36. 新共産主義クラブ[-10353] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2025年7月06日 14:25:18 : WQR3qpgp0i :TOR ZWN0aTU1RllKWG8=[1]
>アメリカでなく、中国だというなら話は解る。
サッダーム・フセインさんが1979年にイラクの大統領に就任した後、米国はイラクに接近し1984年にイラクとの国交を樹⽴した後、⼤規模な軍事援助に踏み切っています。
軍事援助の中身は、軍事情報の提供や、コンピュータのデータベースソフト、ヘリコプター、偵察用のテレビカメラ、化学分析装置のような軍事転用可能な資材の米企業からの調達を認めることだけでなく、生物兵器や化学兵器の原料の秘密裏の輸出にも及び、米国のイラクへの軍事援助には他国との質的な違いがありました。
私は、イラン・イラク戦争がおこなわれた1980年から1988年の時期は、イラクに対する影響力の最も大きい黒幕的な支援国は米国であったと見ています。これは比較的に一般的な見方だろうと思います。
また、もし仮に当時のイラクの黒幕的な最大の援助国が中国であったとしても、イラン・イラク戦争がおこなわれた1980年から1988年の時期は、ニクソン訪中後であり、米中の外交方針が大きく異なることはありませんでした。
例えば、アンゴラ内戦では、中国は米国などの西側諸国と共にアンゴラ民主人民共和国を支援し、ソ連などの東側諸国は、アンゴラ民主人民共和国と戦うアンゴラ人民共和国を支援していました。
◆ 「怪物を育てたアメリカの大罪」 − イラン封じ込めのため生物兵器の材料まで与えてフセインを支援した米外交の大きすぎるツケ −
(2002年 ニューズウィーク日本版9・25)
82年当時、イラン・イラク戦争の戦況はイラン優勢で進んでいた。83年のラムズフェルドのイラク訪問後、米政府はイラン軍の配備状況を示す衛星写真をフセインに提供するようになった。
公文書によれば、アメリカは戦車などの兵器類をイラクに「供与」するようひそかに手配した可能性もある。アメリカの戦車をエジプトに送り、エジプトの戦車をイラクに送る、といった具合だ。
レーガン政権は国防総省内の一部の反対を押し切り、イラクが軍事転用可能な資材を米企業から購入することを認めた。コンピュータのデータベースソフト、ヘリコプター、偵察用のテレビカメラ、化学分析装置−−。
だが驚くべきは、相当量にのぼる細菌類の輸出だろう。元米政府関係者によれば、炭疽菌などの生物兵器を製造できる培養基も輸出されたという。
フセインがイラン軍に対して化学兵器を使っていたことは、衛星写真を見ればほぼ明らかだ。だが、88年、フセインがマスタードガスやサリンといった神経ガスで国内のクルド人を攻撃した際、レーガン政権が最初に「犯人」として非難したのはイランだった(後に議会民主党の反発を受けて、イラク側の仕業だと認めた)
http://www.asyura2.com/2002/war16/msg/264.html
(ラムズフェルド氏(米国)とフセイン氏(イラク)の腐れ縁 [ニューズウィーク日本版9・25] 投稿者 あっしら)
◆ 移り変わる「⽶国‧イラク」関係 イラン‧イラク戦争後の変遷
(The Page 2014/8/20(⽔) 16:00 配信)
《⽶国とイラクの接近》
1979年まで、中東での⽶国の軍事拠点はイランでした。しかし、専制的な皇帝のもとで世俗化が進むことへの危機感から、イスラム聖職者を中⼼に、1979年1⽉に「イスラム⾰命」が発⽣。イランにはシーア派の⼀派で、預⾔者ムハンマドの従弟アリーに始まる12⼈のイマーム(最⾼指導者)を聖⼈に位置づける「12イマーム派」を国教とするイスラム国家が樹⽴されました。その後、⽶国による皇帝の亡命受け⼊れをきっかけに同年11⽉、テヘランの⽶国⼤使館を暴徒が占領。これにより、⽶国から「テロ⽀援国家」に指定されました(⼈質が解放された1981年に⼀旦解除された後、⼤量破壊兵器を⼊⼿しようとする疑いなどから1984年に再指定)。
⼀⽅、同じく1979年にイラクでは、サダム‧フセイン⼤統領が権⼒を掌握。「イラク‧ナショナリズム」を強調しながらもスンニ派を⽀持基盤としていたフセイン政権は、イランによる「⾰命の輸出」を恐れる点で、⽶国と⼀致しました。
1980年、国境をめぐる争いから、イラクがイランに侵攻(イラン‧イラク戦争)。イランの勢⼒拡⼤を抑えるため、⽶国はイラクに接近。イラクの「テロ⽀援国家」指定を解除し、1984年に国交を樹⽴した後、⼤規模な軍事援助に踏み切ったのです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/84af5a0ce4a2d099092ddf3f505e2d64f7a4748e