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アインシュタインの科学と生涯 目次I 第一部
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投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 04 日 01:24:58:YTmYN2QYOSlOI
 

(回答先: アインシュタインの科学と生涯 目次I 投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 04 日 01:22:42)



 


アインシュタイン


●はじめに

 20世紀---われわれは、悲劇的で苦悩に満ちた二つの世界戦争を経験した。それは人類史上人間が犯した最大の罪悪であり、そして、最も愚かな行為であった。他方、20世紀における科学技術と医学の進歩は、めざましいものであった。われわれは現在、その恩恵を受けている。科学技術の進歩は、人間の生活を豊か、かつ快適にし、医学の進歩は、かつて「不治の病い」といわれた病気を治癒させることができるようになった。しかしながら科学の進歩にともなう急激な技術革新はわれわれに恩恵だけではなく害悪をも、もたらした。すなわち、地球規模の環境問題に、われわれは、いま直面している。

 20世紀は、夢・希望の世紀でもあり、不安・混沌の世紀でもあった。この世紀の初め、アインシュタインは「相対性理論」により、万人の宇宙観を変えた。彼の理論は、理論物理学の分野にとどまらず、思想、哲学にまで影響を及ぼし、彼をして新しい時代の預言者たらしめた。アインシュタインは、いかにして、彼の理論を作り上げたか? また、アインシュタインは、一人の人間として、どのように生きたか? このウェブは、アインシュタインの伝記を中心に、彼の科学、思想を解き明かし、そして、アインシュタインの人間像にも迫るものである。

 なお、本ページの「おいたち」から「旅路の終わり」までの内容は、「神は老獪(ろうかい)にして…/アインシュタインの人と学問 アブラハム・パイス(Abraham Pais)1982年」及び「アインシュタイン イギリス BBC制作 1996年」etc.をもとに編集したものである。アインシュタインの肖像写真の著作権はイスラエル・ヘブライ大学に帰属する。

●特殊相対性理論と一般相対性理論

「特殊相対性理論(special
relativity)

 運動している物体の速度は、静止している人が見た場合と一定速度で走っている車の中からみた場合では、当然、異なって見える。ところが光の速度は、静止している人が測定しても、走っている車の中で測定しても、まったく同じである。この矛盾を解決するため、アインシュタインは、1905年に発表した特殊相対(性理)論で、われわれが無反省に使っている時間や長さの概念を、根本的に変えなければならないことを示した。すなわち、静止している人にとっての時間や長さと、走っている人にとっての時間や長さは、別のものだというものである。これから、多くの一見奇妙な結論が導かれたが、それらはすべて実験で確かめられた。その中では、反応の前後で物質の質量(重さ)が減少すると、その分だけ運動エネルギーは増加するという、質量とエネルギーの同等性が、特に有名である。現在では、特殊相対論は物理学者の言語の一部となっている。

一般相対性理論(general relativity)

 静止してる時計や物差しと、一定の速度で走っている時計や物差しとの関係を問題にするのが特殊相対論であるが、アインシュタインは、1916年に提唱した一般相対性理論で、加速度運動をしている時計や物差しにまで、問題を一般化した。これからニュートンの万有引力(重力)が自然に導かれる。空間と運動からなる四次元空間は、たとえていえば球面の上のような曲がった空間で、その曲がり方が重力を表している。この理論は、アインシュタインの抽象的思考の産物であったが、その後いくつかの実験で実証された。アインシュタインの方程式の解から、空間の中に、ブラックホールという奇妙な場所があることが示された。宇宙物理学は一般相対性理論に基づいて論じられる。」(現代用語の基礎知識より)
 

●アインシュタインってどんな人?

 アインシュタインのイメージといえば「親しみやすい風ぼう」が上げられる。彼はフォトジェニック(photogenic:写真うつりのよい)なのだろう。でも本当に、親しみやすい人だったのだろうか。

 こんな逸話がある。

 ある日、ある子供が、「近所に有名な数学の先生が住んでいる」と聞いて、さっそくその数学の先生(実はアインシュタイン)のもとを訪ね、算数の宿題を手伝ってもらった。本当に、そんなことがあったのかどうかは分からない。

 人間誰しも、いい面と悪い面を持ち合わせていると思われるが、アインシュタインの場合もそうである。
 


 まず、いい面としては、以下のことが挙げられよう。
 


■彼は、努力家であった。彼は『一般相対性理論』の完成後、研究に打ち込みすぎて無理をしたせいか、風ぼうが変わるほどの大病を患っている。

■彼には、ユーモアのセンスがあった --- 以下は、1921年、アインシュタインのアメリカ初訪問の際のニューヨーク港での新聞記者とのやりとりである。

 記者:相対性理論の内容を一口で説明するとどうなりますか。

 アインシュタイン:もし、あなたが、私の返事を、あまりくそまじめに考えないで、冗談半分できいてくださるなら、私は次のように答えることができます。今までの理論では、もし宇宙から、すべての物質が消え失せてしまったとしても、なお時間と空間は残っているとされていましたが、相対性理論によれば、もし宇宙から、すべての物質が消え去ってしまえば、時間と空間もそれと一緒に消え去ってしまうのです。

