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自律者の徳目(仁義礼智信)と従属者の徳目(忠孝悌)
http://www.asyura.com/0304/dispute9/msg/806.html
投稿者 たけ(tk) 日時 2003 年 4 月 10 日 02:20:01:SjhUwzSd1dsNg

(回答先: グローバルアイ  3月号 アメリカ民主主義で育ったインテリが「反米」を叫ぶ日本 投稿者 Ddog 日時 2003 年 4 月 10 日 00:46:54)

>「義をみてせざるは勇なきなり」の信義もあった。
>国際信義とは同盟の"義"の死守

にだけ反応。

http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/lrin/lrin79.html
>『南総里見八犬伝』で有名な「仁義礼智忠信孝悌」という八つの徳目の内、儒教では「仁義礼智信」を「五常の徳」という。

「五常の徳」というのは自律者の徳目(仁義礼智信)です。それに対して馬琴が追加した忠孝悌は従属者の徳目です。

仁(思いやり)義(普遍的正義)礼(習俗を尊重する)智(智慧)信(自分の発言は実行する)はどれも自律者として必要とされる徳目。それに対して、

忠(権力者に忠誠を尽くす)孝(親に従う)悌(兄に従う)は何らかの隷属関係にある人間の、上位者にとっては都合のよい「徳目」。

「日本的な」美徳として忠義(権力者に忠誠を尽くすのが正しい)とか、義理(恩を受けたものにお返しをしなければならない)とかいうものがある。(「日本的な美徳」といっても、おそらくは江戸中期以降のイデオロギーだと思う)。

社会関係においては、従属的地位に置かれることは当然あり得る。従属者が自ら仁(思いやり)義(普遍的正義)礼(習俗を尊重する)智(智慧)信(自分の発言は実行する)の評価をした上で忠(権力者に忠誠を尽くす)孝(親の利益を考える)悌(兄に従う)ことを決断するのは一向に構わない。

しかし、仁義礼智信を投げ棄てて、ただ忠だけに従うのであれば、奴隷の平和を求めるに過ぎなくなる。

「義を見てせざるは勇なきなり」を「寄らば大樹の陰」の意味でことあげするのは、孔子に対する冒涜である。

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コメント
 
1. 2018年5月13日 07:26:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13900]
テスト

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理
2. 中川隆[-12426] koaQ7Jey 2018年5月13日 07:40:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13906]

日本はカースト制国家で、支配階級と被支配階級では言葉も道徳も思考形式も家族形態も全く異なる

日本の大和朝廷は朝鮮に住んでいた漢民族が武器を持たない縄文人・弥生人を征服して作ったカースト制国家(氏姓制度というのはカ−スト制を定めたもの)
日本はカースト制の多民族国家だから下のカーストの人間は昔から お上には絶対に逆らえない:


現代日本人は

縄文人の末裔
弥生人の末裔
朝鮮から渡来した漢民族
アイヌ人
在日朝鮮人

から構成される


日本を支配していた天皇家や武家は朝鮮から渡来した漢民族(Y染色体O2系統)で、
縄文人・弥生人系の日本の一般民とは殆ど混血していない。

現代の日本の政治家や資産家は殆どが渡来漢民族:Y染色体O2系統(旧 O3系統)
地主や自作農は 弥生系: Y染色体O1b系統(旧 O2系統)
貧農や小作人やエタ部落民は 縄文系「D2」

太平洋戦争で最前線に送られて死んだのは縄文人・弥生人系の日本人だけ
これから中国人移民と競争させられて搾取され食っていけなくなるのも縄文人・弥生人系の日本人だけ

縄文人・弥生人系の日本人の問題は羊より従順でかつ自分が搾取されて滅ぼされる劣等民族だという自覚が無い事

お上には絶対に逆らわない


日本は古墳時代以降ずっと厳格なカースト制(氏姓制)の国で
差別の実態は家柄による結婚相手の選別だった


穢多・蝦夷・アイヌ・琉球人:縄文人の子孫で Y-DNA は D と C

小作人・貧農:縄文人と長江の稲作漁労民の混血民の子孫で Y-DNA は DとO1: 乱交で父親が誰かわからない、財産無し

豪農、地主:長江の稲作漁労民の子孫で Y-DNA は O1、百姓、家柄で結婚相手を選別する

支配階級:渡来人(朝鮮に住んでいた古代漢民族)、O2, 苗字を持つ、家柄で結婚相手を選別する


皇室に伝わる昔の言葉や上代日本語は9母音で百済系朝鮮語と同じ母音数

アイヌ語、琉球語、万葉集の東歌は5母音なので、縄文人(Y-DNA は D と C )の言葉は5母音

天皇のY-DNAは朝鮮系のO1かO2

_____


中部以東の縄文人は弥生人になった、畿内の縄文人はエタ部落民になった


日本列島に渡来した民族のハブロタイプ

153名無しさん@涙目です。(庭) [KW]2018/04/15(日) 15:36:59.27ID:KJUZPVOB0

40.000年前 C1a1(ポリネシアン):旧石器時代人
35.000年前 D1b(日本列島固有) :縄文人
34.500年前 C2a(日本列島固有) :縄文人

3.000年前 O1b2(江南) :西日本の弥生人
2.000年前〜1.300年前 O2(百済、新羅、高句麗) : 日本の支配階級


渡来人には

弥生時代に漢民族に追われて長江から西日本に逃げて来た稲作漁労民 O1b2

弥生時代末期に朝鮮半島から畿内に入って来た漢民族系武装集団 O2

の二種族が有ります。

長江から西日本に逃げて来た稲作漁労民 O1b2 は縄文人と融和的で、縄文人と混血して西日本の弥生人になったのですが、

弥生時代末期に朝鮮半島から畿内に入って来た漢民族系武装集団 O2 は武器を持たない弥生人を征服して日本の支配階級になりました。

目は茶色で縮れ毛で…縄文人の顔、DNA情報もとに再現 2018-03-12
https://ameblo.jp/ba7-777/entry-12359694366.html


DNA情報に基づいて復元された縄文時代の女性の顔

 縄文女性の瞳は茶色だった−。国立科学博物館などの研究チームは12日、縄文人の骨から採取したDNAのゲノム(全遺伝情報)を解析し、顔つきに関係する遺伝子に基づいて初めて復元した顔の像を公表した。

 解析した人骨は約3800年前の40〜50歳代の成人女性で、北海道・礼文(れぶん)島の船泊遺跡で約30年前に出土した。

 顔の特徴に関わる遺伝子を調べたところ、肌はしみができやすい性質で色が濃く、毛髪は細く縮れたタイプ。鼻の高さは中程度で、瞳は茶色だと分かった。

 研究チームによると、縄文人の瞳は黒いというのがこれまでの常識だった。その他の特徴は、従来の手法で復元した顔と大きく変わらないという。アルコールを効率よく分解できる遺伝子を持ち、酒に強かったらしいことも判明した。

 古代人の顔の復元は、発掘された人骨の上に、現代人の平均的な顔を張り付けるような方法で行っていたため、正確さに欠けていた。チームは「今後は顔つきだけでなく、どんな病気に弱かったかなど暮らしぶりも分かってくるだろう」と話している。

 国立科学博物館などの研究グループは12日、約3800年前の縄文人の骨から抽出したDNA情報をもとに、顔を再現した復元像を公表した。骨格の特徴だけでなく、遺伝情報を参考に古代人の顔を復元したのは国内初という。13日から東京・上野の同館で始まる特別展「人体―神秘への挑戦―」(朝日新聞社など主催)で一般公開する。

 研究グループは、北海道・礼文島の船泊遺跡で頭骨などが発掘された女性の臼歯からDNAを抽出。顔に関する遺伝子の特徴から外見を推定した。女性は、肌は色が濃く、シミがあり、目は茶色、髪の毛は細く縮れていたなどと判明したという。また、血液型はA型で、身長は140センチ程度だったという。

 従来は、骨格の特徴をもとに古代人の顔を復元していたため、肌や目の色がわからず、現代人の特徴をもとに推測していた。遺伝情報の活用でより忠実に復元できたという。

 国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長は「これまで想像の世界であったものが、裏打ちのあるデータを元にかなりの確度で復元ができるようになった。今後は遺伝情報を使った復元が進んでいくのではないか」と話している。(土肥修一)
https://ameblo.jp/ba7-777/entry-12359694366.html


日本人のガラパゴス的民族性の起源
30-3-b. 日本人のY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ

  出現頻度は、グローバルで入手できた論文のデータを全て単純合算せずに、調査人数を調整して算出しています。 調査した研究者はそれぞれ独自に調査を行っているので、同じ日本人を複数回調査している可能性は極めて低いと思います。 それなら1つの研究のサンプル人数は少なくても、入手できる全てのグローバル論文のサンプル数を積算すればサンプル数が増えより精度が上がることになります。 従って頻度は複数の論文の頻度値の単純平均ではなく、各論文の亜型の人数を割り出し逐一積算し全体数から頻度を再算出しています。

  mtDNA(左列)とY-DNA(右列)をまとめてみました。多少わかりやすいかと思います。


http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


 このmtDNA調査で最も重要なことは日本人の2/3(66%)がmtDNA「M」系であり、世界でこれだけの高頻度の「M」を持つのは、チベット人(約70%)と日本人だそうです。 そして両民族は奇しくも充分な人口規模を持つ世界で唯2のY-DNA「D」民族です。特に琉球人は世界最大頻度の「M」系民族でありアイヌ民族に次ぐY-DNA「D」民族でもあります。 これは偶然の一致ではなく日本列島の縄文のコアであるY-DNA「D」はmtDNA「M」と常にペアで行動してきたことを示しています。

  一方日本人の1/3(33%)は欧米系のmtDN「N」系になります。mtDNA「M」と「N」は出アフリカ前にすでに分化していたとする仮説と アジア(恐らくインド亜大陸か近東)で分化したとする2つの仮説があり、まだ決着はついていません。 しかしネアンデルタール人との亜種間交配で出アフリカしたY-DNA「CT」が「DE」と「CF」に分化したとする仮説が現在もっとも合理的なので、 mtDNAも出アフリカ後に同じ理由で「M」と「N」に分化したとすると説明を付けやすいのです。

  黄河文明の古代遺跡から発掘される人体はコーカソイドの特徴を持っていることは、考古学ではよく知られています。 これは寒冷地適応や黄砂適応を獲得するまえのY-DNA「O3」はY-DNA「CF」の子孫としてふさわしい彫深の外観であったことを示しています。 同様に典型的なフラットフェースのモンゴル人Y-DNA「C3c」も、本来は兄弟亜型Y-DNA「C2」と「C4」のニューギニア先住民やアボリジニと同じく いかつい彫深顔であったことが容易に推測できます。これほど寒冷地適応は厳しい環境要因だったのです。

  ではmtDNA「N」系列はどうやって日本列島にやって来たのでしょうか?


1.Y-DNA「CF」系縄文人の「C1a」や「C3a」とともに来た、か

2.Y-DNA「O」と共にわたって来た、か

3.その両方の場合。


  縄文遺跡から出土するmtDNA「B」は上記1の場合、その他はY-DNA「O」とともに、mtDNA「HV」などはシルクロード経由も考えられます。

  アイヌ民族のmtDNA「Y」はオホーツク文化で古代アイヌ民族を征服した古代ニヴフ族がもたらしたものでしょう。 その古代ニヴフ族は東北アジア系Y-DNA「C3c」のツングース系かモンゴル系と考えられます。 明治期でもアイヌ人男性の一部はコーカソイドと考えられたほど端正な顔立ちだったので、 いづれにせよ寒冷地適応を獲得する前の東北アジア集団が北海道に渡ってきたことになります。

  主題ではありませんが、アスリート能力のうちもっとも重要なエネルギー産生能力は、エネルギー産生がミトコンドリアで行われる以上、 母系遺伝することは当たり前です。白筋と赤筋とmtDNAとの関係はわかりませんが、調査結果からみると 瞬発系アスリートはmtDNA「N」系のmtDNA「F」と「B」が素地を持っているようです。一方、持久力系はmtDNA「G」が多いようです。 非常に残念なことはミトコンドリアは本記事14-2.でおわかりのように母系遺伝するため、父親がどんなに優秀なアスリートでもエネルギー産生能力は 遺伝しません。母親がその能力を持ったmtDNAを持っていない限り、トンビの子はトンビなのです。残念!


  ではY-DNA調査で分かることはなんでしょうか?

