★阿修羅♪ > 文化2 > 492.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 4 月 29 日 21:12:16: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 詐欺師 曽野綾子と池田信夫に騙されるな 投稿者 中川隆 日時 2011 年 4 月 28 日 22:53:03)

938 :M7.74 :04/10/29 18:28:26 ID:pK+HmBv0

曽野綾子の紹介

作家。敬虔なクリスチャン。人間愛に満ち溢れている人。
困っている人がいたら手を差し伸べずにはいられない。

というのは数十年も昔の話。

948 :M7.74 :04/10/29 19:30:37 ID:IRLqPAV1
>>938
> 作家。敬虔なクリスチャン。人間愛に満ち溢れている人。困っている人がいたら手を差し伸べずにはいられない。
> というのは数十年も昔の話。


いや、それは彼女の「脳内設定」だからw
そんなもんであった事は無いよ。多分これから先も無いし。

_____________

町の図書館で開架棚にある書物を眺めていた。
曽野綾子の著した本は40冊ある。
これは夏目漱石や三島由紀夫の著作本より多かった。

借りる人が多いそうだ。 人気がある。

三浦朱門

1926年(大正15年)、東京生まれ。東京大学卒業。
1985年(昭和60年)から文化庁長官を務める。
1999年(平成11年)文化功労者となる。

現在、日本藝術院院長


>三浦朱門さん(84)

明治大正生まれ辺りは強姦=豪快という図式のやつが多いからなー

そのノリで息子の嫁手込めにしたとか結構あるし

________

「女性を強姦するのは、紳士として恥ずべきことだが、女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきことである」

との雑誌での発言が、物議を醸した。

2000年7月、ジャーナリストの斎藤貴男に、新自由主義的な発想から「ゆとり教育」の本旨は

“100人に2〜3人でもいい、必ずいる筈”のエリートを見つけ伸ばすための「選民教育」であることを明言。

「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っていてくれればいい」

「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」

「魚屋の息子が官僚になるようなことがあれば本人にも国民にとっても不幸になる」など]。


教育課程審議会において、ゆとり教育について

「私は今まで数学が私の人生に役立ったことは無く、大多数の国民もそうだろう」

とゆとり教育を推進する当時の文部事務次官の意向に沿った 発言を行ない、以後のゆとり教育を加速させた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%9C%B1%E9%96%80

105 : :2010/06/05(土) 17:10:36.39 ID:9DPYsFCJ (1 回発言)

他に「強姦出来るくらいでなければ日本男児たる資格無し」と述べたことがある。
ってまじ?


801 :M7.74 :04/10/28 23:19:01 ID:a1G3PSLn

ちがうよ。

「強姦は無くならないのだから、貞操観念のない女性を強姦すればよい」
「女性を強姦する体力がないのは男として恥ずべきことだ」

806 :M7.74 :04/10/29 00:34:58 ID:WI1U8jot
>>801
これはヤバイだろ。こんなこと公の場で言う文化庁長官ってどうよ。
本当に作家?言葉に対するセンスが無さ過ぎる。

809 :M7.74 :04/10/29 00:41:03 ID:F0a/ruVr
>>806
なんか文学的なこと言った、って自分で誤解したんだよ、朱門は。
曽野との結婚の時もなんか気取った事言ったんじゃなかったかな、忘れたけど。


816 :M7.74 :04/10/29 01:32:51 ID:SkrJQE8A
>>806 本当に作家?

作家かどうかは知らないけれど、今では目出度く日本芸術院の院長に納まっておりますよ。


9 : :2010/06/05(土) 16:12:24.01 ID:tnU9yqdh (1 回発言)

強姦とか後味悪すぎるし
他人との強制的な接触がどんだけ気持ち悪い事なのか想像できないんだろうな
それこそ発狂するレベルだぞ

46 : :2010/06/05(土) 16:20:00.12 ID:tlOm/N0J (1 回発言)

「良いじゃないか、減るものじゃないんだし」
この言い回し考えた人は天才だな


110 : :2010/06/05(土) 17:15:08.46 ID:d7mgoqaj (1 回発言)

嫁の曽野綾子は強姦は女の自己責任と断言してたな
お似合いのゆとり老害


121 : :2010/06/05(土) 17:34:00.40 ID:ZpqUcFO3 (1 回発言)

おまいら、なんで強姦魔が辞められないか知ってる?

経験者から聞いた話なんだが、レイプしようとすると大抵の女は始めは嫌がるんだが、暴れて疲れるとほとんど身動きも出来なくなる。もう好きにして状態になる。そして驚く事に、女はレイプされるともの凄く感じる。普通にセックスした時よりも、比べ物にならないほど激しくイクらしい。痙攣してイキまくる。だから通報できない女が多い。

大抵の女性はレイプされるとありえないほどの快感を覚える。それは大量のアドレナリンとドーパミンが順番に分泌されるからである。吊り橋効果と似ていて、レイプ魔に襲われて恐怖を感じた時に、アドレナリンが大量に分泌され生理的に極度の興奮状態に陥る事により、自分が恋愛をしていると脳が錯覚して、脳が快感を与えるドーパミンを分泌してしまう為、体が快感を覚えて反応し、挿入からしばらくすると、膣が充血する事で、クリトリスや膣内の性感帯が過敏になり、膣が刺激される度にピストン運動にあわせて脊髄反射で腰を振ってしまったり、痛みに対して悲鳴を上げるように、快感に対してよがり声をあげてしまうわけなのです。

女性というのは、そういう風に出来ているのだそうだ。だから強姦はクセになってしまうのだそうです。ついでに言うと、強姦被害者がよく自殺なんて話があるが、あれは強姦されたことが嫌で死ぬわけではなく、強姦されて激しく快感を覚えた自分の体に嫌悪して死ぬのだそうですよ。

ちなみにこれは知り合いの弁護士が連続強姦魔から聞いた話です。強姦魔の話では、強姦をするときに女性が自分が感じてしまっている事への戸惑いと、快楽に身を任せる表情とが入り混じってたまらないと言います。

どんな美人でも最後には泣きながら自分から腰を振るそうです。嫌だとは思いながらも体は感じすぎてしまい拒絶できない。むしろ自分から求めてしまうそうです。強姦魔によると、美人が泣きながらも苦悶の表情で、「イク」と言うのがたまらないと言います。

一度知ったら誰であろうと絶対に辞められるわけないとも言っておりました。 おそろしや


140 : :2010/06/05(土) 21:19:48.26 ID:4ZHRr5f3 (1 回発言)
>>121
んな訳ないだろ
こんなコピペとかAV見すぎなやつが、実際やってみたら女の力が凄くてびっくりして殺しちゃうんだよ

86 : :2010/06/05(土) 16:54:38.18 ID:0wrUraOD (1 回発言)

文系脳って極めつけると凄いんだね
犯罪肯定したりゆとり教育推し進めたり

969 :M7.74 :04/10/29 23:25:07 ID:dXozA34c

曽野と三浦の夫婦そろって文化功労者。毎年350万ずつの年金だよ。

タリバンと同レベルの文化破壊者のくせして。

しかしまあボランティアで財団の仕事してるとか言ってるけど財団の金を政治家や財界人やファミリーの組織にまわしてそこからバックさせるなんてうまい手考えたもんだね。まあ考えたのは笹川だろうけど。

174 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 21:18:47.29

いやあ、凄い人気の婆さんだが、夫妻とも権力に寄り添うのがうまいなあ。
ところで夫妻ともどんなもん書いているの?


688 :M7.74 :04/10/27 20:37:59 ID:YQiow04v

コイツの旦那の三浦朱門が円周率を3にしたりしてゆとり教育を進めて国際的に高い水準だった日本の教育を崩壊させた首謀者なんだよ。
コイツらちょっとおかしいよ。

797 :M7.74 :04/10/28 19:26:35 ID:uDkDGXQW

日本財団って、こう云うババアが、元締めでボート賭博の上がりのゴク一部を福祉事業に恵んでカモフラージュしているわけだ。
旦那のレイプ発言と云い、この夫婦昔からヘン。


130 : :2010/06/05(土) 18:33:50.22 ID:URXDI6AU (1 回発言)

女房の曽野綾子はウヨの寵姫だよなw
沖縄集団自決の件で気に入られて。
ゆとり教育の戦犯の一人でもあるはずだがw


721 :M7.74 :04/10/28 02:40:04 ID:n03lJOts

自分は数学なぞ役に立たなかったからこんなもの教える必要はないとか言って、ゆとり教育推進した亭主の援護射撃してた女だからね。

22 : :2010/06/05(土) 16:14:58.77 ID:ETZcwfsb (2 回発言)

ゆとり教育って出来るやつを伸ばそうとかしてたっけ?
ただ教科書薄くしただけじゃね?


40 : :2010/06/05(土) 16:18:06.52 ID:okV2iePI (1 回発言)
>>22
周りが努力しないなら、自分はちょっと努力すれば結果が出るからな
それで努力の味を知り、周りを出し抜く人間が出てくるって話じゃねぇの
ゆとり教育自体はどうかと思うが


41 : :2010/06/05(土) 16:18:12.57 ID:SoEavKt6 (1 回発言)
見事な選民思想だな


106 : :2010/06/05(土) 17:11:45.04 ID:w4QJP7BY (2 回発言)
>>99

ゆとり教育で増えたのは脳みそのゆとりだけだもんな。
酷い話だ。

__________


だから教育課程審議会で「ゆとり教育」を導入したのは三浦朱門ら正論メンバーやそのシンパの連中じゃねえか。しかもその成果を保守系の各種出版物で自慢げにインタビューで三浦朱門自身が答えているし妻の曽野綾子やらもアホなこと逝ってる。

以下の「ゆとり教育」導入を決めたときの三浦朱門のコメントが全て。(現代思想)より

「学力を低下させるためにやっているんだ」

「いままで落ちこぼれのために限りある予算とか教員を手間隙かけすぎてエリートが育たなかった。」

「これからは落ちこぼれのままで結構で、そのための金をエリートのために割り振る。」

「エリートは100人に1人でいい、そのエリートがやがて国を引っ張っていってくれるだろう。」

「非才、無才はただ実直な精神だけを養ってくれればいいんだ」

「ゆとり教育というのは、ただできない奴を放ったらかしにして、できる奴だけを育てるエリート教育なんだけど、そういうふうにいうと今の世の中抵抗が多いから、ただ回りくどくいっただけだ」


『機会不平等』(文芸春秋社)より


学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。

いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。

限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。<中略

平均学力が高いのは、遅れてる国が追いつけ追い越せと国民の尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国になっていかなければいけません。それが“ゆとり教育”の本当の目的。

http://kyoto.cool.ne.jp/sono001/archives/hisaisha.htm

126 :M7.74 :04/10/25 15:07:13 ID:Zp5+1DIV

周囲が地盤沈下したら、以前のレベルの学力を保つだけで比較の問題では「凄いリーダー」になる。


流石、三浦朱門(ゲラゲラゲラ

http://logsoku.com/thread/tsushima.2ch.net/news/1275721777/

【正論】曽野綾子 どこまで恵まれれば気が済む-イザ!

 文句のつけようがない見事な沖縄取材でおなじみのあややこと曾野綾子氏です。

 「現代の日本はとてつもなく恵まれているのだから、足ることを知れ、感謝を知れ」

という意見は、(本来の意味での)保守派として正当な論説ですし、際限のない欲望を戒めるという意味なら、傾聴すべきところです。 「親のしつけが大事だ」というのも、まったくそのとおりです。しかし、

「みんな平等だという戦後教育が悪い」

となってくると、おや、と思います。教育といえばゆとり教育ですが(やや強引)、

「一部のエリート以外は勉強させなくてもいい」

としてゆとり教育を提唱した三浦朱門氏は、たしかあややの連れ合いだったなあ、と。あややが感謝している現代日本の豊かさを作ったのは、「みんな平等」な戦後教育による教育水準の高さに大きく由来するもので、三浦・曾野夫妻はそうではない国を作ろうとしていると思っていたので、たいへんびっくりしました。

 そうした大枠の矛盾を別にしても、

「ストレスは、自我が未完成で、すぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われる」

というあたり、目を疑いました。《ストレス》の生理学的な定義は別にして(「寒い」「痛い」「腹減った」なども《ストレス》です)一般的な用法に限っても、自我があるから(他人や社会との軋轢による)ストレスが生じるので、自我のない人間ならそうしたストレスは感じません。他人をうらやみ嫉妬するのもたしかにストレスでしょうが、普通の人間にとっては嫉妬されるのもストレスだし、あややの言うような意味でストレスを感じない人間がいるとしたら、悟りを得た高僧ぐらいでしょう。もちろんその境地に到るのは理想ではありますが、「ストレス」という表現でそこまで要求できるものなのでしょうか。

 まあなんにせよ、結論そのもの(「足ることを知る」)は正しいとしても、その論拠を重ねる過程がここまで滅茶苦茶な論説というものもあるのだなあと、これはひとつ勉強になりました。と、無理矢理よかった探ししてみる。

http://d.hatena.ne.jp/pr3/20080109/1199878513


137 : :2010/06/05(土) 18:58:30.25 ID:Vtd9z9lF (1 回発言)

ゆとり教育を推進し日本人の学力を低下させたのは、中曽根臨教審と臨教審に関わった保守系人脈。

バカウヨの皆さん何か反論は?

http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01254/contents/738.htm


>「戦後教育の総決算」を掲げた中曽根首相(当時)は84年、首相直属の臨時教育審議会を
>発足させた。「ゆとり教育」に代表される今の教育施策・改革の源流をたどると必ず臨教審に行き着く。
>そのことを意識した中曽根氏も、インタビューで「ゆとり教育」の正しさを強調した。
>学力低下など問題の原因は教師の「質」や運営方法などに求めている。
>だが、中曽根氏は臨教審を「失敗だった」と総括する。


http://www.asyura2.com/0411/senkyo7/msg/301.html

↑中曽根臨教審に曾野綾子、
臨教審に影響を与えた「世界を考える京都座会」に山本七平、渡部昇一といった
保守系文化人が関わっている。

http://math-sci.hp.infoseek.co.jp/QuadEq.html

曾野綾子「私は2次方程式もろくにできないけれども、65歳になる今日まで全然不自由しなかった」

この発言から1年2ヶ月ほどたった98年の6月に教課審の審議のまとめが出され、
2次方程式の解の公式は中学数学から姿を消すことになった。

http://ww1.tiki.ne.jp/~sakuwa/kaiakusitaihito2.htm

三浦朱門

「そんなことは最初から分かっている。むしろ学力を低下させるためにやっているんだ」

「今まで落ちこぼれのために限りある予算とか教員を手間暇かけすぎて、エリートが育たなかった」

「ゆとり教育というのはただできない奴をほったらかしにして、できる奴だけ育てるエリート教育なんだけど、そういうふうにいうと今の世の中抵抗が多いから、ただ回りくどく言っただけだ」

「エリートは100人に1人でいい。非才、無才はただ実直な精神だけを養ってくれればいいんだ。」

145 : :2010/06/05(土) 21:33:07.54 ID:NEyURSbH (2 回発言)

しみじみ馬鹿な人間だとしか思えん。

限りなくできない非才、無才とやらを、誰がどうやって判定するのか。

そして己は、判定される側ではなく、判定する側の人間だと始めから思いこんでいる。

エリートを拾い出す教育というが、その手法が確立されていると言い切ったら、これまた人間の能力の独断による「見切り」告白でしかない。

もしもエリートとやらを拾い出すことを望むのなら、俺は「出来ない(と思われる)」子どもの切り捨てとは逆に、全体の底上げを計って、その中から拾い出す方向が正しいと思う。

砂山の頂上を高くする事と同じなのだ。底辺を広げなければ頂上は高くならない。

さらに言えば、現在の科学研究は、もはや一人の天才によって左右されるものではなくチーム力によって左右されるものだ。たった一人の天才を拾い出せればという夢想は、宝くじに当たるといいなーという夢想と同列のものでしかない。


173 : :2010/06/06(日) 13:04:24.38 ID:pdm+Ewlr (1 回発言)

数学不要論は多いけど、数学教育が社会からなくなると一体どうなるんだろうね。
※算数は小学で習うから、否定派はこれは否定してないということだよね。

実際問題、表向き高校数学とかあるけど、高校は低レベルなとこだと、まともに数学やると卒業できないから中学数学に毛の生えた程度の事しかさせないけどね。

逆に全員に数学教えた方がその中で逸材生まれる可能性が高いのかな。
例えば理学部数学科とかは何百人に一人天才を生み出すのが目的で後はどうでもいいらしい。一人生まれれば。

http://logsoku.com/thread/tsushima.2ch.net/news/1275721777/


9 :吾輩は名無しである :2011/02/07(月) 02:12:35

日本について。

「どこへ行ってもガスと電気は一日中使えます。 トイレもきれいで水を使いほうだい。しかも、どこへ行っても安全。こんないい国は世界中を探してもありませんよ。 日本が嫌なら、さっさと出て行きなさい」
(読売より)


★徴兵制,奉仕労働で若者を叩き直せ!
  他者への奉仕が育む本当の自由! (曽野綾子)

(『週刊ポスト 2月25日号』より)

86 :吾輩は名無しである :2011/02/13(日) 23:02:35

何、この稲田朋美のパクリ

やっぱり「お仲間」の慎太郎と同じで、戸塚ヨットスクール方式丸投げでどうにかなると思ってるのが、教育を脳内だけで考えて実践もしたこともない素人丸出し

でもこんなでも、政府の教育政策に口出ししてきて結果、日本を駄目にした張本人



87 :吾輩は名無しである :2011/02/14(月) 00:34:12

曽野綾子はある種の寄生虫を彷彿とさせる。

宿主を殺す程に肥大し、寄生虫自身は目も鼻も脳も持たない。

何故、赤の他人が若者だからという理由で己の為だけに血や汗を流してくれると無邪気に信じているのだろうか?

曽野の徴兵制論は毎度同じ事しか書かないが、自分は銃後で叱咤する。
お前等は前線で死んでこい。では民族主義の人間ですらこんな奴のためには死ねないのではないかと思うが。


5 :吾輩は名無しである :2011/02/06(日) 16:14:03

東に病気の若者あれば 気合が足りんと言って引きずりまわし病状を悪化させ

西に疲れた者いれば 行ってみんな疲れてるのだぞと説教をかまし

南に死にそうな人いれば 行って 甘えるなと罵倒し

北に喧嘩や訴訟があれば 行って強き者ばかりに加勢をする

ソウイウソノニ ワタシハナリタイ


6 :吾輩は名無しである :2011/02/06(日) 17:16:43

曽野の特徴まとめ。

・金持ちボンボンの曽野が、豊かさで弛んだ日本人を批判

・エリート生まれの勝ち組曽野が、被差別民族・人種を批判

・裕福な曽野が、社会的救貧政策・差別格差是正運動その他を偽善と批判

・富豪の曽野が貧民は甘えと批判

・生まれながらに富裕な曽野が日本の下層はアホだから下層だと批判

・豊かで呑気に生きている曽野が物騒で貧しいアフリカを賞賛

・曽野が好きそうなもの
封建制、身分、軍事政権、独裁政権、特権階級、格差、戦争、植民地、弾圧、反人権

12 :吾輩は名無しである :2011/02/07(月) 15:17:53

曽野綾子氏の批判する人々と動物たち。


●災害の被害者たち・・・・・おかみに頼る根性、知恵も対策もないアホぶり。

●犯罪の被害者(特に性犯罪の女性被害者)・・・不用心が犯罪を誘発する。

●ホームレス、・・・・・公有地の無断使用など

●要介護老人・・・・・自助努力の欠如、

●住居地に侵入する鳥やけもの類・・・退治できない厄介ものを保護するな!邪魔ものは殺せ。


215 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 21:16:47.03

>>12
こんなこと平気で書く人を崇めてる日本も日本だ
政府までへいこらしてるし
人間エラソーに振る舞う人に弱いんだよね
旦那も学者だから(やっぱり右翼だけど) いい旦那射止めてるし

218 :吾輩は名無しである :2011/02/27(日) 03:37:55.18

右よりの愚人の代弁者。
自分のこと、「貴族」か何かと思っている。
上から目線の説教にはイヤミがこもる。
本当に嫌いだよ、この人。

150 :吾輩は名無しである :2011/02/21(月) 02:42:29.11

こいつといい珍太郎といい、作家が政治や教育に口出しするとろくなことにならん

ゆとり教育叩きに狂奔してるくせに、テメエの旦那がそれを推進した元凶一味ってのをスルーって

反吐が出るようなダブスタだ

680 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 00:03:30.68

いや、こいつは、なんと言っても低偏差値の星であることは確かだ。
化け物でもあるがね。


682 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 09:14:02.15

>>680
だからおまえはアヤヤを仰ぎ見ていると言う訳か。

683 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 11:39:54.08

そうなりたいなあ。
あやや(松浦亜弥の方ね、勿論^^)を騎乗位で・・・

684 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 14:39:52.01

鼻の穴がよーく見えるだろね

685 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 16:26:30.26

鼻の穴とスルメのオッパイが、、、
なんか恐ろしい悪夢を今夜見るような、、、
寝るのが、、、(怖)。。。。


686 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 16:40:45.52

夢のなか、君に跨った女は髪を振り乱し、松浦になったり曽野婆になったり・・・

ギャャー!!


748 :吾輩は名無しである :2011/04/21(木) 15:57:30.75

君子が文を学べば人を愛す。小人が文を学べば人に謙譲す。

ババア、テメエ何様のつもりだ?、が「文を学んだ者」であるなら、
はて?そのババアは、一体なんなんだろうか???

749 :吾輩は名無しである :2011/04/22(金) 00:02:28.73

くそばばあ。アーメン。

750 : v(・x・)v鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 :2011/04/22(金) 00:06:35.81
アーメンは勿体無いからザーメンでいいよ

751 :吾輩は名無しである :2011/04/22(金) 03:04:50.80

ア〜ヤに顔射する勇気はないな
そもそも勃たないと思う

752 :吾輩は名無しである :2011/04/22(金) 05:30:00.50

そりゃそうだ。この人は、可愛げのない大女だぜ。しかも低偏差値。

615 :吾輩は名無しである :2011/04/06(水) 12:42:03.70

曽野綾子の顔は内面の醜さがそのまんま出ている汚らしい顔だね。
卑しさ、傲慢、物欲、名誉欲、我欲まみれのあさましい顔付きだ。
これも一種のヴィジュアル系だね。


645 :吾輩は名無しである :2011/04/09(土) 17:41:40.87

読売新聞で金持ち自慢に被災者への極端な例を上げての説教
妄想の中の若者に説教、いつもいつも同じパターン
こいつは本当に世間知らずだな

646 :吾輩は名無しである :2011/04/09(土) 19:03:51.20

読売読んだけど…
勇ましいこと言ってる割には芯が無い人だね。
「国に頼るな」ってなんのための税金だよw


648 :吾輩は名無しである :2011/04/09(土) 23:01:23.74

>私たち日本人は、戦後の復興と高度経済成長を経て有頂天になっていた。
>今回の東日本大震災によって、甘やかされた生活がこれからも続くという
>夢が打ち砕かれた。

庶民感覚ゼロ。世間知らずルーピーババァ丸出し。

649 :吾輩は名無しである :2011/04/09(土) 23:31:58.87

甘やかされてるのは曽野。お前一人だよ。
何故死なないんだよ。役立たずなのに。甘えだよ。甘え。


651 :吾輩は名無しである :2011/04/09(土) 23:32:53.87

庶民感覚もゼロだけどそれ以上にヤバイのは
学歴はどうでもいいけど、知性がゼロということだよね。
国を信用するのが甘いとか、自分は自分で防衛するのがあたりまえだとか、
これ、国家とか社会の仕組みの基本を完全にぶっ飛ばした思想だけど、
自分の主張してることが何を意味することになるか自分で理解していないのが決定的にヤバイ。


653 :吾輩は名無しである :2011/04/10(日) 00:20:05.48

基本偉そうだけど権力側の空気を読むから使いやすいんじゃないの

659 :吾輩は名無しである :2011/04/10(日) 08:56:55.51

自分は権力の側なのに権力側を頼るなとか甘えるなとか言うのも変な話
他人に厳しく自分に甘いのは自称保守(笑)の金持ちに共通している


974 :M7.74 :04/10/30 00:00:39 ID:w2ILyCt3

年寄りは年寄りなりに生きることに努力しろだと
途方に暮れて弱っている年寄りに努力しろだと
曽野は傲岸(ごうがん)な猿である。


965 :M7.74 :04/10/29 22:46:19 ID:Maeldrax

オバハンのこういう発言、本人はもう、あっちにいってるような感じだから、意図がどうのとか言っても始まらない。それよりも、こういうコラムを見て喜ぶ連中がいることのことを考えよう。

福祉切り捨て経団連なんか、最たるもんじゃないか。震災特需でもうけると同時に、普段から個人に責任を負わせるようにすれば、あの連中にとっては非常に好ましい社会になる。

オバハンは知ってか知らずか、ここでもまた、資本家の走狗となっておる。


736 :吾輩は名無しである :2011/04/20(水) 19:54:58.50

この、クソばばあ。


737 :吾輩は名無しである :2011/04/20(水) 20:43:05.89

クソならまだまマシ。 死に神ババアだよ・・・

┌───────────────────
│ネエ、みんな、 アタシってビッグ? グレート?
└───v───────────────
     /⌒\ っ   /\
    /'⌒'ヽ \ っ/\  |
    (●.●) )/   |: | 
     >冊/  ./     |: /
   /⌒   ミミ \   〆
   /   / |::|λ|   .  |
   |√7ミ   |::|  ト、   |
   |:/    V_ハ    |
  /| i        |   ∧|∧
   и .i      N /⌒ ヽ) ←日本の良識、かもねw
    λヘ、| i .NV  |   | |
      V\W  ( 、 ∪
             || |
             ∪∪


738 : v(・x・)v鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2011/04/20(水) 20:44:33.86

貧乏人の生き血を吸って生きてんだよ!!


739 :吾輩は名無しである :2011/04/21(木) 00:31:36.02

どうして曽野を含む自己責任連呼厨は他人にばかり甘えるなと言い放つのだろう。
甘えている人間が社会を支えている甘えていない人間を罵倒する不思議。
曽野は社会を見る目も自分自身を見る目もない。


743 :吾輩は名無しである :2011/04/21(木) 05:47:23.73

曽野というのは、何も生産せず、それどころか官僚にたかり、夫婦ともども国家を食い物にし、そして偉そうに庶民を下に見ながら説教を垂れる、本当は庶民の出身だが聖心を卒業したから自身、上流と錯覚している低偏差値、迷信ばばあだ。
恥を知れ、恥を。運輸官僚ともども。自民党ともども。

89 :M7.74 :04/10/25 13:54:54 ID:h3QzkBRO

曾野綾子は小学校から聖心女子大学付属で育ったカトリック信者。
日本船舶振興会の現会長。競艇(不善)で儲けたお金も良い事に使えば贖罪されるというのがカトリックの思想です。

91 :M7.74 :04/10/25 14:02:44 ID:h3QzkBRO

生まれ育ちの良さの恩恵にあずかっておいて貧乏人は甘えているというのが昔からのこの人の考え方。そういう訳でこの人好きじゃない。

92 :M7.74 :04/10/25 14:03:52 ID:N30NztGR

事故や災害で弱者が先に死ぬのは自然の摂理だから、それに逆らわない方がいいよね


94 :M7.74 :04/10/25 14:08:29 ID:h3QzkBRO
>>92
それはまさに、曾野綾子の思想だよ。選民思想の人。


99 :M7.74 :04/10/25 14:21:15 ID:h3QzkBRO

自分が貧乏もしくは中流家庭で育って努力でのしあがったんならそう言っても良いんだけどね。上流階級の産まれ育ちでそういう事言うのは嫌みだと思うが。嫌みなババァというのが、昔からのこの人の印象。

107 :M7.74 :04/10/25 14:35:54 ID:PW4XC6xM

博打で荒稼ぎしてる金を元手にのほほんとしてるおばさんが何を言ってもなw

290 :M7.74 :04/10/26 02:21:14 ID:d5GDQlmp

クリスチャンってこのババァみたいなのしか知らない。
なんか選民意識。明らかに人を見下している。
自分は絶対に安全なところから。

よく考えたらキリスト教の教義って選民思想だな。しかも祈ってたらカミサマが助けてくれるんだろ?
世界の終わりの日に、キリスト凶徒だけ。

個人的にキリスト狂はキ印だと思う。


293 :M7.74 :04/10/26 02:45:51 ID:HL0cnWzw

うちの親戚のおばさんは、この前あった台風のせいで避難所生活を初体験したが、曾野ばあさんの理屈に叶った行動は何一つできなかったな。

子供達は結婚して家を出ているので一人暮らしをしているが、子供達はもしも災害時に備えて、母親用の飲料水や食料をマメに用意してるような、心配性の家族なんだわ。
で、今回洪水が起こったわけだが、年寄りで膝が悪いおばさんは、それらの避難グッズを担ぐ余裕なんぞ持てなかった。

近所に頼ろうにも、年寄りだらけなもんだから、皆、貴重品を持って、身一つで移動が手一杯な状態だったそうな。
あめ玉などの菓子は持って出たらしいがな。

なにを高見から、えらそうに講釈垂れてるのだか。
競艇ギャンブルの親分のくせに、クリスチャンだって?

167 :M7.74 :04/10/25 17:07:47 ID:SosKrFFp

個々人は自己責任がある程度あるわけだがこの国はもともと弱者を馬鹿にした法整備(田中知事がいってた崖の上の老人ホームetc)を作ってきたわけで この人のいうことに一理あっても行政にはどんどん弱者救済を目指してもらわないととりあえずEU基準レベル程度に先進国らしく当面は行政をあてにできないから個人備蓄は怠れない

親戚や友人にクリスチャンがいるが結構ついていけない人間が多い
信仰のない人を切りすてていけないと自分自身の信仰も成り立たないから


169 :M7.74 :04/10/25 17:18:44 ID:L66F+Kph

金持ちの特権階級の女史がド田舎の庶民の暮らしに喝を入れてくれる。
ありがたいことじゃないか。
新潟県知事にも直接進言したらどうかね。


171 :M7.74 :04/10/25 17:28:58 ID:PW4XC6xM
>>167
まぁ、当たり前だなw<クリスチャン

自分達は人殺しをしながらも、それを正統化してきた歴史がある。
口先だけでは、先人達のやってきたことにも問題はあった、というが、口だけw
自己欺瞞がうまい人じゃないと「信仰」は続かんよ。

446 :M7.74 :04/10/26 21:30:08 ID:xulGHsLY

俺カトリックだが曾野は大嫌いだ。
あいつとキリスト教徒全般をいっしょくたにしないでホスィ

それにしても台風だって、水が出て水位がみるみる上がってるような状態とか
大波で一瞬にして破壊された家屋とかもあったのに自己責任とはね・・
彼女のエッセイはそれなりに冊数読んだけど、(読んだから嫌いになったんだが)
他人が大事にされたり愛されたりするのが気に喰わない
重度のアダルトチルドレンでしか無いと思うんだが。
父親とんでもない奴だったらしいし、それを耐えて来たのは御苦労様だが
他人がそれ以上の苦労をしていないと認めないワヨ!てなヒス傾向が
著作のあちこちに見隠れしていてみっともない。

旦那もいつ爆発するか分らない妻に苦労してるらしい。

キリストのゆるしや癒しからは最も遠い人だよ。

451 :訂正 :04/10/26 21:51:11 ID:cYIOqzhq
>>446
悪いが、俺が見る範囲ではまともなキリスト教徒って見たこと無い。
独善と選民思想の塊という印象が非常に強い。

人に潔癖 自分はドロドロ

612 :M7.74 :04/10/27 13:22:43 ID:VovMxiub

どの道「支援しっぱなし」という状態は収束してしていきますからね
被災者だっていつまでも他力本願で生活しようなんて思ってないしウチんとこも皆、借金したりして自力で再建中だよ

ソノやんとかは日本の現実知らなすぎ
毛布被ってたアンちゃんだって、翌日からは復興に立ち向かっていたかもしれないのにな・・
人情のわからん冷酷なオバンって感じがするね

613 :M7.74 :04/10/27 13:45:03 ID:yStin6iz

やっぱり、カトリックって冷たいんだなと思ってしまった。

きびしい宗教だからね。日本みたいな、甘ちゃんの国はお嫌いなんだろうね。
じゃあ日本財団のトップなんてやめて、カトリックの国に行けば、と思うけどなあ。

昔、深夜のラジオに、カトリックの番組があって、遠藤周作さんとか このオバハントカ、そのダンナとかが出てました。遠藤さんの言うことは、味があって、よかったですが、このオバハンとそのダンナは、なんでもかんでもエラソーに日本のふつうの市民を罵倒するばっかりで、聞いててとても不愉快だった。

反カトリック勢力によるネガティブ・キャンペーンかと思ったぐらいで、他人に対してそんなに容赦ない宗教が、この日本で支持されるわけないなぁと思ってました。
歳月を重ねるうちに、ますます権力的になって、こんどの発言ですか。

このオバハン、「嫌日」なんだなあと思います。
日本は、弱ってる人に対して、やっぱりやさしいです。ひどい状況でも、ほとんどの人は立派です。暴動・略奪もないじゃないですか。こんな、「甘え」もありぃの、のやさしい文化が、もともとの日本の伝統だと僕は思います。江戸時代でも大火や火山噴火・津波・洪水といった天災のとき、各藩や幕府は、炊き出しや仮家の普請などをやっていますよ。

西洋カブレのバカ、としか言いようがありませんね。
それでも、神は我とともに在りと信じているんでしょうからね。

お〜い、バチカン、日本でほんとに布教したかったら、こんなオバハン、破門にしたほうがいいぞ!


614 :M7.74 :04/10/27 13:48:08 ID:J4ZbK6hj

人情のわからん冷酷なオバンって感じがするね

曽野の父親は、自分の妻に暴力をふるう人間だったそうだ。
そして、曽野の母は曽野を道連れに自殺未遂をはかったこともあるそうだ。
安心して暮らせる家庭で育つことができなかった曽野は、自分が受け入れられているという感覚を持たずに大きくなった。そして、カトリック系列の学校で律法主義的な教育を受けることによって、常に自分を他人と比較しないといられない性格になってしまったのだろう。自分を他人と比べて、「自分は他人よりも優れている」と確認し続けないと、自我を保つことができないのだ。

今回の「被災者は甘えるな」発言も、その発言の中身をどうこういう以前に、他人を馬鹿にしないといられない曽野の性格が表れたに過ぎない。七十過ぎだというのに、あそこまで幼稚な大人も珍しい。
きっと死ぬまで直らないよね。

616 :M7.74 :04/10/27 14:13:45 ID:vMA2pzWK

あややんとか言うなよ。

護衛付きのお大尽視察旅行で、ソマリアの難民キャンプで高見の見物してたババァに
何がわかるの?

特権意識丸出しで、上から見下ろして、偉そうに文句だけつけるアホ。


692 :M7.74 :04/10/27 20:57:30 ID:oiqm8RTc

曽野綾子自身は盗作作家で有名だったが、現在は不振、この女も自分に甘く他人には手厳しい。平和平和できたボケ国民へ一言なんだろが。


694 :M7.74 :04/10/27 21:36:02 ID:Bstq7ftF

世襲大使は殆ど全員 曽野綾子ファンだそうだ


698 :M7.74 :04/10/27 23:17:41 ID:K0/hghPi

曽野綾子は、被災者が受けた被害を、無意識かm意識的にかは知らないが、聖書のヨブ記に書かれているような神の与えた試練と考えているのではないか。

被災者はどんなに理不尽な災厄であっても耐え、ヨブのように、被災者が最後に

「それゆえ私は自分を否定し、塵芥の中で悔い改めます。」

と言えば、彼女は納得するのだろう。

まぁ、吉外女の書いているタワゴトだから、まともにとりあげる必要もないが、気になることが二つある。


(1)このような他人への厳しい態度と自分の身内への甘さの格差の大きさはどうしてか?

(2)曽野綾子の他人への厳しい態度の中で、無意識だろうが自分のことを神と等値しているような思い上がりがあるように感じられる。


743 :M7.74 :04/10/28 09:00:18 ID:8sjL6dHg

日本のカトリック信者のほとんどがブルジョワ趣味の腐った連中。

上流階級のステイタスシンボルとして、信仰を持っているだけ。 単なるポーズにすぎない。本音は、

「貧乏人と一緒にされちゃ困るわ」

曾野綾子がむかついたのは、貧乏人に、「ラベルのついた」新品の毛布を無償で配ってたから。被災したくらいで、勿体ないと思ったんだろう。

ケチな糞ばばあがもっともらしく理屈つけてるだけなので騙されるな。


749 :M7.74 :04/10/28 12:23:07 ID:/p3Gx/vM

>>743 上流階級のステイタスシンボルとして、信仰を持っているだけ。

そういえば、曽野は、電車の中や歩きながら物を食べている若者をあげつらって、
「私は学校(聖心)で、きちんとテーブルマナーをおそわった」とか書いていたもんな。

まあ、皇后様の誕生日に皇居にお呼ばれすることが曽野先生の何よりの自慢ですからね、

「私は一般大衆とは違うのよ」

と思い込んでしまうのも無理からぬことよ。

802 :吾輩は名無しである :2011/04/27(水) 15:15:20.53

エッセーに皇后陛下を同窓で云々だとか、親しい仲だとか書いているね。
皇后は大迷惑だろう。 何も言えないお立場の人を苦しめる利己主義には開いた口が塞がらない。


806 :吾輩は名無しである :2011/04/27(水) 21:57:48.03

聖心でございます、上流階級の。ごきげんよう、おほほほ。
頭脳の良し悪しを言うのは下々の人ですよ。

http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/book/1296970756
http://kyoto.cool.ne.jp/sono001/archives/hisaisha.htm

________________

【曽野綾子の 透明な歳月の光】(132)

地震に思う 災害時の知恵 訓練必要 2004.10.29 

 災害の話をすると、多くの人が「皆頭が真っ白になってて、何も考えられないのよ」と被災者に代わって弁護する。

 人間はその場にいなければ、どんなにでも利口そうなことを言えるものだが、一般の人たちにもう少し災害時の知恵を訓練する必要はあるだろう。揺れている最中は立っていることも考えることもできないのを、私は体験しているが、収まれば僅(わず)かな時間に、次の余震に対してどうしようかと考えて当然である。

 戦争中なら、どこにも食料はなかった。しかし今、殊にこの時期の米所には、どこの家にもお米の一キロや二キロはあるだろう。私なら余震の間にどこかからお鍋を手に入れて来て、ガス洩(も)れの恐れのない遠くで、すぐに自分でご飯を炊く。その時、電気釜でなくてご飯を炊ける知識が必要だ。水はお米の量の一・五倍を入れれば間違いなく炊けることを多くの人が知らないのである。

 そのために即席の竈(かまど)を作る。ブロックでも煉瓦(れんが)でもこういう場合にはどこからでも壊れた材料を失敬してくればいい。この程度のものなら、人間は時には無断借用する才覚も必要だ。自然石ならできるだけ同じサイズのものが三個あれば鍋をおいて安定する。

 薪はその辺のどこにでもある。壊れた家から出たゴミは焼却場に運ぶよりは、当分の間、被災地の燃料として使うことだ。出し味噌(みそ)一つあれば味噌汁もできる。知り合いの店なら、食料品はツケで買える。普段の信用が大切だ。

 お握りやパンの配給があるまで、どうして手を拱(こまね)いているのだろうか。年寄りは年寄りなりに、自分が今まで生きてきた体験上の知恵を働かせて、なぜ自分たちで生きることに努力しないのだろうか。それでいて国家に不平を言う人もいる。

 しかしそれにしても新潟県中越地震発生直後から午後七時までのNHKのニュースの担当者の態度はひどかった。

 私たちに聞こえるほどに、役所の電話が鳴り続けているのに、担当者は平然とインタビューを止めない。こういう時の電話は多かれ少なかれ、救いを求めている電話だ。その電話に役人を出させず、自分の質問に答えることを優先させて平気なのである。必死で電話を掛けている人は、どうしてこんなに役所の電話が通じないか不思議だったろう。私ならNHKのインタビューなどさっさと無視して、被災者に答える。

 七時過ぎにニュースに出た担当者はさすがに違った。「こういう時ですからあまり長く時間を頂けないとも思いますが」という言葉が自然に口に出ていた。これが人間だ。前の人は傲岸(ごうがん)な猿である。NHKというところは人間離れのした感覚の人を平気で人気アナウンサーとして使っている。それがこういう場合に暴露されるのである。

 (毎週金曜日掲載) 01/15 15:28 By:pipi URL

_________

All Rights are held by 産経新聞 & 曾野綾子


10月20日に、アフリカのマダガスカルからパリ経由、24時間ほどをかけて帰ってきた時、乗務員が「今、九州に台風が来ているけれど、これが日本では3つ目の台風だそうですね」と言う。私は「3つなんてものじゃないでしょう」と言ったものの、17日間家を空けていたので、これが>幾つ目の台風かよくわからない。そして帰宅した日の午後から夜にかけては台風のニュースばかりである。  台風の被害が大きい時ほど、黙っている人たちがいる。それは「ダムは要らない。川は自然の姿を保て」と言い続けた人たちである。

 ダム、堤防、山の植林、などというものは、治水の基本であり、治水はいつの時代でも国家経営の条件だ。それを否定した人は、どういう責任を取るつもりなのか。そうした計画は政府がすべて大手ゼネコンとつながりを持つための1つの手段としか解釈せず、山も川も、自然に任せるのがいいのだ、などという「暴論」を載せた新聞や雑誌も多かった。そうしたことを書いた人たちと、載せたマスコミは、こういう際にこそ、発言に責任を負うべきだろう。

 もちろんダムも堤防もむだは厳しく省かねばならない。しかし必要な個所には新設も補修もやらねばならない。当然のことだ。ダムは認めるか認めないかのどちらかだ、などという思考ほど幼稚で困るものはない。作ったダムは長く使えるように後の手入れも続けねばならない。放置しておいて「ほら、ダムってこんなにも保たないものなんだ」という言い方くらい、納税者をコケにしているものはない。原発にも火力発電にも、それぞれに問題がある時に、水力発電所は、貴重なクリーン・エネルギーあるはずだ。

 17日間のアフリカ旅行の間に、ブルキナファソでもマダガスカルでも、何度も停電があった。(ある)いはついている電灯がすっと暗くなる。電圧が安定していないのである。  家に帰ると嵐だった。それでも東京の電気の明るさは微動だにしない。この事実に少しも感動もせず感謝もしない日本人が、私は不気味である。

 学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給されていた。一晩のことに何でそんなに甘やかせねばならないか私はわからない。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当たり前だ。

それがいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避難するだけの個人の才覚の訓練が要る。  お弁当なども行政は配る必要はない。天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、分で歩けない老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世界の当然だ。台風は教育のチャンスでもあるのに、それを少しも利用していない。

________________________________________


曽野綾子「被災者は甘えるな」

台風 教育のチャンス 利用を  曽野綾子(2004/10/22 産経新聞)


学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給されていた。
一晩のことに何でそんなに甘やかさねばならないか私はわからない。
避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当たり前だ。
それがいやなら、早めに毛布や蒲団を背負って避難するだけの個人の才覚の訓練が要る。

お弁当なども行政は配る必要はない。
天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で歩けない老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世界の当然だ。

http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-174.html


709 :M7.74 :04/10/28 01:09:26 ID:EDL11owu

台風で学校に避難した人への毛布の支給は甘やかしだ
弁当も配る必要はない
天気予報をみて自分で持って来るのが当然だ
台風は教育のチャンスだから不自由を体験しろ

不幸にあって困っている人にこれかよ
曽野って狂ってんな


710 :M7.74 :04/10/28 01:25:32 ID:J0VNbtqK

しかも他の家の18歳には強制労働をさせようとしていたのにね。


804 :M7.74 :04/10/29 00:21:00 ID:plSGeWkT

台風で学校に避難した人への毛布の支給は甘やかしだ
弁当も配る必要はない
天気予報をみて自分で持って来るのが当然だ
台風は教育のチャンスだから不自由を体験しろ

困っている人にムチうつ
曽野ってマジ冷酷だな


713 :M7.74 :04/10/28 02:02:53 ID:nMICSvZ0

・他人には厳しく、でも自分には優しく

・強きを助け、弱きをくじく

これが曽野の2大ポリシーね。

747 :M7.74 :04/10/28 11:41:51 ID:4KJcltbg

台風の通り道に住んでるけど、瓦が飛ばないように瓦止めしたりの可能な対策はとってるよ。でも巨大台風の前に人力がどこまで敵うというんだ。避難する時だって、できれば食料家財道具一式持って逃げたいよ。でも避難所だってスペース限られるんだから、荷物が他人の迷惑になることを考えないわけにいかないし、駐車場の関係で車で避難できないことだってある。

車で避難できる人ばかりじゃないしね。年寄りに蒲団を担いで歩けというのか?
この人は実態を全然知らないね。

984 :M7.74 :04/10/30 02:17:47 ID:JeE2BsjS
地震の被災地で、勝手に火をおこすことの危険性について、このオバハンは考えたこともないのであろう。自分さえ飯が食えたらいいのだ。

大火になった、阪神のときの教訓は、このオバハンのどこにも見あたらない。
いいか、一帯は「禁煙」なんだよ、「禁煙」
河原でキャンプしてんじゃないんだよ! ボケババ!

986 :M7.74 :04/10/30 02:32:08 ID:ELkrp0dr
>「水はお米の量の1・5倍を入れれば間違いなく炊けることを多くの人が知らないのである。」

自分以外は全員馬鹿だと思ってんだな。おめでたい人だ。

988 :M7.74 :04/10/30 03:00:30 ID:yDO/dJ/K

こんなのが居るから世の中の女はマンコさえ開いてれば良いと思われるんだよな

http://kyoto.cool.ne.jp/sono001/archives/hisaisha.htm

[こんにちは]

この自称作家様の老婆はいつも自分だけがぬくぬくと別荘なんか持って寝言を書き散らしての甘えた生活をしているくせに、やれアフリカではだの、被災者や今の日本人は甘えているだのとぬけぬけと言ってくれています。自分の姿を省みるということがない、いわゆる自己愛性人格障害の持ち主のようです。こういう人物が保守かと思われると実に情けない気がします。
06/10 13:45 By:方向 URL


________________________________________

[蛇足ですが、、]

曽野綾子『最高に笑える人生』

あげたい人と受けたい人の間だけで行われれば何の問題もないのに、臓器を取られたくない人たちは長い間その邪魔をし続けた(臓器移植問題)。

民主的に選ばれた議会の決定を拒否し、お金も時間もかかる投票をやり直す住民投票は、選挙制度を拒否するものだと思う(吉野川河口堰問題)。

人間の幸福や死とは何か、私たちの時代の「現実」とは何かを、旅と思索を続ける作家が、率直に語るエッセイ集。

いやはや迷言自慢・暴言自慢の吾人ですね。

02/01 13:54 By:労働者 URL


________________________________________

[これだから笹川財団会長は・・・]

曽野先生トバしてますねー(笑)

しかし、冷静に考えれば寝袋ならともかく、蒲団と毛布を背負って避難所に行くということは、どう考えてもヘンですよ。(最悪暴風雨のなか背負っていけとでもいうんでしょうか?)むしろ自分の蒲団や毛布を使用したらKY扱いされそうです。

それから、「食料くらい用意せよ」といいますが、まあ一理あるとしても、だいたい至急避難するように言われるわけですから、着の身着のままで普通は避難するものだと思いますが、どうなんでしょう?

曽野綾子、上坂冬子、金美齢、(クライン孝子、マークス寿子なども?)あたりのオバさん連中は、上に媚びて下を見下す意識だけは強いようですね。
01/31 21:39 By:凡人69号 URL

________________________________________


[]
労働者さんへ

>このおばさんは党員労働者が勝利したのはおかしい・資本主義社会
>なんだから差別されて当然と書いた。

今までこのおばさんの家永裁判や集団自決訴訟での権力べったりな証言ぐらいしか知りませんでしたが、これもひどいですね。 まあ、このおばさんには自らが被災した時に配給を受けないで新聞紙にくるまりながら過ごすそうですから、ぜひ、有言実行して欲しいものです。


01/26 08:36 By:やっしゃん URL
________________________________________

[いやー酷いね]

このおばさん、ハッキリいって嫌い。感覚が非道すぎて。反動派(保守派だとまともな保守派がかわいそう)のお仲間を弁護し、少数派意見・反動派へ反論する言動についてはバッシングする。

大企業で働く共産党員労働者が経営者から差別を受けたことに対して党員労働者が起こした裁判で、党員労働者側が勝訴したとき、このおばさんは党員労働者が勝利したのはおかしい・資本主義社会なんだから差別されて当然と書いた。

キリスト教を信仰する自衛官が殉職した時、遺族の意思に反し当局が勝手に護国神社に合祀したことに対する裁判では、当局の肩をもち 裁判を起こすのはおかしい・私なら訴えないといったそうだ。

暴言を数々言ってきた吾人である。 で、今回の妄言

 「早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避難するだけの個人の才覚の訓練が要る。
 お弁当なども行政は配る必要はない。天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で歩けない老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世界の当然だ。」

アメリカで貧民層がすむ地域をハリケーンが襲い当局の不手際もあり被害が拡大したことに対する批判の声が上がった時、ブッシュJrとお仲間たちも似たようなこと言っていましたね。何で早く避難しなかったのか!とね。

おばさん・おばさんの仲間たちは、よっぽど堅固なところに済み・非常食やアウトドア調理器具をたくさん持ち・各種道具をたくさんつめる立派な交通手段をもっているかもしれないが、一般庶民はできっこない。布団だの、食料だの、調理器具だの抱えて出ることのできる人間なぞ極々一部。

ああ非常識な連中とつきあっているだけあって貧困な思想。非常識な連中? 3K文化人とかの手合いだよ。
01/25 14:04 By:労働者 URL

http://dj19.blog86.fc2.com/?mode=m&no=174&m2=res&page=0

[]
この人が何者かは知りませんが、

この人はこのことを被災者の前でいうことができるのでしょうか?

言えるとしたら、とんでもないひとです。

01/18 02:06 By:軽く流してください URL

________________________________________


[]
曽野綾子さんはいったいいつの時代の人なんだか。歳喰ってボケちゃってんのか?と思ったんですが、そうじゃないようですねw

なんで戦中の日本や発展途上国よりマシだ的なところで思考停止しちゃうんでしょう。

この人はワーキングプアの問題なんかでも「甘えるな」「鍛え方が足りない」と権力者側からの一喝で済ませ、結局、今起きてる問題をどうすればいいのかがさっぱり見えてきませんね。

01/15 22:41 By:やっしゃん URL

________________________________________

[せこい]

何かと古い左翼批判にもっていくせこいメンタリティ

本人無意識なんだろうけど、避難者への見下し目線が沖縄の人たちに対するものと似ているような気がしますね。

余生をアフリカで過ごしてくれるなら尊敬しまくりますが。
たかだか17日間の大名旅行で何がわかるんだか...
01/14 19:51 By:ホドロフスキ URL

[こんにちは]

きっとご本人は、どんな台風や地震に襲われても大丈夫な要塞のようなお家にお住みなのでしょうね。
しかし、この人はいつもアフリカだとかの話を引き合いに出しますが、それって単に自分の言いたいことを正当化するために、他人の不幸をだしにしているにすぎないように見えますね。
01/14 17:13 By:かつ URL

http://dj19.blog86.fc2.com/?mode=m&no=174&m2=res&page=1


305 :吾輩は名無しである :2011/03/07(月) 23:44:11.49

桜井よしこと曽野綾子、どっちが偉いか?いや馬鹿か?いや厚かましいか?
おばはんは凄いよ。恥ずかしげもなくってのは、おばはんの特権だ。

308 :吾輩は名無しである :2011/03/08(火) 04:12:41.62

男は、自分の程度が認識できる。受験戦争や、会社での競争によって。
しかし女は違う。だから勘違いする。もし安倍が世襲議員でなくて例えば三菱か住友で会社員になったとすると、まず成蹊というコンプレックスから脱却するのに苦労する。その苦労でもまれて脱落するかも知れない
(ご承知のように超大企業では馬鹿にされる)、あるいは、実績で勝ち抜くかも知れない(まれだがね)。

ところが女は、競争社会にいない。聖心やハワイ大学(たしか桜井)でコンプレックスも持たずオバマとか小泉とか偉そうに評論する。おいおい、男がそんなこと井戸端会議で言うのは良いが、意見を公表してみろよ。お前ごときがよく言うよと袋叩きに会うだろう。

馬鹿女はいいよなあ。ノーテンキで。
アーメン、ラーメン、ああ、ハワイ。


309 :吾輩は名無しである :2011/03/08(火) 04:18:16.42

まあ、コネでないと成蹊では三菱、住友には入れないがね。聖心は、受験さえすれば、特に曽野の当時は誰でも入れた。何故、曽野がお茶ノ水や、津田や、東京女子大に行かなかったか?合格しないからだよ。その程度で書ける評論だ。オバマが、とか小泉がだとか。偉そうに。


175 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 22:04:05.61

世間知らずの駄文を書いています。


273 :吾輩は名無しである :2011/03/05(土) 09:58:34.88

今朝のNHKのTVで曽野綾子氏が出ていた。またベストセラーを出したらしい。
老人の生き方に関するものらしい。

今の老人は甘やかされ過ぎている。そのことは老人のためにならない。
老人は自立せよ、老人も死ぬまで働け等々、なかなか辛口の提言を書いた著作のようだ。

 曽野氏の提言を受け入れることで老人は何を得るか?
何よりも自由が得られるでしょう、と曽野氏は言う。 自由こそ至高のものだと曽野氏は考えて居られる。

83 :吾輩は名無しである :2011/02/13(日) 19:03:52

こういう年をとっただけで大人になったと勘違いした我侭な子供を甘やかしてきたから今の世の中がある

84 :吾輩は名無しである :2011/02/13(日) 21:59:14

息子さんも軍隊に行く年でないし、曽野さんにとって徴兵は自分達と何の関係もない。
そういう身軽な気分で発言されているんだね。


85 :吾輩は名無しである :2011/02/13(日) 22:17:31

要するにこの人絶望的に頭が悪いんでしょ。

13 :吾輩は名無しである :2011/02/07(月) 15:38:34

ボケ老人は、絶対本人がボケたって言わないからな
酔っ払いが酔っていないと言い張るのと同じで

高度な知性や教養があるのなら、自らの老いを多少とも自覚しながら、偶に僭称、自嘲でもしながら言う方がまだ説得力もあるだろう

だがしかし、この婆は常に上から目線の説教のみ
それは「永遠のサンケイライター」でのみ許されることw

29 :吾輩は名無しである :2011/02/08(火) 19:14:30

ともかく偉そうな婆だなあ。何様なんだこいつ。たかが聖心女子大程度の低偏差値で、加えて迷信婆だぜい。

ああ、マリア様、私をいじめる悪人に罰を加えてください。
ローマ法王様、お救いください。ガリレオが天動説を唱えたように、私を誹謗中傷する馬鹿たちは愚かです。アーメン。


39 :(*´ェ`*)鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ :2011/02/09(水) 04:30:31

曾野綾子って、実際はアンチクリストだよな。発現内容に逆の意味があると見透かされる程度に底浅い。それは、傲慢の罪でさえある。
 ある行為を禁止したり、社会や人格の在り方を見下したりする行為は、その逆に拠って世界の秩序が保たれる現実を見据えなくては無意味。

  俺は、キリスト教はおもしろく思わないが、キリスト・イエスの価値は認めるに吝かでないよ。


42 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 07:54:39

聖心女子大卒の、衆に優れた秀才だと思っているのだよ。
自分以外には気づかない素晴らしい言葉を述べていると自分自身で陶酔しているのだよ。


173 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 16:56:11.33

きみたちってどうして曽野先生の話題にそんなに夢中になっちゃうの?
そんなに好きになるもんかねえ、あんな汚ねえばあさんを・・・

43 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 09:34:35

「 農業を圧迫する野獣に対して政府は無能である。私が神奈川県で畑をしている土地でも、まず鳥害、ついでウサギやタヌキにやられている。うちの天ブクロの中で、ハクビシンだかタヌキだかが4匹も子を産んだ。皆ほんとうだ。

イノシシ、シカ、カモシカは、農業林業の敵である。

しかし一番恐ろしいのはサルである。網をかけても有刺鉄線でも防げない。網をかけても目の間から手を伸ばし、明日が食べごろという豆を採ってしまう。

だからほんとうの山間部の人は野菜など作れない。サルが食べるために野菜を作ってやることはないから、スーパーまで買い出しに行く。

 これはやはり政治が政策を放置しているからだ。」
(「カラスが撃てない」 より)

44 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 09:44:07

『これはやはり政治が政策を放置しているからだ。
山の一定区域は動物の聖域。しかし町や耕作地帯は人間のものだから、断じて排除するという姿勢が要る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

何が何でも殺すのはかわいそうという人は、思考が途中で切れている。

そういう人たちがすべて完全な菜食主義者なら私は納得するが、トンカツやヤキトリやハンバーガーは平気だとしたらいい加減なものだ。』
(「カラスを撃てない」より)


45 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 11:30:32

『こうした現象は、日本人全体の国防思想と関係がある。「平和を願えば平和になる」という甘い言葉の信憑性が最近やっと崩れた。多くの人が、二度と再び戦争の悲惨を繰り返したくないから、死んだ肉親や友の魂がいる靖国に参るのに、それをわからない外国の政府があることを私たちは学んだ。

それらの国は今でも地雷を商売として売っており、私はアフリカの多くの国で、●●製××国製(中国など)の地雷でやられた、という多くの足を失った無辜の人達に会っている。
(曽野綾子「カラスを撃てない」より)

50 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 13:57:22

>>45
『 日本は武器を輸出していない。しかも人道上、そうした国々(中国ほか)が金もうけのために輸出した地雷の除去という後始末をしている。
可能かどうかは別として、ゴミと同じで、地雷も生産国が除去費用を負担するのが当然だ。

襲ってくるカラスさえ銃で撃てない。皆が平和を望んでいるはずだから、という未熟な
思い込みが、筋の通らない無責任な生き方の人間を(日本では)作っているのである。』
(曽野綾子「カラスを撃てない」より)

53 :死神 :2011/02/09(水) 14:12:21

★ 対人地雷生産国  (参考) 16ヶ国、

中国、ベトナム、北朝鮮、韓国、
インド、パキスタン、ミャンマー、シンガポール、
トルコ、イラン、イラク、エジプト、
ロシア、ユーゴスラビア、USA,キューバ、

68 :吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 09:12:39

>>51
>地雷も生産国が除去費用を負担するのが当然だ。

これは当然ですよ。曽野さんがこの問題にもっと踏み込んで中国や米国など
なにかと皆が遠慮してしまいそうな大国を批判して頂ければよかったんですが、そこまでは行かなかったようですね。

55 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 14:28:25

カラスへの私怨から地雷にもっていく手法は「漢字」もろくに読めない粗野先生ならではです。 凡人には真似ができません。
また、こんな本買って読むのは、地雷を踏まされるともいいます。

56 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 14:53:53

カラスにムキになっている平和な頭の曽野綾子


21 :吾輩は名無しである :2011/02/08(火) 11:16:16

曽野氏はカラスは害鳥だから殺せとか書いていたが、カラスは頭がいい。

映像で知ったのだが、公園の水道の栓を廻して水を出して飲む、お墓や祠のローソクを火がついていても怖がることなく盗む。ローソクを食うようだ。
火がついているから、カラスの運んだローソクが不審火の原因になることもある。

驚いたのは町の公園のすべり台ですべって遊ぶ。2,3羽が面白そうに遊んでいる風景にはびっくりした。 何回も繰り返してすべるから、これは遊び感覚だろう。それ以外の目的は考えられない。
ま、そういう可愛いカラスも人によっては大嫌いということか。

25 :(o`.´o)materialist ◆m0yPyqc5MQ :2011/02/08(火) 12:34:11

無用の用を死らぬパンチラばあさんは 藁貸し増すねぇ〜(笑)カラスは害虫害生物を食べてくれるのでその貢献度はパンチラばあさんの非では無い〜(笑)
一度パンチラばあさんは脳溢血で倒れ要介護人でもなられては道です〜(笑)

48 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 13:13:42

あ、いや粗野先生がブンガクシャであることを忘れていました

人はいかにして、カラスに襲われた恐怖から電波人間に変容するのかを書き現した本なのですね

54 :イラ子さんの日記 :2011/02/09(水) 14:21:46

カラス『かぁ〜、 かぁ〜、・・・・・』

イラ子『あ〜、うるさいカラスだ! おどかしてやる!』
 
ズド〜ン! ズド〜ン!・・・

カラス『きゃぁ〜、きゃぁ〜・・・・』

67 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 22:49:16

★ ヒス子の日記

カラス『 かぁ〜 かぁ〜・・・・』

ヒス子『うるさい! カラスだ、銃でおどかしてやる!』

ズドン! ズドン! ・・・

ね こ『 にゃ〜ん、にゃ〜ん・・・・』

ヒス子『しまった! 弾がそれて、お隣りのミケにあたった!』

57 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 15:08:02

アフリカに行く

貧しい人を見る

日本でカラスにムキになる

撃ち殺さないのは日本が平和ボケしているからだ!


頭が平和なのは曽野さんあなたですw


60 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 18:41:10

デイビッドロックフェラーと曽野綾子って似ていると思わない?
悪人の顔って似るのかな。


61 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 18:43:17

カラスと喧嘩する曽野綾子


62 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 18:44:01

カラスがライバルの曽野綾子


65 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 21:58:08

カラスとガチバトル綾子


69 :吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 11:52:49

カラスに八つ当たりするだけで止まる曽野綾子


71 :(o`.´o)materialist ◆m0yPyqc5MQ :2011/02/10(木) 18:13:46

68
刺すればカラスがライバルのパンチラばあさんは原爆被爆者の補償は米国が負担するのが当然だと逝っておるので消化ねぇ〜(笑)
権力主義者パンチラばあさんは藁貸し増すねぇ〜(笑)


73 :吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 22:23:09

聖心のお口だけ才女に、それがどれくらいの意味があるのか、
おしえていただきたいものです

カラスに銃を向け、2次方程式も解けない女に何ができる、
と言い返されるのがオチ

なんてことにならなければいいのですが


74 :吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 22:24:12

日本でカラスに銃を向ける平和ボケ女。


75 :吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 22:28:01

アメリカでカラスに銃を向けたら警官に射殺されるなw

104 :吾輩は名無しである :2011/02/17(木) 12:53:45

がんばってバカでなくなったら銀シャリ?

今は雑穀混ぜた方が高かったりするのだが、
貧乏人は麦を食え時代から進んでいないのね
さすが先生


113 :吾輩は名無しである :2011/02/18(金) 10:08:39

低学歴なのに(だからかも知れないが)知識批判(特に数学とか)や信仰を楯に差別的言辞を展開するからその反動で叩かれるんだよ。

116 :吾輩は名無しである :2011/02/18(金) 13:38:44

でも、微積は出来ないけどどうにかなる、というか必要ないと言って威張っているからね。あの年代で学卒なんて国立以外は大したことないよ。
旧帝大だって地帝の文学部(井上靖が最初に入った九大とか)なら無試験でパスという時代だよ。 団塊よりも上の奴らなんて話して見れば分かるけど実はゆとり以下の大馬鹿ぞろいなのさ。

119 :吾輩は名無しである :2011/02/18(金) 20:56:55

ああ、そうか本人の資質や文章にまったく関係ない大学がすばらしいだの美貌だのといってるのってそこいらの熟女モドキのミーハー需要程度の解釈でいいってわけか


126 :吾輩は名無しである :2011/02/19(土) 04:12:24

アーメン、ローマ法王さま、神の忠実な子羊たる私を貶める馬鹿たちを地獄に落としてください。そして神とキリストと聖霊は一体であること(三位一体)、ガリレオの天動説は間違っていること、ダーヴィンの進化論
はでたらめであること、ファティマにマリア様が降臨されて予言をなさったこと、を、この馬鹿たちに説明してやってください。

私は黄色い東洋人で東洋人の多くは仏教徒ですが、私は聖心女子大という偏差値は低いがお嬢さん学校を卒業しているカトリックのしもべです。お救いください、法皇さま。あなたは神の代理人なのですよね。

130 :吾輩は名無しである :2011/02/19(土) 07:44:08

夫婦揃って、まともに働いて来なかった人間だな。こいつらは。
そのくせ他人の労働問題に知ったかぶりで説教するのだから、こんな醜い老人でも天罰が当たらぬ程度の宗教なのだろうよ。 カトリックとやらはよ。

で、てめえが敬虔な信者ですなんてのはその宗教の信者以外には絶対に通用しないものなんだが、この馬鹿女はババアになるまでそんな事にすら気付いちゃいない。
ていうかカトリックに対する冒涜じゃねえのか?
あと、郵政関連の不祥事と非正規の切り捨てに対してちゃんと責任を取れっての。
世間に甘えるなよ糞女が。

131 :吾輩は名無しである :2011/02/19(土) 08:09:18

偉そうに振舞う女であることは確かだ。


135 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 00:43:18.22

綾子センセイは、「負」の働きです。
ヒキコモリの方が、何もしない分まだましですなw


136 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 00:52:22.54

曽野のヤバイところは当たり前の事を大威張りで書くのもそうだけど、
自称作家のくせに下調べしないで被災者とか失業者ディスるトコじゃね?

137 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 01:35:29.34

まあ昔の話だが、中越地震の時の被災者は甘えるなってのには腹が立ったね。
俺、たまたま現場にいたから余計にな。

138 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 02:29:05.01

甘えている人間ほど簡単に人に甘えるなって言うよ。


139 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 03:04:54.56

身に沁みてわかるんだろうなぁw


140 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 03:59:17.23

あっはっは、クリスチャンときたね。アーメン。


145 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 20:30:49.07

馬鹿が偉そうにしているのが気に食わんということだよ。
クソ野のことだよ。お前はここで貶されてるのは不本意だろうが、でもな、お前は、いつも新聞などで人を傷つけてるのだよ。低偏差値のくせに。微分積分もできないくせに。クリスチャンが聞いてあきれる。馬鹿か。


170 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 11:16:03.55

『インドのヒンドゥ社会の最下層と言われる不可触民(ダーリッド)の子供たちのために、学校を建てる仕事をしていた時、私は南インドで不可蝕民の婦人たちと何度もつき合う機会があった。・・・・・・・

階級意識は複雑で人間的なものであった。差別は外部から見ると許し難いものと思われたが、一歩中に入ると、それは箱庭細工が無事に箱の形に納まった時のように、一種の確固たる安定をもたらすように見える場合もあった。

それに解決法というものは、いつも差し当たり身近にあるやり方で行われる。
差別を受ける意識を解消するには、自分より低い階級を意識の上で作ればいいのである。』

(曽野綾子「弱者が強者を駆逐する時代」より)

171 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 11:23:53.66

>>170
『「不可触民にも大きく分けて二種類あります。」 と一人のインド人がいった。
「どういうことです?」と私は尋ねた。

「不可蝕民には、上層と下層とがあるんです。・・・・・・

・・・・体を曲げて働くものが下層です。畑仕事とか、床の掃除とか・・・・

上層は、リキシャマンのように体をまっすぐ伸ばして働ける仕事です。」』

(曽野綾子「弱者が強者を駆逐する時代」より)

172 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 12:26:10.55

『キリスト教徒は敬虔な信者でなくとても、最低の信仰さえ持っていれば、職業上の差別を持つのはおかしいと感じている。なぜなら、イエス自身は、当時、決して中流ではなく、むしろ社会の最下層に属していた大工の家に生まれて、その屈辱を体験しているはずだからである。それ故に神の目から見ると、あらゆる仕事はどれも全く大切なものとして、評価されているという意識があった。

 「しかし不可触民たちは、自分たちより明らかに下の階層があると感じられれば、それで安心するんです。』
(曽野綾子著「弱者が強者を駆逐する時代」より)

181 :吾輩は名無しである :2011/02/23(水) 15:35:46.93

『インドを訪問した時、不可蝕民の婦人たちが四百人近くも集まって、私たちを歓迎する「演芸大会」と開いてくれた時である。 そこでカトリック神父の招きで、ジプシーの婦人たちにも踊りの出番があった。・・
・・・・・・・・・・
ジプシーの踊り子たちが姿を現すと、大多数を占める不可蝕民の婦人たちはあきらかに侮蔑を含めた「あー」という声を一斉に洩らしたのである。』
(曽野綾子著「弱者が強者を駆逐する時代」)

182 :吾輩は名無しである :2011/02/23(水) 16:06:18.88

>>181
『階級制度に組み込まれ、そこに安住すると、一種の繭の中のサナギのように守られているという安定を覚えて、心理的に楽になる面があるらしいということを、日本人は理解しにくい。
もちろん同時に、そのような階級世界に閉ざされることの苦痛も残るはずである。
 次の段階として、人は誰でも苦痛からは逃れようとする。 不可蝕民の場合最下層と卑しめられる苦痛から逃れるには、より低い階層を作って最下層から 逃れればいいのである。
 
こうした一連の心理の操作は、一番自然な解決方法で、少なくとも、私はそれを非難する理由を見つけられなかった。』
(曽野綾子著「弱者が強者を駆逐する時代」)

185 :吾輩は名無しである :2011/02/24(木) 09:09:50.10

キリスト・・・・・人の下に人を作るのはいけません。

曽野綾子氏・・・・人は人の下に人を作ってしまうものです。

186 :吾輩は名無しである :2011/02/24(木) 09:16:28.68

>>182
人は自分より弱いものを作りたがる。それが”人間性”だから非難できない、
と曽野先生は言われる。

キリストは、その人間の弱さを意志の力で克服しなさい。そのための支えとして神の力を信じなさい。こう説くのですね?
曽野先生は神の力を否定されています。


192 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 00:19:50.02

『長い年月、人種問題はアメリカにとっても、アフリカ大陸にとっても、大きな摩擦の種であった。
その問題を正視するどころか、日本のマスゴミは、黒人と書くことさえ相手に対する侮辱だと感じていたところもあった。 だから「ちびくろサンポ」が一斉に絶版になっていたのである。』
(曽野綾子「弱者が強者を駆逐する時代」)

194 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 01:02:28.70

70過ぎてネトウヨと同レベルの曽野綾子。


195 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 02:58:25.77

偉そうに、よく言うよ。カトリックだからなあ。

神様、進化論は間違いですよね、天動説もね、十字軍はよく頑張りましたよね、マリア様はファティマだけでなく、東京にも降臨しないでしょうか。

この迷信ばばあ。

198 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 09:42:12.26

『人種的には人間はすべて平等なのだから、問題にすべきでないというが、それだけで済まない要素はある。
・・・・・・・・・・・・
私は何度か南アという国に行ったが、・・・・・その時、私が感じたのは、黒人系の南アの人とは、仕事も勉学も金儲けも信仰の行事も、何もかもいっしょにできるけれど、生活だけはむずかしい、ということだった。
・・・・・・同じ町や地区に共生すsることには大きな問題が伴うということである。』
(曽野綾子、「弱者が強者を駆逐する時代」)


199 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 09:59:13.98

『黒人の町は、アジア人や白人の町とは明らかに違いがあった、町の共用部分の掃除が悪いのである。それは一般にアフリカ大陸全体の特徴でもあった。
途上国の町の道路の汚さはしばしば絶望的な光景を見せた。』
(曽野綾子「弱者が強者を駆逐する時代」)

202 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 11:43:14.81

『アメリカの民主主義は、理念としてはいかなる個人も平等に独立していると考える。法を犯さない限り、考えることは自由である。
都会住まいの日本人も、選挙の時、誰に投票しようが家族や一族の支配を受けない。
しかしアフリカは違う。アラブも違う。
・・・・・・・・
完全な民主主義も個人の選択の自由もなのにが普通で、その場合は族長支配が政治を動かす。 一族の長が命令した人に、そのぶぞくの人たちすべてが投票するのが当然なのである。』
(曽野綾子「弱者が強者を駆逐する時代」)

209 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 12:26:59.55

人生経験が豊かになるとカラスと本気でケンカするようになるのかな。
それにしても普段他人様には自己責任だ政府に頼るななどとおっしゃっていた方なのだからカラスくらいは自分でブチ殺して欲しいものだ。

210 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 13:53:18.89

黒人とカラスが気に入らないだけでは?

214 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 21:02:14.47

>>210
どっちも「悪魔」とでもおもってんだろ、カソリックババアはw


211 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 15:42:48.01

狙いとしては過度なアファーマティブ・アクションに対する異議申し立てにあるわけなんだけど、言い方に芸がないから単なる差別的言辞や自慢話としか受け取られないの。
で、アメリカ社会に関しては家父長権を基盤とした部族的制約はなくても自立した諸個人によって形成された信徒団体が投票行動を左右している という“制約”をなぜか無視していますね。

単純に自由と民主主義という政治体制に適合しやすい文化基盤を白人が有しているというだけの話なんですね。

そりゃそうでしょう近代民主主義はキリスト教の世俗化の過程から生まれたんだから。

213 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 18:47:32.74

露悪主義による批判は論者の倫理的立場を際立たせるだけで 現実的な効力はないよ。
例えばこの間のCOP10のアフリカ諸国代表によるタカリ同然の利益要求に対して曽野のような主張をすれば話がまとまらない。

実際、欧米諸国の代表は呆れかえって帰国準備をし始めたわけだし。

自由と民主主義や公共性の概念は万国共通ではない、という限界性を明らかにしているだけですね、曽野さんのエッセイは。

でも、ユニバーサル・チャーチの御旗を掲げるカソリック(“普遍”という意味ね) の保守派論客がここで留まったら駄目ですね。


217 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 22:50:21.11

曽野程度の単純な見解など、もはや文学として取り上げる必要のないものなのでイラン婆

文学とか芥川賞とか後から箔付けて有り難がらなければならないというのなら個人の自由の領域だがw


221 :吾輩は名無しである :2011/02/27(日) 09:45:50.84

『アラブ人やアフリカ人から見れば、アメリカ人、日本人、中国人などは、真の隣人には成りえないのであって、ましてや、自分たちの部族内のもめごとの解決になど、決して乗り出してほしくないのである。』
(「弱者が強者を駆逐する時代」より)


222 :吾輩は名無しである :2011/02/27(日) 09:59:15.42

『オバマの血の中に半分流れている黒人の血が、どのような効果をもたらすのか、 私は非常に興味がある。
日本の多くの人たちが、アメリカは多民族国家だから白い人、黒い人、黄色い人もいて、それらの肌の色はアメリカ人としてすべて組み込まれ、平等の意識の元に理性的な統一がなされるだろう、と思い込むかもしれない。しかしオバマの黒人としての自覚は、決してそんなに簡単なものではないだろう。』
(「弱者が強者を駆逐する時代、 オバマの血」 より)

281 :吾輩は名無しである :2011/03/05(土) 13:12:53.15

オバマの中にはせめぎ合う二つの感情があるはずだ。民主主義的平等の論理で割り切ろうとする合衆国の意識と、部族的文化を夜の闇のようになみなみと温かく湛えたブラックアフリカの血脈の生理とが、オバマの中に共存しているとすれば、この二つをうまく処理することは、実はかなり難しい問題なのだ。
(「弱者が強者を駆逐する、オバマの血」)


282 :吾輩は名無しである :2011/03/05(土) 13:20:54.80

『理詰めの個人主義と、すべてを部族の運命共同体で包み込もうとする
社会の論理とは、ほとんど相容れない方向性を持っている。どちらを取るかは、善悪の問題ではない。そうした対立が、オバマの中でどう動くかが問題なのである。
オバマ大統領に対する世界の期待は、かつてのアメリカの大統領が一人として持ちえなかった部族社会に対する理解、親近感、納得などをオバマがどう扱うか、固唾を飲んで見守っているという感じだ。』
(曽野綾子著「弱者が強者を駆逐する時代、オバマの血」)

223 :吾輩は名無しである :2011/02/28(月) 19:30:09.19

やたらにオバマ大統領の黒人性を強調したがるが、大統領になったら白も黒も黄色もなかろう。そんなレベルにとどまることなど許されないだろう。
「黒人としての自覚」などに踏み留まっていられたら、大統領として何もできない。
今のオバマは全ての人類全てに責任を感じないとならない立場だから。

226 :吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 01:41:32.94

>>222
さんざんアフリカ諸国を回ってきて世界を知ってるなんて豪語しているお方が
"黒人"ねぇ。アフリカ諸国の文化風習の差異並びにネイティブ言語のそれはヨーロッパ諸国のそれを凌駕するぞ?
一括りに黒人て100年前の知識しかねえんだな。現地行ってたくせに何を見てきたんだこいつは。

227 :吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 05:14:47.11

曽野ファンなんて馬鹿が本当にいるのだな。こんな思い込みの激しい
二次方程式も解けない低偏差値(聖心だぜ、聖心)の馬鹿ばばあを。

29 :吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 13:15:00.99

大統領って知恵遅れの疑いがある曽野が推し量れる立場じゃないよな。

230 :吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 18:26:45.22

ブッシュ大統領は知能遅れだったとか・・・


231 :吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 19:14:26.11

こいつオバマとか何とか偉そうに評論するが、いったい何様なんだ。低偏差値の迷信ばばああに過ぎないのに。


293 :吾輩は名無しである :2011/03/06(日) 20:25:41.04

エッセイだろうが、なんだろうが、 すぐに馬脚をあらわすアヤコセンセイ

塊という漢字読めなかったもんねぇw

294 :吾輩は名無しである :2011/03/06(日) 20:40:32.17

漢字の読みのお勉強「まず塊よりはじめよ」。うん?


369 :吾輩は名無しである :2011/03/13(日) 02:07:54.59

今度の災害については人々の行動について何と書くだろうか?


371 :吾輩は名無しである :2011/03/13(日) 02:30:40.27

被災したバカ老人たちが自衛隊を使って、とんでもない国費のムダ使いを
したというのが、彼女の意見だろうか。
多分、曽野さんならこう書くだろう。
『わたくしなら、津波の来るような地域には年をとったら住まない。云々』

仕方ないんだよね。曽野さんみたいな作家たちは、実際の現場に行って取材なんかろくにしていないから。人の苦しみが分かるわけない。


372 :吾輩は名無しである :2011/03/13(日) 03:03:38.65

371の通りだな。曽野は確実に思っているよ。なぜ被災するような海岸に、しかも逃げることも出来ないほど足腰の弱った老人が住むのかかと。甘えだ、国費の無駄遣いだと。そもそも小説家などという存在が無駄遣いということを認識しない低偏差値の馬鹿めが。こいつはいったい何様だ。


382 :吾輩は名無しである :2011/03/14(月) 15:12:15.33

災害地では、毛布が足りない、おむつが足りない、食料品が足りないと行政に訴える声があります。でもこれは甘えです。

 災害地は農村地帯に近いのです。農家へ買出しに行くことぐらいは誰でもできることです。 トラックが食料品を運ばなければ、足りない、足りないなどと被災者は言いますが、もっと自分達で動くべきでしょう。
アフリカでは、そんな甘えは通じません。

440 :吾輩は名無しである :2011/03/22(火) 10:13:43.68

今でてる週刊ポスト掲載のエッセイはすばらしいですね。
要は、地震が起きても「私は全く慌てなかった」(神奈川県にいた)。
なぜなら、として自分が用意していた備蓄の内容を長々と数え上げる。

で、「地震が近年眠りこけていた日本人の怠惰で甘やかされた精神を揺り動かしてくれれば・・・うんぬん」

441 :吾輩は名無しである :2011/03/22(火) 12:45:25.26

>>440
>眠りこけていた日本人の怠惰で甘やかされた精神・・・・・

曽野綾子がエッセーで繰り返し言い放つのが、この言葉だ。
まさか、今回の被害地に住んでいる寒村貧町の住民に向けて言っているのではあるまいね?
でも、石原都知事の「天罰」発言と同質のように聞ける。 

今回の2万有余の犠牲者を伴った天変地異は神の思し召しだったと言いたいのだろう。

444 :吾輩は名無しである :2011/03/22(火) 13:23:49.27

こんな事態になっても、日本に対してそれだけの嫌味を言える人の神経は異常。
大したものだ。 すごいものだ。 あきれたものだ。


445 :吾輩は名無しである :2011/03/22(火) 13:42:36.00

まじめな話、性格異常ですね。
こういう時に自分の備え並べ立てて得々と自慢する。
あげく見開き2ペ−ジのスペースで被災された方々への思いは何一つ述べられることが無い。
ただ、日本人は備えが甘かったという。じゃあ、この方はコンロだの水だの備蓄してるからいきなり津波が襲っても平気だというんだろうか。

読み取れるのはこの人の現代日本人への憎悪のようなものと、自己愛(自慢)のみ。


446 :吾輩は名無しである :2011/03/22(火) 16:31:53.97

そりゃ神奈川にいたら慌てないでしょうね。
子供に笑われるよホント。
震度7の地域にいた人が慌ててるように見えるのですか?
慌てる暇も無いですよw


463 :吾輩は名無しである :2011/03/23(水) 10:52:47.07

この人が書いたエッセー。今度の地震ぐらいで考え方が揺らぐことないだろう。

@ 大型台風被害について、「一晩くらいの事で何でそんなに避難者を甘やかすのか、避難するなら健常者は食糧寝具くらい自分で避難所に持って来るのが普通」 (某コラム)

A新潟県中越地震について、「避難所で救援物資を当てにして待っている避難者は甘え過ぎだ。避難する時に寝具を担いで逃げるのは当たり前。
自分ならガス漏れの心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。
必要なものが手元にないのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ」
 (某コラム)

B戦地に折鶴を贈る市民運動に対し「戦地に送るなら金を送った方が遥かに有用なのに、全く馬鹿げている」と批判。しかし戦地に募金や物資を送ることについても「甘やかすな」と批判している。

↑ ま、ざっとこんな調子だ。


470 :吾輩は名無しである :2011/03/24(木) 09:48:48.65

曽野綾子の学歴など何の関係もないと思うが、彼女は思い込みの激しい性格だな。
まず自己主張ありきだ。それから適当な根拠話を書く。その際に彼女の貴重な体験を多く語るから、何かとってもユニークは主張、エッセーになるんだ。
何冊かの彼女の書いたものを読むと、書いていることが論理的に破綻しているのは多いな。

471 :吾輩は名無しである :2011/03/24(木) 10:08:37.79

そうだね。女性的と言うと問題かもしれないけど、
なにか狭い世界で物事を判断してる、わるい意味で主婦の世界のような。
自分の体験の範囲、それと自分が接しえた範囲の人間の意見だけがベースになっていて、ぜんぜん勉強してない。

災害に際しても、自分のサハラの経験を振り回して豪寸も疑うことが無い。
新しい現実を認めない、今ある現実を見て物事を考えようとしないわけだ。


472 :吾輩は名無しである :2011/03/24(木) 10:32:02.75

齢を取ると小説的な文章を書くのが億劫になる。
というかもう書けなくなる。

しかし世間一般の話をどうのこうのは死ぬまで言える。
ただそれは自分の世界観・人間観で語るわけで、その世界観が薄っぺらで人間観には頷けないと思う人たちには聞くに耐えないものだ、となる。

それでも語る。聞くに耐えないという人たちはバカな人たちだから、と。


482 :吾輩は名無しである :2011/03/25(金) 20:17:43.58

2万9千人の死者と行方不明者が出た天災の被災者に対しても曽野綾子はあ〜だ、こ〜不愉快なコメントばかりだ。 被災者が聞いたら怒り以外の何物も感じないだろう。


483 :吾輩は名無しである :2011/03/25(金) 21:39:02.00

「地震が眠りこけていた日本人の怠惰で甘やかされていた精神を揺り動かしてくれれば、多くの死者の霊も少しも慰められるかと思うのである」

だそうだぜこの馬鹿ババァ。

484 :吾輩は名無しである :2011/03/25(金) 21:55:25.69

東北沿岸部をソドムとゴモラに比してんだよな、
このバーさんというかあの名誉白人の黄色いキリスト教徒ってのは。

497 :吾輩は名無しである :2011/03/26(土) 09:16:28.80

曽野さんの書く内容は非常識に思える。そのために卒業校の名前を傷つけているかもしれない。 ただ、それはそれだけのことだ。  注目すべきは、彼女のバックボーンになっているらしいカソリックの精神だ。
日本で最も純朴で老人が多く、なおかつ豊かでもない地方の大災害に対して、怠惰で甘やかされた精神を揺すったなどと、普通の常識的な日本人が言うだろうか?

おそらく、彼女はカソリック教徒だから言えるのではないか。彼女は神罰と感じているのだろう。
神の罰が首都圏や関西、九州をはずして、東北の田舎の最も貧しい地域に降ろされたのが、何とも不可解に思う。


501 :吾輩は名無しである :2011/03/26(土) 12:47:42.10

ポストのこの人の話を読んだけど震災直後なのに上から目線でワロタ予想通り過ぎる
自分がいかに非常事態に備えてたかの自慢だ


513 :吾輩は名無しである :2011/03/27(日) 07:38:20.46

私は曽野の人格を問題にしているのではない。曽野程度の頭脳の持ち主が偉そうに説教を垂れるのをちゃんちゃらおかしいと笑っているのだ。こいつは馬鹿な迷信家だ。ミネラルウオーターを200本備蓄しているとか別荘は井戸水やら何やら小屋に備え十分などと無知蒙昧なことをほざいているのだ。聖心女子大卒の馬鹿が
だ。


552 :吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 04:18:26.26

曽野は言うよ。なぜ足腰立たぬ老人や、逃げる方向も分別できない知的障害者が、三陸海岸のような危険地帯に居住しているのだろう。自分ならそういうこととはしない。彼らには自己責任という概念がないのである。なるほど「虚名高い」 低偏差値、花嫁学校の出身で、迷信家だけある。アーメン。

555 :吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 08:49:53.73

ごく素朴に、キリスト教を文明とヒューマニズムをもたらす宗教だとする人たちには、
神なき国日本を叱咤する正義の女宣教師としてこのバーさんは映るのかも。

しかしどーもこのバーさんのキリスト教は偶像崇拝的、即ち土俗的民間宗教的キリスト教っぽいんで、
それでの日本土人啓蒙が、だからすんなりしているよーで、しかしめちゃ馬鹿げているよーで。(笑)

558 :吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 22:22:02.36

曽野はもういい加減脳内日本や脳内若者を罵倒するのは止めて欲しい。
今回の震災に関して金を出せとは言わない。それはどうせ他人の金だからだ。
しかし口は出すなと言いたい。

被災地で今週号のWILLを読んでそう思う。被災者ならびに現場の救助者の感情を逆撫ですることばかり言いやがって。

お前の自慢話で死んだ子が生き返るのか?お前の脳内世代論で流された故郷が戻ると言うのか?
無芸無能人格卑劣ならばせめて黙れと言いたい。そうお前の旦那が言ってた実直の精神だよ。

568 :吾輩は名無しである :2011/04/02(土) 01:28:02.03

今週のポスト読んだんだけどなんでこの人はこんな時に偉そうに説教するんだろう。
戦争を体験した世代は一日ですべてが変わるような経験してるから強い
戦後の世代はひ弱

そういう内容だった

この人の目には被災しながらがんばってる消防団員や現地の人、家族を亡くしても未来に向けて頑張ろうとしてる若い人なんて見えてないんだろうか。
同じように空襲を体験した田辺聖子さんはただ心を痛めてるだろうと思う。
この人は戦争や昔の苦労を語るけど、お嬢さんだしたかが知れてる。
この人は鈍感すぎる。


583 :吾輩は名無しである :2011/04/03(日) 00:13:02.43

自分自身を棚においたような言動はどんなに正しそうに見えても正当性は持ち得ない。
曾野自身がおおいに現代先進国文明に甘え、他人に甘え、けして反撃することの無いその手段を持たない者達に甘えている以上、 甘え云々の議論に彼女が参加する資格はないと思われるがね。
今あるものが明日もあると思っているのは曾野自身ではないかね。

20年前の論調と日本社会産業理解のまま、あらたに学習、取材することなく埋め草文章を書き垂れ流している。しかも自分は現実社会の取材や体験をしていると言いながらね。

北九州で生活保護を断られ餓死者が出た時にも曽野は日本には貧困など無い。
貧困とは今日食べるものがないことだ(これも曽野が勝手に決めた定義だ)と新聞に書いていた。

餓死者がたった一人だったとしてもその彼は日本人じゃなかったのかと問いたい。
震災以前にも年間3万人の自殺者が居たことについて曽野はどう考えるのか。非常時ではない平時の先進国でだ。 おそらく曽野はそんな基本的な常識すら知らない。知るつもりもないのだろう。

584 :吾輩は名無しである :2011/04/03(日) 00:35:50.97

責任逃れの言い訳用言集としては中々良い出来だね。曽野のエッセイって。
ブラック会社やネズミ講的組織の長が末端から苦情が来たときにそのまんま使えそうな用例が沢山ある。
あと、他人に説教したくてしたくて堪らないある種の人格異常者も好きそうだ。
循環論法大好き俺は偉い系の人とかさ。
まあ日本には一億二千万人も住んでいることだし、上記の傾向のある読者だけを集めても100万人くらいはいるんじゃねえの。


587 :吾輩は名無しである :2011/04/03(日) 14:16:53.25

曽野ファンには周知の事実ですが、彼女は裕福な家庭に生まれ、戦時中疎開していて空襲を受けた事実はありません。 また、日本財団、各種の天下り団体の審議会役員、郵政の社外取締役等々、金は貰うが責任は取らない地位を渡り歩き続けてきた 真性の穀潰しです。

彼女の小説でベストセラーになったり、文学的に価値あるものと認められた者が一作でもあったでしょうか?

エッセイだけですよ。エッセイ以外売れてません。 でも自称小説家です。

だから各種団体や政府関係者に寄生するしか彼女には生きる術がなかったと言えます。
才能が無いなら自分は小説家などと言わないでそれこそ介護でもレジ打ちでもして生きていくべきだったでしょう。 まるで文化人であるかのように振る舞い何らの仕事もせずに各種団体に寄生する日々。
曽野流にいうなら甘えです。

本人自身は日本社会に甘えまくって生き続けてきたのですよ。そして同胞の日本人に対して、それもとりわけ社会的弱者に対してのみ甘えるなと言い続けています。

また彼女の人生の中で一体何時どこで死んでもおかしくない状況があったのでしょうか?
こんな甘ったれに平和ボケだなどと言われる人間は石原慎太郎や一部の司法関係者を除いて日本人には一人も居ないと思っています。

588 :吾輩は名無しである :2011/04/03(日) 15:09:47.84

>>587
エッセイ売れてるんだから各種団体に寄生する必要はないんじゃない
曽野はなんとなく偉そうだから各種団体のほうが『顔』として欲しがるわけで曽野の偉そうな感じがどうやって形成されたかには興味あるな

桜井よし子あたりでも曽野の前にでると大人しくなっちゃいそうだな
今の日本女性で一番偉いんじゃないかw

590 :吾輩は名無しである :2011/04/03(日) 16:10:10.04

このババア、避難所で何十人も死んでいるって聞いても
「甘えていたから死んだんだ」
と言うだけだな。
ブタババアが。

600 :吾輩は名無しである :2011/04/04(月) 18:27:21.83

だいたい道徳のようなことで偉そうなことを臆面もなくしゃべるのは女だ。男は日常、競争社会にいるから、偉そうなことを言うと、

「えっ、 お前が?お前のようなぼんくらが?」って言われるが、女は、言われない。

高坂、桜井、曽野なんてのが、そうだ。男で言えば帝京卒で「うん、今の 世の中は、なってない」と言うようなものだ。

661 :(o`.´o)materialist ◆m0yPyqc5MQ :2011/04/10(日) 09:46:58.24

パンチラ綾子ばあさんがここまで高待遇の理由は、パンチラ綾子ばあさんが皇族お気に入りの作家だからと家るで症ね〜(笑)バチカンからの受賞もそれに起因しておると逝った漢字ですけれども〜(笑)

665 :吾輩は名無しである :2011/04/10(日) 18:09:58.67

このバカ子先生、産経でも読売でも文春でも全く同じ内容の駄文繰り返し書いてるだけなんだけど。
これで原稿料貰うことの後ろめたさはないのだろうか?
日本人は甘えている。
電気の無い所に民主主義はない。
若者はバカだ。
電気のないところでは族長主義しか残らない。
廃材を燃やせ(バカもここまで極まると笑えない。)

全部この内容の繰り返し、しかも上から目線。
まあこいつ発展途上国全部まとめて族長主義とか抜かしてるんだけど各国政治体制も文化も全部違うぜ?なんだよその族長主義ってさ。
言わせんなよ。恥ずかしい。

あと、甘ったれてるのは曽野自身ですからさっさとおくたばりくださるか一族まとめてお前の大好きなアフリカにでも引っ越して下さい。この非常時に一番要らん人種ですよ。バカ子先生は。

674 :吾輩は名無しである :2011/04/11(月) 01:48:48.72

そのまんま東が一定の票を取ったように、曽野のファンも一定量いるよ。世の中
さまざまだ。不思議なのは、エリートは曽野を馬鹿にしている。貧乏人は当然、曽野を嫌う。すると、曽野のファンというのは小金もちの中小、零細企業経営者ってところだな。知性のない、低学歴の。

でもつくづく思うが、こいつは本当にパーだな。
仕方がない、低学歴だもんな、しかも迷信ばばあだ。

677 :吾輩は名無しである :2011/04/11(月) 23:30:21.67

一瞬ですべてを失った人は、泥土に咲いた名も無い花にも微笑む。
しかし通りすがりの人の無関係な世間話にも激怒することがある。
それは何も大災害に遭った人だけの心には限らない。

このバーさん、本当に作家なの?
人の心への想像力が全く無いじゃないか。

「こんな時こそ平常心」なんてその人が言われたら、ババアだって容赦はしない、
こんなの死んだってかまわない、で言ったやつを思い切りぶんなぐる。


687 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 21:13:10.12

アーメンと天皇、両立するから不思議。無茶苦茶だあな。こいつの頭脳。
そして台湾帰化人の金何とかという日本国粋気取りの婆と仲良し。

705 :吾輩は名無しである :2011/04/17(日) 04:59:54.54

つきあうと嫌味なばばあだろうな、身の程知らずというか、馬鹿のくせに勘違いして威張っているという意味で。聖心卒ということで美智子皇后となんだか親近感を持ち、それで自分が上流になったつもりで、しかしながら競艇屋の一族(出身は最低)と交際があり、いやはやアイデンティティがはっきりしない。実は、しがないサラリーマンの娘の勘違い出世物語に過ぎないのだ。

710 :吾輩は名無しである :2011/04/17(日) 19:10:59.77

本人が上流と思えば上流だ。いまの若い人は美智子皇后が「粉屋の娘」と言っていじめられたことを知らないだろうな。当時は女官クラスにも旧華族の連中がいたのだ。その連中から見ると、聖心出ているだけの旧華族
ではない出身の美智子さんは粉屋の娘に過ぎなかったのだ。
しかしながら、いまや皇后は名門、同じ学校を出た曽野綾子も大得意。
あっはっは、アーメン。

713 :吾輩は名無しである :2011/04/18(月) 07:53:33.66

さっきラジオ聞いててワロタ
森本キャスターと曽野綾子が死にたいと思ってる被災者の年寄りは勝手に死ねばいいって言ってた
マジひでえwwww

糞野郎だな

722 :吾輩は名無しである :2011/04/18(月) 17:59:31.43

老いの才覚 (ベスト新書) (新書)

作中、それも冒頭に、災害が起きた時心構えの足りない人間が云々、と書いてあるが、その時点で読む気をなくした。
余震の間に家財道具を取りに戻る?
壊れた家、それも他所様の家の端材で炊き出しをする?
この方が「そうしたい」「そう心がけるべきである」 と思っていることは大変危険であり、
後者では正直に言って犯罪ではないか。
緊急時だから無断もちょっとしたことも許されるだとか、 この人こそエゴの塊だろう。
才覚などという言葉を使う資格はない。


740 : v(・x・)v鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2011/04/21(木) 00:35:31.94

日本財団ってのはなんなんだよ!?


741 :吾輩は名無しである :2011/04/21(木) 01:04:10.56

競艇博打屋だ。笹川良一という右翼もどきが作り、運輸官僚がたかり、 親父の死後は明治大学卒の息子が世襲し、いまだ存続している謎の準国家機関。現代の七不思議のひとつ。曽野は、からんでいる。

756 :吾輩は名無しである :2011/04/22(金) 15:46:19.71

http://www.asahi.com/national/update/0422/TKY201104220321.html

「沖縄ノート」訴訟 集団自決に軍関与を認めた判決確定

さあ曽野よ。さんざん沖縄の人々を乞食呼ばわりしてきた責任を取れよ。
まずは土下座行脚して来い。この国賊が。


776 :吾輩は名無しである :2011/04/24(日) 10:11:57.68

さっき曽野綾子がTBSサンデーモーニングで 「電気空気水が当たり前なのは奇跡であって、不自由にもっと馴れろ」 なんてほざいてやがったぞ。
原発支持してきたてめーが言うな。
一族全員、嫁入りした奴も生まれた直後の赤ん坊も実験動物として扱われたいのかあいつは

http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/book/1296970756/


【被災者は】曽野綾子は凄いぜ!【甘えるな】


1 :M7.74 :04/10/25 03:01:24 ID:ffSo6Qos

 学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給されていた。一晩のことに何でそんなに甘やかさねばならないか私はわからない。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当たり前だ。それがいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避難するだけの個人の才覚の訓練が要る。
 お弁当なども行政は配る必要はない。天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で歩けな
い老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世界の当然だ。

これは地震じゃなくて、先日の超大型台風についてのコラムだけど……
中越地震に関しても、あまり違ったことを考えてるとは思えない。
流石曽野綾子、一味違うぜッ……!

7 :M7.74 :04/10/25 03:10:16 ID:Zp5+1DIV

血は争えんな(笑
流石は日本財団(旧船舶振興会)の会長。
実に御立派な発言だ。
あはは。

43 :M7.74 :04/10/25 07:01:33 ID:GeDMEeic

豪邸に住んでれば山奥の安普請の家なんか実感できないだろうよ。
過疎の崖っぷちのボロ家とか。
豪華リビングで快適にNHK見てれば世の中の苦しみも良く分かる。

45 :M7.74 :04/10/25 07:20:55 ID:yB17TX3f

この人、と学会の本でエッセイにツッコミ入れられてたんだよな。
自宅の屋根裏で狸が子供産んじゃって困って、親狸が留守の間に生まれたばかりの子狸を取り出して箱に入れて冬の寒空に一晩放置したらしい。 朝になったら子狸はみんな死んでたと。

親狸が連れていくと思っていたのに、場所がわからなかったようだ、最近の狸は野生の本能が薄れてなっとらん!!と怒ってたw

「可哀想なことをした。」とは思わないらしい。
おいおい、それ動物虐待ちゃうか? せめて移動できるようになるまで待ってやれよ、と。
なんかその時のアレな感じを思い出した。

57 :M7.74 :04/10/25 08:57:11 ID:xV3iWkAK

次の日は新聞紙にくるまって寝そうな低所得者から金を巻き上げてるのが何処のどいつだ。
神を信じ、権力を持つ者はかくも恐ろしい。
曽根綾子の場合、顔を見れば一目瞭然だろ?
いつも豪華な服着てるけどな悪人面が染みついてるのは隠せない。


66 :曽野「罔」子め! :04/10/25 09:55:23 ID:kHFHqt4O

曽野綾子には心底がっかりした。
かつてエッセイにて自分の眼病を真摯に語り、キリスト者としてそこに意義を発見した誠実な姿に非常な感銘を受けた者としては、激しい幻滅を感じざるを得ない。

そもそも国家は何のためにあるのか。
個人では出来ない生活防衛と安定を、集団の力と協力によって達成するためにある。
我々が、直接・間接に税金を払っているのもその為だし、日本国民として教育を受け、勤労しているのも、間接的には国を支える力となっているのだ。

確かに甘えは良くない。自力救済に努力すべきである。
わたしも食料・水・燃料・その他、備えはしている。

だが、今だ予測し得ない災害である地震において、自力救済が可能な若年者・壮年者でさえ、身内に障害者や老人がいれば、それがどれだけ負担になるか想像も出来ないのだろうか。

彼女が各国で、様々な活動を通して援助活動を行ってきたのはわかった。
だが、そこから何も学んでいないことも、これでわかった。
彼女は、なまじそうした経験があるために「驕り」の病にかかっているのだ。

「驕り」は、かくも人を「罔(くら)く」する。


714 :M7.74 :04/10/28 02:04:48 ID:G3xzgMac
>>712
何度も繰り返すが、こやつのおかしなところは、自分と身内だけは批判の対象からなぜかハズれていること。

946 :M7.74 :04/10/29 19:09:54 ID:V0Dqi+Wh

教育っていうのはね、災害などが起きない内にしておくものなの。

おきてから新聞にごちゃごちゃ書いても何にもならないだろうが。
曽野は、政府の「なんとか審議会」や、「かんとか委員会」の委員をいっぱいやっているんだから、そういう場で主張しておけばよかったの。

それをせずに、災害が起きてから新聞で偉そうに説教しても無駄なんだよ。
曽野は、いつも他人を馬鹿にしないと自我を保つことができない人間だ。

もう70過ぎで、あと何年も生きられないんだから、死ぬ前に自分の醜い姿を見つめなおしたらどうだ。


947 :M7.74 :04/10/29 19:14:34 ID:SNkinKhA

キリスト教やアラブ社会の安っぽい知識を振りかざしてイラク問題に首を突っ込むのが好きな曽野綾子。

しかし、もともと頭が悪いからつっこみどころ満載。
もともと頭が悪いからつっこみどころ満載。

ww

http://kyoto.cool.ne.jp/sono001/archives/hisaisha.htm

_____________


関連投稿

独占インタビュー 元弟子が語るイエス教団「治療」の実態!!
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html

イエスが殺された本当の理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html

サルはなぜサルか 1 _ 白人崇拝がタイ人を猿にした
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/396.html

小泉先生は真性のS?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/305.html

西洋の達人が悟れない理由_ロシアのキリスト教
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2011年4月30日 01:04:54: qSlbXVySMQ
コレね、長文です。が実に興味深い投稿です。ゆっくり拝読します。冒頭の「足るを知る」これは、仏教にもある事はご承知の筈ですね。この『足るを知る』の意味は、今あるもので満足する・・・位の意味です。ですから、やはり足りない物は買わないといけない。吉田 兼好の文章にもありますね。人間の生活に必要な物・・について、です。衣・食・住・と医・です。現在手元にありませんから、何時ごろの年代に生きられた方か、不勉強です。が、現代は、ここに情報が欠かせなくなりました。兼好の時代の情報は、どのようだったか?文面からして、他人の皮肉が多いんですが。ここに登場する面々はおおよそ見当が付く。上坂冬美だったか、亡くなったと聞く。興味もない。が、そこに漫画家がいた。天皇論とか沖縄論、昔は渡辺昇一も出てた。『空気の研究』だったか、名前があった。一度読んだがサッパリわからん。イザヤ・ベンダサンがニックネームと聞く。又、笹川の娘が曽野綾子です。実名は度忘れ。地元S会**病院に笹川財団より寄付金10億だったと記憶。事務長が、同期と来る。名士との付き合い多し。同窓会にて承知。陰湿だな。ヤメにする。恩にもなった。迷惑もかけたから・・。50も過ぎると人生の結果は出るものですね。サッパリしない気分です。やはり哀しい。旧友だったから・・・。

02. 2011年7月08日 19:30:51: MiKEdq2F3Q

 「エリート」の低学力           


 暴れる生徒の要因として、九九や分数でつまずいた、読み書きができないなどの学力の問題が明らかになってきた。しかし「成績のいい子」の低学力も問題になっている。高校、大学を卒業していざ職場に入ったら、使い物にならないという声が渦巻いている。「勉強ができない子」とせりあう基準ではなく、社会的な基準、昔の基準から見たら、いまの「できる子」も低学力なのである。

 山口県庁に東大出身がいるが、用地交渉などの能力がなく出世コースを外れていたりで、採用の際に学閥は当てにならないといわれている。北九州の製鉄などでも新卒者の特徴として、マニュアルしかわからず応用がきかない者が増えているといわれる。医療の世界でも、マニュアルに当てはめるだけで、患者の実際を全体として把握して対処できず、応用がきかない若い医者が増えているという。

 官僚や大企業のエリートがハーバード大学など外国に留学するが、外国人と対話ができずに部屋にこもっているのが多いという。英語はしゃべれても、しゃべる中身、問題意識が乏しいのである。下関市役所の部長に天下りしてくる30歳前後の中央省庁の役人たちも、対話力の欠如などで破たんする例がある。医学部に生物を習っていない学生が入っていたり、経済学部に数学のわからぬ学生が入っていたりする。大学では、学生の低学力が深刻な問題になっている。頂上が低くなっていることが裾野の低学力を広げているのだ。

 20年ほど前までは、日本の教育は世界1のレベルといわれてきた。400年ほど前にザビエルが日本に布教に来たときも、「日本人の知的レベルは高いので優秀な宣教師を送れ」と本国に書き送ったといわれる。この20年あまりの教育改革で、「優秀なエリート作りのためにバカは切り捨てる」と漢字の読めない首相などが旗をふってきたが実際は優秀なものをなくすものであった。無惨な低学力、バカ民族づくりがされてきたのである。これは民族の危機であり、教育の立て直しは民族の未来をかけた大問題である。このような学校の変貌が隠されてきたが、広く社会的な世論にすることが教育立て直しの出発点である。

http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/sogekihei%20eri-tonoteigakuryoku.html


03. 中川隆 2011年7月10日 19:29:09: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

ブランド人間は一番質が悪い


世間知らずな医者の言動(患者不在の医療)

投稿者 石・意志・医師 日時 2005 年 5 月 20 日 21:36:10: vqoGwQF.xu/J6

現在、ドクターハラスメント(ドクハラ)という医者にとっては耳の痛い言葉が浸透しつつあります。

“ドクハラ”とは、患者に対する医者の配慮のない言動の事です。

“ドクハラ”を起こす医者にはそれなりの背景があるようです。


医局は非常に閉鎖された社会ですから、一般常識や社会的倫理観を学ばないまま、医者として独り立ちしてしまうケースが多々あります。

医者の多くは過酷な受験戦争を勝ち抜き、勝利者のようなプライドを持っている人も多いです。

まだ、臨床経験も、医者としての技能もなくても、「研修医」として患者と接する際に「先生」と呼ばれ、信頼と尊敬の態度をとられると、たちまち勘違いする人も多いようです。

その様な医者は、例えば患者が、自分の症状を鑑みて「この病気だと思う」と、自己診断を口にすると、突然逆上し


「なら、ここに来る必要はない」

「他の病院へ行け」


などと暴言を吐いたりします。

これは、医者としてのプライドを傷つけられたと感じ、


「素人のくせに、勝手に医者の領分を侵すな!診てやっているんだぞ!」


という気持ちが働くからに他なりません。

形だけは「インフォームドコンセント」を行っても、自分の勧める治療法に患者が難色をしめすと、


「どうなっても知らないよ」

「今、手術しないと死ぬよ」


と、脅かしめいた事を言う医者もいます。まして、他の病院に移りたいと患者が言うと、


「カルテや検査データは渡せない」

「そこで死ぬ気なの?」


と捨て台詞めいた事を言う医者もいます。これは、病院経営を第一に考える医者が、“お客”をとられたと思うから発せられる言葉です。

大量に処方された薬の種類のそれぞれの効能を聞くと、


「俺が信用できないのか?」


と怒鳴られた患者もいます。診てもらっている立場の患者は萎縮してしまい何もいえないこともあるでしょう。

また、大学病院の産婦人科で、患者の許可も無く、主治医が研修医に「今後の研究のため」と称して局部の写真を撮らせたり、不必要な内診をし、女性患者に多大な心的外傷を負わせたという事もあります。


こういった“ドクハラ”を追求すると、たいてい病院側は、医者の言葉がいたらなかったとしたら、多忙で疲れているせいだと弁解します。


確かに外来を一日に数十人もの患者を診る医師もいます。しかし、患者は体が弱っている弱者です。体だけではなく、胸の中も不安でいっぱいです。
そんな弱みに付け込んで、嫌味を言ったり、暴言を吐き、不安を煽る言動は許しがたいことです。


現在、医師免許を持っている医者の倫理観、道徳観を今から変えるのは難しいのが現状です。

医者の意識を改革するには、医者になる前、つまり医大に入学する学生を人間性という視点でシャッフルすべきだといえるでしょう。

進路相談の際、偏差値が高いからといって、闇雲に医大を勧めない、また、受け入れる医大も人間性を重視するなどの対策が必要だといえるでしょう。


http://www.asyura2.com/0502/social1/msg/339.html


04. ふざけるな 2013年5月26日 08:13:20 : pjt3QT/lc2XcU : a6RZpkbJPA
三浦朱門は現在公益財団法人日本民謡協会理事長でもあるが、過去において沢山の失言。
そんな輩が何故民謡協会理事長なのか?

即刻辞めろ!!

民謡は歴史がとても古く我が国の宝・・

それなのに強姦発言はまじあり得ない。

こんな馬鹿が日本民謡協会理事長なら民謡そのものも腐っているといえよう。
今までの発言冗談では済まされない。
人として失格だよ!!!!!!!!


05. 2013年5月29日 14:38:56 : RorZLzk25U
「女性を強姦するのは、紳士として恥ずべきことだが、女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきことである」

こんなもん全然まし。
この人の著書「愛するべきか」「一度だけを生きる愛」では確か「性犯罪の大半は女が男に媚びるのが原因だ」「彼が男からオスになったとしても彼女の側から非難はできない」って言っていましたよ。
曽野綾子も曽野綾子で「女が夜道を歩くのが悪い」ってね。
まとめて死んでほしい。こいつらを持ち上げる日本、大丈夫なの?


06. 中川隆 2013年8月28日 20:58:38 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

偏差値の導入を主導した政治家は従順な国民作ること目指した(週刊ポスト) 

 本来、日本人はポテンシャルが高いはずなのに、なぜ日本の国はこれほど落ちぶれてしまったのか。この疑問をとくカギ「偏差値(学力偏差値)」について、大前研一氏が解説する。

 * * *

 偏差値とは、周知の通り、入学試験で合格可能性を示す数値である。1960年代から受験業界で学力成績の指標として使用されるようになった。しかし、実は偏差値は単なる学力の物差しではない。“お上”が明確な意図を持って導入したものである。私はかつて、偏差値導入を主導した政治家から話を聞いたことがある。

 ベトナム反戦・第二次反安保、学園民主化などで大学闘争が活発化して東大安田講堂事件(1968〜1969年)が起きた後、私が「日本はこのままいくと若い人たちが不満を募らせて、クーデターを起こすのではないか」と懸念を示したところ、その政治家は「大前さん、その心配はないですよ。国にもアメリカにも逆らわない従順な国民をつくるために『偏差値』を導入したのですから」と答えたのである。

 私は偏差値がそれほど重要な意味を持っているとは思っていなかったので非常に驚いたが、偏差値はそういう目的で導入された「システム」にほかならないのだ。

 偏差値によって、たしかに事前に効率よく学生を割り振って受験させることが可能になった。だが、学校側の工夫次第で、偏差値に関係なく才能ある学生を選ぶことは可能だ。実際、世界のほとんどの国には偏差値などなく、学生は自由に学校を選んで受験している。

 結局、日本で導入された偏差値は自分の「分際」「分限」「身のほど」をわきまえさせるための指標なのである。そして政府の狙い通り、偏差値によって自分のレベルを上から規定された若者たち(1950年代以降に生まれた人)の多くは、おのずと自分の“限界”を意識して、それ以上のアンビション(大志)や気概を持たなくなってしまったのではないか、と考えざるを得ないのである。
週刊ポスト2013年9月6日号


07. 2013年9月11日 09:34:37 : J4YfFlQzPI
ゆとり教育、、、詰め込み教育の弊害だろうか、
思考の停止した人間が多すぎる。

こんな言葉を嬉しげに連呼するような人間が教育について語るべきでないだろう。


08. 2014年3月06日 14:54:12 : jDUea84PZI
曽野綾子氏については、ずいぶんと
最近にぎわしていますが、
以前から、鼻の高さでは、軍をぬいていました。
それが、内閣にまで重宝がられても、なんら
見方が変わるものではありません。だから
キリスト教についても懐疑的な思いしかないです。

人をどうしてあのような見方をするのか、
最近になって、わかりましたよ。

バチカンがそうですからね。
バチカンの正体そのものですよ。


09. 中川隆 2014年9月11日 00:19:35 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

ゆとり教育を推進した三浦朱門や曽野綾子には理解できなかった事

「旦那芸」というかたち

観世流の謡と舞の稽古を始めて十七年になる。二年前に初能で『土蜘蛛』を披き、今年の六月には『羽衣』で二度目の能の舞台を踏んだ。次の能は再来年で、『敦盛』を舞う予定になっている。

私が専門とする合気道の基準を当てはめると、まず「三段」というあたりである。ようやく薄目が開いてきて、自分がそもそもどういう技芸を学んでいるのか、自分はなぜこの技芸の習得をめざしたのか、自分はこの芸能の「地図」のどのあたりに位置しているのか、いささか構えて言えば、芸能史におけるおのれの「歴史的役割」は何かということがようやくぼんやりわかってきたあたりである。

こういう自己認知のしかたを「マッピング」と呼ぶ。自分自身を含む風景を上空から鳥瞰的に見下ろしてみるということである。そうやってみてわかったことがある。それは私がしているのは「旦那芸」だということである。

こういう言い方を好まない人がいることはわかっている。けれども、芸能史をひもとくならば、「趣味の稽古事に夢中になって、そのために本業を忘れ、社交上若干の問題を抱えるようになった困った旦那たち」が芸能の力強い支援者であったという事実は否定できない。

落語には『寝床』という秀逸な「旦那芸」咄がある。

義太夫語りに夢中になって長屋の店子や店のものたちに辟易される旦那の話である。

私は志ん生の『寝床』が好きで、旦那の下手な義太夫を嫌って逃げ出す隣人たちの身勝手よりも、酒肴も甘味も用意しているのに誰も聴きに来てくれない旦那の孤独にむしろ親しみを覚えた。

こういうはた迷惑な素人衆の「裾野」があってこそ芸能の峰はその高度を獲得することができる。それはどのような領域においても変わらない。


私はもともと仏文学者である(今ではその名乗りも怪しいが)。私が仏文を志したのは、中学生高校生だった頃、日本の仏文学者たちが(桑原武夫や渡辺一夫や鈴木道彦が)「裾野の拡大」にずいぶん熱心だったからである。知的に背伸びしたがる子供たちに向かって「この世にはこれほど面白く刺激的な学問領域がある」ことを彼らは教えてくれた。そして、専門領域にとどまらず、政治についても哲学についても歴史についても、底知れぬ学殖を示し、しばしば社会的実践にも身を投じた。

「仏文学者というのは、こういうダイナミックな生き方をする人たちなのだ」と私は思い込み、その姿に惹きつけられた。おそらくは私と同じ理由で仏文を志した若者たちで、当時どこの大学でも仏文学科研究室は汗牛充棟の状を呈していた。

けれども、しばらくして、その仏文人気が急速に冷え込んだ。

他の歴史的理由もあるかも知れないが、私は(私をも含めた)専門家たちが「裾野の拡大」のための努力を止めてしまったからではないかと思っている。

「脱構築」だとか「ポストモダン」だとか、難解な専門用語を操り、俗衆の頭上で玄人同士にだけ通じる内輪話に興じているうちに、気がついたら仏文科には学生がぱたりと来なくなってしまっていた。わずか30年の間のことである。

その30年間に中学生や高校生のために「フランスの文学や思想や歴史を研究することがどれほど愉快なことか」を熱く説いて、次世代に自分たちの仕事を継承してくれるように懇望した学者はほとんどいなかった。今にして思うなら、その仕事を怠るべきではなかったのだ。


経験的に言って、一人の「まっとうな学者」を育てるためには、五十人の「できれば学者になりたかった中途半端な知識人」が必要である。

非人情な言い方に聞こえるだろうが、ほんとうだから仕方がない。一人の「まともな玄人」を育てるためには、その数十倍の「半玄人」が必要である。

別に、競争的環境に放り込んで「弱肉強食」で勝ち残らせたら質のよい個体が生き残るというような冷酷な話をしているわけではない。

「自分はついにその専門家になることはできなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難なものであり、どれほどの価値があるものかを身を以て知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かし、その専門知を深め、広め、次世代に繋げるためにはどうしても不可欠なのだということを申し上げているのである。

私は仏文学者として「裾野」の拡大に失敗した。そして、先人たちが明治初年から営々として築き上げてきた齢百年に及ばない年若い学問の命脈を断ってしまったことについてつよい責任を感じている。今、日本の大学には専門の仏文学者を育てるための教育環境がもう存在しない。個人的興味から海外留学してフランス文学研究の学位を取る人はこれからも出てくるだろうが、それはもう枯死した学統を蘇生させるという集団的責任を果すためではない。


能楽の場合でも事情は変わらない。一人の玄人を育てるためには、その数十倍、数百倍の「半玄人」が要る。それが絶えたときに、伝統も絶える。

私が「旦那」と呼ぶのは「裾野」として芸能に関与する人のことである。

余暇があれば能楽堂に足を運び、微醺を帯びれば低い声で謡い、折々着物を仕立て、機会があるごとに知り合いにチケットを配り、「能もなかなかよいものでしょう。どうです、謡と仕舞を習ってみちゃあ?」と誘いをかけ、自分の素人会の舞台が近づくと、「『お幕』と言った瞬間に最初の詞章を忘れた夢」を見ては冷や汗をかくような人間のことである。

私はそういう人間になりたいと思う。そういう人間が一定数存在しなければならないと思う。技芸の伝承は集団の営為だからである。

全員が玄人である必要はないし、全員が名人である必要もない。

玄人の芸を見て「たいしたものだ」と感服し、おのれの素人芸の不出来に恥じ入り、それゆえ熟達し洗練された技芸への欲望に灼かれる人々もまた能楽の繁昌と伝統の継承のためになくてはならぬ存在なのである。

私たちの社会は「身の程を知る」という徳目が評価されなくなって久しい。「身の程を知る」というのは自分が帰属する集団の中で自分が果すべき役割を自得することである。「身の程を知る人間」は、おのれの存在の意味や重要性を、個人としての達成によってではなく、自分が属する集団がなしとげたことを通じて考量する。それができるのが「大人」である。

私たちは「大人」になる仕方を「旦那芸」を研鑽することによって学ぶことができる。私はそう思っている。同意してくれる人はまだ少ないが、そう思っている。  
http://blog.tatsuru.com/2014/09/03_1111.php


10. 中川隆 2014年9月11日 00:29:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

以前は、「無学な人」というのは、ややこしい問題については、「寅さん」のように

「俺は無学な人間だけど、人としてやっていいことと、やっちゃいけないことの違いはわかる」

というかたちで判断を下したわけです。人に騙されたり、裏切られたり、あるいは救われたり、支えられたりというさまざまな人生経験の積み重ねを経て、

「それは人としてどうかと思うよ」

という判断ができた。その適切性はその人の学歴や知識量とは無関係です。

人間を一目見て、信用できるかできないかがわかった。それがわからないとえらい目に遭うからです。だから、修羅場の経験を踏んで、「人を見る眼」を養っていた。


かつて「人を見る眼」という言葉がよく口にされたのは、

「エビデンスがないときにでもその人のもたらす情報の真偽を判定できる能力」

が必要だということを昔の人はよくわかっていたからだと思うんです。生死の境にあって、見知らぬ人に自分の運命を託さなければならない極限状況というのは戦時中には現に頻繁にあったわけです。この人は信用できるのか、うかつに信用すると身ぐるみ剥がれるのか、それを一瞬で判定しなければならなかった。


僕の父はその時代の人間ですけれど、人間について外形的な情報、地位だとか業績だとかは、その人間が信頼できるかどうかの判定基準としては使えないということをつねづね言っていました。


情報リテラシーというのは一言で言えば「自分がその真偽を知らないことについても真偽の判定ができる」能力のことです。情報の「コンテンツ」そのものではなく、その情報がもたらされるときの「マナー」を見る能力だと言い換えてもいい。情報そのものではなく、それをもたらす人間を見る。情報そのものより、それを伝える生身の人間の方が圧倒的に情報量が多いからです。

人間は無数のノイズを発しています。嘘をついているときは、「嘘をついている人間」特有のノイズを撒き散らしているし、十分に裏を取っていないことを断定的に語るときも微妙な「自信のなさ」のノイズが出ている。情報リテラシーというのはそのノイズを受信する力のことだと僕は思います。

―ネット以前は、直感力で判断していた。今は、簡単にネットにつながることで、知にアクセスできるようになって、却って、マッピングが出来なくなってしまった? こういう情報収集力とか、コミュニケーション力というのは、ユーザーの意識の問題でしょうか?

ユーザーの個人的努力で何とかなるところと、歴史的に形成されたもっと射程の長い制度問題と両方がまじりあっていると思います。

ネットがもたらした「集合知」というアイディアはすばらしいと思います。「自分の知っていること」をひとりひとりがパブリックドメインに持ち寄って、それを共有する。「三人寄れば文殊の知恵」です。でも、集合知を機能させるためには、

「私はこれについては知っているが、これについては知らない」

と自分の割り前についてはっきりと申告できるということが一番たいせつなことなんです。

でも、ネット情報がもたらす安価な全能感にアディクトしてしまった人は「自分が長い個人的努力を通じて確信をもって言えるようになったこと」と「Wikipediaで読んだばかりのこと」を区別することができない。

それをきちんと区別してしまうと、せっかくの全能感が消失してしまうからです。ですから、情報弱者はなんでも知っているような顔をしているけれど、

「あなた以外の誰によっても代替することのできないパーソナルな正味の知として、あなたは集合知に何を供出できるのか?」

という問いの前には絶句してしまう。


集合知への参加条件は「マッピングができる」ということです。

自分が何を知っていて、何を知らないかについて適切な記述ができるということです。

専門家集団が機能するのは

「自分にはこれができるが、この辺のことはわからない」

とはっきりカミングアウトする人たちの集まりだからです。

知りもしないことを「知っている」と言い、できもしないことを「できる」と言い張る専門家というのはありえません。そういう人は決して専門家たちの共同作業には招かれない。邪魔になるだけですから。

でも、自分が知らないことをきちんと言語化するのは非常に難しい。

自分が「知っていること」と「知らないこと」の境界線を精密に記述するためにはかなりレベルの高い知性が求められる。でも、この「自分のバカさ」を客観的に表象できる能力というのが最も上質な知性だと僕は思います。それが言えれば、自分は誰を必要としているのか、どのような能力とのコラボレーションを求めているのかがわかる。

集合知の形成のためには自分が「知っていること」「知らないこと=知りたいこと」を鮮明に表示するというマナーを身につけておかなければならないということです。


―その「集合知」のところをもう少し詳しくお願いしたいのですが、生き延びるための「集団としてのパフォーマンス」はどうやってあげていくのでしょうか?