 記者:相対性理論を本当に理解することができる人は、世界中に十数人しかいないということですが、それはほんとうですか(注:アインシュタインは、一般相対性理論の最後の原稿を出版社に渡したときに『これを理解できる人物は世界中に12人より多くない』といったとか、いわなかったとか)。

 アインシュタイン:相対性理論の説明をきいた物理学者はだれでもそれを理解するでしょう。現に私が相対性理論を講義したベルリン大学の学生は、みんなそれを、よく理解してました。

 記者:一般大衆には、とうてい理解できないような高度の物理学の理論に対して、一般大衆が、かくも熱狂的になるのはなぜでしょう。

 アインシュタイン:それは精神病理学の問題でしょう。

これらの質問がようやく終わったところで、

 アインシュタイン:私に対する試験は、これで合格にしていただきたいと思います。

■彼は、世界中の人々から歓迎されるような独特の雰囲気を持つ人物であった。
 


 他方、悪い面としては、以下のことが挙げられよう。
 


■彼の皮肉と口の悪さ。

 バーナード・ショー(この人も口の悪さが有名)わが親愛なるアインシュタイン君、きみはきみの書くことを、ほんとうに、よく理解しているのかね。ひとつ正直に言ってみてくれんかね。

 アインシュタイン:あなたが、あなたの書くものを理解しておられる程度にはね、バーナードさん。

■彼は「がんこ」だった --- これはまた、いい面でもある --- 確かに、がんこじゃないと「一般相対性理論」みたいな大仕事をとても完成できなかっただろう。彼はまた、がんこにも生涯の最後の30年(30年もの間)を「統一場理論」の研究に費やし、その天才の時間と労力を使い果たしたが、その成果を見ることはなかった。そして、彼は、「量子力学」を、最後まで認めようとしなかったが、それは、本人も認めるがんこさだった。

■彼には孤高癖があった---アインシュタイン曰く「私は、単独で走る装備をつけた馬のようなものです。二頭だてや集団はだめなんです」彼は科学者としては孤立的であった。そして、おそらく人間的にもそうだった。

■彼は自分の理論が絶対に正しいと思っていた --- 彼は一般相対性理論が、皆既日食の観測によって証明されたとき、こう語っている。『イギリスの観測隊が、たとえ何も見なかったとしても、私はただ神を気の毒だと思うだけです。私の理論は正しいのです。一般相対性理論は、間違いとするにはあまりに美しすぎます。観測結果と矛盾するはずがありません』--- 彼はまた、量子力学との論争の中で傲慢にも『神はサイコロをふらない』という言葉をはいている。

■彼は、平和主義者としては自己矛盾していた --- なぜなら彼は、ルーズベルト大統領宛の原爆開発を促す手紙にサインした。

■彼は家族に冷たかった --- 彼は二度結婚し、二度とも失敗している。彼は、科学の探求のためには、家族をかえりみず、家族を犠牲にしたエゴイストであった。「私は予測不能の人間関係から身を引き、孤立を守るすべを学びました。人生は、油断すれば、しがらみばかりが増えていきます。とくに、結婚などは…」


 アインシュタインは、20世紀を代表する天才 --- 神から知恵を授かった賢者であり、しかも、努力の人だった。また、常識にとらわれない自由人であり、変人でもあった。そして、アインシュタインは、スピノザの神、つまり宇宙そのものを神として信じていた。

 

●おいたち

おさないころのアインシュタイン

 「224番。ウルム(注:ミュンヘンから西へ約130km)、3月15日、1879年。本日、商人ヘルマン・アインシュタイン、住所ウルム市バンホフ通り135、信仰ユダヤ教、個人的には知っている、は下に署名する登録官の前に現れ、男子の出生を告げた。名前はアルバート、ウルムの彼の住居で生まれ、母親はパウリーネ・アインシュタイン、旧姓コッホ、ユダヤ教のもとに生まれた。3月14日、1879年、午前11時30分。読了、確認、署名:ヘルマン・アインシュタイン。登録官、ハルトマン。」

 1944年、バンホフ通りの家は空襲で破壊されたが、出生証明書は今でもウルム文書館で見い出される。アルバート・アインシュタインは、1879年3月14日午前11時30分、ドイツの小都市ウルムに生まれた(1999年が生誕120年に当たる)。アルバートはヘルマンとパウリーネの二人の子供のうち最初の子供であった。1881年11月18日、彼らの娘、つまりアルバートの妹、マヤが生まれた。二人は仲の良い兄妹だった。(注:下の写真は妹マヤとアインシュタイン)

