月の日米開戦は、日露戦争以後、中国を中心にしたアジアの広大な権益をめぐって対立していた日本とアメリカの確執が行き着いた結果であった。当時、アメリカは日本への経済封鎖による戦争挑発を強め、天皇制軍国主義は、中国侵略戦争で抗日勢力が強大化するなかで、ようやく点と線を維持するのに精一杯で面を確保することはおよびもつかず、その打開にむけて右往左往する状況であった。当時、中国本土に投入された陸軍兵力は138万人。陸軍動員総兵力の65%に達していた。

 のちに原爆投下計画の中心を担ったスチムソン米陸軍長官が40年6月までにニューヨークタイムズに送った手紙のなかで、「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記しており、アメリカは日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていた。

 こうしたなかで、天皇制政府は1940(昭和15)年、南進政策を強行。日独伊三国同盟を結んだが、これはアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。だが、このとき昭和天皇は、「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」(『木戸幸一日記』)と、敗戦を想定する状況であった。

 海軍の永野修身・軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、敗戦は必至とみなしていた。

 一方アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、「天皇を象徴として利用」することを対日占領政策として公式に定め、空襲において皇居の攻撃を禁止することを厳命。元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈をつうじて、その方向を貫いた。

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、日本の戦局は加速度的に悪化の一途をたどった。1944(昭和19)年6月、サイパンで日本軍守備隊3万人が玉砕、住民約一万人が犠牲となった。これにつづくマリアナ沖海戦でも、日本海軍は空母3隻、航空機430機を失う大敗北。日本の航空機動部隊は壊滅状態となっていた。

 中国戦線では、44年4月から40万の大軍を動員して開始した大陸打通作戦が鉄道の主要駅とその付近を一時的に占領するだけで、補給はつづかず、伸びきった戦線はいたるところで反撃にあい、守備軍をひいたあとには、たちまち八路軍、新四軍と遊撃隊が進出、解放するという状況であった。7月には、ビルマからインドへの侵攻作戦であるインパール作戦に失敗。死者3万人と戦傷病者4万5000人を出し、作戦の中止をよぎなくされた。

 こうして「大東亜戦争」の象徴的存在として一時、幅をきかせた東条内閣が倒壊するにいたった。近衛文麿は「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込み絶対なしというに一致せる者の如し。即ち、敗戦必死なりとは陸海軍当局の斉(ひと)しく到達せる結論にして、只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」(『近衛日記』)と記し、東条内閣のすげ替えを国外に示すことで終戦工作を有利にすすめる算段を示すまでになっていた。

 こうして45年2月、吉田茂が起草した近衛の上奏文が天皇に届けられた。「敗戦よりも敗戦によって起こりうる共産革命」を恐れ、アメリカが「国体護持」を保障していることを断定的に記したこの上奏は、近衛がグルーの名を出して天皇に説明したように明らかにアメリカの支配層と気脈をつうじたものであった。


  攻撃の対象は人民、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。
 日本は飛び立つ飛行機も軍艦も失い、武器もない状態で反撃能力を完全に喪失していた。B29は日本本土への空襲で世界の戦史上まれにみる低い損失率を誇り、七月段階では、ハルゼー提督の艦隊が日本の沿岸を自由に遊弋(よく)し、艦砲射撃と艦載機による機銃掃射など勝手気ままにふるまった。
 この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。


  「国体護持」が狙い、原爆投下も感謝

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

 海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、つぎのように語っている。

 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」

 こうして、戦後のアメリカによる占領支配への道が開かれた。


  占領後は言論弾圧、記録映画も写真も没収

 戦争体験者はこれまで、体験が語れなかった状況について、「子どもからなんで戦争に反対しなかったのかとつめ寄られ、それから絶対に話さないようになった。戦時中は思っていても口に出していえば監獄に送られる時代だった」「戦後は、戦争のせの字でもいうとまわりから白い目で見られてきた。だからしゃべってこなかった」と共通して語っている。

 ここには、天皇制軍国主義の弾圧とともに、戦後の「民主主義」の装いをしたアメリカ賛美の風潮のもとで、ほんとうのことを語ることがはばかられてきたことが示唆(さ)されている。

 マッカーサーが厚木に到着してただちに敷いたプレスコード(新聞紙法)は、「連合国占領軍について破壊的な批判は一切してはならないし、また、これらの軍隊に対して不信や憤慨を招く恐れがあることはなにも書いてはならない」というもので、ほんとうのことをいってはならないという徹頭徹尾の言論弾圧であった。
 アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
 新たな戦争の危険がさし迫るいま、戦争の犠牲になった肉親、知人、友人の死をむだにしないために、日本の真の平和を実現するために、ほんとうのことを語り伝えることは、なににも増して重要になっている。

 戦後60年をへたいま、戦争体験者のあいだで当時の苦しかった経験、目撃したほんとうのことを語りつがねばならないという思いはつのる一方である。下関で開催中の「原爆と下関空襲展」(主催・下関原爆被害者の会)では、これまで子どもや孫にも語ったことがなかったなまなましい体験が、堰(せき)を切ったように語られている。論議は、これまで疑問に思っていたことやおおいかくされてきた真実を明るみにしつつ発展している。こうしたなかで、戦争中から、戦後の今日にいたるまで一貫して、あの戦争で体験したほんとうのことを語らせぬ力が働いてきたことが浮き彫りにされている。

 米軍にも大本営にもつのる疑問

 「原爆と下関空襲展」のとりくみをとおして、市内各所で埋もれていた体験が掘り起こされ、米軍の関門海峡への機雷投下にはじまる下関空襲の全貌(ぼう)がより鮮明にされてきたことが、市民に歓迎されている。日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している。

 そのなかで、これまでかくされてきた事実、「おかしな戦争だった」という体験者の特徴的な声を、いくつか上げてみたい。

 「真珠湾攻撃のとき、日本を北上して真珠湾にむかったが、すでにアメリカは日本が攻撃に来ることを知っていて、カナダの沖で潜水艦を二隻沈めた。そんなことは戦後かくしてきた」

 「海軍は一年しかたたかえないとわかっていた。そのとおり一年は戦果があったがその後海軍の母艦は四隻とも南方で沈められていた。もう戦地に行けば死ぬことはわかりきっていた」

 「ガダルカナルの海戦でも日本海軍は壊滅させられたが、アメリカは沈没して海に投げ出された兵隊たちにむかって機銃掃射して皆殺しにした」

 「硫黄島付近では、一隻に200人の兵隊を乗せて十数隻の船で移動したが、グラマンが機銃掃射し、助かったのは一隻だけだった。その一隻に80機のグラマンが集中攻撃してきた。必死で逃げてやっと助かった」

 「後田から石神町にかけて、民家の一軒に3、4人ずつのフィリピンにむかう兵隊を出港までのあいだ、泊めたことがあった。子ども心に表情が暗かったのを覚えている」

 「あのころは空で守る戦斗機も、護衛する戦艦もなかった。輸送船が丸裸で南方にむかうが、バシー海峡にかくれていたアメリカの潜水艦にみなやられて沈没させられた。大本営はなぜあんなことをしたのか」

 「戦艦大和に出撃命令が出たときに乗り組んだが、徳山港を出るときは片道の石油しか積まなかった。海上特攻隊と命名されて生きては帰れぬといいわたされた。豊後水道にさしかかるころには、すでに米軍の偵察機に発見され、種子島のところでアメリカの航空機500機以上が襲いかかって爆弾や魚雷の雨を降らせた。護衛艦もなく、迎え撃つ飛行機は一機も飛ばなかった。沈没して油と炎が漂うなかをたくさんの日本兵が必死に泳いで助けを求めていた。米軍機が海上に浮かんでいる一人一人を狙って機銃で撃ってきた。あれは人間のやることではない」

 「山口の連隊に召集され、昭和20年はじめに中国に渡った。ほんとうの銃を持たされたのは5人に一人だけで、あとの4人は木製の銃だった。短剣は竹だった。腰に巻く弾倉の中身は空だった。戦斗訓練もないまま貨車に乗って、B29の空襲をさけて、昼は動かず夜だけの行動だった。米軍は中国でも焼夷弾や機銃掃射を毎日のようにやっていた。日本軍は中国人に顔を覚えられるのを恐れて、顔に墨を塗って行軍していた」

 「中国に召集されて湖南省の長沙にいたとき、米軍のB29の編隊が来て、25万都市を一夜にして焼け野原にしたことを目のまえで見た。中国人に聞くと“日本軍がいるから、アメリカは都市をみんな焼いていく”といっていた。日本は中国に侵略したが、アメリカも蒋介石をおして中国を占領しようとしていたのだ」

 「兄は関東軍だったのでシベリア送りにならずに帰ってきた。満蒙開拓団や、一般の兵隊はやられたのに、すぐ帰ってきたのはうれしかったが、おかしいと思ってきた」

 このような体験はなにをものがたるか。


  体験は何を、物語るか  気脈通じた日米支配層

 1941(昭和16)年12月の日米開戦は、日露戦争以後、中国を中心にしたアジアの広大な権益をめぐって対立していた日本とアメリカの確執が行き着いた結果であった。当時、アメリカは日本への経済封鎖による戦争挑発を強め、天皇制軍国主義は、中国侵略戦争で抗日勢力が強大化するなかで、ようやく点と線を維持するのに精一杯で面を確保することはおよびもつかず、その打開にむけて右往左往する状況であった。当時、中国本土に投入された陸軍兵力は138万人。陸軍動員総兵力の65%に達していた。

 のちに原爆投下計画の中心を担ったスチムソン米陸軍長官が40年6月までにニューヨークタイムズに送った手紙のなかで、「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記しており、アメリカは日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていた。

 こうしたなかで、天皇制政府は1940(昭和15)年、南進政策を強行。日独伊三国同盟を結んだが、これはアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。だが、このとき昭和天皇は、「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」(『木戸幸一日記』)と、敗戦を想定する状況であった。

 海軍の永野修身・軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、敗戦は必至とみなしていた。

 一方アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、「天皇を象徴として利用」することを対日占領政策として公式に定め、空襲において皇居の攻撃を禁止することを厳命。元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈をつうじて、その方向を貫いた。

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、日本の戦局は加速度的に悪化の一途をたどった。1944(昭和19)年6月、サイパンで日本軍守備隊3万人が玉砕、住民約一万人が犠牲となった。これにつづくマリアナ沖海戦でも、日本海軍は空母3隻、航空機430機を失う大敗北。日本の航空機動部隊は壊滅状態となっていた。

 中国戦線では、44年4月から40万の大軍を動員して開始した大陸打通作戦が鉄道の主要駅とその付近を一時的に占領するだけで、補給はつづかず、伸びきった戦線はいたるところで反撃にあい、守備軍をひいたあとには、たちまち八路軍、新四軍と遊撃隊が進出、解放するという状況であった。7月には、ビルマからインドへの侵攻作戦であるインパール作戦に失敗。死者3万人と戦傷病者4万5000人を出し、作戦の中止をよぎなくされた。

 こうして「大東亜戦争」の象徴的存在として一時、幅をきかせた東条内閣が倒壊するにいたった。近衛文麿は「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込み絶対なしというに一致せる者の如し。即ち、敗戦必死なりとは陸海軍当局の斉(ひと)しく到達せる結論にして、只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」(『近衛日記』)と記し、東条内閣のすげ替えを国外に示すことで終戦工作を有利にすすめる算段を示すまでになっていた。

 こうして45年2月、吉田茂が起草した近衛の上奏文が天皇に届けられた。「敗戦よりも敗戦によって起こりうる共産革命」を恐れ、アメリカが「国体護持」を保障していることを断定的に記したこの上奏は、近衛がグルーの名を出して天皇に説明したように明らかにアメリカの支配層と気脈をつうじたものであった。


  攻撃の対象は人民、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。

 日本は飛び立つ飛行機も軍艦も失い、武器もない状態で反撃能力を完全に喪失していた。B29は日本本土への空襲で世界の戦史上まれにみる低い損失率を誇り、七月段階では、ハルゼー提督の艦隊が日本の沿岸を自由に遊弋(よく)し、艦砲射撃と艦載機による機銃掃射など勝手気ままにふるまった。

 この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。

  「国体護持」が狙い、原爆投下も感謝

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

 海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、つぎのように語っている。

 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」

 こうして、戦後のアメリカによる占領支配への道が開かれた。


  占領後は言論弾圧、記録映画も写真も没収

 戦争体験者はこれまで、体験が語れなかった状況について、「子どもからなんで戦争に反対しなかったのかとつめ寄られ、それから絶対に話さないようになった。戦時中は思っていても口に出していえば監獄に送られる時代だった」「戦後は、戦争のせの字でもいうとまわりから白い目で見られてきた。だからしゃべってこなかった」と共通して語っている。

 ここには、天皇制軍国主義の弾圧とともに、戦後の「民主主義」の装いをしたアメリカ賛美の風潮のもとで、ほんとうのことを語ることがはばかられてきたことが示唆(さ)されている。

 マッカーサーが厚木に到着してただちに敷いたプレスコード(新聞紙法)は、「連合国占領軍について破壊的な批判は一切してはならないし、また、これらの軍隊に対して不信や憤慨を招く恐れがあることはなにも書いてはならない」というもので、ほんとうのことをいってはならないという徹頭徹尾の言論弾圧であった。
 アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
 新たな戦争の危険がさし迫るいま、戦争の犠牲になった肉親、知人、友人の死をむだにしないために、日本の真の平和を実現するために、ほんとうのことを語り伝えることは、なににも増して重要になっている。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/3064

18. 中川隆[-9787] koaQ7Jey 2019年6月07日 10:03:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2654] 報告

オルタナティブ通信 昭和天皇による日米戦争策謀論
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自民党「大物」政治家の資金源

 「小泉総理の父、祖父が、第二次大戦中、中国侵略を進めた大政翼賛会の政治家であり、安倍晋三官房長官の祖父が、中国侵略の中心人物、岸信介であり、麻生太郎外務大臣の祖父が、中国侵略軍の中核に居た吉田茂である」という家系の意味するもの。

 1939年4月、陸軍省軍事課長、岩畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作られた。
 主な業務はアヘン密売であり、実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。

 これは、1894年の日清戦争で勝利した日本の内務省衛生局長、後藤新平が、「満州経営の資金調達のため、アヘンを国策として売買すべし」と主張して以来の日本の国策だった。後藤は、後に満鉄初代総裁になっている。

 戦後、自民党から出て首相になった4人の人物が、膨大な部署のある軍部の、しかも満州の、たった1つの部署に集中していた、というのは偶然にしては余りに不自然である。
 4人の首相は、全員麻薬売買を中心的に担い、右翼の「大物」と言われる児玉誉士夫等は、むしろアヘン売買では「小物」であり、4人の首相が麻薬売買の中心に居た。

 中国における麻薬の売人が、戦後4人も日本で首相になった、その理由としては、アヘン売買の利益が敗戦とともに日本に持ち帰られ、自民党「大物」政治家の権力獲得資金源になって行った可能性が、極めて高い確率で考えられる。
 侵略戦争の中核に居た人物等の末裔が、現在、政治権力の中枢に居るのは偶然ではなく、彼等の活動資金の源に理由がある。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49243912.html


狂人達の世界帝国建設の夢

 1932年、中国に侵略を続ける日本軍は満州帝国を建国する。満州の運営資金は、事実上アヘン密売業者里見甫が全て出資し、表側の満州帝国総裁が後藤新平であれば、裏側の総裁が里見であった。
 里見は中国大陸全土に及ぶ自分のアヘン密売網を侵害する者がいれば、直ちに惨殺する殺人鬼であり、アヘン密売の利益を全て満州建国に注ぎ込む私利私欲の無い指導者として、日本軍部の軍人皆の恐怖と尊敬の的となった。

 また関東大震災の混乱に乗じ、戦争に反対するアナキスト大杉栄とその妻を絞殺した警察官甘粕正彦も、満州帝国の治安維持責任者となり、里見と共に帝国の治安を乱す者を容赦無く惨殺する殺人鬼として二人三脚で活躍した。
 一方、甘粕は満州鉄道映画製作部を指導し、「中国大陸の新しい帝国を舞台にしたロマンチックな映画」を製作する「ひ弱」でロマンチックな映画青年でもあった。

 甘粕と里見には、新しい大帝国に賭けるロマンチックな夢、情熱が巨大であればあるほど、その夢の障害になる者に対して凶暴な殺人鬼となる点が共通していた。
 大帝国建設、世界制覇という政治・経済的ロマンティシズムが大量殺戮を生み出す点は、里見、甘粕、ヒトラー、ジョージ・ブッシュあるいはロックフェラー、ロスチャイルド全員に共通する人間的欠陥である。彼等は全員世界制覇という「自分の夢」の中の住人であり、「現実世界」に生きてはいない。自分の行う大量殺戮の「現実」が見えず、見ようとしない。そのような「現実逃避型」の人間に政治を行う資格は無い。

 しかし、世界制覇、世界統一というロマンチックな夢は、最も一般市民、庶民に熱烈な支持を受ける。帝国建設というロマンチックな夢の実現の障害物を大量殺戮する殺人鬼ほど、民衆の絶大な支持を得、絶対的権力者となる。ナポレオン、ヒトラー、スターリン等への民衆の熱狂的支持はそれを物語っている。

 世界帝国実現のロマンチックな夢には、冷静な計算が必要になる。石油も鉄鉱石もなく戦争に突入する日本軍部には冷静な計算が無かった。三流の夢である。
1つ1つの企業、地域、国を順次支配下に置き、その経営、運営を成功させて行くロスチャイルド、ロックフェラー、ブッシュ一族には一流の計算能力がある。
ロマンチックな夢、狂人のような殺人鬼、冷静な実務家は1人の人間の中で共存し得る。カミソリのように頭脳の切れる優秀な天才こそ狂人になる。彼等は一流の狂人である。
 実務に優秀でロマンチックで壮大な夢を語り得る政治家ほど魅力的ではないか?政治的ロマンティシズムの行き着く先はヒトラーである。

 ナチスへの反省から生み出されたこの政治学の基本は、最近全く議論されなくなってしまった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604157.html


1897年、日清戦争に勝利した日本は中国を支配するチャンスを手に入れる。
当時内務省衛生局長であった後藤新平は、中国に日本の支配下にある大帝国を作るべきであると強く主張し、帝国運営に中国大陸でのアヘン売買の利益を充てるべきであると主張する。

これは、日本国内の食品、薬品の安全管理の総責任者、内務省衛生局長がアヘン売買を全面的に推進する意向を示したものであり、日本の暴力団は一斉に中国でのアヘン売買に乗り出す。

後に中国大陸のアヘン売買を独占する、アヘン帝国を作り上げる里見甫もその一人であった。里見は、東条英機内閣成立の最大資金源となり、東条が日本を第二次世界大戦に本格的に突入させて行く。
広島、長崎への原爆投下という悲惨な結果を生み出した戦争は、里見のアヘン資金が引き起こしたものであり、それを推進したのが後藤新平であった。
後藤は後に初代満州帝国総裁となり、アヘン売買による満州帝国建国という国策は決定的になる。

里見のアヘン帝国は、中国とベトナム、ラオス国境にまで及び、ゴールデン・トライアングルと呼ばれる、戦後一貫して世界最大の麻薬生産地帯であったこの地域は、まさに後藤の国策と里見の活動によって形成される事になる。(アフガン戦争後はアフガニスタンが世界最大の麻薬生産地帯となっている。)

また里見のアヘン・ビジネスのパートナーとなるイスラエルのアイゼンベルグは、中国共産党に深い人脈を作り、一貫して中国共産党のアヘン売買の実働部隊となるイスラエルのアイゼンベルグ社を戦後、設立する。
世界の麻薬ビジネスの礎石を、まさに里見と後藤が築いた事になる。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600765.html


1842年、アヘン戦争に敗北した中国清王朝は統治能力を失い、事実上アヘン売買を仕切る宗財閥と、それを支えるイラクのサスーン財閥に中国の経済的支配権が移る。
 上海の古式豊かな外灘(バンド)と呼ばれる街並、建築物は、全てサスーンが建造した物であり、上海の街を作ったのはまさにサスーン財閥だった。

 サスーンは上海を起点に中国中部から南部=華中・華南を結び、さらにフランス領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)を結ぶ中南支横断鉄道建設を計画し、中国北部を支配する日本の満州鉄道と連結し、中国全土と東南アジアを鉄道で統一しようとしていた。

 第二次大戦中、日本の諜報組織はアヘン売買を手掛け、中国においてはフランス諜報組織、宗財閥、アヘン売買組織サスーンと協力関係にあった(協力しなければアヘンは入手できない)。サスーンは英国諜報組織MI6と協力し、中国全土に「キングス・サービス」という諜報組織のネットワークを張り巡らせた。

 中国北部の日本の諜報組織、東南アジアのフランス諜報組織は、鉄道で統一される「大アジア」の中核、サスーンの諜報組織の補完物であった。

 現在の中国の中央銀行、香港上海銀行はサスーンの銀行に店舗を間借りして設立された。中国国民党・蒋介石の最大資金源がサスーンであった。このサスーンと宗財閥の実働部隊であったアジア全域に及ぶ李一族は、現在も中国の李鵬首相(元)、李承全国家主席、台湾の李登輝総統、シンガポールのリー・クアンユー首相(注)等を結ぶ李一族の地下経済ネットワークとして、共産主義中国の崩壊後を担うアジアの統一政権の基盤を着々と準備しつつある。

 アジア全域を支配したサスーン財閥に優秀な後継者が育たなかったため、壮絶な縄張り抗争と殺し合いの末、アジア全域のアヘン密売を握ったのがイスラエル最大の軍事産業アイゼンベルグ社であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49431165.html


 日本に訪れた昭和初期の大不況で、生活に困った日本人の多くは中国大陸に渡った。それは日本のヤクザ、暴力団も同じであった。
生活に困った日本人は、日清戦争以後、半ば日本と世界各国の植民地のようになった中国に渡り、莫大な利益を求めて中国でビジネスを行った。

 その中で、三井、三菱といった大財閥に資金を出資させた右翼の大物、里見甫(はじめ)の昭和通商という企業は、目立たないが最大手の企業であった。里見がそこで扱うのは麻薬、アヘンであった。アヘンを扱う暴力団のフロント企業に、三井、三菱といった大財閥が出資していた事になる。

 中国大陸のアヘン市場は、アヘン戦争以降イラク出身のサスーン財閥の独占市場であったが、英国軍部と結び付いたサスーンは、中国大陸とアヘンの供給地東南アジアにおいて、フランス軍が勢力を伸ばし、さらに日本軍が中国大陸において大規模な侵略を始めると、少しずつその勢力範囲を狭めて行った。
 中国国民党を支持していたサスーンは、中国共産党とは折り合いが悪く、最終的に共産党が政権を取ると、サスーンは中国のアヘン市場を失う事になる。

 この世代交代につけ込んだのが里見であった。里見は三井、三菱を背後にした資金力と飛び抜けた商才で、中国の地下経済を支配する青パン、紅パンと呼ばれる秘密結社にまで幅広く人脈を広げ、一時期は英国を始めとしたアングロサクソンを排除し、中国のアヘン市場を支配下に置いた。
 その背後には、サスーンを中国アヘン市場から追い出し、次の世代の中国アヘン市場を狙うアイゼンベルグ社(後にイスラエル建国の中心となる)と里見との提携があった。米国全土の麻薬組織、マフィアの「統一」を果たした「殺人株式会社」の軍事部門アイゼンベルグと、日本の大物右翼、三井、三菱財閥が連携していた。この日米マフィア連合が英国麻薬業者の追い出しを行っていた。麻薬争奪戦争であった。

 アイゼンベルグは第二次世界大戦中、戦後におけるイスラエルの建国を目指して日本に「研修」に来ていた。後進国の日本がどのようにして産業を育成したかは、これからイスラエルを建国しようとするアイゼンベルグにとって、一つのモデルとなる。
 日本政府が国営で八幡製鉄所を作り、経営が軌道に乗り、一定の時期が来ると民間に企業を「払い下げ」、民間企業、新日鉄としたその手法はアイゼンベルグによって十分に研究、吸収され、戦後イスラエルの産業復興の手法として、アイゼンベルグによって生かされる。

米国最大のマフィア組織であるアイゼンベルグと、日本の大物右翼、ヤクザである里見甫はここで出会う。アイゼンベルグの経営者ショール・アイゼンベルグは、1940年に新日鉄の会長であった永野重雄の娘と結婚している。そこから日本の産業界のイスラエル人脈は延々と続く事になる。現在の麻生外務大臣の経営する、麻生セメントの親会社ラファルジュ(フランスのセメント会社)のさらに親会社がアイゼンベルグである。

 この昭和通商で、里見甫の部下として「金儲け」のため麻薬売買を担った人物達の中に、右翼の大物、児玉誉士夫、そして岸信介、佐藤栄作、池田勇人がいた。
これは、戦後の日本で自民党の総理大臣になる面々が「偶然」にも昭和通商で麻薬売買を行っていたという事ではなく、中国のアヘン売買で「荒稼ぎ」した里見甫とイスラエル、アイゼンベルグの資金が、戦後の日本の権力者を生み出して来た事を意味する。

 日本が第2次世界大戦に突入して行く契機となったのが、東条英機の大政翼賛会の結成であった。野党までが戦争賛成なる「挙国一致」体制の成立で、野党による与党のチェック、戦争反対の声が完全に抹殺されてしまった。

東条英機はこの大政翼賛会の結成を、野党議員の「金による」買収で成し遂げた。その買収資金の提供を求め、東条が「泣き付いた」相手が右翼の大物、里見甫であった。里見とアイゼンベルグの麻薬資金が日本の戦争体制を「成立」させていた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49599920.html


1941年、上海のプロテスタント教会を次々と日本軍のスパイ組織、上海海軍武官府・特別調査部の兵士達が急襲する。日本の諜報組織は、プロテスタント教会が麻薬組織サスーンの事務所になっているとの情報を得て、教会を急襲した。

元々、中国の小さな地方都市に過ぎなかった上海を開発し、租界と呼ばれる街路を整備したのは、麻薬業者のサスーンであった。

第二次大戦中までは、上海の街並みの全ての建築物が、サスーンによって建造されたと言われる程、上海はサスーンの街であった。

しかし満州帝国を建設し、さらに南下しようとする日本軍にとって、敵国・英国と一体化したサスーンの上海支配を壊滅させる事は必要不可欠であった。そこにはサスーンの麻薬組織を破壊し、日本軍部の資金源である里見甫の昭和通商に、アヘン売買を独占させる目的もあった。

 教会を急襲した当時の上海海軍武官府・特別調査部の記録によると、教会の地下にはサスーンの事務所が置かれ、そこからは英国諜報組織MI6の中国エージェントの名簿、秘密結社フリーメーソンの祭壇、おどろおどろしいフリーメーソンの儀式の用具が発見されたと言う。

 日本の軍部は、このフリーメーソンの祭壇を見て、「頭のおかしなカルト」が関わっているといった程度の認識しか持たなかった。その事が、後に日本の太平洋戦争における壊滅的敗北という事態を招く、諜報上の大失敗になるとは全く予想もしていなかった。

 当時、日本軍は東南アジアに侵攻していたフランス軍と協力関係にあった(注)。中国の中部、南部を支配する英国に対し、北部を支配する日本軍と東南アジアのフランス軍で挟み撃ちにする戦略であった。
フランスは日本にとって敵国であったが、敵の中に「協力者」を作るのは諜報の常識であり里見に協力するアイゼンベルグは、フランス軍と日常的に連絡を取っていた。アイゼンベルグは日本に到達する前に、イスラエル国家建設を目指して、世界各国のユダヤ人街を巡り、各国の財閥に支援を仰いでいた。

当時、フランスの統治下にあったアルジェリアの経済界は、ユダヤ人街が独占支配しており、アイゼンベルグはアルジェリア支配のため、ユダヤ財閥と一体化していたフランス諜報部に深い関わりをもっていた。
東南アジアを支配するフランス軍の実態は、そこでゴムや米作の大農園を経営するフランスの穀物商社ドレフュスであったが、後にドレフュスはアイゼンベルグ社の子会社になる。

このパイプでフランス軍と日本軍は密通していた。

 しかしアイゼンベルグは単に日本で技術を学び、中国で麻薬売買を行い、利益を得るためだけにアジアに来ていたのであろうか?

