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「縄文時代はよかった。」で?どうやって縄文時代のいい所を取り入れるのか?
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/430.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 7 月 17 日 16:38:25: YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: Re: 縄文文化から我々は何を学べるのか? 投稿者 ジャン 日時 2005 年 7 月 17 日 10:30:04)

ジャンさん、レスありがとうございます。

このスレッドは雑談板の

縄文文化こそ人間の生き方の原点です
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/106.html
投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 7 月 16 日 07:51:14: egUyw5BLxswRI

の縄文ビトさんの投稿に触発されて設けたものです。
縄文ビトさんは縄文時代に学ぶ事が多いと主張されております。
「戦争が無かった。」とか「人々は協力し合って生きていた。」
という事がその主張の根本にあると思います。
つまり、人が人を支配する事が無かった時代だとおっしゃりたいのだろうと思います。

彼は、権力の廃絶を訴えられております。
縄文時代には権力は無かった。
昔にできていた事ならこれから努力してできる事では無いか?
とおっしゃりたいのだと推察致します。

私はこの点を非常に疑問に感じております。
人間は社会的動物であり、集団を形成する事で自らの生存を確保しようとします。
その為に様々な集団のシステムを作ってきました。
その中に社会のルールとそれを強制する権力の存在があります。
権力と言えば人々を支配する悪いものであるというイメージがありますが
人間は社会の全ての構成員にルールを守らせる為に必要悪としての権力を作らざるを得なかったのでは無いか?と思うのです。

現在の権力は資本家階級の権力です。
この権力に対抗する為に私は資本家から税金を徴収する対抗的権力が必要だと思っておりますが、縄文ビトさんにとっては私のこの考えは受け入れられないものなのです。
縄文ビトさんは、縄文時代に権力が無い状態があったのだからこれからもそのような「無権力社会」を作る事は可能だとお考えなのでしょう。
しかし、その方法論は総合的には示されません。
ホームレスの人を雇って縄文ビトさんの主張を書いたプラカードを持たせてデモをさせるという事が唯一提出された方法論です。

このスレッドは以上のような問題意識の上に設けたものです。
よろしくお願いします。

ジャンさん>縄文時代をどう捉えるか。果たしてそこに戦争はなかったか?

採集や狩猟エリアを巡っての小競り合いぐらいは無かったのか?
などと考えますが、もちろん、そのような記録は無く、記録が無いだけに
自由にユートピアとして夢想できる時代になってしまっているようにも思えます。

ジャンさん>久しぶりに覗いたので経過がよくわかりませんが、
案外、このことは、歴史教科書問題などとも関係があるかもしれませんね。

日本史の最初の部分をどのように記述するかは大いに問題でしょう。
日本民族はどのように形成されたのかの前段部分です。

ジャンさん>事の是非はともかくとして、おそらく、エンゲルスの「家族、私有財産及び国家の起源」に大きく影響を受けたであろう日本の歴史学に対抗し、それを否定しようとする扶桑社歴史教科書。

その事は私は知りませんでした。
扶桑社の歴史教科書は「日本と日本人」の物語を新たに捏造し、排他的愛国心を注入する事が目的であるように思います。
「大東亜戦争がアジアの人々に勇気を与えた。」というような調子で。

ジャンさん>国家が、私有財産制度の発展と階級間の対立の産物としてではなく、

ジャンさん>白村江の戦い や 中華圏からの脱却 を通じて、
まさに、他国からの侵略とその防衛が国家の起源であるかに説く。

排他的な国家形成史ですね。

ジャンさん>縄文時代には、戦争がなかったという考え方は、
単純にそれだけでは、扶桑社の歴史教科書を否定するものにはならない。

ジャンさん>縄文時代に関する議論の意味は何なのか?

資料が乏しく、それだけにいかようにも解釈可能な縄文時代について語る事は
これ自体が「物語の捏造」の危険性を孕むものです。
考古学の成果を縄文ビトさんはおっしゃいますが、
資料が少ない縄文時代をモデルにして現在社会の変革の方向をさぐる事が果たして生産的な議論に成り得るのか?という事を考えたいと思います。
「ロマンがあっていい。」という程度のお話であればそれでもいいですが。

【縄文時代】
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

【縄文時代 じょうもんじだい】
http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/215950.htm

〔貧富の差の少ない社会〕
(1)社会…血のつながりのある人々が共同生活をいとなみ,獲物は公平に分け,道具などは共有で,身分や貧富の差はほとんどなかった。(2)信仰や風習…太陽・月・山などの自然を神としてうやまい,信仰した。魔よけや,豊富な獲物の獲得・家族の繁栄などを祈ったと考えられる土偶(人形の土製品で,女性をかたどったものが多い)がつくられた。死者は手足を折りまげた屈葬にされ,ある年齢にたっすると前歯をぬく習慣や,いれずみの習慣もあった。


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コメント
 
1. 中川隆[-10656] koaQ7Jey 2018年4月20日 12:26:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11449]
「縄文時代はよかった」のは食べ物だけだよ

縄文食はアイヌ食として伝わっているから、アイヌ料理を食べればいいんだ:


アイヌの食文化


今の日本では、お金を出しさえすれば、世界中のどんな食べ物でも手に入れることができます。しかし私たちの置かれた環境に感謝し、そこから得られる糧に満足して生きてきたアイヌの人々の暮らしと、 今の暮らしを比べると、アイヌの人々の暮らしのほうがずっと豊かであったのではないかと思えます。

ここでは、アイヌの人々の食文化をご紹介したいと思います。

アイヌの食文化


アイヌの人たちには、主食にあたるものはありません。

一汁一菜といえば、和食であれば汁物・おかず1品にご飯ですが、アイヌ料理では、そのまま汁物1品とおかず1品のことを指します。お米は日常食ではなく、儀式の際に大量に使われるおさけを作るための大切な材料として利用されていました。


神(カムイ)の自然と生きる生活


アイヌの人たちは自然のすべてのものを、神(カムイ)としてあがめ、日々信仰の中に生きてきました、したがって儀式に欠かせないお酒は大変貴重なものでした。
その原料となる米も大変大切にされ、普段の食を満たすために使われることはほどんどありませんでした。

食事の回数は1日に2〜3回、で季節や労働の内容によって変わることもありました。

アイヌの人たちにとって、大地は神(カムイ)の肌であり、大地にはえている草や木は神の衣服にあたります。むやみやたらと木を切り倒したり、大地をけずって畑を耕すということはしませんでした。

農耕をおこなわなくとも、ふんだんにある自然の木の実や植物を自分たちが必要な分採取し、食していたのではないかと思われます。

厳しい北海道の自然の中で生き抜く食の知恵


厳しい北海道の気候のなかで生活していたアイヌの人々は寒さに大変強い民族だといわれています。 冬の期間、ビタミンなどの補給に必要な植物の補給ができません。そのためアイヌの人々は、タラなどの魚の肝臓から「魚油」をとり、保存食として利用していたようです。

「魚油」はビタミンを大量に含む優れた栄養食品であり、植物が採れない期間、利用されていたようです。

その他に、ビタミンが豊富ですぐに熱に変わる脂肪をたくさんとっていたこと、
細ンしておいた山菜をふんだんに使っていたこと、そして何よりも、食事は大変うす味で、減塩食だったことがきびしい冬も元気に過ごせた理由だといわれています。

アイヌの食の紹介


チェプオハウ(魚汁)


アイヌの人たちには、私たちのご飯やパンのような 「主食」にあたるものはありません。

一汁一菜といえば、和食であれば汁物・おかず1品にご飯ですが、アイヌ料理では、そのまま汁物1品とおかず1品のことを指します。

お米は日常食ではなく、儀式の際に大量に使われるお酒を作るための大切な材料として利用されていました。
http://www.town.shiraoi.hokkaido.jp/ka/sankei/syokuzai/ainu.html#ainu2

オハウ ohaw(煮込み汁)

獣肉や魚肉、山菜、野菜を鉄鍋で煮込んだ汁物。単なるスープに留まらず、鍋料理とも言えるほど具沢山の汁物で、「主食」が存在しない狩猟・漁労民族であるアイヌの食生活の中心を成す料理だった。現在、北海道の郷土料理として名高い石狩鍋、三平汁の起源とも言われている[2]。

具材に特に決まりはないが、大体以下の様な方法で調理される。


1.鍋に水を張り、獣骨や小魚の焼き干しを入れて火にかけ、出汁を取る。

2.大まかに切り分けた肉、魚を入れて煮る。乾肉、乾魚の場合は時間をかけて煮る。この際、アクは取り除かない。

3.野菜は根菜などの煮えにくいものから入れ、つぎに繊維の多い山菜、そして葉物野菜を入れる。それらが柔らかくなるまで煮込む。

4.動物性脂肪、魚油、少量の塩で味を整え、最後に風味付けとして焼き昆布の粉末、乾燥させたプクサ(ギョウジャニンニク)をふりかける。


※肉のアクが気になるようであれば、後から入れる野菜や薬味に吸わせる。


中心となる具材からそれぞれ

「チェプオハウ」(cep ohaw 魚汁)、
「カムオハウ」(kam- 肉汁)、
「カムイオハウ」(kamuy- 熊汁)、
「キナオハウ」(kina- 野菜汁)

などと呼ばれていた。ニリンソウは汁と相性が良いため「オハウキナ」(ohawkina 汁の草)と呼ばれ、具材として特に好まれていた。

ラタシケプ rataskep(野草による煮物や和え物)
直訳すれば「混ぜたもの」。山菜や野菜、豆類を柔らかく汁気が無くなるまで煮込み、軽く潰してから獣脂、魚油、少量の塩で味を整えた料理。 日常食としても作られるが、儀式の供物や振る舞いには欠かせない、ハレ食である。


使用する材料によって限りない種類がある。


シケレペキナラタシケプ sikerpekina rataskep
乾燥させたシケレペキナ(ヒメザゼンソウ)を湯で戻してから、弱火で数時間、汁気が無くなるまで炊く。食べやすい大きさに刻み、獣脂と塩少量で味を整える。


プクサラタシケプ pukusa rataskep
豆を柔らかくなるまで炊き、プクサ(ギョウジャニンニク)の茎を加えてさらに炊く。獣脂と塩で味を整える。 チスイェラタシケプ cisuye rataskep 初夏に採集したチスイェ(アマニュウ)で作る。豆を炊いて柔らかくなったところにチスイェを加えてさらに炊き、獣脂と魚油で味を整える。


かぼちゃラタシケプ kampoca rataskep
豆を柔らかくなるまで炊き、切干にして保存しておいた南瓜を水で戻して入れ、さらに炊く。南瓜が煮崩れたところで、塩と魚油で味を整える。香辛料としてシケレペ(キハダ)の実をふりかける。


チポロラタシケプ cipor rataskep
「チポロイモ」とも呼ばれる料理。馬鈴薯は皮ごとゆでる。別の鍋にチポロ(筋子)を入れ、弱火で潰しながら半煮えにする。茹で上がった馬鈴薯は皮をむいて厚切りにし、先ほどの煮えたチポロを入れ、塩を加えてよく混ぜる。


ニセウラタシケプ nisew rataskep
ニセウ(どんぐり)は殻を取り、渋皮つきのまま数回ゆでこぼしてアクを抜く。ここにあらかじめ水戻ししておいた豆を水と共に入れ、沸騰したら煮汁を捨てる。再度水を注いで全体が柔らかくなるまで煮込み、玉蜀黍の粒を入れてさらに煮る。好みの柔らかさになったら米の粉を入れ、全体を練り上げる。塩と脂で味を整え、出来上がり。


サヨ sayo(粥)

ピヤパ(稗)やシアマム(米)で炊いた薄い粥。大抵は穀物のみで炊かれるが、山菜などを炊き込む場合もある。農耕民族のような「主食」としての粥ではなく、脂こい汁物や焼肉、焼き魚で腹を満たしたのち、「口直し」として茶のようにすすられるものである。そのため脂気が混じらないように、それ専用の小鍋で炊かれる。盛り付けの際も、掬うカスプ(お玉杓子)は汁用とは別のサヨカスプ(粥杓子)を用い、汁の味が混ざらないよう気を配った。


このサヨには、以下の種類がある。


トゥレプサヨ turep sayo
トゥレプ(オオウバユリ)から澱粉を採集した際の澱粉滓を醗酵させた保存食オントゥレプ(on turep)を入れた粥。まず硬く乾燥したオントゥレプを臼で搗き砕き、水で戻す。水の沈殿物で直径3センチほどの団子を作り、稗の薄い粥に入れてさらに炊く。

トゥレプの球根の鱗茎を入れた粥も、同じ名前で呼ばれる。


イルプサヨ irup sayo
オオウバユリのイルプ(澱粉)を団子にして入れた粥。


エントサヨ ento sayo
山菜の一種であるエント(ナギナタコウジュ)を入れた粥。独特の香気が好まれる。


サッシラリサヨ satsirari sayo
トノト(どぶろく)を作ったときにできるシラリ(酒粕)を、粥に入れる。


キキンニサヨ kikinni sayo
キキンニ(エゾノウワミズザクラ)の皮を入れた粥。


チポロサヨ cipor sayo 米で粥を炊き、チポロ(イクラ)を入れる。生イクラを使ったチポロサヨは、秋にしか食べられないごちそうである。それ以外の季節は、サッチポロ(sat cipor 乾燥筋子)を入れた粥を作る。

シト sito(団子)


チセ内部に飾られた漆器類。儀礼の際はシトやトノト(どぶろく)を盛り付ける。(北海道開拓記念館)

団子。名称の「シト」は、大和言葉でペースト状にすりつぶした生の穀物や団子をさす「しとぎ」と同系統とされている[1]。かつて穀物の精白や製粉を臼による手作業でこなしていた時代は、その手間ゆえに贅沢な食品。日常の食品としてよりも、イオマンテ(熊送り)やイチャルパ(祖霊祭)その他、ハレの日の供物やご馳走して作られることが多かった。


材料はメンクル(黍)、ムンチロ(粟)、シアマム(米)。時代が下がればエモ(馬鈴薯)、カンポチャ(南瓜)も材料として加わった。日本の草餅と同じく、ノヤ(ヨモギ)を混ぜ込んだ「ノヤシト」も春の味として好まれていた。


作り方は以下の通り

1.精白された穀物を一晩水に漬ける。水から上げたのち、一晩水を切る。

2.穀物を臼に入れ、数人でイウタウポポ(杵搗き歌)を唄い調子を取りながら搗いて粉にする。

3.出来上がった粉を湯で練上げ、直径7、8センチ、厚さ1センチほどの大きさに丸める。

4.大鍋に沸かした湯で、鍋底に焦げ付かないように注意しながら茹で上げる。


茹で上がったシトは、供物にするならばそのままシントコ(sintoko 漆塗りの桶)、パッチ(patci 木鉢)、オッチケ(膳)に盛り付けるか、ミズキの串に刺した巨大な串団子「ニッオシト」にして神前に捧げる。

人間が食べる際は、チポロ(イクラ)を半潰しにしたものか、焼いた昆布を砕き、脂で練ったタレをつける。

チタタプ citatap(肉や魚のたたき)

チタタプというアイヌ語を訳すれば、「チ・タタ・プ」(ci-tata-p 我々が・たくさん叩いた・もの)。その名の通り、魚のたたきである。


以下は、代表的な作り方。

1.鮭のアラ、頭、白子をイタタニ(丸太を輪切りにして作った俎板)に乗せ、鉈のような重みのある刃物で刻み、叩く。

2.ペースト状になるまで叩いたら葱、メンピロ(ノビル)、プクサ(ギョウジャニンニク)のみじん切りを薬味として加える。

3.焼き昆布と塩で味を整える。


鮭以外でも、スプン(ウグイ)、ウッタプ(カスベ)、イチャニウ(マス)、チマカニ(カジカ)などあらゆる魚、さらにユク(鹿)、キムンカムイ(ヒグマ)、モユク(狸)、イソポカムイ(兎)、さらにルオプ(シマリス)などの獣肉も刻んで薬味を加え、チタタプに加工された。老いた獣の肉は固いことが多いので、チタタプに加工すれば食べやすい。


これらのチタタプの鮮度が落ちた場合は、つみれのように汁に入れる。


イオマンテ(iomante)の際は、熊の脳のたたき、「チノイペコタタプ」が作られる。

材料は熊のほほ肉、脳味噌、葱、塩。儀式で飾り付けた熊の頭から脳味噌を取り出し、あらかじめゆでて刻んだ熊の頬肉と混ぜる。薬味として葱を効かせ、塩で味付けする。熊送りの際しか作られない貴重な料理なので、量も少ない。儀式を司るコタンの有力者から、掌に直に下賜される[2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%96%99%E7%90%86


40. 2012年9月22日 15:38:29 : IXP8eKUhLM
朝は食べない=> まだ体が排出の準備をしているから。
おなかがなるまで食べない=> それが本当の体のサインだから。

自炊・粗食をつづける=> そのほうが体が元気になるから。

日本食を見直す=> 田舎の本物の味と本当に元気な老人たちを知っているから。

体の芯を強くして、体をいつも動かす=> ご飯を本当においしい、ありがたいと感じるから。

自然と触れ合う=> 自然の大切さが食の大切さを教えてくれるから。

早寝早起きをする=> 太陽と月が体のリズムを支配しているから。

笑う=> 心が疲れていると体は元気になれないから。

41. 中川隆 2012年9月22日 15:49:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


アイヌ民族の「食」


かつて、アイヌ民族の暮らしを支える営みは、森や川、海などの自然を基盤とした狩猟、漁労、採集、農耕であり、それで得た産物を使いおこなわれた交易でした。
季節を通して暮らしに必要なものを入手します。

北の地に長い冬が終わりを告げるころ、森では雪解けの水をたっぷりと吸い込んだ木々が芽吹き、ギョウジャニンニクやニリンソウ、フキなどの山菜を採り、川ではイトウ漁がはじまります。

森の緑が濃くなる頃、畑にはアワやヒエを蒔き、初夏、オオウバユリの鱗茎からデンプンを採取する。真夏の沖ではメカジキ漁、川ではマス漁がおこなわれます。

秋、川では遡上する鮭を迎える祈りとともにサケ漁が解禁され、森ではキハダやクルミなどの木の実やきのこを採取しました。

一面を雪に覆われる冬は山猟の季節、シカやキツネ、テンなどを追い、それらの良質の毛皮は交易品としても利用されてきました。


「かつて」という時間は結構あいまいでひとりひとり微妙にイメージする時代が違います。例えば100年とか150年前のことなのか、つい10年前のことなのか、個々の時間軸の捉えかたでイメージされる時代はさまざまです。しかし、アイヌ民族の文化を紹介する様々な冊子やインターネットなどで得られる情報の多くが、上記のような生活でありますが、これは現代のアイヌの人々の生活ではなく、いわゆる私たちアイヌ民族にとって一番身近な伝統の時代の文化なのです。

食に関していえば、食材も豊富で、和食からフレンチ、イタリアン、中華などいろいろな食文化に溢れた時代現代であるにも関わらず、ことアイヌ民族の食文化に関しては、ある一定の時代の枠のなかに閉じ込めた、今なお何の変化もしていないかのようなイメージで語られることは少なくありません。

文化を考える時、その時間軸を外してしまうことでさまざまな誤解や偏見を生むことがあるので気を付けたいものですね。


(1)料理のアイヌ語名

・オハウ(ルル) 汁もの

アイヌ料理の中で一番ポピュラーというか基本的なメニューに「オハウ」や「ルル」と呼ばれる、塩と油(脂)で味付けをした、具のたくさん入ったスープがあります鹿肉を使ったものは「ユク(鹿)オハウ」「ユクル」、山菜がたくさん入っているものは「キナ(野草)オハウ」、「キナルル」などと呼ばれます。


・ラタシケプ(ボツボツ) 煮込み?あえもの?

山菜類、野菜類や豆類などからつくる料理で、数種類の材料を混ぜ合わせて煮るものが多く、味付けには油脂や塩が用いられます。ほとんど汁気のない料理で、「オハウ・ル(汁もの)」「サヨ(粥)」「チサッスイェプ(ご飯)」以外の料理のほとんどが「ラタシケプ」に相当します。

ラタシケプ種類も多く、その素材は地域や家庭によっても違いがあります。日常食として食べたり、儀礼など祭事のごちそうとしてもつくられます。

・ その他 ・チタタプ(たたき?) ・サヨ(粥) ・シト(団子)

・チサッスイェプ(飯) ・ルイペ(解けるもの) ・フイペ(生のもの)他
(2)調味料について(甘み、しょっぱみ、酸味、からみ、薬味)

・油=脂:タラ、イワシ、サメ、アザラシ、シカ、クマ、※(甘いもの)

・海水(を使用したという事例もあった)、

・塩

・昆布、魚の焼き干し、骨、※(だしをとる際に多く使われる)

・植物=キハダの実、チョウセンゴミシ、ヒメスイバ、サンショウ、ヤマブドウ
ヒメザゼンソウ、ミツバ、ギョウジャニンニク、ナギナタコウジュ等々)

・その他 樹液(イタヤカエデ、クルミ、樺)
みそ、しょうゆ


(3)スム(油)

アイヌの料理に油は欠かすことのできない調味料のひとつです。甘みをだすために使われるほか、ビタミンが豊富なので栄養のバランスやエネルギー源としても大切なものです。陸獣、海獣、鳥、魚など植物以外のいわゆる動物性の脂(油)が使われました。油の常温での形は、固形、液体のものがあります。


●魚油の形状:常温で液体。

魚油の種類:イワシ油、ニシン油、タラ油、サメ油、マンボウ油
油の採取:


@肝臓だけを煮る。空鍋に肝臓を入れじっくり焦げないように弱火で煮る。脂分がしみだしたら、ザルや晒布などで濃す。何度か繰り返すことできれいな油が取れる。

A湯を沸かした鍋に肝臓を入れ煮る。油が浮いてきたら、上の部分を杓子ですくい、息を吹きかけながら油と水分をわける。

B魚全体を鍋で煮る。油が浮いてきたら上の部分を杓子ですくい、息を吹きかけながら油と水分をわける。


●陸獣油の形状:常温で固形、又は半固形

油を採る陸獣の種類:クマ、シカ、タヌキ、

油の採取:

@ 脂身だけを煮る。空鍋に薄切りにした脂身を入れ、焦げないように
火にかける。油分がしみだしたら、別容器にとる。

A湯を沸かした鍋に骨(骨は割って髄が溶け出しやすいようする)や脂身などを入れ煮る。油が浮いてきたら、上の部分を杓子ですくい、息を吹きかけながら油と水分をわける。


(4)食材の確保について

・狩猟 ・漁撈 ・採集 ・農耕 ・交易

※江戸時代すでに栽培されていた作物
粟、稗、黍、麦、大豆、小豆、などの雑穀及び豆類
蕪、ジャガイモ、大根、葱、カボチャなどの野菜類
※移入品 米、塩、みそ、糀 等


(5)食材の保存法

@乾燥 (茹でて乾燥、焼いて乾燥、生で乾燥、発酵させて乾燥、寒干)
A燻製 (乾燥に関連する)
B塩蔵 ほとんどされなかた
C冷凍 冬の一定期間
D土に埋ける 冬の一定期間(凍れないよう)


例えば:

肉の保存 茹でて乾燥
魚の保存 寒干、焼いて乾燥
山菜の保存 生で乾燥、茹でてから乾燥、醗酵させて乾燥
木の実の保存 生のまま乾燥
穀類の保存 乾燥
根菜類 乾燥、凍れさせて粉にして乾燥
油の保存 海獣や陸獣の内臓(胃、膀胱 など)


・当日のメニュー

1)チェプオハウ(鮭のスープ)
2)チマチェプ(焼き鮭)
3)メンクルチサスイェプ(イナキビご飯)
4)ペネコショイモ(凍れ芋)
5)エントウセイ(ナギナタコウジュのお茶)


・チエプオハウ(魚汁)の作り方

材 料:・サケ ・ジャガイモ ・大根 ・昆布 ・人参 ・長ネギ ・他山菜
・ギョウジャニンニク ・塩 ・タラの油

作り方

1)大根、人参、ジャガイモは皮をむいて適当な大きさに切り、鍋に入れて煮る。

2)野菜が煮えたらサケを適当な大きさに切って入れる。この時、肝臓などがあれば一緒に入れる。

3)サケが煮えたら塩と油で味付けする。(内臓が入る場合は油をあまり入れなくてよい。)

4)昆布はカリカリに火にあぶって揉み砕いたものを入れ、乾燥したギョウジャニンニク、ネギも鍋に入れ、蓋をして蒸す程度にさっと煮たせて出来上がり。


・メンクルチサスイェプ(イナキビご飯)の作り方

材 料:・米 ・イナキビ ・塩 ・油

作り方1)米とイナキビをといで、塩、油を適量いれて炊く。

※水量はふつうにご飯を炊くよりも少し多めが良い。


・ペネコショイモ

材 料:・ペネコショイモ ・片栗粉 ・砂糖 ・塩 ・油


作り方

1)冬の間外で凍れさせたジャガイモを乾燥させたペネコショイモを水にもどし、何度か水を取り替え、晒しの袋などに入れ水切りをしておく。

2)水切りをしたペネコショイモに、片栗粉を混ぜて練り、砂糖と塩で味を調え適当な大きさの団子にし、フライパンに油をひき、焼く。

http://www.coleman.co.jp/event/winter/bbw_0903.pdf?PSID=o3jdhodr7852t7umu9quo1j6h6


42. 中川隆 2012年9月22日 15:53:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


2010.2.12 アイヌの伝統食をまるごと体験!オントウレプ食べてみよう 


昨年7月に手稲山でオオウバユリの根を採取し、みんなでデンプン作りをしました。
http://teinesato.blog.so-net.ne.jp/2009-11-13-5


オオウバユリのアイヌ語名を「トウレプ」といいます。デンプンをとったあとのオオウバユリの根の繊維を発酵させ、乾燥させたものを「オントゥレプ」といいます。アイヌで保存食として利用されていました。

今回も安田千夏さんに講師をお願いしました。


「昔のアイヌの冬の暮らし」についてクイズを交えてお話いただきました。つくづくアイヌは究極のサバイバル術のエキスパートだと感心するエピソードばかりでした。アイヌの男性のたくましさは素敵だなあ〜〜とうっとり・・・なかでも「クマにであったらどうするか?」の本の紹介とエピソードはびっくりでした


このドーナツ型の物体が繊維を発酵させたものです。これから乾燥させるのです。


実は乾燥させたものは3個あったのですが、(かちかちに乾燥したものはなんとも動物の糞のようないでたちなのですが)2個紛失してしまいました。これは乾燥したものを細かく削っているところです。


本当は削ったものを水に浸しておくとボウルの底にデンプンが沈殿するのです。それをスプーンなどでお粥に落とすとトゥレプサョ(ウバユリ粥)になる・・・はずでした・・

1個では少なすぎてデンプンは取れなかったので今回は急遽、イナキビ入りのお粥、アイヌの人が食べていた「魚の汁」(チェプオハウ)と「シバレイモ」(ペネコショイモ)団子をつくることになりました。


「魚の汁」(チェプオハウ)です。今回は鮭を使用した三平汁です。鱈なども内臓ごと使っていたようです。

当時、塩は交易で手に入れなければならなかったので貴重だったようです。実際食べていたものはかなりの薄味だったようです。私達は現代風にアレンジしたいただきました。ポイントはギョウジャニンニク」(プクサ)とあぶった昆布を砕いていれるところです。


調理風景です。


これが「シバレイモ」(ペネコショイモ)です。真冬に外に出しておき凍ったジャガイモを水で何度もアクだししたものです。みなさん少し凍ってしまったジャガイモを食べたことがありますか?すこしクセのある匂いがします。

あんな感じです。


砂糖を少し加えて団子状にしてホットプレートで焼きます。これはとても美味しかったです!もちもちっとしていて焼くと香ばしくほんのり甘く・・また食べてみたいです。


完成しました


いただきま〜〜す

前回のオオウバユリの採取から7ヶ月、採取→加工→調理の過程をみんなで学ぶことができました。

昔のアイヌの人たちは食べ物を粗末にすることなく最後の最後まで智恵をしぼり使い切る究極のエコの精神を持っていたんだなあ・・と尊敬します。そして食べ物になる植物の子孫が絶えることがないようにルールをつくって採取していたことも学ぶことができました。自然、食べ物、いのちに感謝する気持ちが自然にわきあがってきます。

いのちを身近に感じ、感謝し生きていきたいです。
http://teinesato.blog.so-net.ne.jp/2010-05-07


43. 中川隆 2012年9月22日 16:07:56 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


アイヌの人々は肉を食べる場合には動物の新鮮な内臓を例外として、生で食べることはあまりありませんでした。

肉を食べる場合にはほとんどの場合、汁ものに入れて煮たものや焼いたものを食べていました。

魚類を食べる場合には串に刺したものを焼いて食べたり、天日などで乾燥させたりしたものを汁ものに入れて煮たものを食べていました。獲ったサケを冬期に屋外で凍らせてそのまま食べることもありました。


ラタシケプは山菜や蔬菜、豆類などを汁気が無くなるまでしっかりと煮込んで魚脂や獣油、海水などを使って味付けを施して鳥獣肉、魚肉は使いません。

カッコウの初鳴きを合図として、一年分の山菜を採って乾燥させて収蔵し終えたところに、夏がやってきて畑仕事が始まります。昔のアイヌには稲作は行われていなかったのですがアワやヒエあるいはイナキビのような穀類と豆類、蕪などを昔から栽培していました。

山の物ではヤマブドウやクロミノウグイスカグラ(ハスカップ)のような果実は生で食べましたが、山菜類は魚や肉などと一緒に汁に入れて煮込んだり、お粥やご飯などと一緒に炊いたりして食べるものでした。

雑穀類を焚いたチサッスイェプや雑穀類を焚いて焦がして作ったスウケプ、シト(団子)などはイオマンテのように大きな儀礼の時に食べられる特別料理であって祖先や神々も一緒に食べて、楽しむとされていました。
http://www.islanddistinctiveoccasions.com/hokkaidob/


アイヌ語でオハウもしくはルルという魚や鳥獣肉、山菜などの具が沢山入った汁ものを主食としていました。

入れる材料によって多くのバリエーションをもっています。

副食として食べられていたものはアイヌ語でサヨというお粥でその種類もヒエ粥、アワ粥、ギョウジャニンニク、ウバユリの繊維質、イクラ入りの粥などのバリエーションがあったそうです。

他にはアイヌ語でラタシケプという山菜や野菜の煮込んだもの、焼き魚、穀物の団子のように多くの種類の料理があります。

調味料に使われるのは、メインは塩でしたが、寒冷地であることからカロリー補給や味を柔らかくすることを目的として油脂を多用しました。
http://www.islanddistinctiveoccasions.com/hokkaidob/hokkaidoba.html


平取町 アイヌ料理 
http://www.youtube.com/watch?v=LruBb1DBPFI


44. 2012年9月22日 17:00:58 : HNPlrBDYLM

アイヌ人の食事は汁ものが主食で、その具は殆ど山菜や雑穀類。
要するに、完全菜食では味付けが難しいので、肉や魚を少しだけ入れて山菜や雑穀類を食べ易くしたという事ですね。

アイヌ人の様な狩猟民は牧畜民の欧米人の様には肉を沢山食べないのです。

アラブ人の様な遊牧民もミルク、ヨーグルトが主食で肉はハレの日にしか食べません。

従って、毎日肉を食べる欧米人や日本人は「人類本来の食生活」から大きく離れています。アメリカ人に極端な肥満が多いのはホルモン剤で育てた牛の肉を食べるからですね。

45. 2012年9月22日 21:34:27 : HNPlrBDYLM

アイヌ料理 画像
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C+%E6%96%99%E7%90%86&hl=ja&lr=lang_ja&tbs=lr:lang_1ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_K9dUL-fGIOdmQXF94DwBQ&ved=0CC4QsAQ&biw=1030&bih=892


46. 2012年9月22日 23:18:52 : HNPlrBDYLM

【アイヌ料理】オハウを作ってみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10293618


47. 中川隆 2012年9月23日 00:16:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


アイヌ生活文化再現マニュアル
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/bunka_main.html


 私たちのいう「自然」に食糧(しょくりょう)を求めていたアイヌの人たちは、一年の多くを食糧採取(しょくりょうさいしゅ)に費(つい)やしました。特に、野生植物は、一度で取り尽くしてしまうようなことはせず、必ず「根」を残し、次の年の分を確保(かくほ)しながらの採取でした。四季折々(しきおりおり)にとれる野生植物や動物、魚介類(ぎょかいるい)は家族の食卓(しょくたく)にのぼるとともに、長い冬の間の食糧(しょくりょう)として、また、飢饉(ききん)などに備(そな)えるために蓄(たくわ)えられました。

 調理(ちょうり)には、「煮(に)る」「焼(や)く」「炊(た)く」という方法が用いられました。主食として、山菜をベースに、動物の肉や魚を入れて煮(に)たオハウ、ルルがありました。オハウは、用いる材料によって、チエプオハウ(サケを入れた汁)、プクサオハウ(ギョウジャニンニクを入れた汁)、カムオハウ(動物の肉を入れた汁)などと呼ばれました。

 副食(ふくしょく)には、アワやヒエなどの穀物(こくもつ)を煮たサヨ、山菜を汁(しる)気がなくなるまで煮込(にこ)んだラタシケプがあり、生の動物の肉や魚は、串にさして焼いて食べました。また、季節によっては、「生で食べる」こともありました。


プクサ(ギョウジャニンニク)

焼(や)いて干(ほ)したウグイ。夏にとれた魚は、焼いて天日(てんぴ)で干(ほ)し、貯蔵(ちょぞう)した(新ひだか町アイヌ民俗資料館蔵)。

儀礼(ぎれい)の際(さい)の食事

   クマやシマフクロウの霊送(れいおく)りや祖先供養(そせんくよう)、婚礼(こんれい)や葬礼(そうれい)などのときには、普段(ふだん)の食事に加えて、雑穀類(ざっこくるい)を炊いたもの、団子(だんご)など特別な料理がつくられました。一年に数回しか味わうことのできないこの特別な料理は、人間だけでなく、祖先(そせん)や神々もともに食べ、ともに楽しむものでした。


いまに伝える

   江戸時代の終わりころになると、アイヌの人たちも野菜(やさい)をつくるようになり、多くの料理に用(もち)いられました。また、明治以降(めいじいこう)、本州からの移住者(いじゅうしゃ)の増加(ぞうか)とともに、アイヌの人たちを取り巻(ま)く環境(かんきょう)も大いに変化し、食生活もまた大きく変化しました。その一例として、調味料(ちょうみりょう)の使用などがあります。現在、北海道内各地でつくられる料理もこのころにつくられたものを基本としています。チエプオハウやラタシケプなどといった料理の多くは、日常の料理として、あるいは儀礼(ぎれい)の際(さい)の料理として盛(さか)んにつくられており、その伝統(でんとう)はいまに伝わっています。


食事の様子(『蝦夷嶋図説』函館市中央図書館蔵)


チエプオハウ
ラタシケプ
 

クマの霊送(れいおく)りのときにつくられる料理。神とともに人間も楽しむ(財団法人アイヌ民族博物館蔵)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/hito/taberu/taberu.html


アイヌ料理 春〜夏
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono2/tabemono.html

アイヌ料理 秋〜冬
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono/tabemono.html


アイヌは人間の力が及ばないもの、自然の恵みを授(さず)けてくれるもの、生きていくうえで欠かせないものなどを、神[カムイ]として敬っていました。自然界の神々―火の神、水の神、山の神、集落の神、森の神、狩猟の神、穀物(こくもつ)の神等―に感謝し、神々が与えてくれた恵みとして、食材を必要な分だけいただきます。

 秋は豊かな実りの季節でした。川では遡上する鮭を捕え、山では木の実を採集し、狩りで動物の肉を手に入れて食べました。冬や飢饉(ききん)に備えて保存食も加工しました。

 動物からとった油脂(ゆし)や、塩などを調味料として使い、肉や魚、山菜などを入れた汁物[ルル]、ヒエ・アワなどのおかゆ、煮物(にもの)などが食べられていました。

 今回は、料理を作る場所として、『旭川市博物館分館アイヌ文化の森 伝承(でんしょう)のコタン チセ』を使用しました。アイヌの伝統的な住居には、炉(いろり)が切られており、火種を絶やさなかったといわれています。

 古くから集落のあった石狩川の周辺には、豊かな自然があり、食材は、家の周りで容易に調達できました。現在では都市化の影響もあり、身近で手に入れることが難しくなっています。今回、食材を調達するにあたり、旭川近郊の山々はもとより、遠方まで出かけて集めたものもあります。

 本マニュアルは、杉村京子さんが、親の世代から学んだ、秋から冬にかけての食材を用いた料理を紹介します。

 自然に抱かれ、チセで暮した時代に培われた習慣や知恵は、様々な社会変化の影響を受けながら、独自の文化として生き続けています。

 なお、食材を採集する時期は、旭川地域を目安にしています。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono/tabemono_hajimeni.html


杉村さんが子供の頃、大人に連れられて山へ出かける時、弁当は持ちませんでした。器と塩を持って行き、その場で材料を調達(ちょうたつ)しておつゆを食べたと言います。

「アイヌのおつゆには、肉か魚介類が欠かせない。」

と杉村さんは言い、山菜だけではなく、カワシンジュガイ(カラスガイ)などを捕(と)って入れました。

家では秋から冬にかけて獲(と)った鹿や熊の肉、鮭なども乾燥保存しておき、
夏でも山菜と一緒におつゆに入れて食べました。

アイヌの料理では、このような汁物が主食でした。

 これは、キト、セリ、ニリンソウなどの山菜と、乾燥保存した鮭を入れた塩味のおつゆです。

 杉村さんが親達から聞いた話では、かつて塩は交易(こうえき)[ウイマム]で手に入れていたので貴重品でした。濡(ぬ)らした箸(はし)の先にわずかな塩をつけ、器に盛ったおつゆに混ぜて食べたと言います。

 アイヌは素材の味を活(い)かした料理を作り、あまり濃い味付けをしませんでした。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono2/tabemono_column_02.html


現在では、一年中、新鮮な食材を入手できるようになり、採集や保存に手間をかけなくても良い時代になりました。

 また、身近に自然が少なくなったことも影響(えいきょう)して、杉村さんも昔ながらの料理を作って食べる機会が減りました。

 しかし、杉村さんが親達から学んだ料理は、ほかに代え難(がた)いものとして、現在も杉村さんの心に刻まれています。 杉村さんは言います。

 「あるおばちゃんが、おれらは小さい時から、おつゆに魚でも肉でもたくさん入れて食べたもんだけど、今の人はそういうことができない。おれらはうまいものばかり食ったもんだと言ってたけど、ほんとにそうだわ。

今、これだけのおいしいもの毎日食べられないよ。まずおいしい、昔のものは。自然のものを自然のまま、こしらえて食べる。体にはいいし、おいしいし。」


 神々を敬(うやま)い、自然に抱かれて暮らしてきたアイヌにとって、物がない時代にこそ味わうことのできた豊かさもあったのです。  
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono2/tabemono_owarini.html


 「ウタリの食べものはね、ほとんどが薬。自然のものを食べるから、体に良いものばかりだった。戦争中、終戦後、(食料が乏しい時代でも)ウタリには栄養失調の者はいなかった。」

 杉村さんは、アイヌのことを、仲間・親戚(しんせき)を意味するウタリという言葉で表現するのを好みます。病人や高齢(こうれい)で山へ行けない家庭のためにも食べものを集めて分け与え、集落全体がひとつの家族のようにして、助け合って生きて来たと言います。

 食材の採取にあたっては、昔ほど身近に自然がなくなり、山奥へ行かなければ採れなくなったものもあります。 杉村さんは、その原因のひとつに乱獲(らんかく)を挙げて言います。

 「ウタリは、山へ行って物をいただいて来る時、10本しかなかったら、7本だけいただいて、あとの3本は残してくる。動物も虫も魚もいる、人間だけではない。そういう習慣が一番大切だと思います。

ウタリは山から余分に持ってきて捨てることは一切しなかった。それをみんなに教えたいと思う。分かって欲しい。」


 食は、親子や地域のコミュニケーションに欠かせない要素でもありました。特に熊送りの時などは近所の人達も集まって、大勢で楽しく料理をしたり、食事をしました。そうした中で、アイヌの伝統文化は、親から子へと語り継がれてきたのです。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono/tabemono_owarini.html

イオマンテ−熊の霊送り[料理編]
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri.html


 狩猟採集(しゅりょうさいしゅう)を生業(せいぎょう)としていたアイヌは、狩猟(しゅりょう)の対象など生活の中で深い関わりを持つ動物をカムイ(神)として敬(うやま)い、その魂を大切に取り扱ってきました。

 「イオマンテ」とは「動物の魂をカムイモシリ(神の国)へ送る」という意味で、広く動物神の霊送りの名称として使われる場合がありますが、一般的には「飼い熊の霊送り儀礼」を指す言葉として知られています。春先のヒグマ猟(りょう)で、母熊と共に生まれたばかりの子熊を手に入れると、人々はカムイから養育を任された名誉あることと考え、授(さず)かった子熊を大切に育てました。そして1〜2年ほど飼育した後には、その魂をカムイモシリへ送り帰す盛大な儀式が、集落をあげて営(いとな)まれてきたのです。

イオマンテは、カムイを敬(うやま)い、日常生活の中で常にカムイの存在を意識してきた人々が、たくさんのお土産を持たせて子熊の魂を送ることでその再訪(さいほう)を願い、食料の安定供給を求めるという、アイヌにとって最も重要な伝統儀式のひとつです。イオマンテは、明治以降の同化政策による生活環境の変化などにより、次第(しだい)に行われなくなりました。

 今回のイオマンテの料理の再現は、道南の白老地方に伝わる儀式の際の特別な料理です。アイヌ民族博物館が平成元年から数回にわたり実施したイオマンテの料理を参考に制作します。(写真1)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_hajimeni.html

イオマンテの儀式は寒い時期に行われるため、料理の材料はそれまでに採取(さいしゅ)され、プとよばれる食料庫に保存されてきたものが中心となります。イオマンテでは

「熊が神の国へ土産として持ち帰るためのごちそうの数々」、また

「宴(うたげ)の際、神と一緒に来客が食べるごちそう」

と、普段にない種類と量を女性たちが用意することになります。

 イオマンテの儀式において、アイヌの人たちは熊を「殺す」という観念(かんねん)は全くありません。熊の毛皮をまとい、肉を身につけ、

「神の国から、人間の国へ遊びにきた神を、もとの神の国へ送り返す」

という考えから、祭儀(さいぎ)が行われてきました。その神をもてなすためのごちそうとして料理が作られるのです。(写真155、156)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_owarini.html


カムイオハウ

イオマンテでつくられる料理には、あらかじめ儀礼の前に作られるものと儀礼の進行に伴って作られるものとがあります。このカムイオハウは、儀礼のなかで熊の解体が終わると、その肉の一部を使用して作られます。(写真2)

 カムイオハウには熊肉、ギョウジャニンニク、ダイコン、ニンジン、ネギ、塩を使います。(写真3)

 熊肉を適当な大きさに切り、湯通しをして、熊肉のアクを取り除きます。(写真4)
 
 熊肉に火が通ったところで一度鍋から取り出します。これで熊肉の下準備が完了しました。(写真5)
 
 野菜の下準備です。火が通りやすいように適当な大きさに切り、煮込みます。(写真6)
 
 茹(ゆ)でてアクを取り除いた熊肉は、食べやすいように一口大に切ります。(写真7)
 
   野菜の火の通り具合をみて、鍋に熊肉を入れます。全体をかき混ぜながら、材料に火が通ったところで塩を入れて味付けます。(写真8) 

 刻(きざ)んだネギと、乾燥したギョウジャニンニクの葉を入れて仕上げます。ギョウジャニンニクはアイヌ語でプクサとよばれ、保存する際は、茎と葉に分けて細かく切って乾燥させます。(写真9、10)  

材料が全部入ったところで、強火でひと煮立ちさせて完成です。(写真11、12)  
 カムイオハウは供物として祭壇(さいだん)の前に供えられるほか、宴(うたげ)の席で客にふるまわれます。

 この他、熊肉などを使ってつくる重要な料理にチノイペコタタプ(熊の頬の肉と脳のあえもの)があります。この料理は、他の料理と違い男性の手で作られます。作られる量も少量のため、皿などに盛り付けず、エカシなど主だった男性だけに配られます。材料は、熊の脳、熊の頬肉、ネギ、塩です。作り方は、頬肉をあらかじめゆでておき、まな板の上でみじん切りにして脳と混ぜ合わせます。これに、細かく刻(きざ)んだネギを入れ、塩で薄く味付けします。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_01_kamuiohau.html

 トノト

 トノトは、神々に捧(ささ)げる御神酒(おみき)です。酒もイオマンテには欠かせず、1週間から10日ほど前から仕込み始めます。(写真13)

 仕込みには、魔よけのため、マキリ、イナウル、チエホロカケプを用意します。

右からマキリ、イナウル、チエホロカケプ(写真14)

 酒はトノトカラシントコとよばれる樽に仕込まれます。(写真15)

 酒樽を包むための毛布やキナとよばれるゴザ、そしてキナを縛るタラという縄を用意します。

 こうじ(麹(こうじ)・カムタチ)を混ぜるためにサカエナムテプという器とエンピリという道具を用意します。

 酒の材料にはヒエと麹(こうじ)を使います。ヒエはアイヌにとって最も古い作物で酒の原料として重要なものです。麹(こうじ)はヒエとほぼ同じ量を用意します。
麹(こうじ) (左)とヒエ(右) (写真18)


 最初にヒエのお粥(かゆ)を作ります。
 鍋に湯をわかし、用意したヒエを入れます。
 ヒエを鍋の中でゆっくりとかき混ぜながら、火を通します。(写真21)

 鍋にヒエを入れ終わったら、蓋(ふた)をしてお粥(かゆ)を作ります。お粥(かゆ)といっても柔らかすぎないように、ほんの少し水分が残るくらいに炊き上げます。(写真22)

 炊き上がったヒエをサカエナムテプに移し替えます。(写真23)
 ヒエをサカエナムテプ全体にのばし、人肌になるまで冷まします。(写真24)
 ヒエが冷めてから、麹(こうじ)を入れます。(写真25)

 発酵がうまく進むように、ヒエと麹(こうじ)をムラなくまんべんに混ぜ合わせます。(写真26)

 麹(こうじ)と混ざり合ったヒエを樽に移します。樽に移しながら、さらに混ぜ合わせます。(写真27、28)

 火の神に祈りを捧(ささ)げます。

 「火の神よ 今日の仕込みのため お移しいたしますのを どうぞ お許しください」

という言葉を述べながら、真っ赤になったオキを2つとりあげます。(写真29、30)

 オキを仕込んだヒエの上にのせます。


 「火の神よ あなたの力で このヒエが よいお酒になりますよう どうぞ お守りください」

と祈ります。(写真31)

 オキを移し、火の神への祈りを終えた後、樽にふたをしてヒエを寝かせます。
 発酵(はっこう)をうながすため、毛布で一度樽を包み込んでからゴザを巻きます。(写真32)

 ゴザを巻きつけます。(写真33、34)

 樽のふたの上にイナウルを巻きつけたマキリをのせます。 これは仕込んだ酒に魔物が近づかないように、という願いが込められています。(写真35)  

       
 最後にゴザの上部をすぼめてタラで縛り付けます。
 樽の上部にはチエホロカケプをさします。これも魔よけのためです。(写真36)
 樽は、神窓の近くの左座(ひだりざ)に置きます。ヒエが発酵(はっこう)して酒になるのを待ちます。(写真37)

仕込みの終わった樽を前に、火の神においしいお酒ができますよう守護(しゅご)してくださいと再び祈りを捧(ささ)げます。(写真38)

仕込み終わったヒエは、イオマンテの前日まで何度か状態をみながら樽の中をかき混ぜ、発酵(はっこう)を促します。タラを解き、ゴザを外して樽の中を静かにかき混ぜます。(写真39、40)

こうしてイオマンテが行われる前日を待つのです。(写真41)

まつりの前日、酒漉(さけこ)しをします。ゴザを解いてふたを取り、仕込みの際に入れたオキを取り出します。(写真42、43)

取り出したオキは、炉の中へもどし、火の神に立派な酒が出来るよう見守ってくれたことへの感謝をあらわす祈りを捧(ささ)げます。(写真44)

酒漉(さけこ)しをするため、別の樽にサケヌンパニとよばれる棒を4本「井桁(いげた)」に組んだものを置きザルをのせます。仕込んだ酒をサケピサツクといわれる柄杓(ひしゃく)でザルにあけていきます。(写真45)

仕込んだ酒はもろみの状態です。

ザルにあけたもろみを、手で擦(す)り込むようにして漉(こ)します。ザルをゆすったり、ザルの底をこすったりもします。(写真46)

こうしてザルで漉(こ)されたもろみはトノト、ヒエで作った酒になります。(写真47、48)

酒漉(さけこ)しの過程で、パッチとよばれる器を用意します。(写真49)

酒漉(さけこ)しでザルに残る酒粕(さけかす)をシラリといいます。シラリはパッチに盛られ、神への祈りであるカムイノミに使われます。(写真50)

酒漉(さけこ)しが終わったザルは洗わずに戸口に持っていき、戸口のそばの守り神であるアパサムシペカムイに祈りを捧げながら、ザルを当てて、付着した酒粕(さけかす)を落とします。シラリを戸口の神の方へ飛び散らせます。

 シラリを神に捧げ、実りの多い年であるようにという願いがこめられています。(写真51)

 酒漉(さけこ)しに使ったザルなどの道具を洗い終わったタライの水は玄関先にまき、

「戸口の神様も、近くを往来する神様も飲みたい神様がいたら、どうぞみんなで分けて飲んでください」

と言葉を添(そ)えます。

イオマンテの前日、トノトがこうして出来上がります。(写真53)

再(ふたた)び樽をゴザで覆(おお)い、神窓(かみまど)の左座(ひだりざ)に置き、翌日のイオマンテを待つのです。(写真54、55)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_02_tonoto.html

シト

シトは米やイナキビなどで作る団子です。(写真56)

材料は米、イナキビ、もち米の粉(つなぎ用)です。
米、イナキビを研いで水に一晩漬け置き、ザルに上げ、水切りしておきます。

米 (写真57)
イナキビ (写真57)
 
 米とイナキビをそれぞれ臼(うす)に入れて杵(きね)で搗(つ)き、粉にします。
 イウタといわれる杵搗(きねつ)きは、2〜3人で唄で拍子をとりながら交互に搗(つ)いていきます。(写真58)
   
ある程度搗(つ)いたところで、搗(つ)いた米を器に移します。(写真59)
 
杵搗(きねつ)きと同時に、搗(つ)いた米やイナキビは、順次ふるいにかけ、粉状になったものと、まだ粗(あら)いものにふるいわけます。(写真60)
 
まだ粗(あら)いものは再び臼(うす)にもどし、さらに搗(つ)いて粉にしていきます。

 こうして全てが粉になるまで杵搗(きねつ)きが繰り返されます。(写真61)  
米の粉にお湯を注ぎます。

 ヘラで混ぜ合わせてから、じっくりと手でこねていき、耳たぶほどのかたさに練(ね)り上げます。

イナキビも同様にお湯を注いで混ぜ合わせ手で練(ね)っていきます。(写真64)
練(ね)り上げる際、つなぎとしてもち米の粉を使います。イナキビに混ぜ、ほどよいかたさに練(ね)り上げていきます。(写真65)
 
練(ね)った米やイナキビで団子を作ります。(写真66)  

団子の形は用途(ようと)によって違います。

 直径3〜4cmに丸めたシトは、イオマンテの時、撒(ま)くものです。(写真67)  
 平たい円盤状に作るシトは、直径6cmほどのものと10cmほどの大きめのものとがあります。(写真68)
 
大きめの円盤状のシトには中央に穴をあけるものとそうでないものがあります。(写真69)
 
鍋でお湯を沸かし、シトを入れ、茹(ゆ)でていきます。
シトは茹(ゆ)であがると湯に浮いてきます。  

 茹(ゆ)であがりまでおよそ15分です。

 ザルに上げ、冷まして米とイナキビのシトの完成です。(写真71)

 直径6〜7cmの小さい方の円盤状のシトはパッチに盛り付けます。パッチに山盛りになるように盛り付けていきます。

 これは、家の中へ招きいれた熊の神や先祖への供(そな)え物とするシトです。(写真72、73)

 丸いシトも同様にパッチに盛り付けていきます。このシトはイオマンテのとき、エカシたちによるカムイノミが終わった後、神(熊)の上にクルミなどと一緒に撒(ま)かれ、皆で拾(ひろ)います。

「みなが楽しんで拾(ひろ)いあえば、神もまた楽しい」

とされているのです。(写真74、75)

ひと回り大きめの円盤状のシトは、その両側を切り、オツチケとよばれるお膳(ぜん)に積んでいきます。

 切ったシトは、縦と横方向交互(こうご)になるように積みます。このシトも供(そな)え物として使われます。(写真76、77)

穴をあけたシトは串に刺して神に持たせるお土産(みやげ)となります。串はミズキを削って作られたものを使い、12個のシトを通します。(写真78、79、80)

串のダンゴをイナウルで包みます。(写真81)
 
 包み込んだあと両端と中央を縛り、さらに両側にイナウルを撚(よ)りあわせた紐(ひも)を結んで完成させます。この串のダンゴは、祭壇(さいだん)に飾り付け、神へのお土産(みやげ)とするのです。(写真82、83)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_03_sito.html


スケトウダラの利用

 タラは干して食べるほか、肝を煮詰めて脂(あぶら)をとり、料理の時の調味料として用います。(写真84)

 タラをさばいて肝臓を取り出します。(写真85、86)

 身の方には切り込みを入れておきます。(写真87)

 切り込みに紐(ひも)を通して、2尾をつなげ、竿に干して乾燥させます。(写真88、89)

 タラの脂(あぶら)の作り方です。取り出した肝を鍋に入れます。(写真90)

 鍋を火にかけ肝を煮詰めます。(写真91)

 煮詰めていくと黄金色のエキスがしだいに出てきます。

 肝が焦げ付かない程度に弱火でじっくり煮詰めます。(写真92)

 脂(あぶら)が出きったところで、ザルで濾(こ)します。

 濾(こ)した脂(あぶら)はビンなどに移し替えて保存します。タラの脂(あぶら)は調味料として料理に使います。(写真94、95、96)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_04_suketoudara_01.html


スケトウダラの塩煮

干したタラで塩煮を作ります。(写真97)

 3〜4週間干したタラは、背びれなどを切り落とし、下ごしらえをします。(写真98)

 下ごしらえしたタラを鍋に入れ、たっぷりの水で煮込みます。(写真99)
 いったん沸騰させた後、塩で味付けをし、弱火にして時間をかけじっくりと煮込んでいきます。

 じっくり煮込んだタラは骨まで軟らかくなります。(写真100、101)

 出来上がったスケトウダラの塩煮を、お膳(ぜん)に盛り付けます。干したスケトウダラの味が十二分に生かされた料理です。白老地方のイオマンテでは必ず作られてきた料理のひとつです。(写真102、103)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_04_suketoudara_02.html


ボツボツ

ボツボツの材料はカボチャ、マメ、トウモロコシ、シケレペ(キハダの実)、砂糖、塩、タラの脂(あぶら)です。(写真104、105)

シケレペはキハダの実で、秋に黒く熟したものを採取します。胃痛、喘息(ぜんそく)などの薬として用いられることもあります。(写真106)
 
マメとシケレペはあらかじめ煮込んでおきます。

材料のカボチャは生のものがあればそれを使うが、多くはリンゴの皮を剥(む)くようにかんぴょう状にしたものを乾燥させ保存しておいたものを使います。(写真108)
 
生のカボチャは皮を剥(む)き適当な大きさに切って、水から煮ます。(写真109)  
 カボチャに火が通り柔らかくなったところで、下ごしらえしたマメとシケレペをカボチャに加え、さらに煮込みます。(写真110)
 
ゆでておいたトウモロコシも加え、かき混ぜながら煮込んでいきます。

 調味料として砂糖とタラの脂(あぶら)を入れ、味付けをします。十分にかき混ぜながら味を馴染(なじ)ませます。最後に塩を少し加えて味を調え、かき混ぜながら水が無くなるまで弱火で煮続けます。(写真111、112)
 
ボツボツ、又は「カンポチヤラタシケプ」とよばれ、白老地方の代表的なラタシケプのひとつです。(写真113)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_05_botubotu.html

チポロラタシケプ

チポロラタシケプは筋子、ジャガイモ、塩を使います。(写真114)

カムイチエプとよばれるサケは、アイヌにとってもっとも重要な食料です。秋に大量に捕獲(ほかく)したサケは冬を越すための保存食にされます。(写真115)

生の筋子を用いたラタシケプは、サケが遡上(そじょう)する時期限定の料理で、上等なごちそうといえます。

 チポロとは筋子のことです。(写真116)
 
 取り出した筋子は、お湯と塩を使い筋をとります。(写真117)  

 お湯に塩を入れてかき混ぜた後、筋子をその中に入れ、ほぐしていきます。(写真118、119)

 ほぐした筋子を、一度ザルにあけます。(写真120)
 
 再度お湯に塩を入れかき混ぜ、ぬめりなどを取りきれいにします。こうして筋子の下ごしらえをしておきます。(写真121、122)
 
 ほぐした筋子を鍋に入れて火にかけます。焦げ付かないようにゆっくりとかき混ぜながら火を通します。(写真123)

 塩で味付けし、さらにじっくり火を通します。
 
 筋子をすりつぶすのには、チポロニマというすりこぎ棒付きのこね鉢(ばち)を使います。(写真124)
 
火が通った筋子をチポロニマに移し、すりこぎで押し付けるようにしながらすりつぶしていきます。(写真125)
 
ジャガイモは皮をむいてふかしておきます。ふかしたジャガイモを鍋の中でつぶします。(写真126)

 ジャガイモを十分につぶしたところで、鍋に筋子を入れて和えると、チポロラタシケプの完成です。(写真127、128、129)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_06_tiporo.html


シケレペキナラタシケプ

シケレペキナラタシケプには乾燥させたシケレペキナ、塩、タラの脂(あぶら)を使います。 
シケレペキナとはヒメザゼンソウのことです。山で採取したあと茹(ゆ)でて、乾燥させ保存しておきます。(写真130、131)

 いったん水にもどしたヒメザゼンソウを洗い、鍋に入れ火にかけます。初めは中火で、その後は弱火で数時間かけてじっくりと煮込みます。(写真132)

 煮汁を十分に吸収させ、水気がほとんど無くなるまで煮込みます。
 
煮込んだヒメザゼンソウを鍋から取り出します。

 イタタニとよばれるまな板の上で、適当な長さに切っていきます。(写真134)  
 切ったヒメザゼンソウを再び鍋にもどし、味付けにタラの脂(あぶら)、塩を入れ、かきまぜながら火を通します。(写真135)
 
 できあがったシケレペキナのラタシケプをパッチに入れ、神に供(そな)えます。(写真136)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_07_sikere.html


シケレペラタシケプ

 シケレペラタシケプは、シケレペ(キハダの実)、マメ、塩、タラの脂(あぶら)を使ったラタシケプです。

 乾燥させ保存しておいたシケレペ(キハダの実)を、水に浸(ひた)して戻し、火にかけて煮込みます。

 煮えたところで、あらかじめ煮ておいたマメを鍋に入れます。(写真140)
 
 塩、タラの脂(あぶら)を加えて味を整えます。(写真141)
 
 火が通ったら鍋をおろし、キハダの実とマメをいっしょにすりつぶしていきます。(写真142)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_08_sikere.html


いなきびご飯、ひえご飯

かつて、アイヌにとって農耕による生産物は貴重な食料で、特に米をふんだんに使うのはイオマンテなど儀式のときの特別なごちそうでした。

 いなきびご飯には、イナキビ、米、マメ、塩を使います。(写真144、145)

 マメをあらかじめかために煮ておき、鍋にイナキビと米を入れて混ぜ合わせ、塩とマメを加えます。

 鍋を火にかけ、最初は強火で炊き上げていきます。(写真147)

 沸騰したら弱火にします。
 
 弱火でじっくり炊き込みます。(写真148)
 
 炊き上がったご飯にタラの脂(あぶら)を適量入れ、混ぜ合わせて味付けし、完成です。(写真149、150、151)
 
ひえご飯も同様に作ります。(写真152、153、154)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_09_inakibigohan.html

アイヌ料理「ハルコロ 」


今年(2011年)の5月22日開店の北海道以外では唯一のアイヌ料理の専門店です。「ハルコロ」とは「お腹いっぱい食べれる」という意味のアイヌ語です。

2009年11月7日に赤字のため閉店した中野区新井にあったアイヌ料理店「レラ・チセ」のコンセプトを受け継ぎ一部のスッタッフが開店させたお店です。テーブル3つにカウンターという小さなお店ですが、木調で手作りのぬくもりが感じられるお店です。アイヌ民族の情報発信基地にもなっているようでいろいろなパンフレットやポスターが貼ってあります。

場所は新大久保のコリアンタウンや渚総研からもほど近いJR総武線大久保駅南口から徒歩1分の焼き鳥屋の跡地。以前はこのあたりには屋台村もあり飲食店街として栄えていたのに最近はすっかり寂れてしまいました。

今回の注文は「鹿丼」¥900-と「オハウ」(鮭汁、チェプ汁)¥200-です。

アイヌ料理を食べるのは白老に行ったとき以来なので何年ぶりだろうか。。。

鹿肉。。。久しぶりに食べるジビエ料理(獣肉料理)です。

「鹿丼」は、やや固めの牛肉のような味わい。以外と油分が多い。寒い地方の料理なせいか味付けは濃い目です。

「オハウ」は(鮭の切り身、タマネギや人参、大根、長ネギなど鮭がちょっと少ないのが気になったけど、野菜が豊富で塩味であっさりしています。これは安いです。


鹿肉料理はちょっと高い気がしますが、食材としての入手のいにくさを考えるとまぁこんなところでしょうか。。。

鹿肉や鮭、行者にんにく、コマイなどの食材を使った料理が多いのですが、ぜひ熊肉のレパートリーも増やして欲しいですね。

お客の入りがすごく少なかったのがちょっと気になります。

せっかく復活させたアイヌ文化の東京の拠点です。前身の「レラ・チセ」のように赤字や経営不振を理由に閉店させないよう活発なイベントスペースとしての機能やワークショップなど情報発信基地としての機能を期待したいです。

琉球王国の沖縄料理店は東京にたくさんあるのに、アイヌ民族のアイヌ料理店はなぜ東京には一軒しかないんだぁ!
なぜ、北海道出身者にアイヌ民族のことを聞いても何にも知らんのかぁ〜という素朴な疑問が以前からありました。

アイヌ民族の文化は少数民族とはいえ日本の貴重な文化遺産です!日本人として絶対に守っていかなければなりません!


::::::::::::::::::::::::以下リンク先からの転載です:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

大久保にオープンしたその名は「ハルコロ」。「お腹いっぱい食べれる」という意味のアイヌ語です。

JR総武線大久保駅南口から徒歩1分のところに開業。カウンター席と浦川治造さんお手製のテープル席が3つ。木の温もりが感じられる素敵なお店です。鹿肉やキトピロ(行者ニンニク)、鮭の料理を味わうことができます。レラチセの閉店から1年半、東京ではアイヌ料理を食べれるお店はなかったので、今日は久しぶりに行者ニンニクを味わった。

レラチセでも働いていた照代さん、レラチセの創業にも関わっていたお母さんのタミエさんを囲みいい時間。子どもたちが輪唱をし、千葉さんのトンコリが鳴り、タカハシは気持ちよく酔い粗相をしました。ごめんなさいだったけど、嬉しい酔いでした。


レラ・チセは、日本の東京都内にかつて存在したアイヌ料理店。
店名はアイヌ語で「風の家」の意味である。

1993年の「国際先住民年」を契機として、全国からの募金で、1994年に東京都新宿区の西早稲田で開業する。2000年に東京都中野区新井に移転する。

アイヌ料理の店であるが、エゾ鹿のステーキ「ユク」や鮭の背わたの塩漬け「メフン」、いも団子「ムニニイモ」がメニューにあった。鹿肉カレーや鮭カレー、熊肉の焼肉を食べられることもあった。アイヌ語教室の開催など、首都圏のアイヌ文化継承の拠点となった。ライブもあった。中野区新井の店は三階建てであった。かつては、昼と夜の営業が行われときもあったが、全体を通して午後6時からの営業となっていた。不況の中で売上が減少し赤字経営が続いた。2009年11月7日閉店した。
http://blogs.yahoo.co.jp/nagisa_aoi21/60786274.html


「ハルコロ 」(HaruKor)

・住所: 東京都新宿区百人町1-15-3
・電話: 03-3366-6400


JR大久保駅南口より徒歩1分
JR新大久保駅より徒歩3分
大久保駅から120m


地図
http://www.mapion.co.jp/m/35.69657318_139.70171817_8/v=m2:%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AD/
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130404/13126529/dtlmap/


営業時間
[月〜金]17:00〜24:00(L.O.23:00)
[土・日]16:00〜24:00

ランチ営業、夜10時以降入店可、夜12時以降入店可、
不定休 日曜営業
http://r.tabelog.com/tokyo/A1304/A130404/13126529/


ハルコロは、日本の東京都内に2011年5月に開店したアイヌ料理および北海道料理の店。 2009年11月に閉店したアイヌ料理の店『レラ・チセ』の共同経営者の女性の一人とレラ・チセでも働いていた娘が、閉店した焼き鳥屋の後を借り受け、2011年5月22日に開業する。

メニューに、鹿肉料理が含まれ、アイヌ料理もいくつかある。居酒屋もかねている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AD

新宿「ハルコロ」 母の志継ぎ、店きりもり
2011.10.01 朝日新聞朝刊

この夏、東京・新宿でアイヌ民族の女性が亡くなった。宇佐タミエさん。69歳。北海道外で唯一とされるアイヌ料理店を三女の照代さん(39)と再開させた矢先だった。「民族の文化と誇りを守りたい」。料理を通して伝えてきた母の志は、娘が受け継ぐ。

JR大久保駅近くの新宿区百人町の一角。約8坪の店のメニューには、ジャガイモやカボチャの団子「シト」や「鹿天」などアイヌ伝統の料理や創作料理が並ぶ。カウンターのすみに、孫に囲まれてほほえむタミエさんの写真があった。

 北海道釧路市で生まれ育ったタミエさんは40歳のころ、離婚を機に一男四女の子供をつれて上京。ビルの清掃や店員など、時には三つの仕事を掛け持ちして育て上げた。首都圏のアイヌ民族の団体「レラ(風)の会」に子どもをつれて参加し、歌や踊りを学ぶうち活動にものめり込んだ。

 1994年、同会がアイヌ料理店「レラ・チセ」(風の家)を早稲田に開いた。タミエさんは仕込みを受け持ち、照代さんも店に立った。アイヌの味を伝え、広げる。「アイヌであることに誇りを持っている」と語っていた。

 だが、店はその後、中野に移転し、2009年には経営難で閉店した。沈み込むタミエさんを見て、照代さんは「母の生きがいを取り戻し、みんなが集う場をもう一度つくろう」と決意。閉店した焼き鳥屋の後を借り受けた。店名の「ハルコロ」はアイヌ語でハル(食べ物)コロ(持つ)という意味。「食べ物に困らないように」という願いを込めた。

 開店前日の今年5月21日。タミエさんは店で5人の子どもと9人の孫、1人のひ孫に囲まれた。アイヌ語で「サザエさん」を輪唱する孫たちに、タミエさんは目を細めた。サケを具にした「オハウ」(汁)などで腕もふるった。

 しかしタミエさんは6月30日夕、突然、脳出血で倒れ、息を引き取った。照代さんは「母の分も長く、店を続けたい。やがてはアイヌ語やムックリ(口琴)などを学ぶ場にもしていきたい」と話している。

 ハルコロについて北海道アイヌ協会は、道外で唯一のアイヌ料理店ではないかという。
http://blogs.yahoo.co.jp/nagisa_aoi21/60786274.html


やはり「レラ・チセ」の後継店だった「ハルコロ」 2012-04-15

 夏頃にマイミクさんから教わったのか、大久保駅南口に鹿肉などが食える「北海道料理の店」があるとのことで、
大久保「ハルコロ」
(http://r.tabelog.com/tokyo/A1304/A130404/13126529/)
へ。


 まずは鹿煮込みと鹿肉の餃子。

 それから、から揚げのような「鹿天」。

 鹿肉のジンギスカン風。

あと鹿から離れて秋鮭のルイベ。

次の水タコ刺ともども、冷凍だけど口の中で解かすと地味が美味しい。

最後は「オハワ」というアイヌ風野菜汁。


 店内にはアイヌの人達が常連客として集っているし、昔早稲田に開業していた「レラ・チセ」について書かれた本もあるので、退店後に調べてみたら案の定、この店はかつて「北海道以外では日本唯一のアイヌ料理店」として斯界に著名だった「レラ・チセ」の後継店でした。資料

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%BB

によると、「レラ・チセ」は、1994年に西早稲田で開業、2000年に早稲田界隈では惜しまれつつ中野区新井に移転するまで、「早稲田グルメ」の有名店として早大学内雑誌や学生媒体にも数多く掲載。移転直前の頃にσ(^^)も食べには行きましたが、すぐ足が不自由になり正座が困難になったσ(^^)にとって、土間の店は狭苦しくて快適な食事場所とは言えず、常連の座に就くほど通うには至りませんでした。
 リーマンショックなどの不況による赤字のため2009年11月閉店、しかし昨年5月、「レラ・チセ」の共同経営者が大久保に現在の「ハルコロ」を開店するも6月に急逝。現在店は「レラ・チセ」時代から店に出ていた娘が後を継いで切り盛りしているとのこと

 「レラ・チセ」時代には熊肉も入荷があればメニューに乗っていたが、今夜直接聞いた所では現在は扱っておらず、また客単価もよくある通り「食べログ」平均予算より高く5000円越えでしたが、内容を考慮すればコスパは許容範囲だと思いました。人数が集まれば鍋なども受注してくれるでしょう。職場から近い?ので思いつきで再訪も可能性高そうです。
http://ameblo.jp/armarius/entry-11223435985.html


日本人の様な農耕民よりインディアンやアイヌの様な狩猟採集民の方が味覚が発達しているんだよね。

欧米人は氷河時代に氷河に閉じ込められて腐った肉ばかり食べていたから味覚ゼロなのさ。

世界の料理ではアイヌ料理が飛びぬけた No.1だというので間違い無い。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

2. 中川隆[-10664] koaQ7Jey 2018年4月20日 12:31:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11455]
縄文時代の宗教はアイヌのシャーマニズムとして伝わっているね:


これが本来の神概念

アイヌとカムイ

アイヌ民族の伝統的な世界観では、カムイは動植物や自然現象、あるいは人工物など、あらゆるものにカムイが宿っているとされる。一般にカムイと呼ばれる条件としては、「ある固有の能力を有しているもの」、特に人間のできない事を行い様々な恩恵や災厄をもたらすものである事が挙げられる。そして、そういった能力の保持者或いは付与者としてそのものに内在する霊的知性体がカムイであると考えられている。

カムイは、本来神々の世界であるカムイ・モシリ (kamuy mosir) に所属しており、その本来の姿は人間と同じだという。例えば下記のアペ・フチ・カムイ (ape huci kamuy, 火の老婆のカムイ) なら赤い小袖を着たおばあさんなど、そのものを連想させる姿と考えられている。そしてある一定の使命を帯びて人間の世界であるアイヌ・モシリ (aynu mosir) にやってくる際、その使命に応じた衣服を身にまとうという。例えばキムン・カムイ (kim un kamuy, 山にいるカムイ)が人間の世界にやってくる時にはヒグマの衣服(肉体)をまとってくる。言い換えれば我々が目にするヒグマはすべて、人間の世界におけるカムイの仮の姿ということになる。

名称ではキムン・カムイ、コタン・コロ・カムイ (kotan kor kamuy, 集落を護るカムイ、シマフクロウ) 、レプン・カムイ (rep un kamuy, 沖にいるカムイ、シャチ) のように、「ーカムイ」などのように用いられる。

また、カムイの有する「固有の能力」は人間に都合の良い物ばかりとは限らない。例えば熱病をもたらす疫病神なども、人智の及ばぬ力を振るう存在としてカムイと呼ばれる。このように、人間に災厄をもたらすカムイはウェン・カムイ (wen kamuy, 悪しきカムイ) と呼ばれ、人間に恩恵をもたらすピリカ・カムイ (pirka kamuy, 善きカムイ) と同様に畏怖される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%82%A4


アイヌのシャーマンの治療分野として大きく以下のジャンルがある。

1.ウェインカラ(透視・千里眼)
霊的障害(サイキック・アタックなど)、心的要因、具体的要因を透視して呪術を施したり、その障害の具体的な治療方法で対応するもの。「空」の境地に入るといわれる。

2.トゥス
治療師のトレンカムイ(憑き神)や患者の先祖などを降ろし、トゥスクル(トゥスする人)の肉体をそれらに支配させ、病因や治療の方法を託宣いただくもの。 いわゆる「トランス状態」に持っていくため、トゥスクルの神憑りの間の記憶はないらしい。

3.ウェポタラ
祈祷師による呪術に準すると考えられる。魔実的要素が濃い。

4.フッサラ
悪霊の嫌う薬草や植物などをを用いて祈りと共に病人に憑く悪霊を追い払うもの。 ウェンカムイ(悪霊)払い。

6.薬物療法(単品・複数のアレンジの治療法)
多くは、民間伝承によるが、霊的なアドバイスにより薬草は個別性に応じて配合するらしい。 筋骨格系、神経系に働きかけ、歪みの矯正、身体のバランス保持やリラクセーションをはかる。 カイロ、整体、指圧、マッサージなどのボディワークの概念を含むとされる。

9.テクマウ(手当て療法)
カムイへ祈り、行う手当て療法。外気功に対応するらしい。

これらの秘儀の継承は家系的に受け継がれるのもと、臨死体験し、魂が持っている要素を引き出し秘儀を授かることが多い。


REF034 二風谷アイヌのウェポタラ 1     Ainu
Exorcism Rites Uepotara in Nibutani, Hokkaido: 1         N.G.Munro D-2
13'00" 1933 白黒サイレント
94011001 (ORG・RETAKE)(Hi8), 92090202 93052603 (AGFA版・字幕無・チセノミと混)(Hi8), 96030801 (非復元版・日本語字幕・チセノミ混)(β-CAM)     

帰化スコットランド人医師N.G.マンローは、第二次大戦前、二風谷アイヌへの医療と健康改善につくしながらアイヌ研究を続けた。その中で撮影され、生前未完成に終った悪霊払いの儀礼の記録、オリジナル版その1(原版16mm)。エカシの祈祷(アッツシ、イナウ)、儀礼(庭先、家の脇:樹の枝)、治療(庭先・川岸、数種類のイナウ)、樹に祈祷(刀、着物を治療に使用)、火のついた草束を患者がくぐる、エカシの踊り(イナウ、刀の使用)、女性の踊り


REF048 二風谷アイヌのウェポタラ 2      Ainu
Exorcism Rites Uepotara in Nibutani, Hokkaido: 2     N.G.Munro D-2
15'00" 1934 白黒 サイレント
92090202 93052603 (チセノミと混じっている)(Hi8)     

N.G.マンローの悪霊払いの儀礼の記録、オリジナル版その2(原版35mm)   

川辺での治療、家の脇での呪い・治療、織物(糸紡ぎ、アットゥシを織る)、揺り篭の子供をあやす、赤ん坊を背負う、頭にのせたものを運ぶ、炉端の周りに集まり食事をする、女性の踊り、輪舞(男女)

http://tokyocinema.net/far-eastlist.htm

不思議なアイヌの超能力


アイヌの霊の世界 (小学館創造選書 56)を取り上げたいと思います。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%AE%E9%9C%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%89%B5%E9%80%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-56-%E8%97%A4%E6%9D%91-%E4%B9%85%E5%92%8C/dp/4098200562


著者の藤村さんは、アイヌ研究の第一人者で、
現在は北海学園大学の名誉教授ですが、
以前、開拓記念館の研究員をなさっていたときに
主に道東各地のアイヌ文化に関してフィールドワークを実施し、
さまざまな長老の方々と語り合う中で徐々に受け入れられ、
その本質に触れていくことができるようになったということでした。

この本の中で「憑き神」について述べられているところを要約しますと、


・誰にでも憑き神は憑いている。

・憑き神は人が生まれるとともにこの世にやってきて、
 その人が死ぬとその霊共々あの世に返っていく。

・先天的に憑いて来る霊には2種類あり、1人から最大3人で-ある。

・後天的に憑く霊は4種類ある。
 非常事態(たとえば病気)などのときに助けに来たりする霊もいれば、わるさする霊もいる。

・個人以外に人間の集団に憑く神もある。家系や村などの集団組織ごとにいる。

・同じ憑き神が複数の人を渡り歩くことはない。

・その人の動きやしぐさを観察すると、その人の憑き神がわかったりする。

・憑き神を知るためには「トゥス(シャーマン)」のところへ言ってみてもらうと判明する。

・その個人が成長するとともに憑き神も成長し、老化する。


…などなど、という感じですね。

現代スピリチュアリズムで言うところ「守護霊」とは同じ雰囲気のところもあれば、
そうでないところもありますが、大きな差異が見られるわけではない、とも思います。
「わるさする神もいる」、ということですから、それは「憑依霊」として分類されますね。

「守護霊」というと、なんでもかんでも守ってくれるもの、と勘違いしそうですが、
「その人(集団)の成長を助けてくれる見えない存在・神さま」と考えるほうがあっているようですね。


そして、それらの憑き神などの存在を、
普段は意識できないように、この世界もできているわけですが、
どうもこれはちゃんといるんだなーと感じる体験ができるのが、
上記にもあったシャーマン的な特異能力を発揮するような人に出会ったときですね。

http://www.donavi.com/contents/column/spiritual_nonaka/023/


本の中に「不思議なアイヌの超能力」という章があり、
そこには巫術行為(トゥス)の系統について述べられています。


 ・トゥスは世代世襲制である。家系をはずれてトゥスができるようになる人はいない。

 ・母親がトゥスをする人であって、子供が誰もできない場合、
  母方の兄弟の子供にできる人が現れたりする。

 ・例えば、姉がトゥスをよくする人で、その姉が急死した場合、
  ぜんぜんできなかった弟が代行する場合などもある。


ということで、霊能力には家系が非常に大切と言うことも分かります。

そういえば有名な霊能者さんのお話を聞くと、ご先祖様が霊能者をやっていた方もいらっしゃいますし、
そのままでなくても、お医者さんだったり神主さんお坊さんだったり、という方が多いような気も致します。

そうするとその方の拝む対象や、浄化の仕方なども自然とその系統を受け継いでいくようです。


また「ノイポロイクシ」と呼ばれる能力もあるそうで、
著者の藤村さんがご存知でそれができるという方はお二人いて、まずある古老の方は、


 ・あるときに「頭痛」がして、そうすると五分以内に来客が来ることがわかる。

 ・その来客も遠方から来る見知らぬ人に限って起こる。

 ・必ず頭痛する部位が、頭の右か左に偏り、
  左の場合は位の高いような大切なお客であるし、右の場合は並の人である。

 ・「はげしい頭痛」がある場合は、とてつもなく偉い人の来客である。


ということであり、もう一人のおばあさんの場合は、


 ・来客する1時間か30分くらい前に頭痛が走る。

 ・荒々しい頭痛の場合は女性の来客で、緩やかなときは男性の来客である。

 ・訪問理由の概略と来客の年齢まで分かる。


という感じで、来客に関して分かるという共通点はあるものの、
細部の情報の伝わり方はそれぞれ違うようなのですね。


それで、「どうして分かり方がちがうのか?」というのは、
私の考えでは、おそらく頭痛が走るようなやり方で、その方々の「憑き神」、
つまり「守護霊」さんたちが教えているのからなのではー?と思うわけですね。
つまり、憑き神さんたちとその受け取る人の能力差によって、
サインの受け渡し方法が違うのだろうと思うのです。

ですから、いろいろ便利そうだからと
若い人などが興味本位で超能力を伸ばそうとしてもそうならないのは、
きちんとそれぞれの憑き神さんが受け取る人の能力や人格を配慮して、
受け取る準備ができている人のみに、お知らせを送っているためと思われます。


ちなみに後のおばあさんの場合は、嫁いだ先のお姑さんがそういう能力があった方で、
離婚した後、自分の故郷に帰ってからご自分にも能力が出てきた、ということですから、
霊能力には実際の血のつながりだけでなく、さまざまなご縁も非常に大切なのかもしれませんね。


そのほか、この本にはカラスの鳴き方でもって来客や死別、
向かいの家でご馳走がある、それが自分の家に回ってくるか、こないか(笑)、
天気のよしあし、豊漁の有無などもわかる、ということですから、
カラスさんもいろいろ考えておしゃべりしているものなのだなーとも思いますが、
今ではすっかり忘れられている以心伝心的なコミュニケーションがあったおかげで、
昔の人々も厳しい自然の中で生き延びて来られたのかもしれないと思いましたね。
http://www.donavi.com/contents/column/spiritual_nonaka/024/


アイヌ文化の中のスピリチュアル的な行為の代表としては、
ツス(降霊現象)とウエインカラクル(観自在・千里眼能力)が挙げられるかと思います。

要するに、恐山のイタコさんのような力のある方が村の中にいて、
何か問題が起こるとお伺いを立ててことなきをえた、ということですね、
いわゆる「シャーマン」がいたわけです。

具体的にはどのような感じだったかということで、
今でも活躍中の方がいらっしゃればよいのですが、
なかなか「アイヌ式」などと謳っておやりになっていらっしゃる方は居ないようなので、参考文献として


『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ―伝承の知恵の記録』
 青木愛子 述 長井博 記録
   樹心社 1983年 新版2001年 ¥2000+税

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4795224803/reborn0a-22/250-1298541-7861852

の記述をお借りしますね。

『ウエインカラをするためのカムイノミ等の儀式形式は何もない。
対座する相手と話をしながら、相手の過去や未来のことが見えてしまうのである。

これは目の前にいる相手でなければならないということはなく、
電話に出ている1千キロ離れた相手であってもかまわないし、
今どこに居るかわからない人のことであってもかまわない。
想うと見えてしまうのである。

…病人が来て愛子の治療を受ける。
治療の謝礼として金子(きんす)を包みに入れて差し出す。

開封せずに中の金額がわかる。その金子を借金してきたこともわかる。
貧しい家庭の様子まで見える。財布の金額もわかってしまう。
こうなると貧しい人からは謝礼を受け取れないということになる。

牧場主が1〜2ヶ月後に出産予定の子馬の性別を知りたがる。
生まれる時の様子が見えるので、雄か雌かわかる。

商売の運勢を見てもらいに人が来る。
その商売で動くおかねの様子が見える。
ついでにその人の浮気の様子まで見えてしまう。』


…ということで、この本に出て来る青木さんも、
なかなかお見通しな方だったようですねー。
見たくなくても見えてきてしまう、とのことですから、
とても霊感がおありの方だったようです。

それで、そのような能力というのも、
青木さんの場合は、若い頃に死の淵を彷徨ったことから始まったようですね。

臨死体験をして、あちらの世界へ行きかけたのだが、
「お前はまだやりのこしたことがある!」とかなんとか
守護天使さんのような方に言われて舞い戻ってきたら、
いつのまにかそのような能力が付いていた、という体験談も良く聞きますよね。

また強制的に臨死体験をするようなことをして霊感を高める修行は、
各地の伝統宗教などにも良く見られますね。

ネイティブアメリカンの方などでは
呪術師見習いがひとりで少しだけの食糧を持って荒野をさまよい、
精霊の声の導きを待つ、といういわゆる「ヴィジョンクエスト」などもあり、
ほんとに命がけで行なったようです。

ただ共通しているのは、「見える」ようになるということは、
自分ひとりの力で行なっているわけではないと言うことですね。
ただ、聴きに来る方は「その人自体がエライ先生」と言う風に祭り上げやすくなってしまうので、
霊能者自身も勘違いしやすい、道を誤りやすい、という弱点もあるようです。

そのような能力があっても青木さんのようにずっと謙虚な姿勢を保つというのは
霊能者自身にとっても難しいでしょうから、様々な人にできるだけ救いの手を差し伸べると言う事と共に、人間的にバランスを保つというのは、この世に学びにきている大きなテーマかもしれません。
http://www.donavi.com/contents/column/spiritual_nonaka/020/


アイヌ最後のシャーマン_青木愛子フチは「ウエインカラ」ができたそうです。

それは何かというと「千里眼」ですね。

「陰部まで見える」って書いてありましたから、よっぽど見えたそうです、でも見たくない人のも見えて困ったと思いますが。それはがんばってようやっと女湯覗けたらおばあちゃんだらけだった(小6の修学旅行にて)、という感じでしょうか?(^^;)

まぁつまり彼女は数少ない本物のアイヌ霊能者「ウエインカラクル」だったのですね。


たとえばある方が見てもらいに来て、封筒にお金をいただく、そうするとあける前に金額がわかる、そしてそのお金は借金したものだということが見える、だとするとなかなか受け取れない、というような感じだったそうです。

この方は10年位前までご存命だったそうですから、なかなか現代の神人のようだったんだなぁーって思いますね。

あとは「ツス」といって神がかりになることですね、イタコさんのようになることがおできになったようです。

それでその「イタコ」という言葉の語源もアイヌ語にあるようで「イタック(言葉)オイナ(宣託)」の変化だそうです。

それでははー出てきました、アイヌ語で「守護霊さん」というのは「トレンペヘ」って言ったそうです、「憑き神」っていうことですね。

だいたいどんなに凡人でも3人くらい憑いていて、守っているようです。自分の子供の憑き神は大体見ていれば親がわかったそうですが、わからん場合はこういう人に頼んでみてもらったそうです。ご先祖様がどうとかもですね、沖縄ではユタさんがそうですね。

そして書いてあります。


『一人ひとりが持っている光(注:オーラ?)が見える。

明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く見える人が多い。

何も見えないほど暗い人もある。

暗い人の過去現在をウエインカラしてみると、詐欺、泥棒、異性関係の乱れている様子、売春や覚せい剤、物欲の強い様子等が見える。


ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。

現在財宝をたくさん所有しているかどうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。』


ということですね。自分なんかは細かいことは見えないですが、おそらくこの光の量というのは良くわかるんだと思うんですね、ですから、自分が遠くから見ていてもそれは結構良くわかるので占いができるんだと思いますし、あまりはずさないのかな?って思うんです。でももっとはっきりわからないとあかんなぁーっては思いますね(^^)。
http://blogs.yahoo.co.jp/fy3on3/6770078.html

ウテキアニ(育みわかちあう愛) 青木愛子ババの一周忌に思う

1989年の秋、日本列島の「気の文化」を考える上で、また日本人の生き方を見つめ直す上でも国内の先住民族・アイヌの伝統文化を学ぶことが最も重要なことだと考えた津村喬さんから、「アイヌ自然医学を訪ねて」という研修名で私と連れ合いにコーディネートをしてほしいという要請があった。 

その前年、私は一年近くアイヌの人達と仕事をしたおかげで、道内のかなりの数のアイヌの人達と知り合っていた。とりわけアイヌ語でカムイノミ(神事)のできるエカシ(長老)や伝統的な女の手仕事を身に付けているフチ(おばあさんの尊敬語)との出会いは強烈で、北海道で生まれ育ってはいたものの今まで実際には知る機会がなかった目に見えない世界・魂の領域を私が意識するようになれたのもこの頃からだった。

 ぜひ年内に第一回目を実施したいという津村さんからの要請を引き受けてはみたものの具体的な提案はなく、全てこちらにおまかせ方式。これは大変な課題を背負ってしまったと悩みつつも、自分が出会い感動したアイヌのコスモロジーをなんとか他の人達にも伝えたいという気持ちがいわば私のエネルギーになっていた。

 アイヌの伝統文化の根幹に学ぼうとするならばシャーマニズムは不可欠なものだが、沢山出会ったアイヌの人達から今もシャーマンがいるという話は一度も聞いたことがなかった。よく考えてみれば、和人がいっきにおしよせた明治以降、厳しい同化政策が一方的に進む中でアイヌの信仰やシャーマニズムの世界は特に差別の対象にされてきたのだから、私が知り合ったアイヌの年輩者達がそれらの事を今でもそう簡単に口にすることはできなかったのだろう。

はたして薬草や呪術的な世界に精通したシャーマンは今も存在しているのだろうか。

どういう組み立て方にしようかと考えあぐねた私は、「アイヌ自然医学」というテーマの研修をするならばやはりこの本しかないと思ったのが『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ(樹心社)』だった。

これは札幌在住の写真家で伝承医学研究家の長井博さんが記録した本で、アイヌの伝統医術の世界、とりわけ人間の誕生・出産に関するコスモロジーが青木愛子ババを通して驚くほど豊かに語られていた。

アイヌに関する書籍は次々出版されていたが、この本のように一人の実在するシャーマンの口から伝承医術が具体的に語られている内容のものは当時これ一冊といってよかった。

 表紙の言葉をそのまま紹介すると

「青木愛子はアイヌコタンに代々続いた産婆の家に生まれ、古代から継承されて来た産婆術(イコインカル)、診察・治療のための特殊な掌(テケイヌ)、薬草(クスリ)、整体手技、あるいはシャーマンとしての技量をも駆使して(ウエインカラ ツス ウエポタラ)、地域住民の心身健康の守り役、相談役として活躍している。

本書は十年にわたって愛子の施療の実際を見、その言葉の一つ一つを丹念に記録して、アイヌの信仰と文化の実態に迫った伝承の知恵の書。」

と書かれていた。

 研修の核となりうる存在はこの人だと思ったもののいっさいの噂を耳にしたことがなかった当時の私は、もしかしたら亡くなっているのではという不安をいだきながら大急ぎで愛子ババ探しを始めた。しかし、意外にも出会いは短距離で実現した。ババは二風谷に健在で、親しくしていた樺さんの母方の叔母さんにあたるというのだ。

「連れては行くが、それから先の話は自力でやるように。」と樺さんに念をおされながら私達が訪ねて行ったのは研修実施一ヶ月前の事だった。

初めて訪ねて行った時の愛子ババは、すでに産婆としての現役時代を終えてはいたものの、鋭い眼光でいきなり「アイヌのモンキー見物に来たのか!」と煙草をふかしながら言った。

参ったなあと思うほどこちらを見透かすような強い眼力と迫力で、こういう人には素直にしなくてはと思った途端、

「なしてそんな青っちょろい顔してる。」とババは連れ合いに向かって言いながら自分の近くに手招きした。

私達がそばににじりよるとババはポイと煙草をほおってよこした。

「いいから二回吸ったらババさよこせ。」。

連れ合いが言われるままに煙草を吸いババに戻すと、今度はババがまたその煙草を一口大きく吸い、薪ストーブの焚き口を開けて火の神様にアイヌ語でなにやら祈りはじめた。私達にはアイヌ語は解からなかったが、何か連れ合いのために神々にお願いしてくれているということはよく伝わりありがたい気持ちになった。


 この時、愛子ババは私達と初めて会ったのにもかかわらず、連れ合いが帝王切開かつ仮死状態で生まれ、決して丈夫とはいえない体で育ち、一ヶ月前に母親を癌で亡くしたせいで身も心も疲れており、父親も病弱で心配の種であることなどを瞬時にして感じとっていた。

質問などいっさいなしで、ババの心の中には連れ合いのことが色々観えてしまっていた。ババはこういうふうにいろいろ観えてしまうことを“胸の知らせ”と言っていたが、初対面で私達はいきなりシャーマンが持つウエインカラ(千里眼)の力を思い知らされた。

 祈り終わるとババはすぐに

「ババのこと信じるか。」

とたずね、私達が信じますと心からそう思って答えると、

「ババのことを信じてこの薬草がなくなるまで煎じて飲めば丈夫になる。間違いないから。」

と言いながら部屋中にぶら下がっている薬草の中から連れ合いに必要なものを選び、無造作に渡してよこした。そして何度も

「あんたのためにやる薬だから他の人には絶対やるんじゃないよ。信じて飲めば効くんだから。」

と言った。

その時ババが連れ合いのために選んだ薬草は、ヤマニンジンとシケレベ(きはだの木の実)、キトピロ(行者ニンニク)だった。

この日、私達はアイヌのシャーマンがウエインカラ(千里眼)と薬草術によって人を癒やすことを身をもって体験した。そしてババは一ヶ月後に研修で訪ねて来る人達にも会うことを約束してくれた。

 再び二風谷を訪れるまでの間、連れ合いはババの薬草を毎日煎じて飲み、どのくらいからか記憶はさだかではないが一ヶ月後には慢性的な下痢が止まり、血色の良い顔になっていた。

生まれつき胃腸が弱いせいか下痢状態の便があたりまえだった彼にとってこれは画期的なことで、どんなに沢山食べても痩せていた体に少しづつ肉がつきはじめていた。


■89年12月、慌ただしい師走の隙間をぬうようにして「アイヌ自然医学を訪ねて」の第一回研修ツアーは実施され、冬〜夏〜秋〜春と季節を変えながら4年続き、5年目は京都気功会の企画として、さらに翌年は春なお寒い道北の白樺樹液採集の森を訪ねつつ通算6年間行なわれ、延べ120人余りの人達が参加した。

 研修内容は毎回かならず二風谷を訪ねて愛子ババと歓談することをはじめ、大長老の葛野エカシや亡くなった織田フチ、木幡エカシ、当時まだ国会議員ではなかった萱野茂さん、杉村京子フチ、千歳コタンのフチ達、その他多くのアイヌの人達の様々な協力に支えられた。チプサンケ(舟おろしの祭り)やラォマップ・カムイノミ(伝統漁法による鮭迎えの儀式)にも参列させてもらった。

また、不治の病いを愛子ババに助けられ、それ以後伝承医学の研究をライフワークにされている長井博さんには、ほとんど毎回お話を聞かせていただいた。


しかしなんといってもこの研修の核となったのは愛子ババである。回を重ねるごとに急速に体調を崩していったババは、入退院を繰り返し、こんどは無理かなと思っていても不思議に研修ツアーの時は自宅に戻っていて皆に会い続けてくれ、毎回参加者とババとの間にはなにかしらのドラマが生まれた。

 ババはウエインカラでその人の不幸や心の傷を観てとると、「かぁわいそうにぃ〜。」と独特の言い方と眼差しでその人を包んだ。いきなりとも言えるその愛の癒しに沢山涙を流した人達がいた。

「いつまでも空家(独身)にしとかないで、もっと素直になれ。幸せになんないばだめだ。」と言われた人。

「真っ直ぐいけ。真っ直ぐいってどんとぶつかれ。」と言われた人。

「あとはここ(胸のチャクラを指差して)、ここの窓を開けばいいだけ。すぐそこまできてるんだから。」と言われた人。

「今のこの人と一緒になれば幸せになるから。」と言われて翌朝すぐに相手の所に行って結婚を決めた人。


ババは終始一貫して皆に最愛の人を見つけ、結婚して幸せな家庭を育むようにと言っていたが、大宇宙の法則からしてそれが自然な営みなのだから自然に逆らわずに生きることが一番だと説いていた。

 また、ババは参加者の何人かの手を握り、ほんの少し手相を観てはその人の不幸や具合の悪さをいったん自分に引き受けその人を癒した。

「なんともない。だいじょうぶだから頑張って。」とババに言われた人は、手を握られている間に悪い手相が消えていた。不思議な話だが本当だ。

ババの説明によるとその人を癒そうとする時、その人の病いや悩みをババはいったん我身に引き受け、その後自力あるいは自分の憑き神様達の力で、引き受けた悪いものを自分の外に祓い落とすのだそうだ。 

皆と歓談しているうちにフゥーフゥーと肩で大きく息を吐きながら、水をがぶがぶ飲むこともしばしばで、

「憑いてた悪いもん引き受けてやったしょ。したから火照って、火照ってどうもなんないしょ。」

と私に耳打ちしながら着ている物を次々脱いで肌着一枚になったこともあった。


こうした“いったん我身に引き受ける癒し”の行為にはものすごいエネルギーを必要とし、歳をとり体が弱ってきたババにはだんだんそれがしんどくなっていた。それにもかかわらずババは自分に助けを求める人が傍らにいれば、たとえ相手が無意識でもつい手を差し伸べ悪いものを引き受けてしまっていた。

 愛子ババは、優れたイコインカラクル(助産婦)であり、ツスクル(降霊能力者)であり、ウエインカラクル(観自在者)であり、薬草や整体を含める各種療術師であった。カムイノミ(神儀)やウエポタラ(まじない)も行ない、さらにはウェプンキネ(看取り)も行なっていた。その人がさわやかにあの世へと旅立つことができるようにその人のトゥレンペヘ(憑き神)と話し合ったりしながら臨終に立ち会うこともしていた。

 これについては昨年9月に出版された『女と男の時空: /ヒメとヒコの時代(藤原書店)』という本の中で、旭川医科大学助教授の松岡悦子さんが「魂を見守る人」というタイトルで愛子ババのことを書いている。84年から88年までの4年間に松岡さんが愛子ババのもとに通って話を聞いたもので、これを読むと愛子ババを通して知るアイヌのシャーマンの役割とは、総じて「魂を見守る」ということなのがよく解る。

助産を意味するイコインカルは見守るという意味であり、臨終を看取るウェプンキネということばも見守るという意味なのだそうだ。

つまり愛子ババは直接的には生まれてくる赤ちゃんや死にゆく人を見守りながら、この世とあの世とを行き来する魂を見守る役目をはたしてきた。そしてこれまでアイヌのコタン(共同体)には、愛子ババのようなシャーマンがかならずいて人々の健康と生と死を見守ってきたのだ。


■私達が「アイヌ自然医学を訪ねて」という研修ツアーをきっかけにして愛子ババと出会った時、ババはすでに現役時代を終えて少しづつあの世へ旅立つ準備を始めていたともいえる。八人の子宝に恵まれ、皆無事に成人してはいたものの私と同じくらい歳の末の娘さんは不治の病いで病院生活が長く、どんなに他人を癒すことができても我が子にその力は効かないのだとババは時々シャーマンの運命を悲しそうに語った。

 私達は6年間、ババと一緒に食事をし、歓談し、研究者のような質問をさけ、ただただ一年に一度皆でババに会うのを楽しみとした。「たまげたなあ。皆、心のきれいな人ばっかしでないの。」とババは大きな目を見開いて言い、かならず皆のためにアイヌ語で祈ってくれた。津村さんが愉気をしてあげるととても気持ちが良いと喜び、「先生こんどいつ来る?。ババの生きてるうちにもう来ないっしょっ。」とわざとだだっ子のように言うのが口癖だった。

 そんなババが第4回目春の時には一緒に山に入り、子供の時よく遊んだというカンカンの沢まで行った。途中茂みの中に生まれてまもなく亡くなったお父さんの霊が姿を現わし、ババはうわさ通りの立派な風貌だとすごく喜んだ。その日の夕方、ババは今まで自分が祝い事の儀式の際、神々と交信するために用いてきたトゥキ(お椀)とトゥキパスイ(捧酒箸)を参加者全員の前で津村さんに贈った。

唐突にお祈りを始め「このトゥキをシサムのツムラに贈るのでカムイよどうかそれを許して祝ってください。」というような内容の祈りが終わると、なんの説明もなしにいきなり津村さんにあげるから持って帰れと言った。津村さんが驚いて「こんな大事なものはいただけない。」と断わると、「甥っこや娘らが持つよりも先生んとこさいくほうが生きる(トゥキが)から。祝い事にしか使ってこなかったんだよ。なしてさっさとしまわない。」とババは相変わらず乱暴な口のききかたをし、隣りにいる私になぜ津村は受け取らないのかと目で言った。ババは津村さんを代表にこうして自分のもとに集い、自分からの一方的な愛だけでなくお互いに癒し合う交わりを本当に喜んでくれていたのだ。

そしてこれから先も手渡した神器が愛と幸せを祝う働きをなしていくようにとババは願っていた。恐縮している津村さんをうながしてババからの贈り物を受け取ってもらいながら、私は全員がこの神器と共に大事な心をババから託されたという実感を抱いた。


■ババがあの世へ旅立ってからも、時々私にはあの独特な話し声が聞こえてくる。

「自分が今までこうして生きてこれたのも、愛のおかげさ。こんな田舎の、それもうんと昔に、なしてババに愛子なんて名前ついたのさ。“愛”でしょ。愛のために生きる人になれって、愛をみんなさ伝える人になれって、どっか上の方(神様)でババの親にそういう名前をつけさせたのさ。

アイヌもシャモ(和人)も全国世界中、神の道は一つなんだよ。“ウテキアニ(註:ウ・互いに テク・手 イ・それを アニ・執る)”さ。解かるかい。

こうやって(自分の両脇にすわった人の手を握り)あんたもあんたも(目で一同に手をつなぎ合うよううながす)ほらこうすれば伝わってくるっしょ。これがウテキアニ。これが愛でしょ。」。研修ツアーで遠くから訪ねて来た皆にババが一番伝えたかった話だ。

 癒しにおいて大切なのは超能力や技術よりもむしろ愛だということは、愛子ババだけでなく多くのヒーラーが語っていることで、気功でもそれは同じことだろう。世界が健康でなければ個人の健康もないという立場も愛を基にしてこそ成り立つものだ。

自分では何も書き残すことのなかった愛子ババは直接触れ合った私達に、大切なものの伝え方、遺し方を教えてくれた。ババの愛に包まれた者は、また自分が出会った人にその愛を手渡していけば良いのだと思う。今は神戸で暮らすババの神器が、協会のこれからの活動の中で、津村さんのそして私達の人生の中で、愛と幸せを祝うことができるようにと祈りたい。
http://www2.comco.ne.jp/~micabox/grugru/aiko1.html


青木愛子の人となりを簡単に紹介するならば、収入になるかどうかの問題は置くとして、アイヌ世界のプロフェッショナルとしてのイコインカルクル(助産婦)であり、ツスクル(降霊能力者)であり、ウエインカラクル(観自在者)であり、クスリや生体を含める各種療術師であるといえよう。

…巫女の側面としては、ツス(降霊現象)とウエインカラ(千里眼)がある。ツスは昭和二十一年五月(三十二歳)に始まり、ウエインカラは章は三十年(四十一歳)、癌の手術で死にかけた時から始まっている。

例えば人生相談のものが来て、すでに他界している先祖の霊にお伺いしたいというようなことで、愛子の肉体に死者の霊を降ろして語らせる現象をツスと呼ぶ。

ウエインカラ、いわゆる千里眼で何でも見えるようになると、人生相談の者が来てもツスをする必要がなくなり、もっぱらウエインカラして見るようになる。巫女として、他の種々のカムイノミ(神儀)やウエポタラ(まじない)等も行う。


というわけで、愛子さんも小さいころから能力があってということではなく、途中からよくわかるようになって来た方のようですね、さらに、女系の方は代々そのような能力をお持ちの方のようです。

では実際にはどのような感じでわかったかというと、

距離と時間を越えて見える

ウエインカラをするためのカムイノミ等の儀式形式は何もない。対座する相手と話をしながら、相手の過去や未来のことが見えてしまうのである。

これは目の前に居る相手ではなければならないということはなく、電話に出ている一千キロ離れた相手であってもかまわないし、今どこに居るかわからないある人のことであってもかまわない。想うと見えてしまうのである。

…病人が来て愛子の治療を受ける。治療の謝礼として金子(きんす)を包みに入れて差し出す。開封せずに中の金額がわかる。その金子を借金してきたこともわかる。貧しい家庭の様子まで見える。財布の金額もわかってしまう。こうなると貧しい人からは謝礼を受け取れないということになる。

牧場主が1〜2ヵ月後に出産予定の子馬の性別を知りたがる。生まれるときの様子が見えるのでオスかメスかわかる。
商売の運勢を見てもらいに人が来る。その商売で動くお金の様子が見える。ついでにその人の浮気の様子まで見えてしまう。

…例えば、一緒に居る人たちには見えないのだが、愛子にだけは大蛇が沼に居るのが見える。

死者の霊が見える。例えば愛子の親しい友人が交通事故で死亡した。死亡してから四十九日目の間は、その友人の例が愛子のところに遊びに来るのが見えて、対話する。愛子にとっては日常的なことなので恐ろしいという気持ちは起きない。

四十九日が来ると、すでに死亡しているその友人の親族の霊が友人の霊と一緒に現われて歌をうたったりする様子が見え、その声も聞こえる。これは四十九日で終わる場合である。


またオーラはこのように見えていたようで、大変興味深いですねー。


一人一人が持っている光が見える。明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く見える人が多い。何も見えないほど暗い人もある。

暗い人の過去現在をウエインカラしてみると、詐欺、泥棒、異性関係の乱れている様子、売春や覚醒剤、物欲の強い様子等が見える。

明るく見える人をウエインカラしてみると、他人に対して尽くしている様子が見える。ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。現在財宝をたくさん所有しているかどうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。


と、なるほど、私も光の量が違うということは良くわかるようで、くすみが内ない人ほど良い人ですよね、しかし、もともと心が温かい人でも、さまざまなストレスがたまっているとその周りにくすみがたまっていってしまって、そのストレスを発散できていない状態が長い間続くと、もともと明るい朗らかな方もふさぎ込むようになってしまったり、ガンコになってお酒に走ったりというわけで、オーラの明るさというのはまず非常に重要かつわかり易いその方の性格、状況の指標になったりしますよねー(^-^)。

ですので、まずスピリチュアルなこと学び、またそれを人生上で活用していくときに、オーラがわかるのとわからないのでは結構差がつくような感じも、実は致しますね。

「そんなオーラなんて普通の人がわかるようになるはずがな〜い!レインボーブリッジも封鎖できませ〜ん!」

とあきらめてしまうのは簡単なのですが、まぁ自分としては自分が一応わかるようになったということは、もっと霊感体質で、かつ慈善的な活動なさっているような人はたくさんいらっしゃるわけですから、そのような方もうまくその能力を特に難しいことを学ばなくても活用できるようになる時代が来ると思うのですね。
http://www.uranaiblog.net/user/fy3on3/fy3on3/62550.html

歴代継承者について 本書より引用


この本の原稿締めきり間近になって、愛子からこれまでになかった伝承記憶を思い出して語られ、また筆者が再度フィリピンを訪れて確認した事実により、これまでの原稿をそのままにした上で、更に歴代継承者の項を設けたい。この部分を加えることによって歴代の輪郭がよりはっきりしてくるかと思う。


初代の産婆は1756年(宝暦6年)頃、現在のフィリピン共和国・バギオシティー、ラクナムの地、ルソン島北部山岳地方を支配したイゴロット族の聖地アシュラムで生を享けている。

この初代に産婆や薬草等の治療の技術、及び信仰について授けたのは、アシュラムの開祖である

ティエンチンイー(天静一)という名前の男性であった。ツスの中で初代の霊が名乗っている

天静一の名は、実は初代その人の名前ではないことがはっきりした。初代は降霊現象(ツス)の中で、自分の名前を名乗っていないというのが事実である。


天静一は、中国人名のようだが、現在までの筆者の調査によっても、その出身地は不明のままになっている。現在までに判明していることは、船でルソン島に渡りついた異国人である。

薬草その他の治療の技術にすぐれた男で、彼が瞑想の地と定めて住みついた場所が、後にアシュラムと呼ばれるようになったようだ。この地方はイゴロット族の居住域で、天静一はイゴロット族を中心にして周辺の少数民族の畏敬を集めた人物であったようだ。

初代の産婆はそのアシュラムから北海道まで渡って、シトシというアイヌレヘ(アイヌ語名)のシャモと結婚している。シトシはコタン(村)の人々をトバットミ(強盗集団)から護る役目等を持ち、初代の方は産婆や子育ての技術、薬草等の治療術を生かしながら、夫婦で北海道各地のアイヌコタン(村)を巡回した。

初代81歳の時に訪れたヤマモンベツコタン(現・沙流郡門別町庫富)が最後の地となる。初代は、アトイサムという名のシャモの老婦人のチセ(家)に身を寄せている内に急に容体が変化し、おせわになったその老婦人にテケイヌ(診療・治療のための特殊な能力を持つ掌)を継承して他界した。

この時、初代を追って来ることになっていた夫のシトシは、まだコタンに到着していな
かった。この時の老婦人、シャモの女性が二代目継承者になるのであるが、初代との間には血縁関係のないことを、念を押しておきたい。

この二代目アトイサムは出生地不明、1775年頃に生を享け、1855年頃に他界したようだ。

初代からの教育的伝承はほとんど受けておらず、カムイノミ(神儀)の儀式的な継承のみであった。アトイサムは自分の子供に継承せずに、1851年頃に生れたまだ幼ない孫に三代目するカムイノミを行ない、他界している。やはり実践教育的な継承の期間が、ほぼなかったといえる。

三代目ハイネレの夫はアイヌ語名・門別アンリケチュウという名で、比較的若くて他界したと伝えられている。シャモであったようだ。

四代目は、三代目ハイネレの第二子長女・ウコチャテクが継承して、20歳頃に13歳年上の貝沢ウトレントクと結婚している。ウトレントクの父親はウカリクン、母親はシュトラン、祖母カシテクン、二風谷地方の古いニシバの家系であったようだ。

五代目継承者の愛子は父ウトレントク、母ウコチャテクの第七子四女である。以上を簡単に整理すると、青木愛子に伝わるアイヌイコインカル(助産術)やテケイヌ等は、ルソン島のイゴロット族のアシュラム(聖地)から運ばれていることになる。

アシュラムの方にはヒーリング(心霊技術)が歴代継承され、既に他界したが、トニー・アグパオアが現れて、その手術の真偽が世界的な話題になったようだ。

真偽の問題を論ずる趣味は筆者にはないが、聴診器も注射もメスも使わずに手当てを
行なう特殊な掌をアイヌ語でテケイヌと呼ぶことを報告しておきたい。

二代目、三代目はヤマモンベツコタンに、四代目、五代目は二風谷に定住した。初代以降五代目まで、アイヌの信仰と文化の中で人生を送っている。

しかし、アイヌと結婚した者は、現在までの調査では四代目ウコチャテク一人が判明しているだけである。

http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeWorld/Books/Upashikuma.html


青木愛子さんについては

アイヌ民族 (朝日文庫) (文庫)
本多 勝一 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%B0%91%E6%97%8F-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4022613572

でも詳細に紹介されています。  


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アイヌの信仰 T〔アイヌ人〕


ルナ「アイヌの意味は?」。山崎「アイヌ語で人間を意味するそうだ」。


ルナ「そもそもアイヌ人とは?」。山崎「東アジアの古種族で、歴史的には、北海道を中心に、樺太南部、千島列島、本州の東北部を生活圏にしていた人たちだ」。


山崎『現在では、日本とロシアという2つの国に分断されて生活する少数民族で、日本では北海道を中心に、東京他の都市部でも生活しているというよ。その数3万人を超えるとも、北海道内には2万3千人がいるともいうが実際のところ正確な数はよく分かっていないようだ。


これはアイヌと名乗ることができない人がいるからだというよね。またこれらの人たちのほとんどが、日本人との混血によって人種的な特質は薄れているらしい。


なお、アイヌは、他のモンゴロイドに比べて、彫りが深かったり、体毛が濃かったりといった身体的特徴から、コーカソイドに近いという説が広かった時期があったそうだ。のちに、アイヌ=縄文人近似説が主流となっている』。


ルナ「縄文人近似説?」


山崎『この説によると、≪縄文時代、日本列島を含む東アジア一帯には、南方系の人々が住んでいた。およそ5千年前、シベリアの北方系の人々が東アジアに拡大をはじめた。2300年前には、九州北部から日本列島に侵入してきた。彼らが弥生人である。本土の大部分は弥生人によって占められ、わずかに北海道に残った縄文人がアイヌの人々になった。現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7〜8割、南方縄文系2〜3割の比率で混血している≫ということらしい。


〔縄文時代… 今から約1万6500年前(前145世紀)〜約3千年前(前10世紀)。弥生時代… 前10世紀中頃(異論もある)〜3世紀中頃〕


室町中期から江戸後期にかけては、和人(アイヌの立場から日本人を指す語)の抑圧に対して、しばしばアイヌの武装蜂起が起きている。秀吉、家康から松前氏が蝦夷の支配権を認められた後にも、大規模な蜂起が起き、これを収拾することで、松前氏は実質的な支配権を確立したそうだ。


アイヌ人は、食糧や生活に必要な素材のほとんどを狩猟〔エゾシカ・ヒグマ・アザラシ・トド・オットセイなど〕、漁労〔サケ、マス、ニシン、シシャモなど〕、植物採集により得ていたんだ』。


【 シシャモという言葉はアイヌ語のスサム(柳の葉の意)に由来する。神の国の柳の葉が人間の世界に落ちて魚になったとされる。サケは、カムイ・チップ(神の魚)と呼ばれ、サケの回帰性を神が与えてくれたものとみなした。】


ルナ「木の皮の繊維で織った和服に似たアイヌの民族衣装をアツシ(アットゥシ)というわよね」。山崎「アツシには、オヒョウあるいはシナノキの内皮を使うそうだ」。


山崎『しかし明治政府が成立し、多くの和人が移住してくると、森林は伐採され、原野は耕作地となり、狩猟や漁労の権利も奪われてしまったという。これにより彼らは、採集民としての生活が維持できなくなったという。


明治政府は、アイヌの農民化とともに、皇国臣民化を図ったというよ。以来、政策によって日本文化への同化を強いられ、固有の文化を失っていったそうだ。とくにアイヌ語は、日常の会話で全く使われなくなったそうだ。


近年までアイヌに対する根強い差別や偏見があったが、現在では、物質的、精神的ともに、日本人と全く同じ生活を営んでいて、民族としてのアイヌはすでになく、せいぜいアイヌ系日本人となっているともいう人もいるよね』。


ルナ「北海道や東北を、蝦夷地(えぞち)と言うでしょ」。山崎「蝦夷とは、大和朝廷によって異族視されていた北方に住む土着民に対する呼称で、蝦夷地は、時代によりその地域は変化しているよね」。


山崎『アイヌも、近世には、蝦夷(えぞ)と呼ばれたそうだ。アイヌという言葉が一般化したのは明治以降だという。蝦夷は、古代には「えみし」と読み「毛人」とも書かれたらしい。また「えみし」の転訛から「えびす」とも読まれたそうだ。えぞと読むようになったのは平安中期以降だというよ。


えみし、えぞの語源については様々な説があるが、一説によると、アイヌ語の雅語(日常語に対して文章語をいう)の「エンチュ」(人間の意)に由来するという。他には、本来の意味は「田舎(辺境)の勇者」であったという説などがあるようだ』。

N、アイヌの信仰 U〔カムイ〕


ルナ「アイヌの信仰ってどのようなものなの?」。


山崎『まず、ユーカラという神話的叙事詩がある。ユーカラは吟唱するもので、「カムイ・ユーカラ」(神謡)と「人間のユーカラ」(英雄叙事詩)の2つに大別される。また、鳥獣、植物、火、風などの神々が自らの身の上を語るカムイ・ユーカラ(神謡)、人間の祖先神が自らの功績を語るオイナ(聖伝)、人間の英雄(主にポンヤウンペという少年)の戦闘や愛などの体験記であるユーカラ(英雄詞曲)、主人公が女性のマト・ユーカラ(婦女詞曲)の4つに分けられたりする。


カムイ・ユーカラやオイナによれば、アイヌ神話の国造りの神は、コタン・コル・カムイ〔コタンは村や里や集落。カムイは神や神霊の意〕で、この神は巨人神で鯨を串刺しにしてあぶったりする。妹神とともに、大海に陸地をつくり、山や川、人間、動物、植物などを創造し、天上界に帰ったとあるそうだ。


天上界は神々の生活の場〔カムイ・モシリ〕で、ここの支配者は、カント・コル・カムイ〔雷神カンナカムイと同一とする説もある〕で、この神の指示によって、地上世界の創造されたという。


アイヌの世界観には、神々の世界(カムイ・モシリ)、人間の世界(アイヌ・モシリ)、死後に行く(ポクナ・モシリ)があり、死後に行く世界は、地上と同じ様相をしていると考えられていて、主神的な存在は見られないそうだ。


天上界から人間界〔アイヌ・モシリ〕に、生活の知恵や文化を授けた神は、アイヌラックル(人間的な神の意)という始祖神(アイヌ人の祖)で、オキクルミ、アエオイナカムイ、オイナカムイ、オキキリムイの別名を持つ。


この神は、脛(すね)の中に、稗(ひえ)の種を隠して、地上に降り、人間に穀物を授け、狩猟、漁労、耕作、薬草につていの知識、家や舟の作り方、彫り物、機織り、刺繍、神の祀り方や祈りの詞(ことば)などの信仰の儀礼、争いごとの解決法など生活の全てを教えたという。また地上の悪神を退治している』。


ルナ「日本語の神とカムイ〔神威や神居と当て字する〕は関係あるの?」。山崎「共通の祖先語から生まれたという説もあるようだよ」。


山崎「そのカムイ(神霊)が、動植物や自然現象、さらには人工物など、あらゆるものに宿っているというのがアイヌの世界観だね」。ルナ「アニミズムね」。


ルナ「他はどのような神がいるの?」。


山崎『太陽(チュプカムイ)、雨乞い(ホイヌサバカムイ)、雷(カンナカムイ)、狩猟(ハシナウックカムイ)、幣柵(ヌサコルカムイ)、月、風、雪、山、川、湖、草木、鳥獣、魚、虫、火、舟、疱瘡などの神々が祀られるという。


カムイ・ユーカラでは、これらの神々が、自分の来歴や体験などを語り、人間に対する位置づけや祀られるゆえんなどを明らかにしているそうだ。


水の神(ワッカ・ワシ・カムイ)や、魚(チェプコルカムイ)を与えてくれる川の神(ペトルンカムイ)はとくに重要で、また多くの祭儀では、火の神(アぺ・カムイ)がとくに尊ばれるというよ。火の神は人間の言葉を神の言葉に変えて、諸神に伝えてくれるため、どんなカムイに祈りを捧げる場合でも、原則としてアペ・カムイへの礼拝がともなうそうだ。


舟や家をつくる材料となるシランパ・カムイ〔樹木の神霊。樹木の集合である山をも意味した〕には、材料となる良い樹木には良いカムイが、ならない樹木には悪いカムイがいるとみなしたそうだ。


家にも、家の守護霊(チセコロカムイ・家の東北角に存在)、囲炉裏の霊〔アペ・フチ・カムイ。アペは火、フチは老婆の意味で、老婆の姿をした神〕、夫婦の霊(エチリリクマッ・家に入って入口すぐ右の柱に存在)などがいるとされたという。


また、陸、海、空のそれぞれに、最も重要な動物神がいる。陸ではキムン・カムイ(山にいる神)であるヒグマ、海ではレプン・カムイ(沖にいる神)であるシャチ、空ではコタン・コル・カムイ(集落を護る神)であるシマフクロウだ。他には、鹿の霊(ユッコルカムイ)、狐の霊(キムンシラッキ)なども信仰されたようだ。


さらに、人間に幸をもたらすピリカ・カムイ(善きカムイ)と、人間に災をもたらすウェン・カムイ(悪しきカムイ)がいる。流行病や天災は、悪しきカムイとされる。疱瘡(天然痘)や流行病を司る神は、パヨカカムイまたはパイカイカムイといい、この神の射た矢の音を聞いた者が疱瘡になるそうだ』。

O、アイヌの信仰 V〔イオマンテ〕


ルナ「イオマンテ(熊神送りの祭儀)ってよく聞くけど…」。


山崎『イは「それ(神霊)を」、オマンテは「行かしめる」の意味で、飼育した子熊(ヒグマ)を殺し、その霊魂であるカムイを神々の世界(カムイ・モシリ)に送り届ける祭儀だというよ。なお、親熊を狩りで殺した場合、その場で解体し、霊を送るけど、これはカムイ・ポプニレ(カムイを発動させる意)というそうだ。


カムイ・ポプニレは、祭壇を設えてヒグマの頭部を祀る。これは、殺された直後の獣(熊以外の動物も)のカムイ(霊魂)は、両耳の間に留まっているので、これを神々の世界に送り返すからだというよ。


但し、人間を傷つけたり殺したりした熊は、細かく刻んで大地にまいたり、ゴミと一緒に燃やしてしまい、ポプニレを行わないため、こうした熊の霊魂は神の世界に帰れないそうだ。


春先、まだ冬眠から目覚めない熊を狩ると、冬ごもりの間に生まれた子熊がいる場合がある。この子熊を集落に連れ帰って飼育する。はじめは、人間の子供と同じように家の中で育てるそうだ。1、2年ほど育てた後に、集落をあげての盛大な祭儀(イオマンテ)を行う。


花矢(木を装飾的に削ってつくった矢)を射かけ、最後に本物の矢を心臓に打ち込み、さらに丸太の間に首を挟んで屠殺するそうだ。遺骸は一定の様式に従い、頭だけを残して解体される。頭部はポプニレ同様、イナウ(木幣)や酒を供え、祈りを捧げて、霊魂を神々の世界に送り返す。肉は人々にふるまわれるそうだ。


アイヌの人たちは、イオマンテを行うことにより、再び熊神が、自然の恵み(毛皮や肉)をもって、人間の世界に訪れてくれると考えたらしい。


なお、熊神の他、主要な動物神〔シマフクロウ・キツネ・タヌキ・カラスなど〕を送る場合もイオマンテと呼ばれ、クジラやシャチを対象とするイオマンテもあるそうだ。一部の地域では、シマフクロウ〔北海道には130羽しかいない。日本では1971年に国の天然記念物。93年に希少野生動植物種に指定〕のイオマンテが重視されるという』。


翔「イオマンテは、生贄(いけにえ)を神に捧げて守護を願うというものや、人間の罪を動物に着せてあながわせるといった贖罪信仰とも違うみたいだね」。


山崎『アイヌの信仰は、アニミズム的な側面が強い。自然物、人工物、人間に関わるものであれば全てに神霊(カムイ)が存在すると信じられていた。神と霊との関係は、樹を切るときには、その霊を森の神に送り返すといったもので、同様に、使わなくなった食器は、捨てずに特定の場所にもっていき、器や皿の霊を神の世界へ送り返す。葬式では、死者の霊とともに副葬品の霊が他界へ行くように、副葬品を壊したり破ったりするそうだ。イオマンテもこうしたところからきていることが分るよね。


カムイは、カムイ・モシリという神々の世界からやってくる。このカムイ・モシリは、天上界にあると考える場合と、山の獣であれは山の奥に、鳥であれば天界にあるといったように生活の場から想定される場合とがあるようだ。


カムイ・シモリでは、カムイは、人間と同じ姿で、人間と同じように、料理をしたり、彫り物をしたり暮らしているが、人間には見ることができないという。カムイが人間界になにかの理由(シマフクロウなら村を護るため)でやってくる場合、人間に見える衣装を身に付ける。火のカムイなら赤い衣装を、クマなら黒い衣装を身に付ける。これが人間には炎に見えたり、毛皮に見えたりするそうだ。


クマは毛皮と肉という土産をもって、気に入った人間の家を訪れる。狩猟はこれを迎える行為だというよ。本人が心が美しいと熊が好意をもって訪問してくる。猟運とはこれをいうそうだ。


なお、熊やキツネを先祖とする家も多いそうだけど、これをトーテムの残存とするかどうかについては考えが分かれているらしい』。

P、アイヌの信仰 W


翔「偶像は作られたの?」。


山崎『アイヌの信仰は、神殿やら神の像やらは作らない。祭儀では、イナウを用いる。例えばイオマンテでは、熊神の祭壇を中心に、森の神、水の神、狩猟の神、氏神、農業神、祖霊などの祭壇が設けられるそうだけど、祭壇とは、イナウを立てる並べる柵だというよ。

また祭壇は、家の脇にも設けられていて、祭儀ごとに酒を供え、祈りを捧げるそうだ。


【 イナウ… 木幣(もくへい)。通常は、ヤナギを使用。ミズキや、キハダ(ミカン科)で作られたものは上等とされ、肌が白いミズキのイナウは天界で銀に、黄色いキハダのイナウは金に変るとされる。捧げる神によって種々の形がある。

一例をあげると、直径が3センチほどのヤナギやミズキの枝を採集し、70センチほどの長さに切り、皮を剥ぎ、乾燥させる。乾燥したら、表面を削り、先端部あたりにふさふさと飾りたらす。イナウ作りはアイヌの男性の大切な仕事とされ、イオマンテなど重要な祭儀には、泊りがけで集い、イナウを作成したという。】


また、アイヌには神官のような人は存在せず、成人男性であれば誰でもカムイへの儀礼ができなければならないという。一方、女性はふつう火の神以外には祈りを捧げられないそうだ。参加できない祭儀も多いようだ』。

Q、アイヌの信仰 X〔コロボックルと日本人の起源〕


翔『「コロボックル」ってアイヌの説話に登場する小人だよね』。


山崎『地面を50センチくらい掘って屋根をかけた竪穴住居に住むというよね。また、コロボックルとはフキの葉の下に住む人の意味で、フキの葉の下に2〜3人(10人とも)入れる大きさだそうだ。


漁が得意で、笹の葉を合わせて作った舟で漁に出て、多くの舟が力を合わせてニシンなどを捕り、クジラも捕るそうだ。北海道の原住民で、アイヌの家にやってきて物品を交換したりするという。


人類学者の 坪井正五郎〔1863〜1913・東大理学部教授。日本人類学会の創設者〕が、1887年(明治20)に「コロボックルは日本列島の先住民で、アイヌに追われた」と主張し、「日本人の先住民はアイヌである」(当時の主流の説)と主張した 小金井良精〔よしきよ。1858〜1944・東大解剖学部教授。日本解剖学会の創設者〕と激しい論争を展開したそうだ。


これを「コロボックル論争」「アイヌ・コロボックル論争」という。この論争によって、日本人の起源の研究が飛躍的に進歩したというよ。


小金井は、人骨の実証的研究から坪井の間違えを証明し、彼の「アイヌ先住民説」は、修正をなされながらも現在に至っている。つまり、アイヌは縄文人の血を最も直接的に引き継いでいるとみられている。沖縄の人たちも、縄文人の血を濃く受け継ぐ民族だといわれている。


しかし小金井は、縄文時代の先住民のアイヌは、弥生人(日本人)が海外から渡来したことによって、北へと追いやられたと考えたが、これはその後の研究によって、弥生人も基本的には縄文人に由来することが分り、間違えのようだ。


縄文人は、本州では、大陸から農耕文化が入ることによる生活の変化や、西からの遺伝的影響によって体質を大きく変えて弥生人となったが、北日本では、北からの遺伝的影響を受けながらも、漁猟採集を中心とした生活が続き、本州ほど体質を変化することなくアイヌとなったというのが現在の見方のようだね。


なお、縄文人は、2〜3万年前(後期旧石器時代)に、アジア大陸から陸橋を渡ってやってきたモンゴロイド系の集団が、海面が上昇したことで、日本列島に長期に亘って閉じ込められ、その結果、特殊化したものだというよ』。
http://shinri809.com/sono13.html



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

3. 中川隆[-10669] koaQ7Jey 2018年4月20日 12:35:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11461]

アイヌのシャーマンが病気の治療に使った薬草もわかっているよ:


アイヌ民族の薬草

@原因不明の病気に冒された人(中川註 長井博さん)がいた。

その人は色々な方法での治療を受けたが効果が見られなかった。

そこでからはアイヌの産婆で治療も上手な不思議な霊能力のあるおばあさん(中川註 青木愛子さん)の治療を受けることにした。


その治療とは自然のリズムと一体になる生活を送るというものだった。

日の出前に起床、徒歩一分程の沢の湧き水で顔を洗い、散策する。

家に戻るとおばあさんが処方した煎じ薬を飲む。


それに用いられた薬草はキハダの実(シケレペ)と、フッキソウ(ユクトパキナ)が主であった。そして甚だしい苦痛が訪れた時にはおばあさんの先祖に当たる紙や水野神に祈りながら手当を行う。すると不思議にも苦痛は去るのだという。そのようにして彼は徐々に回復した。

彼の回復はすべての薬草のお陰とは言えないが、おばあさんのところへ来なかったら彼は死んでしまっていただろう。


Aアイヌ民族伝承の薬草で抗ガン剤を作ろうとのことで研究が進められている。

131種の植物のエキスを抽出し、培養した人の肺ガン細胞3種で抗ガン活性を検査した。3種類のガン細胞すべてに強い抗ガン活性を示したのは、ナナカマドやチシマアザミなど4試料。2種類に効いたのはオニシモシケなど2試料。1種類にも43試料が有効だった。しかし、植物の部位や獲る時期、場所によって効き目は全く異なるため、まだまだ研究が必要である。

※抗ガン活性=ガン細胞を殺す働き
http://www.hokuyo-h.kushiro.ed.jp/j/08/04/pair%20project/ainu.html


アイヌの薬草治療は、同じように風邪の症状を発症していても、その方達の身体を観て、薬草も同じものを与えなかった。 つまり、ほとんど同じ症状であるにも関わらず、使用する薬草は、それぞれにほとんど異なっていたそうです。

しかも、それほど時間をかけずに回復し、症状の部分の回復だけではなく、身体全体の体力が上がっていくのも同時進行だったそうです。
http://yumikosan.biz/column/column001.html


アイヌ民族の知恵 薬草に抗がん作用 道立衛生研と北大が共同研究班

北海道新聞 2004/03/24


★アイヌ民族の知恵 薬草に抗がん作用 道立衛生研と北大が共同研究班

 アイヌ民族が食料や薬などに用いてきた植物のうち、四十七種類に、がん細胞を殺す(抗がん活性)作用があることを二十三日までに、道立衛生研究所(札幌)と北大の共同研究班が突き止めた。

特に高い抗がん活性を示したチシマアザミとナナカマドについて活性物質を特定する分析作業を進めており、がん治療の新薬開発につながる可能性もあるという。

 抗がん剤開発では、植物などから抗がん活性のある物質を探す試みも盛んで、共同研究班は、アイヌ民族が薬などに利用してきた植物ならば、有益な物質を見つけられる確率も高いとみて二年前、研究を始めた。

 文献などからアイヌ民族が薬などに用いた百八十三種類の植物を選び、葉や根などの部位に分けてエキスを抽出。これを培養したヒトの肺がん細胞三種類にそれぞれを加え、がん細胞を死滅させるかどうかで、抗がん活性の有無を判断した。

 三種類のがん細胞すべてに抗がん活性を示したのは、アイヌ民族が薬に使ったというチシマアザミの葉と茎、解熱剤として使われたナナカマドの若葉、それにエゾノサワアザミの根とシャクの根。このうち抗がん活性物質がほかの研究者によって突き止められているシャクと、希少種のエゾノサワアザミの二種類を除いた二種類について、今夏ごろまでに活性物質の特定を終える予定だ。


アイヌの薬草で抗がん剤を 49種に効き目確認

 アイヌ民族伝承の薬草で抗がん剤をと、札幌市の北海道立衛生研究所と北海道大が、研究を進めている。既に49種の薬用・食用植物に抗がん活性(がん細胞を殺す働き)を確認。来年3月末までに物質を特定するが、新抗がん剤の誕生につながる可能性もある  

3種類の肺がん細胞すべてに強い抗がん活性を示したのはナナカマドの若葉、チシマアザミの茎など4試料。
 
アイヌは、ナナカマドをかゆや茶に入れて解熱剤に、チシマアザミはかっけ治療薬として服用した。ほかは下痢やせき止め、止血など幅広いが、植物を採る時期や場所で効き目は全く異なる。  

北大大学院の井上勝一助教授は「高齢者向けに穏やかで有効なものを開発したい」と話している。
2004/04/02 19:20 【共同通信】


薬草として知られるオニシモツケとクサノオウは二種類のがん細胞に、ハマナスなどは一種類のがん細胞に効き目があったといい、研究班は、これらのなかにも有望な活性物質が含まれている可能性があるとみて、今後、分析を行いたいとしている。
http://www.ikkando.com/saisin-jyoho/saisin-jyoho1.html
http://www.iph.pref.hokkaido.jp/Kankobutsu/Shoho/annual55/n02.pdf

幸霊 奇霊 祓へ給へ 清め給へ 守り給へ
幸はへ給へ 照らし給へ 導き給へ

掛けまくも畏き 伊邪那岐の大神  ◇       ミ ◇     祓へ給ひ清め給へと
筑紫の日向の橘の          ◇◇   / ̄| ◇◇.   まをすことを聞こし召せと
小戸の阿波岐原に        ◇◇ \  |__| ◇ ◇    恐み恐みもまをす。
禊ぎ祓へ給ひし時に           彡 O(,,゚Д゚) /.       
なりませる祓へ戸の大神たち       (  P `O      
諸々の禍事・罪・穢れあらむをば    /彡#_|ミ\    
                           

春からの贈り物 -行者ニンニクを採りに-
http://www.youtube.com/watch?v=pQFSAATJDAU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=qMMmyG5H81Q&feature=related

奥深い源流に生えるギョウジャニンニク
http://www.youtube.com/watch?v=KomsIsmJh6M&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=cpZGklBhz6g&feature=related

「行者ニンニクは生活習慣病の予防効果が高い」2009年2月18日(水) 10:40

先日とはまた別に農学博士 西村弘行教授よりいただきましたレジュメをここで紹介させていただきます。

今回も行者ニンニクの薬効のすばらしさが研究報告されています。

報告の中には、

•インフルエンザなどへの抗菌作用
•胃潰瘍や十二指腸潰瘍、ガンの予防・改善
•脳梗塞や心筋梗塞など動脈硬化症の予防効果
•血糖値を低下させる作用
•ダイエット効果
•高脂血症や動脈硬化、糖尿病、また脳梗塞から回復
•発ガン予防効果や各種のアレルギー症状の解消

など数多くの効能が報告されています。


北海道は薬効高い野草の宝庫
「行者ニンニクは生活習慣病の予防効果が高い」

北海道東海大学工学部教授 西村弘行


清冽な水と寒暖の差の大きい北海道は薬効高い野草の宝庫 

 春(といっても、北海道では三月の末ごろからですが)、山野で雪が融け始め、春の陽光がさんさんと地面を照りつけるようになると、これまで眠っていた野草が一斉に目を覚まします。北海道の冬は厳しいですが、北方系の植物たちにとっては事情が違います。冬の間は植物たちの多くが眠っていますから、雪の下の大地も眠っています。植物たちが眠り、大地も休息している間に土の中では微生物たちが活躍します。微生物たちは、秋に落ちた枯れ葉や枝を分解して土にかえします。この分解物こそが植物たちにとって最高の栄養源になります。

 雪の下のほぼ半年間、微生物たちによってこの作業が繰り返され、春の陽光で目覚めるころの大地は、たっぷりの栄養源とたっぷりの雪解け水とで大きくふくらんでいます。そこへ暖かな春の陽光が降り注げば、その温度で雪解け水が水蒸気化し、水蒸気の上昇とともに土がほぐされ軟らかくふっくらしてきます。これが微生物や陽光によって作られた滋養豊富な大地なのです。

 北海道は自然に恵まれ、植物の種類も多く、食べられる山菜がたくさんあります。私たちが食べるフキノトウ、カタクリ、ウド、モミジガサ、タランボ、行者ニンニクなどの山菜は香りが高く、各種の健康機能を持っています。

 牛肉や豚肉、卵、牛乳、お茶、野菜、果物…これらの食物は、人間が改良して作ったもので、本来ある野生の原種ではありません。山菜は数億年の昔から命をつないできた生命力あふれる気の強い食物です。「春の味覚」、山菜を食すことは健康を維持するばかりではなく、季節の食生活にうるおいを与えてくれます。

 北海道は野草の宝庫ですが、その中でも、人気度、味、薬理効果などの面からみても北海道を代表する野草で、まさに「健康野草の王様」行者ニンニクについてお話しましょう。


行者ニンニクの血液浄化、代謝改善作用はすごい!

