天野恵一,青春期の体験から「第三世界主義」を語る2

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投稿者 YM 日時 2001 年 12 月 03 日 22:05:41:

(回答先: 天野恵一,青春期の体験から「第三世界主義」を語る(『あの狼煙はいま』より) 投稿者 YM 日時 2001 年 12 月 03 日 22:04:22)

2、国境を越える連帯と民族解放運動の矛盾
ここでもう少し理論的に、第三世界の問題、特に第三世界主義的主張に出てきた一連の解放運動に対して共感できない部分、僕がよくわからないので留保した部分があるんですが、その部分について説明したいと思います。僕は最初に一八、九の頃に『国家と革命』というレーニンの本を読みまして、ショックを受けました。太田さんのように、どうして北海道にいてあんなに早熟なのかよくわかりませんが、僕は高校生の頃は運動なんて考えたことはまったくなくて、大学に入っても右も左も、共産党系と反共産党系の区別もよくわからないでウロウロしていたんです。ハリストなんかがあると興奮して泊まるというようなことはあったんですが、それは身体が動いているだけで頭はほとんど動いていないような人間でしたので、政治思想的に物心がついて、自分でいろんなことを区分けして考えたり、自分なりに自分の言葉で少しずつ考えだしたのは二十歳くらいだと思うんです。
ですから、十代の終わりの頃の読書は非常に曖昧模糊としたものなんですが、その中でも非常に鮮明に記憶している。特に私のように普通にきた人間にとって、なぜ『国家と革命』がショックだったかというと、日本とか日本人とかを主体として物事を考えなくていいという思想があるということにびっくりしたからです。国家とか国境を越えて民衆が連帯する、レーニンの場合は民衆というのはプロレタリアートとか農民ということですが、国家という枠組み、日本とか日本人を主語にしないで問題を立てるべきで、国境を超えた人間の関係を通して国家と対峙する。国家を主体とした近代の戦争を考えた場合、国家というのは戦争の単位ですから、反戦ということについては常にそういうことが内包されるわけです。レーニンのテーゼで言えば「帝国主義戦争を内乱へ」ですが、一般的に帝国主義戦争というだけではなくて、国境を超え、国家を超え、主体を日本人という意識ではなくて、民族的な国家を軸にして問題を考えるべきではない、そういうふうに考えている限りは戦争を止められないし、戦争に荷担する構造から抜け出せないというテーゼとして僕は読んだわけです。それは僕にとっては新鮮で驚くべきことでした。いままで考えたこともないような話を読んだわけです。
ただ、その十代のガキの読書の中でもちょっと信用できないなという部分がありました。例えば、僕は大学の学部の関係で多少法律、刑法を読んでいました。大学の教養の範囲を超えて個人的な趣味でも読んでいました。これも『国家と革命』だったと思いますが、レーニンが国家の死滅を論じるところで同時に犯罪の死滅を論じているところがあるんです。国家の死滅の論拠として、犯罪を経済的に位置づけていまして、貧困とか経済的な階級的支配が終われば犯罪も終わる。国家の死滅と犯罪の死滅を同時に論じているところがあって、それは僕はおかしいなと思ったんです。徹夜でノートを執るような時期が僕にもありまして、その頃書き込んだノートにあるんですが、犯罪というのは経済的な貧しさだけで発生するわけではないと思ったんです。例えば痴情怨恨で人を殺してしまったりするということが多いわけです。特に僕らの頃はすでに高度成長の入口に入っていましたから、あまり経済的な貧しさによる犯罪というのが実感としてピンとこないということがありました。犯罪と言えばむしろそういうことでない方が多いので、そういう複雑な人間関係の問題を、そんなに簡単に整理していいのだろうかと思いました。
ただ、この頃は青年期特有の事大主義と言うんでしょうか、大変に優れた世界的な革命家で、現代史を切り開いた偉大なロシア革命の偉大な指導者であるレーニンが間違っているわけはないので、どうも私が不勉強でものがよく理解できないのかなと思っていました。ただ、その疑問は後でずっと大きくなっていきました。
