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詐欺師 曽野綾子と池田信夫に騙されるな
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/491.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 4 月 28 日 22:53:03: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 大江健三郎氏の犯罪 (池田信夫) 投稿者 稲垣勘尚 日時 2011 年 4 月 27 日 08:18:20)


  『ある神話の背景』の背景  〈神話〉を作る身振りと〈事実〉へ向かう姿勢

            石川為丸


曽野綾子の『ある神話の背景』は、いささか挑発的な、右よりの論調を特徴とする雑誌『諸君』に1971年10月から1972年8月まで11ヶ月にわたって連載された後、1973年に、単行本として文芸春秋社から刊行された。この『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図はあまりにも明白であると言ってよい。

「神話」とは、言うまでもなく、古くから人々の間に語り継がれている神を中心にした物語のことである。が、普通は、「客観的根拠なしに人々によって広く信じられていることがら」といった意味で使われている。曽野はかつての沖縄戦における日本軍のなした悪業の事実を、客観的根拠のない「神話」という水準のものにしたかったのだ。沖縄戦にまつわる島々の重たい歴史を、軽い「神話」にしてしまおうとする意図。慶良間列島の島々の名前を覚えにくいという人のために、曽野はこんなザレ歌をわざわざつくったりしているのだ。

「慶良間(けらま)ケラケラ、阿嘉(あか)んべ、座間味(ざまみ)やがれ、ま渡嘉敷(かしとき)」。最後の「渡

嘉敷」に無理があるへたくそなザレ歌ではあるにせよ、曾野のこういう軽いノリが、暗黙のうちにそのことを物語ってもいるのだろう。

 だが、この書『ある神話の背景』はそれなりの説得力を持ってはいたようである。琉大の仲程昌徳先生でさえ、こんなことを書いて、曽野の「神話」説に寄り添ったほどなのだから。

仲程先生は、「公平な視点というストイックなありようが、曽野の沖縄戦をあつかった三作目『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』にもつらぬかれるのはごく当然であったといえる。」(「本土の作家の沖縄戦記」)などと曽野を持ち上げていたのだ。だが、もし、曽野の語り口に惑わされずに、冷静に『ある神話の背景』を読んでいさえすれば、それが、戦後になってまとめられた赤松隊の「私製陣中日誌」や、赤松や赤松隊の兵士らの証言等をもとに構成された加害者の側に立ったものでしかなかったということがわかるだろう。いったいそんなもののどこに、「公平な視点というストイックなありよう」などが貫かれていようか。だが、仲程先生はさらに、〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつきくずしていくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられたのである。〉とまで述べて、曽野の「神話」説を全面肯定したのだ。

 こうした論調の存在を踏まえて、1985年になって、『鉄の暴風』で渡嘉敷島の集団自決の項を執筆した太田良博氏から「沖縄戦に“神話”はない」と題された曽野綾子の「神話」説への丁寧な反論が「沖縄タイムス」紙上(1985年4月8日〜4月18日)でなされた。これに対する曽野綾子からの「お答え」があり、更にそれに対して太田氏からの反論があった。この太田―曽野論争を受けて、タイムス紙上で、石原昌家氏、大城将保氏、いれいたかし氏、仲程昌徳氏、宮城晴美氏らが発言した。その後、『ある神話の背景』をめぐる論争等に関連して、シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」が、沖大で催された。その際の、新崎盛暉氏、岡本恵徳氏、大城将保氏、牧港篤三氏らの発言が「琉球新報」紙に掲載された。さらに、タイムス紙上に伊敷清太郎氏の「『ある神話の背景』への疑念」が掲載された。さらに、新聞の投書欄やコラムを通して活発な発言がなされた。

 「太田氏は、伝聞証拠で信用できないと(曽野らに)決めつけられた『鉄の暴風』の記述を戦後四十年にしてさらに補完したことでジャーナリストとしての責任を果たしたことになり、そのことに敬意を表したい。」といれい氏が述べている通り、この論争では太田良博氏は一貫して事実に向かおうとする真摯な姿勢を貫いた。それに比べて、曽野綾子の不真面目さが際立っていた。曽野は、「つい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである」ことをまず述べて、太田氏の主張も、それに反駁することも、自分の著作も、

「現在の地球的な状況の中では共にとるに足りない小さなことになりかけていると感じる」

などと言って、まともに対応しなかったのだ。また、

「第二次世界大戦が終わってから四十年が経った」ので「いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない」

などと説教までたれていたのだ。


こういう無責任なずらしに対しては、石原氏がピシリといいことを言っている。


「歴史始まって以来の大きなできごとである沖縄戦の全事実の一部たりとも、闇に葬り去らずに記録し、そこから再び惨劇を繰り返さない歴史の教訓を学ぶことが、体験者と同時代に生きるものの責務であり、体験を語ることが戦没者の死を無駄にしない生存者の使命となっている」と。


『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図は、住民虐殺を始めとする、沖縄における日本軍のなした悪業の数々を免罪しようということであった。もともとそんなことは無理なことなので、曽野はまともに論争することができなかったのだと言えよう。客観的な事実に正面からぶつかったら、当然にもボロが出てしまうような質のものだった。だから曽野は、『鉄の暴風』の中の太田氏の記述を、


「こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。」

とけなしてみたり、

「太田氏という人は分裂症なのだろうか。」

などと病む者への配慮を欠いた、けなし文句で対応することしかできなかったのだ。挙句の果ては、

沖縄は「閉鎖社会」だとか、学校教育の場では「日の丸」を掲揚し、「君が代」をきちんと歌わせろ、


などと述べる始末であった。


太田氏の反論に対して、曽野は、結局何一つまともに対応できなかったのだ。

 曽野の発言に見られるような支配的な潮流は、沖縄戦における日本軍の犯罪を免罪し、


「もうあの戦争のことは忘れよう」


ということであった。そういう文脈の中で、仲程昌徳氏が、「軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険があろう」という岸田秀の一節を引用して、民衆レベルでの戦争責任を持ち出そうとしたのは、それ自体は大切な問題であったにもかかわらず、住民の側が凄まじい被害を受けた場であるということを考慮にいれていないために、大きく論点を逸らす役割しか果たさなかったと言えよう。それは、

「生き残ったものすべての罪である」などといった、沖縄戦における真の加害責任を免罪しようとする曽野の論調に荷担するものでしかなかったのだ。


だが、そのような仲程氏の発言を除けば、県史料編集所専門員(当時)の大城将保氏の、「住民虐殺」も「集団自決」も根本的な要因は軍の住民に対する防諜対策、スパイ取締であったという、客観的な資料に基づく説をはじめとして、総じて沖縄戦を再認識させる真摯なものであった。ただ、残念であったことは、論争が、沖縄という地域限定のものから全国的なものに展開する前に、曽野が逃亡を決め込んでしまったことである。

 こうした十四年前に行なわれた論争に、私たちは、今何を付け加えようか。それがあまりにも常識的なことであるためなのか、天皇制への言及がなかったことが、ただ一つ私などの気になっている点ではある。渡嘉敷や座間味にまで慰安婦を連れて蠕動していた日本軍は、そこでいったい何を目的にしていたのかということを、ひとまず再確認しておこう。


渡嘉敷では住民を虐殺し、「集団自決」を強制させていたわけであるが、それは、皇軍の使命が沖縄を守るためなどではなく、「国体(天皇制)護持」のためであったからということだ。


ポツダム宣言の受諾が遅れたのは、時の権力が国体護持すなわち天皇制の存続に執着したためであることは、今や常識となっている。天皇の命を救い、天皇制を延命させるための策謀のために、沖縄の住民九万四千人が犠牲にされたのだということは、何度でも確認しておく必要があるだろう。


天皇(制)による戦争の凄まじい犠牲にあいながらも、それから半世紀以上経てもなお、天皇制は温存され、沖縄が日米両軍の戦争遂行のための中心基地にされているという事態に、私たちはもっと驚くべきなのだ。これは、戦争責任の問題が、「戦後責任」として現在にも持ち越されているということにほかならない。十四年前の「集団自決」論争は、今に温存されてしまった「戦前・戦中」と絡めて、繰り返し想起していくべきはずのものである。

http://www.h3.dion.ne.jp/~kuikui/hihyou.htm


雑誌『正論』に1971〜72年にかけて連載されたテキストをまとめた『ある神話の背景』が1973年に出版され、それに対する反論が1985年に「沖縄タイムス」で、太田良博さんという、沖縄タイムスが刊行して、曽野綾子さんの批判対象テキストになっている『鉄の暴風』を書いた人によって掲載されたわけです。

なんで本が出てから10年以上もたってこんなことになったかは不明なんですが(あまりくわしく調べてないんだけど、家永三郎教科書裁判と関係ある様子)、太田良博さんの批判テキストは1985年4月8日から10回にわたって掲載され、それに対する曽野綾子さんの反論が、1985年5月1日から5回、さらに太田良博さんの再反論が1985年5月15日から6回にわたって掲載されました。


________
 

「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(1)(太田良博・沖縄タイムス1985年4月8日掲載)

はじめに

 

沖縄戦でいつも話題になる事件の一つに渡嘉敷島の集団自決と住民虐殺がある。

この事件について作家の曽野綾子氏は『ある神話の背景』のなかで、

当時渡嘉敷島の指揮官であった赤松嘉次大尉が「完璧な悪玉にされている。赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった」

と述べる。その神話の源になっているのが『鉄の暴風』のなかの赤松に関する記述だとしてその赤松神話を突き崩すために書かれたのが『ある神話の背景』である。

ちょっと待った! 弁護士・成歩堂龍一の出番です。

『ある神話の背景』が復刊された『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』(曽野綾子・ワッツ)では、当該箇所は以下のように書かれています。p39、赤松大尉が1970年に渡嘉敷島の慰霊祭にやってきたときの話。

赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった。私の目に触れる限り、彼は完璧に悪玉であった。その人物を、今人々は見たのだ。それは面長で痩せた、どこにでもいそうな市井の一人の中年の男の姿をしていた。

こういう微妙な言い回しの違い(パラフレーズ)はけっこうあるので、気をつけたいところです。赤松元大尉を悪玉と見る見方に関して、曽野綾子さんは「そう見る側」を客観的に見ているように、ぼくには思えました。

さらに曽野綾子さんは、「神話」というものについて以下のように語ります。p39-40

神話は神話として、深く暗く遠いところに置かれている限り、そして実態が決して人々の目にふれない限り、安定した重い意味を持つのだった。しかしそれが明るみに取り出された場合、神話の本体を目撃して人々はたじろぐのが普通である。なぜなら、悪に於いても、善においても、それほどに完璧だというものは、このようにめったにあり得ないからだ。

赤松神話も、まさにその日、ふとしたことから深い暗い沖縄の記憶から取り出されたのである。

これを、石川為丸さんの以下のテキストと比べてみます。

→『ある神話の背景』の背景 曽野綾子の一書にふれて(石川為丸)

「神話」とは、言うまでもなく、古くから人々の間に語り継がれている神を中心にした物語のことである。が、普通は、「客観的根拠なしに人々によって広く信じられていることがら」といった意味で使われている。

曽野はかつての沖縄戦における日本軍のなした悪業の事実を、客観的根拠のない「神話」という水準のものにしたかったのだ。

沖縄戦にまつわる島々の重たい歴史を、軽い「神話」にしてしまおうとする意図。


曽野氏は、沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』を、戦後、沖縄住民によって書かれた沖縄戦記録の原典と見ているが、その中の第二章「悲劇の離島」の第一項「集団自決」が、『ある神話の背景」で問題とされている箇所である。

実は、その部分は、当時、沖縄タイムス社の記者だった私が執筆したもので、いわば〈赤松神話〉の作り主は私だった、ということになる。そして、赤松神話は『ある神話の背景』によって突き崩されたとする見方が、沖縄の戦記作家たちの間に出てきている。

『鉄の暴風』のなかの=集団自決=の項は、伝聞証拠によって書かれている、赤松の自決命令は事実に反するとする『ある神話の背景』の主張に同調する意見である。もちろんが『ある神話の背景』をそのままみとめているわけではない。手きびしい批判をくわえながらも、曽野氏が指摘した集団自決に関する事実関係については、曽野説を支持し、『鉄の暴風』の記述は訂正を迫られているとしている。


http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060908/oota01


仲程氏の指摘


「太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった」との曽野氏の文章を引用した上で、仲程氏はつぎのように述べる。

〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつき崩していくことであった。

そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令」説はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改訂をせまられたのである〉としている。さらにまた、仲程氏はつぎのように書いている。

 

定説化をおそれる

 

〈曽野は、そのことに関して「いずれにせよ、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で固定されたのであった」と記載に対する重要な指摘をする〉

右のように、『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録が、直接の体験者でない者からの伝聞証拠によって書かれたというのが『ある神話の背景』の論理展開の上でのもっとも重要な土台になっており、それが、そのまま信じこまれているのである。

この「伝聞証拠説」に関する事実関係を明らかにしなければ、曽野氏の見解が、そのまま定説化するおそれがあるので、伝聞証拠で「赤松神話」をつくったとされている私としては、このさい、裏史の証言台に立たざるをえない。すなわち、『鉄の暴風』の問題の箇所が決して伝聞証拠にもとづく記述でないことを立証するために----。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060909/oota012


赤松大尉の暴状

 

まず、曽野綾子氏の「伝聞情報説」が事実に反することを立証するために、事のいきさつをのべておく。『鉄の暴走』の渡嘉敷島に関する話は、だれから聞いて取材したかと曽野氏に聞かれたとき、私は、はっきり覚えてないと答えたのである。事実、そのときは、確かな記憶がなかったのである。ただ、はっきり覚えていることは、宮平栄治氏と山城安次郎氏が沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は「赤松事件」を知ったのである。

宮平、山城の両氏は、曽野氏が言うように「新聞社がやっと那覇で捕えることのできた証言者」ではなく、向こうからやってきた情報提供者であって、「それでは調べよう」と私は答えたにすぎない。そのとき、私は二人を単なる情報提供者と見ていたのだから、二人から証言を取ろうなどとは考えなかったし、二人も、そのとき、赤松事件について詳しいことは知っていなかった。

〈二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが…〉と、『ある神話の背景』のなかに書いてあるのは、曽野氏の勝手な解釈である。

それで私は、あのとき、なんのメモもしなかったし、二人はそのことを告げただけで帰ったのである。その後、『鉄の暴風』が出版されるまで、いや、出版後も長く彼らとは会っていない。