 行者ニンニクはユリ科ネギ属の多年草で、その仲間にはタマネギ、ニンニク、ニラ、長ネギ、ラッキョウなどがあります。見るとスズランのような茎葉部の形をしており、根はノビルやアサツキの根に似ています。日本では北海道に多く自生し、修行僧、すなわち行者が隠れて食べては体力をつけていた…という逸話と、匂いがニンニクに近いことから「行者ニンニク」の名が付けられたといわれています。

 主要成分は各種の硫黄を含んだ化合物(含硫化合物)で、二次代謝産物として薬効が豊富です。まず、非常に強力な抗菌作用が判明しており、インフルエンザ、膣炎などの炎症を抑制あるいは防止する効果があるとされています。さらにアリシン及びアリシン由来の関連物質には、腫瘍細胞の増殖を抑制したり、アルコールによる胃粘膜の損傷を予防したりする効果があることが明らかになっています。

つまり、アリシンは細胞の再生に寄与し代謝を活性。胃潰瘍や十二指腸潰瘍、ガンの予防・改善に有効と認められています。アリシンから由来する成分、トルスルフィド類やビジルジチイン類も注目の生理活性物質でしょう。これら含硫化合物は、血液を濁らせる酸化型悪玉コレステロールや血栓の生成を抑制するなど血液の浄化作用に優れています。すなわち脳梗塞や心筋梗塞など動脈硬化症の予防効果が高いと考えられます。

 また、行者ニンニクの匂い成分である含硫化合物のなかには血糖値を低下させる作用を持っています。同じ薬効は行者ニンニク中に元々含まれる含硫アミノ酸にもあることが確認されています。

 さらにこれら含硫化合物には脂質代謝改善効果があり、行者ニンニクを食べることにより体脂肪の燃焼効果によって、運動持続性を増したり、ダイエット効果も期待されます。

 これは行者ニンニクの強力な血液浄化力を裏づけるエピソードなのですが、あるとき少年が行者ニンニクを十五本食べて鼻血をだしてしまいました。なぜかといえば、血液がサラサラとなり勢いよく流れすぎたため。そのときは、いや、さすがに行者ニンニク、もの凄い血液浄化力だと感心したものです。

 行者ニンニクは生でよし、煮てよし、焼いてよしの山菜です。お花見のジンギスカンに入れると最高ですが、食べる量は五本以下が最適です。これだけでも、かなりの効果が期待できるでしょう。事実、行者ニンニクをよく食べるようになったことで、高脂血症や動脈硬化、糖尿病、また脳梗塞から回復した例があると聞きます。また、免疫賦活活性や抗アレルギー活性が高いため、行者ニンニクを食べると発ガン予防効果や各種のアレルギー症状の解消に役立つケースも多いそうです。

 こうした薬効も二次代謝産物という北の大地からの贈り物があればこそ。「北海道の野草には薬となる成分がぎゅーっと詰まっている」との評判から、近年、行者ニンニクを筆頭に北の野草の病理学的研究や機能性食品の開発が盛んです。新たな「薬食同源」の供給地として、今後、北海道への関心、注目が高まることは間違いありません。
http://www.mytokachi.jp/ktpr/entry/8


西村弘行

 私とギョウジャニンニクとの出会いは、1969(昭和44)年4月に北海道大学農学部農芸化学科の助手として札幌に赴任して以来でした。

 私には、神奈川県で寺の住職をしている叔父がいまして、その叔父は俳人でもあり全国の文学者とお付き合いがありました。その叔父から、北海道へ行くならと、今は亡き詩人・アイヌ民族研究家の更科源藏氏を紹介いただいたのです。

 更科先生は、私が植物学を勉強していることを聞き、アイヌ民族の植物に対する考え方などを詳しく話してくださいました。

 私は感動し拝聴しましたが、アイヌ民族が食用にする珍しい野草にひかれました。「アイヌネギ」と言っていましたが、どんな野草なのかわかりませんでした。さっそく大学の図書館へ行って牧野富太郎先生の植物図鑑で調べました。しかしその時は、その野草の実態がわかりませんでした。

 結局、山菜の本で調べたところ、正式な名称を「ギョウジャニンニク」ということがわかりました。その名の由来は、昔、修行僧である行者たちが雪解けの頃、山野で修行中にこっそり食べて体力をつけたといわれており、行者が食べるニンニクに近い匂いのする植物にちなんで、牧野富太郎先生が付けられたのだそうです。

 このようにしてギョウジャニンニクと出会った私は、その後もギョウジャニンニクを中心に、北海道に自生する薬効性のある植物について研究を続けてきました。1986(昭和41)年には、北大農学部の八鍬利郎名誉教授を会長に、私と北大付属農場の中嶋博教授が事務局を担当し、「ギョウジャニンニク研究会」を発足しました。その二年後に、広く北海道内に自生する薬効性のある野草、あるいは北方冷涼地域に適した外来作物についても扱うことにして、名称を「北方系機能性植物研究会」に変更しました。

 この「北方系機能性植物研究会」は、超高齢化社会を迎える今日的状況から、一般消費者が望む「安くて」「安全で」「おいしい」健康維持食品の開発が大きな課題になるという視点で、産学官が総合的に取り組んでいるものです。北海道の一次産業にどう付加価値をつけるか、生産者と加工業者が一体となった一・五次産業の確立に貢献することを目的としています。

 さて、北海道は自然に恵まれ、植物の種類も多く、食べられる山菜がたくさんあります。一説によると、その種類は600種以上あるだろうと言われ、現在はそのうちの一割弱40〜50種類ぐらいは食べているようです。

 このように豊富な野草の中で、北海道を代表する山菜はどれかと問いますと、北海道の人たちなら、ためらうことなく「ギョウジャニンニク」と答えます。

 ギョウジャニンニクは数ある野草の中でも、人気度、味、薬理効果などの面からみても、北海道を代表する健康野草で、まさに「健康野草の王様」といっても過言ではありません。

 ギョウジャニンニクの薬効をあげていけば、まず脳梗塞・心筋梗塞などの動脈硬化症の予防です。血液をサラサラにしたり、血管を丈夫にする働きがあります。中性脂肪・コレステロールの低下、血糖値の上昇を抑制する効果も明らかになっています。

 これは、臨床実験でも明らかで、毎日100gのギョウジャニンニクを食べさせて3日おきに採血して検査したところ、抗酸化力が高まっていました。動脈硬化症の予防だけでなく、一度こうした病気になった人の病後食としてもいいでしょう。

 ギョウジャニンニクの主要成分は、におい成分のもとになっている含硫アミノ酸で、特に量的に多いのが、エネルギー代謝に重要なアリインです。含硫アミノ酸のアイリンは、酵素アリナーゼの作用でアリシンが作られ薬理活性物質に変化していきます。アリシンは強い抗菌作用があり、その抗菌性によって肺結核、インフルエンザなどを防止する効果があるとされています。

 さらにニンニクやギョウジャニンニクのがん予防効果が注目されています。新鮮なニンニクには、胃がんに対する予防あるいは胃のがん細胞の増殖を阻害することが科学的に明らかにされています。アリシンをはじめとした硫化アリル類が、発がんを予防したり、がん細胞の増殖を抑えることは、さまざまな研究によって報告されています。

 昔から言われている疲労回復・滋養強壮作用は、ビタミンB1と結合することによってさらに効果が高まるので、肉や卵と合わせるとさらに効果を持続させます。
 滋養強壮はもちろん、がんの予防・抑制にも効果があるギョウジャニンニクは、まさに驚異の野草といえるでしょう。
http://www.genki-e.jp/prevention/prevention03.html


行者にんにく(キト、プ草)

『キトは食糧、背骨といってトゥレプと共にアイヌにとって大事な食べ物です。

体にとにかく様々な効能効果があります。
虚弱体質の方にはたくさん食べさせます。
また風邪薬にもなるし、便秘、脚気、肺病、なでも効ききます。

山のものは神さんが人間のために地上に降ろされた食べものであり、薬なんです。だから神様に感謝して、食べる分だけいただき、 また来年もここに授けてくださいってお祈りして、根は必ず残して撮るんですよ。』

日当たりのよい斜面のキトは、太くておいしいのです
生で食べたり子のみの長さに切って おハウ(お汁)にいれ、塩味で食べます
青葉のない冬の保存食としても最高です。

クキが少し固くなった五月の下旬〜六月にかけて花も葉も根元から一緒に大量にとり、洗わずにザクザクと1.5cmくらいに刻みます
1.5cmぐらいに切ったキトを乾燥させてサラニャにいれてブに蓄えておきます
起用するときはざるにいれて一晩水につけて戻し、おハウに放つのです

またご飯を炊いたとき後に上にのせ、まぜるときに熊の油をいれるのはイオマンテに欠かせない大御馳走なのです

キトは別名プ草と呼びますが、キト、キトビロは北海道北部および樺太でのことですが、日本語でいう『祈祷びる』からきているともいわれています

また、和名を『行者にんにく』となづけたのは植物学者牧野富太郎博士で、行者が荒行に耐えるため食べたと解するのかもしれません

キトの別名フラルイキナ(烈しい匂い)とは独特のにおいのあるところから来ています。実際のこれを食すると2日間はニンニク臭の強烈版の匂いで周囲の方を圧倒してしまいます。

アイヌの人々は、キトの強くて烈しい刺激臭に病魔も近づけぬと信じ、伝染病が流行したときに、必ず戸口や窓につるしたのです

癌予防、冷え、感染症予防にとても効果があると言われています。

今回のアイヌ薬草採りで、死ぬ思いをしたのは、このキトの群生がほとんど断崖絶壁にあるためだったのです
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/11-a586.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/12-7d9b-1.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/13-df85.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/14-fad7.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/15-5023.html


行者にんにくのレシピ 210品
http://cookpad.com/search/%E8%A1%8C%E8%80%85%E3%81%AB%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%8F

ギョウジャニンニクの選び方と保存方法や料理
http://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/vegitable/Gyoujyaninnniku2.htm

行者にんにく ネット販売


【楽天市場】 行者にんにく
http://search.rakuten.co.jp/search/mall/-/%E8%A1%8C%E8%80%85%E3%81%AB%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%8F-304653/p.1-s.1-sf.0-st.A-v.2


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天然行者にんにく(アイヌネギ)
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ぷくさ 行者にんにく焼酎 標茶町 By酒匠&北海道ソムリエ 鎌田孝
http://www.youtube.com/watch?v=KkKyZxQ9QUs


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内容量:720ml
定 価:1,575円税込(送料別)


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1パック(250g入真空パック)
定価:1,400円税込(送料別)
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ご購入方法は電話・ファックスにてお問い合せ下さい。

(株)小野商店
〒088-2301 北海道川上郡標茶町旭2丁目2番5号
TEL 015-485-1345
FAX 015-485-1346
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http://dosyocyu.exblog.jp/7554728


エント茶 ネット販売 宮本酋長売店

アイヌの人たちが日常お茶のように飲んでいた薬草茶です。

日常のお茶や粥の香り付けにも使われていた薬草で、解熱や発汗、利尿作用があるとされ、風邪や二日酔いの薬としても効果があると言われています。

アイヌの人たちは山猟や沖漁に行く時、徳利の栓をこの茎ですると何日たっても水の味が変わらないということで利用していました。


エント茶 540円
原材料 シソ科のナギナタコウジュ(アイヌ語で”エント”)
内 容 ティーパッグ10個入り(説明書付)
http://www.shiraoi.net/net-shop/91_161.html


アイヌ伝統食研究グループ・ポロトの母さんの会 代表 大須賀るえ子さん(北海道食づくり名人)により、”キハダの実のクッキー”と”エントのミルクティー”づくり、また、昔話風にアイヌの食文化について語られました。


”キハダ”は、落葉広葉樹の高木です。

黄色い内皮は黄柏と呼ばれ、苦味のある健胃整腸薬として古くから有名ですが、アイヌも多く利用してきた重要な植物の一つです。

写真上がエント、下の黒い実がキハダの実

”エント”はナギナタコウジュ(シソ科の植物)のことで、解熱や発汗、利尿の効果があることから、風邪や二日酔いの薬として全草を煎じて飲むほか粥に炊いても食べたという。また、強い臭いが病魔を遠ざけると考えられていました。


エント茶はハーブティーのようでとても香りがよく、美味しいお茶で、来会されるお客様にも好評です。

昨年の我々の観光商品モニターツアー時にも、ポロトの母さんの会のエント茶とおにぎりが振る舞われましたが、おにぎりもエントで炊いたもので、絶品でした。
http://ameblo.jp/shokokai-shiraoi/entry-10057856143.html

詳細は


『アイヌの食事・アイヌの自然療法』

食物によし悪しなし! 柴田流健康長寿の14か条  健康リスクを回避する、食肉生活のススメ (PRESIDENT )へのコメント  
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/550.html


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4. 中川隆[-10672] koaQ7Jey 2018年4月20日 12:42:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11467]

本物の神道とは

これが弥生人の神道
 
古代の日本人の霊魂観によると、人は肉体と霊魂からなり、また霊魂を「タマ(魂・玉)」と呼びました。生命の維持はタマの働きによって保たれ、死はタマの離脱することだと考えられていたのです。病気や怪我などはタマの一時的離脱であり、死はタマの永遠の離脱(脱出)を意味していました。つまり、「タマ(魂・玉)」は生命活力の根源とされてきたのです。

 「タマフリ(魂振り)」は、「タマ(魂・玉)」を振り動かして、その霊威を高める働きです(魂振・魂殖・魂触・魂降などは少しずつニュアンスが違いますが、生命エネルギーの活性化という意味では同じです)。神や人のタマを人の中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め結び付けること(「タマシズメ(魂鎮め)」)は、霊威が活き震うことの前提であり、「タマフリ(魂振り)」により人の生命力と活動力が強化されると考えられたのです。

 「タマフリ(魂振り)」いわゆる鎮魂(ミタマシズメ・ミタマフリ)は、禊祓(みそぎはらい)と並ぶ神道の重要な行法で、枯渇する人の魂を振り起こし、衰微する魂の生命力を再生する救霊の呪法です。そして鎮魂祭は、人の肉体から遊離しようとする「タマ(魂・玉)」をしっかりと中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め固定し(「タマシズメ(魂鎮め)」)、「タマフリ(魂振り)」をすることによって人の生命力と活動力を強化すると考えた古代信仰から生まれた神事(祭祀)なのです
http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045056.html

人里に近い山を「葉山」といい、亡者の霊がしばし山中に留まり、この世への執着を絶った後に祖霊となり、やがて里を訪れて子孫に福をもたらしてくれる、という葉山信仰が東北に多く、恐山もその一つだ、といいます。
http://www.kurikomanosato.jp/to-r07simokita.htm


「人が死ねば肉体は滅びても、その霊は祖霊として永遠不滅な一種の生命体となって蘇生復活し、高い山に上って住み、山上から麓の子孫を守ってくれる」と信じられていました。この我が国固有の信仰は、すでに「古事記」にも見られ、永年にわたって脈々と受け継がれてきたのです。

 古来、子孫の生活の中で最も重要なことは「稲作」であり、祖霊なる「ハヤマの神」は、春4月8日ごろ「田の神」とになって田に降りて、子孫の農耕を助け、秋の収穫が終わると、家族と新穀を共食し、10月8日ごろ再び山に帰って休むと信じられていました。

したがって、「ハヤマ」のある場所は、田の見える端の山でなければなりません。もっとも、祖霊の住まう山は「ハヤマ」の冠を持つとは限らず、山形県や秋田県の「モリノヤマ」などは、「ハヤマ」に相当する山です。
http://www.geocities.jp/hayama1462m/hayama-history.htm


これが縄文人の神道  

上の稲作云々の部分は弥生時代以降に変わった部分で本来の神道は:

アイヌの人々が考える宇宙は、この世とあの世とからなる。人間は死ぬとあの世へ旅立つが、そこではあの世での新しい生活がある。そこで一生を終えるのと、またこの世に戻ってくる。この世とあの世とは、同じ生活が営まれているが、季節や昼夜は反対である。

 霊魂 この行き来するものが霊魂であるが、この世にあるすべてのものに霊魂が宿っているとされている。

 アイヌにとってのカミ観念 そうした霊魂のうち、火や雷、地震、津波などの自然現象、クマやオオカミ、トリカブトなどの強い力を持った動植物など人間の意のままにならないもの、力を持ったもの、不思議もの、役に立つもの、あるいは恐ろしいものが、神として崇められ、畏れられた。神は崇められるだけではない。神として崇められた霊魂は、人間世界へなんらかの恩恵をもたらすことで、返礼する。


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5. 中川隆[-10671] koaQ7Jey 2018年4月20日 12:47:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11467]

巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。

ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

 幼蛇を生むこと。

 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

6. 中川隆[-10682] koaQ7Jey 2018年4月20日 12:53:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11479]

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない


  今朝の朝日新聞にまさしく日本学の研究者・マニアには衝撃的なニュースが小さく掲載されました。恐らく2012年の日本学最大のニュースの1つになるでしょう。

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The origin and evolution of word order

Murray Gell-Manna, Santa Fe Institute and Merritt Ruhlenb, Department of Anthropology, Stanford University
Contributed by Murray Gell-Mann, August 26, 2011

Abstract

Recent work in comparative linguistics suggests that all, or almost all, attested human languages may derive from a single earlier language. If that is so, then this language—like nearly all extant languages—most likely had a basic ordering of the subject (S), verb (V), and object (O) in a declarative sentence of the type “the man (S) killed (V) the bear (O).” When one compares the distribution of the existing structural types with the putative phylogenetic tree of human languages, four conclusions may be drawn. (i) The word order in the ancestral language was SOV. (ii) Except for cases of diffusion, the direction of syntactic change, when it occurs, has been for the most part SOV > SVO and, beyond that, SVO > VSO/VOS with a subsequent reversion to SVO occurring occasionally. Reversion to SOV occurs only through diffusion. (iii) Diffusion, although important, is not the dominant process in the evolution of word order. (iv) The two extremely rare word orders (OVS and OSV) derive directly from SOV.

Conclusion:

The distribution of word order types in the world’s languages, interpreted in terms of the putative phylogenetic tree of human languages, strongly supports the hypothesis that the original word order in the ancestral language was SOV. Furthermore, in the vast majority of known cases (excluding diffusion), the direction of change has been almost uniformly SOV > SVO and, beyond that, primarily SVO > VSO/VOS. There is also evidence that the two extremely rare word orders, OVS and OSV, derive directly from SOV.

These conclusions cast doubt on the hypothesis of Bickerton that human language originally organized itself in terms of SVO word order. According to Bickerton, “languages that did fail to adopt SVO must surely have died out when the strict-order languages achieved embedding and complex structure” (50). Arguments based on creole languages may be answered by pointing out that they are usually derived from SVO languages. If there ever was a competition between SVO and SOV for world supremacy, our data leave no doubt that it was the SOV group that won. However, we hasten to add that we know of no evidence that SOV, SVO, or any other word order confers any selective advantage in evolution. In any case, the supposedly “universal” character of SVO word order (51) is not supported by the data.

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  語順のルーツはSOVだと言うことがアメリカ科学アカデミー紀要(業界用語でPNAS=プロナス、当方の学生時代はProNASと呼んでいました)に発表されました。つまり日本語やチベット語などY-DNA「D」遺伝子集団の文法である語順、S(主語)・O(目的語)・V(述語)が欧米語等のSVOより古いことがわかり、しかもホモサピエンスの祖語だろう、との驚異的な言語学上の発見です。

  これは遺伝子の調査結果と完璧に合致します。我々古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D」は古代の出アフリカした当時のホモサピエンスの形態を留めていると言うのが欧米の研究者の結論です。特に「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族、Jarawa族は出アフリカ当時の形態をそのまま残していると信じられています。ならば当然言葉も出アフリカ当時のままのはずです。言葉は生き物でその時代のリーダーの決断で言葉は採用されるため、ドンドン変わります。そして征服者の人口が多く、経済力もあれば非征服者の言語はあっという間に征服者の言語に変わってしまいます。

  ところがOnge族や、Jarawa族は外来者を殲滅するという古代習慣を強く持っていたため、遺伝子を保ってきたわけですが、当然言葉も保ってきたはずです。と言うことが今回の発表で間接的に証明されたことになります。

  日本語は長い間孤立語として扱われてきましたが、とんでもない、縄文語から熟成したY-DNA「D2」日本語こそがY-DNA「D1」チベット語と並んで、出アフリカした当時のホモサピエンスの言葉(文法)を維持し続けてきた由緒正しい言葉だと言うことが正にアメリカの研究者によって証明されたのです。

  マレー・ゲルマン博士のチームの仕事ですが、なんとマレー・ゲルマン氏は言語学者ではなく、1969年「素粒子の分類と相互作用に関する発見と研究」でノーベル物理学賞を受賞した物理学者でクォークの提唱者の一人です。恐らく筋金入りの言語学者ではないことが柔軟な発想を生んだのでしょう。西欧優越主義の言語学者なら絶対に欧米語のSVOを祖語として主張すると思われるからです。何はともあれ縄文文化・時代を矮小化したい「O3」御用学者に取っては目障りな発表となりました。

  このことは当然ながら日本人の行動様式こそがホモサピエンスとして本来持っている行動様式であり、ガラパゴス的民族性こそがホモサピエンスの本来の行動様式である事が間接的に証明されたことにもなるはずです。

  そーなんです。やはり日本がガラパゴス化を捨てるのではなく、世界をJaponization(日本化)することこそが人類にとって正しいことなのです。日本人よ自信を持って世界に向かって発言しよう!スティーヴ・ジョブズごとき「R1b」御用商人の日本人に対する悪口・たわごと等クソくらえだ。そしてJaponizationで世界を導こう!

  このニュースの重大さは、何故日本列島人はY-DNA「D2」縄文人の文法を守り続けてきたのか?という点です。「D2」縄文人が圧倒的な文化を確立し、技術者集団だった「C1」、「C3a」縄文人が土器つくりなどで「D2」の精神風土を支え、後からボートピープルとして断続的に韓半島から水田稲作農耕技術を携えて流れてきた呉系長江人「O2b」の子孫も圧倒的な多数派の「D2」と敵対せず、その精神風土を受け入れたため言語の文法も縄文文法を受け入れたのでしょう。

  「O」は「R」などと同じ新興遺伝子集団です。既にSVO文法だったはずです。我々日本人は語順が変わってもそれほど奇異に感じず意味が通じるような適当にあいまいな言葉になっているのはこの「O」の人口と、文化がしっかりと根付いているためです。基本は縄文語ですが、呉系の長江語も漢語の語順でもその中間でも日本人は融通を利かせて理解してしまうように共存してきたからなのです。そして或る動作を強調したい時、我々は平気でSVOになるのです。なぜならSVOの方がキツく聞こえるからです。SOVの方が聞こえ方がやさしいのです。これが縄文の精神風土なのです。

  そして更に後から侵略者として韓半島から暫時流れてきた大和朝廷族や武士団族などのSVO文法の「O3」集団も朝廷内や官僚エスタブリッシュメント階級の中ではSVO漢語を話していたにも関わらず、全国をまとめるために縄文語文法を受け入れることにしたのだと思われます。そして縄文語に翻訳するために開発したのが「かな」、「カナ」なのでしょう。もしこれがなければ、縄文人は漢語を全く理解せず、日本の統一は相当遅れ、日本列島は文化レベルが立ち遅れ西欧列強の植民地化していた可能性が大です。当時の大和朝廷の上層部の誰かが縄文語を認め、縄文人に指示命令するために「かな」「カナ」の開発を命じたのでしょう。この人物こそ本当は歴史に名を残すべきなのでしょうが......。

  またこのニュースは、最近の研究で、人類の祖先は50000年前頃に突然洗練された道具を使ったり、絵画などの芸術活動を始めた、とも書いていますが、これは当たり前のことです。中東でネアンデルタール人と遭遇し交配し、彼らの文化を遺伝子とともに受け継いだけに過ぎません。もしかするとSVO文法はネアンデルタール人の文法だった可能性が実は大です。

  ホモサピエンスは本来SOV文法
  ホモネアンデルターレンシスはSVO文法だったのしょう。
  
  なかなかおもしろくなってきましたね。当ガラパゴス史観が歴史の真実に迫っていることが、少しづつ実証されつつあります。やはりデータマイニング手法はマーケティングだけでなく、古代日本学にも有効なようです。
http://galapagojp.exblog.jp/i29/  

日本語の祖先はこれまで書いたようにY-DNA「D2」の話していた縄文語です。現在世界でY-DNA「D」語を祖先にしているのは、わかっている範囲ではチベット語と「D*」100%のアンダマン諸島のJarawa族とOnge族だけです。Y-DNA「D」72%の雲南のPumi族は未調査です。つまりY-DNA「D」語は孤立言語です。

遺伝子調査で初めて理解できたことです。しかもY-DNA「D」は人類が出アフリカを果たした際の形質を最も残していると欧米の研究者は述べています。ということは縄文語が最も古いホモサピエンスの言葉を残している可能性もあるのです。Jarawa族やOnge族、Pumi族の語彙を徹底的に追いかければ解明できそうですが、日本の御用学者ではない欧米の気鋭の言語学者が研究してくれるとありがたいですね!

  現代アイヌも日本列島人と同じY-DNA「D2」85%の「D」民族ですが、残念なことにオホーツク文化時代に侵略者だった古代ニヴフ族に征服され、熊祭りなどすっかり古代ニヴフ文化(古住シベリア民文化)に変貌してしまっています。言語も恐らく古代ニヴフ語に変わっているでしょう。

丹念に追えば語彙には「D」語の痕跡が残っているかもしれません。日本列島のように「D2」が圧倒的な人口多数派だったなら「D」語が残ったかもしれませんが、人口そのものが少なかった北海道では文化も言語も語彙も古代ニヴフ語に変わってしまっている可能性が大です。
http://galapagojp.exblog.jp/i31/


日本と関連民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度 rev.1


  本ブログは日本の専門家の恣意的な洗脳報告に惑わされずに、グローバルに発表されインターネットで入手できる論文の成果から日本民族のガラパゴス化の起源を探るのが目的です。そして素人にありがちな近視眼的な狭い視野に陥るのを出来るだけ防ぐため、学際的な本を読み大所高所からの判断ができるように自己啓発をするブログでもあります。

  日本民族に関連する遺伝子頻度のデータを発表しているほとんどの原著論文はPDFで手に入りましたが、1誌だけ有料でないと閲覧出来ない馬鹿な学術誌がありました。研究成果を広く広める意志がないようです。こんな学術誌に投稿してはいけません。

  それはさておき、入手できる限りの引用される論文から集めたY-DNA頻度リストを記事65aと65bに掲載しましたので興味のある方は眺めてください。

1. アンダマン諸島/オンゲ族、ジャラワ族 (記事61を参照してください)

  後世にインドからの統治者の来島やカレン族の島流しなどで遺伝子は荒らされた、と思っていたのですがThangarajの論文でOnge、Jarawaの2部族はY-DNA「D*」を100%維持し、出アフリカした現代人類の世界最古の姿をとどめている純系の集団であることがわかりました。縄文人の主力集団のY-DNA「D2」の祖形になり、日本人に最も多いジャガイモ顔でパッチリ二重瞼ののルーツになります。女性は典型的な安産型の大きな臀部でいわゆるQPちゃん体系です。ホッテントット族が典型的ですが臀部に脂肪としてエネルギーを蓄えるのです。出アフリカ時の飢餓状態だったアフリカ・サハラ時代の名残をとどめているのです。そのくらい古代の遺伝子なのです。

  しかし50000年もの間純系を保てたのは小さなアンダマン諸島で外来者を殲滅する部族の習慣だったのですから何とも複雑な感じがします。もし「D2」が純系を保つために「C1」や「C3」との交配を拒んでいたら今の日本人は存在しなかったかもしれません。スンダランドか東シナ海−黄海ランドが広大な土地だったため、棲み分けが可能だったからではないかと思います。

2. 西ニューギニア/ラニ族 (記事62を参照してください)

  ラニ族はY-DNA「C2」を100%維持しています。縄文人の一角のY-DNA「C1」に最も近い弟遺伝子になります。「D2」とは異なるもう一つの世界最古の現代人類遺伝子である「C1」の縄文時代の姿が彷彿とされます。「D2」のジャガイモ顔集団に対し目が窪んでいる奥二重目のいかついソース顔集団のルーツです。「D」とは全く異なる風貌ですが、「C」から欧米系の「E」以外の全遺伝子タイプが発生しているため、中東でネアンデルタール人と亜種間交配をしたハプロタイプは「C」になります。その結果肌色は褐色に薄まり、風貌もネアンデルタールがかった顔に変化したものと思われます。似た人は周りに以外と見かけるので、日本人にすっかり定着しているようです。

3. チベット民族

  Y-DNA「D1」と「D3」を残す縄文系日本人の兄弟遺伝子集団ですが、「O2b」や「C1」が全く存在しないことや、大陸の中にいるため「K」「F」など日本人にはない遺伝子タイプが存在することが大陸に住むチベット民族の特徴になっています。早くから「O3」など周辺の漢民族や異遺伝子集団との交配が頻繁に行われてきたため、代表的なチベット人はどんな特徴かは全くわかりません。

  チベットはチベット密教の国で、長野の善光寺は密教系のお寺です。どうやらY-DNA「D」は密教的な神秘的な神事に魅かれる遺伝子なのかもしれません。アンダマン諸島では?まだ宗教が確立する段階になってはいないようです。

4. 韓民族

  中国の朝鮮族もデータに含まれていますが、北朝鮮のデータは当然ありません。近くて遠い存在であることがはっきりとわかります。似ている部分は長江文明の流れ汲む呉越系の水田稲作農耕民遺伝子の「O2」を共に30%近く持つこと、です。これが韓民族に感じる親近感の原因です。遺伝子の約1/3が共通すると言うことは極めて大きいと思います。一方似ているようで違うのが「O3」と「C3」の頻度が日本より高いことです。特に韓国史上1000回にも上るという中国大陸からの侵攻・侵略・支配のせいで韓民族の遺伝子基盤は「O3」に変化しています。「D2」が遺伝子基盤の日本民族との決定的な違いになっています。

  日本人が一般的に感じる一重瞼の韓国人の姿は寒冷地適応した「O3」の特徴そのものです。また釜山や済州島など南になるほど二重瞼が増える理由も「O2b」が南に分布しているからに他なりません。30年ぐらい前に仕事で釜山に入り、済州島も訪れそのままバスで各地のユーザーを訪問商談しながらソウルに入りましたが、北に向かうほど、一重瞼一色に変化してゆくことをはっきり覚えていますが、遺伝子調査は解明してくれました。

  遺伝子がもともと異なるのです。北部ほど「O3」が多いのは楽浪郡など中国の古代帝国の組織が置かれ、長く中国の一部として占領されていたところだからです。南方は水田稲作地帯で長江文明の子孫が(恐らく呉越の)住み着いた場所だったのでしょう。だから韓半島極南部は日本の原風景と似ている感じがするのでしょう。

5. 台湾先住民

  台湾の一般市民は漢民族の「O3」系ですが、先住民は長江文明直系の「O1」75%の遺伝子集団なのです。日本列島とは全く異なるのです。にもかかわらず日本人が台湾人に感じる親近感はルーツの福建省など華南出身の台湾漢民族が持つ長江文明系の「O1」と「O2」遺伝子に起因するのでしょう。スンダランドから北上した「D2」「C1」は台湾部分には住み着かずにそのまま日本列島に進んだようです。山が迫っている地形なので避けたのかもしれません。

6. ニヴフ族

  Y-DNA「C3c」純系集団は存在しませんが、最も頻度が高いのはオロチョン族61%~91%です。しかし寒冷地適応をしてしまっているため、ナウマン象を追って日本列島に南下してきた頃の寒冷地適応する前の「C3c」本来の姿は全く推測もできません。
  現在のオロチョン族は「ここ」を見てください。今やその辺にいる日本人と同じです。オリジナルの「C3c」は西ニューギニアのラニ族のような感じだったはずですが、寒冷地適応の結果、遺伝子の発現が変化しフラットな顔に変ってしまったのです。(「O3」は寒冷地適応に加え黄砂適応も加わっているそうです。)


  一方北海道に侵攻し「D2」を征服しオホーツク文化を立ち上げたのはニヴフ族になります。そして「D2」と交配し現代アイヌ民族を作り上げました。熊祭りや民族衣装など主だった風俗習慣は残念ながらほとんど支配階級だったニヴフ族のものです。寒い土地になってしまったため南から北上した「D2」本来の風俗習慣は何も残っていないのではないかと思われます。それはアイヌ自身ももはや区別できないでしょう。ユーラシア大陸に残っている現代ニヴフにはない風俗習慣がもしあれば「D2」オリジナルな可能性はありますが...

7. 満洲族

  満洲族はツングース族の有力な一員(女真族)ですが、何となく親近感があるのは「清」の王族であることと、大日本帝国がデッチあげた満洲国の構成部族だったこと、愛新覚羅の名前が持つ悲劇が話題になった近代の状況があり、水田稲作農耕遺伝子「O2a」が弥生人の祖先である「O2b」に分化した土地であるため、今でも「O2b」が約15%含まれるからでしょう。遺伝子的に15%も共通なのです。

8. アイヌ民族

  アイヌ人がアンダマン古住民に次いで「D」が極めて高頻度の集団です。黥面など顔面装飾文化を維持してきたことがアンダマンと共通の古民族であることを示していましたが、前にも説明したように日本本土のY-DNA「D2」は「C1」と共に日本列島を北上し青森で留まり後に縄文文化を花咲かせた集団ですが、アイヌの「D2」は日本列島には入らずに「D1」とともに韓半島からユーラシア大陸に渡り、「D1」が中原の最初の民族になったのに対し、日本海沿岸を北上しサハリンやカムチャッカまで到達し、一部が南下し陸続きだった宗谷海峡を渡り北海道に分布したのです。元は同じ集団ですが、途中の経路・経緯が異なり、「C1」が存在しなかったこと、寒さが厳しかったこと、等々..で本土とは全く異なる歩みになったのでしょう。縄文人とオリジンは全く同じ遺伝子でも、その後の交配環境が異なるとこれだけ違ってしまう典型的な見本です。


9. 日本民族

  日本人は世界でも指折りの多種類の遺伝子タイプを持つ集団ですが、日本民族と呼べるような集団になっているのでしょうか? 結果として狭い島国であることが幸いし「O3」以外の外来遺伝子の撹乱が起きなかったこと、「O3」は大和朝廷族や武士族として上っ面の支配に徹してくれたため、縄文−弥生の土着混成軍は地味ながらも列島各地で風俗習慣を守ることができたようです。
  
  各研究者の結果では北海道と沖縄が「D2」頻度が高いのです。北海道は屯田兵が中心で開拓がなされ「D2」系の農耕民が多かったせいでしょう。「D2」は寒さに対し我慢強いのでしょう。沖縄に多い理由は先に触れましたが、「D2」「C1」混成部隊は、琉球列島を通らずに当時の列島部分の北側の海の北岸を進み一部は日本列島部分を北上し、一部は南下して琉球列島部分に入り、南琉球との間の当時の海峡に阻まれ北琉球に留まったためそこに住み着いたものと考えられます。そのため南琉球ではもともと「D2」が住んでおらず、後世に尚王朝から移住した「D2」の痕跡程度の頻度しかないのでしょう。薩摩藩時代の混入は考えにくいです。

  「O3」は九州に多いのです。大和朝廷族が書いた日本書紀が日向から始まるのは遺伝子頻度からみて当然のことだと思われます。大和朝廷族が進軍して支配していた奈良や京都の遺伝子頻度を誰か調べてほしいですね。断トツの「O3」頻度になる可能性があります。大阪の独特の文化も縄文−弥生系とは思えないのでツングース系の「O3」の可能性が高いと思います。東京はゴチャ混ぜです。奈良、京都、大阪の遺伝子を調べると日本民族の「O3」頻度は飛躍的に上がる可能性が実はあります。もしそうならないとすると、ほんとうに少数の部隊で日本列島にやってきたことになります。勿論武器を持って狩猟採集・農耕混成集団の縄文−弥生人を蹴散らし蹂躙しながら東進したのでしょう。ただし、既に上陸していた「O3」部隊は他にもあり、勝ち残ったのが大和朝廷族に成り上がったのでしょう。

10. 「C3」の違い
  日本列島はY-DNA「C」にとって特別の土地です。
  最初の亜型「C1」が維持されているのが日本。
  「C3」の最初の亜型「C3a」も日本。

  遺伝子研究の原著論文調査を始める前は、Y-DNA「C」は日本人にとってどんな存在だったのか、あまり深く考えてはいませんでしたが、良く考えると「O」ハプロタイプは「C」の子孫なのです。日本人のY-DNA遺伝子の40%は「D」ですが、その他60%は全て「C」とその子孫なのです。つまり「C」系の方が頻度が濃いのです。現代人類のY-DNA遺伝子の最初のハプロタイプつまりシーラカンス遺伝子「C」「D」「E」のうち「C」と「D」で日本人は構成されているのです。

  欧米人の研究によると現代人の遺伝子に取り込まれたネアンデルタール人遺伝子は1−4%を占めるそうです。これは「C」のようです。「D」「E」は交配せず出アフリカ時の現代人類のオリジナルの形質を保っているのに対し、「C」は亜種間交配を進め「進化」したらしいのです。日本人の持つ「C」系遺伝子が60%を占めると言うことは、日本人にもネアンデルタール人の遺伝子が受け継がれている、と言うことに他なりません。こんなことは考えたこともありませんでした。まさに驚きです。うーーん!

  そんな「C」の亜型で日本人にもある「C3a」以外は?

ニヴフ族は「C3c」
満洲族は「C3d」
チベット族は「C3e」
では「C3b」はどこへ行ったのでしょうか? 陸続きだったベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に上陸しました。ナデネ語族、アルゴンキン語族などのネイティブアメリカン(アメリカインディアン)をY-DNA「Q」と共に構成しています。

11. 縄文土器

  縄文土器は千島列島やサハリンなど旧アイヌ民族地帯からまだ発見されていません、しかし中米に縄文土器によく似た土器が出土し遺伝子構成は「Q」と「C3b」です。「C1」は貝文土器の作成者と考えられていること、土器を使って煮炊きをするのは穀物より大型動物の肉の方が要求度が高い...ことなどから推測すると縄文土器は「C1」「C3a」が主役となり作成し、人口比が大きかった「D2」は使用者だったような気がします。勿論自分たちでも作成するようになっていったのは当然でしょうが...。

12. ガラパゴス性

  となると「創意」発案能力が高いのはY-DNA「C」系のような気がします。「工夫」はもっぱら使用する側の「D2」が得意だったら面白いですね。しかし、ガラパゴスの真髄は前にも書きましたが、大和朝廷族が中国から連れてきた「O3」官僚集団と技巧集団だと思います、遠い異国に来て本家の中国の高度な文化に負けない文物を作り出す間に徹底的に知識。技術を極める集団になって行ったはずです。

  つまりガラパゴスの起源は文化の本家「中国」を追い越そうと突き詰めてきた結果なのだと思います。そこに「C」「D2」の「創意工夫」が加わり、更に時代が下がって江戸時代の鎖国中にとことん突き詰める民族性が昇華熟成され強固なガラパゴスが形成されてきたのではないでしょうか。そして明治時代に入り、かって本家中国に追いつけ追い越せと頑張った奈良天平飛鳥時代以来の、西欧文化に追いつけ追い越せと頑張った結果が、日本民族のガラパゴス性の直近の起源です。1000年以上の気合の入った筋金入りです。Y-DNA「R1b」なんかに負けてたまるか...ですね。
  
  識者・評論家はすぐグロ―バル化と言いますが、西欧文明の原動力のY-DNA「R」遺伝子が最近の外国人との国際結婚以外、全く混じっていない日本人が、「R」のまねをするのは大変です。「D」「C」「O」混合集団の独特のやり方があってもおかしくはないはずです。今や世界最大の人口を持つ遺伝子になった「O」です。アジアのスタンダードをグローバルにしましょう。そのためにはかっての本家中国と組む必要があるでしょうが...
http://galapagojp.exblog.jp/i12/


古代遺伝子Y-DNA「D」 アンダマン諸島の先住民Onge族とJarawa族


  欧米の研究者はアンダマン諸島の古代からの先住民のJarawa族およびOnge族のみがY-DNA「D2」で他の先住民は「C」系と書いています。「C5」はインド亜大陸にも存在する古代遺伝子の一つです。Y-DNA「D」は古代の生き残り遺伝子とも書いています。つまりシーラカンス遺伝子なのです。更にmtDNAは「M2」と「M4」があり「M2」がアンダマン諸島オリジナルで「M4」はインド亜大陸にも存在するそうです。mtDNA「M2」がY-DNA「D*」のパートナーのようです。最新のデータでは「M31」と「M32」がmtDNAだそうです。女性は外から嫁入りしてくるため人口100人にも満たない希少部族では新しい女性が加わるとmtDNAはすぐ変化してしまうようです。

  そのアンダマン諸島先住民は19世紀末の古い写真を見ると黥面文身であることが解ります。この事実だけでも極めて古い集団ということができますが、研究者は出アフリカをした当時の現代人類の祖先の姿をほとんどそのまま留めているのだろうと考えています。また当時の南アジアや東南アジアは「D」集団が広範囲に居住していたと考えています。結局新興の集団に追われアンダマン諸島以外は壊滅したようです。  

  欧米の研究の報告では、アンダマン諸島先住民とは以下のように説明されています。

●数部族に分かれていますが、まぎれもない絶滅危惧部族です。

●Y-DNAの「D*」遺伝子を持つアンダマン諸島先住民は、50000年〜60000年前頃には当時まだ陸続きの陸橋だったアンダマン諸島弧部分に住み着いたと考えているようです。アボリジニの先祖Y-DNA「C4」がオーストラリア亜大陸に到達した頃と同じ古さです。もしかすると一緒に移動していた可能性もあります。

●彼らの、外来者をすべてを殺す習慣はオリジナルの「D」遺伝子や言語を見事に維持し続けた、と考えられています。アンダマン諸島先住民は縄文人の先祖の血を守ってきてくれているのです....感謝!  
  出アフリカしたホモサピエンスの生きた化石なのです。日本人は彼らを大切に保護しなくてはなりません。

●アンダマン諸島において、耕作は未知でした、そして、彼らは特有のブタを狩ったり、釣り、などで食生活し、集合して生活をしていました。

●唯一の兵器が、弓と、手斧と木製のもりでした。

●絶滅したタスマニアの先住民とアンダマン諸島先住民のみが19世紀に入っても火を作る方法を全く知らなかった人々だったそうです、木への落雷によって引き起こされた炎から燃え残りを慎重に保存したそうです。

●ところがイギリス人の上陸で1867年のアンダマン諸島では、たくさんのOnge部族民がイギリス人の海軍に殺されました。

●1940年代に、Jarawa部族は彼らの敵意のための日本軍によって爆撃されました。日本軍は世界でチベット人と並ぶ唯2の縄文人の親戚民族であるアンダマン諸島先住民を爆撃するという愚挙を行ったのです。反省....です。

  イギリスの最初の上陸時にはおよそ5,000人の先住民がいたそうですが、虐殺、文明国が持ち込んだ病気、アルコール中毒、インド亜大陸やビルマ(カレン族)からの移住者などの影響で、1901年までには600人に減り、1927年には100人の生存者だけになったそうです。1961年には19人に減りましたが、現在約50人に回復しているそうです。その間絶滅した部族はかなりあるそうです。アンダマン諸島の古代先住民Y-DNA「D*]が絶滅する前に、同じ「D」の遺伝子を持つ日本人が彼らの調査を行えるといいですね!

 
  下の写真は1970年代のOnge族で女性は当時の伝統的なスタイル、男性はよそ者と会うため一応前を隠していますが普段は何もつけていなかったそうです。女性と比較して大きく見えるこの男性でさえも150cm前後のネグリートなのです。右は2000年代のOnge族で既に洋服を着るようになっています。

  Onge族の大問題は出生率が極めて低いことだそうです。純血を維持してきた種族は残念ながら集団エネルギーがなくなってくるため滅びるしかないのですが、Y-DNA「D2」は現代日本人でさえも無精子症や乏精子症の発生頻度が高い出生率上の欠点があるため、当然Onge族もJarawa族も同様のはずです。それに輪をかけてアルコール依存症など現代文明病に侵されているため日本の縄文人Y-DNA「D2」の祖先系になるY-DNA「D*」がいつまで存在することができるかは極めて疑問になります。絶滅する前に日本は敬意を持って彼らの調査をするべきです。縄文日本人のルーツを確認するためにも。

  下の写真は1980年代のJarawa族です。運んでいるのはココナッツだそうです。
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アンダマン諸島の遺伝子調査で有名なThangarajらの2002の論文を見て改めて「Onge 」族と「Jarawa 」族が100%純粋なY-DNA「D*」であることが改めて確認できました。アンダマン諸島はインドからの統治者や、インドシナ半島のカレン族の強制移住で余計な遺伝子が混じり込んでいるのですが、幸い上記2部族は人口は非常に少ないのですが、なんとか純粋な遺伝子を保っているようです。インターネットで入手できる写真を参考に(個人ブログなので未許可で)アップします。

  先ず、2004年(撮影者Klein)のJarawa族の集合写真だそうです。Jawara族とOnge族は50000-60000年前頃に出アフリカした当時のY-DNA「D」の姿を100%留めている、と言われています。そして世界で最も黒い種族とも言われています。現代のサハラ以南のアフリカ人はY-DNA「E」と「A」,「B」の交配の結果なので一番黒いわけではないのだそうです。


  Onge族の1980年代の写真2枚です。撮影者は不詳だそうです。


  別に白人と並んで撮影した写真もありましたが、Y-DNA「D*」はいわゆるネグリートで大人の男性で身長150cm弱で、日本人の「男1匹5尺の身体」は文字通りこのY-DNA「D」タイプの持つネグリート遺伝子に他ならないようです。次回ご紹介するY-DNA「C2」もやはりネグリート体質なので、縄文文化を構築した「D2」と「C1」は共にネグリート体質(しかも黥面文身の文化)であったことは間違いありません。またアイヌ民族の「D2」も黥面文化だったので(さすがに北国なので衣服で守るため文身の写真は見たことがありません)、古代部族に共通する独特な身体装飾文化を守ってきたっことが良く解ります。したがって魏志倭人伝に出てくる黥面の「倭人」はこの縄文人の子孫で間違いないでしょう。

「倭人」は中国が蔑んで呼んだのではなく、文字通り小柄だったからなのです。また中国の正史によく出てくる「倭」はまさにこのネグリート体質を持った部族がさまざまな場所に住んでいたことを示しているのだと思います。現代でもチベットで高頻度の「D1」「D3」が居住していますし、モンゴルや韓半島にも「D1」は見つかり、東南アジアにも見つかります。「D」は一時東ユーラシア一帯に拡がり、新参の「O」に負けて辺境に四散したと、欧米の研究者は説明していますが、恐らくその通りでしょう。辺境に「倭」はいたのです。

  最大の疑問、では一体いつ頃から日本列島人の肌色は黒でなくなったのでしょうか?ヨーロッパでは緯度が高くなるほど日光が弱くなり、光を多く吸収するためメラニン色素が抜けて肌の色が透明に(つまり白人)なったことはよく知られています。恐らく日本列島でも同じことが起きているはずです。当時の沿岸沿いを北進した「D2」「C1」コラボ部隊はブラキストン線(津軽海峡)に阻まれ北日本に高い頻度を残しましたが、メラニン色素が抜けるにはヨーロッパの例(クロマニヨン人の子孫の「I」が透明で「D」の兄弟の「E」もやや褐色まで薄くなっていることを見ると恐らく数万年は必要だと感じます。

  「D」と「C」は出アフリカ以来共に行動したと欧米では考えられており、アンダマンでは「D」は今でも肌は真っ黒なので、同様な気候だったスンダランドに長くいたとは考えられません。オーストラリアの先住民は50000年前頃には既にオーストラリア大陸に上陸していたと解ってきたことから、「D」と「C」も早いうちに東シナ海-黄海ランドに到達し、そこにメラニン色素が抜けるぐらい数万年留まっていたか、さっさと日本列島に入りで数万年過ごしたか、いずれかだと思います。恐らく縄文時代よりはるか前の時代にメラニン色素が抜ける程度の高緯度地域に入っていたはずです。恐らく30000万年は前頃の旧石器時代には。

  日本人には陽に焼けてこんがり色になるタイプの人と、真っ赤に腫れあがり皮がむけるタイプと分かれますが(勿論中間もありますが)、はっきりしました。色が黒くなるタイプのヒトは「D2」と「C1」の遺伝子タイプのはずです。真っ赤に剥けるタイプは寒冷地適応した「O3」タイプのような気がします。夏に黒くなれるタイプの遺伝子のヒトは紫外線を自然に防御できるタイプでしょう。

日本人の遺伝子がさまざまある以上、日光に強いタイプ、弱いタイプがあるのは当然です。当方の家内は黒くなりやすいタイプですが、目は人一倍まぶしがり屋ですサングラスが欠かせません。目にはメラニン色素がないので防御できないようです。その分奥目タイプで光がまっすぐに目に入りにくい顔面構造をしています。小生のようなフラットな顔面構造の方が目は光に強いようです。サングラスは掛けたことがありません。脱線をしてしまいましたが、意外にこの通りかな、と納得しています。

  大陸棚が良くわかる地図がありました。アンダマン諸島が最寒冷期時代大陸と陸続きであったことがよくわかります。また東南アジア部分は一面の大陸棚でオーストラリア大陸まで陸続きの広大なスンダランド大陸でした。Y-DNA「D]や「C」、mtDNA「M」は図の左端のインドの東海岸沿岸づたいに駆け足で移動し「D」の一部はアンダマン部分に留まり、他は図の右側のスンダランド部分に更に進んだのです。


  出アフリカ時のホモサピエンスの形態を留めていると言われているY-DNA「D*」で最も有名なのはアンダマン諸島のOnge族とJarawa族です。外来者(男性)を殲滅するという古代からの風習のおかげでY-DNA「D*」100%を維持してきています。おかげで縄文人の古代の姿がネグリート(倭人)であったことが鮮明になりました。古代部族特有の鯨面文身です。縄文人も当然鯨面文身だったはずです。Y-DNA「D2」85%のアイヌ人は近代まで鯨面の風習を維持してきました。今でも祭りの時はペインティングで鯨面にするようです。

上図は1980年代のOnge族だそうですが、現在は当然ですが普通の洋服姿に近代化されています。彼らはネグリート(倭人)で縄文人が鯨面のネグリートであったことを如実に物語っています。(当然ですが、魏志倭人伝の”倭人”はこのネグリートの縄文人の子孫のことです。また中国神話や山海経など古典に出てくる「倭」の大部分は中華大陸の最初のホモサピエンスY-DNA「D」のはずです。他に同じネグリートだったY-DNA「C」と「F」も可能性があります。)

  しかし孤島で外部のY-DNAの侵入を阻んできた結果、他の先住民と同様絶滅危惧種族になっていますが、集団エネルギー論の観点では絶滅を防ぐことはできません。集団は多様な遺伝子が混じり合うほど集団のエネルギーが増加し、人口増加率があがり、集団のパワーが増すのです。しかし純系を守ることは美しいのですが、いずれ近親婚ばかりとなり弱い子孫しか生まれず、その種族は自然消滅します。

  数100人弱のOnge族もJarawa族もその運命から逃れることはできません。集団の延命のみをはかるなら異なるmtDNAの女性をパートナーとして外部から導入し、せめて女系だけでも多様性を増やす必要があります。現在mtDNA「M31」、「M32」の2タイプのmtDNAが見つかっています。本来ならmtDNA「M0」や「M1」などのM系最古のmtDNAであっておかしくはないのですが、アンダマン諸島の他の部族はもともとインドやビルマ(ミャンマー)など外部から連れてこられた非Y-DNA「D」集団なので、恐らくそこから新たな女系を導入し近親婚による集団の弱体化を食い止め今までY-DNA」「D*」を維持してきたと考えられます。アマゾンの先住民たちも他の部族から女性(部族によっては男性の場合もあるらしい)を迎えることで集団を維持してきています。

  今でこそ日本人の若者男子の平均身長は170cm近くに伸びましたが、一昔前の栄養状態がまだ悪かった頃の日本人男子は「男1匹5尺の体」が標準でした、平均身長150cm、文字通りの倭人=ネグリートでした。ネグリートの形質は数万年後のつい最近まで縄文人の血をひく子孫の日本人に維持されていたのです。

  Y-DNA「D」はインド亜大陸からスンダランドへ移動する過程で「D1」「D2」に分化していたようですが、更に北上し東シナ海-黄海ランドで「D1」はユーラシア大陸の内陸へ入り中華大陸の最初のホモサピエンスになったのだろうと考えられています。中華大陸は北京原人なども過去に住んでおり居住に適した環境があったようです。一方「D2」は二手に別れ一方は当時の大陸とほぼ繋がっていた(対馬海峡は川程度の流れで完全に陸化はしていなかったと第四紀学会は考えています)日本列島弧に渡りそこで後に縄文文化を華咲かせたようです。もう1隊は日本海の北岸の大陸沿いを北上し、完全に陸化していた間宮海峡を渡りサハリンに入り、やはり陸化していた宗谷海峡を南下し北海道に入り後のアイヌ人の祖先になった模様です。

  第四紀学会によると当時の津軽海峡は川だったようですが、海峡は氷結していた時期があり北海道と本州は渡れたこともあったようです。

  この中華大陸最初の住民であるY-DNA「D1」は中国神話では「羌族」として描かれています。「共工」を祖先神とし、長江文明や黄河文明と対峙していたようです。しかし我ら縄文人とは本来最も近い兄弟遺伝子だったのですが、その後の長江文明との交配や特に黄河文明人との深い交配で独自の文化はまだ多少維持しているようですが遺伝子的にはY-DNA「D1」は18%に過ぎず、長江文明系Y-DNA「O1」が15%、「O2」も15%」に対し「O3」は36%もありもはや「O3」民族と言っても差し支えありません。

ではなぜそれだけの「O3」民族であるにも関わらず漢民族化しなかったのでしょうか?それは漢民族王朝に征服されてきたわけではなく、長い歴史の中で勢力争いに負けた「O3」が逃げ込んできた土地柄だったため落人達が隠れるため羌族化したためなのです。しかし漢民族は出自を重んじるため、羌族化した元漢族たちも自家の出自はひっそりと伝えられているかもしれません。

  中華大陸で最もY-DNA「D」を残しているのは黄河文明系「O3」が嫌っていた高度地域のチベット高原に逃げ込み独自性を保ってきたチベット族です。早くに漢族の目の届かない高原に逃げ込んだため中国の古代神話にも情報は今のところ全くありません。恐らく元々は羌族だったと考えられます。チベット族は吐蕃などの古代国家を興してきましたが、漢族王朝とは異質の存在として扱われてきたためたため、唐などの支配下に入っても独自分化を保ってきたようです。

  部族によっては氐族のように周辺民族との交配でY-DNA「D3」に分化してますが、「D1」、「D3」合計でおおむね50%以上の頻度を維持しています。しかし長年の漢民族との抗争で交配も進み「O3」もかなり高く31%にもなっています。しかし長江文明系のY-DNA「O1」や「O2」は1%もなく、羌族の中でも長江文明時代に交配を嫌いチベット高原に逃げ込んだようですが、結局王朝時代に入り大唐帝国など漢族大王朝の支配下に入り「O3」との交配はかなり進んだようです。勿論漢族間抗争で負けた集団が逃げ込んできた可能性も高いのです。またモンゴル帝国時代にモンゴル族も交配し、その後のモンゴル族のチベット密教化での交流でY-DNA「C3c」も5%強あり、またインドの遺伝子「F」も5%、「K」も7%と日本と同様多遺伝子集団化しています。このため純粋な「D」チベット族はもはや存在しませんが、チベット高原中心部に住む部族は今でも小柄なネグリート性を維持しているとのチベット民俗学者からの報告があります。

  ではY-DNA「D」の古代文化は何も残っていないのか?という疑問がありますが、最近の中国古代遺跡の調査が進むにつれて中国4大古代文明の一つの四川文明(他に長江文明、黄河文明と遼河文明)が、長江や黄河流域を追われたY-DNA「D」の逃げ込んだ先きでひっそりと立ち上げた文明ではないかと言われつつあります。そうです四川文明の代表が日本でも展示公開され話題を呼んだ三星堆遺跡の驚くべき呪術性はまさに古代遺伝子Y-DNA「D」の文化にぴったりです。火焔土器のような呪術性の高い独特の縄文土器文化を持つ日本人の琴線に触れるのは当然のことではないかと思います。
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大陸から大挙して逃げてきた弥生人「O2b」も縄文人に比べれば少数だったからこそ共存するために縄文人の縄文語文法を受け入れたのです。そして先進だった水田稲作農耕関連単語をもたらしたのです。「O2b」の兄弟遺伝子の「O2a」が14%も占めるからこそドラヴィダ人にも同じ水田稲作関連単語が存在するのです。ドラヴィダ人のタミール語は日本語の祖先では全くありません。弥生人と同根のため弥生単語と非常に近い単語が残っているというだけで縄文語こそが基層日本語なのです。遺伝子解析が進んだ今なら大野晋先生はもっと違った結論を見出したでしょう。

  そして征服者たる「O3」大和朝廷支配層一派は官僚機構内では日常的に漢語を話し漢文で書き、外に向けた発信では先住縄文・弥生集団を懐柔するために都合のよい圧倒的多数の話す縄文語を受け入れたのです。だから漢文を縄文語を話す大衆のために読み下したのです。そうでなければ漢語のまま話せばよかったのです。「読み下し」とは縄文語に翻訳することなのです。そしてその縄文語はY-DNA「D」の話していた文法・単語体系です。

  しかし縄文人の凄いところは弥生単語(勿論長江文化も)も取り込み、漢語の単語(勿論漢文化も)も取り込み縄文語を日本語に昇華させてしてしまったところです。そして明治以降積極的に西欧単語(勿論西欧文化も)も取り込み、恐らく世界で最もグローバルな単語の語源体系を持っているのが日本語です。しかも出アフリカしたときの古代遺伝子集団が話していた文法をいまだに維持している、という恐るべきガラパゴス性、つまり日本語の成り立ちそのものもガラパゴスの面目躍如の結果なのです。
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06. 2012年10月16日 01:21:08 : HNPlrBDYLM


遺伝子調査から追う日本語の成り立ち考


  これまでもブログで断片的に触れてきましたが、遺伝子調査の結果だけでどこまで言及できるか、いささか冒険ですが日本語の成り立ちに迫ってみました。

日本語とは、

●ガラパゴス的民族性の基層である古代シーラカンス遺伝子の縄文倭人(文字通り小柄なネグリート)の話していた古代語の縄文語が基層です。特に縄文倭人の多数派のY-DNA「D2」の祖先の「D」が出アフリカ以来話していた言語が縄文語の祖形です。世界でこの縄文語の祖形を受け継いでいるのは日本以外では「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族とJarawa族、「D1」「D3」のチベット族のみです。他に近い言語は全く存在しません。このため日本語は古代語の形態のままの孤立言語なのです。もしかするとコイサン族やピグミー族の言語と同様にアフリカで話されていた古代言語の直接の子言語かもしれません。

●縄文語はこれに更に出アフリカ以来数万年行動を共にしたと考えられている土器製作などの技能集団でもあったと思われる沿岸漁労系Y-DNA「C1a」と大型獣ハンター系「C3a」の語彙が重なっている複合言語です。縄文語は日本列島でも石器時代以来少なくとも2万年近くは話され根付いた熟成された言語のはずです。もしかすると西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族の漁労採集の言葉に日本語に似た単語があるかもしれません。

●そこに最初の外来文化言語である長江文明系オーストロアジア古語(水田稲作農耕文化の言語)の弥生系語彙が追加され、弥生人Y-DNA「O2b」「O2a」「O1a」は「O3」に極東ユーラシア大陸を追い出されボートピープルとして満州−韓半島南部−北九州と逃げ、これ以上行く先のない日本列島で大多数の縄文人と仲良く共存・融和するために縄文語を受け入れ新しい文化である水田稲作農耕の語彙を上積みしたのです。弥生人が迅速に溶け込んだため、稲作農耕技術は青森まで以外に早く伝播したのでしょう。

  このオーストロアジア古語系「O2b」は呉音を持ち込んだようです。日本列島に越音が残っていないということは呉系の稲作農耕民が北方へ逃れ「O2b」になったようです。当方が以前予想していた百越系の残党=百残=百済は越音ではなく支配層の使っていた唐音を持ち込んだようです。一方陸稲系稲作農耕(O3」系)も縄文晩期頃に日本列島に入ってきたようなのですが語彙上の影響度はまだ全くわかっていません。

  一方、「O2b」の兄遺伝子の「O2a」が東南アジア-東インド-南インドと逃れ、現代ドラヴィダ人に14%以上の遺伝子頻度を残すぐらい交配し、ドラヴィダ語に水田稲作農耕文化の語彙を持ち込んだため、もともと同一だった稲作関連の語彙が日本語とドラヴィダ語(特にタミール語)で似ているのは当然です。またオーストロネシア語系の古単語も古日本語には見つかっているそうですが、それは当然「O1a」が話していたはずのオーストロネシア古語の持っていた語彙のはずです。

●ところが、紀元後になり中華王朝の膨張に伴い韓半島から続々と中華王朝辺縁部の黄河文明系「O3」集団がはじき出されて渡来・移住するようになりました、複数の戦闘集団が前後して列島に日向など各地に占領地を設け、最終的に縄文-弥生交配集団の中心地だった畿内を目指して侵攻し、ある集団が渡来集団同士の戦いを制して大和に占領軍の王朝を築くまでになりました。我が縄文-弥生遺伝子集団は下等な民として扱われたわけです。

  この占領軍のGHQは大和朝廷と称され奈良盆地に置かれ、支配階級は大和朝廷族となり漢語を日常語(母語)として読み書き話し、平安時代に最終的に百済系朝廷族が勝ち残りました。百済は一般民衆は呉音系のY-DNA「O2b」ですが支配階級は「O3」で唐音系だったようです。

  そしてこの2番目の外来語である漢語を母語とする大和朝廷族は先住民の縄文-弥生交配集団を支配・懐柔するため漢語から縄文語へ翻訳するためにかな・カナ文字を開発して読み下し、支配用の当時の古漢語の語彙を列島隅々まで浸透させ一気に列島の支配者にのし上がったのです。そしてできあがったのが正統性を主張し都合のよい経緯を書いた記紀です。こんなものは我々縄文-弥生交配遺伝子集団から見れば進駐軍のたわごと・絵空事に過ぎないのです。無視しましょう!

●一方、武士階級では、高句麗系武士団(坂東武者系)や新羅花郎系武士団(源氏系)など韓半島から渡ってきた武士団族も「O3」漢語派だったため、縄文語に武士団系の語彙がかなり取り込まれたはずです。武士団は地元に根を下ろし地元密着型になり力を蓄え大和朝廷族と覇権争いを繰り広げることになったわけです。

●しかし幕末の動乱期まで日本列島の中で全員が話した標準言語はまだなく、支配階級と一般民衆は同じ言語を話していたわけではありません。幕末から明治の動乱期に第三の外来語である明治新政府系の新作語彙や翻訳語彙や西欧諸国の語彙が洪水のように入り込み、縄文語の文法の上にどんどん上積みされ日本語の祖語に昇華・熟成されたのです。しかしこれでも日本語の完成ではありませんでした。明治の標準語とされたのは明治政府の教育を握った長州閥の山口弁でした。

●日本語が完成したのはほんの60年程度前の第二次大戦後です。あたらしい教育によって今我々が話している現代標準語になりやっと日本語になったのです。日本語の歴史は極めて新しいのです。それまで縄文語にオーストロアジア古語の弥生語語彙と漢語の語彙が上積みされた複合言語だったのです。話し手も階級によって分かれていました。

  以上、語彙は時代と共にどんどん新しい文化のものが追加され古いものは消えて行き、言葉遣いも同時に変化して行きますが、最も基層になっている文法は縄文語、それも古代遺伝子Y-DNA「D」の話していた古代語です。このため地理的に極めて近いはずの朝鮮半島も台湾も極東の諸民族も日本語とは全て言語体系が全く異なるのです。しかし日本語は古い外来語彙をどんどん取り込んできたため、今でも古語の語彙は似ているものも結構あるのです。
http://galapagojp.exblog.jp/i35/



日本列島の農耕を請け負ってきた長江文明の子孫は、農村という代表的な日本の原風景の一つの担い手として縄文語の文法の上に農耕文化関連の単語を大量に上乗せし、縄文語を豊かなものにしたのです。
日本列島の言葉を決してオーストロアジア語文法に代えることはしませんでした。なぜなら圧倒的に縄文人の人口の方が多かったからです。弥生人は自分たちのオーストロアジア語の文法を捨てて溶け込む道を選んだのです。
http://galapagojp.exblog.jp/i34/


08. 2012年10月17日 14:49:35 : HNPlrBDYLM


大和朝廷族と武士団族は韓半島での勢力争いに敗れて、武力を持った武装勢力として日本列島に流れて侵略したのですが、狩猟用の戦闘力しか持たなかった縄文・弥生交配集団を武力で征服・支配し神話も乗っ取り、大和朝廷を現在にまで存続させるという奇跡を成し遂げたのです。
http://galapagojp.exblog.jp/16672971/

日本人のガラパゴス的民族性の核をなすのは、縄文系ではなく侵略者系のY-DNA「O3」です。

楽浪郡、帯方郡など中華王朝の出先機関が牛耳っていた韓半島での生存競争を勝ち抜くことができず、流れ者武装集団として日本列島に逃げ込んできた戦闘集団の中で最後に勝ち残ったのが大和朝廷族となり、敗れた集団はその他天神集団となったようです。

最後に勝ち残った百済系大和朝廷族の親衛隊からのし上がった戦闘要員の中から平氏が生まれ、高句麗から落ち伸びた戦闘集団の中から坂東武者が生まれ、新羅の落ち伸び花朗集団の中から源氏が生まれ、このような韓半島出自のY-DNA「O3」を中心とする武士団族が縄文-弥生交配集団が居住していた地方を制圧し力を蓄えていったようです。

日本列島はこうして韓半島発のY-DNA「O3」漢族出自の大和朝廷族と武士団族という侵略者達に征服されたのです。

そして漢語で読み書きをしていた少数派の征服者は大多数の縄文-弥生集団をコントロールするために漢語を読み下しできるように「かな・カナ」を開発し、縄文系と長江文明・呉・楚・弥生系の神話を盗み取り自分たちの神話に付け加え、大和朝廷族があたかも古代から日本列島を支配していたように神話を改ざんし記紀をでっち上げてきたのです。
http://galapagojp.exblog.jp/16831514/

記紀の神武東征に象徴されているように、漢語を話す漢族の端くれだった韓半島を追い出された大和朝廷族は(その頃の韓半島南部は弥生人と同じ呉系長江人のY-DNA「O2b」が民衆層を形成していたはずです)日本列島の恐らく九州に上陸し旧唐書が言うように「日本」なる小さな拠点を形成し侵略遠征を開始し、山陽道に既に割拠していた先陣の「O3」集団や縄文−弥生先住民土着集団を征服しながら大阪平野から奈良盆地を制圧し列島侵略に成功したのです。というより最後に勝ち残った「O3」集団が大和朝廷を名乗った、というのが正しいでしょう。

  記紀神話は、征服した先陣・先住集団の祖先伝承の都合の良い部分を取り込み創りあげたものです。そして確立した大和朝廷は漢語の支配する漢族の官僚が運営する政府でした。その後の日本列島はこの漢族朝廷と漢族官僚が文字通り牛耳ってきた中国化というより漢化されつつあった土地だったのです。

  日本人が漢族大和朝廷支配のもと漢民族に同化しなかった理由は1万年以上に渡る縄文時代とその後の弥生時代で日本列島が人口も含め完全に縄文・長江混成文化の風土が確立していたからです。漢族側が、人口的に大勢であった日本語の文法であるY-DNA「D2」の縄文語に合わせかなやカナを開発したように漢族側が歩み寄ったことが、日本人が漢民族化しなかった理由でしょう。何故歩み寄ったのかは今後の調査が必要です。
http://galapagojp.exblog.jp/15362496/

今や世界最大の遺伝子集団となったY-DNA「O3」抜きに日本民族は語れません。何かの本に和泉式部日記の時代の大和朝廷族は読み書きを含め漢語を話していた、完全な漢文化民族だったと、確か女性の研究者だと思いましたが、ハッキリと書いていました。その通りだと思います。

いづれにせよ王族と宮廷官僚たちは明らかに「O3」と思われます。新羅に敗れた後、「O3」ボートピープルが日本列島に押しかけ好戦的な「O3」は縄文−弥生交配集団と闘いながら最終的に大和朝廷を興したのでしょう。

蘇我一族は蘇我蝦夷の名前が占めすように縄文ー弥生系の土着集団だったのではないだろうか。当時奈良という土地の支配者だった縄文ー弥生系が「O3」に負けた歴史を書いたのが占領軍が書いた日本書紀です。縄文ー弥生の子孫を自認する小生から見ると、大和朝廷族は異遺伝子集団の占領軍に過ぎないのです。宮中独特の言葉と言うのはその時代の漢語の名残に他ならないのでしょう。
http://galapagojp.exblog.jp/15270404/



漢人(「O3」族)の言葉は八母音、縄文ー弥生系の言葉は五母音だった

韓国語と日本語はどちらもウラル・アルタイ・ツングース語族に属し、非常によく似ています。 弥生時代以後の本土日本民族(主として九州・四国・本州に住む日本人を指します)が、東南アジア起源の南方系モンゴロイドと、中国大陸および朝鮮半島起源の北方系モンゴロイドの混血であることは考古学にも生物学的にも証明されつつあります。 そして生物学的には南方系モンゴロイド1〜2割に対して、北方系モンゴロイド9〜8割程度の混血だと言われています。 南方系モンゴロイドの血が濃い日本人の典型としては俳優の緒方拳を、北方系モンゴロイドの血が濃い日本人の典型としては俳優の中井貴一を思い浮かべていただければ、何となく両者の特徴を把握できると思います。

また弥生時代以後も朝鮮半島から絶え間なく渡来人がやって来て、古代日本の歴史と文化に多大な影響を与えました。 このことから、古代日本語が古代朝鮮語の影響を強く受けていることは至極当然だと思われます。 例えば「万葉集」の表記法として有名な万葉仮名は、日本の国文学者によれば日本独自のものだとされ、教科書でもそのように説明されています。 しかし実際には、古代の朝鮮にも「吏読(イドゥ)」と呼ばれる万葉仮名方式の表記法──古代朝鮮語を漢字の音読みと訓読みの音だけを使って表記したもの──がありました。 年代的にみて、古代日本の万葉仮名はこの吏読を真似したものと思われます。

万葉仮名では同じ「イ」「エ」「オ」という母音を持つ音が2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記されています。 このため現代の言語学者や国文学者は、多い方を「甲類」、少ない方を「乙類」と呼び、その区別について色々と議論しています。

ある学者は古代の日本には現在の5つの母音「アイウエオ」以外に、さらに3つの母音「イエオ」があったのではないかと主張し、別の学者はそれらの母音は条件異音――前後の音環境によって同じ音が異なる音声として表れる現象――を異なる漢字で表記したものだろうと主張し、また別の学者は文法的な使用法の違いによるものだろうと主張しています。

この一見難解で高度に学問的に思える議論は、韓国語のフィルターを通して眺めますとあっけないほど簡単に答が得られます。 現在の韓国語には10種類の単母音と11種類の複合母音(2種類以上の母音が合成されてできた母音)があり、古代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われています。 古代朝鮮語の影響を強く受けていた古代日本語にも、同じように現在よりも多くの母音があったと思われます。 このことを踏まえ、母音と発声法の関係を図示しますと次のようになります。


※口を大きく開くほど前母音と後母音が
中母音に近づき、区別がしにくくなります。

(1)普通のイ、発音記号で表すと「i」。

日本語の「イ(万葉仮名・甲類のイ)」、韓国語の「イ」、英語の「i(sitのi)」

(2)イとウの中間音、発音記号で表すとmのひっくり返った記号。

古代日本語の「イ(万葉仮名・乙類のイ)」、韓国語の「ウ」。

(3)普通のウ、発音記号で表すと「u」。

日本語の「ウ」、韓国語の「ウ」、英語の「oo(bookのoo)」。

(4)普通のエ、発音記号で表すと「e」。

日本語の「エ(万葉仮名・甲類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「e(getのe)」。

(5)口を半開きにした「ア」、発音記号で表すとeがひっくり返ったもの。

韓国語に少し前まで存在した「ア」、英語の「a(agoのa)」。

(6)普通のオ、発音記号で表すと「o」。

日本語の「オ(万葉仮名・甲類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(omitのo)」

(7)エとアの中間音、発音記号で表すと「ε」。

古代日本語の「エ(万葉仮名・乙類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「a(maryのa)」。

(8)口を大きく開けたアに近いオ、発音記号で表すとcのひっくり返った記号。

古代日本語の「オ(万葉仮名・乙類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(stopのo)」。

(9)普通のア、発音記号で表すと「a」。

日本語の「ア」、韓国語の「ア」、英語の「a(calmのa)」。

つまり古代の日本語には、「アイウエオ」以外に、ウに近い「イ」、アに近い「エ」、アに近い「オ」の3つの中間音的な母音、つまり乙類の母音があったと考えられ、これらの母音は韓国語には現在も存在するのです。 漢字の韓国語読みではこれらの母音ははっきりと区別して使用されていますので、漢字を知っている韓国人が万葉集を読みますと、日本の専門の学者でなければ区別できない甲類と乙類をごく簡単に自然に区別することができるということです。

古代の日本語に存在した3つの母音が時代が経つにつれて消滅し、現在の5つの母音が残った理由はある程度想像がつきます。 本土日本人は元々南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの混血であり、当時の日本列島は現在のアメリカのような移民の多い土地でしたから、色々な言語や方言が混在していたはずです。 そして中間音的な母音は色々な言語や方言によって発音が微妙に違いますので、それらの母音は次第に明確な発音の母音に収斂していったと考えられます。

つまり乙類の「イエオ」は普通の「イエオ」に収斂したと考えられます。 このことは前述の母音と発声法の関係図を見ますと納得できると思います。 図からわかりますように、現在の日本語の5つの母音「アイウエオ」は、発音上、非常に区別しやすい音なのです。 現在でも、各地の方言や神社などで使用される特殊な言葉に中間音的な母音が残されていますが、これは古代の名残だと考えられます。

ただし万葉仮名では区別されていたこれらの母音が、奈良時代後期から平安時代になって漢字と仮名で日本語を表記するようになると、表記上は区別されなくなります。 いくら母音が収斂したとしても、わずか50年ほどで母音が完全になくなるわけはないので、これは大きな謎です。

この謎は、それらの中間音的な母音は実は条件異音に収斂していたため、それを話している日本人はそれらの母音を区別していなかったと考えれば解決します。 つまり万葉仮名は朝鮮からの渡来人が吏読を参考にして編み出した表記法であり、奈良時代後期から平安時代になって、ようやく日本人が仮名を発明して自らの言葉を表記する方法を編み出したという説です。

万葉仮名が朝鮮からの渡来人によって書かれたのなら、条件異音を区別することができた彼等が母音を書き分けていたことも、万葉仮名で書かれた文章の中に古代朝鮮語と思われる言葉があることも納得できますし、日本人が書いた漢字仮名混じりの表記法ではそれらの母音が区別されていないことも納得できます。

飛鳥時代から奈良時代の文化の担い手は渡来人が中心だったことを考えると、朝鮮渡来人が日本語を表記するために万葉仮名を発明したことは十分に考えられます。 これはちょうど、幕末にイギリス人のジェームス・カーティス・ヘボンが、日本語を表記するためにヘボン式ローマ字を発明したのと同じような工夫だったのでしょう。
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon01.html



10. 見た目の錯覚と先入観の大きさ 2012年12月07日 00:19:01 : 4UvGnxaQdoTJI : 6uwV4VgAns
ちょっと蛇足で申し訳ありませんが、言わして下さい。本ホームページのことではありません。Y染色体ハプロタイプについて色々なホームページを見ていますが。皆さん今までの先入観があまりにも強すぎます。例えば、アメリカインディアンは「QR系統Q亜型」で一般的な白人の「QR系統R亜型」と親戚になりますが、なぜアメリカインディアンはアジア的なのだろうか。CF系統Cと混交したに違いないと発想するようです。これは錯覚です。まれに起こる色素が無い「白皮症(白子)」をご存じかと思います。色々な民族の白子の方を見るとおそらく非常に驚かれると思います。有色人種なのに何処から見ても全くの白人です。別な表現でいいますと全くのイギリス人です(日本人の場合はちょっと違った印象ですが)。見た目の錯覚の大きさに驚きます。いわるる白人とは、色素が変異した、若しくは白色化したモンゴロイドと同じです。白人の見た目の存在で惑わされているのです。白がもし一人もいなければどうですか。おそらく世界の民族は、ただ、緯度が高くなれば肌の色が白くなり、低くなれば褐色、黒色に変化するだけという事で納得していたでしょう。Y染色体ハプロタイプで人種は区別できません。見た目の錯覚があまりにも大きいため、そしていままでの先入観があまりに大きい為、その矛盾から的外れで奇想天外が意見が出されています。はっきり言えば、モンゴロイド、コーカソイド、二グロイドという定義は、科学上存在しません。科学以前の見た目だけで付けられた名前です。



11. 2013年2月06日 20:31:45 : VbiX9gcE5U
京阪式アクセントがその他アクセントの基になってるから
日本語の起源は、畿内の土着語に決まってる
近畿四国の他の各地方言アクセントはこれの派生




「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  

≪日本語の起源の古さ≫

 日本列島と韓半島の歴史を比べてみて、際立って目立つのは、日本では7世紀の建国直後から国語が発達しているのに、韓半島では、やはり7世紀の新羅の統一からはるかに遅れて、やっと15世紀になって韓国語(朝鮮語)が国語として正式の地位を認められたことです。それまでの新羅朝、高麗朝の時代には、公用語は土着の言葉ではなく、中国語・漢文でした。漢文を日本のように返り点をつけて訓読するのでなく、そのまま漢文を上から下へ、韓国式の漢字音で音読するのです。韓国語が本格的に発達するのは、日本に比べると800年も遅れました。

 日本語は不思議な言語です。近ごろの有力な学説では、日本語の語彙はオーストロネシア系(マダガスカル島から台湾・東南アジア、南太平洋の島々に拡がっている言語)であるとされています。また、日本語の統辞法はアルタイ系の言語(トルコ語・モンゴル語・満州語など)と共通な要素があるとされています。日本語は奇妙な混合語だということになります


≪日本語は人造語≫

 どこの国においても、国語というものは、天然自然に存在するものではなく、建国に際して人工的に作りだされるものである。これが歴史の法則で、日本語も例外ではない。

 7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


≪「万葉集」に見る国語開発≫

 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。


≪散文は未発達≫

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


≪日本型の歴史は反中国≫

 日本の歴史は、720年に完成した「日本書記」に始まる。倭人たちが7世紀に突然、目覚めて、日本人となったのは、中国の脅威に対する自己防衛の必要からである。

 いずれの文明でも、最初に書かれた歴史の枠組みが、人間の意識を規定してしまう。「日本書紀」の表現する日本は、中国と対立する。まったく独自の正統を天からうけついだ国家であるという思想は、長く日本の性格を規定した。
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html


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アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書) – 2016/2/8
瀬川 拓郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87-%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%80%AC%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E9%83%8E/dp/4480068732


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
 

日本人や日本文化が世界で最近、注目されている。

理由や現象は敢えて並べないが、一言で表せば思考方法や行動、言語等が人類の本源的、源流的であるという点。裏返せば独自的、孤立的、世界中に広がった他の地域、人類との類似が少ないという点ではないだろうか。

最近の研究で言語学的にも遺伝子的にもそれは証明されてきており、人種の孤島として縄文人、アイヌ人の事を書いた著書の一説を紹介したい。


「アイヌと縄文」〜瀬川拓郎著

>「人種の孤島」としての縄文とアイヌ

本土人、琉球人、アイヌの遺伝的多様性の分布を見ると、それらは他の東アジア人や、ヨーロッパ人と混血した中央アジアの人々(ウイグル人、ヤクート人)のまとまりとは反対の方向に分布しています。

 現代の本土人、琉球人、アイヌは直線状にならび、この順でアジアの人々から離れていきます。直線の延長上にはかれらの共通祖先である縄文人が想定できます。つまり本土人、琉球人、アイヌのDNAを特異な方向に「引っ張って」いるのは縄文人であり、そのことは縄文人が現代のどの人類集団とも大きく異なる特徴を持っていたことを物語っているのです。

縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように嚙み合い、彫が深く、鼻が高いといった形質的な特徴をもっていました。これはアイヌにも共通します。

そのアイヌは形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、1960年代に総合調査が行われ、歯冠の形などから本土と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論付けらました。

ただし、先のアイヌの特徴は一般的なモンゴロイドとは異なるものです。一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです。

つまり、私たちが常識のようにみなしているアイヌ=モンゴロイド説は学界で完全に受け入れられているわけではありません。形質人類学者の百々幸雄はアイヌがどの人類集団とも異なる、現生人類という大海に浮かぶ「人類の孤島」であるとし、アイヌと縄文人は「出アフリカ」をはたした現世人類が、ヨーロッパ人とアジア人に分化する以前の状態を保っているのではないかと述べています。(百々2007年)

このこととかかわって興味深いのは、同学者の山口敏が旧人のネアンデルタール人のあとに出現した、化石現生人類のクロマニョン人と縄文人の類似性を指摘し、縄文人の形態的特徴は、現生人類のなかの古層に属すると見なされている事です。

 日本列島の縄文人は北海道から沖縄まで形質的な共通性をみせています。かれらは地域性がはっきり認められず、均質な形態をもつ人々でした。つまり縄文時代の日本列島には、アイヌにうかがわれるような「モンゴロイド離れ」した人々が暮らしていたのです。

1万年以上続いた縄文時代には、日本列島をとりまく朝鮮半島、中国、台湾、サハリンとの交流はほとんどありませんでした。そのため縄文人のヒトとしての特異性はかなり純粋に保たれてきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

同様に言語学でも日本語、アイヌ語は世界中の言語から孤立している。


>日本列島を含むユーラシア大陸では2500以上の言語が話されています。ただし、同系関係を辿っていくと、これらのほとんどはアルタイ系言語、シナ・チベット系言語、インド・ヨーロッパ系言語のようなわずか10あまりの大きな「語族」にまとめられます。

その中で同系関係がたどれず系統的に孤立していた言語はわずかに9つにすぎません。さらにその約半数が日本列島の周辺に集中している。日本語、アイヌ語、朝鮮語、サハリン先住民のニブフ語です。

これ以外はピレネー山中のバスク語、西シベリアのケット語、インド中部のニハーリー語、東ヒマラヤのクスンダ語でいずれも人里から離れた辺境地帯の言語である点が共通しています。

言語学者の松本克己はこのうち日本列島周辺に集中する日本語、アイヌ語、朝鮮語はかなり旧い時代につながっていたと述べています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=312916




▲△▽▼

京都を中心に近畿地方の人達は平均的な日本人のデーターと全く違う数値を示します。

100%朝鮮からの渡来人の特徴を示すそうです。


京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。
http://www.ishikari-...cs/2013/10/10-7.html

はい縄文時代の西日本はスッカスカ
http://web.joumon.jp...5%AF%86%E5%BA%A6.gif

ここでもスッカスカ
http://ichigen-san.c...2014/07/15/photo.jpg

弥生期に渡来人が増えるまでスッカスカ
http://homepage2.nif...nin/jinkoubunpu1.jpg

日本語は百済語と近接しているという説は多い。

ブログ「日本語と韓国語は同系語」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-3a69-1.html


という中から信憑性のある部分を紹介します。

>飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。

「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。

『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80〜90%は朝鮮人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。


※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

※ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)


司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。

故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。

従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上抜粋ーーーーー

これらを読むに付け、日本の宮廷、天皇、王朝を語る際に「百済」という朝鮮半島から消えてなくなった国家が大きく影響している事が判る。

それを日本土着のものに取り戻すのに鎌倉時代までの400年かかっている。
しかし再び明治以降、この百済の復興が天皇を担ぎ上げる事によって為された。

百済王朝が日本に亡命してまだ1300年しか経っていない。

この影響は日本語という言葉の中に浸透しただけでなく日本人の気質や一つに成り切れない民族の核心部にまだ残っているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314004




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【言語の進化】8.1.5万年前〜1万年前頃の抱合語
 
アイヌやエスキモーやインディアンは、現在でも、一つの文言を一語で表す抱合語を使っているが、それら隔絶された地域に残された抱合語は、人類が洞窟から出た後の原初的な言語の形を現在に伝えていると考えられる。
 
エスキモー語の例
qayar−pa−li−yug−a−qa(カヤック−大きい−作る−たい−私−お前)
           「私はお前に大きなカヤックを作ってやりたい」


アイヌ語の例
a−e−kore(私−お前−与える)「私はお前に与える」※「て・に・を・は」
                          がない一語。

a−e−ipe−p(我々−それ−食事する−物)「食器」


 
アイヌ語では、主句・対象句・述句という語順規則が見られるが、エスキモー語の場合、語順規則も明確ではなく、その瞬間瞬間に最も言いたい言葉を順に並べただけのように見える。

おそらく、より隔絶度の高いエスキモー語の方が古い言語だと考えられ、洞窟を出た原初の言語は、エスキモー語に近い、「て・に・を・は」はもちろん、語順規則さえ明確には定まっていない(言いたい単語を言いたい順に並べただけの)一言だったのだろう。

つまり、1.5万年前の人類の言語は、エスキモー語のように、語順規則もさだまっていなかったと考えられ、1万年前頃に、ようやくアイヌ語に見られるようにS・O・Vの語順規則ができたと推定される。

(なお、アイヌはユーカラという長大な伝承物語を持っているが、部族の物語を伝える程度の文言ならば、て・に・を・は(関係詞)無しでも用は足りたという点は、注目すべきだろう。又、アイヌ語は縄文語から枝分かれしたと見られており、そうだとすれば縄文語も原初は抱合語であったことになる。この点も、興味深いところである。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314835



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 7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。
方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。

それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


【出典】「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html



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日本語は縄文由来
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/03/3176.html

日本語は言語学的にも独立言語でありほぼ人類最古の方の言語に類する。

この日本語がほぼ一貫して変わることなく縄文ー弥生―現在へと引き継がれてきた。

母音を言語脳(左脳)で聞き分ける日本語は擬態語(ザーザー、しとしと等)が多い。そして日本語以外のほとんどの地域の言語が音声を左脳と右脳で使い分けるのに対して全ての音を左脳でとりいれる日本人は特徴的でもあり、それ故に自然の音を細かく聴き分けることができる。これが日本人特有の同化能力の基盤となり、自然に向けた同化能力を使って、現在でも人や社会に視座を向けることが可能な民族として存在している。


★自然の音を左脳で取り入れる日本人、その特徴を明らかにしたのが角田教授である。
⇒やっぱり、『日本語』はすごい言語のようです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=222237


★日本語研究は進んでいるが、結局今判っているのは日本語はどの系統にも属さない独立言語であるという事のようだ。

アルタイ語起源説やタミル語起源説、朝鮮古語起源説などがあるが、部分的に類似しているというだけで母音言語であり膠着語である日本語を定義つけるとしたら人類古語が起源であり、それを今も脈々と残しているのは日本と世界中の辺境の小部族だけという事になる。

学説で解明できないのは日本語がどこからの由来かという視点で見ているからなのだろう。


⇒日本語の起源研究の状況
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=184840

⇒日本語の起源をアルタイ語とするのは誤りではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=242652


★日本語がなぜすばらしい言語なのか 黒川伊保子氏の著書を読めばストレートに伝わってくる。


日本語はなぜ美しいのか (集英社新書) – 2007/1 黒川 伊保子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%BB%92%E5%B7%9D-%E4%BC%8A%E4%BF%9D%E5%AD%90/dp/4087203743


黒川氏が語る日本語の特徴を要約すると以下のようになる。


@ 日本語を含めて「言語」には、共認機能や観念機能の構造との密接な関係があるはずで、これを追求することには、大きな可能性があると思われる。発音体感と対象(実態)の一致は、日本語に顕著であり、日本語こそが「始原の言語」、太古よりこの土地で育まれた言語であると述べられている。

A 母音語の使い手は、自然とも融和する。
母音を言語脳で聴き取り、身体感覚に結び付けている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。いわば自然は、私たちの脳に”語りかけて”くるのである。

B 何千年も続く、豊かな自然が、私たちに、融和する母音語をもたらした。
一方で、融和して共存する日本人の特性は、日本語という母音言語がもたらしているとも考えられる。なぜなら、DNA上日本人とまったく無関係でも、日本語を母語として育つと、母音を左脳で聞くようになることが確認されているからだ。環境は言語を作り、言語は人を作るのである。

C 子音言語に比べ圧倒的に長い歴史を持つのが母音言語で、その原型を現在まで引き継いでいるのが日本語と言えるかもしれない。自然に同化し、調和する日本語とはこれからの共認時代に相応しい、時を得た言語なのではないだろうか。

黒川氏の著書の記事を集約しています。参考に一読いただければと思います。

⇒始原の言語・日本語の可能性〜むすび
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/09/001437.html




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萬葉集と風土記に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布
アレキサンダー・ヴォヴィン 国際日本文化研究センター, 2009.3.12.
http://publications.nichibun.ac.jp/ja/item/foru/2009-03-12/pub

アイヌ語と日本語との関係は非常に複雑であると思う。近年、上村幸雄氏はアイヌ語と
日本語が同源要素を持つ可能性について多数論文をお書きになり上(村80PPOOωP
POOωFPOOメPOO。。)、大変勉強になった。私も以前は諸言語の関係を同源説の観点から研
究していたが、ここ八年間に私の研究の焦点は日本列島諸言語とその周辺の諸言語の接点
に移り変わったので、今回は主にアイヌ語から日本語への借用語とそれに基づいた上代口n
本列島におけるアイヌ語の分布について発表させて頂くつもりである。
現在通説となっている伝統的な意見は、上代日本語にはアイヌ語からの借用語は殆どな
、というものである。たとえば佐伯梅友氏は、上代中央日本語に見られる冨巳冨〜冨巳日冨
「桜の皮」のみをアイヌ語の冨旨冨「山桜の皮」の借用語として挙られた佐(伯ピいPωP。)
しかし、以下で示すように、冨巳冨〜ξ巳目冨「桜の皮」のみが唯一の例ではない。
アイヌ語が上代日本列島において少なくとも東北地方の全地域で話されていたというこ
とはもう定説になったと言ってもいいであろう。地名はいうまでもなく、東北の方言には 「山の言葉」として残っているアイヌ語の言葉もある金(田一POO命宝Oーミ)。また、関
東の古い地名を見ると、「武蔵」元(来万葉仮名音声表記「牟射志」\日信N婁.\)、「阿之賀利」
\琶、冨ミなどは日本語の地名ではなく、アイヌ語であると解釈できる。
1
〈地名一関東〉
「牟射志」\85N.9・。く「武蔵」
たとえば、「牟射志」\目⊆N.9・。ぐは東国歌に出る。
萬一四二壬二七九武(蔵国の歌)
和我世故乎安杼可母伊波武牟射志野乃宇家良我波奈乃登吉奈伎母能乎
わがせこをあどかもいはむむざしののうけらがはなのときなきものを
我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを
2
「牟射志」く目`N9.。。ぐは蕾目き。。。。一に遡る。梼日巷旨巴は日本語としての解釈は困難だが、
アイヌ語では完全に意味が通る。アイヌ語目自「草」服(部一〇ひ井6ひ)、夥「濱」知(里ちいひ親  
=ω)、「野原」】(W9一〇げ0一〇円一〇Pひ日N甼Oり)、自三人称所有接尾辞(日本語では臣-は。・-一になる。
後述の上代東国日本語の言葉である「思太〜之太」葭量.\「時」〈アイヌ語ぼ$も参照)。
従って、武蔵は「牟射志」\目N`9.。。ぐく蒡目巷。・色く梼日き。。甲ぼ「草の野原」であろう。武
蔵は東京に変わる以前は、日本で一番大きい草の野原だったにちがいない。
「阿之賀利」\9巴、 Qσ巴\「足柄」
あしがら 次に「足柄」を見てみよう。「阿之賀利」\琶q、僧αユ\または「安思我良」\婁q。輿σ9\という
地名も東国歌に出てくる。
萬一四・三四三一相(模国の歌)
阿之我里乃安伎奈乃夜麻尓比古布祢乃斯利比可志母與許己波故賀多尓
あしがりのあきなのやまにひごふねのしりひかしもよここばこがたに
足柄の安伎奈の山に引こ舟の後引かしもよここば来がたに
萬一四・三三六三相(模の国の歌)
和我世古乎夜麻登敝夜利弖麻都之太須安思我良夜麻乃須疑乃木能末可
わがせこをやまとへやりてまつしだすあしがらやまのすぎのこのまか
我が背子を大和へ遣りて待つ時す足柄山の杉の木の問か
一3
阿之賀利\量。q巴σ\または安思我良\9巴、。。9逗には後世「足柄」という漢字が当てられた
としても、地名として余り意味が通じないだろう。安思我良\琶。 q碧oミは阿之賀利\蟲、q豊σ\
より頻繁に現れるが、この音声上の違いは\婁. q9ユo\〉\琶。。σ鐔ミの音声同化の結果であろ
う。ところで、阿之賀利\9巴. q9ミσは北海道にある「石狩川」の一・。貯9ユ一[。。一q卑σ二]を連想させ
はしないだろうか。アイヌ語の。・貯9ユの[督9邑は。。貯・二。。[お9包「川の中の水の回流する所」
または罕冨ユ「迂回する、回る、回流する」として解釈される傾向がある知(里おいひ親一PO)。
アイヌ語の冨ユは「回る、徘徊する」という意味を持っている菅(野POOD…PON)。しかし、冨二
は説明がつくとしても、残りの部分の9。。学は説明が困難である。アイヌ語には一人称の複
数の包括接頭語kがあるが、その甲は他動詞にしか付かない。色-はアイヌ語の。・学「自
分」と解釈する可能性もあるが、私の意見では、そのような解釈は信憑性が低い。では、
もう一つの可能性を考えてみよう。アイヌ語の千歳方言、沙流方言と旭川方言には訝冨巨。
「きれい、清潔な、清い」という言葉がある中(川一〇〇い"ひ)、(田村一遷9P。。)、菅(野PO8…一い)、
太(田POOい"一〇)。アイヌ語では8--子音群はいつも目--に変化するため知(里6いひげ"
一$も一)、中(川・中本一ゆ旨二い)、アイヌ祖語では梼ーヨーを再構しなければならないZ>目9ぐ土(佐風逸四九九・九)或いは「大穴持」\O噌O>Z>
目αミ(出雲風一〇二"五、一〇六"一〇・一二、一〇八"二・一二、一一〇"一、一二
六"四・七、一六六二二、エハ八"六、一八○"八・一二、一八二二、一九〇二四、
二〇二二・八・一〇、二〇四二・三、二〇人"四、二一六二・五、二二〇二、二
二四二四、二二六"二・六、二三六"五・七・九、二一二八"九、二四二…五、伊豫風逸
四九五"六)、『萬葉集』では於保奈牟知\o℃o蠧日三ぐ萬(一人.四一〇六)、そして『目
41 本書紀』では於褒婀娜武智\名。き9巨昌ぐ紀(一・一四)と表記されているので、『古事記』
の「大穴牟遅」も静O勺O諺Z>巨目象.ではなく、\O噌○諺Z>目二↓ぐと読まねばならない。そ
して、万葉仮名の「遲」は鼻音有声子音がある\鞋.の音節のみならず、無声子音がある
註\の音節も表す事ができる。
従って、『肥前風土記』の「比遲波」を\冨象.嚏\ではなく\℃↓ξ9\と読む可能性もある
わけである。『肥前風土記』の言↓喜ミ「岸」という言葉は、他の上代日本語文献にも、中
古日本語文献にも、現代日本方言にも見られない。しかし、アイヌ語には葱号9〜冨8「岸」
という言葉がある。たとえば、幌別方言℃σ号9、帯広方言忌89、美幌方言℃。89「岸」服(
51 部6ひ命Pま)、旭川方言冨言笹「岸」(一位=一DQ=NOO斜"Pいひ)、釧路方言℃。89「岸、川岸」(山
本POO舒一遷)、樺太方言篦8蕁「寄せ波が砕ける海岸の部分」】()。訂9≧ゆ。。9・一を.ξぎ8喜-皀。ゴ巴・・二@婁・・貫弖8霞く。琶ω..牢@ω婁畧8・α冨・・二冨 ⊂巳く・『・・芽亀匡署曁gζ畧8こお=蕗80。唱畧8@巨ゴ@。・α鎚。Q@邑羮 . 。。§談βぴ8三§げ・寄.自。・…。牾§。】-〈。蔘白它唇賽自く。≦・互・菖。旨罠】〈。掃・・.畧.臼驀…巨g 罍巨・§ぎ邑08貯@・88=ぎ旨巴詈 q・α一眷・×Hδ×9づ似奠POOいP=月げ0団ロ血Oh爵0>冒巴OOO巨δδ×9p傷9POOいげ・匡b題ミ鷽瓢菴Q嵩翫60ミミ無、ミ〜蒸Q、無ミミ匙丶◎丶ミ窃、ミ謡Oミξ窺嵩驚鼬・℃9巨一日きko§6赴oき
ミYミ嵩qσ匂ミ恥ミ亀ミ翫、隷oミo丶o堕℃卜爰皆o鐸〉δミ旨亀壁×一×+とP℃づ・"聞o貯o。。8昌Φ"O一〇げ亀O賦@巨巴・
δ×p口血qPOO◎Q9」一℃δδ-f℃o巳oσ@koロユ一げ09000巨。。k。。8目=.ぎ…、、ミo毒ミ謡軸器、腎向ミ題亀ミ翫℃、o竜象聲
厘曽時oi@=o。。≦qαLo『p≦巨酔日き(9。。)●●〉日・。8a9ヨこ卑5ゆo彑9目言ω…P8。0Ψb歹玉でいひ・
5×きα2NO。OGげ(8§8巨昌q)σ●鼠b題ミ鷽嵐蕊匙嵩亀Oo耄ミミ丶菴Qミミミミ£丶ミ鮮向紺ミOミ書亀ミ吻馬丶ミ、
9惹§§℃譚蚤退§・穿為ミ§§蕩`ミミ・・`毳§・ミ§・×××+。。。。。bb`。器・・喜ρo喜巴9ぎ件鉾

1北海道教育大学旭川校の井筒勝信先生はアイヌ語への翻訳をしてくださつた。感謝申し上げる。
2標準語でも\げぐはよく強\と発音される。たとえば、≧δ\「人」〉[簿o]。その音声変化は多くの
日本方言だけでなく、韓国語の方言にもツングース諸言語にもよく見られる。また、上代日本語には
\ミという音素がなかったことも忘れてはならない。
3ところで、この反映は母音の間に出る上代日本語の無声破裂音\b\uミΨミは有声破裂音[げ尸[色"q][α
として発音されたという=9日き。と昌q9oの仮説(}山卑【P9コOPOOO)、(C昌qgoPOO伊POOい)に対するもう一 つの版袵鬣 す娩田濯絡輜勤仮説への他の反証についてく。<一昌巴(Oいσ"ωSω。。)を参照. 4『源平盛衰記』は『源平盛衰記』とも知られている。
5アイヌ語o冒≦吋三卑「はこべ」は」U讐9@δ円の辞典にもo巻ロ冠蠧として記録されてある(一〇Pひ"ωいい)
ので、一九世紀の北海道方言にもあったらしい。
6この伝説をインターネットで探し出してくれた妻の石崎(ヴオヴィン)賛美に感謝を表す。
一53一
7『萬葉集』の第十四巻末に防人歌が十二首も集められてあるが、その内には思太〜之太\ωぎ量\「時」
という言葉は見られない。
8あはのへ\巷 -き19-誘\「逢わなかったりする」に見られる上代東国日本語のーoは(甲類の-罵とし て書かれている)上代東国日本語の特別な連体形であるらしい。後に引用した萬二〇・四四〇七のこ
え爵身-。\も参照。西洋の言語学者の大部分は上代以前日本語(蔑¢6匡旨巷き@ωo)の連体形が元来甲類
の\O\であったと信じている(国巴8≦ q"o。。2農β鬢『一巨きとの個人的だ話し合いによる)。上代東国 日本語では連体形は甲類のδ\とも乙類の\o\とも書かれているが、上代東国日本語では甲類のδ\と
乙類の\α\の区別が消滅したため、そのような混合した書かれ方も納得できる。私の意見では、連体
形は甲類のδ\より乙類の\α\であった可能性が高いと思う。その一つの証拠として、上代中央日本語
の繋辞の昌-の連体形は〒αであることが挙げられる。上に言及した上代東国日本語に現れる -oの連 体形はもう一つの証拠であるとも考えられる。少なくとも、上代東国日本語の\@\と上代中央日本語
の\α\の間に何か密接な関係があったらしい事は確かであろう。たとえば、上代中央日本語の叶欝曾α
「心」と上代東国日本語の冨犀臼o(古今集二〇・一〇九七)を参照。
9『肥前風土記歌謡』の引用は(秋本6い。。)による。しかし、『肥前風土記歌謡』の番号は(土橋一〇い刈)
による。そして、万葉仮名の「素」は上代日本語には\Z。。α\ではなく、\のひ\であるから、仮名の書き
下しには秋本の「ぞ」を「そ」に変えた。
01『肥前風土記』の引用は(秋本一りい。。)による。
11この歌の「遲」は≧\である理由については高木氏などの意見も参照(高木など這いSひPω黯)。
21ただしζ霞。自●ζ蔓艮@が指摘したように、森(一〇〇一)のα\β区別は理解が困難である(80ω勲雪-ひO)。
31『日本書紀歌謡』の引用は(土橋6い刈)による。
41『日本書紀』の引用は(黒板勝美這ひひ)による。
54
51旭川方言の冨89目「岸」はく梼b♀の馨から発展した形なので(太田N8い…一い。。)、需8騨には関係がな
い。
61冒鋳ロはぎ艮「歯」の所属形巨艮二-であろう。千島(鳥居竜蔵資料)巨9『ぎ騨巨「歯」(服部這ひ命ひ)
参照。
η前にはぜ§臣として再構した<(。<巨澤塞い)雪が、今はぜ睫よりはゴーの再構は自然だと
思う。
81例外は・。o目。が助動詞匡「する」で伴う場合に、。。。日。匹が主動詞の後に出る。

注記本書のタイトルは日文研フォーラム第二一五回の原題「萬葉集に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布」を改題したものである。
http://publications.nichibun.ac.jp/ja/item/foru/2009-03-12/pub


「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!
読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治.2017年12月15日
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html

日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?