学術的なイノベーションにしても、集団全体がイノベーターになれるわけではないし、そうである必要もありません。

「イノベーターが生まれやすい環境」をみんなで作り上げてゆけばよい。

そういう環境を適切に整備できる管理能力のある人だってイノベーターと同じくらいに有用なわけです。イノベーションは集団的な創造だからです。

イノベーションというのは「そんなところから、そんなものが出てくるとは思わなかった」というかたちを取るものですから、原理的には「マッド・サイエンティスト」によって担われる。

でも、すべてのマッドサイエンティストがイノベーティヴであるわけではない。ただのマッドサイエンティストで、結局何の役にも立たない人でした終わり、ということも多々あるわけです。でも、これを嫌っていてはイノベーションはできません。


イノベーションは「歩留まりの悪いプロジェクト」なんです。

マッドサイエンティストが100人いて、そのうち5人がイノベーターで残りの95人はただの無駄飯食らいでした・・・というくらいの比率でも結果的には「とんとん」だと思います。

ですから、共同研究組織では「あいつ、ホント働かないな、いったい何やってんだよ」とまわりから思われるような人間を相当数「放し飼い」にしておく必要がある。

そういう人たちが好き勝手なことができるように、他方にはこつこつと日常業務をこなして「イノベーションができやすい環境」を整備する人たちがいる。

両方揃っていないと学術的なイノベーションはあり得ないんです。
何を生み出すかは個人ベースではなく集団ベースで見るからです。


ある集団からイノベーター2人、3人出てきら、それはきわめてうまく設計され運営された学術集団だったということになる。


今は科学者の業績を個人単位で計りますね。あれがいけないんです。

科学の発展は個人が担うものじゃない、集団で担う事業です。

卓越した研究者が一人出るときは、それを生み出すだけの土壌の厚みがあるものなんです。それを分断して、すべてを個人の業績に還元しようとする。そうなると研究者たちも集団のパフォーマンスを上げることよりも個人の業績を積み上げることを優先するようになる。それは学術的創造に逆行する発想なんです。

■マンガ界の集合知

この間、京都精華大学の学長でマンガ家の竹宮恵子さんと対談したのですが、マンガが他のジャンルと比べてすごいところは、マンガ家たちが、著作権とかオリジナリティーとかいうことを基本的に言わないっていう点なんです。ストーリパターンとか、キャラクター設定とか、コマ割りとか、吹き出しの使い方とか、顔の描き方とか、そういうマンガを描く技術はすべて「パブリックドメイン」なんだそうです。

マンガの技術はみんなのものだ、と。先人から伝えられたものを後続世代が工夫して育てているジャンルなんだから、ひとりで囲い込まないで、使えるものはみんなで共有しよう。そうすればマンガのクオリティーがどんどん上がっていって、読者も増えるし、本の発行部数も増える。結果的にマンガ家全員が力量をつけることで業界全体が潤うんだ、と。

だから、お互いの技法をどんどん模倣するし、パロディやスピンオフ(二次創作)も基本的には許している。その結果、マンガは今世界中に広がって、英語やフランス語だけじゃなくて、中国語、ロシア語、アラビア語にまで訳されて、総発行部数が何億部というような作品が次々と生まれている。

これは新しい技術の発明を個人の業績に還元して、「囲い込み」をしなかったことのみごとな成果だと思うんです。

これはマンガ制作と流通にかかわる全員が一個の「運命共同体」を形成して、集団として生き延びることを最優先に考えたからだと竹宮先生は説明してくれました。

めざすものが個人の名声とか収入とかじゃない。音楽にしても文学にしても、そこにかかわっている人たちが個人的成功よりも自分たちの「運命共同体」のパフォーマンスを高めることを優先すれば、スケールの大きな、すばらしいものができあがる。

自己利益を確保しようとするとジャンル全体が衰退する。


そういうものなんです。

ですから、平凡な結論なんですけれども、よい仕事をしようと思ったらみんなで力をあわせましょうってことなんです(笑)。
http://blog.tatsuru.com/2014/09/05_1112.php


11. 中川隆 2014年9月11日 00:33:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
・均質化圧と同調化圧。それはやはり学校教育のせいなんだと思います。

・学校はどこかで子どもの成熟を支援するという本務を忘れて、子どもたちを能力別に格付けして、キャリアパスを振り分けるためのセレクション装置機関になってしまった。

・子どもたちを格付けするためには、他の条件を全部同じにして、計測可能な差異だけを見る必要がある。

・問題は「差異を見る」ことじゃなくて、「他の条件を全部同じにする」ことなんです。みんな叩いて曲げて同じかたちにはめ込んでしまう。そうしないと考量可能にならないから。同じ価値観を持ち、同じようなふるまい方をして、同じようなしゃべり方をする子どもをまず作り上げておいて、その上で考量可能な数値で比較する。

・見落とされているのは、この均質化圧が財界からの強い要請で進められているということです。


・彼らからすれば労働者も消費者もできるだけ定型的であって欲しい。

・労働者は互換可能であればあるほど雇用条件を引き下げることができるからです。

・「君の替えなんか他にいくらでもいるんだ」と言えれば、いくらでも賃金を下げ、労働条件を過酷なものにできる。


・消費者もできるだけ欲望は均質的である方がいい。

・全員が同じ欲望に駆り立てられて、同じ商品に殺到すれば、製造コストは最小化でき、収益は最大化するからです。

・ですから、労働者として消費者として、子どもたちにはできるだけ均質的であって欲しいというのは市場からのストレートな要請なんです。

・政治家や文科省の役人たちはその市場の意向を体して学校に向かって「子どもたちを均質化しろ」と命令してくる。


・―均質化と同調圧力を押し返し、本来の「知のありよう」を取り戻すのには、やはり教育がキーワードになっているのでしょうか?

・教育だとは思いますよ。でも、今の学校教育は閉ざされた集団内部での相対的な優劣を競わせているだけですから、そんなことをいくらやっても子どもは成熟しないし、集団として支え合って生きて行く共生の知恵も身につかない。

・保護者も子どもたちも、どうすれば一番費用対効果の良い方法で単位や学位を手に入れるかを考える。最少の学習努力で最大のリターンを得ることが最も「クレバーな」生き方だと思い込んでいる。

・でも、学校教育を受けることの目的が自己利益の増大だと考えている限り、知性も感性も育つはずがない。人間が能力を開花させるのは自己利益のためではなくて、まわりの人たちと手を携えて、集団として活動するときなんですから。

・でも、今の学校教育では、自分とは異質の能力や個性を持つ子どもたちと協働して、集団的なパフォーマンスを高めるための技術というものを教えていない。

・共生の作法を教えていない。それが生きてゆく上で一番たいせつなことなのに。


・僕は人間の達成を集団単位でとらえています。ですから、「集団的叡智」というものがあると信じている。長期にわたって、広範囲に見てゆけば、人間たちの集団的な叡智は必ず機能している。エゴイズムや暴力や社会的不公正は長くは続かず、必ずそれを補正されるような力が働く。

・ですから、長期的には適切な判断を下すことのできるこの集団的叡智をどうやって維持し、どうやって最大化するのか、それが学校でも最優先に配慮すべき教育的課題であるはずなのに、そういうふうな言葉づかいで学校教育を語る人って、今の日本に一人もいないでしょう。学校教育を通じて日本人全体としての叡智をどう高めていくのか、そんな問いかけ誰もしない。

・今の学校教育が育成しようとしているのは「稼ぐ力」ですよ。

・金融について教育しろとか、グローバル人材育成だとか、「英語が使える日本人」とか、言っていることはみんな同じです。

・グローバル企業の収益が上がるような、低賃金・高能力の労働者を大量に作り出せということです。


・文科省はもうずいぶん前から「金の話」しかしなくなりました。

・経済のグローバル化に最適化した人材育成が最優先の教育課題だと堂々と言い放っている。

・子どもたちの市民的成熟をどうやって支援するのかという学校教育の最大の課題については一言も語っていない。子どもたちの市民的成熟に教育行政の当局が何の関心も持っていない。ほんとうに末期的だと思います。

・―モノや資源のレベルでも、教育のレベルでも、色んな意味での持続可能性というのは、一人一人がそういった知のマップを作ることだと思います。このマッピングをどうやって可能にして、共生の知恵をもった社会に作ることができると思われますか。

・今の日本の制度劣化は危険水域にまで進行しています。いずれ崩壊するでしょう。ですから、目端の利いた連中はもうどんどん海外に逃げ出している。シンガポールや香港に租税回避して、子どもを中等教育から海外に留学させて、ビジネスネットワークも海外に形成して、日本列島が住めなくなっても困らないように手配している。彼らは自分たちが現にそこから受益している日本のシステムが「先がない」ということがわかっているんです。でも、「先がない」からどうやって再建するかじゃなくて、「火事場」から持ち出せるだけのものを持ち出して逃げる算段をしている。


・僕は日本でしか暮らせない人間をデフォルトにして国民国家のシステムは制度設計されなければならないと思っています。

・でも、日本語しか話せない、日本食しか食えない、日本の伝統文化や生活習慣の中にいないと「生きた心地がしない」という人間はグローバル化した社会では社会の最下層に格付けされます。

・最高位には、英語ができて、海外に家があり、海外に知人友人がおり、海外にビジネスネットワークがあり、日本列島に住めなくなっても、日本語がなくなっても、日本文化が消えても「オレは別に困らない」人たちが格付けされている。

・こういう人たちが日本人全体の集団としてのパフォーマンスを高めるためにどうしたらいいのかというようなことを考えるはずがない。どうやって日本人から収奪しようかしか考えてないんですから。


12. 2015年2月05日 01:51:44 : 1laTubqZew
2011年4月4日(月)に投稿された600番の意見には、女性と学歴に対する偏見が含まれています。
曾野綾子さんは「私の意見は小説家の偏屈な意見です」と述べました。そのように思っているのでしたら、エッセイを書いたり、講演したり、議論したりすることを差し控えた方がいいです。
実る程 頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな


13. 中川隆 2015年2月14日 05:09:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

「思想」の恐怖 From 三橋貴明@ブログ  2015/02/13


短い文章で「衝撃」を与えるということは、なかなか難しいものですが、2月11日の産経新聞の曽野綾子氏のコラムには、衝撃どころか、率直に言って「恐怖」を覚えましたのでご紹介。


『2015年2月11日 産経新聞「曽野綾子の透明な歳月の光「適度な距離」保ち受け入れを」

最近の「イスラム国」の問題など見ていると、つくづく多民族の心情や文化を理解するのはむずかしい、と思う。一方で若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めなければならないという立場に追い込まれている。

特に高齢者の介護のための人手を補充する労働移民には、今よりもっと資格だの語学力だのといった分野のバリアは、取り除かねばならない。つまり高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ。(中略)

しかし同時に、移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。不法滞在という状態を避けなければ、移民の受け入れも、結局のところは長続きしない。

ここまで書いてきたことと矛盾するようだが、外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。

もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実状を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。

南アのヨハネスブルクに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も済むようになった。ところがこの共同生活はまもなく破綻した。

黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションにどんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、20〜30人が住みだしたのである

住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、一戸あたり常識的な人数の使う数量しか確保されていない。

間もなくsのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。

爾来、私は言っている。

「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい。』

もはや、突っ込みどころが多すぎ、論評を投げ出したくなるのですが、一つ一つ。
まずは「イスラム国」という呼称は止めましょう。ついでに、イスラム国は別にイスラム文化圏の心情や文化を代表しているわけでもありません。単なるテロリストです。

曽野氏の書き方では、普通に読むとISILがイスラム圏の「ある種の心情・文化」を象徴しているように読めてしまいます。ISILはテロリストであり、イスラムとは関係ありません。

次に、日本の生産年齢人口が減少し、今後の我が国で「超人手不足」が進行していくことは明らかですが、別に人手不足の解決策は「外国移民による労働力補充」ではありません。といいますか、人手不足を「外国移民による労働力補充」以外の策で解消しようとしたとき、我が国は経済成長します。

なぜ、断言するかといえば、まさに我が国の高度成長期が、

「人手不足(当時の失業率は1%未満)を外国移民による労働力補充以外で解決しようとした」

結果、実現したためです。外国移民ではなく、いかなる手段で人手不足を解消しようとしたのか。もちろん、生産性の向上です。今後の我が国が人手不足になるのは明らかですが(すでに一部の産業でなっていますが)、解決策は生産性の向上(デフレ脱却後の話)であり、外国移民ではありません。

この辺りの話は、「国民経済」を理解していなければ分からないでしょうが、より問題なのは「その後」の曽野氏の文章です。

「外国移民を受け入れるのは仕方がないが、居住区を分けるべきだ」

という主張を曽野氏はされているわけです。いまどき「ゲットー方式」を支持する日本人(あえて日本国民とは書きません)がいるとは驚きですが、それ以前に曽野氏が「外国移民の問題」について全く理解していないことが明らかになりました。

外国移民の最大の問題は、むしろ、

「外国移民が特定の居住区に集中して住んでしまい、ネイティブな国民と分かたれる集住化」

なのです。まさに、曽野氏のいう、

「移民の居住区が分けられ、集住化が進み、国の中に別の国ができていく」

ことこそが、現在の欧州(スウェーデンなど)の移民問題の本質なのでございます。「善意」をもって移民を受け入れても、彼らは集住化し、ネイティブな国民と融合することはなく、スウェーデンでいえばヒュースビーやローゼンガードといった地区に集中して住み、その地区が「スウェーデンの中の別の国」と化している光景を、わたくしはこの目で見ました。

恐るべきほどの無知というべきでしょうか。あるいは、恐るべきほど「無邪気」というべきでしょうか。分かりません。

いずれにせよ、曽野氏のコラムを読み、わたくしは「思想」の恐ろしさを骨の髄まで味わったわけでございます。正しい「思想」あるいは「考え方」に基づき、国民や政治家が動かない限り、我が国は中長期的には「今とは違う日本的な国」に変貌を遂げることになるでしょう。

止めなければなりません。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/


「間違った思想」が招く悲惨な現実とは?
https://www.youtube.com/watch?v=W4qwp0kYAT4#t=16


14. 2015年2月17日 13:04:27 : uMcHfTnA4o
「国に頼るな」ってなんのための税金だよ!
まさしく
国が国民に税金をせびってんじゃん!
国民の税金がなかったら
国なんてなんもできねぇ

15. 中川隆 2015年2月21日 03:46:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

【施光恒】曽野綾子氏と日本の「リベラル」


曽野綾子氏が産経新聞に寄稿したコラムが物議をかもしていますね。

曽野氏のコラムは、介護分野などの経済的移民を受け入れたうえで、居住区は別にしたほうがいいという趣旨のものでした。

多くの批判が寄せられていますが、私も、曽野氏の議論には、賛成できません。

とりわけ曽野氏の議論で問題なのは、経済的移民を肯定しつつ、居住区は分けようという点でしょう。経済的利益だけ受け取って、外国人労働者や移民の居住の自由などを制限してしまう。いいとこどりで、自己中心的な印象をやはり受けます。

ただ、今回の私の主目的は、曽野綾子氏の批判ではありません。それよりも、曽野氏のコラムに対する「リベラル派」からの批判のあり方のほうを取り上げたいと思います。

「リベラル派」の批判の多くは、「外国人労働者や経済的移民の受け入れは仕方がない。不可避的な時代の流れだ」とします。そのうえで、「日本を多文化共生社会とするために日本人は努力すべきである。曽野氏の議論は閉鎖的で排外的でよろしくない」とする趣旨のものが主だったといえます。

つまり経済的移民の受け入れ自体は、批判しないのです。

(・ω・)ナゼ?

典型的には、下記の記事です。

高橋浩祐氏(ハフィントンポスト日本版編集長)「時代に逆行する曽野綾子氏のコラム 多様な民族を受け入れる姿勢こそが日本に必要」(『ハフィントン・ポスト日本版』2015年2月17日配信)
http://www.huffingtonpost.jp/kosuke-takahashi/sono-ayako_b_6690296.html

この記事の執筆者は、次のように述べ、外国人労働者や移民の受け入れを認めています。

「今、多くの先進国では、少子高齢化に伴い、好むと好まざるにかかわらず、外国人労働者や移民を受け入れざるを得ない状況になっている」。

そのうえで、日本人の閉鎖性を指摘し、日本人こそが変わるべきだと続けます。

「…曽野氏のような知識人が本来、世に問うべきことは、多種多様な文化や習慣を受け入れ、共存共栄を目指す「ダイバーシティ」ではなかったか。日本に定住するひとり一人が暮らしやすい社会を実現するため、日本人こそがその閉鎖性を打ち破り、自ら変わる必要がある」。

私は、以前もこのメルマガで何度か書いていますが、外国人労働者や経済的移民の受け入れには、基本的に反対です。ヨーロッパの経験をみれば、社会的安定性の喪失などその失敗は明らかです。また、外国人労働者や経済的移民の推進は、別に「リベラル」でも「人道的」でもないと考えるからです。

(以前の記事は下記です。)
【施光恒】移民受け入れは人道的か?(『三橋貴明の「新」日本経済新聞』2013年8月9日付配信)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/08/09/se-19/

【施光恒】ヘイトスピーチ規制の本末転倒(『三橋貴明の「新」日本経済新聞』2015年1月23日付配信)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/01/23/se-51/

上記の記事でも論じましたが、豊かな先進国が、発展途上国の貧しさにつけこみ、自国民がやりたがらない低賃金労働につかせるため、海外から人を呼んでくるというのは上等な発想ではありません。

貧しい国の人々が、先進国で、先進国の人が望まないメイドや介護、肉体労働といった仕事に従事せざるをえない状況とは、人道的でもリベラルでもありません。こういう出稼ぎや、移住は、貧しい国の人が本当に望んでいることではありません。

例えば、将来、日本が経済的に貧しくなって、我々の子孫である日本人が出稼ぎ労働者、あるいは移民となって、低賃金で、豊かな国(アメリカかもしれませんし、中国かもしれません)のメイドや肉体労働の仕事に就かざるをえない。私は、そういう日本の姿を想像しただけで、胸が張り裂ける思いがします。

外国人労働者や経済的移民を現在、送り出さざるを得ない国の人々も、おそらくそういう気持ちでしょう。

彼らが真に望むのは、自分の国で、自分たちの言語や文化のなかで、自分たちの家族や仲間と一緒に働き、多様な人生の機会と豊かな生活を享受することです。

人道的見地、あるいは真に「リベラル」な見地からすれば、先進国がなすべきは、移民や外国人労働者を無批判に受け入れ、途上国の貧しさに乗じて彼らの労働力を利用することではなく、経済的移民など生じなくても済む、もっと平等な国際秩序作りを提唱し、その実現のために尽力することです。

上記の過去記事でも触れましたが、現在の世界には、国際的な不平等を固定化してしまう仕組みがたくさんあります。

例えば、自由貿易は絶対に正しいという前提で、発展途上国に対しても市場開放を迫り、保護主義的な政策を認めない新自由主義的な経済構造です。これでは、なかなか自国資本の産業は発展せず、途上国が、先進国に追いつくことはほぼ不可能です。

英語による文化支配も一例です。貧しい国では、少数のエリートは英語を用い、大多数の一般庶民は現地語を使って生活しているという光景が非常によく見られます。英語でなければ高等教育が受けられず、稼ぎのいい専門的職業にも就けないという社会です。こういう社会では、多くの一般的人々は、十分に自分の能力を磨いたり、発揮したりすることができず、貧しいままにとどまります。

言語が違うと国民の一体感も生まれないので、国民はバラバラで、適切な経済政策や福祉政策をとることもできません。結局、貧困から脱することが出来ず、先進国になかなか追いつけません。

ですので、本当に「人道的」あるいは「リベラル」な立場からすれば、無批判に外国人労働者や経済的移民を受け入れ、低賃金で彼らを利用することを認めるべきではなく、自由貿易を絶対視する新自由主義的経済構造や、英語による文化支配をはじめとする現在の不平等な国際秩序の不当性を暴き、これらを除去するよう努めるべきです。

その上で、途上国の国作りを積極的に支援する必要があります。途上国自身の文化や言語に基づき、近代化を図るための手伝いです。途上国の人々が、自分たちの国で、自分たちの家族や仲間とともに豊かな生活が送れるように、「国づくりの援助」を行っていくことです。

この点で、日本にできることはたくさんあります。

日本は、保護主義的政策を適宜導入しつつ、自国の資本や産業を発展させ、国民を富ませ、内需中心で豊かになることに成功した国です。(実際は、イギリスやアメリカも含め、現在の先進国は、皆、保護主義を適宜、用いつつ、自国経済を発展させてきたのですが、イギリスやアメリカなどは現在では、あまりこのことに自覚的ではないようです)

また、日本は、外国から積極的に学びつつも、母語である日本語や日本文化を守り、その基盤の上に近代化を成し遂げてきた国です。我々は普段あまり意識しませんが、外来の知を取り入れつつ、母語で近代化するためのノウハウをおそらく世界で一番持っています。

日本は、現行のアメリカ主導の新自由主義的な国際秩序や、英語による文化支配を批判するべきです。そのうえで、例えば、輸入代替化戦略をとり、自国の資本や産業を発展させてきた日本の経験を語るべきです。

あるいは、外国から学びつつも、外国の先進の知を翻訳し、自分たちの言語で高等教育まで学べる環境を作るためのノウハウを途上国に積極的に提供すべきです。

結局、何が言いたいかといえば、曽野氏のコラムもおかしいが、今回の曽野氏のコラムに対する日本の「リベラル派」の批判の多くもマトが外れてはいないか、また、あまりにも現状肯定的で体制順応的ではないかということです。

「リベラル」を自称するのであれば、自国の経済政策の失敗を糊塗するため、あるいは自国企業の経済的利益のため、途上国の貧しさに付け込んで、彼らの労働力を安く買いたたき、自国人がやりたがらない仕事に就かせることを、「時代の流れだからしょうがない」などと軽々しく認めるべきではありません。

外国人労働者や経済的移民にならざるを得ない多数の人々を生み出す現行の不平等な国際秩序を批判すべきです。なおかつ、その不平等な国際秩序に乗じて短期的な経済的利益の追求に汲々としている現在の日本の政府や一部財界のみっともなさも指摘すべきでしょう。

そして日本の来し方を振り返り、先人の努力に感謝するとともに、日本の真の国際貢献とは何かを国民皆で考えることでしょう。

日本の「リベラル派」を自称する人々は、曽野綾子氏の今回の議論を批判するだけでなく、もう一歩先まで進んでもらいたいものです。
m9(`・ω・´)キリッ
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/02/20/se-53/


16. 中川隆[1094] koaQ7Jey 2015年12月26日 12:00:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[512]

教育課程審議会の会長を務めたことのある三浦朱門は「ゆとり教育」について次のように語っている:

 「平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」(斎藤貴男著『機会不平等』文藝春秋、2004年)

 三浦が言う「できる者」の正体は不明だが、安倍晋三内閣の私的諮問機関だという「教育再生実行会議」が提出した「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について」には次のような記述がある:
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouikusaisei/pdf/dai4_1.pdf

「各大学は、学力水準の達成度の判定を行うとともに、面接(意見発表、集団討論等)、論文、高等学校の推薦書、生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動(生徒会活動、部活動、インターンシップ、ボランティア、海外留学、文化・芸術活動やスポーツ活動、大学や地域と連携した活動等)、大学入学後の学修計画案を評価するなど、アドミッションポリシーに基づき、多様な方法による入学者選抜を実施し、これらの丁寧な選抜による入学者割合の大幅な増加を図る。その際、企業人など学外の人材による面接を加えることなども検討する。」

 大学側が主観的に能力とは関係なく合格者を選べるわけで、「裏口入学の合法化」のように思える。

アメリカでは無能でも有力者の子どもなら有名大学へ進学が可能だが、そうした仕組みにしたいのだろう。学費の高額化もそうした仕組みを作り上げる一環のように見える。

 学費が高騰すれば庶民には大きな負担になる。

例えば、2012年にイギリスのインディペンデント紙が行った覆面取材の結果、学費を稼ぐための「思慮深い交際」を紹介する、いわゆる「援助交際」を仲介するビジネスの存在が明らかになり、ギリシャでは食費を稼ぐために女子学生が売春を強いられ、売春料金が大きく値下がりしていると伝えられているが、こうした傾向は各国に広がりつつある。
http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/how-sex-work-has-replaced-a-bar-job-for-students-who-struggle-to-bills-loans-and-university-fees-8364948.html?origin=internalSearch#
http://www.thetimes.co.uk/tto/news/world/europe/article4624755.ece


 上院議員のエリザベス・ウォーレン元ハーバード大学教授によると、アメリカでは教育が生活破綻の原因になっているという。

少しでもまともな教育を望むならば、多額の授業料を払って私立へ通わせるか、公立の学校へ通わせるにしても不動産価格の高い住宅地に引っ越す必要があるという。

低所得者の通う学校では暴力が蔓延して非常に危険な状態で、学習どころではないのだ。そうした経済的な負担に耐えられなくなり、破産する人が少なくないという。結局、経済的に豊かな愚か者が高学歴になり、優秀でも貧しい子どもは落ちこぼれていくことになる。


17. 中川隆[1270] koaQ7Jey 2016年1月25日 21:03:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1048]

曽野綾子
「年収120万円は貧困層ではありません。貧困層とは水や電気を使えない人」2015/5/12(火)

「ここから日本の話を聞いていきたいと思います。

まずこちらのデータですが、日本の相対的貧困率。

相対的貧困率というのは、仮に国民の所得を順番に並べた時に、所得の半分に満たない人の割合。

2012年の場合は、日本では年間の所得が122万円に満たない人の割合ということになります。

日本ではこの貧困率が右肩上がりです。2012年にはデータがある1985年以降、過去最悪の16.1%と。

およそ6人に1人が貧困層ということになりますけれども、これはOECD加盟国34か国中29位。つまり、5番目に悪い数字ということになりますね。


曽野さん、日本では近年、貧困層が増えているとか、格差が広がっていると言われていますが、日本は貧しい国になってきているのですか?」

曽野氏
「違いますね。貧困と言う言葉がぐちゃぐちゃになって使われていると思いますね。
つまり、こちらの貧困というのは、水が出ない、水道の恩恵を受けていない。電気は毎日停電ですからね。

それもありますけれども、電気も引かれていない。盗電しているんですよ。
東京電力ではないですよ。電気を盗むんです。

盗電する。それでも、盗電した分を払う、家主から払わなければいけませんから。そういうのも一切ない。

今晩食べるものがない。それから、濡れて寝ています、アフリカでは。しばしば。屋根が、雨がザーッと漏れる。

私が知っているシスターのところに保育器、赤ちゃんを入れる、あれを送った時に、立派なカーテンボックスに入ってきます。

それをほしがった未亡人がいたんですよ。シスターが何のために何に使うのと言ったら、何のためだと思いますか。子供のうえに、雨の日、ザーッと雨がかかるんですって。

だから、あれを切り開いて、子供の上にかけて、カーテンですよ。雨に直接当たらないようにしてやりたいと言ったと。

それほどの貧しさだから、犬と違って人間は、屋根の下に寝ていると思っていますけれども、特殊な人以外は。そんなことはないです。

今晩食べるものもない。学校も行けない。いろんなことで。だから、そういうものを貧困と。

それは、つまり、高いレベルの人の中間かどうかというので、比較貧困ですね」
http://blogs.yahoo.co.jp/kotyannomama/17550519.html


18. 中川隆[1389] koaQ7Jey 2016年2月04日 13:06:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1225]


J-CASTニュース 2016年2月2日(火)18時59分配信


作家の曽野綾子さん(84)が「週刊ポスト」のインタビュー記事で語った

「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』がある」

との主張がネット上で大反発を受けている。

高齢者は権利や機会を若者に譲り、死と向き合うべきだ――そんな「生き方」の主張だったが、「あなたからどうぞ」など厳しい意見が相次いでいるのだ。

■「ドクターヘリは利用者の年齢制限を」

インタビュー記事は、2016年2月1日発売の「週刊ポスト」(2月8日号)に掲載された。

「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』を忘れてしまっていませんか?」

との問いかけで始まり、曽野さんは


「『いくらでも生きたい』は傲慢」

「権利を『求め倒し』、医療を『使い倒し』、他人を『頼り倒す』ことは肯定されない」

との持論を展開する。


この記事の前提には、1月24日付け産経新聞朝刊1面に掲載された曽野さんのコラム「小さな親切、大きなお世話」があった。

90代の病人がドクターヘリによる救助を要請した話を持ち出し、「利己的とも思える行為」と批判。負傷の程度でけが人の治療に優先順位をつける行為「トリアージ」を例にしながら、


「生きる機会や権利は若者に譲って当然だ」

「ある年になったら人間は死ぬのだ、という教育を、日本では改めてすべき」

と主張した。

また、ドクターヘリなど高度な医療サービスについても

「法的に利用者の年齢制限を設けたらいい」

と踏み込んでいる。

「ポスト」掲載のインタビュー記事もコラムの内容が基本的に踏襲され、「死についての教育拡充論」により多くの紙幅が割かれている。


確実に来る死を覚悟し、さまざまな機会や権利を若者へ譲る。

医療サービスを誰しもが平等に受けるのは難しい時代、高齢者は死と真正面から向き合わなければならない。


曽野さんが訴えたかったのは、そんな独自の「生き方」だったと言えるが、曽野さん自身が高齢だったことからか、ネット上で即座に反発の声が巻き起こった。

※過去にもたびたび「奔放発言」

「長生きは『利己的』らしい」

「あなたからどうぞ、としか」

「『適当な時』は誰がどういう基準で決めるんでしょう」


ツイッターには、こうした厳しい指摘が相次いでいる。中には

「『高齢者は命令されたら死ね』と発言したに等しい

」との意見もあり、批判の声は収まる気配がない。

曽野さんの発言はその大胆さ、奔放さから、今まで数多くの批判を浴びてきた。15年2月、産経新聞上のコラムに記した


「もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」

との一文が、 「アパルトヘイト」(人種隔離政策)容認と捉えられ、海外メディアに報じられたり、駐日南アフリカ共和国大使が産経新聞に抗議したりする事態に発展。


また、15年7月、岩手県矢巾(やはば)町の中学2年の男子生徒(当時13)がいじめを苦に自殺した問題では、

「自殺した被害者は、同級生に暗い記憶を残したという点で、彼自身がいじめる側にも立ってしまった」

と同年9月11日発売の「ポスト」(9月18日号)に語り、問題視された。

今回のインタビュー記事をきっかけに、こうした発言も改めてネットで掘り返されているようだ。


19. 中川隆[1405] koaQ7Jey 2016年2月06日 14:22:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1253]

曽野綾子氏のコラムの問題は何か 2016/2/6


典型的な新自由主義者の発想

 作家の曽野綾子氏のコラムが再び物議を醸しているようです。曽野氏は1月24日付産経新聞に「利己的な年寄りが増えた」というコラムを投稿し、90代の高齢者がドクターヘリを要請したというエピソードを切り口として、次のように述べています。

“しかし最近は、何が何でも生き延びようとする利己的な年寄りが増えた。

人間は平等だから、年寄りでも若者と同じような医療を要求する権利があると考える。できればそうだが、できなければ生きる機会や権利は若者に譲って当然だ。”


 曽野氏は『週刊ポスト』(2月12日号)でもこのコラムの続編のような形でインタビューに応じていますが、ここには典型的な新自由主義者の発想が見られます。

この考えを進めていけば、労働によって社会に貢献することができない人間は、社会から排除してもよいということになりかねません。これは高齢者だけでなく、中年や若者にも適用されるでしょう。

 新自由主義者は人間を労働力商品に還元するため、人の心の澱や襞といったものを理解できません。他者の気持ちになって考えることができないので、「社会的弱者」に目を配ることもできません。

 この点について、作家の佐高信氏が哲学者の山崎行太郎氏との対談本『曽野綾子大批判』(K&Kプレス)で次のように述べています。


“佐高 ……
曽野は以前『サンデー毎日』に連載を持っていたのですが、部落問題に関する記述をめぐって連載中止になったそうです。

問題のコラムは曽野の『運命は均される』という本に収録されていますが、それは

「自分は東京生まれ東京育ちだが、日常生活で部落問題が話題になった記憶がない。
そんな自分に部落差別について教え込もうとする人たちがいる。
差別を知らない人間に同和教育を吹き込むな」

といった内容です。

 これは要するに、自分が差別はないと言っているのだから差別は存在しないんだ、ということでしょう。あまりにも酷いからってことで掲載できなかったんでしょうけど。

日本社会に蔓延する「無思想の思想」

 また、佐高氏は曽野氏の作家としての資質にも疑問を投げかけています。

佐高氏が曽野氏を批判したところ、曽野氏から反論がありました。
しかし、その反論がとても反論と呼べるものではなかったからです。


“佐高 ……
曽野は次々と違ったカードを切ってきて、こちらの批判を無視し、問題を逸らそうとする。彼女は自分と相手のどこが同じでどこが違うのか、自分がどういう位置づけであるのかといったことはどうでもいいんでしょうね。

 その意味で、曽野綾子には思想がない。彼女の議論の底が浅いのもそのためでしょう。

山崎 
曽野が論争から逃げるのは、彼女にサブスタンスがないからでしょう。

もし本当にサブスタンスを持っているなら、論争から逃げるわけにはいかないですよ。

自らの存在と直結する問題、自らの生命線に突っかかってこられているわけですから、全存在を賭けて一線を守ろうとするはずです。”


 これは弊誌2月号で批判した櫻井よしこ氏にも言えることです。

その中で、山崎氏は櫻井氏の思想を「無思想の思想」だと述べています。
思想がないから、櫻井氏の言論には一貫性がないのです。

 さらに言えば、これは安倍総理や、安倍総理を支持している人たちの多くにも言えることです。

なぜ日本社会で「無思想の思想」が力を持つようになってしまったのか、我々は真剣に考える必要があります。(YN)
http://gekkan-nippon.com/?p=8564


20. 中川隆[1407] koaQ7Jey 2016年2月06日 17:34:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1256]
>>19
>曽野氏は『週刊ポスト』(2月12日号)でもこのコラムの続編のような形でインタビューに応じていますが、ここには典型的な新自由主義者の発想が見られます。

移民問題・難民問題は、今やユーロ圏を揺るがす火薬庫と化してしまった。

排斥デモ、異民族敵視、憎悪、相互対立は、多民族国家を目指した国のほとんどが経験している。多民族共生というのは、口で言うほど簡単なものではない。

共生どころか、むしろ衝突となり暴力の応酬となってしまう。当然だ。ひとつの地域に、文化がまったく違って、考え方も根本からして異なる人たちが押し込まれる。

民族によっては、マナーも違えば、常識も違えば、言葉も違えば、人種も違う。

何もかも違った人間がどんどん増えていくと、受け入れる側からすると、自分たちの文化が侵略されていると捉えるのは、避けられない。こういった対立は、これから世界中で吹き荒れることになる


しかし、だからと言って、移民・難民の流入や、多民族国家の動きが頓挫するとは、絶対に考えない方がいい。

どんな問題が起きても、どんな激しい国民の抵抗が起きても、グローバル社会に参加した国家では、それが強引に行われていくことになる。

なぜなら、グローバル化していく社会の中で、国家という枠組みが邪魔になっており、今は「国家」という枠組みを取り壊そうとする動きが加速しているからである。

「自国文化を守ろう、自国の歴史を大切にしよう」という動きは、「保守」とは呼ばれず、「極右」とグローバル・メディアによってレッテル貼りをされている。

世界中のメディアは、保守を必ず「極右」として扱い、レイシストと断定する。それはグローバル化を後退させる動きなので、「絶対に許されない思想」と認定して、封印されていく。

グローバル化を阻止する動きは、絶対に許されない。

多国籍企業、金融市場、巨大メディアは、グローバル化する社会の中で支配権を拡大していく過程にある。

世界を動かしているのは国民ではなく、多国籍企業、金融市場、巨大メディアである。そして、これらの企業の各ステークホルダー(関係者)たちである。

全員が揃って陰謀に荷担しているという見方もあるが、実際のところは、陰謀論によって動いているというよりも、グローバル化した方が「より儲かる」というシンプルな原則によって突き動かされていると言った方がいい。

儲かるのなら、儲かる方向に向かって資本が殺到していく。それがあたかも何らかの指示があるように一方方向に動いているように見える。

事業家や金融資本は何者かに命令されて動いているわけではない。儲かる方向に向かって動いていたら、それはグローバル化の方向だったのである。


ロンドンの光景。もうすでにロンドンでは44%近くが非白人となっていると言われている。移民・難民の流入や、多民族国家の動きは止まらない。


儲かるから、グローバル化が推し進められるのだ

グローバル化したら、世界のすべてが多国籍企業にとって市場になる。そうなれば、単純に儲かる。だから、多国籍企業はぶれることなくグローバル化を推し進める。

グローバル化したら、賃金の安い国で物を製造することができるようになる。そうなれば、コスト削減できる。そして、競争力が付いて儲かる。

グローバル化したら、移民が大量に入ってきて、やはり低賃金で人が雇えるようになる。そうなれば、またもやコスト削減ができる。だから、移民政策や、多文化主義は推進されるのだ。シンプルだ。

貿易を行うに当たって、国をまたぐたびに関税を取られたら損をする。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。儲けのためには、関税を取る国家という存在が邪魔なのだ。

販売を行うに当たって、各国の違いに合わせて商品をローカライズするのは無駄なコストである。言語が英語か何かで統一できれば、ローカライズする手間がなくなる。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業である。コストのためには国家という存在が邪魔なのだ。

販売を行うに当たって、文化が違っているとやはりその国に合わせなければならないが、それも無駄なコストである。だから、移民を入れて、混ぜて、独自文化を薄めさせれば、文化に合わせる手間もなくなる。

だから、文化がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。移民・難民を大量に入れて「多文化共生」にするのは、その国の独自の文化を消すのに最良の方法だ。


パリの光景。41%が非白人の人口となっている。グローバル化したら、移民が大量に入ってきて、低賃金で人が雇えるようになる。そうなればコスト削減ができる。だから、移民政策や、多文化主義は推進される。


世の中は多極化しているのではない。逆だ

ありとあらゆるものが、国家の消滅、国家の役割縮小、国家の無力化を目指している。上記以外にも、そんな動きは次々と動いている。

通貨が違っていれば、為替の変動というものに注意を払わなければならず、それは多国籍企業にとっては手間である。国家をブロック化するか、もしくは国家を消滅させれば為替も統一するので便利だ。だから多国籍企業は、通貨の統一を邪魔する国家という概念を消し去りたい。

巨大メディアも、言語・文化がどんどん統一されていけば、情報収集も、情報提供も、世論誘導もやりやすい。だから、グローバル化に乗るのは「得する」動きだ。そのために、言語・文化の守り手である国家を消滅させたい。

インターネットもまた、「情報」という分野で世界を統一しようとする動きである。インターネット企業は、世界がグローバル化すればするほど儲かる仕組みになっている。だから、国家間の情報遮断は許しがたいことであり、やはり国家という概念を消し去りたいと思っている。

グローバル化は、それを突き詰めると、世界が「ひとつ」になるということだ。世界が「ひとつ」というのは、要するに国家も、文化も、言語も、通貨も、すべてが「ひとつ」になるという意味である。

現在、そのような社会に向かっている。世界は多極化しているのではない。完全にその逆だ。

グローバル化の動きは、「ひとつ」になる動きだ。国家のブロック化は、「ひとつ」になる動きだ。多文化主義の動きは、「ひとつ」になる動きだ。金融市場の国際化は、「ひとつ」になる動きだ。移民促進の動きは、「ひとつ」になる動きだ。

グローバル化によって、世界は統一化されようと動いている。多極化しているというのは、単に政治の力学の話であって、世の中全体の動きではない。

多極化していると見せかけて、世の中はグローバル化によって「ひとつ」になろうとしているのである。

絶対に移民政策が止まらないのは、世界が「ひとつ」になるためだ。本当に、単純な話だ。そうすれば多国籍企業、金融市場、巨大メディアは儲かるのである。そして今や、すべての国がグローバル化に向かって暴走している。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160206T0136500900.html


21. 中川隆[1408] koaQ7Jey 2016年2月06日 17:43:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1257]
>>19
>曽野氏は『週刊ポスト』(2月12日号)でもこのコラムの続編のような形でインタビューに応じていますが、ここには典型的な新自由主義者の発想が見られます。


「真面目に働くことによって明るい未来が拓く」という今までの資本主義の基幹を為していた牧歌的な時代は、グローバル化が進めば進むほど過去のものになりつつある。

現代の資本主義は、全世界を巻き込んだ凄まじい競争を強いる弱肉強食の資本主義である。企業は競争に打ち勝つために、素早く巨大化し、素早く時代に対応し、利益を極大化させることが望まれている。

利益を極大化させるためには、余計なコストがかかる雇用を必要最小限にするのが手っ取り早い。人間を雇うというのは、企業から見ると凄まじいコストなのである。

年500万円の人間を20年雇用したら、その1人だけで1億円のコストがかかる。実際にはこれに福利厚生から事務所代から雑費等含めて、かなりの出費がある。

単純に言えば、人は雇わなければ雇わないほどコストは削減される。そのために企業は、ありとあらゆる方法で雇用を削減する方法を考え出す。

それが派遣雇用の拡充であったり、アウトソーシングであったり、途上国の工場移転であったり、IT化であったり、ロボット化であったり、人工知能であったりする。

現在はそうした「雇用を排除する動き」が同時並行で行われ、加速している時代である。

これがさらに進んでいくのが2016年以降の動きだ。「働いても働いても豊かになれない」というワーキングプア層が社会の大半を占めるほどの苛烈な社会になっていくのだ。

今起きているこの大きな動きに私たちはひとり残らず飲み込まれていることに注意しなければならない。2016年以降、この流れが変わるというのはあり得ない。

「会社に雇われて働く」というのは、ワーキングプアになるというのと同義語になる。

まだ多くの人は半信半疑かもしれないが、よほどのエリートでない限り、「会社に勤める」というのは貧困に落ちる危険な行為になりつつあるのだ。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160101T1601100900

富裕層が仕掛けているのは、自分たちが100戦無敗になる方法


100戦無敗になるにはどうしたらいいのか。簡単だ。徹底的に弱い相手と戦うことだ。たとえば、大人は3歳児と戦ったら必ず勝つ。

大人が常に3歳児と戦い続ければ、常に勝ち続けることができる。それは勝負ではなく、リンチになるはずだ。大人はその気になれば、殴り殺すことさえ可能だろう。

だから、スポーツはこういった「大人vs子供」のような、最初から勝負が分かりきっているような組み合わせを禁止する。惨劇を避けるためだ。

それを不服として、大人が「自由に勝負させろ」と叫んでいたら、どうかしていると思われるはずだ。

しかし、それはスポーツの世界だからどうかしていると思われるだけで、実社会ではそのあり得ない競争が行われる世界なのである。

100万円の資産しかない人間が、100億円の資産を持つ企業と無理やり競争させられるのが資本主義の掟である。巨大な者が「もっと自由を」という時は、「弱者を叩きつぶす自由をくれ」という意味なのである。


落ちこぼれた人間には金すらも出したくない政府

「どんどん競争させろ。競争のルールは必要最小限にしろ。弱い者がどうなったところで知ったことではない」

これが資本主義を拡大解釈した「市場原理主義」の正体である。日本は2000年に入ってから、この弱肉強食の市場原理主義が小泉政権下で組み入れられた。

事実上の実行者は、当時、経済財政政策担当大臣と金融担当大臣を兼任していた竹中平蔵だった。

この男によって社会経験の浅い若年層は非正規労働者に追い込まれ、どんどん生活が不安定化しくことになる。

こういった格差が生まれるのは当然だと竹中平蔵は言っている。さらに、「日本はまだまだ格差が少ない社会だ」との認識も示している。

つまり、もっと激しい競争社会して、それによって弱者がもっと増えても別に構わないというスタンスである。さらにこの男は2016年に入ってからトリクルダウンも否定している。

トリクルダウンというのは「資産家や大企業を先に豊かにすると、富が国民全体にトリクルダウン(滴り落ちて)、経済が成長する」というものだ。

ケ小平の唱えた「先富論」に似ているものだが、竹中平蔵はそのトリクルダウンもないと言った。強い者はどんどん富むが、その富は弱者に回らない弱肉強食の社会を日本に取り入れたのがこの男である。

竹中平蔵は派遣会社の会長なのだが、派遣会社というのは労働者の稼ぎをピンハネする事業をしている。ピンハネして、要らなくなったら捨てる。

その結果、労働者が弱者になったとしても「それは、その人の自己責任だ」と言うのが竹中平蔵の理論なのである。

弱者など、どうでもいい。落ちこぼれた人間には金すらも出したくない。だから、この男が小泉政権下でしたのは、社会保障支出の大幅な削減だった。

その結果、高齢者も、障害者も、シングルマザーもみんな追い込まれて、生活保護受給者は大幅に増えることになった。


努力しても這い上がれない社会が来ている

弱肉強食の市場原理主義を取り入れればそうなることは、はじめから分かっていた。なぜなら、強欲な資本主義の総本山だったアメリカがそうなったからだ。

アメリカではレーガン政権がこの市場原理主義を推し進めた結果、1%の富裕層と99%の低賃金層という超格差社会を生み出して、今でもその格差の分離は広がっている。

アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。

中流階級は激減し、2010年には貧困者が4620万人に達した。7人に1人は貧困層だ。さらに、予備軍まで入れると、3人に1人は生活に追われている状況になっている。

問題なのは、この格差が固定化しつつあるということだ。アメリカン・ドリームはすでに消失している。努力しても這い上がれない社会がやってきているのである。

当然だ。競争を開始する時点での条件に大きな格差がついている。スタートラインが富裕層と貧困層とではまったく違う。正当な競争になっていないのである。

貧困層は満足な給料がもらえない職業を転々とするしかなく、結局、働いても働いても豊かになれないワーキングプアが常態化してしまう。

貧困が固定化するのは、次の5つの要因がある。

(1)生活に追われ、疲れて何も考えられなくなる。
(2)低賃金で自分も子供も教育が受けられなくなる。
(3)金を含め、あらゆるものが不足してしまう。
(4)這い上がれない環境から自暴自棄になっていく。
(5)社会的影響力がなく、権利は保障されない。

いったん貧困に堕ちると、この5つの要因が同時並行で始まっていき、その中で押しつぶされてしまう。

これは、アメリカだけの問題ではなく、今や日本の底辺の問題でもある。すでに、日本の底辺もこの5つの要因にがんじがらめにされて、這い上がるのが絶望的に難しい社会になっているのである。

アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。


貧困層は、相変わらず見捨てられていた

格差が固定化されるというのは、富裕層と貧困層の超えられない一線ができるということである。人々は分離し、この両者は次第に違う文化を生きることになる。

暮らす場所も、食べる物も、通う学校も、遊ぶ場所も、付き合う人も、すべて違っていく。そして、この両者は互いに相手に無関心になり、話す言葉すらも違っていくようになる。

日本もそうなる危険性が高い。格差は固定化して、堕ちてしまった人は、社会から見捨てられて生きるようになっていく。

2014年3月。私は10年ぶりにインドのコルカタに向かって、インドの貧困地区がどうなっているのかを確認しに行った。

その結果、どうだったのか。書籍『絶対貧困の光景』で書いたのだが、かつての貧困層はインドの経済発展からものの見事に取り残されていた。

コルカタは、確かに一部は経済発展していた。

ところが、貧困層はまったく経済発展の恩恵に浴していなかったのだ。彼らは社会から無視され、相変わらず社会から見捨てられていた。

10年前、貧困の中で生きていた女性たちは今もまだまったく同じ状態で放置されていた。彼女たちは路上で暮らし、路上で物乞いをし、スラムは相変わらずスラムのままだった。

先進国と変わらないマンション、ショッピングモールができていて、富裕層がベンツを乗り回しているその横で、10年前に貧困層だった人たちは、まだ路上を這い回って生きていた。

(堕ちたら、這い上がれないのだ……)

竹中平蔵が言った通り、「トリクルダウン」など、影も形もなかった。貧困層に富はこぼれ落ちていなかった。完全に置いてけぼりだ。

そういった状況は私もよく知っていたはずだった。しかし、実際にそんな現状を目の前に突きつけられた時に感じたショックは、決して小さなものではなかった。

格差が固定化され、弱者が見捨てられ、貧困層が大量に増え続ける社会がどんなに悲惨な社会なのか、日本人はもっと真剣に考えるべきだ。

日本はそんな道を辿ろうとしているのである。

スラムの子供たち。富める者は富み、貧しい者は奪われるのであれば、この少年と幼い妹には未来はない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160118T0438270900.html


22. 中川隆[1412] koaQ7Jey 2016年2月07日 08:18:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1262]
>>19
>曽野氏は『週刊ポスト』(2月12日号)でもこのコラムの続編のような形でインタビューに応じていますが、ここには典型的な新自由主義者の発想が見られます。


経済関連の「詭弁」の一つに、仮説を「原則」であるかのごとく扱い、結論を断定するという手法があります。

例を挙げますと、

「トリクルダウン理論により、富裕層・法人減税は正しい」

「クラウディングアウトが起きるから、国債発行はダメ」

「マンデル・フレミング・モデルにより、変動相場制の国では財政政策が無効」


などになります。

クラウディングアウトとは、政府の国債発行が「金利上昇」を招き、企業の投資が減少するため、経済成長が阻害される。というロジックなのですが、現実の日本(欧州でも)ではデフレで民間の資金需要が不足し、政府の国債金利はむしろ「下がって」います。

マンデル・フレミング・モデルはクラウディングアウトの延長で、政府の国債発行・財政政策の拡大が「金利上昇」と「通貨高」をもたらし、輸出減により財政政策によるGDP拡大分が相殺される。よって、変動相場制の国において財政政策は無効。というロジックなのですが、長期金利0.23(!)%の国で、何言っているの? という感じでございます。

しかも、第二次安倍政権発足以降、「通貨安」が大幅に進んだにも関わらず、日本の実質輸出は増えていません。純輸出で見ても、原発を稼働しないため、外国からの原油・LNGの輸入が増え、マイナス(純輸入)が拡大していきました。

さらに言えば、日本銀行が国債を買い入れている以上、「国債発行=金利上昇」などという単純なモデルが成立するはずがないのです。MFモデルにしても、財政出動が金利上昇、円高をもたらすのがそんなに怖いなら、金融政策を併用すれば済む話です。

要するに、クラウディングアウトにせよ、MFモデルにせよ、

「絶対に財政出動の拡大はダメ。国債発行もダメ」

という「結論」がまずあり、その結論に導くための詭弁として持ち出されているに過ぎないのです。


とはいえ、この種の詭弁が政界を支配し、財政政策による需要創出が実現しないため、我が国はいつまでたってもデフレ状況から抜けられないでいます。

トリクルダウンも同じです。

トリクルダウンとは「富裕層減税や法人税減税により、国内の投資が拡大し、国民が豊かになる」というロジックになっています。

減税分を「国内の投資に必ず使う」ように政府が強制できるならばともかく(できません)、資本の国境を越えた移動が実現したグローバリズムの時代に、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。

しかも、法人税を減税し、企業の現預金を増やしたところで、デフレで投資利益が見込めない以上、国内の設備投資が拡大するはずがありません。

上記の理屈は、「常識」に基づき考えてみれば、誰でも理解できるはずです。特に、損益計算書やバランスシートに触れる機会が多い経営者であれば、一発で分かるでしょう。

ところが、現実にはトリクルダウンが成立するという「前提」に基づき、法人税減税をはじめとする構造改革が推進されています。

それどころか、もはや政府はトリクルダウンという「言い訳」をする必要すら感じていないのかも知れません。


竹中氏が今回、トリクルダウンを否定しましたが、これは別に、

「トリクルダウンがあると嘘ついていました。ごめんなさいね」

とう話ではなく、

「トリクルダウンなど、あるわけがない。政府に甘えず、各人が努力せよ。負けたら、自己責任」


と、責任を「国民」に丸投げしたに過ぎません。

それにしても、中国が改革開放を推進した際、ケ小平は「人民」に対する言い訳として、トリクルダウン仮説の一種である先富論を持ち出しました。中国のような共産党独裁国であっても、勝ち組に優しい政策をする場合は、トリクルダウン仮説で「言い訳」をする必要があるのです。

ところが、日本ではもはやトリクルダウンという「言い訳」すらなされず、格差を拡大することが明らかな構造改革が推進されていっています。

この状況を「怖い」と思うのは、三橋だけでしょうか。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2016/01/11/mitsuhashi-345/

「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然 2016-01-06    

 さて、今さらですが、トリクルダウンとは何でしょうか?


 トリクルダウンとは、

「富裕層や大企業を豊かにすると、富が国民全体にしたたり落ち(=トリクルダウン)、経済が成長する」

 という「仮説」です。トリクルダウン「理論」と主張する人がいますが、単なる仮説です。


 上記は今一つ抽象的なので、より具体的に書くと、

「富裕層減税や法人税減税をすると、国内に投資が回り、国民の雇用が創出され、皆が豊かになる(=所得が増える)」

 となります。


 要するに、グローバリズム的な、あるいは新古典派(以前は古典派)経済学的な「考え方」に基づき、所得が多い層を優遇しようとした際に、政策を「正当化」するために持ち出される屁理屈なのでございます。


 ちなみに、大恐慌期のアメリカでは、財閥出身の財務長官アンドリュー・メロンが「法人税減税」を推進した際に、まんまトリクルダウン仮説が用いられました。 


 さて、現代日本において、トリクルダウンで安倍政権の法人税減税に代表される「グローバル投資家」「グローバル企業」を富ませる政策を正当化していたのが、みんな大好き!竹中平蔵氏です。


『「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/172701/1


 テレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」。

「激論!安倍政治〜国民の選択と覚悟〜」と題した1日放送の番組では、大田区の自民党区議が「建築板金業」と身分を隠し、安倍政権をヨイショするサクラ疑惑が発覚。「今年初のBPO入り番組」とネットで炎上中だが、同じように炎上しているのが、元総務相の竹中平蔵・慶応大教授の仰天発言だ。


 番組では、アベノミクスの「元祖3本の矢」や「新3本の矢」について是非を評価。

冒頭、「アベノミクスは理論的には百%正しい」と太鼓判を押した竹中平蔵氏。

アベノミクスの“キモ”であるトリクルダウンの効果が出ていない状況に対して、

「滴り落ちてくるなんてないですよ。あり得ないですよ」

と平然と言い放ったのである。


 トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論だ。2006年9月14日の朝日新聞は〈竹中平蔵・経済財政担当相(当時)が意識したのは(略)80年代の米国の税制改革だった。

その背景には、企業や富裕層が豊かになれば、それが雨の滴が落ちるように社会全体に行きわたるとする『トリクルダウン政策』の考え方があった〉と報じているし、13年に出版された「ちょっと待って!竹中先生、アベノミクスは本当に間違ってませんね?」(ワニブックス)でも、竹中氏は

〈企業が収益を上げ、日本の経済が上向きになったら、必ず、庶民にも恩恵が来ますよ〉

と言い切っている。


 竹中平蔵氏がトリクルダウンの旗振り役を担ってきたのは、誰の目から見ても明らかだ。

その張本人が今さら、手のひら返しで「あり得ない」とは二枚舌にもホドがある。

埼玉大名誉教授で経済学博士の鎌倉孝夫氏はこう言う。


「国民の多くは『えっ?』と首をかしげたでしょう。ただ、以前から指摘している通り、トリクルダウンは幻想であり、資本は儲かる方向にしか進まない。竹中氏はそれを今になって、ズバリ突いただけ。つまり、安倍政権のブレーンが、これまで国民をゴマカし続けてきたことを認めたのも同然です」(後略)』

 そもそも、トリクルダウンが成立するためには、絶対的に必要な条件が一つあります。それは、富裕層なり大企業で「増加した所得」が、国内に再投資されることです。前述の通り、トリクルダウンとは、富裕層や大企業の所得が「国内の投資」に回り、国民が豊かになるというプロセスを「仮定」したものなのです。


 現代の説明も、かなり抽象的ですね。

「トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論」

 まあ、それはそうなのですが、正しくは

「富裕層が富み、国内に投資がされる」ことで経済活動が活発になる

という話なのです。


 すなわち、資本の移動が自由化されたグローバリズムの下では、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。特に、デフレーションという需要不足に悩む我が国において。


 富裕層減税や法人税減税で、「富める者」の可処分所得を増やしたところで、「グローバリゼーションで〜す」などとやっている状況で、国内への再投資におカネが回ると誰が保証できるのでしょう。誰もできません。


 結局、企業は対外直接投資、富裕層が対外証券投資におカネを回すだけではないのでしょうか。特に、日本のように国内にめぼしい投資先がなく、国債金利が長期金利で0.26%と、異様な水準に落ち込んでしまっているデフレ国では。というか、国内における投資先がなく、民間がおカネを借りないからこそ、長期金利が0.26%に超低迷してしまっているわけですが。


 無論、国境を越えた資本移動が制限されていたとしても、トリクルダウンが成立するかどうかは分かりません。減税で利益を受けた富裕層や企業が、国内に投資せず、増加した所得を「預金」として抱え込んでしまうかも知れません。


「いやいや、貯蓄が増えれば金利が下がり、国内に投資されるので、トリクルダウンは成立する」

 などと学者は反駁するのかも知れませんが、長期金利0.26%であるにも関わらず、国内の投資が十分に増えないデフレ国で、何を言っているの? 頭、悪すぎるんじゃないの? という話でございます。現在の日本は、企業の内部留保までもが史上最大に膨れ上がっています。


 お分かりでしょう。トリクルダウンが仮に成立するとしても、その場合は、

「国境を越えた資本の移動が制限されている」

「デフレではない」

 と、最低二つの条件が必要になるのです。ところが、現実の日本はグローバル化を推し進めつつ、同時にデフレです。トリクルダウンが成立する可能性など、限りなくゼロに近いわけでございます。


 そんなことは端から分かっていたし、何度も著作等で訴えてきたわけですが、残念ながらマスコミの主流は

「トリクルダウン理論により、法人税減税は正しい」

という、「頭、悪すぎるんじゃないの?」理論が主流を占めていました。


 少なくとも、現在の日本において、トリクルダウン前提の経済政策は「間違っている」と、全ての国民が認識する必要があるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/


続 トリクルダウンはあり得ない 2016-01-07


 昨日は、単にトリクルダウン仮説について解説しただけで、竹中氏の「真意」には踏み込みませんでした。

そもそも、竹中平蔵氏はなぜ「トリクルダウンはあり得ない」と語ったのか。


 安倍総理は、年頭の記者会見において、フジテレビの西垣記者の「選挙に向けてこの半年、国会が今日から開く中、どういった目標を掲げていかれるお考えでしょうか」という質問に対し、

「将来の老後に備えて、あるいは子育てのためにも使っていくことになるわけでありまして、これは正に成長と分配の好循環をつくっていくという新しい経済モデルを私たちは創っていく。その「挑戦」を行っていかなければいけないと思います」

 と、答えました。


 「分配」という言葉を総理が使ったのは、初めてのような気がいたします。


 わたくしは昨年末に刊行した徳間書店「2016 年 中国・ユーロ同時破綻で瓦解する世界経済 勝ち抜ける日本 」において、


『安倍総理は2015年1月28日の参院本会議で、民主党の質問に答えるかたちで、

「安倍政権としてめざすのはトリクルダウンではなく、経済の好循環の実現だ」

 と、トリクルダウンを否定した。

 だが、実際に安倍政権が推進している政策は、消費税増税をはじめとする緊縮財政にせよ、法人税の実効税率引き下げにせよ、あるいは様々な構造改革にせよ、明らかに特定のグローバル投資家を利する政策ばかりだ。

 グローバル投資家に傾注した政策を推進しつつ、トリクルダウンを否定したため、筆者はむしろ総理が国内の所得格差の拡大を歓迎しているかような印象を受けたものである。

 すなわち、富裕層やグローバル投資家、大企業を優先する政策を打つ政権は、言い訳としてトリクルダウン理論を持ち出すのだ。

法人税減税や消費増税、構造改革など、国内の所得格差を拡大する政策を繰り出しつつ、トリクルダウンすら否定するのでは、余計に問題ではないだろうか。』


 と、書きました。


 朝生のを見た限り、竹中氏は別に、 「トリクルダウンはあり得ないんです。ごめんなさい」というニュアンスで「トリクルダウンはあり得ない」と語ったわけではないわけです。


 トリクルダウンなど起きえない。
政府の政策で富が「滴り落ちる」のを待っている方が悪い、

というニュアンスでトリクルダウンを否定したのでございます。

すなわち、格差肯定論としてのトリクルダウンの否定なのです。


 そもそも、トリクルダウン仮説は民主主義国家において、一部の富裕層や法人企業に傾注した政策をする際、有権者である国民に「言い訳」をするために編み出されたレトリックなのです。


「富裕層や大手企業を富ます政策をやるけど、いずれ富は国民の皆さんに滴り落ちるので、安心してね」

 というわけでございます。


 つまりは、政治家がグローバリズム、新自由主義的な構造改革、緊縮財政を推進し、国民の多数を痛めつける際に「言い訳」として持ち出されるのがトリクルダウン仮説なのです。


 竹中氏がトリクルダウンを否定したのは、構造改革を推進するに際し、国民に言い訳をする必要性を感じなくなったのか、あるいは言い訳するのが面倒くさくなったのかのいずれかでしょう。


「面倒くせえな。トリクルダウンなんてあるわけないだろ。

政府の政策で、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧困化し、それでいいんだよ。

どうせ、負けた奴は自己責任なんだから」


 と、一種の開き直りで「トリクルダウンはあり得ない」と竹中氏が発言したと確信しています。


 とはいえ、総理が「分配」と言い出したということは、竹中氏はともかく「政治家」にとっては、「トリクルダウンすらない構造改革、富裕層・大企業優遇政策」は、有権者に説明がつかないということなのだと思います。


「竹中氏がトリクルダウンを否定した。へ〜え。

つまり、あんた(国会議員)たちは富める者がさらに富み、貧困層はますます貧困化する政策を肯定するんだな?」

 という突っ込みを受けるのは、安倍総理とはいえどもきついでしょう。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12114721167.html


23. 中川隆[2192] koaQ7Jey 2016年4月01日 11:26:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2186]

「教育を与えない」が、体制にとって非常に重要な理由とは

インドではダリット(不可触民)というカーストがある。「人間ではない。それ以下だ」と呼び捨てられ、差別されている人たちだ。

(人間以下(Sub-human)と呼び捨てられて、生きている人たち)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120731T2334260900.html


彼らは今も安い労働でこき使われている。

女性は売春宿に売り飛ばされたり、排泄物の汲み取りや、動物の死体の処理など、人のやらない仕事を強制されていることが多い。

(人間の排泄物を両手で集めることを強いられた人たちがいる)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120923T0236040900.html


そんな彼らはまさにインドの隠された奴隷である。

ダリットは激しい差別を受けているのだが、その差別のひとつとして「教育を与えない」というものがある。なぜ教育を与えないのか。

教育を受けて、ものを考えられるようになると、自らの立場を「知る」ことになる。そうすると、社会がおかしいことに「気づく」。自然と「反抗心」が芽生え、現状を変えようと「立ち上がる」人間が出てくる。

そうなると奴隷状態に置かれていた人間が次々と「目が覚めて」しまって、奴隷制が維持できなくなる。だから、教育を与えない。支配者は、最終的に奴隷化する人から教育を奪い、無知なまま生きてくれたほうが都合が良い。

だから、教育を絶対に与えないのである。

教育を与えないというのは、体制にとって非常に重要

アフガニスタンやパキスタンでは、女性が教育を受けようとすると命を狙われる。学校が襲われて飲み水に毒を入れられたり、学校に通う女学生が撃たれたりする。

女性に教育を与えない。なぜなら、教育を受けることによって女性が目覚め、自分たちが抑圧されていることに気がつき、現状を変えようと立ち上がる人間が出てくるからだ。

そうすると、イスラムを「おかしい」という女性が出てくる。あるいは男尊女卑に疑問を持つ女性も出てくる。男女平等だと言い出し、女性が家長制度を脅かすかもしれない。

だから、女性には教育を与えず、考えることすらも禁じて現状が当たり前だと思わせておく。

それでも教育を受ける少女が出てきたり、教育の大切さを訴える「邪魔」な少女が出現する。そんなときは、マララ・ユスフザイのように撃たれたりする。

このような事件があると女性は萎縮し、無知であることに甘んじて声を失っていく。

私たちは部外者なので、イスラム国家の女性が奴隷化されていることは分かる。しかし、当のイスラム女性たちは、自分が奴隷化されていることに気がついていないことも多い。

子供の頃からイスラムに従順であることが当たり前になると、それが世界のすべてだから違う世界が分からないのである。部外者は分かるが、当事者は分からない。

だから「教育を与えない」というのは、体制にとって非常に重要であることが分かる。

教育は一部の人間、すなわち体制側の人間や為政者やエリートだけが受けていればいいのであって、一般大衆は「言われたことだけをロボットのように行う人間」であることが望ましい。

いちいち何かを考えて、体制側のシステムに立ち向かって反旗を翻すような人間が増えるのは望んでいない。むしろ、そんな人間が出ないようにしたいと考えている。

国民から教育を奪い取った方が都合が良くなった

イギリスの産業革命以降、先進国社会では国民に教育を与えることによって、他国よりも経済的競争力がついた。だから、為政者は他国よりも有利になるために、国民に対して教育を促進していた。

教育がつけば、より複雑な工業製品が作れるようになり、それが社会に恵みをもたらした。

そして、国が豊かになれば、為政者たちも豊かになる。だから、国民に教育を与えるにはすばらしいメリットを享受する施策であった。その流れはずっと続いて来た。

しかし、もう状況が変わった可能性がある。

グローバル化によってグローバル経済に参加する国では教育の平準化が行われて、どこの国でも労働者は一定の水準が保てるようになっている。

そのため、企業は自国の労働者に頼る必要がなくなった。そもそも先進国の高度な知識を持った人間は高賃金を要求するのでコスト削減には逆行するので使いにくい。

優秀であれば国籍を問わず経営者も雇えるようになったので、国民全員に教育を施すよりも、そういう人材を即戦力で雇った方がコストが安くなっているのだ。

労働者の質は平均化されているので、むしろ高度な教育のない安い賃金で雇える労働者の方が使いやすいと企業は考える。使い捨てできるからである。

国家も財源が不足するようになって、教育を与えるということが負担になっている。そして、国民に必要以上の教育を与えることによって、為政者に刃向かってくるデメリットのほうが大きくなっている。

誰もが高度教育を受けられるようになると、もう教育そのものが陳腐化して、強みにもメリットにもならない。だから、先進国では逆に国民から教育を奪い取った方が為政者にとっては都合が良くなりつつある。

奴隷に見えない。しかし、実は奴隷だった

下手に教育を与えると、国民はいろんなことを考えて「目覚めて」しまう。社会で自分たちの立場が為政者に抑え込まれていることに気付き始めて反抗を始める。

だから教育を与えているように見えて、教育の成果をどんどん奪っていくような社会構造ができあがる。具体的には、以下のような社会になっていく。

・学校をレジャー化させ、教育させない。
・テレビ・映画・映像に浸らせて考えさせない。
・スポーツ観戦に夢中にさせて考えさせない。
・セックス・ポルノに夢中にさせて考えさせない。
・ゲームに夢中にさせて考えさせない。
・ギャンブルを与えて夢中にさせて考えさせない。
・本を読ませず、深く考えさせない。

これによって教育を受けているように見えて実は教育をすべて打ち消し、結果的には国民は完全なる無教育の状態に戻されてしまうのである。

「考えさせない」環境をどんどん作り出して知能を劣化させ、結果的に無教育にしていく。これを「衆愚化政策」という。「パンとサーカス」を与えて関心をそちらに寄せておき、政治を転覆させないようにする手法だ。

この愚民化の風潮は止めることができるものだが、社会的にはまったく止められる兆候もなく、むしろ加速させられている。学校が衆愚政策によって学力低下を強化されている。

自然にそうなったのではない。学力低下、愚民の方向に誘導されているのである。

かつて「奴隷」と呼ばれる人間が存在していたことは誰でも知っている。途上国では、女性や貧しい人々が意図的に教育を奪われていることを私たちは知っている。

しかし、先進国に暮らす私たちも実は教育を奪われている可能性があるということには気付かない。外部から見るとその人は奴隷的な境遇だと分かるのだが、自分が当事者であると自分が奴隷だとは気付かないのだ。

「一見自由を与えられているように見える。奴隷に見えない。しかし、実は奴隷だった」

私たちは気がつかないうちに、衆愚政策で奴隷にされているのかもしれない。まさかと思うかも知れないが、嘘ではない。場合によっては、私たちはもう手遅れかもしれない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160401T0037520900.html


24. 中川隆[3180] koaQ7Jey 2016年7月07日 06:36:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3528]


2016-07-07
弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは階級社会の固定化


富裕層の子供と貧困層の子供は、生活環境が違う。富裕層の子供たちは心地良い環境で暮らすことができて、明日の食事の心配をすることもなく、親の資力を使って「良い学校」に通うことができる。

良い学校とは、子供たちの能力や学力を向上させてくれる思慮深い教師がいて、子供たちをバックアップする環境が教室にあって、安全で、清潔な学校である。

良い学校は、その環境を維持するためのコストがかかるので、それが学費に反映される。

だからこそ富裕層の子供しか通えない私学が存在し、そこで子供たちは生まれ持った能力をより良く向上させていくことができる。

貧困層の子供たちは親の財力からして、こうした「良い環境」の学校には入れない。そのため、近所の学費の安い学校に通うことになる。

こうした学校は多くが公立なのだが、欧米でも途上国でも同じく、公立学校というのは荒廃しやすい状況にある。

その理由は別に難しいことではない。教育にも弱肉強食の資本主義が取り入れられるようになって、教育の場は著しく荒廃していったのだ。

教育の現場に資本主義を取り入れて生まれた結果

アメリカの教育の環境が変わっていったのは1980年代以降であると言われている。

何が起きたのか。

この時代、アメリカの大統領となったロナルド・レーガンは、「新自由主義」の信奉者であり、「小さな政府」をスローガンにして政策を推し進めていた。

「小さな政府(リミテッド・ガバメント)」とは、政府の関与をどんどん小さくして、ほとんどのことは民間に任せるという政策を言う。

これによって民間ではダイナミックな競争が生まれ、その競争によって世の中が進化するのではないか、という思想がその根底にある。

レーガン大統領はこれを「レーガノミクス」と名付けて、すべての分野に当てはめていったのだが、教育もまたこの自由競争の中に放り込まれた。

その結果、公立学校では国からの補助金が削減されていくことになり、教師の賃金も下がり、学校の施設・備品も補充されることもなくなり、学校の環境はどんどん悪化していった。

給料が下がると、優秀な教師から消えていく。公立学校の予算が削減されていくのが既定路線になると、優秀な教師は最初から公立学校の教師にはなろうとしない。

教師の質が落ちると問題児も放置される。また優秀な生徒も問題児の影響を受けて学力が低下していく。そうすると、富裕層の親たちが子供をそこから引き上げて私立の学校に入れるようになる。

こうした流れが延々と続いた結果、1990年に入る頃になるとアメリカの教育の場は、荒れ果てた公立学校と、良い環境と良い教師が揃った私立学校と完全に分離するようになった。

教育の現場に資本主義を取り入れると、富裕層と貧困層の子供たちが分離する結果となったのである。


教育の格差は、子供たちのその後の人生は大きく左右することになる。


貧困層の子供たちは、スタートから出遅れていく

アメリカでは今、ケンブリッジ大学でも、マサチューセッツ工科大学でも、ハーバード大学でも、女子学生に対するレイプが多発していて問題になっている。

しかし、これは「あり得ないことが起きた」という反応ではなく、「いよいよ名門大学でも起きるようになった」という捉え方をされていることに注意すべきだ。

アメリカの最底辺の公立学校では、学校内でドラッグが蔓延し、レイプ事件が起き、時には銃撃事件も発生するほど荒れているのはよく知られている。

こうした底辺の学校の日常が「いよいよ名門大学にもやってきた」という捉え方なのだ。荒れた学校が存在し、暴力が恒常化しているのである。

貧困層の通う学校が荒れ果てて学力低下が止まらなくなるのは、別にアメリカだけの話ではない。イギリスでもフランスでもまったく事情は同じだ。

貧困層の子供たちが学力荒廃の流れに絡み取られてしまうのは、本人の資質を問う前に、劣悪な環境を問わなければならない。

教育に理解のない親兄弟、教育に適していない家屋、教育に適していない共同体、貧困による栄養不足や飢えが一度に子供たちに襲いかかってくる。

その上、教育に必要な書籍や備品も経済的な理由で揃えることができないこともある。飢えていたり、服装が粗末だったりすると、いじめに遭う確率が高まる。

そして、経済問題の悪化が知能を低下させる大きな理由になっていることも知られている。

(「お金がない」ということ自体が、知能を低下させる理由)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131009T0413150900.html

貧困層の子供というのは、「学ぶ」ということに対して、富裕層の子供よりも思った以上にハンディをかぶっているのだ。資本主義社会では体力ではなく知力が重要視されるので、貧困層の子供たちはスタートから出遅れる。


貧困層の子供というのは、「学ぶ」ということに対して、富裕層の子供よりも思った以上にハンディをかぶっているのだ。資本主義社会では体力ではなく知力が重要視されるので、貧困層の子供たちはスタートから出遅れる。


弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは階級社会

日本では1990年から明確に経済が衰弱していくようになり、じわじわと貧困層が生まれて来た。

それが社会で見えるようになっていくのは2000年に入った頃だが、本来はここで対策を打たなければならなかったのに、当時の小泉政権がしたのは真逆の政策だった。

小泉政権は貧困層を支援するのではなく、むしろ「新自由主義」という弱肉強食の資本主義を取り入れて、貧困層を思いきり見捨ててしまった。

小泉政権時代、経済財政政策を担当していた竹中平蔵という男はロナルド・レーガン大統領が行った「小さな政府(リミテッド・ガバメント)」の政策をそのまま日本に持ち込んで、教育も含めてすべてを民間の競争の渦に放り込んだ。

こうしたことから、日本でも明確に教育の劣化が起きるようになっている。この流れは止まらないと考えられている。

日本でも公立学校は荒れ、高い学費の私立学校が好環境になるという二極化になりつつあり、現職の教師もこうした現状に警鐘を鳴らしている。

やがては日本も貧困層の子供たちは学力が低いまま放置されて、永遠に資本主義の底部に押し込められることになる。

親の財力で子供の将来が決まるというのは、言うまでもなく「貧困の固定化」を生み出す。つまり、貧困層の子供は貧困層に、富裕層の子供は富裕層になる社会の誕生だ。

名門大学の学費は異様なまでに高くなり、すでに金持ちしか通えないのが現実だ。

富裕層の子供は学力がなくてもコネで名門大学に入ることができるようになり、逆に貧困層の秀才は学力があっても経済力がないので名門大学に入れない。

弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは、もがいてもあがいても抜けられない底知れぬ階級社会である。

世界はグローバル経済に覆われ、そのグローバル経済の正体が弱肉強食の資本主義であるのであれば、全世界が階級社会に向かっているということになる。

貧困層の子供は貧困層、セックスワーカーの母親の娘はセックスワーカーという途上国で見られた構図は、今後は先進国も含めて全世界で当たり前になるのかもしれない。


世界はグローバル経済に覆われ、そのグローバル経済の正体が弱肉強食の資本主義であるのであれば、全世界が階級社会に向かっているということになる。弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは、もがいてもあがいても抜けられない底知れぬ階級社会である。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160707T0251420900.html


25. 中川隆[3181] koaQ7Jey 2016年7月07日 06:38:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3529]

2013-10-09
「お金がない」ということ自体が、知能を低下させる理由


知能とは、何か。

知能とは、認知や、記憶や、判断や、予測や、思想や、仮説を組み立てるような能力、さらには人生設計の計画や、準備等を含めた、知的活動をする上での土台となるものだ。

もちろん、知能は低いよりも高い方が良いに決まっている。だから、知能を伸ばすための教育は子供に欠かせない。

しかし、知能を伸ばすための環境は、全員がきちんと整っているわけではない。本来はもっと知能を伸ばせる人であっても、環境が整わずに知能の発達が抑えられるケースは多い。

アフガニスタンでは多くの女性たちが「学ぶ」機会そのものを奪われている。環境が整わずに、本当は非常に聡明な少女が、潜在能力を発揮されないまま人生を終えることもある。

ソマリアでは多くの子供たちが戦乱に巻き込まれて「学ぶ」機会を奪われている。

環境が整わずに、子供たちは一生無学のままで暮らす。字も読めず、計算もできない。

「あなたが金を失うと、知能も一緒に失う」という現実

知能が人よりも低下している場合、私たちはそれは環境が悪いとか、教育を受けさせない社会が悪いと推測する。それは知能を低下させる重要な要因なのだが、実はそれだけではないことが最近、分かった。

サイエンスという科学雑誌に2013年8月30日に掲載された1つの論文が波紋を呼んでいる。

この論文では、インドやアメリカでいくつかの実験が行われたのだが、「知能テストの結果と、収入の多寡」には明確な相関関係があったことが証明されたのだという。

インドのサトウキビ栽培を行う農家を対象にした実験からは以下のことが分かった。

収入が多い時は、知能テストの結果は良い。
収入が少ない時は、知能テストの結果は悪い。

さらに、普通のアメリカ人のボランティアを対象にした実験からは以下のことが分かった。

所得の高い人は、知能テストの結果は良い。
所得の低い人は、知能テストの結果は悪い。

この2つから見えてくるのは、このような結論だ。

「金が乏しくなれば、知能が落ちる」
「金が増えれば、知能が伸びる」

つまり、こういうことだ。「あなたが金を失うと、知能も一緒に失う」ということなのだ。

貧乏になると、考えが浅くなってしまうのである。


誰でも、状況によってその知能が下がってしまう

知能は、一定ではない。どんなに知的な人でも、状況によってその知能が下がってしまう。

端的に言うと、金が乏しくなってしまったら、多くの人は頭が回らなくなってしまうのである。これは、経験則として誰もがうなずけるものではないだろうか。

金がなくなると、当然、それに付随していろんな面で生活が危機に直面する。

家賃はどうするのか。食事はどうするのか。光熱費はどうするのか。家族はどうなってしまうのか。仕事はどうしたらいいのか、今月は乗り切れるのか、こんなことでいいのだろうか……。

金が乏しくなったというのは、それ自体が問題なのではない。それが全方位に渡って生活に悪影響を及ぼすことになり、その対応とストレスで頭がいっぱいになってしまうのが問題なのだ。

そこまで追い込まれなくても、金が乏しくなればなるほど、心配事が膨らんでいく。それに気を取られると、もはや知的活動などしている場合ではなくなってしまう。

あまりに心配事が膨らむと、考えることすらも億劫になっていく。考えても金が増えるわけではないので、考えが堂々巡りしてしまい、脳を極度に疲れさせてしまう。

そして、心配事があると仕事に集中できない。そんな状態なのだから、知能が伸びるはずがない。

「貧乏になると、考えが浅くなってしまう」

それは、今まで私たちが経験則で知っていたことだ。実験の結果、それがほぼ間違いないことを科学が証明した。


生まれながらにして知能の格差が生まれる

私たちは先進国に生まれ、先進国で育って来た。

先進国では、ほとんどの子供は「金の有る無し」で悩まず、知能を存分に伸ばす環境で育つことが可能だ。それは、恵まれたことだった。

新興国、後進国の子供たちの中には、生まれながらに貧困の中にある。

「今日の空腹をどう乗り切ればいいのか、明日は生きていけるのか」というギリギリのところで、ストレスを感じながら暮らしている。

富裕国と貧困国、富裕層と貧困層の子供たちには、生まれながらにして知能の格差が生まれる。それは、環境ではなく、「貧困そのもの」が生み出していたのだ。

私たちは、貧困の中で優れた文学や研究や美術を残した人々を数多く知っている。

だから、貧困が知能を完全に破壊してしまうものではないことも気付いている。

しかし、一般的な傾向で言えば、貧困は知能にまでダメージを与えることの方が多い。誰もが貧困に落ちても天才的な知能を保ち続けられるわけではない。

普通は、経済的な困窮が人々を肉体的にも精神的にも追い詰め、結果として知能にダメージを与えることになる。

すぐれた才能、優れた知性、優れた感性を持っている人であっても、貧困によってその芽が押しつぶされてしまい、本来の能力を発揮することもできないことの方が多い。

生きるために実りのない仕事を続け、ただ生活に追われるだけの人生になって終わってしまう。


映画『ライムライト』の中でチャップリンが言ったこと

「人生には、勇気と想像力、それとほんの少しのお金があればいい」

映画『ライムライト』の中で、人生がうまくいかなくなって絶望した若い女性に、老いたチャップリンは、そのような癒やしの言葉を送った。

ほんの少しのお金……。

それが重要だというのは、絶望的な貧困の中で少年時代を送ってきたチャップリンが気付いていた重要な真理でもあった。

貧困国の底辺であえぐ人たち、あるいは先進国の格差の下層に落ちてしまった人たちは、実は、その「ほんの少しのお金」を手に入れるのが難しい。

そのために、想像を超えるような苦難の人生を送ることになってしまった人たちもたくさんいる。

期せずして、貧困国をさまよい歩いていた私は、そういった人たちの苦難の姿を、もうこれ以上は耐えられないというほど見てきたし、それはある意味、私のトラウマにもなってしまっている。

貧困に堕ちた女性の涙が忘れられない。

だから、私は政治が間違った方向に向かっていき、ごく普通の人たち、とくに女性たちが貧困に堕ちるかも知れない状況が恐くて仕方がない。

貧困に堕ちていくと、余裕を失い、やがては考えることもできなくなる。知能は格段に低下する。そして、それがゆえに抜けられなくなる。

負のスパイラルがそこに発生する。だから、どんなことがあっても、「ほんの少しのお金」を死守できるように、準備しておいて欲しいと思う。

映画『ライムライト』。貧困の中で、寄り添い、助け合うふたり。「人生には、勇気と想像力、それとほんの少しのお金があればいい」。しかし、その「ほんの少しのお金」を持ち続けるのが、貧困に堕ちた人たちにはとても難しい。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131009T0413150900.html


26. 中川隆[4341] koaQ7Jey 2016年10月06日 11:31:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4750]

 現在の富裕層は自分たちが「社会の一員」だとは考えていない。

情報と富を独占し、庶民を支配、税負担を押しつけようとしている。

日本政府が学校に予算を割かない目的は、庶民から学ぶ権利を奪うことにあるのだろう。

教育には洗脳という側面があるものの、学問する庶民は富裕層にとって邪魔な存在。

自分たちの幻術が見破られてしまう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610040000/


2016.10.06
NYTはトランプが連邦所得税を払っていないと報じたが、クリントンも同じ手法を使っている悲喜劇


 ニューヨーク・タイムズ紙はドナルド・トランプが1995年に約9億1600万ドルの損失を申告、18年間にわたって連邦所得税の納付を逃れられた可能性があると報じた。

 ほかの有力メディアと同じように同紙はネオコンの影響下にあり、今回の大統領選挙ではヒラリー・クリントンを支持している。そのクリントンへの援護射撃のつもりだったのかもしれないが、そのクリントンも同じ手法を使って「節税」していることが判明した。ニューヨーク・タイムズ紙も同じことをしているようだ。つまり、問題はトランプ個人にあるのではなく、富裕層に有利な仕組みになっている税制にあるのだ。

 現在のアメリカが富裕層や巨大企業の租税回避に最も熱心な国だということは本ブログでも紹介したことがある。2010年にアメリカではFATCA(外国口座税務コンプライアンス法)が発効、アメリカ以外の国の金融機関はアメリカ人の租税や資産に関する情報をアメリカ側へ提供する義務を課されたのだが、その一方でアメリカは自分たちが保有する同種の情報を外国へは提供しないことになっている。この法律によって、アメリカは世界一のタックス・ヘイブンになったのである。

 そうしたことから、ロスチャイルド家の金融持株会社であるロスチャイルド社のアンドリュー・ペニーは昨年9月、サンフランシスコ湾を望む法律事務所で講演した中で、税金を払いたくない富豪は財産をアメリカへ移すように顧客へアドバイスするべきだと語ったわけだ。

 かつてはスイス、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、ベルギー、モナコなどがタックス・ヘイブン(租税回避地)として有名だったが、1970年代からイギリスのロンドン(シティ)を中心とするオフショア市場のネットワークが人気を博した。ロンドンのシティを中心に、ジャージー島、ガーンジー島、マン島、ケイマン諸島、バミューダ、英領バージン諸島、タークス・アンド・カイコス諸島、ジブラルタル、バハマ、香港、シンガポール、ドバイ、アイルランドなどがネットワークで結びついている。信託の仕組みを利用して資金を闇の中に沈めている。

 現在の富裕層は自分たちが「社会の一員」だとは考えていない。情報と富を独占し、庶民を支配、税負担を押しつけようとしている。日本政府が学校に予算を割かない目的は、庶民から学ぶ権利を奪うことにあるのだろう。教育には洗脳という側面があるものの、学問する庶民は富裕層にとって邪魔な存在。自分たちの幻術が見破られてしまう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610040000/


27. 中川隆[4342] koaQ7Jey 2016年10月06日 11:37:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4751]

2016年08月30日
クリントン「嘘つき夫婦」の評判 公私混同と虚言癖

夫婦は人を騙す事と、うまい言い訳で破綻を回避する事に関して天才的だった。
http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/d/5/d5b30669.jpg

クリントン財団による政府私物化

大統領選に出馬しているヒラリークリントンは、共和党のトランプに5%ほどリードしているがメール問題を抱えている。

公務に自分用メールアドレスを使用していたという、どうでも良い疑惑なのだが、実はどうでも良くなかった。

ヒラリーは私用メールを使うことで秘密の情報を交換し、政府や国務省を私物化し、私服を肥やしていた。


メール問題は公的メールと私用メールの混同という倫理の問題ではなく、もっとドロドロした背景があるのが分かってきました。

ビルクリントン大統領とヒラリー夫妻はクリントン財団という慈善団体を運営し、慈善活動を行っている。

ところがアメリカの慈善財団は営利事業なのに非課税なので、金持ちはみんな財団を作って脱税しています。


ビルゲイツとかバフェットとか、古くはフォードとかカーネギーとか、みんな脱税と資産保護のための財団です。

慈善財団は集めた金を寄付しているわけではなく、集めた金で営利事業を行い、利益の一部を寄付しています。

仮に「トヨタ財団」は10兆円を売り上げても、1000億円くらい寄付すれば非課税になる、というような仕組みです。


実際には製造業の慈善財団なんか認められないが、投資事業は非課税なのです。

クリントン財団も慈善事業の仮面をかぶった脱税組織で、夫妻の金づるで政治資金源でした。

娘のチェルシーが財団の責任者をしていて、事実上「大統領ビジネス」で稼いだ金を蓄財するシステムになっている。


公務で私服を肥やしたクリントン夫妻

ビルクリントンが最初に大統領になったころ、無一文に近かったが、今は富裕層の仲間入りをしました。

ビルが大統領を辞めた頃や、ヒラリーが国務長官だった頃も、この財団にせっせと稼いだ金を集めていた。

てっとり早くいうとヒラリー夫妻は「アメリカと関係を持ちたければ財団に寄付しなさい」という態度を取ってきた。


舛添東京都知事は公私混同でクビになったが、彼でさえ「東京都と交渉したければ妻の会社に寄付しなさい」とは言わなかったでしょう。

それをやったのがヒラリークリントンで、国務長官の地位を悪用して、アメリカ外交と自分の財団への寄付を交換条件にしていた。

この秘密のやり取りのためには公的メールではまずかったので、私的メールアドレスを利用していた。


クリントン財団への寄付はクリントンへの政治資金提供だったが、人助けでやっているように装っていた。

クリントン国務長官はクリントン財団の重鎮であるブルーメンソール氏を利用し、財団にとって有利な情報をメールで交換した。

クリントン財団は外国から(恐らく中国からも)寄付と言う賄賂を受け取って、国務長官(外務大臣)として便宜を図った。


これはもはや日本では「スパイ」「売国奴」と呼ばれるレベルで、逮捕されていない事がおかしい。

ヒラリーはブルーメンソール氏を国務省の役職につけて自分の近くに置きたいと考えたが、不審に思ったオバマに拒否された。

ヒラリーとブルーメンソールは何万件もメールをやり取りしていたが、彼の役割りはクリントン財団に利益をもたらす事で、アメリカに利益をもたらす事では無かった。


天才嘘つき夫婦

こうした事が公開されたメールによって国民にも知られていき、「嘘つき夫婦」のレッテルを貼られる事になった。

民主党の嘘つき夫婦に対抗するのは共和党のトランプ氏で、本来なら政敵のスキャンダルで楽勝なのだが、余計な暴言でリードされている。

クリントン夫妻は嘘をつくのが天才的にうまく、もはや超能力者かと思えるほど、良い言い訳をする。


大抵の嘘つきは一つの嘘を隠すためにいくつもの嘘をつくと、辻褄が合わなくなって崩壊するが、彼らは違う。

例えばビルクリントンの後に共和党のJブッシュが大統領になったが、大半の時期を不人気で過ごした。

9.11を防げなかったとか、イラクが核を持っていると言ったのになかったとか、リーマンショックを起こした事で批判されていた。


だがこれらのどれも原因を作ったのは、前の大統領のクリントンで、Jブッシュは後始末をさせられたのだった。

9.11は移民規制緩和が原因だったし、イラクや北朝鮮を野放しにしたのもクリントン、リーマンショックはクリントンのバブル経済が原因だった。

Jブッシュは言い訳が下手で、すぐ怒って下手な事を言い、嘘はすぐにばれていた。


きっとクリントン夫妻が大統領だったら、9.11やリーマンショックでも、自分には責任が無いかのように、うまく言い逃れたでしょう。

2012年9月11日にリビア東部のベンガジで米領事館がテロリストに襲撃され職員3人が犠牲になった。

大統領はオバマで国務長官はヒラリーで、前もって襲撃の危険性を察知して警告していたが、彼らは重視しなかった。


事件後にヒラリーは襲撃がテロリストではなく、「頭のおかしい怒った群衆」に突発的に襲われたのだとでっち上げた。

その後ヒラリーの嘘はばれて大統領選で落伍しそうになるが、次々に上手い言い訳を連発して窮地を脱した。

この天才嘘つき夫婦が再び大統領になり、ホワイトハウスを支配したとき、世界はどうなるのだろうか。
http://thutmose.blog.jp/archives/65419625.html


2016年09月02日
アメリカの闇 政治を金で買う超富裕層


大統領を当選させるには政党全体で1500億円は集める必要がある。
勝負を決めるのは大企業や大資産家の献金


金で政治や外交を販売する国

アメリカ大統領選で政治と金のスキャンダルが次々に暴露されている。

企業や投資家が選挙に投資して、政治を買っているが問題はそれが違法ではなく、合法な点です。

仮に安倍晋三氏や岡田克也氏が有名企業や資産家から、多額の献金を受けて、彼らに優遇税制を作ったら日本では犯罪です。

だがアメリカではあからさまに政治献金し、見返りにその人を無税にしても、完全に合法なのです。

むし違法だったらばれたら取り締まるので問題は小さいのだが、分かっているのに誰も止められない。

調査によると過去の大統領選の政治献金の多くを、少数の資産家と企業が拠出していたそうです。


全米で上から100人の金持ちと企業を並べていけば、その人たちに間違いないでしょう。

アメリカでは有権者やスポンサーが多くの献金をしていますが、そんなのは選挙に影響しないのだった。

最近10年ほどの選挙では民主党が圧勝を続けたが、資金集めでも圧勝していました。


オバマ大統領が2回目の大統領選で使った選挙資金は6億ドル(600億円)とされていて、この多くは例の少数の資産家と企業が出しました。

例えばビルゲイツの資産はもうすぐ10兆円を超えますが、4年に一度たった数億円を寄付するだけで、あらゆる税金が免除されるのです。

オバマもヒラリーも、どんな手段を使ってでも自分のスポンサー達の資産を守るでしょう。


政治献金すれば税金免除

有名な投資家JソロスやWバフェットは民主党を支持し、ゲイツとジョブズ家も民主党を支持していました。

こうした金持ちが支持するという事は、多額の献金をするという意味でもあります。

スタバ創業者、マードック氏、フェイスブック創業者などが「公式に」民主党に寄付しています。


表向きの寄付金額は数百万円から数億円なのだが、全てを明らかにしていないのは、日本の政治献金と同じでしょう。

例えばクリントン夫妻は15年間で150億円の講演料を受け取り、年間50時間ほど講演した事になっている。

仮にヒラリーやビルが「最近の天気の話」をしたとしても、実際には講演料ではなく政治献金なのだから、誰も文句を言わなかったでしょう。


クリントン夫妻は元大統領と現国務長官の地位を利用して、アメリカの外交を外国に販売していた。

例えばロシアの原子力企業が米政府の認可を必要としたとき、クリントン財団に2.5億円寄付したら認可された。

日本の政治家は政治パーティーを主催してパーティー券を販売しますが、アメリカでも同じ事をしています。


1枚数百万円のチケットを販売し、支援者に買ってもらって事実上の政治献金を受けています。

オバマが2回目の大統領選で6億ドル集めたと書きましたが、民主党全体では15億ドルくらい集めました。

アメリカの法律では一人が50万円くらいしか寄付出来ないし、企業献金は禁止されているが、抜け道が用意されている。


献金団体に寄付して、献金団体が民主党や共和党に寄付すれば、無制限でいくらでも献金が可能です。

献金者の名前は公表されるが、「AさんがBさんに依頼して、Cさんの名前で献金」などのテクニックで、いくらでも誤魔化せる。

大統領選だけでなく、州議会選挙から市会議員選挙まで、アメリカは全てこうであり、献金を集めなければ当選出来ない。


という事は当選した政治家は多額の献金者に借りができるので、何かの形でお返ししなければならない。

そのお返しとは資産家の納税額を低く抑えることで、大抵の資産家は税金を払っていません。

アメリカの長者番付の上位100人くらいは、まったく納税していないか、ほとんど納税していないかのどちらかです。
http://thutmose.blog.jp/archives/65502675.html


28. 中川隆[4343] koaQ7Jey 2016年10月06日 11:40:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4752]


バフェットの2面性 庶民を装う超富裕層の素顔


「主食はアイスクリームだよ」と女性記者を笑わせるバフェット。
マスコミを操るのがとにかく上手い。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/5/4/543a49f8.jpg

バフェットは個人投資家ではない

投資家のWバフェットは資産数兆円を持つ超富裕層だが、自分を庶民だとアピールしている。

例えば愛車が中古のオンボロ車だとか、住宅も普通の家だとか、食べているものも皆さんと同じだと言っている。

主食はアイスクリームやお菓子だとも言っているが、彼を神として崇拝する人の中には、真に受ける人がいる。


   

いつか見たニュース記事では、パソコンを所有しておらず、彼のデスクにはPCが無いと写真付きで説明させれていた。

本当に机の上にはPCが無いのかも知れないが、バフェットは数多くの嘘で自分を飾っている。

まずWバフェットは個人投資家と紹介され、自分でもそう名乗っているが、本当の職業はヘッジファンド経営者です。


バフェットが「○○に投資した」と話すのは、自分の金ではなくバークシャーハザウェイに客が預けた金を投資したという意味です。

ヘッジファンドの収益は客から預かった資金を投資して手数料を取る事で、投資に失敗しても手数料を取るのです。

成績に応じて報酬を取り、損をしたら手数料は取らない、などというヘッジファンドはない。


もちろん損失を出したヘッジファンドに投資する人は少ないので、長期的には損を出せば経営が悪化します。

だが短期間とか個別の投資に限れば、客が損をしようが破産しようが、ヘッジファンドにはどうでも良い事です。

有名な銀行に勤めていた日本人有名ディーラーの口癖は「しょせん他人の金、俺には関係ない」だったそうですが、これが業界の常識です。

バフェットは税金を払わない

バフェットは自分の金も投資していたでしょうが、資産を増やした利益の大半は、他人の金を投資した手数料で得ました。

これはもう「個人投資家」なんかではなく、ヘッジファンド経営者と呼ぶべきでしょう。

個人投資家がバフェットの投資法や言動を研究して真似していますが、上手く行くとは思えません。


バフェットはリーマンショックの頃、盛んに「富裕層」や「投資銀行」「ウォール街」を攻撃して、自分は庶民の側なんだと言っていました。

例えば投資銀行のマネージャーが年収数百億円を受け取っているのを、厳しく避難していました。

あるいは富裕層の税金のがれを批判し、増税するべきだとも言っていました。


だが2011年の資料では、バフェットは3980万ドルの収入に税金690万ドルしか払っていない。

1割以上払っているのだが、バフェットの本当の収入はどう考えても、この10倍か50倍はあるのです。

収入のわずか1%程度しか税金を払っていない事になるが、資産の大半を再投資して現金を受け取っていないからです。


毎年収入のほとんどを再投資して現金を受け取らなければ、資産は増えていくのに1%しか税金を払わなくて済むのです。

米連邦法ではこのような行為を行ってはならないと書かれているが、実際には形骸化され、日本の軽犯罪法みたいになっている。

メディアの調査では、バフェット自身が税金をほとんど払っておらず、これから払う気も無いのに「富裕層は税金を払え」と訴えている。


バフェット個人だけではなく、経営するヘッジファンドもほとんど納税していなかった。

バークシャーハザウェイは利益の約10%の税金を納めたが、売上ではなく利益の10%というのは、非常に少ない。

多くのの製造業では利益の半分以上納税をしているのを考えれば、何も払っていないに等しい。


それは法律を上手く利用しているとして、もっと上手く利用しているのが息子への資産相続です。

バフェットは自分の資産全てを慈善事業に寄付すると言っているが、それでいて資産の全てを息子に相続させるのです。

ビルゲイツなどアメリカの金持ちは皆やっているが、慈善事業財団を創設して資産を寄付すると非課税になります。


パソコンを使わず昔ながらの方法でトレードしていると説明するバフェット。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/7/9/79e87924.jpg

山菜が取れる場所は他人に教えない

息子は財団の理事長に就任し、毎月数億円の配当金を受け取り、財団のオーナーになります。

実質的に親父の資産を非課税で相続し、毎月少しずつ受け取れる仕組みです。

慈善財団とはお金を寄付するユニセフみたいな事ではなく、事業をして金を稼いで、稼いだ金の一部を寄付しています。


だからバークシャーハザウェイが恐らく慈善団体になり、息子と娘が理事や理事長になり、重役達は役員になるでしょう。

もし財団が解散するときは理事達は出資比率に応じて、財団の資産を受け取ります。

この時は課税されますが、直接数兆円を相続するよりは少ないでしょう。


これがバフェットが言っている慈善事業で、利権事業でもあるのが分かります。

バフェットは他の投資家のように自分で本を書いて投資指南はしていないが、多くのバフェット本が出版されている。

投資家は自分が稼ぐ手法を決して他人に教えたりしないのは、山菜取り名人が山菜のありかを教えないのと同じです。


バフェットが一般の人に教えているのは長期投資で、価値のある株を安く買えば必ず値上がりすると言っている。

こんなのは「山菜を取ってくれば必ず食べれる」と言うのと同じで、教えにもなっていない。

コカコーラやマクドナルドに集中投資して長期間保有する欠点は、もし当てが外れたらもう取り返しがつかない事です。


バフェットは宝の山を見つけられるが、同じ方法を真似した人は、ゴミの山を掘り当てるのがせいぜいでしょう。
http://thutmose.blog.jp/archives/65032607.html  


2015年06月25日
投資の神様・バフェットの真似をしても損する理由


「ハンバーガーが安ければ買うでしょう。株も同じです」と言うのだが


バフェットは最も優秀で最も成功した投資家で、多くの投資指南では彼の手法を見習うべきだとされている。

だが日本人がバフェットと同じ事をしても、まず失敗する。

バフェットの必勝法と矛盾

世界で最も成功した投資家はアメリカ人のウォーレン・バフェットで、資産は5兆円とも言われている。

彼の投資法の信奉者は多く、投資の王道の一つとされている。


だがバフェットの投資法を模倣しても、他の投資家と同じように9割の人は人生トータルでは投資で損をする。

正しい投資法を実行しているのに、どうして多くの人が負けるのか不思議な気がします。

バフェットの投資理論の多くは、第二次大戦後のアメリカでしか通用しないのだが、その理由をこれから説明します。

バフェットの成功は彼自身の優秀さや正しさ以外に、多くの偶然にも支えられていました。

バフェットの誕生日は1930年8月30日で第二次大戦が終わったとき、15歳の頃には投資を始めていました。

父親は地元では成功した株のディーラーで、州議会議員も勤めた名士でした。

アメリカの大恐慌は1929年10月24日に発生し、丁度バフェットガ生まれる1年前で、既に昔話になっていました。

大恐慌直前には1929年9月3日にダウ平均株価381ドルの史上最高値をつけていました。

ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰し、あらゆる評論家や経済学者全員が「これからも株価は上昇する」と断言しました。

しかし最高値をつけた3年後の1932年7月8日にダウ工業株平均が41ドルと、ほぼ10分の1にまで下落してやっと大底を打った。

これが第二次世界大戦の原因になる世界不況を作った大暴落なのだが、第二次大戦前には、株の暴落は珍しくは無く、優秀な投資家は皆「空売り」で儲けていた。

世界恐慌までのアメリカは自由貿易主義、自由経済主義のような事を唱えていて「経済は放置すれば完全な状態に保たれる」と思われていた。

大恐慌が始まっても「市場の作用」によって自動的に立ち直ると考えられていたので、誰も何の対策もしませんでした。

こういう時代では明らかに、バフェットの投資法は通用しません。

そして日本を始めアメリカ以外の多くの国では、大恐慌時代のアメリカのような投資状況なのです。


恐れを知らない投資家

大恐慌の結果アメリカは「自由経済なんか嘘だ!」という事を学び、市場や経済を管理する「管理経済」に移行しました。

自由放任でうっちゃらかしから、管理して乱高下しないよう調整する事にしたのです。

この変化によって大戦後のアメリカでは株式相場は「必ず上がるもの」になり暴落は滅多に起きなくなり、しかも下落幅は戦前より小さくなりました。

「もう株の暴落を起こさない」のがアメリカ政府の政策であり公約になったのです。

この時颯爽と株式投資に参加したのが10代のバフェットでした。


バフェット以前にもアメリカには投資の天才が星のように存在しましたが、彼らは「株は暴落する」という考えを捨て切れませんでした。

日本でもバブル崩壊を体験した世代の投資家は、「土地は値下がりしない」と言われても信用しないと思います。

大恐慌では株が10分の1になった訳で、市場崩壊を目の当たりにした戦前投資家は、政府を信用しませんでした。

バフェットは戦前投資家とは違い、アメリカ政府を100%信用した上で投資しています。

「アメリカは永遠に世界のリーダーである」「株は暴落せず、永遠に値上がりし続ける」といった事がバフェット投資の前提になっています。

バフェットがもし15年か20年ほど早く生まれていたら、株を始めたころに大恐慌に遭遇してしまい、脳味噌を焼かれてしまったでしょう。

毎日毎日株価が下がり続け、3年後に10分の1になったら、彼も投資から手を引いて別な仕事をしたかも知れません。

戦前の投資家は大恐慌で脳を焼かれてしまい、株が暴落する恐怖から、値上がりした株を直ぐに手放しました。

バフェットは株が暴落するのを見た事が無いので、株を持ち続けました。


為替変動の影響が無いアメリカ

先ほど「日本を始めアメリカ以外の多くの国では、大恐慌時代のアメリカのような投資状況」だと書きました。

日本では第二次大戦後も、株は上がり続けるものではなく、定期的に暴落が起きています。

暴落の原因のほとんどは、為替変動やオイルショックなど外部の要因から来ています。

ところが世界で唯一、為替相場の影響を受けない国があり、機軸通貨のドルを発行しているアメリカです。

為替変動はドルに対して乱高下する事で打撃を受けるので、アメリカだけがドルに対して変動しません。

日経平均株価を見れば、円高で下がり円安で上昇するのがはっきり分かる。

投資家がいくら正しい判断をしても、円高になればまったく無意味で、株価は一律に下落していきます。

東北地震の後でドル円レートが70円台まで円高になりましたが、天変地異や世界経済危機の度に円高になるのも特徴的です。

アメリカでは9.11など悪いニュースがあればドル安になり、むしろ輸出では有利になるが、日本は円高になります。

日本の複雑怪奇な為替と株の市場では、バフェットの理論は残念ながら通用しません。

バフェットは良く講演で次のような言葉を話します。「株は一度も下がった事が在りません。保有し続ければ必ず儲かるのです。」

「ハンバーガーが安ければ買うでしょう。株も同じです。さあ買いましょう。」

彼が日本人なら決してそう言わないでしょう。


成功した投資家の大半がアメリカ人

バフェットは年率22%のペースで資産を1949倍の6兆円に増やした。

バフェットの投資法の根幹になっているバリュー投資法は、価値のある会社を見つけたら、買って買ってとにかく買いまくる。

早く言えばこういう事で、マクドナルドやコカコーラが有名です。

コカコーラには価値があり、しかも割安だと判断したら、買い続けて株価が上がって資産が増える。

日本では通用しそうに無く、しかも日本人がアメリカの株を買っても、為替変動の影響を受けるので、日本株を買うのと同じリスクを負う。

バフェットが来日したとき「日本には永続的価値のある会社が1社もなかった」と言いましたが、コカコーラ方式では日本では存続し得ないのです。

世界の著名投資家のほとんどがアメリカ在住や出身者で、アメリカ人がいかに投資環境で恵まれているか分かる。、


外国人がアメリカ人のように投資しても、基軸通貨ではないので、いつか為替でやられてしまう。

現代の世界三大投資家ソロス・バフェット・ロジャーズは3人ともアメリカで成功した人です。

「事業」ではなくいわゆる金転がしの意味の「投資」では、世界の著名投資家の9割までをアメリカ人が占めている。

大半はバフェットと同様に「買って買って買いまくった」結果資産を急増させた人たちです。

ジョージソロスは「ショート」つまり空売りで有名ですが、インタビューで「生涯通産で利益を上げたのはロングだけ」と言っています。

投資の魔王のようなソロスですら、アメリカ以外では通用しなかった可能性があるのです。

株を買って保有し、利益が出たらまた買い増すという方法は、アメリカ人にしか実行できません。

他の国の人が同じ方法を取っても、いつか為替変動や外部要因の暴落でやられてしまうでしょう。
http://thutmose.blog.jp/archives/35127740.html


29. 中川隆[4344] koaQ7Jey 2016年10月06日 11:41:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4753]

強いものが勝つ

海外でカジノをやっていて、確信することがある。強いものが勝つ。

 強いかどうかの物差しは、確率に対する習熟と、1回の掛け金がどれほど当人にとって「大したことがないか」による。たとえ5億円を手元に持っていても、所詮カジノを経営する側の資金力にはまったくかなわない。だからハウスが必ず総体として勝ち、税金も払えるようになっている。

 あなたがもし、100人から1万円ずつ合計100万円を集め、1等の当選金は60万円、それ以外は胴元の手数料という商売を刑法改正後に始めたら、それだけで生活が成り立つだろう。そもそも、博打(ギャンブル)には2種類ある。勝率を自ら高められるものと、そうでないものと、だ。

 麻雀やブラックジャックや競馬や株は前者であり、丁半博打や宝くじは後者に属する。宝くじの当選を願って雨乞いしたり、銀座の某店で買うのが良いと本気で信じている人は小学生からやりなおすほかない。後者の勝率は常に一定なのだ。したがって、必ず一定数の勝者と敗者が出る。それだけの話なのである。

 対照的に例えば麻雀が「勝率を自ら高められる」ゲームであるのは、ビギナーズラックがあっても100回勝負すれば必ずプロ的に強い人が圧勝する事実を見れば明らかだろう。引いてくる牌は人智のあずかり知らぬところ(そうでなければイカサマ)だが、より速くより高い点数でアガるのは、もっぱら確率計算の習熟度に依存する。競馬新聞もよく外れるが、あの予想は確率を高めるためのデータであり、丁半博打とは異なる。

 刑法を当面度外視してあくまで論理的な例としてさらに述べておけば、月収150万円の人が5万円を、月収15万円の人が同じ額を賭けている場合、1回の掛け金に対する期待と絶望の深さは、単純に10倍以上違う。

安心して動かせる資金の「ゆとり」が多ければ多いほど、沈みにくいのである。同様に、なけなしの金を株に投じている人は、長い目で見るとほぼ確実に負ける。あたりまえだ。株もギャンブルも、波のように必ず浮き沈みがある。投下するものが「ぎりぎり」なら、波線が簡単に底辺に抵触して財産を失う。

 資産運用の手法としてポートフォリオ(リスク分散)が奨励されてきたわけだが、よほど資産がある人を除いてポートフォリオもくそもない。一般人は堅実に仕事をこなし、本業で稼ぐこと、万一の倒産やリストラに備えて転職できるように自己研鑽しておくこと。これしかない。

 株を経済の勉強や企業のファンクラブとしてやるなら、結構なことだ。が、小金持ち程度が株やギャンブルでマジに儲けようとするのは、ようこそカモネギチャンと思われるだけである。どうぞ勝手に沈んでいただきたい
http://asyura2.com/0601/hasan45/msg/981.html


30. 中川隆[4354] koaQ7Jey 2016年10月07日 08:11:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4763]

そして日本の税制も

【森永卓郎】年収150万円と3000万円で“税率”が同じ国【SAFETY JAPAN】


日本の税制が低所得者を保護している例として、よく次のようなことがいわれる。

1.日本の課税最低限は諸外国に比べて高い
2.日本の税制は累進課税になっている

 1は、分かりやすく言い換えると、「あなたは稼ぎが少ないから税金を払わなくてもいいですよ」という収入の水準(課税最低限)が、日本は諸外国よりも高く設定されている、という意味だ。

 2は、簡単に言えば、「貧乏人はあまり税金を払わなくてもいいが、金持ちになればなるほど高い比率で税金を払っている」という意味である。

 どちらも事実であれば、日本の税制は低所得者に優しい制度であるということになる。どうも、日本人の7割から8割が、こうした「神話」を信じているようだ。そのため、政治家からさえも、次のような議論が出てくる。

 「日本は低所得者に甘い税制になっており、お金がない人が税金を支払っていない。だから給与所得控除、配偶者控除、特定扶養控除などを廃止し、より低い所得の人からも税負担をさせるべきだ」

 だが、この二つとも、実は大きな誤りなのである。


【低収入でもしっかりと税金を徴収する国、日本】

 1の「日本の課税最低限は諸外国に比べて高い」という議論に対する反論は簡単だ。財務省のサイトにある「所得税・個人所得課税の負担額、実効税率、課税最低限に関する国際比較」というページを見ればいい。

 世帯構成別の国際比較がでているが、それを見れば一目瞭然だ。例えば、夫婦と子ども2人の4人家族の場合、所得税の課税最低額は、次のようになっている。

日本 325.0万円
イギリス 376.7万円
アメリカ 378.5万円
フランス 410.7万円
ドイツ 508.1万円

 つまり、ドイツでは年に508万円稼いでも所得税を払わなくていいが、日本では年に325万円を超える額を稼いでしまうと、所得税を払わなくてはならないということだ。

 家族構成が変わっても、日本の低さは変わらない。ほとんどの場合、日本の課税最低限は先進国のなかで、もっとも低いレベルなのである。稼ぎが少なくてもしっかりと税金をとられているのが日本という国なのである。


【社会保険料という「税金」も念頭に入れて計算するべき】

 では、2の「日本の税制は累進課税になっている」という議論はどうか。もしそれが本当ならば、課税最低限が低くても、低所得者にとっては優しい税制といえるはずだ。

 我が国の所得税、住民税の税率は次のようになっている。

 所得税の税率は、10%、20%、30%、37%の4段階。
 住民税は、5%、10%、13%の3段階。

 この二つの税の税率は、所得が増えるに従って増えていく。所得が低ければ、両方を足して15%や20%程度の税負担率で済むが、金持ちになると最高で50%になるという勘定だ。

 これだけを見れば、確かに累進課税になっているといえるかもしれない。

 だが、ちょっと待ってほしい。税負担はこれだけではないのだ。本当に支払わなければならない「税金」をすべてひっくるめてみると、実は「貧乏人のほうが税率が高い」という構図が浮かび上がってくるのである。

 それはどういうことか。

 その前に、わたしたちが負担している税金の種類を押さえておこう。税金は、所得税、住民税だけではない。消費税も払っているし、ガソリンには揮発油税がかかっている。家を持てば固定資産税がかかるし、車や不動産を買えば取得税が、温泉に入れば入湯税がかかる。

 だだ、税金の種類によっては生活習慣や趣味によってその額が大きく変わるので、ここでは所得や消費に直接かかわる税金だけを考えていくことにしよう。

 では、所得や消費に関わる税金で見落とされているものとは何か。それは、社会保険料である。つまり、健康保険や厚生年金などだ。

 「社会保険料は税金ではないだろう」と反論されるかもしれないが、事実上、税金と同様と考えてよい。理由は三つある。

 一つ目の理由は、社会保険料の使用目的である。かつて、政府の人間はこう言っていた。「あなたの払った保険料は、ほかの人に使われるのではありません。あなたに戻ってくるのです。だから保険なのです」。

 だが、そんなウソを信じている人は、もうほとんどいないだろう。社会保険料は本人のために積み立てられているのではない。現在の高齢者のために、右から徴収して左へ払うようになっているのである。少なくとも保険料でないことは明らかだ。

 二つ目の理由は徴収方法である。少なくとも、国民健康保険は、政府みずからが「国民健康保険税」と呼んでいるように、税金となんら変わりない。国民健康保険の納入通知は、世帯主に郵送されてくることからも分かるように、政府は明らかに税金として扱っている。

 三つ目の理由は財源である。年金の財源には、社会保険料と税負担が並立で当てられている。そして、基礎年金の税負担割合は、現在は3分の1だが、これを2分の1へと引き上げることも予定されている。

 こうなると、税金として徴収するのも、保険料として徴収するのも変わりない。その境界はかなり曖昧なのだ。

 給与所得者(サラリーマン)にとっては、どちらも給料から天引きで持っていかれるという面では同じなのである。

 前置きが長くなったが、ではその社会保険料の比率(税率)はどうなっているのか。

 実は、サラリーマンについては、すべて比率は一定とされている。だが、ここにからくりがある。厚生年金保険料は年収1000万円を超えると、超えた分についてはかからないのだ。つまり、年収が1000万円でも、2000万円でも、5000万円でも、1億円であっても、厚生年金保険料は同じ額なのだ(ただし、ボーナスと給料への配分比率によって若干の違いがある)。

 同様にして、健康保険料は年収1500万円を超えるとみな同じになってしまう。

 額が変わらないということは、要するに、所得が多ければ多いほど税率が下がっていくということだ。社会保険料という「税金」は、累進どころか、逆累進なのである。


【年収150万円と3000万円で、本当の税負担率を計算すると】

 さて、この社会保険料をプラスして、本当の意味での税負担率を計算してみよう。

 その前にはっきりさせておきたいのは、税金は所得に対して計るべきであるということだ。現に、法人税は、法人の「所得」に対して何パーセントかを算出している。

 ところが、サラリーマンの場合は、往々にして「収入」に対して計算されている。これでは、公平な比較はできない。

 収入と所得を混同している人も少なくないようなので説明しておくと、「所得」というのは、「収入(売上)」金額から「必要経費」を引いた金額である。仕事に必要な費用である必要経費をマイナスした、本当に自分のために使えるお金が所得というわけだ。サラリーマンにとって必要経費に当たるのは給与所得控除である。これは、財務省が「サラリーマンの必要経費の概算控除」という説明をしているので間違いない。

 こうした前提のもと、サラリーマンの実質的な税負担率を定義すると、次のような式で計算されることになる。

              税額
実質的税負担率 = ――――――――――
           収入−給与所得控除

 実際にわたしがこれで比較してみたところ、大変なことが分かった。なんと、我が国の現状では、年収150万円の世帯と、年収3000万円の世帯の税率が同じになっているのである。

 さらに今後、消費税が引き上げられるとどうなるか。

 消費税の税負担率は、低所得者層ほど高くなることはよく知られている。なぜなら、どんなに収入が低くても、生活する上で必要最低限のものは、お金を出して買わなくてはならないからである。そうしたものの金額は、大金持ちでも貧乏人でも、それほど大きく変わるわけではない。だから、分母が小さい低所得者ほど、税負担の比率は大きくなってくるというわけだ。

 つまりは、今後、消費税の負担が大きくなると、年収150万円の世帯のほうが、年収3000万円の世帯よりも、税負担率が大きくなってしまうわけである。

【「濡れ手で粟」のもうけに対する税率が低い不思議】

 世の中には、年収3000万円どころか、何億円、何十億円と稼いでいる人間がごろごろといる。そうした人たちの税金はどうなっているのか。

 そうした人たちの収入の内訳をみると、給与所得で地道に稼いでいるということはまずない。ホリエモンや村上世彰がいい例だろう。彼らは、株を安く買って高く売るという、株式譲渡益でたんまりと稼いだ。

 では、株式譲渡益の税率はいくらかというと、たったの10%なのである。対して、サラリーマンの税率は、企業負担分を含めると30%以上だ。

 事実、ホリエモンはわたしよりもずっと納税額が少ないらしいのだが、そんなことがあっていいのだろうか。彼は、わたしより1000倍も稼いでいるというのに。

 それどころか、人によっては、みなし取得価格という特例を使って、何百億、何千億稼いでも税金を一銭も払っていない人がいる。これでは、モラルも何もあったものではない。

 わたしの考えでは、やはり税制度は累進課税であるべきである。少なくとも、今のように、貧乏人が金持ちよりも税率が高くなるというのは、いくらなんでもおかしいではないか。そんな国はどこを探してもない。

 短期の株式取引益が10%という国もない。少なくとも、ホリエモンのように、粉飾決済をして株を譲渡してもうけた金は、課税率100%でいいではないか。そんな犯罪でもうけた利益は没収してもいいと思うのだ。現にフランスでは、悪質な短期取引に対する課税率は100%である。

 もちろん、一般投資家が身の丈の範囲で株取引をしているのは別の話である。それはきちんと保護するべきだろう。問題は、インサイダー情報を利用して、1秒で何億円を動かしているような人間である。

 安倍総理には、ぜひともそこを改めていただきたいのだが、どうもそんな気配はうかがえない。むしろ、逆の方向に進んでいるように見える。

 だが、ここでじっくりと税金の思想というものを考えてみようではないか。

 わたしは、税金というのは、汗水垂らして庶民が稼いだ分に対しては低く抑えるべきものだと考える。そして、濡れ手で粟をつかんだようなあぶく銭に対しては「楽をして金をもうけたのだから、多めに税金を払って国民のために協力してほしい」というものなのではないだろうか。
http://www.asyura2.com/0610/hasan48/msg/480.html



31. 中川隆[4355] koaQ7Jey 2016年10月07日 09:25:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4764]

2015-01-03  
話題の本、トマ・ピケティの『21世紀の資本』(みすず書房)を読んでみた。

21世紀の資本 トマ・ピケティ(著)
http://www.amazon.co.jp/21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E8%B3%87%E6%9C%AC-%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B1%E3%83%86%E3%82%A3/dp/4622078767%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dyamahafx-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4622078767

すでに世界的ベストセラーになっているのでご存じの方も多いと思うが、数百年にわたる膨大な所得税・相続税の資料等をデータベース化し、

労働によって生み出される富(所得等)よりも、蓄積された資本そのものが生み出す収益(利子・配当等)の方が長期的には伸び率が大きいことを実証したものである。

http://piketty.pse.ens.fr/files/capital21c/en/pdf/F10.9.pdf

つまり、汗水垂らして働く労働者よりも、株を持った伝統的金持ちの方が有利であり、どんどん貧富の差が拡大するのが資本主義の本質であるということだ。

当たり前にも思えるが、実際のデータの裏付けをもってこれを示したところに意義があるわけで、「このデータ部分だけでノーベル賞に値する」(ローレンス・サマーズ)という意見もあるのは納得できる。
http://blog.goo.ne.jp/yamahafx/e/e3ae1098ff385009f45c45e051971d98  


5940円もする経済専門書が発売から1カ月強で13万部のバカ売れ。日本でも空前の大ブームとなっている「21世紀の資本」の著者、仏経済学者トマ・ピケティ氏(43=パリ経済学校教授)が初来日し、29日に都内でシンポジウムが開かれた。

 資本主義社会で拡大する格差を、世界20カ国以上の過去200年の税務データから実証したピケティ氏。

その主張は簡単に言えば、〈株や不動産などの投資で得られる利益率は、労働による賃金の上昇率を上回る。

その結果、財産のある富裕層がさらに金持ちになり、格差拡大は止まらない。
是正のためには、富裕層への世界的な資産課税強化が必要〉というものだ。

 さて、講演でのピケティ氏は、日本の現状についてこう言った。

「日本のように人口減かつ低成長の国では、過去に蓄積された資産が相続によって一部の富裕層により集中し、格差拡大の要因になる」

日本も資産課税の強化が必要で、加えて男女平等により、出生率を上げる重要性を指摘した。


■消費増税や量的緩和にも厳しい指摘

 後半はパネルディスカッションだったのだが、パネリストのひとり、西村康稔内閣府副大臣が、政府の「雇用者100万人増」や「トリクルダウンの試み」について説明。「アベノミクスが格差を拡大しているというのは誤解である」と力説した。

 しかし、ピケティ氏はこれにやんわり反論。

「確かに日本の格差は米国ほどではない。しかし、上位10%の富裕層の所得は、国民所得全体の30〜40%まで広がっています。

日本がゼロに近い低成長なのに、上位の所得が増えているということは、裏を返せば、実質的に購買力を減らしている人がいるということです。

日本の最高所得税率は1960〜70年代より下がっています。上位10%の所得が増えているのに、税率が低い状態では格差が広がるばかり。所得税の累進性を高めるべきです」

ピケティ氏は、消費増税や量的緩和についても厳しい見方だった。

「消費増税は正しいのかどうか。むしろ低所得者への課税を弱め、富裕層の資産課税を強めるべきです。紙幣を増刷することもいいのかどうか。税制改正より紙幣を刷る方がやりやすいですが、緩和したマネーがどこへ行っているのか分かりません。金融政策だけでなく、財政改革、教育改革、累進性のある税制改革も必要です」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156823

2015.1.25
「21世紀の資本」と日本 「格差」拡大しても成長困難 編集委員・田村秀男
http://www.sankei.com/column/news/150125/clm1501250008-n1.html

 世の中で起きる数え切れない経済事象を一つのアングルで鋭く切る。「21世紀の資本」の著者、仏経済学者のトマ・ピケティ氏は「資本収益率が産出と所得の成長率を上回るとき、資本主義は自動的に、恣意(しい)的で持続不可能な格差を生み出す」と断じている。古代から現代、さらに21世紀全般にわたって、気の遠くなるようなデータをかき集め、かつ推計してみせた。

 じゃあ、今の日本はどうなのか、ピケティさんに任せっきりにせず、自分の手でデータを調べてみた。法人企業統計(財務省)をもとに総資本利益率を税引き前および税引き後の純利益にわけて「資本収益率」を算出。国内総生産(GDP)の実質成長率を「産出と所得の成長率」に置き直し、さらに実質賃金の伸び率を加えたのが、本グラフである。これらのデータは5年間の移動平均値にならしている。一時的なブレに幻惑されないためである。


http://www.sankei.com/column/photos/150125/clm1501250008-p1.html


 資本収益率が実質成長率を上回るようになったのは税引き前で1990年代前半、税引き後は90年代後半だ。それまでは成長率のほうが収益率をほぼ一貫して上回ってきた。日本経済は遅く見ても90年代後半以降、「格差」の時代に突入したことになる。