 

宮平氏の復員

 

宮平氏が沖縄タイムス社に私を訪ねてきたことを、私が特にはっきり覚えているのは、次の事情からである。宮平氏は私の中学の同級だった。そして、宮平氏が、沖縄タイムス社に姿を見せたときは、中学以来はじめての邂逅(かいこう)だったので、とくに印象が強かったのである。

宮平氏(終戦当時、准尉)が復員して、郷里の渡嘉敷島に帰ってみると、集団自決や住民虐殺事件が待っていた。その怒りをもって、宮平氏は、新聞社に私を訪ねてきたのだが私は、その宮平氏から渡嘉敷島の事件について取材したとは、曽野氏に語っていない。だれから取材したかについては、はっきりおぼえていないが、宮平氏から聞いて、はじめて、その事実を知ったことはたしかだ、とあやふやな返事をしたにすぎない。ところが『ある神話の背景』では、宮平・山城の両氏から私が取材したことにされている。

 

取材に関する事実

 

曽野氏は、宮平氏当人とも会って、そのことについてたしかめているようだ。『ある神話の背景』では、つぎのようなカッコ付きの説明をしている。(もっとも、宮平氏はそのような取材を受けた記憶はないという)と書いてあるのである。そう書きながら曽野氏は、宮平氏から私が取材しているものと断定している。これは自己どう着である。

宮平氏本人が私(太田)から取材をうけたことを否定しているのだから、では、太田は、だれから取材したのかということについて、曽野氏は、疑問をもつべきであり、さらに、取材に関する事実をたしかめるべきである。その疑問を残したまま、私自身もはっきりした記憶がないと答えてあったにもかかわらず、曽野氏は、私が宮平氏から取材したことにしてしまっている。そして、『鉄の暴風』の記述は、直接の体験者でない者からの伝聞証拠による記述だと断定しているのである。この断定のあやまちはどこからきているか。

『ある神話の背景』は、集めた資料や情報から帰納的に結論が導かれたものではなく、あらかじめ予断があって、それを立証するための作業であったようにおもわれる。


はじめに赤松元大尉に会って、「悪人とは思えない」との印象をうけた。執筆者の私は、だれから取材したかについてあやふやな返事をした。だが、早とちりにとびついたのが〈伝聞証拠説〉である。そこで、宮平氏の被取材否定の高い障壁もカッコ付き説明で簡単にとびこえてしまったのである。でなければ書けなかった『ある神話の背景』の論理をささえる土台は、その点で、不安定なものとなる。


(太字は原文では傍点表記)

このテキストについては、曽野綾子さんからの反論で緻密に語られるわけですが、『「集団自決」の真実』(『ある神話の背景』改題・復刊)では、その部分はどう書いてあるかを引用してみます。p62-65

「鉄の暴風」は、まだ戦傷いえぬ、昭和二十五年に沖縄タイムス社によって企画出版されたものであった。沖縄タイムス社自身が創立されたのは、昭和二十三年であった。

当時政府に勤めていた太田良博氏は、或る日、沖縄タイムス理事・豊平良顕(とよひらりょうけん)氏から、その手伝いをしないかと乞われたのであった。戦史を書こうなどということを思いつくのは、当時まだ新聞社くらいのものであった。そこには新聞人の使命感があった。

取材に歩くと言っても、太田氏が当時使えたのは、トラックを改造したものだけであった。バスさえもまだなかった時代である。

「そんな時に渡嘉敷島へは、どうしていらっしゃいました」

私は驚いて尋ねた。

「漁船でもお使いになりましたんですか? でも、漁船もろくにありませんでしたでしょう」

「いや、とても考えられませんでしたね。定期便もないし」

「どうしていらっしゃいました?」

「いや、向うから来てもらったんですよ」

「何に乗って来ておもらいになったんですか」

「何に乗ってきましたかねえ」

困難な時代であった。直接生きるために必要なもの以外のことに、既にこうして働き始めていた人があるということは、私には信じられないくらいであった。

太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。二人は、当時の座間味村の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起った事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。勿論、二人共、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった。しかし当時の状況では、その程度でも、事件に近い人を探し出すのがやっとだった。太田氏は僅か三人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を三か月で調べ、三か月で執筆したのである。(もっとも、宮平氏はそのような取材を受けた記憶はないと言う)

太田氏は、この戦記について、まことに、玄人らしい分析を試みている。太田氏によれば、この戦記は、当時の空気を繁栄しているという。当時の社会事情は、アメリカ側をヒューマニスティックに扱い、日本軍側の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。

「時代が違うと見方が違う」

と太田氏はいう。最近沖縄県史の編集をしている史料研究所あたりでは、又見方が違うと思うという。違うのはまちがいなのか自然なのか。

いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で、固定されたのであった。

で、実はこのあと、「沖縄戦に“神話”はない」連載第三回目では、太田良博さんは「伝聞証拠ではなく、ちゃんと関係者から話を聞いた」ということで、猛烈な勢いで反論しています。


しかしなんでこう、太田良博さんと曽野綾子さんの間で、言った・言ってないとか、記憶違いだとか、あとで思い出したとか、みたいなことになっちゃったんでしょうか。この「証言者」「伝聞証拠」という件に関しては、太田さんの言い分のほうが正しいような気が、ぼくにはしています。


曽野綾子さんも、本にする前に「あなたの言ったことはこのように書きましたが、この記述で問題はありませんか」みたいな確認をすればよかったのに(していてもなおかつ、そのような「記憶違い」は出て来るとは思いますが)。雑誌レベルのインタビューだったら、相手の確認を得ないまま本(雑誌)にしちゃうこともないわけではありませんが、セミ・ドキュメンタリーというか、ノンフィクション形式の著作物にするんだったら、「そんなことを、俺は言った覚えはない」と相手に言われない程度の確認はもう、嫌というぐらい必要な気がします。


で、もうひとつ気になることですが、この『「集団自決」の真実』には曽野綾子さんのテキストとしては「悪人とは思えない」というフレーズ、もしくはそれに類似したものは出てきませんでした。


赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった。私の目に触れる限り、彼は完璧に悪玉であった。その人物を、今人々は見たのだ。それは面長で痩せた、どこにでもいそうな市井の一人の中年の男の姿をしていた。

というのがあるので、「はじめに赤松元大尉に会って、「完璧に悪玉であった」との印象をうけた。」なら分からなくもないのですが。あるいは「どこにでもいそうな市井の一人の中年の男の姿」ということを受けるのなら「はじめに赤松元大尉に会って「どこにでもいそうな市井の一人の中年の男」との印象をうけた」とか。せいぜいパラフレーズするにしても「「普通の男に思える」との印象を受けた」、でしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060909/oota02


 実は『鉄の暴風』は伝聞証拠によって書かれたものではないのである。それを明らかにする前に一言ことわっておきたいことがある。私は、曽野綾子氏に、取材した相手をはっきりおぼえていないと答えた。事実、そのときは、そうであった。取材相手をおぼえていないというのは、取材者としては、うかつのように聞こえるかもしれないが、それにはそれなりの理由があった。

 

記録は取材の一部

 

一つの理由は、『鉄の暴風』を書くに当たっては、あまりにたくさんの人と会ったので、話を聞いた、それらの人たちがいちいちだれであったか、おぼえていないということである。一つの座談会に、多いときは二十人近くも集まる。座談会だけでもいくらやったかわからない。それも沖縄戦全般にわたっての取材で、渡嘉敷島の記録は、そのごく一部である。取材期間三ヵ月、まったく突貫工事である。それに『鉄の暴風』に記録として採用したのは、これまた取材の一部であり、記録されなかった証言者のものもふくめると、いちいちおぼえられないほどの人たちと会っている。

『鉄の暴風』は、証言集ではなくk、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため、証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかった。

 

立体的証言を信用

 

もう一つの理由は、取材のやり方である。『鉄の暴風』の執筆者は、牧港篤三記者と私の二人であったが、普通、ルポ・ライターがやるように、あるいは新聞記者が新聞記事を取材するように、私たち執筆者が任意に、あるいは主意的に取材相手を選択して取材したのではなく、話を聞くために人を集めるにあたっては、大体において、新聞社(沖縄タイムス)がお膳立てをしたのである。私たちは、社が集めてくれた人たちの話を記録して、それを文章化する作業につぎつぎと追われていた。

証言者の名をいちいちおぼえていないのは、そういう事情にもよるが、曽野氏から渡嘉敷島に関する取材相手を聞かれたときは、『鉄の暴風』の執筆からすでに二十数年もたっていたのである。

『鉄の暴風』で証言者の名前をいちいち記録しなかったのも、理由はほかにもあるが、そのときの証言者たちの一つの事件に対する複数の立体的証言を私たちが信用していたからである。生死の境をくぐってきたばかりの人たちの証言として重くみたからであり、沖縄戦の体験は、沖縄住民の歴史的な共有財産(注:原文は傍点)であると考えたからである。

渡嘉敷島に関する記録も、社が直接体験者を集めて記録したものである。記録の場所は那覇市内のある旅館の一室であった。その旅館は、現在の国映館の筋向いの奥まった所にあったようにおぼえている。このことを、『ある神話の背景』が出たあと、『鉄の暴風』を読み返していくうちに思い出したのである。

 

古波蔵氏も出席

 

新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない。あのとき旅館に証言者を集めたのは、沖縄タイムス社の専務だった座安盛徳氏(故人)だった。

当時、座安氏は、糸満に居住していて、その対岸の渡嘉敷島の関係者を集めるのに有利な立場にあった。そのとき、例の旅館に集まった人たちが誰々であったか、確かな記憶はないが、その中に、戦争中の渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏がいたことをようやく思い出した。古波蔵氏は、集団自決の現場にいた人である。

古波蔵氏とは、その後も二回ほど会っている。同氏は、姓を「米田」に改め、那覇の泊港の船舶関係の事務所にいた。その事務所に、私はいくつかの事実を確かめるために訪ねて行ったのである。この再度の訪問で、私が知りえた事実のなかには『鉄の暴風』に記録されなかったものもある。『ある神話の背景』のなかの他の箇所について反ばくできる材料であるが、伝聞証拠説に関する本筋から外れるので、ここでは割愛することにする。

戦後二十数年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後まもなく、戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる。

今回はかなり具体的に、太田さんが『鉄の暴風』を書くにあたって、どういう風に関係者(直接体験者)から証言を得たか(取材したか)が語られています。

曽野綾子さんが『ある神話の背景』で「太田氏は僅か三人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を三か月で調べ、三か月で執筆したのである」という風に語っている、『鉄の暴風』執筆時のハードなスケジュール状況は確かに感じますが(それによる事実誤認や聞き間違いは、直接体験者が経験を語るにあたっても、なかったとは言い切れないでしょう)、「いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で、固定されたのであった」と語っている部分とは、確かに矛盾しています。

まぁ、勝手な憶測としては、ぼくは曽野綾子さんは太田良博さんに、

「あなたは、渡嘉敷島の集団自決について、誰からお聞きになりましたか?」

という質問をしたんじゃないか、と思っています。

その質問の「誰」という部分を、太田さんは「その情報(集団自決の情報)を最初に提供した人物」と解釈し、曽野さんは「集団自決に関する直接体験をした証言者」と解釈した、というのは何となくありそうなことです。

お二人の、相手に対する厳しい批判になっている部分が少しは感じられるにしろ、基本的には誠実なように見えるテキストからは、どちらかが(あるいは両方とも)嘘を言っている、という判断は、なかなか難しいんですよね。

 

なんか、ミステリーの証言トリックとして使えそうな気がします。

Aという人物が殺され、Bが犯人として逮捕される。Aの友人であるCは、警察(あるいは探偵)から、次のような質問を受ける。

「容疑者のBの女性関係が、かなり乱れていた、という話もあるんですが、Cさんはそれについて何か聞いたことがありますか?」

「ああ、それについては、DさんとかEさん(二人とも女性)とかから聞きました」

で、その「聞いた」というDさんやEさんは、「伝聞情報」をCさんに伝えただけ。「だいぶプレイボーイって噂みたい」と、何かの機会にCさんに言った、という感じ。

ところが警察(あるいは探偵)のほうは、DさんやEさんがその直接の体験者(容疑者Bと「関係」を持った人物)である、と勘違いしてしまう。

…ものすごくベタな、通俗ミステリーみたいな筋立てになっちゃいそうですが。

 

みなさんはどう思いますか。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060910/oota03

体験者の証言記録

 

『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。

直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。

『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録のなかで、具体的に名前が出てくるのは、住民の生存者では、当時の「古波蔵村長」と「渡嘉敷国民学校の宇久眞成校長」の二人だけである。『鉄の暴風』の問題の箇所の文脈からみても、その記録のなかに、すくなくとも、この二人の証言がはいっていることは察知できるはずだが、どういうわけか、ほかの面では、いろんな資料を鋭く読みとっている曽野氏が、この渡嘉敷島の記録が、伝聞証拠によるものか、直接体験者の証言によるものかという判断では、その目は曇ってしまっている。『鉄の暴風』のなかの記録が伝聞証拠によるものだとの前提が欲しかったからである。

 

宇久校長宅で取材

 

宇久眞成氏は、渡嘉敷島が戦場となった当時、国民学校の校長として、軍と住民の間にはさまれて苦しい立場に立たされた人である。『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録の末尾に出てくる、赤松大尉とその部下が米軍に降伏する場面は、宇久氏から直接聞いた話で、宇久氏は、その降伏式に立ち会っていたのである。その話は、私が単独で、宇久氏の家で取材した。

宇久家は、私が幼少のときからの隣家で、宇久氏の子供たちと私は幼なじみの間柄だったし、私が終戦の翌日、ジャワから復員したときも、一時、大分県に疎開していた宇久氏の留守家族の所に仮住まいし、その年十一月、沖縄に帰還するときも、宇久氏の家族の一員ということにしてもらって、いっしょに帰ったのであり、現在も、親族以上の交際を続けている。

宇久家は教育一家であり、長男と長女は定年で教職を退いているが、二男はいま高知女子大の先生である。宇久眞成氏(故人)は誠実な人柄であった。その宇久氏に、渡嘉敷島での体験を聞き、いろいろたしかめた上で、『鉄の暴風』のある記録を書いたのである。あのとき、口数の少ない宇久氏は、低い声でしみじみとした口調でつぶやいた。

