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ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 4 月 29 日 21:12:16: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 詐欺師 曽野綾子と池田信夫に騙されるな 投稿者 中川隆 日時 2011 年 4 月 28 日 22:53:03)

938 :M7.74 :04/10/29 18:28:26 ID:pK+HmBv0

曽野綾子の紹介

作家。敬虔なクリスチャン。人間愛に満ち溢れている人。
困っている人がいたら手を差し伸べずにはいられない。

というのは数十年も昔の話。

948 :M7.74 :04/10/29 19:30:37 ID:IRLqPAV1
>>938
> 作家。敬虔なクリスチャン。人間愛に満ち溢れている人。困っている人がいたら手を差し伸べずにはいられない。
> というのは数十年も昔の話。


いや、それは彼女の「脳内設定」だからw
そんなもんであった事は無いよ。多分これから先も無いし。

_____________

町の図書館で開架棚にある書物を眺めていた。
曽野綾子の著した本は40冊ある。
これは夏目漱石や三島由紀夫の著作本より多かった。

借りる人が多いそうだ。 人気がある。

三浦朱門

1926年(大正15年)、東京生まれ。東京大学卒業。
1985年(昭和60年)から文化庁長官を務める。
1999年(平成11年)文化功労者となる。

現在、日本藝術院院長


>三浦朱門さん(84)

明治大正生まれ辺りは強姦=豪快という図式のやつが多いからなー

そのノリで息子の嫁手込めにしたとか結構あるし

________

「女性を強姦するのは、紳士として恥ずべきことだが、女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきことである」

との雑誌での発言が、物議を醸した。

2000年7月、ジャーナリストの斎藤貴男に、新自由主義的な発想から「ゆとり教育」の本旨は

“100人に2〜3人でもいい、必ずいる筈”のエリートを見つけ伸ばすための「選民教育」であることを明言。

「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っていてくれればいい」

「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」

「魚屋の息子が官僚になるようなことがあれば本人にも国民にとっても不幸になる」など]。


教育課程審議会において、ゆとり教育について

「私は今まで数学が私の人生に役立ったことは無く、大多数の国民もそうだろう」

とゆとり教育を推進する当時の文部事務次官の意向に沿った 発言を行ない、以後のゆとり教育を加速させた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%9C%B1%E9%96%80

105 : :2010/06/05(土) 17:10:36.39 ID:9DPYsFCJ (1 回発言)

他に「強姦出来るくらいでなければ日本男児たる資格無し」と述べたことがある。
ってまじ?


801 :M7.74 :04/10/28 23:19:01 ID:a1G3PSLn

ちがうよ。

「強姦は無くならないのだから、貞操観念のない女性を強姦すればよい」
「女性を強姦する体力がないのは男として恥ずべきことだ」

806 :M7.74 :04/10/29 00:34:58 ID:WI1U8jot
>>801
これはヤバイだろ。こんなこと公の場で言う文化庁長官ってどうよ。
本当に作家?言葉に対するセンスが無さ過ぎる。

809 :M7.74 :04/10/29 00:41:03 ID:F0a/ruVr
>>806
なんか文学的なこと言った、って自分で誤解したんだよ、朱門は。
曽野との結婚の時もなんか気取った事言ったんじゃなかったかな、忘れたけど。


816 :M7.74 :04/10/29 01:32:51 ID:SkrJQE8A
>>806 本当に作家?

作家かどうかは知らないけれど、今では目出度く日本芸術院の院長に納まっておりますよ。


9 : :2010/06/05(土) 16:12:24.01 ID:tnU9yqdh (1 回発言)

強姦とか後味悪すぎるし
他人との強制的な接触がどんだけ気持ち悪い事なのか想像できないんだろうな
それこそ発狂するレベルだぞ

46 : :2010/06/05(土) 16:20:00.12 ID:tlOm/N0J (1 回発言)

「良いじゃないか、減るものじゃないんだし」
この言い回し考えた人は天才だな


110 : :2010/06/05(土) 17:15:08.46 ID:d7mgoqaj (1 回発言)

嫁の曽野綾子は強姦は女の自己責任と断言してたな
お似合いのゆとり老害


121 : :2010/06/05(土) 17:34:00.40 ID:ZpqUcFO3 (1 回発言)

おまいら、なんで強姦魔が辞められないか知ってる?

経験者から聞いた話なんだが、レイプしようとすると大抵の女は始めは嫌がるんだが、暴れて疲れるとほとんど身動きも出来なくなる。もう好きにして状態になる。そして驚く事に、女はレイプされるともの凄く感じる。普通にセックスした時よりも、比べ物にならないほど激しくイクらしい。痙攣してイキまくる。だから通報できない女が多い。

大抵の女性はレイプされるとありえないほどの快感を覚える。それは大量のアドレナリンとドーパミンが順番に分泌されるからである。吊り橋効果と似ていて、レイプ魔に襲われて恐怖を感じた時に、アドレナリンが大量に分泌され生理的に極度の興奮状態に陥る事により、自分が恋愛をしていると脳が錯覚して、脳が快感を与えるドーパミンを分泌してしまう為、体が快感を覚えて反応し、挿入からしばらくすると、膣が充血する事で、クリトリスや膣内の性感帯が過敏になり、膣が刺激される度にピストン運動にあわせて脊髄反射で腰を振ってしまったり、痛みに対して悲鳴を上げるように、快感に対してよがり声をあげてしまうわけなのです。

女性というのは、そういう風に出来ているのだそうだ。だから強姦はクセになってしまうのだそうです。ついでに言うと、強姦被害者がよく自殺なんて話があるが、あれは強姦されたことが嫌で死ぬわけではなく、強姦されて激しく快感を覚えた自分の体に嫌悪して死ぬのだそうですよ。

ちなみにこれは知り合いの弁護士が連続強姦魔から聞いた話です。強姦魔の話では、強姦をするときに女性が自分が感じてしまっている事への戸惑いと、快楽に身を任せる表情とが入り混じってたまらないと言います。

どんな美人でも最後には泣きながら自分から腰を振るそうです。嫌だとは思いながらも体は感じすぎてしまい拒絶できない。むしろ自分から求めてしまうそうです。強姦魔によると、美人が泣きながらも苦悶の表情で、「イク」と言うのがたまらないと言います。

一度知ったら誰であろうと絶対に辞められるわけないとも言っておりました。 おそろしや


140 : :2010/06/05(土) 21:19:48.26 ID:4ZHRr5f3 (1 回発言)
>>121
んな訳ないだろ
こんなコピペとかAV見すぎなやつが、実際やってみたら女の力が凄くてびっくりして殺しちゃうんだよ

86 : :2010/06/05(土) 16:54:38.18 ID:0wrUraOD (1 回発言)

文系脳って極めつけると凄いんだね
犯罪肯定したりゆとり教育推し進めたり

969 :M7.74 :04/10/29 23:25:07 ID:dXozA34c

曽野と三浦の夫婦そろって文化功労者。毎年350万ずつの年金だよ。

タリバンと同レベルの文化破壊者のくせして。

しかしまあボランティアで財団の仕事してるとか言ってるけど財団の金を政治家や財界人やファミリーの組織にまわしてそこからバックさせるなんてうまい手考えたもんだね。まあ考えたのは笹川だろうけど。

174 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 21:18:47.29

いやあ、凄い人気の婆さんだが、夫妻とも権力に寄り添うのがうまいなあ。
ところで夫妻ともどんなもん書いているの?


688 :M7.74 :04/10/27 20:37:59 ID:YQiow04v

コイツの旦那の三浦朱門が円周率を3にしたりしてゆとり教育を進めて国際的に高い水準だった日本の教育を崩壊させた首謀者なんだよ。
コイツらちょっとおかしいよ。

797 :M7.74 :04/10/28 19:26:35 ID:uDkDGXQW

日本財団って、こう云うババアが、元締めでボート賭博の上がりのゴク一部を福祉事業に恵んでカモフラージュしているわけだ。
旦那のレイプ発言と云い、この夫婦昔からヘン。


130 : :2010/06/05(土) 18:33:50.22 ID:URXDI6AU (1 回発言)

女房の曽野綾子はウヨの寵姫だよなw
沖縄集団自決の件で気に入られて。
ゆとり教育の戦犯の一人でもあるはずだがw


721 :M7.74 :04/10/28 02:40:04 ID:n03lJOts

自分は数学なぞ役に立たなかったからこんなもの教える必要はないとか言って、ゆとり教育推進した亭主の援護射撃してた女だからね。

22 : :2010/06/05(土) 16:14:58.77 ID:ETZcwfsb (2 回発言)

ゆとり教育って出来るやつを伸ばそうとかしてたっけ?
ただ教科書薄くしただけじゃね?


40 : :2010/06/05(土) 16:18:06.52 ID:okV2iePI (1 回発言)
>>22
周りが努力しないなら、自分はちょっと努力すれば結果が出るからな
それで努力の味を知り、周りを出し抜く人間が出てくるって話じゃねぇの
ゆとり教育自体はどうかと思うが


41 : :2010/06/05(土) 16:18:12.57 ID:SoEavKt6 (1 回発言)
見事な選民思想だな


106 : :2010/06/05(土) 17:11:45.04 ID:w4QJP7BY (2 回発言)
>>99

ゆとり教育で増えたのは脳みそのゆとりだけだもんな。
酷い話だ。

__________


だから教育課程審議会で「ゆとり教育」を導入したのは三浦朱門ら正論メンバーやそのシンパの連中じゃねえか。しかもその成果を保守系の各種出版物で自慢げにインタビューで三浦朱門自身が答えているし妻の曽野綾子やらもアホなこと逝ってる。

以下の「ゆとり教育」導入を決めたときの三浦朱門のコメントが全て。(現代思想)より

「学力を低下させるためにやっているんだ」

「いままで落ちこぼれのために限りある予算とか教員を手間隙かけすぎてエリートが育たなかった。」

「これからは落ちこぼれのままで結構で、そのための金をエリートのために割り振る。」

「エリートは100人に1人でいい、そのエリートがやがて国を引っ張っていってくれるだろう。」

「非才、無才はただ実直な精神だけを養ってくれればいいんだ」

「ゆとり教育というのは、ただできない奴を放ったらかしにして、できる奴だけを育てるエリート教育なんだけど、そういうふうにいうと今の世の中抵抗が多いから、ただ回りくどくいっただけだ」


『機会不平等』(文芸春秋社)より


学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。

いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。

限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。<中略

平均学力が高いのは、遅れてる国が追いつけ追い越せと国民の尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国になっていかなければいけません。それが“ゆとり教育”の本当の目的。

http://kyoto.cool.ne.jp/sono001/archives/hisaisha.htm

126 :M7.74 :04/10/25 15:07:13 ID:Zp5+1DIV

周囲が地盤沈下したら、以前のレベルの学力を保つだけで比較の問題では「凄いリーダー」になる。


流石、三浦朱門(ゲラゲラゲラ

http://logsoku.com/thread/tsushima.2ch.net/news/1275721777/

【正論】曽野綾子 どこまで恵まれれば気が済む-イザ!

 文句のつけようがない見事な沖縄取材でおなじみのあややこと曾野綾子氏です。

 「現代の日本はとてつもなく恵まれているのだから、足ることを知れ、感謝を知れ」

という意見は、(本来の意味での)保守派として正当な論説ですし、際限のない欲望を戒めるという意味なら、傾聴すべきところです。 「親のしつけが大事だ」というのも、まったくそのとおりです。しかし、

「みんな平等だという戦後教育が悪い」

となってくると、おや、と思います。教育といえばゆとり教育ですが(やや強引)、

「一部のエリート以外は勉強させなくてもいい」

としてゆとり教育を提唱した三浦朱門氏は、たしかあややの連れ合いだったなあ、と。あややが感謝している現代日本の豊かさを作ったのは、「みんな平等」な戦後教育による教育水準の高さに大きく由来するもので、三浦・曾野夫妻はそうではない国を作ろうとしていると思っていたので、たいへんびっくりしました。

 そうした大枠の矛盾を別にしても、

「ストレスは、自我が未完成で、すぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われる」

というあたり、目を疑いました。《ストレス》の生理学的な定義は別にして(「寒い」「痛い」「腹減った」なども《ストレス》です)一般的な用法に限っても、自我があるから(他人や社会との軋轢による)ストレスが生じるので、自我のない人間ならそうしたストレスは感じません。他人をうらやみ嫉妬するのもたしかにストレスでしょうが、普通の人間にとっては嫉妬されるのもストレスだし、あややの言うような意味でストレスを感じない人間がいるとしたら、悟りを得た高僧ぐらいでしょう。もちろんその境地に到るのは理想ではありますが、「ストレス」という表現でそこまで要求できるものなのでしょうか。

 まあなんにせよ、結論そのもの(「足ることを知る」)は正しいとしても、その論拠を重ねる過程がここまで滅茶苦茶な論説というものもあるのだなあと、これはひとつ勉強になりました。と、無理矢理よかった探ししてみる。

http://d.hatena.ne.jp/pr3/20080109/1199878513


137 : :2010/06/05(土) 18:58:30.25 ID:Vtd9z9lF (1 回発言)

ゆとり教育を推進し日本人の学力を低下させたのは、中曽根臨教審と臨教審に関わった保守系人脈。

バカウヨの皆さん何か反論は?

http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01254/contents/738.htm


>「戦後教育の総決算」を掲げた中曽根首相(当時)は84年、首相直属の臨時教育審議会を
>発足させた。「ゆとり教育」に代表される今の教育施策・改革の源流をたどると必ず臨教審に行き着く。
>そのことを意識した中曽根氏も、インタビューで「ゆとり教育」の正しさを強調した。
>学力低下など問題の原因は教師の「質」や運営方法などに求めている。
>だが、中曽根氏は臨教審を「失敗だった」と総括する。


http://www.asyura2.com/0411/senkyo7/msg/301.html

↑中曽根臨教審に曾野綾子、
臨教審に影響を与えた「世界を考える京都座会」に山本七平、渡部昇一といった
保守系文化人が関わっている。

http://math-sci.hp.infoseek.co.jp/QuadEq.html

曾野綾子「私は2次方程式もろくにできないけれども、65歳になる今日まで全然不自由しなかった」

この発言から1年2ヶ月ほどたった98年の6月に教課審の審議のまとめが出され、
2次方程式の解の公式は中学数学から姿を消すことになった。

http://ww1.tiki.ne.jp/~sakuwa/kaiakusitaihito2.htm

三浦朱門

「そんなことは最初から分かっている。むしろ学力を低下させるためにやっているんだ」

「今まで落ちこぼれのために限りある予算とか教員を手間暇かけすぎて、エリートが育たなかった」

「ゆとり教育というのはただできない奴をほったらかしにして、できる奴だけ育てるエリート教育なんだけど、そういうふうにいうと今の世の中抵抗が多いから、ただ回りくどく言っただけだ」

「エリートは100人に1人でいい。非才、無才はただ実直な精神だけを養ってくれればいいんだ。」

145 : :2010/06/05(土) 21:33:07.54 ID:NEyURSbH (2 回発言)

しみじみ馬鹿な人間だとしか思えん。

限りなくできない非才、無才とやらを、誰がどうやって判定するのか。

そして己は、判定される側ではなく、判定する側の人間だと始めから思いこんでいる。

エリートを拾い出す教育というが、その手法が確立されていると言い切ったら、これまた人間の能力の独断による「見切り」告白でしかない。

もしもエリートとやらを拾い出すことを望むのなら、俺は「出来ない(と思われる)」子どもの切り捨てとは逆に、全体の底上げを計って、その中から拾い出す方向が正しいと思う。

砂山の頂上を高くする事と同じなのだ。底辺を広げなければ頂上は高くならない。

さらに言えば、現在の科学研究は、もはや一人の天才によって左右されるものではなくチーム力によって左右されるものだ。たった一人の天才を拾い出せればという夢想は、宝くじに当たるといいなーという夢想と同列のものでしかない。


173 : :2010/06/06(日) 13:04:24.38 ID:pdm+Ewlr (1 回発言)

数学不要論は多いけど、数学教育が社会からなくなると一体どうなるんだろうね。
※算数は小学で習うから、否定派はこれは否定してないということだよね。

実際問題、表向き高校数学とかあるけど、高校は低レベルなとこだと、まともに数学やると卒業できないから中学数学に毛の生えた程度の事しかさせないけどね。

逆に全員に数学教えた方がその中で逸材生まれる可能性が高いのかな。
例えば理学部数学科とかは何百人に一人天才を生み出すのが目的で後はどうでもいいらしい。一人生まれれば。

http://logsoku.com/thread/tsushima.2ch.net/news/1275721777/


9 :吾輩は名無しである :2011/02/07(月) 02:12:35

日本について。

「どこへ行ってもガスと電気は一日中使えます。 トイレもきれいで水を使いほうだい。しかも、どこへ行っても安全。こんないい国は世界中を探してもありませんよ。 日本が嫌なら、さっさと出て行きなさい」
(読売より)


★徴兵制,奉仕労働で若者を叩き直せ!
  他者への奉仕が育む本当の自由! (曽野綾子)

(『週刊ポスト 2月25日号』より)

86 :吾輩は名無しである :2011/02/13(日) 23:02:35

何、この稲田朋美のパクリ

やっぱり「お仲間」の慎太郎と同じで、戸塚ヨットスクール方式丸投げでどうにかなると思ってるのが、教育を脳内だけで考えて実践もしたこともない素人丸出し

でもこんなでも、政府の教育政策に口出ししてきて結果、日本を駄目にした張本人



87 :吾輩は名無しである :2011/02/14(月) 00:34:12

曽野綾子はある種の寄生虫を彷彿とさせる。

宿主を殺す程に肥大し、寄生虫自身は目も鼻も脳も持たない。

何故、赤の他人が若者だからという理由で己の為だけに血や汗を流してくれると無邪気に信じているのだろうか?

曽野の徴兵制論は毎度同じ事しか書かないが、自分は銃後で叱咤する。
お前等は前線で死んでこい。では民族主義の人間ですらこんな奴のためには死ねないのではないかと思うが。


5 :吾輩は名無しである :2011/02/06(日) 16:14:03

東に病気の若者あれば 気合が足りんと言って引きずりまわし病状を悪化させ

西に疲れた者いれば 行ってみんな疲れてるのだぞと説教をかまし

南に死にそうな人いれば 行って 甘えるなと罵倒し

北に喧嘩や訴訟があれば 行って強き者ばかりに加勢をする

ソウイウソノニ ワタシハナリタイ


6 :吾輩は名無しである :2011/02/06(日) 17:16:43

曽野の特徴まとめ。

・金持ちボンボンの曽野が、豊かさで弛んだ日本人を批判

・エリート生まれの勝ち組曽野が、被差別民族・人種を批判

・裕福な曽野が、社会的救貧政策・差別格差是正運動その他を偽善と批判

・富豪の曽野が貧民は甘えと批判

・生まれながらに富裕な曽野が日本の下層はアホだから下層だと批判

・豊かで呑気に生きている曽野が物騒で貧しいアフリカを賞賛

・曽野が好きそうなもの
封建制、身分、軍事政権、独裁政権、特権階級、格差、戦争、植民地、弾圧、反人権

12 :吾輩は名無しである :2011/02/07(月) 15:17:53

曽野綾子氏の批判する人々と動物たち。


●災害の被害者たち・・・・・おかみに頼る根性、知恵も対策もないアホぶり。

●犯罪の被害者(特に性犯罪の女性被害者)・・・不用心が犯罪を誘発する。

●ホームレス、・・・・・公有地の無断使用など

●要介護老人・・・・・自助努力の欠如、

●住居地に侵入する鳥やけもの類・・・退治できない厄介ものを保護するな!邪魔ものは殺せ。


215 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 21:16:47.03

>>12
こんなこと平気で書く人を崇めてる日本も日本だ
政府までへいこらしてるし
人間エラソーに振る舞う人に弱いんだよね
旦那も学者だから(やっぱり右翼だけど) いい旦那射止めてるし

218 :吾輩は名無しである :2011/02/27(日) 03:37:55.18

右よりの愚人の代弁者。
自分のこと、「貴族」か何かと思っている。
上から目線の説教にはイヤミがこもる。
本当に嫌いだよ、この人。

150 :吾輩は名無しである :2011/02/21(月) 02:42:29.11

こいつといい珍太郎といい、作家が政治や教育に口出しするとろくなことにならん

ゆとり教育叩きに狂奔してるくせに、テメエの旦那がそれを推進した元凶一味ってのをスルーって

反吐が出るようなダブスタだ

680 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 00:03:30.68

いや、こいつは、なんと言っても低偏差値の星であることは確かだ。
化け物でもあるがね。


682 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 09:14:02.15

>>680
だからおまえはアヤヤを仰ぎ見ていると言う訳か。

683 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 11:39:54.08

そうなりたいなあ。
あやや(松浦亜弥の方ね、勿論^^)を騎乗位で・・・

684 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 14:39:52.01

鼻の穴がよーく見えるだろね

685 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 16:26:30.26

鼻の穴とスルメのオッパイが、、、
なんか恐ろしい悪夢を今夜見るような、、、
寝るのが、、、(怖)。。。。


686 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 16:40:45.52

夢のなか、君に跨った女は髪を振り乱し、松浦になったり曽野婆になったり・・・

ギャャー!!


748 :吾輩は名無しである :2011/04/21(木) 15:57:30.75

君子が文を学べば人を愛す。小人が文を学べば人に謙譲す。

ババア、テメエ何様のつもりだ?、が「文を学んだ者」であるなら、
はて?そのババアは、一体なんなんだろうか???

749 :吾輩は名無しである :2011/04/22(金) 00:02:28.73

くそばばあ。アーメン。

750 : v(・x・)v鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 :2011/04/22(金) 00:06:35.81
アーメンは勿体無いからザーメンでいいよ

751 :吾輩は名無しである :2011/04/22(金) 03:04:50.80

ア〜ヤに顔射する勇気はないな
そもそも勃たないと思う

752 :吾輩は名無しである :2011/04/22(金) 05:30:00.50

そりゃそうだ。この人は、可愛げのない大女だぜ。しかも低偏差値。

615 :吾輩は名無しである :2011/04/06(水) 12:42:03.70

曽野綾子の顔は内面の醜さがそのまんま出ている汚らしい顔だね。
卑しさ、傲慢、物欲、名誉欲、我欲まみれのあさましい顔付きだ。
これも一種のヴィジュアル系だね。


645 :吾輩は名無しである :2011/04/09(土) 17:41:40.87

読売新聞で金持ち自慢に被災者への極端な例を上げての説教
妄想の中の若者に説教、いつもいつも同じパターン
こいつは本当に世間知らずだな

646 :吾輩は名無しである :2011/04/09(土) 19:03:51.20

読売読んだけど…
勇ましいこと言ってる割には芯が無い人だね。
「国に頼るな」ってなんのための税金だよw


648 :吾輩は名無しである :2011/04/09(土) 23:01:23.74

>私たち日本人は、戦後の復興と高度経済成長を経て有頂天になっていた。
>今回の東日本大震災によって、甘やかされた生活がこれからも続くという
>夢が打ち砕かれた。

庶民感覚ゼロ。世間知らずルーピーババァ丸出し。

649 :吾輩は名無しである :2011/04/09(土) 23:31:58.87

甘やかされてるのは曽野。お前一人だよ。
何故死なないんだよ。役立たずなのに。甘えだよ。甘え。


651 :吾輩は名無しである :2011/04/09(土) 23:32:53.87

庶民感覚もゼロだけどそれ以上にヤバイのは
学歴はどうでもいいけど、知性がゼロということだよね。
国を信用するのが甘いとか、自分は自分で防衛するのがあたりまえだとか、
これ、国家とか社会の仕組みの基本を完全にぶっ飛ばした思想だけど、
自分の主張してることが何を意味することになるか自分で理解していないのが決定的にヤバイ。


653 :吾輩は名無しである :2011/04/10(日) 00:20:05.48

基本偉そうだけど権力側の空気を読むから使いやすいんじゃないの

659 :吾輩は名無しである :2011/04/10(日) 08:56:55.51

自分は権力の側なのに権力側を頼るなとか甘えるなとか言うのも変な話
他人に厳しく自分に甘いのは自称保守(笑)の金持ちに共通している


974 :M7.74 :04/10/30 00:00:39 ID:w2ILyCt3

年寄りは年寄りなりに生きることに努力しろだと
途方に暮れて弱っている年寄りに努力しろだと
曽野は傲岸(ごうがん)な猿である。


965 :M7.74 :04/10/29 22:46:19 ID:Maeldrax

オバハンのこういう発言、本人はもう、あっちにいってるような感じだから、意図がどうのとか言っても始まらない。それよりも、こういうコラムを見て喜ぶ連中がいることのことを考えよう。

福祉切り捨て経団連なんか、最たるもんじゃないか。震災特需でもうけると同時に、普段から個人に責任を負わせるようにすれば、あの連中にとっては非常に好ましい社会になる。

オバハンは知ってか知らずか、ここでもまた、資本家の走狗となっておる。


736 :吾輩は名無しである :2011/04/20(水) 19:54:58.50

この、クソばばあ。


737 :吾輩は名無しである :2011/04/20(水) 20:43:05.89

クソならまだまマシ。 死に神ババアだよ・・・

┌───────────────────
│ネエ、みんな、 アタシってビッグ? グレート?
└───v───────────────
     /⌒\ っ   /\
    /'⌒'ヽ \ っ/\  |
    (●.●) )/   |: | 
     >冊/  ./     |: /
   /⌒   ミミ \   〆
   /   / |::|λ|   .  |
   |√7ミ   |::|  ト、   |
   |:/    V_ハ    |
  /| i        |   ∧|∧
   и .i      N /⌒ ヽ) ←日本の良識、かもねw
    λヘ、| i .NV  |   | |
      V\W  ( 、 ∪
             || |
             ∪∪


738 : v(・x・)v鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2011/04/20(水) 20:44:33.86

貧乏人の生き血を吸って生きてんだよ!!


739 :吾輩は名無しである :2011/04/21(木) 00:31:36.02

どうして曽野を含む自己責任連呼厨は他人にばかり甘えるなと言い放つのだろう。
甘えている人間が社会を支えている甘えていない人間を罵倒する不思議。
曽野は社会を見る目も自分自身を見る目もない。


743 :吾輩は名無しである :2011/04/21(木) 05:47:23.73

曽野というのは、何も生産せず、それどころか官僚にたかり、夫婦ともども国家を食い物にし、そして偉そうに庶民を下に見ながら説教を垂れる、本当は庶民の出身だが聖心を卒業したから自身、上流と錯覚している低偏差値、迷信ばばあだ。
恥を知れ、恥を。運輸官僚ともども。自民党ともども。

89 :M7.74 :04/10/25 13:54:54 ID:h3QzkBRO

曾野綾子は小学校から聖心女子大学付属で育ったカトリック信者。
日本船舶振興会の現会長。競艇(不善)で儲けたお金も良い事に使えば贖罪されるというのがカトリックの思想です。

91 :M7.74 :04/10/25 14:02:44 ID:h3QzkBRO

生まれ育ちの良さの恩恵にあずかっておいて貧乏人は甘えているというのが昔からのこの人の考え方。そういう訳でこの人好きじゃない。

92 :M7.74 :04/10/25 14:03:52 ID:N30NztGR

事故や災害で弱者が先に死ぬのは自然の摂理だから、それに逆らわない方がいいよね


94 :M7.74 :04/10/25 14:08:29 ID:h3QzkBRO
>>92
それはまさに、曾野綾子の思想だよ。選民思想の人。


99 :M7.74 :04/10/25 14:21:15 ID:h3QzkBRO

自分が貧乏もしくは中流家庭で育って努力でのしあがったんならそう言っても良いんだけどね。上流階級の産まれ育ちでそういう事言うのは嫌みだと思うが。嫌みなババァというのが、昔からのこの人の印象。

107 :M7.74 :04/10/25 14:35:54 ID:PW4XC6xM

博打で荒稼ぎしてる金を元手にのほほんとしてるおばさんが何を言ってもなw

290 :M7.74 :04/10/26 02:21:14 ID:d5GDQlmp

クリスチャンってこのババァみたいなのしか知らない。
なんか選民意識。明らかに人を見下している。
自分は絶対に安全なところから。

よく考えたらキリスト教の教義って選民思想だな。しかも祈ってたらカミサマが助けてくれるんだろ?
世界の終わりの日に、キリスト凶徒だけ。

個人的にキリスト狂はキ印だと思う。


293 :M7.74 :04/10/26 02:45:51 ID:HL0cnWzw

うちの親戚のおばさんは、この前あった台風のせいで避難所生活を初体験したが、曾野ばあさんの理屈に叶った行動は何一つできなかったな。

子供達は結婚して家を出ているので一人暮らしをしているが、子供達はもしも災害時に備えて、母親用の飲料水や食料をマメに用意してるような、心配性の家族なんだわ。
で、今回洪水が起こったわけだが、年寄りで膝が悪いおばさんは、それらの避難グッズを担ぐ余裕なんぞ持てなかった。

近所に頼ろうにも、年寄りだらけなもんだから、皆、貴重品を持って、身一つで移動が手一杯な状態だったそうな。
あめ玉などの菓子は持って出たらしいがな。

なにを高見から、えらそうに講釈垂れてるのだか。
競艇ギャンブルの親分のくせに、クリスチャンだって?

167 :M7.74 :04/10/25 17:07:47 ID:SosKrFFp

個々人は自己責任がある程度あるわけだがこの国はもともと弱者を馬鹿にした法整備(田中知事がいってた崖の上の老人ホームetc)を作ってきたわけで この人のいうことに一理あっても行政にはどんどん弱者救済を目指してもらわないととりあえずEU基準レベル程度に先進国らしく当面は行政をあてにできないから個人備蓄は怠れない

親戚や友人にクリスチャンがいるが結構ついていけない人間が多い
信仰のない人を切りすてていけないと自分自身の信仰も成り立たないから


169 :M7.74 :04/10/25 17:18:44 ID:L66F+Kph

金持ちの特権階級の女史がド田舎の庶民の暮らしに喝を入れてくれる。
ありがたいことじゃないか。
新潟県知事にも直接進言したらどうかね。


171 :M7.74 :04/10/25 17:28:58 ID:PW4XC6xM
>>167
まぁ、当たり前だなw<クリスチャン

自分達は人殺しをしながらも、それを正統化してきた歴史がある。
口先だけでは、先人達のやってきたことにも問題はあった、というが、口だけw
自己欺瞞がうまい人じゃないと「信仰」は続かんよ。

446 :M7.74 :04/10/26 21:30:08 ID:xulGHsLY

俺カトリックだが曾野は大嫌いだ。
あいつとキリスト教徒全般をいっしょくたにしないでホスィ

それにしても台風だって、水が出て水位がみるみる上がってるような状態とか
大波で一瞬にして破壊された家屋とかもあったのに自己責任とはね・・
彼女のエッセイはそれなりに冊数読んだけど、(読んだから嫌いになったんだが)
他人が大事にされたり愛されたりするのが気に喰わない
重度のアダルトチルドレンでしか無いと思うんだが。
父親とんでもない奴だったらしいし、それを耐えて来たのは御苦労様だが
他人がそれ以上の苦労をしていないと認めないワヨ!てなヒス傾向が
著作のあちこちに見隠れしていてみっともない。

旦那もいつ爆発するか分らない妻に苦労してるらしい。

キリストのゆるしや癒しからは最も遠い人だよ。

451 :訂正 :04/10/26 21:51:11 ID:cYIOqzhq
>>446
悪いが、俺が見る範囲ではまともなキリスト教徒って見たこと無い。
独善と選民思想の塊という印象が非常に強い。

人に潔癖 自分はドロドロ

612 :M7.74 :04/10/27 13:22:43 ID:VovMxiub

どの道「支援しっぱなし」という状態は収束してしていきますからね
被災者だっていつまでも他力本願で生活しようなんて思ってないしウチんとこも皆、借金したりして自力で再建中だよ

ソノやんとかは日本の現実知らなすぎ
毛布被ってたアンちゃんだって、翌日からは復興に立ち向かっていたかもしれないのにな・・
人情のわからん冷酷なオバンって感じがするね

613 :M7.74 :04/10/27 13:45:03 ID:yStin6iz

やっぱり、カトリックって冷たいんだなと思ってしまった。

きびしい宗教だからね。日本みたいな、甘ちゃんの国はお嫌いなんだろうね。
じゃあ日本財団のトップなんてやめて、カトリックの国に行けば、と思うけどなあ。

昔、深夜のラジオに、カトリックの番組があって、遠藤周作さんとか このオバハントカ、そのダンナとかが出てました。遠藤さんの言うことは、味があって、よかったですが、このオバハンとそのダンナは、なんでもかんでもエラソーに日本のふつうの市民を罵倒するばっかりで、聞いててとても不愉快だった。

反カトリック勢力によるネガティブ・キャンペーンかと思ったぐらいで、他人に対してそんなに容赦ない宗教が、この日本で支持されるわけないなぁと思ってました。
歳月を重ねるうちに、ますます権力的になって、こんどの発言ですか。

このオバハン、「嫌日」なんだなあと思います。
日本は、弱ってる人に対して、やっぱりやさしいです。ひどい状況でも、ほとんどの人は立派です。暴動・略奪もないじゃないですか。こんな、「甘え」もありぃの、のやさしい文化が、もともとの日本の伝統だと僕は思います。江戸時代でも大火や火山噴火・津波・洪水といった天災のとき、各藩や幕府は、炊き出しや仮家の普請などをやっていますよ。

西洋カブレのバカ、としか言いようがありませんね。
それでも、神は我とともに在りと信じているんでしょうからね。

お〜い、バチカン、日本でほんとに布教したかったら、こんなオバハン、破門にしたほうがいいぞ!


614 :M7.74 :04/10/27 13:48:08 ID:J4ZbK6hj

人情のわからん冷酷なオバンって感じがするね

曽野の父親は、自分の妻に暴力をふるう人間だったそうだ。
そして、曽野の母は曽野を道連れに自殺未遂をはかったこともあるそうだ。
安心して暮らせる家庭で育つことができなかった曽野は、自分が受け入れられているという感覚を持たずに大きくなった。そして、カトリック系列の学校で律法主義的な教育を受けることによって、常に自分を他人と比較しないといられない性格になってしまったのだろう。自分を他人と比べて、「自分は他人よりも優れている」と確認し続けないと、自我を保つことができないのだ。

今回の「被災者は甘えるな」発言も、その発言の中身をどうこういう以前に、他人を馬鹿にしないといられない曽野の性格が表れたに過ぎない。七十過ぎだというのに、あそこまで幼稚な大人も珍しい。
きっと死ぬまで直らないよね。

616 :M7.74 :04/10/27 14:13:45 ID:vMA2pzWK

あややんとか言うなよ。

護衛付きのお大尽視察旅行で、ソマリアの難民キャンプで高見の見物してたババァに
何がわかるの?

特権意識丸出しで、上から見下ろして、偉そうに文句だけつけるアホ。


692 :M7.74 :04/10/27 20:57:30 ID:oiqm8RTc

曽野綾子自身は盗作作家で有名だったが、現在は不振、この女も自分に甘く他人には手厳しい。平和平和できたボケ国民へ一言なんだろが。


694 :M7.74 :04/10/27 21:36:02 ID:Bstq7ftF

世襲大使は殆ど全員 曽野綾子ファンだそうだ


698 :M7.74 :04/10/27 23:17:41 ID:K0/hghPi

曽野綾子は、被災者が受けた被害を、無意識かm意識的にかは知らないが、聖書のヨブ記に書かれているような神の与えた試練と考えているのではないか。

被災者はどんなに理不尽な災厄であっても耐え、ヨブのように、被災者が最後に

「それゆえ私は自分を否定し、塵芥の中で悔い改めます。」

と言えば、彼女は納得するのだろう。

まぁ、吉外女の書いているタワゴトだから、まともにとりあげる必要もないが、気になることが二つある。


(1)このような他人への厳しい態度と自分の身内への甘さの格差の大きさはどうしてか?

(2)曽野綾子の他人への厳しい態度の中で、無意識だろうが自分のことを神と等値しているような思い上がりがあるように感じられる。


743 :M7.74 :04/10/28 09:00:18 ID:8sjL6dHg

日本のカトリック信者のほとんどがブルジョワ趣味の腐った連中。

上流階級のステイタスシンボルとして、信仰を持っているだけ。 単なるポーズにすぎない。本音は、

「貧乏人と一緒にされちゃ困るわ」

曾野綾子がむかついたのは、貧乏人に、「ラベルのついた」新品の毛布を無償で配ってたから。被災したくらいで、勿体ないと思ったんだろう。

ケチな糞ばばあがもっともらしく理屈つけてるだけなので騙されるな。


749 :M7.74 :04/10/28 12:23:07 ID:/p3Gx/vM

>>743 上流階級のステイタスシンボルとして、信仰を持っているだけ。

そういえば、曽野は、電車の中や歩きながら物を食べている若者をあげつらって、
「私は学校(聖心)で、きちんとテーブルマナーをおそわった」とか書いていたもんな。

まあ、皇后様の誕生日に皇居にお呼ばれすることが曽野先生の何よりの自慢ですからね、

「私は一般大衆とは違うのよ」

と思い込んでしまうのも無理からぬことよ。

802 :吾輩は名無しである :2011/04/27(水) 15:15:20.53

エッセーに皇后陛下を同窓で云々だとか、親しい仲だとか書いているね。
皇后は大迷惑だろう。 何も言えないお立場の人を苦しめる利己主義には開いた口が塞がらない。


806 :吾輩は名無しである :2011/04/27(水) 21:57:48.03

聖心でございます、上流階級の。ごきげんよう、おほほほ。
頭脳の良し悪しを言うのは下々の人ですよ。

http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/book/1296970756
http://kyoto.cool.ne.jp/sono001/archives/hisaisha.htm

________________

【曽野綾子の 透明な歳月の光】(132)

地震に思う 災害時の知恵 訓練必要 2004.10.29 

 災害の話をすると、多くの人が「皆頭が真っ白になってて、何も考えられないのよ」と被災者に代わって弁護する。

 人間はその場にいなければ、どんなにでも利口そうなことを言えるものだが、一般の人たちにもう少し災害時の知恵を訓練する必要はあるだろう。揺れている最中は立っていることも考えることもできないのを、私は体験しているが、収まれば僅(わず)かな時間に、次の余震に対してどうしようかと考えて当然である。

 戦争中なら、どこにも食料はなかった。しかし今、殊にこの時期の米所には、どこの家にもお米の一キロや二キロはあるだろう。私なら余震の間にどこかからお鍋を手に入れて来て、ガス洩(も)れの恐れのない遠くで、すぐに自分でご飯を炊く。その時、電気釜でなくてご飯を炊ける知識が必要だ。水はお米の量の一・五倍を入れれば間違いなく炊けることを多くの人が知らないのである。

 そのために即席の竈(かまど)を作る。ブロックでも煉瓦(れんが)でもこういう場合にはどこからでも壊れた材料を失敬してくればいい。この程度のものなら、人間は時には無断借用する才覚も必要だ。自然石ならできるだけ同じサイズのものが三個あれば鍋をおいて安定する。

 薪はその辺のどこにでもある。壊れた家から出たゴミは焼却場に運ぶよりは、当分の間、被災地の燃料として使うことだ。出し味噌(みそ)一つあれば味噌汁もできる。知り合いの店なら、食料品はツケで買える。普段の信用が大切だ。

 お握りやパンの配給があるまで、どうして手を拱(こまね)いているのだろうか。年寄りは年寄りなりに、自分が今まで生きてきた体験上の知恵を働かせて、なぜ自分たちで生きることに努力しないのだろうか。それでいて国家に不平を言う人もいる。

 しかしそれにしても新潟県中越地震発生直後から午後七時までのNHKのニュースの担当者の態度はひどかった。

 私たちに聞こえるほどに、役所の電話が鳴り続けているのに、担当者は平然とインタビューを止めない。こういう時の電話は多かれ少なかれ、救いを求めている電話だ。その電話に役人を出させず、自分の質問に答えることを優先させて平気なのである。必死で電話を掛けている人は、どうしてこんなに役所の電話が通じないか不思議だったろう。私ならNHKのインタビューなどさっさと無視して、被災者に答える。

 七時過ぎにニュースに出た担当者はさすがに違った。「こういう時ですからあまり長く時間を頂けないとも思いますが」という言葉が自然に口に出ていた。これが人間だ。前の人は傲岸(ごうがん)な猿である。NHKというところは人間離れのした感覚の人を平気で人気アナウンサーとして使っている。それがこういう場合に暴露されるのである。

 (毎週金曜日掲載) 01/15 15:28 By:pipi URL

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All Rights are held by 産経新聞 & 曾野綾子


10月20日に、アフリカのマダガスカルからパリ経由、24時間ほどをかけて帰ってきた時、乗務員が「今、九州に台風が来ているけれど、これが日本では3つ目の台風だそうですね」と言う。私は「3つなんてものじゃないでしょう」と言ったものの、17日間家を空けていたので、これが>幾つ目の台風かよくわからない。そして帰宅した日の午後から夜にかけては台風のニュースばかりである。  台風の被害が大きい時ほど、黙っている人たちがいる。それは「ダムは要らない。川は自然の姿を保て」と言い続けた人たちである。

 ダム、堤防、山の植林、などというものは、治水の基本であり、治水はいつの時代でも国家経営の条件だ。それを否定した人は、どういう責任を取るつもりなのか。そうした計画は政府がすべて大手ゼネコンとつながりを持つための1つの手段としか解釈せず、山も川も、自然に任せるのがいいのだ、などという「暴論」を載せた新聞や雑誌も多かった。そうしたことを書いた人たちと、載せたマスコミは、こういう際にこそ、発言に責任を負うべきだろう。

 もちろんダムも堤防もむだは厳しく省かねばならない。しかし必要な個所には新設も補修もやらねばならない。当然のことだ。ダムは認めるか認めないかのどちらかだ、などという思考ほど幼稚で困るものはない。作ったダムは長く使えるように後の手入れも続けねばならない。放置しておいて「ほら、ダムってこんなにも保たないものなんだ」という言い方くらい、納税者をコケにしているものはない。原発にも火力発電にも、それぞれに問題がある時に、水力発電所は、貴重なクリーン・エネルギーあるはずだ。

 17日間のアフリカ旅行の間に、ブルキナファソでもマダガスカルでも、何度も停電があった。(ある)いはついている電灯がすっと暗くなる。電圧が安定していないのである。  家に帰ると嵐だった。それでも東京の電気の明るさは微動だにしない。この事実に少しも感動もせず感謝もしない日本人が、私は不気味である。

 学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給されていた。一晩のことに何でそんなに甘やかせねばならないか私はわからない。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当たり前だ。

それがいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避難するだけの個人の才覚の訓練が要る。  お弁当なども行政は配る必要はない。天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、分で歩けない老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世界の当然だ。台風は教育のチャンスでもあるのに、それを少しも利用していない。

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曽野綾子「被災者は甘えるな」

台風 教育のチャンス 利用を  曽野綾子(2004/10/22 産経新聞)


学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給されていた。
一晩のことに何でそんなに甘やかさねばならないか私はわからない。
避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当たり前だ。
それがいやなら、早めに毛布や蒲団を背負って避難するだけの個人の才覚の訓練が要る。

お弁当なども行政は配る必要はない。
天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で歩けない老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世界の当然だ。

http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-174.html


709 :M7.74 :04/10/28 01:09:26 ID:EDL11owu

台風で学校に避難した人への毛布の支給は甘やかしだ
弁当も配る必要はない
天気予報をみて自分で持って来るのが当然だ
台風は教育のチャンスだから不自由を体験しろ

不幸にあって困っている人にこれかよ
曽野って狂ってんな


710 :M7.74 :04/10/28 01:25:32 ID:J0VNbtqK

しかも他の家の18歳には強制労働をさせようとしていたのにね。


804 :M7.74 :04/10/29 00:21:00 ID:plSGeWkT

台風で学校に避難した人への毛布の支給は甘やかしだ
弁当も配る必要はない
天気予報をみて自分で持って来るのが当然だ
台風は教育のチャンスだから不自由を体験しろ

困っている人にムチうつ
曽野ってマジ冷酷だな


713 :M7.74 :04/10/28 02:02:53 ID:nMICSvZ0

・他人には厳しく、でも自分には優しく

・強きを助け、弱きをくじく

これが曽野の2大ポリシーね。

747 :M7.74 :04/10/28 11:41:51 ID:4KJcltbg

台風の通り道に住んでるけど、瓦が飛ばないように瓦止めしたりの可能な対策はとってるよ。でも巨大台風の前に人力がどこまで敵うというんだ。避難する時だって、できれば食料家財道具一式持って逃げたいよ。でも避難所だってスペース限られるんだから、荷物が他人の迷惑になることを考えないわけにいかないし、駐車場の関係で車で避難できないことだってある。

車で避難できる人ばかりじゃないしね。年寄りに蒲団を担いで歩けというのか?
この人は実態を全然知らないね。

984 :M7.74 :04/10/30 02:17:47 ID:JeE2BsjS
地震の被災地で、勝手に火をおこすことの危険性について、このオバハンは考えたこともないのであろう。自分さえ飯が食えたらいいのだ。

大火になった、阪神のときの教訓は、このオバハンのどこにも見あたらない。
いいか、一帯は「禁煙」なんだよ、「禁煙」
河原でキャンプしてんじゃないんだよ! ボケババ!

986 :M7.74 :04/10/30 02:32:08 ID:ELkrp0dr
>「水はお米の量の1・5倍を入れれば間違いなく炊けることを多くの人が知らないのである。」

自分以外は全員馬鹿だと思ってんだな。おめでたい人だ。

988 :M7.74 :04/10/30 03:00:30 ID:yDO/dJ/K

こんなのが居るから世の中の女はマンコさえ開いてれば良いと思われるんだよな

http://kyoto.cool.ne.jp/sono001/archives/hisaisha.htm

[こんにちは]

この自称作家様の老婆はいつも自分だけがぬくぬくと別荘なんか持って寝言を書き散らしての甘えた生活をしているくせに、やれアフリカではだの、被災者や今の日本人は甘えているだのとぬけぬけと言ってくれています。自分の姿を省みるということがない、いわゆる自己愛性人格障害の持ち主のようです。こういう人物が保守かと思われると実に情けない気がします。
06/10 13:45 By:方向 URL


________________________________________

[蛇足ですが、、]

曽野綾子『最高に笑える人生』

あげたい人と受けたい人の間だけで行われれば何の問題もないのに、臓器を取られたくない人たちは長い間その邪魔をし続けた(臓器移植問題)。

民主的に選ばれた議会の決定を拒否し、お金も時間もかかる投票をやり直す住民投票は、選挙制度を拒否するものだと思う(吉野川河口堰問題)。

人間の幸福や死とは何か、私たちの時代の「現実」とは何かを、旅と思索を続ける作家が、率直に語るエッセイ集。

いやはや迷言自慢・暴言自慢の吾人ですね。

02/01 13:54 By:労働者 URL


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[これだから笹川財団会長は・・・]

曽野先生トバしてますねー(笑)

しかし、冷静に考えれば寝袋ならともかく、蒲団と毛布を背負って避難所に行くということは、どう考えてもヘンですよ。(最悪暴風雨のなか背負っていけとでもいうんでしょうか?)むしろ自分の蒲団や毛布を使用したらKY扱いされそうです。

それから、「食料くらい用意せよ」といいますが、まあ一理あるとしても、だいたい至急避難するように言われるわけですから、着の身着のままで普通は避難するものだと思いますが、どうなんでしょう?

曽野綾子、上坂冬子、金美齢、(クライン孝子、マークス寿子なども?)あたりのオバさん連中は、上に媚びて下を見下す意識だけは強いようですね。
01/31 21:39 By:凡人69号 URL

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[]
労働者さんへ

>このおばさんは党員労働者が勝利したのはおかしい・資本主義社会
>なんだから差別されて当然と書いた。

今までこのおばさんの家永裁判や集団自決訴訟での権力べったりな証言ぐらいしか知りませんでしたが、これもひどいですね。 まあ、このおばさんには自らが被災した時に配給を受けないで新聞紙にくるまりながら過ごすそうですから、ぜひ、有言実行して欲しいものです。


01/26 08:36 By:やっしゃん URL
________________________________________

[いやー酷いね]

このおばさん、ハッキリいって嫌い。感覚が非道すぎて。反動派(保守派だとまともな保守派がかわいそう)のお仲間を弁護し、少数派意見・反動派へ反論する言動についてはバッシングする。

大企業で働く共産党員労働者が経営者から差別を受けたことに対して党員労働者が起こした裁判で、党員労働者側が勝訴したとき、このおばさんは党員労働者が勝利したのはおかしい・資本主義社会なんだから差別されて当然と書いた。

キリスト教を信仰する自衛官が殉職した時、遺族の意思に反し当局が勝手に護国神社に合祀したことに対する裁判では、当局の肩をもち 裁判を起こすのはおかしい・私なら訴えないといったそうだ。

暴言を数々言ってきた吾人である。 で、今回の妄言

 「早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避難するだけの個人の才覚の訓練が要る。
 お弁当なども行政は配る必要はない。天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で歩けない老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世界の当然だ。」

アメリカで貧民層がすむ地域をハリケーンが襲い当局の不手際もあり被害が拡大したことに対する批判の声が上がった時、ブッシュJrとお仲間たちも似たようなこと言っていましたね。何で早く避難しなかったのか!とね。

おばさん・おばさんの仲間たちは、よっぽど堅固なところに済み・非常食やアウトドア調理器具をたくさん持ち・各種道具をたくさんつめる立派な交通手段をもっているかもしれないが、一般庶民はできっこない。布団だの、食料だの、調理器具だの抱えて出ることのできる人間なぞ極々一部。

ああ非常識な連中とつきあっているだけあって貧困な思想。非常識な連中? 3K文化人とかの手合いだよ。
01/25 14:04 By:労働者 URL

http://dj19.blog86.fc2.com/?mode=m&no=174&m2=res&page=0

[]
この人が何者かは知りませんが、

この人はこのことを被災者の前でいうことができるのでしょうか?

言えるとしたら、とんでもないひとです。

01/18 02:06 By:軽く流してください URL

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[]
曽野綾子さんはいったいいつの時代の人なんだか。歳喰ってボケちゃってんのか?と思ったんですが、そうじゃないようですねw

なんで戦中の日本や発展途上国よりマシだ的なところで思考停止しちゃうんでしょう。

この人はワーキングプアの問題なんかでも「甘えるな」「鍛え方が足りない」と権力者側からの一喝で済ませ、結局、今起きてる問題をどうすればいいのかがさっぱり見えてきませんね。

01/15 22:41 By:やっしゃん URL

________________________________________

[せこい]

何かと古い左翼批判にもっていくせこいメンタリティ

本人無意識なんだろうけど、避難者への見下し目線が沖縄の人たちに対するものと似ているような気がしますね。

余生をアフリカで過ごしてくれるなら尊敬しまくりますが。
たかだか17日間の大名旅行で何がわかるんだか...
01/14 19:51 By:ホドロフスキ URL

[こんにちは]

きっとご本人は、どんな台風や地震に襲われても大丈夫な要塞のようなお家にお住みなのでしょうね。
しかし、この人はいつもアフリカだとかの話を引き合いに出しますが、それって単に自分の言いたいことを正当化するために、他人の不幸をだしにしているにすぎないように見えますね。
01/14 17:13 By:かつ URL

http://dj19.blog86.fc2.com/?mode=m&no=174&m2=res&page=1


305 :吾輩は名無しである :2011/03/07(月) 23:44:11.49

桜井よしこと曽野綾子、どっちが偉いか?いや馬鹿か?いや厚かましいか?
おばはんは凄いよ。恥ずかしげもなくってのは、おばはんの特権だ。

308 :吾輩は名無しである :2011/03/08(火) 04:12:41.62

男は、自分の程度が認識できる。受験戦争や、会社での競争によって。
しかし女は違う。だから勘違いする。もし安倍が世襲議員でなくて例えば三菱か住友で会社員になったとすると、まず成蹊というコンプレックスから脱却するのに苦労する。その苦労でもまれて脱落するかも知れない
(ご承知のように超大企業では馬鹿にされる)、あるいは、実績で勝ち抜くかも知れない(まれだがね)。

ところが女は、競争社会にいない。聖心やハワイ大学(たしか桜井)でコンプレックスも持たずオバマとか小泉とか偉そうに評論する。おいおい、男がそんなこと井戸端会議で言うのは良いが、意見を公表してみろよ。お前ごときがよく言うよと袋叩きに会うだろう。

馬鹿女はいいよなあ。ノーテンキで。
アーメン、ラーメン、ああ、ハワイ。


309 :吾輩は名無しである :2011/03/08(火) 04:18:16.42

まあ、コネでないと成蹊では三菱、住友には入れないがね。聖心は、受験さえすれば、特に曽野の当時は誰でも入れた。何故、曽野がお茶ノ水や、津田や、東京女子大に行かなかったか?合格しないからだよ。その程度で書ける評論だ。オバマが、とか小泉がだとか。偉そうに。


175 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 22:04:05.61

世間知らずの駄文を書いています。


273 :吾輩は名無しである :2011/03/05(土) 09:58:34.88

今朝のNHKのTVで曽野綾子氏が出ていた。またベストセラーを出したらしい。
老人の生き方に関するものらしい。

今の老人は甘やかされ過ぎている。そのことは老人のためにならない。
老人は自立せよ、老人も死ぬまで働け等々、なかなか辛口の提言を書いた著作のようだ。

 曽野氏の提言を受け入れることで老人は何を得るか?
何よりも自由が得られるでしょう、と曽野氏は言う。 自由こそ至高のものだと曽野氏は考えて居られる。

83 :吾輩は名無しである :2011/02/13(日) 19:03:52

こういう年をとっただけで大人になったと勘違いした我侭な子供を甘やかしてきたから今の世の中がある

84 :吾輩は名無しである :2011/02/13(日) 21:59:14

息子さんも軍隊に行く年でないし、曽野さんにとって徴兵は自分達と何の関係もない。
そういう身軽な気分で発言されているんだね。


85 :吾輩は名無しである :2011/02/13(日) 22:17:31

要するにこの人絶望的に頭が悪いんでしょ。

13 :吾輩は名無しである :2011/02/07(月) 15:38:34

ボケ老人は、絶対本人がボケたって言わないからな
酔っ払いが酔っていないと言い張るのと同じで

高度な知性や教養があるのなら、自らの老いを多少とも自覚しながら、偶に僭称、自嘲でもしながら言う方がまだ説得力もあるだろう

だがしかし、この婆は常に上から目線の説教のみ
それは「永遠のサンケイライター」でのみ許されることw

29 :吾輩は名無しである :2011/02/08(火) 19:14:30

ともかく偉そうな婆だなあ。何様なんだこいつ。たかが聖心女子大程度の低偏差値で、加えて迷信婆だぜい。

ああ、マリア様、私をいじめる悪人に罰を加えてください。
ローマ法王様、お救いください。ガリレオが天動説を唱えたように、私を誹謗中傷する馬鹿たちは愚かです。アーメン。


39 :(*´ェ`*)鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ :2011/02/09(水) 04:30:31

曾野綾子って、実際はアンチクリストだよな。発現内容に逆の意味があると見透かされる程度に底浅い。それは、傲慢の罪でさえある。
 ある行為を禁止したり、社会や人格の在り方を見下したりする行為は、その逆に拠って世界の秩序が保たれる現実を見据えなくては無意味。

  俺は、キリスト教はおもしろく思わないが、キリスト・イエスの価値は認めるに吝かでないよ。


42 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 07:54:39

聖心女子大卒の、衆に優れた秀才だと思っているのだよ。
自分以外には気づかない素晴らしい言葉を述べていると自分自身で陶酔しているのだよ。


173 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 16:56:11.33

きみたちってどうして曽野先生の話題にそんなに夢中になっちゃうの?
そんなに好きになるもんかねえ、あんな汚ねえばあさんを・・・

43 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 09:34:35

「 農業を圧迫する野獣に対して政府は無能である。私が神奈川県で畑をしている土地でも、まず鳥害、ついでウサギやタヌキにやられている。うちの天ブクロの中で、ハクビシンだかタヌキだかが4匹も子を産んだ。皆ほんとうだ。

イノシシ、シカ、カモシカは、農業林業の敵である。

しかし一番恐ろしいのはサルである。網をかけても有刺鉄線でも防げない。網をかけても目の間から手を伸ばし、明日が食べごろという豆を採ってしまう。

だからほんとうの山間部の人は野菜など作れない。サルが食べるために野菜を作ってやることはないから、スーパーまで買い出しに行く。

 これはやはり政治が政策を放置しているからだ。」
(「カラスが撃てない」 より)

44 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 09:44:07

『これはやはり政治が政策を放置しているからだ。
山の一定区域は動物の聖域。しかし町や耕作地帯は人間のものだから、断じて排除するという姿勢が要る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

何が何でも殺すのはかわいそうという人は、思考が途中で切れている。

そういう人たちがすべて完全な菜食主義者なら私は納得するが、トンカツやヤキトリやハンバーガーは平気だとしたらいい加減なものだ。』
(「カラスを撃てない」より)


45 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 11:30:32

『こうした現象は、日本人全体の国防思想と関係がある。「平和を願えば平和になる」という甘い言葉の信憑性が最近やっと崩れた。多くの人が、二度と再び戦争の悲惨を繰り返したくないから、死んだ肉親や友の魂がいる靖国に参るのに、それをわからない外国の政府があることを私たちは学んだ。

それらの国は今でも地雷を商売として売っており、私はアフリカの多くの国で、●●製××国製(中国など)の地雷でやられた、という多くの足を失った無辜の人達に会っている。
(曽野綾子「カラスを撃てない」より)

50 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 13:57:22

>>45
『 日本は武器を輸出していない。しかも人道上、そうした国々(中国ほか)が金もうけのために輸出した地雷の除去という後始末をしている。
可能かどうかは別として、ゴミと同じで、地雷も生産国が除去費用を負担するのが当然だ。

襲ってくるカラスさえ銃で撃てない。皆が平和を望んでいるはずだから、という未熟な
思い込みが、筋の通らない無責任な生き方の人間を(日本では)作っているのである。』
(曽野綾子「カラスを撃てない」より)

53 :死神 :2011/02/09(水) 14:12:21

★ 対人地雷生産国  (参考) 16ヶ国、

中国、ベトナム、北朝鮮、韓国、
インド、パキスタン、ミャンマー、シンガポール、
トルコ、イラン、イラク、エジプト、
ロシア、ユーゴスラビア、USA,キューバ、

68 :吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 09:12:39

>>51
>地雷も生産国が除去費用を負担するのが当然だ。

これは当然ですよ。曽野さんがこの問題にもっと踏み込んで中国や米国など
なにかと皆が遠慮してしまいそうな大国を批判して頂ければよかったんですが、そこまでは行かなかったようですね。

55 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 14:28:25

カラスへの私怨から地雷にもっていく手法は「漢字」もろくに読めない粗野先生ならではです。 凡人には真似ができません。
また、こんな本買って読むのは、地雷を踏まされるともいいます。

56 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 14:53:53

カラスにムキになっている平和な頭の曽野綾子


21 :吾輩は名無しである :2011/02/08(火) 11:16:16

曽野氏はカラスは害鳥だから殺せとか書いていたが、カラスは頭がいい。

映像で知ったのだが、公園の水道の栓を廻して水を出して飲む、お墓や祠のローソクを火がついていても怖がることなく盗む。ローソクを食うようだ。
火がついているから、カラスの運んだローソクが不審火の原因になることもある。

驚いたのは町の公園のすべり台ですべって遊ぶ。2,3羽が面白そうに遊んでいる風景にはびっくりした。 何回も繰り返してすべるから、これは遊び感覚だろう。それ以外の目的は考えられない。
ま、そういう可愛いカラスも人によっては大嫌いということか。

25 :(o`.´o)materialist ◆m0yPyqc5MQ :2011/02/08(火) 12:34:11

無用の用を死らぬパンチラばあさんは 藁貸し増すねぇ〜(笑)カラスは害虫害生物を食べてくれるのでその貢献度はパンチラばあさんの非では無い〜(笑)
一度パンチラばあさんは脳溢血で倒れ要介護人でもなられては道です〜(笑)

48 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 13:13:42

あ、いや粗野先生がブンガクシャであることを忘れていました

人はいかにして、カラスに襲われた恐怖から電波人間に変容するのかを書き現した本なのですね

54 :イラ子さんの日記 :2011/02/09(水) 14:21:46

カラス『かぁ〜、 かぁ〜、・・・・・』

イラ子『あ〜、うるさいカラスだ! おどかしてやる!』
 
ズド〜ン! ズド〜ン!・・・

カラス『きゃぁ〜、きゃぁ〜・・・・』

67 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 22:49:16

★ ヒス子の日記

カラス『 かぁ〜 かぁ〜・・・・』

ヒス子『うるさい! カラスだ、銃でおどかしてやる!』

ズドン! ズドン! ・・・

ね こ『 にゃ〜ん、にゃ〜ん・・・・』

ヒス子『しまった! 弾がそれて、お隣りのミケにあたった!』

57 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 15:08:02

アフリカに行く

貧しい人を見る

日本でカラスにムキになる

撃ち殺さないのは日本が平和ボケしているからだ!


頭が平和なのは曽野さんあなたですw


60 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 18:41:10

デイビッドロックフェラーと曽野綾子って似ていると思わない?
悪人の顔って似るのかな。


61 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 18:43:17

カラスと喧嘩する曽野綾子


62 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 18:44:01

カラスがライバルの曽野綾子


65 :吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 21:58:08

カラスとガチバトル綾子


69 :吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 11:52:49

カラスに八つ当たりするだけで止まる曽野綾子


71 :(o`.´o)materialist ◆m0yPyqc5MQ :2011/02/10(木) 18:13:46

68
刺すればカラスがライバルのパンチラばあさんは原爆被爆者の補償は米国が負担するのが当然だと逝っておるので消化ねぇ〜(笑)
権力主義者パンチラばあさんは藁貸し増すねぇ〜(笑)


73 :吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 22:23:09

聖心のお口だけ才女に、それがどれくらいの意味があるのか、
おしえていただきたいものです

カラスに銃を向け、2次方程式も解けない女に何ができる、
と言い返されるのがオチ

なんてことにならなければいいのですが


74 :吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 22:24:12

日本でカラスに銃を向ける平和ボケ女。


75 :吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 22:28:01

アメリカでカラスに銃を向けたら警官に射殺されるなw

104 :吾輩は名無しである :2011/02/17(木) 12:53:45

がんばってバカでなくなったら銀シャリ?

今は雑穀混ぜた方が高かったりするのだが、
貧乏人は麦を食え時代から進んでいないのね
さすが先生


113 :吾輩は名無しである :2011/02/18(金) 10:08:39

低学歴なのに(だからかも知れないが)知識批判(特に数学とか)や信仰を楯に差別的言辞を展開するからその反動で叩かれるんだよ。

116 :吾輩は名無しである :2011/02/18(金) 13:38:44

でも、微積は出来ないけどどうにかなる、というか必要ないと言って威張っているからね。あの年代で学卒なんて国立以外は大したことないよ。
旧帝大だって地帝の文学部(井上靖が最初に入った九大とか)なら無試験でパスという時代だよ。 団塊よりも上の奴らなんて話して見れば分かるけど実はゆとり以下の大馬鹿ぞろいなのさ。

119 :吾輩は名無しである :2011/02/18(金) 20:56:55

ああ、そうか本人の資質や文章にまったく関係ない大学がすばらしいだの美貌だのといってるのってそこいらの熟女モドキのミーハー需要程度の解釈でいいってわけか


126 :吾輩は名無しである :2011/02/19(土) 04:12:24

アーメン、ローマ法王さま、神の忠実な子羊たる私を貶める馬鹿たちを地獄に落としてください。そして神とキリストと聖霊は一体であること(三位一体)、ガリレオの天動説は間違っていること、ダーヴィンの進化論
はでたらめであること、ファティマにマリア様が降臨されて予言をなさったこと、を、この馬鹿たちに説明してやってください。

私は黄色い東洋人で東洋人の多くは仏教徒ですが、私は聖心女子大という偏差値は低いがお嬢さん学校を卒業しているカトリックのしもべです。お救いください、法皇さま。あなたは神の代理人なのですよね。

130 :吾輩は名無しである :2011/02/19(土) 07:44:08

夫婦揃って、まともに働いて来なかった人間だな。こいつらは。
そのくせ他人の労働問題に知ったかぶりで説教するのだから、こんな醜い老人でも天罰が当たらぬ程度の宗教なのだろうよ。 カトリックとやらはよ。

で、てめえが敬虔な信者ですなんてのはその宗教の信者以外には絶対に通用しないものなんだが、この馬鹿女はババアになるまでそんな事にすら気付いちゃいない。
ていうかカトリックに対する冒涜じゃねえのか?
あと、郵政関連の不祥事と非正規の切り捨てに対してちゃんと責任を取れっての。
世間に甘えるなよ糞女が。

131 :吾輩は名無しである :2011/02/19(土) 08:09:18

偉そうに振舞う女であることは確かだ。


135 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 00:43:18.22

綾子センセイは、「負」の働きです。
ヒキコモリの方が、何もしない分まだましですなw


136 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 00:52:22.54

曽野のヤバイところは当たり前の事を大威張りで書くのもそうだけど、
自称作家のくせに下調べしないで被災者とか失業者ディスるトコじゃね?

137 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 01:35:29.34

まあ昔の話だが、中越地震の時の被災者は甘えるなってのには腹が立ったね。
俺、たまたま現場にいたから余計にな。

138 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 02:29:05.01

甘えている人間ほど簡単に人に甘えるなって言うよ。


139 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 03:04:54.56

身に沁みてわかるんだろうなぁw


140 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 03:59:17.23

あっはっは、クリスチャンときたね。アーメン。


145 :吾輩は名無しである :2011/02/20(日) 20:30:49.07

馬鹿が偉そうにしているのが気に食わんということだよ。
クソ野のことだよ。お前はここで貶されてるのは不本意だろうが、でもな、お前は、いつも新聞などで人を傷つけてるのだよ。低偏差値のくせに。微分積分もできないくせに。クリスチャンが聞いてあきれる。馬鹿か。


170 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 11:16:03.55

『インドのヒンドゥ社会の最下層と言われる不可触民(ダーリッド)の子供たちのために、学校を建てる仕事をしていた時、私は南インドで不可蝕民の婦人たちと何度もつき合う機会があった。・・・・・・・

階級意識は複雑で人間的なものであった。差別は外部から見ると許し難いものと思われたが、一歩中に入ると、それは箱庭細工が無事に箱の形に納まった時のように、一種の確固たる安定をもたらすように見える場合もあった。

それに解決法というものは、いつも差し当たり身近にあるやり方で行われる。
差別を受ける意識を解消するには、自分より低い階級を意識の上で作ればいいのである。』

(曽野綾子「弱者が強者を駆逐する時代」より)

171 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 11:23:53.66

>>170
『「不可触民にも大きく分けて二種類あります。」 と一人のインド人がいった。
「どういうことです?」と私は尋ねた。

「不可蝕民には、上層と下層とがあるんです。・・・・・・

・・・・体を曲げて働くものが下層です。畑仕事とか、床の掃除とか・・・・

上層は、リキシャマンのように体をまっすぐ伸ばして働ける仕事です。」』

(曽野綾子「弱者が強者を駆逐する時代」より)

172 :吾輩は名無しである :2011/02/22(火) 12:26:10.55

『キリスト教徒は敬虔な信者でなくとても、最低の信仰さえ持っていれば、職業上の差別を持つのはおかしいと感じている。なぜなら、イエス自身は、当時、決して中流ではなく、むしろ社会の最下層に属していた大工の家に生まれて、その屈辱を体験しているはずだからである。それ故に神の目から見ると、あらゆる仕事はどれも全く大切なものとして、評価されているという意識があった。

 「しかし不可触民たちは、自分たちより明らかに下の階層があると感じられれば、それで安心するんです。』
(曽野綾子著「弱者が強者を駆逐する時代」より)

181 :吾輩は名無しである :2011/02/23(水) 15:35:46.93

『インドを訪問した時、不可蝕民の婦人たちが四百人近くも集まって、私たちを歓迎する「演芸大会」と開いてくれた時である。 そこでカトリック神父の招きで、ジプシーの婦人たちにも踊りの出番があった。・・
・・・・・・・・・・
ジプシーの踊り子たちが姿を現すと、大多数を占める不可蝕民の婦人たちはあきらかに侮蔑を含めた「あー」という声を一斉に洩らしたのである。』
(曽野綾子著「弱者が強者を駆逐する時代」)

182 :吾輩は名無しである :2011/02/23(水) 16:06:18.88

>>181
『階級制度に組み込まれ、そこに安住すると、一種の繭の中のサナギのように守られているという安定を覚えて、心理的に楽になる面があるらしいということを、日本人は理解しにくい。
もちろん同時に、そのような階級世界に閉ざされることの苦痛も残るはずである。
 次の段階として、人は誰でも苦痛からは逃れようとする。 不可蝕民の場合最下層と卑しめられる苦痛から逃れるには、より低い階層を作って最下層から 逃れればいいのである。
 
こうした一連の心理の操作は、一番自然な解決方法で、少なくとも、私はそれを非難する理由を見つけられなかった。』
(曽野綾子著「弱者が強者を駆逐する時代」)

185 :吾輩は名無しである :2011/02/24(木) 09:09:50.10

キリスト・・・・・人の下に人を作るのはいけません。

曽野綾子氏・・・・人は人の下に人を作ってしまうものです。

186 :吾輩は名無しである :2011/02/24(木) 09:16:28.68

>>182
人は自分より弱いものを作りたがる。それが”人間性”だから非難できない、
と曽野先生は言われる。

キリストは、その人間の弱さを意志の力で克服しなさい。そのための支えとして神の力を信じなさい。こう説くのですね?
曽野先生は神の力を否定されています。


192 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 00:19:50.02

『長い年月、人種問題はアメリカにとっても、アフリカ大陸にとっても、大きな摩擦の種であった。
その問題を正視するどころか、日本のマスゴミは、黒人と書くことさえ相手に対する侮辱だと感じていたところもあった。 だから「ちびくろサンポ」が一斉に絶版になっていたのである。』
(曽野綾子「弱者が強者を駆逐する時代」)

194 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 01:02:28.70

70過ぎてネトウヨと同レベルの曽野綾子。


195 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 02:58:25.77

偉そうに、よく言うよ。カトリックだからなあ。

神様、進化論は間違いですよね、天動説もね、十字軍はよく頑張りましたよね、マリア様はファティマだけでなく、東京にも降臨しないでしょうか。

この迷信ばばあ。

198 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 09:42:12.26

『人種的には人間はすべて平等なのだから、問題にすべきでないというが、それだけで済まない要素はある。
・・・・・・・・・・・・
私は何度か南アという国に行ったが、・・・・・その時、私が感じたのは、黒人系の南アの人とは、仕事も勉学も金儲けも信仰の行事も、何もかもいっしょにできるけれど、生活だけはむずかしい、ということだった。
・・・・・・同じ町や地区に共生すsることには大きな問題が伴うということである。』
(曽野綾子、「弱者が強者を駆逐する時代」)


199 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 09:59:13.98

『黒人の町は、アジア人や白人の町とは明らかに違いがあった、町の共用部分の掃除が悪いのである。それは一般にアフリカ大陸全体の特徴でもあった。
途上国の町の道路の汚さはしばしば絶望的な光景を見せた。』
(曽野綾子「弱者が強者を駆逐する時代」)

202 :吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 11:43:14.81

『アメリカの民主主義は、理念としてはいかなる個人も平等に独立していると考える。法を犯さない限り、考えることは自由である。
都会住まいの日本人も、選挙の時、誰に投票しようが家族や一族の支配を受けない。
しかしアフリカは違う。アラブも違う。
・・・・・・・・
完全な民主主義も個人の選択の自由もなのにが普通で、その場合は族長支配が政治を動かす。 一族の長が命令した人に、そのぶぞくの人たちすべてが投票するのが当然なのである。』
(曽野綾子「弱者が強者を駆逐する時代」)

209 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 12:26:59.55

人生経験が豊かになるとカラスと本気でケンカするようになるのかな。
それにしても普段他人様には自己責任だ政府に頼るななどとおっしゃっていた方なのだからカラスくらいは自分でブチ殺して欲しいものだ。

210 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 13:53:18.89

黒人とカラスが気に入らないだけでは?

214 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 21:02:14.47

>>210
どっちも「悪魔」とでもおもってんだろ、カソリックババアはw


211 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 15:42:48.01

狙いとしては過度なアファーマティブ・アクションに対する異議申し立てにあるわけなんだけど、言い方に芸がないから単なる差別的言辞や自慢話としか受け取られないの。
で、アメリカ社会に関しては家父長権を基盤とした部族的制約はなくても自立した諸個人によって形成された信徒団体が投票行動を左右している という“制約”をなぜか無視していますね。

単純に自由と民主主義という政治体制に適合しやすい文化基盤を白人が有しているというだけの話なんですね。

そりゃそうでしょう近代民主主義はキリスト教の世俗化の過程から生まれたんだから。

213 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 18:47:32.74

露悪主義による批判は論者の倫理的立場を際立たせるだけで 現実的な効力はないよ。
例えばこの間のCOP10のアフリカ諸国代表によるタカリ同然の利益要求に対して曽野のような主張をすれば話がまとまらない。

実際、欧米諸国の代表は呆れかえって帰国準備をし始めたわけだし。

自由と民主主義や公共性の概念は万国共通ではない、という限界性を明らかにしているだけですね、曽野さんのエッセイは。

でも、ユニバーサル・チャーチの御旗を掲げるカソリック(“普遍”という意味ね) の保守派論客がここで留まったら駄目ですね。


217 :吾輩は名無しである :2011/02/26(土) 22:50:21.11

曽野程度の単純な見解など、もはや文学として取り上げる必要のないものなのでイラン婆

文学とか芥川賞とか後から箔付けて有り難がらなければならないというのなら個人の自由の領域だがw


221 :吾輩は名無しである :2011/02/27(日) 09:45:50.84

『アラブ人やアフリカ人から見れば、アメリカ人、日本人、中国人などは、真の隣人には成りえないのであって、ましてや、自分たちの部族内のもめごとの解決になど、決して乗り出してほしくないのである。』
(「弱者が強者を駆逐する時代」より)


222 :吾輩は名無しである :2011/02/27(日) 09:59:15.42

『オバマの血の中に半分流れている黒人の血が、どのような効果をもたらすのか、 私は非常に興味がある。
日本の多くの人たちが、アメリカは多民族国家だから白い人、黒い人、黄色い人もいて、それらの肌の色はアメリカ人としてすべて組み込まれ、平等の意識の元に理性的な統一がなされるだろう、と思い込むかもしれない。しかしオバマの黒人としての自覚は、決してそんなに簡単なものではないだろう。』
(「弱者が強者を駆逐する時代、 オバマの血」 より)

281 :吾輩は名無しである :2011/03/05(土) 13:12:53.15

オバマの中にはせめぎ合う二つの感情があるはずだ。民主主義的平等の論理で割り切ろうとする合衆国の意識と、部族的文化を夜の闇のようになみなみと温かく湛えたブラックアフリカの血脈の生理とが、オバマの中に共存しているとすれば、この二つをうまく処理することは、実はかなり難しい問題なのだ。
(「弱者が強者を駆逐する、オバマの血」)


282 :吾輩は名無しである :2011/03/05(土) 13:20:54.80

『理詰めの個人主義と、すべてを部族の運命共同体で包み込もうとする
社会の論理とは、ほとんど相容れない方向性を持っている。どちらを取るかは、善悪の問題ではない。そうした対立が、オバマの中でどう動くかが問題なのである。
オバマ大統領に対する世界の期待は、かつてのアメリカの大統領が一人として持ちえなかった部族社会に対する理解、親近感、納得などをオバマがどう扱うか、固唾を飲んで見守っているという感じだ。』
(曽野綾子著「弱者が強者を駆逐する時代、オバマの血」)

223 :吾輩は名無しである :2011/02/28(月) 19:30:09.19

やたらにオバマ大統領の黒人性を強調したがるが、大統領になったら白も黒も黄色もなかろう。そんなレベルにとどまることなど許されないだろう。
「黒人としての自覚」などに踏み留まっていられたら、大統領として何もできない。
今のオバマは全ての人類全てに責任を感じないとならない立場だから。

226 :吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 01:41:32.94

>>222
さんざんアフリカ諸国を回ってきて世界を知ってるなんて豪語しているお方が
"黒人"ねぇ。アフリカ諸国の文化風習の差異並びにネイティブ言語のそれはヨーロッパ諸国のそれを凌駕するぞ?
一括りに黒人て100年前の知識しかねえんだな。現地行ってたくせに何を見てきたんだこいつは。

227 :吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 05:14:47.11

曽野ファンなんて馬鹿が本当にいるのだな。こんな思い込みの激しい
二次方程式も解けない低偏差値(聖心だぜ、聖心)の馬鹿ばばあを。

29 :吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 13:15:00.99

大統領って知恵遅れの疑いがある曽野が推し量れる立場じゃないよな。

230 :吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 18:26:45.22

ブッシュ大統領は知能遅れだったとか・・・


231 :吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 19:14:26.11

こいつオバマとか何とか偉そうに評論するが、いったい何様なんだ。低偏差値の迷信ばばああに過ぎないのに。


293 :吾輩は名無しである :2011/03/06(日) 20:25:41.04

エッセイだろうが、なんだろうが、 すぐに馬脚をあらわすアヤコセンセイ

塊という漢字読めなかったもんねぇw

294 :吾輩は名無しである :2011/03/06(日) 20:40:32.17

漢字の読みのお勉強「まず塊よりはじめよ」。うん?


369 :吾輩は名無しである :2011/03/13(日) 02:07:54.59

今度の災害については人々の行動について何と書くだろうか?


371 :吾輩は名無しである :2011/03/13(日) 02:30:40.27

被災したバカ老人たちが自衛隊を使って、とんでもない国費のムダ使いを
したというのが、彼女の意見だろうか。
多分、曽野さんならこう書くだろう。
『わたくしなら、津波の来るような地域には年をとったら住まない。云々』

仕方ないんだよね。曽野さんみたいな作家たちは、実際の現場に行って取材なんかろくにしていないから。人の苦しみが分かるわけない。


372 :吾輩は名無しである :2011/03/13(日) 03:03:38.65

371の通りだな。曽野は確実に思っているよ。なぜ被災するような海岸に、しかも逃げることも出来ないほど足腰の弱った老人が住むのかかと。甘えだ、国費の無駄遣いだと。そもそも小説家などという存在が無駄遣いということを認識しない低偏差値の馬鹿めが。こいつはいったい何様だ。


382 :吾輩は名無しである :2011/03/14(月) 15:12:15.33

災害地では、毛布が足りない、おむつが足りない、食料品が足りないと行政に訴える声があります。でもこれは甘えです。

 災害地は農村地帯に近いのです。農家へ買出しに行くことぐらいは誰でもできることです。 トラックが食料品を運ばなければ、足りない、足りないなどと被災者は言いますが、もっと自分達で動くべきでしょう。
アフリカでは、そんな甘えは通じません。

440 :吾輩は名無しである :2011/03/22(火) 10:13:43.68

今でてる週刊ポスト掲載のエッセイはすばらしいですね。
要は、地震が起きても「私は全く慌てなかった」(神奈川県にいた)。
なぜなら、として自分が用意していた備蓄の内容を長々と数え上げる。

で、「地震が近年眠りこけていた日本人の怠惰で甘やかされた精神を揺り動かしてくれれば・・・うんぬん」

441 :吾輩は名無しである :2011/03/22(火) 12:45:25.26

>>440
>眠りこけていた日本人の怠惰で甘やかされた精神・・・・・

曽野綾子がエッセーで繰り返し言い放つのが、この言葉だ。
まさか、今回の被害地に住んでいる寒村貧町の住民に向けて言っているのではあるまいね?
でも、石原都知事の「天罰」発言と同質のように聞ける。 

今回の2万有余の犠牲者を伴った天変地異は神の思し召しだったと言いたいのだろう。

444 :吾輩は名無しである :2011/03/22(火) 13:23:49.27

こんな事態になっても、日本に対してそれだけの嫌味を言える人の神経は異常。
大したものだ。 すごいものだ。 あきれたものだ。


445 :吾輩は名無しである :2011/03/22(火) 13:42:36.00

まじめな話、性格異常ですね。
こういう時に自分の備え並べ立てて得々と自慢する。
あげく見開き2ペ−ジのスペースで被災された方々への思いは何一つ述べられることが無い。
ただ、日本人は備えが甘かったという。じゃあ、この方はコンロだの水だの備蓄してるからいきなり津波が襲っても平気だというんだろうか。

読み取れるのはこの人の現代日本人への憎悪のようなものと、自己愛(自慢)のみ。


446 :吾輩は名無しである :2011/03/22(火) 16:31:53.97

そりゃ神奈川にいたら慌てないでしょうね。
子供に笑われるよホント。
震度7の地域にいた人が慌ててるように見えるのですか?
慌てる暇も無いですよw


463 :吾輩は名無しである :2011/03/23(水) 10:52:47.07

この人が書いたエッセー。今度の地震ぐらいで考え方が揺らぐことないだろう。

@ 大型台風被害について、「一晩くらいの事で何でそんなに避難者を甘やかすのか、避難するなら健常者は食糧寝具くらい自分で避難所に持って来るのが普通」 (某コラム)

A新潟県中越地震について、「避難所で救援物資を当てにして待っている避難者は甘え過ぎだ。避難する時に寝具を担いで逃げるのは当たり前。
自分ならガス漏れの心配のない所ですぐに火を熾して米を炊く。
必要なものが手元にないのなら、その辺で調達してくる才覚も必要だ」
 (某コラム)

B戦地に折鶴を贈る市民運動に対し「戦地に送るなら金を送った方が遥かに有用なのに、全く馬鹿げている」と批判。しかし戦地に募金や物資を送ることについても「甘やかすな」と批判している。

↑ ま、ざっとこんな調子だ。


470 :吾輩は名無しである :2011/03/24(木) 09:48:48.65

曽野綾子の学歴など何の関係もないと思うが、彼女は思い込みの激しい性格だな。
まず自己主張ありきだ。それから適当な根拠話を書く。その際に彼女の貴重な体験を多く語るから、何かとってもユニークは主張、エッセーになるんだ。
何冊かの彼女の書いたものを読むと、書いていることが論理的に破綻しているのは多いな。

471 :吾輩は名無しである :2011/03/24(木) 10:08:37.79

そうだね。女性的と言うと問題かもしれないけど、
なにか狭い世界で物事を判断してる、わるい意味で主婦の世界のような。
自分の体験の範囲、それと自分が接しえた範囲の人間の意見だけがベースになっていて、ぜんぜん勉強してない。

災害に際しても、自分のサハラの経験を振り回して豪寸も疑うことが無い。
新しい現実を認めない、今ある現実を見て物事を考えようとしないわけだ。


472 :吾輩は名無しである :2011/03/24(木) 10:32:02.75

齢を取ると小説的な文章を書くのが億劫になる。
というかもう書けなくなる。

しかし世間一般の話をどうのこうのは死ぬまで言える。
ただそれは自分の世界観・人間観で語るわけで、その世界観が薄っぺらで人間観には頷けないと思う人たちには聞くに耐えないものだ、となる。

それでも語る。聞くに耐えないという人たちはバカな人たちだから、と。


482 :吾輩は名無しである :2011/03/25(金) 20:17:43.58

2万9千人の死者と行方不明者が出た天災の被災者に対しても曽野綾子はあ〜だ、こ〜不愉快なコメントばかりだ。 被災者が聞いたら怒り以外の何物も感じないだろう。


483 :吾輩は名無しである :2011/03/25(金) 21:39:02.00

「地震が眠りこけていた日本人の怠惰で甘やかされていた精神を揺り動かしてくれれば、多くの死者の霊も少しも慰められるかと思うのである」

だそうだぜこの馬鹿ババァ。

484 :吾輩は名無しである :2011/03/25(金) 21:55:25.69

東北沿岸部をソドムとゴモラに比してんだよな、
このバーさんというかあの名誉白人の黄色いキリスト教徒ってのは。

497 :吾輩は名無しである :2011/03/26(土) 09:16:28.80

曽野さんの書く内容は非常識に思える。そのために卒業校の名前を傷つけているかもしれない。 ただ、それはそれだけのことだ。  注目すべきは、彼女のバックボーンになっているらしいカソリックの精神だ。
日本で最も純朴で老人が多く、なおかつ豊かでもない地方の大災害に対して、怠惰で甘やかされた精神を揺すったなどと、普通の常識的な日本人が言うだろうか?

おそらく、彼女はカソリック教徒だから言えるのではないか。彼女は神罰と感じているのだろう。
神の罰が首都圏や関西、九州をはずして、東北の田舎の最も貧しい地域に降ろされたのが、何とも不可解に思う。


501 :吾輩は名無しである :2011/03/26(土) 12:47:42.10

ポストのこの人の話を読んだけど震災直後なのに上から目線でワロタ予想通り過ぎる
自分がいかに非常事態に備えてたかの自慢だ


513 :吾輩は名無しである :2011/03/27(日) 07:38:20.46

私は曽野の人格を問題にしているのではない。曽野程度の頭脳の持ち主が偉そうに説教を垂れるのをちゃんちゃらおかしいと笑っているのだ。こいつは馬鹿な迷信家だ。ミネラルウオーターを200本備蓄しているとか別荘は井戸水やら何やら小屋に備え十分などと無知蒙昧なことをほざいているのだ。聖心女子大卒の馬鹿が
だ。


552 :吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 04:18:26.26

曽野は言うよ。なぜ足腰立たぬ老人や、逃げる方向も分別できない知的障害者が、三陸海岸のような危険地帯に居住しているのだろう。自分ならそういうこととはしない。彼らには自己責任という概念がないのである。なるほど「虚名高い」 低偏差値、花嫁学校の出身で、迷信家だけある。アーメン。

555 :吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 08:49:53.73

ごく素朴に、キリスト教を文明とヒューマニズムをもたらす宗教だとする人たちには、
神なき国日本を叱咤する正義の女宣教師としてこのバーさんは映るのかも。

しかしどーもこのバーさんのキリスト教は偶像崇拝的、即ち土俗的民間宗教的キリスト教っぽいんで、
それでの日本土人啓蒙が、だからすんなりしているよーで、しかしめちゃ馬鹿げているよーで。(笑)

558 :吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 22:22:02.36

曽野はもういい加減脳内日本や脳内若者を罵倒するのは止めて欲しい。
今回の震災に関して金を出せとは言わない。それはどうせ他人の金だからだ。
しかし口は出すなと言いたい。

被災地で今週号のWILLを読んでそう思う。被災者ならびに現場の救助者の感情を逆撫ですることばかり言いやがって。

お前の自慢話で死んだ子が生き返るのか?お前の脳内世代論で流された故郷が戻ると言うのか?
無芸無能人格卑劣ならばせめて黙れと言いたい。そうお前の旦那が言ってた実直の精神だよ。

568 :吾輩は名無しである :2011/04/02(土) 01:28:02.03

今週のポスト読んだんだけどなんでこの人はこんな時に偉そうに説教するんだろう。
戦争を体験した世代は一日ですべてが変わるような経験してるから強い
戦後の世代はひ弱

そういう内容だった

この人の目には被災しながらがんばってる消防団員や現地の人、家族を亡くしても未来に向けて頑張ろうとしてる若い人なんて見えてないんだろうか。
同じように空襲を体験した田辺聖子さんはただ心を痛めてるだろうと思う。
この人は戦争や昔の苦労を語るけど、お嬢さんだしたかが知れてる。
この人は鈍感すぎる。


583 :吾輩は名無しである :2011/04/03(日) 00:13:02.43

自分自身を棚においたような言動はどんなに正しそうに見えても正当性は持ち得ない。
曾野自身がおおいに現代先進国文明に甘え、他人に甘え、けして反撃することの無いその手段を持たない者達に甘えている以上、 甘え云々の議論に彼女が参加する資格はないと思われるがね。
今あるものが明日もあると思っているのは曾野自身ではないかね。

20年前の論調と日本社会産業理解のまま、あらたに学習、取材することなく埋め草文章を書き垂れ流している。しかも自分は現実社会の取材や体験をしていると言いながらね。

北九州で生活保護を断られ餓死者が出た時にも曽野は日本には貧困など無い。
貧困とは今日食べるものがないことだ(これも曽野が勝手に決めた定義だ)と新聞に書いていた。

餓死者がたった一人だったとしてもその彼は日本人じゃなかったのかと問いたい。
震災以前にも年間3万人の自殺者が居たことについて曽野はどう考えるのか。非常時ではない平時の先進国でだ。 おそらく曽野はそんな基本的な常識すら知らない。知るつもりもないのだろう。

584 :吾輩は名無しである :2011/04/03(日) 00:35:50.97

責任逃れの言い訳用言集としては中々良い出来だね。曽野のエッセイって。
ブラック会社やネズミ講的組織の長が末端から苦情が来たときにそのまんま使えそうな用例が沢山ある。
あと、他人に説教したくてしたくて堪らないある種の人格異常者も好きそうだ。
循環論法大好き俺は偉い系の人とかさ。
まあ日本には一億二千万人も住んでいることだし、上記の傾向のある読者だけを集めても100万人くらいはいるんじゃねえの。


587 :吾輩は名無しである :2011/04/03(日) 14:16:53.25

曽野ファンには周知の事実ですが、彼女は裕福な家庭に生まれ、戦時中疎開していて空襲を受けた事実はありません。 また、日本財団、各種の天下り団体の審議会役員、郵政の社外取締役等々、金は貰うが責任は取らない地位を渡り歩き続けてきた 真性の穀潰しです。

彼女の小説でベストセラーになったり、文学的に価値あるものと認められた者が一作でもあったでしょうか?

エッセイだけですよ。エッセイ以外売れてません。 でも自称小説家です。

だから各種団体や政府関係者に寄生するしか彼女には生きる術がなかったと言えます。
才能が無いなら自分は小説家などと言わないでそれこそ介護でもレジ打ちでもして生きていくべきだったでしょう。 まるで文化人であるかのように振る舞い何らの仕事もせずに各種団体に寄生する日々。
曽野流にいうなら甘えです。

本人自身は日本社会に甘えまくって生き続けてきたのですよ。そして同胞の日本人に対して、それもとりわけ社会的弱者に対してのみ甘えるなと言い続けています。

また彼女の人生の中で一体何時どこで死んでもおかしくない状況があったのでしょうか?
こんな甘ったれに平和ボケだなどと言われる人間は石原慎太郎や一部の司法関係者を除いて日本人には一人も居ないと思っています。

588 :吾輩は名無しである :2011/04/03(日) 15:09:47.84

>>587
エッセイ売れてるんだから各種団体に寄生する必要はないんじゃない
曽野はなんとなく偉そうだから各種団体のほうが『顔』として欲しがるわけで曽野の偉そうな感じがどうやって形成されたかには興味あるな

桜井よし子あたりでも曽野の前にでると大人しくなっちゃいそうだな
今の日本女性で一番偉いんじゃないかw

590 :吾輩は名無しである :2011/04/03(日) 16:10:10.04

このババア、避難所で何十人も死んでいるって聞いても
「甘えていたから死んだんだ」
と言うだけだな。
ブタババアが。

600 :吾輩は名無しである :2011/04/04(月) 18:27:21.83

だいたい道徳のようなことで偉そうなことを臆面もなくしゃべるのは女だ。男は日常、競争社会にいるから、偉そうなことを言うと、

「えっ、 お前が?お前のようなぼんくらが?」って言われるが、女は、言われない。

高坂、桜井、曽野なんてのが、そうだ。男で言えば帝京卒で「うん、今の 世の中は、なってない」と言うようなものだ。

661 :(o`.´o)materialist ◆m0yPyqc5MQ :2011/04/10(日) 09:46:58.24

パンチラ綾子ばあさんがここまで高待遇の理由は、パンチラ綾子ばあさんが皇族お気に入りの作家だからと家るで症ね〜(笑)バチカンからの受賞もそれに起因しておると逝った漢字ですけれども〜(笑)

665 :吾輩は名無しである :2011/04/10(日) 18:09:58.67

このバカ子先生、産経でも読売でも文春でも全く同じ内容の駄文繰り返し書いてるだけなんだけど。
これで原稿料貰うことの後ろめたさはないのだろうか?
日本人は甘えている。
電気の無い所に民主主義はない。
若者はバカだ。
電気のないところでは族長主義しか残らない。
廃材を燃やせ(バカもここまで極まると笑えない。)

全部この内容の繰り返し、しかも上から目線。
まあこいつ発展途上国全部まとめて族長主義とか抜かしてるんだけど各国政治体制も文化も全部違うぜ?なんだよその族長主義ってさ。
言わせんなよ。恥ずかしい。

あと、甘ったれてるのは曽野自身ですからさっさとおくたばりくださるか一族まとめてお前の大好きなアフリカにでも引っ越して下さい。この非常時に一番要らん人種ですよ。バカ子先生は。

674 :吾輩は名無しである :2011/04/11(月) 01:48:48.72

そのまんま東が一定の票を取ったように、曽野のファンも一定量いるよ。世の中
さまざまだ。不思議なのは、エリートは曽野を馬鹿にしている。貧乏人は当然、曽野を嫌う。すると、曽野のファンというのは小金もちの中小、零細企業経営者ってところだな。知性のない、低学歴の。

でもつくづく思うが、こいつは本当にパーだな。
仕方がない、低学歴だもんな、しかも迷信ばばあだ。

677 :吾輩は名無しである :2011/04/11(月) 23:30:21.67

一瞬ですべてを失った人は、泥土に咲いた名も無い花にも微笑む。
しかし通りすがりの人の無関係な世間話にも激怒することがある。
それは何も大災害に遭った人だけの心には限らない。

このバーさん、本当に作家なの?
人の心への想像力が全く無いじゃないか。

「こんな時こそ平常心」なんてその人が言われたら、ババアだって容赦はしない、
こんなの死んだってかまわない、で言ったやつを思い切りぶんなぐる。


687 :吾輩は名無しである :2011/04/14(木) 21:13:10.12

アーメンと天皇、両立するから不思議。無茶苦茶だあな。こいつの頭脳。
そして台湾帰化人の金何とかという日本国粋気取りの婆と仲良し。

705 :吾輩は名無しである :2011/04/17(日) 04:59:54.54

つきあうと嫌味なばばあだろうな、身の程知らずというか、馬鹿のくせに勘違いして威張っているという意味で。聖心卒ということで美智子皇后となんだか親近感を持ち、それで自分が上流になったつもりで、しかしながら競艇屋の一族(出身は最低)と交際があり、いやはやアイデンティティがはっきりしない。実は、しがないサラリーマンの娘の勘違い出世物語に過ぎないのだ。

710 :吾輩は名無しである :2011/04/17(日) 19:10:59.77

本人が上流と思えば上流だ。いまの若い人は美智子皇后が「粉屋の娘」と言っていじめられたことを知らないだろうな。当時は女官クラスにも旧華族の連中がいたのだ。その連中から見ると、聖心出ているだけの旧華族
ではない出身の美智子さんは粉屋の娘に過ぎなかったのだ。
しかしながら、いまや皇后は名門、同じ学校を出た曽野綾子も大得意。
あっはっは、アーメン。

713 :吾輩は名無しである :2011/04/18(月) 07:53:33.66

さっきラジオ聞いててワロタ
森本キャスターと曽野綾子が死にたいと思ってる被災者の年寄りは勝手に死ねばいいって言ってた
マジひでえwwww

糞野郎だな

722 :吾輩は名無しである :2011/04/18(月) 17:59:31.43

老いの才覚 (ベスト新書) (新書)

作中、それも冒頭に、災害が起きた時心構えの足りない人間が云々、と書いてあるが、その時点で読む気をなくした。
余震の間に家財道具を取りに戻る?
壊れた家、それも他所様の家の端材で炊き出しをする?
この方が「そうしたい」「そう心がけるべきである」 と思っていることは大変危険であり、
後者では正直に言って犯罪ではないか。
緊急時だから無断もちょっとしたことも許されるだとか、 この人こそエゴの塊だろう。
才覚などという言葉を使う資格はない。


740 : v(・x・)v鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2011/04/21(木) 00:35:31.94

日本財団ってのはなんなんだよ!?


741 :吾輩は名無しである :2011/04/21(木) 01:04:10.56

競艇博打屋だ。笹川良一という右翼もどきが作り、運輸官僚がたかり、 親父の死後は明治大学卒の息子が世襲し、いまだ存続している謎の準国家機関。現代の七不思議のひとつ。曽野は、からんでいる。

756 :吾輩は名無しである :2011/04/22(金) 15:46:19.71

http://www.asahi.com/national/update/0422/TKY201104220321.html

「沖縄ノート」訴訟 集団自決に軍関与を認めた判決確定

さあ曽野よ。さんざん沖縄の人々を乞食呼ばわりしてきた責任を取れよ。
まずは土下座行脚して来い。この国賊が。


776 :吾輩は名無しである :2011/04/24(日) 10:11:57.68

さっき曽野綾子がTBSサンデーモーニングで 「電気空気水が当たり前なのは奇跡であって、不自由にもっと馴れろ」 なんてほざいてやがったぞ。
原発支持してきたてめーが言うな。
一族全員、嫁入りした奴も生まれた直後の赤ん坊も実験動物として扱われたいのかあいつは

http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/book/1296970756/


【被災者は】曽野綾子は凄いぜ!【甘えるな】


1 :M7.74 :04/10/25 03:01:24 ID:ffSo6Qos

 学校その他に避難した人たちは、ラベルのついた新しい毛布を支給されていた。一晩のことに何でそんなに甘やかさねばならないか私はわからない。避難したら新聞紙を床に敷いて、何枚も重ね着をして眠って当たり前だ。それがいやなら、早めに毛布や蒲団(ふとん)を背負って避難するだけの個人の才覚の訓練が要る。
 お弁当なども行政は配る必要はない。天気予報を聞くことができるシステムがあるのだから、自分で歩けな
い老人や障害者は別として、避難する時、食料は自分で持って来るのが世界の当然だ。

これは地震じゃなくて、先日の超大型台風についてのコラムだけど……
中越地震に関しても、あまり違ったことを考えてるとは思えない。
流石曽野綾子、一味違うぜッ……!

7 :M7.74 :04/10/25 03:10:16 ID:Zp5+1DIV

血は争えんな(笑
流石は日本財団(旧船舶振興会)の会長。
実に御立派な発言だ。
あはは。

43 :M7.74 :04/10/25 07:01:33 ID:GeDMEeic

豪邸に住んでれば山奥の安普請の家なんか実感できないだろうよ。
過疎の崖っぷちのボロ家とか。
豪華リビングで快適にNHK見てれば世の中の苦しみも良く分かる。

45 :M7.74 :04/10/25 07:20:55 ID:yB17TX3f

この人、と学会の本でエッセイにツッコミ入れられてたんだよな。
自宅の屋根裏で狸が子供産んじゃって困って、親狸が留守の間に生まれたばかりの子狸を取り出して箱に入れて冬の寒空に一晩放置したらしい。 朝になったら子狸はみんな死んでたと。

親狸が連れていくと思っていたのに、場所がわからなかったようだ、最近の狸は野生の本能が薄れてなっとらん!!と怒ってたw

「可哀想なことをした。」とは思わないらしい。
おいおい、それ動物虐待ちゃうか? せめて移動できるようになるまで待ってやれよ、と。
なんかその時のアレな感じを思い出した。

57 :M7.74 :04/10/25 08:57:11 ID:xV3iWkAK

次の日は新聞紙にくるまって寝そうな低所得者から金を巻き上げてるのが何処のどいつだ。
神を信じ、権力を持つ者はかくも恐ろしい。
曽根綾子の場合、顔を見れば一目瞭然だろ?
いつも豪華な服着てるけどな悪人面が染みついてるのは隠せない。


66 :曽野「罔」子め! :04/10/25 09:55:23 ID:kHFHqt4O

曽野綾子には心底がっかりした。
かつてエッセイにて自分の眼病を真摯に語り、キリスト者としてそこに意義を発見した誠実な姿に非常な感銘を受けた者としては、激しい幻滅を感じざるを得ない。

そもそも国家は何のためにあるのか。
個人では出来ない生活防衛と安定を、集団の力と協力によって達成するためにある。
我々が、直接・間接に税金を払っているのもその為だし、日本国民として教育を受け、勤労しているのも、間接的には国を支える力となっているのだ。

確かに甘えは良くない。自力救済に努力すべきである。
わたしも食料・水・燃料・その他、備えはしている。

だが、今だ予測し得ない災害である地震において、自力救済が可能な若年者・壮年者でさえ、身内に障害者や老人がいれば、それがどれだけ負担になるか想像も出来ないのだろうか。

彼女が各国で、様々な活動を通して援助活動を行ってきたのはわかった。
だが、そこから何も学んでいないことも、これでわかった。
彼女は、なまじそうした経験があるために「驕り」の病にかかっているのだ。

「驕り」は、かくも人を「罔(くら)く」する。


714 :M7.74 :04/10/28 02:04:48 ID:G3xzgMac
>>712
何度も繰り返すが、こやつのおかしなところは、自分と身内だけは批判の対象からなぜかハズれていること。

946 :M7.74 :04/10/29 19:09:54 ID:V0Dqi+Wh

教育っていうのはね、災害などが起きない内にしておくものなの。

おきてから新聞にごちゃごちゃ書いても何にもならないだろうが。
曽野は、政府の「なんとか審議会」や、「かんとか委員会」の委員をいっぱいやっているんだから、そういう場で主張しておけばよかったの。

それをせずに、災害が起きてから新聞で偉そうに説教しても無駄なんだよ。
曽野は、いつも他人を馬鹿にしないと自我を保つことができない人間だ。

もう70過ぎで、あと何年も生きられないんだから、死ぬ前に自分の醜い姿を見つめなおしたらどうだ。


947 :M7.74 :04/10/29 19:14:34 ID:SNkinKhA

キリスト教やアラブ社会の安っぽい知識を振りかざしてイラク問題に首を突っ込むのが好きな曽野綾子。

しかし、もともと頭が悪いからつっこみどころ満載。
もともと頭が悪いからつっこみどころ満載。

ww

http://kyoto.cool.ne.jp/sono001/archives/hisaisha.htm

_____________


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コメント
 
01. 2011年4月30日 01:04:54: qSlbXVySMQ
コレね、長文です。が実に興味深い投稿です。ゆっくり拝読します。冒頭の「足るを知る」これは、仏教にもある事はご承知の筈ですね。この『足るを知る』の意味は、今あるもので満足する・・・位の意味です。ですから、やはり足りない物は買わないといけない。吉田 兼好の文章にもありますね。人間の生活に必要な物・・について、です。衣・食・住・と医・です。現在手元にありませんから、何時ごろの年代に生きられた方か、不勉強です。が、現代は、ここに情報が欠かせなくなりました。兼好の時代の情報は、どのようだったか?文面からして、他人の皮肉が多いんですが。ここに登場する面々はおおよそ見当が付く。上坂冬美だったか、亡くなったと聞く。興味もない。が、そこに漫画家がいた。天皇論とか沖縄論、昔は渡辺昇一も出てた。『空気の研究』だったか、名前があった。一度読んだがサッパリわからん。イザヤ・ベンダサンがニックネームと聞く。又、笹川の娘が曽野綾子です。実名は度忘れ。地元S会**病院に笹川財団より寄付金10億だったと記憶。事務長が、同期と来る。名士との付き合い多し。同窓会にて承知。陰湿だな。ヤメにする。恩にもなった。迷惑もかけたから・・。50も過ぎると人生の結果は出るものですね。サッパリしない気分です。やはり哀しい。旧友だったから・・・。

02. 2011年7月08日 19:30:51: MiKEdq2F3Q

 「エリート」の低学力           


 暴れる生徒の要因として、九九や分数でつまずいた、読み書きができないなどの学力の問題が明らかになってきた。しかし「成績のいい子」の低学力も問題になっている。高校、大学を卒業していざ職場に入ったら、使い物にならないという声が渦巻いている。「勉強ができない子」とせりあう基準ではなく、社会的な基準、昔の基準から見たら、いまの「できる子」も低学力なのである。

 山口県庁に東大出身がいるが、用地交渉などの能力がなく出世コースを外れていたりで、採用の際に学閥は当てにならないといわれている。北九州の製鉄などでも新卒者の特徴として、マニュアルしかわからず応用がきかない者が増えているといわれる。医療の世界でも、マニュアルに当てはめるだけで、患者の実際を全体として把握して対処できず、応用がきかない若い医者が増えているという。

 官僚や大企業のエリートがハーバード大学など外国に留学するが、外国人と対話ができずに部屋にこもっているのが多いという。英語はしゃべれても、しゃべる中身、問題意識が乏しいのである。下関市役所の部長に天下りしてくる30歳前後の中央省庁の役人たちも、対話力の欠如などで破たんする例がある。医学部に生物を習っていない学生が入っていたり、経済学部に数学のわからぬ学生が入っていたりする。大学では、学生の低学力が深刻な問題になっている。頂上が低くなっていることが裾野の低学力を広げているのだ。

 20年ほど前までは、日本の教育は世界1のレベルといわれてきた。400年ほど前にザビエルが日本に布教に来たときも、「日本人の知的レベルは高いので優秀な宣教師を送れ」と本国に書き送ったといわれる。この20年あまりの教育改革で、「優秀なエリート作りのためにバカは切り捨てる」と漢字の読めない首相などが旗をふってきたが実際は優秀なものをなくすものであった。無惨な低学力、バカ民族づくりがされてきたのである。これは民族の危機であり、教育の立て直しは民族の未来をかけた大問題である。このような学校の変貌が隠されてきたが、広く社会的な世論にすることが教育立て直しの出発点である。

http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/sogekihei%20eri-tonoteigakuryoku.html


03. 中川隆 2011年7月10日 19:29:09: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

ブランド人間は一番質が悪い


世間知らずな医者の言動(患者不在の医療)

投稿者 石・意志・医師 日時 2005 年 5 月 20 日 21:36:10: vqoGwQF.xu/J6

現在、ドクターハラスメント(ドクハラ)という医者にとっては耳の痛い言葉が浸透しつつあります。

“ドクハラ”とは、患者に対する医者の配慮のない言動の事です。

“ドクハラ”を起こす医者にはそれなりの背景があるようです。


医局は非常に閉鎖された社会ですから、一般常識や社会的倫理観を学ばないまま、医者として独り立ちしてしまうケースが多々あります。

医者の多くは過酷な受験戦争を勝ち抜き、勝利者のようなプライドを持っている人も多いです。

まだ、臨床経験も、医者としての技能もなくても、「研修医」として患者と接する際に「先生」と呼ばれ、信頼と尊敬の態度をとられると、たちまち勘違いする人も多いようです。

その様な医者は、例えば患者が、自分の症状を鑑みて「この病気だと思う」と、自己診断を口にすると、突然逆上し


「なら、ここに来る必要はない」

「他の病院へ行け」


などと暴言を吐いたりします。

これは、医者としてのプライドを傷つけられたと感じ、


「素人のくせに、勝手に医者の領分を侵すな!診てやっているんだぞ!」


という気持ちが働くからに他なりません。

形だけは「インフォームドコンセント」を行っても、自分の勧める治療法に患者が難色をしめすと、


「どうなっても知らないよ」

「今、手術しないと死ぬよ」


と、脅かしめいた事を言う医者もいます。まして、他の病院に移りたいと患者が言うと、


「カルテや検査データは渡せない」

「そこで死ぬ気なの?」


と捨て台詞めいた事を言う医者もいます。これは、病院経営を第一に考える医者が、“お客”をとられたと思うから発せられる言葉です。

大量に処方された薬の種類のそれぞれの効能を聞くと、


「俺が信用できないのか?」


と怒鳴られた患者もいます。診てもらっている立場の患者は萎縮してしまい何もいえないこともあるでしょう。

また、大学病院の産婦人科で、患者の許可も無く、主治医が研修医に「今後の研究のため」と称して局部の写真を撮らせたり、不必要な内診をし、女性患者に多大な心的外傷を負わせたという事もあります。


こういった“ドクハラ”を追求すると、たいてい病院側は、医者の言葉がいたらなかったとしたら、多忙で疲れているせいだと弁解します。


確かに外来を一日に数十人もの患者を診る医師もいます。しかし、患者は体が弱っている弱者です。体だけではなく、胸の中も不安でいっぱいです。
そんな弱みに付け込んで、嫌味を言ったり、暴言を吐き、不安を煽る言動は許しがたいことです。


現在、医師免許を持っている医者の倫理観、道徳観を今から変えるのは難しいのが現状です。

医者の意識を改革するには、医者になる前、つまり医大に入学する学生を人間性という視点でシャッフルすべきだといえるでしょう。

進路相談の際、偏差値が高いからといって、闇雲に医大を勧めない、また、受け入れる医大も人間性を重視するなどの対策が必要だといえるでしょう。


http://www.asyura2.com/0502/social1/msg/339.html


04. ふざけるな 2013年5月26日 08:13:20 : pjt3QT/lc2XcU : a6RZpkbJPA
三浦朱門は現在公益財団法人日本民謡協会理事長でもあるが、過去において沢山の失言。
そんな輩が何故民謡協会理事長なのか?

即刻辞めろ!!

民謡は歴史がとても古く我が国の宝・・

それなのに強姦発言はまじあり得ない。

こんな馬鹿が日本民謡協会理事長なら民謡そのものも腐っているといえよう。
今までの発言冗談では済まされない。
人として失格だよ!!!!!!!!


05. 2013年5月29日 14:38:56 : RorZLzk25U
「女性を強姦するのは、紳士として恥ずべきことだが、女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきことである」

こんなもん全然まし。
この人の著書「愛するべきか」「一度だけを生きる愛」では確か「性犯罪の大半は女が男に媚びるのが原因だ」「彼が男からオスになったとしても彼女の側から非難はできない」って言っていましたよ。
曽野綾子も曽野綾子で「女が夜道を歩くのが悪い」ってね。
まとめて死んでほしい。こいつらを持ち上げる日本、大丈夫なの?


06. 中川隆 2013年8月28日 20:58:38 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

偏差値の導入を主導した政治家は従順な国民作ること目指した(週刊ポスト) 

 本来、日本人はポテンシャルが高いはずなのに、なぜ日本の国はこれほど落ちぶれてしまったのか。この疑問をとくカギ「偏差値(学力偏差値)」について、大前研一氏が解説する。

 * * *

 偏差値とは、周知の通り、入学試験で合格可能性を示す数値である。1960年代から受験業界で学力成績の指標として使用されるようになった。しかし、実は偏差値は単なる学力の物差しではない。“お上”が明確な意図を持って導入したものである。私はかつて、偏差値導入を主導した政治家から話を聞いたことがある。

 ベトナム反戦・第二次反安保、学園民主化などで大学闘争が活発化して東大安田講堂事件(1968〜1969年)が起きた後、私が「日本はこのままいくと若い人たちが不満を募らせて、クーデターを起こすのではないか」と懸念を示したところ、その政治家は「大前さん、その心配はないですよ。国にもアメリカにも逆らわない従順な国民をつくるために『偏差値』を導入したのですから」と答えたのである。

 私は偏差値がそれほど重要な意味を持っているとは思っていなかったので非常に驚いたが、偏差値はそういう目的で導入された「システム」にほかならないのだ。

 偏差値によって、たしかに事前に効率よく学生を割り振って受験させることが可能になった。だが、学校側の工夫次第で、偏差値に関係なく才能ある学生を選ぶことは可能だ。実際、世界のほとんどの国には偏差値などなく、学生は自由に学校を選んで受験している。

 結局、日本で導入された偏差値は自分の「分際」「分限」「身のほど」をわきまえさせるための指標なのである。そして政府の狙い通り、偏差値によって自分のレベルを上から規定された若者たち(1950年代以降に生まれた人)の多くは、おのずと自分の“限界”を意識して、それ以上のアンビション(大志)や気概を持たなくなってしまったのではないか、と考えざるを得ないのである。
週刊ポスト2013年9月6日号


07. 2013年9月11日 09:34:37 : J4YfFlQzPI
ゆとり教育、、、詰め込み教育の弊害だろうか、
思考の停止した人間が多すぎる。

こんな言葉を嬉しげに連呼するような人間が教育について語るべきでないだろう。


08. 2014年3月06日 14:54:12 : jDUea84PZI
曽野綾子氏については、ずいぶんと
最近にぎわしていますが、
以前から、鼻の高さでは、軍をぬいていました。
それが、内閣にまで重宝がられても、なんら
見方が変わるものではありません。だから
キリスト教についても懐疑的な思いしかないです。

人をどうしてあのような見方をするのか、
最近になって、わかりましたよ。

バチカンがそうですからね。
バチカンの正体そのものですよ。


09. 中川隆 2014年9月11日 00:19:35 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

ゆとり教育を推進した三浦朱門や曽野綾子には理解できなかった事

「旦那芸」というかたち

観世流の謡と舞の稽古を始めて十七年になる。二年前に初能で『土蜘蛛』を披き、今年の六月には『羽衣』で二度目の能の舞台を踏んだ。次の能は再来年で、『敦盛』を舞う予定になっている。

私が専門とする合気道の基準を当てはめると、まず「三段」というあたりである。ようやく薄目が開いてきて、自分がそもそもどういう技芸を学んでいるのか、自分はなぜこの技芸の習得をめざしたのか、自分はこの芸能の「地図」のどのあたりに位置しているのか、いささか構えて言えば、芸能史におけるおのれの「歴史的役割」は何かということがようやくぼんやりわかってきたあたりである。

こういう自己認知のしかたを「マッピング」と呼ぶ。自分自身を含む風景を上空から鳥瞰的に見下ろしてみるということである。そうやってみてわかったことがある。それは私がしているのは「旦那芸」だということである。

こういう言い方を好まない人がいることはわかっている。けれども、芸能史をひもとくならば、「趣味の稽古事に夢中になって、そのために本業を忘れ、社交上若干の問題を抱えるようになった困った旦那たち」が芸能の力強い支援者であったという事実は否定できない。

落語には『寝床』という秀逸な「旦那芸」咄がある。

義太夫語りに夢中になって長屋の店子や店のものたちに辟易される旦那の話である。

私は志ん生の『寝床』が好きで、旦那の下手な義太夫を嫌って逃げ出す隣人たちの身勝手よりも、酒肴も甘味も用意しているのに誰も聴きに来てくれない旦那の孤独にむしろ親しみを覚えた。

こういうはた迷惑な素人衆の「裾野」があってこそ芸能の峰はその高度を獲得することができる。それはどのような領域においても変わらない。


私はもともと仏文学者である(今ではその名乗りも怪しいが)。私が仏文を志したのは、中学生高校生だった頃、日本の仏文学者たちが(桑原武夫や渡辺一夫や鈴木道彦が)「裾野の拡大」にずいぶん熱心だったからである。知的に背伸びしたがる子供たちに向かって「この世にはこれほど面白く刺激的な学問領域がある」ことを彼らは教えてくれた。そして、専門領域にとどまらず、政治についても哲学についても歴史についても、底知れぬ学殖を示し、しばしば社会的実践にも身を投じた。

「仏文学者というのは、こういうダイナミックな生き方をする人たちなのだ」と私は思い込み、その姿に惹きつけられた。おそらくは私と同じ理由で仏文を志した若者たちで、当時どこの大学でも仏文学科研究室は汗牛充棟の状を呈していた。

けれども、しばらくして、その仏文人気が急速に冷え込んだ。

他の歴史的理由もあるかも知れないが、私は(私をも含めた)専門家たちが「裾野の拡大」のための努力を止めてしまったからではないかと思っている。

「脱構築」だとか「ポストモダン」だとか、難解な専門用語を操り、俗衆の頭上で玄人同士にだけ通じる内輪話に興じているうちに、気がついたら仏文科には学生がぱたりと来なくなってしまっていた。わずか30年の間のことである。

その30年間に中学生や高校生のために「フランスの文学や思想や歴史を研究することがどれほど愉快なことか」を熱く説いて、次世代に自分たちの仕事を継承してくれるように懇望した学者はほとんどいなかった。今にして思うなら、その仕事を怠るべきではなかったのだ。


経験的に言って、一人の「まっとうな学者」を育てるためには、五十人の「できれば学者になりたかった中途半端な知識人」が必要である。

非人情な言い方に聞こえるだろうが、ほんとうだから仕方がない。一人の「まともな玄人」を育てるためには、その数十倍の「半玄人」が必要である。

別に、競争的環境に放り込んで「弱肉強食」で勝ち残らせたら質のよい個体が生き残るというような冷酷な話をしているわけではない。

「自分はついにその専門家になることはできなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難なものであり、どれほどの価値があるものかを身を以て知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かし、その専門知を深め、広め、次世代に繋げるためにはどうしても不可欠なのだということを申し上げているのである。

私は仏文学者として「裾野」の拡大に失敗した。そして、先人たちが明治初年から営々として築き上げてきた齢百年に及ばない年若い学問の命脈を断ってしまったことについてつよい責任を感じている。今、日本の大学には専門の仏文学者を育てるための教育環境がもう存在しない。個人的興味から海外留学してフランス文学研究の学位を取る人はこれからも出てくるだろうが、それはもう枯死した学統を蘇生させるという集団的責任を果すためではない。


能楽の場合でも事情は変わらない。一人の玄人を育てるためには、その数十倍、数百倍の「半玄人」が要る。それが絶えたときに、伝統も絶える。

私が「旦那」と呼ぶのは「裾野」として芸能に関与する人のことである。

余暇があれば能楽堂に足を運び、微醺を帯びれば低い声で謡い、折々着物を仕立て、機会があるごとに知り合いにチケットを配り、「能もなかなかよいものでしょう。どうです、謡と仕舞を習ってみちゃあ?」と誘いをかけ、自分の素人会の舞台が近づくと、「『お幕』と言った瞬間に最初の詞章を忘れた夢」を見ては冷や汗をかくような人間のことである。

私はそういう人間になりたいと思う。そういう人間が一定数存在しなければならないと思う。技芸の伝承は集団の営為だからである。

全員が玄人である必要はないし、全員が名人である必要もない。

玄人の芸を見て「たいしたものだ」と感服し、おのれの素人芸の不出来に恥じ入り、それゆえ熟達し洗練された技芸への欲望に灼かれる人々もまた能楽の繁昌と伝統の継承のためになくてはならぬ存在なのである。

私たちの社会は「身の程を知る」という徳目が評価されなくなって久しい。「身の程を知る」というのは自分が帰属する集団の中で自分が果すべき役割を自得することである。「身の程を知る人間」は、おのれの存在の意味や重要性を、個人としての達成によってではなく、自分が属する集団がなしとげたことを通じて考量する。それができるのが「大人」である。

私たちは「大人」になる仕方を「旦那芸」を研鑽することによって学ぶことができる。私はそう思っている。同意してくれる人はまだ少ないが、そう思っている。  
http://blog.tatsuru.com/2014/09/03_1111.php


10. 中川隆 2014年9月11日 00:29:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

以前は、「無学な人」というのは、ややこしい問題については、「寅さん」のように

「俺は無学な人間だけど、人としてやっていいことと、やっちゃいけないことの違いはわかる」

というかたちで判断を下したわけです。人に騙されたり、裏切られたり、あるいは救われたり、支えられたりというさまざまな人生経験の積み重ねを経て、

「それは人としてどうかと思うよ」

という判断ができた。その適切性はその人の学歴や知識量とは無関係です。

人間を一目見て、信用できるかできないかがわかった。それがわからないとえらい目に遭うからです。だから、修羅場の経験を踏んで、「人を見る眼」を養っていた。


かつて「人を見る眼」という言葉がよく口にされたのは、

「エビデンスがないときにでもその人のもたらす情報の真偽を判定できる能力」

が必要だということを昔の人はよくわかっていたからだと思うんです。生死の境にあって、見知らぬ人に自分の運命を託さなければならない極限状況というのは戦時中には現に頻繁にあったわけです。この人は信用できるのか、うかつに信用すると身ぐるみ剥がれるのか、それを一瞬で判定しなければならなかった。


僕の父はその時代の人間ですけれど、人間について外形的な情報、地位だとか業績だとかは、その人間が信頼できるかどうかの判定基準としては使えないということをつねづね言っていました。


情報リテラシーというのは一言で言えば「自分がその真偽を知らないことについても真偽の判定ができる」能力のことです。情報の「コンテンツ」そのものではなく、その情報がもたらされるときの「マナー」を見る能力だと言い換えてもいい。情報そのものではなく、それをもたらす人間を見る。情報そのものより、それを伝える生身の人間の方が圧倒的に情報量が多いからです。

人間は無数のノイズを発しています。嘘をついているときは、「嘘をついている人間」特有のノイズを撒き散らしているし、十分に裏を取っていないことを断定的に語るときも微妙な「自信のなさ」のノイズが出ている。情報リテラシーというのはそのノイズを受信する力のことだと僕は思います。

―ネット以前は、直感力で判断していた。今は、簡単にネットにつながることで、知にアクセスできるようになって、却って、マッピングが出来なくなってしまった? こういう情報収集力とか、コミュニケーション力というのは、ユーザーの意識の問題でしょうか?

ユーザーの個人的努力で何とかなるところと、歴史的に形成されたもっと射程の長い制度問題と両方がまじりあっていると思います。

ネットがもたらした「集合知」というアイディアはすばらしいと思います。「自分の知っていること」をひとりひとりがパブリックドメインに持ち寄って、それを共有する。「三人寄れば文殊の知恵」です。でも、集合知を機能させるためには、

「私はこれについては知っているが、これについては知らない」

と自分の割り前についてはっきりと申告できるということが一番たいせつなことなんです。

でも、ネット情報がもたらす安価な全能感にアディクトしてしまった人は「自分が長い個人的努力を通じて確信をもって言えるようになったこと」と「Wikipediaで読んだばかりのこと」を区別することができない。

それをきちんと区別してしまうと、せっかくの全能感が消失してしまうからです。ですから、情報弱者はなんでも知っているような顔をしているけれど、

「あなた以外の誰によっても代替することのできないパーソナルな正味の知として、あなたは集合知に何を供出できるのか?」

という問いの前には絶句してしまう。


集合知への参加条件は「マッピングができる」ということです。

自分が何を知っていて、何を知らないかについて適切な記述ができるということです。

専門家集団が機能するのは

「自分にはこれができるが、この辺のことはわからない」

とはっきりカミングアウトする人たちの集まりだからです。

知りもしないことを「知っている」と言い、できもしないことを「できる」と言い張る専門家というのはありえません。そういう人は決して専門家たちの共同作業には招かれない。邪魔になるだけですから。

でも、自分が知らないことをきちんと言語化するのは非常に難しい。

自分が「知っていること」と「知らないこと」の境界線を精密に記述するためにはかなりレベルの高い知性が求められる。でも、この「自分のバカさ」を客観的に表象できる能力というのが最も上質な知性だと僕は思います。それが言えれば、自分は誰を必要としているのか、どのような能力とのコラボレーションを求めているのかがわかる。

集合知の形成のためには自分が「知っていること」「知らないこと=知りたいこと」を鮮明に表示するというマナーを身につけておかなければならないということです。


―その「集合知」のところをもう少し詳しくお願いしたいのですが、生き延びるための「集団としてのパフォーマンス」はどうやってあげていくのでしょうか?


学術的なイノベーションにしても、集団全体がイノベーターになれるわけではないし、そうである必要もありません。

「イノベーターが生まれやすい環境」をみんなで作り上げてゆけばよい。

そういう環境を適切に整備できる管理能力のある人だってイノベーターと同じくらいに有用なわけです。イノベーションは集団的な創造だからです。

イノベーションというのは「そんなところから、そんなものが出てくるとは思わなかった」というかたちを取るものですから、原理的には「マッド・サイエンティスト」によって担われる。

でも、すべてのマッドサイエンティストがイノベーティヴであるわけではない。ただのマッドサイエンティストで、結局何の役にも立たない人でした終わり、ということも多々あるわけです。でも、これを嫌っていてはイノベーションはできません。


イノベーションは「歩留まりの悪いプロジェクト」なんです。

マッドサイエンティストが100人いて、そのうち5人がイノベーターで残りの95人はただの無駄飯食らいでした・・・というくらいの比率でも結果的には「とんとん」だと思います。

ですから、共同研究組織では「あいつ、ホント働かないな、いったい何やってんだよ」とまわりから思われるような人間を相当数「放し飼い」にしておく必要がある。

そういう人たちが好き勝手なことができるように、他方にはこつこつと日常業務をこなして「イノベーションができやすい環境」を整備する人たちがいる。

両方揃っていないと学術的なイノベーションはあり得ないんです。
何を生み出すかは個人ベースではなく集団ベースで見るからです。


ある集団からイノベーター2人、3人出てきら、それはきわめてうまく設計され運営された学術集団だったということになる。


今は科学者の業績を個人単位で計りますね。あれがいけないんです。

科学の発展は個人が担うものじゃない、集団で担う事業です。

卓越した研究者が一人出るときは、それを生み出すだけの土壌の厚みがあるものなんです。それを分断して、すべてを個人の業績に還元しようとする。そうなると研究者たちも集団のパフォーマンスを上げることよりも個人の業績を積み上げることを優先するようになる。それは学術的創造に逆行する発想なんです。

■マンガ界の集合知

この間、京都精華大学の学長でマンガ家の竹宮恵子さんと対談したのですが、マンガが他のジャンルと比べてすごいところは、マンガ家たちが、著作権とかオリジナリティーとかいうことを基本的に言わないっていう点なんです。ストーリパターンとか、キャラクター設定とか、コマ割りとか、吹き出しの使い方とか、顔の描き方とか、そういうマンガを描く技術はすべて「パブリックドメイン」なんだそうです。

マンガの技術はみんなのものだ、と。先人から伝えられたものを後続世代が工夫して育てているジャンルなんだから、ひとりで囲い込まないで、使えるものはみんなで共有しよう。そうすればマンガのクオリティーがどんどん上がっていって、読者も増えるし、本の発行部数も増える。結果的にマンガ家全員が力量をつけることで業界全体が潤うんだ、と。

だから、お互いの技法をどんどん模倣するし、パロディやスピンオフ(二次創作)も基本的には許している。その結果、マンガは今世界中に広がって、英語やフランス語だけじゃなくて、中国語、ロシア語、アラビア語にまで訳されて、総発行部数が何億部というような作品が次々と生まれている。

これは新しい技術の発明を個人の業績に還元して、「囲い込み」をしなかったことのみごとな成果だと思うんです。

これはマンガ制作と流通にかかわる全員が一個の「運命共同体」を形成して、集団として生き延びることを最優先に考えたからだと竹宮先生は説明してくれました。

めざすものが個人の名声とか収入とかじゃない。音楽にしても文学にしても、そこにかかわっている人たちが個人的成功よりも自分たちの「運命共同体」のパフォーマンスを高めることを優先すれば、スケールの大きな、すばらしいものができあがる。

自己利益を確保しようとするとジャンル全体が衰退する。


そういうものなんです。

ですから、平凡な結論なんですけれども、よい仕事をしようと思ったらみんなで力をあわせましょうってことなんです(笑)。
http://blog.tatsuru.com/2014/09/05_1112.php


11. 中川隆 2014年9月11日 00:33:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
・均質化圧と同調化圧。それはやはり学校教育のせいなんだと思います。

・学校はどこかで子どもの成熟を支援するという本務を忘れて、子どもたちを能力別に格付けして、キャリアパスを振り分けるためのセレクション装置機関になってしまった。

・子どもたちを格付けするためには、他の条件を全部同じにして、計測可能な差異だけを見る必要がある。

・問題は「差異を見る」ことじゃなくて、「他の条件を全部同じにする」ことなんです。みんな叩いて曲げて同じかたちにはめ込んでしまう。そうしないと考量可能にならないから。同じ価値観を持ち、同じようなふるまい方をして、同じようなしゃべり方をする子どもをまず作り上げておいて、その上で考量可能な数値で比較する。

・見落とされているのは、この均質化圧が財界からの強い要請で進められているということです。


・彼らからすれば労働者も消費者もできるだけ定型的であって欲しい。

・労働者は互換可能であればあるほど雇用条件を引き下げることができるからです。

・「君の替えなんか他にいくらでもいるんだ」と言えれば、いくらでも賃金を下げ、労働条件を過酷なものにできる。


・消費者もできるだけ欲望は均質的である方がいい。

・全員が同じ欲望に駆り立てられて、同じ商品に殺到すれば、製造コストは最小化でき、収益は最大化するからです。

・ですから、労働者として消費者として、子どもたちにはできるだけ均質的であって欲しいというのは市場からのストレートな要請なんです。

・政治家や文科省の役人たちはその市場の意向を体して学校に向かって「子どもたちを均質化しろ」と命令してくる。


・―均質化と同調圧力を押し返し、本来の「知のありよう」を取り戻すのには、やはり教育がキーワードになっているのでしょうか?

・教育だとは思いますよ。でも、今の学校教育は閉ざされた集団内部での相対的な優劣を競わせているだけですから、そんなことをいくらやっても子どもは成熟しないし、集団として支え合って生きて行く共生の知恵も身につかない。

・保護者も子どもたちも、どうすれば一番費用対効果の良い方法で単位や学位を手に入れるかを考える。最少の学習努力で最大のリターンを得ることが最も「クレバーな」生き方だと思い込んでいる。

・でも、学校教育を受けることの目的が自己利益の増大だと考えている限り、知性も感性も育つはずがない。人間が能力を開花させるのは自己利益のためではなくて、まわりの人たちと手を携えて、集団として活動するときなんですから。

・でも、今の学校教育では、自分とは異質の能力や個性を持つ子どもたちと協働して、集団的なパフォーマンスを高めるための技術というものを教えていない。

・共生の作法を教えていない。それが生きてゆく上で一番たいせつなことなのに。


・僕は人間の達成を集団単位でとらえています。ですから、「集団的叡智」というものがあると信じている。長期にわたって、広範囲に見てゆけば、人間たちの集団的な叡智は必ず機能している。エゴイズムや暴力や社会的不公正は長くは続かず、必ずそれを補正されるような力が働く。

・ですから、長期的には適切な判断を下すことのできるこの集団的叡智をどうやって維持し、どうやって最大化するのか、それが学校でも最優先に配慮すべき教育的課題であるはずなのに、そういうふうな言葉づかいで学校教育を語る人って、今の日本に一人もいないでしょう。学校教育を通じて日本人全体としての叡智をどう高めていくのか、そんな問いかけ誰もしない。

・今の学校教育が育成しようとしているのは「稼ぐ力」ですよ。

・金融について教育しろとか、グローバル人材育成だとか、「英語が使える日本人」とか、言っていることはみんな同じです。

・グローバル企業の収益が上がるような、低賃金・高能力の労働者を大量に作り出せということです。


・文科省はもうずいぶん前から「金の話」しかしなくなりました。

・経済のグローバル化に最適化した人材育成が最優先の教育課題だと堂々と言い放っている。

・子どもたちの市民的成熟をどうやって支援するのかという学校教育の最大の課題については一言も語っていない。子どもたちの市民的成熟に教育行政の当局が何の関心も持っていない。ほんとうに末期的だと思います。

・―モノや資源のレベルでも、教育のレベルでも、色んな意味での持続可能性というのは、一人一人がそういった知のマップを作ることだと思います。このマッピングをどうやって可能にして、共生の知恵をもった社会に作ることができると思われますか。

・今の日本の制度劣化は危険水域にまで進行しています。いずれ崩壊するでしょう。ですから、目端の利いた連中はもうどんどん海外に逃げ出している。シンガポールや香港に租税回避して、子どもを中等教育から海外に留学させて、ビジネスネットワークも海外に形成して、日本列島が住めなくなっても困らないように手配している。彼らは自分たちが現にそこから受益している日本のシステムが「先がない」ということがわかっているんです。でも、「先がない」からどうやって再建するかじゃなくて、「火事場」から持ち出せるだけのものを持ち出して逃げる算段をしている。


・僕は日本でしか暮らせない人間をデフォルトにして国民国家のシステムは制度設計されなければならないと思っています。

・でも、日本語しか話せない、日本食しか食えない、日本の伝統文化や生活習慣の中にいないと「生きた心地がしない」という人間はグローバル化した社会では社会の最下層に格付けされます。

・最高位には、英語ができて、海外に家があり、海外に知人友人がおり、海外にビジネスネットワークがあり、日本列島に住めなくなっても、日本語がなくなっても、日本文化が消えても「オレは別に困らない」人たちが格付けされている。

・こういう人たちが日本人全体の集団としてのパフォーマンスを高めるためにどうしたらいいのかというようなことを考えるはずがない。どうやって日本人から収奪しようかしか考えてないんですから。


12. 2015年2月05日 01:51:44 : 1laTubqZew
2011年4月4日(月)に投稿された600番の意見には、女性と学歴に対する偏見が含まれています。
曾野綾子さんは「私の意見は小説家の偏屈な意見です」と述べました。そのように思っているのでしたら、エッセイを書いたり、講演したり、議論したりすることを差し控えた方がいいです。
実る程 頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな


13. 中川隆 2015年2月14日 05:09:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

「思想」の恐怖 From 三橋貴明@ブログ  2015/02/13


短い文章で「衝撃」を与えるということは、なかなか難しいものですが、2月11日の産経新聞の曽野綾子氏のコラムには、衝撃どころか、率直に言って「恐怖」を覚えましたのでご紹介。


『2015年2月11日 産経新聞「曽野綾子の透明な歳月の光「適度な距離」保ち受け入れを」

最近の「イスラム国」の問題など見ていると、つくづく多民族の心情や文化を理解するのはむずかしい、と思う。一方で若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めなければならないという立場に追い込まれている。

特に高齢者の介護のための人手を補充する労働移民には、今よりもっと資格だの語学力だのといった分野のバリアは、取り除かねばならない。つまり高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ。(中略)

しかし同時に、移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。不法滞在という状態を避けなければ、移民の受け入れも、結局のところは長続きしない。

ここまで書いてきたことと矛盾するようだが、外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。

もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実状を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。

南アのヨハネスブルクに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も済むようになった。ところがこの共同生活はまもなく破綻した。

黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションにどんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、20〜30人が住みだしたのである

住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、一戸あたり常識的な人数の使う数量しか確保されていない。

間もなくsのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。

爾来、私は言っている。

「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい。』

もはや、突っ込みどころが多すぎ、論評を投げ出したくなるのですが、一つ一つ。
まずは「イスラム国」という呼称は止めましょう。ついでに、イスラム国は別にイスラム文化圏の心情や文化を代表しているわけでもありません。単なるテロリストです。

曽野氏の書き方では、普通に読むとISILがイスラム圏の「ある種の心情・文化」を象徴しているように読めてしまいます。ISILはテロリストであり、イスラムとは関係ありません。

次に、日本の生産年齢人口が減少し、今後の我が国で「超人手不足」が進行していくことは明らかですが、別に人手不足の解決策は「外国移民による労働力補充」ではありません。といいますか、人手不足を「外国移民による労働力補充」以外の策で解消しようとしたとき、我が国は経済成長します。

なぜ、断言するかといえば、まさに我が国の高度成長期が、

「人手不足(当時の失業率は1%未満)を外国移民による労働力補充以外で解決しようとした」

結果、実現したためです。外国移民ではなく、いかなる手段で人手不足を解消しようとしたのか。もちろん、生産性の向上です。今後の我が国が人手不足になるのは明らかですが(すでに一部の産業でなっていますが)、解決策は生産性の向上(デフレ脱却後の話)であり、外国移民ではありません。

この辺りの話は、「国民経済」を理解していなければ分からないでしょうが、より問題なのは「その後」の曽野氏の文章です。

「外国移民を受け入れるのは仕方がないが、居住区を分けるべきだ」

という主張を曽野氏はされているわけです。いまどき「ゲットー方式」を支持する日本人(あえて日本国民とは書きません)がいるとは驚きですが、それ以前に曽野氏が「外国移民の問題」について全く理解していないことが明らかになりました。

外国移民の最大の問題は、むしろ、

「外国移民が特定の居住区に集中して住んでしまい、ネイティブな国民と分かたれる集住化」

なのです。まさに、曽野氏のいう、

「移民の居住区が分けられ、集住化が進み、国の中に別の国ができていく」

ことこそが、現在の欧州(スウェーデンなど)の移民問題の本質なのでございます。「善意」をもって移民を受け入れても、彼らは集住化し、ネイティブな国民と融合することはなく、スウェーデンでいえばヒュースビーやローゼンガードといった地区に集中して住み、その地区が「スウェーデンの中の別の国」と化している光景を、わたくしはこの目で見ました。

恐るべきほどの無知というべきでしょうか。あるいは、恐るべきほど「無邪気」というべきでしょうか。分かりません。

いずれにせよ、曽野氏のコラムを読み、わたくしは「思想」の恐ろしさを骨の髄まで味わったわけでございます。正しい「思想」あるいは「考え方」に基づき、国民や政治家が動かない限り、我が国は中長期的には「今とは違う日本的な国」に変貌を遂げることになるでしょう。

止めなければなりません。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/


「間違った思想」が招く悲惨な現実とは?
https://www.youtube.com/watch?v=W4qwp0kYAT4#t=16


14. 2015年2月17日 13:04:27 : uMcHfTnA4o
「国に頼るな」ってなんのための税金だよ!
まさしく
国が国民に税金をせびってんじゃん!
国民の税金がなかったら
国なんてなんもできねぇ

15. 中川隆 2015年2月21日 03:46:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

【施光恒】曽野綾子氏と日本の「リベラル」


曽野綾子氏が産経新聞に寄稿したコラムが物議をかもしていますね。

曽野氏のコラムは、介護分野などの経済的移民を受け入れたうえで、居住区は別にしたほうがいいという趣旨のものでした。

多くの批判が寄せられていますが、私も、曽野氏の議論には、賛成できません。

とりわけ曽野氏の議論で問題なのは、経済的移民を肯定しつつ、居住区は分けようという点でしょう。経済的利益だけ受け取って、外国人労働者や移民の居住の自由などを制限してしまう。いいとこどりで、自己中心的な印象をやはり受けます。

ただ、今回の私の主目的は、曽野綾子氏の批判ではありません。それよりも、曽野氏のコラムに対する「リベラル派」からの批判のあり方のほうを取り上げたいと思います。

「リベラル派」の批判の多くは、「外国人労働者や経済的移民の受け入れは仕方がない。不可避的な時代の流れだ」とします。そのうえで、「日本を多文化共生社会とするために日本人は努力すべきである。曽野氏の議論は閉鎖的で排外的でよろしくない」とする趣旨のものが主だったといえます。

つまり経済的移民の受け入れ自体は、批判しないのです。

(・ω・)ナゼ?

典型的には、下記の記事です。

高橋浩祐氏(ハフィントンポスト日本版編集長)「時代に逆行する曽野綾子氏のコラム 多様な民族を受け入れる姿勢こそが日本に必要」(『ハフィントン・ポスト日本版』2015年2月17日配信)
http://www.huffingtonpost.jp/kosuke-takahashi/sono-ayako_b_6690296.html

この記事の執筆者は、次のように述べ、外国人労働者や移民の受け入れを認めています。

「今、多くの先進国では、少子高齢化に伴い、好むと好まざるにかかわらず、外国人労働者や移民を受け入れざるを得ない状況になっている」。

そのうえで、日本人の閉鎖性を指摘し、日本人こそが変わるべきだと続けます。

「…曽野氏のような知識人が本来、世に問うべきことは、多種多様な文化や習慣を受け入れ、共存共栄を目指す「ダイバーシティ」ではなかったか。日本に定住するひとり一人が暮らしやすい社会を実現するため、日本人こそがその閉鎖性を打ち破り、自ら変わる必要がある」。

私は、以前もこのメルマガで何度か書いていますが、外国人労働者や経済的移民の受け入れには、基本的に反対です。ヨーロッパの経験をみれば、社会的安定性の喪失などその失敗は明らかです。また、外国人労働者や経済的移民の推進は、別に「リベラル」でも「人道的」でもないと考えるからです。

(以前の記事は下記です。)
【施光恒】移民受け入れは人道的か?(『三橋貴明の「新」日本経済新聞』2013年8月9日付配信)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2013/08/09/se-19/

【施光恒】ヘイトスピーチ規制の本末転倒(『三橋貴明の「新」日本経済新聞』2015年1月23日付配信)
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/01/23/se-51/

上記の記事でも論じましたが、豊かな先進国が、発展途上国の貧しさにつけこみ、自国民がやりたがらない低賃金労働につかせるため、海外から人を呼んでくるというのは上等な発想ではありません。

貧しい国の人々が、先進国で、先進国の人が望まないメイドや介護、肉体労働といった仕事に従事せざるをえない状況とは、人道的でもリベラルでもありません。こういう出稼ぎや、移住は、貧しい国の人が本当に望んでいることではありません。

例えば、将来、日本が経済的に貧しくなって、我々の子孫である日本人が出稼ぎ労働者、あるいは移民となって、低賃金で、豊かな国(アメリカかもしれませんし、中国かもしれません)のメイドや肉体労働の仕事に就かざるをえない。私は、そういう日本の姿を想像しただけで、胸が張り裂ける思いがします。

外国人労働者や経済的移民を現在、送り出さざるを得ない国の人々も、おそらくそういう気持ちでしょう。

彼らが真に望むのは、自分の国で、自分たちの言語や文化のなかで、自分たちの家族や仲間と一緒に働き、多様な人生の機会と豊かな生活を享受することです。

人道的見地、あるいは真に「リベラル」な見地からすれば、先進国がなすべきは、移民や外国人労働者を無批判に受け入れ、途上国の貧しさに乗じて彼らの労働力を利用することではなく、経済的移民など生じなくても済む、もっと平等な国際秩序作りを提唱し、その実現のために尽力することです。

上記の過去記事でも触れましたが、現在の世界には、国際的な不平等を固定化してしまう仕組みがたくさんあります。

例えば、自由貿易は絶対に正しいという前提で、発展途上国に対しても市場開放を迫り、保護主義的な政策を認めない新自由主義的な経済構造です。これでは、なかなか自国資本の産業は発展せず、途上国が、先進国に追いつくことはほぼ不可能です。

英語による文化支配も一例です。貧しい国では、少数のエリートは英語を用い、大多数の一般庶民は現地語を使って生活しているという光景が非常によく見られます。英語でなければ高等教育が受けられず、稼ぎのいい専門的職業にも就けないという社会です。こういう社会では、多くの一般的人々は、十分に自分の能力を磨いたり、発揮したりすることができず、貧しいままにとどまります。

言語が違うと国民の一体感も生まれないので、国民はバラバラで、適切な経済政策や福祉政策をとることもできません。結局、貧困から脱することが出来ず、先進国になかなか追いつけません。

ですので、本当に「人道的」あるいは「リベラル」な立場からすれば、無批判に外国人労働者や経済的移民を受け入れ、低賃金で彼らを利用することを認めるべきではなく、自由貿易を絶対視する新自由主義的経済構造や、英語による文化支配をはじめとする現在の不平等な国際秩序の不当性を暴き、これらを除去するよう努めるべきです。

その上で、途上国の国作りを積極的に支援する必要があります。途上国自身の文化や言語に基づき、近代化を図るための手伝いです。途上国の人々が、自分たちの国で、自分たちの家族や仲間とともに豊かな生活が送れるように、「国づくりの援助」を行っていくことです。

この点で、日本にできることはたくさんあります。

日本は、保護主義的政策を適宜導入しつつ、自国の資本や産業を発展させ、国民を富ませ、内需中心で豊かになることに成功した国です。(実際は、イギリスやアメリカも含め、現在の先進国は、皆、保護主義を適宜、用いつつ、自国経済を発展させてきたのですが、イギリスやアメリカなどは現在では、あまりこのことに自覚的ではないようです)

また、日本は、外国から積極的に学びつつも、母語である日本語や日本文化を守り、その基盤の上に近代化を成し遂げてきた国です。我々は普段あまり意識しませんが、外来の知を取り入れつつ、母語で近代化するためのノウハウをおそらく世界で一番持っています。

日本は、現行のアメリカ主導の新自由主義的な国際秩序や、英語による文化支配を批判するべきです。そのうえで、例えば、輸入代替化戦略をとり、自国の資本や産業を発展させてきた日本の経験を語るべきです。

あるいは、外国から学びつつも、外国の先進の知を翻訳し、自分たちの言語で高等教育まで学べる環境を作るためのノウハウを途上国に積極的に提供すべきです。

結局、何が言いたいかといえば、曽野氏のコラムもおかしいが、今回の曽野氏のコラムに対する日本の「リベラル派」の批判の多くもマトが外れてはいないか、また、あまりにも現状肯定的で体制順応的ではないかということです。

「リベラル」を自称するのであれば、自国の経済政策の失敗を糊塗するため、あるいは自国企業の経済的利益のため、途上国の貧しさに付け込んで、彼らの労働力を安く買いたたき、自国人がやりたがらない仕事に就かせることを、「時代の流れだからしょうがない」などと軽々しく認めるべきではありません。

外国人労働者や経済的移民にならざるを得ない多数の人々を生み出す現行の不平等な国際秩序を批判すべきです。なおかつ、その不平等な国際秩序に乗じて短期的な経済的利益の追求に汲々としている現在の日本の政府や一部財界のみっともなさも指摘すべきでしょう。

そして日本の来し方を振り返り、先人の努力に感謝するとともに、日本の真の国際貢献とは何かを国民皆で考えることでしょう。

日本の「リベラル派」を自称する人々は、曽野綾子氏の今回の議論を批判するだけでなく、もう一歩先まで進んでもらいたいものです。
m9(`・ω・´)キリッ
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/02/20/se-53/


16. 中川隆[1094] koaQ7Jey 2015年12月26日 12:00:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[512]

教育課程審議会の会長を務めたことのある三浦朱門は「ゆとり教育」について次のように語っている:

 「平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」(斎藤貴男著『機会不平等』文藝春秋、2004年)

 三浦が言う「できる者」の正体は不明だが、安倍晋三内閣の私的諮問機関だという「教育再生実行会議」が提出した「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について」には次のような記述がある:
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouikusaisei/pdf/dai4_1.pdf

「各大学は、学力水準の達成度の判定を行うとともに、面接(意見発表、集団討論等)、論文、高等学校の推薦書、生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動(生徒会活動、部活動、インターンシップ、ボランティア、海外留学、文化・芸術活動やスポーツ活動、大学や地域と連携した活動等)、大学入学後の学修計画案を評価するなど、アドミッションポリシーに基づき、多様な方法による入学者選抜を実施し、これらの丁寧な選抜による入学者割合の大幅な増加を図る。その際、企業人など学外の人材による面接を加えることなども検討する。」

 大学側が主観的に能力とは関係なく合格者を選べるわけで、「裏口入学の合法化」のように思える。

アメリカでは無能でも有力者の子どもなら有名大学へ進学が可能だが、そうした仕組みにしたいのだろう。学費の高額化もそうした仕組みを作り上げる一環のように見える。

 学費が高騰すれば庶民には大きな負担になる。

例えば、2012年にイギリスのインディペンデント紙が行った覆面取材の結果、学費を稼ぐための「思慮深い交際」を紹介する、いわゆる「援助交際」を仲介するビジネスの存在が明らかになり、ギリシャでは食費を稼ぐために女子学生が売春を強いられ、売春料金が大きく値下がりしていると伝えられているが、こうした傾向は各国に広がりつつある。
http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/how-sex-work-has-replaced-a-bar-job-for-students-who-struggle-to-bills-loans-and-university-fees-8364948.html?origin=internalSearch#
http://www.thetimes.co.uk/tto/news/world/europe/article4624755.ece


 上院議員のエリザベス・ウォーレン元ハーバード大学教授によると、アメリカでは教育が生活破綻の原因になっているという。

少しでもまともな教育を望むならば、多額の授業料を払って私立へ通わせるか、公立の学校へ通わせるにしても不動産価格の高い住宅地に引っ越す必要があるという。

低所得者の通う学校では暴力が蔓延して非常に危険な状態で、学習どころではないのだ。そうした経済的な負担に耐えられなくなり、破産する人が少なくないという。結局、経済的に豊かな愚か者が高学歴になり、優秀でも貧しい子どもは落ちこぼれていくことになる。


17. 中川隆[1270] koaQ7Jey 2016年1月25日 21:03:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1048]

曽野綾子
「年収120万円は貧困層ではありません。貧困層とは水や電気を使えない人」2015/5/12(火)

「ここから日本の話を聞いていきたいと思います。

まずこちらのデータですが、日本の相対的貧困率。

相対的貧困率というのは、仮に国民の所得を順番に並べた時に、所得の半分に満たない人の割合。

2012年の場合は、日本では年間の所得が122万円に満たない人の割合ということになります。

日本ではこの貧困率が右肩上がりです。2012年にはデータがある1985年以降、過去最悪の16.1%と。

およそ6人に1人が貧困層ということになりますけれども、これはOECD加盟国34か国中29位。つまり、5番目に悪い数字ということになりますね。


曽野さん、日本では近年、貧困層が増えているとか、格差が広がっていると言われていますが、日本は貧しい国になってきているのですか?」

曽野氏
「違いますね。貧困と言う言葉がぐちゃぐちゃになって使われていると思いますね。
つまり、こちらの貧困というのは、水が出ない、水道の恩恵を受けていない。電気は毎日停電ですからね。

それもありますけれども、電気も引かれていない。盗電しているんですよ。
東京電力ではないですよ。電気を盗むんです。

盗電する。それでも、盗電した分を払う、家主から払わなければいけませんから。そういうのも一切ない。

今晩食べるものがない。それから、濡れて寝ています、アフリカでは。しばしば。屋根が、雨がザーッと漏れる。

私が知っているシスターのところに保育器、赤ちゃんを入れる、あれを送った時に、立派なカーテンボックスに入ってきます。

それをほしがった未亡人がいたんですよ。シスターが何のために何に使うのと言ったら、何のためだと思いますか。子供のうえに、雨の日、ザーッと雨がかかるんですって。

だから、あれを切り開いて、子供の上にかけて、カーテンですよ。雨に直接当たらないようにしてやりたいと言ったと。

それほどの貧しさだから、犬と違って人間は、屋根の下に寝ていると思っていますけれども、特殊な人以外は。そんなことはないです。

今晩食べるものもない。学校も行けない。いろんなことで。だから、そういうものを貧困と。

それは、つまり、高いレベルの人の中間かどうかというので、比較貧困ですね」
http://blogs.yahoo.co.jp/kotyannomama/17550519.html


18. 中川隆[1389] koaQ7Jey 2016年2月04日 13:06:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1225]


J-CASTニュース 2016年2月2日(火)18時59分配信


作家の曽野綾子さん(84)が「週刊ポスト」のインタビュー記事で語った

「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』がある」

との主張がネット上で大反発を受けている。

高齢者は権利や機会を若者に譲り、死と向き合うべきだ――そんな「生き方」の主張だったが、「あなたからどうぞ」など厳しい意見が相次いでいるのだ。

■「ドクターヘリは利用者の年齢制限を」

インタビュー記事は、2016年2月1日発売の「週刊ポスト」(2月8日号)に掲載された。

「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』を忘れてしまっていませんか?」

との問いかけで始まり、曽野さんは


「『いくらでも生きたい』は傲慢」

「権利を『求め倒し』、医療を『使い倒し』、他人を『頼り倒す』ことは肯定されない」

との持論を展開する。


この記事の前提には、1月24日付け産経新聞朝刊1面に掲載された曽野さんのコラム「小さな親切、大きなお世話」があった。

90代の病人がドクターヘリによる救助を要請した話を持ち出し、「利己的とも思える行為」と批判。負傷の程度でけが人の治療に優先順位をつける行為「トリアージ」を例にしながら、


「生きる機会や権利は若者に譲って当然だ」

「ある年になったら人間は死ぬのだ、という教育を、日本では改めてすべき」

と主張した。

また、ドクターヘリなど高度な医療サービスについても

「法的に利用者の年齢制限を設けたらいい」

と踏み込んでいる。

「ポスト」掲載のインタビュー記事もコラムの内容が基本的に踏襲され、「死についての教育拡充論」により多くの紙幅が割かれている。


確実に来る死を覚悟し、さまざまな機会や権利を若者へ譲る。

医療サービスを誰しもが平等に受けるのは難しい時代、高齢者は死と真正面から向き合わなければならない。


曽野さんが訴えたかったのは、そんな独自の「生き方」だったと言えるが、曽野さん自身が高齢だったことからか、ネット上で即座に反発の声が巻き起こった。

※過去にもたびたび「奔放発言」

「長生きは『利己的』らしい」

「あなたからどうぞ、としか」

「『適当な時』は誰がどういう基準で決めるんでしょう」


ツイッターには、こうした厳しい指摘が相次いでいる。中には

「『高齢者は命令されたら死ね』と発言したに等しい

」との意見もあり、批判の声は収まる気配がない。

曽野さんの発言はその大胆さ、奔放さから、今まで数多くの批判を浴びてきた。15年2月、産経新聞上のコラムに記した


「もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」

との一文が、 「アパルトヘイト」(人種隔離政策)容認と捉えられ、海外メディアに報じられたり、駐日南アフリカ共和国大使が産経新聞に抗議したりする事態に発展。


また、15年7月、岩手県矢巾(やはば)町の中学2年の男子生徒(当時13)がいじめを苦に自殺した問題では、

「自殺した被害者は、同級生に暗い記憶を残したという点で、彼自身がいじめる側にも立ってしまった」

と同年9月11日発売の「ポスト」(9月18日号)に語り、問題視された。

今回のインタビュー記事をきっかけに、こうした発言も改めてネットで掘り返されているようだ。


19. 中川隆[1405] koaQ7Jey 2016年2月06日 14:22:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1253]

曽野綾子氏のコラムの問題は何か 2016/2/6


典型的な新自由主義者の発想

 作家の曽野綾子氏のコラムが再び物議を醸しているようです。曽野氏は1月24日付産経新聞に「利己的な年寄りが増えた」というコラムを投稿し、90代の高齢者がドクターヘリを要請したというエピソードを切り口として、次のように述べています。

“しかし最近は、何が何でも生き延びようとする利己的な年寄りが増えた。

人間は平等だから、年寄りでも若者と同じような医療を要求する権利があると考える。できればそうだが、できなければ生きる機会や権利は若者に譲って当然だ。”


 曽野氏は『週刊ポスト』(2月12日号)でもこのコラムの続編のような形でインタビューに応じていますが、ここには典型的な新自由主義者の発想が見られます。

この考えを進めていけば、労働によって社会に貢献することができない人間は、社会から排除してもよいということになりかねません。これは高齢者だけでなく、中年や若者にも適用されるでしょう。

 新自由主義者は人間を労働力商品に還元するため、人の心の澱や襞といったものを理解できません。他者の気持ちになって考えることができないので、「社会的弱者」に目を配ることもできません。

 この点について、作家の佐高信氏が哲学者の山崎行太郎氏との対談本『曽野綾子大批判』(K&Kプレス)で次のように述べています。


“佐高 ……
曽野は以前『サンデー毎日』に連載を持っていたのですが、部落問題に関する記述をめぐって連載中止になったそうです。

問題のコラムは曽野の『運命は均される』という本に収録されていますが、それは

「自分は東京生まれ東京育ちだが、日常生活で部落問題が話題になった記憶がない。
そんな自分に部落差別について教え込もうとする人たちがいる。
差別を知らない人間に同和教育を吹き込むな」

といった内容です。

 これは要するに、自分が差別はないと言っているのだから差別は存在しないんだ、ということでしょう。あまりにも酷いからってことで掲載できなかったんでしょうけど。

日本社会に蔓延する「無思想の思想」

 また、佐高氏は曽野氏の作家としての資質にも疑問を投げかけています。

佐高氏が曽野氏を批判したところ、曽野氏から反論がありました。
しかし、その反論がとても反論と呼べるものではなかったからです。


“佐高 ……
曽野は次々と違ったカードを切ってきて、こちらの批判を無視し、問題を逸らそうとする。彼女は自分と相手のどこが同じでどこが違うのか、自分がどういう位置づけであるのかといったことはどうでもいいんでしょうね。

 その意味で、曽野綾子には思想がない。彼女の議論の底が浅いのもそのためでしょう。

山崎 
曽野が論争から逃げるのは、彼女にサブスタンスがないからでしょう。

もし本当にサブスタンスを持っているなら、論争から逃げるわけにはいかないですよ。

自らの存在と直結する問題、自らの生命線に突っかかってこられているわけですから、全存在を賭けて一線を守ろうとするはずです。”


 これは弊誌2月号で批判した櫻井よしこ氏にも言えることです。

その中で、山崎氏は櫻井氏の思想を「無思想の思想」だと述べています。
思想がないから、櫻井氏の言論には一貫性がないのです。

 さらに言えば、これは安倍総理や、安倍総理を支持している人たちの多くにも言えることです。

なぜ日本社会で「無思想の思想」が力を持つようになってしまったのか、我々は真剣に考える必要があります。(YN)
http://gekkan-nippon.com/?p=8564


20. 中川隆[1407] koaQ7Jey 2016年2月06日 17:34:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1256]
>>19
>曽野氏は『週刊ポスト』(2月12日号)でもこのコラムの続編のような形でインタビューに応じていますが、ここには典型的な新自由主義者の発想が見られます。

移民問題・難民問題は、今やユーロ圏を揺るがす火薬庫と化してしまった。

排斥デモ、異民族敵視、憎悪、相互対立は、多民族国家を目指した国のほとんどが経験している。多民族共生というのは、口で言うほど簡単なものではない。

共生どころか、むしろ衝突となり暴力の応酬となってしまう。当然だ。ひとつの地域に、文化がまったく違って、考え方も根本からして異なる人たちが押し込まれる。

民族によっては、マナーも違えば、常識も違えば、言葉も違えば、人種も違う。

何もかも違った人間がどんどん増えていくと、受け入れる側からすると、自分たちの文化が侵略されていると捉えるのは、避けられない。こういった対立は、これから世界中で吹き荒れることになる


しかし、だからと言って、移民・難民の流入や、多民族国家の動きが頓挫するとは、絶対に考えない方がいい。

どんな問題が起きても、どんな激しい国民の抵抗が起きても、グローバル社会に参加した国家では、それが強引に行われていくことになる。

なぜなら、グローバル化していく社会の中で、国家という枠組みが邪魔になっており、今は「国家」という枠組みを取り壊そうとする動きが加速しているからである。

「自国文化を守ろう、自国の歴史を大切にしよう」という動きは、「保守」とは呼ばれず、「極右」とグローバル・メディアによってレッテル貼りをされている。

世界中のメディアは、保守を必ず「極右」として扱い、レイシストと断定する。それはグローバル化を後退させる動きなので、「絶対に許されない思想」と認定して、封印されていく。

グローバル化を阻止する動きは、絶対に許されない。

多国籍企業、金融市場、巨大メディアは、グローバル化する社会の中で支配権を拡大していく過程にある。

世界を動かしているのは国民ではなく、多国籍企業、金融市場、巨大メディアである。そして、これらの企業の各ステークホルダー(関係者)たちである。

全員が揃って陰謀に荷担しているという見方もあるが、実際のところは、陰謀論によって動いているというよりも、グローバル化した方が「より儲かる」というシンプルな原則によって突き動かされていると言った方がいい。

儲かるのなら、儲かる方向に向かって資本が殺到していく。それがあたかも何らかの指示があるように一方方向に動いているように見える。

事業家や金融資本は何者かに命令されて動いているわけではない。儲かる方向に向かって動いていたら、それはグローバル化の方向だったのである。


ロンドンの光景。もうすでにロンドンでは44%近くが非白人となっていると言われている。移民・難民の流入や、多民族国家の動きは止まらない。


儲かるから、グローバル化が推し進められるのだ

グローバル化したら、世界のすべてが多国籍企業にとって市場になる。そうなれば、単純に儲かる。だから、多国籍企業はぶれることなくグローバル化を推し進める。

グローバル化したら、賃金の安い国で物を製造することができるようになる。そうなれば、コスト削減できる。そして、競争力が付いて儲かる。

グローバル化したら、移民が大量に入ってきて、やはり低賃金で人が雇えるようになる。そうなれば、またもやコスト削減ができる。だから、移民政策や、多文化主義は推進されるのだ。シンプルだ。

貿易を行うに当たって、国をまたぐたびに関税を取られたら損をする。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。儲けのためには、関税を取る国家という存在が邪魔なのだ。

販売を行うに当たって、各国の違いに合わせて商品をローカライズするのは無駄なコストである。言語が英語か何かで統一できれば、ローカライズする手間がなくなる。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業である。コストのためには国家という存在が邪魔なのだ。

販売を行うに当たって、文化が違っているとやはりその国に合わせなければならないが、それも無駄なコストである。だから、移民を入れて、混ぜて、独自文化を薄めさせれば、文化に合わせる手間もなくなる。

だから、文化がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。移民・難民を大量に入れて「多文化共生」にするのは、その国の独自の文化を消すのに最良の方法だ。


パリの光景。41%が非白人の人口となっている。グローバル化したら、移民が大量に入ってきて、低賃金で人が雇えるようになる。そうなればコスト削減ができる。だから、移民政策や、多文化主義は推進される。


世の中は多極化しているのではない。逆だ

ありとあらゆるものが、国家の消滅、国家の役割縮小、国家の無力化を目指している。上記以外にも、そんな動きは次々と動いている。

通貨が違っていれば、為替の変動というものに注意を払わなければならず、それは多国籍企業にとっては手間である。国家をブロック化するか、もしくは国家を消滅させれば為替も統一するので便利だ。だから多国籍企業は、通貨の統一を邪魔する国家という概念を消し去りたい。

巨大メディアも、言語・文化がどんどん統一されていけば、情報収集も、情報提供も、世論誘導もやりやすい。だから、グローバル化に乗るのは「得する」動きだ。そのために、言語・文化の守り手である国家を消滅させたい。

インターネットもまた、「情報」という分野で世界を統一しようとする動きである。インターネット企業は、世界がグローバル化すればするほど儲かる仕組みになっている。だから、国家間の情報遮断は許しがたいことであり、やはり国家という概念を消し去りたいと思っている。

グローバル化は、それを突き詰めると、世界が「ひとつ」になるということだ。世界が「ひとつ」というのは、要するに国家も、文化も、言語も、通貨も、すべてが「ひとつ」になるという意味である。

現在、そのような社会に向かっている。世界は多極化しているのではない。完全にその逆だ。

グローバル化の動きは、「ひとつ」になる動きだ。国家のブロック化は、「ひとつ」になる動きだ。多文化主義の動きは、「ひとつ」になる動きだ。金融市場の国際化は、「ひとつ」になる動きだ。移民促進の動きは、「ひとつ」になる動きだ。

グローバル化によって、世界は統一化されようと動いている。多極化しているというのは、単に政治の力学の話であって、世の中全体の動きではない。

多極化していると見せかけて、世の中はグローバル化によって「ひとつ」になろうとしているのである。

絶対に移民政策が止まらないのは、世界が「ひとつ」になるためだ。本当に、単純な話だ。そうすれば多国籍企業、金融市場、巨大メディアは儲かるのである。そして今や、すべての国がグローバル化に向かって暴走している。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160206T0136500900.html


21. 中川隆[1408] koaQ7Jey 2016年2月06日 17:43:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1257]
>>19
>曽野氏は『週刊ポスト』(2月12日号)でもこのコラムの続編のような形でインタビューに応じていますが、ここには典型的な新自由主義者の発想が見られます。


「真面目に働くことによって明るい未来が拓く」という今までの資本主義の基幹を為していた牧歌的な時代は、グローバル化が進めば進むほど過去のものになりつつある。

現代の資本主義は、全世界を巻き込んだ凄まじい競争を強いる弱肉強食の資本主義である。企業は競争に打ち勝つために、素早く巨大化し、素早く時代に対応し、利益を極大化させることが望まれている。

利益を極大化させるためには、余計なコストがかかる雇用を必要最小限にするのが手っ取り早い。人間を雇うというのは、企業から見ると凄まじいコストなのである。

年500万円の人間を20年雇用したら、その1人だけで1億円のコストがかかる。実際にはこれに福利厚生から事務所代から雑費等含めて、かなりの出費がある。

単純に言えば、人は雇わなければ雇わないほどコストは削減される。そのために企業は、ありとあらゆる方法で雇用を削減する方法を考え出す。

それが派遣雇用の拡充であったり、アウトソーシングであったり、途上国の工場移転であったり、IT化であったり、ロボット化であったり、人工知能であったりする。

現在はそうした「雇用を排除する動き」が同時並行で行われ、加速している時代である。

これがさらに進んでいくのが2016年以降の動きだ。「働いても働いても豊かになれない」というワーキングプア層が社会の大半を占めるほどの苛烈な社会になっていくのだ。

今起きているこの大きな動きに私たちはひとり残らず飲み込まれていることに注意しなければならない。2016年以降、この流れが変わるというのはあり得ない。

「会社に雇われて働く」というのは、ワーキングプアになるというのと同義語になる。

まだ多くの人は半信半疑かもしれないが、よほどのエリートでない限り、「会社に勤める」というのは貧困に落ちる危険な行為になりつつあるのだ。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160101T1601100900

富裕層が仕掛けているのは、自分たちが100戦無敗になる方法


100戦無敗になるにはどうしたらいいのか。簡単だ。徹底的に弱い相手と戦うことだ。たとえば、大人は3歳児と戦ったら必ず勝つ。

大人が常に3歳児と戦い続ければ、常に勝ち続けることができる。それは勝負ではなく、リンチになるはずだ。大人はその気になれば、殴り殺すことさえ可能だろう。

だから、スポーツはこういった「大人vs子供」のような、最初から勝負が分かりきっているような組み合わせを禁止する。惨劇を避けるためだ。

それを不服として、大人が「自由に勝負させろ」と叫んでいたら、どうかしていると思われるはずだ。

しかし、それはスポーツの世界だからどうかしていると思われるだけで、実社会ではそのあり得ない競争が行われる世界なのである。

100万円の資産しかない人間が、100億円の資産を持つ企業と無理やり競争させられるのが資本主義の掟である。巨大な者が「もっと自由を」という時は、「弱者を叩きつぶす自由をくれ」という意味なのである。


落ちこぼれた人間には金すらも出したくない政府

「どんどん競争させろ。競争のルールは必要最小限にしろ。弱い者がどうなったところで知ったことではない」

これが資本主義を拡大解釈した「市場原理主義」の正体である。日本は2000年に入ってから、この弱肉強食の市場原理主義が小泉政権下で組み入れられた。

事実上の実行者は、当時、経済財政政策担当大臣と金融担当大臣を兼任していた竹中平蔵だった。

この男によって社会経験の浅い若年層は非正規労働者に追い込まれ、どんどん生活が不安定化しくことになる。

こういった格差が生まれるのは当然だと竹中平蔵は言っている。さらに、「日本はまだまだ格差が少ない社会だ」との認識も示している。

つまり、もっと激しい競争社会して、それによって弱者がもっと増えても別に構わないというスタンスである。さらにこの男は2016年に入ってからトリクルダウンも否定している。

トリクルダウンというのは「資産家や大企業を先に豊かにすると、富が国民全体にトリクルダウン(滴り落ちて)、経済が成長する」というものだ。

ケ小平の唱えた「先富論」に似ているものだが、竹中平蔵はそのトリクルダウンもないと言った。強い者はどんどん富むが、その富は弱者に回らない弱肉強食の社会を日本に取り入れたのがこの男である。

竹中平蔵は派遣会社の会長なのだが、派遣会社というのは労働者の稼ぎをピンハネする事業をしている。ピンハネして、要らなくなったら捨てる。

その結果、労働者が弱者になったとしても「それは、その人の自己責任だ」と言うのが竹中平蔵の理論なのである。

弱者など、どうでもいい。落ちこぼれた人間には金すらも出したくない。だから、この男が小泉政権下でしたのは、社会保障支出の大幅な削減だった。

その結果、高齢者も、障害者も、シングルマザーもみんな追い込まれて、生活保護受給者は大幅に増えることになった。


努力しても這い上がれない社会が来ている

弱肉強食の市場原理主義を取り入れればそうなることは、はじめから分かっていた。なぜなら、強欲な資本主義の総本山だったアメリカがそうなったからだ。

アメリカではレーガン政権がこの市場原理主義を推し進めた結果、1%の富裕層と99%の低賃金層という超格差社会を生み出して、今でもその格差の分離は広がっている。

アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。

中流階級は激減し、2010年には貧困者が4620万人に達した。7人に1人は貧困層だ。さらに、予備軍まで入れると、3人に1人は生活に追われている状況になっている。

問題なのは、この格差が固定化しつつあるということだ。アメリカン・ドリームはすでに消失している。努力しても這い上がれない社会がやってきているのである。

当然だ。競争を開始する時点での条件に大きな格差がついている。スタートラインが富裕層と貧困層とではまったく違う。正当な競争になっていないのである。

貧困層は満足な給料がもらえない職業を転々とするしかなく、結局、働いても働いても豊かになれないワーキングプアが常態化してしまう。

貧困が固定化するのは、次の5つの要因がある。

(1)生活に追われ、疲れて何も考えられなくなる。
(2)低賃金で自分も子供も教育が受けられなくなる。
(3)金を含め、あらゆるものが不足してしまう。
(4)這い上がれない環境から自暴自棄になっていく。
(5)社会的影響力がなく、権利は保障されない。

いったん貧困に堕ちると、この5つの要因が同時並行で始まっていき、その中で押しつぶされてしまう。

これは、アメリカだけの問題ではなく、今や日本の底辺の問題でもある。すでに、日本の底辺もこの5つの要因にがんじがらめにされて、這い上がるのが絶望的に難しい社会になっているのである。

アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。


貧困層は、相変わらず見捨てられていた

格差が固定化されるというのは、富裕層と貧困層の超えられない一線ができるということである。人々は分離し、この両者は次第に違う文化を生きることになる。

暮らす場所も、食べる物も、通う学校も、遊ぶ場所も、付き合う人も、すべて違っていく。そして、この両者は互いに相手に無関心になり、話す言葉すらも違っていくようになる。

日本もそうなる危険性が高い。格差は固定化して、堕ちてしまった人は、社会から見捨てられて生きるようになっていく。

2014年3月。私は10年ぶりにインドのコルカタに向かって、インドの貧困地区がどうなっているのかを確認しに行った。

その結果、どうだったのか。書籍『絶対貧困の光景』で書いたのだが、かつての貧困層はインドの経済発展からものの見事に取り残されていた。

コルカタは、確かに一部は経済発展していた。

ところが、貧困層はまったく経済発展の恩恵に浴していなかったのだ。彼らは社会から無視され、相変わらず社会から見捨てられていた。

10年前、貧困の中で生きていた女性たちは今もまだまったく同じ状態で放置されていた。彼女たちは路上で暮らし、路上で物乞いをし、スラムは相変わらずスラムのままだった。

先進国と変わらないマンション、ショッピングモールができていて、富裕層がベンツを乗り回しているその横で、10年前に貧困層だった人たちは、まだ路上を這い回って生きていた。

(堕ちたら、這い上がれないのだ……)

竹中平蔵が言った通り、「トリクルダウン」など、影も形もなかった。貧困層に富はこぼれ落ちていなかった。完全に置いてけぼりだ。

そういった状況は私もよく知っていたはずだった。しかし、実際にそんな現状を目の前に突きつけられた時に感じたショックは、決して小さなものではなかった。

格差が固定化され、弱者が見捨てられ、貧困層が大量に増え続ける社会がどんなに悲惨な社会なのか、日本人はもっと真剣に考えるべきだ。

日本はそんな道を辿ろうとしているのである。

スラムの子供たち。富める者は富み、貧しい者は奪われるのであれば、この少年と幼い妹には未来はない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160118T0438270900.html


22. 中川隆[1412] koaQ7Jey 2016年2月07日 08:18:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1262]
>>19
>曽野氏は『週刊ポスト』(2月12日号)でもこのコラムの続編のような形でインタビューに応じていますが、ここには典型的な新自由主義者の発想が見られます。


経済関連の「詭弁」の一つに、仮説を「原則」であるかのごとく扱い、結論を断定するという手法があります。

例を挙げますと、

「トリクルダウン理論により、富裕層・法人減税は正しい」

「クラウディングアウトが起きるから、国債発行はダメ」

「マンデル・フレミング・モデルにより、変動相場制の国では財政政策が無効」


などになります。

クラウディングアウトとは、政府の国債発行が「金利上昇」を招き、企業の投資が減少するため、経済成長が阻害される。というロジックなのですが、現実の日本(欧州でも)ではデフレで民間の資金需要が不足し、政府の国債金利はむしろ「下がって」います。

マンデル・フレミング・モデルはクラウディングアウトの延長で、政府の国債発行・財政政策の拡大が「金利上昇」と「通貨高」をもたらし、輸出減により財政政策によるGDP拡大分が相殺される。よって、変動相場制の国において財政政策は無効。というロジックなのですが、長期金利0.23(!)%の国で、何言っているの? という感じでございます。

しかも、第二次安倍政権発足以降、「通貨安」が大幅に進んだにも関わらず、日本の実質輸出は増えていません。純輸出で見ても、原発を稼働しないため、外国からの原油・LNGの輸入が増え、マイナス(純輸入)が拡大していきました。

さらに言えば、日本銀行が国債を買い入れている以上、「国債発行=金利上昇」などという単純なモデルが成立するはずがないのです。MFモデルにしても、財政出動が金利上昇、円高をもたらすのがそんなに怖いなら、金融政策を併用すれば済む話です。

要するに、クラウディングアウトにせよ、MFモデルにせよ、

「絶対に財政出動の拡大はダメ。国債発行もダメ」

という「結論」がまずあり、その結論に導くための詭弁として持ち出されているに過ぎないのです。


とはいえ、この種の詭弁が政界を支配し、財政政策による需要創出が実現しないため、我が国はいつまでたってもデフレ状況から抜けられないでいます。

トリクルダウンも同じです。

トリクルダウンとは「富裕層減税や法人税減税により、国内の投資が拡大し、国民が豊かになる」というロジックになっています。

減税分を「国内の投資に必ず使う」ように政府が強制できるならばともかく(できません)、資本の国境を越えた移動が実現したグローバリズムの時代に、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。

しかも、法人税を減税し、企業の現預金を増やしたところで、デフレで投資利益が見込めない以上、国内の設備投資が拡大するはずがありません。

上記の理屈は、「常識」に基づき考えてみれば、誰でも理解できるはずです。特に、損益計算書やバランスシートに触れる機会が多い経営者であれば、一発で分かるでしょう。

ところが、現実にはトリクルダウンが成立するという「前提」に基づき、法人税減税をはじめとする構造改革が推進されています。

それどころか、もはや政府はトリクルダウンという「言い訳」をする必要すら感じていないのかも知れません。


竹中氏が今回、トリクルダウンを否定しましたが、これは別に、

「トリクルダウンがあると嘘ついていました。ごめんなさいね」

とう話ではなく、

「トリクルダウンなど、あるわけがない。政府に甘えず、各人が努力せよ。負けたら、自己責任」


と、責任を「国民」に丸投げしたに過ぎません。

それにしても、中国が改革開放を推進した際、ケ小平は「人民」に対する言い訳として、トリクルダウン仮説の一種である先富論を持ち出しました。中国のような共産党独裁国であっても、勝ち組に優しい政策をする場合は、トリクルダウン仮説で「言い訳」をする必要があるのです。

ところが、日本ではもはやトリクルダウンという「言い訳」すらなされず、格差を拡大することが明らかな構造改革が推進されていっています。

この状況を「怖い」と思うのは、三橋だけでしょうか。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2016/01/11/mitsuhashi-345/

「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然 2016-01-06    

 さて、今さらですが、トリクルダウンとは何でしょうか?


