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紀氏と朝鮮半島 i0mOgYLGkqmRTpS8k4c コメント履歴 No: 100000
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[カルト34] 自民党の総裁選挙の結果が出て、私の考えを書く/副島隆彦 仁王像
23. 紀氏と朝鮮半島[1] i0mOgYLGkqmRTpS8k4c 2021年10月04日 22:50:03 : 6UY6R7tMGU : OURZYmwwcEFyb28=[57]
藤原氏がtwitterで掲載されている「日本の歴史」
新羅とギリシア・ローマ文化そして「法隆寺」とギリシア建築との
繋がりについての記事

聖徳太子が新羅系渡来人であるかは不明にしても新羅系有力渡来人
との繋がりを有していたことは確かであり法隆寺の建築を手がけた
のが朝鮮半島新羅で寺院見建築を手掛けていた職人であったことも
事実

つまりルートとしては仏教伝播と同様に中国西方から朝鮮半島を
経由して寺社建築技術がもたらされたという考え方も可能かと

その法隆寺に隣接する中宮寺に「弥勒菩薩像」が安置されている事
はそれを象徴していると

法隆寺の火災は事故ではなく意図的な放火だと推察される

九州に最初の山門国家が存在したことを主張する人々らはその法隆寺
が別の場所から解体移築されたものであると考えているようであるが

下記の阿修羅の投稿記事で「和歌山の水道橋」が崩れるという報道
(現地の行政機関は十分なメインテナンスと補修を行っている橋が
突然崩れた事を訝しがっている)を知り「和歌山と紀氏」について
調べてみた

以下ところどころ抜粋引用掲載させて頂く

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五十猛神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

五十猛神
いたける
神祇 国津神
別名 大屋毘古神(おほやびこ)
禍津日神(まがつひのかみ)
別称 射楯神(いたてのかみ)
神格 草木の神
父 須佐之男命
神社 伊太祁曽神社
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五十猛神(イソタケル)は、日本神話に登場する神[1]。イザナギ・イザナミの子であるスサノオの子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメ(大屋津姫命、枛津姫命)は妹[1]。また、イザナギ・イザナミの子大屋毘古神(禍津日神と同一神とされる)とは別神であるが、同一神とされることもある。


「イタケル」とも読まれる[2]。読み方は神社により異なり統一されていない[3]が、五十猛の上陸伝承のある石見国五十猛村(現在の島根県大田市五十猛町)が好字二字令により726年(神亀3年)に改称された際には「磯竹」の字が当てられており[4]、古来よりイソ音であったことが示唆されている。

射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれる[5]。
神格

林業の神として信仰されている(『日本書紀』、『先代旧事本紀』)[1]。紀伊は古来より林業の盛んな地であったので、それらの人々が信仰していた神と考えられる。

また、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳もある[5]。

紀伊国(かつては「木の国」と言った)に祀られているとの記述と『先代旧事本紀』分注に「亦云 大屋彦神」とあることから、『古事記』で大穴牟遅神(オオナムジ、後の大国主)がその元に逃げ込んだ木国の大屋毘古神と同一神とされる[1]。

子孫

辛嶋氏 - 豊国の氏族。当初は香春岳山麓に住み、その後大貞薦神社(現在の中津市)で神官もしくは巫女を務めていたとされている。大神比義命とともに宇佐神宮の前身の社を建立した。

なお出雲の伝説ではスサノオらの上陸地点は出雲国に近い石見国・五十猛の海岸であるといわれ、ここから出雲国へと向かったとされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B3%B6

八島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


八島・八洲(やしま)、八島(はちとう)。 日本の呼称(雅称)の一つ。

日本神話においては八は聖数とされた。また漠然と数が大きいことを示すことにも用いられており、「多くの島からなる国」である。「しま」には島に加え縄張りの意味もある。


https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12277918884.html

スサノヲと紀氏について(27)
2017-05-30 10:00:00

 岸俊男の「日本古代政治史研究(塙書房)」(以下「岸論文」という)によれば、古代の瀬戸内海航路は以下のとおりである。

 「古代における瀬戸内海の航路は大別すればニルートで、一つは中国地方沿岸沿いに進むものであり、他は四国側を讃岐沖から備後灘を通り、来島瀬戸をへて西進するものであり、ともに周防の熊毛郡沖で合し、室賀や佐波の港に入った」

 紀ノ川北岸の紀氏集団は朝鮮半島南部から渡来したと考えられるので、これらの四国北岸航路上の地域に分布している紀氏の同族は、紀氏集団が四国北岸航路にそって瀬戸内海を東進してきたときに経由した拠点の地域に残った人たちである、と考えられる。

 そして、彼らが定住した地域は、紀ノ川北岸に定住した紀氏集団が行っていった四国北岸航路などの海上交通を利用した朝鮮半島南部や日本列島各地との交易活動の重要拠点となったために、紀ノ川北岸や南岸の紀氏集団との関係が継続強化されることで、彼らは後世まで紀氏の同族と主張するようになった、と考えられる。

