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[近代史4] ネアンデルタール人の世界 中川隆
2. 2020年7月13日 08:39:07 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[1]
雑記帳 2020年07月13日
ネアンデルタール人と現生人類における儀式の進化的起源
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_15.html

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)における儀式の進化的起源に関する研究(Nielsen et al., 2020)が公表されました。現代人の生活は、誕生日にケーキの蝋燭の火を吹き消すという世俗的な行為から、イスラム教の礼拝など明らかに宗教的な行為まで、儀式で満たされています。儀式はその遍在性と埋め込み性のため、可視的な場合と不可視的な場合があり、一過性のことも深遠なこともあります。現在、儀式はさまざまな目的を果たしており、たとえば、協力的な集団の形成、信頼機能の提供、個人もしくは集団の不安軽減、文化的知識の早期と伝達などです。現代人の儀式が遍在しているように見える一方で、ホモ属の進化史において儀式がこれらの役割を果たし始めた時期は不明です。本論文は、儀式化された行動の共通遺産の範囲を調べる第一段階として、現代人の近縁系統であるネアンデルタール人の儀式的行動の事例を再調査します。


●ネアンデルタール人の分化

 ネアンデルタール人と現生人類の推定分岐年代については、かなりの幅がありますが(関連記事)、大まかには80万〜50万年前頃に収まりそうです。現代人の認知能力と行動の起源の解明について、最近縁とも言えるネアンデルタール人の研究が有用と考えられます。そこで本論文は、まずネアンデルタール人の社会的および認知的性向について現在の知見を整理します。ネアンデルタール人の起源については議論がありますが、形態学的にも遺伝学的にも、40万年以上前からヨーロッパに存在していた、と考えて大過なさそうです(関連記事)。ネアンデルタール人は中東にも拡散し、中東では5万年前頃(関連記事)、ヨーロッパでは4万年前頃(関連記事)まで存在しました。

 ネアンデルタール人はさまざまな遊動戦略を採用し、その石器技術は祖先が用いたアシューリアン(Acheulian)石器群よりも多様で、時には特定の用途に適した石器も製作しました。またネアンデルタール人は、動物の骨(関連記事)や爪(関連記事)・木材(関連記事)・貝殻(関連記事)・接着剤(関連記事)などによる、複合技術も用いていました。ネアンデルタール人の狩猟戦略も複雑で、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3となるピレネー山脈のフランス側にあるモーラン(Mauran)遺跡では、ネアンデルタール人が誘導的なバイソンを自然の地理的罠に追い込み、大量に屠殺して消費していた、と推測されています。モーラン遺跡は数百年にわたって使用されており、適応的な文化的知識の伝達と、集団的意図の理解を通じての、専門的な地域固有の技術の維持が示唆されます。

 ネアンデルタール人の両面加工石器伝統では地域間変異が見られ、同様に世代間の文化的知識の伝達が示唆され、ムステリアン(Mousterian)の技術的連続性はユーラシア中部旧石器時代の特徴です。この技術的安定性は、同年代の現生人類との比較で議論となっています。最近の研究では、ネアンデルタール人の社会学習において多くの実験作業なしの高忠実度の模倣が主流であることにより、技術的安定性を説明できるかもしれない、と提案されています。ネアンデルタール人はさまざまな環境に住む専門の狩猟採集民で、何万年にもわたって文化的知識を伝達しました。しかし、現代人に見られるような儀式がネアンデルタール人にあったのか、議論が続いています。


●儀式と儀式的行動

 本論文はネアンデルタール人の儀式について検証するにあたって、「儀式」と「儀式的行動」とを区別し、現在の基準と定義を適用することの難しさを指摘します。儀式は、(1)厳格さと形式性と反復により特徴づけられ、(2)それは象徴性と意図のより大きな体系に埋め込まれており、(3)直接的に役立つ目的を欠く要素を含みます。要素2には、関連するある程度の継続性と共有される知識および規範性が必ず要求されます。「儀式的行動」はおもに要素1および3の行動構成です。これは反復的で冗長であり、しばしば厳格もしくは形式的に遂行され、因果的に不明瞭で目的が降格されます。儀式的行動は多くの場合、より大きな儀式の要素ですが、儀式とは異なり、象徴的に貧しい文脈で存在する可能性があります。

 因果的に不明瞭で目的が降格されることは、要素3と結びつきます。因果的に不明瞭な行動は、行動と結果の間の因果関係が観察者にとって識別しにくいものです。たとえば、水の温度を上げるため、火の上で水を加熱することは因果的に明白ですが、電子レンジでの加熱は(物理学的に説明可能ではあるものの、多くの人にとって直観的には)因果的に不明瞭です。現生人類の儀式は復元不可能なほど因果的に不明瞭で、儀式の因果関係は単に不明なだけではなく、じっさい知ることはできません。その典型例が執り成しの祈りで、これがどのように因果的に意思伝達の経路を促進するのか、なぜ他の行動よりも優れているのか、知られていないだけではなく、そのような答えは不可知です。目的の降格とは、行動を遂行する代理人の動機と目標を直観的に理解するうえで、単純な観察者が要求される程度です。たとえば、暗い部屋で蝋燭を灯すことの目的は明らかですが、暗くない部屋で蝋燭を灯すことは、文脈なしでは理解しにくい目的の降格です。

 本論文はさらに、個人主義的な儀式的行動と集団的な儀式的行動を区別します。前者は(ある程度)他の手段となる目的から解放された行動ですが、後者は、形式的・模範的・様式化されるように拡張されます。個人の場合、特異な個人主義的行動は誤った因果的信念を通じて発生する可能性があります。パンツの着用には有用性がありますが、幸運を願って特定の組み合わせでパンツを着用することは儀式的です。そのような信念は正しかったり、共有されたり、もしくは象徴的だったりする必要はなく、単に遂行が必要なだけです。同様に、強迫性障害に特徴的な反復性や形式性や義務的行動は、個人主義的な儀式的行動とみなされます。これらは儀式的ですが、「共有」および象徴性を欠いています。重要なのは、個人の儀式が集団の儀式から独立しているか、それと対立している必要はない、ということです。手段となる目的に役立つよう展開された個人主義的儀式は、集団的儀式および象徴主義と共存している、と考えられます。個人の儀式的行動は集団的儀式の必要な前兆と考えられます。


●ネアンデルタール人の儀式の証拠

 集団的な儀式的行動の証拠を探す場合、死に関連する行動が出発点として適しています。最近の研究では、霊長類の多様な種において、さまざまな死に関連する行動が報告されており、大きくは、死体の運搬・引きずり、個体もしくは集団としての死体の防御、「警戒」と明らかな悲嘆、に3区分されます。しかし非ヒト霊長類では、死者の扱い、悲しみ、慰め、その他の象徴的行動に関して、現生人類の基準に達しておらず、たとえば、悲嘆する集団構成員を慰めるような行動はほとんど観察されていません。全てではないにしても多くの場合、非ヒト霊長類のそうした行動は集団的な儀式的行動でなく、個人的な儀式的行動です。問題は、ネアンデルタール人の死に関連する行動はどうだったのか、ということです。

 死者を処置する儀式は現生人類の体験の重要部分で、意図的な埋葬は儀式の存在に関する最も明確な考古学的証拠を提供します。ホモ属における意図的な死者の埋葬はイベリア半島北部で40万年前頃までさかのぼるかもしれませんが(関連記事)、明確な証拠は過去15万年間でのみ得られています。議論の余地のない埋葬の最初期の事例はネアンデルタール人で見られます。これらの埋葬は通常、人類が住んでいる洞窟もしくは岩陰遺跡で見られ、死者への愛着と、死後も肉体的にも比喩的にも近くにいて安全でありたいという願望を反映している、と示唆されます。たとえば、フランス西部ドルドーニュ(Dordogne)県のラフェラシー(La Ferrassie)遺跡では、胎児と子供がおそらくは副葬品の石器とともに埋葬されていました。

 閉鎖的な場所に死者を埋葬することへの明らかな選好は、単に標本抽出の偏りを反映している可能性があります。しかし、ネアンデルタール人の遺跡では複数の収容が繰り返し行なわれ、クロアチアのクラピナ(Krapina)遺跡などでは20人以上の場合もあることから、ネアンデルタール人の埋葬は、特定の場合、少なくとも繰り返された規範的慣行だった、と示唆されます。これらの遺跡の被葬者は他の遺跡よりもずっと多く、ネアンデルタール人にとって何らかの意味があった可能性を示唆します。クラピナ遺跡では、ネアンデルタール人の被葬者に頭蓋の異常な切開が見られ、死者を儀式的に扱った証拠になる可能性が指摘されています。さらに、ラフェラシー遺跡などネアンデルタール人の埋葬において、副葬品もしくは墓標の存在の可能性が指摘されています。ネアンデルタール人の埋葬儀式に関しては議論が続いていますが、たとえ儀式がネアンデルタール人の埋葬の特徴ではなかったとしても、なぜ死体を閉じ込めておくのかという因果的不明瞭と、同じ洞窟を繰り返し利用する規範的行動を含む、何らかの社会認知的基盤があったようです。

 ネアンデルタール人における儀式の証拠となるかもしれないのが、鉱物顔料の広範な使用記録です。ネアンデルタール人は身体に赤と黒の顔料を使用したのではないか、と長く議論されてきましたが、ネアンデルタール人の装飾の証拠は急速に増加しており、猛禽類の爪(関連記事)や貝殻(関連記事)を装飾品として用い、その貝殻が顔料で着色されていたのではないか、と指摘されています。身体の装飾は間違いなく象徴的で、儀式的行動を含んでいた可能性があります。また、まだ議論はありますが、イベリア半島の洞窟壁画がネアンデルタール人の所産である可能性も指摘されています(関連記事)。ただ、ネアンデルタール人が洞窟壁画を残していたとしても、現生人類の事例とは異なり孤立的で、まだ具象的な絵は確認されていません。ネアンデルタール人における集団的な儀式的行動は、集団的儀式は回復できないほど因果的に不明瞭かもしれない、という定義を受け入れた場合は、とくに理解しにくくなります。


●文化伝達の儀式化

 ネアンデルタール人の石器技術は、先行集団より優れていて革新的なところも示しながら、数万年、あるいは数十万年、重大な要素に大きな変更はなく、物質文化が維持されました。この安定性をもたらした一方で、技術革新の欠如につながった特徴が問題となり、それはネアンデルタール人の生存戦略の一部として文化的知識の伝達に組み込まれた、儀式的行動の利用が一因だったかもしれません。新しい技術や行動を学ぶ時、長い試行錯誤を試みることができます。現代人はこれを行なわない傾向があり、むしろ他者を観察して模倣します。乳幼児は生後半年から、この方法で新たな物をどう使うのか学ぶことができます。2歳までに、他人を観察することによる学習は、子供が明らかに因果関係のない行動を模倣するまで強化され、過剰模倣として知られるようになります。

 過剰模倣の基礎については、アシューリアンの石器製作法にある、との見解も提示されています。重要なのは、アシューリアン石器の製作の多くの側面には、結果が意図した結果から隠れている、および/あるいは意図した結果に関連して結果が反直観的であるような過程が含まれる、ということです。たとえば両面加工石器の製作にさいして、原石の一方の表面から削るさいに、反対側の表面を叩く必要があります。これは、行動の意図を目的の降格とする可能性が高く、少なくともある程度は因果的に不明瞭とします。この技術的過程の普及が、個人主義的で独立した技術革新もしくは社会的学習の他の過程において達成されたことは、ほとんどあり得ません。

 過剰模倣は、現生人類の子供であれ絶滅人類であれ、心が儀式に従事するための社会的および認知的準備を示す最も説得的な方法である、とみなされつつあります。過剰模倣では、モデル化された一連の行動に、因果関係のない行動や、未知もしくは利用不可能な意図の推論が含まれます。しかし、いくつかの違いもあります。最も一般的には、過剰模倣では、焦点は外部の対象であり、実施者と単一の観察者のみが含まれますが、儀式的行動は常に対象を含むとは限らず、しばしば集団識別と集団結合の助けで遂行されますが、そうした行動は定義上、物質記録を残しません。しかし、過剰模倣では、因果的不明瞭と目的の降格が相乗的に機能して特有の指標を生成します。これは、特定の行動が儀式であり、これらの特徴を共有しない行動と比較して、著しく高い頻度で再現されるよう導かれる、と示唆します。

 じっさい、儀式的行動は模倣的な反応を生む傾向があり、現生人類の子供と成人は、行動のある側面を完全に機能的に余分だと認識してさえも、手順全体を模倣する傾向があります。ネアンデルタール人の用いたルヴァロワ(Levallois)技術は、ほとんどのアシューリアン石器系列よりも、階層的に削除された段階と連鎖を含むので、因果的不明瞭を克服する必要性がさらに顕著となります。これが示唆するのは、ネアンデルタール人はその出現時までに、文化的伝達(現代人にとって最も可視的なのは石器技術です)のいくつかの側面の過剰模倣者で、儀式的行動に従事できた、ということです。

 重要なのは、石器製作で採用された過剰模倣行動は因果的に不明瞭で、最初は未知であるものの、最終的には認識できる、ということです。つまり、大規模な関与と制作過程の忠実な繰り返しを通じて、余分な行動を特定できる可能性があります。石器技術の場合、現代の専門家は、階層構造において最終的な目標から行動の意図を明示的に示せます。この意味で、儀式的行動は回復できないほど因果的に不明瞭ではなく、ネアンデルタール人と現生人類の儀式的行動の区別の要点として役立つかもしれません。ともかく、個人主義的な儀式的行動への関与が増加するにつれて、それらを集団的な儀式的行動へと変換するための足場があります。ここで、子供たちは批判的になります。

 現生人類と比較して、ネアンデルタール人の学童期(juvenile)が相対的にも絶対的にも短かったとすると、成人生活に必要な技術と社会的技能を学ぶことは、探索的で経験に基づく学習というよりはむしろ、年長者の模倣による既存の知識を習得するような、直接的な指導的学習の採用だったかもしれません。現生人類の子供と同様に、ネアンデルタール人の新生児は脆弱な状態で生まれ、成熟するにつれて脳が著しく成長しました。全体的に、旧石器時代の学童期の現生人類は、より死亡率の高かった学童期のネアンデルタール人よりもストレスは少なかったようです。成人までの成長率について、ネアンデルタール人と現生人類とで有意な差があったのか、議論が続いていますが、ネアンデルタール人の生物学的および認知的成長のパターンは、同時代および後の現生人類と微妙に違っていたようです。

 比較的短い子供期とより速い成長率の重要性は、習得する文化的情報の「量」の少なさを示唆することです。現生人類では8歳まで子供期が続き、その後で学童期が4年ほど続きます。ちなみに、チンパンジーは7歳で学童期から思春期へと移行します。誕生してからの7年間で、チンパンジーは文化的情報を学べますが、木の実を割ったり白アリを釣ったりする技術といった、比較的単純で適応的な功利主義的行動の習得には制約があります。ネアンデルタール人と比較して現生人類の成長率が低かったとしたら、もっと多くて多様で社会的な情報を習得できます。空想的な遊びは、成人期における儀式の不明瞭な因果関係を理解するカギとなる構成要素になるかもしれません。

 また空想的な遊びは、別の重要な役割を担っているかもしれません。小脳と頭頂葉と前頭葉の間には深い神経接続があり、それは小脳が創造的思考の過程に役立つかもしれないと示唆されている相互接続性で、空想的な遊びの認知的な前提条件です。ネアンデルタール人と現生人類の脳の違いは、現生人類が比較的大きな頭頂葉と、とくに大きな小脳(関連記事)を持っていることです。この脳構造の違いのため、ネアンデルタール人が対象と行動に重点を置くことで実際的な状況の認知的管理の経験に豊富だった一方で、現生人類は細部への注意は劣っていたものの、創造的解決の発達と必要に応じて行動を可塑的に修正することにより長けていた、との見解も提示されています。対象とのより機能的な関与からより創造的な関与への移行は、象徴的思考拡大への道を開く可能性があり、成人期における儀式不明瞭な因果関係を理解するために重要になるかもしれません。

 また現生人類は種として、経験が広く共有され、時として拡散するような、巨大な社会的ネットワークを維持することにより、大規模な文化的総体を維持してきたようです。一方、ネアンデルタール人集団は、その後の上部旧石器時代の現生人類よりも小規模で、広く分散していた、と主張されています。文化的総体を維持するための考えられる一つの解決策は、因果的に不明瞭で目的の降格を伴うような儀式的行動を用いる、重要な生活技術の教授の強化だったかもしれません。それはネアンデルタール人の社会的背景において、それ自体より信頼出来る、と証明したかもしれません。儀式的行動を対応する情報とともに埋め込むことにより、個人はそれが与えられた権威に疑問を抱く可能性が低くなります。ネアンデルタール人の子供たちは、この仮定の下で、両親や他の共同体構成員により獲得された知識の忠実なコピーを受け取っていたかもしれません。現代の証拠が当てはまるならば、儀式的行動は過剰模倣反応を引き起こす傾向があり、それ自体がより忘れられないものとなり、技術革新と変化を抑制するかもしれないので、この解釈は効率的な解決を表しているでしょう。