「兵隊はこわい」----。

宇久氏が言う兵隊とは、赤松大尉と、その部下たちのことである。

 

記述改訂必要なし

 

これで、『鉄の暴風』のなかの渡嘉敷島に関する記述が、伝聞証拠によるものでなく、ほんとうの体験者からの取材であることをことわっておく。

伝聞証拠説で、『鉄の暴風』にある渡嘉敷島の記事はアテにならないものだという印象を与えた上で、『ある神話の背景』の論理は構築されているが、『鉄の暴風』の渡嘉敷島の記述が伝聞証拠によらない、実体験者の証言によって書かれたものとなると、あとに残るのは、赤松の言葉を信ずるか、渡嘉敷島の住民の言葉を信じるかと言う問題である。

私は赤松の言葉を信用しない。したがって、赤松証言に重きをおいて書かれた『ある神話の背景』を信ずるわけにはいかない。渡嘉敷島の住民の証言に重きをおいた『鉄の暴風』の記述は改訂する必要はないと考えている。

赤松はたしかな証拠もなく住民を処刑しているが、彼の言葉を信用して、彼のために全面弁護を試みている『ある神話の背景』よりも、戦争の被害者である渡嘉敷島の住民のなまなましい体験をもとに書いた『鉄の暴風』のなかの“渡嘉敷敗戦記”が信ずるに足るものである。同戦記は証言による記録として書かれたが、『ある神話の背景』は赤松弁護の意図で書かれている。

ううむ…。

どうも、なんか最後のほうは「痴漢に会って泣いている女子高生の言い分を信じる」みたいな感じになっているように、ぼくには思えるような飛躍を感じてしまいました。

信じる・信じないの問題ではなく、また、赤松大尉が「たしかな証拠もなく住民を処刑」したかしないかでもなく、ぼくとしては「赤松大尉の『集団自決せよ』みたいな命令」が実際にあったのか、それを誰かが聞いているのか、「聞いた」という証言はあるのかないのか、というのが、ぼく、および曽野綾子さんが考えたい問題なわけです。

「命令書(文書として残っている書類)」があるか否か、ではないですよ。口頭で伝えられる「命令」に対して複数の人間が「言った」と証言すれば、そしてその証言に対し「言わなかった」という証言がなければ、その「命令」があった、ということは、書類が残っているというケースの次に、「実際にあったこと」として判断すべき材料になるでしょう。

「痴漢」の例で言うのなら、実際の物的証拠(髪の毛とかDNA鑑定できるもの)が存在しなくても、「彼女が痴漢されているのを見た」という第三者が複数存在していたら、その女性が痴漢に会ったのは、信じる・信じないとは別の次元で「あったことには間違いない」という判断ができるし、それに対して別の第三者が「ずっと見ていたが、そのような行為はなかった」と証言したら、ちょっとややこしいことになるな、というわけです(物的証拠が必要になるかもしれません)。

で、赤松大尉が村の人間全員集めて「お前ら全員死ね!」と言った、なんて、直接体験者の証言はどうもないみたいなので。あるのは「赤松大尉の命令らしい」という伝聞情報ばかりになっているのが考えどころですね。つまり、赤松大尉が村の人たちに何かを伝える場合は、直接命令ではなく村の代表者を通して伝えた(村の代表者が「赤松大尉の命令だ」的なことを言った、という証言はある)のが話をややこしくしているわけです。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060911/oota04

『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録は、伝聞証拠によるもので、そのまま信ずることはできないという前提で、『ある神話の背景』は、集団自決の問題をもち出す。

渡嘉敷島住民の集団自決に関し、赤松大尉は命令を下したおぼえはないという。この“赤松証言”に曽野綾子は重点を置いている。しかし、その言葉の信憑(ぴょう)性をどう検証できるだろうか。もし、これが検証できないとすれば、『鉄の暴風』の記述を崩す根拠とはならないわけだが、『ある神話の背景』で、「赤松証言」の客観的真実性が証明されてはいない。たとえ赤松の命令があったとしても、赤松本人が「私が命令した」というはずはないのである。自分に不利な証言となるからである。命令は、あったとしても、おそらく口頭命令であったはずで、そうであれば、「命令された」「いや、命令しなかった」と、結局は水掛け論に終わるだけである。

 

共犯者の立場

 

この命令説の真相を知っていると思われる人物が二人いる。一人は、赤松の副官であった知念少尉であり、一人は赤松と住民の間に立って連絡係の役目をつとめた駐在巡査安里喜順氏である。この二人とも、『ある神話の背景』のなかで真相を語っているとは思えない。知念は赤松と共犯者の立場にあり、安里は自決命令を伝えたなどとは言い難いので、「自決命令」を否定するほうが有利なのである。

集団自決命令の有無をうんぬんする場合、物的な状況証拠となるのが、あのとき住民の手にわたった手りゅう弾で、それがなぜ住民の手に渡ったかということが問題である。『ある神話の背景』によると、手りゅう弾が住民の手に渡ったのは、防衛隊員が勝手に渡したのであって、「自分はあずかり知らぬ」といったような赤松の談話を載せてあるが、手りゅう弾は、戦力を構成する重要な兵器の一つであって、その取り扱いについては軍の指揮官が責任を負うべきものである。手りゅう弾が住民に渡されて、その手りゅう弾で、住民は集団自決を行っているのだ。その手りゅう弾は、住民の集団自決を結果するような状況をつくり出しているのだ。

 

武器管理の常識

 

昭和二十年三月二十五日、米艦船は慶良間列島に激しい砲撃を加え、翌二十六日、米軍の一部が渡嘉敷島に上陸、二十八日に集団自決が行われている。最初、陣地の近くに集まった住民たちが、陣地近くの恩納河原に追いやられたとき、米軍の迫撃砲の攻撃をうけて、住民たちは死と隣り合わせの状況にあったことは確かだが、それだけが集団自決を誘発したとは思えない。それを誘発したのは手りゅう弾である。切迫した状況のなかで、手りゅう弾五十二発が住民に渡されたのだが、そのこたおがいちばん重要な意味をもっている。

これだけの手りゅう弾は、装備劣悪な赤松隊にとって、かなりの比重をもつ火力であったはずである。赤松元大尉は、手りゅう弾は、防衛隊員が勝手に住民に渡したのであって、自分は知らぬと言っていたようだが、防衛隊員が、どういう理由で、自分の意思で、同じ島の住民である非戦闘員に手りゅう弾を渡すのか、その動機や理由が理解できないし、防衛隊員も、また、大切な武器である手りゅう弾を上官の許可なく他人に私たりすると、軍規上、厳しい処罰を受けるおそれがあることを知らなかったはずはないのである。

武器の取り扱いについては防衛隊員も厳格な注意を受けていたはずで、軍隊の指揮官が武器の取り扱いについての注意もなしに武器をあたえることは考えられないのである。

手りゅう弾が、防衛隊員を通じて住民に渡されたことについては、軍の同意、許可、あるいは命令があったとしかおもえない。平時、ピストルの不当所持をさえ警察は血眼になって摘発する。敵前での手りゅう弾のもつ意味は、その比ではない。手りゅう弾は防衛隊員が勝手に渡したのだ、おれは知らぬ、と赤松が言ったとすれば、これは軍隊の常識からみて、まったくのでたらめとしか言いようがない。そんなはずはないのである。

この「手りゅう弾」の問題、つまり「軍の関係者による関与なしで住民の手元にそんな武器が渡るはずがない」という問題はとても重要なのですが、具体的な討論の材料として展開していないのが残念です(このあとの、太田さんのテキストに対する曽野綾子さんの反論でも、その部分は具体的に語られていません)。

「自分はあずかり知らぬ」といった部分の赤松大尉の記述は、以下の通りです。『ある神話の背景』改題の『「集団自決」の真実』から、p153

「自決命令は出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が死ねと言われたのだと思っても仕方ありませんね」

私は質問をはじめた。

「手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵には、これは正規軍ですから一人一、二発渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います。

赤松氏は答えた。

(太字は引用者=ぼく)

赤松氏の説明と、状況から判断すると、太田良博さんが提起している「防衛隊員が、どういう理由で、自分の意思で、同じ島の住民である非戦闘員に手りゅう弾を渡すのか」という「その動機や理由」は多分、アメリカ軍の捕虜になって欲しくない、という防衛隊員の考えなんじゃないかと思います。それについて「自分はあずかり知らぬ」(正確には「彼らが勝手にそれを家族に渡した」)という赤松元大尉の答弁は、太田良博さんの言う通り「軍の指揮官が責任を負うべきもの」であることは否定できないでしょう。ただし、その「責任」については、赤松さんの話が本当だとするなら、武器を民間人に配った防衛隊員に対する処罰もからんでこなければならない責任問題ではありますが…。

また、「安里は自決命令を伝えたなどとは言い難い」と、太田さんが思っている根拠をもう少し知りたいと思いました。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060912/oota05

 赤松大尉の言葉

 

赤松大尉の命令または暗黙の許可がなければ、手りゅう弾は住民の手に渡らなかったと考えるのが妥当である。それ以外のことは考えられない。

曽野綾子氏は軍隊の組織を知らないから単純に赤松の言葉を信ずるのである。軍の指揮官は、武器の所在と実数を確実に掌握していなければならない。武器の取り扱いについては、指揮官の命令(注:原文傍点)が絶対に必要である。防衛隊員が、指揮官の命令がないのに勝手に武器を処分することは絶対に許されない行為である。それがわかったら、それこそ大変なことになる。敵前歩哨が居眠りをするだけで、死刑、ときめられている陸軍刑法のなかで、軍の生命である武器を指揮官の命令なくして処分することが何を意味するか、容易に理解できることである。防衛隊員を通じて手りゅう弾が住民に渡された事実を、赤松が知らなかったはずはない。「知らなかった」とは白々しい言葉である。

あの状況の中で、住民の手に手りゅう弾が渡ったことは、なにを意味するか。「死」を目前にしての手りゅう弾は、心理的に「死」を誘発する「物」だったのである。それに、手りゅう弾は、住民が求めたものでなく、あたえられた(注:原文傍点)「物」だった。

 

追加された手榴弾

 

そして、そのあたえられた数にも問題がある。渡嘉敷島の集団自決者の数は、『鉄の暴風』では三百三十六人、沖縄タイムス社刊の沖縄大百科事典では三百二十九人となっている。だが、曽野氏は、その数を非常に少なく見積もろうとしている。そのため地形を説明したり、わずかの自決者しか目撃しなかったという兵隊の証言を引き合いに出す。二十人や三十人の自決なら手りゅう弾は四発か五発あればよい。何百人も自決したはずがないと曽野氏は疑っているが、住民に渡された手りゅう弾は五十二発である。一発の手りゅう弾が十人の自決用としても、この数は数百人分に当たる。

しかも、手りゅう弾の渡され方にも問題がある。自決用として住民に渡された手りゅう弾は、最初、三十二発だったが、さらに、二十発増加されたという。この「追加」は何を意味するか。最初の三十二発では足らないということで追加されたという。「足りない」と判断したのはだれかということになる。個々の防衛隊員が任意に判断したのか。個々の防衛隊員が勝手に渡すなら、まず、自分用の一個か、多くて二個である。防衛隊員が勝手に渡したのであれば、住民に渡された手りゅう弾全部の実数を個々の防衛隊員が知るはずがない。したがって、三十二発では足りないと判断したのは防衛隊員ではないはずだ。

 

ある統一した意志

 

防衛隊員が軍の掌握下から完全に離れておれば、個々任意に渡したとも考えられるが、あのとき防衛隊員は軍の完全な掌握下にあったのである。集団自決の時期は、米軍上陸の直後であり、小さい島では軍の統制から全く離れることはできなかった。防衛隊員は軍に強くひきつけられていたのだ。防衛隊員が勝手に手りゅう弾を住民に渡したなどとは考えられない。また、集団自決直前、住民は、赤松の陣地付近に集合させられている。住民が勝手に集まってきたのだと赤松は説明しているが、当時の状況から考えてありえないことである。十数人の住民が偶然、その陣地付近にやってきたというなら、そういうこともありうるかもしれないが、この場合は、何百人という住民が、それぞれのかくれていた場所から出てきて集合しているのである。任意に集まるはずがない。かり出されたのである。

集団自決の直前に、住民の集結という事実があった。ある統一した意志が働かなければ、あの状況の中で、軍陣地に多くの住民が集結することはおこりえない。集団自決は、この「住民集結」という状況によって準備されたのである。

米軍上陸、赤松隊の陣地への住民の集結、そして手りゅう弾が住民の手に渡り、その直後、集団自決がおこった。これら一連の事実関係は見逃すことができない。

陣地付近への住民集結には、ある強い意志が働いていたと私は判断する。

どうもここらへん、入力しながら太田良博さんの文章の乱れが気になりますが(同じような語句の繰り返しなど)。神話というか、語り継がれる民話を入力しているような気分になります。まぁそれはともかく。

「防衛隊員が、指揮官の命令がないのに勝手に武器を処分することは絶対に許されない行為である」ということなら、防衛隊員もそのあたりについて調査され、何らかの事情がはっきりして、処分の対象になったとかならなかったとかいう事実はあったのでしょうか。まぁ、日本軍(旧帝国の)がなくなってしまった以上、「防衛隊員」の罪も、赤松隊長の責任も問われる具合は異なってくるとは思いますが、「知らなかった」、正確には、曽野綾子さんのテキストに基づくと「彼ら(防衛隊員)が勝手にそれを家族に渡した」赤松さんの責任と比べると、防衛隊員のかたがたの責任の問われ具合が少し甘すぎるように、ぼくには思えました。

「手りゅう弾の渡され方」が一度ではなく二度に分けられた件に関しては、ちょっと『ある神話の背景』に引用されている『鉄の暴風』あたりのテキストでは確認できなかったので、それが記録されている文書・テキストをもう少し探してみたいと思います(ご存知のかたは教えてください)。