 朝鮮半島南部から渡来した紀ノ川北岸の紀氏集団は、その名の「紀」がもとは「木」であり、その「木」は朝鮮語で「貴」の意味の「クィ」を紀ノ川流域の豊富な森林資源を表す「木」という漢字で表現したものであると考えられる。

 ここから、紀ノ川北岸の紀氏集団は、朝鮮半島南部の首長層であったと考えられるが、彼らは、鍛冶や大工、須恵器、馬具などの職人や馬を飼育する馬飼、耕地を開発する土木技術者、養蚕を行う農民や機織の工人などの人々を伴って移住して来た、と考えられる。

 また、紀ノ川北岸の紀氏集団と四国北岸航路上の各地の紀氏集団には、朝鮮半島南部と紀ノ川流域を繋ぐ交易ルートを伝って、最初の移住以降も何度も波状的に朝鮮半島南部からの渡来があった、と考えられる。

 紀ノ川北岸の紀氏集団が朝鮮半島南部から渡来したのは、高句麗が朝鮮半島を南進して、属国とした新羅を通じて伽耶諸国の中心国であり、倭国との関係が深かった金官伽耶国に圧力をかけ、そこの付近に定住していた倭人の中心勢力を追い出して、金官伽耶国への影響力を強めようとしたことが、発端であった。

 それは、おおむね4世紀末から5世紀初めのことであり、金官伽耶国周辺の倭人とそれらの倭人と結びついていた金官伽耶国の首長層は、支配下の民を伴って五月雨式に倭国に渡来した。

 彼らは、海のむこうから渡来してきた人たちという意味で波多の民と呼ばれ、日本列島各地に定住しその地の有力首長の保護・支配を受けた。

 彼らの大部分は欽明大王の時代に、山城国の秦氏によって組織され秦氏の同族や秦氏の部民となった。

 しかし、秦氏に組織される前は秦氏とは別の他の有力首長に支配されていた人たちや、後世まで秦氏には組織されずに別の有力首長の支配下のまま、別の氏族の部民などになっていった人たちや、波多の民を纏めることで有力首長となっていった人たちもいた。

 河内国に拠点を形成した倭の5王の王権は、倭王武=雄略大王が葛城臣を打倒するまでは、渡来人の受け入れや配置、そしてその活用などを全て葛城臣に任せていた。

 葛城臣が活用した波多の民の首長層は、大和国の多遺跡に移住して多臣となった志紀県主と弓月君の渡来伝承を伝えた波多臣、茨田堤の築造にかかわった茨田連などであったが、彼らが支配していた波多の民は、河内秦氏を除くと山城秦氏に組織されず、多臣、波多臣、茨田連などのそれぞれの氏族に支配されていった、と考えられる。

 紀ノ川北岸の紀氏集団が朝鮮半島南部から渡来するときに伴ってきた人々は、波多の民と同じ人たちであったが、彼らは山城秦氏には組織されず、紀氏集団とその同族によって彼らの部曲や神戸などの私有民として組織された、と考えられる。

 紀氏の同族が分布する肥前国基肆郡や藤津郡、豊前国、石見国、周防国は、鉱物資源が豊富で多くの鉱山があり、豊前国や周防国には鍛冶工人の秦氏が多数分布しており、豊前国や周防国は渡来人の秦の民によって開発された国であったと考えられる。

 なお、「隋書」倭国伝に書かれた608年(大業4年)の隋使の裴世清の倭国遣使の行程記事では、都斯麻国→一支国→竹斯国の次に東に進んで秦王国に至り、そこからさらにまた十余国を経て海岸部の難波津に達する、と書かれている。

 秦王国とは秦の民が多く住んでいたからそう呼ばれたと考えられ、その所在地は豊前国と周防国とが考えられるが、裴世清が古代の瀬戸内海航路を進んだとすれば、「隋書」倭国伝に書かれた秦王国とは、周防国のことであった、と考えられ、周防国は秦王国とよばれるほど、秦の民が多数居住していたと考えられる。

 これらから、秦の民の集住地と紀氏の同族が分布する紀氏の拠点地域はほぼ重なり、これらの地域では、紀氏集団が組織していたのは渡来した波多の民の一部分であったと考えられ、紀氏集団が組織していた波多の民は、6世紀半ばの欽明大王の時代にも山城秦氏の組織下には大らなかった部分が大きかった、と考えられる。

 紀氏集団のように、波多の民の渡来とともに渡来した朝鮮半島南部の首長層に出自する氏族は、天日矛の渡来伝承を伝えた三宅連や糸井造などであり、彼らもその渡来過程を通じて、または渡来後の在地で波多の民を組織していったが、彼らが組織した波多の民は、紀氏集団の場合と同じように、山城秦氏の組織下には大らなかった、と考えられる。

 そして、紀氏集団の分布地域は鉱物資源が豊富で鍛冶の盛んな地域であり、秦氏が多数存在する地域であるので、紀氏集団がそこに分布した理由の中心はそこでの鍛冶と交易品、製品としての鉄などの入手であった、と考えられる。