90年代前半にはバブル崩壊、さらに97年度には橋本龍太郎政権が消費税増税など緊縮財政路線に踏み切り、日本経済は一挙に慢性デフレ局面にはまりこみ、なお抜け出られないでいる。

 デフレは格差拡大の元凶である。「デフレは企業者の生産制限を導き、労働と企業にとって貧困化を意味する。したがって、雇用にとっては災厄になる」と、かのケインズは喝破した。

 デフレ下では現役世代の賃金水準が下がるのに比べ、金融資産を持っている層はカネの価値が上がるのでますます豊かになる。デフレで売上額が下がる中小企業の従業員は賃下げの憂き目にあいやすい。デフレは円高を呼び込むので、生産の空洞化が進み、地方経済は疲弊する。若者の雇用の機会は失われる。

 慢性デフレの局面でとられたのが「構造改革」路線である。モデルは米英型「新自由主義」だ。97年の金融自由化「ビッグバン」で持ち株会社を解禁した。2001年に発足した小泉純一郎政権は、「郵政民営化」で獲得した政治的な求心力をテコに米国からの各種改革要求に応じた。製造業の派遣労働解禁(04年)など非正規雇用の拡大、会社法(06年)制定など株主中心主義への転換などが代表例だ。法人税制は98年度以降、02年度までに段階的に改正され、持ち株会社やグローバル企業を優遇している。
全企業が従業員給与100に対してどれだけ配当に回しているかを年度ごとにみると、70年代後半から90年代末までは3前後(資本金10億円以上の大企業は7台)だった。この比率は、02年度からは徐々に上昇し、13年度は11・5(同32)と飛躍的に高まった。小泉改革路線は伝統的な従業員中心の日本型資本主義を株主資本主義に転換させた。この構図は、従業員給与を可能な限り抑制して利益を捻出し、株主配当に回す、グローバル標準の経営そのものである。

 もちろん、悪意なぞあるはずはなく、日本経済をグローバル標準に合わせて大企業や金融主導で日本経済の再生をもくろんだ。

 資本収益率(税引き前)に話をもどすと、米政府のデータに基づく筆者試算だと、米国の場合は90年代後半以降6%前後で推移している。また、「21世紀の資本」によれば、世界的には5%強である。

それに比べると日本のそれは過去10年間3〜4%の水準にある。米国を中心とするグローバル標準まで資本収益率引き上げないと、外国からの対日投資が増えない、日本の企業や投資家は対外投資に走るとの懸念があるせいか、国内では法人税率の実効税率引き下げ、さらに雇用、投資面などでの規制緩和を求める声が強い。

しかし、株主資本主義では経済成長率を押し上げる力が弱いように思える。GDPの6割を占める家計の大多数の収入が抑えられるからだ。名目賃金上昇率から物価上昇率を差し引いた実質賃金上昇率は97年以降、ほぼ一貫してマイナスである。賃金を減らし、配当を増やすという、株主資本主義は投資ファンドを引きつけても、実体経済の回復につながりそうにない。

 安倍首相が本格的に取り組むべきは、格差社会の勝者を太らせる政策を廃棄し、旧世代や新世代を支え、養う現役世代を勝者にさせる政策への転換ではないか。
http://www.sankei.com/column/news/150125/clm1501250008-n1.html


32. 中川隆[4356] koaQ7Jey 2016年10月07日 09:38:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4765]

2015-12-16
今よりもさらに苛烈な、超格差社会がこれからやってくる


アメリカでは、中流層がどんどん消えている。もうすでに中流層がアメリカの主流ではなくなってきている。アメリカは、上か下かに分かれてしまう社会になっているのだ。

しかも急速にそうなっている。その理由は富裕層が猛烈なスピードで収入や資産を増やし、貧困層はそのまま置いてけぼりにされるからである。

アメリカの一流企業の経営者の平均所得と、ごく普通の労働者の平均所得の格差はすでに 343倍の開きになっている。1年間で 343倍の差がつく。

アメリカの経営者は現金でその343倍の収入を得ているのではなく、その多くはストックオプションでの収入になっているのだが、これは要するに株式で提供される収入である。

株式が上がれば上がるほど彼らの資産も上がる。弱肉強食の資本主義は、株式「至上」主義になりつつあるので、株式を持っている人間と持っていない人間の格差は凄まじいものになる。

その凄まじさが「343倍」という数字になって現れている。優良企業の株式を保有する層が富裕層になり、そうでない者は現金をいくら持っていても貧困層に没落していく。

日本もまた凄まじい格差社会が到来している

格差を極限まで推し進める究極のシステムが、株式「至上」主義である。

日本も例外ではない。日本史上最悪の政治集団であった民主党が政権を明け渡した2012年12月から、日経平均は勢いよく伸びていき、現在すでに2倍以上になっている。

これは、長期で金融資産を持っていた人間が資産をこの3年で2倍に膨らませたことを意味する。では、賃金は2倍になっただろうか。

一流企業や公務員は、若干ベースアップしたかもしれない。しかし、中小企業の多くは給料を据え置いたままだ。場合によっては給料が下がった業種もあるはずだ。

給料以前に、リストラされて収入がゼロになったり、前職ほどの賃金がもらえずに生活破綻したりする人もいる。そのような不幸な目に遭っている人をのぞいても、賃金生活者の賃金が爆上げしたという話はまったくない。

これは何を意味しているのか、私たちは腰を据えてじっくりと考えなければならない。

この3年間で何が起きたのかというと、金融資産を持つ層と持たない層の格差がまたもや私たちの目の前で大きく広がったということなのだ。

正確には、日経平均が2倍になったから個別株もすべて2倍になるわけではない。しかし、優良企業であればそれに近い動きになっている。

そう考えると、株式資産を 1000万円持っている人は 2000万円に膨らんだ可能性がある。

しかし、現金で 1000万円で定期預金で0.2%の利息だと増えたのは単純計算すると1年で2万円、3年で6万円程度しか増えていない。3年で 1000万円増えるのと6万円増えるのとでは次元の違う話である。約166倍の違いだ。

株式を持っていない人は自分に何の利益がなかったので、この3年間で世の中が変わったようには思えないかもしれないが、その認識は間違っている。日本もまた凄まじい格差社会が到来している。


貧困は遺伝する。堕ちてしまうと、のし上がれない

資産を持っている者がさらに資産を膨らませ、持っていない層との格差を爆発的に広げる。これが格差社会の特徴だ。

多国籍企業はグローバル化の波に乗って「コスト」である人件費を様々な手法で削り取っていくので、ワーキングプア層を拡大させていく。

アメリカでは低所得層の比率は年々上昇しており、現在では41%が低賃金を余儀なくされている。アメリカ人の約5000万人は低賃金の貧困層である。

アメリカはリーマン・ショックを乗り切ったと言われているが、低所得層や貧困層は、むしろリーマン・ショック以前よりも増えている。リーマン・ショックを乗り越えたのは企業と富裕層であり、貧困層ではない。

そのため、アメリカでは「1%の富裕層と99%の貧困層の国」と言われるようになっている。それは嘘ではない。すでにアメリカは上位1%が持つ資産は、下位90%が持つ資産の総量よりも多いのである。

日本でも「子供の貧困」が問題になりつつあるが、アメリカの「子供の貧困」は日本の比ではない。アメリカの6歳以下の子供の約60万人はホームレスである。

親がワーキングプア層で貯金をする余裕もない中で、病気や事故で働けなくなると、途端に子供を抱えて路頭に迷う。

こうした子供の中には、もしかしたら知能レベルの高くて磨けば伸びる子も多いはずだが、栄養状態も生活環境も悪い中で知能を伸ばすことは絶望的に難しい。

さらにアメリカの大学教育は非常に金がかかるので、資産面から言っても大学進学は不可能だ。

そしてアメリカは日本以上の学歴社会と化しつつあるので、貧困の子供は貧困であるがゆえに高収入に最初から辿り着けなくなっている。

貧困は遺伝する。のし上がれない。アメリカは、すでにそんな社会になってしまっているのである。


疲れて死んでしまいたいと思うような社会がくる

グローバル社会は全世界を覆い尽くしている。

だから、その国の政治や経済や文化がどんなものであっても、その国がグローバル化の中で存続しているのであれば、アメリカで起きていることがそっくりそのままその国でも起きることになる。

現にイギリスでもフランスでもアメリカとまったく同じ格差問題が起きている。イギリスでは2000万人が貧困状態であり、やはりイギリスでは子供の5人に1人がホームレスである。

若者の失業率も高く、やはり金銭的な問題で大学進学もできない家庭も多い。こうした問題はそのままアメリカとまったく同じである。

全世界がグローバル化に飲まれているというのであれば、全世界が、絶望的な格差に飲まれていくということなのだ。日本も例外ではない。

日本では「6人に1人が貧困」という社会だが、そのうち2人に1人が貧困という時代になったとしても不思議ではない。当然、子供の貧困もまた同じである。

現在、日本では格差が深刻化しているのにホームレスが減っているのだが、行政や社会が対応能力を失ったら、ある瞬間から突如としてホームレスが爆発的増加するはずだ。

格差は猛烈なスピードで進んでいるので、そうなるのは遠い未来ではない。

あまり話題になっていないが、生活保護の受給世帯数は2015年9月には「過去最多」を更新しており、貧困層は着実に増えていることが分かる。

これは今、私たちの目の前でリアルに進行している容赦ない現実である。止まることなく、激しい勢いで、この超格差が進んでいる。

今よりも、もっとひどい時代がくる。

働いても働いても這い上がれず、疲れて死んでしまいたいと思うような社会がくる。これまでよりもさらに苛烈な社会が、これからやってくるのだ。


日本でも「子供の貧困」が問題になりつつあるが、アメリカの「子供の貧困」は日本の比ではない。アメリカの6歳以下の子供の約60万人はホームレスである。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20151216T0457200900


なぜ、富裕層は貧困層が本当に見えなくなってしまうのか


「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」

農民が主食のパンを食べられないほど生活が困窮している時、マリー・アントワネットがそう言ったと今までの歴史では伝えられてきた。

今では本当にマリー・アントワネットがそう言ったのかどうか疑われている。

しかし、この「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」というのは、富裕層がまったく貧困層のことを分かっていない例として今でもよくあげられる。

富裕層と貧困層の意識がズレていくのは、世界が違い過ぎるからでもある。互いに相手が見えなくなる。

貧困層は富裕層が働かないで食べていけるということが想像できないし、それが理解できない。逆に富裕層は貧困層を見て、なぜそんなに働かないといけないのかが理解できない。

金持ちは驚異的なスピードで、どんどん資産を膨らませていくが、貧困層にはどうしてそうなるのかその仕組みがまったく理解できない。富裕層は富裕層でなぜ貧困層は貧困のままなのかが分からない。

信じられないかもしれないが、富裕層は貧困が見えなくなる。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160926T0748100900.html

“独立”する富裕層  - NHK クローズアップ現代 2014年4月22日(火)放送
〜アメリカ 深まる社会の分断〜
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3488/1.html

100万ドル以上の資産を持つアメリカの富裕層。

その富裕層が今、自治体の在り方を変えようとしています。
貧富の格差による社会の分断が進むアメリカ。

富裕層は税金が貧困層のためばかりに使われていると反発。
みずからが住む地区を周囲と切り離し、新たな自治体を作る動きを強めています。

女性
「高い税金を払っているのに、それに見合うサービスを受けていません。」

全米で富裕層の自治体は急増。
社会を2分する議論が起きています。

報道官
「反対派を押し切って、新たな市が誕生しました。」

オバマ大統領も危機感を強めています。

オバマ大統領
「アメリカの格差は拡大し、固定化している。」

一方、富裕層を失った自治体は税収が減り、公共サービスを削減。
貧困層が打撃を受けています。

男性
「公立病院の予算が削減されたので、私たち家族は困っています。」

深まる富裕層と貧困層の分断。
アメリカ社会はどこへ向かうのか。
最前線からの報告です。


“独立”する富裕層 税に対する不満


アメリカ南部、ジョージア州の議事堂。

先月(3月)新たな自治体の設立を求める法案を巡り、議論が交わされていました。
この法案を提出したのは会社経営者や弁護士など、富裕層を中心とした住民のグループです。

住民
「私たちが作る市の方が、税金をより有効に使える。
この法案の支持を求める。」


住民
「今の自治体は住民の方を向いていない。
私の会社をサポートしてくれる自治体を作りたい。」

一方、法案は富裕層の身勝手だと批判する声も上がりました。

反対派
「これは有色人種や貧困層を隔離するための意図的な行為だ。」


自治体の設立は地域住民の意思だとする富裕層の報告書にも、抗議が殺到しました。

反対派
「あなたが作る自治体に住みたい人はいない。
あなたはおかしい。
うその報告をしている。」

男性
「いや、おかしいのはあなただ。
私たちの報告は正しい。」

法案を提出したグループの代表、ウッドワースさんです。
経営コンサルタントの夫を持ち、自身もインテリア関係の会社を経営。
湖畔に邸宅を構えています。
自治体の設立に動いたきっかけは税金の使われ方への不満でした。
特に問題にしているのが警察官の配置です。

マリーケイ・ウッドワースさん
「私の家の近くでも麻薬取引や売春が行われるようになってきた。」

警察官は貧困層が多く住む治安の悪い地区にばかり回され、自分の地区はおざなりにされていると感じていたのです。

マリーケイ・ウッドワースさん
「自分たちが支払う税金に見合う行政サービスを受けているとは思えません。
私たちは社会を分断したいわけではありません。
ただこれまでの自治体に代わって、より自分たちに合った自治体を作りたいだけなのです。」


富裕層が作る自治体 衝撃の運営手法とは


富裕層の動きを後押ししているのが、同じジョージア州で大きな成功を収めた市の存在です。
州の北部にある人口9万4,000人のサンディ・スプリングス市です。
市民の平均年収は1,000万円近く。
医師や弁護士、会社経営者などが多く住む高級住宅地です。

市が誕生したのは2005年。
住民投票で94%の圧倒的賛成を得て、それまで属していたフルトン郡から分離したのです。
貧困層に多く配分されていた税金を取り戻そうという主張が、富裕層だけでなく中間層にも支持されたのです。

サンディ・スプリングス市 エバ・ガランボス初代市長
「私たちの税金はほかの場所で使われ、私たちのためには使われていませんでした。
1ドルの税金につき半分の50セントしか、サンディ・スプリングスに使われていなかったのです。」

住民グループ代表 オリバー・ポーターさん
「政府による所得の再分配には反対です。
人のお金を盗む行為だと思います。」

ジョージア州で50年ぶりに新たな市として誕生した、サンディ・スプリングス。
州の法律によってさまざまな財源が与えられました。

市民が支払う固定資産税の15%。
売上税の一部。
そして酒税や事業の登録料など、市の去年(2013年)の収入は、日本円にしておよそ90億円。
州で1、2を争う豊かな自治体が誕生したのです。

さらに富裕層は、市の運営にビジネスのノウハウを取り入れました。
警察と消防を除く、すべての業務を民間に委託。
同じ規模の市なら数百人は必要な職員の数を9人に抑え、徹底的なコストカットを進めました。

市民課や税務課。
道路や公園などを造る建設課。
さらに、市の裁判所の業務まで民間に委託しました。
裁判長は必要なときだけ時給100ドルで短期雇用します。


この結果、当初年間5,500万ドルと試算された市の運営費を、半分以下に抑えることに成功したのです。
コストカットによって生まれたお金は富裕層の要望によって、市民の安全を守るサービスに使われています。


女性職員
「事故発生、けが人なし。」

ここは24時間市民から通報を受け付ける、民間の緊急センターです。
市民の承諾を得て、住所や家族構成、持病の有無など、さまざまなデータが登録されています。

10秒以内に電話を取ることが義務づけられ、90秒で警察や消防が出動します。
市が市内全域に配置する警察官はおよそ150人。
早ければ2分で、現場に警察官が到着するといいます。
現在、市民の9割が公共サービスに満足と回答。
うわさを聞いた富裕層が、全米から相次いで流入し人口が増えています。

市民
「(この街が)好きかって?
大好きよ。
ニューヨークから移り住んで来たけど、ここにはすべてが揃っているわ。」

市民
「とても安全だと感じています。
サンディ・スプリングス市に住めて幸せです。」

今サンディ・スプリングス市の設立と運営のノウハウを知りたいと、全米各地から視察が相次いでいます。
そのほとんどが、税金の使われ方に不満を持つ富裕層だといいます。
サンディ・スプリングス市を手本に誕生した自治体は、ジョージア州ですでに5つ。
現在、フロリダ州、テキサス州カリフォルニア州などで30余りの自治体が、新たに誕生しようとしています。

サンディ・スプリングス市 ラスティ・ポール市長
「自治体は税金を当たり前だと思わないことです。
税金に見合うサービスを提供しなければ、市民はすぐ不満をため、税金を払わなくなります。
公共サービスの質を高めて、市民に税金を払う動機を与え続けるのです。」


“独立”する富裕層 アメリカ 深まる分断

このように富裕層が、自治体を作る動き、今後、全米に拡大していくと見られています。
一方で富裕層がいなくなった自治体は、歳入が減って、一部公共サービスの削減を始めています。
貧困層の暮らしに暗い影を落とし始めています。


富裕層を失った自治体 貧困層に打撃が


ジョージア州フルトン郡。
サンディ・スプリングス市の設立などによって、年間40億円余り税収が減りました。
南部のサウス・フルトン。
郡の中で最も貧しい地域で、住民の生活に大きな影響が出ています。

機械部品のセールスをする、アブラハム・ワトソンさんです。
今年(2014年)に入り、次々と公共サービスが打ち切りになっていると訴えています。

アブラハム・ワトソンさん
「臭いです。
ごみが腐り始めています。
ごみ収集車がめったに来なくなったので。」

3人の子どもを持つワトソンさん。
暮らしに余裕がない中、公共サービスの利用は欠かせません。
家の近くにある、フルトン郡が運営する図書館です。
子どもたちは放課後や週末、ここで読書や宿題をしてきました。
しかし今年の2月、突然開館時間が2時間以上短縮されました。

算数の勉強に使っているパソコンも、閉館時間が来れば強制的にシャットダウンされます。

子ども
「閉館につき使用不可。」

アブラハム・ワトソンさん
「閉館するから切ったんだ。」

閉館時間の変更は、事前に住民には知らされていませんでした。

アブラハム・ワトソンさん
「誰が閉館時間を決めているのか?」

職員
「議会で承認されたんですよ、予算が削減されたから。」

アブラハム・ワトソンさん
「郡の議会で?
予算の削減が理由?」

職員
「予算の削減。」

フルトン郡の一般会計です。
歳入が減少し続け、ついに2年前歳出が上回るようになり、公共サービスの削減が余儀なくされているのです。
図書館のほかに、郡が運営する公園の予算も削減されました。
20か所ある高齢者センターの食事代は、一部値上げになりました。

中でも深刻なのが、貧困層の治療を中心に行う公立病院の予算削減です。
2,500万ドル、日本円でおよそ26億円が削減されることになりました。
医師の数が減らされ、診察に支障が出るのではないかと不安が広がっています。

フルトン郡 ビル・エドワーズ議員

「郡の税収が少なくなれば、当然その範囲でやりくりしなければなりません。
やむをえずサービスをカットしているのです。
私は、フルトン郡の住民が状況を理解することを望んでいます。
さもなければ、フルトン郡の財政は破綻してしまいます。
これだけは、なんとしても防がなくてはなりません。」

ワトソンさんは公立病院の予算削減が、息子のキャメロン君に与える影響を心配しています。

アブラハム・ワトソンさん
「この子には右耳に障害があります。
耳がふさがった状態になっているのです。
息子の治療ができる専門医の数が削られてしまうから、予算の削減は本当に困ります。」

全米で貧富の格差の研究をしてきたコナー准教授です。
富裕層の自治体設立が格差の拡大に拍車をかけていると、警鐘を鳴らしています。

テキサス大学 公共社会学部 マイカン・コナー准教授

「アメリカ社会では分断が深まっています。
同じ地域の中でも少し離れただけで、全く違う社会が生まれています。
経済面でも教育面でも、機会の平等が失われているのです。
このまま富裕層の独立が続けば、公共サービスを支える人がいなくなってしまいます。
それを顧みず、社会の分断は進む一方です。」


“独立”する富裕層 アメリカ 深まる分断


ゲスト堤未果さん(ジャーナリスト)

●格差拡大し加速化する社会の分断 この動きをどう受け止める?


今まさにアメリカは、経済格差が完全に1%の持てる者とそれからそれ以外の持たざる者、完全に国を分断してしまっていると。
そういう状況になっています。


(分断されていると。これが法律の下に行われている。自治体を作るという動きはそうだったが?)

はい。
もともと合法的に市が独立するということはもちろん可能なんですけれども、サンディ・スプリングス市のように、統治機能まで含めて民営化してしまう、民間に委託して、そうするともう税金というものが全く意味が変わってきて、サービスをお金で買うという契約社会になっていくわけですね。

その分税が、税金が囲い込まれることになるので、不動産の価格は上がる、その周りの地域が税収が減って、荒廃していくと。

ですから全米の都市の中に、捨てられた居住区のようなものが、点々と今存在している状況になっております。

●富裕層やその周辺地域 実際に取材に行ってどうだったか?

サンディ・スプリングス市自体は、本当にお金持ちの社会主義国のような、天国のような、ぴかぴかですばらしい所だったんですけど、本当に目に見えないフェンスが建っていて。


(目に見えないフェンス?)


はい、フェンスで囲われている、合法的な特権地区というような形ですね。
先ほども言いましたように、税収がほかで減っていきますので、やはり仕事がなくなって、まず治安が悪くなるんですね。

そうすると犯罪率が高くなりますから、ますますフェンスは高くなっていく。
ここがやっぱり1番大きいです。

サンディ・スプリングス市のような所の近くにある都市で取材をしたときに、公共サービスの1つとして刑務所を維持できないから開放すると。


(刑務所を開放する?すると、どうなるのか?)


そうなると囚人が街に解放されて、たくさん普通に歩くようになるんですけれども、警察もまた公務員ですから、警察は失業中なわけです。

ですから非常に恐ろしいSFのような状況になっていて、片や、目に見えないフェンスの中の富裕層の地区は、非常にハイテクでハイセキュリティーの地区になっていると、すごくコントラストが激しかったですね。


●公共サービスの1つ 教育という点ではどうだったか?

アメリカは、教育予算が連邦と自治体と半分ずつ予算を出すんですけれども、サンディ・スプリングス市のような例えば富裕層の街というのは、公立の学校にやる必要がないので、公教育にお金を出すという概念がなくなっていくんですね。

そうしますと、公立の学校が切り捨てられていった州では、自治体では、貧困層の子どもの受け皿がなくなっていくので、教育難民、学校に行かれなくなった子どもたちが、もう全米各地の都市であふれているという、そこまで事態が進んでおります。


(先進国のアメリカで、そういうことがすでに起きている?)


そうですね。

ブッシュ政権、オバマ政権と続いた2大政権で公教育を解体して、教育ビジネスという民間サービスに委託するということを国が後押ししてやってきたんですね。
ですから公教育というのは、弱い立場の子どもたちを平等にすくい取るという社会的共通資本ですから、これが徐々に解体されているということです。


●フェンスを隔て、本当に互いが見えないのか?


そうですね。
これは本当に今、アメリカで起きていることというのは、1つの国の中に2つの違う国が存在しているような感じで、例えば日本で若年ホームレスは私たちの目に映らないというようなこといわれますけれども、フェンスの中の富裕層にとって、フェンスの外の荒廃した、捨てられた居住区の人たちは、やはり見えないわけですね。

全くお互い別の次元に住んでいるような、そんな状況になっています。


(別の次元?)

はい。

●格差是正のためにある公共サービス 富裕層がその義務を放棄するとどうなる?

公共ですとか税金ですとか、共同体とか、もっといってしまうと、もう国とは何かという、そのコンセプトが全く違うものになっていく。
お金を払って、その分のサービスをもらうという契約社会のようになっていくわけですよね。

ですから言ってみれば、お金がなくなったらそこでそのコミュニティーに、地区の中には恐らくいられなくなると、それが縁の切れ目のようになってしまう。

公共という概念があれば、弱い立場になったり、急に事故に遭って障害を負ってしまったり、高齢になってしまったりという、困った立場になったときは、税金を払っている分、国や自治体が守ってくれると、それが公共の概念なんですけれども、全くこれが対極にあるという、こちらは株式会社化された自治体であり、国家だということになっています。

●アメリカンドリーム 今は存在しないような状況?

80年代ぐらいまでは頑張れば報われるとか、努力すればチャンスをつかめば、マイノリティーでもスターになれる、そういうのがあったんですけれど、今、構造として1%が99%を切り捨てていく構造を、国の政策が後押しをしているために、アメリカンドリームが機能する構造自体が崩れていると。

そしてまた中流層が消滅していますから、ますます富める者はますます富む、それ以外の者は地盤沈下していくという、国の構造が全く変わってしまっているんですね。

●アメリカという国は今後どうなっていくのか?

今アメリカ国内にも2つの流れがありまして、オバマ大統領はブッシュ政権の政策を継承して、1%のための、より1%が大きくなっていくような政策の方向性を進めてはいるんですけれども、一方で、1対99%の分断はおかしいじゃないかと、失われたものをもう一度取り戻したいという声が、相当アメリカで大きくなっている。

これ今、どちらの流れがこの国を、未来を引っ張っていくかという、今ちょうど岐路にいるという。


(岐路とは、国を見つめ直す時期ということか?)


国とか共同体は何かということですね。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3488_all.html  



33. 中川隆[4357] koaQ7Jey 2016年10月07日 10:14:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4766]

竹中平蔵先生の税制改革論


竹中平蔵総務大臣は、かってこう語った:

 経済格差を認めるか認めないか、現実の問題としてはもう我々に選択肢はないのだと思っています。みんなで平等に貧しくなるか、頑張れる人に引っ張ってもらって少しでも底上げを狙うのか、道は後者しかないのです。

 米国では、一部の成功者が全体を引っ張ることによって、全体がかさ上げされて、人々は満足しているわけです。実質賃金はあまり伸びないけれども、それなりに満足しているのです。(「日経ビジネス」2000年7月10日号)

 もちろん貧富の差というのは歴然としていて、81年のアメリカというのは道路に穴があいているし、失業者が待ちにあふれていて治安が非常に悪かった。そういう面での問題というのは明らかにありました。

しかし、例えば自分がその気になって高い教育を受けて、高い所得を得たならば、そのひどい時代のアメリカでも、きっと豊かに安らかに暮らせたでしょう。〔引用者注:アメリカ生活を振り返っての発言〕
(竹中平蔵・阿川尚之『世界標準で生きられますか』)
            (以上、斎藤貴男『機会不平等』からの孫引き)
http://literacy.jugem.jp/?eid=37

竹中平蔵

将来的には、完全なフラット税、さらには人頭税(各個人に対し、収入に関係なく一律に課せられる税。中根注)への切り替えといった、究極の税制を視野に入れた議論を行うことも必要だろう。

フロンティアの時代には、能力がありかつ努力を重ねて高所得を得ている人々を讃(ほめたた)える税制が必要だ。そうすることによって、結果的に社会全体の活力が高められる。

市場において高い活動エネルギーを持っている人に対し、極端な累進税制でペナルティーを課すことはやめなければいけない。いわば、『規制緩和としての税制改革』であり、『頑張れば豊かになれる夢』を国民に与えることである。
http://homepage3.nifty.com/nskk/ronpyo001.htm

佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』
(日本経済新聞社、2002)からの引用)

佐藤 (前略)いったいこの世の中に「理想の税」というのは存在しているのか、あるいはこうすればより「理想に近い税のあり方」になるはずだというのがあるのなら、最終的にはその辺までさらにお聞きしたいなと思っているんですけど。

竹中 いきなり理想の税は何かと聞かれるとすごく難しいんですけど、この話の出発点として、あえて話をややこしくさせるために答えるなら、私は人頭税というのが理想の税だと思うんですね。


佐藤 人頭税?

竹中 そうです。佐藤さんにも、私にも、皆同じ金額をかけるんです。国民一人ひとりの頭数にかけるわけですから、これほど簡単なものはないですね。(後略)

 竹中大臣の理想の税は、人頭税。要するに、所得が100万円の人も、所得が1億円の人も同じ金額の税を負担せよということです。これに賛成する方は、竹中氏を応援しましょう。


佐藤 (前略)国っていうのは正当化されたヤクザと言ってもいいんじゃないですか。

竹中 おっしゃる通りです。税金というのは結局ヤクザのみかじめ料みたいなものです。国は強制的にお金をとるのに大義名分や理屈を並べたてるけど、ヤクザはいちいちそんなことは言わない。みかじめ料と税金の差は、それくらいのものでしょう。

 竹中大臣は、よほど税金をとられるのがいやなのでしょう。

 民主主義国家であれば、選挙で選ばれた国会議員が法律で税制を定めるはずです。日本だってそうです。なのに、国家をヤクザとなぞらえ、税金をみかじめ料になぞらえる。相当歪んでませんでしょうか・・・。


竹中 (前略)・・・やはり多くの人は税による所得の「再分配効果」というのを期待するわけです。再分配効果というのは、たとえばこういうことです。佐藤さんはすごく所得が多いとする。こちらのAさんは所得が少ない。そうすると、Aさんは

佐藤さんからお金を分けてもらいたいわけです。佐藤さんが儲けたお金の一部を自分ももらいたいんですよ。もらいたいときに、政府を通してもらうんですよ。

佐藤 でも、それ、もらいたいって、ずるいじゃないですか。

竹中 ずるいですよ、すごく。『フェアプレーの経済学』という本にもはっきりと書かれているんです。著者はランズバーグという数学者なんですけど、すごくシンプルに見ていくと、今の税はおかしいと言うのです。彼はそれをこんなふうに表現しています。

 子供たちが砂場で遊んでいるんです。ある子はオモチャをたくさんもっている。その子はお金持ちの家の子なんですよ。もう一人の子は家が貧しいからオモチャを一個しかもってないんです。しかし、だからといって、自分の子に向かって

「○○ちゃん、あの子はオモチャたくさんもっているからとってきなさい・・・・・

などと言う親がいるかというわけです。


 ところがそんなことが、国の中では税というかたちで実際に行われているという言い方をしているんですね。これは、みんなのやる気をなくさせる原因になります。(後略)
http://literacy.jugem.jp/?eid=37

現在の日本においては、新古典派経済学者たちが続々と「みんなの維新の会」側に集結しつつあり、「竹中氏が書いたんじゃないの?」という疑問を持っていたら、どうやら本当にそうだったらしい維新八策がオープンになりました。


 民営化、規制緩和、自由貿易、地方主権的道州制、TPP、グローバリズム。


中央政府のあらゆる規制を排除し、政府機能を極小化せよ。

グローバリズムに基づき、モノの関税をゼロにし、サービスの輸出入を妨げる各国の社会制度、文化、伝統は「非関税障壁」として排除せよ。

当然、牛肉や遺伝子組み換え作物の輸出入を妨げている規制は撤廃し、「遺伝子組み換え作物」だからと言って、ビジネスに支障が出ないようにせよ(パッケージの表示を禁止せよ)。

国境を越えて、モノ、カネ、ヒトが自由自在に動き回るようにせよ。

公的サービスを民間に開放し、株式会社化せよ。教育も株式会社化し、「株主利益」のための教育を可能にせよ。電力も自由化せよ。

社会保障は大きな政府の典型なので、負の所得税法式のベーシック・インカムにせよ。

混合診療を認め、いずれは全てを自由診療にせよ。

公的保険サービスは「ムダ」の極致なので縮小し、代わりに民間の医療保険サービスが自由にビジネスができるようにせよ。

法人税と富裕層の所得税を減税せよ。結果的に預金が増え、金利が下がり、企業の投資が増えることで国民全体が潤う「はず」だ(トリクルダウン理論)。

公共事業や国債発行は可能な限り減らせ。国債発行をすると金利が上がり、民間が金を借りられなくなり、投資が減る(クラウディングアウト)。しかも、国債発行による金利上昇は通貨高をもたらし、輸出が減るので財政出動分の需要はキャンセルされる。どうしても公共事業をやりたいならば、民間の投資会社主体でやらせ、政府は「利用料」を支払う形にせよ。

失業者は自発的失業者か、職種のミスマッチがあるだけだ。自由貿易や規制緩和で失業者が出ても、彼らは「瞬時に」別の職に就けるから問題ない。つけないとしたら、失業者の能力が足りないというわけで、まさに自己責任だ。


上記を全て実現すれば、グローバルに株主利益を最大化できるじゃないか。
何か問題あるか?


 ものすご〜くグロテスクに書くと、新古典派の政策は上記のイメージになります。現実には、


「デフレで物価が下落して困っているときに、規制緩和や自由貿易で競争を激化させ、さらに物価を押し下げてどうするの?」

「スペインやギリシャの失業率は25%超えているけど、これもやっぱり自発的失業か、職種のミスマッチとやらなの?」

「法人税引き下げても、企業は銀行預金を増やすだけじゃないの? 法人税引き下げていない状況でも、日本では企業の銀行預金がひたすら増えているけど?」

「日本は95年以降、政府の負債(国債など)が二倍以上になっているけど、金利は三分の一未満に落ち込んだよ。クラウディングアウトはどこにいったの?」

「デフレだと国債発行や財政出動と関係なく円高になり、どっちにしても輸出減らない?」

「政策金利がゼロで、長期金利が0.8%未満でも企業は投資しないよ。富裕層に減税して、法人税引き下げて、なぜ投資が増えると断言できるの? それ以前に、日本はすでにして銀行が過剰貯蓄状態だよ。だから金利が低いわけだけど、投資増えていないじゃん」

「エネルギーとか教育とか、国家の根幹にかかわる部分を『株式会社』化して、本当にいいの? 政府って曲がりなりにも『主権者』である国民の投票により成立しているけど、株式会社化すると国民主権が歪められない?」


 などなど、「絶対それ、違うだろ〜っ!!!」 と言いたくなる政策のオンパレードです。無論、インフレ期にはクラウディングアウトやトリクルダウンも成立する「かも」知れませんが、デフレ期にはどちらにせよ不成立です。


 すなわち、新古典派経済学者や新自由主義者たちは、現実の日本を見ていません。彼らが見ているのは、机上の「経済の教科書」だけなのです。


 机上の教科書に沿った「間違った政策」が行われているのは、別に日本に限らず、世界の主要国の多くがこの罠にはまっています。結果、フランスでは明確な対立軸で選挙が行われ、日本もこのままいけば、どうやら「新古典派」対「実践主義」の戦いになりそうです。現在の与党は、両者の間で埋没して消滅してしまうでしょう(というか、そうしなければなりません)
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/

「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然 2016-01-06
   

 さて、今さらですが、トリクルダウンとは何でしょうか?


 トリクルダウンとは、

「富裕層や大企業を豊かにすると、富が国民全体にしたたり落ち(=トリクルダウン)、経済が成長する」

 という「仮説」です。トリクルダウン「理論」と主張する人がいますが、単なる仮説です。


 上記は今一つ抽象的なので、より具体的に書くと、

「富裕層減税や法人税減税をすると、国内に投資が回り、国民の雇用が創出され、皆が豊かになる(=所得が増える)」

 となります。


 要するに、グローバリズム的な、あるいは新古典派(以前は古典派)経済学的な「考え方」に基づき、所得が多い層を優遇しようとした際に、政策を「正当化」するために持ち出される屁理屈なのでございます。


 ちなみに、大恐慌期のアメリカでは、財閥出身の財務長官アンドリュー・メロンが「法人税減税」を推進した際に、まんまトリクルダウン仮説が用いられました。 


 さて、現代日本において、トリクルダウンで安倍政権の法人税減税に代表される「グローバル投資家」「グローバル企業」を富ませる政策を正当化していたのが、みんな大好き!竹中平蔵氏です。


『「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/172701/1


 テレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」。

「激論!安倍政治〜国民の選択と覚悟〜」と題した1日放送の番組では、大田区の自民党区議が「建築板金業」と身分を隠し、安倍政権をヨイショするサクラ疑惑が発覚。「今年初のBPO入り番組」とネットで炎上中だが、同じように炎上しているのが、元総務相の竹中平蔵・慶応大教授の仰天発言だ。


 番組では、アベノミクスの「元祖3本の矢」や「新3本の矢」について是非を評価。

冒頭、「アベノミクスは理論的には百%正しい」と太鼓判を押した竹中平蔵氏。

アベノミクスの“キモ”であるトリクルダウンの効果が出ていない状況に対して、

「滴り落ちてくるなんてないですよ。あり得ないですよ」

と平然と言い放ったのである。


 トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論だ。2006年9月14日の朝日新聞は〈竹中平蔵・経済財政担当相(当時)が意識したのは(略)80年代の米国の税制改革だった。

その背景には、企業や富裕層が豊かになれば、それが雨の滴が落ちるように社会全体に行きわたるとする『トリクルダウン政策』の考え方があった〉と報じているし、13年に出版された「ちょっと待って!竹中先生、アベノミクスは本当に間違ってませんね?」(ワニブックス)でも、竹中氏は

〈企業が収益を上げ、日本の経済が上向きになったら、必ず、庶民にも恩恵が来ますよ〉

と言い切っている。


 竹中平蔵氏がトリクルダウンの旗振り役を担ってきたのは、誰の目から見ても明らかだ。

その張本人が今さら、手のひら返しで「あり得ない」とは二枚舌にもホドがある。

埼玉大名誉教授で経済学博士の鎌倉孝夫氏はこう言う。


「国民の多くは『えっ?』と首をかしげたでしょう。ただ、以前から指摘している通り、トリクルダウンは幻想であり、資本は儲かる方向にしか進まない。竹中氏はそれを今になって、ズバリ突いただけ。つまり、安倍政権のブレーンが、これまで国民をゴマカし続けてきたことを認めたのも同然です」(後略)』

 そもそも、トリクルダウンが成立するためには、絶対的に必要な条件が一つあります。それは、富裕層なり大企業で「増加した所得」が、国内に再投資されることです。前述の通り、トリクルダウンとは、富裕層や大企業の所得が「国内の投資」に回り、国民が豊かになるというプロセスを「仮定」したものなのです。


 現代の説明も、かなり抽象的ですね。

「トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論」

 まあ、それはそうなのですが、正しくは

「富裕層が富み、国内に投資がされる」ことで経済活動が活発になる

という話なのです。


 すなわち、資本の移動が自由化されたグローバリズムの下では、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。特に、デフレーションという需要不足に悩む我が国において。


 富裕層減税や法人税減税で、「富める者」の可処分所得を増やしたところで、「グローバリゼーションで〜す」などとやっている状況で、国内への再投資におカネが回ると誰が保証できるのでしょう。誰もできません。


 結局、企業は対外直接投資、富裕層が対外証券投資におカネを回すだけではないのでしょうか。特に、日本のように国内にめぼしい投資先がなく、国債金利が長期金利で0.26%と、異様な水準に落ち込んでしまっているデフレ国では。というか、国内における投資先がなく、民間がおカネを借りないからこそ、長期金利が0.26%に超低迷してしまっているわけですが。


 無論、国境を越えた資本移動が制限されていたとしても、トリクルダウンが成立するかどうかは分かりません。減税で利益を受けた富裕層や企業が、国内に投資せず、増加した所得を「預金」として抱え込んでしまうかも知れません。


「いやいや、貯蓄が増えれば金利が下がり、国内に投資されるので、トリクルダウンは成立する」

 などと学者は反駁するのかも知れませんが、長期金利0.26%であるにも関わらず、国内の投資が十分に増えないデフレ国で、何を言っているの? 頭、悪すぎるんじゃないの? という話でございます。現在の日本は、企業の内部留保までもが史上最大に膨れ上がっています。


 お分かりでしょう。トリクルダウンが仮に成立するとしても、その場合は、

「国境を越えた資本の移動が制限されている」

「デフレではない」

 と、最低二つの条件が必要になるのです。ところが、現実の日本はグローバル化を推し進めつつ、同時にデフレです。トリクルダウンが成立する可能性など、限りなくゼロに近いわけでございます。


 そんなことは端から分かっていたし、何度も著作等で訴えてきたわけですが、残念ながらマスコミの主流は

「トリクルダウン理論により、法人税減税は正しい」

という、「頭、悪すぎるんじゃないの?」理論が主流を占めていました。


 少なくとも、現在の日本において、トリクルダウン前提の経済政策は「間違っている」と、全ての国民が認識する必要があるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/


続 トリクルダウンはあり得ない 2016-01-07


 昨日は、単にトリクルダウン仮説について解説しただけで、竹中氏の「真意」には踏み込みませんでした。

そもそも、竹中平蔵氏はなぜ「トリクルダウンはあり得ない」と語ったのか。


 安倍総理は、年頭の記者会見において、フジテレビの西垣記者の「選挙に向けてこの半年、国会が今日から開く中、どういった目標を掲げていかれるお考えでしょうか」という質問に対し、

「将来の老後に備えて、あるいは子育てのためにも使っていくことになるわけでありまして、これは正に成長と分配の好循環をつくっていくという新しい経済モデルを私たちは創っていく。その「挑戦」を行っていかなければいけないと思います」

 と、答えました。


 「分配」という言葉を総理が使ったのは、初めてのような気がいたします。


 わたくしは昨年末に刊行した徳間書店「2016 年 中国・ユーロ同時破綻で瓦解する世界経済 勝ち抜ける日本 」において、


『安倍総理は2015年1月28日の参院本会議で、民主党の質問に答えるかたちで、

「安倍政権としてめざすのはトリクルダウンではなく、経済の好循環の実現だ」

 と、トリクルダウンを否定した。

 だが、実際に安倍政権が推進している政策は、消費税増税をはじめとする緊縮財政にせよ、法人税の実効税率引き下げにせよ、あるいは様々な構造改革にせよ、明らかに特定のグローバル投資家を利する政策ばかりだ。

 グローバル投資家に傾注した政策を推進しつつ、トリクルダウンを否定したため、筆者はむしろ総理が国内の所得格差の拡大を歓迎しているかような印象を受けたものである。

 すなわち、富裕層やグローバル投資家、大企業を優先する政策を打つ政権は、言い訳としてトリクルダウン理論を持ち出すのだ。

法人税減税や消費増税、構造改革など、国内の所得格差を拡大する政策を繰り出しつつ、トリクルダウンすら否定するのでは、余計に問題ではないだろうか。』


 と、書きました。


 朝生のを見た限り、竹中氏は別に、 「トリクルダウンはあり得ないんです。ごめんなさい」というニュアンスで「トリクルダウンはあり得ない」と語ったわけではないわけです。


 トリクルダウンなど起きえない。
政府の政策で富が「滴り落ちる」のを待っている方が悪い、

というニュアンスでトリクルダウンを否定したのでございます。

すなわち、格差肯定論としてのトリクルダウンの否定なのです。


 そもそも、トリクルダウン仮説は民主主義国家において、一部の富裕層や法人企業に傾注した政策をする際、有権者である国民に「言い訳」をするために編み出されたレトリックなのです。


「富裕層や大手企業を富ます政策をやるけど、いずれ富は国民の皆さんに滴り落ちるので、安心してね」

 というわけでございます。


 つまりは、政治家がグローバリズム、新自由主義的な構造改革、緊縮財政を推進し、国民の多数を痛めつける際に「言い訳」として持ち出されるのがトリクルダウン仮説なのです。


 竹中氏がトリクルダウンを否定したのは、構造改革を推進するに際し、国民に言い訳をする必要性を感じなくなったのか、あるいは言い訳するのが面倒くさくなったのかのいずれかでしょう。


「面倒くせえな。トリクルダウンなんてあるわけないだろ。

政府の政策で、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧困化し、それでいいんだよ。

どうせ、負けた奴は自己責任なんだから」


 と、一種の開き直りで「トリクルダウンはあり得ない」と竹中氏が発言したと確信しています。


 とはいえ、総理が「分配」と言い出したということは、竹中氏はともかく「政治家」にとっては、「トリクルダウンすらない構造改革、富裕層・大企業優遇政策」は、有権者に説明がつかないということなのだと思います。


「竹中氏がトリクルダウンを否定した。へ〜え。

つまり、あんた(国会議員)たちは富める者がさらに富み、貧困層はますます貧困化する政策を肯定するんだな?」

 という突っ込みを受けるのは、安倍総理とはいえどもきついでしょう。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12114721167.html

トリクルダウンとは「富裕層減税や法人税減税により、国内の投資が拡大し、国民が豊かになる」というロジックになっています。

減税分を「国内の投資に必ず使う」ように政府が強制できるならばともかく(できません)、資本の国境を越えた移動が実現したグローバリズムの時代に、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。

しかも、法人税を減税し、企業の現預金を増やしたところで、デフレで投資利益が見込めない以上、国内の設備投資が拡大するはずがありません。

上記の理屈は、「常識」に基づき考えてみれば、誰でも理解できるはずです。特に、損益計算書やバランスシートに触れる機会が多い経営者であれば、一発で分かるでしょう。

ところが、現実にはトリクルダウンが成立するという「前提」に基づき、法人税減税をはじめとする構造改革が推進されています。

それどころか、もはや政府はトリクルダウンという「言い訳」をする必要すら感じていないのかも知れません。


竹中氏が今回、トリクルダウンを否定しましたが、これは別に、

「トリクルダウンがあると嘘ついていました。ごめんなさいね」

とう話ではなく、

「トリクルダウンなど、あるわけがない。政府に甘えず、各人が努力せよ。負けたら、自己責任」


と、責任を「国民」に丸投げしたに過ぎません。

それにしても、中国が改革開放を推進した際、ケ小平は「人民」に対する言い訳として、トリクルダウン仮説の一種である先富論を持ち出しました。中国のような共産党独裁国であっても、勝ち組に優しい政策をする場合は、トリクルダウン仮説で「言い訳」をする必要があるのです。

ところが、日本ではもはやトリクルダウンという「言い訳」すらなされず、格差を拡大することが明らかな構造改革が推進されていっています。

この状況を「怖い」と思うのは、三橋だけでしょうか。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2016/01/11/mitsuhashi-345/


2016-01-18
富裕層が仕掛けているのは、自分たちが100戦無敗になる方法

100戦無敗になるにはどうしたらいいのか。簡単だ。徹底的に弱い相手と戦うことだ。たとえば、大人は3歳児と戦ったら必ず勝つ。

大人が常に3歳児と戦い続ければ、常に勝ち続けることができる。それは勝負ではなく、リンチになるはずだ。大人はその気になれば、殴り殺すことさえ可能だろう。

だから、スポーツはこういった「大人vs子供」のような、最初から勝負が分かりきっているような組み合わせを禁止する。惨劇を避けるためだ。

それを不服として、大人が「自由に勝負させろ」と叫んでいたら、どうかしていると思われるはずだ。

しかし、それはスポーツの世界だからどうかしていると思われるだけで、実社会ではそのあり得ない競争が行われる世界なのである。

100万円の資産しかない人間が、100億円の資産を持つ企業と無理やり競争させられるのが資本主義の掟である。巨大な者が「もっと自由を」という時は、「弱者を叩きつぶす自由をくれ」という意味なのである。


落ちこぼれた人間には金すらも出したくない政府

「どんどん競争させろ。競争のルールは必要最小限にしろ。弱い者がどうなったところで知ったことではない」

これが資本主義を拡大解釈した「市場原理主義」の正体である。日本は2000年に入ってから、この弱肉強食の市場原理主義が小泉政権下で組み入れられた。

事実上の実行者は、当時、経済財政政策担当大臣と金融担当大臣を兼任していた竹中平蔵だった。

この男によって社会経験の浅い若年層は非正規労働者に追い込まれ、どんどん生活が不安定化しくことになる。

こういった格差が生まれるのは当然だと竹中平蔵は言っている。さらに、「日本はまだまだ格差が少ない社会だ」との認識も示している。

つまり、もっと激しい競争社会して、それによって弱者がもっと増えても別に構わないというスタンスである。さらにこの男は2016年に入ってからトリクルダウンも否定している。

トリクルダウンというのは「資産家や大企業を先に豊かにすると、富が国民全体にトリクルダウン(滴り落ちて)、経済が成長する」というものだ。

ケ小平の唱えた「先富論」に似ているものだが、竹中平蔵はそのトリクルダウンもないと言った。強い者はどんどん富むが、その富は弱者に回らない弱肉強食の社会を日本に取り入れたのがこの男である。

竹中平蔵は派遣会社の会長なのだが、派遣会社というのは労働者の稼ぎをピンハネする事業をしている。ピンハネして、要らなくなったら捨てる。

その結果、労働者が弱者になったとしても「それは、その人の自己責任だ」と言うのが竹中平蔵の理論なのである。

弱者など、どうでもいい。落ちこぼれた人間には金すらも出したくない。だから、この男が小泉政権下でしたのは、社会保障支出の大幅な削減だった。

その結果、高齢者も、障害者も、シングルマザーもみんな追い込まれて、生活保護受給者は大幅に増えることになった。


努力しても這い上がれない社会が来ている

弱肉強食の市場原理主義を取り入れればそうなることは、はじめから分かっていた。なぜなら、強欲な資本主義の総本山だったアメリカがそうなったからだ。

アメリカではレーガン政権がこの市場原理主義を推し進めた結果、1%の富裕層と99%の低賃金層という超格差社会を生み出して、今でもその格差の分離は広がっている。

アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。

中流階級は激減し、2010年には貧困者が4620万人に達した。7人に1人は貧困層だ。さらに、予備軍まで入れると、3人に1人は生活に追われている状況になっている。

問題なのは、この格差が固定化しつつあるということだ。アメリカン・ドリームはすでに消失している。努力しても這い上がれない社会がやってきているのである。

当然だ。競争を開始する時点での条件に大きな格差がついている。スタートラインが富裕層と貧困層とではまったく違う。正当な競争になっていないのである。

貧困層は満足な給料がもらえない職業を転々とするしかなく、結局、働いても働いても豊かになれないワーキングプアが常態化してしまう。

貧困が固定化するのは、次の5つの要因がある。

(1)生活に追われ、疲れて何も考えられなくなる。
(2)低賃金で自分も子供も教育が受けられなくなる。
(3)金を含め、あらゆるものが不足してしまう。
(4)這い上がれない環境から自暴自棄になっていく。
(5)社会的影響力がなく、権利は保障されない。

いったん貧困に堕ちると、この5つの要因が同時並行で始まっていき、その中で押しつぶされてしまう。

これは、アメリカだけの問題ではなく、今や日本の底辺の問題でもある。すでに、日本の底辺もこの5つの要因にがんじがらめにされて、這い上がるのが絶望的に難しい社会になっているのである。

アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。


貧困層は、相変わらず見捨てられていた

格差が固定化されるというのは、富裕層と貧困層の超えられない一線ができるということである。人々は分離し、この両者は次第に違う文化を生きることになる。

暮らす場所も、食べる物も、通う学校も、遊ぶ場所も、付き合う人も、すべて違っていく。そして、この両者は互いに相手に無関心になり、話す言葉すらも違っていくようになる。

日本もそうなる危険性が高い。格差は固定化して、堕ちてしまった人は、社会から見捨てられて生きるようになっていく。

2014年3月。私は10年ぶりにインドのコルカタに向かって、インドの貧困地区がどうなっているのかを確認しに行った。

その結果、どうだったのか。書籍『絶対貧困の光景』で書いたのだが、かつての貧困層はインドの経済発展からものの見事に取り残されていた。

コルカタは、確かに一部は経済発展していた。

ところが、貧困層はまったく経済発展の恩恵に浴していなかったのだ。彼らは社会から無視され、相変わらず社会から見捨てられていた。

10年前、貧困の中で生きていた女性たちは今もまだまったく同じ状態で放置されていた。彼女たちは路上で暮らし、路上で物乞いをし、スラムは相変わらずスラムのままだった。

先進国と変わらないマンション、ショッピングモールができていて、富裕層がベンツを乗り回しているその横で、10年前に貧困層だった人たちは、まだ路上を這い回って生きていた。

(堕ちたら、這い上がれないのだ……)

竹中平蔵が言った通り、「トリクルダウン」など、影も形もなかった。貧困層に富はこぼれ落ちていなかった。完全に置いてけぼりだ。

そういった状況は私もよく知っていたはずだった。しかし、実際にそんな現状を目の前に突きつけられた時に感じたショックは、決して小さなものではなかった。

格差が固定化され、弱者が見捨てられ、貧困層が大量に増え続ける社会がどんなに悲惨な社会なのか、日本人はもっと真剣に考えるべきだ。

日本はそんな道を辿ろうとしているのである。

スラムの子供たち。富める者は富み、貧しい者は奪われるのであれば、この少年と幼い妹には未来はない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160118T0438270900.html


34. 中川隆[4358] koaQ7Jey 2016年10月07日 10:34:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4767]

現在の富裕層は自分たちが「社会の一員」だとは考えていない。

情報と富を独占し、庶民を支配、税負担を押しつけようとしている。

日本政府が学校に予算を割かない目的は、庶民から学ぶ権利を奪うことにあるのだろう。

教育には洗脳という側面があるものの、学問する庶民は富裕層にとって邪魔な存在。

自分たちの幻術が見破られてしまう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610040000/


2016-05-19
富裕層・権力層の世襲化と凄まじい格差が止まらない社会に
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160519T1631160900

現在、アメリカで起きているのは、四年制大学を卒業しているかどうかで良い職業に就けるかどうか、良い収入を得られるかどうかが決まるということだ。

要するに「大学卒業」という学歴が人生を左右する。もちろん、大学にも格があってアイビーリーグ等の名門大学であればあるほど重用される。

アイビーリーグとは、ハーバード大学、コロンビア大学、ペンシルバニア大学等の名門有名大学なのだが、これらの大学は私大を指す。

こうした大学に入るには、もちろん本人の知能指数も重要になってくるのだが、それだけではなく「学費が払えるかどうか」もまた重要になってくる。

こうした大学では学費等を含めると1年間に500万円近い出費になるのだが、これを4年続けると2000万円になる。返済不要の奨学金はすべての学生に出るわけではない。

とすれば、これらの大学に通える子供というのは、費用に耐えられる家庭は中流階級か富裕層となる。

もちろん、無理して学生ローンを組んで大学に通う子供たちも大勢いる。しかし、これがまた問題になる。何しろ、卒業した瞬間に借金を背負った社会生活になるからだ。


2000年以降に成人した「ミレニアル世代」の苦境

良い大学を出たからと言って必ずしも良い収入が得られるわけでもない。仕事の有無は景気に左右される。

リーマン・ショックの翌年、2009年や2010年では多くのアメリカ企業が新卒を採るどころか多くの有能な社員すらもリストラをしていた。

そんな時代に社会に出た卒業生は、莫大な借金を背負ってリスクの高い社会生活を送らざるを得なくなる。

彼らは2000年以降に成人した世代なので「ミレニアル世代」とも呼ばれている。

このミレニアル世代は日本で言うところの「就職氷河期」に社会に放り出された世代であり、貧乏くじを引いた世代だとも言われている。

大学の学費の高騰は今も続いている。アメリカ政府がリーマン・ショックで財政赤字に追い込まれて国家レベル、州レベルで教育予算を大幅にカットしていったので、大学は生き残るために授業料を値上げせざるを得なくなった。

つまり、アメリカという国が経済的な苦境に落ちて国民の教育を促進する余裕を失い、そのとばっちりを若年層が受けているのである。

もはや大学に行けるかどうかは、本人の能力の前に親の財力で決まるような「格差社会」がアメリカに到来したのだ。

こうした社会の不満が2011年に大爆発し、「ウォール街を占拠せよ」というデモにつながっていったのはよく知られている。

中流階級はどんどん没落して格差が広がっていき、今や「1%の富裕層と99%の貧困層」に社会が分離しようとしている。

そのため、「ウォール街を占拠せよ」でも「99%」というプラカードを掲げたミレニアル世代の若者たちの姿が大きく目立った。

アメリカ政府はバクチに踊った巨大銀行は税金で救ったが、若者たちは切り捨てた。その怒りが「ウォール街を占拠せよ」の原動力となった。


バーニー・サンダースの躍進も格差問題があるから

こうした動きはやがて沈静化したが、社会問題として解決したわけではなかったので、これが2016年の大統領選挙におけるバーニー・サンダースの躍進につながった。

バーニー・サンダースは自ら「社会主義者である」と公言しており、アメリカでは異色の政治家である。

当初、民主党はヒラリー・クリントン候補のひとり勝ちであると言われていたのだが、世間の下馬評とは裏腹にバーニー・サンダースが大躍進してヒラリー・クリントンの勢いが大きく削がれる番狂わせが起きている。

ヒラリー・クリントンはもちろん指名数獲得でバーニー・サンダースを大きく引き離しているのだが、話題になるのはヒラリーの強さではなく弱さの方だ。

バーニー・サンダースは74歳の高齢候補だが、それでもミレニアル世代は熱狂的にバーニー・サンダースを支持している。

それにはバーニー・サンダースが「私の内閣はウォール街の代表に独占されたりしない」と語り、さらには「格差是正」「LGBTの権利拡大」「公立大学の無償化」を明確に公約として掲げているからだ。

これらのすべては、まさに「ウォール街を占拠せよ」運動でミレニアル世代が掲げたものと一致しており、さらにミレニアル世代が求めているものだった。

今のアメリカ社会は、あまりにも格差が行き過ぎて、「富める者はどんどん富んでいき、貧困層はどんどん貧困に堕ちる」という凄まじい社会となっており、そこから抜け出せない。

最近、オバマ大統領の長女であるマリアがハーバード大学に入学した。

これについて、「祝福の声が溢れている」と各マスコミは報じていたのだが、インターネットでは「コネ入学だ」「金持ちの娘が金持ちの大学に入っただけだろう」とむしろ冷めた声の方が溢れていたのは無視されていた。

「コネ入学だ」という意見は正しい。私大であるハーバード大学は有名人や富裕層の子供を率先して合格させることで知られている。ちなみに、バラック・オバマもミシェル・オバマもハーバード大学を卒業している。


格差と富裕層・権力層の世襲化が止まらない社会

金持ちや権力者の子供が名門大学に簡単に入れる社会で、貧困層はそこから締め出されていく。

それが常態化しているとすれば、アメリカはすでに実力を重視する自由競争社会ではなく、単なる「階級社会」になってしまったということだ。

富裕層の子供は、親が富裕層だったからという理由で、良い子供時代を過ごし、良い大学に入り、良い人脈に恵まれ、良い企業に入社し、自分も富裕層になりやすい社会になったのだ。

言うまでもないが、こうした「階級社会」は格差がどんどん広がっている日本でもすでにとっくに到来していて、たとえば政治家を見れば、多くが「世襲」になっていることが分かる。

権力と財力は子供に継がせて、より肥え太るのである。これは政治界だけの現象ではない。経済界でも、芸能界でも、果てはスポーツ界でも状況は同じだ。

金と権力と名声が唸っている業界では、成功した人がそれを子供に継がせていくのである。

もちろん、子供にも親を超える能力がある可能性も中には存在するかもしれないが、ほとんどは親ほどの才能は持ち合わせていないことが多く、実力がないのに権力だけはあるという状態になる。

それが長らく続くことによって社会はどんよりと停滞し、劣化していくことになる。

しかし、一部が特権階級と化して富を独占し、他を貧困に叩き落とす社会は、がっちりと固定化して社会に組み込まれているので、容易なことでは破壊することはできない。

バーニー・サンダース候補も、しょせんはキワモノのような扱いをされているのを見ても分かる通りだ。

格差と富裕層・権力層の世襲化は止まらないのである。

そのため、社会を覆い尽くす閉塞感は、より深く、広く、深刻なものへとなっていく可能性が高い。今のところ、この格差社会を破壊する兆候は何一つ見当たらない。

バーニー・サンダース候補を熱烈に支持するミレニアル世代の若者たち。しかし、社会を覆い尽くす閉塞感は、より深く、広く、深刻なものへとなっていく可能性が高い。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160519T1631160900


2016-02-26
貧困層の子供が貧困から抜け出せないという格差固定社会に


アメリカの大統領選で、民主党では本命のヒラリー・クリントンが苦戦してバーニー・サンダースが若者を支持を得て思いがけない混戦となった。

若者がサンダース氏を強力に支持しているのは、彼が富裕層への増税、大企業の課税逃れの取り締まりと並んで、公立大学の授業料無償化を打ち出しているからだ。

アメリカでは有名大学の学費は驚くほど上がっており、もはや金持ちしか通えないような状況になっている。4年で約1500万円から2000万円近くかかるのである。

当然ながら、金持ちの家庭の子供たちは高学歴の子供たちが多い。子供の教育に金を出す余裕もあれば、安心して学業に励める快適な環境もある。さらに、親のコネや人脈で有名大学に入るルートもある。

現に、ハーバード大学やオックスフォード大学は世界各国の権力者の子弟を受け入れている。さらに、大学卒業後も、仕事や役職が最初から約束されていることも多い。

端的に言うと、エリートや金持ちや権力者の子供たちというのは、最初から社会的な地位が約束されていることが多く、貧困家庭にはない多くのメリットを享受できる。

貧困層はもはや最初から競争に負けている。つまり格差が固定化されていった。

恵まれた家庭の子供たちは、能力が伸びる

この傾向は日本にも広がっている。現在、奨学金という名の学生ローンで大学に通う学生も増えているが、やがてはそれすらもできない家庭も出てくるはずだ。(大学全入時代という言葉に洗脳され、奨学金で奴隷化される)

子供が将来、社会的に成功しやすいかどうかというのは、本人の努力が問われる以前に、親の収入の多寡も影響するというのは以前からよく指摘されていることだ。

これは別に社会学者が統計を出さなくても、普通の人ですら日常を観察してしみじみと思う現象でもある。

収入のある家庭では、子供にいろんな習い事をさせることができる。塾にも行かせることができるし、家庭教師を呼ぶこともできる。

また、親が精神的余裕も経済的余裕もあるので、子供に目をかけやすい。家族の団欒を持てたり、一緒に旅行ができたり、一緒に勉強したり遊んだりすることができる。

もちろん、すべての富裕層がそんな理想的な家庭ばかりではなく、それぞれ複雑な家庭の事情を抱えているのも事実だ。何の悩みもない家庭はひとつもない。

しかし、一般的な比較で言うと、総じて富裕層は子供に最適な環境を与えることができる。それが、子供の能力を伸ばすので、富裕層の子供に社会的能力の高い子供が多いのは別におかしなことでも何でもない。

収入のある家庭の子供は、アメリカでは「正しい子宮から生まれた子供」と半ば冗談で言われるのだが、それは人間社会の残酷な一面をえぐる言い方でもある。

正しい子宮から生まれた子供は、苦労することも、経済的な困窮に涙を流すこともないまま、恵まれた人生を送れる。


正しい子宮から生まれた子供は、苦労することも、経済的な困窮に涙を流すこともないまま、恵まれた人生を送れる。


貧困家庭の子供たちは、能力が潰される

極貧の家庭は、常に何らかのトラブルに追い込まれている状態であると言ってもいい。親はストレスにまみれ、家庭そのものが破綻していることもある。

経済問題はありとあらゆる問題を先鋭化させる。今を生きていくだけで精一杯であり、子供の教育などはすべて後回しにされる。子供の能力は潰される方向に向かっていく。

習い事をさせる余裕もない。塾や家庭教師など、とんでもない話である。義務教育が終われば、あとは一刻も早く社会に出て金を稼いで欲しいと考える家庭も多い。

そのように口に出して言わなくても、子供たちは親の貧窮ぶりを見て育っているので、悠長に教育を受けるよりも、さっさと社会に出て稼ごうと考える。

そうすると、低学歴で社会に出ることになって、結局はそれが仇になって低収入の仕事に甘んじるしかなくなっていく。もちろん、人脈やコネがあろうはずがなく、折に触れて助けてくれる人もいない。

富裕層の子供たちが多くの助言者を持っているのに比して、貧困層の子供たちは多くの悪い友人を持っていて、マイナスの方向に引っ張られやすい。

そして、言うまでもなく低学歴を余儀なくされた子供たちには、条件の良い仕事はあまりない。

低学歴でもできる仕事というのは、賃金が低いか、極度に体力を使う仕事か、危険な仕事であったり、反社会的なものであったりすることが多い。

その仕事に就いていること自体がトラブルの元になり、やがては自分の人生がトラブルによって潰されることも多い。しかし、そこから逃れるとやはり低収入の仕事しかなく、将来の展望は見えてこない。

これはある意味、貧困家庭に生まれたことに原因があるという観察もできるわけで、「経済格差が遺伝する」というのは、こういった現象から言われているものだ。


低学歴でもできる仕事というのは、賃金が低いか、極度に体力を使う仕事か、危険な仕事であったり、反社会的なものであったりすることが多い。


貧困が遺伝する激烈な社会に到達してしまった

日本は2000年代に入ってから、極度に格差が広がる社会になっている。この「労働者使い捨て時代」に成人して社会に出た人々は今は30代から40代に入ろうとしている。

将来の展望もなく、低収入を余儀なくされているわけだから、結婚が激減し、さらに少子化が加速しても仕方がない。

2015年11月4日、厚生労働省は賃金労働者の4割が非正規雇用者になったと発表した。

ここでは低学歴の若年層になればなるほど、非正規雇用者になる確率も増えることが確認されている。学歴の有無で、最初からふるい落とされていくのである。

それでも非正規労働のまま努力し、結婚し、将来の安定のない中で子供を持つ人たちも、もちろんいる。

重要なのは、こういった貧困を余儀なくされている人たちを社会が救済できなければ、彼らの子供たちもまた貧困層から抜け出せなくなる可能性があるということだ。(「お金がない」ということ自体が、知能を低下させる理由)

貧困が貧困を固定化させる現象が日本で生まれてくるのである。今後、日本が成長できないのであれば、国民が豊かになるチャンスも減少していくということでもある。

ありつけるパイが小さくなっているのだが、その中で格差が拡大していくと、パイの大部分を恵まれた富裕層がごっそりと持って行き、残ったパイを大勢の貧困層が奪い合うという醜悪な社会になっていく。

いよいよ、そういった社会が見えてきている。

政府が何かしてくれるだろうか。隣人が何かしてくれるだろうか。もちろん、それは期待できない。格差社会というのは、激烈な競争が生み出したものであり、また競争を生み出すものだからである。

グローバル化という極度の資本主義に入った現代社会は、学歴や財力で「他人を蹴落とす人生ゲーム」を人々に強いる社会なのである。

強者は総取りする。敗者は持っているものも奪われる。その結果、貧困層はますます貧困に追いやられ、今や貧困層の子供が貧困層から抜け出せないという局面になろうとしている。


人材使い捨ての社会が経済格差を生み出し、子供たちに影響を及ぼす。貧困が遺伝する社会に、すでに日本は突入したと言われている。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160226T1613090900.html

2013-12-13
現在、学歴による身分制度が進んでいることに気付くべきだ


あなたは巨額の資産を持った家系の生まれだろうか。それとも、ごく普通の生まれだろうか。いや、すでに貧困に落ちた家系だろうか。

言うまでもないが、それによって、まったく違う人生を歩むことになる。

現在の先進国では身分制度もないし、特権階級もないと思われている。もちろん、それは間違いだ。現代社会でも、依然として特権階級はある。現代社会の特権階級というのは、「金持ち」「資産家」のことである。

現代は資本主義だ。この資本主義が続くと、当然だが、経済的に成功する人と失敗する人が二極分化する。

いったん金持ちになった人は家族にも一族にもその恩恵を与えることができるようになり、経済的に成功した一族が特権階級化していく。

現代社会はそのほとんどの商品・サービスを金で買うことができる。さらに、あまり知られていないが、「身分・地位・立場・学歴」もまた金で買うことができる。

金さえあれば、あなたは上場企業の社長になれる

あなたがどこかの企業の社長になりたいとする。あなたはどうするだろうか。

「その企業に尽くし、何十年も多大な貢献をし、それによって多くの人に認められるように努力する」

それが、あなたの答えではないだろうか。まさに、それは正々堂々とした真っ正面の手法だ。世の中はそうであるべきで、一生懸命に勉強し、努力した人が認められるのが、社会であるべき姿でもある。

しかし、どこかの企業の社長になるには別の方法もある。その会社の株式を50%取得するだけでいい。そうすれば、ほぼその企業を手中に収めたことになり、あなたは代表取締役でも役員でも何でもなれる。

つまり、金さえあれば、その金で会社をも買うことができて、結果的にその会社でどんな身分にでもなれる。

その会社について何の貢献も、知識も、努力もいらない。その会社が何を作っている会社なのか、知る必要すらもない。何十年も会社に尽くす必要などまったくない。

非上場会社の株を手に入れるのは難しいが、上場会社であれば普通株式が買えるのだから、理論的には、ただ金を用意して株式市場で合法的に50%取得すればいいことになる。

上場企業で、時価総額が10億や20億以下の会社など、ざらにある。日本の上場企業でも20億円以下は470社は超える。

5億円や10億円ほどあれば、あなたは上場企業の社長になることすらも可能なのである。あなたも金があれば、そのようなことをすることができる。


学歴も「金で買える」というのが現実だ

世界中の多くの由緒ある一族、すなわち支配層に入る一族は、そうやって有力な企業の役員となって何ら苦労もなく地位も名誉も巨額配当も手に入れる。

つまり、金持ちはありとあらゆる場面で金を支払うことによって、恵まれた社会的な恩恵を受けることができるようになる。

もちろん、学歴も金で買うことができるのは「当然のこと」である。世界中の多くの支配者層の子供たちが、オックスフォード大学やハーバード大学の学生であり出身である。

アウンサン・スーチーも、ベナジール・ブットも、インディラ・ガンジーも、みんな有名大学の出身だが、彼らはみんな天才だったわけではない。

しかし、親が支配者層であれば、名門大学は入学と卒業を可能にするシステムがある。欧米の有名大学もそうなのだから、日本の大学もまた似たようなものだと思えばいい。学歴も「金で買える」というのが現実だ。

学歴は買う価値があるのだろうか。もちろん、ある。なぜなら、学歴でその人の人生は「ほとんど」が確定するからだ。高学歴は優遇され、低学歴は下層に落とされる。

資本主義社会になると、表向きには身分がないので、何らかの物差しで人間を推し量らなければならない。かつては、それが親の身分だったりしたのだが、現在は「学歴」で人物を推し量る決まりになった。

だから、学歴社会は「学歴身分制度」になっていると気付かなければならない。学歴が高ければ高いほど、社会的に優遇されて生きやすい世の中になる。

実は、この学歴社会は支配者層には非常に好都合な制度なのである。学歴社会こそが現代の身分制度であり、自分たちの地位を守るものになるからだ。それは、自動的に身分を固定化させる働きをする。


金がないと学歴が得られない社会になっていく

学歴が金で買えるという裏事情があれば、支配者層はもちろん学歴を金で買う。そうすると、金持ちの一族はみんな高学歴になる。

そして、現代社会を学歴社会にして、学費をどんどん上げて一般の人々が高学歴を取りにくい社会にすれば、学歴による身分制度が完成する。

奨学金制度があるとは言えども、先進国の有名大学はほとんどが非常に学費のかかる仕組みになっており、それは日本でも変わらない。

金がないと学歴が得られない社会になりつつあるのだ。これは、これからもっと顕著になっていく。なぜなら、そうすることによって「学歴身分制度」が完成するからである。

分かりやすく言うと、世の中はこのようになっている。

(1)世の中を学歴社会にする。
(2)支配者層は学歴を金で買う。
(3)低所得層には競争させる。
(4)教育に金がかかるようにする。
(5)低所得層は金不足で進学不可になる。
(6)低学歴の人間の身分を固定化する。

もちろん、奨学金制度や、本人の血のにじむような努力によって名門大学の学歴を手に入れる真の秀才・天才が世の中には何千人かいて、普通の家庭の子供でも学歴社会のトップに上り詰めることも可能だ。

しかし、逆にその数千人の秀才が目くらましになって、学歴身分制度の仕組みは見えなくなっている。

学歴がないのは、自分が勉強しなかったり、自分の頭が悪いからであり、自分の能力に限界があるのであれば、給料が低くても出世しなくても「仕方がない」と思う。

つまり、すべては自分のせいであると思い、自分の低い身分に納得するようになる。特権階級がそれを金で買っているとは考えもしないで……。


「持っている者」と「持たざる者」を固定化

本当は裏があって、学歴も金で買えるという事実を知っていれば、自分に仕掛けられた「社会のワナ」に気付くのだが、ほとんどの人はそれを知らないまま一生を過ごす。

だから、何かにつけて「努力」することを強いられる。しかし、あなたは以下の事実をよく噛みしめる必要がある。

「普通の人が必死で努力して学歴を手に入れようとしているが、特権階級は金で簡単に手に入れる」

努力は確かに尊いものであり、人間が人間らしく生きる上で必要不可欠なものだ。努力することによって人は成長する。だから、努力することは無駄ではない。

高学歴を手に入れるというのは、勉強するということだが、勉強は個人的にも重要なものだ。

しかし、一方で努力が押しつけられ、一方ではそれが金で買えるようになっているのだとすれば、それは大きな社会矛盾である。しかし、その社会矛盾が、多くの人には見えていない。

見えていないから、現在、「学歴による身分制度」が固定化するように支配者層が動いていることすらも気付かない。もう一度、その意味を確認して欲しい。

・教育に金がかかるようにする。
・低所得層は金不足で進学不可になる。
・低学歴の人間の身分を固定化する。

現代社会は「金」を持っている一族が特権階級であり、特権階級は身分も、地位も、立場も、学歴も、すべて金で解決することができるようになっている。

そして現在、社会の裏で起きているのは、「持っている者」と「持たざる者」を固定化させようとする動きであることを知っておいて欲しい。



オックスフォードは世界の支配者層の子供たちを受け入れる大学である。
子供たちの実際の学力は関係ない。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20131213T1642000900

2015-12-01
大学全入時代という言葉に洗脳され、奨学金で奴隷化される


大学に行くのが当たり前になると、大学が粗製乱造される。そして、大学側は儲ける必要があるので、どんな馬鹿でも受け入れるようになる。

東大、早稲田、慶応、一橋、京大、阪大等の一流大学と言われている大学も、無試験・面接程度で合否を判定するAO入試や推薦入学を行うようになり、優秀な学生ばかりがいるというわけでもなくなった。

さらに大学の教授も極度に質が落ちて、髪を紫色にして当たりもしない嘘八百の経済予測をするような気の狂った人間や、パクリしかしないデザイナーもどきの人間が教授になっていたりする。

学生も教授もそんな状況なので、今や大学を卒業したという「大卒」の肩書きがほとんど意味を為さないようになってしまっている。ありふれて陳腐なものになれば、希少価値が激減して安っぽいものになる。

大学卒業という学歴は、価値のない日用品になったのだ。

そもそも「大卒」という学歴が必要だったのは、どこかの一流企業に就職して一生安泰の生活を送るという典型的なライフプランを実現するためだった。

しかし、もうそのライフプランそのものが崩壊している。

多くの学生が「奨学金」という名の借金を背負う

その「一流企業」に入っても、このグローバル化の激しい競争社会の中で、その企業は一流の地位を保てるとは限らない。いったん競争に負けたら、一流企業と言えども、社員を片っ端からリストラするようになっている。

終身雇用も年功序列も崩壊し、いったんリストラされて放り出されたら、どんな大学を卒業していても次の就職先は足元を見られて給料大幅ダウンにならざるを得ない。

しかし、それでもそんなライフプランが今も通用すると考える若者や親がいて、「莫大な借金」をしてまで大学に行こうとするのである。

今、多くの学生が「奨学金」という名の借金を背負って大学を卒業し、苦境に落ちている。

本来、奨学金というのは成績優秀な学生を支援するための「返済の義務のないもの」を指すはずだったが、今では単なる学生ローンのことを「奨学金」と呼んでいる。

学生ローンなのだから、借りたものは返さなければならない。しかも、利子付きであり、学生だからという優遇はまったく何もない。

1ヶ月8万円を借りたとしたら、4年間で384万円だが、利息が付くので返済額は400万円を超える。12万円を借りたら4年で576万だが、やはり利息が付くので700万円以上の借金になっていくという。

陳腐な日用品と化した「大学卒業」という学歴のために、大学を卒業したばかりの22歳や23歳の若者が400万円から700万円の借金を背負うことになる。現在、学生の半数がこの奨学金の受給者と化している。

偏差値40以下の、社会的にはまったく何の価値もないFラン大学の学歴であっても学生ローンを組んでそこにいたら、そのまま過大な借金だけが学生の肩にかかっていくのである。

Fラン大学の学歴では、一流企業には100%入れない。どのみちそれなりの企業にしか入れないのであれば、400万以上の借金をする価値はない。


実際、奨学金の滞納はうなぎ登りに上がっている

一流大学でもない限り、今や「大卒」という肩書きは完全に無意味になっている。

グローバル化した社会になると、大学のランクも国際化した評価で見られるようになるので、日本の一流大学の学歴ですら無意味になる。

つまり、これからますます「大卒」という肩書きは役に立たないものになっていく。当然、中堅大学以下の学歴では、就職活動で何の武器にもならない。社会に出ても何の意味もなくなる。

これは、奨学金という学生ローンを抱えて社会に出ても、そのほとんどの人は見返りを得ることができないということを意味している。

見返りを得るどころか、返さなければならない借金という重圧に押しつぶされて、卒業後何十年も貧窮を余儀なくされる可能性の方が高いのだ。

「給料は上がらない、いつリストラされるか分からない」ような状況の中で奨学金という名の学生ローンを返し続けなければならない。

仮に大学を出て仕事が見付からなければ、それこそ学生ローンを滞納し、若くしてブラックリスト入りや、自己破産直行になっていく。

実際、奨学金の滞納はうなぎ登りに上がっている。文部科学省によると2014年末で滞納者は33万人もいると言われている。

滞納というのは3ヶ月、ローンの支払いが滞った人のことを指す。金がないから3ヶ月も滞ったわけである。

その時点で「ブラックリスト入りになるから早く返せ」と言っても、滞納した3ヶ月分と次の1ヶ月分をまとめて返せる能力があるはずがない。

つまり、いったん滞納したら間違いなく個人信用情報機関に登録(ブラックリスト入り)して、クレジットカードも作れなくなり、結果としてますます困窮化していく。


大学全入時代という言葉に洗脳されて奴隷化

奨学金という学生ローンを抱えるのは男子学生だけではない。女子学生もまた学生ローンを抱える。

最近「民間支援法人・奨学金返済ナビ」という名乗るサイトが「奨学金返済に苦しむ女性の支援をさせていただく民間の企業です」と言って、ローンを抱えた女性に仕事を斡旋していた。

ところが、その仕事というのが性風俗やアダルトビデオの斡旋だったので、大騒ぎになった。借金を抱えた女性はいつでも食い物にされる。

やはり、アンダーグラウンドは「奨学金のワナ」に堕ちた女性たちを見逃さなかった。借金を抱えた女性は、最大の獲物なのである。

こうした事件は止まることはない。奨学金を借りて卒業後には借金まみれになっている学生が次々と社会に放り出される以上、もっと悲惨な事件も出てくるようになる。

すでに価値を失った「大学卒」というものに数百万も支払う必要はないのだが、大学全入時代という言葉に洗脳され、会社に入れば一生安泰という幻想は止まらないので、次から次へと破滅する人間が出てくる。

では、なぜこの「大学全入時代」「会社に入れば一生安泰」という幻想は続くのだろうか。

簡単だ。ビジネス社会にとっては一般庶民がそのように幻想を持ってくれていた方が「儲かる」からである。

企業は、学生に借金を負わせて数十年も利息を払わせ続けて儲けることができる。さらに、借金を背負った人間は、奴隷のようにこき使っても辞めることもできないので、壊れるまで過重労働させることも可能だ。

要するに、「大学全入時代」「会社に入れば一生安泰」という幻想を与えることによって、金融企業は若者を食い物にすることができるようになり、一般企業は奴隷のように服従する労働者を手に入れることができるようになる。

黙っていれば洗脳が続いて儲かるなら、企業はわざわざ「幻想は終わった」などと真実を親切に教えてくれない。黙って「奨学金のワナ」に堕ちた若者を食い物にするだけだ。

「大学に入らないと将来は真っ暗だ」「お金を返さないと人生終わりだ」と、真面目に考える学生であればあるほど食い物にされる弱肉強食の資本主義がここにある。


若者たちに「大学全入時代」「会社に入れば一生安泰」という幻想を与えることによって、金融企業は若者を食い物にすることができるようになり、一般企業は奴隷のように服従する労働者を手に入れることができるようになる。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20151201T1628350900


35. 中川隆[4362] koaQ7Jey 2016年10月07日 21:44:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4771]

竹中平蔵「日本は低学歴に優しすぎる社会ですね。
学歴で人間を判断するなって言うけど学歴なんです」


日本の最高学府に、なんてこと言うんだと思った人もいるかもしれませんね。

でも、こういう現実があります。

わたしがハーバード大学で客員准教授をやっていたとき、総長のヘンリー・ロソフスキーとよく話しをました。

彼は知日家で、日本のことをよく知っているんです。こんなことを言われました。

「ヘイゾウ、日本人は東京大学を『偉い』と思っているんだろう。
でも、ハーバード大学から見れば、東京大学は、トーキョーにある大学以上の意味はないんだよ」

何を意味しているかというと、もはやグローバル基準で「東大卒」は「学歴」にならないということです。

グローバル基準はもっと上をいっているんです。

人間、学歴じゃない。こういう言い方がありますね。
しかし、国境を超えて働く――グローバル社会とは、強烈な「学歴社会」。

このことを知っておいてほしいんです。

なぜ学歴なのかは、極めて合理的な判断です。

グローバル社会では、あらゆる国から人が集まってきます。
文化や宗教、あらゆる点で多様ですから、どこかで物差しを導入しないとなりません。
それこそが学歴で、世界中から集まってくるからその基準もより厳しくなります。

このことに関しては後ほどお話しするとして、日本は単なる「入試歴社会」ですよ。
どのぐらい、難しい入試に受かったか。そこだけを見ている。
日本は同質性の高い社会だから、有名な大学を出ていて、いい人そうであれば、企業は採用しますし、これまで回ってきた面はあります。

エリートと言われる人でも、日本で博士号を持っている人はとても少ないですね。そこから考えると、日本は「低学歴社会」です。

そもそも大学の進学率は50%台でしょう。
いま、世界の大学進学率は、もっともっと高い。
低学歴社会だと思わないといけない現状です。こういうことは、海を渡ると見えてきます。
http://diamond.jp/articles/-/85299?page=2


36. 中川隆[4363] koaQ7Jey 2016年10月07日 21:47:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4772]

竹中平蔵
「年をとったら国が支える、そんなことはありえないんです。
90歳まで生きたければ自分で貯めなければダメ」


私は10年以上ずっと言っていますよ。

私以外にも言っている人はたくさんいるのに、メディアがちゃんと伝えていないというのも問題。

極論ではなく、常識的な話だと思うんですが、 日本は常識を言うとバッシングされたりするんですよね。

そもそも日本人は、社会保障に対して誤解をもっています。

自分が90歳まで生きると思ったら、90歳まで生きる分のお金を自分で貯めておかないとダメなんですよ。保険は不測の事態に備えるものなんですから。


今の日本の問題は、年を取ったら国が支えてくれると思い込んでいることです。

そんなことあり得ないんですよ。

90歳、100歳まで生きたいんだったら、自分で貯めておく。

それがイヤで、国に面倒をみて欲しいんだったら、スウェーデンみたいに若い時に自分の稼ぎの3分の2を国に渡すことです。

例えば年収 1,000万円もらっているような、わりと高給取りなサラリーマンだとします。
そのうちの600何十万を国に渡せますか?
みんなの介護 結構な金額ですよね…

そういう国に住みたいですか?ということです。

でもそうしないと、今多くの人が思っている、 年をとったら国が面倒を見てくれるというような仕組みはできません。

保険料にしても税金にしても、 誰かがどこかで払っているお金。天から降ってくることはないんです。
http://blogos.com/article/190317/


37. 中川隆[4364] koaQ7Jey 2016年10月07日 21:56:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4773]

竹中平蔵
「弱者を全員救ったら財政赤字が膨らんで全国民が死んじゃう。
やはり自助自立が基本なのです。


結局はポピュリズムですよね。

道を率いるべき人が「何か困ったことがあったら助けてあげるよ」というのは本当のリーダーではありません。

「こうしなきゃいけない。みんながんばれ。私たちはこういう方向を目指そう!」

と、一人ひとりを喚起すべきなのです。

ギリシャや日本から分かるように、私たちは社会不安とポピュリズムとの悪循環の中にどっぷりはまっています。

経済が悪化しているから社会不安が出る。

格差が生まれると「可哀想だから助けてあげよう」というポピュリズムの考えが政策にある。

そんなことをしても財政赤字が膨らむ一方です。
この悪循環が世界中で起きているのが現状です。

これを断ち切るためには、厳しいことも言えるリーダーが出てくることが一つの条件でしょう。
大阪市長で日本維新の会代表の橋下さんに期待が集まっているのも理解できます。

もう一つは企業家が成功事例を作ることだと思います。
ですから小笹さんも今後どんどん成功事例を作って「みんな俺みたいになってみろ」と言ってくれると心強いですね。

若いときから自己責任、自己選択をできるようになって欲しい。
この意識が希薄すぎるなと思います。そこの重要性を伝えていきたいですね。


サミュエル・スマイルズの『自助論』という本が、明治時代によく読まれたそうです。

小泉さんが一番好きな本のひとつがこの『自助論』で、私もゼミの学生には最初にこの自助論を経済学よりも前に読んでもらっています。

「天は自ら助くる者を助く」。

自助・自立が出来る者が多ければ多いほど、本当の意味で助けを必要としている人を助けることが出来る。

今、船に乗っているとして、その船が沈んだら、自分で泳げる人は泳がないといけない。そうすることによって初めて救命ボートにお年寄りや子供を乗せられる。

みんなが全員救命ボートに乗ろうとしたら全員死んでしまう。

厳しいけれどもこれが社会の現実です。これはやはり自助なのです。

モチベーションの最終点はこの自助、自立ではないでしょうか。
http://kigyoka.com/news/magazine/magazine_20130502_15.html


38. 中川隆[4376] koaQ7Jey 2016年10月08日 09:24:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4785]

現在の富裕層は自分たちが「社会の一員」だとは考えず、「社会的責任」があるとも思っていない。

自分たちは支配者であり、情報と富を独占し、税負担を庶民に押しつける権利があると信じているようだ。

安倍晋三たちが望んでいる「新憲法」にもそうした彼らの考え方が反映されている。

庶民に基本的人権を認める気はない。
日本政府は福祉や学問の予算を減らそうとしている。
庶民から学ぶ権利を奪おうとしているのだろう。

教育には洗脳という側面があるものの、学ぶ庶民は支配層にとって邪魔な存在。
自分たちの使う幻術を見破り、支配しにくくなる。

三浦朱門の言葉を借りるならば、庶民は「実直な精神だけを養っておいてもらえばいい」ということだ。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610060000/


39. 中川隆[6703] koaQ7Jey 2017年2月14日 18:11:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7164]

「見えない“貧困”〜未来を奪われる子どもたち〜」2017/02/12
http://www.dailymotion.com/video/x5biecj_%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84-%E8%B2%A7%E5%9B%B0-%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%82%92%E5%A5%AA%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1-20170212_news

2017.02.14
NHKスペシャル 見えない貧困 ON A PLATEと言う漫画について
http://golden-tamatama.com/blog-entry-nhkspecial-on-a-plate.html

さて、一昨日のNHKスペシャル。
現代社会に広がる見えない貧困の話題をやってました。

つぁあああ。
たまたま見てたら激しく気分が落ち込む内容でした。

以前、中間層などもういないと書きましたが。
案の定、表面的には何にも変わらないが、今、若者の間で見えない貧困が急激に広がってるというお話でした。

なぜ貧困が見えないかというと。


1.ファストファッション(最新の流行を採り入れながら低価格に抑えた服)や格安スマホなど物質的な豊かさによって粉飾されてる。
2.高校生のアルバイトなど子ども達が家計の支え手になっている。
3.本人が貧困を隠すために、教師や周囲の大人が気づきにくい。

アルバイトの掛け持ちとかで疲れ切って学校に行けない子。
そして貧困で進学を諦める子が増えてるということでした。

このNHKスペシャルはネットで大きな話題でツィッターでトレンド入りしてるようです。

動画がアップされてたので張っときます。
見ると気分が落ち込むので注意。


「見えない“貧困”〜未来を奪われる子どもたち〜」2… 投稿者 gomizeromirai

まぁ、なんとも。。
救いようがない話ですね。

これで思い出したのは以下の漫画です。
世の中の理不尽を描いた漫画。
読むと泣けてきますね。

ON A PLATE (ひとつのお皿の上で)という漫画です。
裕福な家庭に育ったリチャード君と貧困家庭に育ったポーラ君の人生の対比です。


http://thewireless.co.nz/articles/the-pencilsword-on-a-plate より
http://tabi-labo.com/280195/on-a-plate (翻訳はTABLABO)

左はリチャード。両親はいい感じ。
右はポーラ。親は…まあ、あんまり。

リチャードの家は暖かくて清潔。棚は本でいっぱいで、冷蔵庫はごはんでいっぱい。
ポーラの家は人でいっぱい。ものはあんまりない。汚くて、うるさくて、病気になりがち。

リチャードの親は、子どものためになんでもしてくれる。
「いい子だ!」「賢いわね!」
ポーラだってそうだよ。だから共働きなんだ。

リチャードはいい学校に行く。設備が整っていて、子どもたちもいい子ばかり。先生たちは自分の仕事を愛している。

ポーラの学校では、クラスの人数が多すぎる。予算もないし、見た目にもそれが出ちゃってる。先生たちは疲れ果てていて、ストレスでやつれている。
「あぁ、新しいバイト探さなきゃ…」

リチャードは親からとっても期待されている。
「B+ですって?まあ、家庭教師をつけないとね」

…ポーラとはちょっと違う。
「B?へー、いいじゃない!」

長い時間の中で、小さな違いが積み重なっていく…
リチャードは、親が大学の学費を払ってくれている。
ポーラは、仕事を掛け持ちしながら職業訓練校にお金を借りて通っている。

…そしてだんだん、大きな違いになっていく。

「あの会社で働いている友人がいるんだ。話をつけてインターンに行けるようにしてやろう」
「ありがとう、お父さん」

「俺の面倒を見るより、ちゃんと勉強しなさい…」
「お父さん、あなた病気なのよ」

積み重なる小さな違いは、そっと忍び寄る…

「ローンの審査がおりましたよ。おめでとうございます!」

「悪いけどうちでは引き受けられませんね。別のところに行っては?」

そしてリチャードは、自分がトップに立つべき人間だと思いはじめる。すべて自分の力で成し遂げたと。
「君はロジャーの息子だね?噂は聞いているよ。いつも見ているからね」

その頃ポーラは、自分の立ち位置を知りはじめる。
「仕事はさせるが、ミスはするなよ」


「リチャードさん、あなたの成功の秘訣はなんですか?」

「あの…失礼します…」

でも、そうならなければいいな、と僕は思う。


「成功する秘訣は、泣き言を言わずに一生懸命努力することですね。与えられることを待ってばかりいる人にはうんざりです。僕は何も特別なものは与えられませんでしたよ」

「…」

本当に、そんな世の中にならなければいいな、と僕は思う。

同じお皿の上で、一方は恵まれて悩みのない世界に生きてるくせに好きなことを言う。
一方は恵まれない世界に生きて、それを黙って聞く。

この日本は富裕層と貧困層が分かれて棲み分けが進む社会になってきています。
もう昔のサザエさんのような誰もが共通に共感できる対象がいない。

子供の頃から住む世界が違う。
富裕層は富裕層で楽しく暮らしてる。
貧困層の暮らしには共感もできないし、そもそもどういう生活を送ってるかも知らない。

棲み分けが進んで我関せず。
現代社会は究極の我良し(ワレヨシ)社会になったと言えるでしょう。

まぁ、ワタスの見るところ今の社会の仕組みは後3年ぐらい。
今後もますます若者は苦しく貧富の差もますます開くことでしょう。
そして今後、ギリギリの限界、究極のワレヨシまで行く。
いま、99%の人は静かに耐え忍んでいます。

そして2021年の世界大戦で弾ける。

そこから全然別の違う経済の仕組みが出てくる。
今のところはそう見てます。
http://golden-tamatama.com/blog-entry-nhkspecial-on-a-plate.html


40. 中川隆[6704] koaQ7Jey 2017年2月14日 18:16:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7165]

【生活保護】母子加算廃止で回転寿司も食べられなくなった。月に一度のささやかな贅沢だったのに…

月1度の回転寿司がささやかなぜいたくだった。

乳癌で働けなくなって生活保護を受ける京都市山科区の辰井絹恵さん(46)は長男(18)と2人暮らし。向き合って座り、積み上がった40枚以上の皿を見る時だけは、貧しさを忘れられた。

毎月約2万3000円の「母子加算」は、06年度から減らされ、翌年度に打ち切られた。回転寿司はあきらめた。

_________________


幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。

       J('ー`)し
        (  )\('∀`)
        ||  (_ _)ヾ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

そんな私たちにとって月に一度のささやかな楽しみ・・・それが回転寿司

       J('∀`)し 明日は母子加算の手当てが出るからお寿司食べに以降ね
        (ヽロロ   ヽ('∀`)/
        ||      (_ _)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

役所に行くと母子加算が廃止されたことを知らされた
──┐
   │                _[自民党]
   │   J( ;'A`)し       (`Д´ )お前らにやる金なんてあるかよボケ
   │     (  )\( 'A`) ロロヾ(  ) 
   │     ||  (_ _)ヾ     || 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

母は 「母ちゃんバカでごめんね」 と言って涙を少しこぼした

  ( 'A`) J('A` )し
  .(_ _)   (  )  .┌─
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄くく ̄ ̄ ̄|  
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

そんな母が去年の暮れに亡くなった。

死ぬ前に1度だけ目を覚まし思い出したように
「回転寿司、ごめんね」 と言った。

                 ('A` )
         J('A`)し    (  )
      /⌒⌒⌒⌒⌒ヽ  ||
     // ̄ ̄ ̄フ /
   / (___/ /
   (______ノ


俺は 「楽しかったよ」 と言おうとしたが、最後まで声にならなかった


41. 中川隆[6771] koaQ7Jey 2017年2月17日 17:48:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7232]

2017年2月16日
トランプ大統領にも止められない、アメリカの「雇用の喪失」と「富の二極化」の先にある未来
[橘玲の世界投資見聞録]
http://diamond.jp/articles/-/118272


 このコラムでも何度か紹介したが、クリントン政権で労働長官を務めたリベラル派の経済学者ロバート・ライシュは、1991年に世界的ベストセラーとなった

『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4478210187/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4478210187&linkCode=as2&tag=mailmagazin0asyuracom-22

で、21世紀のアメリカ人の仕事はクリエイティブクラスとマックジョブに二極化すると予言した。それから25年後、ドナルド・トランプが大統領に選出される前年に出版された

『最後の資本主義』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4492444408/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4492444408&linkCode=as2&tag=mailmagazin0asyuracom-22


ライシュの「リベラリストとしての敗北宣言」

 何年か前、ライシュはある発電所で働く従業員向けに講演を頼まれた。当時、この発電所では従業員たちが労働組合をつくるかどうかを検討しているところだったが、組合結成に反対票を投じようとしていた一人の若者が、自分はいまもらっている14ドルの時給が妥当で、それ以上もらえるような仕事はしていないといいだした。

「何百万ドルも稼いでいる人たちは、本当に素晴らしいと言いたいです。自分も学校に通って、お金を稼げる頭脳があれば、そのぐらい稼げたのではないかと思うけど、自分は学校にも行かなかったし、頭も良くないので、肉体労働をやってるんです」

 この場面はライシュがカリフォルニア大学で行った授業をもとに制作されたドキュメンタリー映画『みんなのための資本論』(ジェイコブ・コーンブルース監督/サンダンス映画祭審査員特別賞)にも収録されているが、「働く若者にこんなことをいわせる社会は間違っている」という怒りが伝わってくる。こうしてライシュは、「公教育を立て直すだけではダメだ」と考えるようになった。

 ライシュ自身ははっきりとは書いていないが、その理由は明快だ。国をあげて抜本的な公教育改革を行なえば貧困層からクリエイティブクラスの仕事に就く若者が増えるだろうし、もちろんこれは素晴らしいことだが、同時に「能力主義」の神話を強化することになるからだ。

 アメリカに蔓延する「能力主義」をライシュは、「人間の価値は労働市場の評価によって決まる」という価値観だという。10億ドルのボーナスを受け取る投資銀行のCEOはそれだけの価値があり、時給14ドルの若者にはそれだけの価値しかないのだ。

 このような価値観の社会で高所得者への課税を強化し教育にさらなる公費を投入できたとしても(これ自体がほとんど実現不可能だが)、すべての若者がクリエイティブクラスになれるわけはなく、現実には成功者はごく一部にちがいない。だとすれば、それでも落ちこぼれた多くの若者たちの自己評価はどうなるのか……。

 こうしてライシュは、「自助努力」「自己責任」と訣別して、アメリカ社会の制度を批判する。『最後の資本主義』の9割(あるいは95%)は、「アメリカはなぜこんな不道徳な社会になったのか」の詳細なデータに基づく告発だ。

 だがライシュは、富裕層やグローバル企業を「悪」、貧困層を「被害者」として単純に断罪するわけではない。そこにはアメリカの公教育と同じく、「こうなるほかはない」制度的な必然がある。

 アメリカ憲法修正一条は「市民が政府に対して請願する権利」を保障しており、これが政府や政治家に対するロビー活動の根拠になっている。さらに最高裁判所は2010年、右派市民団体「シティズン・ユナイテッド」が連邦選挙管理委員会に対して起こした裁判で、企業(法人)にも人格権を認め、憲法に定められた「言論の自由」が保障されているとの判決を下した。これによって政治広告に対する企業支出を制限した2002年の超党派選挙改革法(マケイン=ファインゴールド法)は憲法違反となり、企業の政治活動が無制限に解禁された。

 そうなれば企業は、自社のビジネスにすこしでも有利になるようさまざまなロビー活動を行なうようになるだろう。株主は企業収益の拡大を望んでいるのだから、そのような努力をしない経営者はさっさと解雇されてしまうにちがいない。

 だが話はこれだけでは終わらない。高徳の株主と経営者のいる企業があって、不道徳なロビー活動はいっさいしないと宣言したとしよう。これは美談かもしれないが、その企業のビジネスモデルや諸権利はたちまちライバル企業のロビー活動によってむしりとられ、事業を継続できなくなってしまうだろう。そうなれば株主が大損するばかりか、従業員も仕事を失って路頭に迷ってしまう。企業による「請願」が広く認められた制度のもとでは、道徳的であろうがなかろうが否応なくライバル企業と同等の、あるいはそれ以上のロビー活動をするしかないのだ。

 アメリカの高級住宅地に暮らす親たちは、子どもによりよい教育環境を与え、自分たちの不動産の価値を守ろうと努力している。そこになんら不正なところはないが、それが間接的に貧困地区の公教育を荒廃させている。

 同様に大企業も、株主の期待にこたえ従業員の生活を守るために、政治に関与してすこしでも有利な条件を引き出そうと努力している。そうしたロビー活動の一つひとつには不正なところがないとしても、それが積み重なると市場のルールは大きく歪められ、富める者がよりゆたかになり、貧しいものがより貧しくなる不道徳な社会ができあがるのだ。――これがライシュの「リベラリストとしての敗北宣言」だが、だったらどうすればいいのか?

アメリカにベーシックインカムが導入される日が来るのか

 じつは『最後の資本主義』のなかで、超格差社会アメリカをどのように立て直すのか、というライシュの提言はものすごくあっさりしている。要は、「このまま政治不信が強まればいずれ理性的な拮抗勢力が現われ、社会のあらゆる不正を改革するだろう」というだけなのだ。この「拮抗勢力」がどのようなもので、なにを政治的基盤とし、どこから登場するのかという具体的なことはいっさい書かれていない。これでは「いずれ印籠を掲げた水戸黄門が登場する」といっているのと同じで、まったくリアリティがない。

 強欲資本主義の改革案としては、株主だけでなく従業員や地域社会、環境への影響も含めたステークホルダー全体の利益を考慮する「ベネフィット・コーポレーション」が紹介されているが、その説明もあっさりしたもので、2014年までに27の州で設立を認める法律が制定され、「121の業種で1165社以上がベネフィット・コーポレーションとして認証を受けている」事実が記されているだけだ。

 ここにライシュのリベラリストとしての限界を指摘するのはたやすいが、じつはライシュ自身がそんな拮抗勢力(第三党)になんの期待もしていないのではないだろうか。

『最後の資本主義』でもっとも興味深いのは、「ロボットが取って代わるとき」と「市民の遺産」と題された巻末の短い章だ。

 ここでライシュは、テクノロジーの発達によって顧客数に対する従業員の割合がきわめて低くなっていることを指摘する。

 2012年に写真共有サイト、インスタグラムが約10億ドルでフェイスブックに売却されたとき、ユーザー数3000万人に対して従業員は13人だった。その数カ月前にフィルムメーカーのコダックが破産申請したが、コダックは最盛期に14万5000人の従業員を抱えていた。

 2014年はじめにフェイスブックがリアルタイムメッセージサービスのワッツアップを190億ドルで買収したが、ワッツアップは4億5000万人の顧客に対して従業員は55人しかいなかった。

 このように、デジタル化が進むと企業は多数の労働者を必要としなくなる。1964年、米国で企業価値上位4社の時価総額の平均は1800億ドル(2001年米ドル換算)で雇用者数は平均45万人だった。47年後の2011年には時価総額は1964年のトップ4社の約2倍になったが、そこで働く従業員は4分の1にも満たないのだ。

 ライシュは、いずれ大量生産と大量消費の時代は終わり「少数による無制限の生産と、それを買える人だけによる消費」になるという。だが当然のことながら、そのようなビジネスモデルは持続不可能だ。商品やサービスを買うことはもちろん、家族を養うことも、自分自身が生きていくことすらできない膨大な貧困層が社会に溢れているのだから。

 こうしてライシュは、富の二極化がこのまま拡大していけば、ベーシックインカムを導入するほかに社会問題を解決する方法はなくなるだろうと予想する。ライシュのいうベーシックインカムは、「受給者とその家族が最低限のまともな暮らしをするのにぎりぎりの金額」を、必要とするひと全員に無条件で支給することだ。

 テクノロジーが究極まで発達すれば、ほとんどの仕事はAIとロボットにやらせればいい。それを発明したごく少数のひとたちは莫大な富を手にすることになるだろうが、功利主義的に考えれば、彼らはそれを独占して社会を大混乱させるより、貧困層にベーシックインカムを支給して安定した社会を維持した方が好ましいことに気づくはずだ、というわけだ。こうして、「人々はそれぞれがあらゆる種類の芸術や趣味の追求に意義を見出すことができ、社会は芸術活動やボランティア活動による成果を享受できる」ようになるのだと、ライシュはいう。

『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』で四半世紀後の未来を的中させたように、自助努力と自己責任の国アメリカにベーシックインカムが導入される日がくるのだろうか。

 私は、その可能性は思いのほか高いのではないかと考えている。

 トランプは右派ポピュリズムで大統領の座を手にし、不法移民を追い出し自由貿易を否定する「ブードゥー経済学」でアメリカ経済を復活させようとしている。それが失敗したときは(間違いなくそうなるだろうが)、アメリカの怒れる有権者に残された選択肢は左派ポピュリズムしかないのだから。――もっともそれで、すべてのひとが「自己実現」できるユートピアが訪れるとは思えないが。

は、ライシュの勝利宣言であると同時に、敗北宣言でもある。

 勝利したのは経済学者としてのライシュで、敗北したのはリベラリストとしてのライシュだ。原著のタイトルは『Saving Capitalism』となっているが、そのうえでライシュは、「資本主義を救い出さなくてはならない」と述べる。これはどういう意味なのか、その主張を検討してみよう。

ブルーワーカーの仕事がなくなり、サービス業の賃金が下がった

『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』でライシュは、より正確には、将来のアメリカ人の仕事は(1)ルーティン・プロダクション(定型的生産)サービス、(2)インパースン(対人)サービス、(3)シンボリック・アナリティック(シンボル分析的)サービスに分かれると述べた。『最後の資本主義』では、四半世紀を過ぎた時点で自らの予言と現実が比較されている。

 ルーティン・プロダクション・サービスは工場労働などの「繰り返しの単純作業」で伝統的なブルーカラーの仕事だが、部下の仕事を繰り返し監視する仕事や、標準的な業務手順を遵守させる管理業務、定期的なデータ入力やデータ検索などのバックオフィスの仕事も含まれる。

 1990年当時、こうした仕事に従事するアメリカ人は被雇用者全体の25%程度だったが、テクノロジーの進歩とグローバル化(新興国の低賃金労働者への置き換え)によってその割合は着実に減少していくとライシュは予測した。

 2014年時点で当時と同じ方法で調べたところ、ルーティン・プロダクション・サービスに従事するアメリカ人の割合は20%以下まで減っているばかりか、物価調整後の賃金の中央値は15%も減少していた。

 インパースン・サービスは小売店の販売員、ホテルやレストランの従業員、介護施設の職員、不動産仲介業者、保育園のスタッフ、在宅医療従事者、フライトアテンダント、理学療法士、警備員など、「人間的な接触が欠かせないために人の手によってなされる仕事」だ。

 1990年時点でこうした仕事に就いているアメリカ人は約30%で、ライシュはその数が増加する一方、賃金は下がると予想した。かつてルーティン・プロダクション・サービスで働いていたひとたち(主にブルーワーカー)がインパースン・サービスでしか仕事を得られなくなり労働力の供給が増えることに加え、ATMやコンピュータ制御のレジ、自動洗車機、自動販売機、自動給油機など省力化のテクノロジーとも競争することになるからだ。

 2014年時点で「対人サービス」の仕事は米国全体の半分ちかくを占め、新たに創出された雇用の大半がこの職業区分に属していたが、その賃金の中央値は物価調整後の数字で1990年の水準を下回っていた。ライシュが予想できなかったのはテクノロジーの急速な進歩で、Amazonはドローンによる配達を計画し、Googleの自動運転車は450万人にのぼるタクシーやバス、トラックの運転手、清掃業従業員の雇用に深刻な脅威を与えている。

 シンボリック・アナリティック・サービスは「問題解決や問題発見、データ、言語、音声、映像表現などのシンボルを操作する戦略的媒体」にかかわる仕事で、エンジニア、投資銀行家、法律家、経営コンサルタント、システムアナリスト、広告・マーケティングの専門家、ジャーナリストや映画製作者、大学教授などが属する。これらの仕事の本質は、「数学的アルゴリズム、法的論議、金融技法、科学の法則、強力な言葉やフレーズ、視覚パターン、心理学的洞察をはじめ、思考パズルを解くためのテクニックなどのさまざまな分析ツールや創造のためのツールを用いて抽象的なシンボルを再構築」することだとライシュはいう。これを要約すれば、「知的でクリエイティブな仕事」のことだ。

 1990年、ライシュはシンボル分析の専門家が米国の被雇用者の20%を占めており、その割合も彼らの賃金も増えつづけると予想した。

 現実に起きたのは、ライシュの予想をはるかに上回る富の集中と格差の拡大だった。いまやアメリカでは、最富裕の上位400人が所有する富が下位50%の富の合計を上回り、上位1%が米国の個人資産の42%を所有している。

 下位50%の家計が所有する富の割合は1989年時点では3%だったが、2014年時点では1%まで下落した。1978年、上位0.01%の家計は総じて平均的家庭の220倍裕福だったが、それが2012年には1120倍に達している。物価調整後の数字で比較すると、フルタイムで働くひとびとの週当たり賃金の中央値は2000年以降下落しており、時給の平均も40年前より低くなった。

 このように、ライシュの予言はすべて的中した。これが「経済学者としての勝利宣言」だ。

アメリカでは高級住宅地と貧困地区で公教育格差がある

 待ち構える暗鬱な未来をそのまま放置することはできないものの、リベラリストであるライシュは「メキシコとの国境に壁をつくれ」とか「不法移民を追い返せ」とはいわない。――ただしライシュは、NAFTA=北米自由貿易協定やTPP=環太平洋戦略的経済連携協定には批判的だ。自由貿易は比較優位を交換するWIN-WINの関係ではなく、グローバル企業だけが得をし、貧しいひとたちが一方的に損をする理不尽な取引だからだという。

『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』でライシュが提示した処方箋は、大企業や高所得者から税を徴収し、それを原資に公教育を立て直すことだ。グローバル化とテクノロジーの進歩でブルーワーカーの仕事がなくなり、サービス業の賃金が下がるのるなら、先進国の労働者に残された道は「シンボリック・アナリティック・サービス」すなわちクリエイティブクラスの仲間入りをすることだけだからだ。

 だがライシュの期待に反して、アメリカでは低所得の子どもと高所得の子どもの学力差は拡大している。

 1985年当時、家計資産上位10%の家庭の子どもと下位10%の子どものSAT(大学進学適性試験)の平均点の差は800満点中90点だったが、2014年にはその差は125点に広がった。先進国の生徒の学習到達度調査(PISA)でも、参加63カ国中、所得別の数学力の差は米国がもっとも大きく、読解力では高所得世帯の子どもが低所得世帯の子どもを平均で110点上回った。

 世帯所得による子どもの学力差は、人種によるちがいよりも、裕福な地域と貧困地区の学校の財政状況の影響が大きい。これはアメリカの公教育に特殊な事情で、公立学校に投入される「公費」の割合は連邦予算が10%、州政府が平均して45%で、残りは学区の自治体が調達することになっている。その財源の多くは地方固定資産税、すなわち不動産資産への課税だ。

 これは日本など他の国とは大きく異なる制度だが、その結果、どういうことが起きるのだろうか。

 もう10年以上前のことだが、ハワイの住む知人が、小学校の学力比較表と不動産物件情報を真剣な表情で見比べていて不思議に思ったことがある。彼の話では、よい学校のある住宅地ほど物件価格が高く、安い物件のある地区は教育事情が悪い。そこでどの親も、マイホームの予算の範囲内でもっともいい学区に家を買おうと必死になるのだという。

 このようにアメリカでは、不動産価格と地域の学校の教育レベルが強い相関関係にある。これは、学校の評判がよくなれば不動産価格が上がり、評判が悪くなれば不動産価格も下がるということだ。そうなると高級住宅地に住む裕福なひとたちは、子どもによりよい教育環境を与えたいという親心とマイホームの価値を上げたいという経済的理由の、ふたつの強力なモチベーションによって地域の学校のために協力を惜しまなくなくなる。これが、たんに高い固定資産税を納めるだけでなく、バザーなどを積極的に開いて地域の学校の財源に充てようとする理由だ。

 この好循環は、子どもが学校を卒業しても終わらない。地域の教育環境をよくすることが不動産資産の価値を守るもっとも効果的な方法なのだから、富裕層は漫然と国や州に所得税を払うのではなく、税控除のできる寄付で地域の学校に立派な講堂や図書館、音楽ホールなどをつくったほうがいいと考えるだろう。このようにして、全米でもっとも地価の高いシリコンバレー周辺では、「公立」でありながら上流階級向けのどんな私立にもひけをとらない豪華な学校ができあがることになる。

 その一方で、地価の安い貧困地域ではこれと同じメカニズムが逆に働いて、教育環境はますます悪くなる。満足に固定資産税を徴収できない自治体は公教育に予算を割り振れないし、住民たちも、荒れ果てた学校のために努力するのは穴の開いたバケツに水を注ぐようなものだと考えるだろう。

 このようにアメリカにおいて、高級住宅地と貧困地区で子どもの学力差が拡大するのは制度的必然なのだ。

 公教育の歪んだ構造はライシュをはじめ多くの論者が指摘しているが、改善はきわめて困難だ。

 誰もが真っ先に考えるのは、固定資産税で自治体の教育予算を賄うのを止め、連邦政府や州政府が一括して税を徴収して公立学校に平等に分配することだろう。これによって地域の学力差は縮まるだろうが、それはすなわち、高所得者の子どもが通う学校の教育レベルが低下する=住宅価格が下落する、ということだ。いくら社会全体のためだと説得しても、このような改革(改悪)を強い政治的影響力を持つ富裕層・高所得者層が受け入れるはずはない。同様の理由で彼らは、貧困地区の子どもたちが学区を超えて入学することにも頑強に反対するだろう。

 左側通行を右側通行に変えられないのと同様に、特殊な制度やルールにもとづいていったん既得権層ができあがると、彼らが損失を被るような変更はほとんど不可能になる。こうした例は社会に溢れているが、アメリカの公教育の二極化もその典型なのだ。
http://diamond.jp/articles/-/118272

日本国民の一人負け? 2017/02/17 From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

トランプ大統領誕生で、さすがにTPPは流れましたが、
今度は代わりに日米の二国間での貿易協定の話が浮上してきました。

こちらも結構、脅威ですね。何が脅威かというと、
一番おっかないのは、安倍首相をはじめとする日本の政治家、
ならびに多くのマスコミや「識者」が、経済のグローバル化が
進んだ状況での「国益」についての認識が不十分なことでしょう。

本メルマガ読者にとっては常識ですが、経済のグローバル化が進んだ現在では、
「A国の国民一般の利益」と「A国のグローバルな企業や投資家の利益」は、
必ずしも一致しません。例えば、日本でいえば、トヨタ自動車がいくら儲けていたとしても、
それが必ずしも日本国民一般の利益になるとは限らないのです。

最近、

ロバート・ライシュの『最後の資本主義』 (雨宮寛、今井章子訳、東洋経済新報社、2016年)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BBB-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4492444408


という本を読みました。

この本の主な主張は、新自由主義のもとでここ数十年、
米国の市場経済のルールが、グローバルな投資家や企業に有利である一方、
普通の人々には不利なようにひどく捻じ曲げられてきたということです。
その結果、現在の米国の市場経済は、金持ちには激甘で、普通の人々には
非常に厳しい不公正極まりないものになっているとライシュは指摘します。

ライシュによれば、経済を語るときに、「自由市場」か、それとも「政府による介入」か、
という問いの立て方は正しくありません。こう語ってしまうと、あたかも、
現在の市場経済のあり方こそ「自然」「当然」であり、政府やなんらかの組合や
商工団体などが市場の働きに対して口をはさむことは経済の流れを
澱ませてしまう不当な干渉だということになってしまいがちです。

ライシュは、こうした理解は正しくないと言います。
人為の加わっていない「自然な」市場などなく、どの国の、どの時代の市場も、
その国の政府が定めた特定のルールに基づくものだと指摘します。

ライシュによれば、以下の五つのルール(取り決め)があってはじめて市場が機能します。

●所有権 … 所有できるものは何か。
●独占 … どの程度の市場支配力が許容されるか。
●契約 … 売買可能なのは何で、それはどんな条件か。
●破産 … 買い手が代金を払えないときはどうなるか。
●執行 … これらのルールを欺くことがないようにするにはどうするか。

ライシュは、米国では、1980年代辺りから、市場の基礎にある
これらのルールがすべて「資本を所有する者たち」
(企業とその株主や重役たち、ウォール街のトレーダーや
ヘッジファンド・マネージャー、プライベートエクイティ・マネージャー)
に有利に働き、平均的な労働者には不利に働くようになっていったと述べます。

つまり、「資本を所有する者たち」が市場のルールを自分たちに
有利なように変えていき、有利なルールのもとで多額の金を稼ぐようになった。
そして、その稼いだ金で旺盛なロビー活動や政治献金、選挙運動を繰り返すことにより、
経済力を政治力に変換し、さらに市場のルールを自分たちに有利なように捻じ曲げてしまった、というわけです。

その結果が、現在の米国の巨大な格差です。
また、トランプ現象、サンダース現象でみられたような一般庶民の反発の背景にあるのは、
すっかり不公正になってしまった米国の今の市場経済のあり方です。

例えば、現在の米国では、グローバル企業の役員やヘッジファンドのマネージャーは、
何百万ドル、何千万ドルといった収入を得ますが、その一方で、社会福祉、教育、看護、
高齢者介護、幼児教育といった職業は、(日本でもほぼ同様ですが)最も低賃金の専門職とされています。

あるいは、1960年代、70年代あたりまでの工場労働者は、まがりなりにも家族を養い、
子供によい教育を受けさせる程度の夢は描けましたが、現在の労働者は、そうはなかなか行きません。

ライシュは、現在、流布している「自由市場」イデオロギーの下では、
「ある人が稼ぐ金額こそが、その人の価値を表している」という見方が
あたかも真実のようにまかりとおっているが、この見方は正しくないと論じます。

ライシュによれば、こういう収入の巨大な格差の大部分は、政治力の差、交渉力の差に由来するのです。

グローバル企業の役員やヘッジファンド・マネージャーは、経済力を政治力に変え、
市場のルールを繰り返し変更し、自分たちに有利な社会の仕組みを作ってきました。

他方、大部分の一般庶民は、戦後30年間ぐらいは、組合や商工団体などを通じて、
ある程度、組織された政治力を持つことができました。
そのため、市場のルールがグローバルな投資家や企業に一方的に有利にならずに済んでいました。
しかし、1980年代以降、それが難しくなり、バランスが大きく崩れました。

TPPも、ライシュによれば、こうした不当な市場のルールを固定化しようとするものです。
米国民の大部分がTPPに反対なのは、「貿易から得られる最大の利益が投資家と
企業の重役に渡る一方で、賃金の良い仕事を失う中間層と低所得層ばかりが
負担を不均等なまでに背負う結果となっている」(第17章)からです。

スティグリッツも、以前、TPPとは自由貿易協定ではなく、
グローバルな投資家や企業といった一部の特定集団のための
管理貿易協定だと述べていましたが、ライシュの見方も同様なのです。

さて、トランプ大統領の登場で、TPPは幸いなことに流れました。
しかし、今度は、日米の二国間協議でFTAを結ぶのではないかということが浮上してきています。

冒頭で述べたように、日米の二国間貿易協定に対しても大いに懸念が湧きます。
安倍首相をはじめ、日本の政治家やマスコミ、「識者」といった人々は、
現代では、グローバルな投資家や企業の利益と国民一般の利益には
大きなズレがあるということをほとんど認識していないようだからです。
(あるいは、このズレに気づかないふりをしているだけかもしれませんが…)。

例えば、日本が米国に大規模な投資をし、米国の雇用拡大に貢献するという
「日米成長雇用イニシアチブ」が、日米首脳会談前に話題になりました。
一部では、高速鉄道などの米国のインフラ整備のために
日本の年金基金の金を使うのではないかという話も出ていました。

こうした対米投資の計画について安倍首相は、
下記のロイターの記事にあるように、
「ウィンウィンの関係を作り、米国の雇用を増やし、
日本も良くなっていく」と述べたそうです。

「「日米イニシアチブ」検討、数十万人の米雇用増目指す=政府筋」
(『ロイター』2017年1月31日配信)
http://jp.reuters.com/article/japan-us-initiative-idJPKBN15F0KT

しかし、この「日米成長雇用イニシアチブ」のどこが
「ウィンウィン」(互恵的)であるのかよくわかりません。

高速鉄道計画などで日本企業の技術を活かすということですから、
インフラ整備を請け負うのは日本企業なのでしょう。
ですので、「米国は、日本の金を原資とする公共投資によって
大規模な雇用が生まれるという点で利益がある一方、日本企業も、
米国内でビジネスできるため日本の利益にもなる」ということなのでしょうか。

だとしたら、日本国民からみれば、あまり「ウィンウィン」とは
いえないようです。日本の大企業が利益を得たとしても、
日本の国民一般の利益になるとは限りませんので。

「日米成長雇用イニシアチブ」の話からもわかるように、
日本の政治家や「識者」は、どうも「日本の大企業の利益」
≠「日本の国民一般の利益」であるということの認識が薄いようです。

その点、トランプ大統領は、少なくとも先月の就任演説などを聴く限りでは、
米国のグローバルな投資家や企業の利益は、必ずしも米国の普通の人々の
利益につながらないということをわりとよく認識しているようです。

そこで、私が懸念するのは、この認識の差から、
日米の二国間の貿易協定は、TPPよりも
ひどいものとなってしまわないかと言うことです。

TPPは、「日米などのグローバルな投資家や企業」が儲け、
「各国の国民一般」が食い物にされるという図式でした。

しかし下手をすると、
日米の二国間貿易協定では、トランプ政権の術中にはまれば、
「日米のグローバルな投資家や企業」と(雇用面などで)
「米国の一般国民」が利益を得る一方、
「日本の一般国民」だけが損をするという事態になりかねません。
(´・ω・`)

日本の政治家は、グローバル化した経済の下では、
グローバルな投資家や企業の利益と、国民一般の利益は、
必ずしも一致しないということを肝に銘じて、
「日本国民第一主義」の立場で今後の政治を考えてもらいたいものです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/


42. 中川隆[6812] koaQ7Jey 2017年2月23日 07:19:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7273]

専門学校や工業高校・高専では まともな人材は育成できない


Sunday, January 24, 2016
世界的な「フィンランド教育ブーム」に警鐘を鳴らしていたフィンランド数学者たち

日本の学校教育の欠点について発言すると、海外から「なぜ自分の国を批判するのか?」と言われることがある。
教育がその国のすべてではないのだから、これは的外れな反応なのだが、学校を批判するとその国民全体を批判したと誤解する人はいるようだ。

以下の文章は全体的に否定的なトーンである。ただし、これは「フィンランド教育ブーム」について書いているのであって、フィンランドという国家について論じているわけではない。言うまでもないが、フィンランドは尊敬すべき国のひとつである。


フィンランド教育ブーム

2000年代前半から、主にPISA(OECDの国際学力調査)の結果がきっかけになって、フィンランドの教育が世界的に注目されるようになった。日本でも「学力世界一」というフレーズとともに、多くの教育専門家やジャーナリストがフィンランドの教育を取り上げ賞賛してきたので、良い印象を持っている人が多いと思う。
ただ、実際何がすごいのか、ということを知っている人は少数だろう。私もあまりよく知らなかった。


警鐘を鳴らしていたフィンランド数学者たち

一昨年(2014年)、ニューヨーク・タイムズが日本の教育についてトンチンカンな記事を載せたとき、私の反論に加勢してくれた人たちが「フィンランド教育ブーム」についてもいろいろ聞かせてくれた。関連のサイトも教えてもらったので、ここに紹介したいと思う。

以下は、フィンランドの数学者が書いた文章の要約である。英語で全文読みたい場合はリンク先へどうぞ。


1 PISA 調査で分かるのは、生徒の数学能力のごく一部だけ
The PISA survey tells only a partial truth of Finnish children's mathematical skills
http://matematiikkalehtisolmu.fi/2005/erik/PisaEng.html

PISA 調査の結果が発表されて以来、「フィンランドの義務教育を修了した者は数学の専門家だ」などと新聞やマスコミは報じているが、大学や Polytechnic(技術専門学校)の数学教員たちは、新入生の数学の知識が劇的に落ちているので懸念している。たとえば、1999年に行われた TIMSS (国際数学・理科教育調査)では、図形と代数の分野でフィンランドの学生は平均を下回った。また、あまりにも多くの受験生を不合格にできないので、最近理事会は入試の合格基準点を驚くほど下げざるを得なかった。

この矛盾は、PISA 調査では日常的な数学知識を測るだけで、分数の計算、初歩的な方程式の解法、図形的推理、立体図形の体積計算、代数式の扱いなど、その他多くの技能には対応していないことが主な原因である。

習得すべき数学の基礎が弱いので、後期中等教育では、本来それまでに習得しておくべき単元の復習に労力を割かなくてはならず、そのしわ寄せが高等教育にまで波及している。
(要約終わり)


2 フィンランド人の数学能力における深刻な欠点
Severe shortcomings in Finnish mathematics skills
http://matematiikkalehtisolmu.fi/2005/erik/KivTarEng.html

200人以上の大学教員がフィンランドの数学教育について懸念を表明したことに対して「アカデミックの批判にすぎない」という意見があったが、それは正しくない。実際、文書にサインしたうちの約半分は Polytechnic や工科大学の教員であって、彼らが教えているのはアカデミックな数学ではなく、実用的な数学だ。
1999年から2004年にかけて、Turku Polytechnic(トゥルク技術専門学校)では工学系の新入生の数学能力をテストしてきたが、2400人の生徒のうち初歩的な問題を解くことができたのはわずか35%であった。

Polytechnic の教員たちは、学生の代数式の扱いや方程式を解く能力の低さに驚いている。

この問題を解決するために、教育省は作業部会を設立する必要があると思うが、そのメンバーには大学や Polytechnic の教員を参加させるべきである。

また、PISA 調査でトップになることは Pyrrhic Victory(ピュロスの勝利=犠牲が大きすぎる勝利)なのではないかと考えてみる必要がある。
(要約終わり)

フィンランドの教育制度や論争の文脈によくわからないところがあるので、詳しい方がいたらコメントをいただきたいところだが、「学力世界一」という看板には、フィンランド国内でもかなり議論が分かれているようだ。

また、マスコミや教育学者は、このような事実を全く伝えず、フィンランドの教育を賞賛してばかりいるが、それには改めて愕然とさせられる。

フィンランドの中学生で分数の計算ができるのは2割以下

あるアメリカの数学者が、TIMSS というもう一つの国際学力試験の結果について論じている。

OECDのPISAとは違って、TIMSS ではフィンランドの子供たちのスコアは総じて低いのだが(日本は両方とも高いレベル)、その中でも、彼は分数の引き算の問題について注目し、16%という正答率の低さもさることながら(日本の正答率は65%)、その間違え方を分析した上で、フィンランドの生徒は分数が何なのかわかっていないかもしれない、と論じている。


日本に限らず世界中の教育関係者が、フィンランド教育やPISA型学力を礼賛しているが、少なくとも、日本の社会や保護者は、分数の計算ができる中学生が2割以下にとどまってしまうような教育を求めていないだろう。


(以下は、2016年6月2日に追記し、2017年1月20日に改訂しました)

また、下のフィンランドの新聞記事は、「9年生の3分の2がパーセンテージの計算ができない」と報じている。ちなみに、フィンランドでは就学年齢が7歳なので、9年生とは概ね16歳に相当し、基礎教育(義務教育)の最終学年である。

上記の2番目の意見で、フィンランドの数学者は、PISAでトップになることは「ピュロスの勝利」ではないかと書いているが、その大きすぎる犠牲とはこのことだったのだろうか。
http://jukuyobiko.blogspot.jp/2016/01/blog-post.html


43. 中川隆[7323] koaQ7Jey 2017年3月25日 11:49:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7798]

世の中は関わっても仕方がないほど信頼できない人間がいる

国会で籠池泰典氏が証人喚問されて根拠に乏しいことをあれこれ言っているが、この男は名前を何度も変え、その妻も名前を変え、いろんな宗教を渡り歩き、妄想でモノを話し、言うことがすべて信用できない男だった。

言っていることは信用できないし、契約も信頼できないし、 約束も信頼できない。

籠池泰典氏を見ても分かる通り、信用できない人間と約束しても、その約束はいずれ反故にされる。世の中とはそういうものだ。もともと裏切り癖がある人間は、その場その場で何かを約束しても、それを守ることは絶対にできない。

信頼できない人間は、原理原則など守らない。自分の感情で動くので、自分が不利になると思えばいつでも約束を破る。

何度も約束を破ってきた人間と約束するというのは、いくら文書でしたためても、いくら第三者を約束の場に立ち会わせても、まったく意味がない。

状況が変われば平気で約束を破るからである。

信頼できない人間は、相手を利用することしか考えていない。だから、こうした人間と関わると一方的に利用される。良いように利用されて、後になって「約束? そんなものは知らない。状況が変わった」と言われるだけだ。

だから、信頼できない人間とは関わってはいけないのである。関われば関わるほど、相手に振り回され、泥沼にはまり、被害を受ける。


信頼できない人間は、いつでも恩を仇で返す

私たちのまわりには籠池泰典氏だけでなく、いろんなところに信頼できない人間がいる。信頼できない人間と関わると話がこじれるだけこじれて面倒になるだけなのは籠池泰典氏を見れば分かる。

信頼できない人間が心を入れ替えると思ってはいけない。心を入れ替えるのではない。自分の都合によって、すり寄って来たり、逆恨みしたり、友好を高らかに謳ったり、恫喝してきたりするのである。

信頼できない人間というのは数多くの特徴がある。その特徴のひとつは「臆面もなく立場を変える」というものだ。

自分が弱いときは「我々は離れられない仲」「兄弟」「家族」と言ってタカりにくるが、自分は絶対に恩を返そうとしない。それどころか、自分が少しでも優位だと思えば手の平を返して傲慢になりこちらを見下してくる。

要するに、恩を仇で返すのである。

自分の都合が悪くなれば、泣き叫び、わめき、いかに自分が弱いかを主張し、被害者であることを装って謝罪と賠償を要求する。

信頼できない人間は、何かあれば「すぐに被害者になりたがる」のである。相手にタカるには「被害者になる」のが一番有効な手段だからだ。

だから、被害者になるために事実をねじ曲げることも、過去を捏造することも何でもする。嘘を100回でも1000回でもしつこく言っていればそれが本当になると考えて、他人に「自分は被害者だ」とわめき散らす。

このような人間にうんざりして言いなりになると、「もっと謝罪しろ、もっと賠償しろ」と次から次へと要求してくる。そして、決着したことを何度も何度も蒸し返す。

だから、こうした人間と関わり、話を聞き、妥協点を探るという動きは、それがどんな小さなものであれ、すべて失策であり、重大な誤りであり、取り返しのつかないミスである。

信頼できない人間と関わり、相手の言うことを聞くというのは、それ自体が「100%誤り」なのだ。

相手にしてはいけない。断絶しなければならない。折れてはいけない。言いなりになってはいけない。相手のペースにはまってはいけない。

ほんの小さな点であれ相手の要求を飲むことが、被害を拡大させるのである。

信頼できない人間は、息をはくように嘘をはき、約束した次の瞬間には裏切り、相手をワナにかけることも、嫌がらせすることも、自分の気分次第で何でもする。信頼できない人間は、いつでも恩を仇で返すのだ。


何もかも自分の都合の良いように捏造する

信頼できない人間は真実や客観的事実など、まったく関心がない。そんなものは平気で踏みにじる。それが自分に都合が悪ければ無視するか、自分の都合の良いように捏造する。

過去も、歴史も、名前も、経歴も、経緯も、何もかも捏造して自分の都合の良いようにねじ曲げる。相手を不利にして、徹底的に自分を有利にする。

信頼できない人間は、平気でそのようなことができるのである。もはや生まれながらにして犯罪者であるかのように、そうした行動を取る。

自分のためなら相手を踏みにじることに良心の呵責もない。他人の成果をかすめ取ることも平気だ。他人が生み出したものを、自分がやったと言い出し、「オリジナルは自分にある」「起源は自分にある」とも平気で言う。

すべての成果を自分のものにし、すべての起源を自分のものにして恥じない。

それが真実ではないことを指摘すれば、逆切れして激しい口調で相手を罵る。真実は恫喝で黙らせる。信頼できない人間というのは、そういう性格なのである。

だから、関われば関わるほど、すべて奪われる。「相手から奪えるものは何もかも奪う」というのが信頼できない人間の考えることであり、だから関わると必ず被害に遭う。

信頼できない人間は、すべてを横取りするつもりだ。コツコツと何かを成し遂げようとは絶対にしない。誰かの成果をパクって楽して成果を上げようとする。パクれなければ、努力している相手の足を引っぱる。

そのため、信頼できない人間に関わっていれば、知らずしていろんなものが盗まれ、パクられ続ける。さもなければ、足を引っぱられ続けられる。

自分が旨い汁を吸えなければ激しい嫉妬に駆られ、その嫉妬が火のように燃え上がり、きちんと生きて成果を出している人間に逆恨みの感情を持つようになるのだ。

信頼できない人間と一緒にいれば、助けても助けなくても恨まれる。信頼できない人間は、うまくやっている他人を恨むことしかできないのである。


隣の人間が、一番タチが悪いというのが世の中の常

こうした人間には、遠慮もなければ、配慮もない。思いやりもなければ、恥を感じることもない。感情のまま生きており、すぐに他人を恨む。

タカることが人生の目的なので、向上心などない。向上心はないがブランドや肩書きには弱いので、こうしたものを不正で手に入れようと画策する。あるいは都合の良い存在に「なりすまし」する。

すべてがいい加減であり、何をさせても手抜きする。それでいて信じられないほどのナルシストであり、自分に酔って自分の姿が分からない。自分の姿でさえも捏造するので、本当の自分がない。

信頼できない人間というのは、そのような人間なのである。だから、こんな人間と取引をするというのは、その時点で負けたも同然だ。

信頼できない人間は行き当たりばったりであり、その場かぎりであり、自分の主張ばかりであり、他人の事情を考えない。物事を誇張し、何でもかんでも自分を優先させる。

そのため、妥協してきた相手、自分に親切にしてきた相手は「弱い人間」と見なし、弱い者は徹底的にいじめ抜く。弱い人間は格下として扱い、常に上から目線で傲慢になる。

そんな人間と関わり、取引して、良い成果が得られるとでも思うだろうか。信頼できない人間と行った取引は、信頼できない結果しか返ってこない。

信頼できない人間がいるのであれば、まず「関わらない」ことを徹底しなければならない。基本方針は「関わらない」が最初であり「関わらない」が最後である。

どうしても関わらなければならないときは、必要最小限の関わりに終始し、相手がすり寄って来たらそれは絶対に拒絶し、絶対に謝らず、絶対に弱みを見せず、絶対に妥協してはいけないのである。

そうしなければ自分が被害に遭う。

信頼できない人間は必ず現れる。それはあなたの隣にいるかもしれない。自分の隣にいる人間だから信頼できると思ったら大間違いだ。隣だから価値感が共有できていると思うのも大間違いだ。

隣の人間が、一番タチが悪いというのが世の中の常である。

信頼できない人間がいるのであれば、まず「関わらない」ことを徹底しなければならない。関係は断ち切るのが正解だ。信頼できない人間と行った取引は、信頼できない結果しか返ってこない。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2015/12/20151226T1448330900.html


44. 中川隆[7388] koaQ7Jey 2017年3月28日 12:02:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7866]

2017年3月28日
【藤井聡】鮮明になる日本の科学技術の凋落――「PB緊縮財政」が日本をここまでダメにした
From 藤井聡@内閣官房参与(京都大学大学院教授)
https://38news.jp/economy/10268

資源大国は、その資源を外国に売るだけで暮らしていくことができます。しかし、日本の様な資源の無い国は、それだけでは暮らしていけません。

「海外に輸出」できるだけに十分な「付加価値」を、そして、「輸入品に負けないだけの財やサービスを作り出す」ために十分な「付加価値」を作り出す必要があります。

つまり、「海外マーケットのシェアを取るための『付加価値』」のみならず、「日本国内マーケットのシェアを海外勢に奪われないための『付加価値』」を生み出す事が求められているのです。

そして、その「付加価値」を生み出すために必要不可欠なのが「科学技術力」。

「科学技術力」こそが、自動車産業や化学製品産業、家電産業やインフラ産業等の根幹にあり、それが、日本の産業競争力を向上させてきたのです。

わが国は間違い無く、この「科学技術力」については世界一流の水準を維持し続けてきました。

コチラの図は、各国の科学技術力を表す主要指標の一つである「論文数のシェア」の推移のグラフ。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1014031852031091&set=a.236228089811475.38834.100002728571669&type=3&theater

ご覧の様にわが国は80年代、着実に科学技術力を伸ばしていました。そして99年〜2000年ごろにピークを迎えます。

この頃、全世界の論文の10%を、たった1億2千万人しかいない日本人が生み出していました。そしてそのシェアは世界2位の位置を占めていました。

しかし、それ以降右肩下がりに下がっていきます。そして、2008年時点でシェアは7%、ランキングも世界5位にまで下がっています。

さらに最新のデータによれば、2008年以降、その凋落に拍車がかかっているとのこと。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170323/k10010921091000.html

2015年次点の日本の論文数シェアは、ついにピーク時の半分である5%を下回る状況に至っています。
http://gigazine.net/news/20170327-japanese-research-decline/

日本の科学技術力の凋落は目を覆うばかりのもの――ですが、この推移、どこかで目にした気がしませんか?