 トリクルダウンとは、

「富裕層や大企業を豊かにすると、富が国民全体にしたたり落ち(=トリクルダウン)、経済が成長する」

 という「仮説」です。トリクルダウン「理論」と主張する人がいますが、単なる仮説です。


 上記は今一つ抽象的なので、より具体的に書くと、

「富裕層減税や法人税減税をすると、国内に投資が回り、国民の雇用が創出され、皆が豊かになる(=所得が増える)」

 となります。


 要するに、グローバリズム的な、あるいは新古典派(以前は古典派)経済学的な「考え方」に基づき、所得が多い層を優遇しようとした際に、政策を「正当化」するために持ち出される屁理屈なのでございます。


 ちなみに、大恐慌期のアメリカでは、財閥出身の財務長官アンドリュー・メロンが「法人税減税」を推進した際に、まんまトリクルダウン仮説が用いられました。 


 さて、現代日本において、トリクルダウンで安倍政権の法人税減税に代表される「グローバル投資家」「グローバル企業」を富ませる政策を正当化していたのが、みんな大好き!竹中平蔵氏です。


『「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/172701/1


 テレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」。

「激論!安倍政治〜国民の選択と覚悟〜」と題した1日放送の番組では、大田区の自民党区議が「建築板金業」と身分を隠し、安倍政権をヨイショするサクラ疑惑が発覚。「今年初のBPO入り番組」とネットで炎上中だが、同じように炎上しているのが、元総務相の竹中平蔵・慶応大教授の仰天発言だ。


 番組では、アベノミクスの「元祖3本の矢」や「新3本の矢」について是非を評価。

冒頭、「アベノミクスは理論的には百%正しい」と太鼓判を押した竹中平蔵氏。

アベノミクスの“キモ”であるトリクルダウンの効果が出ていない状況に対して、

「滴り落ちてくるなんてないですよ。あり得ないですよ」

と平然と言い放ったのである。


 トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論だ。2006年9月14日の朝日新聞は〈竹中平蔵・経済財政担当相(当時)が意識したのは(略)80年代の米国の税制改革だった。

その背景には、企業や富裕層が豊かになれば、それが雨の滴が落ちるように社会全体に行きわたるとする『トリクルダウン政策』の考え方があった〉と報じているし、13年に出版された「ちょっと待って!竹中先生、アベノミクスは本当に間違ってませんね?」(ワニブックス)でも、竹中氏は

〈企業が収益を上げ、日本の経済が上向きになったら、必ず、庶民にも恩恵が来ますよ〉

と言い切っている。


 竹中平蔵氏がトリクルダウンの旗振り役を担ってきたのは、誰の目から見ても明らかだ。

その張本人が今さら、手のひら返しで「あり得ない」とは二枚舌にもホドがある。

埼玉大名誉教授で経済学博士の鎌倉孝夫氏はこう言う。


「国民の多くは『えっ?』と首をかしげたでしょう。ただ、以前から指摘している通り、トリクルダウンは幻想であり、資本は儲かる方向にしか進まない。竹中氏はそれを今になって、ズバリ突いただけ。つまり、安倍政権のブレーンが、これまで国民をゴマカし続けてきたことを認めたのも同然です」(後略)』

 そもそも、トリクルダウンが成立するためには、絶対的に必要な条件が一つあります。それは、富裕層なり大企業で「増加した所得」が、国内に再投資されることです。前述の通り、トリクルダウンとは、富裕層や大企業の所得が「国内の投資」に回り、国民が豊かになるというプロセスを「仮定」したものなのです。


 現代の説明も、かなり抽象的ですね。

「トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論」

 まあ、それはそうなのですが、正しくは

「富裕層が富み、国内に投資がされる」ことで経済活動が活発になる

という話なのです。


 すなわち、資本の移動が自由化されたグローバリズムの下では、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。特に、デフレーションという需要不足に悩む我が国において。


 富裕層減税や法人税減税で、「富める者」の可処分所得を増やしたところで、「グローバリゼーションで〜す」などとやっている状況で、国内への再投資におカネが回ると誰が保証できるのでしょう。誰もできません。


 結局、企業は対外直接投資、富裕層が対外証券投資におカネを回すだけではないのでしょうか。特に、日本のように国内にめぼしい投資先がなく、国債金利が長期金利で0.26%と、異様な水準に落ち込んでしまっているデフレ国では。というか、国内における投資先がなく、民間がおカネを借りないからこそ、長期金利が0.26%に超低迷してしまっているわけですが。


 無論、国境を越えた資本移動が制限されていたとしても、トリクルダウンが成立するかどうかは分かりません。減税で利益を受けた富裕層や企業が、国内に投資せず、増加した所得を「預金」として抱え込んでしまうかも知れません。


「いやいや、貯蓄が増えれば金利が下がり、国内に投資されるので、トリクルダウンは成立する」

 などと学者は反駁するのかも知れませんが、長期金利0.26%であるにも関わらず、国内の投資が十分に増えないデフレ国で、何を言っているの? 頭、悪すぎるんじゃないの? という話でございます。現在の日本は、企業の内部留保までもが史上最大に膨れ上がっています。


 お分かりでしょう。トリクルダウンが仮に成立するとしても、その場合は、

「国境を越えた資本の移動が制限されている」

「デフレではない」

 と、最低二つの条件が必要になるのです。ところが、現実の日本はグローバル化を推し進めつつ、同時にデフレです。トリクルダウンが成立する可能性など、限りなくゼロに近いわけでございます。


 そんなことは端から分かっていたし、何度も著作等で訴えてきたわけですが、残念ながらマスコミの主流は

「トリクルダウン理論により、法人税減税は正しい」

という、「頭、悪すぎるんじゃないの?」理論が主流を占めていました。


 少なくとも、現在の日本において、トリクルダウン前提の経済政策は「間違っている」と、全ての国民が認識する必要があるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/


続 トリクルダウンはあり得ない 2016-01-07


 昨日は、単にトリクルダウン仮説について解説しただけで、竹中氏の「真意」には踏み込みませんでした。

そもそも、竹中平蔵氏はなぜ「トリクルダウンはあり得ない」と語ったのか。


 安倍総理は、年頭の記者会見において、フジテレビの西垣記者の「選挙に向けてこの半年、国会が今日から開く中、どういった目標を掲げていかれるお考えでしょうか」という質問に対し、

「将来の老後に備えて、あるいは子育てのためにも使っていくことになるわけでありまして、これは正に成長と分配の好循環をつくっていくという新しい経済モデルを私たちは創っていく。その「挑戦」を行っていかなければいけないと思います」

 と、答えました。


 「分配」という言葉を総理が使ったのは、初めてのような気がいたします。


 わたくしは昨年末に刊行した徳間書店「2016 年 中国・ユーロ同時破綻で瓦解する世界経済 勝ち抜ける日本 」において、


『安倍総理は2015年1月28日の参院本会議で、民主党の質問に答えるかたちで、

「安倍政権としてめざすのはトリクルダウンではなく、経済の好循環の実現だ」

 と、トリクルダウンを否定した。

 だが、実際に安倍政権が推進している政策は、消費税増税をはじめとする緊縮財政にせよ、法人税の実効税率引き下げにせよ、あるいは様々な構造改革にせよ、明らかに特定のグローバル投資家を利する政策ばかりだ。

 グローバル投資家に傾注した政策を推進しつつ、トリクルダウンを否定したため、筆者はむしろ総理が国内の所得格差の拡大を歓迎しているかような印象を受けたものである。

 すなわち、富裕層やグローバル投資家、大企業を優先する政策を打つ政権は、言い訳としてトリクルダウン理論を持ち出すのだ。

法人税減税や消費増税、構造改革など、国内の所得格差を拡大する政策を繰り出しつつ、トリクルダウンすら否定するのでは、余計に問題ではないだろうか。』


 と、書きました。


 朝生のを見た限り、竹中氏は別に、 「トリクルダウンはあり得ないんです。ごめんなさい」というニュアンスで「トリクルダウンはあり得ない」と語ったわけではないわけです。


 トリクルダウンなど起きえない。
政府の政策で富が「滴り落ちる」のを待っている方が悪い、

というニュアンスでトリクルダウンを否定したのでございます。

すなわち、格差肯定論としてのトリクルダウンの否定なのです。


 そもそも、トリクルダウン仮説は民主主義国家において、一部の富裕層や法人企業に傾注した政策をする際、有権者である国民に「言い訳」をするために編み出されたレトリックなのです。


「富裕層や大手企業を富ます政策をやるけど、いずれ富は国民の皆さんに滴り落ちるので、安心してね」

 というわけでございます。


 つまりは、政治家がグローバリズム、新自由主義的な構造改革、緊縮財政を推進し、国民の多数を痛めつける際に「言い訳」として持ち出されるのがトリクルダウン仮説なのです。


 竹中氏がトリクルダウンを否定したのは、構造改革を推進するに際し、国民に言い訳をする必要性を感じなくなったのか、あるいは言い訳するのが面倒くさくなったのかのいずれかでしょう。


「面倒くせえな。トリクルダウンなんてあるわけないだろ。

政府の政策で、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧困化し、それでいいんだよ。

どうせ、負けた奴は自己責任なんだから」


 と、一種の開き直りで「トリクルダウンはあり得ない」と竹中氏が発言したと確信しています。


 とはいえ、総理が「分配」と言い出したということは、竹中氏はともかく「政治家」にとっては、「トリクルダウンすらない構造改革、富裕層・大企業優遇政策」は、有権者に説明がつかないということなのだと思います。


「竹中氏がトリクルダウンを否定した。へ〜え。

つまり、あんた(国会議員)たちは富める者がさらに富み、貧困層はますます貧困化する政策を肯定するんだな?」

 という突っ込みを受けるのは、安倍総理とはいえどもきついでしょう。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12114721167.html


23. 中川隆[2192] koaQ7Jey 2016年4月01日 11:26:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2186]

「教育を与えない」が、体制にとって非常に重要な理由とは

インドではダリット(不可触民)というカーストがある。「人間ではない。それ以下だ」と呼び捨てられ、差別されている人たちだ。

(人間以下(Sub-human)と呼び捨てられて、生きている人たち)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120731T2334260900.html


彼らは今も安い労働でこき使われている。

女性は売春宿に売り飛ばされたり、排泄物の汲み取りや、動物の死体の処理など、人のやらない仕事を強制されていることが多い。

(人間の排泄物を両手で集めることを強いられた人たちがいる)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120923T0236040900.html


そんな彼らはまさにインドの隠された奴隷である。

ダリットは激しい差別を受けているのだが、その差別のひとつとして「教育を与えない」というものがある。なぜ教育を与えないのか。

教育を受けて、ものを考えられるようになると、自らの立場を「知る」ことになる。そうすると、社会がおかしいことに「気づく」。自然と「反抗心」が芽生え、現状を変えようと「立ち上がる」人間が出てくる。

そうなると奴隷状態に置かれていた人間が次々と「目が覚めて」しまって、奴隷制が維持できなくなる。だから、教育を与えない。支配者は、最終的に奴隷化する人から教育を奪い、無知なまま生きてくれたほうが都合が良い。

だから、教育を絶対に与えないのである。

教育を与えないというのは、体制にとって非常に重要

アフガニスタンやパキスタンでは、女性が教育を受けようとすると命を狙われる。学校が襲われて飲み水に毒を入れられたり、学校に通う女学生が撃たれたりする。

女性に教育を与えない。なぜなら、教育を受けることによって女性が目覚め、自分たちが抑圧されていることに気がつき、現状を変えようと立ち上がる人間が出てくるからだ。

そうすると、イスラムを「おかしい」という女性が出てくる。あるいは男尊女卑に疑問を持つ女性も出てくる。男女平等だと言い出し、女性が家長制度を脅かすかもしれない。

だから、女性には教育を与えず、考えることすらも禁じて現状が当たり前だと思わせておく。

それでも教育を受ける少女が出てきたり、教育の大切さを訴える「邪魔」な少女が出現する。そんなときは、マララ・ユスフザイのように撃たれたりする。

このような事件があると女性は萎縮し、無知であることに甘んじて声を失っていく。

私たちは部外者なので、イスラム国家の女性が奴隷化されていることは分かる。しかし、当のイスラム女性たちは、自分が奴隷化されていることに気がついていないことも多い。

子供の頃からイスラムに従順であることが当たり前になると、それが世界のすべてだから違う世界が分からないのである。部外者は分かるが、当事者は分からない。

だから「教育を与えない」というのは、体制にとって非常に重要であることが分かる。

教育は一部の人間、すなわち体制側の人間や為政者やエリートだけが受けていればいいのであって、一般大衆は「言われたことだけをロボットのように行う人間」であることが望ましい。

いちいち何かを考えて、体制側のシステムに立ち向かって反旗を翻すような人間が増えるのは望んでいない。むしろ、そんな人間が出ないようにしたいと考えている。

国民から教育を奪い取った方が都合が良くなった

イギリスの産業革命以降、先進国社会では国民に教育を与えることによって、他国よりも経済的競争力がついた。だから、為政者は他国よりも有利になるために、国民に対して教育を促進していた。

教育がつけば、より複雑な工業製品が作れるようになり、それが社会に恵みをもたらした。

そして、国が豊かになれば、為政者たちも豊かになる。だから、国民に教育を与えるにはすばらしいメリットを享受する施策であった。その流れはずっと続いて来た。

しかし、もう状況が変わった可能性がある。

グローバル化によってグローバル経済に参加する国では教育の平準化が行われて、どこの国でも労働者は一定の水準が保てるようになっている。

そのため、企業は自国の労働者に頼る必要がなくなった。そもそも先進国の高度な知識を持った人間は高賃金を要求するのでコスト削減には逆行するので使いにくい。

優秀であれば国籍を問わず経営者も雇えるようになったので、国民全員に教育を施すよりも、そういう人材を即戦力で雇った方がコストが安くなっているのだ。

労働者の質は平均化されているので、むしろ高度な教育のない安い賃金で雇える労働者の方が使いやすいと企業は考える。使い捨てできるからである。

国家も財源が不足するようになって、教育を与えるということが負担になっている。そして、国民に必要以上の教育を与えることによって、為政者に刃向かってくるデメリットのほうが大きくなっている。

誰もが高度教育を受けられるようになると、もう教育そのものが陳腐化して、強みにもメリットにもならない。だから、先進国では逆に国民から教育を奪い取った方が為政者にとっては都合が良くなりつつある。

奴隷に見えない。しかし、実は奴隷だった

下手に教育を与えると、国民はいろんなことを考えて「目覚めて」しまう。社会で自分たちの立場が為政者に抑え込まれていることに気付き始めて反抗を始める。

だから教育を与えているように見えて、教育の成果をどんどん奪っていくような社会構造ができあがる。具体的には、以下のような社会になっていく。

・学校をレジャー化させ、教育させない。
・テレビ・映画・映像に浸らせて考えさせない。
・スポーツ観戦に夢中にさせて考えさせない。
・セックス・ポルノに夢中にさせて考えさせない。
・ゲームに夢中にさせて考えさせない。
・ギャンブルを与えて夢中にさせて考えさせない。
・本を読ませず、深く考えさせない。

これによって教育を受けているように見えて実は教育をすべて打ち消し、結果的には国民は完全なる無教育の状態に戻されてしまうのである。

「考えさせない」環境をどんどん作り出して知能を劣化させ、結果的に無教育にしていく。これを「衆愚化政策」という。「パンとサーカス」を与えて関心をそちらに寄せておき、政治を転覆させないようにする手法だ。

この愚民化の風潮は止めることができるものだが、社会的にはまったく止められる兆候もなく、むしろ加速させられている。学校が衆愚政策によって学力低下を強化されている。

自然にそうなったのではない。学力低下、愚民の方向に誘導されているのである。

かつて「奴隷」と呼ばれる人間が存在していたことは誰でも知っている。途上国では、女性や貧しい人々が意図的に教育を奪われていることを私たちは知っている。

しかし、先進国に暮らす私たちも実は教育を奪われている可能性があるということには気付かない。外部から見るとその人は奴隷的な境遇だと分かるのだが、自分が当事者であると自分が奴隷だとは気付かないのだ。

「一見自由を与えられているように見える。奴隷に見えない。しかし、実は奴隷だった」

私たちは気がつかないうちに、衆愚政策で奴隷にされているのかもしれない。まさかと思うかも知れないが、嘘ではない。場合によっては、私たちはもう手遅れかもしれない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160401T0037520900.html


24. 中川隆[3180] koaQ7Jey 2016年7月07日 06:36:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3528]


2016-07-07
弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは階級社会の固定化


富裕層の子供と貧困層の子供は、生活環境が違う。富裕層の子供たちは心地良い環境で暮らすことができて、明日の食事の心配をすることもなく、親の資力を使って「良い学校」に通うことができる。

良い学校とは、子供たちの能力や学力を向上させてくれる思慮深い教師がいて、子供たちをバックアップする環境が教室にあって、安全で、清潔な学校である。

良い学校は、その環境を維持するためのコストがかかるので、それが学費に反映される。

だからこそ富裕層の子供しか通えない私学が存在し、そこで子供たちは生まれ持った能力をより良く向上させていくことができる。

貧困層の子供たちは親の財力からして、こうした「良い環境」の学校には入れない。そのため、近所の学費の安い学校に通うことになる。

こうした学校は多くが公立なのだが、欧米でも途上国でも同じく、公立学校というのは荒廃しやすい状況にある。

その理由は別に難しいことではない。教育にも弱肉強食の資本主義が取り入れられるようになって、教育の場は著しく荒廃していったのだ。

教育の現場に資本主義を取り入れて生まれた結果

アメリカの教育の環境が変わっていったのは1980年代以降であると言われている。

何が起きたのか。

この時代、アメリカの大統領となったロナルド・レーガンは、「新自由主義」の信奉者であり、「小さな政府」をスローガンにして政策を推し進めていた。

「小さな政府(リミテッド・ガバメント)」とは、政府の関与をどんどん小さくして、ほとんどのことは民間に任せるという政策を言う。

これによって民間ではダイナミックな競争が生まれ、その競争によって世の中が進化するのではないか、という思想がその根底にある。

レーガン大統領はこれを「レーガノミクス」と名付けて、すべての分野に当てはめていったのだが、教育もまたこの自由競争の中に放り込まれた。

その結果、公立学校では国からの補助金が削減されていくことになり、教師の賃金も下がり、学校の施設・備品も補充されることもなくなり、学校の環境はどんどん悪化していった。

給料が下がると、優秀な教師から消えていく。公立学校の予算が削減されていくのが既定路線になると、優秀な教師は最初から公立学校の教師にはなろうとしない。

教師の質が落ちると問題児も放置される。また優秀な生徒も問題児の影響を受けて学力が低下していく。そうすると、富裕層の親たちが子供をそこから引き上げて私立の学校に入れるようになる。

こうした流れが延々と続いた結果、1990年に入る頃になるとアメリカの教育の場は、荒れ果てた公立学校と、良い環境と良い教師が揃った私立学校と完全に分離するようになった。

教育の現場に資本主義を取り入れると、富裕層と貧困層の子供たちが分離する結果となったのである。


教育の格差は、子供たちのその後の人生は大きく左右することになる。


貧困層の子供たちは、スタートから出遅れていく

アメリカでは今、ケンブリッジ大学でも、マサチューセッツ工科大学でも、ハーバード大学でも、女子学生に対するレイプが多発していて問題になっている。

しかし、これは「あり得ないことが起きた」という反応ではなく、「いよいよ名門大学でも起きるようになった」という捉え方をされていることに注意すべきだ。

アメリカの最底辺の公立学校では、学校内でドラッグが蔓延し、レイプ事件が起き、時には銃撃事件も発生するほど荒れているのはよく知られている。

こうした底辺の学校の日常が「いよいよ名門大学にもやってきた」という捉え方なのだ。荒れた学校が存在し、暴力が恒常化しているのである。

貧困層の通う学校が荒れ果てて学力低下が止まらなくなるのは、別にアメリカだけの話ではない。イギリスでもフランスでもまったく事情は同じだ。

貧困層の子供たちが学力荒廃の流れに絡み取られてしまうのは、本人の資質を問う前に、劣悪な環境を問わなければならない。

教育に理解のない親兄弟、教育に適していない家屋、教育に適していない共同体、貧困による栄養不足や飢えが一度に子供たちに襲いかかってくる。

その上、教育に必要な書籍や備品も経済的な理由で揃えることができないこともある。飢えていたり、服装が粗末だったりすると、いじめに遭う確率が高まる。

そして、経済問題の悪化が知能を低下させる大きな理由になっていることも知られている。

(「お金がない」ということ自体が、知能を低下させる理由)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131009T0413150900.html

貧困層の子供というのは、「学ぶ」ということに対して、富裕層の子供よりも思った以上にハンディをかぶっているのだ。資本主義社会では体力ではなく知力が重要視されるので、貧困層の子供たちはスタートから出遅れる。


貧困層の子供というのは、「学ぶ」ということに対して、富裕層の子供よりも思った以上にハンディをかぶっているのだ。資本主義社会では体力ではなく知力が重要視されるので、貧困層の子供たちはスタートから出遅れる。


弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは階級社会

日本では1990年から明確に経済が衰弱していくようになり、じわじわと貧困層が生まれて来た。

それが社会で見えるようになっていくのは2000年に入った頃だが、本来はここで対策を打たなければならなかったのに、当時の小泉政権がしたのは真逆の政策だった。

小泉政権は貧困層を支援するのではなく、むしろ「新自由主義」という弱肉強食の資本主義を取り入れて、貧困層を思いきり見捨ててしまった。

小泉政権時代、経済財政政策を担当していた竹中平蔵という男はロナルド・レーガン大統領が行った「小さな政府(リミテッド・ガバメント)」の政策をそのまま日本に持ち込んで、教育も含めてすべてを民間の競争の渦に放り込んだ。

こうしたことから、日本でも明確に教育の劣化が起きるようになっている。この流れは止まらないと考えられている。

日本でも公立学校は荒れ、高い学費の私立学校が好環境になるという二極化になりつつあり、現職の教師もこうした現状に警鐘を鳴らしている。

やがては日本も貧困層の子供たちは学力が低いまま放置されて、永遠に資本主義の底部に押し込められることになる。

親の財力で子供の将来が決まるというのは、言うまでもなく「貧困の固定化」を生み出す。つまり、貧困層の子供は貧困層に、富裕層の子供は富裕層になる社会の誕生だ。

名門大学の学費は異様なまでに高くなり、すでに金持ちしか通えないのが現実だ。

富裕層の子供は学力がなくてもコネで名門大学に入ることができるようになり、逆に貧困層の秀才は学力があっても経済力がないので名門大学に入れない。

弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは、もがいてもあがいても抜けられない底知れぬ階級社会である。

世界はグローバル経済に覆われ、そのグローバル経済の正体が弱肉強食の資本主義であるのであれば、全世界が階級社会に向かっているということになる。

貧困層の子供は貧困層、セックスワーカーの母親の娘はセックスワーカーという途上国で見られた構図は、今後は先進国も含めて全世界で当たり前になるのかもしれない。


世界はグローバル経済に覆われ、そのグローバル経済の正体が弱肉強食の資本主義であるのであれば、全世界が階級社会に向かっているということになる。弱肉強食の資本主義が最後に生み出すのは、もがいてもあがいても抜けられない底知れぬ階級社会である。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160707T0251420900.html


25. 中川隆[3181] koaQ7Jey 2016年7月07日 06:38:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3529]

2013-10-09
「お金がない」ということ自体が、知能を低下させる理由


知能とは、何か。

知能とは、認知や、記憶や、判断や、予測や、思想や、仮説を組み立てるような能力、さらには人生設計の計画や、準備等を含めた、知的活動をする上での土台となるものだ。

もちろん、知能は低いよりも高い方が良いに決まっている。だから、知能を伸ばすための教育は子供に欠かせない。

しかし、知能を伸ばすための環境は、全員がきちんと整っているわけではない。本来はもっと知能を伸ばせる人であっても、環境が整わずに知能の発達が抑えられるケースは多い。

アフガニスタンでは多くの女性たちが「学ぶ」機会そのものを奪われている。環境が整わずに、本当は非常に聡明な少女が、潜在能力を発揮されないまま人生を終えることもある。

ソマリアでは多くの子供たちが戦乱に巻き込まれて「学ぶ」機会を奪われている。

環境が整わずに、子供たちは一生無学のままで暮らす。字も読めず、計算もできない。

「あなたが金を失うと、知能も一緒に失う」という現実

知能が人よりも低下している場合、私たちはそれは環境が悪いとか、教育を受けさせない社会が悪いと推測する。それは知能を低下させる重要な要因なのだが、実はそれだけではないことが最近、分かった。

サイエンスという科学雑誌に2013年8月30日に掲載された1つの論文が波紋を呼んでいる。

この論文では、インドやアメリカでいくつかの実験が行われたのだが、「知能テストの結果と、収入の多寡」には明確な相関関係があったことが証明されたのだという。

インドのサトウキビ栽培を行う農家を対象にした実験からは以下のことが分かった。

収入が多い時は、知能テストの結果は良い。
収入が少ない時は、知能テストの結果は悪い。

さらに、普通のアメリカ人のボランティアを対象にした実験からは以下のことが分かった。

所得の高い人は、知能テストの結果は良い。
所得の低い人は、知能テストの結果は悪い。

この2つから見えてくるのは、このような結論だ。

「金が乏しくなれば、知能が落ちる」
「金が増えれば、知能が伸びる」

つまり、こういうことだ。「あなたが金を失うと、知能も一緒に失う」ということなのだ。

貧乏になると、考えが浅くなってしまうのである。


誰でも、状況によってその知能が下がってしまう

知能は、一定ではない。どんなに知的な人でも、状況によってその知能が下がってしまう。

端的に言うと、金が乏しくなってしまったら、多くの人は頭が回らなくなってしまうのである。これは、経験則として誰もがうなずけるものではないだろうか。

金がなくなると、当然、それに付随していろんな面で生活が危機に直面する。

家賃はどうするのか。食事はどうするのか。光熱費はどうするのか。家族はどうなってしまうのか。仕事はどうしたらいいのか、今月は乗り切れるのか、こんなことでいいのだろうか……。

金が乏しくなったというのは、それ自体が問題なのではない。それが全方位に渡って生活に悪影響を及ぼすことになり、その対応とストレスで頭がいっぱいになってしまうのが問題なのだ。

そこまで追い込まれなくても、金が乏しくなればなるほど、心配事が膨らんでいく。それに気を取られると、もはや知的活動などしている場合ではなくなってしまう。

あまりに心配事が膨らむと、考えることすらも億劫になっていく。考えても金が増えるわけではないので、考えが堂々巡りしてしまい、脳を極度に疲れさせてしまう。

そして、心配事があると仕事に集中できない。そんな状態なのだから、知能が伸びるはずがない。

「貧乏になると、考えが浅くなってしまう」

それは、今まで私たちが経験則で知っていたことだ。実験の結果、それがほぼ間違いないことを科学が証明した。


生まれながらにして知能の格差が生まれる

私たちは先進国に生まれ、先進国で育って来た。

先進国では、ほとんどの子供は「金の有る無し」で悩まず、知能を存分に伸ばす環境で育つことが可能だ。それは、恵まれたことだった。

新興国、後進国の子供たちの中には、生まれながらに貧困の中にある。

「今日の空腹をどう乗り切ればいいのか、明日は生きていけるのか」というギリギリのところで、ストレスを感じながら暮らしている。

富裕国と貧困国、富裕層と貧困層の子供たちには、生まれながらにして知能の格差が生まれる。それは、環境ではなく、「貧困そのもの」が生み出していたのだ。

私たちは、貧困の中で優れた文学や研究や美術を残した人々を数多く知っている。

だから、貧困が知能を完全に破壊してしまうものではないことも気付いている。

しかし、一般的な傾向で言えば、貧困は知能にまでダメージを与えることの方が多い。誰もが貧困に落ちても天才的な知能を保ち続けられるわけではない。

普通は、経済的な困窮が人々を肉体的にも精神的にも追い詰め、結果として知能にダメージを与えることになる。

すぐれた才能、優れた知性、優れた感性を持っている人であっても、貧困によってその芽が押しつぶされてしまい、本来の能力を発揮することもできないことの方が多い。

生きるために実りのない仕事を続け、ただ生活に追われるだけの人生になって終わってしまう。


映画『ライムライト』の中でチャップリンが言ったこと

「人生には、勇気と想像力、それとほんの少しのお金があればいい」

映画『ライムライト』の中で、人生がうまくいかなくなって絶望した若い女性に、老いたチャップリンは、そのような癒やしの言葉を送った。

ほんの少しのお金……。

それが重要だというのは、絶望的な貧困の中で少年時代を送ってきたチャップリンが気付いていた重要な真理でもあった。

貧困国の底辺であえぐ人たち、あるいは先進国の格差の下層に落ちてしまった人たちは、実は、その「ほんの少しのお金」を手に入れるのが難しい。

そのために、想像を超えるような苦難の人生を送ることになってしまった人たちもたくさんいる。

期せずして、貧困国をさまよい歩いていた私は、そういった人たちの苦難の姿を、もうこれ以上は耐えられないというほど見てきたし、それはある意味、私のトラウマにもなってしまっている。

貧困に堕ちた女性の涙が忘れられない。

だから、私は政治が間違った方向に向かっていき、ごく普通の人たち、とくに女性たちが貧困に堕ちるかも知れない状況が恐くて仕方がない。

貧困に堕ちていくと、余裕を失い、やがては考えることもできなくなる。知能は格段に低下する。そして、それがゆえに抜けられなくなる。

負のスパイラルがそこに発生する。だから、どんなことがあっても、「ほんの少しのお金」を死守できるように、準備しておいて欲しいと思う。

映画『ライムライト』。貧困の中で、寄り添い、助け合うふたり。「人生には、勇気と想像力、それとほんの少しのお金があればいい」。しかし、その「ほんの少しのお金」を持ち続けるのが、貧困に堕ちた人たちにはとても難しい。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131009T0413150900.html


26. 中川隆[4341] koaQ7Jey 2016年10月06日 11:31:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4750]

 現在の富裕層は自分たちが「社会の一員」だとは考えていない。

情報と富を独占し、庶民を支配、税負担を押しつけようとしている。

日本政府が学校に予算を割かない目的は、庶民から学ぶ権利を奪うことにあるのだろう。

教育には洗脳という側面があるものの、学問する庶民は富裕層にとって邪魔な存在。

自分たちの幻術が見破られてしまう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610040000/


2016.10.06
NYTはトランプが連邦所得税を払っていないと報じたが、クリントンも同じ手法を使っている悲喜劇


 ニューヨーク・タイムズ紙はドナルド・トランプが1995年に約9億1600万ドルの損失を申告、18年間にわたって連邦所得税の納付を逃れられた可能性があると報じた。

 ほかの有力メディアと同じように同紙はネオコンの影響下にあり、今回の大統領選挙ではヒラリー・クリントンを支持している。そのクリントンへの援護射撃のつもりだったのかもしれないが、そのクリントンも同じ手法を使って「節税」していることが判明した。ニューヨーク・タイムズ紙も同じことをしているようだ。つまり、問題はトランプ個人にあるのではなく、富裕層に有利な仕組みになっている税制にあるのだ。

 現在のアメリカが富裕層や巨大企業の租税回避に最も熱心な国だということは本ブログでも紹介したことがある。2010年にアメリカではFATCA(外国口座税務コンプライアンス法)が発効、アメリカ以外の国の金融機関はアメリカ人の租税や資産に関する情報をアメリカ側へ提供する義務を課されたのだが、その一方でアメリカは自分たちが保有する同種の情報を外国へは提供しないことになっている。この法律によって、アメリカは世界一のタックス・ヘイブンになったのである。

 そうしたことから、ロスチャイルド家の金融持株会社であるロスチャイルド社のアンドリュー・ペニーは昨年9月、サンフランシスコ湾を望む法律事務所で講演した中で、税金を払いたくない富豪は財産をアメリカへ移すように顧客へアドバイスするべきだと語ったわけだ。

 かつてはスイス、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、ベルギー、モナコなどがタックス・ヘイブン(租税回避地)として有名だったが、1970年代からイギリスのロンドン(シティ)を中心とするオフショア市場のネットワークが人気を博した。ロンドンのシティを中心に、ジャージー島、ガーンジー島、マン島、ケイマン諸島、バミューダ、英領バージン諸島、タークス・アンド・カイコス諸島、ジブラルタル、バハマ、香港、シンガポール、ドバイ、アイルランドなどがネットワークで結びついている。信託の仕組みを利用して資金を闇の中に沈めている。

 現在の富裕層は自分たちが「社会の一員」だとは考えていない。情報と富を独占し、庶民を支配、税負担を押しつけようとしている。日本政府が学校に予算を割かない目的は、庶民から学ぶ権利を奪うことにあるのだろう。教育には洗脳という側面があるものの、学問する庶民は富裕層にとって邪魔な存在。自分たちの幻術が見破られてしまう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610040000/


27. 中川隆[4342] koaQ7Jey 2016年10月06日 11:37:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4751]

2016年08月30日
クリントン「嘘つき夫婦」の評判 公私混同と虚言癖

夫婦は人を騙す事と、うまい言い訳で破綻を回避する事に関して天才的だった。
http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/d/5/d5b30669.jpg

クリントン財団による政府私物化

大統領選に出馬しているヒラリークリントンは、共和党のトランプに5%ほどリードしているがメール問題を抱えている。

公務に自分用メールアドレスを使用していたという、どうでも良い疑惑なのだが、実はどうでも良くなかった。

ヒラリーは私用メールを使うことで秘密の情報を交換し、政府や国務省を私物化し、私服を肥やしていた。


メール問題は公的メールと私用メールの混同という倫理の問題ではなく、もっとドロドロした背景があるのが分かってきました。

ビルクリントン大統領とヒラリー夫妻はクリントン財団という慈善団体を運営し、慈善活動を行っている。

ところがアメリカの慈善財団は営利事業なのに非課税なので、金持ちはみんな財団を作って脱税しています。


ビルゲイツとかバフェットとか、古くはフォードとかカーネギーとか、みんな脱税と資産保護のための財団です。

慈善財団は集めた金を寄付しているわけではなく、集めた金で営利事業を行い、利益の一部を寄付しています。

仮に「トヨタ財団」は10兆円を売り上げても、1000億円くらい寄付すれば非課税になる、というような仕組みです。


実際には製造業の慈善財団なんか認められないが、投資事業は非課税なのです。

クリントン財団も慈善事業の仮面をかぶった脱税組織で、夫妻の金づるで政治資金源でした。

娘のチェルシーが財団の責任者をしていて、事実上「大統領ビジネス」で稼いだ金を蓄財するシステムになっている。


公務で私服を肥やしたクリントン夫妻

ビルクリントンが最初に大統領になったころ、無一文に近かったが、今は富裕層の仲間入りをしました。

ビルが大統領を辞めた頃や、ヒラリーが国務長官だった頃も、この財団にせっせと稼いだ金を集めていた。

てっとり早くいうとヒラリー夫妻は「アメリカと関係を持ちたければ財団に寄付しなさい」という態度を取ってきた。


舛添東京都知事は公私混同でクビになったが、彼でさえ「東京都と交渉したければ妻の会社に寄付しなさい」とは言わなかったでしょう。

それをやったのがヒラリークリントンで、国務長官の地位を悪用して、アメリカ外交と自分の財団への寄付を交換条件にしていた。

この秘密のやり取りのためには公的メールではまずかったので、私的メールアドレスを利用していた。


クリントン財団への寄付はクリントンへの政治資金提供だったが、人助けでやっているように装っていた。

クリントン国務長官はクリントン財団の重鎮であるブルーメンソール氏を利用し、財団にとって有利な情報をメールで交換した。

クリントン財団は外国から(恐らく中国からも)寄付と言う賄賂を受け取って、国務長官(外務大臣)として便宜を図った。


これはもはや日本では「スパイ」「売国奴」と呼ばれるレベルで、逮捕されていない事がおかしい。

ヒラリーはブルーメンソール氏を国務省の役職につけて自分の近くに置きたいと考えたが、不審に思ったオバマに拒否された。

ヒラリーとブルーメンソールは何万件もメールをやり取りしていたが、彼の役割りはクリントン財団に利益をもたらす事で、アメリカに利益をもたらす事では無かった。


天才嘘つき夫婦

こうした事が公開されたメールによって国民にも知られていき、「嘘つき夫婦」のレッテルを貼られる事になった。

民主党の嘘つき夫婦に対抗するのは共和党のトランプ氏で、本来なら政敵のスキャンダルで楽勝なのだが、余計な暴言でリードされている。

クリントン夫妻は嘘をつくのが天才的にうまく、もはや超能力者かと思えるほど、良い言い訳をする。


大抵の嘘つきは一つの嘘を隠すためにいくつもの嘘をつくと、辻褄が合わなくなって崩壊するが、彼らは違う。

例えばビルクリントンの後に共和党のJブッシュが大統領になったが、大半の時期を不人気で過ごした。

9.11を防げなかったとか、イラクが核を持っていると言ったのになかったとか、リーマンショックを起こした事で批判されていた。


だがこれらのどれも原因を作ったのは、前の大統領のクリントンで、Jブッシュは後始末をさせられたのだった。

9.11は移民規制緩和が原因だったし、イラクや北朝鮮を野放しにしたのもクリントン、リーマンショックはクリントンのバブル経済が原因だった。

Jブッシュは言い訳が下手で、すぐ怒って下手な事を言い、嘘はすぐにばれていた。


きっとクリントン夫妻が大統領だったら、9.11やリーマンショックでも、自分には責任が無いかのように、うまく言い逃れたでしょう。

2012年9月11日にリビア東部のベンガジで米領事館がテロリストに襲撃され職員3人が犠牲になった。

大統領はオバマで国務長官はヒラリーで、前もって襲撃の危険性を察知して警告していたが、彼らは重視しなかった。


事件後にヒラリーは襲撃がテロリストではなく、「頭のおかしい怒った群衆」に突発的に襲われたのだとでっち上げた。

その後ヒラリーの嘘はばれて大統領選で落伍しそうになるが、次々に上手い言い訳を連発して窮地を脱した。

この天才嘘つき夫婦が再び大統領になり、ホワイトハウスを支配したとき、世界はどうなるのだろうか。
http://thutmose.blog.jp/archives/65419625.html


2016年09月02日
アメリカの闇 政治を金で買う超富裕層


大統領を当選させるには政党全体で1500億円は集める必要がある。
勝負を決めるのは大企業や大資産家の献金


金で政治や外交を販売する国

アメリカ大統領選で政治と金のスキャンダルが次々に暴露されている。

企業や投資家が選挙に投資して、政治を買っているが問題はそれが違法ではなく、合法な点です。

仮に安倍晋三氏や岡田克也氏が有名企業や資産家から、多額の献金を受けて、彼らに優遇税制を作ったら日本では犯罪です。

だがアメリカではあからさまに政治献金し、見返りにその人を無税にしても、完全に合法なのです。

むし違法だったらばれたら取り締まるので問題は小さいのだが、分かっているのに誰も止められない。

調査によると過去の大統領選の政治献金の多くを、少数の資産家と企業が拠出していたそうです。


全米で上から100人の金持ちと企業を並べていけば、その人たちに間違いないでしょう。

アメリカでは有権者やスポンサーが多くの献金をしていますが、そんなのは選挙に影響しないのだった。

最近10年ほどの選挙では民主党が圧勝を続けたが、資金集めでも圧勝していました。


オバマ大統領が2回目の大統領選で使った選挙資金は6億ドル(600億円)とされていて、この多くは例の少数の資産家と企業が出しました。

例えばビルゲイツの資産はもうすぐ10兆円を超えますが、4年に一度たった数億円を寄付するだけで、あらゆる税金が免除されるのです。

オバマもヒラリーも、どんな手段を使ってでも自分のスポンサー達の資産を守るでしょう。


政治献金すれば税金免除

有名な投資家JソロスやWバフェットは民主党を支持し、ゲイツとジョブズ家も民主党を支持していました。

こうした金持ちが支持するという事は、多額の献金をするという意味でもあります。

スタバ創業者、マードック氏、フェイスブック創業者などが「公式に」民主党に寄付しています。


表向きの寄付金額は数百万円から数億円なのだが、全てを明らかにしていないのは、日本の政治献金と同じでしょう。

例えばクリントン夫妻は15年間で150億円の講演料を受け取り、年間50時間ほど講演した事になっている。

仮にヒラリーやビルが「最近の天気の話」をしたとしても、実際には講演料ではなく政治献金なのだから、誰も文句を言わなかったでしょう。


クリントン夫妻は元大統領と現国務長官の地位を利用して、アメリカの外交を外国に販売していた。

例えばロシアの原子力企業が米政府の認可を必要としたとき、クリントン財団に2.5億円寄付したら認可された。

日本の政治家は政治パーティーを主催してパーティー券を販売しますが、アメリカでも同じ事をしています。


1枚数百万円のチケットを販売し、支援者に買ってもらって事実上の政治献金を受けています。

オバマが2回目の大統領選で6億ドル集めたと書きましたが、民主党全体では15億ドルくらい集めました。

アメリカの法律では一人が50万円くらいしか寄付出来ないし、企業献金は禁止されているが、抜け道が用意されている。


献金団体に寄付して、献金団体が民主党や共和党に寄付すれば、無制限でいくらでも献金が可能です。

献金者の名前は公表されるが、「AさんがBさんに依頼して、Cさんの名前で献金」などのテクニックで、いくらでも誤魔化せる。

大統領選だけでなく、州議会選挙から市会議員選挙まで、アメリカは全てこうであり、献金を集めなければ当選出来ない。


という事は当選した政治家は多額の献金者に借りができるので、何かの形でお返ししなければならない。

そのお返しとは資産家の納税額を低く抑えることで、大抵の資産家は税金を払っていません。

アメリカの長者番付の上位100人くらいは、まったく納税していないか、ほとんど納税していないかのどちらかです。
http://thutmose.blog.jp/archives/65502675.html


28. 中川隆[4343] koaQ7Jey 2016年10月06日 11:40:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4752]


バフェットの2面性 庶民を装う超富裕層の素顔


「主食はアイスクリームだよ」と女性記者を笑わせるバフェット。
マスコミを操るのがとにかく上手い。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/5/4/543a49f8.jpg

バフェットは個人投資家ではない

投資家のWバフェットは資産数兆円を持つ超富裕層だが、自分を庶民だとアピールしている。

例えば愛車が中古のオンボロ車だとか、住宅も普通の家だとか、食べているものも皆さんと同じだと言っている。

主食はアイスクリームやお菓子だとも言っているが、彼を神として崇拝する人の中には、真に受ける人がいる。


   

いつか見たニュース記事では、パソコンを所有しておらず、彼のデスクにはPCが無いと写真付きで説明させれていた。

本当に机の上にはPCが無いのかも知れないが、バフェットは数多くの嘘で自分を飾っている。

まずWバフェットは個人投資家と紹介され、自分でもそう名乗っているが、本当の職業はヘッジファンド経営者です。


バフェットが「○○に投資した」と話すのは、自分の金ではなくバークシャーハザウェイに客が預けた金を投資したという意味です。

ヘッジファンドの収益は客から預かった資金を投資して手数料を取る事で、投資に失敗しても手数料を取るのです。

成績に応じて報酬を取り、損をしたら手数料は取らない、などというヘッジファンドはない。


もちろん損失を出したヘッジファンドに投資する人は少ないので、長期的には損を出せば経営が悪化します。

だが短期間とか個別の投資に限れば、客が損をしようが破産しようが、ヘッジファンドにはどうでも良い事です。

有名な銀行に勤めていた日本人有名ディーラーの口癖は「しょせん他人の金、俺には関係ない」だったそうですが、これが業界の常識です。

バフェットは税金を払わない

バフェットは自分の金も投資していたでしょうが、資産を増やした利益の大半は、他人の金を投資した手数料で得ました。

これはもう「個人投資家」なんかではなく、ヘッジファンド経営者と呼ぶべきでしょう。

個人投資家がバフェットの投資法や言動を研究して真似していますが、上手く行くとは思えません。


バフェットはリーマンショックの頃、盛んに「富裕層」や「投資銀行」「ウォール街」を攻撃して、自分は庶民の側なんだと言っていました。

例えば投資銀行のマネージャーが年収数百億円を受け取っているのを、厳しく避難していました。

あるいは富裕層の税金のがれを批判し、増税するべきだとも言っていました。


だが2011年の資料では、バフェットは3980万ドルの収入に税金690万ドルしか払っていない。

1割以上払っているのだが、バフェットの本当の収入はどう考えても、この10倍か50倍はあるのです。

収入のわずか1%程度しか税金を払っていない事になるが、資産の大半を再投資して現金を受け取っていないからです。


毎年収入のほとんどを再投資して現金を受け取らなければ、資産は増えていくのに1%しか税金を払わなくて済むのです。

米連邦法ではこのような行為を行ってはならないと書かれているが、実際には形骸化され、日本の軽犯罪法みたいになっている。

メディアの調査では、バフェット自身が税金をほとんど払っておらず、これから払う気も無いのに「富裕層は税金を払え」と訴えている。


バフェット個人だけではなく、経営するヘッジファンドもほとんど納税していなかった。

バークシャーハザウェイは利益の約10%の税金を納めたが、売上ではなく利益の10%というのは、非常に少ない。

多くのの製造業では利益の半分以上納税をしているのを考えれば、何も払っていないに等しい。


それは法律を上手く利用しているとして、もっと上手く利用しているのが息子への資産相続です。

バフェットは自分の資産全てを慈善事業に寄付すると言っているが、それでいて資産の全てを息子に相続させるのです。

ビルゲイツなどアメリカの金持ちは皆やっているが、慈善事業財団を創設して資産を寄付すると非課税になります。


パソコンを使わず昔ながらの方法でトレードしていると説明するバフェット。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/7/9/79e87924.jpg

山菜が取れる場所は他人に教えない

息子は財団の理事長に就任し、毎月数億円の配当金を受け取り、財団のオーナーになります。

実質的に親父の資産を非課税で相続し、毎月少しずつ受け取れる仕組みです。

慈善財団とはお金を寄付するユニセフみたいな事ではなく、事業をして金を稼いで、稼いだ金の一部を寄付しています。


だからバークシャーハザウェイが恐らく慈善団体になり、息子と娘が理事や理事長になり、重役達は役員になるでしょう。

もし財団が解散するときは理事達は出資比率に応じて、財団の資産を受け取ります。

この時は課税されますが、直接数兆円を相続するよりは少ないでしょう。


これがバフェットが言っている慈善事業で、利権事業でもあるのが分かります。

バフェットは他の投資家のように自分で本を書いて投資指南はしていないが、多くのバフェット本が出版されている。

投資家は自分が稼ぐ手法を決して他人に教えたりしないのは、山菜取り名人が山菜のありかを教えないのと同じです。


バフェットが一般の人に教えているのは長期投資で、価値のある株を安く買えば必ず値上がりすると言っている。

こんなのは「山菜を取ってくれば必ず食べれる」と言うのと同じで、教えにもなっていない。

コカコーラやマクドナルドに集中投資して長期間保有する欠点は、もし当てが外れたらもう取り返しがつかない事です。


バフェットは宝の山を見つけられるが、同じ方法を真似した人は、ゴミの山を掘り当てるのがせいぜいでしょう。
http://thutmose.blog.jp/archives/65032607.html  


2015年06月25日
投資の神様・バフェットの真似をしても損する理由


「ハンバーガーが安ければ買うでしょう。株も同じです」と言うのだが


バフェットは最も優秀で最も成功した投資家で、多くの投資指南では彼の手法を見習うべきだとされている。

だが日本人がバフェットと同じ事をしても、まず失敗する。

バフェットの必勝法と矛盾

世界で最も成功した投資家はアメリカ人のウォーレン・バフェットで、資産は5兆円とも言われている。

彼の投資法の信奉者は多く、投資の王道の一つとされている。


だがバフェットの投資法を模倣しても、他の投資家と同じように9割の人は人生トータルでは投資で損をする。

正しい投資法を実行しているのに、どうして多くの人が負けるのか不思議な気がします。

バフェットの投資理論の多くは、第二次大戦後のアメリカでしか通用しないのだが、その理由をこれから説明します。

バフェットの成功は彼自身の優秀さや正しさ以外に、多くの偶然にも支えられていました。

バフェットの誕生日は1930年8月30日で第二次大戦が終わったとき、15歳の頃には投資を始めていました。

父親は地元では成功した株のディーラーで、州議会議員も勤めた名士でした。

アメリカの大恐慌は1929年10月24日に発生し、丁度バフェットガ生まれる1年前で、既に昔話になっていました。

大恐慌直前には1929年9月3日にダウ平均株価381ドルの史上最高値をつけていました。

ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰し、あらゆる評論家や経済学者全員が「これからも株価は上昇する」と断言しました。

しかし最高値をつけた3年後の1932年7月8日にダウ工業株平均が41ドルと、ほぼ10分の1にまで下落してやっと大底を打った。

これが第二次世界大戦の原因になる世界不況を作った大暴落なのだが、第二次大戦前には、株の暴落は珍しくは無く、優秀な投資家は皆「空売り」で儲けていた。

世界恐慌までのアメリカは自由貿易主義、自由経済主義のような事を唱えていて「経済は放置すれば完全な状態に保たれる」と思われていた。

大恐慌が始まっても「市場の作用」によって自動的に立ち直ると考えられていたので、誰も何の対策もしませんでした。

こういう時代では明らかに、バフェットの投資法は通用しません。

そして日本を始めアメリカ以外の多くの国では、大恐慌時代のアメリカのような投資状況なのです。


恐れを知らない投資家

大恐慌の結果アメリカは「自由経済なんか嘘だ!」という事を学び、市場や経済を管理する「管理経済」に移行しました。

自由放任でうっちゃらかしから、管理して乱高下しないよう調整する事にしたのです。

この変化によって大戦後のアメリカでは株式相場は「必ず上がるもの」になり暴落は滅多に起きなくなり、しかも下落幅は戦前より小さくなりました。

「もう株の暴落を起こさない」のがアメリカ政府の政策であり公約になったのです。

この時颯爽と株式投資に参加したのが10代のバフェットでした。


バフェット以前にもアメリカには投資の天才が星のように存在しましたが、彼らは「株は暴落する」という考えを捨て切れませんでした。

日本でもバブル崩壊を体験した世代の投資家は、「土地は値下がりしない」と言われても信用しないと思います。

大恐慌では株が10分の1になった訳で、市場崩壊を目の当たりにした戦前投資家は、政府を信用しませんでした。

バフェットは戦前投資家とは違い、アメリカ政府を100%信用した上で投資しています。

「アメリカは永遠に世界のリーダーである」「株は暴落せず、永遠に値上がりし続ける」といった事がバフェット投資の前提になっています。

バフェットがもし15年か20年ほど早く生まれていたら、株を始めたころに大恐慌に遭遇してしまい、脳味噌を焼かれてしまったでしょう。

毎日毎日株価が下がり続け、3年後に10分の1になったら、彼も投資から手を引いて別な仕事をしたかも知れません。

戦前の投資家は大恐慌で脳を焼かれてしまい、株が暴落する恐怖から、値上がりした株を直ぐに手放しました。

バフェットは株が暴落するのを見た事が無いので、株を持ち続けました。


為替変動の影響が無いアメリカ

先ほど「日本を始めアメリカ以外の多くの国では、大恐慌時代のアメリカのような投資状況」だと書きました。

日本では第二次大戦後も、株は上がり続けるものではなく、定期的に暴落が起きています。

暴落の原因のほとんどは、為替変動やオイルショックなど外部の要因から来ています。

ところが世界で唯一、為替相場の影響を受けない国があり、機軸通貨のドルを発行しているアメリカです。

為替変動はドルに対して乱高下する事で打撃を受けるので、アメリカだけがドルに対して変動しません。

日経平均株価を見れば、円高で下がり円安で上昇するのがはっきり分かる。

投資家がいくら正しい判断をしても、円高になればまったく無意味で、株価は一律に下落していきます。

東北地震の後でドル円レートが70円台まで円高になりましたが、天変地異や世界経済危機の度に円高になるのも特徴的です。

アメリカでは9.11など悪いニュースがあればドル安になり、むしろ輸出では有利になるが、日本は円高になります。

日本の複雑怪奇な為替と株の市場では、バフェットの理論は残念ながら通用しません。

バフェットは良く講演で次のような言葉を話します。「株は一度も下がった事が在りません。保有し続ければ必ず儲かるのです。」

「ハンバーガーが安ければ買うでしょう。株も同じです。さあ買いましょう。」

彼が日本人なら決してそう言わないでしょう。


成功した投資家の大半がアメリカ人

バフェットは年率22%のペースで資産を1949倍の6兆円に増やした。

バフェットの投資法の根幹になっているバリュー投資法は、価値のある会社を見つけたら、買って買ってとにかく買いまくる。

早く言えばこういう事で、マクドナルドやコカコーラが有名です。

コカコーラには価値があり、しかも割安だと判断したら、買い続けて株価が上がって資産が増える。

日本では通用しそうに無く、しかも日本人がアメリカの株を買っても、為替変動の影響を受けるので、日本株を買うのと同じリスクを負う。

バフェットが来日したとき「日本には永続的価値のある会社が1社もなかった」と言いましたが、コカコーラ方式では日本では存続し得ないのです。

世界の著名投資家のほとんどがアメリカ在住や出身者で、アメリカ人がいかに投資環境で恵まれているか分かる。、


外国人がアメリカ人のように投資しても、基軸通貨ではないので、いつか為替でやられてしまう。

現代の世界三大投資家ソロス・バフェット・ロジャーズは3人ともアメリカで成功した人です。

「事業」ではなくいわゆる金転がしの意味の「投資」では、世界の著名投資家の9割までをアメリカ人が占めている。

大半はバフェットと同様に「買って買って買いまくった」結果資産を急増させた人たちです。

ジョージソロスは「ショート」つまり空売りで有名ですが、インタビューで「生涯通産で利益を上げたのはロングだけ」と言っています。

投資の魔王のようなソロスですら、アメリカ以外では通用しなかった可能性があるのです。

株を買って保有し、利益が出たらまた買い増すという方法は、アメリカ人にしか実行できません。

他の国の人が同じ方法を取っても、いつか為替変動や外部要因の暴落でやられてしまうでしょう。
http://thutmose.blog.jp/archives/35127740.html


29. 中川隆[4344] koaQ7Jey 2016年10月06日 11:41:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4753]

強いものが勝つ

海外でカジノをやっていて、確信することがある。強いものが勝つ。

 強いかどうかの物差しは、確率に対する習熟と、1回の掛け金がどれほど当人にとって「大したことがないか」による。たとえ5億円を手元に持っていても、所詮カジノを経営する側の資金力にはまったくかなわない。だからハウスが必ず総体として勝ち、税金も払えるようになっている。

 あなたがもし、100人から1万円ずつ合計100万円を集め、1等の当選金は60万円、それ以外は胴元の手数料という商売を刑法改正後に始めたら、それだけで生活が成り立つだろう。そもそも、博打(ギャンブル)には2種類ある。勝率を自ら高められるものと、そうでないものと、だ。

 麻雀やブラックジャックや競馬や株は前者であり、丁半博打や宝くじは後者に属する。宝くじの当選を願って雨乞いしたり、銀座の某店で買うのが良いと本気で信じている人は小学生からやりなおすほかない。後者の勝率は常に一定なのだ。したがって、必ず一定数の勝者と敗者が出る。それだけの話なのである。

 対照的に例えば麻雀が「勝率を自ら高められる」ゲームであるのは、ビギナーズラックがあっても100回勝負すれば必ずプロ的に強い人が圧勝する事実を見れば明らかだろう。引いてくる牌は人智のあずかり知らぬところ(そうでなければイカサマ)だが、より速くより高い点数でアガるのは、もっぱら確率計算の習熟度に依存する。競馬新聞もよく外れるが、あの予想は確率を高めるためのデータであり、丁半博打とは異なる。

 刑法を当面度外視してあくまで論理的な例としてさらに述べておけば、月収150万円の人が5万円を、月収15万円の人が同じ額を賭けている場合、1回の掛け金に対する期待と絶望の深さは、単純に10倍以上違う。

安心して動かせる資金の「ゆとり」が多ければ多いほど、沈みにくいのである。同様に、なけなしの金を株に投じている人は、長い目で見るとほぼ確実に負ける。あたりまえだ。株もギャンブルも、波のように必ず浮き沈みがある。投下するものが「ぎりぎり」なら、波線が簡単に底辺に抵触して財産を失う。

 資産運用の手法としてポートフォリオ(リスク分散)が奨励されてきたわけだが、よほど資産がある人を除いてポートフォリオもくそもない。一般人は堅実に仕事をこなし、本業で稼ぐこと、万一の倒産やリストラに備えて転職できるように自己研鑽しておくこと。これしかない。

 株を経済の勉強や企業のファンクラブとしてやるなら、結構なことだ。が、小金持ち程度が株やギャンブルでマジに儲けようとするのは、ようこそカモネギチャンと思われるだけである。どうぞ勝手に沈んでいただきたい
http://asyura2.com/0601/hasan45/msg/981.html


30. 中川隆[4354] koaQ7Jey 2016年10月07日 08:11:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4763]

そして日本の税制も

【森永卓郎】年収150万円と3000万円で“税率”が同じ国【SAFETY JAPAN】


日本の税制が低所得者を保護している例として、よく次のようなことがいわれる。

1.日本の課税最低限は諸外国に比べて高い
2.日本の税制は累進課税になっている

 1は、分かりやすく言い換えると、「あなたは稼ぎが少ないから税金を払わなくてもいいですよ」という収入の水準(課税最低限)が、日本は諸外国よりも高く設定されている、という意味だ。

 2は、簡単に言えば、「貧乏人はあまり税金を払わなくてもいいが、金持ちになればなるほど高い比率で税金を払っている」という意味である。

 どちらも事実であれば、日本の税制は低所得者に優しい制度であるということになる。どうも、日本人の7割から8割が、こうした「神話」を信じているようだ。そのため、政治家からさえも、次のような議論が出てくる。

 「日本は低所得者に甘い税制になっており、お金がない人が税金を支払っていない。だから給与所得控除、配偶者控除、特定扶養控除などを廃止し、より低い所得の人からも税負担をさせるべきだ」

 だが、この二つとも、実は大きな誤りなのである。


【低収入でもしっかりと税金を徴収する国、日本】

 1の「日本の課税最低限は諸外国に比べて高い」という議論に対する反論は簡単だ。財務省のサイトにある「所得税・個人所得課税の負担額、実効税率、課税最低限に関する国際比較」というページを見ればいい。

 世帯構成別の国際比較がでているが、それを見れば一目瞭然だ。例えば、夫婦と子ども2人の4人家族の場合、所得税の課税最低額は、次のようになっている。

日本 325.0万円
イギリス 376.7万円
アメリカ 378.5万円
フランス 410.7万円
ドイツ 508.1万円

 つまり、ドイツでは年に508万円稼いでも所得税を払わなくていいが、日本では年に325万円を超える額を稼いでしまうと、所得税を払わなくてはならないということだ。

 家族構成が変わっても、日本の低さは変わらない。ほとんどの場合、日本の課税最低限は先進国のなかで、もっとも低いレベルなのである。稼ぎが少なくてもしっかりと税金をとられているのが日本という国なのである。


【社会保険料という「税金」も念頭に入れて計算するべき】

 では、2の「日本の税制は累進課税になっている」という議論はどうか。もしそれが本当ならば、課税最低限が低くても、低所得者にとっては優しい税制といえるはずだ。

 我が国の所得税、住民税の税率は次のようになっている。

 所得税の税率は、10%、20%、30%、37%の4段階。
 住民税は、5%、10%、13%の3段階。

 この二つの税の税率は、所得が増えるに従って増えていく。所得が低ければ、両方を足して15%や20%程度の税負担率で済むが、金持ちになると最高で50%になるという勘定だ。

 これだけを見れば、確かに累進課税になっているといえるかもしれない。

 だが、ちょっと待ってほしい。税負担はこれだけではないのだ。本当に支払わなければならない「税金」をすべてひっくるめてみると、実は「貧乏人のほうが税率が高い」という構図が浮かび上がってくるのである。

 それはどういうことか。

 その前に、わたしたちが負担している税金の種類を押さえておこう。税金は、所得税、住民税だけではない。消費税も払っているし、ガソリンには揮発油税がかかっている。家を持てば固定資産税がかかるし、車や不動産を買えば取得税が、温泉に入れば入湯税がかかる。

 だだ、税金の種類によっては生活習慣や趣味によってその額が大きく変わるので、ここでは所得や消費に直接かかわる税金だけを考えていくことにしよう。

 では、所得や消費に関わる税金で見落とされているものとは何か。それは、社会保険料である。つまり、健康保険や厚生年金などだ。

 「社会保険料は税金ではないだろう」と反論されるかもしれないが、事実上、税金と同様と考えてよい。理由は三つある。

 一つ目の理由は、社会保険料の使用目的である。かつて、政府の人間はこう言っていた。「あなたの払った保険料は、ほかの人に使われるのではありません。あなたに戻ってくるのです。だから保険なのです」。

 だが、そんなウソを信じている人は、もうほとんどいないだろう。社会保険料は本人のために積み立てられているのではない。現在の高齢者のために、右から徴収して左へ払うようになっているのである。少なくとも保険料でないことは明らかだ。

 二つ目の理由は徴収方法である。少なくとも、国民健康保険は、政府みずからが「国民健康保険税」と呼んでいるように、税金となんら変わりない。国民健康保険の納入通知は、世帯主に郵送されてくることからも分かるように、政府は明らかに税金として扱っている。

 三つ目の理由は財源である。年金の財源には、社会保険料と税負担が並立で当てられている。そして、基礎年金の税負担割合は、現在は3分の1だが、これを2分の1へと引き上げることも予定されている。

 こうなると、税金として徴収するのも、保険料として徴収するのも変わりない。その境界はかなり曖昧なのだ。

 給与所得者(サラリーマン)にとっては、どちらも給料から天引きで持っていかれるという面では同じなのである。

 前置きが長くなったが、ではその社会保険料の比率(税率)はどうなっているのか。

 実は、サラリーマンについては、すべて比率は一定とされている。だが、ここにからくりがある。厚生年金保険料は年収1000万円を超えると、超えた分についてはかからないのだ。つまり、年収が1000万円でも、2000万円でも、5000万円でも、1億円であっても、厚生年金保険料は同じ額なのだ(ただし、ボーナスと給料への配分比率によって若干の違いがある)。

 同様にして、健康保険料は年収1500万円を超えるとみな同じになってしまう。

 額が変わらないということは、要するに、所得が多ければ多いほど税率が下がっていくということだ。社会保険料という「税金」は、累進どころか、逆累進なのである。


【年収150万円と3000万円で、本当の税負担率を計算すると】

 さて、この社会保険料をプラスして、本当の意味での税負担率を計算してみよう。

 その前にはっきりさせておきたいのは、税金は所得に対して計るべきであるということだ。現に、法人税は、法人の「所得」に対して何パーセントかを算出している。

 ところが、サラリーマンの場合は、往々にして「収入」に対して計算されている。これでは、公平な比較はできない。

 収入と所得を混同している人も少なくないようなので説明しておくと、「所得」というのは、「収入(売上)」金額から「必要経費」を引いた金額である。仕事に必要な費用である必要経費をマイナスした、本当に自分のために使えるお金が所得というわけだ。サラリーマンにとって必要経費に当たるのは給与所得控除である。これは、財務省が「サラリーマンの必要経費の概算控除」という説明をしているので間違いない。

 こうした前提のもと、サラリーマンの実質的な税負担率を定義すると、次のような式で計算されることになる。

              税額
実質的税負担率 = ――――――――――
           収入−給与所得控除

 実際にわたしがこれで比較してみたところ、大変なことが分かった。なんと、我が国の現状では、年収150万円の世帯と、年収3000万円の世帯の税率が同じになっているのである。

 さらに今後、消費税が引き上げられるとどうなるか。

 消費税の税負担率は、低所得者層ほど高くなることはよく知られている。なぜなら、どんなに収入が低くても、生活する上で必要最低限のものは、お金を出して買わなくてはならないからである。そうしたものの金額は、大金持ちでも貧乏人でも、それほど大きく変わるわけではない。だから、分母が小さい低所得者ほど、税負担の比率は大きくなってくるというわけだ。

 つまりは、今後、消費税の負担が大きくなると、年収150万円の世帯のほうが、年収3000万円の世帯よりも、税負担率が大きくなってしまうわけである。

【「濡れ手で粟」のもうけに対する税率が低い不思議】

 世の中には、年収3000万円どころか、何億円、何十億円と稼いでいる人間がごろごろといる。そうした人たちの税金はどうなっているのか。

 そうした人たちの収入の内訳をみると、給与所得で地道に稼いでいるということはまずない。ホリエモンや村上世彰がいい例だろう。彼らは、株を安く買って高く売るという、株式譲渡益でたんまりと稼いだ。

 では、株式譲渡益の税率はいくらかというと、たったの10%なのである。対して、サラリーマンの税率は、企業負担分を含めると30%以上だ。

 事実、ホリエモンはわたしよりもずっと納税額が少ないらしいのだが、そんなことがあっていいのだろうか。彼は、わたしより1000倍も稼いでいるというのに。

 それどころか、人によっては、みなし取得価格という特例を使って、何百億、何千億稼いでも税金を一銭も払っていない人がいる。これでは、モラルも何もあったものではない。

 わたしの考えでは、やはり税制度は累進課税であるべきである。少なくとも、今のように、貧乏人が金持ちよりも税率が高くなるというのは、いくらなんでもおかしいではないか。そんな国はどこを探してもない。

 短期の株式取引益が10%という国もない。少なくとも、ホリエモンのように、粉飾決済をして株を譲渡してもうけた金は、課税率100%でいいではないか。そんな犯罪でもうけた利益は没収してもいいと思うのだ。現にフランスでは、悪質な短期取引に対する課税率は100%である。

 もちろん、一般投資家が身の丈の範囲で株取引をしているのは別の話である。それはきちんと保護するべきだろう。問題は、インサイダー情報を利用して、1秒で何億円を動かしているような人間である。

 安倍総理には、ぜひともそこを改めていただきたいのだが、どうもそんな気配はうかがえない。むしろ、逆の方向に進んでいるように見える。

 だが、ここでじっくりと税金の思想というものを考えてみようではないか。

 わたしは、税金というのは、汗水垂らして庶民が稼いだ分に対しては低く抑えるべきものだと考える。そして、濡れ手で粟をつかんだようなあぶく銭に対しては「楽をして金をもうけたのだから、多めに税金を払って国民のために協力してほしい」というものなのではないだろうか。
http://www.asyura2.com/0610/hasan48/msg/480.html



31. 中川隆[4355] koaQ7Jey 2016年10月07日 09:25:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4764]

2015-01-03  
話題の本、トマ・ピケティの『21世紀の資本』(みすず書房)を読んでみた。

21世紀の資本 トマ・ピケティ(著)
http://www.amazon.co.jp/21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E8%B3%87%E6%9C%AC-%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B1%E3%83%86%E3%82%A3/dp/4622078767%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dyamahafx-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4622078767

すでに世界的ベストセラーになっているのでご存じの方も多いと思うが、数百年にわたる膨大な所得税・相続税の資料等をデータベース化し、

労働によって生み出される富(所得等)よりも、蓄積された資本そのものが生み出す収益(利子・配当等)の方が長期的には伸び率が大きいことを実証したものである。

http://piketty.pse.ens.fr/files/capital21c/en/pdf/F10.9.pdf

つまり、汗水垂らして働く労働者よりも、株を持った伝統的金持ちの方が有利であり、どんどん貧富の差が拡大するのが資本主義の本質であるということだ。

当たり前にも思えるが、実際のデータの裏付けをもってこれを示したところに意義があるわけで、「このデータ部分だけでノーベル賞に値する」(ローレンス・サマーズ)という意見もあるのは納得できる。
http://blog.goo.ne.jp/yamahafx/e/e3ae1098ff385009f45c45e051971d98  


5940円もする経済専門書が発売から1カ月強で13万部のバカ売れ。日本でも空前の大ブームとなっている「21世紀の資本」の著者、仏経済学者トマ・ピケティ氏(43=パリ経済学校教授)が初来日し、29日に都内でシンポジウムが開かれた。

 資本主義社会で拡大する格差を、世界20カ国以上の過去200年の税務データから実証したピケティ氏。

その主張は簡単に言えば、〈株や不動産などの投資で得られる利益率は、労働による賃金の上昇率を上回る。

その結果、財産のある富裕層がさらに金持ちになり、格差拡大は止まらない。
是正のためには、富裕層への世界的な資産課税強化が必要〉というものだ。

 さて、講演でのピケティ氏は、日本の現状についてこう言った。

「日本のように人口減かつ低成長の国では、過去に蓄積された資産が相続によって一部の富裕層により集中し、格差拡大の要因になる」

日本も資産課税の強化が必要で、加えて男女平等により、出生率を上げる重要性を指摘した。


■消費増税や量的緩和にも厳しい指摘

 後半はパネルディスカッションだったのだが、パネリストのひとり、西村康稔内閣府副大臣が、政府の「雇用者100万人増」や「トリクルダウンの試み」について説明。「アベノミクスが格差を拡大しているというのは誤解である」と力説した。

 しかし、ピケティ氏はこれにやんわり反論。

「確かに日本の格差は米国ほどではない。しかし、上位10%の富裕層の所得は、国民所得全体の30〜40%まで広がっています。

日本がゼロに近い低成長なのに、上位の所得が増えているということは、裏を返せば、実質的に購買力を減らしている人がいるということです。

日本の最高所得税率は1960〜70年代より下がっています。上位10%の所得が増えているのに、税率が低い状態では格差が広がるばかり。所得税の累進性を高めるべきです」

ピケティ氏は、消費増税や量的緩和についても厳しい見方だった。

「消費増税は正しいのかどうか。むしろ低所得者への課税を弱め、富裕層の資産課税を強めるべきです。紙幣を増刷することもいいのかどうか。税制改正より紙幣を刷る方がやりやすいですが、緩和したマネーがどこへ行っているのか分かりません。金融政策だけでなく、財政改革、教育改革、累進性のある税制改革も必要です」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156823

2015.1.25
「21世紀の資本」と日本 「格差」拡大しても成長困難 編集委員・田村秀男
http://www.sankei.com/column/news/150125/clm1501250008-n1.html

 世の中で起きる数え切れない経済事象を一つのアングルで鋭く切る。「21世紀の資本」の著者、仏経済学者のトマ・ピケティ氏は「資本収益率が産出と所得の成長率を上回るとき、資本主義は自動的に、恣意(しい)的で持続不可能な格差を生み出す」と断じている。古代から現代、さらに21世紀全般にわたって、気の遠くなるようなデータをかき集め、かつ推計してみせた。

 じゃあ、今の日本はどうなのか、ピケティさんに任せっきりにせず、自分の手でデータを調べてみた。法人企業統計(財務省)をもとに総資本利益率を税引き前および税引き後の純利益にわけて「資本収益率」を算出。国内総生産(GDP)の実質成長率を「産出と所得の成長率」に置き直し、さらに実質賃金の伸び率を加えたのが、本グラフである。これらのデータは5年間の移動平均値にならしている。一時的なブレに幻惑されないためである。


http://www.sankei.com/column/photos/150125/clm1501250008-p1.html


 資本収益率が実質成長率を上回るようになったのは税引き前で1990年代前半、税引き後は90年代後半だ。それまでは成長率のほうが収益率をほぼ一貫して上回ってきた。日本経済は遅く見ても90年代後半以降、「格差」の時代に突入したことになる。


90年代前半にはバブル崩壊、さらに97年度には橋本龍太郎政権が消費税増税など緊縮財政路線に踏み切り、日本経済は一挙に慢性デフレ局面にはまりこみ、なお抜け出られないでいる。

 デフレは格差拡大の元凶である。「デフレは企業者の生産制限を導き、労働と企業にとって貧困化を意味する。したがって、雇用にとっては災厄になる」と、かのケインズは喝破した。

 デフレ下では現役世代の賃金水準が下がるのに比べ、金融資産を持っている層はカネの価値が上がるのでますます豊かになる。デフレで売上額が下がる中小企業の従業員は賃下げの憂き目にあいやすい。デフレは円高を呼び込むので、生産の空洞化が進み、地方経済は疲弊する。若者の雇用の機会は失われる。

 慢性デフレの局面でとられたのが「構造改革」路線である。モデルは米英型「新自由主義」だ。97年の金融自由化「ビッグバン」で持ち株会社を解禁した。2001年に発足した小泉純一郎政権は、「郵政民営化」で獲得した政治的な求心力をテコに米国からの各種改革要求に応じた。製造業の派遣労働解禁(04年)など非正規雇用の拡大、会社法(06年)制定など株主中心主義への転換などが代表例だ。法人税制は98年度以降、02年度までに段階的に改正され、持ち株会社やグローバル企業を優遇している。
全企業が従業員給与100に対してどれだけ配当に回しているかを年度ごとにみると、70年代後半から90年代末までは3前後(資本金10億円以上の大企業は7台)だった。この比率は、02年度からは徐々に上昇し、13年度は11・5(同32)と飛躍的に高まった。小泉改革路線は伝統的な従業員中心の日本型資本主義を株主資本主義に転換させた。この構図は、従業員給与を可能な限り抑制して利益を捻出し、株主配当に回す、グローバル標準の経営そのものである。

 もちろん、悪意なぞあるはずはなく、日本経済をグローバル標準に合わせて大企業や金融主導で日本経済の再生をもくろんだ。

 資本収益率(税引き前)に話をもどすと、米政府のデータに基づく筆者試算だと、米国の場合は90年代後半以降6%前後で推移している。また、「21世紀の資本」によれば、世界的には5%強である。

それに比べると日本のそれは過去10年間3〜4%の水準にある。米国を中心とするグローバル標準まで資本収益率引き上げないと、外国からの対日投資が増えない、日本の企業や投資家は対外投資に走るとの懸念があるせいか、国内では法人税率の実効税率引き下げ、さらに雇用、投資面などでの規制緩和を求める声が強い。

しかし、株主資本主義では経済成長率を押し上げる力が弱いように思える。GDPの6割を占める家計の大多数の収入が抑えられるからだ。名目賃金上昇率から物価上昇率を差し引いた実質賃金上昇率は97年以降、ほぼ一貫してマイナスである。賃金を減らし、配当を増やすという、株主資本主義は投資ファンドを引きつけても、実体経済の回復につながりそうにない。

 安倍首相が本格的に取り組むべきは、格差社会の勝者を太らせる政策を廃棄し、旧世代や新世代を支え、養う現役世代を勝者にさせる政策への転換ではないか。
http://www.sankei.com/column/news/150125/clm1501250008-n1.html


32. 中川隆[4356] koaQ7Jey 2016年10月07日 09:38:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4765]

2015-12-16
今よりもさらに苛烈な、超格差社会がこれからやってくる


アメリカでは、中流層がどんどん消えている。もうすでに中流層がアメリカの主流ではなくなってきている。アメリカは、上か下かに分かれてしまう社会になっているのだ。

しかも急速にそうなっている。その理由は富裕層が猛烈なスピードで収入や資産を増やし、貧困層はそのまま置いてけぼりにされるからである。

アメリカの一流企業の経営者の平均所得と、ごく普通の労働者の平均所得の格差はすでに 343倍の開きになっている。1年間で 343倍の差がつく。

アメリカの経営者は現金でその343倍の収入を得ているのではなく、その多くはストックオプションでの収入になっているのだが、これは要するに株式で提供される収入である。

株式が上がれば上がるほど彼らの資産も上がる。弱肉強食の資本主義は、株式「至上」主義になりつつあるので、株式を持っている人間と持っていない人間の格差は凄まじいものになる。

その凄まじさが「343倍」という数字になって現れている。優良企業の株式を保有する層が富裕層になり、そうでない者は現金をいくら持っていても貧困層に没落していく。

日本もまた凄まじい格差社会が到来している

格差を極限まで推し進める究極のシステムが、株式「至上」主義である。

日本も例外ではない。日本史上最悪の政治集団であった民主党が政権を明け渡した2012年12月から、日経平均は勢いよく伸びていき、現在すでに2倍以上になっている。

これは、長期で金融資産を持っていた人間が資産をこの3年で2倍に膨らませたことを意味する。では、賃金は2倍になっただろうか。

一流企業や公務員は、若干ベースアップしたかもしれない。しかし、中小企業の多くは給料を据え置いたままだ。場合によっては給料が下がった業種もあるはずだ。

給料以前に、リストラされて収入がゼロになったり、前職ほどの賃金がもらえずに生活破綻したりする人もいる。そのような不幸な目に遭っている人をのぞいても、賃金生活者の賃金が爆上げしたという話はまったくない。

これは何を意味しているのか、私たちは腰を据えてじっくりと考えなければならない。

この3年間で何が起きたのかというと、金融資産を持つ層と持たない層の格差がまたもや私たちの目の前で大きく広がったということなのだ。

正確には、日経平均が2倍になったから個別株もすべて2倍になるわけではない。しかし、優良企業であればそれに近い動きになっている。

そう考えると、株式資産を 1000万円持っている人は 2000万円に膨らんだ可能性がある。

しかし、現金で 1000万円で定期預金で0.2%の利息だと増えたのは単純計算すると1年で2万円、3年で6万円程度しか増えていない。3年で 1000万円増えるのと6万円増えるのとでは次元の違う話である。約166倍の違いだ。

株式を持っていない人は自分に何の利益がなかったので、この3年間で世の中が変わったようには思えないかもしれないが、その認識は間違っている。日本もまた凄まじい格差社会が到来している。


貧困は遺伝する。堕ちてしまうと、のし上がれない

資産を持っている者がさらに資産を膨らませ、持っていない層との格差を爆発的に広げる。これが格差社会の特徴だ。

多国籍企業はグローバル化の波に乗って「コスト」である人件費を様々な手法で削り取っていくので、ワーキングプア層を拡大させていく。

アメリカでは低所得層の比率は年々上昇しており、現在では41%が低賃金を余儀なくされている。アメリカ人の約5000万人は低賃金の貧困層である。

アメリカはリーマン・ショックを乗り切ったと言われているが、低所得層や貧困層は、むしろリーマン・ショック以前よりも増えている。リーマン・ショックを乗り越えたのは企業と富裕層であり、貧困層ではない。

そのため、アメリカでは「1%の富裕層と99%の貧困層の国」と言われるようになっている。それは嘘ではない。すでにアメリカは上位1%が持つ資産は、下位90%が持つ資産の総量よりも多いのである。

日本でも「子供の貧困」が問題になりつつあるが、アメリカの「子供の貧困」は日本の比ではない。アメリカの6歳以下の子供の約60万人はホームレスである。

親がワーキングプア層で貯金をする余裕もない中で、病気や事故で働けなくなると、途端に子供を抱えて路頭に迷う。

こうした子供の中には、もしかしたら知能レベルの高くて磨けば伸びる子も多いはずだが、栄養状態も生活環境も悪い中で知能を伸ばすことは絶望的に難しい。

さらにアメリカの大学教育は非常に金がかかるので、資産面から言っても大学進学は不可能だ。

そしてアメリカは日本以上の学歴社会と化しつつあるので、貧困の子供は貧困であるがゆえに高収入に最初から辿り着けなくなっている。

貧困は遺伝する。のし上がれない。アメリカは、すでにそんな社会になってしまっているのである。


疲れて死んでしまいたいと思うような社会がくる

グローバル社会は全世界を覆い尽くしている。

だから、その国の政治や経済や文化がどんなものであっても、その国がグローバル化の中で存続しているのであれば、アメリカで起きていることがそっくりそのままその国でも起きることになる。

現にイギリスでもフランスでもアメリカとまったく同じ格差問題が起きている。イギリスでは2000万人が貧困状態であり、やはりイギリスでは子供の5人に1人がホームレスである。

若者の失業率も高く、やはり金銭的な問題で大学進学もできない家庭も多い。こうした問題はそのままアメリカとまったく同じである。

全世界がグローバル化に飲まれているというのであれば、全世界が、絶望的な格差に飲まれていくということなのだ。日本も例外ではない。

日本では「6人に1人が貧困」という社会だが、そのうち2人に1人が貧困という時代になったとしても不思議ではない。当然、子供の貧困もまた同じである。

現在、日本では格差が深刻化しているのにホームレスが減っているのだが、行政や社会が対応能力を失ったら、ある瞬間から突如としてホームレスが爆発的増加するはずだ。

格差は猛烈なスピードで進んでいるので、そうなるのは遠い未来ではない。

あまり話題になっていないが、生活保護の受給世帯数は2015年9月には「過去最多」を更新しており、貧困層は着実に増えていることが分かる。

これは今、私たちの目の前でリアルに進行している容赦ない現実である。止まることなく、激しい勢いで、この超格差が進んでいる。

今よりも、もっとひどい時代がくる。

働いても働いても這い上がれず、疲れて死んでしまいたいと思うような社会がくる。これまでよりもさらに苛烈な社会が、これからやってくるのだ。


日本でも「子供の貧困」が問題になりつつあるが、アメリカの「子供の貧困」は日本の比ではない。アメリカの6歳以下の子供の約60万人はホームレスである。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20151216T0457200900


なぜ、富裕層は貧困層が本当に見えなくなってしまうのか


「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」

農民が主食のパンを食べられないほど生活が困窮している時、マリー・アントワネットがそう言ったと今までの歴史では伝えられてきた。

今では本当にマリー・アントワネットがそう言ったのかどうか疑われている。

しかし、この「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」というのは、富裕層がまったく貧困層のことを分かっていない例として今でもよくあげられる。

富裕層と貧困層の意識がズレていくのは、世界が違い過ぎるからでもある。互いに相手が見えなくなる。

貧困層は富裕層が働かないで食べていけるということが想像できないし、それが理解できない。逆に富裕層は貧困層を見て、なぜそんなに働かないといけないのかが理解できない。

金持ちは驚異的なスピードで、どんどん資産を膨らませていくが、貧困層にはどうしてそうなるのかその仕組みがまったく理解できない。富裕層は富裕層でなぜ貧困層は貧困のままなのかが分からない。

信じられないかもしれないが、富裕層は貧困が見えなくなる。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160926T0748100900.html

“独立”する富裕層  - NHK クローズアップ現代 2014年4月22日(火)放送
〜アメリカ 深まる社会の分断〜
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3488/1.html

100万ドル以上の資産を持つアメリカの富裕層。

その富裕層が今、自治体の在り方を変えようとしています。
貧富の格差による社会の分断が進むアメリカ。

富裕層は税金が貧困層のためばかりに使われていると反発。
みずからが住む地区を周囲と切り離し、新たな自治体を作る動きを強めています。

女性
「高い税金を払っているのに、それに見合うサービスを受けていません。」

全米で富裕層の自治体は急増。
社会を2分する議論が起きています。

報道官
「反対派を押し切って、新たな市が誕生しました。」

オバマ大統領も危機感を強めています。

オバマ大統領
「アメリカの格差は拡大し、固定化している。」

一方、富裕層を失った自治体は税収が減り、公共サービスを削減。
貧困層が打撃を受けています。

男性
「公立病院の予算が削減されたので、私たち家族は困っています。」

深まる富裕層と貧困層の分断。
アメリカ社会はどこへ向かうのか。
最前線からの報告です。


“独立”する富裕層 税に対する不満


アメリカ南部、ジョージア州の議事堂。

先月(3月)新たな自治体の設立を求める法案を巡り、議論が交わされていました。
この法案を提出したのは会社経営者や弁護士など、富裕層を中心とした住民のグループです。

住民
「私たちが作る市の方が、税金をより有効に使える。
この法案の支持を求める。」


住民
「今の自治体は住民の方を向いていない。
私の会社をサポートしてくれる自治体を作りたい。」

一方、法案は富裕層の身勝手だと批判する声も上がりました。

反対派
「これは有色人種や貧困層を隔離するための意図的な行為だ。」


自治体の設立は地域住民の意思だとする富裕層の報告書にも、抗議が殺到しました。

反対派
「あなたが作る自治体に住みたい人はいない。
あなたはおかしい。
うその報告をしている。」

男性
「いや、おかしいのはあなただ。
私たちの報告は正しい。」

法案を提出したグループの代表、ウッドワースさんです。
経営コンサルタントの夫を持ち、自身もインテリア関係の会社を経営。
湖畔に邸宅を構えています。
自治体の設立に動いたきっかけは税金の使われ方への不満でした。
特に問題にしているのが警察官の配置です。

マリーケイ・ウッドワースさん
「私の家の近くでも麻薬取引や売春が行われるようになってきた。」

警察官は貧困層が多く住む治安の悪い地区にばかり回され、自分の地区はおざなりにされていると感じていたのです。

マリーケイ・ウッドワースさん
「自分たちが支払う税金に見合う行政サービスを受けているとは思えません。
私たちは社会を分断したいわけではありません。
ただこれまでの自治体に代わって、より自分たちに合った自治体を作りたいだけなのです。」


富裕層が作る自治体 衝撃の運営手法とは


富裕層の動きを後押ししているのが、同じジョージア州で大きな成功を収めた市の存在です。
州の北部にある人口9万4,000人のサンディ・スプリングス市です。
市民の平均年収は1,000万円近く。
医師や弁護士、会社経営者などが多く住む高級住宅地です。

市が誕生したのは2005年。
住民投票で94%の圧倒的賛成を得て、それまで属していたフルトン郡から分離したのです。
貧困層に多く配分されていた税金を取り戻そうという主張が、富裕層だけでなく中間層にも支持されたのです。

サンディ・スプリングス市 エバ・ガランボス初代市長
「私たちの税金はほかの場所で使われ、私たちのためには使われていませんでした。
1ドルの税金につき半分の50セントしか、サンディ・スプリングスに使われていなかったのです。」

住民グループ代表 オリバー・ポーターさん
「政府による所得の再分配には反対です。
人のお金を盗む行為だと思います。」

ジョージア州で50年ぶりに新たな市として誕生した、サンディ・スプリングス。
州の法律によってさまざまな財源が与えられました。

市民が支払う固定資産税の15%。
売上税の一部。
そして酒税や事業の登録料など、市の去年(2013年)の収入は、日本円にしておよそ90億円。
州で1、2を争う豊かな自治体が誕生したのです。

さらに富裕層は、市の運営にビジネスのノウハウを取り入れました。
警察と消防を除く、すべての業務を民間に委託。
同じ規模の市なら数百人は必要な職員の数を9人に抑え、徹底的なコストカットを進めました。

市民課や税務課。
道路や公園などを造る建設課。
さらに、市の裁判所の業務まで民間に委託しました。
裁判長は必要なときだけ時給100ドルで短期雇用します。


この結果、当初年間5,500万ドルと試算された市の運営費を、半分以下に抑えることに成功したのです。
コストカットによって生まれたお金は富裕層の要望によって、市民の安全を守るサービスに使われています。


女性職員
「事故発生、けが人なし。」

ここは24時間市民から通報を受け付ける、民間の緊急センターです。
市民の承諾を得て、住所や家族構成、持病の有無など、さまざまなデータが登録されています。

10秒以内に電話を取ることが義務づけられ、90秒で警察や消防が出動します。
市が市内全域に配置する警察官はおよそ150人。
早ければ2分で、現場に警察官が到着するといいます。
現在、市民の9割が公共サービスに満足と回答。
うわさを聞いた富裕層が、全米から相次いで流入し人口が増えています。

市民
「(この街が)好きかって?
大好きよ。
ニューヨークから移り住んで来たけど、ここにはすべてが揃っているわ。」

市民
「とても安全だと感じています。
サンディ・スプリングス市に住めて幸せです。」

今サンディ・スプリングス市の設立と運営のノウハウを知りたいと、全米各地から視察が相次いでいます。
そのほとんどが、税金の使われ方に不満を持つ富裕層だといいます。
サンディ・スプリングス市を手本に誕生した自治体は、ジョージア州ですでに5つ。
現在、フロリダ州、テキサス州カリフォルニア州などで30余りの自治体が、新たに誕生しようとしています。

サンディ・スプリングス市 ラスティ・ポール市長
「自治体は税金を当たり前だと思わないことです。
税金に見合うサービスを提供しなければ、市民はすぐ不満をため、税金を払わなくなります。
公共サービスの質を高めて、市民に税金を払う動機を与え続けるのです。」


“独立”する富裕層 アメリカ 深まる分断

このように富裕層が、自治体を作る動き、今後、全米に拡大していくと見られています。
一方で富裕層がいなくなった自治体は、歳入が減って、一部公共サービスの削減を始めています。
貧困層の暮らしに暗い影を落とし始めています。


富裕層を失った自治体 貧困層に打撃が


ジョージア州フルトン郡。
サンディ・スプリングス市の設立などによって、年間40億円余り税収が減りました。
南部のサウス・フルトン。
郡の中で最も貧しい地域で、住民の生活に大きな影響が出ています。

機械部品のセールスをする、アブラハム・ワトソンさんです。
今年(2014年)に入り、次々と公共サービスが打ち切りになっていると訴えています。

アブラハム・ワトソンさん
「臭いです。
ごみが腐り始めています。
ごみ収集車がめったに来なくなったので。」

3人の子どもを持つワトソンさん。
暮らしに余裕がない中、公共サービスの利用は欠かせません。
家の近くにある、フルトン郡が運営する図書館です。
子どもたちは放課後や週末、ここで読書や宿題をしてきました。
しかし今年の2月、突然開館時間が2時間以上短縮されました。

算数の勉強に使っているパソコンも、閉館時間が来れば強制的にシャットダウンされます。

子ども
「閉館につき使用不可。」

アブラハム・ワトソンさん
「閉館するから切ったんだ。」

閉館時間の変更は、事前に住民には知らされていませんでした。

アブラハム・ワトソンさん
「誰が閉館時間を決めているのか?」

職員
「議会で承認されたんですよ、予算が削減されたから。」

アブラハム・ワトソンさん
「郡の議会で?
予算の削減が理由?」

職員
「予算の削減。」

フルトン郡の一般会計です。
歳入が減少し続け、ついに2年前歳出が上回るようになり、公共サービスの削減が余儀なくされているのです。
図書館のほかに、郡が運営する公園の予算も削減されました。
20か所ある高齢者センターの食事代は、一部値上げになりました。

中でも深刻なのが、貧困層の治療を中心に行う公立病院の予算削減です。
2,500万ドル、日本円でおよそ26億円が削減されることになりました。
医師の数が減らされ、診察に支障が出るのではないかと不安が広がっています。

フルトン郡 ビル・エドワーズ議員

「郡の税収が少なくなれば、当然その範囲でやりくりしなければなりません。
やむをえずサービスをカットしているのです。
私は、フルトン郡の住民が状況を理解することを望んでいます。
さもなければ、フルトン郡の財政は破綻してしまいます。
これだけは、なんとしても防がなくてはなりません。」

ワトソンさんは公立病院の予算削減が、息子のキャメロン君に与える影響を心配しています。

アブラハム・ワトソンさん
「この子には右耳に障害があります。
耳がふさがった状態になっているのです。
息子の治療ができる専門医の数が削られてしまうから、予算の削減は本当に困ります。」

全米で貧富の格差の研究をしてきたコナー准教授です。
富裕層の自治体設立が格差の拡大に拍車をかけていると、警鐘を鳴らしています。

テキサス大学 公共社会学部 マイカン・コナー准教授

「アメリカ社会では分断が深まっています。
同じ地域の中でも少し離れただけで、全く違う社会が生まれています。
経済面でも教育面でも、機会の平等が失われているのです。
このまま富裕層の独立が続けば、公共サービスを支える人がいなくなってしまいます。
それを顧みず、社会の分断は進む一方です。」


“独立”する富裕層 アメリカ 深まる分断


ゲスト堤未果さん(ジャーナリスト)

●格差拡大し加速化する社会の分断 この動きをどう受け止める?


今まさにアメリカは、経済格差が完全に1%の持てる者とそれからそれ以外の持たざる者、完全に国を分断してしまっていると。
そういう状況になっています。


(分断されていると。これが法律の下に行われている。自治体を作るという動きはそうだったが?)

はい。
もともと合法的に市が独立するということはもちろん可能なんですけれども、サンディ・スプリングス市のように、統治機能まで含めて民営化してしまう、民間に委託して、そうするともう税金というものが全く意味が変わってきて、サービスをお金で買うという契約社会になっていくわけですね。

その分税が、税金が囲い込まれることになるので、不動産の価格は上がる、その周りの地域が税収が減って、荒廃していくと。

ですから全米の都市の中に、捨てられた居住区のようなものが、点々と今存在している状況になっております。

●富裕層やその周辺地域 実際に取材に行ってどうだったか?

サンディ・スプリングス市自体は、本当にお金持ちの社会主義国のような、天国のような、ぴかぴかですばらしい所だったんですけど、本当に目に見えないフェンスが建っていて。


(目に見えないフェンス?)


はい、フェンスで囲われている、合法的な特権地区というような形ですね。
先ほども言いましたように、税収がほかで減っていきますので、やはり仕事がなくなって、まず治安が悪くなるんですね。

そうすると犯罪率が高くなりますから、ますますフェンスは高くなっていく。
ここがやっぱり1番大きいです。

サンディ・スプリングス市のような所の近くにある都市で取材をしたときに、公共サービスの1つとして刑務所を維持できないから開放すると。


(刑務所を開放する?すると、どうなるのか?)


そうなると囚人が街に解放されて、たくさん普通に歩くようになるんですけれども、警察もまた公務員ですから、警察は失業中なわけです。

ですから非常に恐ろしいSFのような状況になっていて、片や、目に見えないフェンスの中の富裕層の地区は、非常にハイテクでハイセキュリティーの地区になっていると、すごくコントラストが激しかったですね。


●公共サービスの1つ 教育という点ではどうだったか?

アメリカは、教育予算が連邦と自治体と半分ずつ予算を出すんですけれども、サンディ・スプリングス市のような例えば富裕層の街というのは、公立の学校にやる必要がないので、公教育にお金を出すという概念がなくなっていくんですね。

そうしますと、公立の学校が切り捨てられていった州では、自治体では、貧困層の子どもの受け皿がなくなっていくので、教育難民、学校に行かれなくなった子どもたちが、もう全米各地の都市であふれているという、そこまで事態が進んでおります。


(先進国のアメリカで、そういうことがすでに起きている?)


そうですね。

ブッシュ政権、オバマ政権と続いた2大政権で公教育を解体して、教育ビジネスという民間サービスに委託するということを国が後押ししてやってきたんですね。
ですから公教育というのは、弱い立場の子どもたちを平等にすくい取るという社会的共通資本ですから、これが徐々に解体されているということです。


●フェンスを隔て、本当に互いが見えないのか?


そうですね。
これは本当に今、アメリカで起きていることというのは、1つの国の中に2つの違う国が存在しているような感じで、例えば日本で若年ホームレスは私たちの目に映らないというようなこといわれますけれども、フェンスの中の富裕層にとって、フェンスの外の荒廃した、捨てられた居住区の人たちは、やはり見えないわけですね。

全くお互い別の次元に住んでいるような、そんな状況になっています。


(別の次元?)

はい。

●格差是正のためにある公共サービス 富裕層がその義務を放棄するとどうなる?

公共ですとか税金ですとか、共同体とか、もっといってしまうと、もう国とは何かという、そのコンセプトが全く違うものになっていく。
お金を払って、その分のサービスをもらうという契約社会のようになっていくわけですよね。

ですから言ってみれば、お金がなくなったらそこでそのコミュニティーに、地区の中には恐らくいられなくなると、それが縁の切れ目のようになってしまう。

公共という概念があれば、弱い立場になったり、急に事故に遭って障害を負ってしまったり、高齢になってしまったりという、困った立場になったときは、税金を払っている分、国や自治体が守ってくれると、それが公共の概念なんですけれども、全くこれが対極にあるという、こちらは株式会社化された自治体であり、国家だということになっています。

●アメリカンドリーム 今は存在しないような状況?

80年代ぐらいまでは頑張れば報われるとか、努力すればチャンスをつかめば、マイノリティーでもスターになれる、そういうのがあったんですけれど、今、構造として1%が99%を切り捨てていく構造を、国の政策が後押しをしているために、アメリカンドリームが機能する構造自体が崩れていると。

そしてまた中流層が消滅していますから、ますます富める者はますます富む、それ以外の者は地盤沈下していくという、国の構造が全く変わってしまっているんですね。

●アメリカという国は今後どうなっていくのか?

今アメリカ国内にも2つの流れがありまして、オバマ大統領はブッシュ政権の政策を継承して、1%のための、より1%が大きくなっていくような政策の方向性を進めてはいるんですけれども、一方で、1対99%の分断はおかしいじゃないかと、失われたものをもう一度取り戻したいという声が、相当アメリカで大きくなっている。

これ今、どちらの流れがこの国を、未来を引っ張っていくかという、今ちょうど岐路にいるという。


(岐路とは、国を見つめ直す時期ということか?)


国とか共同体は何かということですね。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3488_all.html  



33. 中川隆[4357] koaQ7Jey 2016年10月07日 10:14:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4766]

竹中平蔵先生の税制改革論


竹中平蔵総務大臣は、かってこう語った:

 経済格差を認めるか認めないか、現実の問題としてはもう我々に選択肢はないのだと思っています。みんなで平等に貧しくなるか、頑張れる人に引っ張ってもらって少しでも底上げを狙うのか、道は後者しかないのです。

 米国では、一部の成功者が全体を引っ張ることによって、全体がかさ上げされて、人々は満足しているわけです。実質賃金はあまり伸びないけれども、それなりに満足しているのです。(「日経ビジネス」2000年7月10日号)

 もちろん貧富の差というのは歴然としていて、81年のアメリカというのは道路に穴があいているし、失業者が待ちにあふれていて治安が非常に悪かった。そういう面での問題というのは明らかにありました。

しかし、例えば自分がその気になって高い教育を受けて、高い所得を得たならば、そのひどい時代のアメリカでも、きっと豊かに安らかに暮らせたでしょう。〔引用者注:アメリカ生活を振り返っての発言〕
(竹中平蔵・阿川尚之『世界標準で生きられますか』)
            (以上、斎藤貴男『機会不平等』からの孫引き)
http://literacy.jugem.jp/?eid=37

竹中平蔵

将来的には、完全なフラット税、さらには人頭税(各個人に対し、収入に関係なく一律に課せられる税。中根注)への切り替えといった、究極の税制を視野に入れた議論を行うことも必要だろう。

フロンティアの時代には、能力がありかつ努力を重ねて高所得を得ている人々を讃(ほめたた)える税制が必要だ。そうすることによって、結果的に社会全体の活力が高められる。

市場において高い活動エネルギーを持っている人に対し、極端な累進税制でペナルティーを課すことはやめなければいけない。いわば、『規制緩和としての税制改革』であり、『頑張れば豊かになれる夢』を国民に与えることである。
http://homepage3.nifty.com/nskk/ronpyo001.htm

佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』
(日本経済新聞社、2002)からの引用)

佐藤 (前略)いったいこの世の中に「理想の税」というのは存在しているのか、あるいはこうすればより「理想に近い税のあり方」になるはずだというのがあるのなら、最終的にはその辺までさらにお聞きしたいなと思っているんですけど。

竹中 いきなり理想の税は何かと聞かれるとすごく難しいんですけど、この話の出発点として、あえて話をややこしくさせるために答えるなら、私は人頭税というのが理想の税だと思うんですね。


佐藤 人頭税?

竹中 そうです。佐藤さんにも、私にも、皆同じ金額をかけるんです。国民一人ひとりの頭数にかけるわけですから、これほど簡単なものはないですね。(後略)

 竹中大臣の理想の税は、人頭税。要するに、所得が100万円の人も、所得が1億円の人も同じ金額の税を負担せよということです。これに賛成する方は、竹中氏を応援しましょう。


佐藤 (前略)国っていうのは正当化されたヤクザと言ってもいいんじゃないですか。

竹中 おっしゃる通りです。税金というのは結局ヤクザのみかじめ料みたいなものです。国は強制的にお金をとるのに大義名分や理屈を並べたてるけど、ヤクザはいちいちそんなことは言わない。みかじめ料と税金の差は、それくらいのものでしょう。

 竹中大臣は、よほど税金をとられるのがいやなのでしょう。

 民主主義国家であれば、選挙で選ばれた国会議員が法律で税制を定めるはずです。日本だってそうです。なのに、国家をヤクザとなぞらえ、税金をみかじめ料になぞらえる。相当歪んでませんでしょうか・・・。


竹中 (前略)・・・やはり多くの人は税による所得の「再分配効果」というのを期待するわけです。再分配効果というのは、たとえばこういうことです。佐藤さんはすごく所得が多いとする。こちらのAさんは所得が少ない。そうすると、Aさんは

佐藤さんからお金を分けてもらいたいわけです。佐藤さんが儲けたお金の一部を自分ももらいたいんですよ。もらいたいときに、政府を通してもらうんですよ。

佐藤 でも、それ、もらいたいって、ずるいじゃないですか。

竹中 ずるいですよ、すごく。『フェアプレーの経済学』という本にもはっきりと書かれているんです。著者はランズバーグという数学者なんですけど、すごくシンプルに見ていくと、今の税はおかしいと言うのです。彼はそれをこんなふうに表現しています。

 子供たちが砂場で遊んでいるんです。ある子はオモチャをたくさんもっている。その子はお金持ちの家の子なんですよ。もう一人の子は家が貧しいからオモチャを一個しかもってないんです。しかし、だからといって、自分の子に向かって

「○○ちゃん、あの子はオモチャたくさんもっているからとってきなさい・・・・・

などと言う親がいるかというわけです。


 ところがそんなことが、国の中では税というかたちで実際に行われているという言い方をしているんですね。これは、みんなのやる気をなくさせる原因になります。(後略)
http://literacy.jugem.jp/?eid=37

現在の日本においては、新古典派経済学者たちが続々と「みんなの維新の会」側に集結しつつあり、「竹中氏が書いたんじゃないの?」という疑問を持っていたら、どうやら本当にそうだったらしい維新八策がオープンになりました。


 民営化、規制緩和、自由貿易、地方主権的道州制、TPP、グローバリズム。


中央政府のあらゆる規制を排除し、政府機能を極小化せよ。

グローバリズムに基づき、モノの関税をゼロにし、サービスの輸出入を妨げる各国の社会制度、文化、伝統は「非関税障壁」として排除せよ。

当然、牛肉や遺伝子組み換え作物の輸出入を妨げている規制は撤廃し、「遺伝子組み換え作物」だからと言って、ビジネスに支障が出ないようにせよ(パッケージの表示を禁止せよ)。

国境を越えて、モノ、カネ、ヒトが自由自在に動き回るようにせよ。

公的サービスを民間に開放し、株式会社化せよ。教育も株式会社化し、「株主利益」のための教育を可能にせよ。電力も自由化せよ。

社会保障は大きな政府の典型なので、負の所得税法式のベーシック・インカムにせよ。

混合診療を認め、いずれは全てを自由診療にせよ。

公的保険サービスは「ムダ」の極致なので縮小し、代わりに民間の医療保険サービスが自由にビジネスができるようにせよ。

法人税と富裕層の所得税を減税せよ。結果的に預金が増え、金利が下がり、企業の投資が増えることで国民全体が潤う「はず」だ(トリクルダウン理論)。

公共事業や国債発行は可能な限り減らせ。国債発行をすると金利が上がり、民間が金を借りられなくなり、投資が減る(クラウディングアウト)。しかも、国債発行による金利上昇は通貨高をもたらし、輸出が減るので財政出動分の需要はキャンセルされる。どうしても公共事業をやりたいならば、民間の投資会社主体でやらせ、政府は「利用料」を支払う形にせよ。

失業者は自発的失業者か、職種のミスマッチがあるだけだ。自由貿易や規制緩和で失業者が出ても、彼らは「瞬時に」別の職に就けるから問題ない。つけないとしたら、失業者の能力が足りないというわけで、まさに自己責任だ。


上記を全て実現すれば、グローバルに株主利益を最大化できるじゃないか。
何か問題あるか?


 ものすご〜くグロテスクに書くと、新古典派の政策は上記のイメージになります。現実には、


「デフレで物価が下落して困っているときに、規制緩和や自由貿易で競争を激化させ、さらに物価を押し下げてどうするの?」

「スペインやギリシャの失業率は25%超えているけど、これもやっぱり自発的失業か、職種のミスマッチとやらなの?」

「法人税引き下げても、企業は銀行預金を増やすだけじゃないの? 法人税引き下げていない状況でも、日本では企業の銀行預金がひたすら増えているけど?」

「日本は95年以降、政府の負債(国債など)が二倍以上になっているけど、金利は三分の一未満に落ち込んだよ。クラウディングアウトはどこにいったの?」

「デフレだと国債発行や財政出動と関係なく円高になり、どっちにしても輸出減らない?」

「政策金利がゼロで、長期金利が0.8%未満でも企業は投資しないよ。富裕層に減税して、法人税引き下げて、なぜ投資が増えると断言できるの? それ以前に、日本はすでにして銀行が過剰貯蓄状態だよ。だから金利が低いわけだけど、投資増えていないじゃん」

「エネルギーとか教育とか、国家の根幹にかかわる部分を『株式会社』化して、本当にいいの? 政府って曲がりなりにも『主権者』である国民の投票により成立しているけど、株式会社化すると国民主権が歪められない?」


 などなど、「絶対それ、違うだろ〜っ!!!」 と言いたくなる政策のオンパレードです。無論、インフレ期にはクラウディングアウトやトリクルダウンも成立する「かも」知れませんが、デフレ期にはどちらにせよ不成立です。


 すなわち、新古典派経済学者や新自由主義者たちは、現実の日本を見ていません。彼らが見ているのは、机上の「経済の教科書」だけなのです。


 机上の教科書に沿った「間違った政策」が行われているのは、別に日本に限らず、世界の主要国の多くがこの罠にはまっています。結果、フランスでは明確な対立軸で選挙が行われ、日本もこのままいけば、どうやら「新古典派」対「実践主義」の戦いになりそうです。現在の与党は、両者の間で埋没して消滅してしまうでしょう(というか、そうしなければなりません)
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/

「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然 2016-01-06
   

 さて、今さらですが、トリクルダウンとは何でしょうか?


 トリクルダウンとは、

「富裕層や大企業を豊かにすると、富が国民全体にしたたり落ち(=トリクルダウン)、経済が成長する」

 という「仮説」です。トリクルダウン「理論」と主張する人がいますが、単なる仮説です。


 上記は今一つ抽象的なので、より具体的に書くと、

「富裕層減税や法人税減税をすると、国内に投資が回り、国民の雇用が創出され、皆が豊かになる(=所得が増える)」

 となります。


 要するに、グローバリズム的な、あるいは新古典派(以前は古典派)経済学的な「考え方」に基づき、所得が多い層を優遇しようとした際に、政策を「正当化」するために持ち出される屁理屈なのでございます。


 ちなみに、大恐慌期のアメリカでは、財閥出身の財務長官アンドリュー・メロンが「法人税減税」を推進した際に、まんまトリクルダウン仮説が用いられました。 


 さて、現代日本において、トリクルダウンで安倍政権の法人税減税に代表される「グローバル投資家」「グローバル企業」を富ませる政策を正当化していたのが、みんな大好き!竹中平蔵氏です。


『「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/172701/1


 テレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」。

「激論!安倍政治〜国民の選択と覚悟〜」と題した1日放送の番組では、大田区の自民党区議が「建築板金業」と身分を隠し、安倍政権をヨイショするサクラ疑惑が発覚。「今年初のBPO入り番組」とネットで炎上中だが、同じように炎上しているのが、元総務相の竹中平蔵・慶応大教授の仰天発言だ。


 番組では、アベノミクスの「元祖3本の矢」や「新3本の矢」について是非を評価。

冒頭、「アベノミクスは理論的には百%正しい」と太鼓判を押した竹中平蔵氏。

アベノミクスの“キモ”であるトリクルダウンの効果が出ていない状況に対して、

「滴り落ちてくるなんてないですよ。あり得ないですよ」

と平然と言い放ったのである。


 トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論だ。2006年9月14日の朝日新聞は〈竹中平蔵・経済財政担当相(当時)が意識したのは(略)80年代の米国の税制改革だった。

その背景には、企業や富裕層が豊かになれば、それが雨の滴が落ちるように社会全体に行きわたるとする『トリクルダウン政策』の考え方があった〉と報じているし、13年に出版された「ちょっと待って!竹中先生、アベノミクスは本当に間違ってませんね?」(ワニブックス)でも、竹中氏は

〈企業が収益を上げ、日本の経済が上向きになったら、必ず、庶民にも恩恵が来ますよ〉

と言い切っている。


 竹中平蔵氏がトリクルダウンの旗振り役を担ってきたのは、誰の目から見ても明らかだ。

その張本人が今さら、手のひら返しで「あり得ない」とは二枚舌にもホドがある。

埼玉大名誉教授で経済学博士の鎌倉孝夫氏はこう言う。


「国民の多くは『えっ?』と首をかしげたでしょう。ただ、以前から指摘している通り、トリクルダウンは幻想であり、資本は儲かる方向にしか進まない。竹中氏はそれを今になって、ズバリ突いただけ。つまり、安倍政権のブレーンが、これまで国民をゴマカし続けてきたことを認めたのも同然です」(後略)』

 そもそも、トリクルダウンが成立するためには、絶対的に必要な条件が一つあります。それは、富裕層なり大企業で「増加した所得」が、国内に再投資されることです。前述の通り、トリクルダウンとは、富裕層や大企業の所得が「国内の投資」に回り、国民が豊かになるというプロセスを「仮定」したものなのです。


 現代の説明も、かなり抽象的ですね。

「トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論」

 まあ、それはそうなのですが、正しくは

「富裕層が富み、国内に投資がされる」ことで経済活動が活発になる

という話なのです。


 すなわち、資本の移動が自由化されたグローバリズムの下では、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。特に、デフレーションという需要不足に悩む我が国において。


 富裕層減税や法人税減税で、「富める者」の可処分所得を増やしたところで、「グローバリゼーションで〜す」などとやっている状況で、国内への再投資におカネが回ると誰が保証できるのでしょう。誰もできません。


 結局、企業は対外直接投資、富裕層が対外証券投資におカネを回すだけではないのでしょうか。特に、日本のように国内にめぼしい投資先がなく、国債金利が長期金利で0.26%と、異様な水準に落ち込んでしまっているデフレ国では。というか、国内における投資先がなく、民間がおカネを借りないからこそ、長期金利が0.26%に超低迷してしまっているわけですが。


 無論、国境を越えた資本移動が制限されていたとしても、トリクルダウンが成立するかどうかは分かりません。減税で利益を受けた富裕層や企業が、国内に投資せず、増加した所得を「預金」として抱え込んでしまうかも知れません。


「いやいや、貯蓄が増えれば金利が下がり、国内に投資されるので、トリクルダウンは成立する」

 などと学者は反駁するのかも知れませんが、長期金利0.26%であるにも関わらず、国内の投資が十分に増えないデフレ国で、何を言っているの? 頭、悪すぎるんじゃないの? という話でございます。現在の日本は、企業の内部留保までもが史上最大に膨れ上がっています。


 お分かりでしょう。トリクルダウンが仮に成立するとしても、その場合は、

「国境を越えた資本の移動が制限されている」

「デフレではない」

 と、最低二つの条件が必要になるのです。ところが、現実の日本はグローバル化を推し進めつつ、同時にデフレです。トリクルダウンが成立する可能性など、限りなくゼロに近いわけでございます。


 そんなことは端から分かっていたし、何度も著作等で訴えてきたわけですが、残念ながらマスコミの主流は

「トリクルダウン理論により、法人税減税は正しい」

という、「頭、悪すぎるんじゃないの?」理論が主流を占めていました。


 少なくとも、現在の日本において、トリクルダウン前提の経済政策は「間違っている」と、全ての国民が認識する必要があるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/


続 トリクルダウンはあり得ない 2016-01-07


 昨日は、単にトリクルダウン仮説について解説しただけで、竹中氏の「真意」には踏み込みませんでした。

そもそも、竹中平蔵氏はなぜ「トリクルダウンはあり得ない」と語ったのか。


 安倍総理は、年頭の記者会見において、フジテレビの西垣記者の「選挙に向けてこの半年、国会が今日から開く中、どういった目標を掲げていかれるお考えでしょうか」という質問に対し、

「将来の老後に備えて、あるいは子育てのためにも使っていくことになるわけでありまして、これは正に成長と分配の好循環をつくっていくという新しい経済モデルを私たちは創っていく。その「挑戦」を行っていかなければいけないと思います」

 と、答えました。


 「分配」という言葉を総理が使ったのは、初めてのような気がいたします。


 わたくしは昨年末に刊行した徳間書店「2016 年 中国・ユーロ同時破綻で瓦解する世界経済 勝ち抜ける日本 」において、


『安倍総理は2015年1月28日の参院本会議で、民主党の質問に答えるかたちで、

「安倍政権としてめざすのはトリクルダウンではなく、経済の好循環の実現だ」

 と、トリクルダウンを否定した。

 だが、実際に安倍政権が推進している政策は、消費税増税をはじめとする緊縮財政にせよ、法人税の実効税率引き下げにせよ、あるいは様々な構造改革にせよ、明らかに特定のグローバル投資家を利する政策ばかりだ。

 グローバル投資家に傾注した政策を推進しつつ、トリクルダウンを否定したため、筆者はむしろ総理が国内の所得格差の拡大を歓迎しているかような印象を受けたものである。

 すなわち、富裕層やグローバル投資家、大企業を優先する政策を打つ政権は、言い訳としてトリクルダウン理論を持ち出すのだ。

法人税減税や消費増税、構造改革など、国内の所得格差を拡大する政策を繰り出しつつ、トリクルダウンすら否定するのでは、余計に問題ではないだろうか。』


 と、書きました。


 朝生のを見た限り、竹中氏は別に、 「トリクルダウンはあり得ないんです。ごめんなさい」というニュアンスで「トリクルダウンはあり得ない」と語ったわけではないわけです。


 トリクルダウンなど起きえない。
政府の政策で富が「滴り落ちる」のを待っている方が悪い、

というニュアンスでトリクルダウンを否定したのでございます。

すなわち、格差肯定論としてのトリクルダウンの否定なのです。


 そもそも、トリクルダウン仮説は民主主義国家において、一部の富裕層や法人企業に傾注した政策をする際、有権者である国民に「言い訳」をするために編み出されたレトリックなのです。


「富裕層や大手企業を富ます政策をやるけど、いずれ富は国民の皆さんに滴り落ちるので、安心してね」

 というわけでございます。


 つまりは、政治家がグローバリズム、新自由主義的な構造改革、緊縮財政を推進し、国民の多数を痛めつける際に「言い訳」として持ち出されるのがトリクルダウン仮説なのです。


 竹中氏がトリクルダウンを否定したのは、構造改革を推進するに際し、国民に言い訳をする必要性を感じなくなったのか、あるいは言い訳するのが面倒くさくなったのかのいずれかでしょう。


「面倒くせえな。トリクルダウンなんてあるわけないだろ。

政府の政策で、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧困化し、それでいいんだよ。

どうせ、負けた奴は自己責任なんだから」


 と、一種の開き直りで「トリクルダウンはあり得ない」と竹中氏が発言したと確信しています。


 とはいえ、総理が「分配」と言い出したということは、竹中氏はともかく「政治家」にとっては、「トリクルダウンすらない構造改革、富裕層・大企業優遇政策」は、有権者に説明がつかないということなのだと思います。


「竹中氏がトリクルダウンを否定した。へ〜え。

つまり、あんた(国会議員)たちは富める者がさらに富み、貧困層はますます貧困化する政策を肯定するんだな?」

 という突っ込みを受けるのは、安倍総理とはいえどもきついでしょう。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12114721167.html

トリクルダウンとは「富裕層減税や法人税減税により、国内の投資が拡大し、国民が豊かになる」というロジックになっています。

減税分を「国内の投資に必ず使う」ように政府が強制できるならばともかく(できません)、資本の国境を越えた移動が実現したグローバリズムの時代に、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。

しかも、法人税を減税し、企業の現預金を増やしたところで、デフレで投資利益が見込めない以上、国内の設備投資が拡大するはずがありません。

上記の理屈は、「常識」に基づき考えてみれば、誰でも理解できるはずです。特に、損益計算書やバランスシートに触れる機会が多い経営者であれば、一発で分かるでしょう。

ところが、現実にはトリクルダウンが成立するという「前提」に基づき、法人税減税をはじめとする構造改革が推進されています。

それどころか、もはや政府はトリクルダウンという「言い訳」をする必要すら感じていないのかも知れません。


竹中氏が今回、トリクルダウンを否定しましたが、これは別に、

「トリクルダウンがあると嘘ついていました。ごめんなさいね」

とう話ではなく、

「トリクルダウンなど、あるわけがない。政府に甘えず、各人が努力せよ。負けたら、自己責任」


と、責任を「国民」に丸投げしたに過ぎません。

それにしても、中国が改革開放を推進した際、ケ小平は「人民」に対する言い訳として、トリクルダウン仮説の一種である先富論を持ち出しました。中国のような共産党独裁国であっても、勝ち組に優しい政策をする場合は、トリクルダウン仮説で「言い訳」をする必要があるのです。

ところが、日本ではもはやトリクルダウンという「言い訳」すらなされず、格差を拡大することが明らかな構造改革が推進されていっています。

この状況を「怖い」と思うのは、三橋だけでしょうか。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2016/01/11/mitsuhashi-345/


2016-01-18
富裕層が仕掛けているのは、自分たちが100戦無敗になる方法

100戦無敗になるにはどうしたらいいのか。簡単だ。徹底的に弱い相手と戦うことだ。たとえば、大人は3歳児と戦ったら必ず勝つ。

大人が常に3歳児と戦い続ければ、常に勝ち続けることができる。それは勝負ではなく、リンチになるはずだ。大人はその気になれば、殴り殺すことさえ可能だろう。

だから、スポーツはこういった「大人vs子供」のような、最初から勝負が分かりきっているような組み合わせを禁止する。惨劇を避けるためだ。

それを不服として、大人が「自由に勝負させろ」と叫んでいたら、どうかしていると思われるはずだ。

しかし、それはスポーツの世界だからどうかしていると思われるだけで、実社会ではそのあり得ない競争が行われる世界なのである。

100万円の資産しかない人間が、100億円の資産を持つ企業と無理やり競争させられるのが資本主義の掟である。巨大な者が「もっと自由を」という時は、「弱者を叩きつぶす自由をくれ」という意味なのである。


落ちこぼれた人間には金すらも出したくない政府

「どんどん競争させろ。競争のルールは必要最小限にしろ。弱い者がどうなったところで知ったことではない」

これが資本主義を拡大解釈した「市場原理主義」の正体である。日本は2000年に入ってから、この弱肉強食の市場原理主義が小泉政権下で組み入れられた。

事実上の実行者は、当時、経済財政政策担当大臣と金融担当大臣を兼任していた竹中平蔵だった。

この男によって社会経験の浅い若年層は非正規労働者に追い込まれ、どんどん生活が不安定化しくことになる。

こういった格差が生まれるのは当然だと竹中平蔵は言っている。さらに、「日本はまだまだ格差が少ない社会だ」との認識も示している。

つまり、もっと激しい競争社会して、それによって弱者がもっと増えても別に構わないというスタンスである。さらにこの男は2016年に入ってからトリクルダウンも否定している。

トリクルダウンというのは「資産家や大企業を先に豊かにすると、富が国民全体にトリクルダウン(滴り落ちて)、経済が成長する」というものだ。

ケ小平の唱えた「先富論」に似ているものだが、竹中平蔵はそのトリクルダウンもないと言った。強い者はどんどん富むが、その富は弱者に回らない弱肉強食の社会を日本に取り入れたのがこの男である。

竹中平蔵は派遣会社の会長なのだが、派遣会社というのは労働者の稼ぎをピンハネする事業をしている。ピンハネして、要らなくなったら捨てる。

その結果、労働者が弱者になったとしても「それは、その人の自己責任だ」と言うのが竹中平蔵の理論なのである。

弱者など、どうでもいい。落ちこぼれた人間には金すらも出したくない。だから、この男が小泉政権下でしたのは、社会保障支出の大幅な削減だった。

その結果、高齢者も、障害者も、シングルマザーもみんな追い込まれて、生活保護受給者は大幅に増えることになった。


努力しても這い上がれない社会が来ている

弱肉強食の市場原理主義を取り入れればそうなることは、はじめから分かっていた。なぜなら、強欲な資本主義の総本山だったアメリカがそうなったからだ。

アメリカではレーガン政権がこの市場原理主義を推し進めた結果、1%の富裕層と99%の低賃金層という超格差社会を生み出して、今でもその格差の分離は広がっている。

アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。

中流階級は激減し、2010年には貧困者が4620万人に達した。7人に1人は貧困層だ。さらに、予備軍まで入れると、3人に1人は生活に追われている状況になっている。

問題なのは、この格差が固定化しつつあるということだ。アメリカン・ドリームはすでに消失している。努力しても這い上がれない社会がやってきているのである。

当然だ。競争を開始する時点での条件に大きな格差がついている。スタートラインが富裕層と貧困層とではまったく違う。正当な競争になっていないのである。

貧困層は満足な給料がもらえない職業を転々とするしかなく、結局、働いても働いても豊かになれないワーキングプアが常態化してしまう。

貧困が固定化するのは、次の5つの要因がある。

(1)生活に追われ、疲れて何も考えられなくなる。
(2)低賃金で自分も子供も教育が受けられなくなる。
(3)金を含め、あらゆるものが不足してしまう。
(4)這い上がれない環境から自暴自棄になっていく。
(5)社会的影響力がなく、権利は保障されない。

いったん貧困に堕ちると、この5つの要因が同時並行で始まっていき、その中で押しつぶされてしまう。

これは、アメリカだけの問題ではなく、今や日本の底辺の問題でもある。すでに、日本の底辺もこの5つの要因にがんじがらめにされて、這い上がるのが絶望的に難しい社会になっているのである。

アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。


貧困層は、相変わらず見捨てられていた

格差が固定化されるというのは、富裕層と貧困層の超えられない一線ができるということである。人々は分離し、この両者は次第に違う文化を生きることになる。

暮らす場所も、食べる物も、通う学校も、遊ぶ場所も、付き合う人も、すべて違っていく。そして、この両者は互いに相手に無関心になり、話す言葉すらも違っていくようになる。

日本もそうなる危険性が高い。格差は固定化して、堕ちてしまった人は、社会から見捨てられて生きるようになっていく。

2014年3月。私は10年ぶりにインドのコルカタに向かって、インドの貧困地区がどうなっているのかを確認しに行った。

その結果、どうだったのか。書籍『絶対貧困の光景』で書いたのだが、かつての貧困層はインドの経済発展からものの見事に取り残されていた。

コルカタは、確かに一部は経済発展していた。

ところが、貧困層はまったく経済発展の恩恵に浴していなかったのだ。彼らは社会から無視され、相変わらず社会から見捨てられていた。

10年前、貧困の中で生きていた女性たちは今もまだまったく同じ状態で放置されていた。彼女たちは路上で暮らし、路上で物乞いをし、スラムは相変わらずスラムのままだった。

先進国と変わらないマンション、ショッピングモールができていて、富裕層がベンツを乗り回しているその横で、10年前に貧困層だった人たちは、まだ路上を這い回って生きていた。

(堕ちたら、這い上がれないのだ……)

竹中平蔵が言った通り、「トリクルダウン」など、影も形もなかった。貧困層に富はこぼれ落ちていなかった。完全に置いてけぼりだ。

そういった状況は私もよく知っていたはずだった。しかし、実際にそんな現状を目の前に突きつけられた時に感じたショックは、決して小さなものではなかった。

格差が固定化され、弱者が見捨てられ、貧困層が大量に増え続ける社会がどんなに悲惨な社会なのか、日本人はもっと真剣に考えるべきだ。

日本はそんな道を辿ろうとしているのである。

スラムの子供たち。富める者は富み、貧しい者は奪われるのであれば、この少年と幼い妹には未来はない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160118T0438270900.html


34. 中川隆[4358] koaQ7Jey 2016年10月07日 10:34:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4767]

現在の富裕層は自分たちが「社会の一員」だとは考えていない。

情報と富を独占し、庶民を支配、税負担を押しつけようとしている。

日本政府が学校に予算を割かない目的は、庶民から学ぶ権利を奪うことにあるのだろう。

教育には洗脳という側面があるものの、学問する庶民は富裕層にとって邪魔な存在。

自分たちの幻術が見破られてしまう。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610040000/


2016-05-19
富裕層・権力層の世襲化と凄まじい格差が止まらない社会に
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160519T1631160900

現在、アメリカで起きているのは、四年制大学を卒業しているかどうかで良い職業に就けるかどうか、良い収入を得られるかどうかが決まるということだ。

要するに「大学卒業」という学歴が人生を左右する。もちろん、大学にも格があってアイビーリーグ等の名門大学であればあるほど重用される。

アイビーリーグとは、ハーバード大学、コロンビア大学、ペンシルバニア大学等の名門有名大学なのだが、これらの大学は私大を指す。

こうした大学に入るには、もちろん本人の知能指数も重要になってくるのだが、それだけではなく「学費が払えるかどうか」もまた重要になってくる。

こうした大学では学費等を含めると1年間に500万円近い出費になるのだが、これを4年続けると2000万円になる。返済不要の奨学金はすべての学生に出るわけではない。

とすれば、これらの大学に通える子供というのは、費用に耐えられる家庭は中流階級か富裕層となる。

もちろん、無理して学生ローンを組んで大学に通う子供たちも大勢いる。しかし、これがまた問題になる。何しろ、卒業した瞬間に借金を背負った社会生活になるからだ。


2000年以降に成人した「ミレニアル世代」の苦境

良い大学を出たからと言って必ずしも良い収入が得られるわけでもない。仕事の有無は景気に左右される。

リーマン・ショックの翌年、2009年や2010年では多くのアメリカ企業が新卒を採るどころか多くの有能な社員すらもリストラをしていた。

そんな時代に社会に出た卒業生は、莫大な借金を背負ってリスクの高い社会生活を送らざるを得なくなる。

彼らは2000年以降に成人した世代なので「ミレニアル世代」とも呼ばれている。

このミレニアル世代は日本で言うところの「就職氷河期」に社会に放り出された世代であり、貧乏くじを引いた世代だとも言われている。

大学の学費の高騰は今も続いている。アメリカ政府がリーマン・ショックで財政赤字に追い込まれて国家レベル、州レベルで教育予算を大幅にカットしていったので、大学は生き残るために授業料を値上げせざるを得なくなった。

つまり、アメリカという国が経済的な苦境に落ちて国民の教育を促進する余裕を失い、そのとばっちりを若年層が受けているのである。

もはや大学に行けるかどうかは、本人の能力の前に親の財力で決まるような「格差社会」がアメリカに到来したのだ。

こうした社会の不満が2011年に大爆発し、「ウォール街を占拠せよ」というデモにつながっていったのはよく知られている。

中流階級はどんどん没落して格差が広がっていき、今や「1%の富裕層と99%の貧困層」に社会が分離しようとしている。

そのため、「ウォール街を占拠せよ」でも「99%」というプラカードを掲げたミレニアル世代の若者たちの姿が大きく目立った。

アメリカ政府はバクチに踊った巨大銀行は税金で救ったが、若者たちは切り捨てた。その怒りが「ウォール街を占拠せよ」の原動力となった。


バーニー・サンダースの躍進も格差問題があるから

こうした動きはやがて沈静化したが、社会問題として解決したわけではなかったので、これが2016年の大統領選挙におけるバーニー・サンダースの躍進につながった。

バーニー・サンダースは自ら「社会主義者である」と公言しており、アメリカでは異色の政治家である。

当初、民主党はヒラリー・クリントン候補のひとり勝ちであると言われていたのだが、世間の下馬評とは裏腹にバーニー・サンダースが大躍進してヒラリー・クリントンの勢いが大きく削がれる番狂わせが起きている。

ヒラリー・クリントンはもちろん指名数獲得でバーニー・サンダースを大きく引き離しているのだが、話題になるのはヒラリーの強さではなく弱さの方だ。

バーニー・サンダースは74歳の高齢候補だが、それでもミレニアル世代は熱狂的にバーニー・サンダースを支持している。

それにはバーニー・サンダースが「私の内閣はウォール街の代表に独占されたりしない」と語り、さらには「格差是正」「LGBTの権利拡大」「公立大学の無償化」を明確に公約として掲げているからだ。

これらのすべては、まさに「ウォール街を占拠せよ」運動でミレニアル世代が掲げたものと一致しており、さらにミレニアル世代が求めているものだった。

今のアメリカ社会は、あまりにも格差が行き過ぎて、「富める者はどんどん富んでいき、貧困層はどんどん貧困に堕ちる」という凄まじい社会となっており、そこから抜け出せない。

最近、オバマ大統領の長女であるマリアがハーバード大学に入学した。

これについて、「祝福の声が溢れている」と各マスコミは報じていたのだが、インターネットでは「コネ入学だ」「金持ちの娘が金持ちの大学に入っただけだろう」とむしろ冷めた声の方が溢れていたのは無視されていた。

「コネ入学だ」という意見は正しい。私大であるハーバード大学は有名人や富裕層の子供を率先して合格させることで知られている。ちなみに、バラック・オバマもミシェル・オバマもハーバード大学を卒業している。


格差と富裕層・権力層の世襲化が止まらない社会

金持ちや権力者の子供が名門大学に簡単に入れる社会で、貧困層はそこから締め出されていく。

それが常態化しているとすれば、アメリカはすでに実力を重視する自由競争社会ではなく、単なる「階級社会」になってしまったということだ。

富裕層の子供は、親が富裕層だったからという理由で、良い子供時代を過ごし、良い大学に入り、良い人脈に恵まれ、良い企業に入社し、自分も富裕層になりやすい社会になったのだ。

言うまでもないが、こうした「階級社会」は格差がどんどん広がっている日本でもすでにとっくに到来していて、たとえば政治家を見れば、多くが「世襲」になっていることが分かる。

権力と財力は子供に継がせて、より肥え太るのである。これは政治界だけの現象ではない。経済界でも、芸能界でも、果てはスポーツ界でも状況は同じだ。

金と権力と名声が唸っている業界では、成功した人がそれを子供に継がせていくのである。

もちろん、子供にも親を超える能力がある可能性も中には存在するかもしれないが、ほとんどは親ほどの才能は持ち合わせていないことが多く、実力がないのに権力だけはあるという状態になる。

それが長らく続くことによって社会はどんよりと停滞し、劣化していくことになる。

しかし、一部が特権階級と化して富を独占し、他を貧困に叩き落とす社会は、がっちりと固定化して社会に組み込まれているので、容易なことでは破壊することはできない。

バーニー・サンダース候補も、しょせんはキワモノのような扱いをされているのを見ても分かる通りだ。

格差と富裕層・権力層の世襲化は止まらないのである。

そのため、社会を覆い尽くす閉塞感は、より深く、広く、深刻なものへとなっていく可能性が高い。今のところ、この格差社会を破壊する兆候は何一つ見当たらない。

バーニー・サンダース候補を熱烈に支持するミレニアル世代の若者たち。しかし、社会を覆い尽くす閉塞感は、より深く、広く、深刻なものへとなっていく可能性が高い。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20160519T1631160900


2016-02-26
貧困層の子供が貧困から抜け出せないという格差固定社会に


アメリカの大統領選で、民主党では本命のヒラリー・クリントンが苦戦してバーニー・サンダースが若者を支持を得て思いがけない混戦となった。

若者がサンダース氏を強力に支持しているのは、彼が富裕層への増税、大企業の課税逃れの取り締まりと並んで、公立大学の授業料無償化を打ち出しているからだ。

アメリカでは有名大学の学費は驚くほど上がっており、もはや金持ちしか通えないような状況になっている。4年で約1500万円から2000万円近くかかるのである。

当然ながら、金持ちの家庭の子供たちは高学歴の子供たちが多い。子供の教育に金を出す余裕もあれば、安心して学業に励める快適な環境もある。さらに、親のコネや人脈で有名大学に入るルートもある。

現に、ハーバード大学やオックスフォード大学は世界各国の権力者の子弟を受け入れている。さらに、大学卒業後も、仕事や役職が最初から約束されていることも多い。

端的に言うと、エリートや金持ちや権力者の子供たちというのは、最初から社会的な地位が約束されていることが多く、貧困家庭にはない多くのメリットを享受できる。

貧困層はもはや最初から競争に負けている。つまり格差が固定化されていった。

恵まれた家庭の子供たちは、能力が伸びる

この傾向は日本にも広がっている。現在、奨学金という名の学生ローンで大学に通う学生も増えているが、やがてはそれすらもできない家庭も出てくるはずだ。(大学全入時代という言葉に洗脳され、奨学金で奴隷化される)

子供が将来、社会的に成功しやすいかどうかというのは、本人の努力が問われる以前に、親の収入の多寡も影響するというのは以前からよく指摘されていることだ。

これは別に社会学者が統計を出さなくても、普通の人ですら日常を観察してしみじみと思う現象でもある。

収入のある家庭では、子供にいろんな習い事をさせることができる。塾にも行かせることができるし、家庭教師を呼ぶこともできる。

また、親が精神的余裕も経済的余裕もあるので、子供に目をかけやすい。家族の団欒を持てたり、一緒に旅行ができたり、一緒に勉強したり遊んだりすることができる。

もちろん、すべての富裕層がそんな理想的な家庭ばかりではなく、それぞれ複雑な家庭の事情を抱えているのも事実だ。何の悩みもない家庭はひとつもない。

しかし、一般的な比較で言うと、総じて富裕層は子供に最適な環境を与えることができる。それが、子供の能力を伸ばすので、富裕層の子供に社会的能力の高い子供が多いのは別におかしなことでも何でもない。

収入のある家庭の子供は、アメリカでは「正しい子宮から生まれた子供」と半ば冗談で言われるのだが、それは人間社会の残酷な一面をえぐる言い方でもある。

正しい子宮から生まれた子供は、苦労することも、経済的な困窮に涙を流すこともないまま、恵まれた人生を送れる。


正しい子宮から生まれた子供は、苦労することも、経済的な困窮に涙を流すこともないまま、恵まれた人生を送れる。


貧困家庭の子供たちは、能力が潰される

極貧の家庭は、常に何らかのトラブルに追い込まれている状態であると言ってもいい。親はストレスにまみれ、家庭そのものが破綻していることもある。

経済問題はありとあらゆる問題を先鋭化させる。今を生きていくだけで精一杯であり、子供の教育などはすべて後回しにされる。子供の能力は潰される方向に向かっていく。

習い事をさせる余裕もない。塾や家庭教師など、とんでもない話である。義務教育が終われば、あとは一刻も早く社会に出て金を稼いで欲しいと考える家庭も多い。

そのように口に出して言わなくても、子供たちは親の貧窮ぶりを見て育っているので、悠長に教育を受けるよりも、さっさと社会に出て稼ごうと考える。

そうすると、低学歴で社会に出ることになって、結局はそれが仇になって低収入の仕事に甘んじるしかなくなっていく。もちろん、人脈やコネがあろうはずがなく、折に触れて助けてくれる人もいない。

富裕層の子供たちが多くの助言者を持っているのに比して、貧困層の子供たちは多くの悪い友人を持っていて、マイナスの方向に引っ張られやすい。

そして、言うまでもなく低学歴を余儀なくされた子供たちには、条件の良い仕事はあまりない。

低学歴でもできる仕事というのは、賃金が低いか、極度に体力を使う仕事か、危険な仕事であったり、反社会的なものであったりすることが多い。

その仕事に就いていること自体がトラブルの元になり、やがては自分の人生がトラブルによって潰されることも多い。しかし、そこから逃れるとやはり低収入の仕事しかなく、将来の展望は見えてこない。

これはある意味、貧困家庭に生まれたことに原因があるという観察もできるわけで、「経済格差が遺伝する」というのは、こういった現象から言われているものだ。


低学歴でもできる仕事というのは、賃金が低いか、極度に体力を使う仕事か、危険な仕事であったり、反社会的なものであったりすることが多い。


貧困が遺伝する激烈な社会に到達してしまった

日本は2000年代に入ってから、極度に格差が広がる社会になっている。この「労働者使い捨て時代」に成人して社会に出た人々は今は30代から40代に入ろうとしている。

将来の展望もなく、低収入を余儀なくされているわけだから、結婚が激減し、さらに少子化が加速しても仕方がない。

2015年11月4日、厚生労働省は賃金労働者の4割が非正規雇用者になったと発表した。

ここでは低学歴の若年層になればなるほど、非正規雇用者になる確率も増えることが確認されている。学歴の有無で、最初からふるい落とされていくのである。

それでも非正規労働のまま努力し、結婚し、将来の安定のない中で子供を持つ人たちも、もちろんいる。

重要なのは、こういった貧困を余儀なくされている人たちを社会が救済できなければ、彼らの子供たちもまた貧困層から抜け出せなくなる可能性があるということだ。(「お金がない」ということ自体が、知能を低下させる理由)

貧困が貧困を固定化させる現象が日本で生まれてくるのである。今後、日本が成長できないのであれば、国民が豊かになるチャンスも減少していくということでもある。

ありつけるパイが小さくなっているのだが、その中で格差が拡大していくと、パイの大部分を恵まれた富裕層がごっそりと持って行き、残ったパイを大勢の貧困層が奪い合うという醜悪な社会になっていく。

いよいよ、そういった社会が見えてきている。

政府が何かしてくれるだろうか。隣人が何かしてくれるだろうか。もちろん、それは期待できない。格差社会というのは、激烈な競争が生み出したものであり、また競争を生み出すものだからである。

グローバル化という極度の資本主義に入った現代社会は、学歴や財力で「他人を蹴落とす人生ゲーム」を人々に強いる社会なのである。

強者は総取りする。敗者は持っているものも奪われる。その結果、貧困層はますます貧困に追いやられ、今や貧困層の子供が貧困層から抜け出せないという局面になろうとしている。


人材使い捨ての社会が経済格差を生み出し、子供たちに影響を及ぼす。貧困が遺伝する社会に、すでに日本は突入したと言われている。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160226T1613090900.html

2013-12-13
現在、学歴による身分制度が進んでいることに気付くべきだ


あなたは巨額の資産を持った家系の生まれだろうか。それとも、ごく普通の生まれだろうか。いや、すでに貧困に落ちた家系だろうか。

言うまでもないが、それによって、まったく違う人生を歩むことになる。

現在の先進国では身分制度もないし、特権階級もないと思われている。もちろん、それは間違いだ。現代社会でも、依然として特権階級はある。現代社会の特権階級というのは、「金持ち」「資産家」のことである。

現代は資本主義だ。この資本主義が続くと、当然だが、経済的に成功する人と失敗する人が二極分化する。

いったん金持ちになった人は家族にも一族にもその恩恵を与えることができるようになり、経済的に成功した一族が特権階級化していく。

現代社会はそのほとんどの商品・サービスを金で買うことができる。さらに、あまり知られていないが、「身分・地位・立場・学歴」もまた金で買うことができる。

金さえあれば、あなたは上場企業の社長になれる

あなたがどこかの企業の社長になりたいとする。あなたはどうするだろうか。

「その企業に尽くし、何十年も多大な貢献をし、それによって多くの人に認められるように努力する」

それが、あなたの答えではないだろうか。まさに、それは正々堂々とした真っ正面の手法だ。世の中はそうであるべきで、一生懸命に勉強し、努力した人が認められるのが、社会であるべき姿でもある。

しかし、どこかの企業の社長になるには別の方法もある。その会社の株式を50%取得するだけでいい。そうすれば、ほぼその企業を手中に収めたことになり、あなたは代表取締役でも役員でも何でもなれる。

つまり、金さえあれば、その金で会社をも買うことができて、結果的にその会社でどんな身分にでもなれる。

その会社について何の貢献も、知識も、努力もいらない。その会社が何を作っている会社なのか、知る必要すらもない。何十年も会社に尽くす必要などまったくない。

非上場会社の株を手に入れるのは難しいが、上場会社であれば普通株式が買えるのだから、理論的には、ただ金を用意して株式市場で合法的に50%取得すればいいことになる。

上場企業で、時価総額が10億や20億以下の会社など、ざらにある。日本の上場企業でも20億円以下は470社は超える。

5億円や10億円ほどあれば、あなたは上場企業の社長になることすらも可能なのである。あなたも金があれば、そのようなことをすることができる。


学歴も「金で買える」というのが現実だ

世界中の多くの由緒ある一族、すなわち支配層に入る一族は、そうやって有力な企業の役員となって何ら苦労もなく地位も名誉も巨額配当も手に入れる。

つまり、金持ちはありとあらゆる場面で金を支払うことによって、恵まれた社会的な恩恵を受けることができるようになる。

もちろん、学歴も金で買うことができるのは「当然のこと」である。世界中の多くの支配者層の子供たちが、オックスフォード大学やハーバード大学の学生であり出身である。

アウンサン・スーチーも、ベナジール・ブットも、インディラ・ガンジーも、みんな有名大学の出身だが、彼らはみんな天才だったわけではない。

しかし、親が支配者層であれば、名門大学は入学と卒業を可能にするシステムがある。欧米の有名大学もそうなのだから、日本の大学もまた似たようなものだと思えばいい。学歴も「金で買える」というのが現実だ。

学歴は買う価値があるのだろうか。もちろん、ある。なぜなら、学歴でその人の人生は「ほとんど」が確定するからだ。高学歴は優遇され、低学歴は下層に落とされる。

資本主義社会になると、表向きには身分がないので、何らかの物差しで人間を推し量らなければならない。かつては、それが親の身分だったりしたのだが、現在は「学歴」で人物を推し量る決まりになった。

だから、学歴社会は「学歴身分制度」になっていると気付かなければならない。学歴が高ければ高いほど、社会的に優遇されて生きやすい世の中になる。

実は、この学歴社会は支配者層には非常に好都合な制度なのである。学歴社会こそが現代の身分制度であり、自分たちの地位を守るものになるからだ。それは、自動的に身分を固定化させる働きをする。


金がないと学歴が得られない社会になっていく

学歴が金で買えるという裏事情があれば、支配者層はもちろん学歴を金で買う。そうすると、金持ちの一族はみんな高学歴になる。

そして、現代社会を学歴社会にして、学費をどんどん上げて一般の人々が高学歴を取りにくい社会にすれば、学歴による身分制度が完成する。

奨学金制度があるとは言えども、先進国の有名大学はほとんどが非常に学費のかかる仕組みになっており、それは日本でも変わらない。

金がないと学歴が得られない社会になりつつあるのだ。これは、これからもっと顕著になっていく。なぜなら、そうすることによって「学歴身分制度」が完成するからである。

分かりやすく言うと、世の中はこのようになっている。

(1)世の中を学歴社会にする。
(2)支配者層は学歴を金で買う。
(3)低所得層には競争させる。
(4)教育に金がかかるようにする。
(5)低所得層は金不足で進学不可になる。
(6)低学歴の人間の身分を固定化する。

もちろん、奨学金制度や、本人の血のにじむような努力によって名門大学の学歴を手に入れる真の秀才・天才が世の中には何千人かいて、普通の家庭の子供でも学歴社会のトップに上り詰めることも可能だ。

しかし、逆にその数千人の秀才が目くらましになって、学歴身分制度の仕組みは見えなくなっている。

学歴がないのは、自分が勉強しなかったり、自分の頭が悪いからであり、自分の能力に限界があるのであれば、給料が低くても出世しなくても「仕方がない」と思う。

つまり、すべては自分のせいであると思い、自分の低い身分に納得するようになる。特権階級がそれを金で買っているとは考えもしないで……。


「持っている者」と「持たざる者」を固定化

本当は裏があって、学歴も金で買えるという事実を知っていれば、自分に仕掛けられた「社会のワナ」に気付くのだが、ほとんどの人はそれを知らないまま一生を過ごす。

だから、何かにつけて「努力」することを強いられる。しかし、あなたは以下の事実をよく噛みしめる必要がある。

「普通の人が必死で努力して学歴を手に入れようとしているが、特権階級は金で簡単に手に入れる」

努力は確かに尊いものであり、人間が人間らしく生きる上で必要不可欠なものだ。努力することによって人は成長する。だから、努力することは無駄ではない。

高学歴を手に入れるというのは、勉強するということだが、勉強は個人的にも重要なものだ。

しかし、一方で努力が押しつけられ、一方ではそれが金で買えるようになっているのだとすれば、それは大きな社会矛盾である。しかし、その社会矛盾が、多くの人には見えていない。

見えていないから、現在、「学歴による身分制度」が固定化するように支配者層が動いていることすらも気付かない。もう一度、その意味を確認して欲しい。

・教育に金がかかるようにする。
・低所得層は金不足で進学不可になる。
・低学歴の人間の身分を固定化する。

現代社会は「金」を持っている一族が特権階級であり、特権階級は身分も、地位も、立場も、学歴も、すべて金で解決することができるようになっている。

そして現在、社会の裏で起きているのは、「持っている者」と「持たざる者」を固定化させようとする動きであることを知っておいて欲しい。



オックスフォードは世界の支配者層の子供たちを受け入れる大学である。
子供たちの実際の学力は関係ない。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20131213T1642000900

2015-12-01
大学全入時代という言葉に洗脳され、奨学金で奴隷化される


大学に行くのが当たり前になると、大学が粗製乱造される。そして、大学側は儲ける必要があるので、どんな馬鹿でも受け入れるようになる。

東大、早稲田、慶応、一橋、京大、阪大等の一流大学と言われている大学も、無試験・面接程度で合否を判定するAO入試や推薦入学を行うようになり、優秀な学生ばかりがいるというわけでもなくなった。

さらに大学の教授も極度に質が落ちて、髪を紫色にして当たりもしない嘘八百の経済予測をするような気の狂った人間や、パクリしかしないデザイナーもどきの人間が教授になっていたりする。

学生も教授もそんな状況なので、今や大学を卒業したという「大卒」の肩書きがほとんど意味を為さないようになってしまっている。ありふれて陳腐なものになれば、希少価値が激減して安っぽいものになる。

大学卒業という学歴は、価値のない日用品になったのだ。

そもそも「大卒」という学歴が必要だったのは、どこかの一流企業に就職して一生安泰の生活を送るという典型的なライフプランを実現するためだった。

しかし、もうそのライフプランそのものが崩壊している。

多くの学生が「奨学金」という名の借金を背負う

その「一流企業」に入っても、このグローバル化の激しい競争社会の中で、その企業は一流の地位を保てるとは限らない。いったん競争に負けたら、一流企業と言えども、社員を片っ端からリストラするようになっている。

終身雇用も年功序列も崩壊し、いったんリストラされて放り出されたら、どんな大学を卒業していても次の就職先は足元を見られて給料大幅ダウンにならざるを得ない。

しかし、それでもそんなライフプランが今も通用すると考える若者や親がいて、「莫大な借金」をしてまで大学に行こうとするのである。

今、多くの学生が「奨学金」という名の借金を背負って大学を卒業し、苦境に落ちている。

本来、奨学金というのは成績優秀な学生を支援するための「返済の義務のないもの」を指すはずだったが、今では単なる学生ローンのことを「奨学金」と呼んでいる。

学生ローンなのだから、借りたものは返さなければならない。しかも、利子付きであり、学生だからという優遇はまったく何もない。

1ヶ月8万円を借りたとしたら、4年間で384万円だが、利息が付くので返済額は400万円を超える。12万円を借りたら4年で576万だが、やはり利息が付くので700万円以上の借金になっていくという。

陳腐な日用品と化した「大学卒業」という学歴のために、大学を卒業したばかりの22歳や23歳の若者が400万円から700万円の借金を背負うことになる。現在、学生の半数がこの奨学金の受給者と化している。

偏差値40以下の、社会的にはまったく何の価値もないFラン大学の学歴であっても学生ローンを組んでそこにいたら、そのまま過大な借金だけが学生の肩にかかっていくのである。

Fラン大学の学歴では、一流企業には100%入れない。どのみちそれなりの企業にしか入れないのであれば、400万以上の借金をする価値はない。


実際、奨学金の滞納はうなぎ登りに上がっている

一流大学でもない限り、今や「大卒」という肩書きは完全に無意味になっている。

グローバル化した社会になると、大学のランクも国際化した評価で見られるようになるので、日本の一流大学の学歴ですら無意味になる。

つまり、これからますます「大卒」という肩書きは役に立たないものになっていく。当然、中堅大学以下の学歴では、就職活動で何の武器にもならない。社会に出ても何の意味もなくなる。

これは、奨学金という学生ローンを抱えて社会に出ても、そのほとんどの人は見返りを得ることができないということを意味している。

見返りを得るどころか、返さなければならない借金という重圧に押しつぶされて、卒業後何十年も貧窮を余儀なくされる可能性の方が高いのだ。

「給料は上がらない、いつリストラされるか分からない」ような状況の中で奨学金という名の学生ローンを返し続けなければならない。

仮に大学を出て仕事が見付からなければ、それこそ学生ローンを滞納し、若くしてブラックリスト入りや、自己破産直行になっていく。

実際、奨学金の滞納はうなぎ登りに上がっている。文部科学省によると2014年末で滞納者は33万人もいると言われている。

滞納というのは3ヶ月、ローンの支払いが滞った人のことを指す。金がないから3ヶ月も滞ったわけである。

その時点で「ブラックリスト入りになるから早く返せ」と言っても、滞納した3ヶ月分と次の1ヶ月分をまとめて返せる能力があるはずがない。

つまり、いったん滞納したら間違いなく個人信用情報機関に登録(ブラックリスト入り)して、クレジットカードも作れなくなり、結果としてますます困窮化していく。


大学全入時代という言葉に洗脳されて奴隷化

奨学金という学生ローンを抱えるのは男子学生だけではない。女子学生もまた学生ローンを抱える。

最近「民間支援法人・奨学金返済ナビ」という名乗るサイトが「奨学金返済に苦しむ女性の支援をさせていただく民間の企業です」と言って、ローンを抱えた女性に仕事を斡旋していた。

ところが、その仕事というのが性風俗やアダルトビデオの斡旋だったので、大騒ぎになった。借金を抱えた女性はいつでも食い物にされる。

やはり、アンダーグラウンドは「奨学金のワナ」に堕ちた女性たちを見逃さなかった。借金を抱えた女性は、最大の獲物なのである。

こうした事件は止まることはない。奨学金を借りて卒業後には借金まみれになっている学生が次々と社会に放り出される以上、もっと悲惨な事件も出てくるようになる。

すでに価値を失った「大学卒」というものに数百万も支払う必要はないのだが、大学全入時代という言葉に洗脳され、会社に入れば一生安泰という幻想は止まらないので、次から次へと破滅する人間が出てくる。

では、なぜこの「大学全入時代」「会社に入れば一生安泰」という幻想は続くのだろうか。

簡単だ。ビジネス社会にとっては一般庶民がそのように幻想を持ってくれていた方が「儲かる」からである。

企業は、学生に借金を負わせて数十年も利息を払わせ続けて儲けることができる。さらに、借金を背負った人間は、奴隷のようにこき使っても辞めることもできないので、壊れるまで過重労働させることも可能だ。

要するに、「大学全入時代」「会社に入れば一生安泰」という幻想を与えることによって、金融企業は若者を食い物にすることができるようになり、一般企業は奴隷のように服従する労働者を手に入れることができるようになる。

黙っていれば洗脳が続いて儲かるなら、企業はわざわざ「幻想は終わった」などと真実を親切に教えてくれない。黙って「奨学金のワナ」に堕ちた若者を食い物にするだけだ。

「大学に入らないと将来は真っ暗だ」「お金を返さないと人生終わりだ」と、真面目に考える学生であればあるほど食い物にされる弱肉強食の資本主義がここにある。


若者たちに「大学全入時代」「会社に入れば一生安泰」という幻想を与えることによって、金融企業は若者を食い物にすることができるようになり、一般企業は奴隷のように服従する労働者を手に入れることができるようになる。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20151201T1628350900


35. 中川隆[4362] koaQ7Jey 2016年10月07日 21:44:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4771]

竹中平蔵「日本は低学歴に優しすぎる社会ですね。
学歴で人間を判断するなって言うけど学歴なんです」


日本の最高学府に、なんてこと言うんだと思った人もいるかもしれませんね。

でも、こういう現実があります。

わたしがハーバード大学で客員准教授をやっていたとき、総長のヘンリー・ロソフスキーとよく話しをました。

彼は知日家で、日本のことをよく知っているんです。こんなことを言われました。

「ヘイゾウ、日本人は東京大学を『偉い』と思っているんだろう。
でも、ハーバード大学から見れば、東京大学は、トーキョーにある大学以上の意味はないんだよ」

何を意味しているかというと、もはやグローバル基準で「東大卒」は「学歴」にならないということです。

グローバル基準はもっと上をいっているんです。

人間、学歴じゃない。こういう言い方がありますね。
しかし、国境を超えて働く――グローバル社会とは、強烈な「学歴社会」。

このことを知っておいてほしいんです。

なぜ学歴なのかは、極めて合理的な判断です。

グローバル社会では、あらゆる国から人が集まってきます。
文化や宗教、あらゆる点で多様ですから、どこかで物差しを導入しないとなりません。
それこそが学歴で、世界中から集まってくるからその基準もより厳しくなります。

このことに関しては後ほどお話しするとして、日本は単なる「入試歴社会」ですよ。
どのぐらい、難しい入試に受かったか。そこだけを見ている。
日本は同質性の高い社会だから、有名な大学を出ていて、いい人そうであれば、企業は採用しますし、これまで回ってきた面はあります。

エリートと言われる人でも、日本で博士号を持っている人はとても少ないですね。そこから考えると、日本は「低学歴社会」です。

そもそも大学の進学率は50%台でしょう。
いま、世界の大学進学率は、もっともっと高い。
低学歴社会だと思わないといけない現状です。こういうことは、海を渡ると見えてきます。
http://diamond.jp/articles/-/85299?page=2


36. 中川隆[4363] koaQ7Jey 2016年10月07日 21:47:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4772]

竹中平蔵
「年をとったら国が支える、そんなことはありえないんです。
90歳まで生きたければ自分で貯めなければダメ」


私は10年以上ずっと言っていますよ。

私以外にも言っている人はたくさんいるのに、メディアがちゃんと伝えていないというのも問題。

極論ではなく、常識的な話だと思うんですが、 日本は常識を言うとバッシングされたりするんですよね。

そもそも日本人は、社会保障に対して誤解をもっています。

自分が90歳まで生きると思ったら、90歳まで生きる分のお金を自分で貯めておかないとダメなんですよ。保険は不測の事態に備えるものなんですから。


今の日本の問題は、年を取ったら国が支えてくれると思い込んでいることです。

そんなことあり得ないんですよ。

90歳、100歳まで生きたいんだったら、自分で貯めておく。

それがイヤで、国に面倒をみて欲しいんだったら、スウェーデンみたいに若い時に自分の稼ぎの3分の2を国に渡すことです。

例えば年収 1,000万円もらっているような、わりと高給取りなサラリーマンだとします。
そのうちの600何十万を国に渡せますか?
みんなの介護 結構な金額ですよね…

そういう国に住みたいですか?ということです。

でもそうしないと、今多くの人が思っている、 年をとったら国が面倒を見てくれるというような仕組みはできません。

保険料にしても税金にしても、 誰かがどこかで払っているお金。天から降ってくることはないんです。
http://blogos.com/article/190317/


37. 中川隆[4364] koaQ7Jey 2016年10月07日 21:56:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4773]

竹中平蔵
「弱者を全員救ったら財政赤字が膨らんで全国民が死んじゃう。
やはり自助自立が基本なのです。


結局はポピュリズムですよね。

道を率いるべき人が「何か困ったことがあったら助けてあげるよ」というのは本当のリーダーではありません。

「こうしなきゃいけない。みんながんばれ。私たちはこういう方向を目指そう!」

と、一人ひとりを喚起すべきなのです。

ギリシャや日本から分かるように、私たちは社会不安とポピュリズムとの悪循環の中にどっぷりはまっています。

経済が悪化しているから社会不安が出る。

格差が生まれると「可哀想だから助けてあげよう」というポピュリズムの考えが政策にある。

そんなことをしても財政赤字が膨らむ一方です。
この悪循環が世界中で起きているのが現状です。

これを断ち切るためには、厳しいことも言えるリーダーが出てくることが一つの条件でしょう。
大阪市長で日本維新の会代表の橋下さんに期待が集まっているのも理解できます。

もう一つは企業家が成功事例を作ることだと思います。
ですから小笹さんも今後どんどん成功事例を作って「みんな俺みたいになってみろ」と言ってくれると心強いですね。

若いときから自己責任、自己選択をできるようになって欲しい。
この意識が希薄すぎるなと思います。そこの重要性を伝えていきたいですね。


サミュエル・スマイルズの『自助論』という本が、明治時代によく読まれたそうです。

小泉さんが一番好きな本のひとつがこの『自助論』で、私もゼミの学生には最初にこの自助論を経済学よりも前に読んでもらっています。

「天は自ら助くる者を助く」。

自助・自立が出来る者が多ければ多いほど、本当の意味で助けを必要としている人を助けることが出来る。

今、船に乗っているとして、その船が沈んだら、自分で泳げる人は泳がないといけない。そうすることによって初めて救命ボートにお年寄りや子供を乗せられる。

みんなが全員救命ボートに乗ろうとしたら全員死んでしまう。

厳しいけれどもこれが社会の現実です。これはやはり自助なのです。

モチベーションの最終点はこの自助、自立ではないでしょうか。
http://kigyoka.com/news/magazine/magazine_20130502_15.html


38. 中川隆[4376] koaQ7Jey 2016年10月08日 09:24:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4785]

現在の富裕層は自分たちが「社会の一員」だとは考えず、「社会的責任」があるとも思っていない。

自分たちは支配者であり、情報と富を独占し、税負担を庶民に押しつける権利があると信じているようだ。

安倍晋三たちが望んでいる「新憲法」にもそうした彼らの考え方が反映されている。

庶民に基本的人権を認める気はない。
日本政府は福祉や学問の予算を減らそうとしている。
庶民から学ぶ権利を奪おうとしているのだろう。

教育には洗脳という側面があるものの、学ぶ庶民は支配層にとって邪魔な存在。
自分たちの使う幻術を見破り、支配しにくくなる。

三浦朱門の言葉を借りるならば、庶民は「実直な精神だけを養っておいてもらえばいい」ということだ。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201610060000/


39. 中川隆[6703] koaQ7Jey 2017年2月14日 18:11:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7164]

「見えない“貧困”〜未来を奪われる子どもたち〜」2017/02/12
http://www.dailymotion.com/video/x5biecj_%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84-%E8%B2%A7%E5%9B%B0-%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%82%92%E5%A5%AA%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1-20170212_news

2017.02.14
NHKスペシャル 見えない貧困 ON A PLATEと言う漫画について
http://golden-tamatama.com/blog-entry-nhkspecial-on-a-plate.html

さて、一昨日のNHKスペシャル。
現代社会に広がる見えない貧困の話題をやってました。

つぁあああ。
たまたま見てたら激しく気分が落ち込む内容でした。

以前、中間層などもういないと書きましたが。
案の定、表面的には何にも変わらないが、今、若者の間で見えない貧困が急激に広がってるというお話でした。

なぜ貧困が見えないかというと。


1.ファストファッション(最新の流行を採り入れながら低価格に抑えた服)や格安スマホなど物質的な豊かさによって粉飾されてる。
2.高校生のアルバイトなど子ども達が家計の支え手になっている。
3.本人が貧困を隠すために、教師や周囲の大人が気づきにくい。

アルバイトの掛け持ちとかで疲れ切って学校に行けない子。
そして貧困で進学を諦める子が増えてるということでした。

このNHKスペシャルはネットで大きな話題でツィッターでトレンド入りしてるようです。

動画がアップされてたので張っときます。
見ると気分が落ち込むので注意。


「見えない“貧困”〜未来を奪われる子どもたち〜」2… 投稿者 gomizeromirai

まぁ、なんとも。。
救いようがない話ですね。

これで思い出したのは以下の漫画です。
世の中の理不尽を描いた漫画。
読むと泣けてきますね。

ON A PLATE (ひとつのお皿の上で)という漫画です。
裕福な家庭に育ったリチャード君と貧困家庭に育ったポーラ君の人生の対比です。


http://thewireless.co.nz/articles/the-pencilsword-on-a-plate より
http://tabi-labo.com/280195/on-a-plate (翻訳はTABLABO)

左はリチャード。両親はいい感じ。
右はポーラ。親は…まあ、あんまり。

リチャードの家は暖かくて清潔。棚は本でいっぱいで、冷蔵庫はごはんでいっぱい。
ポーラの家は人でいっぱい。ものはあんまりない。汚くて、うるさくて、病気になりがち。

リチャードの親は、子どものためになんでもしてくれる。
「いい子だ!」「賢いわね!」
ポーラだってそうだよ。だから共働きなんだ。

リチャードはいい学校に行く。設備が整っていて、子どもたちもいい子ばかり。先生たちは自分の仕事を愛している。

ポーラの学校では、クラスの人数が多すぎる。予算もないし、見た目にもそれが出ちゃってる。先生たちは疲れ果てていて、ストレスでやつれている。
「あぁ、新しいバイト探さなきゃ…」

リチャードは親からとっても期待されている。
「B+ですって?まあ、家庭教師をつけないとね」

…ポーラとはちょっと違う。
「B?へー、いいじゃない!」

長い時間の中で、小さな違いが積み重なっていく…
リチャードは、親が大学の学費を払ってくれている。
ポーラは、仕事を掛け持ちしながら職業訓練校にお金を借りて通っている。

…そしてだんだん、大きな違いになっていく。

「あの会社で働いている友人がいるんだ。話をつけてインターンに行けるようにしてやろう」
「ありがとう、お父さん」

「俺の面倒を見るより、ちゃんと勉強しなさい…」
「お父さん、あなた病気なのよ」

積み重なる小さな違いは、そっと忍び寄る…

「ローンの審査がおりましたよ。おめでとうございます!」

「悪いけどうちでは引き受けられませんね。別のところに行っては?」

そしてリチャードは、自分がトップに立つべき人間だと思いはじめる。すべて自分の力で成し遂げたと。
「君はロジャーの息子だね?噂は聞いているよ。いつも見ているからね」

その頃ポーラは、自分の立ち位置を知りはじめる。
「仕事はさせるが、ミスはするなよ」


「リチャードさん、あなたの成功の秘訣はなんですか?」

「あの…失礼します…」

でも、そうならなければいいな、と僕は思う。


「成功する秘訣は、泣き言を言わずに一生懸命努力することですね。与えられることを待ってばかりいる人にはうんざりです。僕は何も特別なものは与えられませんでしたよ」

「…」

本当に、そんな世の中にならなければいいな、と僕は思う。

同じお皿の上で、一方は恵まれて悩みのない世界に生きてるくせに好きなことを言う。
一方は恵まれない世界に生きて、それを黙って聞く。

この日本は富裕層と貧困層が分かれて棲み分けが進む社会になってきています。
もう昔のサザエさんのような誰もが共通に共感できる対象がいない。

子供の頃から住む世界が違う。
富裕層は富裕層で楽しく暮らしてる。
貧困層の暮らしには共感もできないし、そもそもどういう生活を送ってるかも知らない。

棲み分けが進んで我関せず。
現代社会は究極の我良し(ワレヨシ)社会になったと言えるでしょう。

まぁ、ワタスの見るところ今の社会の仕組みは後3年ぐらい。
今後もますます若者は苦しく貧富の差もますます開くことでしょう。
そして今後、ギリギリの限界、究極のワレヨシまで行く。
いま、99%の人は静かに耐え忍んでいます。

そして2021年の世界大戦で弾ける。

そこから全然別の違う経済の仕組みが出てくる。
今のところはそう見てます。
http://golden-tamatama.com/blog-entry-nhkspecial-on-a-plate.html


40. 中川隆[6704] koaQ7Jey 2017年2月14日 18:16:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7165]

【生活保護】母子加算廃止で回転寿司も食べられなくなった。月に一度のささやかな贅沢だったのに…

月1度の回転寿司がささやかなぜいたくだった。

乳癌で働けなくなって生活保護を受ける京都市山科区の辰井絹恵さん(46)は長男(18)と2人暮らし。向き合って座り、積み上がった40枚以上の皿を見る時だけは、貧しさを忘れられた。

毎月約2万3000円の「母子加算」は、06年度から減らされ、翌年度に打ち切られた。回転寿司はあきらめた。

_________________


幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。

       J('ー`)し
        (  )\('∀`)
        ||  (_ _)ヾ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

そんな私たちにとって月に一度のささやかな楽しみ・・・それが回転寿司

       J('∀`)し 明日は母子加算の手当てが出るからお寿司食べに以降ね
        (ヽロロ   ヽ('∀`)/
        ||      (_ _)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

役所に行くと母子加算が廃止されたことを知らされた
──┐
   │                _[自民党]
   │   J( ;'A`)し       (`Д´ )お前らにやる金なんてあるかよボケ
   │     (  )\( 'A`) ロロヾ(  ) 
   │     ||  (_ _)ヾ     || 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

母は 「母ちゃんバカでごめんね」 と言って涙を少しこぼした

  ( 'A`) J('A` )し
  .(_ _)   (  )  .┌─
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄くく ̄ ̄ ̄|  
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

そんな母が去年の暮れに亡くなった。

死ぬ前に1度だけ目を覚まし思い出したように
「回転寿司、ごめんね」 と言った。

                 ('A` )
         J('A`)し    (  )
      /⌒⌒⌒⌒⌒ヽ  ||
     // ̄ ̄ ̄フ /
   / (___/ /
   (______ノ


俺は 「楽しかったよ」 と言おうとしたが、最後まで声にならなかった


41. 中川隆[6771] koaQ7Jey 2017年2月17日 17:48:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7232]

2017年2月16日
トランプ大統領にも止められない、アメリカの「雇用の喪失」と「富の二極化」の先にある未来
[橘玲の世界投資見聞録]
http://diamond.jp/articles/-/118272


 このコラムでも何度か紹介したが、クリントン政権で労働長官を務めたリベラル派の経済学者ロバート・ライシュは、1991年に世界的ベストセラーとなった

『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4478210187/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4478210187&linkCode=as2&tag=mailmagazin0asyuracom-22

で、21世紀のアメリカ人の仕事はクリエイティブクラスとマックジョブに二極化すると予言した。それから25年後、ドナルド・トランプが大統領に選出される前年に出版された

『最後の資本主義』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4492444408/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4492444408&linkCode=as2&tag=mailmagazin0asyuracom-22


ライシュの「リベラリストとしての敗北宣言」

 何年か前、ライシュはある発電所で働く従業員向けに講演を頼まれた。当時、この発電所では従業員たちが労働組合をつくるかどうかを検討しているところだったが、組合結成に反対票を投じようとしていた一人の若者が、自分はいまもらっている14ドルの時給が妥当で、それ以上もらえるような仕事はしていないといいだした。

「何百万ドルも稼いでいる人たちは、本当に素晴らしいと言いたいです。自分も学校に通って、お金を稼げる頭脳があれば、そのぐらい稼げたのではないかと思うけど、自分は学校にも行かなかったし、頭も良くないので、肉体労働をやってるんです」

 この場面はライシュがカリフォルニア大学で行った授業をもとに制作されたドキュメンタリー映画『みんなのための資本論』(ジェイコブ・コーンブルース監督/サンダンス映画祭審査員特別賞)にも収録されているが、「働く若者にこんなことをいわせる社会は間違っている」という怒りが伝わってくる。こうしてライシュは、「公教育を立て直すだけではダメだ」と考えるようになった。

 ライシュ自身ははっきりとは書いていないが、その理由は明快だ。国をあげて抜本的な公教育改革を行なえば貧困層からクリエイティブクラスの仕事に就く若者が増えるだろうし、もちろんこれは素晴らしいことだが、同時に「能力主義」の神話を強化することになるからだ。

 アメリカに蔓延する「能力主義」をライシュは、「人間の価値は労働市場の評価によって決まる」という価値観だという。10億ドルのボーナスを受け取る投資銀行のCEOはそれだけの価値があり、時給14ドルの若者にはそれだけの価値しかないのだ。

 このような価値観の社会で高所得者への課税を強化し教育にさらなる公費を投入できたとしても(これ自体がほとんど実現不可能だが)、すべての若者がクリエイティブクラスになれるわけはなく、現実には成功者はごく一部にちがいない。だとすれば、それでも落ちこぼれた多くの若者たちの自己評価はどうなるのか……。

 こうしてライシュは、「自助努力」「自己責任」と訣別して、アメリカ社会の制度を批判する。『最後の資本主義』の9割(あるいは95%)は、「アメリカはなぜこんな不道徳な社会になったのか」の詳細なデータに基づく告発だ。

 だがライシュは、富裕層やグローバル企業を「悪」、貧困層を「被害者」として単純に断罪するわけではない。そこにはアメリカの公教育と同じく、「こうなるほかはない」制度的な必然がある。

 アメリカ憲法修正一条は「市民が政府に対して請願する権利」を保障しており、これが政府や政治家に対するロビー活動の根拠になっている。さらに最高裁判所は2010年、右派市民団体「シティズン・ユナイテッド」が連邦選挙管理委員会に対して起こした裁判で、企業(法人)にも人格権を認め、憲法に定められた「言論の自由」が保障されているとの判決を下した。これによって政治広告に対する企業支出を制限した2002年の超党派選挙改革法(マケイン=ファインゴールド法)は憲法違反となり、企業の政治活動が無制限に解禁された。

 そうなれば企業は、自社のビジネスにすこしでも有利になるようさまざまなロビー活動を行なうようになるだろう。株主は企業収益の拡大を望んでいるのだから、そのような努力をしない経営者はさっさと解雇されてしまうにちがいない。

 だが話はこれだけでは終わらない。高徳の株主と経営者のいる企業があって、不道徳なロビー活動はいっさいしないと宣言したとしよう。これは美談かもしれないが、その企業のビジネスモデルや諸権利はたちまちライバル企業のロビー活動によってむしりとられ、事業を継続できなくなってしまうだろう。そうなれば株主が大損するばかりか、従業員も仕事を失って路頭に迷ってしまう。企業による「請願」が広く認められた制度のもとでは、道徳的であろうがなかろうが否応なくライバル企業と同等の、あるいはそれ以上のロビー活動をするしかないのだ。

 アメリカの高級住宅地に暮らす親たちは、子どもによりよい教育環境を与え、自分たちの不動産の価値を守ろうと努力している。そこになんら不正なところはないが、それが間接的に貧困地区の公教育を荒廃させている。

 同様に大企業も、株主の期待にこたえ従業員の生活を守るために、政治に関与してすこしでも有利な条件を引き出そうと努力している。そうしたロビー活動の一つひとつには不正なところがないとしても、それが積み重なると市場のルールは大きく歪められ、富める者がよりゆたかになり、貧しいものがより貧しくなる不道徳な社会ができあがるのだ。――これがライシュの「リベラリストとしての敗北宣言」だが、だったらどうすればいいのか?

