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Re: カネ余りの不思議 〔普通の人の経済学より〕 投稿者 PBS 日時 2002 年 4 月 22 日 22:55:07:

(回答先: Re: 「インフレターゲット論」批判は重要だが全体としてはほとんど無意味な主張 投稿者 あっしら 日時 2002 年 4 月 22 日 20:08:29)

>「貨幣面以外の手段で行うべきだ」というより、「デフレ不況」対策は、貨幣的手段だけで行えるものではない。
>それは、日銀の超金融緩和策=貨幣供給量の増大が、27兆円もの日銀当座預金残高をもたらしただけで、実体経済の貨幣流通量拡>大にはつながらなかったことでわかる。


まずは手始めとして、お金は本当に”余っている”のだろうか。そこから検証して行くことにしよう。

市中に出回っているお金の量を調べてみよう。お金というとお札(紙幣)やコイン(硬貨)といった現金を思い浮かべるが、世の中にはお金と類似した役割を持つものもたくさんある。例えば小切手や手形は当座預金を見合いに渡す借金の証文だが、これらは現金の代わりに流通させることもでき、社会一般での決済手段として定着している。そこで経済学では、市中に出回る紙幣や硬貨に加えて、短期間に取り崩して決済にも使えるような預金も含めて通貨供給量とみなすことが多い。例えば、日本で最も代表的な通貨の指標はM2+CD(現金・預金に譲渡性預金を加えたもの)である。この推移を見てみよう。

最近の発表では、M2+CDは年率で2%近くの伸び率を保っている。数年前までは3-4%の伸び率があったので、それよりは低下したことになるが、GDP(国内総生産)で見た経済の名目成長率が殆どゼロであることと比較すると、貨幣の量の増加率は際立っている。最近の日本経済の停滞は俗に「失われた90年代」等とも言われており、名目成長率もマイナスに落ち込むことがあった。しかし、その間もM2+CDは年率で3‐4%の一貫した成長を続けていたのである。これはつまり、お金で買える物やサービスの量よりも世の中にあるお金の量の方が増え方が大きかったということである。だから、放っておくと、手元(あるいは預金通帳)にはお金が溜まって行くことになる。

この理由の一部には、統計に含まれないが預金に類似したような投信等とM2+CDの間の動きとか幾つかの統計上の技術的な原因もあっただろうし、また、一時期は金融システム不安の中で、とにかく手持ちの現金を厚めに保有したいという、いわゆる「タンス預金」が増加したりということもあったが、この不景気の下でもこれだけお金が増加した最大の理由は、何と言っても日銀の金融緩和政策である。日銀は景気刺激のために金利を低めに誘導するため、また、金融システム不安で生じた資金の滞りを解消するために、市中金融機関に大量の資金を供給した。特に99年以降の「ゼロ金利政策」では、単に金利をゼロまで低下させるための資金量では飽き足らず、「もうこれ以上は資金は要らない」と言っている金融市場に更に強引に資金を供給したのである。

エコノミストの中には、日銀の金融緩和が不充分だとして、さらに市中に大量の貨幣を供給する、いわゆる「量的緩和」に踏み込むべきだとする議論がある。しかし、実は日銀としては既に量的にも十分過ぎるだけの資金を供給していたのである。これら量的緩和論者と日銀の差は、意外と小さいのだ。日銀の「ゼロ金利政策」にとっては操作目標(最終目標に至るために直接監視できる指標)はあくまでも金利であって、金利がゼロに張り付くようにたっぷりと資金を供給するが、その資金の量には特に目標はないし、その後生じるインフレ率がどの程度になるかは自然に任せている。それに対して量的緩和論者の場合、操作目標は金利ではなくて供給する資金量そのものであり、明確にどのくらいの資金量を増やすかを決め、またその結果としてのインフレ率にも目標を定めようというものであった。最終的な絵姿には若干違いがあったが、少なくとも過去の金融政策に較べたら異例とも言うべき大量の資金を供給していたことにおいてはあまり変わりはなかったのである。