 1935年、ロンドンでは国際ユダヤ財閥会議が開かれ、サスーンの街である上海から東南アジアに至る中南支横断鉄道の建設と、それを要とした南アジア大帝国の建設、その地域の資源開発が決議されていた。その出資者は、アイゼンベルグとサスーン、ドイツのオットー・ウルフ財閥、ロスチャイルドであった。

アイゼンベルグは日本と協力しながら、同時に日本の敵国・英国サスーンとも協力し、中国中部、南部、東南アジアに渡る南アジア大帝国を作り上げようとしていた。アイゼンベルグは、そこにイスラエルを建国しようとしていたのだ。

 そのアイゼンベルグが日本に「協力」する意図は、アイゼンベルグの南アジア大帝国により、中国北部の日本の満州帝国を「飲み込み」、アジア統一大帝国イスラエルを建国する事にあった。

稚拙な諜報能力しか持たない日本政府が、夢にも想像出来ない戦略であった。
そしてアイゼンベルグは、麻薬売買において自分と対立するサスーンとも結び、日本、英国、フランスのどの国が戦争に勝利しても、そこにイスラエル建国の可能性を確保する戦略を取っていた。

そこには、米国の過酷なマフィア戦争を勝ち抜いてきた、戦略家アイゼンベルグの才覚が見事に発揮されていた。

石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入してゆく、粗末な外交能力しか持たない日本、ロンドンのユダヤ財閥会議の動きさえ察知出来ていない稚拙な日本の諜報能力、これが日本を壊滅に導く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49600090.html


1941年、創立と同時にCIA(当時はOSS)は、中国において急速に勢力を伸ばしつつあった中国共産党の実態調査に取りかかる。

 中国に全くコネクション(つながり)の無かったCIAは、ボスである英国諜報組織MI6に依頼し、MI6の中国における出先機関であった麻薬密売組織サスーン財閥に協力を要請する。しかし中国国民党と連携し中国南部に帝国を作ろうとしていたサスーンは、共産党とは関係が険悪であり、結局中国南部の帝国建設でサスーンに協力していたアイゼンベルグをCIAに紹介する。

 アイゼンベルグと共に満州建国資金をアヘン売買で稼ぎ出していた里見甫の元に、CIA局長ワイルド・ドノヴァンから派遣されて来たのは、ドノヴァンの親友で部下でもあるウィリス・バード中佐と北京語の通訳としてパレット大佐であった。

 アイゼンベルグと里見は、後にCIAの中国支部の事務所が設置される延安にバードを連れて行き、中国共産党の諜報組織の代表、恵生に引き合わせる。後に中国共産党の諜報組織、中国特務機関(中国のCIAに該当する)の長官として戦後長く君臨し、中国共産党の秘密警察、暗殺部隊の指揮官として中国の政治家・官僚達に恐れられる事になる中国共産党の「影の実力者」恵生である。

結局パレットの通訳では時間がかかり過ぎるため、英語の出来る通訳として、この会談には江青女史が同席する事になった。毛沢東夫人の江青である。

 会談では、日本軍と戦闘を繰り返す中国共産党に米軍とCIAが全面的に協力する事が決定される。

(山極晃著「米戦時情報局の延安報告と日本人民解放連盟」大月書店) 

 米軍にとっても日本軍は敵であり、CIAと中国共産党は利害が一致していた。

世界の動きが見えていた里見は、石油も鉄鉱石もなく米国との戦争に突入して行く日本政府の無能さに軽蔑しか感じていなかった。日本の国の枠から飛び出し、アイゼンベルグと共に英仏と協力しながらアヘンを売買していた里見は、もはや日本人ではなく「帰るべき故郷」の無い国際人になっていた。

 満州は里見にとって自分の作った芸術作品であり、日本国家とは何ら関係が無かった。無能な日本国家が滅亡する事を里見は嘲笑していた。

そしてこの時に始まった中国共産党とイスラエル・アイゼンベルグ、CIAの協力関係は、2007年現在まで絶える事なく継続し続けている。

 71年の米国、中国の国交回復、CIA出身のヘンリー・キッシンジャーによる米国、中国の経済協力関係等は、この諜報における中国と米国、イスラエルとの一体化のごく一部が表に出たものに過ぎない。米国が中国にミサイル技術を供与してきたイスラエル・ルートがこれである。(売ったのはCIA放送局と異名を持つCBSTV社長ウィリアム・ペリーである。)戦後、中国共産党の核兵器開発を担って来たのはアイゼンベルグ社である。事実上、中国をボスとしている北朝鮮の核兵器開発の技術はパキスタンから学んだものであったが、パキスタンの核兵器開発を担ってきたのがアイゼンベルグであり、そこに北朝鮮を同席させて「学ばせた」のはアイゼンベルグである。

特に軍事面では、中国共産党とはアイゼンベルグの事である。  

 この中国共産党、CIA、アイゼンベルグの協力関係は41年に始まっていた。

恵生、アイゼンベルグ、CIAの会談では、中国共産党がその活動拠点の山間部、農村でアヘンを生産し、CIAとアイゼンベルグ、里見がそれを売り捌く事で一致を見る。この会談後、中国共産党は特に福建省南部、江西省の井崗山地域でアヘンを大々的に生産し始める。その利益は中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAの間で折半される。

この構造は2007年現在まで変わらない。アヘン販売ルートを支配しているアイゼンベルグとCIAは、中国共産党には無くてはならない協力者である。

このアヘン取引を基本に、イスラエル・アイゼンベルグは核兵器技術と最新鋭の通常兵器を中国共産党に販売し、CIAも中国に兵器を販売し続けて来た。

中国共産党は、アヘン売買の利益を兵器購入代金に充てて来た。中国共産党、イスラエル・アイゼンベルグ、CIAは皆「同じ商売仲間」である。

 70年代初頭、ベトナム戦争により中国政府と米国政府が対立していた時も、中国特務機関とCIAのビジネス・パートナーには何ら変化は無かった。

敵と結ぶ、それが諜報である。

 国家同士が激しく対立する時、諜報機関同士も激しく対立するならそのような諜報機関は三流四流である。国家同士が激しく対立する時、敵国と今までにも増して親密な友好関係と利害の一致を裏側で作り出す、その事によって戦争は回避され自国民の生命が守られる、それが諜報の仕事である。国家にとっての敵国と利害の一致を作り出し、戦争を回避し国民の命を守る・・諜報の本質は自分の国家を裏切り、自分の愛する国家の国民の命を守る事にある。自分の愛する国家の国民の命を守り、自国を裏切り、敵国にも睨まれ、孤立して犬死にする事が諜報員の仕事である。誰も気付かず評価もされず、しかし自分の愛する自国民の命が戦争の回避で救われ、その事を唯一自分の勲章として名誉を感じ、犬死にして行くのが一流の諜報員の仕事である。

第二次世界大戦中は、中国アヘン売買の利益は3等分され、一方では満州帝国を壊滅させようとする中国共産党とCIAの武器購入費用となり、他方では里見の満州帝国を守るための武器購入費用となった。敵国同士の資金源が同一である矛盾など、中国共産党もアイゼンベルグもCIAも里見も誰も問題にせず、矛盾などとは考えない。それが諜報というものであり戦争というものである。これが「当然の常識」であるという認識がないと、「世界の実相」は 遂に最後まで見えて来ない。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49603529.html


 1932年、満州帝国初代総裁に就任した後藤新平は、同盟国ドイツでヒトラーの兵器を独占的に製造するクルップ社の重役ゲハイムラート・ウィーネフェルトを顧問に採用する。やがてウィーネフェルトがヒトラーの命令で駐米ドイツ大使に転出すると、その秘書フリードリッヒ・ハックがそのまま満州帝国総裁顧問に就任する。

 ハックは当時、ベルリン日本領事館の名誉領事であったドイツ軍のアドルフ・シンツィンガー元陸軍少佐と「シンツィンガー・ハック社」という兵器商社を経営する武器商人であった。ハック社は日本軍、特に日本海軍御用達の大型機械、
戦艦用部品専門の商社であり、ハック社が無ければ日本が中国侵略に使用する武器、食料、軍需物資を運搬する船舶が動かなかった。

 このハック社のもう一人の共同経営者で、日本と欧州を行き来し、日本が中国侵略に使用する兵器、太平洋戦争に使用する軍艦部品、その工作機械を日本、満州に運び込んでいたのがポール・ブルームというアイゼンベルグの親友であった。

 ブルームがヨーロッパで買い付けて来る兵器と軍艦部品は、アイゼンベルグと里見甫が行う中国でのアヘン密売の利益で支払われた。日本の中国侵略戦争は、アヘン密売人アイゼンベルグとその親友・武器密輸商ブルームが陰で支えていた。

 このハック社の創業資金は、南アフリカの金塊業者オッペンハイマー一族から出ていた。ブルームは第二次世界大戦後、CIAの初代日本支局長になり、吉田茂首相を連日呼び付け、戦後日本の国家政策を全て決定して行く。
 軍人で政策には精通していないダグラス・マッカーサーが、表向きの日本の支配者であれば、 ブルームは国会で通過する法案の細部まで細かな命令を出す「裏側の支配者」となる。

 かつて吉田茂首相は、満州で里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」の社員、里見の部下としてアヘン密売に従事、日本の中国侵略資金の捻出を担当していた。そのアヘンの利益で吉田茂、里見からブルームは満州帝国に納入する兵器の代金を得ていた。満州帝国をアヘン密売と武器密売で支えた吉田茂とブルームが、首相とCIA日本支局長として、事実上、戦後の日本の進路を独裁的に決定して行く。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49604875.html

第二次世界大戦中、中国大陸で満州帝国国務院に勤務する一方、里見甫の経営するアヘン密売会社「昭和通商」で、吉田茂等と共にアヘン密売に従事し、満州帝国建設資金を調達していた岸信介は、戦後、戦争犯罪人として巣鴨拘置所に収監される。
巣鴨から釈放されると岸は、満州帝国の日本語新聞「大陸新報」の社長であった福家俊一と密談を重ね、日本に新しい政党を作る準備を始める。

福家は満州時代、アヘン密売を巡り里見の情報屋として、新聞「大陸新報」の情報ネットワークを駆使し他のアヘン密売組織を「摘発」し、里見は福家の情報の下、他の密売人を次々に殺害して行った。
福家は戦後、里見のアヘン資金を日本の政界に持ち込むエージェントとして、岸首相、福田赳夫首相、美濃部亮吉東京都知事の選挙資金を拠出する「政界仕掛け人」と呼ばれる事になる。

53年、自由党から出馬し国会議員となった岸は、54年、米国で「2大政党制」を強く主張するロックフェラーの民主党に習い、日本民主党を旗揚げし幹事長となる。この日本民主党には社会党等の労働運動勢力も含まれていた。
岸のその行動は2007年現在の小沢一郎と極めて類似している。(小沢の著書には、ロックフェラーが推薦文を書いている)
岸の政界資金は福家を通し里見から出ていた。

52年4月25日付の日本統治軍GHQの「防諜レポート」には、里見と福家が密談し岸に政界工作資金を提供している点について、「要監視、注意」と報告を出している。

55年8月、日本ではまだ無名であった岸は、重光葵外相と共に訪米しダレス国務長官と会談し、雑誌「ニューズウィーク」の表紙を飾る。重光外相は一切報道されず、無名の岸が「次期日本の総理大臣」と報道され、一躍米国で有名になったのである。

満州帝国に武器を納入していた武器商人ポール・ブルームは、OSS(CIA)の欧州責任者アレン・ダレスの部下であり、ブルームの納入する兵器代金は中国でのアヘン売買の利益で支払われ、実際に支払っていたのは里見であった。

この資金が欧州での米国スパイ組織ダレス機関の活動資金として役立っていた。岸はその里見の部下であった。岸は訪米し満州時代からのビジネス・パートナー、ダレス兄弟の1人と会談しただけであった。

ニューズウィークはダレスのボス、ブッシュ大統領一族の経営するハリマン銀行会長エイブリル・ ハリマンが創立した雑誌であった。

ブッシュのボス、ロックフェラーが2大政党制度を強く主張し米国で民主党の絶大な支援者である事を、岸はボスの里見から教えられていた。
ロックフェラーのコピーを日本で行うよう、岸は里見から指示されていたとも言える。
岸は訪米中、ニューズウィークの編集長オットー・カーンの紹介で、戦後日本の政治家としては初めてロックフェラー三世と会談する。岸はロックフェラーの「お墨付き」を貰って来たのである。

 日本に帰国すると岸には24時間、ロックフェラーとブッシュの子分、ニューズウィーク日本支局長オンプトン・パケナムが「英語語学教師」として付き従う事になる。岸は24時間、ロックフェラーとブッシュに監視される事になる。

57年、岸は里見のアヘン資金で首相となると、6月、即座に訪米しアイゼンハワー大統領、ロックフェラー三世と会談し、日本に永久的に米軍を駐留させる事で同意する。
ゴルフ好きであった岸を会談の合間にゴルフに誘い出し、一緒にゴルフコースを回ったのは、常に祖父プレスコット・ブッシュであった。
ブッシュと岸がゴルフをしている間に、ブッシュの経営する軍事産業専門の投資会社カーライルの子会社、デュロン銀行社長ダグラス・デュロン国務次官が、日本に米軍を常駐させる日米安保条約の素案をタイプし、また日本の自衛隊に売り付ける兵器の見積もりを計算していた。

65年、里見が亡くなると、岸は恩師の死に涙を流しながら達筆な毛筆で「里見甫」と大書する。その文字がそのまま里見の墓標に刻印される事になる。

里見の資金を引き継ぐ後継者が、岸信介である事を遺族全員が認めていたからである。その岸の人脈と金脈を引き継ぎ、首相となったのが現在の安倍総理である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605010.html


現代日本を作った男ブルーム

第二次世界大戦後、初代CIA日本支局長となり、日本の主要官庁責任者、大臣、首相を連日呼び付け、政策、法律の細部に渡り細かな指示を与え、事実上戦後日本の「運営者」となるポール・ブルームは、1898年、日本の横浜に生まれた。
南アフリカの金塊生産を独占するオッペンハイマー一族の末裔であるブルームの父母は、横浜で金塊取引業を営んでいた。

1897年の日清戦争に勝利した日本は、中国大陸での資源開発や投機ビジネスに乗り出し、続々と富裕層とビジネスマンが中国へ渡航して行った。
また後に満州帝国総裁になる内務省官僚、後藤新平の「中国でのアヘン密売を奨励し、その利益で中国に大帝国を建設すべし」という主張に合わせ、日本の暴力団、右翼組織が続々と中国での麻薬ビジネスに乗り出して行った。
そして崩壊寸前であった中国の清王朝の発行する紙幣など誰も信用せず、当然、中国満州でのアヘン取引は金塊で決済されていた。その金塊を供給していたのが南アフリカのオッペンハイマー一族であり、その日本支部ブルーム一族であった。

1842年のアヘン戦争以来、中国で行われる米国のアヘン貿易を独占して来たのは、ブッシュ大統領一族のラッセル社であった。中国大陸でブッシュ一族の行うアヘン貿易の決済も、ケミカル銀行を窓口としてオッペンハイマー一族の提供する金塊で行われていた。
ケミカル銀行は、シティバンクの経営者でもあるジェームズ・ベーカー一族の経営する銀行である。

1991年、父ブッシュがイラクと湾岸戦争を行った時の国務長官ベーカー、2007年現在のイラク戦争に協力するように、ドイツ、フランスを説得して回った子ブッシュの欧州特使ベーカー、その一族はアヘン戦争時代から、ブッシュ一族のアヘン密売のマネージャーとなっていた。

かつては、ブッシュの行うアヘン密売の決済をベーカーがケミカル銀行でマネジメントし、現在はブッシュの行う湾岸戦争とイラク戦争を、相変わらずベーカーが閣僚、特使としてマネジメントしている。

現在でも世界各地で行われる麻薬密売の決済には、南アフリカのオッペンハイマー一族が提供する金塊が使用されている。その代表的窓口となっているのが、 決して警察が立ち入る事の出来ないオフショアである、英国領バミューダの投資会社ミノルコの口座であるが、この麻薬密売の決済企業ミノルコは、ベーカー一族の経営するシティバンクの代表取締役ウォルター・リストン、シティバンクの顧問弁護士ロバート・クレアが経営している。

アヘン戦争の昔も現在も、麻薬密売の決済は、ブッシュ大統領、そしてベーカー一族の銀行シティバンクとケミカル銀行が行っている。
また現在でも、麻薬密売に使われる金塊はオッペンハイマー一族が提供しているが、カナダの金塊生産を独占するオッペンハイマーの子会社、バリック・ゴールド社の経営者が父ブッシュである。
アヘン密売人ブッシュが、オッペンハイマー一族の「子分」である事は、今も昔も変化が無い。

1900年代初頭、続々と中国大陸での麻薬密売に乗り出した里見甫など、日本の暴力団の麻薬「決済」を担ったオッペンハイマー日本支部が、横浜のブルーム一族であった。そのブルームが、つまり南アフリカのオッペンハイマー一族が、戦後日本の進路の全てを細部に渡り決定して来た。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605378.html

1945年、第2次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来ると、日本の政治は米軍の命令通りに行われ米軍の指揮下に入る。日本の総理大臣を毎日呼び付け、連日細かい指示を与えたのがCIA日本支局長ポール・ブルームであった。
ブルームが2007年現在の日本の出発点を決めていた。

ブルームは1898年、日本の横浜に生まれた。世界の金塊GOLD、ダイアモンドを独占支配する南アフリカのオッペンハイマー一族にブルームは属していた。父母は横浜で貴金属商を営み、中国に金塊を輸出していた。

当時、日本は中国へ軍隊を送り込み侵略戦争を行っていた。日本の軍隊に必要な武器、弾薬、ジープ、戦車等の購入費用に困った日本政府は、中国で麻薬、アヘンの密売を命令し、その利益で武器を購入していた。
当時、中国は国家が崩壊状態であり、国の印刷する紙幣というものが無かった。
日本政府の麻薬密売と武器購入は金塊で支払いが行われていた。ブルーム一族はその金塊を提供していた。

中国での戦争が拡大すればするほど、武器はたくさん必要となり、支払いのための金塊もたくさん必要となった。貴金属商のブルーム=オッペンハイマーにとって、戦争によって商売が拡大した。オッペンハイマー一族は、商売の拡大と共に優秀な営業マンを必要とした。
オッペンハイマー一族が目を付けたのが、日本育ちのポール・ブルームである。

中学卒業と同時に、ブルームは本家のオッペンハイマーに呼び寄せられ、ジュネーブのハイスクールに入学する。その時ブルームは、米国のCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスの下で諜報員(スパイ)としての訓練を開始する。
現在のブッシュ大統領一族は、オッペンハイマーのカナダ支部であるバリックゴールド社の経営者であり、オッペンハイマーの提供するダイアモンドを使った
ドリル製造会社ドレッサー社の経営者である。石油を掘り出しダイアモンドを鉱山から掘り出すためのダイアモンド・ドリルのメーカーである。
ブッシュ大統領一族は、オッペンハイマー一族の下請け人一族であり、CIAの創立資金を提供していたのが、このブッシュ大統領一族であった。
オッペンハイマーの優秀な営業マンとしての教育を、オッペンハイマーの下請け人ブッシュ一族=CIAが請け負った事になる。

当時、ヨーロッパではナチス・ドイツ=アドルフ・ヒトラーがユダヤ人を大量に殺害しその財産を奪っていた。ヒトラーがユダヤ人から奪った貴金属、金塊の販売を担当していたのが、ブッシュ一族の経営するユニオン銀行であり、ユニオン銀行のヨーロッパ支店長が後にCIA長官になるアレン・ダレスであった。
ブッシュ一族のユニオン銀行のヨーロッパ支店長ダレスが、そのままCIAのヨーロッパ支局長であった点にブッシュ=オッペンハイマー一族とCIAの一体化が読み取れる。ブルームはこのダレスによって育てられ、後にCIA日本支局長となる。

こうして見ると、CIAがブッシュ=オッペンハイマー一族の「私的」な情報収集組織=スパイ組織として発足している事が分かる。

当時、CIAヨーロッパ支局長のダレスの下には、ブルームの他に同じオッペンハイマー一族のヘンリー・キッシンジャーがいた。
ブルームは日本へのCIA工作員=スパイであり、キッシンジャーはソ連(ロシア)に対するCIA工作員(スパイ)であった。同じダレスの部下として、同じオッペンハイマー一族として、ブルームとキッシンジャーはジュネーブの地で、しばしば共に食事や個人的交友をしたであろう事が想像される。(資料が残っていないため、この点は想像である。)

スパイを養成するには子供の頃から訓練しなければならない事は、高校時代からダレスに教育されたブルームが一番知っていた。1945年、CIA日本支局長となったブルームは、日本人のCIA工作員(スパイ)となる人材を探し始める。
ブルームは、当時、日本の吉田茂首相を毎日呼び付け、日本の政治に様々な命令を下していた。ブルームはしばしば吉田茂の自宅を訪問もし、深夜まで吉田首相と会談した。その時ブルームが目を付けたのが吉田茂首相の孫であった。
ブルームは吉田首相の孫を自分の家に引き取り、子供の頃から工作員(スパイ)として徹底的に教育し育て上げる。
この吉田首相の孫が、2007年現在の麻生太郎外務大臣本人であり、日本の次期首相候補の最有力者である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607501.html


 第二次世界大戦後、日本に進駐して来た米軍GHQには、冶金(やきん)課という部署が設けられた。金塊を生産する国ではない日本に、金塊、貴金属を扱う専門部署が設けられた事は、極めて奇妙であった。

 日本軍は第二次大戦中、中国大陸や朝鮮半島で中国、朝鮮の人々を多数殺害し、その財産を略奪し、また中国においてアヘンを密売し、その莫大な利益を蓄積していた。
 戦争終結間際、日本軍はその莫大な利益を金塊、プラチナ、ダイヤモンドに代えて飛行機で日本本国に持ち帰っていた。その莫大な貴金属は日本各地に隠され、また日銀の地下金庫に保管されていた。

 その隠された財産を摘発、没収するため、GHQには貴金属担当の専門部署が設けられていた。

 戦後GHQは、日本軍の隠した貴金属を次々と発見していくが、発見されたものは米国政府の命令で米国本土に送り、米国の財産としなければならなかった。
 しかし、日本軍部が自己所有として記録に残した貴金属と、実際に米国本土に送還された貴金属の量には圧倒的な「差」があった。日本軍の隠した貴金属摘発を担当したのは、GHQのマッカート少将であったが、実際に実務を仕切ったのは冶金課長のジョージ・パーディであった。 

 なおパーディがGHQから貴金属を奪うに当たっては、オッペンハイマー一族のポール・ブルームCIA日本支局長が当然大いに協力した。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605569.html


 第二次世界大戦後、CIA日本支局長として日本に米軍基地を常駐させる等、現在の日本の政治路線を事実上決定し、また2007年現在の麻生太郎外務大臣を育てたポール・ブルーム。第二次大戦中、CIAにおけるブルームの上司は、後にCIA長官となるCIAヨーロッパ支局長アレン・ダレスであった。

当時CIAの活動資金は、ブッシュ大統領一族の経営するユニオン銀行から出ており、ダレスはユニオン銀行ヨーロッパ支店長でもあった。


ブッシュ=ダレス=ブルームは、第二次大戦中における日本の軍事力増強に全面的に協力していた。ブルームの経営する(つまりブッシュの経営する)武器密輸商「シンツィンガー・ハック」社は、日本海軍の軍艦建造に必要な軍艦部品、金属を専門に輸出していた。敵であるはずの米国が日本の軍事力の増強の中心にいた。日米戦争=日本と米国の対立・戦争は「茶番劇」であった。

一方、1930年代、米国議会に日本との戦争実行を強く働きかけていたのはブッシュの経営するハリマン銀行社長エイブリル・ハリマンであり、日本との戦争に備え米軍が兵器を大量に購入し始めると、その兵器を製造し「金儲け」に専念し始めたのもブッシュのハリマン銀行の支配下にある軍事産業であった。

日米戦争・・米国政府に武器を売り付け「金儲け」するブッシュ一族は、同時に部下のブルームを使い、日本に兵器と軍事物資(鉄鋼製品、ニッケル、チタン等の希少金属)を販売し利益を上げていた。

また、日本に鉄輸出を禁止し、米国国内での「日本との開戦論」をアオった悪名高い「ハル・ノート」の起草者コーデル・ハル国務長官は、ブッシュの顧問弁護士だった。

第二次世界大戦で日本人と米国人が戦争で殺し合う、その兵器は日米両方ともブッシュ一族が製造し、殺し合えば殺し合う程、ブッシュ一族に大金が転がり込む仕組みになっていた。

日本との戦争を開始したルーズベルト大統領の大統領選挙資金は、バーナート・バルークが大部分出資し、バルークがルーズベルトの閣僚人事の全てを単独で決定していた。この「ルーズベルト政権の独裁者」バルークは、ブッシュのハリマン銀行の社員であった。

日本への鉄輸出を禁止し、他の業者を排除し、日本への軍事用鉄鋼輸出の独占体制を作ったのがブッシュであり、その実働部隊がブルームである。

このブルームの弟子・麻生太郎が、2007現在の日本の次期首相候補である。

戦争が誰の自作自演であるか明らかである。

ブルームが日本軍に納入した兵器、軍事物資の代金は、日本政府直属の麻薬密売人、里見甫(はじめ)が全額支払っていた。日本が中国に侵略し建国した満州帝国で麻薬密売を担当し、日本の戦争資金を作っていたのが里見であった。

ブルームがブッシュの命令で日本軍に兵器を運び込み、里見が支払う。里見はブッシュ=CIA=ブルームのパートナーであった。

米国との戦争を開始した日本の東条英機内閣。その東条が総理大臣となった時の選挙資金を出していたのが、ブッシュのパートナー里見であった。

日本と戦争を始めたルーズベルトの大統領選挙資金を出していたのもブッシュ一族であった。戦争で日米に兵器を売り「金儲け」したのもブッシュであった。

戦争が誰の自作自演であるか、極めて明確に出ている。

1840年、アヘン戦争で英国が勝利すると、中国での麻薬売買が急速に拡大する。この麻薬密売を担当したのが青パンと呼ばれる中国マフィアである。不思議な事に、この青パンは麻薬代金を手形で支払っていた。手形は支払期限が来るまで現金に出来ない。しかしインド等から麻薬を密輸してきた船舶会社、密輸人は、すぐに手形を現金化して再び出航したい。そこで、この手形を支払期限前に買い取り現金化し、手数料を取る(手形の割引)銀行が必要になる。しかし相手は中国マフィアであり、手形の支払日に中国奥地に逃亡し、または暴力で支払いに抵抗して来る可能性がある。従って、この手形を現金化する銀行は中国マフィアのボスとして中国全土を監視下に置き、マフィアの逃亡を許さず、しかも「力づく」でマフィアに支払いを強制出来る中国マフィアの支配者=帝王でなければその任務は務まらない。この手形銀行がブッシュ一族のハリマン銀行であった。

ブッシュ一族は、中国の闇社会の帝王として君臨する独裁者一族であった。

日本の満州帝国の支配人=資金の元締めである里見は、このブッシュ一族の麻薬ネットワークの一部を担っていた。中国麻薬密売におけるブッシュのパートナー里見。そしてCIA経営者ブッシュの部下ブルーム。この2人が日本軍の軍事力を作り上げていた。

そして里見の麻薬ビジネスのパートナーには、後にイスラエルを建国し、世界最強のスパイ組織モサドを創立するショール・アイゼンベルグがいた。

2007年現在、ブッシュ大統領が「イスラエルを中心に世界を統一する」=NWOニューワールドオーダー=新世界秩序を作ると主張する理由がここにある。

また、里見の部下には右翼の大物で、後に中曽根康弘元首相の総理大臣選挙資金源となる児玉誉士夫がいた。児玉は戦後CIA日本エージェント=工作員となる。従って国鉄を民営化しJRを作った中曽根元首相は、CIAの対日本工作資金で首相になった事になる。

また、児玉は自民党の創立資金を出資した人物であり、自民党がCIAの対日本工作として、CIAの下部組織として創立された事が分かる。

また、里見の麻薬密売組織の部下には、吉田茂(後に自民党総理大臣、2007年現在の外務大臣麻生太郎の祖父)、佐藤栄作(後に自民党総理大臣)、池田勇人(後に自民党総理大臣)、岸信介(後に自民党総理大臣、2007年現在の安倍晋三首相の祖父)がいた。

日本の自民党と歴代総理大臣がCIAの対・日本工作として「作り出され」て来た歴史が、この中国麻薬密売組織の中に明確に浮かび上がって来る。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49607677.html

19. 中川隆[-9786] koaQ7Jey 2019年6月07日 10:05:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2655] 報告
オルタナティブ通信 昭和天皇による日米戦争策謀論 2

「1944年1月、昭和天皇は参謀総長と軍令部総長から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。

木戸は当然のことながら、この指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解したのである。

二番目の状況を達成するには時期尚早だったができた。木戸は皇室の財政顧問でもある主要銀行の経営者たちを招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。東京にある天皇の銀行口座の残高が事実上ゼロになったが、スイスの銀行の番号口座残高が急激に増加したのだった。横浜正金銀行のスイスの支店は次に、天皇の仮名による銀行投資にドイツの信用を付け、天皇の流動資産の換金能力をさらに高めた。他の財閥の大企業経営者たちも天皇の現金の流出に気づき、アフガニスタン、トルコ、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、朝鮮、香港、満州、フランス、ドイツなどに預金していた現金を引き出し、スイスの銀行へ送金した。彼らはまた、ブエノスアイレスにある銀行の法人や個人口座の数も増やしたのである。

占領期間中、日本銀行が横浜正金銀行の業務を引き受けることになり、この結果、皇室財産の財務上の秘密が継続して保証されたのである。」

私が書いた赤十字と天皇の秘密は、このマニングの本で真実であることが理解できよう。
日本赤十字社は、現在でも、皇室が支配的立場にあることを知らねばならない。この赤十字組織が、世界を支配する勢力の一支部なのだ。マニングの本には、天皇がいかに金塊をアルゼンチンに運んだかの詳細な内容も書かれている。

もう少し具体的に、赤十字国際委員会(ICRA、本部ジュネーブ)について書くことにしよう。では、アダム・レポーの『ヒットラーの秘密銀行』から引用する。
「赤十字国際委員会が各国諜報機関から、スパイを潜入させる標的として狙われたのは当然のことだった。大戦中でも枢軸国、連合国を問わず自由に越境して、救援活動ができる国際的組織だったからだ。また、情報収集も任務のひとつで、職員たちは双方の捕虜や軍指導者たちに対する質問権を与えられていた。」