縄文系は現代日本人男性の約43%を占め、古代遺伝子の3種のY-DNA亜型から構成され、コアになる世界でも希少なY-DNA「D」(チベット民族がY-DNA「D1」、 縄文系がY-DNA「D2」)と更に希少な海洋性ハンターY-DNA「C1」と内陸性ハンター「C3a」が含まれます。 世界の先進国の中でこれほど古代遺伝子が男性人口の約半分も占める国家は日本しかありません。 3.11でも示されたような世界を驚かせた日本だけが持つ従順性、規律性やホスピタリティなど独特の精神文化はこの古代遺伝子から構成される 縄文基層文化がもたらすものです。

  日本はこの古代性に加えてY-DNA「O2」(「O2b」,「O2b1」,「O2a」)と「O1a」の弥生系水田稲作農耕民の遺伝子が持つ地域集団を形成し行動する、 先進国でも珍しい規律性の強い村社会的なコミュニティが加わり、ますます独自性を強めています。

  では内向きになりがちな縄文−弥生系に対し、日本人のグローバル性をもたらしたのは何なのでしょうか? それは朝鮮半島の生き残りに負けて半島を追い出され日本列島に逃げ込み、日向なる土地から出発し征服行脚を行った大和朝廷族や他の天孫族、 及び高句麗、新羅、百済などから追い出されてきた武士団族などのY-DNA「O3」プロト漢族遺伝子を持つ武装侵攻集団に他ならないでしょう。 当時の朝廷では和洋女子大の研究者が報告しているように漢語を話し、本家中華王朝に追い付き追い越せで文化力を高め これも独自な発展をする原動力となり、日本人のガラパゴス性の起源になったものと思われます。

  当ガラパゴス史観もまだ確固たる日本人論を持ってはいません、憶測や妄想も含むアブダクション(推論)の段階です。 国を挙げてY-DNAとmtDNAを調査すると、日本人のガラパゴス的民族性の起源と特性がもっとあぶりだされると思います。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm

2013年12月17日 形質人類学のデータ

エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06
同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

___

Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
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穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097


京都を中心に近畿地方の人達は平均的な日本人のデーターと全く違う数値を示します。

100%朝鮮からの渡来人の特徴を示すそうです。


京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。
http://www.ishikari-...cs/2013/10/10-7.html

はい縄文時代の西日本はスッカスカ
http://web.joumon.jp...5%AF%86%E5%BA%A6.gif

ここでもスッカスカ
http://ichigen-san.c...2014/07/15/photo.jpg

弥生期に渡来人が増えるまでスッカスカ
http://homepage2.nif...nin/jinkoubunpu1.jpg


日本語は百済語と近接しているという説は多い。

ブログ「日本語と韓国語は同系語」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-3a69-1.html


という中から信憑性のある部分を紹介します。

>飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。

「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。

『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80〜90%は朝鮮人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。


※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

※ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)


司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。

故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。

従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上抜粋ーーーーー

これらを読むに付け、日本の宮廷、天皇、王朝を語る際に「百済」という朝鮮半島から消えてなくなった国家が大きく影響している事が判る。

それを日本土着のものに取り戻すのに鎌倉時代までの400年かかっている。
しかし再び明治以降、この百済の復興が天皇を担ぎ上げる事によって為された。

百済王朝が日本に亡命してまだ1300年しか経っていない。

この影響は日本語という言葉の中に浸透しただけでなく日本人の気質や一つに成り切れない民族の核心部にまだ残っているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314004


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【言語の進化】8.1.5万年前〜1万年前頃の抱合語
 
アイヌやエスキモーやインディアンは、現在でも、一つの文言を一語で表す抱合語を使っているが、それら隔絶された地域に残された抱合語は、人類が洞窟から出た後の原初的な言語の形を現在に伝えていると考えられる。
 
エスキモー語の例
qayar−pa−li−yug−a−qa(カヤック−大きい−作る−たい−私−お前)
           「私はお前に大きなカヤックを作ってやりたい」


アイヌ語の例
a−e−kore(私−お前−与える)「私はお前に与える」※「て・に・を・は」
                          がない一語。

a−e−ipe−p(我々−それ−食事する−物)「食器」


 
アイヌ語では、主句・対象句・述句という語順規則が見られるが、エスキモー語の場合、語順規則も明確ではなく、その瞬間瞬間に最も言いたい言葉を順に並べただけのように見える。

おそらく、より隔絶度の高いエスキモー語の方が古い言語だと考えられ、洞窟を出た原初の言語は、エスキモー語に近い、「て・に・を・は」はもちろん、語順規則さえ明確には定まっていない(言いたい単語を言いたい順に並べただけの)一言だったのだろう。

つまり、1.5万年前の人類の言語は、エスキモー語のように、語順規則もさだまっていなかったと考えられ、1万年前頃に、ようやくアイヌ語に見られるようにS・O・Vの語順規則ができたと推定される。

(なお、アイヌはユーカラという長大な伝承物語を持っているが、部族の物語を伝える程度の文言ならば、て・に・を・は(関係詞)無しでも用は足りたという点は、注目すべきだろう。又、アイヌ語は縄文語から枝分かれしたと見られており、そうだとすれば縄文語も原初は抱合語であったことになる。この点も、興味深いところである。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314835

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 7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。
方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。

それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


【出典】「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html

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日本語は縄文由来
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/03/3176.html

日本語は言語学的にも独立言語でありほぼ人類最古の方の言語に類する。

この日本語がほぼ一貫して変わることなく縄文ー弥生―現在へと引き継がれてきた。

母音を言語脳(左脳)で聞き分ける日本語は擬態語(ザーザー、しとしと等)が多い。そして日本語以外のほとんどの地域の言語が音声を左脳と右脳で使い分けるのに対して全ての音を左脳でとりいれる日本人は特徴的でもあり、それ故に自然の音を細かく聴き分けることができる。これが日本人特有の同化能力の基盤となり、自然に向けた同化能力を使って、現在でも人や社会に視座を向けることが可能な民族として存在している。


★自然の音を左脳で取り入れる日本人、その特徴を明らかにしたのが角田教授である。
⇒やっぱり、『日本語』はすごい言語のようです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=222237


★日本語研究は進んでいるが、結局今判っているのは日本語はどの系統にも属さない独立言語であるという事のようだ。

アルタイ語起源説やタミル語起源説、朝鮮古語起源説などがあるが、部分的に類似しているというだけで母音言語であり膠着語である日本語を定義つけるとしたら人類古語が起源であり、それを今も脈々と残しているのは日本と世界中の辺境の小部族だけという事になる。

学説で解明できないのは日本語がどこからの由来かという視点で見ているからなのだろう。


⇒日本語の起源研究の状況
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=184840

⇒日本語の起源をアルタイ語とするのは誤りではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=242652


★日本語がなぜすばらしい言語なのか 黒川伊保子氏の著書を読めばストレートに伝わってくる。


日本語はなぜ美しいのか (集英社新書) – 2007/1 黒川 伊保子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%BB%92%E5%B7%9D-%E4%BC%8A%E4%BF%9D%E5%AD%90/dp/4087203743


黒川氏が語る日本語の特徴を要約すると以下のようになる。


@ 日本語を含めて「言語」には、共認機能や観念機能の構造との密接な関係があるはずで、これを追求することには、大きな可能性があると思われる。発音体感と対象(実態)の一致は、日本語に顕著であり、日本語こそが「始原の言語」、太古よりこの土地で育まれた言語であると述べられている。

A 母音語の使い手は、自然とも融和する。
母音を言語脳で聴き取り、身体感覚に結び付けている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。いわば自然は、私たちの脳に”語りかけて”くるのである。

B 何千年も続く、豊かな自然が、私たちに、融和する母音語をもたらした。
一方で、融和して共存する日本人の特性は、日本語という母音言語がもたらしているとも考えられる。なぜなら、DNA上日本人とまったく無関係でも、日本語を母語として育つと、母音を左脳で聞くようになることが確認されているからだ。環境は言語を作り、言語は人を作るのである。

C 子音言語に比べ圧倒的に長い歴史を持つのが母音言語で、その原型を現在まで引き継いでいるのが日本語と言えるかもしれない。自然に同化し、調和する日本語とはこれからの共認時代に相応しい、時を得た言語なのではないだろうか。

黒川氏の著書の記事を集約しています。参考に一読いただければと思います。

⇒始原の言語・日本語の可能性〜むすび
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/09/001437.html


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朝鮮半島からの流入民

 
日本列島へは、旧くからアジア大陸での争いに伴って、アジア大陸(主に朝鮮半島)からの流入民が多くいた。ここでは、大きく3回に分けて大陸からの流入について整理していく。


 
★流入第一波 〜紀元前4世紀頃 楚からの難民流入〜

約2400年前(紀元前4世紀頃)、中国は戦国時代と呼ばれる時代で、諸国(燕・斉・趙・魏・秦・韓・楚)が争っており、燕・秦・楚からの難民が南朝鮮へ流入し、日本列島へも海洋ルートで楚からの難民が流入していた。


 
★流入第二波 〜2世紀頃 朝鮮半島からの亡命部族(侵略部族)の流入〜

紀元後146年〜189年(桓帝・霊帝の治世)の間に「倭国大乱」が起こったと「後漢書」(東夷伝)に記されており、「三国志」(魏志倭人伝)他の書物にも2世紀後半に「倭国大乱」があったことを記述している。
 
一般には「倭国」=「日本」と解されていることが多いが、戦国時代〜前漢時代にかけて編纂された「山海経」の記述からは、朝鮮半島中部にあった国であると読み解け、「倭国」の範囲は倭人たちの領有地域に規定されており、前漢以前の時代はむしろ朝鮮半島中部〜南部が「倭国」の主要領土で、倭人の一部が日本列島にも上陸していたとみなせる。
 
よって、「倭国大乱」とは、日本列島だけでの出来事ではなく、2世紀頃に朝鮮半島南部にあった3つの部族連合

「馬韓(→4世紀に百済によって統一)」

「弁韓(→4世紀に部族連合のまま伽耶連合)」

「辰韓(→4世紀に新羅によって統一)」

の争いであり、その争いによって追いやられた部族が、日本列島へ流入したと考えられる。
 
「倭国大乱」期に朝鮮半島からの流入民は、数的に第一波より多いのはもちろん、亡命部族であると同時に武装した侵略部族であり、彼らによって縄文人たちは制圧されたであろう。
 
この大乱は最終的に女王(卑弥呼)を共立して収まったとされているが、これは女首長をおく母系集団的な治め方であり、この時期でも縄文的性質が失われておらず、むしろ統治のためには縄文的性質への同化が不可欠であったと言える。


 
★流入第三波 〜6世紀の任那滅亡、7世紀の百済滅亡と流入民〜

朝鮮半島では、新羅によって562年に任那が、新羅−唐連合軍によって660年に百済が滅ぼされた。

「倭国」がもともとは現在の「日本」だけではなく、南朝鮮と日本列島の一部を占めていたことを考えると、これは単なる朝鮮半島という地域の出来事ではない。
 
これは、日本列島にいた(伽耶を出身地とする)「倭人」にとっては、故地(伽耶・任那)を奪われ、同盟国(百済)を滅ぼされたことを意味する。

滅亡した百済の遺臣達からの要請に応じて、「倭国」が大軍を派遣して白村江の戦い(663年/百済・倭国軍敗戦)に挑んだのは、このような事情があったからに他ならない。
 
そして伽耶・任那滅亡から百済滅亡、白村江の戦いまで、大量に伽耶人、百済人の流入が続き、これらの中には社会的に高位の者も少なからずいた。
 
このような大量流入が起これば、使用言語が大きく変化したり、あるいは流入者の母語に取って代わられかねないが、この流入第三波によってもそのような事態にならず、縄文的性質が継承されていった。
 
【参考】
「渡来人の氏神様A…分化の融合−D渡来人」韓郷神社社誌
http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.176.html

http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000799.html#more


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

3. 中川隆[-12425] koaQ7Jey 2018年5月13日 07:42:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13906]
極東遺伝子度調査 Y-DNA「O」(O1,O2,O3)

  長江文明の楚系と思われるY-DNA「O1a」、
         越系と思われるY-DNA「O2a」、
         呉系と思われるY-DNA「O2b」、「O2b1」及び

  黄河系の「O3」の頻度も併せてまとめました。

ただし、黄河系直系のY-DNA「O3a1」と黄河系と長江系の交配で分化した「O3a2」はデータが不十分なので見送りました。

Y-DNA「R1b」と世界の覇権を争っているのが黄河系漢系遺伝子Y-DNA「O3」です。


日本人が縄文文化系、呉系弥生文化系及び侵略者漢族系の3大遺伝子起源から成り立つことは完全に証明されたと言って良いようです。


日本列島で3番目を占めるのが大和朝廷族や武士団族などの韓半島の中華王朝出先機関から生き残りに負けて日本列島に流れてきたY-DNA「O3」漢族の侵略者遺伝子群です。