その結果、金融機関が資金を融通し合うコール市場では金利が実質ゼロに張り付き、しかもそれでもなお日銀から資金が供給されるので、誰も引き取り手のない資金が仲介の短資会社に溜まってしまうという珍現象が発生することになった。確かにこの政策は、金融システム危機においてはそれ相応の効果を発揮したと言える。一時期は信用不安で資金を市場から調達することにも苦労していた金融機関も、その経営状態のいかんにかかわらずに安定的に、しかも殆どゼロ・コストで資金を確保できることになった。そこで、各金融機関は個人から高い金利の預金でお金を無理に預かる必要もなくなり、預金金利も含めて市中の短期金利は殆どゼロにまで低下したのであった。

金利がゼロにまで低下したのは、資金需要を大きく上回る資金供給があって、誰も金利を払ってまで資金を欲しいと思わないという状況を作り出した日銀の金融政策の結果である。日銀は意図的に資金を余らせたのであり、通貨供給量という面から見ると、確かに”お金は余っている”と言えそうである。


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もっとも、お金の量がたくさんあったとしても、それ以上にお金を使いたいという需要があれば”余っている”とは言えないだろう。今の時代に”カネ余り”が生じているのは、お金の需要がないからに違いない。

このことについては今更説明を加えることもないだろう。不景気で倒産する企業が続出、明日の職がなくなるかもしれないような状態が継続したために、人々は将来への不安を募らせ、購買意欲が薄れてしまったのだ。物欲やサービス消費に対する欲望がなくなった訳ではないが、そこそこ豊かな生活を送っており、何も慌てて今消費してしまうような焦りはない。むしろ、デフレ経済では待てば待つほど物の値段は下がってくるのだから、不要不急なものはなるべく後倒しして買う方がいい。個人にとっては、お金を今使ってしまうよりは、将来のために節約して貯めることが重要となったのである。個人はもともと住宅ローン等を除けば借金も少なく、全体では貯蓄超過、つまり資金が余っているセクターであり、金融機関を介して企業や政府に資金を提供する立場にあった。しかし、近年、この資金余剰の傾向はますます強まっている。99年度では、個人は35兆円もの資金を余らせている。

お金に対する需要がないのは企業も同様である。金融システム危機で貸し渋りが深刻化した時期には、今日明日の運転資金が手当てできなくなる恐れがあったので、企業は高い金利でもお金を借りて資金を確保しておこうとした。しかしながら、その後公的資金投入やゼロ金利政策等で金融システムが安定化に向かったため、その万が一に備えた資金は不要になってきている。企業は元来、資金が不足気味のセクターであり、投資をするために先行して借り入れをして資金を準備するのが常であった。しかし、これだけ先行きが不透明になってくると、投資金額は小規模になって必要な金額も減少することになった。今では、既存の事業から生み出される収益と過去に行なった投資の減価償却の分だけで新規の投資資金を賄うことが可能なほどに投資は減少してしまった。企業はむしろおつりがくるような状態になり、今では個人と同様に資金余剰のセクターに変わってしまった。企業は今、過去の高い金利の借金を返済し、逆に預金が増加する方向になってしまったのである。99年度に企業は20兆円以上の資金余剰を計上した。

今の日本では、借金してまでお金を使おうという意思を持っているのは政府部門だけである。政府は景気対策として大盤振る舞いで公共投資をやり続けてきた。その資金は国債発行を通じて市中から資金を吸い上げたものである。今では国債等の政府の債務残高はGDPと同じ規模にまで膨らもうとしており、99年度だけでも中央と地方を合わせて50兆円もの資金を吸い上げたことになっている。これだけ債務残高が積みあがると、過去の債務の金利負担だけでもまた新たに借金が必要になってしまう。いわゆる”雪だるま式”に借金が増加するような危険な状態である。何にしても、景気がまだ本格的に回復したとは言えない現状、公共投資がすぐに縮小されることは考えにくく、また利払い負担は着実に増加すると思われることから、政府の資金不足状態は早々に解消されることはないし、むしろ不足の度合いが高まる恐れさえある。政府が巨大な資金不足セクターであることは変わらないと見られる。

