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2021年7月27日15時31分 〜
記事 [地域14] 東京都私学部は子どもの人権侵害
東京都には私学に通う子供たちの人権を侵害するとんでもないクソ条例がある。

情報公開条例第11条第2項。私学のいじめ調査をした学校の報告書の非公開という条例。隠蔽を助長し、こどもの命よりも学校経営が大事だというとんでもない条例。これでは全国一私学が多い東京の子供たちがいじめに遭ったときは見殺しだね。こんな条例を是とする東京都生活文化部私学部は解体。都民ファーストとは真逆。
 又私学部はいじめられて病気(PTSD)になった子どもの診断書を否定した。
http://www.asyura2.com/19/ishihara14/msg/112.html

コメント [政治・選挙・NHK282] ワクチンで集団免疫は作れるか? コロナ対策の現在位置 佐藤鴻全
25. 2021年7月27日 15:38:34 : juJg7V4FOs : QVVMOFFrWHlaRDY=[1102]

 >ワクチンで集団免疫は作れるか

 1. ワクチンでは 感染拡大を防ぐことができない
 2. 新形コロナは インフルエンザと同等(死亡率が同じに)になる

 ===

 その間に ワクチンを打っていない人の1〜2%が 死亡する確率となる
 


 
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/190.html#c25

コメント [医療崩壊7] 「ごめんね、もう手遅れなの」コロナ感染し重症になった若者が最後に医師に懇願すること「今からワクチンを打ってください」 … 魑魅魍魎男
7. 2021年7月27日 15:38:52 : kVBxNOG0ie : dkl3bVF2Sk4yOC4=[1]
人の言葉をうのみにせず、少し、引き下がって、冷静に考えましょう。

「operation」 と「manipulation」
両者とも日本語にすれば、「操作」ですが、
無作為が前者で、作為が後者です。
私たちが受け取る情報で、警戒しなければならないのは、
もちろん、後者です。

マニュピュレイトされた情報にはご用心!



http://www.asyura2.com/21/iryo7/msg/126.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK282] 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
7. 赤かぶ[142503] kNSCqYLU 2021年7月27日 15:38:58 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41288]

https://twitter.com/eeshongane/status/1419867963197325314



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/246.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK282] 菅首相が金メダル第1号選手に祝福電話も…「人気取り狙い」バレバレで逆効果(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
14. 2021年7月27日 15:40:36 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[10795]
〖支持率アップ失敗〗金メダリストに直電。メモを読んでいた?「会話が成立せず」真夏なのに極寒の2分間だったってよwwwウケル
2021/07/27
伊達一詔
https://www.youtube.com/watch?v=2A2pY_HtzAU
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/244.html#c14
コメント [医療崩壊7] ワクチン強制を決定的に避ける方法(字幕大王)(成功すれば連中は総辞職。何度も成功したやり方。ただし日本で適用されるか) こーるてん
12. 2021年7月27日 15:42:50 : 7mNLBtH6Xk : Y2VBOWdnUlcvQm8=[956]
とりあえず、
メンドクサインデ、

憲法違反犯罪者は、トットっと死刑にしてくださいネ!
そんで、免責条項を設けて打っているキルゲ●ツ毒物ワクチンモドキの
契約した皆様全員、危険と知りつつ、違法な免責条項を実行したので、
この方々も、同様に死刑にしましょう!

アベスガ一味は当然ですが、製造業者の皆様全員も、
いろいろ聞くことがありますので
海外逃亡する前に、無実のゴーンさんでもしたように
強制逮捕と公権力拉致監禁でいろいろ聞いてみてください!

もうたくさんの、結果である殺人を膨大に行っています!

モウだまされたふりするの、ヨシコさん!
ますます凶暴化します!
まずは、もうヤッチャッタ罪で死刑で、
よろ●くお願いします。
http://www.asyura2.com/21/iryo7/msg/107.html#c12

記事 [番外地9] 資本主義はすぐに階級社会になって行き詰まる
資本主義はすぐに階級社会になって行き詰まる。
資本主義は自国だけでは階級ができた段階で内需が壊滅し恐慌になって行き詰る。
それで需要を求めて植民地を作り、植民地人から搾取して生き延びるしかなくなる。

シュワブは資本主義のリセットをすると言っているのだが、資本主義はすでに行き詰まっている。一国ではすぐに行き詰まり、早い段階で国外での略奪に活路を求めた。これが帝国主義だが、侵略を「グローバル化」しても早晩行き詰まる。1970年代から金融操作で誤魔化してきたが、21世紀へ入った頃には限界。新たなシステムを築かなければならないくなっている。そこでのリセットだ。

▲△▽▼

人口100人の青い目の人達の村 _ 資本主義村があった。
4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。
資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。
資本主義村 では、自動車は6〜7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。

その村の隣に、共産主義村という人口100人の島国があった。
20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた
リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円
全体で 資本主義村 より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。
その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。
あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/647.html

コメント [医療崩壊7] 「ごめんね、もう手遅れなの」コロナ感染し重症になった若者が最後に医師に懇願すること「今からワクチンを打ってください」 … 魑魅魍魎男
8. 地に平和[1165] km6CyZW9mGE 2021年7月27日 15:48:45 : 2Pk9kO6gWQ : V2g0dmlZV3cwdkk=[961]
>新型コロナウイルスの情報は常にアップデートされているので、情報の鮮度も大事だ。新型コロナウイルス感染症は当初、呼吸器疾患と理解されていたが、現在では、全身に影響を及ぼすことがわかっている。


これ、本当なのかなあ?
ランセットに載るような医学論文は、製薬会社の研究資金で行われているものが大多数だそうですね。

ワクチンの副作用が全身に現れるので、それを新型コロナの症状だと言いつくろっているのではないか?
http://www.asyura2.com/21/iryo7/msg/126.html#c8

コメント [政治・選挙・NHK282] <グロテスクがここに凝縮>汚れた東京五輪開会式 実況生中継するTV局の正体(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
61. 2021年7月27日 15:49:08 : Fw8i08SSaA : b1gwelZ6aHlob2M=[181]
53さんへ かなり深読みですね🎵
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/211.html#c61
コメント [原発・フッ素53] 原爆後の広島写真にバツ印 佐賀・唐津、訓練で配布(東京新聞・共同) 蒲田の富士山
1. 茶色のうさぎ[-26672] koOQRoLMgqSCs4Ks 2021年7月27日 15:49:25 : iACfuctv1U : NnIzdy5zMElGMEU=[-3]

 ↓ 認識しろよ。 ばか  うさぎ♂
https://photos.google.com/photo/AF1QipPuOCH2QcRT4LvRJGuHYW1XjLWrHHa2MDr_GU7g


http://www.asyura2.com/20/genpatu53/msg/638.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK282] <騒いでいるのは菅首相とTV局だけ>空疎に響く「金メダル!」の絶叫(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
45. 2021年7月27日 15:51:22 : soadfAmJGA : WFgudlJuTmE0VFk=[23]


    東京オリンピック関係者幹部、武士道に則り「切腹」ありか・・・。


    ・・・。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/241.html#c45

コメント [政治・選挙・NHK282] <騒いでいるのは菅首相とTV局だけ>空疎に響く「金メダル!」の絶叫(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
46. 2021年7月27日 15:52:03 : kVBxNOG0ie : dkl3bVF2Sk4yOC4=[2]
あと、何日、我慢しなければならないのか。
どのチャンネルも五輪、五輪。
台風はどうなっているのかと、テレビをつけても五輪。
コロナはどうなっているのかと、テレビをつけても五輪。

今日は三か月に一度の薬貰いで、病院に行ってきました。
待合室のテレビは五輪を放映していましたが、
誰も見ていませんでしたよ。
まあ、私を含めて年寄りばかりですから、当然でしょうが。
誰だ?
国民全員が五輪に浮かれているって言ったのは。

こうなったら、憎いのはアスリート達です。
彼らに罪はないのでしょうが、
坊主憎ければ袈裟まで憎い、ってな。

誰か一人が金ちゃんを取れば、日本人全員が喜んでいるって言い方は
やめてほしい。

わたしゃ、五輪憎けりゃ、アスリート達まで憎い、ってね。


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/241.html#c46

コメント [政治・選挙・NHK282] 旋風なき「れいわ」どこへ 衆院選で山本氏の復帰なるか(朝日新聞) 赤かぶ
115. 2021年7月27日 15:58:18 : rhKwofpswU : NVRKeE5KTEcxNG8=[4]
行動するバカを自称するよりも

行動するタマネギ

の方が合ってると思うんだ

輪郭的に

まあでも行動するバカでも合ってるからいいや(笑)
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/227.html#c115

コメント [政治・選挙・NHK282] <騒いでいるのは菅首相とTV局だけ>空疎に響く「金メダル!」の絶叫(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
47. 前河[6375] kU@JzQ 2021年7月27日 15:58:38 : f91GzxfckI : akwxNUhVTHQzY1E=[1]

ズタボロ五輪。

アスリートも可哀想だ。こんな酷いプロデュースの中でやらされて。

オリンピックが始まっても、「オリンピックを中止しろ!」という声はやまない。というより勢い付いてるか?

オリパラ関係者が130人以上も感染している。オリパラがなければ感染しなかった人々だ。

また、オリンピックを開催する事で、悪影響を受けて外出してしまう人々が増えて感染者もかなり急増している。

これらは、全てIOCと菅・安倍のせいだ。責任を取らせる必要があるな。

菅の戯言
>「オリンピック。 止めることは簡単だ。が、挑戦するのが政府の役割りだ。」

利権にまみれて投票時の票が取れると思ったお前にとっては、止める勇気もないだろうに。一番難しい選択だろ。このホラ吹きが!

目の前の大好物にガッツキたい心境で、「いや、僕は食べない。これは片付けてくれ」なんて、わがまま放題の菅にはできない。ストイックとは無縁の煩悩の塊のクセして。

>挑戦するのが政府の役割りだ

って、何に挑戦したいんだか?訳わからん。

国民の生命を犠牲にして挑戦していい事などない。

世界中から感染源を集めてバブルに閉じ込めてみた場合に、どれくらいの感染者・被害者が出るかの人体実験にチャレンジか?

やってはいけない挑戦だ。

今すぐにオリパラ人体実験をやめろ!クズ!

偽善とインチキで埋め尽くされた五輪開催。

安倍の「アンダーコントロール」の嘘発言から、賄賂で開催国へ。

「復興五輪」からの「人類がコロナに打ち勝った証し」の白々しいインチキスローガン。

菅の根拠のない「安全安心」口先発言。五輪中止せよの世論を無視し、人命より利益優先。

お台場会場の水質汚染問題

バブル未機能・崩壊問題

アスリートはじわじわ感染者が増え、大会関係者の感染者多数問題

森の女性差別発言
佐々木の女性容姿侮辱LINE
小山田の障害者差別
のぶみの教師イジメ
小林の人種差別ネタ

↑人権無視の薄汚れた連中だな。

五輪開催影響で、緊急事態宣言の効果がなく、人流増加してる問題

アスリートの大会辞退多数の五輪。

人を大切にしない奴らが主催・運営する人を大切にしないオリパラ。ひたすら有害なオリパラ。百害あって一利なし五輪。

もう滅茶苦茶じゃないか。もう止めるしかないだろ。混乱状態が始まっている。

今からでも中止にしろ!!!


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/241.html#c47

コメント [医療崩壊7] コロナワクチンが危険な理由  (分子生物学者・免疫学者 荒川央)  魑魅魍魎男
35. 2021年7月27日 16:01:05 : juJg7V4FOs : QVVMOFFrWHlaRDY=[1103]

 ↑27

 >コミナティ(ファイザー)のmRNAは,多くのYouTube動画に証明されるよう,人体の赤血球遺伝子を変質させて,赤血球の形状について,表面にコロナ状の突起を生成させるよう遺伝子組み換えを行うよう命令文化された信号であったようだ。

 ここまでくると バカ〜〜 っていうか お笑いレベルにもならない

 ===

 ウィキの赤血球のところを コピペすると

通常の細胞が持つ核などの細胞内器官を捨て去っているため、細胞質は水とヘモグロビンで容積のほとんどを占め、それ以外は解糖系やペントースリン酸経路に関わる酵素、炭酸脱水酵素、グルコース、炭酸、Na+, Ca2+, K+, Cl- などのイオンなどわずかであり[12][13][14]、正常な赤血球の細胞質には顕微鏡観察で目に付く構造はない
 

 つまりね 赤血球には 細胞核はないのよだから 赤血球の遺伝子は存在しない
 存在しない 遺伝子がどう変化するのですかね〜〜

 もう この手の 発言をする 低能は どれだけたたいても 同じことを繰り返すだけだけど

 ===

 まあね 赤血球って 単なる 薄いビニール袋みたいなもので その中に ヘモグロビンという
 ゴルフボール(タンパク質)が無数に詰まってるだけなんだ
 
http://www.asyura2.com/21/iryo7/msg/123.html#c35

コメント [近代史6] 従軍慰安婦は売春婦なのか? 中川隆
1. 中川隆[-16022] koaQ7Jey 2021年7月27日 16:03:56 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[1]
朝鮮人「慰安婦」の証言

12歳で「慰安婦」に 李京生

 私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。

 12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。

 私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。

 夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。

 男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。

 明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。

 どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。

 指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。

 やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。

 ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。

 こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。

 夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。

 それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。

 こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。

 これは、慶尚北道安東出身の多くランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

 忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。

 16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。


○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した

○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした

 それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。

 当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。

 土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。

 私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。

 18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。

 解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。

 1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。

 ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。

 今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。
(リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身)

http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101200.html
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/

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拷問の後遺症に苦しむ日 李福汝


 私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。

 住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。

 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。

 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。

 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。

 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。

 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。

 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。

 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。

 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。

 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。

 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。

 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。

 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。

 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊−騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこ多くぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。

その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。

 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。

 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。

 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。

 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。

(リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101202.html


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12年間の「慰安婦」生活 金大日


 私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてのである。

 私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。

 病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。

 来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。

 数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。

 それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。

 その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。

 そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。

 上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。

 上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。

 私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。

 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。

 私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。

 私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。

 私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。

 ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。

 めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。

 こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。

 こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。

 日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。


○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる

○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける

○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む

○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す

○慰安婦150人を並ばせて斬首


 日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。

 はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。

 中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。

 9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。

 私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。

 日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。

 日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。

(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身)
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使い捨てにされた朝鮮女性 金英実


 両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。

 会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた。

 1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。

 区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。

 その山中には日本の軍人がいっぱいいた。

 私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。

 軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。

 その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。

 夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。

 最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。

 食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか。

 この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。

 慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1〜2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。

 私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。

 ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。

 また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。

 ここにいたらいつか私も殺されると思った。

 1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。

 その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。

 秋になって清津にでてきた。
(キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101201.html

             /        /  イf它メミー-       ヽ
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チョン・オクスン(ChongOkSun)


現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。


「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。

13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本 の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警 官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力 を失いました。

10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。

その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。

一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の 中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、

彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片 で覆われるまで転がしました。

最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、

「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単 だ」

と語りました。彼はまた

「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」

とも言いました。


ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」 するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。

あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水 たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。

○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。

○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた

○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された

○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた

○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた

○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った

○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ

○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました

守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問を うけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。

彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山の なかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるもの多くれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷とし て5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/

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ファン・ソギョン(HwanSoGyun)


77歳のファン・ソギョン(HwanSoGyun)の証言は、大勢の娘たちを軍事的性奴隷に誘い込んだ詐欺的方法による徴集方法の証拠となる。

「私は、1918年11月28日に日雇い労働者の次女として生まれました。私どもは平壌市カンドン区のタエリ労働者街に住んでいました。17歳のとき、1936年のことですが、部落の長がやってきて私に工場の仕事を世話すると約束しました。私の家はたいへん貧しかったので、私は喜んでその 収入の良い仕事を引き受けました。私は日本のトラックで、すでに20人ほどの朝鮮の娘たちが待っている停車場に連れていかれました。私たちは汽車と、その 次にはトラックに乗せられ、数日間の旅ののち中国の牡丹江のほとりにある大きな家につきました。私はそれが工場だと思いましたが、工場などないことが分か りました。少女たちは、わらの布団があり、ドアに番号がついている部屋を、一人に一室ずつ割り当てられました。

何が身に降りかかるかも知らず二日間待った後、軍服をきて帯剣した日本兵が一人私の部屋にやってきました。彼は「自分の言うことを聞くかどうか」と尋ね、 私の髪の毛をつかんで床のうえに倒し、足を開くようにいいました。彼は私を強姦しました。彼が離れたとき、私は外で20人か30人の男たちが待っているの を見ました。全員がその日私を強姦しました。それ以来、私は毎晩15人か20人の男たちに襲われました。

私たちは定期的に医学的検査を受けなければなりませんでした。病気にかかっているとわかると、殺されてどこか分からない所に埋められました。

ある日、新し い娘が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗を試み、そのうちの一人の腕に噛み付きました。

そのあと彼女は中庭にひきだされ、我々全部の見て いる前で刀で首を切り落とされ、体を切り刻まれました」。

ァン・ソギュン(HwangSoGyun)は、性奴隷として7年間日本兵の相手をさせられた後、1943年に「慰安所」から逃げることができた。その後39歳のとき結婚することができたが、家のものに過去を語ったことはなかった。心理的肉体的な傷と婦人科的問題のため、子供をもつ ことはできなかった。

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ファン・クムジュ(HwanKumJu)


現在73歳で、韓国永登浦区のドンチョン洞に住んでいるファン・クムジュ(HwanKumJu)の証言は、陸軍が慰安所を運営した際の規則類を例示している。


「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだ と思いました。3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。

かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったの で抵抗しました。私はまだ処女でした。しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。そのときに私は気を失いまし た。そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。

そのときから最初の1年間は、いっしょにいた全ての朝鮮の少女たちと同様に高級将校の相手をするように命令されましたが、時がたち私たちがますます「使役」されるのにしたがい、私たちはもっと下級の将校の相手をするようになりました。もし誰かが病気になれば、その人は消えてしまうのが普通でした。また私 たちは「606号注射」を与えられましたが、それは妊娠しないようにするためや、妊娠したときにいつも流産するようにするためでした。

衣類は一年に2回しか与えられず、食べ物も足りず、餅と水だけでした。私たちの「サーヴィス」には、支払いはありませんでした。私は5年間「慰安婦」とし て使われましたが、そのことで一生苦しめられてきました。私の内臓は何度も病におかされるたび、手術で取り除かれており、苦痛と恥にみちた経験のために、 性交渉を持つことはできません。私はミルクや果汁を吐き気を催さずには飲むことができません。彼らが私に押し付けた汚らしい事柄をあまりにもたくさん思い 出させるからです」。

ファン・クムジュ(HwangkumJu)が特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所での最初の日に、日本兵からこ こには従わなければならない五つの命令があり、従うか死ぬかだといわれたという。

第一、天皇の命令。
第二、日本政府の命令。
第三、彼女が所属している陸軍 中隊。
第四、中隊のなかの分隊。
そして最後に彼女が自分に仕えているテントの持ち主としての彼の命令。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html

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             rメ´── 、::::::::::::::`ヽ \
            〆     /  `ヽ;:::::::::::\ ヽ
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          ,イイ | メ、 l   ,イ  l  }_::_}  !
      _, -ー' /ル| l ァ=ミ、!   // | /! //`l|ヾ》  i
     // ̄ {| | l ト、ヒソ | /二Zナ | ヾニソヘヽ   !
          、__}ハヽゝ , `´  r'::ンヽ}/ }| | ヾ\ i
          `ヽ:::| ∧ 、 _  `´ /  /| |   `ヽニゝ
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        -=ニ´::::::| ,-^~  ハ    ̄-、}/   ヽ ヽ
          / /::://        ,   ヽ, ヽ  \\
          / /´   ,i'     l'   / i  ヽ  ヽ ヽ
          | i'、   /       !   /  ! ヽ ヽヽヽ ! \
             !ヘ'     !   ...  !   /  !  ! ヽ ヽ ヽ     ヽ
            〉`ー、__入  ''''  /  /   |  l  !  ! ! ヽ    ',
            `ヽ_,_  `ー-‐´   ∧   l  /  |  !   !     l
        ゞ´ ̄`ー彡  ̄`iー、_   /   `ヽ! / /   !  ハ !    !
        (ミ_   ~, `~^-i-i  `ー´       `ヽ、 , ' / l |    l
         `~~>´   / |  i             ヽi/  l ハ  /
          /   / ,ノ         _ -   `i'   | ハ /
        /    /-' ^  ヽ     /´        i  .レ  ′
      /  , ー´       ヽ  /        !
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   ヽ、     _ -ー  ̄   /         /       , - 、
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             ,'   /           _,  -ー―-、 _    ー),
               i           _,-ー ´         ` ー 、三^)
               ヽ        _ - ´                 ̄ ゙
              ` ー‐ー ´


キム・ボクスン (KimBokSun)

また別の生存者、韓国のキム・ボクスン (KimBokSun)は、性奴隷としての自分の生活は、軍により直接に統制されていたと証言した。

毎日午後3時から9時は下士官の相手をしなければならず、

午後9時以後の夜は将校のためにとっておかれた。

また大部分の兵隊たちはその使用を拒否したが、全ての女性は兵隊たちを性病から守るため、コンドームを支給された。

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朴永心(パク・ヨンシム)

朴永心の証言

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html


−−どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。


朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。

 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。

−−「慰安婦」として連れ回された経路について。

朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。

 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。

 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。

 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。

 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。

−−その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。

朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。

−−ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。

朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。

−−捕虜になった後どうなりましたか。

朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。

 収容所には一年ほどいたと記憶しています。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11001201/p2


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李桂月(イ・ゲウォル)


1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。

十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。

 駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。

 翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。〜(中略)〜着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。

私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。〜(中略)〜駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。〜(中略)〜日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。

 ○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、〜(中略)〜将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。

 ○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。

 ○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。

 ○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。

 ○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。

 ○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。

 ○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです

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郭金女(カク・クムニョ)


1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。


私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。

 私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。

 ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。

 「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。

 ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。

 そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。

 私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。

 翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。

 大きな建物の中は仕切られていて、一〜二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。

 部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。〜(中略)〜

 一日に二〇〜三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。

 「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。

 こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。

すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます。


 「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」

と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。

 逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。

 ○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。

 ○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。

 ○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。

 ○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。

 「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。

 八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。

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金英淑(キム・ヨンスク)


1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。


今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。

 こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。

 「一三歳の時、やって来た日本人の巡査に

『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』

と言われたんです。

 この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」

 「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。

 「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。

「 将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、

「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」

と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。

 胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。

 「一日に二〇〜三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり、軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」

と金さんは叫ぶように語った。〜(中略)〜


 ○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。

 ○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。

 ○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。

 ○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。

 ○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。

ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。

 ○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。

 この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。

 部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/107.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK282] ワクチンで集団免疫は作れるか? コロナ対策の現在位置 佐藤鴻全
26. 楽老[2229] inmYVg 2021年7月27日 16:05:27 : vtlllF4tnc : NTdHbHJid2l2WVE=[205]
>>QVVMOFFrWHlaRDY

いつに成ったら(13.14)のデタラメを釈明するのだろうか
必死になって、スピンして逃げること逃げること(大笑い)

こういう馬鹿が居るから、対極として毒チンだのコロナは無いなどのお馬鹿コメントがはびこるのだよ。

    
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/190.html#c26

コメント [近代史6] 従軍慰安婦は売春婦なのか? 中川隆
2. 中川隆[-16021] koaQ7Jey 2021年7月27日 16:09:14 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[2]
強制性示す新資料
研究者ら公表 東京裁判で証拠採用

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 旧日本軍が占領地の女性たちを強制的に「従軍慰安婦」にした事実を裏付ける東京裁判(一九四六―四八年)の関連資料が明らかになりました。

関東学院大学の林博史教授、中央大学の吉見義明教授、バウネット・ジャパンの西野瑠美子共同代表が十七日、都内の外国特派員協会での会見で公表しました。

 資料は、オランダ、フランス、中国の検察団が東京裁判に提出した尋問調書や陳述書など七点。いずれも同裁判で証拠書類として採用されました。

 林教授が昨年、東京大学社会科学研究所の図書館に所蔵されていた資料から見つけました。

 オランダ提出の尋問調書では、ボルネオ島の日本海軍情報機関の軍属が、拘束した現地女性を平手で殴り服を脱がせ、三人の少女を裸で一時間、立たせたと証言。

拘束の理由について

「彼らを淫売(いんばい)屋に入れることができるための口実を設けるため、命令でなされた」

と述べ、命令した守備隊司令の名をあげました。

 公表された資料は、インドネシア・ジャワ島やベトナム・ランソン、中国・桂林などで日本軍が現地女性らを強制的に慰安婦にしようとしたことを裏付けています。資料の一部は一九九七年に報道されています。

 林教授は、これらの資料は「日本政府がサンフランシスコ平和条約で受け入れた東京裁判の証拠であり、日本政府も認めざるを得ないものだ」と指摘しました。

 吉見教授は、被害者への「おわびと反省」を述べた河野談話を否定する安倍晋三首相の態度について、「首相の人権感覚が問われる問題。河野談話からの後退は許されない」と批判しました。 
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-18/2007041802_05_0.html

「従軍慰安婦」問題 日本軍の強制示す公文書
3点の大要(邦訳)

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 林博史関東学院大学教授は十七日、外国特派員協会での記者会見で「従軍慰安婦」問題についての新資料七点を発表しました。一九四六?四八年の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書などです。これらは、同裁判で検察陣を構成した各国の政府機関が作成し、裁判の証拠書類として採用された公文書です。「慰安婦」が日本軍によって強制的に連行され、性行為を強要されたことを示しています。


 これらの資料のうち、

(1)インドネシア駐留オランダ陸軍大尉の報告
(2)日本陸軍中尉の宣誓証言
(3)「慰安婦」を強制された女性(オランダ人)の尋問調書―

の三点の大要を紹介します。


 証拠書類は英文と邦訳文があり、ここで紹介するのは邦訳文です。カタカナはひらがなに、旧字体は新字体に直してあります。また適宜、改行してあります。


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特警隊が婦人 捕まえた

 資料(1)/オランダ印軍情報部J・N・ヘイヂブロエク陸軍大尉の報告「日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告」(一九四六年七月五日付、インドネシア・ボルネオ島<カリマンタン>ポンティアナック)
 (PD<検察側書類番号>5330/EX<法廷証拠番号>1702)

 一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイは日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。

 彼は同時に公式の慰安所を設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所は二種に分類することになって居ました。即ち三ヶ所は海軍職員専用、五、六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。

 海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。

 日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。

 海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主として各兵曹長によって行はれました。

 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の尽力によって集められました。

 上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。

 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。

抵抗運動家の娘に強要

 資料(2)/オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書(一九四六年一月一三日付、インドネシア・モア島)
 (PD5591/EX1794)

 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。

 答 私は兵隊達の為に娼家を一軒設け私自身も之を利用しました。

 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。

 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。

 問 幾人女がそこに居りましたか。

 答 六人です。

 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。

 答 五人です。

 問 どうしてそれ等の婦女たちは娼家に入る様強ひられたのですか。

 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。

 答 左様です。

 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。

 答 八ヶ月間です。

 問 何人位この娼家を利用しましたか。

 答 二十五人です。

常に拒絶をしたが無力
 資料(3)/イエ・ベールマンの尋問調書(一九四六年五月一六日付、インドネシア・ジャワ島マゲラン)
 (PD5770/EX1725)

 私は一般被抑留者としてムテラン収容所に抑留されました。一九四四年一月二十八日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇(ジャワ)人の一警視を見ました。彼は私を他の六人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。

 私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私達を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私達は三人の日本人に引渡されて三台の私有自動車でマゲランへ輸送され午後四時に到着しました。

 我々はテウグランと称せられ十四の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。一九四四年一月二十五日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。

 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼に向けられるものであると聞かされました。

 其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後九時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠もりましたが他は其通りにしました。

 私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。

 其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。

 其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。

 此の状態が三週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-19/2007041906_02_0.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/107.html#c2

コメント [医療崩壊7] コロナワクチンが危険な理由  (分子生物学者・免疫学者 荒川央)  魑魅魍魎男
36. 2021年7月27日 16:11:45 : juJg7V4FOs : QVVMOFFrWHlaRDY=[1104]

 赤血球は 脊髄の造血細胞が猛烈なスピードで分裂して できるものなのだが

 赤血球の目的は 酸素を輸送するだけなので 細胞核は必要ないというか 邪魔なのだ

 赤血球は 平たい円盤のように書かれているが 要するに パンパンにヘモグロビンが入っていない

 パンパンに入っていれば 物理学的には ほぼ 球形になるだろう

 ===

 しかし 赤血球は 変形できるくらいに やわらかい構造で 血管から 出たり入ったりできる構造だね

 人体(動物)は 実に巧妙にできている

 ===

 うよのワクチン反対派は せっかく 動きやすい赤血球に 細胞核をつけて

 動けない赤血球を作り出すみたいなので 多分 1億年以上 先祖返りした

 原子動物なのではなかろうか??
 
       まあね バカが コメントを書くべきではない
 
http://www.asyura2.com/21/iryo7/msg/123.html#c36

コメント [近代史6] 従軍慰安婦は売春婦なのか? 中川隆
3. 中川隆[-16020] koaQ7Jey 2021年7月27日 16:11:58 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[3]
林博史関東学院大教授も、最近日本のマスコミを通して公開された、日本の東京裁判の資料の中に、慰安婦の強制動員を認めた検察調書があったことに言及して、

「オランダ政府の場合、少なくとも65名が慰安婦として強制動員されたと確認した。各国が作成した公文書や判決でも、強制連行の事実が認定されている」

と指摘した。 続いて彼は、

「こういう資料を安倍総理や日本政府がなぜ無視しているのか、本当におかしい」

と声を高めた。林教授は特に、

「先月公開された国会図書館の靖国神社の資料で、慰安所を経営していた人物が,靖国神社に合祀されていることが明らかになった。

また、戦犯裁判所で有罪判決を受けて処刑された軍幹部もまた靖国神社に合祀された」

とし、

「女性たちを誘拐した人や戦犯で処刑された人物が靖国に祀られているのは深刻な問題だ。日本政府は反省すべきだ」と要求した。
http://www.labornetjp.org/news/2007/1176865497721staff01/view

林博史『極東国際軍事裁判に各国が提出した日本軍の「慰安婦」強制動員示す資料(7点)』


既報のように、日本軍による「従軍慰安婦」の強制動員を示す資料が確認された。

関東学院大学の林博史教授が4月17日、日本外国人記者協会で会見を行い 公表した資料は、極東国際軍事裁判(東京裁判)にオランダ、中国、フランスの検察団が提出、受理された公文書で、現在、東京大学社会科研究所図書館に所蔵 されている。

以下、資料の内容を紹介する


【資料1】(PD5330/EX1702)
インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック
日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告
一九四六年七月五日

 一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイ(同人は一九四三年八月頃日本に帰国したり抑留を要求し置けり)は日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。彼は同時に公式の慰安所(official brot-hel)を設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所(brothel)は二種に分類することになって居ました。即ち三ヶ所は海軍職員専用、五、六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。

海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主としてミヤジマ・ジュンキチ、コジマ・ゴイチ、クセ・カズヲ、イトウ・ヤスタロウ各兵曹長によって行はれました。

 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。民政部は此の経営を報国会(日本人実業家の協会)に依嘱してナワタが報国会の厚生部の主任であったので是等一般人用の性慰安所の主任に任ぜられました。彼は帳簿をつけたりするやうな事務的仕事には彼の会社の使用人を使用しました。毎朝、夜間の収入は南洋興発会社の出納係キタダ・カゲタカに引渡されました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の盡力によって集められました。

 其等の性慰安所に充てられた家屋は敵産管理人から手に入れ家具は海軍用性慰安所にあっては海軍が支給し一般人用にあっては報国会が支給しました。遊客は原住民である傭人に(海軍の場合には其の階級に従って)金を支払はねばなりませんでした。又その傭人は其の金を毎日当直兵曹長又は南洋興発の出納係に引渡しました。両者の場合共三分の一は諸経費、家具、食物等を支弁する為保留され、三分の二が当該婦人の受取勘定に繰り入れられました。此の中から婦人達は随時彼等各自の用に充てる為其の一部を引出すことが出来ました。毎月の計算書は民政部の第一課に提出せねばなりませんでした。

 特警隊は婦女を捜すに当り民政部及日本人商社の全婦人職員に特警隊に出頭するやうに命じその婦人達の何人かを真裸にし日本人と関係していたとなじりました。次いで医師が検診をしましたが数人は処女であったことが判りました。是等の不幸な婦人達の中何人が性慰安所に強制的に送られたか確実には判りません。婦人達は性慰安所から敢て逃げ出さうとは致しませんでした。と言ふのは彼女等の家族が特警隊に依って直ちに逮捕されて非道く虐められるからでした。一例として此の様な事の為当の少女の母親が死んだ事があります。

 幸にも占領期間中引続き診療に従事することを許された、在ケタパンのインドネシヤ人軍医ルフリマ博士は特警職員の命令で彼の行った是等婦人の検診に関し宣誓供述をする事が出来ました。

 彼の証言に依ると婦人達は強制的に売淫させられたのであります。上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。

 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。

 バタビヤ 一九四六年七月五日
 ジェー・エヌ・ヘイヂブロエク
 J.N.Heijbroek陸軍大尉
 蘭印軍情報部

(訳注)「蘭印軍情報部の公式記録より採られたもの」と記された、蘭印軍情報部戦争犯罪課長チャールズ・ヨンゲテル陸軍大尉の署名付「証明書」も付けられている。「慰安婦」と訳されている箇所は英文では(women)のみ。
 


【資料2】(PD5326/EX1701A)
インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック
ポンテヤナック虐殺事件に関する一九四六年三月一三日付林秀一署名付訊問調書

調書

 本日、一九四六年三月一三日容疑者林秀一は在ポンチヤナック臨時軍法会議予審委員たる予、即ちメーステル・イエ・ベ・カンの面前に出頭した。

 問 君の氏名、年齢、住所及職業を私に言ひなさい。

 答 林秀一、二十四歳、日本石川県生れ、海軍軍属。
 一九四三年七月十三日私はポンチヤナックに到着して警備隊長上杉ケイメイ大尉のところに出頭しました。ポンチヤナックでは私は私が設置したハナ機関の地方部長となりました。このハナ機関は海軍の情報機関でありました。(略)

 [証人ラフィアの訊問調書が容疑者に提示され、これについて訊問がなされた]

 答 この婦人がポテム及アミナと共に上杉より訊問を受けたことは本当であります。その場合私は馬来語通訳として立会ひました。上記婦人は日本人と親密にしたと云ふので告訴されたのです。日本人と親密にすることは上杉の命によって許されていなかったのであります。私は上記の婦人を平手で打ったことを認めます。又彼等の衣服を脱がせたことも認めます。之は上杉の命令で行ったのであります。かくて三人の少女は一時間裸で立たなければなりませんでした。

 問 これは日本で婦人を訊問する時の慣習か。

 答 それは私は知りません。

 問 君は部下の巡査ではない。併しポンチヤナックで独自に仕事をして居るスパイである。故に上杉のかくの如き命令に従ふ必要はない。

 答 私はこの婦人たちが脱衣して裸にならなければならなかったことを承認しました。私は此の婦人たちは実際は罰すべきでなかったと信じます。併し彼等を抑留したのは彼等を淫売屋(brothel)に入れることが出来る為の口実を設けるために上杉の命令でなされたのであります。

脱衣させたのは彼等が日本人と親密になったことを彼等に認めさせることを強ひるためでありました。結局その婦人たちは淫売屋へは移されませんで、上杉の命令で放免されました。何故だか私は知りません。

 問 幾日間その婦人たちは特警隊の建物の中にいたか。

 答 私の思ふのには五日乃至六日間でした。彼等は建物の後の監房の一つにいました。
 (以下、略。現地住民や中国人、ヨーロッパ人らの大量逮捕、虐殺の話になる。)

 (訳注)上杉大尉やハナ機関などには漢字が当てられているが、「音訳」と但し書きがついているものはカタカナ表記に直した。

 

【資料3】(PD5591/EX1794)
インドネシア・モア島
オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書
一九四六年一月一三日

 問 貴方の氏名、年齢は?
 答 シメイはオハラ・セイダイ、年齢は二十七才。

 問 貴方の所属部隊は?
 答 タナカ部隊ハヤシ隊
 (略)

 問 一九四四年九月に於けるモア島の指揮官は誰でしたか。
 答 私でありました。

 問 一九四四年九月中にモア島で土民が殺されたことがありますか、又その人数は?
 答 セルマタ島及ロエアン島で約四十名の土民が捕虜となり且殺されました。

 問 何故殺されたのですか。
 答 土民達がセルマタ及ロエアン島の憲兵隊を攻撃したからです。

 問 誰がその殺すことを命令したのですか。
 答 タナカ将軍は土民達を司令部へ送るやう命じました。然し土民達がモアを出発する前に右命令は変更され私がモアで彼等を殺し土民の指導者三、四名をタナカ部隊に送るやうにと命ぜられました。

 問 貴方は自分でその土民達を殺しましたか。
 答 いえ、私は唯その殺すのを監督したのです。

 問 誰が貴方の手助をしたのですか。
 答 ウド曹長、トヨシゲ軍曹、マツザキ軍曹及二十一名の他の兵卒達です。
(略)

 問 どんな風にして土民達は殺されたのですか。
 答 彼等は三人宛途上縦隊を作って整列させられました。それから前に述べた二十一人の兵達は銃剣で彼等を突刺し一度に三人を殺しました。

 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。
 答 私は兵隊達の為に娼家(brothel)を一軒設け私自身も之を利用しました。

 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。
 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。

 問 幾人女がそこに居りましたか。
 答 六人です。

 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。
 答 五人です。

 問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強ひられたのですか。
 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。
 答 左様です。

 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。
 答 八ヶ月間です。

 問 何人位この娼家を利用しましたか。
 答 二十五人です。
 (以下略)

(訳注)オハラの階級について、陸軍中尉が、海軍大尉と後から直されているが、経歴を見ると陸軍なので、陸軍中尉のままにした。
 

【資料4】(PD5770/EX1725)
インドネシア・ジャワ島マゲラン
イエ・ベールマンの尋問調書
一九四六年五月一六日

 私は一般被抑留者としてムテラン(Moentilan)収容所に抑留されました。一九四四年一月二十八日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇人の一警視を見ました。彼は私を他の六人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。連行された人々の名前は(略)。

 私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私等を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私等は三人の日本人に引渡されて三台の私有自動車でマゲラン(Magelang)へ輸送され午後四時に到着しました。我々はテウグラン(Teogoeran)と称せられ十四の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。一九四四年一月二十五日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。

(略)

 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼(brothel)に向けられるものであると聞かされました。其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後9時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠りましたが他は其通りにしました。

私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。

 此の状態が三週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。

 一九四四年二月の終り頃か三月の始頃に私は事務所へ出頭する様に命じされました。其処にはタキグチと言ふ日本の一将校が居ました。彼は私が受けた待遇に関して私の訴を根拠として事件を調査すると約束しました。彼は亦私達を抑留者収容所へ送還するために極力努力することを約束しました。彼は兵卒や下士官や一般日本人に対して娼家を閉館して私達のために直に情況を改善して呉れました。

 (訳注)証言者は、証言時、27歳。

 

【資料5】(PD5806/EX1792A)
ポルトガル領チモール(東チモール)
ルイス・アントニオ・ヌメス・ロドリゲスの宣誓陳述書
一九四六年六月二六日

 一九四二年二月二一日、私は、日本軍がディリの中国人やその他の家々に押し入り掠奪をおこなうのを見ました。

 日本軍があちこちで族長らに対して、日本軍慰安所(brothel)に現地の少女たちを提供するように強制したことを私は知っています。その際に、もし少女らを提供しなければ、日本軍は族長らの家に押しかけて、慰安所に入れるために近親の女性たちを連れ去るぞ、と言って脅迫しました。

 (訳注)この宣誓陳述書の中で、日本軍が族長に命じて、労働力を提供させたことなども述べられており、族長に強制して提供させる手法がとらえていたことがわかる。なおこの宣誓陳述書には、連合軍東南アジア司令部の戦争犯罪捜査将校とポルトガル領チモールの行政官のサインが付されており、ポルトガル当局が捜査に協力していることがわかる。
 


【資料6】(PD2772E-5/EX2120)
ベトナム・ランソン
ニェン・ティトンの口述書抜粋
 四日間自由であった後、私は街で日本人に逮捕され印度支那保安隊の病院の後方にある憲兵隊に引致されました。(中略)私は八日間、日本憲兵隊に監禁された後放免されました。其後私は数回逮捕され乱暴に殴られました。日本人等は私の仏人との交際を咎めたのでありました。

(略)

 ランソンに於ける捜査の間、日本人等はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数名に彼等/日本人等/が光安(Tienyen)に設けた慰安所(broth-el)へ一緒に行くやう強制しました。私は巧い計略の結果、彼等から免れることが出来ました。

 (訳注)証言者は一九一五年生まれ、住所はハノイ。
 

【資料7】(PD2220/EX353)
中国桂林
軍事委員会行政院戦犯罪証拠調査小隊「桂林市民控訴 其の一」
一九四六年五月二七日

 敵軍の我が桂林を侵略せしは一年間にして其の間姦淫、捕虜、略奪等為ささる処無く長縄大尉なる日本福岡県人は敵復興支部長の職を担当し、人と為り陰険悪毒にして桂林市に有る偽新聞社並びに文化機関をして自己の支配下に置き其等を我が民衆の懐柔並びに奴隷化の中心機関とし且又偽組織人員を利用し工場の設立を宣伝し四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した。

長縄の秘書即ち鈴木華□(日本女性)は彼の行為を幇助し、更に甚しきは此の敵が楽群路に在った李子園に憲兵隊を設立し、(以下略)

http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-04.htm#02
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/107.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK282] 旋風なき「れいわ」どこへ 衆院選で山本氏の復帰なるか(朝日新聞) 赤かぶ
116. 2021年7月27日 16:16:08 : mtmGUha6Jc : d0ZiVFAzWFg1WG8=[6]
れいわ新選組の支持層は立憲民主党の支持層と重なることが前回参院選の結果からわかっている、つまり比較的高学歴、中程度以上の所得層である。       
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/227.html#c116
コメント [経世済民135] 死に体の日本経済 一言主
10. 2021年7月27日 16:17:34 : PdYHQ4PYnc : M0tBSW42N1k0Mm8=[1]
景気を良くしたら、金利が跳ね上がり
国債利払い費増えるから
わざと、失われた何とかにしているのでは?

http://www.asyura2.com/21/hasan135/msg/456.html#c10
コメント [政治・選挙・NHK282] 天皇家は人民暴虐者の血統を保持繁栄 公務員の人権6分限法
12. 2021年7月27日 16:17:56 : HGBydBYcW6 : TW5xc21xRURvUVk=[487]
カルト板へどうぞ、できれば寝言板がいいのだがないようなので。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/239.html#c12
コメント [医療崩壊7] コロナワクチンが危険な理由  (分子生物学者・免疫学者 荒川央)  魑魅魍魎男
37. 2021年7月27日 16:20:04 : Fw8i08SSaA : b1gwelZ6aHlob2M=[182]
武田砂鉄‼ワクチン‼打ったそうです‼ご愁傷さまです‼お気の毒です‼
http://www.asyura2.com/21/iryo7/msg/123.html#c37
コメント [政治・選挙・NHK282] 「俺は総理になる」パワハラ大失言の西村康稔大臣の野心と限界 秀才中の秀才がつまずいた、残念すぎる「人との付き合い方」(… 赤かぶ
1. 赤かぶ[142504] kNSCqYLU 2021年7月27日 16:25:58 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41289]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/247.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK282] 「俺は総理になる」パワハラ大失言の西村康稔大臣の野心と限界 秀才中の秀才がつまずいた、残念すぎる「人との付き合い方」(… 赤かぶ
2. 赤かぶ[142505] kNSCqYLU 2021年7月27日 16:29:29 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41290]

https://twitter.com/HYamaguchi/status/1416605776634810368



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/247.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK282] 「俺は総理になる」パワハラ大失言の西村康稔大臣の野心と限界 秀才中の秀才がつまずいた、残念すぎる「人との付き合い方」(… 赤かぶ
3. 赤かぶ[142506] kNSCqYLU 2021年7月27日 16:31:37 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41291]

https://twitter.com/DCCsa1leuehB6o2/status/1416595745264738304



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/247.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK282] <騒いでいるのは菅首相とTV局だけ>空疎に響く「金メダル!」の絶叫(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
48. 2021年7月27日 16:34:08 : FoP2Dr9OdQ : aTNodDdDUFdFdEk=[-2929]
transimpex_ochd(スコットランド・ケール語で8です)で投稿しています。

14時過ぎから、音立て・ドリルに始まり トンカントンカンと必死に音立て

(創価朝鮮信者達ですので)

仕事半分・嫌がらせ半分の領域でしょう。

お早い 帰国を願います。

後 がっつりなどという言葉は使いません。

しっかり食べるです。

日本人に成りすます事は難しいでしょう?


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/241.html#c48

コメント [政治・選挙・NHK282] 「俺は総理になる」パワハラ大失言の西村康稔大臣の野心と限界 秀才中の秀才がつまずいた、残念すぎる「人との付き合い方」(… 赤かぶ
4. 赤かぶ[142507] kNSCqYLU 2021年7月27日 16:34:38 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41292]

https://twitter.com/zd5FWyYKiI6pMLf/status/1416621358130241536



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/247.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK282] ドイツ紙が指摘「五輪によって、普段は気づかれない日本の問題が明らかになった」(クーリエ・ジャポン) 赤かぶ
68. 2021年7月27日 16:35:19 : aOFPBkr3zM : dkt2MHp3REx5cnM=[4]
>>50」の続き;

そんなに難しく考える必須性はありません。

極々簡単な誰でも理解できる話です。

ただ、司法関係者(裁判官、弁護士、法学者、憲法学者)
だけは、

「憲法公布前に憲法改正された現行の日本国憲法」を
尊重擁護しなければ;

日本では司法関係者として生きて行くことが出来ません
ので、死刑に処するしか選択肢はありません(自業自得)。

で、分かり易い実例で、法の支配の重要性を説明すると;

【独自】オリンピックで弁当大量廃棄 オリパラ事務局
が認める

https://news.yahoo.co.jp/articles/1b6f93e7b1f7dbf449fdcf7c768e0e2ebedaf02c

五輪を民主主義に欠かせない「法の支配」で運用して
いれば;

弁当の大量破棄は不可能と成っていました。

なぜなら、「食材が余った際の対処方法を具体的に詳細
に明記した運用ルール」に従った運用しか出来ないから。

ですから、五輪組織委員会の”定款”ではなく、
五輪組織委員会の”憲法”が;

必須と成ります。

なぜなら、「法の支配」の法の基本法が憲法だから。

所が、日本の司法関係者(裁判官、弁護士、法学者、
憲法学者)全員が;

民主主義に欠かせない「法の支配」の重要性を理解
することが出来ませんし、理解し様ともしません。

なぜなら、「法の支配」の運用だと;

五輪組織委員会の幹部に抜擢された人物または抜擢
した人物が、

税金を好きな様に湯水の様に使うことが出来なく成る
からです。

で、「法の支配」の運用(行政)の「法」とは、運用
(行政)の根拠法&その根拠法の範囲内の運用(行政
施行)ルールですが;

その英文憲法94条「regulations(行政施行ルール)」
に法的効力を与えることが出来ていません。

なぜなら、日本国憲法94条「regulations(条例)」に
法的効力を与えることで;

中央政府が、日本全国から自治を強奪することが出来る
からです。

要するに、日本国憲法94条「regulations(条例)」に
法的効力を与える為に;

英文憲法第八章「SELF-GOVERNMENT《自治政府》」に

日本国憲法第八章「SELF-GOVERNMENT自治《自治(体)》」
という「政府」を訳さずに済ます幼稚園児工作をして
平気の平左でいたいわけです。

ここで、仮に、「SELF-GOVERNMENT自治《自治(体)》」
ではなく、「SELF-GOVERNMENT《自治政府》」に法的効力
を与える正常化を行えば;

既存の1,741の自治体を1,741の自治政府に正常化させる
ことが出来る様に成りますので、

皆様がようやく、英文憲法1条が保障する主権者として
振舞うことが出来る様になります。

で、自治政府だと;

地域限定適用法律を作成して、政治的にも、行政的にも、
財政的にも中央政府から独立することができますので、

財政的に中央政府から独立できる様にする為に、1,741の
自治政府が一旦一緒になって、

そして、24の「州自治政府」に分ける必須性が生じます。

でないと、財政的に中央政府から独立することが出来る
「州自治政府」を創り出すことが出来なく成るからです。

「州自治政府」を創り出すことが出来る様に成れば;

連邦主義条項(英文憲法98条「supreme law of the nation」)
と整合性が取れる様に成ります。

なぜなら、米国の連邦主義の憲法根拠箇所が;

「supreme law of the land」だからです。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/222.html#c68

コメント [近代史6] 徴用工の待遇は本当に良かったのか? 中川隆
1. 中川隆[-16019] koaQ7Jey 2021年7月27日 16:36:30 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[4]
朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由

旭川の人間が戦前・戦中に徴用工にやっていた事

旭川 中国人墓地(上川郡)











旭川 中国人墓地(上川郡)
とても有名な心霊スポット。

日本人に強制連行され労働させられ死亡した中国人たちのお墓が密集している。とある一つの墓にある裏にある文字を読むと死んでしまうという。

墓の入り口にはなぜか倒れてる地蔵が放置されていてこれだけならよくある心霊スポットなのだが、この中国人墓地が恐ろしいのは目撃した人の多数いることだ。


「中国人墓地」は東川町の山の中にある小規模な共同墓地である。入口付近に7つのお地蔵様がいあり、これは大正10年に東川町で起こった一家殺害事件の被害者のために建てられたものらしい。

 墓地には「中国人強制連行殉難烈士慰霊碑」が建てられており、2016年に立て直され、毎年「中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭」も行われている。

 1944年、東川の江卸事業所に338名の中国人が連行され、遊水地工事のために苛酷な強制労働をし強いられたとされている。このときに連行されたのは「共産党軍の捕虜」「帰順兵」「武装盗賊団の一員」「囚人」と言われている。当時、出稼ぎでの北海道の仕事は厳しい自然や劣悪な労働環境に耐える必要があったものの、稼げることから朝鮮人の出稼ぎ労働者らに人気があったとも言われている。

バラ線の張った高い塀、明かりのない窓、見張所完備、のバラックの収容所があり、初冬から真冬に近い季節でも夏の国防服一枚に、藁で作った靴をはき、藁の手袋をつけ、忠別川の川底の石を素手でかき集めて運んだらしい。ワラの手袋をつけているのに「素手」とはどういう状況なのか?戦時中の食糧不足のため小麦粉のだんごや、野菜がわずかな量しか配給されなかったらしい。労働時間は夏は午前6時より 日が暮れるまで、日本人監視のもとに強制労働をさせられていたとのことで、その殉難者は88名にも及んだらしい。大なり小なり脚色がありそうな気もするが、厳しい労働環境で亡くなった人がいるのは本当の事だろう。

 しかし、心霊度が高いのは墓地の入り口にある7つのお地蔵さまだと言われている。これは大正10年に柳沢一家全7人が何者かによって惨殺され火をつけられ、犯人は捕まらず迷宮入りした事件があり、昭和5年7月、宮崎県人松井真動が「佛のお告げ」により、柳沢事件での一家7人を慰霊するため設置したとされている。

ここで噂されている心霊現象には

・墓石の裏の文字を読むと死ぬ墓がある
・帰りに事故にあう
・車で行く場合、乗車定員で行かないと空席に霊が乗る
・車に手の跡がたくさんついていた
・お墓に泣きついている少女の霊
・ヨツンヴァインの男性の霊が出る
・幽霊に追いかけられる

実は2001年に夜にここに来たことがあり、「車に手の跡がたくさんついていた」の正体が周囲の木の枝から車に落ちてくる夜露であることが判明した。ただ、かなり指の跡っぽく、夜露が落ちる瞬間を見なければ恐怖に震えていたと思う。


旭川 中国人墓地 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%97%AD%E5%B7%9D++%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%A2%93%E5%9C%B0+

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/109.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK282] 「俺は総理になる」パワハラ大失言の西村康稔大臣の野心と限界 秀才中の秀才がつまずいた、残念すぎる「人との付き合い方」(… 赤かぶ
5. 赤かぶ[142508] kNSCqYLU 2021年7月27日 16:37:26 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41293]

https://twitter.com/Z6rAsq9NfpbaSVE/status/1416615094977400832



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/247.html#c5
コメント [近代史6] 徴用工の待遇は本当に良かったのか? 中川隆
2. 中川隆[-16018] koaQ7Jey 2021年7月27日 16:38:49 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[5]
北海道中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭in旭川


2016年7月7日、北海道旭川上川郡東川町東14号共同墓地で、第44回中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭が行われました。

資料: 中国人強制労働による殉死の墓

戦時中、いわゆる1941年11月政府閣議決定にもとづき、中国人を日本国内に強制連行し135事業所で、強制労働にしいられ、多くの中国人がたえられぬ労働とリンチによって死にいたった事であります。

1944年、東川のこの江卸事業所も例外ではなく、338名の中国人が連行され、遊水地工事のために苛酷な強制労働をしいられたのでございます。バラ線の張った高いヘイ、明かりのない窓、見張所が作られ、監獄部屋と同じになってしまったバラックの収容所。

うす氷のはりつめる初冬から真冬に近い季節というのに、ヨレヨレの夏の国防服一枚に、ワラで作ったツマゴグツをはき、ワラの手袋をつけ、忠別川の川底の石を素手でかき集めて運ぶ、手足が凍傷にかかり指がちぎれたり、くさったり、それでも奴れい的作業はつづいていました。

戦時中なので日本人の食糧が不足であったという事で、中国人には、小麦粉のだんごや、野さいのおかずだけ、しかもわずかな量でした。いつも空腹にたえなければならなかったのです。

しかも夏は午前6時より 日が暮れるまで、日本人監視のもとに一寸の休みも認められず、針金や丸棒のムチで打たれながら強制労働をさせられていたのでございます。

残酷なリンチに苛酷な労働は、栄養失調と過労の肉体を自然にむしばみはじめ、病人は食べるものも満足にあたえられず、ただ部屋の中のうすい毛布でうずくまっているだけでした。

こうした強制労働とリンチの悲惨な結果は多くの犠牲者を死にいたらしめてしまい、戦争の悲劇はここにもあったわけです。その殉難者は88名にもおよんでいます。

戦後、多くの人々や心ある人達によって何回かの大法要がおこなわれ、特に東川町はこうした行事にも力を入れまして、昭和47年7月7日、旭川市の日中友好協会の方々と共に「中国人強制連行事件殉難慰霊石碑」を除幕するに いたったのであります。

そして遊水地は今もなお東川町、旭川市に及ぶ美田をうるおし、農産業に多くの貢献をにない、日中の友情と平和のちぎりをむすんでいるのであります。
http://www.tao-clinic.com/blog00.php?cat=4&id=1494


▲△▽▼


旭川中国人墓地


昔、中国から強制連行されてきた労働者の墓がある。
戦前に一家惨殺された家族の墓がある。
車に無数の手型がつく。
白い車が特に狙われる。
車の上に無数の幽霊が見える。など。


地図
https://mapfan.com/map?c=43.65136515839951,142.58872269128318,15&s=std,pc,ja


この地図のおおむね中心付近にあります。

 
北海道旅行の「目玉」として、北海道内有数の心霊スポットといわれる中国人墓地を選んだ。

私は行くのが怖かった。なぜなら・・そう・・・
私は白い車に乗っているのだ!!
それゆえ、もしかしたら狙われるのかも・・・と心配していた。
しかし、自分の車がまさかあんな姿になろうとは・・・・

8月1日
内地(爆)では猛暑だと言うのに
この北海道では相変わらず涼しい
私とSKYLINE氏は中国人墓地の正確な場所を割り出すため、
東川町にある、北海道ローカルコンビ二【セイコーマート】にて
詳しい場所を聞くことにした。
ちなみにこのセイコーマート、茨城にも多数ある・・・

コンビニの店員曰く、

この中国人墓地は「東8号の第3小学校付近だったと思うのですが・・」

我々は早速、現地へ向かった。

しかし、それらしいものは何処にも無い。
その代わり、なぜかヘリコプター十数機が保管されている
ヘリコプター基地にたどり着いてしまった。
これは見たい!!見なければならない!!
早速車から降り、ヘリコプターを見物しようとしたそのとき!!

『ごるぅぁぁああああ!!!!』

天地を揺るがす雄叫と共に突如、前方の扉が開き、
中から怪物が飛び出してきた!?
これはもしや?北海道名物「クマ!?」


驚いた私は「スイマセン!スイマセン!」と平謝り・・・

出てきた熊・・・ではなく警備会社のオッチャンに
事情を説明したところ、ヘリにいたずらする奴がいるため警備中との事だった。
早速オッチャンに中国人墓地の場所を聞くと
山の上で、なおかつ隣町の東神楽に近いところだと言う・・
ちなみにヘリは農薬散布用とのこと。

我々は早速東神楽へ向かったが、それらしい場所は無い。
やっぱり夜に探すのは厳しいのか!?
我々はいったん撤収し、明日昼間に探すことにした。

そして次の日、
旭川ローカルデパート「マルカツ」にて1/25000地図を購入。
東川の墓地という墓地をすべてチェック、
しらみつぶしに探す作戦に出た。


【小高い丘、峠道、東神楽の近く】
事前情報からこの3つの条件をみたす墓地を探すことにした。

一つ目、二つ目ははずれだった・・・

そろそろガソリンも無くなって来たので
ガソリンを入れるため北海道ローカルGS【ホクレン】にて給油することにした。

給油中、私は「北海道大学 歴史研究会」を名乗って
店長らしき人物に中国人墓地の場所を尋ねる。
すると、


店長:「ああ、あそこね・・・あんまり遊び半分で行かないほうがいいよ・・
中国人の慰霊碑と、あと【一家惨殺の墓】があるんだよ・・・
行くんなら、道わかんないだろうから、後ついてきて・・」

とのこと。
早速我々は店長の車の後をつけた。
交通量の多い(北海道にしては)道道(=県道)から、
丘の上に登っていく狭い(北海道にしては)道を進むと
店長は車を停め、我々の方へ向かってきた。

そして右手の細い(本当に)砂利道を指差し、

店長:「この先が墓地だから。あんまりふざけた気持ちはもたないこった」

と言い、再び車に乗ると、細い砂利道を進んでいった。もちろん我々も後に続く。

細い森の中の道を100mくらい進んだところに墓地があった。

店長:「これが中国人の慰霊碑で、こっちの7つの地蔵が一家惨殺の奴ね・・
じゃあ、気ィつけてね・・・」

そして、店長は去っていった。

我々は墓地を一通り見た後、帰る事にした。
特に、霊的にヤバイ感じは無かったが、
車のリアガラスを見た我々は凍りついた!!