――そうです、「我が国のGDP(名目値)の推移のグラフ」です。

こちらは、GDPのシェアの推移。
http://ameblo.jp/gensinhedge/image-11232044725-11933752817.html

ご覧の様に、1995年をピークに、論文数の推移とよく似た形状で推移していることが分かります。

ちなみに、アメリカや中国の論文数シェアの推移も、このGDPシェア推移とよく似た形で推移しています。

つまり、今日の科学技術力は、GDPが増えれば増え、減れば減る、というプロセスで決まっているのです(なお、両者の間には、数年の時間遅れ(ラグ)があります。これは、一般に研究をやってから論文にまとまって出版されるまで、数年の時間を要するのが一般的だからです)。

ちなみに、論文数シェアは、GDPシェアに依存している、という実証的知見はかねてから指摘されているものでもあります。つまり、豊かな国しか、科学技術力を進歩させられない、という次第。
http://www.asyura2.com/15/hasan101/msg/458.html

なぜそうなっているのかと言えば、現代の科学技術の発展には、「大規模な実験施設や研究組織が必要」だからです。オカネがある国では、いい施設が提供され、十分な報酬の下、多くの優秀な人材が研究界に投入されていき、科学技術も発展していく、という次第。

ただし、それに加えて、科学技術の発展に「それぞれの国の産業界で、その科学技術がどれだけ直接的に需要されているか?」ということが重要であることも主要な理由です。

実際、筆者が科学技術活動に従事している学術分野では、確かに90年代前半までは新しい技術開発は即座に実業界で活用されていく実感があったのですが、日本がデフレ化した90年代後半以降、実業界でそれが活用されるケースが極端に減っていきました。

例えば、「橋梁」の現場では今や、新しい技術開発の需要は低迷し、とにかく旧来型の工法で安く大量生産する風潮が支配的と聞き及んでいます。これでは日本の橋梁技術の進歩が停滞していくのも必然です。

さらには、世界各国の鉄道輸出競争で日本勢の敗北が目立つようになっていますが、それも日本で鉄道建設の現場が減ってきているのが大きな原因です。現場がなければ、技術は磨かれないのです。

筆者の学位研究であった「計量経済分析に基づく都市活動の需要予測技術」についても、90年代前半までは実務適用現場が国内にも多くありましたが、2000年代に入ってから全くと言っていいほど、新規技術が需要されなくなりました。

つまり、デフレがあらゆる「技術の現場」を殺し、それを通して、「科学技術力の発展」が停滞していったのです。

しかも、デフレのために税収が減ったあおりを受けて、あらゆる研究現場で予算カットが横行しているにも関わらず、「質の高い成果をより多く生み出すべし」という要求が政府から突きつけられています。結果、ほとんどの大学・研究組織では今、「ポスト削減」と「改革」の嵐が、吹き荒れています。そして、大学教員はこの「改革疲れ」のために、研究活動のための時間も予算も、そしてそのための情熱も失いかけているのが実態です―――。

そしてこうした流れを受け、少なくとも筆者が関わる様々な「学会」では、2000年代頃から真理やさらなる技術を追究しようという活力が急速に低迷し、ニヒリズム(虚無主義)が蔓延していった様を鮮明に記憶しています。

ですから今でこそ、日本はノーベル賞をたくさん受賞していますが、これは全て過去の遺産。今のデフレが継続すれば、10年後、20年後には、それも見られなくなるのは明らかです。

そして、このまま日本の科学技術力が低迷していけば、日本の衰退は必定です。繰り返しますが、「資源の無い国日本」は、「付加価値」を生み出し続ける力が不可欠であり、その根幹に「科学技術力」がどうしても必要だからです。

・・・・

そもそも、GDPが今、衰弱しているのは、「デフレ」が原因です。

そして、その「デフレ」をいつまでも長引かせているのは、90年代後半からわが国政府を支配している「緊縮財政」思想です。

そしてその具体的象徴が、支出カットと増税をもたらす「プライマリーバランス(PB)制約」です。

これらを総合的に踏まえれば、次のようなプロセスで、プライマリー・バランス制約に象徴される緊縮財政、すなわち、「PB緊縮財政」が、科学技術力の凋落と、それを通した「日本を衰弱」をもたらそうとしているのは火を見るより明らかです。

PB緊縮財政
→ デフレによるGDPの凋落
→ 科学技術力の凋落
→ 日本のさらなる衰弱

わが国政府が、目先の論文数の減少に「あたふた」して、木を見て森を見ないままに付け焼き刃的な「改革」を進める愚を避け、マクロ経済も視野に納めた「大局」的な視座から適切な科学技術政策を展開されんことを、心から祈念したいと思います。

追伸:「現代日本のあらゆる問題の根底に、デフレがある」――という真実にご関心の方は、是非、下記をご一読ください。
https://goo.gl/Jcqhm0


45. 中川隆[7456] koaQ7Jey 2017年4月01日 16:38:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7937]

役に立つ学問とは何か。
    
「役に立つ学問」とは何のことなのだろう。

そもそも学問は役に立つとか立たないとかいう言葉づかいで語れるものなのか。
正直に申し上げて、私はこういう問いにまともに取り合う気になれない。というのは、こういう設問形式で問う人は、一般解を求めているようなふりをしているけれど、実際には「その学問は私の自己利益の増大に役に立つのか?」を問うているからである。

だから、にべもない答えを許してもらえるなら、私の答えは「そんなの知るかよ」である。何を学ぶかは自分で判断して、判断の正否についての全責任は自分で取るしかない。「役に立つ」ということには原理的に一般性がないからである。

すべての学問やテクノロジーの有用性は地域限定的・期間限定的である。ある空間的閉域を離れれば、あるいはある歴史的環境を離れたら、それはもう有用ではなくなる。空間の広狭、期間の長短に多少の差はあるけれど、結局は「程度問題」である。

それどころか、ある人にとっての「有用」はしばしば別の人にとっての「無用」や「有害」でさえある。例えば、兵器産業は有用か。この問いに即答できる人がどれだけいるだろうか。兵器を開発し、市場に投じ、それによって大きな収益を上げた企業や、その会社の株を買って儲けた投資家や、その企業から法人税を徴収して国庫に収めた国家や、その企業で雇用された従業員にとって兵器産業はたしかに有用であるだろう。けれども、そうやって兵器の機能が向上し、手際のよい営業活動によって、廉価で高性能の兵器が世界中に広くゆきわたったせいで「殺されやすくなった」人たちが他方にはいる。家を焼かれ、家族を殺された人に向かって「兵器産業は有用でしょうか」と訊いても肯定的な答えは得られないだろう。

原子力発電事業は有用か。これも難問だ。この先日本列島でまったく地震も津波もテロもなく、早い段階で放射性廃棄物の完全な処理技術が確立し、かつ電力需要がこのまま高い水準で推移するという条件がすべて満たされた場合、原子力発電事業は有用であるだろう。けれども、そのどれか一つの条件でも満たされない場合、この事業は「無用」から「非常に有害」の間のどこかに位置づけられることになる。現段階では予測できない条件によって有用物がいきなり有害物に転化するようなものについて現段階でその「有用性」や「価値」を論じることにはたぶん意味がない。

もっと穏当な喩えでもよい。英語教育は有用か。簡単そうだが、これも即答することはむずかしい。外国語教育の有用性もまた歴史的条件の関数だからである。

現在、英語教育が有用であるのは過去2世紀以上にわたって英米という英語話者の国が世界の覇権国家だったからである。それ以外の理由はない。現代の世界で生き延びる上で重要かつ有用なテクストの多くが英語で書かれているのは事実だが、それは英語圏に例外的に優秀な人々が生まれたからではなく、英語が覇権国家の言語だからである。

アメリカはこれからもしばらくは軍事的にも経済的にも大国であり続けるだろう。だが、「パクス・アメリカーナ」の時代もいずれ終わる。その後にどの国が指導的な地位を占めることになるのかは誰にも予想がつかない。ロシアかも知れない。中国かも知れない。ドイツかも知れない。その場合、私たちはどれかの強国の国語を新たな「リンガフランカ」として学ぶことをたぶん強いられる。

私が学生だった頃、理系の学生たちの多くが第二外国語にロシア語を履修していた。それは1960年代まで、自然科学のいくつかの分野ではソ連が欧米に拮抗ないし凌駕していたからである。しばらくして、ソ連の学術的没落とともにロシア語履修者は地を払った。そういうときの学生たちの見限り方の非情ぶりに私は少し感動した。

同じことが英語について起こるかも知れないと私は思っている。いずれロシア語や中国語やドイツ語やアラビア語に熟達している人たちがその「希少価値」ゆえに英語話者より重用されるという日が来るかも知れない。その可能性は高い。現にもうすでに、一部の若者たちの間ではアラビア語やトルコ語学習が静かなブームになっている。彼らは独自の嗅覚で手持ち資源を効果的に投ずべき先を手探りしているのである。そして、彼らの予測が外れたとしても、彼らは失った時間と手間の返還を誰に対しても求めることはできない。

そもそも私たち日本人こそ「リンガ・フランカ」の脆さを骨身にしみて経験しているはずである。漢文の読み書きができることは古代から日本人の知識人にとって大陸渡来の新しい学問を学ぶための必須の知的ツールであった。それは遣隋使小野妹子の時代から、朝鮮通信使を対馬に迎えた雨森芳州の時代まで変わらない。漢文は日本ばかりか、東アジア全域において基礎的なコミュニケーション・ツールであった。だから、どこの国を旅しても、知識人同士は、懐から矢立てと懐紙を取り出して、さらさらと文を認めれば互いに意を通じることができたのである。

漢文運用能力はとりわけ近代以降にその威力を発揮した。中江兆民はルソーの『民約論』を日本語訳すると同時に漢訳もした。だから、多くの中国人知識人は兆民を介してフランスの啓蒙思想に触れることができた。樽井藤吉は日本と朝鮮の対等合併を説いた『大東合邦論』を漢語で書いたが、それは彼が日本・朝鮮二国のみならず広く東アジア全域の読者を想定していたからである。宮ア滔天も北一輝も内田良平もかの「アジア主義者」たちは、中国・朝鮮の政治闘争に直接コミットしていったが、おそらく彼らの多くはオーラル・コミュニケーションではなく「筆談」によってそれぞれの国での組織や運動にかかわったはずである。こういう姿勢のことをこそ私は「グローバル」と呼びたいと思う。

近代まで漢文は東アジア地域限定・知識人限定の「リンガフランカ」であった。それを最初に棄てたのは日本人である。こつこつ国際共通語を学ぶよりも、占領地人民に日本語を勉強させるほうがコミュニケーション上効率的だと考えた「知恵者」が出てきたせいである。自国語の使用を占領地住民に強要するのは世界中どこの国でもしていることだから日本だけを責めることはできないが、いずれにせよ自国語を他者に押し付けることの利便性を優先させたことによって、それまで東アジア全域のコミュニケーション・ツールであった漢文はその地位を失った。日本人は自分の手で、有史以来変わることなく「有用」であった学問を自らの手で「無用」なものに変えてしまったのである。

戦後日本の学校教育も戦前と同じく「コミュニケーション・ツールとしての漢文リテラシーの涵養」に何の関心も示さなかった。さらに韓国が(日本の占領期に日本語を強要されたことへの反発もあって)漢字使用を廃してハングルに一元化し、さらに中国が簡体字を導入するに及んで、漢文はその国際共通性を失ってしまった。千年以上にわたって「有用」とされた学問がいくつかの歴史的条件(そのうちいくつかはイデオロギー的な)によって、短期間のうちにその有用性を失った好個の適例として私は「漢文の無用化」を挙げたいと思う。

私が言いたいのは、ある学問が有用であるかどうかを決するのは、学問そのものの内在的価値ではなく、またその経験的に確証された有用性でもなく、多くの場合、パワーゲームにおいて、その時点で力を持っているプレイヤーの利害だということである。それ以外の要素はおしなべて副次的なものに過ぎない。

もうこれで結論は出ているので、これ以上書くことは特にない。でも紙数が大幅に残ったので、あとは余計なことを書く。

現代は世界どこでも英会話能力が「役に立つ学問」の最たるものとされているが、これを果たして「実学」と呼んでいいのかということを論じてみたい。先に述べた通り、英語がリンガフランカであるのは、いくつかの歴史的条件によってそうなっているだけのことであって、いずれそうではなくなる。それがいつかはわからないけれど、いずれ英語はローカルな一言語になる。

そもそも、現在日本で暮している人たちの多くにとって英会話能力はとくに緊急性の高いものではない。ふつうの生活者に英語で話す機会はほとんどない。ときどき、「外国人に道を聞かれたときに、教えられるように」というようなことを言う人がいるが、「外国人に道を聞かれる」というようなことがどの程度の頻度で起きるのか。思い返しても、私が外国人に道を聞かれたことは過去に一度しかない。十年ほど前、芦屋駅の近くで「駅はどこか」と聞かれた。おまけにそれはフランス語であった。私は「その角を右に曲がる」と初級フランス語の三頁目くらいに出てくる文型を以て答えたが、「アシヤ」が聴き取れれば、無言で手を引っ張ってゆけば済んだ話である。

異郷で困惑している人に手を差し出すというのはたいせつなことである。でも、そのためにまず必要なのは「人として」の惻隠の情であって、外国語運用能力ではない。けれども、まことに不思議なことだが、本邦では「困っている人に手を差し伸べること」の重要性を学校で厳しく教えるということはない。人としてのまっとうな態度を社会的格付けに適用するということもない。圧倒的な重要性が付与されているのは英会話能力に対してなのである。

はっきりと英会話能力が求められているのは経済活動の領域においてである。インバウンドの観光客を接待するホテルやレストランや店舗において、あるいは海外市場でセールスを行うビジネスマンや、海外の生産拠点で経営や労務管理を担当する人たちにとって英語は必須のツールであろう。その必要性を私は十分に理解している。けれども、どれほどの能力を持った人間がどれほどの人数必要なのか、その数値目標にどれほどの積算根拠があるのか、私は説得力のある話を聞いたことがない。

文科省が2013年に発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」は小学校三年からの英語教育開始を指示したことで話題になったが、この計画によると中学では英語の授業は英語で行うことを基本とする。高校では「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う。授業を英語で行うとともに、言語活動を高度化(発表、討論、交渉等)」することがめざされ、達成目標として「高校卒業段階で英検2級〜準1級、TOEFL57点程度以上等」が掲げられている。

日本中の高校生に高校卒業時点で「英検2級から準1級」というのは正直に言ってありえない数値目標だと思う。それがどの程度の英語学力を要するものかを知りたい人はネットで検索すれば過去問がすぐに読めるので、自分で解答を試みられたい。ご覧頂ければわかるが、日常的に英語を浴びるように読み、聴く、理解できない点についてはこまめに辞書を引き、疑問点は先生に質問し・・・という生活をしていないと、ふつうの高校生がこのレベルには達することはできない。

他の教科の場合、そのような真摯な学習態度で高校の授業に臨んでいる生徒はほとんどいないという現実を知った上で、英語についてだけこのような要求をすることを「異常」だと思わないとしたら、その人の方がよほど「異常」である。

「計画」には高校卒業時点での達成として「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う」とあるが、そもそも日本語によってでさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる」高校生がどれだけいるのか。2016年の調査によれば、10代の新聞閲読率(閲読とは「一日15分以上、チラシや電子版を含めて新聞を読むことをいう)は4%である。わずか4%である。マスメディアに対する不信感が募っている時代にあって、この数字はこの先さらに減少することはあっても、V字回復するとは思われない。

たしかに高校生たちは終日スマホに見入っているが、それは別に電子版のニュースで国際情勢や国会審議を注視しているわけではないし、ツイッターやラインで政治的意見を交換したり、日本経済のゆくえについての懸念を語り合っているわけでもない。日本語でさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解」することに困難を覚えている人たちが外国語でそれができるはずがない。そんなことは誰でもわかる。

ではなぜ、日本語での読解能力・対話能力の低下が深刻な問題となっている状況下で、英語で「幅広い話題について抽象的な内容を理解」するというような目標を掲げることに優先性があり、かつその目標が達成可能だと信じられるのか。そういう計画を立てることのできる人々の頭の中身が私にはどうしても理解できない。

私に分かるのは、この計画の起案者たちが高校卒業までに子どもたちが使える教育資源の多くを英会話に投じることの必要性について自分の頭を使って考えたことがないということである。すでに現場から悲鳴が上がっているように、小学校への英語教育の導入・必修化によっては教員の業務が量的にも質的にも増大する。「バーンアウト」寸前の教育現場にさらなる負荷を課し、教員たちも児童たちも疲れ切った状態に追い込んでまでなぜ英語教育を重視するのか。なぜ達成できるはずのない到達目標を掲げてみせるのか。この「実学」への過剰な教育資源の分配の合理的理由を語ってくれる人に私はまだ会ったことがない。

英語運用能力については、その有用性について誰一人異論を口にしない。けれども、その期待される有用性とその学習努力のために投じられる手間暇を「ベネフィット」と「コスト」で計算した場合、帳尻は合うのか。「実学」を論じる人たちの経済合理性に対するこの無関心に私は驚愕するのである。

そもそも実学というのは平たく言えば、「教育投資が短期的かつ確実に回収されるような知識や技術」のことではなかったのか。学習努力という「コスト」がただちに就職率や年収やポストといった「ベネフィット」として回収されるものを私たちの社会では「実学」と呼んでいるはずである。

数学や天文学や古生物学や地質学は間違いなくかなり広い範囲で、また長期にわたって有用な学問でありうると私は思うが、これを誰も「実学」とは呼ばない。「金にならない」と思われているからである。学の虚実を格付けしているのは、コンテンツの良否ではなく、「教育投資の短期的かつ確実な回収が可能かどうか」だけである。そして、それは市場における当該知識・技能についての「需給関係」で決まり、学知そのものの価値とは関係がない。

以前私より二十歳ほど年長のビジネスマンと会食したときに、彼が大学在学中最も人気のあった理系学科は何だか知っているかと聞かれた。わからないと答えると「冶金学科」だと教えてもらった。製鉄業が日本経済を牽引していた時代だったのである。今の学生たちは「冶金」という文字さえもう読めないだろうが、冶金についての知識に市場が最高値をつけたのは今からわずか60年ほど前の話なのである。

製鉄や造船や建設が日本経済の花形業界であった時代がしばらく続き、それから流通やサービス業が人気業種になり、金融や広告やマスコミに若者が集まるようになり、それからITと創薬と貧困ビジネスと高齢者ビジネスの時代になった。それぞれ人気のある業界で「即戦力」として使用できる知識や技能が「実学」と呼ばれたけれど、その栄枯盛衰はめまぐるしかった。だから、私たちもあと十年後には何が実学になるのか予測することができない。Apple やGoogleが十年後に存在しているかどうかさえ誰にもわからない時代なのだから、十年後の「実学」が予測できるはずがない。

もう少し身近な話をしよう。私が大学に在職していた頃、「女子大に薬学部を作る」ということがトレンドになったことがあった。ご記憶の方も多いだろうが、コンサルタントがあちこちの大学に学部創設のプロジェクトを持ちかけた。そのときに強調されたのは、薬学部なら6年通うから授業料収入が1.5倍になるという「金目の話」と、女子の「実学志向」と言われるものだった。「当今の女子学生の母親たちは娘が手に職をつけることを強く望んでいる。母親たちは娘たちに経済的自立という自分が果たせなかった夢を託す傾向にある。だから、娘たちには医学部・歯学部・薬学部を狙わせるのだ」という説明にはなかなか説得力があった。そして、その三つの中では薬学部が立ち上げコストが一番安かったので、いくつかの大学がその計画に乗った。

その結果、短期間にそれまで46校で安定していた薬学部が74校に急増し、薬科大学・薬学部の総定員は13000人に達した。不幸なことに、これは市場の「ニーズ」に対して供給過剰であった。結果的に多くの学部が定員割れになった。その一方、出口に当たる薬剤師国家試験の合格率は低いままだった。50%を切った年もあるが(2010年)、ここしばらくは60〜70%台で推移している。つまり、薬学部に入ったが卒業できなかった学生、卒業したが国試に通らなかった少なからぬ数の学生が存在するということである。そして、彼ら彼女らにとって、この学問は「教育投資が短期的かつ確実に回収」できなかった以上「実学」ではなかった。

誰が考えても薬学は有用な学問である。けれども、言葉の精密な定義に従えば「実学」ではない。一般論としては「役に立つ学問」であるけれど、それを学んだけれど国試に通らなかった学生にとっては個人的には「無用の学問」だったことになる。

だから、「〇〇は実学か」という問いを当該学問の内在的な価値に求めても虚しいことだと先ほどから言っているのである。「実学度」は市場の需要と大学の卒業生供給の関数であり、それ以外のファクターは副次的なものに過ぎない。

その意味では実学の度合いは株価とよく似ている。「株取引は美人投票の高得票者を当てるゲームだ」という言い方がしばしばされる。自分の審美的基準はとりあえず棚に上げておいて、「みんなが誰を美人だと思うか」を推測する。自分の主観を封じて、「世の人々が欲望するもの」を正しく言い当てたものが株の売り買いのゲームの勝者になる。「実学」ゲームもたぶんそれと同じである。自分が何を勉強したいのか、何を知りたいのか、どんな技能を身につけたいのかといったことは「棚に上げて」、「市場ではどういう知識や技能に高値がつくか」を読み当てたものがとりあえず「実学ゲーム」の勝者になる。

ただし、勝者が勝者であり続けられる期間はあまり長くない。だんだん短くなっている。それだけの話である。

私は「役に立つ学問」というものに興味がない。それを識別することに何か意味があると思っている人にも興味がない。それはたぶん「お前のやっていることは何の役にも立たない」と若い頃から言われ続けてきたせいである。自分でも「そうかもしれない」と思っていたから反論もしなかった。

でも、自分にはぜひ研究したいことがあったので、大学の片隅で気配をひそめて「したいこと」をさせてもらってきた。私が30年にわたって「何の役にも立たないこと」を研究するのを放置していてくれた二つの大学(東京都立大学と神戸女学院大学)の雅量に私は今も深く感謝している。私が選んだ学問領域は四十年にわたって私に知的高揚をもたら続けてくれた。私はそれ以上のことを学問に望まなかったし、今も望んでいない。
http://blog.tatsuru.com/


46. 中川隆[7527] koaQ7Jey 2017年4月04日 17:35:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8011]

本物の日本人だけが持つ特別で恵まれた「超才能」を活かせ

考え抜かれた製品、技術、デザイン、哲学、サービスを持った希有な企業が世の中には存在する。磨き抜かれたオリジナル、技、発想、アイデアを持った希有な人が世の中には存在する。

独自の「何か」を生み出す能力を持った企業や人は本物だ。そして、長い目で見ると、結局生き残るのは本物だ。

誰かが何かを成功させると、真似やパクリをする企業や人が山ほど現れるのだが、パクリ製品は気が付けばいつしか消えて後に残らない。

パクリがどんなにうまくやってのけても、結局はオリジナルの方が生き残る。そして、オリジナルの方が愛される。

どれほど巧妙にパクリを成し遂げても、なぜオリジナルが最後に生き残る可能性が高いのか。

その理由は、その製品、技術、デザイン、哲学、サービス、発想、アイデアには、それができあがるまでに多くの試行錯誤が為され、その試行錯誤で得た知識や経験が「物事の基本」となって製品を支えているからだ。しかし、パクリには土台を支える思想がない。

物事のすべては、基礎や基本が何よりも重要だ

物事のすべては、基礎や基本が何よりも重要だ。それが揺らいでいると何が重要で何が重要でないのかも分からない。そして、「次」を踏み出す時に間違う。

次の新しいものを生み出すにも、今あるものを改良するにも、さらなる付加価値を付けるにも、基本ができていないと何もできない。逆に、基本がしっかりしていると、「次」に発展することができる。

本当のことを言えば、そんなことは誰でも分かっている。では、なぜ基本をないがしろにして、他人のものをパクることで生きていこうとする企業や人がいるのだろうか。

たとえば、中国や韓国は、ありとあらゆる企業のパクリを行っており、国中に粗悪なパクリ製品が溢れている。

なぜ、彼らは次から次へとパクリを行うのか。なぜ、彼らはオリジナルを生み出すこと、すなわち基礎や基本をないがしろにするのか。

その理由は簡単だ。基礎や基本をきちんと身につけるというのは、実は尋常ではないほど単調で、単純で、根気のいる作業を延々と繰り返さなければならないからだ。これは、すべての分野に関して言える。

基本を身につけるには、誰も注目しておらず、誰も褒めてくれず、誰も気付かないところで、ずっと単調な作業を繰り返し、常に試行錯誤していかなければならない。

この単調な繰り返しを行って基本が身につくのだが、パクリを行う人間はそれをすっ飛ばすのである。そして、表面や形だけをパクって世の中をごまかす。

最初は騙せるのかもしれない。しかし、それがオリジナルではない時、やがて人々に見透かされる。そして捨てられる。


時代が変わっても古くならない原理原則

基本が重要であるというのは、職人も、技術者も、芸術家も、アスリートも、アナリストも、兵士も、各職業人も、すべてがそれぞれの言葉で言い伝えている。

そして、基本を否定する人間は誰ひとりとしていない。

つまり、「基本を怠らずに鍛える」というのが、時代が変わっても古くならない原理原則であるということである。

表面や形だけをパクリ取って、まともな基本を身につけていない企業や人は、そのときは良くても最後に足をすくわれる。土台がないので応用がまったく利かない。

もちろん、そのようなパクリをして人生を乗り切る生き方もひとつの生き方である。あえてそれを選び取る人間もいる。

手っ取り早く儲かるのであれば、あるいは手っ取り早く売名できるのであれば、それを選び取る人は珍しくない。

売れた製品のパクリを作って安売りする企業、あるいは売れた人間の技や作品や芸をそのまま真似して、自分こそが元祖だと起源を主張するクズのような人間もいる。しかし、それは邪道であり王道ではない。

王道とは、その道の基礎や基本を誰も見ていないところで、淡々と愚直に繰り返し、泥にまみれ、汗を流し、苦しみを味わうことである。

それは、一見ムダなように見える時間だが、基礎や基本は膨大な時間をそこに費やさなければ身につかないのだから、絶対にムダではない。

どれだけ基礎と基本が身についているかで、その世界で成功できるかどうかが決まる。

ムダなのは、自分の人生に重要でも何でもないことに時間を費やすことだ。自分がその道で生きていくつもりもないようなもの、たとえば時間つぶしのゲームだとか、だらだら見ているテレビだとかに時間を費やすのは、たしかにムダだ。


自分の分野で道を究めることが日本の復活になる

自分の全人生を費やしても構わないと思うことに全力集中で取り組み、基礎や基本を繰り返し反復する。

そうやって、基礎的な能力を身につけても、まだそれで世の中を渡っていけるのか、成功できるのか、大成できるのかどうかは分からない。そして、それで食べて行けるのかどうかも分からない。

しかし、基礎や基本がないのに、いきなり他人のパクリをしてそれで生きていけないことだけは、はっきりしている。

かつての日本人はこういった基礎や基本を「型」と言っていたが、型を身につけるのに誰も見ていないところで死ぬほど練習していたし、それが日本人の底力を作り上げていた。

日本人が「特異な民族」なのは、そういった基礎や基本を疎かにしないという人間が夥しく存在していて、基礎を追求する文化を持っていたからである。日本人には、ありとあらゆる分野が「道」を極める対象となった。

ただ、「お茶を淹れる」という些細なものであっても、それは「道」となって、茶道となっている。

日本人のひとりひとりが、それぞれの分野で基礎と基本を地道に積み上げて道を究めてきたから、あらゆる点で日本は他の民族や国家を凌駕してきたのだ。

最近、日本の土台が揺らいできたというのであれば、恐らく最近の日本人は、かつての日本人ほどに基礎と基本の積み上げが足りなくなっているからだ。

科学の世界でも、ノーベル賞を取るほど優秀な人間がいる一方で、形ばかり研究者のフリをして他人の論文をコピーして、パクリや真似でごまかそうとする人間が出てきたりしている。

日本人にパクリは似合わない。日本人はパクリの道を行くのではなく、優れたものを生み出せる民族であってほしい。パクリを排除し、ひとりひとりが自分の分野で道を究めることが日本の復活になる。

基礎や基本を疎かにしないで道を究めるのが日本人の特異性だ。日本人は本物の日本人だけが持つ特別で恵まれた「超才能」を活かして生き残るべきだ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2014/12/20141230T1541480900.html


47. 中川隆[7944] koaQ7Jey 2017年4月24日 00:08:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8435]

曽野綾子は自己責任論が大好きだけど


責任転嫁ではなく本当に「悪い時代」が存在することも知れ

シリアでは国家体制が崩壊して、2017年現在も国内は激しい内戦と社会的混乱の中にある。

アサド政権支持者、反政府組織、ISIS(イスラム国)のような超過激暴力集団が三つ巴となって国家を蹂躙し、国民の半分が難民となって国外に流出した。

もし私たちがシリアで生まれていたら、私たちがいかに向上心を持ち、強い夢を持ち、楽観的に生きたとしても、すべてが無に帰したはずだ。

シリアだけではない。イラクに生まれていても、アフガニスタンで生まれていても、パレスチナで生まれていても、北朝鮮に生まれても、似たような状況に遭っただろう。

ある国に生まれていても、年代によって幸運な人生になったり、不幸な人生になることもある。1930年代に生きていた人々はほとんどの人が第二次世界大戦に巻き込まれて地獄を見ていた。

中国は今でこそ経済発展の恩恵に浴する国民が出てきているが、1966年から1976年までの文化大革命の時代に生きていたら地獄だったはずだ。

ソ連では1980年代から1990年代に生きていたら国家崩壊に巻き込まれていた。時代が混乱と激動と戦争に向かっていったとき、私たちはもう為す術がない。

バブル期と就職氷河期とでは時代がまったく違う

人の人生はその時々の社会の動きによって大きく左右される。日本のように長らく戦争や国家的大混乱から離れている国では、それがあまり自覚されなくなっている。

しかし、それでも社会の動きが人生を左右するという現実は変わらない。

人生の中で最も重要なのは「どんな仕事に就くのか」という部分にあるが、1980年代のバブル期はどこの企業も太っ腹に人を採ったのでこの頃に就職活動をしていた人々は幸運だったと見なされている。

しかし、バブルが崩壊し、企業が次第に不況に飲まれていくようになると急激に時代が変わった。企業は当然のように人を採らなくなったのだ。

2000年代に入ってからも状況は悪化する一方だった。グローバル化による競争の激甚化が進むと、企業はますます人材を抱えるのを嫌うようになった。

そのため、この時期に就職活動をしていた人々は「就職氷河期」とも言われて、面接に行った企業にことごとく振り落とされてしまうことになった。

バブル期と就職氷河期とでは、時代がまったく違った。そして、時代に翻弄される人がいつの時代でも出てくる。個人の努力を超えたところで起きている時代の流れは、すべてをなぎ倒してしまうのだ。

仕事がうまく見つからなかったり、リストラされたり、失業したりすることは珍しくない。多くの人たちはそのとき、それを「自分のせい」にする。

なぜなら、誰もが自分と同じ境遇ではなく、同時期に貧しくない人も存在するし、人生を楽しんでいる人もいるし、仕事がうまく行っている人もいるし、楽に内定をもらえる人もいるからだ。

そういう人がいる中で自分が挫折を味わうと、それは自分のせいなのだと単純に思うのは無理もない。

「時代が悪い」などと言うと、「いや、お前が悪いのだ」と反論されて終わりだ。この世に完璧な人はいないから、お前が悪いと言われて反論できる人はあまりいない。


「時代が悪い」という時期があることに気付く

歴史をよく観察すると、社会は常に良い方向にも悪い方向にも動いており、まぎれもなく「時代が悪い」という時期があることに気付く。

社会は、好況と不況を繰り返す。混乱と安定を繰り返す。もし、社会が不況で混乱しているのであれば、時代が悪いという見方は責任責任転嫁ではない可能性もある。

「時代が悪い」というと、必ず「自分で努力もしないで、他に責任を押しつけている」と言われる。言われなくても、そう思われることも多い。

本当に何の努力もしない人に限って「時代が悪い」と責任転嫁することが多いので、「今は本当に時代が悪いのだ」と言う人がいても、どうせ責任転嫁だと思われるのがオチだ。

だから、まじめな人であればあるほど、どう見ても時代が悪くても「時代が悪い」とは言えなくなる。そう考えても、それを打ち消して「いや、自分が悪い」と思い込もうとする。

日本は1990年を頂点にして、経済失速が隠せなくなり、2000年に入ってからは正社員になれない若者や、リストラされる中高年が爆発的に増えた。

自殺が毎年3万人を超え始めたのもバブル崩壊後である。社会は大きく激変していたのだが、当初の人々の見方はまったく違った。

「若いやつは努力しないから正社員になれないのだ」
「仕事ができない人間がリストラされている」

実際は、日本企業がグローバル経済の激甚な競争に飲み込まれ、経済的に無策を続ける日本政府や官僚の姿勢も重なって、日本人はそのツケを払っていたのである。

最初は多くの人々がそれに気付かなかった。人々はそれを、個人の責任論に転嫁していた。「自己責任」という言葉が流行ったのは2000年以降だ。

しかし、ニートやフリーターのような立場に陥ってしまった若年層が100万人規模になり、中高年が次々とリストラされ、高齢層や女性が貧困に堕ち、経済的にどうにもならない人たちが莫大に増えた。

それを見て、やっと日本人は「時代が悪い」と気付いたのだった。一部の人の問題ではなかったのである。


人によっては、人生の3分の1が悪い時代だった

もうバブル崩壊から27年近く経っている。日本が「悪い時代」に入ってから27年も経ったということになる。

27年と言えば、人の人生の3分の1近くの年月である。人によっては「人生の3分の1が悪い時代だった」と言えば、いたたまれないはずだ。

生活保護受給者もじわじわと確実に増え続け、もう216万人を超えている。

その多くは高齢者なのだが、日本はこれから高齢者が増える国なのだから、生活保護申請は多少の増減をしながら、最終的にはもっと増えるのは間違いない。

若年層の貧困化も加速する一方だ。しかも離婚も増えているので、シングルマザーの貧困化も拡大している。

国が成長しているときや、世の中が活況に沸いているとき、人はそれほど努力しなくても生きていける。時代の波について行きさえすれば、経済的に苦しまなくてもいい。

今は、逆だ。今まで幸せに暮らしていた人も、今後はどうなるのか分からない地獄のような世界が待っている。少なくとも、日本が経済失速を止められないと、そういうことになる。

時代が悪い方向に向かって転がり落ちていると、個人の努力をすべて叩きつぶしてしまう。日本人はそれでもすべて自分のせいにして「社会が悪い」とは最後の最後まで考えない。

それは一種の美徳なのだが、客観的に見ると正しい見方をしていない。

社会が悪いのに、自分が悪いと全面的に思い込い込むと間違った社会のあり方を変革する声がどこからも出てこなくなって、人々は社会に殺されてしまうことになる。

戦争が起きて、まわりで人が撃ち殺されているときに幸せになれないというのは誰もが知っている。それは社会が悪いと誰もが分かる。

しかし、銃弾が飛び交わなくても、リストラ・失業・自殺・経済苦が蔓延していたら、見えない銃弾が飛び交っているのと同じなのだ。そんな世界で幸せになれない。

どんな時代になっても、その中で生きる努力する必要があるが、同時に「社会が悪い」と気付く視点も持つ必要だ。日本を蝕んでいる「何らかの要因」がある。

政治や経済や教育を正しい方向に向けさせない「悪い要因」が日本の社会の中に存在するのだ。日本を憎悪する勢力もあれば、日本を弱体化させようとする民進党や共産党のような政党も存在する。

責任転嫁のためではなく、現実を見るために、社会が悪いことをあなたは気付かなければならない。そうしないと、いろんなものが手遅れになってしまう。


「シリアの子供」と題された絵。もし私たちがシリアで生まれていたら、私たちがいかに向上心を持ち、強い夢を持ち、楽観的に生きたとしても、すべてが無に帰したはずだ。責任転嫁ではなく本当に「悪い時代」も存在する。では、弾丸が飛んで来ない日本は良い時代なのか?
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2016/05/20160509T1637540900.html


48. 中川隆[-7975] koaQ7Jey 2017年4月30日 12:53:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

49. 中川隆[-7907] koaQ7Jey 2017年5月01日 08:34:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


50. 中川隆[-6584] koaQ7Jey 2017年8月29日 08:59:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

国の中の90%以上の女性が文字をまったく読めないとしたら?

ひとり当たりの年間所得が最も少ない国をIMFの2016年のデータから拾い上げると南スーダン、マラウイ、ブルンジ、中央アフリカ、マダガスカル、モザンビーク、ニジェール、ガンビア、リベリア、コンゴ……と続く。

ここで上げた国は、人が貧しいというよりも国そのものが極貧にあって、経済発展はなかなか厳しいものがある。

もうほとんど報道されなくなっているのだが、南スーダンでは国土の6割が戦乱地区と化しており、中央アフリカでもコンゴでも大量虐殺が続いている。

アジアでも、アフガニスタンやネパールは非常に貧しい地区であり、EU(欧州連合)には、アフガニスタン難民も大量に入り込んでいるのはあまり知られていない。

政府が脆弱な国は、貧困が蔓延している。戦争が吹き荒れる国もまた貧困が吹き荒れる。

その結果、多くの人たちから教育の機会が奪われる。

生きるか死ぬかの瀬戸際で、人々が安全な地区を目指してさまよい歩いているような地区で、あるいは教育を与える必要がないという声が支持される地区では、意図的に教育の機会が踏みにじられるのだ。

中でも、女性の教育が犠牲になることが多い。

人材を作るには、教育に力を入れる必要がある

途上国では、誰がリーダーになっても、経済を立て直し、貧困を撲滅するのは非常に難しい仕事になる。

途上国のあらゆる問題は貧困から来ている。そして、その貧困のあらゆる原因は、インフラや汚職や内戦や先進国の収奪から生まれている。

豊かな国だったとしても、一度、国が衰退してしまうと立て直すのが難しいのは、歴史を見ると分かる。

日本は第二次世界大戦の敗戦で、国は焼け野原になってほぼ壊滅したも同然だったが、そこから奇跡的な復興を遂げて現在がある。

しかし、こういった奇跡は「例外中の例外」だ。普通は、国が壊滅すれば、その後は何十年も立ち直れないのである。

国が回復するには、経済が回らなければならない。経済が回るためには人材や資源が必要になる。資源があるかどうかは、その国の運次第だ。資源がないのであれば、人材を強化するしかない。

人材を作るには、教育に力を入れる必要がある。

ところが貧困国は、底なしの貧困ゆえに教育制度が破綻していることが多い。それならば、教育に金をかければいいという話になるのだが、ここにひとつ問題が発生する。

教育の成果を見るには、長い時間がかかるということだ。

1年や2年ではない。10年も20年もかかるのだ。だとすれば、任期が数年の政治家が教育に力を入れ続けるのは、相当な意思と覚悟が必要になる。

どこの国でも、教育の大切さを自覚する政治家は少ない。

教育はいつも置き去りにされる。「女性に教育は必要ない」と決めつけるアフガニスタンのような国もある。

アフガニスタンはわざわざ作られた女子学校を、イスラム原理主義のタリバンが叩き壊して回っている。

このタリバンのイスラム主義はパキスタンにも広がっているのだが、だからパキスタンの地方都市でも女子学校の破壊やテロが起きたりしている。

さらにこのような動きはナイジェリアでも広がり、テロ集団ボコ・ハラムが女子学生を大量拉致してイスラム原理主義に洗脳したり、自爆テロに使ったりするようにもなった。

そこまでして教育を奪おうとしている国もあるのだ。


アフガニスタンはわざわざ作られた女子学校を、イスラム原理主義のタリバンが叩き壊して回っている。このタリバンのイスラム主義はパキスタンにも広がっているのだが、だからパキスタンの地方都市でも女子学校の破壊やテロが起きたりしている。


90%以上の女性がまったく文字を読めない国もある

教育の機会が奪われたら国はいつまで経っても立ち行かない。これは、多くの途上国が共通して抱えている問題である。

教育がしっかりしていれば、その国は立ち直る余地はある。あるいは、すべてを失っても成長する余地がある。

どんなに国が傾き、経済破綻し、暴力・麻薬・売春が吹き荒れ、汚職が蔓延していたとしても、教育がしっかりしていれば嵐の中で芽が育つ。

逆に、教育自体がおざなりになっていたり、荒廃していたり、教育行政が破綻していたりすると、成長している国であっても、次世代の衰退は間違いない。

何を差し置いても教育に力を入れる風土があれば、その国は助かる。そうでないのであれば、その国の政治家が一時的に何かをやっても、結局は貧困に戻っていく。

教育は軽く見てはいけない問題だ。なぜ貧困層がそこから抜け出せないのか。

それは教育を受けていないからだ。

教育を受けても成功するとは限らない。しかし、教育を受けていなければ、スタート地点にすら立つことができない。

先進国にいると、文字が読めて、計算ができるというのは当たり前のように思えるかもしれない。しかし、それは当たり前のことではない。教育の成果だ。

日本の識字率は99%なので、国民のほぼすべてが文字が読める状態である。だから、文字が読めない人がいるというのが信じられないかもしれない。しかし、途上国では想像以上に文字が読めない人が多い。

たとえば、教育を奪われているアフガニスタンでは、女性の識字率は17.6%であると言われている。これを逆に言えば、女性の82.4%が文字が読めないということだ。自分の名前を読むことも書くこともできない。

国民の85%がイスラム教であるギニアでも女性の教育がほとんど為されておらず、女性の87.8%が文字を読めない。やはりイスラム教が圧倒的大多数を占めるニジェールに至っては、女性の91.1%が文字を読めない。

国の半分を占める女性が無教育なのであれば、国の半分は知的能力を必要とする現代社会で落ちこぼれるということだ。これでは国の再建や発展どころではない。


幼少の頃にきちんと教育を受けていれば……

インドでもカンボジアでもバングラデシュでもインドネシアでも、文字が読めない人たちは想像以上に多い。

私が知り合ったインド・コルカタの物乞いの女性たち、あるいはコルカタの売春地帯にいた女性たちも文字が読めなかった。

(書籍『絶対貧困の光景』インドの取り残された女性たち)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20140610T1741180900.html


彼女たちは知的能力が劣っていたわけではない。現に、彼女たちはヒンディー語を話す以外に、英語もきちんと話して欧米人と会話もできる。

文字は書けないのだが、ストリートで覚えた英語を駆使して欧米人と渡り合っている。もし、彼女たちが幼少の頃にきちんと教育を受けていれば、何十年も物乞いで生活していなかったかもしれない。

彼女たちに欠けていたのは教育だということが分かる。教育の機会がなかったのだ。

教育を受けると、物事を判断したり、分析したり、専門を極めていくことが可能になる。それもまた、貧困から抜け出すのに重要な要素である。

教育と言っても大学で学ぶような高度な専門知識の話をしているわけではない。読み書きソロバンの基礎的な教育の話をしている。それすら受けられないと、何もできない。

何しろ、名前も書けず、計算もできないのだ。そうなると、仕事は単純労働でしかない。単純労働の賃金は、どこでも最低賃金そのものだ。

最低賃金で生きていても、貧困から抜け出すことはできないのだ。字が読めないし書けないのだから、できる仕事は限られてしまう。賃金をごまかされても、計算ができないから抗議すらもできない。

また、世の中の仕組みはすべてドキュメント(書類)によって記されている。契約書も、賃金明細書も、請求書も、何もかも書類に記されて、そこには文字が書かれている。

それらの書類が読めず、意味も分からなければ、自分の置かれている立場すらも分からないままだ。やはり抑圧されたままの人生を送るしかなくなる。

国はどれだけ多くの国民に教育を受けさせることができるか。自分や子供たちは教育に接することができるか。そして、教育はどれだけ適切で実用的か……。

それが、貧困撲滅の鍵を握っている。しかし、多くの国でそれが理解されない。その結果、貧困が永遠に続いていくことになる。

教育を受けても成功するとは限らない。しかし、教育を受けていなければ、スタート地点にすら立つことができない。教育がきちんと続かなければ、彼女には将来がない。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170829T0223580900.html


51. 中川隆[-6583] koaQ7Jey 2017年8月29日 09:07:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本でも貧困地域の子供は漢字が読めない

【“貧困”無間地獄の現場】(05) 2003年『千葉少女墓石撲殺事件』の舞台――不良だらけの荒れた街が老人だけの枯れた街に


「貧しい昭和がこびり付いたような街」――

『最貧困女子』(幻冬舎新書)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%80%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E5%A5%B3%E5%AD%90-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E5%A4%A7%E4%BB%8B/dp/4344983610


で貧困問題を世に問うたジャーナリストの鈴木大介氏は、最貧困女子の出身地をそんな表現で語ったことがあった。


その1つが千葉市の千城台、正確には千葉市若葉区の千城台市営住宅団地だ。
言葉は悪いが、“最貧困女子の故郷”とでも言おうか。

地図
https://www.mapion.co.jp/m2/35.62610819,140.18221072,16


千葉駅からモノレールに乗り換える。タウンライナー(千葉都市モノレール)からは、新興のニュータウンと自然豊かな公園の景色が広がる。

約25分、終点の千城台駅に到着する。この街は以前、取材で訪れていた。

2003年10月に起こった『千葉少女墓石撲殺事件』である。犯罪史に残る陰惨且つ稚拙な事件。

風俗店(抜きキャバ)で働いていた16歳の石橋裕子さんが、偽装結婚していた夫(当時22歳)に離婚を切り出したところ、夫は地元の高校生ら5人と共謀し、石橋さんを墓地に連れて行き、歯形がわからなくなるまで殴りつけ、指紋を消し去る為に灯油で焼き殺した。

主犯の夫は、偽装結婚で戸籍をロンダリングしては、消費者金融からカネを借りる詐欺行為を繰り返していた。

当時、この夫は新しい相手と偽装結婚する予定だったが、身元不明状態では離婚できないと気付いて「自分の妻」と名乗りを挙げた結果、呆気なく御用となった。

事件の当事者たちは全員、市営住宅の出身者だった。
石橋さんの働いていた風俗店も千城台にあった。

次に偽装結婚する予定だったという別の16歳の少女を取材した。
彼女もやはり、市営住宅出身者だった。

彼女に事件をコピーした記事を見せた際、「漢字、読めないから」と言われて強い衝撃を受けた。

主犯の夫と族仲間だったという不良3人にも取材したが、やはり漢字が読めず、全員が無免許と自慢げに語っていた。

「21世紀の日本で、こんなことがあり得るのか…」。それが当時の印象だった。

千城台はニュータウンとして開発が進む一方、その裏手には古びた市営住宅団地が現存していた。夜ともなれば、漢字も読めないガラの悪い連中が団地から溢れ出て来る。治安の悪さでは、千葉でも屈指の場所と言われていた。その構図に、現在も違いは無い。

モノレールの駅を降りれば静かなニュータウンの表情を見せるが、古びた脇道を1本入れば、“貧しい昭和がこびり付いた街”がいきなり目の前に現れる。

この界隈の市営住宅の多くは、1960年代半ばから後半にかけて建設されている。
半世紀以上経っているのだから古臭くて当然だが、それでも以前の取材時には活気だけはあった。しかし、今夏に訪れた時、市営住宅は妙な静けさの中にあった。違和感を覚える。明らかに、2003年とは何かが違うのだ。

最も古い木造平屋建ての市営住宅に行く。犬の世話をしていたお婆さんが言う。

「ああ、今、ここは取り壊し前でね。半分以上があっちの新しい団地に移ったよ。私かい? ほら、この子(犬)がいてねえ。犬や猫を飼う為に残っているんだよ」。

このお婆さんが説明した通り、周囲の市営住宅の多くは新規建て替えや改修の真っ最中だった。「前に住んでいた若い人の多くも出て行ったよ」と寂しそうに語る。

夜になって、漸く違和感の原因に気付いた。周囲にコンビニが全く無くなっていたのだ。

駅前界隈は小中学校が揃い、市営住宅とニュータウンの住人合わせて1万人以上が住んでいる。明らかに異常だろう。プール帰りの小学5年生ぐらいの少女にコンビニの場所を尋ねたら、「あそこにあった」と潰れた店を指差された。

そう言えば、駅前にも赤提灯1つ無く、大手チェーンの居酒屋も無かった。
何とか探したところ、市営住宅の脇にスナックが2軒あるだけだった。

その1軒のマスターが言う。「この数年かな。駅前の飲み屋も全部、無くなったんだよ。前はキャバクラや風俗店もあったんだけど」。

私が「事件の影響ですか?」と尋ねると、「若い人が夜に集まりそうな場所は、警察が厳しく取り締まったからね」と頷きながら説明する。

客の1人も、「コンビニは、ほら、トイレで子供を産んで捨てた事件あったろ? あれ以降、どんどん潰れたんだよ」。

これは2011年、地元の20歳女性が千城台のコンビニで起こした事件のことだろう。

8月、お盆前だというのに、街に屯する不良たちが公園で花火に興じる様子も無ければ、暴走族が撒き散らす騒音も聞こえてこない。

マスターは、「兎に角、そういう若者はこの街から本当に消えたんだよ」と繰り返す。昭和の貧しさがこびり付いた街は、急速に変貌しているようだった。


「違法住人の楽園だった」。
市営住宅に暮らす60代の老人客が自嘲気味にそう語る。

母子家庭と言いながら夫と暮らす。夜の店で働きながら生活保護を受け、子供の給食費を払わない親たち。

毎日、パチンコをして飲み屋で暴れる――そうした“貧者の楽園”は消え去ろうとしているのだと、このスナックの客たちは誰もが実感している。

老人客が続ける。

「今、古い市営住宅は建て替え中だろ? 新しい市営に入れるのは、俺のような高齢の年金暮らしや生活保護は大丈夫だけど、以前のように20代の働き盛りで子供がいるとか、偽装結婚しているような家は契約を更新できないからな。だから、親が子を追い出しているんだよ。『お前らがいたら新しい市営住宅に住めないから』って」。

こうして、市営住宅から不良たちや若い層は消え、老人だけの枯れた街になりつつある。

“貧しい昭和がこびり付いた街”は、市の指導の下、健全且つ理想の街へと生まれ変わるのだろう。

12年前、主犯の夫と“偽装結婚”する予定だった16歳の少女の顔を思い出す。
漢字が読めず、「東京の都心は怖いので、夢は葛西に住むこと」と言っていた彼女は今、28歳となり、どこで何をしているのだろうか。

「(殺された石橋さんと)PUFFYの曲をデュエットで、朝までカラオケしたんだよ」。
そう嬉しそうに思い出を語っていた彼女は、既に都会の片隅で最貧困化しているかもしれない。

だが、その姿が顕在化することはないだろう。

夜8時過ぎ。千城台の駅から部活動で健康そうに日焼けした、或いは塾のテキストを持った学生たちと、ネクタイを締めたサラリーマンが続々と降りて来る。そして、小奇麗なニュータウンへと消えていった。 (取材・文/西本頑司)
http://mmtdayon.blog.fc2.com/blog-entry-1118.html?sp

千葉少女墓石撲殺事件とは、2003年(平成15年)10月1日に千葉市若葉区の墓地で発生した殺人事件である。


2003年10月1日の午前7時10分頃、千葉市若葉区の墓地駐車場で、ジョギングしていた男性が遺体を発見した。遺体は、若葉区千城台東の飲食店アルバイトだった少女(当時16歳)であった。

遺体は頭を鈍器で強く殴られて殺害された後、焼かれていた。
千葉県警は少女の夫で若葉区千城台西の運転手である男(当時22歳)を殺人の容疑で逮捕。共犯として高校3年の男子生徒(当時18歳)などを含む若葉区内の未成年の男子あわせて4人も逮捕した。


加害者と被害者の偽装結婚

被害者の少女は幼い頃は活発な少女で、中学時代はハンドボール部に所属していた。しかし部活を引退した3年の秋から性格が変わり始めた。不良グループと付き合うようになり、そこで後に自らを殺害する男に出会う。高校に進学するが、1年生の10月には自主退学し、以後はカラオケ店でアルバイトを始めた。

主犯の男は母親が再婚した義父と折り合いが悪く、家庭内で喧嘩を繰り返した。そして恐喝事件を繰り返し、高校1年の時には少年鑑別所送致にされる。18歳の時にはコンビニ強盗事件を起こして東北少年院送致となり、出所後も遊興費欲しさに窃盗事件を繰り返した。

少女はカラオケ店で働いたものの、給料面などから不満を持っており、水商売で働こうと考えていた。しかし18歳未満という年齢では働くことは不可能である。そこで男は自分との結婚を持ちかけた。結婚すれば成人として扱われるからである。ただし民法の上では成人扱いになるが、風俗営業法による規制から16歳で就職することは禁じられている。そして2人は2003年7月に婚姻届を提出し、少女はキャバクラで働き始めた。

ただし両者の間には恋愛感情は無く、2人の利害が一致したためでの偽装結婚に過ぎなかった。男は消費者金融に300万円に及ぶ多額の借金を抱えており、以前も別の女性と偽装結婚していた。女性の苗字を名乗って名前と戸籍を変更することで、消費者金融の借金を踏み倒そうとしていたのである。

しかし男は少女に結婚した見返りとして上納金を要求する。少女は初めこれに応じたが、次第に金銭トラブルを引き起こすようになり、遂に少女は偽装結婚を警察に通報すると言い出す。男は以前に起こした詐欺の事件で執行猶予中であった。

これが通報されれば猶予を取り消される可能性もあり、口封じを決意し、仲間の未成年4人を「自分たちの起こした窃盗事件を少女が警察に通報しようとしている」と騙すことで犯行に加わらせ、2003年10月1日午前3時過ぎに駐車場内でハンマーで少女を順番に殴りまわしたうえ、重さ70キロもある墓石用の石材を少女の顔に何度もたたきつけて殺害した。

そして少女の遺体にオイルを10数本もかけて火をつけて逃走したのである。
後に少女を発見した男性の証言では、発見したときには少女の遺体の上半身が炭化しており、まだ火もついているという状態だったという。


逮捕と裁判

事件発覚後、男は自ら警察に情報を提供して自分に疑いがかけられないようにした。またマスコミのインタビューにも悲痛な発言をすることで被害者を装っていた。

しかし警察は男と少女の偽装結婚をつかみ、さらに近所のスーパーやコンビニで大量にライターオイルを購入または万引きする男と少年らの防犯カメラの映像を入手して、男と少年らを逮捕する。男は最初容疑を否認していたが、少年4人が犯行を自供したため、遂に男も犯行を認めた。

2005年2月23日、千葉地裁で判決公判が開かれ、「暴行は想像を絶する残虐さ」、「自己中心的で幼稚極まりなく、動機に酌むべき点は無い」、「確定的殺意に基づく極めて残虐な犯行で、矯正は不可能」として、求刑通り無期懲役となる。4月19日に控訴を取り下げて刑は確定した。

また、未成年の少年らも、殺害と遺体損壊に加わった3人を5年から10年の不定期刑に、遺体損壊に加わらなかった1人を3年半から7年の不定期刑に処して確定した。こちらも「残虐な犯行」、「遺体損壊に対する悔悟の念が感じられない」とされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B0%91%E5%A5%B3%E5%A2%93%E7%9F%B3%E6%92%B2%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6


52. 中川隆[-6565] koaQ7Jey 2017年8月31日 10:02:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

格差の次には「何がくるのか」を日本人は理解しているか?


現代社会では、経済格差がどんどん広がっている。最初は少しの差であった格差は、やがては1000倍も2000倍も、いや1万倍も2万倍も開いて、もはや貧困層がどうあがこうが克服できないものとなる。

そして、この極度なまでの経済格差が定着すると、その後に何が来るのか理解しているだろうか。

それは、もちろん「階級」である。

世界の多くの国では、ひとつの国家が見えない層(レイヤー)で区分けされている。経済格差の層である。この経済格差の上と下とでは生活も文化も考え方も違う。場合によっては話す言葉までもが違ってくる。

メキシコでも、ブラジルでも、アメリカでも、イギリスでも、安全な地域と危険な地域は明確に分離して存在している。

分かりやすく言えば、金持ちたちが集う地域は安全だ。そして貧困層が集う地域は治安が悪い。だから金持ちは貧困層がいる地区には決して足を踏み入れないし、逆に貧困層が金持ち地区に行っても警備員や警察に追い出される。

それが定着すると、世界中どこでも貧困層と富裕層は自然に、明確に、完全に分離し、長い年月を経て同じ民族でも違う文化や生活になってしまうのだ。


何もかもが分離し、お互いに接点が極端になくなる

一億総中流の意識がまだ多少でも残っている日本人から見ると、これは階級、身分、差別があるという認識になる。その通りだ。凄まじい経済格差が定着すると、自然に「階級」が生まれて上と下で分離するのだ。

今の日本はそうではない。確かに経済格差は広がっているが、まだ極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはないし、その逆もまた然りだ。

しかし、問題はこれからだ。日本は、今のような平等社会を維持できるのだろうか。経済格差が広がるだけ広がって、それが社会に定着してしまった場合、日本もまた「階級社会」になってもおかしくない。

グローバル化は確実に「格差のある社会」を作り出す。それは間違いない。時間の問題なのだ。だから、将来の日本は今までと違う世界になる可能性がある。

日本人も富裕層と貧困層で分離する。

富裕層と貧困層で分離するというのは、住むところも、通う学校も、付き合う人間も、行きつけの店も、持ち物も、食べる物も、やがては話し方も、すべてが違っていくということだ。

何もかもが分離し、お互いに接点が極端になくなっていく。

教育で言うと、貧困層は親の資金面から安い学校にしか通えなくなり、ここで富裕層と貧困層の子供たちが分離される。富裕層の子供たちは質の良い教育を行う私学に通い、教育に理解のある親と熟練した教師に守られて学力を伸ばす。

一方で貧困層の子供たちは親の理解もなく、給料が安くてやる気のない教師の教育を受けて、教育の質が落ちて学力も低下していくことになる。塾にも通う経済的余裕もない。

公立校ではどんなにやる気のない生徒、問題生徒、非行生徒がいても学校から放逐できないので、しばしば学級崩壊も起きて授業がストップしたりする。

だから、富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。

気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。

富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。


格差を生み出すことになるのは目に見えている

さらに地域で見ると、ある地域に貧困層が多くなっていくと、地価が下がってますます貧困層が流れ込んでいく。そうすると、不動産価格の下落や環境の悪化を嫌って、富裕層が少しずつ、しかし確実に抜けていく。

そうすると、ますます貧困層がその地区を埋め尽くすようになっていく。一方で、富裕層が集まるところは地価が上がって貧困層が住めなくなる。これで人々が分離される。

職業で言うと、富裕層の子弟が卒業する大学卒の勤める職種と、貧困層の勤める職種も違っていく。入れる企業も違い、同じ企業でもエリートクラスと労働者クラスに分かれてこのふたつは交差しなくなる。

この格差は、一度下に落ちると、容易に這い上がれない地獄の格差になっていく。

日本はいずれ、遅かれ早かれそのような社会になる。これについては、多くの社会学者、経済学者、政治家たちが警鐘を鳴らし、危険を訴えている。

誰のせいでこんなことになったのか。全世界がこのようになっているのだとすれば、誰のせいでもなく、現在の社会構造が生み出しているというのが分かるはずだ。

弱肉強食の資本主義が、このような社会現象をどんどん増長させて止まらないのである。強いて言えば、グローバル化を無批判に取り入れた政治家や大企業が悪いということになる。

しかし、日本を鎖国化したら大丈夫なのかというと、それはそれで日本全体が孤立化して北朝鮮のように困窮するだけだ。取り入れても拒絶しても問題が発生するのである。

日本はもうとっくの前にグローバル化を完全に受け入れた。これからも、どんどん受け入れていくことになる。それがさらなる格差を生み出すことになるのは、目に見えている。

もはや、格差が日本国民を分離してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまう。1%の金持ちか、それとも99%の貧困層か。

そして、「階級」の上か下か……。

もはや、格差が日本国民を分離してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまう。1%の金持ちか、それとも99%の貧困層か。そして、「階級」の上か下か……。


日本社会はこれから階級で分離していくことになる

問題は、貧困層に落ちた人は、もはやその子供もまた貧困層になってしまうことだ。個人の努力云々の話ではない。子供たちはスタート時点から極端な差を付けられており、貧困から抜け出せない。

日本がそんな社会になることは、高齢層よりも若年層の方が切実に感じ取れるかもしれない。

日本は若者の自殺が多い国だが、それは就職活動を行っている段階から、多くの企業に断られ続け、自分たちが社会から必要とされていないことを悟ってしまうからでもある。

就職できても生活していくことができないほどの給料だったり、不安定な身分だったりすることも多い。それで必死で働いても、身体を壊して使い捨てされる。

彼らの多くは、自分たちが貧困に生きるしかない現実を突きつけられている。当然、無理して結婚して子供を作っても、子供が貧困で暮らすことになることくらいは容易に想像がつく。

だから、結婚して子供を作るということすらも逡巡する社会と化している。

日本は超少子高齢化となっており、減り続ける子供と増え続ける高齢者のアンバランスで国家の社会保障費に問題が生じているのだ。

これから日本は、過酷な増税、削られる医療費、延長される年金受給年齢などがすべて同時並行で起きて、国民は痩せ細っていく。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた。そのため、ごく普通の人が、年々転がり落ちるように貧困化する。

周辺国との軋轢、憎悪の連鎖、グローバル化の加速、格差の定着、若者の貧困化、超少子高齢化……。すべては、弱肉強食の資本主義が生み出したものであり根は一緒なのだ。

これらの問題が最後まで暴走していく中で、日本でも経済格差が「階級」を生み出して、上と下とではまったく違う文化の中で生きることになる。

格差で騒いでいる段階は終わった。次は階級社会に突き進んでいくのを、日本人は理解しておくべきだ。日本社会は階級で分離していくことになる。

日本でも経済格差が「階級」を生み出して、上と下とではまったく違う文化の中で生きることになる。格差で騒いでいる段階は終わった。次は階級社会に突き進んでいくのを、日本人は理解しておくべきだ。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170831T0331260900.html


53. 中川隆[-6546] koaQ7Jey 2017年9月01日 15:51:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

内田樹 2017年08月31日 北星学園での講演
http://blogos.com/article/243434/?p=1
http://blogos.com/article/243439/


7月22日に北星学園での研修会で講演した。その講演録の文字起こしが終わった。学園の内部資料として配布されるはずだけれど、教育についての持論を展開しているうちに、だんだん加熱してきて、ぷりぷり怒り出しているところが面白かったので、ここに公開することにする。

おはようございます。ご紹介いただきました内田です。

ご紹介の通り、私は神戸女学院大学というミッションスクールの女子大に21年間勤務しておりました。こういう感じの研修会、前任校では「リトリート」というのが毎年ございました。久しぶりに今日、讃美歌を歌って、チャプレンのお祈りをいただいてから、こういう集まりを持つ機会を持ち、たいへんに懐かしい気持ちがいたしました。

 リトリートというのは、ミッション系の学校によくありますが、文字通りリトリートです。引きこもりです。世俗の活動をいったん停止して、沈思黙考する時間を持つ。そういう意味だとチャプレンからは伺いました。研修会ということなのですけれども、やはりミッションスクール、いっとき世俗の活動を停止して沈思黙考する。もう少し広いスパンで、深くものを考える、そういう時間を作るという趣旨の集まりではないかと思っておりますので、その趣旨にふさわしい話を今日はしたいと思います。

「移行的混乱」と演題にありますけれども、「移行期的混乱」というのは、私の友人であります平川克美君が書いた本のタイトルです。非常に使い勝手が良いので、よく使わせて頂いております。今は一つの時代が終わって、ピークアウトして、これから下降局面に入って、後退していく、あるいは衰弱していく、そういうプロセスに、今入っているのではないかと僕は考えております。これから時代が全体として勢いを失っていく、活気を失っていく、衰えていく。

一番分かりやすい指標は人口減で、日本はこのあと急激な人口減局面に入っていきます。これは日本のみならず人類が一度も経験したことがないタイプの、極端な社会的変化です。

現在、日本人口は1億2,700万人ほどですが、人口はこれから急激に減って行って、今から80数年後、2100年段階での上位推計で6,500万人、中位推計で4,850万人、下位ですと4,000万人を切ります。おそらく5000万人程度になるのではないかと思います。5,000万人というと、だいたい明治40年ごろの人口です。今から80数年かけて、明治40年ぐらいの人口に縮小していく。これは、ほぼ間違いない。移民受け入れなどで多少の人口増はあるかもしれませんけれども、基本的には人口減はこのあと急坂を転げ落ちていくように進行していくわけです。

大事なことは、これが誰も経験したことがない、人類史上初めての局面だということです。まず、そのことを心に止めておかなければいけない。過去の成功体験が適用できない状況に僕らは今入りつつあります。これまで有史以来日本列島人口はだいたい増え続けてきました。そういうものだとみんな思いこんでいたからです。だから、近代以降のすべての社会理論、社会モデルは人口増と経済成長を自明の前提にして作られています。資本主義という仕組みそのものが人口増と経済成長を前提にしている。資本主義を批判するマルクス主義でさえも、やはり人口増・経済成長を不可疑の前提として作られています。

資本主義も、資本主義を批判する思想も、成長が止まる、人口が減っていくという局面を想定していない。だから実際に、そういう状況になったときに、どういう手立てがあり得るのかに関してはどの陣営にも理論がない。過去にそんな事態になってことがないのですから、それにどう対応すべきかという学説も、どう対処したら成功したのかという成功事例も存在しない。そういう時代に入っています。

今の日本は非常に停滞しています。何か、頭がどよんとぼやけていて、シャープなことを誰も言わなくなったという感じがありますが、それも当たり前です。前代未聞の、五里霧中の、予測ができない状態に入ったわけですから。こういう状況において明晰な言語があるとすれば、それは「先が見えない」ということなのですけれども、そう言えばいいのに、そう言わない。政治家も官僚も学者たちも、人口増と経済成長が自明である社会をモデルにしてしか考えることができないので、その前提そのものが揺らぐと何も言うことがなくなってしまう。でも、「これまで話の前提にしていた条件が変わってしまったので、この先どうなるか見当もつきません」と正直にカミングアウトすることができない。

これまで経済成長モデルはもう無効になっています。でも、それが言えない。それだけは言わない約束になっているので、知っているけれど、言わない。でも、先月、『フォーリンアフェアーズ・レポート』というアメリカの外交専門誌の日本語版がありますけれど、ここに「経済成長はもうしないのだから、経済成長しないことを前提にした経済政策を採用しなければならない」ということを言うエコノミストが出て来ました。これはモルガン・スタンレーのグローバル・ストラテジストという肩書の人でした。投資銀行の戦略を考えるエコノミストが「各国の指導者はもう『経済成長という非現実的な夢』を語るのを止めた方がいい」と書いているのです。経済目標を下方修正して、現実に合った経済政策を採るべきなのだが、そのことを理解している指導者がほとんどいない、と。

生き馬の目を抜くウォール街の投資銀行のエコノミストが「もう経済成長はしない。いいかげんに現実を直視しろ」と言っているのに、相も変わらず、世界の政治家たちはその現実から目をそらしています。そういう指導者のいる国では、メディアも一緒に遅れていて、そういうところでは世界で今何が起きているとかということを正確に報道していない。報道して分析して対策を提案できるような力がメディアにない。

だから、日本人は今日本がどういう状況にあるのか「よく知らない」のです。これが僕はきわめて危機的なことだと思います。病気の人間が「ああ、具合が悪いなあ。病気かな」と思えば、寝たり、薬を飲んだり、医者に行ったりするけれど、病気なのに病気であることに気がつかないで、生活を変えずにふだん通りに暮らしていれば、そのうち症状が悪化して、やがて死んでしまう。今の日本はかなり重篤な病気なのに病識がない病人に似ています。「病識」を伝えるのはメディアですが、メディアがその役割を果たしていない。

経済のことはデータをごまかしたり、解釈をねじまげたりすれば、「順調に推移している」といいくるめることは可能ですけれど、人口減は否定することができません。あと83年の間に7,000万人ほど人口が減るのです。年間90万人。鳥取県の人口が60万ですから、鳥取県1.5個分の人口が毎年減ってゆく。

それが、いったいどういう社会的影響を及ぼすのかを予測し、そのネガティヴな影響をどうやって緩和できるかについて衆知を集めて議論すること、それが最優先になされるべきことです。でも、その避けがたい現実を直視し、衝撃をどう緩和するかについて現実的な提案をする人も、どこにも見当たらない。政治家にも官僚にもビジネスマンにもジャーナリストにも、当然大学人にもいない。

人口減少は当然雇用の問題にかかわってきます。人口減、超高齢化、超少子化によって、従来存在していたいくつもの産業が消滅します。例えば、全国紙。購読層が高齢者で、若い人はもうほとんど購読していない。高齢者はいずれいなくなりますから、おそらくあと10年ほどですべての全国紙はビジネスとしては「採算割れ」するようになるでしょう。まだ不動産とか持ってますから、切り売りやテナント料収入で新聞は出し続けるでしょうけれど、もうビジネスとしては先がない。

それに追い打ちをかけるのがAIです。海外のメディアを読むとAIが導入されてくると、業界によっては雇用の30〜40%が消失すると書かれています。数値はさまざまですけれど、雇用が減ることは間違いない。機会かで雇用が減るどころか、業界そのものが消滅するところも出てくる。そのような事態にどう対処したらよいのか。大量の失業者が短期的に出て来た場合、彼らの生活の保障をどうするのか、再就職のための就業支援体制をどうするのか、そういう話をもう始めなければいけない時期なのです。

ですから、驚くべきことに、アメリカでもベーシック・インカムの導入が真剣な議論の論点になってきています。アメリカでベーシックインカムが話題になるというのはこれまでならまず考えられないことです。

アメリカはリバタリアンの伝統が強いところですから「勝つも負けるも自己責任」という考え方をする人が多い。仮に競争に負けて、路頭に迷って、飢え死にしても、それは自己責任だという考え方をする人がいる。社会的競争に敗北した人間を公的資金によって支援するのは筋違いだ。そういうことを公言する人たちがいたわけです。この間、僕の知り合いでカリフォルニア大学のデービス校の医学部で医療経済学の先生をしている方からお話伺いました。「オバマ・ケアが廃止されたら何が起きるのですか」と聞いたら、「生活保護を受けている入院患者が、数十万人が路上に放り出されるかも知れない」と言っていました。

精神力の弱い人は、こういう移行期、激動期になると、危険が近づいた時に駝鳥が砂の中に頭を突っ込むように、何が起きているのか見ないようになる。「何も起きていない。私は何も見ていない」と言い張って、現実から目を逸らそうとする。生物としてはある意味で自然な反応ではあるわけですけれども、しかし、やはりそうも言ってはいられない。特に日本の場合というのは、超高齢化・超少子化、労働生産年齢人口の激減という点では世界のトップランナーなわけです。このあと、日本に続いてすぐに中国、韓国、ヨーロッパ、アメリカが少子化・人口減少期に入りますが、今のところは日本が先頭にいる。

この後、予想では2050年前後に、世界のすべての地域で人口転換が起きます。人口転換というのは、合計特殊出生率が2・1を切って、人口の再生産ができなくなるプロセスに入ることです。平均寿命が延びていますから、2・1を切っても、しばらくは惰性があって、人口はすぐには減りませんが、いずれ22世紀半ばにはアフリカを含めて人類全体が人口減少局面に入ると予測されています。22世紀中ごろに地球がどうなろうが、われわれにはもう関係ないと言ったら関係ないわけですけれど、それでもタイムスパンを大きく取らないと、人類史上経験したことがないような局面に、日本がその先頭を切って入っているという事実は把握できない。でも、人口減少について、ではどうするのかについて真剣な議論は動きはどこにもありません。政府には少子化対策の特命担当大臣がいますけれど、婚活だとかいうようなぬるい話しかしていない。ビルの屋上から落ちている途中で、着地のときの衝撃をどう緩和するかという話をしているときに、屋上から落ちないように柵を作りましょうというような話をしている。

今日は大学、高校、中高の研修会ですので、学校教育の問題に焦点を合わせて移行期の危機についてお話ししようと思います。これもまたメディアがあまり報道しないし、大学人自身も直視しようとしていないトピックです。今、日本の大学教育は壊滅的な状況にあります。研究者の方は実感として日本のアカデミズムが勢いを失っていることはわかっていると思います。特に自然科学分野で、先端的な研究をしている人たちは、ほぼ口を揃えて「こんなことをこの先も続けていけば、日本の学術的発信力は先進国最低レベルまで下がるだろう」と言います。

僕の友人の阪大医学部の仲野徹教授は生命科学の研究者ですけれど、この間、海外の学会誌に日本の科学研究の現状について歯に衣着せぬ手厳しいコメントを投稿しておりました。

仲野先生によると、科学研究というのは自転車みたいなもので、走っているうちはペダルが軽く、どんどん走るのですけれども、速度が遅くなるとペダルが重くなり、1回止まったら、よほどの力でペダルをこがないともう走らせることができない。日本の大学で行われている自然科学研究は速度を失いつつあり、あと10年で止まる。1回止まった自転車を再びこぎ出す場合と同じように、一度止まった自然科学研究を再度軌道に乗せるためには、それまでの何倍もの資源投入が必要になる。だから、あと10年で速度をもう一度上げないと、日本の自然科学研究は「終わる」と言います。でも、今の教育行政を見ていると、たぶん終わりそうである、と。

合気道同門の後輩たち、東大気錬会の諸君には理系の研究者が多いのですけれど、彼らと話をすると、かなり絶望的な気分になります。先日も、物理の若手研究者と話したのですけれど、「君の分野はどう?」と訊ねたら、言下に「もうダメです」と吐き捨てるように答えました。いました。これまでは研究について訊くと、もう少し楽しそうに話してくれたのですけれど、取りつく島もない言い方でした。彼によると、今のようなシステムが継続する限り、もう日本の科学研究に未来はないということでした。任期制が基本的な雇用形態になったせいで、若手の研究者たちは、不安定な任期制ポストを渡り歩く以外に研究を続けることができないわけですけれど、来年度の雇用があるかどうかは、プロジェクトのボスにどう査定されるかにかかっている。だから、上のいうことをはいはいと聞いて、決して逆らわない「イエスマン」しか大学に残れない。独創的なアイディアを一人で追求しようとするようなタイプの研究者は煙たがられる。それではイノベーションが起きるわけがないのです。

アメリカの外交専門誌Foreign Affairs Magazineは去年の10月号で日本の大学教育の失敗について長い記事を掲載しました。過去30年の日本の教育政策は「全部失敗」という衝撃的な内容でした。続いて今年の3月にはイギリスの科学誌Natureが、日本の自然科学研究の失敗についての記事を掲載しました。半年間の間、英米の世界的な影響力を持つ二つのジャーナルが「日本の大学教育の失敗・科学研究の失敗」を大きく取り上げたわけです。それくらいに日本の学術の劣化は国際的に「有名」な事例になっているのです。21世紀に入ってから学術的生産力がひたすら落ちているのは、先進国で日本だけだからです。

学術的生産力の指標をいくつか見ておきます。まず、論文の本数。これは2002年から減少が始まって、現在、OECDでは5位です。5位ときくとけっこういいポジションじゃないかと思う人もいるかも知れませんが、1997年から2002年まではアメリカに次いで世界2位だったのです。それがドイツに抜かれ、イギリスに抜かれ、中国に抜かれて5位にまで落ちた。他が論文数を増やしている中で、日本だけが停滞ないし減少している。それから、よく言及される高等教育に対する公的支出のパーセンテージ、これは過去5年連続OECD最下位でした。去年はハンガリー日本より下だったので、下から2番目になりました。

学術的生産力の指標として一番分かりやすいのは「人口あたり論文数」です。論文数だけ見ても日本はすでに日本より人口の少ないドイツ、イギリスに抜かれたわけですから、人口当たり論文数は悲惨なことになります。2013年が35位、2015年がさらに下がって37位。アジアでも、中国、シンガポールはもとより、台湾、韓国の後塵を拝しています。

海外の学術誌が、世界的に見て例外的な失敗事例として日本を研究対象にするのも理解できます。でも、このことを日本のメディアはほとんど報道していません。それを重大な問題として受け止めている気配もありません。でも、Foreign Affairs Magazineの論調は実に手厳しいものでした。

日本の文科省が行ってきた過去20年間の研究拠点校作りがいろいろありました。COE、RU11、グローバル30などなど。これについて「孤立した、単発の、アイランド・プロジェクトであり、それゆえ全て失敗だった(It was therefore a total failure)」という総括でした。実感としては、僕もそうじゃないかなという感じがしてはいたのですけれど、まさかここまではっきり海外のジャーナルから指摘されるとは思っていませんでした。

 Foreign Affairs Magazine が日本の大学教育の特徴として挙げていたのは、「前期産業社会に最適化した、時代錯誤的な教育制度」であることと「批評的思考(critical thinking)、イノベーション、そしてグローバル志向(global mindedness)」が欠落していることでした。「グローバル化に最適化した教育」とか言ってきた割には、日本の教育には「グローバル志向」が欠如していると指摘されてしまった。「グローバル志向」の定義は「探求心、学ぶことへの謙虚さ、世界各地の人々と共同作業することへの意欲」だそうです。それがない、と。

こうも書かれていました。「日本の教育制度は社会秩序の保持と、献身的な労働者の育成と、政治的安定のために設計されている」と。それが「前期産業社会に最適化した、時代錯誤的な教育制度」ということです。ポスト資本主義の時代に入ろうという移行期に「前期産業社会に最適化した教育制度」で対応しようとしているわけですから、学術的なアウトカムが期待できるはずがない。

さすがにここまで言われたのですから、文科省としてはきっちり反論すべきだったと思います。自分たちがやってきたことをほとんど全否定されたわけですから。もし、自分たちの教育行政がそれなりの成果を上げていると信じているなら、論拠を挙げて反論すればよい。バカなことを言うな、自分たちの教育政策はこんなに研究成果を上げているぞ、と。ちゃんと数値的な根拠を示せばいい。でも、文科省はノーコメントでした。まったく反論しなかった。

逆に、指摘が当たっていると思ったら、率直に失敗を認めて、これを契機に、何がいけなかったのか、原因を究明すればいい。でも、文科省はそれもしなかった。反論しなかったのは反論する根拠がなかったからでしょう。失敗を認めなかったのは、失敗を認める責任を取らされるからでしょう。だから、失敗しているにもかかわらず、その事実を認めず、それゆえなぜ失敗したのかを吟味することもしなかった。ということは、文科省はこれからも教育行政で失敗し続けるということです。これまでの失敗を認めないということは、失敗事例から学習することを拒否したということです。

だったら、同じ失敗をこれからも続ける他ない。有害無益なことだとわかっていても、止められない。止めたら「こんなこと誰が始めたのだ」という責任問題が発生するからです。だから、無駄とわかっていても、止められない。でも、何かしないといけないから、これまでの仕事に追加して、新しい仕事をどんどん課してゆく。でも、教育の現場にいるのは生身の人間ですから、使える時間も体力も限界がある。どこかでバーンアウトする。現に、バーンアウトが始まっている。その結果が、この悲惨な学術的生産力の低下として現象しているわけです。

僕は82年に大学の教員に採用されました。それからですから30年以上、大学の教育現場を見てきています。記憶する限り、最初の大きな変化があったのは1991年でした。大学設置基準の大綱化という政策転換がありました。大綱化というのは、平たく言えば、大学に教育内容についてフリーハンドを与えるということです。それまでの文科省の教育行政はいわゆる「護送船団方式」でした。カリキュラムから、校地面積から、図書の冊数から、事細かに定めてあった。「箸の上げ下ろし」まで小うるさく注文をつけてきたのですが、その代わりいったん大学として認可したら、絶対に脱落させない。一定の質の教育機関として機能するようにうるさく世話をした。

それが91年に方向転換しました。護送船団方式を止めて、大学の生き残りを市場に託したのです。これからは各大学が自分たちのカリキュラム編成を自由にやってよろしい、と。創意工夫をしたいところはしてよろしい、と。好きなことをやらせる代わりに、国はもう大学の世話をしない。大学が生き残るか、脱落するかは、自己努力にかかっている。それぞれの大学が大学としてふさわしいものであるかどうかは、文科省ではなく、これからはマーケットが判断する。

僕はこの時点では、大綱化を歓迎する立場でした。文科省、いいこと言うじゃないかと思っていました。それぞれの大学が好きにやって良い代わりに、その大学が滅びようと繁栄しようと自己責任であるというのは、いっそ潔いではないかと思いました。各大学がカリキュラム改革や大がかりな学部改組に取り組み出したのはそれからです。

でも、よくよく考えてみると、別にそれは文科省が大学を信頼して、大学に教育についての権限を委譲したという話ではなかったのです。それはこの時点ですでに18歳人口の減少が始まっており、遠からず大学が過剰になるということがわかっていたからです。いずれ大学は淘汰されることになる。でも、文科省にはどの大学が淘汰され、どの大学が生き残るべきかを決定するロジックがなかった。当たり前ですよね、明治の近代学制の開始以来、日本の教育行政がしてきたことは一言にして尽くせば「いかにして国民の就学機会を増やすか」ということだったからです。どうやって教育機関を増やしていくのか。教育内容を多様化・高度化するか。それが仕事だった。じゃんじゃん学校を作るのが本務だった。でも、90年代に入った頃に、「大学が多すぎる」ということに気がついた。大学進学率ももう頭打ちになって、18歳人口が減り出すと、定員を維持できない大学が出てくる。それがはっきり公言されたのは民主党政権のときです。国家戦略会議というところで「大学が多すぎるから減らさなきゃいけない」という、まともな議論が出てきた。そのあと、田中真紀子さんが文部大臣になったときにも、新設学部学科の認可を拒否したということがありました。認可の基準を満たしていなかったわけではなく、審査は通ったのだけれど、大臣が「これ以上大学定員を増やすわけにはゆかない」と言って反対したのです。田中さんらしい雑駁な議論でしたけれど、言っていたことは筋が通っていた。確かに大学数が多すぎる。人口はどんどん減っているのに、学部学科の定員は増え続けている。これはどうしたってそのうち破局的な事態になる。なんとかしなければいけない。でも、どうやって調整するかということになると、調整するためのロジックを文科省は持っていなかった。

 それまでは18歳人口が増えて来るのに合わせて大学に臨時定員増を認めていました。大学に進学希望する子どもの数が増えているのだから、できるだけ多く受け入れてあげましょうというのはロジカルです。でも、それなら18歳人口が減ってきたら、大学の定員を減らして、受け入れ数を調整しましょうというのがロジカルなのですけれど、それができなかった。

僕はその当時文科省の私学教育課長の方と対談したことがあります。その時に聞きました。「18歳人口が増えるからという理由で定員増したわけですから、人口減になったら定員減を大学に求めるべきでしょう。18歳人口が前年比95%になるなら、全大学に受け入れ数を前年比95%にしなさいと行政指導できないんですか? そうすれば、どの大学も志願者確保のために駆けずり回らなくてもいいし、教育水準も維持できるし、学校経営の危機もいきなりは来ないから、経営の難しい大学はゆっくりとダウンサイジングしながら軟着陸の手立てを考えることができるんじゃないですか」と。でも、一笑に付されました。文科省にそんな力ないですよって。どの大学が進んで定員減なんか言い出すものですか、と。

確かにその通りでした。むしろ、大学の経営陣は18歳人口が減り出すと、いきなりビジネス・マインデッドになってゆきました。その頃からどの大学でも財務を担当してきたビジネスマン的な人たちが発言権を持つようになりました。彼らは研究者でも教育者でもありません。この人たちは基本的に株式会社をモデルに大学経営を考えていますから、「右肩上がり」を前提にものを考えます。マーケットが縮むから、生産数を減らそうなんてことは考えません。いや、どうやってマーケットを拡大したらいいのか、どうやって顧客をこちらに向かせたらいいのか、どういう教育プログラムを整備すれば消費者である高校生やその保護者に選好されるか、そういう「集客戦略」を語る。「危機の時こそ一気にシェアを取る絶好のビジネスチャンスなんですよ」というようなことを言う人相手に「じわじわ定員減らしましょう」というような後ろ向きの提案をしても一顧だにされない。

文科省は、確かに学校教育を司る省庁として当然ですけれど、国民の就学機会を増やしていく、教育機会を充実していくということに関しては、明確な使命感も持っていたし、理念もあった。けれども、縮めて行くということに関しては何のプリンシプルも持っていなかった。増やすノウハウはあったけれど、減らすノウハウはなかった。だから、「マーケットに丸投げする」という無原則的な対応をとったのです。

「マーケットは間違えない」からという理屈で。このとき日本の教育行政に初めて市場原理が本格的に導入されたわけです。どの教育機関が生き残り、どこが退場するかはマーケットが決定する、と。他の商品と同じです。商品をマーケットに投じる。消費者がいくつかの競合商品の中からあるものを選択する。選択された商品は生き残る。選考されなかった商品は不良在庫になって、やがて会社は倒産する。それと同じことを大学にも教育機関にも適用したらいいじゃないか、と。それ以外に過剰に存在する教育機関を淘汰する方法がない、と。そういうことで90年代はじめに学校教育の適否はマーケットが決定するということについての国民的合意が形成されたのです。

今にして思うと、あの時にもう少し議論を練るべきでした。そんなに簡単に学校教育の適否の判断を市場に委ねていいのか。実際にはかなりジャンクな商品であっても、商品イメージの設定が巧みで、広告が適切だったら、消費者は買います。「消費者は神さま」ですから、消費者が質のよい商品を棄てて、質の悪い商品を選んでも、それは消費者が正しいということになる。学校についてもそのようなことが起きるかもしれないけれど、それでもいいのかという議論は誰もしなかった。消費者に選好される教育機関は「よい学校」であり、消費者が見向きもしない教育機関は「要らない学校」だということに衆議一決した。「社会的ニーズ」に見合った教育商品を提供できない学校は消えるしかないというシニカルな断定に誰も反論しなかった。「ニーズ」という言葉が大学の中で繰り返し口にされるようになったのが、90年代半ばからです。

それまで僕が学生院生だった70年代も、教員をしていた80年代も、そんな言い方で教育を語る人なんか教員の中にはいませんでした。でも、ある時点から、「ニーズ」とか「マーケット」とか「コストパフォーマンス」とかいうそれまで使われたことのないビジネス用語が大学の会議でもふつうに口にされるようになった。今はもうそれがふつうになりましたけれど、こんなふうな言い回しを大学の教員が言い出したのはわずか20年くらい前からなんです。

そもそも学校の建学の原点に立って考えたら、「ニーズ」なんて言葉が出てくるはずがないんです。今日も冒頭に北星学園の建学者の話が出て来ましたけれど、この学校がどうしてできたかという根本に立ち返って考えてみたら、その時点で「マーケットのニーズ」なんてないんですよ。全然。北星のスミスさんという建学者も、神戸女学院のタルカットさん、ダッドレーさんも、誰も呼んでいないのに、アメリカから来て建学したわけです。神戸女学院の二人の女性宣教師はアメリカン・ボードという伝道団体から派遣されて神戸に来ました。彼女たちが日本に来るとき、サンフランシスコから船に乗ったわけですけれど、乗船時点では日本はまだキリスト教禁制下だったのです。江戸時代のご法度がそのままだった。幸い、日本に着いた時には「キリスト教禁止」の高札が下ろされた後でしたので、違法にならずに伝道活動ができた。でも、アメリカを出る時に、彼女たちの教育内容に対する「市場のニーズ」なんていうものは日本国内のどこにもなかったんです。

消費者が選好するような教育プログラムを提供する教育機関にだけ存在理由があると平然と言い放つ学校経営者がいますけれど、もし明治時代にそんなことを言っていたら、日本の私学のほとんどは今存在していないということを少し考えた方がいいんじゃないかと思います。明治自体にも「そういうこと」を公言する人たちばかりであったら、その人たちが卒業した大学そのものが実は存在していなかったかも知れないということ彼らはを想像することができないのでしょうか?

消費者も、市場も、ニーズも、何もないところに建学者たちはやってきて、そこに学舎を建てたのです。そしてそれから、「そこで学びたい」という人たちを創り出した。学校に先立って学びたい人たちがいたわけじゃありません。学校を作ったことによって「そこで学びたい」という人たちが出現してきたのです。そのことの順序を忘れてはいけません。

建学者たちは、自分たちは「こういうことを教えたい」という旗を掲げた。こういう教育がこれからの日本には必要なのだ、日本の次世代を担う若い人に必要なのだと説いた。その熱い言葉に反応して、「学びたい」という人が出現してきた。「こういうことを学びたい」という子どもたちがまずいたのではなく、「こういうことを君らは学ばなければいけない」と力強く語った人がいて、その先駆的な理念に反応して、「もしかすると自分の中にあるぼんやりした欠落感は、この学校に行って、この先生に就いて学んだら満たされるんじゃないか」というふうに感じた若い人たちが出て来た。

教育を受ける人たちというのは、教育活動に先立って存在するわけじゃありません。「教えたい」というメッセージがまずあって、それに呼応して「習いたい」という人が出てくる。呼応するというより、同期ですね。禅語で言うところの「啐啄の機」です。「啐啄の機」というのは、卵の殻を外側から母鳥が突き、内側から雛鳥が突き、両方の嘴が合ったときに卵の殻が割れて、母と子が出会う、師と弟子が出会うという、そういう状況を言うものですけれど、学校教育における教師と生徒の関係も本来はそういうものだと思います。

でも、同期とはいいながら、やはり殻をつつくのは母鳥が先です。教えるのは師が先です。「私はこれを教えたい」ということがある。その「教えたい」ことについて、確信があり、情熱があれば、必ずそれに反応して「学びたい」という人が登場してくる。

ですから、この学校もそうでしょうけれど、ほとんど全部の私学は建学の時は「持ち出し」なわけです。建学者は私財を投じて、身銭を切って学舎を作り、教員を雇い、生徒たちが集まるのを待った。教育事業に入れ込んで家産を傾けた人だっているわけです。もともとビジネスじゃないのです。「こういう知識や技能を身につけたい」という生徒たちがぞろぞろ集まって来て、彼らが差し出した学費で学舎の建設費用や教師の給料が賄えそうだから、「じゃあ学校作ろうか」なんていって学校を始めた人なんかいません。採算やらニーズやら言っていたら学校なんか始められません。

先ほど、理事長室でも話題に出たのですけれど、ビジネスマンが学校をやったら、何が始まるか。ゴルフ場を経営しているという人が学長に「大学というのは儲かるようですね。私にもできますか」と訊ねたんだそうです。びっくりして理由を訊いたら「だって、大学って四月に授業が始まる前に、学納金が全額入るわけでしょう。まだ商品を売る前に代金が先に入ってくるなんていううまい商売この世にありませんよ」と言われたそうです。

確かに、ビジネスマンはそういうふうに考えるんです。まだ授業を何もしていない段階で、代価が全額納入されている。こんな確実な商売はありません。売り上げ金はもう全額手元にある。だったらビジネスマンが次に考えるのは「どうすれば収益を最大化できるか?」です。答えは簡単ですね。コストを最少化すればいい、です。教育にかかるコストを最少化するためにはどうしたらいいのか。一番簡単なのは、教育をしないことですね。教育活動をやらなければいい。そうすれば、校舎も要らないし、教職員に払う人件費も要らないし、光熱費もかからない。でも、さすがに学費だけもらって授業をしないというわけにはゆきません。許された経営努力は「できるだけ教育にコストをかけないで、内容のある教育しているように見せる」ことだけです。

そんなことを考えている学校なんか存在するはずがないと思われるかも知れませんけれど、そういう大学は実際にあるんです。お金だけもらって、授業をやらない大学。授業料を払い込めば、学士号、修士号、博士号だけ出すという大学がある。Diploma millとかDegree millとか言われるものです。たぶん若い教員の方たちはそんな言葉、聞いたことがないと思います。これ、アメリカ発で、80年代、90年代に世界を席巻したビジネスなんです。「学位工場」と呼ばれるものですけれど、教育活動をしない学校です。授業料だけ受け取って、それに対して学位を渡す。日本ではそんな学校認定されませんけれど、アメリカでは違法ではないのです。実体のない大学、ビルの一室を借りて、電話と私書箱だけがある大学。そこが大学を名乗って学位を発行する。そんなもの、ただの紙切れですよ。でも、その紙切れが欲しいという人がいる。博士号を持っているということを履歴書に書いて、名刺に刷って、学位記をオフィスに飾りたいという人がいる。だったらそれはフェアな取引なわけです。学位工場はその顧客をだましているわけじゃないんです。「これはただの紙切れだよ」と言って売っていて、その紙切れを何百ドルか出して買うという人がいる。ジャンクだとわかって売り買いしている。両者合意の上の取引ですから、違法ではない。

それが80年代、90年代にアメリカからアジア全域にまで広がってきた。だから、今皆さんが必死になってやっている「相互評価」ってありますね。あれはこの流れから出て来たものなんです。学位工場が何百となく登場してきて、インチキな学位記を売りまくり出した。そんなところに「大学」を名乗らせたくない。でも、アメリカには日本みたいな小うるさい大学設置基準なんてない。「大学です」と名乗ることに小うるさい条件なんかつけない。それを大学として認知するかどうかはマーケットが決める。「マーケットは間違えない」から。そして、アメリカのマーケットは「こういう無内容な大学があってもいいじゃないか」と判断した。

これに対して対抗措置としてまともな大学が行ったのが「相互評価」です。内容のない学位工場のリストを作って「ここはインチキですよ」ということはできません。営業妨害になるから。場合によっては莫大な損害賠償を請求されるリスクがある。だから「ブラックリスト」は作れない。だから、その逆の「ホワイトリスト」を作った。教育実績について定評のある大学が集まって、お互いにお互いを「まともな大学ですよ」と保証するということをした。それが「アクレディテーション(信用供与)」という仕組みです。それが相互評価の始まりです。いきなり出て来たわけじゃない。学位工場の蔓延がもたらす社会的害悪を阻止するために、まともな大学が集まって講じた自衛措置なんです。

だから、こんなもの日本の大学でやる理由なんか実は何もないんですよ。だって、日本には学位工場なんてありませんから。内容のない大学はいくらかありますけれど、そんなわずかばかりの大学に低い査定をつけてマーケットに開示するために、日本中の大学が「自分たちはまともです」ということを必死になって自分で証明して、相互に承認し合うなんて無駄もいいところです。日本とアメリカでは国情が違うんですから、日本では相互評価なんか必要ないんです。でも、若い教員の人たちはそんな事情は知りませんよね。大学に就職したら何年も前から自己評価・相互評価ということをやっている。だからなんだかたいへんな手間暇がかかるし、何のメリットがあるかぜんぜんわからないけれど、やらなくちゃいけないらしいからやろう、と。黙って受け入れているんだと思います。でも、これはアメリカにおいては必然性のある制度でしたけれど、日本が真似する理由なんてまったくないものなんです。

ただ、実際に学位工場が日本に入りかけたことはあったんです。もう少し体裁を整えたものでしたけれど、教育プロヴァイダというものがアジア全域に広がった。でも、どうしても日本には入り込めなかった。それはシステムが全部英語ベースだったからです。学位工場で学位もらおうというような人たちは学力がないので、このd英語が読めなかったんです(笑)。言語障壁が日本を守った。

個人的に面白い経験がありました。6〜7年前のことですけれど、英文の手紙が来て、「あなたは昨年度の世界を代表する100人の哲学者の一人に選ばれました。ついては、賞状と記念メダルをお送りするので150ドル払ってください」って。微妙な金額でしょ、150ドル(笑)。「その年の世界を代表する100人の哲学者」という賞状を客間の壁にかけておいたら、お客さんが「これ何ですか?」 と訊いてきたら、「これはね」ってひとしきり笑えるでしょう。笑いネタとしてなら150ドルを払っても良いかな・・・と一瞬思ったのです(笑)。でも、なかなか人間心理のひだを読んでますよね。1000ドルって言われたら誰も相手にしないし、10ドルと言われてもやっぱり相手にしないけど、150ドルという価格設定が微妙です。その時に、ああ、こういう商売というのはずいぶん洗練されているんだなと思いました。日本にいると気が付かないけれど、世界中にそういうビジネスはあるわけです。

まあ、実際に日本の大学の先生でも、学位工場から博士号買ってしまて、それが後でばれて恥をかいた人がいましたからね。これも、それが話題になったのは、その時だけです。今でも、外国名の大学の博士号なんかについては、履歴書に書かれていたら、果たしてそれがまともな大学か、インチキ大学か、僕たちは手間かけて調べたりしませんからね。

ですから、たしかにビジネスとして学校教育をやるということはありうるわけです。でも、それは結局「できるだけ教育事業をしないで金だけもらう」という仕組みになるしかない。

学位工場のことはご存じない方でも、株式会社立大学のことは覚えていると思います。2003年度、小泉政権のときに、例の「構造改革特区」に限っては学校法人ではない事業者が学校を設立できることになりました。そして民間企業が続々と大学経営に参画してきた。ビジネスマンが大学を経営するとどうなるかということのこれが見本ですね。2004年から株式会社立大学が鳴り物入りで新設されましたが、WAO大学院大学とTAC大学は申請に不備があって却下、LCA大学院大学は三年で募集停止、LECリーガルマインド大学は全国に14キャンパスを展開しましたけれど、2009年に学部が募集停止。サイバー大学はすべての授業をネットで配信するので「一度も大学に登校せずに卒業できます」という触れ込みでしたけれど、レポートを出してくる学生の本人確認ができないのでさすがに文科省からクレームがつきました。その世界遺産学部というユニークな学部は2010年に募集停止。

小泉純一郎、竹中平蔵が行った規制緩和の中で出て来た話です。学校教育を学校法人だけにやらせるのはけしからん、と。ビジネスマンが参入できる仕組みを作れば、産業界のニーズにぴったりあった人材育成の仕組みができるに違いないと自慢げに始めたわけですけれど、結果はどうなったのか。株式会社立大学が志願者確保に大成功し、卒業生は引く手あまたというような話はどこからも聞きません。でも、当たり前なんですよね。どれほど「実学」重視と言っても、ビジネスマンがやる以上、経営努力の最優先項目は「教育にかけるコストを最少化すること」になる他ないんですから。経営努力がまず「いかに教育をしないか」の工夫に向けられるようなところが教育機関として機能するはずがない。今でも「実社会でビジネスの経験をした人間をつれてくれば、世間知らずの大学教員なんかには真似のできない実学教育ができる」というようなことを言う人がいますけれど、そういう人たちに「では、株式会社立大学はなぜ失敗したのか」、その理由をきちんと説明して欲しいと思います。でも、ビジネスマンに学校教育をやらせろと主張する人たちの誰一人「株式会社立大学の末路」については言及しない。それはもう「なかったこと」になっているらしい。

大学教育の劣化は深刻な事態ですけれど、大学人自身が大学教育が劣化しているという事実を直視していないことが最大の問題です。それがどういう歴史的経緯で出て来たものかということを検証していない。だから、どうすれば大学の生産力を回復できるかという議論が始まらない。

でも、なかなか気がつかないんです。d日本の大学だけ見ていると。「何か最近の学生は活気がないね」とか、「最近の学生は漢字が読めない」とか「英語ができない」とか言っているだけです。でも、「どこもだ」と教えられると、納得してしまう。あのですね、それは日本の大学ばかりが地盤沈下しているということなんです。沈みかかっている船の中でお互いの顔を見ていて、「何も変わっていない」と思っているけれど、実は船自体が沈んでいる。

だから、今、政治家とか財界人とかは、もう自分の子どもを日本の学校にやらないでしょう。中等教育から海外ですよ。スイスの寄宿舎とか、ニューイングランドとか。

あるところで一緒になったビジネスマンが日本の学校教育がいかにグローバル化に遅れているかを難じた後に、「だから、私は子どもを日本の学校なんかにやらないで、ハイスクールからアメリカに出しましたよ」と自慢げに言っていました。僕はそういう人には日本の学校教育についてはあまり提言とかして欲しくないと思いました。この人は日本の学校教育はダメと判断して、子どもをアメリカに留学させたわけです。それなりに手間暇もかかるし、お金もかかるし、親子離れ離れで暮らすのもけっこう切ないものです。それだけの個人的な代償を支払った以上、「日本の学校教育を見限って留学させた私は正しかった」ということをぜひとも確信したい。そして、自分の選択が正しかったということは、彼が「ダメ」と判定した日本の学校教育を受けた人間たちが自動的に社会の下層に格付けされ、苦労してアメリカで学位を取ってきた人間が高く格付けされるような社会が到来することでしか証明されない。ですから、これ以降、彼は日本の学校教育が失敗し、日本で学校教育を受けた人間が「使い物にならない」という状況の到来をつねに切望するようになる。これは無意識の欲望ですから、止めることができない。

うっかり、そのあと日本の学校教育が改善されて、子どもたちの学力が向上して、「留学なんかする必要がなかった」ということになったら、彼の判断は間違っていたことになる。それは困るわけです。人間というのは、そういう哀しい生き物なんですよ。自分の判断が正しかったことを証明するためなら、多くの人が不幸になるような事態が到来することを心待ちにする。心待ちにするどころか、そうなるように自分から積極的に働きかける。そういう人間の心理って、あるんですよ。だから、横で話を聞いていると、この人はどう考えても日本の学校教育がどんどんダメになるような提案しかしないんです。彼にとっては日本の学校教育が劣化した方が彼の先見性を証明してくれるわけですから、そんなことをしたら研究も教育も破綻してしまうような提案ばかりしていました。

そういう意識的あるいは無意識的な、有形無形のさまざまな干渉によって日本の学校教育は21世紀に入ってから急激に劣化してきているのです。それが特に高等教育によって際立っているわけですけれども、中等教育に波及するのも時間の問題です。

僕が今18歳の高校生で、進路をどうするか決めなければいけない時期になったら、「できたら日本の大学には行きたくない」とたぶん言うと思うのです。親に泣きついても「海外に行かせてくれよ。お金がかかるかもしれないけれど、必ず返すから」と言うんじゃないかという気がします。今自分が18歳だったら。日本の大学には行ってもしようがない気がするから。それは別に統計的な根拠があるとか、海外のジャーナルから批判されているからとか、そういう理由のあることではなくて、直感としてです。なんか夢がない。大学というところが「つまらなさそう」のように見えるからです。みんな暗い顔をしている。教師が疲れ切れていて、不機嫌で、苛ついている。学生もさっぱり楽しそうじゃない。

教師が不機嫌というのは、もう中・高・大全部そうです。膨大な量の事務に押しつぶされているからです。会議と書類書きで。研究教育成果を上げるための会議と書類書きで、研究教育のための時間がどんどん削られている(笑)。本当に、そうなのです。国公立大学の場合、独立行政法人化からあとはカリキュラム改革、学部改組、グローバル化、自己評価とか、そういう次々と押し寄せる「雑務」を担当させられてきたのは、多くが30代・40代の若手の教員でした。仕事ができて、体力のある教員にこういう仕事は回ってくる。でも、「こういう仕事を手際よくこなす」という評価がいったん与えられたら、あとはずっと「そういう仕事」ばかり回ってくるようになる。そういうことばかりで10年間が過ぎたというような教員が日本中に何百人何千人といるわけです。研究者として一番脂がのりきった時期に会議と書類書きに明け暮れた人たちが。この人たちがその時間を研究に充てていた場合に生み出された学術的成果のことを思うと、僕は絶望的な気分になります。

日本の論文数が急激に減り出したのは、2004年の独立行政法人化以後ですけれど、それは当たり前なのです。でも、じゃあどうすれば低下した学術的生産力を復元させて、海外の大学と競合できるようになるのかが問題になると、その課題に答えるためにまた会議が行われ、書類を書かされる。さらに研究は停滞する。そんなばかばかしいことを全部止めてしまえば日本の大学の研究教育の力は回復します。大学人であれば、誰でも内心はそう思っているはずです。教員たちを研究教育に専念させる。夏休み春休みをたっぷり与える。サバティカルで在外研究の機会を与える。それだけのことで論文数なんか一気にV字回復します。誰だってそれはわかっている。でも、今進んでいるのは、それとまったく逆の方向です。さらに教員たちへの負荷を課して、さらに研究教育機会を減らし、教員たちの自尊心を傷つけ、不機嫌な気分に追いやるような制度改革ばかりしている。

多くの教員は、研究教育が好きだからこの仕事を選んだのです。それに専念できる環境が整備されれば、給料なんか安くても喜んでこの仕事をします。多くの先生方が早い人は50代で定年前に仕事を辞めてしまう。理由を聞くと「もう会議をしたくない」という方が多い。会議がなくて、研究教育に専念できるなら、こんな楽しい仕事はない、と。そうすれば、学校はもっと明るくて、もっとイノヴェーティヴな場所になるだろうと思います。

大学に成果主義を導入したのも大失敗でした。実は僕は成果主義導入については「戦犯」の一人なんです。神戸女学院大学は日本の私学で最も早く教員評価システムを導入した大学の一つですが、その時にFD委員長として旗振りをしたのは僕です。

その頃は働いていない教員が目についたのです。学務をほとんどしない。研究もしない。何年も論文一本も発表しない。教育も手抜きという教員が目についた。そういう人たちが大きな顔をしているのが許せなかった。だから、研究、教育、学務の三分野で教員たち一人一人の活動成果を数値化して、全教員をそれに基づいて格付けして、予算を傾斜配分し、昇給・昇格にもそれに反映という、新自由主義者丸出しの案を提出したのです。もちろん教授会では批判の十字砲火を浴びましたけれど、「これからはビジネスマインドがないと、大学はマーケットに淘汰されてしまう」と訴えて、「危機の時代を生き残るためには限られた研究教育資源を活用しなければならない。そのためには、アクティヴィティの高い教員に資源を集中する。『選択と集中』だ」ということで教授会を説得しました。でも、始めて1年もしないうちに自分が取り返しのつかない失敗を犯したことを思い知らされました。

教員の活動成果の客観評価なんて無理なんですよ。担当しているクラス数とか、論文指導している院生数とか、委員をしている委員会の数とか、そういうものはたしかに簡単に数値として拾えます。でも、研究成果の数値化はできない。僕は刊行論文数ぐらいはそのまま数値化できるだろうと楽観していました。でも、それさえできなかった。委員会でいきなり「1年に5冊も6冊も書き飛ばす人間の書いた一冊と、20年かけて書いた一冊を同じ扱いにするのか」と言われて絶句してしまったからです。「1年に5冊も6冊も書き飛ばす人間」というのはもちろん僕のことなんですけれど(笑)。たしかにご指摘の通りなんです。一冊の本といってもそれぞれの学術的価値には場合によっては天と地ほどの隔たりがあります。それを「1冊何点」というふうに機械的に配点して、その多寡を比較しても意味がないといったら意味がない。言われてはじめて気がついた。著作や論文は何冊何本書いたということよりも、学術の歴史の中で、どのような地位を占めることになるのかというもっと長い時間的スパンの中で評価しなければほんとうの成果を見たことにはならない。

勤務考課についてもそうでした。考えてみたら、公正で客観的な考課ができる人なんか数が限られているわけです。同僚たちの日常の学務への貢献をきちんと評価できて、同僚たちから「あの人の下した評価なら信頼性がある」と思われている人に任せるしかない。でも、そんなフェアで目の行き届いたはだいたい研究者としても一流の仕事をこなしているし、すでに学長とか学部長とかになっているわけですよ。ただでさえ学務に忙しいそういう方々にさらにピアレビューの仕事を押しつけてしまった。でも、そんな格付け作業なんか、いくらやっても大学全体としての研究教育のアウトカムは少しも増えるわけじゃないんです。むしろこれらの「仕事ができる人たち」の研究教育学務のための時間を削るだけだった。

 やってみてはじめて知ったのは、成果主義がどれほど膨大な「評価コスト」を要求するかということでした。それを事前にはまったく想定していませんでした。それに、単一の「ものさし」で教員たちを一律に格付けしてみても、それで全体のアクティヴィティが高まるということはまったく起こらないということにも気がつかなかった。アクティヴィティの高い先生たちは、考課して点数なんかつけなくても、やることはやるし、研究も教育も学務ももともと手抜きという教員たちは、低い評価をつけても別に何の反省もするわけじゃない。ただ「こんな評価システムには何の意味もない」と怒るだけです。ただそれだけのことでした。

教員評価に要した膨大な評価コストはもともとアクティヴィティの高い教員たちにのしかかって、彼らの研究教育活動を妨げただけで終わってしまった。自分の「選択と集中」理論がどれほど愚かしいものであったかをそのときに気づきました。以後、「ああいうこと」をやってはいけませんということをお知らせするために、こうやって全国行脚をしているわけです(笑)。成果主義は絶対にやってはいけません。大学における成果主義は何一つ良きものを生み出しません。

シラバスもそうです。あれも全く無駄な仕組みです。でも、シラバスを整備するために教員たちはやはり大変な作業量を費やしている。

シラバスというのは商品の仕様書です。缶詰や薬品についているスペックと同じものです。この商品には何が含有されているか、効能は何か、賞味期限はいつまでか、それを消費者のために表記するものです。でも、学校の授業は乾電池や洗剤とは違います。授業というのは「なまもの」です。1年前に1年後にどんな授業をするのか事細かに書けと言われたって書けるはずがない。専門科目の場合、僕は自分がその日に話したいことを話す。でも、自分が1年後の何月何日にどんなことに興味を持っているのかなんかわかるはずがない。だから「人間について考える」とか「言語について考える」とか、そういうふうな漠然としたものしか書けない。

僕が教務部長だった頃に「シラバスをもっと精密に書くように」というお達しが文科省からありました。でも、僕は教授会で「そんなに詳しく書くことはありません」とつい口が滑ってしまった。そしたら、何も書かずにシラバスが白紙という人が出て来た(笑)。そしたら翌年、助成金が削られました。経理部長からは厭味を言われました。「内田先生のせいですよ」って。