アインシュタインとマヤ

 アインシュタイン家は「同化主義射的傾向」(つまり、ユダヤ人でありながら、ドイツ人に同化しようとする傾向)を持っていた。アルバートは、話し始めるまでに異常に時間がかかったので「知恵遅れ」かとはじめは心配された。しかし、後には、その心配はすぐに消え去った。

 父親ヘルマンは、羽根ぶとんの商売をしていた。アルバートと両親の関係は調和のとれた、愛情あふれるものであり、母親が、より強い性格を備えていた。彼女は才能あるピアニストで家庭内に音楽を持ち込み、子供たちの音楽教育は早くから始まった。マヤはピアノ演奏を習った。アルバートは6才頃から13才頃までバイオリンの指導を受けた。バイオリンは彼の大好きな楽器となった。ちなみに、アインシュタインの好きな作曲家は、シューベルト、モーツァルト、バッハ、ビバルディ、コレッリ、スカルラッティであり、ベートーベンの重く劇的な部分には惹かれなかった。ブラームスは特に好きではなく、ワーグナーは嫌いだった。ついでに、彼の好きな画家は、ジョット、フラ・アンジェリコ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、レンブラントで、キュービズム、抽象絵画には無関心であった。

 さらに、彼が好んだ文学についてもあげておこう。アブラハム・パイスは次のように記している。「文学についてのアインシュタインの習慣と好みについては私は、はっきりした描像をもっていない。次のリストは彼の好んだ作家を手あたりしだいに並べたものであるが、どのくらい完全か、どのくらい代表的なものであるかは不明である。ハイネ、アナトール・フランス、バルザック、ドストエーフスキー(『カラマーゾフの兄弟』)、ムジール、ディッケンズ、ラーゲルロフ、トルストイ(民話)、カザンツアキス、ブレヒト(『ガリレイの生涯』)、ブロッホ(『ヴィルギリウスの死』)、ガンジー(自叙伝)、ゴーリキー、ハーシー(『アダノの鐘』)、ファン・ルーン(『レンブラントの生涯と時代』)、ライク(『第三の耳で聞く』)」

 父ヘルマン・アインシュタインは、飾り気のない心のやさしい、そしてどちらかというと受け身的な人間で、すべての知人から愛され、文学を好み、夕方には、よくシラーやハイネを家族に朗読してきかせた。ヘルマンの弟、ヤコブ叔父さんは、数学の問題を出してくれた。問題を解くと「(アルバート)少年は深い幸福感を味わった」。アルバートが10才から15才まで規則的に家庭を訪れるマックス・タルムートが、彼の教育に重要な貢献をした。タルムートは、貧乏な医学生で、毎週木曜日、夜、アインシュタイン家の夕食にやってきた。彼は、アルバートに科学の通俗書を読ませ、後に、カントの著作も与えた。二人は、科学と哲学を論じて何時間も過ごした。アルバートはまた、自分自身で数学の勉強を続けた。12才のとき、彼はユークリッド幾何についての小さな本をもらった。後に彼は、その本を神聖な幾何の本と呼んでいる。「その内容の明晰性と確実性は、私に言い表しようのない印象を与えた。」12才から16才まで、彼は独学で微分と積分を学んだ。

 ヘルマンの羽根ぶとんの事業はあまり成功したとはいえなかった。アルバートの誕生のしばらく後に、ヘルマンの弟ヤコブ(実業家的で精力的な弟だった)は、ミュンヘンで、小さなガス水道工事店を始めようと提案した。ヘルマンは、それを承諾し、自分と妻パウリーネの資産の大部分をその事業に投資することになった。1880年(アルバート1才のとき)に、ヘルマンとその家族はミュンヘンに移った。その2〜3年後、ヤコブはもっと大きな野心をもって、ミュンヘンの発電所と照明システム用の発電機、アーク灯、電気測定装置をつくる電機工場を始めようと提案した。これらの計画は1885年、家族からの、特にパウリーネの父親からの資金援助によって実現され、この会社は1885年5月6日に正式に登記された。

 アインシュタインの回想「4才か5才の頃、父は、コンパスを見せてくれました。どんなに動かしても針は常に一定の方角を示しています。それを最初に見たとき、コンパスがこれほど確かな動きをするという事実が、世界に対する私の考え方を変えました。それまで私は、何かものを動かすには、それに触れなければならないと思っていました。しかし、あの瞬間、
物事の背後には深く隠された何かが、存在するはずだということに気がついたのです。」

 謎めいたその何かとは「電磁気」と呼ばれるものだった。自然界にある、基本的な力としての電磁気の発見は、19世紀物理学における最大の進歩であり、まもなく大きな技術革命をもたらすことになった。

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