 沢山の手形が着いているではない
か!!!!!

私は恐怖と共に車のリアガラスを見つめると

「ポタッ、ジワ〜」
「ポタッ、ジワ〜」

なんと手形の正体は上の木の枝から落ちてきた雨水であった・・・

ボンネットを見ると、確かに雨水が無数の「手形」を作っている。
確かに噂どおり、水垢がつきやすい「白い車」のほうが手形は目立つだろう。
そして夜ならば夜露が雨水の代わりをし、同じように手形を作るに違いない。

でも、夜なら夜露が手形を作る瞬間は暗くて見えないだろうし、
帰ってからこの手形を見つけたのではビビるのも無理は無かろう。

ふと、ボンネットに目をやると、エンジンの熱で温められ、白い湯気が立っていた。

「なるほど、これが幽霊か・・・・」

幽霊の正体を暴いた我々は、意気揚揚と引き上げ、そして夜にもう一度行くことにした。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/4641/page013.html


▲△▽▼


旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (1) [北の街] 2005-10-14
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-14

 旭川市から南東(空港から少し東側方向)に向かうと東川町があります。市から外れるとすぐ穏やかな田園が広がっていて車で走っていても心が和む場所です。

 ところが、そこは戦前戦中をとうしてや朝鮮半島から、騙されたり、強制的に連れてこられた人が過酷な労働を強いられて、多くの人が命を落とした所でもあります。その人たちは、ある所では石炭掘り、山林の伐採などをさせられました。

 そしてここでは、田んぼに必要な水を溜めておく遊水池を掘らせれていました。また、それに必要な道路整備やその水を市内に流す放水路作りにも強制的携わらせられたのです。その過酷さは、聞いただけでも見もよだつ思いです。さぞや辛かったろう、さぞや日本人を憎んだろうと思わせます。

 その一つの証言を紹介します。そのTさんは、その当時中学生ぐらいでした、御年77歳になります。学徒動員でその年なりの仕事をしたいたそうで。そのとき見た光景は今でも脳裏から離れずに記憶は鮮明に残っているそうです。

 何があったのか!!その頃は何につけ「兵隊のために」が合言葉のようになっていました。ここは農地ですので当然お米の生産に全力を上げていました。お米には水が欠かせません。それには雄大な大雪から湧き出る水やつき解けで流れる水をどこかで堰き止め、溜めておく必要があります。

 そこで遊水池が必要になったわけです。働き盛りの青年や成人の男どもは戦地に持っていかれていますから、残っているのは一部の兵隊さんと農家の女性と子どもしかいません。そこに、連れてこられたのが中国人や朝鮮人の人たちだったのです。その過酷さは次で紹介します。

このに見える放水路がその一つです
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-14


旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (2) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17


 今回は、過酷な労働から出来た遊水池について。では一見分かりづらいのですが、池はかなり深く掘られています。

 それはこの辺一帯の田んぼを潤す水を蓄えるわけですから、当然でしょう。同じような池がこの他にもあり、それが中国人や朝鮮人を連れてきて掘らせたわけです。Tさんはこう話してくれました。

 「真冬なんてかわいそうなもんだった。布で作った靴しか与えられなくてな、そんなの何回も土を運んでいるうちすぐ穴が開いてしまうわ。足の指真っ赤に腫らしてな、凍傷なんていうもんじゃない、半分腐っていたもんもいたさ。ずいぶん酷いことしたもんだ。見ていられんかったもんな」

 「ずいぶん堤が高いしな、土は他の所へかなり運んだんだけれど、手が間に合わなくて土手に積み上げたんだ」

 堤が高いということは、かなり深くまで掘った土を、掘った人間が上まで運んだということです。当たり前と思うかも知れませんが、現代のようにユンボがある訳もなくすべて手作業です。ましてや、鉄製のも使わせなかったと聞いています。と言うより、鉄が戦車や鉄砲を創るため、拠出させられていたので、鉄そのものが無かったのだと思います。

 それだけを考えただけでも、どれほど重労働だったか推し量れます。

この写真が強制連行にあったことを物語る跡標です。 

これが遊水池です。今でも水が満々としています。
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17


旭川市近郊にある「強制連行」の跡標 (3) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24

 ここまで酷いことをするのか、人間は出来るのかとーー

 国が違う国を支配する。そうするとこういうことが、何の躊躇もなく行なわれてしまうのかと考えてしまいます。Tさんの話を続けます。

 「冬になっても足には草鞋しかはかせないで、素足のままだ。凍傷になって足は真っ赤に腫れ上がっていた。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ。可哀そうにな」

 「戦争が始まった頃、道路拡張の工事があってだいぶん進んでいた頃なんだわ、こっちの方がもっと悲惨だったんじゃないかな」と話します。

 「強制労働者は、天秤棒を担がされて、その両端には砂袋だ。それに掘り起こした土を詰め込んで運ばされていたんだ。一日に何回も往復させられていたさ。それを続けて何日もやらされるもんだから、肩は真っ赤に腫上がって水脹(ぶく)れになっていた」

 「そりゃ毎日だからな、水脹れが破れて中の肉がでてきてただれてしまっていた。そりゃ酷いもんだったさ。それでも天秤棒を担がされてな、血がたれていたよな」

 そこでも、日本の軍人はただ命令するだけで、誰一人として助けようとはしなかったのですか、と聞くと、「それどころか、その赤く腫れあがったところに、煮えきった油をかけていたのさ。酷いなんちゅうものじゃなかった。そうしたほうが、その水脹れが早く治るっていうんだと言ってな」

 彼らは、その繰り返しだったらしいのです。当然長くは続けることは困難でした。

 「菌が入ったらもうおしまいだ。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ」。 T さんは「可哀そうにな」と、今でも思い出さない日はないと言います。

 今では、「中国人殉難裂士」の慰霊碑が建てられています。しかし、ここには「観音堂」があったらしいのですが、Tさんは、今はどこへ行ったのか分からないそうです。

 そして、そこから細い道を登っていくと、中国人墓地があります。ひっそりと静まり返っています。林の中に、ぽつんと墓石が立てられているだけです。もう私たちの記憶の中から、忘れられています。

 そう言う私も、昨年Tさんから話しを聞くまでは、「中国人墓地」があるのは聞いていました。ただ、それはにある外人墓地的な感覚でした。連れて行ってもらって、始めてそこに何故「中国人墓地」が存在するのかを知りました。

 またその先には、今は日本一の設備を有するのではないか、と言われている忠別ダム工事が行なわれています。その先に見えるのが、今まで旭川を含めて近郊の電力をまかなってきた、忠別発電所があります。

 そこでは、強制連行されてきた朝鮮人の人たちが、中国人強制労働者と同じような犠牲を強いられてきていた過去があります。 

 どんな戦争でも、領土の奪い合いは民族間の支配関係を露わにします。支配する側は、支配される方を奴隷同様の扱いをし、自らの国家を「神の国」扱いにしたがります。だから、お前らは俺達の言うことを聞けと。

 しかし、歴史を見ても、たとえ一時それが最頂期を迎えたとしても、いずれは廃れます。そこに、また新しい怨念の連鎖が始まるだけなのです。

 3日にわたって、旭川の近郊で起きたことを書きました。是非、戦争の悲惨さを若い人に伝えたくて書きました。今、イラクでも同じようなことが起きています。


中国人殉難裂士慰霊碑                           

忠別発電所

中国人墓地
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24


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朝鮮人強制動員被害のはなし 過酷なタコ部屋は 11カ所あった - 東川町
https://town.higashikawa.hokkaido.jp/living/.../2010-12-06KYOUSEI_ROUDOU.pdf


太平洋戦争前の戦前から戦後にかけて、忠別川流域の東川町内であったといわれる朝鮮人強制労働の実態解明調査を行っている「江卸発電所・忠別川 遊水池・朝鮮人強制連行・動員の歴史を掘る会」(近藤伸生代表)は昨年 10 月、掘る会メンバー6人と、東川町から企画総務課長も同行して慶尚南道に 調査へ行きました。


タコ部屋近くに住んでいた方、仕事 でたこ部屋に出入りしていた方からの 証言では、東川町内 11 カ所、旭川市東 旭川忠別地区遊水池の近く1カ所、東 神楽町3カ所の存在が今までに明らか になっている。およその位置は以下のようだった。

@東9号第一遊水池側(東川の方の証   言)


A東8号第一遊水池の向かい(同)   遊水池工事は、中国人を強制連行し てくる前は朝鮮人が働かされていた。 韓国で聞き取りの中でも当時朝鮮から 動員された方が証言している。


B東6号南(同)   第2頭首工から東川の 第2遊水池に向かう用水 路の一部では朝鮮人が働 かされていた。当時、中国人や朝鮮人がとてもひ もじそうだったので、工 事現場近くの農家の方が 日本人監督の分も含めて かぼちゃ、じゃが芋を蒸 かしたものを鍋に入れて人数分用意し、 そっと差し入れしたこともあった。


C志比内橋のふもと、東川寄り(元忠   別村の方の証言)   鉄条網を周りに張り巡らし、逃亡を 防ぐため囲いの中に犬が放されていた。 複数の方から犬と金網の証言が出てく る。江卸の工事現場から逃げ出した朝 鮮人を探すため、山狩りにはよく犬が 使われていた。

D熊の沢つり橋の手前(東川の方の証   言)


Eピウケナイ取水口の近く=2つたこ   部屋(同)


Fノカナンの沢取水口(同)


G小桧山温泉近く=ノカナンの沢の奥 (同)


H旧江卸発電所放水路の上(札幌市内   在住の方の証言)   学徒動員の学生と発電所技術者用の 小屋、その隣に朝鮮人のたこ部屋があ った。当時現場で学徒動員の学生と朝 鮮人が一緒になることはなかった。


I旧江卸発電所放水路の下(東川の方   の証言)


Jノカナンの沢と忠別川の合流点そば (元忠別村の方の証言)  


ノカナン、ピウケナイから出た土砂 で大きなずり山ができている。忠別湖畔の散策広場から対岸のずり山が見え る。親からは工事でなくなった朝鮮人 もあの中に埋まっていると聞かされた ことがある。  

当時、忠別村には江卸発電所の工事 現場から逃げてきた朝鮮人が何人もい たようだ。戦後、村の中で戦時中のこ とを自由に話せるようになって、初め てかくまって逃がしていた家が何軒もあったことが分かったという。

この村 では、朝鮮人が逃げてきたという密告 は一件もなかった。  

戦後しばらくたってから、

「逃げてきた人にご飯を食べさせ、母親が夜なべしてその人に合うように父親の服を 縫い直して着せて逃がした、というこ とが数回あった」

と親から聞いて当時 の事情を初めて知ったという人もいた。 逃がした朝鮮の人が、戦後お礼にやっ てきたことがあったという。   逃げてきた朝鮮人も、逃がした日本人も命がけの時代だった。  

母親から

「やせてシラミだらけの服 で命ごいをする朝鮮人を見て、『人間 をこんなにまでして』と思うと、とて も警察に突き出すことはできなかった」

と聞かされた。


江卸発電所・忠別川遊水池・朝鮮人強 制連行・動員の歴史を掘る会 代表 近藤伸生 

北海道で行われた強制労働について 2011年06月19日


 北海道は今やクルマ社会であるといえるが、かつては、鉄道があちこちに張り巡らされて、道路が完全に整備されていなかった昭和30年代頃までは、鉄道が地域住民の足として機能していた。その鉄道建設工事の影には、たいてい強制労働がつきまとっていた。

 ここでは、北海道の強制労働の歴史について触れながら、私が入手した資料と現地で見聞きして得た、強制労働の実態を取り上げるものとする。

 北海道は、明治時代になって本州から移住民による開拓が行われるようになった。だが、未開の地であった為に道路がなかったので、まず囚人を使って道路を敷設する事にした。

 小樽から札幌の北を経て旭川方面に至る道路、旭川から北見峠を越えてオホーツク海の湧別・網走に至る道路、更に網走から標茶を経て釧路に至る道路等は、囚人の手によって造り上げられ、開拓民や屯田兵は、囚人の造り上げた道路を使って奥地を開拓し、入植をしていった。

 また、北海道の森林資源や鉱石・石炭資源が着目されて、鉱山等でも囚人労働が行われ、あらゆる土木工事で囚人労働が行われるようになった。

 ここで、鉄道トンネルに人柱が立てられた石北本線の常紋トンネル付近の鉄道工事がいかに過酷であったか、湧別線建設概要から漢字を平易化して抜粋する事にする。

 …奔無加上生田原間ハ北見国常呂、紋別両郡境前後ノ深山幽谷ナルヲ以テ分水嶺ニ延長千六百六十余呎ノ隧道ヲ穿チ上リ下リ共四十ノ一乃至五十分ノ一ノ急勾配ヲ設クルモ尚ホ高築堤、深切取ヲ要シタル

此ノ区間ハ密林鬱蒼トシテ昼尚ホ暗ク時ニ猛獣出没スルアリ
人跡未タ至ラス固ヨリ既成道路ノ材料ノ運搬ニ特別ノ考慮ヲ要シ工事施行上困難ヲ極メタリ…

 この強制労働で使われた囚人は、明治政府の方針に反対して捕らえられた政治犯が多かったという。鎖に繋がれて死ぬまで労働をさせるので、死刑よりも過酷であるこの刑には反対の声が上がり、また、土木工事での労働力の不足から、明治中期には囚人労働はなくなった。

 しかし、未開の地であった事から、人を募集しても人が集まらない事は目に見えていたし、途中で脱落者が生ずる事も考えられた。また、公共の職業斡旋の形態ができあがっていなかった事もあり、民間業者が労働力をかき集めてある場所に幽閉し、劣悪な労働環境下で酷使する、いわゆるタコ部屋労働が行われるようになった。

 本州でも、タコ部屋労働はあったが、北海道では未開の地であった等の理由で労働者が敬遠する為に、後々まで行われたのである。

 民間の職業斡旋業者が、騙したり強引に連れ去ったりして確保したタコは、土木業者に引き渡されて、監獄のように鉄格子を窓にはめ込んだ建物に閉じ込められた。

 このように、強制労働は、囚人を使った囚人労働から、騙す等の違法な手段によって集めて働かせたタコ部屋労働へと変貌していったが、これだけでは終わらず、ついに外国人を強制労働に使うようになった。

 タコ部屋労働に使われた外国人は、朝鮮人を中心に、中国人や連合国捕虜も含まれている。日韓併合によって「日本国民」にされた朝鮮人の場合には、朱鞠内歴史保存委員会のパンフレットによると、昭和14年09月に「募集」、昭和17年02月には「官斡旋」という名目で強制連行され、更に昭和19年09月には「国民徴用令」を朝鮮半島に適用して強制連行が行われたらしい。

 いずれにしても、タコとされた労働者は、粗末な食事で長時間労働をさせられて、過酷な労働に耐え切れずに逃亡を図ったり、不満を言った者には、管理者である世話役や棒頭から激しい暴行を加えられた。

 このような光景を目撃した地元住民も多く、警察は事実を知っていても表沙汰にする事はほとんどなかった。そればかりか、警察が逃亡したタコを追跡する事例があったらしい。

 暴行を目撃したり苛酷な労働を目撃した地元住民にとっては、この世の光景でなかっただろう。中にはこのような事実を話したくない方も非常に多いに違いないが、このような事は、今後絶対にあってはならないのだから、後世に語り継ぐ必要がある。

 私は、そのような思いで、鉄道の跡地の探索の時間を削ってでも聞き取り調査を優先している。ここで、私が実際に聞いた目撃談を2つ紹介する。


北海道河西郡更別村 国鉄広尾線鉄道工事現場における事例

 この辺りでもタコ部屋労働が行われ、労働者には朝鮮の人も含まれていた。朝、小学校に通学する際に、仕事場へと向かう労働者(7時位から仕事をしていたらしい)とすれ違っていたが、10月(※当時 現在の十勝地方の11月位の気温に相当か?)なのに衣服は赤い腰巻だけであった。

 この付近の工事は難航し、南4線川になかなか橋を架ける事が出来なかったので、とうとう6人の人柱を立てる事にした。人柱は、橋の台座へお経を唱えられながら埋められた。また、この付近の工事では死人が続出したので、そこいらに穴を掘って埋めてそのままにしていった。

 広尾線が開通し、戦争もたけなわになって村から多くの男子が兵士として出征していった頃の事、駅長が終列車に老男性が乗っていたのを見たはずなのに実際には乗っていないとか、終列車の後に線路の点検をしながら歩いていると、火の玉を見たり足音を聞いたりしたとか、変な事が立て続けに起こった。

 あまりにもこのような事が続いたので、当時の更別駅長が地元の方々に慰霊碑の建立を依頼してきた。そこで、ささやかな祠を建立したところ、このような事はなくなった…。


北海道宗谷郡猿払村 旧軍浅茅野飛行場建設工事現場における事例

 当時は重機もないので、飛行場の滑走路は人の手で土を運んで均していった。この作業は真冬でも除雪しながら行われたが、彼らの服装は、むしろ(?)を体に巻きつけただけで、裸足(?)のままで作業を行った。

 滑走路は複数用意しようとしたらしく、滑走路が1本完成したのに続いてもう1本着工したが、完成までには至らなかった。

 今回聞き出した事例は、暴行の事例ではなかったものの、季節に関係なく服装が粗末であった点が共通している事から、タコ部屋労働は劣悪な環境であった事がうかがえる。実際、雨竜ダム建設工事を始めとするタコ部屋労働における犠牲者の死亡原因は、ビタミン不足が原因で起こる脚気が多かったらしい。

 空知民衆史講座のパンフレットによれば、胆振縦貫鉄道(→国鉄胆振線)建設工事では、温泉がある大滝村北湯沢の熱湯の湧き出すトンネル工事で1時間に50人の朝鮮人労働者の突入を繰り返した事例があったそうだ。

 「人柱」の事例は、科学が発達していなかった迷信や神仏が信じられていた時代ならともかく、人類が空を飛ぶ20世紀になって「人柱」がまかり通っていた事実は信じ難い。

 人柱に関する情報として、国鉄瀬棚線の建設工事では、花石〜北住吉間の鉄橋(一説には、第一白川橋梁)に人柱が埋められたという噂がまことしやかにささやかれているが、既に撤去された今となっては、確認のしようがない。

 また、前出のパンフレットによれば、自衛隊の矢臼別演習場の前身である陸軍種馬場建設工事で、朝鮮人労働者を人柱にした等の残虐な行為があったらしいし、北海道雨竜郡幌加内町の雨竜ダム建設工事では、コンクリートに埋め込まれた人もいるとの証言がある。

 さて、住民から国鉄広尾線建設工事のタコ部屋労働の事例をとりあげてみたが、広尾線建設概要では当該工事現場を含めて全ての工区で犠牲者が出たとか工事が難航した事は書かれていない。という事は、故意にとりあげなかったのではなかろうか? ここで、タコ部屋労働が行なわれた国鉄瀬棚線の鉄道建設工事について、瀬棚線建設概要から漢字を平易化して抜粋する事にする。

 …国縫起点自三一粁五○○米至三二粁,自三五粁七○○米至三六粁三○○米,自三六粁六七○米至四五粁二○○米附近の場所は何れも泥炭地帯にして築堤の沈下を見又三三粁○五○米附近の切取箇所は流水甚しく工事の進捗を阻ぐるものがあつた

殊に大正一五年一一月一四日本線二粁四○○米附近の切取に於て又同年一二月十二日五粁八○○米附近用地外土取場に於て更に昭和二年四月十二日二粁三○○米附近用地外裏込石採集場に於て何れも岩石崩壊し之が為め前後三日を通じ人夫三名の死者と重傷者二名を出した事は昭和五年九月四日二五粁五七○米附近「下ハカイマツプ」川橋梁四○呎四連の架渡工事中桁転落の為め職員一名即死人夫二名の重軽傷者を出した事と共に本線建設工事の一大犠牲であつた…

 この文書を単純に読むだけでは、鉄道工事が容易ではなかった事しか読み取れないだろうが、瀬棚線の工事現場は凄惨を極めた。

 昭和50年代後半から本格的に始まった国鉄赤字ローカル線の整理に対して、瀬棚線を守る住民会議が設立された際に、住民会議の事務局の仕事をしていた方がタコ部屋労働に関する噂を聞きつけ、工事に従事したり工事に関係した人達を探し出して、当時棒頭をしていた方からやっと聞き出す事ができた工事の実態は、ひどいものであった。

 何でも、1号トロに3分間で1.5リューベ積みこむ、今の10倍位の労働であったそうで、少しでも遅れれば殴られた。また、労働時間は06時から18時までという名目であったが、実際には03時から始められたそうだ。

 また、逃亡者が多くタコ5人に棒頭が1人ついていたそうで、逃亡してもすぐに捕まって、見せしめとして派手に暴行を加えられて、大怪我を負って働けない状態になっても翌日には現場に連れて行かれたそうだ。

 そればかりか、逃亡に失敗して捕まったタコを首だけ残して埋められた実例がいくつかあり、実際に、証言者は首だけ残して埋められたタコを足蹴にしたという。

 囚人労働でとりあげた湧別線建設概要の本文やタコ部屋労働でとりあげた瀬棚線建設概要の本文でわかるように、公文書では、往々にして自分達に都合の悪い事はほとんど触れないようなので、文章の背後に潜む事実を推測する必要があるかも知れない。

 いずれにしても、北海道では、日本が太平洋戦争で敗北するまで、鉱山や土木工事等ではタコ部屋労働が日常的に行なわれ、満足に栄養が与えられず劣悪な衛生環境でかつ、劣悪な工事環境で、利潤を生み出す「道具」として長時間働かされて、多くの犠牲者を出した。

 私は、戦前に着工されていた北海道の旧国鉄路線では、たとえ記録として残っていなくてもタコ部屋労働が行なわれたと思っており、特に、戦争中に何らかの工事が行なわれていた国鉄路線では、必ずタコ部屋労働が行なわれたと確信している。

 また、工事の際には人柱もあちこちに立てられたと思っている。人柱が立てられるようになった歴史的経緯を考えると、鉄道工事では地形の険しい箇所の長大トンネル工事や主要橋梁に人柱が立てられたのではなかろうか。

 過去に自分が体験した事が余りにも荷が重過ぎるかも知れないし、タコは親不孝者や怠け者の成れの果てと教え込まれて無意識のうちにタコの話をしたくない方もいるかも知れない。タコ部屋労働が過ちであったと思う気持ちが少しでもあれば、今からでも遅くはない。誰かに伝えるべきである。

 過ちを過ちと認めないのは愚かな事であり、同じ人間なのに人格を否定されてタコとしてむごい最期を遂げられた労働者がいつまでも浮かばれない。もし、今からでも歴史の過ちを後世に伝える気持ちがあったら、情報をお願いします。

 ささいな情報でも構いません。あなた自身若しくはあなたの先祖が見た光景が、歴史の重要な証言となります。

 最近、後世に「負の歴史」を伝える行為を「自虐的」であるとする風潮があるようだが、私は決してそのように思わない。

 人間は高度な知識と知恵を有する動物だが、人間がとる行動は全て正しい訳ではない。長い間生きていれば失敗する事も必ずある。過去の失敗を振り返って反省する行為は、人間がより賢くなろうとする純粋な行為であり、決して恥ずべき行為ではないと確信している。
http://blog.goo.ne.jp/80k700/e/0285e5b12f4510db384f391e977c8287


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【笹の墓標】

戦前、北海道の雨竜ダム建設工事で亡くなった強制労働犠牲者の遺骨発掘に参加した神沼公一郎は、作業中に腐乱死体を発見。

遺体はなんと神沼の元恋人で、東京で変死した葦原奈美のいたクラブ「銀馬車」の従業員・上月良彦だった! 

道警の星野と宮川は「銀馬車」の顧客リストを捜査、その中に、強制労働に関係し、奈美とも接点を持つ北海道政財界の大物三人の名を発見した! 五十数年前の悪夢と現在を結ぶ忌まわしい過去とは? 時間と空間を超えて投影された運命の非情を描く森村文学の神髄!


序章

 深夜、山の方角の中腹に火が見えた。通常、火を焚く場所ではない。

 火が見える夜は、工事現場や飯場に死者が出たときである。労働者たちは、あそこで死体が焼かれているのだと噂し合った。だが、噂の真偽を確かめた者はいない。労働者たちは、自分がいつ、
あの火の燃料にされるのかとおののいた。

 宿舎の格子窓が白むころ、労働者は叩き起こされる。

「起きろ。働け」

 棒頭や取締人と呼ばれる班長が、六角棒を手に容赦なく労働者を叩き起こす。中にはせんべい蒲団をまくられ、六角棒で叩かれても動かない者がいる。ほとんど虫の息になっていて、動きたくとも動けないのである。時には、夜のうちに死んでいる者もいた。

 土工夫(労働者)たちからタコ部屋と呼ばれている宿舎は粗末な仮小屋で、逃亡を防ぐために窓には鉄格子がはめられ、夜間出入口には閂がかかる。板張りの床には筵が敷かれただけで、冬は容赦なく吹き込む隙間風が筵を吹き上げた。

 タコ(強制)労働者と強制連行された朝群人労働者の宿舎は分けられているが、実態はほとんど同じである。

 宿舎は中央の土間を挟んで左右両翼に分かれる。左手が親方や棒頭の個室、右手が労働者の寝室に当てられていた。

 前日の重労働が重く澱んでいる睡眠不足の身体を無理やりに奮い立たせ、洗面器1杯の水で何人もが顔を洗う間もなく、「飯上げ」(朝食)の号令がかかる。

 食事の内容は米3、麦、芋等7の割合の飯盛り切り1杯、味噌2、塩8の味噌汁1杯、漬物2切れ。弁当は前記割合の握り飯1個である。労働者たちはいずれも栄養失調で、腹が脹らんでいた。

 食事も食物を味わう余裕などはない。ただ、最低限の生命を維持するためだけに動物の餅にも劣るような粗食を大急ぎでかき込む。労働実績のよい者は上飯台と呼ばれる部屋で食べ、中程度の者は中飯台と称するテーブルに座って食べ、最下級の老は下飯台と呼ばれ、立って食う。

「おれはもうだめだよ」

 朝鮮の郷里から騙されて連行されてきた李景信が、朴命水に力なく言った。

 李は48歳で、この朝鮮人部屋では最年長である。李の衰弱は最近とみに著しい。李は風邪をこじらせ、熱があった。だが、そんなことは仕事を休む口実にはならない。

 高齢に、粗食と重労働を重ねて、もはや李の身体は使いものにならなくなっていた。これまで若い朴が庇ってきたので、辛うじて今日まで生きてこられたのである。

「李さん、なに言ってるんだ。そんな弱音を吐いちゃいけない。頑張れ。生きてさえいればチャンスはある」

 朴は李の耳に口を寄せて励ました。

 朴は信用人夫と呼ばれる自由契約の労働者であるが、タコ部屋に入れられて、信用人夫もタコ労働者もほとんど差のないことを知った。信用人夫は契約であるから、いやならばいつでもやめられるはずであるが、そんなことを言い出そうものなら、棒頭のリンチが待っている。

 今日は労働者がアヒルと呼んでいる水中作業である。厳寒期の水中作業で、李の足は凍傷が悪化して肉が崩れ、足の指の骨が見えている。骨が露出した部位に藁を巻きつけて作業現場まで這いずるように歩いて行き、水中に入るので、凍傷は悪化する一方である。

 厳寒期にもかかわらず、衣類はジュート麻の生地で、豆や米を入れる南京袋の繊維である。保温性はきわめて低い。ジュート作業衣をまとったタコ労働者が並んで歩いていると、南京袋の行列のように見えた。

 李景信は朴命水に担がれるようにして、とにかく作業現場まで行った。

 現場に着いたところで、李の体力は尽きた。身体は高熱を発して燃えるように熱い。

「この身体ではアヒルは無理です」

 朴は棒頭に訴えた。

「なんだと、この野郎。ふざけやがって。仮病をつかってサボろうとしやがっても、そうはいかねえぞ。立て。働け」

 労働者たちから鬼頭と呼ばれて恐れられている北山という棒頭は、持っていた鞭で李を殴りつけた。だが、李は動けない。棒頭はますます激しく殴りつけた。

「棒頭、李さんが死んでしまいます」

 朴は鞭を振るう棒頭の手を押えた。

「この野郎。きさまも痛い目を見てえのか」

 棒頭の容赦ない鞭が朴の顔面を打った。火を当てられたような苦痛に耐えながら、

「李さんの分まで私が働きますから、休ませてやってください」

 となおも訴えた。さすがの鬼頭も死なせてはまずいとおもったらしく、舌打ちをして、

「きさま、いまの言葉を忘れるな。その役立たずを小屋に運んで、2倍働け」

 と朴に命じた。

 宿舎に担ぎ込まれた李は、奄々たる気息の下から言った。

「朴さん、おれはもう助からない」

「なにを言うんだ。ちょっと熱が出ただけだよ。すぐ元気になる。2人で一緒にこのタコ部屋から逃げようと言った約束はどうしたんだ。頑張れ」

「おれはもう約束を果たせない。あんた1人で逃げてくれ」

「おれが李さんを残して逃げるとおもっているのか」

「一緒に行きたいが、おれはもうついて行けないよ。頼みがある」

「1人で逃げろと言ったって、だめだよ」

「おれは遅く結婚したので、郷里に今年10歳になる娘がいる。娘の名は貞媛。あんた、このタコ部屋から逃げられたら、おれの郷里へ行って、娘にこれを渡してくれ。娘にいっぱい土産物を買って帰ろうとおもっていたが、これしか買えなかった」

 李は1本の赤い珊瑚の櫛を差し出した。

「李さん」

「世話になった。あんたに会えてよかった。あんたは若い。こんなタコ部屋で死んじゃあいけないよ。あんた1人ならきっと脱走できる。この戦争は間もなく終わる。平和になったら、あんたのような若い力が必要になる。あんたの活躍をあの世から見守っているよ」

 朴の手を握った李の手が急速に弱くなった。李はその夜死んだ。

 死体は近くの寺の本堂に一夜仮安置された後、いずこかへ運ばれて行った。

 翌日の深夜、朴は山の方角の山腹に火を見た。その火を見つめながら、朴は、

「李さん、許してくれ。あんたと一緒に逃げるという約束を守れなかった」

 と涙をこぼした。闇の奥の火がまたたいた。朴にはそれが、

「約束を守れなくなったのはおれのほうだよ。許してくれ」

 と李が答えたようにおもえた。

 朴は幼いころ両親に連れられて来日した。23歳のとき、横浜で沖仲仕をして働いていたが、仕事がなくてぶらぶらしているとき、1人の男から肩を叩かれた。

「兄さん、閑そうだね。いま、なにをしているんだい」

 一見40代の上等な服を着た羽振りのよさそうな男が問いかけてきた。

「べつになにもしていないよ」

 朴が答えると、

「北海道へ来ないかい。いい仕事を世話してやるぜ。1日5円、働きぶりによっては8円、10円も稼げる。いま北海道は人手が足りないから、いい金になるよ」

 当時、公務員の初任給が75円の時代である。庶民の食べ物であるカレーライスも20銭から30銭である。

「1日5円から10円だって」

 朴は目を丸くした。

「そうとも。それもうまい飯付きだ。白い飯を腹一杯食って、肉や魚や酒も付くぞ」

 男は甘い餌を、仕事にあぶれていた朴の前に並べ立てた。朴はその場で男と1年の契約をした。

 だが、男に北海道の雨竜ダムのタコ部屋に送り込まれた朴は、男に騙されたことを知った。1日5円どころか2円50銭。しかもその日給から食費、蒲団代、地下足袋代などを差し引かれると、ほとんど手許に残らない。前借りのある者は利子を差し引かれるので、必死に働いても賃金が利息においつかない。朴は契約して出稼ぎに来たつもりであったのが、朝鮮人狩りに引っかかったことを悟った。

 朴が送り込まれたのは、北海道北部山間の雨竜発電所工事現場であった。この工事は陸海軍の拠点飛行場建設にも匹敵するような、北海道最大の土建工事である。折から戦時下の労働力不足もあって、大量の人間が朝鮮や東北地方、また京阪の都市部から「人間狩り」と言えるような募集によってかき集められてきた。

 朴は契約労働者であったが、李景信は郷里の朝群南部の村から北海道北部の工事現場に強制的に送り込まれたのである。工事を担当した元請けの下に、下請け、孫請けと多数の業者が犇めき、人狩り屋(周旋業)と提携して不法に集めた労働力を確保していた。

 雨竜ダム工事の飯場に送り込まれた朴と李は騙されたことを悟り、逃亡の機会を狙っていたが、監視が厳しく、果たせないでいる間に、李は死んでしまった。

 飯場からの逃亡者はあとを絶たなかった。厳しい監視の目を潜って逃亡しても、たいてい警察や憲兵、棒頭や犬の追っ手に捕まって連れ戻された。強制連行労働者の5分の1は逃走を図ったが、北海道の逃走成功率は全国平均の半分以下で、極めて逃走が困難である。逃亡を企てた者は見せしめのために凄まじいリンチに遭う。

「お国のための工事から逃げようなんて、太え了見だ。その根性を叩き直してやる」

 棒頭は全労働者の見守る中で、連れ戻された労働者を六角棒や鞭で殴りつけ、気を失えば水をかけ、水を一杯に入れた洗面器を捧げ持たせてコンクリート床に正座させた。姿勢を崩すと、また六角棒や鞭が飛ぶ。あまりの苦しさに自殺を図る者もあった。

 逃亡を決意した朴に、朝鮮人の強制労働者が耳打ちした。

「旭川手前の近文にあさひ屋食堂といううどん屋がある。そこは夕張炭鉱に連行された朝群人たちが結成した救援委員会の出先だ。そこへ逃げ込めば、逃走の手引きをしてくれるぞ」

 朝鮮人労働者の救援委員会があるということは密かにささやかれていたが、具体的な出先を聞いたのは初めてである。仲がよかった李に死なれて、朴は逃亡の意志を固めた。この飯場から逃亡に成功した者はほとんどいない。

 飯場の監視に油断はなかった。脱走の機会をつかめぬまま、朴に過酷な日々がつづいた。

 起床は夏が午前5時、冬は5時半、食事は常に下飯台で立ったまま。6時ごろから日没まで重労働を強いられ、夜は垢と脂でてかてかに光る、綿が団子のように固まったせんべい蒲団にくるまって眠る。いつも腹をへらし、番犬の飯を盗み食いした。

 冬は寒さに耐えられず、労働者同士で衣服を盗み合った。稀に許される入浴も、衣服を盗まれるので入らない。枕にする四寸角の木材も暖をとるために燃やしてしまい、枕なしで眠る。人間性を無視した最底辺の環境でも、労働者は生きていた。

 ようやく長い冬が終わって、北辺に短い春が訪れると、労働者はほっと一息つく。ともかく寒気という最強の敵から逃れた。

 だが、春から夏にかけては逃亡が多くなるので、監視も厳しくなる。逃げるとすれば冬季以外にはなかった。凍死は免れたものの、また次の冬がくるまで自由は遠ざかる。

 現場で作業開始に際して、棒頭から言い含められた上飯台が立ち、

「シャツを脱げ。ズボンを取れ」

 と命じて、褌1本でしばらく働いた後、

「褌を取れ」

 と号令が下る。全裸の異様な男の集団がスコップを振るい、土を運ぶ。疲れてくると、棒頭の合図によって、

「気合いを出せ」

 と号令がかかる。労働者たちは一斉に、えいえいえいと掛け声を発する。全裸ならば逃亡できない。人間性を無視した牛馬に劣る労働であった。

 異様な労働者の集団が泥塗れになって働いているかたわらを、若い女子作業員が通り過ぎて行くことがあった。近くの女学校から動員された女子奉仕隊である。若い娘の群は面を伏せて、強制労働者の方を見ないようにして通り過ぎて行ったが、朴にとっては全身が震えるような屈辱であった。

日が没して飯場へ帰る途中、数人の動員女子奉仕隊が歩いていた。

 まったく女っ気のないタコ部屋労働で、若い女性と遭遇して、労働者たちの心は久し振りに和んだ。南京袋ながら、いまは衣服を身に着けている。緑濃い山のかなたにまだ夕映えが残り、湖の方角から涼しい風が吹いてきている。

 そのとき前を歩く娘たちが新聞紙の包みを落として行った。なにかとおもって棒頭の目を潜って拾い上げた朴たちが、新聞紙を開いてみると、中から握り飯が出てきた。朴たちが夕闇の中に遠ざかる娘たちの一群に、感謝の意をこめて手を振ると、娘たちも手を振って応えた。

 そんなことがあってから、娘たちはときどき新聞紙に包んだ握り飯を落として行ってくれた。言葉こそ交わさなかったが、強制労働者と若い娘たちの淡い交流であった。

 強制労働者にまた恐ろしい冬がめぐってきた。女子奉仕隊も帰ってしまった。山は雪に覆われ、ダムにせき止められて出現した湖が氷結した。だが、朴にとっては待ち望んでいた冬であった。

 朴は春から秋にかけて逃走路を充分に研究していた。

 まず、南方の深川の方へ逃げる。追っ手を躱すために道路は避け、山を越えて行く。雪中の厳しい山越えとなるが、朴は体力には自信があった。安全圏にたどり着いたところで列車に乗る。深川まで行けば成功の確率は高くなる。

 朴は脱走に備えて、密かに食糧を溜めた。飯や握り飯を少しずつ残して団子をつくり、雪の中に隠しておいた。食糧は約3日分備蓄した。

 飯場に送り込まれてから爪に火を灯すようにして25円はど貯めた。このころは上野・青森間が7円25銭であるから、列車に乗りさえすれば交通費は充分である。

 南京袋の作業衣ではすぐ露見してしまうので、飯場に送り込まれて来たとき着てきた私服を、この日のために隠し持っていた。

 朴は脱走に備えて、棒頭や取締人に気に入られるように従順に、熱心に働いた。日本語も自由に操れるので、彼は棒頭や取締人の信頼を得ていた。

 若いながら上飯台に昇格した。鬼棒頭も朴には心を許し、上飯台の上の模範台への昇格をほのめかした。

 模範台になれば食事内容も幹部並みになる。平土工夫のように泥に塗れてスコップを振るい、もっこを担ぐこともない。入浴や洗面も頻繁に許される。なによりも監視の目が緩む。棒頭や取締人も、まさか模範台侯補者が脱走の機会を狙っているとはおもわない。そこがつけ目であった。

 冬は監視が緩むといっても、厳寒期は無理である。山に雪は残っていても、気温の緩む3月下旬から4月上旬にかけてが狙い目である。このころになると、厳寒期のような凄まじい風雪はなくなる。

 4月5日の夜、飯場が寝静まったのを待って、朴は便所へ行くふりをして、便所の窓から宿舎を抜け出した。便所の窓の格子を1本、用便の都度緩めておいた。外から見ただけではわからないが、はずせるようにしておいた。抜け出した後、格子は元どおりにはめた。

 最も恐ろしいのは犬であるが、平素から犬を手なずけておいた。番犬も朴が手を出すと舐めるまでに懐いている。

 首尾よく宿舎を抜け出した朴は、雪明かりを頼りに山中へ入った。途中まで雪の解けた道を歩き、足跡をたどれないようにする。これまでの経験からこの天気が2、3日つづくことを知っている。

月はないが、雪明かりで充分明るい。

 おそらく明日の朝の起床時間までは時間を稼げるであろう。その間にできるだけ遠方まで距離を稼ぐ。もし脱走に失敗すれば、尋常のリンチではすまないだろう。鬼頭が信頼していただけに、裏切られた怒りがどんなものか、描まったら命はないものと覚悟しなければならない。

 朴は歩きに歩いた。私服の上にジュート麻の作業衣を重ね着していた。零下に冷え込んでいるにもかかわらず汗にまみれるほどであった。

 かなり距離は稼いだが、道路や集落に出るのは危険である。朴は食糧のつづくかぎり、3日間山中で過ごす覚悟であった。

 これまで飛びっちょ(逃亡者)が出ると、駐在所に通報すると同時に、作業を中止して、上板台2、3人を留守番に残して、棒頭以下、全員が捜索に出る。3日間探して見つからないと、あとは警察や憲兵に委ねて、作業へ戻るのが常であった。

 警察や憲兵は不審の者を見かければ、尋問したり捕えたりするが、積極的に捜査をするわけではない。3日間逃げ延びられれば、まずは第一関門はクリアしたことになる。

 山中を3日間歩き通して4日目に、朴は疲労でふらふらになりながら里へ出た。農家の納屋から作物を盗んで胃袋を騙し、4日目の早朝、駅の待合室に入った。ジュート麻の作業衣は山中に脱ぎ捨てたので、一般人と変わりない服装になっているが、そのぶん寒い。

 駅の待合室にはまだだれもいなかった。下りの1番列車が間もなく来る時間である。駅員が出札口のカーテンを開き、窓口に眠そうな顔を見せた。ちょうど折よく1人の老女が待合室に入って来た。朴は咄嗟におもいついて、老女に5円札を渡して、

「お婆ちゃん、悪いけど、稚内まで1枚切符を買ってくれないかな」

 と頼んだ。これまでの逃亡者のほとんどは、駅までたどり着いても札幌方面へ逃げる。朴は逃亡先を隠すために、故意に逆方向の稚内までの切符を買ってもらった。

 老女はなんの疑いも持たず、稚内までの切符を一緒に買ってくれた。

 1番列車が白い蒸気を吐きながらホームに入って来た。脱走後最も緊張する瞬間であった。車内に追手が待ち構えていたら、万事休すである。だが、追っ手らしい気配はなく、朴は無事に乗り込んだ。

 客室内にいるのは危険なので、便所に隠れていた。早朝の車内は乗客はまばらで、追っ手が来れば一発で捕まってしまう。

 幸いになにごともなく、救援委員会の出先があるという近文駅に降りた。あさひ屋食堂は駅の近くの狭い路地にあった。早朝であったが、起きている気配であった。

 朴が表のガラス戸を叩くと、戸が開かれて、若い娘が顔を出した。

「あっ、あなたは」

「あのとき握り飯の新聞包みを落としてくれた」

 顔を見合わせた2人は、同時に声を発した。若い娘は作業現場で出会った女子奉仕隊員の1人であった。

 娘は朴を見て、直ちに事情を察したらしく、周囲に目を配ると、家の中に招き入れた。彼女の両親もすでに起きていて、飢えて冷えきっている朴のために、温かいうどんをつくってくれた。

 肉と野菜をたっぷり入れた熱いうどんを、朴はつづけて3杯おかわりした。朴は生まれてからこんなにうまい食物を食したことがなかった。細胞の1つ1つに沁み渡っていくような味であった。

「ゆっくり食べなさい。まだいくらでもあるよ」

 娘の父親が言った。

 ようやく人心地ついた朴に、娘の父親は、

「私はこの娘の母親と結婚して、日本人の名前を名乗っていますが、じつは徐東雲という朝鮮全羅

南道の出身者です。妻は清美、娘は朝子と申します」

 と徐東雲は自己紹介を兼ねて、妻と娘を朴に引き合わせた。

「申し遅れてすみません。私は朴命水と申します。両親と一緒に横浜に住んでいましたが、人買いに騙されて雨竜ダムの飯場に送り込まれました。飯場で仲間から密かに救援委員会のことを聞いて、逃げてまいりました。お嬢さんと飯場近くの路上で出会って、握り飯を何度かもらいました」

「ここへ来たからには、もう安心です。安全なところへ逃がしてあげますから、うちでゆっくりと疲れを癒やしていってください」

 と徐はいたわるように言った。

 地獄の飯場から決死の雪中脱走を試みて、ようやく救援委員会の徐の許にたどり着いた朴は、ほっとすると同時に緊張が解け、これまでの疲労がどっと発した。彼はそれから死んだように眠った。

ときどき朝子に起こされて食事を摂ったが、また昏々と眠り込んだ。

 2、3日眠ったかとおもわれたところで、朴は激しく揺り起こされた。

「朴さん、すぐ逃げてください。どうやらうちが目をつけられたらしいの。朴さんが捕まったら命はないわ。警察が来る前に、これを持って逃げて。ひとまず北竜の本島組の現場を頼って。本島組の親方は救援委員会の1人よ」

 と朝子は慌しく告げて、握り飯の包みといくばくかの金を渡した。

「金はあるよ。それより、朝子さんやお父さんはどうなるの」

「私たちのことは心配しないで。お金はいくらあっても邪鹿にならないわ。さあ、早く行って」

 そこへ徐東雲が来た。

「朴さん、すまないね。もう少しうちで休ませてあげたかったが、ここも安全ではなくなった。どうやら協和会に嗅ぎつけられたらしい。本島組を頼れば大丈夫だ」

 と徐東雲は言った。

 朴は事態の深刻なことを悟った。もし朴がこの家で捕まれば、徐東雲一家は言い逃れができなくなる。救援委員会は貴重な拠点を1つ失ってしまう。

「お世話になりました。このご恩は一生忘れません」

「礼などいいから、早く行きなさい。協和会にはくれぐれも気をつけなさい」

 協和会とは、朝群人でありながら同胞をタコ部屋に売っている人狩り屋である。

「元気でね」

 朝子が言った。

「また機会があれば、お会いしたいとおもいます」

「朴さん、絶対捕まらないでね」

 朝子がすがりつくように言った。

「捕まるもんか。またきっと会いに来るよ。この戦争は間もなく終わる。それまで皆さんも元気で」

「待ってるわ」

 朴は徐東雲一家3人に見送られて、あさひ屋食堂を去った。

 間一髪で協和会に先導された警官隊があさひ屋食堂に踏み込んで来た。

 そして50数年が経過した。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~mo0405/s/16.htm

▲△▽▼

野添憲治  地崎組東川事業場――北海道上川郡東川町・東旭川町・東神楽町
2007年10月27日

北海道の大雪山の麓には、入植者たちが労苦を重ねて開拓した広大な水田がひろがっている。だが、上川郡東川町・東旭川町・東神楽町の約八〇〇〇ヘクタールの水田は、灌漑の源流忠別川が北海道の屋根といわれる大雪山の雪溶け水や岩清水を集めて流れ下るので、「水流は火山帯・函廊下・峡谷を奔流する急流のため、温度の上昇する区間がなく、ほとんど地下水融雪水そのままの低温を持続して流下する(略)ため、水温上昇を阻止している有様であった。したがって冷害による深刻な凶作の経験をなめてきた」(『東川村史』)立地条件のところである。

こうした悪条件のなかへ、さらに忠別川の上流に江卸発電所の建設が決まり、水温の低下にいっそう拍車をかけることになった。しかも太平洋戦争のまっただなかで、農民たちは国から食糧増産を要請され、厳しい労働に明け暮れていた。

そこに発電所の建設問題が起きたため、コメがさらに減収になるのは目に見えていた。農民たちは驚き、関係官庁に陳情をはじめた。食糧不足が深刻になっていたので政府は、食糧増産のため発電所の下流に遊水池の建設を具体化し、一九四三年から地崎組東川出張所が工事を請負った。しかし、戦争で労力や資材が不足しており、新しく集めることが出来ない地崎組では、鴻ノ舞鉱山で強制労働をさせていた朝鮮人連行者を、東川・東神楽の両遊水池工事にまわした。それでも労力が大幅に不足し、翌年までに遊水池を完成させるメドがつかないため、中国人連行者を三〇〇人導入する契約をした。

第一次連行は一九四四年九月に二九七人が塘沽から乗船したが、船中で一六人が死亡、大阪に上陸して東川出張所に着くまでに一七人が死亡している。補充の第二次は一〇月に四一人が塘沽から乗船し、船中で一人が死亡し、四〇人が東川出張所に着いたのが二五日だった。三〇四人の中国人は、入所していた朝鮮人を移したあとの東川収容所に入所した。

「それまでは逃亡を防ぐためのへいもなかったが、高いへいが収容場所を囲い、さらにそのへいの上にはバラ線まで張りめぐらされ、窓という窓はすべてタルキをうち、監獄部屋と変わった」(『中国人強制連行事件』)。

内には鍵がかけられ、旭川警察署から来た四〜五人の特別駐在員が見張所に配置された。収容所の中の床板の上にはムシロを敷いてあるだけで、風の強い日はムシロが吹き上げられた。風の強い冬になるとムシロを通して、床板に雪が飛んでくることもしばしばだった。

中国人が東川事業場に到着した時は、北海道はもう秋であった。だが、中国人が着ているのは破れて体が見える、国防色の汚れた夏服一枚の人が多かった。栄養失調で体が浮腫になっていたり、目がへこんでいる人も相当いた。やせてふらふら歩く人もいた。大陸での収容所生活と長期の輸送の疲れが、体全体をおおっていた。

遊水池づくりの作業は、スコップ、ツルハシで平地を二メートル掘り下げた。土や石はモッコに入れ、二人でかつぎ上げた。土を掘るのも、モッコをかつぐのも重労働だった。疲れているうえにろくな食事もとっていないので、ちょっと休んだり、モッコをかついで転んだりすると、八番線ぐらいの太い針金で殴りつけた。

遊水池を掘る工事のほかに、池に水を出し入れする入水溝と排水溝をつくる仕事もあった。土が崩れないように斜面に蛇籠を並べたが、蛇籠につめる石は忠別川に入って集めた。すでに冬が訪れ積雪も深くなった季節に、ワラで編んだワラジで川に入り、素手で石を拾って川岸に運んだ。寒さで手がしびれ、石を落としたりした。中国人の五人がひと組になり、日本人指導員や警察の監視のもとで働いた。石をそりに積んで運び蛇籠につめたが、全身水びたしになって震えながら働いた。

冬は寒さが厳しいうえに重労働で、しかも食糧が少ないので、次々と死んでいった。少しでも生きのびようと、逃走する人が多くでた。六人が集団逃走した時は、地崎組の幹部や警察、村の警防団も駆り出されて翌日に捕らわれた。宿舎の庭に座らされ、「警官が彼らの首をしめて仮死させる。するとカツを入れて蘇生させるのだった。これが何回となく繰り返された。六人共青い鼻汁を出して死んだようになっていた」(佐藤幸子)と目撃した人は語っている。十代の時のことを思い出すと、いまも胸がつまって涙がこぼれるという。

二回にわたって塘沽から乗船した中国人連行者は、船中で一六人、上陸後に東川事業場に着くまでに一八人、事業場では中国へ送還されるまでに五四人の総計八八人が死亡した。事業場死亡者の大部分の死亡原因は「栄養不良兼胃腸カタル」で、事故死はいない。事業場での死亡者は火葬のうえ、法城寺に保管したことになっていた。ところがこの遺骨は一九五三年に慰霊祭

ののち、中国へ送還することになった。在道華僑連合会で遺骨の有無を確かめたところ、寺からは預ってないと回答があった。しかし、地崎組ではトラックで八八の遺骨を札幌駅に運び、そのまま列車と船に積まれて中国に渡った。ところが翌年に五体の遺骨と多数の残骨や遺品が工事現場の裏山で発掘され、前年に送還した遺骨はニセ物の疑いがでた。この問題を国会に持ち出す動きもあったが、円満裏に解決する方向に向かい、中国紅十字会に陳謝のうえ、発掘した遺骨は送還され、ニセ物問題は明らかにされなかった。

中国人・朝鮮人を酷使し、多くの生命を奪って造った遊水池の用水で、いま豊かな農業を営んでいる。だが、『東川村史』『東旭川町史』『東神楽村開基六〇年史』『上川開発史』などの関係史誌には、この事実が全く書かれていない。
http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=2843&syosekino=52
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/109.html#c2

コメント [近代史6] 徴用工の待遇は本当に良かったのか? 中川隆
3. 中川隆[-16017] koaQ7Jey 2021年7月27日 16:41:50 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[6]
花岡事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
花岡事件(はなおかじけん)は、1945年6月30日に秋田県北秋田郡花岡町(現・大館市)の花岡鉱山で中国人労務者が蜂起し、日本人を殺害し、その後鎮圧された事件[1]。戦後、過酷な労働環境について損害賠償請求裁判が提訴された。


日中戦争の長期化と太平洋戦争の開始にともない、日本国内の労働力不足は深刻化し、政府は産業界の要請を受け、1942年(昭和17年)11月27日に「国民動員計画」の「重筋労働部門」の労働力として中国人を内地移入させることを定めた「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定した[2]。試験移入を行なった後、「一九四四年国家動員計画需要数」に捕虜を含む中国人労務者3万人の動員計画が盛り込まれた。

鉱山労働力が不足した戦争末期には、花岡川の改修工事などを請負った鹿島組により1944年7月以降に現地移入した中国人は986人に上り、1945年6月までにうち137人が死亡した。中国人労働者は過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜、国民党将校耿諄の指揮のもと800人が蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。しかし7月1日、憲兵、警察、警防団の出動により、釈迦内村(現・大館市)の獅子ヶ森に籠っていた多数の労働者も捕らえられ拷問などを受け、総計419人が死亡した。死体は10日間放置された後、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で3つの大きな穴が掘られ、埋められた。この後も状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が死亡した[3]。終戦後の10月7日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れた際、棺桶から手足がはみ出ている中国人の死体を発見した。外務省管理局は『華人労務者就労事情調査報告』において、死因については彼等の虚弱体質などによるものとして、過酷な労働条件が死因ではないと主張しているが、終戦後に彼等を手当てした高橋実医師によれば、彼等が帰国するまでの約2か月の間、一人の死者も出なかったという[4]。

1946年9月11日の秋田裁判判決では蜂起を指導した事件の首謀者に有罪判決が下されたが、アメリカ軍による横浜軍事裁判では、第七分所(秋田県花岡 藤田組花岡鉱業所)から11名が裁判にかけられ、1948年3月1日に鹿島組関係者の4名と大館警察署の2名の計6名に有罪判決が下され、そのうち鹿島組の3名が絞首刑の判決を受けた後、終身刑等へ減刑されている。

損害賠償訴訟とその後

1985年8月、当時、蜂起を指導した事件の首謀者である耿諄は、外信を紹介する『参考消息』で、花岡事件40周年の慰霊祭が行われたことを知った。その後耿は来日したが、当時の鹿島組(現鹿島建設)が「一切の責任はない、中国労工は募集によって来た契約労働者である、賃金は毎月支給した、遺族に救済金も出している、国際BC級裁判は間違った裁判である」と主張していることを知り、鹿島と再び闘う意志を持った。1989年、耿は公開書簡として、鹿島に以下の要求を行った。

・鹿島が心から謝罪すること

・鹿島が大館と北京に「花岡殉難烈士記念館」を設立し、後世の教育施設とすること

・受難者に対するしかるべき賠償をすること


1990年1月より、新美隆、田中宏、華僑の林伯耀を代理人として、鹿島との交渉が始まった。7月5日の共同発表[5]では、鹿島が花岡事件は強制連行・労働に起因する歴史的事実として認め、「企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」と明記された。

しかし、鹿島はその後、

・「謝罪」は「遺憾」の意味である(残念に思うが、謝る気はないという意味)。

・記念館の設立は絶対に認めない。

・賠償は認められない、供養料として1億円以下を出すことはあり得る。日中共同声明で中国側の賠償請求権は放棄されている。


と主張し、実質的には責任はないという見解を示した。1995年耿諄ら11名は、中国政府が個人による賠償請求を「阻止も干渉もしない」と容認姿勢を見せたことから、鹿島に損害賠償を求めて提訴した(弁護団長:新美隆)。要求内容は、耿が最初に要求した三条件であった。

耿諄らは中国におり、また高齢であることから頻繁な来日出廷は困難だったので、実際は新美、田中、林が原告の主導権を握った。1997年、東京地方裁判所は訴追期間の20年を経過しており、時効であるとして訴えを棄却した。原告は東京高等裁判所に控訴したが、原告となった元作業員らの証人尋問は行われず、新村正人裁判長は和解を勧告した。

和解

2000年11月29日に東京高裁で和解が成立。被告の鹿島側が5億円を「花岡平和友好基金」として積み立て救済することで決着が図られた。和解の内容は、以下の通りである。

1.当事者双方は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認する。ただし、被控訴人(被告。鹿島のこと)は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了承した。

2.鹿島は問題解決のため、利害関係人中国紅十字会に5億円を信託し、中国紅十字会は利害関係人として和解に参加する。

3.信託金は、日中友好の観点に立ち、花岡鉱山現場受難者の慰霊及び追悼、受難者及び遺族らの生活支援、日中の歴史研究その他の活動経費に充てる。

4.和解は、花岡事件について全ての未解決問題の解決を図るものである。受難者や遺族らは、今後国内外において一切の請求権を放棄する。原告以外の第三者より、鹿島へ花岡事件に関して賠償請求が行われた場合、中国紅十字会と原告は、責任を持って解決し、鹿島に何らの負担をさせないことを約束する。


この和解は、成立直後から日本の戦後補償を実現していく上で「画期的」なものとする報道が多かったが、野田正彰の取材によれば、この和解は弁護団側の独断によるもので、原告の本意ではなかったという。耿は、鹿島の謝罪を絶対条件とし、記念館の建設も希望、賠償額は譲歩してもよいと、田中らに意見した。耿は、和解の受け入れを迫る新美らに、負けても損害はないことを確認した上で「和解を受け入れなければ負けるというなら負けよう、負けても妥協せず、踏みとどまるならば道義的には勝利したことになり、百年後(暗に死後を意味する)も彼等の罪業を暴く権利がある」と意見し、和解には同意しないが黙認するという態度を取った。

しかし、新美らは和解を急ぎ、鹿島の出す金は賠償金ではないことも法的責任を認めないことも伏せ、和解の正文は伝えられなかった。耿は和解の内容を知ると「騙された」と怒り、耿など原告・遺族の一部は「献金」の受け取りを断ったという。また、2001年8月には「屈辱的和解」に反対する声明を出した。耿にとってこの結果は全面敗訴に他ならず、その上謝罪のない金を受け取ることは侮辱でしかなかったのである。

野田がこのことを毎日新聞[6]に寄稿すると、田中と林は野田に会いたいと人を介して伝え、会談した。田中は「直前に北京に出向いて骨子を示し、耿諄さんらの了承を得た」と主張し、林も「耿諄はすっかり英雄になったつもりでいる」と耿を批判した。さらに「耿諄は中山寮で人を殺しており、苦しんでいるはずだ」「耿諄はすっかり痴呆化しているそうだ」とも述べたという。野田は「田中らは負けて何も得られないよりも、どこかで妥協しカネを貰っていくのが幸せなのだ」と確信して疑わず、その結果原告の思いを軽視したと批判している。これらの野田の主張に対して、田中は同じく『世界』に「花岡和解の事実と経過を贈る」とする文章を寄稿し「野田は和解の基本的な事実経過について誤解しており、和解条項について原告団の了解を得ている」と反論した。

中国紅十字会に信託された補償金

その後「花岡平和友好基金」として中国紅十字会に信託された5億円は被害者本人やその遺族に支払われたが、千龍網が報じたところによると、補償金を受け取ったのは全被害者のうち半数の500人程度で、受け取った額も当初支払いが予定されていた額の半額程度だったという。中国紅十字会は基金の残高や用途について発表しておらず、中国国内では「基金の半分は中国紅十字会が自らの手数料として差し引いた」との見方もある[7]。中国紅十字会はこれを否定しているが、花岡事件を描いた著書『尊厳』の著者である李旻は「中間で巨額の資金が消え、金はどこに行ったか誰も知らない」と指摘している。


日本政府に対する訴訟

その後、花岡事件などに関連して、当時花岡鉱山などで強制労働に従事していた中国人の元労働者とその遺族らが、日本政府に対し計約7,150万円の支払いを求める訴訟を、2015年6月26日に大阪地方裁判所に起こした。同事件に絡んで日本政府を訴えるのは初のケースとなる。原告らは「中国人を拉致・連行し、強制労働に従事させた上、戦後も事実の隠蔽を続けた」と主張。また、劣悪な労働条件などが事件の背景として存在するにもかかわらず、憲兵などが拷問・弾圧を加えたとも主張している[8]。

2019年1月29日、大阪地方裁判所(酒井良介裁判長)で判決があり、請求を棄却した[9]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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花岡事件の証言
http://kisarazu.org/?page_id=62
戦時後期におきた花岡事件、日本人が知らなくてはならない昭和史の貴重な証言だと考え、抜粋して掲載しました。

著書には花岡事件に関わった人たちの戦後が書かれていますが、「本当の昭和史」編纂にあたって、なにより事件の被害者の証言に重点を置きました。

日本は本当に戦後が終わったのでしょうか?