『ヒットラーの秘密銀行』から、もう一つ引用したい。ナチス資産について書かれているが、ドイツの枢軸国日本の姿もみえてくる。

「英米仏三国は1945年8月、スイスに預けられているナチスの資産の所有権を主張するもスイス政府の対応ぶりは相変わらずのものだった。三国の主張はどんな法律を根拠とするものか理解に苦しみ、また連合国によるドイツ占拠の事実は『ドイツ国境を越えて法的効力を持つことはほとんどない』という言い逃れに終始した、とSNBの報告書は記している。

「スイスに預けられたナチス資金」を「スイスに預けられた天皇の秘密資金」と置き換えるならば、私が書いてきたことが事実であることが理解できよう。『ヒットラーの秘密銀行』には、スイスの銀行について書かれている。日本に関係する記事に触れておこう。国際決済銀行(BIS)がスイスにある。この銀行が、ナチスと日本と戦争中も取引を続けた。では引用する。

「BISの総裁はアメリカ人トーマス・マッキトリック、ゼネラル・マネージャーはフランス人ロジェ・オボワン、ゼネラル・マネージャー代理はドイツナチ党員のパウル・ヘクラーだった。大戦中の理事には、ライヒスバンク副総裁で後に戦死とされたエミール・プール、同総裁のヴァンター・フンク、その他ロンドン、ブリュッセル、ローマ、日本から派遣された銀行家たちが顔を揃えていた。(略)ベルリンにとっては好都合なことに、戦時中のBIS総裁は、ナチスの略奪金塊の主要ルートだったスイス国立銀行の総裁エルンスト・ウェーバーだった。(略)第一次世界大戦の敗戦国ドイツが連合国に対して負っていた賠償金をヤング案に基づいて回収することを目的に、数カ国の中央銀行が1930年5月に設立した銀行だったのである。ニューヨーク・ファースト・ナショナル銀行など世界の主要金融機関が共同出資し、これらの国々および日本が理事を送り込んだ。(略)BISの設立資本金は五億スイスフランで、ベルギー国立銀行、イングランド銀行、フランス銀行、ライヒス・バンクという中央銀行五行によって保証されることになった。これに日本の代理を務める日本銀行団、およびモルガン銀行、ファースト・ニューヨーク銀行、ファースト・シカゴ銀行から成る米国銀行団も参加した。」

ここまで書いてきて、戦争というものが、金融と深く結びついていることが理解できたはずである。BISとスイス国立銀行は深く結びついている。私の推測の域を出ないが、
天皇はスイス国立銀行に「皇后名」で、BISに「天皇名または仮名」で、最低二口の秘密口座を持っていたと思われる。マニングの推定「35億ドル」以上ではなかろうか。35億ドルでは少な過ぎる。

<中略>
日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の『神々の軍隊』がでた。この本の中で濱田は天皇の秘密資金に触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などスイス、バチカン、スウェーデンの銀行などに預けられていた。(略)中でも国際決済銀行、通称“バーゼルクラブ”は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。(略)

内大臣木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和十九年一月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃がすよう指示した。

そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに戦争協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。(略)皇室とバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界の闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない。M資金の闇は深い。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない」には全く賛成できない。私は昭和天皇が戦後も、マニングが書いているように蓄財作戦に熱中していたと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人々を悩ませたのである。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的数字がクローズアップされる。
それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」木下道雄(元侍従次長)の『側近日記』が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで終戦直後の天皇家の財産は37億5000万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7912億円である。」

この数字の十数倍近くをスイス銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100億円を切っていた。

天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。

天皇の「キリスト教入信」対策は、この二つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。
それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも、広田弘毅のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060828


天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。

しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。

貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html


日本の天皇家は古代からただひとつの家系がつながってきた。これは世界に類を見ない。また昭和天皇は敗戦の時にマッカーサーに対して、「全ての私財と自分の命をも放棄する。国民を救って欲しい。」と言い、マッカーサーはこれに感動したと学校では習ってきた。

 ところがこれらは全くの創作のおとぎ話であった。私達は米軍の策略にまんまと騙されてきたのだ。

昭和天皇が終戦時に国民を配慮した気配は全くない。ひたすら私財の保全にだけ心血を注いだ。それを米軍は日本支配の道具として位置づけることで国民の洗脳に成功した。
結局、学校教育は米軍の指図による創作だ。さらに右翼などは天皇システムを保護する事で米軍の日本支配に貢献してきたのだ。見事な策略と言うほかは無い。

立ち直る見込みのない、無能そして国賊的日本政府のていたらくは、殺人総合商社アメリカの商売の成功を示すものである。

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社
日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、
欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、
欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを
公然許可すべき」という指示を天皇に与える。

賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に
「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、
天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。
(福沢諭吉全集 第15巻)

1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い
仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で
大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は
天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」
日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は
「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の
売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族の
サギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。

その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性を
だまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の
売春業者であった。
天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」
された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に
売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。

数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。
これが従軍慰安婦の原型である。

日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。

この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、
三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、
全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の
新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を
「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する
「売春業参加のお礼」として建設された。
(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と
協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。

こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が
蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた
米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で
1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、
女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、
ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で
「無給」で重労働を行っていた。

そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって
戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく
自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し
略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に
運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」
という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争
は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、
「天皇一族は金銭ギャングである」
と吐き棄てるように語っている。
(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)
1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は
この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、
海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、
スイスに850万ポンド、
ラテンアメリカに1004万ポンド等、
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、
天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。

この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した
蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。
(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本を
どのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、
天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金
を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が
日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そして
スイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた
日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されて
いる最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など
何も考えていない事は明白である。
(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」
マルジュ社)。

なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた
商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の
対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは
何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が
「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員
であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を
借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、
港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、
莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。

天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の
金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は
「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を
「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが
虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのも
スイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に
「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族
の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪
ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。
(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 
ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。

日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い
女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が
社会問題化し、それを禁止した法律であった。

天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」
(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の
「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、
1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、
日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇
の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し
米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、
人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語る
のがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の
無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。
 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。

実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。 いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。

効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

 1941年にフィリップ・ペタン内閣は日本がインドシナ半島北部を占領することを認めた。近衛文麿は『交渉による平和』を望んだが裕仁の説得に失敗し、辞意を表明した。宣戦布告の決意をし、天皇は東条将軍を首相に指名した。彼は満州で組織的な略奪を行った岸の一党【原文ではclanつまり悪党集団:訳者】の手下であった。

 パールハーヴァーの『だまし討ち』(6)は、東南アジアにおける日本の好戦性を解き放つシグナルであった。日本はタイ、スマトラ、ビルマに侵攻し、グアムとホンコンをその手にした。さらにマッカーサー将軍をフィリピンの領地から追い出した。新たに付け加えられた領地は憲兵隊によって組織的に略奪された。秩父宮はシンガポールに黄金の百合の総合本部を置いた。専門家たちが目録をつくるためにそこにすべての分捕り品が集められた。

 フィリピンでは欧米の銀行が黄金の百合のエキスパートたちの第一目標であったが、彼らはフィリピンの財宝を奪い取って、筆頭株主が裕仁その人である横浜正金銀行【原文は英語Yokohama Specie Bank:訳者】、台湾銀行、そして他の国有銀行の財産にしたのである。その黄金の一部は戦争の経費に充てられた。スイス、ポルトガル、アルゼンチン、そしてチリの銀行が洗浄に使われた。

 憲兵隊と黄金の百合の実行者たちが奪った富はシンガポールの集中させられ、最終目的地である日本に輸送されるためにマニラに運ばれた。
[黄金の百合からブラックホールの資金へ]
ミッドウエイの戦いの後、東南アジアにおける軍事的な力関係は米国に有利に傾いた。日本は海上輸送の支配権を失った。裕仁と帝国の第一人者たちは帝国の敗北を予想し始めた。

 それ以来、公式には富士山麓で結核療養中であることになっていた秩父宮に率いられてきた黄金の百合作戦は、マニラで足止めを食らっている戦争の分捕り品を救うことに必死になった。秩父宮はまず病院船を使って金を輸送し、その後その金を日本の山地に作られた地下壕に溜め込んだ。

1943年には、米国が効果的な海上封鎖体制を確立したため、そのような方法は取れなくなった。財宝はマニラの波止場で山のようになりだした。秩父宮はそこで地下壕建設のための特殊な技師の集団を作り、分捕り品を地下に隠す作業を始めた。マニラではかつてスペインの町であったイントラムロスの地下が使用され、巨大な収容能力を持つ場所を提供できた。

 品物を慎重に移送できる一つの通路が波止場とイントラムロスの間を直接に結びつけた。秩父宮は歴史的な場所や教会、大学など、爆撃がほとんど無いあらゆる場所をつなぐように選んでいった。

 マニラの北で竹田宮が洞窟を使って地下壕の網の建設を監督した。専門家たちが恐ろしいほど効果的な大量のワナの兵器を仕掛けた。爆発物、毒ガスのカプセル、水や砂を使ったワナ。南京虐殺の実行者の息子であるもう一人の皇族の朝香宮孚彦【原文ではTakahitoとなっているが「たかひこ」の誤り:訳者】親王と、シンガポールのヒーローであり差し迫った米軍の攻撃に立ち向かうためにフィリピンに派遣された山下将軍が、この地下での作戦に加わった。技師たちと奴隷たちは組織的に生きながら地下に埋められた。

 マッカーサーがフィリピンを再征服し始めたとき、皇族たちは急いで未だ地下に入れることができなかった財宝を隠そうとした。黄金を積んだ船が船員を乗せたまま沈没させられた。日本の敗戦はマニラ市民の虐殺と占領を終わらせたが、その後に皇族たちは潜水艦で逃亡した。

 1945年から米国の諜報機関が黄金の百合の存在に気付いた。諜報員であるジョン・バリンジャー(John Ballinger)は、漁民に変装して黄金をいっぱいに入れた箱が病院船に積み込まれるのを観察することができた。マッカーサーは彼のライバルである山下を逮捕し、彼の腹心をこの日本の将軍のお抱え運転手である小島老人に対する尋問官とした。

そのセベリノ・ガルシア・サンタ・ロマナは山下の行動に関する膨大な情報を手に入れ、隠匿場所の正確な数をつきとめることができた。『サンティ』【サンタ・ロマナの別称と思われる:訳者】はこうして『山下の財宝』の守り手となった。彼は、OSSの元局員であり最近までウイロウビィ(Willoughby)将軍(8)の特務機関G−2と協力していた謎の男エドワード・ランドセイル(Edward Landsale)(7)が作戦の指揮をとるまでは、ずっとマッカーサーの命令の下にとどまった。

 トルーマン大統領にこの件が任されて以来、掘り出された分捕り品はブラック・ホールと呼ばれる対共産主義の戦いの資金として使用されることになった。あるロウズベルトの顧問に認知されたこの計画は、ドイツ、イタリア、日本によって盗まれた黄金を親米政権の財源として使い、次に、『危険なアカ』の脅威にさらされる多くの『民主国家』の深奥でこの資金により選挙を操作することから成り立っていた。

 ロバート・アンダーソンの助けを受けてあるスペシャリストが資金を洗浄した。サンティが探し出した黄金は42カ国の170の口座に納められた。CIAの銀行口座ネットは、東南アジアから盗まれた富を隠し、金の値段を米国の経済的利益にとって都合の良いあるレベルで維持することを可能にした。(9)
財産は日本に戻ってくる

 米国当局によって押収された分捕り品は当初3つの異なった財源を潤した。四谷資金は、マッカーサーの秘密の右腕であるG-2の長官チャールズ・ウイロウビィの活動を支えた。彼はフランコ将軍とファシスト警察の手法の賛美者である。第2の資金は、日本におけるニュルンベルグ裁判に匹敵する東京裁判の判事ジョセフ・ケーナンの名前が付けられたのだが、非常に明確な機能を持っていた。共産主義に対するマッカーサーの戦いの同盟者へと変身した帝国のメンバーを免責するために証人たちを買収することだった。

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。最も戦略的な資金は、疑いも無くM資金である。それは日本で共産主義者や社会主義者が権力を握ることを妨げる戦いのために運用された。戦後、つかの間の社会主義政権は、M資金投下のおかげで米国好みの吉田茂によって、失墜させられたようである。この資金は敗戦日本の公式な歴史に出資するためにも利用された。

 児玉誉士夫が「私は敗北した」という文章を出版したのはこれである。この本は、CIAを通してM資金をつぎ込まれたものであるが、笹川良一や岸信介などの将来の日本の大物、つまりマッカーサーによって称揚された国粋主義者たちを免責するのに役立った。
 1951年に講和条約が締結された。その第14条で、日本はその犠牲者に対して補償するための必要な手段を整える必要のないことが規定された。ブラックホールへと転換された黄金の百合は秘密のままにしておかねばならなかった。

 1952年以来、CIAと日本の特務機関に率いられた一つの組織がM資金を担当した。この資金は、満州での略奪の責任者であり東条の戦争内閣の閣僚であった岸信介の首相選出を許した。アイゼンハワー政府はこの極端な反共主義者である戦犯を好んだ。
 M資金は、田中角栄、竹下登、中曽根康弘、宮沢喜一などの多くの首相に財源を提供した。田中は、ニクソンがM資金の引出権を彼に約束したのだが、これを選挙資金と汚い工作のために頻繁に運用した。

 黄金の百合の一部は日本でこのように投資され、自由民主党の母胎から誰が将来の首相になるのかを決める者たちによって浪費させられた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html


日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、占領地の宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。読者がお気づきのように、これは真実ではない。天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。

 日本はひどく痛めつけられ、戦争が終わったときには、かろうじてどうにか食っていける状態だったと、わたしたちは告げられる。事実は、驚くほど少ない工場と住宅しか破壊されておらず、それもひどい損傷を受けていなかった。そして、インフラストラクチャーの損害はわずかだった。広く世間に知られている損害のほとんどは、普通の日本人が住んでいた数百万軒の紙と木でできたマッチ箱のような家だった。彼らの苦悩は大君主たちの見解には加えられていなかった。

 日本を共産主義に対する防波堤にしようという切迫した必要性に取り憑かれていたので、ワシントンは戦時の指導者たちと皇室のメンバーと金融のエリートたちが、十二のアジアの国々を破壊し、窮乏状態に陥れたことに関して、いかなる責任からも免責した。

わずかに日本の戦争中のエリートたちがスケープゴートとして死刑に処せられた。幾人かは指導者たちの安らぎのために、責めを負って強制されたり、濡れ衣を着せられた。戦後の占領の終わりの頃には、すべての日本の戦犯は自由の身になった。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


日本の昭和天皇ヒロヒトは、敵国であった米国の兵器を日本に輸入し日本軍部に売り付け、その利益を私的に「着服」し、スイス銀行に隠し蓄財していた。そのスイス銀行の口座はヒトラーと天皇ヒロヒトの「共同名義」の口座であった。

 ヒトラーと昭和天皇ヒロヒトは、戦争を起こし兵器を密売し、共に「私腹を太らせていた」。

ディロン社の代理人として、米国製兵器の密売を行っていたのが昭和天皇ヒロヒトである。ドイツにおけるヒトラー、日本における昭和天皇ヒロヒトの役割は同一であり、従って兵器密売のスイス銀行の「決済口座」がヒトラーと昭和天皇ヒロヒトの「共同名義」になっていた。

 第二次世界大戦末期、ヒトラーは自分の資産と部下を続々とアルゼンチンに逃し始める。天皇ヒロヒトも戦争末期、長年の武器密売の利益を金塊の形で、アルゼンチンの銀行に大量に密かに輸送し隠し預け始める。

 戦争末期、中国に残された日本人の多くは、日本に帰る船が無く中国、朝鮮で殺害され、女性は強姦され殺害され続けていた。天皇はその日本人を全員「見殺し」にし、船舶を「独占」し、武器密売の利益を金塊の形でアルゼンチンへ大量輸送し続けた。
http://alternativereport1.seesaa.net/


1945年.日本の敗戦が決定的になると.天皇一族は.この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ.海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて.スイスに850万ポンド.ラテンアメリカに1004万ポンド等.広島.長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中.天皇は自分の蓄財を海外に次々と.逃がす事に専念する。

この問題を調査したマーク・ゲインは.海外に天皇が逃した蓄財は.累計で5〜10億ドルに上る.としている(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。
広島.長崎に原爆が落とされ.膨大な死傷者が出.戦後.日本を.どのように再出発させるか.を考えなくてはならない時期に.天皇は.ひたすら自分の蓄財を守るため.数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは.莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され.アルゼンチンの銀行.そしてスイス銀行まで遠路.運搬されていた。中国では.日本に逃げ戻るための船舶が無く.逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数.強姦殺人され.子供が殺害されている最中.天皇は貴重な船舶を独占し.自分の金塊を遠路.アルゼンチン.スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く.日本人の事など.何も考えていない事は.明白である(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」 マルジュ社)。

 なお.天皇が.第2次大戦中.「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の.天皇の共同経営者が.CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは.何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

 天皇は戦後.このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り.CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に.港区の不動産を次々に買収し.またハイテク産業に投資し.莫大な蓄財を.さらに莫大に膨れ上げさせて行く。

天皇は神でも「象徴」でもなく.単なる金儲け主義の.金融ビジネスマンである。
そして.ここでも.「何故か」.CIAと天皇は「共同経営者」である。

 天皇は.1940年代初頭から.スイス銀行に少しづつ蓄財を「移し」始めるが.ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが.虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し.ナチス・ヒトラーの口座の中に.「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい.そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇と.ヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する.略奪ビジネスのパートナーであり.ナチスと天皇は一体であった(アダム・レボー「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ・・また.濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

 1924年.米国は「排日移民法」という法律を成立させる。日米関係は.まだ険悪ではなく.日本から.余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し.それを禁止した法律であった。

 天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の.「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に.1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については日本を憤慨させるに十分なものであった。」

 この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。
日本人女性を.だまし.売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した.それに憤慨.激怒し.米国と戦争を始めた.と天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は.神でも.「象徴」でも無く.人間のクズの集団である。
http://alternativereport1.seesaa.net/

1945年、第二次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来る。

今後の日本をどうするか、米軍の指揮官ダグラス・マッカーサーとの交渉を担当したのが、当時の大蔵省事務次官池田勇人(後に首相)の部下、渡辺武であった。

渡辺の自伝である「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」(東洋経済新報社)によると、渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は、米国の銀行ディロン・リードに
対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。

明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。

しかも奇妙な事に、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに貸し付けた側の銀行ディロンの社長が、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に
戦争資金を貸し付けていた。

ディロンの親会社が、現在のブッシュ大統領一族の経営する軍事産業専門投資会社カーライルであり、そのブッシュの経営するハリマン銀行の取締役ロバート・ ラヴェットが、戦争省次官として自分の経営する兵器会社から米軍に武器を納入していた。米軍の兵器と日本軍の兵器購入資金は、同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。

日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。

この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、日本側に天皇が居た。

ドレーパーの銀行ディロンは、戦争で莫大な利益を得た。
天皇も日本軍の兵器購入資金の一部を私物化し、スイス銀行に莫大な財産を蓄積した。天皇が戦争責任を問われなかったのは当然である。
日本人と米国人に「殺し合い」を行わせ金儲けする、ディロン=ハリマン銀行の日本支店長が天皇であった。最初から天皇は「日本と日本人の命」を「敵国に売り渡して」いた。

なお天皇は、スイスに莫大な蓄財が出来た感謝の印に、「敵国の戦争指揮官」ドレーパーに勲一等瑞宝章を与え表彰している。
http://www.asyura2.com/07/senkyo38/msg/517.html

カーママン社は、カーママンと昭和天皇ヒロヒトが共同で設立した兵器商社である。

天皇はこの商社を通じ、日本軍の使用する兵器を敵国・米国から密輸し、その販売利益を「天皇個人の財産」として、スイス銀行の口座に密かに蓄財し続けていた。

 天皇はディロン社の日本代理人であり、第二次世界大戦の武器密売で利益を蓄積した武器密売人であった。

 天皇と同じ会社ディロンで「働く」カーママン。商社カーママン社を天皇と共同経営する「天皇の同僚」カーママンが、広島、長崎へ投下された原爆の製造担当者であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/59498275.html



8. 中川隆[-9849] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:50:12: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2509] 報告
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櫻井ジャーナル 昭和天皇による日米戦争策謀論 2

関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その1)

 1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲った。死者/行方不明者は10万5000人以上、その損害総額は55億円から100億円だという。当然のことながら金融機関もダメージを受けた。


 そこで政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円限度の政府補償を条件として日本銀行が再割引したのだが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したため、手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。


 そうした中、復興資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断し、森賢吾財務官が責任者に選ばれた。交渉相手に選ばれた金融機関がアメリカのJPモルガン。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていた。


 当時、JPモルガンを指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。


 日本に対して大きな影響力を持ったラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。1899年から1902年にかけての南アフリカ戦争で世界の金を支配することにイギリスは成功、金本位制を最小した国々の通貨を支配できる立場になった。JPモルガンはイギリスの巨大金融資本の影響下にあった金融機関だ。


 金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だとする考え方をする人物だった。当然、失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。


 その1932年にアメリカでは大統領選挙があり、巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破って当選する。


 そのルーズベルトは大統領に就任する17日前、つまり1933年2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会で銃撃事件に巻き込まれた。ジュゼッペ・ザンガラの撃った弾丸はルーズベルトの隣にいたシカゴ市長に命中、市長は死亡した。群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外したと考える人も少なくない。


 次期大統領を狙っていた可能性があるわけで、背後関係などをきちんと捜査する必要があったのだが、何も事情を聞き出せない、あるいは聞き出さないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809010000/


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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)

 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809020000/


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2018.09.13
米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その1)

 ロシアのウラジオストックで2015年から毎年開催されているEEF(東方経済フォーラム)はウラジミル・プーチンの外交戦略において重要な意味を持っている。アメリカは東アジアの軍事的な緊張を高めようとしているが、それに対抗してロシアは緊張を緩和、地域の経済発展につなげようとしているのだ。プーチンの戦略に中国や韓国は賛成、連携している。この3カ国に朝鮮も加わった。

 今年のEEFは9月11日から13日に開かれているが、そこで朝鮮は自国の鉄道と韓国に鉄道を結びつけることに前向きな姿勢を見せた。ロシアには以前からシベリア横断鉄道を延長して朝鮮半島を南下させようという計画がある。その計画とリンクしていることは間違いないだろう。


 この鉄道計画はロシアから天然ガスや石油を輸送するパイプラインの建設計画、そして中国の一帯一路とも関係している。大英帝国の時代からアングロ・サクソンの基本戦略はユーラシア大陸の周辺部分から内陸部を締め上げていくというもの。物資の輸送が海運中心だった時代は効果的な戦略だったが、そうした戦略を高速鉄道やパイプラインは揺るがせている。


 現在、東アジアでアメリカの戦略に従っている数少ない国のひとつが日本。その日本に対し、プーチンは前提条件なしで平和条約を結ぼうと日本側へ提案したという。ソ連/ロシアと中国の制圧を長期戦略の中心に据えているアメリカは日本がソ連/ロシアや中国と友好関係を結ぶことを許さない。プーチンも当然、そうしたことを熟知している。アメリカの政策で疲弊している日本へのちょっとしたメッセージだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809120000/


米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その2)


 アメリカは東アジアでも軍事的な緊張を高めようとしてきた。2009年に総理大臣となった鳩山由紀夫は東シナ海を「友愛の海」にしようと提案したが、これはアメリカ支配層を激怒させたことだろう。その後、日本ではマスコミが鳩山を攻撃、鳩山は2010年に首相の座から引きずり下ろされた。


 そして登場した菅直人内閣は中国との関係を破壊する。2010年に「日中漁業協定」を無視して石垣海上保安部は中国の漁船を尖閣諸島の付近で取り締まったのだ。それ以降、日本は中国に敵対する国になった。


 こうした政策は日本の企業に打撃を与える。中国は日本企業にとって重要なマーケットだったからだ。アメリカの中東政策は石油価格を暴騰させる可能性があるのだが、これも日本にとっては大問題。ロシアという中東より低コストで安定的なエネルギー資源の供給源が日本の近くに存在するが、ロシアとの関係を深めることをアメリカ支配層は許さないだろう。


 こうしたアメリカの政策は一貫したもの。1955年6月に鳩山一郎内閣はソ連と国交正常化の交渉を始めた。その一方、重光葵外務大臣(副総理)は同年8月に訪米してジョン・フォスター・ダレス国務長官と会談、「相互防衛条約」の試案を提示した。


 その試案の中で「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始」、「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛6箇年計画の完遂年度の終了後おそくとも90日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」としている。


 日本とソ連は「歯舞、色丹返還」で領土問題を解決させる方向で動き始めたのだが、ダレス米国務長官は激怒、2島返還でソ連と合意したらアメリカは沖縄を自国領にすると恫喝したという。沖縄は歴史的に独立国であり、その意味でもアメリカの姿勢は傲慢だ。


 こうした恫喝はあったが、鳩山首相は1956年10月、河野一郎農相をともなってモスクワを訪問、鳩山首相とニコライ・ブルガーニン首相(ソ連閣僚会議議長)は日ソ共同宣言に署名して12月に発効した。それにタイミングを合わせるように鳩山は引退する。


 鳩山一郎の辞任を受けて行われた自民党総裁選でアメリカは岸信介を後押しするが、中国やソ連との交流を促進しようとしていた石橋湛山が勝つ。その石橋は2カ月後に病気で倒れ、首相臨時代理を務めることになったのが岸。翌年の2月に岸は首相に選ばれた。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130000/


米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/

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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/

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元徴用工への損害賠償を認めた韓国での判決が日本軍による略奪へ波及するか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811040000/
2018.11.05 櫻井ジャーナル

 元徴用工が新日鉄住金に損害賠償を求めた訴訟で、韓国の大法院は10月30日に同社への支払を命じた。大法院は日本の最高裁に相当、これで合計4億ウォンの支払いを命じたソウル高裁の判決が確定した。日本政府は徴用工の問題は1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決している」という立場だが、個人の請求権は消滅していないと大法院は判断したのだ。かつて、日本政府もこの事実を認めていた。1965年当時の韓国大統領は1961年5月の軍事クーデターを指揮した朴正熙である。

 第2次世界大戦後、韓国も日本と同じようにアメリカ支配層の影響下にあったが、イギリスの戦略を引き継いだアメリカの目は中国、そしてソ連/ロシアに向けられている。イギリスの基本戦略とも言うべきハルフォード・マッキンダーの論文が発表されたのは1904年だが、侵略して略奪するという基本方針はその遙か前から行われてきた。

 イギリスが侵略の手を東アジアまで伸ばしてきたのは19世紀。1840年から42年にかけてのアヘン戦争、56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)は象徴的な出来事だった。

 こうした戦争でイギリスは中国(清)に勝利したが、内陸部を制圧する力はなかった。当時の主な輸送集団は船であり、主要な港を押さえられたことは清にとって大きな痛手だったが、占領されたわけではない。

 占領のための地上軍として機能したのは日本軍だ。現在の中東でアル・カイダ系武装集団、ダーイッシュ(イスラム国、IS、ISIS、ISILとも表記)が果たしている役割と似ている。だからこそ、米英の支配層は戦費を融資、技術的な支援をした。外交的にも助けている。あの強欲な米英支配層がこうしたことを行ったのは、その先に自分たちの利権があったからにほかならない。

 日本は東アジアを侵略した際、組織的に財宝を略奪している。その財宝の多くはフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれるが、戦況が悪化してフィリピンから日本へ運べなくなると、フィリピンに隠す工作を始めた。その隠された財宝は後に山下兵団の財宝と呼ばれるようになる。

 もっとも、山下奉文が日本軍第14方面軍の司令官に就任したのは1944年9月のことで、財宝の集積作業は終盤にさしかかっていた。作業を指揮していたのは本間雅晴、田中静壱、は黒田重徳のころだ。ちなみに、田中静壱は関東軍憲兵隊の司令官だったことがあるが、そのときに細菌戦用兵器を開発するための生体実験にかかわっている。

 1945年8月当時、田中の副官だった塚本清(素山)は略奪したダイヤモンドを日本へ運んだひとりと言われ、敗戦後はアメリカ軍と緊密な関係を持っていた。1961年には創価学会の顧問に就任している。

 日本が降伏した後、その隠された財宝のありかを調べる責任者がエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際はOSS、戦後はCIAの幹部だ。朝鮮戦争が休戦になった直後にジョン・フォスター・ダレス国務長官はNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成、その団長をランズデールが務めている。その後、キューバに対する破壊活動などを指揮した。

 ランズデールの下で日本人に対する取り調べを行っていたのが情報将校だったサンタ・ロマーナ。このロマーナが親しくしていた女性がイメルダ。ロマーナはイメルダをフェルディナンド・マルコスに紹介、ふたりは結婚する。マルコスは財宝の一部を掘り出して大金持ちになり、大統領になったといわれている。

 そのマルコスのライバルだったベニグノ・アキノ元上院議員が1983年8月にマニラ国際空港で射殺され、社会が不安定化する。アキノへはNEDを通じてCIAのカネが流れ込んでいた。

 アメリカ軍は1986年2月にマルコスを拉致して国外へ連れ出した。その背後ではCIAが蠢いていたのだが、その工作で中心的な役割を果たしたと言われているのがアドナン・カショーギ、リチャード・アーミテージ、ポール・ウォルフォウィッツなど。アドナン・カショーギはジャマル・カショーギの伯父にあたる。

 フィリピン国外へマルコスが連れ出されると、財宝の分け前をよこせという裁判が起こされる。弁護士がでっち上げ事件で攻撃されたりしたが、それでも裁判の過程で財宝に関する情報が明るみに出てきた。

 日本軍が盗んだ財宝は金の百合と呼ばれているが、これとドイツがヨーロッパで盗んだ金塊、いわゆるナチ・ゴールドをアメリカ支配層は一体化させた。いわゆるブラック・イーグルだ。その一部は1960年頃から日本の支配層が運用しているとも言われている。

 この秘密資金は日本やドイツが盗み、アメリカが横取りしたものである。個人の請求権は存在するということになると、この秘密資金を返せという個人の要求が出てきても不思議ではない。


20. 中川隆[-9785] koaQ7Jey 2019年6月07日 10:06:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2656] 報告

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」


太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/07/post_3bbd.html

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東京裁判では絞首刑になったのは陸軍の軍人ばかりで、海軍で有罪になったのは3人だけだ。さらには米内光政は起訴さえされず不可解だ。単に米英派だったというだけで起訴を免れることが出来るのだろうか? 永野修身も米軍病院で謎の死を遂げているがルーズベルトとの密約をばらされない為の謀殺ではないかという疑いもある。
日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

ソ連型の敗戦革命は、北進論の放棄と支那戦線の拡大が両輪だった。対ソ戦のみちを封じたうえで、日支を消耗戦にひきこみ、共倒れになったところで、「敗戦から内乱」のセオリーにしたがって、陸軍の一部と革新官僚が、革命軍・ソ連を迎え入れるという筋書きである。

これを、海軍にあてはめると、西方戦略の放棄が、北進論の放棄にあたり、支那戦線の消耗戦が、真珠湾攻撃から南太平洋海戦にいたる海軍の不可解なたたかいに該当する。ちがうのは、敗れた日本を支配するのが、ソ連ではなく、アメリカということだけである。


日米開戦の直前まで、日本の対米戦略は「漸減邀撃作戦」だった。

これは、マリアナ諸島やパラオなど、日本の委任統治領だった赤道以北の島々をまもり、遠路はるばるやってくる米艦隊を、漸次、痛めつけておいて、日本近海で全滅させようというもので、戦略目的は、本土と海路の防衛である。

世界一の戦艦大和と武蔵、質量とも、アメリカ艦隊を上回る空母艦隊と艦上機は、そのためのもので、背後に航空基地をもつ島喚防衛戦で、日本海軍が、遠方からはるばる航海してくるアメリカ海軍に負けるわけはなかった。

真珠湾攻撃も南太平洋の艦隊決戦も、日本が、わざわざ、負けにいったたたかいだった。海軍が、そんな戦略をとったのは、陸軍の親ソ派(統制派)が、支那戦線を拡大させてソ連を救ったようなもので、イギリス仕込みの海軍内部に、チャーチルにつうじるルートがあったとしか考えられない。奇想天外だが、想像をこえているからこそ、敗戦革命は、だれにも気づかれることなく潜行して、あとからふり返っても、歴史的必然としか見えないのである。

日米戦争を指導した海軍の上層部は、すべて英米派であった.