もう一つ、決定的にレーニンの政治主張に納得できなかったのは、プロレタリアート独裁という概念です。レーニンの場合、マルクス主義者とはプロレタリアート独裁を認めるかどうかと言っているわけですから、これで僕はキチンとしたマルクス主義者にはとてもなれないと思ったんです。例えば、テキストとしては『背教者カウツキー』という本に典型的に出ているんですが、プロレタリアート独裁とは何かということをレーニンはいろんな場所でいろんな概念規定をしていますが、最高に発達したブルジョア民主主義を超えた民主主義だとか言っているわけですが、そこでは、直接暴力に立脚する、あらゆる法律に拘束されない階級の権力だという言い方をしています。僕はそれを読んで非常に不安になるわけです。直接暴力に立脚して、何ら第三者的な拘束を受けない権力というのは、ただの王様の権力に過ぎない。近代の法律、市民法の罪形法定主義にもいろんな問題があるわけですが、基本的には、絶対王政のような制度で王が思いつきで例えばこいつは犯罪者だというようなことをチェックしなければならないという発想。
権力は必然的に腐敗する構造になるから、三権分立の形態をとって、法律的なチェックをする。罪形法定主義というのは、何が犯罪かを法律が決めてあって、それを公的にみんなが了解しているという建前です。だから権力が恣意的には犯罪者を作れないシステムをとりあえずは作るわけです。そういう発想というのは権力を腐敗させないための近代の知恵だったわけです。それは国家権力というものはもともと腐敗するものだという前提で考えているわけです。実際は、三権分立になっていないじゃないかということもありますし、建前的に権力の恣意的な意識が入らないようにというけれどいっぱい入っているじゃないかということもあります。けれども、基本的な志向の問題としてはそういうものが入らないようにしようという発想があった。権力というものは常に腐敗し、腐敗するに決まっている権力を民衆がどうチェックするかというルールを考える。さまざまな知恵が近代法の中にもある程度はあるんです。そういう発想がレーニンの中にはまったくない。それらをブルジョア民主主義という形で一貫して切ってしまう。その限りで民主主義嫌いというのはボリシェビキの中に一貫してあるわけです。そういう発想はおかしいというのがありました。それは犯罪の死滅を安直に言いきってしまうことと重なるわけです。ただ、その時の私よりレーニンの方があほなわけがないということが前提の疑問でしたが。
レーニンの国家論との関係で言えば、よくわからないのは、片方で近代の国家権力を破壊せよと言っているわけです。もう片方で民族自立という形で民族自決権の擁護という構造で、第三世界、「後進国ナショナリズム」、民族解放運動に関しては非常に肯定的な見方をプラグマチックにしているところがあります。どう考えても、後からきた民族解放運動は国家を形成するという要素を内包しているわけです。近代国家、主権国家を形成したいという運動なわけですから。片方で先進国、ロシアまで含めて近代国家を粉砕せよと主張しているレーニンと、近代国家形成という流れがベクトルとしてはどうしても入ってきている民族解放運動を全面的に肯定するレーニン。肯定するだけだったらいいんですが、民族解放運動が革命的プロレタリアートの運動と合流できるという言い方は、実際の問題としてできるかという以前に、論理の問題としても非常に不整合ですし、よくわからない。これも留保せざるをえませんでした。ある種の民族自決、国家形成の国家主義をプロレタリアート革命という抽象的な概念との合流点で全部正当化してしまうという発想に共感できなくて、よくわからなかった。
そのことがベトナムの民族解放運動に対して距離をとってしまった理由かも知れません。主権国家を形成していくような運動になっていくのだとしたら、その民族解放運動というのはどうなっていくんだろうと考え、それがそのまま世界的な変革にストレートにつながっていくような整理の仕方ではよくわからないし、論理的には納得できませんでした。そういうことが、僕の中で民族解放運動に対するある距離感を作ったんだと思います。