さらに、「一発の手りゅう弾が十人の自決用としても」という数字の根拠がよくわからないところです。手りゅう弾の殺傷能力について、もう少し調べたいところですが、『ある神話の背景』では、住民の言葉として、「手榴弾を抜いたが発火しなかった」(p140:古波蔵元村長の言葉を曽野綾子氏が引用)、「手榴弾がきかないもんですからね。不発とかで」(p159:住民・金城つる子さんの言葉)、「不発のほうが多かった」(p175:住民A(匿名)氏の言葉として。ただし曽野綾子氏は補足として「住民の多くはやはり手榴弾の起爆法を知らなかったのだという」という記述も加えている)など、五十二発の手りゅう弾で、「一発の手りゅう弾が十人の自決用としても、この数は数百人分に当たる」という判断には無理があります。「自決用」として渡す手榴弾に数百発のものを、赤松隊が用意できるとは、当時の武器弾薬の状況から考えるととてもできないわけですが、村の住民全員に「これで死ね」と武器(手榴弾)を渡すことはちょっと無理だったのでは(もちろん、武器を渡すことなく、「いろいろな道具で死んでくれ」と命令することも可能なので、そのことが即、「集団自決の命令はなかった、ということではありませんが)。

「それぞれのかくれていた場所から出てきて集合している」という話は、もう少しあとで状況について調べて語ってみたいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060913/oota06

初め壕や洞穴に

 

米軍上陸と同時に住民は追われるように陣地付近に逃げてきたと『ある神話の背景』では説明する。砲撃と米軍上陸、この事実に直面した住民たちはとっさに、それぞれ安全とおもわれる場所、つまり壕や洞穴にかくれたようだ。それが当然である。いきなり猛攻をうけたときの反射的な初動である。『鉄の暴風』には「住民はいち早く各部落の待避壕に避難し…」と書いたが、実際はあわてふためいた本能的な行動だったと思う。そして、住民たちは各個に孤立し、そこには統一された意思はなかった。軍の意思により駐在巡査がかり集めたというのが真相であろう。その理由は「住民は捕虜になるおそれがある。軍が保護してやる」というのである。

米軍上陸が三月二十三日で、その翌日、赤松隊は西山A高地に陣地を移動している。その陣地の位置がまた問題である。赤松隊長自身、その移動先の陣地の場所を最初は知っていなかったと『ある神話の背景』に書かれている。壕や洞穴に身をひそめていた住民たちが、赤松隊がどこに移動したか知るはずがない。ところが、住民が新陣地である西山A高地の赤松隊の陣地付近に集まってきたのは、赤松隊が陣地をそこに移動したその当日である。住民集結には誘導者がいたのだ。軍の意思が働いていたのだ。

 

安里巡査が伝達

 

住民は西山A高地のことは知っていても、そこに赤松隊が移動した事実を知るには、移動の事実の伝達者がいなければならぬ。その伝達者は安里巡査以外には考えられない。彼は軍と住民の連絡の立場にあったからである。赤松隊の説明のように、多くの住民が砲弾に追われて逃げこんだというのは、移動した陣地の所在が住民にとって不明の状態ではありえず、偶然がいくつもかさならなければ起こりえないことである。また、集団自決は、軍の玉砕を信じて決行されたものにちがいない。軍が戦後も生きのびて部隊降伏するとわかっておれば、集団自決は行われなかったはずだ。

住民の自決をうながした自決前日の将校会議についての『鉄の暴風』の記述を曽野氏は、まったくの虚構としてしりぞけている。『ある神話の背景』のなかにつぎの言葉がある。

 

曽野氏こそ虚構

 

〈ただ神話として『鉄の暴風』に描かれた将校会議の場面は実に文学的によく書けた情景と言わねばならない。しかし、これは多かれ少なかれどの作家にも共通の問題だと思うが、文章を書く者にとっての苦しみは、現実は常に語り伝えられたり、書き残されたものほど、明確でもなく、劇的でもないということである。言葉を換えていえば、現実が常に歯ぎれわるく、混とんとしているからこそ、創作というものは、そこに架空世界を鮮やかに作る余地があるのである。しかし、そのようなことが許され得るのは、虚構の世界においてだけであろう。歴史にそのように簡単に形をつけてしまうことは、だれにも許されないことである〉。

よくかけた文章とはむしろ曽野氏のこの文章のことで、これでとどめをさしたつもりかも知れないが、あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない。将校会議はなかったということを証明するために、それをおこなう場所さえなかったと曽野氏は説明する。将校会議などやろうとおもえばどこでもできる。陣地の設備など問題ではない。

陣地になんの設備もなかったというのもおかしい。通常、陣地の移動は設備のある場所を選ぶ。「西山A高地」は軍隊用語であり、陣地名とおもわれる。渡嘉敷島には赤松隊がくる前に設営隊もおった。西山A高地は要塞の場所らしいが、その場所に、その翌年*1からきていた設営隊や赤松隊は、そこに陣地もつくらずに何をしていたのだろう。しかも、西山A高地を“複廓陣地”とよんでいる。複廓陣地とは高度の防御陣地のことである。

ちょっとこのあたりから、太田良博さんのテキストは「思う」「あろう」「はずがない」「考えられない」という、反論・反証が難しい割に、説得しようという著者の意図が気になる表現が多くなります。

「『鉄の暴風』に描かれた将校会議の場面」というのは、『ある神話の背景』改題の『「集団自決」の真実』によるとこんな感じです。p132-135

惨憺たる泥まみれの一夜であった。指揮官自らが穴掘りをしたのである。

しかし沖縄戦に関する資料の一つとしてどこにも引用される、沖縄タイムス社刊の『沖縄戦記・鉄の暴風』はその夜のことを決してそのようには伝えていない。それどころか、全く別の光景が描かれている。

「日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地(複廓陣地のこと。----曽野注)に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたが、そのとき赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食料を確保して、持久体勢をととのえ、上陸軍と一戦交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」

昭和四十六年七月十一日、那覇で知念元少尉に会った時、私が最初に尋ねたのはこのことであった。

「地下壕はございましたか?」

私は質問した。

「ないですよ、ありません」

知念氏はきっぱりと否定した。

「この本の中に出てくるような将校会議というものはありましたか」

「いやあ、ぜんぜんしていません。只、配備のための将校会議というのはありました。一中隊どこへ行け、二中隊どこへ行けという式のね。全部稜線に配置しておりましたんでね。

知念朝睦氏は、あまりにもまちがった記事が多いのと、最近、老眼鏡をかけなければ字が読みにくくなったので、この頃は渡嘉敷島に関することは一切、読まないことにした、と私に笑いながら語った。

つけ加えれば、知念氏は少なくとも昭和四十五年までには沖縄の報道関係者から一切のインタービューを受けたことがないという。それが、赤松氏来島の時に「知念は逃げかくれしている」という一部の噂になって流れたが、

「逃げかくれはしておりません。しかし何も聞いていないところへ、こちらから話を売り込みに行く気もありませんから、黙っておりました。

昨年春(昭和四十五年三月)赤松隊長が見えた時に、市役所の所員の山田義時という人から会いたい、という申し出を受けました。何も知らないので、初めは会おうと思いましたが、その後、その山田氏が、赤松帰れという声明文などを空港で読み上げて、それで名前もわかりましたので、そんな人に会うのは不愉快だと思って断りました。しかしその時が面会を申し込まれた最初でした」

知念朝睦氏は語るのである。

そこにいた兵隊たちの言葉を総て、共同謀議による嘘だというのであれば別だが、その日、地下壕で将校会議が行われたということを、その儘信じることは少々危険なようである。当の知念元少尉自身がその話を承認しない。又当時、第二中隊長であった富野稔元少尉も、山川泰邦著『秘録沖縄戦史』(沖縄グラフ社)の「三月二十七日、(中略)安全地帯は、もはや軍の壕陣地しかない」という部分に、根本的な二つのまちがいがあると指摘する。第一は軍はまだ壕を掘っていなかったこと、第二は壕予定地といえども決して安全ではなかったこと。富野氏によればあの島にはその日、安全を保障される土地は一平方メートルもなかった。

と、この後に、太田良博さんが引用している「ただ神話として『鉄の暴風』に描かれた将校会議の場面は実に文学的によく書けた情景と言わねばならない。」云々が来るわけです。

「地下壕内において将校会議を開いた」という『鉄の暴風』の記述と、「ないですよ、ありません」という知念元少尉の発言(『ある神話の背景』改題の『「集団自決」の真実』中の記述)とは、まっこうから対立するわけで、本当だったら実際に地下壕があったかなかったか、その「物的証拠」を検証するしかないわけなんですが、太田さんのテキストでは「将校会議などやろうとおもえばどこでもできる。陣地の設備など問題ではない。」と言っているので、これはもう、なかった、という判断で特に問題はないんじゃないかと思います。

で、実際には「なかった」という可能性の高い「地下壕での将校会議」で、「まず非戦闘員をいさぎよく自決させ」ということが話されたのか話されなかったのか、なんですが、「地下壕ではないどこか別の場所でそのような話がなされた」ということを信じるには、ぼくの想像力の何かをねじまげないと難しいものがあります。つまり、『鉄の暴風』で語られている「将校会議」の、ある部分は嘘で、ある部分は真実である、というような想像力を作り上げないと難しい、ということですね。

太田良博さんの「伝聞情報」「直接体験の証言」との混乱部分をはっきりさせるには、「日本軍が降伏してから解ったことだが」という「解ったこと」については、「誰」によってわかったのか、ということが重要な問題でしょうか。つまり、その「将校会議」で語られたことを太田良博さんに伝えた人物は、その情報を「伝聞情報」で知ったのか、「直接体験」として実際に、赤松大尉その他が語ったことを聞いたのか、ということです。

 http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060914/oota07

信頼どこにおくか

 

将校会議があったかなったか、赤松隊の陣地がどうだったかということは、付帯的な問題にすぎない。『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものであり、また、なかには創作的な記述があることを証明するためにそれらは持ち出されたものだが、『鉄の暴風』の記述がすべて実体験者の証言によるものであり、記述者の創作は介入していないことを言明することで答えとしたい。あとは、赤松側の言葉を信用するか、住民側の証言に信頼を置くかの選択が残されるだけである。

ありもしない「赤松神話」を崩すべく、曽野綾子氏は、新しい神話を創造しているにすぎない。そのやり方は手がこんでいる。『鉄の暴風』だけでなく渡嘉敷島に関するほかの戦記もすべて信用できないとする。なぜなら、それらの戦記にも『鉄の暴風』とおなじようなことが書かれているからで、それらすべてを否定しないと、赤松弁護の立論ができないのである。

沖縄側の渡嘉敷戦記の全面否定は、あとで曽野氏がいちばん信用できるとする赤松隊の陣中日誌なるものを持ち出すための伏線となっている。『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が、伝聞証拠によって書かれたとする判断をふまえて、曽野氏はつぎのように推理する。

曽野氏は、渡嘉敷島に関する三つの記録をあげている。沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』、渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』、渡嘉敷村が出した『渡嘉敷島における戦争の様相』の三つである。そして、この三つの戦記は、そのうちのどれかを模写したような文章の酷似が随所にある、と曽野氏は指摘する。結論を言えば他の二つの戦記は『鉄の暴風』のひき写しであるというのである。

 

「事実内容」の問題

 

『鉄の暴風』の文章を、他の二つの戦記がまねたおうだという判断から、事実内容までもほとんど『鉄の暴風』の受け売りだとし、『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が信用できないので、その文章をまねて書かれた他の二つの戦記の事実内容まで疑わしいとする推理だが、この推理はおかしい。渡嘉敷村遺族会編の戦記も渡嘉敷村編の戦記も、直接の体験者たちの証言または編集によってまとめられたものであることは間違いない。直接の体験者たちによってまとめられたものが、いくぶん文章をまねることはともかく、事実内容まで、伝聞証拠によって書かれたとされる『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記をまねるということがありうるだろうか。

この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである。三つの資料は、いずれも直接体験者の証言に基づくものであって、直接体験者でない者からの伝聞証拠によって三つの記録の事実内容が共通性をもたされているのではないことはあきらかである。

 

私製の「陣中日誌」

 

曽野氏が最も信用できる資料として赤松弁護の道具に使っている赤松隊の「陣中日誌」なるものは、ほんとの「陣中日誌」ではない。軍隊では、作戦要務令で規定された陣中日誌を「陣中日誌」というのだが、赤松隊の陣中日誌なるものは、戦後まとめられた(記述の年月日がある)もので、「私製陣中日誌」であることがわかった。しかも自画自賛と自己弁護の色合の強いもので、客観的資料として信用しがたいものである。

現地側の戦記資料はすべて否定し、赤松隊のこの「私製陣中日誌」に最大の信を置いて書かれたのが『ある神話の背景』である。赤松隊の「私製陣中日誌」と曽野氏の『ある神話の背景』とは、書かれた意図に似通うものがあり、赤松隊弁護の意図で重なり合っているが、『ある神話の背景』があるていど公平を装っている点だけがちがっている。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060915/oota08

任務放棄に失望

 

赤松嘉次大尉の証言は信用しがたい。その一例をあげておく。赤松隊の任務は舟艇による特攻であった。だが、赤松隊は、渡嘉敷島に米軍が来攻したとき、みずから舟艇を破壊して、米艦船に対する特攻という本来の任務を放棄してしまった。

この任務放棄に関し、赤松は、慶良間巡視中の船舶隊長大町大佐の命令があったからだとしている。大町大佐は慶良間近海で戦死しているので死人に口なしである。大町大佐がわざわざ特攻中止を命ずるために慶良間巡視に出かけたとは思えないが、この出撃中止が軍司令部の意向ではなかったことだけはっきりしている。

沖縄守備第三十二軍の高級参謀であった八原博通大佐の手記『沖縄決戦』によると、慶良間の海上特攻に一縷の望みをかけていたことがわかる。「好機断固として海上に出撃すべきである。願わくば出撃してくれと祈る」云々の言葉がある(同書144ページ)。現地からの無線連絡で攻撃失敗がわかると、八原参謀は「意志が弱く、不屈不撓あくまで自己の任務目的を遂行せんとする頑張りが足りない」と慶良間の海上特攻隊に失望の色をみせている。

 

無電内容も疑問

 

たとえ大町大佐が出撃中止を命じたとしても、その場合、無電で、首里の軍司令部にその真相をたしかめる方法が赤松大尉には残されていた。慶良間群島に海上特攻を配置させたのは、高級参謀八原大佐だった。また、八原大佐は海上特攻の主任参謀でもあった。特攻の出撃中止が軍司令部の意志を無視しておこなわれたことは同大佐の著書で明らかである。

