桜井均講演「メディアの臨界・世界史の現場に立ち会う」

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投稿者   日時 2001 年 11 月 24 日 17:50:44:

以下は、中国滞在中のジャーナリストから送られてきた、講演記録である。非常に重要な内容なので、そのまま掲載する(2001.11.22)

加藤哲郎様

 お元気ですか。先日はサイードらの声明文お送りいただき、ありがとうございます。

 さっそく広めています。日本でもさまざまな言論による運動、大いに広げるべきですね。当地北京の<読書>という知識人むけの雑誌でも、巨大な軍事力の発動・無制限殺戮に対してインターネットを通した世界的な批判の言論が史上最大規模で起こっていると紹介しています。

 さて、以下に転送しますのは、私が懇意にしているNHKのプロデューサー桜井均さんという方の講演記録です。桜井氏は、<埋もれた薬害エイズ>や<イスラム潮流>、<加藤周一 わたしにとっての20世紀>など多方面にわたり力作ドキュメントを制作している当代もっともすぐれたプロデューサーの一人です。
 
 なお、12月1日夜、NHKの衛星ハイビジョンで、以下の番組が放映されます。講演記録とあわせてネットワークでご紹介いただければ幸いです。
 
 <なぜアメリカか?なぜアフガニスタンか? 同時多発事件の真相を探る>
 
 出演 西谷修、臼井 陽(民族博物館 イスラエル・パレスチナ研究>、

    酒井啓子(アジア経済研究所 中東研究>

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桜井均講演「メディアの臨界・世界史の現場に立ち会う」

 

立命館大学にて 2001・10・3

 