僕はこの時猛然と怒りました。僕はシラバスは教育的に意味がないと判断したので、書かなくていいと言ったのです。別にそれは思い付きではなくFD委員長をしていたときの何年間かのアンケート結果を統計的に処理した結果、「授業満足度」と「シラバス通りに授業をしているか?」という問いの回答の間には有意な相関がないということがわかったからです。それ以外のことは「教員の板書はきれいか?」でも、「時間通りに授業を始めるか?」でも「授業満足度」との相関があった。数十の質問項目の中でたった一つ何の相関もないことがわかったのが「シラバス通りに授業をしているか?」という問いとの相関だった。だから、意味がないと僕は思ったのです。

文科省は「シラバスは教育効果がある」と思っているからそれを精密に書くことを大学に要求してきたわけでしょう。だったら、その根拠を示して欲しい。もし、文科省が「シラバスを精密に書き、シラバス通りに授業をすると教育効果が高まる」という統計的なエビデンスを持っているなら、それを示して欲しい。僕だって学者ですから、エビデンスを示されたら引っ込みます。こっちはせいぜいサンプル何千という程度のデータです。文科省が何十万かのサンプルに基づいて「シラバスの有用性」を証明してくれたら「すみません」と頭を下げます。でも、文科省はそうしないで、ただ助成金を削ってきた。

今はシラバスを英語で書けとか、同僚同士で他人のシラバスの出来不出来を査定しろとか、どんどん仕事量が増えていますけれど、そういうことにどのような教育効果があるのか。どんなデータがそれを証明しているのかについては何の情報も開示されていない。これはおかしいでしょう? ことは研究教育に関する話なんですから、研究教育の成果が上がったという実績があることを示した上で実施を求めて来るべきじゃないんですか? でも、文科省はエビデンスを示して、反論することをしないで、ただ金を削っただけでした。これは文科省の方がおかしいと僕は思います。反論しないで代わりに金を削るというのは「人間は条理によってではなく、金で動く」という人間観を文科省自身が開示したということですから。大学人であっても、「やれば金をやる。やらなければ金をやらない」と言えば、したくないことでも、明らかに無意味に思われることでもやる。文科省は人間というのは「その程度のものだ」と思っている。思っているどころか、人間は「そうあるべきだ」と告知している。

仮にも文科省は国民教育を専管する省庁でしょう。そこが「人間は条理ではなく、金で動く」というような人間観を披歴して恬として恥じないというのは、どういうわけです。僕は教育活動は効果があることが経験的に知られているものを行う方がいいと思っているので、そう言った。それに対して教育効果があろうとあるまいと、「お上」の言うことに黙って従え、従わないものには「金をやらない」と文科省は回答してきた。これは事大主義と拝金主義が「日本国民のあるべき姿」だと彼らが信じているというふうに解釈する以外にない。

先ほども言いましたけれど、日本の教育政策が全部失敗しているという指摘に対して、「それは違う」と文科省が思うなら、きちんと論拠を挙げてForeign AffairsなりNatureなりに反論して、国際社会に対して日本の教育について大きな誤解があるようだが、これは間違いであるということを大声でアナウンスすべきでしょう。反論は簡単です。現に日本の学校教育はこんなふうに成功して、高い成果を上げているという誰もがぐうの音も出ないエビデンスを示せばいいのです。でも、そういう反論はまったくなされていない。

もう一度申し上げますけれど、学校教育というのはビジネスじゃありません。お金のためにやっているわけじゃない。だから、教育内容に対して「こうすれば金をやる。従わなければ金をやらない」というようなかたちで干渉することは絶対に許してはいけないんです。建学者たちが何をめざして教育を始めたか、その原点を思い出してください。マーケットのニーズがあったので、消費者たちに選好されそうな教育プログラムを差し出したわけじゃありません。「教えたい」という気持ちがまずあって、その熱情に感応して「学びたい」という人が出現してきたのです。教育というのはそういう生成的な営みなわけです。「教えたい」という人と「学びたい」という人が出会うことによって、その場で創造されてゆくものです。その一番基本的なことがビジネスの言葉づかいで教育を語る人たちには理解できない。

もちろん一流のビジネスマンだったら、ニーズのないところにニーズを創り出すのが創造的なビジネスだということを知っているはずです。映画だって、自動車だって、電話だって、飛行機だって、パソコンだって、市場にまず「こういう商品が欲しい」というニーズがあって、それに応じて商品が開発されたわけじゃない。誰も思いつかなかった商品を提示してみせたら、「それこそ私が久しく求めていたものだ」とみんなが感じて、巨大な市場が生まれた。ニーズがまずあって、それを充足させるような商品やサービスを提供するのがリアルなビジネスだというふうに思っているのは、悪いけれど、二流三流のビジネスマンです。ある程度世の中がわかっていれば、「ニーズのないところにニーズを創造する」のがビジネスの真髄だということは知っているはずなんです。でも、それがわからない人たちが「民間ではありえない」というようなことお門違いなことを言って、学校教育に干渉してくる。そういう学校教育の本質を理解していない人たちが、まことに残念ながら、現在も学校教育、教育行政を司り、学校教育についての政策を起案し、実施しているわけです。ですから、もうあまりわれわれには時間が残されていないんです。仲野徹先生によれば、あと10年です。それまでに学校教育をまともな方向に転換させなければならない。

どうやって方向転換したら良いのか。一気に変えることはできません。残り時間は少ないけれど、できるところから一つ一つやるしかない。一気に全部を変えるというのはだいたいろくなことになりませんから。とにかく30年かけてここまで悪くした仕組みですから、復元するにしても30年かける覚悟が要る。

一つは、とにかく学校をある程度以上の規模にしてはいけないということです。小規模のものにとどめる。教える側からの「教えたい」という働きかけに「学びたい」という人たちが呼応してくるというダイナミックな生成のプロセスの中に巻き込むというようなことは、規模としてはせいぜい数百人が上限だと思います。それ以上大きくなると、管理部門が必要になってきます。研究にも教育にも関係がない部署ですけれど、それがないと組織が回らなくなる。そして、管理部門は必ず肥大化する。これは避けがたいんです。別にそこで働いている人にそういう意図があるわけじゃないんです。意図がなくても、放っておけば管理部門は自己肥大する。そして、組織そのものを「巨大な管理部門が存在しないと機能しないようなもの」に変えてしまう。管理部門に権力も財貨も情報も集中させて、管理部門の許諾を得ないと何一つできないような硬直した組織が出来上がる。これは組織の生理ですから、止めることはできないのです。われわれにできるのは「巨大な管理部門がないと制御できないような大きな組織」にしない、ということだけです。

これから30年くらいの間に、日本各地の大学は淘汰が進むと思います。でも「マーケットは間違えないから、マーケットに委ねる」ということに合意してしまった以上、今さらこの流れは止められない。

ただ、今人口減によって各地で交通網の廃止や行政機構の統廃合が行われていますが、統廃合に強い抵抗を示しているのが学校と医療機関であることには目を止めた方がいいと思います。もう人口が減って、需要がない、開業しても採算が取れないとわかっていても、教育機関と医療機関は統廃合にかなり頑強に抵抗する。この二つはマーケットの要請に対して鈍感なのです。

それも当たり前で、教育機関と医療機関は貨幣や市場経済や株式会社が存在するよりはるか前から存在していたからです。人類史の黎明期から、今から数万年前から、学校の原型、病院の原型は存在していた。どちらも人間が集団として生きてゆくためになくてはならないものだからです。

集団が存続するためには、年長者は集団の若い構成員たちに、「生き延びるための術」を教えました。子どもたちの成熟を支援した。そうしなければ集団は亡びてしまうからです。病んでいる人、傷ついている人を癒すことを本務とする人はどんな時代のどんな集団にも必ずいた。そういう人たちいなければ、やはり集団は亡びてしまったから。

どんな時代でも、教育と医療に携わる人たちは存在した。市場がどうだとか、ニーズがどうだとか、費用対効果がどうだとかいうようなレベルとは違うレベルで「そういうものがなくてはならない」ということについて、われわれは人類史的な確信を持っている。だから、「金にならないから、病人を治療するのを止める」「ニーズがないから、教えるのを止める」というような発想は出てこないのです。

それに加えて、ミッションスクールの場合は宗教が関与してきます。そのせいでふつうの教育機関よりもさらに惰性が強く、抵抗力が強いのだと思います。社会がどう変わっても、政治体制や経済体制がどう変わっても、こういうものは簡単には変わりません。それは、先ほど挙げた教育、医療に加えて、宗教と司法もまた人類史の黎明期から存在した太古的な社会的機能だからです。こういう仕事に就く人には、ある種の固有の「エートス」があると僕は思っています。「なくては済まされない職業」ですから、歴史的な条件がどう変わろうと、「この職業に就きたい」と思う人たちが必ず一定数は出てくる。

人間集団が存続するために絶対に必要な四つの「柱」があると僕は思っています。教育、医療、司法、宗教、この四つです。学び、癒し、裁き、祈りという四つが集団が存続するためになくてはならない四つの基本動作です。集団の若い成員たちに生き延びるための術を教えること、病み傷ついた人を癒すこと、正義を執行すること、死者を悼むこと。この四つの機能はどのような集団であれ、集団が集団として持続するためにはなくては済まされないものです。それに比べたら、市場経済だとか商品だとか貨幣だとかいうものは、あってもなくてもどうでもいいものです。

はるか太古の人間集団がどういうものだったか想像すれば、わかるはずです。集団の若い成員たちの成熟を支援するのは、集団が生き延びるためです。別に若者たちを査定したり、格付けしたり、選別したりするために教育をしたわけじゃない。生き延びるための術を教えておかないと、死んでしまうから教育したのです。狩猟で暮らしている集団なら狩りの仕方を、農耕で暮らしている集団であれば植物の育て方を、漁労で暮らしている集団なら魚の取り方を教えた。生きる術をきちんと伝えておかないと、彼らが飢えて死んでしまうからです。

だから、「大人たち」が「子どもたち」に向けて教育を行う。教育の主体は複数ですし、教育の受け手も複数です。なぜ教育を行うのか、それは共同体の存続のためです。教育の受益者は個人ではなく、集団そのものなのです。

市場経済の原理で教育を語る人たちには、このところがわかっていない。彼らは教育というのをある種の「商品」だと思っている。そこでやりとりされている知識や技術や情報を、自動車や洋服と同じようなものだと思っている。欲しい人が金を出して買う。金がたくさんあれば、よい商品が買える。金がない人はあきらめる。それが当然だと思っている。たしかに、「自動車が欲しい」という人が「あの自動車が欲しいので、税金で買って僕にください」と行政に頼み込むということはありえません。それは自動車を所有することの受益者が個人だからです。でも、教育は違います。教育の受益者は集団全体です。だから、集団的に教育事業は行わなければならない。だから、「義務教育」なのです。大人たちには子どもを教育する義務がある。そうしないと集団が存続できないから。

市場原理で教育を考える人はどうしてもこの理路が理解できない。それは彼らが教育の受益者は個人だと思っているからです。個人が学校に通って、それなりの授業料を払い、学習努力するのは、その成果として、有用な知識や技能や資格や免許を手に入れて、それによって自己利益を増大するためだと思っている。それなら、確かに学校教育にかかるコストは受益者負担すべきものです。金があるものが学校教育を受ける。ないものは受けない。それがフェアだという話になる。

公教育に税金を投じるべきではないと本気で思っている人たちがいる。これは昔からいたのです。アメリカの「リバタリアン」というのがそうですね。彼らは公教育への税金支出に反対します。人間は一人で立つべきであって、誰にも依存すべきではない。勉強して、資格や免状が欲しいなら、まず働いて学資を稼いで、それから学校に行けばいいと考える。だから、公教育への税金の投入に反対する。

同じようなことを思っている人はもう日本にも結構います。教育への公的支出のGDP比率が先進国最低だということは先ほど申し上げましたけれど、それはこういう考え方をする人が日本の指導層の中にどんどん増えているということです。彼らは教育の受益者は個人であるから、教育活動に公的な支援は要らないと考えている。口に出して言うと角が立ちますから大声では言いませんけれど、内心ではそう思っている。消費者たちが求める「個人の自己利益を増大させる可能性の高い教育プログラム」(これを「実学」と称しているわけですが)を提示できた教育機関だけが生き残って、「市場のニーズに合わない」教育プログラムしか提示できなかった学校は「倒産」すればいいと思っている。これは大声で公言してはばからない。

でも、そんなことをして共同体は維持できるのか。僕はそれを懸念しているのです。何度でも言いますけれど、教育事業の受益者は個人ではなくて、集団全体です。次世代の市民的成熟を支援しなければ、集団がもたない。教育する主体は「大人たち」全員であり、教育を受ける主体は「子どもたち」全員です。大人たちはあらゆる機会をとらえて子どもたちの成熟を促すことを義務づけられている。

日本の場合、大学の75%が私学です。つまり、国ではなく、個人としての建学者がいて、固有の建学の理念があって、それを教育実践を通じて実現しようとした。「教えたい」という人たちがいて、「学びたい」という若者たちが集まってきた。私学の場合には、その建学の原風景というものを比較的容易に想像することができます。時代が経っても、建学者の「顔」が見える。それが私学の一番良い点だと思います。

僕は30年ほど大学の教員をして、退職してから神戸市内に凱風館という1階が道場で2回が自宅という建物を建てました。自宅ですから、私費を投じるのは当たり前ですけれど、身銭を切って学びの場を作ったのです。別に市場のニーズがあったからではありません。もちろん、それ以前から門人はいましたから、彼らは道場ができて喜んではくれましたけれど。とにかく自分が教えたいことがあるから、身銭を切って道場を建てた。稽古したい人たちが1年365日、好きなだけ稽古ができる場をまず建てて、それを公共のものとして提供した。そこで門人たちが日々修業している。それは僕が僕の師匠から継承した武道の思想と技芸を伝えていく使命感を感じたからです。自分が先人から学んだことを、次世代に伝えなければならないと思っているから、学舎を建てた。

僕の周りでも私塾を始めた人たちがたくさんいます。平川克美、名越康文、茂木健一郎、釈徹宗、鷲田清一・・・何人もがやはり身銭を切って私塾を始めています。みんな明治時代に日本に私学ができた時の原風景をもう一度思い出して欲しいと思っているのかも知れません。

僕の道場は今門人が350人います。でも、これがもう上限だろうと思います。この程度のサイズでしたら、マーケットもニーズも関係ない。僕が自腹を切れば、学びの場を建設し、管理運営することができる。門人が一時的にゼロになっても僕がやせ我慢をすれば道場を閉めずに済む。それくらいの低いランニングコストでないと、ほんとうにやりたいことは持続するのが難しいだろうと僕は思います。これは今の市場原理による学校教育のあり方に対する僕からのアンチテーゼです。こういうことだってできるということをかたちで示したい。

今日本はピークアウトして長期低落期に入っています。これ以上ひどいことにならないうちに、できるところから何とか手当をしなければいけない。一人一人がそう考えて、できる範囲で崩れてゆくものを押しとどめ、失敗を補正してゆけば、破局的な事態は少しずつ先送りできると思います。

それでもいまだに経済成長とか成長戦略とかいう虚しいことを言っている人たちがいます。五輪とか万博とかカジノとかリニア新幹線とか、古いタイプの産業社会のモデルにまだこだわって、「選択と集中」で起死回生を願っている人たちがまだまだ多くいますけれど、それは貴重な国民資源をどぶに捨てるような結果にしかなりません。

日本の国力がピークアウトしたのは2005年です。何の年か覚えていますか。2005年というのは小泉内閣の時です。その時、安保理の常任理事国に立候補したけれど、アジア諸国の支持を集めることに失敗して常任理事国入りを果たせなかったのです。共同提案国になってくれたアジアの国はアフガニスタン、ブータン、モルジブの三国だけでした。

すでにバブル経済は崩壊した後で、日本経済は失速しており、ここで政治大国として国際社会に存在感を示すというのがいわば最後の賭けだったのですが、それがはなばなしく挫折した。これはけっこう大きな歴史的転換点だったと思います。国際社会から日本への期待というのがどれほど低いのか、それが骨身にしみてわかった。これが大きかったと思います。世界的な政治大国だと思っていた自尊心を深く傷つけられた。それからですね、日本がおかしくなってきたのは。

それから12年が経った。もうずっと長期低落局面です。でもまだ「負けしろ」はあります。まだまだ日本は豊かです。温帯モンスーンの豊かな自然に恵まれ、社会的インフラは整備されているし、治安も良いし、観光資源もあるし、食文化もエンターテインメントも高い水準を誇っている。国民資源を見たら世界有数のストックがあります。たしかにフローのレベルでは勢いが落ちているけれども、ストックは豊かです。だから、この豊かなストックをどうやって生かすか、どう使い回すか、それが問題です。

大学だって数が多すぎると言われていますけれど、高等教育機関が多すぎるというのは、よく考えたらすごいことなのですよ。研究者がいて、教員がいて、教室があって、研究設備があって、図書館があって、体育館があって、緑地があって、プールがあって、宿泊施設があって・・・これだけの教育資源がある。単年度の志願者と募集定員の需給関係で考えるから「多すぎる」と判定されますけれど、長期的に見れば貴重な資源です。これをニーズがないからと言って、駐車場にするとか、スーパーに売るとかいうのはあまりにもったいない。他にどういうふうに活用できるのか、それを考えるべきなんでだと思います。

日本がこれ以上崩れないように、どこかでターニングポイントを迎えることができるように、発想を切り替えないといけないと思います。僕に何か特別な知恵があるわけではありません。とにかく「衆知を集めて」対話する、みんなで知恵を出し合ってゆきましょうということに尽きると思います。

今日は学校教育の危機的現実を直視した上で、どうすれば次世代の人たちに生きる知恵と力を与える学びの場を確保できるのか、それについてみんなで知恵を絞りましょうという話を致しました。僕も微力ながら一所懸命知恵を絞り、一臂の力をお貸したいと思っております。皆さん方のご健闘を祈念しております。ご清聴、ありがとうございました。


54. 中川隆[-6544] koaQ7Jey 2017年9月01日 16:39:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

琉球新報主宰「琉球フォーラム」での講演 (内田樹の研究室) 2015年07月13日


●すでに腐臭を発しはじめた大学


皆、言いたがらないけど(マスメディアと同様に)大学もそうです。
ビジネスモデルとしては、もう末期的です。

高校生を相手に講演するときに言うのは、

「昔は大学進学先を決めるときには、自分の偏差値と行きたい学校の偏差値を見比べて、あとは住みたい街はどこかとか、学費はいくらかとか、そういう条件を考えて進学先を決めたものだけれども、今は違う。

君たちが大学を選ぶ時の最優先の基準は『卒業した後もその大学が残っているかどうか』だ」って。

卒業して何年かして「どこのご卒業ですか?」って訊かれて大学名を言っても、誰も知らない、もう存在しない、そういうケースがこれから多発します。

定員割れの学科を抱えている大学はすでに全体の50%に達しました。
教育予算も年々削られている。

国公立大学はこれからさらに縮小を強いられる。理系に予算を集めて、人文系の学部学科はどんどん潰される。その結果、さらに学術的な生産力が下がる。

日本の大学の論文数はかつてはアメリカに次いでいましたけれど、2002年から下がり始め、その勢いが止まりません。

中国に抜かれ、イギリスに抜かれ、ドイツにも抜かれました。学術的生産活動性の指標である人口当たりの論文数はOECD最下位です。韓国より台湾よりも下なんです。20世紀の終わり頃、日本の教育は東アジア最高レベルでした。それがわずか20年で、先進国最低レベルにまで落ちた。

システムが崩れる時って早いんです。腐ったシステムが崩れだすと、もう止められない。「選択と集中」の原理に基づいて、今は理系に教育資源を集めようとしてますけど、これは必ず失敗します。

少し前に韓国がそれをやりました。グローバル資本主義に最適化した学術領域に教育資源を集中させた。人文系の学部の予算を削った。

だから最初に進学者がいなくなったのは、韓国語学、韓国文学、韓国史学でした。自国の言語も、文学も、歴史も知らない、興味がないという子どもたちにしか出世のチャンスがない、そういう教育システムを作った。

そういう子どもたちが将来どういうエリートになるのか。少なくとも自国のため、同胞のために活動する意欲はきわめて低い人たちばかりがエリート層を形成することでしょう。

同じことは日本でももう起きていると思います。「金になるか、ならないか」だけを基準に教育資源を傾斜配分してきた結果、この15年間で日本の学術的生産力は劇的に低下した。

これは動かしようのない統計的事実です。でも、文科省はその事実を認めようとしない。認めないどころか、絶対に失敗することが確実な教育政策をさらに強化しようとしている。

地方の国公立大学は遠からず統廃合されてゆくことになると思います。となると、いずれ無大学県が出てくる可能性もある。

僕は日本の大学についても大学生の頃から40年間間近で観察していますけれども、もう末期だということは実感しています。もう腐臭を発している。大学に限らず、日本社会のさまざまな仕組みが同時多発的に壊れ始めている。
http://blog.tatsuru.com/2015/07/13_1100.php  



55. 中川隆[-6490] koaQ7Jey 2017年9月06日 19:28:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「美意識が低い」日本の受験エリート達の末路
オウム真理教が体現する、受験エリートの闇
山口 周 : コーン・フェリー・ヘイグループ 2017年08月31日
http://toyokeizai.net/articles/-/186380

世界のトップエリートたちは現在、必死に美意識を鍛えています。一方、日本では偏差値は高いが美意識が低く、それが看過できない問題の元凶になっているようです(撮影:今井康一)

現在、世界のエリートは必死になって「美意識」を鍛えています。グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む、ニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、こけおどしの教養を身に付けるためではありません。彼らは極めて功利的な目的で、「美意識」を鍛えているのです。

なぜならば、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足を置いた経営、いわばサイエンス重視の意思決定では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです。

「偏差値は高いが美意識は低い」エリートたち

一方、残念ながら現在の日本企業の多くは、経営にかかわる人たちの美意識がほとんど問われません。すなわち、日本のエリート組織の多くは「偏差値は高いが美意識は低い」という状態で、計測可能な指標だけをひたすら伸ばしていく、一種のゲームのような状態に陥っています。ここでは「真・善・美」が問われず、それが、DeNAのコンプガチャやWELQ問題をはじめとして、続発する企業のコンプライアンス違反の元凶になっています。

「偏差値は高いが美意識は低い」という問題の闇を語るうえで避けては通れないのは、オウム真理教です。この宗教集団の特徴の一つとして、幹部が極めて高学歴の人間によって占められていた、という点が挙げられます。有罪判決を受けたオウム真理教幹部のリストを並べてみると、東大医学部を筆頭に、おそらく平均の偏差値が70を超えるのではないかというくらい、高学歴の人物を幹部に据えていたことがわかります。

地下鉄サリン事件が世間を震撼させたとき、これらの名だたる有名大学を卒業したエリートたちが、なぜあのように邪悪で愚かな営みに手を染めたのか、ということがしきりにワイドショーなどで騒がれました。しかし私は、当初からこの問いの立て方はポイントを外していると思っていました。


ワイドショーのコメンテーターに言わせれば、オウムの幹部連中は、受験エリートである「にもかかわらず」、愚かで邪悪な宗教に帰依した、つまり二つの事実を整合性の取れないものとして逆接でつないだわけですが、私は逆に、彼らがまさに受験エリートである「からこそ」、オウム真理教に帰依していったのだろうと思っていました。

その理由は、オウム真理教が提唱していた奇妙な位階システムにあります。オウム真理教では、修行のステージが、小乗から大乗、大乗から金剛乗へと上がっていくという非常に単純でわかりやすい階層を提示したうえで、教祖の主張する修行を行えば、あっという間に階層を上りきって解脱することができる、と語られていました。

これはまさに、オウム真理教に帰依していった受験エリートたちが、かつて塾で言われていたのと同じことです。オウム真理教幹部の多くが、事件の後になんらかの手記や回想録を著しています。これらを読むと、彼らのほとんどが、大学を出た後に社会に出たものの、世の中の理不尽さや不条理さに傷つき、憤り、絶望して、オウム真理教に傾斜していったことがわかります。

オウム真理教における「著しい美の欠如」

このように、わかりやすい位階システム、つまり強く「サイエンス」が支配している組織において、どのように「アート」が取り扱われていたのか。オウム真理教における「アート」について、小説家の宮内勝典氏は著書『善悪の彼岸へ』の中で、次のように指摘しています。

オウムシスターズの舞いを見たとき、あまりの下手さに驚いた。素人以下のレベルだった。呆気にとられながら、これは笑って見過ごせない大切なことだ、という気がしてならなかった。オウムの記者会見のとき、背後に映し出されるマンダラがあまりにも稚拙すぎることが、無意識のままずっと心にひっかかっていたからだ。(中略)

麻原彰晃の著作、オウム真理教のメディア表現に通底している特徴を端的に言えば、「美」がないということに尽きるだろう。出家者たちの集う僧院であるはずのサティアンが、美意識などかけらもない工場のような建物であったことを思い出してほしい。

偏差値教育しか受けてこなかった世代は、あれほど美意識や心性の欠落した麻原の本を読んで、なんら違和感もなく、階層性ばかりを強調する一見論理的な教義に同調してしまったのだ。後にオウムの信者たちと語りあって、かれらがまったくと言っていいほど文学書に親しんでいなかったことに気づかされた。かれらは「美」を知らない。仏教のなかに鳴り響いている音色を聴きとることができない。言葉の微妙なニュアンスを汲みとり、真贋を見ぬいていく能力も、洞察力もなかった。

宮内勝典『善悪の彼岸へ』


宮内氏のこれらの指摘をまとめれば、オウム真理教という組織の特徴は、「極端な美意識の欠如」と「極端な階層性」ということになります。これを本書の枠組みで説明すれば、アートとサイエンスのバランスが、極端にサイエンス側に振れた組織であったと言い換えることができます。


情緒や感性を育む機会を与えられず、受験勉強に勝ち残った偏差値エリートたち。彼らは、いわば「極端に単純化された階層性への適応者」でした。極端に単純化されたシステムの中であれば、安心して輝いていられる人たち。

しかし、実際の社会は不条理と不合理に満ちており、そこでは「清濁併せ呑む」バランス感覚が必要になります。彼らはそのような社会にうまく適応できず、オウム真理教へと傾斜し、やがて外界をマーヤー(幻)として消去させようとしました。

さて、ここまで、オウム真理教という、かつて日本を震撼させた新興宗教集団の特徴について考察してきましたが、読者の皆さんは、なぜビジネスとはまったく関係のないカルト教団の話をしているんだろう?と思われたかもしれません。

しかし、私は、宮内氏が指摘した「美意識の欠如」と「極端なシステム志向」というオウム真理教という組織の特徴が、ある種の組織と非常に類似している点に以前から引っかかっていました。

戦略コンサル、新興ベンチャーとの類似点

「業界の特性」ということでひっくるめられると迷惑だという反論もあるかと思いますが、あえて名指しで、オウム真理教と類似しているなと筆者が感じる二つの業界を挙げるとすれば、それは戦略系コンサルティング業界と新興ベンチャー業界ということになります。

私が電通を退職して米国の戦略系コンサルティングの会社に転職したのは2002年のことです。オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたのは1995年のことで、私はこの事件をきっかけにしてカルト教団に興味を持ち、研究をするようになったのですが、2002年に戦略コンサルティングの会社に転職し、昇進や評価のシステムに関する説明を入社時研修で受けた際に、すぐに「この組織はオウムの仕組みとそっくりだな」と感じたことを、よく覚えています。

いくつかの具体例を挙げて説明してみましょう。たとえば、極端に階層的でシステマティックである、という側面です。通常の企業ではだいたい8〜9程度の等級が設定されていることが多いのですが、コンサルティング会社には基本的に4階層しかありません。新卒で入るとアナリストになり、やがて中堅のアソシエイトへと昇格し、その中のごく一部がさらにマネジャーへと昇進し、さらに選び抜かれた人が最終的にはパートナーになるという、極めてシンプルな仕組みです。


最近ではさまざまな組織で「多様性」が大きなテーマになり、その要請を受けて複数のキャリアのハシゴを用意する、いわゆる「複線型人事等級制度」の導入が進んでいますが、戦略コンサルティングの業界というのはその真逆で、極めて単線的かつ階層の明確な等級制度になっているわけです。

その階層性の明確さがはっきりと表れているのが報酬制度です。ざっくりとまとめれば、戦略系コンサルティング会社での報酬水準は、一階層上がるごとに倍になります。つまり新卒を1にすれば、中堅は2、マネジャーは4、パートナーが8ということになります。一般的な企業の昇給水準が数%程度であることを考えると、各ステップに100%の階差があるというのはちょっと驚きですが、これも階層性を明確にするための一つの要因となっています。

昇進のためには「生産性」だけが問われる

そしてさらに、ここが非常に重要なポイントなのですが、「何ができれば階層を上がれるか、どうすれば上がれるか」が非常に明確です。昇進の条件は極めてメカニカルなもので、人望や見識といった情緒的な側面はほとんど含まれません。具体的な説明は守秘義務があるので割愛しますが、大まかに説明すれば、コンサルティングに求められる全般的なスキルの項目に対して、どれくらいの充足度があるかによって判定されるという考え方で、一言で言えば「生産性」だけが問われ、人望や美意識は問われない、ということです。

こういったわかりやすい階層性、どうすれば上に行けるのかが明確なシステムは、前述したオウム真理教の仕組みと非常に類似しているんですね。

オウム真理教の教祖だった麻原彰晃が、弟子に対して語った講話の記録が残っているのですが、これを読んでみると非常に興味深い。というのも、麻原はことあるごとに「小乗、大乗、金剛乗」の3ステージを示し、どのような修行をすればこのステージを駆け上がっていけるかを繰り返し帰依者に訴えているのですが、これはコンサルティングファームの上級役員の語り口と非常に似ています。

同様のわかりやすさは新興ベンチャー企業においても見られます。そこで問われるのは見識や人望ではなく「早く結果を出すこと」でしかありません。以前、DeNAが主催した投資家向けの説明会に参加させてもらったことがあるのですが、事業の起案や投資に関する意思決定は徹頭徹尾、経済的な側面に基づいており、事業の意義やビジョンについては「それが経済的利益に結びつくと考えられる際には作成されるだけで、別に必要ない」とのコメントに慄然(りつぜん)とさせられたことがあります。

システムとしてわかりやすいと言えば、これ以上にわかりやすい仕組みはないわけで、とにかく結果さえ出せれば、大手企業に勤めている人が数十年かけて上るようなキャリアの階段を、数年で一挙に駆け上がって高額の報酬を得ることができる仕組みになっているわけです。


さらに指摘すれば、一見すると人材の交流があまりないように思われる「戦略コンサルティング業界」と「新興ベンチャー業界」ですが、昨今では「新卒で戦略コンサルティング会社に入り、途中から新興ベンチャー企業に転職する」というのは一つのキャリアパターンになりつつあります。

たとえば、DeNAの創業メンバーのほとんどが、戦略コンサルティング会社の出身者であったことを思い返せば、これらの業界に集まる人たちに共通する「思考の様式」がおわかりいただけると思います。その思考様式とはつまり「社会というシステムの是非を問わず、そのシステムの中で高い得点を取ることだけにしか興味がない」という考え方です。

「システムによく適応する」≠「よりよい人生」


『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』(光文社)。
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4334039960/asyuracom-22


ここにこそ「エリートこそ美意識を鍛えるべきである」というアイデアの根幹につながる問題があります。エリートというのはシステムに対して最高度の適応力を持っている人たちです。この「システムへの適応力」こそが、彼らをエリートたらしめているわけですが、ここに問題がある。「システムによく適応する」ということと「よりよい生を営む」というのは、まったく違うことだからです。

多くのエリートは、システムに適応し、より早く組織の階段を駆け上がって、高い地位と年収を手にすることを「よりよい人生」だと考えています。しかし、そのような志向の行き着く先には、多くの場合、破綻が待ち受けていることになります。

わかりやすいシステムを一種のゲームとして与えられ、それを上手にこなせばどんどん年収も地位も上がっていくというとき、システムに適応し、言うなればハムスターのようにカラカラとシステムの歯車を回している自分を、より高い次元から俯瞰的に眺める。そのようなメタ認知の能力を獲得し、自分の「ありさま」について、システム内の評価とは別のモノサシで評価するためにも「美意識」が求められる、ということです。


56. 中川隆[-6400] koaQ7Jey 2017年9月30日 00:25:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

三浦朱門 「ゆとり教育」の本旨


「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っていてくれればいい」

「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」

____

「ゆとり教育」とセットで日本語も理解できない小学生に英語を習わせるとか、頭おかしいよね


中3の15%、短文も理解困難 教科書や新聞で読解力調査 2017年9月23日 朝刊


中高生の読解力測定について話す国立情報学研究所の新井紀子教授=22日、東京都千代田区で

 短い文章から事実を正しく理解する「基礎的読解力」について、国立情報学研究所の新井紀子教授や名古屋大学などのグループが、全国の小中高校生や大学生、社会人らを調べたところ、多くの中学生の読解力に問題があることが分かった。中学卒業までの読解力が将来に影響するという。


 調査では、中学や高校の教科書や、東京新聞などに掲載された記事など数百の題材をもとに問題を作り、コンピューターで無作為に出題した。


 三十分間でできるだけ多く解いてもらい、内容を正しく把握できているかを調べた。昨年から今年にかけて、全国の約二万四千人に実施した。問題はすべて選択式で、文章の意味が分かれば、知識がなくても解ける。


 その結果、中学三年生の約15%は、主語が分からないなど、文章理解の第一段階もできていなかった。約半数が、推論や二つの文章の異同などを十分に理解していなかった。


 また、基礎的読解力は中学では学年が上がるにつれて緩やかに上昇するが、高校では上昇しなかった。高校の教科書が理解できず、力が伸びていない可能性があるという。基礎的読解力と進学できる高校の偏差値との間には、強い相関があった。


 新井教授は「基礎的な読みができていないと、運転免許など資格の筆記試験にも困難を伴うと予想される。中学卒業までに中学の教科書を読めるようにしなくてはならない」と話した。


 グループは今後も調査を継続し、基礎的読解力に困難を抱える子どもの早期発見や支援策の検討に役立てる。分かりやすい教科書作りなども提言していく。 (小椋由紀子、吉田薫)


紗栄子 2人の息子に「一歳おわりから英語教育」に林先生が異論
9/24(日) 21:42配信 デイリースポーツ


 タレント・紗栄子(30)が24日、TBS系で放送された「林先生が驚く初耳学」に出演。2年ぶりにテレビ出演を果たした。


 紗栄子は前夫でドジャースのダルビッシュ有(31)との間にもうけた長男(9)と次男(7)に、「1歳のおわりぐらいから」英語教育をしている、と教育ママぶりを明かしたが、予備校教師でタレントの林修氏から、“英語至上主義”にノーをつきつけられる展開となった。

 2人の息子はロンドンの名門校に入学するため、今月に入り、紗栄子と渡英。すでに無事に入学している。番組収録は渡英の数日前、今月7、8日ごろに行われたようだ。

 紗栄子は英語教育について「1歳の終わりぐらいからしてる。コミュニケーションツールとして、英語持ってるのは強いと思います」と熱弁。

しかし、幼児教育について「かなり研究している」と自負する林先生は

「子供に早期英語教育やらしてる東大出身の親に会ったことがない」

とバッサリ。


 ゲストの青山学院大陸上部長距離ブロック監督の原晋氏も

「世の中は英語ができたら全てができると勘違いしている」

と指摘し、林先生は

「日本社会はそこの物差しが狂ってる。もともと(本人)のスペックを高くしたら、英語はすぐにできるようになります」

と断言。数日に渡英を控えた紗栄子は「そうなの?!」と驚きの声を上げていた。

_________


2017年09月19日
日本を植民地にする簡単な方法 心を支配し服従させる

徳川幕府が行った踏み絵は、日本の植民地化を防ぐ役割があった。
引用:http://db.nichibun.ac.jp/region/d/GAI/info/GE017/item/198/image/thumb/0/thmb.001.jpeg


キリシタン弾圧の理由

その昔キリシタン弾圧というのがあり、キリシタンを捕まえては『踏み絵』をさせて、踏めない者は逆さ磔(はりつけ)などにしていました。

踏み絵というのはキリシタン容疑者を連行してきて、イエスとかマリアの絵を描いた板を地面に置き、踏ませる事でキリシタンではないと証明する事です。

多くの人は命が惜しいので形だけ踏んでこっそり信仰を続けたが、多くの信者から尊敬を集めている指導者はそうは行きません。

幕府は見せしめの為にリーダーに踏み絵をさせ、キリスト教の権威を失墜させようとするが、最後まで踏まない人は殉教者になります。

役人が無理やり押さえつけて踏ませようとするが、それでも頑として踏み絵を拒否した信者も居たとされています。

そこまでして徳川幕府がキリスト教を嫌った理由は、キリスト教の狙いが日本の植民地化にあると疑っていたからでした。


当時はアメリカ合衆国はまだなく、スペインやポルトガルの全盛期で、アメリカ大陸やアジア、アフリカを次々に植民地化していました。

植民地というとある日軍隊が乗り込んできて戦争になって征服するイメージですが、そういう単純な事は滅多に起きません。

植民地にしてやろうと狙っている国はまず、宗教家とか探検家、研究者や慈善家、商人など平和的な連中を送り込みます。


中でも宗教家つまりキリスト教宣教師は重要な役割を担っていて、原住民を精神的な隷属状態に置きます。

例えとしてアレだが、例えばフィリピンはスペインの植民地で、フィリピン人はキリスト教を信仰しています。

フィリピン人にとっての神様はキリストで、ローマやスペインの教会の神父とかが、宗教上のリーダーです。


軍隊に征服される前にフィリピン人はキリスト教に征服されてしまい、「ありがたやありがたや」と喜んで支配を受け入れたのです。

欧米の植民地になった多くの国がまず宗教的支配を受け、言語は西洋の言葉になり、西洋の価値観や資本主義を受け入れて行きました。

こうなるともう名目上は独立を保っていても、「植民地」以外の何物でもありません。


スイスが警戒する「国家乗っ取り」

スイスは永世中立国として有名だが、中立を保つのは日本の左翼が言うほど簡単ではありません。

中立を保つという事はいかなる大国が侵略してきても、全国民が玉砕覚悟で戦って、独立を保つという事です。

中立とは実は平和とは正反対で、非常に好戦的で戦争を厭わない覚悟が無い国にはできません。


スイスは人口837万人の小国に過ぎず、ここに例えば人口13億人の中国人と、14億人のインド人の0.1%が移住しただけで、25%を占めてしまいます。

隣りのドイツ人やフランス人が少し移住しただけでもう過半数が移住者になってしまい、あっけなく植民地になります。

スイスは国家乗っ取りを警戒し、乗っ取り防止マニュアルなるものも作成しています。


第一段階は政府の中枢に工作員を送り込む。最近ニュージーランドの国会議員に中国諜報部で訓練を受けたスパイが居るのが分かり、大騒ぎしています。

第二段階はマスコミを掌握し大衆を誘導する。フジテレビ、NHK、テレビ朝日などは韓国や中国に不都合なニュースを絶対に放送しないようにしています。

第三段階は教育に浸透し、国家意識を破壊する。「愛国心はナチズムや帝国主義だ」等というのが常套手段です。


第四段階は抵抗意識の破壊で、平和主義や平等などの概念を植えつける。心が弱い人間ほど「平和を支持します」などの言葉に弱い。

第五段階はメディアによって考える力を奪う。東京都民はなぜか、テレビで人気キャスターが褒めている候補者に投票し、自分で考えていません。

最終段階は狙った国の人々が無抵抗になったのを見計らい、大量に移住し植民地にする。


西洋帝国主義や中国王朝などは数千年に渡って、こうして狙った国を植民地にしてきました。
http://www.thutmosev.com/archives/72673897.html

絶対に移民流入や、多民族国家の動きは止まらない

しかし、それによって移民流入や、多民族国家の動きが頓挫するとは、絶対に考えない方がいい。

どんな問題が起きても、どんな激しい国民の抵抗が起きても、グローバル社会に参加した国家では、それが強引に行われていくことになる。

なぜなら、グローバル化していく社会の中で、国家という枠組みが邪魔になっており、今は「国家」という枠組みを取り壊そうとする動きが加速しているからである。

「自国文化を守ろう、自国の歴史を大切にしよう」という動きは、「保守」とは呼ばれず、「極右」とメディアによってレッテル貼りをされている。

世界中のメディアは、ナショナリズムを必ず「極右」として扱い、差別主義者と断定する。それはグローバル化を後退させる動きなので、「絶対に許されない思想」と認定して、封印されていく。

グローバル化を阻止する動きは、絶対に許されない。

多国籍企業、金融市場、巨大メディアは、グローバル化する社会の中で支配権を拡大していく過程にある。

世界を動かしているのは国民ではなく、多国籍企業、金融市場、巨大メディアである。そして、これらの企業の各オーナーたちである。

全員が揃って陰謀に荷担しているという見方もあるが、実際のところは、グローバル化した方が「より儲かる」というシンプルな原則によって突き動かされていると言った方がいい。

儲かるのなら、儲かる方向に向かって人は殺到していく。それが雪崩のような現象を引き起こす。

儲かるから、グローバル化が推し進められるのだ

グローバル化したら、世界のすべてが多国籍企業にとって市場になる。そうなれば、単純に儲かる。だから、多国籍企業はぶれることなくグローバル化を推し進める。

グローバル化したら、賃金の安い国で物を製造することができるようになる。そうなれば、コスト削減できる。そして、競争力が付いて、単純に儲かる。だから、多国籍企業はぶれることなくグローバル化を推し進める。

グローバル化したら、移民が大量に入ってきて、やはり低賃金で優秀な人材が雇えるようになる。そうなれば、またもやコスト削減ができる。だから、移民政策や、多文化主義は推進されるのだ。

貿易を行うに当たって、国をまたぐたびに関税を取られたら損をする。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。儲けのためには、関税を取る国家という存在が邪魔なのだ。

販売を行うに当たって、各国の違いに合わせて商品をローカライズするのは無駄なコストである。言語が英語か何かで統一できれば、ローカライズする手間がなくなる。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業である。コストのためには国家という存在が邪魔なのである。

販売を行うに当たって、文化が違っているとやはりその国に合わせなければならないが、それも無駄なコストである。だから、移民を入れて、混ぜて、独自文化を薄めさせれば、文化に合わせる手間もなくなる。

だから、文化がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。移民は、その国の「独自の文化」を消すのに最良の方法なのだ。世の中は多極化しているのではない。逆だ。

ありとあらゆるものが、国家の消滅、国家の役割縮小、国家の無力化を目指している。上記以外にも、そんな動きは次々と動いている。

通貨が違っていれば、為替の変動というものに注意を払わなければならず、それは多国籍企業にとっては手間である。国家をブロック化するか、もしくは国家を消滅させれば為替も統一するので便利だ。だから多国籍企業は、通貨の統一を邪魔する国家という概念を消し去りたい。

巨大メディアも、言語・文化がどんどん統一されていけば、情報収集も、情報提供も、世論誘導もやりやすい。だから、グローバル化に乗るのは「得する」動きだ。そのために、言語・文化の守り手である国家を消滅させたい。

インターネットもまた、「情報」という分野で世界を統一しようとする動きである。インターネット企業は、世界がグローバル化すればするほど儲かる仕組みになっている。だから、国家間の情報遮断は許しがたいことであり、やはり国家という概念を消し去りたいと思っている。

グローバル化は、それを突き詰めると、世界が「ひとつ」になるということだ。世界が「ひとつ」というのは、要するに国家も、文化も、言語も、通貨も、すべてが「ひとつ」になるという意味である。

現在、そのような社会に向かっている。世界は多極化しているのではない。完全にその逆だ。

グローバル化の動きは、「ひとつ」になる動きだ。
国家のブロック化は、「ひとつ」になる動きだ。
多文化主義の動きは、「ひとつ」になる動きだ。
金融市場の国際化は、「ひとつ」になる動きだ。
移民促進の動きは、「ひとつ」になる動きだ。

グローバル化によって、逆に統一化されようと動いている。多極化しているというのは、単に政治の力学の話であって、世の中全体の動きではない。

多極化していると見せかけて、世の中はグローバル化によって「ひとつ」になろうとしているのである。

絶対に移民政策が止まらないのは、世界が「ひとつ」になるためだ。本当に、単純な話だ。そうすれば多国籍企業、金融市場、巨大メディアは儲かるのだ。


国家はどんどんブロック化していく。やがて「ひとつ」になる。


〓 この話題について、参考になる書籍・メディア
人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか
グローバル経済を学ぶ
グローバル化経済の転換点
フリーフォール グローバル経済はどこまで落ちるのか
ハーバードの「世界を動かす授業」
グローバル経済を動かす愚かな人々
世界財閥マップ—グローバル経済を動かすパワー総覧
グローバル経済と現代奴隷制
金融権力—グローバル経済とリスク・ビジネス
最新・経済地理学 グローバル経済と地域の優位性
つながりすぎたグローバル経済
世界経済の歴史 -グローバル経済史入門
Keisei Suzuki

http://www.bllackz.com/2013/10/blog-post_15.html?m=1





57. 中川隆[-6399] koaQ7Jey 2017年9月30日 00:32:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「ゆとり教育」とセットで日本語も理解できない小学生に英語を習わせるとか、頭おかしいよね


内田樹の研究室 2017.08.26 英語の未来

『中央公論』8月号が「英語一強時代 日本語は生き残るか」という特集を組んでいた。読みでのある特集だった。『日本語が亡びるとき』で問題提起をした水村美苗さんのインタビューが最初にあって、重要な指摘をしていた。

一つはイギリスのムスリムの女性学者ふたりが日本を訪れたときに水村さんに言った言葉。

「その時、彼女らが、

『日本では英語がまったく通じない。なんて気持ちのいい国なんでしょう』

と言うのです。日本においてはみなが日本語で通じ合い、英語で通じ合えることがリートのサインではない。英語ができる人が威張っており、収入もよく、社会の権力側に立つという構造になっていないと言うのです。

パキスタンでも、インドでも、それからブラッドフォードでも、英語が流暢か流暢でないかによって、階層が作り出されている。現に彼女たちの親は、その英語のアクセントで、たんに言葉が流暢ではないというという以上の意味をもって、差別されている。

 私は日本にはそういう構造の社会にだけはなってほしくないし、そうなるのを免れた歴史を大事にしてほしいと思うのです。世界を見回せば、インテリが読む言語は英語で、それ以外の人が読むのが現地語だという国がいかに多いことでしょう。」
(水村美苗「言語の植民地化に日本ほど無自覚な国はない」、『中央公論』2017年8月号、中央公論新社、28頁)

「私は最近いよいよごく少数を除けば、日本人は日本語が堪能であればよいのではないかと考えるようになっています。非西洋圏でここまで機能している言語を国語として持っている国は本当に珍しいのです。エリートも庶民も、全員当然のように日本語で読み書きしているという、この状況を守ること自体が、日本という国の使命ではないかとすら思います。」(同書、29頁)

前半の引用には私は全面的に賛成である。言語(それも会話時の発音)による階層差別をverbal distinction と言う。肌の色でなされる差別と構造的には同じである。口を開けば一瞬でその人が「自分たちの仲間であるかないか」が判定できる。
バーナード・ショーは(今日はショーさんの出番が多い)『ピグマリオン』(『マイ・フェア・レディ』のオリジナル戯曲)の冒頭で、口を開けば出身地や所属階層や学歴や職業までがわかってしまうイギリスの言語状況を嘆き、全員が所属階層にかかわりなく「美しい英語」を語る理想的な言語環境を望見するヘンリー・ヒギンズに演説を語らせる。

もちろん、そんなことは不可能なのであって、ヒギンズはすさまじいコックニー訛りで話すイライザが「王族のような英語」を語り出すと、彼女の言葉が指示する所属階層に(それが虚構と知りつつ)魅力を感じてしまうのである。

言葉による差別というのは、一度始まると止めることができない。

植民地というのは宗主国の言語をうまく話すことができる人間と、そうではない人間の間に乗り越え不能の階層差が生じる場所のことである。

水村さんが「植民地化」と言っているのは、そのことである。

第二の引用については、私は同意したいのだが、根拠がまだ不確かなのである。
ほんとうに外国語ができる人間は「ごく少数」でいいのか、わからないのである。
一つには私自身が「外国語を学ぶ」ことが大好きだからである。

私は中学生になって初めて英語と漢文を学んだけれど、この二つの「外国語」に同じくらい強く惹きつけられた。二つの科目の授業を心待ちにしていた。
それは外国語の有用性によってではない。

漢文の知識をいくら仕込んでも受験以外にそれを発揮する機会など現実にはほとんどない。

英語で会話したことも二十代後半まで一度もなかった(私が生まれてはじめて英語で会話をした相手は自由が丘道場に来たイギリスの青年で、彼に合気道の技を説明をしたのである)。

それでも外国語を学ぶことはつねに私を高揚させた。母語とは違う文法、違う語彙、違う音韻を通じて、母語的現実とは違う世界に触れることができるということが私を興奮させたのである。

そういうことが「好きだ」という子どもは一定の比率でいるはずである。それは決して「ごく少数」ではないという気がする。そして、どの子どもが外国語の習得を好むかを、外国語学習に先立って選別することはたぶんできないと思う。

ただ、ここに私がこれまでほとんど考えたことのない変化が生じてきた。それは自動翻訳の長足の進歩である。これについては特集の最後に置かれた専門家二人の対談が興味深かったので、それを紹介したい。

自動翻訳はいま三世代目に当たる。

第一世代は「ルールベース翻訳(RBMT:Rule-Based Machine Translation)」文法をプログラム化してコンピュータで動かす。難点は精度を上げようとすると規則の数がどんどん増えて管理が難しくなること。

第二世代が「統計翻訳(SMT: Statistical Machine Tranlation)。大量の対訳データを覚えさせて、ある文が何を意味するかを統計的に処理する(例えば「何で来たの?」という文が「交通手段」についての問いなのか、「理由」についての問いなのか、あるいは「帰れよ」という促しなのかを統計的に判断する)。

第三世代が「ニューラル翻訳(MMT: Neural Machine Translation)」。対訳データを大量に仕込むのだけれど、学習方法に「深層学習」というアルゴリズムを用いる。

今の機械翻訳はすでにTOEIC600点くらいのところまで来ていて、2020年には700点か800点に達する見込みだそうである。

これがスマートフォンに装着されると、日本語をしゃべると英語音声に翻訳されるということができる。『ドラえもん』の「ほんやくコンニャク」みたいなものである。

ニュアンスの難しい翻訳や文学の翻訳は人間の手に頼るしかないが、「平均的なこと、陳腐なことなら機械は得意です」(隅田栄一郎、内田麻理香、「英語を勉強しなくてもいい時代がやってくる?」、同書、64頁)。学術論文のようにフォーマットが決まっていて、かつ一意的であることが必須の文章の場合は自動翻訳で問題ないそうである。

自動翻訳の専門家である隅田はこう言う。

「翻訳者、通訳者、外交官などは英語を勉強しなきゃいけないと思います。そういう人たちって何%くらいでしょう。1%くらい? (…)だとすると、99%の人は中学校や高校で英語を勉強しなくてもいいじゃないかと思うんです。今や小学校でも英語を勉強することになっていますが、自動翻訳機械で代替できるという意味ではその必要はないのではないか。」(65頁)

もちろん「異文化教育」は必要だけれど、自動翻訳でコミュニケーションのハードルが下がれば異文化との接触機会はむしろ増す。

何よりも英語に投じていた学習リソースをそれ以外のものに振り向ければ子どもたちの知的なパフォーマンスは高まる可能性もある。

英語学習枠組みそのものが根本的に変わると予測されている時に、なぜか日本の教育行政は「小学校から英語を勉強させる」という、悪くすると10年も経たないうちにまったく無駄になる学習プログラム改革を膨大な手間暇をかけて実行しようとしている。

同じことは脱原発や電気自動車へのシフトなどの遅れにも見られる。

今が世界史的な変化のただ中であるということをまったく自覚しないで、10年前20年前の「常識」と「既得権益構造」に居着いている日本の政策決定者たちの脳内にどのような未来が見えているのか、私にはまったく理解の外である。
http://blog.tatsuru.com/


58. 中川隆[-6401] koaQ7Jey 2017年9月30日 08:23:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

甘い希望など持つな。貧困層の子供はもう抜け出せない現実


政治家の子供たちは大抵が政治家になっている。なぜか。政治家は儲かるからである。

金持ちの子供たちも大抵が金持ちである。遊び狂って財産を散財するだけの息子たちもいるが、こういった息子たちは、金があるから散財できる。

また金持ちの家庭の子供たちは高学歴が普通だ。なぜなら、子供の教育に金を出す余裕もあれば、安心して学業に励める快適な環境もあるからだ。親のコネや人脈で有名大学に入るルートもある。

現に、ハーバード大学やオックスフォード大学は世界各国の権力者の子弟を受け入れている。おまけに大学卒業後も、仕事や役職が約束されている。

端的に言うと、エリートや金持ちや権力者の子供たちというのは、最初から社会的な地位が用意されており、貧困家庭にはない多くのメリットを享受できる。

アメリカでは親の所得が高いほど子供の成績が良いのが確認されているが、その理由は言うまでもなく教育に最適な環境を整備できるからである。

子供が将来、社会的に成功しやすいかどうかというのは、本人の努力が問われる以前に、親の収入も影響する。世の中は公平ではない。それは冷徹な事実である。


極貧の家庭は、常に何らかのトラブルに追われる

これは別に社会学者が統計を出さなくても、普通の人ですら日常を観察してしみじみと思う現象でもある。

収入のある家庭では、子供にいろんな習い事をさせることができる。塾にも行かせることができるし、家庭教師を呼ぶこともできる。

また、親が精神的余裕も経済的余裕もあるので、子供に目をかけやすい。家族の団欒を持てたり、一緒に旅行ができたり、一緒に勉強したり遊んだりすることができる。

もちろん、すべての富裕層がそんな理想的な家庭ばかりではなく、それぞれ複雑な事情を抱えているのも事実だ。何の悩みもない家庭はひとつもない。

しかし一般的な比較で言うと、総じて富裕層は子供に最適な環境を与えることができる。それが、子供の能力を伸ばすので、富裕層の子供に社会的能力の高い子供が多いのは別におかしなことでも何でもない。

では、極貧の家庭で育つ子供たちはどうなのか。彼らは富裕層の子供たちが持つメリットは何もないだけでなく、大きなマイナスをも抱えている。

極貧の家庭は、常に何らかのトラブルに追い込まれている状態であると言ってもいい。親はストレスにまみれ、家庭そのものが破綻していることもある。

経済問題はありとあらゆる問題を先鋭化させるのだ。今を生きていくだけで精一杯であり、子供の教育などはすべて後回しにされる。

習い事をさせる余裕もない。塾や家庭教師など、とんでもない話である。義務教育が終われば、あとは一刻も早く社会に出て金を稼いで欲しいと考える家庭も多い。

そのように口に出して言わなくても、子供たちは親の貧窮ぶりを見て育っているので、悠長に教育を受けるよりも、さっさと社会に出て稼ごうと考える。

環境的に、低学歴で社会に出るしかない。

そうすると結局はそれが仇になって、低収入の仕事に甘んじるしかなくなっていく。もちろん、彼らに人脈やコネがあろうはずがなく、折に触れて助けてくれる人もいない。


貧困家庭に生まれたことから、すべてが始まっている

富裕層の子供たちが多くの良き助言者を持っているのに比して、貧困層の子供たちは多くの悪い友人を持っている。だから、マイナスの方向に引っ張られやすい。

そして、低学歴を余儀なくされた子供たちには、条件の良い仕事はあまりない。

低学歴でもできる収入の良い仕事というのは、極度に体力を使う仕事であったり、極度に危険な仕事であったり、反社会的なものであったりすることが多い。

その仕事に就いていること自体がトラブルの元になり、やがては自分の人生がトラブルによって潰される。しかし、そこから逃れられない。

良い仕事に就きたいと思っても、現実には低収入の仕事しかなく、将来の展望は見えてこない。

貧困家庭に生まれたことから、すべてが始まっている。「経済格差が遺伝する」というのは、こういった現象から言われているものだ。

日本は2000年代に入ってから、極度に格差が広がる社会になった。この「労働者使い捨て時代」に成人して社会に出た人々は今は30代から40代に入ろうとしている。

2017年、厚生労働省は20年間の国民生活基礎調査の家計所得を分析した結果を出した。

これによると「世帯主が40歳代の世帯では、単独世帯やひとり親世帯の増加で総所得が300万円未満の低所得世帯の割合が増加した」と報告している。

今「生活はやや苦しい、大変苦しい」が合わせて62.4%にまで増えた。

将来の展望もなく、低収入を余儀なくされているわけだから、結婚が激減して少子化が加速しても当然だ。しかし、それでも非正規労働のまま結婚し、将来の安定のない中で子供を持つ人たちも、もちろんいる。

重要なのは、こういった貧困を余儀なくされている人たちを社会が救済できなければ、彼らの子供たちもまた貧困層から抜け出せなくなる可能性があるということだ。


貧困層の子供はもう抜け出せない現実を知るべき

「6人に1人の子供が貧困状態にある」とはよく言われるようになっているのだが、この子供たちが助からない。貧困の子供たちを貧困のまま固定化させる現象が日本で生まれている。

2017年9月17日、総務省は65歳以上の高齢者人口が総人口の27.7%になったと報告した。そして90歳以上も初の200万人台に入ったことも合わせて報告している。

少子化も急加速で進んでいるのだが、超高齢化も止まらない。だから人口動態が日本の致命傷になっていくのは、もう結論的に分かっている。

経済大国としての日本は外国に抜かれていき、日本人が豊かになるチャンスも減少していく。内需が消え、社会が萎縮し、イノベーションを生み出す力も衰え、ありつけるパイがどんどん小さくなっていく。

その中で、富の大部分を富裕層がごっそりと持っていき、残りを大勢の貧困層が奪い合うという醜悪な社会になっていく。

いよいよ、そういった社会が見えてきている。

政府も無力になる。財政赤字が膨れ上がり、高齢者を養うために社会保障費の増大に苦しむ政府に余裕などない。余裕がないから、私たちからもっと税金を取り立てて奪ってくる。

隣人が何かしてくれるだろうか。それも期待できない。格差社会は、激烈な競争が生み出したものだからだ。助け合うのではなく、競争し合って他人を蹴落とす。

では、競争に勝つのは誰か。

もちろん最初から恵まれた富裕層の子供たちである。社会はフェアではない。フェアではない競争社会では、最初から何も持たない不利な貧困の子供たちは助からないのだ。

現実を見れば、すでにそんな強烈な社会になっている。そして、この問題は完全に放置されている。

だから、金があるかないかできれいに分離する一種の身分社会になって、ピラミッドの底辺が底辺のまま抜け出せない社会が到来する。

今の社会に甘い希望など持ってはいけない。貧困層の子供はもう抜け出せない現実を見る必要がある。この現実に気付いて危機感を持たないと、すべての日本人が不幸になる。

今の社会に甘い希望など持ってはいけない。貧困層の子供はもう抜け出せない現実を見る必要がある。この現実に気付いて危機感を持たないと、すべての日本人が不幸になる。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/09/20170922T1712200900.html

格差の次には「何がくるのか」を日本人は理解しているか?

現代社会では、経済格差がどんどん広がっている。最初は少しの差であった格差は、やがては1000倍も2000倍も、いや1万倍も2万倍も開いて、もはや貧困層がどうあがこうが克服できないものとなる。

そして、この極度なまでの経済格差が定着すると、その後に何が来るのか理解しているだろうか。

それは、もちろん「階級」である。

世界の多くの国では、ひとつの国家が見えない層(レイヤー)で区分けされている。経済格差の層である。この経済格差の上と下とでは生活も文化も考え方も違う。場合によっては話す言葉までもが違ってくる。

メキシコでも、ブラジルでも、アメリカでも、イギリスでも、安全な地域と危険な地域は明確に分離して存在している。

分かりやすく言えば、金持ちたちが集う地域は安全だ。そして貧困層が集う地域は治安が悪い。だから金持ちは貧困層がいる地区には決して足を踏み入れないし、逆に貧困層が金持ち地区に行っても警備員や警察に追い出される。

それが定着すると、世界中どこでも貧困層と富裕層は自然に、明確に、完全に分離し、長い年月を経て同じ民族でも違う文化や生活になってしまうのだ。


何もかもが分離し、お互いに接点が極端になくなる

一億総中流の意識がまだ多少でも残っている日本人から見ると、これは階級、身分、差別があるという認識になる。その通りだ。凄まじい経済格差が定着すると、自然に「階級」が生まれて上と下で分離するのだ。

今の日本はそうではない。確かに経済格差は広がっているが、まだ極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはないし、その逆もまた然りだ。

しかし、問題はこれからだ。日本は、今のような平等社会を維持できるのだろうか。経済格差が広がるだけ広がって、それが社会に定着してしまった場合、日本もまた「階級社会」になってもおかしくない。

グローバル化は確実に「格差のある社会」を作り出す。それは間違いない。時間の問題なのだ。だから、将来の日本は今までと違う世界になる可能性がある。

日本人も富裕層と貧困層で分離する。

富裕層と貧困層で分離するというのは、住むところも、通う学校も、付き合う人間も、行きつけの店も、持ち物も、食べる物も、やがては話し方も、すべてが違っていくということだ。

何もかもが分離し、お互いに接点が極端になくなっていく。

教育で言うと、貧困層は親の資金面から安い学校にしか通えなくなり、ここで富裕層と貧困層の子供たちが分離される。富裕層の子供たちは質の良い教育を行う私学に通い、教育に理解のある親と熟練した教師に守られて学力を伸ばす。

一方で貧困層の子供たちは親の理解もなく、給料が安くてやる気のない教師の教育を受けて、教育の質が落ちて学力も低下していくことになる。塾にも通う経済的余裕もない。

公立校ではどんなにやる気のない生徒、問題生徒、非行生徒がいても学校から放逐できないので、しばしば学級崩壊も起きて授業がストップしたりする。

だから、富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。

気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。


富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。


格差を生み出すことになるのは目に見えている

さらに地域で見ると、ある地域に貧困層が多くなっていくと、地価が下がってますます貧困層が流れ込んでいく。そうすると、不動産価格の下落や環境の悪化を嫌って、富裕層が少しずつ、しかし確実に抜けていく。

そうすると、ますます貧困層がその地区を埋め尽くすようになっていく。一方で、富裕層が集まるところは地価が上がって貧困層が住めなくなる。これで人々が分離される。

職業で言うと、富裕層の子弟が卒業する大学卒の勤める職種と、貧困層の勤める職種も違っていく。入れる企業も違い、同じ企業でもエリートクラスと労働者クラスに分かれてこのふたつは交差しなくなる。

この格差は、一度下に落ちると、容易に這い上がれない地獄の格差になっていく。

日本はいずれ、遅かれ早かれそのような社会になる。これについては、多くの社会学者、経済学者、政治家たちが警鐘を鳴らし、危険を訴えている。

誰のせいでこんなことになったのか。全世界がこのようになっているのだとすれば、誰のせいでもなく、現在の社会構造が生み出しているというのが分かるはずだ。

弱肉強食の資本主義が、このような社会現象をどんどん増長させて止まらないのである。強いて言えば、グローバル化を無批判に取り入れた政治家や大企業が悪いということになる。

しかし、日本を鎖国化したら大丈夫なのかというと、それはそれで日本全体が孤立化して北朝鮮のように困窮するだけだ。取り入れても拒絶しても問題が発生するのである。

日本はもうとっくの前にグローバル化を完全に受け入れた。これからも、どんどん受け入れていくことになる。それがさらなる格差を生み出すことになるのは、目に見えている。

もはや、格差が日本国民を分離してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまう。1%の金持ちか、それとも99%の貧困層か。

そして、「階級」の上か下か……。


もはや、格差が日本国民を分離してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまう。1%の金持ちか、それとも99%の貧困層か。そして、「階級」の上か下か……。


日本社会はこれから階級で分離していくことになる

問題は、貧困層に落ちた人は、もはやその子供もまた貧困層になってしまうことだ。個人の努力云々の話ではない。子供たちはスタート時点から極端な差を付けられており、貧困から抜け出せない。

日本がそんな社会になることは、高齢層よりも若年層の方が切実に感じ取れるかもしれない。

日本は若者の自殺が多い国だが、それは就職活動を行っている段階から、多くの企業に断られ続け、自分たちが社会から必要とされていないことを悟ってしまうからでもある。

就職できても生活していくことができないほどの給料だったり、不安定な身分だったりすることも多い。それで必死で働いても、身体を壊して使い捨てされる。

彼らの多くは、自分たちが貧困に生きるしかない現実を突きつけられている。当然、無理して結婚して子供を作っても、子供が貧困で暮らすことになることくらいは容易に想像がつく。

だから、結婚して子供を作るということすらも逡巡する社会と化している。

日本は超少子高齢化となっており、減り続ける子供と増え続ける高齢者のアンバランスで国家の社会保障費に問題が生じているのだ。

これから日本は、過酷な増税、削られる医療費、延長される年金受給年齢などがすべて同時並行で起きて、国民は痩せ細っていく。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた。そのため、ごく普通の人が、年々転がり落ちるように貧困化する。

周辺国との軋轢、憎悪の連鎖、グローバル化の加速、格差の定着、若者の貧困化、超少子高齢化……。すべては、弱肉強食の資本主義が生み出したものであり根は一緒なのだ。

これらの問題が最後まで暴走していく中で、日本でも経済格差が「階級」を生み出して、上と下とではまったく違う文化の中で生きることになる。

格差で騒いでいる段階は終わった。次は階級社会に突き進んでいくのを、日本人は理解しておくべきだ。日本社会は階級で分離していくことになる。


日本でも経済格差が「階級」を生み出して、上と下とではまったく違う文化の中で生きることになる。格差で騒いでいる段階は終わった。次は階級社会に突き進んでいくのを、日本人は理解しておくべきだ。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170831T0331260900.html

国の中の90%以上の女性が文字をまったく読めないとしたら?

ひとり当たりの年間所得が最も少ない国をIMFの2016年のデータから拾い上げると南スーダン、マラウイ、ブルンジ、中央アフリカ、マダガスカル、モザンビーク、ニジェール、ガンビア、リベリア、コンゴ……と続く。

ここで上げた国は、人が貧しいというよりも国そのものが極貧にあって、経済発展はなかなか厳しいものがある。

もうほとんど報道されなくなっているのだが、南スーダンでは国土の6割が戦乱地区と化しており、中央アフリカでもコンゴでも大量虐殺が続いている。

アジアでも、アフガニスタンやネパールは非常に貧しい地区であり、EU(欧州連合)には、アフガニスタン難民も大量に入り込んでいるのはあまり知られていない。

政府が脆弱な国は、貧困が蔓延している。戦争が吹き荒れる国もまた貧困が吹き荒れる。

その結果、多くの人たちから教育の機会が奪われる。

生きるか死ぬかの瀬戸際で、人々が安全な地区を目指してさまよい歩いているような地区で、あるいは教育を与える必要がないという声が支持される地区では、意図的に教育の機会が踏みにじられるのだ。

中でも、女性の教育が犠牲になることが多い。


人材を作るには、教育に力を入れる必要がある

途上国では、誰がリーダーになっても、経済を立て直し、貧困を撲滅するのは非常に難しい仕事になる。

途上国のあらゆる問題は貧困から来ている。そして、その貧困のあらゆる原因は、インフラや汚職や内戦や先進国の収奪から生まれている。

豊かな国だったとしても、一度、国が衰退してしまうと立て直すのが難しいのは、歴史を見ると分かる。

日本は第二次世界大戦の敗戦で、国は焼け野原になってほぼ壊滅したも同然だったが、そこから奇跡的な復興を遂げて現在がある。

しかし、こういった奇跡は「例外中の例外」だ。普通は、国が壊滅すれば、その後は何十年も立ち直れないのである。

国が回復するには、経済が回らなければならない。経済が回るためには人材や資源が必要になる。資源があるかどうかは、その国の運次第だ。資源がないのであれば、人材を強化するしかない。

人材を作るには、教育に力を入れる必要がある。

ところが貧困国は、底なしの貧困ゆえに教育制度が破綻していることが多い。それならば、教育に金をかければいいという話になるのだが、ここにひとつ問題が発生する。

教育の成果を見るには、長い時間がかかるということだ。

1年や2年ではない。10年も20年もかかるのだ。だとすれば、任期が数年の政治家が教育に力を入れ続けるのは、相当な意思と覚悟が必要になる。

どこの国でも、教育の大切さを自覚する政治家は少ない。

教育はいつも置き去りにされる。「女性に教育は必要ない」と決めつけるアフガニスタンのような国もある。

アフガニスタンはわざわざ作られた女子学校を、イスラム原理主義のタリバンが叩き壊して回っている。

このタリバンのイスラム主義はパキスタンにも広がっているのだが、だからパキスタンの地方都市でも女子学校の破壊やテロが起きたりしている。

さらにこのような動きはナイジェリアでも広がり、テロ集団ボコ・ハラムが女子学生を大量拉致してイスラム原理主義に洗脳したり、自爆テロに使ったりするようにもなった。

そこまでして教育を奪おうとしている国もあるのだ。


アフガニスタンはわざわざ作られた女子学校を、イスラム原理主義のタリバンが叩き壊して回っている。このタリバンのイスラム主義はパキスタンにも広がっているのだが、だからパキスタンの地方都市でも女子学校の破壊やテロが起きたりしている。


90%以上の女性がまったく文字を読めない国もある

教育の機会が奪われたら国はいつまで経っても立ち行かない。これは、多くの途上国が共通して抱えている問題である。

教育がしっかりしていれば、その国は立ち直る余地はある。あるいは、すべてを失っても成長する余地がある。

どんなに国が傾き、経済破綻し、暴力・麻薬・売春が吹き荒れ、汚職が蔓延していたとしても、教育がしっかりしていれば嵐の中で芽が育つ。

逆に、教育自体がおざなりになっていたり、荒廃していたり、教育行政が破綻していたりすると、成長している国であっても、次世代の衰退は間違いない。

何を差し置いても教育に力を入れる風土があれば、その国は助かる。そうでないのであれば、その国の政治家が一時的に何かをやっても、結局は貧困に戻っていく。

教育は軽く見てはいけない問題だ。なぜ貧困層がそこから抜け出せないのか。

それは教育を受けていないからだ。

教育を受けても成功するとは限らない。しかし、教育を受けていなければ、スタート地点にすら立つことができない。

先進国にいると、文字が読めて、計算ができるというのは当たり前のように思えるかもしれない。しかし、それは当たり前のことではない。教育の成果だ。

日本の識字率は99%なので、国民のほぼすべてが文字が読める状態である。だから、文字が読めない人がいるというのが信じられないかもしれない。しかし、途上国では想像以上に文字が読めない人が多い。

たとえば、教育を奪われているアフガニスタンでは、女性の識字率は17.6%であると言われている。これを逆に言えば、女性の82.4%が文字が読めないということだ。自分の名前を読むことも書くこともできない。

国民の85%がイスラム教であるギニアでも女性の教育がほとんど為されておらず、女性の87.8%が文字を読めない。やはりイスラム教が圧倒的大多数を占めるニジェールに至っては、女性の91.1%が文字を読めない。

国の半分を占める女性が無教育なのであれば、国の半分は知的能力を必要とする現代社会で落ちこぼれるということだ。これでは国の再建や発展どころではない。


幼少の頃にきちんと教育を受けていれば……

インドでもカンボジアでもバングラデシュでもインドネシアでも、文字が読めない人たちは想像以上に多い。

私が知り合ったインド・コルカタの物乞いの女性たち、あるいはコルカタの売春地帯にいた女性たちも文字が読めなかった。

(書籍『絶対貧困の光景』インドの取り残された女性たち)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20140610T1741180900.html


彼女たちは知的能力が劣っていたわけではない。現に、彼女たちはヒンディー語を話す以外に、英語もきちんと話して欧米人と会話もできる。

文字は書けないのだが、ストリートで覚えた英語を駆使して欧米人と渡り合っている。もし、彼女たちが幼少の頃にきちんと教育を受けていれば、何十年も物乞いで生活していなかったかもしれない。

彼女たちに欠けていたのは教育だということが分かる。教育の機会がなかったのだ。

教育を受けると、物事を判断したり、分析したり、専門を極めていくことが可能になる。それもまた、貧困から抜け出すのに重要な要素である。

教育と言っても大学で学ぶような高度な専門知識の話をしているわけではない。読み書きソロバンの基礎的な教育の話をしている。それすら受けられないと、何もできない。

何しろ、名前も書けず、計算もできないのだ。そうなると、仕事は単純労働でしかない。単純労働の賃金は、どこでも最低賃金そのものだ。

最低賃金で生きていても、貧困から抜け出すことはできないのだ。字が読めないし書けないのだから、できる仕事は限られてしまう。賃金をごまかされても、計算ができないから抗議すらもできない。

また、世の中の仕組みはすべてドキュメント(書類)によって記されている。契約書も、賃金明細書も、請求書も、何もかも書類に記されて、そこには文字が書かれている。

それらの書類が読めず、意味も分からなければ、自分の置かれている立場すらも分からないままだ。やはり抑圧されたままの人生を送るしかなくなる。

国はどれだけ多くの国民に教育を受けさせることができるか。自分や子供たちは教育に接することができるか。そして、教育はどれだけ適切で実用的か……。

それが、貧困撲滅の鍵を握っている。しかし、多くの国でそれが理解されない。その結果、貧困が永遠に続いていくことになる。


教育を受けても成功するとは限らない。しかし、教育を受けていなければ、スタート地点にすら立つことができない。教育がきちんと続かなければ、彼女には将来がない。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170829T0223580900.html


日本でも貧困地域の子供は漢字が読めない

【“貧困”無間地獄の現場】(05) 2003年『千葉少女墓石撲殺事件』の舞台――不良だらけの荒れた街が老人だけの枯れた街に


「貧しい昭和がこびり付いたような街」――

『最貧困女子』(幻冬舎新書)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%80%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E5%A5%B3%E5%AD%90-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E5%A4%A7%E4%BB%8B/dp/4344983610


で貧困問題を世に問うたジャーナリストの鈴木大介氏は、最貧困女子の出身地をそんな表現で語ったことがあった。


その1つが千葉市の千城台、正確には千葉市若葉区の千城台市営住宅団地だ。
言葉は悪いが、“最貧困女子の故郷”とでも言おうか。

地図
https://www.mapion.co.jp/m2/35.62610819,140.18221072,16


千葉駅からモノレールに乗り換える。タウンライナー(千葉都市モノレール)からは、新興のニュータウンと自然豊かな公園の景色が広がる。

約25分、終点の千城台駅に到着する。この街は以前、取材で訪れていた。

2003年10月に起こった『千葉少女墓石撲殺事件』である。犯罪史に残る陰惨且つ稚拙な事件。

風俗店(抜きキャバ)で働いていた16歳の石橋裕子さんが、偽装結婚していた夫(当時22歳)に離婚を切り出したところ、夫は地元の高校生ら5人と共謀し、石橋さんを墓地に連れて行き、歯形がわからなくなるまで殴りつけ、指紋を消し去る為に灯油で焼き殺した。

主犯の夫は、偽装結婚で戸籍をロンダリングしては、消費者金融からカネを借りる詐欺行為を繰り返していた。

当時、この夫は新しい相手と偽装結婚する予定だったが、身元不明状態では離婚できないと気付いて「自分の妻」と名乗りを挙げた結果、呆気なく御用となった。

事件の当事者たちは全員、市営住宅の出身者だった。
石橋さんの働いていた風俗店も千城台にあった。

次に偽装結婚する予定だったという別の16歳の少女を取材した。
彼女もやはり、市営住宅出身者だった。

彼女に事件をコピーした記事を見せた際、「漢字、読めないから」と言われて強い衝撃を受けた。

主犯の夫と族仲間だったという不良3人にも取材したが、やはり漢字が読めず、全員が無免許と自慢げに語っていた。

「21世紀の日本で、こんなことがあり得るのか…」。それが当時の印象だった。

千城台はニュータウンとして開発が進む一方、その裏手には古びた市営住宅団地が現存していた。夜ともなれば、漢字も読めないガラの悪い連中が団地から溢れ出て来る。治安の悪さでは、千葉でも屈指の場所と言われていた。その構図に、現在も違いは無い。

モノレールの駅を降りれば静かなニュータウンの表情を見せるが、古びた脇道を1本入れば、“貧しい昭和がこびり付いた街”がいきなり目の前に現れる。

この界隈の市営住宅の多くは、1960年代半ばから後半にかけて建設されている。
半世紀以上経っているのだから古臭くて当然だが、それでも以前の取材時には活気だけはあった。しかし、今夏に訪れた時、市営住宅は妙な静けさの中にあった。違和感を覚える。明らかに、2003年とは何かが違うのだ。

最も古い木造平屋建ての市営住宅に行く。犬の世話をしていたお婆さんが言う。

「ああ、今、ここは取り壊し前でね。半分以上があっちの新しい団地に移ったよ。私かい? ほら、この子(犬)がいてねえ。犬や猫を飼う為に残っているんだよ」。

このお婆さんが説明した通り、周囲の市営住宅の多くは新規建て替えや改修の真っ最中だった。「前に住んでいた若い人の多くも出て行ったよ」と寂しそうに語る。

夜になって、漸く違和感の原因に気付いた。周囲にコンビニが全く無くなっていたのだ。

駅前界隈は小中学校が揃い、市営住宅とニュータウンの住人合わせて1万人以上が住んでいる。明らかに異常だろう。プール帰りの小学5年生ぐらいの少女にコンビニの場所を尋ねたら、「あそこにあった」と潰れた店を指差された。

そう言えば、駅前にも赤提灯1つ無く、大手チェーンの居酒屋も無かった。
何とか探したところ、市営住宅の脇にスナックが2軒あるだけだった。

その1軒のマスターが言う。「この数年かな。駅前の飲み屋も全部、無くなったんだよ。前はキャバクラや風俗店もあったんだけど」。

私が「事件の影響ですか?」と尋ねると、「若い人が夜に集まりそうな場所は、警察が厳しく取り締まったからね」と頷きながら説明する。

客の1人も、「コンビニは、ほら、トイレで子供を産んで捨てた事件あったろ? あれ以降、どんどん潰れたんだよ」。

これは2011年、地元の20歳女性が千城台のコンビニで起こした事件のことだろう。

8月、お盆前だというのに、街に屯する不良たちが公園で花火に興じる様子も無ければ、暴走族が撒き散らす騒音も聞こえてこない。

マスターは、「兎に角、そういう若者はこの街から本当に消えたんだよ」と繰り返す。昭和の貧しさがこびり付いた街は、急速に変貌しているようだった。


「違法住人の楽園だった」。
市営住宅に暮らす60代の老人客が自嘲気味にそう語る。

母子家庭と言いながら夫と暮らす。夜の店で働きながら生活保護を受け、子供の給食費を払わない親たち。

毎日、パチンコをして飲み屋で暴れる――そうした“貧者の楽園”は消え去ろうとしているのだと、このスナックの客たちは誰もが実感している。

老人客が続ける。

「今、古い市営住宅は建て替え中だろ? 新しい市営に入れるのは、俺のような高齢の年金暮らしや生活保護は大丈夫だけど、以前のように20代の働き盛りで子供がいるとか、偽装結婚しているような家は契約を更新できないからな。だから、親が子を追い出しているんだよ。『お前らがいたら新しい市営住宅に住めないから』って」。

こうして、市営住宅から不良たちや若い層は消え、老人だけの枯れた街になりつつある。

“貧しい昭和がこびり付いた街”は、市の指導の下、健全且つ理想の街へと生まれ変わるのだろう。

12年前、主犯の夫と“偽装結婚”する予定だった16歳の少女の顔を思い出す。
漢字が読めず、「東京の都心は怖いので、夢は葛西に住むこと」と言っていた彼女は今、28歳となり、どこで何をしているのだろうか。

「(殺された石橋さんと)PUFFYの曲をデュエットで、朝までカラオケしたんだよ」。
そう嬉しそうに思い出を語っていた彼女は、既に都会の片隅で最貧困化しているかもしれない。

だが、その姿が顕在化することはないだろう。

夜8時過ぎ。千城台の駅から部活動で健康そうに日焼けした、或いは塾のテキストを持った学生たちと、ネクタイを締めたサラリーマンが続々と降りて来る。そして、小奇麗なニュータウンへと消えていった。 (取材・文/西本頑司)
http://mmtdayon.blog.fc2.com/blog-entry-1118.html?sp


千葉少女墓石撲殺事件とは、2003年(平成15年)10月1日に千葉市若葉区の墓地で発生した殺人事件である。


2003年10月1日の午前7時10分頃、千葉市若葉区の墓地駐車場で、ジョギングしていた男性が遺体を発見した。遺体は、若葉区千城台東の飲食店アルバイトだった少女(当時16歳)であった。

遺体は頭を鈍器で強く殴られて殺害された後、焼かれていた。
千葉県警は少女の夫で若葉区千城台西の運転手である男(当時22歳)を殺人の容疑で逮捕。共犯として高校3年の男子生徒(当時18歳)などを含む若葉区内の未成年の男子あわせて4人も逮捕した。


加害者と被害者の偽装結婚

被害者の少女は幼い頃は活発な少女で、中学時代はハンドボール部に所属していた。しかし部活を引退した3年の秋から性格が変わり始めた。不良グループと付き合うようになり、そこで後に自らを殺害する男に出会う。高校に進学するが、1年生の10月には自主退学し、以後はカラオケ店でアルバイトを始めた。

主犯の男は母親が再婚した義父と折り合いが悪く、家庭内で喧嘩を繰り返した。そして恐喝事件を繰り返し、高校1年の時には少年鑑別所送致にされる。18歳の時にはコンビニ強盗事件を起こして東北少年院送致となり、出所後も遊興費欲しさに窃盗事件を繰り返した。

少女はカラオケ店で働いたものの、給料面などから不満を持っており、水商売で働こうと考えていた。しかし18歳未満という年齢では働くことは不可能である。そこで男は自分との結婚を持ちかけた。結婚すれば成人として扱われるからである。ただし民法の上では成人扱いになるが、風俗営業法による規制から16歳で就職することは禁じられている。そして2人は2003年7月に婚姻届を提出し、少女はキャバクラで働き始めた。

ただし両者の間には恋愛感情は無く、2人の利害が一致したためでの偽装結婚に過ぎなかった。男は消費者金融に300万円に及ぶ多額の借金を抱えており、以前も別の女性と偽装結婚していた。女性の苗字を名乗って名前と戸籍を変更することで、消費者金融の借金を踏み倒そうとしていたのである。

しかし男は少女に結婚した見返りとして上納金を要求する。少女は初めこれに応じたが、次第に金銭トラブルを引き起こすようになり、遂に少女は偽装結婚を警察に通報すると言い出す。男は以前に起こした詐欺の事件で執行猶予中であった。

これが通報されれば猶予を取り消される可能性もあり、口封じを決意し、仲間の未成年4人を「自分たちの起こした窃盗事件を少女が警察に通報しようとしている」と騙すことで犯行に加わらせ、2003年10月1日午前3時過ぎに駐車場内でハンマーで少女を順番に殴りまわしたうえ、重さ70キロもある墓石用の石材を少女の顔に何度もたたきつけて殺害した。

そして少女の遺体にオイルを10数本もかけて火をつけて逃走したのである。
後に少女を発見した男性の証言では、発見したときには少女の遺体の上半身が炭化しており、まだ火もついているという状態だったという。


逮捕と裁判

事件発覚後、男は自ら警察に情報を提供して自分に疑いがかけられないようにした。またマスコミのインタビューにも悲痛な発言をすることで被害者を装っていた。

しかし警察は男と少女の偽装結婚をつかみ、さらに近所のスーパーやコンビニで大量にライターオイルを購入または万引きする男と少年らの防犯カメラの映像を入手して、男と少年らを逮捕する。男は最初容疑を否認していたが、少年4人が犯行を自供したため、遂に男も犯行を認めた。

2005年2月23日、千葉地裁で判決公判が開かれ、「暴行は想像を絶する残虐さ」、「自己中心的で幼稚極まりなく、動機に酌むべき点は無い」、「確定的殺意に基づく極めて残虐な犯行で、矯正は不可能」として、求刑通り無期懲役となる。4月19日に控訴を取り下げて刑は確定した。

また、未成年の少年らも、殺害と遺体損壊に加わった3人を5年から10年の不定期刑に、遺体損壊に加わらなかった1人を3年半から7年の不定期刑に処して確定した。こちらも「残虐な犯行」、「遺体損壊に対する悔悟の念が感じられない」とされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B0%91%E5%A5%B3%E5%A2%93%E7%9F%B3%E6%92%B2%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

日本の貧困層の子供は漢字すら読めないのに、「ゆとり教育」とセットで小学生に英語を習わせるとか、頭おかしいよね


59. 中川隆[-6400] koaQ7Jey 2017年9月30日 08:31:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「ゆとり教育」の成果


日本の科学研究はこの10年間で失速していて、科学界のエリートとしての地位が脅かされていることが、Nature Index 2017日本版から明らかに

2017年3月22日

Nature Indexによると、日本の科学成果発表の水準は低下しており、ここ10年間で他の科学先進国に後れを取っていることが明らかになりました。政府主導の新たな取り組みによって、この低下傾向を逆転させることができなければ、科学の世界におけるエリートとしての座を追われることになりかねません。

Nature Indexに収録されている高品質な科学論文に占める日本からの論文の割合は、2012年から2016年にかけて6%下落しました。中国の急速な成長の影響により、米国などの科学先進国が占める割合は相対的に低下していますが、日本からの論文発表は、絶対数も減少しています。Nature Indexに収録されている高品質の自然科学系学術ジャーナルに掲載された日本の著者による論文数は、過去5年間で8.3%減少しています。

これらの知見は、Nature 2017年3月23日号の特別企画冊子「Nature Index 2017 Japan」に掲載されているもので、このレポートでは、日本の近年の研究実績に関する情報を詳細に紹介しています。「Nature Index 2017 Japan」は、世界の8000以上の大学や研究機関による高品質の研究を追跡している Nature Indexのデータに基づいています(データ測定方法の定義については「Nature Indexについて」の項を参照ください)。


「Nature Index 2017 Japan」は、クラリベイト・アナリティクス社のウェブ・オブ・サイエンス(WOS)や、エルゼビア社のスコーパス(Scopus)データベースのデータも取り上げており、これらのデータから、日本の研究が低下傾向にあることがはっきりと現れています。WOSによれば、日本の論文出版数を2015年と2005年とで比較した場合、14分野中11の分野で減少しています。伝統的に日本が強い分野である材料科学および工学の論文出版数は10%以上減少しており、減少率が最も大きかったのが計算機科学で37.7%も減少しました。ただし、医学、数学、天文学の3つの分野においては、10年前よりも増えています。しかし、査読付き文献を広く網羅するスコーパス・データベースに収録されている全論文数が2005年から2015年にかけて約80%増加しているにもかかわらず、日本からの論文数は14%しか増えておらず、全論文中で日本からの論文が占める割合も7.4%から4.7%へと減少しています。

こうした全般的な低下傾向により、日本の若い研究者たちは厳しい状況に直面しており、フルタイムで働けるポジションも少なくなっています。日本政府の研究開発支出額は、世界で依然としてトップクラスであるものの、2001年以降ほぼ横ばいです。一方で、ドイツ、中国、韓国など他の国々は研究開発への支出を大幅に増やしています。この間に日本の政府は、大学が職員の給与に充てる補助金を削減しました。国立大学協会によると、その結果、各大学は長期雇用の職位数を減らし、研究者を短期契約で雇用する方向へと変化したのです。短期契約で雇用されている40歳以下の研究員の数は、2007年から2013年にかけて2倍以上に膨れ上がっています。

Nature Indexの創設者であるDavid Swinbanksは、次のようにコメントしています。「日本は長年にわたり、科学研究における世界の第一線で活躍してきました。しかし、Nature Indexおよび当社のパートナーから収集したこれらのデータは、日本がこの先直面する課題の大きさを描き出しています。世界各国が科学技術予算を増大させてきた中で、日本では2001年以来科学への投資が停滞しており、その結果、日本の機関では高品質の研究を生み出す能力に悪影響が表れ、衰えが見えてきています。こうした状況に対し、日本政府は取り組みを開始しており、大学改革を政府の最優先課題の1つとして掲げ、イノベーションと成長を促すための政策を模索しています。その1つ、長期的な職位を増やすための支援を行うことによって、大学に勤める40歳以下の研究者を2020 年までに10%増やそうという計画を、諸手を挙げて歓迎すべきでしょう。」

現在、高品質の科学研究を生み出している日本の機関トップ10を見ていくと、第1位は、世界有数の大学として長くその地位を確保している東京大学で、その後に京都大学(2位)、大阪大学(3位)、東北大学(4位)と続きます。そして日本最大の研究機関である理化学研究所が5位に入り、東京工業大学(6位)、名古屋大学(7位)、九州大学(8位)、北海道大学(9位)、国立研究開発法人物質・材料研究機構が(10位)となっています。
http://www.natureasia.com/ja-jp/info/press-releases/detail/8622


小学生に英会話やらせても英文は読める様にならないから科学研究には影響無いんだよね


60. 中川隆[-6362] koaQ7Jey 2017年10月05日 14:17:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


日本のアカデミズムは危機にあるのか――ノーベル賞受賞者も警鐘 10/5
https://news.yahoo.co.jp/feature/766

21世紀に入ってから、日本はノーベル賞の受賞ラッシュが続いている。2001〜2016年に、16人(米国籍取得者も含む)が科学分野で受賞し、20世紀の科学分野の受賞者(6人)を大きく上回っている。だが、これだけの華々しい成果を上げてきた日本の基礎研究に対し、様々な方面から警鐘が強く鳴らされている。ノーベル賞受賞者も指摘する、その元凶とは。(ライター・青山祐輔/Yahoo!ニュース 特集編集部)

地方から失われていく、科学研究の基礎体力


2016年5月、ある天文学の研究プロジェクトによるクラウドファンディングがネット上で話題を呼んだ。


徳島大学の古屋玲准教授を中心とした研究チームによる、ハワイ島マウナケア山頂付近にある電波望遠鏡を使った天体観測計画。話題になったのは、その目標額がわずか80万円だったからだ。金額は現地までの旅費を調達しようとしたもので、クラウドファンディングは成功した。だが、古屋准教授の研究環境は、さらに悪化しているという。


ハワイ島マウナケア山頂付近にある観測施設(写真:アフロ)


「徳島大学は地方の小さな国立大学で、主要な使命は研究というより、教育と地域貢献。つまり、よき市民を社会に送り出すことです。それでも、これまではどんな研究テーマも奨励されていたのが、昨今は『役に立たない研究は自分でやれ』と言われるまで悪化しています」


国立大学に所属する研究者には、毎年研究費が支給される。金額は、大学や研究分野などによってさまざまだが、おおむね公平に学内で配分されていた。しかし、その状況が大きく変わろうとしているのだという。


古屋准教授のチームによるクラウドファンディングは、なんとか資金集めに成功したが……(提供:古屋准教授)


「2018年度からは『重点クラスター』と呼ばれる学内の特定の研究グループにだけ配分することになった。残りの人はゼロです。重点クラスターの選択基準は端的に言って、医療技術や医薬品開発など直接役に立つかどうかです。恐れていた最悪の事態がついに来ました」


この結果、2018年度は大学から古屋准教授には研究費が支給されない見込みだという。研究費がなければ、研究活動もできない。


「選ばれた重点クラスター以外、つまり研究費ゼロを避けるために、なんとかクラスターを作ったけれど外れてしまった研究者たちは、『研究をしたければ科研費やクラウドファンディングなど外部資金を調達しろ』と学内説明会で言われました。でも、クラウドファンディングなんて誰もができるわけではないし、科研費だって全員の提案が採択されるわけではない。私の場合は、たまたまうまくいきましたが、それを全員にやれというのは無茶だと思います」


地方の国立大学から研究の灯が消えようとしている。そして日本の科学アカデミズムが危機に瀕しているとの指摘は、海外からも寄せられている。

世界における「科学エリート」の地位を失いつつある


「日本の科学研究はこの10年間で失速していて、科学界のエリートとしての地位が脅かされている」
イギリスで発行される総合科学雑誌『ネイチャー』2017年3月23日号は、そう指摘した。

同誌によれば、世界的に評価の高い学術誌や論文誌に掲載される日本からの論文は、2012年から2016年にかけて6%減少した。また、専門家による検証済みの文献を広く網羅するスコーパス・データベースに収録されている全論文数は、2005年から2015年の10年間で約80%増加しているにもかかわらず、日本からの論文数は14%しか増えていないという。


日本から発表される科学論文数はなかなか増えない(写真:アフロ)
https://news.yahoo.co.jp/feature/766

こうした状況の背後にあるのが中国の急速な成長で、米国などの科学先進国の地位が相対的に低下している。だが、日本の論文数の減少は、他の先進国と比較しても突出している。なぜこれほど減っているのか。ネイチャーは、その要因を国としての予算配分にあると指摘した。


論文数では、中国の伸びが他国を凌駕している(図版:ラチカ

https://news.yahoo.co.jp/feature/766


「日本政府の研究開発支出額は、世界で依然としてトップクラスであるものの、2001年以降ほぼ横ばいです。一方で、ドイツ、中国、韓国など他の国々は研究開発への支出を大幅に増やしています」


東京に長く滞在経験のあるネイチャーの記者、デイヴィッド・シラノスキー氏も指摘は驚くべきことではないと言う。「過去10年以上にわたり、日本の論文数は増えも減りもしなかった。なぜなら、人口増加、経済成長、科学予算のすべてが横ばいだからです」


ネイチャーの論評は、単なる事実の指摘にとどまらず、日本に対して強く警告を発している。この直後、日本のメディアでも「アカデミズムの危機」を報じる動きが広がった。


一方、ネイチャーの記事以前に、国内でも同様の指摘はなされていた。


鈴鹿医療科学大学の豊田長康学長は、2015年5月1日付の自身のブログで、主要国の全論文数や人口あたりの論文数といったデータで、2000年代前半からすでに日本のアカデミズムは世界に水をあけられつつあることを示した。2016年3月には豊田氏はネイチャーインデックスからの取材にも応え、「我が国の競争力は高まっていないどころか、過去10年間を見ると日本の基礎研究は弱体化している」と発言していた。


そして、基礎研究の弱体化に対して危機を訴える声は、日本の研究者においていっそう広がっている。


昨年ノーベル賞を受賞した大隅良典・東京工業大学栄誉教授。日本からは、2014年から科学分野で3年連続受賞者が出た(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

「就職できないから」東京大学でも大学院生が減少


「基礎科学で減っているのはお金ですが、人も減っているんです」東京大学副学長で理学系研究科長の福田裕穂教授は、危機感を強く訴える。「理系でも(産業化しやすい)応用研究には国からお金は出ます。でも、基礎研究にはお金がつかないし、研究者も減っているんです」


科学研究への予算配分は「日本の未来に対して投資するのか、しないのかという、国としての選択の問題」だと語る東京大学副学長・理学系研究科長の福田裕穂教授(撮影:殿村誠士)


2016年10月、全国34の国立大の理学部長らで構成され、福田氏も所属する「国立大学法人理学部長会議」が、「未来への投資」と題した声明を出した。


この声明では、国立大学への運営費交付金が10年以上にわたり毎年1%ずつ削減されことによって、日本の基礎研究の体力が奪われたこと、またそうした基礎研究の衰退で将来日本からノーベル賞が出なくなる可能性がある、という懸念を強く訴えた。


国からの運営費交付金が削減されても、大学の支出は一律に減らせるものではない。例えば光熱費の節約には限度があるし、安全にかかわる支出は減らすことはできない。そこでしわ寄せを受けてきたのが人件費だ。


国立大学の予算に占める人件費の割合は、2005年度の41.7%から2015年度の32.9%と10年で9ポイントも減っている。ところが、教員(研究者)の数は2004年度の6万897人から、2013年度で6万3218人と増えている。


人件費が減っているのに、研究者の数は増えている。このカラクリを支えているのが、2〜5年程度の雇用期間があらかじめ設定された「任期付きポスト」の増加だ。


国立大学は、任期なしの常勤ポスト(特に助教授)を減らし、その分は任期付きポストで補ってきた。そして、その任期付きポストの人件費の原資として頼っているのが、「競争的資金」という研究予算だ。


東京大学でも、過去10年間で40歳以下の教員は任期無しの雇用が半減し、任期付きの教員の方が多くなっている(撮影:殿村誠士)

問題を抱える「任期付きポスト」


国立大学に所属する研究者の資金は、大きく2つからなる。ひとつは「運営費交付金」からの分配だ。運営費交付金は国からの補助金であり、この交付金の一部が研究者へ割り振られ、研究の基盤的な資金となっている。もうひとつが「競争的資金」だ。競争的、とあるとおり、研究者自身が審査を通過した研究やプロジェクトに対してのみ給付される。


この2つの研究資金のうち、この十数年で政府は運営費交付金を減らし、競争的資金を増やしてきた。大学間や研究者間での競争を促し、日本全体の国際競争力を強化しようという狙いだ。

運営費交付金が減る一方、教員数は右肩上がりに増えている(図版:ラチカ)
https://news.yahoo.co.jp/feature/766


だが、そこで発生した問題が、若手研究者への雇用のしわ寄せ──任期付きポストの増加だった。人件費の抑制によって、国立大学に所属する40歳未満の教員のうち任期付き教員の割合は、2007年度の39%から2016年度には63%にまで増えた。


教員の総数が増えているなかで、任期無し教員は減り続けている(図版:ラチカ)
https://news.yahoo.co.jp/feature/766


任期付きポストの問題は、任期期間の終わりとなる1年前には次の「ポスト探し」という就職活動が待ち受けていることだ。任期付きポストでは若い研究者が腰を据えて研究できず、このポストの広がりが日本の基礎科学の弱体化の大きな要因だと福田教授は言う。


「なぜなら、ノーベル賞を受賞するような画期的な研究の多くは、その受賞者がだいたい30歳から40歳ぐらいのときの仕事。2000年以降の日本の17人のノーベル賞受賞者でも、その多くが20代後半から40代前半でした」


「たとえば」と、福田教授は、昨年ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典教授の若き日を振り返る。

「昔から大隅さんとは友だちですが、東大の助教授でオートファジーの研究を始めたころの彼は『福田君さ、いろいろ遺伝子が見つかったけど、どんな働きかわからないものばかり』と嘆いてばかりいた。でも、彼はそのわからない遺伝子をコツコツと研究していった」


2000年以降の科学分野でのノーベル賞受賞者は、その多くが20代後半から40代前半のときの研究が受賞対象となっている(図版:ラチカ)
https://news.yahoo.co.jp/feature/766


当時の大隅氏の研究は顕微鏡観察が中心だったので、「研究費はわずかで済んでいた」(福田教授)という。だが、それらの地道な研究ののち、教授として基礎生物学研究所に転籍し、多くの資金とさまざまな手法を用いて本格的に遺伝子の働きを解明するようになった。そしてその若き日の研究がノーベル賞に結びついた。


「だから、大隅さんの研究で大事だったのは、お金がなくても時間のあった東大時代と、それを大きく展開した基礎生物学研究所の時代。つまり、若い時の研究に打ち込める自由な時間があったから。でも、それが昨今の任期付きポストだったら、できたかどうか疑問です」(福田教授)


「基礎研究で成果を出すには、誰もやっていない独創的なことをやらないといけない。そこには、小さな成果で終わってしまうかもしれないリスクもある」福田教授は言う(撮影:殿村誠士)


実際、若手研究者の考え方や研究姿勢にも影響が出ている。


「100億円を超える次世代望遠鏡について議論する場で、本来なら『こういう望遠鏡を作って、こういう研究をしたい』と夢を語るとても楽しいもののはず。なのに、実際には若手はほとんど参加しなかった」


前述の徳島大学の古屋准教授は、ある天文分野のシンポジウムで議論がまったく盛り上がらなかったと振り返る。ゲストとして招いた理論天文学者も、若手の参加がきわめて少ないことを憂いていたという。


「その翌年は、私自身がシンポジウムの主催者側になったので、主題を『若手研究者の本音とシニア層の本音:研究の多様性と深さを今後も追求するために』として、若手を煽ってみました。すると若手が参加し、意見もたくさん出るのです。ところが、どれもこれも将来への不安ばかり。それも当然です。雇用期間が数年の任期付きポストにいる方々にとって、10年先、20年先の次世代望遠鏡の夢よりも、自分が研究者を続けられるかの方が差し迫った問題です」


こうした傾向に、深い懸念を抱いている研究者は多い。


その一人が2015年に「ニュートリノ振動の発見」でノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章・東京大学宇宙線研究所所長だ。


東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章教授は「これ以上、高等教育を弱体化させてしまって、日本はどうする気なのか。もっと国民的な議論をしないといけない」と語る(撮影:殿村誠士)

科学技術への投資なくして日本に未来はない


梶田氏は、いまの基礎科学が置かれた状況を「非常に厳しい」と断言する。


「研究者もひとりの人間ですので、2年後にクビになる身分と、クビにならない身分では、研究の質も変わってきます。2年後に次のポストを探さないといけないとしたら、なかなか長期的な仕事ができないからです」


梶田氏自身は博士号を取得後、2年間の任期ありの雇用を経て、東京大学宇宙線研究所で任期のないポジションを得た。そのために「クビになるということを考えないで、純粋に研究に打ち込めた」と語る。


梶田氏は現在、さらなる研究のため、新たに「ハイパーカミオカンデ」の建設計画を指揮している。建設費用だけで約550億円を見込む巨大プロジェクトであり、多額の国の援助を必要とする。


ただし、これだけの投資を行ったとしても、この研究成果はすぐに産業や経済に還元されるわけではない。まして、ノーベル賞のような栄誉を確約できるわけでもない。


それでも、日本は基礎科学に投資し続けるべきだと梶田氏は断言する。


「資源がない日本は、科学技術創造立国を目指すしか道はないんです。言い換えれば、科学や技術で世界のトップでないかぎり、日本は世界で埋もれてしまう危険があるということです」


東京大学では研究継続への危機感から、独自に財源を確保しで2021年度までに若手研究者のうち300人を任期なしポストへ転換することを決めた(撮影:殿村誠士)


梶田氏は、この20年ほどで普及してきた「選択と集中」という言葉に、基礎研究の立場から違和感を覚えるという。


「『選択と集中』は盛んに言われてきた言葉ですが、その結果、大学がどうなったか。東大はいいかもしれないですけど、地方の国立大学では衰退が激しくなった。学問の多様性を急激に失わせている気がして、将来の芽が出る前に根こそぎなくしているような感じがするのです。むしろ、重要なのは多様性です。科学には多様な可能性があるので、きちんとサポートしていかないといけない。それは、つまり、無駄になる研究もあるかもしれないということ。それでも、そうした部分に目をつむるという感覚も必要なのだと思います」


2017年の自然科学分野でのノーベル賞は、日本人の受賞がなかった(撮影:殿村誠士)


前出の福田教授は、「基礎科学は50年後、100年後に役に立つものだから」と語る。


たとえば、DNAの二重らせん構造が解明されたのは1953年のことだが、その発見なくして、現在の製薬や農業、医療における遺伝子工学の応用はあり得なかった。そして、そのような基礎科学の力こそが世界からの信頼を得る原動力であり、国力なのだと福田教授は言う。


「国力という言い方はなんとなく軍事力みたいでいやだけど、科学の力も国力なんだよ」


基礎科学への投資は、多様性の重視であり、100年先の未来への投資であり、国への信頼でもある。そうした超長期的な考えをもてるかどうか。世界は日本に注目している。


61. 中川隆[-6340] koaQ7Jey 2017年10月08日 11:56:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

就学困難にある約150万人の子供を放置するのは日本の損失だ


日本の底辺ではじわじわと貧困が拡大しており、子供にも経済格差による就学困難が定着するようになった。

経済的理由により就学困難と認められ就学援助を受けている小学生・中学生は2014年には約149万5485人となっていた。これは2017年3月31日に文部科学省が出している数字である。

この数字は2012年から2年連続でほんの誤差程度に下がっていたのだが、それは貧困問題が解決しつつあるからではない。

貧困の子供が微細に減ったのは、「少子化の影響が出てきた」からである。貧困が解消したからではないのは、文部科学省自身が認めている。

経済格差が定着し、富裕層と貧困層が分離して貧困層の数が増えているのに、子供の貧困が自然に解決するわけがない。社会が貧困者を拡大させている以上、子供の貧困も増えることになるのは必然だ。

就学援助を受ける子供たちは、親が生活保護を受けていたり、生活保護世帯に近い経済状況にあると見なされた子供が受けるものである。

服が買えない、教科書が買えない、ランドセルが買えない、制服が買えない、文房具が買えない、給食代が出せない子供たちが、就学援助でかろうじて救われている。

親の経済格差が子の教育格差につながっていくのだ

しかし、そうやって就学援助で環境を与えられても、それだけで低所得層の子供が学校で学力を発揮できるようになるわけではない。

最底辺の子供たちは食事に事欠くほどシビアだ。その親は子供に食べさせるだけでも精一杯であり、とても教育のための費用など捻出できない。

それは貧困層の子供たちが、塾に通うことができないことを意味している。

日本はコリア国際学園の理事をするような寺脇研のような人間が、日本の子供たちの学力を徹底的に低下させる「ゆとり教育」を推進していた。

(日本のゆとり教育と学力低下は韓国ロビーが仕掛けたという噂)
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2013/02/20130226T0634000900.html


日本の子供たちの学力を意図的に低下させようとして教育は劣化させられているのを察知した金のある親たちは、子供を塾に通わせてそれに対抗するようになった。

塾は無料ではない。指導方法によって年間20万円から100万円まで、場合によってはそれ以上かかるのだが、こうした金額は貧困層でなくても重いものだ。

そうは言っても学校の勉強だけでは子供たちの学力低下が深刻になるので塾通いをやめさせられない。良い大学を出ないと一流企業に入るのが難しいのも事実なので、親も必死になって子供の教育をサポートする。

ところが、貧困家庭の子供たちは最初から弾き飛ばされている。親が文房具すらも買って上げられないような貧困の中では、塾に行くどころの話ではない。

塾どころか学校に行くことですらも精一杯なのだ。

その差はじわじわと学力の差となってあらわれていく。時間をかけて良い教育を受けた子供たちは、何も受けていない子供たちを凌駕するのは当然だ。

つまり、親の資力の差で、子供たちの学力までもが決まっていく。そして、社会に出る前のスタート時点ですでに勝負が付いてしまうのである。

「親の経済格差が子の教育格差につながっていく」のは、否定できない現実である。子供にやる気があれば貧困であっても向上できるはずだと言うのはあまりにも無責任すぎる。


貧困の子供たちは、あらゆる場面で学びの場を失う

貧困の子供たちは、自分を向上させられる唯一の「細い糸」である学校でも孤立することが多い。

学校が終わった後に子供たち同士で遊びに行く中でも、貧困の子供たちは小遣いなどほとんど持っていないので、仲間と遊びに行っても、どこの店にも入れない。

自転車が買ってもらえなかったり、ゲーム機が買ってもらえなかったり、他にもちょっとした「仲間と同じ物」を所有することもできず、結局は疎外されていくことになっていく。

自分が仲間から外れていくこともあれば、お金を持っていないことを仲間にからかわれたりいじめられたりすることもある。子供の世界は残酷で容赦ない。

そうやって貧困の子供たちは「自分だけが違う」という意識の中で孤立していくことになる。

その結果、もう学校に行くこと自体が苦痛になって自ら学業放棄したり、ひきこもりになったり、逆に非行に走ったりして、表社会で活躍するための「細い糸」だった教育をプツリと切ってしまう。

貧困の子供たちは、家で勉強する環境もないことも多い。勉強部屋などないのは当たり前だ。だから、兄弟や親にしばしば勉強を邪魔されることになる。

親が四六時中テレビを大音量で流していると、子供も勉強よりもテレビに向いてしまうだろう。

親自身が教育で恩恵を受けたことがないために、教育に理解を持っていないこともある。

だから、じっと勉強している子供を見て「勉強なんかしても無駄だ」と冷たく言い放つこともあれば、「勉強している暇があれば親の用事を手伝え」と逆に勉強を中断させることすらもある。

親が子供に知識を与えられないことも多いので、子供に何か聞かれても「知らない」「うるさい」と追い払い、子供の勉強意欲を削いでテレビを見て笑っているような親も多い。

また、親が子供に悪態をついたり子供を放置したりすることもある。子供に満足な食事を与えないこともある。子供を虐待することもある。

そんな中で、子供の学力は伸びるだろうか?


就学困難が定着するようになっている現実は危険だ

子供の教育に理解のある親とない親では、必然的に子供の学力の差になってあらわれるのはここから来ている。

低所得層の子供が低所得になりやすいのは、社会の最底辺ではそこから抜け出すための環境が揃っていないからである。一つ二つの要因ではなく、日常のすべての環境が勉強から遠ざける環境になっている。

「親の経済格差が子の教育格差につながっていく」というのは冷徹な真実なのだ。

だから、高学歴・高収入の親を持つ子供たちが素直に学力を伸ばして親と同じく高学歴・高収入の道を歩み、有名大学は高学歴の親を持つ学生で溢れることになる。

一方で、低学歴・低収入の親を持つ子供たちは、学力を放棄し、学校をドロップアウトし、社会をドロップアウトし、低収入の仕事を転々とするようになり、社会の裏側に落ちていくことになってしまう。

低収入に甘んじて流されて生きている人たちは、もともと知能が足りなかったのではなく、知能を伸ばす教育から子供の段階で引き離されていたからという要因もある。

もっとも、人生はすっぱりと白か黒かで決まるものではない。つまり、高所得層の子供のすべてが成功してエリートになるわけではない。恵まれ過ぎて転落することもある。甘やかされて自滅する子供もいる。

逆に、低所得層の子供のすべてが貧困にあえぐわけではない。何もないところから、試行錯誤しながらバイタリティを武器に成り上がっていく逆転劇もある。

しかし、客観的に見れば、「金もない、塾もいけない、仲間からも孤立している、理解してくれる親も教師もいない、学歴もない、職歴もない、人脈もない、何もない」貧困の子供たちは、苦心惨憺の人生が待っているのが現実である。

だから、日本の底辺ではじわじわと貧困が拡大しており、子供にも経済格差による就学困難が定着するようになっている現実は危険なのだ。

潜在能力が引き出せない子供たちが増えるというのは、社会にとって大きな損失である。就学困難に落ちている約150万人の子供たちの中には、日本を代表する「何らかの天才」がいるかもしれないのだ。


この子に未来はあるのか。日本の底辺ではじわじわと貧困が拡大しており、子供にも経済格差による就学困難が定着するようになっている現実は危険だ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/10/20171007T1722010900.html


62. 中川隆[-6329] koaQ7Jey 2017年10月12日 09:50:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年10月12日【小浜逸郎】日本からはもうノーベル賞受賞者は出ない?
https://38news.jp/economy/11171

今年もノーベル賞が決まりました。

巷では、日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏が
受賞したというので評判になっています。

それは結構なことですが、
残念ながら自然科学部門では、
日本人受賞者がいませんでした。

この数年、物理学賞、化学賞、医学・生理学賞で
矢継ぎ早に日本人が受賞してきました。
ところが今年はゼロ。

ちなみに自然科学部門以外のノーベル賞は、
受賞した方や団体には失礼ですが、
あまりその価値が信用できません。
人文系は基準があやふやだからです。
特に平和賞はいいかげんですね。
でも自然科学部門では、かなり信用がおけます。

ところで、21世紀に入ってからの日本人受賞者は
自然科学部門で16人もいます。
毎年一人の割合ですね。


http://bit.ly/2wKVLxq

この人たちの受賞時の年齢を調べてその平均を出してみました。
すると、68歳と出ました。

これから、いささか悲観的な予測を述べます。

どの分野であれ人間が一番活躍するのは、
30代から50代にかけてでしょう。

日本のノーベル賞受賞者の方たちが研究に一心に打ち込んだのも、
おそらくこの年代だったと思われます。
ですからこの方たちがわき目もふらずに、
寝る間も惜しんで研究に没頭したのは、
おおよそ1970年代から2000年代初頭くらいと
いうことになります。

もちろん受賞時の年齢には相当なばらつきがありますので、
若くして受賞し、いまなお活躍されている方もいます。
しかし平均的にはそうだと思うのです。

ところで言うまでもないことですが、
長年研究に没頭するには膨大な研究費が要ります。
企業研究の場合は応用研究ですから、
その費用は企業がもってくれるでしょう。

しかしノーベル賞を受賞するような研究は、
多くの場合、大学や研究所に身を置いた基礎研究です。
すると、研究費を大学の研究資金や政府の補助金に
頼ることになります。

先ほど述べた1970年代から2000年代初頭という時期は、
日本が今日のような深刻な不況に陥っていない時期で、
間には、一億総中流のバブル期もありました。

調べてみますと、それ以後の失われた二十年の間に、
科学技術研究費の総額はそれほど減っているわけではありません。
しかし文科省の「科学技術関係予算等に関する資料」(平成26年)の
「主要国等の政府負担研究費割合の推移」
および「主要国等の基礎研究費割合の推移」
というグラフを見てください。


http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/034/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2014/04/21/1347062_03.pdf

八十年代初頭から、前者は下がり気味、後者はずっと横ばいです。
しかも他の先進国と比べるとたいへん低いことがわかります(前者では最低)。

このことは、政府が、
国家的な基礎研究にろくに投資してこなかったことを意味します。
それでも好景気の時は、民間や大学の資金がある程度潤沢だったのでしょう。

上の資料は2013年までのものですが、
その後、消費増税などもあり、デフレが深刻化しました。
内閣府が出している「科学技術関係予算」という資料の、
「【参考】科学技術関係予算の推移」というグラフを見ますと、
安倍政権成立以降、この予算がさらに削られていることがわかります。


http://bit.ly/2ya9DDa

大学でも、すぐ実用に適さない研究はどんどん削られる傾向にあります。
こうした傾向が続く限り、もう今後日本からは、
自然科学部門でのノーベル賞受賞者は出ないのではないか。
そう危惧せざるを得ないのです。

筆者は去る9月18日にある情報に触れ、愕然としました。
ノーベル賞受賞者で京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥さんが、
「ご支援のお願い」として寄付を募っているのです。
それだけならさほど驚きませんが、何と次のように書かれていました。

「iPS細胞実用化までの長い道のりを走る弊所の教職員は、9割以上が非正規雇用です。
これは、研究所の財源のほとんどが期限付きであることによるものです。」

とっさに「財務省よ! 竹中よ!」と、怒りがこみ上げてきました。

単年度会計、短期決戦での利益最大化。
長期的な見通しや雇用の安定など知ったことではない。
ノーベル賞級の基礎研究までが、この風潮の犠牲となっているのです。

こういう状態がこのまま続くと、日本の科学技術は、
確実に世界に遅れを取ってしまうでしょう。

寄付に頼るというのはやむを得ない手段と言えますが、
そこにばかり依存してしまうようになるとしたら切ない話です。
国民経済の立場からは、政府の間違った経済政策に対して
もっともっと怒りの声を発するべきなのです。
https://38news.jp/economy/11171


63. 中川隆[-6028] koaQ7Jey 2017年11月03日 16:06:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
内田樹の研究室 2017.11.03 大学教育は生き延びられるのか?