  Y-DNA「O3」は黄河文化直系のプロト漢族、「O3a1」は華北の周辺民族との交配で生まれた黄河系(華北系)漢族、「O3a2」は黄河系漢族と長江文化華南系との交配漢族になります。漢族は単独遺伝子ではなく、約50%強の「O3XX」亜型群をコアに現在少数民族となっている「O1」「O2」「F」「P」「NO」N」「C3c」など50以上の民族との交配の結果生まれた複雑な遺伝子構成の集団ですが、支配階級は「O3XX」なので「O3」で代表されます。


いずれにせよ日本列島で検出できる「O3」の子亜型は全て中華大陸で検出できます。つまり韓半島の「O3」とも全く同じです。つまり「O3」漢族は支配階級として日本列島先住民だった縄文−弥生集団との交配を行ってこなかったことを意味します。あくまで自分たちはエスタブリッシュメントとして先住縄文−弥生集団を見下していたわけです。


この「O3」は韓半島の支配階級でもあったため、早い話しが韓半島も日本列島も漢族の支配した土地であったことがよくわかります。

支配したがり屋、出世したがり屋が「O3」の本性です。

政治家や上級官僚などの大半は「O3」のはずです。

だから彼らは縄文−弥生の子孫がほとんどを占める田舎の3.11の犠牲者などそっちのけで政争・抗争に明け暮れていられるのです。「O3」は基本的に3.11等興味がなく、気にしているのは増税と原発の再稼働だけなのです。下々の暮らしなどどうでも良いのです。

  日本列島は残念ながら今でも「O3」封建体制のままなのです。自分たちのために政治・統治を行いますが、縄文−弥生が占める下々のことなど知ったことではないのです。それでも縄文−弥生遺伝子集団は基本的におとなしく、黙々と働き、年長者を敬い、和をもって貴しとなす集団のため、俺が俺がの「O3」には支配されるしかないのです。


●長江文明系の呉系と思われるY-DNA「O2b」は呉が滅んだあと楚や越の遺民や奴隷を交えて、南下した越とは反対の北方に逃げ満州辺りで「O2a」から「O2b」に分化し、稲作適地を求めて南下し韓半島南部で水田稲作農耕をおこない遺伝子は現在に至っています。韓民族の30%を占めるほど韓半島の農民層として定住・定着したようです。

「O2b」は更に水田稲作適地を求めてあるいは中華王朝の韓半島出先機関の圧政から逃れるためか南下しボートピープルとして日本列島に逃げ込みここで弥生文化を花咲かせたわけです。

この間縄文遺伝子のY-DNA「D2」と密に交配し「O2b1」に分化し、未分化の「O2b」と併せ日本列島でも韓半島とおなじく30%の呉系遺伝子頻度を現在持っています。「O2b」は基本的に満州族、韓(朝鮮)族と日本人(琉球民族も含む)のみに高頻度で現れる特殊な遺伝子子亜型なのです。

  この両民族の30%を占める呉系度が両国の近さの証明であり、縄文遺伝子を持たない韓国が一方で遠い国の証明なのです。

しかしどちらも支配層は見事に黄河系「O3」で同じなのです。ここも近さの証明となります。つまり日本人の50%強は韓族と同じ出自を持つ同根なのです。そして漢民族とも同根なのです。残念ながら! 

なんでこんなに文化が違うのだろう?

約50%弱を占める基層の縄文文化のあることが日本を中韓両国とは全く異なる風土を育んでいるのです。3.11でも称賛された日本人の国民性はY-DNA「D2」「C1」「C3a」(及びmtDNA「M」)縄文人が持つどちらかと言うと古代的な民族性なのです。

そして「C1」と「C3a」も日本独自の遺伝子子亜型で、「C1」は海洋性ハンターで日本人の一部が持つ海洋性気質のオリジンです。「C3a」は同じハンターですが内陸性ハンターです。過去にはナウマン象を追っていたはずです。やはり一部の日本人の持つ大陸性気質のオリジンです。両者は共に彫深顔のいわゆるソース顔イケメンのオリジンなのです。

両者はまた縄文土器の製作者という技能集団で、日本人の技能的民族性のオリジンでもあります。隼人・熊襲・蝦夷等の母体のはずです。しかし縄文人のコアであった圧倒的多数派の「D2」はとりえはなさそうですが黙々と働く勤勉な日本人気質のオリジンなのです。


●アイヌ民族は、縄文遺伝子Y-DNA「D2」が85%を占めるのですが、本土が「O3」侵略漢族に征服されたのに対し、アイヌは「C3c」古代ニヴフ族に征服され、お互い被征服民族でしたが、本土では圧倒的な人口だったため先住民化せず、残念ながら北海道では支配者ともども現代アイヌ民族として先住民化してしまいました。


●本土の「D2」,「C1a」,「C3a」縄文系も、韓半島での勢力争いで敗れ半島を追い出され武装勢力として日本列島に落ちのびてきた落ち武者Y-DNA「O3」の大和朝廷族や武士団族に征服され、結局北海道の「D2」と同じ”被征服者”の運命を歩むことになりましたが、

絶対人口が少なく古代ニヴフ文化に埋もれてしまった北海道「D2」文化に対し、本土では圧倒的多数派だった「D2」縄文集団は現代まで基層の縄文文化を我々現代人が感じる縄文精神文化としていまだに維持できています。

●現在世界の覇権を狙っているのがY-DNA「O3」です。

東ユーラシアからオセアニアまで広く進出しています。ニューギニアのY-DNA「C2」92%のDani 族の残り8%は「O3」です。なんでこんなところにまで進出したのか?なにかメリットがあったのか?拉致されたのか?不思議です。

ともかく純血を守ろうとした「O3」部族は残念ながら少数民族化してしまいましたが、交配をいとわなかった集団は漢族系として現在アジア諸国の支配層として日本を含むアジア各国に君臨しています。

大和朝廷族と武士団族は韓半島での勢力争いに敗れて、武力を持った武装勢力として日本列島に流れて侵略したのですが、狩猟用の戦闘力しか持たなかった縄文・弥生交配集団を武力で征服・支配し神話も乗っ取り、大和朝廷を現在にまで存続させるという奇跡を成し遂げたのです。それを認めてきた縄文・弥生交配集団の何とお人好しなことか!? 

  第二次大戦後に一気に縄文・弥生系と侵略者「O3」系との交配が進んだため、現在の日本人は階級意識が薄れていますが、長い間「O3」は支配集団として、身分が違うと称して、交配を拒んできたのです。

支配欲の塊の嫌なやつらですが、支配するプロなのです。だからこそ西欧文明の覇者のY-DNA「R1b」と渡り合うことができるのです。

●日本人のガラパゴス的民族性の核をなすのは、縄文系ではなく侵略者系のY-DNA「O3」です。

楽浪郡、帯方郡など中華王朝の出先機関が牛耳っていた韓半島での生存競争を勝ち抜くことができず、流れ者武装集団として日本列島に逃げ込んできた戦闘集団の中で最後に勝ち残ったのが大和朝廷族となり、敗れた集団はその他天神集団となったようです。

最後に勝ち残った百済系大和朝廷族の親衛隊からのし上がった戦闘要員の中から平氏が生まれ、高句麗から落ち伸びた戦闘集団の中から坂東武者が生まれ、新羅の落ち伸び花朗集団の中から源氏が生まれ、このような韓半島出自のY-DNA「O3」を中心とする武士団族が縄文-弥生交配集団が居住していた地方を制圧し力を蓄えていったようです。

●日本列島はこうして韓半島発のY-DNA「O3」漢族出自の大和朝廷族と武士団族という侵略者達に征服されたのです。

そして漢語で読み書きをしていた少数派の征服者は大多数の縄文-弥生集団をコントロールするために漢語を読み下しできるように「かな・カナ」を開発し、縄文系と長江文明・呉・楚・弥生系の神話を盗み取り自分たちの神話に付け加え、大和朝廷族があたかも古代から日本列島を支配していたように神話を改ざんし記紀をでっち上げてきたのです。


●日本人でありながら、中国地方の縄文度の低さは目を見はるものがあります。また長江文明の楚系と考えられるY-DNA「O1a」が突出して多いのも中国地方です。大国主神話の特殊性や吉備の豪族一族などもしかすると楚系の文化・部族なのかもしれませんね。ともかく中国地方は日本の中で特異な遺伝子地域であり、遺伝子的に異なる部族が住み独特の華南系文化を立ち上げていた可能性が極めて高いのです。

大和朝廷族が韓半島を追い出され流浪の武装集団として大和に向かった時に先住部族として立ちはだかった可能性は極めて高いと思います。

大国主神話は呉系か楚系の長江文明系神話で間違いないでしょうが、どちらかは調査ができていません。


縄文遺伝子Y-DNA「D2」と「C1」「C3」は日本列島で10000年もの長期間に渡り交配しお互いに子亜型に分化しています。また4000年前頃から徐々にボートピープルとして

満州 → 韓半島 → 日本列島

に水田稲作の耕作適地を求めて逃げてきた弥生遺伝子の呉系長江系Y-DNA「O2b」も縄文遺伝子「D2」との数1000年の長期間にわたる交配で「D2」は更に新しい子亜型に分化し、韓半島と共通の「O2b」も日本独自の「O2b1」に分化しています。

この結果は狭い日本列島で縄文−弥生集団が互いに武装集団・戦闘集団ではないため、意外に敵対せず共存−交配をしてきたことを如実に説明しています。

ところが、侵略者であった武装集団・戦闘集団の漢族Y-DNA「O3」は、日本列島上陸後1500年は経っているにもかかわらず、日本列島独自の子亜型が全く存在せず、中国大陸にあるそのままの子亜型のみしか検出されません。

つまり支配階級はエリート層として縄文−弥生集団を見下し差別し交配を進めてこなかったことを如実に物語っています。

「O3」層が縄文弥生集団と交配をするようになったのは階級分化が崩れてきた戦後のことです。戦前はまだ身分の違いとかでめったに交配は起きてはいないのです。今は世界の最先端を担う我が日本ですが、戦前までは「O3」の封建制がまだまだ根強く残っていたのです。


日本の中国化−正しく言うと漢化−もっと正しく言うとY-DNA「O3」化、は最近始まったことではなく、大和朝廷族や武士団族が韓半島での抗争に負けて半島を追い出され、ボートピープルとして日本列島に戦闘力を持って断続的に流れてきたことに端を発するのです。

記紀の神武東征に象徴されているように、漢語を話す漢族の端くれだった韓半島を追い出された大和朝廷族は(その頃の韓半島南部は弥生人と同じ呉系長江人のY-DNA「O2b」が民衆層を形成していたはずです)日本列島の恐らく九州に上陸し旧唐書が言うように「日本」なる小さな拠点を形成し侵略遠征を開始し、山陽道に既に割拠していた先陣の「O3」集団や縄文−弥生先住民土着集団を征服しながら大阪平野から奈良盆地を制圧し列島侵略に成功したのです。というより最後に勝ち残った「O3」集団が大和朝廷を名乗った、というのが正しいでしょう。

  記紀神話は、征服した先陣・先住集団の祖先伝承の都合の良い部分を取り込み創りあげたものです。そして確立した大和朝廷は漢語の支配する漢族の官僚が運営する政府でした。その後の日本列島はこの漢族朝廷と漢族官僚が文字通り牛耳ってきた中国化というより漢化されつつあった土地だったのです。

  日本人が漢族大和朝廷支配のもと漢民族に同化しなかった理由は1万年以上に渡る縄文時代とその後の弥生時代で日本列島が人口も含め完全に縄文・長江混成文化の風土が確立していたからです。漢族側が、人口的に大勢であった日本語の文法であるY-DNA「D2」の縄文語に合わせかなやカナを開発したように漢族側が歩み寄ったことが、日本人が漢民族化しなかった理由でしょう。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/


倭国は華僑たちがつくった(岡田英弘説)


「日本」誕生以前の「倭国」を含む東北アジアについてのいちばん古い資料は司馬遷の『史記』の「朝鮮列伝」である。それによると

前漢の武帝が紀元前108年、古朝鮮を征服し、楽浪郡を含む4群を置いた。

楽浪郡は日本から運ばれてくる豊かな鉱山資源に支えられ、中国人商人=華僑の出先機関として発展していった。

ところが紀元前後をピークに漢の力は衰弱過程に入る。そのような政治状況の中、倭国における中国の通商窓口として中国の力を分け与えられた倭国王が誕生した。

中国の史料に出てくる倭王とは、そのような土着的な支配力を持つもののことではなく、中国側に優位な条件で列島との通商を纏め上げた「弁韓辰韓の華僑と手を組んだ倭人貿易商」のことだったのだ。