敗戦をとおして、日本は、アメリカの属国のような国になった。戦時中、英米派として憲兵隊に捕らえられ、戦後、首相になった吉田茂は、それを勝利とよび、憲法改正や国防に、いっさい、関心をしめさなかった。

強国の庇護の下にはいることが、長期的には、日本のためになるのだという敗戦革命の思想が、ニューマ(空気)として、国際派や海軍に浸透していたのであれば、海戦前夜から真珠湾攻撃、南太平洋における壊滅的敗北までの、日本海軍の不可解なうごきに、一応の説明がつくのである。


真珠湾攻撃を計画させたのも、ルーズベルトー永野修身のラインがさせた可能性が強い。ルーズベルトと永野修身とはハーバード大学で二つ違いの同窓生だった。山本五十六もハーバードの同窓生でありこの三人が共謀すれば真珠湾攻撃は成功間違いなしだ。まさにハーバードは日本にとって疫病神であり、竹中平蔵も榊原英資もハーバード出で、まさに対日スパイ工作員の養成所なのだ。

海軍は三国同盟が結ばれるまでは開戦に反対していましたが、それが主戦論になってからは、御前会議などでも陸軍の思惑とは反対に超楽観的な見通しを述べて戦争へ突き進んだ。しかしシュミレーションでは日本海軍が連戦連勝でも二年もすれば燃料がなくなり軍艦は鉄の棺桶になってしまう。海軍が正直にアメリカと戦争しても勝てないと言ってくれれば開戦は防げた可能性が強い。

このように海軍の最高幹部が無責任極まりない発言を繰り返した背景には、永野や米内などはアメリカと共謀して「敗戦革命」を企んでいた可能性すら伺えるのだ。もちろん海軍だけではなく、外務省の吉田茂や白洲次郎や尾崎秀美など近衛のブレーンとなっているメンバーは「敗戦革命」を企んでいたのかもしれない。


確かに日本は大陸にずるずると深みに嵌って抜け出せなくなり、陸軍は陸軍で身動きが出来ない状況になり中国からの撤兵の目処が立たなくなってしまった。内閣はクルクルと総理大臣が変わり、5,15事件や2、26事件などで政府が軍部を統制することも出来なくなってしまっていた。しかし当時の軍人に当時の世界情勢が分かるわけではなく、海外からの謀略に引っ掛けられて戦争に突き進んでしまった。

このような情勢になれば「敗戦革命」を企むグループが出来てもおかしくないのであり、海軍の中にも米内、永野、山本、井上などのグループが敗戦を承知でルーズベルトと共謀した可能性がある。あるいは知らずに操られたのかもしれない。それほど真珠湾攻撃はアメリカにとっては都合が良かった作戦なのだ。

日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」という本に書いてある通りに、海軍の戦略や作戦には不可解な事が多く、このような疑問は最近になって指摘されるようになった。アメリカとの開戦は避けてインド洋に進む戦略をとれば、ドイツとの連携で勝てる見込みもあったと考える。開戦理由が石油の確保というのならばインドネシアはもとより中東の油田地帯の占領も考えるべきだったが、そのような作戦は全く検討されなかった。


山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。

軍人である艦隊司令長官に、日米開戦の責任をおしつけるのは、筋違いである。真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。戦後、GHQの協力者となった米内光政を、平和主義者として立てる論調が、とくに、親米保守派や文壇の大御所周辺でつよくなったため、そのことを、だれもいわなくなっただけの話である。

支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。

ハーバード大学留学組で、長年の駐米武官を経験して、アメリカに友人や知已が多かった永野が、なぜ、やみくもに、アメリカと戦争をしたがったのであろうか。

戦後、だれも、真珠湾攻撃のふしぜんさを口にしない。真珠湾を攻撃しなければ、日本は、日米戦争に勝てた、ということも。それが、永野の怪死によって封じられた、日米戦争最大のタブーだったからである

当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。


ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。

日本にとって、百害あって一利もなく、アメリカにとって、参戦の切り札になる真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があったとすれば、戦後、アメリカが、永野を生かしておくだろうか。

戦後、GHQから、「なぜ、自決しなかったのか」と問われて、「陸軍の真似(阿南の切腹)と思われるのが不本意だったから」とのべた永野が、戦犯で収監中、巣鴨プリズンで風邪を引き、治療のために収容された米陸軍病院で、急死した。

当時、だれも謀殺の疑いをもたず、たとえ、もったとしても、口にはだせなかったろう。東京裁判で、ルーズベルトとのあいだに密約があったと、永野が証言したら、ルーズベルトが、真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたどころの騒ぎではない。東京裁判で、日本側の被告は全員無罪になり、アメリカの原爆投下、都市空襲の非人道性が、あらためて、問われることになったはずである。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/405.html


山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。

真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。

ハーバード大学留学組で、長年の駐米武官を経験して、アメリカに友人や知已が多かった永野が、なぜ、やみくもに、アメリカと戦争をしたがったのであろうか。

戦後、だれも、真珠湾攻撃のふしぜんさを口にしない。真珠湾を攻撃しなければ、日本は、日米戦争に勝てた、ということも。それが、永野の怪死によって封じられた、日米戦争最大のタブーだったからである

当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。


ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。

日本にとって、百害あって一利もなく、アメリカにとって、参戦の切り札になる真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があったとすれば、戦後、アメリカが、永野を生かしておくだろうか。

戦後、GHQから、「なぜ、自決しなかったのか」と問われて、「陸軍の真似(阿南の切腹)と思われるのが不本意だったから」とのべた永野が、戦犯で収監中、巣鴨プリズンで風邪を引き、治療のために収容された米陸軍病院で、急死した。


 日本は、国家としてあろうことか、日本軍閥の中には、利敵行為を働く買国奴を戦争指導者と仰(あお)ぎ、太平洋戦争を戦わねばならなかったのです。

各々の局面は、日本軍はいつも決定的な失策を犯し、戦局が次第に暗転していきます。
 こうした失策を犯すのは、ある特定の人物ばかりであり、これを詳しく調べると、その人物の指導によって、日本軍は決まって壊滅的な打撃を受けているのです。

かつての旧陸海軍の兵隊の士気、下士官教育の優秀さ、空母や戦艦の造船技術を以てしても、あるいは航空機にしても、兵器や物量の所有数においても、日本はアメリカを凌駕(りょうが)出来るくらいの物を持っていたのです。

 そうであるにもかかわらず、このような悲惨な負け方をして、広島・長崎に人類初の原子爆弾が落とされると言う非人道的な行為を頭上に受け、最後までズルズルと負け戦を強(し)いられねばならなかったのでしょうか。

 このような負け方をする理由は唯一つ、それは戦略や作戦に携わった司令官や参謀達が無能であったという以上に、陸海軍の中枢に敵と通じ、日本が敗北する事を望んだ奸計(かんけい)を働く者が居たからです。日本は、日米開戦を戦う前から敗れていたのです。


▲米内光政。早々と日本を敗戦に導いた大戦末期の海軍大臣。日本軍敗北には必ず絡んでいた。

▲連合艦隊司令長官・山本五十六。ミッドウェー海戦で、白村江の鬪い以降の大負けをし、日本海軍を大敗北に導いた。

▲服部卓四郎。陸軍のあらゆる重大な作戦に関与し、利敵行為を働いて、敵軍に塩を送り、日本軍を敗北に導いた。

▲陸大出身のエリート・辻政信も、大いに利敵行為を働いたが、連合軍のBC戦犯容疑で指名されなかったのは米軍に恩を売った為か。

▲第一機動部隊参謀長・草鹿龍之介海軍中将。南雲・草鹿コンビで、負け戦を展開した。

▲第二艦隊司令長官・栗田健男海軍中将。レイテ湾突撃を目前にして、戦艦「榛名」麾下艦隊を、謎の北への反転を命令した。

http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama29.html


山本五十六は日本海軍を壊滅させた大功労者

山本五十六は軍国主義化した日本を是正し、民主主義国家にすべく、アメリカと手を握った。 なぜハーバード大学まで出た彼があのような痴呆のような作戦を立て続けたのか? 帝国海軍か゛まけるよう負けるよう仕組んだとしか考えられない

そして、連合艦隊司令長官として「わざと負けるように」作戦指導をした。
真珠湾で空母を逃したのも、強引にミッドウェー作戦を進めたのも、
日本を劣勢にするためである。

その後、山本の思惑通りに海軍は壊滅。日本は敗戦を迎える。

宇垣も山本五十六の有力な協力者で、彼の「作戦」が成功するよう参謀長として尽力しており、まさしくその「作戦」は大成功を収めたのである。

スパイといっていいすぎなら間違いなく国賊だ。 あのでたらめな作戦を見ろ ミッドゥェ−の時だって空母にほとんど護衛をつけてないじゃないか
沈めてくれと言っているようなものだ

又自分でガダルカナルまで戦線を拡大しながら自分は一度も救援にいってない。 トラック島という安全地帯で毎晩クーラーのきいた超ゴージャスな戦艦大和の最上階で部下の死闘もなんのその毎晩英国料理をたらふく食って太ってしまったというてはないか


真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。

  山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。

 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。

 日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。

  山本長官はこの計画を実現させるためにいろいろな手を打った。開戦の年昭和16年(1941年)夏の時点では、真珠湾攻撃で使用する予定の軽魚雷はまだ開発中であったし、9月初旬においても攻撃用の直接部隊は不足していた。山本長官は画策の末、こうした戦術面での問題を11月の末にはすべて解決した。


ところが肝心の永野修身軍令部総長ら海軍首脳部はこぞって反対であった。海軍上層部はまだ日米開戦に躊躇し、真珠湾攻撃が実際にどれだけ効果をあげられるか疑問を持っていたのである。日本がアメリカを仮想敵国としたのは明治40年(1907年)4月に「帝国国防方針」が制定されてからであるが、日本の陸海軍が立案した正式な作戦計画の中にはハワイ攻略は含まれていない。攻略の対象はせいぜいグアム島どまりだったのである。

  昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。

 日本を敗戦に導いた山本の謀略とは            [TOP]

  山本五十六連合艦隊司令長官が3年8カ月に及ぶ太平洋戦争の中で、実際に艦隊を指揮したのは真珠湾攻撃の始まった昭和16年12月8日からブーゲンビル島上空で「戦死」する昭和18年4月18日までの1年4カ月である。

  この間に山本長官は偉大なる貢献を「世界支配層」陣営に行なった。その貢献とは何であったかである。山本長官は太平洋戦争が日本の敗北で終わることを望んでいた。日本を敗北させることが山本五十六の役目だったのである。

  そのためには日本が圧倒的優位を誇る連合艦隊を速やかに壊滅させる必要があった。そしてもう1つは、アメリカの太平洋艦隊に対し常に手ごころを加え、その戦力を温存させることであった。このため山本長官が取った手段は次の通りであった。


● 海軍軍令部の強い反対を押しきって真珠湾攻撃を強行。
  ただしその攻撃は不徹底なものとする。
    忠実なる配下の指揮官  南雲忠一中将(第一航空艦隊司令長官)
                   草鹿龍之前少将(第一航空艦隊参謀長)
                   源田実中佐(第一航空艦隊参謀)

● 珊瑚海海戦で米海軍に手ごころを加える。米空母「ヨークタウン」撃沈せず。
    忠実なる配下の指揮官  井上成美中将(第四艦隊司令長官)
                   原忠一少将(第四艦隊空母指揮官)

● ミッドウェー海戦で連合艦隊大敗北を画策。
   忠実なる配下の指揮官   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之肋少将(機動部隊参謀長)

● ソロモン海戦でガダルカナル大敗北の原因を作る。
   忠実なる配下の指揮言   三川軍一中将(第八艦隊司令長官)
                   南雲忠一中将(機動部隊司令長官)
                   草鹿龍之助少将(機動部隊参謀長)
                   原忠一少将(軽空母「龍驤」指揮官)

● 「い」号作戦で日本の南東方面航空兵力を潰滅させた。


いずれの海戦においても忠実なる配下の凡将、愚将、怯将である南雲中将、草鹿少将、源田参謀、井上中将、原中将、三川中将などを長期にわたって使い続け、「攻撃の不徹底」ないしは「手ごころ」を加えさせている。

  さらに大事なポイントは、海軍が使用していた暗号電報をアメリカ側に筒抜けにさせていたことであろう。山本長官はアメリカが日本海軍の暗号電報をすでに解読し、連合艦隊のあらゆる作戦行動を見抜いていたこともあらかじめ承知の上で、作戦を強行したふしがある。

真珠湾攻撃のときもそうであるし、モレスビー攻略作戦(MO作戦)における珊瑚海海戦は不充分な戦果に終わった。ミッドウェー海戦(MI作戦)の時も、アメリカ側に充分な情報と対応のための準備期間を与えていたと考えられる。

  長期間に及んだソロモン海戦のときも日本の艦隊や輸送船、飛行隊の動きはすべてアメリカによって把握されていた。結局日本海軍は山本五十六の意図によってその初期戦力を激滅させていたのである。

  この偉大なる「功績」により山本長官の役目は一通り終った。そして姿を消す時期がやってきたのである。ブーゲンビル島上空における「戦死」がそれである。アメリカが暗号解読をしていることを承知の山本五十六は、前線視察と称して連合艦隊司令部から一式陸攻に搭乗してブーゲンビル島のブイン飛行場に向かったのである。

  山本五十六連合艦隊司令長官はこうして戦線から姿を消すのであるが、山本長官とともに1年4カ月の海戦を戦った将官たちは、その極度な無能ぶりにもかかわらず戦後さまざまな戦記作家によっていずれも名将、名参謀としてたたえられている。


  日本が開戦したときのアメリカとの国力は1対10の比率であったと言われる。  このために日本が戦争したのは無謀であったとか、やがては負ける運命であったなどという意見があることも事実だ。だが、日本があらゆる海戦で勝利をおさめていれば(それは可能であった)アメリカの戦意が喪失し、休戦、和平交渉の道も可能だったのである。

http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/105.html


●真珠湾奇襲攻撃でルーズヴェルトに協力

連合軍隊司令長官に就任した山本五十六は日米開戦は最早避けられない物として何時の間にか「真珠湾攻撃」を口にする様になる。

 欧州では既に昭和14(1939)年9月3日、第二次世界大戦が勃発して独国が破竹の進撃を続けていた。欧州で苦戦を続ける英仏を救済し米国を参戦させる事は米国大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの基本戦略であった。ルーズヴェルトは英首相チャーチルと共謀して日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせて米国の世論を激Vさせ、其の怒りで対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

 山本五十六はルーズベルトとチャーチルに協力してハワイ奇襲の構想を練ったのである。  山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して半年余り経った昭和15年3月、真珠湾攻撃を想定した実戦さながらの電撃訓練が行われた。

 五十六の乗る連合艦隊旗艦「長門」そして「陸奥」及び空母「蒼龍」を目標に艦上攻撃機、双発陸上攻撃機、急降下爆撃を行う艦上爆撃機等81機が上空低空から襲いかかり模擬魚雷等を撃ち込んで三隻とも撃沈間違い無しの戦果を上げたのである。山本長官は此の時「飛行機でハワイを叩けないものか」と呟いたと云う。山本五十六は昭和16年1月、及川古志郎海軍大臣に宛てた私信の中で次の如く述べている。

 「日米戦争に於て我の第一に遂行せざるべからざる要項は、開戦劈頭
 敵主力艦隊を猛撃撃破して、米国海軍及米国民をして救ふ可かざる程
 度に、其の士気を阻喪せしむ事是なり。此の如くにして、初めて東亜
 の要衝に占居して不敗の地歩を確保し、依て以て東亜共栄圏も建設維
 持し得べし」

 五十六の計画の中には、既に機動部隊に依る真珠湾攻撃の具体的構想があったのである。
 1月下旬、連合艦隊司令部は真珠湾攻撃の研究を開始、第11航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将に極秘で此の研究を依頼した。大西は五十六と同じ思想を持つ航空主兵、艦隊無用論者であった。

 ハワイ奇襲攻撃の猛訓練は鹿児島県志布志湾を中心に行われた。

斯うして訓練に訓練に重ねた第一航空艦隊(空母6隻を中心とした機動部隊。司令長官は南雲忠一中将)は択捉島単冠湾に集結、昭和16(1941)年11月26日秘かにハワイに向けて出航した。日本時間12月8日午前3時25分、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴の6隻の日本空母から発進した第一次攻撃隊183機はハワイ・オアツ島パール・ハーバーにある米国太平洋艦隊の基地を奇襲した。

 ハワイ真珠湾攻撃を米国大統領ルーズヴェルトは事前に知っていた。日本の外務省が使用していた『紫暗号(パープル)』は盡く米国に筒抜けであったが、此のあには日本に暗号解読の協力者がいたと見なければならぬ。

 真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は主な物で戦艦アリゾナ、オクラホマ、ウェスト・ヴァージニア、カリフォルニア、ネバダ、テネシー、メリーランド、ペンシルヴェニアの8隻、重巡ニューオルリンズ、軽巡ローリ、ホノルル、ヘレナの3隻そして駆逐艦ショー、カシン、ダウンズ、オグララ、ドックの5隻総計17隻である。

 ところが不思議な事に空母レキシントンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはウェーキに矢張り飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガは米国本土西海岸にいた為に無事であった。

 被害を受けた戦艦は何れも1910〜20年代に就任した旧式艦であり、しかも真珠湾に沿って態々攻撃し易い様に一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破等の被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等は何れも引き上げが容易で短期間の内に修理、再就役し太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。

 斯うして見ると真珠湾攻撃と云うのは一種の茶番劇であった事が分かる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」に依り英雄視されているが、其の結果残った物は「日本の卑怯な欺し討ち」と云う非難と米国の対日積極参戦の意識高揚そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。此の時死んだ米国兵2403名は今でも米国人にとって対日憎悪の対象と為っている。


●最終通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世

真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっている。一つは宣戦布告の通知が遅れた事、そしてもう一つは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては此れは最初からそう仕組まれたものであったと云う他は無い。

 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合う物であった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日、午後1時に行うものであっス。ところが野村、栗栖大使が実際に其れをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、其の時真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交が何故遅れたかに就いては尤もらしい説明が付けられている。

 対米最後通牒の電報は14通から成り、其の内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、其の日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。

 其の時の大使館員の様子は次の如くであったとされる

◆14通の電報は2種類の暗号を重ねた2重暗号であり、最初の13通は
 12月6日午後1時から入電を開始、粗同時に専門の電信官に依って暗
 号解読が始まった。午後8時半あ事務総括の井口貞夫参事官が解読作業
 中の若手外交官達を誘って行き付けの中華料理店”チャイニーズ・ラン
 ターン”の一室で夕食会を開く。此れは寺崎英成1等書記官の中南米転
 任送別会を兼ねていた。

◆7日、早朝13通分の電文タイプを開始、寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、及び妻の母と共に郊外に車旅行、連絡も付かない状況であった。


◆7日の朝、大使館の電信課宿泊員で若い熱心な基督教徒である藤山楢一
 は14通目の電報ともう一通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入
 手したが、其の日は日曜日であった為、教会の礼拝に出掛け、電信課の
 責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官及び松平康東一
 等書記官に対し連絡を怠った。

 14通目の電報が7日の何時から暗号解読され始めたかの公式記録は無い。だが前日に受信した13通の電報が既に解読されており、事の重大性に大使館全員が気付かぬ筈は無い。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、其れ以前の13通分に就いても事前にタイプを済ませて何時でもハル国務長官に提出出来る様にして置くのが当然であったろう。だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半あからであり、14通目の暗号解読が終ったと推定される午前10時あ迄は奥村一等書記官に依るのんびりした調子(ペース)であった。

 ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬ様指示されていた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。

 此の外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむのである。
 先ず外務省であるが、僅か残り数行に過ぎない14通目と最後通牒文である第901号電を何故態々其れ迄の13通より遥かに遅れて発信したのか。更に此の重要な時期に何故寺崎一等書記官を転任させる処置を取ったのか。又何故秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか等である。

 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。此れは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。


戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相に此の最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局此の件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶の一人フリーメーソンであった。当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。

 日米開戦の最後通牒が遅れ真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になった事で米国人の世論は開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。


●不徹底な攻撃で米国を助ける
 ところで「攻撃の不徹底」であるが其れには二つの意味がある。
 一つは真珠湾上の米国海軍艦船に対するものであり、もう一つはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである。

 真珠湾攻撃で受けた米国太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された膨大きなものはではなかった。戦艦八隻の内アリゾナとオクラホマを除き残りの6隻は其の後全て水深15mと云う浅い海底から引き上げられ修理、復旧した後何れも戦線へ復帰して大活躍しているのである。

 又陸上施設に就いては南雲第一航空艦隊司令長官による第一次、第二次攻撃隊は全く手を触れておらず、第三次攻撃隊を出す事も中止している。第三次攻撃に関しては殆どの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第二航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第三波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀は愚か、遥か後方の戦艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官迄が其の必要性を認めていないのである。


若し、此の時第三次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯あ庫、更には米国海軍基地の補給、修理施設、工場郡、燃料タンク郡を破壊しておれば太平洋の戦局は大いに変ったものとなったであろう。

 ハワイが米国の太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であった事を考えるならば、此の攻撃不徹底はいかにも奇異な物であると言わなければならない。ハワイの燃料タンクに貯あされていた重油450万バレルを爆撃しておれば米国本土からの補給は数カ月間に亙って不可能となり、米国の太平洋艦隊は身動きが取れなかったのである。

 更にもう一つ付け加えるばらば、ハワイ攻撃の日が何故12月8日であったかと云う事だ。勿論日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上此の日になったと云うのは一つの説明であるが、山本長官が此の日は真珠湾に米国空母がいない事を予め知っていたからであろう。

 山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初から無かった。日本が米国を奇襲攻撃し、「卑怯な日本」と云う既成事実を作れば其れで良かったのである。


4、日本兵を大量に無駄死にさせた山本の作戦

●日本の連合艦隊の撃滅が山本の目的

 昭和17年5月、帝国陸海軍はニューギニア進攻作戦を実行する。此の作戦の主目的はニューギニアのポートモレスビーを攻略して此処に強固な前進基地を構築し、米国とオーストラリアの分断を計り、オーストラリアを孤立させる事だった。

 此のあ、大本営では陸海軍の戦略思想の対立が再び深刻化、陸・海軍省及び参謀本部・軍令部で戦争指導計画の再検討が行われ、「今後採ルベキ指導ノ大綱」が妥協に依って3月7日に成立した。そして「戦況の許す限り、出来るだけ早く占領或いは撃滅する必要のある地域」として次の3部に分けられた。

(1)ソロモン諸島のツラギ、及びニューギニア南岸のポートモレスビー
   の基地を占領し、珊瑚礁とオーストラリア北部の支配あを確立する

(2)ハワイ北西の太平洋上に広がるミッドウェー環礁を一挙に水陸両面
   作戦により撃破する

(3)フィジー、サモア、ニューカレドニアを結ぶ線を確保し、米国合衆
   国とオーストラリアとの直接連絡を断つ

 此の内(1)と(2)は山本長官の発案だった。計画(1)の暗号名は「MO」計画(2)は「MI」とされ、此の二作戦が失敗した場合、計画(3)は中止すると云う物だった。斯うして先ず「MO作戦」が山本長官の強い意志で実行されたのであるが、其の真の意図は此の作戦により米国太平洋艦隊を此の海域におびき出して決戦を挑み、日本の連合艦隊を撃滅させる事だった。

@驚くなかれ、山本長官の狙いは米国の太平洋艦隊を撃破する事では無く、其の逆だったのである。ニューギニア進攻作戦そのものは米豪連合軍の激しい反撃に遭って挫折、ポートモレスビーの陸路進攻も失敗するが、進路から此の地を攻略する為井上成美中将の指揮する第4艦隊は珊瑚礁に於て5月7日、8日の両日、米国太平洋艦隊(司令長官チャスター・W・ニミッツ大将)と激突するのである。


此の海戦で日本粗互角の叩き合いとなり、7日の戦闘で日本側は空母「祥鳳」一隻を失い、米側は駆逐艦と油槽艦各一隻、続いて8日は日本側は空母「翔鶴」が被弾、米側は空席「レキシントン」が沈没、「ヨークタウン」は大破した。

 だが此の時井上中将は何故か「ヨークタウン」に止めを指す事をせず、攻撃を中止して北上するのである。此の「ヨークタウン」がハワイの海軍基地に帰り僅か2日間で修理されて2カ月後に起こったミッドウェー海戦に参加、彼の連合艦隊撃滅の立役者となるのである。

 此の珊瑚海海戦で井上成美第4艦隊司令長官の果たした役割は一体何であろうか。其れは「手緩い攻撃」に依って引き起こされた戦術的勝利戦略的大敗北に他ならない。

 しかも真珠湾攻撃同様、暗号は盡く米軍に依って解読されていた。ニミッツに依る空母2隻の急派も日本海軍のMO作戦を全て事前に知っていたからであった。結果として日本軍はポートモレスビーの攻略に失敗、南太平洋の戦局は厳しい物となり、日本軍の限界を示すものとなった。

 昭和17年4月P8日、空母「ホーネット」を発進したドーリットル中佐率いる双発爆撃機B25十六機が日本に向かい、東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸の各都市を爆撃した。此れに依って日本側は死者45名、重傷者153名、家屋全焼160戸、全壊21戸の被害を出した。

 此の「ドーリットル空襲」に大きな衝撃を受けた陸軍部は太平洋に於ける制海あの確保、防空作戦上の見地から太平洋海域に於ける重要拠点の確保詰まり島嶼の領有を検討し始める。

 海軍が主導するミッドウェー(MI)、アリューシャン(AL)両作戦に当初反対であった陸軍は、4月20日此の太平洋方面作戦で海軍と同一歩調を取る事を決定したのである。
 元々太平洋戦争開始に際し、海軍が取って来た戦争指導は早期撃破、戦果拡大であるのに対し、陸軍は長期持久であり、守勢思想の重視であった。「ドーリットル空襲」は結果的に往来の陸軍の作戦指導を変更させる事になった。