アメリカにベーシックインカムが導入される日が来るのか

 じつは『最後の資本主義』のなかで、超格差社会アメリカをどのように立て直すのか、というライシュの提言はものすごくあっさりしている。要は、「このまま政治不信が強まればいずれ理性的な拮抗勢力が現われ、社会のあらゆる不正を改革するだろう」というだけなのだ。この「拮抗勢力」がどのようなもので、なにを政治的基盤とし、どこから登場するのかという具体的なことはいっさい書かれていない。これでは「いずれ印籠を掲げた水戸黄門が登場する」といっているのと同じで、まったくリアリティがない。

 強欲資本主義の改革案としては、株主だけでなく従業員や地域社会、環境への影響も含めたステークホルダー全体の利益を考慮する「ベネフィット・コーポレーション」が紹介されているが、その説明もあっさりしたもので、2014年までに27の州で設立を認める法律が制定され、「121の業種で1165社以上がベネフィット・コーポレーションとして認証を受けている」事実が記されているだけだ。

 ここにライシュのリベラリストとしての限界を指摘するのはたやすいが、じつはライシュ自身がそんな拮抗勢力(第三党)になんの期待もしていないのではないだろうか。

『最後の資本主義』でもっとも興味深いのは、「ロボットが取って代わるとき」と「市民の遺産」と題された巻末の短い章だ。

 ここでライシュは、テクノロジーの発達によって顧客数に対する従業員の割合がきわめて低くなっていることを指摘する。

 2012年に写真共有サイト、インスタグラムが約10億ドルでフェイスブックに売却されたとき、ユーザー数3000万人に対して従業員は13人だった。その数カ月前にフィルムメーカーのコダックが破産申請したが、コダックは最盛期に14万5000人の従業員を抱えていた。

 2014年はじめにフェイスブックがリアルタイムメッセージサービスのワッツアップを190億ドルで買収したが、ワッツアップは4億5000万人の顧客に対して従業員は55人しかいなかった。

 このように、デジタル化が進むと企業は多数の労働者を必要としなくなる。1964年、米国で企業価値上位4社の時価総額の平均は1800億ドル(2001年米ドル換算)で雇用者数は平均45万人だった。47年後の2011年には時価総額は1964年のトップ4社の約2倍になったが、そこで働く従業員は4分の1にも満たないのだ。

 ライシュは、いずれ大量生産と大量消費の時代は終わり「少数による無制限の生産と、それを買える人だけによる消費」になるという。だが当然のことながら、そのようなビジネスモデルは持続不可能だ。商品やサービスを買うことはもちろん、家族を養うことも、自分自身が生きていくことすらできない膨大な貧困層が社会に溢れているのだから。

 こうしてライシュは、富の二極化がこのまま拡大していけば、ベーシックインカムを導入するほかに社会問題を解決する方法はなくなるだろうと予想する。ライシュのいうベーシックインカムは、「受給者とその家族が最低限のまともな暮らしをするのにぎりぎりの金額」を、必要とするひと全員に無条件で支給することだ。

 テクノロジーが究極まで発達すれば、ほとんどの仕事はAIとロボットにやらせればいい。それを発明したごく少数のひとたちは莫大な富を手にすることになるだろうが、功利主義的に考えれば、彼らはそれを独占して社会を大混乱させるより、貧困層にベーシックインカムを支給して安定した社会を維持した方が好ましいことに気づくはずだ、というわけだ。こうして、「人々はそれぞれがあらゆる種類の芸術や趣味の追求に意義を見出すことができ、社会は芸術活動やボランティア活動による成果を享受できる」ようになるのだと、ライシュはいう。

『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』で四半世紀後の未来を的中させたように、自助努力と自己責任の国アメリカにベーシックインカムが導入される日がくるのだろうか。

 私は、その可能性は思いのほか高いのではないかと考えている。

 トランプは右派ポピュリズムで大統領の座を手にし、不法移民を追い出し自由貿易を否定する「ブードゥー経済学」でアメリカ経済を復活させようとしている。それが失敗したときは(間違いなくそうなるだろうが)、アメリカの怒れる有権者に残された選択肢は左派ポピュリズムしかないのだから。――もっともそれで、すべてのひとが「自己実現」できるユートピアが訪れるとは思えないが。

は、ライシュの勝利宣言であると同時に、敗北宣言でもある。

 勝利したのは経済学者としてのライシュで、敗北したのはリベラリストとしてのライシュだ。原著のタイトルは『Saving Capitalism』となっているが、そのうえでライシュは、「資本主義を救い出さなくてはならない」と述べる。これはどういう意味なのか、その主張を検討してみよう。

ブルーワーカーの仕事がなくなり、サービス業の賃金が下がった

『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』でライシュは、より正確には、将来のアメリカ人の仕事は(1)ルーティン・プロダクション(定型的生産)サービス、(2)インパースン(対人)サービス、(3)シンボリック・アナリティック(シンボル分析的)サービスに分かれると述べた。『最後の資本主義』では、四半世紀を過ぎた時点で自らの予言と現実が比較されている。

 ルーティン・プロダクション・サービスは工場労働などの「繰り返しの単純作業」で伝統的なブルーカラーの仕事だが、部下の仕事を繰り返し監視する仕事や、標準的な業務手順を遵守させる管理業務、定期的なデータ入力やデータ検索などのバックオフィスの仕事も含まれる。

 1990年当時、こうした仕事に従事するアメリカ人は被雇用者全体の25%程度だったが、テクノロジーの進歩とグローバル化(新興国の低賃金労働者への置き換え)によってその割合は着実に減少していくとライシュは予測した。

 2014年時点で当時と同じ方法で調べたところ、ルーティン・プロダクション・サービスに従事するアメリカ人の割合は20%以下まで減っているばかりか、物価調整後の賃金の中央値は15%も減少していた。

 インパースン・サービスは小売店の販売員、ホテルやレストランの従業員、介護施設の職員、不動産仲介業者、保育園のスタッフ、在宅医療従事者、フライトアテンダント、理学療法士、警備員など、「人間的な接触が欠かせないために人の手によってなされる仕事」だ。

 1990年時点でこうした仕事に就いているアメリカ人は約30%で、ライシュはその数が増加する一方、賃金は下がると予想した。かつてルーティン・プロダクション・サービスで働いていたひとたち(主にブルーワーカー)がインパースン・サービスでしか仕事を得られなくなり労働力の供給が増えることに加え、ATMやコンピュータ制御のレジ、自動洗車機、自動販売機、自動給油機など省力化のテクノロジーとも競争することになるからだ。

 2014年時点で「対人サービス」の仕事は米国全体の半分ちかくを占め、新たに創出された雇用の大半がこの職業区分に属していたが、その賃金の中央値は物価調整後の数字で1990年の水準を下回っていた。ライシュが予想できなかったのはテクノロジーの急速な進歩で、Amazonはドローンによる配達を計画し、Googleの自動運転車は450万人にのぼるタクシーやバス、トラックの運転手、清掃業従業員の雇用に深刻な脅威を与えている。

 シンボリック・アナリティック・サービスは「問題解決や問題発見、データ、言語、音声、映像表現などのシンボルを操作する戦略的媒体」にかかわる仕事で、エンジニア、投資銀行家、法律家、経営コンサルタント、システムアナリスト、広告・マーケティングの専門家、ジャーナリストや映画製作者、大学教授などが属する。これらの仕事の本質は、「数学的アルゴリズム、法的論議、金融技法、科学の法則、強力な言葉やフレーズ、視覚パターン、心理学的洞察をはじめ、思考パズルを解くためのテクニックなどのさまざまな分析ツールや創造のためのツールを用いて抽象的なシンボルを再構築」することだとライシュはいう。これを要約すれば、「知的でクリエイティブな仕事」のことだ。

 1990年、ライシュはシンボル分析の専門家が米国の被雇用者の20%を占めており、その割合も彼らの賃金も増えつづけると予想した。

 現実に起きたのは、ライシュの予想をはるかに上回る富の集中と格差の拡大だった。いまやアメリカでは、最富裕の上位400人が所有する富が下位50%の富の合計を上回り、上位1%が米国の個人資産の42%を所有している。

 下位50%の家計が所有する富の割合は1989年時点では3%だったが、2014年時点では1%まで下落した。1978年、上位0.01%の家計は総じて平均的家庭の220倍裕福だったが、それが2012年には1120倍に達している。物価調整後の数字で比較すると、フルタイムで働くひとびとの週当たり賃金の中央値は2000年以降下落しており、時給の平均も40年前より低くなった。

 このように、ライシュの予言はすべて的中した。これが「経済学者としての勝利宣言」だ。

アメリカでは高級住宅地と貧困地区で公教育格差がある

 待ち構える暗鬱な未来をそのまま放置することはできないものの、リベラリストであるライシュは「メキシコとの国境に壁をつくれ」とか「不法移民を追い返せ」とはいわない。――ただしライシュは、NAFTA=北米自由貿易協定やTPP=環太平洋戦略的経済連携協定には批判的だ。自由貿易は比較優位を交換するWIN-WINの関係ではなく、グローバル企業だけが得をし、貧しいひとたちが一方的に損をする理不尽な取引だからだという。

『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』でライシュが提示した処方箋は、大企業や高所得者から税を徴収し、それを原資に公教育を立て直すことだ。グローバル化とテクノロジーの進歩でブルーワーカーの仕事がなくなり、サービス業の賃金が下がるのるなら、先進国の労働者に残された道は「シンボリック・アナリティック・サービス」すなわちクリエイティブクラスの仲間入りをすることだけだからだ。

 だがライシュの期待に反して、アメリカでは低所得の子どもと高所得の子どもの学力差は拡大している。

 1985年当時、家計資産上位10%の家庭の子どもと下位10%の子どものSAT(大学進学適性試験)の平均点の差は800満点中90点だったが、2014年にはその差は125点に広がった。先進国の生徒の学習到達度調査(PISA)でも、参加63カ国中、所得別の数学力の差は米国がもっとも大きく、読解力では高所得世帯の子どもが低所得世帯の子どもを平均で110点上回った。

 世帯所得による子どもの学力差は、人種によるちがいよりも、裕福な地域と貧困地区の学校の財政状況の影響が大きい。これはアメリカの公教育に特殊な事情で、公立学校に投入される「公費」の割合は連邦予算が10%、州政府が平均して45%で、残りは学区の自治体が調達することになっている。その財源の多くは地方固定資産税、すなわち不動産資産への課税だ。

 これは日本など他の国とは大きく異なる制度だが、その結果、どういうことが起きるのだろうか。

 もう10年以上前のことだが、ハワイの住む知人が、小学校の学力比較表と不動産物件情報を真剣な表情で見比べていて不思議に思ったことがある。彼の話では、よい学校のある住宅地ほど物件価格が高く、安い物件のある地区は教育事情が悪い。そこでどの親も、マイホームの予算の範囲内でもっともいい学区に家を買おうと必死になるのだという。

 このようにアメリカでは、不動産価格と地域の学校の教育レベルが強い相関関係にある。これは、学校の評判がよくなれば不動産価格が上がり、評判が悪くなれば不動産価格も下がるということだ。そうなると高級住宅地に住む裕福なひとたちは、子どもによりよい教育環境を与えたいという親心とマイホームの価値を上げたいという経済的理由の、ふたつの強力なモチベーションによって地域の学校のために協力を惜しまなくなくなる。これが、たんに高い固定資産税を納めるだけでなく、バザーなどを積極的に開いて地域の学校の財源に充てようとする理由だ。

 この好循環は、子どもが学校を卒業しても終わらない。地域の教育環境をよくすることが不動産資産の価値を守るもっとも効果的な方法なのだから、富裕層は漫然と国や州に所得税を払うのではなく、税控除のできる寄付で地域の学校に立派な講堂や図書館、音楽ホールなどをつくったほうがいいと考えるだろう。このようにして、全米でもっとも地価の高いシリコンバレー周辺では、「公立」でありながら上流階級向けのどんな私立にもひけをとらない豪華な学校ができあがることになる。

 その一方で、地価の安い貧困地域ではこれと同じメカニズムが逆に働いて、教育環境はますます悪くなる。満足に固定資産税を徴収できない自治体は公教育に予算を割り振れないし、住民たちも、荒れ果てた学校のために努力するのは穴の開いたバケツに水を注ぐようなものだと考えるだろう。

 このようにアメリカにおいて、高級住宅地と貧困地区で子どもの学力差が拡大するのは制度的必然なのだ。

 公教育の歪んだ構造はライシュをはじめ多くの論者が指摘しているが、改善はきわめて困難だ。

 誰もが真っ先に考えるのは、固定資産税で自治体の教育予算を賄うのを止め、連邦政府や州政府が一括して税を徴収して公立学校に平等に分配することだろう。これによって地域の学力差は縮まるだろうが、それはすなわち、高所得者の子どもが通う学校の教育レベルが低下する=住宅価格が下落する、ということだ。いくら社会全体のためだと説得しても、このような改革(改悪)を強い政治的影響力を持つ富裕層・高所得者層が受け入れるはずはない。同様の理由で彼らは、貧困地区の子どもたちが学区を超えて入学することにも頑強に反対するだろう。

 左側通行を右側通行に変えられないのと同様に、特殊な制度やルールにもとづいていったん既得権層ができあがると、彼らが損失を被るような変更はほとんど不可能になる。こうした例は社会に溢れているが、アメリカの公教育の二極化もその典型なのだ。
http://diamond.jp/articles/-/118272

日本国民の一人負け? 2017/02/17 From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

トランプ大統領誕生で、さすがにTPPは流れましたが、
今度は代わりに日米の二国間での貿易協定の話が浮上してきました。

こちらも結構、脅威ですね。何が脅威かというと、
一番おっかないのは、安倍首相をはじめとする日本の政治家、
ならびに多くのマスコミや「識者」が、経済のグローバル化が
進んだ状況での「国益」についての認識が不十分なことでしょう。

本メルマガ読者にとっては常識ですが、経済のグローバル化が進んだ現在では、
「A国の国民一般の利益」と「A国のグローバルな企業や投資家の利益」は、
必ずしも一致しません。例えば、日本でいえば、トヨタ自動車がいくら儲けていたとしても、
それが必ずしも日本国民一般の利益になるとは限らないのです。

最近、

ロバート・ライシュの『最後の資本主義』 (雨宮寛、今井章子訳、東洋経済新報社、2016年)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9-%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BBB-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4492444408


という本を読みました。

この本の主な主張は、新自由主義のもとでここ数十年、
米国の市場経済のルールが、グローバルな投資家や企業に有利である一方、
普通の人々には不利なようにひどく捻じ曲げられてきたということです。
その結果、現在の米国の市場経済は、金持ちには激甘で、普通の人々には
非常に厳しい不公正極まりないものになっているとライシュは指摘します。

ライシュによれば、経済を語るときに、「自由市場」か、それとも「政府による介入」か、
という問いの立て方は正しくありません。こう語ってしまうと、あたかも、
現在の市場経済のあり方こそ「自然」「当然」であり、政府やなんらかの組合や
商工団体などが市場の働きに対して口をはさむことは経済の流れを
澱ませてしまう不当な干渉だということになってしまいがちです。

ライシュは、こうした理解は正しくないと言います。
人為の加わっていない「自然な」市場などなく、どの国の、どの時代の市場も、
その国の政府が定めた特定のルールに基づくものだと指摘します。

ライシュによれば、以下の五つのルール(取り決め)があってはじめて市場が機能します。

●所有権 … 所有できるものは何か。
●独占 … どの程度の市場支配力が許容されるか。
●契約 … 売買可能なのは何で、それはどんな条件か。
●破産 … 買い手が代金を払えないときはどうなるか。
●執行 … これらのルールを欺くことがないようにするにはどうするか。

ライシュは、米国では、1980年代辺りから、市場の基礎にある
これらのルールがすべて「資本を所有する者たち」
(企業とその株主や重役たち、ウォール街のトレーダーや
ヘッジファンド・マネージャー、プライベートエクイティ・マネージャー)
に有利に働き、平均的な労働者には不利に働くようになっていったと述べます。

つまり、「資本を所有する者たち」が市場のルールを自分たちに
有利なように変えていき、有利なルールのもとで多額の金を稼ぐようになった。
そして、その稼いだ金で旺盛なロビー活動や政治献金、選挙運動を繰り返すことにより、
経済力を政治力に変換し、さらに市場のルールを自分たちに有利なように捻じ曲げてしまった、というわけです。

その結果が、現在の米国の巨大な格差です。
また、トランプ現象、サンダース現象でみられたような一般庶民の反発の背景にあるのは、
すっかり不公正になってしまった米国の今の市場経済のあり方です。

例えば、現在の米国では、グローバル企業の役員やヘッジファンドのマネージャーは、
何百万ドル、何千万ドルといった収入を得ますが、その一方で、社会福祉、教育、看護、
高齢者介護、幼児教育といった職業は、(日本でもほぼ同様ですが)最も低賃金の専門職とされています。

あるいは、1960年代、70年代あたりまでの工場労働者は、まがりなりにも家族を養い、
子供によい教育を受けさせる程度の夢は描けましたが、現在の労働者は、そうはなかなか行きません。

ライシュは、現在、流布している「自由市場」イデオロギーの下では、
「ある人が稼ぐ金額こそが、その人の価値を表している」という見方が
あたかも真実のようにまかりとおっているが、この見方は正しくないと論じます。

ライシュによれば、こういう収入の巨大な格差の大部分は、政治力の差、交渉力の差に由来するのです。

グローバル企業の役員やヘッジファンド・マネージャーは、経済力を政治力に変え、
市場のルールを繰り返し変更し、自分たちに有利な社会の仕組みを作ってきました。

他方、大部分の一般庶民は、戦後30年間ぐらいは、組合や商工団体などを通じて、
ある程度、組織された政治力を持つことができました。
そのため、市場のルールがグローバルな投資家や企業に一方的に有利にならずに済んでいました。
しかし、1980年代以降、それが難しくなり、バランスが大きく崩れました。

TPPも、ライシュによれば、こうした不当な市場のルールを固定化しようとするものです。
米国民の大部分がTPPに反対なのは、「貿易から得られる最大の利益が投資家と
企業の重役に渡る一方で、賃金の良い仕事を失う中間層と低所得層ばかりが
負担を不均等なまでに背負う結果となっている」(第17章)からです。

スティグリッツも、以前、TPPとは自由貿易協定ではなく、
グローバルな投資家や企業といった一部の特定集団のための
管理貿易協定だと述べていましたが、ライシュの見方も同様なのです。

さて、トランプ大統領の登場で、TPPは幸いなことに流れました。
しかし、今度は、日米の二国間協議でFTAを結ぶのではないかということが浮上してきています。

冒頭で述べたように、日米の二国間貿易協定に対しても大いに懸念が湧きます。
安倍首相をはじめ、日本の政治家やマスコミ、「識者」といった人々は、
現代では、グローバルな投資家や企業の利益と国民一般の利益には
大きなズレがあるということをほとんど認識していないようだからです。
(あるいは、このズレに気づかないふりをしているだけかもしれませんが…)。

例えば、日本が米国に大規模な投資をし、米国の雇用拡大に貢献するという
「日米成長雇用イニシアチブ」が、日米首脳会談前に話題になりました。
一部では、高速鉄道などの米国のインフラ整備のために
日本の年金基金の金を使うのではないかという話も出ていました。

こうした対米投資の計画について安倍首相は、
下記のロイターの記事にあるように、
「ウィンウィンの関係を作り、米国の雇用を増やし、
日本も良くなっていく」と述べたそうです。

「「日米イニシアチブ」検討、数十万人の米雇用増目指す=政府筋」
(『ロイター』2017年1月31日配信)
http://jp.reuters.com/article/japan-us-initiative-idJPKBN15F0KT

しかし、この「日米成長雇用イニシアチブ」のどこが
「ウィンウィン」(互恵的)であるのかよくわかりません。

高速鉄道計画などで日本企業の技術を活かすということですから、
インフラ整備を請け負うのは日本企業なのでしょう。
ですので、「米国は、日本の金を原資とする公共投資によって
大規模な雇用が生まれるという点で利益がある一方、日本企業も、
米国内でビジネスできるため日本の利益にもなる」ということなのでしょうか。

だとしたら、日本国民からみれば、あまり「ウィンウィン」とは
いえないようです。日本の大企業が利益を得たとしても、
日本の国民一般の利益になるとは限りませんので。

「日米成長雇用イニシアチブ」の話からもわかるように、
日本の政治家や「識者」は、どうも「日本の大企業の利益」
≠「日本の国民一般の利益」であるということの認識が薄いようです。

その点、トランプ大統領は、少なくとも先月の就任演説などを聴く限りでは、
米国のグローバルな投資家や企業の利益は、必ずしも米国の普通の人々の
利益につながらないということをわりとよく認識しているようです。

そこで、私が懸念するのは、この認識の差から、
日米の二国間の貿易協定は、TPPよりも
ひどいものとなってしまわないかと言うことです。

TPPは、「日米などのグローバルな投資家や企業」が儲け、
「各国の国民一般」が食い物にされるという図式でした。

しかし下手をすると、
日米の二国間貿易協定では、トランプ政権の術中にはまれば、
「日米のグローバルな投資家や企業」と(雇用面などで)
「米国の一般国民」が利益を得る一方、
「日本の一般国民」だけが損をするという事態になりかねません。
(´・ω・`)

日本の政治家は、グローバル化した経済の下では、
グローバルな投資家や企業の利益と、国民一般の利益は、
必ずしも一致しないということを肝に銘じて、
「日本国民第一主義」の立場で今後の政治を考えてもらいたいものです。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/


42. 中川隆[6812] koaQ7Jey 2017年2月23日 07:19:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7273]

専門学校や工業高校・高専では まともな人材は育成できない


Sunday, January 24, 2016
世界的な「フィンランド教育ブーム」に警鐘を鳴らしていたフィンランド数学者たち

日本の学校教育の欠点について発言すると、海外から「なぜ自分の国を批判するのか?」と言われることがある。
教育がその国のすべてではないのだから、これは的外れな反応なのだが、学校を批判するとその国民全体を批判したと誤解する人はいるようだ。

以下の文章は全体的に否定的なトーンである。ただし、これは「フィンランド教育ブーム」について書いているのであって、フィンランドという国家について論じているわけではない。言うまでもないが、フィンランドは尊敬すべき国のひとつである。


フィンランド教育ブーム

2000年代前半から、主にPISA(OECDの国際学力調査)の結果がきっかけになって、フィンランドの教育が世界的に注目されるようになった。日本でも「学力世界一」というフレーズとともに、多くの教育専門家やジャーナリストがフィンランドの教育を取り上げ賞賛してきたので、良い印象を持っている人が多いと思う。
ただ、実際何がすごいのか、ということを知っている人は少数だろう。私もあまりよく知らなかった。


警鐘を鳴らしていたフィンランド数学者たち

一昨年(2014年)、ニューヨーク・タイムズが日本の教育についてトンチンカンな記事を載せたとき、私の反論に加勢してくれた人たちが「フィンランド教育ブーム」についてもいろいろ聞かせてくれた。関連のサイトも教えてもらったので、ここに紹介したいと思う。

以下は、フィンランドの数学者が書いた文章の要約である。英語で全文読みたい場合はリンク先へどうぞ。


1 PISA 調査で分かるのは、生徒の数学能力のごく一部だけ
The PISA survey tells only a partial truth of Finnish children's mathematical skills
http://matematiikkalehtisolmu.fi/2005/erik/PisaEng.html

PISA 調査の結果が発表されて以来、「フィンランドの義務教育を修了した者は数学の専門家だ」などと新聞やマスコミは報じているが、大学や Polytechnic(技術専門学校)の数学教員たちは、新入生の数学の知識が劇的に落ちているので懸念している。たとえば、1999年に行われた TIMSS (国際数学・理科教育調査)では、図形と代数の分野でフィンランドの学生は平均を下回った。また、あまりにも多くの受験生を不合格にできないので、最近理事会は入試の合格基準点を驚くほど下げざるを得なかった。

この矛盾は、PISA 調査では日常的な数学知識を測るだけで、分数の計算、初歩的な方程式の解法、図形的推理、立体図形の体積計算、代数式の扱いなど、その他多くの技能には対応していないことが主な原因である。

習得すべき数学の基礎が弱いので、後期中等教育では、本来それまでに習得しておくべき単元の復習に労力を割かなくてはならず、そのしわ寄せが高等教育にまで波及している。
(要約終わり)


2 フィンランド人の数学能力における深刻な欠点
Severe shortcomings in Finnish mathematics skills
http://matematiikkalehtisolmu.fi/2005/erik/KivTarEng.html

200人以上の大学教員がフィンランドの数学教育について懸念を表明したことに対して「アカデミックの批判にすぎない」という意見があったが、それは正しくない。実際、文書にサインしたうちの約半分は Polytechnic や工科大学の教員であって、彼らが教えているのはアカデミックな数学ではなく、実用的な数学だ。
1999年から2004年にかけて、Turku Polytechnic(トゥルク技術専門学校)では工学系の新入生の数学能力をテストしてきたが、2400人の生徒のうち初歩的な問題を解くことができたのはわずか35%であった。

Polytechnic の教員たちは、学生の代数式の扱いや方程式を解く能力の低さに驚いている。

この問題を解決するために、教育省は作業部会を設立する必要があると思うが、そのメンバーには大学や Polytechnic の教員を参加させるべきである。

また、PISA 調査でトップになることは Pyrrhic Victory(ピュロスの勝利=犠牲が大きすぎる勝利)なのではないかと考えてみる必要がある。
(要約終わり)

フィンランドの教育制度や論争の文脈によくわからないところがあるので、詳しい方がいたらコメントをいただきたいところだが、「学力世界一」という看板には、フィンランド国内でもかなり議論が分かれているようだ。

また、マスコミや教育学者は、このような事実を全く伝えず、フィンランドの教育を賞賛してばかりいるが、それには改めて愕然とさせられる。

フィンランドの中学生で分数の計算ができるのは2割以下

あるアメリカの数学者が、TIMSS というもう一つの国際学力試験の結果について論じている。

OECDのPISAとは違って、TIMSS ではフィンランドの子供たちのスコアは総じて低いのだが(日本は両方とも高いレベル)、その中でも、彼は分数の引き算の問題について注目し、16%という正答率の低さもさることながら(日本の正答率は65%)、その間違え方を分析した上で、フィンランドの生徒は分数が何なのかわかっていないかもしれない、と論じている。


日本に限らず世界中の教育関係者が、フィンランド教育やPISA型学力を礼賛しているが、少なくとも、日本の社会や保護者は、分数の計算ができる中学生が2割以下にとどまってしまうような教育を求めていないだろう。


(以下は、2016年6月2日に追記し、2017年1月20日に改訂しました)

また、下のフィンランドの新聞記事は、「9年生の3分の2がパーセンテージの計算ができない」と報じている。ちなみに、フィンランドでは就学年齢が7歳なので、9年生とは概ね16歳に相当し、基礎教育(義務教育)の最終学年である。

上記の2番目の意見で、フィンランドの数学者は、PISAでトップになることは「ピュロスの勝利」ではないかと書いているが、その大きすぎる犠牲とはこのことだったのだろうか。
http://jukuyobiko.blogspot.jp/2016/01/blog-post.html


43. 中川隆[7323] koaQ7Jey 2017年3月25日 11:49:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7798]

世の中は関わっても仕方がないほど信頼できない人間がいる

国会で籠池泰典氏が証人喚問されて根拠に乏しいことをあれこれ言っているが、この男は名前を何度も変え、その妻も名前を変え、いろんな宗教を渡り歩き、妄想でモノを話し、言うことがすべて信用できない男だった。

言っていることは信用できないし、契約も信頼できないし、 約束も信頼できない。

籠池泰典氏を見ても分かる通り、信用できない人間と約束しても、その約束はいずれ反故にされる。世の中とはそういうものだ。もともと裏切り癖がある人間は、その場その場で何かを約束しても、それを守ることは絶対にできない。

信頼できない人間は、原理原則など守らない。自分の感情で動くので、自分が不利になると思えばいつでも約束を破る。

何度も約束を破ってきた人間と約束するというのは、いくら文書でしたためても、いくら第三者を約束の場に立ち会わせても、まったく意味がない。

状況が変われば平気で約束を破るからである。

信頼できない人間は、相手を利用することしか考えていない。だから、こうした人間と関わると一方的に利用される。良いように利用されて、後になって「約束? そんなものは知らない。状況が変わった」と言われるだけだ。

だから、信頼できない人間とは関わってはいけないのである。関われば関わるほど、相手に振り回され、泥沼にはまり、被害を受ける。


信頼できない人間は、いつでも恩を仇で返す

私たちのまわりには籠池泰典氏だけでなく、いろんなところに信頼できない人間がいる。信頼できない人間と関わると話がこじれるだけこじれて面倒になるだけなのは籠池泰典氏を見れば分かる。

信頼できない人間が心を入れ替えると思ってはいけない。心を入れ替えるのではない。自分の都合によって、すり寄って来たり、逆恨みしたり、友好を高らかに謳ったり、恫喝してきたりするのである。

信頼できない人間というのは数多くの特徴がある。その特徴のひとつは「臆面もなく立場を変える」というものだ。

自分が弱いときは「我々は離れられない仲」「兄弟」「家族」と言ってタカりにくるが、自分は絶対に恩を返そうとしない。それどころか、自分が少しでも優位だと思えば手の平を返して傲慢になりこちらを見下してくる。

要するに、恩を仇で返すのである。

自分の都合が悪くなれば、泣き叫び、わめき、いかに自分が弱いかを主張し、被害者であることを装って謝罪と賠償を要求する。

信頼できない人間は、何かあれば「すぐに被害者になりたがる」のである。相手にタカるには「被害者になる」のが一番有効な手段だからだ。

だから、被害者になるために事実をねじ曲げることも、過去を捏造することも何でもする。嘘を100回でも1000回でもしつこく言っていればそれが本当になると考えて、他人に「自分は被害者だ」とわめき散らす。

このような人間にうんざりして言いなりになると、「もっと謝罪しろ、もっと賠償しろ」と次から次へと要求してくる。そして、決着したことを何度も何度も蒸し返す。

だから、こうした人間と関わり、話を聞き、妥協点を探るという動きは、それがどんな小さなものであれ、すべて失策であり、重大な誤りであり、取り返しのつかないミスである。

信頼できない人間と関わり、相手の言うことを聞くというのは、それ自体が「100%誤り」なのだ。

相手にしてはいけない。断絶しなければならない。折れてはいけない。言いなりになってはいけない。相手のペースにはまってはいけない。

ほんの小さな点であれ相手の要求を飲むことが、被害を拡大させるのである。

信頼できない人間は、息をはくように嘘をはき、約束した次の瞬間には裏切り、相手をワナにかけることも、嫌がらせすることも、自分の気分次第で何でもする。信頼できない人間は、いつでも恩を仇で返すのだ。


何もかも自分の都合の良いように捏造する

信頼できない人間は真実や客観的事実など、まったく関心がない。そんなものは平気で踏みにじる。それが自分に都合が悪ければ無視するか、自分の都合の良いように捏造する。

過去も、歴史も、名前も、経歴も、経緯も、何もかも捏造して自分の都合の良いようにねじ曲げる。相手を不利にして、徹底的に自分を有利にする。

信頼できない人間は、平気でそのようなことができるのである。もはや生まれながらにして犯罪者であるかのように、そうした行動を取る。

自分のためなら相手を踏みにじることに良心の呵責もない。他人の成果をかすめ取ることも平気だ。他人が生み出したものを、自分がやったと言い出し、「オリジナルは自分にある」「起源は自分にある」とも平気で言う。

すべての成果を自分のものにし、すべての起源を自分のものにして恥じない。

それが真実ではないことを指摘すれば、逆切れして激しい口調で相手を罵る。真実は恫喝で黙らせる。信頼できない人間というのは、そういう性格なのである。

だから、関われば関わるほど、すべて奪われる。「相手から奪えるものは何もかも奪う」というのが信頼できない人間の考えることであり、だから関わると必ず被害に遭う。

信頼できない人間は、すべてを横取りするつもりだ。コツコツと何かを成し遂げようとは絶対にしない。誰かの成果をパクって楽して成果を上げようとする。パクれなければ、努力している相手の足を引っぱる。

そのため、信頼できない人間に関わっていれば、知らずしていろんなものが盗まれ、パクられ続ける。さもなければ、足を引っぱられ続けられる。

自分が旨い汁を吸えなければ激しい嫉妬に駆られ、その嫉妬が火のように燃え上がり、きちんと生きて成果を出している人間に逆恨みの感情を持つようになるのだ。

信頼できない人間と一緒にいれば、助けても助けなくても恨まれる。信頼できない人間は、うまくやっている他人を恨むことしかできないのである。


隣の人間が、一番タチが悪いというのが世の中の常

こうした人間には、遠慮もなければ、配慮もない。思いやりもなければ、恥を感じることもない。感情のまま生きており、すぐに他人を恨む。

タカることが人生の目的なので、向上心などない。向上心はないがブランドや肩書きには弱いので、こうしたものを不正で手に入れようと画策する。あるいは都合の良い存在に「なりすまし」する。

すべてがいい加減であり、何をさせても手抜きする。それでいて信じられないほどのナルシストであり、自分に酔って自分の姿が分からない。自分の姿でさえも捏造するので、本当の自分がない。

信頼できない人間というのは、そのような人間なのである。だから、こんな人間と取引をするというのは、その時点で負けたも同然だ。

信頼できない人間は行き当たりばったりであり、その場かぎりであり、自分の主張ばかりであり、他人の事情を考えない。物事を誇張し、何でもかんでも自分を優先させる。

そのため、妥協してきた相手、自分に親切にしてきた相手は「弱い人間」と見なし、弱い者は徹底的にいじめ抜く。弱い人間は格下として扱い、常に上から目線で傲慢になる。

そんな人間と関わり、取引して、良い成果が得られるとでも思うだろうか。信頼できない人間と行った取引は、信頼できない結果しか返ってこない。

信頼できない人間がいるのであれば、まず「関わらない」ことを徹底しなければならない。基本方針は「関わらない」が最初であり「関わらない」が最後である。

どうしても関わらなければならないときは、必要最小限の関わりに終始し、相手がすり寄って来たらそれは絶対に拒絶し、絶対に謝らず、絶対に弱みを見せず、絶対に妥協してはいけないのである。

そうしなければ自分が被害に遭う。

信頼できない人間は必ず現れる。それはあなたの隣にいるかもしれない。自分の隣にいる人間だから信頼できると思ったら大間違いだ。隣だから価値感が共有できていると思うのも大間違いだ。

隣の人間が、一番タチが悪いというのが世の中の常である。

信頼できない人間がいるのであれば、まず「関わらない」ことを徹底しなければならない。関係は断ち切るのが正解だ。信頼できない人間と行った取引は、信頼できない結果しか返ってこない。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2015/12/20151226T1448330900.html


44. 中川隆[7388] koaQ7Jey 2017年3月28日 12:02:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7866]

2017年3月28日
【藤井聡】鮮明になる日本の科学技術の凋落――「PB緊縮財政」が日本をここまでダメにした
From 藤井聡@内閣官房参与(京都大学大学院教授)
https://38news.jp/economy/10268

資源大国は、その資源を外国に売るだけで暮らしていくことができます。しかし、日本の様な資源の無い国は、それだけでは暮らしていけません。

「海外に輸出」できるだけに十分な「付加価値」を、そして、「輸入品に負けないだけの財やサービスを作り出す」ために十分な「付加価値」を作り出す必要があります。

つまり、「海外マーケットのシェアを取るための『付加価値』」のみならず、「日本国内マーケットのシェアを海外勢に奪われないための『付加価値』」を生み出す事が求められているのです。

そして、その「付加価値」を生み出すために必要不可欠なのが「科学技術力」。

「科学技術力」こそが、自動車産業や化学製品産業、家電産業やインフラ産業等の根幹にあり、それが、日本の産業競争力を向上させてきたのです。

わが国は間違い無く、この「科学技術力」については世界一流の水準を維持し続けてきました。

コチラの図は、各国の科学技術力を表す主要指標の一つである「論文数のシェア」の推移のグラフ。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1014031852031091&set=a.236228089811475.38834.100002728571669&type=3&theater

ご覧の様にわが国は80年代、着実に科学技術力を伸ばしていました。そして99年〜2000年ごろにピークを迎えます。

この頃、全世界の論文の10%を、たった1億2千万人しかいない日本人が生み出していました。そしてそのシェアは世界2位の位置を占めていました。

しかし、それ以降右肩下がりに下がっていきます。そして、2008年時点でシェアは7%、ランキングも世界5位にまで下がっています。

さらに最新のデータによれば、2008年以降、その凋落に拍車がかかっているとのこと。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170323/k10010921091000.html

2015年次点の日本の論文数シェアは、ついにピーク時の半分である5%を下回る状況に至っています。
http://gigazine.net/news/20170327-japanese-research-decline/

日本の科学技術力の凋落は目を覆うばかりのもの――ですが、この推移、どこかで目にした気がしませんか?

――そうです、「我が国のGDP(名目値)の推移のグラフ」です。

こちらは、GDPのシェアの推移。
http://ameblo.jp/gensinhedge/image-11232044725-11933752817.html

ご覧の様に、1995年をピークに、論文数の推移とよく似た形状で推移していることが分かります。

ちなみに、アメリカや中国の論文数シェアの推移も、このGDPシェア推移とよく似た形で推移しています。

つまり、今日の科学技術力は、GDPが増えれば増え、減れば減る、というプロセスで決まっているのです(なお、両者の間には、数年の時間遅れ(ラグ)があります。これは、一般に研究をやってから論文にまとまって出版されるまで、数年の時間を要するのが一般的だからです)。

ちなみに、論文数シェアは、GDPシェアに依存している、という実証的知見はかねてから指摘されているものでもあります。つまり、豊かな国しか、科学技術力を進歩させられない、という次第。
http://www.asyura2.com/15/hasan101/msg/458.html

なぜそうなっているのかと言えば、現代の科学技術の発展には、「大規模な実験施設や研究組織が必要」だからです。オカネがある国では、いい施設が提供され、十分な報酬の下、多くの優秀な人材が研究界に投入されていき、科学技術も発展していく、という次第。

ただし、それに加えて、科学技術の発展に「それぞれの国の産業界で、その科学技術がどれだけ直接的に需要されているか?」ということが重要であることも主要な理由です。

実際、筆者が科学技術活動に従事している学術分野では、確かに90年代前半までは新しい技術開発は即座に実業界で活用されていく実感があったのですが、日本がデフレ化した90年代後半以降、実業界でそれが活用されるケースが極端に減っていきました。

例えば、「橋梁」の現場では今や、新しい技術開発の需要は低迷し、とにかく旧来型の工法で安く大量生産する風潮が支配的と聞き及んでいます。これでは日本の橋梁技術の進歩が停滞していくのも必然です。

さらには、世界各国の鉄道輸出競争で日本勢の敗北が目立つようになっていますが、それも日本で鉄道建設の現場が減ってきているのが大きな原因です。現場がなければ、技術は磨かれないのです。

筆者の学位研究であった「計量経済分析に基づく都市活動の需要予測技術」についても、90年代前半までは実務適用現場が国内にも多くありましたが、2000年代に入ってから全くと言っていいほど、新規技術が需要されなくなりました。

つまり、デフレがあらゆる「技術の現場」を殺し、それを通して、「科学技術力の発展」が停滞していったのです。

しかも、デフレのために税収が減ったあおりを受けて、あらゆる研究現場で予算カットが横行しているにも関わらず、「質の高い成果をより多く生み出すべし」という要求が政府から突きつけられています。結果、ほとんどの大学・研究組織では今、「ポスト削減」と「改革」の嵐が、吹き荒れています。そして、大学教員はこの「改革疲れ」のために、研究活動のための時間も予算も、そしてそのための情熱も失いかけているのが実態です―――。

そしてこうした流れを受け、少なくとも筆者が関わる様々な「学会」では、2000年代頃から真理やさらなる技術を追究しようという活力が急速に低迷し、ニヒリズム(虚無主義)が蔓延していった様を鮮明に記憶しています。

ですから今でこそ、日本はノーベル賞をたくさん受賞していますが、これは全て過去の遺産。今のデフレが継続すれば、10年後、20年後には、それも見られなくなるのは明らかです。

そして、このまま日本の科学技術力が低迷していけば、日本の衰退は必定です。繰り返しますが、「資源の無い国日本」は、「付加価値」を生み出し続ける力が不可欠であり、その根幹に「科学技術力」がどうしても必要だからです。

・・・・

そもそも、GDPが今、衰弱しているのは、「デフレ」が原因です。

そして、その「デフレ」をいつまでも長引かせているのは、90年代後半からわが国政府を支配している「緊縮財政」思想です。

そしてその具体的象徴が、支出カットと増税をもたらす「プライマリーバランス(PB)制約」です。

これらを総合的に踏まえれば、次のようなプロセスで、プライマリー・バランス制約に象徴される緊縮財政、すなわち、「PB緊縮財政」が、科学技術力の凋落と、それを通した「日本を衰弱」をもたらそうとしているのは火を見るより明らかです。

PB緊縮財政
→ デフレによるGDPの凋落
→ 科学技術力の凋落
→ 日本のさらなる衰弱

わが国政府が、目先の論文数の減少に「あたふた」して、木を見て森を見ないままに付け焼き刃的な「改革」を進める愚を避け、マクロ経済も視野に納めた「大局」的な視座から適切な科学技術政策を展開されんことを、心から祈念したいと思います。

追伸:「現代日本のあらゆる問題の根底に、デフレがある」――という真実にご関心の方は、是非、下記をご一読ください。
https://goo.gl/Jcqhm0


45. 中川隆[7456] koaQ7Jey 2017年4月01日 16:38:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7937]

役に立つ学問とは何か。
    
「役に立つ学問」とは何のことなのだろう。

そもそも学問は役に立つとか立たないとかいう言葉づかいで語れるものなのか。
正直に申し上げて、私はこういう問いにまともに取り合う気になれない。というのは、こういう設問形式で問う人は、一般解を求めているようなふりをしているけれど、実際には「その学問は私の自己利益の増大に役に立つのか?」を問うているからである。

だから、にべもない答えを許してもらえるなら、私の答えは「そんなの知るかよ」である。何を学ぶかは自分で判断して、判断の正否についての全責任は自分で取るしかない。「役に立つ」ということには原理的に一般性がないからである。

すべての学問やテクノロジーの有用性は地域限定的・期間限定的である。ある空間的閉域を離れれば、あるいはある歴史的環境を離れたら、それはもう有用ではなくなる。空間の広狭、期間の長短に多少の差はあるけれど、結局は「程度問題」である。

それどころか、ある人にとっての「有用」はしばしば別の人にとっての「無用」や「有害」でさえある。例えば、兵器産業は有用か。この問いに即答できる人がどれだけいるだろうか。兵器を開発し、市場に投じ、それによって大きな収益を上げた企業や、その会社の株を買って儲けた投資家や、その企業から法人税を徴収して国庫に収めた国家や、その企業で雇用された従業員にとって兵器産業はたしかに有用であるだろう。けれども、そうやって兵器の機能が向上し、手際のよい営業活動によって、廉価で高性能の兵器が世界中に広くゆきわたったせいで「殺されやすくなった」人たちが他方にはいる。家を焼かれ、家族を殺された人に向かって「兵器産業は有用でしょうか」と訊いても肯定的な答えは得られないだろう。

原子力発電事業は有用か。これも難問だ。この先日本列島でまったく地震も津波もテロもなく、早い段階で放射性廃棄物の完全な処理技術が確立し、かつ電力需要がこのまま高い水準で推移するという条件がすべて満たされた場合、原子力発電事業は有用であるだろう。けれども、そのどれか一つの条件でも満たされない場合、この事業は「無用」から「非常に有害」の間のどこかに位置づけられることになる。現段階では予測できない条件によって有用物がいきなり有害物に転化するようなものについて現段階でその「有用性」や「価値」を論じることにはたぶん意味がない。

もっと穏当な喩えでもよい。英語教育は有用か。簡単そうだが、これも即答することはむずかしい。外国語教育の有用性もまた歴史的条件の関数だからである。

現在、英語教育が有用であるのは過去2世紀以上にわたって英米という英語話者の国が世界の覇権国家だったからである。それ以外の理由はない。現代の世界で生き延びる上で重要かつ有用なテクストの多くが英語で書かれているのは事実だが、それは英語圏に例外的に優秀な人々が生まれたからではなく、英語が覇権国家の言語だからである。

アメリカはこれからもしばらくは軍事的にも経済的にも大国であり続けるだろう。だが、「パクス・アメリカーナ」の時代もいずれ終わる。その後にどの国が指導的な地位を占めることになるのかは誰にも予想がつかない。ロシアかも知れない。中国かも知れない。ドイツかも知れない。その場合、私たちはどれかの強国の国語を新たな「リンガフランカ」として学ぶことをたぶん強いられる。

私が学生だった頃、理系の学生たちの多くが第二外国語にロシア語を履修していた。それは1960年代まで、自然科学のいくつかの分野ではソ連が欧米に拮抗ないし凌駕していたからである。しばらくして、ソ連の学術的没落とともにロシア語履修者は地を払った。そういうときの学生たちの見限り方の非情ぶりに私は少し感動した。

同じことが英語について起こるかも知れないと私は思っている。いずれロシア語や中国語やドイツ語やアラビア語に熟達している人たちがその「希少価値」ゆえに英語話者より重用されるという日が来るかも知れない。その可能性は高い。現にもうすでに、一部の若者たちの間ではアラビア語やトルコ語学習が静かなブームになっている。彼らは独自の嗅覚で手持ち資源を効果的に投ずべき先を手探りしているのである。そして、彼らの予測が外れたとしても、彼らは失った時間と手間の返還を誰に対しても求めることはできない。

そもそも私たち日本人こそ「リンガ・フランカ」の脆さを骨身にしみて経験しているはずである。漢文の読み書きができることは古代から日本人の知識人にとって大陸渡来の新しい学問を学ぶための必須の知的ツールであった。それは遣隋使小野妹子の時代から、朝鮮通信使を対馬に迎えた雨森芳州の時代まで変わらない。漢文は日本ばかりか、東アジア全域において基礎的なコミュニケーション・ツールであった。だから、どこの国を旅しても、知識人同士は、懐から矢立てと懐紙を取り出して、さらさらと文を認めれば互いに意を通じることができたのである。

漢文運用能力はとりわけ近代以降にその威力を発揮した。中江兆民はルソーの『民約論』を日本語訳すると同時に漢訳もした。だから、多くの中国人知識人は兆民を介してフランスの啓蒙思想に触れることができた。樽井藤吉は日本と朝鮮の対等合併を説いた『大東合邦論』を漢語で書いたが、それは彼が日本・朝鮮二国のみならず広く東アジア全域の読者を想定していたからである。宮ア滔天も北一輝も内田良平もかの「アジア主義者」たちは、中国・朝鮮の政治闘争に直接コミットしていったが、おそらく彼らの多くはオーラル・コミュニケーションではなく「筆談」によってそれぞれの国での組織や運動にかかわったはずである。こういう姿勢のことをこそ私は「グローバル」と呼びたいと思う。

近代まで漢文は東アジア地域限定・知識人限定の「リンガフランカ」であった。それを最初に棄てたのは日本人である。こつこつ国際共通語を学ぶよりも、占領地人民に日本語を勉強させるほうがコミュニケーション上効率的だと考えた「知恵者」が出てきたせいである。自国語の使用を占領地住民に強要するのは世界中どこの国でもしていることだから日本だけを責めることはできないが、いずれにせよ自国語を他者に押し付けることの利便性を優先させたことによって、それまで東アジア全域のコミュニケーション・ツールであった漢文はその地位を失った。日本人は自分の手で、有史以来変わることなく「有用」であった学問を自らの手で「無用」なものに変えてしまったのである。

戦後日本の学校教育も戦前と同じく「コミュニケーション・ツールとしての漢文リテラシーの涵養」に何の関心も示さなかった。さらに韓国が(日本の占領期に日本語を強要されたことへの反発もあって)漢字使用を廃してハングルに一元化し、さらに中国が簡体字を導入するに及んで、漢文はその国際共通性を失ってしまった。千年以上にわたって「有用」とされた学問がいくつかの歴史的条件(そのうちいくつかはイデオロギー的な)によって、短期間のうちにその有用性を失った好個の適例として私は「漢文の無用化」を挙げたいと思う。

私が言いたいのは、ある学問が有用であるかどうかを決するのは、学問そのものの内在的価値ではなく、またその経験的に確証された有用性でもなく、多くの場合、パワーゲームにおいて、その時点で力を持っているプレイヤーの利害だということである。それ以外の要素はおしなべて副次的なものに過ぎない。

もうこれで結論は出ているので、これ以上書くことは特にない。でも紙数が大幅に残ったので、あとは余計なことを書く。

現代は世界どこでも英会話能力が「役に立つ学問」の最たるものとされているが、これを果たして「実学」と呼んでいいのかということを論じてみたい。先に述べた通り、英語がリンガフランカであるのは、いくつかの歴史的条件によってそうなっているだけのことであって、いずれそうではなくなる。それがいつかはわからないけれど、いずれ英語はローカルな一言語になる。

そもそも、現在日本で暮している人たちの多くにとって英会話能力はとくに緊急性の高いものではない。ふつうの生活者に英語で話す機会はほとんどない。ときどき、「外国人に道を聞かれたときに、教えられるように」というようなことを言う人がいるが、「外国人に道を聞かれる」というようなことがどの程度の頻度で起きるのか。思い返しても、私が外国人に道を聞かれたことは過去に一度しかない。十年ほど前、芦屋駅の近くで「駅はどこか」と聞かれた。おまけにそれはフランス語であった。私は「その角を右に曲がる」と初級フランス語の三頁目くらいに出てくる文型を以て答えたが、「アシヤ」が聴き取れれば、無言で手を引っ張ってゆけば済んだ話である。

異郷で困惑している人に手を差し出すというのはたいせつなことである。でも、そのためにまず必要なのは「人として」の惻隠の情であって、外国語運用能力ではない。けれども、まことに不思議なことだが、本邦では「困っている人に手を差し伸べること」の重要性を学校で厳しく教えるということはない。人としてのまっとうな態度を社会的格付けに適用するということもない。圧倒的な重要性が付与されているのは英会話能力に対してなのである。

はっきりと英会話能力が求められているのは経済活動の領域においてである。インバウンドの観光客を接待するホテルやレストランや店舗において、あるいは海外市場でセールスを行うビジネスマンや、海外の生産拠点で経営や労務管理を担当する人たちにとって英語は必須のツールであろう。その必要性を私は十分に理解している。けれども、どれほどの能力を持った人間がどれほどの人数必要なのか、その数値目標にどれほどの積算根拠があるのか、私は説得力のある話を聞いたことがない。

文科省が2013年に発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」は小学校三年からの英語教育開始を指示したことで話題になったが、この計画によると中学では英語の授業は英語で行うことを基本とする。高校では「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う。授業を英語で行うとともに、言語活動を高度化(発表、討論、交渉等)」することがめざされ、達成目標として「高校卒業段階で英検2級〜準1級、TOEFL57点程度以上等」が掲げられている。

日本中の高校生に高校卒業時点で「英検2級から準1級」というのは正直に言ってありえない数値目標だと思う。それがどの程度の英語学力を要するものかを知りたい人はネットで検索すれば過去問がすぐに読めるので、自分で解答を試みられたい。ご覧頂ければわかるが、日常的に英語を浴びるように読み、聴く、理解できない点についてはこまめに辞書を引き、疑問点は先生に質問し・・・という生活をしていないと、ふつうの高校生がこのレベルには達することはできない。

他の教科の場合、そのような真摯な学習態度で高校の授業に臨んでいる生徒はほとんどいないという現実を知った上で、英語についてだけこのような要求をすることを「異常」だと思わないとしたら、その人の方がよほど「異常」である。

「計画」には高校卒業時点での達成として「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う」とあるが、そもそも日本語によってでさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる」高校生がどれだけいるのか。2016年の調査によれば、10代の新聞閲読率(閲読とは「一日15分以上、チラシや電子版を含めて新聞を読むことをいう)は4%である。わずか4%である。マスメディアに対する不信感が募っている時代にあって、この数字はこの先さらに減少することはあっても、V字回復するとは思われない。

たしかに高校生たちは終日スマホに見入っているが、それは別に電子版のニュースで国際情勢や国会審議を注視しているわけではないし、ツイッターやラインで政治的意見を交換したり、日本経済のゆくえについての懸念を語り合っているわけでもない。日本語でさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解」することに困難を覚えている人たちが外国語でそれができるはずがない。そんなことは誰でもわかる。

ではなぜ、日本語での読解能力・対話能力の低下が深刻な問題となっている状況下で、英語で「幅広い話題について抽象的な内容を理解」するというような目標を掲げることに優先性があり、かつその目標が達成可能だと信じられるのか。そういう計画を立てることのできる人々の頭の中身が私にはどうしても理解できない。

私に分かるのは、この計画の起案者たちが高校卒業までに子どもたちが使える教育資源の多くを英会話に投じることの必要性について自分の頭を使って考えたことがないということである。すでに現場から悲鳴が上がっているように、小学校への英語教育の導入・必修化によっては教員の業務が量的にも質的にも増大する。「バーンアウト」寸前の教育現場にさらなる負荷を課し、教員たちも児童たちも疲れ切った状態に追い込んでまでなぜ英語教育を重視するのか。なぜ達成できるはずのない到達目標を掲げてみせるのか。この「実学」への過剰な教育資源の分配の合理的理由を語ってくれる人に私はまだ会ったことがない。

英語運用能力については、その有用性について誰一人異論を口にしない。けれども、その期待される有用性とその学習努力のために投じられる手間暇を「ベネフィット」と「コスト」で計算した場合、帳尻は合うのか。「実学」を論じる人たちの経済合理性に対するこの無関心に私は驚愕するのである。

そもそも実学というのは平たく言えば、「教育投資が短期的かつ確実に回収されるような知識や技術」のことではなかったのか。学習努力という「コスト」がただちに就職率や年収やポストといった「ベネフィット」として回収されるものを私たちの社会では「実学」と呼んでいるはずである。

数学や天文学や古生物学や地質学は間違いなくかなり広い範囲で、また長期にわたって有用な学問でありうると私は思うが、これを誰も「実学」とは呼ばない。「金にならない」と思われているからである。学の虚実を格付けしているのは、コンテンツの良否ではなく、「教育投資の短期的かつ確実な回収が可能かどうか」だけである。そして、それは市場における当該知識・技能についての「需給関係」で決まり、学知そのものの価値とは関係がない。

以前私より二十歳ほど年長のビジネスマンと会食したときに、彼が大学在学中最も人気のあった理系学科は何だか知っているかと聞かれた。わからないと答えると「冶金学科」だと教えてもらった。製鉄業が日本経済を牽引していた時代だったのである。今の学生たちは「冶金」という文字さえもう読めないだろうが、冶金についての知識に市場が最高値をつけたのは今からわずか60年ほど前の話なのである。

製鉄や造船や建設が日本経済の花形業界であった時代がしばらく続き、それから流通やサービス業が人気業種になり、金融や広告やマスコミに若者が集まるようになり、それからITと創薬と貧困ビジネスと高齢者ビジネスの時代になった。それぞれ人気のある業界で「即戦力」として使用できる知識や技能が「実学」と呼ばれたけれど、その栄枯盛衰はめまぐるしかった。だから、私たちもあと十年後には何が実学になるのか予測することができない。Apple やGoogleが十年後に存在しているかどうかさえ誰にもわからない時代なのだから、十年後の「実学」が予測できるはずがない。

もう少し身近な話をしよう。私が大学に在職していた頃、「女子大に薬学部を作る」ということがトレンドになったことがあった。ご記憶の方も多いだろうが、コンサルタントがあちこちの大学に学部創設のプロジェクトを持ちかけた。そのときに強調されたのは、薬学部なら6年通うから授業料収入が1.5倍になるという「金目の話」と、女子の「実学志向」と言われるものだった。「当今の女子学生の母親たちは娘が手に職をつけることを強く望んでいる。母親たちは娘たちに経済的自立という自分が果たせなかった夢を託す傾向にある。だから、娘たちには医学部・歯学部・薬学部を狙わせるのだ」という説明にはなかなか説得力があった。そして、その三つの中では薬学部が立ち上げコストが一番安かったので、いくつかの大学がその計画に乗った。

その結果、短期間にそれまで46校で安定していた薬学部が74校に急増し、薬科大学・薬学部の総定員は13000人に達した。不幸なことに、これは市場の「ニーズ」に対して供給過剰であった。結果的に多くの学部が定員割れになった。その一方、出口に当たる薬剤師国家試験の合格率は低いままだった。50%を切った年もあるが(2010年)、ここしばらくは60〜70%台で推移している。つまり、薬学部に入ったが卒業できなかった学生、卒業したが国試に通らなかった少なからぬ数の学生が存在するということである。そして、彼ら彼女らにとって、この学問は「教育投資が短期的かつ確実に回収」できなかった以上「実学」ではなかった。

誰が考えても薬学は有用な学問である。けれども、言葉の精密な定義に従えば「実学」ではない。一般論としては「役に立つ学問」であるけれど、それを学んだけれど国試に通らなかった学生にとっては個人的には「無用の学問」だったことになる。

だから、「〇〇は実学か」という問いを当該学問の内在的な価値に求めても虚しいことだと先ほどから言っているのである。「実学度」は市場の需要と大学の卒業生供給の関数であり、それ以外のファクターは副次的なものに過ぎない。

その意味では実学の度合いは株価とよく似ている。「株取引は美人投票の高得票者を当てるゲームだ」という言い方がしばしばされる。自分の審美的基準はとりあえず棚に上げておいて、「みんなが誰を美人だと思うか」を推測する。自分の主観を封じて、「世の人々が欲望するもの」を正しく言い当てたものが株の売り買いのゲームの勝者になる。「実学」ゲームもたぶんそれと同じである。自分が何を勉強したいのか、何を知りたいのか、どんな技能を身につけたいのかといったことは「棚に上げて」、「市場ではどういう知識や技能に高値がつくか」を読み当てたものがとりあえず「実学ゲーム」の勝者になる。

ただし、勝者が勝者であり続けられる期間はあまり長くない。だんだん短くなっている。それだけの話である。

私は「役に立つ学問」というものに興味がない。それを識別することに何か意味があると思っている人にも興味がない。それはたぶん「お前のやっていることは何の役にも立たない」と若い頃から言われ続けてきたせいである。自分でも「そうかもしれない」と思っていたから反論もしなかった。

でも、自分にはぜひ研究したいことがあったので、大学の片隅で気配をひそめて「したいこと」をさせてもらってきた。私が30年にわたって「何の役にも立たないこと」を研究するのを放置していてくれた二つの大学(東京都立大学と神戸女学院大学)の雅量に私は今も深く感謝している。私が選んだ学問領域は四十年にわたって私に知的高揚をもたら続けてくれた。私はそれ以上のことを学問に望まなかったし、今も望んでいない。
http://blog.tatsuru.com/


46. 中川隆[7527] koaQ7Jey 2017年4月04日 17:35:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8011]

本物の日本人だけが持つ特別で恵まれた「超才能」を活かせ

考え抜かれた製品、技術、デザイン、哲学、サービスを持った希有な企業が世の中には存在する。磨き抜かれたオリジナル、技、発想、アイデアを持った希有な人が世の中には存在する。

独自の「何か」を生み出す能力を持った企業や人は本物だ。そして、長い目で見ると、結局生き残るのは本物だ。

誰かが何かを成功させると、真似やパクリをする企業や人が山ほど現れるのだが、パクリ製品は気が付けばいつしか消えて後に残らない。

パクリがどんなにうまくやってのけても、結局はオリジナルの方が生き残る。そして、オリジナルの方が愛される。

どれほど巧妙にパクリを成し遂げても、なぜオリジナルが最後に生き残る可能性が高いのか。

その理由は、その製品、技術、デザイン、哲学、サービス、発想、アイデアには、それができあがるまでに多くの試行錯誤が為され、その試行錯誤で得た知識や経験が「物事の基本」となって製品を支えているからだ。しかし、パクリには土台を支える思想がない。

物事のすべては、基礎や基本が何よりも重要だ

物事のすべては、基礎や基本が何よりも重要だ。それが揺らいでいると何が重要で何が重要でないのかも分からない。そして、「次」を踏み出す時に間違う。

次の新しいものを生み出すにも、今あるものを改良するにも、さらなる付加価値を付けるにも、基本ができていないと何もできない。逆に、基本がしっかりしていると、「次」に発展することができる。

本当のことを言えば、そんなことは誰でも分かっている。では、なぜ基本をないがしろにして、他人のものをパクることで生きていこうとする企業や人がいるのだろうか。

たとえば、中国や韓国は、ありとあらゆる企業のパクリを行っており、国中に粗悪なパクリ製品が溢れている。

なぜ、彼らは次から次へとパクリを行うのか。なぜ、彼らはオリジナルを生み出すこと、すなわち基礎や基本をないがしろにするのか。

その理由は簡単だ。基礎や基本をきちんと身につけるというのは、実は尋常ではないほど単調で、単純で、根気のいる作業を延々と繰り返さなければならないからだ。これは、すべての分野に関して言える。

基本を身につけるには、誰も注目しておらず、誰も褒めてくれず、誰も気付かないところで、ずっと単調な作業を繰り返し、常に試行錯誤していかなければならない。

この単調な繰り返しを行って基本が身につくのだが、パクリを行う人間はそれをすっ飛ばすのである。そして、表面や形だけをパクって世の中をごまかす。

最初は騙せるのかもしれない。しかし、それがオリジナルではない時、やがて人々に見透かされる。そして捨てられる。


時代が変わっても古くならない原理原則

基本が重要であるというのは、職人も、技術者も、芸術家も、アスリートも、アナリストも、兵士も、各職業人も、すべてがそれぞれの言葉で言い伝えている。

そして、基本を否定する人間は誰ひとりとしていない。

つまり、「基本を怠らずに鍛える」というのが、時代が変わっても古くならない原理原則であるということである。

表面や形だけをパクリ取って、まともな基本を身につけていない企業や人は、そのときは良くても最後に足をすくわれる。土台がないので応用がまったく利かない。

もちろん、そのようなパクリをして人生を乗り切る生き方もひとつの生き方である。あえてそれを選び取る人間もいる。

手っ取り早く儲かるのであれば、あるいは手っ取り早く売名できるのであれば、それを選び取る人は珍しくない。

売れた製品のパクリを作って安売りする企業、あるいは売れた人間の技や作品や芸をそのまま真似して、自分こそが元祖だと起源を主張するクズのような人間もいる。しかし、それは邪道であり王道ではない。

王道とは、その道の基礎や基本を誰も見ていないところで、淡々と愚直に繰り返し、泥にまみれ、汗を流し、苦しみを味わうことである。

それは、一見ムダなように見える時間だが、基礎や基本は膨大な時間をそこに費やさなければ身につかないのだから、絶対にムダではない。

どれだけ基礎と基本が身についているかで、その世界で成功できるかどうかが決まる。

ムダなのは、自分の人生に重要でも何でもないことに時間を費やすことだ。自分がその道で生きていくつもりもないようなもの、たとえば時間つぶしのゲームだとか、だらだら見ているテレビだとかに時間を費やすのは、たしかにムダだ。


自分の分野で道を究めることが日本の復活になる

自分の全人生を費やしても構わないと思うことに全力集中で取り組み、基礎や基本を繰り返し反復する。

そうやって、基礎的な能力を身につけても、まだそれで世の中を渡っていけるのか、成功できるのか、大成できるのかどうかは分からない。そして、それで食べて行けるのかどうかも分からない。

しかし、基礎や基本がないのに、いきなり他人のパクリをしてそれで生きていけないことだけは、はっきりしている。

かつての日本人はこういった基礎や基本を「型」と言っていたが、型を身につけるのに誰も見ていないところで死ぬほど練習していたし、それが日本人の底力を作り上げていた。

日本人が「特異な民族」なのは、そういった基礎や基本を疎かにしないという人間が夥しく存在していて、基礎を追求する文化を持っていたからである。日本人には、ありとあらゆる分野が「道」を極める対象となった。

ただ、「お茶を淹れる」という些細なものであっても、それは「道」となって、茶道となっている。

日本人のひとりひとりが、それぞれの分野で基礎と基本を地道に積み上げて道を究めてきたから、あらゆる点で日本は他の民族や国家を凌駕してきたのだ。

最近、日本の土台が揺らいできたというのであれば、恐らく最近の日本人は、かつての日本人ほどに基礎と基本の積み上げが足りなくなっているからだ。

科学の世界でも、ノーベル賞を取るほど優秀な人間がいる一方で、形ばかり研究者のフリをして他人の論文をコピーして、パクリや真似でごまかそうとする人間が出てきたりしている。

日本人にパクリは似合わない。日本人はパクリの道を行くのではなく、優れたものを生み出せる民族であってほしい。パクリを排除し、ひとりひとりが自分の分野で道を究めることが日本の復活になる。

基礎や基本を疎かにしないで道を究めるのが日本人の特異性だ。日本人は本物の日本人だけが持つ特別で恵まれた「超才能」を活かして生き残るべきだ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2014/12/20141230T1541480900.html


47. 中川隆[7944] koaQ7Jey 2017年4月24日 00:08:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8435]

曽野綾子は自己責任論が大好きだけど


責任転嫁ではなく本当に「悪い時代」が存在することも知れ

シリアでは国家体制が崩壊して、2017年現在も国内は激しい内戦と社会的混乱の中にある。

アサド政権支持者、反政府組織、ISIS(イスラム国)のような超過激暴力集団が三つ巴となって国家を蹂躙し、国民の半分が難民となって国外に流出した。

もし私たちがシリアで生まれていたら、私たちがいかに向上心を持ち、強い夢を持ち、楽観的に生きたとしても、すべてが無に帰したはずだ。

シリアだけではない。イラクに生まれていても、アフガニスタンで生まれていても、パレスチナで生まれていても、北朝鮮に生まれても、似たような状況に遭っただろう。

ある国に生まれていても、年代によって幸運な人生になったり、不幸な人生になることもある。1930年代に生きていた人々はほとんどの人が第二次世界大戦に巻き込まれて地獄を見ていた。

中国は今でこそ経済発展の恩恵に浴する国民が出てきているが、1966年から1976年までの文化大革命の時代に生きていたら地獄だったはずだ。

ソ連では1980年代から1990年代に生きていたら国家崩壊に巻き込まれていた。時代が混乱と激動と戦争に向かっていったとき、私たちはもう為す術がない。

バブル期と就職氷河期とでは時代がまったく違う

人の人生はその時々の社会の動きによって大きく左右される。日本のように長らく戦争や国家的大混乱から離れている国では、それがあまり自覚されなくなっている。

しかし、それでも社会の動きが人生を左右するという現実は変わらない。

人生の中で最も重要なのは「どんな仕事に就くのか」という部分にあるが、1980年代のバブル期はどこの企業も太っ腹に人を採ったのでこの頃に就職活動をしていた人々は幸運だったと見なされている。

しかし、バブルが崩壊し、企業が次第に不況に飲まれていくようになると急激に時代が変わった。企業は当然のように人を採らなくなったのだ。

2000年代に入ってからも状況は悪化する一方だった。グローバル化による競争の激甚化が進むと、企業はますます人材を抱えるのを嫌うようになった。

そのため、この時期に就職活動をしていた人々は「就職氷河期」とも言われて、面接に行った企業にことごとく振り落とされてしまうことになった。

バブル期と就職氷河期とでは、時代がまったく違った。そして、時代に翻弄される人がいつの時代でも出てくる。個人の努力を超えたところで起きている時代の流れは、すべてをなぎ倒してしまうのだ。

仕事がうまく見つからなかったり、リストラされたり、失業したりすることは珍しくない。多くの人たちはそのとき、それを「自分のせい」にする。

なぜなら、誰もが自分と同じ境遇ではなく、同時期に貧しくない人も存在するし、人生を楽しんでいる人もいるし、仕事がうまく行っている人もいるし、楽に内定をもらえる人もいるからだ。

そういう人がいる中で自分が挫折を味わうと、それは自分のせいなのだと単純に思うのは無理もない。

「時代が悪い」などと言うと、「いや、お前が悪いのだ」と反論されて終わりだ。この世に完璧な人はいないから、お前が悪いと言われて反論できる人はあまりいない。


「時代が悪い」という時期があることに気付く

歴史をよく観察すると、社会は常に良い方向にも悪い方向にも動いており、まぎれもなく「時代が悪い」という時期があることに気付く。

社会は、好況と不況を繰り返す。混乱と安定を繰り返す。もし、社会が不況で混乱しているのであれば、時代が悪いという見方は責任責任転嫁ではない可能性もある。

「時代が悪い」というと、必ず「自分で努力もしないで、他に責任を押しつけている」と言われる。言われなくても、そう思われることも多い。

本当に何の努力もしない人に限って「時代が悪い」と責任転嫁することが多いので、「今は本当に時代が悪いのだ」と言う人がいても、どうせ責任転嫁だと思われるのがオチだ。

だから、まじめな人であればあるほど、どう見ても時代が悪くても「時代が悪い」とは言えなくなる。そう考えても、それを打ち消して「いや、自分が悪い」と思い込もうとする。

日本は1990年を頂点にして、経済失速が隠せなくなり、2000年に入ってからは正社員になれない若者や、リストラされる中高年が爆発的に増えた。

自殺が毎年3万人を超え始めたのもバブル崩壊後である。社会は大きく激変していたのだが、当初の人々の見方はまったく違った。

「若いやつは努力しないから正社員になれないのだ」
「仕事ができない人間がリストラされている」

実際は、日本企業がグローバル経済の激甚な競争に飲み込まれ、経済的に無策を続ける日本政府や官僚の姿勢も重なって、日本人はそのツケを払っていたのである。

最初は多くの人々がそれに気付かなかった。人々はそれを、個人の責任論に転嫁していた。「自己責任」という言葉が流行ったのは2000年以降だ。

しかし、ニートやフリーターのような立場に陥ってしまった若年層が100万人規模になり、中高年が次々とリストラされ、高齢層や女性が貧困に堕ち、経済的にどうにもならない人たちが莫大に増えた。

それを見て、やっと日本人は「時代が悪い」と気付いたのだった。一部の人の問題ではなかったのである。


人によっては、人生の3分の1が悪い時代だった

もうバブル崩壊から27年近く経っている。日本が「悪い時代」に入ってから27年も経ったということになる。

27年と言えば、人の人生の3分の1近くの年月である。人によっては「人生の3分の1が悪い時代だった」と言えば、いたたまれないはずだ。

生活保護受給者もじわじわと確実に増え続け、もう216万人を超えている。

その多くは高齢者なのだが、日本はこれから高齢者が増える国なのだから、生活保護申請は多少の増減をしながら、最終的にはもっと増えるのは間違いない。

若年層の貧困化も加速する一方だ。しかも離婚も増えているので、シングルマザーの貧困化も拡大している。

国が成長しているときや、世の中が活況に沸いているとき、人はそれほど努力しなくても生きていける。時代の波について行きさえすれば、経済的に苦しまなくてもいい。

今は、逆だ。今まで幸せに暮らしていた人も、今後はどうなるのか分からない地獄のような世界が待っている。少なくとも、日本が経済失速を止められないと、そういうことになる。

時代が悪い方向に向かって転がり落ちていると、個人の努力をすべて叩きつぶしてしまう。日本人はそれでもすべて自分のせいにして「社会が悪い」とは最後の最後まで考えない。

それは一種の美徳なのだが、客観的に見ると正しい見方をしていない。

社会が悪いのに、自分が悪いと全面的に思い込い込むと間違った社会のあり方を変革する声がどこからも出てこなくなって、人々は社会に殺されてしまうことになる。

戦争が起きて、まわりで人が撃ち殺されているときに幸せになれないというのは誰もが知っている。それは社会が悪いと誰もが分かる。

しかし、銃弾が飛び交わなくても、リストラ・失業・自殺・経済苦が蔓延していたら、見えない銃弾が飛び交っているのと同じなのだ。そんな世界で幸せになれない。

どんな時代になっても、その中で生きる努力する必要があるが、同時に「社会が悪い」と気付く視点も持つ必要だ。日本を蝕んでいる「何らかの要因」がある。

政治や経済や教育を正しい方向に向けさせない「悪い要因」が日本の社会の中に存在するのだ。日本を憎悪する勢力もあれば、日本を弱体化させようとする民進党や共産党のような政党も存在する。

責任転嫁のためではなく、現実を見るために、社会が悪いことをあなたは気付かなければならない。そうしないと、いろんなものが手遅れになってしまう。


「シリアの子供」と題された絵。もし私たちがシリアで生まれていたら、私たちがいかに向上心を持ち、強い夢を持ち、楽観的に生きたとしても、すべてが無に帰したはずだ。責任転嫁ではなく本当に「悪い時代」も存在する。では、弾丸が飛んで来ない日本は良い時代なのか?
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2016/05/20160509T1637540900.html


48. 中川隆[-7975] koaQ7Jey 2017年4月30日 12:53:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

49. 中川隆[-7907] koaQ7Jey 2017年5月01日 08:34:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


50. 中川隆[-6584] koaQ7Jey 2017年8月29日 08:59:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

国の中の90%以上の女性が文字をまったく読めないとしたら?

ひとり当たりの年間所得が最も少ない国をIMFの2016年のデータから拾い上げると南スーダン、マラウイ、ブルンジ、中央アフリカ、マダガスカル、モザンビーク、ニジェール、ガンビア、リベリア、コンゴ……と続く。

ここで上げた国は、人が貧しいというよりも国そのものが極貧にあって、経済発展はなかなか厳しいものがある。

もうほとんど報道されなくなっているのだが、南スーダンでは国土の6割が戦乱地区と化しており、中央アフリカでもコンゴでも大量虐殺が続いている。

アジアでも、アフガニスタンやネパールは非常に貧しい地区であり、EU(欧州連合)には、アフガニスタン難民も大量に入り込んでいるのはあまり知られていない。

政府が脆弱な国は、貧困が蔓延している。戦争が吹き荒れる国もまた貧困が吹き荒れる。

その結果、多くの人たちから教育の機会が奪われる。

生きるか死ぬかの瀬戸際で、人々が安全な地区を目指してさまよい歩いているような地区で、あるいは教育を与える必要がないという声が支持される地区では、意図的に教育の機会が踏みにじられるのだ。

中でも、女性の教育が犠牲になることが多い。

人材を作るには、教育に力を入れる必要がある

途上国では、誰がリーダーになっても、経済を立て直し、貧困を撲滅するのは非常に難しい仕事になる。

途上国のあらゆる問題は貧困から来ている。そして、その貧困のあらゆる原因は、インフラや汚職や内戦や先進国の収奪から生まれている。

豊かな国だったとしても、一度、国が衰退してしまうと立て直すのが難しいのは、歴史を見ると分かる。

日本は第二次世界大戦の敗戦で、国は焼け野原になってほぼ壊滅したも同然だったが、そこから奇跡的な復興を遂げて現在がある。

しかし、こういった奇跡は「例外中の例外」だ。普通は、国が壊滅すれば、その後は何十年も立ち直れないのである。

国が回復するには、経済が回らなければならない。経済が回るためには人材や資源が必要になる。資源があるかどうかは、その国の運次第だ。資源がないのであれば、人材を強化するしかない。

人材を作るには、教育に力を入れる必要がある。

ところが貧困国は、底なしの貧困ゆえに教育制度が破綻していることが多い。それならば、教育に金をかければいいという話になるのだが、ここにひとつ問題が発生する。

教育の成果を見るには、長い時間がかかるということだ。

1年や2年ではない。10年も20年もかかるのだ。だとすれば、任期が数年の政治家が教育に力を入れ続けるのは、相当な意思と覚悟が必要になる。

どこの国でも、教育の大切さを自覚する政治家は少ない。

教育はいつも置き去りにされる。「女性に教育は必要ない」と決めつけるアフガニスタンのような国もある。

アフガニスタンはわざわざ作られた女子学校を、イスラム原理主義のタリバンが叩き壊して回っている。

このタリバンのイスラム主義はパキスタンにも広がっているのだが、だからパキスタンの地方都市でも女子学校の破壊やテロが起きたりしている。

さらにこのような動きはナイジェリアでも広がり、テロ集団ボコ・ハラムが女子学生を大量拉致してイスラム原理主義に洗脳したり、自爆テロに使ったりするようにもなった。

そこまでして教育を奪おうとしている国もあるのだ。


アフガニスタンはわざわざ作られた女子学校を、イスラム原理主義のタリバンが叩き壊して回っている。このタリバンのイスラム主義はパキスタンにも広がっているのだが、だからパキスタンの地方都市でも女子学校の破壊やテロが起きたりしている。


90%以上の女性がまったく文字を読めない国もある

教育の機会が奪われたら国はいつまで経っても立ち行かない。これは、多くの途上国が共通して抱えている問題である。

教育がしっかりしていれば、その国は立ち直る余地はある。あるいは、すべてを失っても成長する余地がある。

どんなに国が傾き、経済破綻し、暴力・麻薬・売春が吹き荒れ、汚職が蔓延していたとしても、教育がしっかりしていれば嵐の中で芽が育つ。

逆に、教育自体がおざなりになっていたり、荒廃していたり、教育行政が破綻していたりすると、成長している国であっても、次世代の衰退は間違いない。

何を差し置いても教育に力を入れる風土があれば、その国は助かる。そうでないのであれば、その国の政治家が一時的に何かをやっても、結局は貧困に戻っていく。

教育は軽く見てはいけない問題だ。なぜ貧困層がそこから抜け出せないのか。

それは教育を受けていないからだ。

教育を受けても成功するとは限らない。しかし、教育を受けていなければ、スタート地点にすら立つことができない。

先進国にいると、文字が読めて、計算ができるというのは当たり前のように思えるかもしれない。しかし、それは当たり前のことではない。教育の成果だ。

日本の識字率は99%なので、国民のほぼすべてが文字が読める状態である。だから、文字が読めない人がいるというのが信じられないかもしれない。しかし、途上国では想像以上に文字が読めない人が多い。

たとえば、教育を奪われているアフガニスタンでは、女性の識字率は17.6%であると言われている。これを逆に言えば、女性の82.4%が文字が読めないということだ。自分の名前を読むことも書くこともできない。

国民の85%がイスラム教であるギニアでも女性の教育がほとんど為されておらず、女性の87.8%が文字を読めない。やはりイスラム教が圧倒的大多数を占めるニジェールに至っては、女性の91.1%が文字を読めない。

国の半分を占める女性が無教育なのであれば、国の半分は知的能力を必要とする現代社会で落ちこぼれるということだ。これでは国の再建や発展どころではない。


幼少の頃にきちんと教育を受けていれば……

インドでもカンボジアでもバングラデシュでもインドネシアでも、文字が読めない人たちは想像以上に多い。

私が知り合ったインド・コルカタの物乞いの女性たち、あるいはコルカタの売春地帯にいた女性たちも文字が読めなかった。

(書籍『絶対貧困の光景』インドの取り残された女性たち)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20140610T1741180900.html


彼女たちは知的能力が劣っていたわけではない。現に、彼女たちはヒンディー語を話す以外に、英語もきちんと話して欧米人と会話もできる。

文字は書けないのだが、ストリートで覚えた英語を駆使して欧米人と渡り合っている。もし、彼女たちが幼少の頃にきちんと教育を受けていれば、何十年も物乞いで生活していなかったかもしれない。

彼女たちに欠けていたのは教育だということが分かる。教育の機会がなかったのだ。

教育を受けると、物事を判断したり、分析したり、専門を極めていくことが可能になる。それもまた、貧困から抜け出すのに重要な要素である。

教育と言っても大学で学ぶような高度な専門知識の話をしているわけではない。読み書きソロバンの基礎的な教育の話をしている。それすら受けられないと、何もできない。

何しろ、名前も書けず、計算もできないのだ。そうなると、仕事は単純労働でしかない。単純労働の賃金は、どこでも最低賃金そのものだ。

最低賃金で生きていても、貧困から抜け出すことはできないのだ。字が読めないし書けないのだから、できる仕事は限られてしまう。賃金をごまかされても、計算ができないから抗議すらもできない。

また、世の中の仕組みはすべてドキュメント(書類)によって記されている。契約書も、賃金明細書も、請求書も、何もかも書類に記されて、そこには文字が書かれている。

それらの書類が読めず、意味も分からなければ、自分の置かれている立場すらも分からないままだ。やはり抑圧されたままの人生を送るしかなくなる。

国はどれだけ多くの国民に教育を受けさせることができるか。自分や子供たちは教育に接することができるか。そして、教育はどれだけ適切で実用的か……。

それが、貧困撲滅の鍵を握っている。しかし、多くの国でそれが理解されない。その結果、貧困が永遠に続いていくことになる。

教育を受けても成功するとは限らない。しかし、教育を受けていなければ、スタート地点にすら立つことができない。教育がきちんと続かなければ、彼女には将来がない。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170829T0223580900.html


51. 中川隆[-6583] koaQ7Jey 2017年8月29日 09:07:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本でも貧困地域の子供は漢字が読めない

【“貧困”無間地獄の現場】(05) 2003年『千葉少女墓石撲殺事件』の舞台――不良だらけの荒れた街が老人だけの枯れた街に


「貧しい昭和がこびり付いたような街」――

『最貧困女子』(幻冬舎新書)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%80%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E5%A5%B3%E5%AD%90-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E5%A4%A7%E4%BB%8B/dp/4344983610


で貧困問題を世に問うたジャーナリストの鈴木大介氏は、最貧困女子の出身地をそんな表現で語ったことがあった。


その1つが千葉市の千城台、正確には千葉市若葉区の千城台市営住宅団地だ。
言葉は悪いが、“最貧困女子の故郷”とでも言おうか。

地図
https://www.mapion.co.jp/m2/35.62610819,140.18221072,16


千葉駅からモノレールに乗り換える。タウンライナー(千葉都市モノレール)からは、新興のニュータウンと自然豊かな公園の景色が広がる。

約25分、終点の千城台駅に到着する。この街は以前、取材で訪れていた。

2003年10月に起こった『千葉少女墓石撲殺事件』である。犯罪史に残る陰惨且つ稚拙な事件。

風俗店(抜きキャバ)で働いていた16歳の石橋裕子さんが、偽装結婚していた夫(当時22歳)に離婚を切り出したところ、夫は地元の高校生ら5人と共謀し、石橋さんを墓地に連れて行き、歯形がわからなくなるまで殴りつけ、指紋を消し去る為に灯油で焼き殺した。

主犯の夫は、偽装結婚で戸籍をロンダリングしては、消費者金融からカネを借りる詐欺行為を繰り返していた。

当時、この夫は新しい相手と偽装結婚する予定だったが、身元不明状態では離婚できないと気付いて「自分の妻」と名乗りを挙げた結果、呆気なく御用となった。

事件の当事者たちは全員、市営住宅の出身者だった。
石橋さんの働いていた風俗店も千城台にあった。

次に偽装結婚する予定だったという別の16歳の少女を取材した。
彼女もやはり、市営住宅出身者だった。

彼女に事件をコピーした記事を見せた際、「漢字、読めないから」と言われて強い衝撃を受けた。

主犯の夫と族仲間だったという不良3人にも取材したが、やはり漢字が読めず、全員が無免許と自慢げに語っていた。

「21世紀の日本で、こんなことがあり得るのか…」。それが当時の印象だった。

千城台はニュータウンとして開発が進む一方、その裏手には古びた市営住宅団地が現存していた。夜ともなれば、漢字も読めないガラの悪い連中が団地から溢れ出て来る。治安の悪さでは、千葉でも屈指の場所と言われていた。その構図に、現在も違いは無い。

モノレールの駅を降りれば静かなニュータウンの表情を見せるが、古びた脇道を1本入れば、“貧しい昭和がこびり付いた街”がいきなり目の前に現れる。

この界隈の市営住宅の多くは、1960年代半ばから後半にかけて建設されている。
半世紀以上経っているのだから古臭くて当然だが、それでも以前の取材時には活気だけはあった。しかし、今夏に訪れた時、市営住宅は妙な静けさの中にあった。違和感を覚える。明らかに、2003年とは何かが違うのだ。

最も古い木造平屋建ての市営住宅に行く。犬の世話をしていたお婆さんが言う。

「ああ、今、ここは取り壊し前でね。半分以上があっちの新しい団地に移ったよ。私かい? ほら、この子(犬)がいてねえ。犬や猫を飼う為に残っているんだよ」。

このお婆さんが説明した通り、周囲の市営住宅の多くは新規建て替えや改修の真っ最中だった。「前に住んでいた若い人の多くも出て行ったよ」と寂しそうに語る。

夜になって、漸く違和感の原因に気付いた。周囲にコンビニが全く無くなっていたのだ。

駅前界隈は小中学校が揃い、市営住宅とニュータウンの住人合わせて1万人以上が住んでいる。明らかに異常だろう。プール帰りの小学5年生ぐらいの少女にコンビニの場所を尋ねたら、「あそこにあった」と潰れた店を指差された。

そう言えば、駅前にも赤提灯1つ無く、大手チェーンの居酒屋も無かった。
何とか探したところ、市営住宅の脇にスナックが2軒あるだけだった。

その1軒のマスターが言う。「この数年かな。駅前の飲み屋も全部、無くなったんだよ。前はキャバクラや風俗店もあったんだけど」。

私が「事件の影響ですか?」と尋ねると、「若い人が夜に集まりそうな場所は、警察が厳しく取り締まったからね」と頷きながら説明する。

客の1人も、「コンビニは、ほら、トイレで子供を産んで捨てた事件あったろ? あれ以降、どんどん潰れたんだよ」。

これは2011年、地元の20歳女性が千城台のコンビニで起こした事件のことだろう。

8月、お盆前だというのに、街に屯する不良たちが公園で花火に興じる様子も無ければ、暴走族が撒き散らす騒音も聞こえてこない。

マスターは、「兎に角、そういう若者はこの街から本当に消えたんだよ」と繰り返す。昭和の貧しさがこびり付いた街は、急速に変貌しているようだった。


「違法住人の楽園だった」。
市営住宅に暮らす60代の老人客が自嘲気味にそう語る。

母子家庭と言いながら夫と暮らす。夜の店で働きながら生活保護を受け、子供の給食費を払わない親たち。

毎日、パチンコをして飲み屋で暴れる――そうした“貧者の楽園”は消え去ろうとしているのだと、このスナックの客たちは誰もが実感している。

老人客が続ける。

「今、古い市営住宅は建て替え中だろ? 新しい市営に入れるのは、俺のような高齢の年金暮らしや生活保護は大丈夫だけど、以前のように20代の働き盛りで子供がいるとか、偽装結婚しているような家は契約を更新できないからな。だから、親が子を追い出しているんだよ。『お前らがいたら新しい市営住宅に住めないから』って」。

こうして、市営住宅から不良たちや若い層は消え、老人だけの枯れた街になりつつある。

“貧しい昭和がこびり付いた街”は、市の指導の下、健全且つ理想の街へと生まれ変わるのだろう。

12年前、主犯の夫と“偽装結婚”する予定だった16歳の少女の顔を思い出す。
漢字が読めず、「東京の都心は怖いので、夢は葛西に住むこと」と言っていた彼女は今、28歳となり、どこで何をしているのだろうか。

「(殺された石橋さんと)PUFFYの曲をデュエットで、朝までカラオケしたんだよ」。
そう嬉しそうに思い出を語っていた彼女は、既に都会の片隅で最貧困化しているかもしれない。

だが、その姿が顕在化することはないだろう。

夜8時過ぎ。千城台の駅から部活動で健康そうに日焼けした、或いは塾のテキストを持った学生たちと、ネクタイを締めたサラリーマンが続々と降りて来る。そして、小奇麗なニュータウンへと消えていった。 (取材・文/西本頑司)
http://mmtdayon.blog.fc2.com/blog-entry-1118.html?sp

千葉少女墓石撲殺事件とは、2003年(平成15年)10月1日に千葉市若葉区の墓地で発生した殺人事件である。


2003年10月1日の午前7時10分頃、千葉市若葉区の墓地駐車場で、ジョギングしていた男性が遺体を発見した。遺体は、若葉区千城台東の飲食店アルバイトだった少女(当時16歳)であった。

遺体は頭を鈍器で強く殴られて殺害された後、焼かれていた。
千葉県警は少女の夫で若葉区千城台西の運転手である男(当時22歳)を殺人の容疑で逮捕。共犯として高校3年の男子生徒(当時18歳)などを含む若葉区内の未成年の男子あわせて4人も逮捕した。


加害者と被害者の偽装結婚

被害者の少女は幼い頃は活発な少女で、中学時代はハンドボール部に所属していた。しかし部活を引退した3年の秋から性格が変わり始めた。不良グループと付き合うようになり、そこで後に自らを殺害する男に出会う。高校に進学するが、1年生の10月には自主退学し、以後はカラオケ店でアルバイトを始めた。

主犯の男は母親が再婚した義父と折り合いが悪く、家庭内で喧嘩を繰り返した。そして恐喝事件を繰り返し、高校1年の時には少年鑑別所送致にされる。18歳の時にはコンビニ強盗事件を起こして東北少年院送致となり、出所後も遊興費欲しさに窃盗事件を繰り返した。

少女はカラオケ店で働いたものの、給料面などから不満を持っており、水商売で働こうと考えていた。しかし18歳未満という年齢では働くことは不可能である。そこで男は自分との結婚を持ちかけた。結婚すれば成人として扱われるからである。ただし民法の上では成人扱いになるが、風俗営業法による規制から16歳で就職することは禁じられている。そして2人は2003年7月に婚姻届を提出し、少女はキャバクラで働き始めた。

ただし両者の間には恋愛感情は無く、2人の利害が一致したためでの偽装結婚に過ぎなかった。男は消費者金融に300万円に及ぶ多額の借金を抱えており、以前も別の女性と偽装結婚していた。女性の苗字を名乗って名前と戸籍を変更することで、消費者金融の借金を踏み倒そうとしていたのである。

しかし男は少女に結婚した見返りとして上納金を要求する。少女は初めこれに応じたが、次第に金銭トラブルを引き起こすようになり、遂に少女は偽装結婚を警察に通報すると言い出す。男は以前に起こした詐欺の事件で執行猶予中であった。

これが通報されれば猶予を取り消される可能性もあり、口封じを決意し、仲間の未成年4人を「自分たちの起こした窃盗事件を少女が警察に通報しようとしている」と騙すことで犯行に加わらせ、2003年10月1日午前3時過ぎに駐車場内でハンマーで少女を順番に殴りまわしたうえ、重さ70キロもある墓石用の石材を少女の顔に何度もたたきつけて殺害した。

そして少女の遺体にオイルを10数本もかけて火をつけて逃走したのである。
後に少女を発見した男性の証言では、発見したときには少女の遺体の上半身が炭化しており、まだ火もついているという状態だったという。


逮捕と裁判

事件発覚後、男は自ら警察に情報を提供して自分に疑いがかけられないようにした。またマスコミのインタビューにも悲痛な発言をすることで被害者を装っていた。

しかし警察は男と少女の偽装結婚をつかみ、さらに近所のスーパーやコンビニで大量にライターオイルを購入または万引きする男と少年らの防犯カメラの映像を入手して、男と少年らを逮捕する。男は最初容疑を否認していたが、少年4人が犯行を自供したため、遂に男も犯行を認めた。

2005年2月23日、千葉地裁で判決公判が開かれ、「暴行は想像を絶する残虐さ」、「自己中心的で幼稚極まりなく、動機に酌むべき点は無い」、「確定的殺意に基づく極めて残虐な犯行で、矯正は不可能」として、求刑通り無期懲役となる。4月19日に控訴を取り下げて刑は確定した。

また、未成年の少年らも、殺害と遺体損壊に加わった3人を5年から10年の不定期刑に、遺体損壊に加わらなかった1人を3年半から7年の不定期刑に処して確定した。こちらも「残虐な犯行」、「遺体損壊に対する悔悟の念が感じられない」とされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B0%91%E5%A5%B3%E5%A2%93%E7%9F%B3%E6%92%B2%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6


52. 中川隆[-6565] koaQ7Jey 2017年8月31日 10:02:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

格差の次には「何がくるのか」を日本人は理解しているか?


現代社会では、経済格差がどんどん広がっている。最初は少しの差であった格差は、やがては1000倍も2000倍も、いや1万倍も2万倍も開いて、もはや貧困層がどうあがこうが克服できないものとなる。

そして、この極度なまでの経済格差が定着すると、その後に何が来るのか理解しているだろうか。

それは、もちろん「階級」である。

世界の多くの国では、ひとつの国家が見えない層(レイヤー)で区分けされている。経済格差の層である。この経済格差の上と下とでは生活も文化も考え方も違う。場合によっては話す言葉までもが違ってくる。

メキシコでも、ブラジルでも、アメリカでも、イギリスでも、安全な地域と危険な地域は明確に分離して存在している。

分かりやすく言えば、金持ちたちが集う地域は安全だ。そして貧困層が集う地域は治安が悪い。だから金持ちは貧困層がいる地区には決して足を踏み入れないし、逆に貧困層が金持ち地区に行っても警備員や警察に追い出される。

それが定着すると、世界中どこでも貧困層と富裕層は自然に、明確に、完全に分離し、長い年月を経て同じ民族でも違う文化や生活になってしまうのだ。


何もかもが分離し、お互いに接点が極端になくなる

一億総中流の意識がまだ多少でも残っている日本人から見ると、これは階級、身分、差別があるという認識になる。その通りだ。凄まじい経済格差が定着すると、自然に「階級」が生まれて上と下で分離するのだ。

今の日本はそうではない。確かに経済格差は広がっているが、まだ極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはないし、その逆もまた然りだ。

しかし、問題はこれからだ。日本は、今のような平等社会を維持できるのだろうか。経済格差が広がるだけ広がって、それが社会に定着してしまった場合、日本もまた「階級社会」になってもおかしくない。

グローバル化は確実に「格差のある社会」を作り出す。それは間違いない。時間の問題なのだ。だから、将来の日本は今までと違う世界になる可能性がある。

日本人も富裕層と貧困層で分離する。

富裕層と貧困層で分離するというのは、住むところも、通う学校も、付き合う人間も、行きつけの店も、持ち物も、食べる物も、やがては話し方も、すべてが違っていくということだ。

何もかもが分離し、お互いに接点が極端になくなっていく。

教育で言うと、貧困層は親の資金面から安い学校にしか通えなくなり、ここで富裕層と貧困層の子供たちが分離される。富裕層の子供たちは質の良い教育を行う私学に通い、教育に理解のある親と熟練した教師に守られて学力を伸ばす。

一方で貧困層の子供たちは親の理解もなく、給料が安くてやる気のない教師の教育を受けて、教育の質が落ちて学力も低下していくことになる。塾にも通う経済的余裕もない。

公立校ではどんなにやる気のない生徒、問題生徒、非行生徒がいても学校から放逐できないので、しばしば学級崩壊も起きて授業がストップしたりする。

だから、富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。

気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。

富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。


格差を生み出すことになるのは目に見えている

さらに地域で見ると、ある地域に貧困層が多くなっていくと、地価が下がってますます貧困層が流れ込んでいく。そうすると、不動産価格の下落や環境の悪化を嫌って、富裕層が少しずつ、しかし確実に抜けていく。

そうすると、ますます貧困層がその地区を埋め尽くすようになっていく。一方で、富裕層が集まるところは地価が上がって貧困層が住めなくなる。これで人々が分離される。

職業で言うと、富裕層の子弟が卒業する大学卒の勤める職種と、貧困層の勤める職種も違っていく。入れる企業も違い、同じ企業でもエリートクラスと労働者クラスに分かれてこのふたつは交差しなくなる。

この格差は、一度下に落ちると、容易に這い上がれない地獄の格差になっていく。

日本はいずれ、遅かれ早かれそのような社会になる。これについては、多くの社会学者、経済学者、政治家たちが警鐘を鳴らし、危険を訴えている。

誰のせいでこんなことになったのか。全世界がこのようになっているのだとすれば、誰のせいでもなく、現在の社会構造が生み出しているというのが分かるはずだ。

弱肉強食の資本主義が、このような社会現象をどんどん増長させて止まらないのである。強いて言えば、グローバル化を無批判に取り入れた政治家や大企業が悪いということになる。

しかし、日本を鎖国化したら大丈夫なのかというと、それはそれで日本全体が孤立化して北朝鮮のように困窮するだけだ。取り入れても拒絶しても問題が発生するのである。

日本はもうとっくの前にグローバル化を完全に受け入れた。これからも、どんどん受け入れていくことになる。それがさらなる格差を生み出すことになるのは、目に見えている。

もはや、格差が日本国民を分離してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまう。1%の金持ちか、それとも99%の貧困層か。

そして、「階級」の上か下か……。

もはや、格差が日本国民を分離してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまう。1%の金持ちか、それとも99%の貧困層か。そして、「階級」の上か下か……。


日本社会はこれから階級で分離していくことになる

問題は、貧困層に落ちた人は、もはやその子供もまた貧困層になってしまうことだ。個人の努力云々の話ではない。子供たちはスタート時点から極端な差を付けられており、貧困から抜け出せない。

日本がそんな社会になることは、高齢層よりも若年層の方が切実に感じ取れるかもしれない。

日本は若者の自殺が多い国だが、それは就職活動を行っている段階から、多くの企業に断られ続け、自分たちが社会から必要とされていないことを悟ってしまうからでもある。

就職できても生活していくことができないほどの給料だったり、不安定な身分だったりすることも多い。それで必死で働いても、身体を壊して使い捨てされる。

彼らの多くは、自分たちが貧困に生きるしかない現実を突きつけられている。当然、無理して結婚して子供を作っても、子供が貧困で暮らすことになることくらいは容易に想像がつく。

だから、結婚して子供を作るということすらも逡巡する社会と化している。

日本は超少子高齢化となっており、減り続ける子供と増え続ける高齢者のアンバランスで国家の社会保障費に問題が生じているのだ。

これから日本は、過酷な増税、削られる医療費、延長される年金受給年齢などがすべて同時並行で起きて、国民は痩せ細っていく。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた。そのため、ごく普通の人が、年々転がり落ちるように貧困化する。

周辺国との軋轢、憎悪の連鎖、グローバル化の加速、格差の定着、若者の貧困化、超少子高齢化……。すべては、弱肉強食の資本主義が生み出したものであり根は一緒なのだ。

これらの問題が最後まで暴走していく中で、日本でも経済格差が「階級」を生み出して、上と下とではまったく違う文化の中で生きることになる。

格差で騒いでいる段階は終わった。次は階級社会に突き進んでいくのを、日本人は理解しておくべきだ。日本社会は階級で分離していくことになる。

日本でも経済格差が「階級」を生み出して、上と下とではまったく違う文化の中で生きることになる。格差で騒いでいる段階は終わった。次は階級社会に突き進んでいくのを、日本人は理解しておくべきだ。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170831T0331260900.html


53. 中川隆[-6546] koaQ7Jey 2017年9月01日 15:51:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

内田樹 2017年08月31日 北星学園での講演
http://blogos.com/article/243434/?p=1
http://blogos.com/article/243439/


7月22日に北星学園での研修会で講演した。その講演録の文字起こしが終わった。学園の内部資料として配布されるはずだけれど、教育についての持論を展開しているうちに、だんだん加熱してきて、ぷりぷり怒り出しているところが面白かったので、ここに公開することにする。

おはようございます。ご紹介いただきました内田です。

ご紹介の通り、私は神戸女学院大学というミッションスクールの女子大に21年間勤務しておりました。こういう感じの研修会、前任校では「リトリート」というのが毎年ございました。久しぶりに今日、讃美歌を歌って、チャプレンのお祈りをいただいてから、こういう集まりを持つ機会を持ち、たいへんに懐かしい気持ちがいたしました。

 リトリートというのは、ミッション系の学校によくありますが、文字通りリトリートです。引きこもりです。世俗の活動をいったん停止して、沈思黙考する時間を持つ。そういう意味だとチャプレンからは伺いました。研修会ということなのですけれども、やはりミッションスクール、いっとき世俗の活動を停止して沈思黙考する。もう少し広いスパンで、深くものを考える、そういう時間を作るという趣旨の集まりではないかと思っておりますので、その趣旨にふさわしい話を今日はしたいと思います。

「移行的混乱」と演題にありますけれども、「移行期的混乱」というのは、私の友人であります平川克美君が書いた本のタイトルです。非常に使い勝手が良いので、よく使わせて頂いております。今は一つの時代が終わって、ピークアウトして、これから下降局面に入って、後退していく、あるいは衰弱していく、そういうプロセスに、今入っているのではないかと僕は考えております。これから時代が全体として勢いを失っていく、活気を失っていく、衰えていく。

一番分かりやすい指標は人口減で、日本はこのあと急激な人口減局面に入っていきます。これは日本のみならず人類が一度も経験したことがないタイプの、極端な社会的変化です。

現在、日本人口は1億2,700万人ほどですが、人口はこれから急激に減って行って、今から80数年後、2100年段階での上位推計で6,500万人、中位推計で4,850万人、下位ですと4,000万人を切ります。おそらく5000万人程度になるのではないかと思います。5,000万人というと、だいたい明治40年ごろの人口です。今から80数年かけて、明治40年ぐらいの人口に縮小していく。これは、ほぼ間違いない。移民受け入れなどで多少の人口増はあるかもしれませんけれども、基本的には人口減はこのあと急坂を転げ落ちていくように進行していくわけです。

大事なことは、これが誰も経験したことがない、人類史上初めての局面だということです。まず、そのことを心に止めておかなければいけない。過去の成功体験が適用できない状況に僕らは今入りつつあります。これまで有史以来日本列島人口はだいたい増え続けてきました。そういうものだとみんな思いこんでいたからです。だから、近代以降のすべての社会理論、社会モデルは人口増と経済成長を自明の前提にして作られています。資本主義という仕組みそのものが人口増と経済成長を前提にしている。資本主義を批判するマルクス主義でさえも、やはり人口増・経済成長を不可疑の前提として作られています。

資本主義も、資本主義を批判する思想も、成長が止まる、人口が減っていくという局面を想定していない。だから実際に、そういう状況になったときに、どういう手立てがあり得るのかに関してはどの陣営にも理論がない。過去にそんな事態になってことがないのですから、それにどう対応すべきかという学説も、どう対処したら成功したのかという成功事例も存在しない。そういう時代に入っています。

今の日本は非常に停滞しています。何か、頭がどよんとぼやけていて、シャープなことを誰も言わなくなったという感じがありますが、それも当たり前です。前代未聞の、五里霧中の、予測ができない状態に入ったわけですから。こういう状況において明晰な言語があるとすれば、それは「先が見えない」ということなのですけれども、そう言えばいいのに、そう言わない。政治家も官僚も学者たちも、人口増と経済成長が自明である社会をモデルにしてしか考えることができないので、その前提そのものが揺らぐと何も言うことがなくなってしまう。でも、「これまで話の前提にしていた条件が変わってしまったので、この先どうなるか見当もつきません」と正直にカミングアウトすることができない。

これまで経済成長モデルはもう無効になっています。でも、それが言えない。それだけは言わない約束になっているので、知っているけれど、言わない。でも、先月、『フォーリンアフェアーズ・レポート』というアメリカの外交専門誌の日本語版がありますけれど、ここに「経済成長はもうしないのだから、経済成長しないことを前提にした経済政策を採用しなければならない」ということを言うエコノミストが出て来ました。これはモルガン・スタンレーのグローバル・ストラテジストという肩書の人でした。投資銀行の戦略を考えるエコノミストが「各国の指導者はもう『経済成長という非現実的な夢』を語るのを止めた方がいい」と書いているのです。経済目標を下方修正して、現実に合った経済政策を採るべきなのだが、そのことを理解している指導者がほとんどいない、と。

生き馬の目を抜くウォール街の投資銀行のエコノミストが「もう経済成長はしない。いいかげんに現実を直視しろ」と言っているのに、相も変わらず、世界の政治家たちはその現実から目をそらしています。そういう指導者のいる国では、メディアも一緒に遅れていて、そういうところでは世界で今何が起きているとかということを正確に報道していない。報道して分析して対策を提案できるような力がメディアにない。

だから、日本人は今日本がどういう状況にあるのか「よく知らない」のです。これが僕はきわめて危機的なことだと思います。病気の人間が「ああ、具合が悪いなあ。病気かな」と思えば、寝たり、薬を飲んだり、医者に行ったりするけれど、病気なのに病気であることに気がつかないで、生活を変えずにふだん通りに暮らしていれば、そのうち症状が悪化して、やがて死んでしまう。今の日本はかなり重篤な病気なのに病識がない病人に似ています。「病識」を伝えるのはメディアですが、メディアがその役割を果たしていない。

経済のことはデータをごまかしたり、解釈をねじまげたりすれば、「順調に推移している」といいくるめることは可能ですけれど、人口減は否定することができません。あと83年の間に7,000万人ほど人口が減るのです。年間90万人。鳥取県の人口が60万ですから、鳥取県1.5個分の人口が毎年減ってゆく。

それが、いったいどういう社会的影響を及ぼすのかを予測し、そのネガティヴな影響をどうやって緩和できるかについて衆知を集めて議論すること、それが最優先になされるべきことです。でも、その避けがたい現実を直視し、衝撃をどう緩和するかについて現実的な提案をする人も、どこにも見当たらない。政治家にも官僚にもビジネスマンにもジャーナリストにも、当然大学人にもいない。

人口減少は当然雇用の問題にかかわってきます。人口減、超高齢化、超少子化によって、従来存在していたいくつもの産業が消滅します。例えば、全国紙。購読層が高齢者で、若い人はもうほとんど購読していない。高齢者はいずれいなくなりますから、おそらくあと10年ほどですべての全国紙はビジネスとしては「採算割れ」するようになるでしょう。まだ不動産とか持ってますから、切り売りやテナント料収入で新聞は出し続けるでしょうけれど、もうビジネスとしては先がない。

それに追い打ちをかけるのがAIです。海外のメディアを読むとAIが導入されてくると、業界によっては雇用の30〜40%が消失すると書かれています。数値はさまざまですけれど、雇用が減ることは間違いない。機会かで雇用が減るどころか、業界そのものが消滅するところも出てくる。そのような事態にどう対処したらよいのか。大量の失業者が短期的に出て来た場合、彼らの生活の保障をどうするのか、再就職のための就業支援体制をどうするのか、そういう話をもう始めなければいけない時期なのです。

ですから、驚くべきことに、アメリカでもベーシック・インカムの導入が真剣な議論の論点になってきています。アメリカでベーシックインカムが話題になるというのはこれまでならまず考えられないことです。

アメリカはリバタリアンの伝統が強いところですから「勝つも負けるも自己責任」という考え方をする人が多い。仮に競争に負けて、路頭に迷って、飢え死にしても、それは自己責任だという考え方をする人がいる。社会的競争に敗北した人間を公的資金によって支援するのは筋違いだ。そういうことを公言する人たちがいたわけです。この間、僕の知り合いでカリフォルニア大学のデービス校の医学部で医療経済学の先生をしている方からお話伺いました。「オバマ・ケアが廃止されたら何が起きるのですか」と聞いたら、「生活保護を受けている入院患者が、数十万人が路上に放り出されるかも知れない」と言っていました。

精神力の弱い人は、こういう移行期、激動期になると、危険が近づいた時に駝鳥が砂の中に頭を突っ込むように、何が起きているのか見ないようになる。「何も起きていない。私は何も見ていない」と言い張って、現実から目を逸らそうとする。生物としてはある意味で自然な反応ではあるわけですけれども、しかし、やはりそうも言ってはいられない。特に日本の場合というのは、超高齢化・超少子化、労働生産年齢人口の激減という点では世界のトップランナーなわけです。このあと、日本に続いてすぐに中国、韓国、ヨーロッパ、アメリカが少子化・人口減少期に入りますが、今のところは日本が先頭にいる。

この後、予想では2050年前後に、世界のすべての地域で人口転換が起きます。人口転換というのは、合計特殊出生率が2・1を切って、人口の再生産ができなくなるプロセスに入ることです。平均寿命が延びていますから、2・1を切っても、しばらくは惰性があって、人口はすぐには減りませんが、いずれ22世紀半ばにはアフリカを含めて人類全体が人口減少局面に入ると予測されています。22世紀中ごろに地球がどうなろうが、われわれにはもう関係ないと言ったら関係ないわけですけれど、それでもタイムスパンを大きく取らないと、人類史上経験したことがないような局面に、日本がその先頭を切って入っているという事実は把握できない。でも、人口減少について、ではどうするのかについて真剣な議論は動きはどこにもありません。政府には少子化対策の特命担当大臣がいますけれど、婚活だとかいうようなぬるい話しかしていない。ビルの屋上から落ちている途中で、着地のときの衝撃をどう緩和するかという話をしているときに、屋上から落ちないように柵を作りましょうというような話をしている。

今日は大学、高校、中高の研修会ですので、学校教育の問題に焦点を合わせて移行期の危機についてお話ししようと思います。これもまたメディアがあまり報道しないし、大学人自身も直視しようとしていないトピックです。今、日本の大学教育は壊滅的な状況にあります。研究者の方は実感として日本のアカデミズムが勢いを失っていることはわかっていると思います。特に自然科学分野で、先端的な研究をしている人たちは、ほぼ口を揃えて「こんなことをこの先も続けていけば、日本の学術的発信力は先進国最低レベルまで下がるだろう」と言います。

僕の友人の阪大医学部の仲野徹教授は生命科学の研究者ですけれど、この間、海外の学会誌に日本の科学研究の現状について歯に衣着せぬ手厳しいコメントを投稿しておりました。

仲野先生によると、科学研究というのは自転車みたいなもので、走っているうちはペダルが軽く、どんどん走るのですけれども、速度が遅くなるとペダルが重くなり、1回止まったら、よほどの力でペダルをこがないともう走らせることができない。日本の大学で行われている自然科学研究は速度を失いつつあり、あと10年で止まる。1回止まった自転車を再びこぎ出す場合と同じように、一度止まった自然科学研究を再度軌道に乗せるためには、それまでの何倍もの資源投入が必要になる。だから、あと10年で速度をもう一度上げないと、日本の自然科学研究は「終わる」と言います。でも、今の教育行政を見ていると、たぶん終わりそうである、と。

合気道同門の後輩たち、東大気錬会の諸君には理系の研究者が多いのですけれど、彼らと話をすると、かなり絶望的な気分になります。先日も、物理の若手研究者と話したのですけれど、「君の分野はどう?」と訊ねたら、言下に「もうダメです」と吐き捨てるように答えました。いました。これまでは研究について訊くと、もう少し楽しそうに話してくれたのですけれど、取りつく島もない言い方でした。彼によると、今のようなシステムが継続する限り、もう日本の科学研究に未来はないということでした。任期制が基本的な雇用形態になったせいで、若手の研究者たちは、不安定な任期制ポストを渡り歩く以外に研究を続けることができないわけですけれど、来年度の雇用があるかどうかは、プロジェクトのボスにどう査定されるかにかかっている。だから、上のいうことをはいはいと聞いて、決して逆らわない「イエスマン」しか大学に残れない。独創的なアイディアを一人で追求しようとするようなタイプの研究者は煙たがられる。それではイノベーションが起きるわけがないのです。

アメリカの外交専門誌Foreign Affairs Magazineは去年の10月号で日本の大学教育の失敗について長い記事を掲載しました。過去30年の日本の教育政策は「全部失敗」という衝撃的な内容でした。続いて今年の3月にはイギリスの科学誌Natureが、日本の自然科学研究の失敗についての記事を掲載しました。半年間の間、英米の世界的な影響力を持つ二つのジャーナルが「日本の大学教育の失敗・科学研究の失敗」を大きく取り上げたわけです。それくらいに日本の学術の劣化は国際的に「有名」な事例になっているのです。21世紀に入ってから学術的生産力がひたすら落ちているのは、先進国で日本だけだからです。

学術的生産力の指標をいくつか見ておきます。まず、論文の本数。これは2002年から減少が始まって、現在、OECDでは5位です。5位ときくとけっこういいポジションじゃないかと思う人もいるかも知れませんが、1997年から2002年まではアメリカに次いで世界2位だったのです。それがドイツに抜かれ、イギリスに抜かれ、中国に抜かれて5位にまで落ちた。他が論文数を増やしている中で、日本だけが停滞ないし減少している。それから、よく言及される高等教育に対する公的支出のパーセンテージ、これは過去5年連続OECD最下位でした。去年はハンガリー日本より下だったので、下から2番目になりました。

学術的生産力の指標として一番分かりやすいのは「人口あたり論文数」です。論文数だけ見ても日本はすでに日本より人口の少ないドイツ、イギリスに抜かれたわけですから、人口当たり論文数は悲惨なことになります。2013年が35位、2015年がさらに下がって37位。アジアでも、中国、シンガポールはもとより、台湾、韓国の後塵を拝しています。

海外の学術誌が、世界的に見て例外的な失敗事例として日本を研究対象にするのも理解できます。でも、このことを日本のメディアはほとんど報道していません。それを重大な問題として受け止めている気配もありません。でも、Foreign Affairs Magazineの論調は実に手厳しいものでした。

日本の文科省が行ってきた過去20年間の研究拠点校作りがいろいろありました。COE、RU11、グローバル30などなど。これについて「孤立した、単発の、アイランド・プロジェクトであり、それゆえ全て失敗だった(It was therefore a total failure)」という総括でした。実感としては、僕もそうじゃないかなという感じがしてはいたのですけれど、まさかここまではっきり海外のジャーナルから指摘されるとは思っていませんでした。

 Foreign Affairs Magazine が日本の大学教育の特徴として挙げていたのは、「前期産業社会に最適化した、時代錯誤的な教育制度」であることと「批評的思考(critical thinking)、イノベーション、そしてグローバル志向(global mindedness)」が欠落していることでした。「グローバル化に最適化した教育」とか言ってきた割には、日本の教育には「グローバル志向」が欠如していると指摘されてしまった。「グローバル志向」の定義は「探求心、学ぶことへの謙虚さ、世界各地の人々と共同作業することへの意欲」だそうです。それがない、と。

こうも書かれていました。「日本の教育制度は社会秩序の保持と、献身的な労働者の育成と、政治的安定のために設計されている」と。それが「前期産業社会に最適化した、時代錯誤的な教育制度」ということです。ポスト資本主義の時代に入ろうという移行期に「前期産業社会に最適化した教育制度」で対応しようとしているわけですから、学術的なアウトカムが期待できるはずがない。

さすがにここまで言われたのですから、文科省としてはきっちり反論すべきだったと思います。自分たちがやってきたことをほとんど全否定されたわけですから。もし、自分たちの教育行政がそれなりの成果を上げていると信じているなら、論拠を挙げて反論すればよい。バカなことを言うな、自分たちの教育政策はこんなに研究成果を上げているぞ、と。ちゃんと数値的な根拠を示せばいい。でも、文科省はノーコメントでした。まったく反論しなかった。

逆に、指摘が当たっていると思ったら、率直に失敗を認めて、これを契機に、何がいけなかったのか、原因を究明すればいい。でも、文科省はそれもしなかった。反論しなかったのは反論する根拠がなかったからでしょう。失敗を認めなかったのは、失敗を認める責任を取らされるからでしょう。だから、失敗しているにもかかわらず、その事実を認めず、それゆえなぜ失敗したのかを吟味することもしなかった。ということは、文科省はこれからも教育行政で失敗し続けるということです。これまでの失敗を認めないということは、失敗事例から学習することを拒否したということです。

だったら、同じ失敗をこれからも続ける他ない。有害無益なことだとわかっていても、止められない。止めたら「こんなこと誰が始めたのだ」という責任問題が発生するからです。だから、無駄とわかっていても、止められない。でも、何かしないといけないから、これまでの仕事に追加して、新しい仕事をどんどん課してゆく。でも、教育の現場にいるのは生身の人間ですから、使える時間も体力も限界がある。どこかでバーンアウトする。現に、バーンアウトが始まっている。その結果が、この悲惨な学術的生産力の低下として現象しているわけです。

僕は82年に大学の教員に採用されました。それからですから30年以上、大学の教育現場を見てきています。記憶する限り、最初の大きな変化があったのは1991年でした。大学設置基準の大綱化という政策転換がありました。大綱化というのは、平たく言えば、大学に教育内容についてフリーハンドを与えるということです。それまでの文科省の教育行政はいわゆる「護送船団方式」でした。カリキュラムから、校地面積から、図書の冊数から、事細かに定めてあった。「箸の上げ下ろし」まで小うるさく注文をつけてきたのですが、その代わりいったん大学として認可したら、絶対に脱落させない。一定の質の教育機関として機能するようにうるさく世話をした。

それが91年に方向転換しました。護送船団方式を止めて、大学の生き残りを市場に託したのです。これからは各大学が自分たちのカリキュラム編成を自由にやってよろしい、と。創意工夫をしたいところはしてよろしい、と。好きなことをやらせる代わりに、国はもう大学の世話をしない。大学が生き残るか、脱落するかは、自己努力にかかっている。それぞれの大学が大学としてふさわしいものであるかどうかは、文科省ではなく、これからはマーケットが判断する。

僕はこの時点では、大綱化を歓迎する立場でした。文科省、いいこと言うじゃないかと思っていました。それぞれの大学が好きにやって良い代わりに、その大学が滅びようと繁栄しようと自己責任であるというのは、いっそ潔いではないかと思いました。各大学がカリキュラム改革や大がかりな学部改組に取り組み出したのはそれからです。

でも、よくよく考えてみると、別にそれは文科省が大学を信頼して、大学に教育についての権限を委譲したという話ではなかったのです。それはこの時点ですでに18歳人口の減少が始まっており、遠からず大学が過剰になるということがわかっていたからです。いずれ大学は淘汰されることになる。でも、文科省にはどの大学が淘汰され、どの大学が生き残るべきかを決定するロジックがなかった。当たり前ですよね、明治の近代学制の開始以来、日本の教育行政がしてきたことは一言にして尽くせば「いかにして国民の就学機会を増やすか」ということだったからです。どうやって教育機関を増やしていくのか。教育内容を多様化・高度化するか。それが仕事だった。じゃんじゃん学校を作るのが本務だった。でも、90年代に入った頃に、「大学が多すぎる」ということに気がついた。大学進学率ももう頭打ちになって、18歳人口が減り出すと、定員を維持できない大学が出てくる。それがはっきり公言されたのは民主党政権のときです。国家戦略会議というところで「大学が多すぎるから減らさなきゃいけない」という、まともな議論が出てきた。そのあと、田中真紀子さんが文部大臣になったときにも、新設学部学科の認可を拒否したということがありました。認可の基準を満たしていなかったわけではなく、審査は通ったのだけれど、大臣が「これ以上大学定員を増やすわけにはゆかない」と言って反対したのです。田中さんらしい雑駁な議論でしたけれど、言っていたことは筋が通っていた。確かに大学数が多すぎる。人口はどんどん減っているのに、学部学科の定員は増え続けている。これはどうしたってそのうち破局的な事態になる。なんとかしなければいけない。でも、どうやって調整するかということになると、調整するためのロジックを文科省は持っていなかった。

 それまでは18歳人口が増えて来るのに合わせて大学に臨時定員増を認めていました。大学に進学希望する子どもの数が増えているのだから、できるだけ多く受け入れてあげましょうというのはロジカルです。でも、それなら18歳人口が減ってきたら、大学の定員を減らして、受け入れ数を調整しましょうというのがロジカルなのですけれど、それができなかった。

僕はその当時文科省の私学教育課長の方と対談したことがあります。その時に聞きました。「18歳人口が増えるからという理由で定員増したわけですから、人口減になったら定員減を大学に求めるべきでしょう。18歳人口が前年比95%になるなら、全大学に受け入れ数を前年比95%にしなさいと行政指導できないんですか? そうすれば、どの大学も志願者確保のために駆けずり回らなくてもいいし、教育水準も維持できるし、学校経営の危機もいきなりは来ないから、経営の難しい大学はゆっくりとダウンサイジングしながら軟着陸の手立てを考えることができるんじゃないですか」と。でも、一笑に付されました。文科省にそんな力ないですよって。どの大学が進んで定員減なんか言い出すものですか、と。

確かにその通りでした。むしろ、大学の経営陣は18歳人口が減り出すと、いきなりビジネス・マインデッドになってゆきました。その頃からどの大学でも財務を担当してきたビジネスマン的な人たちが発言権を持つようになりました。彼らは研究者でも教育者でもありません。この人たちは基本的に株式会社をモデルに大学経営を考えていますから、「右肩上がり」を前提にものを考えます。マーケットが縮むから、生産数を減らそうなんてことは考えません。いや、どうやってマーケットを拡大したらいいのか、どうやって顧客をこちらに向かせたらいいのか、どういう教育プログラムを整備すれば消費者である高校生やその保護者に選好されるか、そういう「集客戦略」を語る。「危機の時こそ一気にシェアを取る絶好のビジネスチャンスなんですよ」というようなことを言う人相手に「じわじわ定員減らしましょう」というような後ろ向きの提案をしても一顧だにされない。

文科省は、確かに学校教育を司る省庁として当然ですけれど、国民の就学機会を増やしていく、教育機会を充実していくということに関しては、明確な使命感も持っていたし、理念もあった。けれども、縮めて行くということに関しては何のプリンシプルも持っていなかった。増やすノウハウはあったけれど、減らすノウハウはなかった。だから、「マーケットに丸投げする」という無原則的な対応をとったのです。

「マーケットは間違えない」からという理屈で。このとき日本の教育行政に初めて市場原理が本格的に導入されたわけです。どの教育機関が生き残り、どこが退場するかはマーケットが決定する、と。他の商品と同じです。商品をマーケットに投じる。消費者がいくつかの競合商品の中からあるものを選択する。選択された商品は生き残る。選考されなかった商品は不良在庫になって、やがて会社は倒産する。それと同じことを大学にも教育機関にも適用したらいいじゃないか、と。それ以外に過剰に存在する教育機関を淘汰する方法がない、と。そういうことで90年代はじめに学校教育の適否はマーケットが決定するということについての国民的合意が形成されたのです。

今にして思うと、あの時にもう少し議論を練るべきでした。そんなに簡単に学校教育の適否の判断を市場に委ねていいのか。実際にはかなりジャンクな商品であっても、商品イメージの設定が巧みで、広告が適切だったら、消費者は買います。「消費者は神さま」ですから、消費者が質のよい商品を棄てて、質の悪い商品を選んでも、それは消費者が正しいということになる。学校についてもそのようなことが起きるかもしれないけれど、それでもいいのかという議論は誰もしなかった。消費者に選好される教育機関は「よい学校」であり、消費者が見向きもしない教育機関は「要らない学校」だということに衆議一決した。「社会的ニーズ」に見合った教育商品を提供できない学校は消えるしかないというシニカルな断定に誰も反論しなかった。「ニーズ」という言葉が大学の中で繰り返し口にされるようになったのが、90年代半ばからです。

それまで僕が学生院生だった70年代も、教員をしていた80年代も、そんな言い方で教育を語る人なんか教員の中にはいませんでした。でも、ある時点から、「ニーズ」とか「マーケット」とか「コストパフォーマンス」とかいうそれまで使われたことのないビジネス用語が大学の会議でもふつうに口にされるようになった。今はもうそれがふつうになりましたけれど、こんなふうな言い回しを大学の教員が言い出したのはわずか20年くらい前からなんです。

そもそも学校の建学の原点に立って考えたら、「ニーズ」なんて言葉が出てくるはずがないんです。今日も冒頭に北星学園の建学者の話が出て来ましたけれど、この学校がどうしてできたかという根本に立ち返って考えてみたら、その時点で「マーケットのニーズ」なんてないんですよ。全然。北星のスミスさんという建学者も、神戸女学院のタルカットさん、ダッドレーさんも、誰も呼んでいないのに、アメリカから来て建学したわけです。神戸女学院の二人の女性宣教師はアメリカン・ボードという伝道団体から派遣されて神戸に来ました。彼女たちが日本に来るとき、サンフランシスコから船に乗ったわけですけれど、乗船時点では日本はまだキリスト教禁制下だったのです。江戸時代のご法度がそのままだった。幸い、日本に着いた時には「キリスト教禁止」の高札が下ろされた後でしたので、違法にならずに伝道活動ができた。でも、アメリカを出る時に、彼女たちの教育内容に対する「市場のニーズ」なんていうものは日本国内のどこにもなかったんです。

消費者が選好するような教育プログラムを提供する教育機関にだけ存在理由があると平然と言い放つ学校経営者がいますけれど、もし明治時代にそんなことを言っていたら、日本の私学のほとんどは今存在していないということを少し考えた方がいいんじゃないかと思います。明治自体にも「そういうこと」を公言する人たちばかりであったら、その人たちが卒業した大学そのものが実は存在していなかったかも知れないということ彼らはを想像することができないのでしょうか?