 現代人の子供は、所属が理由であれ、規範性への努力を満たすためであれ、おもに社会的動機を満足させるために過剰模倣する、というのが一般的見解です。本論文は、ネアンデルタール人が単に技術獲得の動機を満たすために過剰模倣したかもしれない、と推測します。この理由により、認知能力と対応する行動が機能的目的に役立つよう進化したので、儀式的行動がネアンデルタール人の間で存在したかもしれません。現生人類でのみ、これらの能力と行動が社会的目的に役立つよう選択されました。儀式的行動と集団的な儀式との間のこの変化は、明らかに因果的に不明瞭なものから、回復できないほど因果的に不明瞭なものへの移行を示す可能性が高そうです。じっさい、ネアンデルタール人よりも大きな現生人類の集団規模は、集団内の結束強化のため、より強い社会的動機の発達を必要としたかもしれません。

 とくに、儀式的行動が、発達するだけではなく、検出可能な痕跡を残すような方法で維持されたならば、ここで関連する集団規模には別の側面があります。上述のように、ネアンデルタール人の集団規模は、ネアンデルタール人の分布域全体で現生人類よりも小さかったかもしれません。この人口密度の低さは、ネアンデルタール人の儀式の証拠が薄いことを説明できるかもしれません。儀式が考古学的記録で検出可能であるためには、個人的であれ集団的であれ、行動の特定の区分に従事する個体がいるじゅうぶんに大きな人口規模か、もしくは通時的に行なわれる充分に大規模な数を必要とします。歴史的文脈では推論的ですが、特定の行動に従事する個人がより多いと、その行動が伝わる可能性も高くなるかもしれません。これにより、記録を残すかもしれない事例がより多くなるだけではありません。それは損失に対する予防として機能するため、自律的です。何かを実践する共同体の構成員が多いほど、壊滅的事象に直面してその行動が失われる可能性は低くなるでしょう。ネアンデルタール人は儀式的動物であり、個人的な儀式的行動が可能でしたが、世界観の象徴性を共有するという意味で集団的ではなく、考古学的記録にそうした行動の信頼できる痕跡が残るほどには、各共同体で儀式的行動は充分ではなかった、というのが本論文の主張です。


●まとめ

 現生人類と比較的近い年代で最終共通祖先を有するネアンデルタール人は、協力的で社会的で知的で道具を使う種であり、過剰模倣の傾向を示した可能性が高く、儀式的行動と関連した認知能力を有していた、と示唆されます。しかし、象徴的行動と信念のより大きく共有された複合としての儀式が、ネアンデルタール人において特徴づけられていたという証拠は、広範にあるわけでも説得的でもありません。上述のように、ネアンデルタール人の考古学的記録における象徴的物質文化に関する儀式の証拠はありませんが、ネアンデルタール人の複雑な石器技術内における長期の継続性は、ネアンデルタール人の儀式的行動が、同時代および現代の現生人類とは代替的な方法で用いられていたことを示唆します。ネアンデルタール人の儀式および儀式的行動の利用は、比較的短い子供期と比較的小さな社会的集団という条件下で、世代間の技術的知識の忠実な伝達の強化に焦点が当てられていた可能性が高そうです。

 現生人類では、儀式は最初に類似の方法で機能しましたが、認知における小脳の強化された役割に支えられ、後には広範で拡散した社会的ネットワークの強化に適していました。そのような解釈は、ホモ属における儀式が、「一つの規模で全てに当てはまる」行動ではなく、種を超えてさまざまに形成される、もしくは適用されるような社会的技術だったことを示唆します。したがって、ネアンデルタール人における文化的儀式が、心理学的および人類学的理解に対応する集団的儀式との主張は過大かもしれませんが、心理学的および人類学的定義にも対応する儀式的行動のより正確な特徴づけは、より有益で容易に弁護されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、ネアンデルタール人と現生人類との比較から、儀式が世代間の技術的知識の忠実な伝達の強化として発達してきた可能性を指摘します。さらに本論文は、ネアンデルタール人と現生人類には成長速度や脳の構造で微妙な違いがあり、それが現生人類においてのみ、そうした能力と行動が社会的目的に役立つよう選択された、と推測します。ただ、ネアンデルタール人と現生人類の成長速度に有意な違いがあったのか、まだ確定したとは言えないでしょうし、5万年以上前の儀式的行動と関連しそうな考古学的記録からは、ネアンデルタール人と現生人類とで大きな違いがあると言えるのか、疑問も残ります(関連記事)。その意味で、儀式的行動と関連しそうな考古学的記録におけるネアンデルタール人と現生人類との違いは、本論文で示唆されるような、何らかの生得的な違いではなく、人口密度など後天的な社会的背景に起因するのかもしれません。そうだとすると、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の段階で、現代人とさほど変わらないような、儀式を可能とする認知能力が備わっていたのかもしれません。

 ただ、ネアンデルタール人が、ネアンデルタール人と分岐した後の広義の現生人類系統と交雑し、後期ネアンデルタール人ではY染色体もミトコンドリアDNAも広義の現生人類系統に置換された、との最近有力になりつつある見解(関連記事)を踏まえると、現生人類と共通するように見えるネアンデルタール人の象徴的思考の前提となる認知能力は、あるいは広義の現生人類系統でのみ進化し、後期ネアンデルタール人にもたらされた可能性もあるように思います。じっさい、ギリシアで21万年前頃の現生人類的な頭蓋が発見されています(関連記事)。もちろん、これはまだ妄想にすぎないので、現生人類とネアンデルタール人も含めて、後期ホモ属の今後の研究の進展を注意深く追いかけていくつもりです。


参考文献:
Nielsen M. et al.(2020): Homo neanderthalensis and the evolutionary origins of ritual in Homo sapiens. Philosophical Transactions of the Royal Society B, 375, 1805, 20190424.
https://doi.org/10.1098/rstb.2019.0424


https://sicambre.at.webry.info/202007/article_15.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/796.html#c2

[近代史5] 高齢者は死んでいいのか _ 大西つねき「命、選別しないと駄目だと思いますよ」 中川隆
12. 2020年7月13日 09:48:00 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[2]
山口泉 精神の戒厳令下に

事は、もはや「大西問題」では済まない
https://auroro.exblog.jp/240457300/

 ──山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機

   〔前篇〕「大西発言」の前史と現在


夜の言葉〔2020年7月9日〕

 以下に記す一連の事態に関しては、むろんその発生当初から、暗澹たる憤りはある。だがそれにも増して、いま、かくも荒廃した日本の政治状況のなか、その「とどめ」のように噴出した今回の展開が喚(よ)び起こす、果てしない空しさは何だろう? 

 この論攷(ろんこう)は、大西つねき氏が今春以来、今月初旬まで、自らアップロードする動画での発言を中心に、時を追うに従い、悪質化の一途をたどってきた同氏の命の選別≠フ功利主義的・ナチズム的暴言に関し、氏を昨夏、衆議院選挙候補に設(しつら)え、以後も自党の中核的メンバーの1人としての活動を認め、さらに現在もその党名を背負っての言動を容認している、山本太郎氏が代表を務める「国政政党」の対応に露呈した、同党の理念的自滅となりかねない事態の過ちを糺(ただ)すものである。

 初めに、個人的経緯を簡略に記しておく。

 私は、現在『週刊金曜日』に月1回連載している同時代批評「肯わぬ者からの手紙」の、前回──第14信「根源悪としての安倍内閣/屈辱絶望の政権いつまで」(『週刊金曜日』6月26日号)を、次のように締め括った。

 《……そうした中、都知事選に山本太郎さんが立候補を表明した。》《4月の本欄で批判した大西つねき氏の発言への対応を不問に付すつもりはないことを確認しつつ、まずは山本都知事の誕生を願う。》

 *「4月の本欄」とは、同じ「肯わぬ者からの手紙」の第12信「ウイルスと放射能の列島/命の唯一性冒瀆を許すな」(『週刊金曜日』4月24日号)のこと。


事は、もはや「大西問題」では済まない  ──山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機〔前篇〕 「大西発言」の前史と現在_a0138569_15314723.jpg


 もともと文字量に制限のあるこの『週刊金曜日』連載「肯わぬ者からの手紙」だが(毎回1500字弱、ほぼ「ツイート」10本分程度)、同月上旬の大西氏の沖縄での連続的なそれらを含む一連の「講演」活動と、それを正当化する氏の態度表明、そうした全体を貫く命の選別≠フ功利主義的主張についての私の糾問は、少なくともこの第12信においては、限られた紙数のなか、可能な限り展開したつもりである。その私の批判の「核心」部分は、次のとおり。

 《……大西氏の動画での主張はこうだ──「死に対する恐れを手放す武士道」「どうせ人間一度は死ぬ」「経済が止まる方が恐ろしい」「自分の講演で感染が拡大する可能性はあるが自粛しない」「金儲けで何が悪い」。氏のサイトの声明には「このウィルスを受け入れて、救える命、救えない命の見切りをつける」ともある。そもそも旧来の功利主義を「命」の基点から組み替える社会変革こそ、山本太郎さんの党派の尊い理念だったはず。看過し難い。》

 ──これら紙媒体での2回のほか、当Blogでも、さらに詳しく私の批判は提示はしておいた。

  https://auroro.exblog.jp/240352028/

 付け加えるなら、前出「肯わぬ者からの手紙」第12信の発表よりもかなり前──4月初旬に大西氏の「沖縄講演」の第1報に接した直後、「相互フォロー」関係にあるツイッターのメッセージ機能を利用し、すでに私は山本太郎氏に直接、大西氏の行動への危惧は、幾つかの意味での「警告」の性格をも伴った切実なものとして伝えている(大西氏の「動画」での驚愕すべき発言は、このメッセージ送信からほどなくして知った)。

 だが、このツイッターを利用しての直接メッセージの段階では、なお限定的だった懸念を含めて、私からの働きかけに山本氏からの回答がまったくなく現在にまで至っていることは、上掲Blogの経過説明にも確認したとおりである。

 ** 念のため──。ここまで記してきた「動画」とは、大西氏のくだんの沖縄連続「講演」旅行がなされていた時期のもので、この後に述べる7月3日付配信のそれではない。

 前記のうち、少なくとも『週刊金曜日』に発表した私の批判──とりわけ4月24日号掲載の「肯わぬ者からの手紙」第12信──は、山本太郎氏をめぐるさまざまな周辺的事情からしても、氏の目に触れていておかしくないと、私は考えている。

 いずれにせよ、私からの再三の問いかけに対する山本太郎氏の無回答を、私は不誠実とは感じ、残念に思いもした。だが、それでもなお、小池百合子都政のあまりに犯罪的≠ネ「棄民」独裁を阻止する唯一のよすがとして、先般の東京都知事選への山本太郎氏の立候補を歓迎したし、沖縄の地にあって私に可能な支援はしつづけたつもりである。

 2012年3月に上梓した『原子野のバッハ――被曝地・東京の三三〇日』(勉誠出版)を嚆矢(こうし)として、以後の著書の一部(***)でも相当な紙数を充(あ)て、また新聞や雑誌に発表してきた論攷において、私は本人が政治家となる前から山本太郎氏を評価し支持し賞讃してきたし、氏への批判・攻撃については、その誤りを批判し、氏を(あえて言えば)擁護してきた。その評価は山本太郎氏の参議院当選後はますます、衆参両院全国会議員のなかで掛け値なしにただ1人、真っ当な政治家としての位置づけを伴ってもいる。

 ***『辺野古の弁証法――ポスト・フクシマと「沖縄革命」』(2016年)、『まつろわぬ邦からの手紙――沖縄・日本・東アジア年代記/2016年1月―2019年3月』(2018年)。ともにオーロラ自由アトリエ刊。

 これまで、山本太郎氏に関して商業媒体や自著に書いてきた数十篇ないしはそれ以上の、長短さまざまな文章、またあらゆる現実的な場面における口頭でのやりとりを含め、私が氏の言動に疑義を呈したことは、記憶する限り(おそらく)ただの一度もない。今春、大西つねき氏が、前述のような発言・行動を始めるようになるまでは──。

 **** ただし補足しておくと、山本太郎氏や氏の党派の在り方に、これまで私がまったく疑問を持たなかったわけではない。その最大のものは、多くの人びとが指摘してきた党名における天皇暦の使用ではなく──これについては、前掲の小著『まつろわぬ邦からの手紙』(2016年〜2018年の『琉球新報』連載を、2018年、オーロラ自由アトリエから上梓)でも詳述してきた──実は昨夏の参院選期間中の、一部(決して全部ではない)の浅薄な応援文化人≠フ人選である。これには少なからぬ失望を覚えはした。

 そして前述のとおり、私からの疑義・批判に対し、山本太郎氏が現在にいたるまでの無回答である。こうしたことにも示されるような姿勢が、まさに今回7月3日配信という大西氏の「とどめ」のような動画に行き着くほかない、山本太郎氏と氏の党派の現在が抱え持つ問題点とも表裏一体のものであると言っても、さほど牽強付会の譏(そし)りは受けまい。

 以下、論を進めるが、問題の大西氏の直近の発言については、昨7月8日付のIWJ(Indipendent Web Journal/岩上安身代表)のサイトが、すでに大西氏自身が自らの《大西つねき公式ウェブサイト》から抹消した、くだんの7月3日付配信《#大西つねき #ツネキスト #私が総理大臣ならこうする》シリーズの「『正しさ依存症』とそれを生み出す教育について」の丹念な書き起こしを中心に、いち早く資料をまとめてくれている。またこの記事での「IWJ編集部」による、大西発言への批判や、山本太郎代表の対応に対する問題提起も正鵠(せいこく)を射たもので、まだ御存知でない方には、ぜひ御一読をお勧めしたい。

 『れいわ新選組の公認候補である大西つねき氏がナチスも顔負けの「高齢者の命を選別すべき」と発言!! しかも「生命の選別しないと駄目だ」「その選択が政治」とまで言いきる! しかし、れいわ代表の山本太郎氏は大西氏を「除名しない」と声明!! 2020.7.8』

  https://iwj.co.jp/wj/open/archives/477830

 ***** 上記・記事のネット上での「無料公開」は7月12日まで。13日以降は「有料会員」のみに限定された公開となるが、この優れたメディアの存在意義を思うと「有料会員」となって支援することには十分な意味があるとも考える。

 これを含め、今回の事態のなかでの僅かな救いは、インターネット上に、大西氏のみならず山本太郎代表やその党派の対応に関しての原則的な批判が提示されているのを確認できることで、これらきちんとした声が起こっている事実には、私は一縷(いちる)の望みを感じている。

 さて、一連の大西氏の命の選別≠フ功利主義的・ナチズム的暴言の集大成≠ニも言うべき7月3日付配信《#大西つねき #ツネキスト #私が総理大臣ならこうする》シリーズの「『正しさ依存症』とそれを生み出す教育について」の問題点については、前掲IWJサイトでのそれを含め、すでに少なからぬ批判がなされている。

 4月初旬に私が目にした動画同様、徹頭徹尾、胸が悪くなるようなその内容はどこをとっても誤謬に満ちているが、今回の場合、以下のような文言は、まさにその核心を成すと言って良いだろう(以下、引用は前記IWJサイトの「書き起こし」に拠る。記して謝意を表する)。

 《高齢者は逆にあれですよ、もうなんかそんな長くないじゃないですか。これもだからどこまで長生きしたいのかっていう話。》

 《こういう話多分政治家怖くてできないと思いますよ。命の選別するのかとか言われるでしょ。生命選別しないと駄目だと思いますよ、はっきり言いますけど。何でかっていうと、その選択が政治なんですよ。》

 《順番として、その選択するんであれば、もちろん、高齢の方から逝ってもらうしかないです。》

 《高齢者自身の選択。もちろんそれぞれの選択はあるんですけど、それぞれの選択っていうか、やっぱりシステム的に変える、システム的っていうか、その、例えば、本人だけの選択ではなくて、社会的な選択ってある程度していく必要ってあるじゃないですか。》

 《これもどこまでもやればいいって話ではなくて、どっかである程度、数とかね、そこら辺は選択する必要がありますよね。でそれも、冷徹にやっぱりやらきゃダメだと思いますよ。》

 《僕はそういう政治家になると思いますよ。結構冷徹にいろんなことを判断していく。それを考えることを僕は要求すると思います。なんか感情とかじゃなく。》

 最初の引用部分は、まさに山本太郎代表自身が街頭演説でさんざん論(あげつら)い批判してきたはずの副首相・麻生太郎の妄言そのものであり(******)、以下の主張≠ヘさらに酷い。