この「倭王とは華僑と手を組んだ倭人貿易商」であるということは魏志倭人伝の以下の文章からも読み取ることが出来る。

「国々に市ありて、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ」

この文章は、市の監視人は倭人であるとわざわざ述べているが、それは、市を開いているのは倭人ではなく、華僑であることを逆に証明している。

そして、そのような多くの倭王の統制がとれなくなった時、登場したのが「卑弥呼」だった。卑弥呼は遼東の公孫氏軍閥と手を結び、倭人の代表となった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=209312


岡田英弘の画期的な新説とは、東アジア史全体(特に18世紀、19世紀における東南アジアの発展史)に関する同氏の鋭い観察眼から、東アジアにおける文明化のプロセス、すなわち、

華商の来航 → 華僑居留地の形成 → 大食漢の華僑に食糧を供給するため周辺地域の農業生産力が増加 → 人口増 → 都市の形成 → 経済発展 → 人口増大 → 建国

という化学変化をもたらす触媒・契機が明らかにされたこと。

 岡田説によると、東アジアでは、華商が船で未開地に到来して、地元酋長らを手なずけつつ、根気よく商品を現地人行商を通じて売る努力を重ねる過程で、徐々に現地側の農業生産力(自給自足の範囲・量を超える食糧生産)、特産品生産力(中国製品との物々交換のための商品生産)が増大し、華商がやがて店舗を構えた港湾地域において、徐々に市場が出来、華商達を庇護する現地酋長達の政治力も軍事力も高まって、やがて国家が建国されるという、アジアにおける国家形成の触媒=華商との理論が提示される。

そして、肝心の日本国形成の契機も、

紀元前3世紀に、北京地区に出現した燕国が、まず東方に進出して遼東郡を置き、朝鮮半島、日本への進出を開始し、

次いで前漢が紀元前108年、朝鮮北部に楽浪郡、南部に真番郡を設置して、対日貿易ルートを開設したことにあるという。

既に朝鮮半島よりも人口の多かった日本市場が、華商達にとっては魅力だったらしい。

 真番郡経由で、倭国北九州との貿易を開始し、更には瀬戸内海にも華商達が到来して、あちこちの港に華商が根拠地を置き、現地妻を娶って混血の華僑を産ませた。港に面する華僑居留地では、現地酋長が華商・華僑の商売を保護し、取引税を取ったほか、楽浪郡当局からの勧奨に基づき、漢、魏、東晋、宋などに倭国の現地酋長代表が、朝貢使節を派遣した由。

 倭国における華商達を通ずる貿易における利益と秩序を守るため、対日貿易を取り仕切る楽浪郡などの中国側役所が、本国における政権の箔付け、皇帝の権威を中国臣民に誇示するために、倭の使節の朝貢などという儀式・行事を、中国側の都合で、何度もアレンジし、これらが史書に記録として残ったが、名目上「親魏倭王」に任命された卑弥呼も、華商達を庇護する現地の名誉総領事のようなもので、倭国全体を統括するような軍事力もなく、統一国家も未だ無い段階だったという。

 対日貿易の利益を目指して、そのルート上にある朝鮮半島においても、北部中国地方から進出した華商達が、

遼東郡 → 楽浪郡の平壌へ、更に平壌から水路沿いに南下して、

対日貿易ルート沿いに都市が発達した。


これら韓半島の都市部には、華商=中国人と現地人との混血で、中国語を話す民=華僑が発生、居住して、彼ら華僑の人口が増えていった。

 また、対日貿易も、これら韓半島の新羅、加羅地方の華僑がまず担当して、北九州から瀬戸内海地方にかけて来航し、これら各地に華僑系の市場、都市(ただし、中国、韓半島における市場・都市は、城壁で囲った本来の中国式の都市=県城であったが、日本では市場、集落はあっても城壁は必要なかったようで、発達しなかった)が形成され、市場を庇護する現地酋長=倭人の酋長の軍事力も増大していった。

 結局、瀬戸内海地域の経済力(首として農業=米と、華僑が種を持ち込んだ各種野菜の生産力、或いは対中輸出商品の生産力)が増大し、瀬戸内海最深部の河内に最初の本格的な倭の政権が出現した(河内王朝)。


日本国建国に貢献した秦人、漢人


岡田史観は、古代(古墳時代)の華僑社会形成こそが、日本国(及び韓半島の統一新羅国)建国の基盤だった、という意見である。


新羅、加羅地方の中国系混血=新羅人、加羅人が、早い時期に倭国に到来して秦人(はたひと)と呼ばれた。

これに比し、より遅れて倭国に到来した百済人には、元来楽浪郡、帯方郡に居住していたが、高句麗の勢力拡大から逃れて、南方の百済地方に避難してきた中国人・中国系混血が多く、漢人(あやひと)と呼ばれる。


秦人・新羅人は前漢の標準語であった陝西方言系(河北・山東方言系)の中国語、

漢人・百済人は後漢・魏・晋時代の標準語だった河南方言系の中国語を話したという。


  畿内の河内、大和地方では、新しく百済の滅亡などで大挙到来した漢人・百済人の言語(河南語)が主流で、それより奥地の山城、近江では、漢人より先に到来して平野部の開拓農民化していた秦人の陝西語が話されていたらしい。

  現地人系の倭語は、畿内では平野部に多く入植してきた帰化人系の言語の影響で、語彙も文法も、相当変化してしまったが、生き残っていたという。

  ともかく、河内王朝、その他の倭国の政府機関の確立は、漢人、或いは秦人らの文書能力無しには、成立し得なかったし、韓半島、中国との間の交易も、コミュニケーションも、これら華僑達の漢文能力無しには、継続できなかったであろう。

  しかし、岡田英弘によると、中国から独立して、対中鎖国的に日本国家を建国した以上、中国語とは異なる自国語が必要であるから、漢人・百済人達の河南語系の話し言葉を中心に、倭語の単語・語彙を取り入れたりしつつ、新たに人口的に創り出していったのが、万葉集の日本語であるという。

要するに、日常語としては漢語を使用していた華僑社会が建国時の豪族、官僚達であるから、徐々に現地人の倭語を学習していたとは言っても、書き言葉の表記方法も、文法も、全てが手探りであったらしい。万葉集にも、日本語表記用として漢字の使用方法が未だ確定しておらず、訓で(すなわち表意文字として)、または音で(表音文字として)、或いは音・訓混合で、というように、書き方が各種混ざっているほか、結局純粋な漢詞のままという例すらあるという。

  ともかく、正式文書は漢文という伝統は、なかなか崩れなかったものの、


日本では万葉仮名(漢字を一音のみの表音文字として使用)
→漢字の部首を使用して「カナ」を、あるいは草書体から「かな」を、それぞれ工夫・創出

する形で、表音文字・和式アルファベットを発明したし、仮名を用いた「国文」文学も早くから発達した。

独自の国字と国語での詩文、文学が、対中独立後、早期に完成したこと、また地理的に海中に孤立して、陸続きではなかったことも幸いして、韓国に比べると、日本国の対中自立の完成、発展は早くて、既に9世紀頃には独自文化の確立傾向が見られた、と豪語しても良いのではないか、と小生は思う。


中国大陸からの血液、言語的影響の巨大さ

  そうは言っても、せっかく多くの日本人は、これまで、縄文時代、弥生時代と原日本人のみの時代が長く続き、ようやく飛鳥時代頃に朝鮮半島との交流が強くなり、百済滅亡後辺りに、かなり多数の百済系移民の波が日本に来訪したとはいえ、基本的に縄文時代以来日本においては「異国系の血液」は、さほど流入せず、原日本人の血液が保たれてきたし、日本語も、

縄文語 → 弥生語 → 奈良時代の古代日本語

と、外的な影響はほぼゼロで、自立的に発展してきたように思いこんでいたのが、移民・血統という面でも、或いは言語的影響という面でも、シナと韓半島の双方から、圧倒的と言えるほどの影響を、紀元前から7世紀にいたるまで受けていたことを確認することは、何か無念な心境と言えなくもない。

とはいえ、韓国人、中国人の中に、余りにも我々日本人とそっくりすぎる顔貌が多いと、以前から思っていたことも確かであり、結局、1300年前まで、とはいえ、多くの血液と、言語要素が、日本の中に導入されたことを、我々としても理解すればよいのであろう。


朝貢=臣従ではない、友好国程度の意味

  他方で、いくら海を隔てているとはいえ、国境線もはっきりしておらず、日本国家も明白には建国されていなかったような7世紀までの歴史段階で、中国本土---韓半島---日本列島に連なる民間人(華僑)による貿易経路が活発に機能していたらしいこと、これら交易も、中国側では、楽浪郡などの出先官庁(軍司令部)の有力な税収源として存在し、維持されていたことなど、岡田英弘の指摘により啓蒙されることは数多い。

  また、朝貢貿易という解釈は全くの誤解であり、中央の皇帝陛下に、楽浪郡その他の辺境地域軍司令官が、自らの傘下にある現地人酋長を招いて、種々お膳立てした上で朝貢させるという行為で、中央政府に「ごますり得点を挙げる」と言うシステムだったことも、これまでの歴史書で読んだことが無く、岡田英弘のおかげで初めて知る、目から鱗のすばらしい解説だ。貿易は貿易で、朝貢使節ではなく、華商達によって行われるのだ。

中国における「外交」の意味は、今日でも、現政権の権威付けのために外国使節らが、いかに現政権(現皇帝)に敬意を払い、朝貢してくるかを誇示すること、すなわち対国内宣伝が主目的(例えば台湾でも、未だにそうだという)と説明されると、よく分かる。

別段、朝貢=臣従ではなく、単に皇帝陛下の「高徳を慕って、遠方より来たり」(という建前を中国側の所管官庁がお膳立てする)て、挨拶するだけなのだ。

邪馬台国の卑弥呼の場合も、本当の意味で臣従したわけでもなく、「親魏倭王」の金印も、「在日名誉総領事」程度の肩書きに過ぎないらしい。

  あの広大な天安門広場、右広場に面したやたらに広大なホールの中で行われる中国首脳と外国首脳の会談風景も、主として写真とかTVカメラに映像を撮影して、国内宣伝用に配信することが目的の、そういう道具立てだと分かれば、あの空々しく見える雰囲気も、なんとなく理解が可能という気がしてくる!!
http://79909040.at.webry.info/200909/article_3.html
http://79909040.at.webry.info/200910/article_1.html

古代朝鮮からの侵略部族が、一貫して日本を支配してきた 


古代日本、とりわけ朝鮮半島が戦乱にあけくれた2世紀〜6世紀に 、彼らは日本にやってきた。当時南朝鮮は、部族連合から国家への 移行期であり、激しい戦いを繰り広げ、そこから押し出された部族 が、一族郎党で武装のまま新天地の日本にやってきたのだった。


彼らは既に鉄製の剣を持ち、戦慣れした武装勢力であり、当時の縄文人・弥生人が敵う相手ではない。西日本に侵略部族による国が、あっという間に出来 あがる。


この2世紀ごろ西日本に成立した国々は、

・邪馬台国(ヒミコ)・・・・・・・・・・後の伊勢神宮系
・狗奴(くぬ)国(スサノウ、須佐氏)・・・・・宇佐神宮(八幡宮)系
・伊都国( 葛城氏、物部氏)・・・・・・加茂神社系
・不弥国(須佐氏)・・・・・・出雲大社

・・・・など

その後も、蘇我氏(高句麗からの侵略部族、神社を持たず仏教を導入)などが相次いだ。特に6世紀中ごろの任那滅亡、7世紀中ごろの百済滅亡の際には、任那・百済の支配部族の中核・大半が日本に移住した。


ここで注目するのは、2世紀にはよく言われる邪馬台国だけではなく、既にそれと同程度の国が各地に出来上がっているということです(邪馬台国ばかりに注目するのは意味がない)。そしてそれら侵略部族は自分の氏神として神社をもっていたこと。


その後これらの国々が、せめぎあい、勢力争いを繰り広げた後に、連合して作ったのが、大和王権(朝廷)であり、天皇制であり、日本における支配制度だった。


・・・・・・その名残が、名字(姓)と神社(神道)である。

★明治前まで支配部族だけが、名字(姓)をもっていた。=氏族という血統主義によって支配階級を形成。庶民は名無しだった。


日本では名字をもっていることが、支配階級(朝鮮からの渡来部族)の証であった。それが氏族の血統の証であり、当然名字のある階級と無い階級が交じり合うことは殆ど無かったと見られること。

従って姓を持っている名家は明らかに侵略部族の末裔であり、支配階級であった。


※従来、貴族制→武家支配が日本の支配機構で、それが明治維新でなくなったというのが定説だったが、より根本的な部分にこの“氏族による血統主義”があるということ。

ヨーロッパの身分主義、インドのカースト制とも少し違うが、明確な身分制度があったのだ。


※ちなみに百姓は、元々は農民を指すのではなかった。戦国時代までは、庄屋や下級武士など支配階級の最末端であり、“その他大勢 ”という意味だった。

大きくは名字のある無しの2階級だが、細かくは、

支配氏族>百姓(下級氏族)≫平民>エタ・非人 の4階級。


これらの朝鮮からの侵略部族が古代から一貫して苗字を持ち、氏族 を名乗り、血統を保ちながら、日本を支配してきた。なので平民が歴史上に登場 することはなかった。このような縄文人の末裔のあり方は、権力に従順ともいえるし、反抗しないし欲が少ないと言う点では本源的とも言える。


★神道は、支配部族(氏族)の氏神を祭る神であり、神社は、支配部族(氏族) の邸宅or砦であり、氏族の血統主義の権化、精神的な支柱であった。


神道や神社といえば、日本古来のものというのが一般的な認識だと思うが、そうではなかった。これは“右”的な人が聞いたら卒倒するかもしれないくらいの認識転換ではある。ただ古代からの事実をおさえていけば分かることだろう。


以上のように考えると歴史上の出来事と符号してくることがある。

なぜ有史以来朝鮮への出兵を繰り返してきたか?