消費者も、市場も、ニーズも、何もないところに建学者たちはやってきて、そこに学舎を建てたのです。そしてそれから、「そこで学びたい」という人たちを創り出した。学校に先立って学びたい人たちがいたわけじゃありません。学校を作ったことによって「そこで学びたい」という人たちが出現してきたのです。そのことの順序を忘れてはいけません。

建学者たちは、自分たちは「こういうことを教えたい」という旗を掲げた。こういう教育がこれからの日本には必要なのだ、日本の次世代を担う若い人に必要なのだと説いた。その熱い言葉に反応して、「学びたい」という人が出現してきた。「こういうことを学びたい」という子どもたちがまずいたのではなく、「こういうことを君らは学ばなければいけない」と力強く語った人がいて、その先駆的な理念に反応して、「もしかすると自分の中にあるぼんやりした欠落感は、この学校に行って、この先生に就いて学んだら満たされるんじゃないか」というふうに感じた若い人たちが出て来た。

教育を受ける人たちというのは、教育活動に先立って存在するわけじゃありません。「教えたい」というメッセージがまずあって、それに呼応して「習いたい」という人が出てくる。呼応するというより、同期ですね。禅語で言うところの「啐啄の機」です。「啐啄の機」というのは、卵の殻を外側から母鳥が突き、内側から雛鳥が突き、両方の嘴が合ったときに卵の殻が割れて、母と子が出会う、師と弟子が出会うという、そういう状況を言うものですけれど、学校教育における教師と生徒の関係も本来はそういうものだと思います。

でも、同期とはいいながら、やはり殻をつつくのは母鳥が先です。教えるのは師が先です。「私はこれを教えたい」ということがある。その「教えたい」ことについて、確信があり、情熱があれば、必ずそれに反応して「学びたい」という人が登場してくる。

ですから、この学校もそうでしょうけれど、ほとんど全部の私学は建学の時は「持ち出し」なわけです。建学者は私財を投じて、身銭を切って学舎を作り、教員を雇い、生徒たちが集まるのを待った。教育事業に入れ込んで家産を傾けた人だっているわけです。もともとビジネスじゃないのです。「こういう知識や技能を身につけたい」という生徒たちがぞろぞろ集まって来て、彼らが差し出した学費で学舎の建設費用や教師の給料が賄えそうだから、「じゃあ学校作ろうか」なんていって学校を始めた人なんかいません。採算やらニーズやら言っていたら学校なんか始められません。

先ほど、理事長室でも話題に出たのですけれど、ビジネスマンが学校をやったら、何が始まるか。ゴルフ場を経営しているという人が学長に「大学というのは儲かるようですね。私にもできますか」と訊ねたんだそうです。びっくりして理由を訊いたら「だって、大学って四月に授業が始まる前に、学納金が全額入るわけでしょう。まだ商品を売る前に代金が先に入ってくるなんていううまい商売この世にありませんよ」と言われたそうです。

確かに、ビジネスマンはそういうふうに考えるんです。まだ授業を何もしていない段階で、代価が全額納入されている。こんな確実な商売はありません。売り上げ金はもう全額手元にある。だったらビジネスマンが次に考えるのは「どうすれば収益を最大化できるか?」です。答えは簡単ですね。コストを最少化すればいい、です。教育にかかるコストを最少化するためにはどうしたらいいのか。一番簡単なのは、教育をしないことですね。教育活動をやらなければいい。そうすれば、校舎も要らないし、教職員に払う人件費も要らないし、光熱費もかからない。でも、さすがに学費だけもらって授業をしないというわけにはゆきません。許された経営努力は「できるだけ教育にコストをかけないで、内容のある教育しているように見せる」ことだけです。

そんなことを考えている学校なんか存在するはずがないと思われるかも知れませんけれど、そういう大学は実際にあるんです。お金だけもらって、授業をやらない大学。授業料を払い込めば、学士号、修士号、博士号だけ出すという大学がある。Diploma millとかDegree millとか言われるものです。たぶん若い教員の方たちはそんな言葉、聞いたことがないと思います。これ、アメリカ発で、80年代、90年代に世界を席巻したビジネスなんです。「学位工場」と呼ばれるものですけれど、教育活動をしない学校です。授業料だけ受け取って、それに対して学位を渡す。日本ではそんな学校認定されませんけれど、アメリカでは違法ではないのです。実体のない大学、ビルの一室を借りて、電話と私書箱だけがある大学。そこが大学を名乗って学位を発行する。そんなもの、ただの紙切れですよ。でも、その紙切れが欲しいという人がいる。博士号を持っているということを履歴書に書いて、名刺に刷って、学位記をオフィスに飾りたいという人がいる。だったらそれはフェアな取引なわけです。学位工場はその顧客をだましているわけじゃないんです。「これはただの紙切れだよ」と言って売っていて、その紙切れを何百ドルか出して買うという人がいる。ジャンクだとわかって売り買いしている。両者合意の上の取引ですから、違法ではない。

それが80年代、90年代にアメリカからアジア全域にまで広がってきた。だから、今皆さんが必死になってやっている「相互評価」ってありますね。あれはこの流れから出て来たものなんです。学位工場が何百となく登場してきて、インチキな学位記を売りまくり出した。そんなところに「大学」を名乗らせたくない。でも、アメリカには日本みたいな小うるさい大学設置基準なんてない。「大学です」と名乗ることに小うるさい条件なんかつけない。それを大学として認知するかどうかはマーケットが決める。「マーケットは間違えない」から。そして、アメリカのマーケットは「こういう無内容な大学があってもいいじゃないか」と判断した。

これに対して対抗措置としてまともな大学が行ったのが「相互評価」です。内容のない学位工場のリストを作って「ここはインチキですよ」ということはできません。営業妨害になるから。場合によっては莫大な損害賠償を請求されるリスクがある。だから「ブラックリスト」は作れない。だから、その逆の「ホワイトリスト」を作った。教育実績について定評のある大学が集まって、お互いにお互いを「まともな大学ですよ」と保証するということをした。それが「アクレディテーション(信用供与)」という仕組みです。それが相互評価の始まりです。いきなり出て来たわけじゃない。学位工場の蔓延がもたらす社会的害悪を阻止するために、まともな大学が集まって講じた自衛措置なんです。

だから、こんなもの日本の大学でやる理由なんか実は何もないんですよ。だって、日本には学位工場なんてありませんから。内容のない大学はいくらかありますけれど、そんなわずかばかりの大学に低い査定をつけてマーケットに開示するために、日本中の大学が「自分たちはまともです」ということを必死になって自分で証明して、相互に承認し合うなんて無駄もいいところです。日本とアメリカでは国情が違うんですから、日本では相互評価なんか必要ないんです。でも、若い教員の人たちはそんな事情は知りませんよね。大学に就職したら何年も前から自己評価・相互評価ということをやっている。だからなんだかたいへんな手間暇がかかるし、何のメリットがあるかぜんぜんわからないけれど、やらなくちゃいけないらしいからやろう、と。黙って受け入れているんだと思います。でも、これはアメリカにおいては必然性のある制度でしたけれど、日本が真似する理由なんてまったくないものなんです。

ただ、実際に学位工場が日本に入りかけたことはあったんです。もう少し体裁を整えたものでしたけれど、教育プロヴァイダというものがアジア全域に広がった。でも、どうしても日本には入り込めなかった。それはシステムが全部英語ベースだったからです。学位工場で学位もらおうというような人たちは学力がないので、このd英語が読めなかったんです(笑)。言語障壁が日本を守った。

個人的に面白い経験がありました。6〜7年前のことですけれど、英文の手紙が来て、「あなたは昨年度の世界を代表する100人の哲学者の一人に選ばれました。ついては、賞状と記念メダルをお送りするので150ドル払ってください」って。微妙な金額でしょ、150ドル(笑)。「その年の世界を代表する100人の哲学者」という賞状を客間の壁にかけておいたら、お客さんが「これ何ですか?」 と訊いてきたら、「これはね」ってひとしきり笑えるでしょう。笑いネタとしてなら150ドルを払っても良いかな・・・と一瞬思ったのです(笑)。でも、なかなか人間心理のひだを読んでますよね。1000ドルって言われたら誰も相手にしないし、10ドルと言われてもやっぱり相手にしないけど、150ドルという価格設定が微妙です。その時に、ああ、こういう商売というのはずいぶん洗練されているんだなと思いました。日本にいると気が付かないけれど、世界中にそういうビジネスはあるわけです。

まあ、実際に日本の大学の先生でも、学位工場から博士号買ってしまて、それが後でばれて恥をかいた人がいましたからね。これも、それが話題になったのは、その時だけです。今でも、外国名の大学の博士号なんかについては、履歴書に書かれていたら、果たしてそれがまともな大学か、インチキ大学か、僕たちは手間かけて調べたりしませんからね。

ですから、たしかにビジネスとして学校教育をやるということはありうるわけです。でも、それは結局「できるだけ教育事業をしないで金だけもらう」という仕組みになるしかない。

学位工場のことはご存じない方でも、株式会社立大学のことは覚えていると思います。2003年度、小泉政権のときに、例の「構造改革特区」に限っては学校法人ではない事業者が学校を設立できることになりました。そして民間企業が続々と大学経営に参画してきた。ビジネスマンが大学を経営するとどうなるかということのこれが見本ですね。2004年から株式会社立大学が鳴り物入りで新設されましたが、WAO大学院大学とTAC大学は申請に不備があって却下、LCA大学院大学は三年で募集停止、LECリーガルマインド大学は全国に14キャンパスを展開しましたけれど、2009年に学部が募集停止。サイバー大学はすべての授業をネットで配信するので「一度も大学に登校せずに卒業できます」という触れ込みでしたけれど、レポートを出してくる学生の本人確認ができないのでさすがに文科省からクレームがつきました。その世界遺産学部というユニークな学部は2010年に募集停止。

小泉純一郎、竹中平蔵が行った規制緩和の中で出て来た話です。学校教育を学校法人だけにやらせるのはけしからん、と。ビジネスマンが参入できる仕組みを作れば、産業界のニーズにぴったりあった人材育成の仕組みができるに違いないと自慢げに始めたわけですけれど、結果はどうなったのか。株式会社立大学が志願者確保に大成功し、卒業生は引く手あまたというような話はどこからも聞きません。でも、当たり前なんですよね。どれほど「実学」重視と言っても、ビジネスマンがやる以上、経営努力の最優先項目は「教育にかけるコストを最少化すること」になる他ないんですから。経営努力がまず「いかに教育をしないか」の工夫に向けられるようなところが教育機関として機能するはずがない。今でも「実社会でビジネスの経験をした人間をつれてくれば、世間知らずの大学教員なんかには真似のできない実学教育ができる」というようなことを言う人がいますけれど、そういう人たちに「では、株式会社立大学はなぜ失敗したのか」、その理由をきちんと説明して欲しいと思います。でも、ビジネスマンに学校教育をやらせろと主張する人たちの誰一人「株式会社立大学の末路」については言及しない。それはもう「なかったこと」になっているらしい。

大学教育の劣化は深刻な事態ですけれど、大学人自身が大学教育が劣化しているという事実を直視していないことが最大の問題です。それがどういう歴史的経緯で出て来たものかということを検証していない。だから、どうすれば大学の生産力を回復できるかという議論が始まらない。

でも、なかなか気がつかないんです。d日本の大学だけ見ていると。「何か最近の学生は活気がないね」とか、「最近の学生は漢字が読めない」とか「英語ができない」とか言っているだけです。でも、「どこもだ」と教えられると、納得してしまう。あのですね、それは日本の大学ばかりが地盤沈下しているということなんです。沈みかかっている船の中でお互いの顔を見ていて、「何も変わっていない」と思っているけれど、実は船自体が沈んでいる。

だから、今、政治家とか財界人とかは、もう自分の子どもを日本の学校にやらないでしょう。中等教育から海外ですよ。スイスの寄宿舎とか、ニューイングランドとか。

あるところで一緒になったビジネスマンが日本の学校教育がいかにグローバル化に遅れているかを難じた後に、「だから、私は子どもを日本の学校なんかにやらないで、ハイスクールからアメリカに出しましたよ」と自慢げに言っていました。僕はそういう人には日本の学校教育についてはあまり提言とかして欲しくないと思いました。この人は日本の学校教育はダメと判断して、子どもをアメリカに留学させたわけです。それなりに手間暇もかかるし、お金もかかるし、親子離れ離れで暮らすのもけっこう切ないものです。それだけの個人的な代償を支払った以上、「日本の学校教育を見限って留学させた私は正しかった」ということをぜひとも確信したい。そして、自分の選択が正しかったということは、彼が「ダメ」と判定した日本の学校教育を受けた人間たちが自動的に社会の下層に格付けされ、苦労してアメリカで学位を取ってきた人間が高く格付けされるような社会が到来することでしか証明されない。ですから、これ以降、彼は日本の学校教育が失敗し、日本で学校教育を受けた人間が「使い物にならない」という状況の到来をつねに切望するようになる。これは無意識の欲望ですから、止めることができない。

うっかり、そのあと日本の学校教育が改善されて、子どもたちの学力が向上して、「留学なんかする必要がなかった」ということになったら、彼の判断は間違っていたことになる。それは困るわけです。人間というのは、そういう哀しい生き物なんですよ。自分の判断が正しかったことを証明するためなら、多くの人が不幸になるような事態が到来することを心待ちにする。心待ちにするどころか、そうなるように自分から積極的に働きかける。そういう人間の心理って、あるんですよ。だから、横で話を聞いていると、この人はどう考えても日本の学校教育がどんどんダメになるような提案しかしないんです。彼にとっては日本の学校教育が劣化した方が彼の先見性を証明してくれるわけですから、そんなことをしたら研究も教育も破綻してしまうような提案ばかりしていました。

そういう意識的あるいは無意識的な、有形無形のさまざまな干渉によって日本の学校教育は21世紀に入ってから急激に劣化してきているのです。それが特に高等教育によって際立っているわけですけれども、中等教育に波及するのも時間の問題です。

僕が今18歳の高校生で、進路をどうするか決めなければいけない時期になったら、「できたら日本の大学には行きたくない」とたぶん言うと思うのです。親に泣きついても「海外に行かせてくれよ。お金がかかるかもしれないけれど、必ず返すから」と言うんじゃないかという気がします。今自分が18歳だったら。日本の大学には行ってもしようがない気がするから。それは別に統計的な根拠があるとか、海外のジャーナルから批判されているからとか、そういう理由のあることではなくて、直感としてです。なんか夢がない。大学というところが「つまらなさそう」のように見えるからです。みんな暗い顔をしている。教師が疲れ切れていて、不機嫌で、苛ついている。学生もさっぱり楽しそうじゃない。

教師が不機嫌というのは、もう中・高・大全部そうです。膨大な量の事務に押しつぶされているからです。会議と書類書きで。研究教育成果を上げるための会議と書類書きで、研究教育のための時間がどんどん削られている(笑)。本当に、そうなのです。国公立大学の場合、独立行政法人化からあとはカリキュラム改革、学部改組、グローバル化、自己評価とか、そういう次々と押し寄せる「雑務」を担当させられてきたのは、多くが30代・40代の若手の教員でした。仕事ができて、体力のある教員にこういう仕事は回ってくる。でも、「こういう仕事を手際よくこなす」という評価がいったん与えられたら、あとはずっと「そういう仕事」ばかり回ってくるようになる。そういうことばかりで10年間が過ぎたというような教員が日本中に何百人何千人といるわけです。研究者として一番脂がのりきった時期に会議と書類書きに明け暮れた人たちが。この人たちがその時間を研究に充てていた場合に生み出された学術的成果のことを思うと、僕は絶望的な気分になります。

日本の論文数が急激に減り出したのは、2004年の独立行政法人化以後ですけれど、それは当たり前なのです。でも、じゃあどうすれば低下した学術的生産力を復元させて、海外の大学と競合できるようになるのかが問題になると、その課題に答えるためにまた会議が行われ、書類を書かされる。さらに研究は停滞する。そんなばかばかしいことを全部止めてしまえば日本の大学の研究教育の力は回復します。大学人であれば、誰でも内心はそう思っているはずです。教員たちを研究教育に専念させる。夏休み春休みをたっぷり与える。サバティカルで在外研究の機会を与える。それだけのことで論文数なんか一気にV字回復します。誰だってそれはわかっている。でも、今進んでいるのは、それとまったく逆の方向です。さらに教員たちへの負荷を課して、さらに研究教育機会を減らし、教員たちの自尊心を傷つけ、不機嫌な気分に追いやるような制度改革ばかりしている。

多くの教員は、研究教育が好きだからこの仕事を選んだのです。それに専念できる環境が整備されれば、給料なんか安くても喜んでこの仕事をします。多くの先生方が早い人は50代で定年前に仕事を辞めてしまう。理由を聞くと「もう会議をしたくない」という方が多い。会議がなくて、研究教育に専念できるなら、こんな楽しい仕事はない、と。そうすれば、学校はもっと明るくて、もっとイノヴェーティヴな場所になるだろうと思います。

大学に成果主義を導入したのも大失敗でした。実は僕は成果主義導入については「戦犯」の一人なんです。神戸女学院大学は日本の私学で最も早く教員評価システムを導入した大学の一つですが、その時にFD委員長として旗振りをしたのは僕です。

その頃は働いていない教員が目についたのです。学務をほとんどしない。研究もしない。何年も論文一本も発表しない。教育も手抜きという教員が目についた。そういう人たちが大きな顔をしているのが許せなかった。だから、研究、教育、学務の三分野で教員たち一人一人の活動成果を数値化して、全教員をそれに基づいて格付けして、予算を傾斜配分し、昇給・昇格にもそれに反映という、新自由主義者丸出しの案を提出したのです。もちろん教授会では批判の十字砲火を浴びましたけれど、「これからはビジネスマインドがないと、大学はマーケットに淘汰されてしまう」と訴えて、「危機の時代を生き残るためには限られた研究教育資源を活用しなければならない。そのためには、アクティヴィティの高い教員に資源を集中する。『選択と集中』だ」ということで教授会を説得しました。でも、始めて1年もしないうちに自分が取り返しのつかない失敗を犯したことを思い知らされました。

教員の活動成果の客観評価なんて無理なんですよ。担当しているクラス数とか、論文指導している院生数とか、委員をしている委員会の数とか、そういうものはたしかに簡単に数値として拾えます。でも、研究成果の数値化はできない。僕は刊行論文数ぐらいはそのまま数値化できるだろうと楽観していました。でも、それさえできなかった。委員会でいきなり「1年に5冊も6冊も書き飛ばす人間の書いた一冊と、20年かけて書いた一冊を同じ扱いにするのか」と言われて絶句してしまったからです。「1年に5冊も6冊も書き飛ばす人間」というのはもちろん僕のことなんですけれど(笑)。たしかにご指摘の通りなんです。一冊の本といってもそれぞれの学術的価値には場合によっては天と地ほどの隔たりがあります。それを「1冊何点」というふうに機械的に配点して、その多寡を比較しても意味がないといったら意味がない。言われてはじめて気がついた。著作や論文は何冊何本書いたということよりも、学術の歴史の中で、どのような地位を占めることになるのかというもっと長い時間的スパンの中で評価しなければほんとうの成果を見たことにはならない。

勤務考課についてもそうでした。考えてみたら、公正で客観的な考課ができる人なんか数が限られているわけです。同僚たちの日常の学務への貢献をきちんと評価できて、同僚たちから「あの人の下した評価なら信頼性がある」と思われている人に任せるしかない。でも、そんなフェアで目の行き届いたはだいたい研究者としても一流の仕事をこなしているし、すでに学長とか学部長とかになっているわけですよ。ただでさえ学務に忙しいそういう方々にさらにピアレビューの仕事を押しつけてしまった。でも、そんな格付け作業なんか、いくらやっても大学全体としての研究教育のアウトカムは少しも増えるわけじゃないんです。むしろこれらの「仕事ができる人たち」の研究教育学務のための時間を削るだけだった。

 やってみてはじめて知ったのは、成果主義がどれほど膨大な「評価コスト」を要求するかということでした。それを事前にはまったく想定していませんでした。それに、単一の「ものさし」で教員たちを一律に格付けしてみても、それで全体のアクティヴィティが高まるということはまったく起こらないということにも気がつかなかった。アクティヴィティの高い先生たちは、考課して点数なんかつけなくても、やることはやるし、研究も教育も学務ももともと手抜きという教員たちは、低い評価をつけても別に何の反省もするわけじゃない。ただ「こんな評価システムには何の意味もない」と怒るだけです。ただそれだけのことでした。

教員評価に要した膨大な評価コストはもともとアクティヴィティの高い教員たちにのしかかって、彼らの研究教育活動を妨げただけで終わってしまった。自分の「選択と集中」理論がどれほど愚かしいものであったかをそのときに気づきました。以後、「ああいうこと」をやってはいけませんということをお知らせするために、こうやって全国行脚をしているわけです(笑)。成果主義は絶対にやってはいけません。大学における成果主義は何一つ良きものを生み出しません。

シラバスもそうです。あれも全く無駄な仕組みです。でも、シラバスを整備するために教員たちはやはり大変な作業量を費やしている。

シラバスというのは商品の仕様書です。缶詰や薬品についているスペックと同じものです。この商品には何が含有されているか、効能は何か、賞味期限はいつまでか、それを消費者のために表記するものです。でも、学校の授業は乾電池や洗剤とは違います。授業というのは「なまもの」です。1年前に1年後にどんな授業をするのか事細かに書けと言われたって書けるはずがない。専門科目の場合、僕は自分がその日に話したいことを話す。でも、自分が1年後の何月何日にどんなことに興味を持っているのかなんかわかるはずがない。だから「人間について考える」とか「言語について考える」とか、そういうふうな漠然としたものしか書けない。

僕が教務部長だった頃に「シラバスをもっと精密に書くように」というお達しが文科省からありました。でも、僕は教授会で「そんなに詳しく書くことはありません」とつい口が滑ってしまった。そしたら、何も書かずにシラバスが白紙という人が出て来た(笑)。そしたら翌年、助成金が削られました。経理部長からは厭味を言われました。「内田先生のせいですよ」って。

僕はこの時猛然と怒りました。僕はシラバスは教育的に意味がないと判断したので、書かなくていいと言ったのです。別にそれは思い付きではなくFD委員長をしていたときの何年間かのアンケート結果を統計的に処理した結果、「授業満足度」と「シラバス通りに授業をしているか?」という問いの回答の間には有意な相関がないということがわかったからです。それ以外のことは「教員の板書はきれいか?」でも、「時間通りに授業を始めるか?」でも「授業満足度」との相関があった。数十の質問項目の中でたった一つ何の相関もないことがわかったのが「シラバス通りに授業をしているか?」という問いとの相関だった。だから、意味がないと僕は思ったのです。

文科省は「シラバスは教育効果がある」と思っているからそれを精密に書くことを大学に要求してきたわけでしょう。だったら、その根拠を示して欲しい。もし、文科省が「シラバスを精密に書き、シラバス通りに授業をすると教育効果が高まる」という統計的なエビデンスを持っているなら、それを示して欲しい。僕だって学者ですから、エビデンスを示されたら引っ込みます。こっちはせいぜいサンプル何千という程度のデータです。文科省が何十万かのサンプルに基づいて「シラバスの有用性」を証明してくれたら「すみません」と頭を下げます。でも、文科省はそうしないで、ただ助成金を削ってきた。

今はシラバスを英語で書けとか、同僚同士で他人のシラバスの出来不出来を査定しろとか、どんどん仕事量が増えていますけれど、そういうことにどのような教育効果があるのか。どんなデータがそれを証明しているのかについては何の情報も開示されていない。これはおかしいでしょう? ことは研究教育に関する話なんですから、研究教育の成果が上がったという実績があることを示した上で実施を求めて来るべきじゃないんですか? でも、文科省はエビデンスを示して、反論することをしないで、ただ金を削っただけでした。これは文科省の方がおかしいと僕は思います。反論しないで代わりに金を削るというのは「人間は条理によってではなく、金で動く」という人間観を文科省自身が開示したということですから。大学人であっても、「やれば金をやる。やらなければ金をやらない」と言えば、したくないことでも、明らかに無意味に思われることでもやる。文科省は人間というのは「その程度のものだ」と思っている。思っているどころか、人間は「そうあるべきだ」と告知している。

仮にも文科省は国民教育を専管する省庁でしょう。そこが「人間は条理ではなく、金で動く」というような人間観を披歴して恬として恥じないというのは、どういうわけです。僕は教育活動は効果があることが経験的に知られているものを行う方がいいと思っているので、そう言った。それに対して教育効果があろうとあるまいと、「お上」の言うことに黙って従え、従わないものには「金をやらない」と文科省は回答してきた。これは事大主義と拝金主義が「日本国民のあるべき姿」だと彼らが信じているというふうに解釈する以外にない。

先ほども言いましたけれど、日本の教育政策が全部失敗しているという指摘に対して、「それは違う」と文科省が思うなら、きちんと論拠を挙げてForeign AffairsなりNatureなりに反論して、国際社会に対して日本の教育について大きな誤解があるようだが、これは間違いであるということを大声でアナウンスすべきでしょう。反論は簡単です。現に日本の学校教育はこんなふうに成功して、高い成果を上げているという誰もがぐうの音も出ないエビデンスを示せばいいのです。でも、そういう反論はまったくなされていない。

もう一度申し上げますけれど、学校教育というのはビジネスじゃありません。お金のためにやっているわけじゃない。だから、教育内容に対して「こうすれば金をやる。従わなければ金をやらない」というようなかたちで干渉することは絶対に許してはいけないんです。建学者たちが何をめざして教育を始めたか、その原点を思い出してください。マーケットのニーズがあったので、消費者たちに選好されそうな教育プログラムを差し出したわけじゃありません。「教えたい」という気持ちがまずあって、その熱情に感応して「学びたい」という人が出現してきたのです。教育というのはそういう生成的な営みなわけです。「教えたい」という人と「学びたい」という人が出会うことによって、その場で創造されてゆくものです。その一番基本的なことがビジネスの言葉づかいで教育を語る人たちには理解できない。

もちろん一流のビジネスマンだったら、ニーズのないところにニーズを創り出すのが創造的なビジネスだということを知っているはずです。映画だって、自動車だって、電話だって、飛行機だって、パソコンだって、市場にまず「こういう商品が欲しい」というニーズがあって、それに応じて商品が開発されたわけじゃない。誰も思いつかなかった商品を提示してみせたら、「それこそ私が久しく求めていたものだ」とみんなが感じて、巨大な市場が生まれた。ニーズがまずあって、それを充足させるような商品やサービスを提供するのがリアルなビジネスだというふうに思っているのは、悪いけれど、二流三流のビジネスマンです。ある程度世の中がわかっていれば、「ニーズのないところにニーズを創造する」のがビジネスの真髄だということは知っているはずなんです。でも、それがわからない人たちが「民間ではありえない」というようなことお門違いなことを言って、学校教育に干渉してくる。そういう学校教育の本質を理解していない人たちが、まことに残念ながら、現在も学校教育、教育行政を司り、学校教育についての政策を起案し、実施しているわけです。ですから、もうあまりわれわれには時間が残されていないんです。仲野徹先生によれば、あと10年です。それまでに学校教育をまともな方向に転換させなければならない。

どうやって方向転換したら良いのか。一気に変えることはできません。残り時間は少ないけれど、できるところから一つ一つやるしかない。一気に全部を変えるというのはだいたいろくなことになりませんから。とにかく30年かけてここまで悪くした仕組みですから、復元するにしても30年かける覚悟が要る。

一つは、とにかく学校をある程度以上の規模にしてはいけないということです。小規模のものにとどめる。教える側からの「教えたい」という働きかけに「学びたい」という人たちが呼応してくるというダイナミックな生成のプロセスの中に巻き込むというようなことは、規模としてはせいぜい数百人が上限だと思います。それ以上大きくなると、管理部門が必要になってきます。研究にも教育にも関係がない部署ですけれど、それがないと組織が回らなくなる。そして、管理部門は必ず肥大化する。これは避けがたいんです。別にそこで働いている人にそういう意図があるわけじゃないんです。意図がなくても、放っておけば管理部門は自己肥大する。そして、組織そのものを「巨大な管理部門が存在しないと機能しないようなもの」に変えてしまう。管理部門に権力も財貨も情報も集中させて、管理部門の許諾を得ないと何一つできないような硬直した組織が出来上がる。これは組織の生理ですから、止めることはできないのです。われわれにできるのは「巨大な管理部門がないと制御できないような大きな組織」にしない、ということだけです。

これから30年くらいの間に、日本各地の大学は淘汰が進むと思います。でも「マーケットは間違えないから、マーケットに委ねる」ということに合意してしまった以上、今さらこの流れは止められない。

ただ、今人口減によって各地で交通網の廃止や行政機構の統廃合が行われていますが、統廃合に強い抵抗を示しているのが学校と医療機関であることには目を止めた方がいいと思います。もう人口が減って、需要がない、開業しても採算が取れないとわかっていても、教育機関と医療機関は統廃合にかなり頑強に抵抗する。この二つはマーケットの要請に対して鈍感なのです。

それも当たり前で、教育機関と医療機関は貨幣や市場経済や株式会社が存在するよりはるか前から存在していたからです。人類史の黎明期から、今から数万年前から、学校の原型、病院の原型は存在していた。どちらも人間が集団として生きてゆくためになくてはならないものだからです。

集団が存続するためには、年長者は集団の若い構成員たちに、「生き延びるための術」を教えました。子どもたちの成熟を支援した。そうしなければ集団は亡びてしまうからです。病んでいる人、傷ついている人を癒すことを本務とする人はどんな時代のどんな集団にも必ずいた。そういう人たちいなければ、やはり集団は亡びてしまったから。

どんな時代でも、教育と医療に携わる人たちは存在した。市場がどうだとか、ニーズがどうだとか、費用対効果がどうだとかいうようなレベルとは違うレベルで「そういうものがなくてはならない」ということについて、われわれは人類史的な確信を持っている。だから、「金にならないから、病人を治療するのを止める」「ニーズがないから、教えるのを止める」というような発想は出てこないのです。

それに加えて、ミッションスクールの場合は宗教が関与してきます。そのせいでふつうの教育機関よりもさらに惰性が強く、抵抗力が強いのだと思います。社会がどう変わっても、政治体制や経済体制がどう変わっても、こういうものは簡単には変わりません。それは、先ほど挙げた教育、医療に加えて、宗教と司法もまた人類史の黎明期から存在した太古的な社会的機能だからです。こういう仕事に就く人には、ある種の固有の「エートス」があると僕は思っています。「なくては済まされない職業」ですから、歴史的な条件がどう変わろうと、「この職業に就きたい」と思う人たちが必ず一定数は出てくる。

人間集団が存続するために絶対に必要な四つの「柱」があると僕は思っています。教育、医療、司法、宗教、この四つです。学び、癒し、裁き、祈りという四つが集団が存続するためになくてはならない四つの基本動作です。集団の若い成員たちに生き延びるための術を教えること、病み傷ついた人を癒すこと、正義を執行すること、死者を悼むこと。この四つの機能はどのような集団であれ、集団が集団として持続するためにはなくては済まされないものです。それに比べたら、市場経済だとか商品だとか貨幣だとかいうものは、あってもなくてもどうでもいいものです。

はるか太古の人間集団がどういうものだったか想像すれば、わかるはずです。集団の若い成員たちの成熟を支援するのは、集団が生き延びるためです。別に若者たちを査定したり、格付けしたり、選別したりするために教育をしたわけじゃない。生き延びるための術を教えておかないと、死んでしまうから教育したのです。狩猟で暮らしている集団なら狩りの仕方を、農耕で暮らしている集団であれば植物の育て方を、漁労で暮らしている集団なら魚の取り方を教えた。生きる術をきちんと伝えておかないと、彼らが飢えて死んでしまうからです。

だから、「大人たち」が「子どもたち」に向けて教育を行う。教育の主体は複数ですし、教育の受け手も複数です。なぜ教育を行うのか、それは共同体の存続のためです。教育の受益者は個人ではなく、集団そのものなのです。

市場経済の原理で教育を語る人たちには、このところがわかっていない。彼らは教育というのをある種の「商品」だと思っている。そこでやりとりされている知識や技術や情報を、自動車や洋服と同じようなものだと思っている。欲しい人が金を出して買う。金がたくさんあれば、よい商品が買える。金がない人はあきらめる。それが当然だと思っている。たしかに、「自動車が欲しい」という人が「あの自動車が欲しいので、税金で買って僕にください」と行政に頼み込むということはありえません。それは自動車を所有することの受益者が個人だからです。でも、教育は違います。教育の受益者は集団全体です。だから、集団的に教育事業は行わなければならない。だから、「義務教育」なのです。大人たちには子どもを教育する義務がある。そうしないと集団が存続できないから。

市場原理で教育を考える人はどうしてもこの理路が理解できない。それは彼らが教育の受益者は個人だと思っているからです。個人が学校に通って、それなりの授業料を払い、学習努力するのは、その成果として、有用な知識や技能や資格や免許を手に入れて、それによって自己利益を増大するためだと思っている。それなら、確かに学校教育にかかるコストは受益者負担すべきものです。金があるものが学校教育を受ける。ないものは受けない。それがフェアだという話になる。

公教育に税金を投じるべきではないと本気で思っている人たちがいる。これは昔からいたのです。アメリカの「リバタリアン」というのがそうですね。彼らは公教育への税金支出に反対します。人間は一人で立つべきであって、誰にも依存すべきではない。勉強して、資格や免状が欲しいなら、まず働いて学資を稼いで、それから学校に行けばいいと考える。だから、公教育への税金の投入に反対する。

同じようなことを思っている人はもう日本にも結構います。教育への公的支出のGDP比率が先進国最低だということは先ほど申し上げましたけれど、それはこういう考え方をする人が日本の指導層の中にどんどん増えているということです。彼らは教育の受益者は個人であるから、教育活動に公的な支援は要らないと考えている。口に出して言うと角が立ちますから大声では言いませんけれど、内心ではそう思っている。消費者たちが求める「個人の自己利益を増大させる可能性の高い教育プログラム」(これを「実学」と称しているわけですが)を提示できた教育機関だけが生き残って、「市場のニーズに合わない」教育プログラムしか提示できなかった学校は「倒産」すればいいと思っている。これは大声で公言してはばからない。

でも、そんなことをして共同体は維持できるのか。僕はそれを懸念しているのです。何度でも言いますけれど、教育事業の受益者は個人ではなくて、集団全体です。次世代の市民的成熟を支援しなければ、集団がもたない。教育する主体は「大人たち」全員であり、教育を受ける主体は「子どもたち」全員です。大人たちはあらゆる機会をとらえて子どもたちの成熟を促すことを義務づけられている。

日本の場合、大学の75%が私学です。つまり、国ではなく、個人としての建学者がいて、固有の建学の理念があって、それを教育実践を通じて実現しようとした。「教えたい」という人たちがいて、「学びたい」という若者たちが集まってきた。私学の場合には、その建学の原風景というものを比較的容易に想像することができます。時代が経っても、建学者の「顔」が見える。それが私学の一番良い点だと思います。

僕は30年ほど大学の教員をして、退職してから神戸市内に凱風館という1階が道場で2回が自宅という建物を建てました。自宅ですから、私費を投じるのは当たり前ですけれど、身銭を切って学びの場を作ったのです。別に市場のニーズがあったからではありません。もちろん、それ以前から門人はいましたから、彼らは道場ができて喜んではくれましたけれど。とにかく自分が教えたいことがあるから、身銭を切って道場を建てた。稽古したい人たちが1年365日、好きなだけ稽古ができる場をまず建てて、それを公共のものとして提供した。そこで門人たちが日々修業している。それは僕が僕の師匠から継承した武道の思想と技芸を伝えていく使命感を感じたからです。自分が先人から学んだことを、次世代に伝えなければならないと思っているから、学舎を建てた。

僕の周りでも私塾を始めた人たちがたくさんいます。平川克美、名越康文、茂木健一郎、釈徹宗、鷲田清一・・・何人もがやはり身銭を切って私塾を始めています。みんな明治時代に日本に私学ができた時の原風景をもう一度思い出して欲しいと思っているのかも知れません。

僕の道場は今門人が350人います。でも、これがもう上限だろうと思います。この程度のサイズでしたら、マーケットもニーズも関係ない。僕が自腹を切れば、学びの場を建設し、管理運営することができる。門人が一時的にゼロになっても僕がやせ我慢をすれば道場を閉めずに済む。それくらいの低いランニングコストでないと、ほんとうにやりたいことは持続するのが難しいだろうと僕は思います。これは今の市場原理による学校教育のあり方に対する僕からのアンチテーゼです。こういうことだってできるということをかたちで示したい。

今日本はピークアウトして長期低落期に入っています。これ以上ひどいことにならないうちに、できるところから何とか手当をしなければいけない。一人一人がそう考えて、できる範囲で崩れてゆくものを押しとどめ、失敗を補正してゆけば、破局的な事態は少しずつ先送りできると思います。

それでもいまだに経済成長とか成長戦略とかいう虚しいことを言っている人たちがいます。五輪とか万博とかカジノとかリニア新幹線とか、古いタイプの産業社会のモデルにまだこだわって、「選択と集中」で起死回生を願っている人たちがまだまだ多くいますけれど、それは貴重な国民資源をどぶに捨てるような結果にしかなりません。

日本の国力がピークアウトしたのは2005年です。何の年か覚えていますか。2005年というのは小泉内閣の時です。その時、安保理の常任理事国に立候補したけれど、アジア諸国の支持を集めることに失敗して常任理事国入りを果たせなかったのです。共同提案国になってくれたアジアの国はアフガニスタン、ブータン、モルジブの三国だけでした。

すでにバブル経済は崩壊した後で、日本経済は失速しており、ここで政治大国として国際社会に存在感を示すというのがいわば最後の賭けだったのですが、それがはなばなしく挫折した。これはけっこう大きな歴史的転換点だったと思います。国際社会から日本への期待というのがどれほど低いのか、それが骨身にしみてわかった。これが大きかったと思います。世界的な政治大国だと思っていた自尊心を深く傷つけられた。それからですね、日本がおかしくなってきたのは。

それから12年が経った。もうずっと長期低落局面です。でもまだ「負けしろ」はあります。まだまだ日本は豊かです。温帯モンスーンの豊かな自然に恵まれ、社会的インフラは整備されているし、治安も良いし、観光資源もあるし、食文化もエンターテインメントも高い水準を誇っている。国民資源を見たら世界有数のストックがあります。たしかにフローのレベルでは勢いが落ちているけれども、ストックは豊かです。だから、この豊かなストックをどうやって生かすか、どう使い回すか、それが問題です。

大学だって数が多すぎると言われていますけれど、高等教育機関が多すぎるというのは、よく考えたらすごいことなのですよ。研究者がいて、教員がいて、教室があって、研究設備があって、図書館があって、体育館があって、緑地があって、プールがあって、宿泊施設があって・・・これだけの教育資源がある。単年度の志願者と募集定員の需給関係で考えるから「多すぎる」と判定されますけれど、長期的に見れば貴重な資源です。これをニーズがないからと言って、駐車場にするとか、スーパーに売るとかいうのはあまりにもったいない。他にどういうふうに活用できるのか、それを考えるべきなんでだと思います。

日本がこれ以上崩れないように、どこかでターニングポイントを迎えることができるように、発想を切り替えないといけないと思います。僕に何か特別な知恵があるわけではありません。とにかく「衆知を集めて」対話する、みんなで知恵を出し合ってゆきましょうということに尽きると思います。

今日は学校教育の危機的現実を直視した上で、どうすれば次世代の人たちに生きる知恵と力を与える学びの場を確保できるのか、それについてみんなで知恵を絞りましょうという話を致しました。僕も微力ながら一所懸命知恵を絞り、一臂の力をお貸したいと思っております。皆さん方のご健闘を祈念しております。ご清聴、ありがとうございました。


54. 中川隆[-6544] koaQ7Jey 2017年9月01日 16:39:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

琉球新報主宰「琉球フォーラム」での講演 (内田樹の研究室) 2015年07月13日


●すでに腐臭を発しはじめた大学


皆、言いたがらないけど(マスメディアと同様に)大学もそうです。
ビジネスモデルとしては、もう末期的です。

高校生を相手に講演するときに言うのは、

「昔は大学進学先を決めるときには、自分の偏差値と行きたい学校の偏差値を見比べて、あとは住みたい街はどこかとか、学費はいくらかとか、そういう条件を考えて進学先を決めたものだけれども、今は違う。

君たちが大学を選ぶ時の最優先の基準は『卒業した後もその大学が残っているかどうか』だ」って。

卒業して何年かして「どこのご卒業ですか?」って訊かれて大学名を言っても、誰も知らない、もう存在しない、そういうケースがこれから多発します。

定員割れの学科を抱えている大学はすでに全体の50%に達しました。
教育予算も年々削られている。

国公立大学はこれからさらに縮小を強いられる。理系に予算を集めて、人文系の学部学科はどんどん潰される。その結果、さらに学術的な生産力が下がる。

日本の大学の論文数はかつてはアメリカに次いでいましたけれど、2002年から下がり始め、その勢いが止まりません。

中国に抜かれ、イギリスに抜かれ、ドイツにも抜かれました。学術的生産活動性の指標である人口当たりの論文数はOECD最下位です。韓国より台湾よりも下なんです。20世紀の終わり頃、日本の教育は東アジア最高レベルでした。それがわずか20年で、先進国最低レベルにまで落ちた。

システムが崩れる時って早いんです。腐ったシステムが崩れだすと、もう止められない。「選択と集中」の原理に基づいて、今は理系に教育資源を集めようとしてますけど、これは必ず失敗します。

少し前に韓国がそれをやりました。グローバル資本主義に最適化した学術領域に教育資源を集中させた。人文系の学部の予算を削った。

だから最初に進学者がいなくなったのは、韓国語学、韓国文学、韓国史学でした。自国の言語も、文学も、歴史も知らない、興味がないという子どもたちにしか出世のチャンスがない、そういう教育システムを作った。

そういう子どもたちが将来どういうエリートになるのか。少なくとも自国のため、同胞のために活動する意欲はきわめて低い人たちばかりがエリート層を形成することでしょう。

同じことは日本でももう起きていると思います。「金になるか、ならないか」だけを基準に教育資源を傾斜配分してきた結果、この15年間で日本の学術的生産力は劇的に低下した。

これは動かしようのない統計的事実です。でも、文科省はその事実を認めようとしない。認めないどころか、絶対に失敗することが確実な教育政策をさらに強化しようとしている。

地方の国公立大学は遠からず統廃合されてゆくことになると思います。となると、いずれ無大学県が出てくる可能性もある。

僕は日本の大学についても大学生の頃から40年間間近で観察していますけれども、もう末期だということは実感しています。もう腐臭を発している。大学に限らず、日本社会のさまざまな仕組みが同時多発的に壊れ始めている。
http://blog.tatsuru.com/2015/07/13_1100.php  



55. 中川隆[-6490] koaQ7Jey 2017年9月06日 19:28:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「美意識が低い」日本の受験エリート達の末路
オウム真理教が体現する、受験エリートの闇
山口 周 : コーン・フェリー・ヘイグループ 2017年08月31日
http://toyokeizai.net/articles/-/186380

世界のトップエリートたちは現在、必死に美意識を鍛えています。一方、日本では偏差値は高いが美意識が低く、それが看過できない問題の元凶になっているようです(撮影:今井康一)

現在、世界のエリートは必死になって「美意識」を鍛えています。グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む、ニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、こけおどしの教養を身に付けるためではありません。彼らは極めて功利的な目的で、「美意識」を鍛えているのです。

なぜならば、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足を置いた経営、いわばサイエンス重視の意思決定では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです。

「偏差値は高いが美意識は低い」エリートたち

一方、残念ながら現在の日本企業の多くは、経営にかかわる人たちの美意識がほとんど問われません。すなわち、日本のエリート組織の多くは「偏差値は高いが美意識は低い」という状態で、計測可能な指標だけをひたすら伸ばしていく、一種のゲームのような状態に陥っています。ここでは「真・善・美」が問われず、それが、DeNAのコンプガチャやWELQ問題をはじめとして、続発する企業のコンプライアンス違反の元凶になっています。

「偏差値は高いが美意識は低い」という問題の闇を語るうえで避けては通れないのは、オウム真理教です。この宗教集団の特徴の一つとして、幹部が極めて高学歴の人間によって占められていた、という点が挙げられます。有罪判決を受けたオウム真理教幹部のリストを並べてみると、東大医学部を筆頭に、おそらく平均の偏差値が70を超えるのではないかというくらい、高学歴の人物を幹部に据えていたことがわかります。

地下鉄サリン事件が世間を震撼させたとき、これらの名だたる有名大学を卒業したエリートたちが、なぜあのように邪悪で愚かな営みに手を染めたのか、ということがしきりにワイドショーなどで騒がれました。しかし私は、当初からこの問いの立て方はポイントを外していると思っていました。


ワイドショーのコメンテーターに言わせれば、オウムの幹部連中は、受験エリートである「にもかかわらず」、愚かで邪悪な宗教に帰依した、つまり二つの事実を整合性の取れないものとして逆接でつないだわけですが、私は逆に、彼らがまさに受験エリートである「からこそ」、オウム真理教に帰依していったのだろうと思っていました。

その理由は、オウム真理教が提唱していた奇妙な位階システムにあります。オウム真理教では、修行のステージが、小乗から大乗、大乗から金剛乗へと上がっていくという非常に単純でわかりやすい階層を提示したうえで、教祖の主張する修行を行えば、あっという間に階層を上りきって解脱することができる、と語られていました。

これはまさに、オウム真理教に帰依していった受験エリートたちが、かつて塾で言われていたのと同じことです。オウム真理教幹部の多くが、事件の後になんらかの手記や回想録を著しています。これらを読むと、彼らのほとんどが、大学を出た後に社会に出たものの、世の中の理不尽さや不条理さに傷つき、憤り、絶望して、オウム真理教に傾斜していったことがわかります。

オウム真理教における「著しい美の欠如」

このように、わかりやすい位階システム、つまり強く「サイエンス」が支配している組織において、どのように「アート」が取り扱われていたのか。オウム真理教における「アート」について、小説家の宮内勝典氏は著書『善悪の彼岸へ』の中で、次のように指摘しています。

オウムシスターズの舞いを見たとき、あまりの下手さに驚いた。素人以下のレベルだった。呆気にとられながら、これは笑って見過ごせない大切なことだ、という気がしてならなかった。オウムの記者会見のとき、背後に映し出されるマンダラがあまりにも稚拙すぎることが、無意識のままずっと心にひっかかっていたからだ。(中略)

麻原彰晃の著作、オウム真理教のメディア表現に通底している特徴を端的に言えば、「美」がないということに尽きるだろう。出家者たちの集う僧院であるはずのサティアンが、美意識などかけらもない工場のような建物であったことを思い出してほしい。

偏差値教育しか受けてこなかった世代は、あれほど美意識や心性の欠落した麻原の本を読んで、なんら違和感もなく、階層性ばかりを強調する一見論理的な教義に同調してしまったのだ。後にオウムの信者たちと語りあって、かれらがまったくと言っていいほど文学書に親しんでいなかったことに気づかされた。かれらは「美」を知らない。仏教のなかに鳴り響いている音色を聴きとることができない。言葉の微妙なニュアンスを汲みとり、真贋を見ぬいていく能力も、洞察力もなかった。

宮内勝典『善悪の彼岸へ』


宮内氏のこれらの指摘をまとめれば、オウム真理教という組織の特徴は、「極端な美意識の欠如」と「極端な階層性」ということになります。これを本書の枠組みで説明すれば、アートとサイエンスのバランスが、極端にサイエンス側に振れた組織であったと言い換えることができます。


情緒や感性を育む機会を与えられず、受験勉強に勝ち残った偏差値エリートたち。彼らは、いわば「極端に単純化された階層性への適応者」でした。極端に単純化されたシステムの中であれば、安心して輝いていられる人たち。

しかし、実際の社会は不条理と不合理に満ちており、そこでは「清濁併せ呑む」バランス感覚が必要になります。彼らはそのような社会にうまく適応できず、オウム真理教へと傾斜し、やがて外界をマーヤー(幻)として消去させようとしました。

さて、ここまで、オウム真理教という、かつて日本を震撼させた新興宗教集団の特徴について考察してきましたが、読者の皆さんは、なぜビジネスとはまったく関係のないカルト教団の話をしているんだろう?と思われたかもしれません。

しかし、私は、宮内氏が指摘した「美意識の欠如」と「極端なシステム志向」というオウム真理教という組織の特徴が、ある種の組織と非常に類似している点に以前から引っかかっていました。

戦略コンサル、新興ベンチャーとの類似点

「業界の特性」ということでひっくるめられると迷惑だという反論もあるかと思いますが、あえて名指しで、オウム真理教と類似しているなと筆者が感じる二つの業界を挙げるとすれば、それは戦略系コンサルティング業界と新興ベンチャー業界ということになります。

私が電通を退職して米国の戦略系コンサルティングの会社に転職したのは2002年のことです。オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたのは1995年のことで、私はこの事件をきっかけにしてカルト教団に興味を持ち、研究をするようになったのですが、2002年に戦略コンサルティングの会社に転職し、昇進や評価のシステムに関する説明を入社時研修で受けた際に、すぐに「この組織はオウムの仕組みとそっくりだな」と感じたことを、よく覚えています。

いくつかの具体例を挙げて説明してみましょう。たとえば、極端に階層的でシステマティックである、という側面です。通常の企業ではだいたい8〜9程度の等級が設定されていることが多いのですが、コンサルティング会社には基本的に4階層しかありません。新卒で入るとアナリストになり、やがて中堅のアソシエイトへと昇格し、その中のごく一部がさらにマネジャーへと昇進し、さらに選び抜かれた人が最終的にはパートナーになるという、極めてシンプルな仕組みです。


最近ではさまざまな組織で「多様性」が大きなテーマになり、その要請を受けて複数のキャリアのハシゴを用意する、いわゆる「複線型人事等級制度」の導入が進んでいますが、戦略コンサルティングの業界というのはその真逆で、極めて単線的かつ階層の明確な等級制度になっているわけです。

その階層性の明確さがはっきりと表れているのが報酬制度です。ざっくりとまとめれば、戦略系コンサルティング会社での報酬水準は、一階層上がるごとに倍になります。つまり新卒を1にすれば、中堅は2、マネジャーは4、パートナーが8ということになります。一般的な企業の昇給水準が数%程度であることを考えると、各ステップに100%の階差があるというのはちょっと驚きですが、これも階層性を明確にするための一つの要因となっています。

昇進のためには「生産性」だけが問われる

そしてさらに、ここが非常に重要なポイントなのですが、「何ができれば階層を上がれるか、どうすれば上がれるか」が非常に明確です。昇進の条件は極めてメカニカルなもので、人望や見識といった情緒的な側面はほとんど含まれません。具体的な説明は守秘義務があるので割愛しますが、大まかに説明すれば、コンサルティングに求められる全般的なスキルの項目に対して、どれくらいの充足度があるかによって判定されるという考え方で、一言で言えば「生産性」だけが問われ、人望や美意識は問われない、ということです。

こういったわかりやすい階層性、どうすれば上に行けるのかが明確なシステムは、前述したオウム真理教の仕組みと非常に類似しているんですね。

オウム真理教の教祖だった麻原彰晃が、弟子に対して語った講話の記録が残っているのですが、これを読んでみると非常に興味深い。というのも、麻原はことあるごとに「小乗、大乗、金剛乗」の3ステージを示し、どのような修行をすればこのステージを駆け上がっていけるかを繰り返し帰依者に訴えているのですが、これはコンサルティングファームの上級役員の語り口と非常に似ています。

同様のわかりやすさは新興ベンチャー企業においても見られます。そこで問われるのは見識や人望ではなく「早く結果を出すこと」でしかありません。以前、DeNAが主催した投資家向けの説明会に参加させてもらったことがあるのですが、事業の起案や投資に関する意思決定は徹頭徹尾、経済的な側面に基づいており、事業の意義やビジョンについては「それが経済的利益に結びつくと考えられる際には作成されるだけで、別に必要ない」とのコメントに慄然(りつぜん)とさせられたことがあります。

システムとしてわかりやすいと言えば、これ以上にわかりやすい仕組みはないわけで、とにかく結果さえ出せれば、大手企業に勤めている人が数十年かけて上るようなキャリアの階段を、数年で一挙に駆け上がって高額の報酬を得ることができる仕組みになっているわけです。


さらに指摘すれば、一見すると人材の交流があまりないように思われる「戦略コンサルティング業界」と「新興ベンチャー業界」ですが、昨今では「新卒で戦略コンサルティング会社に入り、途中から新興ベンチャー企業に転職する」というのは一つのキャリアパターンになりつつあります。

たとえば、DeNAの創業メンバーのほとんどが、戦略コンサルティング会社の出身者であったことを思い返せば、これらの業界に集まる人たちに共通する「思考の様式」がおわかりいただけると思います。その思考様式とはつまり「社会というシステムの是非を問わず、そのシステムの中で高い得点を取ることだけにしか興味がない」という考え方です。

「システムによく適応する」≠「よりよい人生」


『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』(光文社)。
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4334039960/asyuracom-22


ここにこそ「エリートこそ美意識を鍛えるべきである」というアイデアの根幹につながる問題があります。エリートというのはシステムに対して最高度の適応力を持っている人たちです。この「システムへの適応力」こそが、彼らをエリートたらしめているわけですが、ここに問題がある。「システムによく適応する」ということと「よりよい生を営む」というのは、まったく違うことだからです。

多くのエリートは、システムに適応し、より早く組織の階段を駆け上がって、高い地位と年収を手にすることを「よりよい人生」だと考えています。しかし、そのような志向の行き着く先には、多くの場合、破綻が待ち受けていることになります。

わかりやすいシステムを一種のゲームとして与えられ、それを上手にこなせばどんどん年収も地位も上がっていくというとき、システムに適応し、言うなればハムスターのようにカラカラとシステムの歯車を回している自分を、より高い次元から俯瞰的に眺める。そのようなメタ認知の能力を獲得し、自分の「ありさま」について、システム内の評価とは別のモノサシで評価するためにも「美意識」が求められる、ということです。


56. 中川隆[-6400] koaQ7Jey 2017年9月30日 00:25:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

三浦朱門 「ゆとり教育」の本旨


「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っていてくれればいい」

「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」

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「ゆとり教育」とセットで日本語も理解できない小学生に英語を習わせるとか、頭おかしいよね


中3の15%、短文も理解困難 教科書や新聞で読解力調査 2017年9月23日 朝刊


中高生の読解力測定について話す国立情報学研究所の新井紀子教授=22日、東京都千代田区で

 短い文章から事実を正しく理解する「基礎的読解力」について、国立情報学研究所の新井紀子教授や名古屋大学などのグループが、全国の小中高校生や大学生、社会人らを調べたところ、多くの中学生の読解力に問題があることが分かった。中学卒業までの読解力が将来に影響するという。


 調査では、中学や高校の教科書や、東京新聞などに掲載された記事など数百の題材をもとに問題を作り、コンピューターで無作為に出題した。


 三十分間でできるだけ多く解いてもらい、内容を正しく把握できているかを調べた。昨年から今年にかけて、全国の約二万四千人に実施した。問題はすべて選択式で、文章の意味が分かれば、知識がなくても解ける。


 その結果、中学三年生の約15%は、主語が分からないなど、文章理解の第一段階もできていなかった。約半数が、推論や二つの文章の異同などを十分に理解していなかった。


 また、基礎的読解力は中学では学年が上がるにつれて緩やかに上昇するが、高校では上昇しなかった。高校の教科書が理解できず、力が伸びていない可能性があるという。基礎的読解力と進学できる高校の偏差値との間には、強い相関があった。


 新井教授は「基礎的な読みができていないと、運転免許など資格の筆記試験にも困難を伴うと予想される。中学卒業までに中学の教科書を読めるようにしなくてはならない」と話した。


 グループは今後も調査を継続し、基礎的読解力に困難を抱える子どもの早期発見や支援策の検討に役立てる。分かりやすい教科書作りなども提言していく。 (小椋由紀子、吉田薫)


紗栄子 2人の息子に「一歳おわりから英語教育」に林先生が異論
9/24(日) 21:42配信 デイリースポーツ


 タレント・紗栄子(30)が24日、TBS系で放送された「林先生が驚く初耳学」に出演。2年ぶりにテレビ出演を果たした。


 紗栄子は前夫でドジャースのダルビッシュ有(31)との間にもうけた長男(9)と次男(7)に、「1歳のおわりぐらいから」英語教育をしている、と教育ママぶりを明かしたが、予備校教師でタレントの林修氏から、“英語至上主義”にノーをつきつけられる展開となった。

 2人の息子はロンドンの名門校に入学するため、今月に入り、紗栄子と渡英。すでに無事に入学している。番組収録は渡英の数日前、今月7、8日ごろに行われたようだ。

 紗栄子は英語教育について「1歳の終わりぐらいからしてる。コミュニケーションツールとして、英語持ってるのは強いと思います」と熱弁。

しかし、幼児教育について「かなり研究している」と自負する林先生は

「子供に早期英語教育やらしてる東大出身の親に会ったことがない」

とバッサリ。


 ゲストの青山学院大陸上部長距離ブロック監督の原晋氏も

「世の中は英語ができたら全てができると勘違いしている」

と指摘し、林先生は

「日本社会はそこの物差しが狂ってる。もともと(本人)のスペックを高くしたら、英語はすぐにできるようになります」

と断言。数日に渡英を控えた紗栄子は「そうなの?!」と驚きの声を上げていた。

_________


2017年09月19日
日本を植民地にする簡単な方法 心を支配し服従させる

徳川幕府が行った踏み絵は、日本の植民地化を防ぐ役割があった。
引用:http://db.nichibun.ac.jp/region/d/GAI/info/GE017/item/198/image/thumb/0/thmb.001.jpeg


キリシタン弾圧の理由

その昔キリシタン弾圧というのがあり、キリシタンを捕まえては『踏み絵』をさせて、踏めない者は逆さ磔(はりつけ)などにしていました。

踏み絵というのはキリシタン容疑者を連行してきて、イエスとかマリアの絵を描いた板を地面に置き、踏ませる事でキリシタンではないと証明する事です。

多くの人は命が惜しいので形だけ踏んでこっそり信仰を続けたが、多くの信者から尊敬を集めている指導者はそうは行きません。

幕府は見せしめの為にリーダーに踏み絵をさせ、キリスト教の権威を失墜させようとするが、最後まで踏まない人は殉教者になります。

役人が無理やり押さえつけて踏ませようとするが、それでも頑として踏み絵を拒否した信者も居たとされています。

そこまでして徳川幕府がキリスト教を嫌った理由は、キリスト教の狙いが日本の植民地化にあると疑っていたからでした。


当時はアメリカ合衆国はまだなく、スペインやポルトガルの全盛期で、アメリカ大陸やアジア、アフリカを次々に植民地化していました。

植民地というとある日軍隊が乗り込んできて戦争になって征服するイメージですが、そういう単純な事は滅多に起きません。

植民地にしてやろうと狙っている国はまず、宗教家とか探検家、研究者や慈善家、商人など平和的な連中を送り込みます。


中でも宗教家つまりキリスト教宣教師は重要な役割を担っていて、原住民を精神的な隷属状態に置きます。

例えとしてアレだが、例えばフィリピンはスペインの植民地で、フィリピン人はキリスト教を信仰しています。

フィリピン人にとっての神様はキリストで、ローマやスペインの教会の神父とかが、宗教上のリーダーです。


軍隊に征服される前にフィリピン人はキリスト教に征服されてしまい、「ありがたやありがたや」と喜んで支配を受け入れたのです。

欧米の植民地になった多くの国がまず宗教的支配を受け、言語は西洋の言葉になり、西洋の価値観や資本主義を受け入れて行きました。

こうなるともう名目上は独立を保っていても、「植民地」以外の何物でもありません。


スイスが警戒する「国家乗っ取り」

スイスは永世中立国として有名だが、中立を保つのは日本の左翼が言うほど簡単ではありません。

中立を保つという事はいかなる大国が侵略してきても、全国民が玉砕覚悟で戦って、独立を保つという事です。

中立とは実は平和とは正反対で、非常に好戦的で戦争を厭わない覚悟が無い国にはできません。


スイスは人口837万人の小国に過ぎず、ここに例えば人口13億人の中国人と、14億人のインド人の0.1%が移住しただけで、25%を占めてしまいます。

隣りのドイツ人やフランス人が少し移住しただけでもう過半数が移住者になってしまい、あっけなく植民地になります。

スイスは国家乗っ取りを警戒し、乗っ取り防止マニュアルなるものも作成しています。


第一段階は政府の中枢に工作員を送り込む。最近ニュージーランドの国会議員に中国諜報部で訓練を受けたスパイが居るのが分かり、大騒ぎしています。

第二段階はマスコミを掌握し大衆を誘導する。フジテレビ、NHK、テレビ朝日などは韓国や中国に不都合なニュースを絶対に放送しないようにしています。

第三段階は教育に浸透し、国家意識を破壊する。「愛国心はナチズムや帝国主義だ」等というのが常套手段です。


第四段階は抵抗意識の破壊で、平和主義や平等などの概念を植えつける。心が弱い人間ほど「平和を支持します」などの言葉に弱い。

第五段階はメディアによって考える力を奪う。東京都民はなぜか、テレビで人気キャスターが褒めている候補者に投票し、自分で考えていません。

最終段階は狙った国の人々が無抵抗になったのを見計らい、大量に移住し植民地にする。


西洋帝国主義や中国王朝などは数千年に渡って、こうして狙った国を植民地にしてきました。
http://www.thutmosev.com/archives/72673897.html

絶対に移民流入や、多民族国家の動きは止まらない

しかし、それによって移民流入や、多民族国家の動きが頓挫するとは、絶対に考えない方がいい。

どんな問題が起きても、どんな激しい国民の抵抗が起きても、グローバル社会に参加した国家では、それが強引に行われていくことになる。

なぜなら、グローバル化していく社会の中で、国家という枠組みが邪魔になっており、今は「国家」という枠組みを取り壊そうとする動きが加速しているからである。

「自国文化を守ろう、自国の歴史を大切にしよう」という動きは、「保守」とは呼ばれず、「極右」とメディアによってレッテル貼りをされている。

世界中のメディアは、ナショナリズムを必ず「極右」として扱い、差別主義者と断定する。それはグローバル化を後退させる動きなので、「絶対に許されない思想」と認定して、封印されていく。

グローバル化を阻止する動きは、絶対に許されない。

多国籍企業、金融市場、巨大メディアは、グローバル化する社会の中で支配権を拡大していく過程にある。

世界を動かしているのは国民ではなく、多国籍企業、金融市場、巨大メディアである。そして、これらの企業の各オーナーたちである。

全員が揃って陰謀に荷担しているという見方もあるが、実際のところは、グローバル化した方が「より儲かる」というシンプルな原則によって突き動かされていると言った方がいい。

儲かるのなら、儲かる方向に向かって人は殺到していく。それが雪崩のような現象を引き起こす。

儲かるから、グローバル化が推し進められるのだ

グローバル化したら、世界のすべてが多国籍企業にとって市場になる。そうなれば、単純に儲かる。だから、多国籍企業はぶれることなくグローバル化を推し進める。

グローバル化したら、賃金の安い国で物を製造することができるようになる。そうなれば、コスト削減できる。そして、競争力が付いて、単純に儲かる。だから、多国籍企業はぶれることなくグローバル化を推し進める。

グローバル化したら、移民が大量に入ってきて、やはり低賃金で優秀な人材が雇えるようになる。そうなれば、またもやコスト削減ができる。だから、移民政策や、多文化主義は推進されるのだ。

貿易を行うに当たって、国をまたぐたびに関税を取られたら損をする。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。儲けのためには、関税を取る国家という存在が邪魔なのだ。

販売を行うに当たって、各国の違いに合わせて商品をローカライズするのは無駄なコストである。言語が英語か何かで統一できれば、ローカライズする手間がなくなる。だから、国がなくなればいいと考えるのが多国籍企業である。コストのためには国家という存在が邪魔なのである。

販売を行うに当たって、文化が違っているとやはりその国に合わせなければならないが、それも無駄なコストである。だから、移民を入れて、混ぜて、独自文化を薄めさせれば、文化に合わせる手間もなくなる。

だから、文化がなくなればいいと考えるのが多国籍企業でもある。移民は、その国の「独自の文化」を消すのに最良の方法なのだ。世の中は多極化しているのではない。逆だ。

ありとあらゆるものが、国家の消滅、国家の役割縮小、国家の無力化を目指している。上記以外にも、そんな動きは次々と動いている。

通貨が違っていれば、為替の変動というものに注意を払わなければならず、それは多国籍企業にとっては手間である。国家をブロック化するか、もしくは国家を消滅させれば為替も統一するので便利だ。だから多国籍企業は、通貨の統一を邪魔する国家という概念を消し去りたい。

巨大メディアも、言語・文化がどんどん統一されていけば、情報収集も、情報提供も、世論誘導もやりやすい。だから、グローバル化に乗るのは「得する」動きだ。そのために、言語・文化の守り手である国家を消滅させたい。

インターネットもまた、「情報」という分野で世界を統一しようとする動きである。インターネット企業は、世界がグローバル化すればするほど儲かる仕組みになっている。だから、国家間の情報遮断は許しがたいことであり、やはり国家という概念を消し去りたいと思っている。

グローバル化は、それを突き詰めると、世界が「ひとつ」になるということだ。世界が「ひとつ」というのは、要するに国家も、文化も、言語も、通貨も、すべてが「ひとつ」になるという意味である。

現在、そのような社会に向かっている。世界は多極化しているのではない。完全にその逆だ。

グローバル化の動きは、「ひとつ」になる動きだ。
国家のブロック化は、「ひとつ」になる動きだ。
多文化主義の動きは、「ひとつ」になる動きだ。
金融市場の国際化は、「ひとつ」になる動きだ。
移民促進の動きは、「ひとつ」になる動きだ。

グローバル化によって、逆に統一化されようと動いている。多極化しているというのは、単に政治の力学の話であって、世の中全体の動きではない。

多極化していると見せかけて、世の中はグローバル化によって「ひとつ」になろうとしているのである。

絶対に移民政策が止まらないのは、世界が「ひとつ」になるためだ。本当に、単純な話だ。そうすれば多国籍企業、金融市場、巨大メディアは儲かるのだ。


国家はどんどんブロック化していく。やがて「ひとつ」になる。


〓 この話題について、参考になる書籍・メディア
人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか
グローバル経済を学ぶ
グローバル化経済の転換点
フリーフォール グローバル経済はどこまで落ちるのか
ハーバードの「世界を動かす授業」
グローバル経済を動かす愚かな人々
世界財閥マップ—グローバル経済を動かすパワー総覧
グローバル経済と現代奴隷制
金融権力—グローバル経済とリスク・ビジネス
最新・経済地理学 グローバル経済と地域の優位性
つながりすぎたグローバル経済
世界経済の歴史 -グローバル経済史入門
Keisei Suzuki

http://www.bllackz.com/2013/10/blog-post_15.html?m=1





57. 中川隆[-6399] koaQ7Jey 2017年9月30日 00:32:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「ゆとり教育」とセットで日本語も理解できない小学生に英語を習わせるとか、頭おかしいよね


内田樹の研究室 2017.08.26 英語の未来

『中央公論』8月号が「英語一強時代 日本語は生き残るか」という特集を組んでいた。読みでのある特集だった。『日本語が亡びるとき』で問題提起をした水村美苗さんのインタビューが最初にあって、重要な指摘をしていた。

一つはイギリスのムスリムの女性学者ふたりが日本を訪れたときに水村さんに言った言葉。

「その時、彼女らが、

『日本では英語がまったく通じない。なんて気持ちのいい国なんでしょう』

と言うのです。日本においてはみなが日本語で通じ合い、英語で通じ合えることがリートのサインではない。英語ができる人が威張っており、収入もよく、社会の権力側に立つという構造になっていないと言うのです。

パキスタンでも、インドでも、それからブラッドフォードでも、英語が流暢か流暢でないかによって、階層が作り出されている。現に彼女たちの親は、その英語のアクセントで、たんに言葉が流暢ではないというという以上の意味をもって、差別されている。

 私は日本にはそういう構造の社会にだけはなってほしくないし、そうなるのを免れた歴史を大事にしてほしいと思うのです。世界を見回せば、インテリが読む言語は英語で、それ以外の人が読むのが現地語だという国がいかに多いことでしょう。」
(水村美苗「言語の植民地化に日本ほど無自覚な国はない」、『中央公論』2017年8月号、中央公論新社、28頁)

「私は最近いよいよごく少数を除けば、日本人は日本語が堪能であればよいのではないかと考えるようになっています。非西洋圏でここまで機能している言語を国語として持っている国は本当に珍しいのです。エリートも庶民も、全員当然のように日本語で読み書きしているという、この状況を守ること自体が、日本という国の使命ではないかとすら思います。」(同書、29頁)

前半の引用には私は全面的に賛成である。言語(それも会話時の発音)による階層差別をverbal distinction と言う。肌の色でなされる差別と構造的には同じである。口を開けば一瞬でその人が「自分たちの仲間であるかないか」が判定できる。
バーナード・ショーは(今日はショーさんの出番が多い)『ピグマリオン』(『マイ・フェア・レディ』のオリジナル戯曲)の冒頭で、口を開けば出身地や所属階層や学歴や職業までがわかってしまうイギリスの言語状況を嘆き、全員が所属階層にかかわりなく「美しい英語」を語る理想的な言語環境を望見するヘンリー・ヒギンズに演説を語らせる。

もちろん、そんなことは不可能なのであって、ヒギンズはすさまじいコックニー訛りで話すイライザが「王族のような英語」を語り出すと、彼女の言葉が指示する所属階層に(それが虚構と知りつつ)魅力を感じてしまうのである。

言葉による差別というのは、一度始まると止めることができない。

植民地というのは宗主国の言語をうまく話すことができる人間と、そうではない人間の間に乗り越え不能の階層差が生じる場所のことである。

水村さんが「植民地化」と言っているのは、そのことである。

第二の引用については、私は同意したいのだが、根拠がまだ不確かなのである。
ほんとうに外国語ができる人間は「ごく少数」でいいのか、わからないのである。
一つには私自身が「外国語を学ぶ」ことが大好きだからである。

私は中学生になって初めて英語と漢文を学んだけれど、この二つの「外国語」に同じくらい強く惹きつけられた。二つの科目の授業を心待ちにしていた。
それは外国語の有用性によってではない。

漢文の知識をいくら仕込んでも受験以外にそれを発揮する機会など現実にはほとんどない。

英語で会話したことも二十代後半まで一度もなかった(私が生まれてはじめて英語で会話をした相手は自由が丘道場に来たイギリスの青年で、彼に合気道の技を説明をしたのである)。

それでも外国語を学ぶことはつねに私を高揚させた。母語とは違う文法、違う語彙、違う音韻を通じて、母語的現実とは違う世界に触れることができるということが私を興奮させたのである。

そういうことが「好きだ」という子どもは一定の比率でいるはずである。それは決して「ごく少数」ではないという気がする。そして、どの子どもが外国語の習得を好むかを、外国語学習に先立って選別することはたぶんできないと思う。

ただ、ここに私がこれまでほとんど考えたことのない変化が生じてきた。それは自動翻訳の長足の進歩である。これについては特集の最後に置かれた専門家二人の対談が興味深かったので、それを紹介したい。

自動翻訳はいま三世代目に当たる。

第一世代は「ルールベース翻訳(RBMT:Rule-Based Machine Translation)」文法をプログラム化してコンピュータで動かす。難点は精度を上げようとすると規則の数がどんどん増えて管理が難しくなること。

第二世代が「統計翻訳(SMT: Statistical Machine Tranlation)。大量の対訳データを覚えさせて、ある文が何を意味するかを統計的に処理する(例えば「何で来たの?」という文が「交通手段」についての問いなのか、「理由」についての問いなのか、あるいは「帰れよ」という促しなのかを統計的に判断する)。

第三世代が「ニューラル翻訳(MMT: Neural Machine Translation)」。対訳データを大量に仕込むのだけれど、学習方法に「深層学習」というアルゴリズムを用いる。

今の機械翻訳はすでにTOEIC600点くらいのところまで来ていて、2020年には700点か800点に達する見込みだそうである。

これがスマートフォンに装着されると、日本語をしゃべると英語音声に翻訳されるということができる。『ドラえもん』の「ほんやくコンニャク」みたいなものである。

ニュアンスの難しい翻訳や文学の翻訳は人間の手に頼るしかないが、「平均的なこと、陳腐なことなら機械は得意です」(隅田栄一郎、内田麻理香、「英語を勉強しなくてもいい時代がやってくる?」、同書、64頁)。学術論文のようにフォーマットが決まっていて、かつ一意的であることが必須の文章の場合は自動翻訳で問題ないそうである。

自動翻訳の専門家である隅田はこう言う。

「翻訳者、通訳者、外交官などは英語を勉強しなきゃいけないと思います。そういう人たちって何%くらいでしょう。1%くらい? (…)だとすると、99%の人は中学校や高校で英語を勉強しなくてもいいじゃないかと思うんです。今や小学校でも英語を勉強することになっていますが、自動翻訳機械で代替できるという意味ではその必要はないのではないか。」(65頁)

もちろん「異文化教育」は必要だけれど、自動翻訳でコミュニケーションのハードルが下がれば異文化との接触機会はむしろ増す。

何よりも英語に投じていた学習リソースをそれ以外のものに振り向ければ子どもたちの知的なパフォーマンスは高まる可能性もある。

英語学習枠組みそのものが根本的に変わると予測されている時に、なぜか日本の教育行政は「小学校から英語を勉強させる」という、悪くすると10年も経たないうちにまったく無駄になる学習プログラム改革を膨大な手間暇をかけて実行しようとしている。

同じことは脱原発や電気自動車へのシフトなどの遅れにも見られる。

今が世界史的な変化のただ中であるということをまったく自覚しないで、10年前20年前の「常識」と「既得権益構造」に居着いている日本の政策決定者たちの脳内にどのような未来が見えているのか、私にはまったく理解の外である。
http://blog.tatsuru.com/


58. 中川隆[-6401] koaQ7Jey 2017年9月30日 08:23:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

甘い希望など持つな。貧困層の子供はもう抜け出せない現実


政治家の子供たちは大抵が政治家になっている。なぜか。政治家は儲かるからである。

金持ちの子供たちも大抵が金持ちである。遊び狂って財産を散財するだけの息子たちもいるが、こういった息子たちは、金があるから散財できる。

また金持ちの家庭の子供たちは高学歴が普通だ。なぜなら、子供の教育に金を出す余裕もあれば、安心して学業に励める快適な環境もあるからだ。親のコネや人脈で有名大学に入るルートもある。

現に、ハーバード大学やオックスフォード大学は世界各国の権力者の子弟を受け入れている。おまけに大学卒業後も、仕事や役職が約束されている。

端的に言うと、エリートや金持ちや権力者の子供たちというのは、最初から社会的な地位が用意されており、貧困家庭にはない多くのメリットを享受できる。

アメリカでは親の所得が高いほど子供の成績が良いのが確認されているが、その理由は言うまでもなく教育に最適な環境を整備できるからである。

子供が将来、社会的に成功しやすいかどうかというのは、本人の努力が問われる以前に、親の収入も影響する。世の中は公平ではない。それは冷徹な事実である。


極貧の家庭は、常に何らかのトラブルに追われる

これは別に社会学者が統計を出さなくても、普通の人ですら日常を観察してしみじみと思う現象でもある。

収入のある家庭では、子供にいろんな習い事をさせることができる。塾にも行かせることができるし、家庭教師を呼ぶこともできる。

また、親が精神的余裕も経済的余裕もあるので、子供に目をかけやすい。家族の団欒を持てたり、一緒に旅行ができたり、一緒に勉強したり遊んだりすることができる。

もちろん、すべての富裕層がそんな理想的な家庭ばかりではなく、それぞれ複雑な事情を抱えているのも事実だ。何の悩みもない家庭はひとつもない。

しかし一般的な比較で言うと、総じて富裕層は子供に最適な環境を与えることができる。それが、子供の能力を伸ばすので、富裕層の子供に社会的能力の高い子供が多いのは別におかしなことでも何でもない。

では、極貧の家庭で育つ子供たちはどうなのか。彼らは富裕層の子供たちが持つメリットは何もないだけでなく、大きなマイナスをも抱えている。

極貧の家庭は、常に何らかのトラブルに追い込まれている状態であると言ってもいい。親はストレスにまみれ、家庭そのものが破綻していることもある。

経済問題はありとあらゆる問題を先鋭化させるのだ。今を生きていくだけで精一杯であり、子供の教育などはすべて後回しにされる。

習い事をさせる余裕もない。塾や家庭教師など、とんでもない話である。義務教育が終われば、あとは一刻も早く社会に出て金を稼いで欲しいと考える家庭も多い。

そのように口に出して言わなくても、子供たちは親の貧窮ぶりを見て育っているので、悠長に教育を受けるよりも、さっさと社会に出て稼ごうと考える。

環境的に、低学歴で社会に出るしかない。

そうすると結局はそれが仇になって、低収入の仕事に甘んじるしかなくなっていく。もちろん、彼らに人脈やコネがあろうはずがなく、折に触れて助けてくれる人もいない。


貧困家庭に生まれたことから、すべてが始まっている

富裕層の子供たちが多くの良き助言者を持っているのに比して、貧困層の子供たちは多くの悪い友人を持っている。だから、マイナスの方向に引っ張られやすい。

そして、低学歴を余儀なくされた子供たちには、条件の良い仕事はあまりない。

低学歴でもできる収入の良い仕事というのは、極度に体力を使う仕事であったり、極度に危険な仕事であったり、反社会的なものであったりすることが多い。

その仕事に就いていること自体がトラブルの元になり、やがては自分の人生がトラブルによって潰される。しかし、そこから逃れられない。

良い仕事に就きたいと思っても、現実には低収入の仕事しかなく、将来の展望は見えてこない。

貧困家庭に生まれたことから、すべてが始まっている。「経済格差が遺伝する」というのは、こういった現象から言われているものだ。

日本は2000年代に入ってから、極度に格差が広がる社会になった。この「労働者使い捨て時代」に成人して社会に出た人々は今は30代から40代に入ろうとしている。

2017年、厚生労働省は20年間の国民生活基礎調査の家計所得を分析した結果を出した。

これによると「世帯主が40歳代の世帯では、単独世帯やひとり親世帯の増加で総所得が300万円未満の低所得世帯の割合が増加した」と報告している。

今「生活はやや苦しい、大変苦しい」が合わせて62.4%にまで増えた。

将来の展望もなく、低収入を余儀なくされているわけだから、結婚が激減して少子化が加速しても当然だ。しかし、それでも非正規労働のまま結婚し、将来の安定のない中で子供を持つ人たちも、もちろんいる。

重要なのは、こういった貧困を余儀なくされている人たちを社会が救済できなければ、彼らの子供たちもまた貧困層から抜け出せなくなる可能性があるということだ。


貧困層の子供はもう抜け出せない現実を知るべき

「6人に1人の子供が貧困状態にある」とはよく言われるようになっているのだが、この子供たちが助からない。貧困の子供たちを貧困のまま固定化させる現象が日本で生まれている。

2017年9月17日、総務省は65歳以上の高齢者人口が総人口の27.7%になったと報告した。そして90歳以上も初の200万人台に入ったことも合わせて報告している。

少子化も急加速で進んでいるのだが、超高齢化も止まらない。だから人口動態が日本の致命傷になっていくのは、もう結論的に分かっている。

経済大国としての日本は外国に抜かれていき、日本人が豊かになるチャンスも減少していく。内需が消え、社会が萎縮し、イノベーションを生み出す力も衰え、ありつけるパイがどんどん小さくなっていく。

その中で、富の大部分を富裕層がごっそりと持っていき、残りを大勢の貧困層が奪い合うという醜悪な社会になっていく。

いよいよ、そういった社会が見えてきている。

政府も無力になる。財政赤字が膨れ上がり、高齢者を養うために社会保障費の増大に苦しむ政府に余裕などない。余裕がないから、私たちからもっと税金を取り立てて奪ってくる。

隣人が何かしてくれるだろうか。それも期待できない。格差社会は、激烈な競争が生み出したものだからだ。助け合うのではなく、競争し合って他人を蹴落とす。

では、競争に勝つのは誰か。

もちろん最初から恵まれた富裕層の子供たちである。社会はフェアではない。フェアではない競争社会では、最初から何も持たない不利な貧困の子供たちは助からないのだ。

現実を見れば、すでにそんな強烈な社会になっている。そして、この問題は完全に放置されている。

だから、金があるかないかできれいに分離する一種の身分社会になって、ピラミッドの底辺が底辺のまま抜け出せない社会が到来する。

今の社会に甘い希望など持ってはいけない。貧困層の子供はもう抜け出せない現実を見る必要がある。この現実に気付いて危機感を持たないと、すべての日本人が不幸になる。

今の社会に甘い希望など持ってはいけない。貧困層の子供はもう抜け出せない現実を見る必要がある。この現実に気付いて危機感を持たないと、すべての日本人が不幸になる。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/09/20170922T1712200900.html

格差の次には「何がくるのか」を日本人は理解しているか?

現代社会では、経済格差がどんどん広がっている。最初は少しの差であった格差は、やがては1000倍も2000倍も、いや1万倍も2万倍も開いて、もはや貧困層がどうあがこうが克服できないものとなる。

そして、この極度なまでの経済格差が定着すると、その後に何が来るのか理解しているだろうか。

それは、もちろん「階級」である。

世界の多くの国では、ひとつの国家が見えない層(レイヤー)で区分けされている。経済格差の層である。この経済格差の上と下とでは生活も文化も考え方も違う。場合によっては話す言葉までもが違ってくる。

メキシコでも、ブラジルでも、アメリカでも、イギリスでも、安全な地域と危険な地域は明確に分離して存在している。

分かりやすく言えば、金持ちたちが集う地域は安全だ。そして貧困層が集う地域は治安が悪い。だから金持ちは貧困層がいる地区には決して足を踏み入れないし、逆に貧困層が金持ち地区に行っても警備員や警察に追い出される。

それが定着すると、世界中どこでも貧困層と富裕層は自然に、明確に、完全に分離し、長い年月を経て同じ民族でも違う文化や生活になってしまうのだ。


何もかもが分離し、お互いに接点が極端になくなる

一億総中流の意識がまだ多少でも残っている日本人から見ると、これは階級、身分、差別があるという認識になる。その通りだ。凄まじい経済格差が定着すると、自然に「階級」が生まれて上と下で分離するのだ。

今の日本はそうではない。確かに経済格差は広がっているが、まだ極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはないし、その逆もまた然りだ。

しかし、問題はこれからだ。日本は、今のような平等社会を維持できるのだろうか。経済格差が広がるだけ広がって、それが社会に定着してしまった場合、日本もまた「階級社会」になってもおかしくない。

グローバル化は確実に「格差のある社会」を作り出す。それは間違いない。時間の問題なのだ。だから、将来の日本は今までと違う世界になる可能性がある。

日本人も富裕層と貧困層で分離する。

富裕層と貧困層で分離するというのは、住むところも、通う学校も、付き合う人間も、行きつけの店も、持ち物も、食べる物も、やがては話し方も、すべてが違っていくということだ。

何もかもが分離し、お互いに接点が極端になくなっていく。

教育で言うと、貧困層は親の資金面から安い学校にしか通えなくなり、ここで富裕層と貧困層の子供たちが分離される。富裕層の子供たちは質の良い教育を行う私学に通い、教育に理解のある親と熟練した教師に守られて学力を伸ばす。

一方で貧困層の子供たちは親の理解もなく、給料が安くてやる気のない教師の教育を受けて、教育の質が落ちて学力も低下していくことになる。塾にも通う経済的余裕もない。

公立校ではどんなにやる気のない生徒、問題生徒、非行生徒がいても学校から放逐できないので、しばしば学級崩壊も起きて授業がストップしたりする。

だから、富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。

気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。


富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。


格差を生み出すことになるのは目に見えている

さらに地域で見ると、ある地域に貧困層が多くなっていくと、地価が下がってますます貧困層が流れ込んでいく。そうすると、不動産価格の下落や環境の悪化を嫌って、富裕層が少しずつ、しかし確実に抜けていく。

そうすると、ますます貧困層がその地区を埋め尽くすようになっていく。一方で、富裕層が集まるところは地価が上がって貧困層が住めなくなる。これで人々が分離される。

職業で言うと、富裕層の子弟が卒業する大学卒の勤める職種と、貧困層の勤める職種も違っていく。入れる企業も違い、同じ企業でもエリートクラスと労働者クラスに分かれてこのふたつは交差しなくなる。

この格差は、一度下に落ちると、容易に這い上がれない地獄の格差になっていく。

日本はいずれ、遅かれ早かれそのような社会になる。これについては、多くの社会学者、経済学者、政治家たちが警鐘を鳴らし、危険を訴えている。

誰のせいでこんなことになったのか。全世界がこのようになっているのだとすれば、誰のせいでもなく、現在の社会構造が生み出しているというのが分かるはずだ。

弱肉強食の資本主義が、このような社会現象をどんどん増長させて止まらないのである。強いて言えば、グローバル化を無批判に取り入れた政治家や大企業が悪いということになる。

しかし、日本を鎖国化したら大丈夫なのかというと、それはそれで日本全体が孤立化して北朝鮮のように困窮するだけだ。取り入れても拒絶しても問題が発生するのである。

日本はもうとっくの前にグローバル化を完全に受け入れた。これからも、どんどん受け入れていくことになる。それがさらなる格差を生み出すことになるのは、目に見えている。

もはや、格差が日本国民を分離してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまう。1%の金持ちか、それとも99%の貧困層か。

そして、「階級」の上か下か……。


もはや、格差が日本国民を分離してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまう。1%の金持ちか、それとも99%の貧困層か。そして、「階級」の上か下か……。


日本社会はこれから階級で分離していくことになる

問題は、貧困層に落ちた人は、もはやその子供もまた貧困層になってしまうことだ。個人の努力云々の話ではない。子供たちはスタート時点から極端な差を付けられており、貧困から抜け出せない。

日本がそんな社会になることは、高齢層よりも若年層の方が切実に感じ取れるかもしれない。

日本は若者の自殺が多い国だが、それは就職活動を行っている段階から、多くの企業に断られ続け、自分たちが社会から必要とされていないことを悟ってしまうからでもある。

就職できても生活していくことができないほどの給料だったり、不安定な身分だったりすることも多い。それで必死で働いても、身体を壊して使い捨てされる。

彼らの多くは、自分たちが貧困に生きるしかない現実を突きつけられている。当然、無理して結婚して子供を作っても、子供が貧困で暮らすことになることくらいは容易に想像がつく。

だから、結婚して子供を作るということすらも逡巡する社会と化している。

日本は超少子高齢化となっており、減り続ける子供と増え続ける高齢者のアンバランスで国家の社会保障費に問題が生じているのだ。

これから日本は、過酷な増税、削られる医療費、延長される年金受給年齢などがすべて同時並行で起きて、国民は痩せ細っていく。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた。そのため、ごく普通の人が、年々転がり落ちるように貧困化する。

周辺国との軋轢、憎悪の連鎖、グローバル化の加速、格差の定着、若者の貧困化、超少子高齢化……。すべては、弱肉強食の資本主義が生み出したものであり根は一緒なのだ。

これらの問題が最後まで暴走していく中で、日本でも経済格差が「階級」を生み出して、上と下とではまったく違う文化の中で生きることになる。

格差で騒いでいる段階は終わった。次は階級社会に突き進んでいくのを、日本人は理解しておくべきだ。日本社会は階級で分離していくことになる。


日本でも経済格差が「階級」を生み出して、上と下とではまったく違う文化の中で生きることになる。格差で騒いでいる段階は終わった。次は階級社会に突き進んでいくのを、日本人は理解しておくべきだ。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170831T0331260900.html

国の中の90%以上の女性が文字をまったく読めないとしたら?

ひとり当たりの年間所得が最も少ない国をIMFの2016年のデータから拾い上げると南スーダン、マラウイ、ブルンジ、中央アフリカ、マダガスカル、モザンビーク、ニジェール、ガンビア、リベリア、コンゴ……と続く。

ここで上げた国は、人が貧しいというよりも国そのものが極貧にあって、経済発展はなかなか厳しいものがある。

もうほとんど報道されなくなっているのだが、南スーダンでは国土の6割が戦乱地区と化しており、中央アフリカでもコンゴでも大量虐殺が続いている。

アジアでも、アフガニスタンやネパールは非常に貧しい地区であり、EU(欧州連合)には、アフガニスタン難民も大量に入り込んでいるのはあまり知られていない。

政府が脆弱な国は、貧困が蔓延している。戦争が吹き荒れる国もまた貧困が吹き荒れる。

その結果、多くの人たちから教育の機会が奪われる。

生きるか死ぬかの瀬戸際で、人々が安全な地区を目指してさまよい歩いているような地区で、あるいは教育を与える必要がないという声が支持される地区では、意図的に教育の機会が踏みにじられるのだ。

中でも、女性の教育が犠牲になることが多い。


人材を作るには、教育に力を入れる必要がある

途上国では、誰がリーダーになっても、経済を立て直し、貧困を撲滅するのは非常に難しい仕事になる。

途上国のあらゆる問題は貧困から来ている。そして、その貧困のあらゆる原因は、インフラや汚職や内戦や先進国の収奪から生まれている。

豊かな国だったとしても、一度、国が衰退してしまうと立て直すのが難しいのは、歴史を見ると分かる。

日本は第二次世界大戦の敗戦で、国は焼け野原になってほぼ壊滅したも同然だったが、そこから奇跡的な復興を遂げて現在がある。

しかし、こういった奇跡は「例外中の例外」だ。普通は、国が壊滅すれば、その後は何十年も立ち直れないのである。

国が回復するには、経済が回らなければならない。経済が回るためには人材や資源が必要になる。資源があるかどうかは、その国の運次第だ。資源がないのであれば、人材を強化するしかない。

人材を作るには、教育に力を入れる必要がある。

ところが貧困国は、底なしの貧困ゆえに教育制度が破綻していることが多い。それならば、教育に金をかければいいという話になるのだが、ここにひとつ問題が発生する。

教育の成果を見るには、長い時間がかかるということだ。

1年や2年ではない。10年も20年もかかるのだ。だとすれば、任期が数年の政治家が教育に力を入れ続けるのは、相当な意思と覚悟が必要になる。

どこの国でも、教育の大切さを自覚する政治家は少ない。

教育はいつも置き去りにされる。「女性に教育は必要ない」と決めつけるアフガニスタンのような国もある。

アフガニスタンはわざわざ作られた女子学校を、イスラム原理主義のタリバンが叩き壊して回っている。

このタリバンのイスラム主義はパキスタンにも広がっているのだが、だからパキスタンの地方都市でも女子学校の破壊やテロが起きたりしている。

さらにこのような動きはナイジェリアでも広がり、テロ集団ボコ・ハラムが女子学生を大量拉致してイスラム原理主義に洗脳したり、自爆テロに使ったりするようにもなった。

そこまでして教育を奪おうとしている国もあるのだ。


アフガニスタンはわざわざ作られた女子学校を、イスラム原理主義のタリバンが叩き壊して回っている。このタリバンのイスラム主義はパキスタンにも広がっているのだが、だからパキスタンの地方都市でも女子学校の破壊やテロが起きたりしている。


90%以上の女性がまったく文字を読めない国もある

教育の機会が奪われたら国はいつまで経っても立ち行かない。これは、多くの途上国が共通して抱えている問題である。

教育がしっかりしていれば、その国は立ち直る余地はある。あるいは、すべてを失っても成長する余地がある。

どんなに国が傾き、経済破綻し、暴力・麻薬・売春が吹き荒れ、汚職が蔓延していたとしても、教育がしっかりしていれば嵐の中で芽が育つ。

逆に、教育自体がおざなりになっていたり、荒廃していたり、教育行政が破綻していたりすると、成長している国であっても、次世代の衰退は間違いない。

何を差し置いても教育に力を入れる風土があれば、その国は助かる。そうでないのであれば、その国の政治家が一時的に何かをやっても、結局は貧困に戻っていく。

教育は軽く見てはいけない問題だ。なぜ貧困層がそこから抜け出せないのか。

それは教育を受けていないからだ。

教育を受けても成功するとは限らない。しかし、教育を受けていなければ、スタート地点にすら立つことができない。

先進国にいると、文字が読めて、計算ができるというのは当たり前のように思えるかもしれない。しかし、それは当たり前のことではない。教育の成果だ。

日本の識字率は99%なので、国民のほぼすべてが文字が読める状態である。だから、文字が読めない人がいるというのが信じられないかもしれない。しかし、途上国では想像以上に文字が読めない人が多い。

たとえば、教育を奪われているアフガニスタンでは、女性の識字率は17.6%であると言われている。これを逆に言えば、女性の82.4%が文字が読めないということだ。自分の名前を読むことも書くこともできない。

国民の85%がイスラム教であるギニアでも女性の教育がほとんど為されておらず、女性の87.8%が文字を読めない。やはりイスラム教が圧倒的大多数を占めるニジェールに至っては、女性の91.1%が文字を読めない。

国の半分を占める女性が無教育なのであれば、国の半分は知的能力を必要とする現代社会で落ちこぼれるということだ。これでは国の再建や発展どころではない。


幼少の頃にきちんと教育を受けていれば……

インドでもカンボジアでもバングラデシュでもインドネシアでも、文字が読めない人たちは想像以上に多い。

私が知り合ったインド・コルカタの物乞いの女性たち、あるいはコルカタの売春地帯にいた女性たちも文字が読めなかった。

(書籍『絶対貧困の光景』インドの取り残された女性たち)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20140610T1741180900.html


彼女たちは知的能力が劣っていたわけではない。現に、彼女たちはヒンディー語を話す以外に、英語もきちんと話して欧米人と会話もできる。

文字は書けないのだが、ストリートで覚えた英語を駆使して欧米人と渡り合っている。もし、彼女たちが幼少の頃にきちんと教育を受けていれば、何十年も物乞いで生活していなかったかもしれない。

彼女たちに欠けていたのは教育だということが分かる。教育の機会がなかったのだ。

教育を受けると、物事を判断したり、分析したり、専門を極めていくことが可能になる。それもまた、貧困から抜け出すのに重要な要素である。

教育と言っても大学で学ぶような高度な専門知識の話をしているわけではない。読み書きソロバンの基礎的な教育の話をしている。それすら受けられないと、何もできない。

何しろ、名前も書けず、計算もできないのだ。そうなると、仕事は単純労働でしかない。単純労働の賃金は、どこでも最低賃金そのものだ。

最低賃金で生きていても、貧困から抜け出すことはできないのだ。字が読めないし書けないのだから、できる仕事は限られてしまう。賃金をごまかされても、計算ができないから抗議すらもできない。

また、世の中の仕組みはすべてドキュメント(書類)によって記されている。契約書も、賃金明細書も、請求書も、何もかも書類に記されて、そこには文字が書かれている。

それらの書類が読めず、意味も分からなければ、自分の置かれている立場すらも分からないままだ。やはり抑圧されたままの人生を送るしかなくなる。

国はどれだけ多くの国民に教育を受けさせることができるか。自分や子供たちは教育に接することができるか。そして、教育はどれだけ適切で実用的か……。

それが、貧困撲滅の鍵を握っている。しかし、多くの国でそれが理解されない。その結果、貧困が永遠に続いていくことになる。


教育を受けても成功するとは限らない。しかし、教育を受けていなければ、スタート地点にすら立つことができない。教育がきちんと続かなければ、彼女には将来がない。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170829T0223580900.html


日本でも貧困地域の子供は漢字が読めない

【“貧困”無間地獄の現場】(05) 2003年『千葉少女墓石撲殺事件』の舞台――不良だらけの荒れた街が老人だけの枯れた街に


「貧しい昭和がこびり付いたような街」――

『最貧困女子』(幻冬舎新書)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%80%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E5%A5%B3%E5%AD%90-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E5%A4%A7%E4%BB%8B/dp/4344983610


で貧困問題を世に問うたジャーナリストの鈴木大介氏は、最貧困女子の出身地をそんな表現で語ったことがあった。


その1つが千葉市の千城台、正確には千葉市若葉区の千城台市営住宅団地だ。
言葉は悪いが、“最貧困女子の故郷”とでも言おうか。

地図
https://www.mapion.co.jp/m2/35.62610819,140.18221072,16


千葉駅からモノレールに乗り換える。タウンライナー(千葉都市モノレール)からは、新興のニュータウンと自然豊かな公園の景色が広がる。

約25分、終点の千城台駅に到着する。この街は以前、取材で訪れていた。

2003年10月に起こった『千葉少女墓石撲殺事件』である。犯罪史に残る陰惨且つ稚拙な事件。

風俗店(抜きキャバ)で働いていた16歳の石橋裕子さんが、偽装結婚していた夫(当時22歳)に離婚を切り出したところ、夫は地元の高校生ら5人と共謀し、石橋さんを墓地に連れて行き、歯形がわからなくなるまで殴りつけ、指紋を消し去る為に灯油で焼き殺した。

主犯の夫は、偽装結婚で戸籍をロンダリングしては、消費者金融からカネを借りる詐欺行為を繰り返していた。

当時、この夫は新しい相手と偽装結婚する予定だったが、身元不明状態では離婚できないと気付いて「自分の妻」と名乗りを挙げた結果、呆気なく御用となった。

事件の当事者たちは全員、市営住宅の出身者だった。
石橋さんの働いていた風俗店も千城台にあった。

次に偽装結婚する予定だったという別の16歳の少女を取材した。
彼女もやはり、市営住宅出身者だった。

彼女に事件をコピーした記事を見せた際、「漢字、読めないから」と言われて強い衝撃を受けた。

主犯の夫と族仲間だったという不良3人にも取材したが、やはり漢字が読めず、全員が無免許と自慢げに語っていた。

「21世紀の日本で、こんなことがあり得るのか…」。それが当時の印象だった。

千城台はニュータウンとして開発が進む一方、その裏手には古びた市営住宅団地が現存していた。夜ともなれば、漢字も読めないガラの悪い連中が団地から溢れ出て来る。治安の悪さでは、千葉でも屈指の場所と言われていた。その構図に、現在も違いは無い。

モノレールの駅を降りれば静かなニュータウンの表情を見せるが、古びた脇道を1本入れば、“貧しい昭和がこびり付いた街”がいきなり目の前に現れる。

この界隈の市営住宅の多くは、1960年代半ばから後半にかけて建設されている。
半世紀以上経っているのだから古臭くて当然だが、それでも以前の取材時には活気だけはあった。しかし、今夏に訪れた時、市営住宅は妙な静けさの中にあった。違和感を覚える。明らかに、2003年とは何かが違うのだ。

最も古い木造平屋建ての市営住宅に行く。犬の世話をしていたお婆さんが言う。

「ああ、今、ここは取り壊し前でね。半分以上があっちの新しい団地に移ったよ。私かい? ほら、この子(犬)がいてねえ。犬や猫を飼う為に残っているんだよ」。

このお婆さんが説明した通り、周囲の市営住宅の多くは新規建て替えや改修の真っ最中だった。「前に住んでいた若い人の多くも出て行ったよ」と寂しそうに語る。

夜になって、漸く違和感の原因に気付いた。周囲にコンビニが全く無くなっていたのだ。

駅前界隈は小中学校が揃い、市営住宅とニュータウンの住人合わせて1万人以上が住んでいる。明らかに異常だろう。プール帰りの小学5年生ぐらいの少女にコンビニの場所を尋ねたら、「あそこにあった」と潰れた店を指差された。

そう言えば、駅前にも赤提灯1つ無く、大手チェーンの居酒屋も無かった。
何とか探したところ、市営住宅の脇にスナックが2軒あるだけだった。

その1軒のマスターが言う。「この数年かな。駅前の飲み屋も全部、無くなったんだよ。前はキャバクラや風俗店もあったんだけど」。

私が「事件の影響ですか?」と尋ねると、「若い人が夜に集まりそうな場所は、警察が厳しく取り締まったからね」と頷きながら説明する。

客の1人も、「コンビニは、ほら、トイレで子供を産んで捨てた事件あったろ? あれ以降、どんどん潰れたんだよ」。

これは2011年、地元の20歳女性が千城台のコンビニで起こした事件のことだろう。

8月、お盆前だというのに、街に屯する不良たちが公園で花火に興じる様子も無ければ、暴走族が撒き散らす騒音も聞こえてこない。

マスターは、「兎に角、そういう若者はこの街から本当に消えたんだよ」と繰り返す。昭和の貧しさがこびり付いた街は、急速に変貌しているようだった。


「違法住人の楽園だった」。
市営住宅に暮らす60代の老人客が自嘲気味にそう語る。

母子家庭と言いながら夫と暮らす。夜の店で働きながら生活保護を受け、子供の給食費を払わない親たち。

毎日、パチンコをして飲み屋で暴れる――そうした“貧者の楽園”は消え去ろうとしているのだと、このスナックの客たちは誰もが実感している。

老人客が続ける。

「今、古い市営住宅は建て替え中だろ? 新しい市営に入れるのは、俺のような高齢の年金暮らしや生活保護は大丈夫だけど、以前のように20代の働き盛りで子供がいるとか、偽装結婚しているような家は契約を更新できないからな。だから、親が子を追い出しているんだよ。『お前らがいたら新しい市営住宅に住めないから』って」。

こうして、市営住宅から不良たちや若い層は消え、老人だけの枯れた街になりつつある。

“貧しい昭和がこびり付いた街”は、市の指導の下、健全且つ理想の街へと生まれ変わるのだろう。

12年前、主犯の夫と“偽装結婚”する予定だった16歳の少女の顔を思い出す。
漢字が読めず、「東京の都心は怖いので、夢は葛西に住むこと」と言っていた彼女は今、28歳となり、どこで何をしているのだろうか。

「(殺された石橋さんと)PUFFYの曲をデュエットで、朝までカラオケしたんだよ」。
そう嬉しそうに思い出を語っていた彼女は、既に都会の片隅で最貧困化しているかもしれない。

だが、その姿が顕在化することはないだろう。

夜8時過ぎ。千城台の駅から部活動で健康そうに日焼けした、或いは塾のテキストを持った学生たちと、ネクタイを締めたサラリーマンが続々と降りて来る。そして、小奇麗なニュータウンへと消えていった。 (取材・文/西本頑司)
http://mmtdayon.blog.fc2.com/blog-entry-1118.html?sp


千葉少女墓石撲殺事件とは、2003年(平成15年)10月1日に千葉市若葉区の墓地で発生した殺人事件である。


2003年10月1日の午前7時10分頃、千葉市若葉区の墓地駐車場で、ジョギングしていた男性が遺体を発見した。遺体は、若葉区千城台東の飲食店アルバイトだった少女(当時16歳)であった。

遺体は頭を鈍器で強く殴られて殺害された後、焼かれていた。
千葉県警は少女の夫で若葉区千城台西の運転手である男(当時22歳)を殺人の容疑で逮捕。共犯として高校3年の男子生徒(当時18歳)などを含む若葉区内の未成年の男子あわせて4人も逮捕した。


加害者と被害者の偽装結婚

被害者の少女は幼い頃は活発な少女で、中学時代はハンドボール部に所属していた。しかし部活を引退した3年の秋から性格が変わり始めた。不良グループと付き合うようになり、そこで後に自らを殺害する男に出会う。高校に進学するが、1年生の10月には自主退学し、以後はカラオケ店でアルバイトを始めた。

主犯の男は母親が再婚した義父と折り合いが悪く、家庭内で喧嘩を繰り返した。そして恐喝事件を繰り返し、高校1年の時には少年鑑別所送致にされる。18歳の時にはコンビニ強盗事件を起こして東北少年院送致となり、出所後も遊興費欲しさに窃盗事件を繰り返した。

少女はカラオケ店で働いたものの、給料面などから不満を持っており、水商売で働こうと考えていた。しかし18歳未満という年齢では働くことは不可能である。そこで男は自分との結婚を持ちかけた。結婚すれば成人として扱われるからである。ただし民法の上では成人扱いになるが、風俗営業法による規制から16歳で就職することは禁じられている。そして2人は2003年7月に婚姻届を提出し、少女はキャバクラで働き始めた。

ただし両者の間には恋愛感情は無く、2人の利害が一致したためでの偽装結婚に過ぎなかった。男は消費者金融に300万円に及ぶ多額の借金を抱えており、以前も別の女性と偽装結婚していた。女性の苗字を名乗って名前と戸籍を変更することで、消費者金融の借金を踏み倒そうとしていたのである。

しかし男は少女に結婚した見返りとして上納金を要求する。少女は初めこれに応じたが、次第に金銭トラブルを引き起こすようになり、遂に少女は偽装結婚を警察に通報すると言い出す。男は以前に起こした詐欺の事件で執行猶予中であった。

これが通報されれば猶予を取り消される可能性もあり、口封じを決意し、仲間の未成年4人を「自分たちの起こした窃盗事件を少女が警察に通報しようとしている」と騙すことで犯行に加わらせ、2003年10月1日午前3時過ぎに駐車場内でハンマーで少女を順番に殴りまわしたうえ、重さ70キロもある墓石用の石材を少女の顔に何度もたたきつけて殺害した。

そして少女の遺体にオイルを10数本もかけて火をつけて逃走したのである。
後に少女を発見した男性の証言では、発見したときには少女の遺体の上半身が炭化しており、まだ火もついているという状態だったという。


逮捕と裁判

事件発覚後、男は自ら警察に情報を提供して自分に疑いがかけられないようにした。またマスコミのインタビューにも悲痛な発言をすることで被害者を装っていた。

しかし警察は男と少女の偽装結婚をつかみ、さらに近所のスーパーやコンビニで大量にライターオイルを購入または万引きする男と少年らの防犯カメラの映像を入手して、男と少年らを逮捕する。男は最初容疑を否認していたが、少年4人が犯行を自供したため、遂に男も犯行を認めた。

2005年2月23日、千葉地裁で判決公判が開かれ、「暴行は想像を絶する残虐さ」、「自己中心的で幼稚極まりなく、動機に酌むべき点は無い」、「確定的殺意に基づく極めて残虐な犯行で、矯正は不可能」として、求刑通り無期懲役となる。4月19日に控訴を取り下げて刑は確定した。

また、未成年の少年らも、殺害と遺体損壊に加わった3人を5年から10年の不定期刑に、遺体損壊に加わらなかった1人を3年半から7年の不定期刑に処して確定した。こちらも「残虐な犯行」、「遺体損壊に対する悔悟の念が感じられない」とされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B0%91%E5%A5%B3%E5%A2%93%E7%9F%B3%E6%92%B2%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

日本の貧困層の子供は漢字すら読めないのに、「ゆとり教育」とセットで小学生に英語を習わせるとか、頭おかしいよね


59. 中川隆[-6400] koaQ7Jey 2017年9月30日 08:31:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「ゆとり教育」の成果


日本の科学研究はこの10年間で失速していて、科学界のエリートとしての地位が脅かされていることが、Nature Index 2017日本版から明らかに

2017年3月22日

Nature Indexによると、日本の科学成果発表の水準は低下しており、ここ10年間で他の科学先進国に後れを取っていることが明らかになりました。政府主導の新たな取り組みによって、この低下傾向を逆転させることができなければ、科学の世界におけるエリートとしての座を追われることになりかねません。

Nature Indexに収録されている高品質な科学論文に占める日本からの論文の割合は、2012年から2016年にかけて6%下落しました。中国の急速な成長の影響により、米国などの科学先進国が占める割合は相対的に低下していますが、日本からの論文発表は、絶対数も減少しています。Nature Indexに収録されている高品質の自然科学系学術ジャーナルに掲載された日本の著者による論文数は、過去5年間で8.3%減少しています。

これらの知見は、Nature 2017年3月23日号の特別企画冊子「Nature Index 2017 Japan」に掲載されているもので、このレポートでは、日本の近年の研究実績に関する情報を詳細に紹介しています。「Nature Index 2017 Japan」は、世界の8000以上の大学や研究機関による高品質の研究を追跡している Nature Indexのデータに基づいています(データ測定方法の定義については「Nature Indexについて」の項を参照ください)。


「Nature Index 2017 Japan」は、クラリベイト・アナリティクス社のウェブ・オブ・サイエンス(WOS)や、エルゼビア社のスコーパス(Scopus)データベースのデータも取り上げており、これらのデータから、日本の研究が低下傾向にあることがはっきりと現れています。WOSによれば、日本の論文出版数を2015年と2005年とで比較した場合、14分野中11の分野で減少しています。伝統的に日本が強い分野である材料科学および工学の論文出版数は10%以上減少しており、減少率が最も大きかったのが計算機科学で37.7%も減少しました。ただし、医学、数学、天文学の3つの分野においては、10年前よりも増えています。しかし、査読付き文献を広く網羅するスコーパス・データベースに収録されている全論文数が2005年から2015年にかけて約80%増加しているにもかかわらず、日本からの論文数は14%しか増えておらず、全論文中で日本からの論文が占める割合も7.4%から4.7%へと減少しています。

こうした全般的な低下傾向により、日本の若い研究者たちは厳しい状況に直面しており、フルタイムで働けるポジションも少なくなっています。日本政府の研究開発支出額は、世界で依然としてトップクラスであるものの、2001年以降ほぼ横ばいです。一方で、ドイツ、中国、韓国など他の国々は研究開発への支出を大幅に増やしています。この間に日本の政府は、大学が職員の給与に充てる補助金を削減しました。国立大学協会によると、その結果、各大学は長期雇用の職位数を減らし、研究者を短期契約で雇用する方向へと変化したのです。短期契約で雇用されている40歳以下の研究員の数は、2007年から2013年にかけて2倍以上に膨れ上がっています。

Nature Indexの創設者であるDavid Swinbanksは、次のようにコメントしています。「日本は長年にわたり、科学研究における世界の第一線で活躍してきました。しかし、Nature Indexおよび当社のパートナーから収集したこれらのデータは、日本がこの先直面する課題の大きさを描き出しています。世界各国が科学技術予算を増大させてきた中で、日本では2001年以来科学への投資が停滞しており、その結果、日本の機関では高品質の研究を生み出す能力に悪影響が表れ、衰えが見えてきています。こうした状況に対し、日本政府は取り組みを開始しており、大学改革を政府の最優先課題の1つとして掲げ、イノベーションと成長を促すための政策を模索しています。その1つ、長期的な職位を増やすための支援を行うことによって、大学に勤める40歳以下の研究者を2020 年までに10%増やそうという計画を、諸手を挙げて歓迎すべきでしょう。」

現在、高品質の科学研究を生み出している日本の機関トップ10を見ていくと、第1位は、世界有数の大学として長くその地位を確保している東京大学で、その後に京都大学(2位)、大阪大学(3位)、東北大学(4位)と続きます。そして日本最大の研究機関である理化学研究所が5位に入り、東京工業大学(6位)、名古屋大学(7位)、九州大学(8位)、北海道大学(9位)、国立研究開発法人物質・材料研究機構が(10位)となっています。
http://www.natureasia.com/ja-jp/info/press-releases/detail/8622


小学生に英会話やらせても英文は読める様にならないから科学研究には影響無いんだよね


60. 中川隆[-6362] koaQ7Jey 2017年10月05日 14:17:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


日本のアカデミズムは危機にあるのか――ノーベル賞受賞者も警鐘 10/5
https://news.yahoo.co.jp/feature/766

21世紀に入ってから、日本はノーベル賞の受賞ラッシュが続いている。2001〜2016年に、16人(米国籍取得者も含む)が科学分野で受賞し、20世紀の科学分野の受賞者(6人)を大きく上回っている。だが、これだけの華々しい成果を上げてきた日本の基礎研究に対し、様々な方面から警鐘が強く鳴らされている。ノーベル賞受賞者も指摘する、その元凶とは。(ライター・青山祐輔/Yahoo!ニュース 特集編集部)

地方から失われていく、科学研究の基礎体力


2016年5月、ある天文学の研究プロジェクトによるクラウドファンディングがネット上で話題を呼んだ。


徳島大学の古屋玲准教授を中心とした研究チームによる、ハワイ島マウナケア山頂付近にある電波望遠鏡を使った天体観測計画。話題になったのは、その目標額がわずか80万円だったからだ。金額は現地までの旅費を調達しようとしたもので、クラウドファンディングは成功した。だが、古屋准教授の研究環境は、さらに悪化しているという。


ハワイ島マウナケア山頂付近にある観測施設(写真:アフロ)


「徳島大学は地方の小さな国立大学で、主要な使命は研究というより、教育と地域貢献。つまり、よき市民を社会に送り出すことです。それでも、これまではどんな研究テーマも奨励されていたのが、昨今は『役に立たない研究は自分でやれ』と言われるまで悪化しています」


国立大学に所属する研究者には、毎年研究費が支給される。金額は、大学や研究分野などによってさまざまだが、おおむね公平に学内で配分されていた。しかし、その状況が大きく変わろうとしているのだという。


古屋准教授のチームによるクラウドファンディングは、なんとか資金集めに成功したが……(提供:古屋准教授)


「2018年度からは『重点クラスター』と呼ばれる学内の特定の研究グループにだけ配分することになった。残りの人はゼロです。重点クラスターの選択基準は端的に言って、医療技術や医薬品開発など直接役に立つかどうかです。恐れていた最悪の事態がついに来ました」


この結果、2018年度は大学から古屋准教授には研究費が支給されない見込みだという。研究費がなければ、研究活動もできない。


「選ばれた重点クラスター以外、つまり研究費ゼロを避けるために、なんとかクラスターを作ったけれど外れてしまった研究者たちは、『研究をしたければ科研費やクラウドファンディングなど外部資金を調達しろ』と学内説明会で言われました。でも、クラウドファンディングなんて誰もができるわけではないし、科研費だって全員の提案が採択されるわけではない。私の場合は、たまたまうまくいきましたが、それを全員にやれというのは無茶だと思います」


地方の国立大学から研究の灯が消えようとしている。そして日本の科学アカデミズムが危機に瀕しているとの指摘は、海外からも寄せられている。

世界における「科学エリート」の地位を失いつつある


「日本の科学研究はこの10年間で失速していて、科学界のエリートとしての地位が脅かされている」
イギリスで発行される総合科学雑誌『ネイチャー』2017年3月23日号は、そう指摘した。

同誌によれば、世界的に評価の高い学術誌や論文誌に掲載される日本からの論文は、2012年から2016年にかけて6%減少した。また、専門家による検証済みの文献を広く網羅するスコーパス・データベースに収録されている全論文数は、2005年から2015年の10年間で約80%増加しているにもかかわらず、日本からの論文数は14%しか増えていないという。


日本から発表される科学論文数はなかなか増えない(写真:アフロ)
https://news.yahoo.co.jp/feature/766

こうした状況の背後にあるのが中国の急速な成長で、米国などの科学先進国の地位が相対的に低下している。だが、日本の論文数の減少は、他の先進国と比較しても突出している。なぜこれほど減っているのか。ネイチャーは、その要因を国としての予算配分にあると指摘した。


論文数では、中国の伸びが他国を凌駕している(図版:ラチカ

https://news.yahoo.co.jp/feature/766


「日本政府の研究開発支出額は、世界で依然としてトップクラスであるものの、2001年以降ほぼ横ばいです。一方で、ドイツ、中国、韓国など他の国々は研究開発への支出を大幅に増やしています」


東京に長く滞在経験のあるネイチャーの記者、デイヴィッド・シラノスキー氏も指摘は驚くべきことではないと言う。「過去10年以上にわたり、日本の論文数は増えも減りもしなかった。なぜなら、人口増加、経済成長、科学予算のすべてが横ばいだからです」


ネイチャーの論評は、単なる事実の指摘にとどまらず、日本に対して強く警告を発している。この直後、日本のメディアでも「アカデミズムの危機」を報じる動きが広がった。


一方、ネイチャーの記事以前に、国内でも同様の指摘はなされていた。


鈴鹿医療科学大学の豊田長康学長は、2015年5月1日付の自身のブログで、主要国の全論文数や人口あたりの論文数といったデータで、2000年代前半からすでに日本のアカデミズムは世界に水をあけられつつあることを示した。2016年3月には豊田氏はネイチャーインデックスからの取材にも応え、「我が国の競争力は高まっていないどころか、過去10年間を見ると日本の基礎研究は弱体化している」と発言していた。


そして、基礎研究の弱体化に対して危機を訴える声は、日本の研究者においていっそう広がっている。


昨年ノーベル賞を受賞した大隅良典・東京工業大学栄誉教授。日本からは、2014年から科学分野で3年連続受賞者が出た(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

「就職できないから」東京大学でも大学院生が減少


「基礎科学で減っているのはお金ですが、人も減っているんです」東京大学副学長で理学系研究科長の福田裕穂教授は、危機感を強く訴える。「理系でも(産業化しやすい)応用研究には国からお金は出ます。でも、基礎研究にはお金がつかないし、研究者も減っているんです」


科学研究への予算配分は「日本の未来に対して投資するのか、しないのかという、国としての選択の問題」だと語る東京大学副学長・理学系研究科長の福田裕穂教授(撮影:殿村誠士)


2016年10月、全国34の国立大の理学部長らで構成され、福田氏も所属する「国立大学法人理学部長会議」が、「未来への投資」と題した声明を出した。


この声明では、国立大学への運営費交付金が10年以上にわたり毎年1%ずつ削減されことによって、日本の基礎研究の体力が奪われたこと、またそうした基礎研究の衰退で将来日本からノーベル賞が出なくなる可能性がある、という懸念を強く訴えた。


国からの運営費交付金が削減されても、大学の支出は一律に減らせるものではない。例えば光熱費の節約には限度があるし、安全にかかわる支出は減らすことはできない。そこでしわ寄せを受けてきたのが人件費だ。


国立大学の予算に占める人件費の割合は、2005年度の41.7%から2015年度の32.9%と10年で9ポイントも減っている。ところが、教員(研究者)の数は2004年度の6万897人から、2013年度で6万3218人と増えている。


人件費が減っているのに、研究者の数は増えている。このカラクリを支えているのが、2〜5年程度の雇用期間があらかじめ設定された「任期付きポスト」の増加だ。


国立大学は、任期なしの常勤ポスト(特に助教授)を減らし、その分は任期付きポストで補ってきた。そして、その任期付きポストの人件費の原資として頼っているのが、「競争的資金」という研究予算だ。


東京大学でも、過去10年間で40歳以下の教員は任期無しの雇用が半減し、任期付きの教員の方が多くなっている(撮影:殿村誠士)

問題を抱える「任期付きポスト」


国立大学に所属する研究者の資金は、大きく2つからなる。ひとつは「運営費交付金」からの分配だ。運営費交付金は国からの補助金であり、この交付金の一部が研究者へ割り振られ、研究の基盤的な資金となっている。もうひとつが「競争的資金」だ。競争的、とあるとおり、研究者自身が審査を通過した研究やプロジェクトに対してのみ給付される。


この2つの研究資金のうち、この十数年で政府は運営費交付金を減らし、競争的資金を増やしてきた。大学間や研究者間での競争を促し、日本全体の国際競争力を強化しようという狙いだ。

運営費交付金が減る一方、教員数は右肩上がりに増えている(図版:ラチカ)
https://news.yahoo.co.jp/feature/766


だが、そこで発生した問題が、若手研究者への雇用のしわ寄せ──任期付きポストの増加だった。人件費の抑制によって、国立大学に所属する40歳未満の教員のうち任期付き教員の割合は、2007年度の39%から2016年度には63%にまで増えた。


教員の総数が増えているなかで、任期無し教員は減り続けている(図版:ラチカ)
https://news.yahoo.co.jp/feature/766


任期付きポストの問題は、任期期間の終わりとなる1年前には次の「ポスト探し」という就職活動が待ち受けていることだ。任期付きポストでは若い研究者が腰を据えて研究できず、このポストの広がりが日本の基礎科学の弱体化の大きな要因だと福田教授は言う。


「なぜなら、ノーベル賞を受賞するような画期的な研究の多くは、その受賞者がだいたい30歳から40歳ぐらいのときの仕事。2000年以降の日本の17人のノーベル賞受賞者でも、その多くが20代後半から40代前半でした」


「たとえば」と、福田教授は、昨年ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典教授の若き日を振り返る。

「昔から大隅さんとは友だちですが、東大の助教授でオートファジーの研究を始めたころの彼は『福田君さ、いろいろ遺伝子が見つかったけど、どんな働きかわからないものばかり』と嘆いてばかりいた。でも、彼はそのわからない遺伝子をコツコツと研究していった」


2000年以降の科学分野でのノーベル賞受賞者は、その多くが20代後半から40代前半のときの研究が受賞対象となっている(図版:ラチカ)
https://news.yahoo.co.jp/feature/766


当時の大隅氏の研究は顕微鏡観察が中心だったので、「研究費はわずかで済んでいた」(福田教授)という。だが、それらの地道な研究ののち、教授として基礎生物学研究所に転籍し、多くの資金とさまざまな手法を用いて本格的に遺伝子の働きを解明するようになった。そしてその若き日の研究がノーベル賞に結びついた。


「だから、大隅さんの研究で大事だったのは、お金がなくても時間のあった東大時代と、それを大きく展開した基礎生物学研究所の時代。つまり、若い時の研究に打ち込める自由な時間があったから。でも、それが昨今の任期付きポストだったら、できたかどうか疑問です」(福田教授)


「基礎研究で成果を出すには、誰もやっていない独創的なことをやらないといけない。そこには、小さな成果で終わってしまうかもしれないリスクもある」福田教授は言う(撮影:殿村誠士)


実際、若手研究者の考え方や研究姿勢にも影響が出ている。


「100億円を超える次世代望遠鏡について議論する場で、本来なら『こういう望遠鏡を作って、こういう研究をしたい』と夢を語るとても楽しいもののはず。なのに、実際には若手はほとんど参加しなかった」


前述の徳島大学の古屋准教授は、ある天文分野のシンポジウムで議論がまったく盛り上がらなかったと振り返る。ゲストとして招いた理論天文学者も、若手の参加がきわめて少ないことを憂いていたという。


「その翌年は、私自身がシンポジウムの主催者側になったので、主題を『若手研究者の本音とシニア層の本音:研究の多様性と深さを今後も追求するために』として、若手を煽ってみました。すると若手が参加し、意見もたくさん出るのです。ところが、どれもこれも将来への不安ばかり。それも当然です。雇用期間が数年の任期付きポストにいる方々にとって、10年先、20年先の次世代望遠鏡の夢よりも、自分が研究者を続けられるかの方が差し迫った問題です」


こうした傾向に、深い懸念を抱いている研究者は多い。


その一人が2015年に「ニュートリノ振動の発見」でノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章・東京大学宇宙線研究所所長だ。


東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章教授は「これ以上、高等教育を弱体化させてしまって、日本はどうする気なのか。もっと国民的な議論をしないといけない」と語る(撮影:殿村誠士)

科学技術への投資なくして日本に未来はない


梶田氏は、いまの基礎科学が置かれた状況を「非常に厳しい」と断言する。


「研究者もひとりの人間ですので、2年後にクビになる身分と、クビにならない身分では、研究の質も変わってきます。2年後に次のポストを探さないといけないとしたら、なかなか長期的な仕事ができないからです」


梶田氏自身は博士号を取得後、2年間の任期ありの雇用を経て、東京大学宇宙線研究所で任期のないポジションを得た。そのために「クビになるということを考えないで、純粋に研究に打ち込めた」と語る。


梶田氏は現在、さらなる研究のため、新たに「ハイパーカミオカンデ」の建設計画を指揮している。建設費用だけで約550億円を見込む巨大プロジェクトであり、多額の国の援助を必要とする。


ただし、これだけの投資を行ったとしても、この研究成果はすぐに産業や経済に還元されるわけではない。まして、ノーベル賞のような栄誉を確約できるわけでもない。


それでも、日本は基礎科学に投資し続けるべきだと梶田氏は断言する。


「資源がない日本は、科学技術創造立国を目指すしか道はないんです。言い換えれば、科学や技術で世界のトップでないかぎり、日本は世界で埋もれてしまう危険があるということです」


東京大学では研究継続への危機感から、独自に財源を確保しで2021年度までに若手研究者のうち300人を任期なしポストへ転換することを決めた(撮影:殿村誠士)


梶田氏は、この20年ほどで普及してきた「選択と集中」という言葉に、基礎研究の立場から違和感を覚えるという。


「『選択と集中』は盛んに言われてきた言葉ですが、その結果、大学がどうなったか。東大はいいかもしれないですけど、地方の国立大学では衰退が激しくなった。学問の多様性を急激に失わせている気がして、将来の芽が出る前に根こそぎなくしているような感じがするのです。むしろ、重要なのは多様性です。科学には多様な可能性があるので、きちんとサポートしていかないといけない。それは、つまり、無駄になる研究もあるかもしれないということ。それでも、そうした部分に目をつむるという感覚も必要なのだと思います」


2017年の自然科学分野でのノーベル賞は、日本人の受賞がなかった(撮影:殿村誠士)


前出の福田教授は、「基礎科学は50年後、100年後に役に立つものだから」と語る。


たとえば、DNAの二重らせん構造が解明されたのは1953年のことだが、その発見なくして、現在の製薬や農業、医療における遺伝子工学の応用はあり得なかった。そして、そのような基礎科学の力こそが世界からの信頼を得る原動力であり、国力なのだと福田教授は言う。


「国力という言い方はなんとなく軍事力みたいでいやだけど、科学の力も国力なんだよ」


基礎科学への投資は、多様性の重視であり、100年先の未来への投資であり、国への信頼でもある。そうした超長期的な考えをもてるかどうか。世界は日本に注目している。


61. 中川隆[-6340] koaQ7Jey 2017年10月08日 11:56:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

就学困難にある約150万人の子供を放置するのは日本の損失だ


日本の底辺ではじわじわと貧困が拡大しており、子供にも経済格差による就学困難が定着するようになった。

経済的理由により就学困難と認められ就学援助を受けている小学生・中学生は2014年には約149万5485人となっていた。これは2017年3月31日に文部科学省が出している数字である。

この数字は2012年から2年連続でほんの誤差程度に下がっていたのだが、それは貧困問題が解決しつつあるからではない。

貧困の子供が微細に減ったのは、「少子化の影響が出てきた」からである。貧困が解消したからではないのは、文部科学省自身が認めている。

経済格差が定着し、富裕層と貧困層が分離して貧困層の数が増えているのに、子供の貧困が自然に解決するわけがない。社会が貧困者を拡大させている以上、子供の貧困も増えることになるのは必然だ。

就学援助を受ける子供たちは、親が生活保護を受けていたり、生活保護世帯に近い経済状況にあると見なされた子供が受けるものである。

服が買えない、教科書が買えない、ランドセルが買えない、制服が買えない、文房具が買えない、給食代が出せない子供たちが、就学援助でかろうじて救われている。

親の経済格差が子の教育格差につながっていくのだ

しかし、そうやって就学援助で環境を与えられても、それだけで低所得層の子供が学校で学力を発揮できるようになるわけではない。

最底辺の子供たちは食事に事欠くほどシビアだ。その親は子供に食べさせるだけでも精一杯であり、とても教育のための費用など捻出できない。

それは貧困層の子供たちが、塾に通うことができないことを意味している。

日本はコリア国際学園の理事をするような寺脇研のような人間が、日本の子供たちの学力を徹底的に低下させる「ゆとり教育」を推進していた。

(日本のゆとり教育と学力低下は韓国ロビーが仕掛けたという噂)
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2013/02/20130226T0634000900.html


日本の子供たちの学力を意図的に低下させようとして教育は劣化させられているのを察知した金のある親たちは、子供を塾に通わせてそれに対抗するようになった。

塾は無料ではない。指導方法によって年間20万円から100万円まで、場合によってはそれ以上かかるのだが、こうした金額は貧困層でなくても重いものだ。

そうは言っても学校の勉強だけでは子供たちの学力低下が深刻になるので塾通いをやめさせられない。良い大学を出ないと一流企業に入るのが難しいのも事実なので、親も必死になって子供の教育をサポートする。

ところが、貧困家庭の子供たちは最初から弾き飛ばされている。親が文房具すらも買って上げられないような貧困の中では、塾に行くどころの話ではない。

塾どころか学校に行くことですらも精一杯なのだ。

その差はじわじわと学力の差となってあらわれていく。時間をかけて良い教育を受けた子供たちは、何も受けていない子供たちを凌駕するのは当然だ。

つまり、親の資力の差で、子供たちの学力までもが決まっていく。そして、社会に出る前のスタート時点ですでに勝負が付いてしまうのである。

「親の経済格差が子の教育格差につながっていく」のは、否定できない現実である。子供にやる気があれば貧困であっても向上できるはずだと言うのはあまりにも無責任すぎる。


貧困の子供たちは、あらゆる場面で学びの場を失う

貧困の子供たちは、自分を向上させられる唯一の「細い糸」である学校でも孤立することが多い。

学校が終わった後に子供たち同士で遊びに行く中でも、貧困の子供たちは小遣いなどほとんど持っていないので、仲間と遊びに行っても、どこの店にも入れない。

自転車が買ってもらえなかったり、ゲーム機が買ってもらえなかったり、他にもちょっとした「仲間と同じ物」を所有することもできず、結局は疎外されていくことになっていく。

自分が仲間から外れていくこともあれば、お金を持っていないことを仲間にからかわれたりいじめられたりすることもある。子供の世界は残酷で容赦ない。

そうやって貧困の子供たちは「自分だけが違う」という意識の中で孤立していくことになる。

その結果、もう学校に行くこと自体が苦痛になって自ら学業放棄したり、ひきこもりになったり、逆に非行に走ったりして、表社会で活躍するための「細い糸」だった教育をプツリと切ってしまう。

貧困の子供たちは、家で勉強する環境もないことも多い。勉強部屋などないのは当たり前だ。だから、兄弟や親にしばしば勉強を邪魔されることになる。

親が四六時中テレビを大音量で流していると、子供も勉強よりもテレビに向いてしまうだろう。

親自身が教育で恩恵を受けたことがないために、教育に理解を持っていないこともある。

だから、じっと勉強している子供を見て「勉強なんかしても無駄だ」と冷たく言い放つこともあれば、「勉強している暇があれば親の用事を手伝え」と逆に勉強を中断させることすらもある。

親が子供に知識を与えられないことも多いので、子供に何か聞かれても「知らない」「うるさい」と追い払い、子供の勉強意欲を削いでテレビを見て笑っているような親も多い。

また、親が子供に悪態をついたり子供を放置したりすることもある。子供に満足な食事を与えないこともある。子供を虐待することもある。

そんな中で、子供の学力は伸びるだろうか?


就学困難が定着するようになっている現実は危険だ

子供の教育に理解のある親とない親では、必然的に子供の学力の差になってあらわれるのはここから来ている。

低所得層の子供が低所得になりやすいのは、社会の最底辺ではそこから抜け出すための環境が揃っていないからである。一つ二つの要因ではなく、日常のすべての環境が勉強から遠ざける環境になっている。

「親の経済格差が子の教育格差につながっていく」というのは冷徹な真実なのだ。

だから、高学歴・高収入の親を持つ子供たちが素直に学力を伸ばして親と同じく高学歴・高収入の道を歩み、有名大学は高学歴の親を持つ学生で溢れることになる。

一方で、低学歴・低収入の親を持つ子供たちは、学力を放棄し、学校をドロップアウトし、社会をドロップアウトし、低収入の仕事を転々とするようになり、社会の裏側に落ちていくことになってしまう。

低収入に甘んじて流されて生きている人たちは、もともと知能が足りなかったのではなく、知能を伸ばす教育から子供の段階で引き離されていたからという要因もある。

もっとも、人生はすっぱりと白か黒かで決まるものではない。つまり、高所得層の子供のすべてが成功してエリートになるわけではない。恵まれ過ぎて転落することもある。甘やかされて自滅する子供もいる。

逆に、低所得層の子供のすべてが貧困にあえぐわけではない。何もないところから、試行錯誤しながらバイタリティを武器に成り上がっていく逆転劇もある。

しかし、客観的に見れば、「金もない、塾もいけない、仲間からも孤立している、理解してくれる親も教師もいない、学歴もない、職歴もない、人脈もない、何もない」貧困の子供たちは、苦心惨憺の人生が待っているのが現実である。

だから、日本の底辺ではじわじわと貧困が拡大しており、子供にも経済格差による就学困難が定着するようになっている現実は危険なのだ。

潜在能力が引き出せない子供たちが増えるというのは、社会にとって大きな損失である。就学困難に落ちている約150万人の子供たちの中には、日本を代表する「何らかの天才」がいるかもしれないのだ。


この子に未来はあるのか。日本の底辺ではじわじわと貧困が拡大しており、子供にも経済格差による就学困難が定着するようになっている現実は危険だ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/10/20171007T1722010900.html


62. 中川隆[-6329] koaQ7Jey 2017年10月12日 09:50:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年10月12日【小浜逸郎】日本からはもうノーベル賞受賞者は出ない?
https://38news.jp/economy/11171

今年もノーベル賞が決まりました。

巷では、日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏が
受賞したというので評判になっています。

それは結構なことですが、
残念ながら自然科学部門では、
日本人受賞者がいませんでした。

この数年、物理学賞、化学賞、医学・生理学賞で
矢継ぎ早に日本人が受賞してきました。
ところが今年はゼロ。

ちなみに自然科学部門以外のノーベル賞は、
受賞した方や団体には失礼ですが、
あまりその価値が信用できません。
人文系は基準があやふやだからです。
特に平和賞はいいかげんですね。
でも自然科学部門では、かなり信用がおけます。

ところで、21世紀に入ってからの日本人受賞者は
自然科学部門で16人もいます。
毎年一人の割合ですね。


http://bit.ly/2wKVLxq

この人たちの受賞時の年齢を調べてその平均を出してみました。
すると、68歳と出ました。

これから、いささか悲観的な予測を述べます。

どの分野であれ人間が一番活躍するのは、
30代から50代にかけてでしょう。

日本のノーベル賞受賞者の方たちが研究に一心に打ち込んだのも、
おそらくこの年代だったと思われます。
ですからこの方たちがわき目もふらずに、
寝る間も惜しんで研究に没頭したのは、
おおよそ1970年代から2000年代初頭くらいと
いうことになります。

もちろん受賞時の年齢には相当なばらつきがありますので、
若くして受賞し、いまなお活躍されている方もいます。
しかし平均的にはそうだと思うのです。

ところで言うまでもないことですが、
長年研究に没頭するには膨大な研究費が要ります。
企業研究の場合は応用研究ですから、
その費用は企業がもってくれるでしょう。

しかしノーベル賞を受賞するような研究は、
多くの場合、大学や研究所に身を置いた基礎研究です。
すると、研究費を大学の研究資金や政府の補助金に
頼ることになります。

先ほど述べた1970年代から2000年代初頭という時期は、
日本が今日のような深刻な不況に陥っていない時期で、
間には、一億総中流のバブル期もありました。

調べてみますと、それ以後の失われた二十年の間に、
科学技術研究費の総額はそれほど減っているわけではありません。
しかし文科省の「科学技術関係予算等に関する資料」(平成26年)の
「主要国等の政府負担研究費割合の推移」
および「主要国等の基礎研究費割合の推移」
というグラフを見てください。


http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/034/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2014/04/21/1347062_03.pdf

八十年代初頭から、前者は下がり気味、後者はずっと横ばいです。
しかも他の先進国と比べるとたいへん低いことがわかります(前者では最低)。

このことは、政府が、
国家的な基礎研究にろくに投資してこなかったことを意味します。
それでも好景気の時は、民間や大学の資金がある程度潤沢だったのでしょう。

上の資料は2013年までのものですが、
その後、消費増税などもあり、デフレが深刻化しました。
内閣府が出している「科学技術関係予算」という資料の、
「【参考】科学技術関係予算の推移」というグラフを見ますと、
安倍政権成立以降、この予算がさらに削られていることがわかります。


http://bit.ly/2ya9DDa

大学でも、すぐ実用に適さない研究はどんどん削られる傾向にあります。
こうした傾向が続く限り、もう今後日本からは、
自然科学部門でのノーベル賞受賞者は出ないのではないか。
そう危惧せざるを得ないのです。

筆者は去る9月18日にある情報に触れ、愕然としました。
ノーベル賞受賞者で京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥さんが、
「ご支援のお願い」として寄付を募っているのです。
それだけならさほど驚きませんが、何と次のように書かれていました。

「iPS細胞実用化までの長い道のりを走る弊所の教職員は、9割以上が非正規雇用です。
これは、研究所の財源のほとんどが期限付きであることによるものです。」

とっさに「財務省よ! 竹中よ!」と、怒りがこみ上げてきました。

単年度会計、短期決戦での利益最大化。
長期的な見通しや雇用の安定など知ったことではない。
ノーベル賞級の基礎研究までが、この風潮の犠牲となっているのです。

こういう状態がこのまま続くと、日本の科学技術は、
確実に世界に遅れを取ってしまうでしょう。

寄付に頼るというのはやむを得ない手段と言えますが、
そこにばかり依存してしまうようになるとしたら切ない話です。
国民経済の立場からは、政府の間違った経済政策に対して
もっともっと怒りの声を発するべきなのです。
https://38news.jp/economy/11171


63. 中川隆[-6028] koaQ7Jey 2017年11月03日 16:06:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
内田樹の研究室 2017.11.03 大学教育は生き延びられるのか?

ご紹介いただきました、内田でございます。本日は、国立大学の教養教育の担当の人たちがお集まりになっていると伺いました。ずいぶんご苦労されてると思います。日々本当に胃が痛むような、苛立つような思いをしていらっしゃると思います。今回のご依頼をいただいたとき、かなり絶望的な話をしようと思ったんですけども、先ほどみんなを励ますようなことをお話しくださいと頼まれましたので、なんとか終わりの頃には少し希望が持てるような話にできればと思っています。

「大学教育は生き延びられるのか?」という問いの答えは「ノー」です。それは皆さん実感してると思います。大学教育は生き延びられるのか。生き延びられないです。今のまま状況では。

でも、仕方がないと言えば仕方がないのです。急激な人口減少局面にあり、経済成長の望みはまったくない。かつては学術的発信力でも、教育水準でも、日本の大学は東アジアの頂点にいましたけれ。でも今はもう中国やシンガポール、韓国にも台湾にも抜かれようとしている。急激に大学のレベルが下がっているのです。そして、急激に大学のレベルが国際的に低下していることについて、当の大学人たちにも教育行政の当局にもその自覚がない。これが危機の本質だと思います。

私は今もいくつかの大学で客員教授や理事をして、大学の現場とのかかわりを維持していますけれど、フルタイムの大学教員ではありません。ですから、好きなことを言わせてもらいいます。

正直に言って、日本の大学は、このままではもう先はないです。教育制度は惰性が強いですから、簡単には潰れはしません。民間企業のようにいきなり倒産するということはない。でも、じりじりと駄目になってゆく。長期停滞傾向が続いて、20年、30年経ったあたりで、もう本当に使い物にならなる。それでもまだ組織としてはもつでしょう。医療とか教育というのは「それがなくては共同体が存続しえない」本質的な制度ですから、最終的には現場にいる人たちが身体を張って守ります。ですから、どんなにシステムがおかしくなっても、公的な支援が途絶えても、それでもなんとか持続はします。でも、それはほんとうに現場の人が命を削ってもたせているからもっているのであって、公的制度としてはもう破綻している。ブラック企業と同じでです。フロントラインに立ってる生身の人間が必死になって現場を回しているわけで、その人たちがばたばた過労死しているおかげでかろうじてシステムの体をなしている。大学もそういう状況にいずれなりますし、局所的にはもうそうなっている。

医療の世界でかつて「立ち去り型サボタージュ」という言葉が使われました。小松秀樹さんの書かれた『医療崩壊』という本がその事実を明らかにしました。小松先生とは一度お会いしたことがありますけれど、その時に教えられたのは、「医療崩壊」というけれど、医療もやはり惰性の強いシステムなので、簡単には崩壊しないということでした。それは現場に立って医療の最前線を守っているドクターやナースは自分の健康や家庭生活を犠牲にしても医療を守ろうとするからです。そういう「業」を抱えた人が医療の現場に立っている。だから、制度的に破綻していても、簡単には崩壊しないんだ、と。でも、生身の人間ですから、彼らのオーバーアチーブメントに頼って支援の手当をせずに放置しておけば、いずれ一人倒れ二人倒れ、前線の維持が難しくなる。そういうお話でした。

10年ぐらい前に医療で起きたのと同じことが今、大学で起こっているような気がします。教育現場で働いてる人間を支援するという体制が国にも自治体にもメディアにも市民社会にもない。逆に、公的な制度やメディアが現場の教職員たちを追いつめている。精神的にも身体的にも「まだ働き方が足りない」と負荷をかけている。
それでもなんとか現場がもっているのは、教育に関わる人間もまた医療人と同じようにある種の「業」を抱えているからです。教員という職業を選ぶ人には一定の傾向性があります。医療を職業に選ぶ人たちと同じように、教員は学校という場が好きなんです。教室で若い人たちの前に立って何かを教えることが好きで、研究が好きで、アカデミアで異なる領域の知性と出会うことが好きで、という人が学校教育の場には引き寄せられてくる。だから、常軌を逸した負荷がかかっていても、なんとか踏みとどまろうとする。家庭生活や健康を犠牲にしても、自分の職域を守り抜こうとする。今の日本の大学がこれほど否定的環境にありながら、なんとか保っているのは、教育人たちのこの「業の深さ」のおかげです。

でも、生身の人間が蔵している生命資源は本来であれば他のことに使わなければいけないものです。一家団欒とか、文化活動とか。運動したり、遊んだり、自分の好きな研究をしたり、そういう本当にしたいことを断念して、その資源を学校の管理業務とか文科省の命じてくる意味のない作業に割かなければならない。

僕は選択定年制で大学を5年早く辞めたのですが、最大の理由は会議と書類書きが受忍限度を超えたからです。研究することも教育することも大好きなんですけれど、会議と書類書きが大嫌いでした。50代の途中からは6年間管理職でした。授業のない日に会議のためだけに登校するということが何度もありました。だから、あと5年いても、退職まで管理職が続くことがほぼ確実だったので、申し訳ないけれど60歳で退職しました。そういう意味では僕も「立ち去り型サボタージュ」の一人なんですよね。でも、これ以上いると、自分自身が干上がってしまうと思った。60歳になって、残りの人生のカウントダウンが始まったのに、まだやり残した仕事がたくさんある。研究の領域でもありましたし、武道家としてもやらなければならないことがたくさんありました。大学を守るためには現場に残って、僕も仲間たちと激務を分担しなければいけないということは理屈ではわかっていたのですが、会議と書類書きで自分の時間をこれ以上費やすことに耐えられなかったのです。その点では忸怩たる思いがあります。そうやって現場を棄てた人間の慚愧の思いを込めて、今日本の大学教育が一体どういうところにあるか、お話をしたいと思います。

まず具体的な実態から、お話します。2002年から日本の学術研究は質、量ともに国際競争力が低下しています。2015年の「人口あたり論文数」は世界37位。中国、台湾、韓国のはるか後塵を拝しています。現在の日本の学術的発信力はOECD諸国の中では最下位レベルです。

論文数の減少が著しいのが、かつて国際競争力が高かった分野だというのも気になります。工学系は2004年以降論文数が減少し、競争力は低下している。生命科学系、農学系、理学系も低下傾向です。社会科学系では論文数はそれほど減っていませんが、もともと国際競争力のない分野です。総体として、日本の大学の国際競争力は過去15年間下がり続けています。

でも、この「人口当たり論文数」が先進国最低という事実をメディアは報道したがりません。代わりによく報道するのが「教育に対する公的支出の比率」です。公的支出の中に占める教育費の割合は先進国最低。それも5年連続です。この事実についての反省の弁を政府部内から聞いた記憶が僕にはありません。この国の政府は教育研究の支援には関心がないということです。ですから、今のシステムが続く限り、教育に対する公的支出比率先進国最下位という定位置に日本はとどまり続けることになります。

なぜ、日本の大学の学術的発信力がこれほど急激に衰えたのか。僕は35年間大学の教壇に立ってきましたので、この経年変化を砂かぶりで観察してきました。はっきりした変化が始まったのは1991年の大学設置基準の大綱化からです。

誤解して欲しくないのですが、設置基準の大綱化そのものが研究教育能力の劣化をもたらしたわけではありません。大綱化を導入せざるを得なくなった歴史的な教育環境の変化があり、それが日本の大学の学術的な生産力を損なったのです。でも、これについて教育行政当局は何も分析していない。先進国の中で日本の大学教育のアウトカムが最低レベルにまで下がったという事実については「全部大学の責任」であり、教育行政には何の瑕疵もないという態度を貫いている。悪いのは文科省ではなくて大学であるわけですから、失敗の原因を探求するのも、対応策を講じるのも全部大学の自己責任であるという話になっている。ですから、文科省の仕事はそういう「できの悪い大学に罰を与える」ことに限定されている。そうやって毎年助成金を削り、学長に権限を集中させて教授会自治を否定し、大学の自由裁量権を奪い、自己評価自己点検作業を強要し、次から次への大学への課題を課して、研究教育のための時間を奪っておいて、その上で「どうして研究教育がうまくゆかないのか」について会議を開き、山のような報告書を書くことを義務づけている。

文科省は大学に自己評価を求めていますが、僕はまず文科省自身が自己評価する必要があると思います。過去25年間の教育行政を点検して、現状はどうか、なぜこんなことになったのか、どうすれば改善できるのか。大学に要求するより先に、文科省自身がPDCAサイクル回してみればいい。どんな点数がつくかみものです。

先ほど申し上げましたが、転換点は91年の大学設置基準の大綱化でした。それまでの日本の大学はよく言われる通り「護送船団方式」でした。いわゆる「親方日の丸」です。箸の上げ下ろしまでうるさく文部省が指図する代わりに、面倒は全部見る。そういう家父長制的な制度だった。

でも、大綱化によって、細かいことに関しては、大学の自由に任せようということになった。家父長的な制度がなくなって、大学が自由にカリキュラムを作ることができるようになったことそれ自体はたいへんよいことだったと僕は思います。当時も僕はこの方向性を歓迎しておりました。「自己決定・自己責任」でいいじゃないかと僕も思いました。でも、文科省が大学に自由を与え、権限委譲することに裏がないはずがない。実際にそれが意味したのは大学の淘汰を市場に委ねるということでした。

91年段階で、今後18歳人口が急激に減ってゆくことが予測されていました。60年代には250万人いた18歳人口は以後漸減して76年に156万まで減りましたが、その後V字回復して1992年に205万人に戻しました。そして、そこから減り続けた。2017年では120万人。25年間で40%減少したことになります。

大綱化は18歳人口がピークアウトして、以後急減局面に入り、増え過ぎた大学定員を満たすことが困難な局面に入るということがはっきりわかった時点で導入されました。これから大学の数を減らさなければいけないということは文科省(当時は文部省)にもわかっていました。もう護送船団方式は維持できない。文部省と大学はそれまで親鳥とひな鳥のような関係でした。親鳥はひな鳥を扶養する代わりにあらゆることについて口出しした。でも、親鳥が増え過ぎたひな鳥を扶養できない時代がもうすぐ来ることがわかった。護送船団のロジックからしたら、ひな鳥が死んだらそれは親鳥の責任になる。こんな弱い鳥を産んだお前が悪いということになる。でも、これから後、ひな鳥はばたばた死ぬ。だから、親鳥の仕事を放棄して、「これからは自己裁量で生き抜きなさい」と言い出した。なぜ、淘汰圧に耐えられないような高等教育機関をなぜ認可したのか。なぜそこに税金を投入したのか。そういう問いに対して文部省には備えがなかったからです。

でも、それはある意味では当然のことでした。明治の近代学制の導入以来、日本の教育行政の最大の使命は教育機会の増大だったからです。国民にいか多くの、良質な就学機会を提供するか、それが近代日本の教育行政の本務だった。だから、学校を増やすことを正当化するロジックでしたら教育官僚は無限に作り出すことができた。そして、実際にそのロジックを駆使して、国民の就学機会を増やし続けたのです。それは敗戦後も変わりませんでした。敗戦国日本は軍事力や外交力ではなく、むしろ経済力や教育力や学術的発信力によって国際社会に認知される道を進むべきだということについては国民的な合意が形成されていました。

だから、ある意味で文部省の仕事は簡単だったのです。でも、80年代になって難問に遭遇しました。18歳人口が減ることがわかってきたからです。しばらくは大学進学率の上昇が期待できるので、大学定員は満たせるだろうけれど、それもどこかで天井を打つ。そのあとは大学を減らさなければならない。でも、文科省にはどうやって教育機会を増やすかについての理屈はあるけれど、どうやって教育機会を減らすかのロジックがなかった。護送船団方式でそれまでやってきたわけですから、自分が認可し、自分が指図して育てて来た大学に対して「お前は失敗作だったから廃校しろ」というわけにはゆかない。製造者責任を問われるのは文部省自身だからです。

そこで大学の淘汰は市場に委ねるというアイディアに飛びついたのです。強者が生き残り、弱者は淘汰されるというのは市場では自明のことです。自分の生んで育てたひな鳥を殺す仕事を親鳥は放棄して、市場に丸投げしたのです。これが91年の大学設置基準大綱化の歴史的な意味です。これは明治維新以降の教育行政の決定的な転換点でした。でも、その時点では僕も僕のまわりの大学人も、この変化の歴史的意味に気づいていなかった。18歳人口が減ってゆく以上、大学が生き残りをかけてそれぞれに創意工夫を凝らすことは「当たり前」のことであり、その淘汰プロセスで大学教育研究の質は向上するに違いないと、僕も信じておりました。

けれども、この期待はまったく外れてしまった。市場に委ねるということは、それぞれの大学に好き勝手なことをしてくれということではなかったのです。というのは、求められたのは、どの大学が「要らない大学」であるか可視化することだったからです。そのためにはシンプルでわかりやすい指標に基づいて大学を格付けしなければならない。市場はそれを要求してきたのです。

この場合の「市場」というのは、どの大学のどの学部を受験するか選ぶ志願者たちとその保護者のことであり、また彼らが就職する先の企業のことです。志願者と保護者が求めたのは「そこを卒業すると、どれくらいの年収や地位が期待できるか」についての情報であり、採用先が求めたのは「そこを卒業した労働者にはどれくらいの能力と忠誠心を期待できるか」についての情報でした。

大綱化というのは自由化のことだと僕は勘違いしていました。でも、そうではなかったんです。それは「どの大学から順番に淘汰されてゆくかを可視化して、市場に開示せよ」ということだったのです。

僕は大学のカリキュラムの自由化によって、それぞれ日本中の大学が、それぞれの教育理念と教育方法を持ち、それぞれの教育プログラムを編成して、それぞれ異なる達成目標をめざすということになると思い込んでいた。でも、大綱化から後、大学に求められたのは均質化・同質化でした。「自由に競争してよい」というものの、その競争の結果出てくる優劣の差はわかりやすい仕方で表示されなければならない。それは競争することは自由になったけれど、教育や研究のあり方が自由になったわけではない。むしろそれはより不自由なものにならざるを得なかった。というのは、格付けのためには全ての大学の活動を同じ「ものさし」で考量する必要があったからです。格付けというのはそういうことです。複数の教育機関の優劣を判定するためには、同じ「ものさし」をあてがって差を数値的に表示しなければならない。入学者の偏差値であるとか、就職率であるとか、卒業時点でのTOEICスコアであるとか、そういう共通性の高い「ものさし」を当ててみせないと大学間の優劣は可視化できない。そして、そのためにはものさしが当てやすいように教育内容を揃えることが全大学に求められることになった。

まことに逆説的なことですけれど、「好きにやってよい。その結果について格付けをする」と言われたのだけれど、よく考えてみたら「同じようなことをしないと格付けができない」以上、日本中の大学が自発的に相互模倣する他ないという倒錯的な事態が生じることになったのでした。

でも、それと同じことはすでに研究領域でも起きていたのでした。若い研究者たちは専任のポストを求めて競争することを強いられています。でも、研究領域がばらばらで、テーマがばらばらで、研究方法もばらばらだと、研究成果の優劣は確定しがたい。それよりは、研究者たちができるだけ同じ研究領域に集中して、同じ研究方法で、同じ研究課題に取り組んでいてもらう方がひとりひとりの出来不出来を比較しやすい。当然です。その結果、若い研究者たちを競争的環境に投じたら、研究者ができるだけたくさんいる領域を選んで専攻するようになった。誰も手がけない、前人未到の領域こそが本来なら研究者の知的関心を掻き立てるはずですけれど、そういう領域に踏み込むと「研究成果が査定不能」というリスクを負うことになる。「格付け不能」というのは市場からすると「無価値」と同義です。だから、リスクを避ける秀才たちは「誰も手がけない領域」ではなく「競争相手で混み合っている領域」に頭から突っ込んでゆくようになった。そうやって日本の学術研究の多様性は短期間に急激に失われていったのでした。

部分的に見ると適切なように見えるものも、少し広めのタイムスパンの中に置き換えると不適切であり有害であるということがあります。大学の格付けというのは、まさにそのようなものでした。大学の優劣を可視化するという社会的要請はそれだけ見れば合理的なものに思えますけれど、その帰結が大学の均質化と研究成果の劣化だったとすれば全体的には不適切なものだったという他ない。

自己評価というのも今ではどこの大学も当たり前のようにやっていますけれど、そもそも何のために自己評価活動が要るのかというおおもとのところに還って考えるということをしていないので、膨大な無駄が生じている。はっきり言って、こんなものは日本の大学には不要なものです。でも、アメリカでは大学の評価活動を熱心に行っているから日本でもやろうということになった。それは社会の中における大学のありようが日米では全然違うということがわかっていないから起きた重大な誤解です。

アメリカの大学の中にはとても大学とは言い難いようなものがたくさんあります。大学設置基準が日本とは違うからです。アメリカの場合、ビルの一室、私書箱一つでも大学が開校できる。校地面積であるとか、教員数であるとか、蔵書数であるとか、そういうことについてうるさい縛りがない。教育活動としての実態がないのだけれど、「大学」を名乗っている機関がある。そういう大学のことをDegree millとか、Diploma millと呼びます。「学位工場」です。学士号や修士号や博士号を単なる商品として売るのです。

学位工場はアメリカの商習慣から言うと違法ではありません。というのは、一方には金を出せば学位を売るという大学があり、他方には金を出して学位を買いたいという消費者がいて、需給の要請が一致してるからです。売り買いされているものが無価値な、ジャンクな商品だということは売る側も買う側も知っている。無価値なものを売り買いしており、その価格が適正だと双方が思っているなら、法的な規制はかけられない。そうやってアメリカ国内には無数の学位工場が存在している。
そこでアメリカの「まともな大学」が集まって、「まともな大学」と「学位工場」の差別化をはかった。でも、「学位工場」のブラックリストを作ることはできません。それは彼らの営業を妨害することになり、場合によっては巨額の賠償請求を求められるリスクがあるからです。合法的に経営されている企業の活動を妨害するわけにはゆかない。だから、「この学校はインチキですよ。この大学の出している修士号とか博士号とかはほんとうは無価値なんですよ」ということはアナウンスできない。できるのは「私たちはまともな大学であり、私たちの出す学位は信頼性があります」という自己主張だけです。でも、自分ひとりで「うちはまともです」と言っても十分な信頼性がない。だから、世間に名の通った「まともな大学」を集めて、「まともな大学同士でお互いの品質保証をし合う」という「ホワイトリスト」の仕組みを作った。それが相互評価です。

でも、日本にはそんな相互評価の必要性なんかありませんでした。だって、学位工場なんか存在しなかったからです。日本の大学は厳しい設置基準をクリアしてきて創立されたもので、教育しないで、学位を金で売るようなインチキな大学は存在する余地がなかった。

でも、確かにある時点からそれが必要になってきた。それは小泉内閣以後の「規制緩和」によって、大学の設置基準も緩和されたからです。厳しい設置基準審査は割愛する。その大学が存在するだけの価値があるかどうかの判定は市場に委ねる。「事前審査」から「事後評価」へというこの流れは「護送船団方式」から「市場へ丸投げ」という大綱化と同じ文脈で登場してきました。

2003年に規制緩和路線の中で株式会社立大学が登場しました。「構造改革特区」においては学校法人ではなく、株式会社にも学校経営への参入が容認されたのです。それ以前は私立学校の設立母体となることができるのは学校法人だけでした。規制緩和によって、2004年から続々と株式会社立大学が設立されました。でも、株式会社立大学のその後はかなり悲惨なものでした。

全国14キャンパスを展開したLECリーガルマインド大学は2009年度に学部が募集停止。2006年開学のLCA大学院大学も2009年に募集停止。TAC大学院大学、WAO大学院大学は申請に至らず。ビジネス・ブレークスルー大学は2012年度の大学基準協会の大学認証評価で「不適合」判定を受けました。実質的に専任教員が置かれていないこと、研究を支援・促進する仕組みが整備されていないこと、自己点検評価・第三者評価の結果を組織改善・向上に結びつける仕組みが機能していないことなどが指摘されましたが、これは経営破綻に至った他の株式会社立大学にも共通していたことでした。

でも、僕はこの失敗についても株式会社立大学を推進した人々からまともな反省の弁を聞いたことがありません。導入時点では、財界人たちからは、大学の教員というのはビジネスを知らない、マーケットの仕組みが分かってない、組織マネジメントができていない、だから駄目なんだということがうるさく言われました。生き馬の目を抜くマーケットで成功している本物のビジネスマンが大学を経営すれば大成功するに決まっているという触れ込みでしたが、蓋を開けてみたらほとんど全部失敗した。それについても、なぜ失敗したのかについて真剣な反省の弁を聞いたことがありません。誰の口からも。もし大学人に足りないのはビジネスマインドだというのが本当なら、この「ビジネスマン」たちもかなりビジネスマインドに致命的な欠陥を抱えていたということになります。でも、それよりむしろ学校教育に市場原理を持ち込むという発想そのものに誤りがあったのだと僕は思います。

これらの出来事はすべて同一の文脈の中で生起したことです。これらの出来事に伏流しているのは「市場は間違えない」という信憑です。学校教育の良否を判定するのは市場であると考えたビジネスマンたちは、消費者が喜びそうな教育商品・教育サービスを展開すれば、必ず学生たちは集まってくると考えました。株式会社立大学はいろいろな手で志願者を集めましたが、それは商品を売る場合と同じ考え方に基づくものでした。駅前で足の便がいいとか、スクーリングなくて一度も登校しなくても学位が取れるとか。でも、消費者を引き付けようとするなら、最終的に一番魅力的な訴えは「うちは勉強しなくても学位が取れます」ということになる。そうならざるを得ない。市場モデルでは、学習努力が貨幣、単位や学位が商品とみなされます。最も安価で商品を提供できるのがよい企業だという図式をそのまま学校教育に適用すれば、学習努力がゼロで学位が取れる学校が一番いい学校だということになる。実際に、そう信じて株式会社立大学の経営者たちは専任教員を雇わず、ビデオを流してコストカットに励み、学生たちには「最低の学習努力で卒業できます」と宣伝した。それは学位工場に限りなく近いかたちの大学を日本にも創り出そうとしたということです。でも、幸いにもその企ては成功しなかった。果たしてその失敗の経験から、株式会社立大学の導入を進めた人々は一体何を学んだのか。たぶん何も学んでいないと思います。今も「大学では実学を教えろ」とか「実務経験者を教授にしろ」と言い立てている人はいくらもいます。彼らの記憶の中では株式会社立大学のことはたぶん「なかったこと」になっているのでしょう。

その後に登場してきたのが「グローバル教育」です。これも表向きは経済のグローバル化に対応して云々ということになっていますけれど、実態は格付けのためです。大学の優劣をどうやって数値的に可視化するかということが90年代以降の文科省の教育行政の最優先の課題でしたけれど、グローバル教育はまさにそのためのものでした。つまり、「グローバル化度」という数値によって全大学を格付けすることにしたのです。これはたしかに賢い方法でした。「グローバル化度」は簡単に数値的に表示できるからです。受け入れ留学生数、派遣留学生数、海外提携校数、英語で行っている授業のコマ数、外国人教員数、TOEICのスコア・・・これは全部数値です。これらの数値のそれぞれにしかるべき指数を乗じると、その大学の「グローバル化度」がはじき出される。電卓一つあれば、大学の「グローバル化度」は計算できる。

でも、留学生の数とか、海外提携校の数とか、外国人教員数とか、英語での授業の数は大学の研究教育の質とは実際には何の関係もありません。今の日本の大学生は日本語での授業でさえ十分に理解しているとは言い難い。それを英語で行うことによって彼らの学力が向上するという見通しに僕はまったく同意できません。

今、どこの大学でも「一年間留学を義務づける」ということが「グローバル化度」ポイントを上げるために導入されています。学生からは授業料を徴収しておいて、授業は海外の大学に丸投げして、先方が請求してくる授業料との「さや」を取る。何もしないで金が入ってくるのですから、大学としては笑いが止まらない。25%の学生が不在なのですから、光熱費もかからない、トイレットペーパーの消費量も減る、教職員もその分削減できる。いいことづくめです。そのうち「いっそ2年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出す知恵者が出てくるでしょう。さらにコストカットが進んで利益が出る。すると誰かさらに知恵のある者が「いっそ4年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出すかもしれない。そうしたら校舎も要らないし、教職員も要らない。管理コストはゼロになる。でも、そのときは大学ももう存在しない。でも、自分たちがそういうふうに足元を掘り崩すようなリスクを冒しているということを、この「グローバル教育」推進者たちはたぶん気づいていないような気がします。

シラバスというのも、そのような学校教育への市場原理の侵入の一つの徴候です。もちろんそれまでも授業便覧・学修便覧は存在していたわけですけれど、シラバスはそれとは性格がまったく違います。あれは工業製品につける「仕様書」だからです。含有物質は何か、どういう規格に従って製造されたのか、どういう効用があるのか、そういう情報を消費者に開示するためのものです。ある意味では契約書です。「こういう授業をいついつにする」と教師は約束する。学生はそれが履行されることを教師に要求できる。予定通りに授業をしなかった場合、所期の学習効果が得られなかった場合、学生は教師に対して「契約不履行」でクレームをつけて、謝罪なり補講なりを請求できる。そういう趣旨のものです。

でも、大学の授業は工業製品じゃありません。本来は生身の教師が生身の学生たちの前に立ったときにその場で一回的に生成するものです。そこで教師が語る言葉にはそれまで生きてきて学んだこと、経験したこと、感じたことのすべてが断片的には含まれている。それが何の役に立つのか、そんなことは教師にだって予見不能です。どうしてこの科目を履修することになったのかは学生にだってわからない。学んだことの意味がわかるのは、場合によっては何年も、何十年もあとになることさえある。そういうものです。

スティーヴン・ジョブズは大学時代にたまたま「カリグラフィー(書法)」の授業を履修しました。どうしてそんな趣味的な授業を自分が毎週聴いているのか当時は理由がよくわからなかった。でも、何年か経ってスティーヴ・ウォズニアックと最初のマッキントッシュを設計したときに、フォントの選択と字間調整機能を標準装備として搭載したときに大学時代に「美しい文字を書く」授業を受けたこととの関連に気がついた。

授業がどういう教育効果をひとりひとりの学生にもたらすことになるのか、それは教師にも学生自身にも予見できません。もちろんシラバスに適当なことを書くことはできます。でも、シラバスを目を皿のようにして読んで履修科目を選ぶ学生なんて、実際にはいません。このコマが空いているからとか、友だちが受講しているからとか、この先生面白そうだからとか、試験がなくてレポートだけだからとか、そういう理由で履修科目を選んでいる。

私が在職中にとった統計でわかったことは「シラバス通りに授業をしているかどうか」ということと学生の授業満足度の間には統計的に有意な連関がないということでした。それ以外のすべての質問は学生の授業満足度と相関がありました。「時間通りに授業を始めるか?」とか「板書が見やすいか?」とか「十分な準備をして授業に臨んでいるか?」といった問いは満足度と相関していました。でも、全部の質問の中でただ一つだけ何の相関もない質問がありました。それが「シラバス通りに授業をしているか?」です。学生たちはシラバス通りに授業が行われることに特段の重要性を認めていない。それはアンケートの統計的処理の結果でも、僕の教壇での実感でもそうです。

だから、「シラバスを細かく書け」という文科省からの命令を僕は無視しました。だって意味がないんだから。いやしくもこちらは学者です。論理的にものを考えるのが商売です。シラバスを事細かに書くと授業効果が上がるということについて実証的根拠があるなら、それを示してくれればいいだけの話です。それを示さずに、もっと細かく書けとか英語で書けとか同僚の教員同士でチェックし合えとか、どんどん作業を増やしてきたのです。

僕が教務部長のときにうちの大学のシラバスに「精粗がある」という理由で助成金の減額が告げられました。これは教育行政として自殺行為だと僕は思いました。シラバスを書かせたかったら「それには教育効果がある」という理由を示せばいい。何の教育効果があるのか命令している文科省が知らない作業を現場に頭ごなしに命令して、違反者に処罰を課す。それも「助成金の減額」という「金目の話」に落とし込んできた。僕はこれを「教育行政の自殺」だと言ったのです。仮にも大学教育ですよ。文科省は「大学の教員というのは『金を削る』と脅したら意味がない仕事でも平気でやる生き物だ」という人間観を公然と明らかにしているわけです。財務省あたりが言うならわかりもするが、教育行政を担当する省庁が「人間は金で動く」という人間観を本人も信じ、人にも信じさせようとしていることを少しは恥ずかしいと思わないのか。まことに情けない気持ちがしました。

シラバスは氷山の一角です。大学人全体がこういうやり方にいつの間にかなじんでしまった。意味がないとわかっていることでも、「文科省がやれと言ってきたから」というだけの理由でやる。意味のないことのために長い時間をかけて会議をして、分厚い書類を書いて、教職員たちが身を削っている。腹が立つのはそれが「大学における教育研究の質を高めるため」という大義名分を掲げて命じられていることです。教員の教育研究のための時間を削って、体力を奪っておいて、どうやって教育研究の質を上げようというのです。

問題はこの理不尽に大学人が「なじんでいる」ということだと思います。仮にも学術を研究し、教育している人たちが「理不尽な命令」に対して、「逆らうと金がもらえないから」というような俗な理由で屈服するということはあってはならないんじゃないかと僕は思います。無意味なこと、不条理なことに対して耐性ができてしまって、反応しなくなったら、悪いけど学者として終わりでしょう。目の前で明らかに不合理なことが行われているのに、「いや、世の中そんなもんだよ」とスルーできるような人間に科学とか知性とかについてっ僕は語って欲しくない。

今、日本中の大学でやっていますけれど、評価活動というのはナンセンスなんです。何度も申し上げますけれど、無意味なんです。これは自らの失敗を踏まえて申し上げているんです。神戸女学院大学に教員評価システム導入の旗振りをしたのは僕です。当時、評価に関するさまざまなセミナーや講演に出ました。製造業の人から品質管理についての話も聞きました。そういう仕組みを大学にも導入すべきだと、もっとビジネスライクに大学のシステムを管理しなければいけないと、その頃は信じていたのです。でも、はじめてすぐに失敗だということに気づきました。

僕が考えたのは、大学内の全教員の研究教育学務での活動を数値化して公表し、それに基づいて教員の格付けを行い、予算配分や昇級昇格に反映させるというものでした。さすがに教授会では昇級昇格に反映させるという僕の案は否決されましたけれど、教員たちの評価を各学科・部署の予算配分に反映させるというところまでは同意をとりつけました。

僕は教員の個人的な評価なんて簡単にできると思っていたのです。教育だったら、担当クラス数とか、ゼミで指導している学生数、論文指導している院生数などを数値化して、それを足せばいい。研究だったら年間にどれくらい論文を書いているか、レフェリー付きのジャーナルに書いているのか紀要に書いているのかで点をつける。学務は管理職なら何点、学部長なら何点、入試委員なら何点、というふうに拘束時間の長さや責任の重さで配点を変える。それを電卓一つで叩けば年間の教員の活動評価なんか出せると思っていたんです。でも、それが短慮でした。

配点を決める委員会でいきなり引っ掛かったのが著作でした。単著一つで何点と決めるときに、同僚から待ったがかかった。「年間5冊も6冊も書き飛ばした本と、20年かかって書いた1冊では価値が違う。それが同じ配点というのはおかしい」と言われた。これはおっしゃる通りなんです。年間5,6冊書き飛ばしているというのはもちろん僕のことなんですが、その1冊と、その先生が20年かけて書き上げた畢生の労作d1冊を同点にするのはおかしいと言われたら、たしかにおかしい。でも、そう言われたら全部そうなんです。授業を何コマ担当しているかと言っても、「ウチダ君のように何の準備もしないで、その場で思いついた話をぺらぺら漫談のようにして90分終わらせる教員」と何時間も真剣に下準備をしてから教場に出かける教員の1コマが同じ1コマとして扱われるのは不当である。内容の違いを配点に反映させろと言われたら、こちらはぐうの音もありません。ほんとうなんだから。
何より、気の毒だったのは、教員たちの実際の働きや貢献度を公的な立場から採点することを求められた方々です。だって、そういう人たちはすでに学部長とか学長とかしているわけです。そういう役職に選ばれる人たちというのは教育面でも学生の面倒見がよくて、研究でも高いアクティヴィティを誇っている方々です。そういうただでさえ忙しい人たちに同僚の査定をするという余計な仕事を押しつけることになった。評価活動というのは、そもそも研究教育を効率的に行い、質の向上を果たすために導入したものです。でも、やってみてわかったのは、そんなことのために査定システムを考案したり、合意形成をもとめて会議をしたり、あれこれ書類を書いたりしていたら、それは全部研究教育学務のための時間に食い込んでくるということでした。評価コストは評価がもたらすベネフィットを超える。研究教育の向上のための評価が研究教育の劣化をもたらすという事実に、僕は評価活動をはじめて半年ほどで気がつきました。

僕が教員評価にこだわったのは、教員の中に、あきらかに給料分の働きをしていない教員たちがいたからです。ろくに仕事をしないで高給を食んでいる人たちが手を抜いているせいで、学務の負担が他の教員に回ってくる。さぼる教員のせいで、他の教員たちの研究教育の時間が削られている。それがどうしても許せなかった。そういう怠け者をあぶり出して、仕事をさせなくちゃいけないと思って、教員を管理する仕組みを考えたのです。

でも、これはまったく失敗だった。だって、怠け者の教員というのは評価しようとしまいと関係ないからです。休日を返上してセクハラ講習会を開いても、セクハラ教員はそういう講習会には来ないのと一緒です。絶対にセクハラなんかしそうもない人たちだけが集まってまじめに研修している。そういうのは時間の無駄なんです。働かない人は評価システムがあろうがなかろうが働かない。せいぜい給料分ぎりぎりしか働かない。でも、評価システムを制度設計し、立ち上げ、維持運営するために、これまで研究教育で高い成果を上げて来た教員たちの時間と労力を奪うことになった。この人たちはこれまでもらう給料の何倍もオーバーアチーブしていたわけですけれど、その人たちの足をひっぱることになった。だから、評価システムの導入は、トータルでは、大学全体の研究教育のパフォーマンスを下げることにしかならなかった。

国立大学の場合はもっと悲惨です。独立行政法人化から後、日本の大学の学術発信力は一気に低下しましたけれど、それも当然なんです。法人化があって、学部改組があって、カリキュラム改革があって、そこに自己評価や相互評価が入ってきて、次はCOEだとかRU11だとかグローバル人材教育とか、ついには英語で授業やれとか言われて、この15年くらいずっとそういうことに追い回されてきたわけです。そういう仕事を担当するのは、どこの大学でも30代40代の仕事の早い教員たちです。頭がよくて手際のよい教員たちが、そういう「雑務」を押しつけられた。会議とペーパーワークだけで研究者として脂の乗り切る10年間を空費してしまったという教員が日本中の国立大学に何百人となくいるのです。この人たちがその時間を研究教育に充てていたら、どれぐらいの学的達成が蓄積されたか、それを思うと失ったものの大きさに言葉を失います。

今は定年前に辞める教員がどこの大学でも増えています。専任教員として教えなくても、授業だけすればいいという特任教員の給与や著述での収入だけで生活が成り立つという人はそういう方を選んでしまう。だって、あまりにばかばかしいから。グローバル人材育成と称して、今はどこでも英語で授業をやれというプレッシャーがかかっている。どう考えても、日本人の学生相手に日本人の教員が英語で授業やることに意味があるとは思えない。

実際にそういう大学で働いている人に聞きましたけれど、オール・イングリッシュで授業をするとクラスがたちまち階層化されるんだそうです。一番上がネイティヴ、二番目が帰国子女、一番下が日本の中学高校で英語を習った学生。発音のよい順に知的階層が出来て、いくら教員が必死に英語で話しても、ネイティヴが流暢な英語でそれに反対意見を述べると、教室の風向きが一斉にネイティヴに肩入れするのがわかるんだそうです。コンテンツの当否よりも英語の発音の方が知的な位階差の形成に関与している。

これも英語で授業をしている学部の先生からうかがった話ですけれど、ゼミの選択のときに、学生たちはいろいろな先生の研究室を訪ねて、しばらくおしゃべりをする。その先生のところに来たある学生はしばらく話したあとさらっと「先生、英語の発音悪いから、僕このゼミはとりません」と言ったそうです。その方、日本を代表する批評家なんですけれど、学生はその名前も知らなかった。

そういうことが今実際に起きているわけです。ではなぜこんなに英語の能力を好むというと、英語のオーラルが教員の持っている能力の中で最も格付けしやすいからです。一瞬で分かる。それ以外の、その人の学殖の深さや見識の高さは短い時間ではわからない。でも、英語の発音がネイティヴのものか、後天的に学習したものかは1秒でわかる。

『マイ・フェア・レディ』では、言語学者のヒギンズ教授が出会う人たち一人一人の出自をぴたぴたと当てるところから話が始まります。『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショーの『ピグマリオン』という戯曲です。ショーはヒギンズ教授の口を通して、イギリスでは、誰でも一言口を開いた瞬間に出身地も、職業も、所属階層も分かってしまうということを「言語による差別化」(verbal distinction)としてきびしく告発させます。ヒギンズ教授は誰でも口を開いて発語したとたんに、その出身地も学歴も所属階級もわかってしまうというイギリスの言語状況を批判するためにそういう曲芸的なことをしてみせたのです。すべてのイギリス人は同じ「美しい英語」を話すべきであって、口を開いた瞬間に差別化が達成されるような言語状況は乗り越えられねばならない、と。だから、すさまじいコックニー訛りで話す花売り娘のイライザに「美しい英語」を教えて、出身階層の軛から脱出させるという難事業に取り組むことになるのです。

でも、今日本でやろうとしているのは、まさにヒギンズ教授がしようとしたことの逆方向を目指している。口を開いた瞬間に「グローバル度」の差が可視化されるように英語のオーラル能力を知的優越性の指標に使おうとしているんですから。それは別に、英語がネイティヴのように流暢に話せると知的に生産的だからということではなく、オーラル能力で階層化するのが一番正確で、一番コストがかからないからです。

日本中の大学が「グローバル化」と称して英語教育、それも会話に教育資源の相当部分を費やすのは、そうすれば知的生産性が向上するという見込みがあるからではないんです。知的な生産性という点から言ったら、大学ではできるだけ多くの外国語が履修される方がいい。国際理解ということを考えたら、あるいはもっと現実的に国際社会で起きていることを理解しようと望むなら、英会話習得に教育資源を集中させるよりは、外国語履修者が中国語やドイツ語やトルコ語やアラビア語などに散らばった方がいいに決まっている。でも、そういう必要な外国語の履修については何のインセンティブも用意されていない。それは、英語の履修目的が異文化理解や異文化とのコミュニケーションのためである以上に格付けのためのものだからです。

TOEICはおそらく大学で教えられているすべての教科の中で最も格付けが客観的で精密なテストです。だからみんなそのスコアを競うわけです。競争相手が多ければ多いほど優劣の精度は高まる。前に申し上げた通りです。だから、精密な格付けを求めれば求めるほど、若い人たちは同じ領域にひしめくようになる。「誰でもできること」を「きわだってうまくできる」ことの方が「できる人があまりいないこと」を「そこそこできる」ことよりも高く評価される。格付けに基づいて資源分配する競争的な社会は必然的に均質的な社会になる。そうやって日本中の大学は規格化、均質化し、定型化していった。

若い人たちは今でも地方を出て東京に行きたがります。そして、ミュージシャンだったり俳優だったり、カメラマンだったり、デザイナーだったり、とにかく才能のある人が集まっているところに行きたがる。それは精密な査定を求めてそうしているのです。故郷の街にいて、どれほどまわりから「町で一番才能がある」と言われても、それでは納得できないのです。もっと広いところで、たくさん競争相手がいるところに出てゆきたい。正確な格付けを求めてそうするのです。競争相手がたくさんいる領域に突っ込んでいって、低い格付けをされても、それは自分のようなことをしている人間が自分ひとりしかいない環境で、格付けされないでいるよりはまだましなんです。狭いところで「あなたは余人を以ては代え難い」と言われることよりも、広いところで「あなたの替えはいくらでもいる」と言われる方を求める。それは自分の唯一無二性よりも自分のカテゴリー内順位の方が自分のアイデンティティを基礎づけると彼らが信じているからです。「そんなことをしているのは自分しかいない」という状態が不安で仕方がないのです。「みんなやっていることを自分もやっている」方がいいのです。たとえどれほど低くても、精度の高い格付けを受けている方が安心できるのです。これは現代日本人が罹患している病です。そして、日本の大学もまたそれと同じ病に罹っている。

大学に格付けを要求するのは社会全体からの要請です。あなたの大学がどういう大学であるのかは、「他の大学を以ては代え難い」ところの唯一無二の個性によってではなく、日本のすべての大学を含む単一のランキングにおいて何位であるかによって決定される、そういう考え方に日本中が同意しているのです。そのせいで、大学の多様性が失われた。本当にユニークな研究教育活動は比較考量ができませんから、格付けすると「評価不能」としてゼロ査定される。研究教育活動がユニークであればあるほど評価が下がるという仕組みがもう出来上がっているのです。そのせいで日本の大学の学術的発信力は致死的なレベルにまで低下している。しかし、文科省はその学術的発信力の低下を「グローバル化が不十分だから。実学への資源投資が不十分だから」という理由で説明して、さらに全国の大学を均質化し、規格化し、競争を激化させ、格付けを精密にしようとしている。その結果、ますますユニークな研究教育のための場所は失われている。

そんなことをしているんですから、日本の大学に未来がないのは当然なんです。多様なできごとが無秩序に生起している場所でのみ、それらのうちで最も「生き延びる」確率の高いものが際立ってくる。

「ランダムさのないところに新たなものは生じない」(Without the random, there can be no new thing)。

これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。日本の大学教育はまさにその逆の方向に向かって進んでいる。でも、すべてが規格化され、単一の「ものさし」で比較考量され、格付けされるところからは、いかなる新しいものも生まれません。
教育の目的というのは、一言にして尽くせば、どうやって若い同胞たちの成熟を支援するか、それだけです。格付けとは何の関係もない。精密な格付けをすれば、若い人たちがどんどん知性的・感性的に成熟するというエビデンスがあるというのなら、大学からイノベーティヴな発見が次々世界に向けて発信されているというエビデンスがあるというのなら、格付けしたって結構です。でも、そんなエビデンスはどこにもありません。あるのは、大学が評価や査定や格付けにかまけてきた間に日本の大学の学術的発信力は先進国最低レベルに低下したという冷厳な事実だけです。

今、子どもたちの貧困が大きな社会問題になっていますけれど、貧困層の再生産には残念ながら子どもたち自身も消極的には加担してるんです。それは貧困層の人たちに対しては学校でも地域社会でも、「貧乏人らしくふるまえ」という強いプレッシャーがあるからです。貧しい人間は身を縮めて生きるべきだ、イノベーションを担ったり、リーダーシップをとったりすることは許されない。そういう考え方を持つ人が多数派です。そして、貧困層自身も、そういう社会観を自身のうちに内面化してしまっている。自分は貧しいのだから、楽しそうに生きてはいけない。明るくふるまってはいけない。新しいアイディアを提出してはいけない。リーダーシップをとってはいけない、そういう外部からの禁圧をそのまま内面化してしまっている。

以前、ある子育て中の母親がそう訴えていました。その人はシングルマザーで、確かに生活は苦しい。本当なら、親が貧しいことと子どもたちがのびのびと暮らすことの間には関係ないはずなのだけれど、貧しいというだけで、子どもたち自身が委縮してる。貧しい人間はにこにこしてはいけないと思っている。貧しくて不幸だという顔をしなくてはいけない。周囲がそういうふるまいを期待しているので、子どもたちはそれに応えてしまっているんじゃないか、と。

これは例えば生活保護を受けてる人がパチンコやったら許さないとか、芝居や映画見に行ったら怒るとかいうのと同じですね。主婦が子どもを保育園に預けて演劇見に行ったら、「ふざけるな」と怒鳴る人がいる。意地悪なんです。それが社会的なフェアネスだと本気で思って、意地悪をする。異常ですよ、皆さん。でも、日本はもうそういう異常な人が自分のことを「異常」だと思わないくらいに異常な社会になっているんです。

同じことが大学生自身にも起きている。低いランク付けをされると、自動的に自己評価も下方修正してしまう。あなた方はランクが低いんだから、もっとおどおどしなさい、もっといじけなさいって言われると、大学生の方も納得してしまって、おどおどして、いじけるようになる。格付けのせいで、いじけて、怯えて、自己評価を下げて、自分には何もたいしたことなんかできやしないと思っている若者たちを今の日本社会は大量に生み出しています。そんな人たちがどうして未来の日本を支えてゆくことができるでしょう。

冒頭に結論を申し上げましたけど、とにかく日本の大学は、今行われているような仕組みを是認されるのであれば、先はないです。日本の大学は滅びます、遠からず。どこかで抵抗するしかありません。「もういい加減にしてくれ」って、声を上げるべきです。文科省だってそんなにバカばかりじゃない。官僚の中には過去25年間の教育行政がことごとく失敗だったということを素直に認める人だってきっといると思います。でも、役人はその性として「間違えました」「すみません」とは言いません。

だから、大学側で声を合わせて言うしかないんです。国立大学の先生は立場上なかなか声を出しにくいかも知れませんけれど、でも声を出して欲しい。どうしたら教職員がイノベーティブになれるか。どうしたらキャンパスの中がもっと明るくなるか。教職員も学生も笑顔でいて、知的な刺激に満ちている環境をどうやって作るか。それについて考える事が最優先の課題だと僕は思います。

このまま手をつかねていたら、日本の大学は滅びます。皆さんが生活を犠牲にして、命を削って、大学のフロントラインを死守していることを僕はよく存じていますし、それに対して敬意も持ってます。でも、生身の人間ですから、無理は効きません。どこかで燃え尽きてしまう。だから、燃え尽きる前に、声を上げて欲しいと思います。「もういい加減にしろ」って。ちゃぶ台をひっくり返して頂きたい。日本中の学校で先生たちが一斉にちゃぶ台返しをしてくれたら、日本の未来も大学教育も救われるんじゃないかと思ってます。どうぞ頑張っていただきたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

(2016年5月19日、国立大学教養教育実施組織会議特別講演・サンポートホール高松にて)
http://blog.tatsuru.com/


64. 中川隆[-5812] koaQ7Jey 2017年11月27日 13:34:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

土台から崩れゆく日本の科学、疲弊する若手研究者たち
これが「科学技術立国」の足元
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186

 国内の大学の最高峰、東京大学。その将来有望な若手研究者が働く研究室─―そこは、そのイメージとはほど遠い苦境に陥っていた。


(12か月/AFLO)

 東大で物理学を研究する高山あかり助教は、研究室の現状をこう語る。

 「プリンターのトナーや紙、そういった必需品の購入にも気を遣います。研究室の机と椅子も、他のところで不要になったものを譲ってもらいました。研究のための本は自腹で買うことも多いですね」

 こうした物品の購入など研究を行うための経費は、基本的に各研究者に配られる「国立大学運営費交付金」から支払われる。これは文部科学省から各国立大学の財布に入り、そこから各研究者に配分される補助金だ。国立大学の研究者にとって運営費交付金は何にでも使える「真水」であり、研究の基盤となる資金だ。

 昨今ノーベル賞を受賞した研究も、こうした自由に使える基盤的経費が充実していた恩恵が大きいことは、2015年にノーベル物理学賞を受賞した東大教授の梶田隆章氏も指摘している(Wedge本誌12月号17頁にインタビュー掲載)。また、東大名誉教授の安井至氏は「ノーベル賞学者たちが助教の頃は、研究室ごとに現在の価値で1000万円ぐらいは基盤経費が入っていただろう。私が東大から退いた03年でも光熱費・水道代は大学が支払った上で、別途で200万円ぐらいは支給されていた」と語る。


運営費交付金
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186
(出所)文科省資料を基にウェッジ作成

 しかし1990年代の行財政改革の機運の中、国立大学にも効率化が求められるようになった。2004年に国立大学が法人化されると、基盤的経費は「運営費交付金」として再定義され、国の財政難を背景に前年比で1%ずつ削減されることになった。運営費交付金は法人化から13年間で12%(1445億円)が削減された。

 現在、ある工学系の東大准教授の研究室に支給される運営費交付金は200万円にはとても届かない額だという。さらに研究室の光熱費・水道代、場合によっては大学内の実験施設の賃借料も引かれるようになったため、削減幅は額面以上に大きい。ある理学系の東大研究者は「運営交付金は大学によって金額が異なるが、100万円交付されればかなり高いほうで、多くの研究者はギリギリでやりくりしている」と語る。東大ですら運営費交付金だけでは十分な研究などできないのが現状だ。