「出撃不可能」との軍司令部に対する慶良間現地からの無電内容にも疑問がはさまれる。出撃中止の時点で、赤松隊も舟艇も米軍の陸上攻撃をうけていないのである。出撃は、夜間に企画されたもので、米軍による夜間の陸上攻撃は考えられない。渡嘉敷島に対する米軍の攻撃が始まったのは三月二十五日未明、米軍の一部が渡嘉敷島に上陸したのは翌二十六日の未明、すると二十五日夜から翌日未明にかけての夜間は何をしていたのかということになる。赤松隊長が中止させたと『鉄の暴風』には記録されている。また、事実、わざわざ舟艇を自爆させるだけの余裕があったことがすべてを物語っている。ちなみに、沖縄本島周辺の他の海域では、随所で舟艇による果敢な海上特攻が実行されて戦果をあげている事実がある。慶良間の特攻隊の任務放棄はまったくの例外であった。

 

住民処刑の例

 

とにかく、赤松戦隊は、海上特攻という最重要の任務を放棄したからには、軍司令部から見れば、戦略的にも戦術的にも無意味な存在となったのである。その後、この戦隊には、陸上戦闘による戦果がほとんどなく、米軍はなんの損害もうけなかった。赤松隊は無力な島の住民との間にいろいろなトラブルをひき起こしているだけである。

じつは、赤松が、集団自決を命令した、命令しなかったという事件よりも、住民処刑のほうがもっと問題である。集団自決下命問題は、赤松が下命しなかったといえば、それで不確定性をもつ性格のものだが、住民処刑は否定できない事実である。曽野氏は、不確定性をもつ集団自決を前面に出して、一種の煙幕を張り、そのあとで、否定できない事実である住民処刑については、軍の綱領や軍法などを持ち出して各種の弁護を試みているが、その弁護は別の事実によって支離滅裂となるのである。その事実とは、住民処刑と矛盾する兵隊に対する赤松の処置である。

住民処刑について、二、三の例をあげる。

伊江島出身の若い女性たちが米軍にたのまれて赤松の陣地に行き、降伏勧告文を取りついだために斬首の刑をうけている。また、終戦の日の八月十五日、米軍の投稿勧告分を陣地近くの木の枝に結んで帰ろうとした与那嶺徳と大城牛の二人が捕えられて殺された。しかし、おなじ降伏勧告でも相手が日本の軍人であった場合は、赤松大尉はちがった態度をとっている。『ある神話の背景』の121ページ、122ページをみればわかる。

「集団自決を命令した、命令しなかったという事件よりも、住民処刑のほうがもっと問題である」と言ってしまうと、「集団自決の命令があったかどうかという問題はどうでもいい」ということにも聞こえてしまうのが難儀です。ぼく自身はそれについて、あった・なかったの話を聞いてみたいので、「ことの本質はそれではない」と言われると、話が広がりすぎて手に負えなくなってしまうのですね。「政治家とマスコミとの距離」を、「NHKの人間が、ある番組の放送前に自民党の議員と会ったか合わなかったか」と切り離して考えるのと同じことで、「ことの本質」という志の高さは評価したいとは思いますが。

『ある神話の背景』の121ページ、122ページにあたる、『「集団自決」の真実』の部分は確認できなかったんですが(あとで図書館とかで調べてみます)、『「集団自決」の真実』では、「処刑」の理由についてはp228以降に書かれていました。あとでちゃんと入力してみたいんですが、要約すると「国際法上の軍使のスタイルではなかった」とか、またもいろいろ意見が食い違ったりしています。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060916/oota09


終戦直後、二本の中尉と下士官が赤松のところに降伏勧告にきている。しかも、下士官は米軍の服装をしていた。降伏勧告にきた住民がことごとく殺された事実からすれば、相手が軍人であれば、なおさら厳格に対処すべきである。だが、赤松は降伏勧告にきた二人の軍人をおとなしく帰している。

 

大城訓導は民間人

 

また、家族に会いに行ったというだけの理由による大城訓導の処刑がある。渡嘉敷国民学校の大城徳安訓導が、島内の別の場所にいた妻にこっそり会いに行ったという理由だけで、縄でしばられて陣地に連行され、斬首(ざんしゅ)されたのである。この事件について、曽野綾子氏は、大城訓導が「招集された正規兵」(曽野氏は、防衛隊員を正規兵と解釈している)だったことをあげて、赤松の処置が「民間人」に対するものでなく、軍律により軍人に対してとられた処置(処刑)で、不当ではなかったと弁護する。

防衛隊員が「正規の軍人」であったとする解釈には同意できないが、大城訓導は、正式な防衛隊員でもなかった。防衛召集は満十七歳以上、四十五歳までの男子が対象で、武器をあたえられず、飛行場建設や陣地構築に使役され、戦場では弾丸運び、まったくの補助兵力であった。召集の時期は、昭和十九年十月から十二月までと、昭和二十年一月から三月までの二回だが、この二回の防衛召集で大城訓導は召集を受けていない。

渡嘉敷国民学校の校長だった宇久眞成氏から私が直接きいた話によると、大城訓導は、当時、教頭であり、年齢も四十九歳、防衛召集年齢の上限(四十五歳)をこえていた。(小学校教員は、普通、防衛召集の対象からはずされていた)。その大城訓導を、赤松大尉が勝手に防衛隊員にしたらしい。これは、甚だしい越権行為であった。召集は国家行為であるからである。大城訓導は、殺されるまで「民間人」であったのだ。

 

赤松批判で私兵に

 

なぜ、赤松は勝手に大城訓導を防衛隊員にしたのか、そのことについて、宇久氏は、大城訓導があからさまに赤松隊のやりかたを批判したことに原因があったのだと説明した。赤松批判が知れて強制的に赤松大尉個人の「私兵」とされたようである。大城訓導は、親子ほど年齢差のある若い兵隊たちから相当いじめられたらしく、苦役と精神的苦痛にたえられなかったが、妊娠中の妻(おなじく教員)のことが心配で、無断で妻に会いに行き、陣地を勝手に離れたとして殺されたのである。

 

戦争体験への暴挙

 

ところが、赤松隊から隊員である二人の兵隊が逃亡するという事件があった。このとき、部下の兵隊二人の逃亡を赤松は見逃している(『ある神話の背景』230ページ)。この兵隊逃亡に対して、赤松大尉は「去る者を追うのはよそう」と言った、というのである。部下の兵(身内)に対しては、なんという「寛大な処置」であろう。指揮官が部下兵の逃亡を見逃すのは「逃亡幇助」であって、軍律上、許せない行為である。兵隊の「敵前逃亡」は陸軍刑法では死刑である。

住民処刑は、たいてい「通敵のおそれがある」という理由によってなされている。住民をスパイ視していたわけだ。たとえ住民をスパイとして利用することにしても、敵である米軍よりも味方である赤松隊のほうが、言葉も通じるし、同国民でもあるという立場からみて、はるかに有利な条件をを備えていたはずで、住民は、敵情をさぐらせるのに好都合で、その意味では、補助戦力に転化できたはずだが、それはあくまで赤松隊に敵攻撃の意志があった場合にかぎられる。その意志がなければ、住民は、逆に、陣地の所在を敵に通報するのではないかという危惧の対象にしかならない。赤松隊は、まさに、その危惧の目で住民を見ていたのである。

この事実は、赤松が攻撃の意志を全く失い、自己陣地の暴露と敵の攻撃だけを極度に恐れていたことを雄弁に物語っている。古波蔵樽(たる)という男が家族全員を失い、悲嘆にくれて山中をさまよっているところを、スパイの恐れがあると言って、高橋伍長が軍刀で斬殺したという事件もある。

沖縄戦に「神話」などというものはない。沖縄戦は今日的な出来事であるし、沖縄にいたすべての住民が自分の目で見て体験したことである。『鉄の暴風』は、まさにこの体験の記録である。

曽野氏の『ある神話の背景』は、沖縄住民の戦争体験の重さを甘くみた暴挙であり、とくに住民処刑についての全面的な赤松弁護はまったく軽率である。

(おわり)

元テキスト(記事)は、沖縄タイムス1985年4月8日〜18日に掲載されました(1985年4月14日は休載)。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060917/oota10


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コメント
 
01. 暴言有理 2011年6月04日 15:10:22: Jiv1ZCdtdJYkc : vkezv3Jlpc
曽野は真性ファシスト。キリスト教的排他性がないと、あそこまで虚言を狂言できない。
この女に比べれば桜井は、余程かわいく見えるから不思議だ。

女文化人で一番嫌いだ。こいつは絶対、特攻や玉砕あるいは野垂れ死にした戦死者や民間の犠牲者の気持ちがわかっていない。

断言できるが彼女は悪魔で地獄に落ちる。


02. 2011年7月18日 06:30:27: MiKEdq2F3Q

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03. 2011年7月19日 15:17:17: b8Ybz0lM6E
神話「タバコは癌の元凶」

ネヴァダ砂漠で激しく原爆実験が行われたころ、近いところの部落では多くのガン患者が発生した。実は、人体実験だった。

放射能によるガン発生を隠蔽する手段として、当地の住民が強い喫煙習慣があることを利用して、タバコがガンの主な原因だと世界に喧伝された。

福島原発事故での「放射能は安全だ」との神話にも利用されました。

タバコで本当にガンになった事例、  ありますか?


04. 2011年10月19日 15:28:10: T7FnBkRsWE
私は、2007年12月に曽野綾子の〔ある神話の背景〕にかかる一つの嘘を発見し、その後も多数の意図的に隠蔽と嘘をしていること発見し、
さまざまなホームページにコメントしてきました。

主な論点は下記のとおりです。
嘘と隠蔽のための条件整備 ・地図を掲載せず、恩納河原・A高地・西山陣地・自決地であるフィジガー=東川を混同するようにしむけた。 ・ 曽野綾子は少なくとも東京・名古屋・大阪で 複数の赤松隊員と一度に会合しているのに一人一人個別に会ったと主張し続けた。証拠写真あり・クライン孝子と共謀し、出口確なる中学生が日本の前途を憂い、「ある神話の背景」の復刊要請をしたという自作自演。(「ある神話の背景」では安里巡査は中城に住んでいるとされているのに出口確は首里と書く。クライン日記−プログに拠れば、その自作自演偽中学生投稿の数日前曽野綾子とクライン孝子は海竜社の連載の件で会合)−付記 クライン孝子はその後、該当記事を削除した。・ABCDなる事情をあまり知らない婦人を利用して、海に集団で入る自殺鼠のように、村民が赤松の移動命令無しに自然に西山高地に移動したようにみせかける。嘘と隠蔽・マルレを陸揚げするには、泛水路が完成していない時期10数人の人力でも苦労したが、コロを使用する泛水路完成後は概ね10分で1グループ1隻泛水可能だったことを隠した。・1945/3/22元基地隊長鈴木が泛水路の完成を祝いに来た、大町大佐はスケジュールで視察に来たなど戦況の逼迫を隠した。事実は数日続いた3/19台湾陽動爆撃が終了したことにより、大本営は従来の米軍台湾上陸予測を改め、沖縄上陸を4月上旬と推測。つれて21日沖縄軍再編。21日慶留間島では自決命令が出された。大町大佐に随行した石田四郎の手記で、15名中7名が通信兵ということから大町大佐の那覇出航は出撃準備のためで、乱数表を伝える通信兵が3島に先行移動したことに疑いはない。通信兵各3名が座間味・阿嘉・渡嘉敷に先着し、大町大佐の乗船通信兵3名が固有の周波数と暗号で対応。残り1名の通信兵が沖縄本島との連絡を担当したはずである。・3/22安里巡査が渡嘉敷に始めて赴任との記載は嘘。赴任後長期の沖縄出向があったことを本人が沖縄県警史に記載。・3/26安里巡査と赤松が会合したという嘘。 安里巡査本人を含め、赤松・曽野以外否定。27日以外にありえない。・3/26赤松・安里会談後、安里巡査のみが村民と赤松の伝令役となったという嘘。 事実は、自決命令を伝えたと思われる当時40過ぎの「松川の兄さん」が伝令役で、新城(富山)兵事主任がそれに次ぐ伝令役。 曽野綾子は自決事件以後、安里巡査が主要な伝令役になったことを隠し安里巡査を憎む古波蔵村長を挑発し、片言から「はい、ずっとです」と言わせた。 なお、松川の兄さんは、3/28手榴弾操作を誤り、自爆死。・曽野綾子は、安里巡査に会った後古波蔵村長と会ったのに古波蔵村長に先に会ったようにみせかけた。これは恩納河原の位置や避難状況をめぐる曽野綾子の古波蔵村長と安里巡査との問答を比較すれば、明白。・私が例をあげ、nio615氏が詳細に証明したとおり、日本軍の資料を含め、日本側資料はすべて1960年代後半まで米軍の渡嘉敷上陸を3/26と誤って記載していた。曽野綾子は、その間違いを利用し、「戦争の様相」、「戦闘概要」の記載は「鉄の暴風」の誤りを踏襲したものであり、、「戦争の様相」、「戦闘概要」は「鉄の暴風」を種本としていると主張した。・当初、出撃予定基地だった留利加波の変更を沖縄本島の参謀が許さなかったと記載するが、留利加波基地は阿波連基地に合併された。・基地隊に留利加波基地変更を強要したため、主たる泛水の労働力、朝鮮人軍夫を基地の変更の負い目から西山陣地の壕堀に協力させることを許したため、泛水が遅れたことを隠し、あまつさえ、赤松が本島や大町大佐の命令に先立ち、1/3泛水を命じたなどと嘘。また勤務隊がゼネストをしたなど大嘘。皆本手記・勤務隊記録などから明白。・石田四郎手記から大町大佐は阿嘉島から沖縄本島に直接帰還しようとしたが、米軍の砲撃に阻まれ、渡嘉敷へ難を避けたのに初めから渡嘉敷を目指したと嘘。これは、あくまでも大町大佐の出馬を視察スケジュール消化であり、出撃準備ではなかったとみせかけるため。・複数の潮位ソフトから3/26午前6時頃、満潮となったことが明白だが前日の23時頃から始められた泛水途中に潮位が干潮に向かったと天に唾する大嘘。・出撃予定時に富野中隊長が先頭でエンジンが故障したとするが、知念が先頭であったことが本人の沖縄県史記述から明白。・大町大佐が渡嘉敷から沖縄本島の帰還にクリ船を考えたという嘘。戦史叢書などは漁船で鰹船をずっと前に徴用。前年10/10爆撃で全滅している。まだ徴用して無事な鰹船(漁船)があるかどうか尋ねたことをクリ船にすり替えた。大城証言から名古屋会合の謀議で考案された嘘であることがわかる。狼魔人はこの嘘を利用し、村民は軍に船舶の徴用を断ることが出来たと強弁。 曽野綾子もそう言いたかったが示唆だけで露骨な主張は無理と踏みとどまったにすぎない。・阿波連では、青年団の協力で泛水出来たのに出来なかったと謀議に赤松に取り込まれた遠藤しか参加していない第一中隊を賤しめる。・「鉄の暴風」に記載する3/31の赤松が持久戦を主張した将校会議は壕が完成せずないのですべて架空とする「ある神話の背景」の記載は4/7持久戦会議が開かれている谷本版陣中日誌から一部の間違いをすべて間違いとする嘘。・「戦争の様相」は、「戦闘概要」より3年早く書かれたのに、「戦闘概要」が早いという嘘。嘘の理由は、自決命令が後の記載で訂正されたと主張するためだが、そのため裁判では年金をもらうために自決命令が捏造されたという原告の主張と齟齬することになった。・皆本中隊長は、豊廣震洋隊長の演習での煙幕発言を剽窃し、大町大佐は全艇を沈める命令を出したが命令に背いて煙幕を張り陸揚げしたと自慢。・安里巡査の自決前に伝令を出したが、伝令が帰る前に自決を始めたとの主張を記載。しかし、匿名女子青年団kのいう松川の兄さん、金城武徳のいう農林学校を出た伝令、吉川勇助証言の古波蔵村長に耳打ちした40過ぎの伝令は同一人物と考えられ、彼が赤松の自決命令を伝えたと考えられる。・本島の通信兵証言によると、28日正午頃には大町大佐の戦死が伝えられている。三池少佐の沈没・救援要請は無線がなくては出来ない。無線の存在を隠すことが転進命令の時刻、戦況隠しに枢要な意味を持つ。・谷本版陣中日誌は元の記述に変更を加えていないと主張。 比べてみると、異同があり、異同が嘘を証明するきっかけにもなる。・3/28午前、複数の偵察を先導していた防衛隊が抜けだし、家族と自決と記載。朝偵察の先導員が軍から抜けることなど出来るはずもない。集団自決に先立ち、個別的自決があったとのみせかけ。