通常これほど債務が膨らんでくると、返済できなくなる恐れが高まることになる。これが普通の民間企業であれば、借金が多くなると倒産の可能性が高まることから、資金の貸し手は慎重になって資金を貸さなくなるものが。あるいは、そうでなくとも貸し倒れたときにも損にならないようにと、倒産のリスクを反映した分だけ金利を高くして貸し付けるのが金融の常識だ。しかし、今のところはまだ政府に対する貸し渋りの動きは見られていない。この理由として、政府の場合には最後の最後には増税して国民から資金を吸い上げるという強制力を持っていることも挙げられる。しかし、それでも一国の中にそれだけの資金の蓄えがなければこうは上手くいかない。例えば、資金不足の途上国は外国から資金を借り入れなければならないが、もしも債務が増大してしまったら、外国人は資金を貸したがらなくなり、いくら政府といえども、国民からの税金だけではどうにもできなくなって破産してしまうことになる。こうした危機は、実際に中南米やその他の発展途上国では時折発生している。

幸いにも日本には、政府の資金不足を賄っておつりがくるだけの資金余剰が個人や民間企業には存在している。一国を全体として見たときには、やっぱり日本には”お金が余っている”のだ。無論、一部の国内資金はこんな日本に嫌気して、海外に運用の場を求めて流出しているようだが、大半の資金はまだ国内に残っている。あるいは、むしろ日本人は、国内よりもリスクが高いと見られがちな海外に投資する体力を失ってしまったので、海外で使っていた資金を国内に戻す動きさえ見られている。結果として日本には政府の債務を支えるのに十分な資金が残ることになった。だからこそ、これだけの政府債務でも、外国資金の日本からの逃避も極端な金利の上昇もなく、平穏無事に済んでいるのだ。もしも仮に、今後日本経済の回復基調が確かなものになって、民間企業の投資が活発化したり、個人の消費行動が強まったり、あるいは、海外の方に有望な投資機会が見つかって資金が海外に流出したりすれば、その時には政府と資金を奪い合わなければならなくなるかもしれない。つまり、資金需要の面からみた現在の”カネ余り”が解消に向かうということである。だが、今のところはまだそうした見込みは立っていない。少なくとも当面は、こんなに経済状態が悪くても、日本全体では”カネ余り”が維持され続けるであろう。


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さて、今までの話は毎年の資金の流れ、つまりフローの話であった。そこでは、どうやらやっぱり”お金は余っている“らしいことがわかった。だが、毎年の資金が少しばかり余ったからと言って、それですぐに”お金に余裕がある”ことにはならないのではないだろうか。例えば、既に多額の住宅ローンを借りてしまっている人は、今年の消費を抑えて少しばかり借金を返済(経済学では消費ではない部分は「貯蓄」とみなすので、ローン返済も「貯蓄」である)をしたところで、”お金が余っている”というような感想は抱かないはずだ。つまり、資産や負債の残高(ストック)が問題かもしれない。言い換えれば、「”カネ余り”は“お金持ち“とイコールなのだろうか」ということだ。

と疑問を呈してはみても、数字を見る限り、資産の面から見ても日本人はお金持ちである。例えば、個人の資産を見てみると、金融資産は1300兆円とも言われ、負債の部分を除いても差し引き約1000兆円もの金融資産残高があることになっている。これは、単純に一人あたりで計算すると800万円近くの金融資産を持っていることになる。しかも、これはあくまでも金融資産に限った話なので、土地とか、その他の資産を含めると、この金額は更に大きくなる。