 それを「僕はそういう政治家になると思いますよ」とぬけぬけと言明し、自らの《公式ウェブサイト》(??)とやらで「私が総理大臣ならこうする」と銘打った上、主張≠オたという事実を、私たちはどんなに恐怖し、糾弾しても足りない。しかも今回が偶発的な初めてのことでなく、このかん一貫して妄執のごとくそれが繰り返されてきたことも、またそれに対する(たとえば私からのものを含む)批判が、山本太郎代表をはじめとするこの党派により、徹底して無視・黙殺されつづけ、そのように大西氏の悪辣な言動を放置してきた挙句の果て、事ここに至ったことも前述のとおりである。

 ****** この麻生太郎の妄言との相同性は、その1点だけを取ってみても、今回、大西発言がかつてなく問題化した後もなお、大西氏や山本太郎氏、そしてその党派を擁護≠オようとする奇怪な一部支持者≠フ、「倫理」や「道義」以前、大西氏によれば「情緒」以前──形式論理的整合性をも完全に消滅させているだろう。にもかかわらず、大西氏自身はこの時点で平然と山本太郎氏の党派への自らの帰属をなお前提とし、またしかも大西氏本人があまりにもあっさりと撤回∞謝罪≠表明したと称される今ですら、そうした大西氏の許されざる妄言の数かずに対し、依然として没論理の擁護≠繰り返す支離滅裂な手合いが存在していることも、厳然かつ暗然たる事実であるが。

 何度でも言うが、忘れられてならないのは、大西氏のこうした主張は本年4月以降からは繰り返し、公然と表明されてきたものであることだ。それもそのつど、山本太郎氏が代表を務める党派の名称を掲げながら。

 少なくともこの党派が「公党」として──それも「国政政党」として存在している以上、その主張の理非曲直以前に、最低限、党派としての主張との形式論理上の整合性においてすら、山本太郎代表と同党は、一連の大西発言が始まった時点で、直ちに断固たる「対処」をする義務があった。他のいかなる対応も不可能な決定的発言である。だが、しかも、その「対処」はまったく、なされなかった。

 どのような事情があったにせよ、本来なら最低限、どんなに遅くとも今般の都知事選への立候補表明までのなるべく早い段階で、大西発言への「対処」は真摯に決しておくべき手続きだったのである。それによって都知事選挙の結果が変わったと言いはしないし、もしかしたら山本太郎候補の得票はさらに減ったかもしれないが、少なくとも、あの苦難に満ちた「選挙戦」の道義性を損なわないため──そして、その闘いに参与してくれた支持者への義務、ないしは礼節の問題としても。

 その成れの果ての結果が、現在の惨状なのだ。

 しかし冒頭で確認したとおり、本稿の主目的は、いまさら改めて、大西つねきなる人物の度し難い思考の悪辣さを糾弾することではない。

 より重大なのは、この7月3日付配信動画の後、ようやく澎湃(ほうはい)として起こった広汎な大西批判に対し、山本太郎代表とその党派が初めて(と私は認識している)表明した「見解」が、あまりにも本質的な誤謬に満ち、氏と党派の理念の根底を疑わせるものだったことである。

 事は、もはや「大西問題」では済まないのだ。山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機が、目睫(もくしょう)の間(かん)に迫っている。

 これに関し、本稿を書き起こした昨7月8日の段階で私が確認していたのは、一昨7月7日に山本太郎代表名で氏の党派のウェブサイトに掲載された『大西つねき氏の動画内での発言について』と題する声明(*******)だった(以下「第1声明」と記す)。

 ******* https://reiwa-shinsengumi.com/reiwanews/5074/


 その「第1声明」(その時点では、唯一の「声明」)における、大西発言の問題点についての認識と軽さ≠ニ浅さ=Aそして目を疑う我田引水の安易な文言──《多くの人々の心の中にもあるであろう何かしらかの優生思想的考えに、光が当たったことを今回はチャンスと捉え、アジャストする責任が私たちにはあると考える。》との──あえていえば、あまりにも臆面のない、ぬけぬけとした──自己免罪・自己正当化ぶりに茫然とした。さらに《この作業は、「何度でも人生をやりなおせる社会を構築する」という理念をもつ私たちにとって、重要な意味を持つ。》との問題のすりかえには、眼の前が暗くなるような絶望を覚える。チャンスと捉え、アジャストする=c…。ああ! 多くの人々の心の中にもあるであろう何かしらかの優生思想的考え=H 「人」という言葉を、こんなに安直に遣(つか)ってはならない。

 あの昨夏の参議院選挙において、一度でもこの党派が掲げたすべての命を守る∞あなたは存在しているだけで価値がある=Aそして政治的・社会的システムの非人間性により奪われた人生を回復する≠ニいう意味合いだったはずの「理念」が、疑いなく特権的強者として、しかも「政治家」をめざすと公言する大西氏の到底、看過し難い発言の差別性・暴力性・恫喝性・反道義性・没論理性の擁護≠ヨと、あっけなく陋劣に「悪用」されてしまうとは──。

 かくも驚倒すべき主張に遭遇し、今月末の次回『週刊金曜日』連載「肯わぬ者からの手紙」第15信を待たず、この山本太郎代表の「声明」を批判しなければと作業を進めていたところ、同8日夜、同党派のサイトに、再度、山本代表による『大西つねき氏について(続報)』と題された「声明」(以下「第2声明」と記す)が出た(********)。そしてその内容を知り、いよいよ私の拒絶感は深まっている。

 ******** https://reiwa-shinsengumi.com/reiwanews/5077/


 この「第2声明」が続いた関係で、当初、本日7月9日未明までには当Blogにアップロードしたいと考え、進めていた本稿の作業が遅れ、さらに分割しての掲載となることをお断りする。以後、山本太郎代表の「第1声明」「第2声明」を順に検証してゆきたい。

 その上で、氏とこの党派に対する私の見解も併せて明確にしよう。

 ──続稿は、なるべく急ぐつもりでいる。

〔この項、続く〕

https://auroro.exblog.jp/240457300/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/220.html#c12

[近代史5] 高齢者は死んでいいのか _ 大西つねき「命、選別しないと駄目だと思いますよ」 中川隆
13. 2020年7月13日 09:50:07 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[3]

ガス室から人生は「やり直せ」るか?  ──山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機〔2〕 大西擁護論≠ニ山本代表「第1声明」前半の検証を中心に
https://auroro.exblog.jp/240464100/

夜の言葉〔2020年7月11日〕

ガス室から人生は「やり直せ」るか?

 ──山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機

   〔2〕大西擁護論≠ニ山本代表「第1声明」前半の検証を中心に

 心が重いとすれば、それは緊急に対処しなければならない事態の重大さの投影なのだ。

 安倍政権をはじめ、当初からある明白な抑圧と闘うこと以上に、そこに拠るべき理念を、もちろん個個の違いはあれ一定の幅で共有してきたはずの関係性のなかに、しかしながら決して容認してはならない──そこでいささかでも妥協すれば、眼前の明白な抑圧よりさらに何層も深い部分から人間の存在する全てが奪い取られ崩れ去ってしまうような魂の腐蝕作用を持つ言説とその増殖の兆候が見出されたなら、直ちにいかなる躊躇も怯懦(きょうだ)もなく、それを糺(ただ)すことが、誠実である。そしてそれが、もしかしたら私たちのいまだ見ていない真の「民主主義」へと躙(にじ)り寄る道なのかもしれない。

 私の認識では、山本太郎代表の党派そのものに関しては、事態は回復可能な転換点(*)を、もしかすると逸してしまったかもしれない。だが、それでも現在進行中の論議が、私たちの絶望状況を拓(ひら)くよすが≠ニなることを、私は心から願っている。

 ──この国の欺瞞がすべて噴出したような現在の状況が加速するなか、改めてそう確認した記した上で、稿を続けたい。

 * その引き返し≠フタイミングは、私の認識ではぎりぎり、どんなに遅くとも7月7日の山本代表の「第1声明」発表の前。むろん、それでも既にあまりにも遅きに失してはいたにせよ、せめてこの初めての態度表明たる「声明」が、問題の本質に立ち返っての、もう少し真摯なものとなっていたなら、まだかすかな再生可能性は残っていたかもしれない。

 すでにツイッターでも少し言及したが、昨宵、生中継された山本太郎代表の談話発表のインターネット動画、またその後の屋外での「囲み取材」の模様を、私も視聴している。必要に応じ、それにも触れながら、前述の「第1声明」「第2声明」の問題点と考えるものを機軸に検討する。

 その前に──。これはもしかしたら、本稿の任ではもはやないのかもしれないが、大西つねき氏の4月初旬以来、7月3日のそれに至るまでの公式サイト%ョ画における「命の選別」の主張≠ノ関し、いまだにインターネット上を中心に燻(くすぶ)る擁護論≠フ問題点について、ごく簡略に整理しておく。

 事ここに至って、なお一連の「大西発言」を擁護≠キる人びとは、最低限、以下の点について回答すべきだろう。

〔1〕くだんの最悪の発言の「内容」の是非は形式上、いったん措(お)く。だが、すでにそもそもこの「発言」が問題化してから、ただちに大西つねき氏本人はあっさりとそれを撤回≠オ謝罪=i**)した。それが十分なものであるか、それ以前にその本質が妥当なものであるか否かは別として。

 これは何か? 大西氏は自分の「発言」が正しいと思うなら撤回≠熈謝罪≠烽キる必要はない。山本太郎代表や、他の誰がどう言おうと、全人類と敵対しようと、自らが正しいと思う発言を貫けば良いのである。私なら、そうする。私の大西批判、また山本太郎代表の「声明」への疑義は、よしんば全人類と対立しても、撤回するつもりはない。

 ところが大西氏は、自らの動画をあっさりと撤回≠オ謝罪≠オた。その理由はどうあれ、ともかく本人が撤回≠オ謝罪≠キるのが良いと判断したのだとすれば、いまもインターネット上に蠢(うごめ)く擁護§_者は、誰よりもまず大西氏本人を糾弾すべきではないのか? なぜ正しい自説を撤回≠オ謝罪≠キるのか、と。それもせず、当の本人があっさり引っ込めた主張を本人に成り代わって忖度し、空想的に代弁≠キる──。さながら、昭和天皇自身が『ポツダム宣言』を受諾した後も、なお徹底抗戦≠主張しつづける「軍部」のようだ。

 ** 大西つねき「7月3日の自身の動画での発言について」

 https://www.tsune0024.jp/blog/7-3

 なお、この「謝罪文」の問題点については、後で最小限、触れる。

〔2〕またこの種の擁護§_者は、決まって「大西発言」の真意は違う≠ニ主張する。奇怪な話だ。

 本人が謝罪≠オ撤回≠オているのに、なお「真意」は別だという。黒を白といい、Aを非Aだという。「真意」は別のところにあると言う。では安倍晋三が「改憲」したいというのも、麻生太郎の「ナチスの手口を見習ったらどうか」「武装難民は射殺」「高齢者がいつまで生きるつもりだ」等等も、昭和天皇が「戦後」30年を経た記者会見で広島原爆投下について問われ「遺憾には思うが、戦争中のことであり、広島市民には気の毒であるが、やむを得ないことと思う」と言ってのけた(***)のも、「真意」はすべて別のところにあるのだろう。

 だったら安倍も麻生も、小池百合子も石原慎太郎も、一切合財を認めれば良いではないか。彼らの「真意」は、何も分からない、と? 

 *** 1975年10月31日。日本記者クラブ主催。皇居・石橋の間。質問者は中国放送・秋信利彦記者。

 関連していえば、石原慎太郎は1999年9月17日、東京都知事として「重度心身障碍者」施設の府中療育センターを「視察」した後、その感想≠ニして、出会った入所者に関し「ああいう人ってのは人格あるのかね」と言い放った。石原の数知れぬ犯罪的発言の1つだ。くだんの擁護§_者たちの論理では、この「真意」も別か?

 ──ちなみに、ここで石原発言を引いたのは、もちろん今回の「大西発言」との比較検証≠してみたいため。石原の暴言もむろん、ただちに「障碍者」の生存権否定へと直結する性質のものだが、「大西発言」はそれをも飛び越して、有無を言わさず「口減らし」のシステムを構築することが「政治」の役割だと主張している(……こう記していても、胸が悪くなる)。

 「国会議員」をめざすと口走りつつ。 近現代の世界政治史上、それも少なくとも国政選挙に立候補もした経験を持つ人物の公然たる発言として、最大級の悪辣なものと指弾されるべきだろう。

 大西氏の言う「政治」とは、誰の、何のためにあるのか? 人間は世界においていかなる存在としてあるのか?

〔3〕さらにこの種の擁護§_者は発言の一部を切り取って批判するのは間違い≠ニも主張する。それこそが誤りだ。どんなに長大な発言であろうと、そのなかの片言隻句でも「差別」があれば、それは「差別発言」なのだから。

 《カルデアの彫刻が四つに毀れたとすれば、それは四つの彫刻になる。そしてその一つ一つの部分が全体と同じ価値をもち、全体は各部分と同じく常に生きていて力を失わない》(****)

 **** アルベルト・ジャコメッティ「自動車と彫刻」1957年(矢内原伊作・宇佐見英治/編訳『ジャコメッティ 私の現実』/1976年、みすず書房刊)

 これは「善きもの」についてのことだ。だが、逆もあり得る。

 なべて人間の営為の生むものは有機的な生命体であり、いかなる「細部」にも、実はその「全体」が投影されているのだ。差別発言を含むものは総体が「差別」なのであり、ある部分だけが、ということはない。わけても一連の「大西発言」は徹頭徹尾、経済原理≠ネるものを尺度とする「命の選別」に涵(ひた)された究極の「差別」そのものである。

〔4〕これらすべてに反駁ができないとなったとき、擁護§_者は窮余の一策に走る。曰く「完璧な人間など、いない」──? 

 そんなことは当然だ。そして大西発言を批判する私たちは、誰に対しても「完璧」など要求しているわけではない。だが眼前で「弱者」の命は絶たれても構わないと主張する者がいたら、それを誤りだと言うのは人間として当然だろう。なぜならそれは「完全/不完全」の問題ではなく「善悪」「理非曲直」の問題だからだ。

 ましてや高齢者には順に死んでもらうシステムを構築するのが政治の仕事だ≠ネどと公言する輩(やから)が「政治家になりたい」とうそぶくなら、それを全力で、絶対に阻止しようとするのは、市民としての義務ではないか。人間は「完璧」ではないから、ヒトラーのガス室も、安倍や麻生の棄民暴政も放置しておくのか? 

〔5〕さらにまた、あらゆる抗弁が成立しないとなると、この種の擁護§_者は言う──一度は支持した政治家・政党を批判するな=H もはや無茶苦茶なのだが、そもそも人の「支持」「評価」には、当然その折り折りの状況全体に対する判断に基づく、さまざまに複合的な観点がある。そしてなぜ、ひとたび「支持」「評価」した対象は批判することができないのか? いったん支持したそれらが決定的な誤りを犯したなら、それを糺(ただ)すことこそが、支持した側の責任ではないか。

 大西氏は前述の7月7日付謝罪文=u7月3日の自身の動画での発言について」で、こう述べる。

 《私は7月3日の自身の動画チャンネルにおいて、「命の選別が政治家の仕事」という政治家としてはあるまじき発言をしました。》

 「政治家としてはあるまじき発言」? 違う。「人としてあるまじき発言」なのだ。加えて、そうした主張を持って「国会議員」に立候補するなどということが許されないということである。

 《この考えそのものが、従来の障がい者や社会で苦しんでいる人々へのケアを不十分なものにする元凶であり》

 この考え≠フ決定的な加害性を「ケアを不十分なものにする元凶」と矮小化する悪辣さ。

 《自分の考えの浅はかさをより自覚し、新しい自分に生まれ変われるように努力したいと思います。》

 これは「浅はかさ」などといって済まされる問題ではない。そして新しい自分に生まれ変われる>氛氓ネんと事もなげに! 「生」を、「命」を歯牙にもかけない感覚だからこそ玩弄することのできる、あまりにも空疎な文言である。

 問題が露見したから「謝る」、謝れと言われたから謝る≠ニいう、事柄の重みを真に主体的に引き受ける意思のない謝罪文≠フ好個の見本といえよう。

 今朝方、介護の仕事に携わっている長年の盟友・安藤鉄雄さんから、私に「大西発言」への怒りを綴ったメイルが届いた。

 《私のように在宅介護の現場で重度の認知症に向き合ったり、遷延性意識障害の患者に経管栄養補給や喀痰吸引をしたりしてきた身としては「経済性」から放言される生命価値判断ほど不快なものはないと、改めて思っているところです。》

 《「いろんな考えがあっていい」などと平然と言える立場の言論の自由すらも、その考えすら表明するのに困難を抱えた人たちが本当にたくさんいるのに、この人物は、そうした困難の人が見えていない、そんな人に国会議員になってもらっては困ります。迷惑です。暴力です。》

 《……介護労働現場の件は、高齢者に限定される事柄ではないのですが、私自身の経験からかように書いた次第です。脳梗塞の後遺症の患者にも、当たり前に移動入浴が来て三人がかりで入浴し、熱が出れば看護師に連絡をとり主治医から処方箋や処置対応を聞いたナースが来てバイタルチェックをしたり肺の音を聴いたり、摘便をしたりと、どんな状態であれ人は生きてある限りにおいては、それに優劣をつけるなどということが許されていいはずはないのですから。》