歴史を正しく検証して、後世に伝える努力を全ての日本人に期待します。


前文省略〜

1971年9月5日、9月にはいった北海道は、すでに秋の気配が濃くなっていた。札幌市にある小さな中華料理店「北京飯店」の二階の一室に差し込んでくる暮れ時の陽にも、秋のおとずれがひそんでいた。

 この日の朝から、李振平・林樹森・劉智渠さんの三人から、わたしは話を聞いていた。三人とも太平洋戦争中の1944年に中国で日本軍に捕えられ、日本に強制連行されて秋田県の花岡鉱山で働かされたが、敗戦後は花岡事件の裁判の証人として日本に残され、そのまま日本に永住している人たちであった。花岡事件の起きた秋田県に生まれ、十年ほど前から強制連行されてきた中国人や花岡事件を調べてきたわたしは、その生き残りである三人をようやくの思いで探しあてて、林さんのお店の一室で話を聞いていた。

 振平さんも樹森さんも智渠さんも、温和な、礼義の正しい人たちであった。たどたどしい日本語で、二十数年前の記憶をさぐりながら話してくれた。しかし、次第に話が進んで花岡鉱山での強制労働に移り、日本人の補導員にささいなことから殴られ、蹴られて、仲間たちが次々と死んでいく場面になると、三人の目に涙がひかり、こぶしでテーブルを叩きながら語りつづけた。口調が激しくなってくると、中国の言葉になったが、語りつづける三人には聞き取りをしているわたしのことは眼中になくなり、二十数年前のいまわしい記憶をえぐり出してくるように語りつづけた。

 三人の話の一つ一つが、日本や日本人に突きつけている戦争責任の刃であった。わたしは三人の話の重さをからだで感じながら、ふと、二十数年前の一つの記憶を思い出していた。

 三人が強制連行されてきた花岡鉱山と同じ秋田県北の小さな村に、わたしは1935年に生まれた。太平洋戦争がはじまった1941年に国民学校へ入学し、敗戦の年は五年生であった。田植が終わってまもないある日、中国人の俘虜たちが花岡鉱山で暴動を起こして、わたしの村の山奥にも逃げてきたという話が、村中に伝えられた。花岡鉱山とわたしの村との間には、幾重にも重なった山と深い谷とがあるのに、それを越えて逃げてきたのだった。逃亡してきた俘虜たちは、山菜取りに行った娘を焼いて食ったとか、山奥の農家から牛や馬などを盗んで食っているという話も伝わり、村の人びとは恐怖にふるえあがった。

 日中は村中の男たちが動員されて、カマや竹ヤリなどを持って山狩りに歩き、夜になると山から集落に通じている道々にたき火をして夜警がついた。家々では竹ヤリを何本もつくり、食事の時は障子に立て、野良仕事に出る時は持って歩いた。寝る時は枕元に竹ヤリやナタなどを置き、いざという時にはいつでも手に持てるようにした。暗くなると外出する人もなく、空襲に備えて薄暗くした電灯の下に集まり、息を殺したようにひっそりとしながら夜を過ごした。

 こうして恐怖の日が三日ほどすぎて、山奥の炭焼き小屋にひそんでいた二人の俘虜が捕えられた。その晩は竹ヤリもナタも土間に置かれ、村中は喜びに湧いた。

 その翌日、捕えた俘虜を見に来いという知らせが役場からきたので、わたしの分校でも五年生以上の児童が、六キロも離れた本村まで見に行った。役場前の焼けつくような土の上に坐らされている中国人は、大勢の人が囲んでいるのでよく見えなかった。じりじりと照りつける太陽の下で、両手をうしろにして縛られている裸の上半身が、人垣が揺れるたびに見えた。かつかつガツガツに痩せたからだをおおっている肌の色は、人の肌には見えないほど汚れていた。

 「チャンコロのバカヤロー」
 「ぶっ殺してしまエー」

 周囲の人垣から、さかんに罵声がとんでいた。中国人は日本の敵であり、日本人を殺して食った鬼のような人間だということを頭から信じていたわたしたちは、先生の号令に合わせて、「チャンコロの人殺し」と叫びながら、中国人を囲んでいる人垣の外を、何度も何度も廻った……。

激した口調で語っている三人の前で、二十数年前の記憶を思い出しながら、「わたしも加害者だったのだ」と、胸が痛んだ。三人のそばにいることが耐えられなくなり、部屋からとび出していきたい衝動にかられた。「お前は聞き取りという第三者みたいなことをやっているが、それでいいと思っているのか」と、自身を責め立てられてならなかった。 

この日の一日にわたる聞き取りのあとも、聞き洩らした部分や不足な点を聞くために、何ども札幌に三人を訪ねた。この間に日中国交回復も行われたが、その時の三人の喜びようはたいへんなものであった。

しかし、それと同時に、中国での日本軍の戦争処理はもちろんのこと、日本国内での戦争処理にも頬っかむりをつづけている政府に対する三人の怒りは、非常に強かった。国と国との国交は回復したが、それを支える一人ひとりの両国民のつながりが回復する根になるのは、自分たちが過去に犯してきた行為に、ちゃんと後始末をつけるのが第一だという意味のことを、三人からきびしい口調で言われた。まったくそのとおりである。私は言葉もなくうなだれるよりなかった。

花岡事件が起きた大館市の人々のなかにも、「あれは戦争が生み落とした事件であり、いまさらそんなことを掘り出してなんになる」という空気が非常に強い。私はここ十年ほどの間に、何十回となく現地に足を運んできたが、この事件に取り組んだ当初も現在も、その空気はほとんど変わっていない。むしろ、この傾向が強くさえなってきている。というのは、なんらかの形で中国人の強制労働や花岡事件に関係のあった人たちが、地元の政界や実業界などのトップに立っている人が多くなっているために、「臭いものには蓋」式になっているのである。また、あの忌わしい事件には触れたくないと思っている人や、秋田県の恥だと考えている人も多く、わたしも直接に、あるいは間接に、「花岡事件をいじくりまわしていると、君の将来にとってプラスにならない」と、何度も注意された。

この著の中心をなしている三人の話は、三人の生き方の強さ、戦争のむごたらしさと同時に、わたしたち日本人に、戦争責任とは何か、人間が生きるとは何かということを、日常の生活感覚のなかで「問い」かけている。その「問われ方」は、人によってさまざまであろうが、問われたからといって、すぐに答えなくともいい。なによりもまず、三人の話の事実に「問われてほしい」という願いを込めてまとめている。

著者 野添憲治   1975年

中国人強制連行の証言記録

前文中略

東条英機内閣決定事項
昭和17年11月27日 華人労働者内地移入に関する閣議決定
昭和18年4月〜11月 華北労務者内地移入実施要項にて試験移入
昭和19年2月28日 華人労務者内地移入の促進に関する件、時間会議決定

「労工狩り」の実態

 次官会議で「華人労務者内地移入ノ促進二関スル件」が決定したことによって、中国人労務者の移入が本格化していくのだが、現地で労務者を集めるのを「労工狩り」といった。しかし、実際には、中国内で労働者を集める労工狩りは、軍部の手によって日中戦争のころから大々的におこなわれていた。とくに、北支方面軍司令官の多田駿が、1940年8月から10月にかけて八路軍との大戦で大損害を受けて首になり、1941年に岡村寧次が司令官となって、三光政策〈殺光(殺しっくす)、焼光(焼きつくす)、略光(うばいっくす)〉を実施するようになってから、いっそう苛酷をきわめるようになった。

 1941年8月下旬から9月初旬にかけて、中国華北の山東省博山西方地区で北支那方面軍一二軍の手で実行された博西作戦の労工狩りは、次のようなものであった。

真夜中の一二時、たたき起こされた私たちは、『こんどの作戦は、土百姓どもを一人残さず全部つかまえるんだ』という中隊長池田中尉の怒号のもとに、重い足を引きずりながら歩きつづけ、ようやく夜が明けたころ、風一つなく朝餉の煙が真っ直ぐに立つ、平和で静かな二百余戸の部落の近くに中隊は停止した。しばらくして分隊長松下伍長が、小隊長のところから帰ってくるなりいった。

 『オイツ、出発だ。部落にはいったら、片っぱしから老百姓(中国での農民の俗称)をとっ捕まえるんだ。いいか・・・。』というが早いか、道に半分あまり倒れている高梁の幹を、ブキブキ踏み倒し、部落に向かって歩き出した。

 分隊が部落にはいると、静かであった村が、カタカタ、ドンドン、バタクバタリ、ガチャンガチャンと、急に暴風でも来たように、一瞬にして嵐に化した」
※大木伸治「労工狩り」『三光−日本人の中国における戦争犯の告白』(光文社刊所収)

 こうして日本軍は、中国人の男を見つけるとかたっぱしから捕え、中国の東北地方や華北の鉱山、港湾荷役、軍事基地に連行して働かせていた。また、労工狩りで捕えられた中国人のなかには、初年兵の度胸試しの材料にされて、殺されていった人も多かった。

 中国での人狩り作戦は、二つの目的を持っていた。一つは、人狩りによって捕えた中国人を労務者として使う一方、奪った食糧は日本軍が現地補供として食べていた。もう一つは、日本軍の勢力の薄い地区を無人無物に近い状態にして、中国の抗戦の主体である八路軍を弱体化させる、という目的を持っていた。それだけに、1942年の閣議で中国労務者の内地移入が決められると、それを錦の御旗として労工狩りは激化していった。

 しかし、なんの罪もない中国の民衆が、暴風のような一瞬の労工狩り作戦に襲われ、夫や息子を奪われ、妻子を強姦や足蹴で痛めつけられ、食糧を持ち去られるうえに家まで焼き払われるのは、悲惨そのものであった。さきに引用した博西作戦の労工狩りは、次のようにつづいている。

 私たちは、隣の家の中を、つぎつぎと手当たりしだいにひっくりかえして見たが、ここでも、四十すぎと思われる女と、七、八歳の男の子が、隅のほうにちぢこまっていた。あせった私たちは、庭の隅まで、置いてあるものは全部放り投げた。奇麗に丸め、積み重ねた高梁を、半分あまり銃剣で突き倒していた時、私は手に異様なものを感じた。

 『おいツ、阿部、何かいるぞー』半ば後足で、おそるおそる、そっと高梁の束をかきわけた。一ツニツ三ツ目のとき、『アッ』私と阿部は後に一歩飛びさがった。そこには、日焼けした真っ黒な顔に、何か強い決心でもしているかのように、唇を噛みしめた四十歳(ぐらい)の男がうずまっていた。手に何も持っていない老百姓風と見た私は、おどろいて後にさがった姿勢をとり直すと、『コノ野良ッ。ビックリさせやがる。オイッ、阿部ッ、こいつは民兵かも知れんぞツ』と、いきなりグルグル巻きに縛りつけた。

手当たりしだいに引っ掻き回す暴行を、不安気にジッと見ていた先刻の女は、『快走々々』(早く歩け)と蹴り飛ばされ、罵倒されながら引きずられて行くこの姿を見ると、地面に頭を押しつけ、『老百姓老百姓大人々々』と声をあげて泣きながら、何か哀願している。子供は、銃剣の恐しさも忘れて、男の足にしがみついて、言葉のわからない私でも、この母子が何を訴えているのかわかった。『コンチクショウッ。こいつがこの野良を隠したんだッ。助けてくれなんてもってのほかだッ』

 私は、泥靴で女の肩から首筋を力まかせに踏みつけた。しかし、女は、『大人々々』と、何度も何度も頭をさげて泣いて哀願していたが、最後にもうどうにもならない。と見たのか、這うように家の中にはいって行くと、ボロ布に包んだ煎餅を両手で抱え、だいじそうに持ってくると、男の腰紐にくくりつけようとしがみついた。

 私たちはこれを見ると、『このあまツ、嘗めやがって。チェッ、人間並みに人の前でいちゃつきやがってツ』女の手より布包みをもぎとると、私は、『こんな本の葉っぱみたいなものを食っていやがるのかツ』と地べたに叩きつけ、軍靴で蹴り飛ばした。楊柳の葉がまじった煎餅がほうぼうに散った。子供を抱えるように、踏みつぶされた煎餅を、両手で地に伏し抱いている女の目から落ちる大きな涙は、ポタリポタリと煎餅の上に落ちている。

 『大人々々』土にまみれた煎餅を寄せ集め、哀願する女は、ジッと奥歯を噛みしめ、足にすがる子供をじっと見つめ、何か言っている男の顔を見ては、声をあげて涙を流していた。白酎の小ガメを片手に、先刻の婦人をいままで強姦していた小川が、のっそりはいって来た。

 『何をしているんだツ』キョロリとあたりを見回した。

 『ハア、こいつを連れて行こうとしたら、しがみついて離れないんです』私は、子供を殴りつけながら小川に言った。

 『馬鹿野良ッ。大の男が二人もかかって何をしているんだッ。手前ら嘗められているんだッ。そのガキも連れて行けッ。背のうぐらいはかつげるだろう』

 男にしがみついている子供の襟首を、わし掴みに表に引きずり出した。

 『大人々々、小孫(子供)、老百姓』と、気が狂ったように女は絶叫して、子供の足にしがみつこうとした。

 『ええい。うるさいアマだッ』私は阿部といっしょに女の横腹を銃床でドーンと突きあげた。

 こうして部落の隅々から、畑の中から荒らしまわった私たちは、十二時すぎ、部落の一角に中隊が集合した。腰の曲がった老人から子供まで150余名の老百姓が、取り囲んだ銃剣の中に坐らせられている」(大木伸治「労工狩り」『三光』)

 このような労工狩りは、日本の軍隊の手で中国のあらゆる所でくり返されていた。そのなかでもとくに労工狩りがひどかったのは、1942年9月から12月にかけて山東省でおこなわれた二一軍作戦であった。この時は大包囲作戦(うさぎ狩り作戦とも言った)という戦法をとり、包囲の網をだんだんと縮めていき、そのなかにいるものは敵兵であろうと住民であろうと、全部を捕虜にするというものだった。このうさぎ狩り作戦は、次のようにして実施された。

 「その作戦には、中国には真鐘の洗面器が多いのですが、その洗面器を持って、兵隊の銃を肩にかついで洗面器を叩いて歩き、それで海岸線や鉄道沿線に向って押したわけです。洗面器を叩いて一里歩くところもあるし、二里のところもあるし、それで部隊のぽうぽうで火が燃えるわけですよ。部落から部落をずっと押して行って、一八歳から四五歳までの男を全部集める。それと山羊、牛、豚、真鐘類を全部集めるわけです。部落民にそれを全部持たして一定の地域に集合させるわけです。

 そこに軍のトラックがきて、山羊は山羊、真鐘は真鐘、人員は人員でまと砂て連れていくのです。つまり戦闘が目的ではなく、物資掠奪と人員の徴発が目的なんです。これを10月から12月の末まで二ヵ月やったわけです。その集めた人はどうなったかというと、青島に相当大きい体育場があるわけですが、集めた男を収容したんです。しかし、そこに入りきれないで、第一公園の競馬場に入れたわけです。その数は何千だか何万だかわからんのです。それが青島から船でどっちに行ったのかわからないのですよ。花岡鉱山で中国人の捕虜が死んだということをきいたんですが、その人達は実際は捕虜じやないわけですよ。実際は捕虜でもなければ八路軍でもない農民ですよ」(大野貞美「真相」1958年6月号)

その後も日本軍は、「一九秋山東作戦」(昭和一九年秋山東省での作戦の意味)、「二〇春山東作戦」を次々とおこなって、大々的な労工狩りをしていった。逃げる者や反抗する者は射殺するように命令されていたので、収容所に引致される前に殺害された人も多かった。次の証言もそのことをよく示している。

 うさぎ狩りで捕えられた中国人はうしろ手に縛られ、「われわれの自動車隊のトラックによって運ばれた。まがり角やなにかの所で、トラックの速度がにぶると、彼らのうちのあるものは脱走を企てた。だが、彼らがトラックからとびおりてかけだせば、すぐトラックの上から日本車の機関銃や小銃にねらいうちされ、死んでいった」(元独立自動車第六四大隊の一下士官の証言)

 こうして狩り集められた中国人は、青島捕虜収容所をはじめ、済南・石門・大同・北京・郁鄙・徐州・塘浩の収容所に集められた。このうち青島と塘活は日本への乗船地なので、他の収容所にいれられた人たちも、日本に連行される時はこの二つのどれかに集結された。どれも北支那方面軍が直接に管理する収容所で、所長には軍人がなり、門には日本軍の衛兵所があり、着剣した兵隊が守っていた。収容所の周囲は電流を通じた鉄条網で囲んであるほか、さらにトーチカで囲み、二人の兵隊が絶えず巡回していた。運よく生きたまま収容所にいれられても、日本車に捕えられた瞬間から、中国人の生命はないも同様であった。しかも、その捕虜収容所の生活がまた、たいへんなものであった。

当時、第五九師団の陸軍伍長だった五十嵐基久は、済南捕虜収容所の模様を次のように証言している。

 「収容所の中には土間にアンペラがしいてあり、捕虜にされた中国人たちはそこに寝おきしていた。寝具はなく、暖房も全くなかった。中国人の医者と称する者がいたが、病気になっても、殆どほうっておいた。

伝染病らしくなれば病舎という物置小屋のようなところに隔離した。死ねば穴に投ぜられた。中国人たちを収容所の外に出すようなことはほとんどなかった」また、日鉄鉱業釜石鉱業所の出張員が中国人を連行してくるために青島収容所に行った時の模様を、「バラック建てで40〜50坪のところに700〜800名をおしこみ、暖、冷の処置なく疲労と寒気のため病人続出、その中より死亡者多数が出ていた」と語っている。50坪の小屋に800人が収容されていると、どんなにすくなく見ても一坪に16である。すし詰めにしないと、収容できるものではない。

 捕虜収容所に集められた中国人は、日本へ連行される直前に、財団法人華北労工協会・日華労務協会・国民政府機関・華北運輸公司・福日華工会社などの、強制連行を代行している統制機関に渡された。そのあと日本政府は、厚生省が指定した全国135事業所とのあいだに、「供出」と「使用」の契約書をとりかわしている。中国から乗船した数は3万8935人だが、「外務省報告書」によると、死亡者は次のようになっている。

 日本に上陸するまでの船内で564人が死亡し、さらに上陸後に、135事業所へ到着するまでのあいだに、248入が死亡している。各事業所に到着したのは3万8213人であった。連行される途中でもいかにひどい取扱いをしたかは、死亡したこの数字からだけでも知ることができる。

 しかも、どうにか各地の事業所に到着することができた中国人たちも、日本の企業や日本人の残虐非道な扱いのなかで、次々と犠牲となっていった。敗戦後の1945年12月7日に集団送還がされるまでに、事業場内死亡5,999人、集団送還後死亡19人の合計6,830人もの中国人が殺されている。乗船した総数3万8,935人にたいし6,830人が死亡しており、死亡者の比率は17・5%にあたる。しかも、そのうちの4,000柱近い遺骨がまだ日本全土に散らばっているほか、約500入を越すと推定されている日本に
残った中国人は、いま、各地でひっそりとこの世に生きていると見られている。

 これが中国人強制連行のあらましだが、中国人労務者を導入した135事業所のなかでも、秋田県北にある同和鉱業花岡鉱業所の工事を請負っていた、鹿島組(現在の鹿島建設)花岡出張所に連行されてきた中国人の死亡者がとびぬけて多いのである。三回にわたって花岡鉱山に連行されてきた986人のうち、死亡者が418入と、他の事業所に比べると、比較にならないほどの高率なのである。もう一つは、3万8,935人の中国人を連行して、6,830人も死亡させながら、不充分な形でも敗戦後に裁きがおこなわれたのは、花岡鉱山の鹿島組関係者だけだったことである。花岡鉱山でだけなぜ裁判が実施されたのかであるが、日本が敗戦となる約一ヵ月半ほど前の1945年6月30日の夜に、あまりにも少ない食糧や補導員たちの虐待に中国人が蜂起したからであった。蜂起の後処理が残虐をきわめ、数日間のうちに100人近い死亡者を出
したほか、蜂起の指導者たち13人は秋田市の監獄に押送され、国防保安法第十六条による戦時騒擾殺人罪で、無期懲役などの判決を受けたのだった。

 だが、敗戦後に日本へ駐留した米軍によって、今度は花岡鉱山の鹿島組関係者が逮捕され、米第八軍軍事法廷は、三人の補導員に絞首刑、鹿島組花岡出張所長に終身刑、大館警察署長と巡査部長には重労働二十年の判決を下した。だが、1953年頃にどの人も仮出所して責任はあいまいになったほか、連合軍裁判では、もっとも責任が重いはずの鹿島組社長をはじめとする日本建設工業会に所属する各社の最高責任者、華北労工協会などの労務統制機関の責任者、鹿島組の労務員、蜂起して山の中に逃げこんだ中国人を竹ヤリなどで殺した在郷軍人・青年団員・警防団員などは、裁判からはずされてその責任を問われることがなかったのである。

 花岡鉱山に連行された中国人の中から、裁判の証人として23人が送還されずに日本へ残された。しかし、裁判が終っても中国に帰らずに、そのまま日本にとどまった方が4人いる。北海道の札幌市にいる李振平(旧李光栄)・林樹森(旧劉当路)・劉智渠(旧劉沢)の三氏と、大阪にいる宮耀光氏の四氏であったが、1973年9月に林樹森氏が亡くなっているので、現存者は三氏である。 

    この記録は、宮氏を除いた三氏からの聞き書きが主体となってつくられている。

中国から花岡鉱山へ

「戦争と花岡鉱山」

 花岡鉱山は秋田と青森の県境にひろがる鉱山地帯にある、中規模のヤマでみる・この鉱山がその姿をあらわしたのは、他の鉱山にくらべると遅く、1885年に地元の人によって発見されてからだった。その後、鉱主も何度かかわったり、採掘が中止になったり、また再開されるという歴史を繰り返して、1915年に合名会社藤田組に経営が移った。その翌年から新しい鉱床が続々と発見されて大鉱山に成長し、1944年には花岡鉱業所として独立している。

 花岡鉱山は鉄道から距離的に近いうえに、良質の銅・鉛・亜鉛などを産出するので、採算のとれる鉱山として知られていたが、日中戦争がはじまったころから、軍需産業として生産が拡大されていった。太平洋戦争に突入すると、いっそう大幅な生産が要求されるようになり、1942年には花岡鉱山そのものが軍需工場に指定されて、月産3万トンから5万トンの生産が義務づけられ、増産につぐ増産がつづけられていった。

 だが、設備の不備、機械の不足、施設の老朽化などによって、産出量はなかなか伸びなかった。しかし、生産目標の達成は軍部からの至上命令であり、それがまた企業の利益とも結びついていたため、目標達成のために大量の人力を投入しなければならなかった。花岡鉱業所に残されている資料によると、鉱山の稼働員数は戦争が激化してくるにつれて、表1(下の「花岡鉱業所稼働工程表図」にも見られるように増大していった。とくに、最大の労働力を擁した1944年前後には、1万3,000人もの稼働人員を数えることができた。


◆その当時の稼働人員の内訳をみると、次のようになっている。

直轄人4,500人
朝鮮人4,500人(延べ人員)
徴用工
 挺身隊300〜400人
 勤奉隊300〜400人
 学徒隊300人
俘虜米人(英豪人含む)300人(最大の時は480人)
華人徴用工(東亜寮)298
諸負業者人夫 1,500人

となっている。鉱山労働者以外の人たちが、いかに多く鉱山労働に狩り出されていたかがわかる。

 さらに戦争が激化してくるにつれて、鉱山労働者も兵役につくようになったほか、怪我や病気などで入坑できなくなった坑夫の補充ができないために、労働力不足はいっそう深刻になっていった。そのため、徴用工の名目で国内から
狩りだされた寡婦・娘・少年たちまでが鉱山に動員され、15歳前後の少年たちや、20歳前後の娘たちまでが、坑内での地下労働を強制されるようになった。花岡鉱山ではこのように労需に追われて生産をあげるという形で、厖大な利益を確保している鉱山経営からすると、日本人も朝鮮人も働く道具の一つにすぎないことを、この事実は語っている。

 七ツ館事件後も、花岡鉱山では乱掘をつづけたが、いくつかの坑道の上を流れている花岡川の流れを変更しないと、七ツ館坑以外でもいつまた陥落が発生し、落盤や浸水などによって、発掘が中止されかねない事態になっていた。この危険を取りのぞくには、花岡川の流れを大幅に変更する必要があり、鉱山では水路変更計画を立案した。しかし、この水路変更の工事が火急を要することはわかっていても、増産に追われるだけで精一杯の花岡鉱山の手では、工事をおこなうのはムリな状態であった。そこで、鉱山採掘の一部を請負っている鹿島組に、この水路変更の工事を請負わせることになったが、鹿島組にしても新規の工事に労務者を集めてくることは不可能であった。この時に鹿島組で目をつけたのが、日本への連行が本決まりになった中国人労務者を使用することだった。

 鹿島組花岡出張所が、敗戦後に外務省へ提出した「華人労務者就労顛末報告」のなかで、その経過を次のように説明している。

 「工事を緊急きわまる短期間内に完成しようとしたため、大量の労務者を必要とし、その獲得に努力したが、時あたかも国運をかける大東亜戦争中期から後期におよび、日本人、朝鮮人労務者の充員はまったく至難の状態にあり、この唯一の解決策として昭和17年11月27日、日本政府決定による『華人労務者内地移入二関スル件』にもとづいて、華人労務者の急きょ移入就労をはかり、可及的速やかに工事竣工を期そうとした。そしてこの導入方針として、本社ならびに受け入れ事業場においてしばしば移入方針ならびに対策にかんする打合会を開き、内務、外務、厚生、軍需など関係各省の指示、指導事項にもとづいて慎重かつ万全を期し、統制団体である日本土木統制組合の援助と斡旋をうけ、現地供出機関である華北労工協会との契約諸項を遵守履行しようとつとめた」

 この報告書は全体にわたってあまりにもそらぞらしく、しかも責任のがれに終始した書き方をしているが、ともかく強制連行されてきた中国人は、こうして花岡鉱山の鹿島組花岡出張所に収容されて働くことが決まったのだった。

〜証言


李振平 
1921年に河北省河間県に生まれる。小学校卒業後に三年間ほど農業を手伝ったあと、人民解放義勇軍に入ったが、日本車に捕えられ、花岡鉱山に強制連行される。花岡鉱山では第一中隊第二小隊長として強制労働に従事。蜂起の時は主謀者のI人となり、秋田刑務所に入れられるが、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。中国代表部で衛兵の仕事をしたあと、東京や横浜などを転々と仕事をかえて移り住み、1956年に札幌に移る。札幌でも職をいくつかかえたあと、中国貿易輸出入の会社をつくり、現在はその社長をしている。

妻のほかに一男一女の子どもがある。

林樹森 
1917年に河北省寧普県に生まれる。小学校卒業後、会社勤めをしながら医者になる勉強をつづけ、やがて人民解放義勇軍に身を投じて医療の仕事に従事中に日本軍に捕えられ、花岡鉱山に強制連行され、看護班の仕事をした。敗戦後は病人の看護のために日本へ残り、そのまま裁判の証人となり、のちに中国代表部の衛兵の仕事をする。代表部を1953年にでてすぐに札幌に渡り、数々の仕事を転々とかえたあと、食堂を営む。1973年9月のある日、病苦と食堂の経営不振から服毒して自殺を図ったが、発見が早く助かるが、
9月26日に肝臓疾患に急性肺炎を併発して死亡。なお、知人たちがカネを出しあって、1973年の暮れにははじめて中国に行くことが決まっており、ふるさとの中国では二歳の時に生き別れた長男が、三十年ぶりの再会を待っていた矢先の死であった。死後には妻と中学二年生を頭に三人の子どもが残された。

 劉智渠 
1920年に河北省薪県郡均鎮に生まれる。小学校卒業後は。家業の農業に従事。十七歳で人民解放義勇軍に入る。一時、家に帰って農業をやり、二十歳の時に再び解放義勇軍に入り、日本軍に捕えられて、花岡鉱山に連行される。花岡鉱山では看護班に所属し、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。1964年10月に札幌に渡り、小さな屋台店から商売の仕事に入り、現在は新山観光株式会社の社長をしている。1951年に中国人俘虜犠牲者善後委員会が発行した「花岡事件」は氏のロ述によるもので、もっとも早く花岡事件の全貌を伝えた貴重な記録である。妻と一男一女がある。

李 
わたしね、1921年7月15日に河北省河間県に生まれたが、小さい時のこと、あまり覚えていないからね。小学校に入って終わったのが16歳の時で、中学校に行くつもりだったけど、もう日本の兵隊が毎日来るから、とても学校に歩いてられないでしょ。わたしだけでなく、ほとんどの子どもたち、そのために学校にいくのやめた。わたしの家、普通の農家だったので、農業の仕事手伝っていたが、一ヵ月のうちの半分は逃げていた。日本兵が襲ってきて、逃げなくてはダメだから、仕事にならないの。それでも三年くらいは農業の手
伝いしていたが、日本兵の来るの、だんだん多くなって、まったく仕事にならなくなってしまったさ。


 林 
日本兵、襲ってくるでしょ。逃げおくれて殺されたり、捕えられて連れていかれた同じ年ごろの人、かなりいたさ。
 李 友だち殺されたり、肉親を殺された人など、多かった。どうせ、毎日逃げとるでしょ。若い時だし、戦いしないとどうしようもないので、戦うこと決めた。いちばん最初に入ったのは人民解放義勇軍で、賀竜の部隊であった。それからゲリラになって、あっちこっち転戦して歩いたが、その間に、わたしたちの部隊のなかで、何百人も死んでしまった。ゲリラの戦いは、苦労ばかり多い。村に行くと、日本兵に見つかるから、行けないでしょ。夜中にこそっと行っても、村の人たちみんな逃げていない。家に残ったもの、日本兵来てみんな徴発して、なんにもない。腹減ってくると、ドロ水飲むね。死んだ人の上を、靴で踏みつけて歩く時もあるさ。ベトナム人の苦しみ、自分の体験とおしてよくわかる。戦争ひどいよ。

 林 
中国に来た日本兵、悪いの人多いよ。わたしの村に日本兵襲ってきたとき、妊娠している女の人を、何人もの日本兵が追いかけた。妊娠している人よく走れないよ。すぐつかまって、中国人も見てる前で、何人もの日本兵が強姦する。それ終わると、銃の先についた剣で妊娠した女の腹裂いて、赤子とりだすと、銃の先に刺して振りまわして、みんなで笑ってる。

日本兵、犬畜生より悪いね。あんなことばかりした日本兵、日本に帰ってきて、自分の家庭に入って、どんな顔して生きとるのか思うと、こわい感じするね。
 李
 1941年の春、わたしたちのゲリラ部隊、日本車に包囲された。包囲された距離、だんだん狭くなってくる。そのとき、わたしたちの部隊、鉄砲のタマも満足になく、武器も使えなくて、一週間でみんなつかまってしまった。あのとき、だいぶつかまった。つかまった人どれくらいだったかは、あっちこっち連れていかれて一緒でなかったので、よくわからない。一ヵ所にまとめられて、収容所まで歩くとき、何十人、何百人かがひと組になって連れていかれ、あっちこっちの収容所に入れられた。あのとき捕えられた人のなかで、中国の
東北の炭鉱に連れていかれた人も、だいぶいた。わたしと一緒に、石家荘の収容所に連れてこられたのは、十数人だったが、日本に連れてこられたのはわたしひとりだけね。石家荘の収容所には、1,000人くらいの人、つかまって入っていた。収容所は、日本軍が管理してた。わたしらいる時、収容所から逃げたの二人いたが、一人はすぐに銃で撃たれたね。一人は逃げたが、まもなく捕えられて収容所に連れてくると、みんなの見てる前で殴られたり、蹴られたりして、殺されたね。見せつけね。日本に連れてこられる時、石家荘の収容所の生活あまりひどく、みんなからだ弱っていた。からだ悪い状態のまま、日本に連れてこられた。 自分で立って歩けないような、からだの弱っている人ばかり、日本に来たさ。


 林
 わたしも石家荘の収容所に二ヵ月半ほどいたが、あそこでみんなからだ痛めた。食べもの悪く水も満足にないから、みんな栄養不良になったわけね。

李 収容所の食べもの、コウリャンのご飯と、醤油少し入ったスープだけね。それも一日に二回だけで、野菜や塩など、ぜんぜんないからね。あのとき、わたしたちなぜからだ悪くなったかといえば、河北省の人、コウリャンは少し食べることあるが、ご飯として食べたことないわけね。コウリャンは、アルコールの精がほとんどでしょ。コウリャンのご飯食べると、大便が出ないの。便所に行って、箸のようなものでえぐると、ポロポロ出てくるわけね。

 河北省では、コウリャンは豚の食べるもの。食べるもの少ないし、食べたものもこうだから、だんだんとからだ悪くなってくるの。そのうちにからだ弱ってきて、歩くこともできなくなってきた。一ヵ月以上も、歩けないでいた。石家荘に二ヵ月ばかりいて、わたしは這いながら、京の収容所に行く汽車に乗ったよ。

林 
北京の収容所で、わたしは李さんと一緒になったわけね。


李 
収容所の中じゃ、わからなかったけどね。石家荘から北京に行くとき、貨物の汽車に乗せられた。逃げられんように、有蓋車に乗せられて、戸を閉めてカギをするから、中にいる人、空気とれないの。あのとき、ちょうど六月の暑い時で、みんな縛られて、貨車の中に投げ込まれたでしょ。ひとつの貨車に25人も入ればいっぱいになるのに、100人以上も投げ込まれたでしょ。みんな豚みたいに、からだの上にからだのせていた。空気あまり入ってこないから、汽車が走ると、板目の狭いすき間からもれてくるわずかな空気に、鼻や口を押しつけてのみこんだね。おなかの方すくのはもちろん苦しいが、水いちばんほしいね。みんな縛られて、水ほしい、水ほしいって、声たてて泣くね。誰か小便あったら、それ自分で飲みたい気持になるの。その苦しみといったら、いまでも忘れられない……。北京の収容所に着いたら、ここはアワのご飯ね。アワのご飯は、河北省の人食べ馴れているし、消化もいいし、ここにIヵ月くらいいたら、どうにか立って歩けるようになった。やはり、栄養不良
で、みんなからだ悪くしてしまったわけね。ちょっと食べものよくなると、すぐ元気になるのだから、食べものがどんなに悪いか、わかるわけね。

中国での林さん

林 
わたしは1,917年に、河北省寧普県に生まれた。自分の家の先祖、みな医者だったが、わたしは、小学校でた16歳のとき、会社に入って働いたの。その会社の空気が、どうもわたしの性に合わない。その会社にあんまりいないで、やめて家に帰って、いろいろ考えてみた。うちの先祖はみな医者だから、わたしも医者になること考えて、こんどは北京に行くと、北京大学の医学部に入って、漢方薬の勉強した。ここで三年ばかり勉強してから、またくにに帰ってきたが、親は医者よりも商人になれと言った。二十歳すぎてから、また会社
に入った。その会社は、日本の綿会社の出張所であった。この会社に一年とちょっといたが、人いった頃は仕事なかなか盛んで、忙しかったね。


劉 
蘆溝橋事件の起きる前は、日本兵来ても、それほど悪いことしなかったね。悪いことやったけど、あんまりでなかった。この事件起きて、中国と日本と戦ってから、もうダメね。日本兵、中国人見つけると、殺して歩くという状態になったからね。
林 わたしね、蘆溝橋事件が起きるまで、綿会社に働いていた。この事件あって、中日戦争はじまったでしょ。そしたら、日本の兵隊毎日まわってくるさ。綿は綿花からとって、日本に輸出していた。戦争はじまって、輸出もできなくなった。会社にいても、仕事ぜんぜんないでしょ。いてもいなくても同じなので、会社やめてさ、また自分の家に帰ったの。家にいると仕事ないから、これからどういうふうに生きるか考えた。わたしの先祖、みんな医者でしょ。北京で医者の勉強したので、その方面で進もうと考えた。本買って読んだり、近所
の医者のところに住込みのようにして働きにいったりして、医者の勉強した。二十五歳のころになると、ようやく病人を診れるようになったさ。ところが、日に日に戦争ひどくなって、田舎の村にも日本兵が朝早くからやってくるさ。逃げれば危ないし、逃げなくとも危ないでしょ。もうどうにもならないさ。村の中にいて、落ち着いて暮らせなくなった。そのとき、考えたね。わたしの先祖や家族で、軍隊に入っている人、ひとりもいない。これではダメだと考えて、わたしは軍隊に入ることにしたさ。戦わないと自分たちの国、守れないからね。ほんとの軍隊ではないけど、八路軍の下に民兵みたいなものあるので、わたしはそこに入ったさ。わたしは軍服も着てないし、鉄砲も持ってないし、大きなカバン持って歩いていた。カバンの中にはいろいろな薬や、注射器など入れていた。そのころ、ゲリラの部隊の人が病気したり、怪我したりすると、あっちの村、こっちの村と、分散して農家にあずかるさ。その村の責任ある人のところに行き、病人のいる農家に行くさ。わたしは病人をみて、治療するさ。わたしがゲリラの部隊に入ったのは、こういう仕事するためだったからね。毎日のように、あっちこっちとまわって、病人をみて歩いたさ。



 わたしはゲリラの部隊にいたから、銃持って戦ったがね。食べもの少ないし、病気になったり、怪我する人も多かったさ。そういう人と一緒だと、戦えないし、逃げられないし、村の農家に頼んで置いていくからね。林さん、その人たちのことみていたわけね。


 日本兵は毎日、ひどいことばかりやってたさ。いまでも忘れられないこと、いっぱいあるよ。ある日の早い朝、昼はあぶないから、わたしは隣の村へ、まだ暗いうちに出発した。わたしが村を出てまもなく、日本兵はわたしのいた村を包囲した。日本兵は一軒一軒の農家襲って、食べものやニワトリなど、片っぱしから奪って車に積む。それから、女の人見つけると、片っぱしから一カ所に集めて、着物を全部はぎとって裸にした。四十人以上もの女の人たちに銃剣向けて、裸の踊りさせるね。まわりに集まった日本兵、その踊り見て、やんやとはやしたてる。恥ずかしさに負けた女の人たち、そばを流れてる川に、走ってとび込んでいく。川を流れていく女たちに、日本兵は鉄砲うってみんな殺したさ。わたし、高い木にのぼってかくれ、その様子見ていたが、あまりのひどさに、涙もでなかった。中国人はこんなこと、決してやらないよ。


 日本兵は男の人と同じに、抵抗もできない女や子ども、それに年寄りも手当たり次第に殺したし、蹴ったりしてかたわにしたからね。戦場になった中国の人たち、いくら被害受けたかわからないよ。


 村を襲う日本兵、まだ人が寝ているような、朝早くにやってくること多いさ。二回目に襲われた時は、山奥の農家にいた。その時は日本兵来たのに早く気がつき、自転車に乗って逃げたが、鉄砲どんどんうってくるので、自転車タマだらけになった。着ていた服にも、タマ当たったね。からだにタマ当たらなかったから、なんとか逃げることできた。だが、三回目の時はもうダメね。日本兵が来たのに気づいた時は、もう村が囲まれていたから、逃げるにも逃げられない。そのまま捕えられたのが、ゲリラに入って五ヵ月目のことさ。わたしは兵士だから仕方ないが、村の家には、兵士でない普通の人たくさんいるよ。日本兵来たとき、「わたし兵士じゃない、民間人だ」と叫んだ人も、みんな捕えられた。日本兵から見ると農民か、普通の民間人か、兵士なのか、よくわからないよ。それに、日本兵は働く人つかまえにくるのだから、男の人とみれば、八歳ごろの子どもでも、六十歳を越した年寄りでも、片っぱしから引っぱっていくのだからね。



 あとでわかったのだが、彼ら日本兵の目的は、人狩りだったからね。


 日本兵につかまった人、みんな広場に集められたさ。どの人も、着のみ着のままで、なんにも持ってないね。みんな広場の土の上に、坐らされたさ。日本兵の偉い人が、何かさかんに言ってるけど、何を言ってるのかぜんぜんわからないの。わたしそれを見ながら、あの人は何を言ってるかわからないけど、いいことではないと考えたよ。実際にそうなったが、わたしにはその時、妻と二歳になる子どもがいたの。もうどうなっても仕方ないさ、と覚悟はしてるけど、やはり心残るね。偉い人の話が終わって、しばらくたってから、向こうの農家の庭先に、土の固まりがあるでしょ。日本兵がその土くれ拾って、坐っている人の上になげるでしょ。その土くれ頭に当たった人をナワで縛り、トラックのそばに連れていって乗せるの。最初はなにやっているのかわからず、おかしかったけど、この土くれが頭に当たったらたいへんね。抵抗なんかできないまま、トラックに乗せられて、連れていかれるのさ。わたしの頭に土くれ当たった時は、目の前が真っ暗になった。トラックに人がいっぱい乗ると、
土くれなげるのやめて、トラックは走ったさ。それから石家荘の収容所に連れていかれて、トラックからぞろぞろ落とされたさ。


 石家荘の収容所に入ったら、みんな同じね。普通の民間人も、八路軍も、蒋介石の兵士もいる。年は八歳ごろの子どもから、上は七〇歳近い老人もいたさ。

林 
わたしの入った石家荘の収容所は、テント張りになっていた。建物の収容所には、つかまった人がいっぱいいて、人りきれないのでテント張ったらしいが、テントは雨露防ぐだけで、まわりには何にもないの。わたしらはここに連れていかれると、着ているもの全部ぬがされてしまったさ。逃走するの防ぐために、裸にしたわけね。夜になっても、土間にアンペラも敷かないし、空いた場所には小便や痰、吐いたものや下痢したものが散らばっているので、横になることもできないさ。食べるものも、一日に二回だけね。コウリャンの飯が小さな碗にもられて、一つだけ配られるの。腹へるし、寒いし、疲れはでてくるし、このまま死ぬんじゃないかと、何回も思ったね。

李 
わたしは建物の中で寝たよ。蒲団はないが、板の上にちゃんと寝たからね。同じ収容所でも、違ってたわけね。

林 
テントの中でも、飢えと疲れと寒さで、死ぬ人多かったよ。夜が明けると、日本兵が巡視にまわってくるさ。地面に横になってる人あれば、軍靴で蹴ったり、棒で殴ったりするね。生きてる人は、それでビックリして立ち上がるけど、死んだ人は動かないからね。死んだ人があると、そばの人に死体かつがせて、収容所のうしろの方に運んでいくわけね。わたしも二回、死んだ人運んでいったが、そこに大きな穴が掘ってあって、穴が死体でいっぱいになると、上に土かぶせるの。野良犬が夜中にその死体を掘りにきて、人間の骨をバリバリと音させて食ってる音、よく聞こえた。石家荘の収容所は、まるで地獄だったさ。

李 
テントの収容所のご飯、どうだったか。

林 
コウリャンの飯と、醤油が少し入って、ニラの刻んだのちょっと浮かんでいるスープだけ。李さんたちと同じね。コウリャン飯食べると、大便でないから、みんな苦しんだ。これでからだ悪くした人、多いね。あとで北京の収容所に行ったら、アワのご飯ね。これは自分たちもよく食べるから、おいしく食べた。これで、わたしもからだよくなったさ。


中国での劉さん

劉 
わたしの生まれたの、河北省蘇県郡均鎮で、1920年のことね。河北省には工業ないから、どの家も農家ね。わずかより土地ないから、中国でももっとも貧乏な地方さ。つくったものは、半年くらいあるかどうか。あと食べるものないから、働かなければならないけど、働く仕事もあまりないよ。小麦の刈る時と、秋の収穫の時に、土地を多く持ってる農家に、日給で働きに行くの。一年に三ヵ月くらいより、働くことできないよ。働いても、食事代くらいのものさ。1937年、数えで一七歳のとき、ゲリラ戦はじまり、わたしも参加した。その当時の中国では、百姓の金持たち、みんなライフルあるからね。10万人とか20万人に警察ひとりよりいないから、治安の維持できないでしょ。畠いくら持っていれば、ライフルー丁持っている義務あったの。そのライフルぜんぶ出して、カネのある人はカネ出して、人あれば人出して、協力して抗日するのやったの。指導者は遠くから来て、わたしたち組織された。武器あまりないから、わたしたちのような少年、なんにも持ってないさ。腕章だけしか持ってないからね。もう少しよくなれば、手榴弾持っているだけさ。はじめのころ、まだ日本の軍隊いなかったが、そのうちに北京方面からやってきた。わたしたち、あまり戦争の訓練受けてないから、日本兵来たら、山の中に逃げた。こんど、日本兵ビラまいたの。手榴弾とピストルを持っていなければ、許されて自分の家に帰れる、過去は問わないということ、ビラに書いてあるの。わたしなんにも持ってないから、こんど家に戻って、また農業やったの。こんな人、多かったよ。だけど、まだゲリラとつながりあるでしょ。わたし少年だから、目立たないけど、大人では恨みのある人、日本兵に密告されるでしょ。日本兵すぐ来て、調べもしないで首を斬る。多くの人、こうして殺された。二十歳のとき、百姓の仕事やめて、またゲリラに入った。八路軍もかなり組織されていたから、わたしも三ヵ月の訓練受けた。それから選ばれた人、また三ヵ月の訓練受けた。わたし生まれてはじめて、学校に入ったよ。この時はじめて、抗日の思想教えられたね。わたし、物心ついてから、安心して寝たことないよ。

李 
わたしたちの少年時代、いつも何かに襲われてる感じで、ピクピクしていた。

劉 
訓練終わってから、ゲリラになって、日本兵と戦ったさ。1944年の4月のことね。まだ朝の暗いうちに、わたしたち4人、隊長の命令受けて、河北定県の停車場に行ったの。今晩おこなわれることになっている、敵の鉄道破壊に備えて、土地の情勢をさぐりに行ったわけね。鉄道のまわり調べていると、突然、銃声がしたの。わたしたち、すぐに逃げようとしたけど、15、6人が射撃しながら進んできた。わたしたちも応戦したけど、すぐ弾丸なくなって、捕えられたの。この部隊、偽政府(汪精衛政権)の鉄道護路隊の中国人ね。二人の日本兵いて、指導していた。こんど、両手うしろに縛られて、汽車に乗せられた。わたしの着いたの、石門俘虜収容所ね。日本の将校と通訳に訊問されて、何回もピンクやゲンコツ貰ったけど、わたし、訓練受けた組織の一人だから、殺されると思った。訊問終わると、全部着物ぬがされて、裸にされて、テントの中に入れられたの。わたしの入ったテントの中、真っ裸の人、1,000人ぐらいもしゃがんでいるよ。しゃがみつづけていると、足とか腰痛くなるでしょ。少しでも動くと、監視の日本兵走ってきて、梶棒で叩くの。夜になっても、横になることできないの。着物つけてないし、土でしょ。横になりたくともできないさ。夜になると、テントのなか、夜風が吹き抜けるので、寒いの。ひと晩中、ふるえていた。眠ると、このまま死んでしまう気持ね。眼閉じたり、開いたり、眠つたのか、眠らないのか、自分でもわからないね。



 石門収容所の食べ物、どうだったか。

劉 
林さんたちと同じよ。コウリャン飯で、一人に小さな碗で一つ。二口か三口食べると、もうおしまいね。腹なでても、どこにご飯人ったか、ぜんぜんわからない。これが、一日に二回だけでしょ。こんど、水もないの。1,000人もいるテントに、水はひと桶よりこないでしょ。分けることできないくらい、少ないからね。日本戦争に負けるまで、飲み水で苦しんだね。わたしのいたテントの中でも、たくさんの人死んだ。死んだ人たちの顔、いまでもちゃんと思い出せるね。5月に入ってから、わたしたちに着物渡されたの。その着物きる
と、収容所の庭に集められたでしょ。日本人の将校、「こんど、特別な恩典で、お前たちを北京の西苑更生隊に送ることになった。一日も早く、真人間になれ」と叫んでるの。このことの意味、通訳でわかったのだけど、すぐ汽車に乗せられた。この車、荷物とかカマス運搬する有蓋車だから、窓もなければ、坐席もないの。手をうしろに縛られて100人ほど乗ると、貨車の戸閉められて、外からカギかけられるでしょ。李さんの場合と同じね。空気人ってこないでしょ。その貨車に、一昼夜くらい乗ったけど、食べ物も水も、一回も配られないの。

飢えはなんとか我慢できるけど、喉の渇き、とても我慢できないの、水ほしい、水ほしい、と狂い出しそうになった。わたしの乗ってた車で、一人窒息で死んだ。西苑更生隊に着くと、こんどは建物の中に入れられたの。石門収容所みたいにテントでないから、坐ったり、横になることもできたね。


李 
食べる物どうだった……。

劉 
トウモロコシのお粥、一日に二回配られるの。量少ないけど、コウリャンのご飯よりいいよ。ここで嬉しかったこと、水いくらでも飲めたことね。構内に溝あって、山の上から、水どんどん流れてくるの。毎日、その水飲むことできるの。この水のおかげで、どれくらいの入、助かったかわからないね。ここでも、たくさんの人死んだ。日本兵に殴られて死ぬ人もあったし、食べ物少いから、からだ弱いの人、すぐ病気になるの。病気になると、隔離室に送られるの。隔離室に入ったら、もう終わりね。元気になってもどってきた人、わたし見たことない。隔離室に行くと、底が引き出し式になった、大きな棺桶おいてあるの。この棺桶、一度に十数人の屍体入るね。亡くなると、次々にその棺桶に入れて、一杯になると、わたしたちにそれかつがせるの。遠くに運んでいくと、深い穴掘ってあるの。その上に棺桶おいて、引き出しを引くと、屍体が穴の中に落ちるようになっているの。その上に土かぶせて、次に運んだ時に、その上にまた屍体落としてくるわけね。たくさんの人死んで、部屋の中、広い感じになっていくでしょ。すると、また新しい人たち、どっとやってきた。そうだ、西苑にいた時のことで、いまでも忘れることできないのある。ある日、わたしたち昼食していると、広場に集まれと命令きたでしょ。外に出ると、広場の真ん中に国旗立てる旗竿あって、裸にされた一人の中国人、縛られているの。通訳の説明だと、屍体運んで行った途中に逃げて、捕えられたもので、これから処刑するというの。歩兵銃を持った一小隊来ると、銃の先に、銃剣つけていた。こんど、二人の兵隊、隊長の命令で、銃剣つき出して、縛られた人に突撃していったでしょ。からだに二本の銃剣ささった時の叫び声、いまでも聞こえるよ。それ終わると、死んだ人のからだに、二人の兵隊が組になって、次々と突撃していくの。一小隊みんな突き終わると、縛られた人のからだ、めちゃくちゃになっていたさ。殺された人たちのこと思うと、いまでも胸痛いよ。


地獄のような貨物船

李 
北京の収容所に二ヵ月ばかりいて、それから青島の収容所に運ばれた。この間に、多くの人死んだよ。青島に三日ほどいてから、こんど船に乗せられたけど、船に乗る前は、どこに連れていくとも、ぜんぜん知らされなかった。船に乗せられて、どこに連れていかれるのか考えると、覚悟していても、不安で仕方なかったさ。船に乗るのことはじめてだから、不安も大きいわけね。


林 
わたしはね、北京の収容所から汽車に乗せられて青島に着いたけど、収容所には一泊だけで、船に乗せられた。どこに連れていかれるのか、誰も知らないからね。船に乗るとき、日本の兵隊が銃持って、両側についていたさ。逃げられるといけないからね。このとき、一緒に船に乗った人、確か300人と聞いた。


劉 
わたしたち、西苑にいた人には、日本に連れていくと、はっきり言ったよ。七月の中ごろのことね。わたしたちに着物渡して、広場に集めたでしょ。そこで、「君たち、日本に送って土工の仕事させる」と、日本の将校言ったよ。こんど、日本に行くこと選ばれた人たち汽車に乗せられたでしょ。めずらしく客車だったけど、どの出入口にも日本の兵隊ついて、きらきら光る銃剣持っているさ。きらきらの光る銃剣見るたびに、殺された人のこと思い出して、胸が痛いよ。途中、日本兵の油断見て、一人の中国人、窓からとび出して逃げたの。
それ見た日本兵、めちゃくちゃに銃うったけど、命中したかどうか、汽車そのまま走ったからわからない。青島収容所に一泊して、次の日、船に乗せられた。この船、日本に行く船と、わたしわかっていた。                       


李 
わたし知らないから、どこに連れていくのか、ぜんぜんわからないよ。みんなうしろ手になわで縛られて、日本の兵隊、銃剣持って両側に並んでいるあいだ通って、船に乗ったの、七月中旬ごろのことね。船に乗ったら、また汽車の中と同じ状態よ。わたしたち乗った船、石炭運ぶ貨物船でしょ。石炭いっぱい積んでいて、わたしたちその石炭の上に乗せられた。船に乗るとなわとかれたけど、七月ごろの黄海のなか、もう真夏でしょ。石炭のつまった船倉に入れられて、しかも頭の上に、厚い鉄の蓋してあるから、暑いったらないよ。まる
でセイロの中みたいに暑い。

林 
石炭の上に坐ると、鉄の蓋までのあいだ、いくらもないね。背の高い人、頭つくくらいの高さよ。それに、陸が見える間は、逃げられるといけないから、鉄の蓋しまったままでしょ。甲板の上にも出さないの。それでもね、水入れてよこすとき、ちょっと蓋あけた時に、船倉からとびだして、海にとびこんだ人あったけど、助かったかどうかね。陸から、だいぶ離れた様子だったからね。

李 
船の中、水ないでよ。食糧も、わたしたち食べるもの、ぜんぜんないでしょ。持ってきたトウモロコシの粉あっても、船倉の中、水も火もないから、マントウつくることできないの。結局、わずかに配られる水と、粉をまぜて固め、ボロボロのマントウみたいなものつくって、一つ一つ配給した。生のマントウ、少しずつちぎって食べたけど、これ食べると、いっそう水飲みたくなるの。喉から胸にかけて、渇きで、火ついたみたいに痛むの。

林 
水一日、たった一回より配給ないでしょ。その水でマントウつくるから、一人にひと口かふた口より渡らない状態よ。        

李 
日本の船員きて、船のなか、水たくさんないから、みんな我慢して、少しずつ飲んでくれと言われた。だけど、船倉のなか、セイロの中に入ってるみたいに暑いでしょ。我慢のできない人、大勢いて泣いとるよ。泣いてもしようがないけど、苦しければ泣くね。泣いても声だけで、涙でてこないよ。あのとき、船の中に一週間ばかりいたけど、死ぬような毎日ね。

劉 
港から船でた二日目の晩に、鉄の蓋あけてくれて、甲板に出ることできた時あったの。港から遠くなって、逃げることできないと考えたわけね。海にとび込んでも、死ぬだけのこと、誰の目にもはっきりしているからね。そのとき、誰か小さいバケツ見つけて、みんなのズボンのひもはずしてつなぎ、長くして海の水汲んだね。みんなでその水飲んだけど、黄海の水、にがくて、辛くて飲めないの。口に入れて、ちょっと飲んだけど、みんな吐いたよ。それでも、水ほしい人、うんと飲んだけど、その人たち、後でもっと苦しんだよ。口の中や喉かきむしって、苦しがったね。

李 
わたしたちの乗った船、沖縄にひと晩とまったね。船のどこか壊れたの、修理する音したけど、アメリカの飛行機の空襲あって、船停泊しても、わたしたちのこと、甲板に出さないの。日本軍、勝っていることばかり聞いてたから、アメリカの飛行機の空襲見て、わたしたちびっくりしたね。

林 
確か、琉球にも、ひと晩ぐらい停泊したね。アメリカの飛行機きて、船進めることできないわけね。五日目から、船の中の水なくなったといって、水ぜんぜんくれないさ。石炭むれて、船倉の中の空気、まるでストーブの中に顔入れてるみたいに苦しいさ。船の中の生活、収容所の生活より、もっともっと苦しい。からだ弱ってるの人多いから、船に酔う人多いでしょ。便所あっても、行くことできないから、石炭の上にやるでしょ。その匂いもひどいよ。