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 NHKの桜井と申します。私は30年以上ドキュメンタリーをつくってきました。いまはNHKスペシャルを担当しています。
 講演の題目を「メディアの臨界・世界史の現場に立ち会う」と決めた時には、アメリカで同時多発テロが起こることはまったく予想もしていませんでした。この題目はもちろん西谷修さんの『世界史の臨界』という本の題名をもじったものです。
 当初の予定では、映像のデジタル化や伝送技術の革新が猛スピードで進むなか、「現実」と「事実上の現実」(バーチャル・リアリティ)の境界がますますなくなっていき、そうした環境のもとで、メディアが自制能力を失い、《無意味なもの》のオーバーフローを起こしつつあるのではないか。つまりメディアが臨界をむかえつつあるなかで、私たちがこれまでやってきたリアリズムに基づくドキュメンタリーは果して有効なのか、という問いを自らに課してお話をする予定でした。そうした深刻な問いを自らに突きつけてもなお、現場の記録が大事なのだ、しかも、それ自体が臨界に達しつつある世界史の現場に三脚を立てることが必要なのだ、という意味で「世界史の現場に立ち合う」とタイトルをつけていたのです。
 3週間前(9月11日)に例の世界貿易センタービルの爆破テロがありました。メディアは一気に臨界に達し、いまもそのショック状態の中にいます。それで、今日は、図らずもメディアの臨界状態に身を置きながら、同時にそこからの脱出口を探すという困難な課題にチャレンジしなければならなくなりました。
 あの日、なにげなくテレビのスイッチを入れると、高層ビルが燃えている映像が目に飛びこんできました。とっさに私は火事だと思いました。すると飛行機がニューヨークの世界貿易センタービルに衝突したというアナウンスが入ったのです。この段階でも私はまだ事故だと思っていました。ところが、その映像の中に、もう1機が突っ込んできた。一瞬、VTRのリプレイかと思ったら、じっさい2機目でした。
 あの時、じつは東京のアナウンサーのほうが、正確で早い情報に接していました。CNNやABCの映像は常時モニターができますので、事件が起こった日本時間午後9時40分くらいから東京は異変に気づいていました。「ニュース10」の開始は午後10時です。そのときアメリカは朝の9時。向こうのキャスターは寝ぼけ眼で、なにか事故だろうと思ってスタジオに入る。こちらは2機目が突っ込んだ段階でおかしい、事件だと思い始めている。彼我の奇妙なズレがしばらく続きました。
 それにしても、私にはあれがテロだとわかるまでに、そうとう時間がかかったような実感があります。キャスターは情報がほとんどないので、ただ時間を埋めるために同じことをリピートしています。情報の世界では、情報の断は時間の停止を意味します。おそらく世界中がバーチャルな感覚にとらえられた数十分間だったでしょう。その痺れたような感覚からすると、「同時多発テロ」だと分かるまでにずいぶん手間取ったように感じられました。ところが、あとになって聞くと、容疑者としてビンラディンとそれを支援するタリバンの名前が上がってくるのは、意外と早い段階、事件発生から2時間ほど後だったようです。あまりの衝撃に時間が止まっていたのでしょう。
 映像はどんどん海の向こうから送られてきます。解説はむしろ東京のほうが早いという逆転、、「世界同時性」の時代にふさわしい、まるで白昼夢のような事態が出来したのです。
 ご記憶の方もあるかと思いますが、日米の間に初めて衛星中継がつながった時、最初の映像がケネディー暗殺を知らせるニュースでした。非常に衝撃的でした。連合赤軍がたてこもった浅間山荘事件の同時生中継もそうでした。この同時性は、どんなにすぐれたドキュメンタリーも超えることはできません。衝撃的なことが同時的に展開していくと、私たちは激しく揺さぶられ一種のショック状態に陥ります。おそらく自分というものが二つあるように感じるからだと思います。一つは非常に臨場感がある。同時に見えますから、臨場する自分がいる。もう一つは全く離れている自分がいる。自分は物理的に情報の埒外にいる。本当のことがわかっていないのではないかという不安。すなわち「臨場感」と「埒外感」が同居している一種の分裂状態、ショック状態が続くわけです。
 今、ワシントンで毎日のように出てくる手嶋記者は以前一緒に番組をつくったことがありますが、彼も初めは政治的に当たり障りのない物言いを強いられていました。こんなときは、「ポリティカル・コレクトネス」=PCの言語を連ねるしかありません。専門家を呼んでみても、過去の蓄積でしかものを言いません。情報がないなかで語るのでどうしても憶測の域を出ない。つまり、この事件でメディアは、「情報の不在」と「過剰な映像」によって内外から挟撃され「臨界事故」を起こしていたのです。
 メディアの臨界状況は、今はじまったことではなく、こうしたことは以前から起こっていました。それが恒常化したのは最近になってからだと思います。
 フランスにポール・ヴィリリオという評論家がいます。彼は「電子テクノロジーによってグローバルネットワークが構築された世界は、距離が支配する《地勢学》では説明がつかない」と言い、《時勢学》という概念を持ち出しています。いうまでもなく距離=時間×速度です。現代は光の速さを獲得しましたから、速度は極大、時間はほぼゼロ。それで時間と距離をかけ合わせた距離も限りなくゼロです。「世界同時性」というのは、「距離の概念」が消滅してしまった状態ということになります。
 こういう《時勢学》的状況で、はたしてメディアは対象を的確にとらえることができるのでしょうか。はなはだ絶望的です。そもそもメディアという言葉は「仲介」という意味です。何かと何かの間にあって、ただ何かを映していればいい、ということになります。それならば、世界同時性に対応するには、世界中に監視カメラを置いておけばいい。簡単に言うと、テロにしてもコンビニ強盗にしても写っていればそれでいいというなら、コンビニの監視カメラで十分だということになります。これはメディアの危機です。
 以前にも、今と別の意味で私たちはメディアの危機を経験したことがあります。NHKがやったのですが、「やらせ事件」というのがありました。この時、「ドキュメンタリーから制作者の一切の作為を排除すべきだ。コンビニの監視カメラでいいじゃないか。ただ写っていればいい」という極論がありました。メディアは内側に向かって壊れたような気がしました。あれも一種の「臨界事故」だったのかもしれません。