【追 記】

 御本人からの連絡により、上掲・安藤鉄雄さんからのメイル引用部分のうち「遷延性意識障害」を「脳梗塞の後遺症」に改めました。(2010年7月12日18時)


 さて、ここから山本太郎氏の問題に戻りたい。

 昨宵のインターネット中継の談話の後、引き続いての屋外での「囲み取材」のなかで、私の『週刊金曜日』の文章のことを山本氏に尋ねてくださったジャーナリストがおられた(畠山理仁氏と、後で御名前を確認した)。

 これに対し、山本氏の答えは、それは目にしていないとのこと、また私の批判だけでなく、そもそも今回7月3日の大西氏の「動画」が問題になるまで(?)──このあたりの厳密な時系列は、いまひとつ明確でない印象も受けた──くだんの大西氏の一連の「発言」についても、まったく山本氏は知らなかったとのことである。山本太郎氏自身がそう言われるなら、それを疑う根拠はない。

 ここでいま一度、経過を記しておくと、私は4月4日、沖縄での大西氏の連続「講演」(山本氏の党派の名称を掲げての)を阻止するため、ツイッターから緊急に直接メッセージを送ったのだが、山本氏からの返信はなく(*****)、結局、大西氏の連続「講演」はすべて予定通り行なわれてしまったようだ。その直接メッセージの送付からほどなく、私は初めて大西氏の「公式サイト」での命の選別≠フ主張に接した。

 前述した、以前の事務的用件(山本氏へ私の新著を寄贈するにあたっての送付先の問い合わせ)に較べれば、比較にならないほど緊急かつ重要な案件だった「沖縄講演」阻止に関しての回答も見込めない通信手段であると、その時点でツイッターでの直接メッセージの有効性については断念したこと、また公人としての大西氏の一連の発言は、すでに氏の「公式サイト」で公開され、厖大な視聴者を得ていること……等から、もはやこの問題への批判は、『週刊金曜日』連載の「肯わぬ者からの手紙」で取り上げるべき段階のものと判断した。

 ***** その前に一度、事務的な連絡では山本太郎氏御本人から迅速な返信があったので、これが火急の連絡には最も有効と私は考えていた。

 ただ、商業的な部数の尺度とはやや違った意味で『週刊金曜日』は現在の日本社会で少なからぬ影響力を持つメディアと私は認識していたし、その「編集委員」の1人である雨宮処凛氏は(私は面識はないが)、山本太郎氏が演説でもその著作を引用し、また今回の都知事選最終日の山本氏の立会演説会の司会も担当されている。したがって御自身が「編集委員」を務める雑誌に掲載された私の「大西発言」批判は、その内容の重大さからして、雨宮氏から山本太郎氏に伝えられているのではないかとも、私は考えた。

 さらに同誌は、昨年、山本太郎氏とその党派を特集した臨時増刊号(******)も発行しており、その意味でも現在の日本の商業メディアのなかでは際立って山本太郎氏に近い──氏に情報の伝わりやすい媒体であるとの認識もあった。したがって『週刊金曜日』に寄稿した論攷(ろんこう)でのものなら、間接的にせよ、山本氏に私の「大西発言」批判が伝わる可能性は高いはずだと私が考えても、それはさほど荒唐無稽な空想ではないだろう。もちろん『週刊金曜日』という雑誌の位置からして、他の経路からも山本氏に小文の存在を伝えてくださる方がおられるかもしれないとの期待もあった。

 ****** 『週刊金曜日』臨時増刊号「まるごと山本太郎 れいわ新選組」(2019年11月28日)。

 なお、私は自らのツイッターで『週刊金曜日』連載「肯わぬ者からの手紙」は毎回、掲載誌の発売後、その内容を御案内(翌週号が出た後では全文の画像を掲載)している。山本太郎氏がツイッターでフォローされている1800人ほどのなかに、一応、私も入っているので、その意味では、もしかしたら私のツイートが直接、山本氏の目に触れることもあり得ないことではないかもしれない、とも。

 それが、昨宵の「囲み取材」での応答を聴く限り、私の見込み違いだったことが判った。畠山氏がしてくださった質問に対して、山本氏は私の文章のことをもっと早く知っていたら、こうした事態にはならなかったかもしれない≠ニ応じられたが、私もほんとうにそう思う。

 本来は、大西発言が始まった段階で、身近な、どなたかが教示する(国政政党としては、それがいちばん望ましかった)──それが難しかったとしても『週刊金曜日』4月24日号の発行直後、私の批判を氏に伝える、そうした人がいれば、状況は変わっていたかもしれない(前回、記したとおり、どんなに遅くとも都知事選立候補表明までには)。

 にもかかわらず、結局7月3日の大西氏の「動画」が出、それが問題化するまで(この問題化の経緯について、実は私は詳細を知りたい)、党派の代表としての山本太郎氏が大西氏のかくも問題に満ちた発言の存在をまったく知らなかったことは、それ自体、国会議員2名を擁する国政政党として、明らかに責任を問われるべき事態と考える。

 また、さらに事態が表面化した後、それを受けて山本太郎氏が「代表」として発表した2つの「声明」(および10日宵のインターネット中継上での「声明」)は、この事態の深刻さの受け止め、そして命の問題≠ノついての山本氏の理解に関し、残念ながら私を改めて失望させるものだった(これについては次節以降で詳述する)。

 だが、おそらくいま、昨宵の「囲み取材」であのような質問が出た以上、このブログが山本太郎氏の目に触れる可能性は、これまでのいかなる場合よりも高いと思う。来週、開かれるという氏の党派の「総会」までに、今度こそ、山本太郎氏御本人にお読みいただけることを願う。

 さて、本稿の冒頭で私は、今回の事態をもはや回復不可能としたのが、7月7日の山本代表の「第1声明」(*******)だったとの認識を記した。あまりにも遅きに失した態度表明が、しかもこのような内容だったことに、私は暗澹たる思いに陥った。

 以下、それについて述べよう。

 ******** 「大西つねき氏の動画内での発言について 2020年7月7日」

 https://reiwa-shinsengumi.com/reiwanews/5074/

 山本太郎代表のこの「第1声明」には、一瞥しただけでも、少なくとも5つの問題点がある。

〔A〕過ちの当事者としての責任意識の欠如

 山本代表は「大西発言」を《立党の精神と反するもので看過することはできない》と言う。まるで他人事のようだ。ではなぜ、自らが一度は参議院議員候補にまで仕立てた人物が、このような「立党の精神と反する」、人倫に照らして絶対許されない言語道断の暴言を発しつづけてきたかについての当事者責任に裏打ちされた自己検証が、ここには皆無である。問題を起こした大西氏≠ニそれ以外の自分たち・党≠ニいう形に単純化された図式があるのみで、かくも許し難い発言を公人として平然とする大西のごとき人物が、ここまでの位置を占めてしまった、そうしてきた自分たち自身の責任、自分たちのなかの差別・選別・抑圧性に対しての自己剔抉がない。だから平然と《大西氏を除名するという判断はこちらにとっても簡単なことではあるが、それでは根本的な解決にはならない》などと暢気なことを言う。まるで自分たちのほうは大西発言と無縁であるかのように。

 いかにも除名しただけでは解決にならない≠フはその通り。山本代表らが一方的に「裁く」立場で物事を論(あげつら)うのではなく、自分たち自身の責任を闡明(せんめい)しなければ「根本的な解決」など、望むべくもないのである。

〔B〕問題の重大性に対する認識の安易さ・浅さ・軽さ

 前回、本稿の〔前篇〕でも指摘したが、この事態を《チャンスと捉え、アジャストする》云云という文言の空ぞらしさ──。この安易さ・浅さ・軽さは、まさしく前述の大西氏自身の「謝罪文」と表裏一体を成すかのようだが、たとえば部落差別における差別の「確認」「糾弾」闘争は、一朝一夕で済むものでない。糾弾される側以上に、それをしなければならない側のはるかに高次の憤り・悲しみを含め、なぜ「差別」が起こったか、それはいかに自覚され自らと社会を導いてゆくかという、まさに血を噴くような痛みを伴い、何回も何十回も繰り返され、「自己批判書」が重ねられ、そうした上でようやくその端緒に就くかどうかという──それほど困難な歩みとして積み重ねられてきたものである。むろん他のあらゆる差別についても同様だ。

 それが、歴然たる国政政党が、この空前の命の選別#ュ言を《チャンスと捉え、アジャストする》と書き飛ばした「声明」をもって最初の態度表明とするとは。この「チャンスと捉え」るという安易な功利主義も、まさに大西つねき氏の思考に通底する。

 前掲した安藤鉄雄さんの言う《「いろんな考えがあっていい」などと平然と言える立場の言論の自由すらも、その考えすら表明するのに困難を抱えた人たち》──。大西氏は、まさしくそうした人びとをも含めた人命を奪おうと主張したのだ。自らの党派の主要メンバーがそうした言葉を吐き、それが問題化したのが、山本太郎氏の党派にとっては「チャンス」か? 「アジャストする」とは何のことか? 

〔C〕自らが標榜した「理念」の陋劣な悪用

 これも本稿〔前篇〕で触れたことだが、上述の胸の悪くなるような《チャンスと捉え、アジャストする》《作業》が、《「何度でも人生をやりなおせる社会を構築する」という理念をもつ私たちにとって、重要な意味を持つ》のだという。ああ! 

 山本氏らが昨夏の参院選で掲げた人生をやりなおせる社会≠ニは、現在の世界の弱者が不当な差別・抑圧・搾取によって疎外され生きる可能性を断たれようとすることへの「共生」と「連帯」の呼びかけではなかったのか? その大切で切実、崇高だったはずの「理念」を、高齢者の生を断つことを「やっぱりシステム的に変える、システム的っていうか、その、例えば、本人だけの選択ではなくて、社会的な選択ってある程度していく必要ってある」「冷徹にやっぱりやらきゃダメだと思いますよ」「僕はそういう政治家になると思いますよ」とうそぶく特権的エリートの血も凍るような発言に対し、沸き起こった差別糾弾の声から保護≠オ救出≠オ、隠匿するため、すりかえ、悪用して、山本代表は恥じないのか? あなたにとって、この輝かしい言葉は、その程度のものでしかなかったのか? 

 昨宵のネット中継での「談話」と「囲み取材」で、山本代表は何度か、大西氏を「このまま野に放つわけには行かない」と語った(この言い方にも抵抗はある)。むろん大西氏の「矯正」にも何らかの手立ては考えられて良いだろう。だがそこに、事もあろうにくだんの「理念」を流用するのは、あの参院選の闘いに「参加」した1人として、私は絶対に容認できない。それは山本氏の党派が自らを貶(おとし)め、その存在理由を根本的に喪失することだ。「政治家をめざす」という公人としての発言は、たとえば人格形成の成長途上たる小学校の学級会での発言と同断ではない。

 人生をやりなお≠キと山本代表は言う。だが、ガス室に送られる「障碍者」やユダヤ人、同性愛者や社会主義者には「やり直し」などできないのだ。そして他から糾弾されるまで、大西つねき氏が言いつのっていたのは、まさしく「ガス室の礼讃」なのだ。

〔この項、続く〕

 ──昨日の段階では、本稿はなんとか前後2篇でまとまるかと考えていた。だが現在、あと2篇は必要となりそうな見込みなので、急遽、今回は〔後篇〕でも〔中篇〕でもなく〔2〕として、続稿を急ぎたい。

 山本太郎代表の「第1声明」後半の批判的検証を中心とした〔3〕を、なんとか明7月12日(日)夕刻までに、そして私自身、完結篇としたい〔4〕を13日(月)未明には公開できるよう、力を尽くそうと思っている。

 引き続き、関心をお寄せいただければ幸いである。

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[近代史5] 高齢者は死んでいいのか _ 大西つねき「命、選別しないと駄目だと思いますよ」 中川隆
14. 2020年7月13日 09:51:30 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[4]

命の「当事者」とは誰か?  ──山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機〔3〕「第1声明」「第2声明」の最深部を貫流する誤り
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夜の言葉〔2020年7月13日〕

命の「当事者」とは誰か?

 ──山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機

   〔3〕「第1声明」「第2声明」の最深部を貫流する誤り

 既報の通り、沖縄の米軍基地のうち2箇所(普天間、キャンプ・ハンセン)における新型コロナ・ウイルス(SARS-CoV-2)感染者の大量発生(現時点の「公式発表」では、今月に入って一気に「62名」)が始まっている。かねて憂慮されていたこの危機に、当初、米軍は情報をきちんと開示せず、玉城デニー県知事がS・クラーディー四軍調整官(在沖米軍トップ)への粘り強い交渉の末、ようやく事実上の感染者数公表に漕ぎ着けた。

 加えて、本来、当然、すべてを基地内で対応すべきところを、すでに収容能力を超えているとして、地元住民のいっさいの同意なく一方的に北谷(ちゃたん)の民間ホテルを借り切って 移動制限措置対象者の「収容施設」とするなど、軍政下同様の暴挙を続けている。「日米地位協定」下、本来、政府が対処すべき事柄を、安倍政権では何一つなされるはずもなく、直接、沖縄県政が米国とせめぎあうような折衝を続けざるを得ない状況なのだ。

 今回のウイルスが、米国でさらに遺伝子変異を重ねた「強毒性」を持つものとなっている懸念もある。『肯(うべな)わぬ者からの手紙』第12信でも紹介した盟友の勤務医・長谷川千穂さんからは、こうした沖縄の状況に日夜、極限的な緊張を強いられながら、那覇の病院での診療にいそしむ様子を聞く。

 高齢者が多い上、医療インフラ・輸送手段等、本島よりさらに困難な条件下、蔓延が危惧されてきた先島(宮古・八重山諸島)方面でも、ついに石垣島で感染者が発生した。私自身、7年半前から暮らす、この日米両国から何重もの意味で抑圧されつづける琉球弧の地の緊急事態に関しては、早急に県政その他への働きかけを強めたい。

 東京電力・福島第1原発事故から、このたびのウイルス禍へと、山本太郎氏も繰り返してきたとおり、まさしく「政治」の責任によってとめどなく命の危機が深刻化する。かかる事態に際して、私たち支持者が現存「議会制民主主義」の中で、火急の問題となった打開の望みを共有しようと力を尽くしてきたのが、まさに山本氏による政権樹立構想だった。

 その党派が、いま決定的な理念上の破綻をきたしている。この事態に、取り急ぎ、私からの見解表明を続ける。いかに逆行とも迂遠とも思われようと、これもまた緊急不可避の手続きとして。

 昨夜、時間の関係で中断した山本太郎代表の「第1声明」(*)についての考察から、本稿を再開する。

 前回、 一瞥しただけでも少なくとも5つの問題点があると記した、それらの残り2つ――。とくに5番目、本稿で〔E〕として取り上げるそれは、すべてが誤った両「声明」のなかでも、実は私が個人的には最も暗然としたものである。

 *「大西つねき氏の動画内での発言について 2020年7月7日」

 https://reiwa-shinsengumi.com/reiwanews/5074/

〔D〕責任の所在を一般論に全溶解する「一億総懺悔」的な判断停止

 山本太郎代表は「第1声明」で、 今回の「大西発言」に対する批判の高まりを「チャンス」と規定してしまった。そのセンテンスの前半、そう称する理由を《多くの人々の心の中にもあるであろう何かしらかの優生思想的考えに、光が当たった》(**)がゆえだとする。

 この問題を取り上げ始めた当Blogの最初の回でも簡略に触れたが、「多くの人々の心の中にもあるであろう」という言葉が、まずあまりにも粗雑で安易すぎる。「人」とは、こんなに安直に扱って良い概念ではない。「多くの人々」? しかも、それが「何かしらかの優生思想的考え」を持っているのだとは──。そして自らの党派がひとたびは国会議員候補に設(しつら)えた者の命の選別≠フ主張が、それに光を当てた≠フだ、とは……。

 おのずから、傲慢──さらには厚顔無恥との言葉を思い浮かべざるを得ない。

 ** このかんくだんの用語が混乱して遣われているが、「大西発言」を優生思想≠ニ定義することには不精確さが伴う。実はこれはやはり命の選別≠ネのだ。ごく約(つづ)めて言ってしまえば、前者は後者の部分集合であり、「大西発言」の主張するところは「優生」云云のみの問題ではない。そしていずれにせよ優生思想≠その部分集合とする全体集合命の選別≠ヘ、いつ、いかなる場合にも絶対に許されない誤りである。私は未来永劫、それを絶対に認めない。

 ここで「何かしらかの優生思想的考え」は「多くの人々の心の中にもあるであろう」との雑駁な推測≠ェ、自党の有名メンバー≠フ許されざる発言をめぐっての「声明」にわざわざ嵌(は)め込まれるのは、いかなる意図によるものか? 