劉 
船の中での生活、ほんとに苦しかったね。食べる物いっぱいあっても、船倉の中で、船酔いひどいから、食べたかどうかわからないね。

李 
わたしたちの乗った船、だいたい一週間で、目本の下関に着いたね。船降りるとき、ちゃんと歩けるの人、そんなにいないよ。食べるもの少ないし、水ぜんぜんないでしょ。それに、最後の二目くらい、歩くこともできないから、足立たないの。船降りると、整列して点呼やったけど、300人乗ってきたのが、297人になっていたよ。一人はトラックで青島の収容所から、船に運ばれる間に逃げて、射たれて死んだでしょ。一人は海にとび込んだし、一人は病気で死んだね。病死した人、そのまま海に投げられて、終わりになったさ。
林 
点呼終わると、日本軍の命令で、ボロボロの服着てるの、ぜんぶぬいで棄てたさ。それから風呂に入って、全身消毒された。いい服配給になって、それ着た。わたしたち下関に着いた晩、ここに泊まったけど、ご飯も水もぜんぜんこないの。


李 
日本は魚の国でしょ。日本に着くと、うんと魚食べられると思ってたけど、水も渡してくれないよ。次の日ね、おにぎり二つくれたの。何日も食べてないから、みんなそのおにぎり、呑みこんでしまった人多いよ。下関から花岡まで、四日間も汽車に乗っていたけど、この間にもらったの、駅の弁当一つだけね。木の弁当箱まで、バリバリ食べたいような気持ね。あのときの297人の人たち、五十歳以上の人たち20人くらい、一六歳より少ない少年が6入ぐらいでしよ。あとの人はみんな、二十代から三十代の青壮年たちでしよ。いちばん腹の減る年ごろに、四日の間に駅の弁当一つで、水もなんにもないから、おなかすいて気違いのようになるの。あたりまえのことね。

林 
わたしたち乗せられた汽車、有蓋車でしょ。その貨車の中に押し込められカギかけられるから、中に空気入ってこないの。中国で乗った時の汽車と同
じね。みんな壁の板張りの、板と板の隙間に口や鼻つけて、空気吸ったよ。でも、汽車とまると、空気人ってこないでしょ。その時は汽車の中、もう地獄のような暑さね。とまった汽車、出発するとき、みんな隙の方に倒れてしまうの。立っていること、ぜんぜんできないくらい、みんな弱っているわけね。

劉 
汽車走ったり、とまったりするけど、わたしたちのこと、貨車の外に出さないでしょ。大便、小便、みんな貨車の中ね。夏の暑い時でしょ。空気あまりないから、その匂いだけでも、からだ弱るね。

李 
花岡に着いたの、汽車に乗って、四日目の昼のことね。貨車のドアあけられても、立って線路に降りることのできる人、何人もいないよ。みんな貨車から線路にころがり落ちたさ。わたしね、貨車から落ちた時に腰打って、息止まったような気持して、しばらく立てなかったさ。するとね、日本の憲兵来て、木刀で突くの。やっと立っても、ふらふらして歩くことできないの。


林 
花岡に着いた日、はっきり覚えてないけど、確か八月八日のことね。わたしたち花岡に着くまで、汽車の中で二人死んだから、花岡に来たの295人ね。よく途中で死なないで、花岡まで来ることできたと、いまでも不思議に思うね。

苛酷な労働の中で(中山寮の中国人)

 中国で捕えられてのちの苦しい収容所生活のあと、貨車、貨物船、貨車と乗り継いでの強制連行の旅が、それこそ死の旅そのものであったことは、前章の三人の話から十分に知ることができる。太平洋戦争も末期に入って、海上や国内の交通は安全を保てなくなってきており、食糧不足もかなり深刻になってきていた。それにしても、真夏に、立っていることもできないほど多くの中国人を貨車の中に押し込めたまま、不足している食べ物はともかくとして、ふんだんにある空気や水さえ十分にあたえようとしなかった。貨物船で下関に着いてから花岡鉱山に到着する四日の間に、中国人たちが口にすることができた食べ物は、駅弁一つにすぎなかった。しかも、食べ物もあたえないでカツカツにやせ細った中国人を花岡鉱山に連行して、水路変更工事という大規模な土木工事をやらせようというのだから、たいへんなことであった1944年8月8日に花岡鉱山に連行されてきた第一次の295人の中国人たちは、鉱山の近くにある姥沢につくられた寮に収容された。その寮は鉱山町から三キロほど離れており、かなり急な勾配の山道を登らなければならなかった。寮の名は中山寮といったが、中山寮の建っている場所からは、民家が一軒も見えなかったし、鉱山町からも中山寮は見えなかった。日本人の目から中国人を隔離すると同時に、中国人からも日本人を隔離していた。

 中山寮は三棟の建物から成り立っていた。寮の中は汽車のように真ん中が通路で、両側が板を敷いた座席と寝床の兼用で、上下の二段となっていた。板間の上に坐ると、背の高い人は頭がつかえるほど低かった。中央に石油ランプが一つ下がって、ほの白い光で殺風景な部屋を照らしていた。もう一棟の片側には、食堂、炊事場、事務所、補導員の宿直室、倉庫などが並んでいた。

 二棟の大きな建物から少し離れたところに、重病人を収容する部屋のほかに、遺骨安置室と看護人のいる看護棟が建っていた。この看護棟の近くに死体焼き場があったが、後になってたくさんの人が死ぬようになると、死体を焼く木や、遺骨を入れる木箱の支度ができなくなったので、穴を掘って埋めるようになった。そのため、中山寮の近くにある山の中腹は、人を埋めた穴が並んで鉢巻き状となり、それが鉱山町からもはっきりと見えた。のちにこの山は、地元の人たちから鉢巻き山とよばれるようになり、恐怖の目で見られるようになった。

花岡鉱山に連行された中国人たちの一日は、ようやく朝が明けたばかりの山間で鳴り響く軍用ラッパの音ではじまった。ラッパの音で目が覚めると、板の間に坐った。着たきりなので着替える必要はないし、布団は一枚も配られなかったので、たたむ仕事もなかった。顔を洗う手拭も歯ブラシもないので、坐ったまま大きなあくびを二、三回やり、上げた手をおろした拍子に目を何度かこすり、それから顔を二、三回なでると、朝の準備は終わった。

 ようやく朝の陽がさしてきたころ、食事が配られた。朝食は昨晩の食事と同じに、味もあまりついてない煮たフキ1本と、饅頭が一つだけであった。みんなは呑み込むようにして食べた。

 食事が終わると、中山寮の前に整列した。伊勢寮長代理や現場の補導員たちも集まり、東京の宮城に向って遥拝した。それが終わると、伊勢寮長代理の訓話がはじまった。

「みんなはじめて花岡に来だのだから、特別待遇として最初の一週間だけ休憩をあたえるが、その後は本格的な作業に入ってもらう。だが、この一週間も遊んでいるのはもったいないから、寮の整理をする以外の人は、山を開墾して畑をつくることにする。この仕事も大東亜建設に尽す義務のひとつだから、なまけたりしないで精いっぱいに働け……」

 訓話は通訳から伝えられた。その後で、全員の編成がおこなわれた。全員を1大隊とし、その下に中隊を置き、中隊の下に小隊を置いた。小隊の中では、10人の班編成をした。最初は三中隊、9小隊に分けられたが、1945年に入って第二次と第三次とが連行されてきてからは、4中隊、12小隊に分けられた。最初の編成を図で示すと、下図のようになる。

 大隊長には耿諄がなったほか、副隊長には羅世英、書記には劉玉卿、軍需長には任鳳岐、看護長には劉玉林が任命された。また、中隊長には李克金、張金亭、王成林が任命されたし、小隊にもそれぞれ小隊長が置かれた。林樹森と劉智渠は看護班に所属していたし、李振平は第二小隊長であった。

 また、鹿島組花岡出張所と、中山寮とに勤務して、直接に中国人たちを扱った日本人は、次の人たちであった。(なお、年齢は全部が1944年8月現在である)

鹿島組花岡出張所

所長は河野正敏(40)で、中山寮長も兼ねていたが、中山寮に出向くことはあまりなく、出張所にいることが多かった。河野の下に労務課長の柴田三郎(45)、労務係の高久兼松、佐藤勇蔵、配給係の塚田亀夫などのほかに、女子事務員も合めて約20人前後の人たちが勤務していた。


中山寮
 もと裁判所の書記であった寮長代理の伊勢知得(40)の下に、庶務が2人、補導員が8人、医務担当が1人いた。しかし、医務担当の高橋豊吉は医師の資格もない元衛生兵で、一日に看護棟に一回顔を出すだけで、あとは中山寮の中にいたが、病人に手をかけることはほとんどなかった。また、鉱山病院の大内正医師は、死亡書を言いなりに書くだけで、病人の治療にあたることはあまりなかったという。

 しかも、伊勢と庶務の越後谷義勇、補導員の石川忠助をのぞいた7人は、全員が兵隊経験を持っていた。それも、7人のうちの6人が中国大陸帰りの傷痍軍人であり、中国人に対してもっとも狂暴にふるまったのは、この人たちだったのである。中国の戦場で中国人たちを虫ケラ同様に扱った軍隊生活を、花岡で中国人連行者の上に再現させたのだった。中国帰りの6人は、片言にしても中国語のわかる人たちであった。その6人とは、小畑惣之介(32)、福田金五郎(35)、古谷四郎(25)、長崎辰蔵(30)、猪股清(30)、檜森昌治(35)であった。また、補導員の一人である清水正夫(25)は中国混血で、中国語が非常に上手だった。

この清水もまた、思いっきりに狂暴の牙をふるって、多くの人たちを死に追いやり、中国人からもっとも憎しみの目を向けられた一人であった。三人の会話の中にも出てくるが、軍需長になった任鳳岐はその地位を利用し、それでなくとも少ない食糧の中から、その量をごまかして中国人に食べさせずに、家に帰る補導員に渡したり、自分で売って遊廓に行くなどの行為で憎しみを買い、蜂起の時にはいちばん先に殺された。この二人の例でもわかるように、血のつながる同胞たちを自分の手で痛めつけ、苦しませたということは、今日的問題としても十分に考えたい事実である。

 それに、兵役経験のない越後谷義勇(19)と石川忠助(40)の二人は、あまり中国人をかばいすぎるとして、同僚たちから快く思われていなかった。この二人は、しばしば中国人を助けたり、こっそりとかくれて食べ物などをあたえていた。そのため、蜂起は二人が宿直でない晩を選んで実行されたことでもわかるように、中国人たちから信頼されていた。中国人にたいして狂暴を振わなかったのが、兵役経験のない二人であったことも、さきにあげた事実と同様に、考えたい問題である。

 このほかに、大館警察署長の三浦太一郎、その下にいた特高警察の後藤健三などが、中国人たちを監視するために、毎日のように中山寮や作業現場に来ていた。また、華北労工協会から通訳として派遣されてきていた于傑臣と、同じく華北労工協会から来て本部にいた木村初一などがいた。

こうした状況の中で、第一次連行者の295人は重労働についたのである。特別待遇の一週間がすぎると、本格的な重労働に入った。早朝から数キロも離れた現場に行くと、花岡川の流れを変更する工事に取りかかった。しかし、土木機械は一つもなく、なわで編んだモッコと、スコップやツルハシだけという人の力だけをあてに、岩石の多い平地に幅二丈に深さ三丈の川を掘るのだから、現場で働く中国人にとっては、重労働の連続そのものであった。

 しかも、毎日の食べ物といえば、一回に小さな饅頭一つと、フキかゴボウの煮たのが一本というように、極端に貧しかった。また、衣服も不十分そのもので、雪が降りはじめても、着ているのはシャツ1枚だけであった。また、板間のベッドにはゴザさえも敷いておらず、雪が降りだしてから毛布が一枚だけ配られるという状態だった。

 また、鹿島組補導員たちの残虐な数々の行為は、多くの中国人たちを死に追いやったり、一生不治の怪我をさせたりした。食べ物が悪くてからだが弱っているために、掘った川底から土や石を運び上げることができないといっては梶棒で殴られ、腹が減るので裏山で草を取って食べているのが見つかると、死のリンチを受けるという状態だった。ほとんど毎日のように仲間たちが殴る蹴るの暴行を受けて殺されたり、栄養失調と重労働のために、20歳代の若者たちが次々と看護棟に送り込まれていった。看護棟には医者がくることはなかった  し、薬もひとかけらもあたえられなかったので、林さんの記憶によると、看護棟に入った人で再び丈夫になったのは一人だけで、あとの人たちは死んでいったという。

 1944年夏から1945年の夏にかけてというように、日本の戦局がますます悪化してきた状況下での出来事であり、「戦時中だから仕方なかったのだ」と、中国人たちにたいする行為を弁護する人が、現在でもかなりいる。だが、三回にわたって鹿島組花岡出張所で連行してきた986人のうち、死亡者は418入と多いのにくらべて、同じ場所の同和鉱業花岡鉱業所に連行されてきた298人のうち、死亡者は11人だったことをあわせて考えると、いかに鹿島組の場合がひどかったかがわかる。

食糧を奪う補導員

 敗戦後に民間団体の手で作成された『現地調査報告書』には、次のような話が収録されている。中国人が連行されてきたころに、花岡の役場に勤めていた人は、「すべてのことが軍の秘密だといって役場には知らされず、食糧の配給のことも、県から直接にやられていた。何人きたのか、どうして死んだのか、なんで死んだのかも役所ではわからなかった。食糧はピンハネされていたようで、真っ黒い蕗二本、皮をむかないものと、まん頭一ツわたされていたのを見ました。汪精衛の方からよこされて、鉱山に直接に使われていた人達は、同じ配給であったそうだが、わり合いしっかりしていたから、鹿島組は本当にひどいことをしたものだ」と語っている。

 この話でもわかるように、鹿島組に連行されてきた中国人が、とくに苛酷な扱いを受けたのであった。それは、毎日の重労働と同じように、中国人たちがもっとも苦しめられた食べ物の場合もそうであった。それでなくとも少なく配給される食糧の中から、鹿島組の幹部や中山寮の補導員たちが、自家用として運んでいったり、あるいは大量に売り払って飲み食いのカネにされていたのである。食べ物が少ないために多くの中国人たちが栄養失調となりそれが原因で病気になったり、あるいはからだが弱って仕事ができないといっては、補導員
に殴り殺されていったのである。

 補導員たちの多くは、大館市から中山寮にかよっていたが、戦時中に大館市大町に住んでいた嶋田展代さん(故嶋田普作代議士の長女)は、その当時の記憶を次のように語っている。

 「わたしたちのいた大町の管原さん宅の奥のいちばんいい部屋に、花岡鉱山の鹿島組出張所長をしていた河野正敏さん一家が借りられていました。そこには、立派な防空壕(わたしたちも何度か入りました)があり、それは母から聞いた話によると、朝鮮人(当時は中国人とは言わなかった)がつくったものだそうです。わたしたちはいつも食糧難でしたが、奥の河野さん宅には、見たこともない角砂糖があったり、うどん粉があったり、美しい奥様がいつもきれいにしていらしたのが、まるで別世界のように、わたしには見えました」

 『現地調査報告書』の中でも、蜂起した時に殺された補導員の近所に住んでいる人の話として、「彼らの家では、いつも食糧が豊富であった。われわれのところはますますひどい状況になっていくのに、彼らの食生活はますます豊かになった。彼らが中国人の食べ物をピンハネしているのだと噂されていた。中国人に殺されたと聞いて、近所では、当然だと話しあった」と記録されているのをみても、食糧が補導員の手で勝手に持ち出されており、しかもその量は、近所の噂になるほど多かったのである。

 食べ物だけではなく、毎日の労働についても同じであった。中国人たちがあまりにも少ない食べ物の増加や、労働条件の改善などを要求するたびに、鹿島組ではその報復として、翌日から建設週間というのを計画し、さらに厳しい労働を押しつけてくることがしばしばだった。建設週間に入ると、補導員の指定した普段よりも多い一日の仕事量を達成しない組は、暗くなっても帰寮したり、食事をとったり、休んだりすることが許されず、真夜中までも働かされた。

 目撃者の一人は、「食べものがひどい上に労働の過重は、とても朝鮮人の比ではなかったのです。夏の日の長いころですが、日もすっかり暮れてうすぐらくなってから、ふっと泣き声が耳につく。出てみるとあの人たちです。水路工事に使う長い杉の立木を、二人で、さきっぽとさきっぽをかついでいる。二人とも顔は見えないが、足など火箸みたいにやせている。腹はすいている。木は重い。二人はちょうど四つ五つの子供が泣くように悲しくて泣く時のように、暗がりに木の重みでふらつきながら、こう、声をひいて泣いているのです。すると横についている監督が、これみろとばかりに棍棒でなぐる」と言っている。
(松田解子「花岡鉱山をたずねて」−『新しい世界』より 


 少ない食べ物と、長時間にわたる厳しい労働の中で、多くの人たちが怪我をしたり、あるいは病気になったりして看護棟入りをしたり、仕事ができないといっては、補導員に殴る蹴るの扱いを受けて死んでいった。ある時、看護棟入りをする人や、死亡者が続出することが鹿島組本社の注意をひき、一人の医師が鉱山病院から中山寮に派遣されたことがあった。しかし、この医師は病気の治療にきたのではなく、本当の病気なのか、それとも仮病を使っているのかを検査に来たのだった。答える声にちょっとでも力があったり、歩いたりすることのできる人はみんな仮病と診断され、看護棟から中山寮に移されて補導員に梶棒をくわされてから、強制的に現場へ追い出されていった。

 やがて、花岡鉱山にも冬が訪れ、みぞれの降る季節となり、地面は凍りつくようになった。しかし、秋田の冬がはじめての中国人には、夏シャツの上に一組の作業衣が支給されただけで、目撃者のある坑夫は、「冬でも丸はだかに近いぼろシャツ一枚に、背中に雪よけの菰、足にはぼろわらを巻いて、凍った水に脛から股までひたして働かされていた」と『現地調査報告書』の中で語っている。しかも、寮で寝る時に着る一枚の毛布が渡されたのも、雪が降り出してからのことであり、それまでは板の上に着たきりの姿で横になっていたというから、正気の沙汰ではなかった。厳しい冬が終わりをつげるころになると、約八ヵ月前に295人が花岡鉱山に来たのにその三分の一にあたる90人ほどの人たちが死んでいたほか、再起不能の病人や怪我人が40人近くでていた。働く人が減っていくにつれて、仕事は生き残った人たちの上に重くのしかかるようになった。だが、死んでいく人はますます多くなり、工事を順調にすすめていくことができなくなってきた鹿島組では、再び中国人たちを連行してくる計画をたてた。そして1945年5月に587人、同じく6月4日に98人の中国人たちを、新しく花岡鉱山に連行してきたのだった。
 新しく中国人たちがやってくると、鹿島組の補導員たちはその見せしめとして、何人かの中国人を多くの人たちの面前で殺害していった。しかも、食べ物はいっそう悪くなってきたほか、秋田県労働課の指示によって、これまでよりも朝晩二時間の作業時間の延長を中心とした工事突貫期間が実施された。こうした残虐な仕打ちの中で、多くの中国人たちは、「生きているよりは、死んだ方が楽だ」と考えるようになった。

毎日の死体焼き

 林 
花岡鉱山についた晩、会食するのこと言っていた。なに出るか楽しみにしてたら、夜遅くなってから出たの、イワシー匹と饅頭一つね。寮の中に、わたしたちのご飯つくる人いないでしょ。わたしたちの中から料理つくれる人選んでつくったから、遅くなったの。饅頭ね、うどん粉少しより入ってないの。あとはリンゴのカスとか、ドングリの粉でしょ。あとは知らない草みたいなもの、いっぱい入っている。ふわふわしないから、ぜんぜん饅頭の味しないの。だけど、おなか空いてるから、イワシと饅頭、すぐになくなったさ。イワシの頭も骨も、みんな食べた。大きい骨も、残さないね。
 李 
配給のうどん粉、もともと少ないのに、寮長や補導員たち、その粉家に持っていったり、売って、夜、外へ飲みに歩くか、遊びに行くかするでしょ。もともと少ないもの、こうして取るから、もっと少なくなるわけね。足りない分は、山のドングリの粉とか、リンゴのカスとか、干した草などまぜて、饅頭つくるの。その饅頭も、小さいったらないの。わたしたち、重労働者でしょ。一人で一回に、10個以上も食べられる大きさよ。それがたった一個でしょ。しかも、おなかの空いてる時でも、うどん粉の少ない饅頭固くて、ノドを落ちていかないの。そのままの状態で食べた人もいたけど、わたしはその饅頭ほぐして、おかゆ作るの。昼は現場に出るからそんなことできないが、朝と晩はいつもおかゆにして食べた。おかゆにすると、ノド落ちてゆくね。
 劉 
まったくあの饅頭、人間の食べるものでないの。腹の中に入ったら、30分もすると、下痢になってしまうの。下痢はじまると、足とか手とか腫れてくるさ。その腫れたところ指で押すと、ぽこんとひっこむの。中国でつかまえられた時から、食べものこの状態でしょ。からだ弱ってくるのも、当然のことね。
 李 
花岡に着いた次の日に、班編成やったさ。このこと、鹿島組からの命令ね。耿諄大隊長は、船に乗ったとき、もう決まっていたさ。この人、国民党軍の上尉で、性格弱いところあったけど、なかなかできる人ね。その下に、中隊を全部で四つ作って、中隊長置いたの。

 中隊の下に小隊つくって、それから10人の班にしたの。1中隊の中に3小隊つくったから、全部で12小隊あって、その上に小隊長いるの。1つの班には、班長いるの。このほかに、書記、軍需長、看護長がいて、看護長の下に看護班あって、三人の人いたの。これ、だいたいの班編成ね。わたしは前にも言ったけれど、第一中隊の第二小隊やったの。班編成終わると、鹿島組の人や補導員たち、これからの生活とか仕事のこと、隊長や中隊長とか小隊長を集めて教えたね。わたしたちや小隊長、そのこと班の人たちに伝えるわけね。


 劉 
わたしと林さん、看護班にいたでしょ。花岡に着いて三日間、寮の中やまわり整理したね。寮の前に井戸掘ったり、便所つくるの仕事もした。ほかの人たち、畑つくるの仕事した。こんど、川を掘る仕事に出ると、病人とか怪我人が出てきたね。
 林 
看護班の仕事、病人のひと看護することより、死んだ人を焼くの仕事多かった。人死ぬと、寮のうしろにある山に運んでいくの。それから木集めて焼いて、最初は骨をカメに入れたけど、こんど、だんだん多く死ぬのでカメなくなり、木の箱つくって入れたさ。わたしたちのいる看護班の小屋、寮と少し離れたところにあったでしょ。わたしたちのいる部屋と、働けない重病人のいる部屋があって、その奥に、遺骨の箱置いた安置室あったの。わたし中国で、医者のような仕事したでしょ。それで看護班に入ったけど、薬一つもないし、包帯もないよ。重病の人あっても、怪我した人あっても、水でひやしてやるか、背中とか腹さすってやるだけね。結局、病気になると死ぬだけね。大きな怪我した人も同じさ。高橋という、元衛生兵の医務担当の人いたけど、この人、わたしより病気のこと知らないから、なんにもやらないの。一日に一回だけ、看護室に、「どうした」と、顔を出すだけね。鉱山病院にも、大内正という医者いて、わたしたち中国人のことみることになってたけど、看護室に来て治療に当たったの、一回もないでしょ。死んだ人あると、死亡届を書きにくるだけね。その時も、事務所に来て、補導員から聞いたまま書くだけさ。わたしたちにも聞かない。自分で死体みて、手をふれて調べたこと、一回もないの。一日に何人も死ぬ日つづくと、病院で聞き。ながら、死亡届書いたこともあったさ。病気になる人多いのに、医者もこうでしょ。わたしのほかは、誰も病気のこと知らない。わたし、病気の原因わかっても、薬ないからなんにもしてやれない。死ぬのを待っているだけね。


李 
病気といっても、ほんとの病気の人、少ないよ。食べ物悪いし、少しだけでしょ。普通の日でも、朝6時から晩の6時まで、土方の仕事するでしよ。からだやせてふらふらして、どの人もちょっと強い風吹くと、倒れてしまうよ。足の太さも、腕より細いからね。みんな、栄養失調と寒さからきてる病気ね。だから、倒れて重病室に運ばれると、みんな確実に死ぬわけね。死ぬの日、遅いか、早いだけのことね。重病室に入って、生きのびた人、一人だけね。
 林 
わたしたち中山寮に入った最初のとき、死ぬ人あまりいなかったが、日がたっていくと、死ぬ人多くなってきた。だんだんと、からだ弱まってきたからね。はじめての時は、何日かおきに一人か二人死んでいたが、冬に入ると、一日に二人も三人も死ぬ日あるよ。病気になる人も、だんだんと多くなってくるさ。結局、倒れたらダメよ。これ、李さんの言うとおりね。わたし看護班にいたから、中国人のからだのこと、よくわかるの。少しカゼひいて、現場に出られない状態になって、看護棟に運ばれてくるでしょ。それから三日か四日、長くとも一週間寝ていると、もう終わりさ。ぜったいに死ぬよ。病気になって、仕事に出ないと、それでなくとも量の少ない饅頭の大きさ、また小さくなるの。いくらも食べることできないから、からだもっと弱って、病気に勝てないわけね。


 劉 
それでも夏の間、わたしたち山に登って、よく草食べたさ。昼の休み、いくらかあるでしょ。補導員たちに見つからないように、いろいろな草食べたさ。これで、わたしたちだいぶ助かったね。こんど、雪が降ると、この草食べることできないわけね。雪食べても、腹いっぱいにならないからね。
 李 
食べものこんなに悪くて少ないうえに、中山寮の設備も、ぜんぜんダメだからね。わたしたち花岡鉱山に来たの、8月の半ばのことでしょ。昼は暑いけど、夜はもう寒いからね。わたしたち、日本の気候に馴れてないから、とくに寒いの。寝るところ、上下二段のベッドで、板は敷いとるけど、蒲団も毛布も、一枚もないの。着替えるものも持ってないから、そのままごろっと横になるだけね。腕枕にして寝たの。疲れてるから眠るけど、夜中に寒さに気がついて、何度も何度も目が覚めるの。だから、夜も十分に眠れないからいからだもっと疲れるわけね。
 林 
せめて、アンペラぐらい敷いとるといいけど、それもないからね。中山寮のあるところ、かなり高い山の中腹でしょ。夜になると、冷たい風吹きおろしてくるから、寒いの。羽目板の隙間から、その寒い風入ってくると、からだカタカタふるえてくるの。足縮めて、丸くなって寝ても、寒くて死にそうな思いね。


 劉 
中山寮の中に、風呂もないでしょ。からだ、垢だらけでしょ。カミソリもないから、頭の髪やひげ、のび放題さ。一枚きりの衣服、ぼろぼろでしょ。わたしたちの姿、地獄で難行苦行している亡霊みたいさ。

難儀な川掘り作業

 李 
仕事もきついからね。花岡に来て三日間は、寮の中の片づけや、寮のまわりの整理したでしょ。それから四日間は、特別待遇ということで、土方の仕事に出ないで、山を開墾して、畑づくりの仕事したの。この期間終わると、川を掘る仕事に出ることになったでしょ。朝は五時になると、軍用ラッパ鳴って、起こされるでしょ。寒いし、おなかすいとるから、その前に目覚ましていること多いね。顔洗う水もないし、手拭もないから、朝の仕度は、便所に行くだけさ。朝のご飯は、饅頭一つに、皮のついたままのフキ煮たの一本か、細いゴボ
ウの煮たの一本か出て、もう終わりでしょ。わたしはおかゆに煮て食べたから、時間少しかかったけど、腹いっぱいにならないから、あとは水飲むだけね。その水も、あんまり多く飲んでいるの補導員に見つかると、すぐ棍棒とんでくるから、水もあまり飲めないよ。


 林 
労働するの時間、朝の6時からはじまるでしょ。中山寮から川掘る現場まで、かなり遠いね。わたしたちの看護班も、はじめは病人いないから、土方の仕事に歩いたよ。誰か死ぬ人あると、中山寮に運んできて、焼いたけどね。
 李 
遠いさ。あれ、四キロはあるよ。それに、山の坂道が半分以上あるからね。朝くだっていく時はいいけど、晩に帰る時はたいへんさ。途中で息切れて、何度も休むね。休むの見つかると、補導員の梶棒とんでくるから、息切れそうになっても、なかなか休めないの。仕事は、平たい地面のところ深く掘って、水流してくる川つくることでしょ。仕事のやり方、補導員が大隊長に話して、大隊長から中隊長、それからわたしたち小隊長、それから班長に伝わっていくの。仕事の終わる時間、だいたい午後の6時となってるけど、6時に帰れる人、
何人もいないさ。ひとりが一日働く分として、川を掘る面積、1uずつ割り当てられるの。6時までにその分の仕事終わった人は帰れるけど、その分終わらなかったら、暗くなっても帰れないさ。晩の8時ころまで働く人もいたさ。


 劉 
仕事のできない人、わたしたちの寝るころ、中山寮に帰ってくる人もいた。ふらふらして、寮の中も歩けない状態ね。指でポンと押すと、倒れてしまいそうな歩き方ね。その人、次の朝、また6時に仕事に行くでしょ。何日もしないうちに、看護に運ばれてきて、死んでしまうわけね。ひとり一日に1uの面積掘るの仕事、あまりひどいよ。


 林 
現場で働く人、何班にも分けられたでしょ。一班は10人だから、10u割り当てられるわけね。平たい地面のところ、川に掘るわけだから、石が多いでしょ。その掘った石、川の上に運び上げないといけないけど、力ないから、上に運び上げるの仕事、たいへんさ。何十キロもある大きな石、三人か四人かかっても、上にあげることできないの。途中まで上げて、力なくなって、また川に掘った底に落としてしまうこともあるの。そのこと、補導員に見つかるでしょ。牛の皮の干したムチや、棍棒でもって、上に運べない人たちのこと叩く
の。倒れるとカネのついた軍靴で、倒れてる人のからだ、どんどん踏んで叱るの。こうして殺された人、かなり多いさ。

 李 
もっとひどいのことね、晩の8時か9時までかかっても、10uの割り当てられた分、掘れない班もあるでしょ。遅くなって、坂道ふらふらに登って、中出寮に帰ってきても、こんど夜のご飯減らされるの。その時によって、三分の一に減らされるか、半分に減るかするから、からだぜんぜんダメになるね。働きながら倒れる人、多くなってきたの。倒れて重病室に運ばれると、もう終わりさ。あの時の状態、どの人もガラガラにやせて、歩いてもふらふらだから、大きな石運べないの、当然のことよ。


 林 
わたしね、誰とだったか二人で、遠い山から、長い杉の木かつがされたことあったの。生木の長い木だから、重いでしょ。川掘っているところまで来ないうちに、暗くなってしまったの。足ふらふらして、おなかすいて目まいするでしょ。わたしの相棒倒れたの。すると補導員来て、梶棒で叩くでしょ。泣きながら立ち上かって、また二人でよろよろ運ぶの。夜の8時、現場に着くと、二人ともあと動けないの。補導員の清水が、早く寮に帰れと、また梶棒ふるってくるさ。このとき、もう死んでもいいと思った。わたしの相棒、そのとき清水に腕折られて、一生かたわになったよ。


 李 
補導員のろくでなしは、一つの中隊に二人か三人、一つの小隊長に一人はついているからね。わたしたちを殺すために、補導員がいるようなものさ。


 劉 
わたしたちのからだ、やせ細って、歩くのもふらふらの状態でしょ。ところが補導員、なにを食べてるか知らないが、みんな元気でしょ。その元気な人たち、わたしたちのことカー杯に叩くのだから、たまったものでないよ。補導員たちのからだ、肥ってくるほど、わたしたち死に近づいていくような状態だったさ。


 林 
わたしたち、日本人のことばよくわからないね。補導員に「オーイツ」と呼ばれると、もう叩かれるか、踏みつけられるかでしょ。この叫ぶの聞くと、もうからだ固くなったさ。いまでも補導員たちの叫ぶの声、よくわかるね。
 李 
補導員たち、中国のことばわかるの人多いね。ほとんどの人たち、わたしたちの言うのわかるの。だからわたしたち、あまり文句や悪口、言ったりできないの。そのこと聞こえると、また棍棒とんでくるからね。花岡鉱山の普通の人たちも、補導員と同じ態度の人ほとんどね。わたしたち、寮から現場に行く途中に、鉱山社宅とか、家のそば通って行くでしょ。わたしたちのこと見ると、大きな声出して笑うし、子どもたちは、わたしたちのこと見ると石投げてよこした。助けてくれた人、少しはあったかもわからないが、わたしには一度もなかったね。わたしたち髪ぼうぼうに伸びて、ひょろひょろにやせて、目ぎょろぎょろして、風呂に入ったのこと一度もないから、からだの匂いするからね。きたないお化けか思って近づかないの、あたりまえのことね。
 林 
わたしも民間の人に助けられたこと、一度もないさ。わたしたちと道路で会うと、道路わきまで逃げて、黙って見ていたさ。わたし、いまでも思い出すこと、一つあるの。わたしたち、道路に何か食べられるもの落ちていると、なんでも拾って食べたでしょ。そのこと、補導員見つけると、「こら、犬ども」と叫んで、叩くでしよ。腹減ってるから、食べられそうなものあると、なんでも拾って食べたい気持ね。そのこと毎日見ている人、道路のそばに住んでいる女の人ね。わたしたち通ると、腐ったような食べ物、わざと道路に投げてよこすの。わたしたち、それほしいけど、補導員そのこと見てるから、手出せないでしょ。ひとりの入、我慢できなくて、それ拾って口に入れたら、補導員走ってきて、梶棒で何度も頭とか顔叩いたの。その人、片方の耳から血出して倒れたけど、その入、それから片方の耳聞こえなくなったの。ひどいことする女の人いるね。わたしその時のこと思うと、いまでもその女の人の顔わかるよ。憎いよ。草食べて飢えしのぐ。

 李 
花岡にいた時のわたしたちは、日曜も祭日も、ぜんぜんなかったさ。休んだ日、1944年の大晦日に半日と、1945年の元旦の一日だけね。あとの日、どんなに天気の悪い日でも、仕事に出た。しかも、食べ物悪いうえに、少ないでしょ。どの人も、骨と皮ばかりにやせて、生きた顔してる人、ひとりもいないよ。
 林 
わたしたちほとんどの人、農家の生まれで、小さい時から労働してきたから、働くのこと、なんともないよ。働くのこと、好きな人多いよ。だけど、花岡では、食べる物少しよりくれないで、無理に労働させるでしょ。からだ弱って、歩く力のない人、石運ぶ力のない人あると、棍棒で殴ったり、小突いたりするわけでしょ。これではどうにもならないよ。働くこと好きな人でも、働くことできないよ。


 劉 
中国にいた時も、わたしたち、そんなにいい生活してなかったさ。八路軍に入ってからの生活、苦しかったこと多い。食べ物もいいもの少なかったけど、たくさん食べていたからね。腹いっぱい食べると、力出てくるし、働けるけど、饅頭一つに、ゴボウかフキの煮たの半分か一本では、働く力出てこないのは当然ね。
林 
あんまり腹減ってしようがないから、昼休みの時間になると、補導員のいない時に、そっと山に登って、草を取って食べるの人多いよ。だけど、日本の草のこと、どれ食べられるか、食べられない草か、わたしたちよくわからないでしょ。草食べたあと、腹痛む人もあったし、口から白いアワふいて、山ころげまわって苦しんで死んだ人も、一人か二人あったさ。
そのこと見ても、腹減ってくると、また草食べに行くでしょ。わたしたちの手にはいる食べ物といえば、草とか水よりないからね。

劉 
その草食べるのことも、補導員がいるとダメだからね。草食べているの見つかると、また梶棒で殴られるからね。わたしたち、腹減って苦しんでいること、いちばんよく知っているの、補導員たちでしょ。その補導員たち、わたしたち草食べているの見ると、怒るわけでしょ。どんな気持の人たちか、ぜんぜんわからないよ。


李 
夏の間は、それでも草食べられるからいいが、秋になるとその草も枯れて、食べられないからね。食べる物、どこからも拾うことできなくなるよ。しかも、秋だんだん深くなると、骨と皮ばかりにやせたからだ、寒さいちばんこたえるさ。わたしたちの着てるもの、下関に着いた時にもらった夏用の一重物が、二枚よりないよ。履物も破れてしまって、素足がまる見えさ。雪とか、凍った砂とか、冷たい水とか、いつも入ってくるからね。足は凍傷にかかって、感覚なくなっているよ。手袋なんか、一つもないよ。素手で、凍った土や石、雪つかんで働いたさ。


林 
靴下もぜんぜんないからね。雪降ってから、ワラを少しずつ集めて、貯めておくの。そのワラ貯ってから、履くものつくってはいたさ。このワラの靴はいても、足だけかくせることできるけど、あとはかくせないから、濡れるだけね。秋田の冬、雪が深いでしょ。多い時は、腰までも雪があるさ。その雪の中で、半分も破れた履物の上に、ワラで編んだ靴のようなものはくだけで、仕事に出るのだから、苦しいの当然よ。あの時の凍傷のあと、いまも寒くなると痛むね。この傷のあと痛むと、あのころのこと思うよ。忘れようとしても、わたしのからだ忘れさせてくれないわけね。
 李 
着るものだって、ボロボロの下着の上に、薄くて黒いワイシャツのようなもの、たった一枚でしょ。薄いから、強い風吹くと、肌に風ささってくるね。雪降ってる日だと、からだみんな濡れてるから、とくに寒いさ。冬になってから、セメントの入ってきた紙の袋見つけて、ワイシャツの下にその紙まいて、着た人もいたさ。セメントの袋そんなにないから、あたらない人は、ワラで編んだゴザみたいなもの着てる人もいるさ。わたしも、はじめはセメントの袋見つけて着だけど、紙だから濡れるとすぐ破れるから、俵をゴザのように、自分
で編み直しだの着たさ。強い風の吹く日は、ゴザの上からからだに風をとおしてくるから、寒いよ。ぶるぶるふるえて、働くこともできないさ。わたしたち、まるでドロボウみたいなかっこうしていたさ。吹雪の強い日は、寒くて、唸るような声たてて、泣いとる人多いよ。雪の中で働いていて、倒れると、もうそのまま死んでいること多いね。倒れてから死ぬのじゃなくて、死んでから雪の上に倒れる人多いね。
 林 
死んでいく人、最初からわたしたちの手にかかるさ。わたしと劉さん、看護班にいたからね。花岡に来た最初のころは、一人ひとりていねいに焼いていたし、遺骨入れるカメもあったさ。ところが、だんだん多く死んで、焼く木が不足したり、遺骨入れるカメとか、木箱なくなってきたでしょ。こんど、山に丸い穴掘って、一人ひとり埋めて、だれ死んだかわかるように、本に名前書いて立てたよ。これ、あとで掘ったけど、誰のものかちゃんとわかるさ。こんど、冬になって、病気になる人多くなって、一日かひと晩に、五人も六人も死ぬ日がつづくようになったよ。もっと多くの人、一日かひと晩のうちに死んだこともあったさ。こんな時、わたしたち三人の看護班だけで、死んだ人運んだり、穴掘ったりすること、間に合わないの。土凍ってるから、そんなに穴も掘れないでしょ。わたしたちの中でも、病気の人いたからね。こんど、からだの弱い人、三人か四人、死んだ人運んだり、埋めたりする仕事、専門にやるようになったさ。それでも間に合わないと、わたしたちも手伝うさ。こんど、伊勢寮長代理の命令で、山の中腹に、大きな穴掘ったね。深さもだいぶあるさ。わたしと李さんの二人、戦争終わってから、そこに行ってみたことあるけど、大きな一つの穴に、遺骨掘った人の話聞くと、八十何人が入っていたと言っていた。死んだ人、山の中腹にかついでいくと、その穴に入れて、上の方に土かぶせるのでなく、白い石灰あるでしょ、その石灰まいて終わりさ。次の日に、また死んだ人あると、その上にまた死体入れて、石灰まくわけね。その大きな穴から掘られた人、全部そうして埋めたから、どこの人かわからないよ。三日と
か四日、死んだ人なくて、その穴のところに行かないでいると、犬とか猫とか、いたちが穴の中に入って、人間の屍体、食べていることもあるさ。腕とか足とか、食われてなくなっているところもあるさ。食われて散らばっているもの、誰の腕か足か、もうわからないね。冬になって、雪深くなるでしょ。中腹の穴のところまで、運んでいけないことあるさ。その時は、中山寮のそばに雪の穴掘って、死んだ人その穴に埋めて、あとで雪少なくなってから、穴に運んで埋めたこともあったさ。これ、わたしたち勝手にやったことでなく、鹿島組か補
導員の命令ね。生きとる時も、わたしたち虫ケラのようにされたが、死んでからも同じだったさ。

 李 
冬の寒い時のこと、口で言えない苦しみね。着ているもの少ないし、はいとるもの破れとるでしょ。しかも、仕事は川をつくるのことだから、掘った溝の中に、雪のまざった水、膝まであることもあるさ。着物は、上から下まで、全部濡れとるでしょ。暗くなってから、中山寮に帰るね。手足しびれて、やせた足や手の肌の色、黒いような、死んだ人の色のようになって腫れてるよ。こんな時の手足、どんなに叩かれても、痛くないの。火で、腫れた手足あたためると、こんど痛むの。あまりの痛さに、火にあたって、ヒエヒエ泣いとる人いるよ。濡れた着物つけたまま、火にあたって乾かすでしょ。花岡に来てから、一度も洗ったことないから、乾くと鮫の皮みたいにザラザラしてくるから、ぜんぜんあたたまらないさ。冬がきても、着物つけたまま、あとなんにもないから、ベッドの板の上に横になっているだけでしょ。寒いから、ひと晩中ふるえつづけているさ。次の朝、起きようとしても、足とか手が動かないの。板の上に起きあがって、足や手をだんだんに動かして、歩けるように馴らしていくさ。晩に寝る時、次の朝、生きて目が覚めるのかなと、いつも思ったよ。


 林 
わたしたち看護棟にいること多いから、その苦しみは、李さんたちほどでなかった。食べ物悪い、着るもの少ない、夜も寒くて眠れないのつづけば、病人の多くなるの当然さ。冬になってから、いったん病室に送りこまれてくると、次の朝に死んでること多いさ。からだ弱って弱って、死にそうになってから、病室に来るからね。看護棟には、薬も病入用の食べ物もないから、どうしようもないよ。

劉 
雪がたくさん積ってから、第三中隊の人、二人にかつがれて病室に運ばれてきたことあった。彼のからだ、全身びしよ濡れで、氷のように冷えていたさ。目固く閉じて、人事不省になっているの。補導員に殴られて、ダムの中に落ちた二人が、引き上げられてきたわけね。手足にさわると、氷のように冷たいし、耳にロつけて名前呼んでも、ぜんぜん動かないの。胸のあたりに、小さな温みあって、低い息が聞こえるので、生きてるのこと知らせているわけね。だけど、看護棟に火もないから、お湯もやれないし薬もないでしょ。いろいろ考えたあげく、わたし庭に出て、死んだ人焼くための薪持ってきて、火燃やして、暖めてやろうと思っだの。薪持ってこようとしたら、軍需係の任鳳岐が来て、「薪どこに持っていくのか」言うの。「病人のこと温めるためさ」と言うと、この薪、死人を焼くためのものだから、ダメだというの。任鳳岐の奴、もう中国人の心忘れていたわけね。彼の反対で、薪持ってこれなかったけど、そのとき、怒りが胸いっぱいになって、どうすることもできなかった。その晩のうちに、病人は死んだけど、次の日、彼のからだ温めてやることができなかった薪で、彼の屍体焼いたの。口惜しいので、涙流れて仕方なかったよ。

死人の肉を食べる

李 
正月近くなってから、軍隊用の毛布、一人に一枚配給されたよ。この毛布かぶって寝てから、夜も眠られるようになったね。だけど、外はもっと寒くなってきたでしょ。こんど、配給になった毛布ね、からだから腕、それに足と、研究して上手に巻いて、その上にシャツ着て毛布をかくし、外の仕事に出たよ。これやると、あまり寒くないからね。このこと、補導具に見つかると、大変よ。梶棒とんできたり、蹴られたりするからね。ほとんどの人、毛布巻いたけど、この毛布のおかげで、死なないで助かった人、だいぶあるよ。あの毛布着なかったら、わたしも寒さに負けて、死んでいたかもしれないさ。

林 
わたしたち看護班も、毛布からだに巻いたよ。これで、前に比べると暖かくなったけど、こんど、うんとシラミ出たね。わたしたちに配られた毛布についてきたか、日本軍につかまってから、風呂に入ったこと、ただの一度もないでしょ。着替えるものもないから、からだも着物もアカだらけだからね。自分たちのからだから湧いたのか知らないけど、いっぱいからだについたよ。仕事から帰って、小さい饅頭食べて、お湯腹いっぱいのんで、きょうも生きられたと思っとると、シラミの奴、動き出してくるの。痒くて痒くて、もう黙っていられないの。背中に手入れてかくと、皮膚弱っているから、すぐ傷ついて、血流れるの。腹のあたりに、手入れてかくと、爪の間に、シラミ何匹もはさまってくるよ。一人のからだに、何百匹とついとるから、大変よ。夜中にも痒くて、何度も目が覚めるね。着替えるものないから、シラミのついた着物、洗うこともできないからね。


李 
シラミも、昼間は出ないね。なんにも痒くないの。寒いから、シラミも動かないわけね。


劉 
もう一つある。シラミわたしたちのからだの血吸っても、わたしたちのからだ、昼間は半分死んでるでしよ。感じない、ということもあるね。


林 
シラミたくさん湧いて、間もなく正月になったね。わたしたち、花岡に来たころは、誰も時計持ってる人いないし、中山寮の中に、暦もなかったの。あとでわかったことだけど、わざと暦、寮に置かなかったわけね。最初のうちは、誰もきょうは何日か、知らずにいたね。こんど、病人が出るようになって、死ぬ人たくさん出てくると、死んだ人の死亡報告書かく必要あったから、わたしたちの看護棟にだけ、暦一枚きたね。その暦で、はじめてきょう何日かということ、わかるようになったよ。正月きたことも、その暦でわかったね。


李 
大晦日の晩だったかね。日本に来て、わたしたちはじめて肉食べたの。あの時のうまかったこと、いまでも忘れることできないよ。よく覚えてるよ。


林 
大晦日の日、馬の頭と内臓が、わたしたち中出寮に渡されたわけね。肉のいい部分、鹿島組の人とか、補導員たち家に持っていったさ。わたしたち、その頭と内臓、料理したの。みんなで同じ部屋に集まって、食べたさ。


李 
あとのき、食べ終わってから、部屋の中に集まってる人見たけど、中国から一緒に花岡へ来た295人のうちで、死んだ人が90人ばかり、病気の人が40人ばかりいたね。年寄の人はほとんど死んで、あれは焦補学だったか、ひとりより生きていなかったさ。来年の大晦日の時には、この中から何人の顔見られるか、と誰かが言ったとき、部屋の中の人たち、しんとなったこと、いまでも覚えてるよ。今晩か、あすに死ぬの、殺される人、どの人か誰も知らないからね。自分かもしれないからね。
林 
わたしたち花岡に来てから休んだの、大晦日の午後と、元旦の一日だけね。大晦日は肉食べたけど、元旦になると、もうなんにもごっそうはないさ。いつもの小さな饅頭一つと、ゴボウかフキの煮だの、半分か一本だけだからね。


李 
正月すぎてから、この食べ物では、わたしたちのからだもたない。仕事のするのもムリだから、もっと食べる量、多くしてほしいと、わたしたち何度も、鹿島組の河野所長に要求したさ。鹿島組の事務所、中山寮から少し離れたところにあるの。そこに、大隊長や中隊長などと一緒に行って、河野所長の前に坐って、土に頭つけて、もっと量多くしてくれと頼んだよ。とくに、病人の食べ物、わたしたちと同じ量にしてほしいと頼んだよ。病気になったり、からだ弱くなって働くのことできなくなると、看護棟に入れられるでしょ。働かなくなると、食べ物の量も、半分にされてしまうわけね。半分のものもらってきて、カユにして食べていたでしょ。それでなくても小さい饅頭が、半分になるわけでしょ。病人だから、体力つけなければいけないのに、これでしょ。だから、病人になって看護棟に来る人たち、みんな死んでいくわけね。その病人たちの食べ物、わたしたちの食べるのと、同じ量にしてくれと要求すると、事務所の人たち来て、なに言うかと、わたしたちのこと梶棒で叩いたり、軍靴で踏みつけたりするの。もっと困ったこと、わたしたち、もっと食べる物多くしてほしいと要求に行くと、次の日から何日かのあいだ、饅頭の大きさ、もっと小さくなることね、見せしめに、小さくするわけね。これにはわたしたち、ほんとに困ったよ。


劉 
正月すぎてから、変わったこともう一つあるよ。正月の前の饅頭の中にも、リンゴのカスとかドングリの粉入っていたが、本当のウドン粉も、いくらか入ってたさ。正月すぎると、饅頭の中に、ウドン粉ぜんぜん入っていないさ。リンゴのカスもわずかより入らなくなって、なんだかわからない木の皮の粉など、入っているの。口の中に饅頭入れると、臭くて、砂みたいにザリザリして、固くて、とても食べられたものでないの。こんな食べ物ばかりつづくから、からだの弱い人、年寄の人、栄養ぜんぜんとれないから、どんどん死んでいくよ。冬になって、雪いっぱい積もると、食べ物、どこからも拾えないからね。


李 
からだやせて、腹の減る日つづくと、頭のおかしくなる人出てきたね。からだの弱い人、これに早くかかるよ。真夜中に食べ物のこと叫んで、とび起きる人も出てくるさ。わたしの小隊に、李相子という人いた。この人、からだ非常に弱いから、仕事の現場に、とても連れていかれないの。伊勢寮長代理に何度も頼んで、冬のころから、この人に、死んだ人焼いたり、土に埋めたりする仕事させていた。林さんたち看護班のほかに、そんなことだけする人、三人か四人いたからね。それだけ、死んでいく人多かったわけね。現場か、中山寮で死んだ人あると、裏の山に運んでいくの。木集めて屍体焼いたり、木集められない時、穴掘って埋めたりすること、専門にやっていた。そうした人焼くの仕事する人、わたしたち労働する人たちより、食べ物の量が少ないの。病人よりは、いくらか多いけどね。結局、あの人我慢できなくなったわけね。ある晩、わたし発見したね。寝るところの上に、木でつくった自分の箱持ってるの。わたしはじめは、なんの箱かなと思っていた。いつかの晩、李相子が、その箱の中に手入れて、なにか食べているの見たの。なにを食べているのかな思って、次の日、彼がいない時に、その箱の中、さがしてみたでしょ。箱の中に、焼いた、赤いような肉人っているの。寮の中に、勝手に食べられる肉あるわけないから、なんの肉か、ぜんぜん見当つかないの。最初、これが人間の肉とは、思わなかったさ。彼に、これなんの肉か聞いたの。はじめは、いくら聞いても、言わなかったが、何度も聞いてるうちに、人間の肉であること言ったの。わたしびっくりして、その箱取り上げて、食べないように言ったの。だけど、また何日かすると、また人間の肉持ってきて、食べるの。わたしも、一回は叩いたさ。死んだ人の肉食べるのこと、人間のすることでないと言ってね。それに、死んだの人、もしか伝染病あるかもしれないでしょ。お前は、人間でないと怒ったの。あとで、考えたね。そのころのわたしたち、口の中に入れるものあったら、なんでも入れたい気持ね。そのこと、人間のやることじゃないけど、腹減ってるの状態、もう一年近くつづいとるわけでしょ。その苦しみの気持、わたしにもよくわかるの。腹減ってる時の苦しい状態、いま話しても、わかっ   てもらえないことね。


林 
わたし、人間の肉食べること見たことないが、耿大隊長の言うの、聞いたことあるの。耿大隊長が看護棟に来て、死んだ人を焼きに行く人の中で、缶詰のフタで、屍体の肉とって食べとる人いる、これはいかんと言っていた。李相子のほかにも、かなりの人、人間の肉食べたらしい。


李 
人間の肉食べられてることわかった時、この姿、こんどはわたしの姿になるかもしれないと思った。わたしも、我慢できなくなったら、人間の肉でも何でも、食べる気持になるだろうと思ったの。このこと、あの当時のわたしたちの本当の気持ね。
 


蛮行重ねる補導員

林 
花岡鉱山には、わたしたち中国人のほかに、朝鮮の人と、アメリカの捕虜も来ていること、知ってはいたの。アメリカの人とは、あまり近づかせないようにしていたけど、朝鮮の人とは、仕事のやり方わからないことあると、現場に来て、働きながら教えてくれることあったの。そんな時、昼一緒に食べるの見ると、朝鮮の人、わたしたちよりいいもの食べとるね。わたしたちのように、ひょろひょろにやせていないの。わたしたち、腹減らしているの見て、自分たちの食べ残したものとか、余分な食べ物とか、こっそり持ってきて、補導員の見てない時に、それをくれるの。そんないい人、朝鮮の人の中にも、何人もいたよ。その時の嬉しかったこと、いまでも忘れないよ。どこの国でも、いい人はいるよ。朝鮮の人たちの着てる服も、わたしたちのものより厚いし、いいもの着てるから、寒くないわけね。


李 
そのこと、アメリカ人の場合も同じね。わたしたちと顔合わせること、ほとんどないし、近づかせないようにしていたわけね。わたしたちの中山寮より上の方の、一キロばかり離れたところに寮あって、そこに入っているの知っていたよ。アメリカ人の寮にいる人、どれくらいかよく知らないが、400人くらいはいたね。アメリカの人の食べる物、わたしたちよりずっといいの。わたし、見たことあるの。アメリカ人の食べる物、トラックか馬車で途中まで運んでくるでしょ。それから上は、道路悪いから、わたしたちの寮のすぐ上におろ
して、それからアメリカの人が、上の寮に運んでいくの。おろして運ぶ時に、袋や俵、破れるのがあるでしょ。その破れた穴から、中に入っているもの、こぼれるの。アメリカの人、そのこぼれたの拾って、一生懸命にポケットに入れたり、口に入れるかしとるの、わたし見たの。あれは米でないけど、麦かなにかね。わたしたちより、ずっといいもの食べているさ。わたし、その場所に一度行って、10粒くらい拾って食べたことあるけど、本物の麦かなにかね。味でわかるよ。わたしたち、現場へ働きに行く途中、ときどき働きに出るアメリカ人と、道路ですれ違うことあるの。わたしたち言葉わからないし、話しかけるところ補導具に見つかると、梶棒とんでくるから、誰も話しかけないよ。お互いに顔見たまま、通りすぎるだけね。アメリカ人の場合も、わたしたち中国人より、からだやせていないでしょ。顔色もいいよ。わたしたち中国人だけね。ひょろひょろにやせているの。


 劉 
いちばん悪いの、補導員や鹿島組の人たちね。わたしたちに配給にきたもの、家に持っていくわけね。それでなくとも少ない食べ物、ますます少なくなるわけね。わたしたちと同じ中国人で、軍需長の任鳳岐も悪いの。この人、宿直して次の夕方に家に帰る補導員に、わたしたちにきた配給の中からとったもの、紙とか袋に包んで、渡しているの何回も見たよ。彼だけね、一緒に来た中国人の中で、太っているのは。それでなくとも少ない食べ物の中から、補導員がいいものだけ家に持っていくから、わたしたちの分、ますます少なくなるわけね。あの任鳳岐のろくでなしのために、何人の人、飢えて死んだかわからないよ。だから、彼だけは殺されたの。同胞を売ったから、補導員と同じに、皆の憎しみかっていたわけさ。蜂起のとき彼いちばん先に殺された。殺されるの理由、十分あったさ。同胞を売って、自分だけまるまると太ってること、許されないよ。


 林 
わたしたち、補導員のこと、鬼とか、豚とか、鬼豚とか呼んでいたけど、その鬼のような補導員の中で、二人だけ、わたしたちの味方する人いたよ。一人は越後谷義勇さんね。戦争終わってから、この越後谷さんを、わたしたち札幌に招待したことあるけど、越後谷さんに助けられた人多いね。


 李 
越後谷さんの家、花岡から離れた早口にあったでしょ。宿直にあたらない晩、早口の家に帰るね。次の朝、鉱山に働きに来る時、自分の家から、米とかアワみたいなもの、少し持ってくるの。補導員に見つからんように、服のポケットにかくして持ってくるから、少ないわけね。こんど、わたしたちの仕事の現場で、お湯わかしてるでしょ。その大きな湯わかしの中に、ポケットの米そっと入れて火にかけると、薄いおカユみたいなものできるでしょ。そのおカユみたいなお湯、わたしたちに飲ませてくれるの。ほかの補導員見ても、お湯飲んでるとしか見えないでしょ。越後谷さんが現場に来ない時は、晩に寮の中で、わざとお湯わかして、そのお湯の中に米とかアワとか入れて、わたしたちの寝てるところに持ってきてくれるの。服のポケットに、いろいろな食べ物入れてきて、ほかの補導員のいない時、そっと渡してくれたりしたの。わたしたち、その食べ物で、どんなに助かったかわからないさ。鬼みたいな寮の中の日本人にも、こんないい人もいたね。
 林 
正月の元旦のことね。あの時も、越後谷さん、早口から中山寮まで来たね。自分の家でつくったもち持ってくると、小さく切って、わたしたちに配ったの。寮の中の人多いし、少しより持ってこないから、食べた人少ないけど、その気持ね、嬉しいの。越後谷さんのような人、もっと花岡にいると、蜂起なんかなかったね。だから、蜂起の時も、越後谷さんのこと、殺さないように気を配った。越後谷さん宿直室に泊まっている晩に蜂起すると、暗いから、彼どこにいるかわからないでしょ。間違って殺すと、たいへんということになるからね。だから、彼の泊まっていない晩選んで、蜂起をやったの。補導員とか、鹿島組の日本人だったら、誰でもいいから殺せばいいということではなかったさ。悪いことしない人は、殺したくないという気持は、誰にでもあったの。