不安定になる若手のポスト


 一方で、研究者への研究資金として重視されるようになったのが、科学研究費助成事業(以下、科研費)を代表とする競争的資金だ。科研費は自動的に下りてくる運営費交付金とは違い、文科省に研究テーマを申請し、同じ分野の研究者による審査を経て交付の可否が決定する。17年度で2284億円の予算がつき、04年度から454億増加している。

 だがこの競争的資金への偏重が問題であると、日本より良い研究環境を求めて香港科学技術大学に移籍した川口康平助教授は、次の通り指摘する。

 「科研費は将来にわたって確保できるかどうか予測ができない。使途や期間も限られており、研究者やスタッフを長期間雇用するための人件費に使えない」

 加えて科研費では「真水」である運営費交付金とは違い、申請した研究テーマに使う実験器具などにしか使えないのだ。

 また運営費交付金の減少は、研究資金面以外でも若手研究者たちに死活問題をもたらしている。ポストの不安定化だ。

 東京工業大学の西田亮介准教授は「労働法制上、既存のポストは手をつけにくいので、新規雇用の際に人件費のコントロールが容易な任期つき教員への置き換えが進められている」と指摘する。

 文科省の調査によれば、07年度に39%だった40歳以下の任期つき教員の割合は、17年度には64%に増加している。「3年の期限のある競争的資金で雇われた研究者は、1年目はその分野を学び、2年目に研究して論文を書き、3年目にはその成果をもって次のポストを探すことになるだろう。腰を据えて研究する時間は短い」(梶田教授)


任期つき教員の割合
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186?page=2
(注)40歳未満の研究者が対象 (出所)文部科学省資料を基にウェッジ作成


 加えて目減りした運営費交付金の影響で、若手研究者は研究時間も奪われている。スタッフを雇ったり外注化したりできず、研究室の雑務も若手研究者が行わざるを得ないためだ。高山助教も、自身で経理や総務的な仕事までこなしているという。科研費申請の書類作成も2週間近く要する。もちろん、大学教員として研究室の学生への指導も行っている。

 文科省の科学技術・学術政策研究所の調査によると、国立大学の教員の勤務時間中、研究に充てられている時間は02年の50・7%から13年には42・5%に減少している。若手はさらにひどいようで、高山助教は「体感で1割程度しか研究に充てられない」という。また工学系のある東大准教授は「准教授以上はまず科研費などの研究費をとってくることが仕事になる。そのため研究は実質的にできていない。若手が厳しいのはもちろん、教授でも時間のない実態は変わらない」と語る。

「ノーベル賞受賞者は生まれなくなる」


 こうした運営費交付金の減少は、日本の科学技術に対し重大な悪影響をおよぼす。

 まず科研費に依存した研究体制は国がどの分野を重視しているか≠ニいう政策的な動向によって、研究内容が左右されてしまう。たとえば「理学系での最近の科研費は『情報分野』に重点が置かれている」(東大の若手研究者)という。重視すべき分野に集中投資されることは研究費の選択と集中を促すという面でメリットもあるが、多様性が失われたり、短期的に成果が見えにくい基礎研究分野が軽視されたりする懸念がある。


(出所)科学技術・学術政策研究所資料を基にウェッジ作成 写真を拡大

 また、研究成果である論文数も減少する。自然科学分野の15年の論文数は、米、英、独、仏、中、韓の主要国が04年比でその総数を大きく伸ばしている一方で、日本のみ減っている。イギリスの高等教育専門誌「Times Higher Education」の「THE世界大学ランキング」04年版では東大は12位、京大は29位、東工大、大阪大学、東北大学、名古屋大学が200位以内にランクインしていたが、最新の18年版では東大は46位、京大は74位に後退し、他の大学は200位以内から転落している。


自然科学分野の15年の論文数
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11186?page=3
(注)2000年以降にノーベル賞を受賞した研究者に限定 (出所)政策研究大学院大学専門職の原泰史氏の 研究データなどを基にウェッジ作成 写真を拡大

 日本は00年以降、自然科学分野で15人のノーベル賞受賞者を輩出し、科学技術大国とされてきた。しかしそれらの受賞の多くは研究者が20代後半から40代前半の若手のころにに行われた研究が後年になって評価されたものだ。次世代のノーベル賞を生む土壌は既に崩壊し始めている。梶田教授は「このままでは日本からノーベル賞受賞者は生まれなくなる」と危機感を隠さない。

 ではどうするべきか。安井名誉教授は「すぐに成果が出る研究は民間がやる。先進国として、あくまで科学技術立国を目指すのならば、運営費交付金を増やすべきだ」と語る。梶田教授や16年にノーベル医学・生理学賞を受賞した東工大教授の大隅良典氏など、運営費交付金増額を求める声は大きい。

 しかし財政難の時代に運営費交付金を増額することは現実的に考えて難しい。川口教授は現状のジレンマをこう分析する。

 「運営費交付金を戻すのはセカンドベスト(次善の策)だ。いったん戻すべきだという危機意識は正しいが、財政難という時代の中で誰にもファーストベスト(最善の策)がわからない。そうこうしているうちにこのままでは大学が崩壊するというところまで来てしまった」


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三橋貴明オフィシャルブログ「新世紀のビッグブラザーへ blog」
財務省が日本を滅ぼす(前編) 2017-10-30
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/

 いよいよ明日、小学館から「財務省が日本を滅ぼす 」が刊行になります。

 昨日、日本の繁栄を妨げる「二つの壁」について書きましたが、その一つが「PB黒字化目標」になります。


 とにかく、PB黒字化目標が「骨太の方針」にて閣議決定されている以上、全ての政策がPB黒字化前提になってしまいます。すなわち、

「支出は前年比で削減する。増える場合は、他の支出を削るか、もしくは増税する」

 という前提で予算が組まれざるを得ないのです。


 このPB目標に異様なまでに固執し、日本を亡ぼそうとしているのが、財務省です。


 日本が亡びる云々は、決して大げさな話ではありません。と言いますか、要するにこれの問題です。

 ※IMFの最新データ(World Economic Outlook Oct 2017)から作りました。


【日中両国のGDPが世界のGDPに占めるシェア】

http://mtdata.jp/data_57.html#IMFOct17


 日本のGDPが世界に占めるシェアは、橋本緊縮財政でデフレに突っ込む以前は、17%を超えていました。日本一か国で、世界の17%以上を生産していたのです。


 その後、デフレでGDPが成長しなくなったのですが、世界経済は順調に拡大したため、日本のシェアがひたすら落ちていき、2016年は6.5%。


 反対側で、中国のGDPは世界の2%程度だったのが、世界経済を上回るペースで成長し、今は15%。


 ちなみに、2016年に日本のシェアが少し高まり、中国が落ちていますが、これは「円高人民元安」の影響です。もちろん、2016年にしても、中国の成長率は日本を圧倒していました。


 このままのペースで日本の停滞と中国の成長が続くと、2040年頃に経済規模の差は10倍に開いているでしょう(すでに2.3倍)。中国は経済成長率以上に軍事費を拡大するため、軍事予算の規模は20倍の差がついていると思われます。


 さて、日本の20倍の軍事予算を使う共産党独裁国家に、我が国はいかにして立ち向かえばよろしいのでしょうか。

 立ち向かえない、というのが残酷な答えです。


 デフレから脱却し、経済成長を取り戻さない限り、我が国に待ち構えている未来は良くて発展途上国、最悪、中国の属国化以外にはありません。


 そして、デフレ脱却を妨げてる最悪の「壁」こそが、PB黒字化目標なのです。


 あるいは、実質賃金の低迷(国民の貧困化)、インフラの老朽化、自然災害に対する脆弱化、防衛力の相対的低下、科学技術力の凋落、教育レベルの低下、地方経済の衰退、医療・介護サービスの供給能力低下、そして少子化という日本を悩ませている諸問題は、「政府が予算を使う」ことで解決します。と言いますか、政府が予算を使わなければ解決しません。


 そして、上記の諸問題解決に政府がおカネを使えば、それは「需要」になるため、デフレからの脱却も果たせます。デフレから脱却すれば、経済成長率が上昇し、「中国の属国」という悪夢を回避できるかもしれません。


 日本は、
「政府が国内の諸問題解決に予算を使うと、問題解決と同時にデフレ脱却、経済成長が果たせる」
 という、ある意味で美味しい環境に置かれているのです。


 ところが、政府が予算を増やそうとすると、途端に「PB黒字化目標」が壁となり立ち塞がり、現実には「何もできない」のです。


 何もできないどころか、財務省はPB黒字化を旗印に、ゾッとするほどの勢いで緊縮財政を強行してきます。消費税増税、診療報酬と介護報酬のダブル削減、教育無償化のコストを企業の社会保障費増で賄う、会社員の給与所得控除廃止、たばこ税値上げ、出国税導入などなど、最近、提示された緊縮財政のメニューだけで、こんなにあるのです。


 財政拡大(減税含む)の方向に舵を切り、上記諸問題の解決に政府予算を使えば、我が国は途端に繁栄の道を歩めます(もう一つ、憲法九条第二項という壁は残るものの)。


 それにも関わらず、現実は逆方向に驀進している。


 「財務省が日本を滅ぼす 」以外に、いかに表現しろというのでしょうか。

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2017年11月13日【三橋貴明】共犯者育成プロパガンダ
https://38news.jp/economy/11287

財務省の大攻勢
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12326561177.html

犯罪的な現実について
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12326847154.html

小学館「財務省が日本を滅ぼす」では、
財務省が緊縮財政路線を推進する際に
用いている各種プロパガンダについても解説しました。

http://amzn.to/2zt9lub

具体的には、以下になります。

●ルサンチマン・プロパガンダ:
人々のルサンチマンに訴えかけ、
「敵」を攻撃することで国民の留飲を下げ、支持を得る

●恐怖プロパガンダ:
人々の恐怖を煽り、思考停止に追い込む

●「木を見せ、森を見せない」:
いわゆる針小棒大。一部の悪しき事例のみを
クローズアップし、それを理由に全体を否定する

●用語の変更:
文字通り、言葉を言い換えることで、
人々に本質を理解させないようにする

●抽象表現の多用:
抽象的な表現を使うことで、人々に
「何となく」納得感を与え、事実を隠蔽する

●既成事実化:
虚偽情報を繰り返し報じることで、人々に事実として認識させる。
ナチスの宣伝担当相だったヨーゼフ・ゲッペルスの
「嘘も百回言えば真実になる」という言葉は有名

●レッテル貼り:
攻撃対象を悪しき印象を与える呼称で呼び、
発言や人格の信用を失墜させる

●権威の利用:
人々の信用が高い組織、あるいは人物に
語らせることで、嘘に信憑性を持たせる

●藁人形(ストローマン)戦法:
攻撃対象の発言を曲解もしくは捏造し、
「あの人はこんな人だ!」といった
印象操作により、信用を喪失させる

実は、上記以外にも一つ、財務省が
多用するプロパガンダ手法があるのです。

すなわち「共犯者育成プロパガンダ」になります。

原泰久の「キングダム」の第415話「反乱兵の作り方」では、
別に秦王に歯向かう気などなかった
秦軍の兵士たちが、樊於期により
「反乱兵」に仕立て上げられます。

具体的には、投降兵を殺させ
(殺さない場合、自分が死ぬ)、
後に引けない立場へと秦兵を
追い込んでいくのです。

財務省は、政治家や学者、経済人、ジャーナリスト、
評論家に「ご説明」し、マスコミに対しては
記者クラブ財政研究会を利用し、

「日本は国の借金で財政破綻する」
「日本はプライマリーバランス黒字化しなければならない」

などとメディアで発言させます。

一度でも、財政破綻論に与してしまうと、
もはや「共犯者」というわけで、言論人もメディアも、
日本の財政破綻など「あり得ない」という
正しい情報を二度と発信できなくなります。

それどころか、「自分の発言は間違っていなかった」と
思い込む認知的不協和に陥り、
正しい情報を発信する勢力(つまりは我々)を
「攻撃する」という行動にでるケースすらあります。

結果的に、財務省は何もしなくても
反・緊縮路線が潰され、緊縮路線が
「当然の話」として国民の間で共有されていく。

人間は、なかなか「自分が間違っていた」
ということを認められません。

財政破綻論者が反・緊縮路線に転じ、
正しい情報の発信を始めた例は、
本当に極わずかです。

財務省の官僚たちは、経済については
全く知識がない割に、プロパガンダ手法
については熟知しているようです。

プロパガンダとは、特定の政治的意図に基づき、
情報を歪める、あるいは発信することです。

日本を亡ぼそうとしているのは、
単なる情報であることが、改めて理解できます。


65. 中川隆[-5811] koaQ7Jey 2017年11月27日 13:45:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

経済コラムマガジン 2017/11/20(963号)

PB黒字化は本当に国際公約か
http://www.adpweb.com/eco/eco963.html


「2020年までのPB黒字化」の撤回

10月15日日経新聞3面にかなり重要な記事が掲載されたが、それに反し取扱いが極めて小さかった。「日本はPB(プライマリーバランス)を2020年までに黒字化するという国際公約を撤回する」というものである。日本はこれをワシントンでのG20財務相・中央銀行総裁会議で表明した。しかし総選挙直前ということもあってか、その後、このニュースはほとんど話題にもならなかった。もっともマスコミの方もあまり取上げたくなかったと見られる。

たしかに「PBを2020年までに黒字化する」という話はよく聞く。しかしこれが国際公約にまでなっているという話は、奇妙と筆者はずっと思っていた。筆者はこれについて調べ

17/10/2(第957号)「総選挙と消費増税」」
http://www.adpweb.com/eco/eco957.html

で「民主党政権時代の11年10月のG20の財務相・中央銀行総裁会議で、当時の安住財務大臣が勝手に宣言したものと筆者は理解している」と述べた。ところがもっと調べてみると、この前年の10年6月のトロントのG20サミットで菅元首相が同様の表明を行っている。


ただし各国から日本の財政赤字が問題にされ、財政健全化を迫られた結果「PBの2020年までの黒字化」を約束させられたわけではない。たしかにリーマンショック後にギリシャの財政問題が表面化し、この10年のサミットで各国は13年までに財政赤字を半減させることで合意した。ところがここが重要なところであるが、この合意で日本だけは例外扱いになった。日本だけは財政赤字を半減させる必要はないという話になったのである(それにもかかわらず菅元首相が勝手に「PBの2020年までの黒字化」を表明した)。これは当たり前の話で、日本のような経常収支の黒字が大きくかつ膨大な外貨準備を持っている国が緊縮財政を実施することは、他の国にとってはむしろ迷惑である。

おそらく各国は、日本政府が累積債務の一方で巨額の金融資産を持ち、また日本の公的年金の積立額が世界一ということも知っていたと思われる。また国債のほとんどが日本国内で消化され、金利は世界一低い水準で推移している。この上さらに緊縮財政を行おうとは「フザケルな」という雰囲気だったはずだ。むしろ日本には積極財政を採ってもらいたいというのが、各国の本音であったと思われる。


ところが日経新聞を始め、当時、マスコミは日本の財政赤字が大き過ぎるのでとても無理と見られ、同情され例外扱いなったと完全に間違った報道と解説を意図的に行っていた。それどころか日本の財政再建派の面々は、菅元首相や安住元財務大臣が国際会議の場で一方的に表明したこの話を「国際公約」と騒いで来たのである。

この菅元首相や安住元財務大臣に加え、野田前首相が、「社会保障と税の一体改革」、つまり消費増税(5%から10%への)を推進した中心的政治家と言える。しかし世間では菅元首相や安住元財務大臣が、日本の経済や財政問題に精通している政治家という認識はなかったはずである。ましてや国政選挙で民主党が消費増税を公約に掲げたことはなかった。つまりこれらの民主党の政治家は財務官僚の振付けで踊っていたと見て良いであろう。


今回の国際公約を撤回するという表明に対して各国の反応は冷ややかである。「金利がマイナスになっているくらいなのに、日本は今頃何を言っているか」という雰囲気であろう。しかし日本のマスコミは「PBを2020年までに黒字化する」ことが不可能になったから撤回したとだけ解説する。

そもそも「2020年までに黒字化する」という話は、「2013年までに黒字化する」という以前の目標を延長したものである。この時も特に議論がなく簡単に延長した。国際公約とか言っているが本当に軽いものである。


どうやら安倍総理は解っている

だいたい「PBを黒字化すること」に意義があるのかという根本の論議が欠けている。ところが財政再建派は、「PB黒字化」は当たり前の原理で、これについては議論をさせないという空気を作ってきた。明らかに日経新聞を始めとする日本のメディアもこれに同調してきた。まるで日本において「PB黒字化」に疑問を持つことは犯罪に近い行為という雰囲気が作られている。

たしかに18世紀、19世紀の経済を前提にした経済理論なら、「PB黒字化」によって金利は低く抑えられ、この金利低下によって投資や消費が増えることにもなろう。ところが「PB黒字化」を目標にした14年の消費増税によって、逆に投資・消費が急減した。これに対しては財政学者などの御用学者や財政再建派政治家は、増税後一時的に需要が落込んでもその後日本経済は「V 字回復する」といい加減なことを言っていた。しかしV字回復なんて有り得ず、今日、補正予算と輸出増で日本経済は辛うじて支えられている。


そもそも日本の金利はずっと世界一低い水準で推移してきたのである。それでも投資・消費の水準はずっと低位のままであった。ましてや13年からの日銀の異次元の金融緩和で、とうとう金利はマイナスになった。つまりこれ以上の金利低下は必要がなく、このことは「PB黒字化」が日本経済に対し何もプラスがないことを意味する。

財政再建派は、本当のところ財政にしか興味がなく、「PB黒字化」がもたらす日本経済への悪影響を軽視してきた。だから消費増税分の8割を財政再建に回すといった本当に「馬鹿げたこと」を平気で決めたのである。この大失態で少なくとも自民党内の財政再建派の勢いは弱まった。だから先週号などで紹介したように、魔の2回生(現在は晴れて魔の3回生)の20名弱が集り「政策目標になっているPB(プライマリーバランス)の放棄」や「積極財政」を訴える勉強会を始めるまでになった。

これまで自民党内の財政再建派の力を感じ、このような動きは躊躇された。議員個人が財政再建路線に疑問を持っても、「PBの放棄」なんてとても口に出せない時代が続いてきた。ましてや積極財政派の議員グループが登場するのは20年振りである。筆者が当コラムを発刊したのも、20年ほど前から橋本政権下で構造改革派が生まれ財政再建派と結託し、積極財政派を追詰め始めたことがきっかけであった。


安倍政権の財政運営は、当初から「新規国債は発行しない」と、この「PBの2020年までの黒字化」といった方針にずっと縛られてきた。このため14年に消費税を3%も上げたのに、安倍政権はたった千億円単位の財政支出でさえ自由にならなかった。例えば保育園の待機児童が問題になった時にも、解決のための予算措置が難しいほどであった。

では安倍総理ご自身が「PB黒字化」についてどう考えているかである。これについて日経新聞10月30日の「経済教室」に岩本康志東京大学教授(専門が公共経済学ということだから財政学者)の興味ある文章が掲載されている。この中で「安倍首相は基礎収支(つまりPB(プライマリーバランス))の黒字化に消極的と思われ、選挙後に『アルゼンチンは基礎的収支黒字化で債務不履行になった』とも発言した」という話を教授が紹介している。

要するに安倍総理は解っているのである。ただ「PB黒字化の放棄」や「新規国債の発行」に簡単に踏み出せるか不明である。おそらく「PB黒字化」については、柔軟な形に変えても延長すると筆者は思っている。党内外の財政再建派の勢いは弱まったと言え、まだ隠然とした力がある。早速、「教育無償化について自民党内で議論を行っていないのに、財界との間で3,000億円の拠出の話が出ている」と噛みつく議員がいる。
http://www.adpweb.com/eco/eco963.html

14/12/1(823号)「今から嘘をつくぞ」の決まり文句
http://www.adpweb.com/eco/eco820.html

•財務省のパシリ(使い走り)

財務省のパシリ(使い走り)となっているエコノミストや財政学者達が「今から嘘をつくぞ」という時の決まり文句がある。「国の債務(借金)は1,000兆円を超えている」である。たしかに日本の総債務残高は、1,000兆円を超えている。しかし

14/11/10(第820号)「日本のぺらぺら族」
http://www.adpweb.com/eco/eco820.html

などで取上げたように日本政府は、一方で諸外国に比べ突出して大きな金融資産を持っている。例えば外貨準備高だけでも147兆円もあり、ほかの先進国よりずっと大きい(中国も大きいが、これは外国から流入した投資(投機)資金が積み上がった部分が大きい・・資金流入に対する為替介入で外貨準備が積み上がった)。

この他にも政府系金融機関への貸付といった莫大な金融資産がある。これについて、昔、パシリ連中の中に「政府系金融機関は莫大な不良債権を抱えていて、政府の貸付金は資産性はない」と言い放つ者がいた。しかしもしこの話が本当なら、全ての政府系金融機関は倒産状態ということになる。もちろんこれは嘘であり、外貨準備と合せ政府の金融資産の額は莫大である。

このように国の持っている金融資産を無視して総債務残高だけで日本の財務状態を語ることは間違いであり、とんだ誤解を招く。そして総債務残高から金融資産額を差引いたものが純債務残高である。日本の場合、金融資産が大きいため純債務残高はかなり小さくなる。


また純債務残高を国際比較する場合、OECDの基準ではさらに公的年金(日本の場合は厚生年金・国民年金(127兆円)、公務員共済等(51兆円))の積立金を差引くことになっている。他の先進国では公的年金の積立がほとんどなく、保険料収入と財政支出で年金支給を賄っている。日本の公的年金の積立額は、先進国の中で突出して大きい。

日本以外で公的年金の積立金が大きい国はスウェーデンぐらいである。ちなみにスウェーデンはこの積立金で公共事業を行っているが、特に国民からの反感はないという。たしかに積立金を積み上げることは今日の需要不足の原因となるため、これを公共事業に使うことは投資・貯蓄の資金循環の観点から利にかなっている。


さらに筆者は、純債務残高の算出にあたって中央銀行(日銀)の保有する日本国債を差引くべきとずっと主張してきた。これは日銀保有の日本国債は実質的に国の借金にならないからである。この数字が昨年度末に200兆円を越えさらに増え続けており、いずれ300兆円程度まで増える見通しである。つまり無視できないくらい膨大になっている。

このように日本の純債務残高を算出し国際比較すれば、「日本の財政は最悪で破綻寸前」というセリフがいかに空々しい嘘であるか解る。ところが消費税増税や新規国債発行の制約によって、今年度の予算は完全な緊縮型(消費税増税に加え補正予算が真水で4.5兆円減額されている)になっている。これも日本の財政がそのうち破綻するというとんでもない前提で予算編成がなされた結果である。デフレ経済下でこのような完全に間違った財政政策を行ってきたのだから、連続2四半期マイナス成長になるのも当たり前である(当初のアベノミクスの狙いはこの今年度の緊縮財政で吹っ飛んだ)。


たしかに純債務残高の算出にあたり、個々の人で考えが異なることは筆者も承知している。筆者のように総債務残高から金融資産だけでなく、公的年金の積立金、さらに日銀保有の国債まで差引くべきと考えるのは今のところ少数派かもしれない(今のペースで日銀の国債購入額が増えれば、7〜10年で日本国は実質的に無借金になると筆者は計算している)。そして日本の財政に関し多少なりとも知識がある人ならば、最低でも国の借金から膨大な政府所有の金融資産を差引くことは分っている。

ところが財務省のパシリと成り果てているエコノミストや財政学者達は、財政に関して一般国民は猿程度の知識しか持っていないと舐めている。またエコノミストや財政学者でなくとも増税派の人々は同じセリフを用いて人々を脅している。例えば

13/9/2(第767号)「消費税増税は雲行きが怪しくなった?」
http://www.adpweb.com/eco/eco767.html

で取上げたように、朝まで生テレビ(テレビ朝日系)で五味廣文元金融庁長官から「日本は1,000兆円の債務を抱え、増税を見送れば財政破綻を招く」とまさに「今から嘘をつくぞ」という時の決まり文句が飛出した。さすがにこの時には、他のパネラーから「日本政府の持っている多額の金融資産を無視しているうんぬん」と一斉攻撃を受けていた。

•「今から嘘をつくぞ」の合図

もちろん「今から嘘をつくぞ」という時の決まり文句は、前段の五味廣文元金融庁長官のケースだけではない。日経新聞を開けば、毎日、同様のセリフが載っている。例えば11月20日の一面で日経の吉田透経済部長は「増税延期で財政再建は遠のいた。国の借金は1,000兆円を超え、GDPの倍以上。財政危機に陥ったギリシャより悪い。」と、まさに「今から嘘をつくぞ」という時の決まり文句のオンパレードである。もうこれだけで読む価値のない文章と判定される。

財務省のパシリとなっている財政再建論者が、読者や視聴者の一般国民を猿扱いし脅す時の常套句や仕掛は他にもある。その一つが「国の借金を一万円札で重ねると富士山の何倍になる」といった視覚に訴える表現である。そして典型的な仕掛が「借金時計」であろう。これらが現れたら「今から嘘をつくぞ」という合図と思えば良い。


また再増税延期決定の前、パシリのエコノミストは「もし増税が延期され日本の財政再建路線が疑われたら、国債が売られ金利は急上昇する」と決め付け、これを盛んに喧伝していた。筆者は、増税延期の観測が出た頃から長期金利の動向をずっと注視してきた。再増税延期の話が出る前の最低金利は0.45%であった。

たしかに増税延期の話が出始めた頃からゆっくりと上がり始めた。しばらくして節目となる0.5%を少し超えてきた時、筆者も一瞬「おやっ」と思った(おそらくバカなディーラが国債を少し売ったのであろう)。しかしそれ以降は下がる一方で、これまでの最低金利であった0.45%をも下回った。直近11月28日の長期金利は0.42%である。

たしかに日銀の国債買入れがあると言え、増税延期決定後、逆に金利は低下しているのである。パシリエコノミストは、金利が思うように上がらないのでこの話を避けている。また彼等の中には「金利上昇は、短期ではなく中長期的に起る」と卑怯な言い訳をする者までいる。仮に日銀の国債買入れが有効なら、「金利が止めどもなく上昇する」といったパシリエコノミストの得意な常套句は一体何であったのか。


まもなく衆議院選の公示がされ選挙戦が始まる。当然、消費税の扱いや日本の財政、そしてアベノミクスも話題になるであろう。筆者は、今回の選挙戦で本当の「日本の財政」の姿がどれだけ明らかにされるかを注目している。もし日本の財政の真の姿が有権者にも理解されたのなら、これからの経済政策はガラッと変ると期待できる。

しかし日経新聞を始め各メディアは、これまで散々大嘘(日本の財政は最悪といった)をついて消費税増税を推進してきた。今さら本当の事(日本の財政には問題はなく財政再建なんて全く不要・・金利を見れば明らか)は言えないのである。ただ朝日新聞だけでなく、一般国民の大手メデイアに対する不信感は高まっている。


久しぶりに11月29日の朝まで生テレビ(テレビ朝日系)を観た。選挙戦を控え各党の論客と言われるメンバーが集っていた(政治家以外のパネラーは直前にキャンセルされたという話がある)。しかし事の本質(例えば日本の財政が本当に悪いのかと言った)に迫る議論は全く出ない。各党が主張する建前論を延々と披露するだけである。さすがに筆者も退屈と思って観ていたが、眠さを堪えることができないほどお粗末な内容であった。これでは日本の政治家が官僚に舐められるのも当然である。

選挙戦が始まり、筆者は安倍総理の解散の決断に関する真相や日本の財政の本当の姿などもっと深いところに、どれだけ日本のメディアが迫れるか注目している。しかし筆者のこれまでの経験から、残念ながらこのような話が少しでも出るとしたなら東京や関東では放送されないテレビ番組や週刊誌などに限られると思っている。大手新聞や在京のキー局は本当にダメである。せめて「選挙で700億円も掛かる」といった下らない話だけは止めてくれ。
http://www.adpweb.com/eco/eco823.html

17/11/27(964号)続・「今から嘘をつくぞ」の決まり文句
http://www.adpweb.com/eco/

実質的な借金(純債務残高)はゼロに

財政再建派(財政規律派)の政治家、財政学者、エコノミストは「日本の財政は最悪」という大嘘をずっと付いている。ところで彼等がこの嘘を付き始める時の「決まり文句」というものがある。これに関しては14/12/1(第823号)「「今から嘘をつくぞ」の決まり文句」などで取上げてきた。

先週号で取上げた「2020年までのPB黒字化は国際公約」もその一つと言えるであろう。この他の代表例は「国の債務(借金)は1,000兆円を超えている」「日本の消費税率は欧州に比べ極めて低い」「国の借金は孫子(まごこ)に引継がれる」などである。このような決まり文句に出会せば、まさに「今から嘘をつくぞ」の合図と思えば良い。


ただ彼等がつく嘘の前触れとなる「決まり文句」に関し、ややこしいのは全てが間違っている訳ではないことである。例えば「PB黒字化は国際公約」は菅元首相や安住元財務大臣が、実際に国際会議の場で表明している。また日本国の総債務残高は1,000兆円を超えている。さらに日本の消費税率の8%は、欧州各国の付加価値税率に比べたしかに低い。

そしてメディアを通してこれらのセリフを受取る側の読者や視聴者のほとんどは、これらの決まり文句に簡単に騙される。また発言する者は、人々をこれで騙せることを知っているからこそ、いまだにこれらの「決まり文句」を使っている。普通の人々より多少は見識が高く、より多くの情報を得られると思われる政治家でさえ、これらの決まり文句に易々と騙されている。そこで今週号では、これらの「決まり文句」が嘘の始まりであることを説明する。


14/12/1(第823号)「「今から嘘をつくぞ」の決まり文句」他で述べたように、たしかに国の総債務は1,000兆円を超えている。しかし一方で国は膨大な金融資産を持っている。具体的には巨額の政府系金融機関への貸付金や外貨準備などである。したがって総債務残高からこの金融資産額を差引いた日本の純債務残高はぐっと小さくなり、そのGDP比率は欧州各国と遜色がなくなる。ところが財政再建派の人々は、まず国が保有するこの巨額の金融資産のことに触れることはない。

また財政の健全性を見る基準として、総債務残高から公的年金の積立金を差引くという考えがある(OECD基準)。特に日本の場合、公的年金の積立金額(公務員共済を含めると180兆円程度)が欧州各国に比べかなり大きい(例外はスウェーデンくらい)。これに対し欧州各国の公的年金の積立金額は小さく(支給額の数カ月分)、年金支給は自転車操業状態である。もし公的年金の積立金も総債務残高から差引いて純債務残高を計算し直し、GDP比率を算出すればむしろ欧州各国より良い数値が出るものと筆者は見ている。


さらに日銀が既に400兆円もの日本国債を購入している。これについて色々な見方があるが、実質的にこの部分は国の借金にならないという考えが成立つ。実際、国はこの400兆円の国債に対して日銀に利息を払うが、最終的に日銀はこの利息を国庫納付金として国に納付する(国の雑収入)。たしかに日銀は一部を準備金として差引いて納付するが、この準備金も国の資産である。このように日銀が購入した日本国債は、実質的に国の借金とはならなくなる。筆者は、今のペースで日銀が国債を買い続ければ、国の実質的な借金(純債務残高)は数年のうちにゼロになると見ている。

財政再建派にとって、この日銀が国債を買うことの本当の意味が一般の人々に知れ渡ることは是非とも避けたいところである。だから彼等は「日銀は異次元の金融緩和の出口戦略を急げ」と盛んに騒いでいるのである。筆者は、むしろ発行する国債を全て永久債(コンソル債)に換え、これを日銀が買えば分りやすくなると考える。特に民進党の新代表になった大塚耕平参議院議員は、永久債発行論者であり、この辺りの仕組についてよくご存じと思われる。永久債発行について与野党で議論すれば良いと筆者は思っている。


次の世代は債権・債務を同時に引継ぐ

日本の消費税率が欧州各国と比べ低いという話も真っ赤な嘘である。これについては

16/4/25(第889号)「日本は消費税の重税国家」
http://www.adpweb.com/eco/eco889.html

で述べたように、欧州各国は軽減税率を採用しているので実質的な付加価値税の負担は見掛けよりかなり軽くなっている。英国などは食料品等の生活必需品の税率がゼロである。英国に長く住んだことがある人なら、むしろ日本の8%の消費税率は重いと感じるはずである。

しかし卑怯な財政再建派は標準税率での比較しか持出さない。それどころか「税率が低い日本の国民は甘やかされている」ととんでもない発言を行う者まで現れている。もし予定通り19年10月に消費税が10%に増税されると、日本は消費税(付加価値税)でトップクラスの重税国家になる。日本より付加価値税が重いのはわずかにフランスだけになる。このような消費税の実体は、何故かマスコミが取上げないので日本の一般国民はほとんど知らない。


「国の借金は孫子に引継がれる」も奇妙な表現であるが、よく出会すセリフである。今日、国債を発行すれば、これを償還しなければならない次の世代の負担がさらに重くなるという理屈である。いわゆる借金の先送りという話になる。一見、これは良識のある者のセリフと捉えられる可能性が高い。

しかし孫子、あるいは次の世代は国の債務をたしかに引継ぐ(相続する)が、彼等は国に対する債権(国債など)も引継ぐ(相続する)のである。つまり次の世代は、国の債務だけでなく国の債権も同時に引継ぐ。しかもほとんどの国債が国内で消化されているので、引継ぐ債務と債権はほぼ同額と見て良い。したがって今日の世代と次の世代の間の問題というより、これは同じ次の世代の間の分配の問題になるのである。

この解決には、たしかに金融資産の相続税を重くするということが考えられる(他には資産課税を重くするという方法がある)。しかし前段で述べたように、既に今日の日本の実質的な純債務残高はほぼゼロになっている。したがって次の世代の分配問題を解決するための相続税の増税なども必要はない。


ここまで国の資産と言ってきたものは、説明を簡単にするため金融資産に限定してきた。しかし国は金融資産以外に様々な膨大な資産を保有している。主に土地や建物、また道路などのインフラなどである。次の世代は、何もせずに生まれながらこれらの資産を当然のこととして引継ぐことになる。ところが財政再建派は、このような点に話が及ぶことを避けたがる。

また次の世代が同じように引継ぐにしても、治安が良く安全で快適な国の方が理想的である。それを実現するための経費を今日新規国債の発行で賄うことは決して悪いことではない。ところが財政再建派は、とにかく新規国債に大反対である。安倍一強と言われながら、安倍政権はわずか2兆円の教育無償化予算にさえ苦労しているのである。

「国の借金は孫子に引継がれる」と言われているが、これから就職しようという次の世代にとってもっと切実な問題は今日の日本の経済状態であろう。日本経済はデフレから脱却したとはとても言えないが、安倍政権は消費税再増税を延期するなどして低いながらもなんとか経済成長を続けている。このような経済政策を評価して、先の総選挙では若い世代ほど自民党への投票が多かった。次の世代である若者達も本当のことを薄々分り始めたのであろう。
http://www.adpweb.com/eco/


66. 中川隆[-5809] koaQ7Jey 2017年11月27日 13:56:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本の教育を滅茶苦茶にした前川喜平がやっていた事教えてあげる


文科省の前事務次官、前川喜平氏(62才)が「実地調査」で通い詰めた店である。7月初旬のある夜、本誌もまたここで働く女性の生態を“調査”すべく、店に入った。南国のモンステラの葉が壁一面を覆う店内には、カウンター席の他、ガラスで仕切られた向かい合わせの席がある。

1時間1ドリンク付きで3500円、2時間4800円。女性は無料。ドリンク飲み放題、スナック菓子食べ放題。席に座ると、男性の手元にはピンク色のメッセージカードが置かれる。ニックネーム、職業、血液型書き、「食事」「カラオケ」「飲み」「女の子におまかせ」の4項目から1つを選択。全て記入したら店員経由で気になる女性に送る。先方がOKの場合、相席して“次の予定”を交渉する。

この夜、店内には9人の女性がいた。ミニスカワンピの20代前半から、スーツを着たアラフォーまで、さまざま。グラスを片手にスマホをいじり、男性からの指名を待つ。一晩遊ぶ男を求め、あるいは交際相手を求め、店に集った素人女性である。

「ま、多くが“ワリキリ”目的だけどね。要は、エンコー。お金のために割り切って寝ますってこと。前川さん、よく来てました。あたしも指名されたことあるんで。貧困調査なのかなぁ。教育問題とか難しい話をしてたけど。『このあと外出る?』みたいな交渉もあった。アタシは断ったけど、ついてく娘もいた」

出会い系カフェは、いわばグレーゾーンの商売であり、自由恋愛が前提になっている。出会って気に入れば自由恋愛に発展するし、気に入らなければ断ることができる。「文科省の前事務次官、前川喜平氏(62才)が「実地調査」で通い詰めた店」もそのようなお店であり、話では断られることが多かったようだ。

60代のおっさんでは、よほどのことがない限りワリキリに応じてくれる子はいないだろう。あったとすれば自由恋愛ではなく個人売春に近いだろう。このような人物が文部科学省の事務次官をしていたのだ。そして何人かの子と個人売春までしていたのだろう。状況的にそうなる。
http://2013tora.jp/kabu395.html


2017年07月02日
事務次官とは何か、前川前次官で注目エリート集団


この人が騒いでいる本当の理由は、「自分の方が総理大臣より身分が上だ」という事です。
引用:http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/6db29/90119/537660_pcl.jpg


総理より地位が高い事務次官

加計学園をめぐる「忖度」騒動は前川喜平・前文部科学事務次官の告発から騒動が広まった。

なぜ前川氏はこのように安倍首相を憎み、敵愾心を露にして噛み付くのか、事務次官という身分階級を知らないとわかり難い。

各省庁の事務次官は「次官」なので文字を読んだだけでは「2番目の事務員」かなと思うが、実際には省庁の大統領のような地位にある。

         

事務次官は表向きの法律では大臣を補佐する役割だが、実際には大臣を上回る最高権威です。

大臣と事務次官の関係については、2001年に小泉内閣で外務大臣を(9ヶ月だけ)勤めた田中眞紀子議員が良く喋っていた。(喋りすぎた)

その前に田中眞紀子が外務大臣に選ばれた理由を説明すると、2001年4月の自民党総裁選で小泉純一郎を当選させた功労者だった。


超不人気だった森首相が退陣し、次の首相は橋本龍太郎で決まりと言われていて、国民は「またあのバカ総理か」と失望していた。

小泉純一郎は出馬しても負けそうなので立候補するつもりはなかったが、当時人気絶頂だった田中眞紀子が「あんた出なさいよ」とけしかけたと言われている。

人気者の眞紀子に後押しされて小泉旋風が吹き、めでたく総理大臣になり田中眞紀子は論功行賞で外務大臣になった。


欧米メディアは「次の総理は田中眞紀子」「初の女性総理誕生へ」と報道し、小泉自身より人気が高かったほどだった。

その大功労者が些細なことで外務官僚と対立して、クビになったのは田中眞紀子大臣の方だった。

日本政府の方針と異なる発言を、外相として勝手に発言したり、外相会談のドタキャンなど様々な出来事があった。


官僚を激怒させた安倍首相の行為

だが一番の対立点は「外務大臣と事務次官のどちらに人事権があるか」という事で、眞紀子大臣は自分に逆らう事務次官の更迭を小泉首相に要求した。

結果は書いたとおり、クビになったのは大臣のほうだったので、大臣の人事権は事務次官が握っているが、逆はありえない。

法律はどうであれ大臣より事務次官のほうが地位が上なのが日本の制度であり、主要な省の事務次官となると総理大臣より地位が上である。


ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されたが、事務次官は決して逮捕されず、責任を取らされたりもしない。

思い出して欲しいがあらゆる政治スキャンダルで責任を取るのは大臣と総理だけで、事務次官や官僚はマスコミから責任の追求すらされない。

もし事務次官が責任を取らされるような事が起きれば、明治以来の大事件であり、絶対に有り得ない筈だった。


朝日新聞は平気で天皇や総理大臣の悪口を書くが、それでいて事務次官の悪口を絶対に書かず、官僚は神聖にして汚すべからずを貫いている。

朝日新聞も日本の最高権力者が怖いのであり、許認可権から逮捕権、裁判権まで握っている官僚たちには逆らいません。(最高裁判官も官僚)

その有り得ないはずの事が森友、加計騒動の根源である文部科学省で起きていて、事務次官がクビになっていました。


「キXXX」の言い分

前川喜平前事務次官は退職した文部官僚が民間機関に天下りする仲介役をしていて、2017年1月20日に辞職した。

2017年3月に懲戒免職になる予定だったが、文部省側は猛反発しして自主退職になったうえ、退職金5000万円以上が支払われた。

軽い処分で済んで助かったように見えるが、官僚目線では「どうして上司である事務次官が部下である総理大臣から追放されるのか」という事になる。


ニュースを見ていると異常な事件で犯人が意味不明な事をしゃべる場合があるが、「キXXX」の言い分は彼らにしか分からない。

前川喜平と官僚たちには「総理大臣風情がでかい面しやがって」「今に見ておれ小僧」という恨みだけが残ったようです。

そして文部科学省は自分のスキャンダルである森友、加計を暴露する事で安倍首相を糾弾するという捨て身の戦法に出た。


過去の政治スキャンダルで責任を問われたのは政治家だけで、官僚が罪に問われた事は無いので、こうした戦法は実は良く行われている。

大阪地検や東京地検は森友加計を捜査しているが、検察官僚の身内である文部官僚は決して捜査対象にならない。

うまく行けば前川喜平前事務次官は高給で天下りできるだろうし、それどころか政治家として権力を握る事もできる。


突き詰めると官僚と総理のどちらが上か、どちらが日本の権力者かという対立です。
http://www.thutmosev.com/archives/71597964.html


天下り官僚に翻弄される私大の悲惨

私大を渡り歩いて5億円を荒稼ぎ!
天下り官僚に食い物にされる私大

官僚時代は数百億円の予算を動かしていただけに金銭感覚がズレすぎているという。私大には文科省、経済産業省、財務省など多くの官僚が天下りし、教授の座に収まっている。

「“渡り鳥稼業”の天下り役人は会議の欠席はザラなうえ、仕事の知識もない。仕事は部下に任せてゴロゴロしているだけ。それでも年俸は最低2500万円。さらに5年勤めて退職金が3000万円。これで3〜5つの大学を渡り歩いて計5億円は稼ぎます」

 もっとも何もしないのならマシな部類で、元官僚と悪徳教授が手を組み、大学を食い物にするケースも多々あるそうだ。濱野氏がいた都内の女子大では40億円が消えたこともあったという。

「彼らが株式や投資信託を駆使してマネーロンダリングをやったようですが、証拠が出なかった。また、翌年に取り壊しが決定していた校舎の大規模修繕に3億をつぎ込み、さらに塗装で1億2000万円と、計4億2000万円を無駄遣いしたことも。すぐに跡地に新しいビルを建てるところまで計画済みで、旧ビルでどんなインチキがあったのかはウヤムヤになってしまった。巧妙に証拠が残らない工作だけは一流のため、追跡調査もできなかった。もちろん大学の事務職などは真相を知っていましたが、黙殺したまま。ヘタに口にしようものなら簡単に左遷されてしまいますからね」

 別の学校ではこんなケースも。

「もっとひどいのは、研究業績が大学院生ほどもないクズ教授を学長に仕立て、自分は定年のない常務理事のポストに就いた天下り官僚がいました。さらに、部課長などの大学の要職を、仲間や部下で固め、付属の建物の増改築で稼ぐなど好き放題だった。さらに、法人側の私立学校法違反事項を目ざとく見つけると、理事長選で教授会をけしかけ、当主を追い出し自分が理事長の座に座り、そのまま学園を乗っ取ったヤツもいた。都内有数の伝統校でしたが、その後は、学問はそっちのけとなり、今では生徒の確保にも困るほど疲弊してしまいました」

 悪質な実例はまだまだあるという。

「今時、わざとド田舎にキャンパスを購入し、引っ越さなくてもいい学部の建物まで建てて都内一等地のキャンパスを売却し、その取り壊しとキャンパス移転で数十億を着服する天下りもいました。ゼネコンのリベートで稼いだんです。その大学は生徒集めに窮し、今は中国やベトナムからの留学生で細々と命脈を保っていますが、近々、倒産の噂も聞こえてきます。もちろん、天下り役人はその前にいなくなるでしょうね」

 悪徳教授や官僚を受け入れる私学の側にも落ち度があるとの指摘もあるが、濱野氏はそれは違うという。

「教授会が天下り官僚は採りたくないと考えていても、彼らは巧妙に法人側の上席ポストを占めてしまう。そうなれば、自動的にかつての役所の部下を雇いこむルートができてしまうんです。大学が悪いのではなく、行列を作って乗っ取りに来る方が悪いんです」

 今年3月、松野博一・文部科学大臣は、省庁退職者が許認可や補助金の支出対象である大学や財団に再就職することを当面自粛すると明らかにしたが、果たして実効力がどれだけあるのか。はなはだ疑問と言わざるを得ない。
http://diamond.jp/articles/-/137283


67. 中川隆[-5808] koaQ7Jey 2017年11月27日 13:59:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

チェスタトンの外国語論 早期英語教育は有害


グローバリストの奴隷育成

  文部科学省の中央教育審議会で子供に英語教育を施す環境作りを議論しているそうだ。(『日本の議論』「英語」は本当に必要なのか / 産経新聞 2014年12月20日) 平成28年度にも改定される新学習指導要領では、小学生高学年から英語が科目として導入されるんだって。高校生には英語で討論や交渉力を高めるような教育方針にするという。まったく役人ってのは、どうして余計なことだけでなく、邪魔な改定をするのだろう? 小学生に英語教育など不必要だし、他の教科の時間を削るから有害である。どうせ現場の教師はてんてこまいになって、やる気のない子供は無理強いされてふくれっ面するだけだ。多少興味を示す子供だって、たかが数時間の授業だから挨拶程度でおしまい。すぐペラペラ喋れると期待した子供は授業に失望するだろう。かくして英語の授業はお遊戯の時間となって、子供の学力はみるみる低下するだけ。したり顔のお役人様にいい英語を教えましょう。
Bloody fool, arsehole ! (アホんだら)

  文部官僚や学校教師は立場上の損得勘定をしているから脇に寄せといて、肝心の子供はどのような意見をもっているのか。ベネッセが6200人にアンケートした調査によれば、中高校生の90パーセントが仕事で英語を使うようになる、と予測していることが分かった。テレビや雑誌、学校などで英語の必要性が宣伝されているから当然だろう。しかし、「自分自身が英語を使うイメージがあるか」との問いに対しては、中学生44パーセント、高校生46パーセントが「ほとんどない」と答えたそうだ。具体的な仕事に就いていない生徒に、切迫した現実的必要性はないだろう。

  ところが、英語教育を推進したいのは財界だ。経団連からやって来た三宅龍哉委員は、海外に社員を派遣するときに企業が英語教育をせねばならぬ、と不満の意見を述べた。要は企業が英語教育費を負担することになるから、学校の方(税立施設)で費用と時間を持ってくれ、と要求しているのだ。虫のいい提案だろう。

  もっとけしからんのは、元入試センター教授の小野博・福岡大学客員教授だ。小野氏は「社会情勢の変化により日本企業のアジア進出が更に拡大したり、逆に移民を受け入れるなど、今後日本社会は変化を余儀なくされる可能性が高い。英語は必ず必要になる」と断言したそうだ。こういう馬鹿が教授になっているのだから、いかに大学が堕落しているか分かるだろう。イギリス人が日本に移住してくるわけがなく、おもに英語圏のアジア人を想定しているのだろう。たとえば、フィリピン人のためにどうして我が国の子供が英語を勉強せねばならぬのか。フィリピン人が移民せぬよう防ぐことの方がよっぽど重要である。「社会情勢の変化」という“まやかし”の言葉を用いるところなど、小野氏には如何にも詐欺師的匂いがする。まるで彼は国境を破壊してアジア人を引き入れようとするグローバリストの手先みたいだ。

  小野氏のような腰巾着を登用する財界と役人は、日本人労働者の生活水準をアジア人並(つまり奴隷状態)に下げて、低賃金でこき使いたいだけだろう。そのために小学生から低賃金労働者にすべく、税金を使って調教しようとする肚は見え透いている。国際企業にとりアジアはリスクが高い。社会インフラが貧弱だったり、政情不安で暴動を気にせねばならない。せっかくの投資がパーになったら大変だ。安全で便利な日本で製品を作りたい。日本にインドやシナ、フィリピンから安い労働者を輸入して、利益を最大限まで上げたい。その時、日本人労働者がアジア人と共同して作業できるために、共通語たる簡単な英語が必要なだけだろう。その英語だって簡単な単語を並べて、お互いに推理しながらの意思疎通だ。

  じゃあ聞くが、英語を社員に強要する社長や重役たちは本当に英語で会話しているのか? そんなに英語力が重要なら、英米の有能人物を雇えばよいだろう。そんなこと言ったらお偉方は沈黙。つまり、自分たちは“日本人社員”に向かって、“日本語”で言いたい放題の指図をしたいが、社員どもは雑談でさえ英語を使えと命令するのだ。ユニクロや楽天の社員はどう思っているのだろうか? 日本語では傲慢な態度の重役らは、英米の白人社員の前だと、そのお粗末な英語を披露せねばならぬから、態度が急変して作り笑顔になることがよくある。彼らは同期の重役仲間とは、日本語で会話しながら“のびのびと”ゴルフを楽しむ。ゴルフ場が会議室。英語で雑談などしない。二極分化している日本では、上流階級の子弟は、進学校で英才教育を受けながら日本語で会話をし、低能教育しか受けていない低賃金労働者は、社会の底辺から抜け出せぬ人生を送り、職場ではブロークン英語を強要される仕組みが出来上がる。

怨みのこもった英語教育熱

  日本人が「英語だ、英会話だ」と騒ぐ原因は、多くの国民に学校での英語教育に対する怨みがあるからだろう。十年間くらい勉強したのに、イギリス人やアメリカ人の前でちっとも流暢に喋れないどころか、外人の話を聴き取ることすらできない。そうした若者が親になったら、自分の子供だけは違った教育で英語を流暢に話せるようにさせたい、などと決意して欧米系のインターナショナル学校に入れたりするのだ。勉強が出来なかった親に限って、お金で環境さえ整えれば我が子は自分と違った秀才になると思っていやがる。ばぁーか。蛙の子はカエルだ。日本では英語が喋れるくらいで、自慢になり仕事がもらえる。日テレで英語を披露していた関根麻里という藝人(何の藝かな?)は、米国なら単なる小娘だからテレビに出られない。オヤジの関根勤のほうがよっぽど外国で通用する。だってカマキリ姿でギャグをする藝人の方がアメリカ人にとって面白い。(若きラビット関根の十八番。ただし娘の番組は一度しか観ていないので詳しく語れない。ゴメンなさい。) つまり、子供にはまづ中身のある教育を施し、立派な日本人に育てることが優先事項である。

  元NHKワシントン特派員だった日高義樹の英語なんて酷かった。テレビ東京のレギュラー番組で、ヘンリー・キッシンジャーにインタヴューしたとき、日高氏は、たんに自分の英語を自慢したいがために、通訳を附けずに対談していた。もともと教養がない日高氏が、不慣れな英語を使って鋭い質問など出来るはずがない。台本通りの質問を得意げに吐いていたから、視聴者はつまらないし、どうでもよくなってシラケてしまう。日高のアホは英語より先に政治や歴史を勉強しろ。むかしソニーが輝いていた頃、盛田昭夫会長の話は傾聴に値するものだった。彼の英語は拙(つたな)くても、思わず聞きたくなるようなモノだった。盛田氏の個人的魅力があったからかも知れないが、彼は米国で信念と情熱を込めて中身のある議論を交わしていたのだ。対話しているアメリカ人は、極東アジアから来た英語を喋る九官鳥ではなく、背骨の通った日本の国士を相手にしていたのである。

  つい最近、エアー・バッグ製造のタカタが、缺陷(けっかん)製品のリコール問題で社長が米国の公聴会に召喚され弁明していた。しかし、彼の英語はどちらかと言えば下手で、筆者は大企業の社長でもこの程度かと思った。(詳しく言えば、話す英語にリズムや強弱がないのだ) 大切なのは弁明の中身であり、誠意を示す表現なり態度である。見え透いた嘘を流暢な英語で語っても、アメリカ人は感心しないのだ。個人的魅力がない日本人がいくら英語を喋っても、そのへんのパンク野郎か乞食と同じだろう。日本人は人格形成を蔑ろにして、簡単な英語で空虚な会話を習得しようとしている。せっかく英語を習得したのに、アメリカ人から「へぇー、英語上手ね。あんた香港からの支那人?」て尋ねられたら、日本人は「何を無礼者」と怒るだろう。語学より大切なことがあるのだ。

英語学習より英国史が先

  数学教育についても言いたいことがあるが、今回は語学教育に限って述べたい。日本人が英語を勉強するときには、何らかの目的があってのことだろう。子供はいったい英語で何がしたいのかがはっきりしないまま、学校で英語を詰め込まれるのだから、英語嫌いになって当然だ。日本の公教育は子供に勉強が嫌いになるようプログラムされている。「そんなこととないぞ。こっちとら、一生懸命頑張ってるんだ」と教師は反論するだろう。でも、スクールがギリシア語の「スコラ(σχλη)」から由来することは周知の通り。つまりギリシア人は日常の雑用や仕事を奴隷にやらせて暇だから、みんなで集まって宇宙や地球の構造や摂理を探求するといった趣味に興じていたのだ。だから、幾何学や哲学、論理学といった学問をあれこれ討論しても、定期テストや入試なんか持ち出さなかった。もちろん最低限の基礎知識は必要だ。まったくの素人では議論にならない。ただ、船大工なら親方が新入り職人をテストすることはあっても、プラトンやソクラテスが哲学の議論で仲間に学期末試験なんて課さない。謂わば「オタク族」の集まりにそんなの要らないのだ。しかし、現在の学校では、子供を将来の労働者にすべく、効率的に職業訓練を施したいから、実力試験を課して達成度を測りたいのである。食肉にされるブロイラーが餌と抗生物質で効率的に飼育されるのと同じ要領。家庭で日本語を話している小学生や中学生が、いきなり外国語を強要され、試験でランクづけされたあげく、もっと勉強しろと命令されたら楽しいはずがない。一週間にたった数時間の授業で文法(syntax/grammar)や発音が全く違う言語を習得するなど無理。苦痛のみが増幅するだけだ。一方、ヨーロッパ人にとって英語は姉妹語だから簡単(gravy)である。

chesterton 1  ここで、英国の有名な偉人ギルバート・K.・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton)を紹介したい。筆者も大好きなイギリス人批評家で、日本でも人気の高い碩学の知識人である。チェスタトンは『デイリー・ニューズ』紙に『歴史VS.歴史家』という文章を掲載した。若いときに彼は、「学校に通っている児童には歴史のみを教えるべし」と喝破した。(G.K.Chesterton, History Versus the Historians, Daily News, 25 July, 1908, in Lunacy and Letters, ed. by Dorothy Collins, Sheed & Ward, London, 1958, pp.128-129) チェスタトンが暴論に思えるような意見を述べたのは、当時の古典科目ではラテン語の習得は必修であったからだ。そしてラテン語の教授方法に苦言を呈したのである。「少年は単にラテン語を学ぶだけではラテン語の重要性は分からぬ。しかし、ラテン人の歴史を学ぶことで、それが分かるであろう。」とチェスタトンは提案したのだ。(ラテン人とはローマ人を指す。)

  さすがチェスタトンの炯眼(けいがん)は鋭い。彼が言うには、アウステルリッツ(Austerlit)という地名を地理の授業だけで覚えることはナンセンスだ。単なる計算を学ぶ算数の授業だって同じこと。しかし、フランス皇帝ナポレオン1世が、アウステルリッツでオーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)とロシア皇帝アレクサンドル1世を相手に干戈(かんか)を交えた一大決戦(Bataille d'Austerlitz)となれば話が違う。子供だって大物武将三人が睨み合った三帝会戦(Dreikaiserschlacht)なら、教師の話を手に汗握って聞き入るだろう。日本の子供も桶狭間の戦いや川中島の合戦の話は面白い。弱小藩の織田信長が“海道一の弓取り”今川義元の首をとった逆転劇はスリル満載。智将の上杉謙信と猛将の武田信玄がぶつかった戦の講談は大人だって楽しい。砲兵出身の名将ナポレオンが計算をしたり、地図を見ながら策を練る姿を聞けば、子供たちも地理と算数に興味が沸くだろう。

  チェスタトンは一件無味乾燥な科目でも、その背景を教えてもらえば、子供が“知的好奇心(intellectual curiosity)”が芽生えることを指摘しているのだ。幾何学が嫌いな生徒でも、十字軍のロマンティクな物語やサラセン人の世界を知れば、そのへんてこな数字の羅列に興味を示すかも知れない。(ギリシアの「幾何学Algebra」は中東アジアを経由して西洋に導入されたから。) 英語では「何が何だか分からぬ(It's Greek to me.)」と表現して、ギリシア語などイギリス人には「ちんぷんかんぷん」だろうが、ギリシア人の文化藝術を知れば、その難解な言語を学びたくなる。チェスタトンは、「歴史はすべての学問を、たとえ人類学でも人間臭くする」と言う。「人類学」を人間に親しみのある学問にするとは、いかにもチェスタトンらしいヒューモアだ。

  日本人が外国語習得について考えてみれば、おかしな事に気づくだろう。朝鮮を統治していたのに朝鮮語を喋れる半島在住の日本人(内地人)がほとんどいなかった。朝鮮総督府の役人でさえ、朝鮮語を学ぼうとする者が滅多にいなかったのだ。理由は簡単。馬鹿らしいから。朝鮮人なんて不潔で下劣な民族の言葉をどうして一流国の日本人が学ぶ必要があるのか。初めて見る糞尿だらけの極貧国に、日本人が憧れるような文化はない。朝鮮に渡った日本の知識人だって、儒教を朝鮮人から学ぼうとは思わなかった。小便さえ自分でしなかった両班の姿を見れば笑ってしまうだろう。日本人にはアカンタレと乞食が何を話そうが興味ない。ロシア語なら陸軍将兵も必要を感じたから学ぶ者がいたし、ドイツ語は尊敬するドイツ陸軍とドイツ文化の言葉だから、強制されなくても日本人は進んで学んだのである。現在、支那語に人気がないのは、支那人を見れは納得できる。だって、支那人と話して嬉しいのか?

  我々日本人が英語を学ぶときは、まづ英国史を勉強すべきだ。特殊な職業を目指す子共は別だが、語学能力を本業とせぬ一般の日本人は、イギリス人が如何なる歴史を送ったのか、どんな功績を残したのか、彼らはなぜ大帝国を築くことが出来たのか、などを知るべきだ。そして興味をそそられた者が、イギリス人を自分で理解するために英語を専攻すべきだ。大学入試のためだけの英語とは違い、そこにはイギリス人が感じた事を彼らの言葉で自分も感じることができる喜びがある。こうした語学勉強なら一生続けられるだろう。「ハロー、レッツ・スピーク・イングリッシュ」なんて謳う幼児英会話教室は要らない。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68281664.html


68. 中川隆[-5802] koaQ7Jey 2017年11月27日 19:12:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

中高生の多くに読解力懸念 国立情報学研究所調査 2017年11月27日

 「語の係り受け」など、文章の基本的な構造を理解できていない中高生が多くいるとみられることが、国立情報学研究所の新井紀子教授らの研究チームによる調査で27日までに分かった。新井教授は「読解力が不十分だと社会生活を送る上でも大きな影響が出る」と懸念している。

 調査は2016年4月〜17年7月、中高生を中心とした約2万5千人を対象に実施。中高生の教科書や辞典、新聞記事などに掲載された文章を題材に特別な知識がなくても、基礎的な文法を踏まえていれば答えられるようにした問題を出した。

(共同)


69. 中川隆[-5749] koaQ7Jey 2017年12月21日 10:13:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年12月21日 才能を潰すのが得意な日本
From 小浜逸郎@評論家/国士舘大学客員教授


以前このメルマガに、
「日本からはもうノーベル賞受賞者は出ない?」
という稿を寄せました。
https://38news.jp/economy/11171

ノーベル賞受賞者で京都大学iPS細胞研究所長の
山中伸弥さんが「ご支援のお願い」として
寄付を募っているのです。
そのなかで山中さんは、
「弊所の教職員は9割以上が非正規雇用」と
書いていました。
研究所の財源のほとんどが期限付きだからです。
https://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/fund/

10年、20年という長期間を要する基礎研究に、
政府や大学は十分な資金を与えず、
しかも短期間に成果を出す研究のみを
優遇する方向にシフトしています。

非正規雇用では給料が不十分なだけではなく、
安心して研究に打ち込めません。
それで、若い優秀な人たちが
基礎研究を諦めてしまう傾向が増大しています。

12月13日18時ごろのNHKラジオ番組に、
一昨年、ノーベル物理学賞を受賞した
梶田隆章さんが出演していました。
梶田さんは、
ニュートリノが質量を持つことを示す
「ニュートリノ振動」の発見という偉大な
業績を成し遂げた方です。

この番組で、梶田さんは、
自分が若い頃は、カミオカンデなどの
巨大な装置による実験を長いこと繰り返し、
結果を理論にまとめ上げることが可能だったが、
今では、基礎研究に取り組もうと思っても、
期限付きの研究費しか得られないので、
若い人たちが自分の若い時のように、
腰を据えて研究に集中することができないと、
山中さんと同じことを話していました。

この問題は、自分たちがいくら頑張っても
どうすることもできない。
できるだけ広くみなさんにこの事情を
知ってもらうほかないと、
切々と訴える梶田さんの声が、
今も耳に残っています。

12月5日には、日本のスパコン開発の第一人者
齋藤元章さんが詐欺容疑で逮捕されました。

齋藤さんは天才です。
2014年に株式会社ExaScalerを立ち上げ、
理化学研究所(RIKEN)および、
高エネルギー加速器研究機構(KEK)と
共同研究契約を結び、
わずか七カ月で「Suiren」を開発します。
これが、スパコンの省エネ性能を競うGreen500で
2位にランクイン。
2015年には、同じくGreen500)で、
RIKENの「Shoubu」、KEKの「Suiren Blue」および
「Suiren」の3台が1位から3位までを独占します。

2017年1月には、科学技術振興機構(JST)が、
未来創造ベンチャータイプの新規課題の緊急募集に、
ExaScalerのスパコンが採択されたと発表。
開発期間2017年1月から12月まででしたが、
齋藤さんは、その締め切り直前に
逮捕されてしまいました。

逮捕容疑は、技術開発助成金を得るのに、
報告書を他の目的に書き換えて
四億円程度の水増し請求をしたというもの。
もちろん容疑が事実なら、いいとは言いませんが、
まだ実際に四億円をもらったわけでもないし、
他の研究者の言によれば、
この程度のことは日常茶飯事だそうです。
注意勧告して書き直させれば済む話。

なぜこういうことになるのか。
政府が先端技術研究のための資金を出し惜しみ、
国家的プロジェクトに
十分なお金をつぎ込まないからです。

齋藤さんは、雑誌『正論』2017年2月号で、
次のように訴えています。

このままでは日本はスパコンで中国に
負けてしまう。中国が一位になると、
エネルギー、安全保障、食料、医療、
自然災害対策など、すべての面で中国に
支配されてしまいかねない。
自分たちのプロジェクトのために
せめて三百億円の資金がほしい、と。

国家の命運がかかっている問題で、
政府がちゃんと資金援助をしないから
最高の頭脳を潰すことになるのです。
これによる日本全体の損失は計り知れません。

三橋さんの著書の題名ではありませんが、
こうして財務省の緊縮路線が日本を滅ぼします。

日本は江戸時代以来の倹約道徳教国家で、
いつも小さなことを大げさに騒ぎ立てて、
物事の優先順位を間違えます。

さらに想像をたくましくすれば、
逮捕した東京地検特捜部にも
反日勢力が入り込んでいるのではないか。
つい数日前も、リニア新幹線の工事をめぐって、
大手ゼネコン四社が談合の疑いで
特捜部の捜査を受けました。
これでリニア新幹線工事はまた遅れるでしょう。
齋藤さん逮捕にしてもリニア新幹線にしても、
某国の勢力が手をまわしているという
陰謀論に与したくなります。

もしそうでないとすれば、
東京地検特捜部や公取委は、
大局を見失い、正義漢ぶって摘発教条主義に
陥っているのです。
亡国を目指す官庁がまた増えました。
https://38news.jp/economy/11433


70. 中川隆[-5727] koaQ7Jey 2017年12月23日 10:27:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

詐欺に引っ掛かる日本人 / 怨念を動機にする英語教育 (Part 1)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691413.html


詐欺師が得意とする人、苦手とする人


Robert Vaughn 1Jaime Murray 1Oceans Eleven
(左: 英国のTVドラマ『ハッスル』で詐欺師を演じるロバート・ヴォーン / 中央: 『ハッスル』で共演したジェイミー・マレー / 右: 映画『オーシャンズ11』で詐欺師を演じたブラッド・ピットとジョージ・クルーニー )

  世の中に詐欺師が多いのは周知の事実。ただ、ここで問題なのは、誰が本物の詐欺師で、どいつが“詐欺師もどき”なのか判らない点である。というのも、プロの詐欺師なら確信犯だから仕方ないけど、騙されていることに気付かぬまま詐欺師に協力する者や、嘘つきに唆(そそのか)されて共犯になる者、あるいは本気でそのホラ話を信じている者、さらに厄介なのは単なる馬鹿がいるからだ。

  世間のオっちやんやオバちゃんは、新聞やテレビで金融詐欺とか投資詐欺を目にすると、「こんな詐欺に引っ掛かるなんて、まったくどんな頭をしてやがんるだ? 」と嘲笑し、「愚かな奴だ !」と斬り捨てることがある。しかし、騙された者がみんなアホ・馬鹿・間抜けとは限らない。実際は、知能が高ければ高いほど、持ち掛けられた取引を自分の利益になるはずだと思い込み、虎の子のお金ばかりか、時には他人のお金まで流用して儲けを摑もうと試みる。事件が明るみに出た後で、「ああだった」「こうだ」と後知恵をつけることは可能だが、騙されている間は気付かぬものだ。「カモ」は現実と虚構の区別がつかない“世界”に放り込まれているので、何処までがフィクションで、どこが本当なのか判別できないのである。

  したがって、騙されるのは頭の善し悪しではない。犯罪に詳しい専門家によれば、詐欺師を手こずらせる程の切れ者でも、その人に適した手法を使えばすぐ乗ってくるという。頭の良い人は、最初、何となく不正な取引と勘ぐるものの、あれこれ考えた末、欲の皮が膨張するせいか、やっぱり“エサ”に食いつくそうだ。そして、意外なことに、ほとんどのカモは上流階級の出身者であるという。(デイヴィッド・W・モラー 『詐欺師入門』 山本光伸訳、光文社、1999年 p.127) アメリカたど、それは金を儲けた者とか、金目当てで結婚した者、誰かの財産を相続した人を意味するらしい。彼らは自然と優越感を持つような地位に就いており、とりわけ資金調達や投資話に対しては、しっかりつとした判断を下せると思っている。だが本当は、出世を狙っている友人がいたり、仕事仲間が手助けしてくれたお陰なのだ。ところが、こうした自惚れ屋は、自分が優れているから大金を手にできたのだ、と思い込む。こんな具合だから、自信や幻想を抱く者の中には、次第に自分を天才的人物と考える輩(やから)がいるそうだ。

  例えば、土地開発で50万ドルないし100万ドルを儲けた実業家は、自分が幸運であったことや、人を強引に丸め込んだことを綺麗さっぱり忘れ、自分には先見の明があるとか洞察力に富んでいると思ってしまう。詐欺師によると、不動産業者はカモの中でも最も“美味しい”獲物であるらしい。実業家も似たようなもので、彼らは儲け話しに敏感で、詐欺グループが雇った「おとり」や「インサイド・マン」に引っ掛かりやすく、擦り寄ってくる犯罪者の魅力に惹きつけられやすいそうだ。しかも、このカモは大博打に賭ける資金を豊富に持っているし、たとえ手元に現金が無くても何処からか資金を調達できるから、詐欺師にしたら笑いが止まらない。その他、銀行家や遺産を担当する遺言執行人、信託資金の管財人とか監督者も驚くほど簡単に騙されるという。例えば、「ビッグW」という詐欺師は、コネチカット州に住む敬虔な教会管財人を騙し、大金を巻き上げたことがあるそうだ。詐欺師の業界では、医者や弁護士、大学教授も例外ではないという。

  それにしても、詐欺師は心理戦の達人だ。彼らはカモの欲望や虚栄心、自尊心につけ込むのが上手い。詐欺師が狡賢いのは当然だが、彼らは見た目や感じが良く、どんな人とでも親しくなれる。15分もあれば誰とでも仲良くなれるし、1日か2日あれば親友の域にまで達することができるという。(上掲書 p.132) 彼らは全国をあちこち動き回っており、客船や列車の中でカモを見つけると、偶然を装って罠に嵌めようとするらしい。彼らはお金の嗅覚に優れており、狙ったカモに接近する“コツ”を心得ている。詐欺師は何よりもまず聞き上手になるらしい。そうすれば、相手の目的地や職業、および経済状況が直ぐに分かり、趣味とか家族、友人、浮気相手のことまで聞き出せるという。詐欺師はカモを見つけたその日に騙すこともあるが、完全に引っ掛かるまで“ゆっくり”と時間をかけたほうが安全、と踏むこともあるそうだ。

  詐欺師によると、世間には何度でも騙せる「旨いカモ」がいる一方で、なかなか騙せないタイプの人もいるという。カモには共通する特徴があるそうで、それは「みんな嘘つきである」ということだ。たいていのカモは、自分がどれくらい金があるのか、どんな投資を行っているのか、どれほど良い家柄の出身なのか、妻や子供がどれほど素晴らしいのか、について嘘をつくらしい。中には豊富な恋愛体験について長々と話す者もいるそうだ。ほとんどの場合、カモがこうした嘘をつくのは、自分の利益を図るためで、詐欺師は容易にカモの見栄を“見抜き”、そこをくすぐって仕事に取りかかる。一方、被害者は得意になって自慢話を語り、それが元で大損をする破目になるから実に憐れだ。しかも、カモにされたと判ったら、その経緯(いきさつ)についても嘘をつく。知識人とか社会的身分が高い者は、自分が間抜けだったことを認めたがらず、自己防衛のために適当な話をでっち上げ、次第に自分でもその捏造話を信じてしまうらしい。詐欺師によれば、これは致し方ないことであり、大目に見ているそうだ。

  では、騙されない人というのは、一体どんなタイプなのか? ズバリ、それは正直な人。詐欺師は何が誠実で何を不誠実であるかを知っている者に手を焼く。こうした人物は、静かに湧き起こる心の声に耳を傾けるので、絶対に誘惑に乗ってこない。大半の詐欺師は彼らに出逢っても、決して馬鹿にすることはせず、ただ困惑するだけである。ベテラン詐欺師はほとんど同じ言葉を口にするという。本当に正直者は騙せない。(上掲書 p.143) 象牙の塔で屁理屈を並べている大学教授より、現実の世界で詐欺を実行する犯罪者の意見の方が、よっぽど貴重であり、含蓄に富んでいる。


アジア人を理想とする英語教育

  前置きが随分と長くなってしまったが、英語教育の改革を検討し、提唱する人々を判断するうえで、詐欺師の見解はとても参考になる。なぜなら、高学歴を誇る保護者や知識人を気取る評論家が、いかに文科省の“甘い罠”に嵌まっているのか、が判るからだ。各マスコミの報道によれば、2020年から小学校で本格的な英語教育が実施されるそうで、3、4年生で英語の授業が「外国語活動」となり、5、6年生の段階で「教科」になるらしい。小学校とは縁の薄い大人だと、「どうして小学三年生から英語を始めるんだ?」と訝しむが、文科省には大義名分があるという。役人の「弁明」に一々文句をつけてもしょうがないけど、教育審議会とか外国語専門部会の連中が言うには、以下の様な理由がある。例えば、

  グローバル化により、個々人が国際的に流通する商品やサービス、国際的な活動に触れ、参画する機会が増大するとともに、誰もが世界において活躍する可能性が広がっている。

  さらに、IT革命の進展により、国を超えて、知識や情報を入手、理解し、さらに発信、対話する能力、いわゆるグローバル・リテラシーの確立が求められている。

  また、インターネットの普及や外国人労働者の増加などによって、国内においても外国語でコミュニケーションを図る機会が増えている。

  まったくもう、こんな「言い訳」を聴けば、「あぁ〜あ、また“グローバル化”かよぉ〜」とボヤきたくなる。何かと言えば、政治家や官僚は「グローバル時代だ、国際化社会になった」と騒ぐ。「グローバル(地球的)」と言ったって、要は歐米世界のことだろう。一般の日本人が「グローバル時代」と耳にして、アルバニアとかモルドバ、シエラレオネ、アンゴラ、モルディブ、トルクメニスタンなどを思い浮かべるのか? だいたい、一般の日本人が英語の地図を広げて、「ここがザンビアで、あっちがベニン」とか、「ウズベクスタンとカザフスタンはここ」と指すことは出来ない。地理どころが、どんな民族がいて、何語を話しているのかさえ判らないのだ。日本人が英語を用いて話す相手というのは、もっぱらアメリカやヨーロッパの白人である。つまり、英語を難なく喋るゲルマン語族の人々なのだ。

  将来、貿易商とか国際弁護士、科学者、旅行業者になろうとする人なら別だが、普通の日本人には英語の会話能力とか、文章作成能力は必要ない。確かに、こうした能力はあってもいいが、それを習得する時間と金銭を考えれば、本当にそれを身につける必要があるのかと首を傾げたくなる。一般人が漠然と思い描くのは、西歐白人と楽しく会話する自分の姿くらいだ。英会話スクールに通っている人の中には、ビジネス上やむを得ず勉強する破目になった者もいるが、流暢に喋れる日本人を見て憧れたとか、「白人と喋れるようになったらいいなぁ」という軽い気持ちで入ってくる人もいるはずだ。大半の日本人は口にしないけど、いくら英語を話すからと言っても、フィリピン人やインド人とコミュニケーションを取りたいとは思わない。アジア人と親しく会話するために、小中高大と学校で10年間も費やす者は居るまい。その証拠に、英会話学校の宣伝には、ユアン・マクレガーとかキャメロン・ディアスのような白人ばかりが起用され、ウィル・スミス(Will Smith)といった黒人とか、マレー・アブラハム(Fahrid Murray Abraham)のようなシリア系アメリカ人、あるいはジャッキー・チェンみたいな香港の支那人が採用される事はまずない。

Ewan McGregor 8Cameron Diaz 2Will Smith 4Murray Abraham 1
(左: ユアン・マクレガー / キャメロン・ディアス / ウィル・スミス / 右: マレー・アブラハム)

  筆者は日本人が西歐人と接触し、直に意見を交わしたり、彼らと親睦を深めることや、様々な活動を共にするといったことに異論はない。ただ、文科省の役人や霞ヶ関の議員が、我が国の子供をアジア人並みに格下げしようと謀っているから反対なのだ。察するに、教育行政を司る役人は、英語教育を用いて日本版のフィリピン人を生産したいのだろう。よく日本にやって来るフィリピ人とは、スペイン人に征服され、アメリカ人に売り飛ばされた南洋土人に過ぎない。彼らは形式的に独立してもアメリカの属州民で、国内政治に於いても支那系の華僑に支配されている。上流階級の支那人にとったら、ルソン島のタガログ族など「南蛮人」の類いで、マムシやトカゲと同じだ。彼らの「仲間」というのは、同じ言葉と文化を共有する華僑のみ。ゴミ捨て場に生まれ育ったフィリピン土人は、「エンターテイナー」と称してキャバレーで働き、裸踊りか売春が本業だ。彼女達も英語を話すが、日本人男性はコミュニケーションより“スキンシップ”を取りたがる。

  英語に夢中な日本人は、フィリピン人如きになるべく勉強している訳ではないが、役人たちは庶民の子供をアジア人と見なしている。「国際化時代だから、アジアの民に後れを取るな」と言いたいのだろう。文科省曰わく、

  国際的には、国家戦略として、小学校段階における英語教育を実施する国が急速に増加している。例えば、アジアの非英語圏を見ると、1996年にタイが必修化し、97年には韓国、2001年には中国が段階的に必修化を開始した。EUにおいては、母語以外に2つの言語を学ぶべきとし、早い時期からの外国語教育を推進している。例えば、フランスは2002年に必修化の方針を決定し、2007年から実施する方向で取組を進めている。

  日本の子供が目指す理想がタイ人とか朝鮮人、支那人とは恐れ入る。タイ人の一部が英語を習得するのは、上流階級に昇りたいとか、西歐人相手の商売で儲けたい、という後進国の悲願が基になっている。貧乏で薄汚い環境から抜け出す手段としての英語なんだから何とも憐れだ。南鮮人の場合はもっと切迫しており、「地獄と変わらない朝鮮(ヘル・コリア)」から脱出するため、寝る暇を惜しんで英語を勉強する者が多い。中には、米国の大学を卒業しなければ明るい未来が無いから必死で勉強する者もいる。科擧の因襲が色濃く残る朝鮮では、何でも試験、学歴、派閥、人脈だ。エリート・コース以外に楽しい人生は無いし、一旦そこからはみ出せば二度と戻ることはできない。大手の会社をクビになれば、屋台を引いて小銭を稼ぐしかないし、それがイヤなら天国に一番近い日本へ密入国だ。

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(左: タイ人の子供たち / 中央: フィリピン人の女性 / 右: 支那人の女性 )

  支那人が英語を学ぶのは一に「銭」、次に「金」、三、四が無くても五番目に「札」、と「お金」がすべてで、最初から最後まで利益が目的。キリスト教徒にとってイエズスが「アルファでありオメガである」ならば、支那人にとっての神様はキリスト教徒が唾棄する「マモン(強欲の神)」である。1億人か2億人がゼニの亡者となって英語を勉強するんだから、優秀な人物が出てくるのは当然だ。支那人は書物の中にゼニが隠れていると思っているんだから。日本の小学校で、先生が児童に向かって、「さあ、みなさん、英語の教科書を開いてくださぁ〜い。小判が見えますよぉ !」と教えるのか? アバ(ABBA)の曲「マネー、マネー、マネー」だって歌わないぞ。

  文科省の例は狡猾だ。フランス人が英語の授業を必須化したって不思議じゃない。英語の語彙にはフランス語やラテン語を語源とする単語が多いし、文法だって似ているから、フランス人の子供にしたら、ちょいとした方言を学ぶようなものである。一般の日本人は英語やドイツ語、スペイン語、イタリア語を話せるというフランス人を紹介されると、「わぁぁ、凄いなぁ」と感心するが、英語やドイツ語は姉妹語に当たる西ゲルマン語だし、スペイン語やイタリア語は同じロマンス語に属する言葉だから難しくはない。江戸っ子に津軽弁や名古屋弁、博多弁、薩摩弁を喋れと命じれば、即座には無理だが、時間をかければ不可能ではないだろう。日本人は気付かないけど、全国の方言を平仮名とかアルファベットで書き記すと、まるで外国語のように思えてくる。しかし、基本的な文法や語彙は同じだし、いくら発音やイントネーションが違うといっても、習得する速度を考えれば、ヨーロッパ人より日本人の方が早い。

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(写真 / フランス人の女性と子供たち)

  小学校からの英語教育となれば、その効果を疑って反対を表明する人もいるけど、普通の親は英語教育の導入に賛成しがちだ。というのも、自分が英語を上手に喋れないからである。一般国民の中には、「小さい頃から“ちゃんとした”英語教育を受けてこなかったせいで苦手なんだ」と恨む人が多い。中学生や高校生の頃、英語が不得意で、期末試験などで酷い点数しか取れなかった、大学受験で猛勉強したけど結局は失敗した、と様々な体験を持経て、後悔の念に駆られている人が親となっているんだから、「我が子には同じ苦痛を味合わせたくない」と考えても無理はない。だから、「まだ小学生では早いかな」と躊躇(ためら)う親でも、テレビに登場する大学教授や教育評論家から、「あなたのお子さんも小さい時から英語に慣れ親しめば、ネイティヴのように英語がペラペラと話せますよ」と聞かされれば、「そうよ。私が不得意だったのは、小さい頃から英語に触れていなかったせいだわ」と思ってしまう。自分で勉強しなかった親に限って、教育制度が悪い、学校の教師がネイティヴ・スピーカーじゃない、文法一辺倒で会話を軽視している、などと不満をぶちまける。自分の怠け癖を棚に上げて、政府の教育方針に異を唱え、自分の子供に「果たせぬ夢」を押しつけるんだから、英語教育への恨みは相当なものだ。

Watanabe Shoichi(左 / 渡部昇一 )

  英会話を等閑(なおざり)にしてきた学校に腹を立てる日本人はかなりいて、故・渡部昇一先生が喝破したように、「ルサンチマン(恨み)」の上に教育改革は成り立っている。上智大学で教鞭を執っていた渡部教授は、英文法の形成に興味を惹かれ、ドイツのミュンスター大学で博士号(PhD)を取得し、『イギリス文法史』、『英語学史』『イギリス国学史』といった名著を世に出していた。(ちなみに、渡部先生は上智大学で名誉教授になったけど、本当はミュンスター大学の名誉博士号の方がすごい。日本の名誉博士号は退職者への単なるプレゼントだが、ドイツの大学が授ける「エメリタス(emeritus)」は輝かしい業績のある者だけに贈られる称号なのだ。)

  ドイツ人の学者が「えっ、ドイツの大学で博士になったの?」と驚嘆する渡部先生によれば、日本の英語教育における目的は、流暢に喋る事ではなく、良い文章を書けることにあるそうだ。英語をペラペラと喋るだけなら乞食にでも出来るが、立派な論文を書くには“しっかり”と文法を勉強し、論理的な文章を構成できる知能を養わねばならない。 歐米の大学に留学したことがある者なら解ると思うが、教授たちは学生がどのような「論文」を書けるかで判断する。いくら授業中にテキパキと発言できても、肝心の学術論文が凡庸なら評価が低く、文法がいい加減で不明確な論述だと却下されてしまう。だから、英語の書物を読む日本人は、著者が何を述べているのか明確に理解せねばならず、その為には日本語で“はっきり”と意味が取れないと咀嚼(そしゃく)したことにはならない。簡単な日常会話なら“おおよそ”の意味さえ解ればいいけれど、学問の世界だと“ちょろまかし”は御法度だ。したがって、日本の英語教育は正確な読解力と作文能力を重視すべし、というのが渡部先生の持論である。もちろん、何らかの特殊な職業に就く人には英会話能力が必要だと述べていたが、一般の子供にまで会話能力の習得を押しつけるとなれば、ネイティヴ・スピーカーを教師に雇い、厖大な授業数を設けなければならない。もしそうなったら、教育現場は大慌てだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691413.html


71. 中川隆[-5717] koaQ7Jey 2017年12月24日 19:05:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


グローバル企業が支援する愚民か政策 / 怨念を動機にする英語教育 (part 2)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691561.html


「お遊び」としての英語教科

Nathalie Delon 1English teacher 7
(左: 『個人教授』でのナタリー・ドロン / 右: 実際に英語を教える教師 )

  教育改革の理念はご立派だけど、実際、学校側はどのような「英語教育」を行ってきたのか? 「小学校英語活動実施状況調査」によると、公立小学校の総合学習において、約8割の学校が英語活動を実施しており、特別活動等も含め何らかの形で英語活動を実施している学校は、93.6%に及んでいるそうだ。第6学年では、英語活動を実施している学校のうち、97.1%が「歌やゲームなど英語に親しむ活動」を行い、94.8%が「簡単な英会話(挨拶や自己紹介など)の練習」に取り組んでいるという。また、73%が「英語の発音の練習」を行っているそうで、年間の平均授業実施時数は、第6学年で13.7単位時間(1単位時間は45分)であるらしい。


  「英語の授業」といっても、外人教師が子供たちと一緒に歌ったり、大袈裟なジェスチャーで挨拶する程度なんだから、実質的には「遊びの時間」である。文科省は具体例を挙げているので、ちょっと紹介したい。

  @ 例えば、自分の好きなものについて話すという言語の使用場面を設定して、実際に英語を使って、自分が好きな食べ物について話しあったりする(コミュニケーション)。その際、国語科の内容とも関連させながら、日本語になった外国語にはどのようなものがあるかを学習する(言語・文化理解)。また、apple, orangeなどの単語を通して英語の音声に触れてみたり、I like apples.などの表現例を使ってみたりする(スキル)。


  A例えば、友達を誘うという言語の使用場面を設定して、実際に英語を使って、自分が好きな遊びに友だちを誘ってみる(コミュニケーション)。その際、日本の遊びと世界の遊びについて比較対照してみる(言語・文化理解)。また、ohajiki, baseballなどの単語を通して英語の音声に触れてみたり,Let's play ohajiki.などの表現例を使ってみたりする(スキル)。

  もう、論じることすら馬鹿らしくなる。確かに、小学生なら教師の言葉を真似て、上手に「アップル」とか「オレンジ」と発音できるだろう。しかし、自分が欲する事や感じた事をそのまま文章にできまい。「リンゴが好き !」といった簡単な文章なら英語で表現できようが、気に入った服や玩具を買ってもらいたい時など、“微妙”な呼吸を必要とする場合には、慣れ親しんだ日本語となるだろう。例えば、母親と一緒に百貨店を訪れた少年が、「ねぇ、ママ、僕、あのオモチャがおうちにあったら、毎日ママに見せてあげられるんだけどなぁ」とねだることもあるし、父親に連れられた娘が「パパ、私このお人形が前から欲しかったんだけど、クリスマスまで我慢するね」と哀しそうな目をして、暗に買ってくれとせがむこともある。(賢い子供なら、“こっそり”とお爺ちゃんやお婆ちゃんに「おねだり」を考える。なぜなら、こうした小悪魔は祖父母が孫に甘いことを熟知しているからだ。) 子供は一番便利な言葉を選んで生活するものだ。両親が日本人なら、いくら学校で英語を学んでも無駄である。子供は親に向かって日本語を話すし、親の方も日本語で答えるはずだ。

特に、子供を叱る場合、「こらぁぁ、何やってんの!! そんなことしたらダメぢゃない !」と言うだろうし、オモチャを買ってくれとせがまれた時も、「泣いたってアカンで。無理なもんは無理や !!」と日本語で却下するだろう。したがって、日常会話の80%ないし99%が日本語なら、学校の授業なんか焼け石に水である。

Filipino maids 1Vietnamese workers 1
(左: フィリピン人の女中 / 右: ベイナム人の労働者 )

  「外国語専門部会」のメンバーは、机上の空論を弄ぶ連中だから単なる馬鹿ですまされるが、その方針を支持する経済界の連中には用心が必要である。彼らは「グローバル化に伴う英語の重要性」を看板に掲げているけど、本音ではアジア人労働者と一緒に作業が出来る日本人を求めているだけだ。英語を用いてコミュニケーションをはかる相手とは、教養と財産を持つ西歐白人ではない。稚拙な英語教育で低脳成人となった日本人は、工場や下請け企業でアジア系従業員と同列になり、カタコトの英語で仕事をする破目になる。大手企業が輸入するフィリピン人やマレー人、ベトナム人、支那人などに日本語を習得させるのは困難だから、簡単な「共通語」を職場の言葉にする方がいい。英語なら多少発音がおかしくても通じるし、移民労働者も多少の予備知識を備えているから、日本人の現場監督でも何とかなる。「グローバル化」と言えば響きが良いが、その根底には、日本人に対する待遇をアジア人並に引き下げ、低賃金労働者としてこき使おうとする目論見は明らかだ。子供の将来を案じ、私塾にまで通わせる日本人の親は、我が子をフィリピン人並に育てるべくお金を払っている訳ではない。しかし、お遊びの英語教育を受ける子供は、数学や理科、国語などの授業数を削られるから、総合的な学力低下は避けられず、卒業してから就く仕事は限られている。だいたい、望んでもいない低級な職種とか、厭々ながらの職業に就いた若者が、やる気と向上心を持って働くのか? 職場意識の低下は明らかだ。

どんな外人を雇うのか ?

  もう一つ、英語教育改革に伴う問題として挙げられるのは、どうやって充分なALT(Assistant Language Teacher / 外国語指導助手)を確保するかである。現在、英語の授業は日本人の教師に加えて、英語圏からの補助教員を用いて行われているから、各地方自治体は適切な外人のリクルートに手を焼いているそうだ。ベネッセ教育総合研究所の調査によれば、教育現場は英語を専門とする講師や、日本語がある程度話せるALTを獲得したいそうだが、実際のところ、こうした外人は稀で、日本人教師との意思疎通が困難なうえに、授業の打ち合わせができない。しかも、ALTが2、3で交替してしまうし、ALTによって方針や態度が違いすぎる。もっと悪いことに、指導力が身についていないALTが多いという。これは教師でない筆者も想像ができる。英語を話すアメリカ人やオーストラリア人だからといって、外国人に英語を教える能力があるとは限らない。日本語は文法や語彙、発音の点で英語と全く異なる。とりわけ、日本語を話す子供を相手にする場合、相当な根気と熱意が必要で、教育技術の無い外人を雇ったってトラブルが増すだけだ。もし、日本人教師がサウジ・アラビアに派遣されて、現地の子供に日本語を教える破目になったら、一体どのような事が起こるのか? 想像しただけで恐ろしくなる。

English teacher in AsiaEnglish teacher in Korea
(写真 / アジアへ派遣された英語教師 )

  充分な外人ALTを確保する場合、自治体が負担する費用も馬鹿にならない。仮にも教師だから、渋谷とか新宿で見つけた不良外人を雇うわけにも行かないので、多くの学校はJETプログラム(外国語青年招致事業 / The Japan Exchange and Teaching Programme)に頼んで、外人教師を斡旋してもらうことになる。しかし、上質な人材を招致するとなれば、それなりの給料や恩給を約束しなければならないし、待遇だって日本人以上に設定しないと承諾されない場合もあるだろう。小さな地方公共団体だと予算不足に悩んでいるので、ALTへの住居手当とか出張費を考えると頭が痛い。こうなれば、民間企業に頼らざるを得ないし、人材派遣業者だって甘い言葉を囁いてくる。ALTの増加要請は、地方自治体にとって財政的なピンチだが、「口入れ屋」にとっては儲けるチャンスだ。海外で安く仕入れた「外人」を日本に輸入して高く売りさばく。これを大手の人材派遣会社が全国展開のビジネスにすれば、大きな利鞘を得ることになる。ついでに不動産屋と結託し、外人教師の住宅もセットにすれば、更なる利益を摑むことができるだろう。

  一方、予算の確保に困った地方の役人は、まず中央に泣きつくから、巨額な補助金が各地に流れることになる。気前の良い中央官庁がバックにつけば、学校側は外人教師に高給を渡すことができ、口入れ屋もピンハネ額が多くなってニコニコ顔。これって、何となく、売春婦を斡旋する女衒(ぜげん)みたいだ。例えば、日本の派遣業者が不景気なアイルランドを訪れ、適当な「教師」を物色したとする。教師としての資質が不充分でも、英語を話す白人を物色できれば、日本で高く販売できるから、多少、交渉金が釣り上がっても採算が合う。どうせ庶民のガキに歌や絵本を教えるだけの「補助教員」だから、教養とか品格は問題じゃない。結局、損をするのは、「お遊び」の英語に時間を費やし、気位だけが高い愚民へと成長する子供たちと、巧妙に税金を吸い取られる親の方である。

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(左: 英語を話す黒人女性  / 右: カナダの白人女性 )

  凡庸な外人ALTをあてがわれる事態となれば、子供を預ける親も心配になるが、子供の方にも別の不満が募ってくる。学校教師は言いづらいだろうが、外人教師の人種や容姿が問題となるからだ。極端な例だが、もしAクラスを担当する外人ALTが金髪碧眼の若いイギリス人女性で、Bクラスを受け持つALTがブリテン国籍者なんだけどジャマイカ系の黒人男性であったら、どんな反応が起こるのか? もちろん、両者も英国で言語学を専攻し、教員免許を持っている。しかし、Bクラスの子供たちは、Aクラスの生徒を羨み、「僕もAクラスの先生がいい」とか「Aクラスの方に移りたい」と言い出す。さらに、保護者からも「どうしてBクラスはイギリス白人の先生じゃないの?」と抗議が来る。

  英語の教師を探す場合、イングランドやアメリカだけではなく、カナダとかオーストラリア、アイルランドも募集地となるが、事によってはインドやエジプト、ケニア、フィリピンだって候補地となり得る。外人講師への出費を抑えようと思えば、アジアかアフリカ出身者の方がいい。でも、子供たちの反応を考えれば、ブリテン連邦や北米出身の白人教師の方が“適切”と思えてくる。あり得ないことだけど、もし中学校の英語教師をイングランドから招くなら、ケンブリッジ公爵夫人となったキャサリン・ミドルトンのような女性の方が好ましく、やがでヘンリー王子と結婚するメーガン・マークルのような黒人女性じゃ二の足を踏んでしまうじゃないか。

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(左: キャサリン妃 / メーガン・マークル / エリザベス女王 / 右: フィリップ殿下)

  確かに、どちらも心優しい女性であるが、マークル氏がイギリス文化を解説するなんて、ちょっと抵抗がある。イギリス系のカナダ人が教えるんなら納得できるけど、支那系とかアフリカ系のカナダ人だと遠慮したい。やはり、英国の言葉や風習を教えてもらうなら、先祖代々イングランドに暮らすアングロ・サクソン系のイギリス人の方がいいし、パキスタン移民3世とかインド系帰化人5世の教師より、オランダ系やドイツ系の移民2世の方がマシだ。何しろ、イングランド王国では女王陛下がドイツ系だし、フィリップ殿下はギリシア出身のドイツ系貴族で、スコットランドのエジンバラ公爵になっている。日本の皇室とは大違いだ。

  ベネッセ教育総合研究所が行ったアンケートに、「英語教育で重要なこと」という項目があり、そこでは外国人との交流に関する質問があった。「とても重要」と答えた人は英語教育賛成派で55.4%を占め、反対派でさえ30.7%であった。最重要とは言えないが「まあ重要」と答えたのは、賛成派で41.6%、反対派では54.9%であった。ということは、賛成派と反対派を問わず、多くの人が外国人との交流に何らかの重要性を見出している訳で、子供たちが進んで外国人に接することを期待していることになる。だが、話しかける相手が西歐白人ではなく、イングランドに移り住んで来たインド人やパキスタン人、トルコ系帰化人の2世や3世、あるいはブリテン国籍を持つアラブ系イスラム教徒であったらどうなるのか? イギリス人とは思えない容姿の教師を前にして、日本の子供たちが積極的に話しかけ、英語やイギリス文化に興味を示すとは思えない。

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(左: インド系男性 / 中央: 英国のジャマイカ人女性 / 右: ムスリム男性 )

  もし、帰宅した息子に母親が、「今日、英語の時間はどうだった?」と尋ね、「う〜ん、別に」といった返事だけしか得られなかったら心配になる。それに、問い詰められた息子が、「あんまり面白くない」とか「あの先生イヤだ」と呟いたらどうするのか? 具体的な将来設計を描けない小学生は、教師によって好き嫌いができてしまい、好きな先生の授業なら喜んで学ぼうとするが、気に入らない教師に当たるとガッカリする。ある心理学の実験によれば、幼児だって美女を見ると自分から抱きつこうとするらしく、ブスだと顔を背け、抱きつこうとしないそうである。幼い子供は理性でなく本能で行動するから、大人は冷や冷やするらしい。こうした行動様式はともかく、高額所得者の親を持つ子供は有利だ。お金持ちの保護者は自由に私立学校を選択できるし、優秀な講師を揃えた英語塾にも通わせることができる。しかし、低所得の家庭だと公立学校へ通わせることしかできない。つまり、「選択肢」の無い親子は、どんな学校でも我慢するしかないのだ。

  「日本の学校における教育理念とは何なのか」については様々な意見があるけれど、「立派な日本国民を育成する」ということに関しては、異論はあるまい。いくら英語を流暢に話して歐米人と対等に議論できるといっても、外国人に対して卑屈なら日本人としては失格だ。英語を習得することだけに労力を費やし、大人になっても自国の文化を知らず、日本語さえも未熟なら、こうした人物は歐米人の小使いに過ぎない。まるでローマ人の将軍に飼われたユダヤ人通訳みたいなもので、便利だけど尊敬に値しない「下僕」である。日本人が思考する時に用いる言語は日本語であり、その性格を形成するのも日本語である。その大切な言葉遣いが幼稚で、日本の歴史についても無知な者が、祖国に誇りを持って生きて行けるのか? アメリカ人やイギリス人は、いくら英語が達者な日本人でも、揉み手すり手でやって来る小僧を「対等な者」とは思わない。現在の英語教育は歐米人に対する劣等感を植え付けるだけで、卑屈な日本人を大量生産する結果になっている。我々は英語が苦手なことで尻込みする必要は無い。もし、「英語を流暢に話せるんだぞ」と自慢するクラスメートに会ったら、「ああ、すごいねぇ。まるでフィリピン人みたい」と褒めてやれ。どんな顔をするのか楽しみだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68691561.html


72. 中川隆[-5752] koaQ7Jey 2018年1月31日 20:47:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

内田樹の研究室 2018.01.31

『街場の文体論』韓国語版序文

これが韓国語訳されることになったわけですけれど、果たして僕がこの授業で取り上げたさまざまなトピックが隣国の読者たちにとっても同じような切実さを持つものかどうか、確信がありません。でも、一つ言えるのは、韓国でも日本でも、言語が遭遇している危機についてはおそらくそれほどの違いはないということです。それは母語が痩せ細っているということです。序文として、それについて少しだけ思うことを書いてみたいと思います。

母語が痩せ細っているというのは、現実的には英語が支配的な言語になりつつあるということです。すでに各種の学会ではそうなりつつあります。

自然科学系の学会ではしばしば日本人だけの集まりでも発表や質疑は英語で行われます。研究者たちは英語で論文を読んで、英語で論文を書いて、英語で議論する。

韓国でも事情は同じだと聞いています。どちらも英語での大学の授業数が増えています。

「留学生数」や「海外提携校数」や「英語で開講されている授業数」や「外国人教員数」が多い学校に助成金がたくさん分配される。

だから、どの大学も必死になって英語に教育資源を集中的に分配するようになっています。

日本では中学高校で英語の授業は英語で行うことが定められました。

こういう流れを「国際化」とか「グローバル化」といって肯定的に語る人がたくさんいます。でも、それはそんなに喜ばしいことなんでしょうか。

とりあえず日本において統計的に一つだけわかっていることは、母語の教育を疎かにして、限られた教育資源を英語に集中するようになってから英語力が低下したということです。

この現実に慌てた政府は日本人が英語ができないのは学習開始年齢が遅いからだという根拠のない解釈に飛びついて、英語教育の開始年齢をさらに引き下げて、小学校3年生からの英語教育開始を決めました。結果はまだ出ていませんが、英語力を含めてすべての学力が低下することになるだろうと僕は予測しています。

なぜそんなことが起きるのか。それは言語政策を起案している日本の政治家や官僚や学者たちが「言葉を使う」という営みの複雑さを知らないからです。

彼らは言語というものを自転車や計算機のような「道具」だと思っている。こちらに道具を操作する主体がいて、あちらに道具がある。性能のよい道具を手に入れ、操作技術に習熟すれば仕事が捗る。そう思っている。

でも、それは違います。言葉は道具じゃない。僕たちが言葉を使うというより、僕たち自身が言葉で作られているのです。僕たちが言葉を支配しているのではなく、むしろ僕たちが言葉によって支配されているのです。

言葉は僕たちの血であり、肉であり、骨であり、皮膚である。それがどのような質のものか、どのようなかたちのものか、どのような特性を持ったものかによって、僕たち自身のものの考え方も、感じ方も、生き方もすべてが影響を受ける。

英語を巧妙に操れるようになるということは、「英語を母語とする種族のものの考え方、感じ方」をわが身に刻み込み、刷り込んでゆくということです。そのことの重大さに人々はあまりに無自覚だと思います。

アメリカの植民地であったフィリピンでは英語が使えないとビジネスマンとしても公務員としても教師としてもジャーナリストとしてもよい職には就けません。だから、地位のある人たちはみんなみごとな英語を話します。

フィリピンの生活言語はタガログ語です。でも、タガログ語ではビジネスをすることも政治や経済について語ることもできません。そのための語彙が母語にはないからです。

フィリピン人のある大学の先生がこう語っていました。「英語で話せることは実利的(practical)であるが、母語では話せないことは悲劇的(tragical)だ。」

なぜ悲劇的であるのか。それはこのような言語環境に置かれている限り、フィリピン起源の政治理論や芸術運動が出現する可能性が絶望的に低いからです。

知的なイノベーションは(ほとんどの場合)母語による思考から生まれてくるからです。
母語が痩せ細っていれば、知的なイノベーションは始まらない。

例えば僕たちは母語でしか新語(neologism)を創ることができません。新語というのは、勝手に作れるわけではありません。条件があります。それは生まれて初めて耳にした語であるにもかかわらず、聞いた瞬間に母語話者たちにはその語義もニュアンスもわかるということです。だから、あっという間に広がる。これは外国語ではできません。自分で新語を作ってみても(例えば、不規則変化は覚えるのが面倒だからこれからは“I went”ではなく”I goed”にしようと僕が提案してみても)「そんな言葉はない」と冷笑されるだけです。

新しい言葉を創れないということは、新しい概念や新しいロジックを創ることができないということです。創造的なアイディアが思い浮かんだ時のことを思い出せばわかります。それは「喉元まで出かかっているのだけれど、まだ言葉にならない」というもどかしさを伴う経験です。アイディアは身体の奥の方から泡のように湧き出てくるのだけれど、まだはっきりしたかたちをとることができないでいる。最終的にそれなりの言葉になるのですけれど、それは手持ちの言葉を引き延ばしたり、押し拡げたり、これまでそんな語義で使った前例のない使い方をしたことでようやく達成されます。創造的な概念がかたちをとる時には母語もまた変容する。知的創造と母語の富裕化は同期する。

言葉を使うというのは、そういう力動的なプロセスなのです。道具を使うのとは違います。

鋏を手に持っている時にその新しい使い方を思いついたら、鋏がその思いに合わせて形状を変え、材質を変え、機能を変えるということはあり得ません。その「あり得ない」ことが母語においては起きる。それを考えれば、母語の運用がいかに生成的なものであるかが想像できると思います。そして、この知的創造は(例外的な語学の天才を除けば)母語によってしかできません。既存の言葉を引き延ばしたり、押し拡げたり、たわめたり、それまでにない新しい語義を盛り込んだりすることは母語についてしかできないからです。

ですから、母語が痩せ細るというのは、その言語集団の知的創造にとっては致命的なことなのです。

植民地帝国はどこでも自分たちの言語を習得することを植民地現地人たちに強要しました。

宗主国の言語は強国の言語であり、当然「グローバル」な言語であるわけですから、植民地化された人たちはそれを習得したことで、政治的にも経済的にも学術的にも実力をつけて、国際社会の中で以前よりは高い地位に達してよいはずです(日本の英語政策はまさにそのような発想に基づいて実施されています)。

でも、歴史はそのような実例を一つも教えてくれません。

なぜ宗主国は植民地に「グローバルな言語」の使用を強要するのか。

それは宗主国の言語を習得した植民地人たちには母語を富裕化する動機が失われるからです。そして、母語が痩せ細ると知的創造の機会が失われる。

植民地人たちは、自分たちの歴史的現実について語ろうとする場合でさえ宗主国のロジック、宗主国の歴史観、宗主国の世界戦略に即してしか語れないようになる。父祖伝来の「家産」的な生きる知恵と技術を伝え、それに即して生きることができなくなる。母語が痩せ細るというのはそういうことです。

僕が「クリエイティブ・ライティング」という授業を始めたのは、「グローバル化」潮流の中で日本語が痩せ細り始めているということに強い危機感を抱いたからです。

でも、母語を豊かなものにすることは集団の知的創造性において必須であるということが言語政策を考えている人たちには理解されていません。その結果、日本の知的生産力は21世紀に入ってから急激に劣化しました。

一昨年の秋にはForeign Affairs Magazine が昨年春にはNature がそれぞれ日本の研究力の劣化について長文の分析記事を掲載しました。それほど危機的な状況であるのにもかかわらず、日本の教育行政はすでに失敗が明らかになった「グローバル化に最適化する教育」をさらに加速させる政策をいまも次々と採択しています。これは日本の知的生産力に回復不能の傷をもたらす結果になるでしょう。

誤解して欲しくないのですが、僕は外国語教育の重要性を否定しているわけではありません。僕自身は最初に中学生で漢文と英語を習い、大学ではフランス語を集中的に学びました。その後は(どれもものにはなりませんでしたけれど)ドイツ語、ラテン語、ヘブライ語を独学しました。去年からは韓国語の勉強も始めました。新しい外国語を学ぶとは、異国の人々の自分たちとはまったく異なる宇宙観や倫理規範や美意識に触れることです。それによって自分の母語的偏見が揺り動かされることに僕はいつも深い驚きと喜びを経験しています。そして、これらの外国語との触れ合いは間違いなく僕の母語運用能力を高め、もし僕が母語においてなにごとか知的創造を果たしたとすれば、それに深く関与したと思います。

でも、いま「グローバル化」の名の下で行われているのは「母語的偏見を揺り動かされる」ような生成的で鮮烈な経験ではありません。「英語ができないと出世ができない、金が稼げない、人にバカにされる」というような怯えに動機づけられた外国語との出会いが生産的なものになると僕にはどうしても思えないのです。

この本は「母語が痩せ細っている」という危機感の中で行われた授業の記録です。きっと韓国にも自国語の豊かさと創造性について、僕に似た危機感を抱いている人がいるのではないかと思います。そういう人たちにぜひ読んで欲しいと思います。
http://blog.tatsuru.com/

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73. 中川隆[-5578] koaQ7Jey 2018年2月26日 20:17:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2014/01/20140116T1554000900.html

教育の現場では、どうやって子供たちを考えさせないようにしているのだろうか。それには、次の5つによって、成し遂げられている。

(1)暗記を押し付けて「考えさせない」
(2)苦手を押し付けて「考えさせない」
(3)制服を押し付けて「考えさせない」
(4)規則を押し付けて「考えさせない」
(5)団体行動を押し付けて「考えさせない」

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74. 中川隆[-5582] koaQ7Jey 2018年2月27日 16:59:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

『AI vs 教科書が読めない子どもたち』 著・新井紀子
https://www.amazon.co.jp/AI-vs-%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%8C%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%96%B0%E4%BA%95-%E7%B4%80%E5%AD%90/dp/4492762396


書評・テレビ評2018年2月23日


著者は小学校からのコンピュータープログラミング教育や英語教育が、いかに子どもたちの未来を奪う愚行であるかを、明確にしている。

 著者は数学者(国立情報学研究所教授)で、「東ロボくん」の愛称で知られる人工知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」を発案し、その中心を担ってきたことで知られる。この研究プロジェクトの目的は最初から、東大に入学する学力をめざすものではなく、「人工知能(AI)にはどこまでのことができるようになって、どうしてもできないことは何か」を解明することにあったことを強調している。

 それは、「AI時代が到来したときにAIに仕事を奪われないためには、人間はどのような能力を持たなければならないかを明らかにする」ことでもあった。本書は、このテーマに正面から迫るものだといえる。

 「東ロボくん」のプロジェクトは、AIがセンター模試で上位20%に入り、全受験生の平均値を大きく上回り、全国の主な私立大学に合格できる水準にまで到達している。それは「ホワイトカラーをめざす若者の、中央値どころか平均値をAIが大きく上回った」ことを意味している。近い将来、ホワイトカラーの仕事の多くがAIにとって替えられ、多くの企業が消滅し労働市場が激変することを予測させるものである。

 この人工知能プロジェクトでは同時に、AIが東大入試に合格することはできないという限界も明らかになった。その原因は、英語と国語の成績を今以上に上げることができないことにある。それは、AIが意味を理解することはできないという限界によるもので、当初から想定された当然の帰結であった。早い話が、「先日、岡山と広島に行ってきた」と「先日、岡田と広島に行ってきた」の意味の違いが理解できないのである。

 計算機は計算しかできない。著者はこのあたりまえの事実をもとに、マスメディアや研究者の一部で喧伝する、AIについてのはなはだしい誤謬――人間の脳と同じように判断できるシンギュラリティー(特異点)が到来し、ロボットが人間の仕事をすべて引き受けてくれる、AIが意思を持ち自己生存のために人類を攻撃するなど――を妄想として退けている。

 近年、ロボットと顧客のコミュニケーションや機械翻訳の水準が目覚ましく向上した。だが、これも過去のデータにもとづいた計算の蓄積による、表面的なつじつま合わせの精度の向上でしかない。どこまで行っても、AIが複雑な人間の気分感情を、新しい状況のもとで理解して柔軟に対応するようなことはありえない。

 著者は画像認識(物体検出)、ディープラーニング(深層学習)などAIの開発に寄与した行列、確率、統計といった数学の分野・領域の貢献とともに、過去のデータによる枠組みに限定された計算から導き出される答(初めて出会う状況には対応できていない)を過信する危険性についても強調している。

 今、間近に迫っているのは、勤労者の半数の仕事を奪うまでに開発されたAIとともに生きていかざるをえない社会である。著者はAIにはできないが人間にはできる仕事を探究している。マニュアルに従って処理するような実務の多くはAIに淘汰されるが、残るのは介護や畔の草抜きのような柔軟な判断力が求められる肉体労働など、コミュニケーション能力や理解力が求められる仕事である。そこでは、高度な読解力と常識によって状況を理解したり、人間らしい柔軟な判断が要求される。問題は、AIにできない仕事があっても、今の子どもたちや若者にそれができる力があるのか、である。

 著者はそこから「東ロボ」プロジェクトと並行して、大学生に対する数学基本調査とともに、中高生2万5000人を対象にした大がかりな基礎読解力テスト(リーディング・スキルテスト)による調査と分析をおこなった。本書の後半でその結果と評価について、くわしく論じている。

 この調査から、日本の中高生の多くが「英語の単語や世界史の年表、数学の計算などの表層的な知識は豊富かもしれないが、中学校の歴史や理科教科書程度の文章が正確に理解できない」ことが判明したという。AIが苦手な例文を用いた問題ではあるが、若者たちもAIと同じところでつまずいている。

 たとえば、「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている」という、中学校の地理教科書に出ている文章を見せて、「オセアニアに広がっているのは○○である」の答えを4択で選ばせる問題がある。ここで、正解の「キリスト教」と答えた正答率は中学生では62%、つまり3分の1の生徒がまちがって答える状況にあった。進学率がほぼ100%の高校でも、約4分の1の生徒が間違っていたという。これは文章の主語がなにか、目的語がなにかを把握できているかを調べるものだが、これ以外の「同義文判定」や、文章を理解して図表の正確な把握を求める「イメージ同定」のテストでは正答率がさらに低下していた。

 ここで、詳細な調査についてくわしく紹介できないが、今の若者たちの多くが教科書の文章を正しく理解できないまま、つまりAIが苦手とする分野で人間的に対応する基礎的な力をつけぬまま卒業し、高校、大学や社会に出ているのである。それは、さまざまなウソやまやかしが氾濫する現実社会のなかで、揺れ動く状況をみずからの判断で正しく理解し、柔軟に即応し、社会に貢献する人間像とは対極にあるといってよい。

 著者は、問題を読まずにドリルの計算ができたり、英単語を覚えても、それ以上の学力の向上は望めないことに危機感を募らせ、なによりもまず学校の教科書を読解できる基礎的な力をつける教育への改革を提言している。また、小学校からのコンピュータープログラミング教育や英語教育が、いかに子どもたちの未来を奪う愚行であるかを、明確にしている。
https://www.chosyu-journal.jp/review/7161

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75. 中川隆[-5508] koaQ7Jey 2018年3月23日 18:09:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8622]
内田樹の研究室 2018.03.23
受験生のみなさんへ

こんにちは。内田樹です。この春受験を終えられた皆さんと、これから受験される皆さんに年長者として一言申し上げる機会を頂きました。これを奇貨として、他の人があまり言いそうもないことを書いておきたいと思います。

それは日本の大学の現状についてです。いま日本の大学は非常に劣悪な教育研究環境にあります。僕が知る限りでは、過去数十年で最悪と申し上げてよいと思います。

見た目は立派です。僕が大学生だった頃に比べたら、校舎ははるかにきれいだし、教室にはエアコンも装備されているし、トイレはシャワー付きだし、コンピュータだって並んでいる。でも、そこで研究教育に携わっている人たちの顔色は冴えません。それは「日本の大学は落ち目だ」という実感が大学人の間には無言のうちに広く深く行き渡っているからです。

日本のメディアはこの話をしたがりません。ですから、はっきりとデータを突き付けて「日本の大学が落ち目」だという事実を知らせてくれたのは海外メディアでした。

「日本の学校教育はどうしてこれほど質が悪いのか?」という身もふたもない特集記事を最初に掲げたのは米国の政治外交専門誌であるForeign Affairs Magazine の2016年10月号でした。

その記事は日本の大学の学術的発信力の低下の現実を人口当たり論文数の減少(減少しているのは先進国の中で日本だけです)や、GDPに占める大学教育への支出(OECD内でほぼつねに最下位)や、研究の国際的評価の低下などをデータに基づいて記述した上で、日本の大学教育の過去30年間の試みは「全面的な失敗」だったと結論づけました。

記事は日本の大学に著しく欠けているものとして「批評的思考」「イノベーション」「グローバルマインド」を挙げていました。批評的思考や創造性を育てる手立てが日本の学校教育には欠けていることはみなさんも実感していると思います。けれども、「グローバルマインド」が欠けていると言われると少しは驚くのではないでしょうか。なにしろ1989年の学習指導要領以来、日本の中学高校では「とにかく英語が話せるようにする」ということを最優先課題に掲げて「改革病」と揶揄されるほど次々とプログラムを変えては「グローバル人材育成」に励んできたはずだからです。でも、30年にわたるこの努力の結果、日本人は「世界各地の人々とともに協働する意欲、探求心、学ぶことへの謙虚さ」(記事によれば、これが「グローバルマインド」の定義だそうです)を欠いているという厳しい評価を受けることになってしまった。

問題は英語が話せるかどうかといった技能レベルのことではありません(ついでに申し上げておきますけれど、過去30年で英語力も著しく低下しました。現在、大学入学者の多くが英語をまともに読めず、書けないために、大学では中学レベルの文法基礎の補習を余儀なくされています)。日本の学生に際立って欠けているのは、一言で言えば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面した時に、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力だということです。しかし、生きてゆく上できわめて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした。学校で子どもたちが身につけたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意思疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとは言わないまでも)黙許してきました。でも、その長年の「努力」の結果、「あなたたちはグローバルマインドがない」という否定的な評価を海外から下されてしまった。学校生活を無難に送るために採用した生存戦略がみなさん自身の国際社会における評価を傷つけることになったわけです。たいへんに気の毒なことですし、長く教育にかかわった者としては「申し訳ない」と叩頭するしかありません。僕自身はそういう学校教育のありように一貫して批判的でしたけれど(どちらかというと「排除される側」の人間でしたから)、力及ばず学校教育の空洞化を止めることができなかった。それについては責任を感じています(だから、こういう文章を書いているのです)。

2017年の3月には英国の自然科学のジャーナルであるNatureが同じく日本の科学研究の劣化についての研究論文を掲げました。かつては世界のトップレベルを誇っていた日本の科学研究が停滞している実情を伝え、日本は遠からず科学研究において世界に発信できるような知見を生み出すことのできない科学後進国になるリスクがあると警告を発しました。

米国の政治外交専門誌と英国の自然科学学術誌が相次いで日本の大学教育の危機について報道したというのはよく考えると「変な話」です。海外の教育学者が指摘したというのなら分かりますが、指摘してきたのは政治外交と自然科学の専門誌だからです。

自然科学は国境や国益とは関係のないグローバルな領域です。あらゆる国籍、あらゆる人種、あらゆる宗教の人が自然科学の進歩という共同作業にかかわり、その果実は人類全体が享受できる。その人類的なスケールの活動にこれまで豊かな貢献を果たしてきた日本の関与が期待できなくなる。それは人類にとっての損失です。おそらく海外の科学者はそれを悲しんだのです。

一方、米国の政治外交専門誌が日本の学校教育に警告を発したのは、日本の国際政治のプレイヤーとしてのプレゼンスが低下するリスクを重く見たからです。米国にとって日本は東アジアにおける最大の友邦であり、「属国」です。このまま日本の知的衰退を放置していたら、それは米国の国益に悪い影響を及ぼすリスクがある。だから、日本の学校教育は「前産業時代に特化した時代遅れの教育システム」であるというよう激しい言葉が用いられた。それは米国人からすれば、一種の「友情」の発露でもあったと僕は思います。早く失敗を認めて、手立てを講じろ、と。

米英二国から日本の学校教育の失敗についての指摘があったことにはそれなりの歴史的意味があると考えられます。米英両国は大西洋憲章・ポツダム宣言以来、戦後日本の国のかたちについて制度設計の責任を(部分的には)感じています。はやばやと世界帝国であることを止めた英国はともかく、米国は今も戦後日本のシステムに対して(宗主国としての)責任と権限を自覚しています。日本の国力が衰微したら、それは盟邦としての米国の国益が損なわれるだけでなく、戦後日本社会の設計と運営にあたっていた米国の責任でもあるからです。だから、「友情ある苦言」はまず米英両国から到来した。そういうことではないかと思います。中国や韓国やASEAN諸国からは日本の学校教育に対する批判的なコメントが来ることはまずありません。日本が教育に失敗して、国力が低下しても、それは彼らからすればまさに「対岸の火事」に他ならず、東アジアにおける日本のプレゼンスの低下など痛くも痒くもないからです。

ですから、友邦から海外から日本の学校教育について警鐘が鳴らされているということを日本の教育関係者は厳しく受け止めなければならないと私は思います。けれども、この事実について日本のメディアではほとんど報道がなされていません。なぜか。

制度に欠陥があるというのは「よくあること」です。でも、制度の欠陥についての指摘を聞き流して、失敗を修正しないというのは「よくあること」ではありません。それはより深刻な出来事です。人間は誰でも病気になり、怪我をします。その時には、どの臓器や生体機能が不調であるか、どこの骨が折れ、どこから出血しているかについて吟味がまずなされます。そうしないと治療が始まらないからです。でも、今の日本では「日本の学校教育が海外から否定的評価を受けている」という事実そのものが隠蔽されている。それは制度を手直しし、補正する手立てを講じる機会そのものを放棄するということです。

驚くべきことに、教育行政の当事者たちは今も自分たちの失敗を認めておりません。客観的なデータが「日本の教育は落ち目だ」ということをにべもなく伝えているので、やむなく「教育行政は一貫して正しい政策を行ってきたが、現場が言うことを聞かずに、閉鎖的で封建的な遺制を死守しているために、教育が劣化したのだ。ゆえに教員たちから自己決定権を取り上げ、上意下達の仕組みに切り替えることが教育改善のためには急務である」という説明にしがみついている。教育の「全面的な失敗」の責任は教育現場が行政の指導に従わないことにあって、行政側には何の瑕疵もない、そう言い張っている。もちろん、内心では「たいへんなことになった」と困惑しているのでしょうけれども、今さら「すみません」とは言えない。お役人は基本的に失敗を認めません。それで省庁の面子が保てると思っている。でも、そのせいで「失敗から学習する」という進歩と修正のための唯一つの道筋を自ら塞いでしまっている。

ですから、気鬱な予言になりますけれど、大学を含む日本の学校教育はこれから先ますます「落ち目」になってゆきます。V字回復の見込みはありません。もうすぐに18歳人口の急減によって、大学が次々と淘汰されて消えてゆきます。2017年度で大学を経営する660の学校法人のうち112法人(17%)が経営困難、21法人は2019年度中に経営破綻が見込まれています。みなさんがこれから進学しようとしている先は、そういう危機的状況にある領域なのです。

じゃあ、どうすればいいんだ、と悲痛な声が上がると思います。上がって当然です。分かっているのは「こうすればうまくゆく」というシンプルな解は存在しないということです。初めて経験する状況ですから成功事例というものがない。生き延びる方途はみなさんが自力で見つけるか創り出すなりするしかない。書物やメディアで必要な情報を集め、事情に通じていそうな人に相談し、アドバイスに耳を傾け、分析し、解釈して、生きる道を決定するしかありません。そして、その選択の成否については自分で責任を取るしかない。誰もみなさんに代わって「人生の選択を誤った」ことの責任を取ってはくれません。

どのような専門的な知識や技能を手につけたらよいのかを判断をする時にこれまでは「決して食いっぱぐれがない」とか「安定した地位や収入が期待できるから」という経験則に従うことができました。これからはそれができない。日本の産業構造や雇用状況はこれから少子化高齢化とAIの導入で激変することが確実だからです。でも、どの産業セクターが、いつ、どのようなかたちで雇用空洞化に遭遇するかは誰も予測できない。

ですから、僕からみなさんにお勧めすることはとりあえず一つだけです。それは「学びたいことを学ぶ。身につけたい技術を身につける」ということです。「やりたくはないけれど、やると食えそうだから」といった小賢しい算盤を弾かない。「やりたいこと」だけにフォーカスする。それは自分がしたいことをしている時に人間のパフォーマンスは最も高まるからです。生きる知恵と力を最大化しておかないと生き延びることが難しい時代にみなさんは踏み込むのです。ご健闘を祈ります。
http://blog.tatsuru.com/

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76. 中川隆[-6045] koaQ7Jey 2018年3月29日 10:58:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-9268]

内田樹 2018年03月28日 言葉の生成について(前編)
http://blogos.com/article/286791/?p=1

もう2年前になるけれど、大阪府の国語科教員たちの研修会に呼ばれて、国語教育について講演をしたことがあった。

そのことを伝え聞いた国語科の先生から「どこで読めますか」と訊かれたので、「お読みになりたいのでしたら、ブログに上げておきます」とお答えした。いずれ晶文社から出る講演録に採録されると思うけれども、お急ぎの方はこちらをどうぞ。

「言葉の生成について」 (2016年12月9日 大阪府高等学校国語研究会にて)

学期末のお忙しいところ、かくもご多数お集まりいただき、ありがとうございます。ご紹介いただいたように、僕の書いた文章は、入試問題や教科書に出たりしていますが、人間、一回見ると「こういうこと言いそうなやつだ」というのがだいたい分かります(笑)。

僕はエマニュエル・レヴィナスの本を何冊か訳していたのですが、1987年にご本人にはじめてお会いしました。レヴィナスの本、それまでに一生懸命訳してはきたんですけれども、どうも自分の訳文に確信が持てない。こんなことを言っているように思うのだけれども、「そんなことふつう言うかな?」という疑問がありまして、これは本人に会ってみないと分からないと思いました。それで実際にパリまで行って、お会いした。

その時、お会いした瞬間に、それまでの疑問が一瞬にして氷解しました。玄関の前で満面の笑顔で、「ようこそ」と両手を広げているその様子から、その人の体温、息づかい、思考のリズム感までがよくわかった。

ですから、会う前と後では、翻訳のペースが全く違いました。レヴィナス先生とお会いしたすぐ後に『タルムード講話』というのを訳しているのですが、これなんか、今読むと、ほとんど「憑依されている」。達意の訳文なんです(笑)。難解な本なんですけれど、すらすらと訳している。「どうも、これを訳した時、オレ、わかってたらしい」という感じがする。本人に会った直後というのは、そういうことがある。

だから、皆さんは今日、生の内田樹を見たわけですから、これからは教科書で教える時も自信を持って「これはこうだ」と断言できると思います。「だって、ウチダってこんなことを言いそうなやつだったから」と(笑)。胸を張って言えると思います。

今日はこうした場で、文学、言語の話ができるということで、大変嬉しく思っています。

先日、西本願寺の日曜講演に呼ばれて「『徒然草』の現代語訳を終えて」というタイトルで、文学についての講演をすることができました。

これは池澤夏樹さん個人編集している日本文学全集の中の一巻です。池澤さんとそれまでお会いしたことはなかったのですが、ご指名で「『徒然草』はウチダが」と言っていただきました。

この『徒然草』の現代語訳をしている時に、一つ発見がありました。今日はその経験を踏まえて、言葉はどうやって生まれるのか、言葉はどうやって受肉するのかという、言葉の生まれる生成的なプロセスについて、思うところをお話ししたいと思います。

つい最近、PISAの読解力テストの点数が劇的に下がったという報道がありました。記事によると、近頃の子どもたちはスマホなど簡便なコミュニケーションツールを愛用しているので、難解な文章を読む訓練がされていない、それが読解力低下の原因であろうと書かれていました。たしかに、それはその通りだろうと思います。しかし、だからと言って「どうやって読解力を育成するか?」というような実利的な問題の立て方をするのは、あまりよろしくないのではないかという気がします。

というのは、読解力というのは目の前にある文章に一意的な解釈を下すことを自制する、解釈を手控えて、一時的に「宙吊りにできる」能力のことではないかと僕には思えるからです。

難解な文章を前にしている時、それが「難解である」と感じるのは、要するに、それがこちらの知的スケールを越えているからです。それなら、それを理解するためには自分を閉じ込めている知的な枠組みを壊さないといけない。これまでの枠組みをいったん捨てて、もっと汎用性の高い、包容力のある枠組みを採用しなければならない。

読解力が高まるとはそういうことです。大人の叡智に満ちた言葉は、子どもには理解できません。経験も知恵も足りないから、理解できるはずがないんです。ということは、子どもが読解力を高めるには「成熟する」ということ以外にない。ショートカットはない。

僕はニュースを見ていて、読解力が下がっているというのは、要するに日本人が幼児化したのだと感じました。「読解力を上げるためにはこれがいい!」というようなこと言い出した瞬間に、他ならぬそのような発想そのものが日本人の知的成熟を深く損うことになる。なぜ、そのことに気がつかないのか。

以前、ある精神科医の先生から「治療家として一番必要なことは、軽々しく診断を下さないことだ」という話を伺ったことがあります。それを、その先生は「中腰を保つ」と表現していました。この「中腰」です。立たず、座らず、「中腰」のままでいる。急いでシンプルな解を求めない。これはもちろんきついです。でも、それにある程度の時間耐えないと、適切な診断は下せない。適切な診断力を持った医療人になれない。

今の日本社会は、自分自身の知的な枠組みをどうやって乗り越えていくのか、という実践的課題の重要性に対する意識があまりに低い。低いどころか、そういう言葉づかいで教育を論ずる人そのものがほとんどいない。むしろ、どうやって子どもたちを閉じ込めている知的な枠組みを強化するか、どうやって子どもたちを入れている「檻」を強化するかということばかり論じている。

しかし、考えればわかるはずですが、子どもたちを閉じ込めている枠組みを強化して行けば、子どもたちは幼児段階から脱却することができない。成長できなくなる。でも、現代日本人はまさにそのようなものになりつつある。けっこうな年になっても、幼児的な段階に居着いたままで、子どもの頃と知的なフレームワークが変わらない。もちろん、知識は増えます。でも、それは水平方向に広がるように、量的に増大しているだけで、深く掘り下げていくという垂直方向のベクトルがない。

読解力というのは量的なものではありません。僕が考える読解力というのは、自分の知的な枠組みを、自分自身で壊して乗り越えていくという、ごくごく個人的で孤独な営みであって、他人と比較したり、物差しをあてがって数値的に査定するようなものではない。読解力とは、いわば生きる力そのもののことですから。

現実で直面するさまざまな事象について、それがどういうコンテクストの中で生起しているのか、どういうパターンを描いているのか、どういう法則性に則っているのか、それを見出す力は、生きる知恵そのものです。何か悲しくて、生きる知恵を数値的に査定したり、他人と比較しなくてはならないのか。そういう比較できないし、比較すべきではないものを数値的に査定するためには、「読解力とはこういうテストで数値的に考量できる」というシンプルな定義を無理やり押し付けるしかない。けれども、ある種のドリルやテストを課せば読解力が向上するという発想そのものが子どもたちの「世界を読み解く力」を損なっている。

僕がそのように思うに至ったのには、レヴィナスを翻訳した経験が深く与っています。レヴィナスは「邪悪なほど難解」という形容があるほど難解な文章を書く哲学者です。

僕は1970年代の終わり頃、修士論文を書いている時にレヴィナスの名を知り、参考文献として何冊かを取り寄せ、最初に『困難な自由』という、ユダヤ教についてのエッセイ集を読みました。しかし、これが全く理解できない。そして、茫然自失してしまった。にもかかわらず、自分はこれを理解できるような人間にならなければということについては深い確信を覚えました。

ただ知識を量的に増大させて太刀打ちできるようなものではない、ということはよくわかりました。人間そのものの枠組みを作り替えないと理解できない。それまでも難しい本はたくさん読んできましたが、その難しさは知識の不足がもたらしたもので、別に自分自身が変わらなくても、勉強さえすれば、いずれ分かるという種類の難解さに思われました。

でも、レヴィナスの難解さは、あきらかにそれとは質の違うものでした。今のままの自分では一生かかっても理解できないだろうということがはっきりわかる、そういう難解さでした。その時は「成熟する」という言い回しは浮かびませんでしたが、とにかく自分が変わらなければ始まらないことは実感した。

いきなり道で外国人に両肩を掴まれて、話しかけられたような感じでした。「とにかくオレの話を聞け!」と言ってるらしいけれど、何を言っているかは全然わからない。どうやら僕が緊急に理解しなきゃいけないことを話しているらしい。でも、何を言っているのか分からない。とにかく、先方が僕に用事がある以上、僕がそれを理解できるように変わるしかない。そう実感したんです。

仕方がないので、それから翻訳を始めました。意味が分からないままフランス語を日本語にするわけですから、ほとんど「写経」です(笑)。

一応文法的に正しい日本語にはしますが、直訳した日本語の訳文を読んでも、やはり意味がわからない。出版社に翻訳を約束したので、一応二年ほどかけて訳し終えたんですが、訳者に理解できないものが読者に分かるはずがないと思って、ちょっとこれはお出しできないなと思って、そっと押し入れにしまった(笑)。

そのまましばらくはレヴィナスのことを忘れて、他のことに集中しました。その間にいろいろなことがあり、病気になったり、家族と諍いがあったり、就職したり、育児をしたり、武道の稽古に励んだり、いろいろありました。そしてある日、久しぶりに出版社の担当編集者から連絡があって、翻訳はどうなったと聞いてきました。

そこでしかたなく押し入れから原稿を取り出して読んでみた。そしたら、ちょっと分かるんですよ。驚きました。別にその年月の間に僕の哲学史的知識が増えたわけではない。でも、少しばかり人生の辛酸を経験した。愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、恨んだり、恨まれたり、裏切ったり、裏切られたり、ということを年数分だけは経験した。その分だけ大人になった。だから少しだけ分かる箇所が増えた。

例えば、親しい人を死者として送るという経験をすると、「霊的なレベルが存在する」ということが、皮膚感覚として分かるようになります。祈りというものが絶望的な状況に耐える力をもたらすということもわかる。共同体を統合するためにはある種の「強い物語」が必要だということもわかる。そういうことが40歳近くなってくると、少しずつ分かるようになってきたら、レヴィナスが書いていることも少しずつ分かってきた。

レヴィナスが難解だったのは、語学力や知識の問題というよりは、自分が幼くて、レヴィナスのような「大人」の言うことがわからなかったからだということがわかった。

レヴィナスの書くものの本質的なメッセージは、一言で言うと、「成熟せよ」ということです。

『困難な自由』に、「成人の宗教」という短いエッセイが収められています。ポスト・ホロコースト期のフランス・ユダヤ人社会の最大の問題は「なぜ神は我々を見捨てたのか」でした。なぜ同胞600万人が虐殺されたあの苦難の時代に神は我々を救うために顕現しなかったのか。そういう理由で父祖伝来の宗教を捨てていく人々たちが出てきました。その人たちに対して、レヴィナスはこう語りかけました。

「あなた方はどんな神を信じていたのか。あなた方が善行をなせば報奨を与え、悪事をなせば処罰する。そんな勧善懲悪の原理で動く単純な神を、あなた方は今まで信仰していたのか? だとしたら、それは『幼児の神』である。ホロコーストは、人間が人間に対して犯した罪である。そうである以上、それを裁き、傷ついた人たちを癒すのは人間の仕事である。地上に正義をもたらすのは人間の仕事であって、神の仕事ではない。人間がなすべき仕事に神の支援を求めるのは、自分が幼児であるということを告白しているに等しい。もし神にそれにふさわしい威徳があるとすれば、それは『神の支援なしに地上に正義と慈愛を実現できるような成熟した人間を創造したこと』以外にない。」

レヴィナスはそう言って、ほとんど無神論とすれすれのロジックによって崩れかけた信仰を再建しようとしたのです。これは確かに、子どもには理解しがたいものだと思います。深い絶望の時間を生き抜いて、それでもこの世を生きるに値するものにしようと決意をした人だけが語りうるような、重い言葉でした。この言葉に自分が感動しているとわかった時に、自分もようやく幼児期を脱したんだなという気がしました。

この経験からわかったのは、僕たちは意味が分からなくても読めるし、何を書きたいのかわからないままにでも書けるということでした。人間にはそういう生成的な言語能力が備わっている。読解力というのは、そのような潜在的能力を開発することによってもたらされるということです。

全く分からないけどどんどん読む。そうすると、何週間かたつうちに、意味は分からなくても、テキストと呼吸が合ってくる。呼吸が合ってくると、「このセンテンスはこの辺で終わる」ということがわかる。どの辺で「息継ぎ」するかがわかる。そのうちにある語が来ると、次にどういう語が来るか予測できるようになる。ある名詞がどういう動詞となじみがいいか、ある名詞がどういう形容詞を呼び寄せるか、だんだん分かるようになる。

不思議なもので、そうなってくると、意味が分からなくても、文章を構成する素材については「なじみ」が出てくる。外国語の歌詞の意味がわからなくても、サウンドだけで繰り返し聴くうちに、それが「好きな曲」になるのと同じです。

そのうちにだんだん意味がわかってくる。でも、それは頭で理解しているわけじゃないんです。まず身体の中にしみ込んできて、その「体感」を言葉にする、そういうプロセスです。それは喩えて言えば、「忘れていた人の名前が喉元まで出かかっている」時の感じに似ています。「ああ、なんだっけ、なんだっけ。ここまで出かかっているのに、言葉にならない」というあれです。これはただ「わからない」というのとはもう質が違います。体はもうだいぶわかってきている。それを適切な言葉に置き換えられないだけなんです。

身体はもうかなりわかっているんだけれど、まだうまく言葉にならないで「じたばたしている」、これこそ言葉がまさに生成しようとしているダイナミックな局面です。たしかに思いはあるのだが、それに十全に照応する記号がまだ発見されない状態、それはと子どもが母語を獲得してゆくプロセスそのものです。僕たちは誰もが母語を習得したわけですから、そのプロセスがどういうものであるかを経験的には知っているはずなんです。

まず「感じ」がある。未定型の、星雲のような、輪郭の曖昧な思念や感情の運動がある。それが表現されることを求めている。言葉として「受肉」されることを待望している。だから必死で言葉を探す。でも、簡単には見つからない。そういうものなんです。それが自然なんです。それでいいいんです。そういうプロセスを繰り返し、深く、豊かに経験すること、それが大切なんです。

レヴィナスを毎日翻訳するという生活が10年近く続いたわけですけれど、これだけ「わからない言葉」に身をさらすということをしていると、まだぴったりした言葉に出会っていない思念や感情は、いわば「身に合う服」がないまま、裸でうろうろしているような感じなんです。だから、何を見ても「あ、これなら着られるかな、似合うかな」と思う。四六時中そればかり考えている。

新聞を読んでも、小説を読んでも、漫画を読んでも、友だちと話していても、いつも「まだ服を着ていない思い」が着ることのできる言葉を探している。そのことがずっと頭の中にある。そうすると、喉に刺さった魚の骨みたいなもので、気になって気になって、朝から晩まで、そのことばかり考えている。

でも、魚の骨と同じで、そのことばかり考えているうちに、それに慣れて、意識的にはもう考えなくなってしまう。そして、ある日気がつくと、喉の痛みがなくなっている。喉に刺さっていた小骨が唾液で溶けてしまったんです。「痛い痛い」と言いながら、身体はずっと気長に唾液を分泌し続けていた。そして、ある日「喉に刺さった小骨」は溶けて、カルシウムになって、僕の身体に吸収され、僕の一部分になってしまっていた。

新しい記号の獲得というのは、そういうふうにして行われるものだと思います。「記号化されることを求めているアイデアの破片」のようなものが、いつも頭の中に散らばっている。デスクトップ一杯に散らかっている。だから、何を見ても「これはあれかな」と考える。音楽を聴いても、映画を見ても、本を読んでいても、いつも考えている。

そういう時に役に立つのは「なんだかよくわからない話」です。自分にうまく理解できない話。そういう話の中に「これはあれかな」の答えが見つかることがある。当然ですよね、自分が知っているものの中にはもう答えはないわけだから。知らないことの中から答えを探すしかない。

自分がふだん使い慣れている記号体系の中にはぴったりくる言葉がないわけですから、「よそ」から持ってくるしかない。自分がそれまで使ったことのない言葉、よく意味がわからないし、使い方もわからない言葉を見て、「あ、これだ!」と思う。そういうことが実際によくあります。歴史の本とか、宗教書とか、武道や芸能の伝書とか、今やっている哲学の論件と全然関係のなさそうな書物の中にぴったりの比喩や、ぴったりの単語があったりする。

これは本当によい修業だったと思います。そういう明けても暮れても「言葉を探す」という作業を10年20年とやってきた結果、「思いと言葉がうまくセットにならない状態」、アモルファスな「星雲状態」のものがなかなか記号として像を結ばないという状態が僕にはあまり不快ではなくなった。むしろそういう状態の方がデフォルトになった。

そうなると、とにかく大量に「出力」するようになります。仕方ないです。「記号として受肉することを求めているもの」、「早く言葉にして言い切ってくれ」と懇願するようなものが、身体の中、頭の中で、明けても暮れてもじたばたしているわけですから。とにかく下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる式にどんどん出力してゆく。書いても書いても「これでは言葉が足りない」と思うから、さらに出力する。

自分でも時々、本棚を見て、何やってるんだろうと驚くんです。自分の本だけ置いてある棚があるんですけれど、もう100冊以上ある。10年と少しで、それだけ書いた。自分でも何を出したか覚えていない位なんです。だから、「ゴーストライターがいるの」とよく聞かれます(笑)。

ゴーストライターはもちろんいません。僕の中には「言葉になりたい」とじたばたしているアイデアがつねにある。だから、ずっと「中腰」でいる。言いたいことを言い切ってすっきりしたという状態は、絶対に来ないんです。何を書いても、言い足りない、あるいは、言い過ぎる。言い足りないところを言い足し、言いすぎたところを刈り込んでゆくと、いつまでもエンドレスで書かざるを得ないわけです。

自分の理解を超えるもの、自分にとって未知なものを、自分の手持ちの語彙の中に落とし込むということがどうしてもできない。そんなことしても、少しも楽しくない。だって、それが「自分の理解を超えるもの」「自分にとって未知のもの」だということを僕は知っているわけですから。人は騙せても、自分は騙せない。

わからないことについて、わかったふりなんかしても、少しも楽しくない。それよりは、自分の語彙を増やし、自分のレトリックを練り上げ、自分のロジックをバージョンアップする方がいい。どうしても実感できない概念を、想像力の限りをつくしてなんとか追体験しようとする。そういう訓練を、翻訳を通じてずっとしてきました。僕がその後物書きとして大量に出力するようになったのは「何を言っているかわからないテクストをわかるためには自分が変わるしかない」という気づきが深く与っていると思います。

言葉の生成と、武道の稽古が深いところで繋がっているということにも最近気がつきました。同じ人間が35年にわたって昼はレヴィナス、夜は合気道という生活をしていたわけだから、その二つは深いところでは繋がっているに決まってるんです。でも、それがどういうふうに繋がっているのかをなかなかうまく言葉にすることができなかった。でも、自分で道場を持って、門人を教えるようになって分かってきました。

武道の修業には目に見える目標というものはないのです。100mをあと1秒速く走るとか、上腕二頭筋をあと1p太くするとか、数値的に計量化できる目標は武道には存在しません。今やってるこの稽古が何のためのものなのか、稽古している当人はよくわからない。わからないままにやっている。自分がしてきた稽古の意味は事後的にしかわからない。というのも、修業の成果というのはもっぱら「自分の身体にそんな部位があるとは知らなかった部位を感知できるようになる」「自分の身体がそんなふうに動くとは知らなかった動かし方ができるようになる」というかたちで現れるからです。自分の身体にそれまで身体部位として分節されたことのなかった部位や働きが立ち現れる。記号的に分節されていなかったものが記号として立ち上がる。ですから、稽古を始める前に、ある能力の向上やある部位の強化について数値的な目標を掲げることはできません。目標とすべき「能力」や「部位」それ自体がその段階では認識できていないからです。感知できるようになってから、そこに感知されるような何かがあったことがわかる。動かせるようになってから、そこに操作可能な何かがあったことがわかる。自分が何を習得したのかを知るのはつねに事後においてなのです。修業が進んで、技術に熟練してはじめて、分が何を稽古しているのかが言えるようになる。身体が先で、言葉が後なんです。

自分の中に湧いてきた体感的な気づきを言葉にして、具体的なプログラムに組み替えて、それを門人たちに教えるということを自分の道場を持ってから26年間繰り返してきました。これもまた自分の中にある、アモルファスな、星雲状の身体感覚です。レヴィナスの時はアイデアでしたが、合気道の場合は身体的な気づきです。前言語的な「感じ」をなんとかして言葉にしていく。そして、その言葉に基づいて門人たちに実際に動いてみてもらって、その言葉が適切だったのかどうかを判断する。表現が適切であれば、みんなの動きが一変する。不適切であれば、みんなまごついたり、あるいは僕がイメージしていたものとは別の動きが現れてくる。そうやって僕の使った言語記号の適否はすぐに判定できる。

こういう経験をしてきて、いくつか気がついたことがあります。

一つは、具体的に身体部位を指示して、腕をこう動かしなさいとか、足をここに置きなさいというように、具体的に指示することは武道的な動きの習得の上では、ほとんど効果がないということです。人間はある部位を意識的に動かそうとすると、それ以外のすべての部位を止めようとする。手首を「こういうふうに」動かしてというような指示をすると、手首以外のすべての部位を硬直させて、手首だけを指示通りに動かそうとする。でも、実際に人間はそんなふうに身体を使いません。重心の移動も、腰の回転も、内臓も含めて全部位を同時に動かすことによって一つの動作を行っている。でも、具体的に「手首をこういうふうに」という指示を出すと、それ以外の随伴するべき動作を止めて、手首の動きに居着いてしまう。

だから、具体的な指示はしない方がいい。では、なにが有効かというと、文学的表現なんです。経験的には、詩的なメタファーが最も有効です。「そこにないもの」を想起させて身体を動かしてもらうと、実に身体をうまく使う。現にそこにある自分の身体を操作しようとするとぎくしゃくするけれど、そこにないものを操作する「ふり」をさせると、実に滑らかに動く。

最初にポエジーが効果的だと気づいたのは、もう10数年前になります。その時は、手をまっすぐに伸ばすという動作がなかなかみんなできなかった。そこで、ふと思いついて、こんな情景を想像してもらいました。「曇り空から今年はじめての雪が降ってきた。軒の下からそっと手を差し出して、手のひらに初雪を受ける」そういうつもりやってみてくださいと言ったら、みごとな動きをしてくれた。今思っても、いい比喩だったと思います。手のひらにわずかな雪片の入力があって、それが感知できるためには、手のひらを敏感にしておかないといけない。そのためには腕の筋肉に力みがあってはならない。わずかな感覚入力に反応できるためには、身体全体を「やじろべえ」のようにゆらゆらと微細なバランスをとっている状態に保っていなければならない。身体のどこかに力みがあったり、緩みがあったりすると、バランスは保てません。だから、全身の筋肉のテンションが等しい状態になっている。そういう状態を自分の骨格や運動筋だけを操作して実現することはほとんど不可能ですけれど、「初雪を手のひらに受ける」という情景を設定するだけで、誰にでもできてしまう。そこにある骨格や運動筋を操作するよりも、「そこにないもの」を思い描く方が複雑で精妙な身体操作ができるということをその時に実感しました。

先日、初心者ばかりの講習会があって、そこで両手を差し出して、それを180度回転させるという動きをしてもらうということがありました。なかなかみんなうまくできなかった。そこで、こんな状況を想像してもらいました。「赤ちゃんが2階から落ちてきたので、それを両手で抱き止めて、後ろのベビーベッドにそっと寝かせる。」設定が変なんですけれど、そういう状況をありありと思い描けたら、すぐにできる動作なんです。そのままなんですから。女の人がこういうのは、うまいですね。男の人たちはけっこうぎごちない。赤ちゃんをあまり抱いたことないんでしょうね。

何かの「目標」が与えられたら、放っておいても、それを達成するために身体は最適運動をしてくれます。そして、武道の場合は対敵動作ですが、僕が「そこにないもの」をめざして何か行動した場合、相手からすると、その動きを予見したり、阻止したりすることは非常に難しくなる。だって、何をしようとしているかわからないんですから。仮に相手が僕の手を両手でがっちりつかんでいる場合、「そこにある手」を振りほどくという動作は非常に難しい。でも、例えば、その時に僕の鼻の頭に蚊がとまったと想定すると、僕は蚊を追い払おうとする。その時、手は、鼻の頭に至る最短距離を、最少時間、最少エネルギーで動こうとする。その動きには「起こり」もないし、力みもない。具体的にそこにあって僕の動きを制約している相手の両手を「振りほどこう」とする動きよりも、どこにもいない想像上の蚊を追い払おうとする手の動きの方が速く、強い。「そこにないもの」にありありとしたリアリティを感じることのできる想像力の方が、具体的な筋力や瞬発力よりも質的に上等な動きを実現できる。それは武道の稽古を通じて、僕が実感したことです。

稽古を通じて、文学的メタファーというのが実に有効だということがよくわかりました。文学の有効性とは何か、ということがよく問われます。文学をやると武道が上達するということを言った人はいないと思います。でも、そうなんです。それは文学の有効性は功利的、世俗的なものではなく、もっと根源的なものだからです。それは人間を今囚われている「檻」から解き放つための手立てなんです。

人間は自分が生まれついた環境、与えられた知識や価値観や美意識に束縛されています。そこからどうやって自己解放するか、どうやって自分の限界を超えて、ブレークスルーを果たすか、それが人間が成熟するための課題です。自分が「自分である」ことの自己同一性の呪縛からどうやって逃れるか。

そのための一つの方法として文学的想像力というものがある。「そこにないもの」をあたかも「存在するもの」であるかのようにふるまう。これは自分が囚われている呪縛から逃れる上できわめて有効な方法です。「想像力が権力を奪う」というのはパリ五月革命のスローガンでしたけれど、自由な想像力は時には地上的な権力よりも強いというのは、本当のことです。

想像力が世界を創り、想像力の欠如が世界を滅ぼす。僕はそう思います。現実しか見ない人間はしばしば自分のことを「リアリスト」だと言い張りますけれど、このような人間は人間の生成的なありようについては何も知ろうとしないし、何も考えない。現実のごく一部分、自分を閉じ込めている「檻」の内側の風景しか見たことがなく、それが全世界だと思い込んでいる。そんな人間を僕は「リアリスト」とは呼びません。

武道の用語で「居着き」というのは、文字通り足の裏が地面に張り付いて身動きならない状態を指します。与えられた枠組みを世界のすべてだと思い込んで、その「外」があることを考えもしないのも「居着き」です。

でも、実際に、僕たちは生物としてめまぐるしい環境の変化の中にいるわけです。生き延びるためには、臨機応変、自由闊達でなければならない。それ以外に生物種が生き残る道はありません。自分が自分に対して設定している限界や束縛から自己解放すること、これは生き延びるために必須の技術です。そのことを僕は、レヴィナスと合気道を通して習得しました。

そろそろ、みなさんの関心のある、国語の話に持っていきます。

池澤さんから『徒然草』の現代語訳を頼まれた時に、全く古典の訳の経験のない僕をなぜ選んだのかなと考えました。僕に余人とは異質な言語的能力があるとすると、それはレヴィナスの翻訳をやってきたということだと思います。理解を絶したテクストに対した時に、まず身体的に同調して、自分の中から湧き上がってくる身体的感覚を言葉に置換していく。そういう回路の使い方には習熟していた。それで僕をご指名になったのかなと思いました。

第一回配本の「古事記」の解説の中に、池澤さんが印象深い言葉を記していました。それは「現代語訳は、読者による音読を支援するものでなければならない」というものです。僕はそれに深く共感しました。

文学は音読するものです。文字を読んでいる場合も、頭の中では音読している。ゲラに手を入れている時に、ワープロの変換ミスの同音異義語を微妙な違和感を覚えつつもそれを読み飛ばしてしまうことがよくあります。ミスを見逃してしまうのは、文字の「意味が違う」ことと「音が同じ」ことでは、「音が同じ」方に勢いがあるからです。

僕たちは文章を音読しながら読んでいます。僕自身の書く文章も、声に出して読んで気持ちがいいというのが基本です。音読して気分よく読める文章は意味がわからなくても読めます。かなり難しいことが書いてあっても、リズムがいい、息づかいが楽だ、レトリックの畳みかけ方が爽快であるとか、そういうことがあれば、内容の難易度に関係なくすらすらと読める。

これは僕が長い読書経験から実感していることです。ですから、古典の現代語訳は「読者による音読を支援するもの」でなければならないとという池澤さんの指示に僕は忠実に従いました。

たいせつなのはどういう「ヴォイス(voice)」を選ぶかということだと思います。「ヴォイス」というのは、その人固有の「声」のことです。余人を以ては代え難い、その人だけの「声」。国語教育目標は、生徒たち一人ひとりが自分固有の「ヴォイス」を発見すること、それに尽くされるのではないかと僕は思います。

もう10年以上前ですけれど、『クローサー』という映画がありました。どうでもいいような恋愛映画なんですけれど、その中に一箇所、印象深いシーンがありました。ジュード・ロウとナタリー・ポートマンがタクシーに乗り合わせる場面です。その時に、ジュード・ロウが自分は新聞記者だと自己紹介する。ナタリー・ポートマンがどういう記事を書いているのかと訊くと、死亡記事を書いていると答える。「僕はまだ自分のヴォイスを発見していない。でも、いずれ発見する。そうしたらちゃんとした記者になれる。」正確に記憶してないんですけれど、だいたいそんな意味のことを言いました。映画を見ながら、本当にその通りだなと思いました。

だって、彼が書いているのは死亡記事なんですから。彼が自分の「ヴォイス」を発見するのは死亡記事を書くことを通じてでしかない。ただ死者の生没年や事績を淡々と伝える短文の修業を重ねているうちに、ある日彼の記事が編集長の眼に止まる。「この記者は自分の『ヴォイス』を持っている」ということがわかる。そして、社会部なり学芸部なり他のセクションに異動されて、他の種類の記事を書くようになる。新聞社内にはそういうプロモーション・システムがあることがここには暗示されているわけです。

そこから知れるのは「ヴォイス」はコンテンツとは関係がないということです。何を書いていても、書き手に「ヴォイス」があれば、読む人にはわかる。「ヴォイス」を形成するのは、コンテンツの含む情報の価値でもないし、修辞の巧みさでもない。「息づかい」なんです。「ヴォイス」のあるテクストは、すらすらと読めて、気持ちがいい。そして、心に残る。

だからレヴィナスを翻訳している間に、僕はどこかの段階で自分の「ヴォイス」を発見したんだと思います。だから、いくらでも書ける。息を吐くようにウソをつくという人がいますけれども(笑)、息を吐くように文が書けるようになった。

基本は呼吸なんです。呼吸は国語によって変わります。イタリア人やフランス人とは息継ぎのリズムが違います。イタリア人が日常的に話しているイタリア語をリズミカルに、抑揚をつけて話すとオペラになる。日本人でも日常の言葉を音楽的に処理すると、謡になったり、浄瑠璃になったり、落語になったりする。

息づかいというのは、国語ごとに違いますが、どういう主題で話しているかによっても変わるし、聴き手を誰を想定するかによっても変わる。でも、自分にとって自然な息づかいができるようになると、いくらでも言葉を語り続けることができる。

いま、僕は20代後半のある青年と往復書簡をしています。

彼は何年か前に刑事事件を起こし、弁護士の指示で、更正の課程で反省文を何度も書かされました。それを読みましたけれど、驚くほど硬直していた。たしかに文章はしっかりしている。どうしてこんな事件を起こしたのか、それについての自己分析もしていた。言っていることはたぶんほんとうなのでしょう。でも、書かれていることが少しもこちらの心を打たない。彼がこれで「反省」が済んだ、これで自己分析を果たしたと思ったのでは、この先社会で生きてゆくことは難しいだろうと思い、彼が自分の「ヴォイス」を発見するのを支援するための個人レッスンをすることになりました。それから2年ほど、月1回くらいのペースで、僕が課題を出して彼がエッセイを書くという往復書簡をしています。

最初のうちは「正しい書き方」をしないといけないのとかなり緊張していました。頭のいい子だから、「無難な文章」なら書けるんです。でも、彼が書いてくる文章は言葉が乾いている。水気がない。どうやって彼の言葉に水気を回復させるのか、それが僕の方の課題でした。

試行錯誤を繰り返しました。わかったのは、自分が実際に経験したことを書かせようとすると、硬直するということでした。家族のことや、学校時代のことを書かせようとすると、ぎごちないものになる。そこで経験したことが、彼の今の手持ちの語彙、文型の中には収まらないのです。言葉に収まらない経験をなんとか言葉に収めようとするので、骨と皮だけのようなものになる。

一計を案じてやらせてみてうまくいったのは、「なかったこと」を書かせることでした。自分の実際の経験を書かせると、自己史の中のトラウマ的経験を何とか避けようとするけれど、作話ならトラウマの近くまで行けるんです。「僕」を主語にするとトラウマ的経験に近づけないけど、「彼」を主語にするとそのすぐそばを通過するような文章を書けるようになる。そのときに、「物語を語る」ということがいかに重要であるか、よくわかりました。

今、彼は「ヴォイス」を獲得するプロセスの途中にいるのですけれど、だいぶよくなってきたなと思ったのは、彼が「なんだかわからない経験」を書き出した時でした。オチも教訓も、意味もわからない話を書き出した。

「どうしても忘れられない人」という課題を出した時には、同級生が在校中に亡くなってしまい、その子に何か言いたいことがあったんだけど、言わずに終わってしまった。何を言いたいかは忘れてしまったけど、今でもその子を思い出すと、何か言いたいことがあったことだけ思い出す、そういう短い話でした。この時に、彼はかなり「ヴォイス」に手が届いてきたなと思いました。「自分の思いを言葉にできない」という苦しい現実に「自分の思いを言葉にできなかった出来事」を回想するという仕方で、次数を一つ上げることで対処したわけですから。

たしかに「ヴォイス」というのはそういうものなんです。「自分がうまく書けない」というような事態そのものについてならうまく書くことができる。締め切り間際で週刊紙連載の漫画原稿を落としそうだという時でも、「締め切り間際で原稿を落としそうな漫画家」のどたばた騒ぎについてなら描くことができるということがあります。いつもいつも使える手ではありませんけれども、こういう「メタ・レベル」にずらすというのも「ヴォイス」の手柄です。

それまでの彼の文章は、ブロックを積んだみたいにカチカチとして余裕や曖昧さがなかった。自分の中に生じている、いきいきとした感情や感動は、実際には、なかなか言葉にできないものです。今日のテーマである「言葉の生成」というのもまさにそういうことなんですが、自分の中にある感情もアイデアも、実はきわめて曖昧なものなんです。曖昧なものだから、それを輪郭のはっきりした言葉に置き換えようとすると筆が止まり、舌がこわばる。ですから、曖昧なものを曖昧なままに取り出していけばいいんです。それができれば「書けない」という事態も「私はなぜうまく書けないのか」というメタ・レベルからの考察の興味深い対象になる。でも、それができるためには、自分自身に対して、自分の思考プロセスに対して敬意と好奇心を持つことが必要です。

多くの人が勘違いしているようですけれど、自分の思考プロセスは自分のものではありません。それは、マグマや地下水流のようなもので、自分の外部に繋がっています。それと繋がることが「ヴォイス」を獲得するということです。呼吸と同じです。呼吸というのは酸素を外部から採り入れ、二酸化炭素を外部に吐き出すことです。外部がないと成り立たない。自分の中にあるものの組み合わせを替えたり、置き換えたりしているだけではすぐに窒息してしまいます。生きるためには外部と繋がらなければならない。

言葉が生成するプロセスというのは、自分のものではありません。自分の中で活発に働いているけれども、自分のものではない。それに対する基本的なマナーは敬意を持つことなんです。自分自身の中から言葉が湧出するプロセスに対して丁寧に接する。敬意と溢れるような好奇心を以て向き合う。

往復書簡を通じて、彼の言葉が言葉らしくなってきたのは、彼が自分の中で言葉が生まれてくるプロセスそのものを、一歩後ろに下がって、語ることができるようになったからです。

「ヴォイス」の発見とは、自分の中で言葉が生まれていくプロセスそのものを観察し、記述できること、そう言ってよいかと思います。自分の中で言葉が生まれ、それを使ってなにごとかを表現し、今度はそうやって表現されたものに基づいて「このような言葉を発する主体」は何者なのかという一段次数の高いレベルから反転して、自己理解を深めてゆく。そういうダイナミックな往還の関係があるわけです。そのプロセスが起動するということがおそく「ヴォイス」の発見ということではないかと僕は思います。

このようなプロセスを、具体的に国語教育の現場で行うためにはどんな方法があるのでしょう。やり方は無数にあると思います。皆さんが思いついたことをどんどんやればいい。 

でも、基本は音楽教育の場合と同じで、「よいもの」を大量に、それこそ浴びるように読むことだと思います。ロジカルで、音楽的で、グラフィックな印象も美しい、そういう文章を浴びるほど読ませ、聞かせる。これが基本中の基本だと思います。

今の子どもたちの語彙が貧困で、コミュニケーション力が落ちている最大の理由は、周囲の大人たちの話す言葉が貧困で、良質なコミュニケーションとして成り立っていないからです。周りにいる大人たちが陰影に富んだ豊かな言葉でやりとりをしていて、意見が対立した場合はさまざまな角度から意見を述べ合い、それぞれが譲り合ってじっくり合意形成に至る、そういうプロセスを日常的に見ていれば、そこから学ぶことができる。それができないとしたら、それは子どもたちではなく、周りの大人たちの責任です。

もし今の子どもたちの読解力が低下しているとしたら、その理由は社会自体の読解力が低下しているからです。子どもに責任があるわけじゃない。大人たち自身が難解な文章を「中腰」で読み続けることがもうできない。

時々、議論を始める前に、「まずキーワードを一意的に定義しましょう。そうしないと話にならない」という人がいますね。そういうことを言うとちょっと賢そうに見えると思っているからそんなことを言うのかも知れません。でも、よく考えるとわかりますけれど、そんなことできるわけがない。キーワードというのは、まさにその多義性ゆえにキーワードになっている。それが何を意味するかについての理解が皆それぞれに違うからこそ現に問題が起きている。その定義が一致すれば、もうそこには問題はないんです。語義の理解が違うから問題が起きている。語義についての理解の一致こそが議論の最終目的なわけです。そこに到達するまでは、キーワードの語義はペンディングにしておくしかない。多義的なまま持ちこたえるしかない。今日の僕の話にしても「教育」とは何か、「学校」とは何か、「言語」とは何か、「成熟」とは何か・・・無数のキーワードを含んでいます。その一つ一つについて話を始める前に一意的な定義を与え、それに皆さんが納得しなければ話が始められないということにしたら、僕は一言も話せない。語義を曖昧なままにして話を始めて、こちらが話し、そちらが聴いているうちに、しだいに言葉の輪郭が整ってくる。合意形成というのは、そういうものです。

僕たちが使う重要な言葉は、それこそ「国家」でも、「愛」でも、「正義」でも、一義的に定義することが不可能な言葉ばかりです。しかし、定義できるということと、その言葉が使えるということはレベルの違う話です。一意的に定義されていないということと、その言葉がそれを使う人の知的な生産力を活性化したり、対話を円滑に進めたりすることとの間に直接的な関係はないんです。むしろ、多義的であればあるほど、僕たちは知的に高揚し、個人的な、個性的な、唯一無二の定義をそこに書き加えていこうとする。

でも、それは言葉を宙吊りにしたまま使うということですよね。言葉であっても、観念であっても、身体感覚であっても、僕たちはそれを宙吊り状態のまま使用することができる。シンプルな解に落とし込まないで、「中腰」で維持してゆくことができる。その「中腰」に耐える忍耐力こそ、大人にとっても子どもにとっても、知的成熟に必須のものだと思います。でも、そういうことを言う人が今の日本社会にはいない。全くいない。誰もが「いいから早く」って言う。「400字以内で述べよ」って言う。だから、こういう講演の後に質疑応答があると、「先生は講演で『宙吊り』にするということを言われましたが、それは具体的にはどうしたらいいということですか」って(笑)、質問してくる人がいる。「どうしたらいいんですか」というシンプルな解を求めるのを止めましょうという話をしているのに、それを聞いた人たちが「シンプルな解を求めないためには、どうしたらいいんですか」というシンプルな解を求めてくる。自分で考えてください、自分で考えていいんです。自分で考えることが大切なんです、とそういう話をしているのに、「一般解」を求めてくる。何を論じても、「で、早い話がどうしろと言っているんですか?」と聞いてくる。そこまで深く「シンプルな解」への欲求が内面化している。

メディア、特にテレビはその傾向が強い。まあ、仕方がないです。発言者に許された時間が非常に短いんですから。短い時間で、それこそ15秒くらいですぱっと言い切ることが求められている。カメラの前で、黙り込んだり、つっかえたり、前言撤回したりというようなことは絶対許されない。そういう人はテレビには出してもらえない。僕がテレビに出ないのはそのせいなんです。「で、結論は?」と訊かれるのがいやなんです。30分番組カメラ据え置きで、いくら黙り込んでも、同じ話を繰り返しても構わないというような番組があれば出てもいいですけれど。途中で「あれ、オレ何の話してたんだっけ?」がありで(笑)、途中で「話すことないので帰ります」もありで(笑)。それでもいいという番組があれば出てもいいけども。

首尾一貫した、整合的なセンテンスを語らなければならないというルールがいつから採用されたんでしょう。だって、言葉の生成というのはそういうものじゃないでしょう。言葉がなかなか着地できないまま、ふらふらと空中を漂って、「なんて言えばいいんだろう、もっと適当な表現はないかなあ」と、つっかえたり、言いよどんだり、前言撤回したり、そういう言語活動こそが「ヴォイス」を獲得するために必須の行程なんです。そういう言葉がうねうねと渦を巻くようなプロセスを「生成的なもの」だと見なして、大人たちが忍耐強く、興味深くそれを支援するということが言葉能力の成熟のためには絶対に必要なんです。さっさと言いたいことを言え、400字以内で過不足なく述べよ、というような圧力によって言語能力が育つということはないんです。うまく言えない子どもに対しては「うまく言えないというのは、いいことなんだよ」と励ましてあげなくちゃいけない。

基本的に僕は学生たちが必死で紡ぎ出した言葉について全部「いいね!」です。僕が嫌いなのは定型です。できあいのテンプレートをなぞったような文章については、はっきり「つまらん!」と言います。大学生に文章を書かせると、本当に悲惨なものなんです。「定型的で整合的なことを書く」というより以前のレベルです。昔なら小学生の作文みたいなものを平然とレポートとして出してきますから。「朝起きて、顔洗って、ご飯を食べて…」それがエッセイだと言うんです。

困るのは、とにかく平然と「先生の授業は難しくてわかりませんでした」と書いてくること。「難しくてわからなかった」というのが批評的なコメントだと思っている。だから、わからないくせにえらそうなんです(笑)。たぶん学生たちは食堂へ行って、厨房のおばさんに「ちょっとこのうどん固かったわよ」とクレームつけているようなつもりなんでしょう(笑)。あの言い草はそうですね。授業がわからないのは、先生の責任だと思っている。もっと分かりやすく話して下さい、私たちにもわかるように噛み砕いて話してください。そういうことを要求する権利があると思っている。骨の髄まで消費者マインドがしみついている。

学校教育が、消費者である子どもたちに対して、教育商品を差し出して「買って頂く」という発想でやっていたら、そうなるのは当たり前です。だから、「私にもわかるようなやさしい授業をしろ」ということを平気で言う。それが学校教育に対する建設的な批評として成立していると思い込んでいる。
http://blogos.com/article/286791/?p=1

言葉の生成について(後編)
http://blogos.com/article/286792/?p=1

言葉が生成するとはどういうことか、という話に戻ります。『徒然草』を訳して発見したことがあります。それは古典の授業で読まされる古文の現代語訳って、つまらないということです(笑)。ほとんど音読に耐えない。でも、原文はグルーブ感のある、ノリのよい文章なんです。だから僕は、中身はどうでもいいから、吉田兼好の「ヴォイス」を現代語にできたらと、思って訳しました。

その時にいくつかルールを決めました。一つは、「分からない単語は分からないままで放っておく」ということです。だって、700年前に書かれたものですからね。しかも兼好は有職故実に異常に詳しくて、当時の公家や僧侶たちでさえよく知らない宮中のしきたりとか、制度文物の由来とか知っていることが自慢だった人なんですから。兼好と同時代人でさえわからなかった話を700年後の現代人が分かるわけがない。江戸時代にも『徒然草』の注釈書はいくつも出ていますけれど、そこにだって「この言葉の語義は不詳」というものがいくらもある。江戸時代の専門家がわからなかったことが現代の一般読者にわかるはずがない。だから、そういうのは「意味不明の言葉」のまま残しました。

そもそも、文学とはそういうものですよね。小説の登場人物が経験してることのほとんどは、僕らは経験したことがないわけです。宇宙空間を光速で飛行飛したこともないし、戦国時代に槍を振り回したこともない。でも、小説の登場人物が、それをリアルに経験している「感じ」があれば、読む側は何の問題もない。自分の現実経験の中にそれに対応するものがないから「わからない」と文句をつける読者はいません。文学作品というのはほとんど全篇「自分がよく知らないこと、経験したことがないこと」に埋め尽くされている。それでも何の不自由もなく、僕たちは小説を楽しんでいる。

古典だってそれでいいはずです。だから注をつけませんでした。注を付けると、注を読んでしまうから。SFで宇宙空間を飛ぶ話とか、エイリアンが出てくる話とか読んでいるときに、そこに見たことも聞いたこともない科学用語がでてきても、注なんか探さないでしょう。どんどん話を先に進みたいから。注なんか読まされて読書を中断したくないから。古典だってそれと同じです。どんどん読めばいいんです。知らない単語とかあっても、気にしない。現代文だってそうやって注抜きで読んでいるのに、どうして古典にだけ細かく注が要るのか。というわけで注は、最初はつけていたんですけれど、途中で全部取っ払ってしまいました。

もう一つは、古典の訳としてはルール違反でしょうけど…、原文のままというのが、いっぱいあるんです(笑)。「何事にも先達はあらまほしきものなり」とか「命長ければ辱(はじ)多し」とかすでに広く人口に膾炙(かいしゃ)して、現代人でも知っている言い回しですから、それはもう現代語だろう、と(笑)。他の現代語訳ではたぶん誰もやったことがないと思いますけど。

先週、西本願寺で現代語訳について講演をしました。そのあとに、手紙をくれた人がいまして、「私、国文を出た国語の教師で、実は『徒然草』の研究者なんです」って(笑)。何を言われるのかとどきどきしていたら、「達意の名訳でした。特に係り結びの訳がすばらしかった」と書いてある。係り結びはいろんな訳し方があるらしいんですけど、「見事に訳しわけておられました」と。係り結びに意味の違いがあるなんて、僕は知りませんでした(笑)。文章の勢いに乗って訳すと、ニュアンスを取り違えるということはめった起こらないということでしょうね。

『徒然草』の面白いところは、二十代で書いたものと六十代で書いたものがごっちゃになっているところです。でも、兼好法師の「ヴォイス」は変わらない。だからこの人、二十代から六十代まであんまり進化していないんじゃないかと思います(笑)。たぶん、若い時に自分の「ヴォイス」を見つけて、それをずっと維持していった人なのだと思います。だから、グルーヴ感はありますけれど、それほど思想的な深みはない。

しかし、『徒然草』が今日まで愛された理由は、もちろんあります。例えば、五十三段、仁和寺の法師が頭から鼎をかぶる話。かぶったはいいけれど、とれなくなって、最後に鼻も耳ももげて、長く寝付いたという話がありますね。ああいう「どうでもいい話」を書かせると、兼好うまいんです。もうのりのりで書いている。あの人の文章は、そういうオチも教訓もない、けれども奇妙な味わいの物語を書く時に冴えるんです。実にいい文章を書く。多分、あまり思想的に深みもないし、特段名文とも思われない『徒然草』が今に至るまで愛読されてきた最大の理由は、あれらの何の教訓もない物語のもたらす独特な味わいではないかと僕は思います。「猫又」の話とか、「しろうるり」の話とか、「やすら殿」の話とか、「大根」の話とか、「ぼろぼろ」の話とか。どれも忘れがたい。

兼好が熟知していることを語られても、僕らにはさっぱりわからない。そこには溝がある。でも、兼好にもよく理解できなかった話というのは、僕らにとってもやっぱりよく理解できない。そこには溝はない。兼好自身が、なぜこんなものをわざわざ後世に伝えようとして書いたのか、自分でもわからないような記事は、やはり、僕らにとってもなぜこんなものを兼好法師が書いたのか、よくわからない。兼好がわからなかったことは僕らにもわからない。そこが「取り付く島」ではないかと思います。そこに「あったもの」はもう「ない」ので追体験しようがない。でも、そこに「なかったもの」は今もやっぱり「ない」ので、昔も今もその点では変わらない。兼好法師が経験した「気持ちの片づかなさ」は、現代人である僕たちも同じく「気持ちの片づかなさ」として近似的に味わうことができる。そこに『徒然草』の時代を超えて生き延びた力があるのではないかと思います。

さきほど、合気道の指導の場合でも、メタファーは有効だというお話をしました。文学でも、もちろんそうなんですね。谷崎潤一郎は、日本の作家の中で例外的に外国語訳の多い作家ですが、谷崎の中で最も外国語で読まれているのは『細雪』と『陰影礼賛』なんです。不思議だと思いませんか。フランス人が、こんな分厚い『細雪』をしみじみ読んでいる。一体何がおもしろいのかと思うんですけど(笑)。

でも、フランス人にもわかるんですね。谷崎が描いているのが、「失われたもの、失われゆくもの」だということが。谷崎が『細雪』に描いていたのは昭和17年、18年頃の芦屋や神戸や大阪の話です。谷崎はそこでの戦前のブルジョワ家庭の美的生活を描きながら、それが近いうちにすべて失われるだろうということをほとんど確信していました。失われていくことが宿命づけられている美しい物たちを、愛惜の念をこめてひたすら記述した。

谷崎が『細雪』に哀惜を込めて書いたのは、昭和17年の時点ですでに失われてしまったもの―大正時代の蒔岡家の豪奢な生活ーと近いうちに失われてしまうはずのものー戦前の阪神間の穏やかな生活です。つまり、谷崎が描いているのは「そこにないもの」と「いずれなくなるもの」です。それだけしか書いていない。全篇に伏流しているこの根源的な欠落感はフランス人にもわかるんです。「あるもの」には共感できない。共感しようがない。知らないんですから。でも、「ないもの」に対する欠落感、不全感はフランス人でも谷崎と共有できる。

文学は、目の前にあるリアルを詳細に描くことによってではなく、失われたものを目の前にありありと呼び出すことによって世界性を獲得する。文学というのは、そういうものだと思います。目の前にある現実をどれだけ巧みに描写しても、それだけでは世界文学にはならない。遠い文化圏の読者を獲得することはできない。でも、僕たちは「あるもの」は共に「持つ」ことはできないけれど、「ないもの」について「それが欠落している」という実感を共有できる。作家と読者が共有できるのは、欠落と喪失なんです。だから、欠落と喪失をみごとに描いた文学作品が世界性を獲得する。

僕は兼好に同期しようとしたときに焦点を合わせたのは、彼の欠落感と不全感でした。彼が持っているもの、教養や知識や美的感受性のようなものに僕は同期できない。でも、彼の身を焦がす嫉妬や恨みや渇望には同期できる。だって、「ないもの」なんですから。兼好法師が所有していたものに僕は触れることができない。でも、兼好法師が所有したいと願っていたけれど、ついに手が届かなかったものには、僕もやはり手が届かない。そこに同期することなら、できる。

とりあえず、専門家からは「係り結びが正しかった」と評価を受けましたが(笑)、その時に、「こんなことができるのは、日本だけではないか」と思いました。

古語辞典が一冊あれば、僕のような素人でも、現代語訳ができてしまう。こういう言語環境は、他にあるでしょうか。東アジアの国の中で、特殊な専門教育を受けたわけでもない一般人が古典に辞典一冊でアクセスできる言語環境があるのはおそらく日本だけです。

そのことに最初に教えてもらったのは、ベトナムの青年と友だちになった時でした。フランスのブザンソンという地方都市の大学へ学生たちの語学研修の付き添いで滞在しているときに友だちになった青年からベトナムの特殊な言語事情を聞きました。

ベトナムは、漢字とベトナム語の万葉仮名的な表記法であるチュノムのハイブリッド言語でした。でも、近代になってからアルファベット表記の「クオック・グー(國語)」に表記法を変えてしまった。その結果、欧米の言語と同じ表記になったわけですから、便利にはなった。でも、漢字・チュノム混じりで書かれたテクストを読むことができなくなった。古典どころか、祖父母が書いた日記も手紙も読めない。寺院の扁額も読めない。

利便性の代償として、ベトナム人は、二世代前の人たちが書いたテクストを、特殊な専門教育を受けた者以外は読めなくなってしまった。近代化の代償として自国文化のアーカイブへのアクセス権を失ったわけです。果たして、それは間尺に合う取引だったのでしょうか。友人のベトナム人青年は懐疑的でした。

韓国も事情は似ています。1970年代に漢字廃止政策が採択されました。一つには日本の植民地時代に日本語使用を強制されたことに対する反発があり、一つには漢字は習得が難しいので、漢字の読み書きができる階層とできない階層の間で文化的格差が生じるリスクがあるということで、ハングルに一元化された。ハングルへの一元化によってたしかに教育の平準化は進みました。

でも、ベトナムと同じように、先行世代と使用言語が違うという事態が生じた。一世代前の人が書いたものが読めない。今の韓国の若者たちは、漢字は自分の名前くらいしか書けません。この間、韓国旅行の時に、五台山月精寺という寺院を訪ねました。でも、その扁額の「五台山月精寺」という文字を読めるのが、一緒に行った中にいなかった。大学の教授や教育出版の経営者といった知識人たちでしたけれど、40代くらいになると、それくらいの漢字でも読むことが難しくなっている。そのことに衝撃を受けました。

日本でも「韓国の英語教育はすごい」ということはよく言われます。実際にすごいです。大学の授業は教師も学生も韓国人なのに英語でやっている。国内学会も、出席者全員韓国人なのに、英語でやる。でも、たしかにそれには必然性がある。表意文字である漢字を捨てて、表音文字であるハングルしかない。日本で言えば、ひらがなだけで暮らしているようなものです。学術論文を全部ひらがなで書くという手間を考えたら、外来のテクニカルタームなどはそのまま原綴りで表記した方が圧倒的に効率的に決まっている。だから、漢字が使えない以上、英語への切り替えは必然的でした。

でも、母語では学問的な文章を書くことができないというのは、やはり大きなハンディになります。自然科学なら英語でそこそこいけるかも知れませんが、英語でやったのでは、韓国オリジナルな社会科学や人文科学は出てこない。出てくるはずがありません。というのは、文系の学問は母語のアーカイブの中で熟成するものだからです。

今の韓国の学術的環境では、1970年以前になされた知的営為へのアクセスが日々困難なものになっています。それは先行世代がその言語的能力を振り絞って書いたテクストを読むことが難しくなっているということです。このことはいずれある時点で、韓国の次世代の知的生産性、知的創造性にとっての大きなハンディになるだろうと僕はおもいます。

東アジアを見回すと、中学、高校で基礎的な訓練を受けたら、あとは辞書一冊あれば、自力で古典のアーカイブに自力で入っていけるという教育機会を享受できているのは日本人の子どもだけです。そのことを、子どもはもちろん、たぶん国語の教員たちもそれほど自覚的ではないように思います。古文や漢文なんか、何の役にも立たないんだから、やることはない。それより英語をやれ、というようなことを言い立てる人間たちがいくらもいますが、国語の先生たちがそれに対して効果的な反論をされているようには思えません。でも、これはきっぱり退けなければいけない暴論です。

先日、宮崎滔天の本を読みましたけれど、滔天の活動は今からは信じられないくらいにグローバルです。アジアの各地に飛んで、そこで現地の人たちと知り合って、その国の革命運動に直接コミットしている。明治時代の大アジア主義者たちはみなそうです。北一輝も、内田良平も、各国の革命闘争に直にコミットしていた。それができたのは、東アジアの知識人たちは漢文という「リンガフランカ」を共有していたからです。

彼らのコミュニケーションは基本、筆談なんです。かなり複雑で、高度な内容の対話でも、とりあえず矢立から筆を取り出して、懐紙にさらさらとしたためれば、それで今でなら「メール」とか「ライン」とかでの通信に類するコミュニケーションができた。明治の日本人たちは子どもの頃から、『四書五経』やら『史記』やら『唐詩選』やらを叩き込まれていたわけですから、教養の幅においても深さにおいても中国朝鮮の知識人と変わりがなかった。同じ語彙、同じ修辞法を共有していたわけです。

東アジアにおける文化的な一体感の喪失は主に政治史的な理由だけから説明されますけれど、東アジア各国の人々が、漢文というリンガフランカを失ったことが相互理解の深まりを妨げたということは理由の一つだったと思います。かつては漢文を書くことによって、相当にデリケートな意思疎通もできていたのに、その共通のコミュニケーション・プラットフォームがなくなってしまった。そのことのもたらしたネガティヴな影響について、もう少し深刻に受け止めた方がいいと思います。

韓国の先生に伺ったところでは、今韓国の大学で一番人気のない学科は、韓国文学科と韓国語学科と韓国史学科だそうです。みんなもっと実学的な専門を修めて、アメリカに留学して学位を取ろうとする。そういう人たちが韓国のこれからのリーダーになる。でも、自国の言語にも文学にも歴史にも、特段の関心がないという人たちに韓国のこれからの国のかたちを決めさせるというのはおかしいんじゃないか。韓国人の僕の友人はそう言っていました。僕もその通りだろうとおもいます。

日本でも、文系の学問に対する風当たりは強いです。古典や漢文などは一体なんの意味があるんだ、そんなものになんの有用性もないというようなことを言う人たちがいる。でも、母語のうちにこそ文化的な生産力の源はあるんです。二千年前から、この言葉を使ってきたすべての人たちと、文化的に僕たちは「地続き」なんです。そして、日本の場合は、ありがたいことに、言語を政治的な理由で大きくいじらなかったので、700年前の人が書いた文章を辞書一冊あれば、誰でもすらすらと読むことができる。中学高校で、そういうことができるような基礎的な教育を受けているから。それはどれほど例外的で、どれほど特権的な言語状況であるのか、日本人は知らな過ぎると僕は思います。

グローバリストたちは、もう古文や漢文なんかいいから、英語をやれと言います。でも、それは自国語で書かれた古典のアーカイブへのアクセスの機会を失うということを意味しています。母語のアーカイブこそはイノベーションの宝庫なんです。人間は母語でしか、イノベーションできないからです。僕たちは全く新しい概念や感情を母語でしか創り出すことができません。「新語(neologism)」というものが作れるのは母語においてだけなんです。

何年か前、野沢温泉の露天風呂に入っていた時に、あとから大学生らしき二人の若者が入ってきました。そして、湯船に浸かった瞬間に「やべー!」と叫んだ。その時に、僕は「ああ、日本語の『やばい』という形容詞は『たいへん快適である』という新しい語義を獲得したのだな」ということを、その場で理解しました(笑)。

でも、これこそが母語の強みなんです。新語を作ることができる。それは日本語話者たちなら誰でもその新しい意味を即座に理解できるからなんです。そんなことは母語でしかできません。

「真逆」というのもそうでした。ある日その語はじめて耳にした。でもすぐに意味が分かりました。漢字も頭に浮かんだ。そして、「真逆」の方が「正反対」よりもインパクトがあるなと感じた。こんなことは母語でしか起きません。外国語ではできない。僕が英語のある形容詞に「新しい意味」を付与しようと思って、使ってみせても、誰も理解してくれない。変な顔をされるだけです。僕の作った新語が英語の辞書に載ることもない。でも、「やばい」も「真逆」も、もう国語辞典の新しい版には「若者言葉」として採録されています。日本語として認知されたのです。

知的なイノベーションが母語の中でしか行われないと言っては言い過ぎかもしれません。でも、いまだ記号として輪郭が定かでない星雲状態のアイデアが「受肉」するのは母語においてであるというのは経験的に確かです。喉元まで出かかっている「感じ」が言葉になるのは圧倒的に母語においてです。

言葉の生成は、文明史的なスケールの出来事です。でも、現代日本社会は、言葉が生成してゆくダイナミックなプロセスについての関心を持つ人がほんとうにいない。古典なんてどうでもいい、言葉なんてシンプルなストックフレーズを使い回せばいいと思っている人間が、日本の場合、政官財メディアの指導層のほとんどを占めている。だから、生きた言葉を使える人がほとんどいなくなってしまったという、痛ましい現実がある。

皆さん方の仕事は、とにかく「子どもたちを生きた日本語の使い手にしていく」ということです。彼らが「ヴォイス」を発見することを支援していく。「ヴォイス」の発見というのは一生かかる仕事であって、国語の先生が関われるのは人生の一時期だけです。だから、それは「教育する」というよりはむしろ「支援する」というポジションだと思います。

そして、「ヴォイスの発見」は、査定したり、点数をつけたり、他人と比較して優劣を論じたりするような営みではありません。そんなことをすれば、むしろ深く傷つけられてしまう。これは、今の学校教育システムが成績査定と縁を切らない限りはどうしようもないのですが。

でも、成績をつけることはとりあえず国語教育にとっては有害無益なことだと僕は思っています。仕方ないとはおもいますが、国語についてだけは、本当は成績をつけてほしくない。どうして子どもたちの知性や、想像力や、自分自身の限界を超えようという自己超越の努力に点数をつける必要があるんですか。そんなものは点数化して語るべきことではないんです。彼ら一人一人の問題なんですから。

でも、仕方ないですよね、仕方ないですけども、そんなことをうるさく言っている男がいるということだけを記憶して頂いければと思います。

長時間ご静聴ありがとうございました。

(2016年12月9日 大阪府高等学校国語研究会にて)
http://blogos.com/article/286792/?p=1

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

77. 中川隆[-7585] koaQ7Jey 2018年4月02日 10:56:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-9757]

日本語による文化が、 日本語と日本国民を守っている。


日本語は、日本国民を「グローバル市場」との競争から守ってくれる参入障壁です。

日本語の「壁」があるからこそ、 日本国民は欧米諸国ほどには「外国人」と苛烈な競争をすることなく、教育を受け、働き、結婚し、家族を作り、 一生を過ごしていけるのです。

移民と教育 2018-04-02

 
日本はすでに在日韓国人・朝鮮人という移民問題を抱えているのですが、「良識ある国民」はそこから目をそらします。そして、事態が手遅れになってもなお、目をそらし続けるのです。


 スウェーデンに取材に行った際に、現地の人々がヒュースビーやマルメの移民問題から「目をそらし、知らないことにしていた」のを思い出します。


「人種差別はいけません。移民反対はレイシスト」
 と、一方的なレッテル貼りをされるのを怖れたスウェーデンの人々は、移民問題を「そこにあるが、存在しない問題」として取り扱い、取り返しがつかない状況に至りました。


 深刻な移民問題を知らない日本人は、「本気」で移民について議論するのが苦手です。だからこそ、
「人手不足なのだから、外国人労働者に頼ればいいじゃん」
 といった、ふわっとした意見に流され、破滅への道を歩いていくのでしょう。


 とりあえず、移民問題について議論する際には、他国の事例を見ることが重要だと思います。特に重要なのは「教育」です。


『フランス 義務教育3歳から 移民層念頭に「格差是正」
https://mainichi.jp/articles/20180402/ddm/007/030/152000c

 フランスで義務教育の開始年齢が現在の6歳から3歳に引き下げられる見通しになった。移民層などを念頭に幼児期の「教育格差」の是正を目的としてマクロン大統領が主導した。2019年9月の導入を見込み、欧州ではハンガリーと並んで最年少の義務教育開始年齢となる。 (中略)

 公立の保育学校は無料となっているものの、海外県や移民系住民が多い貧困地域では就学率が低い傾向がある。マクロン氏は3月27日の演説で保育学校の就学義務化方針を公表し、「受け入れがたい格差が是正されることを願う」と強調した。(後略)』


 フランスでは、「移民」との教育格差を是正するために、義務教育の開始年齢が3歳に引き下げられることになりました。


 他国から入ってきた人々のために、
「受け入れがたい格差が是正されることを願う」
 と、自国の教育制度を変えるわけです。

 


 イギリスの小学校などでは、生徒の9割が移民であり、しかもほとんどが英語を話せないということで、教育現場がパニックに陥っている地域が多々あります。


 当たり前ですが、教育の「供給能力」には限りがあるため、学校側が「多言語の子供たち」への対応に追われると、元々のネイティブな子供たちが割を食うことになります。


「まあ、イギリスは長年、移民を受け入れ続けたんだから、仕方がないんじゃない」
 などと思わないでください。


 すでに、我が国も移民の影響で教育サービスが「害(あえて書きますが「害」)を受けるケースが出ているのです。
 
『運動会で6か国語放送…外国人の子供急増に悲鳴
https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0331/ym_180331_8868372745.html

 「保護者とも意思疎通ができない」「教員の負担も限界」。
 日本語を習得できていない外国人の子供の急増に、教育現場からは悲鳴が上がる。 

 横浜中華街に近い横浜市立南吉田小学校では、全校児童約740人の半数以上が外国籍などの子供だ。保護者が帰化して日本国籍になっていても、家庭で使うのは母国語のみという子供もいる。昨秋の運動会では英語や中国語など計6か国語で放送を行った。

 「臨時休校が決まっても、多言語のプリントが作れない」。こう漏らすのは関西の政令市の担当者。教員は日本語にふりがなをつけたり、個別に電話したりする対応を迫られている。

 気持ちをうまく伝えられない外国人の子供が、日本人の子供とけんかになるケースもあり、首都圏の政令市の中学教諭は「生徒指導事案の8割に外国の生徒が関わっている」と明かす。』


 子供は、母国語で教育を受けるべきです。


 学校が移民に適応し、多言語で教育サービスを提供した場合、どうなるでしょう。「子供たちが広い視点を持ち、グローバルな人材に育つ」と思いますか?