 現在、アメリカは軍事偵察衛星で地球上のすべての場所を同時に監視するシステムを構築しつつあります。ところが、今回の同時多発テロは世界同時システムの真っ只中で起こりました。アメリカは軍事偵察衛星で宇宙から神のような目で一望千里、同時的に見ることができると豪語していた矢先です。すべてお見通しということで「open sky」という言葉を使っていました。この「open sky」という言葉は、ロッセリーニ監督の『無防備都市』(open city)をもじったものです。ニューヨーク、ワシントンがまさに「open city」 だったというわけです。
 ここで私は唐突にドキュメンタリーの話をしなければならないと思います。メディアはコンビニの監視カメラや偵察衛星でいいのでしょうか?
 ドキュメンタリーは、ある種の「介入」です。つまり「仲介」ではなく「介入」です。ないしは介入する能力や機能を持っている、と考えます。
 ドキュメンタリーの創始者の一人、イギリスのジョン・グリアスンという人が、今から7〜80年前にアメリカに行き、「社会が直面するいろいろな問題が大部分の市民には理解できないようなものになり、彼らの参加は形式的で冷淡で、無意味なものになって、そもそも存在しないこともしばしばであった」という感想をもらしています。今のアメリカでも同じことが言えそうです。グリアスンはそこで、「ドキュメンタリー映画作家は諸問題を意味のある形に劇化(ドラマタイズ)することによって市民を導き、この無味乾燥な荒野を抜けることを可能にするだろう」と言っています。ドキュメンタリーは無意味なものに意味を与えること、つまり介入によって、そこに意味の場をつくることができると、彼は言ったのです。
 ドキュメンタリーの古典的な定義は、「現実の創造的な劇化」です。現実をクリエイティブにドラマタイズする。フィクションではなく、現実に根ざして、その現実を劇化する。悪く言えば「作為」なんです。ドキュメンタリーはアクチュアルなものを記録して、ある時間の中に編集します。いろんな事象が伸縮して、意味の場を生み出すのです。ですからコンビニの監視カメラではドキュメンタリーはつくれない。ある種の「文体」とか「虚構性」がその中に積極的に入ってこなければならないのです。
 私たちはよく「録・釈・論」と言います。「録・釈・論」、「録・釈・論」と念仏のようにくりかえしながら取材を進めます。100の記録を撮って10の解釈をし、1つの結論に達する。人間は100も記録をしているとだんだん利口になります。事実は変わらなくても、見方が変わってきます。見方が変化すると、取材のし方も変わります。取材の方法に変化が生じて、やがてある認識に到達する。そういう認識に基づいて、もう一回、現実を見ると、現実を再構築(リコンストラクション)できます。ディコンストラクション(脱構築)と言えるかどうかはわかりませんが、ドキュメンタリーは現実を素材にし、当の現実に介入するアクティブな映像表現です。
 しかも、そのプロセスを見る人に明示しなければなりません。ですから、本来的に「やらせ」や「ウソ」は不可能です。たとえて言えば、幾何の証明問題を人前で解くようなものです。相手を説得しながら一歩一歩前へ進んでいく。「to prove」=証拠立てる、ないしは「to evidence」=証明する。これがドキュメンタリーに求められる倫理です。
 私はこうしたドキュメンタリーを心がけてきましたので、なにか衝撃的なことが同時的に目の前で起こっているときには、いつもこの事態をどうとらえるべきなのか、全神経を集中させて考えます。この事態にどういう表現を与えるかを考えます。
 いま目の前でくり広げられていることは、事件なのだから、少なくともテロリストはある意図をもってやったに違いない。それはしかし犯行声明がないので簡単に知ることはできない。この事態を当局は、どの段階でどのように認識したのか。認識の全体像は誰かの頭の中にあるが、その者が本当のことを言うとはとても思えない。しかし、それは確かにある。ドキュメンタリーは少し時間をかけてもこれを引きずり出さなければなりません。
 こういうことを、「メディアの臨界」状況のなかで開始しなければならないのです。人々の意識が事実の重みに耐えられず、理性を失い決壊すれば、それは止めどなく暴発するでしょう。
 こういう状況のなかで、どこから介入し、どこでせき止めるのか?今日は、事件から2週間後という危機的な状況下で、まさに「ドキュメンタリー的に」話を進めていきます。
 現在進行中の事柄にどこから介入していくか。今、アメリカで起こっていること、世界で起こっていることについて、毎日いろんな報道を見ていますと、大体どれも同じです。
 アメリカは「これはイスラム過激派の犯行である」と断定し、オサマ・ビンラディンとアフガンのタリバンの関係をとり沙汰し、ブッシュの決意表明を大々的に報じ、諸外国首脳がワシントン詣でをし、さて日本はどう貢献するかと議論し、そうしている間にもインド洋、ペルシャ湾にアメリカ軍のプレゼンスが始まり、やがてイスラマバードから報告が入る。タリバンも反論を開始し、アフガンの飢餓や難民の大量発生が報じられる。関心は、アメリカの出方に向かい、「いよいよ臨戦体制だ」とメディアが煽る。識者は「冬が来るとだめだろう。11月半ばからラマダンがある」などと少し知ったようなことを言ってお茶を濁す。この流れのどこに介入するのか。
 いま、各国首脳に「証拠は示された」と言わせていますが、そういう証拠は軍事機密ですから、あってないようなもの。「証拠を出せ」という言い方をするほうも、それが出てくるとは思っていない。第一、何をもって証拠とするのかという議論が全くなされない。「証拠」という言葉がいとも軽く使われているのは危ない限りです。まやかしの言説が飛び交い、戦時特有の「嘘の体系」ができあがりつつあります。
 湾岸戦争の時も全く同じでした。過剰な観測情報のなかに肝心な情報はほとんどありませんでした。結局、メディアは情報コントロールされていたことがわかりました。今度もおそらくそうだと思います。
 湾岸戦争の時、非常に奇妙なことが起こりました。アメリカ側は、流出した油にまみれる水鳥の映像をなんども画面に流しました。それに対してサダム・フセインのほうは空爆で乳児院が爆破されて子供が苦しんでいるという「古典的な」映像で対抗しようとした。常識的にはフセインが流した映像のほうが共感を呼ぶはずでした。ところが水鳥が油の中でもがく映像のほうがショッキングだったのです。子どもの死より水鳥のほうに皆の目が行った。なぜか。見なれた映像より、「生態系の破壊」という記号が人々の関心を引いたからです。ところが、水鳥の映像は、前後が欠落していて、いったいどこで撮影されたのかも怪しい映像だったのです。明らかにアメリカのメディア操作の勝利と言ってもいいでしょう。恐ろしいことに、戦争で子どもが死ぬのは当たり前という感性が私たちの中にインプリントされている。事の理非とは関係なく、今はそういうメディア状況にあるということです。

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