一方、年間の資金フローでは資金余剰セクターであった民間企業も、金融資産・負債の残高面で言うと多額の負債(資本金を含む)を抱えるセクターである。ここでは土地とか、機械・設備等の実物資産は反映していないので、それらを含めた最終的な負債の額がどのくらいになるのかは正確にはよくわからないが、金融資産だけで言えば600兆円近く借金の方が多い。また、先でも述べたように、政府はフローだけでなくストックの面でもGDPの規模にも迫ろうという巨大な債務残高を抱えるセクターである。その債務残高は400兆円に迫っている。しかし、それでもなお、細かなセクターも加えて一国全体で見ればやっぱり純債権国であって、海外に対して90兆円に近い金融債権を保有しているのであるから、裕福な国家であると言えるだろう。

もちろん、昨今の状況を見ると、全ての日本人が資産家という訳ではなく、こうした資産はかなり偏在しているようだ。個人金融資産にしても、働き盛りの30‐40歳台では住宅ローンなどの負債が多く、高齢者になる程金融資産の蓄えが多くなる傾向が見られる。また、米国ほどではないとはいえ、あるいは、バブル期の土地長者が続出した頃に較べれば改善されたとはいえ、資産家層とそうでない層との差もできてきているようだ。世間でいくら”カネ余り”と言われても、実感できない人も多いことだろう。

だが、”カネ余り”を実感できないのには、もうひとつ理由がありそうだ。

お金が本当に”余っている”ならば、買いたいものがない訳ではないので、私達は遠慮なく使うはずだ。もちろん、中には子供や孫のために美田を残したいと思って、コツコツと貯めてきた人もいるかもしれない。しかし、それでもお金はいつか使われてこそ意味のあるものである。お金をしまっておいても、単に紙切れであったり、あるいは通帳の上に書かれた文字でしかない。お金の価値は、それを使ったときに初めて感じられるものなのである。それなのに私達が使わずに貯め続けているのは、将来の蓄えとして不充分だと感じているからに他ならない。例えば、あなたのお金は”余っている”だろうか。普通の人の手元には確かに幾ばくかのお金があるだろうし、年金や保険も含めた金融資産はある程度積みあがっているに違いない。しかし、それは子供が成人するまでの教育費であったり、住宅建設資金であったり、あるいは老後の生活費であったりして、今年使うべきものではないのだ。将来のことまで考えると、今持っている資金はとても余っているどころではない。仮に一人当たり800万円の金融資産を持っていたとしても、私達は“お金が足りている“とは思っていないのだ。

国家財政が破綻しかけており、将来には増税も予想される。国民年金は破綻することが目に見えており、民間の厚生年金等も十分な給付が得られるとは思えない。その一方で寿命が長くなったのが良かったのか悪かったのか、定年後に必要な生活費は増加することになるし、医療費も年々確実に増加している。それでも職場が安泰ならば、これからまたコツコツと貯めていけばいいのかもしれないし、定年後にも職があれば、また生活も楽になるだろう。しかし、デフレ状況の継続は、そうした将来の雇用にも不安を投げかけている。いや、場合によっては明日にも職を失うこともあるかもしれないのだ。一説によれば、定年時に必要な老後資金は3千万円とも5千万円とも言われている。そこから考えれば、今の金融資産残高の800万円は全く不充分でしかないということである。


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さてさて、どうやら私達は”実感なきカネ余り”の時代に生きているらしい。物的なというか、金額の上でのお金は確かに世の中にだぶついている。しかし、そのお金は将来に残さねばならないものであり、今すぐに使ってしまう訳にはいかない代物なのだ。景気が上向けば、そうは言っても将来にもう一度お金を稼ぐ機会が得られるかもしれないが、現在の景況はそれ程楽観できない。であれば、何も今使う気にはならないというものだ。