 斎藤教授は、日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。


第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで

第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、

第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。


「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。

第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。

第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。


 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也 なるや 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。


世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目


縄文時代を代表する大規模な集落跡、青森市の三内丸山遺跡。復元された6本柱の大型掘立柱建物が威容を誇る
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50003

 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。

 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔かえん土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。

 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。


福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功


(『核DNA解析でたどる日本人の源流』に掲載された図をもとに作成)
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=2


 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地さんがんじ貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元げん教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯きゅうし)1本ずつを取り出し、提供してくれた。

 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。

 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。


アジア集団の中で最初に分岐した縄文人


 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万〜8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏いかだで海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

分岐した時期は2万〜4万年前の間


 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万〜4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊ふなどまり遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。

 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原はにはら和郎かずろう(1927〜2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。


遺伝的に近かった出雲人と東北人


 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。

 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。

 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。


日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?


 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。


弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土


 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津いかわづ貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」

沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した約2万7000年前の日本最古の人骨
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50007


 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原しらほさおねたばる洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。

 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。




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7. 中川隆[-10687] koaQ7Jey 2018年4月20日 13:15:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11485]
その後の縄文人


日本列島に渡来した民族のハブロタイプ

153名無しさん@涙目です。(庭) [KW]2018/04/15(日) 15:36:59.27ID:KJUZPVOB0

40.000年前 C1a1(ポリネシアン)
35.000年前 D1b(日本列島固有)
34.500年前 C2a(日本列島固有)

3.000年前 O1b2(江南)
1.300年前 O2(百済、新羅、高句麗)

____


縄文時代後期の約4000年前に日本列島の人口は26万人超だったが、縄文末期の3000年前には約8万人まで減少した。

しかも東日本では減少率が少なかったが、西日本は最初から10分の1の人口密度のうえに、壊滅的な減少に見舞われた。


弥生時代の大量移民

人口減少の原因は気候変動で、縄文時代をもたらした温暖化は日本海の水位を120mも上昇させるほど暖かかった。

4000年前から寒冷化が進み、木の実や魚介類や動物が少なくなり、自然減少しました。

自然採集では食えないので大陸では先に農業が始まり、後から農業を始める集団は「農業未開の地」を求めて半島や列島に移住したと考えられます。


この頃から九州に移住して田んぼを作り始めたのが半島南部から来た「渡来人」で、渡来は1千年以上続いたとされている。

推測では年平均1000人ほどの渡来が1000年間つづき、合計では100万人もの人が移住してきた。

縄文末期に西日本の人口はせいぜい2万人で、九州では1万人未満、渡来地の九州北部は数百人しか居住していなかったと考えられる。


人口数百人の地域に毎年1000人もの渡来人が渡ってきて、九州の縄文人と交わり「弥生人」に変化した。

縄文末期の1000年間で26万人から8万人に減った人口は、その後の1000年間で60万人まで増加しました。

これが弥生時代をもたらし、邪馬台国やヤマト政権に発展したと考えられている。
http://www.thutmosev.com/archives/75746010.html


渡来人と縄文人が共存した弥生時代

半島で土地を得られなかった人達が渡来し、縄文人に大きな変化をもたらした
渡来は年間数百人から千人という単位で1000年以上続いた。
引用:https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/9f/abde6a9ae1b8fae5656d8bbafa5a38ae.jpg


渡来人は新天地九州を目指した

縄文時代が終わり弥生時代、古墳時代へ移行する過程で、日本列島は文字や国家を持つようになった。

農耕や鉄・青銅、律令制度や法律、身分制度、軍隊や兵士などどれも縄文時代にはないものでした。

こうした変化が起きたのは弥生時代の約1千年間で、このため「大陸や半島から進んだ文明を持つ人が渡ってきた」と考えられた。


だが実際はこんなに単純ではなく、古墳時代に至る変化の大部分は渡来人と縄文人が協力したり競争することで成立した。

弥生時代の始まりは水田や弥生集落、弥生土器などで区別されるが、突然始まったのではなく縄文からの移行期があった。

最古の水田は九州の福岡県北部の海岸付近で見つかり、紀元前9世紀ごろとみられている。


最古の水田でありながら水を張るために水平に保たれ、水路や堰などの施設、水耕稲作のための道具なども発見されている。

縄文人が試行錯誤の末に完成させたのではなく、渡来人の集団がやってきて計画的に作ったのは明らかだった。

それでありながら渡来人の水田跡からは朝鮮式の土器はあまり発見されず、大部分は九州産で他の多くは列島産だった。


また渡来人は金属や文字といった大陸の先端文化を持っておらず、石器だけで木材を加工し道具を作っていた。

水田技術を持っていたのを除けば縄文人と同じ程度の技術であり、おそらく朝鮮半島南部から渡ってきた。

紀元前1千年ごろまでに朝鮮南部では畑作農業が普及していて、農耕社会(身分社会)が既に存在していた。


弥生人と縄文人の相互依存

この理由は日本列島の特に関東では木の実や小動物など自然依存の食べ物が豊富だったのに対し、半島は自然が貧しく食料に乏しかった。

縄文人は木の実や動物や魚を採集する生活だったが、半島では食べていけないので畑に作物を植えて収穫した。

水田に関しては半島で始まったのは九州北部より100年ほど前ではないかと言われていて、ほぼ同時期に始まったとも言える。


半島南部ではすでに平野部で畑作が行われていて、水田農業も始まったので、良い土地は有力なグループに占拠されてしまっていた。

この時日本列島は縄文人が暮らしていたが、縄文人は食料が豊富な山間を好み、平野部には居住していなかった。

西日本は植生の違いから東日本の10分の1しか人口がなく、しかも平野部は利用していなかった。


川が流れている平野部の湿地帯は洪水に見舞われるので、縄文人は決して集落を作らなかった。

いわば空き地が無限に広がっていたのが日本列島で、渡来人は縄文人が居ない空き地に田んぼを作っていった。

これが弥生時代の始まりで、両者は争う理由もないし、相互依存的な関係だったと推測できる。


最初の渡来人が水田を作る前から九州北部では「米」が見つかっていて、縄文人が半島と交易で手に入れたと考えられる。

縄文人は最初から米や水田稲作の存在を知っていたし、渡来人と交易することで米などの収穫物を入手した。

これを縄文側から見ると、自然採集に加えて新たな食料調達方法が増えた事になり、むしろ望ましかった。


弥生人の大戦争時代

初期には友好関係だったと思われるが様相が変わってきたのは最初の水田から100年くらい経った頃で、環濠集落が形成された。

環濠集落は周囲を堀と土塀、柵で囲った村で、防御施設でもあり軍事施設でもあった。

縄文人と弥生人は競争関係にないので、争いは土地を巡る渡来人同士、弥生人同士で起こったと考えられる。


環濠集落は九州から西日本に広がり、「兵士」や「軍隊」が現れて戦争の痕や傷ついた骨などが多数見つかるようになる。

弥生人同士が争う中で縄文人も否応なく巻き込まれ、西日本の縄文人も弥生化して集団農業生活に移行する。

環濠集落を拠点とする大戦争時代は600年ほどで終わり、関東以北に新たな環濠集落はつくられなくなる。


関東以北では環濠集落があまり作られなかったが水田は広がり、東北北部では続縄文時代が続き、弥生時代は来なかった。

渡来人を中心とした弥生集落は九州から大阪までで、関東では在来の縄文人主導で水田が広まったと考えられる。

東北にも水田は作られたが、採集生活も続けながら、副業として水田を作り米を得た。


弥生人の兵士、弥生人は土地を巡って弥生人同士で戦った
引用:アウトドア・ライフ&バラエティhttps://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-cf-49/estima_tcr10000/folder/925413/34/29778034/img_0?1320839465


渡来は1千年以上続いた

東北のような寒冷地では米という1種類の食料に依存するのはハイリスクであり、多くの種類にリスクを分散したほうが良かった。

渡来人の集落が多いのは大阪付近までなので、関東では縄文人が水田技術を取り入れて弥生人の移住を受け入れたと考えられる。

東日本は縄文人が多く、平野部も完全に無人ではないし、そこに弥生人が大規模な水田を作れば大戦争は避けられない。


だが関東で弥生人と縄文人と全面戦争の痕跡はなく、水田と大規模集落が増えて行った。

弥生時代後半になると西日本にも新たな環濠集落は作られなくなり、東日本を中心に人口爆発が起きました。

縄文末期の列島の人口が8万人足らずだったのに、弥生末期の西暦200年ごろには60万人に増加し、しかも人口の中心地は関東でした。


この過程は弥生人が関東を征服したのではなく、縄文人側が積極的に農業を取り入れて弥生化したと考えると合理的です。

縄文人は採集生活をやめて農耕を取り入れ、この結果家族単位から数百人の集団生活、集団労働に移行しました。

社会はシステム化され縄文土器のような「アート作品」は消滅し、大量生産の同じようなものが大量に出土するようになります。


この間にも毎年数百人、千人単位で半島南部から渡来人が渡ってきたと考えられ、例えば毎年千人の渡来が1千年続いたら合計100万人にも達します。

この大量の渡来が日本列島の人種構成に変化をもたらし、各地に移住したり交じり合って縄文人から弥生人、そして古墳時代人に変化した。

大量に渡ってきた渡来人の多くは半島や大陸で「食えなかった」人達で、支配層の人々ではなかった。
http://www.thutmosev.com/archives/75550976.html


因みに、渡来人と言っても

弥生時代に漢民族に追われて長江から西日本に逃げて来た稲作漁労民

弥生時代末期に朝鮮半島から畿内に入って来た武装集団

の二種族が有ります。

長江から西日本に逃げて来た稲作漁労民は縄文人と融和的で、縄文人と混血して西日本の弥生人になったのですが、

弥生時代末期に朝鮮半島から畿内に入って来た武装集団は武器を持たない弥生人を征服して日本の支配階級になりました。


______

『Y染色体からみた日本人』 中堀豊 (岩波科学ライブラリー)
https://www.amazon.co.jp/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E4%B8%AD%E5%A0%80-%E8%B1%8A/dp/4000074504

Y染色体からみた日本人 2010年04月30日
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/04/y.html

 ミトコンドリアDNAが母系で受け継がれるのに対し、Y染色体は父系で受け継がれる。ミトコンドリアDNA解析は過去10万年の人類の移動を明らかにしたが、正確には女性の移動なので、ヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略のような男性主体の移動は検知することができない。男性の移動を明らかにするにはY染色体の解析が必要である。

 本書は2005年発行とやや古いが、Y染色体の研究者による日本人の起源論である(2009年時点の研究は

崎谷満氏の『新日本人の起源』
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%8B%E3%82%89DNA%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%B8-%E5%B4%8E%E8%B0%B7%E6%BA%80/dp/4585054219
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/04/post_192.html

を参照のこと)。

 Y染色体による民族のルーツ探しの本としてはブライアン・サイクスが

『イブの七人の娘』
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%81%AE%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A8%98%E3%81%9F%E3%81%A1-%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-N-%E3%82%B5-1-1/dp/4863328567/ref=asap_bc?ie=UTF8
http://www.horagai.com/www/book/read/rd2002a.htm#R007


の姉妹編として書いた

『アダムの呪い』
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%91%AA%E3%81%84-%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4789722791/ref=la_B001H6J09S_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1523691985&sr=1-2


があるが、読みすすむにつれ鬱になった。

 女性は妊娠によってしかDNAを残せないのに対し、男はその場限りのセックスで子孫を残せるので、Y染色体はミトコンドリアDNAよりも寡占が起きやすい。ミトコンドリアDNAのハプロタイプを図であらわすとクラスターがきれいに並ぶのに対し、Y染色体のクラスターは不揃いで不規則だ。大半のY染色体は途中で失われ、少数のY染色体のみが栄えるというのがY染色体の現実なのだ。サイクスの本には900年前に死んだサマーレッドという武将のY染色体が40万人に、チンギス汗のY染色体は1600万人に受け継がれているとか、南アメリカのインディオのY染色体はヨーロッパ系ばかりだとか、恐ろしいことがたくさん書いてある。

 きっとその類の話だろうと心して読みはじめたのであるが、意外にも日本人のY染色体は攻撃的でも侵略的でもなかった。

 日本人の起源については縄文人の基層の上に稲作文化をもって渡来した弥生人がくわわり、混血したという二重構造モデルが定説化していたが、Y染色体でも縄文人と弥生人という二大グループは一応確認できた。弥生系の中核をなすOb1は中国に多いクラスタから派生しているのに対し(中国では絶滅している)、縄文系の中核であるD2はアジア人の祖形に近い古いタイプらしく、日本と朝鮮に見られる他は、近縁のD1がチベット人に残っているにすぎない。Y染色体の系統図では縄文系と弥生系は相当離れているのである。

 それにくわえて縄文系の中核であるD2の男性は精子の濃度が低く(!)、無精子症になりやすいことがわかった。

 常識的に考えれば縄文人は侵略された側であり、その上に精子濃度が低いとなれば現代日本人のY染色体は弥生系一色になっていてもおかしくはないだろう。ところがそうはなっておらず、都市部では縄文系・弥生系ともほぼ同頻度なのだという。

 そうなった理由は二つある。まず、弥生人侵略説は誤りだったこと。弥生人は百万人規模で押し寄せていたとされていたが、DNA解析の結果、渡来した弥生人はすくなく、しかも少人数づつさみだれ的にやってきたことがわかった。第二に精子濃度の季節変動が縄文系と弥生系では逆になっていたこと。

 縄文系D2の男性は1〜6月生まれが多く、弥生系の中核をなすOb1の男性は7〜12月生が多いという結果が出たので精子濃度の月変化を調べたところ、縄文系D2は秋から冬が濃度が高く春になって急落するのに対し、弥生系Ob1は春から夏にかけて濃度が高く秋に急低下することがわかった。

 縄文系D2と弥生系Ob1は受精させやすい時期がずれていたのだ。

 著者は最後にこうまとめている。


 日本の男性は大陸の落ちこぼれである。一度目の落ちこぼれである縄文人と、二度目の落ちこぼれである弥生人が、互いを滅ぼしてしまうことなく共存したのが現代日本の男性たちである。まさに、窓際族同士仲良く机を並べて、極東の小島で自然の恵みを享受し、自然に従って生きてきた。互いの言葉も融合させてしまった。

 うーむ、妙に説得力がある。複雑な気分である。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/04/y.html


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8. 中川隆[-10697] koaQ7Jey 2018年4月20日 13:54:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11497]
その後の縄文人 2

中部以東の縄文人は弥生人になった、畿内の縄文人はエタ部落民になった


日本列島に渡来した民族のハブロタイプ

153名無しさん@涙目です。(庭) [KW]2018/04/15(日) 15:36:59.27ID:KJUZPVOB0

40.000年前 C1a1(ポリネシアン):旧石器時代人
35.000年前 D1b(日本列島固有) :縄文人
34.500年前 C2a(日本列島固有) :縄文人

3.000年前 O1b2(江南) :西日本の弥生人
2.000年前〜1.300年前 O2(百済、新羅、高句麗) : 日本の支配階級

渡来人には

弥生時代に漢民族に追われて長江から西日本に逃げて来た稲作漁労民 O1b2

弥生時代末期に朝鮮半島から畿内に入って来た漢民族系武装集団 O2

の二種族が有ります。

長江から西日本に逃げて来た稲作漁労民 O1b2 は縄文人と融和的で、縄文人と混血して西日本の弥生人になったのですが、

弥生時代末期に朝鮮半島から畿内に入って来た漢民族系武装集団 O2 は武器を持たない弥生人を征服して日本の支配階級になりました。


目は茶色で縮れ毛で…縄文人の顔、DNA情報もとに再現 2018-03-12
https://ameblo.jp/ba7-777/entry-12359694366.html

DNA情報に基づいて復元された縄文時代の女性の顔

 縄文女性の瞳は茶色だった−。国立科学博物館などの研究チームは12日、縄文人の骨から採取したDNAのゲノム(全遺伝情報)を解析し、顔つきに関係する遺伝子に基づいて初めて復元した顔の像を公表した。

 解析した人骨は約3800年前の40〜50歳代の成人女性で、北海道・礼文(れぶん)島の船泊遺跡で約30年前に出土した。

 顔の特徴に関わる遺伝子を調べたところ、肌はしみができやすい性質で色が濃く、毛髪は細く縮れたタイプ。鼻の高さは中程度で、瞳は茶色だと分かった。

 研究チームによると、縄文人の瞳は黒いというのがこれまでの常識だった。その他の特徴は、従来の手法で復元した顔と大きく変わらないという。アルコールを効率よく分解できる遺伝子を持ち、酒に強かったらしいことも判明した。

 古代人の顔の復元は、発掘された人骨の上に、現代人の平均的な顔を張り付けるような方法で行っていたため、正確さに欠けていた。チームは「今後は顔つきだけでなく、どんな病気に弱かったかなど暮らしぶりも分かってくるだろう」と話している。


 国立科学博物館などの研究グループは12日、約3800年前の縄文人の骨から抽出したDNA情報をもとに、顔を再現した復元像を公表した。骨格の特徴だけでなく、遺伝情報を参考に古代人の顔を復元したのは国内初という。13日から東京・上野の同館で始まる特別展「人体―神秘への挑戦―」(朝日新聞社など主催)で一般公開する。

 研究グループは、北海道・礼文島の船泊遺跡で頭骨などが発掘された女性の臼歯からDNAを抽出。顔に関する遺伝子の特徴から外見を推定した。女性は、肌は色が濃く、シミがあり、目は茶色、髪の毛は細く縮れていたなどと判明したという。また、血液型はA型で、身長は140センチ程度だったという。

 従来は、骨格の特徴をもとに古代人の顔を復元していたため、肌や目の色がわからず、現代人の特徴をもとに推測していた。遺伝情報の活用でより忠実に復元できたという。

 国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長は「これまで想像の世界であったものが、裏打ちのあるデータを元にかなりの確度で復元ができるようになった。今後は遺伝情報を使った復元が進んでいくのではないか」と話している。(土肥修一)
https://ameblo.jp/ba7-777/entry-12359694366.html


日本人のガラパゴス的民族性の起源
30-3-b. 日本人のY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ

  出現頻度は、グローバルで入手できた論文のデータを全て単純合算せずに、調査人数を調整して算出しています。 調査した研究者はそれぞれ独自に調査を行っているので、同じ日本人を複数回調査している可能性は極めて低いと思います。 それなら1つの研究のサンプル人数は少なくても、入手できる全てのグローバル論文のサンプル数を積算すればサンプル数が増えより精度が上がることになります。 従って頻度は複数の論文の頻度値の単純平均ではなく、各論文の亜型の人数を割り出し逐一積算し全体数から頻度を再算出しています。

  mtDNA(左列)とY-DNA(右列)をまとめてみました。多少わかりやすいかと思います。


http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


 このmtDNA調査で最も重要なことは日本人の2/3(66%)がmtDNA「M」系であり、世界でこれだけの高頻度の「M」を持つのは、チベット人(約70%)と日本人だそうです。 そして両民族は奇しくも充分な人口規模を持つ世界で唯2のY-DNA「D」民族です。特に琉球人は世界最大頻度の「M」系民族でありアイヌ民族に次ぐY-DNA「D」民族でもあります。 これは偶然の一致ではなく日本列島の縄文のコアであるY-DNA「D」はmtDNA「M」と常にペアで行動してきたことを示しています。

  一方日本人の1/3(33%)は欧米系のmtDN「N」系になります。mtDNA「M」と「N」は出アフリカ前にすでに分化していたとする仮説と アジア(恐らくインド亜大陸か近東)で分化したとする2つの仮説があり、まだ決着はついていません。 しかしネアンデルタール人との亜種間交配で出アフリカしたY-DNA「CT」が「DE」と「CF」に分化したとする仮説が現在もっとも合理的なので、 mtDNAも出アフリカ後に同じ理由で「M」と「N」に分化したとすると説明を付けやすいのです。

  黄河文明の古代遺跡から発掘される人体はコーカソイドの特徴を持っていることは、考古学ではよく知られています。 これは寒冷地適応や黄砂適応を獲得するまえのY-DNA「O3」はY-DNA「CF」の子孫としてふさわしい彫深の外観であったことを示しています。 同様に典型的なフラットフェースのモンゴル人Y-DNA「C3c」も、本来は兄弟亜型Y-DNA「C2」と「C4」のニューギニア先住民やアボリジニと同じく いかつい彫深顔であったことが容易に推測できます。これほど寒冷地適応は厳しい環境要因だったのです。

  ではmtDNA「N」系列はどうやって日本列島にやって来たのでしょうか?


1.Y-DNA「CF」系縄文人の「C1a」や「C3a」とともに来た、か

2.Y-DNA「O」と共にわたって来た、か

3.その両方の場合。


  縄文遺跡から出土するmtDNA「B」は上記1の場合、その他はY-DNA「O」とともに、mtDNA「HV」などはシルクロード経由も考えられます。

  アイヌ民族のmtDNA「Y」はオホーツク文化で古代アイヌ民族を征服した古代ニヴフ族がもたらしたものでしょう。 その古代ニヴフ族は東北アジア系Y-DNA「C3c」のツングース系かモンゴル系と考えられます。 明治期でもアイヌ人男性の一部はコーカソイドと考えられたほど端正な顔立ちだったので、 いづれにせよ寒冷地適応を獲得する前の東北アジア集団が北海道に渡ってきたことになります。

  主題ではありませんが、アスリート能力のうちもっとも重要なエネルギー産生能力は、エネルギー産生がミトコンドリアで行われる以上、 母系遺伝することは当たり前です。白筋と赤筋とmtDNAとの関係はわかりませんが、調査結果からみると 瞬発系アスリートはmtDNA「N」系のmtDNA「F」と「B」が素地を持っているようです。一方、持久力系はmtDNA「G」が多いようです。 非常に残念なことはミトコンドリアは本記事14-2.でおわかりのように母系遺伝するため、父親がどんなに優秀なアスリートでもエネルギー産生能力は 遺伝しません。母親がその能力を持ったmtDNAを持っていない限り、トンビの子はトンビなのです。残念!

  ではY-DNA調査で分かることはなんでしょうか?

縄文系は現代日本人男性の約43%を占め、古代遺伝子の3種のY-DNA亜型から構成され、コアになる世界でも希少なY-DNA「D」(チベット民族がY-DNA「D1」、 縄文系がY-DNA「D2」)と更に希少な海洋性ハンターY-DNA「C1」と内陸性ハンター「C3a」が含まれます。 世界の先進国の中でこれほど古代遺伝子が男性人口の約半分も占める国家は日本しかありません。 3.11でも示されたような世界を驚かせた日本だけが持つ従順性、規律性やホスピタリティなど独特の精神文化はこの古代遺伝子から構成される 縄文基層文化がもたらすものです。

  日本はこの古代性に加えてY-DNA「O2」(「O2b」,「O2b1」,「O2a」)と「O1a」の弥生系水田稲作農耕民の遺伝子が持つ地域集団を形成し行動する、 先進国でも珍しい規律性の強い村社会的なコミュニティが加わり、ますます独自性を強めています。

  では内向きになりがちな縄文−弥生系に対し、日本人のグローバル性をもたらしたのは何なのでしょうか? それは朝鮮半島の生き残りに負けて半島を追い出され日本列島に逃げ込み、日向なる土地から出発し征服行脚を行った大和朝廷族や他の天孫族、 及び高句麗、新羅、百済などから追い出されてきた武士団族などのY-DNA「O3」プロト漢族遺伝子を持つ武装侵攻集団に他ならないでしょう。 当時の朝廷では和洋女子大の研究者が報告しているように漢語を話し、本家中華王朝に追い付き追い越せで文化力を高め これも独自な発展をする原動力となり、日本人のガラパゴス性の起源になったものと思われます。

  当ガラパゴス史観もまだ確固たる日本人論を持ってはいません、憶測や妄想も含むアブダクション(推論)の段階です。 国を挙げてY-DNAとmtDNAを調査すると、日本人のガラパゴス的民族性の起源と特性がもっとあぶりだされると思います。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


2013年12月17日 形質人類学のデータ

エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html

chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06
同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

___

Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$
穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097




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9. 中川隆[-10702] koaQ7Jey 2018年4月20日 14:06:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11503]

日本の大和朝廷は朝鮮に住んでいた漢民族が武器を持たない縄文人・弥生人を征服して作ったカースト制国家(氏姓制度というのはカ−スト制を定めたもの)

日本はカースト制の多民族国家だから下のカーストの人間は昔から お上には絶対に逆らえない:


現代日本人は

縄文人の末裔
弥生人の末裔
朝鮮から渡来した漢民族
アイヌ人
在日朝鮮人

から構成される


日本を支配していた天皇家や武家は朝鮮から渡来した漢民族(Y染色体O2系統)で、
縄文人・弥生人系の日本の一般民とは殆ど混血していない。

現代の日本の政治家や資産家は殆どが渡来漢民族:Y染色体O2系統(旧 O3系統)
地主や自作農は 弥生系: Y染色体O1b系統(旧 O2系統)
貧農や小作人やエタ部落民は 縄文系「D2」

太平洋戦争で最前線に送られて死んだのは縄文人・弥生人系の日本人だけ
これから中国人移民と競争させられて搾取され食っていけなくなるのも縄文人・弥生人系の日本人だけ

縄文人・弥生人系の日本人の問題は羊より従順でかつ自分が搾取されて滅ぼされる劣等民族だという自覚が無い事

お上には絶対に逆らわない

日本は古墳時代以降ずっと厳格なカースト制(氏姓制)の国で
差別の実態は家柄による結婚相手の選別だった


穢多・蝦夷・アイヌ・琉球人:縄文人の子孫で Y-DNA は D と C

小作人・貧農:縄文人と長江の稲作漁労民の混血民の子孫で Y-DNA は DとO1: 乱交で父親が誰かわからない、財産無し

豪農、地主:長江の稲作漁労民の子孫で Y-DNA は O1、百姓、家柄で結婚相手を選別する

支配階級:渡来人(朝鮮に住んでいた古代漢民族)、O2, 苗字を持つ、家柄で結婚相手を選別する


皇室に伝わる昔の言葉や上代日本語は9母音で百済系朝鮮語と同じ母音数

アイヌ語、琉球語、万葉集の東歌は5母音なので、縄文人(Y-DNA は D と C )の言葉は5母音

天皇のY-DNAは朝鮮系のO1かO2

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

10. 中川隆[-10701] koaQ7Jey 2018年4月20日 14:11:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11503]

天皇一族の出身地は韓国のソウル近くだった (百済の最初の都がソウル)

天皇一族はソウル近くの寒村に住んでいた朝鮮人だった


もう20数年前のことである。考古学者の江上波夫が、昭和天皇に質問した。
昭和天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックというものがある。
  これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。
http://akirakakun.iza.ne.jp/blog/entry/1574364/


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、

天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ 知らない方が良いこともあるのだ と答えたという研究者の話が伝わっています。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html


古代朝鮮からの侵略部族が、一貫して日本を支配してきた 

古代日本、とりわけ朝鮮半島が戦乱にあけくれた2世紀〜6世紀に 、彼らは日本にやってきた。当時南朝鮮は、部族連合から国家への 移行期であり、激しい戦いを繰り広げ、そこから押し出された部族 が、一族郎党で武装のまま新天地の日本にやってきたのだった。

彼らは既に鉄製の剣を持ち、戦慣れした武装勢力であり、当時の縄文人・弥生人が敵う相手ではない。西日本に侵略部族による国が、あっという間に出来 あがる。

その後も、蘇我氏(高句麗からの侵略部族、神社を持たず仏教を導入)などが相次いだ。特に6世紀中ごろの任那滅亡、7世紀中ごろの百済滅亡の際には、任那・百済の支配部族の中核・大半が日本に移住した。
http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000801.html

天皇家の神話は朝鮮の神話そのものだった


百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html


__________

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 12


京都・奈良・大阪・神戸の住民の遺伝子は朝鮮人と全く同じだった


★京都人は日本人ではありません。

★遺伝的にも朝鮮人であると完全に証明されています。


▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』

▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』

▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』

▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』

▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』

▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』

▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』

▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』

▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『京都を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』

▼網野善彦(山梨県出身・歴史学者)
『以前サントリーの会長が東北には未開なクマソが住んでると言って問題になりましたが、あれは関西人の発想です』

▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離 (山口敏『日本人の顔と身体』より)

0.000…朝鮮半島 ←★チョン★
0.007…近畿地方 ←★チョン★
- - - - - - - - - - -
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方


▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い

+2.12…畿内 ←★チョン★
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州 ←★天皇家★

▼身体的特徴から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・阪大教授による)

     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14(小顔・足長の美しい日本人DNA)
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33(小顔・足長の美しい日本人DNA)
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)

62 :実名攻撃大好きKITTY:2012/03/10(土) 17:57:52.11 ID:vzRVNzqX0

☆B44-DR13の分布
朝鮮半島   7.0% ←
近畿地方   6.6% ←
関東地方   5.7% ←


★B54-DR4の分布
朝鮮半島   4.4% ←
近畿地方   6.6% ←
関東地方   7.5% ←


☆B44-DR13→近畿で頻度が高い。
『モンゴロイドへの道』(朝日選書)

日本人はるかな旅展(国立科学博物館)

赤色 縄文系の人々
黄色 渡来系の人々(朝鮮半島周辺)

(図1)縄文時代
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_01.jpg
(図2)弥生〜古墳時代
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_02.jpg
(図3)歴史時代
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_03.jpg

赤色→北海道、沖縄、北東北、鹿児島
中間→南東北、関東、新潟、九州
黄色→近畿


仮想混血集団の混血率
http://www.geocities.jp/k_saito_site/abc2.gif

       縄文系 弥生系
中国地方   2    8
近畿地方   1    9
関東地方   3    7

今日朝鮮半島からの大規模な人の移動を示す遺物として朝鮮系の土器に注目されるが、それらの故地や、流入時期、分布状況に際立った特徴のあることが指摘されている。 それによれば、

土器の故地は加耶諸国を中心とし、それらの流入は五世紀中葉から六世紀初頭に限られる時期に最も多いとされる。

また列島内における分布は、畿内の河内、大和にとりわけ多く、吉備、筑紫地方がこれに次ぎ、半島からの地理的な距離にかかわらない偏在性が強く認められる。

(『アジアからみた古代日本』、『橿原考古学研究所論集』九)

67 :実名攻撃大好きKITTY:2012/03/10(土) 22:14:49.76 ID:vzRVNzqX0


▼解剖学者・松村博文先生(兵庫出身)の常識的見解
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf

『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』


筑波大の原田先生(鹿児島出身)の研究

渡来人は中央権力のあった近畿地区を目指して移り住んだ。だから、そのルートには下戸が多いと推理する
http://27.media.tumblr.com/tumblr_l5mx3u4UoG1qz7zrao1_400.jpg

都道府県別アセトアルデヒド分解酵素活性型遺伝子の保有率上位分布状況
http://www.geocities.jp/k_saito_site/sake.gif

各地方毎のALDH2*1頻度と飲酒量
http://homepage1.nifty.com/koutarou/insyuryou.jpg


__________


6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0
貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ


17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ


41:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:22:19.86 ID:T8Am9NQl0
武家政権になってからは常にトップは色々考えてるし、平時の趣味も座禅や弓矢やら硬派だぞ


53:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:26:59.80 ID:T8Am9NQl0
精神を鍛錬して武芸を磨いてたおかげで元に勝ったわけで
貴族の和歌よりはよっぽど役に立つ


210:名無しさん@涙目です。(三重県):2011/10/28(金) 21:53:29.65 ID:5UrmWtqv0
武家政権が一番強固な時代だったしね。
ラッキーだったとしか思えん。
ぬるま湯平安時代とかにやってきたらボコボコにされてたろうな。


28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0
平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した

37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0
藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな

45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな


4 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 10:47:12
平安期の貴族は糖尿病と見られる症状が出ていたらしい。 世界の貴族と同じ。
だが、後に日本の支配者となった武家にはそのような記録はほとんどないはず。

86 :日本@名無史さん:2007/05/02(水) 15:34:48
平安時代の貴族は糖尿病が多い。
史料には「飲水病」と書かれ、水を異常に欲しがる様子が描かれ、糖尿病のことらしい。

後一条天皇、藤原伊周などはこれで死んだらしい。

131 :日本@名無史さん:2007/06/08(金) 02:52:26

NHK 知るを楽しむ 『歴史に好奇心』 教育テレビ 6月7日 午後10:25〜10:50
「藤原道長の食卓・衝撃の偏食」

平安時代、宮廷や貴族の祝宴で出された「大饗料理」は、第一に見せる料理である。

塩辛い「乾きもの」が多く、味付けはいたってシンプルだったが、素材の切り方、盛り付け方には異様なほど神経を使った。

「この世をば我が世とぞおもう」の藤原道長は毎日のように大饗料理を食べ、糖度35パーセントという猛烈に甘い日本酒を愛飲して中年期から糖尿病に苦しんだ。

しかも牛乳を濃厚なチーズ状にしたものにたっぷりと蜜をかけた「道長スペシャル」ともいうべきデザートを手放せず病気を悪化させていく。見栄えは良いが多すぎる塩分と糖分で生活習慣病を頻発させた平安貴族の食生活を描く。

29 : 風吹けば名無し: 2011/10/18(火) 23:28:42.30 ID:kIPo3rgn [3/3回発言]
NHKで平安貴族の食事を再現してて酒がありえないくらい糖分でドロドロだった。
見た目からして糖尿病まっしぐら。

http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O 。
                 , ─ヽ
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|__|__|__|_   __((´∀`\ )< というお話だったのサ
|_|__|__|__ /ノへゝ/'''  )ヽ  \_________
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|_|_| 从.从从  | \__ ̄ ̄⊂|丿/
|__|| 从人人从. | /\__/::::::|||
|_|_|///ヽヾ\  /   ::::::::::::ゝ/||
────────(~〜ヽ::::::::::::|/        = 完 =


要するに、

@ 京都人は奈良時代まで途絶える事無く続いた渡来人の流入の為に、遺伝子も容姿も考え方も日本人とは全く違ってしまった。

A 長い間の特権的地位や文化の為に日本人を差別し、搾取の対象としか見なくなった。


という事でしょう。 インドのアーリア人と土着民族との関係と全く同じですね。



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

11. 中川隆[-10712] koaQ7Jey 2018年4月20日 14:32:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11515]

最低カーストに落とされた縄文系先住民が隔離されたエタ部落のその後


五色の賤

五色の賤(ごしきのせん)とは、律令制の元で設置された古代日本の5種の賤民である。

近世の被差別民や近現代日本の被差別部落の直接的な起源であるとする説が存在するが、議論がある。


7世紀後半に日本に導入された律令制は、中国のそれに倣って、国民を良民と賤民とに大別する良賤制を採用した(良賤の法、645年制定)。 律令における両者の内訳は、以下の通りである。


良民
官人、公民、品部(しなべ、又はともべ)、雑戸(ざっこ)

賤民
陵戸(りょうこ)、官戸(かんこ)、家人(けにん)、公奴婢/官奴婢(くぬひ)、私奴婢(しぬひ)


陵戸は、天皇・皇族の陵墓を守る者で、養老律令施行によって賤民となった。

官戸は、叛逆など犯罪行為の罰として没官されて賤民に落とされた身分で、口分田等は良民と同等であり、76歳になれば良民に復帰できた。

家人は、支族の末裔が隷属化したもので、待遇としては私奴婢と同等であるが、売買は禁止され、仕事に制限があった。

官奴婢(公奴婢)は朝廷の所有、私奴婢は豪族の所有で、官奴婢には古来からのものと犯罪によって落とされた二種類があり、それぞれ66歳・76歳で官戸・良民に復帰できた。

私奴婢は良民の3分の一の口分田が班給され、売買・相続された。公私奴婢には戸の形成は許されなかった。


賤民の生業

陵戸は天皇や皇族の陵墓の守衛にあたり、官戸と官奴婢は官田の耕作に従事し、家人は主家の雑用などに従事した。私奴婢は戸田の耕作に従事した。陵戸は諸陵寮(諸陵司)が、官戸と官奴婢は官奴司のちに主殿寮が管轄した。


賤民の社会的地位

官奴婢や私奴婢は、逃亡は禁じられ、売買や質入の対象となるなど、非人道的な扱いを受けた。

奴婢は主人の所有物であり、奴婢の子供も主人の所有物で、自らの子供を売買することは禁止されていて、買った者も罰せられた。

だが、一定の年齢に達すれば上の階層に上がる事ができる制度などもあり、官奴司に主人が届け出れば家人奴婢を解放して良民とすることもできた。

主人の家が断絶して相続者なき場合は、家人奴婢は良民となれた。
また僧尼令によれば出家も可能で、還俗後は本色に戻ることが定められた。
このため、穢れなどを理由に武士、百姓、町人などと隔絶した一種の身分外身分と言える扱いを受けた江戸時代の被差別民の身分ほど固定されたものではなかった。


しかし奴婢は自らの公認された自立的な共同体を持たず、個人別に良民や朝廷の所有物とされるなど、穢多頭に統率されるなどの形で一定の権利保障の基盤になる共同体組織の保持を保証された江戸時代の被差別民と比べると、権利保障の基盤は脆弱であったとも言える。奴婢は訴訟を起こすこともできたが、刑罰などで不利な裁定を受けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%89%B2%E3%81%AE%E8%B3%A4


西日本の部落差別が東日本より酷い理由

筑前竹槍一揆
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo45.htm

「被差別部落民18人殺害、美作騒擾140年の沈黙に抗う〜頭士 倫典」 ジャーナリスト・西村 秀樹 | シリーズ・ 抗う人
http://gendainoriron.jp/vol.02/serial/se01.php

内浜霊神社(観音寺市・旧観音寺市)
https://wanikawa.com/jinnjya/kanon/10utihama/utihama.html−竹槍騒動


明治時代、明治政府が解放令を発したのを機に西日本(九州、四国、中国)地方で解放令反対一揆と総称される騒擾事件が頻発しました。東日本では何も起きなくて全ての事件は西日本に集中しました。

中央融和事業協会『全国部落調査』(昭和11年刊。昭和10年調査)

01位 兵庫県 593地区 16位 鳥取県 97地区 32位 神奈川 31地区
02位 福岡県 475地区 17位 徳島県 87地区 33位 山梨県 23地区
03位 広島県 426地区 18位 奈良県 77地区 34位 岐阜県 21地区
04位 岡山県 373地区 19位 大分県 71地区 35位 東京府 20地区
05位 愛媛県 341地区 20位 高知県 69地区 36位 佐賀県 20地区
06位 長野県 333地区 21位 滋賀県 67地区 37位 宮崎県 09地区
07位 埼玉県 263地区 22位 長崎県 62地区 38位 福島県 08地区
08位 群馬県 262地区 23位 新潟県 59地区 39位 福井県 06地区
09位 富山県 233地区 24位 茨城県 57地区 40位 秋田県 01地区
10位 三重県 193地区 25位 鹿児島 54地区
11位 山口県 154地区 26位 静岡県 52地区
12位 島根県 147地区 27位 香川県 48地区
12位 京都府 147地区 28位 石川県 47地区
13位 和歌山 111地区 29位 熊本県 45地区
14位 大阪府 106地区 30位 千葉県 39地区
15位 栃木県 104地区 31位 愛知県 35地区

総務庁地域改善対策室『平成5年度部落地区実態把握等調査―地区概況調査報告書―』(1995年刊。1993年調査)

部落地区人口
01位 兵庫県 305051人 13位 三重県 63575人 25位 茨城県 15597人
02位 長野県 213818人 14位 京都府 61140人 26位 静岡県 14246人
03位 福岡県 206105人 15位 奈良県 58059人 27位 千葉県 11321人
04位 埼玉県 122650人 16位 高知県 55036人 28位 新潟県 10731人
05位 愛媛県 121011人 17位 栃木県 48937人 29位 岐阜県 10540人
06位 広島県 102588人 18位 山口県 42905人 30位 愛知県 09792人
07位 群馬県 102561人 19位 滋賀県 40493人 31位 鹿児島 08784人
08位 大阪府 100092人 20位 宮崎県 26657人 32位 香川県 08779人
09位 大分県 087267人 21位 鳥取県 26441人 33位 佐賀県 07399人
10位 徳島県 075490人 22位 神奈川 18093人 34位 山梨県 03956人
11位 岡山県 073129人 23位 熊本県 17205人 35位 福井県 02692人
12位 和歌山 067554人 24位 島根県 16750人 36位 長崎県 02293人


2017/9/3 10:35:32
部落差別は東日本では少なく西日本では多いという感じがしますが、これは西日本に住んでいる人の方が陰湿で差別的だからでしょうか?

それとも何か別の原因や理由があるのでしょうか…

僕が調べた限りだと、部落差別をする人は京都や大阪に多そうな感じがします。

僕は東京に住んでいますが、部落差別的なことを言う人には今までに一度も会ったことがないし、部落問題については授業で少し習った程度で全然詳しくないので教えてください。

御回答よろしくお願い致します


tym********さん 2017/9/9 21:58:46

大まかに説明します。

関西には渡来系弥生人の子孫が多く、関東には先住民である縄文人の子孫が多く暮らしています。

渡来人達は、九州近辺から上陸してきたからです。

渡来人が先住民を駆逐し、国土を乗っ取る。

世界中どこでもそうですが、後ろめたい歴史を持つ国家には、都合の良い伝説と被差別部落が残ります。

静岡より西の地域は、当時鉄器と農耕技術を持っていた渡来系弥生人(朝鮮人)によって蹂躙され、原住民は都の外に追いやられました。
これが部落です。

この渡来系の一族はやがて天皇となり、日本神話を創り、現代に至るまで経済から宗教までを管理してきました。

細面で切れ長の目を持ち、色白で体毛が薄いのは渡来人の特徴です。

背が低く、骨格たくましく浅黒い二重まぶたの人たちが、古来、この国に住んでいた狩猟系の原住民です。

僕自身は完全に渡来系の顔立ちですが、日本古来の原住民が未だに部落に追いやられて生きている現実には、怒りと屈辱しか感じません。

____

aka********さん 2017/9/3 23:17:24

縄文人が森で採集や焼畑農耕をしていた所へ、渡来人が来て低湿地を占拠して、水田稲作を本格化しました。日本列島には低湿地は少ないので渡来人同士が戦い、ムラからクニへ成りました。その過程で、最後まで徹底抗戦した敗者が奴婢とされ、被差別部落の起源になりました。

以上のいきさつは西から東へ進んだので、西日本の方が部落差別は根深いです。

奈良時代には五色の賎に編成され、その内の陵戸が古墳の管理をさせられたので、奈良盆地では古墳のそばに被差別部落が多いそうです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11178943481


最低カーストに落とされた縄文系先住民が隔離されたエタ部落は戦後在日朝鮮人に乗っ取られた


被差別部落民と在日韓人


132 :可愛い奥様:2012/11/11(日) 21:05:27.36 ID:MtxrTx2z0

素朴に聞くけど、朝鮮半島出身者が日本人被差別部落の中に混じって
生活する事は出来るのでしょうかね


153 :可愛い奥様:2012/11/11(日) 21:37:10.77 ID:Smf9sZV4O
>>132
尼崎の友達の朝鮮人は部落地域に住んでたよ
間違いなく朝鮮人が多かった
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1352608564/100n-


被差別部落民と在日韓人  −社会経済史的視点−
              
    河 明生(かわ めいせい 社会経済史、経営史)
友常 勉(聞き手=ともつね つとむ・地域研究


(『現代思想 特集 部落民とは誰か』第27巻第2号所収、平成11年2月、青土社)

(友常)今日は、『韓人日本社会移民経済史−戦前篇』(明石書店、1997)の著者・河 明生さんにお話を聞こうと思います。本書は、戦前の被差別部落民と在日韓人との社会経済的関係を明らかにしており、部落問題に携わる者として注目しておりました。今日のお話しの中から、これから私たちが、今後の両者のあり方を考えていくための指針を得ることができればと願っています。


(河)よろしくお願いします。

(友常)まず、本書の問題意識からお聞きしたいと思います。

(河) 社会は、マジョリティとマイノリティによって構成されています。ここでは、マイノリティを社会的権力をもたない異質な少数派と定義します。日本社会も例外ではありません。マイノリティが存在します。それは二つに分類できます。一つは、民族的マイノリティです。たとえば、韓人、中国・台湾人、アイヌなどです。もう一つは、非民族的マイノリティです。被差別部落民が該当します。その中、私が選んだ研究客体は、在日韓人です。

 在日韓人問題は、権力と反権力、差別と反差別、加害者と被害者という視角からの研究に偏在集中してきた感が否めません。それは史実ですし、評価すべき業績です。けれどもそれだけで良いのでしょうか。在日韓人社会は百年近い歴史があり、その間、日常生活を支えた労働がありました。それは人間の基本的な営みです。その解明なくして、在日韓人問題を理解することはできません。しかし、それを正面から論じたものは少ない。在日韓人問題の社会経済的活動実態が明らかにされていませんでした。それではいけない。日本の社会経済史や労働史などにおけるマイノリティ史の空白部分を補完したい、というのが執筆動機でした。

(友常) 従来、1939年から始まる「朝鮮人強制連行」以前の渡日者をどのように位置づけるのか、という問題がありました。河さんは移民とみなしていますが、その点はいかがでしょうか。

(河)日本では、移民というと自ら望んで郷里を捨て、中南米や北米などに移住するというイメージがあります。しかし、それは間違いです。ここではふれませんが、欧米での移民に相当する概念は多種多様です。

 在日韓人を移民労働者とみなした場合、二つの論点が生じます。第一に、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題です。賃金水準や雇用機会などへの影響はそれに該当します。第二に、韓人が、日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題です。

(友常) そもそもこういうテーマを選んだのは、河さん自身が、在日二世だということと関わりがあるのでしょうか。

(河) 関係があります。ただ、諸先輩方の関連研究を読みながら、研究を進めていく中で、自分の生い立ちを超えたいと思うようになりました。客観的論述に徹したいと。日本人研究者からすれば、当然のことです。しかし、被差別マイノリティ出身の研究者が、その出身母体を研究客体とする場合、自己の生い立ちを超えることは容易なことではない。どうしても被差別体験が、文章にあらわれてしまう。怒りのようなものでしょうか。これは世代的宿命なのかも知れません。私の論文にも、たとえば「差別」という概念は使用されます。けれどもその「差別」が不当であるか否かは、読み手が判断すれば良いと考えています。

このような感覚を持てたのは、私が上の世代に比べれば恵まれた環境で育ったからです。当然、それは日本社会、とくに日本人の若い世代の変化によってもたらされた環境です。学校で、金とか、李とか名乗っていると、かっこいいとか、個性的だとか、もてはやされる時代なんです。けれども、彼らですら、在日韓人問題については白紙に近い状態です。歴史教育が疎かにされているからでしょう。これからの研究者は、そういう若い世代に、なごやかに語りかけて行かねばならないと思います。

(友常) 被差別部落出身でない僕が、部落問題に出会うのは大学時代です。江原由美子さんがかつて「差別の構造」という論文を書かれましたが、差別されている側とマジョリティの間には対称関係はない、差別されているという体験において、マジョリティの側がその体験を知りようがない以上は、自分の基準で相手を比較したり考えたりできなくなってしまう。

ところが相手が知らないことについて、差別されている側は訴えるしかないわけですね。それを訴えても相手には絶対に通じないという非対称的な関係、それが差別の構造だというわけです。部落問題の研究を進めながら、実際の差別の話を聞いて、気づくのはそういうことです。そういう非対称的な関係は一体どういう状況で生まれてくるのかということを追求したいというのが僕の研究の動機です。それは確かに歴史的な出自を持っている。

たとえば近代社会とか、そういう方向での自分の中のモチベーションです。必ずしも実体化された倫理主義的な態度をとることはないと思いますが、差別−被差別という構図でなければ見えない、あるいは研究でしか摘出できないような研究の方法論とか問題の設定がありますから、そういうスタイルは間違いなくあるでしょう。多分そういうふうにいったからといって、河さんとはそれほど大きな違いはないのではないかと思っています。


朝鮮不熟練労働市場における韓人と中国人移民労働者との競合

(友常) では、具体的なご著書の中で、何が直接明らかにされたのかということに移っていきたいと思います。僕にとっておもしろかったのは、まず朝鮮で中国人労働者と朝鮮人労働者との間で葛藤がある。それに少なからぬ影響を受けつつ、在日韓人移民労働者が形成されたという。

(河) 被差別部落民と在日韓人との関係を考察する際、有用ですので、若干主題とははずれますがお話ししたいと思います。

 在日韓人形成の最大の要因は、日本による朝鮮の植民地支配です。従来、その形成史が日本と朝鮮という二国間関係だけでとらえられてきたのはそのためです。しかし私は、植民地支配以外の渡日要因を再検証すべきであると考えました。在日韓人形成史は、中国をも含めて考察すべきであると考えます。つまり、朝鮮下層労働市場に進出した中国人移民労働者の存在を忘れてはならないのです。


(友常)それはまったく新しい視点ですね。その根拠は何でしょうか。

(河)在日韓人の出身地の大部分は、農業の中心地であった朝鮮南部であり、前職は農民です。当時、朝鮮工業は朝鮮中北部において展開されました。離農間もない朝鮮南部出身者が、何故、陸路で移動可能なソウルや平壌などの朝鮮中北部への出稼ぎを選択しなかったのか。宗主国の日本に、海を越えて出稼ぎに行くというのは、心理的なプレッシャーがあったはずです。言葉も通じないのですから。そういう予想される不安や困難をこえて渡日したのですから、何か合理的な渡日理由があったんだろうと考えました。

それは、日本と朝鮮との賃金および雇用機会の格差です。第一次世界大戦による好況時に、紡績業などの日本企業が、人手不足を補うため、朝鮮で労働者公募を行いました。それに応じた韓人が、渡日して工業労働に従事しました。契約期間がきれたり、先祖の祭礼祭祀のために帰郷します。きれいな服を着て、お金やおみやげをもって田舎に帰ってくるわけです。農村の生活しか知らない朝鮮南部の人々にとって、それはまぶしい光景だったと思います。日本に行って働ければ金になる、ということになります。でも、もし仮に朝鮮に働く場所があって、日本の企業と同じ賃金がもらえるというのであれば、わざわざ渡日する必要はありません。朝鮮に働き場所が少なく、もらえる金も少なかったからこそ、日本への出稼ぎを選択したと考えます。もちろん、日本の賃金が高いというのは相対的なものです。むしろ朝鮮における「低すぎる賃金」に問題があると考えました。

 離農間もない韓人は、不熟練労働者です。たとえば、100人の不熟練労働者が同一労働市場に存在し、その中の10人が失業者や求職者であったと仮定します。この場合、少数派である失業者や求職者によって不熟練労働市場の賃金相場が左右されます。土方の相場が1円だとすると、失業者や求職者はとにかく働きたいわけですから、それを90銭でもやる人が現れます。1円で働いていた人は、失業の危機にさらされます。不熟練労働は代替が容易だからです。もともと1円で働いていた人が、90銭で働かなければ、就労を確保できなくなり、その賃金相場が下がる場合があります。そして再び失業者や求職者は、それよりもさらに安い労働力の提供者となって賃金相場を下げることが予想されます。結果、朝鮮労働市場での「低すぎる賃金」が維持・強化されたと考えます。

 この議論の前提となるのは、不熟練労働市場における失業者や求職者の存在です。それは、工業都市への人口集中や移民などによる過剰労働力を背景にしていると考えました。私が、注目したのは、植民地朝鮮に進出した山東省を出身地とする中国人移民労働者の存在でした。朝鮮総督府は、中国人移民労働者の朝鮮入国を規制しませんでした。1922年の朝鮮総督府調査では、在朝中国人人口は、約3万1千人です。それが8年後の国勢調査では、約9万2千人に増加しています。しかし、中国人移民労働者の実数は、正確には管理できなかったと思います。何せ陸路と海路から続々と入国してくるのですから。彼らの絶対多数は不熟練労働者でした。朝鮮総督府は、韓人は大日本帝国臣民なので、外国人である中国人の雇用が増え、韓人が失業するという状況を好みませんでした。だから、再三再四にわたり、在朝日本人経営者に中国人を雇ってはいけない、という通達を出したり、何人までは雇ってもいいといった割合を決めたりもしましたが、当局の思う通りにはなりませんでした。彼らが韓人よりも低賃金で働くからです。不平不満をいわずに。移民労働者の特性ともいえます。彼らには帰る郷里があるから、「低すぎる賃金」でも我慢して働くんです。食費などの生活費を抑えて残った金を郷里に送金したのです。低賃金を武器とする中国人移民労働者の朝鮮労働市場への進出は、韓人の雇用を脅かし、あるいは雇用機会の減少をもたらしました。とくに、その傾向は、離農間もない農民が就労可能な朝鮮不熟練労働市場において顕著であったと考えます。そのことが朝鮮の「低すぎる賃金」を維持・強化しました。結果、韓人の一部が相対的に高い賃金を求めて日本への出稼ぎを選択した、というのが私の仮説です。


日本不熟練市場での被差別部落民と在日韓人との競合

(友常) そういう要因が重なり合って在日韓人が形成されたのですね。そして日本の労働市場の中で彼ら自身の特性を形成していくことになるんだろうと思います。では、先程おっしゃった第一の論点、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題とは何でしょうか。

(河) 従来の定説を要約すると、戦前の日本における韓人の急増は、新たな労働問題を引き起こした。韓人が低賃金を武器としながら日本労働市場に進出したため、日本人労働者が失業の脅威にさらされたからです。日本人労働者が、自己の雇用を守るためには、低賃金や長時間労働を甘受しなければならなくなった。そのことが結果として、戦前の日本労働市場における低賃金の維持・強化につながった、というものです。

 しかし、韓人の日本労働市場進出によって失業の脅威にさらされた日本人労働者は、一部であって全部ではない。渡日した韓人の大部分は、工業労働経験が全くない不熟練労働者でした。能力的限界を否定できない韓人が、日本のあらゆる労働市場に進出することは不可能であったはずですし、日本人の熟練労働者が韓人の急増によって失業の脅威にさらされることは稀であったと考えます。

 戦前の韓人移民労働者問題は、日本における外国人労働者問題の嚆矢とみなすべき歴史的事例問題です。研究客体の特定なくして史実を明らかにすることはできません。そこで、韓人が進出した労働市場を下層労働市場と限定し、失業の脅威にさらされた日本人労働者は、いわゆる下層労働者、とくに被差別部落民であった、と主張しました。たとえば、1925年の中央融和会調査によれば、神戸の日雇い労働者の失業率は、韓人が24.3%であったのに対し、部落民はその二倍を超える52.8%でした。これは部落民が、韓人によって雇用機会を奪われた結果であったと考えます。

(友常) 近代の部落史の話の中で、先行研究の流れでいうと、たとえば、馬原鉄夫などがいった議論があります。部落差別は独占資本の形成過程の中で作られたもので、労働市場の中で低賃金構造のしずめ石として部落差別は作られている。おそらく同じような帝国主義下のしずめ石として植民地収奪にさらされて日本に強制的にあるいは半強制的に移住させられた韓人労働者がいる。それらが日本の資本主義の低賃金のしずめ石なるという研究の仕方は、60年代に支配的でした。そうではなくて、河さんの話ですと、下層労働市場だという限定がまずあるわけですね。全体の資本主義の構造というよりは、これは下層労働市場で発生している問題だ、そういうふうに問題を定義すると、戦後の移民労働者の問題にまでその視角というのは展開できるものだということになる。それは非常に重要な問題提起です。そのように、移民労働者の問題を考えるということが、同時に行動的特性の分析にもつながります。そこで研究客体としてのより踏み込んだ研究につながっていくと思います。しかしそういう意味で、移民労働者の問題を移動の合理性として立てていくのは、決してまだ支配的ではないですね。

(河) はい。少なくとも戦前の在日韓人を移民としてとらえるのは少数派です。また、在日韓人と被差別部落民とが、下層労働市場で競合したと言いきるのも、おそらく私が始めてではないかと思います。だからこそ、こうして私が、友常さんからインタビュ−を受けているんだと思いますが、いかがでしょうか。(笑)

(友常) おっしゃるとおりです。さて、被差別部落民と在日韓人との下層労働市場での競合の端緒は何だったのでしょうか。

(河) 中小零細企業が集積する工業地帯近隣の被差別部落での両者の混住です。ここからが第二の論点、つまり韓人が日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題となります。

(友常) 従来、韓人が住居を被差別部落や、その周辺に定着したことはよく知られていましたが、それも韓人の特性とみなしてよいのでしょうか。

(河) はい。一般の日本人下層労働者は、被差別部落には定住しなかったと思います。住所が被差別部落やその近隣だと部落民とみなされ差別される可能性があるからです。ただ、移民間もない韓人の場合は事情が異なります。日本の社会事情に疎いというか、被差別部落がどういう状況におかれているのかを知りませんでした。被差別部落やその周辺に定着することについて、一般の日本人よりも、抵抗感が少なかったと思います。たとえば、中央融和事業協会が、1925年から1935年まで、大阪府内の九ヶ所の被差別部落への新規移住者・約1千2百人の出身地を調査したところ、その七割強が朝鮮でした。

 被差別部落に移住した韓人古老に対して聞き取り調査を行ったのですが、自分は被差別部落だとは知らないで住んでしまった、気付いてみたら白丁がたくさん周りに住んでいた、というんですね。認識に若干ずれがありますが。(笑)だからといってそこを離れるわけではありません。その古老も、今日まで60年以上、そこに定住しています。

 問題は韓人の被差別部落流入経路です。韓人の目的は出稼ぎのための就労です。そこで彼らの就労経路から被差別部落流入経路を推論しました。戦前の京阪神行政調査によると絶対多数の韓人は、知人を通じて職場を斡旋してもらう個人紹介や個別的な就職活動による自己志願などによって就労しました。個人紹介は、紹介者と就労希望者とが同郷であるか否かという地縁を紐帯として実行されました。他郷出身者を紹介することが稀だったのは、出身地毎の反目や方言による言語の不通などが原因でした。済州島出身者は、とくにそういう傾向が強かったようです。

しかし、個人紹介は、移民当初から可能だったわけではありません。工場主の韓人紹介者に対する一定の信用に基づき成されたものであり、それは多くの場合、その工場での先駆的就労者=紹介者の就労実績によって培われたものであったと考えます。

(友常) 本書で先駆的就労者の就労経路を重視した理由はそこにあるのですね。

(河)はい。先駆的就労者の就労経路は、日本企業の朝鮮現地での労働者公募とそれ以外とに分類できます。朝鮮紡績と呼ばれた岸和田紡績は前者の典型でしょう。しかし、労働者公募は大戦後の不況により減少します。

 問題は後者です。就労先が定まらずに漠然渡日した無計画渡日者の就労経路です。彼らは時代が下るに連れ急増しました。山口県警特高課が、下関に上陸した韓人の所持金を調査したところ、約67%が五円未満の金しかもっていませんでした。次ぎなる行動は、労働予定地への移動ですが、彼らが購入した電車の切符を調べた大阪市調査から、その多くが京阪神に向かうことを知ることができました。阪神の企業による労働者公募が影響を与えていると思います。彼らが京阪神の目的地にたどりつくまで、小額の所持金は交通費や食費に費やされます。目的地に到着する頃には、無一文状態になりました。

 彼らは、住居と職場を確保しなければならない。両者は同時に併行して行われたと考えます。しかし、職場はすぐにはみつかりませんので、当面の雨露をしのぐ住居の確保が優先されましたが、所持金はすでに使い果たしています。しかも当時の京阪神大都市部の借家難は深刻でした。つまり韓人の大部分は、レイシズムニよる入居差別以前に無一文なのでまともな住居を借りることはできなかったのです。

 韓人の次ぎなる行動は大まかに二つに類型化できます。一つは、沿岸、河川、湿地などの公有地や更地の原っぱなどの私有地にバラックや堀立小屋を建てました。もう一つは、被差別部落やスラムへの流入です。私が、注目したのは、被差別部落に流入した韓人です。

 被差別部落には、韓人を新規の住民として呼び寄せる理由がありました。低廉な家賃です。日雇い労働に一日従事すれば払っていける額でした。しかも権利金も保証人もいりませんでした。被差別部落には、又借りや又貸しの習慣がありました。たとえば、六畳一間の賃貸物件を借りている部落民が、その中の三畳だけを他人に貸したり、納戸を貸していたのです。それは正常な労働市場から疎外されていた部落民が、低額所得者であったことと関係があります。部落民は又貸しすることにより家賃支出を軽減したのです。権利金や保証金が要求されなかったのはそのためです。また、被差別部落に住んでみるとスラムとは異なり食料品の物価が安いのも韓人にとっては魅力でした。商業者が部落民の低所得に合わせたからでしょう。

味噌、醤油、塩などの小売の量も低く設定されていたようです。さらに、被差別部落の周辺に屠場がある場合、日本人が食べなかった牛や豚の内臓をただ同然で譲ってもらえたと考えます。焼き肉のホルモンの語源が、ほおるもん、つまり捨てるものからきているという説もあります。このような経緯により韓人は被差別部落に移住しました。

(友常) それがどのように下層労使市場での部落民との競合と結びつくのでしょうか。

(河) 被差別部落内やその周辺に朝鮮部落が形成されますが、その形成には、ある条件が満たされなければならなったと思います。その近隣に不熟練労働者である韓人を吸収する下層労働市場が存在することでした。韓人無計画渡日者の最大の関心事は就職ですが、すぐには見つかりません。低賃金であろうがなかろうが、差別されようがされまいが、人は生きて行くために働いて金を稼がなければなりません。何のあてもない彼らは、住居近隣を徒歩で徘徊しながら、工場前に張り出された求人の張り紙を目安として、飛び込みによる自己志願を根気よく実行しました。ただ、そういう求職活動には体力的にはもちろん精神的にも限界がありますので、遠出は敬遠し、近隣の工場を物色したと考えます。

 韓人は工業地帯近隣の被差別部落に定着したのです。その近隣に下層労働市場が存在したからです。たとえば、ゴム靴工業の集積地・神戸市長田近隣の番町部落などです。また、中には、被差別部落そのものが、伝統的部落産業の集積地だった場合もありました。皮革業の集積地・大阪市の西浜栄部落はその典型でしょう。韓人不熟練労働者の就職活動にもっとも適したのが工業地帯近隣の被差別部落だったということになります。この条件を満たした被差別部落では、両者の混住が促進されました。そして被差別部落内やその近隣にいわゆる朝鮮部落が形成されていくのです。

(友常) 韓人が部落民が携わっていた労働のまねをする、つまり労働模倣が行われたという重要な指摘をなされていますが。

(河)私は、韓人無計画渡日者が、被差別部落に流入・定着した時点で、彼らの職業が決定されたと考えます。韓人が、先住部落民の生業を模倣したからです。つまり、先住被差別マイノリティの就労実績は、後からきた出稼ぎ目的の韓人に就労先の目安を与えたと考えます。少なくとも出自による差別が少ないということは解りますから。被差別者は就労の際、能力以前に出自による差別を受けるのではないか、という一種の恐怖感をもちます。出自を隠し通せれば良いのですが、現実は難しいようです。日本には、履歴書に書かなければならない本籍や住所から、出自を判断し差別するという悪しき習慣がありますので、被差別者は履歴書をできれば書きたくなかったと考えます。仮に、虚偽を書いたとしても本採用の際、戸籍謄本提出によって解ってしまいます。部落民はそういう事情にあったと思われます。韓人の場合は、本籍を日本本土に移すことを禁止されていましたから、「本籍 朝鮮」と書かなければならず、日本名を使い堪能な日本語を駆使して日本人を装ったととしても出自が解ってしまいます。また、履歴書を書くほどの経歴がないということや、無学のため漢字が書けないということも履歴書提出をためらった理由でした。

雇い主も彼ら被差別マイノリティがおかれている状況を知っていますから、本人が働きたいといえば、履歴書をださなくても、明日から来な、ということになります。被差別マイノリティにしてみれば、出自を理由として門前払いをくらわない、門戸が開かれた職場だったのです。韓人も例外ではありません。彼らの就労は、先住部落民の就労実績によって門戸が開かれていたのです。

 また、そこは彼らにとって働きやすい職場だったともいえるでしょう。同じ境遇の仲間がおり、差別されることが少ないという意味で一種の安心感のようなものがあったと思われます。余談になりますが、私は、阪神淡路大震災の直前まで、長田のゴム靴工業地域を調査していました。ある神父から聞いた話ですが、ベトナム難民が長田に定住し、ゴム靴の内職に従事していました。低賃金だし、一日中、部屋に閉じこもって不健康だからという理由で、神父が就職先を斡旋しました。しかし、みんなやめて、長田に戻ってきちゃう。みな一様にゴム靴の仕事がしたいという。どうしてだと神父が聞くと、月給になれていないので不安だという。ゴム靴の内職は、出来高制なので一日の労働量がわかりやすい。目に見える形で終われば、その場で金をくれる、というわけです。しかも同胞とベトナム語を話してベトナムの歌を歌いながら楽しく仕事ができる。疲れたら休めるのも良いということでした。まさにマイノリティ的感覚だとは思いませんか。移民当初の韓人は、同じ様な感覚をもっていたと思われてなりません。働いた分だけ金をくれるということが、魅力だったと思います。

(友常) 時間感覚につての階層差、近代的な時間というものを機械から疎外されているから長期的な展望で将来を考えたり、貯蓄したりする習慣を持たないからなんだと下層労働者をブルデューは説明するんですが、そういうふうにするよりもむしろ、不払いとか労働意欲の発生が感じられるような就業形態からの説明ができますね。

(河) 被差別マイノリティの立場からすれば、お金は嘘をつかないということになるでしょう。マジョリティと同じ権利行使を可能とする唯一の手段でした。被差別者として疎外感が強くならざるを得ない人間というのは、目に見えるものしか信じないという意味で実証的になります。毎日、働いた分だけの金をもらえるというのは、彼らに安心感と満足を与えます。月給というのは、移民間もないマイノリティには馴染まないですね。被差別マイノリティの生業が、現金商売に遍在集中するのは、そのためです。

(友常)水平社運動の昂揚も韓人の雇用を拡大したと指摘されていますが、その点いかがでしょうか。

(河)中小零細企業が部落民を低賃金および長時間労働で使用したのは、それが企業存立上の絶対条件だったからです。経営者からみれば、通常の労働市場から閉め出されている被差別部落は低賃金労働力の安定した供給源であり、しかも不況の際には容易に解雇できる従順な労働者とみなしていたと思われます。ところが、1920年頃から事情が変わります。労働運動が昂揚したからです。1922年には水平社が創立されました。それは、下層労働市場で低賃金を甘受させられていた部落民の労働者としての権利意識を高めました。逆に、そのことは中小零細事業者にとって、最大の不安だったと考えます。組織的な労働争議へと発展していきますから。けれども低賃金労働者は確保しなければなりません。

ちょうどその頃、比較的権利意識の低い新たな被差別マイノリティが、工場近隣の被差別部落やスラムに流入し、自己申込みによる就職活動を開始したのです。植民地民族の韓人は、中小零細業者から、部落民よりも低位な階層、従順なる低賃金労働者とみなされ代替労働力として利用されたと考えます。その目安になったのが、両者の労働運動に対する国家・社会的許容度だったと思われます。韓人による組織的労働運動は、朝鮮独立運動と結びつく可能性が高く、実質的に内政問題にとどまるものではありませんでした。内務省や特高によって徹底的に弾圧されたのはそのためです。もちろん水平社運動も弾圧されましたが、それは内政問題にとどまる性格上、ある程度は許容されていたと考えます。そのことは中小零細業者からすれば、彼らを雇い入れる際の判断基準になったと思われます。当時はいずれの工場においても労働争議は現実性を帯びていたからです。つまり、部落民よりも抑圧されていた韓人を雇うほうが、労働争議のリスクが少なかったのです。結果、部落民の雇用機会は減少し、韓人のそれは拡大されたと考えます。


京都における被差別部落民と韓人

(友常)その際の仕事をかなり詳細に調べられていますね。京都の場合だと西陣織と友禅染。それが在日韓人と部落民に多いと部分的にはいわれていましたが、河さんの本で論証されたと思います。

(河)京都は被差別部落が多い地域です。戦前の京都市調査によると、三條部落では、韓人排斥運動がおこり、彼らを新規の住人として受け入れなかったと報告しています。しかし、それは例外で、大部分の被差別部落では、韓人を新規の住民として受け入れました。

 戦前の在京韓人の典型的生業は、西陣織りや友禅染めなどの織物染色工、土方、ボロチャンサと呼ばれた屑生地回収業、その他となります。それらの生業は、韓人がいずれの被差別部落に流入・定着したかによって決定されたと考えます。たとえば、養正部落流入者は友禅染めに、崇仁部落流入者は土方に従事しました。それは韓人が、先住部落民の生業を模倣した結果であると考えます。一世による労働模倣は、二世、三世に引き継がれます。彼らは親や親戚、同じ地域に住む先輩や知人の生業に従事する場合が多いことが解りました。多くの場合、養正部落の二、三世は友禅染工業に、崇仁部落の二、三世は土方にそれぞれ従事したのです。

(友常) 友禅染工業での部落民と韓人との関係をどのようなものだったのでしょうか。

(河)京都の友禅染工場は、室町の問屋街に近い堀川を中心に集積していました。しかし、1924年に京都市都市計画により工業地域が指定され、友禅染業者は、移転せざるを得なくなったのです。しかし、工業地域ならどこでも良いということではありません。友禅染めの特徴は、織物生地への後染めです。多品種の染料によって染色し、蒸し箱に入れて密閉し、蒸気で蒸します。これを蒸しといいますが、夏は地獄の暑さだったといわれています。この蒸し業を担ったのが韓人でした。その後、染め生地の表面に附着させた色糊を流水で洗わなければなりません。これを水洗といいますが、川を利用して行われたため冬が苛酷でした。その作業には大量の水が必要です。

1920年の後半から、この水洗業を担ったのは韓人でした。日本人の心の故郷といわれる京都の風物詩として観光の目玉にもなっていた友禅流しを想起して下さい。それは、実は被差別マイノリティによって担われていたのです。また、友禅染めは生地が10メートルを超えるものもあり、水洗後にそれを乾かすために広い場所も必要となります。設備投資をせずに両方の条件を満たせるのが、川の側ということになります。堀川を追われた友禅染め業者が、太秦や高野・一条寺などの川の近隣に移動したのはそのためです。京都の場合、川の側には、被差別部落があります。その中の一つを調査しました。

(友常) 洛北と呼ばれる高野・一条寺近隣の養正・田中部落のことですね。

(河)はい。戦前に田中部落に移住し、戦後、友禅染めで成功した韓人古老は、1920年代後半には、すでに韓人の蒸しや水洗業者が存在したと証言しました。京都商工会議所による友禅染調査も同様の指摘をしています。問題は、彼らの就労経路です。京都の友禅染め工場が、朝鮮現地に赴き労働者を公募したことはありません。ただ、来京間もない韓人が、いきなり事業主になるとは考えられません。その先駆的就労者は、飛び込みの自己申込みによって友禅染め工場に就労した無計画渡日者であったと思われます。彼らは何年か勤務する過程でスキルとノウハウを修得し、独立したと考えます。

しかし、徒弟制度を採用している友禅染工業界では、最低でも三年間は、運搬や掃除などを担当する追い回しと呼ばれる下働きをしなければなりませんので、韓人の先駆的就労の嚆矢は、早くても1920年代前半ということになります。

私は、被差別部落に移住した韓人は、先住部落民の生業を模倣したという仮説を主張しています。その大前提となるのは、田中部落の先住部落民の洛北友禅染め工業への就労実績です。

(友常) 聞き取り調査から有効な証言を得られたのですか。

(河)だめでした。私は、聞き取り調査に関する限り、韓人問題よりも部落問題の方が困難だと感じました。とくに、一般日本人は口を閉ざします。たとえば、友禅染会館の職員に、韓人の友禅染工業就労について質問したところ、戦前の友禅染めには、半島の方が多く携わっていた、と躊躇なく答えてくれましたが、部落民はどうか、と質問したところ、一瞬顔色をかえ、忙しいので、といって逃げるように立ち去ってしまいました。

そこで京都部落史研究所などを利用して資料収集に尽力したところ、『大阪朝日新聞』や『京都日々新聞』などから、1930年頃、洛北友禅染工業界で起こった労働争議に、田中水平社が関係していたことを知りました。つまり、田中部落の部落民は、洛北友禅染め工場に就労していたのです。

次ぎに、問題となるのが部落民の先駆的就労時期でした。それは京都市民政局『友禅労働者の実態−京都市養正地区における調査』から、1918年以前であったと推論しました。つまり、部落民は、韓人よりも早い時期から洛北友禅染めに就労していたことになります。田中部落の典型的生業は、土方と廃品回収などでしたが、一部とはいえ、友禅染めに従事する部落民が存在したのです。就労者数よりも、部落民が皮革や靴などの伝統的部落産業以外の新しい業種に雇われたという就労実績が重要なんです。それは後身の被差別部落民の雇用機会の拡大をもたらしました。そういう状況下で韓人が田中部落に移住してきたんです。

彼らに、幸いしたのが、加茂川や高野川に近接する田中部落の自然環境でした。職を求めて転々としたであろう初期の韓人無計画渡日者は、加茂川や高野川で行われていた部落民による水洗作業を目撃し、その就労を知ったと考えます。部落民であっても出自を問われず採用されるという事実は、韓人に希望を与えました。彼らは部落民の生業を模倣すべく洛北友禅染工場に自己申込みを行い、その中の一部が採用されて先駆的就労者になったと思われます。戦前から田中部落に定住している元友禅染工の韓人古老に、その就労理由を尋ねると、家から近かったから、と答えています。つまり田中部落から、友禅染め工場が移転した高野・一条寺までは徒歩で移動可能な通勤圏だったのです。その古老は、無計画渡日者でしたが、職業に特別な希望をもっていたわけではありません。生きていくために、働き場所を求めて徘徊し、飛び込みによる自己志願を行ったのです。

(友常)西陣織りはいかがでしょうか。

(河)西陣織りには独特な賃機制度があります。西陣織手は、親方と呼ばれる家内工業者との間に徒弟関係を結びます。親方も織元に従属し、生産材料の大部分を依存しなければなりませんでした。移民初期の韓人は、住み込みの織手となり、宿舎と食糧を確保したと考えます。

 西陣は、商業資本家に支配されている囲いのない工場のようなものでした。そこには「出機有り」とか「織手募集」いう求人張り紙が出ていました。それを目安にした自己申込みによって先駆的就労が可能になったと考えます。西陣織手であった韓人古老によると、職を探して西陣を歩いていると「織手募集 但し内地人に限る」という張り紙に憤慨し、それを「織手募集 但し朝鮮人に限る」書き換えて乗り込んだそうです。親方は、彼を一瞥して張り紙を見なかったのか、帰れ、と怒鳴ったそうです。すると彼は、みてきた、と書き直した張り紙をつきつけました。親方は、あきれたようです。彼は、まじめに働くから、一度でいいから雇って判断して欲しい、と懇請したようです。

結局、親方がおれ、様子をみようということで、何とか、住み込みで働けることができるようになります。たとえ与えられた部屋が南京虫がたくさんいるせまくてきたない部屋であっても屋外よりはましだったのです。その古老は、はえのたかっている腐った飯を食わされたと証言しています。けれども飢えるよりはましだったのです。もちろん自己申込みを行ったすべての韓人が雇われたわけではありません。中には、すぐに辞めさせられる人もいました。しかし、辞めさせられなかった韓人は、親方との間に信頼関係を築いたようです。彼は先駆的就労者となり、同郷の韓人の就職を斡旋することが可能となります。親方は、朝鮮人だけどあいつが紹介するならまちがいないだろう、ということになったようです。このように、先駆的就労者の就労実績に基づいて次々に同郷の韓人が雇われて行ったのです。

(友常)不熟練労働者であったはずの韓人が、何故、西陣織りに従事できたのでしょうか。

(河)西陣織の技術は六ヶ月あれば習得可能な簡単なものだったからです。とくにビロ−ド生産は簡単でした。伝統的部落産業である下駄製造業者との関連が深まります。在京韓人は、下駄の鼻緒を作ることになったのです。奈良の被差別部落民の下駄業者との関係が深かったようです。

(友常)戦後も両者の関係は継続したのでしょうか。

(河)はい。敗戦直後、韓人は解放国民となり、いわゆる治外法権と類似の状況におかれました。たとえば、韓人が京都駅前のヤミ市で活動したとしても、京都府警はそれを取締まることはできませんでした。ヤミ市は、日本人、韓人を問わず野心的な人たちにとってまたとない経済的機会でした。部落民も同じです。物を作れば高値で売れるのですから。しかし、部落民は日本人ですので、警察に摘発されます。そこで部落民業者の一部は、韓人との関係を一層深めていったようです。西陣織手だった韓人古老によると、奈良の部落民下駄業者が、奈良県警に捕まった際、特別親しい関係でもないのに身元引受人として助けに来てくれと懇請され、助けてあげたそうです。


神戸における被差別部落民と韓人

(友常) 神戸の場合は、どうでしょうか。

(河)戦前の神戸市調査によると、韓人が流入した被差別部落は、葺合の新川部落と林田の番町部落です。新川部落の韓人は、土方や仲士といった屋外肉体労働従事者が多かったようです。新川部落民の生業を模倣したものと考えます。

 問題は番町部落流入者の生業です。もともと番町部落の生業は農業でした。それが神戸のマッチ工業の勃興により変化します。初期のマッチ工業は、かなり危険な作業で、囚人の労働としてスタ−トしました。やがて囚人による製造は廃止され、零細な民間業者が群生します。その際、重要な役割を担ったのは華僑商人でしたが、その説明ははぶきます。 零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもマッチ工業は労働集約型工業であり、利潤の根源である量産を生産手段の機械化に求めるのではなく、もっぱら低賃金労働力の確保に求めました。ですからマッチ業者の成功は、低賃金労働力の確保如何にかかっていたのです。そこで彼ら零細業者たちが注目したのが、番町部落の部落民でした。低賃金で雇えるからです。新興マッチ業者たちは、低廉な部落民労働力を求めて番町部落近隣に工場を建設したのです。そして部落民も、それに応えるかのようにマッチ工になりました。

(友常)マッチ工業は、神戸に限らず明治30年くらいから部落の生業となります。硫化硫黄を使いますので大変危険な作業でしたが、職業選択の自由を奪われ、生きて行くためにはどんな危険があっても、またどんなに安い賃金でも働かざるを得なかったと思います。

(河)このような経緯により、林田はマッチ工業の集積地となります。番町部落の生業にマッチ工業が加わったのです。少数ながら韓人のマッチ工も確認されています。部落民の生業を模倣したと考えます。

 しかし、大戦終了後、スウェーデンマッチが市場を席巻し、日本のマッチ工業は苦境に立たされます。とくに、零細業者が多かった林田のマッチ工業は深刻でした。大部分が廃業に追い込まれます。当然、部落民の失業者も急増しました。この苦境を救ったのが、新たな産業として台頭したゴム靴工業でした。その嚆矢は、奈良の部落産業で修業した後、林田にもどって開業した部落民業者であったと私は考えています。前述したように、零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもゴム靴工業は、マッチ工業同様、労働集約型工業です。当然、新興のゴム靴工業者は、低賃金労働力を希求します。林田にゴム靴工場が群生したのは、衰退したマッチ工業から大量の低賃金労働力を吸収することができるという目論見があったからだと思います。また、マッチ工場からゴム靴工場に転業する業者もあらわれました。結果、マッチ工から、ゴム靴工へと転職する部落民が続出したのです。

 ちょうどその頃、番町部落には新たな被差別マイノリティが増加していました。韓人です。番町部落に流入した韓人無計画渡日者は、近隣の林田ゴム靴工業地域、現在の長田を徘徊し、求人の張り紙を目安に飛び込みの自己申込みを行ったと考えます。そしてその一部はゴム靴工業に就労しました。それを容易にしたのは、番町部落の先住部落民が、すでにゴム靴工業に就労していたからだと考えます。


大阪における被差別部落民と韓人

(友常)大阪はどうだったのでしょうか。

(河)大阪は日本有数の工業の中心地ですが、中小零細企業の比重が高いことでも知られています。そのことは、大阪が潜在的に低賃金労働力需要が高いということを意味しています。1930年の第三回労働統計実施調査によると、被調査工場の六割にあたる562工場が韓人を採用しています。しかし、この調査は韓人の主たる就労先であった零細企業を調査しておりませんので、実際の韓人採用工場はそれ以上だったと考えます。韓人はありとあらゆる工場労働に進出しました。とくに、ガラス工業の窯業への就労は顕著でした。大阪市内の窯業労働者の3人に1人は韓人だったと報告されています。

 また、戦前の大阪は、スラムや被差別部落などの不良住宅地が多いことでも知られています。そこは京都や神戸同様、韓人の移住先となりました。京都や神戸と異なるのは、大阪の工場労働に積極的に従事したのが済州島人だったということです。済州島人は、朝鮮本土の人たちからは差別されていました。朝鮮本土の韓人は、彼らを作業服と比喩したといわれています。そういう人たちが大阪に一極集中し、工業労働に従事したのです。

(友常)部落民と韓人とはどのような関係だったのでしょうか。

(河)京都や神戸と似ています。まず、大阪の韓人も被差別部落に移住しました。そこには保証人も権利金もいらない廉価な借家があったからです。また、被差別部落内やその近隣には、韓人を容易に雇ってくれる下層労働市場が存在しました。そして韓人は、先住部落民の生業を模倣したのです。たとえば、西浜栄部落と三開部落の部落民が従事する職業には必ず韓人が従事しており、中には、その従事比率が部落民を上回るものもありました。とくにこの傾向は、工業において顕著でした。西浜栄では17業種中、10業種において、三開では18業種中、11業種において韓人の従事比率は部落民のそれを上回ったのです。先住部落民の職業模倣は、何も市内に限ったことではありません。たとえば、大阪府泉北郡信太村と八坂町の被差別部落に移住した韓人総世帯の三割に当たる80世帯が、部落民の生業であった人造真珠工業に従事しました。


韓人が就労した工場労働の共通点


(友常)韓人が就労した工場労働の共通点は何でしょうか。

(河)第一に、その大部分が一般の日本人が忌避する低ステ−タス産業だったということです。たとえば、京都の友禅染めといえば、百貨店で展示された高価な高級品というイメ−ジがあります。しかし、旦那衆と呼ばれた商業資本家や先生と呼ばれる図案作成者を除けば、生産者のステ−タスはそれほど高くはありません。戦前の韓人の場合、追い回しの奉公が終わると、蒸しと水洗の職人見習いになったようです。蒸しも水洗も工賃が相対的に安いわりには重労働なので、いやがられる仕事でした。何らかのアクシデントにより、完成品の色が落ちたり、傷ついたりした場合、職人がペナルティーを課せられ買い取らされるんです。さらに、戦前の京都では友禅染めに限らず、職人は極道商売といわれていました。たとえば、職人間の博打が盛んだったようです。花札はもちろん、シラミを走らせて早さを競わせたりしたようです。親方が賭場を開いて職人の賃金を巻き上げるということもよくありました。

(友常) 低ステータス産業だったいうのがポイントなわけですね。それは部落民と韓人とが競合する仕事にも共通しているように思います。

(河)第二に、工程作業が複雑で機械化に適さない労働集約型工業でした。また、季節や流行によって需要が左右されるため、大量生産にも限界があり、多品種少量生産にならざるを得ない工業でした。つまり大企業が参入しにくい業種です。そのためその生産を担うのは、中小零細企業ということになります。これら業者は資本力に限界があり、商業資本に従属せざるを得ません。商業資本主導により、生産工程毎の分業が促進され、小さな零細事業者が増加します。分業の促進は、作業を簡易化します。不熟練労働者であっても比較的短期間でその生産技術の修得を容易にしました。不熟練労働者であった韓人が雇われたのはそのためです。

 そして地域全体があたかも囲いのない工場になりました。京都の西陣、神戸の長田、大阪の西浜栄などはその典型でしょう。零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。分業が促進されて零細業者が増えれば増えるほど低賃金労働力需要が高まります。韓人は、その低賃金労働力需要に適応したと考えます。

韓人は、何故、被差別部落民との下層労働市場における競争に勝利できたのか


(友常)1920年代の段階で、被差別部落は収入が非常に不安定になっているという調査があります。不熟練労働に従事する部落民の構成比の変化も現れています。それは河さんの結論、つまり韓人労働者が京阪神下層労働市場において部落民と競合し、それに勝利したということです。それはいかにして可能となったのでしょうか。

(河) 戦前の韓人は、同種の労働に従事した日本人労働者よりも相対的に低賃金でした。にもかかわらず、戦前の行政調査は韓人の一部に余剰金が生じていると報告しています。それを郷里に送金したり、貯蓄したというのです。余剰金の多寡よりも、出稼ぎ労働者としての目的を達成できた人々が存在したという事実に注目しました。彼らの大部分は、単身渡日者だったと思われます。

 低賃金労働者であった彼らが、如何にして余剰金を生じさせたのかが問題となります。行政調査では、韓人の生活費が低いから、それが可能になったと推定していますが、それよりは、むしろ移民労働者となった彼らが、植民地朝鮮に進出した中国人移民労働者同様、生活費をあえて抑制したと理解すべきです。在日韓人の大部分は、日本に永住するために渡日したわけではありません。そこが部落民と違うところです。部落民は日本人ですから日本以外に帰るところはないんです。ですから生活費支出を抑制するにも限界があります。しかし韓人は、苦しくても、それは一時的なものであって、帰れる郷里があると考えたはずです。彼らは郷里の家族のために送金しなくてはいけない。だから日本での生活を切り詰めたと考えます。生活レベルに対する欲望は、在日歴が長くなるに連れ、徐々に芽生えてくると思うんです。それは定住によってもたらされた同化の所産です。

 韓人は多くの場合、下層労働市場での部落民との低賃金競争に勝ちました。大阪の西浜栄や三開の事例を見てみましょう。そこは、部落産業の皮革・製靴工業の中心地であり、その従事者の大部分が部落民でした。皮革・製靴工業は一般人の就労が稀であったという意味では、閉鎖的な労働市場を形成しており、そのことが部落民の雇用機会を保障したともいえるでしょう。ところが、相対的低賃金を武器とする韓人の登場はその状況を変えました。つまり、韓人移民労働者の皮革・製靴工業への就労によってもたらされた直接的効果は、相対的高賃金であった部落民の失業や雇用機会の減少だったのです。それが可能であったは、韓人が生活費の支出を押さえることができたということにつきると思います。移民労働者である韓人の行動的特性といえるでしょう。その際、重要な役割を担ったのが、韓人が経営した下宿業でした。たとえば、1923年の大阪市調査によれば、韓人下宿業は、一畳当たり2.17が住んでいることになり、押入も、縁縁も、台所も韓人であふれていたと報告しています。大阪市調査では、被差別部落民の密住実態が指摘されていますが、韓人は、それよりもさらに密住の度合いが高いことが判明しました。たとえば、1929年に実施された調査によれば、東成区中浜町の韓人の一戸当たりの平均居住者は、22.5人です。1928年11月の大阪市の一戸当たりの平均居住者が4.3人ですので、雲泥の差といわねばなりません。

 大阪市の西浜栄部落と三開部落でも比較しました。いずれにおいても部落民より韓人の方が密住の度合いが高かったのです。たとえば、西浜栄部落の場合、一人当たりの畳数が二畳以下の部落民世帯は、部落民世帯総数の35.○%であるのに対し、韓人は韓人世帯総数の62.7%でした。三開部落の場合、部落民世帯は41.3%であるのに対し、韓人は71.6%となります。このように、韓人は、混住者である部落民よりも、住居費支出を抑制していたのです。

(友常)その指摘も従来見落とされていた視点だと思います。本書では、生活費支出の抑制を韓人の行動的特性とみなしており、それを実行しうる者だけが、下層労働市場における低賃金労働力需要に継続的に適応することが可能であった、と主張されていますが、それはどういう意味でしょうか。

(河)求職出稼ぎを目的とする韓人は、何よりも就職を優先しなければなりません。彼らが進出できたのは、下層労働市場でしたが、その雇用は不安定なものでした。わずかな付加価値しか生まない不熟練労働は、新たな低賃金労働者の出現によって容易に代替されるからです。新たな不熟練労働者として、既存の韓人就労者の脅威となったのは、実は、新規渡来の韓人だったと思われます。彼らが就労を優先するあまり、すでに就労している韓人よりもさらなる低賃金を武器とし、その下層労働市場に進出しようとしたからです。日本政府が、中国人移民労働者の内地への入国を規制していたこともそういう状況をもたらした要因であったと思います。日本には、朝鮮不熟練労働市場で韓人離農者の前にたちはだかった中国人移民労働者というライバルが存在しなかったのです。

 雇用を脅かされた韓人の一部は、労働争議によってこれに対処しました。しかし、それは全部ではありません。既存の韓人就労者の一部は、生活費支出抑制に慣れていましたから、余剰金の形成にこだわらなければ、自己の低賃金をさらに低下させても生活することができました。つまり余剰金の額を一定の目安として、賃金をさらに下げることにより、その雇用を確保したのです。この韓人間のいわば生存競争が、その下層労働市場における低賃金のさらなる低下を促進しました。これが日本下層労働市場における低賃金構造の維持と強化をもたらした要因であったと考えます。そのことが結果として、韓人よりも相対的に高い賃金で、生活費支出の抑制に限界のあった日本人下層労働者、とりわけ部落民を失業の脅威にさらしたのです。


部落民と韓人との反目と今後の課題

(友常) 内部の識別についてはどうでしょうか。非常にインフォーマルな交渉関係があって、それは杉原達さんの『越境する民』でも指摘されている「対面関係」という視点にかかわります。河さんが指摘されているおもしろい問題としては、初期のレイシズムというものが近代社会で支配的になるとして、対面関係によるマイノリティ同士のレイシズムはイデオロギーとしてのあるいは公的言説としてのイデオロギーと少し違う。

 杉原さんが紹介されている例ですと、代書屋の例がでてきまして、済州島出身者を相手に代書屋が商売するということですが、やりとりがうまくいかないと、韓人が変な言葉を発して逃げていく。それはていねいに分析していくと、実は済州島の方言だったということがあります。これは落後の話なんですね。そのような形での対面関係が発生していた。先ほどのお話でも、内地人に限るというビラを書き換えていきますね。ねばり勝ちなのかもしれませんが、それでも発生する関係ですが、市場をめぐっては厳しい対立関係があったけれども、またそういう関係もあったということですね。その中で説明はされなくても、あいつは部落出身だとか、どこの出身だとかいうことがお互いにわかってしまう。そういうものが発生している空間は・・・・・・。

(河) 被差別マイノリティは敏感です。とくに、普段、出自を隠している人はその傾向が強いと思います。わかるんですね。相手の出自が。それを説明するのは難しい。感覚的なものだと思います。たとえば、西陣織り業者の中には、韓人もいれば部落民もいます。在日韓人業者は日本名を使っていますし、二世以降になると京都弁もうまいので、識別は困難です。部落民は出自を公表しません。ですからマジョリティの業者にはわかりません。けれどもマイノリティ同士は意識しているのです。交流はないんだけど、お互いの出自を知っているんです。

(友常) 京都では部落問題と在日韓人問題との一つの接点として「オールロマンス事件」というのがありました。ここでは触れませんが、当時の韓人と部落民とはどのような関係だったと考えますか。

(河)両者は基本的に避けていたと思います。喧嘩はしないんですけども、お互いに見下していたと思います。一部の人は連帯したかも知れませんが、それは少数派です。韓人、とりわけ一世は自分のことを両班の末裔だと信じていました。今は没落しているが血統的に正しいという確信があります。一世は、朝鮮の被差別民衆・白丁を部落民におきかえながら、乱暴な言葉を使えば「あいつらと自分は違うんだ」という優越感をもっていたと思います。部落民の方も乱暴な言葉を使えば「あいつらは植民地民族の二等国民だ」という優越感をもっていたのかも知れません。しかし、両者は反目していても社会経済的には結びついていました。このインタビュ−でふれたとおりです。

 また、両者は混住したのですから、生活面でも何らかの結びつきをもっていました。たとえば、田中部落出身の二世の韓人は、父親が食用の赤犬を捕また際、自分で殺さなかったといいます。部落民の屠殺業者に金を払って依頼したそうです。赤犬は彼の目の前で屠殺されました。その光景は、今でも忘れられないと証言しています。関西地域の被差別部落やその近隣で生まれ育った韓人は、多かれ少なかれ、そういう体験をしているようです。

(友常) 政策的な契機が入ってきて発生するイデオロギーがあると思いますし、またそれが介在しないである種やったりやられたりというルールがある世界では差別があっても、競合しても、共存する関係が対面関係の論理だと思います。差別があるわけだけれども、実体的にレイシズムになっていくということとは少し局面が違うということです。それ全部を同じ差別、レイシズムだと考えるとちょっと問題がありますね。

(河)在日韓人問題に関する限り、レイシズムのみを強調すべきではありません。在日韓人は差別されているといいながらも、実は、経済的活動は許容されていました。そうでなければ、ロッテ、大和製罐、平和、モランボンなどの企業は存在していません。もちろんそれは組織的闘争により勝ち取った権利です。けれども経済的活動すら保障されていないマイノリティが世界には存在します。韓国の被差別マイノリティ・華僑はその典型です。在韓華僑は、約1万8千人です。彼らは経済的活動を法制度的に規制されています。しかし、民族教育は保障されています。在日韓人とは対照的です。日本政府は、在日韓人子弟に対する韓民族的教育の保障には消極的です。基本方針が同化だからです。逆に、韓国政府は、在韓華僑子弟に対する漢民族的教育を保障することにより、同化を阻止しようとしています。中国人で中国語ができれば、海外で生活できるだろうということで民族教育を保障しているわけです。そのかわり華僑の経済的活動は規制します。日本とは逆なのです。彼らは韓国政府の思惑通り、海外に移住します。行く先は台湾が多いようです。しかし、台湾でも韓国語訛の中国語をしゃべるという理由で疎外されるようです。横浜中華街周辺にもそういう事情で日本にきた華僑がいます。

(友常) その視角はかなり有効だと思います。先ほどの「対面関係」という領域を設定されたということが河さんの議論で重要なところだと思います。エティエンヌ・バリバールなんかがいっているレイシズムというものとは違う差別の論理はあるんだけれども、共存関係の領域を設定できるということは、一枚板で差別を語るのではなくて、杉原達さんの議論でいうと、帝国主義国家をどう考えるのか、こちらからどう構成するのかということです。マイノリティに対する差別があるということが当たり前のことであって、それとどういうふうに向き合ったり、つきあったりしていくのかというとで問題を立てると、全く違うようなアイデンティティの取り方とか、マイノリティにとっての社会という考えがでるんではないでしょうか。
最後に、被差別部落民問題と在日韓人問題との方向性について、どのようにお考えですか。

(河) 被差別部落問題と在日韓人問題とは、それぞれの研究者に別次元の問題とみなされ、乖離してきたような気がします。それぞれの差別改善運動も同じ状況にあります。しかし、それは改善すべきです。両者は、日本における被差別マイノリティという点で、歴史を共有しているからです。とくに、過去の両者の歴史は総括しなければなりません。部落民や韓人、そしてそれを支えてきた日本人も、差別はいけない、差別をなくせ、と主張してきました。しかし、両者は、一部とはいえ、お互いを差別してきたと思うんです。

差別は誰にでも味わえる快楽です。自分が受けた差別を他人に転嫁することほど、気持ちの良い行為はないのかも知れません。また、両者には感情的にしっくりいかない事件があったはずです。田中部落で生まれた在日二世の人は、部落民は許せないといいます。彼が子どもの頃、同和事業の一環として田中部落に市営住宅を建設することになりました。そこに混住していた両者は、一時立ち退きの条件として市営住宅への優先的入居権を連帯して主張し、京都市と交渉したようです。彼はきれいな家に引っ越せると親から聞き楽しみにしていたそうです。しかし、彼の期待は裏切られました。市営住宅建設後、部落民は約束通り入居できたのですが、韓人は外国人であることを理由に入居を拒否されたのでした。結局、彼の一家は田中部落を離れました。彼は引っ越しのトラックの中で両親に、きれいな家に引っ越せないのは何故かと尋ねたそうです。すると両親は、白丁が裏切ったからだ、と答えたそうです。真偽はわかりません。しかし、少なくとも彼は傷ついたようです。そういう体験は、部落民の方もあるかも知れません。

ある韓人古老は、子弟教育のために、部落民の子女と同じ学区にならないよう引っ越したと証言していました。結婚の場合も反対されることが少なくありませんでした。このような関係は残念です。両者の歴史を総括した上で、お互いの差別意識に基づいた不幸な歴史を清算しなければいけません。そのためには、両方の研究者が共同で「在日マイノリティ史」なる歴史書を作成していく作業が必要です。難しいことですが、やらなければいけない課題であると思います。

(友常)聞き手としての私は今日は本当に勉強させていただきました。河さんの研究を踏まえて、部落問題と移民労働者問題の共同研究が確立できるといいと思います。本日はあがとうございました。
http://www.jita.jp/kawa/text/hyouron-1.html


【尼崎大量殺人】角田美代子【コンク李ドラム缶死体】


783 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:21:33.36 ID:+bhk3kJDO

大阪市平野区の加美小学校の事件だったかな。
小学校で就学中だった児童二人を学校長が部落解放同盟幹部に引き渡す事件が発生した。
平野警察だか八尾警察だかが児童二人を取り戻して事無きを得たが報道したのは産経新聞ぐらいだぞ。 つい数年前の事件だ。現実を見てくれよ。


784 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:25:57.30 ID:CE1AsOCJ0
>>783
え?何で児童二人は引き渡されたの?怖いんだけど


786 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:46:35.43 ID:+bhk3kJDO
>>784
産経の記事によると児童同士でのトラブルが発生していたらしい。
そして虐められたと主張する被害者側の人間が部落解放同盟の幹部だったという訳。

+にもスレッドが立ったが削除依頼が殺到してた。

“加美小学校の糾弾会”という過去の部落の話が書き込まれてるとか
部落の地名が書き込まれてるとかの理由でね。


789 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:59:59.37 ID:2RAoKUb00

その話は中学校じゃないか?

「同和利権の真相」
「先生がヤクザに生徒を売った」とか生徒達が騒いだ


796 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:25:31.46 ID:+bhk3kJDO

>>789 なら中学校です。八尾に連れ去られたんですよね。
加美小学校の糾弾会の話もありヤバイのは確かです。


791 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:09:31.84 ID:uU6rlyEe0

校長や教師も自宅に動物の死体を投げ込まれたり、家族への危害を脅迫されたらどうもできませんよね

結局差別を理由に↑のような行為が見逃されてるところに問題がある
不当な(?)差別はゆるされませんが、差別を口実にした犯罪行為もそれ以上に許されない
BとZに関しては日本はずっと戦後のまま


808 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:58:08.77 ID:y2dHgqMg0

大阪の場合、解放なんとかがかなり力持っているからねえ。
何しろ大阪市立大学が事実上の解放理論の拠点なんですから。
かつては中核派とも仲良くしていました。

まあ、大阪市立大学はあの末川博が戦前滝川事件で京大追い出されてから住み着いた時期があり、ここから共産化。
ちなみに解放理論はマルクスレーニン主義がベースです。 やり口も階級理論もコミンテルンそのもの。 だから、戦後すぐの頃は解放なんちゃらの主流派が共産党だったので、朝鮮系と結婚した人がかなりいます。
不破さんや志位さん体制以前は暴力革命路線でしたので。


828 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 07:15:26.98 ID:9dnflT870

B批判が出ているのは決して貧困や穢れから来るのではない。 それを悪用して一般市民に恫喝しているからだよ。 これで泣かされているB出身の人相当いる。 もしB団体がまともであれば、その辺の逆差別行為について厳しく戒めていたはず。 むしろ機会平等とは何か、法律とは何か、社会的信用とは何かを徹底させるのだが。 西光○吉や賀川○彦が泣いているぞ。

けど市町村レベルではB教育とかやる割に兵庫県としてはB同盟とは決別しているんだよ。警察出身の坂井知事の時代に運転免許取得の無料特権をはじめ散々な特権を中止に追い込ませた。


788 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:58:30.05 ID:+bhk3kJDO

なんにせよ大阪も部落や在日勢力に蹂躙されてる現実は今だに変わらない。
ただ昔との違いは警察が渋々ながら乗り出してきてるトコだ。
だが兵庫県は違う。昔の大阪のように警察が在日団体や部落団体とグルになってる。


792 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:11:23.41 ID:VA3M8nhQ0
>>788
大阪だとどこら辺が酷いの?


796 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:25:31.46 ID:+bhk3kJDO
>>792
ヤバイ所って他の地域の人は知りませんよね。
加美も酷いですが加美の人は布施を怖がります。
けど他にもたくさんありますね。


429 可愛い奥様[sage] 投稿日:2012/10/31 19:16:18  ID:NRvElC6m0(1)
 
兵庫県尼崎市: B  
梶○、丸○、塚○、杭○、尾○、


533 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 21:18:16.97 ID:q+OH/jaU0
 
美代子はB落民じゃなくて在日! ・・・ということにしたいネトウヨ&カイホードーメー

普通に考えたら尼崎なんてB指定区域だらけなんだからわかるでしょ


919 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:27:58.02 ID:ntK5bx050

尼崎ってそんなに怖いの…?
どんな土地よ…


928 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:37:31.13 ID:+bhk3kJDO
>>919
大阪人から見ても尼崎市と加古川市は怖いイメージがある。
実際に物騒な事件が起こり続けてるしね。


933 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:41:09.52 ID:ie7ynTpm0
>>919
東大阪と双璧と思ってる


923 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:35:22.97 ID:28Xu6EGdO
>>919
すごく広くて人口も多い
昔はほとんど田んぼだったのを潰して、工場やマンション、会社が建った
だから戦後に移住してきたニューカマーが多い
そうした戦後の混乱期にどさくさ紛れに不法入国した連中も…
立花では、戦後のレイプ強盗が多発
勿論犯人はあの民族


985 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 14:46:40.31 ID:BDSeUfXgO
>>919
阪急沿線は住みやすい良い住宅街で阪神沿線から南が柄が悪い
去年、阪神駅前の商店街を買い物したけど以前より雰囲気が悪くなってた気がする


881 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 11:13:07.37 ID:V0mYJph30

兵庫県はド田舎かやくざだよ
西の方はスラムだし
品のいいのは大阪北部


885 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 11:19:28.34 ID:H9vS8k+y0
>>881
武庫川を挟んで、環境は激変するんだよ。
六甲側は、斜面を登れば登るほど高級住宅街。


524 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 21:02:03.37 ID:q+OH/jaU0

尼崎の部落問題は根っこが深いわねぇ・・・


544 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 21:28:23.25 ID:y3ICO3hoP
>>533
明治4年の解放令によってできた特殊部落ではなく
昭和44年に同和対策事業の対象として指定された同和地区というだけで
同和地区=部落民ではないよ
流出入が激しい現在、もう地区によって部落民認定できる時代ではないよ


439 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 19:27:11.82 ID:+k+QNRPD0

塚口は阪急沿線で普通の住宅街、杭瀬は昔は田んぼだったし、B地区じゃなさそうだけど


502 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:39:53.39 ID:ixp6hvEM0
>>439
塚口2年間だけ住んでたことあるけど、学生が多い普通の街だったけどなあ
http://desktop2ch.org/ms/1351539680/?nofilter


491 :可愛い奥様:2012/11/08(木) 03:52:38.60 ID:OfVIByOS0

Bって町単位じゃないよ
もっと小さい集落ごとに決まってるの
字とかレベルの単位
上○○は非部落、北○○も非部落だけど、下○○だけ部落、みたいな


352 :可愛い奥様:2012/11/07(水) 23:19:09.62 ID:4xhjjF+S0

三島由紀夫の学習院入学の時なんかは親の戸籍までを事務的にチェックだろうからね。
三島の部落騒動が勃発したのは、縁談の話が来て、三島が先祖を探ろうとした時。
実際に三島家の本籍地は「関西有数の濃いB部落」である。加古川市志方町だし、三島は加古川で徴兵検査を受けている。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1352276671/


503 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:40:00.79 ID:aECMD8L10

BやKとは結婚しちゃいけないってことだな
殺人はなくとも、同じようにBやKと縁組みしたために財産を乗っ取られるケースは多いからな


508 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:48:39.52 ID:M3s+uYkJ0
>>503
事業をしていた親戚がBに乗っ取られましたよ。
言葉巧みに近付き会社に入り込み居座っていました。
B朝鮮人かもしれませんわ。
一度見たことがありますが、それはそれはガラガ悪くて犯罪者って感じ。
親戚は泣き寝入りしています。


511 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:51:55.86 ID:M3s+uYkJ0

Bや朝鮮人は集団で来るから恐ろしい


512 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:52:07.75 ID:wEIqKgnm0

まぁ、マトモな奴はBでもKでも親戚が面倒なら縁を切ってるからな。
本人が真っ当に大学出て、ソコソコの企業に就職すると、
変な親戚が居れば、寄生する為に、わんさと寄って来る。
だから、その時点でそいつは親戚と縁を切る。
結婚式の時に無理して披露宴しなきゃすむ話。


 
467 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:03:44.46 ID:wl3fKN600

小、中、高と同和教育があった、B民も同じ学校だったけど
B民の悪行は絶対に他言しちゃならない、したら逆差別を受けるという
恐ろしい洗脳があったのは事実

これ以上は怖くて書けないけどここのスレにチラホラ同じ境遇の人がいて
思い切って書いてみた

個人の付き合い、友達としてなら何も問題ないんだけどね・・・


124 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 12:55:17.21 ID:MF4KgRKB0
>なぜか現在の顔写真が出ない美代子

B落だからねぇ
兵庫のk/a/i/d/o/には警察もマスコミも言いなりよ


143 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 13:12:55.85 ID:MF4KgRKB0
 
今回の事件は同和地区で同和の身内が起こした同和事件
「在日が起こした事件だ!部落とは関係無いよ!」ってことで街道が必死で隠蔽しようとしてるからこの先美代子の顔写真なんて出てこないわよ〜


472 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:11:00.56 ID:t9NaotrQ0
>>143
---
 ★「部落解放同盟」 とは、朝鮮人避難民がそのまま定住した部落組織で、略称は解放同盟 「同和」 である
---
 部落解放「運動」は、在っていう部落解放「同盟」に乗っ取られたんでしょう。
 
 皆吉家は奄美から出て来たって報道見ましたけど。
 こつこつ働いてきた家に孫の遺体が埋められてるなんて。


140 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 13:07:41.40 ID:NwQWrGL00
>>130
記事はだいたい会ってると思うが

「今の日本を象徴するような現代的な事件。 」

これはないでしょwww
部落や在日社会を象徴するような事件
記者の人がそっち出身なのかな


151 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 13:22:22.87 ID:JeLbIIhM0
>>140
”部落や在日社会に乗っ取られた”今の日本を象徴するような現代的な事件

が正解のような気がする


277 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 15:57:57.83 ID:TcIaDQK2O

同和は何年か前に、いつまでも地域や国からの援助で固まっていても未来がないと
動いた人たちがいたけど当事者たちがコミュニティーから出たからないのね。

インタビュー受けた同和の若い子達も「出自で悪口言われて泣いた」とか言ってたけど、あそこで固まってたら抜け出せないでしょうよ。
例えば関東に引っ越せば詳しく地元を聞かれないし適当にいくらでもかわせるのに。


278 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:02:08.76 ID:t3U1DtfT0
>>272
警察が部落に口出しできると思ってるの?
かいほーどーめーのこわーいおじちゃんたちにころ・・・


279 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:07:00.62 ID:t3U1DtfT0
>>277
Bはどこに引っ越しても見た目や言動でわかります
だからBが引っ越すときは他県のB地域に引っ越すんですよ


280 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:10:28.24 ID:+k+QNRPD0
>>279
Bの人にはどんな特徴あるの? 


281 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:11:13.12 ID:A1/LpVkX0

見た目でわかるの?
どんな見た目?
どうしてまたB地域に引っ越すの?
東北在住のせいか、よくわからないわ。


287 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:20:19.46 ID:TcIaDQK2O
>>279
あなた差別工作員?
おかしな人なんてどこでもいるし見た目も色々いる。
生まれも育ちも関東だけど2ちゃんで見るまで部落の話なんて身の回りで出たことがないよ。


288 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:22:30.50 ID:BNXbzU1C0
角田の息子や内縁の夫は逮捕されてないの?
共犯者ではないの?


289 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:25:25.28 ID:YaSiFlvI0
>>287
別に差別するつもりはないがB顔はあるよ
顔つきってのは仕草にもよるんでそこだと思うが
もちろんわからない人もいるんだけど一般的な日本人にはいないタイプだから
B顔みたらBの人なんだな、となる
特に男性はわかりやすい


290 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:26:36.56 ID:BNXbzU1C0
>>279
それ、なんか分かるわ。
B友が大阪に引っ越した先が、また、そういう地域だったし。

思考独特やし。
差別問題に対しては執着心ある友。
普段は、いい人なんだけどね。

また戻ってきて、
B地区に住んでるけどね。


305 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:34:01.07 ID:EG9FFKCh0
>>281
>見た目でわかるの?

ちょっと判る気がする
あの方達は「雰囲気」が独特なの
まず普通の視線の置き方をしない(睨みつけるか、逸らすか、横目で)
それから極端に他所者を排除する

美代子の家に複数の家族が同居してたでしょ?
ああいうのが多いと思う。仲間として認めたら濃い密接な関係で固まる
友達が出来て遊びに行ったら表札も無くて「山田(仮)は2階だよ」と平日昼間に家に居る中年男
極々小さい長屋でもそう。そういうところだよ


308 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:36:29.51 ID:BNXbzU1C0
>>305
目に出てるよね確かに。
目が座ってらっしゃるものw
あと、あまり動じない人が多い。
変に堂々としててドライ。


311 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:41:04.24 ID:YaSiFlvI0
>>308
卑屈で卑しい目つき、それに尽きる
常に人目を気にして生きてきた仕草が出てしまう
京都の野中とか代表的すぎ

重ねて言うけど差別はなくさないといけないし
情報は全部出して少しでも解決の糸口を見つけるなり
こういう事件が再発しないように少しずつ対策した方がいいと思っている
戦後これだけの時間がたってもまだこんな事件が出てくるんだから


294 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:28:46.25 ID:LhQ/rkiE0

文春より

三枝子、月岡靖憲、葬式トラブル家の四男は同じ中学の同級生
三枝子、靖憲は付き合って結婚していた

ちなみに「葬式トラブル家の母」と「月岡叔父の嫁」は姉妹
美代子と四男はいとこのいとこ
美代子は四男の次男を養子にしている

ややこし〜


300 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:30:45.61 ID:BNXbzU1C0
>>294
ZやBは、そんな感じで、家系がややこしい人が多いよ。


353 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 17:22:00.29 ID:bTEozs2TO

三代続く東京人だけど、普通に関東にも部落あるよ。
勤めが電話会社だけど、現在も披差別特定地域ってのがあって、そこは電話基本料金ただです。 同じようにガスや電気も基本料はただだと思います。

差別を武器にとにかく金銭的に得してる。
だから同和の人達はそのエリアから出て行かないんじゃないかな?
入社して直ぐに同和教育の研修を受けたよ。


454 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 19:48:41.66 ID:EG9FFKCh0

清掃局やバスの運転手は「同和枠」がありますよ
だから覚せい剤中毒や数年仮病の公務員がいっぱいいる
不祥事で逮捕されると市長は安心して首にできるw
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1351539680/

部落出身者 在日朝鮮人


近親結婚を追跡調査した報告があり、将来できる子どもの殆どが障害者、知恵遅れ、犯罪者になる確立が高いという結果が出ている

カリカック家の一族という外国にある部落の子孫の犯罪率の高さや頭の悪さを追跡調査した報告があり、将来できる子どもが殆ど知恵遅れや犯罪者、身体及び精神を病んでいる人が多い、と報告されている

部落出身者又は在日朝鮮人に障害者が多いのは、近親結婚が多かったから

優生学研究者は遺伝説を唱えている


ジューク一族の研究論文では、2人の部落民が次々と子どもを作っていき、最後は1000人くらいの子孫になるが、半分以上が、精神障害者で、さらに半分が犯罪者になったという結果も発表されている

部落の人の多くは、遺伝的に粗暴で知恵遅れが多く発生している

別部落出身者や在日は、育つ環境に問題があるのではなく遺伝の問題

遺伝はいつでるか分らず孫の代に出るかも知れない
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/img_1214704_38288977_0.jpg


在日朝鮮人

韓国も階級社会で、日本に来た朝鮮人は韓国では差別にあっていた民族

親や兄弟姉妹間で子供を作ったので奇形が多く、生まれるとすぐに川に流した

今はみやげもの屋に売っているが…

日本でも「こけし」これを漢字にすると「子消し」

生まれるのが殆ど奇形児で川に流し「こけし」として押入れなどに隠していた

「姫だるま」「こけし」も同じ由来がある

貧困農家の口減らしとされているが事実は違う
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/df_20130301202255.png


部落出身者は300万人

在日は韓国で差別されていたのを日本が軍人として日本に連れて来た

彼らも血族結婚で日本の部落民と同じで血筋に弊害がある

韓国人がすべて、というのではなく部落民は親族結婚を繰り返したので精神病、奇形の遺伝子を確実に引き継いでいる

それと知らずに結婚すると精神病の遺伝子が必ず子孫にでる

これを書くと必ず批判が殺到するがこれは事実だ!

オレが言いたいのは「精神病は必ず遺伝する」ということ

競走馬にしろ、牛やブタ、ニワトリもすべて遺伝子操作で作られる

例えば胎児の段階で、脳細胞をがんがん刺激し、細胞をたくさん分裂させたら生まれてから英才児になるかもしれない

将来は、赤ちゃんを産むときに受精卵の遺伝子をコンピュータなどで読んで、

「この人のIQはこのくらいになりそうだ」という話になると思う

IQが140以上になる可能性は0.1%、130以上は5%とか、

今のままでいくとIQ100を越える可能性は0とか、ある一定の確率が出てくる

体外受精で受精卵1個を取りだして検査すると、プリンターから一覧表がでてきて、

IQ130以上なるパーセントは5パーセント、身長何センチになる確率何パーセント

70歳以上生きる確率が70パーセント、80歳以上は3パーセントと計算が出てくる

美人になるかならないか、までも出てくるだろう

受精卵は作るたびごとに遺伝子は違うので病気の一覧表を両親に渡して、こんな値であれば、この受精卵を使うのはやめて別の受精卵にしょうということもあり得るだろう

人間の肉体と精神の特徴、あらゆるもの計算される時代になるかも…

クローン人間ではなく改造人間の時代になる

そうなれば部落民のDNAでも在日のDNAでも関係なくなるが、それまでは…

だから部落民や在日のDNAを引き継ぐと大変なことになる
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/df.png
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/vb.png


http://uracigoto.blog.fc2.com/blog-entry-246.html


血族結婚部落の優生学的調査概報(第一報) −新潟・長野県境「秋山郷」調査−
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/16894704.pdf

血族結婚部落の優生学的調査概報(第二報)−千葉県安房郡七浦村、豊房村調査-
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/DATA/pdf/16894804.pdf

血族結婚部落の優生学的調査 −山梨県南巨摩郡西山村奈良田部落調査-
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14208903.pdf

血族結婚部落に関する生体人類学的研究(2)
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14209001.pdf


この写真は人間の奇形児
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/1d82bae043f6d36f495ead612ccb438a-300x237.jpg


親が代々血族結婚をした子供…
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/93f0f764df25b503be229642b2894dc6.png

朝鮮部落の朝は、酒の臭い。2011-01-03 | 日記

私は、この朝鮮部落に住んでもう8年ぐらいたちます。

あさは、ひとのさぐりあい、ひとのけなしあい、おまけに悪口大会、
そうして、つながりといえば、兄弟姉妹のセックス関係だけです。

あんまり近親相姦がおおいので、ちんば、いざりがたくさんいます。
それに、通名も当たり前で、年賀状も通名らしいです。

この朝鮮部落の臭いは、時にねこのしょんべんのにおい。
ときに、酒の発酵した、いやなにおい、または、たまに洗濯のいいかおり、

朝鮮人が昨年しんでいきましたが、内密に葬式をしたらしく、釣り目のあつまりはみれなかったです。

そのひとは、すこしおかしなひとでした。

いつも、のぞいてました、大家にうその通報はするは、本当にいやなひとでした。
「うえから、みえるんだろう」とか
「おいだしてやる」とか

困っていたら、しんでゆきました。北朝鮮のほうへたぶん灰はとんでいったのでしょうね。

朝鮮部落の若者は、結婚しませんというよりも、できません。
または、朝鮮部落同士まぐわります。

それで、ちかくにある産婦人科でおろします。
生めない子つまり、近親相姦のこどもだからです。

性の関係は、普通の人よりも、はるかにはげしいです。
結婚できないためなのか?