レーニンというのは、一つには国境、民族国家を超えた一つの民衆の団結、日本とか日本人とかいうものを主体としてものを語らない、民族国家を主体にして語らない方がいいというメッセージを伝えてくれた人であると同時に、論理的に混乱したある種の変な国家主義的な観念を持っている人という構造で読みました。そこがわかりませんでした。そこら辺で納得できなかったことが、状況的にはベトナム反戦や第三世界との関わりで言えば、第三世界の解放運動の前進にそれほど心が躍らなかった理由だったと思います。

3、「第三世界主義」の読まれ方
第三世界主義というふうに勝手に言ってきましたが、お手元に山崎カヲルさんの『批評精神』という雑誌に書いた古い論文(一九八三年)が渡っていると思います。「第三世界という言葉は一九五〇年前後におそらくフランスで作られたものであるが、それが日本で私たちの想像力をとらえたのは、一九六〇年代末、新左翼=全共闘運動の高揚期であった。一九六三年以来の日韓闘争、そしてベトナム侵略への反対運動の中で、当時まだ学生であった私を含め」云々というような文章があります。(3)
この中で、第三世界主義というのは、第三階級とか、第三という言葉はどういう語源から始まっているのか、どういうプラスのイメージを歴史的にくぐってきているのかを山崎さんがきれいに整理しています。そのほかに、文献をいくつか紹介していますが、僕自身の話との重なりで言いますと、太田竜さんの『世界革命』(三一新書)(4)の紹介があります。「第三世界主義の直観的把握者兼アジテーターとしての太田竜は」というふうに山崎さんはお書きになっていますが、そういう言い方はそれなりに適切だったと思います。栗原登一というペンネームで書いたこの『世界革命』という本は一九六七年の末に出ています。また、この前の加々美光行さんのお話の中で非常に丁寧に扱われたフランツ・ファノンの『地に呪われたる者』(みすず書房)(5)はこの時代大変に読まれた、実際にはそれほど読まれなかったかも知れないけれど大変に使われたわけです。クリーヴァーの『氷の上の魂』(合同出版)、いわゆるブラックパンサーの中心活動家になった人で、武藤一羊さんの翻訳で出ています。山崎さんの文章にはフランクとかアミンとか、経済・従属理論の経済分析の紹介が丁寧にありますが、これは省略します。フランクとかアミンが読まれるのは、日本の場合だと同時代的というより、ずっと後になってからで、時間的にはずれているわけです。
ここには上げられていませんが、多分当時よく読まれた本というのは、国内では松田政男さんの『テロルの回路』(三一書房)という本です。この辺を素材に、僕なりに考えてその時代がなんだったのかということと、いま考えてその時代が持っていた問題がどういうことなのか話を進めたいと思います。
もう一つ、小田実さんが編集している『現代革命の思想(筑摩書房)という本の中の「第三世界の革命」の巻に収められている「キューバにおける社会主義と人間」というゲバラの文章があります。六〇年代末から七〇年にかけてはゲバラTシャツを着ている人がいっぱいいたりして、ちょっとしたファッションとしてもものすごいナウい第三世界主義、という受け止められ方もありました。この文章も問題にしたい。
『テロルの回路』は当時、丁寧に読んで共感できなかったことを記憶しているんです。この時代に僕が不同意であったことをテキスト順にそって言いますと、太田竜の『世界革命』という本は、今回キチンと読み直してみて改めて思ったんですが、最初に言いましたレーニンがプロレタリアート独裁に向けたプロレタリアートの革命的闘争と民族解放運動との論理的・歴史構造的違いを無神経に飛び越える論理を造ったというのと重なります。彼は辺境革命という考え方で、ロシア革命もヨーロッパの辺境に起きた革命だと位置づけます。これが基本です。