そうすると、”余った”お金はいったい誰が使うのだろうか。誰かが使わなければお金は何の役にも立たない。お金は使わなければ価値がないのだ。お金をお金のままに置いておいても、何も生み出してはくれない。預金に利子がつくのは、そのお金を使って何か投資をして、その結果として今までよりも多い何かが生み出されているからこそだ。どこにも投資されないお金からは何も生まれず、それゆえ、預金の利子さえもつかないのだ。例えば、お金ではなくて、お米を考えよう。今手元に種籾を持っていて、それを投資して来年の米の収穫を得ることを考えよう。種籾が今のお金に相当していて、来年の米の収穫は元手となったお金に利子がついたものだ。お金であれば放っておいても利子がつくような勘違いをしてしまうこともあるが、種籾みで考えれば、来年の収穫を得るには種籾を蒔いて育てて初めて収穫に辿り着くということが容易にわかるだろう。

こうした状況を打開するための政策を考えたのは、かの有名なケインズである。米国の大恐慌時代を背景にしたケインズは、「お金が”余っている”のに人々が使う気になれないのであれば、政府が代わってお金を使ってやればいいじゃないか」と考えた。そのときのお金の使いみちは何だっていい。道路に穴を掘って、また埋めるだけでもいい。特に新しいものを生み出さなくても、とにかくお金を使って、それを人々に配分すれば景気は良くなるはずだと考えたのである。お金を手にすれば、人々の先行きの不安感が薄れる。新しく資金が手に入ることで、それを元手に何かをやってみようというアニマル・スピリッツも出てくる。お金に不足感が出てくれば、早く手当てして何かを始めようという気持ちにもなる。その第一歩として、「とにかく誰かがお金を使って需要を作り出すことが大事」と考えたのだ。簡単に言ってしまえば、これがいわゆる「有効需要の原理」の結論である。

そしてまた、この考え方を忠実に実行しているのが今の日本である。政府は国債を発行して企業や個人から余ったお金を吸い上げ、そのお金で殆ど人様の役にも立たないような土木工事を大量に発注した。人のあまり通らないようなところに道路を作り、橋を作ることが日本の公共事業の典型的なものであった。この結果、先で見たように、日本の財政状況は急速に悪化し、債務残高は急増したが、後には役立つものは残らなかったのである。そうは言っても、ケインズの発想のように、この政策も全く何もやらないよりは景気を底支えするのには何某かのプラスの効果をもたらしたと評価する人もいる。もしも政策が成功して、人々の気持ちがプラス指向に転じていれば、確かに経済が成長軌道に戻っていたかもしれない。まさしく米国がそうであったように、そうすれば税収も回復して、国家財政も自然に改善に向かったかもしれないからだ。

ところが、橋本政権が早めの緊縮財政転換(個人的には政策自体が悪いものだとは思わないが)を打ち出した結果、人々の景況感は急速に悪化した。前向きのアニマル・スピリッツは続かなくなり、景気は再びマイナスに落ち込んでしまった。個人も民間企業もバブル期に作った多額の負債の利払いが負担となっていたが、その利子を払う原資となるべき経済成長が見られなかったので、ますます債務が”雪だるま式”に増加していく恐れが出てきた。実際に負債残高の多かったゼネコン・不動産・ノンバンク・流通には経営に行き詰まるところが続出し、そこに多額の資金を貸し付けていた金融機関も不良債権処理ができずに大手銀行を含めて破綻するところが出てきた。これが金融システム危機時代の日本の姿であった。そして、気がつくと巨額の財政赤字だけが残ることになってしまったのである。

確かに、ケインズの有効需要政策(民間の需要が不足しているときに、政府が需要を作って埋め合わせようという政策)は、その一時点の需要を生み、また雇用を生む。しかし、それがその後も効果を上げ続けるためには、何らかの新たな価値を創造していなければならなかった。当たり前のことではあるが、お金が正しく投資されて、そこから新しく何かを生みださなければ、利子さえも払えないのである。上述の種籾の例では、種籾を蒔いたはいいが、それっきり、水もやらなければ世話をしなかった状態かもしれない。あるいは、どこにでも種籾を蒔けばいいのだろうと、コンクリの上に蒔いた状態かもしれない。そこから芽が出て実りがあると期待するのは余りにも都合が良過ぎるだろう。