 ・7世紀 天智天皇:白村江の戦い 
 ・16世紀 秀吉  :朝鮮出兵 
 ・19世紀〜明治以降の天皇による:日清・日露戦争〜太平洋戦争


いずれも、天下を取ったばかりor体制変革直後の時期に、急いで朝鮮へ出兵し、失敗している。天下をとった後は本来内部の体制固めが重要な時期である、それをおいてまず朝鮮に出兵している。彼らにとっては祖国奪還であり、至上命題だったのではないか?(イギリス王朝にとってのノルマンディーに近い。)


※秀吉は、“百姓”だが農民出ではない。下っ端氏族で修験者の出 。

(修験道は、天武天皇の時代に始まったもので、日本古代版のCIA(諜報機関)である。この修験道の修験者によって、各地の情報が集められ、監視され、また天皇崇拝の世論工作が行われた。そのための忍術や各種武術(剣道・柔道)もここから始まる。)


このように有史以来の日本の歴史は、朝鮮からの侵略部族により、 原住民である縄文→弥生人が支配されてきた歴史でもある。縄文人の末裔は、従順で反抗することも少なく、プロパガンダを疑うこともなく、天皇制を崇めてきた。

その一方で、朝鮮半島からの侵略部族が数次にわたって渡来してきたが、いずれ縄文・弥生の言葉(→日本語)を話すようになり、日本に同化していったのもまた事実です。朝鮮では分かれて合い争っていた部族が日本に来たら、大連合(=大和朝廷)を組んだのが象徴的だ。
http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000801.html


古代日本史は、氏族集団間の闘争史


大和朝廷以降、日本の政治を仕切ってきたのは、氏族集団(同じ姓を持った血縁集団)であった。史上、最も長く実権を持ち続けていたのは平安時代の藤原氏である。

氏族集団が勢力争いを繰り広げ、実権を握った氏族集団が政治を動かすというこの体制は、ヤマト朝廷誕生以前から続いている。この氏族集団が、朝鮮半島からの渡来人だと考え、日本の歴史を見ていくと、日本史の意外な側面が見えてくる。


邪馬台国が成立した時の朝鮮半島は、北部を高句麗が支配し、半島南部を馬韓・弁韓・辰韓という部族集団が存在していた。

この部族同士の争いの結果、勝ち残った部族が国家を作っていく。

(馬韓→百天照済、弁韓→任那(みまな)、辰韓→新羅) 

この部族間闘争の結果、負けた部族が日本に渡り、クニを作っていく。
邪馬台国、狗奴国など、百国以上のクニが成立した。


天照大神は、日本書紀では最初「大日巫女貴(おほひるめのむち)」という名前で登場しており、太陽神を祭る巫女(=日の巫女)を示している。

女シャーマンであった卑弥呼が統治する邪馬台国の南に、男子の王を立てる狗奴国(くなこく)が大きな勢力を誇っていた。邪馬台国と狗奴国は何度も領土争いを繰り広げていたようだが、両者の和合により大連合政権が九州にできたと考えられる。


任那系渡来人と、新羅系渡来人の連合国家が九州に誕生したことになる。

九州に誕生した王権は、その後、奈良へと移動し、大和朝廷が誕生する。

この九州から奈良への遷都を描いたのが、「神武天皇の東征」である。

神武天皇以降、大和朝廷は基盤を固めていくが、西暦550年前後に、高句麗から蘇我一族が日本に渡り、朝廷内で勢力を拡大していく。推古天皇の時代には当時の諸氏族の中でも最大の勢力をほこり、十七条憲法や冠位十二階制など中央集権国家としての体制を固めていった。

当時、朝鮮半島は北部を高句麗が、南部を百済、任那(伽耶諸国)、新羅が統治していたが、562年には、任那(伽耶諸国)が新羅に吸収される。その後、唐と手を組んだ新羅は、百済、高句麗を滅ぼし、朝鮮半島に統一国家が成立する。

この朝鮮半島の混乱期に、日本に百済系渡来人が渡ってくる。中臣氏(→藤原氏)一族である。天智天皇と組んだ中臣鎌足は、蘇我一族を滅ぼし、土地制度、戸籍制度の改革を実行する。(大化の改新)

しかし、天智天皇は制度改革の途上で、滅亡した百済王家の願いを聞き入れ、百済奪還のため朝鮮半島に出兵する(白村江の戦い)。改革途上の出兵は、古代史上でも謎だとされているが、天智天皇の最大の後ろ盾であった藤原氏が百済の王族であり、彼らが一貫して朝鮮半島での国家復活を求めていたと考えれば、辻褄が合う。

天智天皇の死後、天智天皇の太子(大友皇子)と皇弟(大海人皇子)との間で後継者争いが起こる。結果、大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位する(壬申の乱)。天武天皇は、それまでの親百済政策を一転させ、親新羅政策へと舵を切っていく。

おそらく、天武天皇は新羅系王族の末裔で、壬申の乱とは、新羅系渡来人が百済系渡来人に勝利したという出来事だったのではなかろうか。実際、天武天皇の時代には、百済系渡来人・藤原氏(中臣氏)は衰亡の危機を迎えている。

この天武天皇の命により、古事記と日本書紀の編纂が開始される。

天武天皇の死後は、天武天皇の皇后が即位し、持統天皇となる。持統天皇となってからは、対朝鮮外交政策は天智天皇時代に近いものとなり、藤原氏一族が再び勢力を拡大し続ける。

これは、持統天皇が、天智天皇の娘、つまり百済系であったこととが関係していると考えられる。

この後、持統天皇系→天智天皇系が即位する時代が続いていく。


このように、朝鮮半島からの血縁集団が朝廷内に勢力を作り、氏族集団を形成した。大和朝廷成立以降、誰が天皇となり、どのような政策を取るかは、この有力氏族間の勢力図によって決まっていた。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2008/08/000797.html




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4. 中川隆[-12424] koaQ7Jey 2018年5月13日 07:44:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13906]

収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが…

暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。


『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)
「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」
「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」
「あとがき」

から要約する。


現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。

このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。

紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。

しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。

その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。

彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。

1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。 清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった。

同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。

その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。

ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。

丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。

藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。

当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。

さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。

それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。

王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。

1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。

だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。

地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。

しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。


宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。
果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。

『殴り合う貴族たち〜平安朝裏源氏物語』繁田信一著 柏書房刊

序 素行の悪い光源氏たち
藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」

によると、


988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。

橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。

ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。

この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。


これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html


暴走の源流=平安貴族2 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた

国府を焼く平忠常の乱 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族)
では、

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたこと。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。

ということを提起しました。


今回記事では、

●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めていきます。

 『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「第2章 公共事業費を横領し尽くす」から要約します。 


@収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族から生命を狙われていた。

1007年の7月1日、鎮西の大宰府において大隅守菅野重忠が殺されるという事件が起きた。

歴史書の『日本紀略』によれば、重忠を殺したのは、大宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高であった。その光高が、重忠を弓矢で射殺したのである。 こうして生命を落とした大隅守重忠は「王朝貴族」と呼ばれる人々の一人であった。彼は、受領国司として鎮西に下向した王朝貴族だったのである。従って、その重忠が非業の最期を遂げたという話は、当時の貴族層の人々に大きな衝撃を与えたことだろう。

大隈守菅野重忠を射殺した大蔵光高の父親は、1019年の「刀伊の入寇」の折に異国の賊徒を相手に奮戦するように、鎮西の軍事貴族の一人であった。しかも、大宰府の三等官である大宰大監を務めたことから見て、鎮西において相当に有力な軍事貴族であったらしい。その彼を「豪族」と呼ばずに「軍事貴族」と呼ぶのは、彼が従五位下以上の位階を持つ厳密な意味での貴族の一人だったことが推測されるからに他ならない。

ただし、大蔵種材という実在の軍事貴族は、おそらく、大隈国の有力者だったのだろう。また種材の一族は、大隅国内の権益を守るため、ときとして同国の受領国司である大隅守と衝突しなければならなかったに違いない。そして、歴代の大隅守たちの中で最も激しく種材の一族と対立したのが、寛弘4年に種材の息子によって射殺された菅野重忠だったのではないだろうか。

このように、一条天皇が玉座にあった1007年、わが国の西の辺境である鎮西において、大隅守が大隅国の軍事貴族によって殺害されるという事件が起きていたわけだが、これは、けっして希有な出来事ではなかった。

例えば、一条天皇の曾祖父にあたる醍醐天皇の治世にも、かつて本朝の東の辺境であった上野国において、同国の豪族たちが上野介を殺すという事件が起きていた。

そして1002年の年末もしくは、その翌年の年頭には、平維良という下総国の軍事貴族が、下総守の公邸である下総守館に焼き討ちをかけていたらしい。『百錬抄』という歴史書によれば、長保五年二月八日の公卿会議において、「平維良が下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国の公有財産を掠奪したこと」が議題にされているのである。

受領国司の生命を狙って守館に焼き討ちをかけるという事件は、鎮西の軍事貴族よって引き起こされている。すなわち、一条天皇の息子の後一条天皇が帝位にあった長元2年(1029)の春もしくは夏、大隅国を活動拠点とする従5位下平兼光などとともに、大隅国府や大隅守館などを襲撃して火を放ったのである。この一件でも、大隅守自身は難を逃れていたようだが、『小右記』によれば、国府・守館に攻め込んだ季基・兼元の一党は、その場に居合わせた人々を殺戮しつつ、大隅国の国有財産を掠奪したらしい。

A地元の王朝貴族(受領)は、地元の豪族から恨まれていた。その証拠として
 「尾張国郡司百姓等解」という文章があります。


■「尾張国郡司百姓等解」

永祚元年(989)の2月5日および同6日、両日の公卿会議における議題の一つは、「尾張国の百姓などが朝廷に尾張守藤原元命の違法行為を告発したこと」であった。 尾張守元命は、任国の百姓たちからのみならず、国守を助けて働くべき郡司たちからまでも、その罷免を強く望まれていたことになろう。そして、尾張国の百姓たちと歩調を合わせて朝廷に尾張守の交替を求めた尾張国の郡司たちというのは、尾張国内の各郡の統治にあたる地元出身の地方官人たちである以前に、それぞれの郡内に地盤を持つ古くからの豪族達であった。
 
ここで朝廷に尾張守元命の更迭を要求したとされている「尾張国の百姓」というのは、映画「七人の侍」やテレビドラマ「水戸黄門」に登場するような、汗と泥にまみれて朝から晩まで働き続けながらも食うや食わずの生活を送らねばならないという、貧しく憐れな農民ではない。むしろ、そうした無力な農民たちを自在に使役することによって広大な田地から膨大な収益を上げようとしていた、才覚ある農業経営者として理解されるべきであろう。王朝貴族が「尾張国の百姓」と呼んだのは、尾張国において豪族のような立場にあった人々であり、あるいは、尾張国の豪族そのものとみなされるべき人々であった。

尾張守元命の罷免を望む尾張国の百姓達は、元命の行った31種類もの違法行為を書き連ねた解を、元命の頭越しに朝廷に提出したのである。そして、その嘆願書あるいは告訴状こそが、われわれが「尾張国郡司百姓等解」や「尾張国解文」などの名称で聞き知っている文書に他ならない。

その嘆願書なり告発状なりに示されているは、郡司あるいは百姓として尾張国に根を張っていた大勢の豪族達の総意なのである。


■5種類の悪行

「尾張国郡司百姓等解」の冒頭に置かれたのは、文書の表題の役割を果たす次のような一文であった。この嘆願書もしくは告発状を朝廷に提出したのが尾張国の郡司と百姓とであるということは、ここに改めて確認されよう。

「尾張国の郡司および百姓が解を提出して朝廷によるお裁きをお願い致します。」
「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命殿は、本年を含む3カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法を行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて31ヶ条にも及びます。これが本状の趣旨です。

そこで、尾張国の郡司や百姓が数え上げる尾張守元命の不正は、おおむね、以下の5つに分類されよう。

A.不当課税および不当徴税(9ヶ条)
B.恐喝およびさ詐欺(3ヶ条)
C.公費横領(10ヶ条)
D.恐喝および詐欺の黙認(4ヶ条)
E.その他(4ヶ条)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002566.html

暴走の源流=平安貴族3 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?