●真珠湾もミッドウェーも山本が強引に決行

 真珠湾攻撃の時もそうであったが、ミッドウェー攻略作戦も又山本長官の強引な主張に依って計画されたものであった。山本長官の主張とは昭和17(1942)年中に米太平洋艦隊を誘き出して此れを撃滅する。其の為の餌としてはミッドウェーが最適であり、此処を占領してハワイに脅威を与えれば米国の戦意は著しく衰え、其れに依って和平交渉への道が開かれると云う物であった。

 だが此の計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。其の第一の理由は占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしいと云う物である。ミッドウェーはハワイから僅か千八百キロしか離れていない上にハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、直ぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても奇襲以来基地を強化し続けていた米軍への脅威にはならず、米国民の志気に影響を与える事は無く、従って米国が和平交渉を提案する事は有り得ないと云うのである。

 又日本の偵察機の行動半径は1120キロ(ハワイに届かない!忍)に過ぎないので広大な太平洋の真ん中で有効なる偵察任務は果たせないと反論した。
 其れよりもニューカレドニア、フィージー、サモア諸島に対する攻撃を強め、オーストラリアとの分断を謀る方が戦略的価値は高く、米国艦隊も本国基地から強く離れているので、補給困難に陥るだろうとし、米艦隊を誘き出す目的であれば、オーストラリアが自国の海岸線を脅かされる為米国に救援を頼むのは確実である、と強く反駁したのである。

 ところが山本長官は敵の空母勢力を撃破すれば自ら米豪間は分断されるので、先ずミッドウェーで敵の空母を誘き出し此れを必ず撃破して見せると豪語したのである。山本長官の主張は頑なにミッドウェー攻撃一点張りであった。


ミッドウェーが米国最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利な事は一目瞭然である。にも関わらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズベルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊を此処で破滅させる約束をしていたからに違いない。

 そもそもハワイ真珠湾でq空機による奇襲攻撃を実施し、航空機の持つ破壊力と重要性を態々米国に教えた事のみならず、生産力では圧倒的に勝る米国が此の事を教訓に大量生産の下、航空戦力の飛躍増大を図った事は山本長官の決定的間違い(実は陰謀)ではなかろうか。以後米国はあらゆる戦局で航空戦を挑み、日本を圧倒していくのである。

 ミッドウェー作戦自体も真珠湾攻撃同様山本長官が立案したものであるが、山本長官の表向きの主張はミッドウェー島の攻略と米空母部隊を誘き出した上で、此れと決戦すると云う二つの目的であり、首尾よく米空母部隊を撃滅出来た場合は続いて10月あハワイを攻略すると云う物であったが、真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破滅に導く事であった。

 米国は充分に航空戦の練習を積み、山本長官の差し出した獲物に向かって殺到したのである。山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。だが山本長官は其の反対には全く耳を貸そうとしなかった。最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。
http://www.asyura2.com/2002/dispute3/msg/413.html
http://www.asyura2.com/08/wara4/msg/253.html


源田実先生も日本海軍を壊滅させた大功労者

[源田]:は真珠湾攻撃時の戦闘機隊総指揮官だった。

映画「トラトラトラ」での源田は、男らしく清清しいキャラクターとして描かれていたが、実際は *中国での海軍用軍需品調達のからみで、あの児玉誉士夫と臭い仲* であった。参議院偽員に何度も当選、贋右翼諸団体のカリスマであったらしい。


源田実は何故上層部にこれ以上空母を作らない様に進言した:

日本は第二次大戦で真珠湾攻撃で米太平洋艦隊の戦艦を、航空機攻撃によってすべて葬り去ったということがありました。

アメリカはこの敗北体験から、戦艦建造を止め、素早く空母中心に艦隊を、
再編成したのです。一方,日本はどうしたのかというと、その後も戦艦大和、武蔵などを相次いで建造し、宝物のように温存し続けたのです。

戦後、この点を不思議に思った一橋大学の野中教授が、元航空参謀で、戦後参議院議員を務めた源田実氏に、直接疑問としてぶつけたときの話が同書に紹介されています。何と!源田実元航空参謀の答えは、

「長年苦労させてきた水兵たちに対して、『もう君らの時代終わった、これからは飛行機乗りの時代だ』とは言えなかったというものであった」


源田によって零戦の防御は軽視された

ゼロ戦の開発に際し、ともに戦闘機パイロットであった、故源田実 (軽量・旋回性能重視の名人向き戦闘機推奨) と故柴田武雄 (速度・航続距離重視) の大論争があったが、スタンドプレイに勝った源田案が重視されたことが、その後のゼロ戦の悲劇の原因になった。


太平洋の島礁で航空機の戦いでした。 日本機は燃料タンクが防弾構造になっていません。 燃料はガソリンですからすぐ発火します。 熟練パイロットを次々と失う結果になります。 現地から防弾構造燃料タンクの要望があがります。 結果は源田実(海軍・戦後参議院議員)が、がたがた云うな!!。一機でも多く生産しようでチョン。  彼の馬鹿さを書くと私が悶絶発狂しそうです。

この非論理的発言で防弾燃料タンク開発を封じ込めたその当人が、昭和50年(1975)に発売された「別冊週間読売」のコラムで海軍では、論理の通っている議論が尊重され ・・・・ 云々。と述べている。 勝手で都合のよいことを書くな!!。

極めつけは、昭和19年9月、海軍は大森仙太郎海軍中将を特攻部長に任命し、同13日軍令部参謀源田実は一通の電報を発した。 「神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処、各攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊) ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度・・・・・」 すなわち、特攻部長を決め、特攻隊名まで決めて人間爆弾となる人選を行っている。 そして突入は10月25日。

この事実をどう説明するのか。  あくまで指導部は特攻隊を「志願」であったという詭弁を弄する。志願ならなぜ1名を除いて佐官の特攻隊員はいないのか。なぜ将官の特攻隊員はいないのか。なぜ、皇室関係者はいないのか。特攻を知らなかったとでも言うのだろうか。単座1名の航空機以外に、艦攻、艦爆の副座にご丁寧にもペアを乗せて特攻させた。佐官、将官が操縦できなくてもペアは組めたはずだ。志願が聞いて呆れる。愚弄するにも程がある。

 殉国の至情に基づく先に航空特攻があった。と公言して憚らない連中に聞きたい。

 彼、源田はこの特攻について戦後、片言隻語触れなかった。 馬鹿らしいのでこれで終わり。 この先は、半藤一利氏著:昭和史(上・下)を読んで知って下さい。 それでないとあなたが馬鹿にみえますよ。
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/entrance/entrance.htm


源田実「 レイテ沖海戦で武蔵(戦艦)が沈んだのは、特攻機の出し惜しみが原因だ 」
http://ch05028.kitaguni.tv/c9474_2.html


山本五十六が航空の先駆者だなんて大嘘です。 日本海軍戦闘機の進捗を阻害したのが山本五十六。その土台となる提案をしたのが源田実。結局、山本五十六につながる連中はおべっか使いのおっちょこちょいばかりそろっている。それらが日本海軍の中枢にいたわけです。あの大戦中に零戦がいかに優秀であったとしても、昭和15年に出まして、小手先のモデル・チェンジだけで、太平洋戦争の第一線の戦闘を6年間もず〜っと使った。そんな文明国があるか。これほど馬鹿なんです。

源田部隊が始まった時に、私は、その時の副長からぜひ来てくれということで、呼ばれていったんです。現場は、もう惨憺たる状況。紫電改の操縦法と紫電の空戦法を指導してくれと。

 差しつかえるから、ほんとのことはあまりいえませんけれどね。惨憺たるものでした。源田が指揮すると、ばったばったとやられていく。冗談じゃない、あんなに戦死者・犠牲者の出た部隊はないんですよ。聞いていたのとまったく違う場合が、軍に関する限り、あまりにも多すぎる
http://www.takjapan.com/newsmakerssakai.htm


源田実先生は戦後も売国を続けてるね  


ポンコツ戦闘機 F104Jを自衛隊に買わせてアメリカから勲章を貰ったんだね:

あの東京大空襲の首謀者、カーティスルメイに勲章を与える運動をしてまで、アメリカに出向き防衛庁が決定していたグラマンG98スーパータイガーをチャブ台返ししてまで大騒動になった「悪夢のような戦闘機」なのである。

その時期、機種選定にF−X選定調査団を率いた人こそ、あの源田実だった。源田実航空幕僚長(自衛隊内の呼称を旧軍でいえば「空軍大将」とでも言うところだろうか)230機、国産されているがこの受注は、御存知三菱重工である。

当時、一機4億円。総額1000億円もの高額の買い物だ。喫茶店で珈琲が20円ぐらいの時代だから今の物価ならば80億円ぐらいなのだろうか。当時防衛庁が、購買の段階でさらに価格が高騰して、青くなったという風聞だ。

笑えるのは、殺人鬼カーティスルメイに勲章をやってまで導入した源田実ご推奨なる冒頭のF104Jは、長距離攻撃大好き米戦略空軍には嫌われて、、、実は、空軍用兵思想には合致しないと、あっというまに蔑視されて早期退役させられたポンコツ戦闘機なのである。

軽制空戦闘機を、あてがわれたのはアメリカの豚が食べたがらなかった、危険なまでの不健康な飼料だったあの脱脂粉乳を、こともあろうに捨てるのが勿体無いと日本の小学生の学校給食に輸出した食糧マフィアらと発想は同じだ。

その片棒をかついだのがポチの頭目のひとり、源田実というのが真相だろう。
F104Jは、その後日本で迎撃専用機に仕立て上げられたが、機体が小さくその機体内部に、全天候レーダーやAAMを装備組み込みするのに大難儀したことが語りつたえられている。飛行機は、購入して飛ばせば良いというものではないのだ。低空をとられれば、操縦不能になりやすいF104は、世界中でよく墜落したものだ。つまり、日本の国防はこのような隙だらけの戦闘機に託されていたのである。
http://plaza.rakuten.co.jp/hint2003/diary/200612300002/


11. 中川隆[-9846] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:57:41: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2512] 報告
▲△▽▼

原爆を投下される迄 日本が頑張った訳
第二次世界大戦中、昭和天皇ヒロヒトは、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。

 天皇とドレイパーは、兵器密売の共同事業者として、兵器販売促進のため日米戦争を行っていた。

 戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。

 戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。

天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。

 これが、「同業者、兵器密売企業の共同経営者」天皇とドレイパーの密約である。
http://alternativereport1.seesaa.net/


昭和天皇に入れ知恵した(?)ジョセフ・グルーの正体

アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。

 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。
 以下は、おおむね鬼塚英昭氏の『原爆の秘密(国外編)』(成甲書房)から教わったものだ。

 グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。鬼塚氏はグルーを、トルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物として描いている。
 
 鬼塚氏によれば、原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であったと述べている。それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。

 憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。
 鬼塚氏は、白洲次郎を「スティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男”」と称している。

 白洲次郎の父・文平は綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築いた人物である。明治時代にハーヴァード大学を卒業しているから、このときすでにイルミナティあるいはユダヤ財閥と関係を持った(工作員となった)はずである。後にドイツのボンに学んだ折、白洲の妻となる正子の父・樺山愛輔と面識を得たということになっているが、次郎も正子も幼少のころから(イルミナティによって)結婚させられる手筈が整っていたと思われる。

 次郎はケンブリッジ大に留学する。学者を目指したとされるがウソだろう。神戸でチンピラやっていて、英国に行っても高級車を乗り回すしか能がない男が学問だなんて笑わせるんじゃない。イルミナティの工作員として教育されるためにケンブリッジ大学に呼ばれたと見るべきであろう。白洲次郎も本格的にイルミナティに取り込まれて、終世ドレイ的契約を交わしたのであろう。
 そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。

 次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。ここにもイルミナティ関連の工作が効いているのだ。

 白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。

 ソ連の工作員だった朝日新聞の記者、尾崎秀実はゾルゲ事件に連座して死刑になったが、おそらく同じような工作を担当していた米英側の工作員・白洲次郎は生き延びて、さらに戦後GHQの手先まで務めたのである。アメリカ側が戦時中に白洲に手を出すなと日本の官憲に厳命した可能性はある。それは白洲も尾崎も同じイルミナティの手先であったが、戦後は冷戦構造を演出しなければならなかったから、イルミナティとしては日本をアメリカの統治下におくので、ソ連系の尾崎は邪魔になったのだろう。尾崎は日米戦を実現させた意味で、勲一等ではあったが、アメリカ系スパイの白洲と組んでいたことがわかれば、まずいからではなかったか。

 ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。
 
 鬼塚氏は『原爆の秘密(国外編)』で「白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう」と書いている。
 鬼塚氏はよく調べたと思うが、しょせん戦争はすべてユダヤ・イルミナティが仕組む八百長であることが十分わかっていない。八百長には演出家も俳優も必要なだけで、白洲はただの小間使いである。

 Wikipedia にはこうある。

 1950(昭和25)年、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

 1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年)11月19日から昭和29年(1954年)12月9日まで外務省顧問を務めた。

 よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。全部イルミナティの指示によって白州がお目付役となって随行したにすぎまい。まるで最近の小泉劇場を演出した秘書官みたいだ。

 鬼塚英昭氏は『原爆の秘密』で、日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下がセットになっていると述べている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。

 鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。

 その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。
 
 その同盟通信社はヨハンセン・グループの樺山愛輔の父・資輔が設立したものであった。樺山愛輔が天皇の意向を受けて「ignore」と訳して返事としたと、鬼塚氏は説いている。そこに樺山の娘婿の白洲次郎が一枚かんでいるかもしれない、と。
 白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。
http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html


日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。

なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。

こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している

攻撃の対象は日本の一般民であって、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。


 昭和天皇にとっては「国体護持」だけが狙いで,アメリカが原爆を投下してくれた事にも感謝していた

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。


昭和天皇は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/okasinasennsoudaltuta.htm

1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し、海軍大臣米内光政大将は、1945年8月12日、次のように語った。

「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(『海軍大将米内光政覚書』:ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは、広島・長崎への原爆投下を、終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり、ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏、国体護持を請うたのが、終戦の聖断である。
http://suyap.exblog.jp/5842042


・ロスチャイルド財閥を中心とする国際金融同盟は、原子力に注目し、これに莫大な資金を投資し、ウラン鉱の買収を大戦中に始めていた。原爆の実験はそのために是非とも必要だった。日本がその標的にされた。スティムソン陸軍長官が(このことを)6月8日直前に天皇宛の文書でヨハンセン・グループのルートで送ったとみられる。P511

・あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は“天佑”だと叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。その時だけが例外ではない。P521


・日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。

天皇はこの直後に、アメリカから“天皇制護持”の約束を与えられていることだ。

そして、御前会議を開き、ポッダム宣言受諾を決定する。

間違いなく、原爆投下と交換条件である。

アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。…国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。P522

・天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ではどうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。

 この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが、この総司令部に行っていないのである。P524-528
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/230.html


21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。

http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html


天皇の原爆しょうがない発言

昭和天皇の原爆しょうがない発言について、当時の新聞にもしっかりと縮刷版に載っていたのだが、ここではそれを「ママオコシ」で文字おこしした内容を示す。これは、現在発売中の鬼塚英昭氏の『日本のいちばん醜い日』に引用された、松浦総三という作家の『松浦総三の仕事』という本からの引用である。この記者会見の模様はユーチューブに動画も何個か落ちている。

この会見の場で、

「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」

と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html

昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=NQhVOTS0j7A

21. 中川隆[-9774] koaQ7Jey 2019年6月07日 17:08:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2667] 報告

2019年06月07日
ド・ゴール将軍が隠した過去 / ユダヤ人のフランス
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68767562.html

(左 : ロンドンで「自由フランス」の宣伝を行うシャルル・ド・ゴール将軍 / 右 : フランスに誕生したヴィシー政権)

  先週、チャンネル桜を観ていたら、近代史家の林千勝(はやし・ちかつ)が我那覇真子(がなは・まさこ)の番組に出演し、日米戦争や歐洲の歴史について語っていたので結構楽しかった。

【我那覇真子「おおきなわ」#70】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[桜R1-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E

【我那覇真子「おおきなわ」#71】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
戦争の黒幕「国際金融資本」とは?[桜R1-5-31] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU

林氏は『近衛文麿 野望と挫折』の続編として、『日米戦争を策謀したのは誰か !』を出版し、近衛の背後で何が起こっていたのか一般国民に伝えている。筆者からすると「久しぶりにロックフェラーやロスチャイルドの話かぁ〜」という感じだった。なぜなら、筆者も大学生の頃、国際金融や歐米の外政を勉強する一環として、ロックフェラー家やロスチャイルド家の歴史を調べた事があるからだ。ただし、筆者はフリーメイソンとかイルミナティーとかの娯楽ネタを含んだ「陰謀論」は嫌いで、基本的には金銭欲や権勢欲に基づいた現実政治の方に興味がある。また、ユダヤ人に関して知りたければ、エンターテイメントで創られるオカルト的な書籍より、ちゃんとした歴史書とか学術論文の方がいい。例えば、ダニエル・ガットウェン(Daniel Gutwein)の『The Divided Elite』は第一次世界大戦前後の英国におけるユダヤ人の実情を知る上で大いに役立つ。(ただし、この洋書は一般の図書館で見かけないので、読みたい人は高いけど自腹で購入するしかない。)

  近衛文麿の正体や謎の「自殺」を丹念に調べた林氏は、近衛を動かしていた連中に話を進め、世界政治を操るロスチャイルド家や有力な国際金融資本家、歐米に潜む共産主義者などに言及していた。しかし、我那覇氏には基礎的知識が足らないのか、丁寧な説明を聞いていても、いまイチ理解していないように見えた。まぁ、普通のお嬢さんだと、歐米史は複雑怪奇で分かりにくいし、人物名や地名にも馴染みが無いから、大筋を説明するだけでも一苦労だろう。たとえ、学校で世界史を習っていても、第一次世界大戦以降の歴史は「時間切れ」のため、重要な事件と年号を覚えるだけで、焦った教師が親切心からプリントを渡してサっと流す程度だ。したがって、一般人にとって、現代史は血なまぐさい戦争と難しい専門用語が“てんこ盛り”の暗黒史に過ぎない。こんな教育状態で、ドイツやフランスの軍人とか政治家、英米仏独に張り巡らされたロスチャイルドの人脈を説明するなんて無理。長年ブリテンに住み着き、各界にはびこるユダヤ人を紹介するとなれば、一年でも足りないくらいだ。

  とにかく、林氏がロスチャイルド家の影響下にあるフランスの政治家に言及すると、我那覇氏は無邪気な鳩みたいに「えっ、そうなんですか?」と驚いていたが、フランス史を多少学んだ者なら苦笑してしまうだろう。日本人には実感が無いが、フランスはアメリカやブリテンと等しくユダヤ人にとっての楽園だ。フランス革命で旧体制が破壊されると、ケットーに閉じこもっていたユダヤ人は一斉に流出し、各界に進出した。政界も例外ではなく、首相になったレオン・ブルム(Léon Blum)や内務大臣のジョルジュ・マンデル(Georges Mandel)、司法大臣に就任したアドルフ・クレミュー(Adolph Crémieux)は日本でも知られている。(マンデル内相の本名は「ルイ・ジョルジュ・ロスチャイルドLouis-Georges Rothschild」というが、フランス・ロスチャイルド家とは違う家系に属しているという。)

Leon Blum 1Adolphe Cremieux 1Raymond Aron 2Marc Bloch 1


(左 : レオン・ブルム /  アドルフ・クレミュー  /  レイモン・アロン  / 右 : マルク・ブロック )

  ちなみに、日本では「フランス人」として紹介されている知識人でも、素性は「ユダヤ人」という人物は結構多い。例えば、政治学者のレイモン・アロン(Raymond Aron)や歴史家のマルク・ブロック(Marc Bloch)、世界的に有名な社会学者のエミール・デュルケム(Émile Durkheim)もユダヤ人だった。昔、村松剛教授が贔屓にしていた作家で歴史にも詳しいアンドレ・モロワ(André Maurois)もユダヤ人で、本名は「エミール・ソロモン・ウィルヘルム・ヘルツォーク(Émile Salomon Wilhelm Herzog)」というから、直ぐにユダヤ人と判る。最近だと、NHKなどのマスコミが持て囃すエマニュエル・トッド(Emmanuel Todd)やフランス政府の政治顧問を務めたジャック・アタリ(Jacques Attali)、左翼学者が大好きな哲学者のジャック・デリダ(Jacques Derrida)やシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil)もユダヤ人だ。

Emile Durkheim 1Andre Maurois 1Jacques Derrida 1Simone Weil 2


(左 : エミール・デュルケム /  アンドレ・モロワ / ジャック・デリダ / 右 : シモーヌ・ヴェイユ)

  話を戻す。政治家や商売人を問わずユダヤ人というのは政財界にコネを持っていて、イギリス人やフランス人にとっても便利な存在だ。時は、1940年5月。ドイツ軍の進撃は破竹の如く凄まじかった。英仏軍はダンケルクまで撤退を余儀なくされ、フランス軍は壊滅寸前。ドイツ人からすれば、パリまでは指呼の間といったところで、あと数週間で占領できる。ブリテンの首相となったウィンストン・チャーチルは、この状況に直面して意気消沈。失敗続きの劣等宰相チャーチルは、自分じゃ何も出来ないけど、フランス軍には何とかして奮闘してもらいたいと思った。そこで、この碌でなしは陸軍大臣のアンソニー・イーデンと相談し、早急かつ秘密裏にフランス側の首脳と接触しようと考えた。しかし、ブリテン側はフランスのポール・レイノー(Paul Raynaud)首相と内務大臣のジョルジュ・マンデルに、どうコンタクトを取ったらいいのか分からない。チャーチルとイーデンは正規の外交ルートを使っては危険と判断したので、別の方法で迂回しようと試みた。

Winston Churchill 1Anthony Eden 1Georges Mandel 2Paul Raynaud 1


(左 : ウィンストン・チャーチル / アンソニー・イーデン / ジョルジュ・マンデル / 右 : ポール・レイノー)

  すると、イーデンが友人であるモリス・ド・ロスチャイルド(Maurice de Rothschild)の事を想い出す。モリスはフランスの上院議員だし、主要な政治家にも顔が利く。早速、イーデンはこのユダヤ人男爵に電話を掛け、会談の意図を説明したそうだ。数日後、ブリテンの指導者達はパリに向かい、お忍びでリッツ・ホテルに入る。モリスは極秘会談のために私的な晩餐会を提供し、自らホストを務めたという。この密談の結果、英仏の首脳はある一人の陸軍大佐をロンドンに送ることにした。フランスがナチ・ドイツに降伏しても、その支配に抵抗すべく、ブリテンに設立された「自由フランス」を率いることが出来る指導者、そして非凡な才能と鋼鉄の意思を持つ軍人、すなわち若き日のシャルル・ド・ゴールであった。案の定、一ヶ月ほどでレイノー内閣は倒れ、背が高く傲慢とも思えるド・ゴール大佐がロンドンに「逃走」し、形だけの「フランス亡命政府」を樹立したのである。


Charles de Gaulle 3Maurice de Rothschild 1Philippe Pétain 1


(左 : シャルル・ド・ゴール / 中央 : モリス・ド・ロスチャイルド / 右 : フィリップ・ペタン)

  レイノー政府の後を引き継いだフィリップ・ペタン元帥は、直ちにヒトラーとの休戦を要求し、対独講和を主張するヴィシー政権が誕生した。一方、ペタン元帥とそりが合わなかったモリス・ド・ロスチャイルドは、イングランドに移住しようと考える。だが、ド・ゴールは彼の訪英に反対だ。なぜなら、この将軍は自分がロンドンに亡命した経緯を知るユダヤ人を煙たがっていたからだ。つまり、チャーチル達の策略でロンドン行きを命じられた過去を皆に知られたくなかったのである。ド・ゴール将軍にしたら、「あのモリスが誰にバラすか・・・」と不安で堪らない。たぶん、モリスなら自分がお膳立てした密会を自慢げに吹聴したことだろう。こうなりゃ、ロンドンへの移住を邪魔するしかない。

  そこで、ド・ゴール将軍はモリスを丸め込み、バハマのナッソウに向かわせることにした。こうして脳天気なモリスはバハマに渡り、そこで約一年半、兄のジェイムズが送ってくれる資金を頼りに、優雅な亡命生活を送ったそうだ。ただし、彼はドイツによって「国家の敵」と指定され、フランス国籍はもちろんのこと、地元に残してきた財産を没収され、終身刑まで宣言されたという。彼の親戚も財産没収の被害に遭ったけど、アート・コレクターとしても有名だったモリスには我慢のならない仕打ちであった。彼は美術品だけではなく、父から相続した豪邸、例えばフォーブル・サントノレ通りにあるホテルやセーヌ・エ・マヌルにある城「シャトー・ダルマンヴィリエール」もナチスにより略奪されたのである。(Herbert R. Lottman, The French Rothschilds : The Great Banking Dynasty Through Two Turbulent Centuries, Crown Publisher, New York, 1995, p.231.)

Maurice de Rothschild HoteldePontalbaLionel Rothschild on throne


(左 : フォーブル・サントノレ通りにあるホテル・デ・ポンタブラ / 右 : ロスチャイルドの風刺画 )

  フランス人は建前上、ナチ・ドイツの占領を恨んでいるが、ナチスの反ユダヤ政策に関しては憤慨しておらず、むしろ歓迎したくらいで、協力する者がいても不思議ではなかった。そもそも、フランス人はユダヤ人が大嫌い。愛国者になればなるほど、ユダヤ人がデカい顔をして快適に暮らしていることに腹が立ってくる。当たり前だけど、フランスはフランス人の国であって、ガリツィアやロシアの如きユダヤ人が群れるゲットーじゃない。この賤民を排斥する点において、フランス人とドイツ人は利害を共有していた。フランス人もユダヤ人を「血統」で分類ており、ヴィシー政権は1940年にできた3月10日法で容赦なくユダヤ人を排除していたという。

Pierre Masse 1(左 / ピェール・マセ)
  例えば、上院議員のピェール・マセ(Pierre Massé)の懇願は門前払いだった。彼は軍からユダヤ人が追放されるという知らせを聞くと、ペタン元帥に対して抗議文を送りつけたという。その書簡の中で、彼は自分の兄が第36歩兵連隊の中尉であったこと、さらにこの兄が1916年ドゥオモンで戦死したことを述べていた。さらに、娘婿が第14連隊に属する陸軍中尉で、1940年5月にベルギーで戦死したことや、第23連隊の中尉である甥のJ・F・マスも1940年に戦死したこと、息子のジャックも第62大隊に属し、1940年6月に負傷していることなどを告げていた。(Suzan Zuccotti, The Holocaust, the French and the Jews, University of Nebraska Press, Lincoln and London, 1993, p.59.) しかし、ヴィシー政権は情に流されず、ユダヤ人のピエール・マスを逮捕し、ダンシー(Dancy)の収容所へ送ってしまった。ユダヤ人歴史家のスーザン・ズコッティによれば、マスは次にアウシュヴッツの収容所へと移され、恐ろしい「ガス室」で殺されたそうだ。(上掲書 p.60.) 毎回嫌になるけど、何でユダヤ人は科学的検証や反対尋問を経ない「噂話」を「歴史的事実」にしてしまうのか。全民族でバラバラにプロパガンダ(政治宣伝)を行うんだから、ユダヤ人というのは本当に恐ろしい民族である。

  シャルル・ド・ゴール将軍がユダヤ人に対し、実際どのような「本音」を持っていたのか分からないが、彼の「自由フランス」にはユダヤ人が群がっていた。例えば、レオン・ブルムの元アドヴァイザーで左翼エコノミストのジョルジュ・ボリス(Georges Boris)はド・ゴールに近づき、経済問題の補佐官になった。そのほか、彼は週刊誌『ラ・マルセイエーズ』の編集者となり、政治プロパガンダの担当者にもなったそうだ。戦後、首相をはじめ国防相や財務湘を務めたミシェル・ドブレ(Michel Jean-Pierre Debré)もド・ゴールのもとへとせ参じたユダヤ人の一人である。元々彼はヴィシー政権に仕えていたが、ドイツの迫害を受けレジスタンスに転向したという。戦後の国連体制で「人権」思想の毒をばら撒いたルネ・カシン(René Cassin)もド・ゴールの側近となり、法律顧問に納まったユダヤ人である。レオン・ブルム政権で財務湘になったピェール・メンデス・フランス(Pierre Mendès-France)も、これまたユダヤ人。彼はヴィシー政権下で逮捕され、六年の禁固刑を宣告されるが、何とかしてフランスを脱出し、ロンドンのド・ゴールに合流したそうだ。こうした側近に囲まれたことから、ヴィシー政府のフランス人はド・ゴールを「ユダヤ人の従順な召使い」と揶揄したらしい。

Georges Boris 1Michel Debre 1René Cassin 1Pierre Mendes France 1


(左 : ジョルジュ・ボリス /  ミシェル・ドブレ /  ルネ・カシン /  右 : ピェール・マンデル・フランス )

  一旦、ユダヤ人が根を張った国では、ユダヤ人を無視・排斥して政治を行うことはできない。彼らは“本能”的に結束し、敵対する異民族と戦おうとする。ただ、それは剣や銃を交える闘争でなく、銭と筆を用いた謀略戦だ。ブリテンもそうだけど、フランスでは政界の裏側に有力なユダヤ人がウヨウヨいる。林氏がどの程度ユダヤ人について調べたのか分からないが、追及してゆくうちに歴史の「泥沼」に嵌まってしまう可能性が高いから気をつけた方がいい。ユダヤ人に関する資料を眺めると、その膨大さに目が眩んでくる。「汗牛充棟」なる言葉があるけど、歐米の図書館はよく床が抜け落ちないものだ、と感心してしまう。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68767562.html