ところが、今の日本で余った資金を吸い上げているのは、政府と民間のごく限られた分野だけである。今をときめくIT(情報技術)関連やバイオ関連等を別とすれば、民間のうちで資金需要があるのは、”雪だるま式”で債務残高が増加している不健全企業ばかりである。政府も、あるいはこうした民間の不健全企業も、日本の中では最も生産性が低いと思われているセクターであり、こうした場所に幾ら資金を集めても、経済成長が望めないことは、言わば自明のことであった。

日本に本当に必要な政策は、こうした非生産的セクターに資金を与えることではなく、より生産性の高いセクターでいかに有効に資金を使うかということであった。単純に言えば、政府が国債発行して資金を集めて公共投資をしたり、あるいは債務超過企業に無理矢理追い貸しをして延命させるのではなく、生産性の高いセクターがお金を借りやすい環境、あるいは、新規の事業がしやすい環境作りに徹することであっただろう。鍬も鋤も持ったことのない人間に種籾を渡して耕作させるのではなく、最も米作りに精通した人間に種籾を蒔く場所を提供することや、水源を確保することにとどめておくのが正しい道なのかもしれない。

結局、日銀のゼロ金利政策は、あれだけのだぶついた資金を市場に供給しておきながらも、生産性の高いセクターには行き渡らなかった。ただ単に政府や不健全企業の債務負担軽減に資して、延命に手を貸しただけのことであったのだ。その意味でゼロ金利政策は将来の日本の経済成長には殆ど役には立っていない。逆に不健全セクターにモラル・ハザードを引き起こしていることを見れば、ゼロ金利政策を解除すべきという発想が出てくるのも、もっともなことである。


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ところで、”カネ余り”という言葉から生じるもうひとつの違和感は、「物が余るとその価格が下がるというのが基本なのに、どうしてお金の価格は下がらないのだろう?」というものかもしれない。上述の種籾の例で言ば、種籾を使わなければ腐ってしまうものなので、余ってしまえば徐々にその価値を失うはずである。お金は腐らないとはいえ、その価値は失われないのであろうか。

答は半分「当たり」で半分「はずれ」である。貨幣はお米と違うので腐らない。だから、いつまで経っても同じ価値を保ち続けるはずだ。だが、それは貨幣が持つ”もの”としての性質に過ぎない。例えば、金貨が貨幣であった時代には、「金(きん)が金(きん)である限りは、その金(きん)としての使用価値は変わらない」ということを言っていることになる。しかし一方で、世の中に貨幣が有り余っていれば、貨幣は商品やサービスとの相対的な関係において価値が下がっていくことになる。

例えば、買える物の量が変わらないのに、日銀が紙幣を2倍印刷したら、今まで1単位の品物に対して紙幣1枚が存在していたのが、同じ品物1単位に対して紙幣が2枚になるので、つまるところ、その品物を買うのに必要な紙幣は2倍になることになる。もしもお金が余っているのであれば、お金に対する需要が落ちていることを意味しているはずなので、お金の価値は下がることになるが、それは品物の価値が相対的に上がることを意味している。つまり、これは”インフレーション”に他ならない。

これは困った。”カネ余り”はデフレの中で生じた現象であり、デフレでなければ継続しない代物であるが、実は”カネ余り”とはそれ自体インフレのことである。だが、今の日本ではこんなにも”カネ余り”なのに、デフレを懸念する声こそあれ、インフレは全くといって良いほど問題視されていない。この矛盾した関係はどういうことを意味しているのだろうか。

このトリックは、「金融資産」(あるいはバブル期であれば「不動産」も)という特殊な資産が存在することにある。現金や定期預金のようなお金も紛れもなく金融資産のひとつであるが、余ったお金は別の金融資産に化けることができる。例えば、米国では「株式」に投資するのがポピュラーであるが、日本でも00年初頭にはIT関連株式に投資することが流行った。いわゆる「IT関連ミニ・バブル」は、まさしく”カネ余り”で余ったお金が株式という別の金融資産に流れ込んだ結果生じたものである。