 なるほど、数多(あまた)の大西擁護§_者が用いたがる言葉とは違う意味で人間は完璧ではない=Bだが、人として犯してはならない過ちをすまいとして生き、日日、努力している者はたくさんいるし、少なくとも「優生思想的考え」など、いかなる意味でも持たず、また持ちようもない人びとも、いくらでもいるのだ。

 命の選別#ュ言事件を「チャンス」と強弁する山本代表の「声明」には差別は誰でもする∞だからそれを責めることはできない≠ニの含意(コノテーション)がある。そして、それは直ちに大西発言の「責任」の所在を曖昧に溶解し、判断停止の不可知論へと収斂させて「結局、人間は間違いを犯すものだ」という皮相な俗論で覆い隠し、個別の事態の問題性を人間一般≠ヨと溶解して雲散霧消させてしまおうとする傾斜を持つのである。──自らの党派が国会議員候補としようとした人物が、高齢者の生を断つことを「システム的に」「本人だけの選択ではなく社会的に」「冷徹にや」る「政治家になる」と公言した、途方もない事態の責任を。

 山本氏が多くの人々の心の中にも何かしらかの優生思想的考えがあるであろう≠ニ推測するのは、とりあえず氏の勝手である(私は、それにも賛同しないが)。しかし問題は、自らが代表を務める国政政党の国会議員候補が「政治家になる」と言いつつ前述のような犯罪的言辞を繰り出しつづけたことなのであって、多くの人々の心の中にも何かしらかの優生思想的考えがある≠ゥないかなどとは、直接には関係ない。

 このとき本来、山本太郎代表がすべきだったのは、何より大西氏本人と、自らの党派およびその代表たる自身の政治的・社会的責任を、まず明確にすることにほかならなかった。それを、かくも許し難い発言に関して「誰にでもある差別」論へと流し込み、人間は皆「差別」をするものだという含意の上に、だから結局、誰も責任を取らないという、かつて丸山眞男が天皇制超国家主義に対して洞察したのと同様の「無責任体制」へと持ち込もうとしたことは看過し難い。

 人間の個別性を捨象し、いかなる過ちに関しても「責任」は人、皆にあるとするがごとき「一億総懺悔」論は、次の瞬間にはたちまち、すべての罪科を忘却し去り、誰も謝罪も懺悔も引責もしないという責任の空洞化を顕現させるのである。

 挙句の果て、問題があくまで大西氏本人のそれであるかのごとき「人は変われる。私はその力を信じたい」などという文言で、まるで他人事のように「第1声明」は締め括られる。徹頭徹尾、山本太郎代表とその党派は大西発言から切り離した上で。

〔E〕自らの外の命の権威≠ノ問題を「委任」し、「生」をマニュアル化しようとする思考停止の危うさ

 ここから、いよいよ5番目の問題点に入ってゆかねばならない。

 このかん見てきているとおり、山本太郎代表による「第1声明」は、ほぼ全文・全語句の内容が誤謬という深刻な問題を抱え持っている。わけても、これまでの4点に較べれば、もしかしたら相対的には見落とされやすいかもしれない、その第5の点こそ、私見では最も深刻で絶望的なものなのだ。

 また実は「第1声明」の翌日に続けて出された「第2声明」(***)は、その大半がこの「第1声明」に関し、私の言う5番目の最も深刻な誤謬を、反復し、焼き直し、拡張しただけのものとなっている。そこで、この項では、「第1声明」の5番目の問題点と合わせ「第2声明」についても同時に取り上げる形としたい。

 *** 「大西つねき氏について(続報)2020年7月8日」https://reiwa-shinsengumi.com/reiwanews/5077/

 私からすれば、この「第2声明」は「第1声明」の最大の問題点を敷衍(ふえん)しただけで、その内容の本質的次元においては、新たに出される意味をほとんど感じられなかった。だが山本代表にとっては、「第1声明」と打って変わって《大西氏への最終的な処分》の文言を突如、盛り込んだこの「第2声明」は、そのかん一挙に沸き起こった広汎な批判を鎮静化しようとする意図があったのかもしれない。

 山本太郎代表は「第1声明」でこう記す。

 《大西氏には、命の選別の問題に生命尊重の立場から、取り組んでいらっしゃる方々にレクチャーを受けて頂き、命について真摯に向き合うチャンスを与えたいと思う。》

 また「第2声明」は、上掲の部分が踏襲される形で書き起こされた後、こう続く。

 《できるだけ早く、今月中にインターネットで完全公開での複数回のレクチャーを始めます。》

 ──これらの文言に、しかし私はたとえようもなく強烈な「拒絶感」を覚えるのだ。

 命の選別の問題に生命尊重の立場から取り組んでいらっしゃる方々≠フインターネットで完全公開での複数回のレクチャー>氛氈Bそれが、差別者(と、あえて記す)大西つねき氏に「党」が与える矯正プログラム≠セということなのだろう。

 まず、この時点でなお依然として、山本太郎代表もその党派も、あくまで自らの位置づけは差別者≠「裁く」側・矯正プログラム≠「与える」側としてあらかじめ設定されているのであり、山本代表とその党派の責任=「共犯性」については、ひとかけらの自覚も反省も述べられてはいない。

 加えて本項〔E〕で問題としたいのは、両「声明」が事もなげに規定する「命の選別の問題に生命尊重の立場から取り組んでいらっしゃる方々」「そのレクチャー」等の概念である。

 そこに想定されている人びとが誰であるか、そしてそれらの人びとが「命の選別の問題に生命尊重の立場から取り組んでい」るかどうかを、私は詳(つまび)らかにはしない。だが、何より、自らの責任を棚上げしたまま、一転「処分」すべき差別者とした対象に「与える」矯正プログラム≠、自身の主体的な内省・問い直しの反復をひとかけらもせぬまま「命の選別の問題に生命尊重の立場から、取り組んでいらっしゃる方々」の「レクチャー」に委任≠オ、それがこの事態を打開する矯正プログラム≠ナあると揚言する山本代表の、その思考に疑問を感ずるのだ。

 この「命の選別の問題に生命尊重の立場から、取り組んでいらっしゃる方々」というのが、木村英子氏・舩後靖彦氏の2人だというのなら、まだ話は解る。だが、くだんの「取り組んでいらっしゃる方々」が党派の外部の誰かをも含んでいるなら、すでに事情は変わってくる。

 「命の選別の問題に生命尊重の立場から、取り組んでいらっしゃる方々」──? 逆に山本太郎代表、あなたは「命の選別の問題に生命尊重の立場から、取り組んで」はいないのか? 誰か「取り組んでいらっしゃる方々」を招いて、その「レクチャー」を受ける、それが差別者の矯正プログラム≠ナあるというがごときマニュアルぶり≠ェ、私には心底、恐ろしい。

 ──ではなぜ木村英子氏・舩後靖彦氏の2人なら、まだかろうじて話は解ると私が記したか。それは同じ党派のなかの「同志」としての率直な対話という意味でだ。

 それが、もしも外部から誰かを招聘し、その「レクチャー」をもって、今回の「大西事件」の対処とする、というのでは、すでに私が考える真摯な自己剔抉からは遠く隔たってくる。

 「命の選別の問題に生命尊重の立場から、取り組んでいらっしゃる方々」の「レクチャー」「インターネットで完全公開での複数回の」──なんという安易な消費≠セろう。差別され選別されてきた「命」の痛みの。私たちがいまなお見出すことができずにいるまま、個個に分断され苦しんでいる「命」の呻きの──。

 山本太郎氏は「当事者」という言葉を頻繁に用いる。そして木村氏や舩後氏のことも「当事者」だという(しばしば「障碍」問題のトップランナー≠ニも繰り返してきた)。その直接の意味はもちろん解るが、同時にそのつど私のなかには微妙な違和感が反射的に生まれた。「当事者」というとき、明らかに失われるものがある。──たぶん「人間の普遍性」と、私の考えるものが。

 命の当事者≠ヘ、誰か、自分とは別にいるのか? あなたは──山本太郎氏は、自らの「命」の当事者ではないのか? そして命の選別の問題≠生命尊重の立場から″lえていないのか? この期に及んで、他の誰でもなく、まず自らが大西つねき氏に向け、発する言葉を持たないのか。あなた──山本太郎は? 

 2つの「声明」で、くだんの「レクチャー」を語る、こともなげな言葉に、私は最も失望した。この地上に人間として生きようとする上で、あまりにも誠意がない。痛みも苦しみもない。

 「カリキュラム」を作って「マニュアル」化した「党内学習」を公開する──。それにもまったく意味がなくはないかもしれない。だが今、どんなプログラムを手配するより先に、まずあなたがすべきは、あなた自身が自らの「命」の当事者として、人の命をシステムとして「冷徹に」断つ「政治家」たることを公言した大西つねき氏に直接、向き合い、ひるがえって社会に答えることではないのか? 

 非難が起こるとあっさりと自説≠「撤回」し、《新しい自分に生まれ変われるように努力す》る、との一片の謝罪文≠ナ済まそうとする大西つねき氏。1度は国会議員にしようとした、その相手に《命の選別の問題に生命尊重の立場から、取り組んでいらっしゃる方々》の《レクチャー》を宛てがって、事態を糊塗しようとする山本太郎氏。

 どちらも、あまりに安易である。そしてこの「マニュアル」ぶりの対応に私は、単に安易ということを超え、「命」の痛みや苦しみ、その置き換えのきかない唯一性と根本から次元を異にした、何かしら絶望的に非人間的なものを感じ、一種底知れない恐怖を覚えさえするのだ。

 私は「障碍者」(かつては「障害者」)という言葉を、基本的にそのままでは遣わない。80年代から「現在の社会で障害者≠ニ呼ばれる人」と言ってきた。

 《私は本来「障害者」という言葉は用いない。また、それが示す概念も認めていない。(略)そこには、ただ人間がいるだけである。「障害者」に対応する概念をその文脈で示そうとするときには、私は「現在の社会で障害者≠ニ呼ばれる人」という言い方をすることがある。この場合には、この言葉のバイアスはそうした「人びと」に対してではなく、むしろそう彼らを「呼ぶ社会」の方に、もちろんかかっている》

 (山口泉『アジア、冬物語』第18章 人が「障害者」であるとは──/1991年、オーロラ自由アトリエ)

 実は一昨夜のネット中継での山本太郎代表の談話中、「優生思想」と東京電力・福島第1原発事故との関係の部分には、やや論旨が未整理な印象が残る。

 被曝問題を「優生思想」との関連で考察したなかで、これまで私が最も感銘を受けたのは、80年代後半、チェルノブイリ原子力発電所事故後、一世を風靡した甘蔗珠恵子氏の著書『まだ、まにあうのなら──私の書いたいちばん長い手紙』(1987年/地湧社)に関し、堤愛子氏(NPO「町田ヒューマンネットワーク」副理事長)が、その底に流れる危うさを指摘した痛切な書評「ミュータントの危惧」(月刊『クリティーク』1987年7月号)である。

 当時の食品汚染≠訴えるビラの「首の曲がった子になるの、ボクいやだ」との見出しに戦慄し、チェルノブイリ事故後に育った「巨大タンポポ」を「生命のしたたかさの象徴」と見つめる──。読む者を共振させるような、その魂の顫(ふる)えと、しかも堤氏がなお自らの「脳性麻痺」という属性を「ミュータント」と自己規定することの意味についての考察は、私の『原子野のバッハ──被曝地・東京の三三〇日』(2012年/勉誠出版)の第95章「耳なし兎と巨大タンポポ」で詳述した。

 『原子野のバッハ』は総540ページに達する重たい本で、荷物になって恐縮だったが、山本太郎氏が来沖された際、何度か遭遇した機会のいつだったかで、持っていたコンビニ袋に入れ、差し上げている。まだお手許にあれば、御覧いただきたい。そもそも同書を差し上げた理由は、この本で2段組・数十ページにわたり、山本太郎氏への評価を私が展開したからだったのだが。

 もともと私の立場は、1980年代後半、チェルノブイリ原子力発電所事故の後、ごく一瞬、日本を席捲した「反核市民運動」を貫流していた原発いらない/いのちが大事≠ゥら変な子どもを産みたくない≠ニいう血も凍る「優生思想」への批判がある。この世には「障碍者」も「畸形児」も、いない。ただ、人間がいるだけだなのだから。そして「健常者」(そんな人体模型≠゚いた者がどこにいる?)ではない「障碍者」が、いかなる意味でも自らを自己再差別してしまわない社会──人間関係を、私は望んでいる。

 前回「大西発言」批判のメイルを紹介した安藤鉄雄さんは、もともと20歳過ぎから自らの活動拠点《伝書鳩の舎(いえ)》を立ち上げ、現在の社会・世界のさまざまな問題についての発言・活動を続けてきた友だ。著書『エイズを語ることの救い』(1993年/伝書鳩の舎)は80年代末〜90年代初頭の日本で最も尖鋭な「差別との闘い」の書でもある。水俣へも何度も赴き、被害者たちとの交流も深い彼が自分は水俣病患者の支援者ではない≠ニ書き記しているのを読んだ時の、光が射し込むがごとき感覚は忘れ難い。

 同様に安藤さんは、多年、交流し共にあるHIV陽性者やエイズ発症者との関係における自らの「スタンス」も支援者≠ニいうそれではないと、当然のように語る。


命の「当事者」とは誰か?  ──山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機〔3〕「第1声明」「第2声明」の最深部を貫流する誤り_a0138569_05135183.jpg


 山本太郎さん。あなたに、もう一度「原点」を思い出してもらう意味で、私が当時、始まって間もなかった『週刊金曜日』連載「肯わぬ者からの手紙」で、 昨夏の参院選の直後、記した一部を引こう。これも、たぶん、あなたの目には触れていなかったのかもしれないが。

 《……最初に発表された候補者・蓮池透さんが、すでにして東京電力・福島第一原発事故および東アジア関係という政府の欺瞞を糾問する姿勢の現われである。さらに木村英子さんと舩後靖彦さんの指名には、過去半世紀の日本の最も深い知的蓄積の燠火(おきび)に息を吹きかけ、その焔(ほのお)を熾(おこ)して照射する側面も感じた。「母よ! 殺すな」の痛切な叫びを上げた故・横塚晃一氏ら「全国青い芝の会」の反優生思想や『知能公害』著者・渡部淳氏らの「がっこの会」、北村小夜氏の著書『一緒がいいならなぜ分けた』等の「障害児教育」批判は、私が先行する「全共闘」世代の最良の知己から教示されたものだ。

 議席を得た御2人が「障碍者」だから凄いのではない。現在の社会で「障碍者」と呼ばれる人が、他の同志たちと生の共同性において等しく連帯している姿が見事なのだ。かつて北條民雄が定義した如き「いのち」の抽象性に人権を溶解させ再差別するのではなく、おのおの、固有の名前と個人史を持った唯一無二の存在として。

 政治が人間の営みである以上、状況を動かすのは単純な「数」だけではない。人間の行為ならではの弁証法性もそこには伴い、それが、立ちはだかる局面を切り開く。

 「死」すら中継され情報として消費される最悪の時代に、人が生きるに値する世界の恢復を選挙を通じて実現しようという、本当の勇気ある企てが「政党要件」までを獲得した。この2議席は、生命の不可侵性を蹂躙しつづける安倍政権、頽廃と衰亡の極みに沈む現在の国会を震撼させるだろう。》

 (山口泉「肯わぬ者からの手紙」第3信「命を蹂躙する国家主義に/生の共同性からの抵抗を」/『週刊金曜日』2019年7月26日号)

 文中《先行する「全共闘」世代の最良の知己》とは、オーロラ自由アトリエ主宰者の遠藤京子さん。遠藤さんも私も、木村英子氏の、その年齢からすれば不思議なほどの原則主義にかねて注目していたが、先般、木村氏が自ら国立市の三井絹子氏を訪ね薫陶(くんとう)を受けたとの経歴を知り、その「筋金入り」の思想性の淵源を得心した様子だった。遠藤さん自身、三井氏の都庁前の座り込みテントへも支援に出向いたという。

 私は「人間」の分断を拒否する。「障碍者」はいない。「健常者」などいないように。そこには、ただ「人間」がいるだけだ。

 そして人は、自らが自らの主体としてその命を全うするしかない。誰に「生」を「委任」するのでもなく。他の一人一人がそうすることを、自らと同様に尊重しながら。

 「大西発言」をめぐって、まもなく山本太郎氏の党派の「総会」が開かれるという。木村英子・舩後靖彦の両氏には、その「総会」において、原則を忽(ゆるが)せにしない対応をされることを強く願う。

〔この項、次回完結予定〕
https://auroro.exblog.jp/240467746/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/220.html#c14

[近代史5] 高齢者は死んでいいのか _ 大西つねき「命、選別しないと駄目だと思いますよ」 中川隆
15. 中川隆[-12133] koaQ7Jey 2020年7月13日 09:58:04 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[5]
山口泉 精神の戒厳令下に

たかだか直近4箇月の「現代史」すら改竄される国──全文公開『肯わぬ者からの手紙』第10信・第11信・第12信(『週刊金曜日』連載)
https://auroro.exblog.jp/240352028/


