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アインシュタインの科学と生涯 目次I 第二部
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投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 04 日 01:26:46:YTmYN2QYOSlOI
 

(回答先: アインシュタインの科学と生涯 目次I 第一部 投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 04 日 01:24:58)


●就職および「アカデミー・オリンピア」



 「アカデミー・オリンピア」

 コンラット・ハビヒト、モーリス・ソロヴィーヌ、アインシュタイン



 「ETH」における、アインシュタインの最終的な成績は、理論物理学、実験物理学、天文学について「5」、関数論「5.5」、熱伝導についての小論文「4.5」、(いづれも最高点は6)であった。ただし、友人のマルセル・グロスマンが、きれいな完全に整理された講義ノートを、貸してくれたお陰であった。

 1900年8月(アルバート21才)、アインシュタインは大学を卒業し、専門教師の資格を、他の3人の仲間と一緒にとった。他の3人はそれぞれ「ETH」の助手の地位をただちに与えられた。5人目の学生、ミレーバは、卒業試験に合格しなかった。そして、アインシュタイン自身は、職を得られなかった。これは、アインシュタインにとって手痛いことだった。ウェーバーが、助手の職を約束していたのに、その約束を破った。(ウェーバーとの対立がわざわいしたのだ。)アインシュタインは、ウェーバーを決して許さなかった。

 悪いことは重なり、イタリアのパヴィアでは、父親の会社が倒産した。アインシュタインは、必死で仕事を探す。収入がなんとしても必要だった。父親ヘルマンも息子の就職に力を尽くした。次のような手紙が残っている。



 「拝啓 教授 息子のために、お願いに上がる図々しい父親を、どうかお許し下さい。息子は、職のない現在の状況を深く嘆いております。今や自分には、何の希望もないという思いが日に日に強まり、さらに、息子は財力の乏しい家族にとって、自分は重荷なのではないのかという不安にさいなまれています。もし、息子に助手の仕事を見つけて頂ければ、心より感謝申し上げます。 ヘルマン・アインシュタイン」



 アインシュタインは、北は北海から、南はイタリアの南端まで、あらゆる物理学者に礼を尽くして、就職口の問い合わせをした。良い返事は一つもなかった。しかし、やっと、アインシュタインは、臨時の職を見つけた。1901年5月19日から、彼はヴィンターツールの高等学校で2ヶ月間の代理教員となった。ヴィンターツールの後、もう一つ臨時職が舞い込んできた。1901年9月から1年間、シャフハウゼンの私立学校に任用された。

 一方、1900年頃、友人のマルセル・グロスマンが、家族にアインシュタインの無職の状態について、話したことが幸いした。この話を聞いて、グロスマンの父親はベルンの連邦特許局長官フリードリヒ・ハラーに、アインシュタインを推薦した。アインシュタインは、この推挙を深く感謝した。この件は、1901年12月1日になって特許局の空席がスイス連邦公報に広告されるに及んで実現することになった。アインシュタインは、直ちに応募の手紙を送った。途中で一度、彼はハラーの面接を受けた。おそらく彼はそのとき、採用の何らかの保証を受けたのであろう。いずれにせよ、彼はシャフハウゼンの職を辞め、任用される前ではあったが、1902年2月にスイスの首都ベルンに落ち着いた。初め彼は家族からの少ない仕送りと、数学および物理学の家庭教師の収入で生計を立てた。彼の教え子の一人は彼を、次のように記述した。



 「背丈(身長)は約5フィート10インチ(1.76m)で、肩幅はひろく、少し前かがみで、薄茶の膚、官能的な口許、黒いひげがあり、鼻は少しわし鼻で、輝く茶色の眼、快い声、フランス語を正しく話すが少し訛りがある。」



 モーリス・ソロヴィーヌと出会ったのはこの時期である。「善良なソロ」は初めは家庭教師としてアインシュタインの教え子だったが、終生の友人となった。アインシュタイン、
ソロヴィーヌ、およびもう一人の友人、コンラット・ハビヒトは定期的に会い、哲学、物理学、文学を、プラトンからディッケンズまで論じた。彼らは厳粛に「アカデミー・オリンピア」(上の写真)の創立者で唯一のメンバーであると宣言し、一緒に食事(典型的なのはソーセージ、チーズ、果物、紅茶だが)をし、概してすばらしい時を過ごした。