05. 2012年4月28日 01:49:12 : 4QNZ1Y02gs
>>詐欺師 曽野綾子

全くその通り!
本を読んですぐわかったが、直に話を聞いて更に全くどうしようもないやっちゃなと言うダメ押しをされた。


06. 2012年10月15日 11:26:14 : HNPlrBDYLM

沖縄戦 離島残置工作員の実像


九つの島に11人が配置

目的:米軍に対して住民を巻き込んだゲリラ戦を実行すること

上原敏雄:国民学校の教員 陸軍中野学校の特殊工作員

「残置諜報員の問題は沖縄戦を日本軍がどう見ていたかの一つの表れ」
(島袋由美子さん)

「住民を集めて、そこで『皆、玉砕させる』と、びっくりした。

島民を皆玉砕させると」(譜久里藤江さん)


「沖縄はかつて琉球王国という独立国家であったために天皇の存在さえ知らない人が沢山いるから、日頃から監視しておかないと、いざという場合にどこへ向かうか分からない。

『全県民総スパイ視』という言葉まで言われるようにひどい状態が実際に起こっていた。捨石にされたということと日本本土の目的達成の手段に供されるというもの扱いされてきたのがはっきりする」(大田昌秀)

http://www.youtube.com/watch?v=6QCMSdX0PjY


07. 中川隆 2015年4月01日 08:30:58 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

2015-04-01 哲学者=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』


曽野綾子が「新潮45」最新号で、ネット炎上にまで発展した「アパルトヘイト発言」に対して、見苦しい「言い訳」を展開している。曽野は、ネットやSNSでの炎上事件を自分には無縁なものと無視しようとしているようだ。自分は作家だから、書籍や新聞、雑誌などの文章にこだわるということだろう。

しかし、曽野が、いくら無視しようとも、「曽野批判」や「曽野炎上事件」はネットやSNSの世界に限られるわけではない。書籍や雑誌などによる「曽野綾子批判」も、繰り返し行われてきた。曽野は活字による「曽野批判」も無視してきたのだ。曽野よ、「曽野綾子批判」をネットに矮小化するなかれ!


曽野綾子は、「週刊金曜日」の「曽野綾子とは何か」という特集も私と佐高信氏との対談集「曽野綾子大批判」も読んでいるはずである。何故なら、二つとも、某氏が曽野綾子宅に送りつけたからである。知らぬとはいわせない。その証拠に、曽野綾子は、最近、「沖縄集団自決問題」には触れようとしない。触れると、次々とぼろが出るからだ。

曽野綾子は、最近、何故、「沖縄集団自決問題」に言及しなくなったのか?あれほど、「綿密な現地取材」を自慢し、「沖縄集団自決問題」の権威者のごとき論陣を張り、それを根拠に、保守論壇の馬鹿どもをそそのかして「大江健三郎=岩波書店裁判」まで引き起しておきながら、裁判敗北とともに完全沈黙。何故?反論できないからだろう?


曽野は、問題の「アパルトヘイト発言」のエッセイで、南アの共同住宅における黒人居住者が、身内を多数呼び寄せ、共同住宅の生活環境や雰囲気を乱し、多くの白人はそれに嫌気がさし、引っ越していったという話を紹介して、アパルトヘイト(人種差別的分離生活)を擁護している。しかし、この曽野綾子の話は、嘘だったことが、ぺコ大使の説明や南ア事情に詳しい人たちの証言で暴露された。

曽野綾子のアパルトヘイト発言は次の通り。

20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。
南アフリカでアパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃後、白人専用だったマンションに黒人家族が一族を呼び寄せたため、水が足りなくなり共同生活が破綻し、白人が逃げ出したという例を出し、人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい、と思うようになった。(産経新聞 2015/02/11付 7面より)


この曽野綾子発言が「誤解」「無知」に基づく妄言であることは明らか。南ア駐日大使のペコ女史の話では、南アには「パス法」というものがあり、黒人が、白人の住む共同住宅(マンション)に移り住むことはあり得ない。パス法は、1991年に廃止されたが、曽野が南アを訪問したのは翌年の1992年。わずか一年も経たないうちに、貧しい黒人の大家族が、白人の高級マンションに引っ越してくるはずがない。全くあり得ない話。

曽野の話は現地在住者から聞いた話らしいが、曽野の話は、根拠のない一種の都市伝説。ペコ大使の抗議に、その無知と誤報を謝罪。

曽野の、白人が住んでいた高級マンションに黒人一家が大家族で引っ越してきて、白人たちが逃げ出したという話は、全部、作り話である。他人から「間接的」に聞いたという噂話である。証拠も実態もない話。

これは、曽野綾子の代表作『ある神話の背景(「沖縄集団自決の真実」)』、つまり、「沖縄集団自決の話」と同じだ。曽野は、いい加減な噂話を、すぐ信用して、それを日本人に向けて、偉そうに話す。批判されると、いっさい無視黙殺。嵐が過ぎ去るのを待つだけ。

ところで、曽野は、「アパルトヘイト発言騒動(炎上事件)」を、SNSやネット的言論への批判にすり替えようとしている。ネット言論は、無責任な匿名発言だとか?そうだろうか?これまた、少し古すぎる偏見ではないか?ちゃんと本名やペンネームを名乗りつつ、曽野綾子批判を展開している人たちがいることは無視らしい。困ったオバさんである。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20150401


8. 中川隆[-7539] koaQ7Jey 2017年6月11日 16:21:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

《大江健三郎と曽野綾子。曽野綾子大批判》


「沖縄集団自決に軍命令はあったか、なかったか」を論じた曽野綾子の『ある神話の背景沖縄・渡嘉敷島の集団自決』(文藝春秋)は、私にとっては、なかなか面白い刺激的な本である。私は何回も読み返し、熟読した。私が再読、熟読を繰り返す本はそんなに多くない。

何故、再読、熟読を繰り返すのか。それは、この本の内容が、私の「哲学的思考」言い換えれば「存在論的思考」を刺激するからだ。実は、この本に、政治的謀略の匂いといかがわしさを感じるのである。

『ある神話の背景』は、現在『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実日本軍の住民自決命令はなかった!』と改題の上、WACから刊行されているが、私は、数冊買い求め、それぞれ、付箋や書き込みをしながら読んでいる。読み返すたびに、不信と疑惑が膨らんでくる。


結論から言うと、曽野の『ある神話の背景』は最近の資料分析の結果、疑惑だらけの欠陥本、怪文書、政治的謀略文書でしかないことが判明している。『ある神話の背景』が依拠する『陣中日誌』とはすでによく知られているように、この本には、明らかな「誤字」「誤植」「誤読」がある

たとえば、曽野綾子が論敵として批判・攻撃する大江健三郎が、『沖縄ノート』で「罪の巨塊」と書いた文字を「罪の巨魁」や「罪の巨魂」と誤記し、さらに「罪の巨塊(物)」を「罪の巨魁(大悪人)」と誤読している。

しかも、これらを放置したまま、いまだに刊行され続けている。「自称作家」である曽野の文学感性、つまり、言語への鈍感さに驚きを禁じ得ない。「曽野綾子よ、それでも『作家』なのか」と問いたい。


曽野の『ある神話の背景』は、沖縄集団自決の当事者である、赤松嘉次部隊による『陣中日誌』に全面的に依拠している。さて、この赤松部隊版『陣中日誌』は信用できるか。私の答えは、はっきりしている。信用できない。これは、赤松部隊が「自己弁護」のために、捏造・隠蔽した


「怪文書」の一種だからだ。いくつか例を挙げよう。まず制作時期である。『陣中日誌』は、1970年制作で、赤松部隊の隊員によって執筆された。当事は赤松部隊の沖縄集団自決に対して非難が起きていた頃だ。筆者で赤松部隊員だった谷本小次郎は、戦時中に書かれた『陣中日誌』を

「資料」=「原典」として、それに「加筆修正」を加えたという。しかし、その「加筆修正」が限度を超えて、大幅な加筆修正がなされていることが、資料分析の結果、判明している。つまり、この谷本版『陣中日誌』なるものは、改竄、捏造、隠蔽に満ち溢れた「資料価値ゼロ」の


信用できない謀略文書、怪文書である。谷本版『陣中日誌』には、「編集のことば」として次のような文章が添えられている。〈基地勤務隊辻正広中尉が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三中隊陣中日誌(中隊指揮班記録による四月十五日より七月二十四迄の記録、第三中隊長所有)を

資に取り纏め聊かの追記誇張、削除をも行わず、正確な史実を世代に残し(以下略)〉ということは、辻正弘らによって制作された原本の『陣中日誌』があるということだ。実は私が不信と疑惑を持ったのはこの文章からである。

「聊かの追記誇張、削除をも行わず正確な史実を世代に残し」と書くことがすでに怪しいのだ。もし、それが許されるならどうにでも書き換えや削除、加筆が可能であるということではないか。要するに「谷本版『陣中日誌』」は改竄された第二次資料の価値しか持ちえない代物なのである

特に、問題の「集団自決」の場面は、完全な加筆、捏造である。元の資料(辻正広作の『本部陣中日誌』と『第三中隊陣中日誌』)には「集団自決」の場面は言及されていない。谷本は、1970年当事、手に入る「集団自決」関連の資料を元に、資料を取捨選択して加筆し、


「赤松嘉志隊長は自決命令は出していない」「赤松部隊は最後の最後まで勇敢に闘った」という物語を巧妙にデッチアゲているのだ。曽野の『ある神話の背景』は、そのデッチアゲ文書に全面的に依拠しているのだから、歴史的文献としては失格である。


曽野は、このデッチアゲが見抜けなかったのか。それとも曽野自身も、デッチアゲ文章作成に加担した仲間の一人だったのか。赤松部隊にとって都合が悪いことは触れない『ある神話の背景』には当然、書かれるべきことがいくつか書かれていない。たとえば、曽野は朝鮮人軍夫のことを、


ある程度知っていたにもかかわらずかかなかった。何故か。虐待と処刑の事実を書かなければならなくなるからだ。つまり、そのことを書くと、赤松部隊の擁護どころではなくなる。曽野は、取材の途中で『鉄の暴風』の著者の一人である、太田良博に、朝鮮人軍夫のことを話し、


これを書くと「大変なこと」になると語っている(『太田義博著作集3』より)。つまり、『ある神話の背景』は、赤松部隊にとっての「不都合な真実」を排除しているのだ。

もう一つ。曽野は、渡嘉敷島の女子青年団長で、赤松嘉次と行動をともにすることの多かった古波蔵蓉子という女性のことも書いていない。この女性は、伊江島の女性たちの「処刑事件」にも、目撃か関係者として関わっているはずだ。そして、赤松隊長が、山を下りて米軍に投降するとき


「愛人を連れていた」という告発があったことを『ある神話の背景』では書いているが、この事実もうやむやにしている。実は、「愛人」と誤解(?)された女性は、古波蔵蓉子だった、と赤松嘉次自身が、白状している。


さて、古波蔵蓉子のことでもう一つ。古波蔵蓉子の姪が、『季刊女子教育もんだい』1992年7月号で書いていることだが、「叔母(古波蔵蓉子)は、自分の母親には集団自決場所へは行くな」と言ったそうだ。だから、古波蔵蓉子の母親は「集団自決」することなく、助かったという。

つまり、古波蔵蓉子は、赤松喜次隊長の近くにいて、「自決命令」に関する何らかの情報を得ていたのではないか、と思われる。曽野はこの赤松部隊側の謀略的な資料を無条件に信用していたらしく、論敵となる大江健三郎にまで紹介しようとしている。


と怒鳴ったのです。その一言で、私は大江氏は自分に不都合な資料は読まない人だと分かり、以後、大江氏との一切の関係を断ちました。〉大江健三郎が「不都合な資料」は読まない人だろうか。『陣中日誌』は資料価値ゼロの「改竄文書」だったのである。

むろん、それは曽野の憶断にすぎない。私の判断では、曽野こそ、逆に「不都合な資料」は読まない人であり、書かない人だ。曽野がこの問題に関して沈黙するはずだ。(終)
http://yamazakikoutarou.hateblo.jp/entry/2017/06/11/_%E3%80%8A%E6%9B%BD%E9%87%8E%E7%B6%BE%E5%AD%90%E5%A4%A7%E6%89%B9%E5%88%A4%E3%80%8B_%E3%80%8C%E6%B2%96%E7%B8%84%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA%E3%81%AB%E8%BB%8D%E5%91%BD%E4%BB%A4%E3%81%AF