 劉 
越後谷さんね。この人、まだ少年でしょ。仕事も、事務所で帳面つけてるのこと多いの。直接に、中国人の働いてる現場に来ること、少ないからね。わたしたちのいた看護棟には、毎日のように来たけどね。この人、まだ若いから、軍隊教育みたいなもの、あまり身につけていなかったわけね。越後谷さんのほかに、補導員の中に、もう一人、いい人いたでしょ。


林 
いたいた、石川ね、石川忠助さんね。この石川さんも、わたしたちのこと、助けてくこと多いよ。越後谷さんみたいに、食べる物持ってくることもあったし、あまり殴ったりしなかったからね。補導員の中で二人だけね、わたしたちのこと考えてくれた人は。あとの人たち、みんな鬼豚だったさ。


 李 
この石川さんも、わたしたちの目の前で、二人の中国人を、殴って殺しだの知ってるょ。石持てないほどからだ弱っている人、梶棒で叩けばそのまま倒れてすぐに死ぬの、あたりまえのことね。それも、頭とか顔とか、どこでも叩くのだから、どうにもならないよ。それでも石川さん、福田とか清水にくらべたら、はるかにいい人ね。


 林 
梶棒で叩く時、めくらめっぽうに、どこでも好き勝手に叩くでしょ。梶棒歯にあたると、みんなバサッと落ちるね。梶棒で頭とか顔叩かれて、痛いでしょ。痛いから、頭とか顔に、手あげるでしょ。こんど、その手を叩くの。どの人も、一本か二本か、みんな指が折れとるよ。ひどいものさ。補導員の中でも、小畑と福田がいちばんひどかったさ。この清水わたしたちと同じ中国人でしょ。父か、母だったか、中国の人ね。それで、中国人に悪いのことするのだから、どうしようもないよ。背の低い小畑、この人いちばん悪い。何十人の人
殺したかわからないよ。寮長代理の伊勢、この人も根性の悪い人ね。ひどいことばかりしたよ。戦後になって、この伊勢と、一度会ったことあるよ。伊勢は大館の市役所の職員になって、立派な服着ていたけど、わたしのこと見ても、なんにも言えないの。下ばっかり見ているね。
 李 
食べ物悪くて、栄養失調が原因で死んだり、補導員に殺されたりした人、春になると100人越していたよ。わたしたちと一緒に花岡に着いた人、295人でしょ。そのうちの三分の一の人、死んでしまったわけね。からだ弱って、看護棟の中にいる人も、30人くらいだったさ。中山寮の中に、あまり人いなくなったよ。からっぽになってきたさ。わたしの小隊の中でも、十何人か死んでいたからね。ところが、冬終わって、雪消えると、川掘るの仕事がほんとにはじまったでしょ。働けるの人、半分くらいよりいないから、生き残った人たちの仕事、ますます多くなるの。雪の中でひと冬生きて、どの人もからだ弱ってきてるでしょ。それに仕事多くなってきたから、たいへんよ。
 劉 
寒いのから、暖かくなってくると、からだ疲れて、ダメになってくるのね。春になって、看護棟に来るの人、多くなってきたからね。新しい中国の人たち、中山寮に連れてこられたの、この時ね。

蜂起する中国人(繰り返される拷問)

 中国人たちが残忍非道な虐待に抗して蜂起したのは、1945年6月30日の深夜のことであるが、それまでに死亡した中国人は、次のとおりであった。

1944年8月8日の第一次連行者295人のうち121人。
1945年5月5日の第二次連行者587人のうち23人。
6月4日の第三次連行者98人のうち4人。

前後三回にわたって連行されてきた980人のうち、140人が死んでいるが、このほかに病気や殴られた怪我で身動きのできないのが約50人、一生不治の怪我をした人が生存者の四分の一くらいにおよぶといわれる状態であった。
    〈このままでいると、みんなが殺されてしまう〉

 中国人たちはせっぱつまった脅迫感におびやかされ、こう考えるようになっていた。敗戦 直後に、花岡鉱山に派遣されて中国人を診断した高橋実医師は、
「もはやかれらは、死か抵抗かのいずれかを選ぶよりほかに道はなくなった。それは、このひとびとがついに奴隷であることにがまんしきれなくなった日”であった」(「ひとつの事実」−『社会評論』 一九四六年七月号)と書いているが、まさにそのとおりであった。こうした状況の中で、蜂起は計画され、実行されたのであった。

 蜂起の計画は、耿大隊長をはじめ、中隊長や小隊長たちの間で、綿密な計画と周到な準備のもとにすすめられた。第二次や第三次連行者たちが洩らした消息、「日本の戦況は日一日と不利になり、空襲も激しさを加えているから、日本本土への上陸作戦も間近い」という情報が、蜂起の計画をいっそう早めた。

 蜂起の計画は、6月30日の晩飯のあとに、耿大隊長から全員に伝えられた。

 「李克金は20人を連れて、事務所の窓口を守る。劉玉卿は30人を連れて、四方の要地に伏兵をおく。これは、補導員の脱出と逃亡を防ぐのだ。李黒成は電話線の切断を担任する。張金亭は20人を連れて、室内に入って敵を殺す。それから張賛武は比較的強壮な同志80人を連れて、米国人俘虜収容所の日本兵を襲撃する。劉錫方は20人の同志を連れて、花岡警察局を襲撃する。看護班の任務は、外で全員が漱起したのを見すまして、直ちに病人を山の上に移すのである。そして最後に、羅士英の監督の下に放火し、中山寮全部を焼き払う。

手を下すのは、深夜、補導員たちの熟睡したのを見てやる。このために今晩は、全員が本当に寝てしまってはならない。仕事を分担された同志たちはすべて鍬をこっそり身辺に隠し敵を殺す武器にする」(劉智渠述・劉永姦・陳苓芳記『花岡事件−日本に俘虜となった一中国人の手記』中国人俘虜犠牲者善後委員会刊)だが、このように綿密な計画をたてたにもかかわらず、待っているのにしびれをきらした張金亭が、まだそれぞれの人が任務の部署につかないうちに、軍需室に入って任鳳岐を殺した。任の悲鳴があまりにも高かったので、補導員の逃亡を防ぐために配置されることになっていた人たちが、まだ寮の中にいるうちに、補導員の宿直室になだれ込んだ。猪股清と檜森昌治の二人は宿直室で殺され、あとは窓を破って逃亡した。そのうち、小畑惣之介と長崎辰蔵は追いつめられて殺されたが、あとの人たちは逃げていった。そして五分もたたないうちに、事件を知らせるサイレンが、深夜の鉱山町に鳴りわたったのである。

 このため、計画の中にあった米軍人俘虜の解放も、花岡警部派出所の攻撃も、中山寮の放火も中止となり、約800人の中国人たちは、われ先にと暗闇の中に逃亡していった。しかも、リーダーもなく、サイレンが高々と鳴り響く暗い夜中に、ひょろひょろにやせた人たちの逃走なだけに、決して早いものではなかった。朝が明けて気がつくと、かなり遠くまで逃げたつもりのものが、花岡鉱山が目の前に見える高さ250メートルほどの岩場の多い獅子ヶ森という山の中腹に、大部分の中国人たちがいたのである。しかも、病人や落伍者たちは、蜂起してから二時間もたたないうちに、寮からそれほど離れていない場所で捕えられた。獅子ヶ森にたてこもらなかった中国人は、山を越した隣の村とか、国道に添って青森県境に逃げるなど、ほとんどの人がバラバラになった。

 花岡鉱山での中国人の蜂起は、大きな衝動をあたえた。その鎮圧のために多くの警官や民間人が集められたが、『秋田県警察史』(下巻)はその状況を次のように記録している。

 「事件発生の7月1日から、平静になった7月6日まで、大館、花輪、扇田、鷹巣、米内沢、ニツ井、能代、青森県大鰐の各警察署で動員した延人員は、警察官494人、警防団7,544人、一般民間人13,654人、計21,692人で、このほか警察部をはじめ県内各署から延536人が取調べなどで動員された。また、秋田、青森各地区憲兵隊、弘前憲兵司令部から延222人、仙台俘虜収容所第七分所(花岡町所在)から警備隊員延25人、秋田地区警備隊から7人が出動した。花岡町における民間団体としては在郷軍人179人、鉱山青年学校延122人、警防団延128人、鉱山警備隊延52人、鉱山男子義勇隊延127人、同女子義勇延140人、鹿島組延724人、秋田士建121人、清水組延155人が出動した」警察の資料によると、延べ24,106人が鎮圧に動員されたのだが、このように厳重に警戒された中で、空腹と疲労で衰弱しきった中国人は次々と捕縛され、花岡鉱山の共楽館という劇場の広場に集められた。しかも、獅子ケ森などで抵抗した十数人の中国人は、日本刀とか竹ヤリなどで殺されたが、殺した人たちというのが警察とか憲兵ではなく、民間人である消防団員や青年団員などであった。

 また、獅子ケ森からさらに遠くへ逃げた人たちも、各町村の消防団員や青年団員などに捕えられて、花岡鉱山に引っぱられてきた。その当時、花岡鉱山に勤めていたある娘さんは、目撃したことをこう語っている。
                  
「小坂線の汽車の中で、二人ずつつながれてくるのをみた。フラフラしているのに、力いっぱい丸太でなぐられていた。本当にかわいそうなものだった。それでもその時、敵の国の人間だと教えられていたから、にくいと思ってみていた」(『現地調査報告書』)また、山奥に逃げ込んで、山狩りされて捕えられた人たちの場合も、悲惨なものであった。隣の早口村の山奥にある山田集落に逃げた中国人の模様を、消防団長は次のように語っている。

「この山田部落にも、五、六人の中国人が山を越えて逃げてきた。警察から、部落に放火するかもしれないから、消防団でつかまえてつれてきてほしいと連絡があり、二人つかまえて花岡の共楽館につれていったが、二人でしばられ、坐らされていたのを目撃した。その二、三日後、山田部落の保滝沢で三人つかまえたが、ヒローコンパイその極に達し、ロもきけない状態であった。中国戦線から復員した若者二人が中国語で話しかけたが、返事もできない状態で、それが気にくわぬと軍靴で顔をふむ、蹴る、殴るをした。この人たちが殴ったためかどうかは知らぬが、とにかく三人とも死んでしまった」(『現地調査報告書』)

 こうして共楽館前に集められた中国人たちは、二人ずつうしろ向きに縛ら
れ、砂利の上に坐らされた。真夏の太陽がジリジリと照りつける炎天下に、水も食べ物もあたえられず、三日三晩にわたって拷問と虐殺がつづけられた。共楽館前の広場での中国人を見た鉱山労働者は「全くフラフラにつかれはててから逃げだしたのだろうから、つかまえられて共楽館前につれてこられただけで、死んでいたものが多かったろう。全部二人ずつ後手にしばられて、坐らされていた。あの暑い時、三日三晩も坐らされ、たたかれたのだから、ただでさえたまったものではない。便所へゆくのも二人つながれたまま、死んだ相手をひきずりながら、みな用を足していた。出る小使はみな血であった。ところが、水ものまされずのどがかわききった彼等は、それに口をつけてのんでいるものもあった。本当に気の毒だ、かわいそうだと思っても、ピストルや剣をつきつけた将校がゴウ然とかまえて、憲兵や警官を指揮しているのを見ると、誰も口にだせるものではなかった。言ったらすぐにやられる。血気の多いものはぶんなぐったり、つついたりした人も沢山あった。あの当時は、あの様な気持にされてしまっていたのだ」と語っている。(『現地調査報告書』)

三日三晩にわたって、残虐非道な拷問を受けて殺された中国人は、113人であった。


敗戦後も重労働続く

 四日目に、花岡派出所の留置場に入れられている主謀者の13人を除いて、再び全員が中山寮に収容された。こんどは、棍棒を待った補導員にかわって、武装した警官が監視にあたるようになった。数日後からは、主食の饅頭に混っているものがいくらか少なくなったほかは、以前と変わらない重労働がつづけられるようになった。この後も、病気で倒れる人や、警官などに殴られて死ぬ人などが、あとをたたなかった。

 その当時、大館警察署長として鎮圧の先頭に立った三浦太一郎は、二七年後にそのことを回顧して、次のように語っている。

 「(蜂起して)つかまえた人たちは、共楽館へ連れていかれました。ところがね、アメーバ赤痢だとか、いろいろな病気をもった連中でしょ。だから、鉱山の慰安施設である共楽館の中に入れるわけにはいかないと鉱山側がしぶるんですな。考えればムリもないが、そのとき私は腹がたった。そうこうしているうちに、警防団が出てきたりして、警備隊とか応援にきた入らが、結局、共楽館に集められたんです。あとで広場に放置したということになってしまったが、二日目からは、食糧もちゃんと与えましたよ。共楽館で拷問が行われたといいますが、そんなことはない。あえいでいる中国人の顔へ水をふきかけてやり、助けてやったりしたものです。横浜のB級裁判では、そんな証言は取り上げられなかった。『敗戦国民が何をいうのか』のひとことで終わりですよ」
(「日本で中国人は何をされたか」−『潮』一九七二年五月号)


 三浦が言うように、中国人にたいして拷問も虐待もなく、食糧もちゃんとあたえられていたとすれば、共楽館前だけで121人の死亡者が出るはずがない、と考えるのが普通であろう。一方、花岡派出所の留置場に入れられた13人のリーダーたちは、一週間にわたって拷問を受けたのちに、秋田市の秋田刑務所に移されたが、その状況を『秋田県警察史』(下巻)では、こう記している。

 「事件発生以来逃亡者の捜査、逮捕に主力を傾注した結果、7月7日にいたり752人を逮捕、謀議参加または殺人実行行為者としてつぎ13人を国防保安第十六条第二項の戦時騒擾殺人罪で送局した。

(筆者注・カッコ内は年齢)
 首魁=耿淳(30)謀議参与=李克金(28)孫道敦(44)張金亭(32)趙書林(36)劉錫財(32)劉玉郡(30)劉玉林(37)殺人=宮耀光(22)李広衛(27)張賛武(23)楷万斌(27)李秀深(23)」

 だが、8月15日に日本が無条件降伏をした二日後の8月17日に、内務省主管防諜委員会から敗戦にともなう「華人労務者ノ取扱」について、関係者に通達が出された。その内容は、中国人の労務を中止し、賃金を払い、衣食を支給し、留置者は即時釈放し、死亡者の遺骨を整理し、送還の準備をせよ。というものであった。

 しかし、こうした通達がとどいても、鹿島組花岡出張所では中国人たちを解放するどころか、敗戦前とまったく同じ状態のままで、強制労働をつづけさせた。鹿島組傘下の死亡者を見ると、八月は49入、9月は68人、10月は51人が死亡している。

 その後、9月2日に日本は連合軍の降伏文書に署名し、長くて暗い戦争は正式に終わった。

日本軍が捕虜にした連合国軍人や抑留者にたいしても、

 一、捕虜と被抑留者を虐待したものの処罰
 二、捕虜と被抑留者にたいする解放、保護、送還
 三、捕虜と被抑留者にかんする報告

の三点をくり入れた「降伏文書」や「連合国最高司令官総司令部一般命令第一号」などが発令され、中国人の強制連行と労役も終わりをつげたにもかかわらず、鹿島組花岡出張所の中国人たちには、戦争状態がつづいていたのだった。

 花岡の中国入たちが日本の敗戦を知ったのは、日本がポツダム宣言を受諾してから1ヵ月半もすぎた9月中旬のことである。ある日、一台の飛行機が花岡の上空に飛んでくると、花岡にある仙台俘虜収容所第七分所のアメリカとオーストラリア人たちに、物資を投下した。

 はじめて日本の敗戦を知った中国人たちは、すぐに仕事をやめて中山寮に帰り、今後の対処の仕方などを検討した。しかし、そこに入ってきた鹿島組の係員は、「仕事に出ないと飯を食べさせない」と威嚇するし、三浦大館署長も寮に入ってくると、「指示を聞かない人は容赦をしない」とおどした。

 中国人たちが敗戦の内容を知ったのは、その翌日に、花岡派出所に留置されていた通訳の于傑臣が釈放されて中山寮にもどってからだった。日本は無条件降伏をしたことや、耿隊長たち一三人は秋田刑務所で無事であることも知らされた。耿隊長たちはすでに死刑にされたと、中国人には知らされていたからだった。

 このことは、秋田刑務所に収容されている13人の場合も同じであった。ポツダム宣言受諾後も日本の敗戦は知らされず、戦争状態がそのままつづいていた。しかし、1945年9月15日に、秋田に進駐する第八先遣隊として、ページ少佐以下の将校たちが山形県の新庄からジープで秋田入りすることが決まったが、その四日前の9月11日に、秋田地方裁判所では、起訴していた13大の中国人に、大急ぎで判決をいいわたしたのである。

 叛乱罪を主張した憲兵隊が解散され、特高もなくなってしまったにもかかわらず、「『戦時』の騒擾殺人罪を、『戦後』に裁判した」(石飛仁『中国人強制連行の記録』太平出版社)のであった。しかも、占領軍が進駐してくることを知って、その直前にあわてたように裁判をしたのである。形式的にしろ、中国人たちの弁護にあたった秋田市弁護士会長は、この時の「法廷は国法の尊厳に輝いていた。わずかに法灯を守りつづけた人たちが、世評をよそに三ヵ月の苦労をつづけて、今日の判決に導いた誠意に慰められた」と、判決後に語ったという。
(赤津益造『花岡暴動』三省堂新書)


 
虫ケラのように殴殺

 林 
新しい中国の人たち来だの、あれは春になってからのことだったね。はじめに600人ばかり来て、それからひと月ばかり遅れて、また100人ばかり来たさ。その人たちみんな入ったから、こんど、中山寮の中狭くなったね。一人分のベッドに、二人も三人も寝るようになったさ。新しく来た人たち、わたしたちみたいにひょろひょろやせてないし、元気な人多いでしょ。それに、中山寮のいろいろなこと、知らない人多いからね。新しい人たち来た時、何人もの人たち、補導員に殴り殺されたよ。見せしめね。


 李 
わたしの小隊に、薛同道という人いたの。この人のからだ大きいから、とくに腹減るわけね。その日も、腹減ってどうしようもないから、仕事の途中に、裏山に登って、青くのびた草食べていたわけね。仕事終わって、寮に帰る点呼とったら、わたしの小隊でひとり足りないわけね。補導員が小畑だから、とくに悪いよ。小畑は、「逃げたに違いない。みんなで探せ」と、山とか田んぼとか探した。そのとき、裏山で草食べてる薛さん見つかったさ。縛って寮の前に連れてくると、新しく花岡に来た人たち集めて、みんな見ている前で、梶棒で叩いたね。頭でも、首でも、背中でも、どんなとこでも、好き勝手に叩くさ。倒れると、こんど踏むわけね。薛さんのからだ、血流れて、腫れてくるの。気失った薛さん、病室に運び込まれて、ひいひいと苦しそうに呻いて、三日後に死んでいったさ。わたし、薛さん死んだ晩、病室から寮に帰ってくると、耿大隊長に言ったね。「わたしたち、このままでは生きられない。生きる方法ないか」と。耿大隊長、黙って首を振るだけのことね。


 林 
からだ弱って、看護棟に運ばれて来た人に、趙老人という人いた。花岡に来た年寄の中で、いちばん長く生きたの、この趙老人ね。この人に、趙青児という息子いて、わたしと同じ看護班にいたの。親子で一緒に、日本軍につかまったわけね。趙老人が息引きとった時、趙青児そばにいて、大声でおんおん泣きだしたさ。そこに、小畑人ってきて、泣いている趙青児のこと足で蹴って、「死ぬやつは死なしておけ。泣くやつあるか」と叫ぶわけね。自分の親死んで、悲しくない人、どこにいるね。日本人の補導員、畜生よりもひどい人ばかりね。
人間の心、ひとかけらも持っていないよ。
 劉 
誰だったか、中国に帰るのことできた人でね、空腹の日つづくから、頭おかしくなったわけね。いつだったか、お昼の時、自分の分の饅頭食べてから、ほかの現場に、食べる物下さいと行ったわけね。そのこと補導員に見つかって、半殺しになったの。叩かれたり、煙草の火つけられたり、レール真っ赤に焼いて、足の間に挾まれたりして、お尻の肉、焼けとけちやったよ。あの人、いまでもお尻の肉ないと思うよ。看護棟に運ばれてきたけど、薬もないから、たいへんさ。傷ひどくなって、もう死ぬ状態になったさ。その時、日本の敗戦の
ことわかって、アメリカのペニシリン手に入ったの。それに、食べ物もよくなったでしょ。あの人、めずらしく助かったわけね。敗戦わかるの、もう一週間おくれていたら、いのちなかったね。この人の助かった理由、第三回目に来た人で、まだあまりからだ弱っていなかったの。わたしたちと同じに来た人だったら、もう助からなかったね。
 李 
新しい中国の人たち来てまもなく、仕事する時間、朝と晩で二時間ほど長くなったでしょ。それに、食べる物悪いから、腹減ってくるの当然さ。腹減って、草食べてるの見つかると、叩いて殺したり、片輪になるほど叩いて怪我させるのだから、ひどいよ。もっとひどいこと、同じ中国人に梶棒で叩かせることね。道路に捨ててあるもの拾って食べたとか、歩きながら道端の草引っぱって食べたとか、理由にならないようなことで、縛って寮に連れてくると、わたしたちを集めるの。一人ひとりに梶棒持たせて、縛ってある人のこと、叩かせるわけね。はじめのうちはいくら言われても、誰だって殴ったりしないでしょ。すると、補導員たち、命令きかないといって、叩かない人たちのこと、殴るの。どんなことされるかわからないし、殴られると痛いから、叩くようになるの。相手が痛くないように、叩こうとするから、力人らないでしょ。そのこと悪いといって、また叩くの。何人かで一人の人を叩いて、気が遠くなって倒れるでしょ。そのこと見ると、補導員たち喜ぶわけね。こんなひどいことないよ。人間のやることじゃないよ。


 林 
見せしめということもあったけど、中国人にそんなことやらせて、喜んでるわけね。叩かれる人もたいへんだが、叩く人もたいへんなわけね。
 李 
一日に一人か二人か、補導員に叩かれて死ぬ人あるよ。怪我して動けない人も、どんどん増えていくね。補導員たち、悪いことした人を叩き倒すと、こんど、わたしたち中隊長や小隊長集めて、「お前たち、教育するの足りない。だから、草食べに歩く。人の捨てたもの、拾って食べるのは、人間のクズだ」と、わたしたちのこと叩くの。死ぬほどは叩かないけど、毎日だからたいへんさ。自分の生きるの、あとIヵ月あるか、ニカ月あるか、そのたびに考えたよ。叩かれた人、すぐに死んでいくから、そのこと、いつ自分の身の上にふりかかってくるかわからないさ。


 林 
叩かれると、すぐ死ぬ人多いよ。気絶して、看護棟に運ばれてくるでしょ。その晩のうちに、血吐いて死ぬ人ほとんどね。どんなにひどい殴られ方したか、これだけでもわかるね。


 劉 
棍棒で殴ったり、殴り殺したりするのこと、寮の中でもあったさ。栄養のある補導員たち、力いっぱい、思いっきり殴るからね。いまくらいの元気あれば、棒で少し叩かれても、死ぬことないよ。栄養失調になって、ようやく息しているの状態で、歩いても空腹でめまいするからね。叩かれて倒れても、わざと倒れたと思うとるから、倒れた人のこと、また叩くから死ぬわけね。だから、1945年の三月ごろになると、一日に五、六人も倒れることあって、蜂起する時は、みんな倒れてしまうの状態だったからね。蜂起したの原因、これ一つね。


 李 
毎日のように誰か殺される日つづいていたとき、劉沢玉も、夜中に食べる物さがしに出たの、見つかったの。寮の前とかうしろに、ちょろちょろの水流れる小さい川、たくさんあるの。その小さい川の中に、小さなカニとか魚がたくさんいるからね。補導員が寝た夜中に、川に行って、それ取って食べるわけね。たくさんの人、夜中に寮から出て、それ取って食べたけど、運悪く、劉さん見つかったわけね。ひと晩、縛られたまま、寮のそとになげられていた。次の朝、わたしたち小隊以上の人、みんな事務所に集められたさ。伊勢が劉さんの罪のこと説明してから、わたしたちに、劉さんのこと殴らせようとしたの。だけど、わたしたち前に、同胞の人殴って、気絶させたことあったでしょ。その時、どんなことあっても、わたしたち殴り殺されても、同胞を殴ることはしまいと、相談して決めていたの。こんど、わたしたちに叩くように、脅迫したり、殴ったりしたけど、誰も叩く人いないでしょ。そのこと悪いといって、劉さんのこと裸にして、六人も七人もかかって、好き勝手に棍棒で叩いたり、靴はいた足で蹴ったり、踏んだりするの。劉さん痛いから、大声あげて、泣きながら机の下に逃げていくでしょ。机の下から引っぱってきて、またどんどん叩くの。気絶するでしょ。バケツに水汲んできて、倒れとる劉さんにかけるで史よ。気がつくでしょ。また、「このヤロウー」と叫んで叩くの。事務所の中、劉さんの大便でたのとか、晩に食べたカニの吐いたのとか、いっぱいちらばったね。もう弱って、立って逃げられないね。それでもまだ叩くから、こんど、転んで逃げるでしょ。からだに大便とか、吐いたのとかつくの。それ、人間のかっこうじゃないね。こんど、清水がね、鉱山で使うレールあるでしょ。そのレール、炊事場のかまどの火で、赤く焼いたの持ってきたの。あの時のこと、いまでもはっきりと覚えとるよ。息もつけないほどになって、倒れとる劉さんの股に、その赤く焼けたレール差し込んだの。劉さん、悲鳴あげて、その赤く焼けたレール、手でよけようとするでしょ。手が黒い煙だして、焼けていくの。焼ける音もするさ。こんど、補導員が何人も寄って、劉さんの手とか足押さえて、股にそのレールあてたの。部屋の中、人の焼けた煙で、いっぱいになったさ。劉さん、こうして殺されたの。わたしたち、そのこと全部見ていた。手助けすると、自分も殺されるかわからないから、誰も黙っていたけど、そのやり方、あまりにもひどいよ。


 林 
苦しい殺され方した劉さんのこと思うと、いまでも涙出るよ。あの朝早く、事務所に来いと、看護棟にいたわたしたちに連絡あったでしょ。わたしと誰か三人か四人か、事務所に行ったでしょ。劉さんの屍体、早く持って行けと叫ばれて、看護棟に運んだけど、もうその時死んでいたよ。めちゃくちゃに殴られて、顔の形もちゃんとわからないくらいにね、殴られて、顔の形、変わっているの。殴られたところとか、レールで焼かれた股とか、血が出たり、ベトベトしているの。もうこれ、人間の姿じゃないよ。病室に入れたでしょ。あまりのひどい仕打ちに、病気とか怪我の人たち、みんな声出して泣いたさ。そこに清水の鬼豚人ってきて、「泣いているの誰だ。早く埋めてしまえ」と、どなって歩くの。その朝のうちに、穴掘って埋めたけど、劉さんの殺され方、いちばんひどいね。

蜂起を計画

 李 
わたしの寝ている部屋、大隊長のすぐ隣なの。劉さんが殺された夜中に、わたし、大隊長のところに、話にいったの。「このままではわたしたち、いつ殺されるかわからない。早く逃げよう」と言ったの。大隊長、このとき覚悟決めたね。これ、蜂起のはじまりなの。わたしたちの蜂起、戦争敗けるの時までのびていたら、もっと多くの人たち殺されていたね。わたしたち、どうせ死ぬか、殺されるかするの、わかっていたさ。朝くると早く起こされ、仕事に出るでしょ。夜は暗くなってから、寮に帰ってくるでしょ。食べ物ぜんぜん悪いから、
立って歩くのもようやくの状態よ。それに、毎日のように、誰か殺されてるでしょ。生きていく気持、ぜんぜんないよ。早く死にたい、死ねばいまより楽になる、そう考えている人ほとんどね。どうせ、遅いか早いか、わたしたち殺される。このまま殺されるのだったら、わたしたちの同胞殺したり、わたしたちを苦しめた奴らを、この手で殺してやれというのが、当時のわたしたちの気持ね。このままにしていると、わたしたちみんな殺されるという気持、どの人にもあったさ。蜂起して、失敗しても、もともとさ。どうせ、一ヵ月か二ヵ月すれば、自分にも殺されるの当たるの、確実でしょ。生き残れる道、一つもないからね。日本まもなく敗けるのわかっていたら、もっと我慢して待っていたよ。中山寮に新聞もラジオも、なんにもないから、戦争どうなっているか、ぜんぜんわからないでしょ。新しく中国から来た人たちの話聞くと、日本の戦争、かなり苦しくなってることわかったけど、一ヵ月半の後に敗戦になるほど敗けてきていること、わたしたちぜんぜんわからないでしよ。死んでもともと、生きるには蜂起するよりほかになかったさ。


 劉 
わたしは看護班にいたから、その蜂起のこと、相談されたことなかったけど、一度でいいから、早く中国に帰りたい気持、誰にもあったね。病室で死んでいく人たちのほとんど、最後に、中国に帰りたいとか、母とか、妻、子どもの名前よんで、息引きとっていったからね。


 李 
いちばん最初に、蜂起の計画を相談したの、大隊長の耿譚でしよ、それに趙樹林、李克金とわたしの四人だったの。みんな劉沢玉の殺されるの見た、中隊長と小隊長たちね。相談するとしても、たいへんよ。昼は、とてもできる相談じやないでしょ。話してるの見つかるだけで、殴られるからね。劉さんの殺された日の晩、仕事から帰って、饅頭一つの夕食終わって寝たでしょ。夜中に、何回か補導員がまわってくるね。そのまわってくるの終わって、次にまわってくるまで、四人で大隊長のところに集まったの。そこで、蜂起すること決めたの。この計画、補導員たちに洩れるとたいへんでしょ。はじめから、多くの人に、話拡げないようにしたの。補導員まわってくるから、あまり長い時間、相談もできないでしょ。ちょっと集まって、相談するでしょ。こんど、便所に立ったふりして、また自分のところにもどって寝るでしょ。そんなこと、ひと晩に何回もやって、だんだんと相談固めていったの。計画かなり固まってから、口の固い人にだけ、またこの計画の話拡げていったの。蜂起の計画に参加したの、8入だったよ。あとの人たち、このことぜんぜん知らないさ。蜂起する晩になってから、全員に知らせたわけね。


 林 
わたしたちに知らされたの、蜂起の晩の9時ころだったからね。はじめはビックリしたけど、みんな、すぐその気になったからね。
 李 
計画の中で、わたしたちどうするか、詳しく決めて、その担当も決めたの。近くに、朝鮮の人たちの入ってる、東亜寮というのあったの。その寮のこと、知っている人多いよ。アメリカ兵のいるところは、知らない人多いね。アメリカ兵いることわかっていたし、だいたいの方角も見当つくが、場所は知らない。最初の計画から、わたしたちだけでなく、東亜寮の朝鮮人やアメリカ兵も解放して、一緒に立ちあがるのこと決めていたの。わたし、中国でゲリラの経験あるでしょ。からだ強くて、ゲリラの経験あるの70入ばかり連れて、東亜寮とかアメリカ兵のいる寮の日本人襲って、武器とりあげて、解放した人たち一緒に連れていく計画だったの。確か劉錫さんだったか、彼は20人くらいの同志連れて、花岡の警察派出所襲って、武器奪うことにしていたの。武器がいくらかあるの、知っていたからね。わたしたちの手に、武器ぜんぜんないでしょ。蜂起しても、武器ないと、なんにもできないでしょ。わたしたちだけで、800入くらいでしょ。それに、朝鮮人が300人くらい、これにアメリカ兵たち入れると、1,300人くらいになると考えたの。これに武器あれば、たいへん力になるという計画だったの。夜中に蜂起して、山の中に逃げるわけね。食糧も倉庫から持っていくから、当分食べられるでしょ。皆で山の中を逃げて、海に出るの。海の港か浜に、ボートか船あったら、それ盗んで乗り、中国に帰りたいと考えたの。それだけわたしたち、中国に帰りたかったの。わたしたち、かなり詳しく計画したよ。宿直室に寝てる補導員を襲う人たち、窓から逃げる人を待ち伏せする人たち、電話の線を切る人など、みんな決めたの。
 劉 
わたしたち看護人に伝えられた仕事、全員が蜂起したの見て、山に病人を運ぶことだったさ。


李 
病気とか怪我の人たち、たくさんいたからね。計画どおりみんなやってから、中山寮に火つけて、焼くことにしていたの。計画できて、実行することになったでしょ。わたしと張金亭さんの二人、その日、仮病使って休んだの。腹痛くて、仕事に出られないといってね。昼の間に、寮の中とか、事務所の様子など、二人で詳しくさぐったの。そしたら、補導員の中でもいちばん悪いの小畑と福田が、その晩は家に帰ることになっていた。それに、わたしたちによくしてくれる越後谷さん、この晩は泊まりに当たっているのわかったの。いい人は、殺されないでしょ。夜中に襲うと、どの人かわからないから、殺してしまうかもしれないからね。計画に参加した人たち、飯場に帰ってきてから、そのこと相談したの。やはり、そのことダメと決まったの。こんど、蜂起のする日、6月30日の深夜に延期したの。誰の気持も同じね。わたしたちによくしてくれた人、殺されないからね。6月30日の日も、わたし仮病使って休んだけど、その日、誰か補導員の一人来て、「お前、仮病使っている」と、寝ている上から、どんどん叩かれたけど、吐くの真似して、寝ていたの。30日の晩、越後谷さんともう一人の石川さんの二人、寮に泊まらないことわかったの。あとの補導員とか通訳たち、みんな寮に泊まることわかったでしょ。この日よりないと、この晩に蜂起すること決めたの。だけど、早く知らせると、どこから洩れるかわからないでしょ。蜂起する直前まで、秘密にしておいたの、いつものように小さい饅頭食べて、みんなでシラミ取りしたりして、寝る時になってから、中隊長や小隊長が自分の部下に、蜂起のこと伝えたの。その時の時間、
もう9時すぎていたと思うよ。

早すぎた蜂起

李 
蜂起のことみんなに伝えてからまもなく、小畑が見回りに来たの。戸開けて入ってくると、大きな足音たてて、部屋のなか回って、出て行ったね。わたし、身動きもしないで黙っていたけど、からだ汗ビッショリさ。蜂起の計画のこと、バレるのじやないか、誰か小畑の前にとび出して、蜂起のこと知らせるのではないかと思って、ピクピクしたよ。それから11時までの時間の長いこと、たいへんよ。からだ疲れてるけど、眼冴えているでしょ。眠ること、とてもできないさ。あまり部屋の外に出ると、あやしまれるから、ダメでしょ。寝ながら、いろいろのこと考えたさ。もう死ぬかもしれないからね。でも、わたしたち中国人に ひどいことばかりした補導員たちに、まもなく復讐するのことできるから、死んでも残念だという気持、あまりなかったね。ただ、一度中国に帰りたいの気持、これ、強かったさ。


林 
わたしのいる看護棟の病人とか、わたしたち看護班が蜂起のこと知ったの、看護長の劉玉林が知らせてくれてからのことね。病気の人たち、劉さんの話、黙って聞いていたね。補導員の奴らに、もっともひどい仕打ちされたの、病人たちだからね。それなのに、自分の手で仕返しのできないこと、残念なわけね。みんなの気持、蜂起うまくいってくれと、祈るようだったさ。蜂起はじまると、みんなで助けあって、山に逃げていくこと、わたしたちにきた命令ね。


劉 
蜂起の計画知らされてから、怪我の人、たいへんだったさ。傷口とか折れた手足とか、ちゃんとしておかないとダメでしょ。だけど、包帯もぜんぜんないでしょ。こんど、わずかに残っている着物さいて、包帯つくったの。だけど、準備してるのこと、補導員に見つかると、たいへんだからね。かくれて、少しずつやったの。
李 
夜中の11時ころ、わたしたちこっそり起きると、それぞれの部署につく人たち、起こして回ったの。どの人もみんな、目だけギョロギョロさせて、目覚ましたまま寝ていたね。自分の担当するの場所、みんな決まっていたけど、もう一度、確認して歩いたの。わたしは蜂起がはじまる前に、中国にいた時にゲリラの経験のある人70人ばかり連れて、東亜寮の近くまで行って、蜂起の起こるの待っている予定だったの。蜂起はじまると、すぐに日本人の監督襲って、朝鮮の人、解放することになっていたでしょ。ところが、わたしたち70人ばかり集まって、東亜寮に向かおうとしていた時、寮の中で、ギャアという大きな男の悲鳴聞こえてきたの。わたし、ビックリして寮の中に入ったでしょ。もう、任鳳岐が殺されているの。張金亭が早まって、事務所とか宿直室の窓口とか、その他の部署にみんながつかないうちに、任の奴を殺してしまったわけね。いま考えると、張の気持もわかるさ。蜂起の時間がくるの、いまかいまかと、居ても立ってもいられない気持ね。それで、我慢できなくて、手を出してしまったわけね。だけど、計画より早く、任が殺されたでしょ。その悲鳴、あまりにも大きかったわけでしょ。寝ている補導員たちに聞こえて、逃げられるとたいへんでしょ。寮の中暗いのに、計画よりも蜂起早まったものだから、みんなあわてたわけね。手にスコップとかツルハシとか持って、勝手に宿直室にとび込んでいったの。だけど、逃げるのに備えて、宿直室の窓の外を囲むことになっていた人たち、まだ部署についていなかったわけね。しかも、宿直室の中、暗いでしょ。誰がどこに寝ているか、ぜんぜんわからないからね。あとでわかったけど、このとき、宿直室の中で殺しだの、檜森と猪股の二人だけね。あとの人たち、みんな窓から逃げたの。それを追いかけて殺したの、長崎と小畑だけさ。あとの補導員たちに、逃げられてしまったわけね。生き残った福田、これいちばん悪いね。清水も助かったさ。いちばん悪いのことした補導員たち、殺せなかったわけね。計画より早く、やってしまったからさ。こんど、それからがたいへんだったさ。逃げた補導員たち、すぐ会社とか、警察に走っていくでしょ。それから大騒ぎになること、わかっていたからね。計画より早くやったために、アメリカ兵とか朝鮮人の解放もダメ、警察を攻撃することもできな
かったし、寮に火つけることも、やれなかったさ。食べ物も、つくる時間なかったからね。最初の計画ちょっと狂っただけで、みんなダメになってしまったの。


林 
わたしたち、中山寮から離れた看護棟にいたでしょ。蜂起のあるの、いまか、いまかと待っていたさ。待っている時間、長いわけね。我慢して、心を落ち着けて、待っていたさ。

夜中になって、寮の方で人の叫ぶ声したでしょ。それからたくさんの人が叫ぶ声とか、ガラスの割れる音とか、板が破れる音とかするね。劉さん、起きあがると、ランプに火つけたでしょ。みんな、起きあがったね。計画だと、補導員たち殺してから、食べ物たくさんつくり、それ食べてから持っていくことだったから、あまりあわてなかったの。時間があるからね。

だけど計画失敗したのこと、知らせてきたでしょ。食べ物つくる時間ない、すぐ山に逃げろと、知らせがきたでしょ。はじめの計画だと、50人ばかりいた病人たち、みんなで手分けして、一緒に連れて行くことだったけど、このことできなくなったわけでしよ。早く逃げないと、警察やってくるというので、起きあがれる人たち、我慢して起きて、病室から出たの。

起きあがって歩けない人たち、入口まで這い出してきたね。這うこともできない人たち、「待ってくれ」「ぼくも連れていってくれ」と、病室の中で叫んでるの。わたしたち何人かの看護人、歩けない人たち助けたり、背負ったりして病室の外に出たけど、重病の人多いでしょ。とても、みんな連れていけないの。寮の人たち、バラバラになって逃げ出していくの、暗い中で見えるでしょ。わたしたちも、気がせくわけね。早く逃げていきたい気持、誰でも同じさ。

計画だと、看護棟にも火つけて、焼くつもりだったの。だけど、動けない重病人たち、病室の中に残っているから、焼くのことできないでしょ。そのままにして、逃げたの。看護棟のそばに、水の流れる小さな川あるさ。その川が流れてくる山に、逃げ出していったの。外は暗いでしょ。どこに逃げていけばいいのか、ぜんぜんわからないからね。

李 
計画失敗したものだから、逃げた補導員たち、すぐ鉱山町に走ったでしょ。寮の中の人たち、まだ半分も逃げないうちに、下の方で警報のサイレン鳴ったり、半鐘鳴ったりするの、聞こえてくるでしょ。鉱山町の中で、電灯とかたいまつの明り、激しく動くの見えるの。

そんなこと見たり、聞いたりすると、早く逃げたいという気持、強くなってくるね。不安も出てくるでしょ。みんな、どこに逃げていくというあてもなく、走り出してしまうわけね。

それに、武器もぜんぜんないでしょ。何人かの人、スコップとかツルハシ持って逃げたけど、それもわずかな人たちね。重いから、走る途中で捨てた人、ほとんどさ。食べる物持った人も、何人かいたけど、それもわずかね。ほとんどの人たち、手ぶらで逃げていったの。暗いから、どこに逃げていけばいいのか、わからないわけね。中山寮からかなり離れたところに、高い山あるの、前から見て知っていたでしょ。暗い中で、その高い山だけ、ちゃんと見えるわけね。その山のかげに逃げれば、遠くまで逃げられると考えていたから、その山に向かって逃げたの。何人か先になって走ると、その後についてみんな走っていくわけね。田んぼとか鉄道とか越えて逃げたその山、岩とか本とかいっぱいあって、ひどいさ。暗いから先見えないし、あわてて逃げるから、岩にぶつかったり、木にぶつかったりして、手からも足からも、血が出るわけね。それでも、ぜんぜん痛いと思わないの。早く遠くへ逃げていきたい気持で、どの人も夢中だからね。この山の名前、後になって聞いたけど、獅子ヶ森というところね。これ覚えたの、ずっと後のことさ。

林 
わたしたち病人と一緒だから、そんなに走れないでしょ。あっちの谷のぼる、こっちの山のぼるでしょ。坂ころがり落ちたり、本にぶつかって倒れる人多いの。だから、長い時間歩くと、みんなバラバラになってしまったさ。病室からいくらか外に出て、あとはそのままという重病の人も、わりに多かったよ。


李 
いま考えると、もっといい逃げ方あったね。いまになると、そのことよくわかるけど、あの時はべつね。獅子ヶ森という山、わたしたち逃げていく目標でなかったけど、どこに逃げていけばいいのかわからないから、見える高い山を目標にしたわけね。はじめに計画した時、どの方角に逃げていくか、ちゃんと決めていたの。だけど、はじめの計画狂ったでしょ。先になって、みんなを引っぱっていく人、いなくなってしまったさ。みんなバラバラに逃げたから、どうにもならないよ。それでも、かなり遠くまで逃げた考えでいたけど、朝が来て、あたり見えてくると、わたしたちたくさんの人がのぼっている山のすぐ下に、家があるわけね。花岡鉱山も、ちょっと遠くの目の前に見えるさ。ぜんぜん遠くに逃げていないわけね。それに、夜明けると、もう警察とか、消防団の人とか、いっぱいの人たち、わたしたちのいる山を取り囲むようにしているのが見えるの。夜、明けると、わたしたちのからだ、もうふらふらね。骨ばかりにやせて、食べ物少ない毎日だったでしょ。そのからだで、ひと晩寝ないで、歩きつづけたわけでしょ。もう、腹の中になんにも入っていないさ。空腹になっても、山の上だから、飲む水もないの。これだから、戦いになっても、どうにもならないよ。山に来た時、もう膝ガクガクして、動けなかったからね。食べ物あったら、もっと遠くへ逃げられたけど、そんなものないから、とても無理ね。戦ってすぐに負けるの、わかっていたの。

拷問の明け暮れ

林 
夜明けても、わたしたち病人と一緒だから、ぜんぜん遠くへ逃げられないわけね。わたしも、看護棟からどれくらい逃げたかな。いくらも離れていなかったさ。朝が明けたころ、警察の人が来て、わたしたち看護班を捕えたね。疲れてるから、戦うのことぜんぜんできないよ。わたしたち捕えられると、二人がひと組に縛られて、トラックに乗せられたさ。病人は逃げることできないから、そのままね。病人たち、山からまた病室に運ばれたの、いつのことかわからないよ。わたしたち乗せたトラック、花岡派出所の近くに、大きな鉱山の劇場あるでしょ。その劇場の前、砂利敷いた広場ね。その広場に降ろされたの。縛られたまま砂利の上に、正座させられたから、足とか嬬痛いよ。この広場に連れてこられたの、わたしとか劉さん、いちばん最初ね。坐らされると、手拭で目かくしされたでしょ。目かくししたの、わたしたちの首、斬り落とすためかな思ったね。その方が、叩き殺されたり、食べ物なくて餓え死にさせられるより、ずっと楽だと思ったさ。こんな苦しいのことイヤだ、早く死にたいと思っていたから、死ぬのこわくなかったさ。


 李 
岩山に集まったの、何人いたかな。少なく見ても、300人はいただろうかね。何力所かに固まっていたけど、どの人も、動けないほど疲れているね。食べる物ぜんぜんないでしょ。太陽高くなってくると、暑いでしょ。みんな、動くこともできないさ。わたしたちのいる岩の山囲んで、警察とか消防団とかの人たち、いっぱいいるの見えるでしょ。人乗せたトラック、どんどん走ってくるでしょ。どうなるのか、だんだん心配になってくるでしょ。朝だいぶ進んでから、警察とか消防団の人たち、いっせいにわたしたちのいる山に登ってき
たね。みんな、鉄砲とか、日本刀とか、竹ヤリとか持っているでしょ。わたしたちの中で、武器持っている人、誰もいないさ。こっちが負けるのこと、確実にわかるからね。それでもわたしたち、鉄砲とか日本刀持って、山登ってくる人たちに、石投げたり、棒きれふったりして戦ったさ。でも、かなわないわけね。鉄砲でうたれたり、日本刀で斬られたりで、何人もの人たち、山の上で殺されたね。こんど、捕えられるでしょ。二人が一組に縄で縛られて、山から下って、花岡の劇場の前まで歩かされたの。トラックに乗せられた人もいたけど、トラックの数少ないから、歩かされた人多いよ。わたしたちのこと見た農家の人とか、鉱山の人たち、石投げてきたり、ツバ吐いてよこしたりするの。なにか大声で言ってるけど、その意味わからないよ。だけど、蜂起のこと、怒っていることだけは確かね。劇場の前に着いたでしょ。ふらふらで、倒れた人もいたよ。こんど、二人一組に、背中合わせに縛られて、砂利の上に坐らされたの。ちょうど、真夏でしょ。食べ物もくれないし、水もないでしょ。目の前ぼんやりして、なんにも見えないほど、ふらふらになったの。でも、二人が一緒に縛られとるでしょ。一人ふらふらすると、二人とも倒れてしまうの。すると、警官とか憲兵が走ってくると、そのこと悪いといって、棍棒で頭とか背中を、パンパンと叩ぐの。二人一緒だから、坐らされても疲れるわけね。それに、一人のひと弱っていると、二人とも倒れるから、叩かれることも多いわけね。


 劉 
昼ころになると、真夏の太陽、ジリジリと照りつけるからね。前の晩、小さい饅頭一つ食べただけで、ひと晩、田んぼの中走ったり、山登ったりしたわけでしょ。もう、誰の腹の中にも、なんにも入っていないさ。しかも、暑い太陽、まともに受けているからね。砂利の上に坐るから、脚が痛むさ。少し動くと、梶棒とんでくるでしょ。地獄よりもひどいところさ。
 林 
いちばん苦しいの、水飲みたいことね。口の中とか喉、ピリピリ痛むよ。「水ほしい」「水ちょうだい」と、何人もの人たち言ったよ。そのこと言うと、何か大声で叫びながら、棍棒とんでくるの。いま考えても、よく生きていたと思うよ。憲兵の中で、ひどい人もいたよ。水飲みたい言うと、桶に水汲んで、わたしたちのそばに持ってくるでしょ。その水、ヒシャクに汲んで、目の前につき出してよこすの。飲みたいでしょ。うしろに縛られている人を引っぱって、顔を近づけていくわけね。すると、その水の入ったヒシャク、だんだん遠くしていくの。こんど、倒れるでしょ。そのこと悪いと、また棍棒とんでくるわけね。最後にその水、目の前の砂利にあけたり、頭にふっかけたりするの。水、頭から顔に伝わって、流れるでしょ。その水、舌を出してなめるの。そのことおかしいといって、みんなで笑うの。あんなことやる人に、人間の心ないよ。日本の人、ひどいことばかりするの多いね。


 李 
劇場の前、引っぱられてきた人で、だんだんいっぱいになってきたでしょ。そのわたしたちのこと見ようと、女の人とか、子どもとか、たくさん来たね。何か大声で叫んで、わたしたちの顔に、ツバ吐いて、帰っていく女の人もいたよ。子どもの中には、わたしたちのいるところに来て、顔とか腕とか、叩いて歩くのもいたよ。遠くから、石投げてよこす女の子どももいるね。わたしたち縛られてるから、そんなことされても、よけることできないよ。黙って、睨みつけているだけね。こんど、二日目になって、生死のあいださまようようになると、睨みつけることもできないさ。されるがままの状態ね。


 林 
砂利の上に、三日二晩も坐らされていたけど、食べ物とか水、ぜんぜんぐれないの。夜になっても、横になって、寝ることもできないの。四日目になって、スイトンみたいなもの、お椀にたった半分だけ出たね。いま考えても、生きていたこと、まったく不思議ね。みんな、疲れと空腹で、ふらふらしているでしょ。倒れる人、多くなるわけね。どうにもならなくなって倒れると、そのこと悪いといって、棍棒で叩かれるから、死ぬ人多くなるわけね。死んでも、そのままにしておくよ。二人一緒に縛られとるうち、一人死んでもそのままにしておくでしょ。わたしの背中に縛られた人、名前も誰かわからないよ。からだの弱い人だったわけね。劇場の前に引っぱられてきた日の夕方、もう死んだよ。死んだ相手のからだ、だんだん固くなってくるでしょ。すると、重くなっていくの。一人でもたいへんなのに、死んだの人ひとり背負っているのだから、苦しいさ。こんど、次の日になると、死んだ人、だんだん臭いしてくるの。重くて、臭いしてきて、どうにもならないよ。こんど、晩になるでしょ。犬とか、猫とか、何匹も集まってくるの。死んだ人の足とか手とか、食べようとするの。食べるもの奪い合って鳴いたり、骨を噛むの音、夜中になると聞こえてくるの。生きてる人にも、かぶりついてくるの。わたしの膝にも、爪かけてきた猫いたけど、追うにしても、声出ないよ。疲れて、からだぜんぜん動かせないさ。わたしは食べられなかったけど、あとで聞くと、食べられた人もいたわけね。地獄よりもひどいところだったさ。


劉 
わたしたちのからだ、裸のような状態だからね。昼は暑いし、こんど、朝方は寒いでしよ。寒くて、からだがカタカタさ。これじゃ、なにをされなくとも、死んでしまうさ。


 李 
わたし、劉さんとか林さんみたいに、劇場の前に坐らされたの、半日くらいのことね。わたしたち捕えられて、連れてこられると、すぐに言ったの。蜂起のこと、わたしたち計画した、わたしたちの手でやった、ほかの人たち関係ない、早く寮に帰してほしいとね。わたしたちリーダー13人、すぐに花岡派出所に連れていかれたさ。ほんとは、計画に参加したの8人ね。だけど、あとの5人、わたしたちのちょっとした不用意のために、リーダーの中に入れられたの。8人はみんな、もう覚悟決めてるからいいけど、あとの5人、泣いてるよ。わたしたち関係ない、殺されるのイヤだと。その人たちの気持、よくわかるね。自分たちで計画したことでないからね。わたしたち、あとでそのこと何回も言ったけど、警察で認めてくれないよ。わたしたち13人のほかに、中心になった人、まだいるかと、ほかの人たち拷問にかけて、聞いたわけね。からだとか、ズボンとかに、いくらか血のついてる人いるでしょ。すると、その人、日本人殺した犯人でないかと、拷問にかけるの。リーダーになった人たち、
必ず殺される、生きられると、誰も思っていないからね。


 林 
病人でも同じだったさ。自分で転んで、傷つけて、血流してる人いるでしょ。その人、補導員のこと殺した人かもしれないと、劇場の中に連れていくの。劇場の中、拷問にかける場所ね。何時間かたって、劇場の中から運ばれてくるでしょ。もう動けないね。病人のひと拷問にかけるのだから、当然ね。劇場の中から、死んで出てくる人もいたね。劇場の中、どんなことあったか知らないけど。


 李 
わたしたち13人、花岡の派出所に入れられたでしよ。こんど、どんな計画して、誰と誰が補導員たち殺したか、詳しく自白させようとしたの。だけど、誰もそのこと、詳しく言わないの。どの人も、わたしたちみんなでやった、あとの人たち、ぜんぜん関係ないと言うだけでしょ。こんど、調べてる警官たち怒ってね。一人ひとり、劇場の中に連れていくの。天井の高い、がらんとした劇場ね。人った時に、とうとうここで殺されるのかと思ったよ。劇場の中に入るでしょ。何人かで、ビンタンくわせるの。わたしたち、立ってもふらふらの状態でしょ。一つビンタンくうと、もうその場に倒れるさ。倒れると、また立だされるでしょ。するとまた、ビンタンとんでくるの。そんなこと、何回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、長い木の腰掛けあるでしよ。その腰掛けに、仰むけに縛りつけられるの。それから、桶に水汲んできて、口と鼻から注ぎ込むの。苦しくて、息もつけないでしょ。からだ動かそうとしても、縛られとるから、動けないでしょ。「苦しい!」と叫ぼ
うとしても、口とか鼻に水いっぱい入ってるから、声出ないでしょ。また、そんな元気もないから、気を失ってしまうわけね。ところが、気失ってしまうと、こんど、腰掛けを逆さに立てるの。頭が下になるでしょ。すると、からだの中に入った水、こんど、口や鼻から出るでしょ。水出ると、わたしたち息を吹き返すわけね。その時の苦しいこと、とても言えないよ。ひと思いに殺してくれと、何度も叫んだよ。声にならないけどね。息を吹き返すでしょ。すると、また腰掛け水平にして、口と鼻にまた水を注ぎ込むの。気を失うと、また腰掛け逆立てにするでしょ。こんなこと、三回もつづけてやられると、もうダメよ。自分の力で、派出所まで歩いて帰れないよ。リヤカーに乗せて運ばれて、留置場の中に放っぽり出されるの。わたしだけでなく、13人、みんな同じことやらされるでしょ。でも、8人の誰も自白しないでしょ。5人は関係ないから、わたしじゃないと叫ぶだけね。こんど、次の日になると、また、劇場の中に連れていかれるの。こんどまた、なにをされるかわからないから、恐いさ。

 通訳来て、みんな白状しろ、許してやるからと言うでしょ。だけど、ひと口も言わないでしょ。こんど、太い注射器持ってくるの。桶の中の水、その注射器の中にいっぱい入れるでしょ。ハシゴの上に、わたしのからだ縛りつけて、その注射器腹にさして、水を腹の中に入れるの。何度もやると、やせてへこんでる腹、丸くふくらんでくるの。誰か靴のまま腹の上にあがって、腹の上ではねて、ふくれた腹ふむの。すると、口とか耳とか鼻からとか、腹の中の水、ふき出してくるの。その時の苦しいこと、たいへんよ。このこと、四回も五回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、天井から垂してある針金に、両方の親指縛りつけて、その針金を、上に巻き上げるでしょ。からだ宙吊りになると、こんど、尻でも脚でも、棍棒でめちゃくちゃに殴るの。痛いから、ぶらん、ぶらんと動くでしょ。親指の皮、べろっと抜けて、からだ下に落ちるの。そのとき、ほとんどの人、気絶してしまっているけど、まるで、犬か猫みたいな扱い方されたね。

生き地獄の毎日

 林 
わたしたち共楽館の前の広場に、三日二晩いたけど、食べ物も水も、ぜんぜんないでしょ。一日に一回は、共楽館の中に引っぱられて、お前、暴動に参加したろ、人殺したろと、拷問受けるでしょ。わたしそのこと知らない、わたし関係ないと言っても、信用しないの。嘘つくなと、殴る、蹴るをつづけるわけね。共楽館の中で死んだ人、建て物のわきに運んできて、積んでおくよ。三日の間に死んだ人、何人いたかな。いっぱい積んであったさ。20人くらいはいたね。広場でも死んだ人多いね。昼も夜も、あっちこっちで死ぬよ。昼は死ぬ人わかるけど、暗い時は、誰死んだかわからないよ。朝になって、明るくなると、死んでる人見えてくるの。あっちでも、こっちでも、死んだ人見えるわけね。死んだ人も、そのまま広場に捨てられてあるでしょ。朝になるでしょ。ハエがいっぱい飛んでくるの。死んだ人の口とか目とか、ハエがついて黒くなっているさ。そのハエこんど、生きてるわたしたちの口とか鼻にも、飛んでくるでしょ。わたしたちのこと、死んでいると思っているわけね。いま思うと、ハエも区別つかないほどになっているわけね、生きとる人か、死んだ人か……。それくらい、生きとる人もひどくなっていたわけね。


 李 
わたしたち13人、ひどい拷問受けたけど、殺そうとしなかったね。憲兵とか、警官たち言うに、お前たち日本人殺した、裁判にかけて死刑にする、それまで、殺さないで生かしておく、というようなこと、わたしたちに言うの。わたしたち、日本語よくわからないから。それでも、同じこと何度も言われるから、言ってることの意味、わかってきたけどね。いま考えても、あんなにされて、生きていたの、不思議なくらいね。わたしたち13人、花岡派出所の留置場に一週間ほどいたけど、一日に少ない時で三回、多い時だと五回から六回
も、共楽館の中に引っぱり出されて、いろいろな方法で拷問受けた。わたしたち8人が責任者、わたしたち計画した、日本人も殺したこと、何回もしゃべってあるでしょ。だから警察の人たち、蜂起のこと全部、ちゃんとわかっていたわけね。それでも、留置場から引っぱり出して、殴ったり、叩いたり、水槽の中に水入れて、その水にわたしたちの首つかまえて、入れたりするの。もう、なにも言うことないでしょ。それでも、拷問するわけね。