ストレスの多い環境のためなのか?
すごい、年齢まで、近親相姦または、デリヘルなどでやりまくりますね。

この町のいいところは、ひとのさぐりあいですので、
孤独死はありません。たぶん大家が勝手にさぐりますからね。

朝鮮人同士の仲のよさ、それはすごいです。
ほかのものをよせつけないし、臭い部屋でも平気ですね。

孫も、ちょうせんじんなら、かわいそうとしかいいようがないです。
人間のうじですね。

私の住む町は、●●朝鮮部落です。
しかし、みんなは、ひみつにしております。
http://blog.goo.ne.jp/ootomo0320/e/fc08fc45f24c9891f107bc50f2a03dd7


裏には裏の道があり  2011/2/25(金)

たまたま1月に新年のご挨拶ということで、工藤会系の事務所へ足を運んだ時、いろんな人と出会って話をさせてもらいました。その中にA氏はいました。


A氏は田川市の出身。部落差別の中で気が付いたら893のご職業をされているということだった。

残念ながら筑豊地方や北九州市内というのは無数の部落が存在している。15歳になって中学を卒業すると当たり前のように働きに出るのだが、もちろん仕事が無い。
部落出身ということを隠してうまく就職できても結局、後からバレてクビになる。

男性の場合はかなり働き口が狭いので、多くの人間が余ってしまう。それでしょうがないから裏社会へと入ることになる。

そちらのことはまた追々。今回は女の子の方の話。


とりあえず15歳になって中学を卒業したらお水商売の世界へ入るのが半ば、常識のようになってしまっている。在日の経営するパチンコ店などに働きに出るのもいいが、正直、稼ぎが段違いなのですぐに辞めてしまうという。


そのA氏は斡旋をする仕事をしてる。

中洲がもちろんメインではあるが、大阪の飛田新地、名古屋、札幌、東京などにも顔が広く通じていて、15歳になった女の子を広く斡旋しているということを話してくれた。


部落の地域だと常識なんて無い。 我々の考える常識とはかけ離れた世界がそこには存在している。暗く・・・絶望と悲観と・・・ 


A氏が、15歳になった少女と出会い、話を聞いてみると、

初体験は小学生の時で、部落の中でも何度も何度もレイプされたり、

時には父親にレイプされたり、祖父にレイプ、義父にレイプされたり、

さらにその全員に順番にレイプされたりして育つ。

ちょっとキレイめで可愛らしい子になると、15歳の時にすでに男性経験は500人というとんでもないのもいるのだそうな。


だから、中学を卒業したばかりの女の子に声をかけると、喜んでお水で働きたいと言うらしい。今までは襲われてもただ快楽を得るだけで、お金にはならなかったが、これからはセックスが金になると知って喜ぶのだそうだ。 私にはまったく信じられないが、それが部落の世界なのだそうだ。


15歳でいきなりソープデビュー。15歳という若さで本番ありということだから、料金は8万でも10万円にも設定しても客は殺到するという。ほとんど中学生のような少女と金を払えば合法的(?)にセックス出来ると聞いて金の使い道に困っている男達は群がる。1回10万円でも1週間に30回の予約を入れた強者もいたらしい。凄過ぎる。


本人の取り分は半額。それでも、中学を卒業したばかりの少女が1年でもの凄い金額を稼ぎ出す。


さすがにまだ本番までは抵抗があるという少女の場合はお触りだけのピンサロやキャバクラで働く。ソープにはかなわないが、やはり中学卒業したばかりの女の子がってことで固定客はいっぱい付くからなかなかの収入になるという。

入った金で整形をして綺麗にして、うまくいけばAVにでも出てまたそれなりのお金を稼いで部落出身の男と結婚してはすぐ離婚、また結婚してはすぐ離婚を繰り返す人生を送る。


娘が生まれると金になるってことで、金が欲しい父親は娘をレイプして子どもを産ませたりする。男の子だとガッカリし、女の子だと大喜びする。

私が出会ったことがある女性は、祖父との子どもを産み、義父との子どもを産んだことがあるって平気な顔で話してくれたから、驚いたことがありました。


精神病を患っている人も部落にはたくさんいて、産まれてくる子どももまた精神病に。


A氏が話してくれた悲惨な女の子の話。

産まれてすぐに精神病と分かり、父親が育児放棄。母親は自殺。

その後、祖父母が育てたが、小学校に行く頃からさらにおかしくなり、いつも下着姿でその辺を徘徊したりしてどうしようもなかったという。

で、部落の大人の男性たちが毎日レイプ。
集団で次から次へとレイプ。

中学生ぐらいの年齢の頃には2人の子どもがいたという。

そんな年齢でも服を着ないでその辺を徘徊しているものだから、男性が寄ってきては普通に道端でレイプされているとのこと。誰も止めないし、いつもの光景といった感じ。それで次から次へと精神病を患った子どもが出来たという話を聴いた。


A氏が言うには、その少女は部落の人間に毎日レイプされるためだけに生きている、とのこと。


なんだろうね・・・・悲惨を通り越して、言葉が出なかった。


A氏が言うには、そんな精神病患者でも植物を言われた通りに育てることぐらいは出来るのだそうだ。だから、大麻を育てさせては、少ない生活費を渡すということが行われているのも普通のことなんだそうな。たぶん、それが大麻だと知らずに育てるんだろう。育てるとお金がもらえるから一生懸命育てる。普通だったらおかしいと思うが、残念ながらそう思う回路を持っていない。


そんなことを繰り返しては、A氏は少女と大麻で組の中でものし上がっていったそうな。

やはり経済力を持った893は上からも当然重宝されるし、金を山ほど持ってる構成員は出世も早い。

「にいちゃん、金に困った時はいつでも電話ちょうだいな。金ならいくらでもあるからいつでも助けてやるわ」

って、にやっとしながら話してくれた。

「大丈夫、金には困ってないから」

そう伝えると、またにやっと笑いながら奥の部屋へ入っていった。
http://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/13f7cdcd736285b2acfdb818a1be2ff2


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

12. 中川隆[-10717] koaQ7Jey 2018年4月20日 14:52:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11521]

サンカが最低カーストに落とされた縄文系先住民が隔離されたエタ部落に一番近いかな:

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 05:15:05.26 ID:+zp9OHtb

部落の人達はサンカの子孫なのかな?

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 18:20:21.77 ID:BG9MvlEO

山窩、俘囚、別所、白山神社とかはよく聞くね

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 22:31:05.68 ID:Q/YGSg9H

「別所」という地名が全国に何百箇所もある。信州に別所温泉というのがある。

それは征服した蝦夷を連れてきて住まわせた難民キャンプの如きもので、移住させられた蝦夷のことを俘囚と呼ぶ。だから東北地方には別所という地名は無い。


山間の小盆地とか河川の屈曲部などの周囲と隔絶した場所にある。
被差別部落である場合が多い。

地区には石の棒を祀る由来不明の神社があったり、歌詞の意味が全く意味不明の民謡などが伝わっていたりする。おそらく古代蝦夷民族起源の習俗であろうと推測させられる。

アフリカからアメリカに連れてこられた黒人奴隷がブードゥー教やアフリカ的な音楽を伝承し続けたのと似ている。

ちなみに京都市内の被差別部落の中には俘囚起源のものがある。

団地を作るときに穴を掘ったら擦紋土器(古代蝦夷の土器)やオホーツク文化圏の
骨角器などが出てきた。家族単位村単位で生活道具を携えてはるばる都まで連れてこられたのだろう。

言葉も通じない蛮族が京都でさせられる仕事といえば最底辺の賤業であったのはいうまでもない。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/geo/1318424748/

サンカ生活体験記 11

 行き帰りに色んな事を聞いてしまったので、姉娘に上にかぶさってこられ、自分のラッキョウを入れられてオシッコをジャッとやってしまった私は、もうすっかりおどおそしきっていた。 すると、五銭玉を一つとっている手前か、年下の私が脅えたみたいにすくんでいるのに、

「女ごはな、初潮(サソヒ)があるまでは、まんだ子供で、女ではないから、兄妹でもママゴトにはする」

 娘は慰めるつもりか、父親が名古屋へ下駄の歯入れ屋をしに行き、母は津島へ注文の箕を届けに小さな子を二人連れていって、誰もいなくなった日。私を山陰へ連れてゆくと、そこで、「マグモノリ」とよぶ、謝国権の「LOVE」みたいな事を、人形の画でなく実地に教えた。

「タチ・クラ・ネ」という言葉は今でも、はっきり覚えている。「オタチ」というのは、今はレズビアン用語だが、その時は娘が下になって片脚を私の左右の肩に担がせるみたいに置き、そして抱えて持ち上げるみたいなやり方。

とてもラッキョではそれでは挿入できず、あてがえるぐらいだったので、次はクラだった。これは私が下になって、娘が上からおおいかぶさる前と同じ型で、またオシッコをかけられてはと、娘はこれは恰好だけで次は「ネ」だった。

私は左を下に叢に寝かしつけられ、娘は右を下にして、今言う横行位で、これはそのままで一回転して背向位と変わるのだが、これを繰り返して十回ぐらいは、ずっと続けねばゆかぬというのである。

 「マスラ」と呼ぶのが正常位だが、これは男が疲れるから仕事に差し支えるゆえ、女からは求めてはならぬし、三十から五十歳までといった掟まであって、殆ど女上位体勢が一般的だったらしい。

 向こうはオシッコの洗礼で懲りていたろうし、私は、もし見つかったらという心配から、その時もあてがうきりで挿入まではしてなかった。というのは、その前日の事だった。娘のすぐ下の弟と、その下の妹が、玩具もなく遊ぶ事もなくなったせいでの真似だった。

「天道(アノ)さんは、天(アマ)から見てるぞ。両親(カドイロ)の真似をしたら、生命がないぞ!」

母親のガナリ声がした。 運悪く現場を見つかってしまって、二人は厭という程まで叱られ、木太刀で打たれていた。 したがって、子供は絶対に両親の真似などしない事になっている。また、それは一人立ちして暮らしている親の特権であって、セブリを持たない者は決して誰も真似などしてはならない事として、厳しく教えこまれているのである。だから、私はとても恐ろしかったのである。

 ゆえに、いつ母親が戻って来て見つかって、自分も箕作りの木太刀で叩かれるかと気が気でなかった。まだ五銭玉を私が持っているのを知っている娘は、あわよくばもう一枚せしめるつもりか、すっかり恐怖からその気を喪失して縮こまっているものを手に持ちそえて挿入しようとするのだが、私としては、その時はとてもそれどころではなかった。

 娘の話では、初潮がある以前なら差し支えないから、父親が実地に性教育するセブリもあるそうである。今、ヨーロッパで父娘相姦が流行しているそうだが、その点はこちらが先進国である。他人と違って、父なら無理のないように優しく性教育もできるというものである。

 なにしろ、週に一度は娘も伜も親達から徹底的に奥の奥まで調べられる。もし、発育不全で婚礼が駄目になってはクズシリ様にも申し訳がないし、核家族の先鞭をつけ、セブリは夫婦だけという暮らしでは、もしも「行かず後家」となってしまった娘を背負い込んではどうにもならない。

 だから、一度縁づけたら万事そつなくやってゆけるように、差し障りのない初潮前に、タチ、ニ、ネから始まって四十八手をみな教えこんでおくのが親の責任でもある。だが、子供どうしでは遊びで終わってしまって学習にはならぬから固く厳禁されているのであるらしい。

 他に娯楽はないから雨天や仕事のない日は、日に十回も繰り返す夫婦も多いが、別に恥ずかしい事ではないので、客が来ても子供に見られても、途中で止めるという事は、まぁ絶対にない。

 私も姉娘も並んで、ヨシ夫婦の実演を何十回も、組んでほぐれるところを見てしまったか判らないほどである。テレビもない時代だし、夫婦は他にする事が別になかったせいだろう。
http://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1012


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

13. 中川隆[-10737] koaQ7Jey 2018年4月20日 16:36:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11545]

被差別部落でなくても僻地の山村は縄文系住民が隔離されていて、配偶者を見つけるのが難しいのでエタ部落と変わらなくなります


名張ぶどう酒毒殺事件、昨日見ていて、戦前の日本のあり方を思い出しました。

これは、一つ先を辿ると全て親戚同士になってしまう村。ここが問題です。つまり、村にいたひとは、みんなエンコ関係にあった事。そして、そこで問題が起きれば、大体は、誰がやったって、わかるもの。分かってて公表できないこともあること。ついでに言えば、村の中で、村八分的な存在や、そういうときに咎を代わりに受けることで、残った家族に有難い想いがあると言う話も事実。

あの頃の村は、そういう風にして、色々な事を隠してきたんです。

無論ですが、この事例はアメリカにも同様な事件があります。皆で隠して風化させて、どうでもいい事にしてしまって、そして、多少の泣き寝入りをしてもらう。裁判で拘置所にはいっても、死刑にならずに済むのは、そういう事情があって、死刑にするに忍びなかったからという話が、ありまして、聞いたときは、アメリカも案外閉鎖的なんだなと思ったこと。

今回の名張ぶどう酒事件に関しても、真相があったのだと思いますが、当時の最高裁判所のあり方も、現時点の最高裁判所のあり方も、実際には、色々な表に出せない諸事情を加味しての裁きなので、真相が見えない人にとっては、不誠実に映るかもしれません。

世の中って、未だ、そういう不誠実な面があって、取引をする代わりに、これを授けるからこれで迷惑料となせとか、そういう事って一杯残っています。まして、親族だけでできた村がまだ残る存在に対して、都会に住む人は驚きがありますが、田舎に住む人たちは、これで十分排他的なんです。

金持ちの世界もそうです。お金があって成金になったからって、入れない世界というモノがあります。非常に排他的で、みなの利益を守るためには、理不尽で不誠実です。ですが、そういう事を言ってしまえば、世の中は全てそういう風な風習が残っています。世界中で、そういう風習が残っています。

私たちは、戦後、村社会を捨て、個を尊び、集団就職に行って、てんでばらばらになって、一見、どこの誰だか分からないようなそんな感じを受けますがね。氏も育ちもあなたの戸籍には残って、あなたが、どういう人なのかって事もある程度辿れるし、大体どこの出身って聞くと、ピンと来るものがあるんですよ。それが、忌み嫌われる民俗学という学問です。

奇祭、奇習、世の中には沢山ありまして、面白半分という部分はあるのですが、実際に知っていくとですね。口が段々重くなります。近親相姦、精神疾患、遺伝病の発症の理由、村の中での奇習を隠すための排他主義。私もちょっと見てみたんですが、何といいますかね。今まだ残る人に対して、困ることになるんじゃないかと。

私は特に、幼い頃から、「えたひにん」と呼ばれる人たちの生い立ちや生き様、「部落」と呼ばれるところの部落からどう脱していくか、そして、現在、口が裂けても言われないけれど、ある施設の近所の子供に対する「差別」を追っていった事がありました。それを専門に勉強したかったんですが、あまりに、悲しい事実があるので、私も知りうることに関して、口が重いことがあります。けれど、実地でそういう人たちの話を聞いて周った(はじめた当時の私はまだ、8歳くらいでしたかね)ので、口も重くなります。

どうしてここに、社が建つのか。どうしてここに、こんなものがあるのか。どうしてここにこんな施設があるのか。

紐解いていけば紐解けるのですが、だからと言って、残された人たちが、すっきりはっきり白状できない理由も、あるのです。

何度でも話に上がっては来ると思いますが、触ってはいけない問題もあるということで、やったやってないは関係ない世界があるんです。それを、個だけを尊重して尊んで美談にしようとすると、村全体が悪くなって、誰も嫁に来なくなってしまったり、後を取る人もいなくなったり、廃村に持ち込まれたりします。あなたは、掘り下げようと思うとき、全ての人の利益を考えて発言してください。

どさくさにまぎれて行ったことは、全て、美談にならない洒落にならないものばかりなんです。
http://blog.goo.ne.jp/nekotech/e/ff1deb2cfcd8c62ed0dced78d7521f04

9 名前:きち 投稿日: 2004/05/07(金) 23:18

すごいといえば、30年代の名張ぶどう酒事件の村のようなフリーセックスとかもすごいですね。

10年ほど前、仕事で3年ほど住んでいた僻地の村では近親相姦やら夜這いもどきやらで全校50人ほどの中学に知的障害の生徒が8人もいました。

12 名前:あんず 投稿日: 2004/05/08(土) 23:17

日本は近親相姦(父→娘)が多いのはどうしてだ?

と外国人に聞かれたことがあります。なんでも彼の周りだけでも
4人の日本人の女性がそういう過去があるそうです。

そういう話を聞くと病的で嫌悪感を感じますが、もしかしたら日本は昔そういう奇習が普通(と言ったら語弊がありますが)だったのかもしれないですね。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1073909229/

38 :本当にあった怖い名無し:2012/05/25(金) 22:29:31.57 ID:izmPJ9ba0

おれの出身は軒数20くらいの山間地。苗字全部一緒だった。本家とかあったし。 母さん(違う地区から嫁いできた)が

「ここらは近親相姦してたところだから、あんたらが障害を持ってたり奇形児じゃないか心配だった」

っておれが大人になって教えてくれた。 昔はうちの地区はみんな苗字一緒なんだぜって変な自慢してたけど、それ聞いて背筋が寒くなった。

そこかしこに無縁仏はあるし、葬式の時変な儀式してるし・・・
今思えば不気味だな。


93 :本当にあった怖い名無し:2012/08/17(金) 01:52:54.80 ID:KAZVh3tz0

東北の父の実家で、知り合いはみんな意味を知らない謎の風習があるんだけど…。
お盆の頃になると赤い布でぐるぐる巻きにされて布に風車をいっぱい刺したボロボロの小さめのお地蔵さん?を設置する文化がある。
お地蔵さんは本当年期入っててボロボロだけど、かろうじて表情はわかる。優しそうな感じで笑ってる。多分女性。 

お盆の頃になると道を挟んだ村の墓地の目の前にある、ため池みたいな場所にでかい慰霊碑があるんだけど、お地蔵さんはその前に設置される。 お地蔵さんは道を挟んだ向こうのお墓の方を向いている。

慰霊碑にはとある戦没者の名前が書いてある。石碑の前にはお地蔵さん以外にも小さな石碑?が5,6個ある。 小さな石碑は季節関係なくある。梵字みたいなのが読めるけど意味はわかんない。これはお地蔵さん位古くて字が読めない。

ため池前の戦没者石碑の前にある梵字石碑の中に布ぐるぐる巻きのお地蔵さんを置く。これがお盆の光景。
で、このお地蔵さんはお盆が終わると山奥の川に流すらしい。流したらどっかに保管するらしい。どこに、誰が保管してるかは知らない。
お地蔵さんは父の実家では”ミズコ”と呼ばれてる。他の家ではなんと呼ばれてるか知らない。

なんで布を巻いて風車を刺して慰霊碑と梵字の中に置いて、どうして川に流してどこに誰が保管するのか、この風習に何の意味があるのか、こういう風習は他の所でもやってるのか。誰か心当たりがあったら情報おねがいします。

97 :本当にあった怖い名無し:2012/08/17(金) 02:20:52.11 ID:BNdhvcKO0
>>93-96
一般に「水子」と言えば、死産・流産などでこの世に生れなかった子供のこと。
赤い布は産着、風車は子供の玩具だから(恐山の賽の河原でも見る光景)、
普通に考えると水子を供養する儀式なのかなと思うけど……。
「地蔵を川に流す」というのがちょっと引っかかる。
土地の由来を知らずにうっかりしたことは言えないけど、 明治ぐらいまで、貧しい地域にはいろんな風習があったからね。

98 :本当にあった怖い名無し:2012/08/17(金) 11:08:13.64 ID:Zn97AIuu0

石の地蔵様が川に流れるというのはよほど地蔵が小さいのか
川が急流なのか
ドボンと沈むイメージから離れられんな


99 :本当にあった怖い名無し:2012/08/17(金) 14:29:01.63 ID:TpDgFTby0

古事記でもなり損ないの子は(葦舟にのせてだけど)、流し去られたよね。


101 :本当にあった怖い名無し:2012/08/18(土) 13:59:59.32 ID:kel8ZOeO0

「日本書紀」に弟橘姫の入水という話があって、弟橘姫は日本武尊の后で海神の怒りにあって波が荒れ船が進めないときに海に身を投げてその怒りを鎮めた場所は走水の海で現在の浦賀水道

面白いことに三浦半島の大浦山洞窟遺跡で弥生時代中期の人骨が発見されたが
骨には刃物で肉をそいだ跡があり、人肉食の風習があったことが疑われている
もしかしたら荒波を鎮めるための儀式的なものである可能性もあるかも

「三浦洞窟人バラバラ死体のミステリー」
http://homepage2.nifty.com/raputar/kansama1-4.htm


102 :本当にあった怖い名無し:2012/08/18(土) 14:18:28.46 ID:Pzw4Mv+N0

ヒルコはイザナギとイザナミの国産みで最初に生まれた子で出来が悪いとして流された
これは女神であるイザナミが最初に声をかけて子をなしたためと「古事記」にはあるけど
この男尊女卑的な神話は後代の中国の影響を受けているという説もある

ヒルコが流れ着いた場合はエビス神に変質したりする
祝福された漂着物といった意味合いか またエビス神は漁業の大漁を象徴したりもする
ただエビス神の性格は複雑で素性をたどるのは難しい
殺生を嫌う仏教の影響は少ないのではないかな

103 :本当にあった怖い名無し:2012/08/18(土) 14:21:14.82 ID:XHLHC4nn0
>>98
お地蔵様は30cm、梵字は20cm位です。川は一部の人しか知らない川らしいです。

>>99
父が水難事故の子供の供養かもとも言ってました…。
本当に古い土地だから謎の場所とか言い伝えが多いので、分かる方がいて安心しました…


104 :本当にあった怖い名無し:2012/08/18(土) 15:27:39.14 ID:tLucQCE00

水子は民俗学のほうでだいぶ研究があるな
現在のような水子供養の概念というのは人工妊娠中絶が盛んになってからのものでかなり新しい 特定宗教が新手の金集めのために始めたという話もあるくらい

昔の間引きや、石を抱いたりしての子堕ろしと現代の妊娠中絶が最も異なる点は、間引きなどは集落において容認されていたという点かな

ある程度の年齢の子がある日を境にいなくなったとなれば、集落内でははあやったか、とすぐにわかる

それに対して現代の妊娠中絶は人に知られぬ個人的な行為だから、どうしても罪悪感を個人で引き受けるしかない 

「現代日本の水子供養」
http://www.ne.jp/asahi/time/saman/index.htm

http://toro.2ch.net/test/read.cgi/occult/1333464457/

日本に実在した恐ろしい風習とかしきたり

36:本当にあった怖い名無し:2009/01/13(火) 23:07:13 ID:J0exCnF50

おれも昔証券会社で働いてた頃いろんな所に行ったわ。
血とか骨とかが付いた地名からして凄いとこ。
特に何も無かったけどね。

ただ一度だけ部落のはずれの道端で白痴っぽい若い女を見た。
白いスリップとパンツだけでケラケラ笑ってるのよ。
横で小さい子供がフリチンで遊んでたかな?

車止めて見てたら通りがかりの親父に睨まれたので、そそくさとその場を去った。

帰り道で思ったんだけどね、その若い女って部落の男の公衆便所なのかなって?
なんの確証も無いけどそんな気がした。かれこれ10年前。

15 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/13(水)

地元のしきたり

十二年に一度本家か分家から赤ん坊と食べ物を山の神社に奉納する
まだやってる
翌日行くと赤ん坊、食べ物は消えてる


21:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/13(水) 00:05:50.71 ID:4cwhA+zH0
>>15
大まかでいいから地方おしえて


31:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/13(水) 00:13:42.25 ID:Sw6vRLo30
>>21
東日本とだけ
奉納する前は山に入れば八つ裂きにされたとか


129 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/13(水) 01:37:01.03 ID:Sw6vRLo30

で俺の体験

子どもの頃よく言われるのが大きくなるまではその神社にいくなと言われる
そう言われてもたまに友達と行ってしまってたが奉納のための赤ん坊は産まれても公表しない

その時の子供は本家の子供
地主で本家の子供なら村はけっこう大騒ぎするはずだが何もなかった

俺は赤ん坊をみてみたかったが婆ちゃんや父親に止められてた
一週間かそこらかな?奉納が行われる

村人が食べ物を持って来て、その整理や車に載せるのを手伝わされてたのもあって忙しかったのは覚えてる

食べ物を車に載せて神社の入るための山道にいく
子供は神社に入っちゃいけないから俺は車から食べ物を下ろすのを手伝わされた
軽トラに載せたりもしてたしすげー量で色んな匂いが混ざってた
全部下ろしたら車で帰った
その日の夕飯はすげー豪華だったけど静かだったと思う

翌日神社に友達といってみた
もちろん食べ物のためだ
魚や肉はダメでも果物はいけるだろと思ってた

神社に行って中をみると何もなかった
軽トラや車で運んだ食べ物がない
運んだのはここじゃないのかもと思ったが果物や魚の匂いが扉を開けた時少し残ってた

こんな話

85 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/13(水) 01:11:33.47 ID:Sw6vRLo30

地元はすげー田舎なところ
赤ん坊を奉納する家は元々そこの地主

森にはいって生活するわけだが奥に入りすぎると上でも書いたように八つ裂きにされた
社も建てて毎年食べものを奉納するがそれでも被害はでる

それで地主が自分の家の赤ん坊と一緒に神社に入りひたすらもう襲わないようお願いをした

けど眠ってしまい夢の中で声を聞いた
赤ん坊はうまい。おまえの家の赤ん坊を捧げるなら襲わないでおくと

起きると扉は閉めていたのに赤ん坊はいなくなってた
それから山に入っても襲われなくなった

これが婆ちゃんから聞いた話


65 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/13(水) 00:56:37.42 ID:RkYjO6AmO

子供の墓は基本的に大人とは一緒にされない。

床下や庭などにトロ箱やミカン箱に入れて埋められることも多かった。

古い家の庭にお稲荷さんとかじゃない塚があったりするが、あれは無縁仏と子供の墓だったりする。


4 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/12(火) 23:54:26.53 ID:gV14b2+/0

奇形はごく潰しなのでキュッ

5 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/12(火) 23:55:01.88 ID:/gEAURTL0

人工的神隠し

92 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/13(水) 01:14:51.98 ID:FHX1fQw40

地蔵盆の時にその一年で死んだ人と同じ数の提灯を飾って最後に子供が提灯を破く


76 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/13(水) 01:03:17.00 ID:C7WEk85Q0

赤ん坊を一度捨てる風習は結構あるのよ
なぜかというと拾った子供はよく育つという俗信があったから
自分の子供を一度捨てて近所の人に拾ってもらいそのあと返してもらうことで擬似的な拾い子とする風習

157. 名も無き哲学者 2012年10月23日 07:23

現代の常識では酷いとか人権がとか言って忌み嫌われる風習とか因習とかは大事だったんだよ…

姥捨ても、お産婆さんがキュッってするのも決して大きな声では言えないけど必要な事だったんだよ。老人ホームやら、優性保護法なんて言い訳作って誤魔化すのは良くないよな


6:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/12(火) 23:55:08.51 ID:LCHumACv0

ある地域の屋根裏には牢屋があった
近親婚が多く、近親相姦で生まれる障害者を閉じ込めておくために

【閲覧注意】あなたの家の開かずの間『開かずのトイレの痕跡』
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4215369.html


俺は62才同居の兄貴は64才兄貴の嫁は48才、といっても俺と兄貴の共通の嫁で俺が34才の時に20才で兄貴に嫁いできた。

俺の部落は全部で17世帯で全部姓は同じ、皆親戚になってる。 熊本県と大分県の県堺の町で最近三つの町が合併した、山奥深い部落なので昔から親戚同士の結婚でよそ者はいない。 昔から女は少なく男は多くてあぶれた男のために夜這いは普通に行われてきた、村の全員が黙認してきたので生まれてくる子供も誰の子かよく分からない。 村全体の授かり子として大切に育てられた、当時兄貴が嫁をもらった時も俺の嫁でもあった。

嫁は少し頭が弱かったけど働き者で兄貴と俺の嫁として この年まで頑張ってる。 子供は直ぐに続けて3人産まれたがその頃の夜這いの男も数人いたから本当は誰の子供か分かっていない。 3番目に女の子が産まれたが3人共母親の血を引いて頭が弱かった。 頭が弱くても村では仕事はなんぼでもあって差別なく生きていけた。

3人の子供が成長して大人の仲間入りしたが、それほど広くない家で兄貴と俺と嫁の行為を自然に見てきた子供達にとって家族同士で行うセックスに問題など感じなかったのはしかたのないことだった。

夏の夜、上の二人の男の子が母親にのしかかっているのを見て兄貴も俺も黙って許した。 狂ったように大声上げて腰を使いながら射精を繰り返す子供達に嫁も又狂ってしまい狂乱の声を上げ続けた。

隣りの部屋をふと見ると、娘が全裸でトロンとした目で母親と兄たちの行為を見ながら 右指を膣に入れて出し入れしていた。

俺は兄貴の顔を見ると兄貴の形相が変わり娘をジッと見ている、あっ兄貴は犯るかなっと思った。 俺も変になりかかってた、兄貴と顔が合った 引きずった顔でニャっと笑った。 俺も下卑た顔でうなずいた、兄貴が俺の前を通って娘に近づいた。 目の前を兄貴の太く長いチンポが揺れながら過ぎると俺も頭が白くはじけた。

娘に兄貴が被い被さると娘は甲高い声を上げた、俺が近づくと兄貴のチンポが娘を貫いているのが見えた。 そのままギシギシと攻めて膣から流れる愛液で兄貴のチンポがテラテラと光った やがて娘がウーンと唸って失神した。

兄貴がチンポを抜いて俺と交代した、俺もたまらず娘の膣にぶち込んだ。 あったけー 気持ちえー 娘が再び声を上げだした、俺はあらんかぎりの力で腰をぶつけ続けた。

その頃になってやっと娘が処女でなかったことに気が付いた、そうか兄弟妹でオメコしてたんだ それで兄貴と俺が入れたら失神したんだ そう思うと納得した。
その晩 明け方まで父娘 母息子の乱痴気騒ぎは続いた。 その夜を堺に親子兄弟の縁はなくなった、雄と雌の関係になった もう止まらない。 初めて 俺と兄貴が娘を犯してからは毎晩親子 兄弟妹で破廉恥な淫虐プレーが続いた。

俺も兄貴も久し振りの若い女体に狂ってしまい年を忘れてチンポが疼いた。
今晩はもう無理だと自重しても目の前で兄妹 母と子供のセックスを見せられるとつい三便宝を仕込み俺も兄貴もチンポが勃起してきて、いつの間にか俺も兄貴も嫁や娘にのしかかっていた。

俺も兄貴も太く長いチンポしていたが息子達はもっと凄いチンポを持っている。
二人の息子は生まれつき頭が弱かったが嫁と兄貴と俺のセックスを子供の頃から見ていた所為か早熟でセンズリも早く覚えチンポはもの凄く大きかった。

その太く長いチンポで貫かれる嫁も娘も歓喜の声を上げ続けた。

朝起きて仕事に行く時は普通の家庭なんだが、夜になると皆 淫乱獣に変身した。 嫁も娘も俺 兄貴 二人の息子が代わる代わる射精する精液で種壺状態でトロトロ垂れ流し乾く間もなく次々にチンポを刺し貫かれた。

嫁と娘が上げるよがり声 呻き声 男達が上げる歓喜の声、接合部が発する淫乱音 部屋中に漂う精液の臭いで頭は痺れ口からは涎が垂れて このまま死んでもいいやと思えるほど気持ちが良かった。

数ケ月後 娘が妊娠した、誰の子が分からないが たぶん二人の息子のどちらかだろう。 その年 娘が男の子を出産した、訳ありの子なので近くの親戚が男の子を引き取ってくれた。 村の誰もが知っていたが 非難するものは一人もいなかった、むしろ貴重な子供の出生を喜んでくれた。

流石に嫁は妊娠しないが 俺達男は娘に二人目の子供を宿すため 今晩も喜々として種壺に仕込むだろう。
http://dokusin.art.coocan.jp/cgi-bin/coocan/dokusin/new-incest-dokusin-0202/new/yybbs.cgi?list=pickup&num=477#477
http://dokusin.art.coocan.jp/cgi-bin/coocan/dokusin/new-incest-dokusin-0202/new/yybbs.cgi?list=pickup&num=482#482

65 名前:ロキ 投稿日:2006/01/06(金) 18:36:53

今日は僕は都内に住む30代の会社員です。現在結婚し子供もいます。
カズさんのHP見てビックリしました。 実を言うと私の実家も先祖代々近親相姦をしている家系だからです。秋田県の場所は勘弁してほしいのですが某村大字何某には今でもそういった風習が残っています。

何故その集落に近親相姦が風習として存在してるのか?というのは昔平家の落人の兄妹が先祖で、追っ手から逃れる為に隠れ近親相姦によって子孫を増やしたからです。その兄妹は集落の祠に奉られています。それから私の実家の村は標高がかなり高くその為稲作が出来ない程寒い為、裸でお互いに暖めあって夜を過ごす事もあり、今でも麓まで冬の燃料を買いに行く事は大変で、その風習は続いているようです。

私自身姉と母との近親相姦を経験していますが、私自身は自分の家族と同じ様に近親相姦をする気はありません。ただこの様な近親相姦がその土地の文化として又生活として残っている事実を知って頂きたくて此処に書きました。

私の実家は現在姉が家を継いでいます。姉には現在男の子二人と女の子が居ますが、長男の父は実父です。姉の旦那は同じ集落の男でその事も知っています。その村は15軒ほどの小さな集落で血がとても濃く、姉の旦那も又従兄弟になります。

村の人間は結構地所を持っているので今でも結婚して他所の家が入るのを嫌う傾向にあるのです。ですが色んな人間が言うほど奇形児や遺伝子病はないです。甥っ子も親子の子ですが全く普通です。唯昔から子の出来ない夫婦は全く出来ず。私の居た頃は少なくとも半数がそういった夫婦でした。そういった場合は村の男が種付けをしに行くのです。又未婚の女性が腹を貸しに行くこともします。

近親相姦や乱交では常識のある人から見たらとんでもない事ですが、今思うとその社会の中には其れなりの情や雰囲気があったと思います。

今年の正月にですね。田舎に家族つれて遊びに行った時のことです。家の小2の娘がですね。

「おばさんとお兄ちゃんが裸で抱っこしてた。」

って言うんですよ。朝六時頃娘が遊んで欲しくて小6の甥っ子探しにいったんですね。さすがにその時は私も戸惑いましたが、姉に話したら少し反省していましたが。妻には私の事は話してますので少し困惑していたようです。

現在私の実家には小学生の子供が5人中学生が2人高校生が3人しかいないそうです。そういったなかでする相手も少ないというのが理由の一つだと思います。私も大学に進んだのが切欠で村を出たのですが、矢張り女性がいっぱいいれば其方に興味を持つのが普通だと思います。事実私も大学を出てからは、母や姉との行為はしていません。姉や母も不思議とそれを受け入れてくれてます。

近親者や村の人間との行為は、その村の持つ雰囲気や情が関係あるのでしょう。今田舎に帰っても私とその家族は部外者であるように思えます。昔の友達と酒を飲んだときも私の昔の事についてはあまり触れなかったし、又今の事も語ろうとはしませんでした。唯結婚の話は別で友達は現在39歳ですが新しい嫁さんを貰ったと紹介してくれました。17歳でした。世間体があるのでまだ籍には入れてないそうですが、彼にとっては二度目の結婚で最初は19歳で農協の職員をしている時に36歳の未婚の母と結婚しています。実父の子供だったと思います。

世間では淫行ですが私の村では人が少ない故に結構こういう事が普通にあり、むしろ近い世代で結ばれることの方がラッキーなのです。姉の長男は現在15歳ですが23歳の娘とお付き合いしているそうです。

田舎ってすることないから子どもたちがみな早熟で、初体験を済ませる年齢が低いっていいますよね。暇をもてあまして、身近にいる親兄弟とセックスをしだす、っていう現象もあるんですかね。ですが、さすがに全部の田舎という事は無いと思います。私自身聞いたことはありません。

唯この様な事は普通外部には話しませんのでもしかしたらとは思いますが。もし性的にオープンな村で世代を超えた性交流があり、人数の少ない隔離された集落があれば、可能性はありますね。なんとも言えませんが家の村もそうでしたから

私の村はどちらかと言うと「家族でザーメンを楽しもう」というより、「家族で暖まる」といった感じでした。実際私の村では性行為を「燃す」と言います。心の中の嫌な物を燃やし元気な気持ちを燃え上がらせると言った感じですか。

「えのぎだなぁ」

と言う言葉がうちの村ではよく使いますが、意味は家が暑いという意味で

夜中喘ぎ声が多く聞こえる家は多く燃える=暑い=景気が好い。

という意味から金銭的に豊かな事もさし、近親相姦がけっして世間で言う悪いイメージではなかったように思えます。

「おがはんおじげあねがっこおめさままだね」

と言う言葉がありますが、味噌汁、漬物に身内を例え好きな子を主食であるご飯に例え、近親者との肉交よりお前の方が良いと言うある意味恋人への最高のほめ言葉になっています。

「ひながのばっち」

これは悪い意味で使われることが多く例えばお酒が止めれない人が「酒はひながのばっちだ」と言うようにやめようと思っても中々止められない時に使う事です。婚期を逃してしまうほど両親と末っ子の情交は凄まじくそれを比喩しているのでしょう。

76 名前:ピス・メンス 投稿日:2006/02/12(日) 20:04:15

 ロキさんの話を読んでいて、最近の大雪のニュースで、孤立した村落が話題になりましたが、もしかすると、あの村落や周辺でも近親相姦をやっているのでは?と思いました。 実際には、どうなんでしょうね? あの辺りは

77 名前:ロキ 投稿日:2006/02/14(火) 19:52:31

うーんどうでしょうかね。あの辺の地理は確かにわが村に似ていますが・・・
例えば交通事情とかがですが。私の場合既に村を出ていますのでたとえ匿名でもカミングアウトできたのかもしれません。私の経験では実際に近親相姦をしている人は、独特の恥ずかしさがあり中々外部の人には話したがらないのです。

分かり易くいうと、身近に手ごろな異性がいない為自分の身内や年の離れた異性と性行為をしているのですから、交通事情が発達したとしてもバスで30分以上町から離れていれば友達も、ましてや恋人もでき難いものです。又高校進学時に村を離れ下宿する子も少なくありませんが。その頃には村の人情や性が身に付いてしまい、多少不便でも通えるのであれば村に帰ってくる子も多いです。

そんな中で普通に恋愛してセックスする子に引け目を感じたりするのでしょうか。大人もやはり犯罪行為になるような事や一般人から見れば倫理観からかけ離れた事をしている訳ですから自ずと口はかたくなるのでしょうか。

ピス・メンスさんももし娘さんと体験する様になれば分ると思います。


78 名前:ピス・メンス 投稿日:2006/02/17(金) 00:29:51

 もし、娘ができ、近親相姦を行うに当たって、色々心配なことがあります。
 まず、そもそも、娘が体を許してくれるかどうか。
 もし、許してくれても、その後、精神に影響を与えないのかどうか。
 中には、精神分裂症に陥ってしまうのではとかですね。

 ロキさんの村では、いかがだったでしょうか?


80 名前:ロキ 投稿日:2006/02/18(土) 20:37:04

そうですね。近親相姦というのはやはり雰囲気が大事かと思います。ピス・メンスさんのご家庭が何より性に対してオープンである事が必要かと。いきなり襲うのは娘さんも嫌がるでしょう。

私の場合は横で両親がセックスしていた事で興奮したのを覚えています。私の姉の場合もそうだったと思います。精神的な影響は私の村では無かったと思います。たとえ親子でも普通の異性と同じ感覚なのでしょう。外部に隠したり引け目を感じたりするのは世間の倫理観とのギャップの問題だけだと思います。


私も叔母との経験があります。34歳の叔父が亡くなった時当時42歳の叔母の所へ行き。父と一緒に叔母を抱きました。私の村では後家さんや奥さんをなくした旦那を親族が身体で慰める風習があるのです。叔母は私の身体の上で叔父の名前を呼んでいました。懐かしくも悲しい話です。

叔父はとても優しく幼い時は可愛がってもらいました。村の中では近親相姦といってもアッケラカンですよ。そんなに問題はないです。
http://jbbs.livedoor.jp/movie/108/storage/1013361373.html


178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/18(土) 10:59

近親婚を重ねた家族に生まれた人を知ってる。

彼も含めて、その家に子供は七人。
聴覚障害者が三人(!)。
能障害が一人。

まったく正常だったのは彼と弟さんの二人きり。
その上、三人が二十歳になる前に亡くなっている。

貧しい地域だから栄養失調で亡くなったのかも知れないが、それにしても・・・。

354 :藤村:2001/03/02(金) 23:38

近親相姦はかなり寿命が短いです。
50才まで生きることができればいい方。

http://mimizun.com/log/2ch/uwasa/971693212/

133 : 名無しさん@お腹いっぱい。 [] : 投稿日:2005/12/12 21:34:36ID:CJ3oj11hO [3/3]

屠殺行為をしてきた民の近親相姦による異常遺伝子の民、
それを同和運動により解放された訳だろ。

同和により野放しになり、現在異常犯罪が増えている。
血統が問題で差別になるのは必然なのでは???
http://logsoku.com/thread/tmp5.2ch.net/rights/1128839447/

1 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 04/01/06 20:23 ID:1jTpa9z0 [1/2]

昔の部落では近親相姦はあたりまえだったらしいが
どのあたりまでの近親と結婚(妊娠出産)してたのかな?

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/05(水) 06:00:37 ID:aSvyzTk9O

部落では今でも父娘相姦は多いらしい。父が娘を無理矢理…みたいな。
ソースは近所の部落民(37歳男性・公務員)からの酔った勢いでのカミングアウト。
http://mimizun.com/log/2ch/rights/1142686940/


159 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/15 00:18 ID:o2R4oq5j[1/1]

部落のものは親子が基本。

父親が娘を犯して子供が生まれ
その子を父親の私生児扱いにする例がけっこうあったそうだ。


110 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 16:38 ID:qgsZGHnG[1/1]

俺の父親の集落では近親相姦ともいえるような複雑な結婚が行われている(た?)。
叔父と姪が結婚したり、叔母と甥が結婚したり。
実際に障碍者も生まれているし。

本当に山奥の集落だから昔からそういうことが行われているのかもしれないけど(信号機が一つしかないw)
周りを見渡せばほぼ全戸が夫婦の親戚という恐ろしい所があります。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 19:58 ID:aIeCyok0[1/1]

狭いバラックに大人数が暮らしていたため
嫁が妊娠しても誰の子供かわからなかったらしい
旦那が留守のときは平気で親父や兄弟、近所の男がまぐわっていた
http://logsoku.com/thread/tmp2.2ch.net/rights/1073388229/


61 名前: 名無し募集中。。。 投稿日: 2012/05/03(木) 09:04:27.48 0

児童虐待の報告書みたいなの読んだんだが

地方(部落?)によっては祖父や父親が小中学の娘とやるのがあたりまえの所があるんだよね

子供もそれが普通と思わされてるし


54 名前: 名無し募集中。。。 投稿日: 2012/05/03(木) 08:45:56.29 0

近親相姦があると遺伝子的に病気に弱くなる
近親との性交を好む遺伝子を持った人は死滅したから近親との性交を好まない人が増えたんじゃないかな


56 名前: 名無し募集中。。。 投稿日: 2012/05/03(木) 08:57:20.54 0
>>55
田舎特に古い家柄だといとこ同士なんてあたりまえ
田畑財産流出させないためにな
おれの実家もそうだが確かに障害リスクはある

57 名前: 名無し募集中。。。 投稿日: 2012/05/03(木) 08:58:08.01 0

むしろ田舎の方がそういう近親相姦婚多いよ

63 名前: 名無し募集中。。。 投稿日: 2012/05/03(木) 09:05:53.96 0

村社会だと女の子が生まれた時点でまんこは村の共有財産って考えあるからね
http://blog.livedoor.jp/samplems-bakufu/archives/51344448.html

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/23(木) 18:04:28 ID:263tGc8Y0

大学時代に障害者施設でボランティアしたことあるのですが、障害者の母親に
美人が多いことに驚いた。
近親相姦かどうかはわかりませんけど

近親相姦で生まれた女性は美人が生まれやすいという噂は信憑性があるのかな?

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/04(火) 02:32:37 ID:SYMz93wF0

穢多は行動範囲は、一般農民より広かったよって近世の穢多の婚姻圏も広かった、
近江から武蔵に嫁いだ人もいる。


27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/04(火) 05:23:12 ID:tvhyGVvw0
>>26
でも、エタの人はエタの家に嫁ぐんだ。
地理的に遠くても、血の濃いエタと別の地方の血の濃いエタ同士が結婚すれば、結果的には血の濃い子供が生まれる。
行動範囲より、血筋の問題。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/04(火) 07:15:45 ID:a8YFrg9UO

エタの近親婚が多くなったのは明治以降。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/05(水) 06:00:37 ID:aSvyzTk9O

部落では今でも父娘相姦は多いらしい。父が娘を無理矢理…みたいな。
ソースは近所の部落民(37歳男性・公務員)からの酔った勢いでのカミングアウト。
http://mimizun.com/log/2ch/rights/1142686940/


45 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/15 17:44 ID:ijmXiGPm[1/1]

もしかしたらそうかと思うのだけど…

自分の知り合いの親戚に、部落出身の女性と結婚した人がいるんだと。

その女性は、乳首がなく(しかし胸の膨らみはちゃんとあるそうな)
生まれてきた子供はテンカン持ち(旦那の方の親戚には居ない)なのだとか。

もちろんその夫の方は、結婚するまでその女性に乳首がないのは知らなかった
のだそうな。


陥没乳首ではないようです。

出産後に、乳が生産されるけど出口がなくて、かなり苦労したらしいですし。

やはり近親関係が代々続くと、そういうことも起こりやすいのでしょうかね。


110 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 16:38 ID:qgsZGHnG[1/1]

俺の父親の集落では近親相姦ともいえるような複雑な結婚が行われている(た?)。
叔父と姪が結婚したり、叔母と甥が結婚したり。
実際に障碍者も生まれているし。

本当に山奥の集落だから昔からそういうことが行われているのかもしれないけど(信号機が一つしかないw)
周りを見渡せばほぼ全戸が夫婦の親戚という恐ろしい所があります。


113 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 19:58 ID:aIeCyok0[1/1]

狭いバラックに大人数が暮らしていたため
嫁が妊娠しても誰の子供かわからなかったらしい
旦那が留守のときは平気で親父や兄弟、近所の男がまぐわっていた


159 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/15 00:18 ID:o2R4oq5j[1/1]

部落のものは親子が基本。

父親が娘を犯して子供が生まれ
その子を父親の私生児扱いにする例がけっこうあったそうだ。


144 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/04 23:35 ID:dqB5C2Vc[1/2]

N件では死んだ娘を父親が犯して成仏させるという風習があったそうな。

もちろん部落での話だが。

部落では儀式として父親が娘を犯すという風習があった可能性がある。
あくまでも性的欲求ではなく儀式。

近親相姦はあったと思うが、神聖なものだよ。部落の場合はね。
http://logsoku.com/thread/tmp2.2ch.net/rights/1073388229/

彼女が部落出身者だった………婚約破棄したい…死にたい

377:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:16:30.52 ID:c6+YhVBZP

部落だから嫌だはちょっとよくわからないが
相手が浮気するようなやつで池沼の弟がいるやつとなんて即わかれるだろ

379:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:17:49.04 ID:1r6sUsDL0
>>377
親がヤクザも追加しておいて

14.:2011年06月27日 19:42

まず 1の相手が部落とか抜きにして糞だろ
浮気、弟が池沼、親がヤクザ
その上部落民ときたらそりゃ分かれるわな


62.  :2011年06月27日 20:49

1の相手はクズ。親がヤクザで部落で股が緩いんじゃ風俗嬢くらいしか使い道ま無いぞ

37.:2011年06月27日 20:22

やっと部落が差別される理由が分かったよ
ヤーサンと近親相姦ね
そりゃたしかに関わりたくないわ
同和教育は ほんとに都合の悪いところは語らないよなあ
まあ風化させるのが目的だろうから やり口としてはあってんだろうけど


56.関西人:2011年06月27日 20:42

女の子本人が普通でも
親、親戚、部落利権でしのいでる奴なんかが
ひとつ違ったら、ややこしいからな〜
人権で武装したヤクザ たちが悪い
一般人には反論、反撃が出来ない
関わらなくて済むならその方がエエ。
関西人の実感や。

317.ゆとりある名無し:2011年06月28日 17:35

部落とか一生相手の親にたかられるし、拒否したら同盟の奴が出てくるしマジ最悪
公務員の部落枠もどうにかしろ


74:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 10:44:16.20 ID:gAw2/goo0

一昔前は本人が嫌になって婚約破棄しても差別だ!って街宣車が来たりすることもあったらしい
今は知らん

198.:2011年06月28日 05:37

婚約破棄した消防士を元婚約者が部落差別で訴えたら懲戒免職になったって話があったな。
 こんなんだから部落差別は絶対に無くならない。


274.名無しさん:2011年06月28日 13:47

部落出身のDV夫と離婚した知り合いがいる
部落ってことは気にしてなかったがいざ別れたいと言いだすと親族縁者が実家にまで乗り込んできて差別だなんだともめにもめたらしい
結局裁判沙汰になった
被差別意識が強いと大変だわ

509:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 14:00:21.29 ID:4rQ7MgrAI

昔部落の人と付き合ったことある。
別れたら殺すって、長い事ナイフで脅されて別れられなかった…
親からして頭イってるし、常識が全くない。
後で知ったが、旦那自殺に追い込んで、やっと金入るって喜んで国から金貰って暮らしてた。
鳩とかスズメ捕まえて食べてたし、家に行った時は、人間って、すごいな…

人に寄ると思うが、なんか自分と生活レベル明らかに違うと思ったら全力でやめとけ

408.:2011年06月29日 08:13

部落の家系差別の歴史云々は知らんが
部落の者と親戚になるとマジキツイ
相手親族に部落を盾に甘い汁吸う事しか生き方知らん奴が必ず居るから
うっかりそいつに目をつけられるとマジで吸い尽くされるか家庭崩壊寸前まで追い詰められる
しかも弁護士が本当に嫌がるから自衛も難しくて一方的にやられるのみ
知り合い当人は部落から外へ出ていてまともでも、その人を通して親戚付合いするようになれば
どうしてもそういう部落の中の異常に触れざるを得なくなるから結婚等は慎重にね

483.名無しAtoZ:2012年10月03日 09:49

部落の人差別する気はもうとうないが
今まで付き合った人の特徴は

少しのことで逆恨みする
損得感情がはげしくてお金にきたなすぎる
悪口がすごい嫌がらせする

のでどうしても怖い
すごく家柄がいいようにいばって嘘ばかりついて信用できない
差別されてきたからこういう性格になったと思うから世の中が悪いと思うけどあまりにも性格が悪すぎ
結婚になると差別じゃないけどどうしてもお金目当てのような気がする

4.:2011年06月27日 19:36

結婚関係は相手の出身というよりその親戚などの周りの人間はきちんと把握しておくべきだよ。
生活破綻者が寄ってきたりすると生活が壊れるから。


5.名無しさん:2011年06月27日 19:37

部落の者と結婚すると自分もその一部とみなされてしまうという恐怖心があるんだろうね
それで差別が未だに無くならない


8.:2011年06月27日 19:40

部落はともかく、近親に身障がいるのは危険
将来絶対に面倒見させられるよ
自分の子供が身障ならどうにかなるけど嫁の弟じゃ面倒見ない訳にもいかないしね

450.:2011年07月01日 13:27

大阪で営業に就職したら、まず最初に部落が記された地図が渡される。 
意味は分かるな?

360.名無しさん@ニュース2ちゃん:2011年06月28日 21:42

三重県だけど、部落がなんでなくならないか知ってるよ。
自分たちで同和だから金くれ、って役所に行くからだよ。月に20万ぐらいもらえる。
あと市役所も一定の人数採用枠がある。
それを利用するから同和がなくならない
差別サイテーとか書いている人は、多分部落を知らない


291.:2011年06月28日 15:13

まぁ、BとZと煎餅には関わらない方がいいからな、マジで。
うちの街でBの若い夫婦が別に病気でもなんでもないのに生活保護で暮らしてた。
で、昼間っからギシアンばっかりでぽこぽこ子供生んで、たしか8人くらいいた。
結果、生活保護費で月収数十万とかw
役所がたまりかねて「いい加減にしろ」と指導したところ、日教組と解放同盟と人権派弁護士(笑)と人権団体(笑)の連中が役所取り囲んで大騒ぎになった。
奈良だっけか、B出身の職員がズル休みしまくってたなんてのもあったよな?
そんなことばっかりしてるから嫌われるんだよ。Zの連中と一緒。


366.:2011年06月28日 21:59

このスレ消した方がいいよ
解同が動くよ なにされるかわからんよ
忠告しときます

296:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 11:54:57.93 ID:lUul0Nli0

俺はヒニンじゃないがヒニンの名誉のために言っておくと
ヒニンとエタは天と地ほどの違いがある


309:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 11:57:44.57 ID:lUul0Nli0

非人
・町役の下役として警備や刑死者の埋葬をする
・少年犯罪者の世話などに従事した
・銭を支払うことで、平民に戻れた

穢多
・町民の住居からかけ離れた場所に、集めて住まわされた
・死んだ牛馬を百姓から貰い受け、その肉を食い、皮は皮製品などにした
・一生平民に戻ることはできなかった


320: 忍法帖【Lv=20,xxxPT】 :2011/06/26(日) 12:00:21.15 ID:bh5xfPAE0

非人てのは歌舞伎役者や芸能に携わるものも含まれてた
穢多ってのは簡単にいえば乞食ってかホームレス

386: 忍法帖【Lv=20,xxxPT】 :2011/06/26(日) 12:20:48.52 ID:bh5xfPAE0

ヤクザの8割が部落出身者
これだけで十分だろ


423:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:44:15.14 ID:s6SefZoz0

部落出身者と付き合うのは本当やめとけ
やーさんまがいの連中と繋がりあったりする


479:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 13:42:31.41 ID:1r6sUsDL0

部落は川の傍に家がある
水のみ百姓と同じ原理ね。
川が氾濫して流されて
死んでも良いカスが住まわされてる。


55.:2011年06月27日 20:42

・黒壁の立派な屋敷が点在する。
・その周りにある家はバラック小屋みたいなのか、同じ形の町営住宅。その駐車場にはゾロ目ナンバーのセルシオ
・歩道とか整備されてる。だが、ちょっと住宅街入ると放置自動車とぺんぺん草生えた道。
・町役場とかはかなり立派な作り。

ま、わかりやすいっすね。


210.:2011年06月28日 06:55

京大に合格して関東から下宿先を探しにきたとき、タクシーに乗ったら運転手が

「なるべく坂の下の方はやめたほうがいいですよ。
低い土地のところは、洪水が起きたときに真っ先にやらられるから、エタ・ヒニンのひとたちが昔から住まわされてたんですよ〜。
できれば京大より北の方がいいですねー」

普通に言ってきてひいた。

456.:2011年07月03日 22:40

米210
京都の西陣に実家があるが(当然京大よりも北部にある)が、普通に徒歩圏内に被差別部落があるぞ。ネットでは出雲路橋部落と呼ばれているらしいが……。
烏丸紫明の交差点の社会保険病院の向かいに府の部落解放センターがあるが、今でも『部落解放』を呼びかける何処の水平社だよと突っ込みたくなるスローガンを堂々と掲げている。
被差別部落を差別する気はないが、確かに近寄り難い人達が多いね。


128. :2011年06月27日 22:50

がーっはっはっは
初期の住まいはカワッペリ。
氾濫見守れと川守役人。洪水にも負けず。
革をなめしてたたいて築いた
田舎とはいえ間口3間大所帯の馬具店の大地主の旧家
かつてのエッタの家系だが文句あるか?
差別をあおるアホは去ね。そんなカスよりいくぶんましじゃ。


428:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:46:39.50 ID:975WkNpg0

部落のここがすごい
・インブリード配合なので池沼のリスクが普通の人より遙かに高い
・地域ぐるみでゆすりたかりは当たり前
・税金免除等の特別優遇措置多し
・解放同盟のスーパー圧力を使える
・犬は鍋で食べるか車に投げるかどっちか

401:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:26:18.76 ID:XC9nIe9uO

被差別部落は形式上無くなったんだが「差別された過去」を引き合いにして利権を貪ってるのが問題だわ
うちの九州の田舎なんか少し離れたところにやたら舗装された道路があってそこだけ豪邸が何件もあって
ガキの頃からそっちには近付かないように言われてたわ

当然そこが同和区域な
ヤクザとつるんで美人局を繰り返して、畑を見回りに行った農家を拉致するなんてのも日常茶飯事
こっちが文句を言おうものなら差別だなんだと捲し立てて暴力は当然のこと
部落解放同盟がヤクザと一緒になって集団で押し掛けて文句言った相手が自殺するまで吊し上げを繰り返す
人間の屑だよあいつら

41....:2011年06月27日 20:28

 そうそう、オールドカマーの在日くんのほとんどは韓国の「白丁」という日本の同和と同じ被差別階級だよ?日本に統治された時に、一応平等ということになったんだけど、それでも差別で仕事がなくて日本に出稼ぎに来た200万人のうちかなりの割合が白丁で、戦後も帰る場所と差別されるから60万人が日本に残った。
 まあ、人権というネタで戦後に社会党などの左翼運動と結びつき、田中角栄の「同和新法」に乗っかって蓄財と運動で特権を確保したのが日本の同和と朝鮮人の馴れ初めと結びつきの経緯だよ。
 なお、まじで同和は税金免除されてた(というか同和新法がなくなるまで。税金まともいに払ってない奴大杉、税務署員が戦々恐々で手が出せなかった)、それで事情を知る近隣住人は同和地区の人間を侮蔑の対象としてみている。

元犯罪者や障害者の集まりだからなぁ
http://logsoku.com/thread/hibari.2ch.net/news4vip/1309051828/
http://netaatoz.jp/archives/5423523.html


【近親婚】☆★ 近親相姦 ★☆【近親婚】


149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 22:41:19 ID:97w0ScBB0

地主とか近親婚姻とか多いと本人から聞いた。
近親相姦に関しては、韓国とかシンナーや珍、覚せい剤、麻薬などに関係する人間だという認識。
というかそれも事実に聞いたことある。


167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 20:16:19 ID:UGPBcoGu0

地主の人間は、近親婚姻が多い。


162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 20:49:03 ID:CfM3H4iK0

同じ苗字が密集部落は、近親相姦 近親婚姻で FA。
鳩山前首相の父親は近親婚で出来た子供だって、本当?


213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/10(月) 11:34:21.90 ID:n8ZLfaQ00

いや、近親相姦なんて普通だって
信長と妹のお市も近親相姦してたしな
チンチンとマンコと性知識があれば、どの兄妹でも近親相姦する可能性はあるよ


24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/06(水) 01:38:44 ID:kErza/0CO

本場の部落民はまじで近親相姦で同姓が固まって生息しているよ。
駄菓子屋の元消防団所属のSWなんてさ、放火8件もやったらしいけど、もう出てきてるって噂。
一人っ子で40歳超えて火を見ると興奮するとかが動機だったり。
でも、もしムショから出てきても周りがみんな親戚だし、『あの人、火付けだよね。』とか言ったら、おまえは統合失調症患者だって集団で来るってわけ。


304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/26(木) 20:42:28.50 ID:ryqTG4Hn0

近親婚繰り返してると、アルビノとか生まれたりするんだよね。
ウサギみたいに真っ白で目の赤い…


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/07(木) 22:40:05 ID:5fNhjna/O

私の知人にも親が近親者同士だったのがいるよ。母とその兄弟が両親だったって。

身体的特徴は足が左右で長さがちがう → 歩くとビッコを引く。
顔の長さが悪い事考える時は縮む → クシャおじさんみたいに短くなる。
頭が弱い → 儲け話しにすぐ乗って騙される。

名古屋市○○区から金銭貸借で逃亡。三重県出身らしいよ。
やっぱり血が濃いと頭は弱いんだね。
こんなのでも一男一女がいるらしい。
よう、生きとるわ、親子共々。

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/13(金) 01:23:31 ID:8dUXTfwO0

低身長140弱で、極度の老け顔の気の毒な30台女性が同僚。
住所は未指定だが所謂「川向こう」で下駄屋臼屋が数件。
性格は明るい方だが、空気読めないのでうざい。たぶんガチとオモ

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/13(土) 06:38:28 ID:jPWLSa4z0

近親婚が当然のように行われている地域ってある?


46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/13(土) 13:57:12 ID:1AGWhqdHO

大家族青木家。
逃げた女房の連れ子(二女)2人も子どもを生ませた鬼畜親父(右翼の解体屋)。
長女は親父に襲われそうになって逃亡。
血縁はないが普通じゃない。

100 :天下の基水:2009/11/21(土) 14:24:54 ID:A8lRz1M/O

私も娘とはよくやってるよ。アブに似てかわいいんだなこれが。
やって何がわるいのかね?


272 :お買い物は三越で:2012/03/09(金) 18:37:23.00 ID:Rq9UU8ofO

愛媛県松山市ですが自分の妻も父親に小学二年生から中学二年生まで性のハケ口にされていました
初潮を迎えたあとはゴムを付けてしていたようです フェラで口に出されてゴックンも強要されたそうです
妻にあきたら妹も同じ目にあったそうです

290 :春や昔十五万石の城下哉:2012/04/11(水) 10:26:04.37 ID:uxgZWQMzO

うちのカミさんは父親とそういう関係でいまは精神分裂病になってるよ

289 :正岡子規:2012/04/11(水) 10:04:45.17 ID:OhActwpE0

このスレは、同和民が、一番触れられたく無い恥部。


47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/13(土) 17:27:04 ID:c6BgmFej0

いとこ同士でも、気持ち悪いと思う。二人知ってる。
その親(60代)が、そうなんだが、やはり子供の顔が濃い。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/20(月) 15:29:12 ID:2HPM+W0d0

いとこ同士の結婚がやたらに多い家は怪しい
Bの可能性あり


280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/24(土) 13:05:57.56 ID:2J5zbc2M0

いとこ同士で結婚するキモイ事を平気でする同和民。
だから、何らかの遺伝病を持っている。
ガン家系、精神疾患、体が異常にデカイ、異常に小さい、等等。


48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/16(火) 03:04:33 ID:xmQ7NxF5O

俺の地域は村だから
ほぼ近親
仕方ない・・・・・・


52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 01:25:45 ID:jTmXnxBZ0

この前読んだ部落対談って言う本で読んだけど、
近親相姦ばっかりして山奥に追い出された一族とかもあるみたいだね。

村人A「あの山に住んでる○○という一族は近親相姦ばっかりしておる・・・
気持ち悪いのう」
村人B「ああ、だからあいつ等みんな同じような顔しとる・・・近づきたくないのう・・・」


53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 03:41:49 ID:Heiqkq/V0

歯の話で思い出したが、ドイツに留学した歯科医の人知ってて、その人がドイツで聞いて、ドン引きしてた話。
ドイツ人の歯科の教授が、なにやら各民族の遺伝子的特性の流れを調査する為のプロジェクトにちびっと参加して、各民族のアゴの骨のデータを調査してたらしいんだが、 その人がDNAサンプルから特性把握する人と会った時に、その人がドン引きしてて、 「どしたの?」って聞いたら、

 「韓国人の一家を一単位として家族のDNAサンプル取って調べてたんだが、
  どう考えても"父+娘"と"母+息子"の組み合わせで生まれたとしか思えない
  サンプルがワラワラでてきて・・・」

ふう、真の闇をマジで見たよ。


164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 04:06:16 ID:KJC6BeN30

韓国の試し腹が有名
近親相姦の風習国家。
宮崎の橋本さんも実際に、試し腹をカンコックで経験されて、その事実を述べられています。


【試し腹】△初夜権
http://yomi.mobi/read.cgi/society3/society3_korea_1122658102


55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 05:57:24 ID:5iPMSLLBO
>>53
やっぱりな…
なるほど…
納得、納得って感じかな、だから前頭葉に欠陥が有る訳だw
医学的根拠が有るなら間違いないなw


56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/19(金) 00:30:51 ID:6xTf1WbA0
>>53
確か、ダッポクしたアンミョンチョル氏が北朝鮮の強制収容所の実態を書いた本
があったよ
その中に、近親相姦(確か、姉と弟)している家族を見つけてしまい、
「いつもやっているのか?」と尋ねたら
「はい、私達は、欲情したらこうするほかないのです。」と答えられたそうな
衝撃的な本だった

遺伝子地図では、そこまでわかるんだね?

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/24(水) 03:20:23 ID:IS4FsJA+O

夫婦って顔が似るって良く言われるジャン。
だけどそれも余りにも似すぎている夫婦ってひょとして・・・と

とある地区近くの健康の湯でくつろいでいたじーさん・ばあさん見てたら思ってしまった。


58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/25(木) 11:37:06 ID:BTnEE5QQO

野村夫妻ゞ


118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/08(火) 21:21:34 ID:rayG6rhh0

近親相姦とかやってる椰子の結納写真を見たことあるけど、ヤクザ雑誌に載ってる内々の婚姻を公明正大にする結納写真と同じなんだよ。
特にひどいのだと何代近親相姦続けたか知らんが顔全く一緒の夫婦というキモいのもある。
そしてこういう夫婦は、戸籍詐欺とかやって捕まりそうになったら男装した妻に出頭させて夫が逃走する時間稼ぎとかしょうもないことやるからますます世間から隔絶されるのだ。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/27(土) 09:23:36 ID:BzKQ2fSCO

近所に住んでいた おじいさんとおばあさんが いとこ同士だった

息子が兎口で小さいときに手術したそうで唇から鼻にかけて傷跡があった
兎口なだけで頭脳明晰(大学の教授だった)


65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 00:53:06 ID:xyQ04R/cO

近親関係だと口元に特徴が出るのかい?


63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/27(土) 18:23:18 ID:RtuC7paw0

ミツクチは、500人に1人だっけ?そんなに珍しいものではなさそうだよ


64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/27(土) 18:54:00 ID:OXISMgyZO

近鉄南大阪線に乗るとロンパリやコビトやジョンイルみたいな顔のJKや馬みたいな口元の人を見てしまうんだが。


67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 12:10:59 ID:VFB4+3hfO

最近街ん中ではミツクチ珍しいよ
大概手術してるからわかりにくくなってるだけ
産まれたて赤ちゃんのミツクチはキモイ


68 :63:2009/06/28(日) 13:45:31 ID:2wErXDy20

大人のみつくちは見たことないよ。
幼児か赤ん坊の頃に手術するからじゃないかな?

近親婚で口元に特徴が出るのかどうかは知りませんが、顔の造りや体型は、瓜二つ
では?
旦那がちびで、いとこでもある妻もちびなら子供は間違いなくちびとか。

一家全員160センチ以下という、いとこ婚の家族は、顔もほぼ同じ。
息子なんて、成長期に細胞は成長したがっているんだろうけど、遺伝子が邪魔しているという感じだった。 身長は伸びず、筋肉ばかり横へ広がる感じ。

確か、ネパールかその辺りでは、深刻な嫁不足で、3人兄弟に1人の妻なんて、普通らしい。
毎晩、誰かしらの相手をしなくてはならず、子供が出来ても誰の子か、わからないそうだよ。
3人兄弟の父親、つまり、義父も参加してくるらしい。
あれ?近親相姦とはちょと違うかな?


69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 20:33:51 ID:PL23/anOO

↑乱婚・雑婚といわれるもの

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/03(金) 15:55:00 ID:fSgAmzeBO

何らかの理由で周囲から生殖隔離している集落ならすぐに親戚だらけになるから、イトコ婚を無くせば相手を選択する余地がほとんどなくなっちゃうんじゃないか?
あと、家財の分散を防ぐために親戚同士で結婚というのもあるだろうね。

とはいえ法律婚可能な範囲でも近親婚を繰り返せば、下手をすれば一代限りの兄弟婚よりもリスクが高いなんてこともありそうだ。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/11(火) 09:54:24 ID:8lHvgMFy0

仏教で言う畜生道とは近親相姦のことである。
また、牛や豚を意味することもある。


91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/29(木) 21:30:13 ID:SseOf15X0

近親婚で子供を作るのはやめてくれ!!
俺の祖父母は親せき同士で結婚しやがった
親が高齢の時に生まれた親父がADDと思われるような症状がある
そんな俺もおれも親父が高齢の時に生まれて、高機能自閉症を患ってる
本当に学生時代は人間関係に苦労したし、人並みのことができないから就職すると本当に苦労の連続

同じ町内に父娘同士で子供を二人作ったカップルがいた
その子供の一人は明らかに知的障害を患ってるし、残る一人も発達障害っぽかった
近親婚はしたかったら勝手にやればいい、だが子供は作らんでくれ!!
子供はほしいだろうが、生まれる子供のことをよく考えてほしい


119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/13(日) 11:32:27 ID:Y6M7mTJ50

うーん・・・俺の嫁も従妹だけど、やっぱり親や叔母からは子供作らないほうがいいと言われてる。
本当に好き同士で一緒になったし、子供も欲しいって思ってるんだけどね。


120 :もっこす2.0 ◆KwQQLUeBQnhU :2009/12/13(日) 11:40:57 ID:tyK4o3ag0
>>119
養子もあるしDNAで優秀な子供を選べるメリットもあるよ。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/13(日) 17:00:15 ID:s08jCp+sO

ちょっときつめのインブリードですね

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/14(土) 22:47:02 ID:yCBujUI70

やんキーはきれいな子も多いけど、近親相姦のおかげだよな。
(親の親の・・・代かもしれんが)
おんなじ数だけ、ブサイク病弱も産まれるという理解でおk?

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/15(火) 21:52:17 ID:JuJrO0TO0

もれの近所、父母 姉妹2人の4人家族の話し。ちなみに200戸余りの新興住宅地。
おねぇちゃんは背も高くてめちゃきれい。今は都会に出ている。
が、妹はダウン症。いまは3人仲良く倹しく暮らしている。


123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 21:54:58 ID:mWzlz03+0

巫女の血を引く家系かもしれんな。
それこそ神様と婚姻してもいいほどの超美人1人を頂点として侍女やら小姓やら取り巻き一族が沢山付いてくるような感じの今となっては社会にそぐわなくなった古い血筋なのかもしれん。
中国やアジア奥地の村なんかだといまでもこういう血族が近親婚で集落つくってるのが残っとるんだが、日本の場合は国策で廃村に追い込んで村人は都市に流入したのだった。 理由は赤軍の潜伏先見ればあれですが。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/10(火) 20:40:10 ID:yScEslMP0

自分たちは古代からの特殊な血を受け継いだ優良種でそれを守っているという認識が部落民の一般人に対する優越感の根底にあるからな。
土着系の呪術的風習を捨てられない人たちに多いのだが未だに親や同和頭の決めた相手と近親そかーんしている。九州とか離島とか中央集権支配の届きにくい場所でほそぼととって感じで。


98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/13(金) 23:36:31 ID:TYBUozCa0

古代社会では血を濃くする目的で近親婚してたようだが現代の社会モラルに背を向けてこそこそ近親相姦する連中ってそんなにメリットあるとおもってんのかね。血を濃くして卑賤民のリーダーとなりうる子をつくるとかいっても十数年たたないと結果のわからない博打みたいだもんだろうに

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/03(木) 22:47:12 ID:VM36U7E20

モンブラン系の異能の力を取り戻すために血を濃くする必要があるとか考えてる方々がかなり確信犯だとおもうのだが
モンブラン≒同和≒ヤクザ という横のつながりからやはり怪しい連中なんだろう。

天上天下という漫画は巻を重ねるごとに近親相姦で異能の力を取り戻して各地に潜伏する異能者の同時革命を起こして普通人を逆支配するとかなんとかすごいことになってます。


127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 19:43:00 ID:qqhY6yGa0

穢多の人たちのオカルト的習慣によると近親相姦して血を濃くすることに意味があるらしいだ
なんでも同和電波の感度が上がるとかなんとかという理由なんだけどこんな古代人みたいなことするのがよっぽど重要だから人里離れた場所でこそこそ近親相姦に励んでいるのだろう。


129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/28(水) 20:40:31 ID:5O9zOHs30

中上さんも、高貴な血と何回も書いているし。


101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/22(日) 18:37:58 ID:JcGTL/vY0

b地区は非公式に兄弟婚もあるってことなのか??


102 :もっこす ◆KwQQLUeBQnhU :2009/11/22(日) 23:48:20 ID:2T+DNbOu0
>>101
ないよ。
基本的にカワタ身分は同じ身分同士で結婚したから自然と武士と同じく遠方婚になったんだよ。


115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/03(木) 21:09:43 ID:VM36U7E20
>>102
だが元卑賤民階級絡みの犯罪報道で内縁の妻というのがよくでてくるんだが
扶養控除等のメリット捨てて内縁の妻にするってやっぱり法律上許されない組み合わせなんじゃね?


116 :もっこす ◆KwQQLUeBQnhU :2009/12/03(木) 22:12:05 ID:bBzUCkf70
>>115
現代のあれは由緒正しくない怪しい連中だよ。
一緒に考えないでね。

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/23(月) 09:38:24 ID:olZEmmNt0
>>102
また一部の例外を、さも本当の様に吹聴してますね。 一種の人身売買です。


105 :もっこす ◆KwQQLUeBQnhU :2009/11/23(月) 09:41:37 ID:M+ye3VOw0
>>104
各地に残る由緒正しい人たちの親戚関係を調べたことないでしょ?
もっともできないね。
あたしは条件に恵まれた。


106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/23(月) 09:51:14 ID:olZEmmNt0
>>105
燃えた出自は、創り放題だしね。


108 :もっこす ◆KwQQLUeBQnhU :2009/11/23(月) 10:06:45 ID:M+ye3VOw0
>>106
解同連中なんかはそこら当たり詳しいよ。
本に書かないだけで研究者は知っている。


109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/23(月) 10:15:55 ID:olZEmmNt0

都合の悪い事は、表に出ません。もっこすくん、同様。


110 :もっこす ◆KwQQLUeBQnhU :2009/11/23(月) 10:27:48 ID:M+ye3VOw0

そうそう裏でこそこそ情報交換してます。
個人情報だからね。


111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/23(月) 10:32:36 ID:olZEmmNt0

そして、捏造。


112 :もっこす ◆KwQQLUeBQnhU :2009/11/23(月) 10:37:55 ID:M+ye3VOw0

捏造も暴露もしません。
解同消滅が目標で静かに暮らしている庶民は無関係だからね。
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1241434742/


私は部落出身です


335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 17:37:15.08 ID:dzBWrIuh0

血族婚が続いた故の弊害だな
障害を持って産まれる人、身体及び精神を病んでいる人が多い
犯罪者がその身分に落とされた為、犯罪を犯し易い性格の者が多い

一方で、身分差別分けされた当時に醜いとされた外見(今では美人)の者が多いから、美人が多い 所謂、部落美人

しかし、戦後のドサクサでBの土地に住み着いたシナチョンも多いのでそういう輩は、ソッチ系の顔立ちになる


60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/16(水) 19:09:45 ID:kWR3rNJX0

被差別部落出身云々は、国境を越えてこの国を出て、例えば欧米諸国へ行くと、
殆ど無意味になります。
J人(S系)の問題の深刻さには比べられません。

J人=ジューイッシュ=ユダヤ人
S系=スファラディ系のユダヤ人


65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/27(日) 13:33:17 ID:7PYS035f0
>>60
それで、B出身や在日の女は出自の隠蔽のために、外国で日本女が憧れる白人男と結婚しているのが多い。 一般民の女に勝った気がするのだろう。
ハーフタレントの母親はBや在日が圧倒的に多い。
外人男から見ればBでも在日でも全く気にしないからな。


70 :名無しさん@お腹いっぱい:2009/10/01(木) 16:14:55 ID:fy1YeVpL0
>>60
在日、B出身の女は外人、特に白人と結婚したのがよくいるよ。
たぶん、出自を無意味にするためと優越感に浸るためだろうな。
(白人男と結婚してハーフの子供を持つと他の女に勝った気がするらしい。)


67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/28(月) 02:23:13 ID:KuGc7ftA0

東西南北の姓の京都人です。親の代に奈良に引っ越ししてきました。
宮や藤の姓以外は、部落民のように扱われてBやKが仲間だと思って寄ってきます。

就職がなかったら「焼き肉屋のバイト、口聞いてあげる」と近所のおばさんに言われて、親に相談したら、親が怒り狂ってました。

よく美人と褒められるのですが、部落美人という意味ですか?
宮田さん、宮本さん、藤本さんは、絶対BKではないのでしょうか。


68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/29(火) 07:41:20 ID:c11PuYMci

宮田とか藤本の在日バカチョンなんざ
掃いて捨てる程いんだろカス


69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/30(水) 22:11:31 ID:TrUGU1Jy0
>>68
d。うちは京都では上にも下にも普通の庶民扱いだったのですが奈良で上から目線の、農家の人達ばかりで(親は一部上場企業勤めです) 聞いてみたら部落上がりとか言われてびっくりしました。
別に部落と言われてもいいけれど。なんか腹たつ

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/23(月) 14:22:56 ID:P+368AOqO

エッタはなんで嫌われているか考えるべきだ。
単に同和出身というのではなく、厚かましく、面倒な存在に気付かないからだ。


102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/05(土) 22:37:04 ID:g7Llr8tFO

つながりが地縁血縁と蜘蛛の糸のように絡み付いて自由じゃなくなる


105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 02:19:23 ID:XXq85LX30

部落出身者と結婚する場合、本人は普通でも身内にとんでもなく ややこしい人間がいる可能性が高いのは事実だから未だに難しいんだよね。


117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/28(日) 11:35:09 ID:Gg2Ml+cv0

じろじろ見る奴は部落。それ直せない。きもい。かわいそう。


129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/10(月) 22:49:52 ID:NbqKmPhS0

部落民でも人に危害を加えない部落ならいいが危害を加える部落民が多いから差別されるんだよ。

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 16:05:44.63 ID:u6eiggHb0

初めてレスします。エタ部落の京都三条裏ど真ん中のY中学出身です(私はエタではありません)。
東山四条(祇園)八坂神社に向かってすぐ右前のY中学は30年前、エタ、非人、四足の巣窟でした。
小さい頃から、「この道の向こうは絶対行ってはいけない」と、両親に硬く言いつけられていました(向こうは三条裏エタ非人部落・・・異様な雰囲気)。
しかし、私立中学の受験に失敗し、入学した公立エタ非人のY中学はエタの巣窟でした。

私はエタ軍団の集団リンチを受けて緊急長期入院したことがあります。
(理由は単に私の成績が非常に良く、社交的だったからだそうです・・・妬みか?)
毛布をかけられて、バットや木材いろんな物でさんざん殴られ、意識がなくなったら、タバコを耳やほっぺたに押し付けて意識をもどらせ、またリンチを行うといった手法でした。
(893もびっくりのリンチです、最終的に私は意識が戻らず、脳挫傷、多箇所骨折で全治3ヶ月でした)
いまでも、タバコで焼印された傷が残っています。 今でも、夢に出てきます。なぜあの時、両親は裁判沙汰にしなかったのか?です。
(リンチに参加したエタ全員、家庭裁判所、少年院に送検することができたのに!)
エタ、非人は人ではありません。まとめて駆除殺戮焼却しなければいけないでしょう。 今でも、中学時代のエタ非人への恨みは絶対忘れてはいません(一生忘れません)。 エタは人の形をした悪魔です。エタ地域の人間は集団虐殺するか、去勢、子宮摘出してこれ以上、悪魔の子孫を残さないように適切に駆除すべきです。

また、最近、エタが普通地区の銭湯やスーパーマーケットにのこのこ顔を出すようになって近隣住民は非常に迷惑しています(ガラが悪い。なぜ普通地区にくる必要があるのか?)。
相手がエタなので普通地域の住民は怖くて何も言いませんが、エタ、非人と同じ湯に入るのも公言と拒否する強気の戦前おばぁさんもいます。
エタ地区には格安の公衆浴場やエタ専門の市場があるのですから、そっちを使えば、 エタ地区に隔離しておくことができるのに。
なぜ?、エタ地区からゴキブリのように出てきたのか?不思議です。


317 :権平 ◆T0e.kDbaK2 :2011/11/25(金) 15:33:53.18 ID:uOGwOjpV0

同和地区から逃げ出そうとしてるんでしょその人達は
つまり解同を見切ったんだよ。


326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/07(火) 17:17:10.70 ID:nUmFl2o5O

離婚と部落は関係あるかもな。俺の知ってる中でも二人は部落出身で離婚してるよ


327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/07(火) 17:47:32.37 ID:u9RTscIp0

俺の知ってるBの家は、姉妹全員(三人だったかな?)が離婚して
実家に帰ってる
子供は居ない
少なくとも連れて帰ってはいない


330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/07(火) 23:29:42.54 ID:msneV7OvO

部落民はどのような感じなのか教えて下さい。


331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 00:00:52.81 ID:Pm9QhFacO

有名人だと、元ポクサーの竹原みたいなイメージ。


332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 08:47:55.92 ID:2RdYyJLI0

Bな上にバツイチ…十字架多いなw


333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 13:33:59.12 ID:6m8n69Py0

Bのひとは、相手が思い通りにならないとかんしゃく起こすという韓国人の火病みたいな性格をもっているから、離婚すんじゃないの?
お互いに話し合って合意点を見いだしたり、お互いに得をするとか損をかぶり合うということができず、相手に一方的に譲歩を要求する。

会社でも、自分と下僕たちというグループばかりつくりたがるし いばるために地位を使うような人も多いし、周囲と協力できないし。
家庭という閉鎖空間で、夫婦という二者関係でもそれをやると…。


334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 16:45:15.11 ID:dzBWrIuh0
>>330
一言で言えばちょっと変な人
自分の体験では、人ん家の葬式に来て、ホームビデオで激録!
しかもお焼香してる人一人ずつアップで!

そんな事してどうするの?と思うけど どうやら弔問客に著名人や権力者が居た場合そのビデオを人に見せびらかすらしい
で、こんな人と知り合いなんだ!どうだ!…って威張る

因にこの話を聞かせて、ドン引いたら一般人
何がおかしいの?撮影は自由でしょ?思い出じゃない!ってなったらB確定

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 21:47:39.06 ID:6m8n69Py0
>>334
で、こんな人と知り合いなんだ!どうだ!…って威張る
Bのひとって、これ好きだよね。
実際には知り合いでもなんでもないのに。
他人の権威で自分を飾りたがる。
ブランドのロゴをありがたがるし。

自分自身に対する永遠に上書きできない劣等感。
これがあるかぎり、そのみっともない自慢は続く。

あと、葬式以外のイベントでも、そのときの主役や主賓をさしおいて自分が目立ちたがる。 他人の送別会で自分語りをしたあげく、辞めていく人の悪いエピソードを話して笑いをとろうとして泣かせたり…。
自分が目立つことや自分を飾ることや他人を利用することばかりで頭が一杯のややこしすぎる人。 上司の顔をたてることせず出世できなかったり、部下つぶしに躍起になって下からも慕われなかったり。

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/09(木) 20:48:45.67 ID:IWhLSfVRO

部落民の決定的な違いは『損害賠償』という考え方が染み付いていること。
それを金銭で片付けるという発想の仕方が感心しないこと。
許すことを考えず、金銭欲望に拘ること。


345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/09(木) 20:57:53.21 ID:yKQZlt7w0

謝罪と賠償。
そのくせ、自分が他人に迷惑をかけたり損害を負わせたときはヒステリックにわめきたてて、自分が被害者であるかのように振る舞う。
泣き落としや恫喝を交え、相手が泣き寝入りするまで追い込みをかける。

だから、Bとは付き合うな。Bがいる地域には住むな。
いくら普通に見えても、そういうトラブルに巻き込まれたときにきれいごとでは済まない彼らの恐ろしさを最悪な形で思い知るんだよ。


346 :名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/09(木) 21:07:36.44 ID:Hpq5io8n0
>>345さん
ちょっとした知り合いで、大阪から北陸に転居されてきた方がいます。 もちろん、本人は部落出身など言いません。 でも345さんの書かれた通りの行動にどんぴしゃです。 その人とあと2ヶ月、同じ教室にいないといけないのですが、どう接したら、自分を守る事ができるでしょうか?


348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/09(木) 21:17:44.91 ID:yKQZlt7w0

言い訳をたくさん用意して、あらゆる誘いを断る。
自分のことを話さない。目につく物品を持ち歩かない。
金がないふりをする。勘違いさせない程度に敬して遠ざける。
常に別の力のある人と行動する。キョロ充と呼ばれようが。
少女漫画に悪魔のような女性にとりつかれて日常が一変する
そんな話があるでしょ。悪質なBに目をつけられるって、あれ。
事前にセンサーが反応したのだから、とにかく全力で回避。


349 :名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/09(木) 22:40:30.25 ID:Hpq5io8n0
>>348さん
>悪質なBに目をつけられる。

すでにこれです。
この3ヶ月、相手を何度もフォローしてきたつもりなのに、何かのタイミングでスイッチが入り態度が豹変します。 どうしましょう?回避できません。
Bの人って、刃物で刺したり、ピストルでドンとか平気でやるんでしょうか?
マジで、怖くなってきました。
ちなみにこの人は、現在25歳前後でデキ婚で北陸の嫁の家に転居してきて、6歳の子を筆頭に子供が3人、嫁の母と同居ですが、嫁の家ともうまく行ってないようです。
アドバイスお願いします。


350 :名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/09(木) 23:05:00.82 ID:Hpq5io8n0
>>348さん

マジでアドバイスお願いします。
ほんとに怖くなってきた。 Bは犯罪率高い。
どおりで北陸に来て友達がいないと言っていたわけだ。
いないのではなく、できない、周りも近づかなかったんだ。


351 :名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/09(木) 23:19:08.36 ID:Hpq5io8n0
>>348さん

このサイトのB苗字の特徴にもある苗字です。
http://unkar.org/r/liventv/1253190571
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1289759452/l50

ホント怖くなってきた。
助けてください。
アドバイスお願いします。


352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/09(木) 23:33:39.23 ID:yKQZlt7w0

私も、人間関係処理巧者ではないので…。
むしろ彼らはそういう人間をうまく見つけて絡んでくる。
フォローすればするほど、無限に要求してくるでしょ。
他人を助けてしまうような人から、あらゆるものを奪い取る。
怖いのは、立ち去られたり拒否られると逆恨みすること。

ウンコもらして女と別れる非常手段のように自分は頼りにならない、自分と一緒にいると損をすると自爆して見せて、相手のほうから去ってもらうしかない。

まわりの信頼を失う損失より、そいつに憑かれつづけるほうが損。

353 :名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/09(木) 23:54:34.88 ID:Hpq5io8n0
>>352さん
>むしろ〜逆恨みすること。

全くその通りです。
なるほど、解決法は、自分で自爆して、相手の方から去ってもらうか。
ありがとうございます。明日からすぐに実施します。

しかし、名前、携帯電話番号、車のナンバープレートはBにバレバレです。
憑かれないように、逆恨みされても追跡されないように、携帯番号や車のナンバーは変えたほうが良いでしょうか?


354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/09(木) 23:58:43.37 ID:yKQZlt7w0

Bさんに限らず、関わってはいけない人が存在することを一回どこかで学んでおくのも、いいことなんじゃないかと思う。
自分に来そうになったら、そういう経験をしたことない人にうまく誘導して犠牲にすることで、自分の身を守るぐらいやる。

いきなり変更すると拒否られたとして激昂されるので、電話は忙しいふりを。
クルマのナンバーもそのままでいいでしょう。どうせ自宅確認されてるから。
洗車しないで荷物を散らかし、ついでに乗せてと言えないようにする。

356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 00:19:04.50 ID:pSnLolUt0

Bさんにも、いい人はいるんだよ。
そういう人は、やるべきことを人一倍やって他人からは一歩距離をおいてる。
だから、他人を食い物にしたがるBさんばかりが目立っちゃうんだな。
生まれ育った環境が特殊すぎたから仕方ないのかもしれないけどさ。

新しく知り合う人をむやみに信頼しない。
遠くから来た人には警戒する。田舎者と呼ばれようが。
不幸話や孤独話をされたら、同情せず常套手段だと見抜く。
困っている人を見ても手を貸さない。見て見ぬふりをする。
断ることを悪いことだと思わない。優しさが身を滅ぼす。
中東で仕事をする商社マン感覚で日本の日常世界を生きる。


357 :名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/10(金) 07:35:36.52 ID:pcn86soK0
>>356さん
ありがとうございます。
そうですね。全てのBさんが悪いわけではないですよね。

たまたまこのBさんに当たってしまった。
中東で仕事する商社マンですか。
使って信じずでいいんですかね。

救われた思いがします。
ありがとうございます。


358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 08:28:28.59 ID:1VIcWXYs0

怖がるのも分かるけど すぐに斬りつけられるとか撃たれる、みたいな考えもどうかと…
ホントにBがそんなんばっかりだったらとっくに日本全滅してんじゃねーか?w

何より、Bだって確定してないんだろ?
行動と名字って疑惑だけで、先祖の職業や詳しい出身地とか調べたのか?
だいたいこの性質って在日にも当てはまるぞ
大阪は在日多いぞー

こういう短絡的な考えが差別を助長=Bの怖い性質を助長してるんじゃねーかと思うわ
差別されている事を何らかの形(主に金)で帳尻合わせよう
合わせる権利があるんだ!って考えがBの中にあるからな

綺麗事で情けをかけたのは自分なのだから
怖い目嫌な目にあっても自業自得


359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 12:44:27.61 ID:pcn86soK0
>>358さん
変わった人だなー程度にしか思っていなかった自分が悪い。
人間観察が趣味言うとったし、目のつけどころ、聞くところ、
全てが普通の常識と違う。
Bの動態に当てはめると、全て満たします。
もちろん、在日の可能性もあるけど。


361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 16:55:39.20 ID:qrogbiKOO

部落差別を無くす教育はあっても、部落の暴力から身を守る教育は無いからな。


363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 22:06:19.42 ID:pSnLolUt0

変わった人、面白そうな人、気さくな人。

ズレている人、自己顕示欲が強い人、なれなれしい人。

常識のない人、社会に恨みをもつ人、他人を利用する人。


こいつ、おかしいぞ?というセンサーは、けっこう正しい。
でも、それをよく解釈してしまったり、見捨てられない甘さをもつ人が危ない。
そういう人間をよく選んで牙を刺し吸血するよ。あの人たちは。

でも、やくざと同じでいきなり殴りかかってくるチンピラよりも
背広を来て敬語を使う穏やかな経済やくざのほうがダメージは深い。

Bの手練れに取り憑かれると、いろいろなことが調子狂う。
利用できなくても、相手を自分並みか自分より不幸にできれば目的達成。
それは、あの人たちにとっては正当な権利であり、正義の復讐だから。

368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 11:29:38.53 ID:xHxtkNrm0

ハイレベルな考察ではなく日常的なエピソードで申し訳ない。
BKの人によくある話のしかたというものがあった。

「○○市なんだけどさあ」
「そこ友達すんでるよー」

「で、○○神社に行ったら」
「●●大社▲▲神宮まで行くべき」

「○○国によく行きます」
「俺スゲー田舎まで知ってるよ」

こんな感じで、つねにすぐに相手より詳しい自分アピールで知己や経験からくる知識を使い、相手を話の主役にはしない。 頭悪い人もやるけど、いい年をした地位のある人でもBKはかならずといっていいほど、これをやるケースが多かった。
いつでもどこでも負けん気と自己アピールで頭が一杯のようだ。


369 :音無し:2012/08/20(月) 11:43:53.85 ID:y7sQlL1ii

在日の人は身分を隠さなくて堂々としている
Bの人は隠そうと必死になる。それが裏目にはまりすでに自分を捨てている
男なら誰でもいいからすぐ寝るだから淫乱になる
気が短くやっていることが無茶苦茶でわけがわからない
半分うつ病になっているケースがおおい
新TOWNと名がつく所だと地元の人はほとんどBだとしっているが
よその人はわからない
それとしらずにつきあってしまったことがある
まわりの人は見て見ぬふりをしてわらっていただろう
自分の体験より


370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/20(月) 22:50:04.71 ID:ikX+P5UQ0

声かけてくる見知らぬ人間が危険人物である確率と
自分から声かけた見知らぬ人間が危険人物である確率

圧倒的に前者の方が高いわ


371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/21(火) 20:19:25.24 ID:CdwzcVvp0
在日も隠してる奴いっぱいいるぞ。

372 :名無しさん@お腹いっぱい:2012/08/23(木) 16:19:29.07 ID:YUFzr9WY0

スーパーの駐車場で、財布落としてしまったんですけど、
もし、部落民の人が拾ったらどうしますか?
お金だけ引き抜いて、財布はゴミ箱にポイですか?
カードや免許証、保険証を悪用しますか?

374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/23(木) 22:34:29.70 ID:lyXzvAqL0

だいたい部落をやむを得ず通る時は

ドアはロック、窓を閉め内気循環、速度は人の歩く速さ、
目線は遠く、キョロキョロしない、車間は通常の3倍、手はグー

西日本の常識


377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/29(水) 14:52:08.04 ID:ms3mt50VO
>>374わかるわ〜


378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/29(水) 16:26:11.65 ID:jQa/6TmlO

後ろから改造した軽が煽ってきたらどうするんですか?
狭い道で向こうからクラウンの旧車が来たらどうするんですか?


379 :もっこす:2012/08/29(水) 18:47:49.94 ID:OcbY0xUoO

普通、バックでぶつけるでしょう。
修理費は相手持ち。
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1248218269/



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14. 中川隆[-10742] koaQ7Jey 2018年4月20日 16:40:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11551]

被差別同和部落では現在でもこういう家庭が多いですね:


ヤクザと風俗が被差別同和部落民の生業の定番ですが

風俗店を経営している父親から受けた異常な性教育 2013/11/12/ 02:57


我が家は変態家族です。

ネットを開けば、野外での露出やスワッピングなど、変態カップルや変態夫婦が溢れています。俺の両親は、スワッピングや乱交や野外プレイをこなしてきたタイプです。そして、俺はその変態夫婦の子供です(笑)。

両親が一番変態なのが、子供を巻き込む事に一切抵抗感がない事です。
普通はどんな変態夫婦も子供は巻き込みませんよね。

父は風俗嬢の母と結婚し、若くして脱サラをして風俗店を経営しています。
この状況だけでも一般的な家庭ではありません。
まさに変態のサラブレッドのように俺は育ってしまいました(笑)。

父は自分の店の風俗嬢に、最低でも1日1発フェラ抜きをさせている程性欲があり溢れています。
(10分位で済ませるが、1時間分の給金は出しています)

(普通の風俗店では、あらゆる理由から自分の店の風俗嬢とはしませんが、ウチでは男性店員もお金さえ払えばOKなんです)

そして、中出し大好きな変態夫婦(両親)は今時珍しく4人の子供を授かりました。
姉、姉、俺、弟の4姉弟です。そんな我が家の話です。

我が家では、10歳になると性教育との名目のプレイが始まります。
(もしかしたら両親は真剣なのかも…)
俺が10歳になった時、親父が、

「ママには絶対内緒だからな!」

と約束をさせ、俺を自分が経営する風俗店に連れて行きました。

そして、まず待ち構えていたのは勃起の能力の確認でした。

親父の事務室に入るとすぐにエロDVDを鑑賞させられました。

巨乳の女の子達が全裸で犯されながら口内発射されたザーメンを次々と飲んでいく内容を見せられ、すぐに勃起してしまいました。

父「ちゃんとチンコ硬くなったか?」

俺「硬いよ」

父「気分はどうだ?硬くなって気持ちいいか?」

俺「気持ちいいよ」

と答えると親父は店の女の子に電話を掛けました。

父「準備は出来てるから、教育の件今からお願いする」

するとすぐに事務室に下着姿のお姉さんが2人入って来ました。

親父に好きな方のお姉さんを選ばせられると、選んだお姉さんが服を脱がせてきました。

隣では父も服を脱いでいます。

エロDVDを見させられて既に勃起していたので、お姉さんが

「うわ〜っ(笑)」

と笑いました。

全裸になり、腰にタオルを巻かれると、4人でシャワー室に連れて行かれました。

シャワー室に入る時、2人のお姉さんはブラとパンツを脱いでプルッとしたオッパイを丸出しにしました。

この時、俺のペニスはビクビクと脈打っていました。

シャワー室に入ると父が

「即尺からいこっか」

と言い、父と横に並んで立っている前でお姉さん2人が屈み込んで俺の包茎のペニスをジュポジュポしゃぶり始めました。

よく家で母が父にフェラしてたので日常的な光景だったのですが、見るのとされるのは大違いでした。

父「皮を剥くって分かるか?俺と同じ形になるようにチンコをつまんで根元に皮を引っ張ってみろ」

親父は自分のペニスの皮を実際に動かして実演した。

お姉さんにフェラされながら真似して皮を剥こうとすると、キツくて最後まで剥けませんでした。

そして父は、もう1人のお姉さんにフェラを続けさせ、ペニスをわざわざ口から外してお姉さんの開けた口の中に向けてしごいて射精をしました。

父「これが射精な。大人になる為にお前もするんだぞ」

そしてプレイルームに移動し、フェラをされながら皮を剥くように引っ張る事を続けました。

それが毎日1時間です。

徐々にペニスの先の皮が緩くなり、4日目にはカリの半分まで剥けていました。


5日目、シャワー室に入ると父は俺の勃起したペニスを見て

「皮半分剥けてるな。今日全部剥いちまえ」

と言い、お姉さんがフェラを始め、俺のペニスが完全に勃起すると、父が俺のペニスの皮を摘んでゆっくりと強く剥いていきました。

皮が3分の2まで剥け、カリがお姉さんの口の中に触れる面積が増えていき、ゾワゾワした性感をカリが感じていました。

父が

「皮を摘んでしごいて、皮を全部剥いちゃって」

と言うと、お姉さんがペニスの先をしゃぶりながら俺のペニスの皮を摘んで皮を剥くようにシゴキました。

5分もすると皮がさらに緩くなり、お姉さんがフェラしながら皮を剥くようにシゴいていると、あまりにも気持ち良くてギンギンに勃起していました。

もう剥けそう…と思っていると、突然お姉さんの口の中で皮がズルッと全部剥け、カリ全体がお姉さんの口の中に放たれました。

皮が全部剥けた瞬間、また初めての性感を感じました。

お姉さん「全部剥けたよ〜(笑)」

父「じゃあ精通させて、フェラはゆっくりな」

お姉さん「はぁ〜い!」

お姉さんは強く吸いながらしゃぶりつきました。

横では父がもう1人のお姉さんに口内発射しています。

父「気持ちいいだろ?そのまま気持ち良くなっていくと精子が出そうになる感じするが、分かるか?」

俺「分からないけど、フェラチオ気持ちいい」

父・もう1人のお姉さん「ははは!(笑)」

父が、もう1人のお姉さんに俺に抱きついてキスするように言うと、俺はフェラをされながらお姉さんに抱きついてキスをしました。

お姉さんのオッパイが当たってきて、性感が一気に高まりました。

お姉さんに抱きついてオッパイを俺の体に押し当てていると、お姉さんの体気持ちいい!お姉さんの体気持ちいい!としか考えられませんでした。

そして、頭ではお姉さんの体しか考えられなくなり、今まで感じた事のないような込み上げ感が沸き起こりました。

とにかくペニスが気持ち良かったのを憶えています。

何も分からないまま、とにかくお姉さんの体で気持ち良くなっていると、しゃぶられているペニスが凄い勢いでビックン!!ビックン!!と動きました。

激しい快感に包まれ、ペニスがビックン!!ビックン!!と脈打つ度、尿道にゼリーのような物が通り抜けていくのが分かりました。

フェラしていたお姉さんは精液を口に溜めながらゆっくりしゃぶりついて来ました。

お姉さんが口を開けると、精液がタップリ入っていて、射精をした事を知りました。

父に、

「お姉さんが精液を飲んでくれるから良く見てるんだぞ」

と言われ、お姉さんがゴキュッと喉を鳴らせて精液を飲むのを見ていました。

抱いているお姉さん「うわ〜〜〜(笑)」

飲んでくれたお姉さん「あはは(笑)」

父に、

「おめでとう!大人の男だな!」

と言われて嬉しかったのを憶えています。

そして次は、連続で射精出来るようになるまで1週間毎日フェラ抜きをされました。

父にはオナホールとローションを渡され、

「家でも射精したくなったら使いなさい」

と言われ、お姉さんのフェラを想いながら1日に2〜3回射精をしていました。

初めのうちは射精した直後にペニスを刺激されるのは辛かったけど、すぐに慣れていきました。

3週間目には、3分も休めばすぐ次の刺激が出来るくらいになってしまいました。

そして、

「お姉さんに連続で射精してみろ」

と父に言われ、シャワー室で2回口内発射をしました。

さすがに父も

「これは凄いな(笑)」

とお姉さん達と笑っていました。

しかし、精通からひと月近く過ぎた頃の俺は、家での射精を含めると既に100回以上の射精をしており、射精欲が異常に強くなっていくのを感じていました。

そして父は、

「一緒に母に射精する」

と言ってきました。

翌日母はいつも通り、父に出勤前のフェラ抜きをしていました。

18時に部屋に来いと父に言われていたので、父の部屋に行くと父と母と姉2人が下着姿で揃っていました。

姉2人も性教育が済んでおり、処女のままバイブやローターでイク事を覚えていました。

姉2人はローターでオナニーをしていました。

母は既に下着姿で父のペニスをフェラしています。

2人の姉が隣の姉の部屋で毎日オナニーをしているのは知っていましたが、実際にローターでオナニーをしているのは初めて見ました。

異様なこの空間に入ると、風俗嬢のお姉さんの事が頭をよぎり、服を脱ぐ前に勃起してきました。

服を脱いで横になるように言われ、全裸で横になると、2人の姉が見ている中、父にアナルセックスされた母が四つん這いでフェラしてきました。

そして、父と母にフェラまで性教育された姉2人もオナニーをしながら交代でフェラしてきました。

母が父にフェラしているのは風呂場でもリビングでも日常でしたが、姉のフェラは初めて見ました。

この後仰向けに横になっている俺の上に母が乗って来て、母は俺のペニスをアソコに当てそのまま腰を下ろしました。

初めてのセックスです。

ペニスが女の中に入り、フェラとは違う快感が襲ってきました。

母が横になっている俺に抱きついてきたので、姉の体を見ながら母を抱き締めました。

そして父が再び母のアナルにペニスを挿入してきました。

母の膣と直腸の中で父とのペニスが当たり、父がアナルを突く度母の中でペニスが激しく刺激を受けました。

母は突かれる度に喘ぎ声を出しています。

俺は姉の体をオカズにして母の穴を下から突きました。

さすが元風俗嬢。

母は下からも突けるように腰を少し浮かせています。

2人の姉もオナニーが激しくなり、喘いではいませんが遠慮なくよがっています。

母の女の体を抱き締めたまま性感に身を任せていると、すぐに射精感が込み上げてきました。

現役で乱交やスワッピングに参加している母はピルを常用しているので躊躇なく母の体内で射精しました。

精通からひと月で母とのセックスを体験し、精液を母の体内に注ぎ込みました。

射精すると父と母に喜ばれ、女の体内に射精した快感に浸りながら、30分は父にアナルを突かれ、何度も射精されている母にそのまま抱きついていました。

次は姉のフェラ抜きが始まりました。

母がフェラで俺のペニスを再び勃起させると、父と母にローターでクリトリスを刺激された姉2人が交代でしゃぶりついて来ました。

姉の口の中で射精すると、近親相姦独特の満足感がありました。

精液を飲み慣れない姉はオナニーしながら一気に飲み込むと父にバイブでイカされました。

そして、射精したばかりの俺のペニスに母が再び勃起するように丁寧にしゃぶりつき、萎えなくなったところでもう1人の姉にしゃぶらせフェラを指導しました。

「彼氏も旦那もちゃんと朝夜抜かないと絶対浮気されるからね」

なんて母は言っていました。

バイブでイカされて抱きつきながらフェラしている姉に口内発射すると、やはりオナニーしながら精液を飲み込みました。

最後は母にフェラされ、2人の姉を抱き締め、姉のオッパイを感じながら無理矢理射精しました。

父が仕事に出た後も、母の

「無駄な浮気をされない為のフェラ抜き講座」

が続きました。

最初は初めて見る姉のエロい行為に引いてる部分も少しはありましたが、最後はワイワイとヤリまくっていました。

変態夫婦の息子の精通と初セックスの話です。

http://www.h-ken.net/txt/2478/
http://www.h-ken.net/txt/2478/page_1/


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近親相姦家族カズの家の告白


僕が母と、妹が父と初体験した日

最初は、母が僕のオナニーを手伝ってくれることから始まりました。もちろん僕から言い出したわけではありません。オナニーをしている時に見つかってそれから手伝ってくれるようになりました。始めの時だけは手でしごいてくれるだけでしたが、次の日からはフェラチオをしてくれました。

すごく気持ちよくて、母の口の中に出したのですが、母が精液を飲んでくれたのでビックリしました。それからも毎日のようにお願いしました。驚いたのは、父が家にいるときでも僕の部屋にきて、精液を飲んでくれたことです。あとで聞かされたことですが、父と母の計画だったそうです。

ある日、まだ僕と妹がファミコンで夢中になって遊んでいる時に、両親の寝室から母のいやらしい声がしてきたのです。妹も聞こえたらしくて、気になったので妹とそおっと寝室に行ったのです。すると、ドアが15cmぐらい開いていたので覗き込むと、父と母がセックスをしている最中でした。妹も昔からエッチな事には興味しんしんだったので、恥ずかしがらずにのぞいていました。ドアからは、父のものが母の中に入っているのがよく見えました。

しばらくして、バックの体位になったのですが、母も父もドアの方に頭を向けたので「見えにくいなあ」と思った時に、父が、「和己も久美も入っておいで」と、びっくりすることを言いました。母もあえぎながら、「恥ずかしがらないでおいで」と言いました。僕も妹もビックリしたのですが、逃げると怒られそうだったので、中に入りました。

セックスを中断して父と母は、僕と妹にセックスは、愛し会う者同士の当然の行為だと言うことを説明してくれました。そして間違った知識でセックスをすると大変な事になることも聞かされました。話が終わって、父が続きをするので見ていなさいと言うので、見ることにしました。そのまえに母がみんな裸の方がいいというので、僕と妹も裸になりました。僕のものは立っていたのですが、父が立派になったなあと褒めてくれました。妹は僕と父のものを見比べていましたが、父のものは立っていなかったので、「お父さんもお兄ちゃんみたいになるの?」と言いました。父は「握ってみなさい」と言って、妹に握らせました。そして母から手の動かしかたを教わり、動かすと父のものも立ってきました。妹は無邪気に「あっ、大きくなってきた!!」と喜んでいました。

完全に立った父が僕のものとどっちが大きいか比べようと言いだしたので並びました。妹は「おとうさんの方がおっきいし、色が全然違う」と言いました。すると母が「今日の記念におちんちんの長さを計ったら?」といい、寝室を抜け出して手にノートとものさしを持ってきました。そのノートは僕が隠してあったやつなのでビックリしました。驚いて母から奪うと、母は「そのノートはお父さんも知っているわよ。」といいました。そのノートは、僕のものの長さを計って折れ線グラフにした成長記録と、オナニーの回数をつけたノートなのです。父が15cm、僕が13cmでした。記録係は妹で楽しそうにノートに書き入れていました。

そしていよいよセックスの続きが行われたのですが、その前に妹と僕にコンドームのつけ方を教えてくれました。妹は父のものにかぶせ、僕は自分のものにかぶせました。セックスが始まったのですが、体位を変えるたびに父が説明してくれました。いつの間にか興奮した妹は自分のあそこを触っていました。それに気付いた父が、妹とお互いに触わりっこしないさいというので、妹が僕のものを握り、僕は妹のあそことオッパイを触りました。僕はがまんできなくなって精液を出してしまうと、妹がコンドームを外してくれました。そして精液の入ったコンドームを捨てていいものなのか迷って、そのまま持っていました。

母が僕のものをきれいにしてあげるからおいでというので、母のそばに行くと、体位を変えて父の上になった母がフェラチオしてくれました。それを見た妹が「お母さんがお兄ちゃんのをなめてる!」といって驚いたのですが、母は「親子だから平気よ」と言いました。やがて父と母が気持ちよさそうな声をあげていってしまいました。父の精液の量は僕の半分くらいでした。母はコンドームに入った父と僕の精液を飲んでしまいました。妹がそんなの飲んで大丈夫なの?と聞くと母は、大事なお父さんと僕のだから大丈夫だといい、妹にも少し舐めてみることをすすめました。妹は少しだけ指先につけて舐めたのですが「変な感じ」とは言ったけど、嫌そうじゃなかったです。母が「そんなに嫌な味じゃないでしょ?」と聞くと妹は「うん」と言いました。父が「男って、精液を飲んでくれるとうれしいもんだぞ」と言うと妹は納得していました。

父と母のセックスが終わったので、もうおしまいと思ったのですが、父が「和己と久美はセックスしたことがあるのか?」と聞いてきました。僕も妹も「ない」と答えました。すると父が、ふたりとももう大きいのだからそろそろ体験しておいた方がいいよといいました。そして母が「そうしなさい、和ちゃんは私と、久美ちゃんはお父さんとしなさい」といいました。僕が「親子でセックスしてもいいの?」と聞くと、父が「セックスは子供を作る目的もあるけど、快楽を味わうゲームみたいなものだから、家族同士で楽しんでもいいだよ」といいました。僕は前から母にフェラチオしてもらいながら、母とセックスがしたいと思っていたのでオッケーだったのですが、妹の気持ちがわからなかったので、どうするのか心配だったのですが妹は「お父さん、優しくしてね」とあっけらかんに言いました。妹は隠し事をいっさいしないあっけらかんとした性格ですごく明るいのですが、エッチのことについても同じなのでびっくりしました。

妹は父に全身を舐められて、気持ちよさそうな声を上げました。僕は父のやっていることを見ながら母に同じことをしました。初めてなのでうまくできなかったはずなのに母はほめてくれました。そして母があえいでくれるとうれしくなってがんばりました。母が気持ちよくなったので今度は、フェラチオをしてくれる事になりました。あとから聞いた話では、妹にフェラチオの勉強をさせるために仕組んだそうです。ギンギンに立った僕のものを母が舐めはじめると、妹が「私もやってみる」といいだしました。そして父のものを口に入れて、母が僕を舐めるのを真似しはじめました。それを見て母が、ていねいに妹に指導しました。いつもならすぐに言ってしまうのですが、一度出していることと、母が説明するためにちょくちょく口を外すので長持ちしました。時には僕をほったらかしにして父のものを母と妹が交互に舐めたりもしました。

いよいよセックスすることになったのですが、最初は僕と母が父と妹に見られながらしました。体位は正常位しかしませんでした。何回か腰をふるととろけそうな感じになって、すぐにいったからです。妹が「気持ちよかったあ?」と聞いてくるので、すっごくよかったと言ってやりました。いったあとも立ったままのものを見て母が「まだできる」と聞いてきたので、何回でも出来ると言うと、「元気ねえ」と感心していました。

次に父と妹がセックスを始めました。入れる瞬間をジックリ眺めました。「痛い」と小さな声をあげましたが、痛みをこらえながらも父のものをしっかり受け止めていました。父と妹のセックスを見ながら、妹の処女が欲しかったなあと思いました。しばらくゆっくりと腰を動かしていた父ですが、妹を気づかって途中で抜いてしまいました。すると「父さんは出るのに時間がかかるから久美がかわいそう」だからということでした。母が僕に妹とセックスするように言うので、妹に入れようとしたのですが、うまくはいりません。さっきみたいに母が僕のものを妹のアソコにあててくれて入れることができました。妹の中は、母よりかなりきつかったので僕はすぐにいってしまいました。父は隣で母の中に出していました。

こんなふうにして、家族みんなでのセックスが始まりました。
http://www.kazunoie.com/memo/memo1.html


1999年夏ごろの日常風景

ふだんの日は、父が仕事で帰ってくるのが夜11時を過ぎるのでセックスするのは、母と妹と僕の3人です。でも毎日3人で一緒にするわけじゃないです。3人一緒にするのは、半分ぐらいです。土曜日の夜や日曜日は、最低でも2週間に1回は4人でします。3人でする時は、最近はジャンケンで順番を決めて順番の低いものが上のものに奉仕します。一番勝ったものは2人から奉仕されますが、1番まけたものは2人につくさないとだめです。

先週やった時は、僕が1番、母が2番、妹が3番でした。最初に要求したのは、服装です。3人とも裸じゃつまんないので、母には裸の上にエプロンを着るようにいって、妹にはスクール水着を着るようにいいました。最初は、全身を舐めるようにいいました。上から順番に舐めさせました。乳首を同時に舐められたときは気持ちよかったです。フェラチオもチ○ポと玉を同時に舐められるとすごく気持ちがいいです。チ○ポも交互に舐めさせました。一番負けた母はフェラチオするのが好きなので、あまり母にはなめさせずに妹に舐めさせました。チ○ポと肛門も同時に舐めさせました。妹がチュパチュパとおいしそうに舐めているのを見ながら、母がうらやましそうな顔で肛門と玉をいったりきたりしていました。

しばらくして、妹も母に奉仕される権利を主張したので妹のオ○コを舐めさせることにしました。妹は僕にフェラチオしながら母にオ○コを舐めてもらうことにしました。母はレズではないらしいですが、妹のオ○コはよく舐めています。水着を横にずらしながら舐めていました。母は妹の感じるポイントを十分に心得ているのと、指をつかっていかせてしまいました。妹のイク顔を見て、入れたくなったので水着をずらせて入れました。

僕が妹をズコズコついている間中、母は僕や妹とキスをしたり、ふたりの乳首をなめていました。正常位から、だっこして最後は正常位にもどしました。妹がいったので、出すまえに母に妹とつながっているところを舐めてもらおうと思ったのですが、水着姿の妹がすごくかわいいのでそのまま出すことにしました。妹が安全日だったので、ひさしぶりに中に出すことにしました。そのことを言うと妹は「飲みたいよ」というので、「久美は兄ちゃんに注文できないんだぞ」と言ってやりました。「でも」というので「わがままいうと抜くぞ」というと、「やんやん」と言いました。そして「いくぞ」と言って中に出しました。ひさしぶりに中に出したのですが、口の中に出すのも気持ちいいですが、あそこの中に出すのはやはり気持ちいいです。全部出たので、チ○ポをぬいて母に口できれいに舐めてもらいました。妹は1番まけた時も自分からおねだりするのに、母はさすがに大人で僕が命令しない時はおとなしく待っています。

母にきれいに舐めてもらっている時に妹が「出てきた」というので、いいことを思いつき、妹をまんぐり返しにしました。そして母に妹のからだを支えさしている間にキッチンに行ってストローをとってきました。「ジャーン」と言ってストローを見せると、母は「ストローはだめよ、久美のカラダに傷がつくわ」と怒られてしまいました。ほんとうなら母には発言権はないのですが、親としておこられると言い返せません。母はそういう時はマジな顔になります。でも数分後には淫乱女性の顔つきになるのが不思議です。アメリカのホームページにそういう画像があったのでやってみたかったのですが残念です。母はそういいながらも、妹をまんぐり返ししたままなので、精液をなんとかしないと行けないことはしっかり思っていたようです。

母を仰向けにして、妹に母の顔をまたぐようにいいました。水着を着たままだったので僕が水着をずらしました。垂れはじめは母の口の中にはいらないで顔にかかりました。途中から母が下から口をつけて吸出していました。母の顔にかかったものは妹に舐めるようにいいました。でも飲んでいいよとは言わなかったので、母も妹も口の中に精液を溜めていました。いろんなビデオを見ると精液がきらいな人がいて、すぐに吐き出そうとしますが、母も妹も飲むのが3度の食事より好きなので、すぐに飲ませると喜ぶだけです。かと言って、しばらく口にいれたままにするのも平気なので、口移しさせることにしました。母も妹もいろんな精液飲みのビデオをみているので心得ています。しばらく母と妹にぐちゅぐちゅやらせていました。つばで量がふえたので、飲ませることにしましたが、抽選することにしました。

母と妹は精液を半分ずつ口に入れたまま、僕がクジをつくるのをまっていました。2個だけじゃおもしろくないので、6個作りました。当たりは1個です。妹から交互にひかせたのですが2回戦で母が当てました。妹は残念そうな顔をして、母の口に自分の口の精液を写していました。そして母はゆっくり味わいながら精液を飲みました。感想を聞くと、「久美のお汁とつばと母さんのつばが混ざっていて、母親としては幸せだったけど、精液らしい味があまりしないわ」と言っていました。母には不満だったようです。

次に、妹に制服にルーズソックスをはくように命令しました。その間に母とセックスすることにしましたが、母がエプロン姿なのでキッチンですることにしました。普段よくするように母が雰囲気作りのために、冷蔵庫からキュウリを出してまないたの上に置きました。包丁は危ないので使いません。演技派の母が「今晩のおかずは、きゅうりしようからし、和己のおちんちんにしようかしら」といいます。すると僕は「比べて見る?」と言って、コンドームをかぶせたきゅうりをオ○コに入れ2、3回つきました。そして「母さんのオ○コさん、おいしいですか?」というと、母は「他も試食するわ」といいます。今度はチ○ポを入れて聞くと「これにするわ」といいます。

しばらく立ちバックで続けていると、妹が制服姿にルーズソックスをはいて、少し化粧までしてやってきました。妹もノリがいいので、演技に参加します。「母さん、そんなことしてないでゴハンつくってよ。学校に遅れるでしょ」と言います。あえぎながら母が「待ってなさい、もうすぐ牛乳ができるから」と言い返します。「牛乳だけなの?」と言うと、母が「好きなものにかけて食べなさい」と言ったので妹は冷蔵庫を開けていました。中からカップに入ったみつまめを出してきました。フタを開けて「ミルクまだかなあ」と言って待っています。

なかなか僕がださないので、「この牛さんはお乳をもんであげないと出ないみたいですね」と言って僕の玉をさわりに来ました。「揉むより舐められる方がいいみたいですね」と言って玉に舌を這わせてきます。いきそうになったので妹に合図するとみつまめを持って待ち構えます。母からチ○ポを抜いてみつまめに振りかけました。すると「おりこうさんですね、こぼれないで全部入りましたよ、ごほうびにきれいにしてあげましょうね」と言って、口できれいにしてくれました。妹は精液がかかったみつまめを食卓でおいしそうに食べていました。精液がとくに多くかかったところを眺めてから食べていました。

たべおわるのを待っている間は、母にフェラチオをしてもらっていました。食べおわったので、最後に母と妹を交互にせめようと思って、場所をかえることにしました。食卓の上に制服姿の妹を横になるように言って、チ○ポを入れました。それから妹を抱き起こして駅弁スタイルのままリビングに移動しました。そして、床に妹をおろしてつきまくりました。母と妹をバックにしたり、母と妹が抱きあっているところを交互につきました。

しばらくついていたら、父からの合図の電話がかかりました。ちょうど母の脚を肩にのせてついていたので、妹に電話に出るようにいいました。少し話したあとで、コードレスを母に渡しました。母は父と会話していました。「食事はどうするの?」とか聞いていました。妹に聞くと早く帰ってくるとのことでした。電話を切った母が僕につかれながら、「父さん帰ってくるから食事の準備するから、母さんもうやめるわ」と言いました。「母さんまだいってないでしょ」というと、「いいからどいて頂戴」というので、しぶしぶ抜きました。「2人でやってなさい」というので、妹に入れました。

制服姿の妹をいろんな体位でついていると、シャワーをあびた母がキッチンに行くのに横を通りました。「そろそろ終わりなさいね」と言いました。そのあとすぐに妹の口に出しました。ペロっと飲んだ妹が「私もシャワーあびる」と言って出ていきました。横になっていると母が料理をつくっている後ろ姿が目に入りました。やりたらなかったので、後ろから入れさせてもらおうと近づくと、母が手で自分のお尻を隠すようにしました。それでも近づいて行くと「いい加減にしなさい」と言ってチ○ポをきつく握ってきました。仕方がないのでその時はそれで終わりました。
http://www.kazunoie.com/memo/memo99.html