 そうこうする内に、スイス連邦評議会によるアインシュタインの任命の手続きがすんだ。1902年6月16日、彼は特許局の3級技術専門職に就き、年俸は3500スイス・フランであった。

 アインシュタインの回想「意外でしょうが、私にとって特許局は、大学よりずっとよい就職口でした。もし、大学の職員になっていたら、早く論文を仕上げろと、せっつかれたことでしょう。さいわいにも、そういうことからは自由だったんです。」



●恋愛、結婚、父の死



ミレーバとアインシュタイン


 「愛しい人よ、きみに出会う前、ぼくは一人で、どうやって、生きていられたのだろう。きみなしでは、ぼくは自信もなく仕事への情熱も、人生へのよろこびもありはしない。つまり、きみなしでは、ぼくの人生は人生ではない。」

 アインシュタインのミレーバへのラブレターである。

 「1898年2月 拝啓 手紙を書きたいという思いが募り、最終的に、あなたの厳しい批評の目に自分をさらすまいという自意識は、こうしてうち負かされてしまいました。」

 アルバートとミレーバは次第に自分たちは、同じタイプの人間だと考えるようになる。

 「1899年8月 ぼくたちの精神的生理学的生活の、なんと密接なことか。ぼくたちは、たがいの暗いたましいを、よく理解し合い。もちろん、コーヒーをのんだり、ソーセージを食べたりするのも一緒だ。」

 アインシュタインが、就職活動をしていた頃、ミレーバとの恋愛を、両親が問題にし始める。

 アインシュタインの両親は、ミレーバとの結婚に強く反対した。ミレーバは自立しすぎていたのだ。母親(下の写真)はおそらく、ああいう人は、難しい本ばかり読んで、食事も作らず、靴下をつくろったりもしないとでも言ったのだろう。一緒になるなら、私は死ぬなどと。まあ、母親はたいていそういうことを言うものだが、とにかく、ミレーバとの結婚は、もうれつに反対された。



パウリーネ


 「1900年7月 愛する人よ ぼくの両親の言いぐさには、もう我慢ができない。きみが卒業試験に落ちたときのことだ、母が、『あなたの可愛いミレーバは、なんになるつもり?』というので、ぼくの妻だと答えてやった。すると、母はベッドに身を投げ出し、『お前は自分の将来を台無しにしている。子供でもできてごらん。なにもかもめちゃくちゃよ』と言うんだ、それで、ぼくの堪忍袋の緒も切れた。ぼくらの関係を侮辱することは許さない。」

 1901年の春、二人は北イタリアの町コモ(ミラノの北約50km)で一時を過ごす。この事実は、初期のラブレターから、ごく最近、明らかになった。

 「可愛い小さな魔女よ コモに来ておくれ。きみにとって、ほんのわずかな時間しかかからないし、ぼくにとっては、天にも昇る歓びなのだから。満ち足りた明るい心と、その明晰な頭脳を持ってきておくれ。すばらしいところに案内するから。」

 ミレーバの方は、次のように書き残している。

 「わたしはコモへ行った。あの人が腕を広げ、胸をおどらせて待つ町。そこで半日過ごし、ミラカルロッタ(館の名前)を訪れた。自分のそばに、自分のために、愛する人がいてくれて、どんなに幸せだったことか。しかも、彼も同じ幸せを感じていることがわかる。」

 二人が訪れた館、ミラカルロッタの入り口広間には、今も『エロスとプシュケ』の彫像がおかれている。二人もこの像を眺めたことであろう。

 数週間後、アルバートのもとに、ミレーバが妊娠したという知らせが届いた。それから数ヶ月、ミレーバはチューリッヒで大学卒業の試験を受ける準備を進める。アルバートは臨時の教員の職を得て、スイス中を飛びまわっていた。