バランスを欠きますから悪口だけを言う気はなくて、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの具体的な運動の視点の開示や、近代ヨーロッパが、どのように侵略して、その侵略がどれだけ残虐だったかということを、近代全体を批判する視点から考えるべしというふうに提起したという意味では、いま読み直してみても優れた本で、この時代としては非常に先駆的な本であることは間違いないわけですが。僕はその良さをその時代に余り読み込める力量もなかったんですが、それだけではなくて大きくこの中で引っかかった問題がありました。
最初に言いました、民族と階級、いわゆる社会の底辺に追い込まれている民族や抑圧されている民族の運動が革命的プロレタリアートという言葉と簡単につながってしまう。世界革命戦争、革命戦争という主体は革命的プロレタリアートであり、被抑圧民族であるということが図式的に言われていて、それがプロレタリアート独裁に向かう巨大なエネルギーを、ある停滞的な局面はあるけれども、常に世界的・構造的にそのエネルギーを貯えているという図式です。そして、なぜ革命に向かって全面的に開花するはずの可能性が閉ざされてしまうかというと、常にスターリニストや社会民主主義者という裏切り者がいて、こいつらが革命を止めているという整理です。確かにドイツの社民党が権力に近づいたときにかつての「仲間」を大弾圧したとかいうことはいくつもあると思うんですが、単純なわりきりです。そういう裏切り史観と主要打撃論的な世界史の整理、革命戦争という問題の立て方が違和感があってよくわからなかったんですが、その観念性をいま読み直してみてものすごく感じます。辺境からの永久的世界革命という問題の立て方をしているわけですが、現実的に何をどうかいくぐっていくかということについては非常に観念的です。
もう一つ、この本の中には、有名なローザルクセンブルクのレーニン批判についてふれているところがあります。プロ独の問題で、それが党の独裁になっていく、個人の独裁になっていく構造に対するある種の西欧的デモクラシー的観点から批判したことに対して、まったくそういうレーニン批判は肯定的にはみていない。レーニンをこの時代極端なセクト主義者というふうに攻撃したトロツキーへの批判もあり、この点ではむしろレーニンの大擁護なわけです。クロンシュタットの反乱というのは、ある程度ロシア革命について文献的に当たろうと思えば六〇年代初めの人と違って、僕の時代はそれなりに翻訳が出ていた。トロツキーも翻訳が出ていました。クロンシュタットの反乱やマフノ運動についても、例えばポーリンの翻訳も出ていました。左翼エスエルについても少し時間がたつと読めるようになりました。いろんなエネルギーがあり、いろんな問題があってロシア革命があったということはそれなりに実感的にわかる時代なわけです。
クロンシュタットの場合は、ロシア革命に貢献した水兵たちが要求していることは、政治的な自由、ボルシェビキの独裁に対する反対なんです。表現の自由だとか、自由な批判だとか。それをトロツキーやレーニンが銃弾で粉砕する事態が、ロシア革命の流れの中で必然的に出てくるわけです。そのクロンシュタットの反乱を世界革命の蜂起の軍隊のために準備された運動に対する裏切りとしか太田竜は見ていない。武装蜂起を組織する世界革命の主体を実体的に作っていくことだけがすべてであって、その国に具体的に生きている民衆の自由や権利は彼には関係ないんです。そういう性格が典型的に出ているのは、一九二一年、戦時共産主義からネップにいったときが完全な裏切りで、戦時共産主義の方がよかった、というような主張なんですが、「一九二一年、都市は飢える。農村は食糧の強制徴発に反対する」、戦時共産主義下で農村にしか食糧がないわけですから、農村からもってくるということをボルシェビキ権力がやっていたわけですが、それに対して「どうして都市住民を組織的に農村に移動させないのだろうか。列車がなければ二本の足で歩けばいいではないか。どんな政策を執ろうとも、ブルジョアジー及び富農の台頭を許し、帝国主義に屈伏すべきではなかった」と言っているんですが、都市を放棄して農村に都市住民を強引に連れていけというのは、やはりカンボジアでポルポトのやったことを思い出します。国家を握った権力の意志で民衆を正しい蜂起の革命の方向に無理やりでも連れていけ、それが革命的なんだという発想があるわけです。人々の暮らしなんて、ギリギリのところではどうでもいいんですね。