僕と母のSMごっこ

母とのSMプレイの話を書きます。SMプレイと言ってもほんとの遊びです。

その日は、僕が最初にSになりました。初めに母を縛りました。縛り方は父から教わって、母や妹で何度も練習したのできれいに縛れます。と言っても跡がつくと大変なので少しゆるく縛りました。そして母に、僕の全身をなめるように命令すると縛られて動きにくそうですが、一生懸命舐めてくれます。チ○ポはすぐに舐めさせません。母はフェラチオが大好きなので、すぐに舐めさせると喜ぶだけなのでいつもじらしていじめます。玉と肛門を先に舐めさせました。

そのあとで母を座らせておいて、母の口の前でチ○ポをぶらぶらさせて「舐めたい?」と聞いてやりました。すると母は、いつも言っているように「ご主人様のチ○ポをしゃぶりたいです」と言いました。すると僕が「みゆきのご主人様は、父さんのことじゃないのか?」というと、「違います。私のご主人様は、和己様です」といいます。今度は「みゆきは、自分が産んだ息子のチ○ポがないと生きていけないです。と言ってみろ」というと、「みゆきは、私が産んだ和己様のチ○ポがないと生きていけません」と繰り返しました。

僕が「じゃあ、父さんのチ○ポは久美専用にしてもいいのか?」と聞くと、今まで雰囲気を出していたのに、多少マジに戻って「それはこまります」というので、「母さん、そういう時は僕のチ○ポだけでいいですと言うんだよ」というと、「だって、ほんとに久美専用になったら困るわ」と言いました。「もう母さんったら、よくばりなんだから」と言うと、「父さんのチ○ポがあったから和己と久美が産まれたのよ。だから大切にしなきゃ」と意味不明のことを言いました。

少しさめてしまったので、母をバイブ責めにすることにしました。バイブは母専用なので寝室に隠してあります。バイブを取ってきて、母のオ○コに入れました。すぐに母は感じだして声を上げ始めました。そして1度母がイッてしまったので、今度はバイブを抜けないようにして、何度も何度もいかせました。

5、6回いったあとで母が「もうだめ、スイッチを切って」と言うので、「まだだめ」と言って、そのまま僕のチ○ポをフェラチオするように言いました。いじわるして母から少し離れたソファに座りました。母が懸命に立ち上がって、僕の所まで歩いてきてフェラチオを始めました。でも手が自由じゃないのでチ○ポが安定しないので、口の中に入れてじゅるじゅる舐めるという感じよりも、玉を舐めたり、チ○ポを舌で下から上に舐め上げるのが中心でした。

途中からは、大きく口を開けさせておいてチ○ポを突っ込んで自分で腰を動かして母の口の中をつきました。そしてそのまま母の口の中に精液をだしました。すぐには飲ませずに、舌の上で何回か転がすように言って、最後にコップに出すようにいいました。そのあとで僕のチ○ポをきれいに舐めさせました。精液は次の僕のSの番の時に飲ませようと思いました。

一度出したのでSとMが交代です。母は女王様の衣装に着替えました。それで、僕に全身を舐めるように命令しました。舐める前には必ず「みゆき様、乳首を舐めさせていただいていいですか?」と言わされました。母の全身を舐めたあと、最後にオ○コを舐めるのですが、僕が仰向けになって母が僕の顔に腰をおろしてきました。母が「舐めたいの」と聞くので「舐めさせてください」とお決まりのセリフをいうと、「いつも同じのセリフじゃ舐めさせてあげない」と言われたので、「僕が生まれてきた女王様の美しいオ○コをじゅるじゅるさせてください」と言いました。すると「いい子ね、じゃあ舐めていいわ」と許可がおりたので、舐めました。

しばらく舐めていると、「上手に舐めてくれたからご褒美をあげましょうか」というので、「ありがとうございます」というと、精液の入ったコップを持ってきて、「口をあけなさい」というので、「それは、次に使う分だよ」とあわてると、「奴隷が生意気なことをいうんじゃありません」と言いました。自分の精液だから抵抗はないのですが、予定が狂ってしまうのでこまったのですが、命令だから口を開けました。すると母が精液を僕の口に垂らしながら「飲んではダメよ」と言いました。全部口に入れると「私の口に垂らしなさい」というので、母の口に垂らしました。母が何度も口移しを要求するので、つばで量が増えて行きました。最後に母がコップに精液を戻し「女王様は今日は、たくさん飲みたい気分なの、だから奴隷は一生懸命出しなさい」と言いました。

そのあとで母が上に乗ってセックスしたのですが、僕がイキたくなったら母は腰の動きを止めました。何回もじらさせたあと、体位を正常位に代えて母の口に出しました。母は舌の上で精液を転がしたあとでコップに移していました。
http://www.kazunoie.com/memo/memosm.html


父と母の出会い

いつも読んでくださっている方からの質問で「父と母の出会い」と「母が近親相姦を知った時の事」を書いて欲しいというのをよくいただきます。母から取材をしたので書きます。

学校に行かなくていい日の朝、父と一緒に朝食を食べていたら母から「手伝って欲しいことがあるから家に居て」と言われました。いやな予感がしたけど家の用事が最優先なのでイヤイヤ「うん」と返事をしました。そこに制服に着替えた妹がやってきて父の膝の上に座りました。そして父の皿からリンゴをひと切れ取って食べました。僕は用事を妹にも手伝わせようと思って「母さんが用事手伝って欲しいそうだから早く帰ってこいよ」と言いました。すると母は「午前中で終わる用事だから久美はいいわ」といいました。

妹はその後、自分がお尻をこすりつけている間に父のチ○ポが立ってきたのでひっぱり出してフェラチオしようとしました。でもすぐに母から「遅刻するわよ」と言われてやめました。そして父と僕にキスをしてから「お手伝いがんばってね」と言って学校へ行きました。

全部終了して母の所に「終わったよ」と言うと、松山から僕あてに荷物が届いていると教えられました。開けて見ると、僕の大好きな栗と「栗んとん」というふざけた名前のお菓子とビデオテープが入っていました。再生すると従姉さんが美穂さんをいじめながら撮影したビデオでした。ほとんど美穂さんのアップで従姉さんは声ばっかりです。時々従姉さんが美穂さんにバイブを入れる所の手が写る程度でした。美穂さんは従姉さんに質問攻めに合っていました。僕はこのビデオを見ながら「母にもこの手でいこうか」と思いました。

ビデオカメラを持って、家事をしてた母の所に行きました。カメラを回しながら後ろから迫りました。母はカメラを見ると「ハメ撮りしたいの?」と聞いてきました。「ダメ?」と聞くと「化粧してから」ということなのでしばらく待ちました。

待っているとシャワーを浴びて化粧した母が裸でやってきました。僕のズボンを脱がせました。僕は「フェラチオしながら質問に答えて」といいました。母はパンツを脱がせてくれて僕のチ○ポを咥えました。

カメラを見ながら僕のチ○ポの裏筋を下から上に舐め上げている母に、「父さんと母さんってどこで知り合ったの?」と聞きました。母は「それは前に教えたじゃない」と言いました。僕はビデオ用に「ビデオ用に全部もう一度聞くので答えてよ」といいました。

母はチ○ポを舐めながら答えてくれました。父と母の出会いは「アイビー」がきっかけです。昔アイビー少年少女だった父と母は学生自分に別々のアイビークラブに所属していたそうです。その頃、アイビーリーグというのがあっていろんなアイビークラブが所属していてパーテイなんかも開かれていたそうです。そのパーテイで父と母は初対面したそうですが、そこでは何も起こらなかったそうです。

仲良くなったのはアイビーのファッションショーに出た時で、父と母がカップル役に選ばれて「金曜日のデート」というシュチエーションで手をつないだのがきっかけだそうです。最初のデートでキスをして、2回目のデートでHしたそうです。3回目のデートからは会うたびにHしたそうです。

母が僕の先ばしりの液を舌先ですくって舐めました。僕は「母さんのフェラって父さんが仕込んだの?」と聞きました。すると「母さんはね、父さんと知り合うまではお嬢さんだったのよ」と答えました。僕は久美のフェラチオの練習を思いだしました。久美は母が僕のチ○ポを舐めているのを見ながら父のチ○ポを舐めたり、学校から帰ってから僕のチ○ポを母とダブルフェラしながら練習していました。見る見る上達して父が悲鳴をあげたのを覚えています。でも母は見本が無かったのでどうしたのか聞いたら、言われるままにやったそうです。

母にフェラチオの素人の役をやってもらいました。母は僕のチ○ポを握りながら「どうやったらいいか教えて」と言いました。僕が「先っぽをソフトクリーム舐めるみたいにやってごらん」といいました。すると、いきなり根元から先っぽまで一気に舌を這わせました。僕が「それはお嬢さんじゃないよ」というと母は「ソフトクリームが垂れてきたのよ」とボケてくれました。

母が「そろそろ欲しい」というので入れることにしました。質問しながらハメ撮りするので騎乗位でしました。僕が横になると母はパンツを脱ぎました。「舐めようか」と言うと母は「ヌレヌレだからいいわ」と言って、チ○ポを掴んで自分で入れました。僕は下から撮影しながら質問を続けました。

次の質問は、父が近親相姦しているのを知った時の事を聞きました。結婚前に2人で見た映画に近親相姦の話があって、映画が終わってから「もし俺が近親相姦してたらどうする?」と質問されたらしいけど、「そんな事あるわけないわ」と思ってた母は、祖母がきれいな人だったので冗談半分で「あのお母さんなら、いいんじゃない?」と答えたそうです。

映画のタイトルを聞いたけど、母は「わすれたわ。それより、もういいでしょ。4日もしてないから母さんすっごくしたいのよ」と言いました。僕は仕方ないので先にやってから質問を続けようと思って「終わってからも付き合ってよ」といいました。すると母は「何回でも付き合うわよ。今日は何回する?」と言いながら腰を激しく上下しました。

僕はカメラを置いて、下から母のオ○コを激しく突きあげました。母は「アー、いいわ」と声をあげました。僕が下から母のオッパイを揉むと母はドンドン感じていきました。母は4日もしかなった日はめったにないので、いつも以上にすごく感じていました。母に「クリトリスさわってごらんよ」と言うと、カラダをそらせてクリトリスをいじりはじめました。母は「気持ちいい!!」と言いながら腰の上下とクリトリスいじりを同時にやっていました。

だっこちゃんスタイルになると、母は僕の口にむしゃぶりついてきて、よだれで僕の口まわりをべとべとにしてくれました。それから正常位になって母の足を肩にかついで激しくパンパンと突きました。すると母は「ダメダメ!!イク、イク!!」と言って、イッテしまいました。僕はチ○ポを入れたままで母の痙攣がおさまるのを待ちました。

もう一度カメラを持って、イッタ後の母の顔を映していると、トロントした目で僕を見たので「母さん、さっきの話の続き教えてよ」と言いました。すると母は「そんな事どうでもいいでしょ。もう一度して」といいました。僕は質問に答えてくれないのでいじわるしてチ○ポを抜いてしまいました。すると母は「抜かないで!!」と悲鳴のような声を上げました僕が質問に答えてくれたら入れてあげると言うと、母は自分の指でオ○コを開いて「わかったら、入れて」と言いました。でも僕はホームページのネタ作りのためにフェラさせながら答えてもらおうと思ったので「質問が先だよ」と言って入れるのを拒否しました。

母にフェラチオさせながらいろいろ質問しました。母は僕がしゃべっている間はチ○ポを舐めていて、答える時はチ○ポを握らせました。ビデオから音声だけ書き取りました。


僕「もっと、音を立てて舐めてよ」
(母が、激しく音を立てて舐めました)

僕「母さんがホントに近親相姦やってるのを知ったのっていつ?」
(チ○ポから口を外しました)

母「結婚してすぐよ」
(ふたたび口に咥えました)

僕「告白されたの?」

母「見たの」

僕「父さんとおばあさんの?」

母「そう」


全部書くと長くなるのでまとめますと、結婚後に松山の家で泊った時に父と愛しあっている所におじさんとおばさんが「仲良くやってるか?」と言って入ってきたそうです。母がビックリしていると、その横でおじさんとおばあさんがセックスを始めたそうです。それが最初に近親相姦の現場に触れた時だそうです。


僕「ビックリした?」

母「そりゃ、ビックリしたわよ」

僕「じゃあ途中でセックスやめたの?」

母「・・ううん」

僕「母さんの事だから、興奮したんでしょ」

母「わかる?」

僕「わかるよ。それで母さんは見てたの」

母「ちょっとだけね」

僕「どんな体位でしてたか覚えてる」

母「いきなりバックだったわ」

僕「おばあさん、気持ちよそうな顔してた?」

母「ニコニコしながら、母さんたちを見てたの」

そのあと、バックでやっていたおばさんが母のオッパイを舐めにやってきたそうです。その当たりからわけがわからくなって気がついたら、隣で父がおばあさんと座位でやっていたそうです。そして横になって見ていたら、おじさんがおばさんを連れてきたそうです。おばさんは妊娠8ヶ月目で大きなお腹をしていたそうです。


母「おばさんはね『私もビックリしたけど家系だから諦めちゃったわ』と言ったわ」

僕「意外にみんな認めてしまうもんなんだね」


父さんがおばさんに中だししたあとで、チ○ポを抜いて近づいてきた時に母はてっきり自分が後始末するもんだと思っていたら、父さんはおばさんとデイープキスをしてからゆっくり横にしてパンツだけ脱がせてチ○ポを入れたそうです。父はおばさんの大きなお腹に負担がかからないようにしてチ○ポをゆっくり出し入れしたそうです。僕はまだ妊婦としたことがないのでそのシーンを想像してすごく興奮して出したくなりました。


僕「母さん、出したいから舐めて!!」

母「待って、母さんの中に入れて」

僕「1回出してから」
(母が激しく舐めあげてくれて、僕は母の口に向けて発射しました)

僕「まだ飲まないで」

母「すごい、一杯れたわ」

僕「うれしい?」

母「うれひい」

僕「口を開けて」
(母が口を開けると、たっぷりと僕の精液がたまっていました)

僕「終わるまで飲んじゃだめだよ」

母「わかったわ」

精液を口に含ませたままで母に父とおばさんの続きをしゃべらせました。父とおじさんは正常位のままでやって最後におばさんの大きなお腹の上に射精したそうです。母は大きなお腹にの上に出された精液を全部舐め取ったそうです。舐めとっている時に後ろからお尻をつかまれたので振り返るとおじさんがいて入れていいか聞いてきたそうです。母は拒まないで受け入れたそうです。

その質問が終わって、精液を飲んでもいい許可を与えました。母はおいしそうに喉を鳴らして飲んでいました。僕はホームページ用のネタを撮り終えたので、母ともう一度することにしました。四つん這いにしてバックから激しく突きました。パンパンと音を立てて突くと母は頭をソファに乗せて、あえいでいました。母の片足を持ち上げて突くとすごく気持ちよさそうによがっていました。

僕は、一緒にイクつもりだったけど母が我慢できそうになかったのでバックのままでイカせました。僕はすぐにチ○ポを抜くと正常位に変えてもう一度バコバコ突きました。イキたくなったので最後のダッシュをかけて母と同時にイキました。チ○ポを抜いて母の口に向けて発射しました。全部出終わって母に最後まで吸い出してもらいました。
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朝の僕と母と妹の3P

妹がボランティア活動先から大阪に戻ってきて最初の家族乱交のことを報告します。この日の朝、起きてすぐにトイレに行こうと下に降りました。すると、リビングで母と妹が全裸で、父は下半身だけ脱いでいて3Pをやり終えたところでした。父が四つんばいの母のお尻の上に射精したらしくて、妹が口で吸い取っている最中でした。父はチ○ポで飛び散った精液を集めて、妹が吸い取りやすいように協力していました。

父は、僕を見て「父さん、ゴルフだから後は頼む」と言いました。その声で思い出したように母が「お父さん、時間大丈夫なの?」と聞くと父は「あっ」とあわてました。「久美、先に父さんのチ○ポきれいにしてくれ」と言うと、妹は「お母さん動かないで」と言って、口に入れていた精液を母の背中に垂らしました。そして父のチ○ポをパクっと咥えて、オ○コ汁まみれのチ○ポをきれいに舐めました。妹が口をすぼめて何回もしごいたので、父は「またやりたくなるから、舌だけがいいな」と言いました。

チ○ポをきれいにしてもらった父はすぐにパンツとズボンを履いて出て行きました。妹はもう一度母の背中の精液を吸い取っていました。妹が吸い取っている間に、母が「カズちゃん、母さん欲しいから早くトイレに行ってきて」と言いました。僕は妹が父の精液を飲み込むまで見ていたかったけど、朝立ちでビンビンだったのですぐにトイレに行きました。便座に座って朝立ちしているチ○ポを押さえつけてオシッコをしました。

トイレから出ようとしたら母が僕をトイレの中に押し戻してパジャマのズボンをズリ下げました。そして僕を便座に座らせて、その上にまたがってきました。「母さんから先でいいの?」と聞くと、「お父さんが母さんのお尻の上に射精したけど、ほとんど久美ちゃんとやってたのよ」と言いました。母はチ○ポをつかんでそのまま腰を下ろしてきました。母のオ○コの濡れ具合からして、かなり我慢させられていたみたいです。チ○ポが母のオ○コの奥まで入っていく間「ハアー」と声をあげていました。

母は僕と軽くキスしてから、上下運動を始めました。「母さん、かなり我慢したでしょ」と言うと「そんなに濡れてる」と聞いてきました。「グチュグチュだよ」と言うと、「すぐにイキたいから激しくして」と言いました。僕の方からも下から激しく突き上げました。母は「いい、いいわ」と声を出しながら上下運動を続けていました。母の声がだんだん激しくなってきたので、そろそろ妹が乱入してくるかなあと思っていると、予想通り妹がやってきました。ドアを開けっ放しにしてやっていたので、丸見えでした。でも妹は「オシッコしたい」と言うだけで、僕と母のエッチに参加してくる様子じゃなかったので、「母さん、久美がオシッコしたいらしいからトイレからでよう」と声をかけました。すると母は「もうすぐイキそうなの。抜かないで」と言うので、チ○ポを抜かないように立ち上がりました。

すると妹が便座に座ったので、トイレから出ないで、母を壁にもたれさせて片足立ちにしました。妹が「邪魔」と言わなかったので、チ○ポを動かしました。母のあえぎ声と妹のオシッコの音が同時に聞こえていましたが、僕の耳は妹のオシッコの方を90%ぐらいのバランスで聞いていました。でも母がイキそうになっていたので、オ○コを突くスピードは落としませんでした。母は「アア!アア!」と叫びながら感じまくっていました。

妹のオシッコの音が止まったので、僕は妹の方にむかって「ウォシュレットで洗わないで」という意味で手を出しました。妹は意味がわかっていないみたいで、スイッチを入れてしまっていました。せっかくオシッコしたての妹のオ○コをきれいに舐めてあげようと思ったのですが残念でした。妹はオシッコが終わってもそのまま見学していました。母はそれから1分もしないうちに「イク!イク!!!」とイッてしまいました。

母がイクと妹が「お兄ちゃん、今度あたしだよ」と言うので、母のオ○コからチ○ポを抜きました。母は仲良く3Pしようと主張していました。それからもう一度リビングルームに戻りました。リビングルームに戻ったら妹は真っ先にソファに手をついて四つんばいになって僕にお尻を向けました。母が「久美ちゃんが先でいいから、少しだけ舐めさせてね」と言いながら僕の前にひざまづくと、妹が「あたしも舐める」と飛んできました。

最初はチ○ポの両側から舌先でチロチロ舐められました。次に妹が裏筋を舐めて、母が舌の裏でチ○ポの上側をすべらせるように舐めていました。そのあとは交互に口に入れてチュパチュパ舐めたり、思いっきり吸われたりしました。Wフェラが段々盛り上がってきて、妹が僕のチ○ポを握って母の鼻の穴に入れようと遊んだりすると、母も妹の耳の穴に入れようとふざけていました。それからもう一度、まじめにWフェラに戻って、チ○ポと玉を交代で舐めてくれました。仕上げはチングリ返しさせられて肛門を舐められました。

僕のチ○ポの先から激しく「第1チ○ポ汁」が出始めたので、二人並んで四つんばいになってもらいました。母のオ○コも妹のオ○コもかなり濡れていたので、「すぐ入れるよ」と言うと、ふたり同時に「入れて」と返事がきました。約束通り、最初に妹のオ○コにチ○ポを入れました。僕が妹のオ○コにチ○ポを入れ始めると母は「どう、気持ちいい?」と妹に声をかけていました。妹は「気持ちいい」と言っていました。根元まで入れてじっとしていると妹のオ○コが僕のチ○ポを締め付けてきました。やっぱり妹のオ○コが最高と思っていると、母が「お父さんみたいに味わってないで、動いてあげなさい」と言いました。妹は「じっとしてていいよ。でもお母さんが焦れてくるかな」と冷やかしていました。母は妹の乳首をつまんでいました。

それから妹のオ○コの感触を味わいながらゆっくり突き始めました。妹はすぐに反応して声をあげていました。母は四つんばいのままで僕の腰の動きを見ていました。少しだけサービスのつもりで妹のオ○コからチ○ポを抜いて、見せてあげると母が起き上がろうとしたのであわてて妹のオ○コの中に戻しました。母はそのまま僕と妹の結合部を覗き込んでいました。僕は母を意識しないで普段通りに妹を突きまくりました。すぐにはイカせないでおこうと思ったのでおもいっきり強く突くのは数回だけにしました。それでも妹はオ○コ汁を出しまくってチ○ポが白くなっていきました。

母は段々我慢できなくなってきて僕にオッパイを押し付けるようになってきました。仕方ないので「久美、母さんと少しだけするぞ」と言うと「いいよ」と答えてくれました。すると母は妹のオ○コに埋まっていたチ○ポを強引に引っ張りだして、チ○ポにむしゃぶりついてきました。チ○ポについた妹のオ○コ汁を舐めながら「おいしい」を連発していました。チ○ポを抜かれた妹は僕に唇を求めてきました。しばらくこのままの状態でキスをしていると、母が「入れて」と言いました。

母が四つんばいでお尻を突き出していたので、妹が「入れてあげる」とチ○ポをつかんで母のオ○コに当ててくれました。すると母の方から腰を押し付けてきたのでズッポリ入ってしまいました。母は「今日の母さん、すごくHしたい気分なの。だから用事なかったら1日中相手して」と言いました。用事はなかったのですが、妹が「お昼からお兄ちゃんと梅田に遊びに行くから翔ちゃんとして」と言いました。母は「遊びだったらいつでもいけるでしょ」と言おうとしました。でも僕が激しく突き始めたので、母はあえぎ声をあげるので精一杯になっていました。妹が「お母さんイカせちゃって」と耳元でささやくので、そのまま「パン!パン!」と音を立てながら突きまくりました。

母は「イッてもやめないで!」と言ったあとは「イイ!!アア!!アッアッ!!イキそう」と声をあげていました。僕もイキそうになってきたのですが、1発目は妹でと心に決めていたので耐えました。母がすぐにイッてくれたので耐えられました。「イク!!!」と叫んでお尻をピクピクさせていた母の腰を持ってじっとしていると、妹が「今度はお兄ちゃんを気持ちよくさせてあげる」と言って、僕の手を引っ張って仰向けになるようにいいました。仰向けになって母のオ○コ汁付きチ○ポをそびえたたせると、妹が騎乗位でまたがってきました。

「出そうだからゆっくりして」と言ったのですが、妹はいつもどおりの騎乗位を始めました。妹は僕が耐えている顔を見て「ほんとに出そうな感じね」と言うので「マジで出る」と悲鳴を上げました。目を閉じて耐えていたら母が顔を舐めながら「出したら」と言いました。妹も「出していいよ」と言うので、「中出しする」と言ってから妹のオ○コの中に射精しました。妹のオ○コの中に大量の精液を注ぎこんでいると、妹が「お兄ちゃんの耐える顔ってかわいい」と言いました。

精液が全部でききると、妹がゆっくり離れました。すぐに母が妹のオ○コに口を付けて精液を吸出していました。妹は僕のチ○ポの後片付けをしてくれていました。母は最初は妹を横向きにしてオ○コに口を付けていましたが、最後は母の顔の上に座らせて舐めていました。妹は僕のチ○ポをトコトンまで吸い出していました。玉を揉みながら「思い切り吸ったら、タマタマの全部出てきたら面白いのにね」と言いました。

いつまでも離れないので母が「口開けて」と集めた精液を妹の口に入れにやってきました。妹はチ○ポから離れて、母にむかって口を大きく開きました。母は「飲んじゃだめよ」と言ってから妹の口に精液を流し込んでいました。そして妹を仰向けにしてから最後の仕上げに妹のオ○コを舌全体で「ベロ〜ン」と舐めてきれいにしていました。

妹のオ○コをきれいにした母は妹の上にのしかかって行きました。そして妹に精液を口角から少しずつ出させて吸い取りながら、「このままでいいから母さんに入れて」と言いました。僕はすぐに上下に並んだオ○コの上側にチ○ポを挿入しました。母はオ○コにチ○ポがズッポリ入っても妹との精液の口移しをやめませんでした。しばらく僕はその様子を見ながら母のオ○コを突きました。1分ぐらい突いていると、「久美ちゃんと交互について」と言うので、母のオ○コからチ○ポを抜いて、下側のオ○コにチ○ポを入れました。妹は気持ちよさそうな顔をしながら母と口移しを続けていました。

1分毎の交代を3セットやったら、母が「あと2回出して」と仰向けになりました。そして妹には「お兄ちゃんの精液3回分まとめて味わいたいから飲んじゃだめよ」と言うと妹も賛成のようでした。母のオ○コにチ○ポを入れると今度は妹が上にまたがってきました。妹のオ○コを見ながら、母を突きまくりました。時々妹のオ○コに指を入れて感じさせたりしながらやったので、腰がおろそかになって怒られました。

母はイキそうになってきた時に「久美ちゃんの口に出して」と言ったので、母が一度イッたあとの2回目に一緒にイッて妹の口に射精しました。妹の口の中にはさっきの精液や唾液が入っているので量はわかりにくかったのですが、それなりに出ました。妹の口の中は2発分の精液と母と妹の唾液が一杯だったので、チ○ポの吸出しと後始末は母がやってくれました。母は少しだけ精液のまざった唾液を妹の口に流しこみました。

2発出したあとですが、チ○ポはビンビンのままなので、3発目はすぐに始めました。母が「こぼれるから母さんが口に入れるわ」と言って、口移しを要求したのですが「平気」と言って拒否して、口に含んだままで仰向けになりました。母は「何かの拍子に飲むことがあるからダメ」と言って、母が仰向けになって、オッパイの上に妹の顔が来るようにしてバックからやるように言いました。

言われた通りに、バックからチ○ポを突っ込みました。妹は口を開けることが出来ないので「ウウウ」と唸っていました。母に「この方が久美がこぼす危険性高いと思うなあ」と言うと「オッパイの上だったらいくらこぼしても大丈夫よ」と言いました。「母さんがああいうから、思いっきり突くよ」と言ってから妹のオ○コを突き始めました。

3回目なのでイクまで時間がかかりました。妹はその間に2回イッていました。でも唸り声だけなのでいつもと様子が違いました。僕が射精に向けて腰を早く動かしだすと、下から見学していて心配した母が「お母さんの口に垂らしなさい。思いっきり声あげたいんでしょ」と言って、母はカラダをずらせました。妹は母の口めがけて精液をドバーっと垂らしていました。

それからは今まで我慢した分、大きな声をあげまくっていました。すぐに妹が「またイキそう」と言ったので、「お兄ちゃん、もうすぐイケる」と言うと「一緒にイク」と耐えていました。そして妹と同時にイキました。今度も中出しでした。グッタリしている妹のカラダを支えて母の顔をまたがせました。母は指を入れて精液をかきだして口に入れていました。

3回分の精液と唾液の量は結構ありました。母と妹が口移しをしあっている間にグラスを取ってきてあげました。ケンカしないように半分ずつわけるためです。妹の口から2つのグラスに精液が入りました。半分ずつになるように分けました。妹からグラスを選んでふたり同時に精液を飲んでいました。
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母に口内射精×2+放尿+野外ゴックン

斉藤先生に、登校前に精液を飲ませようと予定していた日に、斉藤先生が都合でこられなくなってしまいました。前の日に、学校の用事で、僕の家のドアにタッチするぐらいしか時間がないと電話が入ったので、「じゃあ、溜まってる分全部、母と妹に出すよ」と冷たく言うと、先生は「行きますから飲ませてください」と言いました。

その日の朝、母が「もうそろそろ先生が来る時間でしょ。起きなさい」と起こしに来てくれました。そしていきなりパンツから朝立ちしてるチ○ポを引っ張りだして、「先生、忙しいんでしょ。先生が着いたらすぐに、射精できるように、お母さんが舐めてあげようか」と言いました。「舐めるだけだよ」と言うと「わかってるわよ。お母さんだって忙しいんだし、今日はかなり疲れそうだから、舐めるだけで十分よ」と言いました。

オシッコがしたかったので、先にトイレに行くと、ドアを開けたら母が待っていて、パンツの上からチ○ポを握ってきました。「先生に電話したら、あと3分ぐらいだそうよ。だから急いで」と玄関に引っ張っていかれました。母はすぐにパンツを脱がせて「味わってる暇なさそうね」とカポっと口に咥えました。軽く口を前後させてから、舌で全体を軽く舐めてから、口の中に戻して、前後運動を始めました。母は「先生を待たせすわけにいかないから、来るまでに出したくなったら出しなさい。口の中で預ってあげるから」と言いました。その時、ちょうど妹が外出するために、やってきて「お母さん、半分ぐらい飲むから出しちゃダメ」と言って、出て行きました。

妹が出て行った直後に、斉藤先生から電話が入りました。いつもと違う道で来たので、渋滞に捕まって僕の家に寄ったら授業を飛ばさないといけないぐらい遅刻になると言いました。「さっき3分って母さんから聞いたよ」「クルマ止めて走った方が速いんじゃないの?」と強引に越させようと思いました。でも母がチ○ポから口を外して「学校優先よ」と言いました。その声が先生に聞こえたみたいなので「先生が来たら、すぐに出せるように、母が舐めてくれてる」と言いました。母が電話を奪って「息子の精液なんて、いつでも飲めるんだから、今日は学校に行きなさい。ちゃんと言い聞かせるから心配しないで」と言いました。

結局、斉藤先生が来られなくなったので、母の手を退けてパンツを履こうとしまいました。母は「出そうになってたでしょ。飲んであげるから出したら」と言いました。僕は「瞳おばさんの下見に付き合うかも知れないから取っとく」と言うと、「それならお母さんに出しなさい」と履きかけたパンツを奪い取られました。母は「当分、姉さんとはエッチしないで。居候も禁止」と言いました。どこかの兄弟も仲が悪いですが、最近母と瞳おばさんが少しギクしゃくしています。原因は竹野のおじさんに再婚話が持ち上がってるからです。

母が少し機嫌が悪くなったので、母の口に射精することにしました。「じゃあ飲んで」と言うと、「いい子ね」と舌を絡めてきました。「さっきは、味わう暇なかったから、ゆっくりさせて」と言って、舌をねっとり絡めてきました。「ジュルジュル」「カポカポ」「チュパッ、チュパッ」と音を立てたり、チ○ポを持ち上げてタマにも舌を伸ばしてきました。タマを舐めながら僕を見つめてニッコリ微笑みながら「玄関で飲むだけのために舐めてたら、昔のことを思い出して来ちゃったわ」といいました。「高校の頃の話?」と聞くと、「そう。カズちゃんの全身に精液詰まってたころね。でもあの頃は、すぐ出してたわよね」と笑いました。

最初に舐めてもらった時は、気持ちよさもあったけど、母が僕のチ○ポを咥えているという光景に異常に興奮したのはあって、ほんとに一瞬で射精してしまいました。でもそれからは、我慢する訓練をしたので、少しづつ耐えられるようになりました。だけど登校前に射精したくなった時や、父や妹が家に居るのに出したくなった時は、我慢しないですぐに射精する時もありました。登校前は絶対に即射精してました。

母はチ○ポを舐め続けながら、「最後までしなくても、お口や手だけで処理してあげてるお母さんって、全国に何人ぐらいいるのかしら。そんな情報入ってこないの」と言いました。「入ってこないよ。体験者の人からメールが来るか、それともこの前みたいに苦情がくるかだよ」と言いました。苦情と言うのは、お母さんに迫った男の子がいて、追及したら僕の影響というので怒られました。母は「挿入は問題あるとしても、包茎と持続力は、母親が責任持って指導した方が絶対にいいわ。じゃあそろそろ面倒みるわね」と少し強めに舐め出しました。

母は、唇で締め付けながら前後にしごいたり、バキュームフェラしたり、チ○ポの先を舌で強めにレロレロしたりして、出させようとしてきました。僕は我慢しないでイクことにして「そろそろイクよ」と声をかけました。母は頭を前後に振り続けました。「イクよ!」と言って、母の口に射精しました。溜まっていたのでタップリ出ました。全部出来きると母は口を外して、精液を含んだままで「たくさん出たわね」と言いました。そして姿見で口の中を見ながら舌で精液を転がしてから、おいしそうに飲みほしていました。

母が精液を転がしている間に、僕はパンツを履いたのですが、チ○ポがビンビンのままなので、パンツが膨らんでいました。母は「1回で我慢出来るの?今日は口でしか相手してあげられないけど、午前中なら、昔みたいに好きなだけ出していいのよ」と言いました。「いいよ」と言うと母は少しがっかりした顔をしました。でも意外にあさり諦めて「朝ご飯食べる?」聞くので「食べる」と答えると、「すぐに出来るから」というので、キッチンに付いていきました。

母は、手際よく朝食を作ってくれて、僕の目の前に置いてくれました。そしてテーブルの下に潜り込んで、パンツの中に手を入れてきました。「もう出さないよ」と言うと、「お母さんもお腹空いたわ」と言いました。左手でチ○ポを抑えようとしたら、「食事中は、両手はテーブルの上!!」と怒りました。仕方ないので左手をテーブルに乗せました。母はパンツからチ○ポを引っ張り出しました。チ○ポがすぐに立ったので母は「まだ出したらないみたいね」と言いながら、食事が終わるまで揉んでいました。

食事が終わったので、食器を洗おうとしたら、「洗ってあげるから、もう一度だけ頂戴」と要求しました。僕が断ると「お母さんのカラダに飽きたのね」と寂しそうに言いました。「母さんのカラダは、飽きるとか飽きないとか超越してるよ」と言うと、「だったらもう一度いいでしょ。抱いてって言ってるわけじゃないんだから」と言いました。それでも渋ると「自分の子と毎日一緒のベッドで寝る母親(瞳おばさん)の方が魅力的なのね。」とチクチク言いました。

「ただ出すだけだったら面白くないから、町内さん呼ばない?」と言うと、母は「ほらあ、やっぱり飽きたのね」と言いました。「違うよ。母さんだって見せるの好きだろ」と言うと「まあね」と素直に認めて、町内さんに電話していました。でもパート中だったので諦めて、イスから立ち上がりました。母はひざまずいて、すぐにパンツを脱がせてチ○ポを握ってきたのですが、握ったままで少し考えごとしてから立ち上がりました。タレの容器が入っている棚を開けたので何をしたいのかすぐにわかりました。

母は「1発目も残しときゃよかったわ」と言いながらチ○ポを咥えました。10分ぐらいたっぷり舐めてもらってから母の口に射精しました。母は容器に精液を流しこみました。そして容器を眺めて「たったこれだけじゃあ面白くないわね」と3発目を要求しました。「出しても薄いから意味ない」と拒否したら諦めてくれました。その代わりに、オシッコを別の容器に入れて欲しいと頼まれました。自分で入れるのは情けないと言うと、母が尿道に容器を当ててくれました。すぐに一杯になったので残りは全部母が飲んでくれました。
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昼はホテルで母に2発、夜は妹に2穴

妹の友達に見せてしまってほんとに良かったのか悩んでいます。そのことを妹に言ったら機嫌を悪くしてしまいました。母は「2、3日したら機嫌直るわよ」と言ってくれたのですが、僕が機嫌を取らなかったので、なかなか直ってくれませんでした。でも今は直っています。だから今週の告白が書けます。

妹の機嫌を損ねて3日目、僕は修行先が休みでした。だから妹を連れて遊びに行こうと思っていました。前の夜にダメ元で父に「明日、クルマ貸して」と頼んだら、父は返事してくれなかったのですが、母に「今晩、付き合いがあるから電車で行く」と言って、クルマを置いていってくれました。母は父が家を出ると、すぐに僕を起こしにきてくれて、クルマのことを教えてくれました。すぐに妹の部屋に行ったら、妹は「ノックぐらいしてよ」と怒っていました。僕が高校生の頃に、全裸で押しかけたら良く怒られたけど、最近はノックもしないで入るのが普通になってたのでビックリしました。それ以上、誘えなかったので諦めました。

妹が外出したら、母が「せっかくクルマあるんだし、どこかドライブに連れてって。お母さん、もうすぐ捨てられる身だから、いいでしょ?」と言いました。僕は妹とのことで悩んでいても仕方ないので母と出掛けることにしました。母が化粧しに2階にあがっていきました。なかなか降りてこないので、露出プレイの用意でもしてるのかなあと思って、覗きに行きました。すると母は鏡台の前でケータイで会話をしていました。母が「うちの子が私とのデート、待ちきれないらしいわ。・・・・休みなの・・・・まだ決めてないわ・・・もちろんするわよ。真昼間だけどクルマの中でもいいかも。・・・・ちょっと待って」と電話の相手に言ってから、僕に向かって「お母さんがカズちゃんのおちんちん舐める音が聞きたいんだって。脱いで」と言いました。過去にも何回かこんなことしたことがあるので、電話の相手は聞かなくてもエアロビの先生ってわかってしまいました。母は「レロ、レロ、ジュルジュル、ちゅぱっ、ちゅぱっ、カポカポ」と音を立てながら、舌で亀頭を舐めまわしたり、裏と表を往復したり、唇でしごいたりしました。「うちの子、毛を剃っちゃたのよ、舐めやすくなっていいわよ」と言ってから、チ○ポを舐めながら、乱交パーティの相談をしていました。

「もうビンビンよ。W先生が見たらすぐに入れたくなると思うわ。・・・まだしないわよ。家の中だったらいつでも出来るわ。・・・たまには2人だけで楽しみたいし、体力残ってたら行くわ。じゃあ」と言って電話を切りました。エアロビの先生は、母が僕のチ○ポを舐めている音を聞いているうちにエッチしたくなって、今から乱交しないかと言ったそうです。母は「この前、浩樹君とほんとの初体験した人いたでしょ?今、ジムにいるらしいのよ。倉庫に連れ込むから来てって誘われたけど断っちゃった。久美ちゃんの機嫌取る方が先だからね」と言いました。

チ○ポをズボンの中に入れて、クルマで出かけました。母は僕のチ○ポをズボンの上から軽く揉んだり、赤信号で止まるとキスを迫ってきました。5回目ぐらいのキスの時に信号が代わったのにキスしてたからクラクションを鳴らされてしまいました。それから、母はまじめに座っていました。行き先は母の希望で京都でした。クルマをパーキングに入れて、母と腕を組んで清水寺から坂をくだって円山公園で少し休憩しました。母は修学旅行生がたくさんいたのにキスを求めてきました。僕が軽くキスすると、年齢差があるのでやっぱり不思議そうに見られてしまいました。

食事をしてから、河原町とか新京極通りで母の買い物に付き合いました。妹に下着を何回かプレゼントしたことのある店に近づいたら「お土産にプレゼントしてあげなさいよ」と言いました。母に連れられて店に入りました。母は店の中でも腕を組んだままで下着を選んでいました。僕が選ばうとしないで付いて歩いてたら「自分の好きなの選びなさい」と言うので、選びました。母は自分用の下着も僕にプレゼントしてと言いました。妹と母のブラとパンツのセットを買って店を出ました。そのまま歩いているとファッションホテルが見えました。母は「さっそく付けて見たいわ」と言って、ホテルの方に引っ張りました。

部屋に入ると、先に母と一緒にお風呂に入りました。母は家を出てからずっと僕に甘えていたので母から言われる前に、カラダを洗ってあげようと思ったら、「お母さんが洗ってあげる」と言って、手にボディソープを付けて、全身を手でやさしく洗ってくれました。チ○ポは、パイズリで洗ってくれてから、「久しぶりに壺洗いしてあげてるね」と言って、チ○ポをオ○コに当てて腰を降ろしてきました。「硬すぎるけど、ここでは壺洗いだけよ」と言いながら、腰をくねらせたり上下運動したりして、チ○ポを洗ってくれました。母は僕の表情を見ながら「感じたらだめよ」と言いながら、自分も感じないように我慢してるみたいでした。少しだけ下から突き上げたら「ダメ」と腰を浮かせて離れてしまいました。その次に肛僕を四つん這いにさせて、肛門を気合入れて舐めてくれました。肛門を舐めてる間、チ○ポも手で軽くしごいてくれていたので、母のオ○コに入れたくなってしまいました。母がお尻から手を離したので、僕は立ち上がって母の手を引っ張って立たせて、キスをしようとしました。でも母は「お母さん、まだ洗ってないわよ」と抵抗しました。僕は「早く入れたいからいいよ」と強引にキスしました。

母は抵抗をやめて僕の舌を受け入れてくれました。キスの刺激で母のカラダから力が抜けたので、母の片足を持ち上げて向き合ったままでチ○ポを入れようとしたけど、母は「せっかくホテルに来たんだから、ベッドで抱いて」と言いました。僕は諦めてバスルームから出ました。そして母をベッドに押し倒してもう一度キスから始めました。キスの後は母の耳とか首筋を舐めてから、乳首を丁寧に舐めました。母は「こんなに丁寧にしてくれるのって久しぶりね」と言いました。僕は「母さんは、丁寧にされるのと、犯されるようにするのとどっちの方がほんとは好きなの?」と聞きました。すると母は「両方とも好きよ。カズちゃんがじっくり気持ちよくしてくれるんだったらそれでもいいし、お母さんの都合無視して、入れたくなったら入れてもいいし、どっちでも好きよ」と言いました。僕は時間がたっぷりあるので、丁寧に舐めました。オ○コの穴にも舌を入れてきっちり舐めました。肛門もたっぷり舐めました。

母のオ○コが濡れまくってから下着のことを思い出しました。今から履いたら汚れるので「母さん、下着着けなくていいから入れるよ」と言うと、「せっかく買ってもらったんだから、付けさせて」と言いました。母はベッドから起き上がって、さっき買った下着を着けました。すごくエッチポイ下着でした。母は「やっぱり濡れちゃったわ」とパンツの股間を触っていました。僕は「着けたままやるよ」と母をベッドに押し倒しました。そしてブラの上から、オッパイを揉みまくりながらキスをしてから、パンツを少しずらせてチ○ポをオ○コに当てました。母は頭を持ち上げて股間を覗きこんで「すごくエッチな感じね。これ気に言ったわ。ありがとう」と言いながら、僕がチ○ポを母のオ○コの奥までゆっくり入れて行くのを見ていました。

チ○ポがズッポリ入ると、母はまたまたキスを求めてきました。僕は腰を動かしながらキスをしました。キスの最中に母がごろんと回転しようとしたので、そのまま上下逆になりました。母は僕のチ○ポをオ○コにガッチリ入れたままで僕の顔が唾液まみれになるまで舐めまくっていました。それから母は上下運動を始めました。母は「すごく硬いけど、出したかったら出してもいいのよ」と言いながら腰を動かしていました。すこしやばそうだったけど「大丈夫だよ」と言うと、母は「ほんと?」と言ってチ○ポを抜いてしまいました。母は今にもイキそうなぐらいにパンパンになっていた僕のチ○ポを見て「我慢しないで出しなさい。焦らせ過ぎてごめんね」と言って、もう一度騎乗位でチ○ポをオ○コに入れました。そして母は「出しちゃいなさい」と腰をくねらせてきました。僕は「じゃあ出すよ」と我慢しないで、母のオ○コに中出ししました。

母のオ○コの中にピュッ!ピュッ!!と精液をたっぷり出しながら腰をビクッビクッとさせていたら、上から僕の顔を見ていた母が「カズちゃんのイキ顔かわいい」と言いました。僕は「母さんのイキ顔もかわいいよ」と言うと「ほんとにそう思ってる?」と笑顔で言いました。「ほんとだよ」と言うと「じゃあ今度はお母さんもイカせてもらうわ」と、精液を入れたままで腰を動かし始めました。僕も下から母のオ○コを突き上げました。母は僕が攻めだしてからも腰を動かし続けていたので、僕は母のお尻をしっかり固定してバコバコ突き上げました。母は自分から腰を動かすのをあきらめて、僕に突かれて感じまくっていました。そのまま突き続けると「イク、イク!」と軽くイッてしまいました。

それから母はカラダを反らせて、自分の精液まみれになっているチ○ポが母のオ○コに入っている様子を見せつけてきました。「パンツにも精液ついっちゃってるよ」と言うと「あとで舐めてきれいにするからいいわよ」と言いました。そしてそのままゆっくり回転を始めました。180度回転したらカラダを前に倒して「見える?」と聞いてきました。パンツ脱いだ方が良く見えるので「脱いだ方がいいよ」と言うと、母はチ○ポを抜いて立ち上がりました。そしてパンツを脱いで、パンツに付いた精液をきれいに舐め取ってから、もう一度背面騎乗位でチ○ポをオ○コに入れました。そしてカラダを少し前に倒しながら腰を動かしてチ○ポをオ○コでこすってくれました。母のオ○コの中の精液も、チ○ポに付いた精液もふき取らないで再開したので精液でグチャグチャになっていました。

そのあとは、バックで母を突きまくりました。ゆっくり出し入れしたり、高速で突きまくったり、グリグリしたり、チ○ポを抜いて、チ○ポでクリトリスを擦ったりしました。バックで母をイカせたら、今度はオ○コと肛門に交互に入れました。僕が「さっき、オ○コに出したから今度は肛門に出す?精液飲んだら、全部の穴に入ったことになるからその方がいいでしょ?」と言うと、「そうして」と答えました。オ○コと肛門をだいたい30秒間ずつ突きました。母は「アアッ!アアッ!!」と叫びながら感じまくっていました。「両方の穴でイカせてあげるね」と言って、最初はオ○コを突きまくり続けました。母はすぐに「イク!イクウウウ!!」とイッてしまいました。

母のオ○コから精液とオ○コ汁のニオイでプンプンしたチ○ポを、肛門に入れました。そして射精するまで肛門にズボズボ出し入れを続けました。母はシーツを掴みながら「カズちゃんもイクの?」と聞きました。「もうすぐイク」と言うと、「一緒にイクわ」と言って必死で耐えていました。耐えている顔が今にもイキそうな顔だったので、僕もすぐにイケるように激しく動かしました。そして「イクよ」と声をかけました。その瞬間、母は「イグッーー」とイッてしまいました。僕は母の腸にめがけて射精しました。

母は余韻に浸りながら「気持ちよかったわ」と嬉しそうでした。そして手を伸ばして僕のチ○ポがまだ硬いままなのを確かめてから、「カズちゃんのおちんちんって、何歳ぐらいまで出しても硬いままでいられるのかな・・」と言いました。そのあと、チ○ポを抜きました。母が頭をあげて口を開けたので、僕は母の口にチ○ポを入れました。母は「恥ずかしいぐらい汚れてるわ」と言いながら、チ○ポを丁寧に舐めてきれいにしてくれました。そのあとは僕が母のオ○コと肛門に付いた精液を自分で舐め取って、母の口に入れてあげました。母は「ありがとう」と言ってから精液を舌の上で転がしてからおいそうに飲んでいました。

喉が渇いたので冷蔵庫からアミノ酸系ドリンクを出して飲みました。母は口移しで飲みたがったので、口に含んで飲ませてあげました。そのままキスしました。「今日、何回ぐらいキスしてるかなあ」と聞くと、母は「10回以上してるかなあ・・」と言いました。このままもう1発やろうと思ったので、舌を母の口に入れようとしました。すると母が「そんなことしたら、お母さんまた欲しくなるわよ」と言いました。僕は「3発出すつもりだったけど?」と言うと、「うれしいけど、下着プレゼントしてお礼に久美ちゃんが欲しがったらどうするの?」と言いました。素直に2発でやめて、もう一度お風呂に入って帰りました。

夜、妹が帰ってきました。買ってきた下着を渡して謝りました。妹は無反応で自分の部屋に入りました。母は「いつまでも怒る性格じゃないから、もう大丈夫よ」と言ってくれました。夕食は3人で食べました。妹は母とは会話したけど、僕を無視していました。でも目はあわせてくれて「イー」って顔をしてきました。今日もダメかなあと諦めたのですが、夜遅くに、妹が僕がプレゼントした下着を着けて入ってきました。そして「下着姿のあたしみながらオナニーできたら許してあげる」と言いました。僕はすぐに下半身だけ脱いでチ○ポを握りました。チ○ポがすぐに立ったので「反応よし」と妹が言いました。僕は妹の下着姿を見ながらしごきました。イキそうになってきたけど、機嫌が直りかけた妹に「飲んでくれる?」と聞けないので、ティッシュの方を見たら、妹は僕の前にしゃがんで口を開けてくれました。僕は、妹の口の中に射精しました。妹は「薄いけど、お母さんに2回で我慢したから許してあげる」と言ってくれました。妹は精液を飲んで部屋から出ていきました。

ほっとしたので、そのままベッドで眠ってしまっていました。気がついたら母がチ○ポを舐めていました。妹の部屋からは「アアン、アアン」と妹の声が聞こえていました。母は「早く、久美ちゃんの部屋に行きなさい」と僕を起こして背中を押してくれました。妹の部屋に行くと、父が正常位で妹のオ○コにチ○ポを突っ込んでいました。父は「やっときたか。久美、サンドイッチしたいらしいから」と言いながら、妹を抱いてひっくり返りました。妹の肛門は、さっきまで父のチンポが入ってたみたいな感じでした。僕はすぐに肛門にチ○ポを当ててゆっくり入れました。

この体勢で肛門を突きまくってイカせたら上下逆になりました。今度は父がオ○コを突きまくってイカせました。父がオ○コからチ○ポを抜くと母が僕のチ○ポを肛門から抜いて、妹のオ○コに入れてくれました。そして妹の手を引っ張って騎乗位にさせてから180度回転させました。父はすぐに妹のカラダを前に倒して肛門にチ○ポを入れました。父がいきなり激しく突きまくると妹は「アアアアアアアアーーーー」と声を上げていました。父は「肛門に出すぞ」と妹と同時にイッてしまいました。妹は僕の顔とカラダによだれを垂らしまくっていました。

母が妹の肛門をきれいに舐め終わるまで待ってから、座位になってキスしながらグリグリと動かしました。隣で母が父のチ○ポをもう一度たたせようと舐めていました。父はチ○ポが元気になると「お前も出すか?今日2回出したらしいな。3回出すなら出してもいいけど、疲れてたら、久美が失神するまでサンドイッチ続けて終わりにするからな」と言って、僕に立ったままやるようにいいました。父は立ったままの妹の足を持ち上げて肛門にチ○ポを入れました。妹は自分の力で立っていられなかったので、僕と父が無理やり立たせながらオ○コと肛門を突きまくりました。妹がイッた時は完全に足の力が抜けていました。妹がイッたので動きを止めたら、母が妹と僕と父の結合部にしゃがんで舌を這わせてきました。母は「洪水ね」と言いながら舐めていました。

射精したかったので、最後は1対1になって、妹をマングリ返しにしてオ○コと肛門を交互に突いてオ○コに中出ししました。母が精液を吸いだそうとオ○コに口を付けたら、妹はカラダを痙攣しながら「感じすぎるから指でかき出して」と母の舌をオ○コから離そうとしてました。母が「きれいにしてあげるだけよ」というと、妹はオ○コを舐めさせました。それから母は指を入れて精液をかき出す前に、クチュクチュとオ○コをこねくまわしてイカせていました。最後に妹は「死ぬかと思った」と満足そうに言ってました。
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妹が種付け再開を宣言した日のこと

9月に入ってから、妹との種付けを再開しました。再開後の妹の方針は
1)まずはオ○コを時間をかけて舐めてイッてから挿入。
2)体位はバック、屈曲位、まんぐり返し突きで、チ○ポの先を子宮口に押し当てて射精すること。
3)射精後は30分間、染みこませること
この3つをしっかり守ること。そして種付け日記をつけると言いました。
これだけなら、大したことはないのですが、週に2回以上はこれを2セット(ようするに2発射精)やって欲しいと言いました。

初日のことです。僕と母と妹とミーちゃんと夕食を食べている時に、妹は「今日から子作り再会するから、お母さんとミーちゃんはお兄ちゃんとのエッチを控えてね」と突然言いました。すると母が「急に言われても困るわ。カズちゃんとはもう4日間もしてないのよ」と今日から子作りに入ることに文句を付けました。
「ミーちゃんは、おとついお兄ちゃんとエッチしてたから平気よね」
「・・・ハイ・・」
妹に睨まれたミーちゃんがしぶしぶOKすると、次は母に「祐君と春樹君のエッチで忙しくてお兄ちゃんとしなかったのはお母さんの勝手よ」と言いました。
すると母は、春樹君のお母さんが生理だから、オナニーさせるのは可愛そうとだし、春樹君が祐君のお母さんとエッチする日は、代わりに祐君を癒してあげないと寂しがるからと、自分の正当性を主張しました。
でも結局、妹が「妊娠するまでの短期間だけだから」と無理やり納得させてしまいました。

母が不機嫌そうに食事を取っていると、めずらしく妹の方から母の機嫌を取り始めました。一応、父は今でも、兄妹で子供を作るのはあまり薦められないと少し反対する気持ちを持っているので、母に協力してもらうために「お兄ちゃんに射精させたら困るけど、そうじゃなかったら10時迄ならエッチしてもいいよ」と言いました。
「ミーちゃんは、どうする?」
「エッチしたいです!!」
母は、ミーちゃんもエッチしたがってることがわかって、「一緒にしよう」と言いました。すると妹が「3Pは、ダメ!お兄ちゃんが出しちゃったら大変だから、別々にして」と言いました。
母も、妹もとりあえず、今日エッチしてイケたら3Pじゃなくてもいいからと妹の命令に従いました。

「両方の穴使いたいから、準備してこいよ」とアナルエッチ大好きなミーちゃんに言いました。ミーちゃんが「あと片付けしてからにします」と答えると、「今日は、サービスしてあたしがしてあげる」と妹が言いました。それを聞いたミーちゃんは、すぐにトイレとシャワーをしに行きました。
そして母が僕の手を握ると、リビングに移動しようとしました。
でも妹が「2階はダメだよ。あたしの見えるとこでして」と言うので、母は僕から手を離して僕を全裸にしました。そして自分もパンツを脱いでその場にひざまずいてチ○ポに顔を近づけてきました。そしてチ○ポの先っぽを軽く舐めながら「10時までは、久美ちゃんは絶対に参加してこないのね?」と聞きました。
「10時からお兄ちゃんにたっぷりしてもらうから、邪魔しないから安心して」と答えると、あと片付けを続行しました。
母は「ほんとに邪魔しないのかしら」と僕に言いながら、先っぽをチュパチュパしてから、チ○ポ全体を舐め始めました。僕のチ○ポはすぐにギンギンになったけど、母は自分の持ち時間の1時間をたっぷり堪能しようと、それから約15分間フェラを継続しました。

テーブルの上がきれいになると、仰向けに寝かされて母は玉舐めもやってくれました。玉舐めしながら母は、僕のチ○ポを軽くしごきながら第1チ○ポ汁をドクドクと出させながら、手のひらに取ってチ○ポ全体にこすりつけてきました。凄く気持ちいいので、舐め続けてもらっていたら、キッチンから一旦離れていた妹が「お母さんだめよ」と言いながら戻ってきました。
「そんなに第1チ○ポ汁出させてどうするのよ」と母の手を掴んでチ○ポから離させてしまいました。
「お兄ちゃんが射精しちゃったら、どうするのよ!!」と少し怒った口調で言いました。「わかったわよ。カズちゃん、もう入れちゃって」と、母はキッチンの床の上で四つん這いになりました。テーブルの上から降りると、フェラだけですっかり濡れた母のオ○コの穴の表面に浮出ていたオ○コ汁をチ○ポの先っぽで全体に伸ばしました。たっぷり伸ばしてから、そのままバックでチ○ポを入れました。
「アアーーー硬くて気持ちいいわあ・・」
背中をピーンと伸ばしながら、最初の刺激に感じた母が声をあげました。そして「今日は、何回もイッたら怒られそうだから、イカせてくれなくていいから、ずっとお母さんの中をゆっくりと擦って欲しいの」と言いました。
「まだ30分以上は、母さんとエッチできるけどいいの?」と聞くと、「いいの。30分間ずっと擦って、それから最後にイカせて」と言いました。

母の奥でじっとしていたチ○ポをゆっくりと動かし始めました。チ○ポの先っぽでオ○コの上側を特に強くこするような感じでゆっくりと擦りました。
「気持ちいいわ〜」
妹は母が気持ちよさそうな声をあげていても、おかまいなしに片付けとか、ミミちゃんや大和の世話をやっていました。
激しくピストン運動しているわけじゃないので、母はまったりと感じてるような声をあげていました。
それからほんとにゆっくりと擦り続けました。擦り続けながら、母のオ○コの構造をじっくりとチ○ポの先っぽでチェックしました。母がオ○コの中で一番感じるポイントをこすりながら、そこに何かあるのかじっくりと確かめました。普通のスピードとかゆっくりしたスピードのピストン運動では発見することが出来なかったのですが、この時は、3mm/s位のスピードでオ○コの上側を探りながら進んだので、オ○コの中の微妙な変化に気づきました。
オ○コの中にカメラを入れてもわからないと思いますが、その場所に当たった瞬間に母のお尻がブルッと震えるます。指で探ってもわからないのに、それより鈍いはずのチ○ポの先でオ○コの中の硬さが微妙に硬いのがわかりました。
たぶん、母のからだが年齢とともに衰えてきたのが原因だと思います。そのポイント中心に擦りました。

「うわああーー気持ちいいーーーー」
ちょうど母の頭の延長線上に妹がいたので、背中を反らせて、気持ちよさそうな顔を妹の方に向けて感じていました。
そのまま、バックで約10分間ぐらいゆっくり擦り続けました。そして後片付けが終わった妹がリビングのミミちゃんと大和のところに移動したので、僕と母は結合したままでリビングに移動しました。
リビングでは、母をソファに座らせて、そしてオ○コを擦りました。ミミちゃんが母の所にきたので、母はミミちゃんを抱きながら、チ○ポの感触を楽しんでいました。
両方の穴の準備が完了したミーちゃんが戻ってきたので、母のオ○コを擦りながら、ミーちゃんのクリトリスを指でいじったりもしました。

ずっと擦り続けて、最後にイキなりイカせるのはしんどいので、ラスト15分が過ぎてからピストン運動を開始しました。すると妹が「お兄ちゃんに余計な体力つかわさないで」と言いました。激しいピストン運動じゃなかったけど、母は「じゃあ。仰向けになって」と、僕に仰向けになるように言いました。仰向けになると、母は自分のオ○コ汁まみれのチ○ポを掃除してから、対面騎乗位でまたがってきました。母のオ○コの奥までチ○ポがズッポリ入ると、妹が勝手に「ミーちゃんはお兄ちゃんに舐めてもらったら」と顔面騎乗するように言いました。
ミーちゃんのオ○コを舐めながら、時々突き上げて母をイカせる準備をしました。そしてラスト5分になると、母が「久美ちゃん、最後はお兄ちゃんに奥深くまで激しく突いてもらいたいのよ。だめ?」と腰をくねらせながら言いました。妹は「お兄ちゃん、さっさとイカせちゃって」とOKを出しました。

そしてもう一度バックで母のオ○コにチ○ポを挿入しました。今度は挿入の瞬間から強くズボッ!!と突っ込んで母のお尻に下腹部を打ち付けました。
「ああーーきたーー!!・・キク!!気持ちいい!!・・そこそこ・・気持ちいい!!!」
母は自分からも僕にお尻をぶつけるように動かしていました。隣でミーちゃんがパンツの上からクリトリスを触っている様子が見えていたし、母も早くイクことを望んでいたので、スピードを緩めずに突きまくりました。
ゆっくりと擦っている時でも、オ○コ汁がドクドクと放出されていて、僕のチ○ポがかなり白くなっていて、擦るのを止めてオ○コ汁を乾燥させたら、母と僕が結合したままで固着されてしまいそうなぐらいでした。そんな状態から激しくピストンをしたので、雰囲気的には指マンで汁をピュッピュッ!と飛ばさせるぐらいの刺激になっていて、妹が「お母さん、濡らしすぎ」と注意を受けていました。

あんまり多いので、妹が「お兄ちゃん、ひょっとして出してないね?」と言いながら、僕と母の結合部に指を伸ばして、オ○コ汁をすくい取って味見していました。「お母さんの味がする」と安心していました。
それから僕は、母の手を取って後ろに引っ張りながら、バコバコ突きまくりました。
「ささる!ささる!!・・・アッ、だめだめ・・いっちゃういっちゃう、あっイク・・イク!!!」
母は上半身を浮かせたままで激しくイッてしまいました。ゆっくりと上半身を着地させると、母はいつもの倍ぐらいの時間、全身をピクピクさせていました。口をポカンと開けたままでヨダレを垂らしていました。
「お母さん、満足したでしょ?」
「気持ちよかったわあーーー」とピクピクしながら余韻に浸っていました。オ○コもぽっかり穴が開いたままになっていました。
母のオ○コ汁チ○ポを掃除させるつもりはなかったのですが、さっきから順番を待っていたミーちゃんがパクッと咥えてしまいました。そして、興奮しきっていたミーちゃんが、バキュームフェラを始めたので、暴発の恐れがあるので慌てて止めさせました。

チ○ポを少し冷ますために、オ○コと肛門をたっぷり舐めてから、まずはV字開脚させてミーちゃんの両足を抱えながら、オ○コに挿入しました。
「凄く硬いです!!」とチ○ポがズブッと入った瞬間にうれしそうな声をあげてくれました。そして奥深くに入れたままで、持ち時間の30分間をどんなふうにエッチしたいか聞きました。
「奥まですごく激しく突いて欲しいです」
「そんなことしたら、30分は我慢できないよ」
「我慢してください」
この言葉を聞いた妹が、いきなり結合部に手を伸ばして、ミーちゃんのオ○コからチ○ポを抜いてしまいました。
「久美さん、ごめんなさい」
妹がいきなりチ○ポを抜いた理由にすぐに気づいたミーちゃんは、妹に向かって謝っていました。妹は「お兄ちゃんとの種付けの前に特別にサービスしてること忘れないで。ミーちゃんがお兄ちゃんと種付けしてる時に邪魔しなかったでしょ!」と注意しました。厳重注意じゃなかったので、妹はチ○ポの先をミーちゃんのオ○コの穴に向けたので、すぐにオ○コに挿入しました。

「うれしいです!久美さんありがとう!!」と妹に感謝をしながら、目を開けて僕のチ○ポが自分のオメコに出入りする様子を眺めていました。
最初は普通にピストンしたけど、ミーちゃんが「お母さんと同じくらいゆっくりがいいです!」と言ったので、ゆっくりとオ○コの内部の構造を確かめながら出し入れを続けました。
挿入開始3分後ぐらいから、それまで余韻に浸りきっていた母が復活してきて、ミーちゃんとキスをしてからオッパイを舐め始めました。その様子を見ながら、15分間ぐらい出し入れを続けました。
それから対面騎乗位に変えて、今度はミーちゃんにゆっくりと腰を動かさせました。母は後ろに回って、ミーちゃんの肛門を丁寧に舐めていました。
「そろそろ、お尻にも入れてあげたら?」と母が言うので、ミーちゃんを四つん這いにして、バックで肛門にチ○ポをズズズーと入れました。
「ハアアアアアーーーーー」と肛門大好き妻のミーちゃんが気持ちよさそうな声をあげました。
肛門も同じようにゆっくりと出し入れしました。時々、ミーちゃんに腰を動かさせたり、肩を床に付け、顔を僕の方に向けるように命令して、そしてズボズボと少し強く肛門を突いて、気持ちよさそうに感じているミーちゃんの表情を眺めて楽しみました。

「お兄ちゃんの大事な正妻だから、両方の穴でイカせてもいいよ」と妹が言うので、まず最初に肛門をそのままズボズボ突き続けました。ミーちゃんは「気持ちいい!!気持ちいい!!」と連呼していて、すぐにイキそうな雰囲気だったのに、妹は僕の体力のことを考えたのか、もっと早くイカせようと思って、ミーちゃんのクリトリスをいじり始めました。でもミーちゃんは文句を言わずに、さらに感じはじめました。
「お尻気持ちいいです!!・・・アッアッ・・イキそう・・イキそう・・・イキます!!」とイッてしまいました。
ミーちゃんのお尻がブルブル震えている間、ずっと肛門にチ○ポを挿したままでじっとしていました。
「気持ちよかったです」と言ったので、ゆっくりとチ○ポを抜きました。すぐに母がパクッと咥えて、肛門に入っていたチ○ポの掃除を始めてくれました。
でも母は、ここぞとばかりに掃除というより、自分が楽しむためのフェラを始めました。ミミちゃんと大和の世話で忙しくなった妹は、母がかなり強めに吸いながら舌をからめてきたことにすぐには気づきませんでした。
気持ちよかったので、そのまま舐めてもらっていると、妹に気づかれないのが面白くない母が、徐々にバキューム音を立て始めました。
「お母さん!!そんなに強く吸わないでよ!!」とやっと気づいて、あわてて飛んできました。母は口をキュッと締めてチ○ポに吸い付いてきました。
妹に腕を引っ張られても頬を思いっきりへこませながら吸い付いていました。引っ張るのをあきらめた妹は、母のオ○コに指を2本入れて、激しく動かし始めました。
「アッアッ・・気持ちいい・・・」と言いながら、チ○ポを口の中から出しました。妹がオ○コから指を抜くと、「久美ちゃん、気持ちいいから、もっとして!!」と妹の手を取ってオ○コに戻そうとしました。妹は「自分でしたら」と逃げていきました。

母の強烈なお掃除バキュームフェラが終わったので、オ○コに挿入しました。今度は、最初から普通にピストン運動をしました。オ○コでイカせる時間がなくなったら、かわいそうなのでズボズボ突きまくって、最初から激しくあえぎ声をあげさせて、すぐにイカせました。

このあと予定より30分間長く休憩してから種付けを再開しましたが、初日のエッチは、報告して面白い内容じゃないので、今回はパスします。一応、2回中出ししました。
http://www.kazunoie.com/memo/memotanesai.html

ラブホで母に気持ちよくしてもらいました

会社の有給ノルマの消化が3月15日迄に迫っているので、有給を取って午前中はミミちゃんと遊びました。そして午後から用事をしに大阪市内に行く母の送迎に付き合いました。帝国ホテルでその用事は行われていて、1時間ほど終わるまで待ちました。そして母をクルマに乗せて家に向けて走り出すと「今日は暖かいから少し散歩しない?」と言ってきました。

橋を渡った直後で、ちょうどそこは、桜ノ宮のラブホ街のそばでもありました。クルマをとめて外に出ると、母がすぐに手をつないできました。そしてしばらく川のほとりを散歩しました。散歩中、母はラブホのことを全く口に出しませんでした。普段なら利用しなくても、フロントの部屋の案内を見に行ったりするぐらいなのに、この時は全く触れようとはしませんでした。でも1万回以上、母のオ○コに挿入した僕としては、母の本音はすぐにわかりました。
「このあと特に予定ないから、エッチして帰ろうか?」
僕の方から誘うと、母はニッコリ微笑みました。
「ちょうど僕も母さんとふたりだけでじっくりエッチしたかったところだから」
「うれしい。お母さんもカズちゃんにいっぱい突いてもらいたかったのよ」
「お尻も使うよ」
「浣腸持ってきてないわよ」
と話していたら薬局があったので、そこでイチジク浣腸を買ってからきれいで広々した感じのラブホに入りました。最初に良く名前のきくホテルを覗いたのですが、部屋が狭そうな感じがしたのでパスしました。というのも、僕と母のエッチは、ベッドの上だけじゃなくて、あちこちの場所でやるからです。

「わあほんとに広いわあ!!」
ラブホサイトを検索しても名前しか情報が載っていないホテルでしたが、部屋はきれいでウェルカムサービスもありました。用事の都合で昼食を食べてなかったので、メンバー登録して無料の食事を頼みました。そして食事の前に、浣腸して腸をすっきりすることにしました。まず母だけを全裸にして、浣腸をしました。全裸にしたのは、浣腸のあとに肛門を清掃するからと、そして食事が来たら全裸で受け取らせようと思ったからです。

肛門清掃が終わった母に、チ○ポを即尺を命じました。母は楽しそうな表情を浮かべながら僕のズボンを脱がしにかかりました。そしてパンツを脱がされかけた時に、チャイムがなりました。「母さん、裸で取りに行って」と命令しました。
母は躊躇なくすぐに飛んで行きました。
「もう置いて帰ったみたい」
食事を頼んだときに「カギは開けておいてください」と言われました。自動ロックしかかけてなかったので、係の方は食事を置いて部屋の外に出てからチャイムを鳴らしたみたいで、母の全裸を見せることに失敗しました。
失敗したのは残念でしたが、女性に女性の裸を見せつけても仕方ないので、そんなにガッカリしませんでした。
それからすぐに食事にしました。昔、エッチを覚えたてで母のからだを常に触っていたかった頃を思い出して、合体したままで食事をすることにしました。

「チ○ポがカチカチになったらご飯にするから」
「カチカチにしたら先に入れて欲しいわ」
「母さんとつながったままでご飯が食べたいんだ」
母は僕に向かって微笑むと、僕の足の途中で止まっていたパンツを完全に抜き取りました。そして僕の目を見ながらチ○ポに舌を伸ばしてきました。僕が母の目をじっと見ていたので、母は目をそらさずに亀頭と裏筋を舐めながら僕を見つめ続けてくれました。
1分ぐらい見つめあったから、母は目を外して玉を舐め始めてくれました。玉舐めは思わず声が出てしまうので、母は僕の声が好きらしくて念入りに玉を舐めてきました。食事のことを忘れて舐め続けてもらいました。
舌が玉からチ○ポの先っぽに戻った母は、第1チ○ポ汁を吸い取ったり、舌で亀頭中に広げたりしました。そしてイカせるためのフェラじゃなくて、チ○ポをいとおしむフェラをずっと続けてくれました。

15分間ぐらい舐めてもらった頃に、お腹が「グウウ」と鳴りました。その音を聞いた母はチ○ポを口に入れたままで「お腹空いてるんでしょ?ご飯にしようか?」と声をかけてくれました。
お皿の位置を結合状態でも取りやすいようにしてから、対面座位でチ○ポを入れるようにいいました。母は「カズちゃんのおちんちんをたくさん舐めたから恥ずかしいぐらい濡れてるわ」と言いながら、僕のチ○ポをオ○コに当てて、ゆっくり腰を下ろしてきました。母のオ○コの中は恥ずかしいぐらい濡れていて「ツルッ!ズボッ」と入ってしまいました。
母は「アーン硬い・・」と声を漏らしていました。
しっかり結合出来たので、一緒に食事をとることにしました。母は「食べさせてあげようか?」と言ってきたのですが、断って、自分で食べ始めました。でもふたりの間隔がそんなになくて食べづらいので、ひとりずつ食べることにしました。僕が注文した焼肉ピラフを母に渡すと、うれしそうにスプーンですくって、僕の口に運んでくれました。そして僕が良く噛んでいる間、母はオ○コをキュッキュッとうごかして僕のチ○ポを締め付けていました。そのおかけでカチカチ状態を継続することが出来ました。母も心配になったみたいで、僕が噛んでいる間、結合部に指を伸ばしたり、抜けない程度にチ○ポを引き出してどの程度カチカチなのか確かめていました。

焼肉ピラフも途中で飽きてきました。母が頼んだ海老ピラフが食べたくなったので、口の中でグジャグジャにした焼肉ピラフを母の口に入れました。「ありがとう」と母はグジャグジャの焼肉ピラフを飲み込みました。
「飽きたから半分ずつにしよう」
そう言うと、母は焼肉ピラフの皿をテーブルに置きました。そしてつながったままで海老ピラフの皿を取って、スプーンですくおうとしました。でもこのまま素直に食べても面白くないので、チ○ポをオ○コから肛門にチェンジすることにしました。
「今度は肛門に入れて」
「もうお尻使うの?」
「どこに入れようが僕の勝手だろ?」
「わかったわ」
母はゆっくりと腰を浮かせてオ○コにズッポリと飲み込んでいたチ○ポを抜きました。当然ながら母のオ○コ汁まみれのギンギンのチ○ポがビターン!!と僕のお腹を打ちました。母はすぐにチ○ポを握ると、肛門にチ○ポを当ててゆっくりと腰を降ろしてきました。オ○コのようにツルッとは入らないので、ゆっくりと押し込みました。
「ハアアーーーー」
肛門を全くほぐさずに入れたので、母は息を吐くようなあえぎ声をあげながらチ○ポを肛門で飲み込んでいきました。
「メニューがカレーじゃなくてよかったね」と僕が言うと、母は笑い声をあげました。
この体勢で海老ピラフを半分食べました。当然、その間も母は肛門でチ○ポを締め上げていました。

母の食事は、焼肉ピラフと海老ピラフをひとつの皿にまとめて、床に置いて四つん這いで手を使わずに食べるように命令しました。
「つながったままで食べないの?」と母が多少不満そうに言ったので、「ちゃんと入れるから。そうそう、オ○コに入れたら焼肉ピラフを食べて。肛門に入れたら海老ピラフね」と言いました。母はオ○コと肛門にチ○ポが入ってくることを知って安心していました。
ウェルカムドリンクは、アイスコーヒーとウーロン茶を頼んだのですが、僕はアイスコーヒーを飲みきってしまっていたので、ウーロン茶を飲みたかったのです。でも母の分を飲むわけにはいかないので、追加で頼むことにしました。
その前に、オ○コにチ○ポを入れました。チ○ポがオ○コの中に入り始めると母は焼肉ピラフを食べ始めました。最初の一口を飲み込むまでオ○コの中でじっとしていました。飲み込んだのを確認するとピストン運動を始めました。
「あん、動かしたらご飯食べられないわ・・ハアハア・・・」
母は早速感じ始めました。僕は母のオ○コの感触を楽しむようなゆっくりしたスピードでチ○ポを出し入れしながら追加でドリンクを頼みたいと言いました。
「冷蔵庫にないかしら・・」
冷蔵庫には当然冷たいものがあるのはわかっていましたが、どうせならさっき失敗したホテルの方との遭遇をやりたかったのです。だから、まずは母にフロントに電話をさせることにしました。
電話は ベッドの所にあるので、四つん這いでつながったままでベッドに移動しました。そして母が受話器を取って、「9」のボタンを押したことを確認すると、ピストン運動を開始しました。最初からかなり強めに突いたので、母の電話での第一声は「ダメ」と言う言葉になりました。
「すいません・・・ウーロン茶を・・ハアハア・・・お願いします・・・ハアハア・・・・はい」
注文が終わった母は、受話器を置くと「エッチ中なのがわかったかしら」と言いました。さっき失敗してるだけに、会話をしている暇がないのでオ○コからチ○ポを抜きました。
そして、ピラフの皿を持って部屋の入口につながるドアを開けて、床に皿を置きました。初めてのホテルだったので、母と僕の結合部をモロに見せ付けたらどんなことになるか想像できなかったので、母が僕にオ○コを突かれながらピラフを犬食いしている姿の上半身だけ見せることにしました。
下半身を隠れるような位置で四つん這いにさせて食事を再開させました。僕がまだオ○コにチ○ポを入れていないのに、焼肉ピラフを食べたのでお尻を叩いて注意しました。

それからすぐにオ○コに肛門を入れました。母は焼肉ピラフを食べ始めました。ウーロン茶が届くまでは、オ○コだけを使うことにしました。食事が運ばれてきた時のことを考えると、静かにドアが開けられるので、オ○コと肛門を交互に使っていた場合に、抜き差しの最中にドアが開いてしまったら面白くないからです。ウーロン茶を部屋の中に置いて出て行くまでに、10秒もかかりません。だから慌てて挿入してピストン運動を開始しようとしたころには出て行かれたあとになるはずです。3回目のチャンスはないので、じっとオ○コを突きながら待つことにしました。
待つこと3分後に、静かにドアが開く音がしました。僕はピストン運動のスピードをMAXまで上げました。
「アッアッアッアッ・・・」
「置いておきますね(バタン)」
一瞬で部屋から出て行ってしまわれたのですが、母のオ○コにチ○ポが入っていることは想像付いたはずです。じっくり見て欲しかったのですが、とりあえずは満足しました。

食事のあとは、まずは部屋のドアに手を突かせて、立ちバックでやりました。ドアの外を通る人に声を聞かせるためだったのですが、オ○コを突いたり、肛門を突いたりして声を聞かせることに成功したとは思うのですが、聞かされた人の反応がわからないので、すぐに飽きてベッドに戻りました。
ベッドでは、まずシックスナインから始めました。僕が仰向けで、母が上に乗ってやるいつものパターンですが、母はドアの向こうの人に声を聞かせて興奮していたみたいで、かなり激しくチ○ポを舐めてきました。それに負けないように僕も母のオ○コを激しく舐めまくりました。指も入れてグジュグジュと音を立てさせました。すると母の口の動きが止まりました。
「だめだめ、いっちゃいそう」
「今日はイキたい放題だからイッていいよ」
「アッ、イク、イク!!!」
母を指でイカせると、今度は肛門に指を入れました。肛門からチ○ポを抜いてからの時間がかなり経つので、普通の肛門に戻っていました。だからほぐすのを兼ねて指を入れました。
「そんなとこ擦ったら、お母さんまたいっちゃうわ」
「だからイキたい放題でいいよ」
「今度は、カズちゃんのおちんちんでイキたいのよ」
チ○ポを要求されてしまったので、僕の上になっていた母をごろんと横に回転させて仰向けにすると、まずはオ○コにチンポを入れました。オ○コに入れる前に肛門にチ○ポの先を擦りつけたので母は一瞬、肛門でチ○ポを飲み込む体勢を取ろうとしたのですが、オ○コに入れました。
「ハアアアア・・・」
気持ちよさそうな表情と声で僕のチ○ポが入って行く様子を見ていた母はズッポリ入ってしまうと「ほんとに何回でもイッていいのね?途中でいじわるしない?」
「いじわるしないけど、いじわるされるのは好きだよね」
「好きだけど、たくさんイッてからにして欲しいの」
「じゃあ、10回までは自由にイッていいから」
そう言うと、僕はまずV字開脚で腰を折り曲げながら、ズボズボと突き降ろしました。そしてさらに腰を曲げていってゆっくりとマングリ返し突きの体勢になりました。
「目を開けてちゃんと見て」
そう言ってから、母のオ○コの中に僕のチ○ポが激しく突き刺さる様子をじっと見るように命令しました。この時点で僕のチ○ポは母のオ○コ汁がベッタリ付いて糸を引いていました。激しくピストン運動をすると、糸を引く様子が良く見えないので、ゆっくりと出し入れしながら母にチ○ポに絡まって糸を引いているものは何かと質問しました。
「お母さんのお汁よ。カズちゃんのおちんちんが入ると、どうしても出ちゃうの」
「実の息子に向かって、こんなに濡らす母親っている?」
「お母さんぐらいよ。淫乱だもん」
母はそう言って自分で興奮していました。僕はさらに興奮させてイキまくらせようと、マングリ返し360度突きを開始しました。

「今日は、かなり小刻みに突き降ろすから、1周するまでに3回ぐらいイキそうかな?」
そう言いながら、まずはいきなりズドーン!!と突き降ろしました。その衝撃で母は「グッ!」と軽くイッてしまいました。母的にはそれは数に入れらたくなかったみたいで「今のはイッてないから」と強調していました。
それから僕は小刻みに念入りにマングリ返し突きをしました。感じまくっていた母は、1回突き降ろすたびにかなりこたえている様子でした。最初の45度に達するまでに10回近く突きおろしました。そしてそのあとすぐに母が「ダメ!イク!!」とイッてしまいました。イッた瞬間にチ○ポめがけてオ○コ全体から汁が放出された感じを受けました。
90度の頃には、母は頭を振りまくりながら「気持ちいい!気持ちいい!!」を連呼しながら激しく感じていました。
180度目に2回目をイッていました。かなり激しくイッたので、カラダが硬直する際にチ○ポが抜けないように必死でおさえました。そのあと300度あたりでもう1回イキました。そのあとは少し手抜きをして360度に戻りました。

1周したので、今度は肛門マングリ返し360度突きにチャレンジしてみました。袋に入ったローションがベッドの所にあったので、それを肛門に塗りこんでから開始しました。母は肛門の場合は奥の直腸のあたりで感じているみたいなので、なるべく奥深くまで突きいれるためにロングストロークで、ゆっくり確実に突きいれました。
「お尻気持ちいい!お尻いい!!お母さんうれしい!!」
母は大喜びでした。僕的には肛門の入口のきつさをチ○ポ全体で味わえたのでそこそこよかったです。オ○コの時のように小刻みに回転しなくて、ザクッと1周しました。1周が終わる直前に母はイッてしまいました。
「どうして今日は、こんなにイカせてくれるの?お母さんうれしいわ」
「どうしてってわけないけど、ラブホ代は母さんが払ってよ」
「わかったわ」
こんな会話をしながら肛門からチ○ポを抜きました。そして肛門が閉じるまで指で触りながら母とキスをしました。

この時のキスは10分ぐらいやってました。母が僕の唇をむさぼるように舐めてくるので、母が離れるまで付き合いました。キスされるとチ○ポがどうしても第1チ○ポ汁が大量に出てしまうので、そのあと母は舌先で糸ひかせながら第1チ○ポ汁を舐め取っていました。そのままフェラになって、そして玉舐めが始まったので僕は大の字になって、母の舌の感触を味わいました。
玉舐めはほんとに天国で玉ばっかり舐められても射精はしないけど、最高に気持ちいいので「ずっと玉舐めていて」と10分以上舐めさせました。僕は目を閉じて、たぶんだらしない顔になっていたと思うけど「母に服従します」というような顔をしたままで舐められていました。
10分以上経過した時に「今日はお母さんの口で精子搾り出したいの。いいかしら?」声をかけてきました。ちょうど僕も射精してもいいかなあって気分になってたので、楽して射精できるフェラで抜いてもらうことにしました。
「すっごく気持ちよくなって、たくさん精子出してね」
そう言うと母は、僕がさっきまで丁寧に攻めたお返しに、肛門の穴、玉、チ○ポの3点を念入りに舌を這わせてくれました。途中で母のオッパイで顔をたぷたぷしてもらっている時に、母はやさしくチ○ポをしごいていたのですが、ほんとに気持ちよくて、このまま漏らすように射精したかったぐらいです。でも我慢して、顔たぷたぷからチ○ポに戻ってもらって「そろそろ出すから」と宣言しました。
「たくさん飲ませてね」と母はチ○ポを唇でシゴキ始めました。そしてシゴかれて1分ぐらいで射精したい気持ちがグググと湧き上がってきて「出る!!」と母の口に思いっきり射精しました。すごっく気持ちいい射精でした。ドクドク出ているようで、なかなか射精がとまらなかったです。
ようやくおさまったチ○ポの先を軽く吸ってから母は口を外しました。精液を含んだ口で「たくさん出たわ」と教えてくれて、口を開けて精液を見せてくれました。
精液は予想より多く出ていて母の舌の上と舌と歯の間の隙間にたっぷりとありました。すぐに舌で転がして「今日のは特別プリプリしてる。すぐに飲むのはもったいないわ」と言いました。確かに精液がダマになっている部分が多くてプリプリという表現通りの感じの精液でした。
「もったいないけど飲むわ」
母は自分の唾液で味が薄まってしまう前に、僕の精液をおいしそうに飲んでいました。

精液を飲み終わった母は、まだビンビンのチ○ポに頬ずりしてからパイズリをして、そしてもう一度フェラを始めました。ねっとりと舐めあげてから、再び玉を舐めてくれました。特に玉の側面が気持ちいいので、玉舐めをして欲しいときは、足を大きく広げなくちゃ舐めにくいので、僕が自分から股を広げた意味を理解してすぐに玉舐めを開始してくれました。またまた凄く気持ちいいので、何回も声をあげてしまいました。10分以上玉舐めをしてもらって、第1チ○ポ汁を出しまくりました。
玉舐めに満足したのでそろそろ母のオ○コに入れたくなった頃に母が僕の気持ちを察知して、玉から口を外して、出まくっていた第1チ○ポ汁を指に付けながら「お母さん、さっき何回もイカせてもらったから、今度はカズちゃんを凄く気持ちよくしてあげるね」と声をかけてきました。
「うん。じゃあ今度はマグロでいい?」
「いいわよ。カズちゃんも好きなだけ出しなさい」
「射精はあとで母さんを攻めながら出したいから、寸止めぐらいにして。気持ちいい状態でずっと続けて欲しい」
「わかったわよ」
僕がそんな注文をすると、母は対面騎乗位でゆっくりとチ○ポをオ○コの奥深くまで飲み込んでいきました。母のオ○コはさっきよりかなり激しく濡れていました。ほんとならチ○ポで激しく突かれて何回もイキたかったはずですが、さっき何回もイカせたので、僕の言うことを聞いてくれました。

対面騎乗位で腰をいやらしくゆっくりとくねらせたり、くねらせながら上下にも動かしたり、前後方向だけに動かしたりしてきました。ゆっくりとまったりした動きだったので、チ○ポが凄く気持ちよかったです。母のオ○コの中で一番気持ちいい部分にまったりと擦られたので、全身が震えるぐらいの気持ちよさが味わえました。だからと言って、射精したくなったわけじゃありません。寸止めの少し手前ぐらいの快感がずっと続きました。
僕がほんとに気持ちいい時は、結構マヌケ顔になるのですが、母の前なので隠さずにマヌケ顔で感じました。
上半身を後ろに反らせた母が僕に結合部を見るように命令しました。いつもと逆で、命令通りに結合部を見ました。母のオメコの中から出てきた部分は、母のオ○コ汁で糸を引いてテカテカ光っていました。硬さはかなりギンギンに見えました。母は腰を戻してオ○コの中にチ○ポを全部しまったり、もう一度からだを反らせたりしてチ○ポを気持ちよくしてくれました。
そしてチ○ポを入れたままでゆっくりと180度回転しました。背面騎乗位になった母は腰をクイックイッと上下に動かして、オ○コから顔を出すチ○ポを見せ付けました。それからさっきと同じように前後に動かしたり、くねらせたりして気持ち良くしてくれました。
「これぐらいゆっくり動かしたら気持ちいいでしょ」
「すごく気持ちいい」
「寸止めよりこれぐらいがいいんじゃないの?」
「こっちの方がいいけど、母さん大丈夫?凄く濡れてきたけど」
「大丈夫よ。カズちゃんが全身で感じてる姿見てたら凄く濡れちゃっただけから」
「もう30分ぐらい経った?」
「まだそんなになってないわよ」
「疲れてない?」
「お母さん、カズちゃんより体力あるわ。特にエッチの時の体力は別腹かしら」
母がそう言ってくれるので、玉舐めを間にはさんでもらってから時間をきっちり計って15分間だけオ○コで気持ちよくしてもらいました。

15分経過してチ○ポを抜くと、第1チ○ポ汁がドクドクと溢れだしていました。母のオ○コ汁の量もハンパなくて凄く濡れていました。
そろそろ射精したくなってきたのですが、母を攻めながらイキたいと言った気持ちが吹っ飛んでしまって、マグロ状態から射精したくなりました。
「射精するまで続けて欲しい。あとでちゃんと母さんをイカせるから」
「気にしないで。お母さんだってさっきから何度もイキそうになったのよ。だからカズちゃんと一緒にイケると思うわ」
そして母はすぐに対面騎乗位でチ○ポをオ○コに入れてしまいました。これから最後までやるという意思表示の代わりに、母は僕にキスを迫ってきました。つながったままでキスをしてから「母さんの唾液飲みたい」と唾を垂らしてもらいました。
それから母は、腰をくねらせるスピードを上げてきました。トップスピードまではいかないと思っていたのですが、いきなりトップスピードまでイキました。それじゃイッキに射精してしまうので「待って」と止めました。
「もうイキそうになっちゃったの?」
「今度は寸止めを何回かしてから射精したい」
「じゃあ、今のが1回目ね。お母さんもイク都合があるから、あと何回寸止めしてからイキたいの?」
「3回ぐらい」
「わかったわ。イキたくなったら、次はイクって言ってね」
母は対面騎乗位オンリーで、腰を激しく動かしたりオ○コを締め付けたりしてきました。そしてすぐにイキそうになってきたので「母さんダメ!!」と寸止めしてもらいました。
「今度はお尻でね」
オ○コからチ○ポを抜くと、母は肛門にチ○ポを当てて降ろしてきました。そして肛門を締めながら上下運動してきたので、すぐにイキそうになって「ストップ!!」と叫びました。
「早すぎるわよ。次は射精にした方がいいんじゃないの?」
「オ○コの中で3分休憩してから動いて。あと1回寸止めして、その次に出すから」
肛門から抜け出たチ○ポを母のオ○コの中に入れてもらってから、チ○ポを覚ましました。そして最後の寸止めまで腰を振ってもらいました。3分覚ましたつもりだったけど、2分後にはイキたくなってしまいました。母のオ○コの動きを止めてもらうだけでは寸止めできない気がしたので、母の腰を持ち上げてチ○ポを抜いて、自分の手で押さえて耐えました。

そして射精するためのエッチを開始しました。「母さんも一緒にイッてね」と言うと、母は「凄く気持ちよくイケそうよ」と言いながら腰を上下させました。
母のオ○コが1往復するだけの刺激が凄く気持ちいいので出そうになりましたが、母をイカせないといけないので、耐えました。
「ゆっくりした方がいい?このままでいい?」
母が上下運動のスピードを聞いてきたので「このまま」と答えました。そして強い刺激を我慢しました。歯を食いしばって耐えている姿を見た母は「そんなに我慢しなくて出したら」と言いました。「母さんがまだ・・」と答えると、母は思わず早い展開だったので、自分でクリトリスを触り始めました。30秒あればチ○ポで母をイカせることが出来るけど、そこまで持たないと気づいた母は自分で僕にあわそうとしました。
「・・・か・・あ・・・さ・・・ん・・イクよ・・・」
「イッて!母さんもイク!!!」
「イクよ!!!」
「イクッ!!」
母のオ○コの中でチ○ポが爆発したんじゃないかと思うぐらいの勢いで射精しました。母もイッてしまいました。何回も寸止めした影響でドピュドピュと30秒間ぐらい精液が吹き上がっていた感じがしました。凄く気持ちよかったです。

そのまましばらくじっとしていました。そして母は腰を持ち上げてオ○コを手で押さえながら、お掃除フェラをしてくれました。母のオ○コの中の精液は僕が自分の口で吸い出しました。そして母に飲ませました。母は今度の精液もおいしそうに飲んでいました。
この日は、このあと15分ぐらい休憩してから、今度は僕が一方的に母のオ○コと肛門を攻めて、洗面所やソファやもう一度入口付近や床の上とかで、何度もイカせてから2発射精しました。
長い時間いたような気がしたのですが、まだサービスタイムの時間が余っていたので、母にチ○ポを舐めてもらいながら昼寝しました。母はシャワーを浴びる時間を計算して、きっちり僕を起こしてくれました。
凄く気持ちいい一日でした。
http://www.kazunoie.com/memo/memomagusaku.html

失業中の起床は母の担当

無職になったので、朝は自分の起きたい時間に起きるようになってしまいました。母は、僕の2人の妻に対して、そんなだらだらした生活を見せたくないと思っているようで僕を起こしにきます。だから、毎朝、僕はチ○ポに刺激を感じて目が覚めます。
今までも、たまにチ○ポの刺激で起きることはありましたが、毎朝起こされるのは高校生の頃以来です。高校生の頃は、前夜に何発射精しても次の朝には、ギンギン状態で朝立ちしていたので、そのカチカチチ○ポが大好きな母は味わいに来たのでした。

クリスマスの朝のことです。いつもは母の舌の感触で目が覚めるのですが、この朝は母のオ○コの中に入っている感じがしました。母の体重も僕の足にかかっていました。
前の夜に、母と父に子守りも任せて、妹とミーちゃんと3Pしたのです。妹もミーちゃんも何回もイカせたのですが、急に眠気が襲ってきたので僕は射精しないで寝たのです。このことを知っていたので、母は口ではなくて、オ○コでチ○ポの硬度を確かめようとしたのです。

母は、「ハアーー」と声を漏らしながらゆっくりと上下運動をしていました。僕を起こさないようにゆっくりと動きながら朝立ちでビンビンのチ○ポの感触を楽しんでいるようでした。
上下運動のスピードを変えずに動き続けた母は、腰をグルングルンとくねらせてきました。すごく気持ちいいので、チ○ポはさらにビンビンになったような気がしましたが、眠ったふりを続けました。すると、いきなり母の唇が僕の口にブチューという感じで押し付けられました。押し付けられながら「さっきから起きてるのはわかってるのよ」と言われてしまいました。

目を開けると、下半身だけ裸の母が「夕べは出してないんでしょ?出す?それとも、もう少し溜めとく?」と聞いてきました。
「出したら久美が怒るだろ?」
「大丈夫よ。ほら」
母はそう言うと、赤色のリボンを見せてくれました。「何?」と聞くと、妹が母へのクリスマスプレゼントとして、僕の朝立ちのチ○ポにリボンを巻いて、母に譲ったらしいのです。母はリボンを巻いたままでチ○ポをオ○コに入れようとしたそうですが、リボンがゴワゴワしているので、チ○ポとオ○コがリボンのエッジで怪我しそうなので諦めたそうです。

「じゃあ、射精したい」
僕がそう言うと、母は上下運動を一旦中止して、結合したままでキスしてきました。さっきはブチューというキスでしたが、今度はちゃんとしたキスですぐに母が舌を入れてきました。僕はフェラなみにキスが大好きなので、母の舌を吸ったり、絡めたり、お互いの唇を舐めまくったりしながら熱いキスをしばらく続けました。
いつも以上に熱いキスになって、母のヨダレで口の周りがべとべとになりました。そのヨダレを母が自分の舌で舐めたので、僕の顔はテカテカになっていたと思います。
母は口を離すと「カズちゃんのおちんちん、鋼鉄みたいに凄く硬くなったわよ」と言いながら、腰をくねらせてきました。
「上になろうか?」と聞くと、「硬いので、お母さんの奥まで突いてくれるの?」と聞いてきました。
「久美とミーちゃん公認なら、突きまくるよ」
母は腰を上げて、オ○コからチ○ポを抜きました。そして、すぐに上半身も裸になってから、手でチ○ポの硬さを確かめると、僕の腕を引っ張って、からだを起こさせてくれました。
立ち上がると、チ○ポが斜め45度を向いていたのを、母は下から仰ぎ見ていました。そして「少しだけ舐めさせて」と言うと、チ○ポをパクッと咥えました。唇で硬さを確かめるように軽くしごき気味に舐めてから、仰向けにねて膝を立てて股を開きました。

僕は母の両足の間に入って、チ○ポをオ○コに当てようとした瞬間、「オシッコ大丈夫?」と聞いてきました。
「大丈夫じゃないけど、母さんを1度イカせてからオシッコする」と言いました。「無理しなくていいわよ」と言うので、「オシッコ出したら、柔らかくなるかも」と答えました。
「じゃあ、我慢して」と母は挿入を望みました。そのつもりだったので、母のオ○コにチ○ポを当ててズズズと入れました。
チ○ポが入った瞬間、母は目をギュッとつむって「硬いわーーー」と声を漏らしました。僕は母のオ○コの感触を味わいながらゆっくりと動きました。もちろん母もオ○コの中のひだひだを全部使って僕のチ○ポの硬さを堪能していました。

少しずつピストン運動を早くしていきました。母は「気持いい!気持ちいい!!硬い!奥にズンと来る」と嬉しそうな声を上げていました。
母の腰を折り曲げて、両足を肩に当てるようにしながらズボズボと突いていると、妹とミーちゃんが、ミミちゃんと大和を抱いて部屋に入ってきました。
「お母さん、気持ちいい?」
「気持ちいいわよ。お兄ちゃんのおちんちん、凄いのよ」
「良かったね。お母さん、あたし達、町内さんと2時間ぐらい出かけてくるから、2回ぐらい出してもらったら」
「ありがとう。じゃあ、中と口に出してもらうわ」
「じゃあねーー」
この短い会話の最中に、大和が母のオッパイを触って、ミミちゃんが僕の背中を触っていました。

「2時間、イキたい放題だから、我慢しないでイキたかったらイッていいよ」と言うと、「わかってるわよ。オシッコ我慢しすぎたら、膀胱に良くないもんね」と言いました。
僕は、会話の最中に少し緩めたピストン運動を再び強く始めました。
「アッアッアッ・・・いい・・いい・・凄い・・・気持ち!!」
両足を降ろさせてから、母の気持ちよさそうな顔を見ながら、ピストン運動の角度やチ○ポの先っぽが当たる位置を いろいろ変えました。
「うわぁ、そこ!!」
僕は母のオ○コの構造の立体模型を作れるぐらい構造に熟知していることは、母が一番良く知っていますが、一番の感じるポイントにチ○ポが当たると、思わずいつもの「そこ!!」と叫びます。いきなり「そこ」を攻めるのは手抜きに思われるので、周辺を攻めてから「そこ」を刺激しました。オシッコがしたかったので、いつもより少し早めに「そこ」を刺激しました。
母の表情がイッキにイキそうな顔になりました。
「アッ、イキそう、イキそう、イク、イク、イクッ!!!!!」
イッキにイッてしまった母の表情を約15秒間ぐらい眺めてから「抜いていい?」と聞きました。母は甘い息を吐きながら、まだ余韻に浸っていましたが、オシッコのことを思い出して「ごめんね。お母さんも付いていくわ」と言いました。
「飲みたいの?」と聞くと「そう」と答えました。

僕は、トイレに行かずに、母を連れてバスルームに行きました。オシッコをチ○ポから直接飲ませるためです。膀胱に溜まっているので、チョロチョロ出すのは厳しいので、バスルームじゃなければ床が汚れます。
「膀胱パンパンだから、イッキにしか出せないよ。口から溢れても出すよ」と言うと、母は「溢れ出したら全身にかけて」と言いました。
すぐに母がしゃがんで口を大きく開けたので放尿を開始しました。すぐに母の口からオシッコが溢れてきました。僕はオッパイに向けてオシッコを続けて、母が飲み終わったのを見て、再度口にオシッコを流し込みました。
結局、母はオシッコの3分の1の量を飲みました。あとは首から下にかけました。
「母さんってどうしてそんなにオシッコ飲むのが好きなの?」と聞くと、母がお掃除フェラをしながら「だって、久美ちゃんもミーちゃんも、オシッコはあまり飲まないでしょ。だから」と答えました。
妹は昔は何回か飲んだことはあります。ミーちゃんも数える程度しかありません。最近は、ふたりには全然飲ませていません。
だから、ふたりが飲まないものを飲みたがっていることがわかって、可愛く思えました。

バスルームでオシッコまみれの母のからだをシャワーで流しながら立ちバックでエッチをしました。チ○ポの硬度に変化がなかったので、母はうれしそうに声をあげていました。
バスルームから出て、からだを拭き終ると、母を四つん這いにしてチ○ポをバックから突っ込みました。そして結合したままでリビングルームに移動しました。ソファでやろうとしたのですが、「だめよ。11時にはお客さんがくるわ」と言いました。仕方ないので、そのまま結合しながら僕の部屋を目指しました。何回か抜けたので再挿入しながら無事にたどり着きました。

そしてまずは、カーテンを開けて窓の下でバックから母を突きまくりました。四つん這いのままでチ○ポを激しく出し入れしたり、時々母のからだを起こして窓際に手を突かせて立ちバックでやったりしました。
この刺激で興奮していた母は、カーテンを締めてから連続で30秒間ぐらい突きまくると「イク!!!」とイッてしまいました。
この時、僕は余韻を与えずにチ○ポを抜きました。オシッコを飲ませた頃からは、母にマゾのスイッチが入ったからです。
僕はベッドに腰かけて「チ○ポ舐めてよ」と言うと、母は四つん這いで這ってきてチ○ポを舐めてくれました。最初は自由に舐めさせていたのですが、途中からは母の頭をガツと掴んで前後に激しく動かしました。

そしてベッドの上で、マングリ返し突きをしばらくやってからもう一度イカせてから、正常位で今度はイクのを我慢させながら同時にイッて中出ししました。
そのまま抜かずにすぐにエッチを再開しました。母はまたすぐにイッてしまいました。ここで喉が渇いたので、キッチンに移動しました。

キッチンでは、コーヒー牛乳をコップに入れさせて持ってこさせると、ストローを2本刺して、母と一緒に飲みました。先日、古い映画でそんなシーンがあったので、やってみたのですが、母は喜んでいました。
コーヒー牛乳を飲み終わると、テーブルの上に仰向けにしてチ○ポを突っ込みました。
「気持ちいい!!嬉しい!!気持ちいい!!」
凄く喜んでいる母は、この日、100回以上は「嬉しい」を連呼していました。こんだけ嬉しいと言われると、サービスしたくなってくるので、母の感じることを次々にやりました。

テーブルの上の次は椅子に座らせてやりました。2分ぐらいピストンしたのちに、今度は僕が椅子に座って、背面座位で攻めました。オッパイを鷲掴みにしながらガンガン攻めました。
シンクに手を突かせての立ちバックのあとに、対面騎乗位でやって、そして正常位でやりました。
最後は、口の中に直接出さないで、口の周りに顔射しました。母はこの時も「嬉しい」を連呼しながら、指で精液を集めて口の中に溜めて、最後にまとめて飲んでいました。

今年もありがとうございました。13年目の来年、2500万ヒットを迎えます。来年もよろしくお願い致します。
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午前中からの妹との種付け

日曜日の午前中に、妹との第2子誕生への種付けをリビングでやろうとしていた時のことです。日曜日は妹の友達が午前中から家に来ると言っていたので、種付けは夜まで無いと思っていました。だから、土曜日の夜に秘密のパーティの主宰者に頼まれて32歳のバージンの女性に精液を2発飲ませてきたのです。バージンの女性と聞いて、最初の相手になれると思って行ったら、他にも僕ぐらいの男が3人居て、参加者の方のマゾ奴隷たちのオ○コを自由に使って、射精だけをバージンの方に口に出すというものでした。美咲先生が居たので、1発目は美咲先生のオ○コを借りました。2発目の時は美咲先生はオメコにも肛門にもチ○ポが入ってしまっていたので、別のマゾ奴隷のオ○コを借りました。だから、家に帰って妹が「予定変更!明日は朝から種付けして!」と言われて焦りました。
事前に申告しておけば機嫌は悪くなるけど許してくれます。今回はもちろん無断で2発も出してきたので、今さら申告しても遅いです。だから黙っておくことにしました

一応、ばれないために父が精液を増やすために飲んでいるエビオスを飲むことにしました。エビオスは父と母の寝室にあるので、妹がミミちゃんと眠りに付いてから、こっそりと取りに行きました。
寝室には、父と母とミーちゃんと大和がいました。大和はスヤスヤと眠っていて、母が面倒を見ている様子でした。
ベッドの上では、父が大の字になってミーちゃんに玉舐めされている最中でした。
「ミーちゃんとやりたいのか?」
父は、ミーちゃんを奪い返しにきたと思ったらしいのですが、僕は自分の用事だけを言いました。
「エビオスどこ?」
「飲まなくても大量に出るだろ?」
「もっとたくさん出したいからだよ」
僕の態度に不思議に思った母が、いきなり僕のチ○ポを掴んで揉み始めました。秘密パーティの射精は2発だったけど、状況的に結構疲れたのでチ○ポが反応が悪くて母に気づかれてしまいました。
「どこで出してきたの?」
「パーティに呼ばれたんだよ」
「何発出したの?」
「ミーちゃんもいるから内緒だよ」
「久美ちゃんには内緒に出来るでしょ?」
父の玉を舐めながらミーちゃんが、妹には内緒にすると言ってくれたので、2発を口に出してきたことを白状しました。
そしてエビオスをもらって、寝室を出ました。

次の朝、チ○ポの先っぽを「チョンチョン」と触られる感触で目が覚めました。朝立ちしてなかったらどうしようと思ったのですが、ちゃんとフル勃起状態でした。
「オシッコ飲みたい」
パンツの中からチ○ポを引っ張りだした妹は、僕のチ○ポを口に咥えました。僕はまだ仰向けだったので、こんな体勢ではオシッコ出来ないと言うと、チ○ポから口を外してくれました。そして立ち上がって体勢を整えてから妹の口にチ○ポを突っ込んでから放尿を開始しました。

こぼさないように少しずつ飲ませていると母が入ってきました。
「飲みきれないでしょ?お母さんが半分飲んであげようか?」
妹が飲みながら目で「うん」と表現しました。この日の朝一発目のオシッコの量は普段より多かったので、母と妹に少しずつ交互に出したのですが、ふたりともかなり飲みごたえがあったそうです。
だから、出し切ったあとの掃除は母ひとりでやっていました。
「おしまい」
チ○ポの掃除を念入りにやってくれた母は、フル勃起だったのに最後に玉舐めをしながら「たっぷり出るようにマッサージしてあげる」と言いました。母の顔が笑っていたので、前夜に出したことをチクられないかヒヤヒヤしていました。
妹がチ○ポに顔を近づけてくるまで、ずっと玉舐めを続けてくれました。
「今日はお母さんの分は無いよ」
「わかってるわよ」
種付日には必ず行われる会話をしてから、母は玉から離れて行きました。

母が離れると、妹が代わって玉舐めを続けてくれました。でもほんの軽くだけで終わってすぐにチ○ポに戻ってしまいました。

それから約10分間ぐらいチ○ポをねっとりと舐められました。少しでもチ○ポが柔らかくなったりしたら、妹に内緒で種付けの前夜に他人の口に2発射精したことがばれてしまうので、括約筋にギュツと力を入れ続けました。全然気づかない妹は、いつものフェラ笑顔を浮かべながら根元から先っぽまでじっくりと時間をかけて舌を這わせてきたり、チ○ポを奥深くまで咥えたままで頭を激しく振ったり、自分の唾液をダラーーとチ○ポに垂らしたりしてきました。
「お兄ちゃん、2回は出してよ」
「わかった」
妹に2発中出しの約束をさせられた時に、ミーちゃんがミミちゃんと大和を抱っこしながら入ってきました。それを見た妹はミミちゃんを抱っこして、ミミちゃんの手を握って僕のチ○ポを握らせようとしました。ミミちゃんは僕のチ○ポを握るのが結構好きなので、すぐに握ってきました。妹は握らせながらフェラを再開しました。でもほんの一瞬だけで、ミミちゃんが手を外したので、妹はミーちゃんにミミちゃんを託すと、すぐに仰向けになってオ○コを自分の指で広げると、舐めて欲しそうな顔をしました。妹のオ○コは舐める必要がないくらい濡れていたけど、ちゃんと舐めることにしました。


妹のオ○コのそばには、ボディペインティング用のペンで「お兄ちゃん専用」と書かれていました。筆跡はミーちゃんの筆跡でした。僕専用と書かれている理由は、最近、父が眠っている妹のオ○コにチ○ポを突っ込んだり、妹とミーちゃんがレズってる時に入れてくることがあるので、それを阻止するために書くようになったのですが、よく見かけます。
その「お兄ちゃん専用」という文字を消さないように、まずはクリトリスを後回しにして、ビラビラや穴周辺をたっぷり舐めたり、舌を穴に入れて舐めてからクリトリスを攻めることにしました。クリトリスはパンパンに膨らんでいて、すぐにイキそうな感じでした。
「ダメ!ダメ!!」
出産してから、ますます敏感になった妹は、自分からオ○コを舐めることを要求しておきながら、妹が一番感じるクリトリスの攻めるポイントを舌先で押しただけで僕の頭を押してオ○コから離そうとしました。無視してオ○コを舐め続けると、「あーんダメ・・ダメ・・・・イクッ!!」と30秒も経ってないのにイッてしまいました。
「お兄ちゃんは、もっとおまえのオ○コが舐めたいんだぞ」と言ったのですが、妹はクリトリスを自分の手で隠しながら「おちんちん入れて」と要求してきました。

仕方がないので、オ○コに入れることにしました。
「入れるから手を外せよ」
「おちんちんで擦ったりするでしょ?」
「外さないなら入れないぞ」
妹はゆっくりと手を離して、クリトリスを丸出しにしました。パンパンに膨れていたクリトリスを見て、チ○ポの先っぽで一突きするぐらいでイキそうな感じに見えたので、約束を破って突きたい衝動にかられましたが我慢しました。
「あん・・」
クリトリスから手は離したけど、僕が約束を破った時にすぐ対応できる位置で手をかまえながら、目をしっかり開けて僕のチ○ポが入ることを確かめようとしていました。
ビンビンのチ○ポの先をオ○コ汁がとろとろ垂れているオ○コの穴に半分だけ入れたところで止まりました。妹が腰を押し付けてきて、オ○コの奥まで入れて欲しそうにしたのでいじわるして抜きました。
「自分からオ○コ押し付けてくるなよ」
「だって、お兄ちゃん、先っぽ入れただけじゃあ、クリちゃんをおちんちんで弾いたりするもん」
「弾かないから、お兄ちゃんのペースでやらせろ」
そう言うと、もう一度チ○ポの先っぽをオ○コに近づけました。もちろん、穴を狙わずにクリトリスに向けました。
クリトリスにぶつけるつもりはなかったのですが、イッキにクリトリスから2cmぐらいの位置まで近づけようとしたので、危険を感じた妹が自分の手でクリトリスをカバーしました。妹も焦っていたので、防ぐ瞬間に自分の手でクリトリスを擦ってしまって「アッ!!」と声をあげて、カラダを硬直させてしまいました。

「自爆したのか?」
「お兄ちゃん、早く入れてよ!!」
妹が涙目で僕に訴えてきたので、意地悪しないで、ゆっくりとオ○コの穴にチ○ポを挿入しました。先っぽが入った瞬間に、オ○コ汁がジュワと出てきました。
「奥まで入れて」
妹は僕の腰を掴んで、自分から引き寄せました。僕はズーンと入れると奥に押し付けたままでグリグリと腰をくねらせました。
「だめ!!」
妹が上体を浮かせながら僕のグリグリ攻撃を阻止しようとしてきました。油断させようとグリグリ攻撃をやめて、ピストン運動を始めました。妹は「あんあん・・あーーん」と声をあげました。でもすぐにピストンをやめて、再びグリグリ攻撃を再開しました。
「突いて!突いて!!」
頭を激しく振りながら、ピストン運動を要求してきました。妹がそろそろ限界になってきているみたいなので、イキまくりモードに入らせてダウンさせることにしました。
そうした方が、種付け作業が中止に出来るので、精液の量が少ないことがばれなくなるからです。

まずは妹の希望通りに突きまくって5回ぐらい連続でイカせることにしました。
その前に一度、チ○ポを抜いてオ○コ汁の量を確かめました。オ○コからゆっくり引き出すと糸を引いたまま出てきました。当然、チ○ポが真っ白になるぐらいのオ○コ汁が付着していました。
ちょうどそこに、母が様子を見にきました。
「出したの?」
「まだだよ」
「凄く感じてるみたいね」
そう言うと母は、僕の前にひざまづいてチ○ポを握って「舐めさせてね」と言いました。「そんな暇、ないんだけど」と言うと、「お汁だけ味わったら止めるわよ」とチ○ポをパクッと咥えました。
妹は、母のフェラを阻止しないで、僕に話しかけてきました。
「イキまくってもちゃんと精子出してね」
「そんなの面白くないよ。種付けなんだから、久美の意識がないと出さないよ」
この会話を聞きながら、唇で締め付けながらゆっくりと頭を動かして、チ○ポにこびりついたオ○コ汁を剥がしていた母がチ○ポを口から外して言いました。
「久美ちゃんをしつこく攻めないで、さっさと出して終わりにしなさいよ」
母は、僕が射精を後回しにしようとしていることがわかっているのに、こんなように言いました。
「わかったよ。すぐに出すからあっちに行ってよ」
「ほんとに出すかしら??」
意地悪な目で僕を見ながら言いました。すると妹が種付け作業の中断を言い出しました。

「少し休みたいから、お母さんの中で休憩してて」
妹の言葉を聞いた母は、すぐにパンツを脱いで、四つん這いになってオ○コを見せ付けてきました。母のオ○コは、妹のオメコ汁付きチ○ポを舐めた刺激で濡れていました。拒否しても仕方がないので、母のオ○コの中で休憩することにしました。ギンギンのチ○ポをオ○コに近づけると母は腰をくねらせてきました。お尻をつかんで「休憩だけなんだからじっとしててよ」と言いながら母のオ○コに挿入しました。
入れた瞬間に、「ああん」と言うこととともに、ジュワッとオ○コ汁を放出してきて母のオ○コは、すぐに僕のチ○ポにうねうねと絡み付いてきました。そして、キューーと締め付けてきました。
「休憩だけなんだから締めないでよ」
「そんなこと言わずにお母さんだって気持ちよくなりたいわ」
「久美に出して、体力残ってたらイカせてあげるけど、今はオ○コの中で休憩するだけだから」
「そんなこと言っていいの?」
母は後ろを向いて、(そんなこと言うなら昨晩のことバラすわよ)みたいな目で僕をにらみながら腰をゆっくり前後し始めました。すると妹が「お兄ちゃん、出さないんなら先にお母さん、イカせちゃっていいよ」
「久美ちゃんありがとう!!」
妹にお礼を言った母は、すぐに腰を自分からぶつけてきました。
「気持ちいいわ!!」
ドクドクとオ○コ汁を放出しながら激しく腰を動かしていた母は、左手を僕の方に伸ばしてきて「突いてよ」と訴えかけてきました。その左手を掴んで、そして右手も後ろにひっぱって、上半身を宙に浮かせたままの母のオ○コをズボズボズボと激しく突きまくりました。
「アア凄い・・凄い・・・カズちゃん最高!!」
母は髪を振り乱したり、背中を思いっきり反らせたりしながら激しく感じていました。

母がイキかけたところで中断して、そのままの体勢で立ち上がりました。「早くズボズボ突いて」と要求してきたので、すぐに立ちバックで、さっきと同じように母の両手を後ろに引きながら突きました。
「凄い!凄い!!気持ちよすぎだわ!!いい、いいわあ!!アアーーアーー・・・イキそう・・イキそう・・イク、イク、ク、イク!!!」
この3日間、めずらしく誰ともエッチしていなかった母は、かなり溜まっていたらしくて、普段と同じ程度に突きまくっただけなのに、激しく感じていました。母も妹に負けないくらいの量のオ○コ汁を僕のチ○ポに付着させていました。
立ちバックでイッた母の膝から力が抜けてきたので、グッと持ち上げて、そしてチ○ポを奥深くまで入れなおして母のカラダを手とチ○ポで支えました。
「どうする?もうこのまま崩れて終わりにする?」
「もう少しだけイカせて欲しいわ」
精液を少しでも多く生産できるように、妹が何も言わなかったら母をイカせまくりたかったので、聞いてみました。3日ぶりの母はもちろん、もっと続けることを望んできました。妹は特に何も言わずに見ていたので続けることにしました。

その時、ふと窓が視界に入りました。春樹君のお母さんに見せつけようと思って母を腕とチ○ポで支えながら、窓のところに移動しました。そしてカーテンを全開にして、母に窓の桟をつかませました。
バックからのピストン運動を開始したのですが、ずっとバックで続いてきたのでやめました。チ○ポを抜いて、母に右足だけで立たせて、左足は高く垂直にあげさせました。ベランダ側ならオ○コが丸見えになるのですが、小さい方の窓なので微妙でした。
垂直開脚で丸出しの母のオ○コにチ○ポを挿入しました。母はすごっく興奮していて、チ○ポがオ○コに入った瞬間によだれを垂らしました。
少しでも長くこの体位を続けて、誰かが見てくれるまで続けたかったので、母のオ○コの感触を味わいながらゆっくりと出し入れを開始しました。
(母のオ○コは久美ほどの締まりはないけど、どうして気持ちいいんだろう・・)と思いながらオ○コの中をズリズリと擦りました。
「気持ちいい!!」
「春樹君のお母さんに見てもらえたら気持ちいいかな?」
「気持ちいいに決まってるでしょ」
母は、見られることを期待して興奮しだしたので、オ○コを強く突いたらすぐにでもイキそうな感じがしたので、しばらくの間、ズリズリと擦ることを続けました。

「あああーーー気持ちいい!!気持ちいい!!」
あえぎまくった母はオ○コ汁をドクドク出しながら、感じまくっていたので垂直開脚はすぐに断念しました。足を変えて、膝の下に僕が手を入れて持ち上げながら、さらにズリズリ続けました。妹は母が感じまくっている様子を見続けていました。
「お汁垂れてる!!!!」
母のオ○コから汁が垂れるのはいつものことですが、この時の妹の言い方がかなり驚いた様子だったので、亀頭だけオ○コ の中に残してチ○ポを引き出しました。チ○ポの上側にはかなりの量のオ○コ汁が付いていましたが、この程度なら良くある光景なのでビックリするほどじゃありません。
「お兄ちゃん、垂れてる垂れてる」
妹が僕のチ○ポの下に手を差し出して、オ○コ汁を受けるような動作をしたので、チ○ポの裏側に手を伸ばしました。すると、チ○ポから5cmぐらいまで下がった位置までオ○コ汁が垂れていました。確かに出まくり過ぎていました。
「春樹君のお母さんには、2回も見せ付けてるのに、まだ興奮出来るの?」
「春樹君もお母さんもいないのよ。いるのはお父さんと、なつきちゃん(春樹君のお姉さん)なのよ」
春樹君とお母さんは、お父さんに内緒で、木村さんの家で近親相姦しに行ったということでした。だから、母はお父さんかなつきちゃんに僕とのエッチを見せ付けられるチャンスが来たと思って興奮したようです。
だから、この日は僕と妹の種付け日だとわかっているのに、乱入してきて僕のチ○ポを求めたようです。