ご紹介いただきました、内田でございます。本日は、国立大学の教養教育の担当の人たちがお集まりになっていると伺いました。ずいぶんご苦労されてると思います。日々本当に胃が痛むような、苛立つような思いをしていらっしゃると思います。今回のご依頼をいただいたとき、かなり絶望的な話をしようと思ったんですけども、先ほどみんなを励ますようなことをお話しくださいと頼まれましたので、なんとか終わりの頃には少し希望が持てるような話にできればと思っています。

「大学教育は生き延びられるのか?」という問いの答えは「ノー」です。それは皆さん実感してると思います。大学教育は生き延びられるのか。生き延びられないです。今のまま状況では。

でも、仕方がないと言えば仕方がないのです。急激な人口減少局面にあり、経済成長の望みはまったくない。かつては学術的発信力でも、教育水準でも、日本の大学は東アジアの頂点にいましたけれ。でも今はもう中国やシンガポール、韓国にも台湾にも抜かれようとしている。急激に大学のレベルが下がっているのです。そして、急激に大学のレベルが国際的に低下していることについて、当の大学人たちにも教育行政の当局にもその自覚がない。これが危機の本質だと思います。

私は今もいくつかの大学で客員教授や理事をして、大学の現場とのかかわりを維持していますけれど、フルタイムの大学教員ではありません。ですから、好きなことを言わせてもらいいます。

正直に言って、日本の大学は、このままではもう先はないです。教育制度は惰性が強いですから、簡単には潰れはしません。民間企業のようにいきなり倒産するということはない。でも、じりじりと駄目になってゆく。長期停滞傾向が続いて、20年、30年経ったあたりで、もう本当に使い物にならなる。それでもまだ組織としてはもつでしょう。医療とか教育というのは「それがなくては共同体が存続しえない」本質的な制度ですから、最終的には現場にいる人たちが身体を張って守ります。ですから、どんなにシステムがおかしくなっても、公的な支援が途絶えても、それでもなんとか持続はします。でも、それはほんとうに現場の人が命を削ってもたせているからもっているのであって、公的制度としてはもう破綻している。ブラック企業と同じでです。フロントラインに立ってる生身の人間が必死になって現場を回しているわけで、その人たちがばたばた過労死しているおかげでかろうじてシステムの体をなしている。大学もそういう状況にいずれなりますし、局所的にはもうそうなっている。

医療の世界でかつて「立ち去り型サボタージュ」という言葉が使われました。小松秀樹さんの書かれた『医療崩壊』という本がその事実を明らかにしました。小松先生とは一度お会いしたことがありますけれど、その時に教えられたのは、「医療崩壊」というけれど、医療もやはり惰性の強いシステムなので、簡単には崩壊しないということでした。それは現場に立って医療の最前線を守っているドクターやナースは自分の健康や家庭生活を犠牲にしても医療を守ろうとするからです。そういう「業」を抱えた人が医療の現場に立っている。だから、制度的に破綻していても、簡単には崩壊しないんだ、と。でも、生身の人間ですから、彼らのオーバーアチーブメントに頼って支援の手当をせずに放置しておけば、いずれ一人倒れ二人倒れ、前線の維持が難しくなる。そういうお話でした。

10年ぐらい前に医療で起きたのと同じことが今、大学で起こっているような気がします。教育現場で働いてる人間を支援するという体制が国にも自治体にもメディアにも市民社会にもない。逆に、公的な制度やメディアが現場の教職員たちを追いつめている。精神的にも身体的にも「まだ働き方が足りない」と負荷をかけている。
それでもなんとか現場がもっているのは、教育に関わる人間もまた医療人と同じようにある種の「業」を抱えているからです。教員という職業を選ぶ人には一定の傾向性があります。医療を職業に選ぶ人たちと同じように、教員は学校という場が好きなんです。教室で若い人たちの前に立って何かを教えることが好きで、研究が好きで、アカデミアで異なる領域の知性と出会うことが好きで、という人が学校教育の場には引き寄せられてくる。だから、常軌を逸した負荷がかかっていても、なんとか踏みとどまろうとする。家庭生活や健康を犠牲にしても、自分の職域を守り抜こうとする。今の日本の大学がこれほど否定的環境にありながら、なんとか保っているのは、教育人たちのこの「業の深さ」のおかげです。

でも、生身の人間が蔵している生命資源は本来であれば他のことに使わなければいけないものです。一家団欒とか、文化活動とか。運動したり、遊んだり、自分の好きな研究をしたり、そういう本当にしたいことを断念して、その資源を学校の管理業務とか文科省の命じてくる意味のない作業に割かなければならない。

僕は選択定年制で大学を5年早く辞めたのですが、最大の理由は会議と書類書きが受忍限度を超えたからです。研究することも教育することも大好きなんですけれど、会議と書類書きが大嫌いでした。50代の途中からは6年間管理職でした。授業のない日に会議のためだけに登校するということが何度もありました。だから、あと5年いても、退職まで管理職が続くことがほぼ確実だったので、申し訳ないけれど60歳で退職しました。そういう意味では僕も「立ち去り型サボタージュ」の一人なんですよね。でも、これ以上いると、自分自身が干上がってしまうと思った。60歳になって、残りの人生のカウントダウンが始まったのに、まだやり残した仕事がたくさんある。研究の領域でもありましたし、武道家としてもやらなければならないことがたくさんありました。大学を守るためには現場に残って、僕も仲間たちと激務を分担しなければいけないということは理屈ではわかっていたのですが、会議と書類書きで自分の時間をこれ以上費やすことに耐えられなかったのです。その点では忸怩たる思いがあります。そうやって現場を棄てた人間の慚愧の思いを込めて、今日本の大学教育が一体どういうところにあるか、お話をしたいと思います。

まず具体的な実態から、お話します。2002年から日本の学術研究は質、量ともに国際競争力が低下しています。2015年の「人口あたり論文数」は世界37位。中国、台湾、韓国のはるか後塵を拝しています。現在の日本の学術的発信力はOECD諸国の中では最下位レベルです。

論文数の減少が著しいのが、かつて国際競争力が高かった分野だというのも気になります。工学系は2004年以降論文数が減少し、競争力は低下している。生命科学系、農学系、理学系も低下傾向です。社会科学系では論文数はそれほど減っていませんが、もともと国際競争力のない分野です。総体として、日本の大学の国際競争力は過去15年間下がり続けています。

でも、この「人口当たり論文数」が先進国最低という事実をメディアは報道したがりません。代わりによく報道するのが「教育に対する公的支出の比率」です。公的支出の中に占める教育費の割合は先進国最低。それも5年連続です。この事実についての反省の弁を政府部内から聞いた記憶が僕にはありません。この国の政府は教育研究の支援には関心がないということです。ですから、今のシステムが続く限り、教育に対する公的支出比率先進国最下位という定位置に日本はとどまり続けることになります。

なぜ、日本の大学の学術的発信力がこれほど急激に衰えたのか。僕は35年間大学の教壇に立ってきましたので、この経年変化を砂かぶりで観察してきました。はっきりした変化が始まったのは1991年の大学設置基準の大綱化からです。

誤解して欲しくないのですが、設置基準の大綱化そのものが研究教育能力の劣化をもたらしたわけではありません。大綱化を導入せざるを得なくなった歴史的な教育環境の変化があり、それが日本の大学の学術的な生産力を損なったのです。でも、これについて教育行政当局は何も分析していない。先進国の中で日本の大学教育のアウトカムが最低レベルにまで下がったという事実については「全部大学の責任」であり、教育行政には何の瑕疵もないという態度を貫いている。悪いのは文科省ではなくて大学であるわけですから、失敗の原因を探求するのも、対応策を講じるのも全部大学の自己責任であるという話になっている。ですから、文科省の仕事はそういう「できの悪い大学に罰を与える」ことに限定されている。そうやって毎年助成金を削り、学長に権限を集中させて教授会自治を否定し、大学の自由裁量権を奪い、自己評価自己点検作業を強要し、次から次への大学への課題を課して、研究教育のための時間を奪っておいて、その上で「どうして研究教育がうまくゆかないのか」について会議を開き、山のような報告書を書くことを義務づけている。

文科省は大学に自己評価を求めていますが、僕はまず文科省自身が自己評価する必要があると思います。過去25年間の教育行政を点検して、現状はどうか、なぜこんなことになったのか、どうすれば改善できるのか。大学に要求するより先に、文科省自身がPDCAサイクル回してみればいい。どんな点数がつくかみものです。

先ほど申し上げましたが、転換点は91年の大学設置基準の大綱化でした。それまでの日本の大学はよく言われる通り「護送船団方式」でした。いわゆる「親方日の丸」です。箸の上げ下ろしまでうるさく文部省が指図する代わりに、面倒は全部見る。そういう家父長制的な制度だった。

でも、大綱化によって、細かいことに関しては、大学の自由に任せようということになった。家父長的な制度がなくなって、大学が自由にカリキュラムを作ることができるようになったことそれ自体はたいへんよいことだったと僕は思います。当時も僕はこの方向性を歓迎しておりました。「自己決定・自己責任」でいいじゃないかと僕も思いました。でも、文科省が大学に自由を与え、権限委譲することに裏がないはずがない。実際にそれが意味したのは大学の淘汰を市場に委ねるということでした。

91年段階で、今後18歳人口が急激に減ってゆくことが予測されていました。60年代には250万人いた18歳人口は以後漸減して76年に156万まで減りましたが、その後V字回復して1992年に205万人に戻しました。そして、そこから減り続けた。2017年では120万人。25年間で40%減少したことになります。

大綱化は18歳人口がピークアウトして、以後急減局面に入り、増え過ぎた大学定員を満たすことが困難な局面に入るということがはっきりわかった時点で導入されました。これから大学の数を減らさなければいけないということは文科省(当時は文部省)にもわかっていました。もう護送船団方式は維持できない。文部省と大学はそれまで親鳥とひな鳥のような関係でした。親鳥はひな鳥を扶養する代わりにあらゆることについて口出しした。でも、親鳥が増え過ぎたひな鳥を扶養できない時代がもうすぐ来ることがわかった。護送船団のロジックからしたら、ひな鳥が死んだらそれは親鳥の責任になる。こんな弱い鳥を産んだお前が悪いということになる。でも、これから後、ひな鳥はばたばた死ぬ。だから、親鳥の仕事を放棄して、「これからは自己裁量で生き抜きなさい」と言い出した。なぜ、淘汰圧に耐えられないような高等教育機関をなぜ認可したのか。なぜそこに税金を投入したのか。そういう問いに対して文部省には備えがなかったからです。

でも、それはある意味では当然のことでした。明治の近代学制の導入以来、日本の教育行政の最大の使命は教育機会の増大だったからです。国民にいか多くの、良質な就学機会を提供するか、それが近代日本の教育行政の本務だった。だから、学校を増やすことを正当化するロジックでしたら教育官僚は無限に作り出すことができた。そして、実際にそのロジックを駆使して、国民の就学機会を増やし続けたのです。それは敗戦後も変わりませんでした。敗戦国日本は軍事力や外交力ではなく、むしろ経済力や教育力や学術的発信力によって国際社会に認知される道を進むべきだということについては国民的な合意が形成されていました。

だから、ある意味で文部省の仕事は簡単だったのです。でも、80年代になって難問に遭遇しました。18歳人口が減ることがわかってきたからです。しばらくは大学進学率の上昇が期待できるので、大学定員は満たせるだろうけれど、それもどこかで天井を打つ。そのあとは大学を減らさなければならない。でも、文科省にはどうやって教育機会を増やすかについての理屈はあるけれど、どうやって教育機会を減らすかのロジックがなかった。護送船団方式でそれまでやってきたわけですから、自分が認可し、自分が指図して育てて来た大学に対して「お前は失敗作だったから廃校しろ」というわけにはゆかない。製造者責任を問われるのは文部省自身だからです。

そこで大学の淘汰は市場に委ねるというアイディアに飛びついたのです。強者が生き残り、弱者は淘汰されるというのは市場では自明のことです。自分の生んで育てたひな鳥を殺す仕事を親鳥は放棄して、市場に丸投げしたのです。これが91年の大学設置基準大綱化の歴史的な意味です。これは明治維新以降の教育行政の決定的な転換点でした。でも、その時点では僕も僕のまわりの大学人も、この変化の歴史的意味に気づいていなかった。18歳人口が減ってゆく以上、大学が生き残りをかけてそれぞれに創意工夫を凝らすことは「当たり前」のことであり、その淘汰プロセスで大学教育研究の質は向上するに違いないと、僕も信じておりました。

けれども、この期待はまったく外れてしまった。市場に委ねるということは、それぞれの大学に好き勝手なことをしてくれということではなかったのです。というのは、求められたのは、どの大学が「要らない大学」であるか可視化することだったからです。そのためにはシンプルでわかりやすい指標に基づいて大学を格付けしなければならない。市場はそれを要求してきたのです。

この場合の「市場」というのは、どの大学のどの学部を受験するか選ぶ志願者たちとその保護者のことであり、また彼らが就職する先の企業のことです。志願者と保護者が求めたのは「そこを卒業すると、どれくらいの年収や地位が期待できるか」についての情報であり、採用先が求めたのは「そこを卒業した労働者にはどれくらいの能力と忠誠心を期待できるか」についての情報でした。

大綱化というのは自由化のことだと僕は勘違いしていました。でも、そうではなかったんです。それは「どの大学から順番に淘汰されてゆくかを可視化して、市場に開示せよ」ということだったのです。

僕は大学のカリキュラムの自由化によって、それぞれ日本中の大学が、それぞれの教育理念と教育方法を持ち、それぞれの教育プログラムを編成して、それぞれ異なる達成目標をめざすということになると思い込んでいた。でも、大綱化から後、大学に求められたのは均質化・同質化でした。「自由に競争してよい」というものの、その競争の結果出てくる優劣の差はわかりやすい仕方で表示されなければならない。それは競争することは自由になったけれど、教育や研究のあり方が自由になったわけではない。むしろそれはより不自由なものにならざるを得なかった。というのは、格付けのためには全ての大学の活動を同じ「ものさし」で考量する必要があったからです。格付けというのはそういうことです。複数の教育機関の優劣を判定するためには、同じ「ものさし」をあてがって差を数値的に表示しなければならない。入学者の偏差値であるとか、就職率であるとか、卒業時点でのTOEICスコアであるとか、そういう共通性の高い「ものさし」を当ててみせないと大学間の優劣は可視化できない。そして、そのためにはものさしが当てやすいように教育内容を揃えることが全大学に求められることになった。

まことに逆説的なことですけれど、「好きにやってよい。その結果について格付けをする」と言われたのだけれど、よく考えてみたら「同じようなことをしないと格付けができない」以上、日本中の大学が自発的に相互模倣する他ないという倒錯的な事態が生じることになったのでした。

でも、それと同じことはすでに研究領域でも起きていたのでした。若い研究者たちは専任のポストを求めて競争することを強いられています。でも、研究領域がばらばらで、テーマがばらばらで、研究方法もばらばらだと、研究成果の優劣は確定しがたい。それよりは、研究者たちができるだけ同じ研究領域に集中して、同じ研究方法で、同じ研究課題に取り組んでいてもらう方がひとりひとりの出来不出来を比較しやすい。当然です。その結果、若い研究者たちを競争的環境に投じたら、研究者ができるだけたくさんいる領域を選んで専攻するようになった。誰も手がけない、前人未到の領域こそが本来なら研究者の知的関心を掻き立てるはずですけれど、そういう領域に踏み込むと「研究成果が査定不能」というリスクを負うことになる。「格付け不能」というのは市場からすると「無価値」と同義です。だから、リスクを避ける秀才たちは「誰も手がけない領域」ではなく「競争相手で混み合っている領域」に頭から突っ込んでゆくようになった。そうやって日本の学術研究の多様性は短期間に急激に失われていったのでした。

部分的に見ると適切なように見えるものも、少し広めのタイムスパンの中に置き換えると不適切であり有害であるということがあります。大学の格付けというのは、まさにそのようなものでした。大学の優劣を可視化するという社会的要請はそれだけ見れば合理的なものに思えますけれど、その帰結が大学の均質化と研究成果の劣化だったとすれば全体的には不適切なものだったという他ない。

自己評価というのも今ではどこの大学も当たり前のようにやっていますけれど、そもそも何のために自己評価活動が要るのかというおおもとのところに還って考えるということをしていないので、膨大な無駄が生じている。はっきり言って、こんなものは日本の大学には不要なものです。でも、アメリカでは大学の評価活動を熱心に行っているから日本でもやろうということになった。それは社会の中における大学のありようが日米では全然違うということがわかっていないから起きた重大な誤解です。

アメリカの大学の中にはとても大学とは言い難いようなものがたくさんあります。大学設置基準が日本とは違うからです。アメリカの場合、ビルの一室、私書箱一つでも大学が開校できる。校地面積であるとか、教員数であるとか、蔵書数であるとか、そういうことについてうるさい縛りがない。教育活動としての実態がないのだけれど、「大学」を名乗っている機関がある。そういう大学のことをDegree millとか、Diploma millと呼びます。「学位工場」です。学士号や修士号や博士号を単なる商品として売るのです。

学位工場はアメリカの商習慣から言うと違法ではありません。というのは、一方には金を出せば学位を売るという大学があり、他方には金を出して学位を買いたいという消費者がいて、需給の要請が一致してるからです。売り買いされているものが無価値な、ジャンクな商品だということは売る側も買う側も知っている。無価値なものを売り買いしており、その価格が適正だと双方が思っているなら、法的な規制はかけられない。そうやってアメリカ国内には無数の学位工場が存在している。
そこでアメリカの「まともな大学」が集まって、「まともな大学」と「学位工場」の差別化をはかった。でも、「学位工場」のブラックリストを作ることはできません。それは彼らの営業を妨害することになり、場合によっては巨額の賠償請求を求められるリスクがあるからです。合法的に経営されている企業の活動を妨害するわけにはゆかない。だから、「この学校はインチキですよ。この大学の出している修士号とか博士号とかはほんとうは無価値なんですよ」ということはアナウンスできない。できるのは「私たちはまともな大学であり、私たちの出す学位は信頼性があります」という自己主張だけです。でも、自分ひとりで「うちはまともです」と言っても十分な信頼性がない。だから、世間に名の通った「まともな大学」を集めて、「まともな大学同士でお互いの品質保証をし合う」という「ホワイトリスト」の仕組みを作った。それが相互評価です。

でも、日本にはそんな相互評価の必要性なんかありませんでした。だって、学位工場なんか存在しなかったからです。日本の大学は厳しい設置基準をクリアしてきて創立されたもので、教育しないで、学位を金で売るようなインチキな大学は存在する余地がなかった。

でも、確かにある時点からそれが必要になってきた。それは小泉内閣以後の「規制緩和」によって、大学の設置基準も緩和されたからです。厳しい設置基準審査は割愛する。その大学が存在するだけの価値があるかどうかの判定は市場に委ねる。「事前審査」から「事後評価」へというこの流れは「護送船団方式」から「市場へ丸投げ」という大綱化と同じ文脈で登場してきました。

2003年に規制緩和路線の中で株式会社立大学が登場しました。「構造改革特区」においては学校法人ではなく、株式会社にも学校経営への参入が容認されたのです。それ以前は私立学校の設立母体となることができるのは学校法人だけでした。規制緩和によって、2004年から続々と株式会社立大学が設立されました。でも、株式会社立大学のその後はかなり悲惨なものでした。

全国14キャンパスを展開したLECリーガルマインド大学は2009年度に学部が募集停止。2006年開学のLCA大学院大学も2009年に募集停止。TAC大学院大学、WAO大学院大学は申請に至らず。ビジネス・ブレークスルー大学は2012年度の大学基準協会の大学認証評価で「不適合」判定を受けました。実質的に専任教員が置かれていないこと、研究を支援・促進する仕組みが整備されていないこと、自己点検評価・第三者評価の結果を組織改善・向上に結びつける仕組みが機能していないことなどが指摘されましたが、これは経営破綻に至った他の株式会社立大学にも共通していたことでした。

でも、僕はこの失敗についても株式会社立大学を推進した人々からまともな反省の弁を聞いたことがありません。導入時点では、財界人たちからは、大学の教員というのはビジネスを知らない、マーケットの仕組みが分かってない、組織マネジメントができていない、だから駄目なんだということがうるさく言われました。生き馬の目を抜くマーケットで成功している本物のビジネスマンが大学を経営すれば大成功するに決まっているという触れ込みでしたが、蓋を開けてみたらほとんど全部失敗した。それについても、なぜ失敗したのかについて真剣な反省の弁を聞いたことがありません。誰の口からも。もし大学人に足りないのはビジネスマインドだというのが本当なら、この「ビジネスマン」たちもかなりビジネスマインドに致命的な欠陥を抱えていたということになります。でも、それよりむしろ学校教育に市場原理を持ち込むという発想そのものに誤りがあったのだと僕は思います。

これらの出来事はすべて同一の文脈の中で生起したことです。これらの出来事に伏流しているのは「市場は間違えない」という信憑です。学校教育の良否を判定するのは市場であると考えたビジネスマンたちは、消費者が喜びそうな教育商品・教育サービスを展開すれば、必ず学生たちは集まってくると考えました。株式会社立大学はいろいろな手で志願者を集めましたが、それは商品を売る場合と同じ考え方に基づくものでした。駅前で足の便がいいとか、スクーリングなくて一度も登校しなくても学位が取れるとか。でも、消費者を引き付けようとするなら、最終的に一番魅力的な訴えは「うちは勉強しなくても学位が取れます」ということになる。そうならざるを得ない。市場モデルでは、学習努力が貨幣、単位や学位が商品とみなされます。最も安価で商品を提供できるのがよい企業だという図式をそのまま学校教育に適用すれば、学習努力がゼロで学位が取れる学校が一番いい学校だということになる。実際に、そう信じて株式会社立大学の経営者たちは専任教員を雇わず、ビデオを流してコストカットに励み、学生たちには「最低の学習努力で卒業できます」と宣伝した。それは学位工場に限りなく近いかたちの大学を日本にも創り出そうとしたということです。でも、幸いにもその企ては成功しなかった。果たしてその失敗の経験から、株式会社立大学の導入を進めた人々は一体何を学んだのか。たぶん何も学んでいないと思います。今も「大学では実学を教えろ」とか「実務経験者を教授にしろ」と言い立てている人はいくらもいます。彼らの記憶の中では株式会社立大学のことはたぶん「なかったこと」になっているのでしょう。

その後に登場してきたのが「グローバル教育」です。これも表向きは経済のグローバル化に対応して云々ということになっていますけれど、実態は格付けのためです。大学の優劣をどうやって数値的に可視化するかということが90年代以降の文科省の教育行政の最優先の課題でしたけれど、グローバル教育はまさにそのためのものでした。つまり、「グローバル化度」という数値によって全大学を格付けすることにしたのです。これはたしかに賢い方法でした。「グローバル化度」は簡単に数値的に表示できるからです。受け入れ留学生数、派遣留学生数、海外提携校数、英語で行っている授業のコマ数、外国人教員数、TOEICのスコア・・・これは全部数値です。これらの数値のそれぞれにしかるべき指数を乗じると、その大学の「グローバル化度」がはじき出される。電卓一つあれば、大学の「グローバル化度」は計算できる。

でも、留学生の数とか、海外提携校の数とか、外国人教員数とか、英語での授業の数は大学の研究教育の質とは実際には何の関係もありません。今の日本の大学生は日本語での授業でさえ十分に理解しているとは言い難い。それを英語で行うことによって彼らの学力が向上するという見通しに僕はまったく同意できません。

今、どこの大学でも「一年間留学を義務づける」ということが「グローバル化度」ポイントを上げるために導入されています。学生からは授業料を徴収しておいて、授業は海外の大学に丸投げして、先方が請求してくる授業料との「さや」を取る。何もしないで金が入ってくるのですから、大学としては笑いが止まらない。25%の学生が不在なのですから、光熱費もかからない、トイレットペーパーの消費量も減る、教職員もその分削減できる。いいことづくめです。そのうち「いっそ2年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出す知恵者が出てくるでしょう。さらにコストカットが進んで利益が出る。すると誰かさらに知恵のある者が「いっそ4年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出すかもしれない。そうしたら校舎も要らないし、教職員も要らない。管理コストはゼロになる。でも、そのときは大学ももう存在しない。でも、自分たちがそういうふうに足元を掘り崩すようなリスクを冒しているということを、この「グローバル教育」推進者たちはたぶん気づいていないような気がします。

シラバスというのも、そのような学校教育への市場原理の侵入の一つの徴候です。もちろんそれまでも授業便覧・学修便覧は存在していたわけですけれど、シラバスはそれとは性格がまったく違います。あれは工業製品につける「仕様書」だからです。含有物質は何か、どういう規格に従って製造されたのか、どういう効用があるのか、そういう情報を消費者に開示するためのものです。ある意味では契約書です。「こういう授業をいついつにする」と教師は約束する。学生はそれが履行されることを教師に要求できる。予定通りに授業をしなかった場合、所期の学習効果が得られなかった場合、学生は教師に対して「契約不履行」でクレームをつけて、謝罪なり補講なりを請求できる。そういう趣旨のものです。

でも、大学の授業は工業製品じゃありません。本来は生身の教師が生身の学生たちの前に立ったときにその場で一回的に生成するものです。そこで教師が語る言葉にはそれまで生きてきて学んだこと、経験したこと、感じたことのすべてが断片的には含まれている。それが何の役に立つのか、そんなことは教師にだって予見不能です。どうしてこの科目を履修することになったのかは学生にだってわからない。学んだことの意味がわかるのは、場合によっては何年も、何十年もあとになることさえある。そういうものです。

スティーヴン・ジョブズは大学時代にたまたま「カリグラフィー(書法)」の授業を履修しました。どうしてそんな趣味的な授業を自分が毎週聴いているのか当時は理由がよくわからなかった。でも、何年か経ってスティーヴ・ウォズニアックと最初のマッキントッシュを設計したときに、フォントの選択と字間調整機能を標準装備として搭載したときに大学時代に「美しい文字を書く」授業を受けたこととの関連に気がついた。

授業がどういう教育効果をひとりひとりの学生にもたらすことになるのか、それは教師にも学生自身にも予見できません。もちろんシラバスに適当なことを書くことはできます。でも、シラバスを目を皿のようにして読んで履修科目を選ぶ学生なんて、実際にはいません。このコマが空いているからとか、友だちが受講しているからとか、この先生面白そうだからとか、試験がなくてレポートだけだからとか、そういう理由で履修科目を選んでいる。

私が在職中にとった統計でわかったことは「シラバス通りに授業をしているかどうか」ということと学生の授業満足度の間には統計的に有意な連関がないということでした。それ以外のすべての質問は学生の授業満足度と相関がありました。「時間通りに授業を始めるか?」とか「板書が見やすいか?」とか「十分な準備をして授業に臨んでいるか?」といった問いは満足度と相関していました。でも、全部の質問の中でただ一つだけ何の相関もない質問がありました。それが「シラバス通りに授業をしているか?」です。学生たちはシラバス通りに授業が行われることに特段の重要性を認めていない。それはアンケートの統計的処理の結果でも、僕の教壇での実感でもそうです。

だから、「シラバスを細かく書け」という文科省からの命令を僕は無視しました。だって意味がないんだから。いやしくもこちらは学者です。論理的にものを考えるのが商売です。シラバスを事細かに書くと授業効果が上がるということについて実証的根拠があるなら、それを示してくれればいいだけの話です。それを示さずに、もっと細かく書けとか英語で書けとか同僚の教員同士でチェックし合えとか、どんどん作業を増やしてきたのです。

僕が教務部長のときにうちの大学のシラバスに「精粗がある」という理由で助成金の減額が告げられました。これは教育行政として自殺行為だと僕は思いました。シラバスを書かせたかったら「それには教育効果がある」という理由を示せばいい。何の教育効果があるのか命令している文科省が知らない作業を現場に頭ごなしに命令して、違反者に処罰を課す。それも「助成金の減額」という「金目の話」に落とし込んできた。僕はこれを「教育行政の自殺」だと言ったのです。仮にも大学教育ですよ。文科省は「大学の教員というのは『金を削る』と脅したら意味がない仕事でも平気でやる生き物だ」という人間観を公然と明らかにしているわけです。財務省あたりが言うならわかりもするが、教育行政を担当する省庁が「人間は金で動く」という人間観を本人も信じ、人にも信じさせようとしていることを少しは恥ずかしいと思わないのか。まことに情けない気持ちがしました。

シラバスは氷山の一角です。大学人全体がこういうやり方にいつの間にかなじんでしまった。意味がないとわかっていることでも、「文科省がやれと言ってきたから」というだけの理由でやる。意味のないことのために長い時間をかけて会議をして、分厚い書類を書いて、教職員たちが身を削っている。腹が立つのはそれが「大学における教育研究の質を高めるため」という大義名分を掲げて命じられていることです。教員の教育研究のための時間を削って、体力を奪っておいて、どうやって教育研究の質を上げようというのです。

問題はこの理不尽に大学人が「なじんでいる」ということだと思います。仮にも学術を研究し、教育している人たちが「理不尽な命令」に対して、「逆らうと金がもらえないから」というような俗な理由で屈服するということはあってはならないんじゃないかと僕は思います。無意味なこと、不条理なことに対して耐性ができてしまって、反応しなくなったら、悪いけど学者として終わりでしょう。目の前で明らかに不合理なことが行われているのに、「いや、世の中そんなもんだよ」とスルーできるような人間に科学とか知性とかについてっ僕は語って欲しくない。

今、日本中の大学でやっていますけれど、評価活動というのはナンセンスなんです。何度も申し上げますけれど、無意味なんです。これは自らの失敗を踏まえて申し上げているんです。神戸女学院大学に教員評価システム導入の旗振りをしたのは僕です。当時、評価に関するさまざまなセミナーや講演に出ました。製造業の人から品質管理についての話も聞きました。そういう仕組みを大学にも導入すべきだと、もっとビジネスライクに大学のシステムを管理しなければいけないと、その頃は信じていたのです。でも、はじめてすぐに失敗だということに気づきました。

僕が考えたのは、大学内の全教員の研究教育学務での活動を数値化して公表し、それに基づいて教員の格付けを行い、予算配分や昇級昇格に反映させるというものでした。さすがに教授会では昇級昇格に反映させるという僕の案は否決されましたけれど、教員たちの評価を各学科・部署の予算配分に反映させるというところまでは同意をとりつけました。

僕は教員の個人的な評価なんて簡単にできると思っていたのです。教育だったら、担当クラス数とか、ゼミで指導している学生数、論文指導している院生数などを数値化して、それを足せばいい。研究だったら年間にどれくらい論文を書いているか、レフェリー付きのジャーナルに書いているのか紀要に書いているのかで点をつける。学務は管理職なら何点、学部長なら何点、入試委員なら何点、というふうに拘束時間の長さや責任の重さで配点を変える。それを電卓一つで叩けば年間の教員の活動評価なんか出せると思っていたんです。でも、それが短慮でした。

配点を決める委員会でいきなり引っ掛かったのが著作でした。単著一つで何点と決めるときに、同僚から待ったがかかった。「年間5冊も6冊も書き飛ばした本と、20年かかって書いた1冊では価値が違う。それが同じ配点というのはおかしい」と言われた。これはおっしゃる通りなんです。年間5,6冊書き飛ばしているというのはもちろん僕のことなんですが、その1冊と、その先生が20年かけて書き上げた畢生の労作d1冊を同点にするのはおかしいと言われたら、たしかにおかしい。でも、そう言われたら全部そうなんです。授業を何コマ担当しているかと言っても、「ウチダ君のように何の準備もしないで、その場で思いついた話をぺらぺら漫談のようにして90分終わらせる教員」と何時間も真剣に下準備をしてから教場に出かける教員の1コマが同じ1コマとして扱われるのは不当である。内容の違いを配点に反映させろと言われたら、こちらはぐうの音もありません。ほんとうなんだから。
何より、気の毒だったのは、教員たちの実際の働きや貢献度を公的な立場から採点することを求められた方々です。だって、そういう人たちはすでに学部長とか学長とかしているわけです。そういう役職に選ばれる人たちというのは教育面でも学生の面倒見がよくて、研究でも高いアクティヴィティを誇っている方々です。そういうただでさえ忙しい人たちに同僚の査定をするという余計な仕事を押しつけることになった。評価活動というのは、そもそも研究教育を効率的に行い、質の向上を果たすために導入したものです。でも、やってみてわかったのは、そんなことのために査定システムを考案したり、合意形成をもとめて会議をしたり、あれこれ書類を書いたりしていたら、それは全部研究教育学務のための時間に食い込んでくるということでした。評価コストは評価がもたらすベネフィットを超える。研究教育の向上のための評価が研究教育の劣化をもたらすという事実に、僕は評価活動をはじめて半年ほどで気がつきました。

僕が教員評価にこだわったのは、教員の中に、あきらかに給料分の働きをしていない教員たちがいたからです。ろくに仕事をしないで高給を食んでいる人たちが手を抜いているせいで、学務の負担が他の教員に回ってくる。さぼる教員のせいで、他の教員たちの研究教育の時間が削られている。それがどうしても許せなかった。そういう怠け者をあぶり出して、仕事をさせなくちゃいけないと思って、教員を管理する仕組みを考えたのです。

でも、これはまったく失敗だった。だって、怠け者の教員というのは評価しようとしまいと関係ないからです。休日を返上してセクハラ講習会を開いても、セクハラ教員はそういう講習会には来ないのと一緒です。絶対にセクハラなんかしそうもない人たちだけが集まってまじめに研修している。そういうのは時間の無駄なんです。働かない人は評価システムがあろうがなかろうが働かない。せいぜい給料分ぎりぎりしか働かない。でも、評価システムを制度設計し、立ち上げ、維持運営するために、これまで研究教育で高い成果を上げて来た教員たちの時間と労力を奪うことになった。この人たちはこれまでもらう給料の何倍もオーバーアチーブしていたわけですけれど、その人たちの足をひっぱることになった。だから、評価システムの導入は、トータルでは、大学全体の研究教育のパフォーマンスを下げることにしかならなかった。

国立大学の場合はもっと悲惨です。独立行政法人化から後、日本の大学の学術発信力は一気に低下しましたけれど、それも当然なんです。法人化があって、学部改組があって、カリキュラム改革があって、そこに自己評価や相互評価が入ってきて、次はCOEだとかRU11だとかグローバル人材教育とか、ついには英語で授業やれとか言われて、この15年くらいずっとそういうことに追い回されてきたわけです。そういう仕事を担当するのは、どこの大学でも30代40代の仕事の早い教員たちです。頭がよくて手際のよい教員たちが、そういう「雑務」を押しつけられた。会議とペーパーワークだけで研究者として脂の乗り切る10年間を空費してしまったという教員が日本中の国立大学に何百人となくいるのです。この人たちがその時間を研究教育に充てていたら、どれぐらいの学的達成が蓄積されたか、それを思うと失ったものの大きさに言葉を失います。

今は定年前に辞める教員がどこの大学でも増えています。専任教員として教えなくても、授業だけすればいいという特任教員の給与や著述での収入だけで生活が成り立つという人はそういう方を選んでしまう。だって、あまりにばかばかしいから。グローバル人材育成と称して、今はどこでも英語で授業をやれというプレッシャーがかかっている。どう考えても、日本人の学生相手に日本人の教員が英語で授業やることに意味があるとは思えない。

実際にそういう大学で働いている人に聞きましたけれど、オール・イングリッシュで授業をするとクラスがたちまち階層化されるんだそうです。一番上がネイティヴ、二番目が帰国子女、一番下が日本の中学高校で英語を習った学生。発音のよい順に知的階層が出来て、いくら教員が必死に英語で話しても、ネイティヴが流暢な英語でそれに反対意見を述べると、教室の風向きが一斉にネイティヴに肩入れするのがわかるんだそうです。コンテンツの当否よりも英語の発音の方が知的な位階差の形成に関与している。

これも英語で授業をしている学部の先生からうかがった話ですけれど、ゼミの選択のときに、学生たちはいろいろな先生の研究室を訪ねて、しばらくおしゃべりをする。その先生のところに来たある学生はしばらく話したあとさらっと「先生、英語の発音悪いから、僕このゼミはとりません」と言ったそうです。その方、日本を代表する批評家なんですけれど、学生はその名前も知らなかった。

そういうことが今実際に起きているわけです。ではなぜこんなに英語の能力を好むというと、英語のオーラルが教員の持っている能力の中で最も格付けしやすいからです。一瞬で分かる。それ以外の、その人の学殖の深さや見識の高さは短い時間ではわからない。でも、英語の発音がネイティヴのものか、後天的に学習したものかは1秒でわかる。

『マイ・フェア・レディ』では、言語学者のヒギンズ教授が出会う人たち一人一人の出自をぴたぴたと当てるところから話が始まります。『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショーの『ピグマリオン』という戯曲です。ショーはヒギンズ教授の口を通して、イギリスでは、誰でも一言口を開いた瞬間に出身地も、職業も、所属階層も分かってしまうということを「言語による差別化」(verbal distinction)としてきびしく告発させます。ヒギンズ教授は誰でも口を開いて発語したとたんに、その出身地も学歴も所属階級もわかってしまうというイギリスの言語状況を批判するためにそういう曲芸的なことをしてみせたのです。すべてのイギリス人は同じ「美しい英語」を話すべきであって、口を開いた瞬間に差別化が達成されるような言語状況は乗り越えられねばならない、と。だから、すさまじいコックニー訛りで話す花売り娘のイライザに「美しい英語」を教えて、出身階層の軛から脱出させるという難事業に取り組むことになるのです。

でも、今日本でやろうとしているのは、まさにヒギンズ教授がしようとしたことの逆方向を目指している。口を開いた瞬間に「グローバル度」の差が可視化されるように英語のオーラル能力を知的優越性の指標に使おうとしているんですから。それは別に、英語がネイティヴのように流暢に話せると知的に生産的だからということではなく、オーラル能力で階層化するのが一番正確で、一番コストがかからないからです。

日本中の大学が「グローバル化」と称して英語教育、それも会話に教育資源の相当部分を費やすのは、そうすれば知的生産性が向上するという見込みがあるからではないんです。知的な生産性という点から言ったら、大学ではできるだけ多くの外国語が履修される方がいい。国際理解ということを考えたら、あるいはもっと現実的に国際社会で起きていることを理解しようと望むなら、英会話習得に教育資源を集中させるよりは、外国語履修者が中国語やドイツ語やトルコ語やアラビア語などに散らばった方がいいに決まっている。でも、そういう必要な外国語の履修については何のインセンティブも用意されていない。それは、英語の履修目的が異文化理解や異文化とのコミュニケーションのためである以上に格付けのためのものだからです。

TOEICはおそらく大学で教えられているすべての教科の中で最も格付けが客観的で精密なテストです。だからみんなそのスコアを競うわけです。競争相手が多ければ多いほど優劣の精度は高まる。前に申し上げた通りです。だから、精密な格付けを求めれば求めるほど、若い人たちは同じ領域にひしめくようになる。「誰でもできること」を「きわだってうまくできる」ことの方が「できる人があまりいないこと」を「そこそこできる」ことよりも高く評価される。格付けに基づいて資源分配する競争的な社会は必然的に均質的な社会になる。そうやって日本中の大学は規格化、均質化し、定型化していった。

若い人たちは今でも地方を出て東京に行きたがります。そして、ミュージシャンだったり俳優だったり、カメラマンだったり、デザイナーだったり、とにかく才能のある人が集まっているところに行きたがる。それは精密な査定を求めてそうしているのです。故郷の街にいて、どれほどまわりから「町で一番才能がある」と言われても、それでは納得できないのです。もっと広いところで、たくさん競争相手がいるところに出てゆきたい。正確な格付けを求めてそうするのです。競争相手がたくさんいる領域に突っ込んでいって、低い格付けをされても、それは自分のようなことをしている人間が自分ひとりしかいない環境で、格付けされないでいるよりはまだましなんです。狭いところで「あなたは余人を以ては代え難い」と言われることよりも、広いところで「あなたの替えはいくらでもいる」と言われる方を求める。それは自分の唯一無二性よりも自分のカテゴリー内順位の方が自分のアイデンティティを基礎づけると彼らが信じているからです。「そんなことをしているのは自分しかいない」という状態が不安で仕方がないのです。「みんなやっていることを自分もやっている」方がいいのです。たとえどれほど低くても、精度の高い格付けを受けている方が安心できるのです。これは現代日本人が罹患している病です。そして、日本の大学もまたそれと同じ病に罹っている。

大学に格付けを要求するのは社会全体からの要請です。あなたの大学がどういう大学であるのかは、「他の大学を以ては代え難い」ところの唯一無二の個性によってではなく、日本のすべての大学を含む単一のランキングにおいて何位であるかによって決定される、そういう考え方に日本中が同意しているのです。そのせいで、大学の多様性が失われた。本当にユニークな研究教育活動は比較考量ができませんから、格付けすると「評価不能」としてゼロ査定される。研究教育活動がユニークであればあるほど評価が下がるという仕組みがもう出来上がっているのです。そのせいで日本の大学の学術的発信力は致死的なレベルにまで低下している。しかし、文科省はその学術的発信力の低下を「グローバル化が不十分だから。実学への資源投資が不十分だから」という理由で説明して、さらに全国の大学を均質化し、規格化し、競争を激化させ、格付けを精密にしようとしている。その結果、ますますユニークな研究教育のための場所は失われている。

そんなことをしているんですから、日本の大学に未来がないのは当然なんです。多様なできごとが無秩序に生起している場所でのみ、それらのうちで最も「生き延びる」確率の高いものが際立ってくる。

「ランダムさのないところに新たなものは生じない」(Without the random, there can be no new thing)。

これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。日本の大学教育はまさにその逆の方向に向かって進んでいる。でも、すべてが規格化され、単一の「ものさし」で比較考量され、格付けされるところからは、いかなる新しいものも生まれません。
教育の目的というのは、一言にして尽くせば、どうやって若い同胞たちの成熟を支援するか、それだけです。格付けとは何の関係もない。精密な格付けをすれば、若い人たちがどんどん知性的・感性的に成熟するというエビデンスがあるというのなら、大学からイノベーティヴな発見が次々世界に向けて発信されているというエビデンスがあるというのなら、格付けしたって結構です。でも、そんなエビデンスはどこにもありません。あるのは、大学が評価や査定や格付けにかまけてきた間に日本の大学の学術的発信力は先進国最低レベルに低下したという冷厳な事実だけです。

今、子どもたちの貧困が大きな社会問題になっていますけれど、貧困層の再生産には残念ながら子どもたち自身も消極的には加担してるんです。それは貧困層の人たちに対しては学校でも地域社会でも、「貧乏人らしくふるまえ」という強いプレッシャーがあるからです。貧しい人間は身を縮めて生きるべきだ、イノベーションを担ったり、リーダーシップをとったりすることは許されない。そういう考え方を持つ人が多数派です。そして、貧困層自身も、そういう社会観を自身のうちに内面化してしまっている。自分は貧しいのだから、楽しそうに生きてはいけない。明るくふるまってはいけない。新しいアイディアを提出してはいけない。リーダーシップをとってはいけない、そういう外部からの禁圧をそのまま内面化してしまっている。

以前、ある子育て中の母親がそう訴えていました。その人はシングルマザーで、確かに生活は苦しい。本当なら、親が貧しいことと子どもたちがのびのびと暮らすことの間には関係ないはずなのだけれど、貧しいというだけで、子どもたち自身が委縮してる。貧しい人間はにこにこしてはいけないと思っている。貧しくて不幸だという顔をしなくてはいけない。周囲がそういうふるまいを期待しているので、子どもたちはそれに応えてしまっているんじゃないか、と。

これは例えば生活保護を受けてる人がパチンコやったら許さないとか、芝居や映画見に行ったら怒るとかいうのと同じですね。主婦が子どもを保育園に預けて演劇見に行ったら、「ふざけるな」と怒鳴る人がいる。意地悪なんです。それが社会的なフェアネスだと本気で思って、意地悪をする。異常ですよ、皆さん。でも、日本はもうそういう異常な人が自分のことを「異常」だと思わないくらいに異常な社会になっているんです。

同じことが大学生自身にも起きている。低いランク付けをされると、自動的に自己評価も下方修正してしまう。あなた方はランクが低いんだから、もっとおどおどしなさい、もっといじけなさいって言われると、大学生の方も納得してしまって、おどおどして、いじけるようになる。格付けのせいで、いじけて、怯えて、自己評価を下げて、自分には何もたいしたことなんかできやしないと思っている若者たちを今の日本社会は大量に生み出しています。そんな人たちがどうして未来の日本を支えてゆくことができるでしょう。

冒頭に結論を申し上げましたけど、とにかく日本の大学は、今行われているような仕組みを是認されるのであれば、先はないです。日本の大学は滅びます、遠からず。どこかで抵抗するしかありません。「もういい加減にしてくれ」って、声を上げるべきです。文科省だってそんなにバカばかりじゃない。官僚の中には過去25年間の教育行政がことごとく失敗だったということを素直に認める人だってきっといると思います。でも、役人はその性として「間違えました」「すみません」とは言いません。

だから、大学側で声を合わせて言うしかないんです。国立大学の先生は立場上なかなか声を出しにくいかも知れませんけれど、でも声を出して欲しい。どうしたら教職員がイノベーティブになれるか。どうしたらキャンパスの中がもっと明るくなるか。教職員も学生も笑顔でいて、知的な刺激に満ちている環境をどうやって作るか。それについて考える事が最優先の課題だと僕は思います。

このまま手をつかねていたら、日本の大学は滅びます。皆さんが生活を犠牲にして、命を削って、大学のフロントラインを死守していることを僕はよく存じていますし、それに対して敬意も持ってます。でも、生身の人間ですから、無理は効きません。どこかで燃え尽きてしまう。だから、燃え尽きる前に、声を上げて欲しいと思います。「もういい加減にしろ」って。ちゃぶ台をひっくり返して頂きたい。日本中の学校で先生たちが一斉にちゃぶ台返しをしてくれたら、日本の未来も大学教育も救われるんじゃないかと思ってます。どうぞ頑張っていただきたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

(2016年5月19日、国立大学教養教育実施組織会議特別講演・サンポートホール高松にて)
http://blog.tatsuru.com/


64. 中川隆[-5812] koaQ7Jey 2017年11月27日 13:34:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

土台から崩れゆく日本の科学、疲弊する若手研究者たち
これが「科学技術立国」の足元
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186

 国内の大学の最高峰、東京大学。その将来有望な若手研究者が働く研究室─―そこは、そのイメージとはほど遠い苦境に陥っていた。


(12か月/AFLO)

 東大で物理学を研究する高山あかり助教は、研究室の現状をこう語る。

 「プリンターのトナーや紙、そういった必需品の購入にも気を遣います。研究室の机と椅子も、他のところで不要になったものを譲ってもらいました。研究のための本は自腹で買うことも多いですね」

 こうした物品の購入など研究を行うための経費は、基本的に各研究者に配られる「国立大学運営費交付金」から支払われる。これは文部科学省から各国立大学の財布に入り、そこから各研究者に配分される補助金だ。国立大学の研究者にとって運営費交付金は何にでも使える「真水」であり、研究の基盤となる資金だ。

 昨今ノーベル賞を受賞した研究も、こうした自由に使える基盤的経費が充実していた恩恵が大きいことは、2015年にノーベル物理学賞を受賞した東大教授の梶田隆章氏も指摘している(Wedge本誌12月号17頁にインタビュー掲載)。また、東大名誉教授の安井至氏は「ノーベル賞学者たちが助教の頃は、研究室ごとに現在の価値で1000万円ぐらいは基盤経費が入っていただろう。私が東大から退いた03年でも光熱費・水道代は大学が支払った上で、別途で200万円ぐらいは支給されていた」と語る。


運営費交付金
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186
(出所)文科省資料を基にウェッジ作成

 しかし1990年代の行財政改革の機運の中、国立大学にも効率化が求められるようになった。2004年に国立大学が法人化されると、基盤的経費は「運営費交付金」として再定義され、国の財政難を背景に前年比で1%ずつ削減されることになった。運営費交付金は法人化から13年間で12%(1445億円)が削減された。

 現在、ある工学系の東大准教授の研究室に支給される運営費交付金は200万円にはとても届かない額だという。さらに研究室の光熱費・水道代、場合によっては大学内の実験施設の賃借料も引かれるようになったため、削減幅は額面以上に大きい。ある理学系の東大研究者は「運営交付金は大学によって金額が異なるが、100万円交付されればかなり高いほうで、多くの研究者はギリギリでやりくりしている」と語る。東大ですら運営費交付金だけでは十分な研究などできないのが現状だ。


不安定になる若手のポスト


 一方で、研究者への研究資金として重視されるようになったのが、科学研究費助成事業(以下、科研費)を代表とする競争的資金だ。科研費は自動的に下りてくる運営費交付金とは違い、文科省に研究テーマを申請し、同じ分野の研究者による審査を経て交付の可否が決定する。17年度で2284億円の予算がつき、04年度から454億増加している。

 だがこの競争的資金への偏重が問題であると、日本より良い研究環境を求めて香港科学技術大学に移籍した川口康平助教授は、次の通り指摘する。

 「科研費は将来にわたって確保できるかどうか予測ができない。使途や期間も限られており、研究者やスタッフを長期間雇用するための人件費に使えない」

 加えて科研費では「真水」である運営費交付金とは違い、申請した研究テーマに使う実験器具などにしか使えないのだ。

 また運営費交付金の減少は、研究資金面以外でも若手研究者たちに死活問題をもたらしている。ポストの不安定化だ。

 東京工業大学の西田亮介准教授は「労働法制上、既存のポストは手をつけにくいので、新規雇用の際に人件費のコントロールが容易な任期つき教員への置き換えが進められている」と指摘する。

 文科省の調査によれば、07年度に39%だった40歳以下の任期つき教員の割合は、17年度には64%に増加している。「3年の期限のある競争的資金で雇われた研究者は、1年目はその分野を学び、2年目に研究して論文を書き、3年目にはその成果をもって次のポストを探すことになるだろう。腰を据えて研究する時間は短い」(梶田教授)


任期つき教員の割合
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186?page=2
(注)40歳未満の研究者が対象 (出所)文部科学省資料を基にウェッジ作成


 加えて目減りした運営費交付金の影響で、若手研究者は研究時間も奪われている。スタッフを雇ったり外注化したりできず、研究室の雑務も若手研究者が行わざるを得ないためだ。高山助教も、自身で経理や総務的な仕事までこなしているという。科研費申請の書類作成も2週間近く要する。もちろん、大学教員として研究室の学生への指導も行っている。

 文科省の科学技術・学術政策研究所の調査によると、国立大学の教員の勤務時間中、研究に充てられている時間は02年の50・7%から13年には42・5%に減少している。若手はさらにひどいようで、高山助教は「体感で1割程度しか研究に充てられない」という。また工学系のある東大准教授は「准教授以上はまず科研費などの研究費をとってくることが仕事になる。そのため研究は実質的にできていない。若手が厳しいのはもちろん、教授でも時間のない実態は変わらない」と語る。

「ノーベル賞受賞者は生まれなくなる」


 こうした運営費交付金の減少は、日本の科学技術に対し重大な悪影響をおよぼす。

 まず科研費に依存した研究体制は国がどの分野を重視しているか≠ニいう政策的な動向によって、研究内容が左右されてしまう。たとえば「理学系での最近の科研費は『情報分野』に重点が置かれている」(東大の若手研究者)という。重視すべき分野に集中投資されることは研究費の選択と集中を促すという面でメリットもあるが、多様性が失われたり、短期的に成果が見えにくい基礎研究分野が軽視されたりする懸念がある。


(出所)科学技術・学術政策研究所資料を基にウェッジ作成 写真を拡大

 また、研究成果である論文数も減少する。自然科学分野の15年の論文数は、米、英、独、仏、中、韓の主要国が04年比でその総数を大きく伸ばしている一方で、日本のみ減っている。イギリスの高等教育専門誌「Times Higher Education」の「THE世界大学ランキング」04年版では東大は12位、京大は29位、東工大、大阪大学、東北大学、名古屋大学が200位以内にランクインしていたが、最新の18年版では東大は46位、京大は74位に後退し、他の大学は200位以内から転落している。


自然科学分野の15年の論文数
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186?page=3
(注)2000年以降にノーベル賞を受賞した研究者に限定 (出所)政策研究大学院大学専門職の原泰史氏の 研究データなどを基にウェッジ作成 写真を拡大

 日本は00年以降、自然科学分野で15人のノーベル賞受賞者を輩出し、科学技術大国とされてきた。しかしそれらの受賞の多くは研究者が20代後半から40代前半の若手のころにに行われた研究が後年になって評価されたものだ。次世代のノーベル賞を生む土壌は既に崩壊し始めている。梶田教授は「このままでは日本からノーベル賞受賞者は生まれなくなる」と危機感を隠さない。

 ではどうするべきか。安井名誉教授は「すぐに成果が出る研究は民間がやる。先進国として、あくまで科学技術立国を目指すのならば、運営費交付金を増やすべきだ」と語る。梶田教授や16年にノーベル医学・生理学賞を受賞した東工大教授の大隅良典氏など、運営費交付金増額を求める声は大きい。

 しかし財政難の時代に運営費交付金を増額することは現実的に考えて難しい。川口教授は現状のジレンマをこう分析する。

 「運営費交付金を戻すのはセカンドベスト(次善の策)だ。いったん戻すべきだという危機意識は正しいが、財政難という時代の中で誰にもファーストベスト(最善の策)がわからない。そうこうしているうちにこのままでは大学が崩壊するというところまで来てしまった」


_________


三橋貴明オフィシャルブログ「新世紀のビッグブラザーへ blog」
財務省が日本を滅ぼす(前編) 2017-10-30
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/

 いよいよ明日、小学館から「財務省が日本を滅ぼす 」が刊行になります。

 昨日、日本の繁栄を妨げる「二つの壁」について書きましたが、その一つが「PB黒字化目標」になります。


 とにかく、PB黒字化目標が「骨太の方針」にて閣議決定されている以上、全ての政策がPB黒字化前提になってしまいます。すなわち、

「支出は前年比で削減する。増える場合は、他の支出を削るか、もしくは増税する」

 という前提で予算が組まれざるを得ないのです。


 このPB目標に異様なまでに固執し、日本を亡ぼそうとしているのが、財務省です。


 日本が亡びる云々は、決して大げさな話ではありません。と言いますか、要するにこれの問題です。

 ※IMFの最新データ(World Economic Outlook Oct 2017)から作りました。


【日中両国のGDPが世界のGDPに占めるシェア】

http://mtdata.jp/data_57.html#IMFOct17


 日本のGDPが世界に占めるシェアは、橋本緊縮財政でデフレに突っ込む以前は、17%を超えていました。日本一か国で、世界の17%以上を生産していたのです。


 その後、デフレでGDPが成長しなくなったのですが、世界経済は順調に拡大したため、日本のシェアがひたすら落ちていき、2016年は6.5%。


 反対側で、中国のGDPは世界の2%程度だったのが、世界経済を上回るペースで成長し、今は15%。


 ちなみに、2016年に日本のシェアが少し高まり、中国が落ちていますが、これは「円高人民元安」の影響です。もちろん、2016年にしても、中国の成長率は日本を圧倒していました。


 このままのペースで日本の停滞と中国の成長が続くと、2040年頃に経済規模の差は10倍に開いているでしょう(すでに2.3倍)。中国は経済成長率以上に軍事費を拡大するため、軍事予算の規模は20倍の差がついていると思われます。


 さて、日本の20倍の軍事予算を使う共産党独裁国家に、我が国はいかにして立ち向かえばよろしいのでしょうか。

 立ち向かえない、というのが残酷な答えです。


 デフレから脱却し、経済成長を取り戻さない限り、我が国に待ち構えている未来は良くて発展途上国、最悪、中国の属国化以外にはありません。


 そして、デフレ脱却を妨げてる最悪の「壁」こそが、PB黒字化目標なのです。


 あるいは、実質賃金の低迷(国民の貧困化)、インフラの老朽化、自然災害に対する脆弱化、防衛力の相対的低下、科学技術力の凋落、教育レベルの低下、地方経済の衰退、医療・介護サービスの供給能力低下、そして少子化という日本を悩ませている諸問題は、「政府が予算を使う」ことで解決します。と言いますか、政府が予算を使わなければ解決しません。


 そして、上記の諸問題解決に政府がおカネを使えば、それは「需要」になるため、デフレからの脱却も果たせます。デフレから脱却すれば、経済成長率が上昇し、「中国の属国」という悪夢を回避できるかもしれません。


 日本は、
「政府が国内の諸問題解決に予算を使うと、問題解決と同時にデフレ脱却、経済成長が果たせる」
 という、ある意味で美味しい環境に置かれているのです。


 ところが、政府が予算を増やそうとすると、途端に「PB黒字化目標」が壁となり立ち塞がり、現実には「何もできない」のです。


 何もできないどころか、財務省はPB黒字化を旗印に、ゾッとするほどの勢いで緊縮財政を強行してきます。消費税増税、診療報酬と介護報酬のダブル削減、教育無償化のコストを企業の社会保障費増で賄う、会社員の給与所得控除廃止、たばこ税値上げ、出国税導入などなど、最近、提示された緊縮財政のメニューだけで、こんなにあるのです。


 財政拡大(減税含む)の方向に舵を切り、上記諸問題の解決に政府予算を使えば、我が国は途端に繁栄の道を歩めます(もう一つ、憲法九条第二項という壁は残るものの)。


 それにも関わらず、現実は逆方向に驀進している。


 「財務省が日本を滅ぼす 」以外に、いかに表現しろというのでしょうか。

_____


2017年11月13日【三橋貴明】共犯者育成プロパガンダ
https://38news.jp/economy/11287

財務省の大攻勢
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12326561177.html

犯罪的な現実について
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12326847154.html

小学館「財務省が日本を滅ぼす」では、
財務省が緊縮財政路線を推進する際に
用いている各種プロパガンダについても解説しました。

http://amzn.to/2zt9lub

具体的には、以下になります。

●ルサンチマン・プロパガンダ:
人々のルサンチマンに訴えかけ、
「敵」を攻撃することで国民の留飲を下げ、支持を得る

●恐怖プロパガンダ:
人々の恐怖を煽り、思考停止に追い込む

●「木を見せ、森を見せない」:
いわゆる針小棒大。一部の悪しき事例のみを
クローズアップし、それを理由に全体を否定する

●用語の変更:
文字通り、言葉を言い換えることで、
人々に本質を理解させないようにする

●抽象表現の多用:
抽象的な表現を使うことで、人々に
「何となく」納得感を与え、事実を隠蔽する

●既成事実化:
虚偽情報を繰り返し報じることで、人々に事実として認識させる。
ナチスの宣伝担当相だったヨーゼフ・ゲッペルスの
「嘘も百回言えば真実になる」という言葉は有名

●レッテル貼り:
攻撃対象を悪しき印象を与える呼称で呼び、
発言や人格の信用を失墜させる

●権威の利用:
人々の信用が高い組織、あるいは人物に
語らせることで、嘘に信憑性を持たせる

●藁人形(ストローマン)戦法:
攻撃対象の発言を曲解もしくは捏造し、
「あの人はこんな人だ!」といった
印象操作により、信用を喪失させる

実は、上記以外にも一つ、財務省が
多用するプロパガンダ手法があるのです。

すなわち「共犯者育成プロパガンダ」になります。

原泰久の「キングダム」の第415話「反乱兵の作り方」では、
別に秦王に歯向かう気などなかった
秦軍の兵士たちが、樊於期により
「反乱兵」に仕立て上げられます。

具体的には、投降兵を殺させ
(殺さない場合、自分が死ぬ)、
後に引けない立場へと秦兵を
追い込んでいくのです。

財務省は、政治家や学者、経済人、ジャーナリスト、
評論家に「ご説明」し、マスコミに対しては
記者クラブ財政研究会を利用し、

「日本は国の借金で財政破綻する」
「日本はプライマリーバランス黒字化しなければならない」

などとメディアで発言させます。

一度でも、財政破綻論に与してしまうと、
もはや「共犯者」というわけで、言論人もメディアも、
日本の財政破綻など「あり得ない」という
正しい情報を二度と発信できなくなります。

それどころか、「自分の発言は間違っていなかった」と
思い込む認知的不協和に陥り、
正しい情報を発信する勢力(つまりは我々)を
「攻撃する」という行動にでるケースすらあります。

結果的に、財務省は何もしなくても
反・緊縮路線が潰され、緊縮路線が
「当然の話」として国民の間で共有されていく。

人間は、なかなか「自分が間違っていた」
ということを認められません。

財政破綻論者が反・緊縮路線に転じ、
正しい情報の発信を始めた例は、
本当に極わずかです。

財務省の官僚たちは、経済については
全く知識がない割に、プロパガンダ手法
については熟知しているようです。

プロパガンダとは、特定の政治的意図に基づき、
情報を歪める、あるいは発信することです。

日本を亡ぼそうとしているのは、
単なる情報であることが、改めて理解できます。


65. 中川隆[-5811] koaQ7Jey 2017年11月27日 13:45:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

経済コラムマガジン 2017/11/20(963号)

PB黒字化は本当に国際公約か
http://www.adpweb.com/eco/eco963.html


「2020年までのPB黒字化」の撤回

10月15日日経新聞3面にかなり重要な記事が掲載されたが、それに反し取扱いが極めて小さかった。「日本はPB(プライマリーバランス)を2020年までに黒字化するという国際公約を撤回する」というものである。日本はこれをワシントンでのG20財務相・中央銀行総裁会議で表明した。しかし総選挙直前ということもあってか、その後、このニュースはほとんど話題にもならなかった。もっともマスコミの方もあまり取上げたくなかったと見られる。

たしかに「PBを2020年までに黒字化する」という話はよく聞く。しかしこれが国際公約にまでなっているという話は、奇妙と筆者はずっと思っていた。筆者はこれについて調べ

17/10/2(第957号)「総選挙と消費増税」」
http://www.adpweb.com/eco/eco957.html

で「民主党政権時代の11年10月のG20の財務相・中央銀行総裁会議で、当時の安住財務大臣が勝手に宣言したものと筆者は理解している」と述べた。ところがもっと調べてみると、この前年の10年6月のトロントのG20サミットで菅元首相が同様の表明を行っている。


ただし各国から日本の財政赤字が問題にされ、財政健全化を迫られた結果「PBの2020年までの黒字化」を約束させられたわけではない。たしかにリーマンショック後にギリシャの財政問題が表面化し、この10年のサミットで各国は13年までに財政赤字を半減させることで合意した。ところがここが重要なところであるが、この合意で日本だけは例外扱いになった。日本だけは財政赤字を半減させる必要はないという話になったのである(それにもかかわらず菅元首相が勝手に「PBの2020年までの黒字化」を表明した)。これは当たり前の話で、日本のような経常収支の黒字が大きくかつ膨大な外貨準備を持っている国が緊縮財政を実施することは、他の国にとってはむしろ迷惑である。

おそらく各国は、日本政府が累積債務の一方で巨額の金融資産を持ち、また日本の公的年金の積立額が世界一ということも知っていたと思われる。また国債のほとんどが日本国内で消化され、金利は世界一低い水準で推移している。この上さらに緊縮財政を行おうとは「フザケルな」という雰囲気だったはずだ。むしろ日本には積極財政を採ってもらいたいというのが、各国の本音であったと思われる。


ところが日経新聞を始め、当時、マスコミは日本の財政赤字が大き過ぎるのでとても無理と見られ、同情され例外扱いなったと完全に間違った報道と解説を意図的に行っていた。それどころか日本の財政再建派の面々は、菅元首相や安住元財務大臣が国際会議の場で一方的に表明したこの話を「国際公約」と騒いで来たのである。

この菅元首相や安住元財務大臣に加え、野田前首相が、「社会保障と税の一体改革」、つまり消費増税(5%から10%への)を推進した中心的政治家と言える。しかし世間では菅元首相や安住元財務大臣が、日本の経済や財政問題に精通している政治家という認識はなかったはずである。ましてや国政選挙で民主党が消費増税を公約に掲げたことはなかった。つまりこれらの民主党の政治家は財務官僚の振付けで踊っていたと見て良いであろう。


今回の国際公約を撤回するという表明に対して各国の反応は冷ややかである。「金利がマイナスになっているくらいなのに、日本は今頃何を言っているか」という雰囲気であろう。しかし日本のマスコミは「PBを2020年までに黒字化する」ことが不可能になったから撤回したとだけ解説する。

そもそも「2020年までに黒字化する」という話は、「2013年までに黒字化する」という以前の目標を延長したものである。この時も特に議論がなく簡単に延長した。国際公約とか言っているが本当に軽いものである。


どうやら安倍総理は解っている

だいたい「PBを黒字化すること」に意義があるのかという根本の論議が欠けている。ところが財政再建派は、「PB黒字化」は当たり前の原理で、これについては議論をさせないという空気を作ってきた。明らかに日経新聞を始めとする日本のメディアもこれに同調してきた。まるで日本において「PB黒字化」に疑問を持つことは犯罪に近い行為という雰囲気が作られている。

たしかに18世紀、19世紀の経済を前提にした経済理論なら、「PB黒字化」によって金利は低く抑えられ、この金利低下によって投資や消費が増えることにもなろう。ところが「PB黒字化」を目標にした14年の消費増税によって、逆に投資・消費が急減した。これに対しては財政学者などの御用学者や財政再建派政治家は、増税後一時的に需要が落込んでもその後日本経済は「V 字回復する」といい加減なことを言っていた。しかしV字回復なんて有り得ず、今日、補正予算と輸出増で日本経済は辛うじて支えられている。


そもそも日本の金利はずっと世界一低い水準で推移してきたのである。それでも投資・消費の水準はずっと低位のままであった。ましてや13年からの日銀の異次元の金融緩和で、とうとう金利はマイナスになった。つまりこれ以上の金利低下は必要がなく、このことは「PB黒字化」が日本経済に対し何もプラスがないことを意味する。

財政再建派は、本当のところ財政にしか興味がなく、「PB黒字化」がもたらす日本経済への悪影響を軽視してきた。だから消費増税分の8割を財政再建に回すといった本当に「馬鹿げたこと」を平気で決めたのである。この大失態で少なくとも自民党内の財政再建派の勢いは弱まった。だから先週号などで紹介したように、魔の2回生(現在は晴れて魔の3回生)の20名弱が集り「政策目標になっているPB(プライマリーバランス)の放棄」や「積極財政」を訴える勉強会を始めるまでになった。

これまで自民党内の財政再建派の力を感じ、このような動きは躊躇された。議員個人が財政再建路線に疑問を持っても、「PBの放棄」なんてとても口に出せない時代が続いてきた。ましてや積極財政派の議員グループが登場するのは20年振りである。筆者が当コラムを発刊したのも、20年ほど前から橋本政権下で構造改革派が生まれ財政再建派と結託し、積極財政派を追詰め始めたことがきっかけであった。


安倍政権の財政運営は、当初から「新規国債は発行しない」と、この「PBの2020年までの黒字化」といった方針にずっと縛られてきた。このため14年に消費税を3%も上げたのに、安倍政権はたった千億円単位の財政支出でさえ自由にならなかった。例えば保育園の待機児童が問題になった時にも、解決のための予算措置が難しいほどであった。

では安倍総理ご自身が「PB黒字化」についてどう考えているかである。これについて日経新聞10月30日の「経済教室」に岩本康志東京大学教授(専門が公共経済学ということだから財政学者)の興味ある文章が掲載されている。この中で「安倍首相は基礎収支(つまりPB(プライマリーバランス))の黒字化に消極的と思われ、選挙後に『アルゼンチンは基礎的収支黒字化で債務不履行になった』とも発言した」という話を教授が紹介している。

要するに安倍総理は解っているのである。ただ「PB黒字化の放棄」や「新規国債の発行」に簡単に踏み出せるか不明である。おそらく「PB黒字化」については、柔軟な形に変えても延長すると筆者は思っている。党内外の財政再建派の勢いは弱まったと言え、まだ隠然とした力がある。早速、「教育無償化について自民党内で議論を行っていないのに、財界との間で3,000億円の拠出の話が出ている」と噛みつく議員がいる。
http://www.adpweb.com/eco/eco963.html

14/12/1(823号)「今から嘘をつくぞ」の決まり文句
http://www.adpweb.com/eco/eco820.html

•財務省のパシリ(使い走り)

財務省のパシリ(使い走り)となっているエコノミストや財政学者達が「今から嘘をつくぞ」という時の決まり文句がある。「国の債務(借金)は1,000兆円を超えている」である。たしかに日本の総債務残高は、1,000兆円を超えている。しかし

14/11/10(第820号)「日本のぺらぺら族」
http://www.adpweb.com/eco/eco820.html

などで取上げたように日本政府は、一方で諸外国に比べ突出して大きな金融資産を持っている。例えば外貨準備高だけでも147兆円もあり、ほかの先進国よりずっと大きい(中国も大きいが、これは外国から流入した投資(投機)資金が積み上がった部分が大きい・・資金流入に対する為替介入で外貨準備が積み上がった)。

この他にも政府系金融機関への貸付といった莫大な金融資産がある。これについて、昔、パシリ連中の中に「政府系金融機関は莫大な不良債権を抱えていて、政府の貸付金は資産性はない」と言い放つ者がいた。しかしもしこの話が本当なら、全ての政府系金融機関は倒産状態ということになる。もちろんこれは嘘であり、外貨準備と合せ政府の金融資産の額は莫大である。

このように国の持っている金融資産を無視して総債務残高だけで日本の財務状態を語ることは間違いであり、とんだ誤解を招く。そして総債務残高から金融資産額を差引いたものが純債務残高である。日本の場合、金融資産が大きいため純債務残高はかなり小さくなる。


また純債務残高を国際比較する場合、OECDの基準ではさらに公的年金(日本の場合は厚生年金・国民年金(127兆円)、公務員共済等(51兆円))の積立金を差引くことになっている。他の先進国では公的年金の積立がほとんどなく、保険料収入と財政支出で年金支給を賄っている。日本の公的年金の積立額は、先進国の中で突出して大きい。

日本以外で公的年金の積立金が大きい国はスウェーデンぐらいである。ちなみにスウェーデンはこの積立金で公共事業を行っているが、特に国民からの反感はないという。たしかに積立金を積み上げることは今日の需要不足の原因となるため、これを公共事業に使うことは投資・貯蓄の資金循環の観点から利にかなっている。


さらに筆者は、純債務残高の算出にあたって中央銀行(日銀)の保有する日本国債を差引くべきとずっと主張してきた。これは日銀保有の日本国債は実質的に国の借金にならないからである。この数字が昨年度末に200兆円を越えさらに増え続けており、いずれ300兆円程度まで増える見通しである。つまり無視できないくらい膨大になっている。

このように日本の純債務残高を算出し国際比較すれば、「日本の財政は最悪で破綻寸前」というセリフがいかに空々しい嘘であるか解る。ところが消費税増税や新規国債発行の制約によって、今年度の予算は完全な緊縮型(消費税増税に加え補正予算が真水で4.5兆円減額されている)になっている。これも日本の財政がそのうち破綻するというとんでもない前提で予算編成がなされた結果である。デフレ経済下でこのような完全に間違った財政政策を行ってきたのだから、連続2四半期マイナス成長になるのも当たり前である(当初のアベノミクスの狙いはこの今年度の緊縮財政で吹っ飛んだ)。


たしかに純債務残高の算出にあたり、個々の人で考えが異なることは筆者も承知している。筆者のように総債務残高から金融資産だけでなく、公的年金の積立金、さらに日銀保有の国債まで差引くべきと考えるのは今のところ少数派かもしれない(今のペースで日銀の国債購入額が増えれば、7〜10年で日本国は実質的に無借金になると筆者は計算している)。そして日本の財政に関し多少なりとも知識がある人ならば、最低でも国の借金から膨大な政府所有の金融資産を差引くことは分っている。

ところが財務省のパシリと成り果てているエコノミストや財政学者達は、財政に関して一般国民は猿程度の知識しか持っていないと舐めている。またエコノミストや財政学者でなくとも増税派の人々は同じセリフを用いて人々を脅している。例えば

13/9/2(第767号)「消費税増税は雲行きが怪しくなった?」
http://www.adpweb.com/eco/eco767.html

で取上げたように、朝まで生テレビ(テレビ朝日系)で五味廣文元金融庁長官から「日本は1,000兆円の債務を抱え、増税を見送れば財政破綻を招く」とまさに「今から嘘をつくぞ」という時の決まり文句が飛出した。さすがにこの時には、他のパネラーから「日本政府の持っている多額の金融資産を無視しているうんぬん」と一斉攻撃を受けていた。

•「今から嘘をつくぞ」の合図

もちろん「今から嘘をつくぞ」という時の決まり文句は、前段の五味廣文元金融庁長官のケースだけではない。日経新聞を開けば、毎日、同様のセリフが載っている。例えば11月20日の一面で日経の吉田透経済部長は「増税延期で財政再建は遠のいた。国の借金は1,000兆円を超え、GDPの倍以上。財政危機に陥ったギリシャより悪い。」と、まさに「今から嘘をつくぞ」という時の決まり文句のオンパレードである。もうこれだけで読む価値のない文章と判定される。

財務省のパシリとなっている財政再建論者が、読者や視聴者の一般国民を猿扱いし脅す時の常套句や仕掛は他にもある。その一つが「国の借金を一万円札で重ねると富士山の何倍になる」といった視覚に訴える表現である。そして典型的な仕掛が「借金時計」であろう。これらが現れたら「今から嘘をつくぞ」という合図と思えば良い。


また再増税延期決定の前、パシリのエコノミストは「もし増税が延期され日本の財政再建路線が疑われたら、国債が売られ金利は急上昇する」と決め付け、これを盛んに喧伝していた。筆者は、増税延期の観測が出た頃から長期金利の動向をずっと注視してきた。再増税延期の話が出る前の最低金利は0.45%であった。

たしかに増税延期の話が出始めた頃からゆっくりと上がり始めた。しばらくして節目となる0.5%を少し超えてきた時、筆者も一瞬「おやっ」と思った(おそらくバカなディーラが国債を少し売ったのであろう)。しかしそれ以降は下がる一方で、これまでの最低金利であった0.45%をも下回った。直近11月28日の長期金利は0.42%である。

たしかに日銀の国債買入れがあると言え、増税延期決定後、逆に金利は低下しているのである。パシリエコノミストは、金利が思うように上がらないのでこの話を避けている。また彼等の中には「金利上昇は、短期ではなく中長期的に起る」と卑怯な言い訳をする者までいる。仮に日銀の国債買入れが有効なら、「金利が止めどもなく上昇する」といったパシリエコノミストの得意な常套句は一体何であったのか。


まもなく衆議院選の公示がされ選挙戦が始まる。当然、消費税の扱いや日本の財政、そしてアベノミクスも話題になるであろう。筆者は、今回の選挙戦で本当の「日本の財政」の姿がどれだけ明らかにされるかを注目している。もし日本の財政の真の姿が有権者にも理解されたのなら、これからの経済政策はガラッと変ると期待できる。

しかし日経新聞を始め各メディアは、これまで散々大嘘(日本の財政は最悪といった)をついて消費税増税を推進してきた。今さら本当の事(日本の財政には問題はなく財政再建なんて全く不要・・金利を見れば明らか)は言えないのである。ただ朝日新聞だけでなく、一般国民の大手メデイアに対する不信感は高まっている。


久しぶりに11月29日の朝まで生テレビ(テレビ朝日系)を観た。選挙戦を控え各党の論客と言われるメンバーが集っていた(政治家以外のパネラーは直前にキャンセルされたという話がある)。しかし事の本質(例えば日本の財政が本当に悪いのかと言った)に迫る議論は全く出ない。各党が主張する建前論を延々と披露するだけである。さすがに筆者も退屈と思って観ていたが、眠さを堪えることができないほどお粗末な内容であった。これでは日本の政治家が官僚に舐められるのも当然である。

選挙戦が始まり、筆者は安倍総理の解散の決断に関する真相や日本の財政の本当の姿などもっと深いところに、どれだけ日本のメディアが迫れるか注目している。しかし筆者のこれまでの経験から、残念ながらこのような話が少しでも出るとしたなら東京や関東では放送されないテレビ番組や週刊誌などに限られると思っている。大手新聞や在京のキー局は本当にダメである。せめて「選挙で700億円も掛かる」といった下らない話だけは止めてくれ。
http://www.adpweb.com/eco/eco823.html

17/11/27(964号)続・「今から嘘をつくぞ」の決まり文句
http://www.adpweb.com/eco/

実質的な借金(純債務残高)はゼロに

財政再建派(財政規律派)の政治家、財政学者、エコノミストは「日本の財政は最悪」という大嘘をずっと付いている。ところで彼等がこの嘘を付き始める時の「決まり文句」というものがある。これに関しては14/12/1(第823号)「「今から嘘をつくぞ」の決まり文句」などで取上げてきた。

先週号で取上げた「2020年までのPB黒字化は国際公約」もその一つと言えるであろう。この他の代表例は「国の債務(借金)は1,000兆円を超えている」「日本の消費税率は欧州に比べ極めて低い」「国の借金は孫子(まごこ)に引継がれる」などである。このような決まり文句に出会せば、まさに「今から嘘をつくぞ」の合図と思えば良い。


ただ彼等がつく嘘の前触れとなる「決まり文句」に関し、ややこしいのは全てが間違っている訳ではないことである。例えば「PB黒字化は国際公約」は菅元首相や安住元財務大臣が、実際に国際会議の場で表明している。また日本国の総債務残高は1,000兆円を超えている。さらに日本の消費税率の8%は、欧州各国の付加価値税率に比べたしかに低い。

そしてメディアを通してこれらのセリフを受取る側の読者や視聴者のほとんどは、これらの決まり文句に簡単に騙される。また発言する者は、人々をこれで騙せることを知っているからこそ、いまだにこれらの「決まり文句」を使っている。普通の人々より多少は見識が高く、より多くの情報を得られると思われる政治家でさえ、これらの決まり文句に易々と騙されている。そこで今週号では、これらの「決まり文句」が嘘の始まりであることを説明する。


14/12/1(第823号)「「今から嘘をつくぞ」の決まり文句」他で述べたように、たしかに国の総債務は1,000兆円を超えている。しかし一方で国は膨大な金融資産を持っている。具体的には巨額の政府系金融機関への貸付金や外貨準備などである。したがって総債務残高からこの金融資産額を差引いた日本の純債務残高はぐっと小さくなり、そのGDP比率は欧州各国と遜色がなくなる。ところが財政再建派の人々は、まず国が保有するこの巨額の金融資産のことに触れることはない。

また財政の健全性を見る基準として、総債務残高から公的年金の積立金を差引くという考えがある(OECD基準)。特に日本の場合、公的年金の積立金額(公務員共済を含めると180兆円程度)が欧州各国に比べかなり大きい(例外はスウェーデンくらい)。これに対し欧州各国の公的年金の積立金額は小さく(支給額の数カ月分)、年金支給は自転車操業状態である。もし公的年金の積立金も総債務残高から差引いて純債務残高を計算し直し、GDP比率を算出すればむしろ欧州各国より良い数値が出るものと筆者は見ている。


さらに日銀が既に400兆円もの日本国債を購入している。これについて色々な見方があるが、実質的にこの部分は国の借金にならないという考えが成立つ。実際、国はこの400兆円の国債に対して日銀に利息を払うが、最終的に日銀はこの利息を国庫納付金として国に納付する(国の雑収入)。たしかに日銀は一部を準備金として差引いて納付するが、この準備金も国の資産である。このように日銀が購入した日本国債は、実質的に国の借金とはならなくなる。筆者は、今のペースで日銀が国債を買い続ければ、国の実質的な借金(純債務残高)は数年のうちにゼロになると見ている。

財政再建派にとって、この日銀が国債を買うことの本当の意味が一般の人々に知れ渡ることは是非とも避けたいところである。だから彼等は「日銀は異次元の金融緩和の出口戦略を急げ」と盛んに騒いでいるのである。筆者は、むしろ発行する国債を全て永久債(コンソル債)に換え、これを日銀が買えば分りやすくなると考える。特に民進党の新代表になった大塚耕平参議院議員は、永久債発行論者であり、この辺りの仕組についてよくご存じと思われる。永久債発行について与野党で議論すれば良いと筆者は思っている。


次の世代は債権・債務を同時に引継ぐ

日本の消費税率が欧州各国と比べ低いという話も真っ赤な嘘である。これについては

16/4/25(第889号)「日本は消費税の重税国家」
http://www.adpweb.com/eco/eco889.html

で述べたように、欧州各国は軽減税率を採用しているので実質的な付加価値税の負担は見掛けよりかなり軽くなっている。英国などは食料品等の生活必需品の税率がゼロである。英国に長く住んだことがある人なら、むしろ日本の8%の消費税率は重いと感じるはずである。

しかし卑怯な財政再建派は標準税率での比較しか持出さない。それどころか「税率が低い日本の国民は甘やかされている」ととんでもない発言を行う者まで現れている。もし予定通り19年10月に消費税が10%に増税されると、日本は消費税(付加価値税)でトップクラスの重税国家になる。日本より付加価値税が重いのはわずかにフランスだけになる。このような消費税の実体は、何故かマスコミが取上げないので日本の一般国民はほとんど知らない。


「国の借金は孫子に引継がれる」も奇妙な表現であるが、よく出会すセリフである。今日、国債を発行すれば、これを償還しなければならない次の世代の負担がさらに重くなるという理屈である。いわゆる借金の先送りという話になる。一見、これは良識のある者のセリフと捉えられる可能性が高い。

しかし孫子、あるいは次の世代は国の債務をたしかに引継ぐ(相続する)が、彼等は国に対する債権(国債など)も引継ぐ(相続する)のである。つまり次の世代は、国の債務だけでなく国の債権も同時に引継ぐ。しかもほとんどの国債が国内で消化されているので、引継ぐ債務と債権はほぼ同額と見て良い。したがって今日の世代と次の世代の間の問題というより、これは同じ次の世代の間の分配の問題になるのである。

この解決には、たしかに金融資産の相続税を重くするということが考えられる(他には資産課税を重くするという方法がある)。しかし前段で述べたように、既に今日の日本の実質的な純債務残高はほぼゼロになっている。したがって次の世代の分配問題を解決するための相続税の増税なども必要はない。


ここまで国の資産と言ってきたものは、説明を簡単にするため金融資産に限定してきた。しかし国は金融資産以外に様々な膨大な資産を保有している。主に土地や建物、また道路などのインフラなどである。次の世代は、何もせずに生まれながらこれらの資産を当然のこととして引継ぐことになる。ところが財政再建派は、このような点に話が及ぶことを避けたがる。

また次の世代が同じように引継ぐにしても、治安が良く安全で快適な国の方が理想的である。それを実現するための経費を今日新規国債の発行で賄うことは決して悪いことではない。ところが財政再建派は、とにかく新規国債に大反対である。安倍一強と言われながら、安倍政権はわずか2兆円の教育無償化予算にさえ苦労しているのである。

「国の借金は孫子に引継がれる」と言われているが、これから就職しようという次の世代にとってもっと切実な問題は今日の日本の経済状態であろう。日本経済はデフレから脱却したとはとても言えないが、安倍政権は消費税再増税を延期するなどして低いながらもなんとか経済成長を続けている。このような経済政策を評価して、先の総選挙では若い世代ほど自民党への投票が多かった。次の世代である若者達も本当のことを薄々分り始めたのであろう。
http://www.adpweb.com/eco/


66. 中川隆[-5809] koaQ7Jey 2017年11月27日 13:56:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本の教育を滅茶苦茶にした前川喜平がやっていた事教えてあげる


文科省の前事務次官、前川喜平氏(62才)が「実地調査」で通い詰めた店である。7月初旬のある夜、本誌もまたここで働く女性の生態を“調査”すべく、店に入った。南国のモンステラの葉が壁一面を覆う店内には、カウンター席の他、ガラスで仕切られた向かい合わせの席がある。

1時間1ドリンク付きで3500円、2時間4800円。女性は無料。ドリンク飲み放題、スナック菓子食べ放題。席に座ると、男性の手元にはピンク色のメッセージカードが置かれる。ニックネーム、職業、血液型書き、「食事」「カラオケ」「飲み」「女の子におまかせ」の4項目から1つを選択。全て記入したら店員経由で気になる女性に送る。先方がOKの場合、相席して“次の予定”を交渉する。

この夜、店内には9人の女性がいた。ミニスカワンピの20代前半から、スーツを着たアラフォーまで、さまざま。グラスを片手にスマホをいじり、男性からの指名を待つ。一晩遊ぶ男を求め、あるいは交際相手を求め、店に集った素人女性である。

「ま、多くが“ワリキリ”目的だけどね。要は、エンコー。お金のために割り切って寝ますってこと。前川さん、よく来てました。あたしも指名されたことあるんで。貧困調査なのかなぁ。教育問題とか難しい話をしてたけど。『このあと外出る?』みたいな交渉もあった。アタシは断ったけど、ついてく娘もいた」

出会い系カフェは、いわばグレーゾーンの商売であり、自由恋愛が前提になっている。出会って気に入れば自由恋愛に発展するし、気に入らなければ断ることができる。「文科省の前事務次官、前川喜平氏(62才)が「実地調査」で通い詰めた店」もそのようなお店であり、話では断られることが多かったようだ。

60代のおっさんでは、よほどのことがない限りワリキリに応じてくれる子はいないだろう。あったとすれば自由恋愛ではなく個人売春に近いだろう。このような人物が文部科学省の事務次官をしていたのだ。そして何人かの子と個人売春までしていたのだろう。状況的にそうなる。
http://2013tora.jp/kabu395.html


2017年07月02日
事務次官とは何か、前川前次官で注目エリート集団


この人が騒いでいる本当の理由は、「自分の方が総理大臣より身分が上だ」という事です。
引用:http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/6db29/90119/537660_pcl.jpg


総理より地位が高い事務次官

加計学園をめぐる「忖度」騒動は前川喜平・前文部科学事務次官の告発から騒動が広まった。

なぜ前川氏はこのように安倍首相を憎み、敵愾心を露にして噛み付くのか、事務次官という身分階級を知らないとわかり難い。

各省庁の事務次官は「次官」なので文字を読んだだけでは「2番目の事務員」かなと思うが、実際には省庁の大統領のような地位にある。

         

事務次官は表向きの法律では大臣を補佐する役割だが、実際には大臣を上回る最高権威です。

大臣と事務次官の関係については、2001年に小泉内閣で外務大臣を(9ヶ月だけ)勤めた田中眞紀子議員が良く喋っていた。(喋りすぎた)

その前に田中眞紀子が外務大臣に選ばれた理由を説明すると、2001年4月の自民党総裁選で小泉純一郎を当選させた功労者だった。


超不人気だった森首相が退陣し、次の首相は橋本龍太郎で決まりと言われていて、国民は「またあのバカ総理か」と失望していた。

小泉純一郎は出馬しても負けそうなので立候補するつもりはなかったが、当時人気絶頂だった田中眞紀子が「あんた出なさいよ」とけしかけたと言われている。

人気者の眞紀子に後押しされて小泉旋風が吹き、めでたく総理大臣になり田中眞紀子は論功行賞で外務大臣になった。


欧米メディアは「次の総理は田中眞紀子」「初の女性総理誕生へ」と報道し、小泉自身より人気が高かったほどだった。

その大功労者が些細なことで外務官僚と対立して、クビになったのは田中眞紀子大臣の方だった。

日本政府の方針と異なる発言を、外相として勝手に発言したり、外相会談のドタキャンなど様々な出来事があった。


官僚を激怒させた安倍首相の行為

だが一番の対立点は「外務大臣と事務次官のどちらに人事権があるか」という事で、眞紀子大臣は自分に逆らう事務次官の更迭を小泉首相に要求した。

結果は書いたとおり、クビになったのは大臣のほうだったので、大臣の人事権は事務次官が握っているが、逆はありえない。

法律はどうであれ大臣より事務次官のほうが地位が上なのが日本の制度であり、主要な省の事務次官となると総理大臣より地位が上である。


ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されたが、事務次官は決して逮捕されず、責任を取らされたりもしない。

思い出して欲しいがあらゆる政治スキャンダルで責任を取るのは大臣と総理だけで、事務次官や官僚はマスコミから責任の追求すらされない。

もし事務次官が責任を取らされるような事が起きれば、明治以来の大事件であり、絶対に有り得ない筈だった。


朝日新聞は平気で天皇や総理大臣の悪口を書くが、それでいて事務次官の悪口を絶対に書かず、官僚は神聖にして汚すべからずを貫いている。

朝日新聞も日本の最高権力者が怖いのであり、許認可権から逮捕権、裁判権まで握っている官僚たちには逆らいません。(最高裁判官も官僚)

その有り得ないはずの事が森友、加計騒動の根源である文部科学省で起きていて、事務次官がクビになっていました。


「キXXX」の言い分

前川喜平前事務次官は退職した文部官僚が民間機関に天下りする仲介役をしていて、2017年1月20日に辞職した。

2017年3月に懲戒免職になる予定だったが、文部省側は猛反発しして自主退職になったうえ、退職金5000万円以上が支払われた。

軽い処分で済んで助かったように見えるが、官僚目線では「どうして上司である事務次官が部下である総理大臣から追放されるのか」という事になる。


ニュースを見ていると異常な事件で犯人が意味不明な事をしゃべる場合があるが、「キXXX」の言い分は彼らにしか分からない。

前川喜平と官僚たちには「総理大臣風情がでかい面しやがって」「今に見ておれ小僧」という恨みだけが残ったようです。

そして文部科学省は自分のスキャンダルである森友、加計を暴露する事で安倍首相を糾弾するという捨て身の戦法に出た。


過去の政治スキャンダルで責任を問われたのは政治家だけで、官僚が罪に問われた事は無いので、こうした戦法は実は良く行われている。

大阪地検や東京地検は森友加計を捜査しているが、検察官僚の身内である文部官僚は決して捜査対象にならない。

うまく行けば前川喜平前事務次官は高給で天下りできるだろうし、それどころか政治家として権力を握る事もできる。


突き詰めると官僚と総理のどちらが上か、どちらが日本の権力者かという対立です。
http://www.thutmosev.com/archives/71597964.html


天下り官僚に翻弄される私大の悲惨

私大を渡り歩いて5億円を荒稼ぎ!
天下り官僚に食い物にされる私大

官僚時代は数百億円の予算を動かしていただけに金銭感覚がズレすぎているという。私大には文科省、経済産業省、財務省など多くの官僚が天下りし、教授の座に収まっている。

「“渡り鳥稼業”の天下り役人は会議の欠席はザラなうえ、仕事の知識もない。仕事は部下に任せてゴロゴロしているだけ。それでも年俸は最低2500万円。さらに5年勤めて退職金が3000万円。これで3〜5つの大学を渡り歩いて計5億円は稼ぎます」

 もっとも何もしないのならマシな部類で、元官僚と悪徳教授が手を組み、大学を食い物にするケースも多々あるそうだ。濱野氏がいた都内の女子大では40億円が消えたこともあったという。

「彼らが株式や投資信託を駆使してマネーロンダリングをやったようですが、証拠が出なかった。また、翌年に取り壊しが決定していた校舎の大規模修繕に3億をつぎ込み、さらに塗装で1億2000万円と、計4億2000万円を無駄遣いしたことも。すぐに跡地に新しいビルを建てるところまで計画済みで、旧ビルでどんなインチキがあったのかはウヤムヤになってしまった。巧妙に証拠が残らない工作だけは一流のため、追跡調査もできなかった。もちろん大学の事務職などは真相を知っていましたが、黙殺したまま。ヘタに口にしようものなら簡単に左遷されてしまいますからね」

 別の学校ではこんなケースも。

「もっとひどいのは、研究業績が大学院生ほどもないクズ教授を学長に仕立て、自分は定年のない常務理事のポストに就いた天下り官僚がいました。さらに、部課長などの大学の要職を、仲間や部下で固め、付属の建物の増改築で稼ぐなど好き放題だった。さらに、法人側の私立学校法違反事項を目ざとく見つけると、理事長選で教授会をけしかけ、当主を追い出し自分が理事長の座に座り、そのまま学園を乗っ取ったヤツもいた。都内有数の伝統校でしたが、その後は、学問はそっちのけとなり、今では生徒の確保にも困るほど疲弊してしまいました」

 悪質な実例はまだまだあるという。

「今時、わざとド田舎にキャンパスを購入し、引っ越さなくてもいい学部の建物まで建てて都内一等地のキャンパスを売却し、その取り壊しとキャンパス移転で数十億を着服する天下りもいました。ゼネコンのリベートで稼いだんです。その大学は生徒集めに窮し、今は中国やベトナムからの留学生で細々と命脈を保っていますが、近々、倒産の噂も聞こえてきます。もちろん、天下り役人はその前にいなくなるでしょうね」

 悪徳教授や官僚を受け入れる私学の側にも落ち度があるとの指摘もあるが、濱野氏はそれは違うという。

「教授会が天下り官僚は採りたくないと考えていても、彼らは巧妙に法人側の上席ポストを占めてしまう。そうなれば、自動的にかつての役所の部下を雇いこむルートができてしまうんです。大学が悪いのではなく、行列を作って乗っ取りに来る方が悪いんです」

 今年3月、松野博一・文部科学大臣は、省庁退職者が許認可や補助金の支出対象である大学や財団に再就職することを当面自粛すると明らかにしたが、果たして実効力がどれだけあるのか。はなはだ疑問と言わざるを得ない。
http://diamond.jp/articles/-/137283


67. 中川隆[-5808] koaQ7Jey 2017年11月27日 13:59:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

チェスタトンの外国語論 早期英語教育は有害


グローバリストの奴隷育成

  文部科学省の中央教育審議会で子供に英語教育を施す環境作りを議論しているそうだ。(『日本の議論』「英語」は本当に必要なのか / 産経新聞 2014年12月20日) 平成28年度にも改定される新学習指導要領では、小学生高学年から英語が科目として導入されるんだって。高校生には英語で討論や交渉力を高めるような教育方針にするという。まったく役人ってのは、どうして余計なことだけでなく、邪魔な改定をするのだろう? 小学生に英語教育など不必要だし、他の教科の時間を削るから有害である。どうせ現場の教師はてんてこまいになって、やる気のない子供は無理強いされてふくれっ面するだけだ。多少興味を示す子供だって、たかが数時間の授業だから挨拶程度でおしまい。すぐペラペラ喋れると期待した子供は授業に失望するだろう。かくして英語の授業はお遊戯の時間となって、子供の学力はみるみる低下するだけ。したり顔のお役人様にいい英語を教えましょう。
Bloody fool, arsehole ! (アホんだら)

  文部官僚や学校教師は立場上の損得勘定をしているから脇に寄せといて、肝心の子供はどのような意見をもっているのか。ベネッセが6200人にアンケートした調査によれば、中高校生の90パーセントが仕事で英語を使うようになる、と予測していることが分かった。テレビや雑誌、学校などで英語の必要性が宣伝されているから当然だろう。しかし、「自分自身が英語を使うイメージがあるか」との問いに対しては、中学生44パーセント、高校生46パーセントが「ほとんどない」と答えたそうだ。具体的な仕事に就いていない生徒に、切迫した現実的必要性はないだろう。

  ところが、英語教育を推進したいのは財界だ。経団連からやって来た三宅龍哉委員は、海外に社員を派遣するときに企業が英語教育をせねばならぬ、と不満の意見を述べた。要は企業が英語教育費を負担することになるから、学校の方(税立施設)で費用と時間を持ってくれ、と要求しているのだ。虫のいい提案だろう。

  もっとけしからんのは、元入試センター教授の小野博・福岡大学客員教授だ。小野氏は「社会情勢の変化により日本企業のアジア進出が更に拡大したり、逆に移民を受け入れるなど、今後日本社会は変化を余儀なくされる可能性が高い。英語は必ず必要になる」と断言したそうだ。こういう馬鹿が教授になっているのだから、いかに大学が堕落しているか分かるだろう。イギリス人が日本に移住してくるわけがなく、おもに英語圏のアジア人を想定しているのだろう。たとえば、フィリピン人のためにどうして我が国の子供が英語を勉強せねばならぬのか。フィリピン人が移民せぬよう防ぐことの方がよっぽど重要である。「社会情勢の変化」という“まやかし”の言葉を用いるところなど、小野氏には如何にも詐欺師的匂いがする。まるで彼は国境を破壊してアジア人を引き入れようとするグローバリストの手先みたいだ。

  小野氏のような腰巾着を登用する財界と役人は、日本人労働者の生活水準をアジア人並(つまり奴隷状態)に下げて、低賃金でこき使いたいだけだろう。そのために小学生から低賃金労働者にすべく、税金を使って調教しようとする肚は見え透いている。国際企業にとりアジアはリスクが高い。社会インフラが貧弱だったり、政情不安で暴動を気にせねばならない。せっかくの投資がパーになったら大変だ。安全で便利な日本で製品を作りたい。日本にインドやシナ、フィリピンから安い労働者を輸入して、利益を最大限まで上げたい。その時、日本人労働者がアジア人と共同して作業できるために、共通語たる簡単な英語が必要なだけだろう。その英語だって簡単な単語を並べて、お互いに推理しながらの意思疎通だ。

  じゃあ聞くが、英語を社員に強要する社長や重役たちは本当に英語で会話しているのか? そんなに英語力が重要なら、英米の有能人物を雇えばよいだろう。そんなこと言ったらお偉方は沈黙。つまり、自分たちは“日本人社員”に向かって、“日本語”で言いたい放題の指図をしたいが、社員どもは雑談でさえ英語を使えと命令するのだ。ユニクロや楽天の社員はどう思っているのだろうか? 日本語では傲慢な態度の重役らは、英米の白人社員の前だと、そのお粗末な英語を披露せねばならぬから、態度が急変して作り笑顔になることがよくある。彼らは同期の重役仲間とは、日本語で会話しながら“のびのびと”ゴルフを楽しむ。ゴルフ場が会議室。英語で雑談などしない。二極分化している日本では、上流階級の子弟は、進学校で英才教育を受けながら日本語で会話をし、低能教育しか受けていない低賃金労働者は、社会の底辺から抜け出せぬ人生を送り、職場ではブロークン英語を強要される仕組みが出来上がる。

怨みのこもった英語教育熱

  日本人が「英語だ、英会話だ」と騒ぐ原因は、多くの国民に学校での英語教育に対する怨みがあるからだろう。十年間くらい勉強したのに、イギリス人やアメリカ人の前でちっとも流暢に喋れないどころか、外人の話を聴き取ることすらできない。そうした若者が親になったら、自分の子供だけは違った教育で英語を流暢に話せるようにさせたい、などと決意して欧米系のインターナショナル学校に入れたりするのだ。勉強が出来なかった親に限って、お金で環境さえ整えれば我が子は自分と違った秀才になると思っていやがる。ばぁーか。蛙の子はカエルだ。日本では英語が喋れるくらいで、自慢になり仕事がもらえる。日テレで英語を披露していた関根麻里という藝人(何の藝かな?)は、米国なら単なる小娘だからテレビに出られない。オヤジの関根勤のほうがよっぽど外国で通用する。だってカマキリ姿でギャグをする藝人の方がアメリカ人にとって面白い。(若きラビット関根の十八番。ただし娘の番組は一度しか観ていないので詳しく語れない。ゴメンなさい。) つまり、子供にはまづ中身のある教育を施し、立派な日本人に育てることが優先事項である。

  元NHKワシントン特派員だった日高義樹の英語なんて酷かった。テレビ東京のレギュラー番組で、ヘンリー・キッシンジャーにインタヴューしたとき、日高氏は、たんに自分の英語を自慢したいがために、通訳を附けずに対談していた。もともと教養がない日高氏が、不慣れな英語を使って鋭い質問など出来るはずがない。台本通りの質問を得意げに吐いていたから、視聴者はつまらないし、どうでもよくなってシラケてしまう。日高のアホは英語より先に政治や歴史を勉強しろ。むかしソニーが輝いていた頃、盛田昭夫会長の話は傾聴に値するものだった。彼の英語は拙(つたな)くても、思わず聞きたくなるようなモノだった。盛田氏の個人的魅力があったからかも知れないが、彼は米国で信念と情熱を込めて中身のある議論を交わしていたのだ。対話しているアメリカ人は、極東アジアから来た英語を喋る九官鳥ではなく、背骨の通った日本の国士を相手にしていたのである。

  つい最近、エアー・バッグ製造のタカタが、缺陷(けっかん)製品のリコール問題で社長が米国の公聴会に召喚され弁明していた。しかし、彼の英語はどちらかと言えば下手で、筆者は大企業の社長でもこの程度かと思った。(詳しく言えば、話す英語にリズムや強弱がないのだ) 大切なのは弁明の中身であり、誠意を示す表現なり態度である。見え透いた嘘を流暢な英語で語っても、アメリカ人は感心しないのだ。個人的魅力がない日本人がいくら英語を喋っても、そのへんのパンク野郎か乞食と同じだろう。日本人は人格形成を蔑ろにして、簡単な英語で空虚な会話を習得しようとしている。せっかく英語を習得したのに、アメリカ人から「へぇー、英語上手ね。あんた香港からの支那人?」て尋ねられたら、日本人は「何を無礼者」と怒るだろう。語学より大切なことがあるのだ。

英語学習より英国史が先

  数学教育についても言いたいことがあるが、今回は語学教育に限って述べたい。日本人が英語を勉強するときには、何らかの目的があってのことだろう。子供はいったい英語で何がしたいのかがはっきりしないまま、学校で英語を詰め込まれるのだから、英語嫌いになって当然だ。日本の公教育は子供に勉強が嫌いになるようプログラムされている。「そんなこととないぞ。こっちとら、一生懸命頑張ってるんだ」と教師は反論するだろう。でも、スクールがギリシア語の「スコラ(σχλη)」から由来することは周知の通り。つまりギリシア人は日常の雑用や仕事を奴隷にやらせて暇だから、みんなで集まって宇宙や地球の構造や摂理を探求するといった趣味に興じていたのだ。だから、幾何学や哲学、論理学といった学問をあれこれ討論しても、定期テストや入試なんか持ち出さなかった。もちろん最低限の基礎知識は必要だ。まったくの素人では議論にならない。ただ、船大工なら親方が新入り職人をテストすることはあっても、プラトンやソクラテスが哲学の議論で仲間に学期末試験なんて課さない。謂わば「オタク族」の集まりにそんなの要らないのだ。しかし、現在の学校では、子供を将来の労働者にすべく、効率的に職業訓練を施したいから、実力試験を課して達成度を測りたいのである。食肉にされるブロイラーが餌と抗生物質で効率的に飼育されるのと同じ要領。家庭で日本語を話している小学生や中学生が、いきなり外国語を強要され、試験でランクづけされたあげく、もっと勉強しろと命令されたら楽しいはずがない。一週間にたった数時間の授業で文法(syntax/grammar)や発音が全く違う言語を習得するなど無理。苦痛のみが増幅するだけだ。一方、ヨーロッパ人にとって英語は姉妹語だから簡単(gravy)である。

chesterton 1  ここで、英国の有名な偉人ギルバート・K.・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton)を紹介したい。筆者も大好きなイギリス人批評家で、日本でも人気の高い碩学の知識人である。チェスタトンは『デイリー・ニューズ』紙に『歴史VS.歴史家』という文章を掲載した。若いときに彼は、「学校に通っている児童には歴史のみを教えるべし」と喝破した。(G.K.Chesterton, History Versus the Historians, Daily News, 25 July, 1908, in Lunacy and Letters, ed. by Dorothy Collins, Sheed & Ward, London, 1958, pp.128-129) チェスタトンが暴論に思えるような意見を述べたのは、当時の古典科目ではラテン語の習得は必修であったからだ。そしてラテン語の教授方法に苦言を呈したのである。「少年は単にラテン語を学ぶだけではラテン語の重要性は分からぬ。しかし、ラテン人の歴史を学ぶことで、それが分かるであろう。」とチェスタトンは提案したのだ。(ラテン人とはローマ人を指す。)

  さすがチェスタトンの炯眼(けいがん)は鋭い。彼が言うには、アウステルリッツ(Austerlit)という地名を地理の授業だけで覚えることはナンセンスだ。単なる計算を学ぶ算数の授業だって同じこと。しかし、フランス皇帝ナポレオン1世が、アウステルリッツでオーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)とロシア皇帝アレクサンドル1世を相手に干戈(かんか)を交えた一大決戦(Bataille d'Austerlitz)となれば話が違う。子供だって大物武将三人が睨み合った三帝会戦(Dreikaiserschlacht)なら、教師の話を手に汗握って聞き入るだろう。日本の子供も桶狭間の戦いや川中島の合戦の話は面白い。弱小藩の織田信長が“海道一の弓取り”今川義元の首をとった逆転劇はスリル満載。智将の上杉謙信と猛将の武田信玄がぶつかった戦の講談は大人だって楽しい。砲兵出身の名将ナポレオンが計算をしたり、地図を見ながら策を練る姿を聞けば、子供たちも地理と算数に興味が沸くだろう。

  チェスタトンは一件無味乾燥な科目でも、その背景を教えてもらえば、子供が“知的好奇心(intellectual curiosity)”が芽生えることを指摘しているのだ。幾何学が嫌いな生徒でも、十字軍のロマンティクな物語やサラセン人の世界を知れば、そのへんてこな数字の羅列に興味を示すかも知れない。(ギリシアの「幾何学Algebra」は中東アジアを経由して西洋に導入されたから。) 英語では「何が何だか分からぬ(It's Greek to me.)」と表現して、ギリシア語などイギリス人には「ちんぷんかんぷん」だろうが、ギリシア人の文化藝術を知れば、その難解な言語を学びたくなる。チェスタトンは、「歴史はすべての学問を、たとえ人類学でも人間臭くする」と言う。「人類学」を人間に親しみのある学問にするとは、いかにもチェスタトンらしいヒューモアだ。

  日本人が外国語習得について考えてみれば、おかしな事に気づくだろう。朝鮮を統治していたのに朝鮮語を喋れる半島在住の日本人(内地人)がほとんどいなかった。朝鮮総督府の役人でさえ、朝鮮語を学ぼうとする者が滅多にいなかったのだ。理由は簡単。馬鹿らしいから。朝鮮人なんて不潔で下劣な民族の言葉をどうして一流国の日本人が学ぶ必要があるのか。初めて見る糞尿だらけの極貧国に、日本人が憧れるような文化はない。朝鮮に渡った日本の知識人だって、儒教を朝鮮人から学ぼうとは思わなかった。小便さえ自分でしなかった両班の姿を見れば笑ってしまうだろう。日本人にはアカンタレと乞食が何を話そうが興味ない。ロシア語なら陸軍将兵も必要を感じたから学ぶ者がいたし、ドイツ語は尊敬するドイツ陸軍とドイツ文化の言葉だから、強制されなくても日本人は進んで学んだのである。現在、支那語に人気がないのは、支那人を見れは納得できる。だって、支那人と話して嬉しいのか?

  我々日本人が英語を学ぶときは、まづ英国史を勉強すべきだ。特殊な職業を目指す子共は別だが、語学能力を本業とせぬ一般の日本人は、イギリス人が如何なる歴史を送ったのか、どんな功績を残したのか、彼らはなぜ大帝国を築くことが出来たのか、などを知るべきだ。そして興味をそそられた者が、イギリス人を自分で理解するために英語を専攻すべきだ。大学入試のためだけの英語とは違い、そこにはイギリス人が感じた事を彼らの言葉で自分も感じることができる喜びがある。こうした語学勉強なら一生続けられるだろう。「ハロー、レッツ・スピーク・イングリッシュ」なんて謳う幼児英会話教室は要らない。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68281664.html


68. 中川隆[-5802] koaQ7Jey 2017年11月27日 19:12:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

中高生の多くに読解力懸念 国立情報学研究所調査 2017年11月27日

 「語の係り受け」など、文章の基本的な構造を理解できていない中高生が多くいるとみられることが、国立情報学研究所の新井紀子教授らの研究チームによる調査で27日までに分かった。新井教授は「読解力が不十分だと社会生活を送る上でも大きな影響が出る」と懸念している。

 調査は2016年4月〜17年7月、中高生を中心とした約2万5千人を対象に実施。中高生の教科書や辞典、新聞記事などに掲載された文章を題材に特別な知識がなくても、基礎的な文法を踏まえていれば答えられるようにした問題を出した。

(共同)


69. 中川隆[-5749] koaQ7Jey 2017年12月21日 10:13:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年12月21日 才能を潰すのが得意な日本
From 小浜逸郎@評論家/国士舘大学客員教授


以前このメルマガに、
「日本からはもうノーベル賞受賞者は出ない?」
という稿を寄せました。
https://38news.jp/economy/11171

ノーベル賞受賞者で京都大学iPS細胞研究所長の
山中伸弥さんが「ご支援のお願い」として
寄付を募っているのです。
そのなかで山中さんは、
「弊所の教職員は9割以上が非正規雇用」と
書いていました。
研究所の財源のほとんどが期限付きだからです。
https://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/fund/

10年、20年という長期間を要する基礎研究に、
政府や大学は十分な資金を与えず、
しかも短期間に成果を出す研究のみを
優遇する方向にシフトしています。

非正規雇用では給料が不十分なだけではなく、
安心して研究に打ち込めません。
それで、若い優秀な人たちが
基礎研究を諦めてしまう傾向が増大しています。

12月13日18時ごろのNHKラジオ番組に、
一昨年、ノーベル物理学賞を受賞した
梶田隆章さんが出演していました。
梶田さんは、
ニュートリノが質量を持つことを示す
「ニュートリノ振動」の発見という偉大な
業績を成し遂げた方です。

この番組で、梶田さんは、
自分が若い頃は、カミオカンデなどの
巨大な装置による実験を長いこと繰り返し、
結果を理論にまとめ上げることが可能だったが、
今では、基礎研究に取り組もうと思っても、
期限付きの研究費しか得られないので、
若い人たちが自分の若い時のように、
腰を据えて研究に集中することができないと、
山中さんと同じことを話していました。

この問題は、自分たちがいくら頑張っても
どうすることもできない。
できるだけ広くみなさんにこの事情を
知ってもらうほかないと、
切々と訴える梶田さんの声が、
今も耳に残っています。

12月5日には、日本のスパコン開発の第一人者
齋藤元章さんが詐欺容疑で逮捕されました。

齋藤さんは天才です。
2014年に株式会社ExaScalerを立ち上げ、
理化学研究所(RIKEN)および、
高エネルギー加速器研究機構(KEK)と
共同研究契約を結び、
わずか七カ月で「Suiren」を開発します。
これが、スパコンの省エネ性能を競うGreen500で
2位にランクイン。
2015年には、同じくGreen500)で、
RIKENの「Shoubu」、KEKの「Suiren Blue」および
「Suiren」の3台が1位から3位までを独占します。

2017年1月には、科学技術振興機構(JST)が、
未来創造ベンチャータイプの新規課題の緊急募集に、
ExaScalerのスパコンが採択されたと発表。
開発期間2017年1月から12月まででしたが、
齋藤さんは、その締め切り直前に
逮捕されてしまいました。

逮捕容疑は、技術開発助成金を得るのに、
報告書を他の目的に書き換えて
四億円程度の水増し請求をしたというもの。
もちろん容疑が事実なら、いいとは言いませんが、
まだ実際に四億円をもらったわけでもないし、
他の研究者の言によれば、
この程度のことは日常茶飯事だそうです。
注意勧告して書き直させれば済む話。

なぜこういうことになるのか。
政府が先端技術研究のための資金を出し惜しみ、
国家的プロジェクトに
十分なお金をつぎ込まないからです。

齋藤さんは、雑誌『正論』2017年2月号で、
次のように訴えています。

このままでは日本はスパコンで中国に
負けてしまう。中国が一位になると、
エネルギー、安全保障、食料、医療、
自然災害対策など、すべての面で中国に
支配されてしまいかねない。
自分たちのプロジェクトのために
せめて三百億円の資金がほしい、と。

国家の命運がかかっている問題で、
政府がちゃんと資金援助をしないから
最高の頭脳を潰すことになるのです。
これによる日本全体の損失は計り知れません。

三橋さんの著書の題名ではありませんが、
こうして財務省の緊縮路線が日本を滅ぼします。

日本は江戸時代以来の倹約道徳教国家で、
いつも小さなことを大げさに騒ぎ立てて、
物事の優先順位を間違えます。

さらに想像をたくましくすれば、
逮捕した東京地検特捜部にも
反日勢力が入り込んでいるのではないか。
つい数日前も、リニア新幹線の工事をめぐって、
大手ゼネコン四社が談合の疑いで
特捜部の捜査を受けました。
これでリニア新幹線工事はまた遅れるでしょう。
齋藤さん逮捕にしてもリニア新幹線にしても、
某国の勢力が手をまわしているという
陰謀論に与したくなります。

もしそうでないとすれば、
東京地検特捜部や公取委は、
大局を見失い、正義漢ぶって摘発教条主義に
陥っているのです。
亡国を目指す官庁がまた増えました。
https://38news.jp/economy/11433


70. 中川隆[-5727] koaQ7Jey 2017年12月23日 10:27:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

詐欺に引っ掛かる日本人 / 怨念を動機にする英語教育 (Part 1)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691413.html


詐欺師が得意とする人、苦手とする人


Robert Vaughn 1Jaime Murray 1Oceans Eleven
(左: 英国のTVドラマ『ハッスル』で詐欺師を演じるロバート・ヴォーン / 中央: 『ハッスル』で共演したジェイミー・マレー / 右: 映画『オーシャンズ11』で詐欺師を演じたブラッド・ピットとジョージ・クルーニー )

  世の中に詐欺師が多いのは周知の事実。ただ、ここで問題なのは、誰が本物の詐欺師で、どいつが“詐欺師もどき”なのか判らない点である。というのも、プロの詐欺師なら確信犯だから仕方ないけど、騙されていることに気付かぬまま詐欺師に協力する者や、嘘つきに唆(そそのか)されて共犯になる者、あるいは本気でそのホラ話を信じている者、さらに厄介なのは単なる馬鹿がいるからだ。

  世間のオっちやんやオバちゃんは、新聞やテレビで金融詐欺とか投資詐欺を目にすると、「こんな詐欺に引っ掛かるなんて、まったくどんな頭をしてやがんるだ? 」と嘲笑し、「愚かな奴だ !」と斬り捨てることがある。しかし、騙された者がみんなアホ・馬鹿・間抜けとは限らない。実際は、知能が高ければ高いほど、持ち掛けられた取引を自分の利益になるはずだと思い込み、虎の子のお金ばかりか、時には他人のお金まで流用して儲けを摑もうと試みる。事件が明るみに出た後で、「ああだった」「こうだ」と後知恵をつけることは可能だが、騙されている間は気付かぬものだ。「カモ」は現実と虚構の区別がつかない“世界”に放り込まれているので、何処までがフィクションで、どこが本当なのか判別できないのである。

  したがって、騙されるのは頭の善し悪しではない。犯罪に詳しい専門家によれば、詐欺師を手こずらせる程の切れ者でも、その人に適した手法を使えばすぐ乗ってくるという。頭の良い人は、最初、何となく不正な取引と勘ぐるものの、あれこれ考えた末、欲の皮が膨張するせいか、やっぱり“エサ”に食いつくそうだ。そして、意外なことに、ほとんどのカモは上流階級の出身者であるという。(デイヴィッド・W・モラー 『詐欺師入門』 山本光伸訳、光文社、1999年 p.127) アメリカたど、それは金を儲けた者とか、金目当てで結婚した者、誰かの財産を相続した人を意味するらしい。彼らは自然と優越感を持つような地位に就いており、とりわけ資金調達や投資話に対しては、しっかりつとした判断を下せると思っている。だが本当は、出世を狙っている友人がいたり、仕事仲間が手助けしてくれたお陰なのだ。ところが、こうした自惚れ屋は、自分が優れているから大金を手にできたのだ、と思い込む。こんな具合だから、自信や幻想を抱く者の中には、次第に自分を天才的人物と考える輩(やから)がいるそうだ。

  例えば、土地開発で50万ドルないし100万ドルを儲けた実業家は、自分が幸運であったことや、人を強引に丸め込んだことを綺麗さっぱり忘れ、自分には先見の明があるとか洞察力に富んでいると思ってしまう。詐欺師によると、不動産業者はカモの中でも最も“美味しい”獲物であるらしい。実業家も似たようなもので、彼らは儲け話しに敏感で、詐欺グループが雇った「おとり」や「インサイド・マン」に引っ掛かりやすく、擦り寄ってくる犯罪者の魅力に惹きつけられやすいそうだ。しかも、このカモは大博打に賭ける資金を豊富に持っているし、たとえ手元に現金が無くても何処からか資金を調達できるから、詐欺師にしたら笑いが止まらない。その他、銀行家や遺産を担当する遺言執行人、信託資金の管財人とか監督者も驚くほど簡単に騙されるという。例えば、「ビッグW」という詐欺師は、コネチカット州に住む敬虔な教会管財人を騙し、大金を巻き上げたことがあるそうだ。詐欺師の業界では、医者や弁護士、大学教授も例外ではないという。

  それにしても、詐欺師は心理戦の達人だ。彼らはカモの欲望や虚栄心、自尊心につけ込むのが上手い。詐欺師が狡賢いのは当然だが、彼らは見た目や感じが良く、どんな人とでも親しくなれる。15分もあれば誰とでも仲良くなれるし、1日か2日あれば親友の域にまで達することができるという。(上掲書 p.132) 彼らは全国をあちこち動き回っており、客船や列車の中でカモを見つけると、偶然を装って罠に嵌めようとするらしい。彼らはお金の嗅覚に優れており、狙ったカモに接近する“コツ”を心得ている。詐欺師は何よりもまず聞き上手になるらしい。そうすれば、相手の目的地や職業、および経済状況が直ぐに分かり、趣味とか家族、友人、浮気相手のことまで聞き出せるという。詐欺師はカモを見つけたその日に騙すこともあるが、完全に引っ掛かるまで“ゆっくり”と時間をかけたほうが安全、と踏むこともあるそうだ。

  詐欺師によると、世間には何度でも騙せる「旨いカモ」がいる一方で、なかなか騙せないタイプの人もいるという。カモには共通する特徴があるそうで、それは「みんな嘘つきである」ということだ。たいていのカモは、自分がどれくらい金があるのか、どんな投資を行っているのか、どれほど良い家柄の出身なのか、妻や子供がどれほど素晴らしいのか、について嘘をつくらしい。中には豊富な恋愛体験について長々と話す者もいるそうだ。ほとんどの場合、カモがこうした嘘をつくのは、自分の利益を図るためで、詐欺師は容易にカモの見栄を“見抜き”、そこをくすぐって仕事に取りかかる。一方、被害者は得意になって自慢話を語り、それが元で大損をする破目になるから実に憐れだ。しかも、カモにされたと判ったら、その経緯(いきさつ)についても嘘をつく。知識人とか社会的身分が高い者は、自分が間抜けだったことを認めたがらず、自己防衛のために適当な話をでっち上げ、次第に自分でもその捏造話を信じてしまうらしい。詐欺師によれば、これは致し方ないことであり、大目に見ているそうだ。

  では、騙されない人というのは、一体どんなタイプなのか? ズバリ、それは正直な人。詐欺師は何が誠実で何を不誠実であるかを知っている者に手を焼く。こうした人物は、静かに湧き起こる心の声に耳を傾けるので、絶対に誘惑に乗ってこない。大半の詐欺師は彼らに出逢っても、決して馬鹿にすることはせず、ただ困惑するだけである。ベテラン詐欺師はほとんど同じ言葉を口にするという。本当に正直者は騙せない。(上掲書 p.143) 象牙の塔で屁理屈を並べている大学教授より、現実の世界で詐欺を実行する犯罪者の意見の方が、よっぽど貴重であり、含蓄に富んでいる。


アジア人を理想とする英語教育

  前置きが随分と長くなってしまったが、英語教育の改革を検討し、提唱する人々を判断するうえで、詐欺師の見解はとても参考になる。なぜなら、高学歴を誇る保護者や知識人を気取る評論家が、いかに文科省の“甘い罠”に嵌まっているのか、が判るからだ。各マスコミの報道によれば、2020年から小学校で本格的な英語教育が実施されるそうで、3、4年生で英語の授業が「外国語活動」となり、5、6年生の段階で「教科」になるらしい。小学校とは縁の薄い大人だと、「どうして小学三年生から英語を始めるんだ?」と訝しむが、文科省には大義名分があるという。役人の「弁明」に一々文句をつけてもしょうがないけど、教育審議会とか外国語専門部会の連中が言うには、以下の様な理由がある。例えば、

  グローバル化により、個々人が国際的に流通する商品やサービス、国際的な活動に触れ、参画する機会が増大するとともに、誰もが世界において活躍する可能性が広がっている。

  さらに、IT革命の進展により、国を超えて、知識や情報を入手、理解し、さらに発信、対話する能力、いわゆるグローバル・リテラシーの確立が求められている。

  また、インターネットの普及や外国人労働者の増加などによって、国内においても外国語でコミュニケーションを図る機会が増えている。

  まったくもう、こんな「言い訳」を聴けば、「あぁ〜あ、また“グローバル化”かよぉ〜」とボヤきたくなる。何かと言えば、政治家や官僚は「グローバル時代だ、国際化社会になった」と騒ぐ。「グローバル(地球的)」と言ったって、要は歐米世界のことだろう。一般の日本人が「グローバル時代」と耳にして、アルバニアとかモルドバ、シエラレオネ、アンゴラ、モルディブ、トルクメニスタンなどを思い浮かべるのか? だいたい、一般の日本人が英語の地図を広げて、「ここがザンビアで、あっちがベニン」とか、「ウズベクスタンとカザフスタンはここ」と指すことは出来ない。地理どころが、どんな民族がいて、何語を話しているのかさえ判らないのだ。日本人が英語を用いて話す相手というのは、もっぱらアメリカやヨーロッパの白人である。つまり、英語を難なく喋るゲルマン語族の人々なのだ。

  将来、貿易商とか国際弁護士、科学者、旅行業者になろうとする人なら別だが、普通の日本人には英語の会話能力とか、文章作成能力は必要ない。確かに、こうした能力はあってもいいが、それを習得する時間と金銭を考えれば、本当にそれを身につける必要があるのかと首を傾げたくなる。一般人が漠然と思い描くのは、西歐白人と楽しく会話する自分の姿くらいだ。英会話スクールに通っている人の中には、ビジネス上やむを得ず勉強する破目になった者もいるが、流暢に喋れる日本人を見て憧れたとか、「白人と喋れるようになったらいいなぁ」という軽い気持ちで入ってくる人もいるはずだ。大半の日本人は口にしないけど、いくら英語を話すからと言っても、フィリピン人やインド人とコミュニケーションを取りたいとは思わない。アジア人と親しく会話するために、小中高大と学校で10年間も費やす者は居るまい。その証拠に、英会話学校の宣伝には、ユアン・マクレガーとかキャメロン・ディアスのような白人ばかりが起用され、ウィル・スミス(Will Smith)といった黒人とか、マレー・アブラハム(Fahrid Murray Abraham)のようなシリア系アメリカ人、あるいはジャッキー・チェンみたいな香港の支那人が採用される事はまずない。

Ewan McGregor 8Cameron Diaz 2Will Smith 4Murray Abraham 1
(左: ユアン・マクレガー / キャメロン・ディアス / ウィル・スミス / 右: マレー・アブラハム)

  筆者は日本人が西歐人と接触し、直に意見を交わしたり、彼らと親睦を深めることや、様々な活動を共にするといったことに異論はない。ただ、文科省の役人や霞ヶ関の議員が、我が国の子供をアジア人並みに格下げしようと謀っているから反対なのだ。察するに、教育行政を司る役人は、英語教育を用いて日本版のフィリピン人を生産したいのだろう。よく日本にやって来るフィリピ人とは、スペイン人に征服され、アメリカ人に売り飛ばされた南洋土人に過ぎない。彼らは形式的に独立してもアメリカの属州民で、国内政治に於いても支那系の華僑に支配されている。上流階級の支那人にとったら、ルソン島のタガログ族など「南蛮人」の類いで、マムシやトカゲと同じだ。彼らの「仲間」というのは、同じ言葉と文化を共有する華僑のみ。ゴミ捨て場に生まれ育ったフィリピン土人は、「エンターテイナー」と称してキャバレーで働き、裸踊りか売春が本業だ。彼女達も英語を話すが、日本人男性はコミュニケーションより“スキンシップ”を取りたがる。

  英語に夢中な日本人は、フィリピン人如きになるべく勉強している訳ではないが、役人たちは庶民の子供をアジア人と見なしている。「国際化時代だから、アジアの民に後れを取るな」と言いたいのだろう。文科省曰わく、

  国際的には、国家戦略として、小学校段階における英語教育を実施する国が急速に増加している。例えば、アジアの非英語圏を見ると、1996年にタイが必修化し、97年には韓国、2001年には中国が段階的に必修化を開始した。EUにおいては、母語以外に2つの言語を学ぶべきとし、早い時期からの外国語教育を推進している。例えば、フランスは2002年に必修化の方針を決定し、2007年から実施する方向で取組を進めている。

  日本の子供が目指す理想がタイ人とか朝鮮人、支那人とは恐れ入る。タイ人の一部が英語を習得するのは、上流階級に昇りたいとか、西歐人相手の商売で儲けたい、という後進国の悲願が基になっている。貧乏で薄汚い環境から抜け出す手段としての英語なんだから何とも憐れだ。南鮮人の場合はもっと切迫しており、「地獄と変わらない朝鮮(ヘル・コリア)」から脱出するため、寝る暇を惜しんで英語を勉強する者が多い。中には、米国の大学を卒業しなければ明るい未来が無いから必死で勉強する者もいる。科擧の因襲が色濃く残る朝鮮では、何でも試験、学歴、派閥、人脈だ。エリート・コース以外に楽しい人生は無いし、一旦そこからはみ出せば二度と戻ることはできない。大手の会社をクビになれば、屋台を引いて小銭を稼ぐしかないし、それがイヤなら天国に一番近い日本へ密入国だ。

kids in thai 2Filipino girls 6chinese girl 2
(左: タイ人の子供たち / 中央: フィリピン人の女性 / 右: 支那人の女性 )

  支那人が英語を学ぶのは一に「銭」、次に「金」、三、四が無くても五番目に「札」、と「お金」がすべてで、最初から最後まで利益が目的。キリスト教徒にとってイエズスが「アルファでありオメガである」ならば、支那人にとっての神様はキリスト教徒が唾棄する「マモン(強欲の神)」である。1億人か2億人がゼニの亡者となって英語を勉強するんだから、優秀な人物が出てくるのは当然だ。支那人は書物の中にゼニが隠れていると思っているんだから。日本の小学校で、先生が児童に向かって、「さあ、みなさん、英語の教科書を開いてくださぁ〜い。小判が見えますよぉ !」と教えるのか? アバ(ABBA)の曲「マネー、マネー、マネー」だって歌わないぞ。

  文科省の例は狡猾だ。フランス人が英語の授業を必須化したって不思議じゃない。英語の語彙にはフランス語やラテン語を語源とする単語が多いし、文法だって似ているから、フランス人の子供にしたら、ちょいとした方言を学ぶようなものである。一般の日本人は英語やドイツ語、スペイン語、イタリア語を話せるというフランス人を紹介されると、「わぁぁ、凄いなぁ」と感心するが、英語やドイツ語は姉妹語に当たる西ゲルマン語だし、スペイン語やイタリア語は同じロマンス語に属する言葉だから難しくはない。江戸っ子に津軽弁や名古屋弁、博多弁、薩摩弁を喋れと命じれば、即座には無理だが、時間をかければ不可能ではないだろう。日本人は気付かないけど、全国の方言を平仮名とかアルファベットで書き記すと、まるで外国語のように思えてくる。しかし、基本的な文法や語彙は同じだし、いくら発音やイントネーションが違うといっても、習得する速度を考えれば、ヨーロッパ人より日本人の方が早い。

Sigrid Agren 1 FrenchFrench kids 4
(写真 / フランス人の女性と子供たち)

  小学校からの英語教育となれば、その効果を疑って反対を表明する人もいるけど、普通の親は英語教育の導入に賛成しがちだ。というのも、自分が英語を上手に喋れないからである。一般国民の中には、「小さい頃から“ちゃんとした”英語教育を受けてこなかったせいで苦手なんだ」と恨む人が多い。中学生や高校生の頃、英語が不得意で、期末試験などで酷い点数しか取れなかった、大学受験で猛勉強したけど結局は失敗した、と様々な体験を持経て、後悔の念に駆られている人が親となっているんだから、「我が子には同じ苦痛を味合わせたくない」と考えても無理はない。だから、「まだ小学生では早いかな」と躊躇(ためら)う親でも、テレビに登場する大学教授や教育評論家から、「あなたのお子さんも小さい時から英語に慣れ親しめば、ネイティヴのように英語がペラペラと話せますよ」と聞かされれば、「そうよ。私が不得意だったのは、小さい頃から英語に触れていなかったせいだわ」と思ってしまう。自分で勉強しなかった親に限って、教育制度が悪い、学校の教師がネイティヴ・スピーカーじゃない、文法一辺倒で会話を軽視している、などと不満をぶちまける。自分の怠け癖を棚に上げて、政府の教育方針に異を唱え、自分の子供に「果たせぬ夢」を押しつけるんだから、英語教育への恨みは相当なものだ。

Watanabe Shoichi(左 / 渡部昇一 )

  英会話を等閑(なおざり)にしてきた学校に腹を立てる日本人はかなりいて、故・渡部昇一先生が喝破したように、「ルサンチマン(恨み)」の上に教育改革は成り立っている。上智大学で教鞭を執っていた渡部教授は、英文法の形成に興味を惹かれ、ドイツのミュンスター大学で博士号(PhD)を取得し、『イギリス文法史』、『英語学史』『イギリス国学史』といった名著を世に出していた。(ちなみに、渡部先生は上智大学で名誉教授になったけど、本当はミュンスター大学の名誉博士号の方がすごい。日本の名誉博士号は退職者への単なるプレゼントだが、ドイツの大学が授ける「エメリタス(emeritus)」は輝かしい業績のある者だけに贈られる称号なのだ。)

  ドイツ人の学者が「えっ、ドイツの大学で博士になったの?」と驚嘆する渡部先生によれば、日本の英語教育における目的は、流暢に喋る事ではなく、良い文章を書けることにあるそうだ。英語をペラペラと喋るだけなら乞食にでも出来るが、立派な論文を書くには“しっかり”と文法を勉強し、論理的な文章を構成できる知能を養わねばならない。 歐米の大学に留学したことがある者なら解ると思うが、教授たちは学生がどのような「論文」を書けるかで判断する。いくら授業中にテキパキと発言できても、肝心の学術論文が凡庸なら評価が低く、文法がいい加減で不明確な論述だと却下されてしまう。だから、英語の書物を読む日本人は、著者が何を述べているのか明確に理解せねばならず、その為には日本語で“はっきり”と意味が取れないと咀嚼(そしゃく)したことにはならない。簡単な日常会話なら“おおよそ”の意味さえ解ればいいけれど、学問の世界だと“ちょろまかし”は御法度だ。したがって、日本の英語教育は正確な読解力と作文能力を重視すべし、というのが渡部先生の持論である。もちろん、何らかの特殊な職業に就く人には英会話能力が必要だと述べていたが、一般の子供にまで会話能力の習得を押しつけるとなれば、ネイティヴ・スピーカーを教師に雇い、厖大な授業数を設けなければならない。もしそうなったら、教育現場は大慌てだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691413.html


71. 中川隆[-5717] koaQ7Jey 2017年12月24日 19:05:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


グローバル企業が支援する愚民か政策 / 怨念を動機にする英語教育 (part 2)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691561.html


「お遊び」としての英語教科

Nathalie Delon 1English teacher 7
(左: 『個人教授』でのナタリー・ドロン / 右: 実際に英語を教える教師 )

  教育改革の理念はご立派だけど、実際、学校側はどのような「英語教育」を行ってきたのか? 「小学校英語活動実施状況調査」によると、公立小学校の総合学習において、約8割の学校が英語活動を実施しており、特別活動等も含め何らかの形で英語活動を実施している学校は、93.6%に及んでいるそうだ。第6学年では、英語活動を実施している学校のうち、97.1%が「歌やゲームなど英語に親しむ活動」を行い、94.8%が「簡単な英会話(挨拶や自己紹介など)の練習」に取り組んでいるという。また、73%が「英語の発音の練習」を行っているそうで、年間の平均授業実施時数は、第6学年で13.7単位時間(1単位時間は45分)であるらしい。


  「英語の授業」といっても、外人教師が子供たちと一緒に歌ったり、大袈裟なジェスチャーで挨拶する程度なんだから、実質的には「遊びの時間」である。文科省は具体例を挙げているので、ちょっと紹介したい。

  @ 例えば、自分の好きなものについて話すという言語の使用場面を設定して、実際に英語を使って、自分が好きな食べ物について話しあったりする(コミュニケーション)。その際、国語科の内容とも関連させながら、日本語になった外国語にはどのようなものがあるかを学習する(言語・文化理解)。また、apple, orangeなどの単語を通して英語の音声に触れてみたり、I like apples.などの表現例を使ってみたりする(スキル)。


  A例えば、友達を誘うという言語の使用場面を設定して、実際に英語を使って、自分が好きな遊びに友だちを誘ってみる(コミュニケーション)。その際、日本の遊びと世界の遊びについて比較対照してみる(言語・文化理解)。また、ohajiki, baseballなどの単語を通して英語の音声に触れてみたり,Let's play ohajiki.などの表現例を使ってみたりする(スキル)。

  もう、論じることすら馬鹿らしくなる。確かに、小学生なら教師の言葉を真似て、上手に「アップル」とか「オレンジ」と発音できるだろう。しかし、自分が欲する事や感じた事をそのまま文章にできまい。「リンゴが好き !」といった簡単な文章なら英語で表現できようが、気に入った服や玩具を買ってもらいたい時など、“微妙”な呼吸を必要とする場合には、慣れ親しんだ日本語となるだろう。例えば、母親と一緒に百貨店を訪れた少年が、「ねぇ、ママ、僕、あのオモチャがおうちにあったら、毎日ママに見せてあげられるんだけどなぁ」とねだることもあるし、父親に連れられた娘が「パパ、私このお人形が前から欲しかったんだけど、クリスマスまで我慢するね」と哀しそうな目をして、暗に買ってくれとせがむこともある。(賢い子供なら、“こっそり”とお爺ちゃんやお婆ちゃんに「おねだり」を考える。なぜなら、こうした小悪魔は祖父母が孫に甘いことを熟知しているからだ。) 子供は一番便利な言葉を選んで生活するものだ。両親が日本人なら、いくら学校で英語を学んでも無駄である。子供は親に向かって日本語を話すし、親の方も日本語で答えるはずだ。

特に、子供を叱る場合、「こらぁぁ、何やってんの!! そんなことしたらダメぢゃない !」と言うだろうし、オモチャを買ってくれとせがまれた時も、「泣いたってアカンで。無理なもんは無理や !!」と日本語で却下するだろう。したがって、日常会話の80%ないし99%が日本語なら、学校の授業なんか焼け石に水である。

Filipino maids 1Vietnamese workers 1
(左: フィリピン人の女中 / 右: ベイナム人の労働者 )

  「外国語専門部会」のメンバーは、机上の空論を弄ぶ連中だから単なる馬鹿ですまされるが、その方針を支持する経済界の連中には用心が必要である。彼らは「グローバル化に伴う英語の重要性」を看板に掲げているけど、本音ではアジア人労働者と一緒に作業が出来る日本人を求めているだけだ。英語を用いてコミュニケーションをはかる相手とは、教養と財産を持つ西歐白人ではない。稚拙な英語教育で低脳成人となった日本人は、工場や下請け企業でアジア系従業員と同列になり、カタコトの英語で仕事をする破目になる。大手企業が輸入するフィリピン人やマレー人、ベトナム人、支那人などに日本語を習得させるのは困難だから、簡単な「共通語」を職場の言葉にする方がいい。英語なら多少発音がおかしくても通じるし、移民労働者も多少の予備知識を備えているから、日本人の現場監督でも何とかなる。「グローバル化」と言えば響きが良いが、その根底には、日本人に対する待遇をアジア人並に引き下げ、低賃金労働者としてこき使おうとする目論見は明らかだ。子供の将来を案じ、私塾にまで通わせる日本人の親は、我が子をフィリピン人並に育てるべくお金を払っている訳ではない。しかし、お遊びの英語教育を受ける子供は、数学や理科、国語などの授業数を削られるから、総合的な学力低下は避けられず、卒業してから就く仕事は限られている。だいたい、望んでもいない低級な職種とか、厭々ながらの職業に就いた若者が、やる気と向上心を持って働くのか? 職場意識の低下は明らかだ。

どんな外人を雇うのか ?