 「愛する人よ 結婚したら、一緒に科学の研究を続けよう。教養のない俗物として、年をとりたくないからね。今、きみ以外の人はすべて、目に見えない壁の向こうにいるようで、よそよそしく感じるんだ。」

 上記で述べたとおり、アインシュタインは、1901年9月、チューリッヒ近郊のシャフハウゼンの私立学校に臨時的に任用された。一方のミレーバは、チューリッヒを出て、別の町に隠れるように移り住んだ。はためにも、妊娠が分かるようになっていたため、同じ町で、彼と一緒にいるところを、見られるわけにはいかなかったからである。ライン川の滝を訪れる観光客に紛れて、二人はひそかに会うしかなかった。結局、ミレーバは卒業再試験にも失敗し、科学者になる夢は消えた。彼女は、ハンガリーの両親のもとで出産するため、スイスを去った。アルバートが、きちんと就職しなければ二人は、結婚できなかった。いらだちがつのる中、ようやく朗報が届いた。

 「愛しい人よ 昨日、友人のマルセル(グロスマン)から手紙が来た。彼の話によると、ベルンの町でのぼくの就職が、本決まりになったらしんだよ。喜びでめまいがしそうだ。でも、きっとぼくよりも、きみの喜びの方が、大きいだろうね。」

 アインシュタインはすぐさま、スイスの首都ベルンに向かった。特許局に就職が決まったのだ。

 ベルンで、彼が真剣に、物理学の研究を再開した頃、ミレーバは、両親のもとで出産した。1902年1月のことだった。子供は女の子で、「リーゼル」と名付けられた。これは、ごく最近、明らかになった事実である。リーゼルが、生まれた後に起きた一連の出来事は、アインシュタインにとって、それまで経験したことのない大きな試練であり、激しい苦痛をもたらした。ミレーバにとってはさらに、つらい体験だったであろう。

 アインシュタインの手紙「愛する人よ きみが望んだ通り、女の子だったかい? 健康かな? 泣いている? こんなに愛しているのに、ぼくはまだ会ってもいないんだね。ぼくたちが、まず解決しなければならない問題は、どうすれば、リーゼルを手元に置けるかということだ。ぼくはこの子を、絶対に手放したくない。」

 しかし、スイスの公務員になったばかりのアインシュタインにとって、それは職を失いかねないスキャンダルだった。二人は、数ヶ月間、この問題と格闘し、ついに決心した。リーゼルを手放すことにしたのだった。アインシュタインは、一度もリーゼルに会うことはなかった。リーゼルは、まもなく病気になり、その後、すべての記録が消えている。

 リーゼルが生まれた同じ年、アインシュタインは、イタリアの実家に帰った。父ヘルマン(下の写真)が、病を得て死の床にあったのだ。アインシュタインと父親の関係は、とても複雑だった。アインシュタインは、父親の事業が傾きつつある時期に、多額の学費を負担させていたことに、強い罪悪感を抱いていた。また、アインシュタインは、自分は父親のように、失敗したくはないと思い、成功できなかった父親を厭わしく感じる一方、誰よりも強く父親を愛してもいたのだ。

 アインシュタインの回想「私は父の最期を見とりたかった。それで、部屋に入り、少し話をしました。そのとき父は、結婚を許してくれたのです。でもすぐに、もう行ってくれといって、壁に顔をそむけました。その日、父は死にました、たった一人で。」



ヘルマン


 アインシュタインは、どこか人間離れした人物として、理解されがちである。感情を否定し、すべてを超越したような感じだ。しかし、父親の死は、やはり大きなショックだった。それ以来、もう2度とこんな思いはしたくないと、考えたのかも知れない。

  アインシュタインの回想「
あれが、私にとっての転換点でした。人間というのは、はかない存在ですが、そうしたことに、いつまでも捕らわれていてはいけないと、あのとき悟ったのです。私のようなタイプの人間の真髄は、考えることにあります。感じることではないんです。」

 父ヘルマンの死から、数カ月経った1903年1月、アインシュタインは、ミレーバと結婚した。



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