任国に赴く受領(因幡堂縁起) 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族2 収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた)
では、


●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めました。

この地元の受領たちが恨まれていた証拠として、「尾張国郡司百姓等解」という書物が残っています。今日はこの書物に綴られている悪行の数々について具体的な中身を紹介していきます。


■悪用された公的融資制度

[第1条]公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

 王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なもの見えるような公的融資を行っていた。それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率と利息とを回収するというものであった。

こうして公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。しかし、これは借り手の意志を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓達は、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府から融資を受けなければならなかったのである。そしてこの融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

 結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられた上に、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

 986年に着任した尾張守藤原元命は、こうした従来よりの規定を平然と無視したという。988年までの3ヶ年に合計で2万1500石を超える額の強制融資を追加して、百姓たちから6400石以上もの米を利息として取り立てたのである。

 ちなみに、こうして元命が尾張国の百姓たちから巻き上げた米6400石は王朝時代の大半の人々にとって、一生を費やしても稼ぎ出し得ないほどの巨富であった。当時一般的な雑役に従事する労働者は、朝から晩まで働いても、一升(0.01石)もしくは二升(0.02石)ほどの米しか手にできなかったのである。そんな庶民層の人々にしてみれば、6400石というのは、数百年分から千数百年分の年収に等しい額であった。


■着服のための増税

 尾張国の富を吸い上げられるだけ吸い上げるつもりであった元命は、本来的な課税制度をも、存分に悪用したのである。

[第2条]課税対象ではない田地からも税を取り立てた。

 当然のことながら、本来は徴収されないはずの税は、徴収された後、国府の財政に組み込まれることもなければ、朝廷に上納されることもなかった。非課税のはずの田地から不当に徴収された税の行き先は、言うまでもなく、尾張守元命の懐であったろう。


[第3条]朝廷の許可を得ずに税率を大幅に引き上げた。

 違法な税率を用いて百姓達から税を取り立てた尾張守は、けっして藤原元命だけではない。王朝時代の尾張国においては、法定に倍する税率での課税が慣例化してしまっていたようなのである。だが、そんな尾張国に生きる百姓たちも、元命が986年に新しく採用した税率には、さすがに憤慨せずにはいられなかった。というのも、元命の提示した新税率が1町につき21.6石というあまりにも高いものだったからである。それは従来の違法税率の1.8倍から2.4倍の税率であり、法定税率と比較すれば4.8倍にもなる高すぎるほどに高い税率であった。


[第4条]着服するためにまったく名目の立たない税を取り立てた。

 一町につき8.4石というのは、尾張守元命が任国の百姓たちに臨時で課した特別税の税率である。これが本来の税の法定税率の2倍に近い高い税率であることは、ことさらに言うまでもないだろうが、この高税率の特別税は、一片の正当性もないまったく違法なものであった。すなわち、この税は、ただたんに元命の懐を温めるためだけに課されたものだったのである。


[第5条]前3条の不正によって毎年のように5万石を超す不当な利益を上げた。

 15万石というと、王朝時代の一般的な労働者の2万年分の年収を上回る額である。それは、当時の庶民層の人々にとって、まったく現実感のない数字であったかもしれない。だが、確かな現実として、尾張国の百姓達は3年間の間にそれだけの富を尾張守元命によって巻き上げられていたのである。


■公務としての掠奪


[第6条]絹織物の公定価格を不正に改変して事実上の増税を行った。

尾張国の百姓たちが負っていた税には、2.4町の田地について一疋(0.67メートル×15.56メートル)の絹織物を納めるというものもあった。そしてこの税の税率は、田地一町につき米2石というものとして理解されていた。


[第14条]絹織物を納付する期限を不当に早めた上に乱暴な取り立てをした。

 尾張守に就任した藤原元命には、任国の百姓の都合など、まったく考慮するに値しないものであったらしい。元命が絹織物の取り立てを開始したのは、毎年、いまだ多くの田地において田植が完了していなかったであろう5月中旬だったのである。それまでより半月以上も早く絹織物が徴収されはじめるようになったことは、尾張国の百姓たちをひどく困惑させたことだろう。

 しかも、尾張守元命による絹織物の徴収は、実に乱暴なものであった。元命の配下の徴税使は、その郎等や従者を百姓たちの家宅に踏み込ませ、徴収するべき絹織物の他、めぼしい物品の全てを、手当たり次第に奪い去ったというのである。これでは強盗団の掠奪と何ら変わるところがあるまい。いや、強盗よりも始末が悪かったかもしれない。というのは、あくまで公務を遂行していることになっていた徴税使たちには、手向かう者があった場合、尾張守元命の名のもとに容赦のない刑罰を与えることも可能だったからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002571.html

暴走の源流=平安貴族4 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?(第2回)


今回も、引き続き古文書から平安貴族の実態を暴きます!

以下引用は、繁田信一氏「王朝貴族の悪だくみ〜清少納言危機一髪〜」からです。

●熱心な取り立て

藤原元命のような悪徳受領は、ときとして、あたかも謹厳な国司であるかのような顔をすることもあった。

〔第八条〕過去の未納分の税を無関係な郡司や百姓から不当に取り立てた。

元命が尾張守を拝命した当時、どこの国の国府の帳簿を見ても、ずいぶんと昔の国司たちが取り立て損ねた税が、累積しつつ繰り越され続けているものであった。が、当時の朝廷は、そうした税を徴収することを、すでに締めていたらしい。そうした意味では、過去の未納分の税というのは、あくまでも帳符上の数字にすぎなかったのである。

そう、税の徴収が大好きな尾張守元命は、すでに時効を迎えたものとして扱われていた過去の未納分の税をも、かなりの熱意を持って完璧に取り立てようとしたのであった。

つまりその時点で尾張国内に住んでいた郡司や百姓が、まったく理不尽にも、かなり以前に赤の他人が滞納した税を負わされたのである。「尾張国郡司百姓等解」 によれば、このときの徴税もまた、掠奪さながらに実行されたらしい。


〔第十五条〕課税対象でない作物にも税を課した。

しかし、貪欲な元命は、そうした非課税の作物にさえ、徴税の手を延ばした。尾張何の隅々から、麦や豆をも容赦なく取り立てたのである。

そして、もちろん、任期中に多量の漆をせしめておくことも忘れなかった。彼の治めた尾張国には、上質の漆を産出することで知られる丹羽郡があったのである。


●不払いを決め込む受領国司

王朝時代の受領国司は、税として徴収した米を財源として、さまざまな物品の買い上げを行った。

というのも、任国にて調達した多様な物品を朝廷に上納することもまた、当時の受領たちが帯びていた重安な任務の一つだったからである。

 だが、尾張守藤原元命のような悪徳受領は、そうした公務としての買い上げの際にさえ、私腹を肥やさんとして、あまりにもえげつない不正を働いたのであった。

                                     
[第七条] 買い上げの名目で種々の物品を騙し盗った

元命が尾張守として尾張国において買い上げたのは、絹織物・麻織物・漆・油・苧麻・染料・綿といった品々である。そして、これらの物品を生産して元命に売ったのは、尾張国の百姓たちだったわけだが、その百姓たちの不満は、元命が物品を不当に安く買い上げたことにあった。そうした不公正な買い上が尾張国の百姓たちにもたらした損失は、絹織物に関してだけでも、数千疋にも及んでいたという。

貸しつけというかたちで元命のために絹織物を用立てた百姓の中には、その貸しっけを踏み倒された者もあった。


〔第九条〕借り入れの名目で大量の絹織物を騙し盗った

この絹織物の借り入れに関して、元命が一瞬でも返済の意思を持ったことがあったとは思えない。おそらく、ここでの借財は、当の元命にとって、返済するつもりなど初めからまったくない、事実上の接収だったのだろう。彼が、彼が借り入れの名目で集めた絹織物の総量は、一二一二疋にも及んでいたという。

尾張守元命が踏み倒した借り入れの総額は、当時の庶民層の人々にとって、八〇〇年分ほどもの年収に相当するものだったようだ。

ちなみに、こうした不正によって元命のもとに番えられた富を都に運び上げたのは、運送業をも営む百姓たちであったが、そうした百姓たちは、ここでもひどい目に遭っていた。


[第二十二条]物品の運送に雇った人々に不当に安い賃金しか支払わなかった


どうやら、貪欲な元命は、払うべき運賃の四割弱ほどしか払わなかったらしいのである。

●救民策の完全な放棄

 さて、尾張守藤原元命が悪辣な受領国司であったことは、ここまでに見てきたところからも、すでに十分に明らかであろう。しかし、元命の行った悪事を数え上げる「尾張国郡司百姓等解」は、まだまだこれでは終わらない。尾張国の郡司や百姓は、元命による公費横領の数々をも、かなり強い口調で弾劾しているのである。


〔第十条〕 貧民救済に充てる費用の全てを着服した

〔第十三条〕灌漑施設補修費および災害対策費の全てを着服した

地方諸国の漑漑施設の補修は、当時、受領国司たちに期待されていた重安な役割の一つであった。

また、それは、当の受領たちにとっても、切実な意味を持つ事業であったろう。任国から少しでも多くの利益を上げたかった彼らは、それぞれの任国の農業力を維持あるいは強化するため、ある程度漑施設を整えておかねばならなかったはずなのである。

しかし、王朝時代を代表する悪徳受領として知られる尾張守元命は、潅漑施設補修費および災害対策費として計上されていた六〇〇石余りの米の全てを、何のためらいもなく横領したという。

●食い尽くされた公共事業費

尾張守藤原元命が任国において横領した公共事業費は、灌漑施設補修費や災害対策費だけではない。

〔第十一条〕公的な連絡網を維持するための費用の全てを着服した。

〔第十二条〕公有の馬の飼育費および購入費の全てを着服した。


「駅」と呼ばれる施設を置いていた。そして、朝廷から諸国への命令や諸国から朝廷への報告は、駅から駅へと運ばれるかたちで、ほぼ確実に伝達されていたのである。
それぞれの駅には、多数の馬が用意されていた。駅ごとに馬を替えながら情報や使者を選ぶというのが、王朝時代の国家的な連絡網としての駅の制度であった。

また、その広域連絡網の結節点であった諸国の駅は、それぞれの国を治める受領国司の責任において維持されることになつていた。つまり、諸国に下った受領は、駅を維持するために、一定の規模の財源を確保しなければならなかったのである。

 しかし、尾張守藤原元命の場合、そうしたことに意を砕くことはなく、むしろ、駅のために支出するべき費用を丸ごと自分の懐に入れていたらしい。

そして、その尻拭いをさせられたのは、尾張国の郡司たちであったという。尾張国を治めていた三ケ年の問、同国の駅の全ては、同国の郡司たちの私財によって維持されていたのである。

しかも、これと同様の不正は、水上交通網の整備を巡っても行われていた。

   任地に赴く受領

●罰あたりな横領

〔第二十四条〕国分尼寺の再建に充てられるべき費用の全てを着服した。

王朝時代の受領国司たちは、国分寺や国分尼寺を存続させることに意を用いねばならなかった。要するに国分寺・国分尼寺の修理や改築などは、受領の責任において行われなければならなかったのである。

 ところが、尾張国の受領国司となった藤原元命は、任国の国分尼寺が火災によって失われていたにもかかわらず、けっして同寺の再建に必要な費用を支出しようとはしなかった。いや、それどころか、国分尼寺再建費に充てられるべきであった米九〇〇石に相当する財を、悪びれることなく自分のものにしてしまっていたのである。

〔第二十五条〕国分寺の僧および国分尼寺の尼への公的な布施の全てを着服した。
ここで元命が横領したとされる布施の総額は、六〇〇石強にもなったというが、それは、本来、国分寺あるいは国分尼寺において仏法を行う僧尼の生活費となるべき財であった。