  もう一つ、英語教育改革に伴う問題として挙げられるのは、どうやって充分なALT(Assistant Language Teacher / 外国語指導助手)を確保するかである。現在、英語の授業は日本人の教師に加えて、英語圏からの補助教員を用いて行われているから、各地方自治体は適切な外人のリクルートに手を焼いているそうだ。ベネッセ教育総合研究所の調査によれば、教育現場は英語を専門とする講師や、日本語がある程度話せるALTを獲得したいそうだが、実際のところ、こうした外人は稀で、日本人教師との意思疎通が困難なうえに、授業の打ち合わせができない。しかも、ALTが2、3で交替してしまうし、ALTによって方針や態度が違いすぎる。もっと悪いことに、指導力が身についていないALTが多いという。これは教師でない筆者も想像ができる。英語を話すアメリカ人やオーストラリア人だからといって、外国人に英語を教える能力があるとは限らない。日本語は文法や語彙、発音の点で英語と全く異なる。とりわけ、日本語を話す子供を相手にする場合、相当な根気と熱意が必要で、教育技術の無い外人を雇ったってトラブルが増すだけだ。もし、日本人教師がサウジ・アラビアに派遣されて、現地の子供に日本語を教える破目になったら、一体どのような事が起こるのか? 想像しただけで恐ろしくなる。

English teacher in AsiaEnglish teacher in Korea
(写真 / アジアへ派遣された英語教師 )

  充分な外人ALTを確保する場合、自治体が負担する費用も馬鹿にならない。仮にも教師だから、渋谷とか新宿で見つけた不良外人を雇うわけにも行かないので、多くの学校はJETプログラム(外国語青年招致事業 / The Japan Exchange and Teaching Programme)に頼んで、外人教師を斡旋してもらうことになる。しかし、上質な人材を招致するとなれば、それなりの給料や恩給を約束しなければならないし、待遇だって日本人以上に設定しないと承諾されない場合もあるだろう。小さな地方公共団体だと予算不足に悩んでいるので、ALTへの住居手当とか出張費を考えると頭が痛い。こうなれば、民間企業に頼らざるを得ないし、人材派遣業者だって甘い言葉を囁いてくる。ALTの増加要請は、地方自治体にとって財政的なピンチだが、「口入れ屋」にとっては儲けるチャンスだ。海外で安く仕入れた「外人」を日本に輸入して高く売りさばく。これを大手の人材派遣会社が全国展開のビジネスにすれば、大きな利鞘を得ることになる。ついでに不動産屋と結託し、外人教師の住宅もセットにすれば、更なる利益を摑むことができるだろう。

  一方、予算の確保に困った地方の役人は、まず中央に泣きつくから、巨額な補助金が各地に流れることになる。気前の良い中央官庁がバックにつけば、学校側は外人教師に高給を渡すことができ、口入れ屋もピンハネ額が多くなってニコニコ顔。これって、何となく、売春婦を斡旋する女衒(ぜげん)みたいだ。例えば、日本の派遣業者が不景気なアイルランドを訪れ、適当な「教師」を物色したとする。教師としての資質が不充分でも、英語を話す白人を物色できれば、日本で高く販売できるから、多少、交渉金が釣り上がっても採算が合う。どうせ庶民のガキに歌や絵本を教えるだけの「補助教員」だから、教養とか品格は問題じゃない。結局、損をするのは、「お遊び」の英語に時間を費やし、気位だけが高い愚民へと成長する子供たちと、巧妙に税金を吸い取られる親の方である。

English teacher 6Alexz Johnson 1
(左: 英語を話す黒人女性  / 右: カナダの白人女性 )

  凡庸な外人ALTをあてがわれる事態となれば、子供を預ける親も心配になるが、子供の方にも別の不満が募ってくる。学校教師は言いづらいだろうが、外人教師の人種や容姿が問題となるからだ。極端な例だが、もしAクラスを担当する外人ALTが金髪碧眼の若いイギリス人女性で、Bクラスを受け持つALTがブリテン国籍者なんだけどジャマイカ系の黒人男性であったら、どんな反応が起こるのか? もちろん、両者も英国で言語学を専攻し、教員免許を持っている。しかし、Bクラスの子供たちは、Aクラスの生徒を羨み、「僕もAクラスの先生がいい」とか「Aクラスの方に移りたい」と言い出す。さらに、保護者からも「どうしてBクラスはイギリス白人の先生じゃないの?」と抗議が来る。

  英語の教師を探す場合、イングランドやアメリカだけではなく、カナダとかオーストラリア、アイルランドも募集地となるが、事によってはインドやエジプト、ケニア、フィリピンだって候補地となり得る。外人講師への出費を抑えようと思えば、アジアかアフリカ出身者の方がいい。でも、子供たちの反応を考えれば、ブリテン連邦や北米出身の白人教師の方が“適切”と思えてくる。あり得ないことだけど、もし中学校の英語教師をイングランドから招くなら、ケンブリッジ公爵夫人となったキャサリン・ミドルトンのような女性の方が好ましく、やがでヘンリー王子と結婚するメーガン・マークルのような黒人女性じゃ二の足を踏んでしまうじゃないか。

kate 21Meghan Markle 11Queen Elizabeth IIPrince Philip 2
(左: キャサリン妃 / メーガン・マークル / エリザベス女王 / 右: フィリップ殿下)

  確かに、どちらも心優しい女性であるが、マークル氏がイギリス文化を解説するなんて、ちょっと抵抗がある。イギリス系のカナダ人が教えるんなら納得できるけど、支那系とかアフリカ系のカナダ人だと遠慮したい。やはり、英国の言葉や風習を教えてもらうなら、先祖代々イングランドに暮らすアングロ・サクソン系のイギリス人の方がいいし、パキスタン移民3世とかインド系帰化人5世の教師より、オランダ系やドイツ系の移民2世の方がマシだ。何しろ、イングランド王国では女王陛下がドイツ系だし、フィリップ殿下はギリシア出身のドイツ系貴族で、スコットランドのエジンバラ公爵になっている。日本の皇室とは大違いだ。

  ベネッセ教育総合研究所が行ったアンケートに、「英語教育で重要なこと」という項目があり、そこでは外国人との交流に関する質問があった。「とても重要」と答えた人は英語教育賛成派で55.4%を占め、反対派でさえ30.7%であった。最重要とは言えないが「まあ重要」と答えたのは、賛成派で41.6%、反対派では54.9%であった。ということは、賛成派と反対派を問わず、多くの人が外国人との交流に何らかの重要性を見出している訳で、子供たちが進んで外国人に接することを期待していることになる。だが、話しかける相手が西歐白人ではなく、イングランドに移り住んで来たインド人やパキスタン人、トルコ系帰化人の2世や3世、あるいはブリテン国籍を持つアラブ系イスラム教徒であったらどうなるのか? イギリス人とは思えない容姿の教師を前にして、日本の子供たちが積極的に話しかけ、英語やイギリス文化に興味を示すとは思えない。

Indian man 5Jamaican in Britain 1Muslim man 3
(左: インド系男性 / 中央: 英国のジャマイカ人女性 / 右: ムスリム男性 )

  もし、帰宅した息子に母親が、「今日、英語の時間はどうだった?」と尋ね、「う〜ん、別に」といった返事だけしか得られなかったら心配になる。それに、問い詰められた息子が、「あんまり面白くない」とか「あの先生イヤだ」と呟いたらどうするのか? 具体的な将来設計を描けない小学生は、教師によって好き嫌いができてしまい、好きな先生の授業なら喜んで学ぼうとするが、気に入らない教師に当たるとガッカリする。ある心理学の実験によれば、幼児だって美女を見ると自分から抱きつこうとするらしく、ブスだと顔を背け、抱きつこうとしないそうである。幼い子供は理性でなく本能で行動するから、大人は冷や冷やするらしい。こうした行動様式はともかく、高額所得者の親を持つ子供は有利だ。お金持ちの保護者は自由に私立学校を選択できるし、優秀な講師を揃えた英語塾にも通わせることができる。しかし、低所得の家庭だと公立学校へ通わせることしかできない。つまり、「選択肢」の無い親子は、どんな学校でも我慢するしかないのだ。

  「日本の学校における教育理念とは何なのか」については様々な意見があるけれど、「立派な日本国民を育成する」ということに関しては、異論はあるまい。いくら英語を流暢に話して歐米人と対等に議論できるといっても、外国人に対して卑屈なら日本人としては失格だ。英語を習得することだけに労力を費やし、大人になっても自国の文化を知らず、日本語さえも未熟なら、こうした人物は歐米人の小使いに過ぎない。まるでローマ人の将軍に飼われたユダヤ人通訳みたいなもので、便利だけど尊敬に値しない「下僕」である。日本人が思考する時に用いる言語は日本語であり、その性格を形成するのも日本語である。その大切な言葉遣いが幼稚で、日本の歴史についても無知な者が、祖国に誇りを持って生きて行けるのか? アメリカ人やイギリス人は、いくら英語が達者な日本人でも、揉み手すり手でやって来る小僧を「対等な者」とは思わない。現在の英語教育は歐米人に対する劣等感を植え付けるだけで、卑屈な日本人を大量生産する結果になっている。我々は英語が苦手なことで尻込みする必要は無い。もし、「英語を流暢に話せるんだぞ」と自慢するクラスメートに会ったら、「ああ、すごいねぇ。まるでフィリピン人みたい」と褒めてやれ。どんな顔をするのか楽しみだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691561.html


72. 中川隆[-5752] koaQ7Jey 2018年1月31日 20:47:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

内田樹の研究室 2018.01.31

『街場の文体論』韓国語版序文

これが韓国語訳されることになったわけですけれど、果たして僕がこの授業で取り上げたさまざまなトピックが隣国の読者たちにとっても同じような切実さを持つものかどうか、確信がありません。でも、一つ言えるのは、韓国でも日本でも、言語が遭遇している危機についてはおそらくそれほどの違いはないということです。それは母語が痩せ細っているということです。序文として、それについて少しだけ思うことを書いてみたいと思います。

母語が痩せ細っているというのは、現実的には英語が支配的な言語になりつつあるということです。すでに各種の学会ではそうなりつつあります。

自然科学系の学会ではしばしば日本人だけの集まりでも発表や質疑は英語で行われます。研究者たちは英語で論文を読んで、英語で論文を書いて、英語で議論する。

韓国でも事情は同じだと聞いています。どちらも英語での大学の授業数が増えています。

「留学生数」や「海外提携校数」や「英語で開講されている授業数」や「外国人教員数」が多い学校に助成金がたくさん分配される。

だから、どの大学も必死になって英語に教育資源を集中的に分配するようになっています。

日本では中学高校で英語の授業は英語で行うことが定められました。

こういう流れを「国際化」とか「グローバル化」といって肯定的に語る人がたくさんいます。でも、それはそんなに喜ばしいことなんでしょうか。

とりあえず日本において統計的に一つだけわかっていることは、母語の教育を疎かにして、限られた教育資源を英語に集中するようになってから英語力が低下したということです。

この現実に慌てた政府は日本人が英語ができないのは学習開始年齢が遅いからだという根拠のない解釈に飛びついて、英語教育の開始年齢をさらに引き下げて、小学校3年生からの英語教育開始を決めました。結果はまだ出ていませんが、英語力を含めてすべての学力が低下することになるだろうと僕は予測しています。

なぜそんなことが起きるのか。それは言語政策を起案している日本の政治家や官僚や学者たちが「言葉を使う」という営みの複雑さを知らないからです。

彼らは言語というものを自転車や計算機のような「道具」だと思っている。こちらに道具を操作する主体がいて、あちらに道具がある。性能のよい道具を手に入れ、操作技術に習熟すれば仕事が捗る。そう思っている。

でも、それは違います。言葉は道具じゃない。僕たちが言葉を使うというより、僕たち自身が言葉で作られているのです。僕たちが言葉を支配しているのではなく、むしろ僕たちが言葉によって支配されているのです。

言葉は僕たちの血であり、肉であり、骨であり、皮膚である。それがどのような質のものか、どのようなかたちのものか、どのような特性を持ったものかによって、僕たち自身のものの考え方も、感じ方も、生き方もすべてが影響を受ける。

英語を巧妙に操れるようになるということは、「英語を母語とする種族のものの考え方、感じ方」をわが身に刻み込み、刷り込んでゆくということです。そのことの重大さに人々はあまりに無自覚だと思います。

アメリカの植民地であったフィリピンでは英語が使えないとビジネスマンとしても公務員としても教師としてもジャーナリストとしてもよい職には就けません。だから、地位のある人たちはみんなみごとな英語を話します。

フィリピンの生活言語はタガログ語です。でも、タガログ語ではビジネスをすることも政治や経済について語ることもできません。そのための語彙が母語にはないからです。

フィリピン人のある大学の先生がこう語っていました。「英語で話せることは実利的(practical)であるが、母語では話せないことは悲劇的(tragical)だ。」

なぜ悲劇的であるのか。それはこのような言語環境に置かれている限り、フィリピン起源の政治理論や芸術運動が出現する可能性が絶望的に低いからです。

知的なイノベーションは(ほとんどの場合)母語による思考から生まれてくるからです。
母語が痩せ細っていれば、知的なイノベーションは始まらない。

例えば僕たちは母語でしか新語(neologism)を創ることができません。新語というのは、勝手に作れるわけではありません。条件があります。それは生まれて初めて耳にした語であるにもかかわらず、聞いた瞬間に母語話者たちにはその語義もニュアンスもわかるということです。だから、あっという間に広がる。これは外国語ではできません。自分で新語を作ってみても(例えば、不規則変化は覚えるのが面倒だからこれからは“I went”ではなく”I goed”にしようと僕が提案してみても)「そんな言葉はない」と冷笑されるだけです。

新しい言葉を創れないということは、新しい概念や新しいロジックを創ることができないということです。創造的なアイディアが思い浮かんだ時のことを思い出せばわかります。それは「喉元まで出かかっているのだけれど、まだ言葉にならない」というもどかしさを伴う経験です。アイディアは身体の奥の方から泡のように湧き出てくるのだけれど、まだはっきりしたかたちをとることができないでいる。最終的にそれなりの言葉になるのですけれど、それは手持ちの言葉を引き延ばしたり、押し拡げたり、これまでそんな語義で使った前例のない使い方をしたことでようやく達成されます。創造的な概念がかたちをとる時には母語もまた変容する。知的創造と母語の富裕化は同期する。

言葉を使うというのは、そういう力動的なプロセスなのです。道具を使うのとは違います。

鋏を手に持っている時にその新しい使い方を思いついたら、鋏がその思いに合わせて形状を変え、材質を変え、機能を変えるということはあり得ません。その「あり得ない」ことが母語においては起きる。それを考えれば、母語の運用がいかに生成的なものであるかが想像できると思います。そして、この知的創造は(例外的な語学の天才を除けば)母語によってしかできません。既存の言葉を引き延ばしたり、押し拡げたり、たわめたり、それまでにない新しい語義を盛り込んだりすることは母語についてしかできないからです。

ですから、母語が痩せ細るというのは、その言語集団の知的創造にとっては致命的なことなのです。

植民地帝国はどこでも自分たちの言語を習得することを植民地現地人たちに強要しました。

宗主国の言語は強国の言語であり、当然「グローバル」な言語であるわけですから、植民地化された人たちはそれを習得したことで、政治的にも経済的にも学術的にも実力をつけて、国際社会の中で以前よりは高い地位に達してよいはずです(日本の英語政策はまさにそのような発想に基づいて実施されています)。

でも、歴史はそのような実例を一つも教えてくれません。

なぜ宗主国は植民地に「グローバルな言語」の使用を強要するのか。

それは宗主国の言語を習得した植民地人たちには母語を富裕化する動機が失われるからです。そして、母語が痩せ細ると知的創造の機会が失われる。

植民地人たちは、自分たちの歴史的現実について語ろうとする場合でさえ宗主国のロジック、宗主国の歴史観、宗主国の世界戦略に即してしか語れないようになる。父祖伝来の「家産」的な生きる知恵と技術を伝え、それに即して生きることができなくなる。母語が痩せ細るというのはそういうことです。

僕が「クリエイティブ・ライティング」という授業を始めたのは、「グローバル化」潮流の中で日本語が痩せ細り始めているということに強い危機感を抱いたからです。

でも、母語を豊かなものにすることは集団の知的創造性において必須であるということが言語政策を考えている人たちには理解されていません。その結果、日本の知的生産力は21世紀に入ってから急激に劣化しました。

一昨年の秋にはForeign Affairs Magazine が昨年春にはNature がそれぞれ日本の研究力の劣化について長文の分析記事を掲載しました。それほど危機的な状況であるのにもかかわらず、日本の教育行政はすでに失敗が明らかになった「グローバル化に最適化する教育」をさらに加速させる政策をいまも次々と採択しています。これは日本の知的生産力に回復不能の傷をもたらす結果になるでしょう。

誤解して欲しくないのですが、僕は外国語教育の重要性を否定しているわけではありません。僕自身は最初に中学生で漢文と英語を習い、大学ではフランス語を集中的に学びました。その後は(どれもものにはなりませんでしたけれど)ドイツ語、ラテン語、ヘブライ語を独学しました。去年からは韓国語の勉強も始めました。新しい外国語を学ぶとは、異国の人々の自分たちとはまったく異なる宇宙観や倫理規範や美意識に触れることです。それによって自分の母語的偏見が揺り動かされることに僕はいつも深い驚きと喜びを経験しています。そして、これらの外国語との触れ合いは間違いなく僕の母語運用能力を高め、もし僕が母語においてなにごとか知的創造を果たしたとすれば、それに深く関与したと思います。

でも、いま「グローバル化」の名の下で行われているのは「母語的偏見を揺り動かされる」ような生成的で鮮烈な経験ではありません。「英語ができないと出世ができない、金が稼げない、人にバカにされる」というような怯えに動機づけられた外国語との出会いが生産的なものになると僕にはどうしても思えないのです。

この本は「母語が痩せ細っている」という危機感の中で行われた授業の記録です。きっと韓国にも自国語の豊かさと創造性について、僕に似た危機感を抱いている人がいるのではないかと思います。そういう人たちにぜひ読んで欲しいと思います。
http://blog.tatsuru.com/

[12初期非表示理由]:管理人:混乱したコメント多数により全部処理

73. 中川隆[-5578] koaQ7Jey 2018年2月26日 20:17:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2014/01/20140116T1554000900.html

教育の現場では、どうやって子供たちを考えさせないようにしているのだろうか。それには、次の5つによって、成し遂げられている。

(1)暗記を押し付けて「考えさせない」
(2)苦手を押し付けて「考えさせない」
(3)制服を押し付けて「考えさせない」
(4)規則を押し付けて「考えさせない」
(5)団体行動を押し付けて「考えさせない」

[12初期非表示理由]:管理人:混乱したコメント多数により全部処理

74. 中川隆[-5582] koaQ7Jey 2018年2月27日 16:59:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

『AI vs 教科書が読めない子どもたち』 著・新井紀子
https://www.amazon.co.jp/AI-vs-%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%96%B0%E4%BA%95-%E7%B4%80%E5%AD%90/dp/4492762396


書評・テレビ評2018年2月23日


著者は小学校からのコンピュータープログラミング教育や英語教育が、いかに子どもたちの未来を奪う愚行であるかを、明確にしている。

 著者は数学者(国立情報学研究所教授)で、「東ロボくん」の愛称で知られる人工知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」を発案し、その中心を担ってきたことで知られる。この研究プロジェクトの目的は最初から、東大に入学する学力をめざすものではなく、「人工知能(AI)にはどこまでのことができるようになって、どうしてもできないことは何か」を解明することにあったことを強調している。

 それは、「AI時代が到来したときにAIに仕事を奪われないためには、人間はどのような能力を持たなければならないかを明らかにする」ことでもあった。本書は、このテーマに正面から迫るものだといえる。

 「東ロボくん」のプロジェクトは、AIがセンター模試で上位20%に入り、全受験生の平均値を大きく上回り、全国の主な私立大学に合格できる水準にまで到達している。それは「ホワイトカラーをめざす若者の、中央値どころか平均値をAIが大きく上回った」ことを意味している。近い将来、ホワイトカラーの仕事の多くがAIにとって替えられ、多くの企業が消滅し労働市場が激変することを予測させるものである。

 この人工知能プロジェクトでは同時に、AIが東大入試に合格することはできないという限界も明らかになった。その原因は、英語と国語の成績を今以上に上げることができないことにある。それは、AIが意味を理解することはできないという限界によるもので、当初から想定された当然の帰結であった。早い話が、「先日、岡山と広島に行ってきた」と「先日、岡田と広島に行ってきた」の意味の違いが理解できないのである。

 計算機は計算しかできない。著者はこのあたりまえの事実をもとに、マスメディアや研究者の一部で喧伝する、AIについてのはなはだしい誤謬――人間の脳と同じように判断できるシンギュラリティー(特異点)が到来し、ロボットが人間の仕事をすべて引き受けてくれる、AIが意思を持ち自己生存のために人類を攻撃するなど――を妄想として退けている。

 近年、ロボットと顧客のコミュニケーションや機械翻訳の水準が目覚ましく向上した。だが、これも過去のデータにもとづいた計算の蓄積による、表面的なつじつま合わせの精度の向上でしかない。どこまで行っても、AIが複雑な人間の気分感情を、新しい状況のもとで理解して柔軟に対応するようなことはありえない。

 著者は画像認識(物体検出)、ディープラーニング(深層学習)などAIの開発に寄与した行列、確率、統計といった数学の分野・領域の貢献とともに、過去のデータによる枠組みに限定された計算から導き出される答(初めて出会う状況には対応できていない)を過信する危険性についても強調している。

 今、間近に迫っているのは、勤労者の半数の仕事を奪うまでに開発されたAIとともに生きていかざるをえない社会である。著者はAIにはできないが人間にはできる仕事を探究している。マニュアルに従って処理するような実務の多くはAIに淘汰されるが、残るのは介護や畔の草抜きのような柔軟な判断力が求められる肉体労働など、コミュニケーション能力や理解力が求められる仕事である。そこでは、高度な読解力と常識によって状況を理解したり、人間らしい柔軟な判断が要求される。問題は、AIにできない仕事があっても、今の子どもたちや若者にそれができる力があるのか、である。

 著者はそこから「東ロボ」プロジェクトと並行して、大学生に対する数学基本調査とともに、中高生2万5000人を対象にした大がかりな基礎読解力テスト(リーディング・スキルテスト)による調査と分析をおこなった。本書の後半でその結果と評価について、くわしく論じている。

 この調査から、日本の中高生の多くが「英語の単語や世界史の年表、数学の計算などの表層的な知識は豊富かもしれないが、中学校の歴史や理科教科書程度の文章が正確に理解できない」ことが判明したという。AIが苦手な例文を用いた問題ではあるが、若者たちもAIと同じところでつまずいている。

 たとえば、「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている」という、中学校の地理教科書に出ている文章を見せて、「オセアニアに広がっているのは○○である」の答えを4択で選ばせる問題がある。ここで、正解の「キリスト教」と答えた正答率は中学生では62%、つまり3分の1の生徒がまちがって答える状況にあった。進学率がほぼ100%の高校でも、約4分の1の生徒が間違っていたという。これは文章の主語がなにか、目的語がなにかを把握できているかを調べるものだが、これ以外の「同義文判定」や、文章を理解して図表の正確な把握を求める「イメージ同定」のテストでは正答率がさらに低下していた。

 ここで、詳細な調査についてくわしく紹介できないが、今の若者たちの多くが教科書の文章を正しく理解できないまま、つまりAIが苦手とする分野で人間的に対応する基礎的な力をつけぬまま卒業し、高校、大学や社会に出ているのである。それは、さまざまなウソやまやかしが氾濫する現実社会のなかで、揺れ動く状況をみずからの判断で正しく理解し、柔軟に即応し、社会に貢献する人間像とは対極にあるといってよい。

 著者は、問題を読まずにドリルの計算ができたり、英単語を覚えても、それ以上の学力の向上は望めないことに危機感を募らせ、なによりもまず学校の教科書を読解できる基礎的な力をつける教育への改革を提言している。また、小学校からのコンピュータープログラミング教育や英語教育が、いかに子どもたちの未来を奪う愚行であるかを、明確にしている。
https://www.chosyu-journal.jp/review/7161

[12初期非表示理由]:管理人:混乱したコメント多数により全部処理

75. 中川隆[-5508] koaQ7Jey 2018年3月23日 18:09:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8622]
内田樹の研究室 2018.03.23
受験生のみなさんへ

こんにちは。内田樹です。この春受験を終えられた皆さんと、これから受験される皆さんに年長者として一言申し上げる機会を頂きました。これを奇貨として、他の人があまり言いそうもないことを書いておきたいと思います。

それは日本の大学の現状についてです。いま日本の大学は非常に劣悪な教育研究環境にあります。僕が知る限りでは、過去数十年で最悪と申し上げてよいと思います。

見た目は立派です。僕が大学生だった頃に比べたら、校舎ははるかにきれいだし、教室にはエアコンも装備されているし、トイレはシャワー付きだし、コンピュータだって並んでいる。でも、そこで研究教育に携わっている人たちの顔色は冴えません。それは「日本の大学は落ち目だ」という実感が大学人の間には無言のうちに広く深く行き渡っているからです。

日本のメディアはこの話をしたがりません。ですから、はっきりとデータを突き付けて「日本の大学が落ち目」だという事実を知らせてくれたのは海外メディアでした。

「日本の学校教育はどうしてこれほど質が悪いのか?」という身もふたもない特集記事を最初に掲げたのは米国の政治外交専門誌であるForeign Affairs Magazine の2016年10月号でした。

その記事は日本の大学の学術的発信力の低下の現実を人口当たり論文数の減少(減少しているのは先進国の中で日本だけです)や、GDPに占める大学教育への支出(OECD内でほぼつねに最下位)や、研究の国際的評価の低下などをデータに基づいて記述した上で、日本の大学教育の過去30年間の試みは「全面的な失敗」だったと結論づけました。

記事は日本の大学に著しく欠けているものとして「批評的思考」「イノベーション」「グローバルマインド」を挙げていました。批評的思考や創造性を育てる手立てが日本の学校教育には欠けていることはみなさんも実感していると思います。けれども、「グローバルマインド」が欠けていると言われると少しは驚くのではないでしょうか。なにしろ1989年の学習指導要領以来、日本の中学高校では「とにかく英語が話せるようにする」ということを最優先課題に掲げて「改革病」と揶揄されるほど次々とプログラムを変えては「グローバル人材育成」に励んできたはずだからです。でも、30年にわたるこの努力の結果、日本人は「世界各地の人々とともに協働する意欲、探求心、学ぶことへの謙虚さ」(記事によれば、これが「グローバルマインド」の定義だそうです)を欠いているという厳しい評価を受けることになってしまった。

問題は英語が話せるかどうかといった技能レベルのことではありません(ついでに申し上げておきますけれど、過去30年で英語力も著しく低下しました。現在、大学入学者の多くが英語をまともに読めず、書けないために、大学では中学レベルの文法基礎の補習を余儀なくされています)。日本の学生に際立って欠けているのは、一言で言えば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面した時に、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力だということです。しかし、生きてゆく上できわめて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした。学校で子どもたちが身につけたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意思疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとは言わないまでも)黙許してきました。でも、その長年の「努力」の結果、「あなたたちはグローバルマインドがない」という否定的な評価を海外から下されてしまった。学校生活を無難に送るために採用した生存戦略がみなさん自身の国際社会における評価を傷つけることになったわけです。たいへんに気の毒なことですし、長く教育にかかわった者としては「申し訳ない」と叩頭するしかありません。僕自身はそういう学校教育のありように一貫して批判的でしたけれど(どちらかというと「排除される側」の人間でしたから)、力及ばず学校教育の空洞化を止めることができなかった。それについては責任を感じています(だから、こういう文章を書いているのです)。

2017年の3月には英国の自然科学のジャーナルであるNatureが同じく日本の科学研究の劣化についての研究論文を掲げました。かつては世界のトップレベルを誇っていた日本の科学研究が停滞している実情を伝え、日本は遠からず科学研究において世界に発信できるような知見を生み出すことのできない科学後進国になるリスクがあると警告を発しました。

米国の政治外交専門誌と英国の自然科学学術誌が相次いで日本の大学教育の危機について報道したというのはよく考えると「変な話」です。海外の教育学者が指摘したというのなら分かりますが、指摘してきたのは政治外交と自然科学の専門誌だからです。

自然科学は国境や国益とは関係のないグローバルな領域です。あらゆる国籍、あらゆる人種、あらゆる宗教の人が自然科学の進歩という共同作業にかかわり、その果実は人類全体が享受できる。その人類的なスケールの活動にこれまで豊かな貢献を果たしてきた日本の関与が期待できなくなる。それは人類にとっての損失です。おそらく海外の科学者はそれを悲しんだのです。

一方、米国の政治外交専門誌が日本の学校教育に警告を発したのは、日本の国際政治のプレイヤーとしてのプレゼンスが低下するリスクを重く見たからです。米国にとって日本は東アジアにおける最大の友邦であり、「属国」です。このまま日本の知的衰退を放置していたら、それは米国の国益に悪い影響を及ぼすリスクがある。だから、日本の学校教育は「前産業時代に特化した時代遅れの教育システム」であるというよう激しい言葉が用いられた。それは米国人からすれば、一種の「友情」の発露でもあったと僕は思います。早く失敗を認めて、手立てを講じろ、と。

米英二国から日本の学校教育の失敗についての指摘があったことにはそれなりの歴史的意味があると考えられます。米英両国は大西洋憲章・ポツダム宣言以来、戦後日本の国のかたちについて制度設計の責任を(部分的には)感じています。はやばやと世界帝国であることを止めた英国はともかく、米国は今も戦後日本のシステムに対して(宗主国としての)責任と権限を自覚しています。日本の国力が衰微したら、それは盟邦としての米国の国益が損なわれるだけでなく、戦後日本社会の設計と運営にあたっていた米国の責任でもあるからです。だから、「友情ある苦言」はまず米英両国から到来した。そういうことではないかと思います。中国や韓国やASEAN諸国からは日本の学校教育に対する批判的なコメントが来ることはまずありません。日本が教育に失敗して、国力が低下しても、それは彼らからすればまさに「対岸の火事」に他ならず、東アジアにおける日本のプレゼンスの低下など痛くも痒くもないからです。

ですから、友邦から海外から日本の学校教育について警鐘が鳴らされているということを日本の教育関係者は厳しく受け止めなければならないと私は思います。けれども、この事実について日本のメディアではほとんど報道がなされていません。なぜか。

制度に欠陥があるというのは「よくあること」です。でも、制度の欠陥についての指摘を聞き流して、失敗を修正しないというのは「よくあること」ではありません。それはより深刻な出来事です。人間は誰でも病気になり、怪我をします。その時には、どの臓器や生体機能が不調であるか、どこの骨が折れ、どこから出血しているかについて吟味がまずなされます。そうしないと治療が始まらないからです。でも、今の日本では「日本の学校教育が海外から否定的評価を受けている」という事実そのものが隠蔽されている。それは制度を手直しし、補正する手立てを講じる機会そのものを放棄するということです。

驚くべきことに、教育行政の当事者たちは今も自分たちの失敗を認めておりません。客観的なデータが「日本の教育は落ち目だ」ということをにべもなく伝えているので、やむなく「教育行政は一貫して正しい政策を行ってきたが、現場が言うことを聞かずに、閉鎖的で封建的な遺制を死守しているために、教育が劣化したのだ。ゆえに教員たちから自己決定権を取り上げ、上意下達の仕組みに切り替えることが教育改善のためには急務である」という説明にしがみついている。教育の「全面的な失敗」の責任は教育現場が行政の指導に従わないことにあって、行政側には何の瑕疵もない、そう言い張っている。もちろん、内心では「たいへんなことになった」と困惑しているのでしょうけれども、今さら「すみません」とは言えない。お役人は基本的に失敗を認めません。それで省庁の面子が保てると思っている。でも、そのせいで「失敗から学習する」という進歩と修正のための唯一つの道筋を自ら塞いでしまっている。

ですから、気鬱な予言になりますけれど、大学を含む日本の学校教育はこれから先ますます「落ち目」になってゆきます。V字回復の見込みはありません。もうすぐに18歳人口の急減によって、大学が次々と淘汰されて消えてゆきます。2017年度で大学を経営する660の学校法人のうち112法人(17%)が経営困難、21法人は2019年度中に経営破綻が見込まれています。みなさんがこれから進学しようとしている先は、そういう危機的状況にある領域なのです。

じゃあ、どうすればいいんだ、と悲痛な声が上がると思います。上がって当然です。分かっているのは「こうすればうまくゆく」というシンプルな解は存在しないということです。初めて経験する状況ですから成功事例というものがない。生き延びる方途はみなさんが自力で見つけるか創り出すなりするしかない。書物やメディアで必要な情報を集め、事情に通じていそうな人に相談し、アドバイスに耳を傾け、分析し、解釈して、生きる道を決定するしかありません。そして、その選択の成否については自分で責任を取るしかない。誰もみなさんに代わって「人生の選択を誤った」ことの責任を取ってはくれません。

どのような専門的な知識や技能を手につけたらよいのかを判断をする時にこれまでは「決して食いっぱぐれがない」とか「安定した地位や収入が期待できるから」という経験則に従うことができました。これからはそれができない。日本の産業構造や雇用状況はこれから少子化高齢化とAIの導入で激変することが確実だからです。でも、どの産業セクターが、いつ、どのようなかたちで雇用空洞化に遭遇するかは誰も予測できない。

ですから、僕からみなさんにお勧めすることはとりあえず一つだけです。それは「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」ということです。「やりたくはないけれど、やると食えそうだから」といった小賢しい算盤を弾かない。「やりたいこと」だけにフォーカスする。それは自分がしたいことをしている時に人間のパフォーマンスは最も高まるからです。生きる知恵と力を最大化しておかないと生き延びることが難しい時代にみなさんは踏み込むのです。ご健闘を祈ります。
http://blog.tatsuru.com/

[18初期非表示理由]:管理人:混乱したコメント多数により全部処理

76. 中川隆[-6045] koaQ7Jey 2018年3月29日 10:58:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-9268]

内田樹 2018年03月28日 言葉の生成について(前編)
http://blogos.com/article/286791/?p=1

もう2年前になるけれど、大阪府の国語科教員たちの研修会に呼ばれて、国語教育について講演をしたことがあった。

そのことを伝え聞いた国語科の先生から「どこで読めますか」と訊かれたので、「お読みになりたいのでしたら、ブログに上げておきます」とお答えした。いずれ晶文社から出る講演録に採録されると思うけれども、お急ぎの方はこちらをどうぞ。

「言葉の生成について」 (2016年12月9日 大阪府高等学校国語研究会にて)

学期末のお忙しいところ、かくもご多数お集まりいただき、ありがとうございます。ご紹介いただいたように、僕の書いた文章は、入試問題や教科書に出たりしていますが、人間、一回見ると「こういうこと言いそうなやつだ」というのがだいたい分かります(笑)。

僕はエマニュエル・レヴィナスの本を何冊か訳していたのですが、1987年にご本人にはじめてお会いしました。レヴィナスの本、それまでに一生懸命訳してはきたんですけれども、どうも自分の訳文に確信が持てない。こんなことを言っているように思うのだけれども、「そんなことふつう言うかな?」という疑問がありまして、これは本人に会ってみないと分からないと思いました。それで実際にパリまで行って、お会いした。

その時、お会いした瞬間に、それまでの疑問が一瞬にして氷解しました。玄関の前で満面の笑顔で、「ようこそ」と両手を広げているその様子から、その人の体温、息づかい、思考のリズム感までがよくわかった。

ですから、会う前と後では、翻訳のペースが全く違いました。レヴィナス先生とお会いしたすぐ後に『タルムード講話』というのを訳しているのですが、これなんか、今読むと、ほとんど「憑依されている」。達意の訳文なんです(笑)。難解な本なんですけれど、すらすらと訳している。「どうも、これを訳した時、オレ、わかってたらしい」という感じがする。本人に会った直後というのは、そういうことがある。

だから、皆さんは今日、生の内田樹を見たわけですから、これからは教科書で教える時も自信を持って「これはこうだ」と断言できると思います。「だって、ウチダってこんなことを言いそうなやつだったから」と(笑)。胸を張って言えると思います。

今日はこうした場で、文学、言語の話ができるということで、大変嬉しく思っています。

先日、西本願寺の日曜講演に呼ばれて「『徒然草』の現代語訳を終えて」というタイトルで、文学についての講演をすることができました。

これは池澤夏樹さん個人編集している日本文学全集の中の一巻です。池澤さんとそれまでお会いしたことはなかったのですが、ご指名で「『徒然草』はウチダが」と言っていただきました。

この『徒然草』の現代語訳をしている時に、一つ発見がありました。今日はその経験を踏まえて、言葉はどうやって生まれるのか、言葉はどうやって受肉するのかという、言葉の生まれる生成的なプロセスについて、思うところをお話ししたいと思います。

つい最近、PISAの読解力テストの点数が劇的に下がったという報道がありました。記事によると、近頃の子どもたちはスマホなど簡便なコミュニケーションツールを愛用しているので、難解な文章を読む訓練がされていない、それが読解力低下の原因であろうと書かれていました。たしかに、それはその通りだろうと思います。しかし、だからと言って「どうやって読解力を育成するか?」というような実利的な問題の立て方をするのは、あまりよろしくないのではないかという気がします。

というのは、読解力というのは目の前にある文章に一意的な解釈を下すことを自制する、解釈を手控えて、一時的に「宙吊りにできる」能力のことではないかと僕には思えるからです。

難解な文章を前にしている時、それが「難解である」と感じるのは、要するに、それがこちらの知的スケールを越えているからです。それなら、それを理解するためには自分を閉じ込めている知的な枠組みを壊さないといけない。これまでの枠組みをいったん捨てて、もっと汎用性の高い、包容力のある枠組みを採用しなければならない。

読解力が高まるとはそういうことです。大人の叡智に満ちた言葉は、子どもには理解できません。経験も知恵も足りないから、理解できるはずがないんです。ということは、子どもが読解力を高めるには「成熟する」ということ以外にない。ショートカットはない。

僕はニュースを見ていて、読解力が下がっているというのは、要するに日本人が幼児化したのだと感じました。「読解力を上げるためにはこれがいい!」というようなこと言い出した瞬間に、他ならぬそのような発想そのものが日本人の知的成熟を深く損うことになる。なぜ、そのことに気がつかないのか。

以前、ある精神科医の先生から「治療家として一番必要なことは、軽々しく診断を下さないことだ」という話を伺ったことがあります。それを、その先生は「中腰を保つ」と表現していました。この「中腰」です。立たず、座らず、「中腰」のままでいる。急いでシンプルな解を求めない。これはもちろんきついです。でも、それにある程度の時間耐えないと、適切な診断は下せない。適切な診断力を持った医療人になれない。

今の日本社会は、自分自身の知的な枠組みをどうやって乗り越えていくのか、という実践的課題の重要性に対する意識があまりに低い。低いどころか、そういう言葉づかいで教育を論ずる人そのものがほとんどいない。むしろ、どうやって子どもたちを閉じ込めている知的な枠組みを強化するか、どうやって子どもたちを入れている「檻」を強化するかということばかり論じている。

しかし、考えればわかるはずですが、子どもたちを閉じ込めている枠組みを強化して行けば、子どもたちは幼児段階から脱却することができない。成長できなくなる。でも、現代日本人はまさにそのようなものになりつつある。けっこうな年になっても、幼児的な段階に居着いたままで、子どもの頃と知的なフレームワークが変わらない。もちろん、知識は増えます。でも、それは水平方向に広がるように、量的に増大しているだけで、深く掘り下げていくという垂直方向のベクトルがない。

読解力というのは量的なものではありません。僕が考える読解力というのは、自分の知的な枠組みを、自分自身で壊して乗り越えていくという、ごくごく個人的で孤独な営みであって、他人と比較したり、物差しをあてがって数値的に査定するようなものではない。読解力とは、いわば生きる力そのもののことですから。

現実で直面するさまざまな事象について、それがどういうコンテクストの中で生起しているのか、どういうパターンを描いているのか、どういう法則性に則っているのか、それを見出す力は、生きる知恵そのものです。何か悲しくて、生きる知恵を数値的に査定したり、他人と比較しなくてはならないのか。そういう比較できないし、比較すべきではないものを数値的に査定するためには、「読解力とはこういうテストで数値的に考量できる」というシンプルな定義を無理やり押し付けるしかない。けれども、ある種のドリルやテストを課せば読解力が向上するという発想そのものが子どもたちの「世界を読み解く力」を損なっている。

僕がそのように思うに至ったのには、レヴィナスを翻訳した経験が深く与っています。レヴィナスは「邪悪なほど難解」という形容があるほど難解な文章を書く哲学者です。

僕は1970年代の終わり頃、修士論文を書いている時にレヴィナスの名を知り、参考文献として何冊かを取り寄せ、最初に『困難な自由』という、ユダヤ教についてのエッセイ集を読みました。しかし、これが全く理解できない。そして、茫然自失してしまった。にもかかわらず、自分はこれを理解できるような人間にならなければということについては深い確信を覚えました。

ただ知識を量的に増大させて太刀打ちできるようなものではない、ということはよくわかりました。人間そのものの枠組みを作り替えないと理解できない。それまでも難しい本はたくさん読んできましたが、その難しさは知識の不足がもたらしたもので、別に自分自身が変わらなくても、勉強さえすれば、いずれ分かるという種類の難解さに思われました。

でも、レヴィナスの難解さは、あきらかにそれとは質の違うものでした。今のままの自分では一生かかっても理解できないだろうということがはっきりわかる、そういう難解さでした。その時は「成熟する」という言い回しは浮かびませんでしたが、とにかく自分が変わらなければ始まらないことは実感した。

いきなり道で外国人に両肩を掴まれて、話しかけられたような感じでした。「とにかくオレの話を聞け!」と言ってるらしいけれど、何を言っているかは全然わからない。どうやら僕が緊急に理解しなきゃいけないことを話しているらしい。でも、何を言っているのか分からない。とにかく、先方が僕に用事がある以上、僕がそれを理解できるように変わるしかない。そう実感したんです。

仕方がないので、それから翻訳を始めました。意味が分からないままフランス語を日本語にするわけですから、ほとんど「写経」です(笑)。

一応文法的に正しい日本語にはしますが、直訳した日本語の訳文を読んでも、やはり意味がわからない。出版社に翻訳を約束したので、一応二年ほどかけて訳し終えたんですが、訳者に理解できないものが読者に分かるはずがないと思って、ちょっとこれはお出しできないなと思って、そっと押し入れにしまった(笑)。

そのまましばらくはレヴィナスのことを忘れて、他のことに集中しました。その間にいろいろなことがあり、病気になったり、家族と諍いがあったり、就職したり、育児をしたり、武道の稽古に励んだり、いろいろありました。そしてある日、久しぶりに出版社の担当編集者から連絡があって、翻訳はどうなったと聞いてきました。

そこでしかたなく押し入れから原稿を取り出して読んでみた。そしたら、ちょっと分かるんですよ。驚きました。別にその年月の間に僕の哲学史的知識が増えたわけではない。でも、少しばかり人生の辛酸を経験した。愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、恨んだり、恨まれたり、裏切ったり、裏切られたり、ということを年数分だけは経験した。その分だけ大人になった。だから少しだけ分かる箇所が増えた。

例えば、親しい人を死者として送るという経験をすると、「霊的なレベルが存在する」ということが、皮膚感覚として分かるようになります。祈りというものが絶望的な状況に耐える力をもたらすということもわかる。共同体を統合するためにはある種の「強い物語」が必要だということもわかる。そういうことが40歳近くなってくると、少しずつ分かるようになってきたら、レヴィナスが書いていることも少しずつ分かってきた。

レヴィナスが難解だったのは、語学力や知識の問題というよりは、自分が幼くて、レヴィナスのような「大人」の言うことがわからなかったからだということがわかった。

レヴィナスの書くものの本質的なメッセージは、一言で言うと、「成熟せよ」ということです。

『困難な自由』に、「成人の宗教」という短いエッセイが収められています。ポスト・ホロコースト期のフランス・ユダヤ人社会の最大の問題は「なぜ神は我々を見捨てたのか」でした。なぜ同胞600万人が虐殺されたあの苦難の時代に神は我々を救うために顕現しなかったのか。そういう理由で父祖伝来の宗教を捨てていく人々たちが出てきました。その人たちに対して、レヴィナスはこう語りかけました。

「あなた方はどんな神を信じていたのか。あなた方が善行をなせば報奨を与え、悪事をなせば処罰する。そんな勧善懲悪の原理で動く単純な神を、あなた方は今まで信仰していたのか? だとしたら、それは『幼児の神』である。ホロコーストは、人間が人間に対して犯した罪である。そうである以上、それを裁き、傷ついた人たちを癒すのは人間の仕事である。地上に正義をもたらすのは人間の仕事であって、神の仕事ではない。人間がなすべき仕事に神の支援を求めるのは、自分が幼児であるということを告白しているに等しい。もし神にそれにふさわしい威徳があるとすれば、それは『神の支援なしに地上に正義と慈愛を実現できるような成熟した人間を創造したこと』以外にない。」

レヴィナスはそう言って、ほとんど無神論とすれすれのロジックによって崩れかけた信仰を再建しようとしたのです。これは確かに、子どもには理解しがたいものだと思います。深い絶望の時間を生き抜いて、それでもこの世を生きるに値するものにしようと決意をした人だけが語りうるような、重い言葉でした。この言葉に自分が感動しているとわかった時に、自分もようやく幼児期を脱したんだなという気がしました。

この経験からわかったのは、僕たちは意味が分からなくても読めるし、何を書きたいのかわからないままにでも書けるということでした。人間にはそういう生成的な言語能力が備わっている。読解力というのは、そのような潜在的能力を開発することによってもたらされるということです。

全く分からないけどどんどん読む。そうすると、何週間かたつうちに、意味は分からなくても、テキストと呼吸が合ってくる。呼吸が合ってくると、「このセンテンスはこの辺で終わる」ということがわかる。どの辺で「息継ぎ」するかがわかる。そのうちにある語が来ると、次にどういう語が来るか予測できるようになる。ある名詞がどういう動詞となじみがいいか、ある名詞がどういう形容詞を呼び寄せるか、だんだん分かるようになる。

不思議なもので、そうなってくると、意味が分からなくても、文章を構成する素材については「なじみ」が出てくる。外国語の歌詞の意味がわからなくても、サウンドだけで繰り返し聴くうちに、それが「好きな曲」になるのと同じです。

そのうちにだんだん意味がわかってくる。でも、それは頭で理解しているわけじゃないんです。まず身体の中にしみ込んできて、その「体感」を言葉にする、そういうプロセスです。それは喩えて言えば、「忘れていた人の名前が喉元まで出かかっている」時の感じに似ています。「ああ、なんだっけ、なんだっけ。ここまで出かかっているのに、言葉にならない」というあれです。これはただ「わからない」というのとはもう質が違います。体はもうだいぶわかってきている。それを適切な言葉に置き換えられないだけなんです。

身体はもうかなりわかっているんだけれど、まだうまく言葉にならないで「じたばたしている」、これこそ言葉がまさに生成しようとしているダイナミックな局面です。たしかに思いはあるのだが、それに十全に照応する記号がまだ発見されない状態、それはと子どもが母語を獲得してゆくプロセスそのものです。僕たちは誰もが母語を習得したわけですから、そのプロセスがどういうものであるかを経験的には知っているはずなんです。

まず「感じ」がある。未定型の、星雲のような、輪郭の曖昧な思念や感情の運動がある。それが表現されることを求めている。言葉として「受肉」されることを待望している。だから必死で言葉を探す。でも、簡単には見つからない。そういうものなんです。それが自然なんです。それでいいいんです。そういうプロセスを繰り返し、深く、豊かに経験すること、それが大切なんです。

レヴィナスを毎日翻訳するという生活が10年近く続いたわけですけれど、これだけ「わからない言葉」に身をさらすということをしていると、まだぴったりした言葉に出会っていない思念や感情は、いわば「身に合う服」がないまま、裸でうろうろしているような感じなんです。だから、何を見ても「あ、これなら着られるかな、似合うかな」と思う。四六時中そればかり考えている。

新聞を読んでも、小説を読んでも、漫画を読んでも、友だちと話していても、いつも「まだ服を着ていない思い」が着ることのできる言葉を探している。そのことがずっと頭の中にある。そうすると、喉に刺さった魚の骨みたいなもので、気になって気になって、朝から晩まで、そのことばかり考えている。

でも、魚の骨と同じで、そのことばかり考えているうちに、それに慣れて、意識的にはもう考えなくなってしまう。そして、ある日気がつくと、喉の痛みがなくなっている。喉に刺さっていた小骨が唾液で溶けてしまったんです。「痛い痛い」と言いながら、身体はずっと気長に唾液を分泌し続けていた。そして、ある日「喉に刺さった小骨」は溶けて、カルシウムになって、僕の身体に吸収され、僕の一部分になってしまっていた。

新しい記号の獲得というのは、そういうふうにして行われるものだと思います。「記号化されることを求めているアイデアの破片」のようなものが、いつも頭の中に散らばっている。デスクトップ一杯に散らかっている。だから、何を見ても「これはあれかな」と考える。音楽を聴いても、映画を見ても、本を読んでいても、いつも考えている。

そういう時に役に立つのは「なんだかよくわからない話」です。自分にうまく理解できない話。そういう話の中に「これはあれかな」の答えが見つかることがある。当然ですよね、自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。

自分がふだん使い慣れている記号体系の中にはぴったりくる言葉がないわけですから、「よそ」から持ってくるしかない。自分がそれまで使ったことのない言葉、よく意味がわからないし、使い方もわからない言葉を見て、「あ、これだ!」と思う。そういうことが実際によくあります。歴史の本とか、宗教書とか、武道や芸能の伝書とか、今やっている哲学の論件と全然関係のなさそうな書物の中にぴったりの比喩や、ぴったりの単語があったりする。

これは本当によい修業だったと思います。そういう明けても暮れても「言葉を探す」という作業を10年20年とやってきた結果、「思いと言葉がうまくセットにならない状態」、アモルファスな「星雲状態」のものがなかなか記号として像を結ばないという状態が僕にはあまり不快ではなくなった。むしろそういう状態の方がデフォルトになった。

そうなると、とにかく大量に「出力」するようになります。仕方ないです。「記号として受肉することを求めているもの」、「早く言葉にして言い切ってくれ」と懇願するようなものが、身体の中、頭の中で、明けても暮れてもじたばたしているわけですから。とにかく下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる式にどんどん出力してゆく。書いても書いても「これでは言葉が足りない」と思うから、さらに出力する。

自分でも時々、本棚を見て、何やってるんだろうと驚くんです。自分の本だけ置いてある棚があるんですけれど、もう100冊以上ある。10年と少しで、それだけ書いた。自分でも何を出したか覚えていない位なんです。だから、「ゴーストライターがいるの」とよく聞かれます(笑)。

ゴーストライターはもちろんいません。僕の中には「言葉になりたい」とじたばたしているアイデアがつねにある。だから、ずっと「中腰」でいる。言いたいことを言い切ってすっきりしたという状態は、絶対に来ないんです。何を書いても、言い足りない、あるいは、言い過ぎる。言い足りないところを言い足し、言いすぎたところを刈り込んでゆくと、いつまでもエンドレスで書かざるを得ないわけです。

自分の理解を超えるもの、自分にとって未知なものを、自分の手持ちの語彙の中に落とし込むということがどうしてもできない。そんなことしても、少しも楽しくない。だって、それが「自分の理解を超えるもの」「自分にとって未知のもの」だということを僕は知っているわけですから。人は騙せても、自分は騙せない。

わからないことについて、わかったふりなんかしても、少しも楽しくない。それよりは、自分の語彙を増やし、自分のレトリックを練り上げ、自分のロジックをバージョンアップする方がいい。どうしても実感できない概念を、想像力の限りをつくしてなんとか追体験しようとする。そういう訓練を、翻訳を通じてずっとしてきました。僕がその後物書きとして大量に出力するようになったのは「何を言っているかわからないテクストをわかるためには自分が変わるしかない」という気づきが深く与っていると思います。

言葉の生成と、武道の稽古が深いところで繋がっているということにも最近気がつきました。同じ人間が35年にわたって昼はレヴィナス、夜は合気道という生活をしていたわけだから、その二つは深いところでは繋がっているに決まってるんです。でも、それがどういうふうに繋がっているのかをなかなかうまく言葉にすることができなかった。でも、自分で道場を持って、門人を教えるようになって分かってきました。

武道の修業には目に見える目標というものはないのです。100mをあと1秒速く走るとか、上腕二頭筋をあと1p太くするとか、数値的に計量化できる目標は武道には存在しません。今やってるこの稽古が何のためのものなのか、稽古している当人はよくわからない。わからないままにやっている。自分がしてきた稽古の意味は事後的にしかわからない。というのも、修業の成果というのはもっぱら「自分の身体にそんな部位があるとは知らなかった部位を感知できるようになる」「自分の身体がそんなふうに動くとは知らなかった動かし方ができるようになる」というかたちで現れるからです。自分の身体にそれまで身体部位として分節されたことのなかった部位や働きが立ち現れる。記号的に分節されていなかったものが記号として立ち上がる。ですから、稽古を始める前に、ある能力の向上やある部位の強化について数値的な目標を掲げることはできません。目標とすべき「能力」や「部位」それ自体がその段階では認識できていないからです。感知できるようになってから、そこに感知されるような何かがあったことがわかる。動かせるようになってから、そこに操作可能な何かがあったことがわかる。自分が何を習得したのかを知るのはつねに事後においてなのです。修業が進んで、技術に熟練してはじめて、分が何を稽古しているのかが言えるようになる。身体が先で、言葉が後なんです。

自分の中に湧いてきた体感的な気づきを言葉にして、具体的なプログラムに組み替えて、それを門人たちに教えるということを自分の道場を持ってから26年間繰り返してきました。これもまた自分の中にある、アモルファスな、星雲状の身体感覚です。レヴィナスの時はアイデアでしたが、合気道の場合は身体的な気づきです。前言語的な「感じ」をなんとかして言葉にしていく。そして、その言葉に基づいて門人たちに実際に動いてみてもらって、その言葉が適切だったのかどうかを判断する。表現が適切であれば、みんなの動きが一変する。不適切であれば、みんなまごついたり、あるいは僕がイメージしていたものとは別の動きが現れてくる。そうやって僕の使った言語記号の適否はすぐに判定できる。

こういう経験をしてきて、いくつか気がついたことがあります。

一つは、具体的に身体部位を指示して、腕をこう動かしなさいとか、足をここに置きなさいというように、具体的に指示することは武道的な動きの習得の上では、ほとんど効果がないということです。人間はある部位を意識的に動かそうとすると、それ以外のすべての部位を止めようとする。手首を「こういうふうに」動かしてというような指示をすると、手首以外のすべての部位を硬直させて、手首だけを指示通りに動かそうとする。でも、実際に人間はそんなふうに身体を使いません。重心の移動も、腰の回転も、内臓も含めて全部位を同時に動かすことによって一つの動作を行っている。でも、具体的に「手首をこういうふうに」という指示を出すと、それ以外の随伴するべき動作を止めて、手首の動きに居着いてしまう。

だから、具体的な指示はしない方がいい。では、なにが有効かというと、文学的表現なんです。経験的には、詩的なメタファーが最も有効です。「そこにないもの」を想起させて身体を動かしてもらうと、実に身体をうまく使う。現にそこにある自分の身体を操作しようとするとぎくしゃくするけれど、そこにないものを操作する「ふり」をさせると、実に滑らかに動く。

最初にポエジーが効果的だと気づいたのは、もう10数年前になります。その時は、手をまっすぐに伸ばすという動作がなかなかみんなできなかった。そこで、ふと思いついて、こんな情景を想像してもらいました。「曇り空から今年はじめての雪が降ってきた。軒の下からそっと手を差し出して、手のひらに初雪を受ける」そういうつもりやってみてくださいと言ったら、みごとな動きをしてくれた。今思っても、いい比喩だったと思います。手のひらにわずかな雪片の入力があって、それが感知できるためには、手のひらを敏感にしておかないといけない。そのためには腕の筋肉に力みがあってはならない。わずかな感覚入力に反応できるためには、身体全体を「やじろべえ」のようにゆらゆらと微細なバランスをとっている状態に保っていなければならない。身体のどこかに力みがあったり、緩みがあったりすると、バランスは保てません。だから、全身の筋肉のテンションが等しい状態になっている。そういう状態を自分の骨格や運動筋だけを操作して実現することはほとんど不可能ですけれど、「初雪を手のひらに受ける」という情景を設定するだけで、誰にでもできてしまう。そこにある骨格や運動筋を操作するよりも、「そこにないもの」を思い描く方が複雑で精妙な身体操作ができるということをその時に実感しました。

先日、初心者ばかりの講習会があって、そこで両手を差し出して、それを180度回転させるという動きをしてもらうということがありました。なかなかみんなうまくできなかった。そこで、こんな状況を想像してもらいました。「赤ちゃんが2階から落ちてきたので、それを両手で抱き止めて、後ろのベビーベッドにそっと寝かせる。」設定が変なんですけれど、そういう状況をありありと思い描けたら、すぐにできる動作なんです。そのままなんですから。女の人がこういうのは、うまいですね。男の人たちはけっこうぎごちない。赤ちゃんをあまり抱いたことないんでしょうね。

何かの「目標」が与えられたら、放っておいても、それを達成するために身体は最適運動をしてくれます。そして、武道の場合は対敵動作ですが、僕が「そこにないもの」をめざして何か行動した場合、相手からすると、その動きを予見したり、阻止したりすることは非常に難しくなる。だって、何をしようとしているかわからないんですから。仮に相手が僕の手を両手でがっちりつかんでいる場合、「そこにある手」を振りほどくという動作は非常に難しい。でも、例えば、その時に僕の鼻の頭に蚊がとまったと想定すると、僕は蚊を追い払おうとする。その時、手は、鼻の頭に至る最短距離を、最少時間、最少エネルギーで動こうとする。その動きには「起こり」もないし、力みもない。具体的にそこにあって僕の動きを制約している相手の両手を「振りほどこう」とする動きよりも、どこにもいない想像上の蚊を追い払おうとする手の動きの方が速く、強い。「そこにないもの」にありありとしたリアリティを感じることのできる想像力の方が、具体的な筋力や瞬発力よりも質的に上等な動きを実現できる。それは武道の稽古を通じて、僕が実感したことです。

稽古を通じて、文学的メタファーというのが実に有効だということがよくわかりました。文学の有効性とは何か、ということがよく問われます。文学をやると武道が上達するということを言った人はいないと思います。でも、そうなんです。それは文学の有効性は功利的、世俗的なものではなく、もっと根源的なものだからです。それは人間を今囚われている「檻」から解き放つための手立てなんです。

人間は自分が生まれついた環境、与えられた知識や価値観や美意識に束縛されています。そこからどうやって自己解放するか、どうやって自分の限界を超えて、ブレークスルーを果たすか、それが人間が成熟するための課題です。自分が「自分である」ことの自己同一性の呪縛からどうやって逃れるか。

そのための一つの方法として文学的想像力というものがある。「そこにないもの」をあたかも「存在するもの」であるかのようにふるまう。これは自分が囚われている呪縛から逃れる上できわめて有効な方法です。「想像力が権力を奪う」というのはパリ五月革命のスローガンでしたけれど、自由な想像力は時には地上的な権力よりも強いというのは、本当のことです。

想像力が世界を創り、想像力の欠如が世界を滅ぼす。僕はそう思います。現実しか見ない人間はしばしば自分のことを「リアリスト」だと言い張りますけれど、このような人間は人間の生成的なありようについては何も知ろうとしないし、何も考えない。現実のごく一部分、自分を閉じ込めている「檻」の内側の風景しか見たことがなく、それが全世界だと思い込んでいる。そんな人間を僕は「リアリスト」とは呼びません。

武道の用語で「居着き」というのは、文字通り足の裏が地面に張り付いて身動きならない状態を指します。与えられた枠組みを世界のすべてだと思い込んで、その「外」があることを考えもしないのも「居着き」です。

でも、実際に、僕たちは生物としてめまぐるしい環境の変化の中にいるわけです。生き延びるためには、臨機応変、自由闊達でなければならない。それ以外に生物種が生き残る道はありません。自分が自分に対して設定している限界や束縛から自己解放すること、これは生き延びるために必須の技術です。そのことを僕は、レヴィナスと合気道を通して習得しました。

そろそろ、みなさんの関心のある、国語の話に持っていきます。

池澤さんから『徒然草』の現代語訳を頼まれた時に、全く古典の訳の経験のない僕をなぜ選んだのかなと考えました。僕に余人とは異質な言語的能力があるとすると、それはレヴィナスの翻訳をやってきたということだと思います。理解を絶したテクストに対した時に、まず身体的に同調して、自分の中から湧き上がってくる身体的感覚を言葉に置換していく。そういう回路の使い方には習熟していた。それで僕をご指名になったのかなと思いました。

第一回配本の「古事記」の解説の中に、池澤さんが印象深い言葉を記していました。それは「現代語訳は、読者による音読を支援するものでなければならない」というものです。僕はそれに深く共感しました。

文学は音読するものです。文字を読んでいる場合も、頭の中では音読している。ゲラに手を入れている時に、ワープロの変換ミスの同音異義語を微妙な違和感を覚えつつもそれを読み飛ばしてしまうことがよくあります。ミスを見逃してしまうのは、文字の「意味が違う」ことと「音が同じ」ことでは、「音が同じ」方に勢いがあるからです。

僕たちは文章を音読しながら読んでいます。僕自身の書く文章も、声に出して読んで気持ちがいいというのが基本です。音読して気分よく読める文章は意味がわからなくても読めます。かなり難しいことが書いてあっても、リズムがいい、息づかいが楽だ、レトリックの畳みかけ方が爽快であるとか、そういうことがあれば、内容の難易度に関係なくすらすらと読める。

これは僕が長い読書経験から実感していることです。ですから、古典の現代語訳は「読者による音読を支援するもの」でなければならないとという池澤さんの指示に僕は忠実に従いました。

たいせつなのはどういう「ヴォイス(voice)」を選ぶかということだと思います。「ヴォイス」というのは、その人固有の「声」のことです。余人を以ては代え難い、その人だけの「声」。国語教育目標は、生徒たち一人ひとりが自分固有の「ヴォイス」を発見すること、それに尽くされるのではないかと僕は思います。

もう10年以上前ですけれど、『クローサー』という映画がありました。どうでもいいような恋愛映画なんですけれど、その中に一箇所、印象深いシーンがありました。ジュード・ロウとナタリー・ポートマンがタクシーに乗り合わせる場面です。その時に、ジュード・ロウが自分は新聞記者だと自己紹介する。ナタリー・ポートマンがどういう記事を書いているのかと訊くと、死亡記事を書いていると答える。「僕はまだ自分のヴォイスを発見していない。でも、いずれ発見する。そうしたらちゃんとした記者になれる。」正確に記憶してないんですけれど、だいたいそんな意味のことを言いました。映画を見ながら、本当にその通りだなと思いました。

だって、彼が書いているのは死亡記事なんですから。彼が自分の「ヴォイス」を発見するのは死亡記事を書くことを通じてでしかない。ただ死者の生没年や事績を淡々と伝える短文の修業を重ねているうちに、ある日彼の記事が編集長の眼に止まる。「この記者は自分の『ヴォイス』を持っている」ということがわかる。そして、社会部なり学芸部なり他のセクションに異動されて、他の種類の記事を書くようになる。新聞社内にはそういうプロモーション・システムがあることがここには暗示されているわけです。

そこから知れるのは「ヴォイス」はコンテンツとは関係がないということです。何を書いていても、書き手に「ヴォイス」があれば、読む人にはわかる。「ヴォイス」を形成するのは、コンテンツの含む情報の価値でもないし、修辞の巧みさでもない。「息づかい」なんです。「ヴォイス」のあるテクストは、すらすらと読めて、気持ちがいい。そして、心に残る。

だからレヴィナスを翻訳している間に、僕はどこかの段階で自分の「ヴォイス」を発見したんだと思います。だから、いくらでも書ける。息を吐くようにウソをつくという人がいますけれども(笑)、息を吐くように文が書けるようになった。

基本は呼吸なんです。呼吸は国語によって変わります。イタリア人やフランス人とは息継ぎのリズムが違います。イタリア人が日常的に話しているイタリア語をリズミカルに、抑揚をつけて話すとオペラになる。日本人でも日常の言葉を音楽的に処理すると、謡になったり、浄瑠璃になったり、落語になったりする。

息づかいというのは、国語ごとに違いますが、どういう主題で話しているかによっても変わるし、聴き手を誰を想定するかによっても変わる。でも、自分にとって自然な息づかいができるようになると、いくらでも言葉を語り続けることができる。

いま、僕は20代後半のある青年と往復書簡をしています。

彼は何年か前に刑事事件を起こし、弁護士の指示で、更正の課程で反省文を何度も書かされました。それを読みましたけれど、驚くほど硬直していた。たしかに文章はしっかりしている。どうしてこんな事件を起こしたのか、それについての自己分析もしていた。言っていることはたぶんほんとうなのでしょう。でも、書かれていることが少しもこちらの心を打たない。彼がこれで「反省」が済んだ、これで自己分析を果たしたと思ったのでは、この先社会で生きてゆくことは難しいだろうと思い、彼が自分の「ヴォイス」を発見するのを支援するための個人レッスンをすることになりました。それから2年ほど、月1回くらいのペースで、僕が課題を出して彼がエッセイを書くという往復書簡をしています。

最初のうちは「正しい書き方」をしないといけないのとかなり緊張していました。頭のいい子だから、「無難な文章」なら書けるんです。でも、彼が書いてくる文章は言葉が乾いている。水気がない。どうやって彼の言葉に水気を回復させるのか、それが僕の方の課題でした。

試行錯誤を繰り返しました。わかったのは、自分が実際に経験したことを書かせようとすると、硬直するということでした。家族のことや、学校時代のことを書かせようとすると、ぎごちないものになる。そこで経験したことが、彼の今の手持ちの語彙、文型の中には収まらないのです。言葉に収まらない経験をなんとか言葉に収めようとするので、骨と皮だけのようなものになる。

一計を案じてやらせてみてうまくいったのは、「なかったこと」を書かせることでした。自分の実際の経験を書かせると、自己史の中のトラウマ的経験を何とか避けようとするけれど、作話ならトラウマの近くまで行けるんです。「僕」を主語にするとトラウマ的経験に近づけないけど、「彼」を主語にするとそのすぐそばを通過するような文章を書けるようになる。そのときに、「物語を語る」ということがいかに重要であるか、よくわかりました。

今、彼は「ヴォイス」を獲得するプロセスの途中にいるのですけれど、だいぶよくなってきたなと思ったのは、彼が「なんだかわからない経験」を書き出した時でした。オチも教訓も、意味もわからない話を書き出した。

「どうしても忘れられない人」という課題を出した時には、同級生が在校中に亡くなってしまい、その子に何か言いたいことがあったんだけど、言わずに終わってしまった。何を言いたいかは忘れてしまったけど、今でもその子を思い出すと、何か言いたいことがあったことだけ思い出す、そういう短い話でした。この時に、彼はかなり「ヴォイス」に手が届いてきたなと思いました。「自分の思いを言葉にできない」という苦しい現実に「自分の思いを言葉にできなかった出来事」を回想するという仕方で、次数を一つ上げることで対処したわけですから。

たしかに「ヴォイス」というのはそういうものなんです。「自分がうまく書けない」というような事態そのものについてならうまく書くことができる。締め切り間際で週刊紙連載の漫画原稿を落としそうだという時でも、「締め切り間際で原稿を落としそうな漫画家」のどたばた騒ぎについてなら描くことができるということがあります。いつもいつも使える手ではありませんけれども、こういう「メタ・レベル」にずらすというのも「ヴォイス」の手柄です。

それまでの彼の文章は、ブロックを積んだみたいにカチカチとして余裕や曖昧さがなかった。自分の中に生じている、いきいきとした感情や感動は、実際には、なかなか言葉にできないものです。今日のテーマである「言葉の生成」というのもまさにそういうことなんですが、自分の中にある感情もアイデアも、実はきわめて曖昧なものなんです。曖昧なものだから、それを輪郭のはっきりした言葉に置き換えようとすると筆が止まり、舌がこわばる。ですから、曖昧なものを曖昧なままに取り出していけばいいんです。それができれば「書けない」という事態も「私はなぜうまく書けないのか」というメタ・レベルからの考察の興味深い対象になる。でも、それができるためには、自分自身に対して、自分の思考プロセスに対して敬意と好奇心を持つことが必要です。

多くの人が勘違いしているようですけれど、自分の思考プロセスは自分のものではありません。それは、マグマや地下水流のようなもので、自分の外部に繋がっています。それと繋がることが「ヴォイス」を獲得するということです。呼吸と同じです。呼吸というのは酸素を外部から採り入れ、二酸化炭素を外部に吐き出すことです。外部がないと成り立たない。自分の中にあるものの組み合わせを替えたり、置き換えたりしているだけではすぐに窒息してしまいます。生きるためには外部と繋がらなければならない。

言葉が生成するプロセスというのは、自分のものではありません。自分の中で活発に働いているけれども、自分のものではない。それに対する基本的なマナーは敬意を持つことなんです。自分自身の中から言葉が湧出するプロセスに対して丁寧に接する。敬意と溢れるような好奇心を以て向き合う。

往復書簡を通じて、彼の言葉が言葉らしくなってきたのは、彼が自分の中で言葉が生まれてくるプロセスそのものを、一歩後ろに下がって、語ることができるようになったからです。

「ヴォイス」の発見とは、自分の中で言葉が生まれていくプロセスそのものを観察し、記述できること、そう言ってよいかと思います。自分の中で言葉が生まれ、それを使ってなにごとかを表現し、今度はそうやって表現されたものに基づいて「このような言葉を発する主体」は何者なのかという一段次数の高いレベルから反転して、自己理解を深めてゆく。そういうダイナミックな往還の関係があるわけです。そのプロセスが起動するということがおそく「ヴォイス」の発見ということではないかと僕は思います。

このようなプロセスを、具体的に国語教育の現場で行うためにはどんな方法があるのでしょう。やり方は無数にあると思います。皆さんが思いついたことをどんどんやればいい。 

でも、基本は音楽教育の場合と同じで、「よいもの」を大量に、それこそ浴びるように読むことだと思います。ロジカルで、音楽的で、グラフィックな印象も美しい、そういう文章を浴びるほど読ませ、聞かせる。これが基本中の基本だと思います。

今の子どもたちの語彙が貧困で、コミュニケーション力が落ちている最大の理由は、周囲の大人たちの話す言葉が貧困で、良質なコミュニケーションとして成り立っていないからです。周りにいる大人たちが陰影に富んだ豊かな言葉でやりとりをしていて、意見が対立した場合はさまざまな角度から意見を述べ合い、それぞれが譲り合ってじっくり合意形成に至る、そういうプロセスを日常的に見ていれば、そこから学ぶことができる。それができないとしたら、それは子どもたちではなく、周りの大人たちの責任です。

もし今の子どもたちの読解力が低下しているとしたら、その理由は社会自体の読解力が低下しているからです。子どもに責任があるわけじゃない。大人たち自身が難解な文章を「中腰」で読み続けることがもうできない。

時々、議論を始める前に、「まずキーワードを一意的に定義しましょう。そうしないと話にならない」という人がいますね。そういうことを言うとちょっと賢そうに見えると思っているからそんなことを言うのかも知れません。でも、よく考えるとわかりますけれど、そんなことできるわけがない。キーワードというのは、まさにその多義性ゆえにキーワードになっている。それが何を意味するかについての理解が皆それぞれに違うからこそ現に問題が起きている。その定義が一致すれば、もうそこには問題はないんです。語義の理解が違うから問題が起きている。語義についての理解の一致こそが議論の最終目的なわけです。そこに到達するまでは、キーワードの語義はペンディングにしておくしかない。多義的なまま持ちこたえるしかない。今日の僕の話にしても「教育」とは何か、「学校」とは何か、「言語」とは何か、「成熟」とは何か・・・無数のキーワードを含んでいます。その一つ一つについて話を始める前に一意的な定義を与え、それに皆さんが納得しなければ話が始められないということにしたら、僕は一言も話せない。語義を曖昧なままにして話を始めて、こちらが話し、そちらが聴いているうちに、しだいに言葉の輪郭が整ってくる。合意形成というのは、そういうものです。

僕たちが使う重要な言葉は、それこそ「国家」でも、「愛」でも、「正義」でも、一義的に定義することが不可能な言葉ばかりです。しかし、定義できるということと、その言葉が使えるということはレベルの違う話です。一意的に定義されていないということと、その言葉がそれを使う人の知的な生産力を活性化したり、対話を円滑に進めたりすることとの間に直接的な関係はないんです。むしろ、多義的であればあるほど、僕たちは知的に高揚し、個人的な、個性的な、唯一無二の定義をそこに書き加えていこうとする。

でも、それは言葉を宙吊りにしたまま使うということですよね。言葉であっても、観念であっても、身体感覚であっても、僕たちはそれを宙吊り状態のまま使用することができる。シンプルな解に落とし込まないで、「中腰」で維持してゆくことができる。その「中腰」に耐える忍耐力こそ、大人にとっても子どもにとっても、知的成熟に必須のものだと思います。でも、そういうことを言う人が今の日本社会にはいない。全くいない。誰もが「いいから早く」って言う。「400字以内で述べよ」って言う。だから、こういう講演の後に質疑応答があると、「先生は講演で『宙吊り』にするということを言われましたが、それは具体的にはどうしたらいいということですか」って(笑)、質問してくる人がいる。「どうしたらいいんですか」というシンプルな解を求めるのを止めましょうという話をしているのに、それを聞いた人たちが「シンプルな解を求めないためには、どうしたらいいんですか」というシンプルな解を求めてくる。自分で考えてください、自分で考えていいんです。自分で考えることが大切なんです、とそういう話をしているのに、「一般解」を求めてくる。何を論じても、「で、早い話がどうしろと言っているんですか?」と聞いてくる。そこまで深く「シンプルな解」への欲求が内面化している。

メディア、特にテレビはその傾向が強い。まあ、仕方がないです。発言者に許された時間が非常に短いんですから。短い時間で、それこそ15秒くらいですぱっと言い切ることが求められている。カメラの前で、黙り込んだり、つっかえたり、前言撤回したりというようなことは絶対許されない。そういう人はテレビには出してもらえない。僕がテレビに出ないのはそのせいなんです。「で、結論は?」と訊かれるのがいやなんです。30分番組カメラ据え置きで、いくら黙り込んでも、同じ話を繰り返しても構わないというような番組があれば出てもいいですけれど。途中で「あれ、オレ何の話してたんだっけ?」がありで(笑)、途中で「話すことないので帰ります」もありで(笑)。それでもいいという番組があれば出てもいいけども。

首尾一貫した、整合的なセンテンスを語らなければならないというルールがいつから採用されたんでしょう。だって、言葉の生成というのはそういうものじゃないでしょう。言葉がなかなか着地できないまま、ふらふらと空中を漂って、「なんて言えばいいんだろう、もっと適当な表現はないかなあ」と、つっかえたり、言いよどんだり、前言撤回したり、そういう言語活動こそが「ヴォイス」を獲得するために必須の行程なんです。そういう言葉がうねうねと渦を巻くようなプロセスを「生成的なもの」だと見なして、大人たちが忍耐強く、興味深くそれを支援するということが言葉能力の成熟のためには絶対に必要なんです。さっさと言いたいことを言え、400字以内で過不足なく述べよ、というような圧力によって言語能力が育つということはないんです。うまく言えない子どもに対しては「うまく言えないというのは、いいことなんだよ」と励ましてあげなくちゃいけない。

基本的に僕は学生たちが必死で紡ぎ出した言葉について全部「いいね!」です。僕が嫌いなのは定型です。できあいのテンプレートをなぞったような文章については、はっきり「つまらん!」と言います。大学生に文章を書かせると、本当に悲惨なものなんです。「定型的で整合的なことを書く」というより以前のレベルです。昔なら小学生の作文みたいなものを平然とレポートとして出してきますから。「朝起きて、顔洗って、ご飯を食べて…」それがエッセイだと言うんです。

困るのは、とにかく平然と「先生の授業は難しくてわかりませんでした」と書いてくること。「難しくてわからなかった」というのが批評的なコメントだと思っている。だから、わからないくせにえらそうなんです(笑)。たぶん学生たちは食堂へ行って、厨房のおばさんに「ちょっとこのうどん固かったわよ」とクレームつけているようなつもりなんでしょう(笑)。あの言い草はそうですね。授業がわからないのは、先生の責任だと思っている。もっと分かりやすく話して下さい、私たちにもわかるように噛み砕いて話してください。そういうことを要求する権利があると思っている。骨の髄まで消費者マインドがしみついている。

学校教育が、消費者である子どもたちに対して、教育商品を差し出して「買って頂く」という発想でやっていたら、そうなるのは当たり前です。だから、「私にもわかるようなやさしい授業をしろ」ということを平気で言う。それが学校教育に対する建設的な批評として成立していると思い込んでいる。
http://blogos.com/article/286791/?p=1

言葉の生成について(後編)
http://blogos.com/article/286792/?p=1

言葉が生成するとはどういうことか、という話に戻ります。『徒然草』を訳して発見したことがあります。それは古典の授業で読まされる古文の現代語訳って、つまらないということです(笑)。ほとんど音読に耐えない。でも、原文はグルーブ感のある、ノリのよい文章なんです。だから僕は、中身はどうでもいいから、吉田兼好の「ヴォイス」を現代語にできたらと、思って訳しました。

その時にいくつかルールを決めました。一つは、「分からない単語は分からないままで放っておく」ということです。だって、700年前に書かれたものですからね。しかも兼好は有職故実に異常に詳しくて、当時の公家や僧侶たちでさえよく知らない宮中のしきたりとか、制度文物の由来とか知っていることが自慢だった人なんですから。兼好と同時代人でさえわからなかった話を700年後の現代人が分かるわけがない。江戸時代にも『徒然草』の注釈書はいくつも出ていますけれど、そこにだって「この言葉の語義は不詳」というものがいくらもある。江戸時代の専門家がわからなかったことが現代の一般読者にわかるはずがない。だから、そういうのは「意味不明の言葉」のまま残しました。

そもそも、文学とはそういうものですよね。小説の登場人物が経験してることのほとんどは、僕らは経験したことがないわけです。宇宙空間を光速で飛行飛したこともないし、戦国時代に槍を振り回したこともない。でも、小説の登場人物が、それをリアルに経験している「感じ」があれば、読む側は何の問題もない。自分の現実経験の中にそれに対応するものがないから「わからない」と文句をつける読者はいません。文学作品というのはほとんど全篇「自分がよく知らないこと、経験したことがないこと」に埋め尽くされている。それでも何の不自由もなく、僕たちは小説を楽しんでいる。

古典だってそれでいいはずです。だから注をつけませんでした。注を付けると、注を読んでしまうから。SFで宇宙空間を飛ぶ話とか、エイリアンが出てくる話とか読んでいるときに、そこに見たことも聞いたこともない科学用語がでてきても、注なんか探さないでしょう。どんどん話を先に進みたいから。注なんか読まされて読書を中断したくないから。古典だってそれと同じです。どんどん読めばいいんです。知らない単語とかあっても、気にしない。現代文だってそうやって注抜きで読んでいるのに、どうして古典にだけ細かく注が要るのか。というわけで注は、最初はつけていたんですけれど、途中で全部取っ払ってしまいました。

もう一つは、古典の訳としてはルール違反でしょうけど…、原文のままというのが、いっぱいあるんです(笑)。「何事にも先達はあらまほしきものなり」とか「命長ければ辱(はじ)多し」とかすでに広く人口に膾炙(かいしゃ)して、現代人でも知っている言い回しですから、それはもう現代語だろう、と(笑)。他の現代語訳ではたぶん誰もやったことがないと思いますけど。

先週、西本願寺で現代語訳について講演をしました。そのあとに、手紙をくれた人がいまして、「私、国文を出た国語の教師で、実は『徒然草』の研究者なんです」って(笑)。何を言われるのかとどきどきしていたら、「達意の名訳でした。特に係り結びの訳がすばらしかった」と書いてある。係り結びはいろんな訳し方があるらしいんですけど、「見事に訳しわけておられました」と。係り結びに意味の違いがあるなんて、僕は知りませんでした(笑)。文章の勢いに乗って訳すと、ニュアンスを取り違えるということはめった起こらないということでしょうね。

『徒然草』の面白いところは、二十代で書いたものと六十代で書いたものがごっちゃになっているところです。でも、兼好法師の「ヴォイス」は変わらない。だからこの人、二十代から六十代まであんまり進化していないんじゃないかと思います(笑)。たぶん、若い時に自分の「ヴォイス」を見つけて、それをずっと維持していった人なのだと思います。だから、グルーヴ感はありますけれど、それほど思想的な深みはない。

しかし、『徒然草』が今日まで愛された理由は、もちろんあります。例えば、五十三段、仁和寺の法師が頭から鼎をかぶる話。かぶったはいいけれど、とれなくなって、最後に鼻も耳ももげて、長く寝付いたという話がありますね。ああいう「どうでもいい話」を書かせると、兼好うまいんです。もうのりのりで書いている。あの人の文章は、そういうオチも教訓もない、けれども奇妙な味わいの物語を書く時に冴えるんです。実にいい文章を書く。多分、あまり思想的に深みもないし、特段名文とも思われない『徒然草』が今に至るまで愛読されてきた最大の理由は、あれらの何の教訓もない物語のもたらす独特な味わいではないかと僕は思います。「猫又」の話とか、「しろうるり」の話とか、「やすら殿」の話とか、「大根」の話とか、「ぼろぼろ」の話とか。どれも忘れがたい。

兼好が熟知していることを語られても、僕らにはさっぱりわからない。そこには溝がある。でも、兼好にもよく理解できなかった話というのは、僕らにとってもやっぱりよく理解できない。そこには溝はない。兼好自身が、なぜこんなものをわざわざ後世に伝えようとして書いたのか、自分でもわからないような記事は、やはり、僕らにとってもなぜこんなものを兼好法師が書いたのか、よくわからない。兼好がわからなかったことは僕らにもわからない。そこが「取り付く島」ではないかと思います。そこに「あったもの」はもう「ない」ので追体験しようがない。でも、そこに「なかったもの」は今もやっぱり「ない」ので、昔も今もその点では変わらない。兼好法師が経験した「気持ちの片づかなさ」は、現代人である僕たちも同じく「気持ちの片づかなさ」として近似的に味わうことができる。そこに『徒然草』の時代を超えて生き延びた力があるのではないかと思います。

さきほど、合気道の指導の場合でも、メタファーは有効だというお話をしました。文学でも、もちろんそうなんですね。谷崎潤一郎は、日本の作家の中で例外的に外国語訳の多い作家ですが、谷崎の中で最も外国語で読まれているのは『細雪』と『陰影礼賛』なんです。不思議だと思いませんか。フランス人が、こんな分厚い『細雪』をしみじみ読んでいる。一体何がおもしろいのかと思うんですけど(笑)。

でも、フランス人にもわかるんですね。谷崎が描いているのが、「失われたもの、失われゆくもの」だということが。谷崎が『細雪』に描いていたのは昭和17年、18年頃の芦屋や神戸や大阪の話です。谷崎はそこでの戦前のブルジョワ家庭の美的生活を描きながら、それが近いうちにすべて失われるだろうということをほとんど確信していました。失われていくことが宿命づけられている美しい物たちを、愛惜の念をこめてひたすら記述した。

谷崎が『細雪』に哀惜を込めて書いたのは、昭和17年の時点ですでに失われてしまったもの―大正時代の蒔岡家の豪奢な生活ーと近いうちに失われてしまうはずのものー戦前の阪神間の穏やかな生活です。つまり、谷崎が描いているのは「そこにないもの」と「いずれなくなるもの」です。それだけしか書いていない。全篇に伏流しているこの根源的な欠落感はフランス人にもわかるんです。「あるもの」には共感できない。共感しようがない。知らないんですから。でも、「ないもの」に対する欠落感、不全感はフランス人でも谷崎と共有できる。

文学は、目の前にあるリアルを詳細に描くことによってではなく、失われたものを目の前にありありと呼び出すことによって世界性を獲得する。文学というのは、そういうものだと思います。目の前にある現実をどれだけ巧みに描写しても、それだけでは世界文学にはならない。遠い文化圏の読者を獲得することはできない。でも、僕たちは「あるもの」は共に「持つ」ことはできないけれど、「ないもの」について「それが欠落している」という実感を共有できる。作家と読者が共有できるのは、欠落と喪失なんです。だから、欠落と喪失をみごとに描いた文学作品が世界性を獲得する。

僕は兼好に同期しようとしたときに焦点を合わせたのは、彼の欠落感と不全感でした。彼が持っているもの、教養や知識や美的感受性のようなものに僕は同期できない。でも、彼の身を焦がす嫉妬や恨みや渇望には同期できる。だって、「ないもの」なんですから。兼好法師が所有していたものに僕は触れることができない。でも、兼好法師が所有したいと願っていたけれど、ついに手が届かなかったものには、僕もやはり手が届かない。そこに同期することなら、できる。

とりあえず、専門家からは「係り結びが正しかった」と評価を受けましたが(笑)、その時に、「こんなことができるのは、日本だけではないか」と思いました。

古語辞典が一冊あれば、僕のような素人でも、現代語訳ができてしまう。こういう言語環境は、他にあるでしょうか。東アジアの国の中で、特殊な専門教育を受けたわけでもない一般人が古典に辞典一冊でアクセスできる言語環境があるのはおそらく日本だけです。

そのことに最初に教えてもらったのは、ベトナムの青年と友だちになった時でした。フランスのブザンソンという地方都市の大学へ学生たちの語学研修の付き添いで滞在しているときに友だちになった青年からベトナムの特殊な言語事情を聞きました。

ベトナムは、漢字とベトナム語の万葉仮名的な表記法であるチュノムのハイブリッド言語でした。でも、近代になってからアルファベット表記の「クオック・グー(國語)」に表記法を変えてしまった。その結果、欧米の言語と同じ表記になったわけですから、便利にはなった。でも、漢字・チュノム混じりで書かれたテクストを読むことができなくなった。古典どころか、祖父母が書いた日記も手紙も読めない。寺院の扁額も読めない。

利便性の代償として、ベトナム人は、二世代前の人たちが書いたテクストを、特殊な専門教育を受けた者以外は読めなくなってしまった。近代化の代償として自国文化のアーカイブへのアクセス権を失ったわけです。果たして、それは間尺に合う取引だったのでしょうか。友人のベトナム人青年は懐疑的でした。

韓国も事情は似ています。1970年代に漢字廃止政策が採択されました。一つには日本の植民地時代に日本語使用を強制されたことに対する反発があり、一つには漢字は習得が難しいので、漢字の読み書きができる階層とできない階層の間で文化的格差が生じるリスクがあるということで、ハングルに一元化された。ハングルへの一元化によってたしかに教育の平準化は進みました。

でも、ベトナムと同じように、先行世代と使用言語が違うという事態が生じた。一世代前の人が書いたものが読めない。今の韓国の若者たちは、漢字は自分の名前くらいしか書けません。この間、韓国旅行の時に、五台山月精寺という寺院を訪ねました。でも、その扁額の「五台山月精寺」という文字を読めるのが、一緒に行った中にいなかった。大学の教授や教育出版の経営者といった知識人たちでしたけれど、40代くらいになると、それくらいの漢字でも読むことが難しくなっている。そのことに衝撃を受けました。

日本でも「韓国の英語教育はすごい」ということはよく言われます。実際にすごいです。大学の授業は教師も学生も韓国人なのに英語でやっている。国内学会も、出席者全員韓国人なのに、英語でやる。でも、たしかにそれには必然性がある。表意文字である漢字を捨てて、表音文字であるハングルしかない。日本で言えば、ひらがなだけで暮らしているようなものです。学術論文を全部ひらがなで書くという手間を考えたら、外来のテクニカルタームなどはそのまま原綴りで表記した方が圧倒的に効率的に決まっている。だから、漢字が使えない以上、英語への切り替えは必然的でした。

でも、母語では学問的な文章を書くことができないというのは、やはり大きなハンディになります。自然科学なら英語でそこそこいけるかも知れませんが、英語でやったのでは、韓国オリジナルな社会科学や人文科学は出てこない。出てくるはずがありません。というのは、文系の学問は母語のアーカイブの中で熟成するものだからです。

今の韓国の学術的環境では、1970年以前になされた知的営為へのアクセスが日々困難なものになっています。それは先行世代がその言語的能力を振り絞って書いたテクストを読むことが難しくなっているということです。このことはいずれある時点で、韓国の次世代の知的生産性、知的創造性にとっての大きなハンディになるだろうと僕はおもいます。

東アジアを見回すと、中学、高校で基礎的な訓練を受けたら、あとは辞書一冊あれば、自力で古典のアーカイブに自力で入っていけるという教育機会を享受できているのは日本人の子どもだけです。そのことを、子どもはもちろん、たぶん国語の教員たちもそれほど自覚的ではないように思います。古文や漢文なんか、何の役にも立たないんだから、やることはない。それより英語をやれ、というようなことを言い立てる人間たちがいくらもいますが、国語の先生たちがそれに対して効果的な反論をされているようには思えません。でも、これはきっぱり退けなければいけない暴論です。

先日、宮崎滔天の本を読みましたけれど、滔天の活動は今からは信じられないくらいにグローバルです。アジアの各地に飛んで、そこで現地の人たちと知り合って、その国の革命運動に直接コミットしている。明治時代の大アジア主義者たちはみなそうです。北一輝も、内田良平も、各国の革命闘争に直にコミットしていた。それができたのは、東アジアの知識人たちは漢文という「リンガフランカ」を共有していたからです。

彼らのコミュニケーションは基本、筆談なんです。かなり複雑で、高度な内容の対話でも、とりあえず矢立から筆を取り出して、懐紙にさらさらとしたためれば、それで今でなら「メール」とか「ライン」とかでの通信に類するコミュニケーションができた。明治の日本人たちは子どもの頃から、『四書五経』やら『史記』やら『唐詩選』やらを叩き込まれていたわけですから、教養の幅においても深さにおいても中国朝鮮の知識人と変わりがなかった。同じ語彙、同じ修辞法を共有していたわけです。

東アジアにおける文化的な一体感の喪失は主に政治史的な理由だけから説明されますけれど、東アジア各国の人々が、漢文というリンガフランカを失ったことが相互理解の深まりを妨げたということは理由の一つだったと思います。かつては漢文を書くことによって、相当にデリケートな意思疎通もできていたのに、その共通のコミュニケーション・プラットフォームがなくなってしまった。そのことのもたらしたネガティヴな影響について、もう少し深刻に受け止めた方がいいと思います。

韓国の先生に伺ったところでは、今韓国の大学で一番人気のない学科は、韓国文学科と韓国語学科と韓国史学科だそうです。みんなもっと実学的な専門を修めて、アメリカに留学して学位を取ろうとする。そういう人たちが韓国のこれからのリーダーになる。でも、自国の言語にも文学にも歴史にも、特段の関心がないという人たちに韓国のこれからの国のかたちを決めさせるというのはおかしいんじゃないか。韓国人の僕の友人はそう言っていました。僕もその通りだろうとおもいます。

日本でも、文系の学問に対する風当たりは強いです。古典や漢文などは一体なんの意味があるんだ、そんなものになんの有用性もないというようなことを言う人たちがいる。でも、母語のうちにこそ文化的な生産力の源はあるんです。二千年前から、この言葉を使ってきたすべての人たちと、文化的に僕たちは「地続き」なんです。そして、日本の場合は、ありがたいことに、言語を政治的な理由で大きくいじらなかったので、700年前の人が書いた文章を辞書一冊あれば、誰でもすらすらと読むことができる。中学高校で、そういうことができるような基礎的な教育を受けているから。それはどれほど例外的で、どれほど特権的な言語状況であるのか、日本人は知らな過ぎると僕は思います。

グローバリストたちは、もう古文や漢文なんかいいから、英語をやれと言います。でも、それは自国語で書かれた古典のアーカイブへのアクセスの機会を失うということを意味しています。母語のアーカイブこそはイノベーションの宝庫なんです。人間は母語でしか、イノベーションできないからです。僕たちは全く新しい概念や感情を母語でしか創り出すことができません。「新語(neologism)」というものが作れるのは母語においてだけなんです。

何年か前、野沢温泉の露天風呂に入っていた時に、あとから大学生らしき二人の若者が入ってきました。そして、湯船に浸かった瞬間に「やべー!」と叫んだ。その時に、僕は「ああ、日本語の『やばい』という形容詞は『たいへん快適である』という新しい語義を獲得したのだな」ということを、その場で理解しました(笑)。

でも、これこそが母語の強みなんです。新語を作ることができる。それは日本語話者たちなら誰でもその新しい意味を即座に理解できるからなんです。そんなことは母語でしかできません。

「真逆」というのもそうでした。ある日その語はじめて耳にした。でもすぐに意味が分かりました。漢字も頭に浮かんだ。そして、「真逆」の方が「正反対」よりもインパクトがあるなと感じた。こんなことは母語でしか起きません。外国語ではできない。僕が英語のある形容詞に「新しい意味」を付与しようと思って、使ってみせても、誰も理解してくれない。変な顔をされるだけです。僕の作った新語が英語の辞書に載ることもない。でも、「やばい」も「真逆」も、もう国語辞典の新しい版には「若者言葉」として採録されています。日本語として認知されたのです。

知的なイノベーションが母語の中でしか行われないと言っては言い過ぎかもしれません。でも、いまだ記号として輪郭が定かでない星雲状態のアイデアが「受肉」するのは母語においてであるというのは経験的に確かです。喉元まで出かかっている「感じ」が言葉になるのは圧倒的に母語においてです。

言葉の生成は、文明史的なスケールの出来事です。でも、現代日本社会は、言葉が生成してゆくダイナミックなプロセスについての関心を持つ人がほんとうにいない。古典なんてどうでもいい、言葉なんてシンプルなストックフレーズを使い回せばいいと思っている人間が、日本の場合、政官財メディアの指導層のほとんどを占めている。だから、生きた言葉を使える人がほとんどいなくなってしまったという、痛ましい現実がある。

皆さん方の仕事は、とにかく「子どもたちを生きた日本語の使い手にしていく」ということです。彼らが「ヴォイス」を発見することを支援していく。「ヴォイス」の発見というのは一生かかる仕事であって、国語の先生が関われるのは人生の一時期だけです。だから、それは「教育する」というよりはむしろ「支援する」というポジションだと思います。

そして、「ヴォイスの発見」は、査定したり、点数をつけたり、他人と比較して優劣を論じたりするような営みではありません。そんなことをすれば、むしろ深く傷つけられてしまう。これは、今の学校教育システムが成績査定と縁を切らない限りはどうしようもないのですが。

でも、成績をつけることはとりあえず国語教育にとっては有害無益なことだと僕は思っています。仕方ないとはおもいますが、国語についてだけは、本当は成績をつけてほしくない。どうして子どもたちの知性や、想像力や、自分自身の限界を超えようという自己超越の努力に点数をつける必要があるんですか。そんなものは点数化して語るべきことではないんです。彼ら一人一人の問題なんですから。

でも、仕方ないですよね、仕方ないですけども、そんなことをうるさく言っている男がいるということだけを記憶して頂いければと思います。

長時間ご静聴ありがとうございました。

(2016年12月9日 大阪府高等学校国語研究会にて)
http://blogos.com/article/286792/?p=1

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

77. 中川隆[-7585] koaQ7Jey 2018年4月02日 10:56:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-9757]

日本語による文化が、 日本語と日本国民を守っている。


日本語は、日本国民を「グローバル市場」との競争から守ってくれる参入障壁です。

日本語の「壁」があるからこそ、 日本国民は欧米諸国ほどには「外国人」と苛烈な競争をすることなく、教育を受け、働き、結婚し、家族を作り、 一生を過ごしていけるのです。

移民と教育 2018-04-02

 
日本はすでに在日韓国人・朝鮮人という移民問題を抱えているのですが、「良識ある国民」はそこから目をそらします。そして、事態が手遅れになってもなお、目をそらし続けるのです。


 スウェーデンに取材に行った際に、現地の人々がヒュースビーやマルメの移民問題から「目をそらし、知らないことにしていた」のを思い出します。


「人種差別はいけません。移民反対はレイシスト」
 と、一方的なレッテル貼りをされるのを怖れたスウェーデンの人々は、移民問題を「そこにあるが、存在しない問題」として取り扱い、取り返しがつかない状況に至りました。


 深刻な移民問題を知らない日本人は、「本気」で移民について議論するのが苦手です。だからこそ、
「人手不足なのだから、外国人労働者に頼ればいいじゃん」
 といった、ふわっとした意見に流され、破滅への道を歩いていくのでしょう。


 とりあえず、移民問題について議論する際には、他国の事例を見ることが重要だと思います。特に重要なのは「教育」です。


『フランス 義務教育3歳から 移民層念頭に「格差是正」
https://mainichi.jp/articles/20180402/ddm/007/030/152000c

 フランスで義務教育の開始年齢が現在の6歳から3歳に引き下げられる見通しになった。移民層などを念頭に幼児期の「教育格差」の是正を目的としてマクロン大統領が主導した。2019年9月の導入を見込み、欧州ではハンガリーと並んで最年少の義務教育開始年齢となる。 (中略)

 公立の保育学校は無料となっているものの、海外県や移民系住民が多い貧困地域では就学率が低い傾向がある。マクロン氏は3月27日の演説で保育学校の就学義務化方針を公表し、「受け入れがたい格差が是正されることを願う」と強調した。(後略)』


 フランスでは、「移民」との教育格差を是正するために、義務教育の開始年齢が3歳に引き下げられることになりました。


 他国から入ってきた人々のために、
「受け入れがたい格差が是正されることを願う」
 と、自国の教育制度を変えるわけです。

 


 イギリスの小学校などでは、生徒の9割が移民であり、しかもほとんどが英語を話せないということで、教育現場がパニックに陥っている地域が多々あります。


 当たり前ですが、教育の「供給能力」には限りがあるため、学校側が「多言語の子供たち」への対応に追われると、元々のネイティブな子供たちが割を食うことになります。


「まあ、イギリスは長年、移民を受け入れ続けたんだから、仕方がないんじゃない」
 などと思わないでください。


 すでに、我が国も移民の影響で教育サービスが「害(あえて書きますが「害」)を受けるケースが出ているのです。
 
『運動会で6か国語放送…外国人の子供急増に悲鳴
https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0331/ym_180331_8868372745.html

 「保護者とも意思疎通ができない」「教員の負担も限界」。
 日本語を習得できていない外国人の子供の急増に、教育現場からは悲鳴が上がる。 

 横浜中華街に近い横浜市立南吉田小学校では、全校児童約740人の半数以上が外国籍などの子供だ。保護者が帰化して日本国籍になっていても、家庭で使うのは母国語のみという子供もいる。昨秋の運動会では英語や中国語など計6か国語で放送を行った。

 「臨時休校が決まっても、多言語のプリントが作れない」。こう漏らすのは関西の政令市の担当者。教員は日本語にふりがなをつけたり、個別に電話したりする対応を迫られている。

 気持ちをうまく伝えられない外国人の子供が、日本人の子供とけんかになるケースもあり、首都圏の政令市の中学教諭は「生徒指導事案の8割に外国の生徒が関わっている」と明かす。』


 子供は、母国語で教育を受けるべきです。


 学校が移民に適応し、多言語で教育サービスを提供した場合、どうなるでしょう。「子供たちが広い視点を持ち、グローバルな人材に育つ」と思いますか?


 違います。


 答えは、教育サービス全体の質が低下する。ただ、それだけの話です。

 本ブログの読者は、日本語モノリンガルの方が多数派でしょう。皆さんが「多国語」で教育サービスの提供を強いられたとき、全体的な品質を高めることができますか。できるはずがありません。


 移民国家化は、日本の教育サービスをも壊し、将来世代に「国家がまともな教育を提供できない日本」を残すことになります。


 「保守」であるはずの安倍晋三総理大臣が率いる日本政府は、移民受入により皇統を危うくすると同時に、教育サービスをも破壊しているのです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12365167745.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

78. 中川隆[-7888] koaQ7Jey 2018年4月10日 10:24:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10090]

幻の科学技術立国 2018-04-10

 昨日は、チャンネル桜「闘論!倒論!討論!2018 日本よ、今... 経済討論「財務省主導の経済でいいのか?日本」」の収録があり、財務省問題や緊縮財政、PB問題について有意義な議論ができたのですが、わたくしは三時間目に、

「最もまずいのは、インフラでも防衛でもなく、科学技術予算(の抑制)です」

 と、主張しました。


 何しろ、科学技術は防衛力強化やインフラ整備の「基盤」になります。PB目標が破棄され、予算が十分に確保できたとしても、科学技術力が凋落してしまっていた場合、防衛力強化やインフラ整備はできないのです。


 そして、すでにして我が国は科学技術強国から「凋落」してしまっております。
「このままでは、科学技術強国から凋落する!」
 ではありません。


 すでに、日本は科学技術強国でも何でもないのです。


 理由はもちろん、財務省が主導する緊縮財政により、科学技術予算が低迷を続けているためです。(さらに、大学改革という名の緊縮財政の影響も大きい)


【2000年度を100とした場合の各国の科学技術関係予算の推移】

http://mtdata.jp/data_59.html#kagaku


 2000年と比較し、中国は科学技術関係予算を何と11倍超にしました。韓国が4.7倍、アメリカ、イギリス、ドイツといった先進国ですら、1.5倍前後には増やしています。


 それに対し、我が国は1倍。


 これまた「国家的自殺」の一場面でございます。


 こんな有様ですから、当然ながら我が国は科学技術力が弱体化し、「幻の科学技術立国」と化してしまったのです(化しつつある、ではありません)。


『幻の科学技術立国 第1部 「改革」の果てに/1 得意の材料分野で周回遅れ 衰退の現場を歩く
https://mainichi.jp/articles/20180405/ddm/016/040/013000c
 近年、日本の研究力を示す各種指標は低下の一途をたどり、中国を筆頭に科学技術新興国が台頭する中で、日本の存在感は急速に失われつつある。皮肉にも、政府はこの十数年間、科学技術政策を成長戦略の柱と位置付け、研究費配分の「選択と集中」や国立大の法人化など、さまざまな政策を進めてきた。第1部では、待ったなしの衰退の現場を歩き、こうした「改革」の副作用を考える。(後略)』


 材料科学の世界において、1993年から95年(つまり、日本の絶頂期)の我が国の論文シェアは12%。アメリカに次ぐ二位で、かつ三位以下を引き離していました。


 ところが、13年から15年は4.4%で五位。アメリカはともかく、中国、韓国、インドにすら後塵を拝している状況です。

 GDP1000ドルあたりの論文数でみると、日本は15.9で、何と世界47位。ブルガリアやラトビアよりも下です。


「実質国内総生産(GDP)当たりの論文数はラトビアやトルコと同じくらい。データ上は、日本は科学技術立国とは言えない」(豊田長康・鈴鹿医療科学大学長)


 日本の科学技術力凋落の主因として挙げられるのが、特定の分野に対し、研究資金を重点的に配分する「選択と集中」政策です。「選択と集中」といえば聞こえはいいですが、要するに緊縮政策です。


 科学技術予算全体が増えず、「大学改革」などと称し、ひたすら大学予算を削減。大学の研究者や教授に対してまで、「資金は自分で確保しろ」などとバカなことをやり続けた結果が、現在の惨状なのです。


 ちなみに、わたくしは日本が科学技術強国から凋落したことを受け、
「だからダメだ! おしまいだ!」
 と、言いたいわけではありません。


 なぜ、このような事態になったのか。財務省主導の緊縮財政以外に、主因は存在しないという「事実」を知って欲しいのです。


 安倍政権は、今でもPB黒字化目標という緊縮目標を掲げています。PB黒字化目標がある限り、我が国が科学技術予算を拡大し、再び科学技術強国を目指すことはできません。


 二十年後には、我が国は科学技術分野において世界の劣等国と化し、「以前はノーベル学者が出たのになあ・・・」などと、指をくわえ、ノーベル賞の発表を見ている状況になっているでしょう。


 今年の6月。安倍政権は骨太の方針2018を閣議決定します。そこに「PB黒字化目標」が入ってしまうと、我が国はインフラ小国、防衛弱小国に加え、科学技術劣等国にまで落ちぶれることが、ほぼ確定すると覚悟しなければならないのです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12367227225.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

79. 中川隆[-7876] koaQ7Jey 2018年4月11日 15:15:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10102]

2018.4.3
英語を仕事で使う人の数は減少傾向という現実、むしろ必要な力とは
榎本博明:心理学博士、MP人間科学研究所代表+ 
http://diamond.jp/articles/-/165663

2020年東京オリンピックでの「おもてなし」に向けて、“英語ファースト”の時代が訪れている。「いまの時代、英会話ぐらいできないと」、「英語は早いうちから学んだ方がいい」と言われるが、

『その「英語」が子どもをダメにする』(青春出版社)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4413045203/diamondonline-22/


の著者・榎本博明氏は、そんな思い込みが蔓延する英語“偏重”な教育現場に警鐘を鳴らす。

実際、仕事で英語は本当に必要?

 現在、日本人は仕事上どれくらいの頻度で英語を使っているのだろうか。仕事で英語を話す機会といえば、海外支店に転勤になった場合か取引相手が海外の企業だった場合ぐらいである。

 とはいうものの、これからグローバル化が進む時代で、実際は英語の必要度がどんどん増しているのではないかと考える人も多いだろう。

 これについては、実証的なデータがある。言語社会学者の寺沢拓敬が行った調査で、「日本で実際にどれぐらいの英語が使われているか」を検証した。2002年の調査結果では、仕事で英語を「よく使う」人と「ときどき使う」人を合わせた比率は12.7%だったのに対し、2008年は13.3%と6年間でほとんど変化はみられなかった。

 さらに、「過去一年間に仕事で少しでも英語を使った」という人の比率は、2006年21.0%に対し、2010年は16.3%と、むしろ減少傾向にあるのだ。

このようなデータを見るかぎり、これから先も日本で仕事する上で本当に英語が必要になってくるのか疑問になってくるだろう。

 また、企業が社員にもとめる能力を調査したところ、英語力よりもむしろ専門性や柔軟性、そして仕事ができること、だれとでもコミュニケーションがとれることだったという。(『週刊金曜日』2013年11月8日号)

 最近では、英語は入社後でも十分身につくという考えが広がり、企業では仕事を進める力や人間力が重視されているというのが実態である。

 やはり、子どもの将来を考えた場合、英語教育に先走るよりも、まずは日本語力や思考力の基礎をしっかり固めることが優先されるべきだといえるだろう。

就活で「コミュニケーション力」が重視されるワケとは?

 新卒採用で多くの企業が最も重視するのが、「コミュニケーション力」だ。これはもちろん日本語でのコミュニケーションのことを指す。例年、「主体性」や「意欲」などを抑えて「コミュニケーション力」が圧倒的に重要視されるのはなぜだろうか。

 これは、近年の大学生の日本語能力の低下が関係していると考えられる。たとえば「内向的」「情緒不安定」「引っ込み思案」などの言葉が通じなくなってきていると榎本氏はいう。

 多くの大学教員が、学生に対して心理検査やアンケート調査ができなくなってきたというが、それは質問項目の意味がわからないという学生が増えてきたからといわれている。

 最近の学生は、SNSでのやり取りで記事を投稿したり友達と会話するなど、言葉に触れる経験は豊富なのだが、本をあまり読まないため、読書体験で得られるはずの豊かな表現や抽象的な概念に触れる機会がないのだ。

このように、英語どころか日本語のコミュニケーションさえうまくできない若者が増えているため、企業としては何としても「コミュニケーション力」がある若者を雇いたいと思うわけである。

 さらに、2007年から日本語検定が行われるようになり、企業の採用試験や研修で使われているという。そのようなものが必要になったということは、それだけ日本語に不自由な若者が増えてきたことの証拠といえるだろう。

英会話ができても、外国人と対等にはなれない

 そもそも日本人の多くが、英会話を話せれば外国人と対等にコミュニケーションがとれていると勘違いしている。その勘違いゆえに、わが子に英会話を習わせたいという親が多いのだ。

 もちろん英会話を話せないより話せた方が、コミュニケーションは円滑に進むだろう。しかし、“話せる”ことだけに注力してしまうのは危険である。

 子どもの言語発達について、発達心理学者の岡本夏木氏は、日常生活の言葉である「一次的言葉」と授業の言葉である「二次的言葉」を区別している。

「一次的言葉」は、具体的なことがらについて、いわば、日常生活において身近な人たちとの間で会話するための言葉である。それに対し「二次的言葉」は、抽象的な議論にも使える言葉であり、そこには話し言葉だけでなく書き言葉も加わったものである。

要するに、日常生活の具体的な場面の会話で用いる言葉か、教室で授業を受ける時などのように抽象的思考や議論をする時に用いる言葉か、ということだ。

 日本語を不自由なくしゃべっていても勉強ができない日本人、知的活動が苦手な日本人がいくらでもいるように、大事なのは学習言語能力、つまり後者の「二次的言葉」を磨くことである。それができないと、授業についていけず、ものごとを深く考えることができない子になってしまうのだ。

 幼いうちから英会話に注力しすぎた結果、英語どころか日本語能力も低く、日本語の文章が読めなかったり抽象的な議論ができないとなれば、取り返しがつかないだろう。

 先述しているように、英語はある程度大きくなってからでも学ぶことは十分可能なのだから、小さいうちから焦る必要は何もないのである。

 英会話は勉学ではなくあくまで「コミュニケーションのツール」。子どもが大きくなって勉強や仕事で本当に必要な能力は何なのか。親には、目先の能力にとらわれず、子どもの将来を見越した教育を受けさせることを忘れずに、わが子と向き合ってほしい。



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

80. 中川隆[-11391] koaQ7Jey 2018年4月26日 21:22:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12391]
専門家が直言「TOEICが日本を滅ぼす」2018年4月20日 プレジデントオンライン


英語能力のテストとして、学校教育でもビジネスでも重要視されるTOEIC。しかし長年、企業の語学研修に携わってきた猪浦道夫氏は「TOEICは英語能力検定試験として欠陥がある。TOEIC対策講座に成り下がった英語教育を進めることで、母国語をふくめたそもそもの言語教育に悪影響が出ており、日本人の知的レベル低下を招いている」と警鐘を鳴らす――。


■TOEICハイスコアは成功への登竜門?