 林 
わたしたち、砂利の上に坐らされて三日目になると、もう坐っているのことできないさ。みんな、いまにも倒れそうに、ふらふらしているさ。何日も、水もなければ、食べ物もないでしよ。舌も唇も、カサカサして、火がついたように熱いさ。夜中に、小雨があったの。両手縛られてるから、雨掬うことできないでしょ。顔流れてくる雨、舌出してなめるの。その雨のうまいこと。半分死んでいたのが、この雨で生き返ったわけね。わたしだけでなく、この雨で生きのびた人、かなり多いよ。四日目の昼ころ、スイトンみたいなもの、椀に半分配られて、それ食べたでしょ。こんど、スイトン食べてから、中山寮に帰ることになったの。

共楽館から中山寮まで、距離だいぶあるね。それに、坂道多いでしょ。縛られていた縄とかれて、歩けと言われても、立てる人いないよ。石ころの上に、三日二晩も坐ってたわけでしょ。膝とかすねに、大きな傷ついてるの。その傷の中に、砂利とか土とか、いっぱい入っとるでしょ。なんとか立っても、歩くと、こんど傷痛むの。平たいところだと、なんとか立って歩いたけど、坂道になると、とても歩けないでしょ。みんな這ってのぼったけど、膝とかすねの傷、石とか砂にぶつかるから、痛いでしよ。血が流れてくるの。痛いから、黙ってるでしょ。すると、早く歩けと、棍棒とんでくるの。泣いても、声出ないし、涙も出てこないさ。共楽館から寮まで行く途中に、死んだ人もいるよ。四日目に寮にもどって、次の日、わたしたち看護人に、共楽館の広場の屍体、片づけるように命令されたの。だけど、自分で動くこともできない人、ほとんどでしょ。どうやって死んだ人たち、山の上まで運んでくるのことできるね。
 劉 
あのとき、看護長もいないから、わたしと林さん、交渉したね。わたしたちの力で、運んでくることできないと……。このとき、殴らないで、そのことわかってくれたね。そんなこと、花岡に来てからはじめてのことね。それだけ、わたしたちの弱っているの、わかったわけね。こんど、わたしたちに、大きな穴、二つ掘らせたの。わたしたちその時、この大きな穴に、死んだたくさんの同胞たちの屍体埋めるのかな、それとも、わたしたちが殺されて埋められるのかな、と考えたね。穴できて、何日かあとに、朝鮮の人たち、広場から屍体運んでくると、大きな二つの穴に、たくさんの屍体投げ入れて、土かぶせたの。わたしたち看護班の人たち、同胞たちの屍体の上に、土かぶせたの。大きな二つの穴のほかに、小さな穴、もう一つ掘ったの。その穴の中に、任鳳岐をひとりだけ埋めろというの。わたしたちの同胞を食いものにした入、死んだ後も特別の扱いうけること、不満で仕方なかったけど、一人だけ埋めたよ。命令だからね。日本、戦争に負けてから、わたし三回ばかり、花岡鉱山に行ったよ。遺骨のことで行ったのだけど、二回目に行った時、日本の赤十字とか、東京の華僑総会の人たちとも一緒ね。大きな穴二つあって、その穴の中に、まだたくさんの骨残っているの。その骨拾って、水で洗って、干してから箱に入れたけど、これが広場で殺された人たちの骨ね。何日も、水も食べる物もなくて殺され、何十人も一つの穴に投げ込まれて、骨はバラバラに捨てられて、あまりかわいそうで、涙ばかり出たよ。


林 
わたしたち看護班は、次の日から働いたけど、ほかの人たち、二日目から仕事に出たの。仕事に出る朝、みんなを寮の前に集めて、共楽館の前で、わたしたちを拷問する時、指揮をとった三浦署長と、河野所長の訓話あったの。日本の通訳、そのこと、わたしたちに知らせてくれたけど、そのとき、耿太隊長以下13人の主犯たち、すでに死刑になっている、と話あったの。わたしたちそのこと聞いて、ビックリしたの。なかには、鼻すすりあげて泣く人もいたけど、いま考えると、李さんたちまだ、花岡派出所の中にいたわけね。そんな嘘言って、わたしたちのこと、脅したわけね。

劉 
わたしたちは次の日から働いたし、工場で働く人は、二日目から仕事に出だけど、食べ物の量、前よりいくらか多くなったほかは、なんにも変わったことないね。仕事はきついし、補導員のかわりに剣を下げた警官が監督につくようになっても、わたしたちのこと殴るの、前と同じね。蜂起する前より楽になったことぜんぜんないよ。

敗戦後も戦争状態

 李 
わたしたち、花岡派出所に入れられて何日目かな、こんど、通訳の于傑臣も投げ込まれてきたの。このとき、みんなビックリしたさ。夜中になって、見回りの人あまり来なくなってから、みんなで彼に聞いたの。蜂起の状態のことも、わたしたちぜんぜん知らなかったからね。わたしたち殺したの、檜森と猪股が寮の中で、小畑と長崎が寮の外で、あとの補導員たち生きていること知ったの。そのこと聞いて、みんなガックリしたね。こんど、大館警察署の留置場から、両手を前に縛られて、トラックに乗せられたの。どこに連れていかれるのか、ぜんぜん知らされないでしょ。銃殺される場所に連れていかれるのかなと、何度も考えたりしてね。トラックに長い時間乗せられて、大きな町の中とおって、こんどトラックが停まって蹴り落されたけど、そこが秋田刑務所だったの。于は秋田の刑務所に来なかったから、ぜんぶで13人来たわけね。

 林 
蜂起のあと、通訳は日本人がやっていたよ。于傑臣のこと、ぜんぜん見かけなかったから、蜂起のとき、殺されたのかと思ったよ。あとで、留置場から出てきて、わたしたちに日本の敗戦のこと、知らせてくれたけど、戦争終わってからも、いつ中国に帰ったのか知らないよ。わたしたちと、まったくべつに来た人だからね。


 李 
秋田刑務所の中で、わたしたち、一人ひと部屋ね。毎日、取り調べ受けたし、殴られることもあったけど、ご飯は三回あるし、蒲団あるし、ゆっくり眠れるし、刑務所の中、天国だと思ったさ。だけど、刑務所のご飯の量、ぜんぜん少ないの。ご飯の中味、大豆三分の一、麦三分の一、米三分の一ね。ぜんぶ食べても、ふた口か三口でなくなるよ。お腹の中、ぜんぜん感じないわけね。わたし、いつもご飯くるでしょ。こんど、箸で、椀の中の大豆一つ一つとって、数えながら食べるの。お椀の中に大豆、だいたい30粒ほど入っているの。

 大豆食べ終わると、こんどは麦を箸で拾って、これも数えながら食べるの。麦は、だいたい50粒ほど入っているね。大豆と麦食べると、米はいくらもないから、すぐ食べ終わるさ。なんにもすることないから、一日三回、こんな食べ方して、時間をかけていたさ。こんど、独房の中に、小さな窓あるでしょ。その窓見ながら、太陽どこまでくると、三回のご飯のくる時間、わかるようになったの。太陽の動くの見ながら、ご飯まだかなと、そのことばかり考えていたよ。だけど、お椀に半分くらいのご飯だと、すぐにお腹すくでしょ。便所に立ってもいけないよ。立つただけで、もう頭ふらふらするの。刑務所に来て10日ばかりたったある晩、わたし、夢見たの。中国で別れたままの兄弟とか、亡くなった母のことなど、みんな夢の中に出てきたの。刑務所の朝、早いでしょ。六時になると、みんな起きるの。ひとり部屋だけど、隣の人と、話しすることできるの。わたし、朝起きると、夢見たのこと、隣の人に言ったの。兄弟や母たち、夢の中に出てきた、なにか悪いのこと、なければいいがと…。そのあとですぐ、ご飯運ばれてきたの。いつもの日より、ご飯のくる時間早いの。これ、ちょっとおかしい、何事かある、わたしの夢当たったと思ったよ。ご飯食べると、たくさんの人来て、独房の戸のカギとって、わたしたち13人、みんな外に出されたの。ははあ、、、きょうはこのまま銃殺されて、いのちなくなる日かな思った。13人手錠かけられて、トラックに乗せられたの。わたしたち乗ったあとに、おにぎりも積んだの。わたしそれ見て、いよいよほんとだ、人殺すとき、腹いっぱい食べさせて殺すと、わたし聞いていた。いつか死刑にされると思っていたから、べつにこわくないけど、腹いっぱいに食べて殺されるのこと、いい気持と思った。トラックで遠くに運ばれて、人目のつかないところで殺される、そう思ったの。ところが、わたしたち降ろされたの、裁判所の前ね。裁判所の中で、わたしたち13人並んだでしょ。こんど、警察の人来て、わたしたちを片っぱしから殴っていくの。なんで殴られるのか、ぜんぜんわからないよ。裁判官たち、わたしたち殴られるの見ていても、なんにも言わないの。なかには、笑って見ている人もいるよ。この日、第一回の裁判あったわけね。はじめの時に、わたしたち、自分の国の住所とか家族の名前、どうして日本に連れて来られたか、ぜんぶ言ったの。ほんとのこと言って、通訳されるでしょ。わきに立ってる警察の人、嘘つくなと殴るの。嘘でないよ。わたしの言ってること、ほんとのことね。ほんとのこと言うと、殴られるのだから、どうしようもないよ。わたしたち言ったあとで、検事の人かな、わたしたち13人に言ったの。あんたたち、暴動起こした、何人もの日本人殺した、中国人の誰と誰が、日本人の誰を殺した、とちゃんと言うの。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よくわからないよ。でも、聞いてわかっただけでは、みんな嘘のことね。日本人の補導員殺したのことだって、誰がやったのか、わたしたちでもわからないよ。それを、誰と誰がやったことにしているから、おかしいわけね。第一回の裁判あってから、10日くらいたってからのことかな。夜中に、刑務所の上の空、たくさんの飛行機とぶ音聞こえるの。まもなく、すぐ近くで、爆弾の落ちる音とか、機関銃の音とか、聞こえてくるの。わたし中国にいた時、中国解放義勇軍のゲリラしてたわけでしょ。だから、戦争はじまっていること、わかるの。わたしたちにも厚い帽子くばられて、一人ひとりに、銃砲待った憲兵がついたの。戦争で日本が負けてきていること、ぜんぜん知らされていないでしょ。どこの飛行機来ているのか、どうして爆弾落とされているのか、わからないね。だけど、たいへんなことになっていることだけは、わかったね。看守の顔も、憲兵の顔も、ひどく変わっていたからね。その次の日か、二日後のことかな、刑務所の中に吊しているもの持ち去ったり、貼り紙を剥いだりしているの。いま思うと、このとき、日本は戦争に負けていたわけね。そのことかくして、わたしたちに教えてくれないから、日本の人たちなにをやっているのか、不思議だったよ。なにやっているんだろと、隣の人と話したけど、誰もほんとのこと、わからないよ。


 林 
中山寮にいたわたしたちも、同じだったさ。蜂起の時のムリが出たり、食べ物の量、前と同じに少ないから、病人どんどん多くなってくるの。看護棟の中いっぱいになると、寮の中にも、病人の部屋つくったよ。いま考えると、日本が戦争に負けてからも、同じように重労働させられ、食べ物も少ないから、中国人は毎日のように死んでいったさ。日本が戦争に負けてからでもさ……。8月ころから、鹿島組の人とか、警官たちの様子、かなり変わってきたことわかったけど、まさか、日本が戦争に負けたとは、誰も思わないからね。そんな
こと聞くと、殴り殺されることわかっているから、誰も聞かないからね。わたしたち、日本が戦争に負けたことわかったの、9月に入ってからのことだったさ。いつの日だったか、はっきり覚えてないけど、わたしたちの働いている頭の上、すれすれに飛行機とんできたの。それから、落下傘に大きな荷物つけて、いくつも、いくつも落としていったの。その荷物、同じ花岡鉱山に捕虜になってきている、アメリカ兵のものだってことわかったの。もう戦争終わったのこと、そのことでわかったの。それまでは、誰も知らせてくれなかったからね。


 李 
刑務所にいるわたしたちに、暦渡してくれないでしょ。独房にいると、ほかのこと見ることもできないから、きょう何日か、ぜんぜんわからないわけね。飛行機の爆撃あって、刑務所の中の貼り紙剥がされて、だいぶたってから、第二回の裁判開かれたの。このとき、無期懲役は誰と誰、15年の懲役は誰と誰と判決あったけど、わたしたち日本のことば、ぜんぜんわからないでしよ。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よく聞きとれないよ。こんど、刑務所に帰ってから、隣の人と話し合って、その隣の人また隣の人と話し合って、
死刑になったのは誰なのか、無期になったのは誰なのか、確かめ合ったの。耿太隊長一人が死刑で、わたしは確か、15年の懲役だったようだけど、はっきりしないの。このとき、判決あってから、裁判官言うの。この裁判に不服だったら、上告することできる日本の法律ある。上に上告するのこと、いっこうにかまわないと言うの。だけど、わたしたちその方法わからないよ。わたしたち弁護士いるのかどうか、ぜんぜんわからないからね。どうやればできるのか、相談する人もいないからね。
 林 
それ、ことばだけのことね。わたしたち、上にもっていったとしても、勝てるわけないでしょ。だいいち、もっていく方法知らないのだからね。上にもっていっても、簡単に負けるさ。そして、死刑か、懲役ね。


李 
あとで開いたけど、わたしたちの判決あったの、日本が戦争に負けたあとの9月になってからと聞いて、ビックリしたさ。だけど、正直言って、死刑になると思っていたから、15年の懲役と聞いて、軽いと思ったの。


後文省略〜

以上、日本が行った「労工狩り」中国人強制連行の記録よる被害者の証言を終わりますが、野添憲治・著「花岡事件の人たち」には政府と企業戦後処理、などが書かれています。現在を生きる私たちにとっては想像を絶する事件と、戦後処理のみすぼらしさや責任逃れなど、目を覆いたくなる恥ずかしさを覚えます。
http://kisarazu.org/?page_id=62
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/109.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
14. 2021年7月27日 16:50:44 : H3qewymxyA : akJmdGxndm1hajY=[-1411]
メダルはいらない

https://ameblo.jp/sunamerio/

https://twitter.com/Rapt_plusalpha

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c14

コメント [近代史6] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
1. 中川隆[-16016] koaQ7Jey 2021年7月27日 16:52:56 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[7]
【永久保存版】南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言
2015/03/02




〔虐殺否定の書き込みの前に、まずこちらの解説文に目をお通し下さい。誤解の大半が解けると思います。解説を読まずに否定論デマを書かれた場合、荒しとして対応します〕

【右派も左派も必見の動画】南京大虐殺に関する動画は、戦後中国政府が作ったプロパガンダ映像が混じっていることが多いが、これは「1938年」(虐殺直後)に公開された当時のもので、2015年にフィルムが世界遺産に登録された。現在の中共政府はウイグル人を非道に弾圧し、香港に圧政を敷き、南沙諸島を不当支配。それを国際社会で批判する為にも日本は過去を直視せねばならない。

動画はドイツ高官が「総統閣下にも見て欲しい」と公式に送った第一級の資料映像であり、生存者の証言が細部まで一致。女性や子供も無差別に殺害され、便衣兵との言い訳は通用しない。また「日本軍がやった」と外国人医師らが詳細に語っており、国民党軍の成りすましではない。番組前半の映像はショッキングだが、それ以上に番組後半の、家族を失った夏淑琴さんの話「今は日本人と友だちになりたいと思っている」が心に残る。この言葉に対して謙虚でありたい。

※東中野修道氏は当動画に登場した夏淑琴さんを「マギーフィルムの“夏淑琴”とは別人であり南京事件も中国の捏造」と喧伝、夏淑琴さんから名誉毀損で提訴され東中野氏が敗訴した。東京地裁「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」。09年最高裁が上告を棄却し東中野側の400万円の支払いが確定した。「学問研究の成果というに値しない」、つまり研究者の資格なしということ。
−−−−−


《捕虜殺害について》
南京占領軍への当初の命令は「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊(ゲリラ)と見なし、­すべて逮捕監禁すべし」。つまり、老人と子ども以外の中国人男子は全員逮捕監禁せよと­いう厳命。だが、捕虜10万人の食料も収容する施設もない。やがて命令は「捕虜を処分­(処刑)、殲滅(せんめつ)せよ」に変わった。『ハーグ陸戦協定』では「武装解除した­捕虜の虐殺」を戦争犯罪としている。ネット上では多数のデマが流れているため、よくあ­る質問と答えを以下に整理。

・日支事変は国際法上の“戦争”ではないため『ハーグ陸戦協定』は当てはまらない→­ならば平時の殺人であり戦犯以前に殺人罪。
・便衣兵(ゲリラ)だから処刑していい→略式でも裁判は必要だし、そもそも南京城内に便衣兵はいなかった(後述)。
・占領前より人口が増えた→増えたのは国際安全区の人口。周辺から避難民が逃げ込んで来た。
・当時まったく報道されてない→占領2日目には米国で「南京大虐殺」と新聞の見出しに。
・虐殺証言で登場する元日本兵は中国共産党に洗脳された中国帰国者(中帰連)。→南京­戦に投入された部隊は捕虜にならず帰国しており、中国共産党は無関係。
・捕虜虐殺を見ていないジャーナリストがいる→虐殺現場は街から4キロ離れた揚子江­の川岸。
・捕虜の暴動が起きたので仕方なく殺した→暴動説は戦後に現場指揮官の1人が批判から逃れるためにでっち上げたものと2018年に判明。

★南京を占領した日本軍は、各部隊とも自軍の10倍近くの捕虜を得たが、捕虜の食糧がなく、暴動が起きるのを恐れて殺害に至った(例えば山田支隊1500人に対して15000人の捕虜が発生­し幕府山事件が起きた)。本来、捕虜ならば軍法会議、捕虜以外は軍律会議の判­決で処断せねばならない。
※日本軍の名誉のために書いておくと、捕虜を殺害せず、武装解除したうえで釈放した部隊もある。第6師団歩兵第45連隊は5500人を、国崎支隊の歩兵第41連隊は2350人を解放。

−−−−−

●補足・通州事件…痛ましい事件が愛国デマに利用されている

(1)日本人居留民が殺害された通州事件は、日本が作った傀儡政権・冀東(きとう)防共自治政府の兵の暴走で南京国民政府とは無関係。襲撃者は国民党軍でも共産軍でもなく、日本軍が育てた親日派の子飼いの部隊。日本軍の誤爆が先にあり飼い犬に手を咬まれた。それゆえ日本側は関係のない国民政府に賠償を求めず。民間人に対する猟奇的虐殺は絶対に許されないが、まともな保守の歴史学者はこの冀東自治政府の事件と南京大虐殺を並列に論じない。

関東軍参謀田中隆吉「事件の発端は日本軍の軽爆撃隊の誤爆からである」
北京大使館参事官森島守人「兵舎誤爆への報復であり事件の責任は日本陸軍にある」

※蒋介石が前夜に日本軍大敗の偽情報をラジオで流したのも一因。

(2)通州事件は、日本人104名と朝鮮人108名、計212人が虐殺された。朝鮮人の死者の方が多いが、当時の朝鮮は日韓併合下にあり「邦人200人以上」としている。

(3)日本軍は通州からヘロインなど大量の麻薬を大陸に流していた(毒化政策)。その悪行が中国人から反発を買ったため襲撃者に市民(学生)が混じっていた。日本側はバツが悪い為しばらく新聞発表を伏せている。

−−−−−

●補足2・便衣兵のせいというデマ
第一次上海戦では便衣兵(ゲリラ)の攻撃を受けたが、第二次上海戦では便衣兵からの攻撃はないに等しかった。特に南京城内では報告皆無。南京戦では「国際法を違反した便衣兵」は存在せず、虐殺を正当化する理由にはならない。軍の記録でも「(便衣兵処刑ではなく)掃討で敗残兵を殲滅した」と書かれている。
−−−−−

●補足3・人口のデマ
否定派は「南京の人口が占領後に10万人増えているのが証拠」という。これは簡単に説明できる。南京一帯で戦闘が行われているわけで、南京市の国際安全区に避難民がなだれ込んでいるだけ。
−−−−−

●補足4・犠牲者30万人に根拠はあるか
1927年に国民政府が南京を首都に定めて以降、南京市政府は市内の常住人口について統計資料を保存している。1935年に100万人の大台を突破し、虐殺9カ月前の1937年3月の調査では101万9667人で、戸数は20万810戸(南京の首都警察庁調べ)。この3月時点の100万人は、虐殺肯定派、否定派とも見解が一致。その後、日本軍の連日の空襲で人口が減り始め、11月20日に国民政府が重慶への首都遷都を宣布、さらに日本軍の接近が伝えられたことで住民が激減、11月23日に南京市政府(馬超俊市長)は「現時点で人口は約50万」「ただし今後20万人の周辺難民の流入を予測」と国民政府軍事委員会に報告している。実際、膨大な数の農民が難民となって城内に避難した。南京守備部隊、常住人口、流動人口の合計が約60万人、そして虐殺後の人口が30万人強であることから、中国側が主張する犠牲者30万人は、「最大値としては」あり得る数字だ。

※南京安全区国際委員会の「日本軍の暴行記録」をもとに死者49人とする言説があるが、この記録はあまりに酷い日本兵の態度の改善を求めるため、実例を挙げて提出した文書であり氷山の一角。被害を網羅する目的のものではない。
※「米国が原爆犠牲者の数にあわせてでっち上げた」もデマ。当時も現在も、米国は日本への原爆投下をまったく悪いと思っていない。
−−−−−

●補足5・消えた遺体について
捕虜の処刑は揚子江の河岸で行われ、遺体は大河に流されたことが日本軍の記録で明らかになっている。市民の墓は点在し、ここを掘れば数万人の遺体があるといった場所はない。ちなみに埋葬隊記録では155,000体。これは焼き棄てられた死体や、揚子江に投げこまれた死体を計算に「入れていない」。 次が重要な点。日本側が考える南京事件は、期間が1937年12月13日の南京陥落から17日の入城式まで、場所は南京城内で行われた掃討戦としているケースが多いのに対し、中国側は期間が南京戦から3カ月、場所は南京周辺の農村を含んだ広大な地域であり、この時点で両者が主張する数字が合致するはずがない。中国が嘘をついているのではなく、単に期間と場所が異なるだけ。

−−−−−
●補足6「虐殺を見ていない部隊がある」について
南京戦に参加した部隊は約10師団(一部は支隊のみ)20万人。そのうち一次資料で虐殺に何らかの形で関わったことが確定しているのは
第9師団歩兵第6旅団歩兵第7連隊
第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊
第16師団歩兵第19旅団歩兵第20連隊
第16師団歩兵第30旅団歩兵第33連隊
第16師団歩兵第30旅団歩兵第38連隊
第6師団歩兵第11旅団歩兵第13連隊
第6師団歩兵第11旅団歩兵第47連隊
第6師団歩兵第36旅団歩兵第23連隊
第114師団歩兵第127旅団歩兵第66連隊
それゆえ、他の連隊に虐殺を見ていない兵士がいる可能性はある。そもそも南京城内は山手線に匹敵する広さ。
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●補足7「目撃者もなく、当時には一切報道もされていない」というデマ
・欧米で事件は大々的に報道されていた。占領2日目には早くも『シカゴ・デイリー・ニュース』が「NANKING MASSACRE(南京大虐殺)」の見出しで第一報を掲載。4日目に『NYタイムズ』が「大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」と掲載。
−−−−−

●補足8「蒋介石は知らなかった」のデマ
1938年1月(虐殺翌月)の蒋介石日記に「倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである」と記述。
−−−−−

●補足9「中国軍の仕業を日本軍になすりつけている」のデマ
仮にその陰謀が事実なら日本軍はおおいに対外宣伝に利用したはずだが、当時そのような宣伝は行なわれていない。ただし中国兵が民間人の服を奪う際に殺害に及んだ事例は一部であった。
※そもそも日本兵の補給は現地用達、つまり徴発(略奪)が基本方針であるため悪評が広まっており、わざわざ日本兵のフリをして貶める必要はなかった。
−−−−−
●補足10・パール判事について
「パール判事が日本の戦争行為に理解を示した」というのは保守派のデマ。パール判事は日本軍の残虐行為に激怒している。東京裁判は、新しく作った法律で過去の行為を処罰できないという法学者の信念から「無罪」としたのであって、「日本は悪くない」とは言ってない。南京大虐殺については「宣伝と誇張を出来る限り考慮しても、なお残虐行為は日本軍が占領したある地域の一般民衆、また、戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」と虐殺を認め断罪している。パール判事の息子は、東條英機の伝記映画『プライド』が東條を美化するため自分の父を利用していると憤慨し、田中正明氏(勝手に松井石根大将の文章を改変し「南京事件はなかった」と嘘をまき散らした人物)に抗議している。

パール判事の激しい批判:
・張作霖爆殺事件は「無謀でまた卑劣である」
・満州事変を「非難すべきもの」
・満州国建設を「手の込んだ政治的狂言」
・南京虐殺やフィリピンでの虐殺を事実と認定し「鬼畜行為」と批判。南京大虐殺について20箇所以上の残虐行為を指摘したうえで「鬼畜の性格を持っている」と断じ、戦争指導者は無罪であっても、殺人・強姦など通例の戦争犯罪の実行者に対する処罰は(新法で後から処罰することですら)「正当である」と言及。

−−−−−

少し相手の立場で考えてみましょう。終戦時、中国にいた日本軍は105万5700人。日本軍は補給を軽視し、農村から命綱の牛馬鶏を奪い、穀物を奪いながらの行軍、占領です。そして少なくない部隊で強姦が発生し、抵抗すれば殺害。この歴然たる事実を正面から見つめ、どうかネットにデマを広めないよう、同じ日本人として心からお願いします。

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/108.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK282] 菅首相が金メダル第1号選手に祝福電話も…「人気取り狙い」バレバレで逆効果(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
15. 2021年7月27日 16:56:16 : H3qewymxyA : akJmdGxndm1hajY=[-1410]
メダルはいらない

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http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/244.html#c15

コメント [政治・選挙・NHK282] 「俺は総理になる」パワハラ大失言の西村康稔大臣の野心と限界 秀才中の秀才がつまずいた、残念すぎる「人との付き合い方」(… 赤かぶ
6. 2021年7月27日 16:58:44 : EeWDBULl6z : LmZVc0JPT0Z3RkE=[1]
総理という器ではないことだけは確かだ。でもあんな軽い菅義偉も総理になったからな。俺だって可能性はあるな。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/247.html#c6
コメント [近代史6] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
2. 中川隆[-16015] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:00:27 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[8]
貴重資料『南京事件U』
49,280 回視聴




テレビ史上、初めてCG化された南京大虐殺。虐殺の理由は補給を軽視した作戦によって日本軍ですら食糧が乏しかったのに、何万という捕虜を養えなかったから(暴動が起きる前に処刑)。後ろ手に縛られ、戦闘する意思も手段も放棄した人間を背後から殺害することは虐殺です。日本兵が南京城内で便衣兵(ゲリラ)に苦しめられたという公式報告はありません。現在の中共政府はウイグル人を非道に弾圧し、香港に圧政を敷き、南沙諸島を不当支配。それを国際社会で批判する為にも日本は過去を直視せねばなりません。

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南京占領軍への当初の命令は「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊(ゲリラ)と見なし、­すべて逮捕監禁すべし」。つまり、老人と子ども以外の中国人男子は全員逮捕監禁せよと­いう厳命。だが、捕虜10万人の食料も収容する施設もない。やがて命令は「捕虜を処分­(処刑)、殲滅(せんめつ)せよ」に変わった。『ハーグ陸戦協定』では「武装解除した­捕虜の虐殺」を戦争犯罪としている。


〔まとめ〕南京を占領した日本軍は、各部隊とも自軍の10倍近くの捕虜を得て、その処­理に困って殺害に至った(例えば山田支隊1500人に対して15000人の捕虜が発生­し幕府山事件が起きた)。本来、捕虜ならば軍法会議、捕虜以外は軍律会議の判­決で処断せねばならない。

※日本軍の名誉のために書いておくと、捕虜を殺害せず、武装解除したうえで釈放した部隊もある。第6師団歩兵第45連隊は5500人を、国崎支隊の歩兵第41連隊は2350人を解放。

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★その他、南京大虐殺否定派の疑問は以下の4つのリンク先で100%解決されると思います。

「南京事件FAQ」 https://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/
「南京事件資料集」 http://kk-nanking.main.jp/index.html
「南京事件ー日中戦争 小さな資料集」http://yu77799.g1.xrea.com/
「南京事件の写真検証」https://bit.ly/2EEM7Wc

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/108.html#c2
コメント [カルト33] ドン・アイスランド・接種率七割、新規感染の八割が接種者。ワクが犯人なのは明らかである。 ポスト米英時代
1. 2021年7月27日 17:00:56 : OLSIlhHWsg : YmdjdjdKdU1uVEU=[78]
おそるおそる、近所の若い女性たち(就職が決まった学生)に聞いたところ、

はい、もでるなの1回目終わりました!という嬉しそうな返事。

銀行や生保への就職なので、いずれにせよ、来年4月に聞かれるかな?

ずっと時間をかけて話をしてきた人たちが、皆、してしまった。私の話は、ほら話、というか、冗談だと思われていたようです。情けない...
http://www.asyura2.com/21/cult33/msg/465.html#c1

コメント [経世済民135] 政府、国費投入で国産ドローン開発プロジェクト始動…自動車業界「空飛ぶクルマ」開発競争(Business Journal) 赤かぶ
2. 2021年7月27日 17:01:56 : vvj9gGuyUQ : eWFTTFBtNUh5Ylk=[1]
「ドローンさんに連れられて行っちゃった」なんてならきなきゃいいけど。
結局ろくな使われ方しないだろうな。ハエや蚊もウザいし何かが空を浮遊
してると気分良くないしね。酸化グラフェンの散布やケムトレイルの精度
を上げようとしてるのかな。
http://www.asyura2.com/21/hasan135/msg/455.html#c2
コメント [番外地9] 南京大虐殺の証拠 中川隆
4. 中川隆[-16014] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:02:11 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[9]
【貴重証言】加害者としての日本軍
2020/08/24




戦争から75年がたち元兵士の大半が亡くなるなか、とても貴重な証言。右派左派ともに耳を傾けるべき内容。初年兵がやらされる刺突訓練(農民を殺害)、日本人軍医が戦時中に記した兵士による輪姦の状況など。戦争の真実がここに。※沖縄戦を体験した兵士は当然ながら中帰連メンバーではありません。

http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/181.html#c4
記事 [ペンネーム登録待ち板6]   台風8号への備え:川のそばには近づかず、避難は明るいうちに

   台風8号への備え:川のそばには近づかず、避難は明るいうちに

           台風への参考情報とは ?

(news.yahoo.co.jp:2021年7/27(火) 11:24)

台風8号は、7月27日夜の遅い時間から、28日未明に東北に接近、上陸するとみられています。
大雨による土砂災害や低い土地の浸水、河川の増水、氾濫に警戒してください。
太平洋側は、暴風や高波にも注意が必要です。(防災・教育室)

◆「線状降水帯」発生メカニズムと対処法は?

 河川には近づかず、田んぼ、用水路も見に行かないでください。夜になって非常に激しい雨が降るところがある見込みです。暗い中での避難は危険を伴います。土砂災害や浸水の危険がある地域の人は、明るいうちに安全な場所、建物に移動してください。
 土砂災害、洪水など地域の警戒区域は、国土地理院のウェブサイト「重ねるハザードマップ」で調べられます。気象庁ウェブサイトの「土砂キキクル」では、降っている雨と土壌に含まれる水分量から割り出した土砂災害危険度を確認できます。
 高齢者をはじめ、インターネットに、不慣れな人は、災害情報から取り残される可能性があります。家族や近隣住民が災害情報を入手して早い段階で避難を促せば、リスクを低くすることができます。
 また遠くで暮らす家族の周辺の災害リスクを調べ、電話で日没前、浸水前の避難を促すこともできます。判断に迷っている時、家族の言葉はきっと背中を押すはずです。
監修 防災・減災復興支援機構:イラスト・さとうあけみ

○台風8号:あす明け方、宮城や福島付近に上陸か ?

(kahoku.news:2021年07月27日 06:00)

台風8号は、7月27日午前、関東の東の海上に停滞している。この後は北に進路を変え、28日明け方から朝に東北の太平洋側に接近し、宮城県や福島県付近に上陸する見込みである。
断続的に激しい雨が降り、大雨になる恐れがあるとして、仙台管区気象台は土砂災害や低い土地の浸水、河川の増水や氾濫に警戒を呼び掛ける。
 宮城県内では、28日正午まで24時間の予想雨量は多い所で180ミリ。その後の24時間に50ミリ。28日にかけての予想最大風速(最大瞬間風速)は海上20メートル(30メートル)、陸上15メートル(30メートル)。海上では暴風や高波への警戒も必要となる。
 8号は27日午前9時現在、千葉県銚子市の東南東約190キロの海上でほとんど停滞している。中心気圧は990ヘクトパスカル、最大風速20メートル、最大瞬間風速30メートル。中心の北東側600キロ以内と南西側390キロ以内という広い範囲で風速15メートル以上の強風域となっている。
台風は28日に日本海へ進み、温帯低気圧となる見通しである。
 8号は、気象庁の統計開始以来、初めて東北の太平洋側に上陸した、2016年8月の台風10号と進路が似ている。宮城県、福島県に上陸すれば、観測史上初となる。

(参考資料)

○人工台風のムラゴンブログ

(muragon.com:2020/09/04 21:03)

◆主犯はDS天皇一族、安倍一族、ビルゲイツ一味 !

記録的猛烈な【台風10号】主犯はDS天皇一族、安倍一族、ビルゲイツ一味【人身売買】人口削減ディープステートの断末魔、最後の抵抗!トランプ大統領の【悪魔の人食い】殲滅作戦!世界中で日本中で着々成果!
記録的猛烈な【台風10号】主犯はDS天皇一族、安倍一族、ビルゲイツ一味【人身売買】人口削減ディープステートの断末魔、最後の抵抗!トランプ大統領の【悪魔の人食い】殲滅作戦!世界中で日本中で着々成果! 台風10号 猛烈な強さ あす夜から沖縄地方に接近 早めの対策を | 台風10号 | NHKニュース 「人食い天皇家」を存続させようと画策する宮内庁たるやおぞまして限りである!! | 清洲のブログ 人工気

◆人身売買のトランプ大統領 !

台風10号 記録的台風 天皇一族 安倍一族 ビルゲイツ一味 人身売買のトランプ大統領
仙台市 仙台市青葉区 宮城県
日々物語 id:hibimonogatari 2020/09/04 21:03
三菱電機が【人工気象改変装置】特許出願!安倍晋三の兄が社長!熊本記録的大雨 2人死亡!17人心肺停止 1人、重体 6人、行方不明!台風の大きさも進路も自由自在に操れる!宇宙ベースの電力システム【人工気象兵器】悪魔DS安倍一味!人工地震、人工火山噴火!戦争屋の三菱!
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◆熊本大雨:人工気象兵器 !

熊本大雨・人工気象兵器・三菱電機・特許・安倍晋三
仙台市青葉区
日々物語 id:hibimonogatari 2020/07/05 09:46
安倍晋三一味の【人工気象兵器】台風の大きさも進路も豪雨も自由自在に操れる !
三菱電機が【人工気象改変装置】特許出願!安倍晋三の兄が社長!宇宙ベースの電力システム【人工気象兵器】悪魔DS安倍一味!人工地震、人工火山噴火!太陽光発電衛星から送り出すマイクロ波ビームによって大気を加熱しハリケーンの温度を変更できる!
安倍晋三一味の【人工気象兵器】台風の大きさも進路も豪雨も自由自在に操れる !
三菱電機が【人工気象改変装置】特許出願!安倍晋三の兄が社長!宇宙ベースの電力システム【人工気象兵器】悪魔DS安倍一味!人工地震、人工火山噴火!太陽光発電衛星から送り出すマイクロ波ビームによって大気を加熱しハリケーンの温度を変更できる !安倍晋三一味の【人工気象兵器】太陽光発電衛星から送り出すマイクロ波ビームによって大気を加熱

◆人工気象・人工地震・人工豪雨

日々物語 id:hibimonogatari 2020/06/30 21:45
だから、巨大台風が来る!日本円が【安全資産】であり続けては困る人たちがいる【戦争屋DeepState】日本の景気を悪化させるのが目的!安倍一味の消費税増税も景気悪化が目的 !
DSに飼われた卑しい家畜たち !
だから、巨大台風が来る!日本円が【安全資産】であり続けては困る人たちがいる【裏社会DeepState戦争屋】日本の景気を悪化させるのが目的 !安倍一味の消費税増税も景気悪化が目的 !
DSに飼われた卑しい家畜たち ! 「日本円が安全資産」であり続けては困る人たちがいる。だから、巨大台風が来る。: richardkoshimizu のブログ(記事は下記に)
台風19号は、日本経済を叩きのめすのか ?安倍晋三一

◆自分で考えない日本国民はダマしやすい !

日々物語 id:hibimonogatari 2019/10/26 18:27
台風15・19号【災害指揮系統】なき安倍日本 !過去の災害経験生かされず、これからも !
安倍首相は自治体任せで【十分機能を果たした】安倍政権である限り国民、被災者は救われない!なぜだろうか…安倍一味の【人工気象改変操作】だから!三菱が特許出願!安倍晋三の使命は日本破壊、人口削除 !自分で考えない日本国民はダマしやすい !
台風15・19号【災害指揮系統】なき安倍日本 !過去の災害経験生かされず、これからも!安倍首相は自治体任せで【十分機能を果たした】安倍政権である限り国民、被災者は救われない!なぜだろうか…安倍一味の【人工気象改変操作】だから!三菱が特許出願 !
安倍晋三の使命は日本破壊、人口削除 !自分で考えない日本国民はダマしやすい !
台風被害の後手後手対応と避難所の劣悪環境が国会で議論も…安倍首相は“自治体任せ”で知

◆安倍晋三一味のたくらみ !

日々物語 id:hibimonogatari 2019/10/19 19:40
台風19号は、日本経済を叩きのめすのか ?安倍晋三一味は、この未曽有の強大な【人工台風】で東海、関東甲信越、東北などを壊滅させようと【放置作戦】を企んでいるのではないか ?
南海トラフ地震誘発の危険性 !BYリチャード・コシミズ
台風19号は、日本経済を叩きのめすのか ?安倍晋三一味は、この未曽有の強大な【人工台風】で東海、関東甲信越、東北などを壊滅させようと【放置作戦】を企んでいるのではないか ?
南海トラフ地震誘発の危険性!BYリチャード・コシミズ 台風19号は、日本経済を叩きのめすのか?: richardkoshimizu のブログ(記事は下記に) 台風19号は、日本経済を叩きのめすのか?: richardkoshimiz

◆安倍一味の【自作自演災害】

日々物語 id:hibimonogatari 2019/10/12 16:39
【台風19号】突風で車が横転し男性死亡 !京大から【気象操作】内部告発 !
安倍一味の【自作自演災害】は人工気象兵器 !京大のMUレーダーとケムトレイルの組み合わせ!世界で最も進化した気象改変装置【Antenna of HAARP】
【台風19号】突風で車が横転し男性死亡!京大から【気象操作】内部告発!安倍一味の【自作自演災害】は人工気象兵器!京大のMUレーダーとケムトレイルの組み合わせ!世界で最も進化した気象改変装置【Antenna of HAARP】 車が横転し男性死亡 突風と関係か 千葉 市原 | NHKニュース(記事は下記に) 京大から【気象操作】の内部告発 !
安倍一味の【自作自演災害】は人工気象兵器 !京大のMUレーダー
日々物語 id:hibimonogatari 2019/10/12 12:55
猛烈な台風19号がやってくる【関電疑惑】ごまかす絶大な効果あり!恐らく、ディープステイトDSと安倍一味が失脚して去った時、異常気象もあらかた収まると思います!BYリチャード・コシミズ !
猛烈な台風19号がやってくる【関電疑惑】ごまかす絶大な効果あり !恐らく、ディープステイトDSと安倍一味が失脚して去った時、異常気象もあらかた収まると思います!BYリチャード・コシミズ! 台風19号がやってくる。関電疑惑をごまかす絶大な効果あり。: richardkoshimizu のブログ(記事は下記に) スーパー人工台風19号【東海関東直撃】か !台風15号【大停電災害】送電線鉄塔が倒壊すると大き

◆人工台風の悪魔DS一味 !

日々物語 id:hibimonogatari 2019/10/10 13:45
冷酷 !安倍政権【千葉台風災害】自衛隊を早期撤退させた !ブルーシート未設置家屋が1715軒もあったのに!県内でブルーシート設置ができる自衛隊員の数は2000名いた !
人工台風の悪魔DS一味【日本破壊党】のなせる業 !
冷酷!安倍政権【千葉台風災害】自衛隊を早期撤退させた!ブルーシート未設置家屋が1715軒もあったのに!県内でブルーシート設置ができる自衛隊員の数は2000名いた!人工台風の悪魔DS一味【日本破壊党】のなせる業! 安倍内閣は【災害防災】自己責任と決定!反社大臣・武田防災相が千葉災害に冷酷発言連発!被害拡大は千葉が台風に慣れてないから、災害に備える努力を!自衛隊も早期撤退させた!ブルーシート未設置家屋

◆メディアも人災に加担 !

日々物語 id:hibimonogatari 2019/10/08 18:26
クズNHK【台風15号】安倍政権の人災・棄民政策、復旧遅れを【行政の過去の経験、活かされず】と被災自治体の責任だと報道!2019年9月17日ニュースウオッチ!
【台風15号】これでも自民党支持ですか !安倍政府の【人災・棄民政策】サンデーS後藤氏、政府は今まで一体何をやっていたのか? 未だに対策本部もない!何故か安倍首相は会見も現地視察もない !菅官房長官は災害ではないという !メディアも人災に加担、ヘリも飛ばして情報収集しなかった…同罪だ !19/09/17 18:17- みんなが知るべき情報/
今日の物語 フォローお願い致します→復活マッジクアワーTwitte


http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/15510.html

コメント [政治・選挙・NHK282] 「俺は総理になる」パワハラ大失言の西村康稔大臣の野心と限界 秀才中の秀才がつまずいた、残念すぎる「人との付き合い方」(… 赤かぶ
7. 2021年7月27日 17:02:58 : MUksnxUr1U : VmZoMlJoTjRkWFk=[8]
要するに、西村は「勉強しか出来ないバカ」ということだな。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/247.html#c7
コメント [近代史6] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
3. 中川隆[-16013] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:03:26 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[10]
【貴重証言】加害者としての日本軍
2020/08/24




戦争から75年がたち元兵士の大半が亡くなるなか、とても貴重な証言。右派左派ともに耳を傾けるべき内容。初年兵がやらされる刺突訓練(農民を殺害)、日本人軍医が戦時中に記した兵士による輪姦の状況など。戦争の真実がここに。※沖縄戦を体験した兵士は当然ながら中帰連メンバーではありません。

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/108.html#c3
コメント [近代史6] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
4. 中川隆[-16012] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:06:10 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[11]
CGで再現「南京大虐殺」
2018/10/24




テレビ史上、初めてCG化された南京大虐殺。虐殺の理由は補給を軽視した作戦によって日本軍ですら食糧が乏しかったのに、何万という捕虜を養えなかったから(暴動が起きる前に処刑)。後ろ手に縛られ、戦闘する意思も手段も放棄した人間を背後から殺害することは虐殺です。日本兵が南京城内で便衣兵(ゲリラ)に苦しめられたという公式報告はありません。現在の中共政府はウイグル人を非道に弾圧し、香港に圧政を敷き、南沙諸島を不当支配。それを国際社会で批判する為にも日本は過去を直視せねばなりません。

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/108.html#c4
コメント [近代史6] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
5. 中川隆[-16011] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:08:32 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[12]
日本軍の記録に残る南京大虐殺(軍命令により実施)
2015/03/05



http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/108.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK282] 「俺は総理になる」パワハラ大失言の西村康稔大臣の野心と限界 秀才中の秀才がつまずいた、残念すぎる「人との付き合い方」(… 赤かぶ
8. 2021年7月27日 17:14:16 : MUksnxUr1U : VmZoMlJoTjRkWFk=[9]
いや、ほんとに、安倍の後ろでテレビによく映ってた頃なんか「どこのチンピラやねん」と思ってたからな。
この経歴で、どうやったら、ここまでゲスくなれるのか、片山さつきと共著で『ゲスイ、ヒンソー、キモイと呼ばれて』てな本でも書けばバカな東大生が読むんじゃないか?(笑)

片山さつき政務官「“つ”を“tu”と書くのは普通の日本人じゃない」→公式サイトのクレジットは「Satuki」 (2013年8月28日) - エキサイトニュース
https://www.excite.co.jp/news/article/Getnews_406767/

一連の『2ちゃんねるビューア』アカウント購入者の個人情報流出に関連して流出したデータの中に「KATAYAMA SATUKI」名義で住所を自民党本部とする複数のアカウント購入者が発見されたと『2ちゃんねる』上で報告されている問題について、26日早朝に片山さつき総務大臣政務官は『Twitter』で以下のようにコメントしました。

いや、びっくりしたというか、笑えました!2チャン、私もうちのスタッフも触った事さえありませんが、「犯人のお郷が知れる」とうちの秘書が言ったのはkatayama satuki 普通の日本人は、さつきはsatsuki と表記しますね。abe thinzoもshinzoと表記します。

画像および出典URL: https://twitter.com/katayama_s/status/371986820281548800

(以下略)

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/247.html#c8

コメント [カルト33] 朝日・れいわ、どこへ。太郎が大将首を取りに行く腹を決める事である。 ポスト米英時代
9. 2021年7月27日 17:15:29 : HmqXK6fDAs : RTVEbm5HMGFqVlE=[1]

山本太郎には、DS本丸★通貨発行権独占(砦=DS中央銀行・日銀)をなんとか切り崩してほしいね。てごわいだろうけれど。国民の権利侵害はマックスだ。生活崩壊進行中の国民へ権利擁護の必要性・政策の可否を問うてほしい。れいわ新撰組が政権を取るために。現実深刻数字に合わせた緊急生活保護制度案とか。

都債でも、国債でも、ウルトラC国民主導通貨発行権行使でも…。
これは大きなことだし、山本太郎には是非とも貫いてほしいことだ。
そしたら、所詮DS傀儡野党一括り中傷〜からは明確に外れる。
これ、全世界が被害者なんだから、なんとか(DS偽工作員)ではない、海外の有力抵抗者と連携できないものかねえ。国内でもなにかよい法的な仕組みの活用とかさ。
あきらめずに執拗にしつこく粘り、日本国のDS傀儡いかさま民主主義支配を打破する位置に居続けてほしい。分厚い悪魔支配をなんとかしないと殺される。…ほかに、代わりはいないんだから。
http://www.asyura2.com/21/cult33/msg/464.html#c9

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
1. 赤かぶ[142509] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:15:36 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41294]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK282] 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
9. エレ爺[-498] g0eDjJbq 2021年7月27日 17:16:57 : kxk7MnCbWU : d1N5Q0JNaG5NNEk=[-11347]
>投稿者 赤かぶ 日時 2021 年 7 月 27 日 15:10:15:
>日刊ゲンダイDIGITAL > ライフ > 暮らしニュース > 記事 > 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増 公開日:2021/07/26 15:30 更新日:2021/07/26 15:30

今日(2021/07/27)のトップ記事(17:15現在)はコレね・・・

ミスリードというのが「ミスリード」ですね。

政治社会面ではなく、ライフ(暮らし)面で、読者を騙そうとする、悪質なミスリードですね。

フェイクニュースと言ったほうがいいかな・・・

>都の基準で集計した重症者数は前日より2人減って72人だったと発表したが、この“数字”はミスリードにつながりかねない。

この数字は正しいですよ。

アビガンは効いている・・・

>7月以降、都の感染者数は右肩上がりが続いているが、重症者数は50〜70人の範囲で一進一退。過去最多だった160人(1月20日)の半分にも満たない状況だ。

そう、同じ基準で比較しないといけないですよ・・・

まあ、あと何を言っても、これからは「国の基準」だと言うんでしょうけどね、日刊ゲンダイは・・・

CIA日刊ゲンダイは、いまなお、無期限の不安と恐怖、を煽っていなくちゃいけないんでしょうね・・・

アホらし。

https://www.youtube.com/watch?v=wA-qqOP9p6Q
>Stratos 4 Advance Opening English (Alternative)



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/246.html#c9

コメント [医療崩壊7] コロナワクチンが危険な理由  (分子生物学者・免疫学者 荒川央)  魑魅魍魎男
38. 2021年7月27日 17:17:34 : kVBxNOG0ie : dkl3bVF2Sk4yOC4=[3]
mRNAワクチンのmRNAとは、いわばソフトです。
DNAというハードディスクからデータをコードするソフトです。
すぐ壊されて不安定だからマイナス70度(?)でしか保存できない。
となっていますが、身体の入ったのちも不安定かどうかは、
どうなのでしょうか。

このmRNAは宿主の機能を借りて、SARS-CoV-2ウイルスと同じスパイクタンパク質を作らせます。それによって、宿主の免疫組織に抗体をつくらせるというメカニズムです。

さて、mRNAワクチンには、mRNA以外の成分としては、mRNAを安定して運ぶリポソーム(脂質ナノ粒子)があります。これらも人によっては悪さをするかもしれません。


リポソームに護られたmRNAは注射部位からリンパ系を経由して肝臓や脾臓に分布し、最終的には一般循環に乗ると思われます。

では、mRNAにコードされて作られた遺伝子組み換えスパイクタンパク質の行く末はどうなるのでしょうか?
本物のウイルスとは違い、本体をもたないスパイクタンパクだけですから、人間のからだに悪さをしないでしょうか?
まあ、スパイクタンパクに対するモノクローナル抗体の発現はmRNAワクチンの成果なのでしょうが、悪さをしないとは言い切れないようですよ。

では、では・・・、感情ではなく、科学的に考えましょう。


http://www.asyura2.com/21/iryo7/msg/123.html#c38

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
2. 赤かぶ[142510] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:20:05 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41295]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c2
コメント [近代史6] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
6. 中川隆[-16010] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:20:19 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[13]

■ 一 般 市 民 虐 殺 命 令 ■
http://kk-nanking.main.jp/


福田治夫(1915年10月生まれ)
第16師団歩兵第9連隊 第2大隊

 一週間ほどして南京からいくらか離れた南西方向の裕渓口に駐屯しました。聯隊で下がりました。そこは夜でもうっかり寝てることできませんのやで。子どもとか年いったお婆さんまで、抗日排日の教育で手榴弾かくして持って、宿舎に入ってきたのが子どもですやろ、こっちは油断しますわな。寝てる所に放り込まれるのが再々あってね。「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」と聯隊長の命令がでました。二人とか三人とかの百姓を捕まえてきて、「そこらに兵隊はおるかおらんのか」などの尋問して地形を聞いて、後は殺してしまうんです。クリークの縁に連れ出して、そこに座らせました。将校は、めったに刀で首切りなんてできへんのやから、軍刀持ってるさかいに試し切りをするんです。私ら兵隊は突き殺しました。鉄砲の弾できるだけ使うなと言われてました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P173


野田典吾(1915年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 連隊本部
 上海の白茆口に上陸した時すぐ松井石根大将が、この地方は共産党思想が強いのであらゆる者は殺せと指示したと聞きました。その時、野田聯隊長がそれを聞いてだめだと言ってました。十七日の入城式は朝香宮が南京に入ってこられましたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P77


安藤猛治(1915年4月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 大隊砲

 上海から南京までの間には、共産党が多かったんで、あんまりいい命令は出なんだな。「見付けしだいにやっちまえ」ちゅうようなことでな。じかに聞いた話ではないけども、そんなふうに感じたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P208


大川護男(1916年4月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 大隊砲

 駐屯してからな、慰安的な女の子をさがしてきたこともあったな。その場でやったな、その時分は少々悪いことしても、後でわかったらいかんというので、殺してしまやいいんや、自分らが悪いことしたら殺してしまえと部隊の中で言ってる者がいた。反日の思想が強いので全部殺してしまえという部隊があったと聞いている。その証拠に武器なんか隠してるかちょっとおかしかったら家を全部焼いてたわな。上海から南京に行くまで、自分らはいつも後方部隊やから、燃え落ちた後の部落を通った。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P325


外山武雄(1914年2月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

 上海の近くで敵前上陸して南京に向かったな。途中、クリークや大きな池を越えたりして行くので大変やった。工兵隊が橋を作ってくれたりしてな。南京へ攻めていって、揚子江でたくさんの死体が流れていくのを見たな。女や子どもも入っとるやろね。いや入ってて当然や。私も下関で軽機で撃っとるけどね。敵が(揚子江を)下って行くのを撃った。しかし南京のことは忘れてしまった、ぜんぜん憶えてない。ただ上から「男見たら殺せ」と命令されたことだけはよう憶えとる。南京へ行くまでに、常熟か無錫辺りかな、もうそういう命令が出ていたな。部隊長の××中尉が言ったんじゃないか。あるいは「人見たら殺せ」とな。何しろ、喰うか喰われるかの戦争や。うっかり見逃したら、こっちがやられるからな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P159-160


鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P271


南泰吉(1913年7月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

 行軍が早くてどんどん進むもんでね。部落は日本軍が火をつけて焼けてますやろ。上陸した始めの頃は焼いてなかったけど、途中でそりゃもう、部落をどんどん焼いてました。放火分隊って、上陸の時はうちの中隊もありましたな。中隊長があの部落焼いてこいって。家の中には、住民が隠れていてますわな。それを殺さなならんのですわな。それで兵隊嫌がってましたな。その命令が出ると。おると殺さないかんのです。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P302


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。命令が出てなかったらこっちはしませんよ。北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。だから北支は戦争しにくかったです。
 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P312〜314


徳田一太郎(1914年6月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 南京に向かう途中どこの戦闘だったかは忘れたけれど、部落があってあそこに共産党がいるということで、上から「負傷者に関わらず全部共産兵なので、全部殺せ」と命令してきたんです。それで部落に火を点けるとな、後ろから煙が上がってきました。その中から「オギャーオギャー」と赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。
『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P135


町田義成(1913年生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊

 昭和十二年八月松、大召集を受けて、九月に久居を出発し、大阪港から出航しました。
 九月、十月、十一月は河北の戦闘で韓家頭や八里荘で初めて戦闘を体験しました。
(略)
 韓家頭ではやられたので、部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。部落に入ったら、猫の子でもいいから生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」と命令が出ました。それでわずか百メートル先に五十戸位の部落が見えたんです。これこそと攻撃をかけたけど、猫の子一匹もいやしません。粗末な一軒の農家の中のアンペラがコソコソと動くのでめくり上げると、四十歳位の妊婦が二人の幼児を両脇にだきしめて隠れていました。コノーと引きずり出すと、子どもは泣き叫び母親の後にしがみついている。母親はもう一人の子をクリークの中につっこんだ。××伍長がこれこそ戦友の仇と、即座に銃で三人を撃ち殺してしまった。その時は気がたっていたというか、女子どもなのにひどいことをしました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P56-57


吉川定国(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1機関銃中隊

 私ら行った時は白茆江やったかな。弾飛んで来えへんかったということは敵おらへんかった。上陸の時命令受領に行ったら「普通の男も殺せ、皆敵や」と言われていたで。家を焼けとの命もあって、うちの中隊でも放火班があったで。十人ぐらいで火をつけたけども常熟の前やったか、一日ぐらいで止めた。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P69


依田修(1916年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 大連から南下して上海から揚子江を上にいった白茆口という所に着きました。そこでは敵前上陸で、そこからどんどん追撃して南京まで行ったんです。その時、私は上からの命令文を見ました。「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。その命令は白茆口を上陸する前日に出たんです。
 当時、大連で船に乗った時はもう内地に帰れるかなぁと思っていました。でも、なかなか日本に着かないなぁと思っていると上陸の命令が来たんです。「今から上陸するところは米が穫れる、水牛がおる、支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と言う命令でした。
 (略)
 上陸してから常熟で一晩泊り、翌日の出発前に家を全部焼き払いました。民家の中のタンスやらを積んで火を点けたら全部燃えましたな。結構広い部落が全部燃えました。そうしたら、後方部隊が来るようになったので「家を焼くな」という命令が再び出たんです。それは無錫の手前でした。その命令は小隊長から聞きました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P95


中田清次(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 中島師団長という人は剛胆な人で、「支那の家を全部焼いてしまえ」と言いましてな。白茆口へ上陸した時です。「ここは抗日の一番ひどいとこやから各部落の家は全部焼け」とも言いました。私も上陸してから露営して、すぐに家を焼きました。仲間内で伝わって来ましてな。「師団長が言うたんで、やってしまえ」と。まぁでも後から来る兵隊は泊まるとこがなくなるので、焼くのを中止してくれとなってね、無錫からは焼くのはやめました。
 中島師団長はそういう人ですので、支那兵はみんな殺してしまえと、二十聯隊か三十八聯隊か九聯隊か知らんけど、そういうことをやりましたでしょうな。それが問題になったわけです。反日運動が盛んやとは聞いてましたけど、「徹底抗戦」とか「抗日」とか白壁に書いてました。南京に行くまでの至る所に書いてましたな。「日本悪鬼」って書いてましたな。
 命令授与で「風紀・軍紀厳正」という命令はいつでもありましたけど、じっさいには、支那におった時にはあんまりやかましく言われませんでした。
 日本の兵隊は無茶なことしてますわ。強姦は南京戦より徐州戦の方がひどかったくらいです。南京でももう乱れてましたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P343-344


吉川克己(1913年12月生まれ)
第6師団歩兵第45連隊 第1大隊

 兵隊も民間人も同じような服装をしていたから区別できませんでした。みんな灰色やら黒やらの服を着て、百姓の格好をしているんですわ。実際やられた者もおりましたし。普通の格好していても、何を持っているかわかりませんからね。南京にくる途中で女の兵隊をつかまえたという噂も耳にしました。とにかく「人をみたら敵と思え」と言われていました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P116


山田忠義(1914年7月生まれ)
第16師団歩兵第38連隊 第3機関銃中隊

 無錫の時は雪で道がぬかるんでね。それで聯隊の被害が大きかったです。敵の抵抗があってね、それで聯隊長がカーッと頭にきたんですね。せやから民家を全部焼いてしもてね。そしたら部隊が寝る所がなくなって苦情が出たんです。
 夜襲もありましたよ。敵は一般民衆の服装してるからわからへんのですわ。どれが兵隊やら普通の人やらね。せやから男と見たら兵隊と思えちゅうことでね。せやから南京でも虐殺や言うてますけどね……。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P188


内村和郎(1915年10月生まれ)
中部第38部隊第2碇泊所

 戦いはもう市民も女も子どもも考えていないもん。もうめちゃくちゃやもん。「男であろうが女であろうが生かしておくな、みんな銃殺や」と、隊長が言うとったとその時、南京にいた歩兵から聞いた。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P251


■ 無 差 別 掃 蕩 命 令 ■


田中次郎(1908年2月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

 十二月十四日、揚子江岸で捕虜を千二百人いっぺんに処分しました。日記に書いているように惨いことでした。処分がすんでから、悒江門から城内へ掃蕩に入りました。(略)捕虜剔出には人数を数える暇なく、どんどん捕まえました。捕虜といっても中国服を着た男ばっかりでしたよ。掃蕩をやる時は中隊長の指揮によってです。注意事項というものはなく「戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ」と上部の命令として言われていました。直接この命令を聞いた覚えはないが、中隊長か大隊長が発したのだろうと思っています。実際、男を敵兵として捕らえ、一人ひとりを調べることなどしませんでした。おとなしく投降しても、中国人は全部殺してしまう。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P83-84


松田脩一(1913年8月生まれ)
第16師団歩兵第38連隊 第1大隊

 南京の和平門に着いた。門が閉まっていて野砲がどんどんと砲を撃った。抵抗がやんだので縄梯子で登った。中にいた敗残兵が、次々と手を挙げて出てきました。大隊長は「切れ」という仕草をして両手を振り下ろしました。命令ですのでみんなで突き殺しました。門を入ると捕虜を集めていました。捕虜は、固まってこちらに十五、六人、あちらにまた十五、六人とたくさんいました。それを集めていましたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P182


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 「人間だったら全部殺せ」の感じでした。家の門の所とかは女や子どもはいなかった。皆ずっと奥の方に避難しているので、そんなにいなかったんです。だから女や子どもの死体はあんまり見ませんでした。でも男はとにかく捕まえました。その処理はどこの部隊がどんなふうにしたのか分からないけど、まず揚子江の入り江で銃殺したと思います。「捕虜は処分しろ」という命令は直接聞いてないけれど、処分したという想像はできますね。南京に入るまでにはこっちも相当やられましたしね。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P312〜314


徳田一太郎(1914年6月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 十二月十三日南京陥落後の翌日、朝八時頃に南京の太平門に入りました。そこで十四日、十五日と二日間警備をしましたな。入った日の前々日の攻撃で死んだ死体がそのまま放ったらかしてありました。
 松井司令官の命令で各師団長に、師団長から各中隊長に伝わってきていたと思うんやが、兵隊は何事も命令なしで勝手にやってはならんからな。当時分隊長が「男は皆殺してしまえ!」と言って話は覚えていますよ。そして南京に入ってから「外国権益のある所は絶対入るな」と注意されました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P130


朝倉正男(1915年3月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 陥落してから、二日ぐらいしてから南京城内で掃蕩しました。家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張ることもあるし、その場でぼんと銃でやってしまうこともあった。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P221


上西義雄(1914年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 捕虜の処分は師団命令です。実際に私ら兵隊に命令を下したのは、中隊長で、「捕虜にした者は全部殺せ」と言って指令されました。どのぐらいの人数を殺したか、数は分かりません。一日にだいたい、一個小隊ぐらい、五十〜六十名ぐらいを処分しました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P230

井上益男(1915年6月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 南京の手前で中隊長が「南京に入ったら、強盗、強姦、殺人を許す」と命令を出したのを聞いたので、わしの中隊が入城して荷物を降ろし、ぐずぐずしてるとさ「何してる、早く盗りに行かんかい」と兵隊に言われた。皆早く実施しなければならない気持ちですぐに掃蕩に入った。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P300


小田利吉(1913年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊

紫金山を二晩ぐらいして、十三日の払暁、北から下りて。私ら自身は南京城内で駐屯しとらんが。城外の防衛やった。下関という記憶はある。その日のうちに下関へ警備みたいな状態でいった。
 城内の記憶はないということもないな。城内のどの辺りだったかは分からん。それは二日ほどで、十五日ぐらいに下関へいった。
 その時起きたのが、やかましゅう言われる南京大虐殺というやつやな。あれは、十六師団、中島師団が関係しておるというかちになっておるな。これは大事な問題や。
 その時、兵隊と良民というものが区別つかんので、「おかしな者は皆殺せ」という、上からの指示は確かにあった。ところが、殺すにも、向こうがそんなことしているのを見たら殺せるけども、何でもない者は殺せんわ。それでも、なんていうのか、部隊命令で「おかしな者は一か所に寄せよ」と。そしてこうやってガーッと寄せて、そしてもう三百人〜四百人の単位があちこちあった。他の部隊が殺すのも見た。
 「撃て」ちゅう指示が出たな。これは確かや。「おかしな者」というのは区別がつかんから、寄せたわけ。撃つともうベターッと倒れているから、当たったか当たってへんかわからん。
 掃蕩戦は、二日ほど南京におって、すぐ下関から外へ出て、外回りの警備に入ったわけ。城内掃蕩にも参加ということになるやろ。隠れている者がいるからというので、「家のなかにいるから気をつけよ」という命令があったことは事実なんや。
 はっきりした命令ではなくて、「『おかしな奴は集めて殺してしまえ』と言われてるで」というて、一か所に集めて機関銃中隊が殺したのもあった。確かにおかしのがいたことは事実や。私自身もそういう目に遭うてる。手榴弾が不発やったんだが、窓から放られて。それは常熟、無錫と上がってきてから、そういうゲリラ的なものがあったな。あれはもう、何というか、中国の人民も非常に抗日がきついというか。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P145-146


後藤忠信(1914年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊

 敗残兵の処理は、連れてきて、捕虜収容所へ入れとるもんな。収容所は下関にありましたでしょ。倉庫……、下関の港の倉庫やでさぁ、大きいですなぁ。自分の分隊でも処理しとったんでしょうな。上官の命令でな。いや、その場では私らねぇ、手ぇかけて殺したっていうこと……。まぁとにかく、男は生かしとくなっていうことはよう聞いてはおりましたけどなぁ。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P219


境昌平(1916年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊某中隊本部付

悒江門には土嚢に馬と人間の死体が混じっていた。土嚢や死体を除けて通ったね。南京の掃蕩は、どこから出た命令かは知らないが「十六歳から六十歳までの男はみな連れてこい」という命令があったね。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P224


河田義一(1915年1月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 私らは小銃中隊の兵隊と一緒に入城しました。小銃隊の兵隊が支那の兵隊を銃剣で突き刺しているのを目撃しました。男はみんな捕まえてましたな。でも、私ら重機関銃隊はそんなことをしてません。
 実際、南京戦で「支那人を殲滅しろ」という命令が私ら第三機関銃中隊に来てましたけれど、各中隊にもそんな命令が出ていたかどうかわかりません。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P236


参考資料

『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環(編著)、社会評論社
(2002年8月15日初版第1刷発行)

http://kk-nanking.main.jp/
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/108.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
3. 赤かぶ[142511] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:20:52 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41296]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
4. 赤かぶ[142512] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:23:13 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41297]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK282] 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
10. 2021年7月27日 17:23:41 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3981]
オリンピックまで騙せればいいと、テレビに出ていた、御用医者は、一斉に雲隠れ。

東京都医師会会長や、尾崎会長は、

家で酒飲んでテレビ観戦じゃないのか。

五輪終了後に、また出てくれば、何とかなるだろ、自分たちの地位は。
と、値踏みしながら生きてる、二木芳人、久住英二、水野泰孝、寺島毅。
の犯罪、医療従事者。

  
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/246.html#c10

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
5. 赤かぶ[142513] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:24:29 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41298]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c5
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6. 赤かぶ[142514] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:25:07 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41299]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c6
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7. 赤かぶ[142515] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:25:40 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41300]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c7
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8. 赤かぶ[142516] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:26:13 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41301]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c8
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
9. 赤かぶ[142517] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:26:43 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41302]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c9
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10. 赤かぶ[142518] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:27:32 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41303]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c10
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11. 赤かぶ[142519] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:28:12 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41304]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c11
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
12. 赤かぶ[142520] kNSCqYLU 2021年7月27日 17:28:42 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41305]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c12
コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
15. 2021年7月27日 17:30:03 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3982]
なに?