夜の言葉〔2020年5月28日〕

たかだか直近4箇月の「現代史」すら改竄される国

 ──全文公開『肯わぬ者からの手紙』第10信・第11信・第12信(『週刊金曜日』連載)

 思うところあって……というのは、とりわけ日本国に関する限り(この個別の条件設定を、実は私は重要なものと考えている)、まったく展望も光明も見られぬ、いよいよ絶望と恐怖が深まるのみの「新型コロナ・ウイルス」(SARS-CoV-2)による「CORVID-19」の感染爆発に関し、こともあろうに内閣総理大臣・安倍晋三が「日本モデル」などと戯けた妄言を口走り(このバカが、どの面下げて……としか言いようがない)、一方、東京都知事・小池百合子はといえば、安倍と結託して「東京五輪」絶対貫徹≠フ常軌を逸した妄執に耽った結果、首都圏を中心とするウイルス禍の惨憺たる拡大に加担しながら──IOCから、いざ「五輪」延期≠ェ通告されるや、さも自らは最初から政府と一線を劃してきたかのごとく何事もなかったかのように、無内容な──ただひたすら都知事選向けのみの──のメディア露出≠続けていて、そのいずれもが大方の日本国「主権者」大衆に、結局のところ目に見える形でのさしたる抵抗もなく看過・黙認されてしまいかねない、この、どこまでもどこまでも救い難い国の、真の破滅直前そのものの局面にあって、たかだか直近4箇月の「現代史」すら、平然と改竄される事態を座視するのはあまりに堪え難いからなのだが──今般のウイルス禍が起こって以来の、私のごく小規模の同時代批評『肯わぬ者からの手紙』(『週刊金曜日』連載)の第10信・第11信・第12信について、とりあえず全文を公開しておくこととした。


 ──これら3回分の制作・発表時期は、本年2月から4月に当たる。そして本日、この3篇を公開するのは、今月回・第13信「日本に民主主義は可能か/死の国から光州(クワンヂュ)の友らへ」が、正式には明日発売の『週刊金曜日』今週号(5月29日号)に発表されることとも、いささかは複雑微妙な形で関係している。

 むろん、この最新・第13信においても、東京電力・福島第1原発事故から今般のウイルス禍に至るまで、「戦後」最低最悪の首相・安倍晋三の絶対に許されない罪責を糺す内容であることは、改めて記すまでもないが。

 なお今回、全文公開する3篇のうち、第12信「ウイルスと放射能の列島/命の唯一性冒瀆を許すな」(『週刊金曜日』4月24日号掲載)については、当Blogの4月27日アップロード分《命が重層的に冒瀆される危機のなかで》でも、すでに言及している。

  https://auroro.exblog.jp/240270649/

 だが、この小文で私が問題としているうち、たとえば山本太郎さんの党派の影の内閣≠ノおける「財務大臣」と目される大西つねき氏の一連の言動の問題点(それは私見では大西氏個人にのみとどまらず、場合によっては山本太郎さんの党派全体の「評価」にも関わってこざるを得ない)に対して、現在にいたるまで、山本太郎さんの党派の熱心な支持者・信奉者を以て任ずる人びとが、既存「制度圏」メディアにおいて少なからぬ発言力≠有しているような場合も含め、なんら真っ当な反応を示さず見て見ぬふり≠決め込みながら、「格差」だの「貧困」だのといった概念を浅薄に弄び(それはまさしく当の大西氏の相対主義的な論理≠ノも回収されかねない危うさを持つ)、「命」を一般論のなかに溶解しつつ、「コロナの時代」(なんと雑駁な言葉!)を語ったつもりになっているような度し難い状況のただなかでは、この第12信を含めての「全文公開」にも、一定程度の意味はあることだろう。現に眼の前で公然となされている選別や序列化に頬被りを決め込みながら「命」を語ろうとするほど、「命」の不可侵性を愚弄する行為はない。 

 その狭義の資質≠竍能力≠セけで言えば、愚物の見本市のごとき現閣僚はじめ自民党議員の有象無象など足もとにも及ばぬ日本共産党の俊秀はじめ、「野党」を標榜している議員らの、それにしてもなんという物分かりの良さ>氛氈B

 国会での追及はどうやらどこまでもアリバイ作りに過ぎず、現実に安倍政権を倒そうという覚悟も、それ以前に安倍らに対しての真の「怒り」すらない。

 それは安倍を「アベちゃん」などと親しげに◎揄している進歩的大衆≠フ側も同様で、真っ当な人間なら小学校高学年でも口にできる程度の政権批判を既成藝能人がしてくれた≠ニいうだけでありがたがっている体たらくである(彼ら進歩的大衆≠ェ好んで頻用する「著名人」なる言葉の卑しさ!)。

 そもそもあの愚劣、かつ感染の危険すらある不潔醜悪な「マスク」の、果てしないおぞましさを批判するのに、なぜわざわざ「○○○マスク」と、そのバカ首相の名をこちらが冠して呼んでやる必要があるのか? 安倍晋三が自ら金を払ったわけでもない、民から収奪した税を、およそこれ以上ないほど最低の蕩尽のしかたで(それも企業名すら公表できぬ)後ろ暗い経緯で浪費したのにほかならない、その全過程を指弾・糾明すべきときに、これも広告代理店臭みなぎる「○○○マスク」の呼称で、当の本人の自己顕示欲を満たしてやり、その偶像化に加担していてどうする? 

 そして、今──。

 自らはこのかんも、百歩譲っても未必の故意≠フ感染拡大、自らの不正の隠蔽と、民から収奪した財貨のこれ以上ないほどの愚劣な蕩尽しか能のなかった安倍晋三が、あたかも蔡英文・台湾総統や文在寅・韓国大統領と対等=iか、本人の饐えた脳内ではそれ以上?)という妄想の結果、大方はこれもまた年年、水準が下がっている広告代理店のコピーライターあたりから吹き込まれたのかもしれぬ「日本モデル」などという噴飯物のキャッチフレーズで、これまで人類が経験したなかでも、おそらくは最も感染力が強く、病理機序も複雑で、しかもいまだ予後についての知見も確立していない新型コロナ・ウイルス(SARS-CoV-2)の脅威を隠蔽することはできない。

 ──すなわち、いよいよほんとうの地獄が始まるということだ。

 台湾・韓国と対極のウイルス蔓延状態のまま「自粛解除」を宣言≠オた愚鈍政府に支配されるこの惨めな国は、したがって第2波≠ヌころではない、そもそもここまですで感染者数も死者数も隠蔽されきった第1波≠サのものの、いよいよ剝き出しとなった真の猛威に、明らかに今後、無防備で曝されることとなるだろう。さらに自国に生きる民に対してのみ、異様な嗜虐性に充ち満ちた安倍政権によって、いささかでも可能性のある薬剤の使用は封印されるという悪夢のごとき展開を、私は深く危惧している。

 今回、宇都宮健児氏が東京都知事選への立候補を表明した。ウイルス禍対策をはじめ、欺瞞にまみれた現職・小池百合子に対し、いずれもその補完勢力・別働隊にすぎぬ他の反動候補に比して、唯一「希望」を持ち得る、真の「対立候補」である。

 その宇都宮氏の闘いが、だが結局のところ、単なる「善戦」「惜敗」に留まり終わってはならない。なんとしても、宇都宮都政を実現させねばならない。それがもっかのところ、この欺瞞に満ちた、魂の屍臭と、やがては肉体のそれもが立ち籠めるかもしれぬ国の破滅を、いささかでも遅らせる道であり、またそれは場合によってはより以上の局面の打開にもつながることだろう。

 以下、とりあえず『肯わぬ者からの手紙』から、

 第10信「安倍一人で二度の大破局/連立救民政権樹立を即刻」(『週刊金曜日』2020年2月28日号)

 第11信「一九四五年の亡霊政権と/殺人五輪ウイルス戦玉砕」(『週刊金曜日』2020年3月27日号)

 第12信「ウイルスと放射能の列島/命の唯一性冒瀆を許すな」(『週刊金曜日』4月24日号)

 ──以上、3篇を再録しておく。

 すでに「改竄」が急速に進む、この2020年上半期の日本国の惨憺たる「歴史」についての批評として、お読みいただければ幸いである。

https://auroro.exblog.jp/240352028/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/220.html#c15

[番外地7] 大西つねきが総理大臣になったら極右全体主義者になる 中川隆
3. 中川隆[-12132] koaQ7Jey 2020年7月13日 10:42:34 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[6]
大西つねきが総理大臣になったら極右全体主義者になる:
あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。
そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。
安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。
 
学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。
 
安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
________________

過激な右翼ほど、過激な左翼に変わりやすい
過激な人ほどあてに成らない

俗に”右も左も正体は同じ”などと揶揄する人が居るが、確かにそんな人を見かける事があります。

過激な愛国主義者が一夜にして反日主義者に言動が変わるのは良くあり、しかも過激な人ほど反対側の過激に変わりやすい。

戦時中に好戦的な軍人だった人ほど、戦後は平和主義運動に加わる傾向があり、反日運動や日本叩きが大好きになる人が居ます。
熱心に愛国運動や日本軍賛美の作品を発表していた有名な漫画家が、ある日を境に日本を批判する作品ばかりになった例があります。

「日本軍は侵略などせず正しい事だけをした」と言っていたのが、ある日180度転換し「日本はすべて悪い、最悪だ」と決め付けるようになった。

一体彼に何があったのかは知るすべも無いが、やはり過激な人ほど正反対の過激に変わりやすいのです。


逆のケースもあり、いわゆる左翼運動や反日運動をしていた人が、ある日何か閃いたのか、今では”右翼”と呼ばれていたりもする。

ある元アイドルは反原発や官邸デモに熱心に参加していたが、離脱して現在はデモ隊などをパヨクと批判している。

ある有名なニュースキャスターは昔テレビで日本の戦争犯罪を熱心に追及していたが、今は逆の立場で熱心に追及しているようです。


これらは有名人だが、一般の人でも過激な政治活動をしていた人が、ある日コロリと変わる例は良くある。

どうしてこうなるのかを推測すると、人は結局自分中心の生き物であり、過激なほど壁に当たりやすく大きな疑問に突き当たりやすい。

「日本軍はすべて正しい」「全員が聖人君子だった」と言っていた漫画家は、そうではない例を発見し、矛盾に耐えられなかったのかも知れない。

籠池泰典理事長の場合

これがもっと中途半端なら「まあ1000万人も軍人が居れば色々あるだろう」と納得できるが、「全員が聖人君子である」と信じていた人は矛盾に耐えられない。

右から左、左から右にコロリと変わる過激な人は、一つの矛盾を発見すると頭が爆発するのかも知れない。

最近コロリと変わった例が森友学園の籠池泰典理事長で、熱心な愛国者で右翼であり、首相も参加している日本会議の大阪支部で代表・運営委員だったとされている。


国有地の不正な払い下げ疑惑や廃棄物処理法違反、国会議員への贈賄疑惑や不透明な活動を批判されると、仲間だった人達を攻撃し始めた。

本当なのか嘘なのか分からないが、自分が働きかけた国会議員の名前を出しては、金を受け取ったとか渡したと言っています。

籠池泰典は右翼団体の支部代表をしていたほど「愛国者」を自称していたのに、今ではその仲間を告発する側に回っている。


これも右から左に極端に変わった例で、重要なのは思想や信条ではなく自分自身だったのが分かります。

自分が犠牲になって何かを実現しようというつもりはなく、自分が批判されるとあっさり「愛国者」を捨てて批判する側に回りました。

言動が過激な人ほどこうした傾向が強く、熱心な右翼がある日左翼になったり、逆の場合も起こります。


人間は結局自分中心であり、自分の為に過激運動をしていた人は、批判されると自分を守るために、反対側に立つのです。
____________

大西氏はJPモルガンにいた人であり、ロックフェラーの子だか孫だかを直接知っていると言い、いい奴だとし、ロックフェラーを絶対に悪くは言わない。
金融システムの話はしても、日銀や中央銀行の役割についての言及を意図的に避ける。

命の選別が「政治の仕事」だとしたのは、ロスチャイルドやロックフェラーの意向と同じものだ。

因みに、優生思想のヒトラーを支持・支援していたのはフォードやロックフェラーでした。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/816.html#c3

[番外地7] 大西つねきが総理大臣になったら極右全体主義者になる 中川隆
4. 中川隆[-12131] koaQ7Jey 2020年7月13日 10:43:28 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[7]
大西つねきが総理大臣になったら極右全体主義者になる:
あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。
そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。
安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。
 
学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。
重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。
 
安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
________________

過激な右翼ほど、過激な左翼に変わりやすい
過激な人ほどあてに成らない

俗に”右も左も正体は同じ”などと揶揄する人が居るが、確かにそんな人を見かける事があります。

過激な愛国主義者が一夜にして反日主義者に言動が変わるのは良くあり、しかも過激な人ほど反対側の過激に変わりやすい。

戦時中に好戦的な軍人だった人ほど、戦後は平和主義運動に加わる傾向があり、反日運動や日本叩きが大好きになる人が居ます。
熱心に愛国運動や日本軍賛美の作品を発表していた有名な漫画家が、ある日を境に日本を批判する作品ばかりになった例があります。

「日本軍は侵略などせず正しい事だけをした」と言っていたのが、ある日180度転換し「日本はすべて悪い、最悪だ」と決め付けるようになった。

一体彼に何があったのかは知るすべも無いが、やはり過激な人ほど正反対の過激に変わりやすいのです。


逆のケースもあり、いわゆる左翼運動や反日運動をしていた人が、ある日何か閃いたのか、今では”右翼”と呼ばれていたりもする。

ある元アイドルは反原発や官邸デモに熱心に参加していたが、離脱して現在はデモ隊などをパヨクと批判している。

ある有名なニュースキャスターは昔テレビで日本の戦争犯罪を熱心に追及していたが、今は逆の立場で熱心に追及しているようです。


これらは有名人だが、一般の人でも過激な政治活動をしていた人が、ある日コロリと変わる例は良くある。

どうしてこうなるのかを推測すると、人は結局自分中心の生き物であり、過激なほど壁に当たりやすく大きな疑問に突き当たりやすい。

「日本軍はすべて正しい」「全員が聖人君子だった」と言っていた漫画家は、そうではない例を発見し、矛盾に耐えられなかったのかも知れない。

籠池泰典理事長の場合

これがもっと中途半端なら「まあ1000万人も軍人が居れば色々あるだろう」と納得できるが、「全員が聖人君子である」と信じていた人は矛盾に耐えられない。

右から左、左から右にコロリと変わる過激な人は、一つの矛盾を発見すると頭が爆発するのかも知れない。

最近コロリと変わった例が森友学園の籠池泰典理事長で、熱心な愛国者で右翼であり、首相も参加している日本会議の大阪支部で代表・運営委員だったとされている。


国有地の不正な払い下げ疑惑や廃棄物処理法違反、国会議員への贈賄疑惑や不透明な活動を批判されると、仲間だった人達を攻撃し始めた。

本当なのか嘘なのか分からないが、自分が働きかけた国会議員の名前を出しては、金を受け取ったとか渡したと言っています。

籠池泰典は右翼団体の支部代表をしていたほど「愛国者」を自称していたのに、今ではその仲間を告発する側に回っている。


これも右から左に極端に変わった例で、重要なのは思想や信条ではなく自分自身だったのが分かります。

自分が犠牲になって何かを実現しようというつもりはなく、自分が批判されるとあっさり「愛国者」を捨てて批判する側に回りました。

言動が過激な人ほどこうした傾向が強く、熱心な右翼がある日左翼になったり、逆の場合も起こります。


人間は結局自分中心であり、自分の為に過激運動をしていた人は、批判されると自分を守るために、反対側に立つのです。
____________

大西氏はJPモルガンにいた人であり、ロックフェラーの子だか孫だかを直接知っていると言い、いい奴だとし、ロックフェラーを絶対に悪くは言わない。
金融システムの話はしても、日銀や中央銀行の貨幣発行についての言及を意図的に避ける。

命の選別が「政治の仕事」だとしたのは、ロスチャイルドやロックフェラーの意向と同じものだ。

因みに、優生思想のヒトラーを支持・支援していたのはフォードやロックフェラーでした。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/816.html#c4

[近代史5] 高齢者は死んでいいのか _ 大西つねき「命、選別しないと駄目だと思いますよ」 中川隆
16. 2020年7月13日 11:17:42 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[8]
大西つねき発言 -批判と経過-
ノードワン 2020/07/13
https://note.com/nodej/n/n6b24b6f786a5


れいわ新選組の大西つねき氏の「生命の選別発言」をめぐって、事実経過と私自身がどう考え批判してきたかを明らかにしておきたい。れいわ新選組は14日からの週に総会を開催し大西氏の正式処分を決定する予定だそうだが、その結果をどう判断すべきかの視点の一つとして参考にしていただけばと思う。ことは大西氏個人だけではなくれいわ新選組全体の問題であり、同時にまた他の政党も直面している問題でもある。