第三世界主義的な発想というのは単純な前衛党主義ではないんです。この時代、僕たちもある程度のシンパシーを持ったというのは、たとえば、毛沢東の「鉄砲から革命が始まる」という話であれ、都市ゲリラの提言であれ、カストロやゲバラの読まれ方であれ、前衛党主義的な、実体としての党を作って、その党が労働者を組織して革命をやるんだという話ではなくて、むしろ自分たちでバンバンやれという話ですから、なんとなく前衛党主義的な発想ではないということで、そこがかなり受けたわけです。ところが、丁寧に読んでみると、本当はすさまじい前衛主義なんです。自分たちは最高の前衛なんです。そういう発想においては前衛党主義の人たちと変わらない。むしろそれを超えるような前衛主義的発想なんです。武装蜂起に向かって前衛的に頑張るということがすべてであって、それ以外ではない。それ以外全部切り捨てて当然であるという発想があります。『世界革命』を読んでいて、あらためてびっくりしたんですが、この段階で太田竜が考えているのは、世界社会主義共和国みたいなもので、一つの世界政府なんです。ものすごい強力な権力を持った大きな一個の国家を作るということに近い発想で問題が立てられています。ある種の巨大な国家主義なんです。それに向けて前衛的に頑張る、武装蜂起をそこら中に組織するというロジックになっています。世界革命を形成する権力の蜂起の前衛主義がものすごくあって、強大な国家主義みたいなものがあると思います。いま論理的に整理するとそう批判できるというに過ぎないわけですが、当時多少とも太田竜の主張を読んだりしたときの違和感はそういうことにも根拠があるのではないかと思いました。第三世界主義のある種の前衛蜂起主義みたいな発想は、今、どう相対化すべきかということは当然考えるべきことですし、本当は当時から問題だったと思います。
もう一つ紹介しますが、僕はゲバラという人も本当に好きになれなかったんです。先ほどの「キューバにおける社会主義と人間」という文章です。「前衛としてのわが革命家は人民に対する愛、最も神聖な目的に対する愛を理想とし、それを唯一、不可分のものにしなければならない。彼らは普通の人間がささやかな日常の愛を示している場所へ、そんな愛を持って降りていくわけにはいかない」。「党内で革命のイデオロギー的原動力である革命家は、建設が世界的規模で実現されない限り、死ぬことしか考えず、不断の活動にすべてをささげつくすのである」。
革命という大義への献身、滅私奉公のイデオロギーがものすごいわけです。「われわれは前途に犠牲が控えているということと、国をあげて前衛になるという英雄的行為のためには、代価を支払わねばならぬことを知っている。われわれ指導者はアメリカの先頭に立っている人民を指導しているという権利を持つためには、代価を支払わねばならぬことを知っている」。「道を切り開くのは前衛グループ、すぐれた者たちの中でももっともすぐれた者、つまり党である」。この文章の終わりが「祖国か死か」なんです。
この発想、スタンスが、ある種の軍事的な闘争をやらねばならないところで書かれている文章ですから、とやかく言ってもしょうがない部分というのはあると思うんですが、でも、革命という大義への滅私奉公、それが祖国という概念と結びついていくような発想というは、僕の『国家と革命』のレーニンの国境を超える発想に感動した気持とは、やはり触れ合いませんでした。滅私奉公的な第三世界主義型の発想にはついていけないという感じがしました。それと同時に、これはものすごい前衛主義です。読み直してみてあらためて思いました。


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