 違います。


 答えは、教育サービス全体の質が低下する。ただ、それだけの話です。

 本ブログの読者は、日本語モノリンガルの方が多数派でしょう。皆さんが「多国語」で教育サービスの提供を強いられたとき、全体的な品質を高めることができますか。できるはずがありません。


 移民国家化は、日本の教育サービスをも壊し、将来世代に「国家がまともな教育を提供できない日本」を残すことになります。


 「保守」であるはずの安倍晋三総理大臣が率いる日本政府は、移民受入により皇統を危うくすると同時に、教育サービスをも破壊しているのです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12365167745.html

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78. 中川隆[-7888] koaQ7Jey 2018年4月10日 10:24:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10090]

幻の科学技術立国 2018-04-10

 昨日は、チャンネル桜「闘論!倒論!討論!2018 日本よ、今... 経済討論「財務省主導の経済でいいのか?日本」」の収録があり、財務省問題や緊縮財政、PB問題について有意義な議論ができたのですが、わたくしは三時間目に、

「最もまずいのは、インフラでも防衛でもなく、科学技術予算(の抑制)です」

 と、主張しました。


 何しろ、科学技術は防衛力強化やインフラ整備の「基盤」になります。PB目標が破棄され、予算が十分に確保できたとしても、科学技術力が凋落してしまっていた場合、防衛力強化やインフラ整備はできないのです。


 そして、すでにして我が国は科学技術強国から「凋落」してしまっております。
「このままでは、科学技術強国から凋落する!」
 ではありません。


 すでに、日本は科学技術強国でも何でもないのです。


 理由はもちろん、財務省が主導する緊縮財政により、科学技術予算が低迷を続けているためです。(さらに、大学改革という名の緊縮財政の影響も大きい)


【2000年度を100とした場合の各国の科学技術関係予算の推移】

http://mtdata.jp/data_59.html#kagaku


 2000年と比較し、中国は科学技術関係予算を何と11倍超にしました。韓国が4.7倍、アメリカ、イギリス、ドイツといった先進国ですら、1.5倍前後には増やしています。


 それに対し、我が国は1倍。


 これまた「国家的自殺」の一場面でございます。


 こんな有様ですから、当然ながら我が国は科学技術力が弱体化し、「幻の科学技術立国」と化してしまったのです(化しつつある、ではありません)。


『幻の科学技術立国 第1部 「改革」の果てに/1 得意の材料分野で周回遅れ 衰退の現場を歩く
https://mainichi.jp/articles/20180405/ddm/016/040/013000c
 近年、日本の研究力を示す各種指標は低下の一途をたどり、中国を筆頭に科学技術新興国が台頭する中で、日本の存在感は急速に失われつつある。皮肉にも、政府はこの十数年間、科学技術政策を成長戦略の柱と位置付け、研究費配分の「選択と集中」や国立大の法人化など、さまざまな政策を進めてきた。第1部では、待ったなしの衰退の現場を歩き、こうした「改革」の副作用を考える。(後略)』


 材料科学の世界において、1993年から95年(つまり、日本の絶頂期)の我が国の論文シェアは12%。アメリカに次ぐ二位で、かつ三位以下を引き離していました。


 ところが、13年から15年は4.4%で五位。アメリカはともかく、中国、韓国、インドにすら後塵を拝している状況です。

 GDP1000ドルあたりの論文数でみると、日本は15.9で、何と世界47位。ブルガリアやラトビアよりも下です。


「実質国内総生産(GDP)当たりの論文数はラトビアやトルコと同じくらい。データ上は、日本は科学技術立国とは言えない」(豊田長康・鈴鹿医療科学大学長)


 日本の科学技術力凋落の主因として挙げられるのが、特定の分野に対し、研究資金を重点的に配分する「選択と集中」政策です。「選択と集中」といえば聞こえはいいですが、要するに緊縮政策です。


 科学技術予算全体が増えず、「大学改革」などと称し、ひたすら大学予算を削減。大学の研究者や教授に対してまで、「資金は自分で確保しろ」などとバカなことをやり続けた結果が、現在の惨状なのです。


 ちなみに、わたくしは日本が科学技術強国から凋落したことを受け、
「だからダメだ! おしまいだ!」
 と、言いたいわけではありません。


 なぜ、このような事態になったのか。財務省主導の緊縮財政以外に、主因は存在しないという「事実」を知って欲しいのです。


 安倍政権は、今でもPB黒字化目標という緊縮目標を掲げています。PB黒字化目標がある限り、我が国が科学技術予算を拡大し、再び科学技術強国を目指すことはできません。


 二十年後には、我が国は科学技術分野において世界の劣等国と化し、「以前はノーベル学者が出たのになあ・・・」などと、指をくわえ、ノーベル賞の発表を見ている状況になっているでしょう。


 今年の6月。安倍政権は骨太の方針2018を閣議決定します。そこに「PB黒字化目標」が入ってしまうと、我が国はインフラ小国、防衛弱小国に加え、科学技術劣等国にまで落ちぶれることが、ほぼ確定すると覚悟しなければならないのです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12367227225.html

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79. 中川隆[-7876] koaQ7Jey 2018年4月11日 15:15:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10102]

2018.4.3
英語を仕事で使う人の数は減少傾向という現実、むしろ必要な力とは
榎本博明:心理学博士、MP人間科学研究所代表+ 
http://diamond.jp/articles/-/165663

2020年東京オリンピックでの「おもてなし」に向けて、“英語ファースト”の時代が訪れている。「いまの時代、英会話ぐらいできないと」、「英語は早いうちから学んだ方がいい」と言われるが、

『その「英語」が子どもをダメにする』(青春出版社)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4413045203/diamondonline-22/


の著者・榎本博明氏は、そんな思い込みが蔓延する英語“偏重”な教育現場に警鐘を鳴らす。

実際、仕事で英語は本当に必要?

 現在、日本人は仕事上どれくらいの頻度で英語を使っているのだろうか。仕事で英語を話す機会といえば、海外支店に転勤になった場合か取引相手が海外の企業だった場合ぐらいである。

 とはいうものの、これからグローバル化が進む時代で、実際は英語の必要度がどんどん増しているのではないかと考える人も多いだろう。

 これについては、実証的なデータがある。言語社会学者の寺沢拓敬が行った調査で、「日本で実際にどれぐらいの英語が使われているか」を検証した。2002年の調査結果では、仕事で英語を「よく使う」人と「ときどき使う」人を合わせた比率は12.7%だったのに対し、2008年は13.3%と6年間でほとんど変化はみられなかった。

 さらに、「過去一年間に仕事で少しでも英語を使った」という人の比率は、2006年21.0%に対し、2010年は16.3%と、むしろ減少傾向にあるのだ。

このようなデータを見るかぎり、これから先も日本で仕事する上で本当に英語が必要になってくるのか疑問になってくるだろう。

 また、企業が社員にもとめる能力を調査したところ、英語力よりもむしろ専門性や柔軟性、そして仕事ができること、だれとでもコミュニケーションがとれることだったという。(『週刊金曜日』2013年11月8日号)

 最近では、英語は入社後でも十分身につくという考えが広がり、企業では仕事を進める力や人間力が重視されているというのが実態である。

 やはり、子どもの将来を考えた場合、英語教育に先走るよりも、まずは日本語力や思考力の基礎をしっかり固めることが優先されるべきだといえるだろう。

就活で「コミュニケーション力」が重視されるワケとは?

 新卒採用で多くの企業が最も重視するのが、「コミュニケーション力」だ。これはもちろん日本語でのコミュニケーションのことを指す。例年、「主体性」や「意欲」などを抑えて「コミュニケーション力」が圧倒的に重要視されるのはなぜだろうか。

 これは、近年の大学生の日本語能力の低下が関係していると考えられる。たとえば「内向的」「情緒不安定」「引っ込み思案」などの言葉が通じなくなってきていると榎本氏はいう。

 多くの大学教員が、学生に対して心理検査やアンケート調査ができなくなってきたというが、それは質問項目の意味がわからないという学生が増えてきたからといわれている。

 最近の学生は、SNSでのやり取りで記事を投稿したり友達と会話するなど、言葉に触れる経験は豊富なのだが、本をあまり読まないため、読書体験で得られるはずの豊かな表現や抽象的な概念に触れる機会がないのだ。

このように、英語どころか日本語のコミュニケーションさえうまくできない若者が増えているため、企業としては何としても「コミュニケーション力」がある若者を雇いたいと思うわけである。

 さらに、2007年から日本語検定が行われるようになり、企業の採用試験や研修で使われているという。そのようなものが必要になったということは、それだけ日本語に不自由な若者が増えてきたことの証拠といえるだろう。

英会話ができても、外国人と対等にはなれない

 そもそも日本人の多くが、英会話を話せれば外国人と対等にコミュニケーションがとれていると勘違いしている。その勘違いゆえに、わが子に英会話を習わせたいという親が多いのだ。

 もちろん英会話を話せないより話せた方が、コミュニケーションは円滑に進むだろう。しかし、“話せる”ことだけに注力してしまうのは危険である。

 子どもの言語発達について、発達心理学者の岡本夏木氏は、日常生活の言葉である「一次的言葉」と授業の言葉である「二次的言葉」を区別している。

「一次的言葉」は、具体的なことがらについて、いわば、日常生活において身近な人たちとの間で会話するための言葉である。それに対し「二次的言葉」は、抽象的な議論にも使える言葉であり、そこには話し言葉だけでなく書き言葉も加わったものである。

要するに、日常生活の具体的な場面の会話で用いる言葉か、教室で授業を受ける時などのように抽象的思考や議論をする時に用いる言葉か、ということだ。

 日本語を不自由なくしゃべっていても勉強ができない日本人、知的活動が苦手な日本人がいくらでもいるように、大事なのは学習言語能力、つまり後者の「二次的言葉」を磨くことである。それができないと、授業についていけず、ものごとを深く考えることができない子になってしまうのだ。

 幼いうちから英会話に注力しすぎた結果、英語どころか日本語能力も低く、日本語の文章が読めなかったり抽象的な議論ができないとなれば、取り返しがつかないだろう。

 先述しているように、英語はある程度大きくなってからでも学ぶことは十分可能なのだから、小さいうちから焦る必要は何もないのである。

 英会話は勉学ではなくあくまで「コミュニケーションのツール」。子どもが大きくなって勉強や仕事で本当に必要な能力は何なのか。親には、目先の能力にとらわれず、子どもの将来を見越した教育を受けさせることを忘れずに、わが子と向き合ってほしい。



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80. 中川隆[-11391] koaQ7Jey 2018年4月26日 21:22:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12391]
専門家が直言「TOEICが日本を滅ぼす」2018年4月20日 プレジデントオンライン


英語能力のテストとして、学校教育でもビジネスでも重要視されるTOEIC。しかし長年、企業の語学研修に携わってきた猪浦道夫氏は「TOEICは英語能力検定試験として欠陥がある。TOEIC対策講座に成り下がった英語教育を進めることで、母国語をふくめたそもそもの言語教育に悪影響が出ており、日本人の知的レベル低下を招いている」と警鐘を鳴らす――。


■TOEICハイスコアは成功への登竜門?

筆者は長年、語学教育にたずさわってきましたが、30年ほど前から学校の英語教育が「文法偏重から会話力重視へ」と急カーブを切り始めました。そのころからビジネス界でもグローバル化の標語のもとに、ビジネスピープルたるもの「誰もが英会話力は必須」のような雰囲気になってきて、どこか不気味な感じがしていました。

その象徴的な存在がTOEICの急成長です。昨今では、あたかもこれからの教育界、ビジネス界ではTOEICのハイスコアが成功への登竜門であるかのごとくみなされるようになってきています。

1990年ごろまで、英語力を認めてもらうには「実用英語技能検定(英検)」が一般的でしたので、この試験は英検に比べてさぞかし画期的な試験なのかと思いました。そこで、この試験の問題を分析してみましたが、そのときの正直な感想は、「これがビジネスに役立つ実践的な英語力とどういう関係があるのか。全体的に英検のほうがまだ数段優れているな」というものでした。

にもかかわらず、TOEICの浸透はやがて文科行政、企業教育にまで及んできて、いまや猫も杓子もTOEICという状況になりました。知人、生徒たちにTOEICの感想を尋ねてみると、その反応の多くは、TOEICなんてあまり意味がないけど上から受けろと言われたので、就職の書類にスコアを書く欄があるので、また若い世代の場合、大学受験で一定のスコアが求められているから仕方がない、という消極的またはやや否定的な意見でした。

いまや、小中学校から大学、大学院、そしてビジネスピープルに至るまで、なんでもかんでもTOEICで学習者の英語力を図ろうとしています。

しかし、TOEICで測れる英語の能力は、あたりさわりない英語トーク(しかも米語の発音)の聴き取りと、専門性の低い英文の理解力だけです。しかも、後者の場合、日本語をまたいでの翻訳力はまったく評価できません。この点では、いろいろな問題はあるにせよ、英検のほうが圧倒的に優れています。

しかるに、言語能力というものは多様でそんな単純なものではありません。「聞く」「話す」「読む」「書く」の4つの能力の区別はよく知られていますが、もう少しキメ細かく見ると、「聞く」「話す」の部分は「通訳能力」があるかどうか、「読む」「書く」の分野は「翻訳能力」があるかどうかの視点も考慮しなければなりません。

さらに、それらの能力はスピーチレベルというものを考慮しなければなりません。おおざっぱに分類しても、現地の人と日常のくだけた会話をするレベル、改まった場面で正式な話し方をするレベル、そして、専門分野の情報交換に必要なコミュニケーション能力です。文章にも、この区別が厳然としてあります。

■本当に英語力が必要な人、不必要な人

英語を学ぶ場合、学習者がどのような目的で学ぶのかによって、どこのゾーンの能力をどの程度まで伸ばすかを考慮しなければ時間の無駄になります。

例えば、日本の大学生がその専門分野の研究において必要としている英語能力とは何でしょう。それは英会話の能力ではなく、原書を読み理解する能力です。大学院レベルの研究(特に理系)においては、それに加えて英語で論文を書く能力が求められましょう。

一方、企業活動における英語力とはどうあるべきでしょう。実は90%のビジネスピープルは高度な英語力を必要としていません。国際化、グローバル化の掛け声のなかで「少しぐらい英語ができないとみっともない」といった曖昧なイメージだけが先行しているだけで、実際に現場にいるビジネスピープルの多くは英語を使う機会はありません。

英語を必要とするのは、海外とのやりとりがある部署の人間だけです。英語を必要としない社員にまで画一的にTOEICの勉強を強要しようとするのは、経理部で働く可能性のない社員に簿記の試験を受けろと言っているようなものです。企業活動のそもそもの目的を考えれば、ビジネスの現場でほとんど役に立たない英語力を少しぐらいアップさせる時間があったら、ビジネスの力を磨いたほうが会社にとってメリットが大きいはずです。

もしビジネスを目的として英語を学習するにしても、個々人の業務内容を考慮してターゲットを絞るべきです。例えば、英文メールが書ければよい、英語文献などを読んで情報分析できなければならない、頻繁に外国人ビジネスピープルと交渉事がある、といったものです。そのレベルによって求められる英語力は大きく異なります。漫然とオールラウンドに高度な英語力を身に着けたいと思っているならば、それは差し迫った必要性に迫られていない証拠です。

■国語ができなきゃ英語なんてできるわけがない

私は、最近、英語のみならず母国語である日本語も含めて、日本人のコミュニケーション能力、論理的思考力が変調をきたしているのではないかと思うようになりました。この傾向は、一般の人々や若者ばかりでなく、ビジネスピープルや知識人と呼ばれる人々のあいだでも顕著で、はたで他の人のトークを聞いていても話がかみ合っていないと感じることが多いのです。

私はこの度『TOEIC亡国論』という、あえて刺激的なタイトルの本を出版しました。それはなぜか。本稿でもこれまで、英語能力試験としてのTOEICの欠陥を示してきましたが、そんな試験が社会に当たり前のように受け入れられてしまったことで、英語にとどまらない言語教育そのものに悪影響を及ぼしはじめているという、強い危機感があるからです。

認知科学者で慶應義塾大学名誉教授の大津由紀雄氏は、文科省「教育の在り方に関する有識者会議(第3回)」において、大学での英語教育の現状を「TOEICの対策講座化に堕している」と評し、「TOEICでの高スコアは必ずしも英語の熟達度を示すものではな」いと喝破しています。

そしてその原因として、「そもそも日本語がきちんと使える人が非常に少ない」ことを挙げ、母国語教育と英語教育のあり方に同根の問題があることを指摘しています。

本来あるべき言語教育とは、英語という特定の言語に偏ることなく、言葉そのものに対する興味をさまざまな角度から養い、母国語と外国語をよく比較観察しながら「ことばの仕組みとか動き」を理解するものであるべきだと、大津氏は言います。

しかも、そもそも「比較観察」する前提となるのは国語力。国語力は思考と深く関連性があり、言語というものは思考した結果を表現するツールに過ぎません。だから、英語を学ぶ以前に、国語力に立脚した思考能力がなければ話にならないのです。

外国語の能力は母国語の能力を上回ることはないが、外国語を知ることは母国語を見直す契機となり、母国語の習熟度を高めます。英語学者の渡部昇一氏はこれを「知的格闘」と呼んでいましたが、外国語を知ることは、母国語と外国語両方に望ましい教育効果が期待できるのです。

■TOEICを目的とした教育で「母国語力」が低下している

ところが、TOEIC対策講座と化した外国語教育では、前述した通り、翻訳能力や通訳能力、そして実践的なスピーチ能力が、正しく身につくとはいえません。大津氏のいう「比較観察」も、渡部氏のいう「知的格闘」も磨かれず、外国語教育で求められる「母国語と外国語両方の習熟」という効果が期待しづらいと言えるでしょう。にもかかわらず、TOEICの点数さえよければいい、という教育を続けていれば、日本語力は磨かれず、当然ながら、日本語力を基盤とする思考力も育たない。

同時に、英語教育における学習者のレベルダウンは、言語学的見地から言えば、紛れもなく背景に国語力の欠如と、読み書き、文法学習の軽視に原因があることはまず間違いありません。つまり、日本語教育がうまく言っていないから、英語力も育たない。

他方で、TOEICの対策講座になった英語教育のせいで、日本語力が育たない。このような負のスパイラルは、基本的には学校教育での誤った教育方針が原因です。重ねて言いますが、そのあしき傾向を助長しているのがTOEICの存在で、その弊害はもはや看過できないレベルにまで達しています。

■日本語教育と外国語教育をセットで考え直すべし

その危機感は最近ますます強まっています。私はときどき国会の審議で答弁している官僚の話し方とか、テレビ番組に出ているコメンテーターと言われる人たちの会話や討論を聞くことにしています。そこで感じたことですが、意識的に論点をずらすとかある種の交渉術的な戦略があることを考慮しても、それ以前に日本語もおかしいというか、きちんとした日本語を話していない人も多い。

一方には、インテリを気取ってところどころ誰にもわからないような英語を交えて話す人もいて、そういう討論を聞いていると、そもそもこの人たちはコミュニケーションする気があるのだろうかという気さえしてきます。

今の世の中は殺伐といていて、子供殺しの親とか、モンスターペアレンツ、会社内での過労死など、痛ましい事件が後を絶ちませんが、これらの事件は、背景に日本語力の貧困によるコミュニケーションの欠如に遠因があるのではないかとすら思えてきます。唐突に思われる方もあるかもしれませんが、自分の考えを理解してもらえないと、人間というものはすごいフラストレーションを感じ、それが極限に達すると「切れる」ものなのです。

文科省の行政指導には、大きな問題があります。経済政策とか外交政策とか、およそ政策というものは、基本的には優れた専門家による検討を踏まえて決められていくものでしょう。ところが、文科省の(特に)英語教育に関しては、優れた専門家の諮問に耳を傾けているとはとても思えません。志ある立派な専門家がどれだけ主張しても、一向にそれが好ましい形で英語教育に反映されません。

浮ついた英語学習を改めて、そろそろ日本人の言語教育がどうあるべきか、国際社会での真のコミュニケーション能力には何が必要かを、国民ひとりひとりが原点に立ち返って考え直してほしいと思う今日この頃です。
http://news.livedoor.com/article/detail/14604971/


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81. 中川隆[-11583] koaQ7Jey 2018年4月30日 21:08:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12667]

日本経済の将来を占ううえで最も重要なのが、人材だ。そこでも日本はアジア諸国に大きく遅れている。

 世界の大学ランキングというものがあるが、実は、日本の大学は、東大でも世界46位と大きく順位を下げている(Times Higher Education2018)」。

 世界ではどうしてもアメリカやイギリスの大学が上位に入るので、アジアだけのランキングで見るとどうなるか。当然東大が1位だと思う人が多いかもしれないが、実は、毎年順位を落としてついに8位まで下がってしまった。1位シンガポール国立大学、2位清華大学(中国)、3位北京大学(中国)、4位香港大学、5位香港科技大学、5位南洋理工大学(シンガポール)、7位香港中文大学で9位と10位は韓国の大学である。上位21校中(20位が2校あるので21校)のうち、日本は東大と京大(11位)の2校だけ。中国は7校、韓国と香港が5校、シンガポール2校だった。

 将来のことを考えると、子供や孫の進学では、東大や京大よりも中国やシンガポールや香港の大学を勧めた方が良いということになるのだが、実は、日本人には、これらの大学に進学するのは極めて難しい。語学の壁があるということもあるが、それ以上に入試のレベルが、中国などの大学の方が日本よりもはるかに難しいからだ。

 中国の受験競争の激しさは有名だが、その厳しさに負けて、日本の高校に留学して日本の一流大学を目指す動きがここにきて急速に強まっている。先日もNHKのニュースで放送していたが、宮崎県の私立高校が中国で留学生獲得の営業をかけたら多くの優秀な中国の学生が応募してきた。今や学生の過半が中国人で、日本の大学に全員が合格している。留学生に聞くと、中国で良い大学に入るのは難しいから諦めて、日本の大学を目指すことにしたという。彼らにとっては、日本語で受けるとしても、まだ中国よりは易しいというのである。それほど、日本と中国の若者の学力に差がついているということになる。

 この傾向は、経営大学院(MBA)については、より顕著だ。フィナンシャルタイムズが発表した世界のMBAランキング2018では、ベスト100のうち大半はアメリカの大学院だが、アメリカ以外では、英国の14校に次いで2番目に多くランクインしたのが、中国の7校だった。1位スタンフォード(米)、2位INSEAD(仏)、3位ペンシルバニア大ウォートン校などの常連に交じり、何と中国の中欧国際工商学院が8位とベスト10入りをして世界を驚かせている。その下に続く9位がMIT(マサチューセッツ工科大)、10位カリフォルニア大バークレー校と聞けば、そのすごさがよくわかる。5、6、7位がハーバード、シカゴ、コロンビアだが、今の勢いだと、10年以内にトップの座を占める可能性もあると言われるほどだ。ちなみに、この大学院の卒業生の卒業直後3年の平均年収は、16万2858ドル。1ドル110円で計算すると1791万円だ。日本のMBAを卒業してもほとんど箔付け程度にしかならないのと比べると雲泥の差と言って良いだろう。

 この中国の大躍進に対して、日本のMBAがベスト100にいくつ入っているのだろうかと思って、ランキングを上から順にスクロールしてみると、ついに一番下の100位まで行っても発見することはできなかった。つまり、100位以内にゼロである。中国の7校に比べて、何とも寂しい話だ。

 これらの情報は秘密でも何でもない。新聞などでも報じられている。ただし、記者に何の問題意識もないので、これが何を意味するのかが理解できず、極めて小さな扱いでごく一部の情報を載せるだけである。

 一方、優秀な若者は徐々にこうした事実に気づき始め、東大よりも海外の有名大学を目指す動きが広がっている。しかし、それは、残念ながら、まだごく一部である。

 それを象徴する話を聞いた。元民主党女性議員の令嬢が、上智大学を卒業後、香港の大学院に進学した。それをその元議員が友達に話したら、「上智まで出たのに、なんでまた、香港なんかに出したの?」という反応ばかりが返ってくるというのだ。その元議員の令嬢は、メールでこう連絡して来たという。

「ママ、中国は日本をドンドン追い越してるのに、日本人は、気づいてない。それって、相当ヤバくない?ここで勉強したことをちゃんと生かせる仕事がないから、日本に帰っても仕方ないね。アメリカかシンガポールで仕事を探すわ。給料もずっと高いから」

 もう一人、カリフォルニア大バークレー校でMBAを取って、アメリカで今年起業したある日本人の若者の話を聞いた。

「日本に帰る理由を考えたけど、一つもなかった。強いて挙げれば、そこそこおいしいご飯がタダ同然で食べられることかな。ランチの定食が10ドル(1100円)なんて信じられないよね。アメリカだと、その何倍もするからね。でも、アメリカの大都市なら、お金さえ出せば、おいしい店はたくさんあるし、日本の何倍も稼げるから、結局、安いご飯は大した魅力にはならないな」

 そして、こう付け加えた。

「日本人留学生は、ほとんどが政府や企業のひも付きで、日本に帰る前提で勉強している。留学は箔付けというレベルだから、米国で独立して活躍できる人材は少ないね。中国人ならたくさんいるよ」

 日本の未来を支えるはずの若者のレベルが国際比較でこんなに低下しているとしたら、日本経済の将来は本当に危機的状況にあると言って良いだろう。
http://www.asyura2.com/18/senkyo243/msg/796.html#cbtm




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

82. 中川隆[-11582] koaQ7Jey 2018年4月30日 21:11:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12667]
>>81
輸出に有利になる様に日本政府と日銀は円を安くし過ぎたんですね:


日本の物価はいくらなんでも安過ぎる (1ドル=50円 程度が適正価格)
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/126.html




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

83. 中川隆[-12516] koaQ7Jey 2018年5月26日 13:49:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14314]

3S 政策より:
https://ja.wikipedia.org/wiki/3S%E6%94%BF%E7%AD%96


「・・・戦略家のガブリエル・コルコはアメリカがベトナム戦争での失敗を契機に、大規模な戦闘という事態を避ける為に低強度紛争としてソフト・パワーを用いた情報戦を軍事戦略の中枢に置くようになる課程を紹介。この戦略が最も成功した例が日本であり、各種の工作は日本支配のための「軍事戦略であり戦争であった」と述べた。


1. アメリカを無条件に支持し、アメリカに服従する政党と政権を他国に成立させ、そのための資金をアメリカが提供する。

2. この買収資金は、アメリカの税金ではなく、他国でアメリカが麻薬を密売した利益を提供し、アメリカが経済的負担を負わない方策を取る。

3. マスコミ操作を通じアメリカが常に「善」であると他国の市民を洗脳し、アメリカを批判する言論をマスコミに「登場」させない。アメリカ映画、音楽を大量に流し、アメリカが「すばらしい」国だと連日宣伝する。

4. 学校教育においては、丸暗記中心の学校教育で思考能力を奪い、アメリカへの批判能力を奪う。

5. 教師への絶対服従を学校教育で叩き込み、「強い者=アメリカへの絶対服従」を「子供の頃から身に付けさせる」。

6. 逆らう言論人、ジャーナリストは、そのジャーナリストのセックス・スキャンダル等をマスコミに流し失脚させ、必要であれば軍の諜報組織を用い、事故に見せかけ殺害する。

7. 他国の食料、エネルギー自給を破壊し、米国に依存しなければ食料、エネルギーが入手出来ないようにシステム化し「米国に逆らえないシステム」を作る・・・」

関連情報:

一億総白痴化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96

愚民政策
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E6%B0%91%E6%94%BF%E7%AD%96

反知性主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E7%9F%A5%E6%80%A7%E4%B8%BB%E7%BE%A9

パンとサーカス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9

ディストピア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2

etc.


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84. 中川隆[-12514] koaQ7Jey 2018年5月26日 13:53:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14314]

生まれた時からデフレ経済で苦しむ若者からすれば、バブル景気真っ只中の日本は夢のよう。

ところが、当時の日本には悪魔がいた。今では忘れ去られているけど、単なる「総量規制」の通達で、バブル経済を一瞬にして破壊せしめた大蔵省官僚、土田正顕(つちだ・まさあき)の罪は消えることがない。誰かが語り継ぐので、「未来永劫に」だ。

この銀行局長は日本国民を奈落の底に陥れたのに、土下座して切腹もせず、あろうことか国民金融公庫の副総裁に天下りし、2000年には東京証券取引所の理事長になった。さらに、この不逞役人は東証を株式会社化すると、その功績で初代社長に就任。いやはや、「すごい」の一言に尽きる。

  でも、バブルが弾けたせで、自分の会社を失った経営者は、この“栄転”と“渡り”を知って、どんな感想を持っていたのか?

「この野郎 !」と拳を握りしめた人も多いだろう。
自社が破綻して自宅まで手放した元社長とか、勤め先がいきなり倒産して失業者になったサラリーマン、地価が暴落して人生まで地獄と化したビジネスマンなど、いったい何人が土田を恨んだことか。

世間のオっちゃんやオバちゃんは何も知らないから、東大卒のエリート官僚を「すごいわねぇ〜」とベタ褒めするが、役人が犯した秕政と失態を味わえば、こんな称讃は直ぐに吹っ飛んでしまうだろう。

現在の官僚は一代限りの「エリート」なので、現役中に最大限の利権と財産を貯め込み、退官後も「渡り」を繰り返して蓄財に励む。役人生活でどんな迷惑を国民に掛けようが、「俺の知ったことではない。政治家が決めた事を行ったまでだ」と開き直るんだから、彼らの辞書には「破廉恥」という項目が無い。

  江戸時代の武士と違って、現代のお役人様は転属したり退官すれば「お咎め無し」で、満額の退職金を手にして笑顔でバイバイ。息子が世間の非難を浴びることも無い。「親と子は別」なので、「末代までの恥」なんか最初から無いのだ。

公務員の採用試験にだって、人格テストは無いから、頭が赤くてもいいし、反日思想の持ち主とか、天皇陛下を侮蔑するような人物でもいい。

土田のようなキャリア官僚にとって一番大切なのは、国家国民の利益じゃなく、大蔵省(財務省)全体の権益を守ること。一般国民なんて、下界の召使い程度。不正を犯しても、所属官庁と同僚に迷惑を掛けなければいい。

国民がどれだけ苦しもうが、同期の仲間が助けてくれるし、辞任しても天下り先が確保されているので安心だ。

霞ヶ関のお役人様というのは影の実力者なので、大臣なんかアイドル歌手と同じ。「アイドル一年、大臣二年で使い捨て」が常識だ。国民はお上に奉仕する人足以下の存在。

だから、日本の「民主主義」は、民衆が主体の代議政体じゃなく、役人が「民衆の主人」となる官僚制衆愚政治の別称である。実際、「民主党」政権を思い出せば分かるじゃないか。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68718258.html


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85. 中川隆[-13004] koaQ7Jey 2018年6月12日 18:45:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15268]

<科学技術白書>「国際的地位は低下」研究力の低迷あらわに
6/12(火) 15:49配信 毎日新聞

 政府は12日、2017年度の科学技術白書を閣議決定した。人材力、知の基盤、研究資金といった科学技術・イノベーションの「基盤力」に多くの課題を挙げ「わが国の国際的な地位のすう勢は低下していると言わざるを得ない」と指摘。近年の日本の研究力の低迷ぶりを如実に表す内容になった。

 各国の政府の科学技術関係予算の伸び具合を00年と比べると、中国が13.48倍(16年)、韓国が5.1倍(同)、米国が1.81倍(17年)になったのに対し、日本は1.15倍(18年)とほぼ横ばい。

 博士課程への進学者も03年度の約1万8000人をピークに減り始め、16年度に1万5000人を割った。海外へ派遣する研究者の数は00年度(7674人)をピークに15年度は4415人と減っているほか、国際共著論文の数も伸び悩むなど、国際性の低下も問題になっている。

 新たな研究分野への挑戦不足も指摘している。注目度の高い研究分野への参画度合い(14年)では、米国91%、英国63%、ドイツ55%に対し、日本は32%と低迷。研究者を対象にしたアンケートでも、挑戦的・探索的研究が減っている、との回答が多かった。


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86. 中川隆[-13023] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:28:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

「努力しても報われない」世界がある

私は「必死で働く人は報われる」と頑なに思い込んでいた。

「怠惰な人が運だけで豊かになって、必死で努力している人が報われないのは、正義ではないし、残酷だ」という考え方が、ずっとこびりついて離れなかったからだ。

私は自覚していなかったが、それは日本の教育の成果だったのだ。「必死に努力すれば道は拓ける」というのは、今も昔も学校教育の基礎だ。

本当は、人間ひとりひとりに能力があって、生まれつき頭の良い子供もいれば、どう努力しても能力の足りない子供もいる。この差は、生まれつきのものなので埋めがたいものがある。

しかし、学校教育は駄目な子供も面倒を見なければならないし、彼らをある程度「向上」させなければならない。そこで、学校は「必死に努力すれば道は拓ける」と教えることになる。

子供たちは、自分が勉強ができないのは「生まれつきではなく努力が足りないから」だと教育される。

自分を客観的に見つめられる子供は「ひょっとして自分は頭が悪いのか?」と冷静に思うのだが、教育はそれを認めず「努力が足りない」と言って「本当にできない子」を勉強に駆り立てていく。

本当は能力は人によってバラバラで、その差は決して埋まることはないのだが、「努力すれば報われる」と思い込まされるのである。

私も日本の教育を受けてきたので、無意識に「努力すれば報われる」という現実的ではない哲学が身についていた。

しかし、東南アジアで必死で生きている人たちを見て、気付いてしまったのである。必死で働き、必死で努力している人が報われるのであれば、なぜ彼らが報われないのか……。

現実を客観的に分析すると、努力など「何ひとつ」していない私の方が彼らよりも経済的余裕があった。日本に生まれて、なおかつ時代がバブルだったという僥倖があったからだ。

私はたまたま日本の良い時代に生まれていた。努力はまったく関係なかったし、私に持って生まれた特別な才能があったわけでもない。

私は愚かではないが天才でもない。本当に普通の人間だった。日本という国は素晴らしかったが、私自身は語るべきものは何もなかった。

それなのに、私は必死で生きようともがいている人たちよりも圧倒的に恵まれていた。

「努力すれば報われる」というのであれば、これは不可解な現実だ。「もしかすると、努力しても報われない」のが現実なのではないか、と私はうっすらと思うようになっていった。


とどめになったのは、カンボジアの売春地帯にいた女性たちと付き合うようになってからだ。

彼女たちは、もう生まれたときから家が貧しく、教育もなく、計算もできず、身体を売るしか生きる方法がなかった。

そんな中で売春宿のオーナーに搾取され、乱暴な客に罵られ、這い上がることなど到底不可能な世界の中でもがいていた。

「努力したら報われる」どころの話ではない。あまりにも極限の底辺に堕ちると、足りないものが多すぎて必死で働いても浮かばれないのである。

借金もある。計算できないから売春宿のオーナーからピンハネされ放題だ。抜け出しても、字も書けず、計算もできないから普通の職業に就けない。教育を受けるにも金が要るが、そんな金もない。今を生きなければならない。

そんな世界で「努力したら報われる」など、きれい事でしかなかった。しかも、途上国で必死で働いても、先進国のアルバイトの時給にも負ける。時間が経てば経つほど差が開いていく。

先進国で生まれるか途上国で生まれるかは、それこそ運でしかない。富裕層で生まれるか貧困層で生まれるかも運だ。いろいろな環境が本人の努力を超えた部分で決まり、人生が左右される。

もし私がカンボジアの底辺で生まれていたら。あるいは、インドの低カーストで生まれていたら……。

私が生まれた国と時代が悪ければ、「一匹狼だ、野良犬だ、ハイエナだ」と斜に構えて生きることなど到底できなかった。必死で働いても何も得られず、社会に押しつぶされながら生きていたはずだ。

「努力しても報われない」世界があるのだ。
https://blackasia.net/?p=7713


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87. 中川隆[-13021] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:31:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]
2017年03月08日
家庭環境が貧しいと子どもの脳は「貧困脳」になる
http://gigazine.net/news/20170308-brain-on-poverty/

貧困が「子どもの脳の発達」に強い影響を与えることが研究により明らかになっていますが、コロンビア大学の神経科学者であるキンバリー・ノーブル氏が「貧困と脳の関係」を視覚化した画像を一般向けの科学雑誌としては世界最古のScientific Americanの中で公開しています。

This Is Your Brain on Poverty - Scientific American Blog Network
https://blogs.scientificamerican.com/sa-visual/this-is-your-brain-on-poverty/

貧困が脳に強い影響を与えることが明らかになっていますが、これはお金が脳の構造や機能に直接何かしらの影響を与えるわけではなく、貧困に伴う環境や遺伝的影響が合わさった影響が脳構造に出ている可能性が高いそうです。これは相関関係にあるのか因果関係にあるのかを解き明かすことが実質的に不可能なのではないかという問題でもあるのですが、ノーブル氏は現在利用可能なさまざまなツールを用いて「貧困と脳のつながり」を解き明かそうとしています。

「貧困と脳のつながり」をひもとく上で必要なのは、「貧困はどのように脳機能に影響を与えるのか?」を定義することです。そのためにノーブル氏はさまざまな社会経済的背景(SES)を持つ約150人の子どもを被験者として集め、脳の特定部分に関連する認知能力を評価するための標準的な心理テストを行いました。

心理テストの結果を示したのが以下のグラフで、横軸が被験者のSES(高いほど裕福な家庭であることを示す)、縦軸がテストのスコアを示しています。

グラフは左上から

「Language Skills(言語能力)」
「Perception of Spatial Relationships(空間的関係の認識)」
「Memory of Facts and Events(真実と出来事の記憶)」
「Cognitive Control(認知制御)」
「Short-Term Memory(短期記憶)」

を示しており、程度の違いこそあるものの、すべての認知能力で「貧しいほど認知能力が低い」という正の相関があることがわかります。


http://i.gzn.jp/img/2017/03/08/brain-on-poverty/s01.png


上記のグラフは「貧困はどのように脳機能に影響を与えるのか?」を明確に示していますが、「貧困が脳に物理的にどのような影響を与えるのか?」まではわかりません。そこで、ノーブル氏は約1100人の小児および青年の脳をスキャンし、SESに基づく差異を見いだそうとしました。

「貧困環境で育った子どもは脳の皮質の一部面積が減少している」ということを示したのが以下の図。

「皮質面積の減少」が見られる領域は帯状回・楔前部・下前頭回・上前頭回・下側頭回で、図では赤色に塗られています。


http://i.gzn.jp/img/2017/03/08/brain-on-poverty/s02.png


以下のグラフは横軸が家庭の年間収入、縦軸が脳の皮質面積を示したもの。

特に注目すべきなのは、年間収入が5万ドル(約570万円)以下の家庭の子どもは収入が低ければ低いほど皮質面積が指数関数的に縮小する傾向にあるという点。


http://i.gzn.jp/img/2017/03/08/brain-on-poverty/s03.png


最も低所得な貧困環境で育った子どもたちは、脳の発達において重度の損失を被っている、というわけです。
http://gigazine.net/news/20170308-brain-on-poverty/



▲△▽▼

知能指数が高ければ、社会がどんなに悪くなっても要領良く生きて豊かになると思われがちだ。

しかし、イギリスのジャーナリストであるマルコム・グラッドウェル氏は知能指数の高い人々を調べた結果、必ずしもそうとは限らないという結論に至っている。
神童と呼ばれていた子供が成人しても、凡人以下の貧困生活に落ちている人たちがいる。彼らは高度な知能を持ちながら、社会では落ちこぼれた。

その理由は、親の貧困を受け継いだり、学歴が得られなかったり、家庭環境が崩壊していたりして、知能を発揮できる環境が最初からなかったからだった。

虐げられ、家庭でも冷遇され、社会からも見捨てられた子供時代を送ると、知能を社会的な成功に向けようとする努力さえなくなってしまうのだ。

社会的な成功に意味を見出せなくなり、場合によっては社会から背を向けて生きるようにもなっていく。成功する素質はあっても、子供時代や自分を取り巻く社会環境が不幸なものであれば知能は生かせない。

インドでは10億人の人口があって、しばしば天才的な知能を持つ人たちが生まれる。しかし、その多くはがんじがらめのカースト制度や根の深い貧困によってその芽が潰されていく。

自分を取り巻く社会環境が悪すぎれば、成功しようという気持ちそのものが早い段階から台無しにされる。
http://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/04/20160414T1644580900.html




▲△▽▼

人類の知能指数(IQ)は向上し続けている。

これは現シカゴ大学のジェームズ・フリン氏が1980年代に気付いたもので「フリン効果」と呼ばれている。

「IQの平均は1947年から2002年の間に18上昇している」のである。

なぜ人類の知能は向上し続けているのか。それは遺伝子が変わったからではない。遺伝子はそんなに早く変化するようなことはない。変わったのは「環境」である。

人類は知能を向上させる環境を効率的に作り上げており、多くの人々がその知能向上の環境に接することができるようになっている。だから知能指数は向上し続けているのだ。


この知能指数の向上には、人々が抽象的概念をうまく扱えるようになったのと同時に、推論する能力も向上したことが挙げられている。
全世界で就学率が上がった結果、多くの人々が基本的な「読み・書き・計算」ができるようになった。

それによって、誰もが「情報」を自発的に受け取れるようになり、結果として抽象的概念を考える能力も推論する能力も向上することが可能になった。

この抽象概念と推論能力を力強く発達させるのが、他でもなく「情報」である。

人々は多種多様な情報に接することによって様々なことを考えるようになる。抽象概念と推論能力を深めることができるようになり、結果的に知能指数を向上させていく。

知能指数がさらに伸びていくことが約束されているのは、この高度情報化社会という「環境」は終わったのではなく、むしろこれから始まるからだ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/04/20180409T1636220900.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

88. 中川隆[-13020] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:33:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

貧困家庭の子供が成長してもお金を稼げない本当の理由
http://diamond.jp/articles/-/162585

2018.3.8 松原麻依:清談社  ダイヤモンド・オンライン

『文化資本』とは金銭以外の個人的資本を指す言葉で、経済資本とは異なる意味を持つ。そして貧困の連鎖や子どもの貧困といった問題とも無関係ではない。そんな文化資本の側面から見た、日本の格差の構造とは?(清談社 松原麻依)

裕福になれるかどうかを決める
「文化資本」とは何か


幼い頃から読書や音楽、美術などに親しむ環境に身を置いていれば、「文化資本」は自然と身に付く。そしてこの文化資本は、大人になってからの「金を稼ぐ能力」とも密接に結びついている

 文化資本とは、金銭以外の個人的資本を指す言葉だ。フランスの社会学者、ピエール・ブルデューは「身体化された文化資本」「客体化された文化資本」「制度化された文化資本」の3つの形態に分類している。

「身体化された文化資本」とは、さりげない仕草や立ちふるまいから知識・技能にいたるまで、文字通りその人の身体に染み付いているものを指す。「客体化された文化資本」は、美術品や書籍といった物として獲得されるもの、「制度化された文化資本」は学歴などのように、目には見えないが社会的に「意味がある」と認められているものをいう。
 
 そして、これらの文化資本は、「金を稼ぐ能力」とも密接に結びついている。理屈上は、金持ちでない家に生まれた子どもであっても、ハイレベルの文化資本を身につけられれば、自分でしっかりと稼ぐことができるということになる。
 
 しかし、現実は残酷である。ブルデューは文化資本も経済資本同様、「主に親から子へと『再生産」されていく』と述べている。つまり、お金や土地などの資産同様、文化資本も親から子へ受け継がれていく性質が色濃いというのだ。

 しかし、たとえば本ひとつをとっても大衆小説から古典文学まで様々なジャンルが存在する中、なにをもってして「文化資本」と言えるのか。ライター、コラムニストの北条かや氏は、「ブルデューが活躍した1990年代のフランスと現代の日本では、文化資本の内容もやや異なってくるのかもしれません。ただし、両者とも基本的には『より中央に近い文化』を価値の高い文化とみなす点では同じです。すなわち、この社会を支配している層が有する文化が、文化資本として評価されるわけです」と話す。

金があるだけではダメ
文化資本を持てる家庭環境とは

 日本の場合だと、マンガよりも古典文学、仲間内でしか分からない方言よりも就職活動などで論理的に共通語を話す能力、ジャンクフードを早食いする能力よりも綺麗なテーブルマナー…といった要素が「文化資本」となりえる。

「文化資本を有する人が社会的な階層を上げやすくなっていることは確かで、それがいわゆる経済格差や貧困の連鎖に結びついていると考えられます。たとえば、『教科書を座って読む』という行為も身体化された文化資本ですから、学校教育自体が中央の文化を基準にして作られているとも言えます」

 家に本棚があれば、それが読書習慣へとつながる。座って文字を読む行為そのものは学校教育と親和性が高く、学校教育で評価されれば高い学歴を得やすくなる。これらの要素はすべて文化資本であり、それぞれがリンクして増大していくことが分かる。

「文化的再生産」、つまり文化資本が親から子へと受け継がれていくというのは、どのような構造なのだろうか?

「文化的再生産の過程では、地域や学校のコミュニティなど様々な要素と関わりがあります。その中でも、最も大きな役割を果たすのは家庭環境でしょう。文化資本の有無は幼少期の経験の積み重ねによるところも大きく、いつでも本が読める環境を用意したり、コンサートや美術鑑賞の経験などを子に与えるかどうかは、親の嗜好や経済状況に左右されるのです」

 仮に宝くじで3億円が当たったとしても、それだけで高い文化資本を持てるとは限らない。幼少期に親から文化資本を持てるような経験を提供してもらえるかどうかが、非常に大きなカギを握っているのだ。

 また、北条氏は「その人が文化資本的なものに価値を見出すかどうかは、属しているコミュニティに影響を受けやすい」と話す。たとえば、日本なら地方のヤンキーよりも都市部の富裕層のほうが、文化資本的なものに価値を見出しやすいコミュニティといえそうだ。

学校では強者のはずのヤンキーが
社会では通用しない理由

「好きな小説について語り合って交友を深めるコミュニティもあれば、拳で語り合うコミュニティもある。しかし、日本の支配者層が支持するカルチャーを文化資本とするなら、いわゆるヤンキー文化的なものは文化資本の範疇には入りません。地域によってはヤンキーがスクールカーストの頂点になる学校もありますが、社会という枠組みで見たら、彼らのほうが不利な状況に陥りやすくなるのです。もちろんヤンキー的なコミュニティーに属する人たちの全てが不利だと言っているわけではなく、あくまで社会的地位の取得において不利になりやすい人が多くなるという意味です」

 机に座って勉強することを『ダサい』と捉えるコミュニティより、学校教育に馴染みのあるコミュニティの出身者が高い文化資本を有することになり、後者のほうが社会的階層を上げやすくなる。社会的階層が上がれば、当然ながら経済的にも有利になりやすい。

 本来、優等生もいればヤンキーもいるというのは当然のこと。個人の差異はあってしかるべきで、逆に優等生ばかりの社会などというものが成立するはずもない。だが、この差異は単なる「違い」では済まされない。なぜなら、北条氏が指摘するように、その先にある「貧困」が問題だからだ。

「社会学の階層調査では、年代を重ねるごとに親の地位が再生産されやすくなっていることが分かりました。『ブルーカラーの子どもが医者になる』というような事例が極端に少なくなっているわけです。経済が急成長している時期なら、社会全体で賃金も底上げされているため、子は親の稼ぎを上回りやすい。しかし、今の日本は完全にマイナス成長で、身一つで階層を上げていくことが難しくなっているのです。そうなると、親の階層が子の階層に直接影響するようになってくるわけです」

 こうして経済格差が固定化されれば、貧困の問題はより深刻になっていくという。

文化資本を考慮に入れれば
安直な「貧困自己責任論」には陥らない

 このように文化資本の「格差」などというと、地方のマイルドヤンキーよりも都市部に暮らす富裕層の文化のほうがエライ、と言っているように聞こえなくもない。「文化資本」の存在を認めることは、ある種の差別とも感じられるのではないか。

 しかし、北条氏は「文化資本の格差が存在しない前提で貧困問題を語ると、『自己責任論』に陥りやすくなる』と指摘する。

「会社で評価されるようなコミュニケーション能力、マナーや作法、お金の管理能力、机に長時間座っていられるような持久力、それらもすべて文化資本と言えます。どれも今の日本社会で有利となる要素ですが、一昼夜で身につけられるものではなく、ましてや経済的な支援のみで解決できる話でもありません。スタートラインの平等を信じることは、ある意味危険なことだと思います」

 たとえば子どもの貧困対策を考えた時、子ども食堂や無料塾など、目に見える支援を行えば万事解決なのか。それでも将来貧困に陥ったら、その子自身に問題があると言えるのか。あるいは、なけなしの給料を毎月、酒につぎ込んでしまう人がいたとしたら、それは100%、その人の「自己責任」なのか。

 文化資本の有無は、その人の優劣でもなければ、ましてや良し悪しでもない。ただ、文化資本を持っていない人が割を食うような社会システムが存在することは確かなようだ。育ってきたコミュニティの違いで不平等が生じているのなら、「文化資本」の側面から貧困を考えてみることは無駄ではないはずだ。


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89. 中川隆[-13019] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:33:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

貧困層が資産を持てない7つの理由とそれを克服する処方箋

世の中は恵まれている人ばかりではない。

知的能力が高くて論理的な思考ができていても、家庭が貧しすぎて学歴を得られなかった人もいるし、学業を途中で放棄せざるを得なかった人たちも数多く存在する。

それが将来的に自分の人生に不利な状況になってしまうことを分かっていても、貧困のために学歴を重ねられなかったという人もいるのである。

現代社会は学歴社会なので、学歴がないというのはそれだけで不利な立場に追いやられていく。

高度な仕事、あるいは正社員の地位の多くは高学歴の人たちのものであり、諸般の事情で学歴が得られなかった人は、それだけで就職の入口から排除されてしまう。そのため、学歴の欠如は貧困に直結しやすい傾向にある。

貧困層が貧困から逃れられないのは、学歴だけが問題なのではない。貧困の世界で生まれ、育ち、そこで生きてきた人たちの多くは「貧困思考」というものを持っている。

貧困思考というのは、貧困から抜け出すことができない思考法を指す。長く貧困で生きたことによって、それが貧困から抜け出せない思考に染まってしまうのである。具体的には、どんなものなのか。


浮かばれない人生の底には「貧困思考」がある

「貧困思考」の中で、最も危険なのは何か。それは「自暴自棄」であると言える。

貧困の中で暮らし、貧困に苦しめられ、貧困の中でもがいて抜け出せない地獄を味わい続けると、やがてその人の心は荒んでいき、その心の荒廃はひとつの傾向を示すようになる。それが自暴自棄だ。

希望を失い、失望を重ねたことによって、「もう自分なんかどうなってもいい」とすべてを投げ出してしまう。

自分に怒りを感じ、あきらめ、「もう何をしても無駄だ」と思って向上心をも捨て去り、流されて生き、まわりからの救済があっても「余計なことをするな」と拒絶する。

自暴自棄が自分の心に定着すると、もはや貧困から抜け出すどころではなくなってしまう。長く生きるということすらもできなくなってしまうのである。資産を形成するどころではないのは確かだ。

「貧困思考」は合理的思考の欠如をも含む。たとえば、いくつかの選択肢があった時、自分がどの選択肢を選べば利益を得られるのかを冷静に考えられない。あえて、選んではいけない方を選んだりする。

たとえば、意味もなく高額なものを買ったり、不必要なものに散財したりする人もいる。合理的に考えれば経済的に苦しい時こそ「貯める」という選択肢が必要なのだが、理由を付けて消費する。

それでいて、必要なところに金を回さないで、自業自得のように自分を追い詰める。こうした行き当たりばったりや衝動的な感情に振り回されて合理的な思考や決断をしないというのも貧困思考の特徴だ。

この衝動性は、ギャンブルに強い関心を持つことにも表れる。ギャンブルは勝てば大金を得られるのだが、一方で「勝つ確率が極度に低い」という見過ごせない一面がある。

勝つ確率が低いものに賭け続けていると、負けが込んですべてを失うのは目に見えている。しかし、貧困思考にとらわれていると、その最も重要な一面が見えないのである。

それだけではない……。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/12/20171210T1639280900.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

90. 中川隆[-13018] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:34:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

甘い希望など持つな。貧困層の子供はもう抜け出せない現実

政治家の子供たちは大抵が政治家になっている。なぜか。政治家は儲かるからである。

金持ちの子供たちも大抵が金持ちである。遊び狂って財産を散財するだけの息子たちもいるが、こういった息子たちは、金があるから散財できる。

また金持ちの家庭の子供たちは高学歴が普通だ。なぜなら、子供の教育に金を出す余裕もあれば、安心して学業に励める快適な環境もあるからだ。親のコネや人脈で有名大学に入るルートもある。

現に、ハーバード大学やオックスフォード大学は世界各国の権力者の子弟を受け入れている。おまけに大学卒業後も、仕事や役職が約束されている。

端的に言うと、エリートや金持ちや権力者の子供たちというのは、最初から社会的な地位が用意されており、貧困家庭にはない多くのメリットを享受できる。

アメリカでは親の所得が高いほど子供の成績が良いのが確認されているが、その理由は言うまでもなく教育に最適な環境を整備できるからである。

子供が将来、社会的に成功しやすいかどうかというのは、本人の努力が問われる以前に、親の収入も影響する。世の中は公平ではない。それは冷徹な事実である。


極貧の家庭は、常に何らかのトラブルに追われる

これは別に社会学者が統計を出さなくても、普通の人ですら日常を観察してしみじみと思う現象でもある。

収入のある家庭では、子供にいろんな習い事をさせることができる。塾にも行かせることができるし、家庭教師を呼ぶこともできる。

また、親が精神的余裕も経済的余裕もあるので、子供に目をかけやすい。家族の団欒を持てたり、一緒に旅行ができたり、一緒に勉強したり遊んだりすることができる。

もちろん、すべての富裕層がそんな理想的な家庭ばかりではなく、それぞれ複雑な事情を抱えているのも事実だ。何の悩みもない家庭はひとつもない。

しかし一般的な比較で言うと、総じて富裕層は子供に最適な環境を与えることができる。それが、子供の能力を伸ばすので、富裕層の子供に社会的能力の高い子供が多いのは別におかしなことでも何でもない。

では、極貧の家庭で育つ子供たちはどうなのか。彼らは富裕層の子供たちが持つメリットは何もないだけでなく、大きなマイナスをも抱えている。

極貧の家庭は、常に何らかのトラブルに追い込まれている状態であると言ってもいい。親はストレスにまみれ、家庭そのものが破綻していることもある。

経済問題はありとあらゆる問題を先鋭化させるのだ。今を生きていくだけで精一杯であり、子供の教育などはすべて後回しにされる。

習い事をさせる余裕もない。塾や家庭教師など、とんでもない話である。義務教育が終われば、あとは一刻も早く社会に出て金を稼いで欲しいと考える家庭も多い。

そのように口に出して言わなくても、子供たちは親の貧窮ぶりを見て育っているので、悠長に教育を受けるよりも、さっさと社会に出て稼ごうと考える。

環境的に、低学歴で社会に出るしかない。

そうすると結局はそれが仇になって、低収入の仕事に甘んじるしかなくなっていく。もちろん、彼らに人脈やコネがあろうはずがなく、折に触れて助けてくれる人もいない。


貧困家庭に生まれたことから、すべてが始まっている

富裕層の子供たちが多くの良き助言者を持っているのに比して、貧困層の子供たちは多くの悪い友人を持っている。だから、マイナスの方向に引っ張られやすい。

そして、低学歴を余儀なくされた子供たちには、条件の良い仕事はあまりない。

低学歴でもできる収入の良い仕事というのは、極度に体力を使う仕事であったり、極度に危険な仕事であったり、反社会的なものであったりすることが多い。

その仕事に就いていること自体がトラブルの元になり、やがては自分の人生がトラブルによって潰される。しかし、そこから逃れられない。

良い仕事に就きたいと思っても、現実には低収入の仕事しかなく、将来の展望は見えてこない。

貧困家庭に生まれたことから、すべてが始まっている。「経済格差が遺伝する」というのは、こういった現象から言われているものだ。

日本は2000年代に入ってから、極度に格差が広がる社会になった。この「労働者使い捨て時代」に成人して社会に出た人々は今は30代から40代に入ろうとしている。

2017年、厚生労働省は20年間の国民生活基礎調査の家計所得を分析した結果を出した。

これによると「世帯主が40歳代の世帯では、単独世帯やひとり親世帯の増加で総所得が300万円未満の低所得世帯の割合が増加した」と報告している。

今「生活はやや苦しい、大変苦しい」が合わせて62.4%にまで増えた。

将来の展望もなく、低収入を余儀なくされているわけだから、結婚が激減して少子化が加速しても当然だ。しかし、それでも非正規労働のまま結婚し、将来の安定のない中で子供を持つ人たちも、もちろんいる。

重要なのは、こういった貧困を余儀なくされている人たちを社会が救済できなければ、彼らの子供たちもまた貧困層から抜け出せなくなる可能性があるということだ。


貧困層の子供はもう抜け出せない現実を知るべき

「6人に1人の子供が貧困状態にある」とはよく言われるようになっているのだが、この子供たちが助からない。貧困の子供たちを貧困のまま固定化させる現象が日本で生まれている。

2017年9月17日、総務省は65歳以上の高齢者人口が総人口の27.7%になったと報告した。そして90歳以上も初の200万人台に入ったことも合わせて報告している。

少子化も急加速で進んでいるのだが、超高齢化も止まらない。だから人口動態が日本の致命傷になっていくのは、もう結論的に分かっている。

経済大国としての日本は外国に抜かれていき、日本人が豊かになるチャンスも減少していく。内需が消え、社会が萎縮し、イノベーションを生み出す力も衰え、ありつけるパイがどんどん小さくなっていく。

その中で、富の大部分を富裕層がごっそりと持っていき、残りを大勢の貧困層が奪い合うという醜悪な社会になっていく。

いよいよ、そういった社会が見えてきている。

政府も無力になる。財政赤字が膨れ上がり、高齢者を養うために社会保障費の増大に苦しむ政府に余裕などない。余裕がないから、私たちからもっと税金を取り立てて奪ってくる。

隣人が何かしてくれるだろうか。それも期待できない。格差社会は、激烈な競争が生み出したものだからだ。助け合うのではなく、競争し合って他人を蹴落とす。

では、競争に勝つのは誰か。

もちろん最初から恵まれた富裕層の子供たちである。社会はフェアではない。フェアではない競争社会では、最初から何も持たない不利な貧困の子供たちは助からないのだ。

現実を見れば、すでにそんな強烈な社会になっている。そして、この問題は完全に放置されている。

だから、金があるかないかできれいに分離する一種の身分社会になって、ピラミッドの底辺が底辺のまま抜け出せない社会が到来する。

今の社会に甘い希望など持ってはいけない。貧困層の子供はもう抜け出せない現実を見る必要がある。この現実に気付いて危機感を持たないと、すべての日本人が不幸になる。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/09/20170922T1712200900.html


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91. 中川隆[-13017] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:35:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

貧乏な家の子どもがお金持ちになれない本当の理由と「思考格差」の正体=午堂登紀雄
2017年9月3日
http://www.mag2.com/p/money/293416


子どもに貧困が連鎖する本当の原因は「親の子育て」にあります。「所得格差が教育格差を生み、貧困が連鎖していく」という説は、厳密には正確ではありません


「親の経済格差⇒子の教育格差⇒連鎖する貧困」はどこまで本当か

相関関係はあっても、因果関係はない

雑誌やネットのコラムなどで、「親の所得格差が子の教育格差を生み、貧困が連鎖する」という記事がたびたび取り上げられます。

確かに相関関係はあると思いますが、私は直接的な因果関係はないと考えています。

昨今ではすでに、高等教育を受ければいい会社に就職もできて安泰という図式は崩れつつありますし、奨学金制度があるので大学に進学できないというケースは稀でしょう(私自身、高校・大学には奨学金で進学し、15年かけて完済しました)。

貧困が連鎖する本当の原因は、親の子育てではないかと私は考えます。

それは、低所得の親の思考パターンと行動パターンが子に伝わるからです。

低所得の親が抱える「本当の問題」とは

そもそも、なぜ親は低所得なのか。それはたとえば、難しい課題に取り組もうとしない、新しい仕事に挑戦しようとしない、困難にもくじけず耐えようとしない、逆境を乗り越えて目標を達成しようとしない、勉強して能力を高めてより成長しようという意欲が低いために起こることではないでしょうか。

つまり、親自身が勉強することの価値を理解していないのです。親自身が「学ぶこと、努力することによってのみ自分を成長させることができるのだ」と認識していなければ、それを子どもに伝えることはできません。

たとえば「勉強しろ」「早く宿題済ませろ」などというのは教育でも何でもなく、単なる強制です。

大人でも会社で上司から「仕事しろ」「さっさと終わらせろ」などと言われたら気分は良くないでしょう。

そして、そういうマインドは当然、日常生活の親の振る舞い、そして子供にかける言葉にも違いを生じさせます。

「自分にはムリ」と思っている親の口から出る言葉は、「お前にはムリ」ではないでしょうか。

貧困は「親の思考と行動」によって連鎖する

じっくり考えるのを面倒くさがる親は、子どもが「それどういうこと?」と聞いてきても「知らない」「どうでもいいよ」で終わってしまうかもしれません。

家族でテレビを見ていて、事故のニュースが流れた時に発するセリフも「怖いねえ」くらい。

そんな親の言葉、態度、何かに取り組むときの姿勢を見ていれば、子どもも当然それを見習います。そうして親と同じような思考パターン、行動パターンが形成されます。

虐待されて育った子どもが親になったとき、また子に虐待するというケースがあるのもそのためで、子にどう接していいかわからない親に育てられれば、本人もやはり自分の子にどう接していいかわからず、結局親と同じことをしてしまいやすいのです。

つまり、親自身が低学歴・低所得となるような思考と行動をしているわけで、それが子どもに伝わっていることが「連鎖する貧困」の原因と言えるのです。


高所得な親の「思考と行動」は何が違う?

反対に、高所得な親の思考と行動はどうでしょうか。

彼らは積極的に学習する姿勢を持ち、難しい問題に果敢に挑戦したり、スキルアップのために日々研鑽してきたからこそ高所得になったと考えられます。

そういう親は、学ぶことの意義を認識していますから、子どもにもそのように伝えます。親自身も積極的に学び、努力する姿勢を持っていますから、子もそんな親の姿を見て育ちます。

親自身が「努力が大切だ」と思っているから、「やってみろよ。失敗したってまた頑張ればいいんだから」と子にも挑戦することの大切さを教えます。「お前にはムリ」ではなく「お前ならできる」というところでしょうか。

子どもが「それどういうこと?」と聞いてきたら、「それはね、これこれこういうことで、こういう理由があるからなんだよ」と答えるか、わからなければ「なんでだろうね、一緒に調べてみようか」と答えるでしょう。

事故のニュースをテレビで見たら「こういう事故に遭わないようにするには、どう行動したらいいかな?」というセリフを発するかもしれません。

そういう親の態度に毎日毎日、何年間も接して育てば、子どもも親と同じような思考パターンや行動パターンを受け継いでいきます。

そのため、「勉強しろ」などと直接言わなくても、日々の会話の中から、親の論理的な考え方や勉強することの大切さは子に伝わるものです。

だからなのか、高学歴の親の子どももまた高学歴になりやすいですし、東大に合格した学生のほとんどは、子どものころから一度も親に「勉強しろ」と言われたことがないそうです。

子どもの人生を左右する「親の思考格差」

さらに、高所得の親は部下や組織をマネジメントしている立場である人が多いと考えられますから、「どうすれば人は動くか?やる気になるか?」という人間のモチベーションに配慮する姿勢を持っているでしょうそういうスキルを発動すれば、子どもがやる気になるように促すこともできると言えます。

逆に低所得者は末端従業員であることが多く、人のモチベーションがどうこうより自分が不平不満を言っている立場でしょうから、人間心理に疎い可能性があります。それはもしかしたら、子どもの学習意欲や進学意欲の適切な形成を損なっているかもしれません。

ただしこれは高所得家庭でも起こり得ることですが、たとえば親があれこれ先回りしすぎたり、支配的に押し付けるような子育てをすれば、子は自分の頭で考える機会を奪われ、それが子の貧困化につがることがあります。

後半はうがった見方かもしれませんが、いずれにせよ貧困の連鎖を生んでいるのは、親の所得格差ではなく、それに伴う教育格差でもなく、「親の思考格差」なのです(なお、結果的には同じなので、冒頭でも直接的な因果関係はないと表現したわけです)。

「鳶が鷹を生む」現象

そしてもちろん、どの世界にも例外はあり、貧困世帯からでも偉大な人物が出てくることもあります。

親を反面教師にして努力し大成した人もいれば、逆に立派過ぎる親に反発してドロップアウトする人もいますが、それらはほんの一握り。珍しいからこそ、そうした人がテレビや書籍で取り上げられるのです。

では、そんな「一握り」に子どもが育つ条件とは何でしょうか?


子どもの論理的思考を鍛えよ

「ではどうすればいいのか?」ですが、私のひとつの提案は、子どもの義務教育を変えることです。

本来は親がすべきことであっても、強制することはできません。そこで親ができないなら、学校教育を変えるしかないというわけです。

具体的には、まず理系科目のウエイトを高くすることが挙げられます。理系科目は論理的思考の基礎となるからです。

私が知る限り、低所得者の多くは数学や物理などの理系科目が苦手です(もちろん全員ということではありません)。

それはつまり、論理的思考が苦手であることを意味します。だから感情や思いつきで判断したり、自分の行動がどういう結果を招くのかという想像もできない。

ただ、現状でも授業数はいっぱいなのに、今後英語やプログラミングの授業も入ってくるとなると、これ以上コマ数を増やすのも難しそうですが……。

子どもが「自分で考える」習慣の大切さ

もうひとつは、学校の中で、自分で考える習慣をつけるような授業の頻度を増やすこと。

現在の学校教育の多くは、教師が知識を伝え、児童生徒は受け取るのみであり、そこに「自分の頭で考える」「自分の意見・主張を持つ」「自分の考えを発表し、他者との違いを認め合う」という場はほとんどありません。また、テストでは問いを与えられ、最初から答えが存在していることばかりですから、自ら問いを発する、つまり課題を発見する機会にも乏しい。

国語にいたっては、たとえば小説の問題でも「こういうふうに捉えなさい」と感じ方まで強制されます。むろん正確に読む書く話す能力は重要なので、それを否定するわけではありません。

そういう基本は押さえつつ、でも「そういう意見や考えもあっていい」という多様性が認められる場を盛り込もうという意味です。

そもそも低所得者は、現状に疑問を持つことが少なく、一方で「こうすべき」「こうしてはいけない」という強固な固定観念に縛られ、自由な発想ができません。

言われたことしかできないとか、標準化された仕事はできるけど創意工夫して変えることが苦手な人は、思い込みが激しく多様性を認めない傾向があります。そのような柔軟性がないため、環境変化にも適応できず、所得は下がっていきます。

そしてそれを「しつけ」と称して子にも教えている可能性があり、だから親のそういう根拠のない常識や思い込みから解放させ、自由に発想させる場が必要です。

それにはたとえば「あなたはどう考えるの?」「僕はこう思う」「私はこう考える」という一人一人の個性を発揮させる授業、たとえば討論やディベート、グループ研究・発表会などが考えられます。

ただ、これも前述と同様、現状の授業枠の中でそこまでの時間が取れるかどうか難しいですが……。

変わるべきは親自身

「自分は貧しかったから、子どもには良い教育を与えてあげたい」という親の気持ちは当然だとしても、やはり変わらなければならないのは親自身ではないか。

親が変われば子に接する態度が変わり、子も親の影響を受けて変わるはず。

そして親の手を借りずとも「大学ではなく専門学校に行く」とか「日本の大学ではなく海外の大学に行く。そのため給付型のスカラシップが取れるよう頑張る」などと、自己責任において進路を決めるようになるかもしれません。


子どもの人生に、本当に大切なこと

「親の経済力によって大学進学率に差がつくのはおかしい」「親が貧しく進学させてあげられないから教育格差が生まれ、子も貧しくなる」と考える人は、奨学金の無償化や、公的な教育投資を増やすよう働きかけています。

しかしそれは「大学に行けばすべて解決する」と言っているようなもので、本質とは言えません。

むろん、義務教育をちょっと変えるくらいで解決できるテーマではないし、集団の中ではどうしても差ができてきます。だから完全に格差をなくすことは不可能。

とはいえ大学以前に、子どもが自分の頭でしっかり考えるような教育をすれば、「雇われるため」の進学だけではなく、たとえば高校生で起業家デビューとか、多様な人生の展開ができるようになる人が増えるのではないでしょうか。


そういえば、お金に関する知識は学校教育では習わないですよね。生きる上ではとっても大切なことなのに。同様に、子育てに関する知識も学校では習わない。論理的な思考方法やコミュニケーション技術も習わない。

ということは、学校では教わらないことの方が、実は人生においては重要なのかもしれません。


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92. 中川隆[-13016] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:37:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15310]

米調査で判明。本が多い家ほど子供の読解力はグイグイ上がる 2017.06.23

算数の文章題を解くにしても、論理的な文章を書くにしても、とかく必要となってくるのが国語の読解力。そんないつの時代にも求められる「読解力」を簡単につけられるかもしれない方法があるようです。

無料メルマガ『システマティックな「ま、いっか」家事術』の著者・真井花さんが詳細に記してくださっています。


500で2.2!!

さて、本日は家にあるだけでOK! なもののお話。

以前、算数ができないという親戚の子に算数を教えていました。そのころ繰り返し解説しても、ぜんっっぜんひとっつも出来るようにならなかったのが「文章題」でしたorz 

こっちが悪戦苦闘して解説しても、全く出来ない。ポカ〜〜〜〜ンなその子を見ていて感じたのは、「こりゃ、算数がモンダイなんじゃないな」ということでしたね。なんていうか、少しでも抽象的だと概念そのものが理解できないんですよね。たとえば、「連続した3つの整数」という問題設定だと、「連続した」「3つの」「整数」はそれぞれぼんやり解るけど、これがくっつくと、もう完全にお手上げ(T-T)。本当に「ニホンゴ、解ってる?(`ー´;」なレベルでした。算数以前の、抽象的な語彙力、論理的な文章の読解力自体がモンダイだったんです。

算数が苦手なコドモは多いものですが、その真の原因が国語力だとすると、これはこれでタイヘンです。国語力って一朝一夕には、アップしないですからね。

ところがね(0_0)

家にあるだけでコドモの国語力がアップするモノがあるんです。そう、それは、想像どおり「本」なんです。アメリカでの調査によると、子供の読解力は


•100冊あると、1.5学年上の子供と同レベル
•500冊あると、2.2学年上の子供と同レベル


なんだそうです。読解力が1.5学年分ってどうやって測ったのかビミョーに不明ですが(^Д^)、ま、それでも納得の結果ですよね。

その調査では、「家にあるだけじゃだめで、ちゃんと親が本を読む環境で…」と注意書き(?)がありましたけど、本を読まない親が100冊分500冊分のお金とスペースを本に投資するとは思えません。フツー、その親、読書が好きでしょ。

また、この本は子供用でなくても良く、オトナが読むレベルのものでOKのようです。そうなるとグッと選べる本の範囲が広がりますね。要は、
•本が身近にある環境で、周囲の大人が本を読んでいる

ということを本の所有冊数から検証したということでしょう。

逆に、この調査からすると、数百冊単位の本を持っている家庭は学習環境としてトップ数パーセントに入っている可能性が高いんじゃないでしょうか。1.5学年2.2学年上の学力を持つ子供って、当該学年ではトップ数パーセントに入るはずですからね。

文庫本が1冊500円くらいとして、100冊で5万…。夏休みに塾に行かせたら、あっという間に吹き飛ぶ金額ですよね。ですが、そのお金を使って優れた学習環境を整えられるわけですからずいぶんカンタンに感じますね。

家には本をたくさん置く。なかなか上げられない国語力や算数の文章題が出来るようになるための、悪くない投資だと思いますよ。
http://www.mag2.com/p/news/254190

中国農村の子どもの半数、知力発育に遅れ、米経済学者が指摘―米メディア
http://www.recordchina.co.jp/b190840-s0-c30.html
2017年9月18日(月) 8時0分

2017年9月16日、米ボイス・オブ・アメリカは、中国の農村の子どもの半数が知力発育に遅れが生じていると指摘している。

米スタンフォード大の経済学者スコット・ロジール氏は、中国の河南省鄭州市にあるアップル社のOEMメーカーを視察した際、工場が採用したがるのは学歴が高くなく、しかも知的能力の高くない人ばかりだということに気づいた。

ロジール氏は「知的能力の低い高校中退者が好まれていた」とし、「応募してきた人たちに知能指数(IQ)テストを行い、成績が目立って高い人は採用しない」と、工場の採用について明かした。工場の単純なライン作業は10分程度で仕事が覚えられ、知性の高い人はその単純な反復作業がすぐにいやになってしまうからだという。

だが中国では、そうした単純作業に向く労働力があふれている。10年の国勢調査によると、高校卒業者は労働力全体の24%でしかなく、トルコやブラジル、メキシコ、南アフリカ、インドネシアなどよりも低い水準にある。経済協力開発機構(OECD)加盟国全体で見ると、全労働力のうち高卒以上の学歴を持つ人は74%もいる。

中国は、都市部では高校進学率が93%に上る。米国よりも高い水準だが、農村では37%と著しく低い。ロジール氏は「中国の農村に特有の現象だが、問題は根深い」と話す。

中国の3歳児は50%近くが貧困状態の農村で生活し、約25%は都市部の出稼ぎ労働者の住む貧しい地区で暮らしている。ロジール氏によると、農村の教育問題は、学校や教科書の不足だけでなく、栄養不足や健康面も多く、就学前から問題の種子が植えつけられるという。

ロジール氏を中心とする研究グループが14年から行っている調査によると、陝西省や河北省、雲南省の農村に住む生後18〜30カ月児の45〜53%がIQ85よりも低く、正常な水準を下回るという。他の地域でも同様の結果が出ている。

また遺伝子や栄養の問題以外に、成長の過程で大脳に刺激を与えて知能的発達を促すような育児が行われていないことも深く影響しているという。ロジール氏は、今後4〜5億人もの中国人が治る見込みのない知的障害を抱えて生きていくことになることになるかもしれないと話している。


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93. 中川隆[-13057] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:38:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15352]

「経済格差は知能の格差」という現実から目を背けるな[橘玲の日々刻々]
http://diamond.jp/articles/-/114447


 2016年に国際社会を揺るがした最大の事件は、イギリスのEU離脱を決めた6月の国民投票だと思っていたら、11月のアメリカ大統領選でそれを上回る衝撃が起きました。もうひとつの驚きはAI(人工知能)で、ディープラーニングによってコンピュータがチェスだけでなく、より複雑な将棋や囲碁でプロを圧倒する時代がやってきました。

 じつはこのふたつの出来事は、「知識社会化」という同じコインの裏表です。

『ワイアード』創刊編集長のケヴィン・ケリーは、人間がテクロジーを開発しているのではなく、テクノロジーが人間を利用して自ら進化しているのだという「テクニウム(テクノロジー生態系)」を唱えました。テクノロジーはまるで生物のように、さまざまな知を吸収して未知の領域へと自己組織化していくのです。

 社会が高度に知識化すれば、それに適応するにはより高い知能・技能が求められます。――パソコンを使いこなせないと事務の仕事すらできない、というように。仕事に必要とされる知能のハードルが上がれば、必然的に多くの労働者が仕事を失うことになるでしょう。これが「格差社会」とか「中流の崩壊」と呼ばれる現象です。

 しかし失業したブルーワーカーは、なぜ自分が虐げられるのかがわかりません。その怒りを動員するのがポピュリストの政治家で、今年はフランスやイタリア、ドイツなどでも同じ光景を見ることになるでしょう。なぜなら、知能の格差が経済格差を生み、社会を混乱させるのは、(新興国との競争にさらされる所得の高い)先進国に共通の問題だからです。

 AIがその驚くべき能力を示しはじめたとき、多くのひとが、人間がロボットに支配されるSF的なディストピアを予感しました。しかしその後、すこし冷静になると、AIは人間に取って代わるものではなく、人間の知能を拡張するツールだといわれるようになりました。脳(身体)とコンピュータは仕組みが本質的に異なっているので、AIがどれほど学習しても、人間のような認知能力や共感能力を持つことはできないからです。

 しかしこの事実も、あまり明るい未来は見せてはくれません。

 AIが知的能力を大きく引き上げるとしても、それはすべてのひとに平等に恩恵を与えるわけではありません。そこからもっとも大きな利益を得るのが、高度で複雑なテクノロジーを効果的に使いこなす、知的能力の高いひとであることは間違いないからです。同様のことはビッグデータ(統計解析)などの分析手法や、ビットコイン(ブロックチェーン)、3Dプリンタ、VR(ヴァーチャル・リアリティ)のような新しい技術にもいえるでしょう。

 このようにしてテクノロジーの「進化」がますます知能の格差を広げ、それによって富は局在化し、経済格差が深刻になり、社会は分断されていきます。これは知識社会化がもたらす必然ですから、人類がこの運命を避けることは(おそらく)できないでしょう。

 だとすれば、私たちはどうすればいいのでしょうか。

 そのこたえを私は持ち合わせませんが、ひとつだけ確かなことがあります。それは、「経済格差は知能の格差」という現実から目を背けるなら、私たちはグロテスクな「陰謀論」の世界に落ちていく以外の未来はない、ということです。

参考:ケヴィン・ケリー『テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4622077531/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4622077531&linkCode=as2&tag=mailmagazin0asyuracom-22
 


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

94. 中川隆[-13056] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:40:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15352]

お金持ちが経験、お金がお金を呼ぶ「ゾーン」とは?
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170326-00000011-zuuonline-bus_all
ZUU online 3/26(日) 18:30配信

お金持ちは、お金を引き寄せる。
お金の性質を理解して、
お金がお金を呼ぶ「ゾーン」を体験せよ。

私は、よく「菅下さんはお金持ちでいいですね」と言われます。
自分の貯金額を明かしたことはないのですが、なぜかそう言われます。どうも、私は「お金持ち顔」なのだそうです。

(本記事は、菅下清廣氏の著書

『今こそ「お金の教養」を身につけなさい 稼ぎ、貯め、殖やす人の”37のルール”』(PHPビジネス新書)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8A%E3%81%93%E3%81%9D%E3%80%8C%E3%81%8A%E9%87%91%E3%81%AE%E6%95%99%E9%A4%8A%E3%80%8D%E3%82%92%E8%BA%AB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%95%E3%81%84-%E7%A8%BC%E3%81%8E%E3%80%81%E8%B2%AF%E3%82%81%E3%80%81%E6%AE%96%E3%82%84%E3%81%99%E4%BA%BA%E3%81%AE-37%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%AB-PHP%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%8F%85%E4%B8%8B/dp/4569812058


の中から一部を抜粋・編集しています)

でも中学生で父が事業に失敗したあのころ、私はしばらくお金に嫌われてしまいました。大学生の頃もアルバイトをしていましたが、貯金をするほどの余裕はなかった。必死にアルバイトをしていた私と、いまの「お金持ち顔」の私。何が違うのでしょう。

私は「貧乏」も「お金持ち」もどちらも経験しましたが、明らかに違うことがあります。それは「お金が向こうから寄ってくるかどうか」です。

お金を持つと、お金がお金を吸い寄せ、さらにお金が集まります。なぜか。お金持ちの人には、お金儲けの話が集まるからです。

「あの人はお金持ちだから、おそらくいい頭脳と人脈をもっているに違いない。相談にいってみよう」

と、なるわけです。有益な相談もたくさんありますから、結果としていい人脈やお金が集まってきます。

よく考えたら、当然のことです。貧乏な人にお金儲けの案件を持ち込んでも、無駄ですから、貧乏な人には、人も金も集まってきません。

■お金がお金を呼ぶ「ゾーン」とは?

お金持ちは、一定額以上貯まったら、あえて貯金をしようとはしていません。お金が向こうから寄ってきて、よほど浪費しなければ結果として貯金できてしまうからです。

私も年収10年分貯まった頃から、「お金を貯めよう」という意識は無くなりました。10年分の貯金があれば、人間は気前が良くなります。すると、さらにいい人が集まってきます。ですから、もともとお金持ちの家に生まれた人は、お金が集まりやすいはずなんです。それでもお金が貯まらないということは、頭が悪いか、素行が悪い。どちらかです。

話を戻します。お金がお金を呼びはじめると、お金は勝手に増えてくれます。たとえば、1千万円をローリスクで利息10%の商品に投資すると、年間100万円になります。月8万円程度のお小遣いがもらえれば、これまで食事などに使っていたお金を、別のことに投資できるようになります。

でもこれでは、「お金がお金を呼ぶ」と言うほどではないです。まだ、少し甘い。本当に「お金がお金を呼ぶ」スパイラルをつくるには、5千万円、1億円クラスのお金が必要です。

1億円あれば、たとえ5%の運用であっても、年間500万円のキャッシュフローが生まれる。30代くらいの方の年収が、そっくりそのままもらえちゃうわけです。

こうなると、お金がお金を呼ぶ「ゾーン」に入ります。あなたに関係のない話をしているのではありません。1億円だって、今は夢のように思えても、貯まります。その「はじめの一歩」が、この本でおすすめしている「恒産」なのです。

お金というのは不思議なもので、10万円しかない人には減る一方、100万円くらいなら横ばい、1000万円になるともう減りません。1億円貯まったら、もう楽勝ゾーン。

■金融リテラシーや投資頭脳は、お金の量に比例

貯蓄が一定のレベルを超えると、貯金の利子もつきますし、お金につながる情報も自然に寄ってきます。おそらくあなたの頭には、最低限の金融リテラシーも備わっているでしょう。さらに一定額になると、「もう少し増やしたい」と思いはじめるから、自然と投資や金融の勉強をはじめます。

お金もリテラシーもないときは、勉強も苦痛です。でもお金が増えると、さらに知識量が増え、お金も増える。すると勉強が楽しくなるから、やっぱりお金も増えます。

金融リテラシーや投資頭脳は、お金の量に比例します。資産家ほど、実はとても勉強家なのです。やっぱり、樽に小銭を貯めていてもダメなんです。

■ピンチをチャンスに変えた経験

お金持ちは、素直。
浅はかな失敗をしても、すぐに方向転換できるかどうか。

エニグモの田中さんは、ピンチをチャンスに変えました。ピンチを機に、自身の人生を上昇気流に乗せました。でもピンチの渦中にいる時には、どうすれば上昇できるのか、一体なんで下降しているのか、わからないことが多いものです。私もそうでした。

私は大和証券時代、常にトップセールスを誇っていました。しかし、当時の日本企業は成果主義を導入していませんでしたから、どんなに頑張っても月給以上はもらえません。私は、転職を考えました。

私の先輩で、相場能力の優れた方がいました。営業成績が極めて高く、良質なお客さんをたくさん持っていた先輩は、大和証券を辞め、小さな証券会社の外務員になりました。

外務員になると、取引手数料の一部が収入になるので、成績が上がるほど手取りも増えます。証券会社に机と電話を貸してもらい、「身ひとつ」で営業します。頑張りによっては、年収1億円も夢ではありません。

その先輩から、「菅下君、一緒にやろう」と誘われたのです。まだ新人でしたが、「君の相場観は抜群だし、営業もできる。2人でチームを組めば、自分がいないときにお客さんを見てもらうこともできるから都合がいい」と言われ、うかつにも「やってやろう」と思ってしまいました。22歳か、23歳のころです。

大和証券という一流の証券会社に入社したわけですから、その後の人生も、一流で終えられる可能性があります。でも小さな証券会社に行ったら、先はないかもしれない。でも若いから思慮が浅く、新しい会社に「来週からお世話になります」と挨拶に行ってしまったのです。先輩の隣に、席が用意されていました。

こんな私を救ってくれたのが、当時私が勤めていた大和証券の大阪営業部長です。「思い立ったたが吉日」と私は大和証券にさっさと辞表を提出し、過去にお世話になったこの部長に挨拶に行きました。大阪の営業を仕切っている方で、めちゃくちゃ偉い人です。

その部長に、「『大番』のギューちゃんを目指して、相場で勝負します」と言ったら、すごい剣幕で怒られました。彼のデスクは、100坪くらいのフロアの一番前にありました。500人の部下のデスクが整然と並び、営業マンたちは忙しく電話をしています。その前で、飛び上がるほど怒られました。500人、ほぼ全員が私を見ました。

「目先の金儲けに目をくらませて、人生を誤るとは何事だ。辞表を提出してしまったのなら、しょうがない。俺が口をきくから、世界最大の証券会社に行け」

その言葉が、ピンチをチャンスに変えました。当時、世界最大の証券会社だったメリルリンチが、日本に進出したばかりだったのです。先輩も「同じ相場師になるなら、ちっぽけな大阪の相場師より、世界の相場師になれ」と言ってくれました。

私がメリルリンチに入社できたのも、先輩が大和証券の国際部門経由で、推薦してくれたからです。メリルリンチの採用担当者は「大和証券の推薦なら採ります」と言ってくれました。

些細なことで、ピンチはチャンスに変わります。特に若いと、人生経験が少ないから、判断も浅い。判断を簡単に誤り、人生を下降させます。私を叱ってくれた部長は、私にとって人生の神様です。彼はのちに大和証券の副社長になり、私がメリルリンチに行ったあともずっと応援してくれました。

いい先輩や上司に恵まれた方は、是非大切にしてください。そして先輩の言葉には、素直に耳を傾けましょう。もしも、悪い遊びに誘う先輩に恵まれてしまったら、それは悪い運です。さっさと断ち切って、遊びや飲みの時間を勉強に充てましょう。それが、幸運を呼び込む秘訣です。


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95. 中川隆[-13055] koaQ7Jey 2018年6月13日 09:41:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15352]

年収5億円vs.186万円「新・階級社会」日本の真実 もはや「格差」ではなく「階級」だ
2018.02.05 週刊現代  :現代ビジネス
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html

頑張れば報われる――それは、昭和の牧歌的な風景だったのかもしれない。努力しても報われない、現代日本の残酷な現実。

入会金540万円のスポーツジム

仮にW氏としよう。40代男性。シンガポールに住む投資家である。元々、メーカー勤務のサラリーマンだったが、ベンチャー投資で財を成した。その後、資産は倍々ゲームで増えている。

そのW氏が語る。

「資産がいくらあるのか――正直、自分でも正確に把握できていないんですよ。数百億円といったところでしょうか。複数のプライベートバンカーに運用を任せていて、株や債券、外貨、資源、ゴールドなど、ありとあらゆる金融商品に分散投資をしています。

何かで損が出たとしても他が補ってくれますから、資産は安定的に増えていく。年収5億円?それくらいは優にありますかね」

豊かな人はより豊かになり、貧しい人はより貧しくなっていく――。トマ・ピケティ氏が『21世紀の資本』で喝破した現実は、現代の日本でも着実に進行している。
W氏が続ける。

「月に1000万円を使うって大変なんですよ。昔は酒とオンナで浪費しました。入会金100万円を払って、VIP向けの会員制交際クラブに入り、有名グループの女性アイドルを買ったこともあります。でも、実際に寝てみたら『こんなものか』という感想。

ワインは多少高いものを飲みますが、飲める量には限度がある。結局、酒もオンナもほどほどで、健康が一番という結論に辿り着きました。

ああ、時計は買いましたね。アラスカでオーロラを見た後、スイスに寄った際に。リシャール・ミルの1億円の時計を2本買った。一つは自分がつけて、もう一つは保存用です。これも希少性が高く、今では買った価格よりも高値で取り引きされているようです」


使っても使ってもカネが減らない。年収5億円以上の超富裕層が日本にも存在する。彼らに共通するのは、こんな特徴だ。

●限度額が著しく大きなブラックカードを持ち、現金は原則使わない。

●事故を起こすリスクを考え、自分で車は運転しない。移動はハイヤーかタクシーを利用する。

●会員制高級ジムに通って健康維持に励む。

資産数十億円、年収1億円の上場企業創業者A氏はこう話す。

「カネを使うのは、自己研鑽、情報収集、人脈形成のためですね。たとえば、一般の方がとても入会できない高額のスポーツジムで汗を流しています。

大手町にある超高級ホテル内にあるフィットネスクラブです。入会金は540万円、年会費64万8000円。ここには私のような経営者や投資家が集まり、体を鍛えると同時に情報交換の場になっています」

超富裕層はこういった場で、公になっていない情報をやり取りし、新しい儲けのタネを仕込んでいく。前出のW氏は、こんな豪快なカネの使い方をしたと言う。

「ミシュランの星付きの店はたいてい行きましたが、高くておいしいのは当たり前。

むしろ私は、安くておいしいものに目がありません。博多で一人前800円のもつ鍋が評判だったので、シンガポールからビジネスクラスに乗って食べに行ったこともあります。

800円のもつ鍋を食べるのに、30万円くらいかかりましたが、まあ、いくら使ってもおカネはなくなりませんので……」

7割近くが結婚していない

超富裕層の中には財布が膨れるのが嫌というだけの理由で、お釣りの小銭を全額募金箱に入れる人もいる。一方で、日々の生活もままならない「階級以下」の層=アンダークラスが登場している。

「格差社会」が社会問題として一般に認知されるようになったのは、この言葉が流行語大賞トップテンに選ばれた'06年のことだった。所得が低く、結婚もできない「非正規労働者」の存在が問題視された。

その後、格差は縮小するどころか、拡大し、今や絶対に超えられない壁=階級となった。早稲田大学人間科学学術院教授(社会学)の橋本健二氏は著書『新・日本の階級社会』で膨大なデータを用いて分析している。

「これまでの社会は、資本家階級があり、中間階級がいて、一番下に労働者階級がいると考えられてきました。労働者階級の給料は安いですが、正規労働者として身分は安定し、生活できるだけの所得はもらっていた。

ところが近年、その条件に当てはまらない非正規労働者、『階級以下』の存在(アンダークラス)が増えています。彼らはたしかに雇われて働き、賃金をもらっている労働者です。しかし、身分は不安定で、給料も安く抑えられている。

社会調査データから明らかになった、彼らの平均年収は186万円で、貧困率は38.7%。男性の未婚率は66.4%にも上ります。こうした人が929万人も存在し、就業人口の14.9%を占めているのです」

彼らの暮らしぶりはどのようなものか。東京都武蔵野市に住む日雇いバイト(45歳・男性)の話。

「20代の頃、人気グループのバックダンサーをやっていました。'90年代には小室哲哉さんと何度も仕事をしたことがありますよ。

でも年齢を重ねるごとにダンス関係の仕事は減っていき、安定した収入を得るために、洋服の包装・仕分け工場で非正規社員として働いたこともあります。

40歳を過ぎたとき、年下の上司と揉めて契約を更新されなくなりました。それ以来、イベント会場の設営などの日雇いバイトで収入を得ています。月の収入は15万円程度です。

中央線の駅から徒歩30分のボロアパートに住んでいます。家賃は6万5000円。夕食は100均で買ったカレールーを湯でとかしたもの。少し野菜も入れますが、この歳になると米は太るし、節約のために食べません。

2週間に一度、ラーメン屋に行って食べるのが唯一の贅沢です。移動は基本、人からもらった自転車。現場によっては交通費が支給されるので、それが浮くのがありがたい」


収入が低いと、異性と付き合うことにも困難を伴う。介護職に従事する男性(29歳)が物悲しいエピソードを披露する。

「学生時代から付き合っていた彼女がいたのですが、卒業後はデートをするにも交通費や食事代がかかり、厳しいものになりました。クリスマスはおカネのかかるイベントですから大変でしたね。

プレゼントは、彼女の革のブーツをピカピカに磨いてあげるというもの。おカネがないなりに相手を笑わせようとした精一杯の誠意だったのですが、彼女は笑うどころか引いていましたね。それが彼女との最後のクリスマスになりました」

一日頑張っても500円

愛知県在住の派遣労働者(26歳・男性)は、派遣労働の合間に小銭を稼ぐのに四苦八苦している。

「部品工場に派遣され、流れてくる部品を組み立てたり、運んだりします。時給900円で、一日7000円程度にはなる。

景気のいいときは月収12万〜13万円ですが、派遣先が見つからないときもあり、そういうときはネット上のニュース記事を書くバイトをしています。500文字書くと50円もらえる仕事。一日頑張ると、500円くらいにはなります」


一日頑張っても500円。かたや財布がかさばるから小銭はすべて募金箱に投げ入れ。たしかに「格差」という言葉では生ぬるい。

アンダークラスの多くに共通するのは、正規労働者になりたいという切実な願いだ。

だが、企業は一度採用するとなかなかクビを切れない正規社員の雇用を渋っている。
'03年の時点で「年収300万円時代」の到来を予見した経済アナリストの森永卓郎氏は、今後、階級間の断絶はさらに広がると指摘する。

「資本家階級と労働者階級は、同じ日本で暮らしているかもしれませんが、超富裕層にとって、自分たち以外の人は人間ですらない。彼らにとっては金儲けの道具でしかないのです。

資本家と労働者階級が対立するのが、マルクス経済学が読まれた時代の資本主義でした。しかし、今の階級社会では、両者の間に接点がないので、対立になりようがない」

これがアベノミクスの背後に隠れた「日本の不都合な真実」なのである。


「週刊現代」2018年2月10日号より
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html


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96. 中川隆[-13072] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:01:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15370]

“独立”する富裕層  - NHK クローズアップ現代 2014年4月22日(火)放送
〜アメリカ 深まる社会の分断〜

100万ドル以上の資産を持つアメリカの富裕層。

その富裕層が今、自治体の在り方を変えようとしています。


貧富の格差による社会の分断が進むアメリカ。

富裕層は税金が貧困層のためばかりに使われていると反発。
みずからが住む地区を周囲と切り離し、新たな自治体を作る動きを強めています。

女性
「高い税金を払っているのに、それに見合うサービスを受けていません。」

全米で富裕層の自治体は急増。
社会を2分する議論が起きています。

報道官
「反対派を押し切って、新たな市が誕生しました。」

オバマ大統領も危機感を強めています。

オバマ大統領
「アメリカの格差は拡大し、固定化している。」

一方、富裕層を失った自治体は税収が減り、公共サービスを削減。
貧困層が打撃を受けています。

男性
「公立病院の予算が削減されたので、私たち家族は困っています。」

深まる富裕層と貧困層の分断。
アメリカ社会はどこへ向かうのか。
最前線からの報告です。


“独立”する富裕層 税に対する不満


アメリカ南部、ジョージア州の議事堂。
先月(3月)新たな自治体の設立を求める法案を巡り、議論が交わされていました。
この法案を提出したのは会社経営者や弁護士など、富裕層を中心とした住民のグループです。

住民
「私たちが作る市の方が、税金をより有効に使える。
この法案の支持を求める。」

住民
「今の自治体は住民の方を向いていない。
私の会社をサポートしてくれる自治体を作りたい。」

一方、法案は富裕層の身勝手だと批判する声も上がりました。

反対派
「これは有色人種や貧困層を隔離するための意図的な行為だ。」


自治体の設立は地域住民の意思だとする富裕層の報告書にも、抗議が殺到しました。

反対派
「あなたが作る自治体に住みたい人はいない。
あなたはおかしい。
うその報告をしている。」

男性
「いや、おかしいのはあなただ。
私たちの報告は正しい。」

法案を提出したグループの代表、ウッドワースさんです。
経営コンサルタントの夫を持ち、自身もインテリア関係の会社を経営。
湖畔に邸宅を構えています。
自治体の設立に動いたきっかけは税金の使われ方への不満でした。
特に問題にしているのが警察官の配置です。

マリーケイ・ウッドワースさん
「私の家の近くでも麻薬取引や売春が行われるようになってきた。」

警察官は貧困層が多く住む治安の悪い地区にばかり回され、自分の地区はおざなりにされていると感じていたのです。

マリーケイ・ウッドワースさん
「自分たちが支払う税金に見合う行政サービスを受けているとは思えません。
私たちは社会を分断したいわけではありません。
ただこれまでの自治体に代わって、より自分たちに合った自治体を作りたいだけなのです。」


富裕層が作る自治体 衝撃の運営手法とは


富裕層の動きを後押ししているのが、同じジョージア州で大きな成功を収めた市の存在です。
州の北部にある人口9万4,000人のサンディ・スプリングス市です。
市民の平均年収は1,000万円近く。
医師や弁護士、会社経営者などが多く住む高級住宅地です。

市が誕生したのは2005年。
住民投票で94%の圧倒的賛成を得て、それまで属していたフルトン郡から分離したのです。
貧困層に多く配分されていた税金を取り戻そうという主張が、富裕層だけでなく中間層にも支持されたのです。

サンディ・スプリングス市 エバ・ガランボス初代市長
「私たちの税金はほかの場所で使われ、私たちのためには使われていませんでした。
1ドルの税金につき半分の50セントしか、サンディ・スプリングスに使われていなかったのです。」

住民グループ代表 オリバー・ポーターさん
「政府による所得の再分配には反対です。
人のお金を盗む行為だと思います。」

ジョージア州で50年ぶりに新たな市として誕生した、サンディ・スプリングス。
州の法律によってさまざまな財源が与えられました。
市民が支払う固定資産税の15%。
売上税の一部。
そして酒税や事業の登録料など、市の去年(2013年)の収入は、日本円にしておよそ90億円。
州で1、2を争う豊かな自治体が誕生したのです。

さらに富裕層は、市の運営にビジネスのノウハウを取り入れました。
警察と消防を除く、すべての業務を民間に委託。
同じ規模の市なら数百人は必要な職員の数を9人に抑え、徹底的なコストカットを進めました。

市民課や税務課。
道路や公園などを造る建設課。
さらに、市の裁判所の業務まで民間に委託しました。
裁判長は必要なときだけ時給100ドルで短期雇用します。


この結果、当初年間5,500万ドルと試算された市の運営費を、半分以下に抑えることに成功したのです。
コストカットによって生まれたお金は富裕層の要望によって、市民の安全を守るサービスに使われています。


女性職員
「事故発生、けが人なし。」

ここは24時間市民から通報を受け付ける、民間の緊急センターです。
市民の承諾を得て、住所や家族構成、持病の有無など、さまざまなデータが登録されています。

10秒以内に電話を取ることが義務づけられ、90秒で警察や消防が出動します。
市が市内全域に配置する警察官はおよそ150人。
早ければ2分で、現場に警察官が到着するといいます。
現在、市民の9割が公共サービスに満足と回答。
うわさを聞いた富裕層が、全米から相次いで流入し人口が増えています。

市民
「(この街が)好きかって?
大好きよ。
ニューヨークから移り住んで来たけど、ここにはすべてが揃っているわ。」

市民
「とても安全だと感じています。
サンディ・スプリングス市に住めて幸せです。」

今サンディ・スプリングス市の設立と運営のノウハウを知りたいと、全米各地から視察が相次いでいます。
そのほとんどが、税金の使われ方に不満を持つ富裕層だといいます。
サンディ・スプリングス市を手本に誕生した自治体は、ジョージア州ですでに5つ。
現在、フロリダ州、テキサス州カリフォルニア州などで30余りの自治体が、新たに誕生しようとしています。

サンディ・スプリングス市 ラスティ・ポール市長
「自治体は税金を当たり前だと思わないことです。
税金に見合うサービスを提供しなければ、市民はすぐ不満をため、税金を払わなくなります。
公共サービスの質を高めて、市民に税金を払う動機を与え続けるのです。」


“独立”する富裕層 アメリカ 深まる分断

このように富裕層が、自治体を作る動き、今後、全米に拡大していくと見られています。
一方で富裕層がいなくなった自治体は、歳入が減って、一部公共サービスの削減を始めています。
貧困層の暮らしに暗い影を落とし始めています。


富裕層を失った自治体 貧困層に打撃が


ジョージア州フルトン郡。
サンディ・スプリングス市の設立などによって、年間40億円余り税収が減りました。
南部のサウス・フルトン。
郡の中で最も貧しい地域で、住民の生活に大きな影響が出ています。

機械部品のセールスをする、アブラハム・ワトソンさんです。
今年(2014年)に入り、次々と公共サービスが打ち切りになっていると訴えています。

アブラハム・ワトソンさん
「臭いです。
ごみが腐り始めています。
ごみ収集車がめったに来なくなったので。」

3人の子どもを持つワトソンさん。
暮らしに余裕がない中、公共サービスの利用は欠かせません。
家の近くにある、フルトン郡が運営する図書館です。
子どもたちは放課後や週末、ここで読書や宿題をしてきました。
しかし今年の2月、突然開館時間が2時間以上短縮されました。

算数の勉強に使っているパソコンも、閉館時間が来れば強制的にシャットダウンされます。

子ども
「閉館につき使用不可。」

アブラハム・ワトソンさん
「閉館するから切ったんだ。」

閉館時間の変更は、事前に住民には知らされていませんでした。

アブラハム・ワトソンさん
「誰が閉館時間を決めているのか?」

職員
「議会で承認されたんですよ、予算が削減されたから。」

アブラハム・ワトソンさん
「郡の議会で?
予算の削減が理由?」

職員
「予算の削減。」

フルトン郡の一般会計です。
歳入が減少し続け、ついに2年前歳出が上回るようになり、公共サービスの削減が余儀なくされているのです。
図書館のほかに、郡が運営する公園の予算も削減されました。
20か所ある高齢者センターの食事代は、一部値上げになりました。

中でも深刻なのが、貧困層の治療を中心に行う公立病院の予算削減です。
2,500万ドル、日本円でおよそ26億円が削減されることになりました。
医師の数が減らされ、診察に支障が出るのではないかと不安が広がっています。

フルトン郡 ビル・エドワーズ議員
「郡の税収が少なくなれば、当然その範囲でやりくりしなければなりません。
やむをえずサービスをカットしているのです。
私は、フルトン郡の住民が状況を理解することを望んでいます。
さもなければ、フルトン郡の財政は破綻してしまいます。
これだけは、なんとしても防がなくてはなりません。」

ワトソンさんは公立病院の予算削減が、息子のキャメロン君に与える影響を心配しています。

アブラハム・ワトソンさん
「この子には右耳に障害があります。
耳がふさがった状態になっているのです。
息子の治療ができる専門医の数が削られてしまうから、予算の削減は本当に困ります。」

全米で貧富の格差の研究をしてきたコナー准教授です。
富裕層の自治体設立が格差の拡大に拍車をかけていると、警鐘を鳴らしています。

テキサス大学 公共社会学部 マイカン・コナー准教授
「アメリカ社会では分断が深まっています。
同じ地域の中でも少し離れただけで、全く違う社会が生まれています。
経済面でも教育面でも、機会の平等が失われているのです。
このまま富裕層の独立が続けば、公共サービスを支える人がいなくなってしまいます。
それを顧みず、社会の分断は進む一方です。」


“独立”する富裕層 アメリカ 深まる分断

ゲスト堤未果さん(ジャーナリスト)

●格差拡大し加速化する社会の分断 この動きをどう受け止める?

今まさにアメリカは、経済格差が完全に1%の持てる者とそれからそれ以外の持たざる者、完全に国を分断してしまっていると。
そういう状況になっています。
(分断されていると。これが法律の下に行われている。自治体を作るという動きはそうだったが?)
はい。
もともと合法的に市が独立するということはもちろん可能なんですけれども、サンディ・スプリングス市のように、統治機能まで含めて民営化してしまう、民間に委託して、そうするともう税金というものが全く意味が変わってきて、サービスをお金で買うという契約社会になっていくわけですね。
その分税が、税金が囲い込まれることになるので、不動産の価格は上がる、その周りの地域が税収が減って、荒廃していくと。
ですから全米の都市の中に、捨てられた居住区のようなものが、点々と今存在している状況になっております。

●富裕層やその周辺地域 実際に取材に行ってどうだったか?

サンディ・スプリングス市自体は、本当にお金持ちの社会主義国のような、天国のような、ぴかぴかですばらしい所だったんですけど、本当に目に見えないフェンスが建っていて。
(目に見えないフェンス?)
はい、フェンスで囲われている、合法的な特権地区というような形ですね。
先ほども言いましたように、税収がほかで減っていきますので、やはり仕事がなくなって、まず治安が悪くなるんですね。
そうすると犯罪率が高くなりますから、ますますフェンスは高くなっていく。
ここがやっぱり1番大きいです。
サンディ・スプリングス市のような所の近くにある都市で取材をしたときに、公共サービスの1つとして刑務所を維持できないから開放すると。
(刑務所を開放する?すると、どうなるのか?)
そうなると囚人が街に解放されて、たくさん普通に歩くようになるんですけれども、警察もまた公務員ですから、警察は失業中なわけです。
ですから非常に恐ろしいSFのような状況になっていて、片や、目に見えないフェンスの中の富裕層の地区は、非常にハイテクでハイセキュリティーの地区になっていると、すごくコントラストが激しかったですね。

●公共サービスの1つ 教育という点ではどうだったか?

アメリカは、教育予算が連邦と自治体と半分ずつ予算を出すんですけれども、サンディ・スプリングス市のような例えば富裕層の街というのは、公立の学校にやる必要がないので、公教育にお金を出すという概念がなくなっていくんですね。
そうしますと、公立の学校が切り捨てられていった州では、自治体では、貧困層の子どもの受け皿がなくなっていくので、教育難民、学校に行かれなくなった子どもたちが、もう全米各地の都市であふれているという、そこまで事態が進んでおります。
(先進国のアメリカで、そういうことがすでに起きている?)
そうですね。
ブッシュ政権、オバマ政権と続いた2大政権で公教育を解体して、教育ビジネスという民間サービスに委託するということを国が後押ししてやってきたんですね。
ですから公教育というのは、弱い立場の子どもたちを平等にすくい取るという社会的共通資本ですから、これが徐々に解体されているということです。

●フェンスを隔て、本当に互いが見えないのか?

そうですね。
これは本当に今、アメリカで起きていることというのは、1つの国の中に2つの違う国が存在しているような感じで、例えば日本で若年ホームレスは私たちの目に映らないというようなこといわれますけれども、フェンスの中の富裕層にとって、フェンスの外の荒廃した、捨てられた居住区の人たちは、やはり見えないわけですね。
全くお互い別の次元に住んでいるような、そんな状況になっています。
(別の次元?)
はい。

●格差是正のためにある公共サービス 富裕層がその義務を放棄するとどうなる?

公共ですとか税金ですとか、共同体とか、もっといってしまうと、もう国とは何かという、そのコンセプトが全く違うものになっていく。
お金を払って、その分のサービスをもらうという契約社会のようになっていくわけですよね。
ですから言ってみれば、お金がなくなったらそこでそのコミュニティーに、地区の中には恐らくいられなくなると、それが縁の切れ目のようになってしまう。
公共という概念があれば、弱い立場になったり、急に事故に遭って障害を負ってしまったり、高齢になってしまったりという、困った立場になったときは、税金を払っている分、国や自治体が守ってくれると、それが公共の概念なんですけれども、全くこれが対極にあるという、こちらは株式会社化された自治体であり、国家だということになっています。

●アメリカンドリーム 今は存在しないような状況?

80年代ぐらいまでは頑張れば報われるとか、努力すればチャンスをつかめば、マイノリティーでもスターになれる、そういうのがあったんですけれど、今、構造として1%が99%を切り捨てていく構造を、国の政策が後押しをしているために、アメリカンドリームが機能する構造自体が崩れていると。
そしてまた中流層が消滅していますから、ますます富める者はますます富む、それ以外の者は地盤沈下していくという、国の構造が全く変わってしまっているんですね。

●アメリカという国は今後どうなっていくのか?

今アメリカ国内にも2つの流れがありまして、オバマ大統領はブッシュ政権の政策を継承して、1%のための、より1%が大きくなっていくような政策の方向性を進めてはいるんですけれども、一方で、1対99%の分断はおかしいじゃないかと、失われたものをもう一度取り戻したいという声が、相当アメリカで大きくなっている。
これ今、どちらの流れがこの国を、未来を引っ張っていくかという、今ちょうど岐路にいるという。
(岐路とは、国を見つめ直す時期ということか?)
国とか共同体は何かということですね。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3488_all.html  


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97. 中川隆[-13071] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:05:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15370]

(2010.10.15) ジャーナリスト・堤 未果さんに聞く  貧困大国アメリカで今、起きていること
http://www.jacom.or.jp/archive03/tokusyu/2010/tokusyu101015-11261.html


 米国には1960年代から貧困層に食料交換クーポン券を配布する「フードスタンプ」という食料費補助政策があるほか、学校給食にも「無料―割引給食プログラム」がある。これらは同国が食料・農業を重視している姿勢を示すものとの受け止め方もある。

 しかし、

『ルポ貧困大国アメリカ』
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004314305/asyuracom-22/


で堤さんが描いたのは、市場原理の導入で食ビジネスに参入し利益を上げようとジャンクフードを大量に提供する巨大企業と、それによる肥満児童の急増、医療費の増大、そして格差拡大の悪循環という姿だった。

 堤さんは「いのち、暮らし、教育といった人間の根幹が『市場化』されたとき、一体どうなるのか、私たちは考えるべきです」と話す。市場原理主義の行き着く先、を聞いた。


「オバマを動かせ!」

◆ジャンクフードでも死にはしない!?


ジャーナリスト・堤 未果さんに ――最初にフードスタンプ制度の実態からお聞かせいただけますか。


 アメリカは今、史上最大に格差が広がってしまったこともありフードスタンプはまさに生命線です。新規申請者が一日2万人のペースで増えています。フードスタンプ自体はやはり考え方がキリスト教ベースいうこともあり、困っている人への福祉政策としてとても支持されています。

 しかし、この制度は人間にとって食とはどういう意味があるかを考えてのものではなく、ぎりぎりのところで飢え死にはさせないようにという政策です。予算もかなり絞られている。

 するとたとえば4人家族で1か月平均100ドル(約1万円)のフードスタンプをもらい、さあ1か月の食事をまかなおうと思ったとき、どうなるか。多くの家庭ではできるだけ安く、調味料も調理器具もいらない、栄養の知識がなくても作れて少量でお腹がいっぱいになるもの、ということになる。

 そうすると当然インスタント食品が中心になりますから、それを99セントストアで買ってくる。99セントストアや大手ディスカウントフードショップが潤っていくわけですが、そういった企業はたとえば、途上国で大量生産した安い農産物を原料に添加物などをたっぷり入れることで食品を安く市場に出している。

 99セントストアが出てきたときには、よかったね、これで貧しい人たちも人並みの食事ができるね、とアメリカでも言われたのを覚えています。しかし、実は安売りストアがたくさん出てくるということは食の質も文化もやせ細り、アメリカ国内の農業もやせ細っていくということ、結局、「食も職も」なくなってしまうことに気がつかなかった。

 安ければ安いほどいいんだという安価信奉が、90年代に起きた「外注革命」を加速させて、本当にひどいことになってしまったのだと思います。


◆学校給食も利益の標的


 なぜそうなったか? 一言でいえば、食も含めた子育て、医療、教育、雇用など国の根幹を、政府が責任を持つ代わりに市場化してしまったからです。

 かつて中流層がしっかりしていた「よきアメリカ」の時代には税金を社会保障として還元するという考え方を、当時はソ連に対抗するという政治的な意味からも大事にしていた。ところが、ソ連が崩壊しナンバーワンになったとき、世界で力を持つにはやはり大企業の国際力だと、法人税を下げ社会福祉を切り捨てた。

 大企業を大事にするのは市場化を進めることと同義語ですから、競争力をつけるために、たとえば食であればいちばん効率よく利益を出すために人件費とクォリティが削られる。

 ですからフードスタンプとは「食べ物は心と体をつくるとても大事なもので人間の基礎であり国にとっては財産なんだ」という考え方が前提にあっての政策ではなく、市場化の加速とともに「貧困肥満」を増大させています。いまアメリカ人の死因の第2位である「肥満」は医療費をどんどん押し上げ、年間6万人が死亡しています。フードスタンプはこうして間接的に社会問題を深刻化させる制度と化しているのです。

 食の市場化はフードスタンプだけでなく子どもたちの学校給食にもじわじわと浸透しています。

 アメリカでもかつて学校で自前で給食をつくっていたんです。ところが国が教育予算をどんどん削っていったためにできなくなった。経営が苦しい学校に、待ってましたとばかりにピザハットなどのファストフード企業が「ウチと契約すれば大量に安く給食を提供できますよ」と近づいてくる。それで給食のコストだけでなく質がどんどん低下しました。保育園まで契約していて離乳食が終わったばかりの子どもがピザを食べています。

 国民の心と体の健康は財産だという考え方を、国は放棄したということです。みなさん、どうぞご自由に。大企業さん、どうぞマーケットに、と。


◆教育でも民営化レース!?


 最近、アメリカ法務省は史上最悪の貧困率だと、とうとう発表しました。本当に貧困大国になったと政府が公式に認めたということですね。大人の失業率は実質20%ですから、フードスタンプをもらう人は史上最高の5000万人近くになっています。07年は約2800万人でしたから異常な増え方です。

 一方で大統領夫人、ミシェル・オバマは新しく肥満児対策のキャンペーンを始めました。栄養を考えた食事を、そして、もっと体を動かそうよ、と。

 ところが、今、アメリカは教育を市場化しています。日本ではあまり報道されていませんが、すべての自治体が赤字なので大統領は賞金をエサに州に教育民営化レースをさせている。

 これは、たとえばテストの点数を上げるため、関係ないムダな教科は廃止するといったまさに市場原理でアイデアを競争させ、これにそった政策を成立させた州が賞金を獲得するというレースです。赤字の公立学校をつぶしてできるだけ民営に変えていくという条件に教育現場は悲鳴をあげて反対していますが、不況のうえ国が教育予算をどんどん切っているために州に選択肢はなく、立て直すにはこの賞金を狙うしかない。

 そうするとどうなるか? 競争強化の中でテストに関係ない体育の授業が減らされる、もしくはなくなっていくわけですよ。運動しないからジャンクフードを食べている子どもたちの肥満をさらに深刻化させる。 そもそも政府が公教育予算を切り民営化を進めたところから、給食のジャンクフード化も子どもの肥満も始まっているのに、大統領夫人は食品業界にもっと栄養表示をして塩分を減らせとよびかけ、こどもたちにはもっと体を動かしましょうというキャンペーンをやる(笑)。こういう非常に矛盾したことが起きているわけです。

 アメリカはブレーキが壊れた市場原理主義が暴走しているのです。取材していて思うのは、市場化、日本で言う民営化ですが、これは一度やってしまうと勝手に動き出し、自分で加速していくということです。どこまでも効率良く、どこまでも利益を上げるように走り出し、終わりがありません。


◆「個」を「数」にする社会


 ――ルポ第二弾では「刑務所という名の巨大労働市場」というショッキングなレポートがありますが、まさに象徴ですね。

 「刑務所ビジネス」を取材した時、ああこれが市場原理主義による労働市場の最終完成形だ、と確信しました。国内の非正規労働力よりももっと安くと、最初はインドなどの労働者を使ったけれども、インドの労働者だって月800ドルかかる。そこでもっと安い時給はないかと考えたら、灯台もと暗し、刑務所にいる受刑者に働かせることだった、というわけです。

 ところでアメリカは「テロとの戦争」をしていますが、実際は敵がいるようで見えないわけですからテロリストの最後の1人がいなくなるまでずっと戦争状態にしておけるわけですね。国はそれを最優先するという名目で教育、労働、医療などは後回しにできる。

 これを後押しするのが「愛国者法」という法律ですが、テロリストから国民の安全を守るといいながら自国民を監視している。これは市場化を邪魔させないためです。市場化とは国民を分断することですから。それに対してものが言えないようにするためには、まずはテロの恐怖で押さえつけるということをやった。

 そして、それに対しておかしいと人々がまとまって声を上げた労働組合や協同組合的な組織は次々にターゲットになりました。

 つまり、仮想敵を作り恐怖で人々を押さえつけつつ、実は市場化を邪魔しないよう個人をバラバラにしておく政策も進めてきた。

 わかりやすい例をあげましょう。社会の治安を守るという名目で導入された「スリーストライク法」というのがあります。これは前科が何かに関わらず3度目の有罪で終身刑になるという法律。これで受刑者が増えるから刑務所の安い労働力も増え企業は競争力を保つ――。こういう構造になっているわけです。

 今、不穏な気配を感じさせたらそれだけでみんな捕まりかねない。警官にもノルマがあるから。ここまで市場原理主義の徹底です。

 「市場化」からわかることは、市場化の下では国民が名前や顔、それぞれの歴史、家族、夢、などを持った一人ひとりの「個」ではなくて、「数」になってしまうんですね。あるいは「消費者」とか「モノ」になる。

 これに対してヨーロッパなどでは国民を市民として見ている。市民は権利を持った個です。今、世界が2つに分かれていて、では日本はどっちを選ぶのか? という岐路に立っていると思います。

 そのとき「個」にとって非常に大事なファクターに「食」がある。だから農協のみなさんは、国の未来にとっての「食」の意味を投げかける存在として大きな使命をもっていらっしゃると思います。なぜなら、食とは一体国にとって何なのか、ということが今ほど強く問われた時代はなかったように思うからです。食やエネルギーを他国に依存してしまうと絶対的に弱い立場になります。

 だから自給率を上げることはあらゆる面で日本が対等になる必要不可欠なことだと思います。


◆結託強める政治と企業


 ――日本に先駆けたアメリカの政権交代には期待も高かったと思いますが。


 「チェンジ」をかかげた選挙は、本当に期待が高かったです。けれどあれから1年がたち、いまアメリカの市民で起きているのは「ムーブ・オバマ」の運動です。オバマが大統領になって全てうまくいくかと思ったらその逆で、貧困率は急上昇し戦争は拡大し教育はさらに競争が強化され、格差はついに史上最大になってしまった。

◆ ◆ ◆

 国民はハッと気がついたのです。素敵なリーダーに丸投げして終わりではなく、もっと1人ひとりが社会がどうなっているのかきちんと知って、リーダーを動かしていかなければならなかったことに。

 たとえばオバマ大統領誕生は「黒人がなった=誰でも大統領になれる時代が来た!」とどこでも言われましたが、本当は巨額の選挙資金が必要で、やはり大企業から献金を受けたほうが当選しやすくなるという構造になっていることを証明した選挙でした。

 今年の1月、アメリカの最高裁判所は選挙の献金に国境をなくすことを認めました。つまり、この先の選挙ではたとえばサウジアラビアの大金持ちが献金できて、アメリカの軍事でも農業政策でも動かせるのです。献金額の上限も撤廃しました。ますます企業が政治と結託し市民の声は届きにくくなる。ほとんど日本では報道されていませんが実に恐ろしいことです。

 これを国民が知っているのと知らないのとでは絶対未来は違ってくる。

 ムーブ・オバマとはオバマが大統領になったからもう大丈夫だということではなく、まず社会の構造をしっかり見よう、選挙のあともずっと監視し続ける、政治で何が起きているのか情報を自分でつかんでいくということです。これはアメリカの後を追うように政権交代をし、1年たって同じように「あれ? おかしいな」という声がそこかしこで上がっている日本の私たちにとっても他人事ではない話ですね。

 アメリカでは「気づき」が始まっています。やはり民主主義というのはメンテナンスがいるしくみだとつくづく思います。「食」を通して社会を見ると本当に沢山の箇所に矛盾がみえるからです。日本も今まさに、メンテナンスをするいい機会ではないかと思います。

オバマになれば「チェンジ」と思ったが……。(「9.11」追悼式、ホワイトハウスHPより)


PROFILE
つつみ・みか
東京都生まれ。ニューヨーク市立大学大学院国際関係論学科修士課程修了。国連婦人開発基金(UNIFEM)などを経て米国野村證券に勤務中に9.11同時多発テロに遭遇。以後ジャーナリストに。「ルポ・貧困大国アメリカ」(岩波新書)(08年日本エッセイストクラブ賞受賞等)。近く「アメリカ弱者革命」(新潮文庫)「もうひとつの核なき世界」(小学館)刊行予定。
http://www.jacom.or.jp/archive03/tokusyu/2010/tokusyu101015-11261.html


2013-07-08 【読書感想】(株)貧困大国アメリカ
http://fujipon.hatenadiary.com/entries/2013/07/08#p1


内容紹介

1% vs 99%の構図が世界に広がる中、本家本元のアメリカでは驚愕の事態が進行中。それは人々の食卓、街、政治、司法、メディア、人々の暮らしを、音もなくじわじわと蝕んでゆく。あらゆるものが巨大企業にのまれ、株式会社化が加速する世界、果たして国民は主権を取り戻せるのか!? 日本の近未来を予言する、大反響シリーズ待望の完結編。


堤未果さんの『貧困大陸アメリカ』シリーズの最新作(完結編だそうです)。

この新書を読んでいる途中で、「あーはいはい、そんな感じだよなー」と、特に驚くことすらなく、読み流している自分に気づき、愕然としました。

シリーズの第1作『貧困大陸アメリカ』を読んだときには、「自由の国」で行われている、「貧困ビジネス」の実態に僕も怒りまくっていたのです。

その後、さまざまな本を読み、今の「グローバル企業と政治の癒着」についての知識も得てきたのですが、なんというか、もう読んでいるだけで疲れてきた……というのもあって。

「企業の『帝国化』」と、「多くの市民、国民の健康や幸福よりも、一部の大企業の利益を優先する政治」は、ほとんど変わっていないどころか、「それが当然」のようにすら、思えてくるようになりました。


 SNAPとはアメリカ政府が低所得層や高齢者、障害者や失業者などに提供する食料支援プログラムだ。以前は「フードスタンプ」と呼ばれていたが、2008年10月にSNAPと名称を変えている。クレジットカードのような形のカードをSNAP提携店のレジで専用機械に通すと、その分が政府から支払われるしくみだ。

 受給額は州や受給者の収入によって異なるが、ニューヨーク州では、単身者で月収1180ドル(約11万8000円)以下なら月117ドル(約1万1700円分)支給される。全米の平均支給月額は132ドル(約1万3200円)。カードは全国23万1000店舗で使用できる。が、嗜好品は買えず、あくまでも食品のみという条件付きだ。

 SNAPは月に一度、夜中0時に支給されるため、毎月その日は夜中過ぎから全米各地の安売りスーパーに受給者があふれるという。

 ミシェルの買い物袋も、加工食品や炭酸飲料、缶詰やインスタント食品でいっぱいだった。


 アメリカの貧困率と失業者の数は、リーマンショック以来増え続けている。

 四人家族で年収2万3314ドル(約230万円)という、国の定める貧困ライン以下で暮らす国民は現在4600万人、うち1600万人が子どもだ。失業率は9.6%(2010年)だが、職探しをあきらめた潜在的失業者も加算すると実質20%という驚異的な数字となる。16歳から29歳までの若者の失業率を見ると、2000年の33%から45%に上昇、経済的に自立できず親と同居している若者は600万人だ。

 ミシェルのようなSNAP受給者は年々増加。2012年8月31日のUSDA(農務省)発表では、約4667万373人と過去最高に達した。1970年には国民の50人に1人だったのが、今では7人に1人がSNAPに依存していることになる。

 考えようによっては、「それでも、最低限の食べものを保障してくれるだけ、マシなんじゃない? 世界には飢えている国だってたくさんあるのだから」とも言えるのかもしれません。

 財政の厳しさから、生活保護を「水際作戦」などと極力行わないようにしている日本に比べて、アメリカ政府は、国民にSNAPを利用するようにアピールしているそうですし。

 ところが、このSNAP受給者が増えていく一方で、失業率は全然改善されない。

 SNAPでは、安くてカロリーが高いジャンクフードやジュースなどが選択されがちで、「この20年、アメリカでは子どもの2型糖尿病が激増している」そうです。

 貧困層ほど、偏った食事をしており、健康状態も悪化しやすい。
 こうして、負の連鎖が止まらなくなっているのです。


 なぜそんな制度が続いている、というか、いっそう拡大されていっているのか?


 ウォルマート広報部門担当で副社長のレスリー・ダックは、同社の収益におけるSNAPの重要性をこう協調した。

「SNAPからの収入は我が社にとって大変大きいですね。多くの州でSNAP利用者の2人に1人が、ウォルマートで食品を購入してくれています」

「公共のための科学センター(Center for Science in the Public Interest)」の調査によると、炭酸飲料や砂糖を含む清涼飲料水産業も、2010年度だけでSNAPによる売り上げが40億ドル(約4000億円)と、こちらもSNAPから巨額の利益が流れ込んでいる。

「ワーキングプア人口の拡大で、黙っていても利用者がどんどん増えるSNAPは、食品業界にとってドル箱になっているんです」

 要するに「まともな待遇の雇用を確保するよりも、低賃金の単純労働+SNAPでとりあえずなんとか食べられるくらいの保障はして生き延びさせ、その食費も大企業に吸収される」ようになっているのです。

 明らかに「国民の健康を害する」システムなのに、政府は、見てみぬふりをして、大企業の利益を優先しています。

 これって、間接的な「奴隷制度」じゃないのか?


 また、アメリカでは、GM(遺伝子組換え)作物が食生活に占める割合が、年々上昇しているそうです。


 だがGMは新しい技術であるため、長期にわたる環境や人体のへの影響を検証した実験結果が確立されていない。そのため安全性を巡る議論は今も続いており、現在世界では35ヵ国が、GM作物の輸入を規制または全面禁止措置中だ。

 アイオワ州の農業従事者のラッセル・リードは、多くのGM作物が耐性を持つ、「ラウンド・アップ」という商品名の除草剤についてこう語る。

「『ラウンドアップ』はGM種子最大手のモンサント社が販売する、世界で最も普及しているグリホサートを主成分とする除草剤です。モンサント社はこの除草剤を、これに耐性を持つGM種子と必ずセットで販売する。農家がこの除草剤を散布すると、GM種子以外の雑草だけが枯れるしくみです。

ですがヨーロッパではすでにこの除草剤は発がん性を有し、奇形、喘息発症を誘発するなど安全性に問題があるとして、禁止されています。

さらに1996年にはニューヨークで、2001年にはフランスで、それぞれ消費者団体や環境活動家たちが、モンサント社のこの除草剤に対し訴訟を起こしているのです」

 それは「土に落ちると無害化して土壌に残らない」というラウンドアップの「生分解性」ラベル表示が虚偽であるという内容だった。結果はどちらも裁判所がモンサント社側に「虚偽広告」の判決を下している。

 この「GM種子+特定の除草剤」の組み合わせは、一度使い始めると、ずっと続けざるをえなくなるのです。

 除草剤に耐性を持つGM種子じゃないと、生育できない土壌になってしまうので。
 そして、この種子を世界各国で使わせることによって、多国籍企業は各国の農業を「支配」していくのです。

 ちなみに、科学雑誌に、このGM種子の危険性を訴える研究論文を載せたりすると、壮絶な「あら探し」がはじまり、論文を書いた人は大バッシングを受けるのだとか。科学の世界も、企業の営利活動と無縁ではありません。

 研究にはお金がかかるし、お金を持っている企業の力で、科学者の「警告」はもみ消されてしまう。
 

 この本を読んでいると、アメリカの荒廃っぷりには愕然とします。

 義務教育レベルの学校が「自由競争」という名目で選別され、公立学校が無くなり、授業料が高い私立ばかりになる「ビジネス化」。

 民営化され、不採算部門が削られていくことによる公共サービスの劣化。


 2012年10月。
 メジャーリーグの試合で盛り上がるミシガン州デトロイト市のタイガース球場入り口では、こんなチラシが配られていた。


「注意! デトロイトには自己責任でお入りください」

・デトロイトは全米一暴力的な町です。

・デトロイトは全米一殺人件数の多い町です。

・デトロイト市警は人手不足です。

・人手不足のため12時間シフトで働かされ……警官は疲労困憊しています。

・デトロイト市警の賃金は全米最低ですが、市はさらに1割カットしようとしています。


 配布していたのは、現役のデトロイト市警官たちだ。

 デトロイトは2000年から2010年の10年間で、住民の4分の1が郊外や州外に逃げ出してしまった町だ。財政破綻による「歳出削減」で犯罪率が増えているにもかかわらず市は公共部門の切り捨てを実施、学校や消防署、警察などのサービスが次々に凍結されている。

 こうした傾向はミシガン州だけでなく、全米の自治体で起きている。2010年7月にはやはり財政難に陥ったオレゴン州の自治体が維持費が続かずに刑務所を閉鎖、すでに警官が大量解雇された町中に刑期を終えていない囚人があふれだし、恐怖のあまり州外に逃げる住民が急増した。

 これ、『リアル北斗の拳』の世界じゃないですか……

 また、大企業は「安い給料でも辞めずに働く労働力」として「囚人」に目をつけて、どんどん酷使してもいるのです。

 州によっては、囚人労働力確保のため、早期釈放を行わない制度まで導入されているのだとか。

 名目上は「犯罪者に厳罰を与える」ということで。

 一般社会で生活している人が、どんなに安い賃金でガマンするといっても、囚人にはかないません。

 なんかもう、「金のためなら、なんでもあり」すぎて、笑えてくるほどです。


 また、2005年には「完全民間経営自治体サンディ・スプリングス」が誕生したそうです。

 人口10万人のこの町は、富裕層で占められ、大手建設会社によって「運営」されています。

 この町ができた経緯を、著者はこんなふうに紹介しています。


 2005年8月、ハリケーン・カトリーナによって大きな水害に見舞われたジョージア州では、水没した地域住民のほとんどがアフリカ系アメリカ人の低所得層だったことから、アトランタ近郊に住む富裕層の不満が拡大していた。

 共和党の彼らは、「小さな政府」を信奉している層だ。

 なぜ自分たちの税金が、貧しい人たちの公共サービスに吸い取られなければいけないのか? ハリケーンで壊滅状態の被災地を、わざわざ莫大な予算をかけて復興させても、住民の多くは結局公共施設なしでは自活できないではないか。政府の介入の仕方はまるで社会主義だ。私たちはいったい、今後も延々と行政支援を必要とする人々のために、どれだけ貴重な税金を投じなければならないのか? 

 どうしても納得いかない彼らはこの件について住民投票を行い、やっとベストな解決策を打ち出した。

 郡を離れ、自分たちだけの自治体を好きなように作って独立すればいいのだ。

 僕の感覚では、「こういうのって、頭の中で考えることはあっても、堂々と主張するべきではない」ような気がするんですよ。

 助け合うのが「公共のルール」だろう、って。
 多くの日本人も、たぶんそうだと思います。

 ところが、このサンディ・スプリングスの人たちは「自分たちが巻き添えになるのはイヤだ」と声高に叫んだのです。

 そして、叫んでみたら、意外と、彼らを阻むものはいなかった。

 こういう「公共の意識のゆらぎ」は、たぶん、アメリカの一部の富裕層だけに起こっていることじゃないんですよね。
 
 
 それでも、オバマ大統領になって、少しはマシになったのではないか、オバマさんを議会が邪魔しなければ、もうちょっと社会保障制度が改善されたアメリカになるのではないか、と思っていたのです。

 でも、現実はほとんど変わっていなかった。


「2012年の選挙は、大きな政府に反発するティーパーティ運動の存在に焦点があてられ、赤と青に分断されるアメリカというイメージで描かれていましたね」

「赤と青に分断されたアメリカ、そのとおりです。国民の意識は保守対リベラルにひきつけられる。けれどそれはバーターで、今のアメリカ民主主義は「1%」によってすべてが買われているのです。司法、行政、立法、マスコミ……

「1%」は二大政党両方に投資し、どちらが勝っても元は取る。テレビの情報を信じる国民は、バックに巨大企業がいることなど夢にも思わずに、いまだに敵を間違えているのです」

みんなはオバマvsロムニーの「対決」だと思っていた。

ところが、内実は「1% vs 1%」であり、どちらが勝っても、大勢に影響はなかったのです。

大企業は、どちらが勝ってもいいように、あらかじめ両方に賭けていたのだから。


ああ、アメリカって酷い!と言いかけて、日本のことを思いだしてみると、自民党と民主党だって、似たようなものですよね。

民主党のなかには、もと自民党だった人がたくさんいて、政策もそんなに大差はありません。

政権交代というけれど、結局のところ「自民党的なもの」がずっと勝ち続けているだけ。


この新書の後半では、「1% vs 99%」という構図が何度も出てきます。

でも、『貧困大陸アメリカ』が世に出てから5年間のことを思いだしてみても、本当に、これが実情なのかどうか?

「1%が幸福を独占している(というか、本当にここまでやって、企業が金を儲けることが、「1%組」を幸福にしているのだろうか?と僕は疑問なのですが)」というけれど、残りの99%は、一枚岩じゃない。

99%のなかのごく一部の(これも「1%」くらいかもしれません)「意識高い系」が格差の是正を訴えている一方で、「99%」の大部分は、目の前の生活に追われ、「1%」を呪いながら、「意識高い系」の高偏差値な啓蒙運動にもついていけずにいるように思われます。


「毎日テレビ観て、ウォルマートで買ったジャンクフードを食べている生活で、それなりに幸せ」な人が、世の中の多数派なのではないか?

もしかしたら、「1%対99%」ではなくて、「1%対1%対98%」なのではないか?