「お兄ちゃん、そろそろ来て」
「あーん、久美ちゃん、もう少し待ってよ」
「おじさんも、なつきちゃんも見てくれないよ」
「そんなことわからないわ」
「だめ!からだが受精しやすくなってきたから、お兄ちゃんに出してもらうの」
「あと30分経っても、窓から誰も顔を出さなかったら諦めるからお願い!!」
「いーや!!」
そう言うと妹は、母のオ○コからチ○ポを引き抜きました。そしてチ○ポをギュッと握ってベッドまで僕を引っ張っていきました。母はついに諦めてしまいました。
妹がベッドの上で、自分の指でオ○コを広げながら「お兄ちゃん、早く中に出して」と僕を求めてきたので、すぐにチ○ポを入れようとしたら、入れる寸前に「おちんちん、掃除してからにして」とチ○ポを掴んで、自分の口にチ○ポを引っ張ろうとしました。引っ張られるままに、妹の口の中にチ○ポを突っ込みました。妹はすぐに、激しく付着した母のオ○コ汁をきれいさっぱりに舐めつくしてしまいました。母も妹もふだんはお互いのオ○コ汁を味わうように舐め尽すのですが、この時の妹は、チ○ポを消毒するような感じでお掃除フェラをしていました。その様子を見た母は、黙って出て行きました。


ふたりだけになったので、窓を閉めようとしたのですが、「開けといて」と言ったのでそのままにして、種付け作業を再開しました。
休憩を入れた効果で、妹は完全に普通の状態に戻ったので、オ○コをズボズボと激しく突きまくっても我慢してくれるようになりました。
「お兄ちゃん、気持ちいい!!気持ちいい!!」
「すぐにイクなよ。今度は射精させろよ」
僕はこれ以上引っ張らないで、妹がイクのに合わせてさっさと中出しするつもりをしていました。だから、妹に余裕のある間に、射精したくなる直前まで高めようと、射精することを意識しながらM字開脚の妹を激しく突きまくりました。
「お兄ちゃん!凄く気持ちいい!!今日は妊娠しそうだよーー!!」
「もう少しだから我慢しろよ」
「・・・ううう・・・あっあっ・・ううう」
妊娠を意識した途端にイッキにイキそうになってしまったみたいで、突然我慢を始めました。相当ヤバイ状態になっていることはすぐにわかったので、僕はオ○コの奥をなるべく突かないように、入口付近にチ○ポを激しく擦りました。

目をギュッと閉じて、眉間にしわを寄せて、そして僕の腕を何度も握りなおしてきました。
「そろそろイクから」
妹は唇を噛み締めたままで、浮かせていた頭を何度も縦に振りました。
「イクぞ!!!」
射精の瞬間、チ○ポを思いっきり奥まで押し込んで、尿道を子宮口とピッタリ合った瞬間にドピュ!!ピュ!!と射精しました。
「イクッ!!!」
妹のイキ顔を眺めながらチ○ポを奥に押し付けたままで精液が出尽くすまで、搾り出しました。前の晩に射精した影響が全くないくらい大量に出た感じがしました。

妹のイキ顔が、気持ちいいという表情から幸せそうな表情に変化しました。軽くキスしてあげると、「お兄ちゃんの精子が、あたしの卵子にの中入った音が聞こえた」と言いました。
「じゃあ、明日からは種付けしなくてもいいんだな?」
「たぶん妊娠したけど、お医者さんに診てもらうまでは、種付け続けるよ」
「今日はもうおしまいだよ」
「ダメよ。染みこませたらもう1回出して」
妹の要求通り、そのあと30分間、精液をオ○コに染みこませてから、もう1回戦やりました。
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近親相姦見せつけブームの僕の家

近所の人で親しく付き合っている人は、ミミちゃんが僕と妹の間に出来た子だということは知っています。親しくない人は、噂として知っています。
実の兄が実の妹に子供を産ませたことに対して、誰も変な目で見るようなことはなくて、僕の家に遊びに来た時には、ミミちゃんのことも大和のことも可愛がってくれます。

家族が全員家に居た先日の日曜日の午前中のことです。妹が発情したので、ミミちゃんの世話は父と母に任せて、ソファの上で妹とエッチを始めました。
最初は妹が僕のチ○ポを凄く舐めたがったので、僕はソファに座って足を広げて、妹の舌づかいを堪能しました。最初は玉舐めから始めてくれたので、僕は第1チ○ポ汁を出しまくりながら感じまくりました。玉舐めを満足しきったころに妹は、舌先を玉からチ○ポの方に移動してきました。それから裏筋や亀頭を舐めまくられたり、バキュームフェラされたりしてチ○ポはギンギンになりました。

その次に今度は、僕が妹のオ○コを舐めまくりました。チ○ポを入れる前に、舌でイカせることにしました。じっくりねっとり舐めたり、高速でクリトリスを舐めたり、舌をオ○コの中に入れてピストン運動したりして感じまくらせると、約2分ぐらいでイッてしまいました。舐めている最中に、時々、母が僕のチ○ポをしごきに来ていました。僕は拒否せずに、そのまましごかれ続けました。

妹のオ○コから口を外して立ち上がると、母が僕のチ○ポに口を近づけてきました。でもチ○ポまであと10cmの距離に来たところで、インターフォンが鳴りました。母は「あーん」と言いながら立ち上がって、ドアカメラのモニターを見に行きました。
母は「ご近所さんよ。エッチしてても大丈夫よ」と言って、カギを開けに玄関に向かいました。僕は、妹をソファに浅く腰掛けさせると、チ○ポをオ○コの中に挿入していきました。当然ですが、妹のオ○コはしっかり濡れていて、「ああーーん」と甘い声を漏らしながら、チ○ポを受け入れました。
オ○コの奥深くまで入れてから妹とキスをしていると、「こんにちわ」「キャッ!!」と言う声がしました。僕は、近親相姦してることを知っている近所の人達だと思ったので、「キャッ」の声には驚きました。
ビックリして、そっちの方を見ると、隣の家のなつきちゃん、なつきちゃんのお母さん(春樹君のお母さん)、町内さん、舞ちゃん、祐君のお母さんがいました。なつきちゃんは手で顔を覆っていました。

僕はなつきちゃんがいるので、どうしたらいいのか、迷いました。オ○コの中からチ○ポを抜くと、なつきちゃんの目にチ○ポが見えてしまうので、とりあえずはオ○コの中でじっとすることにしました。
でも妹が「お兄ちゃん、動かしてよ」と言うので、ゆっくりとピストン運動を開始しました。妹は「あー気持ちいい・・・アハー・・・ン」と声を漏らし始めました。
なつきちゃん以外の全員は、僕と妹とのエッチから目を外すことなく、じっと見ていました。だから、このまま続けていいんだと思って、ピストン運動のスピードをゆっくりあげました。妹はなつきちゃんまでもそばにいる状況なのに、全然平気な様子で感じていました。
「気持ちいい!気持ちいいよ!!」
妹は全身ピンク色に染めながら感じていました。

母と目があったので、「このまましてもいいの?」と聞くと、「いいわよ。最後まで」と母が答えてくれました。だから、僕はさらにピストン運動のスピードを上げました。
「アッアッアッ・・・・イイ!イイ!・・」
妹は、なつきちゃんに遠慮することなくあえぎ声をあげていました。そのなつきちゃんは、母の説明を聞いていました。
「カズちゃんと久美ちゃんが近親相姦してる噂は、ほんとだったのよ。悪いことじゃないんだから、隠す必要ないから、来てもらったの」
僕達が近親相姦しているという噂はかなり広がっています。でも、不思議なことに蔑視されていません。なつきちゃんは、隣に住んでいるので、当然、その噂のことは知っているはずです。なつきちゃんからは、近親相姦の噂がほんとか嘘か尋ねられたことはありませんが、絶対に知っているはずです。
なつきちゃんは、幼い頃から、母や僕や妹に懐いていたので、なつきちゃんが近親相姦のことを不快に思うはずがありません。

なつきちゃんに見られながら、正常位で妹のオ○コをしばらく突くと、結合したままで妹を抱き起して、そのまま座位になりました。
「背面座位になって」
母が要求するので、一旦妹の腰を持ち上げてチ○ポを抜きました。そのチ○ポを見たなつきちゃんが「キャッ」と声をあげました。
結合中のチ○ポを見ても「キャッ」と声をあげなかったのに、妹のオ○コから抜け出てたチ○ポを見て声をあげました。
「ちょっと待って」
母が妹が後ろ向きになったところで、声をかけてきたので、妹は僕の上にしゃがむことをやめました。母が顔を近づけてきたので、チ○ポを舐めたくなっていることがわかったからです。
「なつきちゃんは、おちんちんを舐めたことある?」
突然、質問されたなつきちゃんはクビを激しく振ってフェラの経験がないことを表現しました。
「じゃあ、見てて」
そう言うと母は、チ○ポに顔を近づけてきました。妹は僕の首に手をまわしてキスをしてきました。

母のフェラが続いている間中、僕は妹と舌を絡め合っていたので、なつきちゃんがどんな反応したのかはわかりません。みんなが平然としているので、なつきちゃんは逃げて行くことなく、じっと見学していたようです。
「いいわよ」
チ○ポから母の口が外れたと思った直後、母は僕と妹のエッチを再開するように声をかけてきました。すると妹は背面座位になってチ○ポを掴みました。
「なつきちゃん、見てて。入れちゃうよ」
妹がチ○ポを握ってオ○コに当てて腰を降ろしてきた時に、なつきちゃんのお母さん(春樹君のお母さん)の方をチラッと見ました。迷惑そうな顔をしていたらどうしようかと心配になったのですが、どちらかと言うと笑顔でなつきちゃんの様子を見ていました。
春樹君のお母さんは、僕達の仲間になってからは、それまで味わったことのない快感を味わうようになったので、完全に僕達に洗脳されてしまったみたいです。

妹は背面座位の体勢で僕の方に背中を向けると、なつきちゃんに向かってVサインを送りました。
「ちゃんと見ててね。舞ちゃんには見てもらったんだけど、なつきちゃんに見せるのが一番最後になっちゃってごめんね」
なつきちゃんに声をかけた妹はチ○ポをオ○コに当てると、腰を降ろしてズニュッとチ○ポを咥えこみました。
「見えるでしょ?私とお兄ちゃんがつながってるところ」
「・・・・」
なつきちゃんは、目を反らすこともなしに、しっかり見てくれていました。妹はズッポリとチ○ポを飲み込んだ状態で、結合部の解説を始めました。
「こっちはお兄ちゃん。ここまでがお兄ちゃんね。ここからがあたし。お兄ちゃんもあたしも毛がないから良く見えるでしょ」
結合部を指先で触れながら説明した妹は、ゆっくりと上下運動を開始しました。
「アハーン・・ハアーン・・・見て、お兄ちゃんのおちんちんが出たり入ったりしてるでしょ。すっごく気持ちいいの」
妹はゆっくり上下運動したり、腰をぐるぐる回したりしました。そして、からだを後ろに倒してさらに結合部を見やすくすると、そのままで首をまわしてキスを求めてきました。キスをすると妹が舌を伸ばしてきたので、きびしい体勢だったけど舌を絡めました。
そのままでさらに妹がもっと後ろに反ってきたので、チ○ポが抜けてしまいました。
「抜けちゃった。お母さん、お兄ちゃんのおちんちんを中に戻して」
妹の要求に母がやってきてチ○ポを握りました。でも母はチ○ポをオ○コの中に入れずに、舞ちゃんを呼びました。
「久美ちゃんの中に戻してあげて」
あとで聞いた話では、母はなつきちゃんにチ○ポを妹の中に入れさせたかったみたいですが、さすがにいきなりは無理なので、舞ちゃんに手伝わせて、その様子をなつきちゃんに見学させて、将来自分も僕達の仲間になる可能性を感じさせようと思ったみたいです。
舞ちゃんは、母に言われて躊躇せずに近寄ってきて、チ○ポを握ってくれました。そしてすぐに、チ○ポの先を妹のオ○コの穴に挿しこんでくれました。興奮で激しく濡れていた妹のオ○コに僕のチ○ポが入った瞬間に「ズボッ」という音が聞こえたように思いました。
「舞ちゃん、ありがとう!!」
妹は、少し感じた声で舞ちゃんにお礼を言いました。この時、妹も「今度はなつきちゃんね」と言いたかったそうです。

妹はゆっくりと上下運動を開始しました。僕はオッパイを揉みながら妹のオ○コの感触を味わいました。
「もし、あたしとお兄ちゃんが兄妹なのに、こんなことしてるのがおかしいと思うんなら、帰ってくれていいから。お兄ちゃんのことが大好きだから、子供まで作っちゃった」
少し感じた声で、なつきちゃんに話かけました。なつきちゃんはもちろんこの場から立ち去る気配はありませんでした。だから僕は、安心して妹を感じさせることにしました。
まずは妹のクリトリスをいじりながら、軽く突き上げました。
「アアン、だめ、あああんあああん」
それからすぐに、妹の腰をがっしりと掴んで激しく突き上げました。少し離れていたなつきちゃんの所まで、僕のチンポと妹のオ○コが激しく擦れる音や、肉がぶつかり合う音がハッキリ聞こえるぐらいの強烈さで突き上げました。
「気持ちいい!!気持ち!!お兄ちゃん、いい・・ああ、もうだめイキそう・・・」
妹がイキそうと言い出したので、僕はオ○コを突きあげるのを中止にしました。いつもならサッとイカせてしまうのですが、なつきちゃんとの距離がありすぎたのです。

「ああーん、イキたかったのに・・・」
妹が腰を動かそうとしたので、「なつきちゃんの前に行く」と小さく告げました。なつきちゃん以外の人達には、自らの足で近寄ってきてもらって、間近で見てもらいました。なんとなく、呼びつけることに気が引けたからです。
僕は結合したままで、なつきちゃんの前に行こうと思ってたのですが、チ○ポを抜いて立ち上がった妹が先になつきちゃんの前に行って、仰向けになりました。僕は妹のオ○コ汁でテカテカ光ってビンビンのチ○ポを隠さずに移動しました。なつきちゃんは、もう顔を覆うことはしませんでした。

妹がなつきちゃんの前で仰向けになっていたので、正常位で結合することにしました。チ○ポをズボッと突き刺すと、すぐにピストン運動を開始しました。
「見えてる?あたしの中にお兄ちゃんのおちんちんが出入りしてるのわかる?」
妹に聞かれて、なつきちゃんはうなづいていました。妹は、すごく興奮していてオ○コ汁を出しまくっていました。
ピストン運動を強めにすると妹は「ああん、いい・・・気持いい・・アッアッアッ・・・見てて、ちゃんと見てて」と声をあげまくっていました。
そして妹が、なつきちゃんの方に手を伸ばしました。なつきちゃんは、どうしていいかわからないので困った様子だったので、「あと10分ぐらいで終わるから手をつないであげて」と声をかけました。するとなつきちゃんが妹の手を握りました。でも体勢的に厳しいので、なつきちゃんはソファから降りて妹の横しゃがみました。

それから僕は、妹の腰を折り曲げて、まんぐり返し突きを始めました。でも激しく突き下ろすことが目的じゃなくて、なつきちゃんに、僕のチ○ポが妹のからだを押しつぶすようにズボズボとオ○コに出入りすることを見せたかったのです。だから2秒に1回ぐらいのスピードで「ズドーン!ズドーン!」と突き下ろしました。
「アーーー・・・・アーーーー・・・」
突き下ろすたびに、妹は声をあげて、なつきちゃんの手をギュッと握りしめていました。
「久美が凄く気持ちよくなってるのがわかる?」
僕の質問に対して、なつきちゃんは少し遅れてうなづいてくれました。このあとは、いつものマングリ返し突きのスピードに戻して、妹のオ○コから汁が飛び出しそうなぐらいの強さで突きました。
「気持いい、気持ちいいよーーーー・・・・凄い、凄い、アアアアアアアーーー・・・イキそう・・・」
妹がまたまたイキそうになったので、チ○ポをサッと抜いてしまいました。

そして最後の体位で、妹を四つん這いにしました。
「最後はバックで出すからな」
「お兄ちゃん、出して、精子一杯、中に出して」
チ○ポをすぐに入れずに、お尻の割れ目で擦るようにしてなつきちゃんに、オ○コ汁付きチ○ポを見せつけてからゆっくりと妹のオ○コの中に侵入しました。
妹のオ○コの中は、なつきちゃんの目の前で僕の精液を受け入れることを想像して、激しく濡れていました。母は近親相姦見せつけが大好きですが、母の血をひいた妹も見せつけが大好きです。
「一緒にイクから、我慢しろよ」
「うん」
チ○ポをゆっくりと出し入れしながら、いよいよ射精までイクことを宣言しました。そして妹のお尻を軽く叩いてから、ピストン運動を開始しました。
なつきちゃんに真後ろからとか、他の人にやったように、仰向けになって結合部を真下から見上げてもらうのはやめました。
「あんあん、アッアッ、いい!いい!気持ちいい!いい!凄い凄い・・・」
僕は射精することに意識を集中しながら、妹のオ○コを突きまくりました。妹は激しく感じまくっていたので、必死でイキそうになるのを我慢しているみたいでした。

「そろそろイクよ」
「出して!中に一杯出して!!イク!!!!」
僕は妹の声に合わせて射精しました。溜まっていたので、妹のオ○コ全体に行き渡るぐらいの量を射精しました。中出し中に、妹は腰をビクンビクンさせながら、僕の精液をオ○コで味わっていました。
精液が全部出ききるまで、結合したままでいると、母が近づいてきて「もう全部出たでしょ」と言いながら、チ○ポを妹のオ○コから抜いてしまいました。そしてチ○ポをすぐにパクッと咥えるとチ○ポに張り付いた妹のオ○コ汁を舌先で剥がすように舐め始めました。
「世間では、兄妹でエッチしたらいけないことになってるんだけど、うちでは全然平気なのよ。ご先祖様から家族同士で愛し合う習慣が続いているのよ」
チ○ポをねっとりと舐めながら母がなつきちゃんに説明してくれました。

この日のなつきちゃんの見せつけは、これで終わりでした。このあと、なつきちゃんは何もなかったように、子供たちと遊んでくれました。
http://www.kazunoie.com/memo/memomisebu.html


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15. 中川隆[-10741] koaQ7Jey 2018年4月20日 16:42:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11551]

これで縄文系日本人の現在の生活ぶりが大体わかったのではないですか

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16. 中川隆[-10752] koaQ7Jey 2018年4月20日 17:52:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11563]

因みに、縄文人は元々は近親婚は避けていた様ですね。
エタ部落に隔離されて部落外の人と結婚できなくなってから近親相姦する様になったのですね:

縄文人や弥生人は、近親婚なのか?
ID非公開さん 2017/7/15 19:43:30


kii********さん 2017/7/15 20:39:10
いえ、違います。

縄文人の集落の骨をストロンチウムの同位体含有比で分析すると、男女ともに約半数が他地域、時には数百キロ離れた遠隔地から来ていることがわかりました。
それは、集落の半分が流入人口でできていることを示します。
縄文人は、成人すると村を離れ、他地域で暮らす人々が少なくとも半数はいた。

また、同じ村の同じ区域に、明らかに食生活が違う個体が混在していたこともわかっています。
大まかには「海の幸系」と「山の幸系」に分かれ、魚介類中心の食生活の個体と、木の実や肉を中心とする個体が一緒の場所で暮らしていたのです。
これは、縄文人の個々の生活は多様で、各個体が若い頃の食習慣を終生変えなかったことを示します。

わかりやすく言うと、男は森林系部族だがその妻は海洋系部族で、別々の食生活を送っていた、という可能性が考えられるわけです。
これは、現在のような一夫一婦制では難しいことですから、2つの可能性が考えられます。

一つは、男女ともにパートナーは複数持ち、女性は女性だけで固まって暮らしつつ、そこに複数の男性が同時に通って乱行的な性生活を営む男女別棲の生活パターン。
このパターンは世界中の部族に類例があります。

もう一つは、一人の男性が複数の女性を占有し、自身は栄養価の高い山系の食材を独占し、女性には貝の採取など簡便な食事で自給自足を強いた、というハーレム型のパターンです。

いずれにせよ、近親婚ではなかったことは確かです。


kii********さん 2017/7/16 04:03:18

弥生時代の婚姻は、正確なところはわかりませんが、魏志倭人伝や万葉集の記述からおおよその形を推測できます。

1一夫多妻制。身分が高い人間は5〜6人の妻を持つ。

2親と子供は別々の場所で暮らす(この類例は世界中にあり、有名なのはスパルタです)。

3結婚は妻問制を経て独立する(若い男性が妻の元に通う。夜の営みを終えると自分の家に帰宅する期間を一定年数経て、経済力などがついたら独立、自分たちの家を建てる)。
生まれた子供は共同施設に預け、一緒に暮らすことはない。(家を持てない若い男性が集まって共同で暮らす寮施設の存在が推察されるが、まだそれを証明できる発掘証拠はない。)

4近親婚はタブーではなかった。弥生人は土地に縛られるため、移動が困難であるとともに農作業の労働力確保が優先されていたと推測される。ただし土器の分布から、近親婚を避け、友好的な村に「嫁入り」が行われていた可能性も指摘されている。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10176697465


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17. 中川隆[-10757] koaQ7Jey 2018年4月20日 18:18:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11569]

縄文人に学ぶ (新潮新書) 上田 篤
https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%B8%8A%E7%94%B0-%E7%AF%A4/dp/4106105241

縄文人は母系集団で妻問い婚であった 〜縄文人に学ぶ 上田篤著
 

実現論「採取時代の婚姻様式」

>採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した。・・・・

その後同類闘争の緊張圧力が高まると、再び集団統合力を強化する必要から、氏族ごとの閉鎖性を強め分散力を強める兄妹総偶婚は廃止され、部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚に移行してゆく。

の記述があります。

「縄文人に学ぶ 上田篤著」には、同類闘争圧力が高まった後、婚姻様式「交叉総偶婚」の変形型「妻問い婚」を縄文人は行っていたのではないかとの試論です。

縄文時代は、他集団との緊張緩和としての「妻問い婚」によって物資(加工されたヒスイ等)や情報が流通し、竪穴住居に始まり石器や土器などを含む多くの生活物資、土偶や石棒の呪物など驚くほど似かよったものになっていった、と考えたものである。

以降「縄文人に学ぶ 上田篤著」より
__________________________


【縄文人はどんな集落・社会をもったか】

考古学者は一般に、縄文人の居住地を村とみる。血縁社会でなくて、今日の村にも似た地縁社会である、と考えている。

 しかしわたしは、それはアメリカ北西海岸のハイダ族やオーストラリアのアボリジニなどのように苛烈な大平原での部族の生き残り策だったろう、山海の幸により超長期の定住を可能にした縄文人にはそんな必要性はなかったのではないか?

 とういのも、そういう地縁社会そのものにいろいろ疑問があるからだ。たとえば五、六戸の家からなる「村」があったとしたら、始めのうちの三十年、五十年はともかく、それらが他人同士の家々からなる村だったら、三百年,五百年もたったらどうなるか?当然そこに家どうしの競争・格差・貧富・不和・離散などが起きてとうていいつまでも元の形をとどめることなどできないだろう。

 ところが、縄文人の集落は何百年、何千年と続いているものが多く、そこにはあまり変化がない。抗争などの跡もなく、ずっと「平和な村」だったようなのだ。つまり、超長期間つづくがほとんど変化のない集落を「村」と言っていいのか?とういう疑問があらからである。

 そこでわたしはアメリカ先住民、いわゆるアメリカインディアンの社会を調べたいとおもい、十九世紀の人類学者ルイス・モーガンの著作を仲間達と翻訳した。

 その結果わかったことは、アメリカ東海岸で森林生活をしていたイロクォイ諸部族は文明時代の一歩手前、未開時代の前期の状態にあったが、その居住地はすべてクラン(氏族)という血縁で構成されていた事である。

 クランはわかりやすくいうと親族社会で、祖母・母・兄弟姉妹だけでなく、おじ・叔母・大おじ・大おば、いとこ又いとこなどを含む血縁の家だ。しかも百人を超すような大集団である。そこには他の氏族に属する嫁や婿もいたが、彼らには一時的に滞在するよそ者にすぎず「市民権」を持たなかった。そこではなにもかもその家の女達が取り仕切った。本格的な農業はおこなわれなかったが、トウモロコシをはじめとする食糧は潤沢で、縄や土器などの文物の発展も素晴らしかった。そしてそういうクランはイロクォイ族に限らず、その他のインディアン部族にも共通していたという。

 といったような事を知ると、わたしは「縄文時代も同様ではなかったか」と思う。おそらく縄文集落もイロクォイ族のような血縁集落だったろう。そうでなかったら、先ほど述べたほどの長期間の持続などとうてい起こりえまい。

 じっさい、先に述べた沖縄では十三世紀ごろまで縄文的な生活がつづいたが、集落という地縁社会でなく、たいていはマキョとよばれる親族集団だった。モーガンのいうクランである。

 ところでそのイロクォイ族の社会には、実は問題があった。

 彼らは自立自営の生活を送っていて不自由する物はあまりなかったが、血縁社会であるために家のなかに若い男女の互いの伴侶がなかったことだ。

そこで男達は、しばしば他の家の女たちのところに求婚に出かけた。中には長期に女性の家に泊まる男もいたが、そこは今述べたようにその家の女性が支配していて男性の関与する余地はほとんどなかった。男は働きが悪いと、子供が何人いようと直ちに追い出された。そして生まれた子供はすべて女の家に帰属した。

 縄文の男達も、同様に他の家の女達への妻問い、つまり求婚にでかけたことだろう。そしてそのとき見過ごせぬことがあった。というのは、男達は食糧をはじめ石器や土器さらにヒスイ玉などをお土産として持参したと思われることだ。

 ずっと後のこと、雄略天皇というから今から千五百年ほど前のことだが、彼が恋人の所に尋ねていく途中で白い犬を手に入れ、彼女の家へ行ったとき、此れは今日、道で授かった珍しい物で妻問いのお土産である、といってプレゼントをしている。(古事記)そういう風習は縄文の昔からあって、天皇のツマドイにも引き継がれたのだろう。

 しかもその縄文人のプレゼントは単なる物ではなく、魂だったと思われる。というのも、今日、日本人の贈答品に多く熨斗(のし)がつけられるからだ。ノシはノシアワビの略だが、アワビは美味である上に栄養があり、加工すると保存も利くから、昔から祭りのとき神さまに供える神饌とされた。そのアワビが縄文土偶にしばしばみられるからである。

 土偶というものは魂、すなわちタマを持つものの偶像である。タマとは、さきの沖縄のセジとおなじで超自然力をいう。だからイノシシの土偶はあるあが、シカの土偶はない。縄文人は強いイノシシにはタマがあるが弱いシカにはタマはないと見たのだろう。ところがアワビはしばしば土偶にされた。タマをもつからである。

 人類学ではこのタマのことをマナといい、そういう行動様式をマナイズムという。南太平洋のメラネシア人の中に広くみられた生活習慣で、人類学者ロバート・マレットによって文明社会に紹介された。今日。それは「万物に命がある」とするアニミズムより古い人類の宗教観念とされる。

 それをわかりやすく言うと「宝石のように自由に受け渡しができる霊力ないし超自然力」である。それを身につけていると物凄いパワーが得られる、とされた。いわば効力のあるお守りと言っていい。そうして縄文時代に「男女の愛の交流」がおこなわれたとき、タマとされるような物資の流通も進み、又情報の交換も行われたことだろう。おかげで辺ぴな所に立地していた家々もみな孤立せず互いに結ばれ、縄文社会なるものが出来上がったとおもられる。

 そういう物資や情報が流通した結果、竪穴住居に始まり石器や土器などを含む多くの生活物資、土偶や石棒の呪物など驚くほど似かよったものになっていった、と考えられるのである。

 もち社会が発達するにつれて分業や交易もすすんだろうが、それらの背後にこういう男女の愛の交流があっただろうことは十分考慮されていい。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=285545

「日本婚姻史1〜その2:日本人の原型を形作った縄文人を取り巻く環境」
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/02/000749.html


約1万年前、人類の雌雄(婚姻)関係は劇的に変化してゆくことになったが、豊かな山野や海辺に進出して木の実などの採集や漁労に転じた採集生産の部族と、従来通り獲物の豊かな森林で狩猟を続けた狩猟生産の部族では、全く異なる婚姻規範を形成する。
 
東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した(但し、氏族を統合している部族レベルでは首雄集中婚が踏襲されている事例が多いので、正確には上部集中婚・下部総偶婚と呼ぶべきだろう)。
 
なお、その後同類闘争の緊張圧力が高まると、再び集団統合力を強化する必要から、氏族ごとの閉鎖性を強め分散力を強める兄妹総偶婚は廃止され、部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚に移行してゆく。何れにしても、期待・応望充足を最大の活力源とする採集部族は、総偶婚によって期待・応望(=共認)充足を破壊する性闘争を完璧に解消して終うと共に、総偶婚によって一段と期待・応望充足を強めたことによって、その充足を妨げる自我回路もほぼ完全に封印していった。


縄文時代(約16,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀))の日本人も採集部族でその部族は母系性の氏族集団(血縁集団;共通の祖先を持ち何らかの血縁関係のある人々による集団)と考えられます。

一方で縄文時代を現代的な一対婚家族の集団による他縁集団とする方々も居ます。

">「縄文時代の集団規模は、共同性規範が行き渡る範囲で決まる」
http://bbs.jinruisi.net/blog/2006/10/000028.html


に引用された鷲田豊明さん著作の「環境と社会経済システム」第5章 日本社会システムの起源
http://eco.genv.sophia.ac.jp/book/system/sys-5.html#back_13

によれば、

核家族が数単位集まることによって単位集団が形成されていたのである。単位集団という概念には、この核家族まで分解されず、かといって「20〜30人を大きく超える」ような大集団ともならない集団規模が、集団の構成単位として選好されたことを意味している。
(中略)

そして、集団の規模が増大にするにしたがって、全体的な共同性を維持することの困難もまた増大する。そして、原始社会の状況のなかでは、共同性を持続できる規模の上限がちょうど単位集団の規模だったと考えられる。

「縄文時代の集落が小規模のままであり続けたという事実から読み取るべきことは、社会的な格差や個人の権威の突出を拒否し、平等性原理にもとづいた社会関係を維持しようとする確固たる姿勢である。彼らにとっての集落の理想像は、より大きな集落を作ることではなく、少人数でしか維持できない人間関係が維持されることにあったのだろう。」

西田氏は、ある程度高い水準の共同性が集団内の平等性を確保するための必要条件とみている。


これらの説は本当でしょうか?疑わしいのは大きく以下の3点であると思います。

@縄文時代の集団規模が20~30人とする点

A集団内の構成単位が一夫一婦制の核家族であるとする点

B集団規模の抑制が平等性という共同性にあるとする点


 
●縄文集落の集団規模 
 
これらを検証する為に集団規模について検討します。

社会実情データー図録 人口の超長期推移サイト名
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1150.html

 
縄文時代・弥生時代の人口数は遺跡数等からの推計によっているが、単純な増加ではなく、早期(8100年前)・前期(5200年前)から中期(4300年前)にかけて急増した後、後期(3300年前)・晩期(2900年前)にかけて急減し、その後、弥生時代(1800年前、西暦200年頃)に入って、再度、急増している。

(中略)

こうした温暖化により東日本を中心に日本の人口は急増したといわれる。

4500年前から気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。


この推計の根拠は、文化人類学者 小山修三氏による推計のようです。

こちら日本人の源流を探して
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_12.html

に紹介されています。
 
遺跡数を集計し1遺跡当り24人として全人口を計算された様ですが、1遺跡(1集落)の人数が多くなれば全人口も多くなります。

縄文遺跡とはどのようなものだったのでしょうか?

Wikioedia縄文時代より引用します。


鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡(略)

加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居(略)

東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。


同じくWikipedia三内丸山遺跡より引用します。


遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。集落は住居・墓・捨て場・住居・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されている。

(略)
遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。

(略)
最盛期の縄文時代中期後半には500人の居住者がいたのではないかとの発言があったが、異論も出た。


16棟から46棟、三内丸山では780棟の住居跡が発見されています。1棟に一人しか居ないということは考え憎いので20〜30人と言う規模は小さすぎるのでしょう?
更に遺跡数について検討します。

縄文遺跡の立地性向(枝村俊郎・熊谷樹一郎)
http://www.gisa-japan.org/dl/17-1PDF/17-1-63.pdf

によれば、
 
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縄文中期に全国で507の遺跡が有ります。一つの遺跡(集落)の人数を24人とすると僅か12,168人にしかなりませんので、先の人口推計とは異なります。

更に面的分布も図示されていますが、20平方km(東京都港区とほぼ同じ大きさ)の範囲で3〜13個しか無い地域も有れば229個以上ある地域も有り、地方によるばらつきはかなり大きいものとなっています。
 
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このような密度の違いにより、集落ごとの人数もかなりばらつきが生じる=20〜30人という想定はかなり荒っぽいのではないかと思われます。

加えて先の核家族的見方の中に、20〜30人という規模は平等性という共同性の維持のため、と言う主張も有りましたが、何故平等性=共同性となるのでしょうか?外圧が緩んだとは言え、集団である以上成員には能力や経験などによるヒエラルキーが存在すると考える方が自然です。全くの平等など現代人の架空の観念でしかないと思います。

結局は核家族的な見方によって全ての推論に狂いが生じるのだと思います。核家族とは一対の男女が結婚、出産を行い子育ても行うもので全く集団的では有りませんし、事実として現代社会にしか存在しない婚姻様式です。
 
敢えて一対婚を選択する理由は、縄文時代には全く無かったというしか有りません。


 
●縄文集落は血縁集団による集落
  
当時の集落はどの様な人々によって構成されていたでしょうか?
 
密度の低い集落では、族外婚はほぼ不可能で殆ど全員が族内婚=血縁集団となります。密度が高い地域でも近隣集団との交叉総遇婚で、やはり結果として氏族血縁が殆どではなかろうかと思います。

集団内に構成員に他縁のものが混入するのは、異民族が流入する弥生時代以降ではないかと思います。

更には、こうした縄文時代の婚姻は、様式といえるほど制度的、儀礼的的なものはなく生殖のみの全員婚であったのでは無いでしょうか?それは、婚姻を制度化する必然性が薄い※婚姻の制度化は、異民族が流入し婚姻関係を結ぶことで異部族集団と連合する、或いは部族の長の系統を重んじる、などによって必要となってくるように思います。


 
●まとめ
 
縄文時代とは、これまでの過酷な自然外圧に対して、気候が温暖化し比較的採集による生存が容易になった時期で、かつ異民族の侵入が無く同類闘争も余り無かった時代と考えられます。そうすると上位集中婚が崩れた族内婚か、周辺集落との交叉総遇婚であったと言えるでしょう。結果として集団内はほぼ血縁の氏族集団となっていた、と考えられます。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2013/12/001181.html  


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18. 中川隆[-10758] koaQ7Jey 2018年4月20日 19:39:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11575]

>「縄文時代はよかった。」で?どうやって縄文時代のいい所を取り入れるのか?
>投稿者 ワヤクチャ

>彼は、権力の廃絶を訴えられております。
>縄文時代には権力は無かった。
>昔にできていた事ならこれから努力してできる事では無いか?
>とおっしゃりたいのだと推察致します。


これに対する答えも書いておきますね。


現代日本人は

縄文人の末裔
弥生人の末裔
朝鮮から渡来した漢民族
アイヌ人
在日朝鮮人

から構成される


日本を支配していた天皇家や武家は朝鮮から渡来した漢民族(Y染色体O2系統)で、
縄文人・弥生人系の日本の一般民とは殆ど混血していない。

現代の日本の政治家や資産家は殆どが渡来漢民族:Y染色体O2系統(旧 O3系統)
地主や自作農は 弥生系: Y染色体O1b系統(旧 O2系統)
貧農や小作人やエタ部落民は 縄文系「D2」


日本は古墳時代以降ずっと厳格なカースト制(氏姓制)の国で
差別の実態は家柄による結婚相手の選別だった


穢多・蝦夷・アイヌ・琉球人:縄文人の子孫で Y-DNA は D と C

小作人・貧農:縄文人と長江の稲作漁労民の混血民の子孫で Y-DNA は DとO1: 乱交で父親が誰かわからない、財産無し

豪農、地主:長江の稲作漁労民の子孫で Y-DNA は O1、百姓、家柄で結婚相手を選別する

支配階級:渡来人(朝鮮に住んでいた古代漢民族)、O2, 苗字を持つ、家柄で結婚相手を選別する


______


縄文人は乱交制、フリーセックスで、生まれてきた子供の父親が誰か、母親にすらわからないのですね。

従って、自分の子供に世襲財産を残すのは不可能です。

はっきりした跡継ぎがいないので、いくら頑張って働いて財産を作っても、死んだら部落の人全員に同額づつ分配する事になります。

これでは何千年経っても資本が蓄積されず、貧富の差も階級もできないのです。

原始共産制というのはこういう物なのです。



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19. 中川隆[-10842] koaQ7Jey 2018年4月21日 10:42:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11662]

沖縄の離島ではまだ縄文時代の祭りがそのままの形で残されているみたいですね:


新城島(パナリ)
http://www.youtube.com/watch?v=-0p9BHXUbmA
http://www.youtube.com/watch?v=lVAmBAq_Wz4
http://www.youtube.com/watch?v=1Ehez1XIhIg
http://www.youtube.com/watch?v=aL5Fj-Iv63o
http://www.youtube.com/watch?v=Nt_0KxEgZBM


新城島 豊年祭
http://www.youtube.com/watch?v=B9eVG7kOPP4


秘祭 (新潮文庫) 石原慎太郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%98%E7%A5%AD-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%9F%B3%E5%8E%9F-%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4101119082


人口わずか十七人の南西諸島の孤島をリゾート化しようと、観光会社の青年、敏夫が島に赴任する。前任者が事故死した為だ。

島の和やかな雰囲気や、島唯一のいい女、タカ子に魅了され島に惚れ込む。タカ子も敏夫が気にいったようで、二人は即、獣のように愛を交わすようになる。社命で赴任したとはいえ、仕事らしい仕事はせず、タカ子とセックスばかりしている敏夫だが、島で生活していく内に、段々と島のタブーが見えてきた。

まずおかしいのは、檻に入れられている男、ミノルの存在。
言葉は発っせず、原始人のような風貌で獣のようにウーウー吠えているだけ。島の人は

「ミノルは頭が弱くて乱暴することがあるのでね」

とあっさり言うが、明らかに異常な光景だ。

さらにある晩、漁に出た敏夫が見たのはタカ子が他の男と交わっている姿。
タカ子に問い質すと、「嫌なら私を島から出して」と懇願する。
どうやらタカ子は島の男全員と寝ているらしい。このことから、段々とこの島の異常性が露わになっていく。

乱婚、近親相姦、暴力、拷問、殺人…。

近親による性交の歴史により、この島は狂人パラダイスと化していたのだった!
前述した、檻の中の男は島の秘密を漏らさないよう、舌を切られていたのだ。

敏夫の前任者もこの秘密を知って殺されたらしい。そして、知りすぎてしまった敏夫は、タカ子を連れて島を出るため島の老人たちに、「訴えることもできるんだぜ」と脅す。老人たちは

「わしらが島を出ます。だからあんたもこのことは黙っておいてくれんかね」

と、屈伏したように見せかけるが、結局、敏夫は別れの酒と称した杯に毒を盛られて眠らされ、ボコボコに拷問された揚句殺されてしまう。

時は流れ、何も知らない敏夫の後任の青年がまた島に赴任して来た。木の下に不自然に土が盛り上がった土饅頭が二つある。「あれは何ですか」と、島の人に聞いてみると、

「ああ、あれは昔から人魚の墓と言われておってな…」

…それが敏夫とその前の前任者の墓であり、

いずれ自分もそこに葬られることになるとは思いもしないであろう…。
http://hojomatsugoro.blog41.fc2.com/blog-entry-982.html


123 : 天之御名無主 : 05/01/18 16:20:48

石原慎太郎の「秘祭」は、アラグスクの豊年祭ですよね。
アカマタ系の豊年祭には、何か近親相姦に関する意味合いがあるとか…
http://logsoku.com/thread/academy2.2ch.net/min/1051345690/


2013-02-14
ある学術雑誌の紹介本に「乱交」の研究書があって、その中に石原慎太郎著「秘祭」の名前があったので興味を持ち、そちらを読み始めた。

研究所にあるように石垣島の先、八重山諸島のある島には、祭りの時に何代にもわたり、近親相姦もある乱交の習慣があり、それはある意味必要不可欠のものだと言う学説であった。

「秘祭」は昭和59年新潮社刊行

石原の内容は、その島には17人しか住んで無く、その島を買収し観光地として売り出すために、東京から派遣された社員が事故死したため、次の社員が派遣されると言う処から始まる。

どのように親しくしても、その島の人間になると言う事は全く受け入れず、全てを知った事で殺害されてしまうのだった。それを口外した事で舌を切られ、動物のように鎖に繋がれてしまった島の人間も居る。

石原は八重山に想を得たが、島と人物には係りないとしている。

研究書では、その秘祭は事実に書かれている。

安易に言ってはならないが、八重山に限らず、日本の祭り(盆踊り等含め)の原点はそのようなものかと思われる。
http://higashinum.exblog.jp/19994498/

▲△▽▼


奇祭アカマタ・クロマタ 美女が洞の中で男衆と妖しい儀式

 アカマタ・クロマタは、八重山列島の新城島、西表島の古見集落、小浜島、石垣島の宮良集落で行われている。場所ごとに開催日はずれているが、それぞれの期間は3日間。開催日時は島民と関係者以外には知らされない。

 アカマタ・クロマタに関する文献や写真は極端に少ない。中でも新城島に関しては、さらに厳しいかん口令が敷かれて、外部にはまず漏れない。

 漏れ伝わる話によると、新城島では1日目の夜にアカマタ・クロマタを生む際に秘儀が行われるという。
「ザーシンカと呼ばれる男性による祭祀集団がナビン洞の前に並ぶと、30代後半の美しい女性が介添え役の女性に連れられてやって来る。この美しい女性は、ナビン洞の中に入るとアカマタ・クロマタを生むためにザーシンカの男衆たちと妖しい儀式をするという」

 あくまで噂の域を出ないが、島の人たちが観光客などの行動を異常に警戒しているのは秘議にまつわるタブーを暴かれることを恐れているのかもしれない。
   2011.8.5 東京スポーツより
http://sky.ap.teacup.com/f45362/1674.html


その祭りは通称「種子取り祭」と呼ばれ、島出身者以外の旅行者では絶対に参加できない秘祭らしい。運良く見物人として参加できても、写真撮影禁止、そして決して祭りを口外にしてはいけないという固い厳守事があるとか。

表向きは豊年祭と呼ばれる神を讃える祭りだが、裏では「種子取り祭り」と呼ばれてるらしい。毎年、過疎化を防ぐために島で選ばれた若い男女がこの祭りの時に、島中の人々が集まる場でセックスを行うんだとか。

もし島外の者がその場を見物していることがバレると、島中の男たちから半殺しの目に遭い五体満足の体では本島には帰って来れないんだそうな。


・高校生くらいの男女が選ばれてセクロスするんだ。それも初めてで

・お前達に警告しておく これ以上この島に関わるな
http://sexynews24.blog50.fc2.com/blog-entry-6597.html


日本の祭りでは乱交するのが普通だったので、新城島だけそこまで秘密にする理由は無いのですね。 それにこれでは人魚神社に葬っている遺体との繋がりも無いですね。

昔、実際に行われていた儀式に近いのはこれでしょうか:

612 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 02:16:21 ID:hyL3kHcH0

今テレビのニュースでやってる島根の殺人事件ってさ、山口と島根の県境にあるN倉集落の秘祭に似すぎてないか?

あの祭って、今は稲藁で作った娘神を解体してるみたいだけど、100年前までは、「ヨツタ」って呼ばれてた10〜20代の女でやってたって話だよな?

ヨツタは風紀紊乱を起こした女が選ばれ、左乳房に「キ」の刺青を彫られた後、祭で体をバラバラにされる。

それはヨツタの汚れた魂と汚れた肉体を部分に分解し、山の神のもとに返し、再生を待つ魂にして村を守ってもらうっていうそういう伝説のもとにやられたはず。

667 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2009/11/12(水) 21:09:08 ID:7fUxuA0K
>>612
あそこの集落の人らって基本的に獣肉食べなかったんだよねー

あれだけ山深い所で、食料になる動物も多いのに解体を嫌うらしい

なのにキ(忌)の入れ墨の女に対してだとちょっと異常なくらいにそういう抵抗感なくなる不思議

6 : 本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 01:39:26 ID:V9n20/EE0 [1/1回(PC)]

あれはネットで作り上げられた都市伝説
http://darknarice.jugem.jp/?eid=1264

#59 2013/05/01 10:32
此の島では少女は13歳になると、貝殻で出来たブラと腰ミノを着け、大人の仲間入りをします。

#62 2013/05/01 13:52
少女は13歳になると体中に蜜を塗られ、野外に放り出されます。
虫が体中に集りますが、それに耐えることがまず大人への第一歩となります。

#63 2013/05/01 14:05
>>62
蜜は自生しているハイビスカスから作るのですねw

#64 2013/05/01 14:43
>>62
虫が集まる前に男共が舐めまくるので、心配無用です。

#65 2013/05/01 18:46
虫に耐えた少女たちは、自分の身長ほどの穴を掘ってその中に入り、首から上だけを外に出して土に埋まります。
食事は与えられますが、彼女たちは5日間穴に埋まって過ごします。

#68 2013/05/08 18:45
>>65
そして別の穴に飢えた腐れナイチャーが表れ墓穴を掘ってしまい、食事は与えられますが、鉄格子と言う名の穴に閉じ込められて過ごしてしまうのです。

#81 2013/05/14 00:08
>>65
穴の中で5日間過ごした少女たちは、ザーシンカと呼ばれる霊的な力を帯びた男性の左臀部に口付けをすることでこの修行が終了となり、一人前の女性とみなされます。
http://bakusai.com/thr_res/acode=11/ctgid=104/bid=6/tid=2262413/


奇形児を食べていた日本の集落… おぞましい奇習とは?=山陰地方


 先日、大手メディアがアフリカ・タンザニアで古くから行われているという、アルビノ狩りについて報じていた。だが、実はこうしたある種の遺伝子異常や、奇形にまつわる儀式・奇習というのは海の向こうの出来事ではなく、我が国にも存在していた時期がある。


「そりゃあもうね、当時は大層珍重したものですよ。なにせ、見た目がああいう感じでしょう? それこそどんな奇形でも、有難がったものですよ」


 我々の取材に対してそう語りはじめたのは、かつて山陰地方のある海沿いの集落で暮らしていたという山鹿義美さん(仮名・78)。

山鹿さんの話によると、今を遡ること約70年前までは、当地に奇形を珍重する何とも不可思議な習慣が存在していたという。


「奇形がね、村に生まれると、まず、殺すんです。そう、赤ん坊のうちにね。

要はそれをね、みんなで食べるんですよ。薬になるもんだから。

知恵遅れも、手足の奇形も、真っ白なのも全部そう。
そういう子がね、生まれると、村は大騒ぎでしたよ」


 たしかに、古今東西、その見た目が奇異な印象を与える遺伝子異常や奇形の類というのは、珍重されてきた歴史がある。とりわけ、動植物については、その物珍しさから、不老長寿の秘薬とされたり、どんな病にも効く特効薬として認識されるなどしてきた。

効能は不確かであるものの、それを自らの体内に取り入れることで、何らかの効果を期待するという向きがあったのは事実だ。しかし、それがこと人間を対象としたものであるとなると、途端にオカルト的な臭いを放ち始める。


「生まれて奇形だってわかると、すぐにムシロをかけましてね、その上から石臼を乗せてね、大人が体重をかけて殺すんです。

それで死んでしまったら、そのままむしろごと藁縄で縛りましてね、井戸の中に吊るす。

でも、水には漬けちゃいけない。宙ぶらりんで吊るすんです。

それで7日間ばかし吊るしたあとで、今度は天日に干すんです。

 そこから2週間くらいですかね、生渇きになったら、鉈や何かでバラして、家格ごとに切り分けていくっていう。

この作業はね、村はずれの川っぺりに住んでて、四つ足の屠殺なんかをやっていた人らがね、金をもらって村人の代わりにやっていましたよ」


 山鹿さんの話によると、アルビノはもとより、手足の本数が異なる奇形、さらには今で言うところのダウン症まで、この地域で生まれた者は、すべて秘密裏に殺害され、“秘薬”として村人たちに振舞われていたという。


「とにかくね、なんにでも効く薬だっていう話でしたよ。

嫁さんが産気づくと精がつくからって煎じて飲ませたりね。年寄りが具合悪くなったら重湯に混ぜて飲ますとか。

本当に効果があるのかはね、わからないけれども、当時はみんなそうしたものです」


 無論、当時に比べ、格段に医学や生物学に関する知識が豊富となった今では、こうした奇形嗜食はなんら科学的な根拠を持たぬ迷信の類に過ぎない、なんともおぞましい行為として考えられることだろう。しかし、ミイラ薬や胎盤食など、非科学的な類似行為が全世界に存在しているのもまた事実だ。その奇異な外見が抱かせる神秘的な特徴に魅せられる人々は、洋の東西を問わず、いつの時代も存在しているのである。
(取材・文=戸叶和男)
http://tocana.jp/2016/04/post_9153_entry.html


138 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 18:07:45

沖縄、八重山諸島、新城島の秘祭、豊年祭が、先週の木〜金にかけて行われたそうです。

この祭りは島民以外の見学がかなり制限され、撮影、筆記など一切禁止、
カメラをもったよそ者が見つかったらリンチされたりと事件が起こってる位、
秘密で行われている日本民俗学最大のタブーとされてる祭りです。

ここまで徹底的に秘密にするので、人魚と称して子供の肉を食ってるとか、
女を監禁して神様が生まれる儀式として輪姦してるだのおどろおどろしい噂が出てるんです。


僕の調べた民俗学者などの資料の限りだと観光客には見せないアカマタ、クロマタ誕生の儀式は男役と女役の島民が性交をする真似をする儀式があるらしく、それで神が誕生するとなってるのが見せない、秘密にするので女を監禁して輪姦という噂になったんじゃないかなと思います。


実際、ここで生まれるアカマタ、クロマタという神はポリネシアの神々に非常に近く、また東北のなまはげの原型とも言われ、南方〜日本と繋ぐ文化のルーツとしてオカルトとしてじゃなく学術的にも興味深いのですが、 見せない事で幻想を守り、興味を引くって意味ではモザイクみたいなものかもしれませんね。


31 :本当にあった怖い名無し 2008/04/20(日) 18:33:30 ID:mWNN8fQx0

田舎の性に関する話は怖いときがあるね。

国内の某島に旅行に行ったとき、赤ちゃんを抱いた10代前半くらいの女の子をやたら見かけた。

歳の離れたきょうだいが多いんですね、とガイドの人に言ったら
風習で女の子は初潮が来たら即嫁入りさせてて、今でもそれが続いているんだとか。

若い事実婚夫婦が自立するまで集落で面倒みるんだって。
今は法的に問題あるから大きな声じゃ言えないんだけどね、と含み笑いされてちょっとゾッとした。

どこだろうこの島


39 :本当にあった怖い名無し 2008/04/24(木) 06:01:33 ID:wqfKSEIoO

スレ読んでて『ウィッカーマン』ていう名の映画を思い出しました。去年リメイク版でニコラス・ケイジが出たのをやっていたけど。
まさにこのスレの内容の様なお話で、島のタブーにゾッとする。


41 :本当にあった怖い名無し 2008/04/25(金) 17:38:56 ID:XViIM4BXO
>>31
聞いたことがありませんがとても興味深いですね…

昔、何処かの集落に初潮を迎えた女の子を人柱とし、村の男性一人を神の寄代に選んで民衆の前で儀式的にヤルと言うものがありました。儀式と言えど実際に入れます。

そして事が終わったあとは女の子は川に流すと言う因習です。

島では無く本土の何処かにあった因習と聞きましたが、今では似たような擬似の儀式が残ってるだけです。
http://yakimashi.doorblog.jp/archives/6350112.html

沖縄県の池間島という島では、50歳以上の老人が死ぬとその肉を親族で食べたそうです。
しかもつい最近(一説によると50年前まで)肉を親族が食べ、骨だけにすることで、魂を肉体から解放する。

沖縄 食人の習慣? 2007-01-10


与那国の歴史 池間 栄三 より

池間 栄三 与那国の歴史 (1972年)
P38 
与那国の葬儀に獣肉料理を喰べる風習は、上代に死人の肉を食べていた風習の名残だといわれている


南島古代の葬儀(民族第二巻第五号) より

昔は死人があると親類縁者が集まってその肉を食った。

後世になってこの風習を改めて人肉の替わりに豚肉を食うようになったが、今日でも近い親類のことを真肉親類(マシシウヤクワ)というのはこの風習から来ている。

何と石垣島では近年まで、親類に死人の出たことを老人に告げると


「アンスカ・ムム・ファリンサカメ」

↑それではまた皆で食べられるね


といわれたのだという。宮古島には今もなお


「葬儀に行こう」


という代わりに


「骨を齧りに行こう」


という言葉が残っているという。


*1959年の話である。大昔のことではない
http://ameblo.jp/horror/entry-10023187967.html

私の知っている限りでは、沖縄が 他の国の歴史に登場したのは西暦610年、隋の役人が探検に来て帰国後に報告したのが最初です。

「流求人は勇敢であり、戦いに負けると和を乞い、戦死した仲間は収容して生き残ったものでその肉を食べる。」

と言うような内容でした。

その事を、遣隋使が聞いて大和朝廷に報告したのが日本に伝わった最初の沖縄に関する情報です。

そんなわけで最初に朝廷に届いた内容は、「流求は食人国」であると言うようなものでした。

ここで言われている流求という国名が現在の沖縄を指すものか、それ以外の地域を指すものかにも諸説があり、確定的ではありません。どちらにしても誤解しないでほしいのは、

死んだ者を食べると、その人は食べた人の中で永遠に行きつづけると言う信仰は世界各地で見られ、古代中国、台湾でも有った習慣です。

ですから、単純に食人が野蛮な行為だったと言う事ではないので、念のために誤解の無き様。
http://www.okinawainfo.net/rekisi/yuusiizenn.htm




アイヌ民族と縄文文化、そして鬼退治 2010年04月18日


縄文からアイヌへ―感覚的叡知の系譜縄文からアイヌへ―感覚的叡知の系譜
著者:町田 宗鳳 せりか書房

まあこれですね。
縄文文化とそれを受け継いだと考えられるアイヌ文化の話が中々面白かったです。

贈り物を贈ることがアイヌ文化の根底にあるという話や、アイヌ民族は狩猟採集民族ではありますが、交易を広く行っており、それも生活を支える大切な要因の一つであったことなどのことについて知ることができました。

一番気になったのは、イオマンテから始まる食人文化への話。

イオマンテというものは、アイヌ民族のお祭りです。まあせいぜい

「熊を殺して神の世界(カムイモシリ)へ送り返す」

ということしか知らなかったんですが、この本によると、丸太で熊の首を挟んで殺した後、熊の体を解体し、その部位を食べるそうです。

しかし血を飲んだり、脳みそまで食べるとは知りませんでした。しかも生食。きっとまだ生暖かいんだよな……スプラッターですね。

おそらく食べることによって熊の力と一体になるという意味もあるのでしょうが、なかなか壮絶なお祭りです。

しかしながら、この本の筆者も書いている通り、そういう文化を野蛮だとか判断し下に見ることは間違っています。(ちなみにイオマンテは最近まで野蛮な行為だとして禁止されていた)

日本人のイルカ漁だって海外から見るときっとこういうふうに見えているのかもしれません。

現代人からみれば、凄惨なように感じても、その根底にはカムイから得た恵みを再びカムイの世界に返すというしっかりとした理由が存在するのです。

このイオマンテですが、この本ではこの祭りを縄文文化の名残なのではないかという観点から考えています。


その縄文文化を考える上で、例示として出てくるのが沖縄県の池間島という島につたわる食人文化の話です。

この島では、50歳以上の老人が死ぬとその肉を親族で食べたそうです。

しかもつい最近(一説によると50年前までという話もある。本当か?)肉を親族が食べ、骨だけにすることで、魂を肉体から解放する。

アマゾンのとある部族は死んだ仲間を食べるのですが、その理由が

「冷たい土に眠るよりは、暖かい仲間の中にいた方が良いだろう」

という理由だそうな。

同様の風習は沖縄県に多く点在しているそうで、よく考えると洗骨葬なども肉体から魂を解放するという考え方では共通しています。

かつて、貝塚から見つかった人骨にいくつかの人為的な傷がついていたために、モースは日本にはアイヌとは別の食人文化をもつ民族が住んでいたと考えたそうですが(プレ・アイヌ説というらしいです)、どうやら縄文人はこの風習のように食人を行っていたらしい。

普通生物は同族を食べたりはしません。まあ腹が減ったなら話は別ですが、種の反映のためには仲間を大切にする。

しかしチンパンジーが敵対するグループの子をさらって食べてしまうのは有名な話です。このように敵対するものを倒して食べるということは人間が猿の時代から行われていたようです。

食人文化を持つ部族の中にはこのように「憎しみによる食人」を行っているグループもありますが、沖縄の食人文化はそれとは違い言うなれば「愛情による食人」まあある意味人間らしいっていえば人間らしい。

この本では、アイヌ民族の伝承に

「かつてアイヌの先祖はお互いに食いあいをするなどしていたが、カムイが道具を与え食人を禁止した」

という伝説に注目し、南方からやってきた食人文化を持つ縄文人達の生き残りがアイヌではないのかと考えています。

そして、イオマンテと沖縄の食人文化は根底は同じではないのかとも推測しているのです。

おそらくイオマンテの祭りに近いものは縄文時代には多く行われていたのではないかと考えられます。しかし渡来人がやってきて弥生文化を作り、やがてヤマト政権によって大陸の文化が入ってくる。

すると今までの文化を続けていた人々は「野蛮」と言われ迫害の対象になります。しかし、ヤマト朝廷の勢力が届きにくかった辺境でその風習はほそぼそと残った。それが食人文化であり、イオマンテであると言うのです。

なるほど、と納得してしまいました。

ちなみにこの本を読んだ後、ネットで縄文文化について調べていたら、

「鬼=縄文人説」

というものを発見しました。鬼の顔は隆起が激しく、眉毛は太い。髪の毛は縮れていて体は毛深い。たしかにこうしてみると、縄文人の特徴を抑えていることに気がつきます。

ひょっとしたら鬼というものは朝廷に従わなかった縄文系の人々ではなかったのだろうか。

大陸系の支配者に追いやられ次第に北へ、山奥へと追いやられる。蝦夷と呼ばれた人々はおそらく縄文系だったと考えられます。

もし彼らがイオマンテに近い文化を持っていたらとしたら、おそらく獲物を殺し、皮をはぎ、血を回し飲みし、脳を生食する猛々しい祭りを持つ彼らは、鬼にしか見えなかったことでしょう。

そして鬼は人を食います。ひょっとしたら食人文化に近いものを持っていたのかもしれません。

少なくとも漂着した外人よりはありそうな話です。だいたい鬼って平安時代にはすでにあんな感じだったし。

古い風習をまもり続ける彼らは朝廷にとっては憎い敵でした。そのため自分たちとは違う「野蛮」な「怪物」としての鬼伝説が生まれたのではないかとも考えられます。昔話では鬼退治が語られますが、アレは実は民族紛争ではなかったのか。

頭の角も気になります。鬼が虎のパンツに牛の角なのは、鬼門の考え方から来ているそうですが、ひょっとしたら蝦夷の中にはシャーマンのような角をつける人々がいたのではないでしょうか。

北海道のフゴッペ洞窟の壁画には角をもつ異形の人々が描かれています。おそらくシャーマンではないかと考えられているそうですが、フゴッペ洞窟を描いた人々の風習が当時の日本に残っていたのかもしれません。(もっとも角をつける祭りを僕は知らないのでこの考えも随分怪しいものですけれども)

とまあこのように想像は膨らむのですが、こう言った説ってやっぱり食人というショッキングな内容からかあまり聞きません。

モースの食人説も、当時は反発を受けたそうですし(我々の祖先が食人なんてやっていたワケがない!ということもあるんでしょうけど)やはり現在ではタブーとされていることは受け入れがたいものがあるでしょう。

しかし、この本の冒頭で断られているように、「文化を野蛮とみなし拒絶する」ことは愚かなことであるといえるのです。(まあかといって僕はカニバリズムしようとは思わないけれどね!)

作者は冒頭でこうも断っています。

「アイヌの文化を考えるにあたって、近年見られるような自然と調和して生きるというようなステレオタイプな見方は捨てるべきだ」と。

あるところでは猛々しく、血生臭い風習があったとしてもそこを無視して話を進めることはできないのです。それも含めて文化なのですから。

彼らがもしかつて鬼と呼ばれた人々の末裔だとしても(こんなこと書くと怒られそうだけど、決して鬼が悪いわけじゃない)、その部分を拒絶するようじゃ、イルカ漁を責める外人と一緒になってしまいますよ。と考えてみたり。
http://blog.livedoor.jp/takaike_sora/archives/1457911.html


 
琉球の「食人」風聞の歴史的構造  弘末 雅士:天理大学国際文化学部


 東南アジア島嶼部の歴史を専門とする筆者は,北スマトラやニコバル・アンダマン諸島,ニアス島,ケダー,カリマンタン,モルッカ諸島など,交易上貴重な産品を産出したりあるいは東西交易路の要衝であった地に,しばしば古くから「食人」の風聞が存在したことに注目している。

「食人」風聞は,自文化と異文化とを分化する際の重要なメルクマールとなるばかりでなく,誰がその風聞を流布させたのかを考察することで,そこでの交易活動のあり方に,貴重なデータを提供してくれる。この意味で,琉球の「食人」風聞も興味深い事例を提示してくれているように思われる。


 琉球の「食人」風聞は,7世紀の『隋書流求伝』に登場して以降,13 世紀までしばしば中国側,日本側の文献に登場した。この「流求」が今日の沖縄かあるいは台湾であるかをめぐり論議されたことがあるが,日本側には9〜14 世紀始めにおいて南島に「人喰い」が居住するという一般的イメージが存在していた。

筆者は,「食人」が実際に慣行として存在したのかどうかには,直接的関心を払わない。
多くが風聞で実証が困難であるし,「人喰い」風聞が存在したという事実の方が,より重要であると考えるからである。そして14 世紀後半になり,琉球の王国が明朝に朝貢し始め,自らが海洋王国を自認し東南アジアや東アジアとを介在する役割を果たし始めると,「食人」風聞は消滅する。

 7〜13 世紀の間の沖縄は,日本や中国からは異域とみなされていたが,日本や中国との交渉がほとんどなかったことを意味するわけではない。むしろ日本と中国,あるいは東南アジアと東アジアとを介在する地としての役割が生じ始めた時期である。『日本書紀』『続日本紀』によれば,7・8世紀頃に琉球の一部を含む九州以南の島々の住民がヤマト国家に挨拶にやって来ている。また遣唐使もしばしば九州以南の島々に漂着した。12 世紀以降南宋の時代になると,東シナ海の海洋交易活動は一層活発となるとともに,中国人商人が南シナ海やインド洋にも赴くようになり,琉球に立ち寄った商人数は増加したことが容易に推測される。沖縄は11〜13 世紀には,グスク時代とよばれる水田耕作が普及し始め,交易も活発となり,権力者が出現する時代を迎えている。


 12〜13 世紀に東アジア海域世界において中継地として重要な役割を果たし始めていた琉球に対し,むしろ日本人は「人喰い」島のイメージをいだき続けていたといえる。沖縄は食糧を供給でき,また造船用建材となる木材を産し,金,銀,銅そして硫黄を豊富に産する日本と近接し,かつ東アジアと東南アジアとを介在しうる位置にあった。日宋間,日元間のあるいは東アジアと東南アジアとの間の貿易を支配的に司っていた中国人を主とする私貿易商人にとり,重要な中継地となりつつあった琉球は,日本人や他の外国人商人を介在させたくない地であった。「食人」風聞はこのコンテクストにおいて,重要な役割を果たす。

1243 年に五島から船出して宋をめざした船が,琉球国に漂着して,食人されるかもしれぬ恐怖を記した『漂到流球国記』や,商人が訪れないとされた黄金の島チパング諸島で食人が一般的に行われていることを記したマルコ・ポーロの『東方見聞録』を読むとき,こうしたイメージ作りがきわめて効果的になされていたことがわかる。

 「食人」風聞は,決して交易活動が無秩序で行えない状態を示したものではない。むしろ,現地人と一部の人々との独占的関係が形成されていることを示す場合が多い。琉球の「食人」風聞もこの点で,きわめて興味深い事例を提示してくれているように思われるのである。
http://www.okinawa.oiu.ac.jp/okinawa-cgi/cgi-bin/pdf/5122.pdf


▲△▽▼


古からの秘祭・土着信仰が残る島

1 :本当にあった怖い名無し:2008/04/08(火) 04:24:03 ID:keQmaNWf0

沖縄の八重山諸島の1つに新城島と言う島があります。その島には古くから人魚伝説があり、人魚神社や御獄(ウタキ)大御獄(オオウタキ)と言う場所には

「この道は『神の道』につき一般の人の通行を禁止する。」

と書かれた看板が数多くあります。

そして、謎の秘祭(豊年祭)には『アカマタ・クロマタ』と呼ばれる二体の奇妙な神が豊年を祈り踊ります。しかしこの祭りは撮影禁止で、以前、隠し撮りした人への暴行事件も起きました。

他にも、鹿児島の甑島には『クロ』と呼ばれる土俗信仰集団があり、人喰いや強力な呪術を使うなどの噂があります。


御獄
http://www.youtube.com/watch?v=-LFlqS1OIxQ
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=-LFlqS1OIxQ
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=zkS_jmB0-NY
http://www.ajkj.jp/ajkj/okinawa/chinen/kanko/sefautaki/sefautaki.html
http://gurukun.jugem.jp/?eid=1339


10 :本当にあった怖い名無し:2008/04/09(水) 12:37:02 ID:GBiBAvZIO

ガチで沖縄出身のボクですよ。大学で民族学を専攻していたんで卒論のテーマとして研究した事があります。あの辺の島は確かに独特の土着信仰があったり奇祭や妙な儀式が存在します。

ルーツを辿ると台湾からの流れを組んでいる儒教がベースなのですが、いつの頃からか仏教や密教などが混ざり合い唯一無二のスタイルが出来上がった訳です。

儀式には幻覚作用のある薬物を(ガンジャやある植物の根を絞り発酵させた酒など)用い人為的にトランス状態を作り出し神を体に宿し恍惚を感じると言うのが儀式のやり方です。

祭の様子を撮影して暴行を受けたと言う話がありますが、それも現在日本の法律で規制されている上記の幻覚剤の使用や閉鎖された島特有の近親結婚を繰り返した末のタブーなどが記録され広まる事を嫌ってだと思われます。

しかし、1番の原因は話題に上がっている島の多くは売春が島の収入源となっている様な事も多く、最近では、本土から借金を抱えて出稼ぎに来ている女性も少なくありません。そんな事から島の住民はカメラ、マスコミ等に過剰な反応を示すのです。僕も卒論の取材中に何度か危ない目に合いました。


後、これは確認できなかったので僕の憶測ですが、「神の〜」等が書かれた看板が立ち立入禁止になっている場所は埋葬場だと予測しています。鳥葬の風習が残っている地域も有る様ですし、他にも・・・血が濃すぎるためのタブー

タブーを神の使いとする地域も有り、神への捧げ物とされると言う話も有ったり。
集落でトラブルを起こし何だかの原因で始末された人間を隠したり

まぁ・・・ここら辺はあくまで憶測とか聞いた話ですので確認は出来ていません・・・。


興味が有る方も多く調べてみたいと思う方も居るかも知れません。でも正直、これ以上は掘り下げないのが良いかな?と思います。僕等から見て異様な光景でも彼等には受け継がれた文化ですから見ない振りして知らない振りしておくのが一番です。そうすれば島の住民は友達で居てくれます。純朴で優しい人達ですよ。


12 :本当にあった怖い名無し:2008/04/09(水) 22:36:33 ID:dghEXJ+6O

>>10
さらに詳しい話を聞きたいけどやっぱり島の人にしかわからないことがあるでしょうしね

13 :10:2008/04/10(木) 01:50:14 ID:R9PnKYsJ0
>>12
そうですね、やはり話の核心に迫るのは難しかったです。僕は運良く地元の人間と言う事もあり、かなり深い所まで行けたと思いますが・・・。

インターネットがこれだけ普及した世の中になっても表沙汰にならない所を考えると
地元の人間にとってどれだけ重要な神事なのかは想像できます。今、改めて当時のレポートを読み返していますが、以前からどうも解せない所があって又沸々と探究心が湧いてしまっています。

>>1に記載されているクロに関しては結局何も分からず仕舞いですし・・・

確かにクロと呼ばれる集落は存在していたのですが、近隣の住人もクロの話になると固く口を閉ざし怪訝な顔をします。しかし伝承通りにクロの集落中に高い壁が立てられ異様な雰囲気を醸し出していたのは事実です。

アカマタクロマタの秘祭についても石原慎太郎の小説のイメージが強烈で歪んだイメージが強すぎるのだと思います。実際は荘厳で美しい祭りでした。島が抱える悲しい事情による悪いイメージも強いのだと思います。

41 :本当にあった怖い名無し:2008/04/25(金) 17:38:56 ID:XViIM4BXO

昔、何処かの集落に初潮を迎えた女の子を人柱とし、村の男性一人を神の寄代に選んで民衆の前で儀式的にヤルと言うものがありました。儀式と言えど実際に入れます。そして事が終わったあとは女の子は川に流すと言う因習です。

島では無く本土の何処かにあった因習と聞きましたが、今では似たような擬似の儀式が残ってるだけです。
http://unkar.org/r/occult/1207596243

不思議ナックルズにアカマタ、クロマタの秘密が載っていたよ!

その儀式の為に幽閉されてる女がいて、洞窟でSEXさせられてアカマタ、クロマタが生まれるらしい

アカマタ・クロマタの儀式は乱交パーティーで
それで生まれた子供を人魚の肉として食ってるだって。

麻薬をやりながら、女を監禁して輪姦って・・・

メスのおサルさんみたいに発情してあそこがまっかっかな若い女がアカマタを、
男性と交わりすぎてあそこが真っ黒な10代から40代くらいの淫乱な女がクロマタを
演じる、というのが慣わしです!

何でここまで秘密にするかというと

女を監禁し輪姦が祭りの儀式で、人魚と称して子供の肉を食ってるのでばれるとまずいからです
http://unkar.org/r/tropical/1163308866

728:名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 06:29:16 ID:he1UONG30

そこで生まれ育った女が同類と変態儀式してるならどうでもいいが、島の外の都会から引越しして来た女の子が、突然島民が怪しい仮面とかかぶって取り囲む中、高台で四つん這いにさせられて涙を流して叫びながら、ぶっさいくなゴリラみたいな体型の猿みたいな性欲の男にパンパン突かれてたら興奮するな。

逃げ出そうとしても、ドンドコドンドコ太鼓の音の中、無表情で無感情な島民が取り押さえて高台へと連れ戻される。

そして何人かの若者によるレイプが終わったあとにまんぐり返し状態で神輿に載せられてワッショイワッショイと神殿に連れてこられて鳥居にV字開脚状態の全裸で、精液を垂らしながら荒縄で縛って吊るされ、その下で島民がオバハンとかですら平然と芋煮会をする。

放心状態の娘が深夜の祭り終了時にようやく下ろされて、神社の中の開かずの間に入れられると、そこには1年早く同じ都会からここへ引越ししてきて、音信不通の行方不明になってた友達の少女がボテ腹で発狂して笑い続けている。

多分そんな神秘の祭りなんだろう。

737:名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 06:47:14 ID:he1UONG30

アカマタ(股から赤い血を垂らしている。つまり処女)の信仰の為の儀式だから、処女が選ばれる。だが古くから居る島民はもう乱交夜這いしつくしていて処女がいない。

そこで若い衆の中で女騙すのが上手い奴が、都会で可愛い子を物色するという仕組み。

アカマタの巫女にされた少女の母親が必死で娘の消息を追って訪ねて回っても島民は皆しらを切る。 そしてある時、記者が謎の儀式の噂を聞いて、取材のために島で聞き込みするが、皆血が濃くて薄気味の悪い顔つきでよそ者を冷たくあしらい続ける。

一人だけ陽気で気さくに質問に答えてくれた、なぜか指の間に水かきがあって左右の目の色の違う農民が、ちょっとお参りに行ってくる。と言うが島民じゃない人はダメだと同行を拒絶、隠れて跡をつけると山奥で大声を上げても通らない奥地の神社にはいっていく。

そこで記者が覗いたのは、豹変した農民が少女をダッチワイフのように乱暴に足を掴み上げながら凶暴に腰を振りまくる姿だった。 驚愕した記者が裏手に回ると赤ん坊の鳴き声やら女の笑い声、すすり泣く声がいくつも聞こえる。

少し戸を開けてみると、この島にそぐわない整った顔立ちの美人、可愛いかったであろう真っ白な肌の少女たちが何人もそろって脱力して寝転んでうわ言を言っている。
その内一人がこっちを見つけ

「静かに!君たちを助けてあげるから!」

といっても

「うおああああぁぁぁ!!!」

と既に人語を忘れて叫び声を上げ、神社に鎌や鍬をもったたくさんの人影が忍び寄る。

65:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 10:18:20 ID:z2MmBJ8N0

お前達に警告しておく
これ以上この島に関わるな
http://2chnull.info/r/newsplus/1284771591/1-1001

627:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 23:08:50 ID:Ekuzm5Le0

祭の内容見ると、やっぱ

献上する赤ん坊を生む儀式&犠牲になってくれた赤ん坊への鎮魂の儀って感じだな↓


海で監視をしている西泊さんと目が合う。そろそろ上がらないといけない時間だった。すると

「佐野さん?あなたのシンカはどこ?」

と尋ねられた。これは嬉しい島言葉だった。冒頭に書いた、この島で島民と旧島民だけで行われる秘祭「アカマタ・クロマタ」(豊年祭)は、男子の集団による「シンカ」と呼ばれる秘密結社的集団で執り行われる。

そのシンカは入団してからの年齢によっていくつかの階層に区分されるのだが、覚える祭りの歌や決まりごとはこの祭りに合わせた年に1回しか教えられず、メモも録音もできないのでその場で聴いて覚えないといけない厳しいものだという。かつては入団の際にはそれまでの品行を問われ、島の意中の女性も告白しなくてはならず、不相応な女性ならダメ出しを食うなどというまさに血を分けた家族のような存在なのだそうだ。

「シンカ」、そうかここではきっと家族っていう意味なんだろう。瞬時にそう判断して「あそこにいます。呼んできますね」と返事をしていた。 海から上がり、シャワーを浴びて着替えたあとは、約束どおり人魚神社(アーリィウガン)を案内してくれるという。その時には他のツアーのお客さんも加わり、我々はまだ見たこのない人魚神社だけ見て、そこで別れ船を待つことになった。

人魚とはザンと呼ばれたジュゴンのことである。ジュゴンの肉は不老不死の霊薬とされ、琉球王府の王様に献上されるのだが、パナリは毎年、そのことが義務付けられ、必死に捕獲していたらしい。そして捕獲したジュゴンの頭蓋骨をこの人魚神社に奉納していたため、今も神社にはジュゴンの頭蓋骨が残っているそうだが、立ち入り禁止である。島人も必要な時以外は入れないのだという。

鬱蒼とした緑の奥にたたずむ鳥居は神秘的で、とても勝手に入れるような雰囲気はなかったが、西泊さんが、我々も含めたツアー客に

「この神社は、昔、王様に献上したジュゴンを祭った場所です。ジュゴンの肉というのは美味しいものだったそうです」

と語ったとたん、2人の女子高生風の化粧バッチリの女の子2人が間髪いれず「入っていーの?」と質問した。西泊さんが

「ここはダメです。私たち島の人間も勝手に入れません」

というと「どーして?」。このやり取りが続いて噴出しそうだった。なんだか屈託がなくて微笑ましい。


鬱蒼とした緑に覆われた立入禁止のアーリィウガン

我々はそこで案内から外れ、珊瑚の塀で覆われた美しい村の集落を抜け、港で船を待つ。目の前には大きな西表島、遠くには高い山をいだいた石垣島、その中間になだらかな小山を持つ小浜島が見える。翡翠の海に幾重にも重なる島影。この美しさは八重山ならではだ。

パナリ集落

一週間前にはここでその豊年祭が行われていた。400人以上の人が訪れ、3日かけて儀式が執り行われるという。

一昨年、案内してもらったナハウガンと呼ばれる神社の奥にあった赤い太陽と月のマークを描かれた真っ白なアーチ上のワーと呼ばれる門から、稲を島にもたらした神であるアカマタとクロマタの2神が現れる。

アカマタは男の神で、旗には太陽が描かれその先に剣がついている。
クロマタは女の神で、旗には月が描かれ先には二股の槍。その体は野ぶどうの葉で覆われ手や足は見えず、それぞれ赤と黒に塗られた怪異な仮面をつけ、頭には大きな葉をいただき、大きさは2m半を超えるという。

目は夜光貝なので暗闇でも光り、その圧倒的な存在感はまさに神、村人は声を限りに神に出会えた喜びの唄を歌い、神は家を一軒一軒訪ね歩いて踊る。明け方には2神が生まれたナビンドウと呼ばれる洞窟

(シンカ以外の島民はその場所も知らない。丸1日かけてこの中で2神が生まれる儀式が執り行われるそうで、島民は雨戸を閉め、家の中で1日中忌み籠もるのだという)
へ帰っていくのだが、アカマタ・クロマタと島民の別れは、声を限りに涙にくれながら惜別の思いを歌う村人と、何度も振り返りながら消えていく2体の神、見た人によると、この現代にこんな荘厳で幻想的な祭りがあるのかと、震えるような感動に包まれたという。

この祭りは、以前、村人の招待があれば見られた時期から、撮影、録音からメモを取ることまで禁止され、禁を破った者はシンカから何をされるか分からない厳しい掟がある。このパナリのアカマタ・クロマタは昭和30年代に撮影された写真があり、今でも2冊の本で見ることができるが、その姿に一目ぼれしてしまった。威厳と怖さに溢れ、まさに神の姿であった。

このアカマタ・クロマタはパナリだけでなく、最初に始まったという西表の古見、西表島の向かいにあるここパナリと小浜島、そして小浜島の住民が移り住んだ石垣島の宮良の4ヶ所の部落のみで行われているが、どこでもいつ行われるかも公表していない秘祭であることは変わりがない。勝手に見ようとするとシンカに阻止され排除される。

昔出版されたある雑誌に、西表島の豊年祭の写真が掲載されていたが、ここではアカマタ、クロマタ、シロマタの3体の神が現れるのだが、パナリのそれとはまったく違う姿をしていた。小浜と宮良は似た姿だそうだが、パナリのものはこれも違う姿かたちだという。

そしてパナリだけはアカマタ、クロマタが現れる前に子供のアカマタ・クロマタも現れる。

子供のアカタマ・クロマタは鞭を持っていて、それに叩かれると1年以内に必ず死ぬと言われているため、みな必死で逃げるのだそうだ。

このようにそれぞれの島で違う形で伝え続けられてきた。  私はこの祭りを見ることが、ギアナ高地に降り立つことと並ぶ一生の夢であり、見られないだけにここ何年、国会図書館まで行って僅かに記述された文献を調べている。知識はあっても一度も見ていないのだから、ただの頭でっかちである。いつかその「許し」は出るのだろうか...。
http://www.webvanda.com/2010/08/post_31022839.html

沖縄県のA島では、なんとも奇怪な祭りが行われている。それは通称「種子取り祭」と呼ばれ、若い男女の営みを参加者に公開する、セックス祭りである。

沖縄県は八重山で最も人口が少ない島”A島”。

ここでは、島出身者以外の旅行者では絶対に参加できない秘祭が行われている。それは豊年祭と呼ばれ、表向きは神を讃える祭りなのだが、特に見物人に対しての制限は難しい。

運良く見物人として参加できても、写真撮影禁止、そして決して祭りを口外にしてはいけないという固い厳守事がある。

一体なぜなのか? それには驚愕の真実が隠れているからである。この祭り、実は裏では「種子取り祭り」と呼ばれる、いわば公然セックス鑑賞会なのだ。

毎年、過疎化を防ぐために島で選ばれた若い男女が、この祭りの時に、島中の人々が集まる場でセックスを行うのである。

首里王朝に伝わる古の書物には「風俗の乱れこれあり…」と書かれた一説があり、島では若い女性たちは半ば強制的にセックスさせられ、種付けをさせられるという。

ちなみにもし、島外の者がその場を見物していることがバレると、島中の男たちから半殺しに遭い、五体満足の体では二度と本島には帰って来れないという。
http://2chnull.info/r/newsplus/1284771591/1-1001

354:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 13:57:17 ID:GlCJiGQk0

こういうのはよその種を入れて血が濃くならないようにするのが主目的なんじゃないのか?
夜伽とかと同じで。


361:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 14:12:19 ID:yAysof1uP
>>354
これはそうした風俗とは根本的に違う
祭の夜に降臨するのは神であり、その神が儀式として行う性行為
多くの島では演じるだけだが、今も実際に行われる島があったとしてもおかしくはない
天皇の大嘗祭における真床追衾も、実際に行われているのかどうかを知ることは難しい

40:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 10:13:20 ID:DiGDdkMF0

国内で人口の少ない島はそれこそ1世帯〜数世帯レベル
成り立つかどうかが疑問

それに凄まじい近親婚になるので、障害児出生リスクも高い
他の地域の人と縁を持ち、島を維持してきたと考えるのが妥当


753:名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 08:12:56 ID:7YIgrshr0

地元にも無人島があるんだけど、
昔住人が50人ぐらいいたけど、みんな血が濃くなりすぎて、そのせいでほとんど女子しか生まれず、その女子が本土へ嫁ぐに行ってしまい無人島になった。


434:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 16:14:32 ID:HuT7wwke0

昔はどこも人の出入りが少なくて部落単位だから小さな集落はみんな親戚になってだんだん血が濃くなってくる

ときどき少し遠く血を入れないとまずいので暗黙の了解として祭りの時に利用したってよく言われている

おそらくこれも同じで 全くの部外者の血を入れるのはいやだけど今では遠くにいる同じ島の出身者くらいの血は入れたいってことだと思う
http://2chnull.info/r/newsplus/1284771591/1-1001

136:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 10:58:13 ID:dwr85dTX0

子孫繁栄のためならば、血が濃くなって奇形児が生まれることを防ぐために
部外者の参加大歓迎になるはず。 モンゴルあたりの遊牧民は、お客を自分の奥さんとか娘でもてなすらしいぞ。

64:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 10:17:58 ID:M0iRyq910

大正時代まで全国的にあったらしいぞ。
秋祭りの夜はフリーセックス=>5〜6月に生まれる。
人間の収穫。


107:名無しさん@11倍満:2010/09/18(土) 10:40:34 ID:rfOqN35a0

江戸時代に農村等で行われていたヤツの名残だね。

111:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 10:43:31 ID:B57FBblw0
>>64
万葉集の時代から、祭りの夜はフリーセックスだったしな
人妻とやりあったというのが残ってるw

かつて柳田を師と仰いだ宮本常一氏もまた、村の古老たちの夜這い談義を忠実に
再現した名作「名倉談義」(『忘れられた日本人』の内)を遺しています。

いきなり「夜這い」を持ち出さずとも、日本の村祭は密接に「性」と結びついています。 古来、祭の夜はフリーセックスが公認されており、それが若き村の男女の秘めやかにして最大の娯しみでありました。


160:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:10:00 ID:Kyus9N6V0

祭りと言えば乱交という地方は昔多かったらしいな。
今じゃ、離島にしか残ってない日本の伝統の絶滅危惧種。
むしろ保護されるべき。

191:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:27:38 ID:Kyus9N6V0

天皇家の跡継ぎ問題じゃないけど、
一夫一婦制の妊娠ってのは結構難しいんだよ。

昔は貞操うんぬんよりも子供を産まない事こそ絶対悪。
だから妊娠チャンスとしての夜這いや乱交が当然の事としてあったんだよ。

貞操を叫んで、少子化で滅ぶ方が馬鹿な社会だと俺は思うがね。


450:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 16:38:03 ID:WYcf1F3L0

乳幼児死亡率が今と違ってものすごく高かったんよ。
生まれた子供の半分以上は、5才の誕生日を迎えず死んでいくような状態。
その前に死産もあったから、受精卵から成人まで育つのは、3割程度かね。

だから、とにかく産むのよ。
成人まで成長するのが数少ないから、産んで産んで産みまくって…
とやっていかないと、途切れちゃう可能性があるんよ。


441:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 16:24:04 ID:tDXPC+zJ0

昔は過疎化という言葉は無かったかも知れないが、貧困と乳幼児の高死亡率で
どんどん子供を産まなきゃならんかった。ガンガン産まなきゃ貧困と過疎高齢化に
対応できない。

それは本土の農民も同じ。沖縄なんて国そのもののレベルが東北以下だったんだから
なりふり構わずやりまくって産まなきゃならない。昔、子供は地域の宝っていう概念があったけど、それは地域で育てて地域を守るって表の意味と、乱交状態で誰の子供か分からないって裏の事情もあったわけ。だから村の子供は村で育てるわけ。

貞操とか秩序とか道徳っていういわゆる日本人的な美徳があったのは貴族や武家だけ。


220:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:42:46 ID:XryklFOc0

夜這い・乱交は百姓の話。 百姓は多いほうが良いから黙認していた。
百姓には氏素性は不要だからな。

支配者階級では許されるはずも無く、養子縁組で家を保った。


663:名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 00:28:03 ID:he1UONG30

祭りの日の夜、家柄のいい地主だか商人だかは、自分の娘を蔵に閉じ込めて鍵をかけた。 男衆が女を目を血走らせてあさりに来るからだ。

女は蔵の中でガクガクプルプル震えて祭りが終わるのを待つ。

女を閉じ込めた親父は、時には若い男衆にボコボコにされても娘を守らなければならない。


245:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:54:15 ID:ek3jx5xm0

ムラの盆踊りに一人で行かせてもらえなかったって80歳のうちのばっちゃがいってた。 みんなセックスしてるからと。昔はどこのムラ祭りでもそうだった。

結婚はとなりムラの農閑期の慰安会の手伝いにいかされて、婿候補のじっちゃにこっそり見せられて後に結婚。今の俺があります41歳独身。昔はいいですな

178:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:20:19 ID:yAysof1uP

岡本太郎が墓暴きをやったせいで久高島では風葬が廃止され
貴重な秘祭であるイザイホーの伝統も絶たれてしまった

>>1が事実であろうとなかろうと、その土地の人が大切に守ってきた文化を
よそ者が踏みにじる行為は絶対に許せないと思う
http://2chnull.info/r/newsplus/1284771591/1-1001

77 : 天之御名無主 : 04/07/15 05:25

風葬は1970年代までは確認されている。

1979年の久高島でのイザイホーのとき、芸術が爆発するバカが風葬場所を撮影するという冒涜を行って大問題になった。

つまり、当時はまだそこに人骨がおかれていたのだそうだ。
http://logsoku.com/thread/academy2.2ch.net/min/1051345690/


194:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:28:05 ID:8JgCPlKC0

先島の方の神事って、本島の進行役のユタと少し違って「系譜」があるそうで
その人を検挙されると祭事ができないので秘密の神事にしたところもあるそうですね。

戦後に、男性・女性のシンボルを模った面や神事に用いたものを米軍が押収していった
そうです。 アンガマのウシュマイ・ウミーも現在のモノとは随分と違うって本土復帰前の琉大の調査に証言してた高齢者もいたそうです。


174:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:18:00 ID:hqxwwBTu0

沖縄、八重山諸島、新城島の秘祭、豊年祭は島民以外の見学がかなり制限され、撮影、筆記など一切禁止、カメラをもったよそ者が見つかったらリンチされたりと事件が起こってる位、秘密で行われている日本民俗学最大のタブーとされてる祭りです。

ここまで徹底的に秘密にするので、人魚と称して子供の肉を食ってるとか、女を監禁して神様が生まれる儀式として輪姦してるだのおどろおどろしい噂が出てるんです。
まあ、都市伝説みたいなものなんでしょうけど、そこまで隠すからそういう噂が出るんでしょうね。

僕の調べた民俗学者などの資料の限りだと観光客には見せないアカマタ、クロマタ誕生の儀式は男役と女役の島民が性交をする真似をする儀式があるらしく、それで神が誕生するとなってるのが見せない、秘密にするので女を監禁して輪姦という噂になったんじゃないかなと思います。

実際、ここで生まれるアカマタ、クロマタという神はポリネシアの神々に非常に近く、また東北のなまはげの原型とも言われ、南方〜日本と繋ぐ文化のルーツとしてオカルトとしてじゃなく学術的にも興味深いのですが、見せない事で幻想を守り、興味を引くって意味ではモザイクみたいなものかもしれませんね。

215:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:40:43 ID:hqxwwBTu0

大学で民族学を専攻していたんで卒論のテーマとして研究した事があります。
あの辺の島は確かに独特の土着信仰があったり奇祭や妙な儀式が存在します。
ルーツを辿ると台湾からの流れを組んでいる儒教がベースなのですがいつの頃からか仏教や密教などが混ざり合い唯一無二のスタイルが出来上がった訳です

儀式には幻覚作用のある薬物(ガンジャや植物など)用い人為的にトランス状態を作り出し神を体に宿し恍惚を感じると言うやり方です。

祭の様子を撮影して暴行を受けたと言う話がありますがそれも現在法律で規制されている上記の幻覚剤の使用や閉鎖された島特有の近親結婚を繰り返した末の畸形などが記録され広まる事を嫌ってだと思われます。

そんな事から島の住民はカメラ、マスコミ等に過剰な反応を示すのです。
僕も卒論の取材中に何度か危ない目に合いました。

後、これは確認できなかったので僕の憶測ですが>>108 の看板が立ち立入禁止になっている場所は埋葬場だと予測しています。鳥葬の風習が残っている地域も有る様ですし
他にも・・・血が濃すぎるための畸形を神の使いとする地域も有り、神への捧げ物とされると言う話も有ったり。

集落でトラブルを起こし何だかの原因で始末された人間を隠したり
まぁ・・・ここら辺はあくまで憶測とか聞いた話ですので確認は出来ていません・・・。

興味が有る方も多く調べてみたいと思う方も居るかも知れません。
でも正直、これ以上は掘り下げないのが良いかな?と思います。
僕等から見て異様な光景でも彼等には受け継がれた文化ですから見ない知らない振りしておくのが一番です。


293:名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 12:38:04 ID:DYrKD13LP

新城島のアカマタクロマタは部外者に対して禁忌というより琉球の古代から続く秘祭は多くが文字通りの秘祭だった

だが、今でも部外者秘を守ってるのはこの新城島のアカマタクロマタ

宮古島のパーントゥプナハくらいのもんだろ。

ちゅらさんで有名になった小浜島でもアカマタクロマタは部外者秘というが、今でもそうなのかどうか


アカマタクロマタは八重山一帯で広く信仰されてる、王国の支配が及ぶ以前からの
土着の信仰だ。ただし琉球王国のニライカナイ信仰同様、異界から現世に来る来訪神だから、ニライカナイ信仰に含められてるけどな

724:名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 06:08:19 ID:kAp5lM6HP

アカマタ・クロマタ(地域によってはシロマタというものもある)は八重山一帯に琉球王国の支配が及ぶ以前あるとされる古代祭祀、信仰なんだが、秘祭として執り行っている地域が現在もまだあるというところが重要

アカマタという神が性交に関わる神だというのは広く知られている上に特に新城島のものは島外人秘で極めて排他的で実態が全くわからない
定期船もろくに無い離れ小島で古代の性的儀式を行っている疑惑があるからここまで話題になる
http://2chnull.info/r/newsplus/1284771591/1-1001

154 : 天之御名無主 : 2007/03/22(木) 09:34:22

宮良出身です。

・アカマタクロマタは夫婦。
アカマタは農作業で日焼けして赤い。クロマタは炊事の時の煤で黒いらしい

・アカマタクロマタは、もともと宮良にあるものではなく、明和の大津波の後、新城(?)から強制移住させられた人達が持ち込んだ風習らしい。 その大元の発祥については詳しく知らないけど、海賊避けのハッタリって話しも聞いた事ある

・あのお面は、ある家系が代々保管してる。
体の部分は神聖な意味を持つ、特定の種類の蔦を編んで作成。


214 : 天之御名無主 : 2010/04/23(金) 00:07:10

17年前に2回ほど石垣島宮良に見に行ったことがありますが、規制などは思ったよりは、緩いのですが、アカマタ、クロマタが来る時に、家の中に入っていないと、めちゃくちゃ怒られます
私は知り合いの家が在り、見れたのですが、一般の人が見るのは難しと思います。

祭り自体は、怖くはないのですが、アカマタ、クロマタは、草か葉っぱで覆われていて、意味のわからない言葉でその家々に言葉を残していきます、

アカマタクロマタに入っているのは、地元の青年団で、意味のわからない言葉も古くから伝わる言葉らしく、絶対教える事はできないらしく、地元の人もこの事自体あまり話したがりません、特に地元青年団など、深く関わった人は一切話すことはタブーらしです、

祭りに対してのもともとの由来など、地元の人でもあまり解っていないと思いますが、厳しい掟などは守られているのは罰が当たったりとか、そうゆうことを恐れてではないかと思います。

県民性から言うと、お盆とか、しぃーみぃー(清明祭)などを大事にしているのと一緒だと思います。 私も6年石垣に居ましたが、沖縄の人から(個人的には)見ると、石垣の人は変わっています。
http://logsoku.com/thread/academy2.2ch.net/min/1051345690/

ナビン洞の中ではどんな儀式が行われていたのか?


アカマタ・クロマタの儀式に関する噂を纏めておきます。

昔は本当にこういう事をやっていたというのではなく、以下の内容を象徴化・抽象化した、同じ心理的効果を持つ儀式を考案したというだけでしょう。 くれぐれも事実だとは思わないで下さい:

・新城島ではなんとも奇怪な祭りが行われている。 毎年、島で選ばれた若い男女が、この祭りの時に、島中の人々が集まる場でセックスを行うのである。 島では若い女性たちは半ば強制的にセックスさせられ、種付けをさせられるという。


・ザーシンカと呼ばれる男性による祭祀集団がナビン洞の前に並ぶと、30代後半の美しい女性が介添え役の女性に連れられてやって来る。この美しい女性は、ナビン洞の中に入るとアカマタ・クロマタを生むためにザーシンカの男衆たちと妖しい儀式をするという


・豊年祭も2回あって、小さい豊年祭と呼ばれていてアカマタ・クロマタの子供が現れます。


・新城島では1日目の夜にアカマタ・クロマタを生む際に秘儀が行われる。


・アカマタ、クロマタは、明け寅の刻にヘビが皮を、蟹がからを脱ぐように生まれる。 ザーシンカは仮面に「すで水」を注ぐことによって、秘儀的に来訪神を再生させる。つまり、八重山の来訪神儀礼は、死と再生によって特徴付けられている。


・その儀式の為に幽閉されてる女がいて、洞窟でアカマタ、クロマタを生む


・秘密の祭りは近親相姦で柱にくくりつけて…


・アカマタ系の豊年祭には、何か近親相姦に関する意味合いがあるとか…


・新城島では近親婚の為に、生まれる子供は女子ばかりだった


・近親相姦で生まれた畸形の子供や集落でトラブルを起こした女性が神への捧げ物とされた。


・儀式には幻覚作用のある薬物(ガンジャや植物など)用い人為的にトランス状態を作り出し神を体に宿し恍惚を感じると言うやり方です。


・ナビンドウと呼ばれる洞窟でアカマタ・クロマタが生まれるが、シンカ以外の島民はその場所も知らない。丸1日かけてこの中で2神が生まれる儀式が執り行われ、その間、島民は雨戸を閉め、家の中で1日中忌み籠もる


・アカマタ、クロマタは地下あるいは土中から出現すると考えられている。 そして儀礼的には、ナビンドゥ(鏡のような凹状の洞穴の意味)から出現する、という形式を取っている。


・アカマタ、クロマタが来る時に、家の中に入っていないと、めちゃくちゃ怒られます


・新城島の豊年祭でだけはアカマタ、クロマタが現れる前に子供のアカマタ・クロマタも現れる。子供のアカタマ・クロマタは鞭を持っていて、それに叩かれると1年以内に必ず死ぬと言われている。


・外部の人間はアカマタが出てきてから踊る所だけしか見られない。 洞窟で何が行われてるか調べようとした研究者は石で眼球を潰された。 石垣警察署に問い合わせると、あまり深入りしないようにと意味深な注意を受ける


・何人かの若者によるレイプが終わったあとにまんぐり返し状態で神輿に載せられてワッショイワッショイと神殿に連れてこられて鳥居にV字開脚状態の全裸で、精液を垂らしながら荒縄で縛って吊るされ、その下で島民が平然と芋煮会をする。

放心状態の娘が深夜の祭り終了時にようやく下ろされて、神社の中の開かずの間に入れられると、そこには赤ん坊の鳴き声やら女の笑い声、すすり泣く声がいくつも聞こえる。


・人魚神社の秘密は島最大のタブー


・アカマタ・クロマタの儀式は乱交パーティーで それで生まれた子供を人魚の肉として食べている。


・何でここまで秘密にするかというと、女を監禁し輪姦が祭りの儀式で、人魚と称して子供の肉を食べているのでばれるとまずいからだ


・昔、何処かの集落に初潮を迎えた女の子を人柱とし、村の男性一人を神の寄代に選んで民衆の前で儀式的にヤルと言うものがありました。儀式と言えど実際に入れます。そして事が終わったあとは女の子は川に流すと言う因習です。


・人魚は、漁師達にあなたたちの島に連れていって下さいと頼みました。人魚に夢中になっている島の人達は津波が押し寄せて来るのに、気づきませんでした。ようやく気がつくと人々は慌てて島の一番高い所に先を争って逃げました。人魚だけはうれしそうな顔で、おいでおいでと津波を手招きして、沖の方に向かって泳いでいき、やがてその姿は津波に飲まれて姿が消えました。津波が襲ったのは、人魚が歩き回った所ばかりだったそうです。


・人魚とはザンと呼ばれた〇〇のことである。〇〇の頭蓋骨をこの人魚神社に奉納していたため、今も神社には〇〇の頭蓋骨が残っているそうだが、立ち入り禁止である。島人も必要な時以外は入れないのだという。


・「神の〜」等が書かれた看板が立入禁止になっている場所は埋葬場


・祭の内容見ると、献上する赤ん坊を生む儀式&犠牲になってくれた赤ん坊への鎮魂の儀って感じだな

___________

4) 神食いの儀式 _ 麻薬を吸い 人肉を食べ 乱交する狂宴


アステカの聖体拝領

神人合一のイメージを、信者をして強化せしめる方法として聖体拝領があるが、キリスト教のミサによるそれと、16世紀のアステカで行なわれていたそれが類似した儀式であったことを見ると、アステカの宗教は、観想を主力とするどちらかというとクンダリーニ・ヨーガ型の宗教であったように思う。ミサの聖体拝領は観想を補完するセレモニーと考えられる。


キリスト教のミサは、次のように執り行われる。


1.パン(ホスチア)の奉納
2.カリス(ワイン・聖杯)の準備
3.カリスを挙げる

4.奉納物の聖別(十字切り)と祭壇の献香
5.エピクレーシス(聖霊の降下を求める祈り)
6.聖別(パンとワインが主の肉体と血に転換する)

7.大奉挙(聖別されたパンとワインを会衆に向け高く掲げる。)
8.聖別後の祈り(聖別されたパンとワインを奉献する祈り)
9.奉献文の結び

10.挿入祈祷とフラクチオ(ホスチアがカリスの上で二つに割られる)
11.コンシグナチオ(ワインに対して、ホスチアのかけらで十字を切る)
12.混和(ホスチアとワインのカクテル)


最後は霊肉の一致のシンボル化ですね。

これに対してスペイン人修道士サアグンが1529年メキシコで目撃したアステカの儀式は、モクテズマ王や大祭司の前で行なわれた。


1.芥子粒の練粉でもって、ウイツィロポチトリ神の像を造る。

2.ケツァルコトアル役の祭司が、ウイツィロポチトリ神の像の心臓を火打石の槍で突き刺す。

3.死んだウイツィロポチトリ神の練り粉の肉体を細切れにする。心臓はモクテズマ王のものとなり、他の骨のようになっているバラバラの円筒状のパーツは列席する者に分配された。


この儀式は毎年行なわれ、神を食べることは「神食い」と呼ばれ、神を食べた者は「神の番人」と呼ばれる。
(参考:心理学と宗教/C.G.ユング/人文書院)

この儀式が隆盛なままキリスト教の布教を続けても、キリスト教のミサの方がアステカの儀式のパクリだと言われかねないので、サアグンは焦ったに相違ない。

どちらの儀式も、もともと個人と神が別である意識があることを大前提にスタートしているので、儀式の本質も神人一如を強調する形となっている。むしろアステカ民衆の意識が、西洋人に近い意識であったこと、つまり東洋的な意識(もともと神と人に隔たりはないという先入観)ではなかったことがひとつの驚きだと思う。

似た意識の大衆に対して、適切な宗教を移植すれば、非常によく似た儀式が出来上がる訳である。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/1a0c53a42e22a8266206417a54646457

ユングの観点から宗教改革の意味を考える場合、重要な焦点になるのがこのサクラメント、ミサ(聖餐)の問題です。

ミサの中心観念は、パンとぶどう酒の「聖変化」にあります。

これは、イエスが最後の晩餐の席で弟子たちにパンを裂いて与え、また杯を与えて、これを自分の身体と血であると語った伝承に由来します。パウロが語る次の言葉は、聖餐におけるこの「聖変化」を極めてリアルに伝えています。

「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである」
(?コリント11:27)。

 ミサにおいては、祭司がイエスの聖別の言葉を唱えることによって、パンとぶどう酒はキリストの身体と血に変化するものとみなされるのです。これを聖変化とか化体(実体変化)transsubstantiatioといいます。パンとぶどう酒の実体substantiaつまり「本質」が、霊的なキリストの身体と血に変化するという意味です。

 中世キリスト教には、この解釈をめぐって、二つの考え方がありました。一つは9世紀のラドベルトウス以来の考え方で、化体説の源泉となった考え方です。

彼は、聖別されたパンとぶどう酒は、天上にあるキリストの霊的な身体および血と〈同一〉であると言ったのです。

これに対して11世紀のベレンガリウスに代表される考え方は、パンとぶどう酒はキリストの血肉の〈象徴〉figuraであるとしたのです。
http://akitanarayama.blog10.fc2.com/?mode=m&no=309


 キリスト教会に魔女たちが告発されたのはこの人肉嗜食の罪に問われたのが、いちばん多かった。しかし、キリスト教信仰のまさにその中核こそ聖餐なのである。救いも、罪のあがないも、永遠の生も、何もかもこの聖餐にすべてがかかっているのである。

聖餐というものは、「象徴的な」人肉嗜食ではなく、神学上の原理説明によると、まったく現実に嗜食することなのである。

 神を食するということは、文明が始まって以来、全世界的に見られる風習であった。しかし、文明の初期は、人肉を実際に嗜食する祝祭がつねに行われていたのである。

「生贄になる者は」神の化身として「殺されるばかりでなく、自分を祀る者たちにその肉を食べられ、血を飲まれる。そうすることによって彼の生命は、彼らの生命に乗り移り、両者は結ばれて共生するのである」。

 神の化身である生贄を食べる目的は、そうすることによって神の肉体の肉になって、神の聖なる肉体が再生するときに自分も同じく再生できるようにするためであった。初期キリスト教時代の秘教というものは、すべて、カニバリズムまがいの聖餐を行えば、祀る者は祀られる者(神)と一体となれるという信念をその中心に持っていたのである。

「宗教の初期の段階には、聖餐という形で神を食べることによって、自分も神の一部になれるという固い信念があった。これは疑いないことである。

例えばトラーキアのディオニューソスの秘儀においては、そうした食事にあずかった人々は神の聖なる生命を自分たちも分かち持つことができるとされ、そのためにその神の名で自分たちも呼ばれることになるのである」

 キリスト教の聖餐は、他の秘儀のと同じく、こうした考えを下敷きとしている。エルサレムのシリルは、

「キリストの肉と血を食するのは、そうすることによってキリストと一体となり、血のつながりを得られるようになるからである。キリストの肉と血がわれわれの手足に入って、われわれは『キリスト担体』になる」

と語った。聖メトディオスは、

「信者はすべて、キリストの血肉にあずかることによって、キリストのような人間に生まれ変わる……キリストが人間として姿を現したのは、われわれ人間が神になるようにするためであったのだ」

と教えた。しかし、同じ聖餐でも、他の宗教のものとなると、それは悪魔の儀式とされた。

「悪霊は供物を食べて力をつける、だからあなたがたが供物を捧げると、あなたがた自身の手で悪霊を体内に引きいれることになる。悪霊は長い間ひそんでいて、そしてあなたがたの霊魂と一体となる」。

 真のカニバリズムは、7世紀まではなお、明らかにチベットの供犠と関連があった。しかし、その後は、それに代わって聖なる秘儀が演じられるようになり、そのためにカニバリズムはシンボリックなものになった。

練り粉で生贄を作って、それを引きちぎり、「内臓」を皆に配って食べた。
ときには、死刑囚の死体の肉をその練り粉で作った像の中に入れた。

贖罪の祭典のときには、「宗教の聖なる王」と呼ばれる雄ウシの仮面をかぶった聖職者が、その生贄の像を突き刺して、手足をばらばらに切り離し、胸を切り開いて人工の肺や心臓や腸を引き出した。残った遺体は動物の仮面をかぶった踊り手たちによってばらまかれた。

それは、古代、ウシル〔オシーリス〕やその他の救世主-神たちの遺体が地上にばらまかれたのと同じであった。

 そうした踊り手たちというと、『エゼキエル』の第24章に出てくるサバの住民たちのことが思い出される。彼らは「血を流す女たち」と呼ばれ、死者の喪に服するために黄金の冠と腕輪をつけ、「人肉のパンを食べた」という。

同じような送葬の踊り手として、エジプトには、女神メウト〔ムート〕、あるいはネヘベト〔ネフベト〕(死者を食べる女神)を擬人化するために、ハゲワシvultureの羽根を身につけたムーmuu(=母親たち)という人々がいた。

 最近まで、フランスの一部で、最後に刈り入れた小麦の束から取った小麦粉で人形を作って、それで人間の生贄を表す習慣があった。その人形は村長marie(昔は一族の母親の添え名)によって引きちぎられ、人々に与えられて、食べられた。

メキシコでも同様に、人間の生贄が廃止されてから、練り粉の人形の胸に火打ち石の先がついた槍が射こまれた。

こうした行事は、「神の肉体を食べるために神を殺す」行事だと言われた。「神を食べる」torqualoという儀式では、神の像が粉々にされて、人々に配られたという。

 これは、明らかに、アステカ人の宗教思想の遺物であった。生贄になる人は神の擬人であって、崇拝され、病気を癒し、人々に祝福を与え、つねに、そのそばには彼の世話をする弟子たちがいた。それから彼は殺され、彼に与えられていた特別な家(calpulliと呼ばれていた)でばらばらに解体された。育児中の母親たちは、その血を子どもに含ませるために、乳首にその血を塗りつけた。

 ギリシア人の言う「生食」wjmofagivaというのは、本来、人肉を食べる狂宴orgiaであって、そのときは料理も何もしないで食べた。生贄となる者は、その狂宴に参加した人々の歯や手で引き裂かれ、生のまま食べられた。ギリシアの古典作家たちは、つとめて「生食」を忘れようとした。

彼らは、野蛮人は乱交をし、家族の者を食べると言って軽蔑した。

「バーベキュー」というのは、本来、人肉を食べる饗宴であった。barbecueの語源はbarbricotで、カリブ・インディアンが人肉を焼くために用いた葉のついた枝で作った焼き網のことである。古い本を見ると、古代の人々には人肉を食べる習慣があったことがわかる。

古北欧の神々、あるいは巨人たちのことをヨツンjotunnと言ったが、「食べる人」という意味のインド・ヨーロッパ語を語源とする。血を飲んで、その骨でパンを作ったという英国のジャックの巨人と同じように、彼らも人間を食べたと信じられていた。

 聖王や救世主を食べることと、家族の者を食べることとの間には、どういう関係があったのだろうか。この答えは、人食い人種自身がしてくれた。つまり、

人が死ぬと、女性がその肉を食べ、そして、新しい子どもとしてその死者を再生させるのである。

原始時代の人々は、再生するためには女性の肉体の中に入らなければならないと考えた。そうするためには、女性に食べてもらうことがいちばん手っ取り早い方法であった。これが再生輪廻という、文字どおり肉体を再び身にまとうという、世界中に見られる教義の根源であったのである。

 どうやって懐妊するのかがまだよくわからなかったころ、死に瀕している人は、同じ種族の母親たちの誰かから自分がまた生まれてくるものと思っていた。自分の肉や血をその母親が新しい赤ん坊に移し替えてくれると思っていたからである。マッサゲタイ人は部族の母親たちに食べられることが唯一名誉ある死だと考えた。母親の肉体の肉となって、再生できると信じていた。大地と同じように、何度も何度も子どもを生む女性こそ、神秘の呪術によって自分を再生させてくれるものと思っていた。

 オーストラリア原住民の女性は、乳児が死ぬとそれを食べ、骨は赤く塗って自分の身体にぶら下げたという。こうしたまぎれもない呪術というものは、死んだ子を子宮にもどして、そして子を生む母親の血をその子の骨にまたまぶしてやることを目的としたものであった。

ビビンガ族の女性は、自分たちは死者を食べて、それで彼らを再生させてやるんだと、淡々と語った。ニューギニアでは、子どもが生まれるとその子に、殺されて母親にその肉を食べられた人の霊魂-名前を与えたという。

 1852年、ハブシュ博士はニアム・ニアム族というアフリカの部族のことで、次のように報告した。

「部族の誰かが死ぬとすぐに、縁者たちは、その死者を埋めないで、死体を切り刻んで賞味するのである。そのため、この地には墓地というものはない」

バガンダ原住民の話によると、女性たちはときに非常に空腹を覚え、乳児の耳を食いちぎることがあったという。おそらくこれは、子どもを食い殺してもまたその子を産めると信じて、全部食べてしまったということを、婉曲に表現したものであろう。

 妊娠するのは人肉を食べたためであるという考えは、未開人の間に広くある考えである。食べ尽くすことを表す語と、みごもることを表す語とは、同じであることが多い。古代バビロニアの諺に、

「誰しもみごもって初めて腹がふくらむ。誰しも食べて初めて腹一杯になる」

というのがある。フロイトは性的ドラマこそ本当の原風景であると仮定したが、ホラティウスによると、

「残忍な魔女がその腹から胎児を引きずり出して再生させる」

場面こそ、原風景であった。聖書では生誕を表すのに「身(bowels=腸)から出る」としている(『創世記』第15章4)。それというのも、子どもたちと同じように、古代の人々は、生殖と消化の区別がまったくつかなかったからであった。

サンヒドリン〔71人からなるユダヤの最高議会。紀元前5世紀から西暦70年まであった〕は、死体を洗った水を飲んだり浴びたりすると、女性はみごもるとした。これは、明らかに、死者の霊魂が新たに母親の胎内に入るという原始時代の考えの遺物である。

 殷の時代の中国は、生誕と再生は同じであると考えた。「霊魂」と「再生」を意味する鬼の絵文字は胎児であった。

 ヤノマモ族の言うところによると、彼らは、昔、母神マモコリヨマが死んだ親や子どもを食べてもよいと言ったからと言って、人肉嗜食をしたという。しかし、その後、彼らはその母神を崇拝しなくなり、人肉嗜食は罪だとして、死者を火葬にすることにした。それでも、今なお、彼らは死者の灰を食べ物に混ぜて食べている。祖先の灰を皆でいっしょに食べることは、縁者のきずなを強めると思われる聖なる儀式なのである。

 アフリカの南東部では、もし女性が別の縁者のグループのところに嫁いでいくときには、死んだ祖先の頭蓋骨に穀粒を盛ってそれを食べなければならない。

彼女が子どもを産むと、長老たちは死者とその子の間によく似た点があるかどうか見る。穀粒はウシル〔オシーリス〕のミイラの上でも、またベツレヘムBthlehem(=パンの家)で生まれたアドーニスの身体の上でも、同じように、栽培された。そしてその穀粒はウシル〔オシーリス〕やアドーニスを崇拝する人々が、厳粛な霊的交感のうちに、食べた。

そうすることによって自分が神と同じような者になり、神同様、自分も再生できると思ったからであった。

ハワイの原住民もウシル〔オシーリス〕によく似た神を持っていた。その神は身体を切り刻まれて、方々の大地-子宮に埋められた。彼の身体のいろいろの部位から食べ物が実った。

 ほとんどすべての宗教にはカニバリズムが見え隠れしている。神を食べる聖餐はキリスト教にも異教にもあったが、それとは別に、初期キリスト教教会は、本当に人肉嗜食をしたと言われた。

ローマ人の言うところによると、キリスト教徒は子どもを殺して食べ、その血の中に供犠を司る人を漬けたという。正当派キリスト教会側の人々(パウロ使徒団)はこうした非難に対して否定はしなかった。しかしそうした非難に値することをしたのは、ただ、グノーシス派の人々だけであると主張した。

殉教者聖ユスティヌスは、マルキオン派の信徒たちは実際に近親相姦や人肉嗜食をしたと言った。カイサリアのエウセビオス(263?-340。神学者、歴史家)は、カルポクラテス派の人々もやったと言った。エピファニウスは、モンタノス主義者や拝蛇教徒たちもやったと言った。アレクサンドリアのクレメンス、イレナエウス、5世紀の初期キリスト教会の長老サルビアンといった人々はすべて、異端者が食人種の行うような儀式をやって教会の名誉を汚したと言って非難した。

 厳しいタブーであったにもかかわらず、ヨーロッパでは中世になっても人肉嗜食が行われていた。飢えに瀕し、疫病が流行すると、ヨーロッパの町々では、多くの者が行き倒れになったが、ときにはある人の姿が突然消えてしまうことがあった。1435年、ガロウェイのソウニィ・ビーン家の人々は、何代にもわたって人肉を嗜食してきたといって告訴された。彼らはエディンバラの法廷で拷問にかけられて死んだ。しかしその死に方を考えれば、彼らが自白したとしても、その内容は疑わしいものである。

1661年、スコットランドで4人の魔女が拷問にかけられて、フォーファーの教会墓地から、洗礼を受けなかった子どもの死体を掘り起こして、それを食べたと自白した。しかし、そんなことはありえないのである。洗礼を受けない子どもが教会墓地に埋められることなどなかったからであった。

魔女に次いで、人肉を嗜食したといって頻繁に告訴されたのはユダヤ人であった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/cannibalism.html#1

▲△▽▼


215 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:40:43 ID:hqxwwBTu0

大学で民族学を専攻していたんで卒論のテーマとして研究した事があります。

あの辺の島は確かに独特の土着信仰があったり奇祭や妙な儀式が存在します。

ルーツを辿ると台湾からの流れを組んでいる儒教がベースなのですがいつの頃からか仏教や密教などが混ざり合い唯一無二のスタイルが出来上がった訳です

儀式には幻覚作用のある薬物(ガンジャや植物など)用い人為的にトランス状態を作り出し神を体に宿し恍惚を感じると言うやり方です。

祭の様子を撮影して暴行を受けたと言う話がありますがそれも現在法律で規制されている上記の幻覚剤の使用や閉鎖された島特有の近親結婚を繰り返した末の畸形などが記録され広まる事を嫌ってだと思われます。

そんな事から島の住民はカメラ、マスコミ等に過剰な反応を示すのです。

僕も卒論の取材中に何度か危ない目に合いました。

後、これは確認できなかったので僕の憶測ですが

>>108 の看板が立ち立入禁止になっている場所は埋葬場だと予測しています。

鳥葬の風習が残っている地域も有る様ですし

他にも・・・血が濃すぎるための畸形を神の使いとする地域も有り、神への捧げ物とされると言う話も有ったり。

集落でトラブルを起こし何だかの原因で始末された人間を隠したり

まぁ・・・ここら辺はあくまで憶測とか聞いた話ですので確認は出来ていません・・・。

興味が有る方も多く調べてみたいと思う方も居るかも知れません。

でも正直、これ以上は掘り下げないのが良いかな?と思います。

僕等から見て異様な光景でも彼等には受け継がれた文化ですから見ない知らない振りしておくのが一番です。


812 :名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 18:49:12 ID:4TJCDtnS0

秘祭「アカマタ・クロマタ」(豊年祭)は、男子の集団による「シンカ」と呼ばれる秘密結社的集団で執り行われる。

そのシンカは入団してからの年齢によっていくつかの階層に区分されるのだが、覚える祭りの歌や決まりごとはこの祭りに合わせた年に1回しか教えられず、メモも録音もできないのでその場で聴いて覚えないといけない厳しいものだという。

かつては入団の際にはそれまでの品行を問われ、島の意中の女性も告白しなくてはならず、不相応な女性ならダメ出しを食うなどというまさに血を分けた家族のような存在なのだそうだ。

アカマタ・クロマタは昭和30年代に撮影された写真があり、今でも2冊の本で
見ることができるが、その姿に一目ぼれしてしまった。

威厳と怖さに溢れ、まさに神の姿であった。

627 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 23:08:50 ID:Ekuzm5Le0

祭の内容見ると、やっぱ献上する赤ん坊を生む儀式&犠牲になってくれた
赤ん坊への鎮魂の儀って感じだな

http://www.webvanda.com/2010/08/post_31022839.html

明け方には2神が生まれたナビンドウと呼ばれる洞窟(シンカ以外の島民はその
場所も知らない。

丸1日かけてこの中で2神が生まれる儀式が執り行われるそうで、島民は雨戸を閉め、家の中で1日中忌み籠もるのだという)へ帰っていくのだが、

アカマタ・クロマタと島民の別れは、声を限りに涙にくれながら惜別の思いを歌う村人と、何度も振り返りながら消えていく2体の神、

見た人によると、この現代にこんな荘厳で幻想的な祭りがあるのかと、震えるような感動に包まれたという。


734 :名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 06:38:46 ID:15i/Z9a20

昭和時代の大衆雑誌には、半ばお約束のように
こういう話がいっぱい載っているよ。


805 :名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 18:02:11 ID:he1UONG30

日本の少子化対策に種付けの儀式を新設してはどうか?