●給料未払い

こうして、多様な名目の公共事業費を着服し尽した藤原元命であったが、そんな悪徳受領の元命は大胆にも、彼以外の尾張国司たちの給料にまで手を出していた。


〔第二十条〕掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう)など下級国司の給料を全て着服した。

諸国の国司としては、長官である守と次官である介との下に、文書の作成や管理などに当たる国府の書記官のような官職もあった。これら国司の給料というのは、諸国の国府が行なう公的融資の利息を財源として支払われることになっていた。しかし、尾張国では、元命がその大半を横領し、結果として、下級国司には給料はほとんど支払われていなかった。


〔第二十一条〕国府に勤務する国司以外の人々の給料の全てを着服した。


「尾張国郡司百姓等解」が国府関係者の給料に関する不正をも糾弾しているのは、右の二カ条に見える横領によって損害を被った下級国司や国府職員の多くが、毛張国諸郡の郡司を兼任する人々だったからに他ならない。つまり、ここにおいてもまた、元命によって少なからぬ財を巻き上げられたのは、尾張国の郡司たちだったのである。 

以上は、役職を利用した横領や着服ですが、次の文を見ると、配下の者を使って、直接略奪を働いていたようです。こうなると完全なギャングです。


●受領に仕える野獣たち

王朝時代の受領国司にとっては、連れ下った子弟・郎等・従者こそが、任国における悪辣な蓄財活動の実行委員であった。尾張守藤原元命、彼の子弟や郎党や従者は、尾張国の郡司や百姓から財を巻き上げるため、元気に横暴の限りを尽くし続けた。


[第十六条]徴税使が人々に贅沢な接待や土産を強要するのを黙認した。

[第二十七条]子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し取るのを黙認した。

[第二十八条]息子が馬を持つ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。

[第二十九条]子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。


 尾張守藤琴冗命の徴税便を務めたのは、当然、元命が都から連れ下った子弟や郎等や従者であった。そして、この連中は、公務にかこつけて頻繁に尾張国内の村々を訪れては、接待や土産などの名目で、郡司や百姓から多くの財を脅し盗っていた。「尾張同郡司百姓等解」によれば、そうして奪われた尾張国の冨は、数千石にも及んだらしい。

また、尾張守の威光を振りかざす元命の子弟や郎党は、尾張国の人々のもとに何か欲しいものがあれば、とにかく何でも奪い去ったという。これを「尾張同郡司百姓等解」は。「民の物を奪ひては、則ち京洛の家に運ぶ」と訴え、また、「日に見る好物は乞ひ取らざる莫く、耳に閃く珍財は使を放ちてしひ取る」と弾じる。

そして、尾張国の郡司や百姓による元命の手下たちについての総合的な評価は、おおよそ次のようなものであった。「尾張守殿の子弟や郎等の様子は、辺境に住む野蛮人と異なるところがなく、むしろ、山犬や狼のような野獣に近いほどです」。

●隠匿された法令

藤原元命が尾張守の任にあった三ケ年の間、尾張国の人々が悩まされ続けたことの一つは、ありにも頻繁に都への物品の移送に駆り出されることであった。

[第二十三条] 物品の還送のために国内の人夫や荷馬を動員することが不当に多かった。

[第二十六条]任地の大半を都の自宅で過ごして郡司や百姓からの陳情機会を奪った。

都からそう遠くない国々を預かる受領の場合、任国の支配を郎等たちに任せて、自身は多くの時間を住み慣れた都で過ごしていたのであった。

〔第三十条〕 官人身分の悪人たちを積極的に国内に連れ込んだ。


尾張守元命が下向の折に任国へと連れ込んだのは、位階や官職を持つ宮人であり、中級貴族層あるいは下級貴族層に属する人々であった。当然、彼らは、それなりに身元の確かな者たちであったろう。だが、この連中こそが、尾張守に仕える野獣の如き郎等たちの主力となったのであった.

[第三十一条]受領国司に都合の悪い新規の法令を発布しなかった。

●幸運な悪徳受領

さて、以上に「尾張国都司百姓等解」 の内容を少し詳しく見てきたわけだが、これによって明らかになったように、尾張守藤原元命がその任国において犯した罪は、あまりにも大きなものであった。

数々の悪行が尾張国にもたらした損失は、経済的なものだけを見ても、十七万数千石にもなっていたのである。それは、王朝時代において、一般労働者の二万数千年分の年収に匹敵する額であった。そして、国司の権力を振りかざして欲望のままに犯行を重ねた悪徳受領は、989年の四月五日、ついに尾張守を罷免されることになる。

右に見た『小右記』の一節に明らかなように、元命を失職に追い込んだのは、「尾張国都司百姓等解」あるいは「尾張国解文」として知られる一過の文番であった。朝廷に元命の更迭を決断させたのは、この嘆願書もしくは告発状だったのである。そして、件の「尾張国郡司百姓等解」を朝廷に提出したのは、当然のことながら、尾張国に暮らす郡司たちや百姓たちであった。

とすると、受領ぶりを遺憾なく発揮した尾張守藤原元命は、尾張国に地般を持つ豪族たちからひどく憎まれていたということになろう。そう、元命の更迭を願って「尾張国郡司百姓等解」を作成した尾張河の郡司たちや百姓たちというのは、要するに、同国に根を張る新旧の豪族たちだのである。

このことからすれば、現実には罷免されるだけですんだ尾張守元命も、ことによっては、任国の豪族たちの手により、むごたらしく血祭りに上げられていたかもしれないのである。

すでに幾つかの事例を紹介したように、受領国司たちが任国の軍事費族や豪族に生命を狙われるというのは、王朝時代において、まったく珍しいことではなかった。激しく憎まれていた尾張守元命ならば、彼に恨みを持つ豪族たちに襲撃されて血塗れの最期を迎えていたとしても、それは、実に似つかわしいことであろう。


・・・・以上が平安時代の貴族の実態です。これでも日本人か?もうこれ以上の悪は居ないだろう・・・と思うくらいですね。

でも上には上が、もっと悪い奴が居たようです。「尾張国郡司百姓等解文」という告発文により藤原元命は解任されたのですが、もっとあくどい奴は、このように告発されないように、事前に手を廻して押さえつけていたようです。次回紹介します。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002574.html


暴走の源流=平安貴族5 

自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じする貴族たち

前回までの記事は、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪についてまとめました。
 
平安貴族たちの悪行はこれだけに止まりません。
 
今回は自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じしまくった貴族たちについてまとめます。
 
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』より抜粋引用します。
  
  『餓鬼草子』に描かれている貴族の食事
 
  『餓鬼草子』に描かれている庶民の様子

 
○告発者の親兄弟を皆殺しにした『藤原文信』

尾張国の豪族たちが「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」を通じて朝廷に強く求めたのは、要するに、悪徳受領の罷免であった。そして、この国司更迭の請願は、あっさりと聞き届けられることとなった。すなわち、「尾張国郡司百姓等解」によって尾張守藤原元命(おわりのかみふじわらのもとなが)の度を越した悪辣せを知った朝廷が、永祚元年(九八九)の四月五日、元命に代わる新たな尾張守を任命したのである。

そして尾張国の豪族たちは、藤原元命の追放を成し遂げた後、その成功に味をしめてか、朝廷に受領国司の解任を要求することを繰り返すようになる。

 
 ところが、現存する史料を見る限り、藤原元命の後任の尾張守については、朝廷によって罷免されたという事実もなければ、尾張国の豪族たちから退任を要求されたという事実もない。どうやら、元命の次の尾張守は、その任を無事に務めおおせたようなのである。

そして、その藤原元命の後任の尾張守というのは、藤原実資の『小右記』の藤原文信であった。
  
尾張国の豪族は藤原元命の悪行に怒りを示し、「尾張国郡司百姓等解」を作成し、朝廷に罷免を求め、見事成功。それ以来、受領国司の解任要求を朝廷に繰り返すようになります。

しかし、元命の後任の藤原文信は地方豪族ではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪だったようです。
 


 だが、この事実は、文信が善良な受領国司であったことを示すとは限らない。また、尾張国の豪族たちが文信に好感を抱いていたことを示すとも限らない。任国の豪族たちから明白なかたちで拒絶されることのなかった尾張守文信は、ことによると、尾張国の郡司や百姓にとって、現に彼らの働きかけによって尾張守の職を追われた元命や経国などよりも、はるかに厄介な受領だったかもしれないのである。もしかすると、文信というのは、地方豪族などではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪な受領だったのではないだろうか。

というのもこの藤原文信という中級貴族には、恐ろしい前科があったからに他ならない。実は、かつて筑後守の任にあった頃の文信は、自身に不都合な筑後国の住人を抹殺しようとしたうえ、その筑後国人の親兄弟を皆殺しにしていたのである。

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朝廷が藤原文信を尾張守に任命したのは、永祚元年四月五日のことであったが、その直前となる同月一日、当の文信が暴漢に襲われて頭部に傷を負うという事件が起きていた。

そして、永祚元年四月六日の『小右記』には、次のような記述が残されている。

「藤原文信を負傷させた安倍正国(あべのまさくに)が、伊賀国の以忠(もちただ)という名前の追捕使によって捕獲されたらしい。

そこで、検非違使の右衛門尉藤原惟風(うえもんのじょうふじわらこれかぜ)が、伊賀国追捕使以忠から正国の身柄を引き取ったところ、件(くだん)の正国は、両手の指を切断されたうえ、脚をへし折られていたらしい。また、その文信襲撃事件の犯人と見られる男は、鎮西(ちんざい)において文信に父母・兄弟・姉妹を殺されたことから、その報復をしようと、文信が隙を見せるのを待っていたらしい」。

 こうして検非違使が安倍正国の身柄を確保したことで都の人々の前に明らかにされたところによれば、前筑後守藤原文信が正国に生命を狙われねばならなかったのは、かつて文信が正国の家族を殺害していたためであった。検非違使が正国の口より「鎮西において文信に父母・兄弟・姉妹を殺された」との供述を引き出したことから見て、また、正国がたった一人で家族の仇を討とうとしていたらしいことから見て、筑後守であった頃の文信は、その任国において、正国の家族を皆殺しにしていたにちがいない。

 
このように、藤原文信は安倍正国の家族を皆殺しにし、そのあだ討ちに来た正国自身も返り討ちにし殺してしまいます。しかも、両手の指を切断し、脚をへし折るという残虐なやり方で、、、

この凶暴さに地方豪族もびびってしまい、文信が朝廷に受領の任期を伸ばす要請を出しても止めることができず、長期間受領を勤めることができたようです。
  

文信の筑後守の任期は、本来、天元四年正月の四年後の正月となるはずであった。

文信が受領としてその任国から富を吸い上げ得る期間は、正規のかたちで正月に任命された受領の場合に比して、ほとんど一年間も短くなってしまうはずだったのである。

 だが、これに納得できなかった文信は、彼の筑後守としての任期を天元五年正月からの四年間とするよう、文章を通じて朝廷に願い出たのであった。そうして少しでも長く受領国司の任にあり続けようとするのは、当時の中級貴族層の人々にとって、あまりにも当たり前のことであったろう。

そして、『小右記』によれば、文信から上げられた申請が朝廷において検討されたのは、天元五年、の二月二十五日のことであったが、この新任の筑後守の切実な願いは、すんなりと承認されたものと思われる。

 
○自分の横領を知った盗人の口を封じる『伯耆守』
 

王朝時代の人物と思しき橘経国(たちばなのつねくに)は、伯耆守(ほうきのかみ)の任にあった頃、国府の倉庫に忍び込んだ盗人を、捕らえた途端に処刑したことがあった。その盗人は、四十歳ほどの男であったが、身形もよく肌の色も白かったというから、おそらくは、伯耆国に地盤を持つ新旧の豪族たちの一人だったのだろう。そして、そんな人物が盗みなどに手を染めたのは、折からの飢饉のため、食べるものがまったく手に入らなかったからであったという。
      
しかし、王朝時代のこととはいえ、ただの盗人が死刑に処されるというのは、尋常なことではない。そもそも、当時の朝廷の方に従えば、わが国の臣民を死刑に処し得たのは、日本の国の主である天皇だけであり、天皇の名代として諸国を治めるにすぎない受領たちは、その任国の住人に対してさえ、独自の判断で死刑を科してはならないはずであった。

 それにもかかわらず、伯耆守経国が盗人の処刑を強行したのは、『今昔物語集』によれば、「後の聞こえも有り」という事情を鑑みてのことであったらしい。つまり、同様の犯罪の再発を防ぐため、敢えて盗みの罪を犯した程度の罪人に死刑を科したというのである。