9. 中川隆[-10310] koaQ7Jey 2019年5月20日 06:08:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2019] 報告
沖縄から米国へ ジャーナリスト大矢英代のこと 初監督作品のドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」で受賞 (朝日新聞社 論座)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/894.html



〈シリーズ:フェイクニュースに抗う〉
沖縄から米国へ ジャーナリスト大矢英代のこと 
初監督作品のドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」で受賞
 
松本一弥 朝日新聞東京本社編集局夕刊企画編集長、Journalist
論座 2019年05月18日 より無料公開部分を転載。
  
■共同監督作品で数々の賞に輝く
 
 米国カリフォルニア在住のフリージャーナリストでドキュメンタリー映画監督、大矢英代(はなよ、32)は2018年、一躍脚光を浴びた。初監督作品のドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」が第92回キネマ旬報文化映画第1位や平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞、浦安ドキュメンタリー映画大賞2018映画大賞、全国映連賞監督賞、第36回日本映画平和賞を受賞するなど数々の賞に輝いたからだ。

 琉球朝日放送(QAB)の元同僚でジャーナリスト三上智恵との共同監督作品で、二人で「戦争マラリア」や「少年ゲリラ兵」、そして陸軍中野学校が沖縄で行ったことなど「沖縄戦の闇」に鋭く迫った。

 大矢は沖縄問題を始め、経済的理由からやむを得ず入隊する米軍の「経済的徴兵」、軍隊内部の性暴力をテーマに取材に取り組むなど「国家と暴力」という重いテーマに正面から向き合う気鋭のジャーナリストだ。大矢はまたカリフォルニア大学バークレー校ジャーナリズム大学院調査報道プログラムのフルブライトフェローという肩書も持つ。

 大学では、同大教授でアメリカのジャーナリズム界では「伝説の人物」でもあるローウェル・バーグマンの教え子の一人。そんな大矢に今日に至るまでの道のりと、フェイクニュースが吹き荒れる米国で「ジャーナリストであること」への思いと覚悟を聞いた。

■「戦争マラリア」の惨劇をテーマに
 
https://image.chess443.net/S2010/upload/2019041500007_8.jpg
2005年5月に琉球新報が出した沖縄戦新聞の1面
 
 2005年、明治学院大学文学部英文学科に入学した大矢は、米国の大学に交換留学したことをきっかけに米軍が抱える問題に関心を持ち、ジャーナリストを志すようになった。2009年には早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコースへ進学。その過程で「ドキュメンタリーを作ろう」と2010年から1年間大学院を休学し、沖縄の最南端、波照間島に向かった。

 選んだテーマは「戦争マラリア」。太平洋戦争末期、波照間島など八重山諸島の住民が、当時マラリアにかかる恐れのある西表(いりおもて)島などに日本軍の命令で強制移住させられ、多くの人が命を落とした惨劇として知られる。このうち波照間島では約1600人の住民が移住を強いられた。西表島でマラリアが猛威をふるっていることをすでに知っていた島の古老らは「島に残って戦争で死んだ方がまし」として移住を断ろうとしたが、逆らうことは許されなかった。その結果、移住した島民の約3分の1にあたる約500人が死亡したとされる。

 なぜ、こんなことが起きたのか。当時の状況について、朝日新聞はこう報じている。

「ろくな受け入れ準備もなしに、軍はなぜ、強引に住民疎開を
迫ったのか。表向きの理由は『戦火からの保護』とされるが、
実際は連合軍の上陸を想定し、住民がその支配下に入った場合
の情報漏れを警戒した、というのが沖縄戦研究者の定説だ」
「地元には、軍のための食肉確保も、強制疎開の一因だった、
とする見方も根強い」(1989年12月7日付朝日新聞)
 
 「何とか真相に迫りたい」。大矢は「戦争マラリア」を体験した島のおじいやおばあと一緒に一つ屋根の下で暮らしながら、時間をかけて取材を重ねた。この時の取材では十分に謎を解き明かせなかったと感じた大矢だが、歴史的な「闇」についてはその後、ドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」作りを通して再トライすることになる。

 大学院生の大矢は波照間島で撮影した取材結果をドキュメンタリー作品「ぱいぱてぃぬうるま?南の果ての珊瑚の島?」にまとめ、修士論文プロジェクトとして大学院に提出した(修士論文のタイトルは「沖縄県八重山諸島の戦争マラリアにおける歴史の継承?ドキュメンタリー映画制作を本論として?」)。作品の編集に追われる間は「卒業後の進路はどうしよう」と不安にかられることもあったが、「今しかできないことを優先する」との意思は固く、就職活動はしなかった。「私は複数のことを同時並行でこなせるほど器用な性格じゃないので、一つずつしか集中できないんです」と大矢は笑う。

■沖縄が再軍備化されていくことへの恐怖
 
https://image.chess443.net/S2010/upload/2019041500007_5.jpeg
戦闘機や哨戒機が次々と離着陸する米軍嘉手納基地=2018年9月、沖縄県嘉手納町
 
 大学院は卒業したものの、さてこの先の人生をどうしよう? そのころの大矢は「フリーランスのドキュメンタリストとして生きていけたら」と思っていたと振り返る。「一生、映像を撮り続けていたい。でも同時にひたすら沖縄にいたかった。波照間のおじいやおばあたちと少しでも長く一緒に過ごしたかったんです」。それとともに、「戦争マラリア」を調べる中で現在の沖縄が再軍備化されていくことへの恐怖があったという。
 
 「歴史を調べれば調べるほど、現在の沖縄と沖縄戦が『一本の線』でつながっていくような危機感を覚えました。それは理由のないばくぜんとした不安などではなく、戦争体験者への取材や沖縄戦の歴史的事実を検証することによって得た具体的な危機感でした。事実を知った者、学んだ者として、それをしっかり社会に伝えなければいけない。そんな責任を感じていましたから、この気持ちを抱えたまま沖縄を離れて別のテーマの取材を始めることはできませんでした」

■波照間島から応募した「報道記者募集」
 
 そんなころ、たまたま琉球朝日放送(QAB)のウェブサイトで「報道記者募集」の案内を見つけ、波照間島から応募書類を送った結果、「契約記者」として合格した。契約記者は3年の期限付きで1年ごとの更新。「当時は報道記者になりたい、テレビ局に就職したいと思っていたわけではありませんでした。雇用期限の3年後にはフリーランスになろう、だからQABに入ったらそこで学べることやできることを精いっぱいやって旅立つんだと思っていました」。その後、大矢の仕事ぶりが評価され、沖縄のマスコミ労組の応援もあって2014年に正社員になった。

 当時のQABの態勢は、記者は大矢を含め7〜8人。「アナウンサーもディレクターも(時にはデスクも)現場取材に行く」というスタイルだった。担当などあってなきがごとしで、1年目はフリー、2〜3年目は事件事故に司法担当、4年目は県政担当だったが、その間にも米軍基地や教育福祉、行政、経済など様々な取材案件が降ってきて対応、番組ディレクターとしても3本の番組を作るなど多忙な日々を送った。
 
■最も思い出に残った米軍示談書問題
 
https://image.chess443.net/S2010/upload/2019041500007_6.jpg
沖縄県知事選告示日の朝、米軍キャンプ・シュワブのゲート前では強い日差しの下、基地移設反対の座り込みが続いていた=2018年9月、沖縄県名護市
 
 報道記者として最も思い出に残ったのは、入社2カ月後に担当した米軍示談書問題だ。

 沖縄県国頭郡金武町の専門学校駐車場で、泥酔した米兵が学生の車約10台を壊した器物損壊事件だ。だが、被害者である学生たちを地元の交番に呼び出した米軍の弁護士は、警察に届け出た被害額が書かれた示談書を学生に提示し「これ以上損害賠償を請求しません」などという文言にサインをさせていた。損害賠償(民事)を解決しておくことで、刑事裁判の判決を軽くする手段として当時ひそかに行われていたことだった。「示談書」の存在とそれについての米軍の処理方法については、米軍絡みの事件事故が多発する沖縄でもほとんど知られていなかったという。

 この事件の数日後、加害者である米兵が専門学校に謝罪に来るという情報があり、大矢は取材に出かけた。当初、米軍はメディアが取材に来ることを嫌がり「今日は謝罪に行かない」などと言い出したため、学校側が「メディアは冒頭のアタマ撮りのみ」という妥協案を提示して米軍側を説得。米軍はその条件をのみ、学校側との会話が終わると報道陣に対し「では退席をして下さい」といってきた。

 「いや、出ません」。その時、大矢はきっぱりと拒否した。「示談書を持っているのであれば、また自分たちに問題がないというのであれば、メディアの前で書面を見せて説明して下さい」。退席する代わりに米軍にそう要求した。これに対し米軍側は「アタマ撮りだけのはずだ」と怒ったが、琉球新報や沖縄タイムスの記者たちも「示談書を見せろ」「ちゃんと説明せよ」といって大矢に加勢してくれ、その結果として大矢らは示談書の現物を撮影でき、また米軍がどのようなやり方でこれまで事件を「処理」してきたかを県民に伝えることができた。
 
■日米地位協定の問題に直面
 
 大矢にとってはこの問題を取材したことが米軍絡みの事件事故を取材する第一歩となったが、その後米軍関係の事件事故を取材するたびに日米地位協定の問題が立ちはだかった。様々な事件処理とそれに伴う損害賠償請求についても、日米地位協定があるために被害者が苦しむという構造が続き、現在に至る。「今、私が米国で米軍の事件や事故の問題を追いかけるのも、やはり沖縄の現場で『日米地位協定に支えられた日米の負の関係性』を学んだからです」と大矢は語る。

 番組作りで思い出に残っているのは、2016年に放送した「テロリストは僕だった〜沖縄基地建設反対に立ち上がった元米兵たち〜」というドキュメンタリー。沖縄の米軍基地に駐留し、イラク戦争に参戦した元海兵隊員を主人公にした番組で、「日本人に対し、元海兵隊員のストーリーを通じて、米軍基地を抱えることで『他ならぬ自分たちが戦争に加担している』ということへの責任を問いたかった」。

 当時を振り返って大矢は語る。

 「徹底的な現場主義と、県民のための報道機関であること。それはQABで学び、骨身にしみついた姿勢です。そして取材を通じて、沖縄がこれまで歩んできた米軍基地との生活やその背後にある沖縄戦、社会の貧困と格差、本土と沖縄の間に横たわる大きな壁を知るほどに、現場に立つことの重要性と『報道を守る』ということがどれほど大事なのかを学びました」
 
■鏡のように見えてきた「日本という国」
 
 沖縄で取材経験を重ねた大矢はこう話す。

 「沖縄を見つめるほどに、日本という国の姿が鏡のように見えてきました。残念ながらそれは、主権なき国、米国の属国としての日本の姿でした。おそらくこれは本土からは見えにくいでしょう。でも、沖縄県民も、沖縄県民ではない日本国民も、本来であれば問うべき問題は同じであるはずです」

 「つまり、私たちの頭上高く、安全な場所から日本を見下ろしている、米国という国家の問題です。ところが、現実には沖縄にある米軍基地問題がいつも『本土VS沖縄』という構造で物事が語られてしまう。そしてそのことで問題の本質を見誤ってきたように思うのです」

 そんな問題意識を持つ大矢が目指してきたものとは何か。

 「その意味では、私が自分の報道を通じて目指していたのは、そうした『常識』の壁に、たとえどんなに小さくてもいいから『針の穴』を開けることだったのだろうと思います。沖縄から離れ、米国で暮らす今、そう感じるのです。思考停止に陥った人たちの思考スイッチを『オン』にするにはどうしたらいいのか、私はいつもそういうことを考えて報道してきました。『本土VS沖縄』の対立構造ではなく、『とにかくすべて日本政府が悪い』でもなく、この社会構造を生み出している根底にあるものを、現場取材を通じてとらえようとしてきたのです」

■「沖縄からでは伝えられないことの大きさ」に気づく
 
 沖縄の取材現場に立つたびに、大矢は沖縄で伝え続けることがどれほど大事なのかを感じると同時に、「沖縄からでは伝えられないことの大きさ」にも気づかされ、自分の中で矛盾する思いが大きくなっていった。

 それは主に米軍基地問題についてだった。取材を重ねるたびに、問題の根源は沖縄にはないということ、米国のホワイトハウスや日本の霞が関のように、沖縄からはどこか遠い「安全な場所」で生み出される決定によって沖縄県民が翻弄され続けてきたという構造に気づかされたと大矢はいう。「沖縄で起きている現実を知るべきなのは、沖縄から離れて暮らす人たちなのに、沖縄の現場にいると、伝える対象は沖縄県民で、本当に知らなければいけないはずの人たちに届かない」。そんな壁にぶち当たる日々だった。

 「もちろん、沖縄の放送局から全国へ発信し続けることが一番大事ですし、これまでも先輩の三上さんを始めQAB報道部はそれを実践し続けてきました。でも、沖縄の声を番組として伝えるためには、系列のキー局のドキュメンタリー番組枠を確保する必要があるのですが、放送されたとしても早朝の時間帯です。現場の実態がなかなか全国に届かない現状の中で、沖縄の報道現場に立たせてもらった記者として、『沖縄のためにも沖縄から出なければいけないのではないか』と思うようになりました」

 「テロリストは僕だった」の放送が終わった2016年12月、大矢は上司に退職の意思を伝えた。「沖縄のためには『次のステージに行かないといけない』。大矢はそんな思いに突き動かされていた。
 
■「次のステージ」としての米国
 
 「次のステージ」として米国を選んだのは、「テロリストは僕だった」の取材で約3週間、米国取材をしたことがきっかけだった。

 この取材の過程で、日本からは見えない米軍の姿を見ることが出来たと大矢は感じた。「米軍に入隊した人間はなぜ、どのようにして他者に危害を加えることができるようになるか」をめぐって心理学者や元兵士たちに話を聞いたり、若い兵士たちにインタビューを行ったりして、暴力を生み出す軍隊の思考やシステム、そして入隊する若者たちの背景に貧困と経済的困窮があることがわかってきた。

 そして何よりも衝撃だったのが、米軍の内部で起きている性犯罪の問題だったと大矢はいう。「テロリストは僕だった」の中でも米兵による性暴力の被害にあった元女性兵士がインタビューに答えてくれたが、元女性兵士に出会った時、大矢は沖縄で出会った性暴力の被害者のことを思い出したという。