日本では、どちらかというと「債券」という金融資産の方が馴染みが深く、それゆえ、今回の”カネ余り”でも、最も多くの資金が債券市場に流れ込んでいる。例えば、預金取扱金融機関(つまり銀行等)は99年度に15兆円の資金が余ったが、国債だけでも50兆円も残高を増やした。この50兆円はこの年の政府の資金不足額と略同じであり、つまりは政府の借金を全て民間の預金取扱金融機関が貸し付けた形になっている。このことは、帳簿上のやり取りであり、後から見れば当然借金を増やした人がいる分だけ借金を貸した人がいてバランスしていなければならないのであるが、これだけの大金を借りたい(というか借りなければならない)という人がいたというのにこの間に金利が大して上昇していないということから見れば、お金を貸す方もお金を貸したくて仕方なかったということを示している。

このことを「バブル」と呼ぶかどうかについては、エコノミストの間でも必ずしも意見が統一化されているわけではない。しかしながら、政府債務が先進国でも突出し、なおも拡大を続けているにもかかわらず、あるいは、通貨供給量の経済に見合わない増大がインフレを示唆しているにもかかわらずに、世界的に見ても低水準の金利が維持できていることを考えると、何らかの歪が生じていると考えた方が良さそうである。

この歪みが維持可能であるのは、今現在の「実物資産」の需給が緩んでいるということと、今後も「実物資産」への需要は急激には増加しないという神話があるだめである。確かに生産性の上昇と、低賃金の途上国での生産が、実物資産の生産コストを低下させるとともに、その生産量も急拡大している。まだまだ新しく自由市場に参入してくる途上国があって、またIT技術が進展して行く中では、実物資産の価格には低下圧力がかかりやすいように見える。しかし、これが永遠に続くとは限らない。原油価格の上昇、人口爆発に伴う食料需要の増加、途上国の発展に伴う需要の上方シフト、地球規模の環境悪化に対するコスト等、これら以外にも予想されていない何かが将来の価格上昇要因になる可能性は否定できない。そうしてはたと気がつくと、お金の量が実物資産よりもかなり過大に供給されているのである。気が付かなければ、何事もない平穏な日々が続くのだが、ひとたび気がついてしまったとしたら大変な悲劇である。なぜならば、お金の量に見合うだけのものがどこにもないからである。

日銀の場合はもっと心配性である。日銀は実物資産のハイパー・インフレーション(インフレーションが加速すること)を恐れているのみならず、例えバブルが金融資産や不動産の世界にとどまったとしても、問題だと考えているからだ。日銀の研究によると、資産価格の激しい上下動も、その後の経済の不安定さを引き起こすという。株や不動産のバブルが大きかったことが、その後の関連業界の債務超過を招き、金融機関の不良債権処理や民間企業の痛んだバランスシートの修復の動きが景気の谷を深くしたと分析しているのである。日銀にとっては、金融資産間のバブルさえも許せないものなのだ。そしてそれが、今次のゼロ金利政策の解除への日銀の強い意思につながっているのである。


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まとめてみると、”カネ余り”は確かに現実のものとして目の前で生じているが、普通の人々にとっては”余っている”とは言えないものである。それは将来に対する蓄えに相当するものである。問題なのは、それだけの資金がありながら、それを有効に使える環境にないことである。政府の公共投資は短視眼的には余ったお金を吸い上げる役割となるが、効率的に使われないために長期的には成長に結びつかない。余ったお金を生産性の高いセクターに配分できるような環境の整備こそが必要である。

一方、日銀による強引な資金供給は、資金が滞る状態では一定の役割を持ったが、生産性の低いセクターへの資金配分を引き起こしたり、または、将来的なインフレの芽を育てるものである。劇薬であるので、早めに解消されるべきものである。

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