22. 中川隆[-9677] koaQ7Jey 2019年6月11日 02:28:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2782] 報告

東海アマブログ 満州国 2019年06月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-771.html


 1987年に公開された映画「ラストエンペラー」は、満州国皇帝、愛新覚羅溥儀の生涯をモチーフにしたもので、当時としては斬新で綿密な作りによって大ヒットした映画の一つだ。

ラストエンペラー The Last Emperor

監督 ベルナルド・ベルトルッチ
脚本 ベルナルド・ベルトルッチ マーク・ペプロー
音楽 坂本龍一 デイヴィッド・バーン 蘇聡
撮影 ヴィットリオ・ストラーロ
配給 コロンビア映画
公開 1987年11月20日


動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848058
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848416
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848887
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3849043
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850745

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850827
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850900
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851111
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851222
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851394

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851544
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851686
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851887


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『ラストエンペラー』(英: The Last Emperor、中: 末代皇帝、伊: L'ultimo imperatore)は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画。

 しかし、キャストは中国系アメリカ人ばかりで、英語が使われていたので中国人には不評であった。

 愛新覚羅溥儀は、1932年に日本軍によって建国された傀儡国家である「満州帝国皇帝」であるが、本来は、1616年にヌルハチによって建国され、1912年まで中国全土を支配した統一王朝「清」の血統を受け継ぐラストエンペラーであった。

 1616年に、女真族のヌルハチによって建国された当初は「後金」という国名を使ったが、1639年、息子のホンタイジらは、漢族からの反発を恐れて「清」を用いたようだ。
 このとき「女真」という民族名を「満州族」に改めた。

 女真族は、ツングース系(言語の系統)民族であり、モンゴル族に近く、漢族とはまったく民族が異なっていた。習俗・民俗としては騎馬民族文化であり、弁髪を中国全土に強要したことから、清朝末期の中国カンフー映画でも、ジェットリーらが扮する主人公が弁髪を結っていることが多い。
 ちなみに、この弁髪が、日本に入って武家の「月代」になったとする説がある。

 960〜1279年の宋王朝は、首都は臨安(杭州市)、純粋な漢族国家であった。
 次に中国全土の覇権を得た元帝国は1271〜1368年、首都は北京、完全なる騎馬民族であったが、女真族とは少し異なるモンゴル族である。
 次に、1368年、白蓮教徒の乱を契機に明が建国され、1644年に滅亡した。これも純粋な漢族であったようだ。
 つまり、中国王朝は、最初の統一王朝である秦以来、漢族と騎馬民族が交互に支配権を得ていて、これらは民族がまったく異なり、国家としての系譜は、完全に断絶してから再生しているので、継続的王朝とは認めがたい。

 1912年の清朝滅亡後は、孫文・袁世凱・蒋介石率いる中華民国が清朝領土の継承を主張したが、国際的に認められず、日本による支配地となった。
 これは1894年、日清戦争による戦勝によって立場が強まっていたからである。
 1931年、満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領され、その後、中華民国からの独立を宣言し、1932年の満洲国建国に至った。

 満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。
 実は、初代皇帝、愛新覚羅溥儀が東京に呼ばれ天皇に会ったとき、裕仁天皇は溥儀を「兄弟」と呼んだ。

 それは単純に「五族協和」の意味ではなく、彼ら満州族(女真族)こそ、天皇家(秦氏末裔)の先祖であり同族であることを、裕仁は知りすぎるほど知っていたことを意味している。
 それは明仁天皇による桓武天皇ゆかり発言にも含まれている。
 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/emperor/1276334343?v=pc
 
 この発言で、韓国内では「天皇は韓国人だった」との日本民族見下し論が盛り上がったが、残念ながら、李王朝が成立する前に、韓国に沿海州の渤海オロチョンや穢からエベンキ族が大量に移住することで現代韓国民族を形成していて、現在の韓国人と高句麗・百済の女真族は、まったく異なる民族である。
 むしろ北朝鮮側(高句麗)に、女真族が純粋な形で残ったともいわれる。

 日本敗戦後、皇帝の弟、溥傑や李朝の李垠・李玖兄弟たちは、日本に避難してきたが、李玖は、韓国暗殺者によって赤坂で殺害されたといわれる。
 溥傑の娘、愛新覚羅慧生は、日本で心中強要によって殺されている。
 傀儡権力の主役たちも、幸福とは言いがたい運命に翻弄されたのである。

 満州国が成立したことで、当時の日本政府は、満州地区への大規模な移民政策を始めた。昭和恐慌によって疲弊した農村部の再生を求めた国策であった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E8%92%99%E9%96%8B%E6%8B%93%E7%A7%BB%E6%B0%91

満蒙開拓団は1932年から14年間で27万人が移住した。その多くが、気象的制約から豊かでなかった東北や内陸部の寒村から集められた。
 私の住む中津川市でも、読書村(旧木曽郡坂下)開拓団が有名で、全員が、敗戦に伴って想像を絶する地獄のような苦難を経験させられた。
 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-manmou-a057.htm

 http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/asia/manmo0.htm

 満州開拓民の苦難は、主に、日本陸軍、関東軍が日本人を守ろうとせず、真っ先に逃げ出したことで、開拓民が取り残され、侵攻してきたソ連軍に蹂躙され、健康な男子は殺害され、残された婦女子も筆舌に尽くしがたい暴行迫害を受けた。
 このとき、ソ連軍は、「日露戦争の敗戦を報復する」というスローガンを与えられていたといわれる。

 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/0607HisannaSaigo.html

 開拓団は、ちりじりに分散し、食料もないため、泣く泣く子供たちを先住の中国農民に預けるしかなく、「残留孤児」が大量に発生した。
 https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_57_interview.html

http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/history/Asia_is_Japanese/children_left_behind_in_China.htm

 二反長音蔵のこと

 満州国を語る上で、重要な核心人物が数名いる。
 まずは、満州国建国に奔走した石原莞爾。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE

 そして里見甫・岸信介・二反長音蔵という阿片王トリオである。

 台湾総督府の児玉源太郎と後藤新平は、表向き、台湾から阿片を撲滅するという「阿片暫禁政策」を公布したが、その本当の狙いは、台湾の富裕層に独占的に阿片を供給して利益を吸い上げるというもので、それが第二次世界大戦終結まで、日本陸軍による資金獲得の一つの柱となっていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE

 満州国が成立して、茨木市の二反長音蔵(川端音二郎)が台湾で阿片栽培を指導し、大規模なケシ畑を作って、工業的に阿片生成を始めたのは、1800年代末で、やがてモルヒネ含有量が、ついに35%という驚くべき優秀品を作りだ出していた。
 当時の阿片は、インド阿片でモルヒネ含有量6%、イランものが9〜11%、トルコものが10%から14.5%だったから、超優秀な麻薬生産に成功していた。
 この阿片は、星製薬(星新一の実家)が一手に精製利権を得た。
  https://tanken.com/hoshi.html

 やがて二反長は、成立したばかりの満州国に派遣され、ここにも巨大なケシ畑を作り、世界最高のモルヒネを精製した。
 このケシ畑は、北朝鮮奥地にも作られ、日本敗戦後に、北朝鮮政権に引き継がれたといわれる。

 麻薬販売の目的は、後藤新平が画策した、台湾・満州・朝鮮の植民地住民に高価な麻薬を耽溺させることで現地の富を吸い上げて、日本帝国主義拡大の資金源とするというものであった。

 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 このとき、阿片の栽培、精製、販売の総元締となっていたのが、「麻薬王・里見甫」であり、彼は上海に居住して、中国民衆に麻薬を売りつけてぼろ儲けする中心人物であった。
 朝鮮では、この仕事を、安倍晋三の祖父である岸信介が行った。

 里見甫は、阿片精製を北京の通州で工業的に行おうとし、主に、日本人婦女を使って阿片やヘロインの精製を行っていたが、ここは、中国の古い麻薬シンジケートであった青幇・紅幇の縄張りであり、自分たちの利権を侵されることに憤った中国麻薬シンジケートの大規模な襲撃を受けて日本人大虐殺が起きた。これを通州事件と呼んでいる。
 虐殺の主役だった、冀東防共自治政府 保安隊を偽情報で焚きつけたのは、蒋介石らの南京政府だったともいわれる。当時、蒋介石は青幇の頭目でもあった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

  https://togetter.com/li/806302

 通州事件における日本人婦女の虐殺に怒った日本軍は、その後、中国における軍事侵攻が凶暴化し、南京に侵攻してからは、報復的に現地住民の大虐殺を行ったといわれている。
 https://ameblo.jp/2530beautymedalist/entry-12244703722.html

 敗戦後、満州国に残された巨大な二反長ケシ畑は、おそらく満州と北朝鮮に跨がったものだったと思われるが、北朝鮮側は金日成政権が管理して資金源に充てた。
 満州側は、中国共産党に引き継がれ、つい数年前にも、東北省の辺境で世界最大級のケシ畑が、グーグルアースによって発見されたとの報道があったが、その後、中国政府はグーグルに圧力をかけ、徹底的に隠蔽している。
 おそらく旧満州阿片も中国共産党の資金源にされているとみて間違いないだろう。

 朝鮮総督府では、岸信介赴任後に「昭和通商」という武器麻薬密売企業が作られ、岸信介が、里見甫の指導を受けて活動した。
 これも、もちろん朝鮮民衆を麻薬漬けにして、資金を吸い上げ大日本帝国の拡大資金に充てるものだった。当時の、日本には麻薬販売以外、主立った金になる産業を持っていなかったのである。
 もう一度書くが、後藤新平・二反長音蔵・里見甫・岸信介が、戦前の大日本帝国の最大級の資金源となった麻薬販売の仕掛け人である。

 本当にひどい目に遭って馬鹿を見たのは、満蒙開拓のバラ色の未来を聞かされて、貧しい内陸部の寒村から満州に移民して、命からがら逃げ帰った人々で、27万人中、戦争に巻き込まれて死んだ人々が三万人、病気と飢えで死んだ人が21万人と、生き残って日本に帰還できたのは数万人しかいなかった。
 読書開拓団の人々は、帰還してみたら、自分の故郷がダム湖の下に沈んでいるという残酷な現実をも味わうことになった。
 それは、全国で起きていた。

https://www.sankei.com/life/news/170815/lif1708150012-n1.html

  http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/asia/manmo0.htm

 戦前、「昭和恐慌」というニューデール大恐慌による派生恐慌が起きていて、世界はブロック経済に進み、有効な経済ブロックを持たない日本は、東アジア全土を支配下に置いて、日本ブロックを作る目的で、帝国主義侵略を開始したのだが、その最大の失敗例が満州国だったといってもよい。
 そもそも、健全な生産手段を放棄して、麻薬による権益を確立しようとした日本政府が、まともな農業国を生み出せるはずがなかったのだ。

 満州国は、日本人のうちでも、秦氏末裔、天皇家や武家子孫など騎馬民族の末裔たちの先祖地であり、女真族(満州族)は、日本人と同族といってもよいほどだ。
 あまりにも日本人と同じなので、満蒙開拓団が子供たちを現地に置き去りにせざるを得ないよう追い込まれても、現地の満州族は、まったく同じ形質を持った日本人の子供たちを違和感なく育てることができたのである。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-771.html

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歴史学者・宮脇淳子 満州国の真実


「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「清朝の最盛期第六代乾隆帝」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
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「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち「アヘン戦争から日本の近代が始まった〜第八代道光帝」
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「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち〜第十代同治帝・十一代光緒帝」
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特別番組「満洲国から見た近現代史の真実」
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歴史学者・宮脇淳子 満州国の真実 - YouTube 動画
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23. 中川隆[-9607] koaQ7Jey 2019年6月15日 12:59:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2864] 報告

2019年06月15日
支那人の自治は不幸の素 / アジア主義者の害毒
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68769739.html


支那人が支那人を支配すると不幸になる

Hong Kong 3Hong Kong 1
(写真 / 抗議デモを行う香港の支那人)

  海外の報道によると、香港での抗議デモには100万人が参加したそうだ。ただし、支那の統計には“水増し”が付き物なので実際どれくらいの人数が集まったのか分からない。それでも、ブルムバーグによると、

  香港では中国本土への容疑者の身柄引き渡しを可能にする条例改正案に反対し、9日の大規模デモに続き12日にも再び抗議活動が街頭で行われた。一部参加者は中心部の主要道路を封鎖。群衆は香港政府庁舎に押しかけ、立法会(議会)への侵入を阻止しようとする警官隊が催涙ガスやゴム弾を使用、負傷者が出る事態となっている。(Alex Millson, Protesters Clash with Riot Police in Hong Kong, Bloomberg, June 12, 2019.)

  海外のニュースを受けて、日本のメディアも香港の騒乱を報道していたが、支那の歴史を学んだ者なら、「またか・・・」と思ってしまうだろう。なぜなら、支那では瀆職や詐欺はもちろんのこと、絶えず暴動や抗議が巻き起こっている。夏目漱石を真似る訳じゃないけど、ごく普通の日本人からすれば、「支那人に生まれなくてよかった」というのが正直な感想だ。我々は幸せを当然として生きているが、支那人は不幸を避けながら生きている。日本の近くにある暗黒大陸だと、「サザエさん」や「ちびマル子」ちゃんみたいな暮らしは羨望の的。支那人というのはピラニアの群れと一緒に暮らしているブルーギルと同じで、ちょっとした油断が命取りとなる。日本人はさしずめ弱肉強食を知らないメダカのような民族だ。

  支那人は我々に向かって「悠久の歴史」を自慢するが、彼らの過去は真っ黒か真っ赤のどちらかだ。暴君や独裁者による圧政があったと思えば、易姓革命で国が乱れ、虐殺、略奪、強姦、放火で生き地獄。平和になっても飢饉や搾取で不幸のどん底だ。それでも、支那人はたくましいから金儲けに邁進する。銭と権が手に入ればバラ色の人生だ。黄色い頭巾を被った叛逆者が天下を取ろうが、赤い頭巾を被った共産主義者が君臨しようが、支那人は臨機応変、権力者に取り入って少しでもいいから甘い汁を吸おうとする。支那人に「国民意識」はなく、あるのは「血族意識」か「中華思想」のみ。他人がどうなろうが知ったことではない。支那人が支那人を「統治」すれば「独裁」しかなく、民衆の不幸が統治者の幸福になる。

アジア主義は日本の滅亡

  日本人は香港人の抗議を観ると民衆に同情してしまうが、あんなのは「毎度の事」で驚くことではない。北京政府による専制支配は前から予想されていたことで、「一国両制」を信じていた知識人がアホなだけである。香港が支那側に返還されるとき、経済評論家の邱永漢(きゅう・えいかん)などは「大陸が香港化される」と嘯(うそぶ)いていた。雑誌『Voice』の読者なら、彼の言動を覚えているだろう。「お金儲けの達人」として崇められていた邱永漢は、1997年に香港が返還されると、一攫千金になると思って香港に移住して喜んでいた。しかし、香港からは嘗ての輝きが急激に消え去り、単に支那人が住む陰鬱な島になってしまった。香港の支那人は言論の自由とか人権を叫んでいるが、そんなモノは端っから支那人には無く、あるとしたらイギリス人に教えてもらった法令遵守くらい。「規則を守りましょう」なんて子供への訓戒みたいだが、人を騙すために約束を結ぶ支那人には、これだって中々難しい倫理である。

  日本のマスコミや歴史家は黙っているけど、なぜ彼らは「西歐植民地主義からの解放」を祝福しないのか? 支那人は残酷なイギリス人の支配から解き放されて嬉しいはずなのに、「同胞」の元へ戻されると、イングランドやオーストラリア、カナダへと逃げるように移住したたがる。おかしいじゃないか ! 日本の学校教育ではイギリス人が支那人に阿片を売り込み、清国にあった銀を巻き上げてボロ儲けしましたと書いている。そして、阿漕(あこぎ)なイギリス人はこの密貿易を林則徐に咎められると、アヘン戦争を起こして南京条約を押しつけました、と嘆いているのだ。悪名高い歴史教科書『ともに学ぶ人間の歴史』でも、このアヘン戦争を取り上げ次のように書いている。

  ・・・イギリスは、広州・上海など5港を開港させ、香港を植民地として獲得し、さらに賠償金・約2100万ドルを支払わせました。(『ともに学ぶ人間の歴史』 学び舎、2018年、p.155.)

  支那の実態を知らない日本人は、「麻薬漬けにされた可哀想な支那人。イギリス人は強欲な悪党」と思っている。しかし、阿片なんか昔から支那人が楽しんでいる嗜好品で、今のコーヒーかタバコのようなものだ。仕事の後に飲む栄養ドリンクと思えばいい。日本の学校教師は何かと言えばアヘン戦争を口にして西歐列強を非難するが、下層階級の支那人にとったら誰が支配者になろうが関係なく、モンゴル人から満洲人に変わって何百年かしたら、外見の違うヨーロッパ人に支配されたというだけ。考えてもみよ。香港の支那人はイギリス人が君臨したことで赤貧となり、自殺に追い込まれたり、飢餓でバタバタと死に絶えたのか? 現実は逆である。共産党の天下となった大陸からは毛沢東の大躍進や文化大革命を嫌って支那人が逃げだし、“白人支配”の香港へと流れ込んだ。また、日本軍によって解放されたインドシナで内戦が始まると、フランス人を慕うベトナムは難民となって香港に雪崩れ込み、他のベトナム人もこれまた嫌いなはずの白人国家であるアメリカやオーストラリアに避難した。アジア人は何か困ると直ぐ白人国家へと逃げ込む癖がある。

Opium war 2Opium war 1

(左 : 阿片を吸引する支那人 / 右 : 阿片を支那人に売りつけるイギリス人の風刺画)

  日本の一般人はアジア人の本質を吟味せず、勝手に自分の感情を植え付け、彼らも同じ反西歐意識を持つはずだと思い込む。この単純な発想を利用したのが戦前の大東亜主義者であり、日本を対米戦争で破壊しようと目論んだ左翼である。近衛文麿や尾崎秀実、米内光政らの「南進」派は、帝国陸海軍を仏印や蘭印へと向かわせ、英蘭仏と反目させてから米国と衝突するよう仕組んだ。スターリンと日本の共産主義者からすれば、憎き西歐列強と日本を戦わせ、両者をボロボロにしてから戦争の果実をもぎ取る方が賢い、と考えたのであろう。ソ連型の全体主義に憧れた軍官僚や赤い知識人は南進を後押しすべく、それを正当化するような「大義名分」を世間にばら撒いた。「大東亜共栄圏」とか「東亜共同体」といったスローガンは日本人を騙す常套句で、アジアの共産主義化を目指し、ついでに我が国をアジアに埋没させようとする策略である。大東亜新秩序の建設を提唱した大川周明や、日本と朝鮮との合併を説いた樽井藤吉を想い出せば分かるじゃないか。

  こうしたアジア主義をバックアップしたのは、「白人支配の打倒」とか「アジアの解放」を謳った反西歐主義である。大東亜共栄圏を外交理念にしていた近衛文麿が、『英米本位の平和主義を排す』という論文を書いていたのは偶然ではない。公家の筆頭を自認する近衛には、白人から愚弄された屈辱感があり、自分の恨みを晴らすためには日本の独立を捨てても惜しくはなかった。日本人は西歐白人と対等になりたいという願望が非常に強いから、その白人から邪険にされると烈火の如く怒ってしまう。失恋と怨念は双子の兄弟みたいなもので、好意を寄せる歐米人から侮蔑された日本人は、好きでもないアジアへの共感を無理矢理つくり、「黄色人種」という共通点を掲げて白人に復讐しようと考える。だが、元々アジア人には馴染みがないので、生理的に受け容れることができない。同じ黄色人種といっても、支那人や朝鮮人とは全く違うし、インド人やマレー人などは別の宗教に属する茶色い人種だ。それに「アジア人」となれば、ペルシア人やアラブ人、トルコ人、ユダヤ人も含まれるはずだが、これらの民族は日本人との接点はなく、ヨーロッパ人よりも遠い存在である。

Miyazaki ToutenUchida RyouheiToyama 1


( 左 : 宮崎滔天 / 中央 : 内田良平 / 右 : 頭山満 )

  ところが、戦前の国粋主義者とか右翼、民族主義者などは、ヨーロッパ人の勝手な学説に従い、これといった検証もせず、日本人をアジアの一員と見なしていた。しかし、普通の庶民は自らをアジア人とは思っていなかったし、アジア人への親近感が無かったのは、内地にやって来た朝鮮人と接したときに明らかだった。ロシア人が朝鮮半島を支配するのは困るが、あの貧乏民族を背負い込むのは愚策中の下策である。イギリス人かアメリカ人に譲ればよかった。普通の日本人はアジアと係わりたくなかったのに、知識人にはアジア主義にかぶれ、反西歐主義に共鳴する者が多く、その言説は無責任極まりない。宮崎滔天や内田良平、頭山満たちは支那に対し過大な幻想と期待感を抱き、支那人への援助を惜しまなかった。その一方で、アジア主義者たちは「白人による世界侵略」を糾弾し、日本はアジア民族を覚醒させる希望の光になれと唆(そそのか)していた。(支那人やモンゴル人、イスラム教徒の侵略には無関心だったのに、西歐人の帝国主義だけは赦せないというのは、どういう了簡なんだ ? ) 昭和のアジア主義者には祖国を滅亡させてもアジアを救いたいと考える輩が多かった。例えば、朝鮮問題に詳しかった細井肇は、殊のほか歐米人のアジア蔑視を咎めている。彼は支那を侵食した列強に言及し、

  元来、白人は、有色人種の人格を認めていない。人間が平気で獣肉を食用するように、有色人種の汗血を搾取することを当然の権利のように心得ている。(細井肇 『日本の決意』 大日本雄辯會講談社、昭和7年 p.84.)

  こうした文章を目にすると、「東洋主義者って本当に世界知らずだなぁ〜」と思ってしまう。圧倒的優越性を持って他国を征服する民族は、どれもこんな調子で異民族を愚弄するものである。例えばもし、蒙古軍が鎌倉武士を打ち破り、日本各地を制圧したら、モンゴル人は日本人の人格を認め、平等に扱ってくれるのか? モンゴル史を学べば分かるけど、彼らは支配民族として君臨し、平等主義や人道主義を以て異民族を統治することはない。敗北した民族の搾取なんか当たり前。支那人の課税ときたら2年3年先はもとより、10年ないし20年先の徴税だって珍しくない。また、不運にもロシア人に支配されれば、日本人は必ずや農奴にされるだろう。現在、黄色人種の支那人はチベット人やウィグル人を支配しているが、北京の赤い悪党は辺境民族の人格どころか、生命までも踏みにじっている。他方、南鮮人は夜郎自大も甚だしく、誇るモノは何も無いのに、日本人を格下扱いして優越感に浸っているけど、これはどうなのか?

  細井の「扇動文」を読むと、戦前にはびこったアジア主義者の害悪がよく分かる。彼は以下のように煽っていた。

  ・・・世界全土は、日本以外、全く白人の握裏に帰属し、特に東亜十億の生霊は、ほとんど白人の奴隷として、望みなく、光なく、頼りなき、わずかに死せざる境涯に放置されるのだ。この桎梏を除き、鉄鎖を寸断して、東亜十億の生霊を疾痛惨憺の境涯より救ふものは、ただわが日本あるのみ。英雄起る所形良し、侠勇仁愛の国、あに天恩に恵まれざらんや。特に東方日出づる国を国土とし、世界無比の萬世一系、連綿絶ゆるなき皇統を奉戴するわが九千万民こそ、まことに、この大使命を遂行すべき先天的宿命を有つ世界無比の選民と云わねばならぬ。(上掲書 p. 108.)

  細井は日本の国益よりもアジア人の独立を優先させ、日本人は支那人や朝鮮人、インド人、マレー人などを救うために、命懸けでイギリス人やフランス人、オランダ人、アメリカ人と戦わねばならぬ、と強調していたのだ。アジア人との連帯を提唱する日本人には、論語読みの論語知らずが誠に多い。細井の本を熟読したのかどうか分からぬが、内閣総理大臣の斉藤実や陸軍大臣の荒木貞夫、中央教化団体連合理事の丸山亀吉、そして、錦鶏学院の安岡正篤が推薦文を書いていた。今の高校生は陽明学者の安岡を知らないだろうが、平成という元号を発案した人物とされている。一般的には、占い師の看板でテレビに出ていた細気数子の亭主と言えば分かるはずだ。

  日本人は保守派でも実際の政治が解らぬ人が多い。左翼史観を批判する人でも、英国の植民地支配を糾弾する。だが、日本はアジア人の反乱を支援するより、英国が植民地を維持するよう助けるべきだった。なぜなら、イギリス人がインド人やビルマ人を抱えていれば、英国側の負担が増大するし、植民地での厄介事が頻発すれば、日本が「善意の第三者」として活躍する機会があったのだ。日本人は「誠実な調停者」として双方に恩を売り、両者にとっての良き相談役になることができた。強力な帝国海軍を有する日本の提案なら、イギリス人やインド人も一目置くし、妥協したって国内的に言い訳が立つ。インド人の指導者は仲間に「同じ有色人種の日本人による仲介だから」と言えるし、イギリス人も「中立的な日本人による解決策だから」と議会で抗弁できる。しかし、日本が反英主義を掲げ、インドの独立を支援すれば、英国の輿論は反日的となり、親日のイギリス人は窮地に立たされる。第一、イギリス人の恨みを買うだけで、日本が失う利益の方が大きい。日露戦争を想い出せば解るけど、英国との関係を続けていると諜報活動や軍事・外政の面で有利だ。白人への反撥とか黄色人種との連帯など、鬱憤晴らしの感情論に過ぎない。我々は冷酷な計算で動くべきだ。アジア人の味方をして損をするより、西歐人と癒着して国益を増大させた方がいいじゃないか。

  日本は徳川家康のように力を付けるまで辛抱すべきだった。日本が軍事的・経済的大国となれば、歐米人だって日本人を馬鹿にできないし、日本人だって劣等感に悩まず堂々と威張ることができる。西歐人が厭がる人種平等など叫ばず、彼らに対して「日本人だけ特別扱いにしてくれ!」と頼めばいいじゃないか。ヨーロッパ人やアメリカ人は札束ビンタに弱いから、日本が一流国になれば多少の要求は通してくれるだろう。ユダヤ人はあれほど嫌われていたのに、金貨の力で歐米人を屈服させることができた。白人至上主義を口にしているのは主に下層階級の貧乏人で、中流階級の白人は札束の匂いを嗅ぐと急に紳士的となり、土下座だって厭わない。日本人は歐米の知識人を教育し、彼らの不安感を取り除いてやるべきだった。「日本人はアジア人じゃないから安心しな。君たちの人種秩序は壊さない」と約束してやれば、歐米諸国の抵抗だって少なくなるはずだ。事実、レイシストのウィンストン・チャーチルは日英同盟の建前上、あからさまな日本人差別を口に出来なかった。 

  日本人は日本の国益と幸福を一番にすべきで、アジアの問題に深入りすべきではない。北京政府が香港を隷属させるなら、それは支那人の問題で、日本政府は米国を支援するだけでいいんじゃないか。習近平が香港の価値を潰せば、金融市場としての窓口が消失し、香港ドルを利用していた支那人が困るだけだ。北京政府に弾圧される香港の住民は気の毒だが、支那人に生まれたんだから、その運命を甘受すべきだろう。一方、日本人は政治亡命者とか経済難民が流入しないよう、国境を固く閉じるべきだ。支那人というのは簡単に祖国を捨てる連中だから、情に流されない用心が必要だ。彼らは日本人や西歐人が喜ぶ「自由」とか「デモクラシー」を口にして、豊かな国へ移住しようとする。そして、一旦住み着いた支那人は故郷に戻らない。たとえ、「愛国心」を表明し、香港の自由を渇望する者でも、決して信用してはならず、門前払いにすべきだ。歐米や日本に根を下ろした支那人は、同胞の「自由」なんて興味が無く、関心があるのは自分の財テクである。支那のデモクラシーに共感する日本人は、一度頭から氷水を被って冷静に考えるべきだ。支那人の舌は二枚以上あるんだぞ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68769739.html

24. 中川隆[-9580] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:04:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2894] 報告
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427



▲△▽▼

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

25. 中川隆[-9327] koaQ7Jey 2019年6月23日 15:09:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3160] 報告
補給無視が略奪を生み、略奪が強姦・虐殺を生んだ
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/19/203639

前回記事
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

でも書いたように、旧日本軍は大戦末期どころか日中戦争初期の段階でもまともな補給を行わず、飢えた兵たちが住民の食糧を盗んで腹を満たすしかない状態を放置していた。三好氏の部隊は10月中旬には予備隊となって後方に下げられたので厳しい飢えはおよそ一ヵ月半程度で終わったが、前線部隊では上海戦に続く南京攻略戦の過程でも大差のない状態が続いていただろう。

補給がなければ食糧は「徴発」と称する略奪に頼るしかない。そして兵たちが略奪に慣れ、それが当たり前の日常になれば、奪った者勝ちで必要以上に奪いつくすようになっていく。中国で日本軍は「蝗軍」とも呼ばれた。何年かに一度大発生して作物を食い尽くす蝗いなごの大群のように、日本軍の通った後には何も残らなかったからである。以下、南京攻略戦に従軍した兵士たちの陣中日記から、「徴発」関連部分を紹介する[1]。(注:日記の執筆者名はすべて仮名。カタカナ書きは平仮名に直した。)
 