筆者は長年、語学教育にたずさわってきましたが、30年ほど前から学校の英語教育が「文法偏重から会話力重視へ」と急カーブを切り始めました。そのころからビジネス界でもグローバル化の標語のもとに、ビジネスピープルたるもの「誰もが英会話力は必須」のような雰囲気になってきて、どこか不気味な感じがしていました。

その象徴的な存在がTOEICの急成長です。昨今では、あたかもこれからの教育界、ビジネス界ではTOEICのハイスコアが成功への登竜門であるかのごとくみなされるようになってきています。

1990年ごろまで、英語力を認めてもらうには「実用英語技能検定(英検)」が一般的でしたので、この試験は英検に比べてさぞかし画期的な試験なのかと思いました。そこで、この試験の問題を分析してみましたが、そのときの正直な感想は、「これがビジネスに役立つ実践的な英語力とどういう関係があるのか。全体的に英検のほうがまだ数段優れているな」というものでした。

にもかかわらず、TOEICの浸透はやがて文科行政、企業教育にまで及んできて、いまや猫も杓子もTOEICという状況になりました。知人、生徒たちにTOEICの感想を尋ねてみると、その反応の多くは、TOEICなんてあまり意味がないけど上から受けろと言われたので、就職の書類にスコアを書く欄があるので、また若い世代の場合、大学受験で一定のスコアが求められているから仕方がない、という消極的またはやや否定的な意見でした。

いまや、小中学校から大学、大学院、そしてビジネスピープルに至るまで、なんでもかんでもTOEICで学習者の英語力を図ろうとしています。

しかし、TOEICで測れる英語の能力は、あたりさわりない英語トーク(しかも米語の発音)の聴き取りと、専門性の低い英文の理解力だけです。しかも、後者の場合、日本語をまたいでの翻訳力はまったく評価できません。この点では、いろいろな問題はあるにせよ、英検のほうが圧倒的に優れています。

しかるに、言語能力というものは多様でそんな単純なものではありません。「聞く」「話す」「読む」「書く」の4つの能力の区別はよく知られていますが、もう少しキメ細かく見ると、「聞く」「話す」の部分は「通訳能力」があるかどうか、「読む」「書く」の分野は「翻訳能力」があるかどうかの視点も考慮しなければなりません。

さらに、それらの能力はスピーチレベルというものを考慮しなければなりません。おおざっぱに分類しても、現地の人と日常のくだけた会話をするレベル、改まった場面で正式な話し方をするレベル、そして、専門分野の情報交換に必要なコミュニケーション能力です。文章にも、この区別が厳然としてあります。

■本当に英語力が必要な人、不必要な人

英語を学ぶ場合、学習者がどのような目的で学ぶのかによって、どこのゾーンの能力をどの程度まで伸ばすかを考慮しなければ時間の無駄になります。

例えば、日本の大学生がその専門分野の研究において必要としている英語能力とは何でしょう。それは英会話の能力ではなく、原書を読み理解する能力です。大学院レベルの研究(特に理系)においては、それに加えて英語で論文を書く能力が求められましょう。

一方、企業活動における英語力とはどうあるべきでしょう。実は90%のビジネスピープルは高度な英語力を必要としていません。国際化、グローバル化の掛け声のなかで「少しぐらい英語ができないとみっともない」といった曖昧なイメージだけが先行しているだけで、実際に現場にいるビジネスピープルの多くは英語を使う機会はありません。

英語を必要とするのは、海外とのやりとりがある部署の人間だけです。英語を必要としない社員にまで画一的にTOEICの勉強を強要しようとするのは、経理部で働く可能性のない社員に簿記の試験を受けろと言っているようなものです。企業活動のそもそもの目的を考えれば、ビジネスの現場でほとんど役に立たない英語力を少しぐらいアップさせる時間があったら、ビジネスの力を磨いたほうが会社にとってメリットが大きいはずです。

もしビジネスを目的として英語を学習するにしても、個々人の業務内容を考慮してターゲットを絞るべきです。例えば、英文メールが書ければよい、英語文献などを読んで情報分析できなければならない、頻繁に外国人ビジネスピープルと交渉事がある、といったものです。そのレベルによって求められる英語力は大きく異なります。漫然とオールラウンドに高度な英語力を身に着けたいと思っているならば、それは差し迫った必要性に迫られていない証拠です。

■国語ができなきゃ英語なんてできるわけがない

私は、最近、英語のみならず母国語である日本語も含めて、日本人のコミュニケーション能力、論理的思考力が変調をきたしているのではないかと思うようになりました。この傾向は、一般の人々や若者ばかりでなく、ビジネスピープルや知識人と呼ばれる人々のあいだでも顕著で、はたで他の人のトークを聞いていても話がかみ合っていないと感じることが多いのです。

私はこの度『TOEIC亡国論』という、あえて刺激的なタイトルの本を出版しました。それはなぜか。本稿でもこれまで、英語能力試験としてのTOEICの欠陥を示してきましたが、そんな試験が社会に当たり前のように受け入れられてしまったことで、英語にとどまらない言語教育そのものに悪影響を及ぼしはじめているという、強い危機感があるからです。

認知科学者で慶應義塾大学名誉教授の大津由紀雄氏は、文科省「教育の在り方に関する有識者会議(第3回)」において、大学での英語教育の現状を「TOEICの対策講座化に堕している」と評し、「TOEICでの高スコアは必ずしも英語の熟達度を示すものではな」いと喝破しています。

そしてその原因として、「そもそも日本語がきちんと使える人が非常に少ない」ことを挙げ、母国語教育と英語教育のあり方に同根の問題があることを指摘しています。

本来あるべき言語教育とは、英語という特定の言語に偏ることなく、言葉そのものに対する興味をさまざまな角度から養い、母国語と外国語をよく比較観察しながら「ことばの仕組みとか動き」を理解するものであるべきだと、大津氏は言います。

しかも、そもそも「比較観察」する前提となるのは国語力。国語力は思考と深く関連性があり、言語というものは思考した結果を表現するツールに過ぎません。だから、英語を学ぶ以前に、国語力に立脚した思考能力がなければ話にならないのです。

外国語の能力は母国語の能力を上回ることはないが、外国語を知ることは母国語を見直す契機となり、母国語の習熟度を高めます。英語学者の渡部昇一氏はこれを「知的格闘」と呼んでいましたが、外国語を知ることは、母国語と外国語両方に望ましい教育効果が期待できるのです。

■TOEICを目的とした教育で「母国語力」が低下している

ところが、TOEIC対策講座と化した外国語教育では、前述した通り、翻訳能力や通訳能力、そして実践的なスピーチ能力が、正しく身につくとはいえません。大津氏のいう「比較観察」も、渡部氏のいう「知的格闘」も磨かれず、外国語教育で求められる「母国語と外国語両方の習熟」という効果が期待しづらいと言えるでしょう。にもかかわらず、TOEICの点数さえよければいい、という教育を続けていれば、日本語力は磨かれず、当然ながら、日本語力を基盤とする思考力も育たない。

同時に、英語教育における学習者のレベルダウンは、言語学的見地から言えば、紛れもなく背景に国語力の欠如と、読み書き、文法学習の軽視に原因があることはまず間違いありません。つまり、日本語教育がうまく言っていないから、英語力も育たない。

他方で、TOEICの対策講座になった英語教育のせいで、日本語力が育たない。このような負のスパイラルは、基本的には学校教育での誤った教育方針が原因です。重ねて言いますが、そのあしき傾向を助長しているのがTOEICの存在で、その弊害はもはや看過できないレベルにまで達しています。

■日本語教育と外国語教育をセットで考え直すべし

その危機感は最近ますます強まっています。私はときどき国会の審議で答弁している官僚の話し方とか、テレビ番組に出ているコメンテーターと言われる人たちの会話や討論を聞くことにしています。そこで感じたことですが、意識的に論点をずらすとかある種の交渉術的な戦略があることを考慮しても、それ以前に日本語もおかしいというか、きちんとした日本語を話していない人も多い。

一方には、インテリを気取ってところどころ誰にもわからないような英語を交えて話す人もいて、そういう討論を聞いていると、そもそもこの人たちはコミュニケーションする気があるのだろうかという気さえしてきます。

今の世の中は殺伐といていて、子供殺しの親とか、モンスターペアレンツ、会社内での過労死など、痛ましい事件が後を絶ちませんが、これらの事件は、背景に日本語力の貧困によるコミュニケーションの欠如に遠因があるのではないかとすら思えてきます。唐突に思われる方もあるかもしれませんが、自分の考えを理解してもらえないと、人間というものはすごいフラストレーションを感じ、それが極限に達すると「切れる」ものなのです。

文科省の行政指導には、大きな問題があります。経済政策とか外交政策とか、およそ政策というものは、基本的には優れた専門家による検討を踏まえて決められていくものでしょう。ところが、文科省の(特に)英語教育に関しては、優れた専門家の諮問に耳を傾けているとはとても思えません。志ある立派な専門家がどれだけ主張しても、一向にそれが好ましい形で英語教育に反映されません。

浮ついた英語学習を改めて、そろそろ日本人の言語教育がどうあるべきか、国際社会での真のコミュニケーション能力には何が必要かを、国民ひとりひとりが原点に立ち返って考え直してほしいと思う今日この頃です。
http://news.livedoor.com/article/detail/14604971/


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

81. 中川隆[-11583] koaQ7Jey 2018年4月30日 21:08:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12667]

日本経済の将来を占ううえで最も重要なのが、人材だ。そこでも日本はアジア諸国に大きく遅れている。

 世界の大学ランキングというものがあるが、実は、日本の大学は、東大でも世界46位と大きく順位を下げている(Times Higher Education2018)」。

 世界ではどうしてもアメリカやイギリスの大学が上位に入るので、アジアだけのランキングで見るとどうなるか。当然東大が1位だと思う人が多いかもしれないが、実は、毎年順位を落としてついに8位まで下がってしまった。1位シンガポール国立大学、2位清華大学(中国)、3位北京大学(中国)、4位香港大学、5位香港科技大学、5位南洋理工大学(シンガポール)、7位香港中文大学で9位と10位は韓国の大学である。上位21校中(20位が2校あるので21校)のうち、日本は東大と京大(11位)の2校だけ。中国は7校、韓国と香港が5校、シンガポール2校だった。

 将来のことを考えると、子供や孫の進学では、東大や京大よりも中国やシンガポールや香港の大学を勧めた方が良いということになるのだが、実は、日本人には、これらの大学に進学するのは極めて難しい。語学の壁があるということもあるが、それ以上に入試のレベルが、中国などの大学の方が日本よりもはるかに難しいからだ。

 中国の受験競争の激しさは有名だが、その厳しさに負けて、日本の高校に留学して日本の一流大学を目指す動きがここにきて急速に強まっている。先日もNHKのニュースで放送していたが、宮崎県の私立高校が中国で留学生獲得の営業をかけたら多くの優秀な中国の学生が応募してきた。今や学生の過半が中国人で、日本の大学に全員が合格している。留学生に聞くと、中国で良い大学に入るのは難しいから諦めて、日本の大学を目指すことにしたという。彼らにとっては、日本語で受けるとしても、まだ中国よりは易しいというのである。それほど、日本と中国の若者の学力に差がついているということになる。

 この傾向は、経営大学院(MBA)については、より顕著だ。フィナンシャルタイムズが発表した世界のMBAランキング2018では、ベスト100のうち大半はアメリカの大学院だが、アメリカ以外では、英国の14校に次いで2番目に多くランクインしたのが、中国の7校だった。1位スタンフォード(米)、2位INSEAD(仏)、3位ペンシルバニア大ウォートン校などの常連に交じり、何と中国の中欧国際工商学院が8位とベスト10入りをして世界を驚かせている。その下に続く9位がMIT(マサチューセッツ工科大)、10位カリフォルニア大バークレー校と聞けば、そのすごさがよくわかる。5、6、7位がハーバード、シカゴ、コロンビアだが、今の勢いだと、10年以内にトップの座を占める可能性もあると言われるほどだ。ちなみに、この大学院の卒業生の卒業直後3年の平均年収は、16万2858ドル。1ドル110円で計算すると1791万円だ。日本のMBAを卒業してもほとんど箔付け程度にしかならないのと比べると雲泥の差と言って良いだろう。

 この中国の大躍進に対して、日本のMBAがベスト100にいくつ入っているのだろうかと思って、ランキングを上から順にスクロールしてみると、ついに一番下の100位まで行っても発見することはできなかった。つまり、100位以内にゼロである。中国の7校に比べて、何とも寂しい話だ。

 これらの情報は秘密でも何でもない。新聞などでも報じられている。ただし、記者に何の問題意識もないので、これが何を意味するのかが理解できず、極めて小さな扱いでごく一部の情報を載せるだけである。

 一方、優秀な若者は徐々にこうした事実に気づき始め、東大よりも海外の有名大学を目指す動きが広がっている。しかし、それは、残念ながら、まだごく一部である。

 それを象徴する話を聞いた。元民主党女性議員の令嬢が、上智大学を卒業後、香港の大学院に進学した。それをその元議員が友達に話したら、「上智まで出たのに、なんでまた、香港なんかに出したの?」という反応ばかりが返ってくるというのだ。その元議員の令嬢は、メールでこう連絡して来たという。

「ママ、中国は日本をドンドン追い越してるのに、日本人は、気づいてない。それって、相当ヤバくない?ここで勉強したことをちゃんと生かせる仕事がないから、日本に帰っても仕方ないね。アメリカかシンガポールで仕事を探すわ。給料もずっと高いから」

 もう一人、カリフォルニア大バークレー校でMBAを取って、アメリカで今年起業したある日本人の若者の話を聞いた。

「日本に帰る理由を考えたけど、一つもなかった。強いて挙げれば、そこそこおいしいご飯がタダ同然で食べられることかな。ランチの定食が10ドル(1100円)なんて信じられないよね。アメリカだと、その何倍もするからね。でも、アメリカの大都市なら、お金さえ出せば、おいしい店はたくさんあるし、日本の何倍も稼げるから、結局、安いご飯は大した魅力にはならないな」

 そして、こう付け加えた。

「日本人留学生は、ほとんどが政府や企業のひも付きで、日本に帰る前提で勉強している。留学は箔付けというレベルだから、米国で独立して活躍できる人材は少ないね。中国人ならたくさんいるよ」

 日本の未来を支えるはずの若者のレベルが国際比較でこんなに低下しているとしたら、日本経済の将来は本当に危機的状況にあると言って良いだろう。
http://www.asyura2.com/18/senkyo243/msg/796.html#cbtm




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

82. 中川隆[-11582] koaQ7Jey 2018年4月30日 21:11:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12667]
>>81
輸出に有利になる様に日本政府と日銀は円を安くし過ぎたんですね:


日本の物価はいくらなんでも安過ぎる (1ドル=50円 程度が適正価格)
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/126.html




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

83. 中川隆[-12516] koaQ7Jey 2018年5月26日 13:49:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14314]

3S 政策より:
https://ja.wikipedia.org/wiki/3S%E6%94%BF%E7%AD%96


「・・・戦略家のガブリエル・コルコはアメリカがベトナム戦争での失敗を契機に、大規模な戦闘という事態を避ける為に低強度紛争としてソフト・パワーを用いた情報戦を軍事戦略の中枢に置くようになる課程を紹介。この戦略が最も成功した例が日本であり、各種の工作は日本支配のための「軍事戦略であり戦争であった」と述べた。


1. アメリカを無条件に支持し、アメリカに服従する政党と政権を他国に成立させ、そのための資金をアメリカが提供する。

2. この買収資金は、アメリカの税金ではなく、他国でアメリカが麻薬を密売した利益を提供し、アメリカが経済的負担を負わない方策を取る。

3. マスコミ操作を通じアメリカが常に「善」であると他国の市民を洗脳し、アメリカを批判する言論をマスコミに「登場」させない。アメリカ映画、音楽を大量に流し、アメリカが「すばらしい」国だと連日宣伝する。

4. 学校教育においては、丸暗記中心の学校教育で思考能力を奪い、アメリカへの批判能力を奪う。

5. 教師への絶対服従を学校教育で叩き込み、「強い者=アメリカへの絶対服従」を「子供の頃から身に付けさせる」。

6. 逆らう言論人、ジャーナリストは、そのジャーナリストのセックス・スキャンダル等をマスコミに流し失脚させ、必要であれば軍の諜報組織を用い、事故に見せかけ殺害する。

7. 他国の食料、エネルギー自給を破壊し、米国に依存しなければ食料、エネルギーが入手出来ないようにシステム化し「米国に逆らえないシステム」を作る・・・」

関連情報:

一億総白痴化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96

愚民政策
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E6%B0%91%E6%94%BF%E7%AD%96

反知性主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E7%9F%A5%E6%80%A7%E4%B8%BB%E7%BE%A9

パンとサーカス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9

ディストピア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2

etc.


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

84. 中川隆[-12514] koaQ7Jey 2018年5月26日 13:53:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14314]

生まれた時からデフレ経済で苦しむ若者からすれば、バブル景気真っ只中の日本は夢のよう。

ところが、当時の日本には悪魔がいた。今では忘れ去られているけど、単なる「総量規制」の通達で、バブル経済を一瞬にして破壊せしめた大蔵省官僚、土田正顕(つちだ・まさあき)の罪は消えることがない。誰かが語り継ぐので、「未来永劫に」だ。

この銀行局長は日本国民を奈落の底に陥れたのに、土下座して切腹もせず、あろうことか国民金融公庫の副総裁に天下りし、2000年には東京証券取引所の理事長になった。さらに、この不逞役人は東証を株式会社化すると、その功績で初代社長に就任。いやはや、「すごい」の一言に尽きる。

  でも、バブルが弾けたせで、自分の会社を失った経営者は、この“栄転”と“渡り”を知って、どんな感想を持っていたのか?

「この野郎 !」と拳を握りしめた人も多いだろう。
自社が破綻して自宅まで手放した元社長とか、勤め先がいきなり倒産して失業者になったサラリーマン、地価が暴落して人生まで地獄と化したビジネスマンなど、いったい何人が土田を恨んだことか。

世間のオっちゃんやオバちゃんは何も知らないから、東大卒のエリート官僚を「すごいわねぇ〜」とベタ褒めするが、役人が犯した秕政と失態を味わえば、こんな称讃は直ぐに吹っ飛んでしまうだろう。

現在の官僚は一代限りの「エリート」なので、現役中に最大限の利権と財産を貯め込み、退官後も「渡り」を繰り返して蓄財に励む。役人生活でどんな迷惑を国民に掛けようが、「俺の知ったことではない。政治家が決めた事を行ったまでだ」と開き直るんだから、彼らの辞書には「破廉恥」という項目が無い。

  江戸時代の武士と違って、現代のお役人様は転属したり退官すれば「お咎め無し」で、満額の退職金を手にして笑顔でバイバイ。息子が世間の非難を浴びることも無い。「親と子は別」なので、「末代までの恥」なんか最初から無いのだ。

公務員の採用試験にだって、人格テストは無いから、頭が赤くてもいいし、反日思想の持ち主とか、天皇陛下を侮蔑するような人物でもいい。

土田のようなキャリア官僚にとって一番大切なのは、国家国民の利益じゃなく、大蔵省(財務省)全体の権益を守ること。一般国民なんて、下界の召使い程度。不正を犯しても、所属官庁と同僚に迷惑を掛けなければいい。

国民がどれだけ苦しもうが、同期の仲間が助けてくれるし、辞任しても天下り先が確保されているので安心だ。

霞ヶ関のお役人様というのは影の実力者なので、大臣なんかアイドル歌手と同じ。「アイドル一年、大臣二年で使い捨て」が常識だ。国民はお上に奉仕する人足以下の存在。

だから、日本の「民主主義」は、民衆が主体の代議政体じゃなく、役人が「民衆の主人」となる官僚制衆愚政治の別称である。実際、「民主党」政権を思い出せば分かるじゃないか。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68718258.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

85. 中川隆[-13004] koaQ7Jey 2018年6月12日 18:45:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15268]

<科学技術白書>「国際的地位は低下」研究力の低迷あらわに
6/12(火) 15:49配信 毎日新聞

 政府は12日、2017年度の科学技術白書を閣議決定した。人材力、知の基盤、研究資金といった科学技術・イノベーションの「基盤力」に多くの課題を挙げ「わが国の国際的な地位のすう勢は低下していると言わざるを得ない」と指摘。近年の日本の研究力の低迷ぶりを如実に表す内容になった。

 各国の政府の科学技術関係予算の伸び具合を00年と比べると、中国が13.48倍(16年)、韓国が5.1倍(同)、米国が1.81倍(17年)になったのに対し、日本は1.15倍(18年)とほぼ横ばい。

 博士課程への進学者も03年度の約1万8000人をピークに減り始め、16年度に1万5000人を割った。海外へ派遣する研究者の数は00年度(7674人)をピークに15年度は4415人と減っているほか、国際共著論文の数も伸び悩むなど、国際性の低下も問題になっている。

 新たな研究分野への挑戦不足も指摘している。注目度の高い研究分野への参画度合い(14年)では、米国91%、英国63%、ドイツ55%に対し、日本は32%と低迷。研究者を対象にしたアンケートでも、挑戦的・探索的研究が減っている、との回答が多かった。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

86. 中川隆[-13023] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:28:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

「努力しても報われない」世界がある

私は「必死で働く人は報われる」と頑なに思い込んでいた。

「怠惰な人が運だけで豊かになって、必死で努力している人が報われないのは、正義ではないし、残酷だ」という考え方が、ずっとこびりついて離れなかったからだ。

私は自覚していなかったが、それは日本の教育の成果だったのだ。「必死に努力すれば道は拓ける」というのは、今も昔も学校教育の基礎だ。

本当は、人間ひとりひとりに能力があって、生まれつき頭の良い子供もいれば、どう努力しても能力の足りない子供もいる。この差は、生まれつきのものなので埋めがたいものがある。

しかし、学校教育は駄目な子供も面倒を見なければならないし、彼らをある程度「向上」させなければならない。そこで、学校は「必死に努力すれば道は拓ける」と教えることになる。

子供たちは、自分が勉強ができないのは「生まれつきではなく努力が足りないから」だと教育される。

自分を客観的に見つめられる子供は「ひょっとして自分は頭が悪いのか?」と冷静に思うのだが、教育はそれを認めず「努力が足りない」と言って「本当にできない子」を勉強に駆り立てていく。

本当は能力は人によってバラバラで、その差は決して埋まることはないのだが、「努力すれば報われる」と思い込まされるのである。

私も日本の教育を受けてきたので、無意識に「努力すれば報われる」という現実的ではない哲学が身についていた。

しかし、東南アジアで必死で生きている人たちを見て、気付いてしまったのである。必死で働き、必死で努力している人が報われるのであれば、なぜ彼らが報われないのか……。

現実を客観的に分析すると、努力など「何ひとつ」していない私の方が彼らよりも経済的余裕があった。日本に生まれて、なおかつ時代がバブルだったという僥倖があったからだ。

私はたまたま日本の良い時代に生まれていた。努力はまったく関係なかったし、私に持って生まれた特別な才能があったわけでもない。

私は愚かではないが天才でもない。本当に普通の人間だった。日本という国は素晴らしかったが、私自身は語るべきものは何もなかった。

それなのに、私は必死で生きようともがいている人たちよりも圧倒的に恵まれていた。

「努力すれば報われる」というのであれば、これは不可解な現実だ。「もしかすると、努力しても報われない」のが現実なのではないか、と私はうっすらと思うようになっていった。


とどめになったのは、カンボジアの売春地帯にいた女性たちと付き合うようになってからだ。

彼女たちは、もう生まれたときから家が貧しく、教育もなく、計算もできず、身体を売るしか生きる方法がなかった。

そんな中で売春宿のオーナーに搾取され、乱暴な客に罵られ、這い上がることなど到底不可能な世界の中でもがいていた。

「努力したら報われる」どころの話ではない。あまりにも極限の底辺に堕ちると、足りないものが多すぎて必死で働いても浮かばれないのである。

借金もある。計算できないから売春宿のオーナーからピンハネされ放題だ。抜け出しても、字も書けず、計算もできないから普通の職業に就けない。教育を受けるにも金が要るが、そんな金もない。今を生きなければならない。

そんな世界で「努力したら報われる」など、きれい事でしかなかった。しかも、途上国で必死で働いても、先進国のアルバイトの時給にも負ける。時間が経てば経つほど差が開いていく。

先進国で生まれるか途上国で生まれるかは、それこそ運でしかない。富裕層で生まれるか貧困層で生まれるかも運だ。いろいろな環境が本人の努力を超えた部分で決まり、人生が左右される。

もし私がカンボジアの底辺で生まれていたら。あるいは、インドの低カーストで生まれていたら……。

私が生まれた国と時代が悪ければ、「一匹狼だ、野良犬だ、ハイエナだ」と斜に構えて生きることなど到底できなかった。必死で働いても何も得られず、社会に押しつぶされながら生きていたはずだ。

「努力しても報われない」世界があるのだ。
https://blackasia.net/?p=7713


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

87. 中川隆[-13021] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:31:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]
2017年03月08日
家庭環境が貧しいと子どもの脳は「貧困脳」になる
http://gigazine.net/news/20170308-brain-on-poverty/

貧困が「子どもの脳の発達」に強い影響を与えることが研究により明らかになっていますが、コロンビア大学の神経科学者であるキンバリー・ノーブル氏が「貧困と脳の関係」を視覚化した画像を一般向けの科学雑誌としては世界最古のScientific Americanの中で公開しています。

This Is Your Brain on Poverty - Scientific American Blog Network
https://blogs.scientificamerican.com/sa-visual/this-is-your-brain-on-poverty/

貧困が脳に強い影響を与えることが明らかになっていますが、これはお金が脳の構造や機能に直接何かしらの影響を与えるわけではなく、貧困に伴う環境や遺伝的影響が合わさった影響が脳構造に出ている可能性が高いそうです。これは相関関係にあるのか因果関係にあるのかを解き明かすことが実質的に不可能なのではないかという問題でもあるのですが、ノーブル氏は現在利用可能なさまざまなツールを用いて「貧困と脳のつながり」を解き明かそうとしています。

「貧困と脳のつながり」をひもとく上で必要なのは、「貧困はどのように脳機能に影響を与えるのか?」を定義することです。そのためにノーブル氏はさまざまな社会経済的背景(SES)を持つ約150人の子どもを被験者として集め、脳の特定部分に関連する認知能力を評価するための標準的な心理テストを行いました。

心理テストの結果を示したのが以下のグラフで、横軸が被験者のSES(高いほど裕福な家庭であることを示す)、縦軸がテストのスコアを示しています。

グラフは左上から

「Language Skills(言語能力)」
「Perception of Spatial Relationships(空間的関係の認識)」
「Memory of Facts and Events(真実と出来事の記憶)」
「Cognitive Control(認知制御)」
「Short-Term Memory(短期記憶)」

を示しており、程度の違いこそあるものの、すべての認知能力で「貧しいほど認知能力が低い」という正の相関があることがわかります。


http://i.gzn.jp/img/2017/03/08/brain-on-poverty/s01.png


上記のグラフは「貧困はどのように脳機能に影響を与えるのか?」を明確に示していますが、「貧困が脳に物理的にどのような影響を与えるのか?」まではわかりません。そこで、ノーブル氏は約1100人の小児および青年の脳をスキャンし、SESに基づく差異を見いだそうとしました。

「貧困環境で育った子どもは脳の皮質の一部面積が減少している」ということを示したのが以下の図。

「皮質面積の減少」が見られる領域は帯状回・楔前部・下前頭回・上前頭回・下側頭回で、図では赤色に塗られています。


http://i.gzn.jp/img/2017/03/08/brain-on-poverty/s02.png


以下のグラフは横軸が家庭の年間収入、縦軸が脳の皮質面積を示したもの。

特に注目すべきなのは、年間収入が5万ドル(約570万円)以下の家庭の子どもは収入が低ければ低いほど皮質面積が指数関数的に縮小する傾向にあるという点。


http://i.gzn.jp/img/2017/03/08/brain-on-poverty/s03.png


最も低所得な貧困環境で育った子どもたちは、脳の発達において重度の損失を被っている、というわけです。
http://gigazine.net/news/20170308-brain-on-poverty/



▲△▽▼

知能指数が高ければ、社会がどんなに悪くなっても要領良く生きて豊かになると思われがちだ。

しかし、イギリスのジャーナリストであるマルコム・グラッドウェル氏は知能指数の高い人々を調べた結果、必ずしもそうとは限らないという結論に至っている。
神童と呼ばれていた子供が成人しても、凡人以下の貧困生活に落ちている人たちがいる。彼らは高度な知能を持ちながら、社会では落ちこぼれた。

その理由は、親の貧困を受け継いだり、学歴が得られなかったり、家庭環境が崩壊していたりして、知能を発揮できる環境が最初からなかったからだった。

虐げられ、家庭でも冷遇され、社会からも見捨てられた子供時代を送ると、知能を社会的な成功に向けようとする努力さえなくなってしまうのだ。

社会的な成功に意味を見出せなくなり、場合によっては社会から背を向けて生きるようにもなっていく。成功する素質はあっても、子供時代や自分を取り巻く社会環境が不幸なものであれば知能は生かせない。

インドでは10億人の人口があって、しばしば天才的な知能を持つ人たちが生まれる。しかし、その多くはがんじがらめのカースト制度や根の深い貧困によってその芽が潰されていく。

自分を取り巻く社会環境が悪すぎれば、成功しようという気持ちそのものが早い段階から台無しにされる。
http://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/04/20160414T1644580900.html




▲△▽▼

人類の知能指数(IQ)は向上し続けている。

これは現シカゴ大学のジェームズ・フリン氏が1980年代に気付いたもので「フリン効果」と呼ばれている。

「IQの平均は1947年から2002年の間に18上昇している」のである。

なぜ人類の知能は向上し続けているのか。それは遺伝子が変わったからではない。遺伝子はそんなに早く変化するようなことはない。変わったのは「環境」である。

人類は知能を向上させる環境を効率的に作り上げており、多くの人々がその知能向上の環境に接することができるようになっている。だから知能指数は向上し続けているのだ。


この知能指数の向上には、人々が抽象的概念をうまく扱えるようになったのと同時に、推論する能力も向上したことが挙げられている。
全世界で就学率が上がった結果、多くの人々が基本的な「読み・書き・計算」ができるようになった。

それによって、誰もが「情報」を自発的に受け取れるようになり、結果として抽象的概念を考える能力も推論する能力も向上することが可能になった。

この抽象概念と推論能力を力強く発達させるのが、他でもなく「情報」である。

人々は多種多様な情報に接することによって様々なことを考えるようになる。抽象概念と推論能力を深めることができるようになり、結果的に知能指数を向上させていく。

知能指数がさらに伸びていくことが約束されているのは、この高度情報化社会という「環境」は終わったのではなく、むしろこれから始まるからだ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/04/20180409T1636220900.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

88. 中川隆[-13020] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:33:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

貧困家庭の子供が成長してもお金を稼げない本当の理由
http://diamond.jp/articles/-/162585

2018.3.8 松原麻依:清談社  ダイヤモンド・オンライン

『文化資本』とは金銭以外の個人的資本を指す言葉で、経済資本とは異なる意味を持つ。そして貧困の連鎖や子どもの貧困といった問題とも無関係ではない。そんな文化資本の側面から見た、日本の格差の構造とは?(清談社 松原麻依)

裕福になれるかどうかを決める
「文化資本」とは何か


幼い頃から読書や音楽、美術などに親しむ環境に身を置いていれば、「文化資本」は自然と身に付く。そしてこの文化資本は、大人になってからの「金を稼ぐ能力」とも密接に結びついている

 文化資本とは、金銭以外の個人的資本を指す言葉だ。フランスの社会学者、ピエール・ブルデューは「身体化された文化資本」「客体化された文化資本」「制度化された文化資本」の3つの形態に分類している。

「身体化された文化資本」とは、さりげない仕草や立ちふるまいから知識・技能にいたるまで、文字通りその人の身体に染み付いているものを指す。「客体化された文化資本」は、美術品や書籍といった物として獲得されるもの、「制度化された文化資本」は学歴などのように、目には見えないが社会的に「意味がある」と認められているものをいう。
 
 そして、これらの文化資本は、「金を稼ぐ能力」とも密接に結びついている。理屈上は、金持ちでない家に生まれた子どもであっても、ハイレベルの文化資本を身につけられれば、自分でしっかりと稼ぐことができるということになる。
 
 しかし、現実は残酷である。ブルデューは文化資本も経済資本同様、「主に親から子へと『再生産」されていく』と述べている。つまり、お金や土地などの資産同様、文化資本も親から子へ受け継がれていく性質が色濃いというのだ。

 しかし、たとえば本ひとつをとっても大衆小説から古典文学まで様々なジャンルが存在する中、なにをもってして「文化資本」と言えるのか。ライター、コラムニストの北条かや氏は、「ブルデューが活躍した1990年代のフランスと現代の日本では、文化資本の内容もやや異なってくるのかもしれません。ただし、両者とも基本的には『より中央に近い文化』を価値の高い文化とみなす点では同じです。すなわち、この社会を支配している層が有する文化が、文化資本として評価されるわけです」と話す。

金があるだけではダメ
文化資本を持てる家庭環境とは

 日本の場合だと、マンガよりも古典文学、仲間内でしか分からない方言よりも就職活動などで論理的に共通語を話す能力、ジャンクフードを早食いする能力よりも綺麗なテーブルマナー…といった要素が「文化資本」となりえる。

「文化資本を有する人が社会的な階層を上げやすくなっていることは確かで、それがいわゆる経済格差や貧困の連鎖に結びついていると考えられます。たとえば、『教科書を座って読む』という行為も身体化された文化資本ですから、学校教育自体が中央の文化を基準にして作られているとも言えます」

 家に本棚があれば、それが読書習慣へとつながる。座って文字を読む行為そのものは学校教育と親和性が高く、学校教育で評価されれば高い学歴を得やすくなる。これらの要素はすべて文化資本であり、それぞれがリンクして増大していくことが分かる。

「文化的再生産」、つまり文化資本が親から子へと受け継がれていくというのは、どのような構造なのだろうか?

「文化的再生産の過程では、地域や学校のコミュニティなど様々な要素と関わりがあります。その中でも、最も大きな役割を果たすのは家庭環境でしょう。文化資本の有無は幼少期の経験の積み重ねによるところも大きく、いつでも本が読める環境を用意したり、コンサートや美術鑑賞の経験などを子に与えるかどうかは、親の嗜好や経済状況に左右されるのです」

 仮に宝くじで3億円が当たったとしても、それだけで高い文化資本を持てるとは限らない。幼少期に親から文化資本を持てるような経験を提供してもらえるかどうかが、非常に大きなカギを握っているのだ。

 また、北条氏は「その人が文化資本的なものに価値を見出すかどうかは、属しているコミュニティに影響を受けやすい」と話す。たとえば、日本なら地方のヤンキーよりも都市部の富裕層のほうが、文化資本的なものに価値を見出しやすいコミュニティといえそうだ。

学校では強者のはずのヤンキーが
社会では通用しない理由

「好きな小説について語り合って交友を深めるコミュニティもあれば、拳で語り合うコミュニティもある。しかし、日本の支配者層が支持するカルチャーを文化資本とするなら、いわゆるヤンキー文化的なものは文化資本の範疇には入りません。地域によってはヤンキーがスクールカーストの頂点になる学校もありますが、社会という枠組みで見たら、彼らのほうが不利な状況に陥りやすくなるのです。もちろんヤンキー的なコミュニティーに属する人たちの全てが不利だと言っているわけではなく、あくまで社会的地位の取得において不利になりやすい人が多くなるという意味です」

 机に座って勉強することを『ダサい』と捉えるコミュニティより、学校教育に馴染みのあるコミュニティの出身者が高い文化資本を有することになり、後者のほうが社会的階層を上げやすくなる。社会的階層が上がれば、当然ながら経済的にも有利になりやすい。

 本来、優等生もいればヤンキーもいるというのは当然のこと。個人の差異はあってしかるべきで、逆に優等生ばかりの社会などというものが成立するはずもない。だが、この差異は単なる「違い」では済まされない。なぜなら、北条氏が指摘するように、その先にある「貧困」が問題だからだ。

「社会学の階層調査では、年代を重ねるごとに親の地位が再生産されやすくなっていることが分かりました。『ブルーカラーの子どもが医者になる』というような事例が極端に少なくなっているわけです。経済が急成長している時期なら、社会全体で賃金も底上げされているため、子は親の稼ぎを上回りやすい。しかし、今の日本は完全にマイナス成長で、身一つで階層を上げていくことが難しくなっているのです。そうなると、親の階層が子の階層に直接影響するようになってくるわけです」

 こうして経済格差が固定化されれば、貧困の問題はより深刻になっていくという。

文化資本を考慮に入れれば
安直な「貧困自己責任論」には陥らない

 このように文化資本の「格差」などというと、地方のマイルドヤンキーよりも都市部に暮らす富裕層の文化のほうがエライ、と言っているように聞こえなくもない。「文化資本」の存在を認めることは、ある種の差別とも感じられるのではないか。

 しかし、北条氏は「文化資本の格差が存在しない前提で貧困問題を語ると、『自己責任論』に陥りやすくなる』と指摘する。

「会社で評価されるようなコミュニケーション能力、マナーや作法、お金の管理能力、机に長時間座っていられるような持久力、それらもすべて文化資本と言えます。どれも今の日本社会で有利となる要素ですが、一昼夜で身につけられるものではなく、ましてや経済的な支援のみで解決できる話でもありません。スタートラインの平等を信じることは、ある意味危険なことだと思います」

 たとえば子どもの貧困対策を考えた時、子ども食堂や無料塾など、目に見える支援を行えば万事解決なのか。それでも将来貧困に陥ったら、その子自身に問題があると言えるのか。あるいは、なけなしの給料を毎月、酒につぎ込んでしまう人がいたとしたら、それは100%、その人の「自己責任」なのか。

 文化資本の有無は、その人の優劣でもなければ、ましてや良し悪しでもない。ただ、文化資本を持っていない人が割を食うような社会システムが存在することは確かなようだ。育ってきたコミュニティの違いで不平等が生じているのなら、「文化資本」の側面から貧困を考えてみることは無駄ではないはずだ。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

89. 中川隆[-13019] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:33:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

貧困層が資産を持てない7つの理由とそれを克服する処方箋

世の中は恵まれている人ばかりではない。

知的能力が高くて論理的な思考ができていても、家庭が貧しすぎて学歴を得られなかった人もいるし、学業を途中で放棄せざるを得なかった人たちも数多く存在する。

それが将来的に自分の人生に不利な状況になってしまうことを分かっていても、貧困のために学歴を重ねられなかったという人もいるのである。

現代社会は学歴社会なので、学歴がないというのはそれだけで不利な立場に追いやられていく。

高度な仕事、あるいは正社員の地位の多くは高学歴の人たちのものであり、諸般の事情で学歴が得られなかった人は、それだけで就職の入口から排除されてしまう。そのため、学歴の欠如は貧困に直結しやすい傾向にある。

貧困層が貧困から逃れられないのは、学歴だけが問題なのではない。貧困の世界で生まれ、育ち、そこで生きてきた人たちの多くは「貧困思考」というものを持っている。

貧困思考というのは、貧困から抜け出すことができない思考法を指す。長く貧困で生きたことによって、それが貧困から抜け出せない思考に染まってしまうのである。具体的には、どんなものなのか。


浮かばれない人生の底には「貧困思考」がある

「貧困思考」の中で、最も危険なのは何か。それは「自暴自棄」であると言える。

貧困の中で暮らし、貧困に苦しめられ、貧困の中でもがいて抜け出せない地獄を味わい続けると、やがてその人の心は荒んでいき、その心の荒廃はひとつの傾向を示すようになる。それが自暴自棄だ。

希望を失い、失望を重ねたことによって、「もう自分なんかどうなってもいい」とすべてを投げ出してしまう。

自分に怒りを感じ、あきらめ、「もう何をしても無駄だ」と思って向上心をも捨て去り、流されて生き、まわりからの救済があっても「余計なことをするな」と拒絶する。

自暴自棄が自分の心に定着すると、もはや貧困から抜け出すどころではなくなってしまう。長く生きるということすらもできなくなってしまうのである。資産を形成するどころではないのは確かだ。

「貧困思考」は合理的思考の欠如をも含む。たとえば、いくつかの選択肢があった時、自分がどの選択肢を選べば利益を得られるのかを冷静に考えられない。あえて、選んではいけない方を選んだりする。

たとえば、意味もなく高額なものを買ったり、不必要なものに散財したりする人もいる。合理的に考えれば経済的に苦しい時こそ「貯める」という選択肢が必要なのだが、理由を付けて消費する。

それでいて、必要なところに金を回さないで、自業自得のように自分を追い詰める。こうした行き当たりばったりや衝動的な感情に振り回されて合理的な思考や決断をしないというのも貧困思考の特徴だ。

この衝動性は、ギャンブルに強い関心を持つことにも表れる。ギャンブルは勝てば大金を得られるのだが、一方で「勝つ確率が極度に低い」という見過ごせない一面がある。

勝つ確率が低いものに賭け続けていると、負けが込んですべてを失うのは目に見えている。しかし、貧困思考にとらわれていると、その最も重要な一面が見えないのである。

それだけではない……。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/12/20171210T1639280900.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

90. 中川隆[-13018] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:34:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

甘い希望など持つな。貧困層の子供はもう抜け出せない現実

政治家の子供たちは大抵が政治家になっている。なぜか。政治家は儲かるからである。

金持ちの子供たちも大抵が金持ちである。遊び狂って財産を散財するだけの息子たちもいるが、こういった息子たちは、金があるから散財できる。

また金持ちの家庭の子供たちは高学歴が普通だ。なぜなら、子供の教育に金を出す余裕もあれば、安心して学業に励める快適な環境もあるからだ。親のコネや人脈で有名大学に入るルートもある。

現に、ハーバード大学やオックスフォード大学は世界各国の権力者の子弟を受け入れている。おまけに大学卒業後も、仕事や役職が約束されている。

端的に言うと、エリートや金持ちや権力者の子供たちというのは、最初から社会的な地位が用意されており、貧困家庭にはない多くのメリットを享受できる。

アメリカでは親の所得が高いほど子供の成績が良いのが確認されているが、その理由は言うまでもなく教育に最適な環境を整備できるからである。

子供が将来、社会的に成功しやすいかどうかというのは、本人の努力が問われる以前に、親の収入も影響する。世の中は公平ではない。それは冷徹な事実である。


極貧の家庭は、常に何らかのトラブルに追われる

これは別に社会学者が統計を出さなくても、普通の人ですら日常を観察してしみじみと思う現象でもある。

収入のある家庭では、子供にいろんな習い事をさせることができる。塾にも行かせることができるし、家庭教師を呼ぶこともできる。

また、親が精神的余裕も経済的余裕もあるので、子供に目をかけやすい。家族の団欒を持てたり、一緒に旅行ができたり、一緒に勉強したり遊んだりすることができる。

もちろん、すべての富裕層がそんな理想的な家庭ばかりではなく、それぞれ複雑な事情を抱えているのも事実だ。何の悩みもない家庭はひとつもない。

しかし一般的な比較で言うと、総じて富裕層は子供に最適な環境を与えることができる。それが、子供の能力を伸ばすので、富裕層の子供に社会的能力の高い子供が多いのは別におかしなことでも何でもない。

では、極貧の家庭で育つ子供たちはどうなのか。彼らは富裕層の子供たちが持つメリットは何もないだけでなく、大きなマイナスをも抱えている。

極貧の家庭は、常に何らかのトラブルに追い込まれている状態であると言ってもいい。親はストレスにまみれ、家庭そのものが破綻していることもある。

経済問題はありとあらゆる問題を先鋭化させるのだ。今を生きていくだけで精一杯であり、子供の教育などはすべて後回しにされる。

習い事をさせる余裕もない。塾や家庭教師など、とんでもない話である。義務教育が終われば、あとは一刻も早く社会に出て金を稼いで欲しいと考える家庭も多い。

そのように口に出して言わなくても、子供たちは親の貧窮ぶりを見て育っているので、悠長に教育を受けるよりも、さっさと社会に出て稼ごうと考える。

環境的に、低学歴で社会に出るしかない。

そうすると結局はそれが仇になって、低収入の仕事に甘んじるしかなくなっていく。もちろん、彼らに人脈やコネがあろうはずがなく、折に触れて助けてくれる人もいない。


貧困家庭に生まれたことから、すべてが始まっている

富裕層の子供たちが多くの良き助言者を持っているのに比して、貧困層の子供たちは多くの悪い友人を持っている。だから、マイナスの方向に引っ張られやすい。

そして、低学歴を余儀なくされた子供たちには、条件の良い仕事はあまりない。

低学歴でもできる収入の良い仕事というのは、極度に体力を使う仕事であったり、極度に危険な仕事であったり、反社会的なものであったりすることが多い。

その仕事に就いていること自体がトラブルの元になり、やがては自分の人生がトラブルによって潰される。しかし、そこから逃れられない。

良い仕事に就きたいと思っても、現実には低収入の仕事しかなく、将来の展望は見えてこない。

貧困家庭に生まれたことから、すべてが始まっている。「経済格差が遺伝する」というのは、こういった現象から言われているものだ。

日本は2000年代に入ってから、極度に格差が広がる社会になった。この「労働者使い捨て時代」に成人して社会に出た人々は今は30代から40代に入ろうとしている。

2017年、厚生労働省は20年間の国民生活基礎調査の家計所得を分析した結果を出した。

これによると「世帯主が40歳代の世帯では、単独世帯やひとり親世帯の増加で総所得が300万円未満の低所得世帯の割合が増加した」と報告している。

今「生活はやや苦しい、大変苦しい」が合わせて62.4%にまで増えた。

将来の展望もなく、低収入を余儀なくされているわけだから、結婚が激減して少子化が加速しても当然だ。しかし、それでも非正規労働のまま結婚し、将来の安定のない中で子供を持つ人たちも、もちろんいる。

重要なのは、こういった貧困を余儀なくされている人たちを社会が救済できなければ、彼らの子供たちもまた貧困層から抜け出せなくなる可能性があるということだ。


貧困層の子供はもう抜け出せない現実を知るべき

「6人に1人の子供が貧困状態にある」とはよく言われるようになっているのだが、この子供たちが助からない。貧困の子供たちを貧困のまま固定化させる現象が日本で生まれている。

2017年9月17日、総務省は65歳以上の高齢者人口が総人口の27.7%になったと報告した。そして90歳以上も初の200万人台に入ったことも合わせて報告している。

少子化も急加速で進んでいるのだが、超高齢化も止まらない。だから人口動態が日本の致命傷になっていくのは、もう結論的に分かっている。

経済大国としての日本は外国に抜かれていき、日本人が豊かになるチャンスも減少していく。内需が消え、社会が萎縮し、イノベーションを生み出す力も衰え、ありつけるパイがどんどん小さくなっていく。

その中で、富の大部分を富裕層がごっそりと持っていき、残りを大勢の貧困層が奪い合うという醜悪な社会になっていく。

いよいよ、そういった社会が見えてきている。

政府も無力になる。財政赤字が膨れ上がり、高齢者を養うために社会保障費の増大に苦しむ政府に余裕などない。余裕がないから、私たちからもっと税金を取り立てて奪ってくる。

隣人が何かしてくれるだろうか。それも期待できない。格差社会は、激烈な競争が生み出したものだからだ。助け合うのではなく、競争し合って他人を蹴落とす。

では、競争に勝つのは誰か。

もちろん最初から恵まれた富裕層の子供たちである。社会はフェアではない。フェアではない競争社会では、最初から何も持たない不利な貧困の子供たちは助からないのだ。

現実を見れば、すでにそんな強烈な社会になっている。そして、この問題は完全に放置されている。

だから、金があるかないかできれいに分離する一種の身分社会になって、ピラミッドの底辺が底辺のまま抜け出せない社会が到来する。

今の社会に甘い希望など持ってはいけない。貧困層の子供はもう抜け出せない現実を見る必要がある。この現実に気付いて危機感を持たないと、すべての日本人が不幸になる。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/09/20170922T1712200900.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

91. 中川隆[-13017] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:35:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

貧乏な家の子どもがお金持ちになれない本当の理由と「思考格差」の正体=午堂登紀雄
2017年9月3日
http://www.mag2.com/p/money/293416


子どもに貧困が連鎖する本当の原因は「親の子育て」にあります。「所得格差が教育格差を生み、貧困が連鎖していく」という説は、厳密には正確ではありません


「親の経済格差⇒子の教育格差⇒連鎖する貧困」はどこまで本当か

相関関係はあっても、因果関係はない

雑誌やネットのコラムなどで、「親の所得格差が子の教育格差を生み、貧困が連鎖する」という記事がたびたび取り上げられます。

確かに相関関係はあると思いますが、私は直接的な因果関係はないと考えています。

昨今ではすでに、高等教育を受ければいい会社に就職もできて安泰という図式は崩れつつありますし、奨学金制度があるので大学に進学できないというケースは稀でしょう(私自身、高校・大学には奨学金で進学し、15年かけて完済しました)。

貧困が連鎖する本当の原因は、親の子育てではないかと私は考えます。

それは、低所得の親の思考パターンと行動パターンが子に伝わるからです。

低所得の親が抱える「本当の問題」とは

そもそも、なぜ親は低所得なのか。それはたとえば、難しい課題に取り組もうとしない、新しい仕事に挑戦しようとしない、困難にもくじけず耐えようとしない、逆境を乗り越えて目標を達成しようとしない、勉強して能力を高めてより成長しようという意欲が低いために起こることではないでしょうか。

つまり、親自身が勉強することの価値を理解していないのです。親自身が「学ぶこと、努力することによってのみ自分を成長させることができるのだ」と認識していなければ、それを子どもに伝えることはできません。

たとえば「勉強しろ」「早く宿題済ませろ」などというのは教育でも何でもなく、単なる強制です。

大人でも会社で上司から「仕事しろ」「さっさと終わらせろ」などと言われたら気分は良くないでしょう。

そして、そういうマインドは当然、日常生活の親の振る舞い、そして子供にかける言葉にも違いを生じさせます。

「自分にはムリ」と思っている親の口から出る言葉は、「お前にはムリ」ではないでしょうか。

貧困は「親の思考と行動」によって連鎖する

じっくり考えるのを面倒くさがる親は、子どもが「それどういうこと?」と聞いてきても「知らない」「どうでもいいよ」で終わってしまうかもしれません。

家族でテレビを見ていて、事故のニュースが流れた時に発するセリフも「怖いねえ」くらい。

そんな親の言葉、態度、何かに取り組むときの姿勢を見ていれば、子どもも当然それを見習います。そうして親と同じような思考パターン、行動パターンが形成されます。

虐待されて育った子どもが親になったとき、また子に虐待するというケースがあるのもそのためで、子にどう接していいかわからない親に育てられれば、本人もやはり自分の子にどう接していいかわからず、結局親と同じことをしてしまいやすいのです。

つまり、親自身が低学歴・低所得となるような思考と行動をしているわけで、それが子どもに伝わっていることが「連鎖する貧困」の原因と言えるのです。


高所得な親の「思考と行動」は何が違う?

反対に、高所得な親の思考と行動はどうでしょうか。

彼らは積極的に学習する姿勢を持ち、難しい問題に果敢に挑戦したり、スキルアップのために日々研鑽してきたからこそ高所得になったと考えられます。

そういう親は、学ぶことの意義を認識していますから、子どもにもそのように伝えます。親自身も積極的に学び、努力する姿勢を持っていますから、子もそんな親の姿を見て育ちます。

親自身が「努力が大切だ」と思っているから、「やってみろよ。失敗したってまた頑張ればいいんだから」と子にも挑戦することの大切さを教えます。「お前にはムリ」ではなく「お前ならできる」というところでしょうか。

子どもが「それどういうこと?」と聞いてきたら、「それはね、これこれこういうことで、こういう理由があるからなんだよ」と答えるか、わからなければ「なんでだろうね、一緒に調べてみようか」と答えるでしょう。

事故のニュースをテレビで見たら「こういう事故に遭わないようにするには、どう行動したらいいかな?」というセリフを発するかもしれません。

そういう親の態度に毎日毎日、何年間も接して育てば、子どもも親と同じような思考パターンや行動パターンを受け継いでいきます。

そのため、「勉強しろ」などと直接言わなくても、日々の会話の中から、親の論理的な考え方や勉強することの大切さは子に伝わるものです。

だからなのか、高学歴の親の子どももまた高学歴になりやすいですし、東大に合格した学生のほとんどは、子どものころから一度も親に「勉強しろ」と言われたことがないそうです。

子どもの人生を左右する「親の思考格差」

さらに、高所得の親は部下や組織をマネジメントしている立場である人が多いと考えられますから、「どうすれば人は動くか?やる気になるか?」という人間のモチベーションに配慮する姿勢を持っているでしょうそういうスキルを発動すれば、子どもがやる気になるように促すこともできると言えます。

逆に低所得者は末端従業員であることが多く、人のモチベーションがどうこうより自分が不平不満を言っている立場でしょうから、人間心理に疎い可能性があります。それはもしかしたら、子どもの学習意欲や進学意欲の適切な形成を損なっているかもしれません。

ただしこれは高所得家庭でも起こり得ることですが、たとえば親があれこれ先回りしすぎたり、支配的に押し付けるような子育てをすれば、子は自分の頭で考える機会を奪われ、それが子の貧困化につがることがあります。

後半はうがった見方かもしれませんが、いずれにせよ貧困の連鎖を生んでいるのは、親の所得格差ではなく、それに伴う教育格差でもなく、「親の思考格差」なのです(なお、結果的には同じなので、冒頭でも直接的な因果関係はないと表現したわけです)。

「鳶が鷹を生む」現象

そしてもちろん、どの世界にも例外はあり、貧困世帯からでも偉大な人物が出てくることもあります。

親を反面教師にして努力し大成した人もいれば、逆に立派過ぎる親に反発してドロップアウトする人もいますが、それらはほんの一握り。珍しいからこそ、そうした人がテレビや書籍で取り上げられるのです。

では、そんな「一握り」に子どもが育つ条件とは何でしょうか?


子どもの論理的思考を鍛えよ

「ではどうすればいいのか?」ですが、私のひとつの提案は、子どもの義務教育を変えることです。

本来は親がすべきことであっても、強制することはできません。そこで親ができないなら、学校教育を変えるしかないというわけです。

具体的には、まず理系科目のウエイトを高くすることが挙げられます。理系科目は論理的思考の基礎となるからです。

私が知る限り、低所得者の多くは数学や物理などの理系科目が苦手です(もちろん全員ということではありません)。

それはつまり、論理的思考が苦手であることを意味します。だから感情や思いつきで判断したり、自分の行動がどういう結果を招くのかという想像もできない。

ただ、現状でも授業数はいっぱいなのに、今後英語やプログラミングの授業も入ってくるとなると、これ以上コマ数を増やすのも難しそうですが……。

子どもが「自分で考える」習慣の大切さ

もうひとつは、学校の中で、自分で考える習慣をつけるような授業の頻度を増やすこと。

現在の学校教育の多くは、教師が知識を伝え、児童生徒は受け取るのみであり、そこに「自分の頭で考える」「自分の意見・主張を持つ」「自分の考えを発表し、他者との違いを認め合う」という場はほとんどありません。また、テストでは問いを与えられ、最初から答えが存在していることばかりですから、自ら問いを発する、つまり課題を発見する機会にも乏しい。

国語にいたっては、たとえば小説の問題でも「こういうふうに捉えなさい」と感じ方まで強制されます。むろん正確に読む書く話す能力は重要なので、それを否定するわけではありません。

そういう基本は押さえつつ、でも「そういう意見や考えもあっていい」という多様性が認められる場を盛り込もうという意味です。

そもそも低所得者は、現状に疑問を持つことが少なく、一方で「こうすべき」「こうしてはいけない」という強固な固定観念に縛られ、自由な発想ができません。

言われたことしかできないとか、標準化された仕事はできるけど創意工夫して変えることが苦手な人は、思い込みが激しく多様性を認めない傾向があります。そのような柔軟性がないため、環境変化にも適応できず、所得は下がっていきます。

そしてそれを「しつけ」と称して子にも教えている可能性があり、だから親のそういう根拠のない常識や思い込みから解放させ、自由に発想させる場が必要です。

それにはたとえば「あなたはどう考えるの?」「僕はこう思う」「私はこう考える」という一人一人の個性を発揮させる授業、たとえば討論やディベート、グループ研究・発表会などが考えられます。

ただ、これも前述と同様、現状の授業枠の中でそこまでの時間が取れるかどうか難しいですが……。

変わるべきは親自身

「自分は貧しかったから、子どもには良い教育を与えてあげたい」という親の気持ちは当然だとしても、やはり変わらなければならないのは親自身ではないか。

親が変われば子に接する態度が変わり、子も親の影響を受けて変わるはず。

そして親の手を借りずとも「大学ではなく専門学校に行く」とか「日本の大学ではなく海外の大学に行く。そのため給付型のスカラシップが取れるよう頑張る」などと、自己責任において進路を決めるようになるかもしれません。


子どもの人生に、本当に大切なこと

「親の経済力によって大学進学率に差がつくのはおかしい」「親が貧しく進学させてあげられないから教育格差が生まれ、子も貧しくなる」と考える人は、奨学金の無償化や、公的な教育投資を増やすよう働きかけています。

しかしそれは「大学に行けばすべて解決する」と言っているようなもので、本質とは言えません。

むろん、義務教育をちょっと変えるくらいで解決できるテーマではないし、集団の中ではどうしても差ができてきます。だから完全に格差をなくすことは不可能。

とはいえ大学以前に、子どもが自分の頭でしっかり考えるような教育をすれば、「雇われるため」の進学だけではなく、たとえば高校生で起業家デビューとか、多様な人生の展開ができるようになる人が増えるのではないでしょうか。


そういえば、お金に関する知識は学校教育では習わないですよね。生きる上ではとっても大切なことなのに。同様に、子育てに関する知識も学校では習わない。論理的な思考方法やコミュニケーション技術も習わない。

ということは、学校では教わらないことの方が、実は人生においては重要なのかもしれません。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

92. 中川隆[-13016] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:37:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

米調査で判明。本が多い家ほど子供の読解力はグイグイ上がる 2017.06.23

算数の文章題を解くにしても、論理的な文章を書くにしても、とかく必要となってくるのが国語の読解力。そんないつの時代にも求められる「読解力」を簡単につけられるかもしれない方法があるようです。

無料メルマガ『システマティックな「ま、いっか」家事術』の著者・真井花さんが詳細に記してくださっています。


500で2.2!!

さて、本日は家にあるだけでOK! なもののお話。

以前、算数ができないという親戚の子に算数を教えていました。そのころ繰り返し解説しても、ぜんっっぜんひとっつも出来るようにならなかったのが「文章題」でしたorz 

こっちが悪戦苦闘して解説しても、全く出来ない。ポカ〜〜〜〜ンなその子を見ていて感じたのは、「こりゃ、算数がモンダイなんじゃないな」ということでしたね。なんていうか、少しでも抽象的だと概念そのものが理解できないんですよね。たとえば、「連続した3つの整数」という問題設定だと、「連続した」「3つの」「整数」はそれぞれぼんやり解るけど、これがくっつくと、もう完全にお手上げ(T-T)。本当に「ニホンゴ、解ってる?(`ー´;」なレベルでした。算数以前の、抽象的な語彙力、論理的な文章の読解力自体がモンダイだったんです。

算数が苦手なコドモは多いものですが、その真の原因が国語力だとすると、これはこれでタイヘンです。国語力って一朝一夕には、アップしないですからね。

ところがね(0_0)

家にあるだけでコドモの国語力がアップするモノがあるんです。そう、それは、想像どおり「本」なんです。アメリカでの調査によると、子供の読解力は


•100冊あると、1.5学年上の子供と同レベル
•500冊あると、2.2学年上の子供と同レベル


なんだそうです。読解力が1.5学年分ってどうやって測ったのかビミョーに不明ですが(^Д^)、ま、それでも納得の結果ですよね。

その調査では、「家にあるだけじゃだめで、ちゃんと親が本を読む環境で…」と注意書き(?)がありましたけど、本を読まない親が100冊分500冊分のお金とスペースを本に投資するとは思えません。フツー、その親、読書が好きでしょ。

また、この本は子供用でなくても良く、オトナが読むレベルのものでOKのようです。そうなるとグッと選べる本の範囲が広がりますね。要は、
•本が身近にある環境で、周囲の大人が本を読んでいる

ということを本の所有冊数から検証したということでしょう。

逆に、この調査からすると、数百冊単位の本を持っている家庭は学習環境としてトップ数パーセントに入っている可能性が高いんじゃないでしょうか。1.5学年2.2学年上の学力を持つ子供って、当該学年ではトップ数パーセントに入るはずですからね。

文庫本が1冊500円くらいとして、100冊で5万…。夏休みに塾に行かせたら、あっという間に吹き飛ぶ金額ですよね。ですが、そのお金を使って優れた学習環境を整えられるわけですからずいぶんカンタンに感じますね。

家には本をたくさん置く。なかなか上げられない国語力や算数の文章題が出来るようになるための、悪くない投資だと思いますよ。
http://www.mag2.com/p/news/254190

中国農村の子どもの半数、知力発育に遅れ、米経済学者が指摘―米メディア
http://www.recordchina.co.jp/b190840-s0-c30.html
2017年9月18日(月) 8時0分

2017年9月16日、米ボイス・オブ・アメリカは、中国の農村の子どもの半数が知力発育に遅れが生じていると指摘している。

米スタンフォード大の経済学者スコット・ロジール氏は、中国の河南省鄭州市にあるアップル社のOEMメーカーを視察した際、工場が採用したがるのは学歴が高くなく、しかも知的能力の高くない人ばかりだということに気づいた。

ロジール氏は「知的能力の低い高校中退者が好まれていた」とし、「応募してきた人たちに知能指数(IQ)テストを行い、成績が目立って高い人は採用しない」と、工場の採用について明かした。工場の単純なライン作業は10分程度で仕事が覚えられ、知性の高い人はその単純な反復作業がすぐにいやになってしまうからだという。

だが中国では、そうした単純作業に向く労働力があふれている。10年の国勢調査によると、高校卒業者は労働力全体の24%でしかなく、トルコやブラジル、メキシコ、南アフリカ、インドネシアなどよりも低い水準にある。経済協力開発機構(OECD)加盟国全体で見ると、全労働力のうち高卒以上の学歴を持つ人は74%もいる。

中国は、都市部では高校進学率が93%に上る。米国よりも高い水準だが、農村では37%と著しく低い。ロジール氏は「中国の農村に特有の現象だが、問題は根深い」と話す。

中国の3歳児は50%近くが貧困状態の農村で生活し、約25%は都市部の出稼ぎ労働者の住む貧しい地区で暮らしている。ロジール氏によると、農村の教育問題は、学校や教科書の不足だけでなく、栄養不足や健康面も多く、就学前から問題の種子が植えつけられるという。

ロジール氏を中心とする研究グループが14年から行っている調査によると、陝西省や河北省、雲南省の農村に住む生後18〜30カ月児の45〜53%がIQ85よりも低く、正常な水準を下回るという。他の地域でも同様の結果が出ている。

また遺伝子や栄養の問題以外に、成長の過程で大脳に刺激を与えて知能的発達を促すような育児が行われていないことも深く影響しているという。ロジール氏は、今後4〜5億人もの中国人が治る見込みのない知的障害を抱えて生きていくことになることになるかもしれないと話している。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

93. 中川隆[-13057] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:38:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15352]

「経済格差は知能の格差」という現実から目を背けるな[橘玲の日々刻々]
http://diamond.jp/articles/-/114447


 2016年に国際社会を揺るがした最大の事件は、イギリスのEU離脱を決めた6月の国民投票だと思っていたら、11月のアメリカ大統領選でそれを上回る衝撃が起きました。もうひとつの驚きはAI(人工知能)で、ディープラーニングによってコンピュータがチェスだけでなく、より複雑な将棋や囲碁でプロを圧倒する時代がやってきました。

 じつはこのふたつの出来事は、「知識社会化」という同じコインの裏表です。

『ワイアード』創刊編集長のケヴィン・ケリーは、人間がテクロジーを開発しているのではなく、テクノロジーが人間を利用して自ら進化しているのだという「テクニウム(テクノロジー生態系)」を唱えました。テクノロジーはまるで生物のように、さまざまな知を吸収して未知の領域へと自己組織化していくのです。

 社会が高度に知識化すれば、それに適応するにはより高い知能・技能が求められます。――パソコンを使いこなせないと事務の仕事すらできない、というように。仕事に必要とされる知能のハードルが上がれば、必然的に多くの労働者が仕事を失うことになるでしょう。これが「格差社会」とか「中流の崩壊」と呼ばれる現象です。

 しかし失業したブルーワーカーは、なぜ自分が虐げられるのかがわかりません。その怒りを動員するのがポピュリストの政治家で、今年はフランスやイタリア、ドイツなどでも同じ光景を見ることになるでしょう。なぜなら、知能の格差が経済格差を生み、社会を混乱させるのは、(新興国との競争にさらされる所得の高い)先進国に共通の問題だからです。

 AIがその驚くべき能力を示しはじめたとき、多くのひとが、人間がロボットに支配されるSF的なディストピアを予感しました。しかしその後、すこし冷静になると、AIは人間に取って代わるものではなく、人間の知能を拡張するツールだといわれるようになりました。脳(身体)とコンピュータは仕組みが本質的に異なっているので、AIがどれほど学習しても、人間のような認知能力や共感能力を持つことはできないからです。

 しかしこの事実も、あまり明るい未来は見せてはくれません。

 AIが知的能力を大きく引き上げるとしても、それはすべてのひとに平等に恩恵を与えるわけではありません。そこからもっとも大きな利益を得るのが、高度で複雑なテクノロジーを効果的に使いこなす、知的能力の高いひとであることは間違いないからです。同様のことはビッグデータ(統計解析)などの分析手法や、ビットコイン(ブロックチェーン)、3Dプリンタ、VR(ヴァーチャル・リアリティ)のような新しい技術にもいえるでしょう。

 このようにしてテクノロジーの「進化」がますます知能の格差を広げ、それによって富は局在化し、経済格差が深刻になり、社会は分断されていきます。これは知識社会化がもたらす必然ですから、人類がこの運命を避けることは(おそらく)できないでしょう。

 だとすれば、私たちはどうすればいいのでしょうか。

 そのこたえを私は持ち合わせませんが、ひとつだけ確かなことがあります。それは、「経済格差は知能の格差」という現実から目を背けるなら、私たちはグロテスクな「陰謀論」の世界に落ちていく以外の未来はない、ということです。

参考:ケヴィン・ケリー『テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4622077531/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4622077531&linkCode=as2&tag=mailmagazin0asyuracom-22
 


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

94. 中川隆[-13056] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:40:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15352]

お金持ちが経験、お金がお金を呼ぶ「ゾーン」とは?
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170326-00000011-zuuonline-bus_all
ZUU online 3/26(日) 18:30配信

お金持ちは、お金を引き寄せる。
お金の性質を理解して、
お金がお金を呼ぶ「ゾーン」を体験せよ。

私は、よく「菅下さんはお金持ちでいいですね」と言われます。
自分の貯金額を明かしたことはないのですが、なぜかそう言われます。どうも、私は「お金持ち顔」なのだそうです。

(本記事は、菅下清廣氏の著書

『今こそ「お金の教養」を身につけなさい 稼ぎ、貯め、殖やす人の”37のルール”』(PHPビジネス新書)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8A%E3%81%93%E3%81%9D%E3%80%8C%E3%81%8A%E9%87%91%E3%81%AE%E6%95%99%E9%A4%8A%E3%80%8D%E3%82%92%E8%BA%AB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%95%E3%81%84-%E7%A8%BC%E3%81%8E%E3%80%81%E8%B2%AF%E3%82%81%E3%80%81%E6%AE%96%E3%82%84%E3%81%99%E4%BA%BA%E3%81%AE-37%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%AB-PHP%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%8F%85%E4%B8%8B/dp/4569812058


の中から一部を抜粋・編集しています)

でも中学生で父が事業に失敗したあのころ、私はしばらくお金に嫌われてしまいました。大学生の頃もアルバイトをしていましたが、貯金をするほどの余裕はなかった。必死にアルバイトをしていた私と、いまの「お金持ち顔」の私。何が違うのでしょう。

私は「貧乏」も「お金持ち」もどちらも経験しましたが、明らかに違うことがあります。それは「お金が向こうから寄ってくるかどうか」です。

お金を持つと、お金がお金を吸い寄せ、さらにお金が集まります。なぜか。お金持ちの人には、お金儲けの話が集まるからです。

「あの人はお金持ちだから、おそらくいい頭脳と人脈をもっているに違いない。相談にいってみよう」

と、なるわけです。有益な相談もたくさんありますから、結果としていい人脈やお金が集まってきます。

よく考えたら、当然のことです。貧乏な人にお金儲けの案件を持ち込んでも、無駄ですから、貧乏な人には、人も金も集まってきません。

■お金がお金を呼ぶ「ゾーン」とは?

お金持ちは、一定額以上貯まったら、あえて貯金をしようとはしていません。お金が向こうから寄ってきて、よほど浪費しなければ結果として貯金できてしまうからです。

私も年収10年分貯まった頃から、「お金を貯めよう」という意識は無くなりました。10年分の貯金があれば、人間は気前が良くなります。すると、さらにいい人が集まってきます。ですから、もともとお金持ちの家に生まれた人は、お金が集まりやすいはずなんです。それでもお金が貯まらないということは、頭が悪いか、素行が悪い。どちらかです。

話を戻します。お金がお金を呼びはじめると、お金は勝手に増えてくれます。たとえば、1千万円をローリスクで利息10%の商品に投資すると、年間100万円になります。月8万円程度のお小遣いがもらえれば、これまで食事などに使っていたお金を、別のことに投資できるようになります。

でもこれでは、「お金がお金を呼ぶ」と言うほどではないです。まだ、少し甘い。本当に「お金がお金を呼ぶ」スパイラルをつくるには、5千万円、1億円クラスのお金が必要です。

1億円あれば、たとえ5%の運用であっても、年間500万円のキャッシュフローが生まれる。30代くらいの方の年収が、そっくりそのままもらえちゃうわけです。

こうなると、お金がお金を呼ぶ「ゾーン」に入ります。あなたに関係のない話をしているのではありません。1億円だって、今は夢のように思えても、貯まります。その「はじめの一歩」が、この本でおすすめしている「恒産」なのです。

お金というのは不思議なもので、10万円しかない人には減る一方、100万円くらいなら横ばい、1000万円になるともう減りません。1億円貯まったら、もう楽勝ゾーン。

■金融リテラシーや投資頭脳は、お金の量に比例

貯蓄が一定のレベルを超えると、貯金の利子もつきますし、お金につながる情報も自然に寄ってきます。おそらくあなたの頭には、最低限の金融リテラシーも備わっているでしょう。さらに一定額になると、「もう少し増やしたい」と思いはじめるから、自然と投資や金融の勉強をはじめます。

お金もリテラシーもないときは、勉強も苦痛です。でもお金が増えると、さらに知識量が増え、お金も増える。すると勉強が楽しくなるから、やっぱりお金も増えます。

金融リテラシーや投資頭脳は、お金の量に比例します。資産家ほど、実はとても勉強家なのです。やっぱり、樽に小銭を貯めていてもダメなんです。

■ピンチをチャンスに変えた経験

お金持ちは、素直。
浅はかな失敗をしても、すぐに方向転換できるかどうか。

エニグモの田中さんは、ピンチをチャンスに変えました。ピンチを機に、自身の人生を上昇気流に乗せました。でもピンチの渦中にいる時には、どうすれば上昇できるのか、一体なんで下降しているのか、わからないことが多いものです。私もそうでした。

私は大和証券時代、常にトップセールスを誇っていました。しかし、当時の日本企業は成果主義を導入していませんでしたから、どんなに頑張っても月給以上はもらえません。私は、転職を考えました。

私の先輩で、相場能力の優れた方がいました。営業成績が極めて高く、良質なお客さんをたくさん持っていた先輩は、大和証券を辞め、小さな証券会社の外務員になりました。

外務員になると、取引手数料の一部が収入になるので、成績が上がるほど手取りも増えます。証券会社に机と電話を貸してもらい、「身ひとつ」で営業します。頑張りによっては、年収1億円も夢ではありません。

その先輩から、「菅下君、一緒にやろう」と誘われたのです。まだ新人でしたが、「君の相場観は抜群だし、営業もできる。2人でチームを組めば、自分がいないときにお客さんを見てもらうこともできるから都合がいい」と言われ、うかつにも「やってやろう」と思ってしまいました。22歳か、23歳のころです。

大和証券という一流の証券会社に入社したわけですから、その後の人生も、一流で終えられる可能性があります。でも小さな証券会社に行ったら、先はないかもしれない。でも若いから思慮が浅く、新しい会社に「来週からお世話になります」と挨拶に行ってしまったのです。先輩の隣に、席が用意されていました。

こんな私を救ってくれたのが、当時私が勤めていた大和証券の大阪営業部長です。「思い立ったたが吉日」と私は大和証券にさっさと辞表を提出し、過去にお世話になったこの部長に挨拶に行きました。大阪の営業を仕切っている方で、めちゃくちゃ偉い人です。

その部長に、「『大番』のギューちゃんを目指して、相場で勝負します」と言ったら、すごい剣幕で怒られました。彼のデスクは、100坪くらいのフロアの一番前にありました。500人の部下のデスクが整然と並び、営業マンたちは忙しく電話をしています。その前で、飛び上がるほど怒られました。500人、ほぼ全員が私を見ました。

「目先の金儲けに目をくらませて、人生を誤るとは何事だ。辞表を提出してしまったのなら、しょうがない。俺が口をきくから、世界最大の証券会社に行け」

その言葉が、ピンチをチャンスに変えました。当時、世界最大の証券会社だったメリルリンチが、日本に進出したばかりだったのです。先輩も「同じ相場師になるなら、ちっぽけな大阪の相場師より、世界の相場師になれ」と言ってくれました。

私がメリルリンチに入社できたのも、先輩が大和証券の国際部門経由で、推薦してくれたからです。メリルリンチの採用担当者は「大和証券の推薦なら採ります」と言ってくれました。

些細なことで、ピンチはチャンスに変わります。特に若いと、人生経験が少ないから、判断も浅い。判断を簡単に誤り、人生を下降させます。私を叱ってくれた部長は、私にとって人生の神様です。彼はのちに大和証券の副社長になり、私がメリルリンチに行ったあともずっと応援してくれました。

いい先輩や上司に恵まれた方は、是非大切にしてください。そして先輩の言葉には、素直に耳を傾けましょう。もしも、悪い遊びに誘う先輩に恵まれてしまったら、それは悪い運です。さっさと断ち切って、遊びや飲みの時間を勉強に充てましょう。それが、幸運を呼び込む秘訣です。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

95. 中川隆[-13055] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:41:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15352]

年収5億円vs.186万円「新・階級社会」日本の真実 もはや「格差」ではなく「階級」だ
2018.02.05 週刊現代  :現代ビジネス
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html

頑張れば報われる――それは、昭和の牧歌的な風景だったのかもしれない。努力しても報われない、現代日本の残酷な現実。

入会金540万円のスポーツジム

仮にW氏としよう。40代男性。シンガポールに住む投資家である。元々、メーカー勤務のサラリーマンだったが、ベンチャー投資で財を成した。その後、資産は倍々ゲームで増えている。

そのW氏が語る。

「資産がいくらあるのか――正直、自分でも正確に把握できていないんですよ。数百億円といったところでしょうか。複数のプライベートバンカーに運用を任せていて、株や債券、外貨、資源、ゴールドなど、ありとあらゆる金融商品に分散投資をしています。

何かで損が出たとしても他が補ってくれますから、資産は安定的に増えていく。年収5億円?それくらいは優にありますかね」

豊かな人はより豊かになり、貧しい人はより貧しくなっていく――。トマ・ピケティ氏が『21世紀の資本』で喝破した現実は、現代の日本でも着実に進行している。
W氏が続ける。

「月に1000万円を使うって大変なんですよ。昔は酒とオンナで浪費しました。入会金100万円を払って、VIP向けの会員制交際クラブに入り、有名グループの女性アイドルを買ったこともあります。でも、実際に寝てみたら『こんなものか』という感想。

ワインは多少高いものを飲みますが、飲める量には限度がある。結局、酒もオンナもほどほどで、健康が一番という結論に辿り着きました。

ああ、時計は買いましたね。アラスカでオーロラを見た後、スイスに寄った際に。リシャール・ミルの1億円の時計を2本買った。一つは自分がつけて、もう一つは保存用です。これも希少性が高く、今では買った価格よりも高値で取り引きされているようです」


使っても使ってもカネが減らない。年収5億円以上の超富裕層が日本にも存在する。彼らに共通するのは、こんな特徴だ。

●限度額が著しく大きなブラックカードを持ち、現金は原則使わない。

●事故を起こすリスクを考え、自分で車は運転しない。移動はハイヤーかタクシーを利用する。

●会員制高級ジムに通って健康維持に励む。

資産数十億円、年収1億円の上場企業創業者A氏はこう話す。

「カネを使うのは、自己研鑽、情報収集、人脈形成のためですね。たとえば、一般の方がとても入会できない高額のスポーツジムで汗を流しています。

大手町にある超高級ホテル内にあるフィットネスクラブです。入会金は540万円、年会費64万8000円。ここには私のような経営者や投資家が集まり、体を鍛えると同時に情報交換の場になっています」

超富裕層はこういった場で、公になっていない情報をやり取りし、新しい儲けのタネを仕込んでいく。前出のW氏は、こんな豪快なカネの使い方をしたと言う。

「ミシュランの星付きの店はたいてい行きましたが、高くておいしいのは当たり前。

むしろ私は、安くておいしいものに目がありません。博多で一人前800円のもつ鍋が評判だったので、シンガポールからビジネスクラスに乗って食べに行ったこともあります。

800円のもつ鍋を食べるのに、30万円くらいかかりましたが、まあ、いくら使ってもおカネはなくなりませんので……」

7割近くが結婚していない

超富裕層の中には財布が膨れるのが嫌というだけの理由で、お釣りの小銭を全額募金箱に入れる人もいる。一方で、日々の生活もままならない「階級以下」の層=アンダークラスが登場している。

「格差社会」が社会問題として一般に認知されるようになったのは、この言葉が流行語大賞トップテンに選ばれた'06年のことだった。所得が低く、結婚もできない「非正規労働者」の存在が問題視された。

その後、格差は縮小するどころか、拡大し、今や絶対に超えられない壁=階級となった。早稲田大学人間科学学術院教授(社会学)の橋本健二氏は著書『新・日本の階級社会』で膨大なデータを用いて分析している。

「これまでの社会は、資本家階級があり、中間階級がいて、一番下に労働者階級がいると考えられてきました。労働者階級の給料は安いですが、正規労働者として身分は安定し、生活できるだけの所得はもらっていた。

ところが近年、その条件に当てはまらない非正規労働者、『階級以下』の存在(アンダークラス)が増えています。彼らはたしかに雇われて働き、賃金をもらっている労働者です。しかし、身分は不安定で、給料も安く抑えられている。

社会調査データから明らかになった、彼らの平均年収は186万円で、貧困率は38.7%。男性の未婚率は66.4%にも上ります。こうした人が929万人も存在し、就業人口の14.9%を占めているのです」

彼らの暮らしぶりはどのようなものか。東京都武蔵野市に住む日雇いバイト(45歳・男性)の話。

「20代の頃、人気グループのバックダンサーをやっていました。'90年代には小室哲哉さんと何度も仕事をしたことがありますよ。

でも年齢を重ねるごとにダンス関係の仕事は減っていき、安定した収入を得るために、洋服の包装・仕分け工場で非正規社員として働いたこともあります。

40歳を過ぎたとき、年下の上司と揉めて契約を更新されなくなりました。それ以来、イベント会場の設営などの日雇いバイトで収入を得ています。月の収入は15万円程度です。

中央線の駅から徒歩30分のボロアパートに住んでいます。家賃は6万5000円。夕食は100均で買ったカレールーを湯でとかしたもの。少し野菜も入れますが、この歳になると米は太るし、節約のために食べません。

2週間に一度、ラーメン屋に行って食べるのが唯一の贅沢です。移動は基本、人からもらった自転車。現場によっては交通費が支給されるので、それが浮くのがありがたい」


収入が低いと、異性と付き合うことにも困難を伴う。介護職に従事する男性(29歳)が物悲しいエピソードを披露する。

「学生時代から付き合っていた彼女がいたのですが、卒業後はデートをするにも交通費や食事代がかかり、厳しいものになりました。クリスマスはおカネのかかるイベントですから大変でしたね。

プレゼントは、彼女の革のブーツをピカピカに磨いてあげるというもの。おカネがないなりに相手を笑わせようとした精一杯の誠意だったのですが、彼女は笑うどころか引いていましたね。それが彼女との最後のクリスマスになりました」

一日頑張っても500円

愛知県在住の派遣労働者(26歳・男性)は、派遣労働の合間に小銭を稼ぐのに四苦八苦している。

「部品工場に派遣され、流れてくる部品を組み立てたり、運んだりします。時給900円で、一日7000円程度にはなる。

景気のいいときは月収12万〜13万円ですが、派遣先が見つからないときもあり、そういうときはネット上のニュース記事を書くバイトをしています。500文字書くと50円もらえる仕事。一日頑張ると、500円くらいにはなります」


一日頑張っても500円。かたや財布がかさばるから小銭はすべて募金箱に投げ入れ。たしかに「格差」という言葉では生ぬるい。

アンダークラスの多くに共通するのは、正規労働者になりたいという切実な願いだ。

だが、企業は一度採用するとなかなかクビを切れない正規社員の雇用を渋っている。
'03年の時点で「年収300万円時代」の到来を予見した経済アナリストの森永卓郎氏は、今後、階級間の断絶はさらに広がると指摘する。

「資本家階級と労働者階級は、同じ日本で暮らしているかもしれませんが、超富裕層にとって、自分たち以外の人は人間ですらない。彼らにとっては金儲けの道具でしかないのです。

資本家と労働者階級が対立するのが、マルクス経済学が読まれた時代の資本主義でした。しかし、今の階級社会では、両者の間に接点がないので、対立になりようがない」

これがアベノミクスの背後に隠れた「日本の不都合な真実」なのである。


「週刊現代」2018年2月10日号より
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

96. 中川隆[-13072] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:01:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15370]

“独立”する富裕層  - NHK クローズアップ現代 2014年4月22日(火)放送
〜アメリカ 深まる社会の分断〜

100万ドル以上の資産を持つアメリカの富裕層。

その富裕層が今、自治体の在り方を変えようとしています。


貧富の格差による社会の分断が進むアメリカ。

富裕層は税金が貧困層のためばかりに使われていると反発。
みずからが住む地区を周囲と切り離し、新たな自治体を作る動きを強めています。

女性
「高い税金を払っているのに、それに見合うサービスを受けていません。」

全米で富裕層の自治体は急増。
社会を2分する議論が起きています。

報道官
「反対派を押し切って、新たな市が誕生しました。」

オバマ大統領も危機感を強めています。

オバマ大統領
「アメリカの格差は拡大し、固定化している。」

一方、富裕層を失った自治体は税収が減り、公共サービスを削減。
貧困層が打撃を受けています。

男性
「公立病院の予算が削減されたので、私たち家族は困っています。」

深まる富裕層と貧困層の分断。
アメリカ社会はどこへ向かうのか。
最前線からの報告です。


“独立”する富裕層 税に対する不満


アメリカ南部、ジョージア州の議事堂。
先月(3月)新たな自治体の設立を求める法案を巡り、議論が交わされていました。
この法案を提出したのは会社経営者や弁護士など、富裕層を中心とした住民のグループです。

住民
「私たちが作る市の方が、税金をより有効に使える。
この法案の支持を求める。」

住民
「今の自治体は住民の方を向いていない。
私の会社をサポートしてくれる自治体を作りたい。」

一方、法案は富裕層の身勝手だと批判する声も上がりました。

反対派
「これは有色人種や貧困層を隔離するための意図的な行為だ。」


自治体の設立は地域住民の意思だとする富裕層の報告書にも、抗議が殺到しました。

反対派
「あなたが作る自治体に住みたい人はいない。
あなたはおかしい。
うその報告をしている。」

男性
「いや、おかしいのはあなただ。
私たちの報告は正しい。」

法案を提出したグループの代表、ウッドワースさんです。
経営コンサルタントの夫を持ち、自身もインテリア関係の会社を経営。
湖畔に邸宅を構えています。
自治体の設立に動いたきっかけは税金の使われ方への不満でした。
特に問題にしているのが警察官の配置です。

マリーケイ・ウッドワースさん
「私の家の近くでも麻薬取引や売春が行われるようになってきた。」

警察官は貧困層が多く住む治安の悪い地区にばかり回され、自分の地区はおざなりにされていると感じていたのです。

マリーケイ・ウッドワースさん
「自分たちが支払う税金に見合う行政サービスを受けているとは思えません。
私たちは社会を分断したいわけではありません。
ただこれまでの自治体に代わって、より自分たちに合った自治体を作りたいだけなのです。」


富裕層が作る自治体 衝撃の運営手法とは


富裕層の動きを後押ししているのが、同じジョージア州で大きな成功を収めた市の存在です。
州の北部にある人口9万4,000人のサンディ・スプリングス市です。
市民の平均年収は1,000万円近く。
医師や弁護士、会社経営者などが多く住む高級住宅地です。

市が誕生したのは2005年。
住民投票で94%の圧倒的賛成を得て、それまで属していたフルトン郡から分離したのです。
貧困層に多く配分されていた税金を取り戻そうという主張が、富裕層だけでなく中間層にも支持されたのです。

サンディ・スプリングス市 エバ・ガランボス初代市長
「私たちの税金はほかの場所で使われ、私たちのためには使われていませんでした。
1ドルの税金につき半分の50セントしか、サンディ・スプリングスに使われていなかったのです。」

住民グループ代表 オリバー・ポーターさん
「政府による所得の再分配には反対です。
人のお金を盗む行為だと思います。」

ジョージア州で50年ぶりに新たな市として誕生した、サンディ・スプリングス。
州の法律によってさまざまな財源が与えられました。
市民が支払う固定資産税の15%。
売上税の一部。
そして酒税や事業の登録料など、市の去年(2013年)の収入は、日本円にしておよそ90億円。
州で1、2を争う豊かな自治体が誕生したのです。

さらに富裕層は、市の運営にビジネスのノウハウを取り入れました。
警察と消防を除く、すべての業務を民間に委託。
同じ規模の市なら数百人は必要な職員の数を9人に抑え、徹底的なコストカットを進めました。

市民課や税務課。
道路や公園などを造る建設課。
さらに、市の裁判所の業務まで民間に委託しました。
裁判長は必要なときだけ時給100ドルで短期雇用します。


この結果、当初年間5,500万ドルと試算された市の運営費を、半分以下に抑えることに成功したのです。
コストカットによって生まれたお金は富裕層の要望によって、市民の安全を守るサービスに使われています。


女性職員
「事故発生、けが人なし。」

ここは24時間市民から通報を受け付ける、民間の緊急センターです。
市民の承諾を得て、住所や家族構成、持病の有無など、さまざまなデータが登録されています。

10秒以内に電話を取ることが義務づけられ、90秒で警察や消防が出動します。
市が市内全域に配置する警察官はおよそ150人。
早ければ2分で、現場に警察官が到着するといいます。
現在、市民の9割が公共サービスに満足と回答。
うわさを聞いた富裕層が、全米から相次いで流入し人口が増えています。

市民
「(この街が)好きかって?
大好きよ。
ニューヨークから移り住んで来たけど、ここにはすべてが揃っているわ。」

市民
「とても安全だと感じています。
サンディ・スプリングス市に住めて幸せです。」

今サンディ・スプリングス市の設立と運営のノウハウを知りたいと、全米各地から視察が相次いでいます。
そのほとんどが、税金の使われ方に不満を持つ富裕層だといいます。
サンディ・スプリングス市を手本に誕生した自治体は、ジョージア州ですでに5つ。
現在、フロリダ州、テキサス州カリフォルニア州などで30余りの自治体が、新たに誕生しようとしています。

サンディ・スプリングス市 ラスティ・ポール市長
「自治体は税金を当たり前だと思わないことです。
税金に見合うサービスを提供しなければ、市民はすぐ不満をため、税金を払わなくなります。
公共サービスの質を高めて、市民に税金を払う動機を与え続けるのです。」


“独立”する富裕層 アメリカ 深まる分断

このように富裕層が、自治体を作る動き、今後、全米に拡大していくと見られています。
一方で富裕層がいなくなった自治体は、歳入が減って、一部公共サービスの削減を始めています。
貧困層の暮らしに暗い影を落とし始めています。


富裕層を失った自治体 貧困層に打撃が


ジョージア州フルトン郡。
サンディ・スプリングス市の設立などによって、年間40億円余り税収が減りました。
南部のサウス・フルトン。
郡の中で最も貧しい地域で、住民の生活に大きな影響が出ています。

機械部品のセールスをする、アブラハム・ワトソンさんです。
今年(2014年)に入り、次々と公共サービスが打ち切りになっていると訴えています。

アブラハム・ワトソンさん
「臭いです。
ごみが腐り始めています。
ごみ収集車がめったに来なくなったので。」

3人の子どもを持つワトソンさん。
暮らしに余裕がない中、公共サービスの利用は欠かせません。
家の近くにある、フルトン郡が運営する図書館です。
子どもたちは放課後や週末、ここで読書や宿題をしてきました。
しかし今年の2月、突然開館時間が2時間以上短縮されました。

算数の勉強に使っているパソコンも、閉館時間が来れば強制的にシャットダウンされます。

子ども
「閉館につき使用不可。」

アブラハム・ワトソンさん
「閉館するから切ったんだ。」

閉館時間の変更は、事前に住民には知らされていませんでした。

アブラハム・ワトソンさん
「誰が閉館時間を決めているのか?」

職員
「議会で承認されたんですよ、予算が削減されたから。」

アブラハム・ワトソンさん
「郡の議会で?
予算の削減が理由?」

職員
「予算の削減。」

フルトン郡の一般会計です。
歳入が減少し続け、ついに2年前歳出が上回るようになり、公共サービスの削減が余儀なくされているのです。
図書館のほかに、郡が運営する公園の予算も削減されました。
20か所ある高齢者センターの食事代は、一部値上げになりました。

中でも深刻なのが、貧困層の治療を中心に行う公立病院の予算削減です。
2,500万ドル、日本円でおよそ26億円が削減されることになりました。
医師の数が減らされ、診察に支障が出るのではないかと不安が広がっています。

フルトン郡 ビル・エドワーズ議員
「郡の税収が少なくなれば、当然その範囲でやりくりしなければなりません。
やむをえずサービスをカットしているのです。
私は、フルトン郡の住民が状況を理解することを望んでいます。
さもなければ、フルトン郡の財政は破綻してしまいます。
これだけは、なんとしても防がなくてはなりません。」

ワトソンさんは公立病院の予算削減が、息子のキャメロン君に与える影響を心配しています。

アブラハム・ワトソンさん
「この子には右耳に障害があります。
耳がふさがった状態になっているのです。
息子の治療ができる専門医の数が削られてしまうから、予算の削減は本当に困ります。」

全米で貧富の格差の研究をしてきたコナー准教授です。
富裕層の自治体設立が格差の拡大に拍車をかけていると、警鐘を鳴らしています。

テキサス大学 公共社会学部 マイカン・コナー准教授
「アメリカ社会では分断が深まっています。
同じ地域の中でも少し離れただけで、全く違う社会が生まれています。
経済面でも教育面でも、機会の平等が失われているのです。
このまま富裕層の独立が続けば、公共サービスを支える人がいなくなってしまいます。
それを顧みず、社会の分断は進む一方です。」


“独立”する富裕層 アメリカ 深まる分断

ゲスト堤未果さん(ジャーナリスト)

●格差拡大し加速化する社会の分断 この動きをどう受け止める?

今まさにアメリカは、経済格差が完全に1%の持てる者とそれからそれ以外の持たざる者、完全に国を分断してしまっていると。
そういう状況になっています。
(分断されていると。これが法律の下に行われている。自治体を作るという動きはそうだったが?)
はい。
もともと合法的に市が独立するということはもちろん可能なんですけれども、サンディ・スプリングス市のように、統治機能まで含めて民営化してしまう、民間に委託して、そうするともう税金というものが全く意味が変わってきて、サービスをお金で買うという契約社会になっていくわけですね。
その分税が、税金が囲い込まれることになるので、不動産の価格は上がる、その周りの地域が税収が減って、荒廃していくと。
ですから全米の都市の中に、捨てられた居住区のようなものが、点々と今存在している状況になっております。

●富裕層やその周辺地域 実際に取材に行ってどうだったか?

サンディ・スプリングス市自体は、本当にお金持ちの社会主義国のような、天国のような、ぴかぴかですばらしい所だったんですけど、本当に目に見えないフェンスが建っていて。
(目に見えないフェンス?)
はい、フェンスで囲われている、合法的な特権地区というような形ですね。
先ほども言いましたように、税収がほかで減っていきますので、やはり仕事がなくなって、まず治安が悪くなるんですね。
そうすると犯罪率が高くなりますから、ますますフェンスは高くなっていく。
ここがやっぱり1番大きいです。
サンディ・スプリングス市のような所の近くにある都市で取材をしたときに、公共サービスの1つとして刑務所を維持できないから開放すると。
(刑務所を開放する?すると、どうなるのか?)
そうなると囚人が街に解放されて、たくさん普通に歩くようになるんですけれども、警察もまた公務員ですから、警察は失業中なわけです。
ですから非常に恐ろしいSFのような状況になっていて、片や、目に見えないフェンスの中の富裕層の地区は、非常にハイテクでハイセキュリティーの地区になっていると、すごくコントラストが激しかったですね。

●公共サービスの1つ 教育という点ではどうだったか?

アメリカは、教育予算が連邦と自治体と半分ずつ予算を出すんですけれども、サンディ・スプリングス市のような例えば富裕層の街というのは、公立の学校にやる必要がないので、公教育にお金を出すという概念がなくなっていくんですね。
そうしますと、公立の学校が切り捨てられていった州では、自治体では、貧困層の子どもの受け皿がなくなっていくので、教育難民、学校に行かれなくなった子どもたちが、もう全米各地の都市であふれているという、そこまで事態が進んでおります。
(先進国のアメリカで、そういうことがすでに起きている?)
そうですね。
ブッシュ政権、オバマ政権と続いた2大政権で公教育を解体して、教育ビジネスという民間サービスに委託するということを国が後押ししてやってきたんですね。
ですから公教育というのは、弱い立場の子どもたちを平等にすくい取るという社会的共通資本ですから、これが徐々に解体されているということです。

●フェンスを隔て、本当に互いが見えないのか?

そうですね。
これは本当に今、アメリカで起きていることというのは、1つの国の中に2つの違う国が存在しているような感じで、例えば日本で若年ホームレスは私たちの目に映らないというようなこといわれますけれども、フェンスの中の富裕層にとって、フェンスの外の荒廃した、捨てられた居住区の人たちは、やはり見えないわけですね。
全くお互い別の次元に住んでいるような、そんな状況になっています。
(別の次元?)
はい。

●格差是正のためにある公共サービス 富裕層がその義務を放棄するとどうなる?

公共ですとか税金ですとか、共同体とか、もっといってしまうと、もう国とは何かという、そのコンセプトが全く違うものになっていく。
お金を払って、その分のサービスをもらうという契約社会のようになっていくわけですよね。
ですから言ってみれば、お金がなくなったらそこでそのコミュニティーに、地区の中には恐らくいられなくなると、それが縁の切れ目のようになってしまう。
公共という概念があれば、弱い立場になったり、急に事故に遭って障害を負ってしまったり、高齢になってしまったりという、困った立場になったときは、税金を払っている分、国や自治体が守ってくれると、それが公共の概念なんですけれども、全くこれが対極にあるという、こちらは株式会社化された自治体であり、国家だということになっています。

●アメリカンドリーム 今は存在しないような状況?

80年代ぐらいまでは頑張れば報われるとか、努力すればチャンスをつかめば、マイノリティーでもスターになれる、そういうのがあったんですけれど、今、構造として1%が99%を切り捨てていく構造を、国の政策が後押しをしているために、アメリカンドリームが機能する構造自体が崩れていると。
そしてまた中流層が消滅していますから、ますます富める者はますます富む、それ以外の者は地盤沈下していくという、国の構造が全く変わってしまっているんですね。

●アメリカという国は今後どうなっていくのか?

今アメリカ国内にも2つの流れがありまして、オバマ大統領はブッシュ政権の政策を継承して、1%のための、より1%が大きくなっていくような政策の方向性を進めてはいるんですけれども、一方で、1対99%の分断はおかしいじゃないかと、失われたものをもう一度取り戻したいという声が、相当アメリカで大きくなっている。
これ今、どちらの流れがこの国を、未来を引っ張っていくかという、今ちょうど岐路にいるという。
(岐路とは、国を見つめ直す時期ということか?)
国とか共同体は何かということですね。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3488_all.html  


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

97. 中川隆[-13071] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:05:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15370]

(2010.10.15) ジャーナリスト・堤 未果さんに聞く  貧困大国アメリカで今、起きていること
http://www.jacom.or.jp/archive03/tokusyu/2010/tokusyu101015-11261.html


 米国には1960年代から貧困層に食料交換クーポン券を配布する「フードスタンプ」という食料費補助政策があるほか、学校給食にも「無料―割引給食プログラム」がある。これらは同国が食料・農業を重視している姿勢を示すものとの受け止め方もある。

 しかし、

『ルポ貧困大国アメリカ』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004314305/asyuracom-22/


で堤さんが描いたのは、市場原理の導入で食ビジネスに参入し利益を上げようとジャンクフードを大量に提供する巨大企業と、それによる肥満児童の急増、医療費の増大、そして格差拡大の悪循環という姿だった。

 堤さんは「いのち、暮らし、教育といった人間の根幹が『市場化』されたとき、一体どうなるのか、私たちは考えるべきです」と話す。市場原理主義の行き着く先、を聞いた。


「オバマを動かせ!」

◆ジャンクフードでも死にはしない!?


ジャーナリスト・堤 未果さんに ――最初にフードスタンプ制度の実態からお聞かせいただけますか。


 アメリカは今、史上最大に格差が広がってしまったこともありフードスタンプはまさに生命線です。新規申請者が一日2万人のペースで増えています。フードスタンプ自体はやはり考え方がキリスト教ベースいうこともあり、困っている人への福祉政策としてとても支持されています。

 しかし、この制度は人間にとって食とはどういう意味があるかを考えてのものではなく、ぎりぎりのところで飢え死にはさせないようにという政策です。予算もかなり絞られている。

 するとたとえば4人家族で1か月平均100ドル(約1万円)のフードスタンプをもらい、さあ1か月の食事をまかなおうと思ったとき、どうなるか。多くの家庭ではできるだけ安く、調味料も調理器具もいらない、栄養の知識がなくても作れて少量でお腹がいっぱいになるもの、ということになる。

 そうすると当然インスタント食品が中心になりますから、それを99セントストアで買ってくる。99セントストアや大手ディスカウントフードショップが潤っていくわけですが、そういった企業はたとえば、途上国で大量生産した安い農産物を原料に添加物などをたっぷり入れることで食品を安く市場に出している。

 99セントストアが出てきたときには、よかったね、これで貧しい人たちも人並みの食事ができるね、とアメリカでも言われたのを覚えています。しかし、実は安売りストアがたくさん出てくるということは食の質も文化もやせ細り、アメリカ国内の農業もやせ細っていくということ、結局、「食も職も」なくなってしまうことに気がつかなかった。

 安ければ安いほどいいんだという安価信奉が、90年代に起きた「外注革命」を加速させて、本当にひどいことになってしまったのだと思います。


◆学校給食も利益の標的


 なぜそうなったか? 一言でいえば、食も含めた子育て、医療、教育、雇用など国の根幹を、政府が責任を持つ代わりに市場化してしまったからです。

 かつて中流層がしっかりしていた「よきアメリカ」の時代には税金を社会保障として還元するという考え方を、当時はソ連に対抗するという政治的な意味からも大事にしていた。ところが、ソ連が崩壊しナンバーワンになったとき、世界で力を持つにはやはり大企業の国際力だと、法人税を下げ社会福祉を切り捨てた。

 大企業を大事にするのは市場化を進めることと同義語ですから、競争力をつけるために、たとえば食であればいちばん効率よく利益を出すために人件費とクォリティが削られる。

 ですからフードスタンプとは「食べ物は心と体をつくるとても大事なもので人間の基礎であり国にとっては財産なんだ」という考え方が前提にあっての政策ではなく、市場化の加速とともに「貧困肥満」を増大させています。いまアメリカ人の死因の第2位である「肥満」は医療費をどんどん押し上げ、年間6万人が死亡しています。フードスタンプはこうして間接的に社会問題を深刻化させる制度と化しているのです。

 食の市場化はフードスタンプだけでなく子どもたちの学校給食にもじわじわと浸透しています。

 アメリカでもかつて学校で自前で給食をつくっていたんです。ところが国が教育予算をどんどん削っていったためにできなくなった。経営が苦しい学校に、待ってましたとばかりにピザハットなどのファストフード企業が「ウチと契約すれば大量に安く給食を提供できますよ」と近づいてくる。それで給食のコストだけでなく質がどんどん低下しました。保育園まで契約していて離乳食が終わったばかりの子どもがピザを食べています。

 国民の心と体の健康は財産だという考え方を、国は放棄したということです。みなさん、どうぞご自由に。大企業さん、どうぞマーケットに、と。


◆教育でも民営化レース!?


 最近、アメリカ法務省は史上最悪の貧困率だと、とうとう発表しました。本当に貧困大国になったと政府が公式に認めたということですね。大人の失業率は実質20%ですから、フードスタンプをもらう人は史上最高の5000万人近くになっています。07年は約2800万人でしたから異常な増え方です。

 一方で大統領夫人、ミシェル・オバマは新しく肥満児対策のキャンペーンを始めました。栄養を考えた食事を、そして、もっと体を動かそうよ、と。

 ところが、今、アメリカは教育を市場化しています。日本ではあまり報道されていませんが、すべての自治体が赤字なので大統領は賞金をエサに州に教育民営化レースをさせている。

 これは、たとえばテストの点数を上げるため、関係ないムダな教科は廃止するといったまさに市場原理でアイデアを競争させ、これにそった政策を成立させた州が賞金を獲得するというレースです。赤字の公立学校をつぶしてできるだけ民営に変えていくという条件に教育現場は悲鳴をあげて反対していますが、不況のうえ国が教育予算をどんどん切っているために州に選択肢はなく、立て直すにはこの賞金を狙うしかない。

 そうするとどうなるか? 競争強化の中でテストに関係ない体育の授業が減らされる、もしくはなくなっていくわけですよ。運動しないからジャンクフードを食べている子どもたちの肥満をさらに深刻化させる。 そもそも政府が公教育予算を切り民営化を進めたところから、給食のジャンクフード化も子どもの肥満も始まっているのに、大統領夫人は食品業界にもっと栄養表示をして塩分を減らせとよびかけ、こどもたちにはもっと体を動かしましょうというキャンペーンをやる(笑)。こういう非常に矛盾したことが起きているわけです。

 アメリカはブレーキが壊れた市場原理主義が暴走しているのです。取材していて思うのは、市場化、日本で言う民営化ですが、これは一度やってしまうと勝手に動き出し、自分で加速していくということです。どこまでも効率良く、どこまでも利益を上げるように走り出し、終わりがありません。


◆「個」を「数」にする社会


 ――ルポ第二弾では「刑務所という名の巨大労働市場」というショッキングなレポートがありますが、まさに象徴ですね。

 「刑務所ビジネス」を取材した時、ああこれが市場原理主義による労働市場の最終完成形だ、と確信しました。国内の非正規労働力よりももっと安くと、最初はインドなどの労働者を使ったけれども、インドの労働者だって月800ドルかかる。そこでもっと安い時給はないかと考えたら、灯台もと暗し、刑務所にいる受刑者に働かせることだった、というわけです。

 ところでアメリカは「テロとの戦争」をしていますが、実際は敵がいるようで見えないわけですからテロリストの最後の1人がいなくなるまでずっと戦争状態にしておけるわけですね。国はそれを最優先するという名目で教育、労働、医療などは後回しにできる。

 これを後押しするのが「愛国者法」という法律ですが、テロリストから国民の安全を守るといいながら自国民を監視している。これは市場化を邪魔させないためです。市場化とは国民を分断することですから。それに対してものが言えないようにするためには、まずはテロの恐怖で押さえつけるということをやった。

 そして、それに対しておかしいと人々がまとまって声を上げた労働組合や協同組合的な組織は次々にターゲットになりました。

 つまり、仮想敵を作り恐怖で人々を押さえつけつつ、実は市場化を邪魔しないよう個人をバラバラにしておく政策も進めてきた。

 わかりやすい例をあげましょう。社会の治安を守るという名目で導入された「スリーストライク法」というのがあります。これは前科が何かに関わらず3度目の有罪で終身刑になるという法律。これで受刑者が増えるから刑務所の安い労働力も増え企業は競争力を保つ――。こういう構造になっているわけです。

 今、不穏な気配を感じさせたらそれだけでみんな捕まりかねない。警官にもノルマがあるから。ここまで市場原理主義の徹底です。

 「市場化」からわかることは、市場化の下では国民が名前や顔、それぞれの歴史、家族、夢、などを持った一人ひとりの「個」ではなくて、「数」になってしまうんですね。あるいは「消費者」とか「モノ」になる。

 これに対してヨーロッパなどでは国民を市民として見ている。市民は権利を持った個です。今、世界が2つに分かれていて、では日本はどっちを選ぶのか? という岐路に立っていると思います。

 そのとき「個」にとって非常に大事なファクターに「食」がある。だから農協のみなさんは、国の未来にとっての「食」の意味を投げかける存在として大きな使命をもっていらっしゃると思います。なぜなら、食とは一体国にとって何なのか、ということが今ほど強く問われた時代はなかったように思うからです。食やエネルギーを他国に依存してしまうと絶対的に弱い立場になります。

 だから自給率を上げることはあらゆる面で日本が対等になる必要不可欠なことだと思います。


◆結託強める政治と企業


 ――日本に先駆けたアメリカの政権交代には期待も高かったと思いますが。


 「チェンジ」をかかげた選挙は、本当に期待が高かったです。けれどあれから1年がたち、いまアメリカの市民で起きているのは「ムーブ・オバマ」の運動です。オバマが大統領になって全てうまくいくかと思ったらその逆で、貧困率は急上昇し戦争は拡大し教育はさらに競争が強化され、格差はついに史上最大になってしまった。

◆ ◆ ◆

 国民はハッと気がついたのです。素敵なリーダーに丸投げして終わりではなく、もっと1人ひとりが社会がどうなっているのかきちんと知って、リーダーを動かしていかなければならなかったことに。

 たとえばオバマ大統領誕生は「黒人がなった=誰でも大統領になれる時代が来た!」とどこでも言われましたが、本当は巨額の選挙資金が必要で、やはり大企業から献金を受けたほうが当選しやすくなるという構造になっていることを証明した選挙でした。

 今年の1月、アメリカの最高裁判所は選挙の献金に国境をなくすことを認めました。つまり、この先の選挙ではたとえばサウジアラビアの大金持ちが献金できて、アメリカの軍事でも農業政策でも動かせるのです。献金額の上限も撤廃しました。ますます企業が政治と結託し市民の声は届きにくくなる。ほとんど日本では報道されていませんが実に恐ろしいことです。

 これを国民が知っているのと知らないのとでは絶対未来は違ってくる。

 ムーブ・オバマとはオバマが大統領になったからもう大丈夫だということではなく、まず社会の構造をしっかり見よう、選挙のあともずっと監視し続ける、政治で何が起きているのか情報を自分でつかんでいくということです。これはアメリカの後を追うように政権交代をし、1年たって同じように「あれ? おかしいな」という声がそこかしこで上がっている日本の私たちにとっても他人事ではない話ですね。

 アメリカでは「気づき」が始まっています。やはり民主主義というのはメンテナンスがいるしくみだとつくづく思います。「食」を通して社会を見ると本当に沢山の箇所に矛盾がみえるからです。日本も今まさに、メンテナンスをするいい機会ではないかと思います。

オバマになれば「チェンジ」と思ったが……。(「9.11」追悼式、ホワイトハウスHPより)


PROFILE
つつみ・みか
東京都生まれ。ニューヨーク市立大学大学院国際関係論学科修士課程修了。国連婦人開発基金(UNIFEM)などを経て米国野村證券に勤務中に9.11同時多発テロに遭遇。以後ジャーナリストに。「ルポ・貧困大国アメリカ」(岩波新書)(08年日本エッセイストクラブ賞受賞等)。近く「アメリカ弱者革命」(新潮文庫)「もうひとつの核なき世界」(小学館)刊行予定。
http://www.jacom.or.jp/archive03/tokusyu/2010/tokusyu101015-11261.html


2013-07-08 【読書感想】(株)貧困大国アメリカ
http://fujipon.hatenadiary.com/entries/2013/07/08#p1


内容紹介

1% vs 99%の構図が世界に広がる中、本家本元のアメリカでは驚愕の事態が進行中。それは人々の食卓、街、政治、司法、メディア、人々の暮らしを、音もなくじわじわと蝕んでゆく。あらゆるものが巨大企業にのまれ、株式会社化が加速する世界、果たして国民は主権を取り戻せるのか!? 日本の近未来を予言する、大反響シリーズ待望の完結編。


堤未果さんの『貧困大陸アメリカ』シリーズの最新作(完結編だそうです)。

この新書を読んでいる途中で、「あーはいはい、そんな感じだよなー」と、特に驚くことすらなく、読み流している自分に気づき、愕然としました。

シリーズの第1作『貧困大陸アメリカ』を読んだときには、「自由の国」で行われている、「貧困ビジネス」の実態に僕も怒りまくっていたのです。

その後、さまざまな本を読み、今の「グローバル企業と政治の癒着」についての知識も得てきたのですが、なんというか、もう読んでいるだけで疲れてきた……というのもあって。

「企業の『帝国化』」と、「多くの市民、国民の健康や幸福よりも、一部の大企業の利益を優先する政治」は、ほとんど変わっていないどころか、「それが当然」のようにすら、思えてくるようになりました。


 SNAPとはアメリカ政府が低所得層や高齢者、障害者や失業者などに提供する食料支援プログラムだ。以前は「フードスタンプ」と呼ばれていたが、2008年10月にSNAPと名称を変えている。クレジットカードのような形のカードをSNAP提携店のレジで専用機械に通すと、その分が政府から支払われるしくみだ。

 受給額は州や受給者の収入によって異なるが、ニューヨーク州では、単身者で月収1180ドル(約11万8000円)以下なら月117ドル(約1万1700円分)支給される。全米の平均支給月額は132ドル(約1万3200円)。カードは全国23万1000店舗で使用できる。が、嗜好品は買えず、あくまでも食品のみという条件付きだ。

 SNAPは月に一度、夜中0時に支給されるため、毎月その日は夜中過ぎから全米各地の安売りスーパーに受給者があふれるという。

 ミシェルの買い物袋も、加工食品や炭酸飲料、缶詰やインスタント食品でいっぱいだった。


 アメリカの貧困率と失業者の数は、リーマンショック以来増え続けている。

 四人家族で年収2万3314ドル(約230万円)という、国の定める貧困ライン以下で暮らす国民は現在4600万人、うち1600万人が子どもだ。失業率は9.6%(2010年)だが、職探しをあきらめた潜在的失業者も加算すると実質20%という驚異的な数字となる。16歳から29歳までの若者の失業率を見ると、2000年の33%から45%に上昇、経済的に自立できず親と同居している若者は600万人だ。

 ミシェルのようなSNAP受給者は年々増加。2012年8月31日のUSDA(農務省)発表では、約4667万373人と過去最高に達した。1970年には国民の50人に1人だったのが、今では7人に1人がSNAPに依存していることになる。

 考えようによっては、「それでも、最低限の食べものを保障してくれるだけ、マシなんじゃない? 世界には飢えている国だってたくさんあるのだから」とも言えるのかもしれません。

 財政の厳しさから、生活保護を「水際作戦」などと極力行わないようにしている日本に比べて、アメリカ政府は、国民にSNAPを利用するようにアピールしているそうですし。

 ところが、このSNAP受給者が増えていく一方で、失業率は全然改善されない。

 SNAPでは、安くてカロリーが高いジャンクフードやジュースなどが選択されがちで、「この20年、アメリカでは子どもの2型糖尿病が激増している」そうです。

 貧困層ほど、偏った食事をしており、健康状態も悪化しやすい。
 こうして、負の連鎖が止まらなくなっているのです。


 なぜそんな制度が続いている、というか、いっそう拡大されていっているのか?


 ウォルマート広報部門担当で副社長のレスリー・ダックは、同社の収益におけるSNAPの重要性をこう協調した。

「SNAPからの収入は我が社にとって大変大きいですね。多くの州でSNAP利用者の2人に1人が、ウォルマートで食品を購入してくれています」

「公共のための科学センター(Center for Science in the Public Interest)」の調査によると、炭酸飲料や砂糖を含む清涼飲料水産業も、2010年度だけでSNAPによる売り上げが40億ドル(約4000億円)と、こちらもSNAPから巨額の利益が流れ込んでいる。

「ワーキングプア人口の拡大で、黙っていても利用者がどんどん増えるSNAPは、食品業界にとってドル箱になっているんです」

 要するに「まともな待遇の雇用を確保するよりも、低賃金の単純労働+SNAPでとりあえずなんとか食べられるくらいの保障はして生き延びさせ、その食費も大企業に吸収される」ようになっているのです。

 明らかに「国民の健康を害する」システムなのに、政府は、見てみぬふりをして、大企業の利益を優先しています。

 これって、間接的な「奴隷制度」じゃないのか?


 また、アメリカでは、GM(遺伝子組換え)作物が食生活に占める割合が、年々上昇しているそうです。


 だがGMは新しい技術であるため、長期にわたる環境や人体のへの影響を検証した実験結果が確立されていない。そのため安全性を巡る議論は今も続いており、現在世界では35ヵ国が、GM作物の輸入を規制または全面禁止措置中だ。

 アイオワ州の農業従事者のラッセル・リードは、多くのGM作物が耐性を持つ、「ラウンド・アップ」という商品名の除草剤についてこう語る。

「『ラウンドアップ』はGM種子最大手のモンサント社が販売する、世界で最も普及しているグリホサートを主成分とする除草剤です。モンサント社はこの除草剤を、これに耐性を持つGM種子と必ずセットで販売する。農家がこの除草剤を散布すると、GM種子以外の雑草だけが枯れるしくみです。

ですがヨーロッパではすでにこの除草剤は発がん性を有し、奇形、喘息発症を誘発するなど安全性に問題があるとして、禁止されています。

さらに1996年にはニューヨークで、2001年にはフランスで、それぞれ消費者団体や環境活動家たちが、モンサント社のこの除草剤に対し訴訟を起こしているのです」

 それは「土に落ちると無害化して土壌に残らない」というラウンドアップの「生分解性」ラベル表示が虚偽であるという内容だった。結果はどちらも裁判所がモンサント社側に「虚偽広告」の判決を下している。

 この「GM種子+特定の除草剤」の組み合わせは、一度使い始めると、ずっと続けざるをえなくなるのです。

 除草剤に耐性を持つGM種子じゃないと、生育できない土壌になってしまうので。
 そして、この種子を世界各国で使わせることによって、多国籍企業は各国の農業を「支配」していくのです。

 ちなみに、科学雑誌に、このGM種子の危険性を訴える研究論文を載せたりすると、壮絶な「あら探し」がはじまり、論文を書いた人は大バッシングを受けるのだとか。科学の世界も、企業の営利活動と無縁ではありません。

 研究にはお金がかかるし、お金を持っている企業の力で、科学者の「警告」はもみ消されてしまう。
 

 この本を読んでいると、アメリカの荒廃っぷりには愕然とします。

 義務教育レベルの学校が「自由競争」という名目で選別され、公立学校が無くなり、授業料が高い私立ばかりになる「ビジネス化」。

 民営化され、不採算部門が削られていくことによる公共サービスの劣化。


 2012年10月。
 メジャーリーグの試合で盛り上がるミシガン州デトロイト市のタイガース球場入り口では、こんなチラシが配られていた。


「注意! デトロイトには自己責任でお入りください」

・デトロイトは全米一暴力的な町です。

・デトロイトは全米一殺人件数の多い町です。

・デトロイト市警は人手不足です。

・人手不足のため12時間シフトで働かされ……警官は疲労困憊しています。

・デトロイト市警の賃金は全米最低ですが、市はさらに1割カットしようとしています。


 配布していたのは、現役のデトロイト市警官たちだ。

 デトロイトは2000年から2010年の10年間で、住民の4分の1が郊外や州外に逃げ出してしまった町だ。財政破綻による「歳出削減」で犯罪率が増えているにもかかわらず市は公共部門の切り捨てを実施、学校や消防署、警察などのサービスが次々に凍結されている。

 こうした傾向はミシガン州だけでなく、全米の自治体で起きている。2010年7月にはやはり財政難に陥ったオレゴン州の自治体が維持費が続かずに刑務所を閉鎖、すでに警官が大量解雇された町中に刑期を終えていない囚人があふれだし、恐怖のあまり州外に逃げる住民が急増した。

 これ、『リアル北斗の拳』の世界じゃないですか……

 また、大企業は「安い給料でも辞めずに働く労働力」として「囚人」に目をつけて、どんどん酷使してもいるのです。

 州によっては、囚人労働力確保のため、早期釈放を行わない制度まで導入されているのだとか。

 名目上は「犯罪者に厳罰を与える」ということで。

 一般社会で生活している人が、どんなに安い賃金でガマンするといっても、囚人にはかないません。

 なんかもう、「金のためなら、なんでもあり」すぎて、笑えてくるほどです。


 また、2005年には「完全民間経営自治体サンディ・スプリングス」が誕生したそうです。

 人口10万人のこの町は、富裕層で占められ、大手建設会社によって「運営」されています。

 この町ができた経緯を、著者はこんなふうに紹介しています。


 2005年8月、ハリケーン・カトリーナによって大きな水害に見舞われたジョージア州では、水没した地域住民のほとんどがアフリカ系アメリカ人の低所得層だったことから、アトランタ近郊に住む富裕層の不満が拡大していた。

 共和党の彼らは、「小さな政府」を信奉している層だ。

 なぜ自分たちの税金が、貧しい人たちの公共サービスに吸い取られなければいけないのか? ハリケーンで壊滅状態の被災地を、わざわざ莫大な予算をかけて復興させても、住民の多くは結局公共施設なしでは自活できないではないか。政府の介入の仕方はまるで社会主義だ。私たちはいったい、今後も延々と行政支援を必要とする人々のために、どれだけ貴重な税金を投じなければならないのか? 

 どうしても納得いかない彼らはこの件について住民投票を行い、やっとベストな解決策を打ち出した。

 郡を離れ、自分たちだけの自治体を好きなように作って独立すればいいのだ。

 僕の感覚では、「こういうのって、頭の中で考えることはあっても、堂々と主張するべきではない」ような気がするんですよ。

 助け合うのが「公共のルール」だろう、って。
 多くの日本人も、たぶんそうだと思います。

 ところが、このサンディ・スプリングスの人たちは「自分たちが巻き添えになるのはイヤだ」と声高に叫んだのです。

 そして、叫んでみたら、意外と、彼らを阻むものはいなかった。

 こういう「公共の意識のゆらぎ」は、たぶん、アメリカの一部の富裕層だけに起こっていることじゃないんですよね。
 
 
 それでも、オバマ大統領になって、少しはマシになったのではないか、オバマさんを議会が邪魔しなければ、もうちょっと社会保障制度が改善されたアメリカになるのではないか、と思っていたのです。

 でも、現実はほとんど変わっていなかった。


「2012年の選挙は、大きな政府に反発するティーパーティ運動の存在に焦点があてられ、赤と青に分断されるアメリカというイメージで描かれていましたね」

「赤と青に分断されたアメリカ、そのとおりです。国民の意識は保守対リベラルにひきつけられる。けれどそれはバーターで、今のアメリカ民主主義は「1%」によってすべてが買われているのです。司法、行政、立法、マスコミ……

「1%」は二大政党両方に投資し、どちらが勝っても元は取る。テレビの情報を信じる国民は、バックに巨大企業がいることなど夢にも思わずに、いまだに敵を間違えているのです」

みんなはオバマvsロムニーの「対決」だと思っていた。

ところが、内実は「1% vs 1%」であり、どちらが勝っても、大勢に影響はなかったのです。

大企業は、どちらが勝ってもいいように、あらかじめ両方に賭けていたのだから。


ああ、アメリカって酷い!と言いかけて、日本のことを思いだしてみると、自民党と民主党だって、似たようなものですよね。

民主党のなかには、もと自民党だった人がたくさんいて、政策もそんなに大差はありません。

政権交代というけれど、結局のところ「自民党的なもの」がずっと勝ち続けているだけ。


この新書の後半では、「1% vs 99%」という構図が何度も出てきます。

でも、『貧困大陸アメリカ』が世に出てから5年間のことを思いだしてみても、本当に、これが実情なのかどうか?

「1%が幸福を独占している(というか、本当にここまでやって、企業が金を儲けることが、「1%組」を幸福にしているのだろうか?と僕は疑問なのですが)」というけれど、残りの99%は、一枚岩じゃない。

99%のなかのごく一部の(これも「1%」くらいかもしれません)「意識高い系」が格差の是正を訴えている一方で、「99%」の大部分は、目の前の生活に追われ、「1%」を呪いながら、「意識高い系」の高偏差値な啓蒙運動にもついていけずにいるように思われます。


「毎日テレビ観て、ウォルマートで買ったジャンクフードを食べている生活で、それなりに幸せ」な人が、世の中の多数派なのではないか?

もしかしたら、「1%対99%」ではなくて、「1%対1%対98%」なのではないか?


著者は最後に「希望めいたこと」を書いておられるのですが、僕は、これからの日本もこうなっていくんだろうなあ、という絶望感がつのるばかりでした。

こんな世の中で、誰が幸せになっているのかねえ……
http://fujipon.hatenadiary.com/entries/2013/07/08#p1

アメリカ人の超絶肥満の原因は「フードスタンプ」で食べる ジャンクフード + コーラの糖分だった


【衝撃】 アメリカのデブが異次元すぎるwwwwww どうやったらここまで太れるんだよ
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4537088.html
https://matome.naver.jp/odai/2137949022098247301



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

98. 中川隆[-13070] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:07:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15370]

新自由主義的(グローバリズム)
的な理想の税制は、法人税と所得税ゼロ、
税金は「人頭税」で賄うです。

もっとも、人頭税は
国民の反発が大きいため、
代わりに「法人税引き下げの代替財源」
として広まっていったのが、
「消費税」なのでございます。

国民はグローバリズム=デフレ化政策の下で、
社会保障を削られ、消費税を増税され、
企業の労働分配率を引き下げられ、
ひたすら貧困化していきます。

つまりは、人件費が下がっていくわけです。

「人件費が下がることは素晴らしいことだ。
何しろ、グローバルな国際競争力
(=価格競争力)が上がる」

という理屈で、我が国において、
ひたすら「グローバル株主」を利する
政策が行われてきました。

結果的に、若い世代の
所得が下がっていき、結婚が減り、
少子化が止まらない。

日本の少子化は、
政府のデフレ化政策の当然の結末なのです。

この現実に国民の多数派が
気が付かない限り、
我が国の国民の貧困化と少子化、
そして「小国化」は終わりません。
https://38news.jp/economy/11162


2018年5月14日【三橋貴明】忌まわしき税金

6月の骨太の方針2018閣議決定
を前に、「財政目標」関連の
攻防が激しくなってきました。

それにしても、なぜ財務省は
ここまで緊縮財政、特に
「消費税増税」に固執するのでしょうか。

グローバリズムの歴史を辿ると、
何となく理解できています。

グローバリズムあるいは
「新自由主義」の考え方では、税金は

「平等(※公正ではありません)
に徴収するべき」

となっています。

特に、個人や企業が稼いだ所得から
過剰に税金を徴収することを
「悪」とするのです。

というわけで、新自由主義的には税金は

「所得税ゼロ、法人税ゼロ、
税金は人頭税のみ」

が理想なのです。

三橋が東京都立大学
(現、首都大学東京)で経済学の
講義を受けていた際に、教授が、

「人頭税は最も効率が良く、
望ましい税制である」

と、力説していたのを記憶しています。

人頭税とは、文字通り
「一人頭いくら」で
徴収される税金です。

貧困層も超高所得者層も
「同額」の税金を徴収されるわけです。

当たり前ですが、人頭税には
「国内の所得格差是正」といった
概念は一切なく、多数派の
「非・高所得者層」の反発を
受けるため、導入は困難を極めます。

実際、典型的な新自由主義政権で
あったイギリスのサッチャー政権は、
居住する家族の頭数分だけ税金を課す
「コミュニティ・チャージ税」
なる人頭税を導入。

大邸宅に住む一人暮らしよりも、
狭いアパートに住む
子沢山家族の方が、高い税金を
支払う羽目になり、
サッチャー政権の支持率は急落。

退陣に追い込まれました。

というわけで、現代において
人頭税の導入は難しいのです。

だからこそ「消費税」なのではないか。

消費税の場合、何しろ人間は
消費しなければ生きていけないため、
誰もが逃れられません。

また、高所得者も低所得者も、
消費をするたびに「同じ税率」の
税金を徴収されるため、
まことに平等である、
という理屈なのです。

どれだけ所得が高い人でも、
お腹が一杯になれば
それ以上は食べられません。

金持ちが消費を増やす
とはいっても、限界があるのです。

というわけで、高所得者層の
消費性向(所得から消費に回す割合)は
低くなります。

逆に、低所得者層は所得の
ほとんどを消費に使わざるを得ないため、
消費性向は高まります。

つまりは、支払った消費税が
所得に占める割合を比較すると、
低所得者層の方が高所得者層よりも
高くなってしまうのです。

人頭税ほどではありませんが、
消費税もまた「逆累進性」が強い
ことは間違いありません。

消費税は、格差拡大型の税制です。

また、消費税には所得税や
法人税のように、景気を安定化させる
スタビライザー(安定化装置)の
機能がありません。

何しろ、失業者や赤字企業
であっても、消費税は
容赦なく徴収されます。

景気とは無関係に徴収可能
であるため、消費税の
「安定性」は抜群です。

財務省的には、そこ(安定財源)も
魅力なのかも知れません。

消費税は、弱者からも
容赦なく徴収される、
格差拡大型の税金なのです。

97年の消費税増税後の
デフレ環境下において、
日本国民の所得格差は拡大しました。

所得格差拡大に、消費税が
一役買っているのは間違いないと思います。

国民を豊かにする経世済民
という視点から見ると、
そもそも消費税は忌まわしき税金なのです。
https://38news.jp/economy/11933



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

99. 中川隆[-13069] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:14:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15370]

罪務省は不公平な税制を変革せよ 超高額所得者に手をつけろ!
https://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/3eeb431e201f8db28b85c0f85031a074
2018年05月06日 世相を斬る あいば達也


以下のレポートは、2016年時点のものだが、現在2018年も、それほどの相違がない。言いたいことは、五千万〜1億円以上の所得のある人への所得税率が低い、と云うだいじな話だ。税の公平性に関する問題と、国のかたちと云う二つの問題が、その国の税制に現れると考えて良いだろう。

現状の税制は、経済成長至上主義における税制であり、いわば、旧通産省的な立ち位置に立脚している。特に、第一次安倍内閣時代の2007年が高額所得者への税負担率がピークを迎えると同時に、その後下降線を描くことになる。それ以降、麻生内閣、民主党内閣、第二次安倍内閣と、あきれるレベルで、高額所得者の税負担率は下がり続けているのが現状だ。

現在の課税では、超高額所得者への課税は、あらゆる側面において、公平性を欠いた税制に守られ、超高額所得者は豚のように太るばかりになっている。まず、累進課税と云う税の体形を、単純累進課税方式から、超過累進税率方式に変えることで、大幅にトータルの税額を免除する方式をとり、超高額所得者を守っている。

その上、その所得税率も、ピークの1962年時点の75%だった所得税率を、1999年には、なんと37%まで引き下げた。さすがに酷すぎると思ったのか、その後、改正が加えられ、現在は所得税の最高税率は45%になっている。しかし、ピーク時の6割であり、且つ、超過累進税率方式なので、実際上の納税額は、ピーク時の半分以下になっているのが現状だ。

このような金持ち優遇な税制の流れは、自由主義経済とグローバル経済と云う二つの側面から、世界的流れに沿って変遷した事情は理解出来る。民間で出来ることは、すべて民営化していくのが正しいというイデオロギー的変革だったが、公共財を民営化する考えは、民営化された企業が“人”である場合には、公正公平に寄与する可能性はあるが、民営化と云うのは、“マネー”という正体不明の妖怪に、公共財を任せるのと同義的である。

ようするに、その国家が、際限なく自由な“マネー”の欲望に、身を任せるべきか、否かの問題である。国の税システムで再配分を行い、社会を維持するのか、“マネー”のなすがままにして、その市場原理によるトリクルダウンで、再配分機能を機動させるかと云う問題だ。市場原理主義的考えが、いかにも成立しそうな時期が、一時あったのは事実だが、“マネー”の正体は移ろうもので、国家が、身を委ねるほど信頼のおける“もの”ではなく、いつまでたっても太ることをやめない、自制心などの欠片もない俗物であることが証明されつつあるのが、現状だろう。

ピケティの21世紀の資本論の著作が、世界的に売れた原因も、自由主義経済、市場原理主義の行きすぎが、グローバル経済化するに従い、国家の喪失と人力では制御不能な世界を迎えることになると気づき始めた人々が多く現れた証左なのだろう。時を同じくする形で、国家統制のもとで、資本主義や市場原理主義を導入した「中国」と云う国のかたちが、独り勝ちする事実を目の当たりにした欧米社会は、それぞれの方法で、1%対99%の国民分断型社会構造に危機をつのらせている。

日本でも、経済成長至上主義に疑問を持つ人々も増えてはきているが、まだ多くの人は、経済成長こそが、すべてを解決してくれるという“呪文”に囚われ人になっているようだ。その国に、