 ここから、紀氏集団の奉斎したスサノヲ神は鍛冶神であり、その御子神の五十猛神も、本来は鍛冶神であったと考えられる。

 古代の親子の神は多くが母子神であるが、スサノヲ神と五十猛神のような父子神は珍しく、本来はスサノヲ神と五十猛神は鍛冶神としては同一神であり、どこかの時点でスサノヲ神から五十猛神が分化した、と考えられる。

 そして、スサノヲ神から五十猛神が分化したとすれば、それはやはり、紀ノ川北岸に紀氏集団が定住して以降であり、五十猛神は、紀氏集団が構築していた瀬戸内海の四国北岸航路や日本海航路、北部九州航路などを結ぶ海上交通のネットワークによって、初めは荒穂神社の危猛神のような鍛冶神として、鍛冶神のスサノヲ神に上書きされて広がり、その後は樹木神や航海神として、日本列島各地に拡散されていった、と考えられる。

ここから、西日本各地に存在する五十猛神を祀る神社は、社伝などは後世に大きく変容を遂げてはいるが本来はスサノヲ神を祭神としていた神社が多数含まれている、と考えられる。

 北部九州の有力首長は、5世紀前半の時点では筑後国三瀦郡を本拠として筑前国宗像郡に進出し、筑前国宗像郡の宗像大社と筑後国御井郡の高良大社を奉斎し、博多湾沿岸航路と有明海沿岸航路を掌握していた水沼君であり、筑紫君が勢力を拡大させるのは、5世紀後半以降であった。

 ここから、4世紀末から5世紀初めにかけて。朝鮮半島南部から北部九州に渡来した紀氏集団と彼らが伴っていた波多の民は、北部九州では水沼君と関係を構築して定住した、と考えられる。

 そして、水沼君は紀氏集団との関係によって、朝鮮半島南部との交易や交渉を行うことができるようになり、日本書紀の雄略記に書かれたようなガチョウの輸入にも係わったとする伝承を残した、と考えられる。

 こうしてみると、5世紀前半の倭王権に対する紀氏集団の影響力の大きさがよくわかる。

紀氏集団は、5世紀後半以降は、同族の大伴連にその政治的な位置を譲ったが、5世紀前半の時点では、葛城臣のもとで瀬戸内海の四国北岸航路などを掌握して交易を行うとともに、朝鮮半島南部との交易を活発に繰り広げていった。

 そのあり方は、同時期に葛城臣と同盟を結んで瀬戸内海の中国地方沿岸航路を掌握して交易を行うとともに、朝鮮半島南部との交易を活発に繰り広げていった吉備臣と同じであり、その意味では、紀氏集団は吉備臣と並ぶ有力首長であった、と考えられる。

 なお、紀氏集団と吉備臣は、岸論文によれば、以下のように相互に交流があったと考えられる。

 「日本書紀」の雄略紀9年条によれば、紀小弓宿禰の妻は吉備上道采女大海とされており、紀伊国有田郡には吉備郷があり、そこには紀氏が分布している。

 岸論文が指摘する紀氏と吉備臣との関係は、前述のように、紀氏集団と吉備臣が5世紀前半の時点では倭王権内で同じような政治的な位置を占めていたことから来ると考えられる。

 こうした5世紀前半の紀氏集団の政治的な位置の重要性や分岐した大伴連が「大連」となって倭王武=雄略大王や継体大王の王権を支えたことなどはそれほど指摘されてはいないが、きちんと認識すべきことであると考える。


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 岸論文は。「大和朝廷の外征は紀氏の全面的協力なくしては極めて困難であ」り、「紀氏が朝鮮経営において重要な役割を果たしていた」というが、5世紀から6世紀にかけての大和朝廷の朝鮮出兵は、実態がない虚構の伝承であり、紀氏集団が瀬戸内海航路の一つを掌握していたのは、朝鮮半島への出兵のためではなく、日本列島各地との交易のためであった。

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 そして、そうした紀氏集団が交易で交換したのは、新しい鍛冶技術によって豊富な鉱物資源を活用した鍛冶製品や豊富な山林資源を活用した板材やそれを使用した舟と、そうした船に積まれた日本列島各地の産物であった。

 紀ノ川河口の地名の雑賀は「さいが」と呼ばれるが、「賀」は「伊賀」や「加賀」の「賀」で、古代朝鮮語で「場所」や「地域」の意味から日本語では「在りか」の「カ」となり、「さい」は「サヒ」で、鉄の古語の「サヒ」「サビ」からきているので、雑賀とは、鉄の場所、地域の意味である。

 こうした地名が紀ノ川の河口付近にあるのは、紀ノ川が上流の吉野の山中から砂鉄を運んで来ていたからで、紀ノ川河口は砂鉄を使用した鍛冶が行われた地域であった、と考えられる。

 また、紀氏集団による交易が可能となる前提は、紀ノ川流域の山林資源を切り出して作られる船の存在であり、その意味で、紀氏集団にとっては鍛冶神とともに、或いは鍛冶神以上に樹木神が重視されていった。

 こうした経過で、鍛冶神スサノヲ神の祭祀は樹木神の五十猛神の祭祀に移行していったと考えられる。



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