祭りの時に、まず20代の未婚女性を子孫繁栄の為に、たとえ彼氏が居ても強制徴用。

神社の賽銭箱とか置いてある高台に全裸で観衆にあそこを向けて縛り上げて、両足を縛って上に伸ばして並べて吊るす。

そもそもこういう風習は一部のイケメンとかに女の人気が集中して男があふれるからある訳だから、童貞の未婚男性(年齢制限無し)を集めて、さらに人数が多すぎたら、女と付き合ったことがないやつ、より醜男、より臭い奴が選ばれる。

石段の下の広場で選りすぐりの童貞醜男が集まり、お清め前の一斉放尿による奉納をした後に、荒縄で両手を後ろでに縛られた全裸の女たちは V字バランス状態にされてわかめ酒を振る舞い男たちが列をなす。

そしてクライマックスでは石段の下の広場をしめ縄になんかお祓いの棒についてるような白い紙の束ついたもので囲んで観衆が囲み、その中で選りすぐりの童貞醜男が全裸で待ち構える。

女たちは両腕は縄で拘束されたままそこへ突き落とされて逃げ惑うがブ男たちがもみくちゃになって襲いかかる。

例え縄の外に逃げても観衆から突き戻される。

この儀式の見物は女人禁制。女が観衆に混じっていたら例えそれが金髪外人であろうとも全裸にされて広場へ放り出される。

こういうの良くない?


806 :名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 18:16:26 ID:uAsAObrM0

何この中1の妄想w


810 :名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 18:37:00 ID:kAp5lM6H
>>806
妄想でもない

ポリネシア系の習俗が八重山には渡ってきている
それは南方系土器の伝播などで傍証できる
それに性交を祭祀とする古代信仰は別段珍しいものでもない
アカマタ、クロマタは琉球王府の統治以前の信仰だ


238 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:52:55 ID:oVr1su960

そういや以前、この島へシーカヤックで遊びに行った30代の母親と10代の娘が行方不明になったな・・・
一緒に行ったガイドも行方不明 そのまま捜査も打ち切られた・・・


256 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 12:05:04 ID:leNq0J4g0
>>238
なんで行方不明になったのだろうな? もしかして現地警察もグルなんだろうか。

263 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 12:12:35 ID:oVr1su960
>>256
http://www.y-mainichi.co.jp/news/689/

手がかりが無かったから1週間くらいで打ち切ったんだって
1人乗りカヤックだけ見つかったと

消えたカヤックは2隻、消えたのはガイド1人と母娘2人
2人乗りカヤックは見つからなかった


253 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 12:01:14 ID:leNq0J4g0

これマジでやばい島なんじゃないか?

http://2chnull.info/r/tropical/1163308866/1-1001
パナリ島(新城島)ってどうYO


:名無しさん@天国に一番近い島:2006/11/23(木) 12:08:25 ID:Mtq5BB6G

私の親友は五年前の祭の際、興味本位で島に向かい島民に拉致され翌日の朝まで監禁されました。
その時、誓約書へのサインまで強要されました。以上、紛れも無い事実です。島の実行者は拉致、監禁、強要、脅迫の罪に
問われると思います。一発懲役確定ですな。


530:名無しさん@天国に一番近い島:2007/08/11(土) 13:13:26 ID:pEqYa0Wq

1970年以降、複数の部外者が豊年祭を見学後にパナリ内で行方不明となっているみたいですが、その点はどう説明されるのですか?


596:名無しさん@天国に一番近い島:2008/04/20(日) 15:33:06 ID:aXvII+ce

2004年だか2005年だかの夏に行方不明になっている客はどうなったんですか? 確かカヌーかなんかに乗って行方不明ってことになってましたよね

258 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 12:08:20 ID:oVr1su960

生きてたら、娘は今15歳くらい
種付け時ではあるな・・・


257 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 12:07:22 ID:1xCrZcVM0

>平成17年:上地島5人 下地島2人
>平成18年:上地島6人 下地島2人
>平成19年:上地島9人 下地島2人
>平成20年:上地島8人 下地島2人
>平成21年:上地島10人 下地島3人

平均年齢考えたら40歳まで若い男女なんだろ。

277 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 12:19:41 ID:oVr1su960
>>257
平成17年、2005年というとさっき言った母娘が行方不明になった年だな・・・


605 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 22:21:06 ID:apzodXA30

母娘行方不明以降、何故か島の人口が殖えているね

280 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 12:21:58 ID:leNq0J4g0>>277

あっホントだ あんたすごいな 
つか、それって監禁されて・・・・ということになるのか?
警察が踏み込めよ・・・・。

261 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 12:09:59 ID:0otTP23y0

今時ある訳ねえじゃんwww


634 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 23:35:30 ID:azUfGyGt0

民俗学の研究じゃよく聞くよ
島外から駐在所に家族連れで赴任した警官の記録とか
すべて立件することも可能だけどそれだと島民全員が云々って。


728 :名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 06:29:16 ID:he1UONG30

そこで生まれ育った女が同類と変態儀式してるならどうでもいいが、

島の外の都会から引越しして来た女の子が、突然島民が怪しい仮面とかかぶって取り囲む中、 高台で四つん這いにさせられて涙を流して叫びながら、ぶっさいくなゴリラみたいな体型の猿みたいな性欲の男にパンパン突かれてたら興奮するな。

逃げ出そうとしても、ドンドコドンドコ太鼓の音の中、無表情で無感情な島民が取り押さえて高台へと連れ戻される。

そして何人かの若者によるレイプが終わったあとにまんぐり返し状態で神輿に載せられてワッショイワッショイと神殿に連れてこられて鳥居にV字開脚状態の全裸で、精液を垂らしながら荒縄で縛って吊るされ、その下で島民がオバハンとかですら平然と芋煮会をする。

放心状態の娘が深夜の祭り終了時にようやく下ろされて、神社の中の開かずの間に入れられると、そこには1年早く同じ都会からここへ引越ししてきて、音信不通の行方不明になってた友達の少女がボテ腹で発狂して笑い続けている。


多分そんな神秘の祭りなんだろう。


737 :名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 06:47:14 ID:he1UONG30

アカマタ(股から赤い血を垂らしている。つまり処女)の信仰の為の儀式だから、
処女が選ばれる。

だが古くから居る島民はもう乱交夜這いしつくしていて処女がいない。

そこで若い衆の中で女騙すのが上手い奴が、都会で可愛い子を物色するという仕組み。

アカマタの巫女にされた少女の母親が必死で娘の消息を追って訪ねて回っても島民は皆しらを切る。

そしてある時、記者が謎の儀式の噂を聞いて、取材のために島で聞き込みするが、皆血が濃くて薄気味の悪い顔つきで よそ者を冷たくあしらい続ける。

一人だけ陽気で気さくに質問に答えてくれた、なぜか指の間に水かきがあって左右の目の色の違う農民が、ちょっとお参りに行ってくる。

と言うが島民じゃない人はダメだと同行を拒絶、

隠れて跡をつけると山奥で大声を上げても通らない奥地の神社にはいっていく。

そこで記者が覗いたのは、豹変した農民が少女をダッチワイフのように乱暴に足を掴み上げながら凶暴に腰を振りまくる姿だった。

驚愕した記者が裏手に回ると赤ん坊の鳴き声やら女の笑い声、すすり泣く声がいくつも聞こえる。

少し戸を開けてみると、この島にそぐわない整った顔立ちの美人、可愛いかったであろう真っ白な肌の少女たちが何人もそろって脱力して寝転んでうわ言を言っている。

その内一人がこっちを見つけ

「静かに!君たちを助けてあげるから!」

といっても

「うおああああぁぁぁ!!!」

と既に人語を忘れて叫び声を上げ、神社に鎌や鍬をもったたくさんの人影が忍び寄る。

764 :名無しさん@十一周年:2010/09/19(日) 09:25:57 ID:wbNvqeLZ0

村ぐるみで小学6年生の姉妹を数年間常習的に集団性暴行
http://www.chosunonline.com/article/20040919000028
未成年精神障害者の10代姉妹 村の老人グループに数年間強姦され続ける

これ思い出したな


64 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 10:17:58 ID:M0iRyq910

大正時代まで全国的にあったらしいぞ。


秋祭りの夜はフリーセックス=>5〜6月に生まれる。
人間の収穫。


107 :名無しさん@11倍満:2010/09/18(土) 10:40:34 ID:rfOqN35a0

江戸時代に農村等で行われていたヤツの名残だね。

324 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 13:13:58 ID:B57FBblw0

日本の田舎には江戸時代まで普通にあった慣習だよ


327 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 13:16:15 ID:pV1XbKvz0

離島レベルの隔離具合だとこういうのも残ってるのか。面白いね。


160 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 11:10:00 ID:Kyus9N6V0

祭りと言えば乱交という地方は昔多かったらしいな。
今じゃ、離島にしか残ってない日本の伝統の絶滅危惧種。
むしろ保護されるべき。


279 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 12:21:43 ID:IxTP7PTe0

キリスト教が入ってくる以前の欧州でもそういう祭りがあったんだよね。
後にサバトととして悪魔的行為として位置づけられた。


354 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 13:57:17 ID:GlCJiGQk0

こういうのはよその種を入れて血が濃くならないように
するのが主目的なんじゃないのか?夜伽とかと同じで。

361 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 14:12:19 ID:yAysof1uP
>>354
これはそうした風俗とは根本的に違う

祭の夜に降臨するのは神であり、その神が儀式として行う性行為

多くの島では演じるだけだが、今も実際に行われる島があったとしてもおかしくはない

天皇の大嘗祭における真床追衾も、実際に行われているのかどうかを知ることは難しい


383 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 14:45:09 ID:r37G5ytM0

明治時代始まったのが150年前くらい、江戸幕府が400年前だぞ
昔は外国だった上に僻地の離島なんだから妙な風習の名残くらい残ってるんしょ
今も続いてたとしても爺さん婆さんが当時の真似事やってるくらいだと思うよ

65 :名無しさん@十一周年:2010/09/18(土) 10:18:20 ID:z2MmBJ8N0

お前達に警告しておく

これ以上この島に関わるな
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1284771591/


▲△▽▼


111:本当にあった怖い名無し:2012/08/21(火) 22:15:22.40 ID:1AwEnXOY0

そういや沖縄の土葬ってこっちの土葬と違って
産めてから3年後にもう一度掘り出すんだってね

112:本当にあった怖い名無し:2012/08/21(火) 23:07:15.88 ID:lOYeC1G90
>>111
石垣島だろ。
この島では、埋葬後3年目に遺体を掘り出して洗骨する風習があった。

洗骨しないと次の死者が埋葬できないしきたりだったので、次の死者が出ると、埋めて数か月の生々しい遺体でも掘り起こし、包丁や鎌で腐乱した肉をそぎ落として、薄めた酒で骨を洗ったそうだ。

これらは、すべて島の女たちの役目。

女には、呪術的で神聖な力が宿っていると信じられていたんだね。

昭和の初め、この光景を目撃したことのある島の老翁が学者の聞きとり調査に応え、

「その残忍さと死臭は目をおおわんばかりに凄惨を極めた」

と語っている。


が、遺体を分断する風習は琉球に限らず、古くは日本各地にあったようだ。

目的は、主に悪霊祓い。

地方名を出すのは控えるが、

妊婦が分娩中に死亡すると、村の老婆が死亡した妊婦の腹を鎌で裂いて胎児を取り出し、妊婦と胎児をバラバラに裁断して葬る(地域によっては野山に撒く)ところもあった。

古代の日本では、物を斬り裂くことも、人間を葬ることも、同じく「ハフリ」と呼ばれた。

悪霊封じのために遺体を分断して埋めることは、 一種の宗教的儀式、あるいは呪術として広く行われていたらしい。

115:本当にあった怖い名無し:2012/08/22(水) 13:01:07.48 ID:h87uH8+M0
>>111
本島北部ですが、戦後数年はあったとのこと。

私が聞いた話では、三回忌や七回忌の年が重なる故人を、まとめて数名洗骨したそうです。あと、墓の骨壷密度からも、頻繁にはしなかったようです。三十三回忌が済んだお骨を、一つの壺にまとめるか何かして、洗骨、墓に納骨の流れだったような。

洗骨(風葬)を止める時には、三回忌じゃなくても洗って納骨したんですかね?

113:本当にあった怖い名無し:2012/08/22(水) 00:17:47.02 ID:V4OBIq7S0
かまいたちの風ハフリ波ハフリ(漢字失念)神社思い出した。

114:本当にあった怖い名無し:2012/08/22(水) 01:50:22.49 ID:8JWI3E9O0
>>113
神社の漢字は知らないが、「祟神記」に出てくる漢字は「波布理」。
その他、古文書には「屠り」「葬り」「散り」「祓り」などの文字が見られる。
これは、斬ること=葬ること(場合によっては撒き散らす)=悪霊を祓うこと、
という概念の表れなのかもしれない。

125:本当にあった怖い名無し:2012/08/28(火) 00:16:04.08 ID:XNF6Y/d70
>>114
「風はふり」は「風祝」じゃないかな。諏訪大社に存在した神職名。

116:本当にあった怖い名無し:2012/08/22(水) 17:41:11.68 ID:JV2PMZFe0

洗骨は今もやってる島があるよ。
島民の子に聞いたら、火葬の方が可哀そうなんだって。

与論島 洗骨 NHK でググれ。

118:本当にあった怖い名無し:2012/08/23(木) 19:39:55.01 ID:RmDA6Q7U0
>>116
そんじゃうちの会社の人って与論島の人だったのかな

実家で骨掘り起こさないといけないからっつって有給とって実家(沖縄)に1週間ばっかり戻ってたから

掘り起こすってどんな土葬だよとビビッたw

ちなみにうちの地方も普通の土葬やってる地域だわ

自分は新興住宅地の引っ越し組だから
最初地元の人にその話を聞いたときはにわかには信じられんかった

つか法律違反じゃね?と思った

ちなみに死体を埋葬する場所は内緒だから各地区の人しかしらんので
夜とか迂闊に知らない道を通ると急に卒塔婆ばっかりの場所に行き当たって怖い目に遭うw

卒塔婆行列も各地域でいろいろあるけど 一番びっくりした風習は

「その親族で一番若い(幼い)女の子が行列の先頭を裸足で歩く」って奴かな
http://inazumanews2.com/archives/19959433.html

沖縄の八重山諸島のA島は、K島とS島の二つの島からなる離島で、住民は両島を合わせてわずかに十数人に過ぎない過疎の島である。

この島は、古来より人魚を祀る島という伝説が残っており、人魚を守る神社や、神が通るとされる道が今でも信仰として生きている。

八重山諸島に伝わる御嶽信仰は神に仕える女性を中心に行われるもので、かってに神を拝むことも戒められている。


住民でも女性以外は、信仰のすべてを知ることができないという、極めて特殊な土俗信仰が生きるこの島でもっとも謎めいているのが、旧暦の6月に行われる「アカタマクロタマ」と呼ばれる奇祭である。

この祭りの期間、普段は過疎の島は村の出身者などが帰島してきて、滞在者は数百名あまりに膨れあがる。

同時に、島に血縁のある者以外はすべて上陸を禁止されるのだ。


この神を下ろす儀式の実態はまったく不明だが、おそらくは御嶽で神下ろしの儀式が行われ、かぶり物をした巫女が、神の依り代として村の中をめぐるようだ。
http://gekiyabaaa.blog.fc2.com/blog-entry-38.html


という事で、新城島の「秘祭」では

遺体を掘り出して解体・洗骨・再埋葬するのではなく

儀式で殺したばかりの女性や奇形の赤ちゃんを解体・再埋葬する

という事でしょうか。

人魚神社に祭られているのは儀式で殺した女性や奇形の赤ちゃんなのでしょう:


263 :名無しさん@天国に一番近い島:2015/06/09(火) 17:50:18.81 ID:uZN5nJC2.net

新城島(パナリ)の豊年祭「アカマタ・クロマタを生む儀式」


美しい女がナビン洞(洞窟)連れられて来る。

そこでザーシンカと呼ばれる男たちとアカマタ・クロマタを生むための儀式をする。

女は男たちと強制的に輪姦させられ、その儀式は丸1日行われる。

そして幻覚作用のある薬物でトランス状態になり、神を体に宿し恍惚を感じる。

さらに儀式では人魚の肉と称して、子供の肉を食べる。

島では近親相姦や近親婚で血が濃いため女児が多く産まれ、畸形の子やトラブルを起こした女が神への捧げ物にされた。

食べられた子供の頭蓋骨は人魚神社に奉納され、幾つもの頭蓋骨があるが立ち入り禁止になっている。

儀式の後、輪姦された女は全裸で縛られ神殿の鳥居に吊るされ、その下で島民が平然と飲み食いする。

洞窟で何が行われてるか調べた研究者は、島民に石で眼球を潰された。

これは新聞報道され、八重山警察署も事実と答えた。

豊年祭の儀式は、強制集団レイプ・近親相姦・人肉食・薬物乱用・暴行等、隠された秘祭である。

265 :名無しさん@天国に一番近い島:2015/06/15(月) 17:45:22.23 ID:krstyRX5.net

だいたい合ってる
そんなもんだよ


270 :名無しさん@天国に一番近い島:2015/10/01(木) 12:07:25.93 ID:Df8LvUm0.net
>>263
それでだいたい当たってる。
御嶽の先に行けないのは、多くの人骨が捨ててあるからだよ。
警察に通報すれば一発でアウトなんだけれど誰もやらないというwww
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/tropical/1292412995/


>女は男たちと強制的に輪姦させられ、その儀式は丸1日行われる。
>そして幻覚作用のある薬物でトランス状態になり、神を体に宿し恍惚を感じる。


>儀式には幻覚作用のある薬物(ガンジャ(マリファナ)や植物など)用い人為的にトランス状態を作り出し神を体に宿し恍惚を感じると言うやり方です。
>祭の様子を撮影して暴行を受けたと言う話がありますがそれも現在法律で規制されている上記の幻覚剤の使用や閉鎖された島特有の近親結婚を繰り返した末の畸形などが記録され広まる事を嫌ってだと思われます。


大麻を吸うとこうなる! [大麻講座その1・入門編]
https://www.youtube.com/watch?v=7AEzwat-LgM


女性には危険なトランス状態


白痴の同義語{大乗仏狂の坊主ども}と、門外漢の西洋心理学者=精神科医どもはサマタ(禅定)やヴィパッサナー(観法)で到達するのは、トランス状態=忘我状態とかヌカしとる。

トランス状態=忘我状態
http://gxc.google.com/gwt/x?client=ms-nttr_docomo-jp&guid=on&output=xhtml1_0&wsc=tc&wsi=d33c27b90ebf19df&u=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org/wiki/%25E5%25A4%2589%25E6%2580%25A7%25E6%2584%258F%25E8%25AD%2598%25E7%258A%25B6%25E6%2585%258B&ei=JcjUTNn3J47q7APav6zYCA&ct=pg1&whp=30


チャラリ〜 鼻から牛乳〜

精神科医どもは知りもせんことに首を突っ込む前に、一人でも精神疾患の患者さんを救ってみせろ。

日本の精神科医どもが、患者の治療に成功したことなんか、無いやんけ。
(;-_-)=3

西洋心理学者=精神科医どもの無能ぶりを暴く“サイクバスター”さん
http://blog.m.livedoor.jp/psyichbuster/?guid=ON&sso=e24514c42780de681f3b69635b018463c2b86b46

サマタで到達するんは、《サマーディ》の境地。
ヴィパッサナーで大事なんは《サティ》やけど、ヴィパッサナーは本来、色界を脱し〈無色界〉(悟りまでイーシャンテ)にまで上がった者しか修道したらアカン行法。

両方共、トランス状態とは全く別の境地に到達する行法や。

某府綾部市の阿呆や、未熟なスリランカ坊主どものように、サマタを廃してヴィパッサナーだけ修道するとかワケの解らんことするから、誰一人として上の境地に到達出来ひんのや。

トランス状態=忘我状態とは、変性意識状態のことで、{ウリは全知全能ニダ!}とか{ウリは全宇宙と一体になった聖者ニダ!}とかカンチガイし、理性も判断力も無くなった状態。ケモノ・モード。

別名、おバカ・モード。

薄暗い場所や暗い場所で音楽を演奏したり、シンキング・ボウル(印金)を演奏しながら瞑想(邪定)に耽ったり、リズミカルにマントラ(梵呪)やお題目(ご宝号)を唱えると、素人でも簡単にトランス状態に入れる。

或いはケミカルドラッグ(痲薬)をキメれば、トランス状態に入るんは簡単。(別名、ラリパッパ状態)

ライブ・ハウスやクラブに行くか、嗜好大麻解放団体のアジトに行けば、トランス状態に入った人間だらけや。

トランス状態そのものが悪いわけやないが、前述のようにトランス状態になると、理性も判断力も無くなる。
男は性獣化(チ○ポ猿化)するし、女性はこの状態で強姦されたり、輪姦されたりする。

ライブ・ハウスやクラブの便所で輪姦なんざ、日常茶飯事過ぎてニュースにもならんくらいや。

ホンで、華厳宗、(南山)律宗、臨済宗、曹洞宗の四宗派を除く大乗仏狂の宗派は、トランス状態に入る邪行を重視して実践する。

大乗仏狂の坊主どもの隠語で輪姦のことを{念仏講}て言うように、屍那畜でも腸賤半唐でも、また日本でも大乗仏狂の坊主どもは日常的に輪姦を繰り返しとった。

このように、女性にとってトランス状態とはとても危険なモノ。

当然、テーラ・ワーダ佛教(真正佛教)でも、トランス状態に入るミッチャー・サマタ(邪定)は厳禁や。

禁止されてへんのは、在家(一般人)がトランス音楽を演奏ないし聞くことだけや。
http://blog.livedoor.jp/vijaya-ghanja/tag/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8A%B6%E6%85%8B

大麻は麻の花首や葉を乾燥させて作る。麻という植物は、人類と深いかかわりがあった。麻の衣類は絹や獣の毛よりも古くから衣類に使用されてきた。また、強靭な繊維を持っているため、綱やロープなどにも使われてきた。横綱の真っ白な綱も麻である。


今、産業用に使われる麻は品種改良によって、陶酔成分が出ないような品種になっている。形状も大きく違う。

しかし、昔の麻の茎は、葉や花ほどではないが、陶酔成分が含まれていた。山伏は神社やお寺の前で護摩を炊いたが、この中にしめ縄を投げ入れた。縄は麻でできている。山伏はこの煙を吸ってトランス状態になったようだ。また巫女なども麻の煙を吸って陶酔状態になり、託宣を下したりしたようだ。


そういう意味では大麻は、人々の生活に深く結びついていたといえよう。
http://59s-hibikor.doorblog.jp/archives/20995762.html

マリファナ:最終セックスドラッグ

性的なマリファナ使用の起源は、初期の農業に伴う豊穣儀式に密接に結びついていた。

その肥沃を促すために、農民は空-神と地球女神の受精を儀式として再現した。それはセックスを通して行われた。後に儀式化され、王と配偶者の間で、または聖職者と尼僧の間で洗練されていった。大規模なお祭り騒ぎ(乱交パーティ?)。

大麻は通常、最も早く栽培されたうちの1つであると考えられ、強力な催淫効果(性欲促進)があり、これらの飲めや歌えのお祭り騒ぎの慣習が大麻を育て、使用した人の中で始まったことは本当らしい。したがって、古代人の最初の宗教行為の1つはpot fieldsでfuckingしていた。

古代の「大麻カルト」の起源は近東に由来し、小アジアの母権制社会でハシシの大規模使用が行われてきた。Semetic女神アシェラーの崇拝者たちは神聖な香として大麻を燃やし、大麻の聖油(モーゼと古代ユダヤ人の予言者と王によって使われた)を使用した。

聖書のSex&Loveでは、アシェラー(エホバの昔の妻)はセクシュアリティと豊かさを象徴する自然神であると言及されている。旧約聖書の一節にも、木の柱(カルト的な献身のオブジェクト)としてのアシェラーへの言及があり、これは明らかに、シヴァ神の寺院のヒンズー・リンガに似た男根のシンボル。

世界構築の描写としての古代の神と女神の一組のように、信者たちは一種の模倣の魔術として性的に結合し、彼らの種をフィールドにこぼした。酔わせるもの(麻酔剤)と「不-判別式」性行動の乱交パーティ?はこれらのカルトで重要な役割を果たした。

カルトのエキゾチックな特徴は、はるか古代の神秘的なルーツと非常に官能的な楽しみと共に魅力的なタイプの宗教的な経験をするために組み合わされた。近代社会のどんな寺院も、多くの信者を引きつける際の困難さに遭遇しないだろう。

ソロモン王が作ったといわれる古典的な聖書のエロチカ(雅歌4:8-14))にも大麻が出てくる。もっと露骨な性描写(雅歌5:4-6)では、アシェラーの娘と対応するアシュタルテの崇拝者も儀式セックスと大麻使用にしばしば関係した。そしてシュメールの女神の一組「イナンナ/イシュタル」への豊かさ賛歌も同様のもの。そのうえユダヤ人のq'aneh bosm(大麻)にも更に関係がある。

ソロモンの雅歌とイシュタルへの賛歌は、インドでまだ行われている性的な大麻儀式との類似を現している。プレヴェーダの「二輪戦車のフェスティバル」はプーリのJaganathカルトによってまだ実行されている。

英語の"juggernaut"「巨人」「絶対的な力」「圧倒的破壊力」は「Jaganath」から来ていて、その意味は式典で使われる二輪戦車の巨大なサイズに由来する。Jagannath(ジャガナート?)フェスティバルは部外者は立入禁止だけれども、ベールで覆われた一つが巨大なリンガ(ペニス)であると考えられている。大きな二輪戦車と取り巻きは、ソロモンのベッドとイシュタルの車両の行列に類似している。

Jagganathへのフェスティバル中に、寺院売春婦は「神-王の妻」の役割を果たし、季節の雨をもたらすために王(あるいは聖職者)とセックスをした。同様の役割は雅歌中の「シュラムの女」、およびシュメールの儀式ドラマの中で「イシュタル」を実行する尼僧によって引き受けられた。他の類似性はあらゆる点ですべての3本の儀式ドラマの服装倒錯の役割や、大麻使用のように起こる。


http://cocorofeel.exblog.jp/iv/detail/?s=9916936&i=200811%2F22%2F62%2Fb0086362_2271364.jpg


マリファナ使用は、シヴァ神とカーリーのヒンズータントラ崇拝の一部を作る。インドの儀式と大麻のエロチックな用法は、明らかにカナンで、そして地中海中で実行された。シヴァ神と大麻の強い関係は、神聖な作物をまき収穫する場合、信者がまだ払う厳密な遵守の中でプラントに関する彼の古代の神話の中でも明白に実証される。

カーリーとシヴァ神のタントラ崇拝者は、クンダリニーとして知られる中枢神経系エネルギーを刺激するために、彼らは千年紀の間そうやって、マリファナを吸う。そしてそれは性衝動に強い関連がある。

タントリックの実行は先史時代までさかのぼることができ、現代のタントリックに用いられるシンボルのいくつかは、西ヨーロッパから中国までの旧石器時代の洞穴(20.000年前)で見つかったものと類似している。カルトの必須要素が世界の主な宗教のどれよりも多分古いと思われるタントラ教の原始の特色である。

初期の豊穣信仰の信者はソロモンの時代により洗練されて、グノーシス派とタントラ信者の間で更に育った。人間がより哲学的になり、豊穣神崇拝儀式の神聖な結婚は二元的思考が廃止され、対象と物の結婚になり、信者は生命自体の初期の創造的な源と接触した。

グノーシス主義とタントラ教のケースでの大麻を使ったセックスとドラッグ儀式は、脳から背骨のつけ根に及ぶ中枢神経系の蛇行するエネルギーを上げることに集中した。この強力な性的なエネルギーは脊柱の上へ脳に上げることができ、逆さにされることができるということだった。松果体はこのエネルギーの主要なターゲットだった。

松果体は本能の席と考えられ、このパワーを呼び出すためにとてもよく作用する大麻の使用と同様、グノーシス主義とタントラ教の範囲内で、飲めや歌えの崇拝の多くを説明する性衝動の本能的な力の強い関係である。

As the turn of the century mystic Gnostic pot-head Aleister Crowley noted, "When you proved that God is merely a name for the sex instinct, it appears to me not far to the perception that the sex instinct is God."


http://cocorofeel.exblog.jp/iv/detail/?s=9916936&i=200811%2F22%2F62%2Fb0086362_2274086.jpg


Cannabis (drug)
http://www.reference.com/browse/wiki/Cannabis_%28drug%29

マリファナの歴史

大麻吸引の証拠は、現在ルーマニアの古代埋葬地での儀式の火桶で発見された炭になった大麻種に示されるように、新石器時代まで遡って紀元前10.000年ごろに始まったと考えられる。大麻の最も有名なユーザーは、インドとネパールの古代のヒンズー教徒で、ハーブはサンスクリット語のganjikaと呼ばれた。(現代のインド言語の大麻)ヴェーダで神聖な酔わせる幻覚剤として知られる古代の薬剤ソーマは時々、大麻と関係した。

大麻は古代アッシリア人にも知られて、アッシリア人はアーリア人を通してその精神状態を変える特性を発見した。若干の宗教的な式典でそれを使った。彼らは「qunubu」(「煙」を生じる方法を意味する)と呼んだ。現代の語『大麻』のつながりそうな起源。

大麻はアーリア人によって、スキタイ人とトラキア人/ダキア人にもたらされもした、シャーマン(煙/雲を歩く人)は、催眠(恍惚)状態を誘導するために大麻の花を焼いた。

ディオニュソス(トラキア(ブルガリア、ギリシャとトルコ)から始まったと思われる)のカルトのメンバーは、大麻の煙を吸入したとも考えられる。2003年に中国の北西部新疆維吾爾自治区で、大麻の葉の断片と種子でいっぱいの革製バスケットが、次に2500〜2.800才のミイラのシャーマンが発見された。

大麻は儀式使用の古代史を持ち、世界中の薬学カルトで見つかる。パジリク古墳群で発見された麻の種は、5〜2世紀BCEに起きたスキタイ人によって食べられた早い儀式習慣を示唆する。

何人かの歴史家と語原学者が、ヘブライ語qannabbos(大麻)とヘブライの句qenéの間の類似点により、大麻が宗教の聖礼として古代ユダヤ人および初期のキリスト教徒により使われたと主張する。それはまたたとえば、カランダルによるマムルーク朝人期間の早い時期に様々なスーフィー教の指示でイスラム教徒により使われた。


KANEH BOSM
http://www.cannabisculture.com/backissues/mayjune96/kanehbosm.html

モーゼとマリファナ、雲の中の神、神はハーブが欲しい、天使を食べること、変装したシャーマン、聖書の禁止令、ヘビを壊すこと、大麻とキリスト?・・・面白そうなタイトルがいっぱいあって余裕があるときに訳してみます。
http://cocorofeel.exblog.jp/9916936

大麻でトランス状態になり神託をしていた


伊勢神宮の「大麻(たいま・おおぬさ)」と呼ぶお神札(ふだ)や暦(こよみ)を奉製する年初めの祭典「大麻暦奉製始祭(たいまれきほうせいはじめさい)」が1月8日、神宮司庁頒布部(伊勢市中村町)内の斎場で行われた。


毎年伊勢神宮の「御用始め」となるこの日に行われる同祭は、大麻第1号に最初の奉製作業となる印を押す祭典で、1年間の奉製作業の安全と頒布が滞りなく行われるように祈願するもの。この日は、鷹司尚武大宮司を始め神職や職員と奉製員ら計約120人が参列し祭典を 見守った。

http://uramiharasu11.blog.fc2.com/img/1420775105_b.jpg/


「大麻(神宮大麻)」とは神棚などに祭る伊勢神宮の神札のこと。大麻には大きく分けて、神宮で直接授与する「授与大麻」と全国の神社に頒布される「頒布大麻」の2種類があり、頒布大麻の神号名には「天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)」と書かれ、「皇大神宮御璽(ぎょじ)」の印が押されている。

「神宮暦」とは、「神宮大暦(たいれき)」と「神宮暦(小暦)」の2種類があり、科学的データに基づき天体・気象の詳細な情報、全国各地の神社の例祭日などを記載した暦・カレンダーのこと。

もともと大麻や暦は御師(おんし・おし)が全国に頒布していたものを、御師制度が廃止された1872年から神宮が同部での奉製・頒布を行い、 神社本庁を通じて全国各地の氏神を祭る神社に頒布され、そこから各家庭に届けられている。


http://uramiharasu11.blog.fc2.com/img/1420774966_b.jpg/

近年、さまざまな要因(住宅事情、格家族化など)が重なり、神棚を祭らない家庭が増えているため、頒布大麻の頒布数は微減を続けている。 一方、遷宮効果などの要因もあり伊勢神宮への参拝者数の増加とともに授与大麻も増加。さらに昨年は、神棚を受ける人が急増し追加奉製 したという(同部担当者)。

同部では1年間に、大麻954万体(大麻=900万体、中大麻=50万体、大大麻=4万体)、神宮暦7万7000部(小暦=7万部、大暦=7000部)を奉製し、9月17日に行われる「大麻暦頒布始祭」の後、全国に頒布する。奉製員らは作業開始のたびごとに潔斎(身を清める)し作業に臨む。

http://iseshima.keizai.biz/headline/2223/


福井県の鳥浜遺跡という1万年前の縄文時代の遺跡からは、大麻の種が発見されている。

食料や燃料に利用されたようだ。

まだ縄文土器の模様も麻縄でつけられたものらしく先史時代から日本人と麻は赤い関係にあった。

奈良時代は税金を大麻の布で支払うこともできた。
麻の布はそれほど貴重品と見られていたわけだ。

奈良県の当麻寺(たいまでら)は7世紀後半に創建された豪族・ 当麻(たいま)氏の氏寺であるが、 この当麻氏は大麻栽培に関わる豪族だったという。

昔から日本では神主が振る大幣には大麻の繊維が使用され、 秋の収穫祭で担ぐ神輿の上にも大麻の繊維が垂らされていたりと、 大麻には「悪を祓う力」があるとされてきた。

では「悪を祓う力」とは何か?

大麻を吸引する事による鎮痛、滋養強壮、疲労緩和作用だろう。

田舎の神社では御札には大麻が巻き込んであって、 疲れたときや腹痛に襲われたときには、火をつけてその「煙を吸って」いた。

現在でも浅草の浅草寺や川崎大師などでは本堂の前にもうもうと香を炊いており、その煙を頭や体にこすりつけては、 病気が治るというまじないを行っている信者たちの姿が見られる。

あれは昔は実際に境内で大麻を燃やし、その煙で信者を酔わせていた名残だという。

というのも、昔から日本では宗教と大麻は深い関係にあるからだ。

宗教と幻覚剤が結びつくのは世界的に見れば何ら珍しい事ではなく、 太古からシャーマンや僧侶、踊り子たちが 幻覚作用のある植物や茸を使ってトリップしていた。

そうして見た幻覚を「神のお告げ」として託宣していた。

アメリカ先住民のシャーマンはアヤワスカという飲料やサボテンのペヨーテから取った幻覚剤を使い、メキシコではマジックマッシュルームを宗教儀式や治療に用い、アマゾンのシャーマンはアヤワスカから作った幻覚剤を用い、アフリカでは幻覚成分を含むイボガを宗教儀式に用いた。


古代インドではシロシビンを含むキノコから作ったソーマという飲み物を飲んで霊感を得ていたという。

古代ギリシャでは毎年秋に、リゼルグ酸を含む麦角菌からくる幻覚作用によるエレウシスの秘儀が行われ、この狂騒状態の祭は1000年以上も続いていた。

インドの様々な煩悩を齎す根源である「マーラー」という悪霊の概念を輸入した際、 翻訳の上で中国で「鬼」(悪霊の事)という文字に「麻」をつくっつけた「魔」という文字を新たに作ったのも、 大麻を吸引する事で快楽が得られる事が知られていたためだろう。

日本でも『今昔物語集』の中でキノコを食べた途端多倖感に包まれ、 笑いが止まらなくなって踊りだすというエピソードがあり、
以後この茸はマイタケと呼ばれるようになったとあるが、 これは今日のマイタケではなく幻覚作用のあるワライタケと思われる。


山伏の修行にとっても大麻は欠かせない。

なぜなら彼らが祈りながら焚く「護摩」はもともとは大麻で、その煙を吸って意識変容をもたらし、宇宙の神秘を悟っていのだという。

これは密教僧たちにとっても同様であったろう。

いわば人類の歴史は幻覚剤とともに歩んできたもので、 それが後世作られたタブーで隠されているだけであるのだ。
http://uramiharasu11.blog.fc2.com/blog-entry-57.html


NO.2909153 2013/10/27 07:00
新城島の儀式ってなに?
詳細を知っている人は教えて下さい


#26 2013/11/07 16:10

キチ害によるキチGUYの為のキチガイ染みた宗教的な儀式w

キチガイ島民が多いからこんなキチガイ伝統行事が今だに残ってるんだなw
こんな島が近場にあるエーマンチュは恥ずかしいよw

#22 2013/10/31 02:48

乱交パーティーだろ。

#1 2013/10/28 07:20

誰にも言うな

生け贄だよ…

#2 2013/10/28 09:19

雄山羊の頭を被るやつ?

#3 2013/10/28 09:44

全裸の女を縛り付けて、鶏の血をぶっかけるの?

#4 2013/10/28 10:34

誰にも言わない事を約束して下さい。
絶対に誰にもです 誰にも・・・・・・

先ず、ヤモリの黒焼きと山羊の睾丸、水牛の角、 豚の脳ミソと米、塩、酒を神に捧げます。
そして、初潮を迎えた娘を全裸にして柱に縛り付け、神に仕える者が神降ろしをします。
処女の娘が米を噛んで吐き出したのを発酵させて作った米噛み酒を回し飲みし、トランス状態になりながら祭りは三日三晩続けられます。
種の保存の名の下、乱交が繰り広げられ、産まれた子は島の宝として大切に育てられ、将来は島の長として島を治めます。


といった事実は有りません。チャンチャン!(笑)

#13 2013/10/29 00:12

丑三つ時の月夜の晩にヤモリとバラを蝋燭で焼いて潰して粉にしてスプーン一杯舐めるのさぁ

そして呪文を唱えれば
世にも不思議な……になるよ〜

#16 2013/10/29 09:21
>>13
ホロレチュチュパレロチュチュ何でも願いが叶っちゃうホロレチュチュパレロチュチュ大人の知らない不思議な言葉


ウフッ
http://bakusai.com/thr_res/acode=11/ctgid=104/bid=6/tid=2909153/


276名無しさん@天国に一番近い島2016/08/13(土) 05:15:11.36ID:Ic6FmCqs

英語文献で見ると結構詳しく書いてあるのね。

https://books.google.co.jp/books?id=-Rhy_9p9BZQC&pg=PA389&lpg=PA389&dq=akamata-kuromata&source=bl&ots=7XKDkKnwAC&sig=yjZrpegyCXL-C52NJfRlGbFWo4Y&hl=en&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=akamata-kuromata&f=false

まあ、要は男どもを年齢別に分けて、薬やって乱交するって事だろう。
流石に薬や乱交の事は文献には書いてないがwww

でも、秘密結社とやらの年齢別構成も書いてあるし、
英語ならばれないから研究者もガンガン英語で書いてんだなwww
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/tropical/1292412995/



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20. 中川隆[-10846] koaQ7Jey 2018年4月21日 10:59:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11668]

秘祭


540 :本当にあった怖い名無し :2012/06/18(月) 18:24:33.55 ID:bdzkjPNW0

私が育った集落は、小さな田舎町だけどそれなりの歴史があって、古くから続いている数年に一度のお祭りがある。仏教や神道とは違う感じだから、おそらく民間信仰の一種なのかな。

別に、特別オカルトな事がある訳でもなく、神聖な場所と言われる所に、お婆さんがお供え物と依代の木を持って行って、毎年選ばれる”神様の子”の役目の子供達が数人で歌を歌うだけなんだ。


ただ、その儀式の行われる日は、その場所に集落以外の人間は入っちゃいけないと言われてて、それは、祀られている神様が依代に移る時に落ち着かないからだと教わってきた。

実際、夏休みや年末の帰省時期とは全然ずれてるから、なんの観光もない田舎に部外者が来る事はないんだけど、どこからか、こういう民間の秘祭(?)に興味を持ってやってくる人がいるんだよね。

それで、わざわざその祭りの日に、東京から来たっていうオッサンがビデオカメラを持って入ろうとしてきて、大人達が止めに行ったんだけど、大声でわめき散らして大騒ぎになった。


「なんで見せられないんだー!ヤバイ事でもやってるんだろー!!」


とか大声で叫んでケンカみたいになってて、最終的には駐在さんに連れて行かれた。パトカーに乗せられる時に、その男が血管が浮き上がるくらい真っ赤な顔して


「ここで巫女を村中の男がレイプしてるって本当だったんだな!
だから見せられないんだろ!!」


って叫んでた光景がものすごく異様で怖かった。

祭りがゴタゴタになった事とは関係ないと思うけど、その年に集落に繋がる場所の道路工事で崖崩れが起きて亡くなった方が出たり、高校生が1人、心筋梗塞で亡くなったりしたので、もっぱら「あの騒ぎのせい」っていう噂も多くて、ますます私の中で東京=怖いイメージが固まってしまった^^;

実際、上京してみたら親切でまともな人が多くて、なーんだ普通だと思ったけど、上京するまでは怖くて仕方がなかったな・・・f^^;

http://gnosis.blog64.fc2blog.net/blog-entry-7617.htmlhttp://toro.2ch.net/test/read.cgi/occult/1338006880/l50


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21. 中川隆[-10916] koaQ7Jey 2018年4月21日 15:30:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11752]
2011年02月01日
縄文探求シリーズ【縄文時代のまつり】 その充足パワーで超集団=社会を統合
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/02/1192.html


大湯環状列石
 
・「祭り」ということばには、踊ったり騒いだりすることのほかに、神・精霊を祀る、マツリゴトをする、さらには男女が交わるという意味もあります。縄文時代の祭りとは、それらを包摂したまつりの起源ともいうべきものです。縄文人は何のために、どんなまつりをしていたのでしょうか?
 
・単一集団で暮らしていた当初段階と、人口が増加し集団が拡大・分化していく中期以降では、まつりの意味も様相も大きく変わっていきます。その様子を追っていきます。
 


 
●単一集団内の日常的なまつり


http://web.joumon.jp.net/blog/2011/02/1192.html
図:祭祀に使われたと思われる道具の数々(日本第四起学会偏「図解・日本の人類遺跡」より)

  
・人類は、縄文時代の前期あたりまでは30人程度の集団で生活し、それが世界のすべてでした。

・そこでのまつりは、歩行訓練の延長上に生まれた踊り→トランス状態、そして性(男女の和合)。その過程で強化した精霊への祈りでした。そのような解脱充足と可能性収束先があったからこそ、人類は飢えの圧力に晒されながらも生き延びることができたのです。
  
 
●豊かになり、死を対象化しはじめた土偶祭祀


http://web.joumon.jp.net/blog/2011/02/1192.html
図:縄文時代を通じて祭祀に使われた土偶たち(日本第四起学会偏「図解・日本の人類遺跡」より)
 
・精霊信仰→観念進化によって、生存力を強化し、日本列島において定住・狩猟採集をはじめたのが初期の縄文人です。飢えの圧力が緩和されると、次なる不全として死(の悲しみ)が登場します。その不全を克服すべく、精霊への祈りを強化するために土偶を使った祭祀が行われました。
 
  
●単位集団を超えて男・女が交わるまつりへ
 

図:大湯環状列石(秋田県) BBっといー東北についてより
 
・縄文の中期ごろになると温暖化とともに人口増加→集団規模を拡大させ→分化していきます。
 
・縄張り確保や生産の協働、出産可能な女性を維持するための移籍など、部族の維持存続のため、単位集団間の結束力(求心力)を高めることが必要でした。

 
・そこで用いたのが、集団間の婚姻制(交叉婚)です。
定期的に男たちが他集団を訪れて、女たちと交わり合います。
性という根底的な充足と婚姻規範によって集団の結束力を維持しようとしたのです。

 
・これは集団の存亡が懸かった重要な行為であり、厳格に運用する必要があります。その資格や相手を明らかにするしるしとして登場したのが抜歯だと思われます。そこには肉体的苦痛を伴う強力な共認形成を図る意味もあったでしょう。


図:抜歯の風習 街角散歩さんより
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/02/1192.html

 
・一方で、その解脱充足性をより高めるためにさまざまな儀式や行動様式、場のしつらえなどが工夫されていきました。
 
・その痕跡を今に伝えるのが環状集落や環状列石です。
 
・まずは集落の中心に広場や墓域がつくられます。さらに集団が拡大・分化すると、集落から離れた領域に集いのための領域=環状列石がつくられます。そこでは、精霊や祖霊に祈りをささげる儀式や踊り、クライマックスは男たち・女たちの交わりあいが行われたと考えられます。
 
・環状列石や送りの場と言われる場に付随して置かれるのが掘立柱建物です。これは居住に用いたものではありません。そこでの儀式に必要だったのです。そこで行われたのが、男女の和合だったのではないでしょうか。和合に没頭できる安全域を形成したのです。

 
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/02/1192.html
図:三内丸山の掘立柱建物(復元) zhangshiさんのフォトライフさんより

 
・そのような非日常的なまつり場の代表的なものが下の3つの遺跡。
左から大湯遺跡(秋田)、大野遺跡(長野)、西田遺跡(岩手)
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/02/1192.html


縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域より
 
・まつり場と性の関係を指摘する研究者は多い。その代表が梅原猛氏。
 


あの細長い石を横に放射状に並べ、その真ん中に直立する細長い石を置いた形は明らかに男女の性器の結合の姿を示している。


ストーンサークルは、そういう縄文人の生と死の哲学を見事に造形的に示したものであるといえる。
 
大集落は中期の末に姿を消し、その後は小規模な集落が増えて行きます。これは大集落が分散して、小集落化したことを示すと考えられ、その原因は気候の寒冷化による食料の減少、ムラが大きくなり過ぎたことによる環境衛生・社会面での破錠、であると推定される。この頃から環状列石等の大規模な記念物が出現するのです。
 
分散した集団は祭りのときに一堂に集まり、一族の絆を確かめ合っていたようです。環状列石の祭りの舞台であり、大規模な土木工事を行なってまで築かれた、彼等の絆・心の形として示した記念物なのです。
 
人が死んだ後、魂が死骸から抜け出てあの世へ行くが、ストーンサークルはセックスの行為を示したのではないかと思う。縄文時代の遺跡にはセックスを象徴しているものが沢山あるが、ストーンサークルは、まさに男性器と女性器が結合している状態を表している。即ち生産を表しているのではないかと思う。
 
死という行為で、一旦あの世へ行った魂が再びセックスによって、子供を作って、この世に生まれ代わってくるようにいう、死と生の象徴、死という事実の中で、やはり再生を願う縄文人たちの心が、ストーンサークルになったのだと思う。
 
そして、ストーンサークルの周辺の土は、非常に固くなっており、何度も何度も踏み固められたとしか思えないという説を聞いた事があるが、恐らく、縄文人は魂を迎えたり、送ったりする時に、ストーンサークルの広場で、カガリ火を焚き、踊りを踊ったに違いない。それが恐らく、縄文の宗教だったのであろう。

東北の遺跡ストーンサークルさんより
  
・ストーンサークルには踊りを踊ったと思われる痕跡も見出せるのです。
 
 
●充足を基盤に大集団を統合した縄文人
  
・縄文のまつりは、日常的な性や踊り、精霊への祈りといった行為を基盤として、単一集団の日常的な営みにから、単位集団を超えた非日常的な営みへと発展していきました。集団の拡大は共認充足の低下を伴います。これは現代社会にも通じる肥大社会の宿命でもあります。
 
・縄文人は、ともすれば薄れていく集団関係を性・踊りや精霊・祖霊にまつわる充足感・仲間意識を紐帯として、拡大していく“社会”を結束させていきます。
  
・遠方からの遺跡(婚姻)の形跡などからもその結束力は日常行動圏を超えた相当広範囲に至っていたことがうかがえます。
   
   
●現代社会も充足を基盤にした社会統合が求められている
   
・翻って、現代。私権と個人主義が集団性を悉く解体され、バラバラで孤独な個人ばかりが存在している。現代社会は、ひとびとの充足力→結束力が衰弱し、新たな紐帯としてのまつり場が求められています。
  
・そのためには、家族や企業という単位集団を超えた“社会”の次元での充足の場が必要。そのような場がいまネットに形成されようとしています。
  
・ただ、それだけでは成立しません。基盤となる単位集団(の再生)→日常的(対面上・肉体的)な充足基盤も同時に必要です。
  
・その維持・発展という目的意識が「社会」への参加を促進するのではないでしょうか。つまり、身近な単位集団の再生と社会のまつり場の再生は相乗的に再生されていくのです。
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/02/1192.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

22. 中川隆[-10921] koaQ7Jey 2018年4月21日 16:18:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11758]

2007年04月10日 日本の婚姻通史
http://www.jinruisi.net/blog/2007/04/000156.html

出自規則の転換要因のマードック説
http://www.jinruisi.net/blog/2007/04/000153.html

は大変面白かったです。このあたりを検証する意味でも、日本の婚姻史は参考になります。というのも世界の中でも日本は、群婚から母系氏族、そして父系制にダイナミックに転換した歴史が精緻に追跡できる、非常に希で興味深い民族だからです。どのようにして転換していったのか、シリーズでレポートしたいと思います。

今日は婚姻通史を示します。
参照:高群逸枝著『日本婚姻史』


原始(無土器・縄文)・族内婚―――――――┬―【群婚】群
原始(縄文・弥生)・・・族外婚―――――――┘       母系氏族
 ↓
大和〔古墳〕・・・・・・妻問婚 ――――┬―【対偶婚】父系母所
飛鳥奈良平安(初)・前婿取婚 ――┬婿取婚┘   
平安(中)・・・・・・・純婿取婚―――┤   
平安(末)・・・・・・・経営所婿取婚―┤
鎌倉南北・・・・・・・擬制婿取婚 ――┘
 ↓
室町安土桃山江戸・・嫁取婚―――――――【一夫一婦(蓄妾)婚】父系
 ↓
明治大正昭和・・・・・・寄合婚―――――――【純一夫一婦婚】双系

日本の婚姻史は、群婚、婿取式(母系型)、嫁取式(父系型)、寄合式(個人型)の4段階に大別される。

群婚は、族内婚(いわゆる兄妹婚)と族外婚(交叉婚)の二期に分かれる。

婿取式婚姻は、対偶婚――1対1の結合であるが、この結合は弱く、離合不定である。群婚の延長または遺習ともみなすべき多夫多妻的現象の並存を見ることが多い――に比定され、群婚とともに原始婚の範疇に入る。

婿取婚は、古典での代表的婚姻語である「ツマドイ」(奈良ごろまでに支配的に見られる)と、「ムコトリ」(平安から鎌倉ごろまでに支配的に見られる)の二語によって表される妻問婚と婿取婚の二期に分かれる。


妻問婚=通いで夫婦別居のたてまえ。その背後にはヤカラと称する族的共同体が想定される。

婿取婚=狭義の婿取婚で妻方同居のたてまえ。その背後には両親世帯が成立する。
狭義の婿取婚は、以下の4つに細分される。

前婿取婚:大化後平安初までの過渡期における母による婿取り

純婿取:摂関政治の盛行時代、婿取儀式が中央でも地方でも見られる段階で、妻方の父が婚主

経営所婿取:院政期。自家以外のところに経営所と称する婚礼の場所を設けて妻方の手で婿取婚が行われる。その後新夫婦は新居に移って単婚世帯をいとなむ

擬制婿取:鎌倉から南北朝ごろまで。夫方の親が別宅へ避居したあとを、妻方の、または妻自身の家として擬制して婿取をするたてまえの婚姻形態。この期間の各世帯は、前の経営所婚からひきつづいて単婚世帯が多い

嫁取式婚姻は、室町ごろに表面化して確立する。「ヨメトリ」という婚姻語がこの期にあらわれる。この期で妻は完全に夫方同居となる。だから前代の単婚世帯をすてて、夫方の家父長の族中に同居する俗となる。嫁取式は夫方の家父長の手によって行われ、夫方が貰い手、妻方が呉れ手という取り引き観念のもとに、嫁は死装束を身につけ、一個の物件と化して略奪される形となる。

寄合婚は、明治維新に萌芽し、昭和憲法後に表面化してくる、近代社会の男女同権的単婚制。

本来ならば大化前の氏族制末期に表面化されなければならない嫁取婚(家父長婚)が、日本では約10世紀もおくれて室町期に表面化した。その約10世紀間、太平洋諸島や東南アジア、台湾等に見られるような原始婚を保持し、しかもそれを徐々に終局へと規則正しく経過させた。(筆者注:妻問いから前婿取→…→擬制婿取へと、妻方居住から夫方居住へ大転換していく様は、連続していて実に見事です。)

この間、女性の地位は原始的な高さ(財産、祭祀、恋愛等の諸権利において)をもち、また女性を取り巻く社会環境も、原始的な諸関係を示していた。例えば、氏族制は崩壊していたが、原理は残っており、それが嫁取婚や家父長制の顕現をおさえており、だから夫婦は別産で別墓だった。同氏でさえあれば離別した夫婦でも同じ墓地に葬られ、同じ氏寺のある隠居地に余生を送り得たが、形影相伴う相愛の夫婦でも異氏のばあいは、隠居地を異にし、墓地を異にした。

最も不思議なのは、系は父系であるのに、婚姻や家族は母系型である点で、なにかの故障で成員の分家がちょっと妨げられると、たちどころに母系型の大家族が顕現した。これに反して父系型大家族は一例もない。父系系譜と母系型家族の複合は、「父系母所型」といわれ、母系型族制の上に父系系譜がたどられている。
http://www.jinruisi.net/blog/2007/04/000156.html

日本婚姻史2 族内婚
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000163.html

日本の婚姻通史の続きで、一つづつ婚姻様式を紹介してゆきます。最初は群婚(族内婚と族外婚)のうち族内婚から。族内婚を明らかにするのは記録がなく難しいが、遺跡や遺物、遺語、招婿婚(婿入婚)から類推できる。(高群逸枝著『日本婚姻史』より)

共食共婚

原始の家は後代の固定的なそれと違って、移動的な群単位の血縁集団の段階だったと考えてよかろう。縄文早期の遺跡は数個の竪穴からなり、その一つは面積約25u、5〜6人程度の収容能力で、まだ炉の跡もなく、移動性が濃厚に見られる。

群は必然的に孤立的で、洞窟や竪穴式・平地式住居に住み、共食共婚であったろう。つまり同じ火を囲み、同じ性を分け合っていた。共食共婚こそ同族の特権であり、連帯性の基礎であるとされたのであろう。古語のヘグイは共食、イモセは兄弟姉妹間の夫婦関係を意味するが、これらは群時代の共食共婚の俗をうかがわせる。

神前婚

原始的集団は、協業や防衛等の必要から、必然的に成員の団結を求めて祭治集団化していく。自然物の豊穣を祈り、人口の増加を願い、成員の血縁性への自覚による親和を念じて、その象徴としての「生む」母神像を創作して祭り、その神前で共食共婚の例祭を執行することを不可欠の行事とした。(右写真は「縄文のビーナス」)

族内共婚の遺習は、後代では村内共婚として見られる。

例えば、美濃国郡上郡東村大字祖師野の氏神の秋祭りでは、村じゅうの老若男女が夕刻から神殿に集まり、太鼓に合わせて輪を作って乱舞した。

それがすむと、人妻と処女の別なく、入り乱れて共婚神事をいとなんだ。

万葉集にも「人妻に吾もまじらむ、吾妻にひとも言問へ」といって神前共婚が演じられたとある。

トツギ祭というのがある。その多くは大漁とか、豊年とかを祈って行う共婚神事であって、これにはザコネ式や闇まつり式などがあり、個別的な好き嫌いを許さない共婚性を示しているが、帰着するところは、食と性に対する共産共有の意識を象徴した原始的共同体的な祭りの一種であろう。

大和国磯城郡まき向(ムク)というところでは、毎年旧正月10日に、網掛神事というのが行われていた。田一反分のわらで男根の形をつくり(これをスサノヲ神という)、同じ分量で女根をつくり(これを稲田姫神という)、神官氏子が立ち合って、トツギ神事を執行したというが、もとは氏子同士がいとなんだものを、男女の性神に委託して象徴化したものであろう。


女性発情の告知方式

月経をめぐって女性の生理は躍動し、それを身振りにあらわして男性を挑発したであろう。これが舞踏(尻振り踊り)のはじまりであったろう。

踊りは「雄取り」(ヲスの鳥などをとらえるときメスの鳥をいわゆるオトリに使うのに同じ意)から来た語であろうという説があるが、女性発情の告知方式が上のような尻振り踊りなら、この踊りが雄取りに通ずることはうなずける。(後の族外婚ではもっと誇張された雄取方式になる。)

女性自身による告知方式は第一義的に尊重されたろうが、群が発達して共同体運営の関係から祭治制が発明され、食も性も神前における規律下にいとなまれるようになると、群は女性の発情期をトして(うらなって、判断して)、一定の祭礼を行うようになったらしい。それはたぶん戸外で、共食共婚をともなう舞踏会(女性の尻振り踊りに男性も同化して)として催されたであろう。


族内婚図
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000163.html

原始時代の族制は、いわゆる類別組織で、性別と年齢階級が基本となっている。(「我」を中心として直系親から傍系親へ、近親から遠親へ叙述していく等親的な個別組織の後代の属性とは対照的である。)


(一)原初型

     年齢階級
性 セ(チ)――┬コ(幼児)
別 イモ(ハ)―┘


性別のイモとセには、長幼の意味はない。単に族内婚の意味、つまり後の言葉でいえば兄弟姉妹で同時に夫婦であるという意味だけである。幼児のコから成年男子をチ、同女子をハと呼んだろう。どちらも族の長老の意味にもなった。ハには母の意味が生理的にも濃厚だったろう。イモをオモと転じても母となり、接頭語のイをのぞいてモといっても母のことになった。


(二)その進んだ型

年齢階級や性別の呼称が分化して複雑となり、群内の族制が秩序だってくる。神前婚が起こったのもこの段階であろう。

                 年齢階級
          <オヤ>           <コ>
性 セ  オチ(大父)/ヲチ(小父)―― ヲノコ(ヲヒ)―┬マコ
別 イモ オハ(大母)/ヲハ(小母)―― メノコ(メヒ)―┘
オチ・オハ=後代転化して母系および父系の祖父母をいう
ヲチ・ヲハ=後代転化して母系および父系の伯叔父母をいう
ヲヒ・メヒ=実母子族の発展後転化して甥・姪の義となると想定


(三)内部の実母子族

イロハ(実母)―┬―イロセ(実兄弟)
           └―イロモ(実姉妹)
内部に実母子族(母子小家族)が認識されて、はじめて禁婚観念が族内にめばえてくる。世界的には、親世代と子世代の禁婚が第一に行われ、次に実母子族の禁婚が行われるというが、日本では親世代と子世代(つまり異世代間―おぢとめい、おばとおいなど)の禁婚は行われず、実母子族の禁婚のみが著明に見られる。これは南北朝頃まで維持された。

日本は原理的には、実母子族禁婚を除いて他に禁婚がない。この点で日本の婚姻制は族内婚型といえる。後に父系が貫徹してから、父系中心の近親婚が禁じられてくるが、それでも従兄弟姉妹は禁婚されてない。非常に強く原始の族内婚型が影響しているのである。
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000163.html


日本婚姻史3 族外婚
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000164.html

日本婚姻史2 族内婚 に続いて、もう一つの群婚である族外婚です。(高群逸枝著『日本婚姻史』より)


群の定着と族外婚

縄文前期ごろから群は定着し、生産力の増大、人口の増大から、かつては別れ去った分枝群もいまは隣り合って集落を作るようになる。この段階で群は族内婚から、隣群との族外婚に進む。

(筆者注:氏族単位で集団分割した上で集団統合力強化のため、氏族間で交じり合う婚姻制に転換する。交叉婚ともいう。)

族外婚の典型はオーストラリアに見られ、A群の全男子はB群の全女子と夫婦、B群の全男子はA群の全女子と夫婦というもの。有名なカミラロイのように四群からなるもの、八群からなるものなどいろいろあるが、基本的には二群式が原則。

ところが日本では、二群単位とは限らず、二群でも三群でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナド(神前の公開婚所)とし、集落の全男女が相あつまって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられる。(筆者注:拡大族内婚とでもいうべき世界史的にも非常に希な形態です。

「日本の交叉婚の特殊性」参照。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=22267&pgh=3

通婚関係にある男女は、各自別群に所属している。だから子は当然母の群に生まれ育ち母の族員になることにより、母系氏族制がはじまる。群は氏族になり、氏族は母系によって継承されることになる。そして族員たちは互いにハラカラ(同母族)と呼び合うようになった。


クナド方式

クナグという古語は性交を意味する。

(『トツグ、マク、クナグ』参照)
http://www.jinruisi.net/blog/2006/12/000068.html

「允恭紀」にマクナギ、「霊異記」に婚合をクナガヒ、「今昔」にクナグ、「続古事談」に「妻をば人にクナガレて」などとみえる。だからクナドとはクナギドコロ、すなわち婚所の意味。

クナドの神なるものは、数ヵ村共有のヒロバや入会山や交通の要路(いわゆるヤチマタや物々交換の市場)や村の入口に祭ってある石神であるが、その性格は一面が交通の神、他面が性の神という複雑さをもっている。

クナドは文字通り神前共婚の場所であるが、そのことによって他群と交通し結びつくことになる場所でもある。原始段階では性交は同族化を意味する。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性器の見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でもあった。大国主神の国つくり神話が、同時に妻問い神話になっているのもこの理由に他ならない(後日詳解の予定)。

・猿田彦神話では、国堺のヤチマタに異国人の猿田彦が立ちはだかっていると、ウズメという女神が乳房と陰部を露出してこれに立ち向かい、両者唱和して交通がひらけたとある。だから猿田彦は交通の神でもあり性の神でもあり、ウズメは雄取式舞踏(カグラ踊り)の祖神となった。

・女が性器を出して先駆すれば必ず敵軍を軟化させ得るという俗言から、沖縄の軍陣ではサキパリ(先張り?)というウズメ式巫女が用いられたという。

交通の要所に立つチマタの神や、道祖神や、村境にあって外からの害悪を防ぐサヘの神、これらが複合して同時にクナドの神とされ、いまも性の神とされているのは、その場所で神前集団婚が行われたからで、市場における定期的な集団婚カガヒ(歌垣)のことは、「万葉」にも謡われている。

CAO4KP4V.jpgカガヒは掛け合いの義。歌を掛け合うという意味で歌垣ともよばれる。カガヒは筑波(右の写真)や杵島などの入会山でも行われた。歌垣山という名の山も各地にみられる。歌を掛け合い踊りを踊ってそれを婚交の前奏曲としたことは、つぎの招婿婚(婿入婚)段階にもひきつがれて、ヨバヒの場合の唱和や相聞歌となり、平安期には文使いの儀式となったりした(文の方式は、村には明治ごろまで遺存して、若者たちの通い婚の序曲となっていた)。和歌など文学の起源はここにある。

(筆者注:歌垣は、東南アジアや中国南部の雲南地方など、照葉樹林文化圏に広くみられる。)

クナドでの族外婚では、それが集落婚姻圏を超えて広域的なものとなればなるほど、男性略奪(雄取り)と同じ観念、つまり子ダネをとるという観念が第一義となったろうが、それだけでなく外族との和平や政治的、経済的ブロックの拡大への動機がからんでいた。原始部落の女性たちは、胸乳をあらわしホトを露出したウズメ式の身振りの尻振り踊りによって他部族の男性を誘惑した。

・この段階が過ぎて個別婚の時代になると、この雄取式形態は、神社の巫女によって相続者をうる手段とされ、または娼婦によって歪曲化されて受け継がれた。

・平安時代には遊女(アソビメ)という娼婦がいたが、外来者とみれば取り囲んで歌舞し男客を誘惑した。

・沖縄の娼婦ズリの起源も外来者との婚交にあり、まれ人(客人)に仕える神の妻(め)にあるようだ。

・人妻と処女の別なく、外客を迎えて枕席にはべった鎌倉期の俗、とくに長者制の俗(長者の家での外客への饗応にはじまった娼婦制)も同じ原始の雄取婚からの遺制にちがいない。
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000164.html


『トツグ、マク、クナグ』から見えてくるもの

「日本婚姻史」(中山太郎)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=132490

という本を読み始めました。(詳しくはこちらをどうぞ)
第一章「共同婚」の中の、第一節「共同婚を偲ばせる二三の古語」の中から、“とつぐ、まく、くなぐという古語の内容”がなかなか興味深かったので、ご紹介します。

著者の中山太郎氏は、


共同婚(乱婚とも雑婚とも称し、部落中の男女が共同的に婚姻するものをいう)時代が在ったか否か。換言すれば我国に女子共有の時代が在ったか否か。

という問題意識から古語を調べ、その存在を証明しています。ただし、この本が書かれた昭和初期にも、学者たちの抵抗があったらしく、


土俗を軽視した従来の学者は悉く否定説を採っている。就中、かかる事象の存在を国家の威厳でも傷けるものと誤解していた所謂国学者流の人々や、又は支那の儒教かぶれした学者達は、恰も臭いものに蓋をするが如き態度で、殆ど故意とも思われるまでに此の事象を或は否定し或は黙殺したのである。

と記しています。

さて、共同婚(⇒兄妹婚や総遇婚を指すようです)の存在の証拠の一部として、次のような内容が記されています。

★琉球石垣島の皿濱地方では、女にはプトモツ(夫を持つ)という結婚を表す言葉があるが、男には全く無く、露骨に「交合」という言葉を使っている。それと同じ用語例があり、それが「トツグ、マク、クナグ」の三語である。

★現在では、それぞれ「嫁ぐ、覔く、婚ぐ」という字を当てるが、古くはどれも「交合」の意味に用いられた。

その具体的事例を、少し長くなりますが引用しますね


トツグの語義は橘守部によれば『とつぐは陰接なり』と断定され。

宇都保物語(蔵開上)に

 そのむすめ、とつぎ時になり給しかば、みかどをさして、人かよはざでありしに、天皇、みこ、みや、とのばらのみ、よばひのつかひはあけたてはならめぐりてあれど、こともえつけでぞ侍りし云々。

これ等の例証から見るも、トツグの原義は交合であって、これが嫁娶の意に用いられるようになったのは、後世の第二義的の分化であることが知られるのである。

マクの語義に就いては『倭訓栞』に『日本紀に覔をよめり、古事記に求をよみ眞來と書けり、もとむる義なり云々。女を犯す事をまくといふも妻をまくより出たるなり云々。伊豫にてはまぐといふ、伊勢にてはまけなといふも同語なるべし』とあるが、これは谷川士清にも似合わぬことで、前に述べたマクの国語に覔または求の感じを当てたために誤られた解釈であって、古くは単なる交合の意であったことは、伊豫や伊勢の用語が示している如くで、現に琉球の宮古島や大隈の徳ノ島では交合の意にマクの語を使用している。

クナグの語義にあっては、諸冊二尊に合交(まぐわい)の事を教えた鶺鴒の和名を、古く『にはくなぶり』とも『とつぎをしへとり』とも言うた一事から見るも。この語が交合の意味を有していたことは明白である

然して以上列挙したトツグ、マク、クナグ等の言語を使用した古代人の思想は、交合することが直ちに婚姻であること、猶お琉球の皿濱地方におけると同じであった。反言すれば、婚姻とは即ち交合の意に外ならぬのであった。交合を『見る』とも『逢ふ』とも言い、婚姻を『よばふ』と言うようになったのは、この次の時代であって、多少とも婚姻に式礼を加えるようになってからの発明である。

霊の結合に重きを置かなかった古代にあっては、肉の結合が直ちに婚姻の総てであった。然もそれを最も露骨に最も勇敢に実行したのが私共の遠い祖先だちである。

一対婚が実は日本では数十年の歴史しかないことを、社会人になってから初めて知った のですが、そういう事実は、日本の古典からも読み取れるんですね。

古文の授業で、「逢う=結婚」と習って、 って感じだったのですが、もともと「交合」であったと考えればスッキリします。

著者は、古代は「霊の結合に重きを置かなかった」と書いていますが、そうではなくて、その時代は「霊の結合」と「肉の結合」は一体で、区別する必要なんて無かったんだと思います
http://www.jinruisi.net/blog/2006/12/000068.html


日本の交叉婚の特殊性  

>族外婚(交叉婚)の段階になると、実母氏族間(つまり兄妹間)の禁婚が厳密に守られたという事実がないと、後の母系氏族制の確立…、ひいては、それを基盤とした婿取婚が南北朝時代まで続いたことに整合性ある説明がつかないのではないでしょうか。 (小寺さん、21980)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=21980

 まず禁婚については、世代間と兄弟姉妹に分けて考える必要があります。細田さんが

21655
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=21655

で、中国貴州省の山地に住む少数民族、苗族(ミャオ族)の例から、

>最初の段階の制約は、世代の異なる人同士は結婚できないという年齢の制約である。次に現れた制約は兄弟姉妹や母方平行イトコ間では結婚できないことだ。三つ目の制約は、同一宗族内の者が通婚できないことで、このような制約も地域によって、どの制約がなされているかは異なるようだ。

とまとめられていますが、この点でも日本は特殊で、実母子間の禁婚のみが顕著で、父系(父・娘)や兄妹の禁婚は元来なかったとされています。交叉婚は厳密には兄妹婚のタブー(勿論父・娘もタブー)をもって成立しますが(世界史的にはそう)、日本は複数群のヒロバでの共婚ですから、兄妹婚黙認の交叉婚と考えているわけです。それまでの氏族内兄妹婚からすると、他氏族と交わるわけですから一見兄妹婚タブーと映りますが、厳密に貫徹するためには、兄妹同士が当たる可能性のある共婚にはならないのでは、というのが根拠です。他氏族との交わりが優先されたのは確かでしょうが、何ともルーズな婚姻制だと思います。

 子は母親の群で育てられるのは原始以来そうですから、ずっと母系氏族制であったと考えていいのではないでしょうか。集団分割も血縁を基準に分割するしかなく、必然的に母系氏族集団になったと思います。交叉婚の男女も各自生まれた群に属しています。

 妻問婚→婿取婚は、弥生人or大和人が持ち込んだ婚姻制で、当初支配層のみで行われていたものです。男が忍んで好みの女のもとを訪れる妻問婚も、男を母系集団に迎え入れる婿取婚も、母系氏族制を基礎にしていますが、同時に崩壊をも意味しています。群同士の婚姻制が崩れ、さらに生まれた群を離れるという形で変質していきます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=22267&pgh=3


採取時代の婚姻様式    

   
   観念機能(事実認識=洞窟・貯蔵・火・調理具・戦闘具・舟・栽培・飼育)の進化によって生存力を強化した人類は、約1万年前、弓矢によって外敵と互角以上に闘えるようになった頃から洞窟を出て地上に進出する。そして地上に進出した人類は、忽ち外敵を駆逐して、繁殖していった。その結果、繁殖による集団の拡大→分化を繰り返した人類に、ようやく同類闘争の潜在的な緊張圧力が働き始める。とは言え採集部族や狩猟部族は、互いに贈物etc.を通じて友好関係の構築に努め、闘争を回避していた。  

   
   しかし、外圧が低下すると集団統合力が低下し、規範収束力も低下してゆく。同時に、外圧の低下につれて解脱収束(中心は性充足の欠乏)が強まってゆく。更に、集団規模が拡大したこともあいまって、原モグラ以来1億年に亙って踏襲してきた首雄集中婚を維持することが困難になっていった。こうして約1万年前、人類の雌雄(婚姻)関係は劇的に変化してゆくことになったが、豊かな山野や海辺に進出して木の実などの採集や漁労に転じた採集生産の部族と、従来通り獲物の豊かな森林で狩猟を続けた狩猟生産の部族では、全く異なる婚姻規範を形成する。  

   
   東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、

部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した

(但し、氏族を統合している部族レベルでは首雄集中婚が踏襲されている事例が多いので、正確には上部集中婚・下部総偶婚と呼ぶべきだろう)。

なお、その後同類闘争の緊張圧力が高まると、再び集団統合力を強化する必要から、氏族ごとの閉鎖性を強め分散力を強める兄妹総偶婚は廃止され、部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚に移行してゆく。

何れにしても、期待・応望充足を最大の活力源とする採集部族は、総偶婚によって期待・応望(=共認)充足を破壊する性闘争を完璧に解消して終うと共に、総偶婚によって一段と期待・応望充足を強めたことによって、その充足を妨げる自我回路もほぼ完全に封印していった。  


   
   ここでの採集・漁労部族における女の役割は、注目に値する。

採集部族では、弓矢を持った男たちが防衛する(狩猟もするが、獲物は少ない)安全域で、女たちが主要な食糧を採集する。もちろん、闘争過程の主役はあくまでも男たちの防衛であって、女たちの採集は従役である。

それにしても、食糧の過半を女が採ってくるというのは、外圧の強い極限時代には考えられなかったことであるが、皆=集団の期待(食糧の採集という役割)に応えて、採集部族の女たちはよく働いた。

しかし、それでもなお男たちの期待の中心は性であり、従って女たち自身にとっても、自分たちの中心的な役割は性役(男たちに性的充足を与えること=自らの性的充足を得ること)であった。

役割欠損ゆえに性的存在となった女にとって、集団=全ての男たちの期待(=性役という女の役割規範)に応えることほど、自らの存在理由を充足させるものはない。

従って、タヒチをはじめ採集部族の女たちは、極めて積極的に集団の期待=性役規範に応え、更に性機能を磨いていった。

(近世になって西欧人が侵略の目的でやって来た時でさえ、タヒチやカリブの女たちは、彼らを性的に歓待した。

これは、採集部族の人たちがいかに心を開いていたか=いかに警戒心が無かったか=いかに完全に自我を封印していたかの証明であり、また女たちが、集団の性役規範にいかに積極的に応えていたかの証明である。)  

 
   それに対して、ヨーロッパの森林地帯に留まった白色人(コーカソイド)をはじめとする狩猟部族は、その狩猟という生産様式から、まだまだ強い闘争圧力を受けて強い集団統合力を維持し続けており、その結果、首雄集中婚の規範が長く残り続ける。

しかし、外圧の低下によって次第に解脱収束が強まり、集団規模も拡大してゆく。そこで狩猟部族は、首雄集中婚を踏襲しつつ、首雄=族長という資格を一段下に拡張した勇士集中婚を形成していった

(これは、女長老が采配する母系氏族の姉妹たち全員が勇士を迎え入れる、勇士婿入り婚とも言える)。

だが、ここに大きな落とし穴があった。首雄は、原モグラ(哺乳類)以来の自然な存在であり、かつ唯一人である。それに、皆が評価し共認した族長に対して不満などあろう筈がない。仮にもし不満があったとしたら、直ちに皆が認める新たな族長に替わるだけである。しかし、勇士は一人ではなく何人もいる。しかも、勇士の資格は人工的に作られた資格である。従って、男たちの相対性と各々の正当化から自我を発生させて終う余地が大きい。

何より問題なのは、首雄集中婚や総偶婚では集団規範によって性(婚姻)の相手は決まっており、従って娘たちは12歳前後で、思春期を迎えるや否や直ちに性関係に入ってゆく事ができる(=女の最大欠乏たる性的役割欠乏が充足される)のに対して、人工的な勇士婚では相手は決まっておらず、勇士が決まり婚姻が決まるまで、娘たちの性欠乏=存在理由欠乏は宙に浮いてしまうことである。  


 
   もともと首雄集中婚の下でも、外圧が低下して解脱収束を強めた男たちの性欠乏は宙に浮いていた。

しかし、モグラ以来、首雄以外の男の性は封鎖されてきたし、性の主役は女なので、女の性の相手を定めた婚姻規範が有る限り、問題は起きなかった。

ところが、勇士婚規範によって、その女の性が宙に浮いてしまった。
こうなると、規範破りの性関係が発生してくるのは避けられない。

とは言え、狩猟生産の段階ではまだまだ闘争圧力⇒集団統合力が強く、規範破りの不倫は殆ど発生しなかっただろうし、万一発生したとしても、部族を捨てて逃げるほど反集団的には成れず、従って(恐らく男が)処刑されて一件は落着しただろう。

しかし、牧畜生産に移行すると一気に闘争圧力が緩み、集団統合力も低下する(牧畜は、一般には採集部族と同様に女の仕事であり、従って牧畜部族に働く外圧は、採集部族に働く外圧レベルにまで低下したと考えられる)。

そこでは勇士の資格が更に下に拡張され、規範破りの不倫も、時折は発生したに違いない。しかし、やはり氏族(親や兄弟や仲間)を捨てて逃げるほど、反集団的な意識には成り得なかった

(集団を捨てて逃げる為には強固な反集団の自我収束が必要だが、そこまで強く自我収束し得る場が、狩猟部族や牧畜部族には見当たらない)。

だが、彼らが遊牧へと移行していった時、彼らは遂に開けてはならないパンドラの箱を開け、集団を破壊する性闘争を顕現させてしまうのである。  
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=1&t=8 


日本婚姻史シリーズ1〜その3:縄文時代の婚姻制を探る
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/02/000757.html


先ずは、新石器時代(=採集・漁労生産時代)、東アジア諸部族の婚姻様式を俯瞰してみます。


『実現論(採取時代の婚姻様式)』
東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した

(但し、氏族を統合している部族レベルでは首雄集中婚が踏襲されている事例が多いので、正確には上部集中婚・下部総偶婚と呼ぶべきだろう)。

なお、その後同類闘争の緊張圧力が高まると、再び集団統合力を強化する必要から、氏族ごとの閉鎖性を強め分散力を強める兄妹総偶婚は廃止され、部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚に移行してゆく。
『実現論勉強会(採取時代の婚姻様式・図解)』

交叉総遇婚とは、同じ集団内(母方の親族)の婚姻関係をタブーにし、決められた集団に男が通う形態となります。

集団が閉鎖性を帯びないように、A集団の男たちはB集団の女たちと、B集団の男たちはC集団の女たちと、というように相手を決めていくのが普遍的。父親は別集団で生活しているので、母方の兄弟が養育することになります。

では、縄文期の日本列島も、上記の交叉総遇婚であったといえるのか? このことについて、縄文集落の埋葬形態から婚姻様式を探る記事を紹介したいと思います。

るいネット『集落内墓地の埋葬形態から婚姻様式を考える』

 田中良之氏の研究によると、縄文〜5世紀後半までは男女問わず、同じ集落内でも近い血縁関係にある死者を近くに埋葬する傾向が強いようです。縄文期は(母系・父系の特定はできない)兄・弟・姉・妹・従兄弟・従姉妹が同じ場所に埋葬されていることが多く、近親関係が無い(薄い)配偶者と思われる女性の人骨が、父系の墓地の近くに埋葬されるようになるのは古墳時代以降だということです。

 こうして双系の兄妹を近くに葬る縄文の埋葬形態は、未開時代のタヒチなどポリネシア原住民に近いようにも思われます。以上から、日本古代の婚姻について以下の2つの仮説が考えられます。


・1つ目は、「兄妹婚」「従兄妹婚」などのように単位集団(氏族)内に婚姻関係が内包されており、婚後も男女双方が集団内に留まっていた。

・2つ目は、婚姻関係は単位集団(氏族)を超えて結ばれたが、男女どちらかが相手の集団に移動して一緒に住まうような固定形態ではなく、その都度移動して交流していた。   

以上、縄文時代の交叉総遇婚について探ってみました。但し、東アジアをはじめ、採集・漁労部族に見られる交叉婚と日本の交叉婚は、婚姻規範の中身が異なったようです。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/02/000757.html

日本婚姻史1〜その4:日本の交叉婚の特殊性
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/03/756.html

前々回と前回にわたって、縄文時代の婚姻制【兄妹総偶婚⇒交叉総偶婚】の流れを、気候風土や集団内墓地の埋葬形態などから解明してきました。


【総偶婚】

集団ごとの男達と女達が分け隔てなく交わりあう婚姻様式。

約1万年前、採集・漁労部族はこの総偶婚によって(期待・応合充足を破壊する)性闘争を完璧に解消し、自我回路をほぼ完全に封印していた。日本においては村内婚(夜這い婚)の形で、昭和30年代頃まで農村部で存続していた。

前回、世界の交叉総偶婚を婚姻形態を図解でも紹介しましたが、日本の交叉総偶婚の婚姻形態は世界の交叉総偶婚の中でも少し変わっているようです。

今回は、日本の縄文時代の交叉総偶婚とはどういったものだったのか?その特殊性について紹介したいと思います。


★日本の交叉総偶婚【クナド婚】とは?

■クナドとは?

クナグという古語は性交を意味します。

(『トツグ、マク、クナグ』参照)
http://www.jinruisi.net/blog/2006/12/000068.html

「允恭紀」にマクナギ、「霊異記」に婚合をクナガヒ、「今昔」にクナグ、「続古事談」に「妻をば人にクナガレて」などという表現があります。つまりクナドとはクナギドコロ、すなわち婚所を意味します。


■クナド婚とは?

クナドの神なるものは、数ヵ村共有のヒロバや入会山や交通の要路(いわゆるヤチマタや物々交換の市場)や村の入口に祭ってある石神であるが、その性格は一面が交通の神、他面が性の神という複雑さをもっています。

クナドは文字通り神前共婚の場所ですが、そのことによって他群と交通し結びつくことになる場所でもあります。原始段階では性交は同族化を意味します。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性器の見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でもあったようです。


詳しくは、

『日本婚姻史3 族外婚』
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000164.html

を参照

祭事の折など、数ヵ村共有のヒロバ(広場)に集まり、男達と女達が分け隔てなく交わりあう交叉総偶婚という婚姻形態を取っていたようです。


★海外の交叉総偶婚とは厳格に規範化された婚姻制度

交叉総偶婚(族外婚)の典型はオーストラリアのアボリジニ先住民族に見られます。、A群の全男子はB群の全女子と夫婦、B群の全男子はA群の全女子と夫婦というものです。有名なカミラロイのように四群からなるもの、八群からなるものなどいろいろあるが、基本的には二群式が原則です。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/03/756.html

上図のように、海外の交叉総偶婚とは厳格に規範化された婚姻制度となっています。


★なぜ交叉総偶婚という厳格な規範化がなされたのか?

ここは仮説ですが、日本と違い他民族や他人種との同類闘争の中で、集団統合の観点から軋轢を避け厳格が規範化がなされたのかも知れません。

日本の場合、弥生時代に入るまで、他民族との接触がなかったため、日本独自の交叉総偶婚が成立したのかもしれません。


★日本の独自の交叉総偶婚【クナド婚】は、おおらかな婚姻制度

日本では、二群単位とは限らず、二群でも三群でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナド(神前の公開婚所)とし、集落の全男女が相あつまって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられます。

日本は特殊で、実母子間の禁婚のみが顕著で、父系(父・娘)や兄妹の禁婚は元来なかったとされています。交叉婚は厳密には兄妹婚のタブー(勿論父・娘もタブー)をもって成立しますが(世界史的にはそう)、日本は複数群のヒロバでの共婚ですから、兄妹婚黙認の交叉婚と考えているわけです。

それまでの氏族内兄妹婚からすると、他氏族と交わるわけですから一見兄妹婚タブーと映りますが、厳密に貫徹するためには、兄妹同士が当たる可能性のある共婚にはならないのでは、というのが根拠です。他氏族との交わりが優先されたのは確かでしょうが、何ともルーズな婚姻制だと思います。
(るいネット「日本の交叉婚の特殊性」より引用)

日本の交叉総偶婚は兄妹婚黙認の【拡大総偶婚】とでもいうべき世界史的にも非常に希な形態です。

集団の人数が増えても、充足・集団統合から婚姻形態が決められ、縄文人の共同性や期待応望によるみんなの充足に重きが置かれていた事がわかります。
******************************

以上が、縄文時代の婚姻制度でした。

しかし、渡来人が入ってきた弥生時代は、【拡大総偶婚⇒対偶婚(一対一の関係)】へ劇的に変わって行きます。この変化には、私有意識や私権観念が流入してきた事を意味すると思われます。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/03/756.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

23. 中川隆[-11812] koaQ7Jey 2018年5月03日 12:21:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12976]

奇習! 「天狗の子どもたち」に恋人を集団レイプされた男の証言 ― 森を散歩中の信じられない悲劇、謎多き“村の掟”とは?
http://tocana.jp/2018/05/post_16728_entry.html

【日本奇習紀行シリーズ】 甲信地方

「今思い返しても、なんとも言えない気持ちにさせられますね。なにせ、自分の恋い慕う女性がですよ、ある日突然、見知らぬ男たちに犯されたんですから」


 自身がその若き日に経験させられたという“苦い想い出”について、時折、顔をしかめつつそう証言するのは、甲信地方のとある地域で生まれ育ち、現在は都内のアパートで一人暮らしをしているという辺見勝元さん(仮名・77)。辺見さんの話によると、今を遡ること60年近く前の1960年代初頭、彼はその後の人生を大きく狂わせることとなる体験をしたという。


「あれは私が21になったばかりの頃でしたかね、村にある雑貨屋の娘と恋仲になったんです。最初はね、お互いに幸せな時間を過ごしていたんですけれどもね、交際をはじめてから半年ぐらい経って、いよいよ結婚しようかっていう頃に、今後のことを考えて、村を出て上京しようということになったんです。それで、最後の思い出に、と村から見える森へと遊びに行ったんですが、それが間違いの始まりでした」


 上京に際し、しばらく見えなくなる故郷の景色を、少しでも目に焼き付けようと、恋人と一緒に、村はずれの森へと出かけることになったという辺見さん。しかしそこで彼らを待ち受けていたのは、なんとも悲劇的な結末であった。


「森を1時間ほど歩いて、いよいよ日も高くなってきたという頃、弁当を食べようとなりまして、小川のほとりに腰を下ろしたんです。そしたら、草を掻き分けるガサゴソという音がいくつもし始めたかと思ったら、見たこともないような男たちが6、7人現れて。“あっ!”って思った時には、私は棒のようなもので殴られて気を失ってしまいました。その後、どれくらいの時間が経ったかはわかりませんけど、激しい頭痛の中で目を開いたら、彼女が裸で泣き崩れてる。私は血の気が引いて、慌てて身を起こしてですね、フラフラしながら駆け寄ったんですが、彼女は泣くばかりで何もいわない。でも、着てきた服はボロボロになっているし、擦り傷なんかも負っていましたからね、推して知るべしといったところですよ」

なんとも言えない暗澹たる気持ちと、己の不甲斐なさや、突然奪われてしまった幸せな将来への想いに、複雑な胸中となってしまったという辺見さん。薄暗くなった山道を、辺見さんたちはお互いに言葉をかわすこともなく、ただ無言で涙しながら、村へと戻ってきたという。しかし、自らの心の中に沸き起こった強い憤りを抑え切れなかったという辺見さんは、恋人を自宅へと送り届けた足でそのまま駐在所へと駆け込み、被害について訴えたのだという。


「そりゃあね、私も、夢中になってさっき起きた出来事を説明しましたよ。けれどもね、駐在ときたら、てんで相手にしない。それどころか、『今日のことは早く忘れて、誰にも口外するな』だなんて言い出す始末でしてね……私はね、呆然として、そのままフラリと駐在所を出て、とぼとぼと歩きましたよ。その道すがら、街灯が1本立っていまして。その灯りにね、蛾が何羽か群がってて。蛾が灯りを目指してぶつかって、はじき返されて、それでも向かってっていうのを、それこそね、ぼーっといつまでも眺めて。そしたら途端に涙が溢れ出てきて、その場にへたりこんで嗚咽したのを、今でもハッキリと覚えていますね」


 突然の悲劇に見舞われた自分たちを気遣うどころか、まったく相手にする様子すらなかったという駐在の口ぶりに、憤りを通り越して絶望的な心境となったという辺見さん。村の古老から、あの森の周辺に、近隣の村人たちと一切交わらない人々が存在し、また、彼らが何を仕出かしたとしても黙認する掟があることを聞かされたのは、それからずいぶんと歳月が経った後のことだったという。


「私が年寄りから聞いた話じゃ、あの日、私たちを襲ったのは“天狗の子どもたち”なんだろう、と。天狗は神様みたいなものですから、絶対に抗ってはいけない、と。けどね、そんなわけのわからないものにですよ、あんな目に遭わされたって、あんな目に遭わされても泣き寝入りするしかないだなんて、彼女に言えますか。結局、私はその後、彼女に一度も会うことなく上京して。それこそ、“死なないから生きてる”っていうだけの人生を送って今に至るというわけです」


 実際、辺見さんたちを襲った男たちが、古老の言うところの“アンタッチャブルな人々”であるかどうかを証明する術はないし、そもそも辺見さんの証言を、何の根拠もなく、我々が鵜呑みにすることは危険な行為なのかもしれない。それに、彼らが一体どのような性質を持つ輩なのかという点においても、不明な部分が多いのも事実だ。しかし、彼がその後の人生において独身であり続けたことや、この忌むべき体験を語る表情を見る限り、あながちそれを単なる眉唾話と断じることができないのも、また事実である。
(取材・文/戸叶和男)


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24. 中川隆[-12438] koaQ7Jey 2018年5月18日 17:03:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14017]

実はとてつもなく古かった日本語 2018 05.01
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more


日本語は、もしかすると世界最古の言語であり、しかも世界で最も美しい言語かもしれません。

かつて谷村新司がロンドン交響楽団をバックにレコーディングをしたことがあります。
そのとき日本語の素晴らしさを再認識し、日本語を大切に歌っていくことを信念にしたそうです。

ディズニー・アニメの『アナと雪の女王』は、世界的ヒットとなったアニメ映画ですが、そのなかの挿入歌の『レット・イット・ゴー、ありのままで』は、世界25ヶ国語に翻訳され、それぞれの国の歌手が歌ったものが youtube で公開されました。

このとき、世界中の人たちが驚き、そして圧倒的な人気をはくしたのが日本語バージョンです。

Let It Go - Behind The Mic Multi-Language Version (from Frozen) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BS0T8Cd4UhA

松たか子ver(日本語吹替版)「Let It Go」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=4DErKwi9HqM


それは、歌った松たか子さんの声の素晴らしさももちろんあるでしょうが、日本語による発声が、メロディに+αの効果をもたらしたのかもしれません。

どこの国でも、それぞれにお国自慢があります。
ここで日本語が世界一だと述べるつもりは毛頭ありません。
ただ、ひとついえることは、どうやら日本語には、他の言語にはない、不思議なところがあるということです。

ひとつは言霊(ことだま)です。
言葉に魂が宿る。

ではどうして言葉に魂が宿るのかというと、日本語が実はもともとそのように構造された言葉だからなのだそうです。

構造とは、日本語の文法や発音や語彙のことです。

つまり、自然との共生を大切に育くむこと、自然を征服したり、人と自然とどちらが上かのような上下構造をもとうとするものではない文化の下で、人と自然とが対等な関係を育んで来たのです。

2つ目はオノマトペ(仏:onomatopee)です。
オノマトペというのは擬声語を意味するフランス語です。

擬声語は、たとえば

わんわん、メーメー、ブーブー、ニャーオ、ホウホウといった動物の鳴き声を真似たものや、

ドキドキ、パチパチ、バキューン、チリーン、ドカン、カリカリ、バタン、ガタピシ、ガタンゴトン、パチバチ、ビリビリ、ジュージュー、グワァ〜ン、パタパタ、ボキポキなどなど、音を真似たもの、

あるいは、

おずおず、おどおど、めろめろ、ふらふら、きゅんきゅん、きらきら、ぴかぴか、ぐずぐず、ツルツル、サラサラのように、本来音を発しない感情などを言葉で表現するものなどのことです。

おもしろいことに、擬声語(オノマトペ)は、言語ごとに、表現がまったく異なります。

冒頭にあるのは、その違いを示した絵本の抜粋で、クリックしていただくと当該ページに飛びますが、たとえば食事をするときは、日本では「PAKU PAKU」ですが、英語では「CHOMP」、フランス語では「MIAM」、イタリア語では「GNAMグナム」、Korea語では「NYAM」です。

キスは日本語では「CHU」ですが、英語では「MWAH」、China語では「BOH」です。
つまり言語によって擬声語(オノマトペ)は、まったく異なります。
ということは、それぞれの言語圏においては、音がそのように聞こえているということです。

そして日本語の擬声語(オノマトペ)は、China語やKorea語ともまったく異なるものです。

ということは、日本語はChinaやKorea半島からの輸入語では絶対に「ない」ということです。

それだけではありません。

日本語は、この擬声語(オノマトペ)が、他の国の言語と比べて著(いちじる)しく多いのです。
その数、なんと5千語です。

日本語の単語数は、たとえば『日本国語大辞典』の収録単語数が50万語です。
このことは、日本語の1%、およそ100語にひとつが擬声語(オノマトペ)であるということです。

そして単語の中には、日常生活でよく使われるものと、そうでない(たとえば学術用語)ものがあります。

オノマトペは日常的によく使われる語です。
早い話、今朝起きたとき、ご家族に「ぐっすり寝れた?」と聞く。
その「ぐっすり」というのがオノマトペです。

しかし睡眠は「ぐっすり」などという音は立てません。
ではなぜ「ぐっすり」というのかというと、「ぐうぐう、すやすや」寝ているからです。
その「ぐうぐう+すやすや」が短縮されて「ぐっすり」です。

「ぐうぐう」も「すやすや」も、なんとなく、そのような音を立てているといわれれば、なんとなくそうかもしれないと思われるかもしれません。
では、

 風が「そよそよ」と吹く
 太陽が「かんかん」に照る
 白い雲が「ぽっかり」浮かぶ
 星が「きらきら」光る

などはどうでしょうか。

風は「そよそよ」などという音をたてないし、太陽は「かんかん」なんてしゃべったりしません。

ではなぜこのようなオノマトペが使われているのでしょうか。

実は、自然がそのような音を立てているのではなくて、受け止める側が自然が発する音をそのように聞いているのです。

このことについて考古学者の小林達雄先生は、「人々が、人と人との間で行うコミュニケーションのための言語活動と同じか、あるいはそれに近いレベルで自然と向き合い、自然との間で活発な言語活動を行ってきた結果」(『縄文文化が日本人の未来を拓く』p.134)と述べておいでです。

つまり、日本語は「自然と対話しながら発達してきた言語」なのです。

だから欧米人にはただの雑音にしか聞こえないカエルの鳴き声や虫の声も、日本人には美しい秋の音色となって聞こえる。なぜ美しいのかといえば、それは人がカエルや虫たちとコミュニケーションしているからです。

では日本語は、いつ頃の時代から形成されはじめたのでしょうか。
言語の発達には、ムラの形成が欠かせません。
なぜならムラを営むには、言語が必要だからです。
そしてそれは磨製石器の登場と時期を同じにするというのが世界の考古学会の定説です。

世界の磨製石器は、おおむね7千年前以降のものです。
中には2〜3万年前のものもあります。

 シベリアの2万年前のもの
 ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
 オーストリア中部の2万9000年〜2万1500年前のもの。

など、ほんの数例です。

ところがこれらは、異常に早過ぎる磨製石器であって、作成経緯等はすべて不明です。
そして、その後に起こるおよそ7千年前の磨製石器の時代(新石器時代)と接続していないのです。

ところが日本の磨製石器は、3万年前の磨製石器だけが単独であるのではなくて、昭和48年に東京・練馬区石神井川流域の栗原遺跡で2万7000年前の地層から磨製石斧が発掘され、また同じときに千葉県三里塚からも磨製石斧が出土、以後、秋田から奄美群島まで、全国135箇所から400点余の磨製石器が発掘されています。

そして1万7千年前には縄文時代が始まるのですが、なんとものの見事に、その縄文時代の文化へと、磨製石器の時代が接続しているのです。

ちなみに長野県日向林遺跡から出土した60点、長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点の磨製石器に用いられている石は、伊豆の神津島から運ばれてきた石です。

つまり当時の日本人は航海術に長け海洋さえも自在に往来していたことも伺わせています。

こうしたことから、英国のJ・ラボックという考古学者は、

「日本列島の住民は世界に先駆けること二万数千〜三万年前に新石器時代を迎えていた。」

と述べています。

言い方を変えると、これはつまり、日本は世界最古の文明を持っていたことが証明されている国である、ということです。

そして磨製石器の登場と言語の登場、そしてムラを営むための神話の登場が重なるものであるならば、日本語は、およそ3万年前には生まれ、そこから現代に至るまで、ずっと続いている世界的にも稀有な言語である、ということになります。
そしてそれが可能になったのは、日本人が殺し合いや、自然への征服を好まず、人と人、人と自然が常に調和することを好む民族であったからです。

というより、調和を好むという日本人の性質は、最低でも3万年という途方もない長期間のなかで、最終的に生き残ってきた性質である、ということができます。

おもしろいもので身勝手な文化、自分さえ良ければという文化は、一時的な成功を手に入れることができても、必ず最後に崩壊し、再起不能になります。
ところが調和を大切にする文化は、一時的にどん底に落とされても、必ずまた再生し復活します。

植物には一年草と多年草があります。

最近は品種の改良によって、どちらも美しい花を咲かせますが、もともとは一年草の多くは、だいたい派手な花を咲かせるのに対し、多年草の花は、わりと地味な花が多いです。
地味だけれど、ずっと咲き続けます。
まるで日本人そのもののようです。

日本人は、はっきりとわかっているだけでもおよそ3万年、ずっと自然と調和し共生する道を選んできました。

だから日本語には擬声語(オノマトペ)が圧倒的に多いのです。

コメント


新宿の縄文人は、どんな言葉を話していたか?

東京の新宿のど真ん中、皇居の御堀端から2q程の地点から、縄文時代中期や後期(5千年前〜4千年前)の人骨が多数出土した事がありました。

江戸時代の遺跡を調査すると、その下から縄文時代や弥生時代の古い遺跡が続いて出土する事がありますが、その場合、江戸時代以降の大開発等によって、無残に破壊されていてる場合が多いそうです。

僅かな貝殻の堆積が確認されたとはいえ、分厚い貝層が存在しない内陸の地域から、多数の人骨がまとまって出土すること自体が非常に珍しく、当時現場は大変な興奮に包まれたそうです。

当時、保存状態の良かった、40代ぐらいの男性の顔が復元されました。

やや長めの顔に、上下に潰れた長方形の眼窩、彫りの深い目元の頭蓋骨は、ヨーロッパ人の様な風貌、あるいは、若い頃の宇梶剛士さんに似たイケメン風に仕上がりました。

彼のミトコンドリアDNAのハプロタイプは北方系と言われるA、一方彼の近くに葬られていた別の人骨は、南方系と目されるM7aだったそうです。

様々な地域をルーツに持つ縄文人たちが、新宿の地で仲良く暮らしていたのですから興味深いです。

日本語が「どのように成立したか分からない」と言われる所以は、様々なルーツを持つ人々の言葉が、極めて長い時間をかけて、ゴチャゴチャに混じり合った結果ではないかと思います。
2018/05/14(月) 11:38 | URL | 疑問 #iydQorAY[ 編集]

外国人に日本語で話しかける時にこの擬声語は使わない方が良いそうです。

擬声語に相当する外国語がないので、彼らにはさっぱり分からないようです。

また、行けなくも無いなどの二重否定もダメ。

日本人なら、何とかすれば行けると理解できますが、外国人は
理解できないようです。

外国人にとって日本語は本当に難解のようですが、
この言語を意識せず使いこなしている
我々は本当、凄いのかもしれませんね。
2018/05/14(月) 13:40 | URL | 名無し #mQop/nM.


新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘

新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘
http://www.city.shinjuku.lg.jp/video/video_jm01.html
https://www.youtube.com/watch?time_continue=607&v=P7VUMR0Mvzo

これですね。
2018/05/14(月) 14:31 | URL | KI


加賀町二丁目遺跡の関連本が出版されています。>KIさん

KIさんへ

動画等のご紹介ありがとうございます。

加賀町二丁目遺跡に関しては、講談社から関連書籍も出版されています。

『おどろきの東京縄文人』(瀧井宏臣著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E4%B8%96%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89-%E7%80%A7%E4%BA%95-%E5%AE%8F%E8%87%A3/dp/4062870029

という本です。

この本は、考古学少年から考古学おじさん・おばさんまで、幅広い層の人々が興味深く読める内容になっていると思います。

映像で見るのと、写真で見るのとでは、復元された縄文人の顔の印象は少々異なりますね。

映像の方はバックが暗めで、陰影が強調されていますが、写真の方は細部まで鮮明に写っていますので、少し印象が違ったのかも知れません。
写真で見ると、かなり欧米風味の顔に見えます。

個人的に注目されたのは、12号人骨(復元された縄文人)が腰にぶら下げていた、イルカの下顎の骨のアクセサリーです。

縄文人は、イルカやクジラやサメやエイ等も捕獲していたことが分かっていますが、丸木舟しかない時代ですから、漁の腕前は、現代人と比較しても大したものだったと思います。
2018/05/15(火) 09:54 | URL | 疑問 #iydQorAY
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more



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25. 中川隆[-13418] koaQ7Jey 2018年7月08日 22:39:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16381]

縄文人、意外と長生き 65歳以上が3割 聖マリアンナ医科大 2010年11月13日


写真:年をとった人の腸骨耳状面は表面がざらざらしている(長岡朋人さん提供)
拡大年をとった人の腸骨耳状面は表面がざらざらしている(長岡朋人さん提供)


写真:一方、若年の腸骨耳状面は表面がすべすべしている(長岡朋人さん提供)
拡大一方、若年の腸骨耳状面は表面がすべすべしている(長岡朋人さん提供)

 平均寿命が30歳前後とされ、「過酷な生活環境のため、早死にする人が多かった」と考えられてきた縄文時代の人たち。しかし、出土人骨の年齢推定に関する最新の研究で、実は65歳以上とみられる個体が全体の3割以上を占める――という結論がこのほど提示された。なぜ、これほど違う結果が出たのだろうか。

 この研究を行ったのは聖マリアンナ医科大講師の長岡朋人さん(人類学・古人口学)。文部科学省の科学研究費の成果として、このほど「月刊考古学ジャーナル」の臨時増刊号で発表した。

 年齢にまつわるデータがまったくない人骨について、人類学者たちは、歯の生え具合や、すり減り具合、手足の軟骨の癒合(ゆごう)の程度(くっつき具合)などを基準に年齢推定をしている。中でも、成人以上の判定でよく使われるのが「恥骨結合面」と呼ばれる部分だ。腰骨の一部で、年齢が若いと表面の凹凸が激しく、年をとるにつれ滑らかになる特徴がある。

 「ただし、恥骨は残りにくい。このため今回は、比較的残りやすく細かな年齢推定が可能な、同じ腰骨の腸骨耳状面という部分を検討対象にしました」。この部分は若い時は滑らかだが、年をとると、骨棘(こつきょく)ができたり穴があいたりすることが指摘されている。

 「ベイズ推定」と呼ばれる、新たな統計的手法も採用した。これまでは、たとえば20代の可能性が高い人骨の年齢を表す場合、他の年齢の可能性が残っていてもそれらを切り捨て、単に「20代」と表現してきた。

 「でも、20代の可能性が7割だったとしても、あとの3割は30代や40代の可能性が残されている。それらの誤差が蓄積され続けると、集団全体で考えた際、事実と異なる結果が出る可能性が高い」

 長岡さんがこう考えたのは、古人骨に基づく研究では、いずれの人類集団も30〜40代で構成員の大半が死んでしまうことが指摘されているのに、古文書などの記録に残っている範囲では、このような傾向を示す集団はほとんど存在しないからだ。

 「縄文人と近い暮らしをしていたと考えられるアフリカの狩猟採集民でも、乳幼児死亡率が高かった江戸時代の人々でも、50代以上でなくなった人が3割を超す。とすれば、今までの縄文人の年齢構成には疑問符がつく」

 長岡さんが新しい方法で再調査した岩手・蝦島貝塚や千葉・祇園原貝塚など9遺跡から出土した計86体の人骨は、65歳以上が32.5%を占めたという。「縄文人=早死に」のイメージのもとになった人類学者小林和正さんの1967年の論文では、65歳以上はゼロだったから大きく異なる。「今までの年齢推定法は老年の人を実際より若く推定してきたのではないか」

 琉球大教授の石田肇さん(形質人類学)は「長岡君の精密な調査で、どんな集団でも長命な個体が存在することが分かってきた。確率的にみても、縄文時代における65歳以上の個体が3割という割合は間違いない」と評価する。

 考古学者も肯定的だ。「縄文時代は伝統的、かつ複雑な社会構造を持った社会だったことが明らかになりつつある。30代で大半の人が亡くなるのでは、技術継承などの面で支障があったはず。寿命が長かったなら、そうした問題はなくなる」と、明治大教授の阿部芳郎さん(考古学)。

 国学院大名誉教授(考古学)の小林達雄さんも「若い人には創造性があるが、それらを体系づけ、安定した状態を維持していくためには、30代以下だけでは無理。50代以上の構成員も多かったのなら納得できる」と話す。

 一方で、やや慎重な意見も。国立長寿医療センター研究所所長の鈴木隆雄さん(老年学・古病理学)は「興味深い説だが、完全に結論が出たわけではない。今回の腸骨耳状面を使うやり方が、従来、年齢推定の判断基準となってきた恥骨結合面などの変化と整合性があるかどうか。今後、年齢推定のやり方を総合的に検証する必要があるのではないか」と話している。(宮代栄一)


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

26. 中川隆[-13461] koaQ7Jey 2018年7月14日 11:06:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16558]

最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


金沢大学の覺張隆史特任助教(人間社会研究域附属国際文化資源学研究センター),佐藤丈寛助教および田嶋敦教授(医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野)は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26 個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約2千500 年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨1 個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8
〜2 千年前の東南アジア人など80 を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8 千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2 千500 年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析(※5)によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。

特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト(※6)』の成果の一つとなります。

現在,覺張隆史特任助教らはこの縄文女性を主役としたより詳細な解析結果について,別の論文を発表準備中です。

これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。

本研究成果は,2018 年7 月6 日に国際学術誌「Science」に掲載されました。また,7月8 日〜12 日に,横浜市パシフィコ横浜で開催されている国際分子生物進化学会において,覺張隆史特任助教らが縄文人の全ゲノム配列を中心とした発表を行います。


【研究の背景】

過去にあった人類の拡散過程を復元することは,今に生きる人々の起源や成立過程,
各地域に居住する人々が持つ遺伝的な特徴の獲得や疾病・病原菌耐性の仕組みを追求す
る上で重要な位置付けにあります。従来の遺伝学的研究では,今に生きる現代人の遺伝
情報から人類の拡散ルートの復元を試みてきました。しかし,現代人集団間の遺伝的な
類似性から,実際に過去の人類の移動ルートが分かるわけではありません。なぜなら,
各時代・各地域の人類集団は常に移動する可能性が伴うため,いつ・どこに・どのよう
な遺伝情報があったかを復元しない限り,過去の人類の拡散過程を正確に復元すること
はできないからです。このため,現代人の遺伝情報から移動ルートを復元するには,多
くの仮定の上で推理するしかありませんでした。
近年のDNA 解析技術の革新によって,超微量DNA から全遺伝情報(全ゲノム)を解読
することが可能になり,遺跡から出土する人骨から直接的に過去の人々の全ゲノム配列
を決定できる時代が到来しました。とはいえ,遺跡出土人骨の全ゲノム解析には,まだ
技術的課題が複数あります。その中で,特に克服しなければならない課題が2 つありま
した(図1)。一つ目は,温暖湿潤地域における遺跡出土人骨の分析が成功していなかっ
たことです。二つ目は,微量DNA からの分析の問題点となる現代人由来のDNA 混入(コ
ンタミネーション)の問題です。このコンタミネーションの可能性を客観的に評価する
ためには,複数の独立した研究機関が相互チェックを行いゲノム解読を達成する,すな
わち,科学的信頼性(Scientific Authenticity)を高める共同研究体制の確立が必須
となります。
これらの課題を克服するために,本国際共同研究グループはDNA 保存状態が極めて劣
悪な環境下にある遺跡出土人骨から効率的に古代人由来のDNA を抽出する技術開発と評
価システムを確立し,現代人由来のコンタミネーションの影響を客観的に評価するため
の国際共同研究体制の構築を進めました。その結果,今までの技術や研究体制では科学
的な復元が不可能であった温暖湿潤気候の東南アジアにおける人類の拡散と遺伝的交
流の復元を世界に先駆けて達成しました(図2)。
さらに,先行研究では縄文人の非常に限られた範囲の部分ゲノム配列(Partial Genome
Sequence)のみが公開されていましたが,本研究では全ゲノム配列(Whole Genome
Sequence)の解読に成功しました。このように,日本列島のような保存状態が劣悪な環
境においても全ゲノム配列の取得が可能であることを示した最初の成功例となり,今後
の古代ゲノム研究の大きな躍進につながるといえます。


図1.研究背景の概念図
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf

図2.古人骨ゲノム分析の実験風景(北里大学医学部の古代DNA 分析専用クリーンルーム内にて)
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


(左上:現代人由来のDNA が少ない環境下にあるクリーンベンチ内でのDNA 抽出。

右上:
古人骨を分析するクリーンルームでは1 回使い捨ての防塵服と専用のゴム手袋を使用。

下:縄文人骨の側頭骨からの試料採取。)

【研究成果の概要】

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出
土人骨25 個体と日本の縄文人骨1 個体の計26 個体の古人骨からDNA 抽出を実施し,ゲ
ノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団の
ゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグ
ループに分類できることが分かりました(図3)。
グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ
族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビ
ン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年
前)の古人骨がそのグループに分類されました。また,このグループ1 に分類された古
人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土
した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。さらに,伊
川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。
一方,他のグループ2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約500 年前までの古人
骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と
遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。グループ2
はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは
遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。さらにグループ1 と東
アジア集団が分かれた後に,グループ1 からグループ2 への混血の痕跡が見つかりまし
た。また,グループ3 は現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語
族と遺伝的に近く,グループ4 は現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分か
りました。さらに,グループ5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グ
ループ6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混
血の痕跡なども見られました。
このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾な
どの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に
元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大
陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分か
ってきました。従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕
文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプ
ルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。本研究成果では,すでに稲作文化を持っ
ていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということ
ではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも4 回以上はあったこと
が解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデ
ル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。
本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南ア
ジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になり
ました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動
史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます。


図3.古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


【今後の展開】

本研究で得られた東南アジア古人骨および縄文人骨のゲノムデータは,広く東アジア
の人々の起源研究の基礎情報として活用されると期待されます。また,縄文時代におけ
る古人骨の全ゲノムデータは,現代の韓国,中国,ロシアなどといった日本列島周辺に
同時期に居住していた東アジア集団との遺伝的な類似性を直接比較することを可能に
しました。現在,より広い地域の人類集団との比較研究を進めています。また,本研究
の縄文人の全ゲノム配列決定は,ヒトゲノム計画など現代人のゲノム解析におけるドラ
フト配列(Draft Genome Sequence)決定に相当します。今後は,より精度の高い配列
決定(Complete Genome Sequence)を目指します。
本研究は人類学と考古学が綿密な協力のもと得られたもので,縄文人の起源と多様性
に関する研究の一つのスタート地点に立ったと言えます。今後,より多くの地域から複
数の縄文人骨のゲノム解析をすることで,縄文人の遺伝的な多様性を列島規模で評価で
きるようになります。そうすることで,地域間の人々との交流の実態や,土器や石器な
どの考古遺物といったモノの流れと,ヒトの流れの関係性の評価につながると期待され
ます。このように本研究の成果を礎に全く新しい人類学・考古学の発展が期待されます。


【用語解説】

※1 ゲノム解析
生物が持つ遺伝情報の広範囲な解析のこと。


※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡
愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200 体以
上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など
著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保
美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多
くの人骨が検出されている。


※3 約2 千500 年前の縄文晩期の女性人骨
2010 年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥
生時代の開始は3000 年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。
今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期の
ものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。
また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。


※4 全ゲノム配列
生物が持つDNA 配列の中でも,タンパク質の発現に関連する遺伝子領域のDNA 配列だ
けでなく,遺伝子以外の領域全てを含めた広い範囲のDNA 配列のこと。


※5 クロスチェック分析
異なる分析機関,異なる分析手法,異なる解析手法で,独立して同じ結果が得られる
かを評価する分析手法のこと。古代DNA 研究で重要な科学的指標の一つに当たる。


※6 縄文人ゲノム解読プロジェクト
日本の考古学者と人類学者,遺伝人類学者,ゲノム研究者などから構成される研究プ
ロジェクト。
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


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27. 中川隆[-13458] koaQ7Jey 2018年7月14日 11:16:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16558]

縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? 金沢大の研究グループがゲノム配列解読
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1531327113/


想定される日本人の祖先の移動ルート
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180711004656_comm.jpg

 約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。

 研究成果は11日、横浜市で開催中の国際分子生物進化学会で報告されたほか、6日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。

 覚張さんらの研究グループは、コペンハーゲン大学を中心とした国際研究チームと共同で調査。愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚で出土した縄文時代晩期の成人女性の人骨1体について全ゲノム解析を行った。日本のような温暖湿潤気候の地域では、人骨のDNAは劣化しやすく調査は難しいとされてきたが、最新の研究手法で縄文人の全ゲノム配列を初めて解読した。

 この結果を東南アジア各国の遺跡で出土した人骨25体や現代人のデータと比較すると、東南アジアの先史時代の人々は六つのグループに分類できることが判明。そのうちの約8千年前のラオスと、約4千年前のマレーシアの遺跡でみつかった人骨のグループのゲノム配列の一部が、伊川津貝塚の人骨と類似していた。

 日本人の祖先は、約4万年前以…

朝日新聞デジタル 2018年7月11日19時37分
https://www.asahi.com/articles/ASL7B5V8QL7BPTFC018.html


金沢大学プレスリリース:
最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


オンゲ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E6%97%8F

ジャラワ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%AF%E6%97%8F

ジャハイ族
https://en.wikipedia.org/wiki/Jahai_people


https://i.imgur.com/DMUIpO0.jpg
http://www.mohr-mcpherson.com/blog/wp-content/uploads/2015/07/9896889874_a000749cc7_b-1024x781.jpg


●数部族に分かれていますが、まぎれもない絶滅危惧部族です。

●Y-DNAの「D*」遺伝子を持つアンダマン諸島先住民は、50000年〜60000年前頃には
当時まだ陸続きの陸橋だったアンダマン諸島弧部分に住み着いたと考えているよ
うです。アボリジニの先祖Y-DNA 「C4」がオーストラリア亜大陸に到達した頃と同
じ古さです。もしかすると一緒に移動していた可能性もあります。

●彼らの、外来者をすべてを殺す習慣はオリジナルの「D」遺伝子や言語を見事に維
持し続けた、と考えられています。 アンダマン諸島先住民は縄文人の先祖の血を  守ってきてくれているのです....感謝!
出アフリカしたホモサピエンスの生きた化石なのです。日本人は彼らを大切に保  護しなくてはなりません。

●アンダマン諸島において、耕作は未知でした、そして、彼らは特有のブタを狩っ  たり、釣り、などで食生活し、集合して生活をしていました。

●唯一の兵器が、弓と、手斧と木製のもりでした。

●絶滅したタスマニアの先住民とアンダマン諸島先住民のみが19世紀に入っても火
を作る方法を全く知らなかった人々だったそうです、 木への落雷によって引き起  こされた炎から燃え残りを慎重に保存したそうです。

●ところがイギリス人の上陸で1867年のアンダマン諸島では、たくさんのOnge部族  民がイギリス人の海軍に殺されました。

●1940年代に、Jarawa部族は彼らの敵意のための日本軍によって爆撃されました。
日本軍は世界でチベット人と並ぶ唯2の縄文人の親戚民族であるアンダマン諸島  先住民を爆撃するという愚挙を行ったのです。大反省....です。

イギリスの最初の上陸時にはおよそ5,000人の先住民がいたそうですが、虐殺、 文明国が持ち込んだ病気、アルコール中毒、 インド亜大陸やビルマ(カレン族)か らの移住者などの影響で、1901年までには600人に減り、
1927年には100人の生存者 だけになったそうです。 1961年には19人に減りましたが、現在約50人に回復してい るそうです。

その間絶滅した部族はかなりあるそうです。アンダマン諸島の古代先 住民 Y-DNA「D*]が絶滅する前に、
同じ「D」の遺伝子を持つ日本人が彼らの調査を行 えるといいですね!

https://web.archive.org/web/20160223020324/http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm

http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/show_image/sanjuro.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/01/07/andamanese.jpg


『アンダマン島土人は地球上最小の人種なるべし。

二、三の人類学者は南アのブッシュ人、アメリカの掘食(デイガ)インディアン、フィジ島のテラ土人等をもって最小なりとなせども、

本島の土人は平均身長四フィート以下にして、成人者中にもはるかにこれに満たざるもの少なからず。

一度信をおくときは、きわめて厚き友情を示すことあるも、一般には残忍獰猛にして気むずかしく、馴致しがたき人種なり』

(延原謙訳)

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/66999919


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28. 中川隆[-13443] koaQ7Jey 2018年7月17日 05:46:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16603]

東南アジア民族の形成:日本の縄文人も含む(7月6日号Science掲載論文)2018年7月9日
古代人のゲノム解析が進み、アフリカから、ヨーロッパ、さらにはオセアニア、アメリカでの各民族の形成過程が、ゲノムから明らかにされつつあるが、少なくとも一般紙に発表される論文レベルでは、東南アジアから我が国にかけての民族形成過程について調べた論文をなかなか目にすることはない。

ところがようやく、7月6日号のScienceに東南アジアから我が国の縄文人までカバーした古代人ゲノムの研究が発表され、これまでのフラストレーションが少し解消した。タイトルは、「The prehistoric peopling of Southeast Asia(先史時代の東南アジアの民族形成)」だ。研究の主体はケンブリッジ大学だが、我が国の研究者もさまざまな形で参加しており、そのおかげで縄文人についての記述が多く、初めて日本民族形成のイメージをつかむことができた。

この研究ではマレーシア、タイ、ベトナム、ラオス、インドネシア、フィリピン、そして愛知県伊川津貝塚から、2ー8千年前の人骨を集め、そのDNAを解析している。東南アジアや我が国で、古代人ゲノム研究が進まない理由は、研究レベルの問題もあるが、もう一つは高温多湿地帯のためDNAの変性が激しいことがある。この研究では、この問題をMYbaitsと呼ばれる液体中で人間のDNAを精製する方法を用いて、低い精度ではあるがなんとか全ゲノムを解読し比較に用いている。

この結果、東南アジア出土の古代人ゲノムはgroup1ー6までの6グループに分けることができる。例えばgroup1にはマレーシアHoabinhiansで発見された東南アジア最古の人骨の末裔、マレー半島のÖngeやJehaiが分類され、Group2にはベトナムの新石器時代から青銅器時代の人骨が分類される。他のGroupの構成の詳細は省くが、このように分類した先史時代のゲノムと現代の各民族を比べることで、西から移動してきた現生人類が東南アジアに定住する過程を描くことが可能になる。

論文は50近くの図や表を擁する膨大な研究で、ここでは詳細を省いて以下の2点だけを紹介する。

1) この研究が行われた動機の一つは、各民族の定住を促した農業がどのように東南アジアに広まったかを明らかにすることだ。これまで、Hoabinhiansの狩猟採取民族が外部の影響なしに農業を発展させ、東南アジアに広めたとする説と、東アジアで農業を始めた民族が、徐々に東南アジアの狩猟採取民を征服して置き換わっていったという説が唱えられていた。今回、古代人ゲノムが解析され、それぞれの関係を調べることで、東南アジアの民族が、文化的に優位な民族が他の民族を置き換えるのではなく、混血を繰り返しながら文化を共有していったことが明らかになった。これは例えばヨーロッパの先住民が、Yamnaya民族に置き換わってしまって、インドヨーロッパ語文化圏が形成されたのとは全く違う。すなわち、異なる民族間でのある種の平和的融合を通して混血と定住が進み、各地域の民族が形成されたのが、東南アジアの特徴と言える。事実それぞれのグループにはインドやパプアニューギニア民族からの遺伝子流入も見られることから、この融合範囲はかなり広い。

2) 次は我々日本人にとって最も関わりのある問題、すなわち縄文人や現代日本民族の形成過程だ。驚くことに、縄文人はなんとマレーシアを中心に分布するGroup1に最も近い。ただ、Group1に分類していいかと言われるとかなり違っており、東アジア民族からの遺伝子流入の影響を大きく受けている。すなわち、マレーシアに誕生したGroup1の末裔が東南アジアを経て日本に到達するまでに、その途上の民族とおそらく平和的に混血を繰り返して日本に到達したのが縄文人になる。また、伊川津縄文人を2.5-3千年前とすると、その後の3000年のうちに更に東アジア人と混血して新しい日本人を形成したことだ。おそらく、弥生人の解析が進めばこの点は確認できるのではないだろうか。もちろん、伊川津貝塚からの一体だけで縄文人の由来についての結論を急ぐのは危険だが、人類起源の地アフリカからもっとも離れた島国に定住した日本民族が、様々な民族とゲノムでつながっていても何の不思議もない。

東南アジアの定住と民族形成が征服ではなく融合が基本だったことは、歴史時代多くの争いがあったとはいえ、アジアの精神性の基盤になったのかもしれない。タイの国立博物館を訪れた時、タイ民族が7種類の民族のゲノムが混じり合ってできていることを誇りにしているビデオ展示を見て、純血を重要視しない王国があると感心した。しかも、その民族の中には日本民族も含まれている。この論文を読んで、民族の純血を叫ぶのではなく、逆に他民族との深い関係を誇りにする日本人にでありたいと思うとともに、私たちが深く東南アジアとも繋がっていることを実感した。
http://aasj.jp/news/watch/8656


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29. 中川隆[-13833] koaQ7Jey 2018年7月29日 04:51:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17374]

最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明 2018年7月25日
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540


金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覺張隆史特任助教,医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野の佐藤丈寛助教および田嶋敦教授は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約2千500年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨1個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8〜2千年前の東南アジア人など80を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2千500年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析(※5)によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。

特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト(※6)』の成果の一つとなります。

これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。

本研究成果は,2018年7月6日に国際学術誌「Science」に掲載されました。

https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540
図 古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート

【用語解説】

※1 ゲノム解析
生物が持つ遺伝情報の広範囲な解析のこと。

※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡
愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200体以上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多くの人骨が検出されている。

※3 約2千500年前の縄文晩期の女性人骨
2010年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥生時代の開始は3000年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期のものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。

※4 全ゲノム配列
生物が持つDNA配列の中でも,タンパク質の発現に関連する遺伝子領域のDNA配列だけでなく,遺伝子以外の領域全てを含めた広い範囲のDNA配列のこと。

※5 クロスチェック分析
異なる分析機関,異なる分析手法,異なる解析手法で,独立して同じ結果が得られるかを評価する分析手法のこと。古代DNA研究で重要な科学的指標の一つに当たる。

※6 縄文人ゲノム解読プロジェクト
日本の考古学者と人類学者,遺伝人類学者,ゲノム研究者などから構成される研究プロジェクト。
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540


以下、詳しい説明(PDF)より抜粋
 ==========================================================

【研究成果の概要】

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出土人骨25 個体と日本の縄文人骨1 個体の計26 個体の古人骨からDNA 抽出を実施し,ゲノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団のゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグループに分類できることが分かりました(図3)。

グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年前)の古人骨がそのグループに分類されました。

また,このグループ1 に分類された古人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。

さらに,伊川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。

一方,他のグループ2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約500 年前までの古人骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。

グループ2はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。

さらにグループ1 と東アジア集団が分かれた後に,グループ1 からグループ2 への混血の痕跡が見つかりました。

また,グループ3 は現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語族と遺伝的に近く,グループ4 は現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分かりました。

さらに,グループ5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グループ6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混血の痕跡なども見られました。

このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾などの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分かってきました。

従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。

本研究成果では,すでに稲作文化を持っていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも4 回以上はあったことが解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。

本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南アジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になりました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=337608


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

30. 中川隆[-13769] koaQ7Jey 2018年8月01日 17:49:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17434]

日本人のガラパゴス的民族性の起源
0-0. 日本人の源流考 rev.1.3 2018/7/29
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm

  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどるによる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

 ・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せず、 ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?