著者は最後に「希望めいたこと」を書いておられるのですが、僕は、これからの日本もこうなっていくんだろうなあ、という絶望感がつのるばかりでした。

こんな世の中で、誰が幸せになっているのかねえ……
http://fujipon.hatenadiary.com/entries/2013/07/08#p1

アメリカ人の超絶肥満の原因は「フードスタンプ」で食べる ジャンクフード + コーラの糖分だった


【衝撃】 アメリカのデブが異次元すぎるwwwwww どうやったらここまで太れるんだよ
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4537088.html
https://matome.naver.jp/odai/2137949022098247301



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98. 中川隆[-13070] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:07:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15370]

新自由主義的(グローバリズム)
的な理想の税制は、法人税と所得税ゼロ、
税金は「人頭税」で賄うです。

もっとも、人頭税は
国民の反発が大きいため、
代わりに「法人税引き下げの代替財源」
として広まっていったのが、
「消費税」なのでございます。

国民はグローバリズム=デフレ化政策の下で、
社会保障を削られ、消費税を増税され、
企業の労働分配率を引き下げられ、
ひたすら貧困化していきます。

つまりは、人件費が下がっていくわけです。

「人件費が下がることは素晴らしいことだ。
何しろ、グローバルな国際競争力
(=価格競争力)が上がる」

という理屈で、我が国において、
ひたすら「グローバル株主」を利する
政策が行われてきました。

結果的に、若い世代の
所得が下がっていき、結婚が減り、
少子化が止まらない。

日本の少子化は、
政府のデフレ化政策の当然の結末なのです。

この現実に国民の多数派が
気が付かない限り、
我が国の国民の貧困化と少子化、
そして「小国化」は終わりません。
https://38news.jp/economy/11162


2018年5月14日【三橋貴明】忌まわしき税金

6月の骨太の方針2018閣議決定
を前に、「財政目標」関連の
攻防が激しくなってきました。

それにしても、なぜ財務省は
ここまで緊縮財政、特に
「消費税増税」に固執するのでしょうか。

グローバリズムの歴史を辿ると、
何となく理解できています。

グローバリズムあるいは
「新自由主義」の考え方では、税金は

「平等(※公正ではありません)
に徴収するべき」

となっています。

特に、個人や企業が稼いだ所得から
過剰に税金を徴収することを
「悪」とするのです。

というわけで、新自由主義的には税金は

「所得税ゼロ、法人税ゼロ、
税金は人頭税のみ」

が理想なのです。

三橋が東京都立大学
(現、首都大学東京)で経済学の
講義を受けていた際に、教授が、

「人頭税は最も効率が良く、
望ましい税制である」

と、力説していたのを記憶しています。

人頭税とは、文字通り
「一人頭いくら」で
徴収される税金です。

貧困層も超高所得者層も
「同額」の税金を徴収されるわけです。

当たり前ですが、人頭税には
「国内の所得格差是正」といった
概念は一切なく、多数派の
「非・高所得者層」の反発を
受けるため、導入は困難を極めます。

実際、典型的な新自由主義政権で
あったイギリスのサッチャー政権は、
居住する家族の頭数分だけ税金を課す
「コミュニティ・チャージ税」
なる人頭税を導入。

大邸宅に住む一人暮らしよりも、
狭いアパートに住む
子沢山家族の方が、高い税金を
支払う羽目になり、
サッチャー政権の支持率は急落。

退陣に追い込まれました。

というわけで、現代において
人頭税の導入は難しいのです。

だからこそ「消費税」なのではないか。

消費税の場合、何しろ人間は
消費しなければ生きていけないため、
誰もが逃れられません。

また、高所得者も低所得者も、
消費をするたびに「同じ税率」の
税金を徴収されるため、
まことに平等である、
という理屈なのです。

どれだけ所得が高い人でも、
お腹が一杯になれば
それ以上は食べられません。

金持ちが消費を増やす
とはいっても、限界があるのです。

というわけで、高所得者層の
消費性向(所得から消費に回す割合)は
低くなります。

逆に、低所得者層は所得の
ほとんどを消費に使わざるを得ないため、
消費性向は高まります。

つまりは、支払った消費税が
所得に占める割合を比較すると、
低所得者層の方が高所得者層よりも
高くなってしまうのです。

人頭税ほどではありませんが、
消費税もまた「逆累進性」が強い
ことは間違いありません。

消費税は、格差拡大型の税制です。

また、消費税には所得税や
法人税のように、景気を安定化させる
スタビライザー(安定化装置)の
機能がありません。

何しろ、失業者や赤字企業
であっても、消費税は
容赦なく徴収されます。

景気とは無関係に徴収可能
であるため、消費税の
「安定性」は抜群です。

財務省的には、そこ(安定財源)も
魅力なのかも知れません。

消費税は、弱者からも
容赦なく徴収される、
格差拡大型の税金なのです。

97年の消費税増税後の
デフレ環境下において、
日本国民の所得格差は拡大しました。

所得格差拡大に、消費税が
一役買っているのは間違いないと思います。

国民を豊かにする経世済民
という視点から見ると、
そもそも消費税は忌まわしき税金なのです。
https://38news.jp/economy/11933



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

99. 中川隆[-13069] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:14:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15370]

罪務省は不公平な税制を変革せよ 超高額所得者に手をつけろ!
https://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/3eeb431e201f8db28b85c0f85031a074
2018年05月06日 世相を斬る あいば達也


以下のレポートは、2016年時点のものだが、現在2018年も、それほどの相違がない。言いたいことは、五千万〜1億円以上の所得のある人への所得税率が低い、と云うだいじな話だ。税の公平性に関する問題と、国のかたちと云う二つの問題が、その国の税制に現れると考えて良いだろう。

現状の税制は、経済成長至上主義における税制であり、いわば、旧通産省的な立ち位置に立脚している。特に、第一次安倍内閣時代の2007年が高額所得者への税負担率がピークを迎えると同時に、その後下降線を描くことになる。それ以降、麻生内閣、民主党内閣、第二次安倍内閣と、あきれるレベルで、高額所得者の税負担率は下がり続けているのが現状だ。

現在の課税では、超高額所得者への課税は、あらゆる側面において、公平性を欠いた税制に守られ、超高額所得者は豚のように太るばかりになっている。まず、累進課税と云う税の体形を、単純累進課税方式から、超過累進税率方式に変えることで、大幅にトータルの税額を免除する方式をとり、超高額所得者を守っている。

その上、その所得税率も、ピークの1962年時点の75%だった所得税率を、1999年には、なんと37%まで引き下げた。さすがに酷すぎると思ったのか、その後、改正が加えられ、現在は所得税の最高税率は45%になっている。しかし、ピーク時の6割であり、且つ、超過累進税率方式なので、実際上の納税額は、ピーク時の半分以下になっているのが現状だ。

このような金持ち優遇な税制の流れは、自由主義経済とグローバル経済と云う二つの側面から、世界的流れに沿って変遷した事情は理解出来る。民間で出来ることは、すべて民営化していくのが正しいというイデオロギー的変革だったが、公共財を民営化する考えは、民営化された企業が“人”である場合には、公正公平に寄与する可能性はあるが、民営化と云うのは、“マネー”という正体不明の妖怪に、公共財を任せるのと同義的である。

ようするに、その国家が、際限なく自由な“マネー”の欲望に、身を任せるべきか、否かの問題である。国の税システムで再配分を行い、社会を維持するのか、“マネー”のなすがままにして、その市場原理によるトリクルダウンで、再配分機能を機動させるかと云う問題だ。市場原理主義的考えが、いかにも成立しそうな時期が、一時あったのは事実だが、“マネー”の正体は移ろうもので、国家が、身を委ねるほど信頼のおける“もの”ではなく、いつまでたっても太ることをやめない、自制心などの欠片もない俗物であることが証明されつつあるのが、現状だろう。

ピケティの21世紀の資本論の著作が、世界的に売れた原因も、自由主義経済、市場原理主義の行きすぎが、グローバル経済化するに従い、国家の喪失と人力では制御不能な世界を迎えることになると気づき始めた人々が多く現れた証左なのだろう。時を同じくする形で、国家統制のもとで、資本主義や市場原理主義を導入した「中国」と云う国のかたちが、独り勝ちする事実を目の当たりにした欧米社会は、それぞれの方法で、1%対99%の国民分断型社会構造に危機をつのらせている。

日本でも、経済成長至上主義に疑問を持つ人々も増えてはきているが、まだ多くの人は、経済成長こそが、すべてを解決してくれるという“呪文”に囚われ人になっているようだ。その国に、自然なかたちで、経済成長の糊代があるのであれば、その考えに問題はない。経済成長と云うものは、その国の人口、餓え具合、開拓すべき場所を有している状況において、自然発生的に起きるものであり、無理矢理、人工的に市場を作りだすことには限界があり、副作用が多い。

我が国で言えば、リニア新幹線、原発新設や再稼働、水道の民営化、オリンピックの誘致と再開発など、人工的に市場を作らざる得ない状況に陥っている。つまり、根本的な成長余力がないのに、何が何でも経済成長が生じそうなものに、無理やり投資を続け、“屋上屋を重ねる”ことでしか、マネーに市場を提供出来なくなった国が選択すべき税制ではなくなっているのが真実だろう。いまこそ、我が国は、国のあり方について、根本的に考えるべき時期が来ているのだと思う。

このような重要な転換期において、些末な憲法改正に血道を上げる政府が出現したことは、まさに、皮肉でしかない。経済成長≒善という考えは、心持ちはいいが、“屋上屋を重ねる”ことでしか市場を提供出来なくなった国なのだから、180度考えを変えていくしかないことに気づくべきなのだが、どうも同調者をメジャーにすることは困難なようだ。定常経済論を繰り広げている学者もいるが、現状は道半ばだ。将来の国のかたちを展望することで、本日のテーマである不公平税制についても、自ずと改革が行われるのは当然だ。


≪所得1億円超だと税負担率はこんなに低い、金持ち優遇の実態

 政府税制調査会の議論が、大詰めを迎えている。報道では配偶者控除の引き上げやビール税の一本化などが注目されているが、実は隠れた重要なテーマがある。それは日本の所得税が金持ち優遇になり過ぎているのではないかという点だ。

 日本の所得税は二つの大きな課題を抱えている。一つは、共働きやパートタイムなど働き方が多様化している今、働き方に影響を与えない税制にいかにリフォームしていくか。もう一つは、格差拡大を是正するために、いかに所得の再配分機能を回復していくか、である。金持ち優遇は後者に関連する。

■所得金額約1億円超から 税負担が軽くなる

 日本の所得税率は現在、5%〜45%まで7段階の累進税となっている。最高税率は45%で、4000万円以上の課税所得に適用される。よく誤解されがちだが、例えば、課税所得が5000万円の場合、丸々5000万円に45%が適用されるのではなく、4000万円を超える1000万円に対して45%の税率が適用される。いわゆる超過累進税率方式を採用している。


 グラフを見ていただきたい。これは分母に所得、分子に所得税を採って、所得税負担率を計算したものだ。対象者は確定申告を行った申告納税者だけで、企業が税金徴収を代行(源泉徴収)しているほとんどの会社員が含まれていないという限定つきながら、大きな傾向を示していると言える。

 グラフの実線が負担率。ひと目で分かるように2013年、2014年とも所得税負担率は1億円近辺をピークに、それ以上稼ぐと徐々に低下していき、100億円以上では13年で11.1%、14年で17%しか負担していない。それはなぜか。

 理由は簡単だ。給与所得や事業所得に対しては、最高税率45%の累進税が適用されるのに対して、株式等譲渡所得(いわゆるキャピタルゲイン)や配当、債券・預金の利子などの金融所得に対しては、20%の軽減税率が適用される「分離課税」となっているためだ。
 このため所得(グラフでは合計所得)に占めるキャピタルゲインの比率が高くなるほど、全体を平均すると負担率が低くなる。グラフの破線が所得に占めるキャピタルゲインの比率を示しているが、超高額所得者ほどキャピタルゲインの占める比率が高く、その結果、負担率が低くなっている。

 負担率が20%を下回る所得層がいるのは、金融所得に対する税率20%の内訳が、所得税15%+住民税5%となっており、国税庁の元データが所得税の15%のみを集計しているため。2013年分では、その15%をも下回る層が存在するのは、2013年末まで10%(所得税7%+住民税3%)と、軽減税率をさらに軽減した税率が適用されていたからだ。

■金融所得課税5%の引き上げで 約1兆円の税収増が見込める

 税率は負担能力に応じて徐々に高くなっていくのが公平だとすれば、この状態は明らかに公平の原則に反しているように見える。ただ、ことはそう単純ではない。

 理由は大きく言って二つある。一つはキャピタルゲインをどう考えるかという問題。株式に対する課税は毎年の含み益(株式を保有したままで利益が出ている状態)に課税されるわけではなく、売却して利益が実現したときに課税される。

 とすると、ある企業が小さいときに投資して、それが10年や20年後に大企業となった結果、売却して大きな利益を得た場合、その一時点だけを捉えて、給与所得並みの高い税率を課すのは公平と言えないという考え方もある。同じようなことは、ベンチャーの経営者が努力してビジネスを成功させて株式の上場にこぎつけ、保有株式を売却した際にも起こる。キャピタルゲインに対する税率を高くし過ぎると、リスクに挑戦する意欲をそぎ、経済全体の活力をそぐことにもなりかねないというわけだ。

 もう一点は、グローバル化し資本が自由に動ける現在の世界では、金融資産に対する投資は「逃げ足が速い」という性質を持っていること。キャピタルゲインに対する税率を上げた結果、投資資金が海外に逃げ出し、かえって税収が減るという可能性もある。実際、G5(英米仏独日)では、フランスを除く4ヵ国が、金融所得に対して分離課税制度を採用しており、事業所得などとは別の税率を適用している。

 一方、キャピタルゲインをもたらす企業の利益も、社会全体からもたれされたものだから、税負担率を上げて社会全体に還元すべきという考えも成り立つ。東京財団の森信茂樹上席研究員の試算によれば、いまの分離課税のままで、金融所得に対する税率を20%から25%に引き上げると、約1兆円の税収増になるという。これを原資に、貧困対策や教育に回すこともできる。社会全体が健康になり教育水準も上がれば、ひいては企業の利益にもプラスになるだろう。

 税の形は、どのような国の形を目指すのかということの具体的な表現であり、民主主義の基本中の基本のテーマである。確かに、金融所得一つをとっても、分離課税がよいのか、どの税率が公平なのかをピンポイントで判断するのは難しい。だが少なくとも専門家任せでなく、納税者である国民が、いまの所得税が金持ち優遇になっているという現状を知る、このことが議論のスタートになる。
≫(「週刊ダイヤモンド」編集委員 原 英次郎)
https://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/3eeb431e201f8db28b85c0f85031a074

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100. 中川隆[-13092] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:20:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15394]
【森永卓郎】年収150万円と3000万円で“税率”が同じ国【SAFETY JAPAN】2006 年 11 月 20 日


日本の税制が低所得者を保護している例として、よく次のようなことがいわれる。

1.日本の課税最低限は諸外国に比べて高い
2.日本の税制は累進課税になっている

 1は、分かりやすく言い換えると、「あなたは稼ぎが少ないから税金を払わなくてもいいですよ」という収入の水準(課税最低限)が、日本は諸外国よりも高く設定されている、という意味だ。

 2は、簡単に言えば、「貧乏人はあまり税金を払わなくてもいいが、金持ちになればなるほど高い比率で税金を払っている」という意味である。

 どちらも事実であれば、日本の税制は低所得者に優しい制度であるということになる。どうも、日本人の7割から8割が、こうした「神話」を信じているようだ。そのため、政治家からさえも、次のような議論が出てくる。

 「日本は低所得者に甘い税制になっており、お金がない人が税金を支払っていない。だから給与所得控除、配偶者控除、特定扶養控除などを廃止し、より低い所得の人からも税負担をさせるべきだ」

 だが、この二つとも、実は大きな誤りなのである。


【低収入でもしっかりと税金を徴収する国、日本】

 1の「日本の課税最低限は諸外国に比べて高い」という議論に対する反論は簡単だ。財務省のサイトにある「所得税・個人所得課税の負担額、実効税率、課税最低限に関する国際比較」というページを見ればいい。

 世帯構成別の国際比較がでているが、それを見れば一目瞭然だ。例えば、夫婦と子ども2人の4人家族の場合、所得税の課税最低額は、次のようになっている。

日本 325.0万円
イギリス 376.7万円
アメリカ 378.5万円
フランス 410.7万円
ドイツ 508.1万円

 つまり、ドイツでは年に508万円稼いでも所得税を払わなくていいが、日本では年に325万円を超える額を稼いでしまうと、所得税を払わなくてはならないということだ。

 家族構成が変わっても、日本の低さは変わらない。ほとんどの場合、日本の課税最低限は先進国のなかで、もっとも低いレベルなのである。稼ぎが少なくてもしっかりと税金をとられているのが日本という国なのである。


【社会保険料という「税金」も念頭に入れて計算するべき】

 では、2の「日本の税制は累進課税になっている」という議論はどうか。もしそれが本当ならば、課税最低限が低くても、低所得者にとっては優しい税制といえるはずだ。

 我が国の所得税、住民税の税率は次のようになっている。

 所得税の税率は、10%、20%、30%、37%の4段階。
 住民税は、5%、10%、13%の3段階。

 この二つの税の税率は、所得が増えるに従って増えていく。所得が低ければ、両方を足して15%や20%程度の税負担率で済むが、金持ちになると最高で50%になるという勘定だ。

 これだけを見れば、確かに累進課税になっているといえるかもしれない。

 だが、ちょっと待ってほしい。税負担はこれだけではないのだ。本当に支払わなければならない「税金」をすべてひっくるめてみると、実は「貧乏人のほうが税率が高い」という構図が浮かび上がってくるのである。

 それはどういうことか。

 その前に、わたしたちが負担している税金の種類を押さえておこう。税金は、所得税、住民税だけではない。消費税も払っているし、ガソリンには揮発油税がかかっている。家を持てば固定資産税がかかるし、車や不動産を買えば取得税が、温泉に入れば入湯税がかかる。

 だだ、税金の種類によっては生活習慣や趣味によってその額が大きく変わるので、ここでは所得や消費に直接かかわる税金だけを考えていくことにしよう。

 では、所得や消費に関わる税金で見落とされているものとは何か。それは、社会保険料である。つまり、健康保険や厚生年金などだ。

 「社会保険料は税金ではないだろう」と反論されるかもしれないが、事実上、税金と同様と考えてよい。理由は三つある。

 一つ目の理由は、社会保険料の使用目的である。かつて、政府の人間はこう言っていた。「あなたの払った保険料は、ほかの人に使われるのではありません。あなたに戻ってくるのです。だから保険なのです」。

 だが、そんなウソを信じている人は、もうほとんどいないだろう。社会保険料は本人のために積み立てられているのではない。現在の高齢者のために、右から徴収して左へ払うようになっているのである。少なくとも保険料でないことは明らかだ。

 二つ目の理由は徴収方法である。少なくとも、国民健康保険は、政府みずからが「国民健康保険税」と呼んでいるように、税金となんら変わりない。国民健康保険の納入通知は、世帯主に郵送されてくることからも分かるように、政府は明らかに税金として扱っている。

 三つ目の理由は財源である。年金の財源には、社会保険料と税負担が並立で当てられている。そして、基礎年金の税負担割合は、現在は3分の1だが、これを2分の1へと引き上げることも予定されている。

 こうなると、税金として徴収するのも、保険料として徴収するのも変わりない。その境界はかなり曖昧なのだ。

 給与所得者(サラリーマン)にとっては、どちらも給料から天引きで持っていかれるという面では同じなのである。

 前置きが長くなったが、ではその社会保険料の比率(税率)はどうなっているのか。

 実は、サラリーマンについては、すべて比率は一定とされている。だが、ここにからくりがある。厚生年金保険料は年収1000万円を超えると、超えた分についてはかからないのだ。つまり、年収が1000万円でも、2000万円でも、5000万円でも、1億円であっても、厚生年金保険料は同じ額なのだ(ただし、ボーナスと給料への配分比率によって若干の違いがある)。

 同様にして、健康保険料は年収1500万円を超えるとみな同じになってしまう。

 額が変わらないということは、要するに、所得が多ければ多いほど税率が下がっていくということだ。社会保険料という「税金」は、累進どころか、逆累進なのである。


【年収150万円と3000万円で、本当の税負担率を計算すると】

 さて、この社会保険料をプラスして、本当の意味での税負担率を計算してみよう。

 その前にはっきりさせておきたいのは、税金は所得に対して計るべきであるということだ。現に、法人税は、法人の「所得」に対して何パーセントかを算出している。

 ところが、サラリーマンの場合は、往々にして「収入」に対して計算されている。これでは、公平な比較はできない。

 収入と所得を混同している人も少なくないようなので説明しておくと、「所得」というのは、「収入(売上)」金額から「必要経費」を引いた金額である。仕事に必要な費用である必要経費をマイナスした、本当に自分のために使えるお金が所得というわけだ。サラリーマンにとって必要経費に当たるのは給与所得控除である。これは、財務省が「サラリーマンの必要経費の概算控除」という説明をしているので間違いない。

 こうした前提のもと、サラリーマンの実質的な税負担率を定義すると、次のような式で計算されることになる。

              税額
実質的税負担率 = ――――――――――
           収入−給与所得控除

 実際にわたしがこれで比較してみたところ、大変なことが分かった。なんと、我が国の現状では、年収150万円の世帯と、年収3000万円の世帯の税率が同じになっているのである。

 さらに今後、消費税が引き上げられるとどうなるか。

 消費税の税負担率は、低所得者層ほど高くなることはよく知られている。なぜなら、どんなに収入が低くても、生活する上で必要最低限のものは、お金を出して買わなくてはならないからである。そうしたものの金額は、大金持ちでも貧乏人でも、それほど大きく変わるわけではない。だから、分母が小さい低所得者ほど、税負担の比率は大きくなってくるというわけだ。

 つまりは、今後、消費税の負担が大きくなると、年収150万円の世帯のほうが、年収3000万円の世帯よりも、税負担率が大きくなってしまうわけである。


【「濡れ手で粟」のもうけに対する税率が低い不思議】

 世の中には、年収3000万円どころか、何億円、何十億円と稼いでいる人間がごろごろといる。そうした人たちの税金はどうなっているのか。

 そうした人たちの収入の内訳をみると、給与所得で地道に稼いでいるということはまずない。ホリエモンや村上世彰がいい例だろう。彼らは、株を安く買って高く売るという、株式譲渡益でたんまりと稼いだ。

 では、株式譲渡益の税率はいくらかというと、たったの10%なのである。対して、サラリーマンの税率は、企業負担分を含めると30%以上だ。

 事実、ホリエモンはわたしよりもずっと納税額が少ないらしいのだが、そんなことがあっていいのだろうか。彼は、わたしより1000倍も稼いでいるというのに。

 それどころか、人によっては、みなし取得価格という特例を使って、何百億、何千億稼いでも税金を一銭も払っていない人がいる。これでは、モラルも何もあったものではない。

 わたしの考えでは、やはり税制度は累進課税であるべきである。少なくとも、今のように、貧乏人が金持ちよりも税率が高くなるというのは、いくらなんでもおかしいではないか。そんな国はどこを探してもない。

 短期の株式取引益が10%という国もない。少なくとも、ホリエモンのように、粉飾決済をして株を譲渡してもうけた金は、課税率100%でいいではないか。そんな犯罪でもうけた利益は没収してもいいと思うのだ。現にフランスでは、悪質な短期取引に対する課税率は100%である。

 もちろん、一般投資家が身の丈の範囲で株取引をしているのは別の話である。それはきちんと保護するべきだろう。問題は、インサイダー情報を利用して、1秒で何億円を動かしているような人間である。

 安倍総理には、ぜひともそこを改めていただきたいのだが、どうもそんな気配はうかがえない。むしろ、逆の方向に進んでいるように見える。

 だが、ここでじっくりと税金の思想というものを考えてみようではないか。

 わたしは、税金というのは、汗水垂らして庶民が稼いだ分に対しては低く抑えるべきものだと考える。そして、濡れ手で粟をつかんだようなあぶく銭に対しては「楽をして金をもうけたのだから、多めに税金を払って国民のために協力してほしい」というものなのではないだろうか。
http://www.asyura2.com/0610/hasan48/msg/480.html


「日本の失われた10年」は昭和63年税制改革が原因である。
EU型付加価値税は誤りで累進所得税こそ経済を活性化させる

2004年10月27日 水曜日

◆資本主義で失業率改善と税収増と株高を同時達成する 吉越勝之
http://www.geocities.jp/mirai200107/p0.htm

「別表日米90年間の年度別最高税率と経済」を調べてみると、米国は1910年代
後半から、50−75%の高累進所得税制で空前の好景気に沸いたが、1925年に
最高所得税率を史上最低の25%へ所得規制緩和し、承継したフーバー大統領誕生の
1929年アメリカで株価大暴落が発生し世界大恐慌へ突入したのです。

その3年後、多数の米国会議員の努力で成立した失業率を大改善し、本格的経済成長
に大成功して世界恐慌を完全克服し世界大戦の膨大な戦費を賄った上、財政再建に大
成功して世界一の経済大国となり株価上昇の原点となった、最高所得税率63−92
%へ税制改革の「必要は発明の母で生まれたルーズベルト税制」を分析し理論化した
のが本論文であります。

日本は戦後一般消費税を拒否し、この米国型直接税制を採用し国税75%の高累進所
得税制で高度経済成長と財政健全化に大成功したのです。 
しかし米国の強力な競争相手に成長した我国が、税制への無理解から平成元年にEU
型間接税中心税制へ大転換し米国型経済成長税制を放棄してしまったのです。 

この日本の競争力低下に助けられクリントン米大統領はルーズベルト税制を参考に
「富裕層所得税の累進強化の税制改革」を断行し国家競争力を再強化し株高と景気回
復と財政再建の同時達成に大成功を納めたのであります。

逆に直接税の所得規制緩和税制改革のレーガン税制やブッシュ税制では所得再配分機
能の低下を招き、個人消費は停滞減少し本格的経済成長と財政再建の同時達成に必ず
失敗するのです。

さて成熟経済においてアメリカと同じく納税者番号制を伴った高累進所得税の増税で
所得を規制強化し、且つ消費税を廃止し個人消費を規制緩和すると、国民所得が大幅
増加して失業率低下と経済成長と大幅な税収増の同時達成という素晴らしい結果を得
られます。 

この立証に世界一の経済大国アメリカと第二位日本で何回も大成功した実例を紹介し、
このメカニズムを詳細に分析しています。


逆にEU型間接税制で、消費税を大増税して高度経済成長と失業率大改善の同時達成
に成功した成熟経済大国の成功実例は皆無であり、消費税率を上げて個人消費と設備
投資を規制強化すると、景気は後退し、失業率は悪化し税収は増加出来ません。

消費税制では何故そうなるかについて解説しています。さて日本独特の消費慣行から、
消費税制の副作用は極端に出るので日本が消費税制に固執し、財政赤字をタレ流せば
財政は破綻し莫大な国債が残り必ず政治責任が発生します。

この税制改革理論は国家を誠実で正直な国民を要素部分とする全体、つまりシステ
ムと考え国民性に合致する国家システムで強力に経済成長させる手法を解説します。

◆この税制改革理論の結論の要約 吉越勝之
http://www.geocities.jp/mirai200107/p0.html

◆日本は戦前、マスコミ、政治家、官僚の広めた理念観念を礼賛し、武力によって膨大
な国土を獲得したが、7000万人の国民を食べさせることも困難な大不況の国家だ
ったのです。

ところが敗戦の昭和20年に「焼け野原の国富ゼロ」から出発し、日本固有の領土に
大幅縮小されたのに、国民と国家の「考え方」と「システム」を、「個人消費を課税
規制せず、逆に増進しながら徴税する自由と平等思想の高累進所得課税の税制改革」
によって、平成元年までに、何と1億2000万人の国民が食うに困らない「無から
有の年平均74兆円の国富を生み出し43年間でビルが林立する、国富3190兆円
増(経済企画庁発表)の国民が豊かに暮らすことが出来る国家」へ成長したのです。

ところが平成元年、個人消費を課税規制して個人消費を抑圧しながら徴税する間接税
中心税制へ大転換し、更に所得税の累進を弱体化させた税制改革以降、年々国富は減
少し、平成14年度の国富は2799兆円と確定発表されており、この14年間の国
富は391兆円減であり、年平均減少額はマイナス28兆円にもなるのです。

本論文は「経済は神の手ではなく人間が営むもので、人間の手で改悪も改善もできる」
のであり、分析の結果、経済不況が継続している原因は「平成元年の税制改革」にあ
ったことを後述の通り明らかにし、その改善方法を解説したものです。

さて「個人消費+設備投資=国民所得」の経済公式があり、更に設備投資の増減は、
個人消費の増減に正比例する重要な性質がありますので、結果として市場経済では個
人消費の増減が国民所得の増減を決定する、基本的な経済構造になっているのです。

所得税は所得を課税して規制する税ですが、所得は他人から稼得する性格から、他人
の意志決定で増加するため、本人所得に直接課税規制する方法は、他人の意志決定を
課税抑圧することにならず、ましてや本人の意欲と意志と全く無関係に増加するので、
直接税制の大きな利点は、所得増加の意欲と意志の人間行動を全く規制抑圧しないと
いう点なのです。

しかも「個々の所得を累進課税で累進強化すればするほど、消費性向が低い高額所得
者から、より多い税収を得、国家の基本的機能の一つである所得再配分機能が自動的
に作動し、国家財政は、公務員や公共事業や建設事業従事者等の中低所得者層の人件
費に使用され、低所得者層ほど個人消費性向が極めて高い事実から、国家全体の消費
性向は徐々に高まり、個人消費が増加し、比例して設備投資も増加し、個人消費と設
備投資の両者から等価変換される国家全体の国民所得は急速に向上するのです。

所得税の累進構造は個別の所得を課税規制し、国家税収を増収しながら、経済成長を
達成する巧妙なシステムを内在していたのです。

それに引き換え、消費税は、本人の意欲と意志で増殖する個人消費を、本人に直接課
税し個人消費増加の意志決定を抑圧して税収を得る、抑圧的なシステムであり個人消
費の増加そのものが抑圧され、設備投資も減少し国民所得も税収も停滞後退するので
す。

個人消費過少、貯蓄過多の日本人の国民性において経済成長と財政再建を同時達成す
るには、平成元年の間接税制への大転換は経済的合理性と科学性が全く無い税制改革
だったのです。

◆さて企業の生産設備が超進化しロボットが大量生産を行っても、国民総生産(GNP)
としては全く計算されないのです。

それを人間が現実にカネを支払い「個人消費した瞬間」に始めて国民総生産として計
算され把握されるのです。

この経済の仕組みの深い意味と個人消費を維持増強する経済システムの重要性を、ま
ず理解しなければなりません。

つまり個人消費は人間しか行なわず、どんなに機械化し生産性を挙げても、機械は絶
対に個人消費は出来ず、更に当たり前のことですが、世界最強の企業や最強の国家と
いえども現実に個人消費をするのは人間であるという現実は変えられないのです。
しかも人間は所得が順調に増加しないと継続して良好な個人消費が絶対に出来ない原
則があるのです。

更に進化システム(後段詳述)の科学技術の発達によって民間の生産力増強は、需要
さえあれば民間自身で可能なので、「国家は科学技術振興策より国家自身の責務とし
て国内個人消費を規制抑圧せず、更に財政再建のため増税しながら国家全体の個人消
費の増強効果を発揮する税制改革の実現」こそが重要なのです。

イギリスの大経済学者ケインズの言うとおり、個人消費こそ国民所得を増加させ国民
全体に国富をもたらすからです。

結局、経済成長は「消費の意欲」を規制抑圧しない税制改革が大切であり、資本主義
の間接金融国家日本では、設備投資や個人消費の増加意欲が強ければ、「国内総生産
と総需要の増加」の不足資金を賄うために「自己資金を活用する以外に国内民間銀行
の貸出総残高の増加」という形で現実のおカネの増加流通をもたらし、市場経済は経
済成長していくのです。

逆に「個人消費意欲を課税で規制抑圧する税制改革をすると」それに応じて国内資金
が国内消費や国内設備投資へ向かわず、国民所得は減少後退し、退蔵預金として固定
化し滞留し、国内資金の回転率が悪化し、更に海外投資や不正資金の逃避などで海外
へ流出して、経済成長は停滞、後退するのです。

結局進化システムの資本主義経済においては「お客様は神様であり」言葉を変えると
「個人消費は神様仏様である」のです。

◆次に国家の全租税収入は国民所得の一定割合であり、租税負担率を引き上げることな
く租税収入を増やすには結局の所、個人消費+設備投資(=国民所得)を増やす以外、
つまり経済成長を実現する以外方法はないのです。

日本経済の最大の問題点は、国民所得が連年低下状況であり経済成長どころか後退し
ています。

本論文では一貫して税制は、人間行動の意欲と意志への自然な動機付け手段であり、
個人消費+設備投資=国民所得の増加方法つまり経済成長に役立つ、強力な税制改革
を述べています。

「戦前の戦陣訓と同じく」知識人が頭の中で考えた「公平、中立、簡素」などの「言
葉の羅列による強制」では、人間文化の発展である意欲と意志で成り立つ資本主義の
成長発展には何の意味も為さず、経済成長に全く役に立たず害悪ですらあるのです。

大事なことは一台1000万円するベンツを年間10台買える消費者5人と一台一万
円する自転車を年間一台しか買えない消費者95人が存在する、国民所得5億95万
円の国家よりも、一台1000万円するベンツを年間3台買える消費者3人と、一台
450万円するクラウンを年間2台買える消費者33人と、一台180万円するカロ
ーラを年間1台買える消費者62人と、一台一万円する自転車を年一台しか買えない
消費者が2人存在する国民所得4億9862万円の国家の方が国家全体の国民所得が
ほぼ同一でも、国産自動車メーカーのトヨタ自動車が存在しうる存立基盤が国家内に
確保されるのです。

結局のところ資本主義の成長発展は、貧富の格差があまり無く中流意識を持った豊か
な消費者を、如何に多数作るかの、国民所得の増殖創出システムと、配分システムが
全てなのです。

したがって、市場経済の資本主義における問題解決方法は「人間の過剰性の本能(150参照)」と「個人消費の進化システム性」と「国民の所得階層別の消費性向の
事実(別表P4参照)」について科学的に理解することが最重要なのです。

◆更に付け加えれば、購買力平価へ近づけなければならない為替相場において、わずか
年間15兆円の貿易収支の黒字を得るために国家が推し進めた継続的な輸出振興策に
よる「異常な円高により」国内企業の見かけ上の人件費を高騰させ、国内の設備投資
環境を破壊し資本収支を14−15兆円の赤字とした上、国内外企業の対等で平等な
価格競争を破壊し、外国企業との仕事の奪い合いで国内人件費比率の高い産業は常に
国際競争で敗退を続け、結果として死に物狂いの生き残り競争により「単価・粗利益
率が継続的に減少」し、結果として国家経済と産業構造に大きな痛手となっているの
です。

国家全体をコントロールしなければならない、指導層が「自由貿易体制」を隠れ蓑に、
国家経営層の重大な責務である「貿易収支の均衡と資本収支の均衡がもたらす管理の
利益」を放棄しているために、起きている膨大な悲劇なのです。

根本的に年間500兆円以上の国内個人消費+設備投資の継続的で持続的な増殖を図
り続けることが、日本国の産業構造をゆがめず、アメリカ経済にも中国経済にも頼ら
ず、日本独自の力で経済成長を継続できる、真に日本経済の利益になるのです。

さて現状の最悪な税制の組み合わせを、昭和天皇の崩御の一週間前の昭和63年12
月30日法律107号として、急いで「税制改革法」として強行成立し、その「第4
条第一項」に、今次の税制改革は、所得課税において税負担の公平の確保を図るため
の措置を講ずるとともに、税体系全体として税負担の公平を資するため、「所得課税
を軽減し」「消費に広く薄く負担を求め」「資産に対する負担を適正化すること」等
により、「国民が公平感を持って納税し得る税体系の構築を目指して行なわれるもの
とする」と強制規定し、この税制改革が国民の幸福や福祉の向上に役立つ明確な証拠
も理論も実績も無いのに、如何にも、もっともらしい目的らしきものを掲げ法文化し
てしまったのです。

結局この条文によって現状の日本経済は最悪の事態に追いこまれた上「日本の税制改
革の方向性が固定的、観念的な税制イデオロギーに支配される結果」をもたらし、強
い経済規模縮小作用と税収減少作用を持つ税制を強制的に経済の中核システムへ持ち
込み財政再建が絶対不可能なレベルにしてしまったのです。

これこそが昭和天皇が奇襲攻撃に強く反対していた太平洋戦争開始時の状況と全く同
一の「日本のマスコミや国会議員や官僚等による事実を確かめないまま思い込みによ
る最悪の選択」だったのです。

この不幸の生い立ちと、誤った目的意識を掲げた平成元年の消費税導入の税制改革が、
国民へ絶対に幸福をもたらすことは無いのです。

この状況を根本的に改善するためには、まずこの税制改革法第4条第一項の税制改革
の目的を、観念的、信念的な税制イデオロギーから解き放ち「税制改革は憲法で規定
している国民の幸福と福祉の向上と資本主義経済の発展に役立つものでなくてはなら
ない」と、当たり前の税制改革の原則的な目的を再確認する本来の方式へ大改正する
ことです。

目的錯誤の法律は百害あって一利なしであり、政策立案者がフリーハンドの思考で経
済成長と税収増加と国民の福祉向上へ同時に役に立つ政策立案の強い障害になるだけ
だからです。

そのためには、まず全く誤った結論を法律化した「現行税制改革法の抜本的な改正」
が必要です。

一国の総理大臣が自分の任期中は消費税増税をせず、広く議論すべきと宣言している、
今こそ「日本経済にとって何が経済成長にとって役立つ税制なのか、何を規制緩和し、
何を規制強化すべきか、」事実を元に真実を再研究する最後の機会になると思います。

◆さて「経済成長とは」「科学技術の無限の進歩」により、絶え間なく上昇する労働生
産性を吸収して、企業売上を増加させ「全国民へ働く職場を提供し、資本や税収や、
国民所得を増加させるため」「個人消費(第三者へ所得を与える利他的行為)の持つ
無限の増殖性」を活用した、進化システム技術を言うのです。

分かりやすく表現すれば「経済成長とは」後述の通り「人間文化そのものである個人
消費の種類、質、量の増殖」の貨幣経済的表現なのです。

さて日米の全税制史を調べると「1925年米国は所得獲得者や資産所有者を優遇す
ることが正しい選択であると誤解し、税制は景気に無関係であると誤解し、当時50
−73%の高累進所得税率で好景気を謳歌していたのに、25%へ低下させる所得規
制緩和策を実施し、4年間継続した結果、1929年に株価大暴落に続く世界大恐慌
を引き起こしたのです」。

3年後に最高所得税率を25%から、63−>92%へ劇的に累進増税し所得規制強
化し「米国はわずか6年間で失業率の悪化を食い止めバブル崩壊前の国家税収を完全
に回復して、本格的景気回復軌道」へ載せたのですが、アメリカでさえ本論文の理論
は認識されておらず、このアメリカの増税策はやむをえず取られた政策と評価され、
50年後の大規模財政赤字を発生させたレーガン政権や現在の子ブッシュ政権の大減
税政策の強行でも明らかです。

しかしレーガン政権後のクリントン政権が場当たり的で失敗すると批判された累進所
得税等の増税政策で、本分析通り見事に本格的経済成長と財政再建の同時達成に大成
功したのです。

これに対して日本の平成2年初からのバブル崩壊は税制を、最高所得税率75%―>
50%へ所得規制緩和し、更にアメリカが採用したことの無い3%のヨーロッパ型付
加価値消費税を導入し個人消費へ規制強化したことが「原因」であるのに、バブル崩
壊後、景気が完全回復していない、平成10年には、更に最高所得税率を50−>3
7%へ所得規制緩和し、更に消費税率を5%へ個人消費規制強化したため、日本経済
を更に最悪の経済環境へ陥れ、結果として、日本経済は泥沼に陥り国家税収は更に大
幅減少し「バブル崩壊後15年も経過してるのにバブル前の税収に遠く及ばず」若者
の実質的失業率は最悪化し、多くの結婚も出来ない経済状況の若者を多数出現させ、
合計特殊出生率はますます悪化し、年金問題はますます解決困難に向かい、日本民族
は消滅の未来に向かっているのです。

では、なぜ税制が、このように強力な効果を持つのかを分析し研究した結果が本論文
であり、「この税制改革理論の結論の要約」と「別表日米90年間の年度別税率と経
済」「日米と主要経済大国を基礎データーで比較」だけでも読み進めば「税制が持つ
誰でも理解できる簡単で巧妙な原理と、もたらされる結果のデーターに、びっくりさ
れると思います。」    

従来の税制改革論議は税制が経済的に中立を装うという市場経済を無視した、大きな
誤りがありますので、市場経済に適応した、資本主義の本家であるアメリカの税制と
日本の高度経済成長期の税制を基礎に、新たな税制改革理論を打ち立て、自立してア
メリカと対等に強力に経済競争しながら、地球環境へ適応して日本国が発展していく
「第二の明治維新」を目指さなければなりません。

◆さて人間の過剰性を悪く解釈するだけでは人間性の否定につながり、まして輸出に課
税せず内需と輸入のみを課税するのは「対等な平等競争ではなく」その国の不平等な
反人間的論理なのです。

国家コストを消費税という税制で、自国民に役立つために生産された内需商品と、輸
入商品のみに課税転嫁して自国民のみ負担させ、自国で作り出された輸出という自国
民に全く役立たない輸出商品の国家コストを、輸出相手国に全く負担させない偏った
性格を持つ間接税なのです。

それに比較して所得税等の直接税は国家コストである税金を、商品価格に転嫁して自
国民の作り出した価値にすべてに平等課税し、内需商品、輸出商品、輸入商品に関わ
らず、商品価格に混入させ国家コストを自国民へ役立つ内需、輸入商品については自
国民へ負担させ、他国民へ役立つ輸出商品については輸出相手国に負担させる「自国
民にも他国民にも国家コストを経済的に対等で平等に割り振り負担させる税制」なの
です。

さて競争の中で「何を規制すべきで何を規制すべきでないか判断するのが政治」なの
です。

本論では同時に、この税制改革理論で主張している政治改革が実現出来れば、「人間
の本質が進化と生き残り本能」である以上「地球環境をこれ以上悪化させず人類が生
き残る方向」へ、自動的に経済成長が進むことを確信しています。

なんとなれば膨大な数の人間は五感で生き残りの方向を本能的に判断するセンサーを、
動物として保持しているからであります。

現に経済成長につれ膨大な数の国民は医療、環境保護、社会福祉、エネルギーなどへ
の関心が高っていることをご理解頂けると思います。

◆さて成熟経済では、なぜ個人消費規制緩和の消費税廃止や、所得規制強化の直接税の
累進増税で強力な経済成長を達成し、経済問題を根本的に解決できるのでしょうか。

(任意行動)少数ですが、自ら所得獲得額の調整ができる企業経営に携わる人たちや、
寄付を多額にする利他的意識の強い人たちかいます。
所得が多いと税を多額に納付しなければならず過剰に所得を取りすぎるのを控える行
動が生じます。
これが「直接税の所得規制のインセンティブ(動機付け)効果」なのです。

これは強力なオスライオンでも満腹になったら順位の低いライオンにエサを譲る「畜
生でさえ遵守している大自然の掟である自然界の無意識の利他的ルール」と同一なの
です。

これによって力の弱いライオンや他の動物も生き残り自然は豊かに繁栄できるのです。
逆に人間社会の強者の所得独占行為は、大自然のルールでは極めて不自然な行為なの
です。

結局その人が満腹で放棄した所得は「任意の自由意志で中低所得者への所得配分」さ
れ、より所得の低い人が生き残り、新たな個人消費が発生する経済の無限連鎖が確立
し、これによって消費性向の高い中低所得者から、更に多くの所得の原資となる個人
消費の自己増殖が得られ、等価変換される国民所得の向上に寄与し、強者は更に所得
獲得チャンスが増加し、且つ中低所得者が生き残れて増殖できるので、将来中低所得
者から優れた人材を突然変異と競争で得られる機会が増加し社会を進化発展させる共
存共栄の利益を得るのです。

つまりライオン(高額所得者の所得)を増やすには下層の草食動物、更に下層の植物
層(個人消費)を増やさなくては、ライオン自身増殖できないのです。

(強制行動)直接税の税率が高くても、自分で所得や資産を全て獲得したい人は多額
の税を支払うことなり消費性向の低い高額所得者から得た税収は国家によって公務員
の給与や、公共事業を通じて、ほぼ全額中低所得者層に配分されることとなります。
これが「直接税の強制的な中低所得者への所得配分のシステム効果」なのです。
これを適正担保するため「納税者番号制はアメリカと同じく絶対に必要」なのです。

(結果)個人消費は強力な自己増殖性を発揮する進化システムであり消費税での課税
強化は悪影響が生じますが、直接税は全く個人消費を課税規制しないので、大幅増税
しても進化システム効果は自然に充分に発揮されます。

更に中低所得者の消費性向はきわめて高く、常に上の階層の消費を目指し個人消費の
増殖能力も高いので、任意や強制により中低所得者へ配分された所得は、結果として
中低所得者の個人消費を通じ国家全体の消費性向を押し上げ、次の所得の源泉となる
個人消費が活発になり「設備投資を伴った本格的景気回復」が達成されるのです。

つまり所得税は個人消費と貯蓄への所得の使い道に平等に課税する結果をもたらし、
消費税は所得の使い道のうち個人消費のみを課税し、貯蓄を非課税にするため個人消
費を最小限にして貯蓄へより多く回す、不自然な経済行動を取らせてしまうのです。

つまり所得税の他に消費税を導入するということは結果として個人消費に二重に課税
する結果になり個人消費への規制抑圧になって国民所得と経済成長が停滞します。

所得税は消費税と異なり、個人消費を直接課税抑圧せず、所得の使い道である個人消
費と貯蓄へ不平等競争条件も持ち込まず、更に販売現場へ販売抑制効果も持ち込まず、
更に高所得者層と中低所得者層の消費性向の違いを活用し、所得配分機能を持つ国家
を通じて高額所得者からの税収をより消費性向の高い中低所得者へ配分し国家全体の
消費性向を引き上げる強力なシステム効果を発揮します。

更に「所得税累進増税は所得の大幅増加をもたらし且つ所得の増加は税収の増加をも
たらす」ので「国家と国民の目的は同一」になり、国民所得を増加させると国民が喜
ぶ上、国家も税収増となるので、政治家と官僚は国民所得の向上つまり経済成長に本
気に取り組めるのです。

これも直接税のインセンティブ(動機付け)効果といいます。
これが「直接税の進化システム効果とシステム効果とインセンティブ(動機付け)効
果」の三位一体の効果なのです。

つまり直接税は税率を高くすればするほど、国民所得が向上し景気が良くなる上、税
収がドンドン増える便利な税金だったのです。

アメリカが世界大恐慌後の50年以上にわたり採用した高累進税制こそ、アメリカ資
本主義の基礎をしっかりと発展進化確立した税制なのです。

http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/454.html

クリントン政権が本格的経済成長と財政再建の同時達成に大成功した理由 吉越勝之

進化シ
ステム税制と経済を再構築すること」を提案しているのです。
さてこの理論の「実証」として、1929年10月の株価大暴落はアメリカ税制史上、
直接税の最大の減税環境(最高所得税率25%)で発生したのであり、平成2年から
始まった日本の株価の大暴落も全く同様であり、直接税の大減税は景気回復の手法と
いう通説は全くの虚偽であり、景気悪化の原因そのものなのです。
その後この世界大恐慌を回復させ資本主義を発展させた、レーガン政権誕生までの、
50年間にわたる累進大増税政策(63−92%)と、その後の累進弱体化減税政策
のレーガン政権でもたらされた記録的な財政赤字を解消し、記録的な大成功をもたら
したクリントン政権の富裕層への直接税の累進増税政策と、日本の高度経済成長期の、
消費税無しの直接税の累進増税政策(国税のみで75%)を「手本に」「所得税等を
累進増税すると個人消費増強効果が強まるので素直に増税し」その分「個人消費の進
化システム機能を常時規制抑圧している消費税を完全撤廃し個人消費の自然な増加を
促進し」相乗効果で「500兆円以上の膨大な個人消費の種類・質・量の自己拡大を
図り財政負担無しに国民所得つまりパイの継続的拡大」を図る「経済の出発点」で
「経済再生の根本」である「個人消費を時代に応じて増殖する進化システム機能を自
由に発揮させ」豊かな内需環境を整備する税制改革を実行すべきです。
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/456.html


日米の全税制史を調べると「1925年米国は所得獲得者や資産所有者を優遇することが正しい選択であると誤解し、税制は景気に無関係であると誤解し、当時50−73%の高累進所得税率で好景気を謳歌していたのに、25%へ低下させる所得規制緩和策を実施し、4年間継続した結果、1929年に株価大暴落に続く世界大恐慌を引き起こしたのです」。

3年後に最高所得税率を25%から、63−>92%へ劇的に累進増税し所得規制強化し「米国はわずか6年間で失業率の悪化を食い止めバブル崩壊前の国家税収を完全に回復して、本格的景気回復軌道」へ載せたのですが、アメリカでさえ本論文の理論は認識されておらず、このアメリカの増税策はやむをえず取られた政策と評価され、50年後の大規模財政赤字を発生させたレーガン政権や現在の子ブッシュ政権の大減税政策の強行でも明らかです。

しかしレーガン政権後のクリントン政権が場当たり的で失敗すると批判された累進所得税等の増税政策で、本分析通り見事に本格的経済成長と財政再建の同時達成に大成功したのです。

これに対して日本の平成2年初からのバブル崩壊は税制を、最高所得税率75%―>50%へ所得規制緩和し、更にアメリカが採用したことの無い3%のヨーロッパ型付加価値消費税を導入し個人消費へ規制強化したことが「原因」であるのに、バブル崩壊後、景気が完全回復していない、平成10年には、更に最高所得税率を50−>37%へ所得規制緩和し、更に消費税率を5%へ個人消費規制強化したため、日本経済を更に最悪の経済環境へ陥れ、結果として、日本経済は泥沼に陥り国家税収は更に大幅減少し「バブル崩壊後15年も経過してるのにバブル前の税収に遠く及ばず」若者の実質的失業率は最悪化し、多くの結婚も出来ない経済状況の若者を多数出現させ、合計特殊出生率はますます悪化し、年金問題はますます解決困難に向かい、日本民族 は消滅の未来に向かっているのです。
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/456.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

101. 中川隆[-13091] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:23:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15394]

曽野綾子さんや竹中平蔵先生の理想とする世界というのは:


人口100人の青い目の人達の村_takenaka village があった。

4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。

資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。

takenaka village では、自動車は6〜7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。


その村の隣に、ジパングという人口100人の島国があった。

20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた

リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円

全体で takenaka village より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。

その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。

あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

102. 中川隆[-13102] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:46:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15406]

イラク戦争の背景

東北学院大学講師・世界キリスト協議会前中央委員
川端 純四郎

 ご紹介いたします。

 先生は1934年のお生まれです。東北大学文学部に学ばれ、博士課程を終えられてから、ドイツのマールブルグ大学に入学されました。帰国後、東北学院大学教員として35年間お勤めになりました。その後ひきつづき講師として、現在も勤務されています。一貫して平和、人権、政治改革の活動に積極的に関わっておいでになりました。

 先生は今朝8時前に仙台を発ち、はるばる鋸南町においで下さいました。今日の講師としてほんとうにふさわしく、よいお話をうかがえると思います。早速、先生からお話をうかがいたいと思います。 先生、どうぞよろしくお願いいいたします。
                                        安藤

 みなさん、こんにちは。 安房郡の水清き鋸南町に伺って、こうしてお話できることをありがたいと思っています。初めておうかがいしました。木更津まで来たことはあるのですが、今日、電車で君津を過ぎたらとたんに山が美しくなり、あそこまでは東京郊外のなんとまあみっともない風景でしたけれど、あそこから南に来ると一気にほんとうに昔のよき日本の風景がよみがえってくるようでした。ほんとうに嬉しく思いました。

 いま、「さとうきび畑」の朗読と、合唱団のコーラスをお聞きしたのですが、どちらも聞いていて涙が出ました。

 私は、戦争に負けた時小学校6年生でした。仙台で敗戦を迎えましたが、仙台も空襲で全滅いたしました。街の真ん中にいましたから、もちろんわが家も丸焼けでした。忘れられない思い出があります。街の真ん中の小学校でしたから、同級生が一晩で8人焼け死にました。隣の家の、6年間毎日いっしょに学校へ適っていた一番仲の良かった友達も、直撃弾で死にました。今でも時々思い出します。

 今このような歌を聞くと、どうしてもその人のことを思い出します。思い出す私の方はもう70になりますが、記憶に出てくるその三浦君という友達は、小学校6年生のまま出てきます。どうして小学校6年で人生を終わらなければいけなかったのか、生きていてくれたらいろんな事があったのに、と思います。戦争なんて二度としてはいけない、というのが一貫した私の願いです。

 私は牧師の家に生まれました。父はキリスト教の牧師で、教会で生まれ教会で育って、讃美歌が子守歌でした。牧師の中には戦争に反対した立派な牧師さんもおられたのですが、私の父のような多くの普通の牧師は、政治や社会に無関心で魂の救いということしか考えていませんでした。で、私もその親父に育てられましたから、大学を出、大学院に入って博士課程までいって、ずっとキルケゴールや実存哲学という、魂だけ見つめているような学問をやっていて、政治とか経済、社会とかは25歳までいっさい関心がありませんでした。

 25歳の時チャンスがあって、ドイツ政府の招待留学生となってドイツヘ勉強に行くことになりました。1960年のことでした。1960年にドイツへ行ったというだけで、どんなにノンポリだったか分かります。安保改訂問題で日本中が大騒ぎの時、それを尻目に悠々とドイツ留学に行ったのです。幸か不幸かまだ世界は貧しくて、飛行機などというものは贅沢な乗り物で、まだジェット旅客機機はありませんでした。プロペラ機でヨーロッパヘ行くには途中で何遍も何遍も着地し、給油して、今のようにノンストップでシベリヤを越えて、などというのは夢のような話でした。しかもベラ棒に高いのです。船の方があの頃はずっと安かったのです。特に貨物船に乗せてもらうと飛行機よりずっと安いのです。そこで一番安いのを探して、5人だけ客を乗せるという貨物船をみつけました。

 その船で神戸を出航し、インド洋からスエズ運河をぬけ、地中海を渡ってイタリアのジェノバに上陸。そこから煙を吐く蒸気機関車でアルプスを越えて、ドイツのマールブルクという町に着きました。

 実は、飛行機をやめて船で行ったということが、私の人生を大きく変えることになりました。あの時もし飛行機で行ったなら、私は一生、世間知らずの大学に閉じこもって勉強だけしている人間で終わった、と思います。

 ところが船で行ったおかげで、しかも貨物船に乗ったおかげで、私は途中のアジア・インド・アラブの国々をくわしく見ることができました。まっすぐ行けば船でも二週間で行くそうですが、何しろ貨物船ですから、途中港、港に寄って荷物を下ろし、また積んで、一つの港に4日から5日泊まっているのです。おかげでその間、昼間は上陸してそのあたりを見て歩き、夜は船に帰って寝ればいいのですから、東南アジアからアラブ諸国をくまなく見て歩きました。

 1ヵ月かかりました。神戸からジェノバまでのこの船旅。その時見たものが、私の人生を変えたのです。何を見たかはお解りですね。アジアの飢えと貧困という厳しい現実にぶつかったのです。

 降りる港、港で、ほんとうに骨と皮とに痩せせこけた、裸足でボロボロの服を着た子供達が、行く港も行く港、集まって来るのです。船の事務長さんに、「可哀想だが、何もやっては駄目だよ。1人にやると収拾がつかなくなるよ」と言われていました。だから心を鬼にして払いのけて通り過ぎるのですが、その払いのけて通り抜ける時に触った子供の肩、肉などなんにもない、ただ骨と皮だけのあの肩、あの感触が、今でも時々蘇ってきます。

 船に帰って、眠れないのです。明日も、あの子供たちに会う。どうするか。私が考えたことは、「神様を信じなさい。そうすれば救われます」と言えるか、ということでした。

どんなに考えたって、言えるわけがありません。飢えて捨てられた孤児たちに、こちらは着るものを看て、食うものを食っておいて、「神様を信じなさい、そうすれば救われます」などとは、口が裂けても言えないと思いました。牧師館で生まれて、キリスト教しか知らずに育って、キリスト教の学問をして来て、それではお前キリスト教って何なのか、25年お前が信じてきたキリスト教とは、飢えた子供たちに言えないようなキリスト教なのか。とれが私の考えたことでした。

 もし言えるとしたら、ただ一つしかない。そこで船を降りて、服を脱いで、子供たちに分けてやって、食っているものを分けてやって、そこで一緒に暮らす、それなら言える。言えるとしたら、それしかありません。言えるじゃないか、と自分に言い聞かせました。

 それなら、船を降りるか──。くやしいけど、降りる勇気がありませんでした。折角これからドイツヘ勉強に行くという時、ここで降りて、一生インドで暮らすのか、一生アジアで暮らすのか、どうしてもその気にならないのです。
 ですから理屈をこねました。

 「降りたって無駄だ。お前が降りて背広一着脱いだって、何百人人もいる乞食の子に、ほんの布切れ一切れしかゆきわたらないではないか。自分の食うものを分けてやったって、何百人もの子供が1秒だって、ひもじさを満たされる訳がないじゃないか。お前が降りたって無駄だ。それは降りたという自己満足だけで、客観的にはあの子らはなんにも救われない。」

 「だから降りない、勇気がないのではなく、無駄だから降りない。」と自分に言い聞かせるのです。でも、降りなければ「神様を信じなさい」とは言えません。言えるためには降りなければならない、しかし降りても無駄なのだ。

 堂々巡りです。寄る港、寄る港でこの間題に直面しました。毎晩毎晩同じ問題を考え続けて、結局、答えが見つからないまま、閑々として港を後にしました。、出港の時、あの子たちを見捨て自分だけドイツへ行くことに、強い痛みを感じました。これは永く私の心の傷になって残りました。

 このようにして初めて、世の中には飢えた仲間がいるという、当然分かっていなくてはいけない事実に、何ということでしょう、25にもなってやっと気づいたのです。飢えた子供たちがいる、それを知らんぷりしてドイツに行くのか、お前が降りてあの子たちと一緒に暮らすことはあまり意味ないかも知れない、しかしやっぱり船を降りないのだとしたら、せめて世の中に飢えた子供なんか生まれないような社会を作るために、自分で何かしなければいけないのではないか。ただ魂の中だけに閉じこもっていていいのか。

 これが、私がヨーロッパヘ行く1ヵ月の旅で考えたことでした。

 ドイツヘ行って、宗教の勉強をしました。ブルトマンというドイツの大変偉い先生の所に1年いて、いろいろ教わりましたが、結局、私の結論としては、実存哲学だけではだめだということでした。自分が自分に誠実に生きる──これが実存的、ということですが、それだけでは駄目だ。自分が生きるだけでなく、みんなが人間らしく生ることができるような世の中になるために、自分にできる何か小さなことでもしなければいけない。

 こう思うようになって、日本に帰ってきたのです。

 それじゃあ、世の中で、そのように飢えて死ぬような子がいなくなるような社会とは、どうすれば出来るのか。これはやっぱり、飢え、貧困、戦争、差別、そういうものが生まれる原因が分からなければ、除きようがありません。原因を勉強しなければいけない。そのためには社会科学を勉強しなければいけない。特に経済学を勉強しなければいけない──。

 ドイツヘの留学は、大学院の途中で行きましたので、帰国して大学院に復学しました。幸い東北大学は総合大学ですから、中庭をへだてて向こう側が経済学部でした。帰ってきた次の日から、私は、経済学部の講義を経済原論から、授業料を払わずにもぐりで、後ろの方にそっと隠れてずっと聞きました。

 それからもう45年になりますが、ずっと宗教哲学と経済学と2股かけて勉強してきています。今日も、多少経済の話を申し上げるわけですが、やっぱり自分がクリスチャンとして、今もクリスチャンであり続けていますが、同時に、自分の救いということだけ考えていたのでは申し訳ないと思うのです。現実に飢えて死ぬ子がいるのです。ユネスコの統計によると、毎日2万人の子が栄養不足で死んでいるそういう世の中、このままにしておくわけにはいかない、自分でできることは本当に小さいけど、その小さなことをやらなかったら、生きていることにならない──。そう思って45年過ごしてきたわけです。

 キリスト教の中でずっと生きていますので、一般の日本の人よりは外国に出る機会が多いと思います。特に世界キリスト教協議会という全世界のキリスト教の集まりがあります。その中央委員をしていましたので、毎年1回中央委員会に出かけて、1週間か2週間会議に参加しました。世界中のキリスト教の代表者と一つのホテルに缶詰になり、朝から晩までいろいろと情報交換したり論議したりします。そのようなことを7年間やりましたので、世界のことを知るチャンスが多かったと思います。それを辞めてからも、自分の仕事や勉強の都合で、今でも毎年二週間ぐらいはドイツで暮らしています。そうしていると、日本ってほんとうに不思議な国だということが分かってきました。

 日本にいるとなかなか分からないのです。島国ですし、おまけに日本語という特別な言葉を使っています。他の国との共通性がない言葉です。ヨーロッパの言葉はみんな親戚のようなものですから、ちょっと勉強するとすぐ分かります。一つの言葉の、ドイツ弁とフランス弁、ベルギー弁、オランダ弁というようなものです。日本で言えば津軽弁と薩摩弁の違い程度のものです。津軽と薩摩では、お互いに全然通じないとは思いますが、それでも同じ日本語なのです。ヨーロッパの言葉とはそういうものです。ですからお互いに何と無く外国語が理解できるというのは、別に不思議なことではないのですね。ですから、自分の国のことしか知らないという人は、非常に少ないのです。

 新聞も、駅に行けばどんな町でも、ヨーロッパ中の新聞が置いてあります。ドイツのどんな田舎町へ行っても、駅にいけばフランスの新聞もイタリアの新聞も売っていますし、それを読める人がたくさんいるのです。そういう社会ですから、日本人とはずいぶん違います。自分の国を客観的に見られる。他の国と比べて見ることができるのです。

 日本にいると比べられません。そのうえ、日本はマスコミが異常です。ワンパターンのニュースしか流しません。ヨーロッパではいろんなテレビがあって、テレビごとに自由な報道をやっています。バラエティー番組のようなものがなくて、ニューハ番組が充実しています。きちんとした議論をテレビでやっています。ですから日本にいるよりは、比較的自分の国の様子を客観的に見られることになります。ドイツに行く度に、日本とは不思議な国だなあと思うのです。

 例えば、もうだいぶ前、バブルの頃です。日本のある有名なモード会社がミラノに支店を出しました。そしてマーケティング調査をしました。どんな柄が流行っているか、アンケートを集めそれを整理するために、イタリア人女性3人雇ったそうです。アンケートの整理をしていたら5時になりました。あと少ししか残っていなかったので、日本ならの常識ですから、「あと少しだからやってしまおう」と日本人支店長は声をかけました。ところがイタリア人女性3人は、すっと立って「5時ですから帰ります」と言って出て行こうとしました。思わず日本人支店長は怒鳴ったのだそうです。「たったこれだけだからやってしまえ」と。途端にこの日本人支店長は訴えられました。そして「労働者の意志に反する労働を強制した」ということで、即決裁判で数万円の罰金をとられました。

 これがヨーロッパの常識です。つまり9時から5時までしか契約していないからです。5時以後は命令する権利はないのです。9時から5時までの時間を労働者は売ったんであって、5時以降は売っていないのですから、自分のものなんです。会社が使う権利はありません。当たり前の話です。

 その当たり前の話が日本では当たり前ではないのです。残業、課長に言われたので黙ってやる。しかもこの頃は「タダ残業」ですからネ。本当にひどい話です。常識がまるで違うのです。あるいは有給休暇。ドイツのサラリーマンは年間3週間とらねば「ならない」のです。3週間休まなければ罰せられます。日本は有給休暇など殆どとれません。ドイツでは取らないと罰せられます。ですからどんな労働者でも3週間、夏はちゃんと休んで、家族ぐるみイタリアへ行ってゆっくり過ごしてきます。有給になっているからです。或いは日本では1週間40時間労働です。ドイツはもう随分前から36時間です。土日出勤などありえない話で、日本のように表向き40時間労働でも、毎日毎日残業で、その上休日出勤、日曜日には接待ゴルフなど馬鹿なことをやっています。接待ゴルフなど、ドイツには絶対ありません。日曜日は各自が自由に使う時間で、会社が使う権利はないのです。

 そういうところもまるで常識が違います。或いは、50人以上だったと思うのですが、50人以上従業員がいる会社、工場は必ず、労働組合代表が経営会議に参加しなければいけないことになっています。そんなことも、日本では考えられないことです。ですから配置転換とかもとても難しいし、労働者の代表が入っているから、簡単に首は切れません。

 そういういろんな面で、日本の外に出てみるとびっくりするようなことが山ほどあります。日本という国は、高度に発達した資本主義国の中で例外的な国なのです。資本主義が発達した点では、アメリカにもフランスにもドイツにも負けないのですが、資本主義が発達したにしては、労働者が守られていない。或いは市民の権利が守られていない。会社の権利ばかりドンドンドンドン大きくなっているのです。それが日本にいると当たり前のように思われています。外国で暮らしていると、日本は不思議な国だと分かります。特にこの数年それがひどくなってきているのではないでしょうか。

 私たちの暮らしは、戦後50何年かけて、少しずつよくなってきました。例えば年金なんかも少しずつ整備されてきた。健康保険制度も整備されてきた。介護保険も生まれてきた。或いは、労働者も土曜日チャンと休めるようになってきた。ところがこの数年、それが逆に悪くなつてきています。年金は削られる一方、介護保険料は値上がりする、労働者は首切り自由でいくらでも解雇できる。労働者を減らすと政府から奨励金が出る。タダ残業はもう当たり前・・・。

 特にこの数年、構造改革という名前で、日本の仕組みが変わってきています。いま申し上げたように、戦後50年かけてみんなで、少しずつ少しずつ作ってきた、いわば生活の安心と安全を守る仕組み、そういうものが今はっきり壊されかかっているのではないでしょうか。

 小泉首相という人は「自民党をぶっ壊す」といって当選したのですが、この4年間を見ていると、あの人は自民党を壊したのではなく「日本を壊した」のではないかと思われます。これまで日本が戦後50年かけて作ってきた社会の仕組みが、バラバラにされているのです。フリーターとかニートがもう30%でしょう。そうなると当然、この人たちは生きる希望がありません。お先真っ暗。いまさえよければ、ということになる。ですから若者が当然刹那的になる。人生の計画なんて立たない。今さえよければということになっていきます。

 昔なら10年に1回あるかないかのような犯罪が、いま毎日のように起きています。私は仙台にいますが、この正月には赤ん坊の誘拐事件で一躍有名になってしまいました。あんなことが日常茶飯事として起こっています。栃木県で女の子が山の中で殺された事件は、まだ解決されていませんが、こんな事件が今は「当たり前」なのです。世の中がすさんできて、何が善で何が悪なのか、みんなに共通な物差しというものがなくなったというふうに思われます。

 そのような世の中の変化、私は多分、「構造改革」というものがその犯人なのだ、と思っています。

《逆戻りの原因はアメリカの変化》

 その構造改革というのは、どこから来たのか。もちろんアメリカから来たのです。アメリカが変化した、日本はそのアメリカに右ならえをした、それが構造改革です。

 それでは何が変わったのか、これが一番の問題です。この変化の行き着くところが、憲法改悪です。

 社会の仕組み全体がいま変わろうとしているのです。憲法も含めて。いったい何がどう変わるのか。いったいどういう構造をどういう構造に変えるということが構造改革なのか。そこのところがアメリカを見ればよく分かってきます。アメリカがお手本なのですから。

 アメリカはソ連崩壊後変わりました。ソ連とか東ドイツは自由のないいやな国でした。昔1960年に西ドイツヘ留学した折、東ドイツへ何回か行く機会がありました。ふつうはなかなか行けないのですが、幸いキリスト教国なので、ドイツのキリスト教はしっかりしていまして、東ドイツと西ドイツに分裂しても、教会は分裂しなかったのです。東西教会一つのまんまです。ですから、教会の年1回の大会には、西で開く時は東の代表がちゃんと来たし、東で開く時は西の代表が行けたのです。ですから一般の人の東西の往来が難しかった時でも、キリスト教の人だけはかなり自由に行き来ができました。

 私も連れていってもらって、何回か東ドイツへ行って見ました。ご存じのように自由のないいやな国でした。ですからソ連や東ドイツが崩壊したのは当然だし、いいことだと思います。しかしソ連や東ドイツが100%悪かったかというとそんなことはありません。良い部分もありました。何から何まで全部ひっくるめて悪だったというのも間違いです。基本的に自由がない。ですから、ああいう国は長くは続かない。これは当然そうだと思います。滅びたのは当然だと私は思います。

 しかし同時に、良い面はなくしては困るのです。良い面は受け継がなければいけません。最も目につくのは女性の地位でした。これは立派なものでした。いまの日本なんかより遥かに進んでいました。男女の平等が徹底的に保障されていました。専業主婦などほとんど見たことがありません。だれでも自由に外に出て、能力に応じて働いていました。それができるような保障が社会にあるのです。文字通りポストの数ほど保育所があって、子供を預け安心して働きに出られるようになっていました。同一労働同一貸金の原則はきちんと守られていて、女性だから賃金が低い、女性だからお茶汲みだけなどというようなことは一切ありませんでした。これは凄いなと思いました。あれは、日本はまだまだ見習わなければいけないことです。

 もう一つ私がびっくりしたのは、社会保障です。私が初めて東の世界を見たのは、何しろ1960年の頃のことです。日本はまだ社会保障がない時代でした。いま若い方は、社会保障はあるのが当たり前と思っておられる方も多いと思いますが、そんなことはないのです。日本は1972年が「福祉元年」といわれた年です。それまでは、福祉はなかったのです。大企業とか公務員だけは恩給がありましたが、商店の経営者とか家庭の主婦なんか何もありませんでした。健康保険も年金も何もありませんでした。72年からようやく国民皆年金、国民皆保険という仕組みが育ってきたのです。

 もともと資本主義という仕組みには、社会保障という考えは無いのです。自由競争が原則ですから、自己責任が原則です。老後が心配なら、自分で貯めておきなさい。能力がなくて貯められなかったら自業自得でしょうがない。こういうのが資本主義の考え方です。労働者が、そんなことはない、我々だって人間だ、人間らしく生きていく権利がある。だから我々の老後をちゃんと保障しろと闘って、社会保障というものが生まれてくるのです。自然に生まれたのではありません。

 労働者が団結して闘って、止むを得ず譲歩して社会保障が生まれてくるのです。資本主義の世界で最初の社会保障を行ったのはビスマルクという人です。ドイツの傑物の大首相といわれた人です。ドイツの土台を作った人ですが、この首相の頃、何しろマルクス、エンゲルスの生まれた故郷ですから、強大な共産党があり、国会で100議席くらいもっていました。そこで、ビスマルクが大弾圧をやるのです。社会主義取り締まり法という法律を作って共産党の大弾圧をし、片方では飴として労働者保険法という法律で、労働者に年金を作ります。世界で初めてです。辞めた後年金がもらえる仕組み、病気になったら安く治してもらえる仕組みを作った。こうやって鞭と飴で労働運動を抑えこんでいったのです。

 社会保障というのは、そうやって労働者の力に押されてやむを得ず、譲歩として生まれてくるのです。放っておいて自然に生まれてくるものではありません。

 そこへ拍車をかけたのが、ソ連や東ドイツです。ソ連や東ドイツヘいってみて、1960年の時点なのですから、日本にまだ社会保障などなかった時、そう豊かではなかったのですけれども、老後みながきちんと年金をだれでも貰える、そして、病気になればだれでも、医者に行って診察を受けて治療を受けられる。これにはほんとうに驚きました。これが社会主義というものかと、その時は思いました。ただ自由がないのです。例えば、牧師さんの家に泊めてもらうと、こちらがキリスト教徒ということが分かっていますから、牧師さんも信用して内緒話をしてくれるわけです。

外国から来る手紙はみな開封されていると言っていました。政府が検閲して開封されてくる。だから、「日本へ帰って手紙をくれる時は、気をつけて書いてください。政府の悪口など書かれると私の立場が悪くなるから。手紙書くときは開封されることを頭に入れて書いてくれ。」というふうに言われました。こんな国には住みたくないなと思いましたけれど、同時に社会保障という点では驚きました。こういうことが可能な社会の仕組みというのがあるんだなあ、とこう思ったのです。

 その後、スターリン主義というものによって目茶苦茶にされていくのですが、私の行った頃はまだ、東側の社会保障がある程度きちっと生きていた時代です。こうして、ソ連や東ドイツが社会保障というものを始めると、資本主義の国もやらざるをえなくなってきます。そうでないと労働者が、あっちの方がいいと逃げ出してしまいます。ですから西ドイツが一番困りました。地続きですから、何しろ。ですから、東に負けないだけの社会保障をしなければならなかったのです。そうすると、自由があって社会保障があるのですから、こっちの方がいいということになります。いくら向こうは社会保障があっても自由がないのです。こうして西ドイツは大変な犠牲を払って、社会保障先進国になってきました。そのことによって、東ドイツに勝ったのです。

 実際西ドイツの労働者は、別に強制されたわけではありません。自主的に西ドイツを選んだのです。ですからあのような東西ドイツの統一も生まれてきたのです。

 つまり資本主義の国は、ひとつは自分の国の労働者の闘いに押されて。そこへもってきて、ソ連、東ドイツの社会保障という仕組みの外圧で、それに負けるわけにいかないものですから、そういう力があって、社会保障というものを造り出していくのです。しかし社会保障というものは莫大な財源がかかります。


《社会保障をやめて小さな政府へ──構造改革の中身(1)》

 いま日本政府は社会保障をどんどん削っていますけど、それでも国家予算の中で一番多い費目は社会保障です。大変な財源が必要なのです。そこで資本主義の国は、新しい財源を見つける必要ができてきます。

 そこで見つけたのが2つ。1つは累進課税です。それまでの資本主義にはなかった、累進課税という新しい仕組みです。つまり収入の多い人ほど税率が高くなるという仕組みです。日本でも1番高い時は1980年代、1番大金持ちはの税率75%でした。ですから、年収10億あれば7億絵5千万円税金にとられたのです。今から考えれば良く取ったものです。今は35%です。大金持ちは今ほんとうに楽なのです。35%ですむのですから。年収10億の人は3億5千万払えばいいのです。昔なら7億5千万取られたのです、税金で。「あんまり取りすぎではないか、これは俺の甲斐性で俺が稼いだ金。それを取り上げて怠け者のために配るのか。」と彼らはいいました。

 そうすると政府は、「いやそういわないでくれ。そうしないと、資本主義という仕組みがもたない。だから体制維持費だと思って出してくれ。そうでないと社会主義に負けてしまう」と言って、大金持ちからたくさん取ったのです。大企業も儲かっている会社からたくさん税金取った。法人税もずっと高かったのです、以前は。こうやって大金持ち、大企業からたくさん取る累進課税で一つ財源を作ったのです。

 もうひとつは、企業負担です。サラリーマンの方はすぐお分かりですが、給料から社会保障で差し引かれますね。そうすると、差し引かれた分と同額だけ会社が上乗せするわけです。自分が積み立てたものが戻ってくるだけなら、貯金したのと同じです。労働者の負担する社会保障費と同額だけ会社も負担しているのです。倍になって戻ってくるから、社会保障が成り立つわけです。

 これも資本主義の原則からいえば、おかしいことです。いまいる労働者の面倒を見るのは当たり前です。会社は労働者がいるから成り立っているのですから。だけど、辞めてからは関係ないはずです。契約関係がないのですから。辞めた人が飢え死にしようがのたれ死にしょうが、会社の責任ではないはずです。

 だけども一歩ふみこんで、それでは資本主義の仕組みがもたないから、労働者が辞めた後まで面倒みてくれ、そこまで企業負担してくれ、そうしないと資本主義がもたないから、ということになります。

 こうやって、社会保障というものが資本主義の国で成り立っているのです。これは、ただの資本主義ではありません。資本主義の原則に反するような累進課税とか、企業負担というものを持ち込んで、社会主義のよいところを取り入れた資本主義です。これを「修正資本主義」と呼びました。

 資本主義の欠点を修正して、社会主義に負けないようないい仕組みに造り直した資本主義ということです。学者によっては、資本主義の経済の仕組みと社会主義経済を混ぜ合わせた「混合経済」と呼ぶ人もいます。所得再配分機能を政府が果たすということです。もちろん修正資本主義というものは、このような良い面だけではなくて、公共事業という名前で国民の税金を大企業の利益のために大々的に流用するというようなマイナスの面もあることも忘れてはなりません。

 しかし、ともかくこうやって、西側の世界は、自由があって社会保障がある、そういう社会に変わっていくのです。そのことで東に勝ったのです。ところが、そのソ連と東ドイツが居なくなったのです。

 その前にもうひとつ。先進資本主義国というのは或る一種の傾向として、労働者が闘わなくなってきます。これは先進資本主義国の宿命のようなものです。つまり資本主義国というのはご存じのように、地球上の大部分を占めている低開発諸国、貧しい第3世界といわれた世界から、安い原料を買ってきてそれを製品にして高く売っています。そして差額、莫大な差額を儲けている。超過利潤と呼ばれています。だから遅れた国は働けば働くはど貧しくなるのです。一生懸命働いてコーヒー豆作っても、それを安く買われてチョコレートやインスタントコーヒーなどの製品を高く買わされるのですから、結局差額だけ損をすることになります。

 この20年、先進国と遅れた国の格差は開く一方、全然縮まらない。地球上の富を先進国が全部集めちゃって、とびきりぜいたくな生活をやっています。ですから先進国の労働者にも、当然そのおこぼれの分け前に預かるので、低開発国の労働者にくらべれば、ずっと豊かになります。豊かにれば闘わなくなってしまいます。その上、それを推し進めるようなありとあらゆる謀策が講じられているのです。

 資本主義というのは、物を売り続けなければなりたたちません。売ったものをいつまでも使われていたのでは、資本主義は成り立たないのです。早く買い換えてもらわなければなりません。いま、日本の車はよく出来ているので、30年は楽に乗れるのに、30年乗られたら日本の自動車会社はみな潰れます。3年か5年で買換えてもらわなれりばいけません。買い替えてもらうには、自分の車は古いと思ってもらう必要があります。ですからコマーシャルで、朝から晩まで何回も、「あんたは古い、あんたは古い。こんないい車ができてます。こんな新しい車が出ましたよ。もっといいのが出ましたよ」と宣伝して洗脳しいるのです。だから3年も乗ると、どうしても買換えざるをえない心境に引き込まれてしまいます。全てのものがそうです。まだまだ使えるのに新しいものに換えてしまう。そういう仕組みができているのです。

 そうしないと、資本主義はもちません。ですから労働者はどうなるかというと、「次、この車に買換えよう、次、パソコンこっちに買換えよう、次、今度はデジタルテレビに買換えよう、じゃあセカンドハウス、つぎは海外旅行・・・」。無限に欲望を刺激され、自分の欲望を満たす方に夢中になって、社会正義とか人権とか考えている暇がなくなっていくのです。

 いま日本の大部分がそうですね。「もっといい生活を」ということだけ考えています。ほかの人の人権だの社会正義なんて見向きもしない。見事に資本の誘惑にひっかかってしまいます。

 もちろん、欲しいからって、お金がなければ買えません。家がほしい、車がほしい、パソコンほしい・・・。それが、実はお金がなくても買える、なんとも不思議な世の中です。ローンというものがあるのですね。

 フォードという人が見つけたのです。それまでは、「つけ」で何か買うなどということは、労働者にはありませんでした。労働者が「つけ」で買ったのはお酒だけです。酒飲みはお金がなくても飲みたいのです。だから酒屋だけは「つけ」がありました。大晦日に払うか払わないかで夜逃げするかどうかもあったでしょうが、今は家を「つけ」で買う、車を「つけ」で買う、なんとも奇妙な世界になってきました。これをフォードが始めたのです。それまでは、自動車というのは大金持ちのものでした。フォードが、あのベルトコンベアーというのも発明して、大量生産を始めたのです。そうなれば、大量に売らなれりばなりません。大量に売るためには労働者に買ってもらわなくてはなりません。でも労働者にはお金がないのです。そこで、ローンという、とんでもないものを考え出したのです。ローンなら金がなくても買えるんですから、みんな買う。当然な話です。

 そりゃあ豊かなのに越したことはありません。マイホームが欲しくなる。ですからみんなローンで買う。そして「マイホーム」という感じになるのです。でも本当はマイホームではありません。あれは銀行のものです。払い終わるまでは、所有権は銀行のものです。銀行から借りてローン組んだだけなんです。こうして次々と新しいものを買わされていく。そのローンは多くの場合退職金を担保に組みます。一度退職金を担保にローンを組んでしまったら、ストライキはできなくなります。会社と闘って退職金がすっとんだら終わりなのです。家も途中でおしまいになってしまいます。ですから、ローンでマイホームが変えるようになってから労働運動は一気に駄目になりました。みんな闘わない、会社と喧嘩したくない、というふうになります。これはもちろん、向こうは計算済みのことです。

 ですから、高度に発達した資本主義社会というのは、労働者が、ある程度ですが、豊かになり、そして、このような消費社会に組み込まれてしまって、身動きができなくなるのです。

 こうして、いま日本では労働組合も、労働運動もストライキもほとんど力を失いました。そうなれば、政府は社会保障なんて、何も譲歩する必要がはありません。労働者が必死になって運動するから、止むを得ず健康保険とか年金制度とかやってきたのであって、労働者が闘わなければ、その必要はないのです。いま、どんどん社会保障が悪くなってきています。次から次から悪くなる。20年前だったら、いまのように社会保障が悪くなったらたちまち、大ストライキが起こりました。しかし今は何も起きません。労働組合が弱体化している、労働運動が骨抜きという状態です。

 そこへもってきて、ソ連や東ドイツがいなくなったのです。こうなればもう社会保障をやる必要はありません。社会保障は止めます、修正資本主義は止めます、ということになるわけです。修正資本主義にはいろいろな意味があるのですけど、一つの特徴は、大金持ちや大企業からお金を取って、弱い立場の人たちに配るところにあります。所得再分配と言われる働きです。だから政府は大きな政府になります。こういう仕組みが修正資本主義で、いろんなマイナス面もあるのですが、プラスの面も大いにあります。

 この仕組みをやめる、というのが今のアメリカです。もう政府は面倒みません、自分でやりなさい、と自由競争に戻る。自由競争一筋。これが、ソ連が崩壊した後に新しくなったアメリカの仕組みなのです。そして、それに日本が「右へならえ」ということなのです。

 それに対してヨーロッパは、アメリカのいうことを聞かず、「われわれはこれからも、社会保障のある資本主義でいきます。むき出しの裸の自由競争には戻りません」。これがヨーロッパなのです。なぜヨーロッパがそういえるかというと、労働運動が強いからです。先進資本主義国なのになぜ労働運動が弱くならないのか。これはこれで時間をかけて考えなければならない問題なのですが──。

 現実の問題として強い。ヨーロッパだって大企業は社会保障を止めたいにきまっています。しかし止めると大騒ぎになります。労働者が絶対に言うことを聞きません。だからやむを得ず守っているのです。企業負担もうんと高いです。日本の会社の倍以上払っています。ですからトヨタ自動車もフランスに、フランス・トヨタを作っていますけど、日本トヨタの倍以上払っています。それでも儲かっているのです。

 ですから、ヨーロッパでも、社会保障は少しずつ悪くなってきてはいますが、日本に比べれば遥かに違います。このようにして、ヨーロッパはアメリカと別の道を進み始めました。アメリカは剥き出しの資本主義に戻りますが、ヨーロッパは修正資本主義のままでいこうとしています。

 しかし、それでは競争で負けます。アメリカや日本は企業の社会保障負担がうんと減っていますから、利潤が増えています。ヨーロッパは高い社会保障負担でやっていますから、儲けが少ないのです。そこで競争しなくてすむようにEUいうものを作って、枠を閉ざしちゃいました。アメリカや日本の会社がヨーロッパに来るときは、ヨーロッパ並みの負担をしなければ、EUには入れません。だからEUの中でやっている時には、日本にもアメリカにも負ける心配はないのです。

 そういう仕組みを作って、アメリカとは別の道を進み始めました。そのためにユーロという別のお金も作りました。イラク戦争で表面に出てきたのですが、イラク戦争がなくても、ヨーロッパはアメリカとは別の道を進み出していました。もう2度とアメリカとは一緒にならないでしょう。


《規制緩和とグローバリゼーション − 構造改革の中身(2)》

 もう一つ、ソ連、東ドイツ崩壊の結果、アメリカが大きく変化したことがあります。それは何かというと、大企業・大資本を野放しにしたことです。

 ソ連がいる間は、大企業や大資本に、「あなた達は資本主義なんだから儲けたい放題儲けたいだろうけど、それをがまんしてください。あなたたちがやりたい放題にやったら、他の資本主義国はみんな負けてつぶれてしまう。アメリカの資本と競争できるような資本などどこにもありませんから。そうなれば、ソ連の方がましだということになる。だから、やりたい放題は抑えてほしい」と言ってその活動を制限してきました。

 具体的に何を抑えたかというと、為替取引を規制したのです。これが一番大きな規制です。いまではもう、中央郵便局へ行って「ドル下さい」といえば、すぐドルをくれます。「100ドル下さい」といえば「ハイこれ1万2千円」。ユーロでも、「下さい」といえば「100ユーロ・ハイ1万4千円」とすぐくれます。でもこれはごく最近のことです。それまでは、外貨・外国のお金は、日本では勝手に手に入りませんでした。お金を外国のお金と取り替える、つまり為替取引は厳重に規制されていて、個人が勝手にはできなませんでした。外国旅行に行くとか、何か特別な理由が認められた時しか、外国のお金は手に入りません。

いまは何も制限ありません。自由にだれでもいつでもできます。理由など聞きませんから、100ユーロとか千ドルくださいと言えば、そのままくれます。これが為替取引の自由化というものです。これがなかったのです。ソ連が崩壊するまでは、アメリカも厳重に規制していました。それをとっぱらったのです。理屈っぽく言えば、資本の国際移動が自由にできるようになったということです。こうして、アメリカの巨大な金融資本が、世界中を我が物顔にのし歩く時代が来るのです。

 もうソ連も東ドイツもなくなったのですから、「いや永いことお待たせしました。今日からもう儲けたい放題儲けていいですよ。やりたい放題やっていいですよ」ということになったのです。これが規制緩和とことです。規制緩和ということは要するに、大資本が野放しになったということです。そうなったらどうなるか、世界第2の経済大国といわれる日本でさえ、全然太刀打ちできません。アメリカの巨大資本、金融資本・銀行ですね。日本の銀行とは勝負になりません。ボブサップと私が裸で殴り合ぅようなもので、一コロで殺されてしまいます。

 それでもやれというなら、ボブサプは手と足を縛ってもらって、目隠ししてもらって、こちらは金槌でも持たしてもらって、それでやっと勝負になるのです。今まではそうだったのです。それを全部外して自由にする、無条件で自由競争にするというのです。負けないためには、相手に負けない位大きくなるしかないですから、合併、合併、合併。あっという間に30ほどあった都市銀行が3つになってしまったのです。UFJとか「みずほ」とか、元何銀行だったか覚えておられる方おられますか。すぐ言えたら賞金をさし上げてもよろしいのですが、まず、言える方おられないでしょう。合併、合併であっという間に3つになりました。3つにになってやっとなんとか対抗できるというくらいにアメリカの巨大銀行というのは大きいものなのです。それでもダメで、長銀はのっとられてしまいました。北海道拓殖銀行も山一証券ものっとられてしまいました。次々とのっとられています。

 ついこの間は青森県の古牧という温泉がのっとられまし。広くていい温泉なんですけど、驚いたことにゴールドマンサックスでした。世界最大のアメリカの金融投資会社、ハゲタカファンドの代表のようなものです。これがどうして古牧温泉なのかと思ったのですが、テレビで放送していました。古牧だけではありません。他に28ケ所、超有名温泉みんな買い占めちゃったのです、ゴールドマンサックスが。

どうするかというと、従業員みんな首切っちゃってパートにして、腕利きのマネージャーを送り込み、部屋をヨーロッパ、アメリカ向きに整備しなおして、欧米からの観光客をワーツと呼ぼうという作戦なんですね。儲かるようにして高く売るのです。ゴールドマンサックスが経営するのではありません。いま赤字の会社を買い取って、儲かるように造り直してすぐに売っちゃうのです。これが投資銀行のやっていることです。確かに、いわれてみればそのとおりで、日本の温泉ほどいいものはありません。知らないだけで、こんないいものは世界中どこにもありません。だから日本の温泉の良さが分かったら、おそらくヨーロッパ、アメリカからごっそり観光客が来ると思います。そこにゴールドマンサックスが目をつけたのですね。そして近代経営やって外国人が来て楽しめるような設備に変えて、世界中にジャパニーズスパーなんていって売り出す気なのですね。ですから、そのうち皆さんも温泉にいらっしやるとみんな英語で案内され、アメリカのお湯の中に入ることになってしまいます。

 アッという間に日本はアメリカ資本に乗っ取られようとしています。去年のホリエモン合併もそうです。今年から商法改正(改悪)して、乗っ取りを認めるということになったのです。株の等価交換、面倒な仕組みですから詳しいことは申し上げませんが、アメリカ株1億ドル分と日本の株1億ドル分を、等価父換していい、こういっているんです。ところが、アメリカの株の値段が高いのです。ですから1億ドルといっても、株の数からすると、例えば千株位しかない。日本は株が安いですから、同じ1億ドルで1万株位あるのですね。そうすると、千株と1万株で取り替えますから、あっという間にアメリカは大株主になってしまう。この等価父換を認めると、日本の大企業全部乗っ取られてしまう。

 そこで、日本の優良企業が狙われています。超優良企業を株式等価交換で、簡単にアメリカが乗っ取ることができる。今年からそれが可能になるはずだったです。それで去年、実験をやったのですね。ホリエモンにやらせてみたのです。ホリエモンはアメリカのリーマン・ブラザースから借りてやったのです。で、出来そうだなと分かったので、アメリカはお金を引き上げてしまいました。ホリエモンに乗っ取られては困る、いずれ自分が乗っ取るのですからネ。最後の段階で資金引き上げましたたから、ホリエモン降りる外なかった、多分そういう仕組みだったのではないかと思います。

 今年から自由に、日本中の会社をアメリカが乗っ取れるはずだったのですが、あのホリエモン騒動のおかげで日本の大企業が震え上がり、政府に泣きついて、「なんとか商法改正を見送ってくれ」と。それで見送りになりました。ですから、ちょっと一息ついているのです。今年すぐ、乗っ取られるというわけではありません。でも、いつまでも見送りというわけにはいかないでしょう。2・3年後には解禁。そうなれば、日本はほぼアメリカ資本に支配される、ということになるでしょう。

 日本ですらそうなのですから、まして、フィリピンとかタイとかいう国はたまったものではありません。あっという間に乗っ取られてしまいます。アメリカに勝手に経済的属国にされてしまう。それに対して、いやそんなの困るから、アメリカ資本が自分の国の株を買うことを法律で禁止する、というようなことをやろうとすると、アメリカはそれを認めないのです。グローバリゼーションだから地球はは「一つ」だというのです。いくら規制緩和しても相手国が法律で規制してしまったら終わりです。ですから、自分の国だけ勝手に現制することは認めません、地球はひとつですよ、グローバリゼーションですよ、ときます。フメリカの大資本が地球上のどこの国でもアメリカ国内と同じ条件で商売できるようにする、これがグローバリゼーションです。いやだと断ると制裁を加えられます。

 クリントン大統領の時は経済的制裁だけですんだのですが、ブッシュになってから、軍事的制裁になりました。いうことを聞かないと軍事制裁だぞという、これがネオコンという人たちの主張です。イラクを見ればみな震え上がるでしょう。ですから、アメリカの言いなりにグローバリゼーションで国内マーケットを開放して、アメリカ資本に全部乗っ取られてしまう、というのがいま着々と進行しているのです。

《アメリカの孤立》

 そこでどうなったかというと、ヨーロッパと同じように、「そんなの困る。自分の国の経済の独立は自分たちで守りたい」という人たちが手を繋いで、「アメリカに支配され引きずり回されないように、防波堤を作ろう」という動きが始まりました。だいたい5・6年前からです。アセアン(ASEAN東南アジア諸国連合)の動きが始まりました。5つの国です。インドネシア、タイ、マレーシア、シンガポール、フィリピン。元来はアメリカが造らせた組織だったのですが、いつのまにか自主独立を目指す組織に成長しました。

 手を繋ぎ、アメリカに引きずり回されないように、アメリカの資本が勝手に入ってこないように、自分たちの経済は自分たちでやりましょう、と。ところが、ASEANが束になったってアメリカにはとてもかないません。そこで、知恵者がいました。アセアンだけではかなわないので、中国と手を繋いだのです。「アセアン、プラス中国で、アジアマーケットを作り、アメリカにかき回されないようにしよう」しようというのです。確かに、中国が入ったらアメリカはうかつに手が出せません。しかし中国だけ入れると、反米色があまりにも露骨ですから、「アセアン、プラス・スリーでいきましょう。アセアン+日本+韓国+中国、でいきましょう」ということになります。日本はアメリカの51番目の州だといわれているのですから、日本が入れば、アメリカも安心します。

 EUのように、アセアン+スリーで、自分たちの経済は自分たちでやれるように、アメリカに引きずり回されないような自立したアジアマーケットを形成することが目標です

 ただひとつ、日本が具合が悪いのです。日本はそのスリーに入っているのですが、(アセアンの会議に)行く度に「アメリカも入れろ、アメリカも入れろ」というのです。アセアン諸国はアメリカから自立するために作っているのですから、「アメリカを入れろ」といわれたんじゃあ困るので、結局日本は棚上げになってしまいます。実際にはアセアン+中国で、経済交流が進んでいます。いずれ2010年には、東アジア共同体・EACというものを立ち上げる、という動きになっています。

 そうなってくると韓国が困りました。日本・アメリカ側につくのか、中国・アセアン側につくのかで、2・3年前から中国側に大きく傾いています。留学生の数を見ると分かります。中国の北京大学には世界中の留学生が集まります。21世紀は中国と商売しなければメシが食えなくなることが分かっていますから、将釆、中国語がしゃべれる人が自国のリーダーになり、中国の指導者に友達がいないと困ります。それには北京大学に留学するのが一番いいのです。あそこはエリート養成学校です。この前行った時聞いてみたのですが、入学試験競争率5千倍だそうです。超難関です。大学の構内を歩いて見たのですが、広い敷地に6階建てのアパートが36棟ぐらい建っていて、みな学生寮です。全寮制。そばに教職員住宅があって、朝から晩まで共に暮らしながら勉強しています。授業は朝7時からです。ものすごく勤勉に勉強しています。

35年間私は大学の教員でしたが、愛すべき怠け者の学生諸君を教えてきたわが身としては、「あ、これはかなわないなァ、20年もしたら──」と思いました。向こうは国の総力を上げて次の時代の指導者を養成しているのです。日本はもう全然、ニートとかフリーターとかいって、若者の気迫がまるでレベルが違います。これは置いていかれるな、という気持ちになりました。このように世界中の国が、いま一流の学生を北京大学に送り込んでいるのですが、去年、北京大学留学生の中で一番数が多いのが韓国なのです。

 おととしまで韓国の学生は殆どアメリカヘ行っていました。去年あたりから中国へ変わったようです。つまり韓国は、21世紀の自国は、アメリカ・日本ではなく、中国・アセアンと組むことで繁栄を図りたい、と向きを変えたということです。

 それに拍車をかけたのが小泉首相の靖国参拝。これで韓国は怒っちゃってあちらを向いた。そうなると、アセアン、中国、韓国と繋がって、日本だけはずされてしまった、という状況がいま生まれつつあります。

 さらに中国は、数年前からいま、「ふりん政策」を国の方針としています。フリンといっても男女の不倫ではありません。富、隣。隣の国を富ます、隣の国を豊かにする──富隣政策です。隣の国と仲良くする。中国だけ儲けたのでは相手に恨まれてしまいます。英語では「ウィン、ウィン」(win-win)というようです。どっちも勝つ、中国も儲けるけど相手も儲けるような関係を必ず作っておく、ということが基本政策です。

 つまりアメリカは、やっとソ連を倒したと思ったら、今度は中国が出てきたのですから、中国を目の敵にしているのは当然です。中国にすれば、アメリカにやられないためには、単独では対抗できませんから、周りの国と手をつなぐ、ということです。

 アメリカは修正資本主義を止めて自由競争の資本主義に戻りました。その結果大企業・大資本は野放しになりました。そのためにアジアにそっぽを向かれることになりました。アメリカにはついていけない。アメリカに勝手にされては困る。もちろんアメリカと喧嘩をしては駄目ですが、自分の国は自分の国でやれるようにしなければならない──、というふうに変わったのです。

 そして最後に、3年前から南米が変わりました。ようやく日本でも報道されるようになりましたからご存じと思います。ただ日本のマスコミはちょっとしか書きませんから、気づいておられない方もおありかと思います。南米がものすごい勢いでアメリカ離れを始めたのです。

 今まで200年、南米はアメリカの裏庭といわれていました。アメリカはやりたい放題やっていました。チリは世界一の銅の産出国ですが、このチリの銅はすべて、アナコンダというアメリカの銅会社が一手で採掘していました。だからいくら掘ってもチリは豊かにならない。アメリカのアナコンダだけが儲かるのです。

 ブラジルは世界一の鉄の産地です。これもみな掘っているのは欧米の会社で、いくら掘ってもブラジルは豊かにならない。ベネズエラは世界第五位の産油国です。これもみなアメリカの石油資本が持っていく。

 こういう国はこれまで軍事独裁政権でした。政治家は、自分の国の資源をアメリカに売り渡し、自国の国民の反発は力で抑えつけ、莫大なリベートを貰って自分たちだけベラボウな贅沢をしてきました。これがアメリカと南米のパターンだったのです。

 それが、3年ほど前から、「おかしいではないか。やっぱりベネズエラの石油はベネズエラ人のものだ。石油を掘ったら、ベネズエラが豊かにならないとおかしいではないか。いくら掘ってもアメリカだけ儲けるのはおかしい。石油をアメリカの石油会社から取り上げて、ベネズエラで掘ることにしよう。国有化しよう」というような政策を訴える大統領が、当選するようになりまし。この3年間で、南アメリカは80%が、このような自主独立派の大統領になりました。アメリカ資本に任せず、自国の経済は自分でやろうという政策を掲げた大統領が、次々と当選したのです。

 いまでは、南アメリカでアリカの言いなりというのは、多分コロンビアしかないと思います。あとは殆どみな、自分の国は自分でやりましょというふうに変わってきました。ベネズエラのウゴ・チャベスという人がそのチャンピオンです。ご存じですね、時の人です。アメリカはそのチャベスの当選を必死になって妨害したのですが、結局ダメでした。チャベスが圧倒的多数で選出されました。その彼の言い分がふるっているのです。

 「失礼にならないようにアメリカから遠ざかりましょう」というのです。いきなり遠ざかったのではゴツンとやられますから、アメリカを怒らせないように、喧嘩しないように、少しずつ「小笠原流」で遠ざかって自主独立に向かいましょうというのです。

 これがいま世界の合言葉です。「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる。」日本もそうしなければいけない、と私は思っているのですが。絶対にやりません。

 こうやってアメリカは、ソ連や東ドイツがなくなってから、修正資本主義をやめて、いまの言葉でいえば「新自由主義」という仕組みに代わりました。日本はそれに右ならえしたのです。いま申し上げたように、このアメリカの新自由主義経済に無条件で追随しているのは、日本しかありません。あとはみな、「失礼にならないように」距離をおきました。

日本だけが無条件でついていきました。だから「ポチ」だといわれるのですネ、確かにポチと言われてもしょうがないほど、無条件でついていきます。それは恥ずかしいことですが、日本が追随していく。これが構造改革なのです。修正資本主義経済から新自由主義経済に変わるということです。簡単にいえば、弱い人の面倒を政府が見るような仕組みから、もう弱い人の面倒は見ませんという仕組みに、変わっていく──。これが構造改革です。

 だから、社会保障はどんどん悪くなる。自由競争で勝ち組と負け組がある。中には1千万ぐらいのマンション買って落ち着いているのもいる。片方には、国民健康保険料さえ払えなくて医者にも行けない。そういう人がもう全国で膨大な人数出てきている。まさに格差社会です。

 どんどんその格差が広がっています。金持ちからお金を取って弱い人の面倒を見る、というのが修正資本主義なのですが、それを止めてしまいました。野放しなのです。強い人はますます強くなり、弱いものは負けたら自己責任なんですよ。こういう仕組みにいま変わったのですね。

 それがいいか悪いか、止むを得ないのかどうかは、いろいろな立場によって考えが違うのですが、事実はそうなったのです。

 しかしヨーロッパは別の道をとっています。このように別の道もありうるというのも事実なのです。ヨーロッパのように社会保障を止めない資本主義もあり得るのです。

 日本の場合、アメリカほど徹底していませんが、流れとしては「政府はもう弱い人の面倒は見ません」、という方向に大きく動いています。


 こうして、アメリカは新自由主義経済で自国の企業を野放しにして、それを世界中に押しつけようとしたのですが、意外に抵抗が大きかった。ヨーロッパはいうことを聞かない。アジアも聞かない、南米も聞かない。これでは困るので力づくで押しつける。こういうことになるのですね。力づくで押しつける時に、最大の目標・ターゲットはもちろん中国です。やっとソ連を倒して、21世紀はアメリカが王様になれると思ったら、中国が巨大な国になってきて、アレリカの前に立ふさがっいます。このままではアメリカは王様ではいられません。中国を抑え込むことが21世紀へ向けてのアメリカの最大の長期的課題になっています。しかし戦争はできません。中国と戦争したのでは共倒れになります。唯一の道はエネルギーを抑えることです。

 ネオコンという人たちの書いた文章を読むと、非常にはっきり書いてあります。21世紀にアメリカが世界の支配権を握るには、中近東の石油を抑えなければならないというのです。中国は石油の自給ができません。どんどん石油を輸入していますが、殆どいま中近東から輸入しています。アメリカが中近東の石油を抑えれば、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなる。当然でしょうね。

 世界一の産油国サウジ・アラビアはすでにアメリカ側の国です。そこで第二の産油国であるイラクをアメリカは分捕りたいのですが、その理由がありません。そこでアメリカは「大量破壊兵器、テロ応援」という嘘をつきました。プッシュ大統領も、ついにウソであったことを認めました。

 ではなぜイラク戦争をやったのか。本当の理由はまだ公表されていません。しかしネオコンという人たちの文章を読むと、明らかに「石油を抑える。抑えてしまえば中国は言うことを聞かざるをえない」。ここに本当の理由があったことは明白です。そうだとすれば、恐ろしい話ですが、(次に)絶対にイランが狙われます。

 世界第1の産油国サウジアラビアは、昔からアメリカの同盟国です。第2位のイラクは抑えてしまいました。そしてイランは第3位の産油国です。ここを放っておいたのでは意味がないのです。中国はいくらでもイランから石油の輸入ができます。どうしてもイランまで抑えなければならないというのは、アメリカでは、いわば常識です。どんな新聞雑誌でも次はイランだということが堂々と語られています。

 ライス国務長官も3日前、「今イランに対するは軍事力行使の予定はない」と言っていました。「今は」です。イランは核開発やっているというのが理由です。たしかに妙な国ですが、しかし別に悪い国ではありません。あのあたりでは1番民主的な国です。曲がりなりにも選挙で大統領を選んでいますから。女性はみな顔を出していますし、大学へもいっています。イランは近代化した国なのです。サウジアラビアなどの国に比べたら、ずっと民主的な近代国家です。イスラム教のお妨さんが、選挙で選ばれた大統領より偉い、というのだけが変ですが、全員がイスラムですから、他国がとやかく言うことではないです。

 ですから、イランが悪魔の国というのは嘘なのです。イラクがそういわれたのも同じで、要するに悪魔の国と誤解させて、戦争しかけてもやむを得ないと思わせるための宣伝が行われているのです。

 イランはイランで、自分で自分他ちの国を近代化していけばいいのであって、核兵器持つなといっても、隣のパキスタンもインドも持っているのです。こちらのイスラエルもです。イランだけ持つなといっても、聞くわけありません。イランに持たせたくないのなら、「俺も止めるからあんたも」と言わなければなりません。「俺は持っている。お前だけ止めろ」と言ったってイランが聞くわけありません。そんな理屈が通るはずがないのです。実に馬鹿な理屈です。

本当にイラクに核開発をやめさせたいのなら、イギリスもフランスもアメリカも 「先ず自分が止める、だからお前も止めろ」と言うしかありません。お前だけ持つなと言って、聞くと思う方がどうかしています。核開発は現在の大国の論理では抑えられません。イランに言わせれば、「イラクがなぜあんなに簡単に戦争しかけられたかといえば、核兵器を持っていなかったからだ。持っていたら恐ろしくてとても戦争なんか仕掛けられない」ということになります。だからイランはいま核開発を急いでいるのです。核兵器を持たないとアメリカに攻められるから。そう思い込んでいるのです。

 そう思わせるようなことをアメリカはやってきたのですから、イランに核兵器開発を止めさせるためには、イラクから撤収して、中東の平和は中東に任せる、という姿勢を示すしかありません。自分がイラクを分捕って居座ったままで、イスラエルやパキスタンやインドの核兵器には文句をいわずイランにだけ、というのは通じない理屈です。実にゆがんだ国際常識というものが罷り通っている、と思います。

 もしアメリカがイランまで分捕ってしまえば、サウジアラビア、イラン、イラクと合わせて、世界の石油の70%ぐらいになるはずですから、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなります。だからつぎはイランだというのが、ネオコンの論理です。

 ただ問題は、イランに戦争を仕掛けるとしても単独ではできなません。兵隊がたりない。徴兵制ではなく志願兵制度ですから。いま、ありったけの兵隊さんがイラクに行っています。あれ以上いないのです。だからハリケーンが来ても出せなかったのですね。そうすると、イランに出す兵隊なんていないのです。そこで、アメリカの右翼新聞の社説など、堂々と書いています。「イラクにいるアメリカ軍でイランを乗っ取れ。カラッポになったイラクの治安維持は、日本にやらせろ」と。

 アメリカの論理から言えばそうなるのでしょう。自衛隊にイラクの治安維持をといいますが、実際は内乱状態ですから、今も毎日アメリカ兵は毎日5人位殺されています。そんなこと引き受けたら、自衛隊員何人死ぬか分かりません。第一そんなことは、憲法9条があるかぎりできないのです、絶対に。憲法があるおかげで、自衛隊はイラクにいますけれども、ピストル1発撃つことができないのです。憲法9条第2項というのがあるのです。自衛隊は戦力ではない・交戦権はないとなっていますから、不可能なのです。だから給水設備備を作るとか、学校修理とか、そういうことしか出来ません。これじゃあアメリカから見れば役に立たないのです。

 そこで、「9条2項を変えて、戦争ができる自衛隊になってくれ」というのがアメリカの強い要求なのです。みんな分かっています。言わないだけです。日本の新聞記者も知っています。しかし、「9条変えろ」がアメリカからの圧力、と書くと首になるから書かないだけです。でも誰も知っています。アメリカのに戦争に参加しなさい、という強い圧力がかかっているのです。

 ここのところをよく見極めておくことが必要です。

 アメリカと喧嘩しては駄目ですから、「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる」のが何よりも大切です。仲良くするけれども言いなりにはならない、ということです。

 ではもう駄目なのでしょうか。そうではないと思います。それには日本の国内だけではなく、世界に目を向ける、アジアに目を向けるこちとが必要のです。ご存じのように、これからの日本は、中国と商売せずには、生きていけなくなりま。いま、大企業だけですけど、多少景気がよくなってきています。全部中国への輸出で持ち直したのです。中国マーケットがなくなったら日本経済はおしまいだ、ということは誰も分かってきています。

 お手元の資料の中の(貿易額の)丸い円グラフは、2003年のもので少し古いのですが、アメリカ20.5%、アジア全体で44.7%、つまり日本にとって一番大事な商売の相手は、アメリカではなくてアジアなのです。

 アジアと仲良くしなかったら、経済が成り立たないところへ、いま既にさしかかっているのです。左隣の棒グラフは2004年ですが、左上から右に折れ線がずうっと下がってくる。これが日本とアメリカの貿易です。点線で右へずうっと上がっていくのが中国との貿易。遂に去年(2つの折れ線が)交差し、中国との貿易の方がアメリカとの貿易額より多くなりました。しかも鋏状に交差していますから、今後この2つは開く一方になってきています。

 つまり、あと2・3年もすれば、日本は中国との商売なしには生きていけない、ということが国民の常識になるということです。いま既に、中国を含めたアジアが、日本の一番大事なお客さんなんです。仲良くしなければいけません。一番大切なお客さんの横っ面ひっぱたいたんじゃ商売は成り立ちません。

 靖国参拝などというものは、一番大事なお客さんの横面ひっぱたくと同じことなのですから、個人の信念とは別の問題です。小泉首相は総理大臣なのですから、個人の心情とは別に日本の国全体の利益を考えて行動しなければいけません。それは総理大臣の責任だと思います。その意味でアジアと仲良ぐできるような振舞いをしてもらわなければ困るのです。

 もう一つ。アメリカとの商売はこれからどんどん縮小していきます。それは、ドルというものの値打ちがどんどん下がっていくからです。これはもう避けられません。

 昔はドルは純金だったのです。1971年まで、35ドルで純金1オンスと取り換えてくれました。だからドルは紙屑ではありませんでした。本当の金だったのです。

 われわれのお札はみな紙屑です。1万円なんて新しくて随分きれいになりましたけど、綺麗にしただけちょっとお金がかかって、印刷費に1枚27円とかかかると聞きました。27円の紙がなぜ1万円なのか。これは手品みたいなものです。あれが5枚もあるとなかなか気が大きくなるのですが、本当は135円しかないのです。それが5万円になるのは、法律で決めているのです。日銀法という法律で、こういう模様のこういう紙質のこういう紙切れは1万円、と決められている。だから、あれを1万円で受け取らないと刑務所に入れられます。法律で決まっているからです。ですから日本の法律の及ぶ範囲でだけ、あれは1万円なのです。その外へ出ると27円に戻ってしまいます。

 金と取り換わらないお札というのは、簡単にいえばその国の中でしか通用しません。他の国へ行ったら、その国の紙屑と取り換えなければ通用しません。ところが、ドルだけは世界で通用しました。純金だからです。

 ところが、1971年にアメリカはドルを金と取り換える能力を失いました。ベトナム戦争という馬鹿な戦争をやって莫大な軍事費を使ったのです。背に腹は代えられなくてお札を印刷し、航空母艦を造ったりミサイル、ジェット機を作ったりしたのです。そのために、手持ちの金より沢山のお札を印刷しちゃったのです。

 その結果、アメリカは、ドルを金と取り換える能力を失ったのです。そこで、71年8月15日、ニクソン声明が出されました。「金、ドル交換停止声明」です。あの瞬間にドルも紙屑になったのです。ドルが紙屑になったということは、ドルがアメリカの国内通貨になったということです。

 ところが、問題はそれ以後なのです。世界で相変わらずドルが適用したのです。皆さんも海外旅行へ行かれる時は、大体ドルを持って行かれますね。どこの国へ行っても大丈夫なのです。金と取り換えられないお札が何故世界で適用するかは本当に不思議で、経済学者にとって最大の難問なのです。いろんな人がいろんな答を言っていますけど、あらゆる答に共通しているのは、ひとつは「アメリカの力の反映」だから、ということです。

 つまり、日本が自動車を作ってアメリカヘ売ります、ドルを貰いますネ。日本は損をしているのです。自動車という貴重なな物質がアメリカへ行って、紙屑が返ってくるのですから。物が減ってお札だけ増えると必ずバブルになります。

 バブルの犯人はそこにあるのです。日本が輸出し過ぎて貿易黒字を作り過ぎているのです。だから日本は、アメリカに自動車を売ったら、「純金で払ってください」と言わなければなりません。ところがそう言うと、ジロッと睨まれてお預けになってしまいます。日本には米軍が5万人います。「アメリカのドルを受け取らないとは、そんな失礼なこと言うなら、在日米軍クーデター起こしますよ」、これで終わりなのです。黙って受け取ってしまう。だから日本は無限に物を提供し、無限に紙屑をもらう。こうしていくら働いても日本人の生活はよくならないのです。しかもその紙屑でアメリカの国債を買っています。アメリカに物を売って、払ってもらった代金をアメリカに貸している。言ってみればツケで輸出しているようなものです、現実に。アメリカにいくら輸出しても日本は豊かにならない仕組みになつています。

 2週間前に『黒字貿易亡国論』という本が出ました。有名な格付け会社の社長さんですが、「貿易黒字を作るから日本は駄目なのだ」、ということを詳しく論じたたいへん面白い(文芸春秋社の)本です。確かにそうだと思います。だからドルは、本当は受取りたくないのです。みんな紙屑なんです。だけど受け取らないと睨まれる。アメリカの軍事力が背景にあるのです。

 その力をバックにして、紙切れのお札を世界に通用させている。例えていえば──餓鬼大将が画用紙に絵をかき1万円と書いて鋏で切り、これ1万円だからお前のファミコンよこせ、とこれを取り上げる──のと同じです。いやだと言ったらぶん殴るのです。怖いから黙って渡して紙屑もらうことになります。その紙屑で、他の人から取り上げればよいのです。「お前のバイクよこせ、よこさなかったらいいつける」。「あの人、あんたの紙屑受け取らない」、するとガキ大将が釆て、ゴツンとやってくれる──。餓鬼大将の力の及ぶ範囲ではそれが通用するのです。

露骨にいえば、ドルがいま世界に適用しているのは、そういう仕組みが一つあります。

 もう一つは、ソ連の存在です。もし紙屑だからアメリカのドルを受け取らないといったら、アメリカ経済は潰れます。アメリカが潰れたらソ連が喜ぶ。だから紙屑と分かっていても受け取ってきた。ソ連に勝たれては困るから──。

 これも確かに一理あります。ということは、ソ連がいなくなって、紙屑は紙屑だということがはっきりしてきたのです。今まではソ連がいるために、紙屑なのに金のように適用したが、今や「王様は裸だ」というのと同じで、「ドルは紙屑だ」といっても構わない時代です。

 ともかくドルが危ないのです。私が言ってもなかなか信用してもらえませんが、経済誌『エコノミスト』、一流企業のサラリーマンなら必ず読んでいる雑誌すが、これの去年9月号が中国“元”の特集でした。その真ん中へんに「プラザ合意20年」という対談がありました。その中で、榊原英資さんは「5年以内にドル暴落」と言っています。

 榊原さんは大蔵省の元高級官僚で日米為替交渉の責任者を10年やりました。円・ドル問題の最高責任者だった人です。「ミスター円」といわれていました。通貨問題に最も詳しい現場の責任者です。停年で大蔵省をやめて今は慶應大学の先生になっています。この人が「5年以内にドルが暴落する」、つまりドルが紙屑だということが明らかになる日が近いと言っているのです。

 ソ連がいる間は隠されていたのですが、いまはもう、ドルは紙屑だから受取りたくないという人たちが増えてきています。これまでは世界通貨はドルしかなかったので、受け取らなければ商売ができなかったのですが、今ではユーロという代わりが出来てしまいました。ドルでなくてユーロで取引する国が増えてきています。そしてユーロの方が下がりにくい仕組みになっています。ドルは下がるのです。

 なにしろアメリカは、永いことドルが世界通貨ということに慣れてきました。だから自動車が欲しければ日本から自動車買って、アメリカは輪転機を回せばよいのです。紙とインクがあればいいのですから。ほかの国はこんなことできません。自動車が欲しければ、一生懸命働いて何か輸出し、その代金で輸入しなければならないのです。アメリカ以外の国は全部そうやっているのです。

 輸入は輸出と一緒です。輸入するためには輸出しなければなりません。ところがアメリカだけは輸出しないで輸入ができるのです。ドルという紙切れが世界通貨ですから。極端に言えば、欲しい自動車や石油を日本やアフリカなどから買って、紙とインクで支払う。実際そうして世界の富がアメリカに集まったわけです。

 71年以降の30年間、この仕組みのために、世界中にドルが溢れ出ました。ドルがどんどん増えますから、当然値打が下がります。こうしてドル下落傾向。(資料の一番下のグラフがそうです。円が上がっていく様子、為替取引だから短期的には上下しますが、長期的には間違いなく円高。ドルがドンドン下がるのは確かです。)これがあるところまでいくと、ガクッと下がります。

 あるところまでいくと、「ドルは信用できない、下がる通貨は持っていたくない」となります。ですからドルを受け取らない、ユーロか何か、別な、下落しない通貨でなければ受け取らないということが出てくる。そうなるとドルは暴落します──。榊原氏がそういっているのです。


ドルはアメリカでしか使われなくなる。そうすると、今まで全世界で使われていたドルが、みんなアメリカに集まって来るわけですから、アジア、ヨーロッパで使われいていたドルがみな戻ってきて、簡単にいえばドルの値打が3分の1に下がることになります。

 アメリカの生活は大きく収縮します。一家で3台自動車持っていた家は1台に。1台持っていた家は止めなくればならなくなる、ということです。

 アメリカ経済の収縮。これは大変恐ろしい話なのです。世界経済が大きく収縮し、日本経済は大きな打撃を受けます。しかし避けられない動きなのです。いつのことか分からないが、そう遠くない将来にドルの信用がドンと落ちていく。結果として日本がアメリカにだけ頼っていたら、大変なことになります。


新自由主義という方向、つまりアメリカ言いなりではなく、もっと自主的な経済ができるように、せめてヨーロッパのような修正資本主義、ルールのある資本主義の仕組みにもう一度戻すこともできるでしょう。

 日本中で、飢えている人、因っている人、貧しい人が、それでも人間らしく生きていけるような、最低限の保障ができる、生きる希望が出る──。そういう社会にすることが大切なのだ、と思います。これは長期的展望です。簡単にはできません。一度、新自由主義になってしまったので、10年位かかるでしょう。国民が賢くなって、正しい要求を政府につきつけていかなければいけません。その中心になる労働運動の再建が必要です。

 結局国民が主権者なんですから、国民の願いがかなうような、そういう日本に作り替えていきたいなと、そういう道を進んでいきたいなと思います。

 鋸南町は合併を拒否なさったというので、日本でも有数な自覚的な町といえます。合併するとまず住民自治がダメになります。大きくなるということは、住民自治が駄目になることでもあります。住民が主人公になる町こそ大切。ぜひこの美しい山と海と禄のある町で、1人1人が主人公であるような地域共同体というものを、みんなが助け合える町になることを私も希望して、講演を終わらせていただきます。
http://kyonannet.awa.or.jp/mikuni/siryo/2006/kawabata-kouen060114.htm


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

103. 中川隆[-13101] koaQ7Jey 2018年6月13日 10:55:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15406]

既に今の日本では、貧困地域の子供は漢字も読めなくなっている


【“貧困”無間地獄の現場】(05) 2003年『千葉少女墓石撲殺事件』の舞台――不良だらけの荒れた街が老人だけの枯れた街に


「貧しい昭和がこびり付いたような街」――

『最貧困女子』(幻冬舎新書)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%80%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E5%A5%B3%E5%AD%90-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E5%A4%A7%E4%BB%8B/dp/4344983610


で貧困問題を世に問うたジャーナリストの鈴木大介氏は、最貧困女子の出身地をそんな表現で語ったことがあった。


その1つが千葉市の千城台、正確には千葉市若葉区の千城台市営住宅団地だ。
言葉は悪いが、“最貧困女子の故郷”とでも言おうか。

地図
https://www.mapion.co.jp/m2/35.62610819,140.18221072,16


千葉駅からモノレールに乗り換える。タウンライナー(千葉都市モノレール)からは、新興のニュータウンと自然豊かな公園の景色が広がる。

約25分、終点の千城台駅に到着する。この街は以前、取材で訪れていた。

2003年10月に起こった『千葉少女墓石撲殺事件』である。犯罪史に残る陰惨且つ稚拙な事件。

風俗店(抜きキャバ)で働いていた16歳の石橋裕子さんが、偽装結婚していた夫(当時22歳)に離婚を切り出したところ、夫は地元の高校生ら5人と共謀し、石橋さんを墓地に連れて行き、歯形がわからなくなるまで殴りつけ、指紋を消し去る為に灯油で焼き殺した。

主犯の夫は、偽装結婚で戸籍をロンダリングしては、消費者金融からカネを借りる詐欺行為を繰り返していた。

当時、この夫は新しい相手と偽装結婚する予定だったが、身元不明状態では離婚できないと気付いて「自分の妻」と名乗りを挙げた結果、呆気なく御用となった。

事件の当事者たちは全員、市営住宅の出身者だった。
石橋さんの働いていた風俗店も千城台にあった。

次に偽装結婚する予定だったという別の16歳の少女を取材した。
彼女もやはり、市営住宅出身者だった。

彼女に事件をコピーした記事を見せた際、「漢字、読めないから」と言われて強い衝撃を受けた。

主犯の夫と族仲間だったという不良3人にも取材したが、やはり漢字が読めず、全員が無免許と自慢げに語っていた。

「21世紀の日本で、こんなことがあり得るのか…」。それが当時の印象だった。

千城台はニュータウンとして開発が進む一方、その裏手には古びた市営住宅団地が現存していた。夜ともなれば、漢字も読めないガラの悪い連中が団地から溢れ出て来る。治安の悪さでは、千葉でも屈指の場所と言われていた。その構図に、現在も違いは無い。

モノレールの駅を降りれば静かなニュータウンの表情を見せるが、古びた脇道を1本入れば、“貧しい昭和がこびり付いた街”がいきなり目の前に現れる。

この界隈の市営住宅の多くは、1960年代半ばから後半にかけて建設されている。
半世紀以上経っているのだから古臭くて当然だが、それでも以前の取材時には活気だけはあった。しかし、今夏に訪れた時、市営住宅は妙な静けさの中にあった。違和感を覚える。明らかに、2003年とは何かが違うのだ。

最も古い木造平屋建ての市営住宅に行く。犬の世話をしていたお婆さんが言う。

「ああ、今、ここは取り壊し前でね。半分以上があっちの新しい団地に移ったよ。私かい? ほら、この子(犬)がいてねえ。犬や猫を飼う為に残っているんだよ」。

このお婆さんが説明した通り、周囲の市営住宅の多くは新規建て替えや改修の真っ最中だった。「前に住んでいた若い人の多くも出て行ったよ」と寂しそうに語る。

夜になって、漸く違和感の原因に気付いた。周囲にコンビニが全く無くなっていたのだ。

駅前界隈は小中学校が揃い、市営住宅とニュータウンの住人合わせて1万人以上が住んでいる。明らかに異常だろう。プール帰りの小学5年生ぐらいの少女にコンビニの場所を尋ねたら、「あそこにあった」と潰れた店を指差された。

そう言えば、駅前にも赤提灯1つ無く、大手チェーンの居酒屋も無かった。
何とか探したところ、市営住宅の脇にスナックが2軒あるだけだった。

その1軒のマスターが言う。「この数年かな。駅前の飲み屋も全部、無くなったんだよ。前はキャバクラや風俗店もあったんだけど」。

私が「事件の影響ですか?」と尋ねると、「若い人が夜に集まりそうな場所は、警察が厳しく取り締まったからね」と頷きながら説明する。

客の1人も、「コンビニは、ほら、トイレで子供を産んで捨てた事件あったろ? あれ以降、どんどん潰れたんだよ」。

これは2011年、地元の20歳女性が千城台のコンビニで起こした事件のことだろう。

8月、お盆前だというのに、街に屯する不良たちが公園で花火に興じる様子も無ければ、暴走族が撒き散らす騒音も聞こえてこない。

マスターは、「兎に角、そういう若者はこの街から本当に消えたんだよ」と繰り返す。昭和の貧しさがこびり付いた街は、急速に変貌しているようだった。


「違法住人の楽園だった」。
市営住宅に暮らす60代の老人客が自嘲気味にそう語る。

母子家庭と言いながら夫と暮らす。夜の店で働きながら生活保護を受け、子供の給食費を払わない親たち。

毎日、パチンコをして飲み屋で暴れる――そうした“貧者の楽園”は消え去ろうとしているのだと、このスナックの客たちは誰もが実感している。

老人客が続ける。

「今、古い市営住宅は建て替え中だろ? 新しい市営に入れるのは、俺のような高齢の年金暮らしや生活保護は大丈夫だけど、以前のように20代の働き盛りで子供がいるとか、偽装結婚しているような家は契約を更新できないからな。だから、親が子を追い出しているんだよ。『お前らがいたら新しい市営住宅に住めないから』って」。

こうして、市営住宅から不良たちや若い層は消え、老人だけの枯れた街になりつつある。

“貧しい昭和がこびり付いた街”は、市の指導の下、健全且つ理想の街へと生まれ変わるのだろう。

12年前、主犯の夫と“偽装結婚”する予定だった16歳の少女の顔を思い出す。
漢字が読めず、「東京の都心は怖いので、夢は葛西に住むこと」と言っていた彼女は今、28歳となり、どこで何をしているのだろうか。

「(殺された石橋さんと)PUFFYの曲をデュエットで、朝までカラオケしたんだよ」。
そう嬉しそうに思い出を語っていた彼女は、既に都会の片隅で最貧困化しているかもしれない。

だが、その姿が顕在化することはないだろう。

夜8時過ぎ。千城台の駅から部活動で健康そうに日焼けした、或いは塾のテキストを持った学生たちと、ネクタイを締めたサラリーマンが続々と降りて来る。そして、小奇麗なニュータウンへと消えていった。 (取材・文/西本頑司)
http://mmtdayon.blog.fc2.com/blog-entry-1118.html?sp


千葉少女墓石撲殺事件とは、2003年(平成15年)10月1日に千葉市若葉区の墓地で発生した殺人事件である。


2003年10月1日の午前7時10分頃、千葉市若葉区の墓地駐車場で、ジョギングしていた男性が遺体を発見した。遺体は、若葉区千城台東の飲食店アルバイトだった少女(当時16歳)であった。

遺体は頭を鈍器で強く殴られて殺害された後、焼かれていた。
千葉県警は少女の夫で若葉区千城台西の運転手である男(当時22歳)を殺人の容疑で逮捕。共犯として高校3年の男子生徒(当時18歳)などを含む若葉区内の未成年の男子あわせて4人も逮捕した。


加害者と被害者の偽装結婚

被害者の少女は幼い頃は活発な少女で、中学時代はハンドボール部に所属していた。しかし部活を引退した3年の秋から性格が変わり始めた。不良グループと付き合うようになり、そこで後に自らを殺害する男に出会う。高校に進学するが、1年生の10月には自主退学し、以後はカラオケ店でアルバイトを始めた。

主犯の男は母親が再婚した義父と折り合いが悪く、家庭内で喧嘩を繰り返した。そして恐喝事件を繰り返し、高校1年の時には少年鑑別所送致にされる。18歳の時にはコンビニ強盗事件を起こして東北少年院送致となり、出所後も遊興費欲しさに窃盗事件を繰り返した。

少女はカラオケ店で働いたものの、給料面などから不満を持っており、水商売で働こうと考えていた。しかし18歳未満という年齢では働くことは不可能である。そこで男は自分との結婚を持ちかけた。結婚すれば成人として扱われるからである。ただし民法の上では成人扱いになるが、風俗営業法による規制から16歳で就職することは禁じられている。そして2人は2003年7月に婚姻届を提出し、少女はキャバクラで働き始めた。

ただし両者の間には恋愛感情は無く、2人の利害が一致したためでの偽装結婚に過ぎなかった。男は消費者金融に300万円に及ぶ多額の借金を抱えており、以前も別の女性と偽装結婚していた。女性の苗字を名乗って名前と戸籍を変更することで、消費者金融の借金を踏み倒そうとしていたのである。

しかし男は少女に結婚した見返りとして上納金を要求する。少女は初めこれに応じたが、次第に金銭トラブルを引き起こすようになり、遂に少女は偽装結婚を警察に通報すると言い出す。男は以前に起こした詐欺の事件で執行猶予中であった。

これが通報されれば猶予を取り消される可能性もあり、口封じを決意し、仲間の未成年4人を「自分たちの起こした窃盗事件を少女が警察に通報しようとしている」と騙すことで犯行に加わらせ、2003年10月1日午前3時過ぎに駐車場内でハンマーで少女を順番に殴りまわしたうえ、重さ70キロもある墓石用の石材を少女の顔に何度もたたきつけて殺害した。

そして少女の遺体にオイルを10数本もかけて火をつけて逃走したのである。
後に少女を発見した男性の証言では、発見したときには少女の遺体の上半身が炭化しており、まだ火もついているという状態だったという。


逮捕と裁判

事件発覚後、男は自ら警察に情報を提供して自分に疑いがかけられないようにした。またマスコミのインタビューにも悲痛な発言をすることで被害者を装っていた。

しかし警察は男と少女の偽装結婚をつかみ、さらに近所のスーパーやコンビニで大量にライターオイルを購入または万引きする男と少年らの防犯カメラの映像を入手して、男と少年らを逮捕する。男は最初容疑を否認していたが、少年4人が犯行を自供したため、遂に男も犯行を認めた。

2005年2月23日、千葉地裁で判決公判が開かれ、「暴行は想像を絶する残虐さ」、「自己中心的で幼稚極まりなく、動機に酌むべき点は無い」、「確定的殺意に基づく極めて残虐な犯行で、矯正は不可能」として、求刑通り無期懲役となる。4月19日に控訴を取り下げて刑は確定した。

また、未成年の少年らも、殺害と遺体損壊に加わった3人を5年から10年の不定期刑に、遺体損壊に加わらなかった1人を3年半から7年の不定期刑に処して確定した。こちらも「残虐な犯行」、「遺体損壊に対する悔悟の念が感じられない」とされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B0%91%E5%A5%B3%E5%A2%93%E7%9F%B3%E6%92%B2%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6


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格差の次には「何がくるのか」を日本人は理解しているか?

現代社会では、経済格差がどんどん広がっている。最初は少しの差であった格差は、やがては1000倍も2000倍も、いや1万倍も2万倍も開いて、もはや貧困層がどうあがこうが克服できないものとなる。

そして、この極度なまでの経済格差が定着すると、その後に何が来るのか理解しているだろうか。

それは、もちろん「階級」である。

世界の多くの国では、ひとつの国家が見えない層(レイヤー)で区分けされている。経済格差の層である。この経済格差の上と下とでは生活も文化も考え方も違う。場合によっては話す言葉までもが違ってくる。

メキシコでも、ブラジルでも、アメリカでも、イギリスでも、安全な地域と危険な地域は明確に分離して存在している。

分かりやすく言えば、金持ちたちが集う地域は安全だ。そして貧困層が集う地域は治安が悪い。だから金持ちは貧困層がいる地区には決して足を踏み入れないし、逆に貧困層が金持ち地区に行っても警備員や警察に追い出される。

それが定着すると、世界中どこでも貧困層と富裕層は自然に、明確に、完全に分離し、長い年月を経て同じ民族でも違う文化や生活になってしまうのだ。


何もかもが分離し、お互いに接点が極端になくなる

一億総中流の意識がまだ多少でも残っている日本人から見ると、これは階級、身分、差別があるという認識になる。その通りだ。凄まじい経済格差が定着すると、自然に「階級」が生まれて上と下で分離するのだ。

今の日本はそうではない。確かに経済格差は広がっているが、まだ極端ではない。だから、たとえば金持ちが住む地域の住民がそうでない地区に行かないということはないし、その逆もまた然りだ。

しかし、問題はこれからだ。日本は、今のような平等社会を維持できるのだろうか。経済格差が広がるだけ広がって、それが社会に定着してしまった場合、日本もまた「階級社会」になってもおかしくない。

グローバル化は確実に「格差のある社会」を作り出す。それは間違いない。時間の問題なのだ。だから、将来の日本は今までと違う世界になる可能性がある。

日本人も富裕層と貧困層で分離する。

富裕層と貧困層で分離するというのは、住むところも、通う学校も、付き合う人間も、行きつけの店も、持ち物も、食べる物も、やがては話し方も、すべてが違っていくということだ。

何もかもが分離し、お互いに接点が極端になくなっていく。

教育で言うと、貧困層は親の資金面から安い学校にしか通えなくなり、ここで富裕層と貧困層の子供たちが分離される。富裕層の子供たちは質の良い教育を行う私学に通い、教育に理解のある親と熟練した教師に守られて学力を伸ばす。

一方で貧困層の子供たちは親の理解もなく、給料が安くてやる気のない教師の教育を受けて、教育の質が落ちて学力も低下していくことになる。塾にも通う経済的余裕もない。

公立校ではどんなにやる気のない生徒、問題生徒、非行生徒がいても学校から放逐できないので、しばしば学級崩壊も起きて授業がストップしたりする。

だから、富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。

気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。


富裕層の子供たちが学力を上げる環境の中で貧困層の子供たちは学力を落とし、名門校にはなかなか入れない構造的な問題が発生する。気が付けば、学歴で大きなハンディが生まれていく。


格差を生み出すことになるのは目に見えている

さらに地域で見ると、ある地域に貧困層が多くなっていくと、地価が下がってますます貧困層が流れ込んでいく。そうすると、不動産価格の下落や環境の悪化を嫌って、富裕層が少しずつ、しかし確実に抜けていく。

そうすると、ますます貧困層がその地区を埋め尽くすようになっていく。一方で、富裕層が集まるところは地価が上がって貧困層が住めなくなる。これで人々が分離される。

職業で言うと、富裕層の子弟が卒業する大学卒の勤める職種と、貧困層の勤める職種も違っていく。入れる企業も違い、同じ企業でもエリートクラスと労働者クラスに分かれてこのふたつは交差しなくなる。

この格差は、一度下に落ちると、容易に這い上がれない地獄の格差になっていく。

日本はいずれ、遅かれ早かれそのような社会になる。これについては、多くの社会学者、経済学者、政治家たちが警鐘を鳴らし、危険を訴えている。

誰のせいでこんなことになったのか。全世界がこのようになっているのだとすれば、誰のせいでもなく、現在の社会構造が生み出しているというのが分かるはずだ。

弱肉強食の資本主義が、このような社会現象をどんどん増長させて止まらないのである。強いて言えば、グローバル化を無批判に取り入れた政治家や大企業が悪いということになる。

しかし、日本を鎖国化したら大丈夫なのかというと、それはそれで日本全体が孤立化して北朝鮮のように困窮するだけだ。取り入れても拒絶しても問題が発生するのである。

日本はもうとっくの前にグローバル化を完全に受け入れた。これからも、どんどん受け入れていくことになる。それがさらなる格差を生み出すことになるのは、目に見えている。

もはや、格差が日本国民を分離してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまう。1%の金持ちか、それとも99%の貧困層か。

そして、「階級」の上か下か……。


もはや、格差が日本国民を分離してしまうのは避けられない事態だ。私たちはどちらかに分けられてしまう。1%の金持ちか、それとも99%の貧困層か。そして、「階級」の上か下か……。


日本社会はこれから階級で分離していくことになる

問題は、貧困層に落ちた人は、もはやその子供もまた貧困層になってしまうことだ。個人の努力云々の話ではない。子供たちはスタート時点から極端な差を付けられており、貧困から抜け出せない。

日本がそんな社会になることは、高齢層よりも若年層の方が切実に感じ取れるかもしれない。

日本は若者の自殺が多い国だが、それは就職活動を行っている段階から、多くの企業に断られ続け、自分たちが社会から必要とされていないことを悟ってしまうからでもある。

就職できても生活していくことができないほどの給料だったり、不安定な身分だったりすることも多い。それで必死で働いても、身体を壊して使い捨てされる。

彼らの多くは、自分たちが貧困に生きるしかない現実を突きつけられている。当然、無理して結婚して子供を作っても、子供が貧困で暮らすことになることくらいは容易に想像がつく。

だから、結婚して子供を作るということすらも逡巡する社会と化している。

日本は超少子高齢化となっており、減り続ける子供と増え続ける高齢者のアンバランスで国家の社会保障費に問題が生じているのだ。

これから日本は、過酷な増税、削られる医療費、延長される年金受給年齢などがすべて同時並行で起きて、国民は痩せ細っていく。

国家はない袖を振れない。企業も終身雇用を捨てた。そのため、ごく普通の人が、年々転がり落ちるように貧困化する。

周辺国との軋轢、憎悪の連鎖、グローバル化の加速、格差の定着、若者の貧困化、超少子高齢化……。すべては、弱肉強食の資本主義が生み出したものであり根は一緒なのだ。

これらの問題が最後まで暴走していく中で、日本でも経済格差が「階級」を生み出して、上と下とではまったく違う文化の中で生きることになる。

格差で騒いでいる段階は終わった。次は階級社会に突き進んでいくのを、日本人は理解しておくべきだ。日本社会は階級で分離していくことになる。


日本でも経済格差が「階級」を生み出して、上と下とではまったく違う文化の中で生きることになる。格差で騒いでいる段階は終わった。次は階級社会に突き進んでいくのを、日本人は理解しておくべきだ。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170831T0331260900.html




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国の中の90%以上の女性が文字をまったく読めないとしたら?

ひとり当たりの年間所得が最も少ない国をIMFの2016年のデータから拾い上げると南スーダン、マラウイ、ブルンジ、中央アフリカ、マダガスカル、モザンビーク、ニジェール、ガンビア、リベリア、コンゴ……と続く。

ここで上げた国は、人が貧しいというよりも国そのものが極貧にあって、経済発展はなかなか厳しいものがある。

もうほとんど報道されなくなっているのだが、南スーダンでは国土の6割が戦乱地区と化しており、中央アフリカでもコンゴでも大量虐殺が続いている。

アジアでも、アフガニスタンやネパールは非常に貧しい地区であり、EU(欧州連合)には、アフガニスタン難民も大量に入り込んでいるのはあまり知られていない。

政府が脆弱な国は、貧困が蔓延している。戦争が吹き荒れる国もまた貧困が吹き荒れる。

その結果、多くの人たちから教育の機会が奪われる。

生きるか死ぬかの瀬戸際で、人々が安全な地区を目指してさまよい歩いているような地区で、あるいは教育を与える必要がないという声が支持される地区では、意図的に教育の機会が踏みにじられるのだ。

中でも、女性の教育が犠牲になることが多い。


人材を作るには、教育に力を入れる必要がある

途上国では、誰がリーダーになっても、経済を立て直し、貧困を撲滅するのは非常に難しい仕事になる。

途上国のあらゆる問題は貧困から来ている。そして、その貧困のあらゆる原因は、インフラや汚職や内戦や先進国の収奪から生まれている。

豊かな国だったとしても、一度、国が衰退してしまうと立て直すのが難しいのは、歴史を見ると分かる。

日本は第二次世界大戦の敗戦で、国は焼け野原になってほぼ壊滅したも同然だったが、そこから奇跡的な復興を遂げて現在がある。

しかし、こういった奇跡は「例外中の例外」だ。普通は、国が壊滅すれば、その後は何十年も立ち直れないのである。

国が回復するには、経済が回らなければならない。経済が回るためには人材や資源が必要になる。資源があるかどうかは、その国の運次第だ。資源がないのであれば、人材を強化するしかない。

人材を作るには、教育に力を入れる必要がある。

ところが貧困国は、底なしの貧困ゆえに教育制度が破綻していることが多い。それならば、教育に金をかければいいという話になるのだが、ここにひとつ問題が発生する。

教育の成果を見るには、長い時間がかかるということだ。

1年や2年ではない。10年も20年もかかるのだ。だとすれば、任期が数年の政治家が教育に力を入れ続けるのは、相当な意思と覚悟が必要になる。

どこの国でも、教育の大切さを自覚する政治家は少ない。

教育はいつも置き去りにされる。「女性に教育は必要ない」と決めつけるアフガニスタンのような国もある。

アフガニスタンはわざわざ作られた女子学校を、イスラム原理主義のタリバンが叩き壊して回っている。

このタリバンのイスラム主義はパキスタンにも広がっているのだが、だからパキスタンの地方都市でも女子学校の破壊やテロが起きたりしている。

さらにこのような動きはナイジェリアでも広がり、テロ集団ボコ・ハラムが女子学生を大量拉致してイスラム原理主義に洗脳したり、自爆テロに使ったりするようにもなった。

そこまでして教育を奪おうとしている国もあるのだ。


アフガニスタンはわざわざ作られた女子学校を、イスラム原理主義のタリバンが叩き壊して回っている。このタリバンのイスラム主義はパキスタンにも広がっているのだが、だからパキスタンの地方都市でも女子学校の破壊やテロが起きたりしている。


90%以上の女性がまったく文字を読めない国もある

教育の機会が奪われたら国はいつまで経っても立ち行かない。これは、多くの途上国が共通して抱えている問題である。

教育がしっかりしていれば、その国は立ち直る余地はある。あるいは、すべてを失っても成長する余地がある。

どんなに国が傾き、経済破綻し、暴力・麻薬・売春が吹き荒れ、汚職が蔓延していたとしても、教育がしっかりしていれば嵐の中で芽が育つ。

逆に、教育自体がおざなりになっていたり、荒廃していたり、教育行政が破綻していたりすると、成長している国であっても、次世代の衰退は間違いない。

何を差し置いても教育に力を入れる風土があれば、その国は助かる。そうでないのであれば、その国の政治家が一時的に何かをやっても、結局は貧困に戻っていく。

教育は軽く見てはいけない問題だ。なぜ貧困層がそこから抜け出せないのか。

それは教育を受けていないからだ。

教育を受けても成功するとは限らない。しかし、教育を受けていなければ、スタート地点にすら立つことができない。

先進国にいると、文字が読めて、計算ができるというのは当たり前のように思えるかもしれない。しかし、それは当たり前のことではない。教育の成果だ。

日本の識字率は99%なので、国民のほぼすべてが文字が読める状態である。だから、文字が読めない人がいるというのが信じられないかもしれない。しかし、途上国では想像以上に文字が読めない人が多い。

たとえば、教育を奪われているアフガニスタンでは、女性の識字率は17.6%であると言われている。これを逆に言えば、女性の82.4%が文字が読めないということだ。自分の名前を読むことも書くこともできない。

国民の85%がイスラム教であるギニアでも女性の教育がほとんど為されておらず、女性の87.8%が文字を読めない。やはりイスラム教が圧倒的大多数を占めるニジェールに至っては、女性の91.1%が文字を読めない。

国の半分を占める女性が無教育なのであれば、国の半分は知的能力を必要とする現代社会で落ちこぼれるということだ。これでは国の再建や発展どころではない。


幼少の頃にきちんと教育を受けていれば……

インドでもカンボジアでもバングラデシュでもインドネシアでも、文字が読めない人たちは想像以上に多い。

私が知り合ったインド・コルカタの物乞いの女性たち、あるいはコルカタの売春地帯にいた女性たちも文字が読めなかった。

(書籍『絶対貧困の光景』インドの取り残された女性たち)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20140610T1741180900.html


彼女たちは知的能力が劣っていたわけではない。現に、彼女たちはヒンディー語を話す以外に、英語もきちんと話して欧米人と会話もできる。

文字は書けないのだが、ストリートで覚えた英語を駆使して欧米人と渡り合っている。もし、彼女たちが幼少の頃にきちんと教育を受けていれば、何十年も物乞いで生活していなかったかもしれない。

彼女たちに欠けていたのは教育だということが分かる。教育の機会がなかったのだ。

教育を受けると、物事を判断したり、分析したり、専門を極めていくことが可能になる。それもまた、貧困から抜け出すのに重要な要素である。

教育と言っても大学で学ぶような高度な専門知識の話をしているわけではない。読み書きソロバンの基礎的な教育の話をしている。それすら受けられないと、何もできない。

何しろ、名前も書けず、計算もできないのだ。そうなると、仕事は単純労働でしかない。単純労働の賃金は、どこでも最低賃金そのものだ。

最低賃金で生きていても、貧困から抜け出すことはできないのだ。字が読めないし書けないのだから、できる仕事は限られてしまう。賃金をごまかされても、計算ができないから抗議すらもできない。

また、世の中の仕組みはすべてドキュメント(書類)によって記されている。契約書も、賃金明細書も、請求書も、何もかも書類に記されて、そこには文字が書かれている。

それらの書類が読めず、意味も分からなければ、自分の置かれている立場すらも分からないままだ。やはり抑圧されたままの人生を送るしかなくなる。

国はどれだけ多くの国民に教育を受けさせることができるか。自分や子供たちは教育に接することができるか。そして、教育はどれだけ適切で実用的か……。

それが、貧困撲滅の鍵を握っている。しかし、多くの国でそれが理解されない。その結果、貧困が永遠に続いていくことになる。


教育を受けても成功するとは限らない。しかし、教育を受けていなければ、スタート地点にすら立つことができない。教育がきちんと続かなければ、彼女には将来がない。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170829T0223580900.html



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104. 中川隆[-13112] koaQ7Jey 2018年6月13日 11:18:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15418]

学歴重視の社会はグローバル化でより強化されて極端化する


2018年1月22日。国際NGOオックスファムは「世界人口の1%にあたる富裕層が1年間に生み出された富の82%を独占した一方、所得の低い人口の約半分は財産が増えなかった」という報告を出している。

相も変わらず、格差は広がり続けている。

この弱肉強食の資本主義では、貧しい家庭に生まれるか、豊かな家庭に生まれるか。貧困国で生まれるか、先進国で生まれるか。それだけで人生はまったく違ってしまう。

先進国の富裕層の家庭で生まれれば、経済的な苦労はしない。親の資力や人脈をフルに使って、親と同様に豊かで実りある人生を築き上げることができる確率が高い。

しかし、その逆も然りである。貧困層に生まれれば、親と同様に、貧困の中で喘ぎ、這い上がりたくても這い上がれないことが多い。

これを「貧困の悪循環」というが、国の貧困、親の貧困は、子供にも引き継がれやすい。

もちろん、最初は貧困状態であっても、一生懸命努力し、アイデアと、実行力と、不屈の精神で金持ちに成り上がっていく人も、世の中にはたまにいる。

そういった人の人生は、多くの貧困層を力づけ、大きなモチベーションの元になる。アメリカ人は特にそういった「成り上がり」の物語が大好きだ。


子の世代が親の世代と同じ階層にとどまる確率

アメリカ人の持つ人生観は、最初は何もなくても、そこから自分の才能や努力でポジティブに成功をつかみ取っていくという「アメリカン・ドリーム」で成り立っている。

しかし、このアメリカン・ドリームは、どんどん難しくなっているのだと経済学者は指摘するようになっている。

ウィートン大学の経済学者であるジェイソン・ロング氏もそのような主張をする人のひとりである。

アメリカは、貧困世帯の子供たちが中流層や富裕層に移動する割合が高いと思われているが、実際に「世代間所得弾力性」を数値化してみると、子の世代が親の世代と同じ階層にとどまる確率の方が高かった。

つまり、親が貧困であれば子供もまた貧困で終わる。

もう、アメリカはチャンスの国ではなくなっている。親が貧困層でも、子供が中流になる確率は、現代ではむしろ、中国、インド、南米諸国のような新興国の方が高いというのが、ジェイソン・ロング氏の分析だった。

「米国人は今でも自分たちは移動性が極めて高いと信じているが、それは真実ではない」

ここで発言されている「移動性」というのは、貧困層から中流以上に「移動」する世代間移動を指している。主要先進国の中では、イギリスが最も世代間移動が低い。

すなわち、イギリスでは、貧困層の子供は中流に成り上がるのはとても難しい。イタリアもまた、そのような硬直した社会である。

アメリカン・ドリームという言葉によって希望に満ち溢れていたはずのアメリカもまた、現代では貧困の固定化が進んでいて、成り上がれない社会になりつつある。

資本主義がグローバル化すればするほど、そして企業の合理化と効率化が進めば進むほど、その傾向が高まっていく。


学歴社会がアメリカン・ドリームを難しいものに

ここで注意しなければならないのは、資本主義そのものは別に階級を固定化させているわけではないので、今でもアメリカン・ドリームを実現する人たちは存在するということだ。

貧困層が中流に成り上がっていく物語は、今も消えていない。

しかし、かつては努力と根性で何とかなったアメリカン・ドリームは、もうそれだけではどうにもならないほど難しいものになっているのが現状なのだ。

これには、多くの理由がある。

その理由のひとつとして経済学者の誰もが指摘するのは、アメリカが明確な学歴社会と化して、学歴のない人間は「良い仕事」を見つけるのは絶望的に難しくなっていることが挙げられる。

良い仕事に就くためには、良い大学に行く必要がある。とにかく大学を卒業するのが必須だ。しかし、その大学に行くためには莫大な費用がかかる。

アメリカの有名大学では、だいたい年間600万円以上かかるので、4年間通えば2400万円以上も必要になる。これだけの金を出せる家庭は中流階級でもなかなかいない。奨学金制度もあるが、誰もがもらえるわけではない。

そこで学生ローンを利用して大学に通うことになるのだが、貧困家庭では、そもそもその学生ローンですら組めない。

かくして貧困層は大学から閉め出され、良い仕事から閉め出され、努力と根性で何とかなったアメリカン・ドリームは遠くに消え去ってしまった。

ちなみに、中流階級でも、無理して学生ローンを組んで大学を卒業しても、たまたま不景気でまともな仕事が見つからないと、借金を抱えたまま首が絞まって「成り上がる」どころか、貧困層に堕ちていく確率が高まる。

アメリカではアメリカン・ドリームを実現する人たちよりも、貧困層に堕ちる人たちの方が増えている。


どこの国でも、アメリカと同じ傾向が進んでいる

実は、グローバル化した社会では、アメリカだけではなく、どこの国でも同じ傾向が進んでいる。人々は国境を越えてビジネスを行い、外国企業に就職し、異国で生活するのが当たり前になっている。

多国籍企業は、その人材の良し悪しはまずは学歴を見る。有名大学、ブランド大学の卒業であれば優秀であると、だいたい学歴を見れば判断できる。

だから、世界的に学歴社会がこれから進んでいき、それが標準になっていく。

この傾向が進めば、経済的な理由や、家庭環境によって学歴が持てなかった人間は、どんどんドリーム(成り上がり)から排除されていくことになる。

「貧しい者は、貧しいまま終わる」という身分の固定化が進み、それが格差となり、長い格差の時代は階級(クラス)の固定化につながって「身分制度」同様になっていく。

(1)資金力の欠如で大学に行けない。
(2)好待遇・高賃金の仕事に就けない。
(3)低賃金の仕事を余儀なくされる。
(3)結果として貧困に落ちる。
(5)貧困に落ちたらそれが固定化される。

社会はより高度に複雑化していく。そのため、今までも珍しくなかったこのような格差は、グローバル化した社会でより強化され、徹底され、先鋭化し、極端化する。

日本でもそうだ。資金力の欠如で大学に通えず、低賃金の仕事から抜けられず、貧困層のまま推移し、貧困の固定化が身分制度のようになりつつある。

好待遇・高賃金の仕事に就けた者はその資金を投資に投じてますます資産を膨らませ、一方で貧困層は資産を増やす元手すらも貯まらない。

かくして、「世界人口の1%にあたる富裕層が1年間に生み出された富の82%を独占した一方、所得の低い人口の約半分は財産が増えなかった」という社会が出現したのだ。

私たちは、いつの間にかその中で生きていることに気付かなければならない。

良い仕事に就くためには、良い大学に行く必要がある。良し悪しに限らず、とにかく大学を卒業するのが必須だ。しかし、その大学に行くためには莫大な費用がかかる。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/01/20180126T1725560900.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

105. 中川隆[-13117] koaQ7Jey 2018年6月13日 11:42:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15424]

学校は「労働者養成所」なので、資本主義の秘密は教えない

グラフィック・デザイナーと建設作業員の共通点は何か。プログラマーと通信販売受付スタッフの共通点は何か。玩具店店員と図書館司書の共通点は何か。生命保険外交員と国税専門官の共通点は何か。

資本主義社会の中で言うと、これらはすべて「労働者」であるということだ。

労働者と言えば、溶接工や土木作業員や金型工のような仕事に就いている人だけを指すような感覚を持っている人がいるかもしれないが、それは大間違いだ。

サラリーマンは言うに及ばず、プログラマーも、ネイリストも、ウェブデザイナーも、アニメーターも、メイクアップアーティストも、インテリア・コーディネーターも、みんな資本主義の中では「労働者」である。カタカナの仕事に就いたら労働者ではなくなるわけではない。

仮に機械組立工の仕事をしている人が、明日からネットワーク・エンジニアになったとしても資本主義から見ると、労働者が違う仕事の労働者になったというだけで何も変わっていない。

中華料理のウエイトレスがフライトアテンダントになっても、労働者が仕事を変えたというだけで、依然として労働者のままである。


資本主義の正体とは、ひとことで言うと何か?

労働者とは何者かというと、「他人に雇われて働く者」という意味である。他人に雇われているという状況が変わらない限り、どんな仕事に就いたとしても、それは労働者というカテゴリーで一括りにできる。

労働者は「会社」に雇われていると考えるのだが、その「会社」には所有者がいる。その所有者のことを「資本家」という。

だから正確に言えば労働者は「会社に雇われている」のではなく、「資本家に雇われている」と認識しなければならない。

会社を所有している資本家が、会社という組織を通して労働者を雇って働かせているというのが資本主義の姿である。

ほとんどの労働者は労働者としての人生をまっとうするので、なぜ資本家が労働者を雇うのか、あまりよく考えない。なぜ資本家は大勢を雇って「賃金」という名の金を労働者にばらまいているのか。

それは労働者が生み出す労働の対価よりも賃金を安く抑えて、残りを資本家が手に入れることができるからである。

たとえば、非常に有能なサラリーマンが1億円の仕事を取ってきても、年収は1000万円だったりすることも珍しくない。残りの9000万円はどこにいったのか。会社が持っていった。つまり、その会社の所有者である資本家が持っていった。

経費等を抜きにして考えると、この場合は労働者の仕事の対価は10%が労働者に、90%が資本家にいったということになる。カール・マルクスはこの現象を「搾取」と呼んだ。

資本家が労働者を雇う理由がここにある。労働の対価を搾取できるから資本家は労働者を雇うのだ。逆に言えば搾取できないのであれば資本家は労働者を雇わない。

労働者が常に生きていくギリギリの給料しかもらえず、資本家がどんどん金持ちになっていくのは、今も昔も搾取の構造が依然として残っているからに他ならない。

「資本主義の正体」を難しく考える必要はない。資本家と労働者と搾取の3つを覚えておけば、その本質を正確につかめたことになる。他のことは枝葉末節だ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/04/20170430T1444200900.html

ワーキングプアは這い上がれない理由は「これ」がないから


国税庁の「民間給与実態統計調査」では、2015年の平均年収は約420万円なのだが、4人に1人は年収200万円以下という憂慮すべき結果になっている。

その中で非正規雇用に限って言うと、男性約226万円、女性約147万円で、平均年収の半分以下となる。正規の仕事を捜しても見つからないと非正規雇用で妥協するしかないが、そうなると凄まじく厳しい生活が待っている。

こうした層を「ワーキングプア」と呼ぶのだが、働いても働いても豊かになれないワーキングプアは今後も減ることは決してない。

なぜなら多くの企業は無駄にコストがかかる正社員を絞るようになり、非正規雇用を増やして労働者を「使い捨て」するようになっているからだ。

「使い捨て」というのは、月単位、あるいは週単位、日単位で働く人との契約をいったんリセットするということだ。

必要であれば次も雇うし、必要なければそのまま切り捨てるということを意味する。企業はそうすることによってコストを微調整することができるようになる。


長い人生を生き延びるために押さえるべきポイント

IT化によって企業はコストが秒単位で読めるようになり、それによって雇用の調整もできるようになった。だから、労働者は月単位で増やすか減らすかを決められる。

そうなると、雇用が安定しない労働者はいったん不況が来れば雇ってもらえない状況が続き、安い給料でも甘んじて受け入れるしかなくなる。それがワーキングプアを生み出す。

ワーキングプアの最大の問題点は、その月の仕事はその日や長くても月末に精算されて、その時点で評価も成果も消えてしまうことだ。つまり、仕事において評価も信用も成果も「積み上げる」ことができない。だから昇級もない。

人生は短く、やり直しがきかないので、「積み上げる」ことができるかどうかは意外に生きる上での重要なポイントになる。

何にしろ、毎月毎月ゼロからのスタートを強いられるよりも、過去の生き方や仕事が、きちんと現在に評価や信用に「積み上げられる」方が有利に決まっている。

(1)生き方が首尾一貫していること。
(2)経験や仕事が「積み上げられる」こと。

ワーキングプアはそれができないことに問題点がある。仮に自分がこの仕事で生きたいと思っても契約が頻繁にリセットされるので、信用も成果も「積み上げ」ができない。だから生き方に首尾一貫性を持つことさえもできない。

非正規雇用では自分の意志に反して、まったく違う職種に回されることも珍しくない。そうなると仕事もゼロから覚えなければならない。

そして仕事を何とか覚えた頃にはまた契約が切れて、他の現場に回される。さらに積み上げても意味がないような単純労働的な仕事ばかりを強いられることも多い。

つまり、仕事に関しては永遠に初心者であることを強いられて、這い上がれない仕組みにハマる。こんな状況をどんなに長く続けても追い詰められるだけだ。

生き方に軸を持てず、経験や仕事を積み上げできないというのは本人にとっても社会にとっても不幸なことである。


無駄がなくなれば、生きやすくなるのは当然のこと

別に首尾一貫していなくても、積み上げる仕事がなくても、生きていけることは生きていける。現に、行き当たりばったりで生きている人もたくさんいる。

若いうちは試行錯誤も必要で、いろんなことを試すのも重要だ。しかし早くから自分の適性や才能を見極めて、一貫した方向性があれば試行錯誤が短くて済む。

自分の人生の目的が定まり、一貫した方向性があれば、自然とやっていることに無駄がなくなるのだから、生きやすくなるのは当然のことだ。

人生の早いうちから一貫した方向性が決まれば幸運だ。なぜなら、やることがすべて「積み上がる」からである。

この「積み上がる」というのが馬鹿にならない。

たとえば、あるときは建設現場のとび職をやって、あるときは工場の単純作業をやって、あるときはトラックの運転手をやって、あるときは飛び込みの営業マンをやっている人がいるとする。非正規雇用では珍しくない経歴だ。

この人の経歴は多彩かもしれない。しかし、そこに一貫性も方向性もないので、何かをやるたびに新しい現場でゼロからのスタートになる。

前職の経験で得たものがあるかもしれないが、あまりにも関連性がないので経験が無駄になる可能性の方が高い。つまり、「積み上がり」がない。

この人とは別に、ある人はプログラマーをやって、あるときはシステムエンジニアをやって、あるときはサーバー管理をやって、あるときはIT専門の講師をやっていたとする。

この人も違う職業を渡り歩いているのかもしれないが、そこには一貫してIT系という筋が通っている。

この人の仕事の経験はすべて現在に活かすことができているはずだと推測できる。人生に方向性があるので経験が無駄にならない可能性が高い。つまり「積み上がり」がある。

方向性が一貫していれば、このように経験を積み上げることが可能となる。経験が積み上がり、業界を俯瞰することができるようになり、技能が洗練される。

それによって、当然のことながら評価も上がり、信用も付く。一貫した方向性があれば、過去を現在に「積み上げる」ことができるようになる。


成功している人は「積み上がる仕事」をしている人

意識的にも無意識にも職種と生き方に軸がある人は「積み上がる仕事」をしている。こうした人は、行き当たりばったりで生きている人よりも、はるかに成功する確率が高い。

「積み上がる仕事」というのは、過去にやった仕事に対して、その時に生み出した技能・製品・サービス・土台・信頼が、現在の自分に利益をもたらすものを言う。

成功している不動産投資家は、過去に買った不動産で収益を得て、さらにその収益で別の不動産を買ってそこでも収益を得るというシステムを作り上げている。つまり、「積み上がる仕事」をしている。

成功している株式投資家も、過去に買った株式でキャピタルゲインもインカムゲインも得て、さらにインカムゲインで新しい株式を買って資産を膨らませる。やはり、「積み上がる仕事」をしている。

成功している事業家は、過去に作った製品で収益を得ながら、新しい製品を生み出して、そこでもまた収益を得る。これも、「積み上がる仕事」である。

彼らは、ワーキングプアのように時間と労働力を切り売りして終わりではない。「積み上げ」がきちんとしている。その「積み上げる仕事」が経験や信用を生み、結果的に経済的な余剰や内部留保をどんどん増やしていけるようになる。

逆に言えば、「積み上げる仕事」ができないと、余剰や内部留保を増やすことはできない。ここが、弱肉強食の人生を生き延びることができるかどうかの分かれ目になる。

(1)首尾一貫していること。
(2)経験や仕事が「積み上げられる」こと。

ワーキングプアは這い上がれない理由は「この2点」がないからでもある。現代社会は効率的だ。今の「邪悪な世界」は、安い労働力を永遠に確保するために、わざとそうしている可能性もある。

だから、この2点がきちんと自分の人生や仕事に織り込まれているかどうか、充分に考える必要がある。それも早急にだ。積み上げられないことに時間をかけていると、いずれ時間切れを宣告される。あなたは、大丈夫だろうか?

「働けど働けど我が暮らし楽にならざり。じっと手を見る」。「積み上げる仕事」がきちんとできているかどうかは重要なポイントだ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/05/20170501T1650490900.html


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106. 中川隆[-13116] koaQ7Jey 2018年6月13日 11:49:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15424]

日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している


多くの日本人は勘違いしているのだが、物を覚えるというのと、考えることができるというのは別のものだ。

・覚える。
・考える。

この2つは似ているようで、まったく違う。覚えるというのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶するというものだ。

しかし、「覚える」というのは単なる基本であり、本来はそこからさらに飛躍しなければならない。それが「考える」というものだ。

学校が物を覚えさせる場所であるというのは誰でも知っている。しかし、考えさせているのだろうか。

日本の教育は、構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっている。覚えさせても、考えさせないのである。「考える」という部分を軽視している。

なぜか。それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解できるかもしれない。学校とは、社会で通用する人間を作り出すところだからだ。日本で「社会に通用する」というのは、サラリーマンになれるということでもある。


教育とは子供を規格化するという側面がある

学校は最終的に子供を社会で通用する人間に「矯正」する場所である。子供を規格化するのだ。

日本では国民の8割がサラリーマンであることを考えると、日本の学校で重要な使命は日本人がサラリーマンとして通用するように規格化するのが使命と言うことになる。

ここに問題がある。サラリーマンとは、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」ということができる人間でなければならない。

だから、日本の教育はその現状に沿って、そういった人間を作り出す仕組みになっているのである。上記の特徴を、もう一度よく考えてみて欲しい。あることに気づかないだろうか。

「上司の言うことをよく聞く」とは、自分の意見を持たないで指示待ちの人間になるということである。つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

「口答えしない」と言うのも、自分の意見を殺して会社の意向を無条件で重視するというものだ。つまり、自分で「考えない」ことが重要だ。

「言われたことを忠実に行う」というのも、ロボットのようになるということであり、それはすなわち自分で「考えない」ことが求められている。

「不満があっても黙々と働く」という奴隷のような状態も同じで、「考えないようにする」ことで達成できる。

「集団生活を優先する」というのも、結局は自分の意見や考えよりも会社集団を尊重するということであるから、「考えない」ことで達成できるのだ。


「よけいなことを考えるな」というメッセージ

サラリーマンは考えることよりも、考えないことが求められる職業である。何をどうするかという部分についても「考えさせない」ために、企業は「マニュアル」を用意している。

マニュアルというのは、実は人間を「考えさせない」ためのものであることに気づかなければならない。

マニュアルは効率化とサービスの均質化を生み出すので企業にとっては好都合な存在だ。

しかし、逆に考えると、それを行う人間には「この通りにやれ」という強制になる。

誰もが同じ手順でやるように強制し、一切の例外を認めさせない。マニュアルは、「よけいなことを考えるな」というメッセージなのである。

サラリーマンが考えていいのは、会社が「考えろ」と強制した部分だけだ。それ以外の部分は「考えないこと」が期待されている。

それもそうだ。考えるというのは、自分の意見を持つということだ。考えて自分の意見を押し通すというのは、集団よりも個人を優先するということなのだ。

サラリーマン全員が、自分の好き勝手にあれこれ考え始めると、統制が付かなくなる。

だから、あれこれ「考えない」で、言われたことだけを完璧に実行するロボットのような人間を企業は欲しがり、学校はそれを意識的にも無意識的にも読み取って、そのようになるように子供を矯正していく。

学校に課せられた使命は、「上司の言うことをよく聞いて、口答えせず、言われたことを忠実に行い、不満があっても黙々と働き、集団生活を優先する」人間を作り出すことなのだ。

そして、国民の8割が学校を卒業してサラリーマンになるのだから、その教育は成功していると言うことができる。


日本の教育では「考えさせない」ことが使命

ところで、人間はいろいろ物を覚えさせれば自然に「考える」人間になってしまう。しかし、日本の教育では「考えさせない」ことが使命としてある。

教育の現場では、どうやって子供たちを考えさせないようにしているのだろうか。それには、次の5つによって、成し遂げられている。

(1)暗記を押し付けて「考えさせない」
(2)苦手を押し付けて「考えさせない」
(3)制服を押し付けて「考えさせない」
(4)規則を押し付けて「考えさせない」
(5)団体行動を押し付けて「考えさせない」

暗記をひたすらやらせると、考えるヒマがない。だから、学校は考える余裕がなくなるほど、暗記させる。

暗記教育が悪いわけではないが、暗記重視によって考えるという部分が消失してしまうようにしているのは問題だ。

得意を伸ばさず、苦手を克服するように仕向けるのも、考えさせるのを嫌にするための手法だ。

誰もが苦手なものを考えるのは苦痛だが、その苦痛を押しつけることによって、考えることそのものを苦痛にしてしまう。その結果、誰も考えなくなってしまう。

制服を押しつけるのも、個性を殺して「考えさせない」ための有益な手法である。

細かい規則を守らせるのも、団体行動を強制するのも、すべて「考えさせない」で「従わせる」ためのものなのである。学校が馬鹿げているほど細かい規則を守らせるのはなぜか。

究極的には「何も考えず、黙って従う」人間を作り出すためだ。日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出していると言っても過言ではない。

あなたは考えているだろうか? あなたの受けた教育は、社畜になるための教育だったのだから、「自分を取り戻す」ためには、学校で覚えたことはすべて忘れる必要がある。

ただ、サラリーマンで居続けたい人間だけは、考えてはいけない。下手に考えると、社会からはぐれてしまうからだ。
http://www.bllackz.com/2014/01/blog-post_16.html

先頭に黙って従って、先頭と一緒に地獄に堕ちるのが日本人

アフリカの大地をジープで走ると、大勢の子供たちがジープの後ろを走って喜んでいる姿を、あなたはテレビや映画で見たことがあるはずだ。

あるいは、祭りで先頭の賑やかな一団の後を、無意識について回っている人の姿を、あなたは見たことがあるはずだ。

あるいは、有名人が街を歩いていると、そのファンや野次馬がやはり、ぞろぞろと後ろを歩いている人の姿を、あなたは見たことがあるはずだ。

あるいは、観光地で旗を持ったガイドの後ろを、何も考えないで歩いている人を、あなたは見たことがあるはずだ。

先頭が向かっている方向に、後ろの人間が何も考えずに従う姿は、別に珍しい光景ではない。先頭の人間はどこに向かうか、何を目指しているのかは知っている。

しかし、後ろを歩いている人間には、先頭がどこに向かっているのかは何も知らない。ただ、盲目的に付いて回っているだけで、主体性があるわけではない。知らずして、どこかに連れて行かれている。


自分よりも他人の意見が「主」になっている

先頭に従う。流行に従う。群衆に従う。テレビに従う。

実は、日本人はどの民族よりもそういった傾向が強いことはよく知られている。たとえば、流行に従うというのは、こういった言葉に集約される。

「みんなが見ているテレビ番組を、自分も見る」
「みんなが持っているものを、自分も欲しい」
「流行っているから、自分も手に入れる」
「みんなが良いというから、自分も良いと思う」

これはひとことで言うと、自分が特に好きではなくても、みんなが好きだと言っていたら、自分も好きになるということであり、自分よりも他人の意見が「主」になっている状態を指している。

場合によっては、自分の意見が存在していない可能性もある。

「自分の意見が存在しない」「他人に従う」と言えば、誰でも危険な状態であると分かるが、そんな危険な状態でも、実はひとつの大きなメリットがある。

先頭が正しければ、自分は何も考えず、疑問も抱かず、大船に乗った気分で、まっすぐと正しい方向に向かえることだ。

何しろ、先頭が正しいのだから、難しいことも面倒な決断もしなくてもいい。ただ従うだけで正しい方向に導かれる。これは楽だし、効率が良い。

だから、「他人に従う」というのは、あながちデメリットばかりがあるわけではない。場合によっては、猛烈に楽な人生を送ることも可能だ。


社長が間違うと、自分の人生が吹き飛ぶ

しかし、先頭が間違うと、どうなるのか。先頭が手痛い間違いを犯すと、当然だが自分も一緒に間違う。

先頭が崖から落ちると、自分も崖から落ちる。先頭が裏切ると、自分はカモにされる。先頭が乗っ取られると、自分が食い物にされる。

それも、やすやすと突き落とされ、裏切られ、カモにされ、食い物にされる。なぜなら、今までずっと先頭に従って生きてきたので、もはや自分の意見がまったくないからだ。

日本人の多くの人々は、サラリーマンとして人生を送る。サラリーマンになるというのは、社長という「先頭」に従うということである。

サラリーマンは、自分が会社を経営しているわけでも、自分が決断しているわけでもない。多くは、言われたことを黙ってこなしている。

ということは、社長が間違うと、自分の人生が吹き飛ぶということでもある。

社長が致命的なまでのミスを犯すと、もちろん社長も自分の人生が破滅する。しかし、順番から言うと、社員を切り捨てる方が先だから、社長よりも社員が先に苦境に落ちる。

日本は戦後から1989年までは一貫して成長局面だったので、多くの日本人は黙って会社に従っているだけで、自分は何も考えなくても生きていけた。

ところが、1990年代から日本が衰退局面に入ると、先頭が間違ったり、先頭が立ちゆかなくなったり、先頭が乗っ取られたり、先頭が死んだりして、先頭に従って自分が死ぬケースが増えて来た。

2010年以降は、さらにそれが加速して、先頭が率先して後ろに従ってくる人間たちを切り捨てるようになっている。つまり、日本人の多くが苦境に陥っているのは、もはや先頭が頼りにならなくなっているからだ。

それでも先頭に黙って従って、先頭と一緒に地獄に堕ちるのが、典型的な日本人の姿であるとも言える。


それが駄目になったら、みんなまとめて駄目になる

黙って従っていたらメリットが享受できる時代は終わってしまった。

これは、若年層の生き方にも強く影響する。若年層は、「良い大学に行って、良い会社に行く」という「みんながやっていること」に従っていれば良かった。

「良い大学に行って、良い会社に行く」というのは、日本人の人生設計の「流行」だったのだ。

日本人の8割がサラリーマンであるとすれば、日本人の8割が「良い大学に行って、良い会社に行く」という人生設計しか考えていなかったということになる。

だとすれば、サラリーマンという生き方が崩壊しつつある今、この「流行の生き方」では、もう人生が渡っていけないということになる。

なぜ、大学を卒業しても仕事がないのか。
なぜ、就職活動で数十社に断られるのか。
なぜ、就職活動で絶望して自殺するのか。

答えは簡単だ。もう、この流行の人生設計は「時代に合わないもの」「間違った生き方」になっているからである。

人には、いろいろな生き方、いろいろな道、いろいろな哲学があるのに、単に「良い大学に行って、良い会社に行く」という考え方しか用意されていないとすれば、それが駄目になったら、みんなまとめて駄目になるのは当然だ。

良い大学に行って、良い会社に行くという考え方は、国や社会が日本人に押し付けていた「流行」だったのだ。

その「流行」が終われば、流行に乗っていた人間は、みんな終わってしまうのである。事実、今そのようになっている。

流行に乗り、黙って従っていたらメリットが享受できるという日本特有のメリットの時代は終わった。


いつまでも弄ばれるがままになってしまう

日本人の世論は、マスコミが作っている。

新聞社もメディアも、衰退産業とは言えども、いまだに圧倒的なパワーを持った媒体であり、その影響力を過小評価するのは間違っている。

マスコミは、流行(トレンド)を作り出すことができる。

では、そのマスコミが間違うと、どうなるのか。もちろん、先頭が間違うのだから、それに黙って従っている後ろの人間はみんなまとめて間違うということになる。

先頭が歪曲した情報を垂れ流せば、日本人はみんな歪曲した情報を信じ、先頭が世論誘導を垂れ流せば、日本人はみんなそちらに誘導されていく。

だから、「みんなが見ているテレビ番組を、自分も見たい」とか、「みんなが良いというから、自分も良いと思う」という発想がある人は、みんなまとめてマスコミに心を弄ばれることになる。

もうマスコミは信じてはいけないものの代表になっているが、それでも「先頭に従う」という心理状態から抜け出せなければ、いつまでも弄ばれるがままになってしまう。

先頭が右と言えば右、左と言えば左に行くのは、みんな揃って自滅への道を辿っているかもしれない。

今、しなければならないことは簡単だ。

主体性を取り戻せばいい。主体性を取り戻すというのは、自分の人生を取り戻すということにつながる。

何をすればいいのか分からなければ、一番簡単な方法がある。とても、簡単で、すぐにでもできる方法だ。


意識的に押し付けられたものを拒絶する

それは、社会や国やマスコミが押し付ける流行(トレンド)を「拒絶する」ことだ。

・流行(トレンド)を拒絶する。
・押し付けられた意見を拒絶する。
・敷かれたレールを拒絶する。
・自分の哲学とは相容れないものは拒絶する。

流行を拒絶すれば、「では、自分は何が好きなのか?」という話に必ずなっていく。自分が好きなものを自分で選ぶのが主体性を持つということだ。

押し付けられた意見を拒絶すれば、「では、自分の意見は何なのか?」という話に必ずなっていく。自分の意見を自分で選ぶのが主体性を持つということだ。

国や社会が頼りにならなくなってきているということは、そこから自分を切り離して、自分の生き方を模索しなければならなくなっているということだ。

それならば、社会から押し付けられているものを、いったん拒絶することによって、自分を取り戻すことができる。

日本人はいつも「受け入れること」「自分を出さないこと」「従うこと」に重点を置いてきた。だから、無意識にそのような生き方になる。

そんな日本人が覚醒するためには、意識的に押し付けられたものを拒絶することによって、簡単に自分を取り戻すことができるようになる。

人生も、意見も、他人に合わせるのではなく、自分に合わせることができないと、これからの時代は逆に生きていけない。

だから、社会や国やマスコミが仕掛ける流行(トレンド)や世論は、まずは「拒絶」してみて、そこから自分の意見を考えるのが分かりやすい。

覚醒する第一歩となる。


先頭が崖から落ちても次々と従う「レミングの自殺」
これは、他人事だろうか?
http://www.bllackz.com/2013/09/blog-post_25.html?utm_source=BP_recent

そろそろ、優秀な人材の定義を変えなければならない時代だ

かつて、1945年から1950年の日本では、石炭の会社が一流大学の学生の人気の就職先だった。石炭は日本のエネルギーを支える非常に重要なものであると思われていたからだ。

しかし、一流大学の学生が殺到していたその頃が石炭企業のピークで、あとは凋落の一歩を辿った。

同じ頃、衣料品に不足していた日本では、繊維業界も空前の売上を誇り、多くの一流大学の学生が繊維業界に殺到した。繊維業界は未来永劫に成長すると思われた就職先だったのだ。

しかし、一流大学の学生が殺到していたその頃が繊維企業のピークで、あとは凋落の一歩を辿った。

映画産業も、人々の羨望の的であり、一流大学の学生が殺到していたが、やがてテレビの時代が来ると、映画産業は一気に衰退して斜陽産業となった。

化学肥料の企業も、当時は最重要な分野だと言われて一流大学の学生が殺到していたが、やがて衰退して凋落していく。

公務員や官僚には「死亡フラグ」が立っている

バブルの頃は、誰もが不動産産業に入りたがって、まったく関係ない人間も宅建法のような資格を取りに走ったほどだった。

ここでも、一流大学の学生が不動産会社に殺到していたが、バブル崩壊に見舞われると、不動産会社は一気に凋落していった。

この頃は金融機関に就職するのも流行っていたが、バブル崩壊で銀行や証券会社がどうなったのか。不良債権を抱えて身動きできなくなったのが、金融機関ではなかったか。

ちなみに、現在は日本企業がグローバル化に乗り遅れて苦境に落ちる時代だ。

その現状を見て、一流大学の学生は「公務員」を目指しているということを聞く。霞ヶ関で官僚になるのが目標になっているのだという。

公務員や官僚になれば安泰だという発想なのだろう。

そう考えると、公務員や官僚にはかなり強い「死亡フラグ」が立っているも同然だ。

それほど遠くない将来、公務員という立場は衰退し、崩壊し、見るも無惨な立場になっていくということが予測できる。

時代は必ず変わっていく。しかし、多くの人は「目の前の羽振りの良い業種」しか見えない。

次に何が来るのか予測も付かないので、とりあえず「現在素晴らしいもの」に飛びつくしかないと考えている。打算的な人であればあるほど、そうなのだ。

現在「素晴らしい」業界にいれば、まわりもちやほやしてくれるし、すぐに楽できる。しかし、現在が素晴らしいということは後は落ちるだけということでもある。一瞬は良くても、あとはずっとじり貧が続く。

そして、「ここにいてはいけない」と気が付く頃には、もう抜け出せない年齢になっている。


本当は、集まった人材は優秀ではなかった?