今や為末が、反日??
3年前から暑いのは、変わってないだろう。

安物の金メダル引き換えに、3兆円を超える五輪を開きやがって!

このくそ暑いのに。


   
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c15

コメント [政治・選挙・NHK282] 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
11. 一般ピープルぱんぴー[-1987] iOqUyoNzgVuDdoOLgs@C8YLSgVs 2021年7月27日 17:31:45 : kxk7MnCbWU : d1N5Q0JNaG5NNEk=[-11346]
>>9

そうですね。

CIAは、地震兵器(津波)、気象兵器(台風)、生物兵器(コロナ)で、

東北地方を攻撃してきましたが、

ついに、敗北しましたね。

アフガンでの敗北とともに・・・

http://tanakanews.com/160815turkey.php
>ロシア・トルコ・イラン同盟の形成 2016年8月15日   田中 宇

>アフガンでは、2021年7月3日に、CIA米軍が最大級の拠点だったバグラム空軍基地(首都カブール北方)から夜中に飛び立って総撤退し、米軍の駐留が事実上終わった。

>アフガニスタンにおいて、トルコ軍はNATO駐留軍の一員としてカブール空港を警備してきた。

>米軍の総撤退を前に、ドイツや豪州など、NATOや同盟諸国の軍隊も総撤退した。

>だがトルコ軍だけは「カブールの欧米人がいざという時に飛行機で逃げられるようにしておくため」と称して、カブール空港を警備し続けている。

https://anti-empire.com/turkey-to-transport-syrian-mercenaries-to-afghanistan-syrian-opposition-report/

>タリバンが、すべての外国軍に撤退を求めると、トルコ政府は、カブール空港に駐留する自国の軍勢を、正規軍から民兵団(警備員・傭兵部隊。シリア北部にいたアルカイダ残党を移動させる)に替えて駐留を継続している。

>米国が出ていくほど、イラクではイランの影響力が強まる。米国のマスコミには「イラク人の多数派は、シーア派としてイランの傘下にいたいという気持ちよりも、イラク人としてのナショナリズムの感情が強く、親イランでなく反イランである。米軍が撤退してもイラクはイランの傘下に入らず、米国の傘下に残る」といった論調が出るが、これは私からすると「ネオコン的な意図的な歪曲・間違い」である。イラクとイランの間には齟齬もあるが、それに便乗して米欧がイラクを支配し続けられるほどの強さでない。

まあ、ライフ(暮らし)の記事も、

ネオコン的な意図的な歪曲・間違い

でしょうね・・・

https://www.youtube.com/watch?v=0VrFJqPvbrc
>BEUTIFUL SKY [ ビューティフル スカイ ] - インフィニット・ストラトス [ Infinite Stratos Season 2 ] ED
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/246.html#c11

記事 [ペンネーム登録待ち板6]  東京五輪開会式にトンズラの安倍前首相 !日本人メダルラッシュにも沈黙のナゼ ?

   東京五輪開会式にトンズラの安倍前首相 !

    日本人メダルラッシュにも沈黙のナゼ ?

       安倍前首相の深層・真相は ?

(www.nikkan-gendai.com:2021/07/27 15:40)

■安倍前首相:大会組織委員会の名誉最高顧問 !

連日、日本人のメダルラッシュが続く中、五輪開会式をトンズラした安倍前首相が沈黙している。
 安倍前首相は、大会組織委員会の名誉最高顧問。IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長から「オリンピック・オーダー(五輪功労章)」の金章を授与された“功績者”でもある。
 五輪旗の引き継ぎ式ではマリオに扮するなど、コトあるごとに前面に立ってきた。
 ところが、26日に至るまで、ダンマリを決め込んでいる。4月にはマスターズを制した松山英樹に、6月には全米女子オープンで優勝した笹生優花に〈心から拍手をおくりたいと思います〉などと自身のツイッターに投稿したが、なぜか日本人メダリストには祝意を送っていないのだ。
 祝福の電話まではせずとも、ツイッター上で「おめでとう」のひと言くらいあってよさそうなもの。黙っている方が逆に不自然だ。
「五輪開催には“反対”の声も多い。世論が『やって良かった』と盛り上がるかを見極めた上で、表に出てくるつもりではないか。7月上旬までは、出身派閥の細田派の現職が公認争いをしている群馬1区と新潟2区に入り、『公認されないのはあり得ない』と力説していた。北海道にも足を運ぶなど、次の政局で主導権を握りたい姿勢がアリアリです。だから今は、悪目立ちしたくないのでしょう」
(自民党関係者)
 安倍事務所にメダリストに祝意を送る予定はあるか尋ねたが、期限までに回答はなかった。

■新たな愛犬に夢中 ?

 また、別の理由もささやかれている。
「『桜を見る会』の前夜祭問題について、近く検察審査会が安倍さんの不起訴処分が妥当かどうか、結論を出すとみられています。その結果が出るまで、おとなしくしている方がいいと判断したのだと思う」(永田町関係者)
 安倍の妻・昭恵夫人のインスタグラムには、茶色のダックスフントの写真とともに〈熊本のブリーダー崩壊で保護されたらしい推定5才のダックス(オス)が新しい家族になりました! 名前はロンです〉とある。
 案外、家で愛犬に夢中になっているのかもしれない。」

(参考資料)

T 安倍晋三の父親・晋太郎が言った、お前には

  【情がない】子供の頃から嘘つきだった !

(blog.goo.ne.jp:2018-05-02 20:25:22 より抜粋・転載)

安倍晋三、子どものころから、嘘つきだった !

安倍晋三の父親・安倍晋太郎(1924年4月29日生まれ。元外務大臣。67歳で死亡)が言った、おまえには【情がない】

★実際、父・晋太郎時代から40年以上安倍家を取材し続けた政治ジャーナリストの野上忠興氏による著書『安倍晋三 沈黙の仮面』(小学館)を読むと、安倍首相が子どもころから嘘つきだったこと、そして、嘘がバレても開き直っていたことがわかる。(ameblo.jp:2018-05-02 20:27:33より抜粋・転載)

U 「毎晩声をあげて…」安倍首相のオカルト行動を昭恵夫人が証言 !

http://lite-ra.com:2016.11.20より抜粋・転載)

◆安倍首相が親密なオカルトまがいの新興宗教・「慧光塾」
◆「慧光塾」・光永代表の誕生日にパーティに、安倍首相は、
母親の洋子夫人とともに毎年のように出席 !
◆安倍首相は、永年、「神立の水」を愛飲している !
◆“炎の行者”池口恵観法主(高野山真言宗)をたよる、安倍晋三氏 !
◆安倍晋三氏は、カルト宗教・統一教会の信者である
(A級戦犯・祖父・岸信介元首相以来の信者である)
◆安倍首相は、戦前の軍国主義の総本山・靖国神社の信者である。

V 安倍総理と「傲慢症候群」=“権力中毒” !

    香山リカ・精神科医・教授の主張 !

(webronza.asahi.com:2015年07月25日より抜粋・転載)

◆組織や社会を「死に至らしめる病」、
一刻も早く“権力中毒”から覚めよ !
香山(かやま)リカ: 精神科医、立教大学現代心理学部教授。
傲慢症候群|安倍政権|権力中毒
◆「安倍総理と傲慢症候群」=“権力中毒” !
 今回は、さらに一歩、踏み込んで「安倍総理と傲慢症候群」について語ってみたいと思う。
 安倍総理は、5月の衆院平和安全法制特別委員会での審議で、質問していた民主党の辻元清美議員に「早く質問しろよ!」とヤジを飛ばした(後に民主党が抗議したため、総理は陳謝)。また2月の衆院予算委員会では、旧大蔵省出身の民主党議員の質問の最中、「日教組どうすんだ!日教組!」と繰り返しヤジを飛ばし、委員長からたしなめられる一幕もあった。
 ヤジは国会につきものではあるが、現役総理とは思えないほど品位もなく、傲慢無礼な態度だと言える。 これは、安倍総理のもともとの性格ゆえなのだろうか。どうもそうではないようだ。
 私は、安倍総理は「傲慢症候群」と名付けられた一種の“権力中毒”に陥っているのではないか、と考えている。

W アベノミクス批判の浜矩子教授が警鐘 !

    「安倍首相は、幼児的凶暴性の強い人」

(news.infoseek.co.jp:2017年3月19日より抜粋・転載)

日刊ゲンダイ:浜矩子(はまのりこ、1952年8月3日 - )教授:日本の経済学者。同志社大学大学院ビジネス研究科専門職学位課程教授。専門は「国際経済学」「国際金融論」「欧州経済論」[1]。
◆安倍首相は、大日本帝国会社の
総帥になっているつもりなのか ?
◆ますますひどくなる誇大妄想 !
◆安倍首相は、非常に幼児的凶暴性の強い人です !
 森友学園問題に絡む国会答弁を見ていて、面白いなと思ったのは、人間は焦ると防御的になるあまり、言わなくてもいいことを口走ってしまうということです。安倍首相が「私は公人だけど、妻は私人」と発言したことで、首相夫人の立場についての問題に火がついた。「私の妻を犯罪者扱いするとは不愉快」という発言もありましたが、誰もそんなことしていない。どこかで「犯罪者だと思われかねない」と不安になっているから、素知らぬふりができずに、逆上して言わなくてもいいことを口走ってしまうのです。非常に幼児的凶暴性の強い人ですよね。
「日銀は子会社」発言にしろ、国会での逆上ぶりにしろ、いずれもその背後に「自分は偉い」感覚が感じられます。誇大妄想がひどくなっていると思います。誇大妄想と幼児的凶暴性は表裏一体。これらを総合的に見ると、1月の施政方針演説にも出てきた「世界の真ん中で輝く国づくり」に行きあたる。強権的な帝国づくりに、ますます燃え上がって来たように感じます。我々は一段と警戒心を強めなければなりません。

X 評論家・天木直人氏の主張:安倍首相はサイコパス(精神病質者)だ

    と考えればすべてに合点がいく !

(天木直人のブログ・2017-02-13より抜粋・転載)

(*補足説明:安倍政権下、(1)森友公文書の改ざん(2)虚偽答弁(3)交渉記録の廃棄(4)加計疑惑での隠ぺい(5)柳瀬唯夫元首相秘書官の虚偽答弁――というきわめて悪質な五つの行為が行われた。
自衛隊の文書も隠ぺい・虚偽答弁があった。安倍政権・自公維新は、強行採決を何十回も行ってきた。不正選挙疑惑も多数指摘されている。)

◆サイコパスの特徴
(www.excite.co.jp:2015年4月18日より抜粋・転載)
1)良心欠如、2)他人に冷淡、3)平気でウソをつく、4)口が達者、
5)自分の行動に責任をとらない、6)罪悪感なし、7)自己中心的
 安倍氏が、首相になって以来、多くの人は、安倍氏が上記の7つの特徴を兼ね備えていると感じているのではないでしょうか。
☆サイコパス・安倍首相に従属する自民党議員・公明党議員
の多数は、やはり、サイコパスか ?

Y 自公政治家・NHK等が誤魔化す、安倍内閣の真相は ?

   安倍内閣の8割は、極右・「日本会議議連」に所属だ !

(www.nikkan-gendai.com:2014年12月30日より抜粋・転載)

「政治とカネ」「SMバー」……。疑惑とスキャンダルにまみれた問題閣僚を再任した安倍首相。国民をバカにしている証拠だ。
しかし、所詮は「極右」のお友達内閣である。マトモに機能しないだろう。
安倍内閣の8割は、極右・「日本会議議連」に所属だ !
何しろ、安倍首相を筆頭に19人の閣僚中、15人が「日本会議議連」に所属しているのだ。
※補足説明: 小林名誉教授が言うように、日本会議に属する人たちの「共通する思い」が、明治憲法下の「日本に戻したい」ということだとするなら、現閣僚の大半の本音は、戦前の大日本帝国の再来を望んでいることになる。
☆その後の安倍内閣も4分の3は、極右・「日本会議議連」に所属している。

★日本会議は、愛国心教育や改憲を目指す、日本最大の右翼組織 !



http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/15511.html

コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
16. 2021年7月27日 17:45:29 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3983]

電通のいかさま開会式に、4時間も、突き合わされ(見てないが)

不起立アナウンスなしの問題で、ぞろぞろ、スガや小池が地上がったらしいが、
あきれて言葉もない。
何回目の陳謝、?

陳謝だらけの五輪で、しかも武藤も丸川も、橋本も誰も責任は取らない。

陳謝で高笑いの五輪組織委。
  
 
    
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c16

コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
17. 2021年7月27日 17:46:20 : KDVX7JoUhA : eXF3SmpYc1VxZUk=[0]
小池百合子候補、1.8兆円にも及ぶ東京オリンピックの費用問題に
「個人資産の協力をお願いする」 との方針


こうした寄付が本当に自発的な意志のみによって行われるかについても注意が必要です。

寄付の名を借り、同調圧力によって協力を「要請」されるようでは本末転倒もいいところ。 

ただでさえ格差や貧困が拡大している中で、オリンピックへの寄付がさらなる重荷となるような事態は絶対に避けなければなりません。
https://buzzap.jp/news/20160726-koike-yuriko-donation/



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c17

コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
18. 2021年7月27日 17:46:57 : nGgklnpsqs : eHYyemZQc3lpYlk=[112]
>>15
違うってwww
3兆円使って、大量の金メダルを中国にお持ち帰りいただくための五輪だよw
つまり、東京五輪は中国がメダルを取るために開催されたようなもので、自民党もJOCもそのために3兆円もの金を出した、ということ
その証拠に、結果がそうなっているw
メダルの金銀が足りないので、国民から古いスマホを回収してまで集めたよなぁ・・・中国にお持ち帰りされるためのメダルのwww
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c18
コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
19. 2021年7月27日 17:49:58 : KDVX7JoUhA : eXF3SmpYc1VxZUk=[1]
日本人の「知性低下」を露呈した東京五輪

政治家も官僚も私利私欲に走る
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/207.html

https://note.com/iifilmsllc/n/n78727097ac6e



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c19

コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪開会式やはりブーイング噴出、パクリ批判まで…米国でも視聴率最低で閉会式は大丈夫?(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
30. 2021年7月27日 17:50:19 : IJjjrLkBu1 : TkVzTE5CdVJubC4=[2199]
 当初の話ではニュースによればコロナ禍の中では各選手は競技を終えれば即座に帰国するとのことでは無かったか。従って閉会式は一応開催されるとしても、当初の予定が出鱈目では無い限り選手の数は非常に少なくなっていなければ、むしろおかしいのである。当初の予定どおり自身の競技を終えたら直ちに帰国するよう組織委が誘導すべきだ。そういう約束が中止を望んだ多くの国民との間で交わされた折衷案の筈だが、例によって議会も通さずに官邸と組織委の恣意で当初案から転換した可能性もあるから、閉会式には選手全員の参加を求めるとの当初の報道とは全く異なる展開に至っても今更驚きはしないが、この疫病下で競技を終えたら即座に帰国させるなら幾らかでも感染は防げる可能性はあろうが、全選手を最後まで残して閉会式まで完璧に挙行するとなると以降の阿鼻叫喚は避けられないのではないか。
  とにかく其の場の空気読みの思い付きではなく当初の方針には理由があったのだから、閉会式など端折るくらいの構えをするのが筋だ。それが、首相曰く国民の安心安全優先が、今や国民に喧嘩を売っているとさえ表現されている無法者集団の詭弁でないことの証左であろう。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/237.html#c30
コメント [国際30] プロテスタントが考え出した「大イスラエル」を目指すイスラエルの新首相(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
6. 2021年7月27日 17:50:41 : xEtuBknubU : cGtuY1RsTG1HMmM=[3]
約束の地(Eretz Yisroel )は、トーラーに表れている。

> The Torah tells us that when God promised Eretz Yisroel to Avraham Avinu, he asked God, “How can I know that I will inherit it?” (Bereishis 15:8).

https://torah.org/torah-portion/perceptions-5769-shlach/

プロテスタント云々は、ウィキのキリスト教シオニズムを読むと概略がつかめる。

https://en.wikipedia.org/wiki/Christian_Zionism
http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/734.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK282] 「ルールを守って下さい!」更問いする澤田記者にキレる菅総理(まるこ姫の独り言) 赤かぶ
28. 2021年7月27日 17:54:03 : ERF0scfEP2 : Q0IubGVibFZyRHM=[28]
更問いがだめなら、記者会見なんてする必要ないんだよ!
あらかじめ質問に対して、紙で返答すりゃ良いだけだろうがよ。
人前に出てきて、いろんな質問に答えるのが記者会見の意義だろう。
記者会見で更問いするなってルールはないんだよ。
ありもしないルールを押し付けて逆ギレしてんじゃねえよ、無能が!
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/242.html#c28
コメント [政治・選挙・NHK282] <騒いでいるのは菅首相とTV局だけ>空疎に響く「金メダル!」の絶叫(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
49. 2021年7月27日 18:00:25 : ERF0scfEP2 : Q0IubGVibFZyRHM=[29]
人気取りなら困っている人に声をかけた方が効果あるのにそれがわからない、無能連中。
強い連中に声をかけて人気にあやかろうとするだけ、スネ夫みたいな連中。
自分ではなにもしないで、他人の人気を掠め取ろうとする泥棒のような連中。
さすが無能の考えることは一味違うわw
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/241.html#c49
コメント [政治・選挙・NHK282] 「ルールを守って下さい!」更問いする澤田記者にキレる菅総理(まるこ姫の独り言) 赤かぶ
29. 2021年7月27日 18:02:53 : DT5k2Wotb2 : TW1iaEFiWEFZYVU=[2]
隠蔽や改ざんを平然とやる輩らのボスがルールを守れとはちゃんちゃんらおかしい。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/242.html#c29
コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪開会式やはりブーイング噴出、パクリ批判まで…米国でも視聴率最低で閉会式は大丈夫?(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
31. 2021年7月27日 18:03:22 : ERF0scfEP2 : Q0IubGVibFZyRHM=[30]
中国ではあれより大規模なドローンディスプレイを頻繁に行なっている。
ドローンも日本の技術じゃない。
世界のトップから周回遅れの技術を使わせてもらってるだけなのに、日本スゲエとか思ってる田舎者がまだいるんだろうな。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/237.html#c31
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
13. 2021年7月27日 18:08:18 : soadfAmJGA : WFgudlJuTmE0VFk=[24]


   一時、TBSが3,000人を超えている様子と報道していたが


   3,000人には届かなかったのか、あえて隠しているのか・・・。


   5,000人台が出てもおかしくないのでは、昨今の人手を見ると。


   行政レベルでの操作は容易いのかも・・・。


   信じる者が救われる時代は終わったのかも・・・。


   ・・・。


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c13

コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
20. 2021年7月27日 18:12:08 : ERF0scfEP2 : Q0IubGVibFZyRHM=[31]
すべてにおいてこういうパターンだ。
初めっから野党とか批判していた人が言っていたじゃないか。
なんで批判を素直に聞けないわけ?
小学生じゃないんだから。
現実に目の前で見ないとわからないわけ?
想像力がないの?
猿じゃないんだから。
なんで批判する人を軽視して、言うことを検証しないで良いとか思っちゃうの?
反日とか適当なレッテル貼って。
その結果がこれだよ。
批判を軽視した連中は大人しく黙ってろよ。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c20
コメント [政治・選挙・NHK282] <今や世界の笑いもの>東京五輪大混乱 「呪われている」のではなくすべてが「必然」(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
111. 投稿のあんちゃん[851] k4qNZYLMgqCC8YK_guGC8Q 2021年7月27日 18:12:57 : uesRfraV4w : eFZHTnVJSGxyWnc=[114]

 Youtube等を覗いて見ているが、今のところ選手村に対する各国選手の評価はわるくない。
 特にダイニングスクエアやただで飲める自動販売機の飲料。日本人サイズではあるが部屋の様子や設備。ウォシュレットトイレ。ベランダからの景色。ダンボールベッドも取りあえず受け入れられているようだ(2週間の間には傷んできそうな気はするが)。

 ただ最初はそんなものであろう。よく見える。それが2週間もいれば不満が出てくるのが自然である。


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/169.html#c111

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
14. 赤かぶ[142521] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:13:12 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41306]

東京都 新型コロナ 2人死亡 新たに2848人の感染確認 過去最多
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210727/k10013162881000.html
2021年7月27日 17時25分 NHK


※動画→https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210727/k10013162881000.html

東京都内では27日、都内で新たに2848人が新型コロナウイルスに感染していることが確認されました。1週間前の火曜日の倍以上となり、過去最多となりました。

東京都は27日、都内で新たに10歳未満から100歳以上までの男女合わせて2848人が新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表しました。

1週間前の火曜日の倍以上となり、過去最多となりました。

1日に2000人を超えるのは、第3波のことし1月15日以来です。

27日までの7日間平均は1762.6人で前の週の149.4%となり、感染の急拡大に歯止めがかかりません。

2848人の年代別は
▽10歳未満が97人
▽10代が275人
▽20代が951人
▽30代が610人
▽40代が466人
▽50代が301人
▽60代が91人
▽70代が25人
▽80代が23人
▽90代が8人
▽100歳以上が1人です。

これで、都内で感染が確認されたのは20万3568人となりました。

一方、都の基準で集計した27日時点の重症の患者は26日より4人増えて82人でした。

重症者が80人を超えるのは、ことし5月18日以来です。

また、都は、感染が確認された60代の女性と50代の男性が死亡したことを明らかにしました。

これで、都内で感染して死亡した人は2279人になりました。

田村厚労相「思いを一つに 命守ることに協力を」



田村厚生労働大臣は記者団に対し「世界中で『デルタ株』により感染が急拡大し、東京も『デルタ株』に置き換わりつつある状況なので、感染者数が一定程度増えることはウイルスの性質上あり得ることだと思う」と指摘しました。

そのうえで「緊急事態措置を発令しているにもかかわらず、要請に応じずアルコールを出している店が散見されるが、酒を出す店は開かないということを守っていただきたい。オリンピックのアスリートも制約の中で試合に出て頑張っている。思いを一つにして感染をなんとか抑え、命を守ることに協力いただきたい」と述べました。


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c14
コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
21. 2021年7月27日 18:13:59 : KDVX7JoUhA : eXF3SmpYc1VxZUk=[2]
国立競技場とTVスタジオができる前 そこには生活の香りがあった

忌まわしきスタジアムとTVスタジオが登場するまで、辺りは都心にもかかわらず緑豊かで長閑だった。
 
都営アパートがあり、野宿者がブルーテントを連ねていた。人間の香りがしっかりとあった。
https://blogos.com/article/550735/



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c21

コメント [政治・選挙・NHK282] 菅首相が金メダル第1号選手に祝福電話も…「人気取り狙い」バレバレで逆効果(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
16. 地下爺[16059] km6Jupbq 2021年7月27日 18:20:21 : k3zXh6OQQU : R1Jic2NNN3pnYkE=[155]


 素直に 山本天心さん にお願いすれば良いもの 。。。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ものまね泣かせ、菅さん演じて7年半 ザ・ニュースペーパー山本天心さん
https://www.youtube.com/watch?v=66GAkksb-YI




http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/244.html#c16
コメント [政治・選挙・NHK282] 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
12. 2021年7月27日 18:21:01 : 1i44xrtCoI : bWt0Q1oxRnBKV2M=[17]

PCR検査の陽性者=感染者である__というペテンを終わらせなさい。
特老からPCR陽性者を連れてきて「コロナだコロナだ大変だー」ていうペテンをやめなさい。
そして症状がなく、何ともないなら健康です! そんな人が集まって健康に乾杯したら、
なんで「恐怖の新型コロナが」発生するの? おい尾身、あんたの頭がが病気だろ?

人流がどうの、SDがどうの、マスクがどうの。それでいて官僚様は送別会・宴会!
それほど言うなら満員電車を無期限に運航停止しろ! 人流どころじゃないんだから。

そもそもペストやエボラみたいに感染者が路上でバタバタ死んでるかい? そもそもインフル以下の死者なのに、2類指定にして外出自粛だなんて「殺人ウィルス・新型エボラ」の発生か? 政府の異常な対応により、死んでいるのは餓死自殺だろ! それを見捨てておきながら、なーにが新コロワクチンだ。よく効く毒チンでバッタバッタと死んでるわい!

そもそも小池都知事の発表は、全てが嘘だとバレマクロン!
そもそも小池都知事の誕生も、終え点と買い残の結果だわいな。
なーにがうるう年だから366万票だってんだ。

https://twitter.com/PremiumsPJT/status/1361737283603365889
東京都の職員の方からの匿名情報です。ワクチンは絶対に打っては駄目です。
既にほぼすべての皆さんが気づいていて、あまり言わないでいた国際的な利権の温床です。
周りの大切な人に伝えてください。無治験だし、5年以降で死亡率が高まる想定だと。
感染者数も実体はなく意図的に数値調整していると。午前3:00 · 2021年2月17日



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/246.html#c12

コメント [国際30] プロテスタントが考え出した「大イスラエル」を目指すイスラエルの新首相(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
7. 2021年7月27日 18:21:55 : o74Nxlzt1s : L0xxZFF4SjVPL0k=[71]
そうだったね。

トーラーでアブラハムにカナンを約束の地として、与えると契約してたね。

その契約を守って、カナンを完全実効支配したのが、ヨシュアだった。

訂正ありがとうございました。
http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/734.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK282] オリンピックスポンサーの反乱。企業の倫理性のリトマス試験紙。(かっちの言い分) 一平民
85. 投稿のあんちゃん[852] k4qNZYLMgqCC8YK_guGC8Q 2021年7月27日 18:22:39 : uesRfraV4w : eFZHTnVJSGxyWnc=[115]

 どこかにも書いたが

 Youtube等を覗いて見ているが、今のところ選手村に対する各国選手の評価はわるくない。
 特にダイニングスクエアやただで飲める自動販売機の飲料。日本人サイズではあるが部屋の様子や設備。ウォシュレットトイレ。ベランダからの景色。ダンボールベッドも取りあえず受け入れられているようだ(2週間の間には傷んできそうな気はするが)。それぞれスポンサーがからんでいるのでその意味でも成功であろう。
 ただ最初はそんなものであろう。よく見える。それが2週間もいれば不満が出てくるのが自然である。

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/154.html#c85

コメント [政治・選挙・NHK282] 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
13. 2021年7月27日 18:23:23 : 1i44xrtCoI : bWt0Q1oxRnBKV2M=[18]

>そもそも小池都知事の誕生も、終え点と買い残の結果だわいな。

➡そもそも小池都知事の誕生も、開票不正・改竄の結果だわいな。



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/246.html#c13

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
15. 2021年7月27日 18:29:23 : Fw8i08SSaA : b1gwelZ6aHlob2M=[183]
デマです‼デマです‼コ○ナは単なる金儲けのためのインチキ詐欺です‼日本人は頭悪すぎ❗
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c15
コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
22. 命を大切に思う者[5014] lr2C8JHlkNiCyY52gqSO0g 2021年7月27日 18:29:40 : us4DPuf1LI : NXY0MFZTazFBWWM=[31]
そもそも反安倍という言葉自体が、安倍の暴挙を誤魔化す誘導。
安倍のやってる暴挙の被害に実際に遭ってる人が被害を訴えてるのを、
ただ安倍が好きか嫌いかという思想の違いに捻じ曲げた言い方です。
左翼という言葉もそう。
権力者の暴挙の被害に遭ってる人が被害を訴えてる、
加害者(国家権力を私利私欲で使った犯罪の)と被害者という関係なのに、
右翼と左翼という思想の違いしかない関係であるかのように捻じ曲げて、自分達が加害者であることを誤魔化しているのです、「左翼」という言葉を誰が使ってるか見れば、全員、加害者側の人間であることから、そのことはわかると思う。

思想の違いじゃないし、好き嫌いでもないんだよ! 実際に被害に遭ってるんだ!
加害者は刑務所に行け!
安倍なんかとっくに刑務所に入っていないとおかしい。
警察官達も検察官達も共犯として刑務所に入れないといけないな。

権力者の犯罪に加担した人間(為末も)は、裁判にかけて、動機を自供させないと駄目だな。
動機を自供させない限り、再発防止することはできない。これからもずっと同じことが繰り返される。
動機はおそらく、安倍らに命令された警察官達に自分の家族が暴行されたり殺されたりするのが怖いからだろう

それを証言させない限り、絶対に、同じことが繰り返される。 

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c22
コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
23. 2021年7月27日 18:30:43 : IJjjrLkBu1 : TkVzTE5CdVJubC4=[2200]
  為末という人物も安倍前首相と同様に人の属性を見て自身の態度を決めてきたということだ。意見に付かずに人に付くの典型が自民党とそれを取り巻く空気読みが得意な面々だろう。無論日本の風土としてディベートの訓練が出来ておらず、是々非々で議論し最善の問題解決を模索する観念が無いのは、主に自民党が戦後の内閣を牛耳ると共に、寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろの処世術を施して来た官界財界の存在があるだろう。彼らは安倍が例えば五輪中止を唱える層をして反日と即座に見立てたように、属性を見てレッテル貼りを行ってから聞く耳を持つか否かを決める。それは自民財官護送船団方式の重要な要素だ。長年に亘り高級料亭に集い一献傾けながらの国民層へのレッテル貼りの悪弊が、意見に付かずに人に付く日本の視野狭窄的な風土作りに悪い意味で貢献している。
  為末の感覚は特段異質ではなく自民財官護送船団方式の成れの果てだ。国民の属性を見て左と右に分け、左を理由に必要な政策案にも耳を塞いで済ませるのは政権与党の特徴である。かつ法務省事務方の育成により既に裁判官自身が被告と原告を見比べては時の勢力の強い側に軍配を挙げる偏向が、為政者の無策を後押ししている。
  立法行政司法が揃って国民を先ずレッテル貼りする短絡的な思考回路で政策の方向を覗う日本は、多様性の尊重とは無縁である。為末のようなスポーツ関係者までもが自身の多様性の否定に気付かず、殆ど無自覚に偏向的な自論を展開するとすれば非常に絶望的だ。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c23
コメント [政治・選挙・NHK282] 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
14. 2021年7月27日 18:31:37 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3984]
重症者が横ばいならいいみたいな、報道の仕方、
横ばいではすでに悪いんだけどね。

脅しながらも、御用医者は「あってもおかしくない、」云々。

人がいつ死んでもおかしくないねとどこか楽しそうです。

  
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/246.html#c14

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
16. 2021年7月27日 18:32:10 : sEkHRiY7rk : bWJoMkNqaUppeWc=[1]
何日本が終わろうが世界はさして困らんよ。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c16
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
17. 2021年7月27日 18:34:41 : 6ML1jRKzeE : RHlLNDdxbFlQVVE=[84]

 これでガースー総理も、有観客とはよう言わんやろ。



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c17

コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 赤かぶ[142522] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:40:37 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41307]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
2. 赤かぶ[142523] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:41:18 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41308]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
18. 2021年7月27日 18:41:39 : R49wAAHqpo : L2ZqR2JwSEpiRkE=[100]
>>13
一部では3000人台に達したという情報が流れたらしい
緊急でどやしが入ったな
尾身のじじいの予言から1週間も早いやん
しかもイソジンの大阪も700人台
金メダルにべったりと変異株が付いているぞwww
命が欲しけりゃアスリートたちはさっさと本国にけえれ
全試合没収だよこんなカス五輪
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c18
コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
3. 赤かぶ[142524] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:41:49 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41309]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
19. 2021年7月27日 18:41:52 : hT390NUhZE : VmxORUFhaFlCVFE=[2]
15のような頭の悪いバカの布教活動の成果がでているようだ。ウヨが主体の陰謀論者のネット広報のおかげで1年遅れで先進国で最悪の感染状況が生まれているようだ。彼らが感染してネットから隔離されポアされればいいのだが。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c19
コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
4. 赤かぶ[142525] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:42:39 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41310]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
5. 赤かぶ[142526] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:43:05 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41311]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
6. 赤かぶ[142527] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:43:54 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41312]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c6
コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
7. 赤かぶ[142528] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:44:28 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41313]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
20. 2021年7月27日 18:44:55 : rwZArosA6A : dzIyd3lFSE5yNFU=[125]
脳天気にオリンピックなんかやっているからだ。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c20
コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
8. 赤かぶ[142529] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:45:18 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41314]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c8
コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
9. 赤かぶ[142530] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:45:45 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41315]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
10. 赤かぶ[142531] kNSCqYLU 2021年7月27日 18:47:01 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41316]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c10
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
21. 命を大切に思う者[5015] lr2C8JHlkNiCyY52gqSO0g 2021年7月27日 18:51:27 : cztVc4ennc : SmI5QVNqU0phalk=[47]
こうなることは、最初からわかり切ってるではないですか。
というか、これでもまだ少なく見せかけた数で、実際はもっと多いと思います。
今年に入ってからの、50歳未満の、原因を問わない全死者数を発表し報道してほしい。
国民1億人全員が、イベント業禁止や20時以降の飲食業禁止の犠牲を強いられてるのだから、インフルエンザにかかる人の数はほとんど0で死者数もほとんど0になっていないとおかしいのです。
もし例年と同じくらい居たら、その死者の大半はコロナによる死者です(事故死や他の病気による死者も少しは居るが、大部分を占めてる原因が何かと言えばコロナくらいしかないじゃん)。
たとえ例年より多くなくても同じというだけで、コロナによる死者が大半だとわかるのです。イベント業禁止や20時以降の飲食業禁止の犠牲を強いられてることを忘れてはならない。

だから、今年に入ってからの、50歳未満の、原因を問わない全死者数を発表し報道すれば、一目瞭然になるのです。
なぜ発表しない! なぜ報道しない! 

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c21
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
22. 2021年7月27日 18:52:09 : 1YmMY6xdUA : NjIwbG80MWwzTXc=[2]

犬HKはさ、感染者何人じゃなく、年齢と併せて「重症・中小・軽度・無症状」に分類・整理して報道しなさい。それと、PCRのCt値は幾つなの? もしかして、偽陽性97%にもなる40とか45なの? もしそうなら、感染拡大も感染者数もペテンなんだよ。

かつての台湾みたいに症状とCt値を併せて報道しなさい。
視聴者から金をむしり取っている犬HKなんだからさ。


>台湾の場合__Ct値と症状を公表している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0767fe36cbd91a640faa642a7d4d2f25c4b4dd73?page=2
・・確かに、1月12日から台湾で発生している域内感染は、現在すべて感染経路が判明している。また、感染者のPCR検査における陽性判定の基準値であるCt値や症状も公表している。例えば下記の通りだ。
 1月14日発症19日認定 50代男性(家庭内感染)Ct値15 症状:せき、鼻水
 1月14日発症19日認定 20代女性(家庭内感染)Ct値14 症状:せき、鼻水
 1月18日発症19日認定 30代女性看護師(院内感染)Ct値29 症状:発熱、喉のかゆみ、頭痛
 1月21日発症24日認定 90代男性患者(院内感染)Ct値15 症状:発熱、肺浸潤
 1月21日発症24日認定 60代女性上記患者介護者(院外感染)Ct値35 無症状
 このほかにも感染経路や感染認定までの検査の経緯など詳しく報告されている。____


それと、どの地域で何人の陽性者が出ました、クラスターの分布はどうでした、満員電車はどうでした__みたいな分析もやるべきじゃないの? 保健所を訪問しなさいよ。もしかして、都の発表を鵜呑みにして垂れ流しているだけなの? 全くのウソ・デマかもしれないんだぜ!? え? 嘘を承知なの?



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c22

コメント [近代史6] 戦後も日本人は中国の童女を性奴隷にしている 中川隆
1. 2021年7月27日 18:54:10 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[14]
【ゆっくり解説】海外で女性を買う...昭和の海外買◯ツアーの闇についてゆっくり解説!



http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/113.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
23. 2021年7月27日 18:57:27 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3985]
感染者数,増に、スガじいさん。

「五輪を中止するつもりはない」

人は静かに死んでくれますからという事でした。

ボリスも、バッハもバイデンもそう言っているからね。


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c23

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
24. 2021年7月27日 18:59:38 : lbrPnajbW2 : NHNKcERTRVU1VS4=[1]

20代が951人
30代が610人
65才以上が78人と発表になっているから
最新(れいわ3年)の東京都の年代別人口を探し出して
計算(感染数÷年代人口)してみた。
65才以上を1とすると、
20代は24.1倍
30代は13.4倍も罹患率が高い。
ワクチンの効果なのかね。
若い人は気をつけて。


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c24

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
25. 2021年7月27日 19:02:16 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3986]
田村厚相、思いを一つに?知るか。

そんなこと。

後始末をつけてから言え!

   
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c25

コメント [政治・選挙・NHK282] 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
15. 命を大切に思う者[5016] lr2C8JHlkNiCyY52gqSO0g 2021年7月27日 19:04:10 : jQhPABNiFE : dE82S2NQYUtpNU0=[37]
重症者数は軽症者数に比例して増える。
橋下は「軽症者をどれほど増やしても重症者さえ増やさなければ問題ない」と言ってたが、
それは、軽症者数が100倍になったら、重症化率を100分の1に下げることができるという意味だろう。
そんなことができるくらいなら、最初から、重症化率の100分の1にして重症者数を実際に出た数の100分の1にしとけよ!
なぜそうしなかった? 重症化率を100分の1に下げることなんかできるわけないからだろう! 重症者数は軽症者数に比例して増えるんだよ。
「重症者さえ増やさなければ」と言ってる奴らは、国民の大半が文系で数字に弱いだろうと馬鹿にして、
「軽症者だけ増えて重症者は増えない」なんてことが本当にあると信じ込んでくれると思って馬鹿にしてるから、そう言うんだろう。

「都の感染者数は右肩上がりが続いているが、重症者数は50〜70人の範囲で一進一退」
そんなこと、あるわけがないんだよ。
重症者を重症者と認めないようしてるから、だけです。
文系の世界の力(武力・軍事力)によるものです。
逆らう人達を警察官達による暴行と殺人で黙らせて真実を揉み消してる。これが、重症者数(と行政が発表してる数)が一進一退してる理由。 

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/246.html#c15
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
26. 2021年7月27日 19:04:20 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3987]
3000じゃまずいんで、
オリンピック中は、少し減らして報道しましょうや。

ごまかすのは簡単なんです。ハイ。

出て来なくなったコイケおばさんのフリップ。

    
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c26

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
27. 2021年7月27日 19:04:38 : R49wAAHqpo : L2ZqR2JwSEpiRkE=[101]
今週末あたりに
関係者全員の集団発狂が見れそうだww
あ、元々狂っているから関係ないのかwww
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c27
コメント [政治・選挙・NHK282] オリンピックスポンサーの反乱。企業の倫理性のリトマス試験紙。(かっちの言い分) 一平民
86. 投稿のあんちゃん[853] k4qNZYLMgqCC8YK_guGC8Q 2021年7月27日 19:05:18 : uesRfraV4w : eFZHTnVJSGxyWnc=[116]

 ところで小山田・小林と続いたところでもう一つ出てきた、五輪組織委員会参与「夏野剛」のせりふ、「クソなピアノの発表会(を無観客にしなきゃいけないこと)なんてどうでもいいでしょう、五輪と比べれば。それを一緒にするアホな国民感情に、(五輪を無観客にせざるを得ないのは)今年選挙があるから乗らざるを得ないんですよ」。

 日本の国民感情からすればこちらの方が許せないのではないのか。

 どこにいってしまったのか。参与となると首にできないのであろうか。


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/154.html#c86

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
28. 2021年7月27日 19:06:20 : juJg7V4FOs : QVVMOFFrWHlaRDY=[1105]

 スガは 何処に逃げた??

 加藤・田村・西村・珠ちゃん   責任とれるのか〜〜
 
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c28

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
29. 赤かぶ[142532] kNSCqYLU 2021年7月27日 19:06:36 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41317]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c29
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
30. 赤かぶ[142533] kNSCqYLU 2021年7月27日 19:07:25 : DiuQjGfad6 : UTBWZXVVMUNWUkE=[41318]


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c30
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
31. 2021年7月27日 19:07:30 : juJg7V4FOs : QVVMOFFrWHlaRDY=[1106]

 おそらく 満員電車で感染するレベルまで来た様だ
 
 もう 止められないかもね〜〜
 
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c31
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
32. 2021年7月27日 19:09:01 : juJg7V4FOs : QVVMOFFrWHlaRDY=[1107]

 東京の医者はストライキして 新形コロナの患者は 受け入れないことにするか? ね〜〜
 
 
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c32
コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
24. 2021年7月27日 19:09:40 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3988]
>>17

オリンピックの失敗の尻拭いをしていただこうという事?

都民が全部払えや。その前にコイケスガを落としてから。

  
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c24

記事 [日政U2] 菅首相 五輪「中止の選択肢ない」 東京のコロナ感染、最多の2848人も(東京新聞)
2021年7月27日 18時24分

https://www.tokyo-np.co.jp/article/119736

 菅義偉首相は27日夕、東京都の新型コロナウイルス感染者が過去最多の2848人となったことに絡み、東京五輪をこのまま続けるかについて「人流は減っている。そこ(中止)はありません」と述べた。官邸で記者団から「感染は拡大している。中止の選択肢はないのか」と質問されたのに答えた。

【関連記事】東京のコロナ感染、最多の2848人 小池知事「金メダル取りたい」も…デルタ株猛威とまらず
      https://www.tokyo-np.co.jp/article/119719

 菅首相は感染拡大する中で五輪を続けて大丈夫かとも問われ「車の制限やテレワーク、まさに皆さんのおかげで人流は減少している。人流は減少してますので、そうした心配はない」と述べた。

 菅首相はこれに先立ち、新型コロナウイルス感染対策について関係閣僚と対策を協議。東京の感染状況について「40、50代の入院が増え、デルタ株の割合も急速に増加しており、4連休を含めて人流を含めて分析することにした」と説明。さらに「各自治体と連携し、強い警戒感を持って感染防止に当たっていく。重症者リスクを7割減らす新たな治療薬を政府は確保しているので、これから徹底して使用することを確認した」と述べた。
http://www.asyura2.com/15/gaikokujin2/msg/281.html

コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪海外選手の猛暑への批判であの為末大が豹変! 3年前は猛暑を心配する声を“反安倍政権の人たち”とレッテル貼りしたのに(… 赤かぶ
25. 2021年7月27日 19:13:00 : 77OlxrdMaA : N3Q0c2hHNXVTa2c=[7]
「為末大」から「偽末大」に改名するってよ。
姓名判断によれば「御粗末大」のほうが良いと出てるそううだ。

ボクシングの後遺症で「パンチドランカー」ってのは有名だが
オリンピックの後遺症 で「チヤホヤドランカー」てのも
もうすこし知られてもいいかもな。


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/245.html#c25

記事 [近代史6] 児童買春の世界
児童買春の世界


幼女とかの児童買春の実態を知っているけど質問ある?
この話はフィクション(釣り)扱いになります。
現実と妄想の区別ができる人のみお読みください。

6 :日本鬼子◆Ek/JAP/82U :2008/09/09(火) 22:28:04.51 ID:KhA8OcyM0 ?2BP(807)

なんで知ってるの?


9 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 22:32:59.73 ID:Su7cCpTL0
>>6
近い業種で働いたことがあるからです
自分が働いていたところは買春系ではなく、すぐ隣が買春系だったので目の当たりにしてきました。親に売られてしまったかわいそうな子どもたちまで様々な人間模様を見てきました。

怖い人たちについては怖いので伏せておきます。


168 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:02:33.45 ID:PaK/ER+m0

小学生くらいの子も普通に居たって言ってたから、
1の言ってることは本当だろうね


8 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 22:32:17.95 ID:Wz0zAQIG0

プチエンジェル事件の真実を教えてください


>>8
ググって出ることそのまんまだと思います。
超氷山の一角です。


34. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月06日 02:01

スレでプチエンジェル関係のこと聞きまくってた奴
あれを嗅ぎ回ってたジャーナリストが不審死したことを忘れるなよ


234 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:43:58.24 ID:h8mOKCQN0

このスレ見て、初めてプリプリエンジェル事件を知った
心が痛んだ・・・ちんこも痛んだ・・・

14 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 22:42:25.71 ID:1azS2ac+O

ねぇねぇ拉致とかあんの?
自分の娘がなったらどうすべきなの?


>>14
日本でまったく関わりのない人を拉致して商品にするってことはあんまりないです。
少なからず自分から業界の門を叩いちゃった人達がほとんどです。
ただ外国で拉致られたらまず終わりと思ってください

18 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 22:45:03.45 ID:ThmHZpTIO

捕まっても釈放される言い訳教えてよ


>>18
児童買春して捕まったときの?
個人取引だとバレたらおしまいなので予防策として
プロを挟んで取引すればいいと思います。


21 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 22:50:38.75 ID:DcbAlkUcO

この間、アジアの最底辺の児童売春を書いた「闇の子供たち」って小説を読んだけど普通に抜けた
生々し過ぎる

アジアの最底辺に旅行に行って児童売春とかって本当に出来るもんなの?

>>21
有名なタイとかインドネシアとか?w
簡単にできますよ。
あっちはそういう店が多すぎて怖い人達が管理しきれていないので、
個人店とかでゆっくりすることもできますよ。

25 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 22:55:07.12 ID:YFfUhPeJO

いくらでやれるの?


>>25
場所、相手の歳、プレイの内容などでかなりピンキリです。

26 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 22:56:29.69 ID:V2jN3HC80

ペドの政治家のリストを一気に公表とか出来ないの?
したヤツが死ぬの?


>>26
公表したところで信憑性などの問題が出ますし
信憑性のあるものは潰されます

みんなロリ好きでしょ?
政治家となにが違うってお金を持っている持っていないかだけなんです。
たとえ法律でギッチギチに固めても人間の性的嗜好が無くならない限り、
児童買春は続いていきます。
悲しいことです。

29 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 22:59:46.29 ID:ThmHZpTIO

やっぱり低年齢のほうが安いのか?


>>29
逆に低年齢ほど高価です。
またプレイ内容も過激化するほど高くなります。
ここら辺は風俗と変わりありませんね。


37 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:06:31.02 ID:KgePybtp0

やっぱこういうのはマンションの部屋に何人か待機してるって感じなの?


>>37
日本の個人向け業者はそんなです。
マンションというか業者の施設で待機して、デリヘルと同じように送られたりします。ただ最近は安全面を考慮して、すべて自前の施設でやらせるとこが増えてきたらしいです。


40 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:09:28.68 ID:mn46K1Gg0

細かい事は聞かん
幼女と犯れる方法教えろ


>>40
まずお金を貯めてください。お金がなければ何も始りません。
そのお金を持って国内の業者に行くか、外国のお店に行ってください。
国内は管理が厳しくて一見様お断りが多いので、外国をおすすめします。
それですべて終わったら自分を恥じてください。

42 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:10:51.90 ID:oY834HSsO

娘がそういう所で働いているのは、親の借金が一番の理由なの?


>>42
現状の比率はわかりませんが、
お金関係で働く子のほかに家出をしてそのままズルズルと入り込む子が結構います。


43 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:11:24.80 ID:Ba35LYcA0

何歳のマンコがベストなの?


>>43
自然のままで入るのはJ才くらいからです。

45 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:11:49.99 ID:KgePybtp0

はやくどこに連絡したら行けるのか教えろよ


>>45
貴方が素人なら、普通の風俗店から入り、
風俗業界に詳しくなることをお勧めします。
そうするとそのうちわかるようになります。いろんな意味で。


50 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:15:58.75 ID:t2BUz6pN0

北斗の拳の連中は女性をすぐ殺そうとするけどおかしいと思わない?


>>50
汚物扱いなんですかね?
女性にはもっと優しく接しなきゃいけないと思います。


51 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:16:18.32 ID:aul6gfJH0

どんな奴らが女の子買ってたの?
相場はいくら?


>>51
本当にいろいろお客がいましたよ。
共通点は買うお金があることぐらい?
相場は上記の通りピンキリです。

57 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:23:12.62 ID:KgePybtp0

小学生のランドセルプレイとか幼女何人も集めて一緒にお風呂とか
そういうのをするのにはいくらかかるんだコラ

>>57
5人ぐらいで下のクラスなら250ぐらいあればできますね。
ランドセルなどのオプションは新品を買い与えるぐらいの料金と思ってください。


71 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:36:17.20 ID:KgePybtp0
>>68
250は高すぎね?前聞いた話は1人5から20くらいが相場って聞いたぞ


>>71
小学生でその値段ってのは商品としてはありえませんね。
それは個人業者のもつ家出少女じゃないでしょうか?


58 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:25:48.51 ID:aul6gfJH0

なんか淡々と所詮ビジネスだからという印象なんだが、
レイプや性的虐待とどう違うんだ?


>>58
少なからず本人もしくは周りに責任が発生した結果だからです。
レイプや拉致などまったく無関係の人を染めるのは本当にいけないことです。
しかし因果故にそうなってしまったものはもうそうなるしかありません。
アフリカの子供たちの飢餓を見て「かわいそう」と思っても救えないのと同じです。
環境って残酷ですね。


60 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:28:27.07 ID:wKT//1tr0

ガチのロリコンってそんなにいるもんなのか?


>>60
もし法律でおkになったらあなたはどうしますか?
上の問いの答え次第です。

63 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:30:44.37 ID:LkbygCguO

気に入った子を文字通りお持ち帰りするにはいくらぐらい必要?
そもそもできるの?
あと外国でこういう事できるの?

>>63
できます。
1k〜10kぐらい。
業者が手放してもいいという商品だったらもっと安くなります。

65 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:31:53.05 ID:AI0N9c7I0

フィクションでいいから買ってる奴の具体名挙げてくれ

>>65
ここで苗字あげてもなんのことで終わると思うので、

やっぱり高収入所得者が多いですね。
人間お金をある程度持つと何か外れるみたいです。


67 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:33:18.04 ID:QmNi7cbO0

仮に児童買春できたとして、あとでそれをネタにユスられるって事あるのかい?

>>67
ゆするリスクが高いと思うので業者としてはやりませんが、
あとは従業員の教育次第でしょうか。

73 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:38:54.82 ID:OmeOu7NJ0

親が売りに来ている、ということはありますか?
また、児童ポルノ法案の可決によって親に売られる児童が増えると思いますか?

>>72
あります。
ただ法案で増えるかというとちょっとわかりませんね。


76 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:40:31.03 ID:UFrBGYWgO

250万あれば大衆ソープに100回は行ける


>>76
使い道も人それぞれってことですね。
俺なら車買うけど。


84 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:45:45.37 ID:cRxL1VqWO

どこで買えるの?