簡単な事実経過

(1)7月3日、れいわ前立候補者で党員の大西つねき氏が、『「正しさ依存症とそれを生み出す教育について」』というタイトルのyoutube動画で視聴者の質問に応答する形で「政治が高齢者の生命を選別すべき」と発言し、この動画は7日まで公開されていた(*)。 れいわ立候補予定者で党員である大石あきこ氏をはじめ、7日にこれを知った人たちから直ちに「これは優生思想ではないか」と批判の声があがり、twitter上でも論争となった。

(*) 大西氏の当該動画は既に削除されているが、二次被害の懸念があるものの、証言として残すべきだとの考えを優先し、monbran氏による問題発言部分のみの抄録にリンクを貼っておく

(2)この動きを受け、れいわ新選組山本太郎代表が7日に大西氏と会い、「動画の発言は許されるものではなく党からの除名に値するが、再出発する気持ちがあれば検討する」を主旨とする問いかけを行い、氏が「謝罪した上で、再出発したい」旨答え、謝罪と動画削除を行った。これを踏まえ、同日夜れいわ本部は「大西氏の発言は立党精神に反し、優生思想的なものであり看過できない。しかし氏を除名すれば済む問題ではなく、生命の選別について改めて学び、立ち直るチャンスを与えたい」旨の声明を出した。

(3)しかし、7日の声明は処分するのかどうか曖昧さを残したままだとの党内外からの批判があり、翌8日れいわ本部は、「大西氏をふくめれいわの党員が生命倫理に取り組んでいる方たちから公開レクチャーを受ける。大西氏の処分は党の最高意思決定機関である総会で決める予定」と続報を出した。

(4)れいわ本部の声明、続報はなお処分手続きに曖昧さを払拭しきれていなかった上に、まずなされるべき国民、支持者に対する党としての謝罪が欠落し、かつ大西発言のどこが問題なのかも明らかにしておらず極めて不十分なものであった。その結果、8日以降も大西発言をめぐる批判は広がり続け、野党連合政権構想で協力関係にある共産党の志位、小池両氏もtwitter上で大西発言を「言語道断」と批判した。そしてれいわ支持者の間でも大西批判除名派と、それに反発する大西除名反対派の亀裂が拡大した。

(5)以上の流れを受けて10日、れいわ山本太郎代表が、これまでの経過と今後の対応について二つの声明を再度補足する中継動画を公開し、路上でぶらさがり会見をおこなった。この中継で山本氏ははじめて大西発言について国民と支持者に正式謝罪するとともに、@7日にはじめて大西発言を知ったこと、A大西発言を知った段階から発言が立党精神と真逆である以上党から除名するしかないと考えていたこと、B7日に大西氏に会い、自分としては除名処分を考えていることを伝えた、C氏に公開レクチャーを受けてもらうのは、除名だけ済まし何もしないとすれば、優生思想の持ち主をそのまま野に放つようなもので党として無責任になる、D除名処分は自分の考えであり、あくまで来週開催予定の総会で処分が決定されることになり、その後で党員(大西氏を含め18名)全員が公開レクチャーを受け生命倫理について学び直す、などと発言した。

(6)しかし、10日の山本代表の中継動画の前日の9日、作家の山口泉氏が自身のブログで、大西氏が本年4月初旬に実施した沖縄での講演会でも今回と同様の「生命の選別」論を展開していたこと、またこのような信条を持つ大西氏を放置することはれいわ新選組にとって致命傷になりかねず早急に対処すべきことを山本太郎氏に連絡していたこと、しかし現在に至るまで山本氏からの返答はなかったことを明らかにした。実際にも山口氏は大西氏の沖縄講演会における発言が持つ問題を4月23日、雑誌『週刊金曜日』のコラム欄「肯わぬ者からの手紙」において指摘していたのである。また筆者のツイッター上での大西批判に関連して支持者の一人から、自身やれいわ支持の知人たちも山口氏と同様の批判をれいわ本部に送っていたとのメッセージを受け取った。

(7)したがって現段階では、大西発言をめぐるれいわ新選組のこれまでの基本的スタンス、すなわち党は7月3日の大西氏のyoutube動画公開以前に、4月沖縄講演も含めて大西氏に問題があることを知らなかったことに重大な疑義が生じていることになる。知らなかったとすれば党のガバナンスが問われ、知っていたとすれば大西氏の信条を黙認していたことになり党の思想的立場そのものが問われることになる。さらにそれに加え、そもそも大西氏を議員候補者として選抜しその活動をこれまで許容してきた代表山本太郎氏自身の責任も問題になる。なおこのポスト書いている13日現在、山口泉氏が先に公開されたブログ記事の続編『ガス室から人生は「やり直せ」るか?  ──山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機〔2〕 大西擁護論≠ニ山本代表「第1声明」前半の検証を中心に』を公開され、さらに引き続き〔3〕を公開される予定とのこと。〔2〕はほぼ完璧に大西発言の問題とその擁護論のダメさを暴いており一読をすすめたい。

以上が簡単な経過であるが、 つぎに大西発言を知った 7日から12日にかけて投稿した私のツイッター上での大西発言批判を時系列に沿って再録する(アカウントはノード的、nodej001)。なお言い間違い、脱落、説明不足の部分は修正、補足した。

私の大西発言批判

7/7日
● この人は以前から怪しげだったが、この発言は許されない。山本太郎氏の主張と180度逆。れいわは大西氏が党員であれば即除名した上で、謝罪と説明責任を負う。そうしなければ政治集団として壊滅するだろう。

● 大石さん、言い訳不可、同感です。優生思想がベースにあるので、たんなる謝罪じゃすまないと思います。れいわとして(党員であれば除名の上)決別宣言すべきです。多くの支持者のために、また選別されるかもしれない人たちのためにガンバってください。

8日
● 大西発言、れいわは、規約では最高機関とされている党員総会を開催した上で氏を除名処分し(衆院選予定候補者であれば公認を取り消し)、それを公表し、公党として国民に謝罪すべき事案。山本太郎氏単独(のように思える)声明は公党として謝罪もなく、あるまじき底レベルであり、撤回すべし!

● 「命の選別が政治家の仕事」などという発言は、謝罪して済むものではない。この優生思想こそナチスが、ユダヤ人をはじめ社会的マイノリティーを選別殺害したドライブであり、その肯定は、民族ヘイトと同様、現実化する危険性を持つ。大西氏は政治家として活動する資格はなく、反省は自ら身を引くこと以外にない。

● れいわは山本太郎氏の個人商店+運動体であり、これまでの政党概念には収まらない。だからといって、身内である大西氏の優生思想肯定発言に甘くていい(処分なし)とか、公党として国民に責任を負わなくていい(謝罪なし)とかにはならず、許されない。こんなことも分からないなら公党の資格はない。

● れいわ支持者の中で、大西発言を直接、間接に擁護する発言がツイッターで流れている。党として優生思想を明確に断罪し、大西氏を処分することでしか、大西氏擁護の声は止められない。れいわが、その広がりが何をもたらすようになるか感じることができず、理解もできないとすれば、党を解散するしかないだろう。

9日
● さすがに大西氏処分について山本太郎氏単独の判断でやらないなどと決めるのは道理に合わず、総会を開催して決定するとの補足声明があった。確かに優生思想は大西氏だけの問題ではないだろう。しかし公開レクチャーの前に、党として全面否定し、国民に謝罪することが先だがそれが欠落してる。

● 開かれた党をめざし、党員は議員とその候補だけ、綱領や規約も不十分で、組織もなく、ボランティアだけに支えられた活動がれいわの実態。これを基本的に肯定したとしても、レイシストや優生主義者たちが入り込んでくることを予想し、それを許さない柵=策を立てる必要がある。だが、現在の太郎商店では困難だろう。

● 7日のれいわ声明でダメなところは、処分問題以外に、「多くの人々の心の中にもあるであろう何かしらかの優生思想的考えに、光が当たったことを今回はチャンスと捉え、アジャストする責任が私たちにはある」としたところ。大西氏が主体的に「光をあてた」のであり、他人事のようなアジャストではなく党として主体的に断罪することがまず問われている。

● これまでれいわを支持し、応援してきた多くの人たちは大西発言に衝撃を受けていると思う。れいわに立党精神があるとすれば、それは大西氏の優生思想の対極に位置していたはず。だからこそ、大西発言問題を曖昧にせず正面から糾弾することによってしか、れいわの立ち位置は回復できないと考えるべきだ。

● 三井さん、お考えは分かります。しかし大西氏が党員でありながら優生思想を肯定する発言をプラットフォームでおこなった事実は残ります。公党としてその大西氏の責任を明確にしないままではれいわは次に進めないと思います。総会での議論に期待します。

● 大西発言を許すべきでないのは、 形式的には、誰でも生きる権利があるというれいわの主張と真逆で党としてありえないからですが、何より内容的に、優生思想が相模原のような事件を生む危険思想だからです。民族ヘイトと同様、許してはならない「悪」だと私は考えます。

● 私はれいわ創立時から支持してきた一人ですが、大西発言をめぐってれいわが二分されるのは、確かに残念な事態です。しかし、れいわに流れ込んでいる一部のレイシズムや優生主義、陰謀論を批判する上で避けられないことだし、大いに議論すべきだと思います

● れいわの熱心な支持者の間で、大石氏がツイッターで大西氏を批判したのはやりすぎで、れいわ内部でやるべきだったという意見が出ています。しかし大西氏はパブリックスペースのyoutube動画で発言しているのであり、大石氏はそれを前提にパブリックに批判し、大西動画の拡散をとめるため時間的にも緊急性があったと考えるべきです。

● 確かに大西氏は白旗は掲げていますが、どこが間違い、なぜ間違ったかはまだ明らかにしていません。だからこそ、まず党として優生思想は許されないとする処分が必要で、その後に、上にあげたことを説明できる本人の真摯な反省を待つべきでしょう。

● 大石さんの発言が正当なものだということ、同感です。支持者の間でも身内をかばおうとする風潮がある中で、党内部から正面きって批判するのは勇気もいりますが、れいわ本来の立場に立っているからだと思います。

● そうだと思います。本来は異例の形であっても山本太郎さんから即座の批判があってもよかったと思います。れいわでは各党員の言動はほぼ自由放任のようですが、超えたらいけない一線はあるはずで、大西発言はそれを超えていましたから。

● れいわ支持者の間で「大西発言はミスであり、誰でもミスを犯すものだから許さないの行き過ぎ」という議論があります。気持ちは分かりますが、優生思想は歴史的に生き延びてきた危険なイデオロギーであり、単なるミスで大西氏が発言したと考えるだけでは解決しません。日常用語のミスと質が異なります。

● 大西発言について補足です。れいわとして大西発言を断罪すべきだと思いますが、大西氏の自己批判は、党や支持者が強要すべきではないと思います。反省は大西氏が主体的に行わない限り意味がないからです。公開レクチャーが自己批判の強要にならないか懸念があり、処分後はあくまで本人に委ねるべきだと思います。

● ナチスの障害者安楽死T4作戦を批判したフォン・ガーレン司教の言葉(1941年) 「貧しい人、病人、非生産的な人、いて当たり前だ。私たちは、他者から生産的であると認められたときだけ生きる権利があるというのか。非生産的な市民を殺してもいいなら...私たちが老いて弱ったとき、私たちもまた殺されるだろう」

● 日本国憲法第12条 「すべて国民は、個人として尊重される」 ボン基本法第1条1項 「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、保護することはすべての国家権力の義務である」 二つの憲法がいう国民や人間に例外はなく、当然子供も、若い人も、LGBTの人も、老人も、障がい者も含まれる。

10日
● 大西発言に対するれいわの対応に、荻上チキさんも、強要以外にも問題があると指摘。 https://tbsradio.jp/499198

● れいわはまず、大西発言のどこが、なぜ批判されるべきなのか、優生思想とは何かを明らかにする声明を出さなければ、一部支持者の大西擁護(あれは優生思想じゃない、切り取りだ、仲間内の批判はおかしいなどなど)が放置されたままになり、党の信頼が失墜する。公党のガバナンスが問われる深刻な事態。

● 共産党の志位さん、小池さんの「大西発言言語道断」発言は、将来の連合政権のパートナーに対し、批判すべきは批判し、今回の問題を克服してほしいという態度表明ととらえるべき。沈黙するのはパートナーとして取るべき態度ではなく、また共産党も優生思想に加担したとみなされうる。党としてそれは許容できないのは当然だろう。

● れいわ、ようやく大西発言の党としての謝罪、大西処分(除籍)予定と総会手続き、今後の対策、などについて山本太郎代表の声明と会見があった。ただし、除籍して大西氏と関係を絶つだけでは被害が広がるので公開レクチャーを、という方法には議論があるだろう。

【動画生中継リアルタイム字幕入れ UDトークVer.】大西つねき氏について れいわ新選組 代表 山本太郎 2020年7月10日
UDトーク(音声文字化機能)を用いて、オペレーターが補正をしながら字幕をお出ししています。最善を尽くしておりますが、若干の誤字脱字はご了承ください。 https://udtalk.jp/ チャンネル登録をお願いします! https://www.youtube.com/channel/UCgIIlSmbGB5Tn9...
youtube.com

● 本日の山本太郎の声明で、大西氏が問題のビデオを流したのを知った当日の夜(7日)、直接大西氏と会い「選別発言はれいわとして到底許容できない、除籍処分を検討」と伝えた点は妥当だし、当然だろう。謝罪、撤回でやり直しも選択肢としてあげたらしいが、これは処分を前提にしたものとのこと。

● れいわが公党としてけじめをつけられるかどうかまだ分からないが、優生思想を批判した上で大西発言を党として謝罪すること、大西氏を厳正処分すること、党として生命倫理について学び直すことなどが明言されたので、これらが実行されないなら党を解散すべきだと考えていた者として支持を継続したい。

● 山本氏は声明で、れいわのプラットホームを自分の政治目的のために利用するだけの人間も集まってくることに注意する必要があると発言した。大西氏は、自分の選別思想がれいわの基本方針と180度逆であることを十分に知っていながらあえて発言したはずであり、彼もこの範疇の人間だったということだろう。

● 組織なき党、中央集権主義の否定、各人一党的活動の許容というれいわの自由なスタイルが、党是に反してもそれを利用するだけの人間を生み出したとすれば、党のガバナンスで大きな弱点を抱えていることになり、その克服が課題になるだろう。もはや「山本太郎商店」では すまない。

● 党のガバナンスでいえば、大西氏が今回の発言以前にも類似の発言をしていたことを支持者から知らされ、山本太郎氏は「知らされるまで気づかなかった。そのこと事態自分たちの管理能力が不足していたことを示すものとして認めざるをえない。申し訳ない」と謝罪していたことを付け加えておく。

● 今回の大西発言、もしれいわがお粗末な対応に終われば、れいわ支持者の中から、原点回帰をめざす新しい動きが出てきただろう。れいわ自身が、一人一党的な発想に立っているから。須藤元気氏も一人党というべき。だからポピュリスト運動は危ういと考えるのか、そこに新しい可能性があると考えるのか意見が分かれる。

● だから、もし山本太郎氏やその周辺が、レイシズムや優生思想、ファシズムを容認するような姿勢を見せれば(誤りを認めなければ)、支持者は批判して見限り、みずから新しい運動を起こせばいいと、私は思う。山本太郎氏自身ももし反ファシズムでまわりを説得できなければ、つまりファシストや右派ポピュリストに党を乗っ取られたら党から離脱し、一人に戻ってまた動けばいい。

11日

● 大西発言で重要なことが抜けていたので補足しておきたい。それは民族ヘイトと同様に、私たちは、優生思想が政治公共空間に出てくること自体を阻止しなければならないということである。それが野党側から出てくるほどおぞましいことはない。だからこれはたんなるれいわの内輪揉めを超え、すべての政治党派に問われる問題なのだ。

● 山口泉氏は、大西氏が4月開催の沖縄の講演会で選別の話を持ち出していたことを知り、その危険性を山本太郎氏宛のメールで複数回警告したが結局返信はなかったとのこと。党として要望やクレームをきちんと受け、手続きにもとづいて応答し、記録を残すことさえやれていない。公党として杜撰な運営と言わざるをえない。

● 山本宛メールが膨大で山口氏からの警告メールを見逃していたこともありえる。しかし山本氏個人が直接受けてる自体党運営として合理的ではない。要望受付の担当者をきめ、重要度で振り分けするなど効率的処理を図るべき。この当たり前のことさえできず、山口氏の警告を見逃したのは山本氏の責任というべきだ。

● 大西発言はパブリックなyoutube空間でなされたことに加え、発言内容それ自体がパブリック空間に流出し、拡散することを防ぐべきものであった以上、わいわ関係者、支持者に限らず、すべての市民がその政治的権利によって批判すべきもののはず。議論はれいわ内部でやるべきだ論はここで大きく間違っている。