近藤栄四郎(伍長)日記:


[11月16日] 途中敗残兵の屍体等参[散]見する、(略)支那民を使って荷物を負はせ服従しなければ直ちに射殺であるから仕方なくついて来る、でも処々に屍体あり、また行軍中も射殺実況を見た事も数度、戦敗国の惨。

 団子等して食ふ、途中食物や砂糖等徴発しての行軍等今日も八里位か。(P.320)

[11月21日] 今日も行軍、でも割合に昨日より道がよくてよかった、顧山鎮を通過して先きの部落へ宿営する、途中の町々の徴発には実際目を覆はしむるものあり、各部落の火災も其通り、人を殺傷するも其通り、敗残兵及其他の死体も相当見ゆ、精米所の建物の中へ宿り米には不自由なし、餅米もある粳うるち米もある。(P.321)

[11月22日] 今日は一日滞在である。午前中徴発の為町へ各分隊より出て行く、塩、醤油、甘藷等町の一軒へ徴発品を集積する。

 午后洗濯したり休養する、徴発品の分配もする。

 久しぶりに風呂入る、徴発のシャツで寒さも苦にならずよかった、(略)(P.322)

黒須忠信(上等兵)日記:


[11月22日](略)陳家鎮に午后五時到着、米味噌醤油等の取集めで多忙な位である、或は濡もち米を徴発或る者は小豆をもって来て戦地にてぼた餅を作っておいしく食べる事が出来た、味は此の上もなし、後に入浴をする事が出来て漸ようやく我にかへる、戦争も今日の様では実に面白いものである、(略)

[11月23日](略)午后四時南国に着す時に雪は少し降って来た、始めての雪である、暴飯[飲?]から腹をこわしたらしい、今后充分体の保養に務[努]めなければならない。

[11月25日](略)午后四時祝塘郷に着して宿営す、(略)我等五分隊二十四名は宿舎に着く毎ごと大きな豚二頭位宛あて殺して食って居る、実に戦争なんて面白い、酒の好きなもの思ふ存分濁酒も呑む事が出来る、漸く秋の天候も此の頃は恵まれて一天の雲もなく晴れ渡り我等の心持も明朗となった。(P.346)

[11月28日] 支那の学生軍らしきもの五名我が宿舎の前にて突殺す、自分も此の際と思ひ二回ばかり銃剣にて突き刺す、三十〆[貫]もある豚二匹並に雞にわとり三拾以上を我が×隊にて徴発おかずにして御馳走此の上もなし。(P.347)

宮本省吾(少尉)日記:


[12月7日] 午後五時、常州東方二粁の村落に露営す。

 給養は徴発に依る。

 豚、鳥、チャンチーの御馳走にて満腹となす。(P.132)

[12月12日] 本日は出発を見合せ滞在と決定す、早朝より徴発に出掛ける、前日と違ひすばらしい獲物あり、そうめん、あづき、酒、砂糖、鶏、豚、皿、ランプ、炭あらゆる物あり正月盆同時に来た様にて兵隊は嬉しくて堪らず、晩にはぼた餅の御馳走にて陣中しかも第一線と思はれぬ朗らかさである。(P.133)

高橋光夫(上等兵)日記:


[12月15日] 四時に竜潭に着す、この途中にて支那人二人を殺す、この日も夕食、朝食をうべく一里余部落に入る、聯隊中の食料を集めてきた、其の途中一方わ[は]水郷口月一方わ[は]川にて、ニーヤにちようはつ[徴発]品をおわせて、銃を片[肩]に故郷を望むも戦場の風景と思ふ、夜わ[は]なにかの工場に宿舎をとる。(P.289)

柳沼和也(上等兵)日記:


[12月15日] 其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発して来た、支那饅頭うまかった、(略)(P.166)


近藤栄四郎(伍長)日記:


[12月16日] 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お蔭で随分酩酊した。(P.326)

柳沼和也日記:


[12月21日] 小隊は中隊の先[尖]兵として進んだが本道上の大きな橋が三つもこわれて居たので進軍に大きな支障を来たした、◯◯部落に入る、此の部落に入ると支那酒がうまかった。

[12月22日] 第七中隊は先[尖]兵中隊として一路全椒に向って行った、后[午]後二時に全椒に着いたが本隊の来るまで侍って居た、そして設営により好い家に入ったが六中隊と交代して別な家に入る、二階でかへって好い家だ、品物を徴発して又うまい御馳走もある。(P.167)

宮本省吾日記:


[12月24日] 滁県にて守備の説も当らず午前八時出発、滁県を後に全椒県に向ふ、風は肌に寒く行軍には良い日和である、途中雞にわとりの徴発物あり夜はしばらくぶりで雞汁を馳走になる(略)

[12月25日] 兵は馬並に野菜、豚の徴発に出掛ける、種々の御馳走を作る。(P.135)

遠藤高明(少尉)日記:


[12月27日](略)第一分隊に於て支那糯もち米を徴発、杵をつくり石臼にて餅を搗つきたり、志るこ雑煮を馳走になる。(P.221)

大した戦闘もなくほとんど行軍ばかりの追撃戦で、食い物でも酒でも奪い放題となれば、貧しい出身の兵たちにとってはそれこそ「実二戦争ナンテ面白イ」ということになるだろう。そして、徴発するには民家に踏み込むわけで、そこで略奪に抵抗などされれば殺し、若い女など見つければ強姦する、という結果になる。

南京占領から10日ほども経ってから、ようやく略奪や強姦、発砲(=殺人)を禁止する命令が出された。軍がわざわざこんな命令を出すということは、こうした非行がよほど目に余る状態になっていたということだ。
 
斎藤次郎(輜重特務兵)日記:


[12月22日](略)今日の目的地は滁より南方七、八里の全椒県、午后三時到着、住民は日章旗を振りかざし爆竹をあげて我が部隊を歓迎した、聯隊長よりの注意がある、「婦女子に対し暴行をせぬ事。徴発の際は相当なる代価を支払ふ事。みだりに発砲せぬ事等」、我が部隊も此の処に守備に就くらしい(略)(P.40)

宮本省吾日記:


[12月27日] 風寒し、午前八時半出発、江浦県に向ふ、(略)当街は今迄になく支那軍も日本軍も未だに入らず、営業も正午迄行って居る様で日本軍の到来にて驚き然し日本軍を歓迎する有様にて種々好意を見せて居る、徴発も無理な事をせぬ様命令が出て物を始めて売買する様にて勿論支那の貨幣にて買ふ、(略)(P.136)

そして、自軍の食糧さえ略奪に頼っている状態で捕虜に食わせる米などない、面倒だから始末してしまえ、ということになる。

遠藤高明日記:


[12月16日] 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分のーを江岸に引出しIに於て射殺す。

 一日二合宛あて給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し。(P.219)

補給を無視した無茶な作戦が略奪を生み、略奪が南京大虐殺にまで至る強姦・大量殺戮を生んだのである。

【2016/12/23追記】
この記事だけ読んで、引用中に出てこないから「強姦」は憶測だとか言い出す人がいるので、加害証言を一例だけあげておく。(南京戦当時第十六師団歩兵三十三連隊第三大隊の兵士の証言[2])


 (強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるのを見たで。婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじや。もう無茶苦茶じゃ。
 陥落して二日ばかりたったころじゃ。下関あたりに徴発に出たときじゃ。民家のあるとこに米や食べ物を徴発したんじゃ。そんな時に女も徴発するんじや。家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。ズボン一つでパンツみたいな物は穿いておらんで、すぐにできた。やった後、「やめたれ」て言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。暗黙のうちの了解やな。後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。それを知っとるさかい、やった後、殺すんじや。

[2] 松岡環編 『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』 社会評論社 2002年 P.275-276
【追記終り】

[1] 小野賢二・藤原彰・本多勝一編 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年
 
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/19/203639

26. 中川隆[-9243] koaQ7Jey 2019年6月28日 10:08:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3262] 報告

右翼が 悪名高い偽書 でも何の疑いも無く信じてしまう例:


【桜無門関】馬渕睦夫×水島総 第7回「イラン、中国、そして日本〜トランプとディープステートの“世界支配”の違い」[桜R1-6-27] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LSpzN66HgyE

出演:馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)・水島総(日本文化チャンネル桜代表)


の中で次の自称ユダヤ人の書いた大昔の本が絶賛されています:

Bell Boyd‏ @Bell_Boyd

モルデカイ・モーゼは日本人。

マルクスのユダヤ名がモーゼス・モルデカイ・レヴィであることから発想して自称したと思われる。
モルデカイはそもそもモーゼのことで、モルデカイ・モーゼはあり得ないユダヤ名。

その思想は日本会議系で、戦前のユダヤ研究を引き継ぐもの。江崎道朗氏と同じ系統。
21:40 - 2017年9月2日
https://twitter.com/bell_boyd/status/904202479444754433

あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」(復刻版) – 2019
モルデカイ・モーゼ (著), 久保田政男 (寄稿)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%8B%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%87%BA%E6%82%94%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%AC%9D%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E3%80%8D%EF%BC%88%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%EF%BC%89-%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC/dp/499108900X/ref=sr_1_2?qid=1561675895&refinements=p_27%3A%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC&s=books&sr=1-2&text=%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC

商品の説明

日本国憲法の元となったワイマール憲法は、ユダヤ人が迫害されてきたヨーロッパでユダヤ人政府のワイマール共和国ができたときに、大多数のドイツ人の中に生きるユダヤ人が復権するために作った人民飼い殺し用の憲法らしく、どうせなので日本でもその写しを戦後の日本でも使ってやれ、と適用されたそうです。

(ちなみにドイツではその危機にドイツ人が感づき、反発でナチズムが横行してユダヤ人が迫害された)

で結果、日本では物質的豊かさと反比例して、日本人の精神・家族・国家をここまでぐちゃぐちゃにしてしまった。

で、このユダヤ人の老人モルデカイ・モーセさんは日本人にはいろいろよくしてもらったのに申し訳ない…最後に謝りたい、とこの告白をしたのがこの本というわけです。

憲法の内容とその効果、資本主義と共産主義をの両方を道具として生き残るための使ってきたユダヤの歴史などを詳しく紹介されています。


<馬渕睦夫氏による推薦文>

本書が東西冷戦最中の1979年に発刊されたのは奇跡と言えます。
当時ソ連を信奉してやまない日本の左翼とは、ユダヤ思想のエピゴーネンであることがばれてしまったからです。

本書を読めば、わが国の國体の真髄である「君民一体」こそ、最先端の民主主義体制であることに誇りを持てるはずです。
〜馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使) 〜

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<田中英道氏による推薦文>

戦後、日本を占領したアメリカといいGHQといい、その中核はユダヤ人であることを如実に示した好著である。

四十年前、この本が出た時、買い求めたが、これを左翼の論壇が抹殺したきた。
こうしたユダヤ人の懺悔を聞きたくなかったのだろう。
なぜなら、日本の論壇こそ、左翼ユダヤ人たちが支配してきたからだ。
〜田中英道(東北大学名誉教授)〜

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<著者略歴>

モルデカイ・モーゼ: 1907年ウクライナのオデッサ生まれ。父親は哲学者で革命家、ロシア革命では指導的役割を果たした。

レーニン没後ソ連におけるユダヤ権力の将来に見切りをつけた父親と共にワイマール体制下のドイツへ亡命。父親は美濃部達吉博士に「天皇機関説」を説いたゲオルグ・イエリネックと親交があった。

ベルリン大学で政治学、哲学を専攻後、国際連盟労働局で極東問題を担当。独ソ不可侵条約が結ばれると、その本質がユダヤ勢力の抑圧にあることを看破し、ハルビンを経て上海に亡命。

「サッスーン財閥」の顧問となり、日本の国体、神道、軍事力の研究に従事。1941年米国へ亡命、ルーズベルト等のニューディル派のブレーントラストとして活躍。1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画。戦後十数回来日した。

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<復刻版にあたって>

本書は、1979年に日新報道から出版され注目された話題の書でしたが、作者と翻訳者の死亡、出版社の倒産などにより長らく絶版となっておりました。
まるで目からウロコが落ちるような興味深い著作は、賛否両論を交え、現在でもネット上で話題になっているほどです。

多くの日本人にこの著作を読んで頂きたく、このたび有志による自費出版でその復刻版をつくらせていただきました。 また、ありがたいことに、尊敬する馬渕睦夫先生、田中英道先生からの推薦文も頂くことが出来ましたので、ぜひご一読頂けますと大変幸いです。

沢口企画 沢口祐司 

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カスタマーレビュー

小実昌 5つ星のうち3.0

英文のWikiでは作者は訳者自身だと書いています。 2014年11月7日


http://en.m.wikipedia.org/wiki/Antisemitism_in_Japan

「日本人に謝りたい」で検索すれば、ある方が章ごとの要約を紹介されています。ただし、その方は信ぴょう性があるのだろうかについてはいまだにわからないと書いています。

そこで調べました。日本語のwikiには載っていませんでしたが、英語のwikiにはありました。

訳者の自作だろうという内容です。

Post WWIIのところに掲載されています。英文の原文を探しましたが、どこにもありませんでした。多分これが正しいのでしょう。

ただし、面白いです。アルジャー・ヒスはヤルタ会談に同席していますが、ソ連のスパイであるとマッカーシーに追及され、公職追放されました。JFKはマッカーシーを尊敬したいたという話ですし、CPスノーを辱はじめ、アメリカに共産主義者は多いという話は昔からあります。ですから、書いてあることはたとえ訳者が自分で書いた内容であっても、本当または本当に近い可能性はあるのではないでしょうか。一人一人の読者が判断すべきなのでしょう。
http://en.m.wikipedia.org/wiki/Antisemitism_in_Japan

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あらいやすまさ 5つ星のうち3.0
モルデカイ・モーゼ著「日本人にあやまりたい」のこと 2014年6月9日

 モルデカイ・モーゼ著「日本人にあやまりたい」のこと
1938年うまれ、男性です。

先日、私が所属する総合知に関する学会で ひとりの発表者から紹介された本です。 

*モルデカイ・モーゼ著(久保田政男訳)「日本人にあやまりたい」〜あるユダヤ人の懺悔 日新報道 2000年 新版です。

*この本の初版は1969年。(ちなみにこの年は 私がアメリカに留学します。日本は東大紛争。ヴェトナム戦争の反戦でアメリカの大学での運動が活発化。重厚長大の経済でGNP万歳のころでもありました)

唐突ですが イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」は1970でした。
*上記のモーゼの本の目次を上げてみますと以下です;

1.戦前の日本に体現されていたユダヤの理想
2.二元論的思考法 典型的なユダヤ的思考パターン
3.日本人の知らない東京裁判の本質
4.戦後病理の背景
5.マルクス主義はユダヤ民族解放の虚偽仮説
6.極左的戦後改革を強行したユダヤの秘密


*内容の特徴

・資本主義と共産主義がユダヤ人の陰謀であるという説明をしています。

・ルッソー、レーニン、ルーズベルトそしてニューディール派がユダヤ人であるという前提としている。

・日本の天皇制はユダヤ世界制覇の筋では破壊すべきとされて 戦前から戦略が練られていた。

・日本への占領で知った昭和天皇の態度から天皇制、これがユダヤ人の理想であることを確認したという。

*内容に対する私見1

・全体の主張として ユダヤ人による世界制覇が民族の前提としていうという内容に貫かれているようです。
読者の日本人にとっては、すこしプライドをくすぐられるものでありましたが、とっさにある種の違和感を感じました。

・社会学者橋爪大三郎さんの「旧約をよむ」という公開講座をこの4年間受け、この夏で読み終わるところであるが、このなかで彼らはバビロン捕囚など 民族滅亡に瀕する受難をなんども経験するが かれらが一転、世界制覇につながる筋をあたえる根拠箇所が見いだされない。

旧約の経典外(apocrypha)については私は、目をとおしていないが 彼らの民族の規範となるのは、現在の旧約(タナハ)としてとらえてよいとおもう。


・「ユダヤ議定書」というのがあって、ヒトラーはこれを根拠にユダヤ世界制覇の魂胆がありとして 民族絶滅(cleanse)の口実としたのであるが この書は偽であったことが判明している。(ノーマン・コーン「ユダヤ人世界征服陰謀の神話」) 

・私は、著者モルデカイ氏が ユダヤ人であればたぶんこのような筋で 論を展開することはないであろうという直観をもちます。

・因みに イザヤベンダサン 「日本人とユダヤ人」1970(「ユダヤ人」と略す)でその著者と目されて、本人も否定しなかったのは山本七平( 1921~1991)です。
この本「ユダヤ人」は 当時の私にとっても世界のなかでの日本の文化を知るうえで つよい知的な刺激をうけたことを記憶しています。

・エール大学の博士課程で仏教天台宗の研究のために当時日本に滞在していた友人ポール・グローナー氏(いまはたぶん高名な教授になっているとおもいます)はイザヤベンダサンはユダヤ人かの私からの問いに対して 即座に日本人とおもうと答えました。なぜなら 彼があつかうへブル系の文献はごく一般的なものであるにかかわらず、日本系の文献はきわめて特異であるからと指摘していました。 彼の指摘が正しかったことはその後の経過で証明しています。


 
*いま仮説として モルドカイ・モーゼというペンネームのもうひとりの山本七平がいるとします。

・候補としては 以下の三人としてみます; 山本七平、訳者の久保田政男、そのほか(モーゼ氏)

・それで この著と「ユダヤ人」の出版時機を重ねてみるとおなじころです。ただ文体からくる個性や肝心の論の運びが異なり別人のようにおもわれました。(これも直感的で根拠はありません。)

・訳者久保田政男氏に焦点をうつします。奥付からは 1932(昭和32年生まれ、大阪)で 山本氏は(1921生れ、東京)で約一回り後の世代です。 共通しているのはともにキリスト教系の高等教育機関である青山学院に学んでいるところです。英字新聞の編集長などを経歴としていますが、この辺がトレースできうのかどうなるのか。一般論としてここでの学歴経歴の信ぴょう性が気になりました。。

・それ以外の著者としては やはり ユダヤ人のラビ、モルデカイ氏に焦点をあてます。

・奥付では、ウクライナ 1907生れ 父親が哲学者でロシア革命に関与したこと、ドイツに亡命してワイマール憲法に影響を与えたこと 本人もベルリン大学で哲学や法学で学位を獲たこと。高名な法学者ゲオルグ・イエリネックを通じて、美濃部達吉に「天皇機関説」を伝授したこと。アメリカに亡命してルーズベルトのブレーンになって 最後は日本の占領政策に関係したこととなっています。

・ところで、この書は訳書であるのに 原著の版権表示もありません。

・ここに書くほどの立派な人物ですから、英語のネットで はどうでるかMordekaiとMosで 当たります。

・Jewish Encyclopediaというのに確かにMordekaiというドイツ系ユダヤ人のアメリカ有数家系としてありました。とくに Mordekai Moseもでてきますが このひとは1707年ドイツ生まれのアメリカ人です。

・もちろん 先祖のなまえは継承しますから、ここにないからといって実在しないとはいえません。

*それやこれやで Wikipediaで項目「覆面作家」をひきますと、ここでは確定的表現でMordekai Moseは 久保田政男の「覆面作家」名であるとしてあらわれます。つまり 上記私の仮説である 「別の山本七平」がいるという結論をなります。

 
*内容に対する私見2

さて、出版のモラルという点に焦点を当てたいとおもいました。慣用的に「ペンネーム」や「覆面作家」(「覆面」と略します)で著者を表明し名乗る自由と権利は保証されるべきと考えます。問題は その意味するところが 他者の名誉を傷つけることになるかどうかで、ここに当然の品位と矜持が必要になります。


・ここでの 一番の問題は この著が ユダヤ人の人たちの目に触れるチャンスを配慮した前提に立っているかどうか。

・「覆面」効果によって 日本人にも、他民族に対する誤った認識をあたえる危険性もあります。
上であげた偽「ユダヤ議定書」とおなじ効果になります。

*そういうことを考えるうえで 非常に勉強になった本でありました。 


・章立ての構成が 筋通っているので, 小説として 仮説をたのしむという意味では 一読に値します。しかし、基本的には著者がユダヤ人であることに疑念がぬぐいきれません。 このことはものを書く人間としては もっとも重要なことであります。 こここを一歩誤ると日本人にたいしてもさることながら、ユダヤ人に対しても 彼らについての真の認識を遠ざけるものであります。、また、このことが、この本の価値をも傷つけてきます。

この本を原語であろう英語での発行も ひろく問題をなげかける意味でおもしろいのではないかと思います。 いずれにしても 読者の思考判断の力がためさる本であることを認めるものであります。。


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夜帆。@楽利多マスター 5つ星のうち1.0
原爆機の名前が「天皇を抹殺せよ」という意味だったってホント? 2003年6月12日

 この本は、1972年に出た旧版で読んだ。
 正直、なかなか良い指摘もないではない。

 しかし、最終章へ来て、原爆搭載機の名前「エノ(ー)ラ・ゲイ」が「天皇を抹殺せよ」という意味であるという話になって、一挙にシラけてしまった (つ_;)。

 これが機長の母親の名前だというのはよく知られていることで、まさか機長の母親がたまたま「天皇を抹殺せよ」だったというわけでもあるまい。

 気になっていろいろ調べてみても、母親の名前説を覆すような資料は見つからなかったし、「天皇を…」説に言及している他の本の多くは出典が書かれておらず、まれに出典への言及があると、この本であった。

 そこで、ふと我に返って訳者の著作類の何冊かに目を通してみると、ホロコーストでヒトラーに悪用された例の有名な偽書『ユダヤ議定書』が、偽書であることを半ば知りつつ紹介したりしているではないか (これについてはノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話』を参照)。

 こうなると、いったい、本当のユダヤ人が、そのような人に自著の翻訳をまかせるだろうか、という疑問がふつふつと沸いてきた。

 このモルデカイ・モーゼという取って付けたような (失礼!) ユダヤ系の名前の人物は、本当に主張されている通りの経歴の人なのであろうか?

 あるいは、第二、第三のイザヤ・ベンダサン氏 (未亡人および子息の証言により、その正体が「訳者」の山本七平氏であることが判明している) なのではないのか?
 残念ながら、自分には、この疑念を充分に払拭してくれるような記述を、本書の中に見つけることはできなかった。

 このページに並んでいる「この本を買った人はこんな本も買っています」のコーナーに並んでいる本がどれも意義深いものばかりであるだけに、それと一緒にこの本が読まれているのかと思うと、何か暗澹としてしまうのである……。


___

黒住玲3年前

Enola Gayについて、宗教哲学に詳しくイディッシュ語が堪能な方々に質問する機会を得たので、結果を御報告します。Enola Gayは、●●を屠れ!という意味を持つ言葉なのだそうです。

順に説明すると、この言葉は母親の名前であると同時に、戦意高揚を目的とした米語の符牒になっているそうです。enolaの綴りを機体に描こうとしたとき逆に読んでalone。この場合のgayは派手に決めてやろう!という意味で、超兵器の原爆を日本に持って行って落す自分達一機だけで、天皇に対して戦争を終結に導く派手な決定的一撃を加えることができる!という意味を持つそうです。たった一発で世界大戦を終結できる超兵器を運ぶに相応しい機体のコードネームだと、ある方の指摘を受けました。

「●●を屠れ!」というイディッシュ語の説明のほうは、門外漢に分かり辛い専門的すぎる内容で、かなりの量の予備知識が必要になるうえに、一部私の理解を超えるためこの場ではしません。文字チャットで一時間半にも及ぶ量になりました。

要は米語との掛詞になっているのだそうです。母親の名前を入れれば、3重の掛詞ということになります。もちろん、元々は母親の名前から始まった戦意高揚の合言葉だと思われます。一般の人々は、米語の符牒と理解していれば十分でしょう。

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あふぁ7年前

「シオンの議定書」といえば、陰謀論者のバイブル扱いされ、トンデモ本扱いされるか、「偽書」のひとことで切り捨てられているのが現状です。

私は決して陰謀論に全面的に与するものではありません。しかし、結果的に、その内容がマスコミなどを利用した大衆の愚民化手法や、金融による経済支配のノウハウなどを正確に述べているとしたら、出典がどうあれ、問題の書であることは間違いないと思います。

▲△▽▼


次郎 5つ星のうち2.0
自分には判断が付かないが 2011年5月13日

不勉強な自分では、どこがどうと具体例をあげてこの本の真偽を見極めることが難いのですが

もしこれらが本当なら、歴史がひっくり返るだろうってな内容であるにも関わらず、そう表だって議論にあがらない。そこそこ有名な本であるのに関わらず。
とすればそもそも、事実だと見なすには決定的な何かが欠ける、
或いは明らかな誤りがある、論外の産物だと取れるんではないかなと。

日本人の耳障りの良いことを並べ立ててあるところも、どこか不自然に思います。
とはいえ全部が全部嘘で固められたものでも無さそうで、
ここの批評で先の方が書かれてあった通り、何らかの目論見によるものだとすれば、
まさしく陰謀の陰謀って感じです。

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イオンのバベル4年前

>もしこれらが本当なら、歴史がひっくり返るだろうってな内容であるにも関わらず、そう表だって議論にあがらない。そこそこ有名な本であるのに関わらず。
とすればそもそも、事実だと見なすには決定的な何かが欠ける、
或いは明らかな誤りがある、論外の産物だと取れるんではないかなと。

上のような見方は、非常に多くの人が抱いているのではないかと想像します。このような社会心理から事実を判定するのはおそらく根本的に誤まっています。このような巨大な歴史的な流れは、少しのことでは変わりようがないのではないか。いかに論理的に大転換を起こすような内容であっても、ただ1つの書物にしか過ぎない、とも言えるのです。また、この書物の場合は、日本の上層部を覆い尽くしている左翼勢力によって無視されているのが大きいでしょう。彼らにはこの本の内容は頭の中に入ってこないのです。そのように脳の神経回路が出来上がっていますからね。


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Аmаzоn力ス夕マレビュ一 5つ星のうち1.0
純真な日本人の無知に付け込む悪質な差別プロパガンダの書 2006年6月8日


本書は、オデッサ出身のユダヤの長老がユダヤ人の立場からユダヤ陰謀論を肯定する内容になっていますが、山本ベンダサン同様、「訳者」久保田政男がユダヤ人を騙って書いた本であることは明白でしょう。根拠は以下の通りです。

1.訳書なら必ずある、原著の版権表示がない。

2.我々ユダヤ人はスクリーン、スリル、セックスの3Sで非ユダヤ人の思考力を奪い家畜化してきた云々という記述は、外国語が出来ない日本人に特有の誤りを含んでいる。(スリルの綴りはthrillです。sではありません)

3.エノラゲイはイディッシュ語で「天皇を殺せ」という意味だなどというデタラメを申し立てている。(「エノラ」も「ゲイ」もイディッシュ語の動詞の命令形とは語形が全く違います。それに、天皇に該当するイディッシュ語の名詞Keyserはどこにある?)

4.ロシア系ユダヤ人に「モーゼ」などという苗字はない。(モイセーエフ、モイセイヴィッチ等ならわかりますが)

山本ベンダサンは無知なりにユダヤ人に敬意を払っていましたが、久保田モーゼにはそれもありません。それも、イディッシュ語に対する一般日本人の無知につけこんで「天皇を殺せという意味だ」などという悪質なデマを流す段に至っては、ほとんど犯罪です。「ユダヤ陰謀論自体が一つの巨大な陰謀である」という皮肉なセオリーを雄弁に証明する一冊と言えるでしょう。

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黒住玲3年前 【1】日本人向けに書かれた、翻訳を前提とした原稿は存在しても、原著は存在しないと思いますよ。なぜあなたは原著が出版されていなくてはならないと考えたのですか?短絡的発想に基づく、根拠のないただの盲信にすぎないのではありませんか?もしくは、原著の存在を確認なさったのですか?御主張の根拠をお示しください。

【2】3Sの説明は日本人向けにしているのですから、ユダヤ人の著者が日本人のことをよく理解したうえで、言葉を選んで分かりやすく書いてくれているだけのことなのではありませんか?日本人のことを知り尽くしたうえでGHQの仕事をしていたユダヤ人の著者が、日本語と日本人の発想を知らないと考える根拠をお示しください。また、翻訳者は無教養な「外国語が出来ない日本人」であると断定した根拠をお示しください。色眼鏡を掛けて、完全な見当違いの錯誤に陥っているように見えますが、客観的な視点から正しい判断が出来ていますか?