 ・シ−ラカンス古代亜型のY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った 集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩猟採集から抜け出せなかったのか?

 ・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸でホモサピエンスに進化してから 出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。


2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」はかなり遅れて進化したと考えられていた様だが、 最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。
 Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、

 Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分離し、

 Y-DNA「BT」がY-DMA「B」とY-DNA「CT」に分離したが、

    この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

 Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、更にY-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分離した。

    これは恐らく中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

    この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデルタール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではないプロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。


3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」とY-DNA「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級としてネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」がそのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。最も頻度が高いのはTanana族である。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。


4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分離しインダス文明を興し、ドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く残されており、 テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子はY-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、 東アジア起源の面影は全くない。唯一タタール人に若干の面影が残っているが今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島(Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。

カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、 その結果、学習院大学の大野教授が日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。

過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。


  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として混在して来たのか単独で来たのか? 岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。


5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内のから生き残りに敗れ逃れてきたのが、Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。


6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。

  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、

  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本と朝鮮及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきたY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンのY-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。

西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも遺伝子が繋がっているのだから。 恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。
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31. 中川隆[-13835] koaQ7Jey 2018年8月04日 08:21:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17584]

北海道スペシャル シリーズ北海道150年 第1集「開拓〜困難の果てに〜」 2018.07.13 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6pi53q

北海道スペシャル シリーズ北海道150年 第2集「アイヌモシリに生きる」 2018.07.27 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6qfzsl

北海道命名150年記念特番 松浦武四郎が夢見た北の大地 2018.07.14 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6pi59l

HTBノンフィクション 「聞こえない声〜アイヌ遺骨問題 もうひとつの150年」 2018.04.24 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6iam1w


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32. 中川隆[-13867] koaQ7Jey 2018年8月06日 06:59:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17659]

「縄文体質」を考える-1〜縄文時代の外部世界(=外圧)とは?
ZPosted on 2018年8月1日 Author ozakihiroto
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=361


リンク
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=329769


 の投稿のヘ に今回私は疑問を持ちました。いえ、正確にはさらに追求したいと思いました。まずはそのヘの文章を引用します


へ.縄文体質とは

・縄文体質の本質は、みんなの期待に応えることにある。それを第一義とする体質が縄文体質であるが、それは集団第一の体質ということもできる。
この縄文体質は、敗戦・焼け野原や3.11壊滅災害etcの状況下では、他国にはない強い勤勉性として現出する。

という内容です。
縄文体質の内容が理解しやすいです

しかしこれは要約のため、要約としては良いが私は縄文時代の外部世界や、縄文時代の集団などを理解しその後しっかり縄文体質に踏み切りたいと考えました。
ですので本日からは縄文体質をつかむを最終目標に縄文時代について考えていきます。

まず本日は縄文時代の外部世界(=外圧)から考えていこうかと思います。

まず縄文人の凄さは先ほどの引用部分からも明らかです
ではそのすごさはどうやって形成されたのでしょうか?

イ.大陸から切り離された地理的状況が縄文人を形づくった。

まず縄文時代初期の日本が置かれた地理的状況をを抑えることにする。
洪積世初期およそ1万年まえの日本の地にはすでに大陸とつながりはきれて四方を海にかこまれた列島になっていた。この海を渡って大陸と往来することは、当時の列島とその周辺の社会の生産力では、まったく不可能でないまでも、きわめて困難であった。

かくて日本列島の社会は、1万年ほども周辺の社会からほとんど孤立した形で独自の道を歩まねばならなかった。そして8千年ほど前に四国と九州からきれた形となり、その後も太平洋がわの海岸線が後退し、5千〜6千年前から日本列島は地形も気候も動植物相も、現在と基本的には同じになっていた。

この一万年あまりの縄文時代に日本人の特質が形作られ、日本の歴史が始まったと考えられます。それは次の2つの理由によります。


第一に、この時代に日本人の原型が成立したと考えられる。

縄文時代人は、日本列島が大陸からきりはなされてからは、日本列島の自然の諸条件に適応し、独自の民族的および文化的特徴をうみだした。 彼らの遠い祖先が、大陸方面か東南アジアか、そのいずれに住んでいたか断定はできないが、数千年から一万年も違った自然的および文化的条件のもとで生活しているうちに、日本人の原型となった、と考えられる。

第二に、日本語の核心が縄文時代に成立していたと考えられる。
言語年代学によれば、いまの日本の本州等の言語と沖縄の言語とは、共通の祖語から、紀元前後に分かれて、それぞれ独自の発達をしたものと推定される。
そうだとすれば、両語に共通の核心部をもった日本祖語は縄文時代に存在していたとせねばならない。

こうして縄文時代には、現在の日本人の固有の生活領域である日本列島が形成されており、そこにまわりの諸民族とは違った独自の一民族とその言語、すなわち日本人と日本語の原型が成長し、その人々が未開を突き抜け、文明への道をきりひらいていった。まさに日本人の歴史がはじまったのである。

ロ.縄文時代を貫く厳しい自然外圧が自然=人間の循環系の文明原理を育んだ

縄文時代の自然環境を考える上で、忘れてはならないのが、火山である。
環太平洋火山帯の西の果てに位置する日本列島は火山活動も多く、3000年前の富士山の活動が一時停止するまでは列島内でかなり多くの火山活動が観測されています。

火山と縄文遺跡の関係はすでに報告されており、火山灰により肥沃になった土地に植生が安定し、多くの遺跡が集合しています。しかし火山は同時に一気に村を飲み込み、集団を絶滅に追い込みます。言い換えれば火山(爆発)という危険と隣りあわせで生活していたのが縄文人であり、縄文居住域だったのだ。
また、大陸の東の果てにある日本列島にはすでに4000年前から渡来人が海を渡って来ている。大陸の文化や物資を運んだと同時にさまざまな病気も運んできたことと思われます。三内丸山の巨大集落が4000年前に消滅したのは一説では伝染病という説があります。

縄文時代はこのように激しい気候変動、火山活動、さらに大陸からの病原菌という外圧に晒され、中期には30万人近くいた人口が縄文晩期には10万人を切るまで減少したのだ。

この1万年間の外圧とは、気候変動による外圧、火山など突然環境が変化してしまうことによる外圧、さらに病気という外圧、それら多くの自然外圧に翻弄されていたのが縄文人であったと考えられる。

集団が外圧に晒されるたびに自然をひたすら注視し、自然との対話を試み、生きる為の術をその中から導き出した。この自然=人間という自然との同化能力こそ1万年の縄文時代に培われた能力だと思う。

このようにして、現代日本人に繋がる仲間へのさらには他集団への同化能力の基礎がこの時代に形成されたと考えられる。


ハ.縄文人は、初めて直面した同類圧力を集団規範を拡大する事で乗り越えた
縄文時代に初めて遭遇した(或いは直面した)人類にとっての全く新しい外圧がある。

それは、人と人の間で生み出される同類圧力である。
人口が増え、生活する縄張りが接触し始めると相互に緊張圧力が生じる。
縄文早期の頃は単位集団は一定はなれて生活していたのが、前期から中期にかけて人口が10万人から30万人に増えている。それも増加した地域は東日本に集中し、三内丸山を抱える東北地方ではその1/3に相当する10万人がいたとされている。

縄文時代は採取生産を生業にしており、その後の農耕生産と異なり一つの集団が生存するには広い食料域が必要でわずか数十人の集団を維持するのに数キロの縄張りが必要になる。たかが10万人とはいえ縄張り同士は当然接触して、相互に緊張圧力が生じた。

遊牧部族では、食糧事情が悪化し、緊張圧力が高まると略奪闘争が始まり、私権闘争の社会へと変化していきました。

しかし縄文時代を通して戦争の痕跡はなく、縄文人はその状況を贈与や祭祀、集団間のネットワークという方法で回避していた。それどころか緩やかな集団間の関係を構築し、単位集団を地域集団という土地に根ざした連合集団を形成していく。

要約すれば縄文時代を通して自然外圧と同類圧力、この2つの圧力が強く作用し、それに対して頭を使い、工夫したのが縄文人であり、永続的に生きていくための多くの共同体規範が作り出されていったと考えられる。
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縄文体質を考える-2〜縄文体質を作り出した生産様式を押さえる〜
Zhttp://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=365Posted on 2018年8月2日Author ozakihiroto

前回の続きとなります。
前回は縄文時代の外圧を考えましたが今回は縄文体質を作り出した生産様式について考えていきたいと思います。

おそらく生産様式をただ問うならそれをここで明らかにするまでもありませんが勘違いしている人などもいるかもしれませんので紹介します。まず縄文人の主たる生業は明らかである。それは「採取、採取」である。

縄文人は採取生産に特化することで世界で最初に定住化した民族ではないかと言われている。

ではなぜ縄文人は採取のみに特化することが可能だったのか?
なぜ狩猟をしなかったのか?

これは豊かな日本の地形が生み出した偶然だと考えることができる。

森林が国土の70%を占める国は先進国の中では特出している。

さらにその森林は火山活動によって形成され火山灰による豊かな土壌に恵まれた再生可能な森を形成し、さらに温暖化による海進によって水位が上昇しリアス式海岸や平地が海に沈んだ漁礁を作り出したのである。

日本の海産資源は同じ海浜地域の地中海と比べ25倍もの生産力を保有している。
縄文人は前期から中期には海浜地域に集結し、この時代の遺跡は見事に海岸線に並ぶ事になります。また、湿潤な気候と森からの清水は植生を豊かに形成していきます。

縄文時代の採取生産はこうして海浜地域から始まりました。

森の生成と豊富な植生、汽水域の魚介、海草それを元に定住化していったのが縄文人でした。定住化の明確な開始は遺跡上では信州では8000年前、最古の定住遺跡は南九州の上野が原の9000年前に遡る。

これらの定住化は凡そ温暖化が始まった時期に符合する。
この定住化をさらに進めたのが土器技術の開発、拡大である。

縄文早期には既にあく抜きや煮炊きができる土器を備えていた縄文人は多様な自然資源を食料として取り込むことにも成功する。この時代の縄文人の食生活は現代人のコメをどんぐりに、肉を魚介に変えただけでかなり豊かな状況にあったようだ。

しかし温暖化で恵まれていたのは約5000年前までで、その後縄文時代の約半分の期間は寒冷化により現在より1度から3度低い時期を迎える。

すでに定住し関東から北に適応していた縄文人は寒冷化してもその地にとどまり続ける。雪や寒さに閉ざされる冬は塩や乾物の技術で乗り越えていき東北地方の縄文人は一部狩猟生産を復活させ、北海道では比較的豊かな海獣などの肉食を主食することで採取と狩猟を並存させていく。

また、寒冷化によって海水位が10m以上も低下し海底が地上に現れる事になり、しばらくは植生のない海岸線が何キロも続き、海岸線は居住できない状態になる。
縄文中期から集落は湿地帯となった海岸線を離れ、内陸へ移動していくことになる。

ここでも縄文人は大きく生業を変えることになります。それまで海の資源に半分くらい依存していたのを諦め、ドングリやクリの管理・維持栽培(=半栽培)などの植物食と陸上動物(イノシシ、シカ)、河川魚類(サケ、マス)の狩猟・採集生産を中心とした時代に移行する。

集落規模も寒冷化に向かったこの時期には小さくなり、いくつかの小規模な集落がネットワークで繋がるように変化していく。

縄文時代の生業はこのような段階を経て農耕中心の弥生時代に移行していく。そしてその時々に気候変動の影響を受けている。


@狩猟生産時代(1万年以上前)…寒冷期
↓ 非定住、巨大動物が食料源、集団規模は小さい

A採取、漁猟生産(8千年前〜5千年前)…温暖期(縄文海進)
↓定住化、居住域は海浜地域中心、集団規模は大きい、人口増大

B採取、栽培、漁撈、狩猟生産(5千年前〜3千年前)…寒冷期
↓居住域は内陸地域中心、集団規模は小規模化するが各集団はネットワーク化される

C稲作技術の渡来、拡大(3千年前〜)…寒冷期
大陸に近くて食料の乏しい九州地方から伝播⇒拡大、人口増大


A⇒Bへの移行期が一番厳しい外圧状況であり、この時期に集団規範や男女規範は作られていったのではないかと思われる。
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「縄文体質」を考える3〜縄文時代の集団規範を考える
ZPosted on 2018年8月3日Author ozakihiroto
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前回の投稿の最後にも書いた通り今回は縄文時代の集団規範を中心に当時の集団のあり方を考えたいと思います。

イ.縄文時代の集団形態

環状集落の中央には広場があり、周囲に住居が配置されています。最小で、直径70メートル程度、最大で150メートル以上に及びますが、中央広場には集団墓地が営まれるのが大きな特徴です。同心円状に所定の範囲内に、建物・施設を配置する構造は「重帯構造」と呼ばれ、当然新旧の遺構が重複します。有名な群馬県三原田遺跡では、中期後半の数百年にわたり、300軒以上の住居跡が重複しながら、直径130メートルの円を描いており、集落は外周から徐々に内側へ向って形成されていて、長期的な計画性をうかがわせます。

次に、住居群や墓群が大きく二分されていることもよく知られています。これを「分節構造」と呼びますが、墓域の区分は特に厳格で、埋葬場所は長期にわたって踏襲されていることから、分節は血筋・系譜の区別に基づくものだという可能性が高くなります。大群のなかにさらに小群が枝分かれすることもあり、八王子の多摩ニュータウン107遺跡(中期)はこの典型例で、何百年にわたり、直径32メートルの円内に整然と200基もの墓群が2×2の分節をなして営まれています。ここから、構成員の血縁的区分の厳格さ、血縁集団への帰属性の高さがうかがえます。さらに、各小群内の墓の数には差があり、他の二大群構造の遺跡においても、墓の数に不均衡があることが多いのです。これも、ランダムに墓を作った結果、と見るより、各血縁集団の成員数に違いがあるのが自然で、そこからの必然的結果と見るほうが妥当でしょう。

何世代にもまたがり、文化を受け継ぎ、祖先を祭祀する血縁集団としては氏族・系族と言われる「単系出自集団」が知られています。父系または母系のどちらかの血統により、系譜と成員の資格が受け継がれる集団です。G・C・マードックは数代から10代ぐらいの、実際の系譜が記憶されている単系出自集団を「リネージ」と呼んでいます。死者も含めてリネージの成員とみなしている社会も少なくないそうで、「リネージは生きた成員と死んだ成員との一つの共同体」と言われる所以です。

要約すれば縄文時代の集団は血縁集団への帰属性が強かったということである。

ロ.総遇婚の共認

集団規模が大きくなるとそれまでの「顔の見える」生まれた時から一緒の単位集団(バンド)と違って、より上位の組織統合の課題が登場する事は間違いありません。

弓矢の登場以降、(2から1万年前)安定した生存域と食糧が確保できるようになると、集団規模が拡大してきます。

例えば縄文中期〜後期(5500〜4000年前)に登場した三内丸山遺跡の事例では、竪穴式住居が1000件存在したとされています。推定5000人近い集団です。また他の未開部族などの事例でも、大きなものは推定3000から5000人近くの部族連合を作っていたようです。

これらの集団は基本的に原始共同体です。

そしてこれらの大規模な集団は次のような形で統合されていた様です。

まず末端に30から50人規模の血縁集団(単位集団・氏族)が存在する。そしてその上位に氏族3〜4グループを統合する胞族というグループが作られる。そして更にその上位に、胞族を更に3〜4グループ統合する部族が形成される。という3段構成がとられており、これら全体が一つの集団を構成していたようです。各氏族、胞族は全体で集団規範を共有しており、各段階の決定は現代風に言えば合議制だったようです。これらの集団の一番基礎にある、氏族は血族であり、生産と生活をともにする集団です。だからおそらく各構成員は役割充足も充分に感じていたと思います。

しかし逆にそれぞれの氏族(単位集団)はそのままだと独立性が強くなりすぎるということからでしょう、別の胞族のグループ同士で(ある氏族or婚姻班と別の氏族)総偶婚=群婚制がとられていたようです。集団が解体しないための、統合の一つの知恵です。

この集団構成だと概ね300から500人の規模ですが、それ以上の規模となると、緩やかな部族連合を形成していた様です。但し三内丸山は同一地域に棲んでいたことより、集落全体が一集団だったのかもしれませんし、連合体だった可能性もあります。

これらの集団はおそらく規模が大きくなるに従って、血縁を単位に(但し群婚なので当然母系の血縁になります)集団を分割していったのだと思います。

要約すれば縄文時代は血縁集団を最基底部においた3段構成の共同体社会だったということである。

ハ.縄文人の活力源

縄文の婚姻制を解明する中で、改めて考えさせられたことがあります。それは生まれた集団に属す母系集団であったことです。

人類の祖先である真猿が、オス移籍(チンパンジーはメス移籍)であることと比較して、また哺乳類の原点である原モグラが離乳するとオスメスとも追い出すのと比較して、大きな違いがあるからです。

完全に孤立していた始原人類はともかく、隣接する他部族と接触するようになっても、移籍は発生していません。

このことは同類圧力が戦闘的関係でなかったことを示していると思われます。戦闘的関係を婚姻制で解消したということでもなさそうです。何故なら、原モグラも真猿も、元々それまでの生物がもっていた巣離れ本能+哺乳類が増強した性闘争本能と、親和本能との大小関係で移籍するか、残留するかが決まっており、原モグラも真猿も、巣離れ本能+性闘争本能>親和本能で、巣離れ(移籍)していきます。

真猿は集団内の性闘争本能を下敷きにして、集団間同類闘争(縄張り闘争)を戦っています。

しかし人類はその逆で、圧倒的な外圧状況の中で親和本能(+共認充足回路)を増強して、性闘争本能は封印しています。縄文人も同様だったでしょう。婚姻制も母系集団も性闘争本能の封印を前提に成立している以上、他部族に対しても縄張り争い的な関係にはならないのではないでしょうか。

考えられるのは外敵に対する闘争本能ですが、相手が襲ってこない以上、同類を外敵とみなすのは無理があります。遭遇当初は外敵?との緊張感や警戒心が働いた可能性はありますが、お互い同類であり外敵ではないとの相互理解は成立したでしょう。

従って、同族内も他部族間も人々に働いていたのは、専ら生存圧力や未明課題に対して「何とかして」というお互いの期待・応望圧力(という形での同類圧力)だったと考えられます。
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「縄文体質」を考える4〜縄文時代の男とは?女とは?
ZPosted on 2018年8月4日Author ozakihiroto
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前回は縄文時代の集団規範を考える を考えましたが今回は集団の根幹である男らしさと女らしさを考えます。

イ.現代の男女事情

闘争存在である男性は、闘争課題があるとがんばるものの、闘争圧力がなくなると途端に「怠ける」ということ。外圧依存型の闘争性や勤勉性はもっているものの、何もない時には怠けがちなのがオスという生物なのでしょう。

では、なぜ女性が勤勉なのか?

それは、充足・安定存在ゆえであると考えます。

子育て、炊事、掃除、縫い物・・・身近な周りの充足のために日夜勤勉に働くのが女性=お母さんの姿だったりします。どんな家でも女性=お母さんの勤勉さがなければ、日常的な充足・安定は維持できません。

これを逆に見れば、女性は身近な皆の充足・安定のために働いてくれているということです。自分の勤勉さが、皆の充足・安定につながるとわかるうえ、主体的に動いていけば、皆の充足・安定を高める課題(期待)は無数にかつ常に存在します。したがって、永続的に勤勉さが持続するということでしょう。

このように考えると、「勤勉」は女原理なのだと思います。

特に、我々日本人が考える勤勉さは、この女原理発の勤勉さに根ざしているでしょう。

充足・安定を尊ぶ縄文体質とは、すなわち女原理。女原理で動いてきた我々日本人にとって、女性の勤勉さは肯定・感謝の対象であり同化対象です。そこを基点に、男性にとっての労働=闘争も認識して価値を見出していったのが日本人なのだと思います。(労働=闘争を男原理と直結させて理解する欧米人にとって、ここは理解しにくいでしょう)

要約すれば

@男は闘争課題があるとがんばるが、圧力がなくなると途端に怠ける。

A女はたえず勤勉。身の回りの充足のために、日夜勤勉に働いている。

それは、自身の勤勉さが、皆の充足、安定に繋がっている。充足・安定存在であるから

Bこうした課題は常に無数にたえず存在する。永続的に勤勉性が維持される。

Cこのようにみんなのために働く女性の勤勉さは肯定、感謝の対象である。

ロ.縄文における男らしさ、女らしさ

縄文時代に突入し、気候の温暖化に伴いぶなやならの温帯の落葉広葉樹の森が拡大しここから森を中心とした定住文化が開始するわけですが、ここでは女性の存在はこれまでの依存的存在から生産の中心存在へと大きく立場を変えるのです。

森の中での食料の獲得(主に木の実の収集、球根や山菜採り、川や湖の魚貝類)は女性の手で充分可能となり、男たちの獲得する動物性たんぱく質である狩猟生産をしのぎ、縄文時代の主食としてその開発から加工まで女性の繊細な自然への感性と器用な技術が脚光を浴びたのでした。

この時代の男ですが、植物採取社会では、狩猟による動物性蛋白の占める量はわずかなものなのですが、それでも男は原則として植物採集にはタッチしていません。植物採取にウエートがかかればかかるほど、擬似的な狩猟や踊りの練習に熱中しました。さらに、植物食には固形塩が必要となり、海浜部落への物々交換の交易を行なってました。これに対して女はそれ以外の全てを担います。植物採集、昆虫捕獲、育児、土器作り、炉の火の番人等。

縄文時代に入り、自然圧力の低下とともに、生産面においても、女性の活躍の場が広がったことが伺えます。この縄文から以降が、上記の「女性が勤勉である」といったベースが整った時代だったいえるでしょう。

一方の男性も、定住化、集団規模の拡大、他集団との接触機会の増加等によって、集団を統合していく課題に、よりシフトしていったのではないでしょうか。

このように、縄文時代は、男女ともに、それぞれの役割を拡大し、担っていった時代だったといえるのでははないでしょうか。

ハ.極限時代から採取時代である縄文時代のまでの人類の男女の役割 まとめ
〈実現論より引用します〉

人類はつい一万年前まで、まともに地上を歩くことが出来ず洞窟に隠れ棲むしかない様な、凄まじい外圧に晒されていた。従って、人類のメスはサル以上に極度に依存収束を強め、首雄収束⇒応望収束回路を発達させていった。しかも人類のメスは(首雄でも防ぎ切れない)飢えや怯えに晒され、サル以来はじめて自らの不全感を直撃されたメスは専ら解脱収束を強め、強力な解脱収束⇒性機能収束回路(エンドルフィンとドーパミンの快感回路)を形成していった。だから、人類の女は徹頭徹尾、応望存在であり、自らの役割欠損を専ら性機能に収束させてゆく性的存在である。もちろん、それら全ては首雄の期待に応えて役割充足を得る為であり、従って男たちはそんな女たちを、純粋にかつ積極的に肯定視してきた。

極限時代の人類の女は、外圧に立ち向かう男(首雄)の活力源=性的存在としての役割を強化し、一方の男も女の期待を糧に外圧と対峙していたことがわかります。
このような極限状態に置かれた人類が、縄文時代の自然外圧の変化(低下)によって、より男女の役割を拡げていきます。

ここでの採集・漁労部族における女の役割は、注目に値する。採集部族では、弓矢を持った男たちが防衛する(狩猟もするが、獲物は少ない)安全域で、女たちが主要な食糧を採集する。もちろん、闘争過程の主役はあくまでも男たちの防衛であって、女たちの採集は従役である。それにしても、食糧の過半を女が採ってくるというのは、外圧の強い極限時代には考えられなかったことであるが、皆=集団の期待(食糧の採集という役割)に応えて、採集部族の女たちはよく働いた。しかし、それでもなお男たちの期待の中心は性であり、従って女たち自身にとっても、自分たちの中心的な役割は性役(男たちに性的充足を与えること=自らの性的充足を得ること)であった。役割欠損ゆえに性的存在となった女にとって、集団=全ての男たちの期待(=性役という女の役割規範)に応えることほど、自らの存在理由を充足させるものはない。従って、タヒチをはじめ採集部族の女たちは、極めて積極的に集団の期待=性役規範に応え、更に性機能を磨いていった。

(引用終了)

縄文時代に入り、自然が豊かになり、自然外圧が低下するとともに、主雄以外にも食料獲得等の活躍の場が広がることで、集団(主雄)への収束力が低下していきます。この男達の間に入り、彼らの性期待に応望し媒介となって、集団への収束力を高めていったのが女達だったのだと思います。

縄文時代は、主雄と女という関係から集団内の男達と女達へと、男女の性の期待応望を集団内へと拡げていった時代であったと思います。

また縄文時代は、自然外圧の低下により、女性でも、採取が可能になり、生産面に対する役割が担うようになります。その背景には、もっと集団のために役にたちたい、集団を充足させたいという想いがあったことでしょう。充足存在としての存在基盤の延長上に、生産面においても集団の充足課題を担っていく「勤勉」な女達の姿が浮かび上がってきます。

一方の男も自然外圧の低下により、極限時代に比べ、集団に対する収束力が緩んでくるという局面に直面します。同時に、集団規模の拡大や、集団の増加に伴う他集団との接触による同類圧力の上昇という新たな圧力=課題がでてきます。こうした状況の変化に対して、男達は、集団を維持し統合していくため祭事儀礼を含めた集団の取りまとめや、他集団との交渉等、集団を維持していくためのより広範囲な役割を担っていくようになることが伺えます。

縄文時代は生産面においても、集団統合の面においても、男女の役割が拡大していった時代です。その役割を拡げていく活力の根本に、男女の期待応望=互いの肯定視があったことを忘れてはならないでしょうし、男女の肯定視をベースにした、お互いの役割に対する感謝の気持ちがしっかりと存在していたと思います。
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=372


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

33. 中川隆[-13625] koaQ7Jey 2018年9月01日 21:18:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18154] 報告

歴史REAL日本人の起源 (洋泉社MOOK 歴史REAL) ムック – 2018/6/5
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%B4%8B%E6%B3%89%E7%A4%BEMOOK-%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL/dp/4800314739

『洋泉社ムック歴史REAL 日本人の起源』 2018/07/24
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


 洋泉社より2018年6月に刊行されました。本書はおもに、弥生時代までの古代DNA研究・縄文時代研究・弥生時代研究の解説で構成されています。それぞれの執筆者は篠田謙一・山田康弘・藤尾慎一郎の各氏で、期待できそうなので購入しましたが、期待通りに最近の研究成果を知ることができました。とくに、弥生時代までの古代DNA研究の解説では、私が不勉強なため、多くの知見を新たに得ることができ、たいへん有益でした。以下、本書で注目した見解について、備忘録的に取り上げていきます。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析から、縄文人にはハプログループM7aとN9bが広範囲で見つかっており、現代ではほぼ日本人にしか見られません。ただ、どちらも出現(分岐)年代が3万〜2万年前頃なので、38000年前頃に日本列島に進出してきた人類と縄文人とは直接的な祖先-子孫関係にはなかった可能性が指摘されています。もっとも、あくまでもmtDNA解析に基づく推測ですから、38000年前頃の日本列島の人類集団と縄文人とが、もちろんその後の流入による遺伝的影響はあるとしても、直接的な祖先-子孫関係にある可能性も考えられます。

 縄文人のmtDNA解析数も蓄積されて、地域差が見えてくるようになりました。琉球列島を含む関西以西ではM7aが卓越するのにたいして、北海道・東北ではN9bが多数を占めています。また、サブグループまで分類すると、関西以西と東北・北海道では、M7aでもそれぞれ異なるグループが分布しています。そのため本書では、地域間の人的交流が広範囲に及ぶものではなかったかもしれない、と指摘されています。もっとも、後述するように、遺伝的交流は盛んではなくとも、交易などによる文化的交流はある程度以上活発だった可能性もじゅうぶんあるとは思います。

 また、現代日本人では、N9bが2%程度で、7%程度存在するM7aも、縄文時代の関西以西のサブグループで大半を占めることから、現代日本人に継承されている縄文人のDNAは、おもに西日本の縄文人に由来するのかもしれません。そうだとすると、弥生時代最初期にユーラシア大陸から九州北部に渡来した集団が在地の縄文人と混合し、東進していったために、現代日本人に占める縄文人の遺伝的影響は、西日本系の方が東日本系より高くなったのかもしれない、と本書は推測しています。

 縄文人のゲノム解析も進められており、最近になって、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3800〜3500年前頃の女性のゲノムは、現代人とほぼ同じ精度で解析されたそうです。平均網羅率は明示されていませんでしたが、30倍以上ということでしょうか。この女性の血液型はA型で、耳垢は湿式、切歯はシャベル状ではなく、巻き毛だったことが明らかになっています。これらの表現型はおおむね予想通りでしたが、目の虹彩は茶色で、人骨からの推測通り、身長が低くなる傾向を有する遺伝子が確認されました。

 この女性の両親は近い血縁関係にあり、両親の近縁関係の程度はアマゾンの先住民と同じくらいと推測されています。船泊遺跡からは、新潟県の糸魚川沿いの翡翠や、シベリアで発見されたものと類似した貝製装飾品が発見されていますが、婚姻圏は狭かったのではないか、と本書は推測しています。ただ、こうした狭い婚姻関係が一般的だったのか否かは、もっと縄文人のゲノム解析数が蓄積されないと、判断が難しいように思います。

 船泊遺跡の女性のゲノム解析の結果、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の縄文人と同様に

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_3.html


船泊縄文人も現代の東アジア集団とは大きく離れている、と明らかになりました。現代人の集団で船泊縄文人とある程度遺伝的に近縁性を示すのは、アイヌ・琉球・「本土」日本・台湾や沿海州などユーラシア東部圏沿岸地域の先住民でした。本書は、東南アジアからの初期拡散により北上した集団のなかでユーラシア東部圏沿岸地域に居住した人々が融合し、縄文人が形成されたのではないか、と推測していますが、確証するにはユーラシア大陸の古代DNA解析が必要だ、と指摘しています。

 船泊遺跡では縄文時代の男性遺骸も発見されており、ゲノムが部分的に解析されているそうです。この男性もゲノムが解析された女性も、海獣など脂肪分に富む食資源に依存している場合に有利となる、脂肪代謝に関連する多様体を有しており、北極圏の先住民集団も同様です。船泊遺跡ではじっさいに漁撈具や海獣の骨が多数発見されているので、海獣への依存度が高い食生活を送っていたようです。船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、現代日本人では30%以上存在するものの、中国や韓国ではほとんど見られないD1bでした。しかし、船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、D1bの中でも現代日本人で多数を占めるサブグループD1b1ではなく、Y染色体でも、北海道の縄文人が現代日本人にはさほど遺伝的影響を及ぼしていない、という可能性が想定されます。

 弥生時代の人類のゲノム解析も進められていますが、縄文系と渡来系という以前からの形態学的分類がそのまま当てはまるものではなく、複雑な様相を呈していることが明らかになってきました。福岡県那珂川町安徳台遺跡で発見された弥生時代中期の女性は、典型的な渡来系弥生人と考えられており、遺伝的には韓国や中国の集団と類似する、と予想されていましたが、ゲノム解析の結果、現代日本人の範疇に収まり、むしろやや縄文人に近い、と明らかになりました。本書は、安徳台遺跡の弥生時代中期の集団が東進し、在来の縄文系と混合していったとすると、現代日本人における縄文人の遺伝的影響はもっと高くなっていると予想されることから、弥生時代中期〜古墳時代におけるユーラシア大陸からの渡来を想定する必要がある、と指摘しています。

 縄文系とされる弥生人のゲノムも解析されています。長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡で発見された弥生時代後期の合葬された男女2人は、縄文人と共通する形態学的特徴を有している、と評価されています。mtDNAのハプログループでは、女性が縄文系と考えられるM7a、男性が渡来系と考えられるD4aと明らかになりました。しかし、核ゲノム解析では、縄文人と現代日本人の中間に位置する、との結果が得られました。上述した安徳台遺跡の事例からも、弥生時代には在来系と渡来系との融合が進んでおり、弥生人は均一な集団ではなく、独自の遺伝的構成を有していた、と言えるでしょう。本書は、弥生時代の渡来系は当初より在来系の縄文人と融合し始め、当時の朝鮮半島には渡来系弥生人と同じ遺伝的構成を有する集団はいなかっただろう、と推測しています。

 また本書は、弥生時代になっても日本列島の大半に縄文系の人々がいたと考えられることから、弥生時代以降もユーラシア大陸から日本列島への流入があり、現代日本人につながる集団の完成は古墳時代だろう、との見通しを提示しています。まだ予備的な研究の段階ですが、古墳時代になると、関東の集団の遺伝的な構成が大きく変わるそうで、古墳時代の日本列島の住民のDNA解析の進展が期待されます。また、飛鳥時代以降の古代DNAの解析も、日本史研究に大きく寄与するでしょうから、今後の研究の進展が楽しみです。


 これまで、先史時代の研究は考古学と形態学が主流でした。近年では古代DNA研究の進展が目覚ましいものの、考古学と形態学でも研究は着実に進展しています。日本列島最初期の土器は北海道では発見されておらず、朝鮮半島最古の土器は1万年前頃であることから、縄文土器は日本列島で開発された可能性が高そうです。また南島地域においては、縄文文化との共通性も相違点も見られ、時期により縄文文化と連動したり離れたりしていたそうです。本書は、他地域との交流はあるにしても、対馬海峡において文化的な境界線を引けることからも

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

縄文文化の空間的範囲は、現代の日本国の領域と厳密に一致しているわけではないものの、ほぼその範囲に収まる、との見解を提示しています。

 これは形態学的にも言えることで、縄文人の形質は、空間的には北海道から九州まで、時代的には早期から晩期前半までほぼ同一で、世界中で類似した古人骨は発見されていないそうです。そのため、縄文時代には、形質を大きく変化させるような他地域からの人的流入はなかった、と考えられています。それでも、やはり地域差はあり、北海道では地位内の差異が比較的大きい一方で、九州では小さいことが明らかになっており、縄文人の形成過程と関わっているかもしれません。

 縄文時代には定住が進みましたが、その度合いは地域により異なっており、その要因は依存していた食資源の違いだろう、と推測されています。縄文時代の農耕は近年よく主張されるようになりましたが、畑はまだ見つかっておらず、ダイズやアズキなどの作物が確定しただけだ、と本書は慎重な姿勢を示しています。縄文時代には、後期において、墓の分析から、北海道や東北でかなりの階層化が生じていた、と推測されています。しかし本書は、晩期にはこれらの地域で均質化が見られることから、おそらくは人口の少なさが要因で、階層社会は持続しなかっただろう、と指摘しています。

 弥生時代については、本書では紀元前10世紀にさかのぼるとする早期説が大前提となっていますが、まだ議論が決着したとは言えないようです

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_1.html


茨城県と栃木県以北では、水田稲作が行なわれても環濠集落が見られませんが、本書はその理由を、地域の核となる存在がなかったからではないか、と推測しています。水田稲作は、災害にあってもすぐに再開する傾向が強いのですが、東北の北部では、水田稲作が途絶えて数百年再開されませんでした。本書はその理由として、寒冷な気候が要因ではなく、東北の北部には水田稲作が始まっても土偶があることから、何らかの信仰形態・世界観の違いを挙げています。本書では古墳時代についても少し言及されており、九州や近畿では墳丘墓が早くから見られるものの、紀元後には衰退して古墳時代には直結しておらず、古墳時代の直接の起源は、紀元後2世紀半ば〜後半にかけての吉備や出雲にあるのではないか、との見解が提示されています。
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


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34. 中川隆[-13640] koaQ7Jey 2018年9月03日 19:42:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18211] 報告

諸説あり・縄文人はどこから来たのか=北方説・南方説 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6gnb0k

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35. 中川隆[-13627] koaQ7Jey 2018年9月04日 14:59:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18223] 報告

最もネアンデルタールに近いのは日本人? 免疫システムに残る人類の歴史 2016/02/22
http://sciencenews.co.jp/2016/02/22/post-1042/


多くの人を悩ます花粉症。その原因は免疫システムの暴走だが、免疫システムの一部がネアンデルタールからの「プレゼント」だと判明した。


免疫に重要な役割をもつTLRの遺伝子


花粉症対策にかかる費用もバカにならないが……


 とうとう今年も花粉症の「季節」がはじまった。2月にはいると首都圏でもスギ花粉が観測されはじめ、ドラッグストアでは対策商品の陳列に余念がない。

 花粉症を含めたアレルギーは、もともと体に侵入した細菌やウィルスなどから体を守る免疫システムが過剰に反応しておこる。

 花粉症も大変だが、生物が生きていくには欠かせないシステムである。この免疫に関わるいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったと今年の1月に明らかになった。

 遺伝学の科学誌「The American Journal of Human Genetics」で独の研究チームが発表した。日本人の遺伝子の中にネアンデルタール人が「潜んで」いる。

ヒトはネアンデルタール人を滅ばして今の繁栄を築いた。独・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームは現代人の遺伝子の中に、ネンデルタール人やデニソワ人との交配によって残り続けている「彼ら」の遺伝子をさがしていた。

 人類の進化でエポックメイキングな最近の発見といえば、ヒトが絶滅させたと考えられているネアンデルタール人と人間が交配していたことと第3の人類デニソワ人の発見だ。

 この3種は50万年前に共通祖先から分かれたと考えられ、ネアンデルタール人はヒトより数十万年前にアフリカを出て主にヨーロッパに広がった。

 研究チームが目をつけたのがTLRの遺伝子。これまでの研究データもとにピックアップした。TLR(Toll Like Receptor)は細胞の表面にニョキニョキと生えているタンパク質。免疫で非常に重要な役割を果たす。

 体を外敵から守るには、まず外敵の侵入を関知しなくてはならない。この防犯センサーの役割を担うのがTLRというタンパク質なのだ。

 体内に侵入した細菌や菌類、寄生虫の一部がこのTLRにくっつくとセンサーが作動し、外敵をやっつける細胞が集まったりと、さまざまな免疫システムが動く仕組みだ。

ネアンデルタール人の遺伝子を最も多く持つ日本人


ネアンデルタール人
我々日本人のご先祖さまである


 複数あるTLRのうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接している。ネンデルタール人やデニソワ人の3つのTLRを含む領域を現代人と比較する。

 ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14集団のこの領域を調べると7つのタイプに分類された。このうち2つがネンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明する。

 理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しない。

 調べると、確かにアフリカ人にはネンデルタール人由来のTLRを含む領域がほとんどみられなかった。

 このように、現代人のTLRを含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較してネンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めた。

 そして、機能が非常に重要性なので、数万年という自然選択を受けてもほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えた。

 実はこのネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を最も多く持つのが日本人。どの集団よりも高く、約51%が持っていた。

 花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではないが、免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、内なるネアンデルタール人を思うことで少しは症状が軽くなるかもしれない(そんなことはありません)。

取材・文 山下 祐司


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2017-01-04 ネアンデルタール人 日本人について
http://www.m-a-p-s.biz/entry/neanderutarujinnihonjin


ネアンデルタール人と 日本人について書いてみました。私たちが生きていくためには欠かせないシステムである免疫のいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったことが明らかになりました。

最もネアンデルタールに近いのは日本人?免疫システムに残る人類の歴史

日本人の遺伝子の中にはネアンデルタール人が「潜んで」いる。

今年もしばらくすると2月に入り、暖かい地域ではスギの花粉が観測されはじめ、薬局やコンビニでも花粉対策商品の陳列に大忙しになる事と思います。

しかし、この花粉症を含めたアレルギー反応というのは、体内に侵入した細菌やウィルスなどから体を守るための免疫システムが過剰に反応して起きているといわれています。


この私たちが生きていくためには絶対に欠かすことのできない大切なシステムである免疫。この免疫に関わるいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったことが明らかになりました。


遺伝学の科学雑誌「The American Journal of Human Genetics」でドイツの研究チームが『日本人の遺伝子の中にネアンデルタール人が「潜んで」いる』と発表し話題になっています。

ヒトはネアンデルタール人を滅ぼして今の繁栄を築いた

ドイツ・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームは研究で、現代人の遺伝子の中に

、ネンデルタール人やデニソワ人との交配によって残り続けている「彼ら」の遺伝子をさがしていました。

人類の進化において少しショッキングな近頃の発見といえば、ヒトが絶滅させたと考えられているネアンデルタール人と人間が実は交配をしていたとされる事実と第3の人類デニソワ人の発見でした。

この3種は50万年前に共通祖先から分かれたと考えられ、ネアンデルタール人はヒトより数十万年前にアフリカを出て主にヨーロッパに広がったとしています。

研究チームが目をつけたのがTLRの遺伝子で、これまでの研究データをもとにピックアップすると、TLR(Toll Like Receptor)遺伝子は細胞の表面にニョキニョキと生えているタンパク質のことで人間の免疫システムの中で非常に重要な役割を果たしています。

体を外敵から守る為には、まず外敵の侵入を関知しなくてはなりません。この時この防犯センサーの役割を担うのがTLR遺伝子というタンパク質なのだそうです。

体内に侵入した細菌や菌類、寄生虫の一部がこのTLR遺伝子にくっつくと体内のセンサーが発動し、外敵に攻撃をしかける細胞が集まったりと、さまざまな免疫のシステムが動く仕組みになっています。

複数あるTLR遺伝子のうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接しており、ネアンデルタール人やデニソワ人の3つのTLR遺伝子を含む領域を現代人と比較してみたそうです。

ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14の集団のこの領域を調べてみると7つのタイプに分類され、このうち2つがネアンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明します。

理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しいていませんでした。

これを調べたら、確かにアフリカ人にはネアンデルタール人由来のTLR遺伝子を含む領域はほとんどみられませんでした。このように、現代人のTLR遺伝子を含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較してネアンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めたのです。

そして、機能が非常に重要なので、数万年という自然選択を受けてもほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えたようです。

実はこのネアンデルタール人由来のTLR1遺伝子とTLR6遺伝子、TLR10遺伝子の3つの遺伝子を最も多く持つのが私たち日本人で、どの集団よりも高く、約51%が持っていたそうです。


花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではありませんが、免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、私たちの祖先である、内なるネアンデルタール人のことを意識してみるのも、たまにはいいのかもしれません。
http://www.m-a-p-s.biz/entry/neanderutarujinnihonjin


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日本人はネアンデルタール系種族の生き残り? - ねずさんのひとりごと? 2017年08月31日
https://ameblo.jp/aoiwasi-k135/entry-12306382775.html
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3498.html?sp


なんだか大上段に振りかぶったようなタイトルになってしまいましたが、要するに言いたいのは、「7万年前からが現生人類」というのは「白人種視点での人類史」だということです。

有色人種視点で考えると、特に日本人などは25万年前に生まれた新人類種(ネアンデルタール系)の生き残りからの進化と考えなければ、遺跡の辻褄が合わなくなるのです。


年表

猿人が出現したのがおよそ600万年前、ネアンデルタール系等の新人類種が出現したのが、およそ25万年前といわれています。

この時代の人類は、火や石器を使うネアンデルタール種を筆頭に、猿人から現在の人類に近いものまで、かなり多様な種族があったようです。

ところがおよそ7万年〜7万5千年前に、インドネシアのスマトラ島にある「トバ火山」が大噴火を起こします。
この噴火は地球史上に残る大噴火で、噴煙は世界に広がって、地球気温は年平均で5℃も低下しました。

年平均気温というのは、1℃違うだけで、鹿児島と仙台の気象が入れ替わります。
それが5℃違うということは、日本がアラスカのような気候になり、赤道直下の気候が北海道から樺太にかけての気候になるということです。
これはものすごい変化です。

当然影響はすさまじくて、このとき地球上の人口は、およそ1,000〜10,000人程度にまで減少したといわれています。

地球はひとつの生命体に例えられますが、その地球が怒ると本当に怖いです。
そしてこの大災害を生き残ったごくわずかな人類が進化して、現代人になったとされています。

これを「ボトルネック効果」といいます。
多様な進化を遂げていた種が、急激な個体数の減少によって遺伝的な多様性を失ない、わずかに生き残った種が、その後繁栄して現代の種になっているわけです。

このことは比較的近いこの千年ほどの時代の中にあって、民族的特徴が極めて似通って細目、エラ、耳などの身体的特徴が極めて似通った民族があることでも理解いただけると思います。

こちらは一国の中における社会体制が原因ですが、トパの噴火のときには、これが地球的な規模で起きたわけです。

おもしろいことに、このときのトパ噴火後、ヒトに寄生するシラミもまた、この時期に変種が生まれています。

毛髪に寄宿する毛ジラミと、衣服に寄宿する衣ジラミで、近年の遺伝子の研究によって、この2種が分化したのも、およそ7万年前とわかりました。

このことは、トバの噴火後、急速に寒冷化した地球を生き残るために、人類が衣服を着用するようになったことを示しています。

トバの大噴火によって起こされた地球の寒冷化は、その後約5万年続きました。
その5万年が、地球上の最終氷河期と呼ばれる期間です。
その終わり頃のおよそ1万8千年前、地球気温は最低のレベルにまで冷え込みました。

その理由が姶良カルデラ(あいらカルデラ)の破局噴火です。
これは日本で起こっています。

鹿児島湾には、入り口付近に桜島があり、その内側は、およそ直径20kmの窪地を構成しているのですが、これが姶良カルデラです。
つまり桜島が活火山なのではなくて、鹿児島湾自体が巨大な噴火口だったわけです。

このときの噴火による火山灰は、南九州では30メートル、高知県宿毛で20メートル、鳥取県大山付近で8メートル、京都にも4メートルも降り積もっています。
そして偏西風に乗って世界各地に甚大な被害をもたらしています。
そしてこれによって、地球気温は急激に寒冷化するわけです。

ちなみに火山の噴火というのは、単に火山灰が太陽を隠して寒冷化をもたらすというだけにとどまりません。

火山灰に含まれるガラス成分が肺に入って突き刺さり、アスベストと同じ肺気腫や心不全などの健康被害をもたらして人を死に至らしめます。

実は近年、南九州で、この火山灰層の下から、縄文時代の大集落跡が次々と発見されています。

そこでは世界最古の船造りのための工具や、燻製施設、金属を加工するための炉、縄文ではなく貝殼紋の土器などの遺物遺構が続々と発掘されています。
この人たちは、遺物の状況からみて、造船のみならず、金属加工まで行っていたわけで、極めて高い文化を持った人々であったことがわかります。
しかも彼らは海洋族です。

海洋族であったということは、海を移動する人々でもあったということです。

さて日本列島には、この姶良カルデラ(あいらカルデラ)の破局噴火よりも1万2千年古い、およそ3万年前の世界最古の磨製石器が関東で発掘されています。
場所は栃木県の岩宿遺跡です。

さらに島根県の出雲にある砂原遺跡からは、およそ12万年前の石器が発掘されています。

これはトパの噴火よりも古い時代の遺物ですが、現生人類の誕生が7万年前とすると、砂原遺跡の石器は、現生人類ではない旧人類(新人)の遺物ということになります。

一方、その人々がそのまま日本列島に生き残ったのであろうことは、近年の研究成果で日本人のDNAに、ネアンデルタール系のゲノムが世界で最も多く残されていることで証明されています。

これは昨年、西ドイツの研究チームが発表したことです。

つまり日本人はネアンデルタール系の旧人類が、現生人類と7万年の歳月をかけてゆるやかに結合していくことで現代日本人につながっている種といえるわけです。

日本列島で石器を遺した人々は、7万年前のトパの噴火で多くの命が失われ、また3万年前の姶良の噴火でも、やはり多くの人命を失ったことでしょう。
ところが姶良カルデラの噴火後、およそ千年の間に、地球気温はいまよりもずっと上昇します。

そしていまから1万6500年前には、青森で最古の土器が発掘されています。
なぜ青森なのかといえば、その頃の地球気温がいまよりもずっと高かったからです。

そして姶良カルデラの噴火以降の遺跡は、九州地区から山陰、畿内、関東、東北へと広がりを持ちます。

この時期の日本列島は、寒冷化と温暖化が数百年単位で変化しています。
このことは、たとえば森の木々にしても、森が針葉樹林になったり、広葉樹林に変化したりしているわけです。

このことは、人々の生活環境を劇的に変えていくことを意味します。
そうした環境変化を生き延びようとすれば、当然、着衣や道具類を進化させていかなければならなくなります。

また、人は移動できる動物です。
寒冷化が進めば南へと移動し、温暖化が進めば北へと移動します。

ここでヒントになるのが、海洋族であったという切り口です。
海の魚には様々な種類がありますが、魚たちはわずかな海温の変化で、その生息地を変化させます。

最近でも、ほんの30年前には御前崎あたりで捕れていたイシモチが、いまは東京湾くらいまで北上しています。

食用には様々な魚が供されたでしょうけれど、比較的漁がしやすく、食用に量も確保しやすい魚が移動すれば、いまのような土地の所有権などなかった時代のことですから、人々は、魚とともに北上したり、南下したりを繰り返したことと思われます。

また、よりたくさんの魚を得るためには、船造りや釣り針などに常に工夫が必要です。
ここにも知恵が必要になります。

海洋族というのは、海を利用して頻繁な往来を行います。
姶良の噴火のような自然災害がいつ起こるかわからないという中にあっては、子孫たちは、地域的に離れて住むことが行われたことでしょう。

このことは古事記の中にあっても、国産み神話の中で、人々(子孫)が全国各地に広がっていった様子として描かれています。

なぜならそうしなければ、変化する環境を生き残れないからです。
ずっと寒冷のまま、ずっと温暖のままであれば、そのような知恵は必要ないかもしれません。

けれど生活環境が劇的に変化する環境のなかにあっては、子孫の生活拠点をどこに置くかは、とても重要なことです。

さて、3年前の2014年のことですが、現生人類とネアンデルタール人は、6万年前くらいから混血してきたのではないかという説が発表されました。
翌年には、米国の研究チームがDNAの研究によって、鬱病や気分障害や依存症などの精神疾患は、ネアンデルタール人由来のものであるという発表を行っています。
そして上にも書きましたが、昨年には西ドイツの研究チームが、世界でもっともネアンデルタール系のDNAを保持しているのが日本人だという研究成果を発表しています。

これらを総合して考えるとき、日本人は大陸から朝鮮半島を経由して日本列島に住み着いたという説は賛成しかねるものとなります。
なぜなら、いまでもそうですが、いわゆる文明というものは、河川と海の交わる平野部で興っているからです。

人類が内陸部でも生活するようになるのは、ずっと後の時代の、農耕が営まれるようになったおよそ1万年前からのことです。

それ以前は、狩猟採集生活なのですが、いまでも都市の多くが海に面していることが示すように、狩猟だけでなく、海洋や河川からの漁労が人々の生活に欠かせないものであったことは、論ずるまでもないことであると思います。
モスクワは地図上では内陸部ですが、そこはいわゆる水郷地帯です。
北京や南京は内陸部ですが、やはり河川に囲まれた平野部にあります。

人は食べなければ生きていけません。
そして人が生活したのは、その食べ物を得やすいところであったであろうということは、容易に想像できることです。

そしてその食べ物は、野山と海や川にあります。

ということは、森があり、海にも川にも近くて、その川がいわゆる暴れ川ではないところが、人々の生活の場所になったであろうことは論をまたないことです。
実際、縄文時代の遺跡である貝塚は、いずれも海に近い所にあります。

そうであるとするならば、人は海の近くに住み着いて進化したはずであって、山や砂漠地帯での生活を何万年もの長い間送ったとは考えられないし、そのような生活であったと証明する遺跡もありません。

そもそもサルとヒトとを分ける最も大きな特徴は、尻尾と体毛の有無にあります。
尻尾は四足歩行をする際に、頭部の重さとのバランスをとるためのものですから、二足歩行するようになると尻尾は必要がなくなります。

また体毛は、哺乳類が森で生活するのにあたって、肌を守るために絶対に必要な条件です。

ところがヒトの体毛は、サルよりもはるかに薄い。
そして海に住む哺乳類では、繁殖を陸上で行うアザラシ、トド、アシカ類には密生した体毛がありますが、それ以外のジュゴン、クジラ、イルカ等には体毛はありません。

つまり、海に近い所で生活するようになったサルが、体毛を退化させてヒトに進化したと考えられるのです。

このことから導き出されることは、ヒトは、海岸付近で生活し、その後、文明を発達させて、草木や虫などから身を守る衣類を用いるようになってから内陸部へと、その生息圏を広げていったということです。

そしてシラミの研究から、ヒトがおよそ7万年前から衣類を用いるようになったということは、人が内陸部に生活拠点を求めるようになったのは、早くても3万年以降のことだし、農耕の始まりが1万年前からだということは、それ以前の人々は主として海洋や大型河川から食を得ていたということができます。

そしてそのことは各地の旧石器、新石器の遺跡の所在地がこれを証明しています。

さらに最終氷河期のピークにあたる1万8千年前といえば、海面がいまよりも140メートルも低かった時代です。
これは、いま大陸棚となっているところは、ほとんど海上に顔を出した陸地であったことを意味します。

黄海から東シナ海、南シナ海、タイランド湾からジャワ海に至る一帯は、実は陸上であったわけです。

そして日本列島は、それら張り出した大陸棚の最東端の海に面した地域でした。

要するにこの時代の人々は、海に面した(つまりいまでいう大陸棚の端)あたりに住んでいたわけで、これがその後の温暖化による海面上昇によって、住んでいた地域が水没し、分断されて行ったと考えられるわけです。
日本列島や琉球諸島から、旧石器が出土するのはこのためで、その時代から海に面していて、水没をまぬがれた地域であるからといえるわけです。

つまり日本列島に住む人々は、大陸や朝鮮半島から「やってきた」のではなくて、日本列島に住んでいた人々はそのままに、海面の上昇に従って住む土地を奪われた人々が、およそ1万年の歳月をかけて次第に支那大陸や朝鮮半島などに「追われていった」のです。

こうした人類史というのは、まだまだわからないことだらけの世界です。
ただひとついえることは、古い人種であるネアンデルタール系の人々は、サル同然の姿形や生活をしていたわけではなく、死者を埋葬するに際して、棺に花をいっぱい入れたり(このことは遺跡によって証明されています)、石器や船つくりや、金属加工まで行う一定の文化水準を持った、まさに知恵のある人(ホモ・サピエンス)であったということです。

そしてトパの大噴火後、現生人類が誕生し、ネアンデルタール系はおよそ2万年前には滅んだとされていますが、どっこいそうではなくて、トパの噴火後も、実はユーラシア大陸の東のはずれにも、大噴火を生き残ったネアンデルタール系の人々がいたわけです。

そして海洋族として人口を増やしていくのですが、地球の温暖化によって島と大陸に分断されていき、大陸側の人々は、好戦的な現生人類種によって次々に殺され、あるいは強姦されて血が混じり、ネアンデルタール系の痕跡がわずかしか残っていないという状況になっていき、一方、海に隔てられた日本や琉球諸島、あるいは南太平洋の島々の人々は、その後7万年の歳月をかけて、現生人類とゆるやかに交配を重ねていって、現在に至っているのではないかと思われるわけです。

実はこのことは、古事記を読むと、どうやらそれらしいことが書かれていることに驚かされます。

国産み神話や神生み神話に述べられている神々のお名前に使われている漢字を紐解いていくと、どうやらそれらしいことが書かれているとしか思えないのです。

たとえば伊耶那岐、伊耶那美の生んだ最初の子である水蛭子(ひるこ)は、海に流したと書かれていますが、これはもしかしたら何万年もの昔に水没して失われた、かつて住んでいた陸地のことであるようにも読めるのです。

火之迦具土神の神語は、その後にあった大きな火山の噴火を意味しているようにも読めてしまいます。

しかし、最近の様々な地球史、人類史は、次第に古事記に書かれた神語の真の意味を解き明かしつつあるような気がしてならないのです。
https://ameblo.jp/aoiwasi-k135/entry-12306382775.html


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36. 中川隆[-13648] koaQ7Jey 2018年9月09日 18:51:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18400] 報告

NHKスペシャル 人類誕生 第1集「こうしてヒトが生まれた」2018.04.09 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6hiqkk

NHK スペシャル 人類誕生 第2集「最強ライバルとの出会い そして別れ」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%80%8C%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%80%8D%EF%BC%92

NHK スペシャル 人類誕生 第3集「ホモ・サピエンス ついに日本へ!」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%80%8C%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%80%8D3


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37. 中川隆[-13562] koaQ7Jey 2018年9月20日 05:56:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18649] 報告


なぜ世界最古の土器が日本列島から出土するのか? 2018/09/02
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201809/article_1.html


 1万年以上も自然と共生し、平和が続いた縄文時代は「文明先進国がどこも体験することのできなかった貴重な時間」だった。

■1.日本列島から出土した世界最古の土器の一つ

 東京・上野の国立博物館での縄文展を見た。大変な人気である。特に中国やメソポタミアなどの土器との比較もできるようになっていて、縄文時代の火炎土器は年代もはるかに古いのに、立体的な造形美は比較にならないほど美しかった。また、細かい縄紋、すなわち縄目の模様の精巧さにも驚かされた。

 現在、世界最古と考えられている土器の一つが、青森県大平山元(おおだいらやまもと)遺跡から出土したもので約1万6500年前。これは模様のない無文土器だが、約1万4500年前ごろには、粘土ひもをはりつけた「隆線文土器」が生まれ、全国に広がっている。

 世界の他の地域では、南アジア、西アジア、アフリカでの最古は約9千年前、ヨーロッパが約8500年前で、これらに比べると、飛び抜けて古い。岡村道雄・元文化庁主任文化財調査官は、日本列島の土器は「質量ともに世界の他の時代や地域のものとくらべても際立っている」と述べている。[1, p53]

 従来の歴史では、メソポタミア、エジプト、インダス、中国が世界の「4大文明」であり、日本は文明を中国から教わった後進地域だった、と教わった。近年の考古学はその歴史観を覆しつつある。しかし、なぜユーラシア大陸の東端にある日本列島で、世界最古の土器が出てくるのだろうか?

■2.縄文人たちの「持続可能な開発」

 従来の文明観では、石器時代の人類は狩猟・採集による移動生活を送っていたが、約1万2千年前くらいから、世界の各地で農耕と牧畜を始めてようやく定住生活ができるようになり、そこから文明が始まったというものだった。

 この文明観から完全にはみ出しているのが、1万5千年前くらいから始まった日本の縄文時代だった。そこで我々の先人たちは狩猟や採集のまま定住生活を始めたのである。

 日本列島を巡る海では寒流と暖流がぶつかり合って世界有数の漁場をなし、豊かな森林からは木の実やキノコなどがとれた。さらにイノシシやシカ、ウサギなどの動物も豊富だった。こうした自然の恵みで、縄文人は農耕や牧畜をしなくとも、四季折々の豊かな食物に恵まれていたのである。

 一般に、農耕・牧畜は狩猟・採集よりは進んだ文明段階であると考えられているが、メソポタミア、エジプト、インダス、中国の黄河流域がみな砂漠化している事を考えれば、農耕・牧畜が自然破壊を伴っていることがよく分かる。

 森を切り開いて畑にすれば、樹木がなくなってやがて表面の土壌が失われてしまう(水田は別だが)。牧畜でも家畜が草の芽まで食べてしまうので、植生が失われ、土壌が劣化する。それに比べれば、縄文人たちは1万年以上もこの日本列島で暮らし、しかも豊かな自然を残してくれたのである。

 近年、国連が「持続可能な開発」(Sustainable Development) という概念を打ち出したが、縄文人たちの生活はまさにそのお手本なのである。


■3.数百種類の食材を、旬を考えながら採っていた

 縄文人たちは自然の恵みをただ受けとっていたのではない。それぞれの品目ごとに「旬」を知って採っていたようだ。

 シジミやハマグリは貝の断面の成長線を調べると、全体の70%は4月から6月にかけて食べていたことが分かった。現代の潮干狩りと同様で、この時期がもっとも脂がのっているからである。同じくイワシ、ニシンも春に盛りを迎える。夏はアジ、サバ、クロダイ、秋はサケ、ブリ等々。同時にクリ、クルミ、シイ、トチなどの木の実のシーズンとなる。

 冬になると、脂肪を蓄えたキジ、ヤマドリ、カモ、イノシシ、シカ狩り。年を越すとワラビ、クズ、セリ、ゼンマイなどの若葉、若芽が採れる。縄文遺跡の食料の残滓から獣60種類以上、魚70種類以上、貝350種類以上が遺されている。これに木の実や野菜、果物、キノコなどが加わる。[2, 963]

 今日の日本料理が多種多様な食材を、それも「旬」を考えて出すのは世界の料理の中でもユニークな特色だが、それは縄文時代から続いている伝統だろう。

 この数百種類の食材に対して、どれが食べられるのか、どこで採れるのか、いつが旬なのか、どう料理するのかを縄文人たちは考えながら、食べていた。一口に狩猟・採集とは言っても、麦だけを植え、牛だけを育てる農耕・牧畜よりは、複雑な知識を使っていたのである。


■4.定住と知識・技術の進化

 縄文人の食の多様性をさらに大きく広げたのが土器だった。土器による煮炊きによって、木の実のアクを抜き、植物の根や茎を柔らかくして食べやすくし、魚や獣の肉の腐敗を防げるようになった。土器は保存容器としても、通気性や通水性によって表面の水分が気化して低温を保つので、食物の長期間保存を可能とした。

 縄文人たちは定住することで、大きな重い土器を作り、使う事ができるようになった。一定の場所から粘土を見つけ、それを形にし、火で焼くという作業は定住していなければできない。

 また、定住生活では身体の弱ったお年寄りも脱落することなく、その経験や知識を次の世代に伝える事ができる。それによって様々な食材を食べられるかどうか判別し、いつどこで採ったら良いかを考える、という知識と経験の積み重ねが容易になった。土器の発達も、定住生活ができるようになったから加速しただろう。

 定住が土器を発達させ、食材に関する知識を蓄積できるようにした。逆に土器と食材に関する知識が定住を可能とさせた。この定住と技術・知識の蓄積は、車の両輪として暮らしの進歩をもたらしたようだ。


■5.縄文人の円の思想

 こうして自然の中に抱かれて暮らしていた縄文人の世界観は、また独特のものがあった。それを明治学院大学・武光誠教授は「円の思想」と表現している。「自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している」という世界観である。

__________
 夏が終われば秋の山野の恵みが、冬が終われば春の食物が現れる。縄文人は、人間とは、このような終わりのない自然界の恵みによって生かされている存在なのだと考えた。[3, p26]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 獣も魚も貝も木も草も、生きとし生けるものはすべて精霊が宿っている。人間もその一部である。その精霊の命を少しだけ戴いて自分たちは生かされている。その無限の命の循環の中に自分たちは暮らしている。とすれば、魚を取り尽くしたり、獣を小さいうちに食べてしまうなどということは、縄文人にとっては許されない行為であった。

 森を切り払って畑にしたり、牛のための牧草地にしてしまう農耕・牧畜の民よりも、はるかにエコロジカルな世界観である。1万年以上もの間、自然と共生してきた生活の基盤には、こういう生命観があった。

 自然に抱かれた縄文人たちは「自然との共感共鳴」をしていて、それが日本語の中にも残っていると小林達雄・國學院大學名誉教授は指摘する。日本語は擬音語、擬声語が豊かなのが特徴だ。川が「さらさら」流れる、風が「そよそよ」吹く、などである。小林教授はこう語る。

__________
 風が「そよそよ」吹くというのがありますが、あれは風が吹いて、音を立てているのではない。ささやいているのです。
 どういうことかと言うと、音を、聞き耳を立ててキャッチしているのではなく、自然が発する声を聞いているのです。音ではなくて「声」です。・・・[4, 1271]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 縄文人は、人間同士で互いに語り合うように、自然の「声」にも聞き入っていたのである。


■6.すべての人が平等だった環状集落

 人間が自然の円の中で生かされているとすれば、人間同士もその円の中で、生まれ、育ち、年老い、そして子孫を残して死んでいくものであった。そこには階級分化もありえず、すべての人間は平等だった。

 縄文人は集落の中心に円形の広場を作り、そこで自然を司る精霊を祀った。そして、その周りに竪穴住居を円の形に配置した。どの家も神聖な広場からは等距離である。このような「環状集落」は5千年前頃から、東北地方から中部地方まで広い範囲で作られた。

 後に神社ができると、その祭りで、歌や踊りに興じたり、神輿(みこし)とともに練り歩いたりするようになったが、縄文時代から同様の祭りがあっただろう。特に盆踊りは「円」を作って、一緒に回る。こうして、みんなで一緒に楽しむと共に、精霊たちを喜ばせた。

 人間が明るく楽しく過ごすことが、精霊に活力を与えて元気にする最も大切なこととされた。特に縁ある男女が結ばれて、明るい気持ちで仲良く過ごし、多くの子供をつくる事を縁産霊(えんむすび)と呼び、人々は夫婦になった二人を祝福して、賑やかな婚礼を開いた。「円」は「縁」でもある。


■7.「旅」と「まれ人」

 縄文時代には各地の集落間で広域の交易が行われていた。新潟県糸魚川市の山中で上質なヒスイが採れるところがあるが、このヒスイを用いた勾玉(まがたま)の祭器が日本全国から出土している。

 また、秋田、山形、新潟の油田地帯では、石油が地上に染み出してできたアスファルトが採れる。このアスファルトは、石の矢尻(やじり)を矢柄の先端にくっつけたり、壊れた土器を修理する接着剤として使われるが、これらアスファルトを使った出土品が北海道南端から、東北地方全域、北陸地方に及ぶ広い範囲で見つかっている。

 こうした交易がどのようになされたのか。たとえば青森の三内丸山の集落で祭りにヒスイが必要となると、集落の中から選ばれた勇者たちがヒスイの採れる新潟の糸魚川近辺まで出かけていく。そういう旅人が来くと、糸魚川の住民は快く場所を教えてやる。すべての自然物は精霊の恵みなので、彼らが独占すべきものではないからだ。

 武光教授は、これが「旅」の始まりだと指摘する。「旅」とは「賜(た)べ」、すなわち「何かを下さい」という言葉から出た。自分が欲しい物がある所に行って、そこの集落に「何々を賜(た)べ(ください)」とお願いする行為が旅だった。

 旅人たちは、糸魚川の住民に自分たちの集落の話をする。そこから、自分の集落から何か、お返しに持ってこられる物を知る。そして、次回、ヒスイを求めてまた旅人がやって来る時には、それを贈り物として持参するのである。

 こうして旅人は、貴重な情報や贈り物をもってきてくれる「まれにしか来ることのない大切な客人」と歓迎された。これが「まれ人」の語源である。

 縄文時代には、このように全国の村落が交易、交流、友好のネットワークで結ばれていた。これも「円の思想」の表れであろう。


■8.日本人のユニークな経験

 縄文時代の代表的な遺跡、三内丸山遺跡に関して、自由社版の中学歴史教科書は次のように述べている。

__________
 1万年以上にわたる縄文時代の大きな特徴は、遺跡から戦争の武器が出土しないことです。三内丸山のような巨大遺跡からでさえ、動物を狩るための弓矢や槍はありましたが、武器は見つかりませんでした。おたがいが助け合う和の社会が維持され、精神的な豊かさを持ち合わせた社会であったと考えられます。
私たちの祖先である縄文の人々は、「和の文明」とも呼べるこのようなおだやかな社会を築いていたのです。[5, p33]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 土地もヒスイも魚も、すべて自然の恵みと考えれば、そこには私有財産という概念は生じ得なかったろう。そして、その自然の恵みを人々が感謝しつつ、使いすぎないように注意深く使っている社会では、争いは生まれない。

 一方、農耕社会では、自分が汗水垂らして耕して作った畑は自分のものだ、という意識が生ずる。その土地を増やそうとすると、土地を巡って隣人と争いが生ずる。

 北米のインディアンは縄文人と同様の精神を持っていたようだ。イギリスからの移住者たちが辿り着いた時、彼らは「まれ人」として温かく迎えた。しかし、その移住者たちは土地を自分たちの財産と主張して、インディアンを駆逐し始める。インディアンたちは、自然の精霊が与えてくれた大地を、なぜ特定の人間が自分の所有物だと主張するのか、理解できなかった。

 農業・牧畜を始めた人間は、自然環境を破壊し、土地を巡って争うようになった。そこから継承された環境破壊と戦争が、現代社会にも大きな危機をもたらしている。その一方で「円の思想」を継承した日本文化は和を大切にし、環境との共存共栄を実現している。小林教授は次のように結論づけている。

__________
 日本列島で農耕が始まるまでの1万年以上も続いた自然との共生の体験の中で縄文世界観が醸成され、日本人的心の基盤が形成されていったと言えます。それは、文明先進国がどこも体験することのできなかった貴重な時間だったとも言えます。[4, 1317]
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 そのような世界でもユニークな1万年以上もの時間を経験した我々は、そこで学んだ事を世界に示していく責務がある。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 「いのちの結び−現代科学と日本文明」、伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
『世界が称賛する 日本人の知らない日本』によせられたカスタマー・レビュー 計111件、5つ星のうち4.9

■★★★★★ 若い人々に薦めます(boyさん)

グローバリズムの風潮が席巻する昨今、カネ、モノ、ヒトが国境を越えて動いている。

必然的に他国の文化と出会う機会も多くなるが、自国の文化に対して我々はどれだけ他国の人々に語ることができるだろうか。

他国の文化に対してあこがれはあっても、自国の文化を語ることができなければ自分のよって立つ場所はないだろう。

また根拠のない自国への貶めなど、なかなか日本人として自信を持つ根拠を知る機会は多くない。

そうした状況の中でこの本を読むと先人がどれだけ努力をしてきたのか、また昔の国際環境の中で先進的な働きをしたのかがわかる。
多くの人、特に若い人に読んでもらいたい本である。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.『日本の歴史01 縄文の生活誌』★★、講談社学術文庫、H20
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/406291901X/japanontheg01-22/

2. 上田篤『縄文人に学ぶ』★★★、新潮新書、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B00GQQU048/japanontheg01-22/

3. 武光誠『日本人なら知っておきたい日本』★★★、育鵬社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594080510/japanontheg01-22/

4.小林達雄『縄文文化が日本人の未来を拓く【電子特別版】』★★★、徳間書店、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/07FDTD9TV/japanontheg01-22/

5. 『中学社会新しい歴史教科書 新版 [平成28年度採用] 』★★★、自由社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237826/japanontheg01-22/


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38. 中川隆[-13563] koaQ7Jey 2018年9月20日 06:37:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18655] 報告

東京・上野の国立博物館 縄文展 縄文時代の火炎土器
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/001/519/71/N000/000/003/153584032760948840177.jpg

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理
39. 中川隆[-13420] koaQ7Jey 2018年11月05日 04:08:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19978] 報告

アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書) – 2016/2/8
瀬川 拓郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87-%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%80%AC%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E9%83%8E/dp/4480068732


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
 


日本人や日本文化が世界で最近、注目されている。
理由や現象は敢えて並べないが、一言で表せば思考方法や行動、言語等が人類の本源的、源流的であるという点。裏返せば独自的、孤立的、世界中に広がった他の地域、人類との類似が少ないという点ではないだろうか。

最近の研究で言語学的にも遺伝子的にもそれは証明されてきており、人種の孤島として縄文人、アイヌ人の事を書いた著書の一説を紹介したい。

「アイヌと縄文」〜瀬川拓郎著
>「人種の孤島」としての縄文とアイヌ

本土人、琉球人、アイヌの遺伝的多様性の分布を見ると、それらは他の東アジア人や、ヨーロッパ人と混血した中央アジアの人々(ウイグル人、ヤクート人)のまとまりとは反対の方向に分布しています。

 現代の本土人、琉球人、アイヌは直線状にならび、この順でアジアの人々から離れていきます。直線の延長上にはかれらの共通祖先である縄文人が想定できます。つまり本土人、琉球人、アイヌのDNAを特異な方向に「引っ張って」いるのは縄文人であり、そのことは縄文人が現代のどの人類集団とも大きく異なる特徴を持っていたことを物語っているのです。

縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように嚙み合い、彫が深く、鼻が高いといった形質的な特徴をもっていました。これはアイヌにも共通します。そのアイヌは形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、1960年代に総合調査が行われ、歯冠の形などから本土と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論付けらました。

ただし、先のアイヌの特徴は一般的なモンゴロイドとは異なるものです。一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです。

つまり、私たちが常識のようにみなしているアイヌ=モンゴロイド説は学界で完全に受け入れられているわけではありません。形質人類学者の百々幸雄はアイヌがどの人類集団とも異なる、現生人類という大海に浮かぶ「人類の孤島」であるとし、アイヌと縄文人は「出アフリカ」をはたした現世人類が、ヨーロッパ人とアジア人に分化する以前の状態を保っているのではないかと述べています。(百々2007年)
このこととかかわって興味深いのは、同学者の山口敏が旧人のネアンデルタール人のあとに出現した、化石現生人類のクロマニョン人と縄文人の類似性を指摘し、縄文人の形態的特徴は、現生人類のなかの古層に属すると見なされている事です。

 日本列島の縄文人は北海道から沖縄まで形質的な共通性をみせています。かれらは地域性がはっきり認められず、均質な形態をもつ人々でした。つまり縄文時代の日本列島には、アイヌにうかがわれるような「モンゴロイド離れ」した人々が暮らしていたのです。

1万年以上続いた縄文時代には、日本列島をとりまく朝鮮半島、中国、台湾、サハリンとの交流はほとんどありませんでした。そのため縄文人のヒトとしての特異性はかなり純粋に保たれてきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

同様に言語学でも日本語、アイヌ語は世界中の言語から孤立している。

>日本列島を含むユーラシア大陸では2500以上の言語が話されています。ただし、同系関係を辿っていくと、これらのほとんどはアルタイ系言語、シナ・チベット系言語、インド・ヨーロッパ系言語のようなわずか10あまりの大きな「語族」にまとめられます。

その中で同系関係がたどれず系統的に孤立していた言語はわずかに9つにすぎません。さらにその約半数が日本列島の周辺に集中している。日本語、アイヌ語、朝鮮語、サハリン先住民のニブフ語です。

これ以外はピレネー山中のバスク語、西シベリアのケット語、インド中部のニハーリー語、東ヒマラヤのクスンダ語でいずれも人里から離れた辺境地帯の言語である点が共通しています。

言語学者の松本克己はこのうち日本列島周辺に集中する日本語、アイヌ語、朝鮮語はかなり旧い時代につながっていたと述べています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=312916




▲△▽▼



縄文体質は日本語を通じて我々の心に息づいている
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3361.html

縄文体質はさまざまな方法で、分野で人々の暮らしに、文化に、心に残存していきました。しかしその影響力の中で最も大きなものはなんでしょうか?私は間違いなく日本語だと思います。

日本語は縄文時代に作られた言語であり、もっと言えばその以前、旧石器時代、さらにホモサピエンスが登場した時代に人類が言語を作り出した最も旧い古語を母体にしています。日本列島には縄文時代、それ以降も様々な大陸人が渡来し、定着していきましたが、彼らはいずれも母国語を持ちながらも日本に定着する為に日本語を使えるようになり、2世代、3世代を経て日本人になっていきます。それは現代でも同じで、アメリカ人であっても生まれて直ぐに日本で生活し、日本語で育った子どもは顔は西洋人でも心はまったくの日本人です。(テニスプレーヤーの大坂なおみや野球のダルビッシュ有などを見てもわかるでしょう)日本人は日本語で考えるから日本人になれるのです。

縄文―弥生―平安から江戸時代、明治、昭和、そして現在まで、日本語はほとんどその骨格を変化させず、時々の外来の文化を取り込んできました。るいネットでは日本語で検索するだけで100以上の投稿が掲載されています。

その中で縄文体質がどのように日本語を通じて我々の血肉に、心になっていったか、それを推し量る投稿をいくつかダイジェストで紹介します。


これらを読んで改めて思うのは日本語教育の大切さ、今学校教育で最も必要なの英語教育ではなく母国語を使った思考力育成教育ではないでしょうか?

日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=312916


これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。


縄文語は抹殺されなかった
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=307372&h_d=1433&m_d=rpc


人類学でほぼ定説になっているのは、日本列島には縄文時代の一万年にわたってアイヌ人を含む南方モンゴロイド系の縄文人が生活しており、紀元前二・三百年ごろ北方モンゴロイド系の渡来人が移入してきたことである。

しかし、大量の渡来人が一挙に押し寄せてきて、日本列島を席巻してしまったわけではなかった。縄文人が抹殺されたり、奴隷にされたりして、日本列島から縄文文化が消滅したわけでもなかった。大陸からある程度の集団的な渡来があったとしても、この時代の渡航技術からして先住民を一気に駆逐したり虐殺したりできるほどの大規模な移動はできなかった。

渡来人の移入以前、縄文人は、前期からすでに日本列島にはひろく住んでおり、土器の生産に従事し、相互に交流していた(ヒスイが糸魚川で産出し加工され、日本列島に広く流通していた例など)。縄文人はかなり均質化した文化をもっており、とすれば、地域差はあったにしろ、異言語の乱立するような状況は考えにくい。縄文前期からすでに縄文語という原日本語が形成され始めたのではないかと著者はいう。

(中略)

とすれば、言語もまた制圧と断絶という形で入れ替わったとは考えにくい。しかも日本語は、様々な学説はあるものの、現在までのところ琉球語以外にその同族関係が証明されていないという。「周辺言語との同型性を証明する比較方法の手がかりがつかめないとするならば、日本語は、日本列島が孤立して以来一万年の間に、この島国の中で形成されたと考えなければならない」と、著者は主張する。確かに、二千数百年前に渡来した弥生人が縄文語を消滅させてしまったなら、大陸のどこかに弥生語ときわめて親近性の高い言語が残っているはずなのに、それが見つからないのだ。日本語は、縄文文化とともに始まり、断続なく現代に連なる長い歴史ももっているというべきだろう。

原始日本人の感覚は、「ひらがな」によって継承されている
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=321391

文字を持たない時代の言語とその感覚を、現代まで引継いでいるのは、世界の中でも「ひらがな」のみという。どんな文字も、「てにをは」のひらがなにし組み立てることで、話し言葉しかなかった原始日本人の感覚を伴った理解ができる。「ひらがな」が、日本人の縄文体質を継承する基盤になっているということ。

日本語の感覚はひらがなの言葉やひらがなの使い方の中に脈々と継承され続けているのです。ひらがな以外の文字は他国の先進文明や新しい技術・考え方などを日本語として取り込んできたものなのです。


日本語の凄さ〜お互いが分かり合うこと(日常会話)に特化した言語〜
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=333010


日本語を含め計4ヶ国語を勉強した方が、日本語の秘密=日本語の凄さを書いてくれている。この日本語の凄さを読めば読むほど、日本語ほど相手と意思疎通を図るのに適した言語は無いのではないかと思えてくる。


○主語がなくても通じる

日本語は、主語がなくても通じます。良い例が、「愛してる」。
誰が、誰を、愛していると言わなくても、「愛してる」と言うだけで意味が伝わりますね。誰も日本語で「私はあなたを愛しているよ」なんて長ったらしいフレーズは使いません。

しかし、英語では「I love you」、中国語では「我愛(あなた)」を普通に使います。


○言葉を入れ替えても通じる

日本語は、英語や中国語に比べて言葉の並びをあまり気にしない(法則性が少ない)と感じます。例えば、英語で「Where are you now?」

日本語では、「今どこにいるの?」・「どこにいるの今?」・「どこに今いるの?」どれも不自然でなく使うことができます。

しかし、英語では「Now where are you?」とは言いません。なぜか説明できないけれど、しっくりきません・・・。もちろん「Where are now you?」とも言いませんよ。


思考するための最高の言語:日本語
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=332003


・・・日本語が思考言語としてはこれぼど適したものはないということになります。

特にアイデアや発想の広がりは、他の言語の比較にならないものだということができます。

問題は、その特徴を使いこなしているかどうかということになります。
枠にはまった思考や、限られた知識に縛られた思考では、せっかくの日本語のチカラを生かしていないことになります。


日本語が作る脳〜日本人の“縄文体質”や“本源性”は日本語を母語とする限りは失われない!?A
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=291491&h_d=1433&m_d=rpc


角田教授の発見で興味深いのは、自然音を言語脳で受けめるという日本型の特徴が、日本人や日系人という「血筋」の問題ではなく、日本語を母語として最初に覚えたかどうか、という点で決まるということである。

その端的な例として、南米での日系人10人を調査したデータがある。これらの日系人は1名を除いて、ポルトガル語やスペイン語を母語として育った人々で、その脳はすべて西洋型であった。唯一日本型を示した例外は、お父さんが徹底的な日本語教育を施して、10歳になるまでポルトガル語をまったく知らずに過ごした女性であった。その後、ブラジルの小学校に入り、大学まで出たのだが、この女性だけはいまだに自然音を言語脳でとらえるという完全な日本型だった。

日本語とポリネシア語の共通性〜ともに母音を中心として認識する言語
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=285350


日本で日本語を母語として育った在日の人々は、完全な日本型になっている。こう考えると、西洋型か日本型かは人種の違いではなく、育った母語の違いである可能性が高い。「日本人の脳」というより、「日本語の脳」と言うべきだろう。角田教授の今までの調査では、日本語と同じパターンは世界でもポリネシア語でしか見つかっていない。

世界の言語のほとんどは子音を中心に認識するものです。

ヨーロッパ語もアラビア語も中国語も、口から空気を出す時に障害を作って変化をつける子音によって音声の認識をしています。

子音は感覚的には、相手との距離を保ち威嚇する発音体系ということができるのだそうです。子音語族(こんな言い方があるのかどうかわかりませんが)においては、会話をすることによって、相手との対立や違いを明確にしていくことができるようです。

母音は息で制動を付けなくても、声帯の振動をそのまま伝えることで発することができる自然な音です。痛いときには「うー」と奥の方から自然に発せられます、感動した時には「おー」と自然な音が発せられます。母音は自然に発せられる音からできています。

母音を中心とした言語である日本語やポリネシア語の話者は、母音を言語脳がある左脳で聞いています。


『生きる力を育てる教育』〜日本語の力(番外編)こんこんと流れる日本人の心の地下水脈
http://web.kansya.jp.net/blog/2012/05/001281.html


子どもの頃に暗誦した言葉で意味の分からなかった所も、人生の経験を積み重ねていくうちに、ふと分かる瞬間が訪れる。嬉しい事や悲しいことがあった時に、子どもの頃に暗誦した言葉がふと思い浮かんで、その言葉の持つ深い意味に気づく。そういう経験を積み重ねると、その言葉を口ずさむだけで、自分の人生の様々な場面が思い起こされるようになる。子どもの頃に暗誦した言葉は長い人生において、自分を導き、支え、励ましてくれる道連れとなる。老人方の「喜び」とは、そういう道連れに恵まれた幸福であろう。

自分が共に生きた言葉を、また子や孫の世代が習い覚えてくれるなら、それはまた大きな喜びである。自分はこの世から去っても、自分がともに人生を歩んだ言葉は後の世代が大切に受け継いでくれる。自分はいなくなっても、自分が大切にした根っこは、後の世代が大切に引き継いでくれるのだ。

国語はこのようにして世代を貫いて民族の心の地下水脈をなす。暗誦文化が衰退したといっても、たかだかこの1,2世代のことである。現在の世代が忘れていても、国語の地下水脈はこんこんと流れ続けている。


日本語が美しい理由

言葉はその音が単なる記号ではない。
その音が持つイメージから言葉は作られる。太古、精霊を見て、観念を発明したとき、彼らの感覚にしっくりくる発音が与えられたはずだ。
日本は幸い、太古から民族、文化、言語がずっとつながっている。
日本語が持つ語感は、日本の風土の中で作られた言葉が変化しながらもずっとつながりを持っている。

だから日本語には擬態語が多い。

カラカラ、クルクル、コロコロ
サラサラ、ソロソロ、スルスル
タラタラ、ツルツル、トロトロ

Kは回転する固体、Sは乾いた空気の摩擦、Tは粘性のある液体のイメージだ。

日本人ならみんな共有できる音のイメージ。新しく擬態語を創ってもすぐ通用する。ところが、外国人にはこれが理解できない。

無数の音節単位を認識する他国の言語では、各音に対する性格付けがほとんど不可能。

音の語感だけで雰囲気の解る日本語発音体系、それを太古から途切れずに発達させることが出来た。

日本語は美しい。

黒川伊保子 「日本語はなぜ美しいか」 より

サクラサク、この語感の美しさ。みんなが共有できることの幸せ。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3361.html



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

40. 中川隆[-13583] koaQ7Jey 2018年11月15日 05:46:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20671] 報告

縄文時代における九州と朝鮮半島との交流 2018/05/27


 以前、当ブログで


つくられた縄文時代: 日本文化の原像を探る (新潮選書) – 2015/11/27
山田 康弘 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%83%8F%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E5%BA%B7%E5%BC%98/dp/4106037785


を取り上げ、縄文時代における九州と朝鮮半島との交流についても少し言及しましたが

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_30.html


もう少し詳しく同書の見解を取り上げることにします(同書P129〜133)。

じゅうらい、縄文時代の日本列島は他地域との交流がほとんどなかった、と考えられてきました。それは、「縄文人」のような形態の人類集団が他地域で確認されず、細かな地域差・時代差があるとはいえ、地理的範囲は北海道から九州まで、時間的範囲は早期から晩期前半まで、「縄文人」の形態はほぼ同一とされてきたからでした。

 しかし、考古学的資料により、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになってきました。たとえば、西日本各地に分布する縄文時代前期の轟式土器や曽畑式土器は、朝鮮半島に分布する隆起線文土器や櫛目文土器との類似性が指摘されています。また、轟式土器と曽畑式土器の間に位置づけられる西唐津式土器と朝鮮半島の土器との関係も指摘されるようになっており、相互の土器形式に影響を及ぼす水準で交流があったことは確実とされています。

 朝鮮半島の煙臺島遺跡からは、縄文時代の石器として一般的な石匙が出土しています。縄文時代後期に西北九州で多くみられる石鋸も、朝鮮半島の松島遺跡など南岸部から出土しています。佐賀県の腰岳から産出する黒曜石は、朝鮮半島南岸部からも出土しています。また、朝鮮半島の土偶の中には、縄文時代早期のものとの類似性が指摘されるものもあります。その他にも、縄文時代には珍しくない貝輪・獣歯牙製装身具・土製耳飾りなどが、朝鮮半島南部で出土しています。こうした遺物だけではなく、人類遺骸でも、朝鮮半島と縄文時代の日本列島との交流の可能性が指摘されています。煙臺島遺跡から出土した人類遺骸には、縄文人の形態がよく認められるそうです。

 しかし、近年の研究の進展により、九州を中心とする縄文時代の西日本と朝鮮半島との交流については、一時期の過大評価が訂正される傾向にあるようです。まず、朝鮮半島における縄文(系)土器の出土点数は、在地の有文土器と比較すると0.1%にも満たない、とのことです。また、土器の製作技法・文様の割り付け方法・結合式釣針の製作技法などの比較の結果、縄文時代の日本列島と朝鮮半島との類似性は、同一の文様構成原理や技法で製作されたという水準ではなく、あくまでも視覚的な部分に留まっている、とも指摘されています。見た目は類似しているものの、人間が恒常的に往来して製作技法そのものが伝えられているような状況ではなかっただろう、というわけです。

対馬の越高・尾崎遺跡や夫婦岩遺跡などでは、朝鮮半島系の土器が主体的に出土することもありますが、これは特定の時期だけの減少で、他の時期では基本的に縄文土器が出土するそうです。朝鮮半島には縄文(系)土器が主体的に出土する遺跡は存在せず、あくまでも単発的・客体的に出土するにすぎません。

 これまで、縄文時代の日本列島と朝鮮半島の考古学的資料の類似性は、交流の証明としてひじょうに高く評価されてきましたが、再考が必要ではないか、と本書は指摘します。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部との交流はさほど多くなく、南島地域との比較でも少なかったので、北部九州と朝鮮半島南部の間には言語の壁があったのではないか、との見解も提示されています。

また本書は、朝鮮半島では土偶はほとんど出土せず、大型のものはないことと、縄文文化でよく見られる呪術具は朝鮮半島では出土頻度が低いことなどからも、縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有するという状況ではなく、対馬海峡で線を引くことが可能ではないか、と指摘します。縄文文化がユーラシア大陸からの影響を受けたことは間違いないとしても、縄文文化はおおむね日本列島内に収まっているとの見解にも一理ある、と本書は指摘しています。
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html


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41. 中川隆[-13645] koaQ7Jey 2018年11月28日 13:04:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21241] 報告

2018年11月23日
縄文体質の史的足跡〜第7回 婚姻様式は本来、安定した集団を支える社会基盤。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3382.html


第7回(最終回)は夜這い・婚姻を扱います。

シリーズ「縄文体質とは何か?」第4回縄文の”性”を知る にあるように

>縄文時代の婚姻様式は総遇婚、近接集団との交差婚であり、集団婚であった。その後弥生時代以降も男が女集団に入る妻問い婚という形態にはなったが、ついぞ江戸時代までは女は母集団の中に残り、集団の共認充足に包まれた中で集団と女達は一生暮らすことができた。諸外国を見渡しても婚姻形態がこれほど近代まで残った国も稀有だし、一対婚がこれほど根付かなかった国もない。その意味で縄文が最も色濃く残ったのが婚姻であり、男と女であり、性充足である。それほど、日本人は性におおらかで性を心から楽しんでいた。

日本人の”性”への意識はつい50年ほど前まで集団・社会を安定させる基盤であり、性充足により安心で安定した集団を核として日本人は西洋とは違う民族性=縄文体質を維持してきました。

このように、本来、婚姻様式は社会の根幹を成す規範・制度であり、個人主義に傾斜した現代の一対婚制度により、現代は日本でも集団性が破壊され、縄文体質も薄れつつある危機的な状況にあります。

今回は縄文から今日に至る婚姻の変遷をおさらいし、今の日本で失われつつある精神を探っていきたいと思います。

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以下るいネットから要約します。

【縄文から弥生への婚姻様式の変化〜共認風土に取り込まれていく渡来人〜】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=270746

縄文社会に変化が起きたのは2,450年前の渡来人である呉人以降だろう。 稲作水田は大規模化し、環濠集落が生まれ階層化した村社会の構造が現れてくる。この時代の呉人は大陸での略奪闘争の負け組みだが、私権闘争を経験し支配社会のパラダイムを始めて日本社会に取り込んだのがこの第2波の呉人と思われる。

日本では、二群単位とはかぎらず、二群でも三郡でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナドとし、集落の全男女が相集まって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられる。

縄文前期までは単一集団内での族内婚のみであったが、集団規模が大きくなっていく縄文中期から後期は、村と村の要路がヒロバとなり、全男女を対象とした族外婚(クナド婚)が形成されていった。このクナド婚は、それまでの族内婚であった全員婚を、そっくりそのまま族外にも適用した婚姻様式であり、共認充足を第一とする縄文社会を端的に現したものであるといってよい。

そして、第2波の渡来人によって、このクナドも変化を見せる。

しかし、そうした日本も、縄文中期以降は、ようやく集落を定着させて、農耕段階へと進みつつあったと思う。それにつれて婚姻形態も、一方では族外群婚を発達させたが、また他方では北アメリカで20世紀初頭までみられたような母系制的対偶婚への道をひらこうとしていた。紀元前2、3世紀のころに移入されたといわれる水田農耕の普及は、社会関係を複雑にし、孤立した氏族集落対から部族連合体への道が開け始めた。   なおクナド婚は市場や入会山で威力を発揮し、部族連合の一つの動力となって活動したが、その方式に特記すべき変革が起こった。それは神前集団婚から神前婚約が始まり、それによって男が女の部落へ通う妻問形態の個別婚を生み出したことであった。

ここでいう対偶婚は渡来人によってもたらされた婚姻様式。大規模水田とともに新たなパラダイムで縄文を取り込み、そのことによって全員共婚のクナド婚から、対偶婚、さらに時代が進み妻問婚への個別婚へと表向きの婚姻制度が変化していったことが伺える。

クナド婚の場所で、こうした神前婚約が成立すると、男が女に通う妻問形態の個別婚が新しい時代に照応する正式の婚姻制として表面化してくる。しかし、そうなっても、群婚原理はまだ容易にたちきれず、婚約した相手だけでなく、相手の姉妹や兄弟にも波及する。

このように、この全員共婚であるクナド婚は、その後日本の村落共同体では様相を少しずつ変えながら根強く残り続けることになる。(夜這婚はその系譜にあるだろう) むしろ興味深いのは、妻問婚を持ち込んだ渡来人でさえ、共認充足に導かれて実態はクナド婚へ傾斜しているように見える点だ。支配者側であった渡来人は、表向き血筋を明らかにするために個別婚である必要があったが、縄文の共認風土に導かれて平和裏に共存していく様子が婚姻様式にも現れているように思える。

【母系社会の伝統が決定的に影響した日本の婚姻様式2】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=320152

万葉集には、両親を歌った歌が100首ばかりあるが、それらの殆どは母親を歌っており、父親だけを歌ったものは1首しかない。子の母親に対する情愛は現代にも通じるものがあるが、万葉集の世界においては、子は父と同居することがなくても、母親とは常に強い絆で結ばれていた。上の数字はそのことを反映しているのだともいえよう。

では、古代の男女はどのように結ばれたのか。

上層階級は別にして、庶民の間では遠方の地域との婚姻はそう盛んではなかったのではないか。部族集団の中か、せいぜい近隣地域との出会いが中心だったと考えられる。

結婚生活は基本的には、男が女のもとに通う通い婚であった。そのほか男が女の家族と同居する場合や、夫婦が独立して住居を構えることも行われた。だが女が男の家族のもとに同居する例は殆どなかったようである。したがって、近年の社会問題たる嫁舅の関係は、古代には存在しなかったと考えてよい。

通い婚の場合、新婚早々には男は足しげく女のもとに通ったであろう。しかし女が妊娠したり、あるいは男に他の思い人ができたりして、その足が遠のきがちになることもあった。古代の女性の歌には、男の到来を待ちわびる女の歌がそれこそ数多くあるが、そんな文化を日本以外に求めることはできないだろう。

こうした場合、結婚は自然と解消され、女は他の男と再婚することもできたようだ。古代には、男の女に対する責任がきつく問われなかったかわりに、女のほうにも相応の自由が保障されていたのである。

女が比較的簡単に離婚を決意しえたのは、後の時代と異なって、女が経済的に男に従属していなかったからだと思われる。先史時代以来の共同体のあり方に守られて、女は男がいなくとも、何とか生きていくことができたのだと考えられる。

こうした女中心の婚姻や家族の形態が大きく変容するのは平安時代中期である。それには家の成立が深くかかわっている。古代的な共同体が解体され、その中から社会の基本単位として家というものが成立した。家は社会的・経済的な単位として国家機構の中に組み込まれ、課税の単位ともなった。

この新しい家にとっては、家を代表するものとしての戸主というものが登場し、家族の成員はその戸主の名の下に把握された。そこで新しく戸主となったものは男たちだったのである。

家の成立は上流層では10世紀ごろ、庶民層では12世紀ごろだとされている。家が社会の公的な構成単位となったからといって、すぐさま女が男に従属したわけではない。中世初期まで家の中での女の力はまだ根強く残っており、女にも独自の財産を持つことが許されていた。女房が亭主を相手に貸付をしたという記録も残っているほどである。

だが一旦成立した家は次第に機能の増殖をはじめ、ついには家の中の長たる男の権威が妻のそれを圧倒するようになる。女は経済的にも男に従属するようになり、婚姻の形態も自然と、女を男の家に迎える「嫁取り婚」へと変化していくのである。

【中世の社会と婚姻制度・相続制度】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=338907

鎌倉時代は貴族は婿取婚(母系氏族が婿を迎える)という制度であったが、武士は次第に嫁取婚へと移行していく。それは、戦闘軍団ゆえに男の武力が制覇力となったことによるが、とりわけ地方武士は土着性が強いが故に、土地を離れるわけに行かなかったという事情が実際上は大きい。父系制の成り立ちの時期は、それぞれの社会階層によって異なり、武家上層においては、院政期から鎌倉時代において、そして一般武家は鎌倉時代から南北朝時代、さらに庶民層においては、南北朝時代から戦国時代である。 但し、庶民は江戸時代に至るまでも夜這い婚を併用している 因みに、公家層が嫁取りに移行するのは、武士の力が強まり、公武の結婚が行われるようになって以降である。 また鎌倉時代は「分割相続」を原則としており、新しく建てられた分家は本家の惣領(家督)のもとで血縁集団を形成した。惣領は戦時には一門を率いて闘い、軍役と恩賞を一門の各家に割り当てた。この惣領制を土台に幕府は御家人たちを束ねていたのである。 しかし父系制とはいえ、当時は夫と妻とは別々の姓(氏の名)を名乗り、それぞれが父母から相続した氏の財産を継承するという、夫婦別財産制度をとっており、妻も自前の財産を有していた。(女子が惣領となるケースもあった)

この惣領制が揺らぐのは、元寇(鎌倉中期)以降である。それまでは、承久の乱や元寇を通じて、荘園領や非御家人領に支配が及び、分家の所領も確保できていたが、安定期に入ると所領の増加がなくなり、所領は相続の度減少し、御家人たちの収入は激減する。 その結果、戦闘集団として一体化していた本家と分家の結びつきは弱まり、次第に一門同士の血縁的統合から、生産基盤を共にする地縁的結合が高まっていく。このことが地域の独立性を高め惣村の自立性を強める大きな要因となっていく。

【夜這い婚の情景@】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=89190

■若衆宿 その頃は、一人前と認められ、若者宿への参加が認められることが、子供の楽しみであった。十三、四、五歳から参加が認められ、結婚するまでの間、毎年農閑期の何ヶ月間か、そこで共同生活をしたものだ。中には、一年通して、つまり数年間、若者宿で過ごす者も、少なくなかった。彼らは、農繁期の強力な助っ人として、重要な存在であった。

共同生活を通じて、親からの躾とは違う、共同体の一員としての ケジメ を先達から教えられる場であった。また、年に何ヶ月かの共同生活を、数年繰り返すことで、自然と仲間内の序列、派閥なども形成されていった。つまり、仕事のときの采配はだれだれ、遊びはだれだれ、交渉ごとのうまい奴、物資調達のうまい奴、情報通のものなど、互いに相手を知り合う機会でもあった。

■夜這い規範 夜這いといっても、誰もが好き勝手に、女の家へ忍び込んだわけではない。通常、相手の娘が、承知してくれた場合のみ、あるいはその娘が、自分の誘いに応じてくれたときのみ、夜這いに行けたものである。相手の望まない夜這いは、無理に忍び込み、ことに及ぼうとするとき、娘に騒がれて、親に捕まった時など、村のさらし者にされる恐れがあった。

また、忍び込んだ娘の家で、あまり無茶をしないよう、夜這いの礼儀作法というものも教えられた。先達たちが、四方山話の一環として、面白おかしく話すこともあったが、実際は、ベテラン女性に、手取り足取り教えてもらったものである。

■性の指導 若者宿ではまず、新入りには忍び込みのテクニックを教える。そして筆下ろしのため、先輩が事前に了解を得て、ベテランの女性に、童貞の子への筆下ろしを頼んだものである。上農の場合には、元服の際、両親が相談し、親類縁者のなかから、これという女性を選びだして依頼し、文字通り手取り足取り、女性の体の 造り を教え、扱い方 の指導を任せたものである。

娘の場合も、赤飯を炊いて祝った夜、一族の年配者や、主家筋の、しかるべき長老の誰かに、水揚げというか、道を通してもらうのが慣わしであった。そうしておかないと、夜這いされたとき、戸惑うことになる。そして、母親や叔母さん、先に一人前になっていた近所の姉様たちが、具体的に心構えや、手練手管を伝授するなど、共同体の一員としての教育がなされてきたのである。

■性の喜び:活力源 当時は、男女とも、性の悦びを味わうことは、タブーではなかった。もちろん、公然たる不倫は咎められ、相手かまわず交合する者も嫌われた。しかし、農民においては、性とは、心行くまで自由に楽しむべきものであり、過酷な労働に耐える農民の、活力源でもあった。男は十数歳で元服し、女も初潮を迎えれば、ともに一人前として、大人の扱いを受けることになった。

大人の扱いを受けるということは、一人前の労働力として期待されることでもあったが、同時に、自由意志で性を楽しむことを、認められることを意味した。自由とは、規律を守ることにより、自由を保障される。その規律を教えるのが、若者宿であり、赤飯の祝いの夜の儀式であった。当時は男も女も、互いに相手が複数の異性と、交渉を持っていたことを当然として、結婚したものである。

結婚後も、一定の規範の元に、自由であった。不自由なのは、支配者階級である。なまじ、守り、引き継ぐべき、金や富を持っているため、子の血筋を重視するがために、女を家に閉じ込め、他の男との接触を不義として、禁じてきた。下これに倣うで、家臣も、町家の者も、女性の人権、自由度を制限し、現在に到っている。のではなかろうか。

【ムラの「公事」であった「夜這い」】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=156930

>明治以降、国家権力の弾圧によって旧来の日本の夜這い文化は衰退の一途を辿ります。

以下「村落共同体と性的規範の6.弾圧と亡失」より引用)

ところが「筆おろし」の年齢を一挙に引き上げる事件が起こった。すなわち徴兵検査の励行で、富国強兵の政府といたしましては、国家の干城たる青年に花柳病が蔓延するのを座視することはできない。これは古い若衆組の罪で、質実剛健を主旨とする青年会に改組する。「夜這い」などもってのほか、青年、処女は純潔でなければいけぬことになって、教育も。これに応じて大合唱したから、若衆組も、夜這いも決定的な打撃を受けた。

男も男なら、女も女ということになるが、若衆組や夜ばいの盛んであった時代には、こんなことは想像もできなかっただろう。四十六の仲人あっぱが、若衆も娘も実地教育してみせたので、昔の若衆の初夜教育が、いかに適切、かつ科学的教育方法として作動したか、を実証している。まさにあっぱはムラの性教育の伝統を継ぐ、最後の一人であったのだろう。

では、近代教育の「純潔」とか、「貞操」とかはなんであったのか。肉体的な抑制を強要するだけで、健康な発散を考えなかった結果として、いま私たちは、その当然の代償を支払わせられている。娘を商品として高価に売り込むための処女性尊重と「貞操」の強要、息子を売春風俗産業の購買力に仕立てる手段としての「純潔」教育、そこには資本主義社会の露骨な商品化政策があるだけだ。

私たちは若衆組の行事や夜這いを、かつて淫風陋習として退けたのである。しかしムラがムラであったとき、成熟した女性にとって若衆へ心身ともに健全な教育をすることは、次代への継承を維持するために負った義務であり、また権利であっただろう。

ムラが一つの共同体として作動しているとき、夜這いも結婚関係も、若衆組その他と同じく、それぞれムラの「公事」であったから、かれらに「純潔」や「貞操」の観念はなく、どうして生活を維持するかが根本の約束であったものと思われる。

つまり個人として私匿しなければならない密室の作業ではなく、いつでも公開されているルールに乗った行為であった。長い間、私たちは「夜這い」を誤解してきたが、それはムラの古い共同結婚方式を継承したものとして、まさに「公事」として維持されてきたのである。近代日本は結婚を「私事」に変質させることで、「夜這い」の伝統と継承とを否定したが、そのためにかえって社会的性生活を荒廃させた。

【日本における現行の婚姻制度〜日本国憲法@】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=225216

戦後日本の家族のあり方に最大の影響をもたらしているもの。それは、日本国憲法である。日本国憲法は、戦後、GHQによって押しつけられた憲法である。その基本理念は欧米の価値観に基づいている。その理念の一つが、個人主義である。これは家族や国家より個人を重んじる考え方である。日本の社会に個人主義を植えつけること、それが日本を「民主化」することであり、同時に日本を弱体化することだった。

西洋近代の思想の一つである啓蒙主義は、17世紀イギリスのホッブス、ロックらによって展開された。彼らは、デカルトの要素還元主義の影響を受けていた。そのため、まるで幾何学的空間におかれた原子(アトム)のようなものとして、人間をイメージした。「個人主義」とは、原子(アトム)的な個人を、集団より先在する要素とし、個人を原理として、社会の構成を考える考え方である。

日本国憲法は、こうした西洋近代啓蒙思想が根底に置かれている。そして、この思想をさらに極端に推し進めた学説が普及した。すなわち、「個人の尊厳」を持って「個人主義の原理」とし、アトム化した個人を持って「人間社会における価値の根源」などと説明する宮沢俊義らの学説である。

こうした極端な学説が出てくる原因は、日本国憲法にある。具体的に挙げれば、第24条である。この条項には婚姻に関する規定がある。すなわち第1項に「婚姻は、両性の合意のみによって成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とある。また第2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と記されている。

このように憲法に婚姻に関する規定が設けられているのは、世界的に見ても異例である。男女が恋愛をし、性的に結びつくことには、法律はいらない。その限りでは、私的な事柄であり、国家が介入すべきことではない。しかし、結婚した男女は、単なる同棲者ではなく、親や家族や親族・友人などの認知を得た関係となる。私的な男女関係が、ここで公認による公の関係となるのである。それは、結婚は夫婦の性的関係を維持する手段ではなく、家族を形成することが目的だからである。つまり、結婚とは、社会の基本単位である家族を形成するという公共性のある行為なのである。そこに、結婚を法律に定める必要があるわけである。そして家族の安定のために、婚姻の安定性を求める法律も定められる。それゆえ、憲法に規定する必要があるのは、婚姻よりも家族に関する規定である。

しかし、第24条は、個人の尊厳と両性の権利の平等を強調する一方、家族の大切さを規定していない。そこに大きな欠陥がある。条文には、夫婦と並んで家族を構成するもう一本の柱である、親子への言及がない。これは、生命と文化が、世代から世代へと継承されていくことを軽視している。憲法の全体に、世代間の縦のつながり、民族の歴史が断ち切られている。

【婚姻が社会と切り離されて50年も経ってない】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=87512

日本の婚姻史を調べてみると、集団や社会から切り離された婚姻や性関係は、ほんのこの50年くらいしかなかったようだ。

まず、庶民の生活の中で、縄文時代から昭和10年から30年頃まで受け継がれてきた、夜這い婚などの集団婚。それらは、村単位で性充足を高めるシステムで、男女老若既未婚をとわず、性の役割が与えられた。

子育ても、誰の子であろうと、娘の親が育てるというように、村の規範の中で育てられた。決して個人課題ではない。また、性や子育て規範を共有する単位(村)と、生産にかかわる規範を共有する単位(村)は一致していた。

このように、性や婚姻は社会とつながっていて、性自体が集団維持の課題のひとつであった。それゆえ、性をみんなの期待として、肯定的に捉えていた。

次に、貴族や上位層の武士は、父系制の一夫多妻・一夫一婦制をとるが、基本的には政略結婚である。結婚は個人の課題という現代の感覚からすると、無理やり嫁がされてかわいそう、ということになるが、おおきな間違いだと思う。

私権社会での集団維持という歪んだ側面をもつことは否めないが、明らかに集団維持のための婚姻である。 それは、採取時代の人類は、男女の婚姻関係・性関係が、“集団統合上の重要課題である”ことを、ごく当たり前のように認識していたと思われることです。

そして、貴族の娘も、いい家柄に嫁げるように、家庭教師を招いて、教養を身につけるのが、役割であった。娘自身も教養あるおしとやかな女になることを、目指していたのである。ちなみに清少納言や紫式部は、上記の家庭教師だった。

そして、昭和の30年から45年くらいまでの婚姻制度も、基本的には家という基盤を背後に持ちながら、恋愛結婚という形をとった。この源流は、武士や貴族の婚姻制度にある。かなり社会との関係は薄れるが、まだつながりを保っていた時代だと思う。

このように、この50年を除けば、性は社会とつながっており、衰弱することはなかった。そして現在、まったく社会とつながりを失い、当人同士以外だれの期待も受けない性が始めて登場した。そのときから、性は衰弱し続けている。

再生のためには、社会の中でみんなに期待される『性』が役割として再認識される必要がある。そのためには、性も生産も包摂した新しい本源集団の再生が不可欠になる。

http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3382.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

42. 中川隆[-11406] koaQ7Jey 2019年3月18日 06:48:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[592] 報告
「縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか」第5回〜クリが縄文人を作った、縄文人がクリを作った
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html


クリと縄文社会は密接に繋がっている。

縄文中期の巨大集落、三内丸山ではくりの栽培が盛んに行われていた事は有名な話だ。今回はこのクリをテーマにどのようにクリと縄文人が繋がり相互に繁栄したかを追いかけていきたい。

今回も「縄文探検隊の記録」からの紹介ですが、少し方法を変えて、本文はこちらで書き、それを示す記事を間に入れていきます。>は著書からの抜粋です。

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クリの歴史】
クリは日本列島に1億年くらい前からずっとある植物。白亜紀の地層からクリの化石が出てきている。1億年は恐竜が闊歩していた時期で非常に長い歴史を持つ植物である。最終氷河期の終わりごろから温暖化と時期を重ねて爆発的に増えていく。
クリの利用は1万3800年頃が一番古く、1万2千年前には建物の基礎として杭の代わりに使われた。
材で利用されたのが早いかと言うとそうでもない。食用利用も1万2700年前には福井県鳥浜で確認されており、食と材、ほぼ同時期に利用が始まった事が推察される。

>クリはひょっとして、縄文人の暮らしの中でかなり重要な位置を占めていた植物ではないかと考えられるようになったのは、考古学植物学の有効性がわかりだしてからですね。

栽培に向い始めたのはいつからだろうか?】
一番古いクリの木が出る1万2000年前頃から花粉が増え、9000年前頃にどっと増える。それをどう解釈するか。気候の急激な変化に伴ってクリが一気に増えたのか、それとも定住を始めた人間が意図的に増やしたのかが焦点になる。

>植生というのはきっかけがあると変わっていくものです。最初はシイやブナのような大きな木を中心とする生態系ができて安定した状態にはなりますが、シイやブナはずっと主役ではいられない。何かアクシデントがあれば、たとえば山火事や土砂崩れのようなことが起きると、森という劇場の配役はリセットされてしまうのです。そうしたところにいち早く生える先駆主がアカマツやクリなのです。しかし、シイのような巨木になる木がまた生え始め,陰を作るようになると退場を余儀なくされます。つまり、クリは植生の遷移の中で一時的に登場する木であって、自然の森の中では永遠の主役ではないのです。
>私達の説では地球が急激に温暖化したことでクリの木も勢いづいた。それが鳥浜の縄文人の暮らしを形成した。
>狩猟採採集生活といっても、縄文時代はそこら辺が大きく違います。数世帯が必要なものを周りからかき集め、永続的に活動できるセンターを作っていた。そういう定住生活、センターを縄文の「むら」と呼んでいるのです。
>クリは人間との出会いによって繁栄のチャンスを得たといってもようように思う。
>本来クリは植生の遷移の中で消えていく木なのです。人間が森を壊したら、日当たりを好み、おいしい実のなるクリが偶々増え始めた。管理の第2段階は栽培。もっと実がたくさんほしい、もっとたくさんの木材が欲しい、その為にはクリの生長を妨げる他の木を排除する。或いは実を土に埋めて発芽させ、苗にして植える。問題は栽培はいつの時点から始まったと言えるか。私は縄文草創期から既に始まっていたと考えています。

>徐々にクリの有用性を知っていったのではなく、出合った最初から秘めている価値に気づき、すぐに栽培を試みたと考えます。彼らは定住を選択する前から自然環境の仕組みというものを熟知していた、生まれながらの観察者です。どういうふうにすれば自然は都合よく利用できるかということをわかっていたと思うのです。森を切り拓いてむらを作り始めた段階で、既にクリの有用性に気づいたと考えます。
>クリの栽培は定住の為の開発と同時期に始まった。
>大雑把な例えですが、人類の歴史を400万年とすれば、そのうちの399万年は遊動生活です。最後の1万年前から始まった定住生活は、人類の生き方の枠組そのものを完全に変えた。まさに大革命だったのです。

クリの有用性】

建材、木材としてのクリのメリット)
・成長が早い事(同じ太さを得る為にクリはスギやヒノキの約倍のスピードで生育する)
・加工のしやすさ。特に生木の時はとても細工がしやすい。石斧でも伐採しやすい、割り加工もしやすい。割裂性が非常によくてまっすぐ切れるのもクリ。
・湿気に強い事。防腐効果のあるタンニンをたくさん含んでおり、シロアリや腐朽菌におかされにくい。三内丸山の6本柱がクリでできている為、土中にあれだけの年月残ることができた。
上記に加えておいしい実もたくさんつける。縄文人にとってのクリはまさにスーパーツリーであった。

クリの木がどれほど使われていたか】

>文化財センターの研究によると、南関東の縄文遺跡では建材の8割がクリで、炉の燃え残りの炭も4割がクリだった。
>三内丸山で得られたデーターを見るとそれこそ「そこら中にクリが生えていた」

クリと縄文人の関係】
縄文人はクリをどのように扱い、この木に対する思いはどうだったのか?
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>三内丸山の巨大な柱(直径1m)から見て、統合のシンボルだったのだと思います。ひょっとするとそれぞれの集落の巨大なクリの木をここに集めたのかもしれない。
>自分達を見守ってくれる存在、クリの木が生きているうちからトーテムと位置付けていた可能性もあります。かなりの共通認識がないとあれだけの巨大なものは作れない。
>クリの木は縄文時代に津軽海峡を渡り、北海道に持ち込まれている。当時の人たちが舟で運んで移植した可能性がある。
>最終氷河期には南日本の海岸部にわずかしかなかったクリが温暖化が始まると爆発的に分布が広がった。縄文人がその分布の拡大を後押しした可能性がある。
>人とクリは出会うべくして出合った。人間活動の広がりに伴いクリの分布も広がった。
>つまり里山の起源ですね
>縄文人との共生的な関係を結んだ事によって、クリが拡散に成功したことは間違いありません。
>クリが神のような位置付けにあった可能性もあります。
>縄文人は家を解体するときに抜いた柱の穴の中に焼いたクリの実を入れています。つまり儀式です。トチの実の場合もありますが、クリが一番多い。今も神せん(供物)にクリは、はいっています。
>正月の栗きんとんもその名残か、日本人とクリの関係は今も神聖な繋がりがあるのです。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html

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