● なので大西氏批判は、同時に、氏の選別発言を許してきたれいわの組織と運営のありかたにメスを入れることにならないと十分なものにはならない。

● 山口泉氏の大西つねき氏を批判したブログ記事にリンクをはっておく。各自読まれることをお勧めする

事は、もはや「大西問題」では済まない  ──山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機〔前篇〕 「大西発言」の前史と現在 | 山口泉 精神の戒厳令下に
夜の言葉〔2020年7月9日〕事は、もはや「大西問題」では済まない ──山本太郎氏の党派の理念的自滅の危機〔前篇〕「大西発言」の前史と現在 以下に記す一連...
auroro.exblog.jp


● そうでしたか。山本太郎氏が沖縄での大西発言を既に知っていたとすれば、彼の責任は大きくなり、事態は深刻ですね。十数人以上のクレームさえ知らなかったという言い訳はさすがに通用しにくい。
引用ツイート

まあ
私も山口泉さんと同じように全く同じ内容のクレームをてるちゃんに話して、てるちゃんから党本部にクレーム入れた方が良いと言われて党本部にクレーム入れたよ。他にもTwitterで疑問質問苦言募集コーナーでは私もやけど、十数人位の人から同じクレームとキチンとつねき氏の事対応してって書いたよ。
午前9:08 · 2020年7月11日

● なるほど。来週の総会で大西氏処分が決まるようですが、その時、山本太郎氏本人の責任が明らかにされない限り、大西氏処分だけではれいわは前に進めないことになりますね

引用ツイート

まあ
そうなんですよ。だから何故今まで知らなかったと嘘つくのかな?と。あの時から知ってて放置したから大西つねきも図に乗って言動もエスカレートしたと思うしね。山本太郎さんも自分に都合悪い事にはダンマリなのか?って何回もクレーム書いたからお尻叩いてって言うのも嘘やん?ってその頃から思ってた

● 山本太郎氏やその周辺が、大西氏が以前の講演会で今回と類似の選別発言をしていたのを知らされながら放置していたとの支持者や山口氏の証言が出てきているので、支持継続を再び保留したいと思います。来週の総会で大西氏処分とともにれいわ自身のウミを出せるかどうかにかかるでしょう。

●大西氏の発言は、遺伝子交配によって価値ある人間を残そうとする優生学的なものじゃないから、優生思想とは呼べない、という見解が流れている。しかし国家が何らかの基準(遺伝子/生産性など)で人間を価値づけ、優れた人間を残し、無価値な人間は排除すべしとするものを優生思想と呼んでいいだろう。

● ある行為や政策が社会全体の利益になるかどうかを定量的に考えるのが功利主義でしょうが、生命の価値付けはそもそも定量化できないため功利主義の範囲外ではないかと思います。しかし、大西氏は老齢者の生命を選別(価値付け)し、先に「逝ってもらう」としているのです。
引用ツイート

Hosoda Naoki
今回の命の選別発言でに「功利主義」と記載されている方がいましたが、今回の発言より前から「功利主義」と指摘されている人がいますので、おそらく、そうなのでしょう。 しかし、狙いはともかく、命の選別がNGである事はかわりません。(批判する方も慎重な方は優生思想的と「的」をつけていますね)

● 功利主義からは、確かに「若者の時間を奪う」ことは社会全体に不利益をもたらすと考えることができるでしょうが、だからといって、その不利益を減らすために、老齢者を選別して先に死なせても良いという結論まで導けるものでしょうか?

12日
大西氏の考えが功利主義か、優生思想か、両者のハイブリッドかは議論の核心ではない。核心は彼が「国家(大西氏の言葉では政治)が、生命を価値付け、優劣をつけるべきだ」と考えていることにあり、この考え方が「国家は生命に対し生殺与奪の権力を振るっても良い」という極北の思想に接続しうることにある

https://note.com/nodej/n/n6b24b6f786a5
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/220.html#c16

[番外地7] 大西つねきが総理大臣になったら極右全体主義者になる 中川隆
5. 中川隆[-12130] koaQ7Jey 2020年7月13日 11:43:52 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[9]
元JPモルガンの大西つねきはロックフェラーとか国際金融資本のエージェントなんだよ
だから経済の話でも日銀当座預金とか日銀の貨幣発行、シニョリッジ(通貨発行益)の様な国際金融資本に都合の悪い話には一切触れない
優性思想は元々ロックフェラーとか国際金融資本の考え方で、大西つねきは語るに落ちたというだけさ  
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/816.html#c5
[番外地7] 大西つねきが総理大臣になったら極右全体主義者になる 中川隆
6. 中川隆[-12129] koaQ7Jey 2020年7月13日 11:44:48 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[10]
元JPモルガンの大西つねきはロックフェラーとか国際金融資本のエージェントなんだよ
だから経済の話でも日銀当座預金とか日銀の貨幣発行、シニョリッジ(通貨発行益)の様な国際金融資本に都合の悪い話には一切触れない
優生思想は元々ロックフェラーとか国際金融資本の考え方で、大西つねきは語るに落ちたというだけさ  
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/816.html#c6
[番外地7] 大西つねきが総理大臣になったら極右全体主義者になる 中川隆
7. 中川隆[-12128] koaQ7Jey 2020年7月13日 12:02:00 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[11]
大西つねきが総理大臣になったら極右全体主義者になる:
あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。
そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。
安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。
 
学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。
重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。
 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。
 
安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
________________
過激な右翼ほど、過激な左翼に変わりやすい
過激な人ほどあてに成らない
俗に”右も左も正体は同じ”などと揶揄する人が居るが、確かにそんな人を見かける事があります。
過激な愛国主義者が一夜にして反日主義者に言動が変わるのは良くあり、しかも過激な人ほど反対側の過激に変わりやすい。
戦時中に好戦的な軍人だった人ほど、戦後は平和主義運動に加わる傾向があり、反日運動や日本叩きが大好きになる人が居ます。
熱心に愛国運動や日本軍賛美の作品を発表していた有名な漫画家が、ある日を境に日本を批判する作品ばかりになった例があります。
「日本軍は侵略などせず正しい事だけをした」と言っていたのが、ある日180度転換し「日本はすべて悪い、最悪だ」と決め付けるようになった。
一体彼に何があったのかは知るすべも無いが、やはり過激な人ほど正反対の過激に変わりやすいのです。

逆のケースもあり、いわゆる左翼運動や反日運動をしていた人が、ある日何か閃いたのか、今では”右翼”と呼ばれていたりもする。
ある元アイドルは反原発や官邸デモに熱心に参加していたが、離脱して現在はデモ隊などをパヨクと批判している。
ある有名なニュースキャスターは昔テレビで日本の戦争犯罪を熱心に追及していたが、今は逆の立場で熱心に追及しているようです。

これらは有名人だが、一般の人でも過激な政治活動をしていた人が、ある日コロリと変わる例は良くある。
どうしてこうなるのかを推測すると、人は結局自分中心の生き物であり、過激なほど壁に当たりやすく大きな疑問に突き当たりやすい。
「日本軍はすべて正しい」「全員が聖人君子だった」と言っていた漫画家は、そうではない例を発見し、矛盾に耐えられなかったのかも知れない。
籠池泰典理事長の場合
これがもっと中途半端なら「まあ1000万人も軍人が居れば色々あるだろう」と納得できるが、「全員が聖人君子である」と信じていた人は矛盾に耐えられない。
右から左、左から右にコロリと変わる過激な人は、一つの矛盾を発見すると頭が爆発するのかも知れない。
最近コロリと変わった例が森友学園の籠池泰典理事長で、熱心な愛国者で右翼であり、首相も参加している日本会議の大阪支部で代表・運営委員だったとされている。

国有地の不正な払い下げ疑惑や廃棄物処理法違反、国会議員への贈賄疑惑や不透明な活動を批判されると、仲間だった人達を攻撃し始めた。
本当なのか嘘なのか分からないが、自分が働きかけた国会議員の名前を出しては、金を受け取ったとか渡したと言っています。
籠池泰典は右翼団体の支部代表をしていたほど「愛国者」を自称していたのに、今ではその仲間を告発する側に回っている。

これも右から左に極端に変わった例で、重要なのは思想や信条ではなく自分自身だったのが分かります。
自分が犠牲になって何かを実現しようというつもりはなく、自分が批判されるとあっさり「愛国者」を捨てて批判する側に回りました。
言動が過激な人ほどこうした傾向が強く、熱心な右翼がある日左翼になったり、逆の場合も起こります。

人間は結局自分中心であり、自分の為に過激運動をしていた人は、批判されると自分を守るために、反対側に立つのです。
____________
大西氏はJPモルガンにいた人であり、ロックフェラーの子だか孫だかを直接知っていると言い、いい奴だとし、ロックフェラーを絶対に悪くは言わない。
金融システムの話はしても、日銀についての言及を避ける。
命の選別が「政治の仕事」だとしたのは、ロスチャイルドやロックフェラーの意向と同じものだ。
因みに、優性思想のナチスを支持・支援していたのはフォードやロックフェラーでした。

元JPモルガンの大西つねきはロックフェラーとか国際金融資本のエージェントなんだよ
だから経済の話でも日銀当座預金とか日銀の貨幣発行、シニョリッジ(通貨発行益)の様な国際金融資本に都合の悪い話には一切触れない
優生思想は元々ロックフェラーとか国際金融資本の考え方で、大西つねきは語るに落ちたというだけさ  
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/816.html#c7

[番外地7] 大西つねきが総理大臣になったら極右全体主義者になる 中川隆
8. 中川隆[-12127] koaQ7Jey 2020年7月13日 12:18:04 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[12]
大西つねきが総理大臣になったら極右全体主義者になる:
あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。
そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。
安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。
 
学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。
重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。
 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。
 
安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
________________
過激な右翼ほど、過激な左翼に変わりやすい
過激な人ほどあてに成らない
俗に”右も左も正体は同じ”などと揶揄する人が居るが、確かにそんな人を見かける事があります。
過激な愛国主義者が一夜にして反日主義者に言動が変わるのは良くあり、しかも過激な人ほど反対側の過激に変わりやすい。
戦時中に好戦的な軍人だった人ほど、戦後は平和主義運動に加わる傾向があり、反日運動や日本叩きが大好きになる人が居ます。
熱心に愛国運動や日本軍賛美の作品を発表していた有名な漫画家が、ある日を境に日本を批判する作品ばかりになった例があります。
「日本軍は侵略などせず正しい事だけをした」と言っていたのが、ある日180度転換し「日本はすべて悪い、最悪だ」と決め付けるようになった。
一体彼に何があったのかは知るすべも無いが、やはり過激な人ほど正反対の過激に変わりやすいのです。
逆のケースもあり、いわゆる左翼運動や反日運動をしていた人が、ある日何か閃いたのか、今では”右翼”と呼ばれていたりもする。
ある元アイドルは反原発や官邸デモに熱心に参加していたが、離脱して現在はデモ隊などをパヨクと批判している。
ある有名なニュースキャスターは昔テレビで日本の戦争犯罪を熱心に追及していたが、今は逆の立場で熱心に追及しているようです。

これらは有名人だが、一般の人でも過激な政治活動をしていた人が、ある日コロリと変わる例は良くある。
どうしてこうなるのかを推測すると、人は結局自分中心の生き物であり、過激なほど壁に当たりやすく大きな疑問に突き当たりやすい。
「日本軍はすべて正しい」「全員が聖人君子だった」と言っていた漫画家は、そうではない例を発見し、矛盾に耐えられなかったのかも知れない。
籠池泰典理事長の場合
これがもっと中途半端なら「まあ1000万人も軍人が居れば色々あるだろう」と納得できるが、「全員が聖人君子である」と信じていた人は矛盾に耐えられない。
右から左、左から右にコロリと変わる過激な人は、一つの矛盾を発見すると頭が爆発するのかも知れない。
最近コロリと変わった例が森友学園の籠池泰典理事長で、熱心な愛国者で右翼であり、首相も参加している日本会議の大阪支部で代表・運営委員だったとされている。

国有地の不正な払い下げ疑惑や廃棄物処理法違反、国会議員への贈賄疑惑や不透明な活動を批判されると、仲間だった人達を攻撃し始めた。
本当なのか嘘なのか分からないが、自分が働きかけた国会議員の名前を出しては、金を受け取ったとか渡したと言っています。
籠池泰典は右翼団体の支部代表をしていたほど「愛国者」を自称していたのに、今ではその仲間を告発する側に回っている。

これも右から左に極端に変わった例で、重要なのは思想や信条ではなく自分自身だったのが分かります。
自分が犠牲になって何かを実現しようというつもりはなく、自分が批判されるとあっさり「愛国者」を捨てて批判する側に回りました。
言動が過激な人ほどこうした傾向が強く、熱心な右翼がある日左翼になったり、逆の場合も起こります。

人間は結局自分中心であり、自分の為に過激運動をしていた人は、批判されると自分を守るために、反対側に立つのです。
____________
大西氏はJPモルガンにいた人であり、ロックフェラーの子だか孫だかを直接知っていると言い、いい奴だとし、ロックフェラーを絶対に悪くは言わない。
金融システムの話はしても、日銀についての言及を避ける。
命の選別が「政治の仕事」だとしたのは、ロスチャイルドやロックフェラーの意向と同じものだ。
因みに、優生思想のナチスを支持・支援していたのはフォードやロックフェラーでした。

元JPモルガンの大西つねきはロックフェラーとか国際金融資本のエージェントなんだよ
だから経済の話でも日銀当座預金とか日銀の貨幣発行、シニョリッジ(通貨発行益)の様な国際金融資本に都合の悪い話には一切触れない

優生思想は元々ロックフェラーとか国際金融資本の考え方で、大西つねきは語るに落ちたというだけさ  
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/816.html#c8

[近代史5] 自粛警察が日本をコロナから救った 中川隆
5. 2020年7月13日 15:19:04 : 3D1wqyEMnw : UnlqR25GdkN5VGs=[13]

「コロナをまき散らしやがって」 クラスター発生の施設、差別と偏見に苦しむ

取材に応じる男性経営者。従業員らの感染判明後、心ない非難を受け続けた
拡大写真

事業所に届いた感染者の解雇を求めるメール
拡大写真
 新型コロナウイルスの感染拡大を巡り、クラスター(感染者集団)が発生した宮城県内の施設の関係者が河北新報社の取材に応じた。男性経営者は見知らぬ人からの差別的言動に心を傷つけられた体験を語った。ウイルスとの共存を迫られる「withコロナ」時代。差別や偏見という見えない暴力の撲滅が重い課題としてのしかかる。

 事業所の男性経営者がコロナ禍に見舞われたのは、感染対策を始めていた4月初旬。従業員が感染者の濃厚接触者に当たると保健所から連絡があった。PCR検査の結果、従業員と、従業員が接した顧客の陽性が複数判明。自治体の発表に至った。
 その後約1カ月間、攻撃的な内容の電話やメールが30件近く届き、男性は「精神的に打ちのめされた」。
 「コロナをまき散らしやがって」。電話口の男性にののしられた。「謝れ」「(従業員は)当然クビ」と強要され、顧客に危険が及ぶことを心配した。
 一連の感染の起点は繁華街の飲食店だったが、従業員は店を訪れたことがなく、酒も一切口にしない。濃厚接触の接点はそこではなかった。
 それでも「外出自粛をせず、飲み歩いている」と誤解された。電話口で説明しようとしても「開き直るな」と一方的に切られた。罵詈(ばり)雑言の主は皆、面識のない第三者とみられた。
 「未知の感染症に恐怖する中、自粛で抑圧されたストレスで心の余裕をなくし、排他的行動に移ったのだろう」。男性経営者はクレームの主に同情も覚えつつ「子どものいじめと一緒。今後はこんな不条理を許す社会であってはならない」と語気を強める。

 仙台市泉区の小規模保育事業所「いずみ保育園」では4月初旬、職員と園児の感染が発覚した。誠意を持って保護者に頭を下げた。
 「どこでうつるかなんて分からない。どうか気に病まないで」。子どもから自らも感染した母親に励まされ、加納由紀子園長(56)は涙が出る思いがした。利用する約40世帯のうち退園は1世帯だけだった。
 それでも園の将来像は大きく狂った。6歳まで預かれる認可保育所に来年度移行できるよう市に申請し、園舎の増築準備を進めていた。加納園長は市への申請をいったん取り下げた。
 「どうしても『コロナ感染があった場所』と見られる。そこに子どもを預けてくれるのか。この状況で借り入れしてやっていけるのか。自信がなくなった」
 「クラスター発生」という烙印(らくいん)は消えるのか。見えない圧力に体がこわばる気もする。園に戻った子どもたちの笑顔が救いだ。

[メモ]東北各県の法務局には宮城、福島を中心に、新型コロナ関連の人権相談が計約30件寄せられている。青森、山形では、県外ナンバーの車で外出時に施設利用を拒否されたり、「コロナを持ち込むな」などと罵倒されたりしたといった相談があった。2〜4月の全国の相談件数は約600件に及ぶ。

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202007/20200713_13030.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/137.html#c5

   

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