【3】「エノラ」か「ゲイ」がイディッシュ語の動詞の命令形でなくてはならないと考える根拠は何ですか?母親の名前enolaの綴りを機体に描くとき逆に読んでalone。それにgay=派手に決めてやろう!という言葉を組み合わせれば、超兵器の原爆を日本に持って行って落す自分達一機だけで、天皇に対して戦争を終結に導く派手な決定的一撃を加えることができる!という意味を持つ、戦意高揚を目的とした米語の符牒になっているとは思いませんか?視野狭窄に陥って、こんな簡単な言葉の組み合わせにも気付かないあなたは、本当に著者や翻訳者を上から目線で侮ってバッシングできるほど、外国語に堪能な優れた正しい物差しを持った有識者なのですか?また、あなたはイディッシュ語が堪能なユダヤ人のラビ(長老)に向って、この符牒の意味について質問して、確かな見識に基づく回答を得てコメントをお書きになっておられるのでしょうか?じつは、皇統の母方のなかで最も貴いお家とされて真人の筆頭に位置付けられた、神功皇后を輩出したとされ、初日の出を拝んで天照大神の神託を下す神事を司る息長氏の斎王家の御宗主様の母親は、ヨーロッパ育ちです。そのため当代御宗主様はイディッシュ語が堪能です。女狩衣仕立ての軽装の御神服姿で、御宗主様がユダヤの長老達の参拝をお受けになった後に設けられた雑談の席では、御宗主様の言葉を取り次ぐ者と長老達の間でイディッシュ語が使われていました。そこで私は両者に対して尋ねてみました。結果、Enola Gayは「●●を屠れ!」という意味を持つ符牒という、双方同意の御回答を得ることができました。したがって、この言葉が米語とイディッシュ語の掛詞になっていることが理解出来ず、言葉の組み立てがよく分からないまま、間違った判断をなさっているのは、宗教哲学や伝統的な言葉に詳しい有識者の御宗主様やラビではなく、あなたのほうではないのですか?

【4】なぜモーゼがロシア語であると確信(盲信)なさっておられるのですか?私はモーゼはユダヤ人の姓の日本語の標準的な表記(正しい翻訳)だと思っています。違いますか?ユダヤ人を迫害して命を奪った帝政ロシアを嫌って流浪した結果、米国やイスラエルに在住することになったユダヤ人達が、捨て去ったロシア系の姓を好んで使いたがると本気でお思いになっておられるのですか?そう盲信なさる根拠は何ですか?私なら、レッドパージの迫害を避ける意味でも、GHQに所属した時点で本来の姓に戻すことを考えますが、この発想は間違っていますか?

あなたは、この本の著者と翻訳者を、悪質なデマを流す犯罪者と上から目線で無理解に誹謗中傷なさっておられるように見えますが、稚拙なレベルの錯誤だらけのバイアスがかかった暴力的な言葉を書き連ねた、冷静さや客観的判断を欠くレビューに陥っていませんか?

たとえば、「日本人は死んだ」という本を書いておられるユダヤの長老マービン・トケイヤー氏は、実際に大勢の日本人の前で講演なさっておられるので、実在を疑問視する人はまずいないようです。主張なさっておられることは、モルデカイ氏に近い内容です。つまり、ユダヤの長老達がある程度共通して抱いていた日本観が、正直にそのまま丁寧に記されている一書だとは思いませんか?  

カスタマーレビュー


夜帆。@楽利多マスター 5つ星のうち1.0
原爆機の名前が「天皇を抹殺せよ」という意味だったってホント? 2003年6月12日

 この本は、1972年に出た旧版で読んだ。
 正直、なかなか良い指摘もないではない。

 しかし、最終章へ来て、原爆搭載機の名前「エノ(ー)ラ・ゲイ」が「天皇を抹殺せよ」という意味であるという話になって、一挙にシラけてしまった (つ_;)。

 これが機長の母親の名前だというのはよく知られていることで、まさか機長の母親がたまたま「天皇を抹殺せよ」だったというわけでもあるまい。

 気になっていろいろ調べてみても、母親の名前説を覆すような資料は見つからなかったし、「天皇を…」説に言及している他の本の多くは出典が書かれておらず、まれに出典への言及があると、この本であった。

 そこで、ふと我に返って訳者の著作類の何冊かに目を通してみると、ホロコーストでヒトラーに悪用された例の有名な偽書『ユダヤ議定書』が、偽書であることを半ば知りつつ紹介したりしているではないか (これについてはノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話』を参照)。

 こうなると、いったい、本当のユダヤ人が、そのような人に自著の翻訳をまかせるだろうか、という疑問がふつふつと沸いてきた。

 このモルデカイ・モーゼという取って付けたような (失礼!) ユダヤ系の名前の人物は、本当に主張されている通りの経歴の人なのであろうか?

 あるいは、第二、第三のイザヤ・ベンダサン氏 (未亡人および子息の証言により、その正体が「訳者」の山本七平氏であることが判明している) なのではないのか?
 残念ながら、自分には、この疑念を充分に払拭してくれるような記述を、本書の中に見つけることはできなかった。

 このページに並んでいる「この本を買った人はこんな本も買っています」のコーナーに並んでいる本がどれも意義深いものばかりであるだけに、それと一緒にこの本が読まれているのかと思うと、何か暗澹としてしまうのである……。


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黒住玲3年前

Enola Gayについて、宗教哲学に詳しくイディッシュ語が堪能な方々に質問する機会を得たので、結果を御報告します。Enola Gayは、●●を屠れ!という意味を持つ言葉なのだそうです。

順に説明すると、この言葉は母親の名前であると同時に、戦意高揚を目的とした米語の符牒になっているそうです。enolaの綴りを機体に描こうとしたとき逆に読んでalone。この場合のgayは派手に決めてやろう!という意味で、超兵器の原爆を日本に持って行って落す自分達一機だけで、天皇に対して戦争を終結に導く派手な決定的一撃を加えることができる!という意味を持つそうです。たった一発で世界大戦を終結できる超兵器を運ぶに相応しい機体のコードネームだと、ある方の指摘を受けました。

「●●を屠れ!」というイディッシュ語の説明のほうは、門外漢に分かり辛い専門的すぎる内容で、かなりの量の予備知識が必要になるうえに、一部私の理解を超えるためこの場ではしません。文字チャットで一時間半にも及ぶ量になりました。

要は米語との掛詞になっているのだそうです。母親の名前を入れれば、3重の掛詞ということになります。もちろん、元々は母親の名前から始まった戦意高揚の合言葉だと思われます。一般の人々は、米語の符牒と理解していれば十分でしょう。

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あふぁ7年前

「シオンの議定書」といえば、陰謀論者のバイブル扱いされ、トンデモ本扱いされるか、「偽書」のひとことで切り捨てられているのが現状です。

私は決して陰謀論に全面的に与するものではありません。しかし、結果的に、その内容がマスコミなどを利用した大衆の愚民化手法や、金融による経済支配のノウハウなどを正確に述べているとしたら、出典がどうあれ、問題の書であることは間違いないと思います。

▲△▽▼


次郎 5つ星のうち2.0
自分には判断が付かないが 2011年5月13日

不勉強な自分では、どこがどうと具体例をあげてこの本の真偽を見極めることが難いのですが

もしこれらが本当なら、歴史がひっくり返るだろうってな内容であるにも関わらず、そう表だって議論にあがらない。そこそこ有名な本であるのに関わらず。
とすればそもそも、事実だと見なすには決定的な何かが欠ける、
或いは明らかな誤りがある、論外の産物だと取れるんではないかなと。

日本人の耳障りの良いことを並べ立ててあるところも、どこか不自然に思います。
とはいえ全部が全部嘘で固められたものでも無さそうで、
ここの批評で先の方が書かれてあった通り、何らかの目論見によるものだとすれば、
まさしく陰謀の陰謀って感じです。

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イオンのバベル4年前

>もしこれらが本当なら、歴史がひっくり返るだろうってな内容であるにも関わらず、そう表だって議論にあがらない。そこそこ有名な本であるのに関わらず。
とすればそもそも、事実だと見なすには決定的な何かが欠ける、
或いは明らかな誤りがある、論外の産物だと取れるんではないかなと。

上のような見方は、非常に多くの人が抱いているのではないかと想像します。このような社会心理から事実を判定するのはおそらく根本的に誤まっています。このような巨大な歴史的な流れは、少しのことでは変わりようがないのではないか。いかに論理的に大転換を起こすような内容であっても、ただ1つの書物にしか過ぎない、とも言えるのです。また、この書物の場合は、日本の上層部を覆い尽くしている左翼勢力によって無視されているのが大きいでしょう。彼らにはこの本の内容は頭の中に入ってこないのです。そのように脳の神経回路が出来上がっていますからね。


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Аmаzоn力ス夕マレビュ一 5つ星のうち1.0
純真な日本人の無知に付け込む悪質な差別プロパガンダの書 2006年6月8日


本書は、オデッサ出身のユダヤの長老がユダヤ人の立場からユダヤ陰謀論を肯定する内容になっていますが、山本ベンダサン同様、「訳者」久保田政男がユダヤ人を騙って書いた本であることは明白でしょう。根拠は以下の通りです。

1.訳書なら必ずある、原著の版権表示がない。

2.我々ユダヤ人はスクリーン、スリル、セックスの3Sで非ユダヤ人の思考力を奪い家畜化してきた云々という記述は、外国語が出来ない日本人に特有の誤りを含んでいる。(スリルの綴りはthrillです。sではありません)

3.エノラゲイはイディッシュ語で「天皇を殺せ」という意味だなどというデタラメを申し立てている。(「エノラ」も「ゲイ」もイディッシュ語の動詞の命令形とは語形が全く違います。それに、天皇に該当するイディッシュ語の名詞Keyserはどこにある?)

4.ロシア系ユダヤ人に「モーゼ」などという苗字はない。(モイセーエフ、モイセイヴィッチ等ならわかりますが)

山本ベンダサンは無知なりにユダヤ人に敬意を払っていましたが、久保田モーゼにはそれもありません。それも、イディッシュ語に対する一般日本人の無知につけこんで「天皇を殺せという意味だ」などという悪質なデマを流す段に至っては、ほとんど犯罪です。「ユダヤ陰謀論自体が一つの巨大な陰謀である」という皮肉なセオリーを雄弁に証明する一冊と言えるでしょう。

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黒住玲3年前 【1】日本人向けに書かれた、翻訳を前提とした原稿は存在しても、原著は存在しないと思いますよ。なぜあなたは原著が出版されていなくてはならないと考えたのですか?短絡的発想に基づく、根拠のないただの盲信にすぎないのではありませんか?もしくは、原著の存在を確認なさったのですか?御主張の根拠をお示しください。

【2】3Sの説明は日本人向けにしているのですから、ユダヤ人の著者が日本人のことをよく理解したうえで、言葉を選んで分かりやすく書いてくれているだけのことなのではありませんか?日本人のことを知り尽くしたうえでGHQの仕事をしていたユダヤ人の著者が、日本語と日本人の発想を知らないと考える根拠をお示しください。また、翻訳者は無教養な「外国語が出来ない日本人」であると断定した根拠をお示しください。色眼鏡を掛けて、完全な見当違いの錯誤に陥っているように見えますが、客観的な視点から正しい判断が出来ていますか?

【3】「エノラ」か「ゲイ」がイディッシュ語の動詞の命令形でなくてはならないと考える根拠は何ですか?母親の名前enolaの綴りを機体に描くとき逆に読んでalone。それにgay=派手に決めてやろう!という言葉を組み合わせれば、超兵器の原爆を日本に持って行って落す自分達一機だけで、天皇に対して戦争を終結に導く派手な決定的一撃を加えることができる!という意味を持つ、戦意高揚を目的とした米語の符牒になっているとは思いませんか?視野狭窄に陥って、こんな簡単な言葉の組み合わせにも気付かないあなたは、本当に著者や翻訳者を上から目線で侮ってバッシングできるほど、外国語に堪能な優れた正しい物差しを持った有識者なのですか?また、あなたはイディッシュ語が堪能なユダヤ人のラビ(長老)に向って、この符牒の意味について質問して、確かな見識に基づく回答を得てコメントをお書きになっておられるのでしょうか?じつは、皇統の母方のなかで最も貴いお家とされて真人の筆頭に位置付けられた、神功皇后を輩出したとされ、初日の出を拝んで天照大神の神託を下す神事を司る息長氏の斎王家の御宗主様の母親は、ヨーロッパ育ちです。そのため当代御宗主様はイディッシュ語が堪能です。女狩衣仕立ての軽装の御神服姿で、御宗主様がユダヤの長老達の参拝をお受けになった後に設けられた雑談の席では、御宗主様の言葉を取り次ぐ者と長老達の間でイディッシュ語が使われていました。そこで私は両者に対して尋ねてみました。結果、Enola Gayは「●●を屠れ!」という意味を持つ符牒という、双方同意の御回答を得ることができました。したがって、この言葉が米語とイディッシュ語の掛詞になっていることが理解出来ず、言葉の組み立てがよく分からないまま、間違った判断をなさっているのは、宗教哲学や伝統的な言葉に詳しい有識者の御宗主様やラビではなく、あなたのほうではないのですか?

【4】なぜモーゼがロシア語であると確信(盲信)なさっておられるのですか?私はモーゼはユダヤ人の姓の日本語の標準的な表記(正しい翻訳)だと思っています。違いますか?ユダヤ人を迫害して命を奪った帝政ロシアを嫌って流浪した結果、米国やイスラエルに在住することになったユダヤ人達が、捨て去ったロシア系の姓を好んで使いたがると本気でお思いになっておられるのですか?そう盲信なさる根拠は何ですか?私なら、レッドパージの迫害を避ける意味でも、GHQに所属した時点で本来の姓に戻すことを考えますが、この発想は間違っていますか?

あなたは、この本の著者と翻訳者を、悪質なデマを流す犯罪者と上から目線で無理解に誹謗中傷なさっておられるように見えますが、稚拙なレベルの錯誤だらけのバイアスがかかった暴力的な言葉を書き連ねた、冷静さや客観的判断を欠くレビューに陥っていませんか?

たとえば、「日本人は死んだ」という本を書いておられるユダヤの長老マービン・トケイヤー氏は、実際に大勢の日本人の前で講演なさっておられるので、実在を疑問視する人はまずいないようです。主張なさっておられることは、モルデカイ氏に近い内容です。つまり、ユダヤの長老達がある程度共通して抱いていた日本観が、正直にそのまま丁寧に記されている一書だとは思いませんか?  

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英文のWikiでは作者は訳者 久保田政男だと書いています

日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懺悔 (1979年) − – 古書, 1979/12
モルデカイ・モーゼ (著), 久保田 政男 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%AC%9D%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E2%80%95%E3%81%82%E3%82%8B%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%87%BA%E6%82%94-1979%E5%B9%B4-%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC/dp/B000J8CE02/ref=sr_1_1?qid=1561679615&refinements=p_27%3A%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC&s=books&sr=1-1&text=%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC

しかし、右翼を騙すのは簡単ですね(嘲笑い)

27. 2019年11月21日 17:09:46 : fPJAvU5aVQ : Rm1hdThxcHljblU=[3] 報告

極左脳は日本を滅ぼす。。。。。。。
そんなに日本が嫌なら特亜に帰ればいい。
桜を見る会叩きとか、捏造モリカケで2年も国会をハイジャック。
北朝鮮の将軍様の所にでも、習近平でも、江沢民でも、文在寅でも、
極左の尊敬してやまない指導者の国へ早く帰ればいい。
チュチェ思想も、武者小路公秀も、山口二郎も、基地外Dr.リカも
日本にはいらない、不要、ただの癌細胞、ゴミ、トンスル‼

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「証拠写真」として通用する写真は一枚もなかった>
 完全な検証への決め手を求めて

 平成14年春から南京事件研究会の写真研究分科会と して始まった私たちの写真検証は、意外にも約3年の長 期に及んでしまった。それというのも、途中で、壁にぶ つかってしまったからである。私たちがどれほど検証し たとしても、それは決め手に欠ける独りよがりな検証で はないかと言われては、水の泡になりかねないという苦境に何度もおちいったからである。
 かつて『ロサンゼルス・タイムズ』が掲載した写真が 問題になったことがあった。よく見ると、一枚の写真に 同一人物が二人いることから、これは「改竄されている のではないか」という読者からの問い合わせを受けて、『ロサンゼルス・タイムズ』が調査した結果、撮影したカメラマンはほぼ同時撮影の同じ場面の二枚の写真をパ ソコンで一枚に合成したことを認めて、解雇された。知 らなかったとはいえ、合成写真を掲載した新聞社は謝罪広告を載せた。
 もう一つ例をあげておこう。それはまだ記憶に新しいイラクの邦人3人の人質事件の映像である。そのうち1人の男性が首を絞められ、助けを求めている姿にたいして専門家は「演技を振り付けたような動き」を見つけ、「演出」ではないかと疑問を呈していた。その後解放さ れた人質三人は強要されたことを大筋で認めた。
 つまり私たちも検証のさいに「改竄されているのでは ないか」「演出ではないか」と疑問に感じた点について は、然るべき人に問い合わせて検証し、そうして初めて南京大虐殺の証拠写真かどうかを判断すべきであろう。そうでなければ完全な検証とはなり得ないのではないか、そう、思ったのである。
 しかし、そうは言っても、ほとんどの写真は誰が撮影 したかもわからず、問い合わせる術もなかった。そこで 私たちは、その写真の初出を探し出すこと、その写真が掲載されているさまざまな書物を集めて見比べてみること、写真と同じような光景の場所を見つけて場所の特定に努めること、さらには当時の状況を物語る本をできるだけたくさん読むことで、「然るべき人」への問い合わせに代えることにした。このように多様な角度から追究することにより、私たちの検証はほぼ完全となりつつあった。
 ところが、ただ一つ、どうしても次の点が確認されな ければ、確実な検証とは言えないというもどかしさが、残ったままになっていた。それは、本書をご覧いただくとわかるように、南京大虐殺の写真としては妥当ではないという理由として、「この写真は、服装や背景などが春のころにあたるから、南京大虐殺が生じたと言われる冬にはそぐわない」と、何度も私たちは言っていた。しかしそれは、それすら状況証拠にすぎず、いまひとつ、 これという決め手に欠けていたのである。そもそも暖かい冬だったので人びとは春のような服装をしていたので はないかという反論も、一応は成り立つからである。
 そのようなとき、季節について二つのヒントが見つか った。
 一つは、本書136〜138頁に紹介したように、写 真に写っている影の長さを計算して季節を判断するという手法であった。
 もう一つは、おりしも発掘された国民党宣伝部の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』のなかの「撮影課工作概況」に見られる次の秘密報告であった。
 本処〔国際宣伝処〕の撮影事業の動機は、1938春、本処の指導する国際新聞撮影社が、すべての撮影機材や、その他の材料、取材したフィルム数千枚を、全て中央通信社撮影部へ渡し、並びに毎月手当てを出して、力を結集して、撮影功能の展開を期したことから始まる。
 すなわち国民党宣伝部国際宣伝処が、プロパガンダ写真をつくるため「撮影工作」に本格的に乗り出しだのは、1938(昭和13)年春だったことがわかったのである。
 このことは、『戦争とは何か』の出版作業にかんして、編者のハロルド・ティンパーリ記者がマイナー・ペイツ師に「ことに、写真代がかさみます…ゴランツ社〔「レフトブック・クラブ」というシリーズを出していたロンドンの出版社〕は、もちろんあの本に全部を使うはずはないのですが、200枚写真を要求しています」と、1938年3月14日、手紙に書いていること とも合致する。
 つまり、1938年7月に出た宣伝本、田伯烈(ティンパーリ)編『外人目撃中の日軍暴行』(『戦争とは何か』に写真を加えた漢訳版)に出てくる写真は、来るべき夏の出版に向けて、1938年春から大急ぎで収集ないしは「撮影工作」された写真であったと言えるのである。春から初夏にかけての写真がなぜ多く見られたのかという謎が、これで初めて氷解したのである。
 それにしても、なぜ国民党宣伝部は南京大虐殺が生じ たと言われる真冬の季節に注意を払わなかったのかと、読者は疑問に思われるかも知れない。その決定的な理由は、国民党宣伝部が「南京で虐殺」という認識をもちあわせておらず、ただたんに抽象的な戦争プロパガンダを展開していたということにあった。そのことについてはすでに『南京「虐殺」研究の最前線 平成15年版』や、「南京〈大虐殺〉を覆す決定的証拠を発掘した」において論じているが、詳しくは別の機会に論ずることにした い。
 ちなみに写真や、本書では取り扱わなかったが映画の、登場人物の動作が不自然だ、演出のようだと感じられた疑問についても、それが解けたことを紹介しておきたい。極秘文書は「海外向け宣伝用短編映画」の製作にかんして次のように秘密報告していた。
 本処〔国際宣伝処〕は多くの米国の専門家たちに特に委託して、ストーリー編成に協力してもらった。初めての仕事なので、人力、物力に不足を感じたが、背景のセットを造ったり演技者を雇うことはできないので、ドキュメン タリー方式で撮影製作するしかなく、大自然の環境を利用し、また一切の現実の事物をもって映画の製作をした。 例えば『建軍』の中の軍学校の学生、『怖いもの知らずの重慶』の中の冷静な大衆、『桐油(とうゆ)』の中の農民や工員などは、すべて我々の栄誉あるスターであり、『建軍』の中の各種の武器、『雲南ビルマライン』の無数の自動車は、すべて我々の道具である。
なるほど写真にも映画にも、ぎこちないシーンが出てくるが、それもこれも宣伝用映画や写真の「栄誉あるスター」となった学生や農民労働者の演技だったからではないか。そう考えれば納得がいく。今でいうエキストラを動員して、海外向け宣伝用短編映画や写真が宣伝部を中心にして作られていたのである。
「親中反日」の国際世論を創出せよ

 こうして私たちの検証はかぎりなく完全な検証に近づ いたと自負している。
 検証の過程でさらに驚いたこともあった。以下は極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』のなかの「撮影課工作概況」における秘密報告である。
 廣光社〔廣光新聞撮影通信社〕が原稿を発送するようになって、世界中の新聞雑誌に掲載された我が国〔中華民国〕のニュース 写真の95パーセントは、本社〔廣光新聞撮影通信社〕提供のものである。重慶駐在の外国人記者は常に本社から写真を購入して、本人の名義で対外的に発表すると同時に、外来の外国人記者及び名士が我が国でニュース写真を収集する時にも、ほとんど本社が供給している。
 すでに述べたように、国民党宣伝部が撮影工作を中央通信社撮影部に一本化したのが1938年春であった。それから中央通信社撮影部が廣光新聞撮影通信社となっ た。その翌年の1939(昭和14)年になると、外国人記者の「名義」で全世界の新聞雑誌に掲載された中国関係のニュース写真の95パーセントが、この彩光新聞撮影通信社の「撮影工作」した「抗戦用写真」であった というのである。
 極秘文書は宣伝部が「取材協力」した外国人特派員の名前を秘密報告している。そのなかには世界で初めて 「南京大虐殺物語」を報じた『シカゴ・デイリー・ニューズ』のアーチボルド・スティール特派員の名前や、『二ューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン特派員の名前も散見される。備考欄を見ると、彼らのために「抗戦用写真を記事作成用に選定」などと記されている。本書にもたびたび出てくる写真雑誌『ライフ』の名も極秘文書に出てくる。
 抗戦用写真が外国人記者の名義で全世界の新聞雑誌に出るよう、国民党宣伝部は必死の努力をつづけていたのである。日本に反対するアメリカの中国支援こそ国民党の死活問題と見ていたからである。そのため、「アメリ カの新聞雑誌にウソをつくこと、騙すこと…アメリカ を説得するためなら、どんなことでもしてよい」(『歴史の探究』76頁)という政策が、「中国政府唯一の戦争戦略」(the only war strategy of the Chinese government)になっていた(76頁)、と回想するのは、後年の著名なジャーナリスト、セオドア・ホワイトである。 大学を出たばかりの彼は自修徳という名で国民党宣伝部の「顧問」となっていた。
 このように国民党政府の国策がさまざまな抗戦用写真を生み出した。その走りは、上海南停車場の線路で泣き叫ぶ子供の写真(本書78頁)である。そこで、最近ようやく判明したこの写真の撮影者についても付記しておきたい。国民党宣伝部副部長董顕光(とうけんこう)の明かすところによれば、中央通信社撮影部の有名なプロカメラマン王小亭(おうしょうてい)であった。「中国唯一の大通信社」である中央通信社の蕭同茲(しょうどうじ)社長と董顕光が「合作」したものこそ、中央通信社内に新設された撮影部であり、そこの専属カメラマンとなったのが王小亭であった。
 第二章でも述べたが、「H・S・ワン撮影」として『ライフ』1937年10月4日号に出たこの写真は、アメリカの世論を親中反日へと急転回させたと言われている。『ライフ』1938年1月3日号の「読者の選ぶ1937年の写真ベストテン」(13頁)では2位に選ばれている。その写真説明は「中国の戦争」であった。董顕光はこれを「傑作」と評している。
 しかし、このような抗戦用写真の宣伝工作こそナチス宣伝省顔負けの、ウソを「必要不可欠」とする戦争プロパガンダではなかったのだろうか。日本も世界も、国民党宣伝部のプロパガンダ写真に惑わされ、70年前の戦争プロパガンダに今にいたるも完敗しているのである。

憎悪の感情の連鎖反応を断ち切るために

 検証が終わった今、私たちは次の3点を結論とする。
 一つは、日本軍が南京で6週間にわたって、大量虐殺、強姦、放火、掠奪をしたという「証拠写真」は一枚もなかったということである。誤解のないように言っておくが、私たちは「虐殺があったか、なかったか」を検証しようとしたのではない。あくまでも南京大虐殺の証拠に使われている写真が、はたして証拠写真として通用する ものなのかどうかを検証したのである。その間、私たち が見てきた写真はざっと見ても延べ三万枚以上になるが、南京大虐殺の「証拠写真」として通用するものは一枚もなかったということである。
 二つ目は、18〜19頁の「流れ図」から浮かび上がってくるように、今日流布する南京大虐殺の「証拠写真」なるものは、田伯烈(ティンパーリ)編『外人目撃中の日軍暴行』と国民政府軍事委員会政治部編『日寇暴行実録』の2冊を源流としていたということである。第二章でも述べたように、この2冊の宣伝本に少なからず出てくるのは、自国民とアメリカを反日親中に向かわせる抗戦用写真として収集、盗作ないしは撮影工作されたプロパガンダ写真であった。
 三つ目は、これも「流れ図」から浮かび上がってきたように、この2冊の宣伝本をもとに、こんどは中国共産党の新たな情報戦が1970年代から始まったということである。
 1970年代の共産党の政策と方針の一端は次の回想に垣間見られるので、ご参考までにご紹介しておきたい。有名な魯迅こと周作人(しゅうさくじん)の孫にあたる周令飛(しゅうれいひ)は、『北京よ、さらば』(昭58)のなかで祖父の魯迅の写真について、次のような体験談と目撃談を記している(205頁)。
 1976年、中共は祖父の業績を記念するため、一組の記念写真集を出版した…祖父が何人かといっしょに写った写真も、何枚かは複製されたが、かれらはそのときには祖父といっしょに写っている人がだれであるかを前もって調べ、それが「反革命」の人物、あるいは祖父 といっしょにするには不適当だと断定した場合には、必ず修正室でその人たちを消し去るか、ほかの人と首をすげ換えるかしてから複製していた…私の父は…真実の姿を残して欲しい、と申し入れたが、中共当局は私たちの申し入れに対して全然振り向いてもくれなかった。大陸では写真の修正など日常茶飯事で、しかも大っぴらに行なわれている。私は「解放軍画報社」で仕事をしている問に、この目で何度もそれを見た。
 あれは毛沢東の追悼大会のときだったが、江青、姚文元らが入場してきたので、当然彼らの姿がカメラに収められた。だが写真がまだ発表されないうちに「四人組」 が粉砕されてしまった。このニュースが伝わると、社長がアタフタと私たちのところへやって来て、写真の修正技術を利用し、あの乾板から「四人組」に関係ある者をすべて抹消するように、指示をした。
 中国共産党の時代になっても写真の修正など「日常茶飯事」であり、それは現在までつづいている。平成16 (2004)年9月3日付のシンガポールの『ストレー ツ・タイムズ』と翌日付の『産経新聞』が伝えたところによれば、江沢民主席をはさんでケ小平と胡錦濤両氏が握手する江沢民時代の写真が、胡錦濤時代になると、江沢民を消した写真に変わったという。不都合な人物は写真から消され、不都合な写真説明は新たな写真説明に変えられていったのである。
 1972(昭和47)年に出版された本多勝一 『中国の日本軍』中の掲載写真も、国民党のプロパガンダ写真に、改竄された説明を付したものをふくんでいた。
 これを皮切りにして、日本中に、否、世界中に「南京 大虐殺」が広まり、いまやしっかりと定着しつつある。 しかし、南京大虐殺の証拠と称される写真、最近入館無料となって入館者で混雑するという南京大虐殺記念館の展示写真、日本で南京大虐殺写真と称して展示される写真、その他多くの本に掲載されている写真のほとんどは、本書の検証によれば南京大虐殺の証拠写真としては決して通用するものではなかった。
 しかし、私たちはそこまでしか言えない。あとは写真を展示する人、それを見る人の良識と、ウソはいけないという良心に待つよりはかない。ウソを取り払おうとする努力を妨げようとする人こそ、日中関係の真の構築を妨げているのである。このウソが取り除かれなければ、ウソによって作りだされた憎悪の感情が、中国における反日と日本における嫌中の悪しき連鎖反応を生み出していく。そして、このままでは、それがどこまでもつづいていくのではないか。このウソが取り除かれるとき、はじめて真の日中友好が始まるであろう。日中間に突き刺 さった刺、私たちが書物や展示会で目にする、いわゆる南京大虐殺の「証拠写真」なる剌を引き抜くうえで、本書の検証は大いに役だつと期待している。

28. 中川隆[-10033] koaQ7Jey 2020年11月10日 14:03:48 : Zt2FcgnQek : ZlFPRmJaMFFzVXc=[14] 報告


 戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
2020年11月10日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

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 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
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以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html

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