 だが、『今昔物語集』が語るのは、経国の本音ではあるまい。

 というのは、伯耆国府の倉庫に忍び込んだ盗人が、そこには何もないことを目撃していたからである。これは、『今昔物語集』も認める事実であるが、国府の倉庫が空になっていたというのは、受領国司が国府の財を横領していたことの動かぬ証拠であろう。そして、そんな重大な証拠を握ってしまった盗人を、悪徳受領が放置するはずはなかったのである。
 
当然、筑後守藤原文信も、国府の倉庫に入った盗人を生かしてはおけなかっただろう。また、その盗人が倉庫の中で見たことを彼の家族に話したとすれば、盗人本人のみならず、その家族までもが、文信に生命を狙われることになったにちがいない。そして、安倍正国の家族が皆殺しにされた理由は、もしかすると、こんなところにあったのかもしれない。

 
前稿でまとめたように、当時の貴族達は横領を当たり前のように行っていました。そのため、倉庫が空になったのだと思いますが、それを知ったものは口封じのため容赦なく殺されたようです。
 
藤原文信が安倍正国に命を狙われたのもこんなやりとりがあったからかもしれません。
 
 
○殺人を隠蔽する『常陸介』 

 ところで、王朝時代において、受領国司が任国の住人を殺害するというのは、少しも珍しいことではなかった。いや、むしろ、当時の受領たちについては、殺人の常習犯であったと見ておいた方がいいようにさえ思われる。

 しかも、自分の犯した殺人の罪を姑息に隠蔽しようとするのが、王朝時代の受領たちの常であった

常陸国(ひたちこく)において同国に住む公侯有常(きみこのありつね)が殺害されたのは、万寿元年(一〇二四) のことである。そして、その頃に常陸介(ひたちのすけ)として常陸国の受領国司であった平維衡(たいらのこれひら)が朝廷に報告したところによると、有常の生命を奪ったのは、常陸国住人の公侯有材(つねもと)であった。
 ここに登場する公侯有常と公侯常材とは、それぞれの氏名から推測されるように、おそらく、かなり近い親類であったろう。 

しかし、常陸介維衡によれば、そんな二人の間でおきてしまったのは、あろうことか、生命のやりとりであった。つまり、万寿元年に常陸国で起きた殺人事件は、同国の責任者として事件の捜査を指揮した維衡の言うところ、親類間のいざこざが激化した末の悲劇だったのである。
 
だが、万寿二年の三月、都の貴族社会の人々は上の殺人事件に関して、それまでに得ていたのとは全く異なる情報を与えられることになる。
 
 同月二十六日の『小右記』から知られるように、前年より公侯有常殺害事件の犯人と見なされていた公侯常材が、みずから朝廷に出頭したうえで、有常の最後について「国司の為に殺される」と証言したためであった。

結論から言えば、有常殺害事件に関する事実は、常材が捨て身で告発した通りであった。
すなわち、同年七月二十一日の『小右記』によると、維衡の後任の常陸介となった藤原信通(のぶみち)が、朝廷の指示に従って事件の捜査をやり直したところ、かつて犯人断定の決め手とされた被害者の妻の証言は、維衡によって捏造されたものだったのであり、また、そうして常材を殺人犯に仕立て上げた維衡こそが、有常殺害の真犯人だったのである。

 
常陸介は自分に都合の悪い人間を殺しておきながら、それを他の人間、しかも親縁に罪をなすりつける
 
○書生に帳簿を改ざんさせ口封じのために殺した悪徳受領『日向守』
 

 地方諸国の国府に勤める下級事務職員として「書生(しょせい)」と呼ばれた人々も、その本来の姿は、それぞれの国に根づいた豪族であった。それゆえ、任国の豪族たちから富を吸い上げようとする悪徳受領にしてみれば、公式には彼の下僚ということになっている書生たちも、けっして信頼できる部下などではあり得なかっただろう。いや、それどころか、現に国府の事務処理に携わっていた如くに読み書きに長じていた書生たちは、いつ受領国司の不正を告発しないとも限らない、どうにも厄介な存在であったにちがいない。

 一方、その書生たちの側でも、任国で蓄財に励むことしか考えていない悪徳受領に対しては、けっして気を許すわけにはいかなかったはずである。とくに、何らかの事情で受領国司の不正行為に手を貸してしまった書生ともなれば、不正の露見を未然に防ごうとする悪辣な上司に消されてしまわないよう、つねに警戒していなければならなかったことだろう。

 そして、実際のところ、日向国の国府に勤務していた一人の書生が、若くして生命を落とさねばならなかったのは、強いられてのこととはいえ、悪徳受領である日向守(ひゅうがのかみ)の不正の片棒を担いでしまったがゆえのことであった。

 その日向守某が手を染めていた不正の多くは、おそらく、「尾張国郡司百姓等解」が弾劾する違法行為や脱法行為と同じものであったろう。すなわち、問題の日向守もまた、尾張守藤原元命と同様、さまざまな機会に不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領といった悪事を働き、郡司や百姓として任国に暮らす豪族たちから、多くの財を巻き上げていたと考えられるのである。

 それにもかかわらず、この日向守の場合、受領国司としての任期を全うすることができたわけだが、任期満了を迎えた日向守某は、後任者の下向を待つ間、それまでに多くの不正が行われてきた痕跡を消し去ることに余念がなかった。すなわち、自身の行った不正が次の日向守によって暴かれることのないよう、何か辻褄の合わないところのある書類を徹底的に洗い出し、それらを全て整合性のあるものへと書き直していったのである。当然、それは、かなり根気の要る作業であったろう。

 そして、この困難な隠蔽作業のために重用されたのが、かねてより日向国府に出仕していた一人の書生であった。機転が利くうえに字も上手かったという彼は、国府の一室に監禁され、二十日ほどもの間、書類を改竄する作業を続けさせられたのである。


もちろん、切れ者であった書生は、自身が悪事に関与していることに気づいていた。が、日向守某の従者たちに厳しく監視されていたため、逃亡することもかなわず、命じられるままに偽装書類の作成を続けるしかなかったという。

 しかも、こうして意に反して不正行為に荷担することになった書生は、その役割を終えるや、彼に不正への関与を強いた悪徳受領の勝手な都合により、あっさりと殺されてしまう。『今昔物語集』巻第二十九第二十六の「日向守口口□□の書生を殺す語」という話によれば、書類の改竄を完了した日のうちに、日向守某の郎等に射殺されたのであった。

日向守某が私利私欲のためにまったく非のない書生の生命をを奪ったというのが、正真正銘の史実であったとすれば、やはり、『今昔物語集』の編者としては、「日向守□□□□」の氏名を明かすわけにはいかなかったにちがいない。

 
このように、平安貴族達は自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じしまくっていたようです。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002575.html

うーん、漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらないですね。  


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5. 中川隆[-12423] koaQ7Jey 2018年5月13日 07:47:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13906]

朝日新聞10月31日付け日本史研究者の磯田道史氏(慶応・宇都宮大で非常勤講師)が「一様でなかった武士身分」というタイトルの論文を寄稿している。彼は著書「武士の家計簿」(新潮社)でヒットを放ち、この9月、東大出版会から「近世大名家臣団の社会構造」を上梓。日本各地の生の古文書を読み説いてきた。彼の今回の論文の論旨を以下にまとめた。

1 戦後、江戸期庶民(商家・農民)の研究は進んだが、意外なことに、今日まで武士については謎だらけで来た。

2 武士身分というのは「かなり空虚なものであることが分かった。」

3 武士クラスはさらに三クラスからなっていた。
この「武士身分の中にこそすさまじい差別構造があった」。またそれぞれの階級ごとに生活スタイルは大きい違いがあった。


a エリート武士:侍(士分)クラス=家老・番頭・物頭・平士=(袴がはける。私服勤務)(結婚は20歳代前半で子沢山で長寿)(家督相続なのでボンクラでかまわない。)

b 非エリート武士:徒士(かち)クラス=(袴がはける。私服勤務)(結婚は30前後で子が少ない。貧困であるため)(事務員仕事なので、相続の際に、読み書きソロバンの能力が要求された。)

c 最下層武士:足軽とそれ以下の奉公人クラス=(袴も足袋も許されない。外出は裸足が強制された。制服勤務)(百姓・町人から「も」採用されたが、a,bクラスに昇進はほとんどできなかった。)(農村に住み、牛馬を飼い、農業をするのが普通であり、兵農分離という実態ではなかった。)

a,bはcに対し土下座をさせるのは当たり前だった。熊本藩などではa,bは威光が強く、cを「切り捨て御免」する法令をもっていた。

4 近代革命
欧州=被支配者が支配身分を打倒
日本(明治維新)=支配身分内の潜在的対立(これが日本史の流れを左右したというのが磯田氏の見方)

5 現代日本の組織文化と江戸の藩組織と通底すること

ア エリートと非エリートの差の待遇が大きい。非エリートの出世は「鉄の天井」が容易されている。現代でも国家公務員のキャリアとノンキャリアの壁は強固
イ 現代社会でも総合職は私服、一般職は制服。


3 江戸初期は藩主や家老会議が物事を決めていたが、時代が下ると、藩主は家老会議に出席せず、決定実務は家老会議(最高意思決定機関)が担っており、しかしそれも形式化した。藩主は象徴にしかすぎなかった。「おぼっちゃん家老」が下から来る案件書類にひたすら判子を押すだけとなった。

有能な非エリート武士が毎日毎日規則・慣例にしたがって膨大な書類を製作し、それを上(「何もしない空っぽの頂上会議」)にあげた。(「膨大な無駄書類がまるで真空ポンプに吸われるように、猛烈に上がっていく。」)(「藩がどうなるかは自分の仕事ではない。それはエリートの仕事。今日提出する書類が大事だよ」ーそんな感じで、つつましく暮らしを守っている。これが私(磯田氏)に見えてきた「藩」組織の姿だ。)


「藩も武士もなくなった現代だが、こういう組織文化は現代の我々の政府,我々の社会,我々の学校に受け継がれていないか。」

このような形で論文は結ばれている。

日本風俗図会集から大名行列の絵が引かれているが、たしかにcクラスは裸足だ。時代劇を見ることがあったら、cクラスである足軽の足を見て欲しい。もし、わらじなどを履いていたとすると、時代考証がまちがっていることになる。足軽以下は裸足だったのだ。

注目すべき指摘のひとつは日本の近代革命の本質が、支配者層内の対立が主力となっていたという点。また、現代の組織文化は江戸の藩組織文化の延長線にあるのでは、との指摘だろう。つまり藩という官僚組織のシステムが、今日のあらゆる組織の母系(matrix)になっているという点だ。

士農工商というクラス構造の中でさらに武士階層が厳しい3クラスに分かれていた。もちろんトップに天皇がいた。事ほど左様に、日本のヒエラルキー構造は厳しく構築されていた。武士が武士以外の階層の人間を問答無用で殺傷できるだけでなく、武士が武士を問答無用で切り殺すことが法令上許されていた。なんと、非人間的な社会原理なのだろうか。

わたしは、戦後に生まれ育ったことのありがたさを死ぬほど思う。切り殺される恐怖から逃れているからだ。権力の発生は武力を持つものと持たないものというクラスを誕生させ、人間と人間の間には真の意味での信頼や協力の関係は発生しない。信頼や協力の原理が存在しない社会は、心底寒々しい。実際、武力の脅威に晒されて生活するのは到底耐えられない。

阿修羅で天皇制や武士といった支配層を、美学がある、またはノブレス・オブレージなどといって美化する人たちには強い疑問を感じる。たとえば、ノブレスなんとやらは、あくまで、権力ヒエラルキーを容認する立場のものの見方である。

もし仮にこうした権力ヒエラルキーないし特権階層を病理と見定めているなら,このノブレスなんちゃらの概念それ自体を否定する必要があるだろう。これは一つのセットの考え方なのだ。ノブレスの考え方など持ち込むから、特権階層を思い上がらせ、ひずんだ美意識をよりもたせるようになるのである。また、人に一方的に他人に土下座を強要したり、外を歩くのに裸足を強制したり、問答無用で切捨て御免などという人間として倣岸不遜・夜郎自大の態度に生きる人間に美学を感じるという人は根本から精神が腐敗しているとしかいいようがない。それがいかに根腐れした考えか自覚ができないなら、人間をやめることをおすすめする。餓鬼なのだ。そしてこの倣岸不遜さ・夜郎自大さで、アジア進出を図ったものである。アジアを襲った日本の軍人は「武士」ぶった餓鬼である。アジア・アフリカを襲い苦しめた白人の餓鬼ぶり・傲岸不遜ぶりと、同質のものであり、何の違いもない。

またトップが無責任化し、意思決定機構が空洞化する傾向をもつことは、官僚制において不可避の病理であることを改めて、確認させられる。
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/387.html


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