>>84
一業者で多くて20人ぐらい持ちます。
業者自体の数は把握できていません。


87 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:48:11.54 ID:7R6+VE13O

日本人は何人いるの?
あと少女の最低年齢と最高年齢は?


>>87
基本的に国ごとにその国の商品です。
客が自国を求めるのが理由になります。
ただよその国の商品のほうが扱いやすいのも事実です。
俺は見た最低年齢はC,Dぐらいでした。
上見るとババアになると思います。

149 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:47:56.74 ID:3aOQcDE0O

C,Dは3,4だよな?
ペドきめぇ
女は9歳からだろJK


>>149
俺は18ぐらいが好みです

88 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:48:25.63 ID:vT9Z9+J50

一見さんお断りなら、どういう人と仲良くなると連れてってくれるんだよ


104 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:57:32.74 ID:RB9IrMcg0

俺の予想

高級ソープなどの常連やVIP会員になり店の店長みたいなやつと親密になる
そしてロリを抱きたいからいいとこ紹介してくれと言って金を出す

店長から秘密の店を紹介してもらう
こんな感じなの?

>>104
104ナイス。
まあVIPとかになんなくても詳しい人と仲良くなればいいだけだけど


90 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:50:19.67 ID:aul6gfJH0

親が幼女を直接連れてきたりすることはあるの?


>>90
日本では親が直接連れてきて「買ってくれ」はまずありません。
前もってある程度の話をつけ業者が引き取りにいきます。


92 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:52:21.73 ID:85RvsPem0

どういうプレイがなされていたかわかる?
わかるならSMで幼女に犯されたりしてもらう人がどれくらいいたか教えてください。


>>92
恋人のように愛し合うプレイから
ネックを抑えて窒息プレイまでなんでもありますよ。
ただどうにかしてもらう客よりどうにかする方の客のほうが圧倒的に多かったですね。

99 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:55:01.98 ID:vT9Z9+J50

10歳以下でも本気で感じて喘いだりするの?
マグロじゃ価値がないと思うんだけど

>>99
薬つかいます
マグロとか痛がるのがいいって人もいます。

89. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月11日 00:34

10歳にフェラさせてごっくんさせる。
それを3連発位させるには幾らかかるんだろうか?


100 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:56:07.30 ID:TTHJOagA0

児童買春してた子って将来どうなってくの?


>>100
少なくとも社会に復帰する子はほとんどいません。
ただ今を幸せに暮らしている人は知っています。

129 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:32:11.01 ID:wjnYZ0Z/0

>>少なくとも社会に復帰する子はほとんどいません。

客とれなくなったら殺されたりするの?
逃げたりする子はいないの?
そんなに自分から軽い気持ちでやって来るものなの?


>>129
ただ処分することはない、なんらかの形で生かす。
逃げる子もいるけど逃げられると思っているのかは知らない。
気づいたら足元泥沼ってのはよくあること。

151 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:48:51.77 ID:wjnYZ0Z/0

>>ただ処分することはない、なんらかの形で生かす。

なんらかの形ってのが気になるな。
二十歳前後になっても違法売春どこかでさせるってこと?

>>151
その歳になって精神保ってる人ってかなり少ないよ。
別の形になります。

84. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月08日 00:01

何らかの形で生かすってどういう事だろう?

同業者(商品を提供する側)にするのか、それこそダルマやマニア仕様にして売るのか…
被害者は精神病院に入る事があるって見たけど、精神科ってセラピーも受けるんじゃないの?
セラピストや医師に、児童買春の被害者でしたって言っても信じてもらえなさそう…
報告受けた医師側が警察に通報しないのかも気になる

86. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月08日 07:25

大抵は消される

153 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:49:16.75 ID:5UIYSWjy0

>>1が見てきた商品の中で、「なんでこんな子が…」みたいになるぐらいかわいい子っていた?

>>153
いるいる
養子にしたいぐらい

105 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/09(火) 23:58:07.54 ID:/anleTwb0

値段は外国と日本ではどのくらい違うの?十倍くらい?


>>105
西洋>>日本>>>越えられない壁>>>アジア

114 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:17:14.95 ID:uIUpsvyfO

1人で複数質問失礼

・家出少女の取引相場が低いという話があったが、何故そうなのか?
 病気を持っている可能性があるからリスク負担の意か?

・性病について業者は何か対策を打っているのか?
 信用が重視される業界だろうから、訴訟が起こりえないことを理由に
 知らぬ存ぜぬを貫き通すとはとても思えないが…
 「一見さんお断り」や取引相場に尽きるのか、他にもあるのか?

・「適齢期」や性病などが理由で「商品」にならない子どもたちは、
 どう「処分」されるのか?
 女子もそうだが特に男子の場合が気にかかる

>>114
・頼る人間がいないから商品になるしかない

・基本ゴム、生の場合は別金額それに検査及び薬の代金請求

・業者による
外国に飛んでいくこともあれば、
無理やり商品に仕立てあげることもあり、
運よく卒業して生活できる人もいる


115 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:18:44.20 ID:ylyKvIJ90

そういう業者はニュースにならない所で摘発とかされてるの?


>>115
報道されないことは多い


120 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:24:02.17 ID:3aOQcDE0O

11歳より6歳が高いって?
リアリティ無いわw


>>120
あなたがそのレスを打っている間にも商品は成長していきます。
若いっていうのは貴重なのです。

121 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:24:18.88 ID:9FTK3nDU0

裏に片足突っ込んでたが金あればなんでもありだよ
エロ漫画に出てくるような媚薬とかも普通に手に入るし
まぁ二度と関わりたくはないがww

124 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:25:57.78 ID:aBDtM/pL0

回答は予想できるんだが、
都市部の方が業者が多いよね?
東京都市圏と大阪都市圏。

もしできれば業者がいなさそうな都道府県もあげてくれ。

>>124
えー・・・?
強いていうなら地方?
たぶんいないところはないと思うけど。


126 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:26:35.06 ID:T73W4Xzw0

1の組織って全国にあるもんなの?それとも都会だけ?

>>126

            すべてを包み込む何か

          ↓        ↓         ↓
      全国大型業者  他の仕事    怖い人たち    

          ↓
     地方の個人業者

170. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月07日 20:51

しかしすべてを包み込む何か・・・怖いな・・・
その内側が闇でその周囲に陰があるって事か・・・


130 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:32:57.76 ID:DPsW34fhO

幼女に大人が入れてるの見た事あるけど
どうやって成り立つの?
裂けないの?

>>130
薬か器具でほぐすかメス入れる

131 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:33:55.38 ID:5UIYSWjy0

薬とか使わなくてもエロエロな幼女って居るの?


>>131
好きでやっているなら人類皆幸せだよ


133 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:34:10.50 ID:juJNcpWL0

売春してる少女をお持ち帰りするふりして助け出しても
こっちでは国籍やらなんやらめんどくさくて結局助けれないよな
助けるなんておせっかいだよな結局


ぶっちゃけやりたい


141 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:40:10.29 ID:0XVCEmraO

その幼女達は売春してる時以外は何してるの?

>>141
ノーマルの売りなら普通に暮らしてる
普通つってもプレイのダメージは日々たまっていくけど


146 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:43:03.18 ID:aBDtM/pL0

地方の方が業者多いのか?意外だったな。
地方の方が「商品」を仕入れやすい、とかの理由があるのか?
単純に都市部だとアシが付きやすいのか?


>>146
専門買い口ってのがあんまりなくて、
都市に送られてくることもあればそのまま使われることもあるから
ケースバイケース?


147 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:44:58.45 ID:s4+FVTT/O

アフリカなら腐るほどいるがな〜
でもエイズ率40とか死ぬwww

157 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:53:15.13 ID:PaK/ER+m0

俺の知り合いの子は地下風俗で働いてた事あるらしいよ。高校生の時に
1の知ってるのはもっと児童な感じなのだろうか


>>157
そうだね

159 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:54:25.29 ID:AbKiwKKW0

日本でもあるのか?

>>159
ありまくりですよ旦那

165 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 00:58:06.16 ID:T73W4Xzw0

これってもっと裏に行ったらスナッフとかそういうのもあるの?
それとも管轄外?


>>165
一応、
調教、改造まで
スナッフにはノータッチ

178 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:06:43.91 ID:5UIYSWjy0
>>177
改造って何するんだ?


>>178
肉体切ったり縫ったり


188 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:11:45.85 ID:6q2oFGXe0

海外にいくとダルマプレイとかって割りと簡単にできんの?


>>188
改造は買い切りがほとんどと聞きました

63. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月07日 11:33

ダルマプレイって何?
怖くてググれん...


64. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月07日 11:48

手足切断

71. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月07日 15:38

ダルマって手も足もないだろう・・・?
つまり・・・。


195 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:18:10.13 ID:83MafjMk0

切ったり縫ったりあんのかよ…
性器改造、ではないよな…あくまでお隣さんだし
もっと目に見える形でやってるってことか


>>195
まあ俺は見たことあるだけだし


200 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:19:45.60 ID:T73W4Xzw0

なんかのイベントハウスで自分の舌切ったり腕焼いたりするような映像は見たこと
あったけど幼女でもそんなことしたりするの?


>>200
金しだいです


201 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:20:03.50 ID:5rSpdUadO

死んだりするの?
もし死んだり、自殺したらどうするの?


>>201
専門の処理の方におまかせするらしいです。

60. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月07日 09:30

硫酸で溶解やら解体したりしなかったりして私有地に埋没させるわけですね。
いやー、世の中って怖いなぁ。


179 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:07:29.96 ID:QWazu+HjO

子ども達は学校に行ったりできるの?


>>179
行けないw


180 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:07:41.08 ID:lnQKBRvDO

欧州ってやっぱ厳しいの?
地域によるならわかる範囲でkwsk
あと業者って女とかもいんの?


>>180
あっち側は法律や罰則が異常に厳しい
いいことですけどね
それでも闇は深くまで根付いてる
業者で女ってほとんどいないなー


189 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:12:30.57 ID:cbJqT8CW0

海外では一見さんでもいけるの?


>>186
>>189
買春が盛んな国だとできますね
アジアとかアジアとか


192 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:13:47.66 ID:M66VYJJhO

幼女一人が取る客って1日何人くらい?
客はやっぱり普通の風俗みたいに写真で選んだりするの?

>>192
というより要求に合わせて業者が選ぶ感じです。

202 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:21:12.59 ID:T73W4Xzw0

中国行ったら戸籍のない子が多いから好き勝手できる?
マッサージ屋行ったら明らかに中学生とか出てきたが。
それともタイのほうがいい?

>>202
人種的な好みで選んでみては?


204 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:21:34.55 ID:F0neWYFn0

たとえばタイに旅行へ行って空港に着いて・・・
ヤるにはまずどうしたらいい


>>204
タイ 売春宿
でググればすぐわかりますよ
インターネッツは便利だな


205 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:21:46.67 ID:RhOMhkA60

やっぱりほとんどの商品が病気持ってるんでしょ?


>>205
そうでもないです


206 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:22:03.36 ID:WlxHyYEHO

昔漫画で『16歳になってガバガバだから殺されるよ』

って言ってたけど16歳くらいまで持つの?
妊娠したらどうするの?初潮迎える年まで生きてるの?

>>206
医療班がいれば大丈夫 だとか

208 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:23:04.08 ID:QWazu+HjO

こんな事が現実で起こってるなんてやだな…
買い手は罪悪感とかないのか?ロリコンきめぇww

>>208
罪悪感ってM属性の人には快感じゃないのかな?
と思うことはあります


227 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:39:02.26 ID:QWazu+HjO

幼女犯してる自分って最低って思いながら興奮してるのか…


209 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:23:24.33 ID:mn2hnFIwO

女の子が妊娠したらどう扱われるの?


>>209
降ろさせる
まあピルなりなんなり対策はしていますけど


211 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:24:54.84 ID:aBDtM/pL0

そいや、「商品」は、どういう状態で一日を過ごすんだ?
どこかの部屋にでも放り込んでおくのか?

>>211
繋いどく人もいれば
好きにすごさせる人もいるらしいです。

220 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:33:09.47 ID:lnQKBRvDO

そういやインドで脱走やら廃棄の子供引き取ってるボランティアのおばさんの話見て泣いたの思い出した
もうシャブやり過ぎで余命一年とかそんな子ばっからしいねあの辺り
日本にもそういう団体とかあんの?
そんでソイツらと戦ったりすんの?
夜回り先生みたいなのとか

>>220
日本は露見しないから行動的な団体もないです


238 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:46:39.18 ID:7oobJgbX0

>>220で思い出したけど、インドのスラム街ってすごい事になってるらしいな
外では大人の売春婦がたむろしてるんだけど、ポン引きに付いて行って建物の中へ通されると まだ胸も膨らんでない小さな女の子もいるとか
しかし部屋があまりにも汚くやる気が失せるようだ

225 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:38:27.70 ID:T73W4Xzw0

タイは最近厳しいって聞いたけど最近の海外の情報は入ってこない?
今はカンボジアかラオスがいいとか、あとミャンマーとか
タイはメジャーになりすぎたから今は少なくなってるとさ

241 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:48:55.57 ID:7J8wz06xO

・ラオスなら12〜15歳の顔も日本人ぽい子が2時間で40$

・キスは嫌う

・うち15$程が彼女達のバック

・トゥクトゥクにヤンガーって言ってれば連れてってくれる

・12歳とか体格が子供すぎて変な感じ


226 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:38:59.90 ID:dHgYwudX0

売られた幼女達の最後が知りたい。

1、消される
2、精神病院行き
3、水商売関係に就職
4、普通に暮らす

とか?
人それぞれだろうから一括りには言えんだろうがこんな感じなの?

>>226
だいたいそんな感じです。
4をつかんでほしいのですけれどね・・・。

231 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:40:49.98 ID:WT9KKhZi0

マカオとかでは日本人が高く取引されてるって聞いたけど本当?


>>225
>>231
その話マカオが成長しているからの諸説だと思いますが、
日本人もそれなりに人気はあるようです。

233 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:43:52.68 ID:pj7BQuIzO

やっぱり顧客で一番多いのは韓国、朝鮮人なの?

>>233
自分の国の子が一番らしいですよ?

290 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 02:57:22.85 ID:Wp/hftXIO

夜のカンボジアは売春だらけ
日本人の数十人のおっさん団体とかいたよ〜
ディスコもカラオケもいる女の子は全員売春婦

218 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2008/09/10(水) 01:31:10.38 ID:DgXUzdmWO

おまえら釣られすぎ


>>218
そうだよ
これは釣りなんだよ
だから買春しなきゃいけない幼女なんてこの世にはいなくて
みんなクリスマスは家族と過ごしてプレゼントをもらうんだ

18. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月06日 22:38

なんだフィクションか
かわいそうな幼女はいなかったんだねいなかったんだね
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/114.html

コメント [医療崩壊7] オランダの音楽祭で1000人以上が新型コロナ感染 (CNBC)  魑魅魍魎男
2. 2021年7月27日 19:14:21 : juJg7V4FOs : QVVMOFFrWHlaRDY=[1108]

 ↑1 おめでとう 君たちの努力の結果として 東京は 2800を超えた

 後一週間すれば 君も ニセPCR検査の被害者になりそうだ
 
 ===

 東京は ニセPCR検査が襲ってくるようだから 誰も逃げることはできないかも〜〜

 そのうち 1%は 「ニセ死」できるだろう 
 
 
http://www.asyura2.com/21/iryo7/msg/129.html#c2

コメント [カルト33] タップ・仏・大統領警護の軍人が総辞職、伊・フィレンツェ・警察が反ワクデモに合流。組織の全てではないにしろ、軍人や警察が… ポスト米英時代
10. 2021年7月27日 19:14:41 : pbTvaugmWV : OWNoZ3BELjV6eE0=[114]
ワクチン押ししてるのが総じてネトウヨだってのが笑える
正体バレバレなんだよ。統一教会(DSのアジア担当)の朝鮮人共が
http://www.asyura2.com/21/cult33/msg/469.html#c10
コメント [近代史6] 戦後も日本人は中国の童女を性奴隷にしている 中川隆
2. 中川隆[-16009] koaQ7Jey 2021年7月27日 19:15:25 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[15]
『中国での接待』

574 :本当にあった怖い名無し:2008/03/01(土) 10:49:20 ID:5Dsg2oxW0

これは俺が中国の某所へ、会社の商談に行った時の話。

入社一年目のぺーぺーの俺は、二個上の先輩と50代の部長に連れられて、中国へ渡ったんだわ。 俺は挨拶ぐらいしか出来ない程度だったので、付き従って行っただけだったのだが。

商談はいい感じにまとまった。その晩に商談相手の中国人らに連れられて、高級かつ格式高げな中華料理屋にて楽しく会食。向こうの会社のお偉いさん(というか、後で聞いたらマフィア)も来てた。

料理自体はめちゃ不味くて、しかしオモテナシだから大量盛りで、しかも相手方のメンツもあるから、顔見合わせながら頑張って食ったよ。しかしまずかった。何の肉かわからんぐらい臭いし。


で、ここからはよくある話なのかどうか知らんが、セックス接待。

部長や上司から事前に話は聞いていたので、俺はそれだけが楽しみで行ったようなもの。 場所をホテルの一室(かなり広い。VIP御用達な感じ)に移して、女がずらずら入ってくる。十人ぐらい。

めちゃめちゃ美人ばっかり。まじかよと思ったぐらい。永作博美似とか川村ゆきえ似とか小野真弓似とか…

一晩何回でもok、朝までご一緒というコースらしい。

部長が選び先輩が選び、そして俺の番。
背の低いかわいらしい子を選んだ。で、あとはお楽しみ。

ここまではちょっと珍しい話ってだけだが、俺が恐ろしい思いをしたのは、その翌日のこと。

んで翌日。

昨夜はお楽しみでしたねって感じになって、朝食をすませて先輩と部長と合流。
今日は観光するよって予定になってたから、

「どこ行くんすか」

って聞いてみたら、

「面白いところ」

とか、

「日本じゃ経験できないようなことさしたる」

としか言われない。 なんだろな、まあいいかって、二人について行くことにした。

二十分ぐらい歩いたかな。日本で言う旅館みたいな小さな建物に到着。
でもすげえ豪華なの。雰囲気が。絢爛っていうか。全体的に赤くていやらしいムード。

また風俗かー。まあそれもいいかなって、すんなり入ったのが間違いだった。


部長が中国語で二言三言告げると、受付のオバチャンに奥に通される。

従業員用通路みたいな寒々としたコンクリうちっぱなしの通路を、通った先にエレベーター。 これに乗って上へ。3階。

「こっちでいいんすか?これどこ行くんすか?」

と聞いてみたが、はぐらかされる。

俺もヘルスとか行ったことあるから、なんか、普通の待合室とか、プレイする部屋がどのへんかとか、そういうのわかるんだけど、どうもそれスルーして、どっか向かってるみたいで。

エレベーターの扉が開いて、進み出ると部屋。八畳ぐらいか。
真ん中に布団が置いてあって、行灯?みたいのでぼんやりピンク色の灯。
テーブルと座布団があって、菓子とお茶があったから、とりあえず座って待機。


奥の引き戸からオバチャンが入ってきて、なんか説明してる。
先輩が訳してくれた。

「大事なことは二つ。女の子に危害を加えないこと。今日のこの体験をよそに漏らさないこと」

なんかイヤな予感した。これってもしかして。

予感的中。

オバチャンが引っ込んだ代わりに入ってきたのが幼女だった。

中華服みたいなの着てるんだけど、異様なのが頭まるぼうずなんだよ。

そんで歯全部無い。

歯をなくす理由ってあれしかないよな。フェラが絶品になるからだ。

後頭部のちょっと下あたりに、入れ墨で何か書いてある。中国語だからわからんけど。

これは俺の想像だが、頭丸坊主もこの入れ墨も、たとえば逃げ出したときに、近隣の住民とかが発見・通報しやすいように…してるのかな。

化粧もきちんとしてた。子供なのに。気味悪い。


なんで三人同室で、一緒に行為に及ばなければならないのか。
これは罪の意識を共有することで、外に漏れなくするための細工なんだろう。


部長→先輩の順で行為がおこなわれる。えぐい。

気分悪いから描写はあんましないけど…


二人こなした後、シャワー浴びてその子が戻ってきて、俺にまとわりつく。

上司ふたりがやっちまった以上、俺がやらないというわけにはいかない。

実際、すっきりした二人が、

「おまえも当然やるよな」

「逃げられないぞ」

といった脅しをかけてくる。

俺の膝の上で媚びを売り、唇をちゅっちゅっと寄せてくるその幼女に、生理的な嫌悪を感じた。 もう頭混乱してしようがなかった。

上司の手前やらなきゃいけないのか?
しかし、人として出来るかそんなこと。しかし。しかし。


俺のチンコはめちゃめちゃ巨根なんだ。缶コーヒーのロング缶ぐらいある。 あんまりでかすぎて、大抵の女性は痛がって入れさせてくれないし、入っても大抵ギブアップされる。そんな俺のデカチンコが入るわけない。

先輩と部長にいちもつを見せて、

「これは無理ですよね」

と、勘弁してくれと訴えかけるが、

「お前だけやらないなんて許されるか」

「お前は俺たちがやったの見てるんだぞ、弱みを握るつもりか」

等々、どうしても逃げられない状況。


結果から言うと、結局俺のチンコの規格外のでかさに幼女がギブアップして、
オバチャン出てきて、

『女の子に危害を与えないこと』

というルールの後ろ盾もあり、なんとか先輩も部長も黙らせることが出来た。

出来たんだが…その後、終日、口きいてもくれないのね。完全無視。
まそりゃそうだわな。

結果的に俺は、先輩と部長の裏の顔というか、人として最低な姿を弱みとして握ってしまったわけで。

帰国してからも、業務上で色々絡む場面も多かったが、嫌がらせとか無視とか地味に虐められて、耐えられなくなって、結局退社しました。命を抹殺されなかっただけましというか、今でも怖いです。


一番怖いのは、部長も先輩もすごく善良で普通の人だったのに…ということ。
そして俺もへたすれば、あっち側に墜ちていたかもしれないこと。
その会社は今でも、新人にそういった罠をしかけているかもしれないこと。

しかし、同じ罪を背負ったチームの結束たるや、
ひょっとしたらそれは、一定の効果をあげているのかもしれませんね。


[ 5311 ] NO TITLE
坊主なのは病気持ちを隠す為もあるんじゃないか
[ 2011/08/06 ] NO NAME ◆-


[ 6854 ]
そういう趣味の立場が強い奴が一人以上いて、ソイツが自分だけリスクにさらされてはマズイと部下に半ば強要→そのまま連鎖という具合に始まったんだろう。
特定集団内の序列や慣習を重んじ規定レール上にありたい心ってのが、一般的な倫理観やルールを踏み外させた悪しき例かな。

まぁ投稿者は正しい判断をしたよ。ノーマルな嗜好でマトモな感覚の奴がそんな真似したら、一生に渡って自分への嫌悪感に苛まれただろうからね。
[ 2011/08/25 ] NO NAME ◆-

[ 9105 ]
自分たちでハニトラ仕掛けてりゃ世話無いな。
[ 2011/09/17 ] NO NAME ◆-


[ 15926 ] NO TITLE
ビデオでバッチリ撮られてて、10年後20年後に脅されるってパターンか。
御払いとかでどうなるもんでもないだけに、下手なオカルトよりよっぽどこえぇな。
[ 2011/12/30 ] NO NAME ◆-


[ 16817 ] NO TITLE
歯が全くない口、丸坊主、それでもって化粧・・・
それだけがなんだかものすごく怖くって。

歯が全くないのに、その子は将来も「そうゆうしごと」をする?
そりゃ、あれは気持ちがよくたって食べ物や会話はどうすんの?

自分がそうゆう子供にならなくて良かった。
中国語の発音て難しいのに、歯がないと無理だぞ???

因みに私は中国語を話せるし、ちょっとは聞き取れる、でも
本当に怖い国ですよ。なんとかっていう週刊誌読んでるとあんな国に生まれなくて本当に良かった
と思います。中国から朝鮮、東南アジアはすっごく危ない。行きたくない。恐ろしいですマジデ。
[ 2012/01/12 ] NO NAME ◆-


[ 16830 ]
思うに、子供の将来なんて微塵も考えてない。
そもそも言語なんて必要とされてない扱いだし、喋れなくても行為的に問題ないからね。

病気や老化で使いものにならなくなったら廃棄処分。そしてスペアに交換…
そんな鬼畜な所業が繰返されている事は想像に難くないよ。
地獄って存在するんだね…
[ 2012/01/12 ] NO NAME ◆-

[ 20823 ]
ぅぇ…風俗さえ嫌な俺には、罪悪感と女の子の不気味さで苦行だわ…
[ 2012/02/28 ] NO NAME ◆-

[ 21121 ] NO TITLE
昔は、こういう娼婦は目をつぶしてたんよ。逃げ出さないため。たとえ逃げられても目が見えないからどうしようもないしね。坊主だの入れ墨だのってレベルでないよね。

んで、年取って使い物にならなくなったら捨てられちゃうのよ。目が見えないおばあさんが道端で二胡引いて物乞いやってたら、まあそういう事よ。太平洋戦争前後にも、まだいたらしいね。

「臣」という字、目を潰された男の人の意形文字よ。異民族ではない男の奴隷の事だったんじゃないかね。
ちなみに異民族の奴隷は「僕」ね。わざわざ人偏をつけるあたり、嫌らしいというか、なんか凄味すら感じるね。

女の人の場合は「姫」。「妾」もそう。つか、妾の方が古い漢字かな。上の「立つ」の部分は小剣の柄の部分で、これも目を潰された女性を表す漢字。

あの国は、何千年も前から、こういう事してたのよ。 韓非子にも、

「烏を手懐けるコツは、羽を切り落とすこと。そうすれば、自分で餌を捕れない烏は、人に懐く以外生き長らえる術がない。人民を従えさせるのも同じ要領でやればよい…」

とあるしね。中国、なめたらあかんよ。
[ 2012/03/02 ] NO NAME ◆-


[ 25644 ] NO TITLE
中華系接待は糞不味い料理の前に放るように円卓メンバーに配られるタバコからあかん。
大きな企業に限らず特殊な技術持ってる会社の社員とかは接待には気をつけろよ。
国策系のハニトラも含めて一時のことで絞りつくされかねんぞ。
[ 2012/04/23 ] 名無しさん@ニュース2ちゃん ◆-


[ 25649 ] NO TITLE
特に中国系は怖いよな。
人の命なんて何とも思わん国だし、中央政府含めて巨大マフィア国家だもの・・・。
民○党に開けっぴろげられた日本の表玄関、毎日の様に入り込み選挙権まで与えられ住み着く素性の曖昧な中国人達、日本の危機近し!!
[ 2012/04/23 ] NO NAME ◆-

[ 25687 ] NO TITLE
「民」って漢字は目を針でつぶす様を描いた象形文字からきてる。

つまりは奴隷。 「幸」は手かせをはめられた手を表す形。

他の刑(殺されたり手足を切られたり)にあうよりは幸せという意味。

「圉」(ぎょ)はそのものズバリ牢屋の意。
[ 2012/04/24 ] NO NAME ◆-


[ 25689 ]
>25687
「幸」が手枷をはめられた状態とは…
「幸」の字がどういう意味で使われてるかを考えるとなんか皮肉だねorz
[ 2012/04/24 ] NO NAME ◆-


[ 27349 ] NO TITLE
>>16830
記事の場合、成長後の見た目という意味で将来にも気を使ってるんじゃなかろうか

抜いた歯はおそらく乳歯。だからこそ幼女でなくてはだめなんだろう

髪生えれば刺青隠せるし
そんで永久歯と髪が生え揃ったら今度は別の風俗で使い潰す
[ 2012/05/15 ] 名無しさん@ニュース2ちゃん ◆-

[ 38782 ]
いやいや、乳歯なんてせいぜい6.7歳までよ?
いくら幼女ったって10歳前後でしょ。

それでも身の毛もよだつ話なのにもしもっとちっちゃい子にやらせてるとしたら…
大事な娘がいるから考えるだけで吐き気がしてくる…
[ 2012/08/17 ] NO NAME ◆-


[ 42524 ]
中国は、一人っ子政策で田舎だと特に女の子はいらない……
案外調達しやすいのかもな。
[ 2012/09/13 ] NO NAME ◆-

[ 42554 ] NO TITLE
ついでに言うとな、ひとみ(瞳)って字あるだろ?
アレになぜ子供の意味を指す「童」って字が入ってるかというと…

醜い物事を見聞きして、心を汚さぬように、という建前のもと、

宮仕えに来た幼い子の目を潰す習慣からできた漢字だからなんだと。

ちなみに、「目」は死人や刑死人の目の象形文字。
生きてる人の目を指す場合は、「眼」の字を使う。

眼鏡(めがね)とか、生きてる人が使う道具だから、眼の字が充てられてる。

涙は、生きてる人が気持ちを揺さぶられて流すもの。

泪は、水死した人のまぶた部分に溜まった水分が流れたもの…とかね。
常用漢字にも、エグイ由来を持つものはたくさんある。
[ 2012/09/13 ] NO NAME ◆-

[ 57839 ]
中国・韓国出張行く奴らって絶対女買ってくるよね。

ましてや幼女なんて。キチガイ。日本の恥。

てか、女の子だって好きでこんなことしてるんじゃないでしょ。やらなきゃ怒られたり生けていけないからでしょ。
それを、将来どーすんの?とか言ってる奴ってバカなの?気持ち悪い。
[ 2013/01/05 ] NO NAME ◆-
http://nazolog.com/blog-entry-2747.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/113.html#c2

コメント [カルト33] 米保健局内部告発者・発表の四倍の四万五千人ワク死亡、インデ・それどころか数十万人の感触。日本も一万人から十万人ワク死亡… ポスト米英時代
13. 2021年7月27日 19:15:42 : PmbImYlNWI : NzZzLnRIa3hPdU0=[206]
KEI _ 2020 SPACE ODYSSEYさん
🎙️FOX:イスラエル保健省◯チン・データ🎙️
【速報】 漸くアメリカの主要メディアでイスラエル当局が広報した情報を流し始めました。接種した人はショックでしょうね。
日本の報道機関はこの情報を流していないのかしら。 https://t.co/efHGgmVdp8」Twitter
https://mobile.twitter.com/hiro0725/status/1418371343062507520

SancVer5Dさん
PCR検査終了のお知らせ🎉 ーー 🇺🇸CDCは、COVID-19検査のためのRT-PCRに対する緊急使用許可を取り消すことを発表しました。 https://t.co/0OmmOzwnvI / Twitter
https://mobile.twitter.com/lkj_hgf_dsa_poi/status/1419592840271728641
http://www.asyura2.com/21/cult33/msg/468.html#c13

コメント [近代史6] 児童買春の世界 中川隆
1. 中川隆[-16008] koaQ7Jey 2021年7月27日 19:15:55 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[16]
『中国での接待』

574 :本当にあった怖い名無し:2008/03/01(土) 10:49:20 ID:5Dsg2oxW0

これは俺が中国の某所へ、会社の商談に行った時の話。

入社一年目のぺーぺーの俺は、二個上の先輩と50代の部長に連れられて、中国へ渡ったんだわ。 俺は挨拶ぐらいしか出来ない程度だったので、付き従って行っただけだったのだが。

商談はいい感じにまとまった。その晩に商談相手の中国人らに連れられて、高級かつ格式高げな中華料理屋にて楽しく会食。向こうの会社のお偉いさん(というか、後で聞いたらマフィア)も来てた。

料理自体はめちゃ不味くて、しかしオモテナシだから大量盛りで、しかも相手方のメンツもあるから、顔見合わせながら頑張って食ったよ。しかしまずかった。何の肉かわからんぐらい臭いし。


で、ここからはよくある話なのかどうか知らんが、セックス接待。

部長や上司から事前に話は聞いていたので、俺はそれだけが楽しみで行ったようなもの。 場所をホテルの一室(かなり広い。VIP御用達な感じ)に移して、女がずらずら入ってくる。十人ぐらい。

めちゃめちゃ美人ばっかり。まじかよと思ったぐらい。永作博美似とか川村ゆきえ似とか小野真弓似とか…

一晩何回でもok、朝までご一緒というコースらしい。

部長が選び先輩が選び、そして俺の番。
背の低いかわいらしい子を選んだ。で、あとはお楽しみ。

ここまではちょっと珍しい話ってだけだが、俺が恐ろしい思いをしたのは、その翌日のこと。

んで翌日。

昨夜はお楽しみでしたねって感じになって、朝食をすませて先輩と部長と合流。
今日は観光するよって予定になってたから、

「どこ行くんすか」

って聞いてみたら、

「面白いところ」

とか、

「日本じゃ経験できないようなことさしたる」

としか言われない。 なんだろな、まあいいかって、二人について行くことにした。

二十分ぐらい歩いたかな。日本で言う旅館みたいな小さな建物に到着。
でもすげえ豪華なの。雰囲気が。絢爛っていうか。全体的に赤くていやらしいムード。

また風俗かー。まあそれもいいかなって、すんなり入ったのが間違いだった。


部長が中国語で二言三言告げると、受付のオバチャンに奥に通される。

従業員用通路みたいな寒々としたコンクリうちっぱなしの通路を、通った先にエレベーター。 これに乗って上へ。3階。

「こっちでいいんすか?これどこ行くんすか?」

と聞いてみたが、はぐらかされる。

俺もヘルスとか行ったことあるから、なんか、普通の待合室とか、プレイする部屋がどのへんかとか、そういうのわかるんだけど、どうもそれスルーして、どっか向かってるみたいで。

エレベーターの扉が開いて、進み出ると部屋。八畳ぐらいか。
真ん中に布団が置いてあって、行灯?みたいのでぼんやりピンク色の灯。
テーブルと座布団があって、菓子とお茶があったから、とりあえず座って待機。


奥の引き戸からオバチャンが入ってきて、なんか説明してる。
先輩が訳してくれた。

「大事なことは二つ。女の子に危害を加えないこと。今日のこの体験をよそに漏らさないこと」

なんかイヤな予感した。これってもしかして。

予感的中。

オバチャンが引っ込んだ代わりに入ってきたのが幼女だった。

中華服みたいなの着てるんだけど、異様なのが頭まるぼうずなんだよ。

そんで歯全部無い。

歯をなくす理由ってあれしかないよな。フェラが絶品になるからだ。

後頭部のちょっと下あたりに、入れ墨で何か書いてある。中国語だからわからんけど。

これは俺の想像だが、頭丸坊主もこの入れ墨も、たとえば逃げ出したときに、近隣の住民とかが発見・通報しやすいように…してるのかな。

化粧もきちんとしてた。子供なのに。気味悪い。


なんで三人同室で、一緒に行為に及ばなければならないのか。
これは罪の意識を共有することで、外に漏れなくするための細工なんだろう。


部長→先輩の順で行為がおこなわれる。えぐい。

気分悪いから描写はあんましないけど…


二人こなした後、シャワー浴びてその子が戻ってきて、俺にまとわりつく。

上司ふたりがやっちまった以上、俺がやらないというわけにはいかない。

実際、すっきりした二人が、

「おまえも当然やるよな」

「逃げられないぞ」

といった脅しをかけてくる。

俺の膝の上で媚びを売り、唇をちゅっちゅっと寄せてくるその幼女に、生理的な嫌悪を感じた。 もう頭混乱してしようがなかった。

上司の手前やらなきゃいけないのか?
しかし、人として出来るかそんなこと。しかし。しかし。


俺のチンコはめちゃめちゃ巨根なんだ。缶コーヒーのロング缶ぐらいある。 あんまりでかすぎて、大抵の女性は痛がって入れさせてくれないし、入っても大抵ギブアップされる。そんな俺のデカチンコが入るわけない。

先輩と部長にいちもつを見せて、

「これは無理ですよね」

と、勘弁してくれと訴えかけるが、

「お前だけやらないなんて許されるか」

「お前は俺たちがやったの見てるんだぞ、弱みを握るつもりか」

等々、どうしても逃げられない状況。


結果から言うと、結局俺のチンコの規格外のでかさに幼女がギブアップして、
オバチャン出てきて、

『女の子に危害を与えないこと』

というルールの後ろ盾もあり、なんとか先輩も部長も黙らせることが出来た。

出来たんだが…その後、終日、口きいてもくれないのね。完全無視。
まそりゃそうだわな。

結果的に俺は、先輩と部長の裏の顔というか、人として最低な姿を弱みとして握ってしまったわけで。

帰国してからも、業務上で色々絡む場面も多かったが、嫌がらせとか無視とか地味に虐められて、耐えられなくなって、結局退社しました。命を抹殺されなかっただけましというか、今でも怖いです。


一番怖いのは、部長も先輩もすごく善良で普通の人だったのに…ということ。
そして俺もへたすれば、あっち側に墜ちていたかもしれないこと。
その会社は今でも、新人にそういった罠をしかけているかもしれないこと。

しかし、同じ罪を背負ったチームの結束たるや、
ひょっとしたらそれは、一定の効果をあげているのかもしれませんね。


[ 5311 ] NO TITLE
坊主なのは病気持ちを隠す為もあるんじゃないか
[ 2011/08/06 ] NO NAME ◆-


[ 6854 ]
そういう趣味の立場が強い奴が一人以上いて、ソイツが自分だけリスクにさらされてはマズイと部下に半ば強要→そのまま連鎖という具合に始まったんだろう。
特定集団内の序列や慣習を重んじ規定レール上にありたい心ってのが、一般的な倫理観やルールを踏み外させた悪しき例かな。

まぁ投稿者は正しい判断をしたよ。ノーマルな嗜好でマトモな感覚の奴がそんな真似したら、一生に渡って自分への嫌悪感に苛まれただろうからね。
[ 2011/08/25 ] NO NAME ◆-

[ 9105 ]
自分たちでハニトラ仕掛けてりゃ世話無いな。
[ 2011/09/17 ] NO NAME ◆-


[ 15926 ] NO TITLE
ビデオでバッチリ撮られてて、10年後20年後に脅されるってパターンか。
御払いとかでどうなるもんでもないだけに、下手なオカルトよりよっぽどこえぇな。
[ 2011/12/30 ] NO NAME ◆-


[ 16817 ] NO TITLE
歯が全くない口、丸坊主、それでもって化粧・・・
それだけがなんだかものすごく怖くって。

歯が全くないのに、その子は将来も「そうゆうしごと」をする?
そりゃ、あれは気持ちがよくたって食べ物や会話はどうすんの?

自分がそうゆう子供にならなくて良かった。
中国語の発音て難しいのに、歯がないと無理だぞ???

因みに私は中国語を話せるし、ちょっとは聞き取れる、でも
本当に怖い国ですよ。なんとかっていう週刊誌読んでるとあんな国に生まれなくて本当に良かった
と思います。中国から朝鮮、東南アジアはすっごく危ない。行きたくない。恐ろしいですマジデ。
[ 2012/01/12 ] NO NAME ◆-


[ 16830 ]
思うに、子供の将来なんて微塵も考えてない。
そもそも言語なんて必要とされてない扱いだし、喋れなくても行為的に問題ないからね。

病気や老化で使いものにならなくなったら廃棄処分。そしてスペアに交換…
そんな鬼畜な所業が繰返されている事は想像に難くないよ。
地獄って存在するんだね…
[ 2012/01/12 ] NO NAME ◆-

[ 20823 ]
ぅぇ…風俗さえ嫌な俺には、罪悪感と女の子の不気味さで苦行だわ…
[ 2012/02/28 ] NO NAME ◆-

[ 21121 ] NO TITLE
昔は、こういう娼婦は目をつぶしてたんよ。逃げ出さないため。たとえ逃げられても目が見えないからどうしようもないしね。坊主だの入れ墨だのってレベルでないよね。

んで、年取って使い物にならなくなったら捨てられちゃうのよ。目が見えないおばあさんが道端で二胡引いて物乞いやってたら、まあそういう事よ。太平洋戦争前後にも、まだいたらしいね。

「臣」という字、目を潰された男の人の意形文字よ。異民族ではない男の奴隷の事だったんじゃないかね。
ちなみに異民族の奴隷は「僕」ね。わざわざ人偏をつけるあたり、嫌らしいというか、なんか凄味すら感じるね。

女の人の場合は「姫」。「妾」もそう。つか、妾の方が古い漢字かな。上の「立つ」の部分は小剣の柄の部分で、これも目を潰された女性を表す漢字。

あの国は、何千年も前から、こういう事してたのよ。 韓非子にも、

「烏を手懐けるコツは、羽を切り落とすこと。そうすれば、自分で餌を捕れない烏は、人に懐く以外生き長らえる術がない。人民を従えさせるのも同じ要領でやればよい…」

とあるしね。中国、なめたらあかんよ。
[ 2012/03/02 ] NO NAME ◆-


[ 25644 ] NO TITLE
中華系接待は糞不味い料理の前に放るように円卓メンバーに配られるタバコからあかん。
大きな企業に限らず特殊な技術持ってる会社の社員とかは接待には気をつけろよ。
国策系のハニトラも含めて一時のことで絞りつくされかねんぞ。
[ 2012/04/23 ] 名無しさん@ニュース2ちゃん ◆-


[ 25649 ] NO TITLE
特に中国系は怖いよな。
人の命なんて何とも思わん国だし、中央政府含めて巨大マフィア国家だもの・・・。
民○党に開けっぴろげられた日本の表玄関、毎日の様に入り込み選挙権まで与えられ住み着く素性の曖昧な中国人達、日本の危機近し!!
[ 2012/04/23 ] NO NAME ◆-

[ 25687 ] NO TITLE
「民」って漢字は目を針でつぶす様を描いた象形文字からきてる。

つまりは奴隷。 「幸」は手かせをはめられた手を表す形。

他の刑(殺されたり手足を切られたり)にあうよりは幸せという意味。

「圉」(ぎょ)はそのものズバリ牢屋の意。
[ 2012/04/24 ] NO NAME ◆-


[ 25689 ]
>25687
「幸」が手枷をはめられた状態とは…
「幸」の字がどういう意味で使われてるかを考えるとなんか皮肉だねorz
[ 2012/04/24 ] NO NAME ◆-


[ 27349 ] NO TITLE
>>16830
記事の場合、成長後の見た目という意味で将来にも気を使ってるんじゃなかろうか

抜いた歯はおそらく乳歯。だからこそ幼女でなくてはだめなんだろう

髪生えれば刺青隠せるし
そんで永久歯と髪が生え揃ったら今度は別の風俗で使い潰す
[ 2012/05/15 ] 名無しさん@ニュース2ちゃん ◆-

[ 38782 ]
いやいや、乳歯なんてせいぜい6.7歳までよ?
いくら幼女ったって10歳前後でしょ。

それでも身の毛もよだつ話なのにもしもっとちっちゃい子にやらせてるとしたら…
大事な娘がいるから考えるだけで吐き気がしてくる…
[ 2012/08/17 ] NO NAME ◆-


[ 42524 ]
中国は、一人っ子政策で田舎だと特に女の子はいらない……
案外調達しやすいのかもな。
[ 2012/09/13 ] NO NAME ◆-

[ 42554 ] NO TITLE
ついでに言うとな、ひとみ(瞳)って字あるだろ?
アレになぜ子供の意味を指す「童」って字が入ってるかというと…

醜い物事を見聞きして、心を汚さぬように、という建前のもと、

宮仕えに来た幼い子の目を潰す習慣からできた漢字だからなんだと。

ちなみに、「目」は死人や刑死人の目の象形文字。
生きてる人の目を指す場合は、「眼」の字を使う。

眼鏡(めがね)とか、生きてる人が使う道具だから、眼の字が充てられてる。

涙は、生きてる人が気持ちを揺さぶられて流すもの。

泪は、水死した人のまぶた部分に溜まった水分が流れたもの…とかね。
常用漢字にも、エグイ由来を持つものはたくさんある。
[ 2012/09/13 ] NO NAME ◆-

[ 57839 ]
中国・韓国出張行く奴らって絶対女買ってくるよね。

ましてや幼女なんて。キチガイ。日本の恥。

てか、女の子だって好きでこんなことしてるんじゃないでしょ。やらなきゃ怒られたり生けていけないからでしょ。
それを、将来どーすんの?とか言ってる奴ってバカなの?気持ち悪い。
[ 2013/01/05 ] NO NAME ◆-
http://nazolog.com/blog-entry-2747.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/114.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
33. 2021年7月27日 19:16:05 : QkmKu9TaDg : UkFBMkY3bHdaaGc=[60]
まーた煽り記事w751人ワクチン後に死んだのにはだんまり
この報告も全体の一部といわれてるから本当は何人かな
とっくにコロナ死超えてるかも
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c33
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
34. 2021年7月27日 19:16:08 : 8RkqeDcLYM : YjdwOHhJa1NrQ3M=[1]
07>「これからは東京だけじゃない!首都圏、沖縄、日本全国、世界中に広がる❗未    来がコロナウィルス」

 ♪ワタスモ、負けずに、リンリン・・・、こいで人気でるぞ!、瘋癲カスも現実とのズレは半端じゃあねえな。デンデンが金とったもんに、ヨーケにリンリンやっておったな、ワイだって高藤とか金とったんにリンリン行くぞ、人気でるぞ、じゃが読み間違いよ。
 瘋癲カスの思惑と、コロナパンデミック化進行の乖離は、自民政権の命とりになりそうだな。絶望列島への国民の怒りの捌け口は、どこへ向かうか。明確に方向性しめすもんあらば、殺到の気配あるな。


ズレは深刻
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c34

コメント [政治・選挙・NHK282] 菅コロナ大失政がフィナーレへ(植草一秀の『知られざる真実』) 赤かぶ
7. 2021年7月27日 19:18:34 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3989]
閉会式の茶番がフィナーレならいいけれど、
葬式の葬送曲になりそうです。

とっ散らかされた、五輪に
何一つ感動がない、そんな五輪で終わりそうです。

アスリートのよいしょ番組は、これくらいにして、衆院選に突入しないと。

ね!藤井たかひこアナ?大下容子?

     


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/238.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
35. 2021年7月27日 19:19:07 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[4896]
明日も土日で検査できなかった分が入るから、多くはなるね。
今日と同じくらいか、それより多いか。
私が予想した2500人(だったっけ?)が今週ってのはいきなり当たったよ。
別に私が優れてるわけでなく、誰でも予想できたことなんだけどな。

>>22
未だに手計算の最大値を書いてるなんて、無意味だね〜。
実測値を出しなさい。
(どうせ1%未満なんだからさ!)
世田谷の調査では「無症状」の陽性者の実に三分の一が、ct値25以下の容易に感染させうるウィルス量だったぞ。
ct値がどうこうって意味ないわ。
無症状の感染者を見つける方が重要。

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c35

コメント [政治・選挙・NHK282] <騒いでいるのは菅首相とTV局だけ>空疎に響く「金メダル!」の絶叫(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
50. 命を大切に思う者[5017] lr2C8JHlkNiCyY52gqSO0g 2021年7月27日 19:20:49 : t0qS9LyiJQ : bG5IakFGV0ZOZS4=[9]
ランキング上位の選手の多くがコロナ陽性で出場禁止にされ、
そこまで行かなくても、コロナの影響の大小で練習環境にも大きな不公平が起きている。
まるで、スポーツを競うのではなく、コロナの影響をどれほど上手く回避したかを競う大会なっている。
こんな公正さの欠片もない大会なんか、誰も興味を持たないよ。

そういうことがなくても、
今は世界はネットで繋がってて、各種目の団体が独自に行う大会も、大部分が見れるし(生中継は無理でも録画のダイジェストはかなりの確率で見れる)、
e スポーツでは、世界大会がかなりの頻度で行われていて、当然すべてネットで公開されるから好きなだけ見れるし、
娯楽は山ほどある。
今どき、五輪をありがたかって見る人なんて、ほとんど居ないよ。五輪もその他多数の中の1つでしかない。
五輪自体がすでにそうなのに、そこに公正さの欠片もない状況が襲った。公正でない勝負の結果を見て感動できるか? 

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/241.html#c50
コメント [政治・選挙・NHK282] <これはヤバすぎる!>速報 東京都 新たに2848人の感染確認 過去最多  赤かぶ
36. 2021年7月27日 19:23:17 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3990]
台湾は、ワクチン進んでいないのに、
再び、政府の努力で、感染者数、ゼロに。

韓国も同様に、落ち着きのある国、

日本はゼロ円の隈研吾の競技場で、
感染者を拡大、培養に、日夜励んで、

金メダルの金魚すくいに、夢中です。

    

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/248.html#c36

記事 [番外地9] 〈関東大震災から80年〉 chousen 人女性への残虐な性的虐待
〈関東大震災から80年〉 chousen 人女性への残虐な性的虐待
荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。

 「22、3人のchousen 人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。
西岸から連れてきたchousen 人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。

1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。

それからひどくなった。

四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。

なかには女もいた。


女は……ひどい。

話にならない。

真っ裸にしてね。いたずらをしていた」

(関東大震災時に虐殺されたchousen 人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ)


 これはchousen 人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。

これは例外的な事件ではない。

女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。


 東京府南葛飾郡でのchousen 人女性に対する虐待、虐殺事件

 湊七良、亀戸五の橋でchousen 人女性のむごたらしい惨死体を見た。

「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいのchousen 婦人で、性器から竹槍を刺している。

しかも妊婦である。

正視することができず、サッサと帰ってきた」

と回想した。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ)


 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちがchousen 人や日本人労働者たちを虐殺した。

この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺されたchousen 人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。

その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。

赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」

(崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ)


 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数のchousen 人惨殺死体を見た。


「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。


その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。

なんという残酷さ、

あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」

(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ)


 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で

「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」

ことを記した。

(関東大震災五十周年chousen 人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災とchousen 人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ)


 chousen 人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味


 上記のようなchousen 人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。

このような日本人の行動は、chousen 人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。

それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。


 chousen 人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。

その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。

吉野作造は、千葉で行われたchousen 人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。

(「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ)
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/648.html

コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪開会式やはりブーイング噴出、パクリ批判まで…米国でも視聴率最低で閉会式は大丈夫?(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
32. 2021年7月27日 19:27:20 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3991]
冬のソウルオリンピックや

アルベールビルは素晴らしかったな。

日本は破壊した文化の国だったな。


http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/237.html#c32

コメント [政治・選挙・NHK282] 五輪開会式やはりブーイング噴出、パクリ批判まで…米国でも視聴率最低で閉会式は大丈夫?(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
33. 2021年7月27日 19:32:02 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3992]
>>29

森喜朗さんありがとうは、

自民系のやらせだよ。こっちは「森喜朗、差別発言ありがとう」だけど。

まさか、ゾンビのように、再び立ち上がるとはね。

  
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/237.html#c33

コメント [政治・選挙・NHK282] 「ルールを守って下さい!」更問いする澤田記者にキレる菅総理(まるこ姫の独り言) 赤かぶ
30. 命を大切に思う者[5018] lr2C8JHlkNiCyY52gqSO0g 2021年7月27日 19:33:02 : FpZKeaOkZA : eHpPaGw5ZHpoY2M=[20]
すべて、菅らに命令された警察官達による暴行と殺人が原因。
警察官達が、命令して来た菅らの方を背任罪で拘束して裁判にかけて刑務所に入れてくれれば、世の中は正しく動くのです。
実際に銃で撃ち殺す力を持ってる人間(警察官達)が、誰に付くかだけで決まるんだよ。
社会科の教師よ、子供達に本当のことを教えろ!

警察官達が正しい行動をしていれば、今の官僚や自民党の連中はとっくに刑務所に入っている筈です。
実際に銃で撃ち殺す力を持ってる警察官達がその連中と共謀してるから、様々な暴挙が通用するのです。 

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/242.html#c30
コメント [カルト33] 米保健局内部告発者・発表の四倍の四万五千人ワク死亡、インデ・それどころか数十万人の感触。日本も一万人から十万人ワク死亡… ポスト米英時代
14. 2021年7月27日 19:33:13 : vvj9gGuyUQ : eWFTTFBtNUh5Ylk=[2]
>7
お仕事ご苦労さんだね。
陰謀論ってのは仕掛人側が発するもので、百戦練磨のネット民はみな分かってるし、
そろそろ死語になりつつあるかもね。コメント諸氏の中には分かる者だけが解る
言葉が隠れているから面白いんだね。
もはや背乗り政府機関が公表する数値に信ぴょう性があると思うか?

http://www.asyura2.com/21/cult33/msg/468.html#c14
コメント [医療崩壊7] コロナワクチンが危険な理由  (分子生物学者・免疫学者 荒川央)  魑魅魍魎男
39. 命を大切に思う者[5019] lr2C8JHlkNiCyY52gqSO0g 2021年7月27日 19:37:23 : KBiVi4b6Kw : UTZYVEFwWUYxLzY=[20]
そういう細かい話を広めようとしても、国民のほとんどは判断できないしょうから、ここはシンプルに、
「接種して3〜5年後に多数が死ぬ事態にならないかの確認は、
5年くらい実験してみない限りわからないのに、
 それをやっていない。今の接種が実験」
と広めた方が効果があると思います。 

http://www.asyura2.com/21/iryo7/msg/123.html#c39
コメント [政治・選挙・NHK282] 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
16. 2021年7月27日 19:37:39 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[4897]
ネーザルハイフロー……鼻チューブ?
鼻チューブでいいんじゃね?

>>12
何度も同様のことを書いてきてるが、新型コロナの基準を緩和すると報告がおろそかになり、クラスターの追跡も甘くなって感染が急拡大するだろう。
感染が拡大すれば一定割合で出る重症者・死者も急拡大だ。
インフル以下の死者?
ふざけるな。
今年インフルは流行したか?
してないだろ。
インフルなんかマスクと手洗いだけで感染を防げる程度のものなんだよ!
ボケたこと書くな!!

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/246.html#c16

コメント [政治・選挙・NHK282] また五輪特例…「無症状選手は最短7日で競技復帰OK」に非難ゴウゴウ(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
11. 命を大切に思う者[5020] lr2C8JHlkNiCyY52gqSO0g 2021年7月27日 19:38:54 : KBiVi4b6Kw : UTZYVEFwWUYxLzY=[21]
> 無症状選手は最短7日で競技復帰OK

どんどん、出鱈目になって行くなあ。
不可能なことを権力でごり押しすると、そうなるんだろうなあ。 

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/249.html#c11
コメント [カルト33] ネトゲ・共和党の宗教的反ワクには困ったものだ、だが接種報告は絶対嫌だ。生への執着の強い彼の迷いはリトマス試験紙である。 ポスト米英時代
6. 2021年7月27日 19:39:03 : pbTvaugmWV : OWNoZ3BELjV6eE0=[115]
ネトゲが本音書いてて草
だったら他人に打て打て言うなw


>ワクチンワクチンて、ワクチンが普及すれば全てが解決する、と信じている今は、あとになってみりゃ、「あの頃はシアワセだった、未来に希望があった」という事になる。ワクチンではその場しのぎにもならない。
http://www.asyura2.com/21/cult33/msg/470.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK282] <騒いでいるのは菅首相とTV局だけ>空疎に響く「金メダル!」の絶叫(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
51. 2021年7月27日 19:42:05 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3993]
普段もくだらないので、五輪のスポーツで
くだらないのは同じ。

スポンサーに切り替わると、ミュートにするので、
いつも静か。

その日のニュースや、台風、気象報道だけ見るようにできる。
いつもテレビはくだらない。

受信料も、20年払ってない。

    



http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/241.html#c51

コメント [近代史5] 100人に1人はサイコパス。私たちは人生のどこかで必ずサイコパスと出会う 中川隆
10. 2021年7月27日 19:42:52 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[17]
【ゆっくり解説】シリアルキラーに見られるサイコパス的特徴10選
2021/07/27



http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/431.html#c10
コメント [近代史4] 100人に1人はサイコパス。私たちは人生のどこかで必ずサイコパスと出会う 中川隆
6. 中川隆[-16007] koaQ7Jey 2021年7月27日 19:43:26 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[18]
【ゆっくり解説】シリアルキラーに見られるサイコパス的特徴10選
2021/07/27



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1003.html#c6
コメント [政治・選挙・NHK282] 「俺は総理になる」パワハラ大失言の西村康稔大臣の野心と限界 秀才中の秀才がつまずいた、残念すぎる「人との付き合い方」(… 赤かぶ
9. 命を大切に思う者[5021] lr2C8JHlkNiCyY52gqSO0g 2021年7月27日 19:43:31 : KBiVi4b6Kw : UTZYVEFwWUYxLzY=[22]
まあ西村はヤバイ失言もしたから、自民党は西村を総理にはしないと思いますが、
そもそも、自民党が取ることを私達は許してはならないから、

自民党が誰を総理にしようとしてるかなどゴミ屑です。

「政権を取るのは自民党に決まってて、問題は自民党の中の誰が総理になるかだ」とミスリードする記事は、やめてほしい。

何がなんでも自民党全体を排除! それができない限り日本は滅びる。 

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/247.html#c9
コメント [近代史4] 生まれつき恐怖を感じたことがない人間が世の中にいる 中川隆
4. 中川隆[-16006] koaQ7Jey 2021年7月27日 19:43:52 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[19]
【ゆっくり解説】シリアルキラーに見られるサイコパス的特徴10選
2021/07/27



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1136.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK282] <騒いでいるのは菅首相とTV局だけ>空疎に響く「金メダル!」の絶叫(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
52. 2021年7月27日 19:44:04 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[4898]
>>46
医者には行きませんけど、同感です。
報道されるべきニュースすら五輪に消されます。
(それが奴らの常套手段(スピン)でもあるってのがムカツク〜!)

http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/241.html#c52
コメント [政治・選挙・NHK282] <9ポイント急落!>菅内閣の支持率34% 政権発足以来最低=日経、テレ東調査(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
38. panbet37[3929] gpCCgYKOgoKChYKUglKCVg 2021年7月27日 19:44:14 : 6J7XudsF6g : SWhiVG1scjVucXc=[1619]
そりゃそうだよね。いくら自民党命の人でも、自分や家族、友達が殺されてまで、狂人菅義偉を応援しないだろう。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/240.html#c38
コメント [政治・選挙・NHK282] 東京都コロナ重症者数“横ばい”発表はミスリード 病床使用率56%と逼迫、隠れ重症者も急増(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
17. 2021年7月27日 19:45:01 : Gotth5c1qc : THZxRThVcmtFYWs=[3994]
パラリンピックは、有観客で、とほざいていた、スガ政府は、

どこへ行った?

   
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/246.html#c17

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