 「それまで沖縄で取材をしていた時は、『米軍絡みの性犯罪は沖縄だから起きている』『基地の外だから起きている』と考えていました。つまり、米軍問題の背景には沖縄に対する差別や植民地支配の意識があると思っていたのですが、元女性兵士と知り合ったことで『米軍の性暴力の問題はフェンスの内外を問わない』と気づかされたのです。だからこの問題を深く考察するためには、米国に行って、米軍内部で何が起きているか、そこに切り込まなければならないと考えました」

 同時に大矢は「沖縄の問題を解決するためには、米国市民に訴えないとだめだと思った」という。

 「沖縄県民、日本国民に訴える報道は、沖縄と日本の記者たちに任せられますが、米国市民に沖縄のことを伝える報道は、沖縄の現場取材を重ね、英語ができる私がすすんでやるべきことじゃないかと考えたんです。おこがましいですが、微力でも、自分にできることをしたい」。また、大学生時代に米国への短期留学をした経験から「もう一度この国で学びたい」という気持ちも持ち続けていたと大矢。そうした理由からフルブライト奨学金制度に応募した。

■カリフォルニア大学バークレー校へ
 
 QABを退職する前、大矢は友人に会うためサンフランシスコに行った。その際、「せっかくだからカリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム大学院に行ってみようと思いウェブサイトを調べたところ、調査報道プログラムの存在を知った。

 たまたま調査報道の授業があったので「聴講したい」とメールを出したところ、認められて受講できた。その時の授業の担当者が今の指導教授のローウェル・バーグマンだった。

 「二つ返事で快諾してくれたので、とてもきさくで良い方なんだと感じました。でもその方が実はワシントン・ポストやフロントラインなどの調査報道の第一線で活躍してきた方で、たばこ産業の不正を告発したテレビプロデューサーとして映画「インサイダー」のモデルになったことでも知られる伝説のジャーナリスト、ローウェル・バーグマンだとは知らなかったため、後から知ってものすごく驚きました」

 それがバーグマン(73)と調査報道プログラムとの最初の出会いとなった。

 2018年、フルブライト奨学金の候補生になった時点で大矢は「所属先はバークレーの調査報道プログラムしかない」と決めていた。「やりたいテーマがテーマだけに、米国で信頼できるジャーナリストの元でないとこの取材はできない」と考えていたからだ。「信頼できる人と一緒に、安全な環境で取材できること」、それが第一条件だったという。
 
■大学で今取り組んでいること
 
 大学では今、次作のドキュメンタリー映画の制作に取り組む日々だ。テーマはやはり米軍と経済的徴兵、そして米軍の性暴力の問題だ。ただ今回はインタビュー主体の作品ではなく調査報道が柱となるため、ドキュメンタリーの撮影に実際に入る前に英文の膨大な資料や映像と向き合っている。その過程で同じテーマに関心を持つジャーナリストにも出会ったため、「彼らとの共同作業で取材を進めている」という。

 「沖縄で取材をしてきた私にとって『あたりまえ』のことが、米国人ジャーナリストたちにとっては『驚き』であり、その逆もそうなんです。そのように互いに新鮮なまなざしをもって国を超えてジャーナリスト同士がつながることで、これまでになかった視点で米軍問題を浮き彫りにするのが狙い」と大矢は話す。

 「火事の時には消防士が必要。病人がいたら医者が必要。それと同じように、ジャーナリストも社会にとって不可欠だ」。バーグマンはそんな言葉をよく使う。「これは私にとってもとても大事な言葉です。日本のメディアの中にいると、ジャーナリストは何のために存在しているのかを忘れがちだからです」。

 そう考える大矢はいう。

 「ジャーナリストは何のためにペンを持つのか。その力を誰のために、何のために使うのか。その『基本のき』をバーグマンから改めて学んでいると思っています。そして『何があってもブレない強さ』をもらってもいる。これからの私の人生のためにも、一人のジャーナリストとして自分を鍛え上げることが今は一番大事だと思っています」

 またこうも話す。

 「バーグマンやこの調査報道プログラムに集まっている人たちからは『英代は何歳なの?』と年齢を聞かれたこともありません。そうでなく、世界をどう読み解くのか、何をどう取材するのかをたずねられる。そういう『個』としての行動がここでの判断基準になっているのだと感じます。その意味で、一人のジャーナリストとして互いを尊重しあうここの環境は私にはとても居心地がいい」
 
■名コンビのバーグマンとテンプル
 
 そんなバーグマンはジャーナリストとしての仕事を1960年代の終わりにスタートさせた。今はカリフォルニア大学バークレー校でジャーナリズム大学院調査報道プログラムを主導しているバーグマンに、授業に臨む姿勢を聞くと、こんな答えが返ってきた。

 「学生たちには本当のナマの報道というものを勉強してほしいと思っています。スマートフォンと対話するのではなく、本当の生身の人間の話を聞いて、そして学んでほしい。だから授業ではいろいろな人をゲストスピーカーとしてお呼びします。例えば無実の罪で長年牢屋につながれていた人とか、トランプのビジネスパートナーとか、ジャーナリストが『あの人にインタビューしたいな』と思うような人を招き、ここに連れて来て学生の前で話をしていただくんです」

 ジャーナリストとして豊富な経験を積んできたバーグマンは根っからの「現場主義」だ。
 
 「ちょっと古くさいやり方かもしれませんが、スマートフォンやデジタルの機器はみんな捨てて、『現場へ行け』と教えています。現場にまずは行って、きちんとその現場を見よ。あるいは裁判所に足を運んで、裁判所の記録を読みなさいということです。百聞は一見にしかず。ネット上に書かれていることと現実が違うということはけっこう多いのですから。十分に時間をかけて現場を見よということです」

 バーグマンの良き同僚で、マルチメディアを使ったプログラムを指導している元ジャーナリスト、ジョン・テンプル(66)の考え方は少し違う。

 「もちろん、バーグマンのいうようにまずは現場に行って、いろいろなものをしっかり直接自分の目で見ろということ自体は大賛成です。ただ自分たちが作ったニュースをどのように発信するかという段になると、デジタルテクノロジーは欠かせないものですし、それをうまく使いこなせるかどうかが大きなカギとなってきます」

 そんなテンプルは同大学で大学院の2年生を対象に教えているという。「グループごとにそれぞれお題を与えるのですが、そのテーマについての発表をするにあたっては、様々な異なるメディアを駆使することを求めます。オーディオもビジュアルもビデオも、もちろん記事も書かなければなりません。様々なメディア媒体を使いこなした報道を身につけてもらうためのワークショップをしているのです」

■自分の弱点や限界もさらけ出すジャーナリスト像
 
 ジャーナリストのあり方も昔とは変わってきたとテンプルは指摘する。

 「ジャーナリストになろうと私が勉強していた時にいわれたのは、『自分の考えや自分の意見ではなく、事実を報道しなさい』ということでした。ところが、その後テクノロジーが発達してポッドキャスティングのようなものが出てきて、ニュースを伝える人のパーソナリティーやものの話し方とか、言い間違いやミスも全部含めて、視聴者が『ああ、この人のいうことなら信用する』といった方向に今はなってきています。その意味で、読み手や聞き手とのコミュニケーションの仕方というものが、私が学生だったころと今とはずいぶん変わってきている」

 目指すべき「ジャーナリスト像」も時代によって変化してきているのかもしれない。

 「これまでのジャーナリストというものは、それこそ神様じゃないけれど『すべてを私は知っています』というスタンスでやってきました。でも、それが逆に読者や視聴者のメディア不信を募らせているのだとしたら、『自分はこのことについてはよく知りません』とか『この点については私は間違っているかもしれません』というところまで出してしまった上で『そんな自分はこう考えるのです』といったやり方のほうが透明性があると受け取られるのかもしれません。自分の限界をさらけ出した上で、オーディエンスをもっと自分のほうに来てもらい、お互いに築いていくといったようなあり方ですね」
 
■「市民のためのジャーナリズム」が確立されていない?日本
 
https://image.chess443.net/S2010/upload/2019041500007_10.jpeg
報道の自由を訴え、トランプ米政権に抗議する人たち=2017年2月、ニューヨーク
 
 話を大矢に戻そう。

 ジャーナリズムをめぐる日米の違いにも思うところがあると大矢はいう。「私の少ない経験から、あくまで私の主観で感じたことですが」。そう前置きした上で大矢はこう話す。

 「まず米国のジャーナリズムは日本のそれとはまったく違うのではないかと思うのです。一番の違いはジャーナリストたちの意識です。米国のジャーナリストたちにとって、彼らの存在理由は明確で、それを民衆が支えていることが日本との最も大きな違いだと思っています。会社のためではなく、言論の自由、人権、市民の命を守るためにペンやカメラを持つ。Public interest≠ニいう英語は、日本語に訳された「公益」よりも、もっと尊大[投稿者注:ママ]なものであり、絶対的な価値観のあるものとして認識されているように感じます。そのPublic interest≠守るためのジャーナリストたちの存在意義、彼らの意識と使命感は、日本のメディアとは天と地の差があるように感じます」

 なぜそこまで違うと大矢は思うのか。

 大矢は「この根底には『ファーストアメンドメント』と呼ばれる米国合衆国憲法修正第1条の存在が大きいのではないか」と考えている。

 「これは、宗教の自由、言論・報道の自由などを政府が市民から剥奪することを禁止するものです。これを基盤とした「報道は権力を監視するのが使命だ」という理念をジャーナリストたちが認識し、共有しているのだと思いますし、その背景には、権利と自由を勝ち取ってきた長く、苦しい、市民の闘いがあり、今現在もそれは続いています」

 「そういう意味では、日本にはまだ『市民のためのジャーナリズム』は確立されていないのではないでしょうか。戦後、言論の自由を勝ち取った、民主主義を勝ち取った経験を、国民がもっていないからです。唯一、国内で、その経験をもっているのは、地上戦と米国施政権下を経験した沖縄だと思います。沖縄の報道に、市民のためのジャーナリズムが存在するのは、やはり長きにわたる苦難の歴史と『勝ち取った経験』に基づくものであり、簡単に壊れるようなものではないと私は思っています」

■「Equality」と「Equity」
 
 大矢はさらに続けていう。

 「日本と米国のジャーナリズムの違いとしてもう一つ象徴的なものがあるとすれば、米国のジャーナリズムの柱には『平等』があると思う。日本では平等=イクオリティー(Equality)≠ニ訳される場合が多いですが、同じ『平等』でも米国のジャーナリズムにあるのはイクイティー(Equity)≠セと思います。どちらも『平等』という意味ですが、同意語ではありません」

 大矢の説明によると、両者の違いはこうだ。

 「Equality」 は、異なる特性の人たちが、同じ条件に置かれること。一方、「Equity」 は、その人の特性に合わせて、公平な条件を作ること。

 例えば、身長180センチの人と、身長100センチの人が、高さ2メートルのところにあるボールを取ろうとする時、同じ高さの踏台(10センチ)を与えられること、これは「Equality」。でも、前者はボールを取れるけど、後者は取れない。他方、「Equity」の場合は、身長180センチの人には10センチの踏台を、身長100センチの人には90センチの踏台を、どちらも190センチという同じ条件にした上で、ボールを取る。同じ条件のもとで、ボールを取れるか、取れないか、はその人の能力次第。これが「Equity」だという。

 「貧富の差、人種差別が根深いアメリカだからこそ、『Equity』の精神を持った報道が重視されているように感じます。一方で、日本にはこの考えは一般的ではありません。私は、沖縄の基地問題、辺野古の問題は、沖縄が歩んできた歴史を鑑みると、まさに『Equity』の問題だと思うのですが、それが日本人に共有されないのは、日本人にとって『平等』という考えは、やはり国民が自ら権力側から勝ち取ったものではなく、1945年の敗戦とともに突然空から降ってきたような、まだまだ教科書の中の理想でしかないからかもしれません」
 
■米国のジャーナリズムがすべて正しいわけではない
 
 ただ、だからといって「米国のジャーナリズムが100%正しく、日本人が全部見習うべきだ」とは思わないと大矢は考えている。それはなぜか。

 「そもそも、米国の『市民』と日本の『市民』を形成する社会背景が根底から異なるのだと思います。米国は自由と民主主義という理念の元に国家が形成されていることもあって、よくも悪くも『自由』『民主主義』と聞くと、米国人たちの中の得体のしれない愛国心のスイッチがオンになってしまうようで、国民がそろってあっという間に戦争に転がり落ちてしまう危険性を常にはらんでいる。まさに9.11後のアメリカが顕著な例です。そしてそれにはメディアが加担をした。でも、その反省は今日に至るまでまだ十分にはなされていないと思うのです」

 大矢は強調する。

 「米国という国家の根底にある、自由と民主主義の皮の下に潜む暴力のメカニズムや、差別や貧困を生み出す根底にあるもの、そういう米国社会の出しきれぬ「膿」を、どこまで米国人ジャーナリストたちが見ようとしているのか、理解しているのか、私にはまだわかりません。それはジャーナリズムの世界を担っている大半が、白人男性だからかもしれません」

 「彼らにとって『戦うべき敵』は国家や政府、政治家、企業など、権力を持つ者です。もちろん、それは正しい考えです。しかし、トランプのような人間を大統領に選んだ背景には、米国社会の病みがあります。差別され、貧困に苦しむ米国市民の存在、特に白人男性たちの貧困、それを生み出す米国の『負の構造』そのものに斬り込む報道、それこそ平等や自由などという米国人が大好きな美しい言葉でデコレーションしない、『病んだ米国』を直視する報道がいよいよ必要なのだと思います」

■米国の調査報道について思うこと
 
 「『ファクト』の重要性、徹底したファクトを追求する米国のジャーナリストたちには、大変刺激を受けています。何よりも、それを支える市民の存在には希望を抱きます」と大矢は話す。

 例えば、東京の街頭で「調査報道についてどう思うか」などとインタビューをすれば、きっと多くの人たちは「調査報道」という言葉すら知らないだろうと大矢は考える。「調査報道」の存在とその重要性が認知されているということは日本との大きな違いだという。

 そんな米国社会と米国の調査報道にも「盲点」があると大矢は考える。 ・・・ログインして読む
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https://webronza.asahi.com/business/articles/2019041500007.html  


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