ここで気が付かなければならないのは、2点ある。

1点は、一流大学の学生が殺到する産業は、そのときがピークで近いうちに凋落するというのがひとつだ。

一流企業の学生は、その時代で最も輝いている企業から熱烈歓迎されるので、大勢がそこに向かうのだが、それは単なる人気投票で「今は」ナンバーワンであるというだけなのだ。

「今は」そうであっても、「将来も」そうであるとは限らない。むしろ、頂点を極めたら、あとは落ちるだけしかないというのは小学生でも思いつく社会現象だ。それを、なぜか「優秀」な学生が思いつかない。

2000年代、パソコンが全世界を制覇するような勢いで広まり、マイクロソフト社が頂点に立ったが、それを見て多くの一流大学の学生はマイクロソフトに殺到したかもしれない。

それから10年経ってどうなっているのか。スマートフォンやタブレットの時代になって、パソコンは「衰退」に入りつつあるのが分かる。

現在、一流大学の学生はグーグル社に殺到しているが、それを意味するところは、10年後にはグーグル社とそのコアとなるビジネスは「衰退」してしまっているのがほぼ確定しているということだろう。

もう1点は、その業界に一流の頭脳が集まっていても、凋落を止めることができないというのがひとつだ。

これを指して、このような指摘をする人もいる。

「一流大学の優秀な人材が集まった業界は衰退するというが、それほど優秀な人材がいたのであれば、なぜ会社を躍進できなかったのか?」

「本当に優秀なら先を読んで手を打てたのに、それができないとすると、実のところ集まった人材は優秀ではなかったのではないのか?」


「体制が望む方向」に勤勉だったということ

昔から現在まで、日本で「優秀な人材」というと、紛れもなく「有名大学を良い成績で卒業した人」という意味だ。学歴社会のコアになっている考え方がここにある。

一流大学の成績優秀者であればあるほど「良い人材」なのである。これらの学生は、必死に勉強し、熱心に暗記し、勤勉であるのは間違いない。

重要なのは、「体制が望む方向」に勤勉だったということだ。体制が作り上げた価値感に従順だったという言い方もできる。

与えられた課題を一生懸命にこなすという意味で優秀だったのだ。「なぜ、こんなものを覚える必要があるのか?」「なぜ、課題を与えられてこなす必要があるのか?」とは考えない。

不良学生は、逆にこう考える。「なぜ、学校は俺に命令する権利があるのか?」「なぜ、興味のないことを覚える必要があるのか?」

不良学生が不良であるのは、体制に従順ではないという意味で不良であり、優秀な学生が優秀であるのは、体制に従順であるという意味で優秀なのだ。

そう考えると、日本人の優秀な人材とは、必然的に体制に従順であることが分かる。そして、体制を疑わない人間ばかりがトップに集まるということになる。

体制を疑わないということは、体制のあり方に疑問を持って、それを変えて行こうとはしないということでもある。

そういう人間をわざわざ選んだのだから、体制のあり方に疑問を持てという方が間違っている。

世の中が変わっても、体制に従順なので、世の中に合わせようとする発想がない。それが変化できない大きな理由になる。

日本のあちこちが「先延ばし」「事なかれ」「優柔不断」になっているのは、要するに体制に従順な人間がトップにいるということであり、いよいよその弊害が現れているということでもある。

日本はすでに中韓との外交的な衝突を迎えている。今後は軍事的な闘争や暴力の時代に向かう。

その前に準備しておかなければならないのは、こういった従順な人材を一掃し、暴力や衝突に対抗できる人間に入れ替えることだ。

場合によっては、「血だるま」になっても相手に向かって行くような、凄絶な人間が必要になるのかもしれないのだ。

時代は待ってくれないので、逡巡している場合ではない。

日本が生き残るためには、そろそろ優秀な人材の定義を変えなければならない時代になっているのである。
http://www.bllackz.com/2013/09/blog-post_27.html  






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107. 中川隆[-13115] koaQ7Jey 2018年6月13日 11:52:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15424]

普通の人生を歩みたい学生が、絶対に知ってはいけないこと


教育方針は文部科学省が決めている。その文部科学省は、政治家・官僚・企業経営者等に意見を求めてそれを決める。各界から様々な提言があって、それが吟味されて教育方針に盛り込まれていく。

子供たちが卒業したら、その子供たちを雇うのは企業である。だから、日本経団連のような組織が積極的に「教育方針の提言」を行って、その意見が大きく取り入れられる。

日本の教育方針は、日本人をサラリーマンに仕立てあげる場所であると言われるのは、ここに理由がある。

学生が学校を卒業したあと、まったく企業に合わない人間になっていたら、彼らはたちまち路頭に迷う。

だから、子供たちが卒業したらすぐに企業に入ってサラリーマンとして無難に生きていけるように、学校で規格化されるのである。この規格化を教育と言う。

学校は、どうでもいい細かい規則を守らせて、どうでもいいことを覚えさせて、得意を殺して苦手を伸ばして、全員を平均的な人間に仕立てあげる。それは、なぜなのか。


歯車は、規格化されていないといけない

日本の教育は、子供たちを可もなく、不可もないような平均的な人間にする。没個性を強制し、「みんな同じ」にしてしまう。それは、子供たちが平均的な人間であれば、企業の「歯車」として組み込みやすいからだ。

子供たちの個性が爆発したまま卒業してしまうと、企業はその子供たちを「歯車」として組み込めない。歯車は個性的であってはならない。規格化されていないといけないのである。

だから、日本の学校はみんな平均的な範囲で収まるように子供たちを矯正し、没個性にする。

こういった教育方針によく馴染む子供もいれば、そうでない子供もいる。それが学歴の差となって現れる。

学歴は、教育方針に従順だったかそうでなかったかで差が生まれる。先生に言われた通り、あるいは教育方針の通り、何の疑いもなく直進してきた子供は優秀になる。

自分の好き嫌いを優先させ、教師や教育方針に反撥してきた子供は落ちこぼれて「不良」になる。

日本の教育が、日本人をサラリーマンの歯車にするためのものであると分かれば、「不良」というのは、サラリーマンにするには「不良品」であるという意味であることが分かる。

子供たちが教育方針に従順だったかどうかは、学歴を見れば分かるので、企業はその学歴の差で「一流企業に行く人間」「中小企業に行く人間」「見捨てる人間」とふるいにかける。

世の中はそのような仕組みになっている。だから、日本の教育方針に馴染まない子供は、大人になってサラリーマンになっても大して出世もしないし、金を稼ぐこともできない。

子供のときに教育方針に馴染めたかどうかで、日本人の人生はだいたい決まっていると言ってもいい。


「学歴社会」は、企業が作り上げた人間の規格化

経団連のような企業団体が教育制度を提言し、文部科学省がそれに従い、学校が方針にそって子供たちを規格化する。

「学歴社会」というのは、企業が作り上げた人間の規格化であると気付いている人はあまりいないかもしれない。しかし、それは覚えておいた方がいい。

規格化された製品(子供たち)の品質の良し悪しを、企業は「学歴」で見る。一流企業は品質の良い製品(子供たち)を取って、あとは順次、適当に企業レベルに合った人間を学歴で区分けしていく。

もちろん、不良品は弾く。学校の教育方針に馴染めなかった子供は、サラリーマンにしても馴染めないのは分かりきっているので、そんな人間は最初から雇わない。

つまり、学歴のない人間は最初から雇わない。企業が「自分たちの決めたルールに従えないような子供は、一生雇わない」というのが学歴社会なのである。

学校は何かを覚えるだけにある場所ではない。企業が子供たちを選別するためにある場所だ。

企業が子供たちを選別する場所なのだから、企業にとって都合の悪いことは学校では教えない。社会に出て、多くの学生はこのように思う。

「社会の仕組みを教えてもらえなかった」
「起業の方法を教えてもらえなかった」
「世渡りの方法を教えてもらえなかった」
「自分らしく生きる方法を教えてもらえなかった」

しかし、「なぜ」教えてくれなかったのかと考える学生はほとんどいないはずだ。なぜ、学校はある意味「一番重要なこと」を学生に教えないのか……。


企業の「歯車」になる人間は、知る必要がない

企業の「歯車」になる人間には、社会の仕組みなど知る必要はない。起業の方法など覚える必要はない。世渡りなど知る必要はない。自分らしく生きる方法も知る必要はない。

企業の「歯車」になる人間には、そんなものは何ひとつ必要ないのである。歯車は考える必要はない。言われた通り、黙々と奴隷のように働けばいい。

多くのサラリーマンは自分の置かれている状況に途中で気付き、そして自嘲して「自分たちは社畜だ」と言う。

学校は、子供たちを社畜にするための教育場所だったのだ。だから、社会の仕組みも、起業も、世渡りも、そんなことは教えない。教えないどころか、気付かないようにすらしている。

絶対に、現在の教育方針が「自分を社畜にするもの」と気付かせない。

しかし、学校を卒業して、企業の歯車にされていく中で、どんな愚鈍な人であってもふと「なぜ、自分は企業の歯車になっているのだ? なぜ、自分は社畜にされているのだ?」と気付く日がやって来る。

気付いたときにはもう遅い。ずっと続けてきた社畜を辞めるには手遅れなほど長い時間をそこに費やしてきたし、それで生計を立てているのであれば、おいそれと辞められない。

ふと、社畜になっていることに気付いた人はどうするのか。

もちろん、考えるのを止める。自分が社畜であることを忘れさせてくれるものに飛びつく。何があるのか……。

目の前に、テレビがあるではないか。

テレビは、四六時中くだらない番組を報道して、人間を考えさせないようにしている。かつての「セックス、スクリーン、スポーツ」は、今は「ポルノ、テレビ、ゲーム」と言い替えた方が通じるかもしれない。


もがいている人間ほど、娯楽が必要になる

「ポルノ、テレビ、ゲーム」は、ひとことで言えば「娯楽」と称される。

社畜に陥った人間であればあるほど、自分たちの今の状況を忘れるために、ポルノやテレビやゲームと言った「娯楽」が必要になっていく。

社会のワナに気づいた人間や、それを忘れるためにもがいている人間ほど「娯楽」が必要になる。それなしには生きていけなくなる。だから、社畜の多くは「娯楽」の中毒である。

逆に、経団連のようなエスタブリッシュメントは、逆にそれを大量に蔓延させて、「社畜」に自分たちの置かれている立場を考えさせないようにしているとも言える。

(1)子供を学校で企業の歯車となるように作り上げる。
(2)卒業したら企業に組み入れて実際に歯車にする。
(3)社畜の状況を忘れさせるために娯楽を与える。

このようにして、エスタブリッシュメントは、大量の考えない人間を大量に手に入れて、どんどん「使い捨て」にすることができるようになった。

自分が「考えていない」ことすら気付かない人たちの大量出現は、エスタブリッシュメントがそうなるように社会を作っているからだ。それは、なるべくしてそうなったのである。

組み込まれた人は気付いていけない。それに気がついてしまった人間は、鬱病となって精神を病むからだ。

精神を病んでしまった人を見て、規格化された人はますます恐怖におののき、「考えない」ようにする。テレビは低脳であればあるほどいい。低脳になれば、自分の置かれた状況も考えられないので、結果的に幸せになる。

学生は、これに気付かない方がいいのかもしれない。普通の人生を歩みたい学生がこんなことを知れば、生き方に迷って気が狂ってしまうからだ。


歯車は何も考えなくてもいい。ただ回っていればいいのだ。
http://www.bllackz.com/2014/12/blog-post_26.html


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108. 中川隆[-13114] koaQ7Jey 2018年6月13日 11:55:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15424]

日本を縛る4つのブレーキ。それを打破するのは誰なのか?


日本はまだ多くの人々がきちんと生活していけている素晴らしい社会であり、さらに途上国のように社会の混乱や暴力が蔓延しているわけでもない。

徐々に衰退しているのは確かだが、日本にはまだ底力があり、それなりに国家的地位もある。暴力と無法が蔓延する中東や南米の国々とは違って、秩序も保たれており、人々は安心して生きている。

しかし、今の日本ほど閉塞感、無力感、先の見えない不安感、自信喪失が蔓延している社会はない。そして、多くの日本人は日本で暮らして「幸せ」だと感じていない。

実は、幸せはGDP(国民総生産)とは何ら関連性がないことが知られている。つまり、国が豊かであっても、国民が幸せを感じるかと言えばそうではないのである。

皮肉なことに経済的に問題があるような国の国民の方が、逆に幸せを感じているという結果となっている。日本よりも経済的にはるかに劣るフィリピンやインドネシアの人々の方が、日本人よりも幸せを感じて暮らしている。


日本を縛り付ける4つのブレーキとは?

日本は「前例主義」である。それは、前例がないことをやると批判されるという意味である。新しいことをしようとすると、それは前例がないので、

誰もが「自制」する。あるいは自制させられる。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本は「横並び主義」である。それは、まわりを見回して、まわりと違うことはしないということだ。あるいは、敢えてまわりに合わせるということだ。

まわりに合わせるために、自分の行動を調整する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本は「事なかれ主義」である。それは、衝突が起きそうになると衝突を起こさないように我慢するということだ。正しいか間違っているかはともかく、自分が我慢して場を収める。

あえて軋轢や衝突を起こさないために、自分を抑制する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本は「先延ばし主義」である。それは、サラリーマン社長のやっていることを見てもよく分かる。自分の任期中は「つつがなく」過ごせればいいので、面倒なことやリスキーはことはすべて先に延ばしてしまう。

先に延ばすことによって自分の身分を保身する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

(1)前例主義
(2)横並び主義
(3)事なかれ主義
(4)先延ばし主義

そのどれもが、自分自身の行動を縛り付けるものであることに気付いてもいい。社会にこの4つが強固に機能しているということは、つまり社会があなたを「抑圧している」ということなのである。


社会が機能していない途上国の方が幸せな理由とは

日本の社会はあまりにも、秩序を重視するあまり、それが人々を強烈に縛る「見えない鎖」と化して、人々を閉塞感や無力感に追いやっているのである。

どんなに才能や能力があっても、人間にブレーキをかけさせる4つの主義が働いていると、行動することができないほど縛られてしまう。これが、日本に根深い自信喪失を生み出していると言える。

自分の行動がいちいち抑制されるのだから、やる気が削がれて無気力になり、将来が不安になっても仕方がない。

そう考えると、なぜ経済破綻しているような南米の国家や、途上国に分類される国の国民が、逆に幸せを感じているのかも分かってくる。

途上国では、幸か不幸か国家や社会の規制力が弱い。前例があろうがなかろうが生き延びるために「何でもしなければならない」し、「何でもしろ」という行動が求められている。

他人と同じでなければならないという規制力もない。生きるのに必死だから、他人と衝突することも厭わない。先延ばしなどしていたら死んでしまうから、常にやるべきことをやる。

もともと物を持っておらず、失敗しても失うものもないので、思いきって行動ができる。

つまり、経済破綻しているような国では社会が脆弱なので、逆に国民は規制に縛られることもなく、思いきり自分を解放できるのである。

秩序もなく、物質的豊かさもなく、法的規制も弱く、治安も悪いのだが、だからこそ「やりたいことを全力でできる」という社会になっている。爽快な開放感が、そこにある。


「新しいタイプの日本社会」を模索する時代に

日本は組織や国家に「何でもかんでも規制してもらう」ことによって安全や秩序や安心を手に入れたとも言える。しかし、その社会的秩序は、他人を法や常識で縛ると同時に、自分もまたそれに縛られる元になる。

日本の治安は素晴らしいが、その素晴らしさを維持するために、自分もまた縛られている。しかし、社会を安全に清潔に規則正しくするために、日本人は自分も縛られることを敢えて受け入れたのだ。

その結果、自分自身もまた、「本当はこんなことをしたいのだが、前例はあるのだろうか。なければやめておこう」とか、「こんなことをしている人はいないので、他人がしていないのならやめておこう」とか「こんなことをしたら風波を立てるからやめておこう」とか「こんなことをしたら何を言われるか分からないから先延ばしにしよう」という話になっていく。

しかし、あまりに社会全体がこの4つのブレーキが強く効きすぎた結果、日本人すらも社会に対して閉塞感を感じるようになり、今やそれを通り過ぎて「窒息感」にもなっているようにも見える。

また、日本の社会は今、激変する世界の動きの中で、急激に取り残されようとしており、それが経済の衰退や日本の尊厳の低下となって現れている。

いよいよ日本の今までの社会は時代遅れになって規格に合わなくなっており、「新しいタイプの日本社会」を模索していかなければならない局面に来ている。

それには、日本を縛り付けている「4つのブレーキ」を大胆に取り外して、跳躍することが求められている。

幕末・明治維新の混乱期は、名もない下級武士が歴史を変えたのと同様に、新しい時代はまだ何も持っていない人間が変える。社会が激動するときは、いつも名もない人間が既存社会を打ち壊して新たな社会を作り出す。

日本の閉塞感は極まっている。いよいよ、日本を変える一群が生まれても不思議ではない。

幕末・明治維新の混乱期は、名もない下級武士が歴史を変えたのと同様に、新しい時代はまだ何も持っていない人間が変える。社会が激動するときは、いつも名もない人間が既存社会を打ち壊して新たな社会を作り出す。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20150327T1736020900

規格化された存在が色あせ、逆に「ワケあり」が輝く時代に

世の中は面白いもので、規格化されて何もかもがきちんと整備されてしまうと、それ自体が当たり前になって特徴をなくす。

そして、逆に規格化されていない「不良品」だと思われていたものが輝きを増す。

たとえば、よく買い物に行く人は「ワケあり」商品を見ることがあるはずだ。

ワケあり商品というのは、本来は規格品から外れて売り物にならなかったものである。それを、きちんと「ワケありです」と提示しながら売る。

その手法が生まれたとき、「これは発想の転換だ」と多くの人が捉え、そしてそれが面白いと感じて、逆にそちらの方が売れるという現象になっていった。

今ではこの「ワケあり商品」は生鮮食品だけでなく、衣料品から、電化製品まで、あらゆるジャンルで使われていて、ごく当たり前の売り方になっている。


「これはダメだ」と思われた部分が売りになる

この「ワケあり商品」は、「これは売れない」「これはダメだ」と思われた部分が逆に売りになっているわけであり、欠点が逆に利点になっているという希有なケースとも言える。

野菜でもそうだが、本来であれば不揃いな野菜は弾かれる。あるいは、形の悪い野菜も弾かれる。

それは、味や品質に何の問題もないのだが、ただ「見てくれ」が悪いだけで弾かれていたものである。正規品の仲間に入れてもらえず、はみ出し、そして規格品のレベルから見ると「不良」とレッテルを貼られたのだ。

そして、実際に「ワケあり」という売り方が為されるまで、それは見向きもされなかった。ただ見捨てられていたのである。ところが、

(1)欠点があるということを正直に明示する。
(2)欠点があっても品質は変わらないと謳う。
(3)実際に他には瑕疵がなく、信頼できる。

という3点を明示・保証することによって、逆に「ワケあり」が信頼の証になったのだ。

そして、場合によってはワケあり商品の方が、規格化されたものよりも売れるという皮肉な結果さえも生み出すようになっていった。

何もかもが規格品の世界では、「規格化されていない」ものが、逆に個性として大きな「売り」になっていく。「ワケあり商品」が生み出した市場というのは、まさにそれを証明した象徴的なものであったと言ってもいい。

これは、意外に重要な事実であると言える。なぜなら、「私たちの人生」にも関わってくるものだからだ。


サラリーマンとは、言わば「規格品」である

ところで、日本人の8割はサラリーマンであると言われているが、サラリーマンの特徴は、その「均質化」だ。人々は似たような服を着て、似たような仕事をして、似たようなところで、似たようなことをして過ごしている。

サラリーマンとは、言わば「規格品」であると言ってもいい。現代の規格品、人間社会の規格品だ。

そして、この人間の規格化を推し進めているのが「学校教育」でもある。学校教育は、本来はあちこち尖ってバラバラの個性を持った子供たちを、均質的にする場所でもあった。

学校は得意を封じて欠点を引き上げることによって、人間の均質化を生み出している。この日本で行われている教育の本質はこちらに詳しく書いた。

(日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している)
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20140116T1554000900


学校は「尖ったもの」を持つ子供たちを矯正させる。学校教育が長所も欠点もない均質的な子供を大量生産するのは、企業が「歯車となる人材」を求めているからである。

企業に入って組織の一員になるということは、企業の歯車になるということでもある。歯車なのだからどこかが尖っていたり、欠けていたりしたら回らない。均質的であることが求められるのだ。

だから、教育は均質的な人間を作り出し、企業は大学のレベルで規格化された卒業生を雇うという動きになっていた。

人間の規格化は、学校教育や企業社会の中で、私たちには「逃れられないもの」であったと言える。

今までは、それで日本はうまく回ってきた。今までの会社は年功序列であり、終身雇用でもあったので、規格品の歯車であった方が「生きやすい」という時代だった。

だから、多くの人は自分が規格化された人生を歩んでいるということを薄々感じながらも、黙ってそんな人生を生きてきた。それで、食うに困らないのだから、誰もが嬉々として規格品になったとも言える。

その一方で、学校の規格化や企業社会の規格化に馴染めなくて、そこからはみ出した「不良=不良品」がいる。規格化された人間が求められている社会の中で規格外(不良品)なのだから、彼らは冷遇されたままだ。


「不良品」だと思われていたものが輝きを増す

しかし、時代はいよいよ変わって来た。大手企業でも、もはや終身雇用を維持できなくなり、人材は「使い捨て」となった。規格品でいても、捨てられるのだ。

グローバル化、インターネット化、オープン化によって、社会は劇的に変わった。既存のビジネスモデルが通用しなくなっていき、企業はその対応を迫られるようになった。

その中で、「尖った」人間の発想や行動力が必要な局面も多くなってきている。

新しい産業、新しい技術、新しいイノベーションを起こしたり、そこで生き残るには、規格品では間に合わなくなっている。規格化された人間の存在が色あせた。

今まで規格品として生きてきた人間に、突如として規格外のことをやらせたり、考えさせたりしても、なかなか常識を打ち破ることができない。規格品は、イノベーションのために訓練されてきていなかったからである。

日本の大企業のほとんどが停滞してしまっているのは、トップが「サラリーマン社長」であり、しょせん規格品の発想しかできないからであるとも言える。

日本は今、ありとあらゆる分野で規格化されてしまったが故の停滞が生まれてしまっている。社会システムの、何もかもが規格化されて整備されてしまうと、それ自体が当たり前になって特徴をなくすのだ。

だから、逆に規格化されていない「不良品」だと思われていたものが輝きを増す。

まだ日本社会は、規格外として弾き飛ばされていた「尖った人間」たちを「ワケあり」として発掘していない。また、規格品ではないと弾き飛ばされた人たちも、自分たちの潜在能力に気付いていない。

しかし、「ワケあり」商品がひとつの大きな売りとなって正規品よりも売れるようになっているのと同様に、これから人間そのものも「ワケあり」の人間たちがその潜在能力を発揮できる時代となる。

いろいろな規制や配慮や制限で窒息しそうな日本の社会を打ち壊していくのは「規格品」とは思えない。むしろ、今は「ワケあり」として敬遠されている人間であるはずだ。

果たして、どんな「ワケあり」の人間が世の中を変えていくことになるのだろうか。

いろいろな規制や配慮や制限で窒息しそうな日本の社会を打ち壊していくのは「規格品」とは思えない。むしろ、今は「ワケあり」として敬遠されている人間であるはずだ。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20150407T1711100900



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109. 中川隆[-13113] koaQ7Jey 2018年6月13日 11:56:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15424]


グローバル化した社会は、専門を極めた人間が金を稼ぐ社会


日本人の8割がサラリーマンだと政府統計にあるが、これを異常事態であると思わない人は多い。しかし、これはどう考えても異常事態である。

日本人はサラリーマンという生き方が好きで好きで仕方がないというわけでもないはずだ。「社畜」という自嘲の言葉もある通り、嫌でサラリーマンをやっている人も多い。

自分には合っていない、好きでない、辞めたいと、爆発しそうな不平不満を抱えながら耐えている人も山ほどいる。

サラリーマンという生き方は、別にそれ自体が悪いわけではないし、それが間違っているというわけではない。しかし、誰も彼もがサラリーマンになるというところに異常性がある。

これだけ多様化し、様々な職業がある中で、日本人のほとんどがサラリーマンになっている。これは日本人が「平均的教育」で洗脳され続けた結果であると言える。

学校は子供たちを徹底して「平均的な人間」に仕立てあげる場所である。そこで洗脳されてしまったら多くの子供たちが、良くも悪くもない「取り替え可能な規格品」になる。


あなたは、平均的な人間に作り上げられた

学校は、子供たちを採点する。そして、子供たちの苦手を見付けてそれを補正させる。得意な部分を伸ばすのではなく、苦手な部分を引き上げさせる教育をするのだ。

そうすると、子供たちは可もなく不可もない「普通の人間」となっていく。子供たちは、みんな平均的になっていき、子供たちも平均的であることを当たり前であると考える。

平均的であることのメリットは、ほどほどに生きていけるということだ。自分が嫌いなものでも取り組むことができて、耐えながら生きていくことができるようになる。

つまり、日本の教育に強い影響を受けると、サラリーマン向きの人間になっていく。

日本は昔から集団主義の国だが、集団主義の中では平均的であることが喜ばれる。なぜなら、人間がみんな平均的であると組織の歯車にするには好都合で、その人が壊れれば他の人でも取り替えが可能だからである。

サラリーマンというのも平均的な人間の集団で出来ており、その人が壊れても、すぐに他の人で補完できるようになっている。日本の組織が強いのは、要するにそれだけ平均的な人間の補充が山ほどあるからだ。

これは日本人にとって、今までは悪いことではなかった。

日本の企業は終身雇用をモットーにしていたし、どこの企業も社員を家族のように扱っていたから、サラリーマンになって組織の一員であり続けるというのは、安心できる生き方だったのだ。

今まではそれが正しかった。しかし、これからも正しいのかと言えば、そうでもない。


現代は、労働力の「薄利多売」が発生している

世の中がグローバル化した結果、「労働力を提供する」という人間が途上国から数億人も出てくるようになった。つまり、労働力そのものが、腐るほどありあまるようになった。

また、グローバル化によって企業間の競争も激しくなったので、社員を終身雇用で雇う体力もなくなっている。

そうなると、社員を囲い込むメリットは企業側にない。

なにしろ、安い価格でも悪条件でも構わずに働く人が、世界中でうじゃうじゃと見つかるようになったのだ。労働力の「薄利多売」が発生したのだ。

それなら安い労働力を使った方がいいわけで、わざわざ先進国の高い賃金の労働者などいらない。

その結果、企業は社員の給料をどんどん引き下げて、「嫌なら辞めろ」と言えるようになった。辞めさせれば辞めさせるほど、低賃金の人間に置き換えられるのだから、企業にとっては好都合でもある。

実際、正社員はどんどん切られて非正規雇用に変えられており、給料も引き下げられている。

残った正社員にも残業代を払わないとか、早期退職に追いやるようなこともしている。

もちろん、雇用のミスマッチが生まれて働き手がいなくて四苦八苦する業界もあるが、すぐにどこかから外国人労働者を発見して、彼らを雇い入れるようになるだろう。

つまり、もうサラリーマンという稼業を続けるメリットは失われた。それと同時に「平均的な人間」という範疇にいることが自分の人生を守ってくれることもなくなった。

今後は、平均的であるというのは、じり貧になるということに直結する。


情熱が止められないものの専門家になるべき

現在は、労働力の価値が暴落している時代だ。労働力は100円ショップの商品並みに安いものとなっており、単に「普通の労働力」を提供するだけでは、もう生きていけない世の中になっている。

生きていくためには、専門知識や専門技術を提供できる専門家(スペシャリスト)にならないといけないのである。

スペシャリストは、知識があり、経験があり、訓練され、特別な問題解決能力が必要なので、取り替えがきかない。何らかの専門家になると、その能力が高い収入を生み出し、食いっぱぐれがなくなる。

では、何の専門家になればいいのか。もちろん、自分が得意なもの、自分の才能の発揮できるもの、好きなもの、情熱が止められないものの専門家になるべきだ。

日本人は日本の教育制度のせいで、どうしても人よりも苦手なところや、劣っているところを補完しようとする。つまり、短所を治そうと努力する。

だから、日本人の勉強は「苦手なものを補う」という勉強であり、勉強そのものが苦役になる。しかし、苦手を補完しても、せいぜい「普通の人」になるだけだ。

そうではなくて、自分の才能を遺憾なく発揮できる分野の専門家にならなければならない。のめり込むほど好きになれるものは突出できる。

突出すれば、自分自身の市場価値が上がる。専門性を持った人間は、その専門を極めることによって重要人物となる。

グローバル化した社会は、何らかの専門を極めた人間が金を稼ぐ社会である。

苦手など、どうでもいい。あなたは、苦手を補完しようと努力するよりも、自分の才能に投資してそれを突出させて、世間に通用する専門家になるべきなのである。


自分の才能と得意を活かして「専門家」になれるかどうか。
加速していくグローバル化社会では、それが運命の分かれ道になる。
http://www.bllackz.com/2014/08/blog-post_23.html


あなたの才能も、「出る杭」と見なされて打たれてきたはず


どこの世界でもそうなのだが、今までの秩序をつぶすような形で目立つと、どんなに才能があろうが能力があろうが、まわりから「図々しい」「立場をわきまえていない」と思われて潰されてしまう。

日本では、これを「出る杭は打たれる」という。

才能があればあるほど、そして能力があればあるほど、「危険人物である」と思われて潰されていく。

特に日本の場合は年功序列の時代が長かったので、上司を凌駕するような能力を持っていると、潰されるばかりか、警戒されて排除されることもある。

能力がある者が能力を発揮できないような悲しい状況に置かれるのである。

もっとも、「出る杭が打たれる」のは日本特有の心理構造ではなく、全世界のどこでも起きている。才能を持った人間は、秩序を崩壊させる異端者として、どこの世界でも嫌われる。


それを自分で殺して、今のままでいようとする

革新的なビジネスプランを持った若い経営者は潰される。あまりにも超絶的な才能を持った人間も業界から追い出される。

今までの世界を覆すような斬新なアイデアを持った表現者も、やはり受け入れられるよりも排除されることが多い。

そんな超絶的なものでなくても、集団の中でただ単にリーダーシップを取ろうとするだけでも、「出る杭は打たれる」そのままに、まわりから打たれたり、妬まれたり、批判されたりすることもある。

あるいは、まわりに合わせるのではなく、ただ自分らしくしているだけで浮いてしまって「出る杭は打たれる」状態になってしまうこともある。

人は誰でも「こうしたい」「こうなりたい」という夢を持っている。しかし、夢を持って前向きに生きようとすることすらも、まわりに嫉妬や憎しみを生み出す元になって叩かれることもある。

前向きに夢を持った人を叩くというのは、冷静に考えると不可解にも思えるが、その夢が実現したら追い抜かれた自分たちが惨めになると思うと、どうしても夢を壊そうとして足を引っ張る人が出てくる。

その現実を見て、多くの人は自分の才能を開花させるよりも、それを自分で殺して今のままでいようとする。

人は誰でも、まわりに批判され、憎まれ、悪口を言われ、時には罵倒されたり中傷されたりされたくない。そんな目に遭うのなら、何もしない方がいいと思ってしまう。

何もしないと「何もできない」と言われて中傷されるので、結果的には同じなのだが、努力して叩かれて失敗するというのは、恥ずかしいことだ。それなら、何もしない方が気持ちが楽だということになる。

その夢が実現したら追い抜かれた自分たちが惨めになると思うと、どうしても夢を壊そうとして足を引っ張る人が出てくる。


彼女たちの多くは「わたしは無理なの」と言った

世の中には才能のある人も多いのだが、やはり「出る杭は打たれる」ような状況の中で、才能を発揮する前に潰されていったり、自分から才能を捨ててしまうことも多い。

今まで、いろんな女性と出会ってきた。彼女たちの中には、とても歌がうまい女性もいて、私という観客ひとりにベッドの上で歌ってくれる女性も何人もいた。

あるいは、本当にたくさんの言語をたくさん知っていて、タイ語、インドネシア語、クメール語、英語、フランス語と、次々と言葉を切り替えて、私を楽しませてくれる女性もいた。

あまりよく目が見えない女性もいて、暗い部屋の中、紙を折って精巧な置物を作っていた女性もいた。アーティストだな、と私はしみじみと思った。

みんなそれぞれ才能を持って、もしかしたらその才能で自立できるのかもしれないと思ったが、彼女たちの多くは「わたしは無理なの」と言った。

本当は無理ではないのかもしれないが、彼女たちはその才能を発揮したくないと考えており、自分の持って生まれた才能を捨ててしまっているように見えた。

フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフも売春地帯から出てきた女性だが、路上で歌っているところを「発見」されてフランスの国民的歌手になっていった。

タイのプンプアン・ドゥアンチャンや、ターイ・オラタイも、恵まれない人生から才能ひとつで国民的歌手になっていった。

ということは、私が知り合った売春地帯の女性の中の誰かが、そこから羽ばたいて大きな才能を開花してくれる可能性もゼロではないと考えることもできる。

必死で生きている女性たちが、持って生まれた才能が認められて大きな存在になっていくのは、とても素晴らしいことだし、それを願っている。

死んでなお敬愛されるプンプアン・ドゥアンチャン。

Loke Khong Peung Pumpuang Duangchan
https://www.youtube.com/watch?v=OBnZ7GpvweU


「磨けば光る」ものを放置した挙げ句に捨て去る

自分の持って生まれた「良さ」や「才能」や「能力」というのは、それが自分のものだから、何か重大な価値があるもののように思えないのかもしれない。

傍から見たら才能があるとすぐに分かるのに、自分自身がそれを否定してしまい、「磨けば光る」ものを放置した挙げ句に捨て去るようなことをしてしまう。

得意を捨てて苦手で生きるのだから、生きにくい人生になってしまうのは当然だ。

本当は自分の中にある才能や能力を大事に、そして慈しんで育てて上げなければいけないのだが、まわりが「出る杭は打て」と言わんばかりに、寄ってたかって潰してしまう。

人は不思議なことに、肯定的な意見よりも否定的な意見の方を強く認識してしまう癖があって、そういった否定を投げかけられると動揺し、無意識にそれを受け入れてしまう。そして今度は、自分で自分を否定するようになってしまう。

「出る杭は打たれる」というのは、誰にとっても他人事ではない。それは、誰にでも起こりえる経験だ。

もしかしたら、あなたにも希有な才能があって、まだ種が発芽していないのに、発芽する前から踏みにじられてしまっているのかもしれない。

世の中は何でもそのようになってしまっているので、それはあなたも無縁ではなかったはずだ。とすれば、本当に必要なのは、自分で自分の才能を慈しみ、育て、愛し、信じることだと言うしかない。

人は不思議なことに、肯定的な意見よりも否定的な意見の方を強く認識してしまう癖があって、そういった否定を投げかけられると動揺し、無意識にそれを受け入れてしまう。そして今度は、自分で自分を否定するようになってしまう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150320T0529230900.html




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

110. 中川隆[-13142] koaQ7Jey 2018年6月13日 11:57:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15454]

内田樹×白井聡 ベストセラー論客が暴く、戦後日本人の精神構造

「トップが大人への成長を放棄、日本は“子供と老人しかいない国”になってしまった」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150524-00048243-playboyz-pol
週プレNEWS 5月24日(日)6時0分配信


日本戦後史論 – 2015/2/28
内田樹 (著), 白井聡 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2%E8%AB%96-%E5%86%85%E7%94%B0%E6%A8%B9/dp/419863906X


という対談本が注目を集めている。

著者は内田樹(たつる)氏と白井聡氏の人気論客ふたりで、憲法改正、集団的自衛権の行使容認、原発再稼働など、ここ数年、日本が直面する諸問題について「戦後の歩み」という視点から分析し、警鐘を鳴らしている。

戦後日本は「対米従属を通じて対米自立を実現する」という「葛藤」の中で成長してきた。だが、ここ10年、日本は葛藤を捨て思考が停止していると、ふたりは怒りを露(あらわ)にして訴える。

(前編記事→ 内田樹×白井聡、ベストセラー論客が怒りの対談!)

* * *

―なぜ、日本人は考える力を失い、成長や成熟を拒否するようになったのでしょう?

内田 「青年」がいなくなったことが大きく関与していると思います。

日本社会に子供と大人の両方をブリッジする「青年」という立場が生まれたのが、明治40年代です。それ以前は、子供は元服を経て、いきなり大人として扱われた。

明治維新の後、欧米列強に伍して一気に近代化を遂げなければならないという時には子供と大人の中間に青年という社会的な層が構想された。近代化のためには、十分な社会的能力がありながら環境の変化に対応できる柔軟性を備えた集団がどうしても必要だったからです。

夏目漱石が『三四郎』や『坊っちゃん』を、森鴎外が『青年』を書いたのは、それまで存在しなかった「青年」をロールモデルとして提示するためでした。

白井 それらは青年が大人になろうと葛藤する物語ですね。

内田 そうです。『坊っちゃん』の主人公が松山の中学校を辞めたのは1905年です。当時20歳なら、「坊っちゃん」は1885年生まれということになる。

つまり、敗戦の年、1945年に「坊っちゃん」は60歳だったということです。この世代が日露戦争、第1次世界大戦、大正デモクラシー、大恐慌、満州事変以後の戦争を経験し、敗戦までの日本を事実上牽引(けんいん)してきたわけです。彼らが近現代日本において、子供たちの自己造形のロールモデルだった。善し悪しは別にして、「坊っちゃん」や「三四郎」的な青年たちをモデルに子供たちは大人になる道筋を学ぶことができた。

その「青年」たちが消えたのが東京オリンピックの頃です。「坊っちゃん」が80歳になった頃に「青年」たちは社会的な指南力を失った。そして、子供たちは成長の手がかりを失ったのです。
白井 本当の大人というのは理想を持っていて、その理想とは程遠い現実との間で葛藤する。その葛藤に耐えることができるのが「大人」だと思うんです。葛藤を避けて「現実がこうだから仕方ないだろう」って諦めるのは大人じゃなくて「老人」なんですよ。

日本の社会からそういう大人がいなくなったので、「青年」も必要なくなった。ひたすら現実を受け入れるしかないなら、最初から理想なんて持たないほうが効率的です。そうやって日本は「子供からいきなり老人になることを要求される社会」へと変質したのだと思います。子供と老人しかいない。

内田 今の日本に、かつての元服に相当するような通過儀礼があるかといえば「就活」がそれに当たるかもしれません。ただし、就活は子供たちがある日突然、全員同じ服装をして、同じ言葉遣いをして、同じ価値観を共有することを制度的に求められるわけで、別に子供たちに「大人になること」を求めているわけではない。

むしろ、理想も正義感も捨てて、上の人間の言うことに無反省に従属する「イエスマン」になるための儀礼でしかない。

白井 その結果、日本はこの20年ぐらいで、普通の企業でも官僚の世界でも大学でも上層部は「イエスマン」しかいない社会になってしまった。

表向きは「個性が大事」とか言いながら、少しでも会社や上司に批評的なことを言ったり、大多数の人間と違う視点で考えたりする人間というのは非常に嫌われる。葛藤していない人間、つまり成熟していない大人のほうが出世できる仕組みになっている。

一方、上に立つ人間も自分が葛藤を捨てているので、下から何か異論を挟まれると、その異論を処理する能力もない。そう考えると日本社会の一番上にいる安倍首相というのは、そうした人間の典型で、彼のようなキャラクターというのが日本人のデフォルトになりつつあるということだと思うんです。

もちろん安倍首相にだって、個人的な内面の葛藤があったはずです。でも、彼はどこかの段階でそうした葛藤を殺しちゃったんでしょう。葛藤している人というのは、自分の中にもうひとりの自分がいて、絶えず「本当にそれでいいのか?」「違うんじゃないか?」と、心の中の「相方」が話しかけてくる。ですから、葛藤している人間は他人の意見もよく聞く。

最近の沖縄問題に関する議論でもそうですが、安倍さんが異論に対してまったく対話できないのは、彼が内的な葛藤をすべて捨てて、自分の中にシンプルなキャラクターを設定したことで成功を収めたからだと思います。その結果、自分に対してイエスという声しか聞こえない。

日本人が青年期を失い、社会が葛藤や逡巡(しゅんじゅん)を受け入れなくなって、大人への「成長」を放棄した人間がトップにまで上り詰めるような国になったということでしょう。

―日本はこの先どうなってしまうのでしょう?

内田 子供たちがバカをしても、まっとうな大人が要所を押さえていれば社会は回る。それくらいの余裕をもって社会は制度設計されています。でも、今ほど子供が増えて、大人が減ってくると、システムが綻(ほころ)びてくる。

集団が生き延びるためには、一定数の大人がどうしても必要です。「他の連中が好き勝手に子供をやっていても、せめて自分くらいは大人にならないと社会は回らない」と腹をくくる人が出てこないと話にならない。

白井 去年、大学の授業で延々と原発問題の話をしていたのですが、原発被災地から避難してきた学生がいて、「事故が起きた時、周りの大人たちは2、3日で帰れると思っていたけれど、自分はもう二度と故郷に戻れないと直感した」と言うんですね。

その学生が「授業を受けて、一番大事なことは自分の頭で考えることだと思った」とレポートに書いてきた。

原発事故の被害者だからこそ、自分は成熟しなければならない、大人にならなきゃいけない、周りの大人たちは見かけと違って大人じゃなかったと気づいたということですよね。そういう若者がどんどん増えてこないといけない。

内田 最近、政権与党や官邸があからさまな形で大手メディアに圧力をかけたり、メディアの側がそれに迎合したりというのが問題になっているけれど、それで徹底的な報道管制ができるわけではない。統制の及ばないメディアはいくらでもあるし、海外の新聞の日本についての報道もネットで簡単に読める。戦前とは状況が違います。

今の日本の状況を正確に理解して、自分の頭で考えて、大人になる道筋は整っている。あとは本人の決意の問題です。



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111. 中川隆[-13141] koaQ7Jey 2018年6月13日 11:58:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15454]

私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。
私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。

その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。

バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。
http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.php


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112. 中川隆[-13152] koaQ7Jey 2018年6月13日 12:20:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15466]

テレビドラマ 『ずっとあなたが好きだった』

動画
http://www.dailymotion.com/playlist/x5pfk4

放送期間
1992年7月3日 - 9月25日(13回)

制作局 TBS
脚本 - 君塚良一
音楽 - 小林武史
主題歌 - サザンオールスターズ「涙のキッス」(タイシタレーベル)


キャスト

桂田 冬彦
演 - 佐野史郎
東京大学出身でエリート銀行員。美和を深く愛しているが、マザコン的な性格を始め、様々な性癖が元で結婚生活がうまく行かず、大岩と再会した美和から離婚を切り出され、嫉妬から嫌がらせを展開したこともある(現在のストーカーの概念に通じる言動が、随所に見られる)。物語中盤、仕事で会社に損害を与えるミスをしてしまい、銀行を退職。その後、消費者金融会社(現在のヤミ金融系と思われる)に就職した。母親とのトラブルの直後、離婚を承諾。亡くなった冬彦の父がにしだのお菓子が好物で冬彦は子供の頃に店を訪れたことがありその時から美和に恋心を抱いていた。のちに見合いで再婚することになる。


西田(桂田) 美和
演 - 賀来千香子
宮城県仙台市出身。高校生の頃にマネージャーをしていたラグビー部の大岩と交際していたが、高校3年の七夕の夜初めて二人だけで松島旅行に出かけ朝帰りした後、それを知った大岩を追っかけしていた同級生が自殺。その際に遺書に逆恨みが書かれており濡れ衣を着せられ、大岩との仲を壊された過去を持つ。この事件は近所で知らない人がいないほど有名になってしまう。東京の短大を卒業後、新高輪プリンスホテルの結婚式場に就職。29歳で父の強引な勧めで、桂田冬彦と見合い結婚をするが、同時期に大岩と再会。冬彦との結婚生活にギャップを感じたこともあり、心が揺れる。のちに冬彦の子を妊娠していたことを承知で離婚。大岩と再婚した。

大岩洋介
演 - 布施博
美和の高校の同級生で元恋人。高校時代はラグビー一筋でその推薦で大学に進み卒業後、サントス建設実業団のラグビーチームで活躍していたが、バブル経済崩壊で会社が傾いたためチーム解散の憂き目に遭う。大岩は美和との事件の後、美和に電話や手紙を出していたが美和の父が間に入って取り合わずに焼き捨てるなどしていたため、その事実を美和が知るのは結婚後のことだった。美和との復縁の為、交際していた律子に別れを告げるが、律子の自殺未遂などで窮地に立たされる。しかし紆余曲折を経て、ついに美和と結ばれる。典型的なスポーツマンで大雑把で少々、無頓着な面が見られる。


中井律子
演 - 宮崎ますみ
大岩の所属するチームのマネージャー。基本的には明るく、さっぱりした性格だが、結婚の約束をしていた大岩との破局を受け入れることが出来ず、妊娠したと嘘をついた挙げ句、自殺未遂騒動を起こしてしまう。チーム解散の後、海外赴任を引き受け、大岩の元を去って行った。

桂田悦子
演 - 野際陽子
冬彦の母。夫は銀行員だったが冬彦が小さい時に死別している。女手ひとつで息子を育てたこともあり、非常にプライドが高く、厳格な性格。しかし息子に対しては非常に甘く溺愛しており、息子のため西田家への切り札を振りかざすこともある。物語終盤、美和との離婚を決めた冬彦との言い争いの末、冬彦に刺されてしまう。

各話 放送日 サブタイトル 演出 視聴率

VOL.1 1992年7月3日 危険なお見合結婚 生野慈朗 13.0%
VOL.2 1992年7月10日 セックスしない夫 13.9%
VOL.3 1992年7月17日 氷の微笑 加藤浩丈 15.3%
VOL.4 1992年7月24日 妻の過去は許さない! 14.1%
VOL.5 1992年7月31日 涙の誕生日 桑波田影信 17.4%
VOL.6 1992年8月7日 離婚裁判 生野慈朗 18.1%
VOL.7 1992年8月14日 ビデオテープの告白 15.7%
VOL.8 1992年8月21日 性生活の不一致 桑波田影信 20.5%
VOL.9 1992年8月28日 悪夢の妊娠 23.8%
VOL.10 1992年9月4日 人形の家 生野慈朗 20.6%
VOL.11 1992年9月11日 姑の罠 桑波田影信 22.3%
VOL.12 1992年9月18日 冬彦の狂気 生野慈朗 29.6%
最終回 1992年9月25日 NO SIDE! 34.1%

平均視聴率 19.9%(視聴率は関東地区・ビデオリサーチ社調べ)


ストーリーそのものは「昔の恋人と結ばれなかったヒロインが、マザコン男と結婚したが、夫や姑の身勝手な振る舞いに耐え切れなくなり、昔の恋人とヨリを戻す」というもの。

当時のトレンディドラマ全盛時代においては、特にヒットする要素はないように思われたが、佐野や野際の強烈な演技が話題となり、じわじわと視聴率を上げた。

劇中で示された特異で極端なマザコン男性像は「冬彦さん現象」と言われる一大ブームを作り、初回は13.0%しかなかった視聴率は、最終回では34.1%をマーク。1992年の民放連続テレビドラマの中で最高視聴率となった。

「マザコン」「冬彦さん」は、この年の流行語に選ばれた。

このドラマ放送から数年後、当時のプロデューサー貴島が編成部長時代に、日本テレビの土屋敏男編成部長(当時)と対談した際「最初はロミオとジュリエットみたいな話にするはずだった」点と、「もともと冬彦はマザコンではなかったが、冬彦が指に血を出した際、母親役の野際が口で止血するアドリブを見て、急遽マザコンキャラに変えた」と述懐している。

また後年、君塚が自著で

「自分は愛についてのドラマを書いたつもりである」

「佐野が評判になったため、当初作っていたプロットから大幅に変更し脚本を書き直して冬彦の出番を増やした」

と述べている。


一方、佐野は冬彦を演じるにあたって犯罪を題材に取った作品が多い劇作家・山崎哲の戯曲や論文を参考にしたと自著で回想しており、冬彦を語る上で欠かせない唇を歪めて「んん〜」と唸り声を発する演技も佐野が当時生後間もなかった長女・八雲のぐずる声を自宅で聞いて考案したものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9A%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F

 


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113. 中川隆[-13157] koaQ7Jey 2018年6月13日 12:26:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15472]

「美意識が低い」日本の受験エリート達の末路
オウム真理教が体現する、受験エリートの闇
山口 周 : コーン・フェリー・ヘイグループ 2017年08月31日
http://toyokeizai.net/articles/-/186380

世界のトップエリートたちは現在、必死に美意識を鍛えています。

一方、日本では偏差値は高いが美意識が低く、それが看過できない問題の元凶になっているようです


現在、世界のエリートは必死になって「美意識」を鍛えています。グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む、ニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、こけおどしの教養を身に付けるためではありません。彼らは極めて功利的な目的で、「美意識」を鍛えているのです。

なぜならば、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足を置いた経営、いわばサイエンス重視の意思決定では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです。

「偏差値は高いが美意識は低い」エリートたち

一方、残念ながら現在の日本企業の多くは、経営にかかわる人たちの美意識がほとんど問われません。すなわち、日本のエリート組織の多くは「偏差値は高いが美意識は低い」という状態で、計測可能な指標だけをひたすら伸ばしていく、一種のゲームのような状態に陥っています。ここでは「真・善・美」が問われず、それが、DeNAのコンプガチャやWELQ問題をはじめとして、続発する企業のコンプライアンス違反の元凶になっています。

「偏差値は高いが美意識は低い」という問題の闇を語るうえで避けては通れないのは、オウム真理教です。この宗教集団の特徴の一つとして、幹部が極めて高学歴の人間によって占められていた、という点が挙げられます。有罪判決を受けたオウム真理教幹部のリストを並べてみると、東大医学部を筆頭に、おそらく平均の偏差値が70を超えるのではないかというくらい、高学歴の人物を幹部に据えていたことがわかります。

地下鉄サリン事件が世間を震撼させたとき、これらの名だたる有名大学を卒業したエリートたちが、なぜあのように邪悪で愚かな営みに手を染めたのか、ということがしきりにワイドショーなどで騒がれました。しかし私は、当初からこの問いの立て方はポイントを外していると思っていました。


ワイドショーのコメンテーターに言わせれば、オウムの幹部連中は、受験エリートである「にもかかわらず」、愚かで邪悪な宗教に帰依した、つまり二つの事実を整合性の取れないものとして逆接でつないだわけですが、私は逆に、彼らがまさに受験エリートである「からこそ」、オウム真理教に帰依していったのだろうと思っていました。

その理由は、オウム真理教が提唱していた奇妙な位階システムにあります。オウム真理教では、修行のステージが、小乗から大乗、大乗から金剛乗へと上がっていくという非常に単純でわかりやすい階層を提示したうえで、教祖の主張する修行を行えば、あっという間に階層を上りきって解脱することができる、と語られていました。

これはまさに、オウム真理教に帰依していった受験エリートたちが、かつて塾で言われていたのと同じことです。オウム真理教幹部の多くが、事件の後になんらかの手記や回想録を著しています。これらを読むと、彼らのほとんどが、大学を出た後に社会に出たものの、世の中の理不尽さや不条理さに傷つき、憤り、絶望して、オウム真理教に傾斜していったことがわかります。

オウム真理教における「著しい美の欠如」

このように、わかりやすい位階システム、つまり強く「サイエンス」が支配している組織において、どのように「アート」が取り扱われていたのか。オウム真理教における「アート」について、小説家の宮内勝典氏は著書『善悪の彼岸へ』の中で、次のように指摘しています。

オウムシスターズの舞いを見たとき、あまりの下手さに驚いた。素人以下のレベルだった。呆気にとられながら、これは笑って見過ごせない大切なことだ、という気がしてならなかった。オウムの記者会見のとき、背後に映し出されるマンダラがあまりにも稚拙すぎることが、無意識のままずっと心にひっかかっていたからだ。(中略)

麻原彰晃の著作、オウム真理教のメディア表現に通底している特徴を端的に言えば、「美」がないということに尽きるだろう。出家者たちの集う僧院であるはずのサティアンが、美意識などかけらもない工場のような建物であったことを思い出してほしい。

偏差値教育しか受けてこなかった世代は、あれほど美意識や心性の欠落した麻原の本を読んで、なんら違和感もなく、階層性ばかりを強調する一見論理的な教義に同調してしまったのだ。後にオウムの信者たちと語りあって、かれらがまったくと言っていいほど文学書に親しんでいなかったことに気づかされた。かれらは「美」を知らない。仏教のなかに鳴り響いている音色を聴きとることができない。言葉の微妙なニュアンスを汲みとり、真贋を見ぬいていく能力も、洞察力もなかった。

宮内勝典『善悪の彼岸へ』


宮内氏のこれらの指摘をまとめれば、オウム真理教という組織の特徴は、「極端な美意識の欠如」と「極端な階層性」ということになります。これを本書の枠組みで説明すれば、アートとサイエンスのバランスが、極端にサイエンス側に振れた組織であったと言い換えることができます。


情緒や感性を育む機会を与えられず、受験勉強に勝ち残った偏差値エリートたち。彼らは、いわば「極端に単純化された階層性への適応者」でした。極端に単純化されたシステムの中であれば、安心して輝いていられる人たち。

しかし、実際の社会は不条理と不合理に満ちており、そこでは「清濁併せ呑む」バランス感覚が必要になります。彼らはそのような社会にうまく適応できず、オウム真理教へと傾斜し、やがて外界をマーヤー(幻)として消去させようとしました。

さて、ここまで、オウム真理教という、かつて日本を震撼させた新興宗教集団の特徴について考察してきましたが、読者の皆さんは、なぜビジネスとはまったく関係のないカルト教団の話をしているんだろう?と思われたかもしれません。

しかし、私は、宮内氏が指摘した「美意識の欠如」と「極端なシステム志向」というオウム真理教という組織の特徴が、ある種の組織と非常に類似している点に以前から引っかかっていました。

戦略コンサル、新興ベンチャーとの類似点

「業界の特性」ということでひっくるめられると迷惑だという反論もあるかと思いますが、あえて名指しで、オウム真理教と類似しているなと筆者が感じる二つの業界を挙げるとすれば、それは戦略系コンサルティング業界と新興ベンチャー業界ということになります。

私が電通を退職して米国の戦略系コンサルティングの会社に転職したのは2002年のことです。オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたのは1995年のことで、私はこの事件をきっかけにしてカルト教団に興味を持ち、研究をするようになったのですが、2002年に戦略コンサルティングの会社に転職し、昇進や評価のシステムに関する説明を入社時研修で受けた際に、すぐに「この組織はオウムの仕組みとそっくりだな」と感じたことを、よく覚えています。

いくつかの具体例を挙げて説明してみましょう。たとえば、極端に階層的でシステマティックである、という側面です。通常の企業ではだいたい8〜9程度の等級が設定されていることが多いのですが、コンサルティング会社には基本的に4階層しかありません。新卒で入るとアナリストになり、やがて中堅のアソシエイトへと昇格し、その中のごく一部がさらにマネジャーへと昇進し、さらに選び抜かれた人が最終的にはパートナーになるという、極めてシンプルな仕組みです。


最近ではさまざまな組織で「多様性」が大きなテーマになり、その要請を受けて複数のキャリアのハシゴを用意する、いわゆる「複線型人事等級制度」の導入が進んでいますが、戦略コンサルティングの業界というのはその真逆で、極めて単線的かつ階層の明確な等級制度になっているわけです。

その階層性の明確さがはっきりと表れているのが報酬制度です。ざっくりとまとめれば、戦略系コンサルティング会社での報酬水準は、一階層上がるごとに倍になります。つまり新卒を1にすれば、中堅は2、マネジャーは4、パートナーが8ということになります。一般的な企業の昇給水準が数%程度であることを考えると、各ステップに100%の階差があるというのはちょっと驚きですが、これも階層性を明確にするための一つの要因となっています。

昇進のためには「生産性」だけが問われる

そしてさらに、ここが非常に重要なポイントなのですが、「何ができれば階層を上がれるか、どうすれば上がれるか」が非常に明確です。昇進の条件は極めてメカニカルなもので、人望や見識といった情緒的な側面はほとんど含まれません。具体的な説明は守秘義務があるので割愛しますが、大まかに説明すれば、コンサルティングに求められる全般的なスキルの項目に対して、どれくらいの充足度があるかによって判定されるという考え方で、一言で言えば「生産性」だけが問われ、人望や美意識は問われない、ということです。

こういったわかりやすい階層性、どうすれば上に行けるのかが明確なシステムは、前述したオウム真理教の仕組みと非常に類似しているんですね。

オウム真理教の教祖だった麻原彰晃が、弟子に対して語った講話の記録が残っているのですが、これを読んでみると非常に興味深い。というのも、麻原はことあるごとに「小乗、大乗、金剛乗」の3ステージを示し、どのような修行をすればこのステージを駆け上がっていけるかを繰り返し帰依者に訴えているのですが、これはコンサルティングファームの上級役員の語り口と非常に似ています。

同様のわかりやすさは新興ベンチャー企業においても見られます。そこで問われるのは見識や人望ではなく「早く結果を出すこと」でしかありません。以前、DeNAが主催した投資家向けの説明会に参加させてもらったことがあるのですが、事業の起案や投資に関する意思決定は徹頭徹尾、経済的な側面に基づいており、事業の意義やビジョンについては「それが経済的利益に結びつくと考えられる際には作成されるだけで、別に必要ない」とのコメントに慄然(りつぜん)とさせられたことがあります。

システムとしてわかりやすいと言えば、これ以上にわかりやすい仕組みはないわけで、とにかく結果さえ出せれば、大手企業に勤めている人が数十年かけて上るようなキャリアの階段を、数年で一挙に駆け上がって高額の報酬を得ることができる仕組みになっているわけです。


さらに指摘すれば、一見すると人材の交流があまりないように思われる「戦略コンサルティング業界」と「新興ベンチャー業界」ですが、昨今では「新卒で戦略コンサルティング会社に入り、途中から新興ベンチャー企業に転職する」というのは一つのキャリアパターンになりつつあります。

たとえば、DeNAの創業メンバーのほとんどが、戦略コンサルティング会社の出身者であったことを思い返せば、これらの業界に集まる人たちに共通する「思考の様式」がおわかりいただけると思います。その思考様式とはつまり「社会というシステムの是非を問わず、そのシステムの中で高い得点を取ることだけにしか興味がない」という考え方です。

「システムによく適応する」≠「よりよい人生」


『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』(光文社)。
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4334039960/asyuracom-22


ここにこそ「エリートこそ美意識を鍛えるべきである」というアイデアの根幹につながる問題があります。エリートというのはシステムに対して最高度の適応力を持っている人たちです。この「システムへの適応力」こそが、彼らをエリートたらしめているわけですが、ここに問題がある。「システムによく適応する」ということと「よりよい生を営む」というのは、まったく違うことだからです。

多くのエリートは、システムに適応し、より早く組織の階段を駆け上がって、高い地位と年収を手にすることを「よりよい人生」だと考えています。しかし、そのような志向の行き着く先には、多くの場合、破綻が待ち受けていることになります。

わかりやすいシステムを一種のゲームとして与えられ、それを上手にこなせばどんどん年収も地位も上がっていくというとき、システムに適応し、言うなればハムスターのようにカラカラとシステムの歯車を回している自分を、より高い次元から俯瞰的に眺める。そのようなメタ認知の能力を獲得し、自分の「ありさま」について、システム内の評価とは別のモノサシで評価するためにも「美意識」が求められる、ということです。


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114. 中川隆[-13162] koaQ7Jey 2018年6月13日 12:52:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15478]

実力主義が日本企業から実力を失わせた

実力主義の結果東芝では「うまい嘘をつける」ほら吹きが社長になった
引用:http://tk.ismcdn.jp/mwimgs/2/3/-/img_23ca3cb4b4263438c640db43b4cc5996291780.jpg


実力主義にすると無能な人が選ばれる?

実力主義、能力主義、成果主義と呼ぶ考え方が、現在の日本企業や行政では正しいとされています。

採用や昇進は実力によるべきだとされ、予算は成果や実績などによって決められるとされています。

こういう考え方が広まったのはバブル崩壊後の1990年代からで、それまでは年功序列や伝統主義が重視されていました。

ところが「能力主義」などに替わったとたん、企業でも政治でも「能力が劣る人」が昇進するようになった。

年功序列の昭和時代の政治家にくらべて、平成の政治家の『小物感』は目を覆うものがあります。

昭和の時代の総理大臣(=自民党総裁)は当選回数だけで決められていて、そこには能力評価が入る余地はまったくなかった。


竹下登という人はノートに全ての議員の当選回数を書き、自分より上は後何人いるか、指折り数えて待ったという。

竹下登は1987年11月6日に総理大臣に選ばれたが、理由は彼より当選回数が多く、健康でスキャンダルが無い人が他にいなかったからでした。

田中角栄も佐藤栄作も中曽根康弘もみんなこうして総理になったが、平成の総理達より高く評価されている。


能力主義が適用されるようになったのは1991年の宮澤喜一(当選8回)からで、皮肉な事に「無能だ」と不評で自民党最後の総理になり下野した。

次の1993年細川護熙(初当選)から本格的な能力主義、実力主義が始まったが、この『能力の低さ』は如何ばかりだろうか。

羽田孜、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦と続いた。


昭和の総理大臣は長期的視野や戦略性があったのに対し、能力主義で選ばれた平成の総理は、目先の選挙しか考えない。


能力評価でおべんちゃら人間が出世する

これらの顔ぶれを見ると「実力主義」よりは従来の当選回数順に総理を選んでいたほうが、よほど『能力が高い人』が選ばれていたに違いないと思えます。

役所や企業でもこれと同じ事が起きていて、能力や実力で選んだら、一番能力が劣る人が社長になる企業が続出した。

東芝やシャープの歴代社長はなぜあんな人達だったのか、優秀な人材を集めたのにもっとマシなのは居なかったのかと、誰もが疑問に思ったでしょう。


総理大臣を当選回数で選ぶ制度は、不合理なようでいて「もっとも有権者から信頼されている人」を選んでいたので、実力者を選んでいたのだと言えます。

企業の社長選びも年功序列によって、本当は「最も実力ある人」を自動的に選んでいたかも知れません。

時には失敗するが、それでも能力評価で選ばれた後の時代の社長よりは、皆有能だった気がします。


なぜこうなるかというと「能力」を評価するといっても、評価する人の判断力が低ければどうしようもないからです。

政界の政争劇を見ると分かるように、有力政治家は有能な人物よりも「自分に都合が良い人」を引き立てます。

日本がどうなろうが、自分にオベンチャラを言い、ペコペコしてくる人間を引き立てて、党の有力者にしてしまいます。


企業も同じで、次期社長は社長を選ぶ人達に好都合な人が選ばれ、「有能な人」は選ばれません。

また「有能な人」が能力で選ばれたとしても、その評価が本当に正しいのか疑問を感じる場合が多い。

年功序列時代には上司の評価なんか気にせず堂々としていた日本企業の社員は、「能力主義」の結果常に上司の評価を気にするようになった。

長期的な成果より目先の自分の評価を優先する人が増えた結果、「なぜあの人が?」と首を傾げる人が社長に成る企業が続出した。
http://www.thutmosev.com/archives/74420650.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

115. 中川隆[-13161] koaQ7Jey 2018年6月13日 12:54:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15478]

職場での正義感なぜ仇に?「無責任な人間ほど出世する」社会学的な根拠=河合薫
http://www.mag2.com/p/money/337500

誰もが知る大企業でもフタを開いてみれば上層部は無責任でいい加減な人ばかり、というのはよくある話。

現場で実際に頑張っているのは平社員ばかりというケースは意外と多いのではないでしょうか。

メルマガ『デキる男は尻がイイ−河合薫の『社会の窓』』の著者で、米国育ちの元ANA国際線CA、元お天気キャスターという異例のキャリアを持つ健康社会学者の河合薫さんが、大手日本企業の中間管理職に関する興味深い調査結果を紹介します。

「責任感や几帳面さが、昇進にマイナスに作用する」統計的有意性

東芝ほか国内大企業への調査で明らかに

前回のメルマガで「日本の大企業の中間管理職がどんな人たちなのか?」について調べた調査で、商社とメーカーで中間管理職のタイプが異なることを紹介しました。今回はその調査で明かになった“衝撃の事実”をお話します。

「わが国大企業の中間管理職とその昇進」と題された論文の肝であり、もっとも気になるのは35項目の心理特性と昇進との関連です。

統計的な分析を行なったところ、次のことがわかりました。

昇進には……

◾学歴、及び、早い時期での評価が圧倒的に重要
◾交渉力、運への自信、指導力、昇進意欲などが重要
◾忠誠心、明るさは関係ない

さらに、

◾責任感や几帳面さは、昇進にマイナスに作用する

と、35項目の中で、「責任感」と「几帳面さ」だけが、統計的に有意に昇進のマイナスに作用していました。

要するに、「責任感の強いことは、昇進を妨げる可能性が高い」という、なんとも残念な結果が得られているのです。

責任感の強さがなぜ、マイナスに作用するのか?

その理由とされているのが、正義感です。

責任感の高い人は正義感も強いため、自らの責任に加え、他者への責任追及も厳しい。

組織で起こる問題の多くは、たったひとりの人物が原因である場合はごくまれ。ひとりが正直に告白することで困る人も少なからずおり、厄介な存在なのです。

逆に、嘘をつきとおす人のおかげで責任追求を免れる人も存在します。

つまり、多かれ少なかれ日常の業務の中にも嘘や責任逃れは横行しているので、そういう人は案外、上司や周囲から重宝がられ、上からの「引き」で出世する可能性が高まるのです。

東芝の調査でわかった皮肉な結果

また、論文では調査対象とした6社別の分析も行い、次のことがわかりました。

◾日本電気:忍耐力、計画力、批判精神などが重要
◾日立製作所:やる気、押し、社交性、闘争心などが重要
◾東芝:柔軟な考え、計画力、批判精神が重要。責任感はマイナスに作用
◾三井物産:交渉力、運への自信、体力などが重要
◾三菱商事:ほとんど関連なし。強いていえばモチベーション
◾日商岩井:ほとんど関連なし。強いていえば運への自信

統計分析では、N(分析する人数)が減ると有意になりづらいという特徴があります。
つまり、企業別にすると必然的に各々のNも減る。

それでも東芝だけ、有意に「責任感の高さはマイナス」という結果が示されたのは、昇進との関連性の強さを伺わせる結果と解釈できます。

東芝だけ。そう東芝だけが「責任感」がマイナスとは……。その後の末路を予測している結果です。

当時の上司たちは“今”の東芝のゴタゴタをどんな風に見ているのでしょうね。ぜひとも聞いてみたいところです。

無責任な世界のCEOたち

いずれにせよ「無責任なヤツほど出世する」という結論は海外の多くの研究で示されていて、米国ではその責任感を個人のパーソナリティ特性と明確に位置づけ、「他責型」と「無責型」に分けるのが一般的です。具体的には、下記になります。
◾他責型は「人を責める」「人のせいにする」タイプ
◾無責型は「自分の関わりを否定する」タイプ

<他責型の事例>

米国企業のトップの7割はこのどちらかに属するとされ、他責型の事例としてよく取り上げられるのが、BP(石油会社のブリティッシュ・ペトロリアム)の元CEO・トニー・ヘイワード氏。

BP社といえば、2010年4月にメキシコ湾沖合80km、水深1522mの海上で海底油田の掘削作業中に、大量の原油をメキシコ湾へ流出させるという大規模な事故を起こした企業で、このときの事故で11人の作業員が死亡。全米を震撼させる大惨事となりました。

当時CEOだったヘイワード氏は事故直後に「一体、どうして我々がこんな目にあうんだ」と報道陣の前で嘆きフルボッコにあった。それでも一向に態度を改めることなく、徹底的に責任を否認したのです。

事故2週間後には、「メキシコ湾は広大だ。海全体の水の量に比べれば、流出した石油と分散剤の量など微々たるものだ」と発言し、科学者たちが「部分的に溶解した原油が、海中を浮遊する様子」を捉え、責任を追求するも、「汚染物質などない。科学者はおかしい」と反論。どこまでも「他者」を責め続けました。

<無責型の事例>

一方、無責型の事例として上げられるのが、ヒューレット・パッカード社史上最悪のCEOと揶揄されたカーリー・フィオリーナ氏。彼女は “ガラスの天井”をぶち破ってきた自他共に認めるエリートで、会社が倒産する数日前「自社のバランスシートは健全」と公言しました。

しかしながら、経営は悪化の一途をたどり、挙げ句の果て辞任。過剰な人員削減や安易な戦略が「企業を衰退させた」と大批判され、“全米至上もっとも無責任なCEO”とも呼ばれています。

その他にも、倒産後も責任を否定し続けた老舗投資銀行ベアー・スターンズ のCEOアラン・シュワルツ氏も、嘘つきで傲慢な「無責型」に分類されています。


無責任な人は無自覚に嘘をつく

こういった事例からおわかりのとおり、無責任な人たちは度々嘘をつきます。しかしながら彼らには、「嘘をついている」という罪悪感はいっさいありません。

私たちは、「嘘をつき、責任を回避すると、イヤな気持ちになる」と考えがちです。しかし実際には、嘘を貫き通すことができると、次第に“チーターズ・ハイ”と呼ばれる高揚感に満たされ、どんどんと自分が正しいと思い込むようになっていくのです。
 


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116. 中川隆[-13172] koaQ7Jey 2018年6月13日 13:20:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15490]

善人は報われず、傲慢でおべっかを使う嫌な奴ほど出世する
[橘玲の日々刻々]


 お話の世界では、努力は報われ、正直者は幸福になり、正義は最後に勝つことになっています。しかし、現実はどうでしょうか。

 アメリカの研究者が調べたところ、職場では仕事を頑張るより上司の評価を「管理」したほうが、より高い勤務評価を得ていました。評価の管理とは、ようするに“おべっか”のことです。

 もちろん、どんな組織にもゴマすりはいます。「そんな奴はみんなから嫌われるから、最後は失敗するにきまってる」と思うかもしれません。しかしこれも、調べてみた研究者がいます。すると驚いたことに(まあ、驚かないひともいるかもしれませんが)、どれほど見え透いたお世辞であっても、ゴマすりが逆効果になる限界点はありませんでした。ゴマはすればするほど得になるのです。

 こうして研究者は、次のように結論しました。

「上司を機嫌よくさせておけば、実際の仕事ぶりはあまり重要ではない。また逆に上司の機嫌を損ねたら、どんなに仕事で業績をあげても事態は好転しない」

 ことわっておきますが、これは「成果主義」「実力主義」の代名詞になっているアメリカ企業の話です。

 さらに不愉快な研究もあります。アメリカのビジネス専門誌の調査では、同調性の低い人間のほうが、同調性の高い人間より年収が1万ドル(約110万円)も多くなりました。「同調性が低い」というのは、利己的で他人のことなどどうでもいいと思っている、ということです。組織においては、上司にゴマをすりつつ、自分勝手に昇給を要求することが成功の秘訣なのです。

 しかしこれでは、善人は報われないのではないでしょうか。残念ながらそのとおりです。

 私たちが他人を評価するとき、その80%は「温かさ」と「有能さ」という2つの要素で決まります。問題なのは、この2つが両立しないと見なされていることです。

 親切なのはよいことですが、あまりに親切すぎると「無能」の烙印を押されます。逆に傲慢で嫌な奴ほど、第三者にとっては有能で権力があるように映ります。その結果、企業のCEOには常軌を逸して嫌な奴、すなわちサイコパスの比率が高くなります。彼らはみんなのために必死に働くのではなく、組織のなかで権力を握ることだけに全精力を注ぐのです。

 これがすべて事実なら、善人は救われないと思うでしょう。これもそのとおりで、職場での冷遇は、肥満や高血圧以上に心臓発作のリスクを高めることがわかっています。

 東芝、日産、神戸製鋼から東レまで、日本を代表する企業の不祥事がつづいています。国会では、“モリカケ”問題で官僚が冷や汗をかきながら答弁しています。いつから日本人はこんなに無様になったのか。目の前に不正があるのなら、一身を賭して真実を暴き、悪を掣肘すべきではないのか。そんな怒りにふるえるひともいるかもしれません。

 でも、彼らはみんな“宮仕え”の身です。アメリカ以上にベタなムラ社会である日本の会社や官庁に、硬骨漢や正義の士がはたして何人いるでしょうか。

 忖度できるひとしか出世しないのなら、忖度が得意なひとがどこにでも現われるのは当たり前の話です。
http://diamond.jp/articles/-/153530

実力主義だと白人男性だけしか高い地位を得られない


ウーバーのトラビス・カラニックCEOは先日、ウーバーの運転手と料金で口論になり、罵る動画の車載カメラが公開されて謝罪していた。

2月19日には元エンジニアのスーザン・ファウラーさんが、2015年から2016年12月まで、社内でハラスメントを受けていたと告発した。


会社に被害を訴えたところ、ウーバー人事部は加害者が好業績を上げているとして、制裁に難色を示したと言っています。

ウーバーは「実力主義」を第一に掲げていて、反面実力さえあれば何をやっても許される風土もあるようだ。

結果としてウーバーの上層部は男性ばかりで女性は男性の部下になり、「男性は女性に何をしても良い」ルールが出来上がっている。

「実力主義」が派閥主義になる

このような風土はシリコンバレー出身のIT企業に多く見られ、経営者や重役のほとんどが男性で、「実力主義」を自画自賛している。

またウォール街の金融機関にも多く見られ、やはり実力主義で優秀なトレーダーのほぼ100%を男性が占めている。

アップルやグーグルやマイクロソフトも例外ではなく、女性をCEOにした米ヤフーは事実上破綻してしまった。


アメリカ特有の問題として、最高幹部になるのは必ず白人の男性で、他の人種や女性がなる事は、極めて稀です。

これも実力主義を掲げる企業ほどそうなっていて、不思議な事に「実力主義」は人種や属性を固定してしまう。

そういえばスポーツの世界でも白人が強い競技は白人だけ、黒人が強い競技は黒人だけという風景が、オリンピックで良く見られる。
http://www.thutmosev.com/archives/69852868.html  


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117. 中川隆[-13171] koaQ7Jey 2018年6月13日 13:33:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15490]

上司の評価は、「見た目」がすべて! 吉田典史
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11516


「見た目」や「評判」こそが大切

 「上司が理解してくれない」と嘆く会社員がいますね。私は、サッカーやゴルフなどのスポーツ選手のメンタルアドバイザーを長年してきましたが、「監督やコーチが認めてくれない」と愚痴をこぼす選手もいます。

 このような会社員や選手は「自分はこんなに努力している」と思い込み、認められない努力を黙々と続けます。努力そのものは尊いのですが、「努力しよう」と思うと、成功はできないものなのです。自分の能力や才能だけに頼ると、ツキや運をつかみ損ねます。上司や会社、監督やコーチに認めてもらえなければ、能力や才能はないのと同じなのです。

 ほかにもいますね。「正しいことを主張しているのに、理解されない人」「努力家なのに、がんばっているという評判が立つこともない人」「優秀なのに、優秀とは思ってもらえない人」…。

 いずれも、努力するほどに悪い方向に進んでいきます。ツキや運は、他人が運んでくれることを理解していないからです。この現実を心得ているならば、成功するためには2つの方法しかありません。

 1つは、「自分に仕事をさせないと損だぞ」と上司や監督に思わせること。サッカーの本田圭佑選手などは、それをよく心得ているように私は見ています。記者会見でも、ふだんから「強さ」を演じていますね。

 もう1つは、監督やコーチに気にいってもらうこと。たとえば、同じ実績、能力で、調子も同じような選手が2人いたとします。どちらかひとりを試合に出す場合、監督は自分が好感をもっている選手を起用するはずです。これは、私が多くのプロスポーツ選手から直接聞くことでもあります。

 「実力があれば認められる」と信じ込み、ひとりで努力を続けていくと、上手くはいかないでしょう。私はこの姿勢をかたくなに変えることなく、消えていった選手をたくさん見てきました。

 スポーツ選手であれ、会社員であれ、必要なのはまずは自分のイメージづくりです。上司や会社、お客さんや取引先、監督やコーチの目に、自分がどのように映っているかを考えてほしい。「上司が理解してくれない」と嘆く会社員は、上司からの印象がよくないのだと思います。たとえば、「あんな奴は使えないからこの仕事を与えても、どうせ上手くはできないだろう」というイメージです。

 それとは逆に、上司や会社から活躍の場を与えられる人は、イメージがいいのだと思います。「この仕事は、あの社員がスペシャリティだ」という評判です。本当にこのようになる必要はなく、あくまで「見た目」であり、「評判」が大切なのです。中身ではなく、「ラッピング」です。

人は錯覚で動いている

西田文郎さん

 人間の脳は、前提条件でできていることを忘れてはいけない。「自分はこういう人間なのだ」「この分野では、自分は優秀であり、使える人材だ」と決めると、それを実現するように無意識のうちに行動をとります。他人から貼られたレッテルに反応し、自分をそのレッテルに適応させようとします。しだいに、周囲のデザイン通りの人になっていくのです。

 「自分は、こういう仕事ができるのだ」と決めるとき、その仕事ができるとか、できないは2の次です。まずは、「できる」と自分でデザインするべきです。自信がない人ははじめから、「俺はダメだ」「私にはできない」「自分は、使えない人」と思い込みます。そして、ダメであったような経験を拾い集めるのです。「自分はできる」と思った経験に乏しく、「できるようになる自分」を予感できないのでしょう。

 予感には、過去の裏付けがあります。成功を予感できる人の脳には、成功した記憶データがあるのです。「できない」と失敗を予感する人には、そのような記憶データがあるはずなのです。つまり、予感が現実をつくるのです。

 その人は、きちんと「できた経験」もしているはずなのです。しかし、「できなかった」という前提で脳が動くから、「できた経験」に意識が向かない。その意味では、人は錯覚で動いていると言えます。上手くいくためには、自分の脳を錯覚させるようにすればいいのです。

 私は、講演で「自分経営計画書」を書くようによく言っています。「これまでに、自分ができた仕事や自分がいいと思えることを20個書きなさい」と課題を出します。成功の記憶データを思い起こし、脳にインプットするようにするのです。今、仕事などで思い描いたようにいっていない人はなおさら、成功の記憶データを思い起こしてほしい。

 「自分経営計画書」を書いたら、それを実現するために「気、縁、運」を理解してほしい。金運、健康の運、仕事の運、配偶者に恵まれる運など、様々な運があります。運を獲得しようとするとき、まず、気に注意をすべきです。自分の心にあるエネルギーをプラスにするのです。「負けないぞ」「これを乗り越えるぞ」という気です。

 その気には、プラスのエネルギーを発している人が集まります。「よい縁」がしだいにできるようになります。やがてその縁には、「よい運」が訪れます。ツイている人になり、ついには成功を手にするのです。

 マイナス思考で「自分にはできない」という気を発している人と一緒にいると、同じような人との縁ができます。そして、不運とめぐり合うようになっているのです。

 最後に、参考になる例を紹介します。赤字会社の社長と黒字会社の社長を比べると、必死に努力をしているのは赤字会社のほうです。会社員でも同じことが言えます。プロ野球の2軍やJリーグのサテライトを見ると、選手は必死に練習をしています。しかし、努力しても努力をしても、はい上がれないのです。

 そのような人を見てきて、つくづく思います。ツキのない人の努力は、決して開花しません。ツキのない人は、いずれ努力をすることに疲れます。運のない人は不運を美化し、ますます不運になっていくのです。

 努力することを私は否定しませんが、ツキや運は、自分の努力ではつかむことができないのです。人が与えてくれるものなのです。
 


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118. 中川隆[-13237] koaQ7Jey 2018年6月13日 19:00:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15574]

サイコパスが選ぶ職業、トップ10


1位 CEO
2位 弁護士
3位 テレビやラジオのキャスター
4位 セールスマン
5位 外科医
6位 ジャーナリスト


サイコパスを見抜くことは難しい。彼らは、映画や小説で描かれる「切り裂きジャック」とは違う。多くの場合、サイコパスは一般の人たちと変わらない。特定は困難だ。


アメリカ精神医学会の「精神障害の診断と統計マニュアル」の第5版、いわゆるDSM-5は、サイコパスの性格について、傲慢で、過大な自尊心を持ち、他人を操ることに長けた者と定義している。だが、診断は往々にして、一筋縄ではいかない。

1つだけ、サイコパスには共通点が見受けられる。職業だ。例えば、サイコパスは非情さ、カリスマ性、恐れを知らないといった特質を持つため、リーダー的なポジションについていることが多い。サイコパスは即座の判断に優れたセンスを発揮する。逆に、看護やセラピーなど他者への共感が必要な仕事には向いていない。

心理学者のケヴィン・ダットン(Kevin Dutton)氏は、サイコパス研究が専門。著書『サイコパス 秘められた能力』において、同氏はサイコパスが選ぶ職業をリストにまとめた。

「有能なサイコパス(Functional psychopath)」とダットン氏が呼ぶ人たちは、「私情に流されず、臆することなく、カリスマ性を生かして、社会の表舞台で成功を収める」。言い換えるなら、人とは違った特徴はあるものの、サイコパスはごく普通の人と変わらない生活を送っている。

サイコパスが選ぶ職業トップ10を見てみよう。

(※全ての写真は記事上部のリンクからご覧になれます)
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10位 公務員

実際、2014年にはイギリス政府の職員は、特に「秩序の維持」を目的に、サイコパスの採用を検討した。

なぜならサイコパスは「危機的な状況への対応に優れ」、そして「他者への関心や倫理規範に欠け、非常に知的能力が高く論理的な傾向があるため」だ。
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9位 シェフ

ほとんどのサイコパスは、他人に危害を加えることに興味がない。だからシェフが毎日、火や包丁を使うからと言って、心配する必要はない。

サイコパスは、他の人なら失敗してしまうようなカオス状態が得意。なので大忙しのキッチンで活躍できる。


8位 聖職者

サイコロジー・トゥデイ(Psychology Today)のブログで、FBIのベテラン捜査官ジョー・ナバロ(Joe Navarro)氏は、サイコパスが聖職者を選ぶ理由を述べた。

いくつかの理由の中で同氏は、宗教組織は、他者を食い物にする手段を与え、また自らの行為を正当化する手段になると語った。加えて、連帯感を築くことも簡単なため、人を操ることに長けた人にとっては、個人的な情報を手に入れ、有利な立場を得やすい。
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7位 警察官

サイコパスが必ずしも、隠されたモチベーションを持っているわけではない。

彼らの特徴の1つは、ストレス下でも極めて冷静なこと。警察官は激務で危険な仕事。危機的状況でも落ち着いていられることは、大きなメリットになる。

警察官がサイコパスに人気の職業なのは、これが理由かもしれない。
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6位 ジャーナリスト

ダットン氏はサイコパスの特徴として、人を引きつける魅力、集中力、高い意識、非情さ、そして行動的であることをあげた。

これらは全て、ジャーナリズムの世界では有利な性質。特に厳しい締め切りがあり、情報源から答えを引き出す必要がある場合はなおさら。
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5位 外科医

イングランド王立外科医師会の会報に、外科医には本当にサイコパスが多いのかを調べた研究が掲載された。

研究によると、研修医を抱える外科医は、一般的な病院の外科医よりもサイコパス的性格のスコアが高かった。また一般的な病院の外科医は、一般の人よりもスコアが高かった。

この理由について、研究チームは「ストレス耐性が、医師にとって最も重要な特徴」であり、外科医は毎日、難しい決断を即座に下さなければならないという事実をあげた。
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4位 セールスマン

サイコパス的な人が営業部門で働いた場合、厚かましい売り込み、客の横取り、一番稼ごうとする執拗な欲求、チームワークの欠如といった特徴が表れるだろう。

働く組織次第では、最悪の結果となることもあれば、最高のセールスマンとして称賛を受けることもあり得る。


3位 テレビやラジオのキャスター

サイコパスの中には、ナルシシズム的性格を示す人もいる。多くの人から注目を集めることが不可欠な職業では、間違いなく役に立つ性格。

また、この職業はプレッシャーのかかる状況で冷静さを保つ必要がある。これもサイコパスに好まれる理由だろう。
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2位 弁護士

『ソシオパスの告白』の中で、自らもソシオパス(社会病質者)を自認するM・E・トーマス(M. E. Thomas)氏は、ソシオパスであることが優秀な弁護士になることに有利に働いたと述べた。

一方、サイコロジー・トゥデイのブログで、弁護士のルース・リー・ジョンソン(Ruth Lee Johnson)氏は、自信、冷酷さ、人を欺ける魅力といったサイコパス的な特徴は、弁護士にとって役立つと認めながらも、こうした特徴だけで十分とするのは単純すぎると釘を刺した。

だが、時と場合によっては、非常に優秀に見えるだろう。
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1位 CEO

サイコパスは、「カオスへの耐性」と呼ぶべき特徴を持っている。これは単に、ストレスがかかる中でも冷静さを保っているという意味ではない。

彼らは時に、混乱状態を作り出す。周囲の誰もが苦戦している中で、自分を優れた存在に見せるために。

サイコパスの中には、この手段を使って出世の階段を上がり、トップの座に就く者もいる。

一方、周りを操る必要のないサイコパスもおり、自らの能力だけでトップに登りつめる。

[原文:http://www.businessinsider.com/professions-with-the-most-psychopaths-2018-5

(翻訳:長谷 睦/ガリレオ、編集:増田隆幸)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180604-00010003-binsider-sctch&p=1


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119. 中川隆[-13236] koaQ7Jey 2018年6月13日 19:02:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15574]

優れた投資家は機能的精神異常者?

この度、アメリカで行われた調査によると、優れた投資家は精神異常者であると発表され物議をかもしている。

すぐれた投資家とは米国の科学者のチームによると、正常なIQをもっている41人(感情影響する脳の領域に障害がある15人を含む)に簡単な投資ゲームをするように依頼。

実験の結果は脳障害をもっているグループの方が投資家として優れていた。

科学者によると脳に障害のない被験者は感情が作用し、リスク回避行動を取るのが、脳傷害をもっているグループと違うところ。

よって研究者の 1人、アイオワ大学神経学助教授 Antione Bechara は優れたトレーダーは「機能的な精神病質者(サイコパス)」と呼ばれるかもしれないと発言。

またスタンフォード大学の Shiv 氏によると、多くの企業幹部や一流弁護士も、同じ特色を共有するかもしれないと語っている。

以上が大体の内容です。どうですか? 

日本の過去の名だたる相場師達も、その行動は病的な人が多いのも事実ですし、私は案外、的を射ている部分もあると思います。しかし、優れた投資家と言うのを研究者がどのように認識してるかは、個人的には少々疑問があります。

この研究者の言う優れた投資家と言うのは、恐らくリスクを果敢に取りにいける人達を言うのでしょう。

正常な脳を持った普通の人なら、リスク回避行動を取る場面で、逆の行動をする人達。

これは逆張り順張りは関係ないと思います。大暴落の最中に果敢に買いにいける人、新高値をどんどん買いあがれる人達でしょう。

日常生活で言えば、火事の家に飛び込み、高いビルに命綱なしで登って行ける人達なのかも知れません。

その行動が大きな利益を生む原泉になる訳ですが、しかし一気に破産するリスクも抱えている訳です。

昔から○○と天才は紙一重といいますが、私は一見狂気とも思える行動がプラスに作用する職業もあると思います。それは芸術家、企業経営、そして投資家(投機家)でしょう。そう言う意味では、この実験結果は妥当なものだと思います。

しかし、この実験の最大の欠点は時間軸が無視されているところです。

日本の相場師も成功と破産を何度も繰り返しながら、最後まで勝ちきった人はごく少数しかいません。

最近のアメリカでも栄華を極めたビクター・ニーダーホッファーやジュリアン・ロバートソン、会社で言えばLTCMも破産しています。

先日亡くなった、ダイエーの中内さんも前半までは歴史に残る成功者ですが、晩年は評価を落としました。つまり一時は大成功しても時間には勝てなかった訳です。

この実験の脳傷害がある人のリスク回避行動が欠如していると言う面は、個人的には納得できますが、それが常に上手く機能し、優れた投資家であり続けることが出来るかは、また別問題でしょう。

最後に、現役の優れたトレーダーであるラリー・ウィリアムズの講演会を聞きに言った時、彼は常に一般大衆と逆のことをやっているので、トレーダーは日常生活で精神的バランスを保つのが大変だと言っていたのが、印象に残っています。


追記

ケヴィン・ダットン(オックスフォード大学実験心理学部教授)が書いた、


サイコパス 秘められた能力 2013/4/23 ケヴィン・ダットン (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4140816023/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4140816023&linkCode=as2&tag=asyuracom-22


でトレーダーについて興味深い記述があったので紹介します。

ドン・ノヴィックは、トレーダーとして働いた16年間一度も損をした年がなかったという。現在は引退して悠々自適の生活。ちなみちドン・ノヴィックは自分のことをサイコパスと認め、検査の結果も陽性である。

その彼にトレーダーとして成功する秘訣を聞いたところ、

「非常に優秀なトレーダーの最大の特徴は、引き際の態度、その日の取引はすべて終了というときの様子だ」

と答えた。更に

「トレーダーという商売は、精神的に少しでも弱いところがあれば身の破滅になりかねない。
ハードな取引のあとで泣いたり、具合が悪くなったりしたやつを大勢見てきた。
市場から受けるプレッシャー、環境、人間・・・ どれも本当に容赦ないからね。

それでもトップにいる連中に関しては、一日の終わりに出口に向かっているとき、何を考えているのか、わからないことだ。

何十億大儲けしたのか、すっからかんになったのか、まったく見分けがつかない。

優秀なトレーダーの基本原理は、取引中に脳の情動執行委員会の誰にも、意思決定重役室のドアをノックさせないこと。同席するなんてもってのほかだ。

非情に、冷酷に、執拗に、今この時に集中する。
昨日起きたことは今日起きていることと切り離す。
昨日のことを引きずったら、たちまち失敗する。
いつまでも感情を引きずる人間は立会場では二日ともたない」

と語った。

例えば死刑執行人は、人の命を奪っても何も感じないかもしれない。
トレーダーの場合も似たようなものだ。

取引注文を業界用語では「執行」という。
取引が執行されたら、優秀なトレーダーは、平気でさっさと帰っていく。
その後になぜ? とか、賛成か反対かとか、正しいか間違っていたかなんて、これっぽっちも考えないのだ。
http://psychological-jp.com/column/p3.html


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120. 中川隆[-13235] koaQ7Jey 2018年6月13日 19:15:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15574]

ロシア史上で断然No.1 の大秀才だったロシア革命の指導者レーニンは典型的なサイコパスだった


ウラジーミル・イリイチ・レーニン(1870年4月22日 - 1924年1月21日)


神童の誉れが高く、九歳でシムビルスク古典中高等学校に入り、卒業の際は全学科全学年を通じて首席だった為、金メダルを授与された。

1887年5月に彼の兄アレクサンドル・ウリヤノフは、ロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画参加のために絞首刑にされた。

兄の死によりレーニンは学生活動に参加するようになり、同年末に逮捕されカザン大学を退学するが、兄アレクサンドルの母校サンクトペテルブルク大学の難関国家検定試験で断トツの成績だった秀才ぶりと試験官の強い推薦で政治事情を免除され、第一級の学士を取得。
https://nlp.cs.nyu.edu/meyers/controversial-wikipedia-corpus/japanese-html/main/main_0841.xml.html


レーニンの実像  


ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」

内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm


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121. 中川隆[-13247] koaQ7Jey 2018年6月15日 09:32:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15598]

凋落する科学技術力を食い止める 2018-06-15
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12383833012.html

 資本主義とは、モノ、ヒト、技術という経済の三要素を強化し、生産性を高め、国民の実質賃金を引き上げることで成長するモデルです。モノ(=資本)を強化するのが設備投資、公共投資。ヒト(=労働)を強化するのが人材投資。そして、技術を強化するのが言うまでもなく技術投資になります。


 以前、チャンネル桜の財務省討論


【経済討論】財務省主導の経済でいいのか?日本[桜H30-4-14] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=s8y0fk90-OQ

パネリスト:
 安藤裕(衆議院議員)
 高橋洋一(嘉悦大学教授・「政策工房」会長)
 田村秀男(産経新聞特別記者・編集委員兼論説委員)
 藤井聡(京都大学大学院教授・内閣官房参与)
 松田学(東京大学大学院客員教授・元衆議院議員)
 三橋貴明(経世論研究所所長)
 渡邉哲也(経済評論家)


で、

「技術投資が増えていないのが、決定的にまずい」

 と、発言しましたが、何しろ技術がなければ設備投資も公共投資もできません。おカネは発行できますが、道路、トンネル、橋梁、鉄道網、空港、港湾、発電所、送電線網、電波塔、通信ネットワーク、ガスパイプライン、上下水道網、建築物、工場、機械・設備、運搬車両といった生産資産は、技術無しでは生産不可能なのです。


 生産資産がない状況では、どれだけ人材がいたとしても、モノやサービスの生産はできません。


「不毛の砂漠で所得を稼いでみなさい」
 という話になってしまいます。


 技術は経済の(少なくとも「資本主義経済」の)基盤なのです。


『日本の科学技術「力が急激に弱まった」 白書を閣議決定
https://www.asahi.com/articles/ASL66539WL66ULBJ005.html

 政府は12日、科学技術について日本の基盤的な力が急激に弱まってきているとする、2018年版の科学技術白書を閣議決定した。引用数が多く影響力の大きい学術論文数の減少などを指摘している。

 白書によると、日本の研究者による論文数は、04年の6万8千本をピークに減り、15年は6万2千本になった。主要国で減少しているのは日本だけだという。同期間に中国は約5倍に増えて24万7千本に、米国も23%増の27万2千本になった。

 また、研究の影響力を示す論文の引用回数で見ると、上位1割に入る論文数で、日本は03〜05年の5・5%(世界4位)から、13〜15年は3・1%(9位)に下がった。(後略)』
 


【2000年度を100とした場合の各国の科学技術関係予算の推移 】
http://mtdata.jp/data_59.html#kagaku


 2000年度を100とし、直近の科学技術関係予算を比較すると、中国が11倍、韓国が4.7倍、アメリカ、ドイツ、イギリスといった先進国ですら1.5倍強。


 それに対し、我が国は1.06倍。予算を全く増やしていない。


 この状況で科学技術力が凋落しなければ奇跡ですが、残念なことに奇跡は起きていません。


 さらに、大学を法人化し、「短期の成果主義」という狂った発想を導入。


 国立大学が法人化された2004年には1兆2415億円だった国立大学法人運営等交付金は、2017年には1兆0970億円にまで削減されました。


 文部科学省は、法人化の際に、
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/houjin/03052702/002.htm
「今回の法人化は、財政支出の削減を目的とした「民営化」とは全く異なるものです」
 と説明していたくせに、大嘘。予算削減の緊縮と、短期の成果主義が蔓延し、長期的な研究開発がほぼ不可能。


 繰り返しますが、この状況で科学技術力が凋落しなければ奇跡です。


 白書では、大学に対し、
「会議を減らして教員らが研究に割ける時間を確保すること」
 などと眠たいことを提言していますが、まずは国立大学法人化が「間違っていた」ことを認めなければなりません。


 そして、せめて米英独並に科学技術関係予算を増やし、かつ「長期」に予算をコミットすることで、研究者の雇用を安定化させ、長期的研究に取り組めるようにするのです。


 04年以降の緊縮、短期路線が続く限り、我が国の科学技術力の凋落を食い止めることは不可能です。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12383833012.html

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122. 中川隆[-13244] koaQ7Jey 2018年6月15日 17:32:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15604]

世にも奇妙な物語 「23分間の奇跡」


キャスト: 賀来千賀子
放送日: 1991年 冬の特別編



動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%96%E3%81%AB%E3%82%82%E5%A5%87%E5%A6%99%E3%81%AA%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%80%8023%E5%88%86%E9%96%93%E3%81%AE%E5%A5%87%E8%B7%A1

教室の中、子供達の前で一人の中年女性教師が泣いている。
そこへ、時報と同時に別の女性教師が入って来る。
「子供達はどうなる」と訴えていた中年教師を教室から送り出し、
その教師は子供達に語り掛ける。

最初は、不審気な表情を見せる子供達。
だが、教師が子供達の名前や特技などを言い当て、それを三日間で
覚えて来たと話すと、次第に心を開き始める。
次に教師は、教室に掛かった額の中の言葉の意味を問い掛ける。

「平等 自由 平和」

そこで、一人の少女が教師の着ていた服について尋ねた。
こんな服は嫌いかと教師が尋ねると、少女は服を褒めた。

「じゃあ、これからは、みんなにも同じ服を着て貰いましょうね。
そうすれば、明日着て行く服を考えなくてもいいでしょう?
みんな同じ服、これが平等だと思わない?」

この意見に、一人の少年が食って掛かる。
すると、教師は続けた。

「そう、何を着るのも勝手、それが自由というのよ。」

これにも反抗する少年。
少年の父親は、どこかに連れて行かれていたのだった。
教師は、「大人でも学校に行く」「すぐに帰って来る」と言う。
すると、少年は机の中から新聞の切り抜きを取り出す。

「クーデターが起きて、日本の憲法が変わっちゃったんだ!」
「憲法って何?」
「国の決まりだよ。」

教師は、これにも優しい口調で答える。
「国の決まりでも、間違っていたら変えなきゃね?」
そして、女性は明日から「お泊り」に行く事を発表した。
キレイな部屋で美味しいものを食べると聞き、喜ぶ子供達。
何が食べたいかを子供達に尋ねた教師は、おもむろに言い出す。

「さぁ、みんな目を閉じてお祈りしましょう。
『神様、お菓子を下さい』。」

くすくす笑いをこらえながら女性の言葉に従う子供達。
当然お菓子は現れない。

「じゃあ『指導者様』に変えてみたらどうかしら?」

子供達の机の上にお菓子を置いていく女性。
目を開けてお菓子を見つけ、喜ぶ子供達。
だが、一人反抗していた少年は、薄目を開けて全てを見ていた。

「お菓子を置いたのは『指導者様』じゃなくて
 先生じゃないか!」

微笑む女性。

「そう、実際にお菓子を机の上に置いたのは先生です」

あっさりと認められ、きょとんとする子供。
女性は、少年を賢いと褒めながら言葉を続ける。

「いくら誰かに祈っても、本当は何も出て来ません。
もし、何かしてくれる人がいるとすれば、それは神様なんかじゃ
なくて、先生や他の人の力なの。」

言葉に詰まる少年を、他の子供達も褒め始める。

続けて教師は、新学期のクラス委員を誰にしようか話し始めると、
子供達は少年がいいと口々に言い出す。
まんざらでもない様子の少年。
教師は、クラス委員の最初の仕事として、掛けられた額を外して
しまおうと提案する。

ある少女が「大切なものでは?」と言い出す。

「本当に大切なのは、中に書かれた言葉でしょう?
だったら、それはみんなの心の中に掛けておけばいいわよね。」

子供達は納得し、額を外した少年はそれを窓から投げ捨てた。
地面で砕ける額を見て、歓喜する子供達。

子供達を見て微笑む女性の腕時計は、丁度23分を経過していた。
そして、女性は自分の服と同じ制服と新しい教科書を取り出す。

「古い教科書を破った人から、取りに来て下さい。」

もう、疑問を唱える子供はいなかった。




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123. 中川隆[-13280] koaQ7Jey 2018年6月17日 17:05:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15691]

所得低いと発育不全のリスク 高所得の1・3倍、北里大調査 2018年6月17日


 所得が低い世帯の子どもは、乳児期に体重が増えないまま成長する発育不全のリスクが高所得世帯の約1・3倍になることが17日、北里大などの調査で分かった。調査した研究者は、経済的な理由で保護者が十分な食事を用意できなかったり、仕事の忙しさなどから育児放棄(ネグレクト)をして栄養が不足したりしていることが背景にあるとみており、早い段階からの支援や介入が欠かせないと提起している。

 子どもの貧困が問題となる中、生後間もない乳児を分析した研究は日本では珍しいという。

 調査は、2001年と10年に生まれた子どもを追跡調査している厚生労働省のデータを活用して分析した。

(共同)


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124. 中川隆[-13564] koaQ7Jey 2018年6月29日 20:02:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16276]

リベラル風の上流国民だと、心の奥底ではアジア人を嫌っているくせに、表面上は“心優しい天使”を演じて「博愛主義者」だ。

その中でも、とりわけ悪質なのが、お嬢様大学に通ってピンク左翼に染まったインテリ女性である。彼女たちは街角で移民排除を訴えている日本人を見ると、「何、あの下品な人たち !! 右翼ってホントに嫌よねぇぇ〜」と口にするが、道路工事の現場で働くベトナム人とか、古ぼけた団地に居坐る支那人、怪しげな飲み屋に務める朝鮮人と親しくなることはない。もちろん、恋愛対象なんて論外。

そもそも、名門の一流校には穢らわしいアジア人が居ないし、たとえ同じクラスに留学生がいても、奇妙な顔をした外人は「ご学友」じゃない。それに、ご自慢の英語を駆使して会話を楽しむのは、憧れの西歐人だけ。香港出身の支那人とか、マニラからやって来たフィリピン人じゃ嬉しくないし、日本人の友達に“ひけらかす”こともできない。

だいたい、英語を話したからといって、アングロ・アメリカ人になる訳じゃないのに、まるで「上等な人間」にでも成ったかのようにウキウキするんだから、植民地のアジア人と同じじゃないか。こういうバイリンガルの日本人に出逢ったら、

「わぁぁ、すご〜い、まるでフィリピン人みたい!」

と褒めてやれ。苦虫を噛み潰したようにムっとするから。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68722954.html


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125. 中川隆[-13414] koaQ7Jey 2018年7月06日 21:16:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16333]
2018.07.06
官僚や政治家は庶民から高等教育を受ける権利を奪い、富裕層の子を優遇してきた



 東京地検特捜部は7月4日、文部科学省の科学技術・学術政策局長だった佐野太を受託収賄の容疑で逮捕した。私立大学支援事業の対象校に選定されることの見返りに、自分の子を大学入試で合格させた疑いが持たれている。同日、佐野局長は解任され、大臣官房付になった。

 日本医科大学から同大学を対象校に選定するよう佐野が依頼を受けたのは文科省官房長だった2017年5月。その見返りと知りながら、自分の子が今年2月に同大を受験した際、点数の加算を受けて合格させてもらった疑いがあるとされている。

 言うまでもなく、検察、特に特捜部は信頼に値しない集団。裁判も行われていない段階であり、今回の出来事について語れる段階ではない。ただ、日本の受験が公正でなくなっているとは言える。学費の高騰で経済的に余裕のない家庭の子どもは圧倒的に不利な状況だが、それだけでなく試験の仕組みも不公正になっている。

 今でも以前と同じような「一般入試」は残っているが、出身校から推薦された学生を選抜する「推薦入試」や出願者の個性や適性に対して多面的な評価を行って選抜するという「AO入試」など学校側の主観で合格者が左右される方法が多用されている。出身校でランク付けされることから受験の山場は小学校とも指摘されているが、勝負所が早くなればなるほど親の経済力の差が出る。

 安倍晋三内閣の私的諮問機関だという「教育再生実行会議」が提出した「​高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について​」には次のような記述がある:


「各大学は、学力水準の達成度の判定を行うとともに、面接(意見発表、集団討論等)、論文、高等学校の推薦書、生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動(生徒会活動、部活動、インターンシップ、ボランティア、海外留学、文化・芸術活動やスポーツ活動、大学や地域と連携した活動等)、大学入学後の学修計画案を評価するなど、アドミッションポリシーに基づき、多様な方法による入学者選抜を実施し、これらの丁寧な選抜による入学者割合の大幅な増加を図る。その際、企業人など学外の人材による面接を加えることなども検討する。」

 大学側が主観的に能力とは関係なく合格者を選べるわけで、「裏口入学のシステム化」のように見える。

 かつて教育課程審議会の会長を務めたことのある三浦朱門は「ゆとり教育」について次のように語っている:「平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」(斎藤貴男著『機会不平等』文藝春秋、2004年)

 こうした方針で教育した結果、大学や大学院の学生の能力は大幅に低下しているという声が企業サイドから聞こえてくる。三浦が言うところの「学力」は能力と別物で、「できる者」は優秀でなかった。

 日本の「エリート」はアメリカを追いかけ、新自由主義を導入してきた。そのアメリカでは公教育が崩壊状態にある。これはかなり前から進んでいたことで、アメリカの上院議員で元ハーバード大学教授のエリザベス・ウォーレンによると、アメリカでは医療とならび、教育が生活破綻の原因になっているという。

 アメリカの場合、低所得者の通う学校では暴力が蔓延して非常に危険な状態で、学習どころではない。少しでもまともな公立の学校へ通わせようと望むなら、不動産価格の高い住宅地に引っ越す必要がある。

 私立の進学校へ通わせるためには多額の授業料を払わなければならない。トーマス・カポーティは『叶えられた祈り』(川本三郎訳、新潮文庫)の中でウォール街で働いているディック・アンダーソンなる人物に次のようなことを言わせている。

 「二人の息子を金のかかるエクセター校に入れたらなんだってやらなきゃならん!」

 エクセター校とは「一流大学」を狙う子どもが通う有名な進学校で、授業料も高い。そうしたカネを捻出するため、「ペニスを売り歩く」ようなことをしなければならないとカポーティは書く。アメリカの中では高い給料を得ているはずのウォール街で働く人でも教育の負担は重いのだ。結局、経済的に豊かな愚か者が高学歴になり、優秀でも貧しい子どもは落ちこぼれていくことになる。

 イギリスも似たような状況で、例えば、2012年にイギリスのインディペンデント紙が行った覆面取材の結果、​学費を稼ぐための「思慮深い交際」、日本流に表現するなら「援助交際」を仲介するビジネスの存在​が明らかにされた。​ギリシャでは食費を稼ぐために女子学生が売春を強いられ、売春料金が大きく値下がりしている​と伝えられているが、こうした傾向は各国に広がりつつある。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201807060001/

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126. 中川隆[-13449] koaQ7Jey 2018年7月11日 08:03:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16459]

内田樹 2018年07月07日 敗北主義について

日替わりで行政の不祥事が報道されているので、この記事が新聞に出る頃に日本の政局がどうなっているのか皆目見当もつかない。だが、どちらに転ぼうとも「行き着くところまで行く」という流れに変わりはないだろう。

「行き着くところまで行く」というのは、言い換えると「このままの方向に進むととんでもないことになるということがわかっていても、手をつかねて何もしない」ということである。「最悪の事態が到来するまで何もしない」というのは日本人の宿痾である。

組織的危機の到来を警告する人間は日本社会では嫌われる。

事故を起こした原発でも、コンプライアンス違反や法令違反を犯した企業でも、「こんなことを続けていると、いつかたいへんなことになる」ということを現場の人間は知っていたはずである。自分たちがやるべき手順を抜かし、守るべきルールを守らず、定められた仕様に違反していたことは現場にいる人間は知っている。知らないはずがない。でも、それを上司に伝えると「嫌な顔」をされた。ここでそれを指摘すれば、経営陣はこれまでそれを放置してきたことの責任を問われる。壊れたシステムの補正のためにはそれなりのリソースを割かねばならない。仕事が増えるし、利益が減るし、外に漏れれば会社の評判に傷がつく。だったら「見なかったこと」にして、先送りした方がいい。人々はそう考えた。

いずれ「たいへんなこと」が起きるだろうが、その時には自分たちはもう満額の退職金を手に退職した後である。短期的に自己利益の多寡だけを見れば「見なかったこと」にする方がたしかに賢い生き方である。現に、「今すぐ非を認めて補正した方がよい」と諫言する人たちは嫌われ、排除され、「全く問題はありません」と言い募る人々が出世を遂げていった。

でも、そうやって、ある日気がついてみると、どれほど危機的な事態に遭遇しても、何もしないで先送りして、ますます事態を悪化させることに長けた人々ばかりで日本社会の指導層が占められるようになった。それが現状である。

「最悪の事態が到来するまで何もしない」というのは、日本の組織に限って言えば、実はそれなりに合理的な解である。そのことは残念ながら認めなければならない。

というのは、日本人は「最悪の事態」について考えると、とたんに思考停止して、絶望に陥り、使い物にならなくなるからである。

ほんとうにそうなのだ。

人口減少についてのデータに基づいて「これから経済成長を望むのは不可能だ」と書いたらたくさんの人に叱られた。「そういう衰亡宿命論を口にするな」「国民を悲観的にさせるな」と言うのである。

別に私は衰亡宿命論を語っているわけではない。私を個人的に知っている人はご存じのとおり、気質的にはたいへん楽観的な人間である。だから、人口が減り、超高齢化した日本でも、それなりに愉快で豊かな生活はできるはずだから、その手立てについてみんなで知恵を出し合おうではないかと申し上げているのである。

なのに「そういう話はするな」と言われる。それよりは原発再稼働とか五輪万博招致とかリニア新幹線とかカジノとか、そういう「景気のいい話」をしろ、と。

そういう話をしたい人はすればいいと思う。

でも、そういうのが全部失敗した後の「プランB」について私が考えても誰の迷惑にもなるまい。

だが、日本人は「今のプランAが失敗した場合のプランBを用意する」ことを「敗北主義」と呼ぶ。そして「敗北主義が敗北を呼び込む。景気の悪い話をする人間が景気を悪くするのだ。この後日本が経済成長しなかったら、それはお前の責任だ」とまで言う。

なるほど、悲観的になると思考能力が低下するという真理は夫子ご自身のそのご発言からあからさまに知れるのである。
http://blogos.com/article/309501/


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127. 中川隆[-13448] koaQ7Jey 2018年7月11日 08:03:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16459]

◆ハザードマップと重なった浸水域、それでも犠牲者防げず 7月10日 朝日新聞

住宅地が大規模に冠水した岡山県倉敷市真備(まび)町は、過去にも同じ河川が繰り返し氾濫(はんらん)していた。危険を知らせる洪水ハザードマップは、今回とほぼ同じ浸水域を想定しており、河川改修も計画していた。予測していた災害で、なぜ30人近い犠牲者を出したのか。

【写真】河川の付け替え工事の予定と被害状況


■真備町、水の流れにくい河川

 「一挙に水が出た。急激な水位上昇があった」

 8日夜、倉敷市防災危機管理室の河野裕・危機管理監は、想像以上の速度で河川の水位が上がっていった状況を記者団に語った。

 真備町は1級河川の高梁川へと注ぐ支流の小田川流域にある。住宅地や田んぼが広がるが、堤防の決壊で地区の約4分の1にあたる1200ヘクタールが浸水した。倉敷市はほぼ半数の住家が床上浸水したとみている。

 倉敷市は6日午前11時30分、真備町を含む市内全域の山沿いを対象に「避難準備・高齢者等避難開始」を発令。午後10時には真備町全域に「避難勧告」を発令した。地域防災計画では、小田川の氾濫(はんらん)危険水位に達することなどが発令基準になっているが、見回りに出ていた市職員や消防団の情報から、早めに発令することにした。すぐにエリアメールや防災無線などで住民に情報を伝えた。

 しかし、その後も水位の上昇が続き、7日午前0時47分には国土交通省が小田川右岸で水流が堤防を越えたとの緊急速報を出した。倉敷市では、その約40分後までに真備町全域に避難指示を出した。国交省が堤防の「決壊」を把握したのはその約4分後だった。

 真備町は地区の東側を高梁川、南側を小田川に囲まれている。

 岡山大の前野詩朗教授(河川工学)によると、今回の決壊は、高梁川と小田川の合流地点付近が湾曲して水が流れにくくなっているため、上流側の水位が上昇する「バックウォーター現象」が起きたことが原因とみられる。流れなくなった水は勾配が緩やかな小田川の方にたまりやすく、決壊したという見方だ。

 国交省の資料によると、二つの河川の合流地点付近では、1972年や76年などにも大規模な浸水が発生していた。国交省は湾曲部分よりも下流側に合流地点を付け替えて水を流れやすくする工事を計画し、今秋には工事用道路の建設を始める予定だった。

 一方、倉敷市は洪水時の地区ごとの浸水域を色分けして示したハザードマップを作成していた。今回の水害後、国交省がドローンを飛ばして上空から確認すると、地区内の浸水被害は想定とほぼ重なっていた。倉敷市は全戸にハザードマップを配っていたが、住民の男性(48)は「そんなものがあったとは、知らなかった」と言う。

 想定されていたはずの災害。倉敷市の担当者は9日夜、「命を落とした方がいるということは本当に残念だ」と述べたものの、原因について問われると、「その質問に答えるにはまだ早すぎる」と語った。


■ハザードマップ、1300市町村が公開

 浸水が想定される区域や避難場所などを住民に伝える洪水ハザードマップは、市町村が作成する。

 国や都道府県などの河川管理者が、流域に降る雨の量や堤防が切れる場所などを想定して浸水想定区域図をつくり、市町村が避難場所や経路を記入して完成させる。昨年3月時点で約1300市町村が公開している。倉敷市もその一つだ。

 約7万戸が浸水した2000年9月の東海豪雨やその後の水害で、多くの住民が避難場所を知らなかったことが問題になり、水防法が改正されて、大きな被害が予想される川について作成が義務づけられた。

 東京都荒川区は2016年、荒川で最大規模の洪水が起きた際の浸水想定を国土交通省が公表したことを踏まえ、ハザードマップを改定した。区内の11万5千世帯のうち、9万世帯が最大5メートル以上の浸水被害を受けると想定している。

 15年の関東・東北豪雨では、茨城県常総市を流れる鬼怒川の堤防が決壊した際に、多数の住民が自宅に取り残され、ハザードマップが避難行動に結びつかない実態が明らかになった。国交省は16年に手引を改め、「早期の立ち退き避難が必要な区域」も設定することを盛りこんだ。

 荒川や入間川が流れる埼玉県ふじみ野市では、昨年3月からハザードマップにこうした区域を明記している。担当者は「ただマップをつくるのではなく、中身を住民に知ってもらい、水害のリスクを実感してもらうことが重要」と話す。

 ただ、作成が義務づけられているのは一定規模以上の河川が対象で、中小河川では浸水想定区域図がなく、危険性が示されていない場合がある。昨年7月の九州北部豪雨では、浸水想定区域として示されていなかった筑後川の支流があふれて多くの犠牲者が出た。


(私のコメント)

今回の西日本大水害は、130名を超える死者を出す大災害となりましたが、警報や勧告が出ていても犠牲になられた方は避難することをしていなかった。4年前にも広島では大災害が出ましたが、その広島でまた大水害が出てしまった。山を切り崩して造成された団地に土砂が襲いかかって犠牲者を出してしまった。

災害というのは起きる直前までは、なんともないから大丈夫だろうと思うのでしょうが、それで予想以上の大きな人的な災害になってしまった。事前に水害が予想されてハザードマップも作られていたが、住民の関心は薄く、ハザードマップは配られても多くの住民はそれを知らなかった。

テレビのニュースを見ても、4年前の広島の土砂災害と同じ光景が繰り返されてしまっていた。土砂災害は防ぎようがなく、山を全部コンクリートで固めるわけにも行かない。砂防ダムなどを作っても効果はないだろう。集中豪雨があれば土砂崩れの危険性があるから、居住禁止にすべきですが、それができない。

今回も1000ミリ以上の雨が降ったのだから、山は崩れ川が溢れかえることが予想できたのに、大丈夫だろうといった判断が逃げ遅れる原因になった。毎年のように集中豪雨は発生するようになり、東京でもゼロメートル地帯が有り、堤防が決壊すれば同じように家は水没して逃げ遅れるといったことも考えられる。

東京もたびたび集中豪雨があり、神田川などが氾濫しますが、巨大なゆう水槽を作って川の氾濫を防いでいる。地方の中小河川でも、氾濫する可能性のある川には遊水地を作って、非常時にはそこに水を貯めるようにすべきだろう。用地がなければ農業耕作地を遊水地にして、住宅への被害を防ぐべきだ。

しかしすぐにできる対策といえば、避難所を作って避難することであり、年に一度くらいは避難訓練をして、高齢者なども所在を確認しておくべきなのだ。東日本大震災も、津波に対する訓練をしていたところは全員助かったが、大川小学校のように避難訓練をしていない小学校は大きな犠牲を出してしまった。

原発にしても避難訓練くらいはすべきだったが、やったというようなニュースを聞いたことがない。面倒だと思っても万が一にあった時にはそれが役に立つはずだ。大阪でも大きな震災がありましたが、神戸大震災や東日本大震災の教訓が生かされずに交通が大混乱してしまった。

7月8日にも書いたように、日本人は最悪の事を考えるという事はせず、思考が停止してしまう。最悪のことを考えてそれに対する訓練をしておけば大災害は防げるはずだ。東北では万里の長城のような防潮堤が作られていますが、それよりも避難所を整備して避難訓練をしたほうが、早いし費用もかからない。

しかしいかんせん日本人は最悪の事は考えたがらないから、今回のように130名以上もの犠牲者が出てしまう。ハザードマップも作られて配られていても、それを元に避難訓練をしなければ意味がない。避難をして何もなければ訓練だったと思えばいいのではないだろうか。

大東亜戦争の時も、ドウリットルの空襲があったときは、何の迎撃もできませんでしたが、空襲があるとは予想しておらず、訓練もしていなかったから日本中がパニックになってしまった。それで急遽ミッドウエイ作戦が行われることになりましたが、図上訓練では上手くいかず、それを無視して実行したら、実際にはその通りになってしまった。

東京でも北朝鮮からミサイルが飛んできた時の訓練をすべきなのでしょうが、日本人は最悪のことは考えたくないから訓練は行われない。おそらく近い将来、関東大震災が再び起きるのでしょうが、避難訓練も何もしていないから大災害で多くの犠牲者が出るだろう。
http://2013tora.jp/kabu412.html


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128. 中川隆[-13451] koaQ7Jey 2018年7月13日 12:19:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16528]

「学歴」が分断する現代日本社会
『日本の分断』吉川徹教授インタビュー
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13370


 「学歴なんか関係ない」といくら言ったところで、学歴により就くことのできる職業も違えば、賃金にも差があるのが現実。また、社会人になると同業者や同じような人生を歩んできた人々とのコミュニケーションが多くなり、それ以外の人々がどんな生活を送り、何を考えているかについては無関心になりがちだ。大卒と非大卒の人生が別々のものになりはじめた現代日本社会では、特に若年非大卒の男性たちが多大なリスクにさらされているという。

『日本の分断 切り離される非大卒若者たち』(光文社新書)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E6%96%AD-%E5%88%87%E3%82%8A%E9%9B%A2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E9%9D%9E%E5%A4%A7%E5%8D%92%E8%8B%A5%E8%80%85-%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B9-%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8/dp/4334043518

を上梓した計量社会学が専門で、大阪大学大学院人間科学研究科、吉川徹教授に日本における学歴の意味や、学歴分断社会の現状、そして非大卒の若者たちに忍び寄るリスクについて話を聞いた。


(hyejin kang/iStock/Getty Images Plus)

――日本社会で学歴が持つ意味を一言で言い表すとどんな言葉になるでしょうか?

吉川:「自己責任だとみなされているがゆえに、もっとも重視されるアイデンティティ」でしょうか。

 今の日本社会では、「ジェンダー」「生年世代」「学歴」という3つの分断線が重要な意味をもちはじめています。前者2つについては変更不可能なある意味で運命論的な分断です。しかし、「学歴」に関しては、本人の努力次第で手にするものと思われています。実際には、親が教育にお金の面などで手助けをしてくれたから可能になった成果なども含まれているのですが。

 さらに、「ジェンダー」や「生年月日」は外見から判断できてわかりやすい。しかし、学歴は外見上わからないものなのに、問いただすのはタブーだとされています。タブーというのは、もっとも重要で決定的なものであるからこそ、たやすく触れないことにされているものごとです。格差論がここ数年注目されていますが、その根底にはタブーとされがちな学歴差が、人生を少なからず左右している実態がある、といえばだれでも多少は思い当たるところがあるはずです。

――学歴分断と、巷で話題になる格差社会、階級社会という言葉に違いはあるのでしょうか?

吉川:学歴分断とは「最終学歴という、大人にとって変更不可能なアイデンティティ境界に従い、上か下かが決まる」ことを指します。たとえば、格差といわれる状態は、解消しようとなれば、そのための議論が可能ですし、政策によって、「アンダークラス」のような特定の階級に属する人の数を減らすこともできます。しかし、学歴は、一度身につけて社会へ出れば、定年を迎えるまでそれをずっと使い続けなければなりません。だから、学歴分断は解消しえないのです。そこが決定的な違いですね。

――トランプ大統領の誕生によってアメリカの分断が、Brexitによりイギリスの分断が叫ばれ、欧米諸国でもこの「分断」がキーワードになっていますが、そこでも学歴が重大な意味を持っているのでしょうか?

吉川:いいえ。欧米社会には、階級と民族という学歴より重大な格差の源泉があります。たとえば、企業の採用では、表向きは民族や階級といった個人情報によって差別をしてはならないとなっていますが、履歴書を見る人事担当者は名前で中国系か、ユダヤ系かなど出身民族を推測し、それならばこういう社会階級出身ではないかと想像しているのです。

 しかし日本社会では、民族や階級の分断線が欧米ほどははっきりしていません。それゆえに、他社会では格差の決め手とみなされていない学歴が、大きな働きを果たしている。その重大さゆえに、欧米の民族や階級のようにタブー扱いされているのです。このように、だれもが知っているけれども表立って言われることのないものごとが、分断の源泉になるものなのです。

――日本人は、高学歴化し、大学全入時代に突入するかと言われています。



『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(吉川徹、光文社)

吉川:昭和の日本社会の高学歴化を支えていたのは、親も教師も子どもになるべく高い学歴を望み、子どもも当然そう考えているという大衆的に高学歴を望む「大衆教育社会」だったと言われています。戦後、多くの親たちが自分よりも高い学歴を子どもに望むようになり、1974年には高校進学率が90%を超えました。

 2009年に『学歴分断社会』を書いた当時は、「学歴分断」という言葉や概念自体がありませんでしたし、現実社会も大卒と非大卒の分断はまだ起きていなかったのです。データから、この先そういった事態が起こると予想したに過ぎません。しかし、2013〜14年を境に、成人式から還暦までの現役世代は、大卒者と非大卒者(編注:ここでの大卒とは、短大、高専以上の学歴、それ以外については非大卒とする)の割合が、ほぼフィフティ・フィフティになりました。

――半々の割合で、大卒と非大卒になる学歴分断状態が継続すると何が問題になってくるのでしょうか?

吉川:大卒と非大卒では、就いている職種や産業、昇進のチャンス、賃金などが異なります。そのため、ものの考え方や行動様式も異なってきます。さらに、恋愛や結婚においても学歴による同質性は高く、日本人の7割が同学歴の相手と結婚します。また、日本人の8割が親と同じ学歴をたどり、子どももまた同じ学歴になるよう望んでいるということを加味すると、大卒家庭と非大卒家庭の分断は、やがて世代を超えて繰り返されるようになります。これはつまり、学歴が欧米の民族や階級のような働きをするようになっているということです。

 たとえば、この1週間でどんな人と話をしたかを思い返してみてください。大卒ならば大卒の人とばかり話し、非大卒ならば非大卒の人とばかり話しているのではないかと思います。両者のコミュニケーションが少なく、人生が交わらないので、互いに何を考え、どんな暮らしをしているのかがわからないし、知ろうともしていない。「住んでいる世界が違うから」という言葉を聞くことさえあります。これはまさしく深刻な分断状況だと言えないでしょうか。

――吉川先生が、特に問題を抱えているとみているのは、若年の非大卒層の人たちなのですね。

吉川:日本社会の現役世代は、ジェンダー、生年世代、学歴と3つの分断線でわけると、若年非大卒男性、若年非大卒女性、若年大卒男性、若年大卒女性、壮年非大卒男性、壮年非大卒女性、壮年大卒男性、壮年大卒女性の8つにわけられます。このうち特に不利な境遇にあるのが、若年の非大卒男性です。彼らのプロフィールは次のようなものです。

 かれらの多くが義務教育もしくは高卒の両親のもとで育ち、かれらの多くは製造や物流を始めとした、わたしたちの日常生活に欠かせない仕事に就いて日本を支えているのですが、5人に1人が非正規・無職、一度でも離職経験のある割合は63.2%、3カ月以上の職探し、失業経験者は34%、3度以上の離職経験がある割合は24%と他の男性たちに比べ高くなっています。労働時間だけは長いのですが、同じく非大卒の壮年男性と比べると個人年収は150万円近く低い。


彼らのことを本書ではレッグス(LEGs)と新しい言葉で表しました。「Lightly Educated Guys」の略で、高卒時に、お金と時間のかかる重い大卒学歴を選ばなかった、軽学歴の男たちという意味です。軽学歴と言っても、日本の高校を卒業していれば、労働力としての水準はOECD加盟国の標準を上回っています。レッグスたちがその水準を越えていることが、日本の安定した豊かな社会のボトムの高さを支えているのです。


 そして本来ならば、高卒ですぐに働き始めれば、大卒層よりも早く生活を安定させて、貯蓄もできて、早く結婚して家庭をもつこともできるはずです。しかし、雇用や収入の面で厳しく、消費や文化的な活動、余暇について総じて消極的になっていることがデータからわかりました。
 
――なんだかラストベルト周辺に住む白人ブルーカラーの人たちと重なるところがありますね。

吉川:少し前にアメリカでヒットした『ヒルビリー・エレジー』という本があります。その本が出るまで、都会に住むホワイトカラーの白人たちは、どうして都会へ出て仕事をしないのかなどと見ていたわけです。でも、彼らには彼らの論理がある。それに気が付かせてくれたのが同書です。トランプ大統領は彼らに配慮を示したから、支持を得ることができたのだといわれています。

――なぜ、レッグスだけが他の層と切り離されているのでしょうか?

吉川:彼ら自身は、日々の生活に追われるばかりで、積極的に自分たちの立場を主張しません。他の層の人たちも、レッグスが世代を超え繰り返されることに気がついてない。これは意識的に排除しているのではなく、エアポケットのような状態になってしまっているのです。けれども、約4000万人の高齢者と、約2200万人の未成年者を現役世代6025万人がそれぞれの特性に応じて支えているのが日本の現状なのですが、およそ680万人のレッグスだけは十分に力を発揮できずにいるのです。

――彼らに対し、公的なケアがなされず、リスクを負わせている現状をどのように変えていけば良いと考えていますか?

吉川:再三、繰り返している通り、日本では学歴が重要な決定要因になっているにもかかわらず、大学無償化の議論を除けば、学歴をベースにした政策はありません。地方消滅と言われる現在、地方から東京の大学へ進学すると給付型の奨学金を得ることができるようになりました。一方、地元に残り、地域のコミュニティを支え、決して十分ではない雇用条件で高齢者介護などの仕事を受け持っているのは、大多数が非大卒層ですが、彼らにはなんの支援もありません。

 大卒層について、大学無償化や私的負担の軽減を議論するのであれば、同じ世代のレッグスに対しての支援も議論すべきです。

 大学へ進む学生には月に5万円、年間60万円、4年間で240万円の支援があります。それならば、レッグスがたとえば、高卒後すぐに就職した企業には、彼らを正規雇用すれば同じように月に5万円をその企業に支援するなどです。そうすれば18歳から22歳の間に安定した雇用を得ることができ、シルバー人材や外国人労働者に頼ろうという議論にはならないと思うのです。

 若い世代の職業人としての人生を企業の側がサポートするという発想は、高度経済成長期の日本型雇用と、ある意味で同じモデルです。義務教育卒や高卒の若者たちは、企業が正規雇用し、終身雇用制のなかでOJTによりスキルを磨き代えがたい労働力になりました。

――多くの人が、大人になるにつれ、同じようなライフコースを歩んできた人としかコミュニケーションを取らなくなります。

吉川:『日本の分断』では、8つの分類を8人のプレイヤーで構成されたサッカーチームのようなものだと考えています。大卒のフォワードだけがいくら得点し活躍しても、ディフェンスであるレッグスが機能しなければチームは勝てません。それくらい日本社会はギリギリの状態なのです。全員が活躍するためには、この社会がどのような仕組みで、各プレイヤーがどんなプロフィールなのかプレイヤー全員が理解していることが大切です。そうすることで、8人のプレイヤーが支え合って、チームは成り立っているのですから、弱い部分は守ろうという発想になると思うのです。



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129. 中川隆[-13452] koaQ7Jey 2018年7月15日 07:36:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16576]

裏口入学はアンフェアであるだけでなく、最終的に何を生み出すのか? │ ダークネス:鈴木傾城
https://bllackz.com/?p=1039

あなたは巨額の資産を持った家系の生まれだろうか。それとも、ごく普通の生まれだろうか。いや、すでに貧困に落ちた家系だろうか。言うまでもないが、それによって、まったく違う人生を歩むことになる。

現在の先進国では身分制度もないし、特権階級もないと思われている。もちろん、それは間違いだ。現代社会でも、依然として特権階級はある。現代社会の特権階級というのは、「金持ち」「資産家」のことである。

現代は資本主義だ。この資本主義が続くと、当然だが、経済的に成功する人と失敗する人が二極分化する。

いったん金持ちになった人は家族にも一族にもその恩恵を与えることができるようになり、経済的に成功した一族が特権階級化していく。

現代社会はそのほとんどの商品・サービスを金で買うことができる。さらに、あまり知られていないが、「身分・地位・立場・学歴」もまた金で買うことができる。

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130. 中川隆[-13456] koaQ7Jey 2018年7月15日 20:15:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16588]

2018年07月14日
小池百合子の嘘と正体 / 「卒業校」よりも「血統」を表せ !
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68725189.html

「裏口入学」をけ「玄関入学」にすべし
  


Sano Futoshi 1(左 / 佐野太)


  今更、役人の瀆職(とくしょく)には驚かないが、再び官僚の不祥事が起きたから「やれやれ、またか !」と呆れてしまう。文部科学省の科学技術・学術政策局長だった佐野太(さの・ふとし)容疑者は、東京地検特捜部に受託収賄の疑いで逮捕された。佐野容疑者は東京医科大学から、「私立大学研究ブランディング事業」の支援対象選定で便宜を図るよう依頼された見返りに、今年2月、息子を同大学に「嵩(かさ)上げ合格」にしてもらったとのことである。特捜部による任意の事情聴取に対し、東京医科大の臼井正彦理事長と鈴木衛学長は事件の経緯を認めているが、佐野容疑者は依然として容疑を否認しているという。

  「裏口入学」というのは、昔から医大に絡む“闇の部分”で、多額の寄付金と引き替えに、献金者の子弟を入学させるという噂は絶えなかった。医学部には何かとお金がかかるので、“必要悪”というか、“必要経費”として開業医の「お坊ちゃま」を引き受けることもあるそうだ。ただし、あまりにも酷い馬鹿息子だと、大学全体の学力レベルが低下してしまうから注意が必要だ。それに、医師免許を取得する学生の比率も下がってしまうので、学校の運営者は評判とランキングを維持するために、当該の学生を留年させることもある。まぁ、お金を積めば大学の入学と卒業くらいは何とかなるだろうが、国会試験の不正操作は無理だろう。知識や技能ではなく、札束の重さで医者にさせるのは違法だし、倫理的にも許されるものではない。

  今回の不正事件で注目すべきは、仲介者の谷口浩司を除くと、高級官僚の根性があまりにも“セコ”いことだった。大学が補助金目当てに官僚を受け容れることはあるし、実際、下らない大学の創設を認可して、ちゃっかり天下った官僚も多い。世間が問題とする底辺校の乱立は、官僚が退官後に備えての布石とみる筋もある。もちろん、安易な大学の増設は困ったものだが、公権力を濫用して自分の息子を大学に入れようなんて魂胆は赦せない。だいたい、自分のドラ息子を医大に入れたければ、「自分の貯金」を叩いてお願いすればいいじゃないか。公的立場を“こっそり”利用するなんて卑怯だ。政府から大学へ渡される補助金とか助成金は、国民の「税金」から出ているんだぞ。役人は「予算」と呼んで単なる「小遣い」と見なすが、その根底には「他人のゼニだから、気にせず使っちまえ !」という意識がある。お役所の辞典には「予算消化」という用語はあるが、「節約」という単語は無い。これは公然の秘密だけど、官庁には「摑み銭」は残さず使い切るという“慣習”があるので、一般国民からすると非情に不愉快だ。

  とにかく、日本人は学歴に対して異常な執着心があり、入試は一点の曇りも無く“公平”かつ“実力”のみと信じている。だから、お金を払って「裏口」入学なんかトンデモない。もしかすると、痴漢や窃盗よりも罪が重いと思っているんじゃないか。でも、国立大学ならともかく、私立大学なら大金を積んで「ウチの息子をよろしく」でもいい、と筆者は考えている。私立の学校はどんな宗教や信条を持っていようが勝手で、自前で資金を集めて学問の自由を満喫すればいい。例えば、「我が校はアングリカンでもプレスビテリアンでも受け容れるプロテスタント主流のミッション・スクールでございます」と言っていいし、別の私立が「手前どもの学園は、半分を筆記試験で、残りをコネで新入生を集めております」と宣言してもいいはずだ。世の中には、イスラム教徒や仏教徒の学生を受け容れるカトリック教会の大学もあるから、お金持ちの子供を「特別枠」で入学させても問題は無い。貧乏人の子が入りたかったら、「勉強して合格しろ !」と言い放ってもいいはずだ。

  だいたい、本当に箸にも棒にもかからぬバカなら、授業について行けないし、落第・留年を重ねるようだったら、さっさと退学処分にしてしまえばいい。毎年毎年、高い授業料だけ納めて中退なら、親だって何か考えるはずだ。仮に、このダメ学生が「寄付金の割り増し」で卒業できても、アホなままなら実社会で使い物にはなるまい。学歴だけで雇った企業は、「紛(まが)い物」を摑んでしまったと後悔するし、面接担当者も卒業校の名前だけで採用することを止めるだろう。学歴だけで篩(ふるい)に掛ける企業が多いのは、審査を担当する者がどうやって応募者を見抜いたらいいのか判らぬ節穴だからである。野球界で活躍する一流のスカウトマンは、選手の体を見ただけで「こいつはモノになるぞ !」と見抜くらしい。魚市場のオッチャンたちは、マグロの尻尾あたりの肉を見ただけで、その価値が判るという。まさか、そんな「チラ見」で百万円以上払うなんて信じられないが、ベテランの魚屋は勘で決めてしまうそうだ。そう言えば、南米でコーヒー豆を買い付けるバイヤーも、摘み立ての生豆(なまマメ)を見たり嗅いだりして善し悪しが判るんだって。フライパンで焙煎する前の豆でも、培った経験で識別できるそうだ。

  我々が「裏口入学」に対して厳しい非難を投げかけるのは、入学した大学の知名度や偏差値、あるいは「ブランド」が卒業生の「身分」になるからだろう。例えば、東大の法学部や医学部を出た人は大学ヒエラルキーのトップに立ち、早稲田や慶應の出身者だと東大や京大より下になってしまうが、それでも地方の国立大学や他の私立大よりも上となる。理系や文系とか学部や専攻によってランキングは上下するが、一般人は大学の評判や入試の難易度で相手の資質を測ることが多い。だから、受験生は自分の一生を左右する大学、すなわち自分の「身分」を決めてしまう「ブランド名」を気にするのだろう。普通の高校生は、大学で何を学ぶのか、あるいは、そこにいる教授が誰なのか、どんな個人指導(チューター制度)があるのか、少人数クラスが主流なのか、といった内容は考慮に入れることがない。それよりも、「見栄が張れる大学なのか」とか、「山手線内にキャンパスがある」、「お洒落な校舎がある」、「就職先に困らない知名度をもっている」、といった要素を重視するらしい。「図書館の蔵書数はどれくらいなのか?」といった大切な項目は気にしていないようだ。したがって、自慢できる名門大学なら、どれほど左翼教授が多くても構わない。そもそも、新入社員を採用するときに、赤い思想に染まっているのかどうかを検査する企業なんて無いだろう。

  「学歴」が個人の「属性(ascrition)」になることは、小室直樹先生が既に述べていたことである。(たぶん、小室先生はタルコット・パーソンズの社会学を参考にしていたのだろう。) ある人物を判断する場合、人種とか性別、年齢、家柄といった生得的な地位(ascribed status)で見るのか、それとも本人の努力や能力、業績に基づく獲得された地位(achieved status)で見るのか、人によって意見が分かれる。英国では面白い考え方があって、血統で「貴族」にはなれるが、その「生まれ」だけで「紳士(gentleman)」になれるとは限らないそうだ。つまり、ジェントリー階級は公爵とか伯爵と比べれば下位になってしまうが、世間の評価ではジェントルマンの方が「上」で、憧れの対象(まと)になる。イングランドではお金で貴族の地位を買う者がいるから、人々の尊敬を受けるためには武勲や教養を身につけないと、「真のエリート」にはなれない。また、そうしないと貴族仲間から侮蔑されてしまうので、丹念に武藝を磨いたり、社交界のマナーやギリシア・ローマの古典を学んだりする。王族ですら格下の「ジェントルマン」になるべく精進しようとするんだから、何となく笑ってしまうじゃないか。

  他方、貴族階級が無い日本だと、有名大学を出れば「エリート」になれるみたいだが、真の教養人かどうかは定かではないし、「紳士」であるとも言い切れない。なぜなら、大学教授や高級官僚の中には、セクハラをやらかす破廉恥がいるし、公金を流用する不届き者も少なくない。まぁ、採用の時に「人格テスト」をやったわけじゃないから、痴漢をする学者やネコババをする役人がいても不思議じゃないだろう。でも、庶民は学力と倫理を結びつけてしまう癖がある。例えば、有名大学の男子学生が飲み会で女子学生を強姦すると、週刊誌は「エリート学生の犯罪 !」と騒ぎ立てるが、名も無い地方大学の学生とか専門学校に通う若者が同じ事をしても取り上げることはない。せいぜい、地方紙が三面記事の片隅に載せるくらいだ。

Tosaka 1(左 / 登坂淳一)
マスコミの不祥事も同じで、NHKでアナウンサーを勤めていた登坂淳一が、昔、新人アナウンサーにキスを迫った過去があると判ったら、さも一大スキャンダルみたいに取り上げた。しかし、彼がローカル局に勤める地味な職員であれば、「ゴミ」扱いで報道すらされないであろう。そもそも、NHK自体が犯罪者の巣窟なんだから、酒場での求愛くらい犬の好奇心と同じ程度である。犬というのは時々、破廉恥な事を平気でしでかす。例えば、見知らぬ女性に会うと、その正体を確かめるためスカートの中に鼻を突っ込んで、「誰なんだろう?」とパンティーの臭いを嗅いだりする。もちろん、無邪気なワンちゃんとは心構えが違うが、NHKの男性職員も本質的には似たようなものだ。(筆者にはよく分からないんだけど、犬は何故か若い女性を好む。差別心があるのかどうかは謎だ。)

  学歴重視には、もう一つ別の理由がある。それは、大学名でその人を瞬時に判断できるからだ。初めて会っただけでは、その人が持つ能力とか性質が判らないから、額や尻にブラント名があると助かる。大抵の日本人は小さい頃から、学校の試験を受けてランクづけされているから、成績を基にした順位というものに殊さら敏感で、誰が自分より上なのか下なのか、自分はランキングの「どこ」に位置するのか、を非常に気にする。したがって、自分が失敗した難しいテストに合格した者は、自分より優れていると考えるし、自分の母校よりも格下の学校を出た者を軽んずる傾向が強い。確かに、難関校に合格した学生は理解力が優れているし、物覚えも良いから博識である。卒業すれば一流企業に就職できるし、自分で会社を設立するだけの力量もあるので成功する人も多い。ただ、そこには個人の資質が大部分を占め、大学で受けた教育がどれくらい反映されているのかは甚だ疑問である。大学の授業で知識を得た人もいれば、その授業を受けたことでクルクルパーになった人もいるからだ。

Hatoyama Yukio 1(左 / 鳩山由紀夫)
  また、専門分野では優れていても、それ以外では単純馬鹿というケースもある。例えば、鳩山由紀夫は物理学や確率論においては優秀だが、本職の政治ではアホ丸出しで、「宇宙人」と評されても仕方がない。だいたい、自分が政治家に向いているのか否かを判断できなかったのだから、その時点でアウトだろう。この鳩山家の御曹司が取った数々の奇行は、日本人の理解を超えているから論外。せっかく自民党の田中派で修行をしたのに、「友愛」を掲げて軍事・外政に挑もうなんて狂っている。鳩山とは違うが、小泉政権で入閣を果たした元上智大学教授の猪口邦子も別の意味で酷かった。イェール大の大学院でどんな国際政治を学んだのか知らないが、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が蠢(うごめ)く政界では「昔勉強が出来たお嬢ちゃん」に過ぎない。2002年、彼女は日本代表部の「特命全権大使」として国連の軍縮会議に派遣されるが、“これ”といった実績は残せず、ただ各国の代表に軍縮を“訴え”ただけで大忙しだった。子供の使いじゃあるまいし、「お願い」だけなら猫にでも出来るじゃないか。核兵器どころか、独立した軍隊すら持たぬ日本が、ロシアや支那に向かって「核ミサイルを削減してぇ〜!」と叫んでも、こうした独裁国は鼻で笑って完全無視だ。そもそも、極悪人が中年バアさんの文句に一々応じるなんて絶対に有り得ない。

Inoguchi 2(左 / 猪口邦子)
  結局、猪口は何も出来なかったが、給料だけはたんまりと貰って帰国した。そして、お飾りの役職を終えると、また再び脚光を浴びたかったのか、“安全かつ確実な”比例区から出馬して、すんなり衆議院の議席を手に出来た。しかし、国会議員になってから任された仕事は、「専門」である軍事・外政じゃなく、少子化と男女共同参画事業を担当する大臣。まぁ、こんな年増のお嬢ちゃんに大切な国防と外政を任せるわけには行かないだろう。だが、かといって目立たない役職に据え置くとマスコミがうるさいから、「我々は女性議員を積極的に登用してまっせ !」とアピールする意味も込めて、男性議員が見向きもしない閑職をくれてやったんじゃないか。世間の似非インテリどもは、女性の大学教授を大臣にすれば「日本も女性の社会進出が増えた」と単純に喜ぶ。しかし、自民党の幹部たちはからすれば、「口先だけの生意気な女は、子供の育児や男女差別問題でも扱っていろ !」というのが本音なんだろう。猪口議員を見ていると、典型的な試験秀才に思えてくる。つまり、プーチンや習近平どころか、北鮮の外政官にすら馬鹿にされる小物ということだ。譬えて言えば、外国の大使館を見学に来た小学生くらい。だから、彼女の「使い方」といったら、アメリカ国務省からやって来る日本担当の国務次官補を接待する通訳ていどだろう。猪口議員は激怒するだろうが、現実は学校よりも遙かに厳しいから、彼女の評価と能力はこんなものである。

アラビア語は初級でも嘘は上級

  「老けた女子学生」にしか見えない猪口議員は比較的害が少なかった。しかし、東京都知事になった小池百合子の害は厖大である。東京都民は一体いくら損したのか判らない。政治評論家は何百億円もの損害を計上しているが、データに現れにくい弊害やこれから浮上する損害もあるから、納税者は覚悟した方がいいだろう。以前、テレビで話題になったけど、何も入っていないのに稼働している豊洲の巨大な冷蔵庫って、聞いただけでも寒気がする。さて、この小池都知事には最近、「学歴詐称」の疑惑が浮上した。月刊誌の『文藝春秋』でノンフィクション作家の石井妙子(いしい・たえこ)が、カイロに住む中川恵子(仮名)さんを訪ね、小池百合子の過去を暴いていたのだ。現都知事の父親である小池勇二郎は、自社の「国際三昌」が倒産するや、浪速冷凍機工業の経営者である松浦良右(現 / 朝堂院大覚)に縋り付き、債務処理を頼んだそうだ。そして、松浦氏の支援で日本料理屋「なにわ」を任され、店を切り盛りしながらカイロにいる日本人ビジネスマンや現地のエジプト人と交流を持っていた。記者会見で小池都知事は敢えて触れなかったが、小池勇二郎と娘の百合子、およびその兄は朝堂院総裁に面倒を見てもらっていたそうである。朝堂院総裁の話によれば、小池百合子のアラビア語能力は稚拙で、むしろ得意なのは英語の方であったらしい。そもそも、小池百合子はエジプトで少女時代を過ごしておらず、大学生になってからエジプトにやって来たわけだから、アラビア語のネイティヴ・スピーカーではない。エジプト人相手に喋っていたのは、庶民の言葉で知識人の言葉ではないという。

  結論から言えば、小池百合子はカイロ大学を卒業していない。もちろん、100%断定はできないが、卒業していない可能性は「極めて高い」と言える。小池と同居していた中川氏の証言によれば、二年生の時に落第した百合子の学力は初歩の基礎程度で、とても大学の授業を受けられるレベルではなかったそうだ。(百合子は一年生を経験せず、いきなり二年に編入したという。父親の知人であるドクター・ハーティムが裏から手を廻して、二年生にしてやったそうだが、まじめな日本人留学生からすれば、驚天動地の横滑りというか、無謀なコネ入学にしか思えなかったそうである。) 中川氏は百合子のアラビア語について、次のように述べていた。

  (英語で言ったら)「This is a pen」の状態でハーバードに入ってしまったようなものではないでしょうか。二年生に入れてもらったところで、どうにもならなかったんだと思います。( 石井妙子 「小池百合子『虚飾の履歴書』」 『文藝春秋』、2018年7月号 p.173)

  小池百合子の説明に従えば、1972年10月にカイロ大学に入り、落第して留年したにもかかわらず、1976年10月に卒業したことになっている。しかし、カイロ大学で進級するには、口語ではなく文語をマスターせねばならず、現地のエジプト人学生でさえ苦労するという。したがって、日本人が高度なアラビア語(知識人階級が使う文語)を習得しようとすれば、並大抵の努力では済まない。たとえ、一年中寝食を忘れて猛勉強しても達成できるかどうかは疑問で、学者を志す日本人留学生でも4年で卒業なんて無理。この点に関し、同居人の中川氏が、面白いエピソードを紹介していた。ある日、大学の試験を控えた百合子が、珍しくアラビア語の勉強をしていたそうで、中川氏はその勉強内容を見てビックリしたという。百合子は必死でノートにアラビア語の文語を書き写していたが、彼女は如何なる意味を示しているのか、全く理解していないかったそうだ。この大胆不敵な小娘は、内容を理解しようとはせず、ただ文字を書き写して暗記するだけであった。

  そこで、興味を抱く中川氏に対して、百合子は次のように答えたそうだ。

  テストでも質問文はどうせ読めないから、とにかく暗記した文章をただひたすら大きな字で書くの。そうすれば教授も努力を認めてくれるはずだから。(上掲記事 p.172)

  さぁ〜すが、世渡り上手の小池百合子だ!! すごぉぉ〜い。“その場しのぎ”を弁えている ! 試験でもお得意の「百合子スマイル」で何とかしようと思ったのか? それにしても、彼女はどんな「論文」を書いて卒業したんだろう? 大学受験を控える高校生や、就職活動に励む大学生は笑っちゃいけないよ。それはともかく、小池百合子は何処から手に入れたのかよく分からないが、以前、カイロ大学が発行したという「卒業証書」を公表したことがある。ただ、この「証明書」はどことなく怪しい「印刷物」で、スタンプといった肝心な部分がぼやけているから真偽の判別は難しい。一部の識者は、エジプトの闇ルートを使って仕入れたんじゃないか、と疑っている。今となっては、1970年代の記録なんて保存されていないから、いくらカイロ大学に問い合わせてみても埒が明かないし、大学の職員が手間暇かけて小池の記録を捜してくれるとは思えない。だいいち、彼女の成績や卒業を調べるとなれば、もう考古学の次元になってしまうだろう。これは言いづらい事だけど、アジアやアフリカの国々では、お金を払えば何でも手に入るから、書類の偽造なんて朝飯前だ。アメリカでさえ、身分証明書(ID)やクレジット・カードの偽造はよくある。

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(左: 公表された小池氏の「卒業証明書」 / 右: 東京都知事になった小池百合子)

  石井妙子が寄稿した文章の中には、将来の「渡り鳥、小池百合子」を予想させる記述がある。まず、持って生まれた愛嬌で、若き百合子は様々な男に接近し、その者が有力者とか、利用価値のある男と分かれば、特別な視線を送るという。エジプトで彼女が結婚したA氏は、アラビア語が得意だったから、ベッドを共にする「語学教師」としての“メリット”があったのだろう。なんか、細川護煕や小沢一郎、小泉純一郎の顔も浮かんでくる。計算高い百合子には、「誰と寝たっていいじゃないか。“得るもの”があれば・・・」という信条があるんじゃないか。でも、「用済み」になればポイ捨て。まことに「男」っていうのは憐れな生き物だ。そして、百合子が父親に呼び出されて帰国した時のエピソードは、さらに象徴的である。サダト大統領のジンハ夫人が来日するというので、百合子は直ちに帰国し、下っ端の「付き添い役」として外務省の中に潜り込んだ。ただし、彼女がアラビア語で会話したのかどうかは定かではない。それでも、「カイロ大学の学生」という身分をフル活用して、百合子は自分自身を新聞やテレビに売り込むことに成功した。

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(左: アンワー・サダト大統領 / 中央: 「ファースト・レイディー」時代のジハン夫人 / 右: 寡婦となったジハン夫人)

  同居人だった中川氏は、カイロに帰国した百合子に驚いていた。この凱旋将軍は、「カイロ大学を卒業した小池百合子さん」という新聞記事を見せびらかし、悪びれた様子も無くウキウキしていたからだ。唖然とする中川さんが「えっ、小池さん、これって・・・」と問い掛けると、百合子は楽しそうな上目遣いで中川氏を覗き込んでいた。驚愕する中川さんが、思い切って「そういうことにしちゃったの?」と尋ねると、百合子はケロッとした表情で「うん」と答えたそうだ。(上掲文 p.175) うわぁぁ〜、我々でもその瞬間の百合子スマイルを想像できるじゃないか ! 小池都知事がヘマをしでかした時に、悪びれず笑顔を浮かべて、「あら、失敗しちゃった! えへっ!」と軽く受け流す仕草、あるいは、女に弱い長老議員を籠絡するときに使う、媚びるような上目遣いを思い出せば、誰でも分かるだろう。カイロ大学を“卒業”した「才女」と持ち上げるメディアを見て、百合子は「チョロイ奴らだ」と思ったのか、大学での勉強をさっさと辞めて、マスコミに進むことを決意する。まぁ、テレビ局のキャスターなんて一種の俳優だから、深刻な顔をしてニュース原稿を読んだり、笑顔でインタビューを行えば、それでOKの世界だ。知性や教養なんて必要ない。取材相手に好感を持たれるよう愛想を振りまく「才能」があればいいのだ。ちょっと可愛い百合子には「ジジィ殺し」の得技があるし、「ここぞ」という時に大胆になれる度胸もある。スケベ爺どもを踏み台にして出世した女は“したたか”だ。

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(左: 国会議員になった小池百合子 / 細川護煕 / 小沢一郎 / 右: 小泉純一郎 )

  かつて、小池百合子は竹村健一の番組でアシスタントを務めていたから、筆者は以前から彼女のことを目に留めていたし、月刊誌『Voice』の投稿文も読んでいた。しかし、論文のプロフィールに記されている「カイロ大学卒」という学歴には疑問を持っていた。何故かといえば、昔、筆者が米国にいたとき、サウジ・アラビアからの留学生「アデル」君とよく雑談をしていたからである。筆者は時折、彼と一緒にカフェテリアに赴き、中東アジアの歴史や政治を話したことがあって、その都度アデル君からちょくちょく注意を受けていた。というのも、筆者が口にするアラブ人名の発音が酷かったので、彼が訂正し、ちゃんとしたアラビア語発音を教えてくれたのだ。例えば、日本人だとカタカナ的に「アイザック(Isaac)」を「イサク」と発音してしまうが、アラブ人だと「イツァーク」と難しい発音になる。(カタカナ文字よりも実際に聴いてみた方がいい。) アラビア語は日本人やヨーロッパ人にとって非常に難しい言語で、CIAの局員でさえ勉強を厭がってしまう程である。外国語を学ばないアメリカ人にとってはロシア語でさえ大変なのに、記述方式が三つもある日本語(「漢字」「平仮名」「片仮名」)や、へんてこな文字を綴るアラビア語なんて論外で、どちらかと言えば宇宙人の言葉に近い。日本語を上手に喋るアメリカ人学生でも、日本語で論文を書くとなれば、優等生でもほぼ不可能だ。そもそも、漢文風の文語体なんて暗号と同じだから、日本の学生でも読めない。昔、上智大学のヨゼフ・ロゲンドルフ神父が述べていたけど、日本人の学生は明治大正時代の恋文でさえ読めなかったそうだ。ちなみに、イエズス会士のロゲンドルフ神父は島崎藤村の研究者だったから、日本語の難解さをよく解っていた。

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(左: ピーター・ジェニングス / 右: ダン・ラザー )

  話を戻す。日本人にとってアラビア語を習得するのは至難の業で、小池氏が4年でマスターしたなど、筆者には到底信じられなかった。だから、小池氏が「ワールド・ビジネス・サテライト」のキャスターを務めていたとき、「カイロ大卒」は「ハッタリ」か「見栄」の類いだろうと思っていた。筆者はジャーナリストを評価する際、華やかな学歴よりも、ニュースを分析するときの鋭い視点とか、インタビューにおける巧妙な遣り取りの方が大切だと思っている。だから、筆者は小池氏がどんな大学を卒業しようが気にしないし、単なる高卒でも構わない。2005年に亡くなったジャーナリストのピーター・ジェニングス(Peter Jennings)は、カールトン大学を中退したことで大卒ではなかったが、若くしてキャスターとなり、米国ABCテレビでアンカーを務めるほど有能だった。思想的にはリベラルだったが、ニュース原稿を読む語り口は紳士的で、聞いていて心地よかった。(ちなみに、ジェニングスはカナダ国籍から帰化したアメリカ人だったので、ちょっとマイルドな英語を話していた。) 他方、CBSでアンカーを務めていたダン・ラザー(Daniel Irvin Rather)なんか、ぶっきらぼうな英語で「バリバリのジャーナリスト」を気取っていたが、視聴者からすれば不愉快なだけだ。

「学歴」ではなく「素性」を示せ!

  日本人は「学歴」を「身分」と考えているので、学歴詐称に関しては矢鱈とうるさい。しかし、政治家が公表すべきは、どうでもいい「出身校」ではなく、本人の「血統的出自」だ。つまり、公職に就く権力者は、どんな家庭に生まれ、どういった両親祖父母を持つのかを明らかにすべきなのだ。確かに、大学で真っ赤に染まることもあろうが、家庭の躾や風習で身につく行動様式に比べたら、物の数では無い。肉親からの教えは、本人の思考形態に大きな影響を及ぼす。だから、国会や地方議会に出馬する候補者は、有権者にどのような血筋の者なのかを公開すべきである。もし、これを隠すような者がいれば、「いかがわしい奴」と思った方がよい。我々は候補者の両親が日本人なのか、それとも片親が朝鮮人なのか、あるいは祖母の一人が支那人なのか、といった事実を知りたいのである。

マスコミや左翼学者は、個人の家系を詮索することが「プライバシーの侵害だ」と決めつけるが、どうして本人の素生を明らかにすることが「差別」に当たるのか? 父親が日本人で母親が朝鮮人だと、どんな「問題」が生じるのか、人権派は説明すべきだ。もし、立候補者が帰化朝鮮人の息子であれば、その祖父母がどのようにして日本にやって来たのかを公表すべきだし、祖父母の何名かが支那人とか帰化支那人なら、如何なる理由で日本に定住したのかを正直に話すべきだろう。日本は外国人が帰化するときに、はっきりとした忠誠の誓いを要求しないし、「日本の為なら徴兵に応じ、出身国をも攻撃しますか?」とも問わない。外人に対して甘い政府は、日本に帰化した朝鮮系支那人の張景子に、心からの忠誠を求めたことがあるのか? 国会議員になった蓮舫は二重国籍を隠していたが、彼女が日本国籍に移行したとき、どんな忠誠を誓ったのか、日本国民には知る権利がある。こうした要求を「プライバシーの侵害」と考え、猛烈に反対する議員は、公職者に適しない危険な人物であろう。

  普通の日本人は自分の素生がバレても困ることはない。都会生活をしている者ならともかく、地方の片田舎で親子代々暮らしている国民なら、隣近所の住民に祖父母の存在がバレているし、学校の友人や先生も知っているケースが多い。ド田舎だと、近所の人が母方の実家まで知っており、その祖父母まで名が知れている場合がある。しかし、自分の親族を知られたからといって、急に焦り出す日本人はまずいないだろう。まぁ、祖父母の一人が前科者なら隠したくなるだろうが、全員「カタギ」の一般人なら、友達に紹介しても差し支えあるまい。祖父母の方だって、もし、自分の可愛い孫が衆議院選に出馬すれば、手助けしようと選挙事務所に詰めかけるし、爺さんや婆さんだって「ウチの孫をよろしく」と近所に声を掛けるだろう。たとえ、遠く離れた場所に住んでいる祖父母でも、近所の友人に代議士となった孫を自慢するし、「突撃! 隣の晩ごはん」でお馴染みのヨネスケがしゃもじを持って来訪すれば、訊かれもしないのに孫の話をしたりする。もし、孫の為にコソコソと隠れている祖父母がいたら、一般人は「何か変 !」と思うはずだ。

  日本の議会には意外と朝鮮系議員が多く、プロフィールで堂々と出自を公表できない政治家はたくさんいる。特に、国会議員は日本国の命運を左右する権力を握っているので、その家系を三代遡って公表すべきだ。公職に就く者に血筋を隠す「プライバシーの権利」は無い。なぜなら、公職者は国家権力を託された者であるから、その執行に対し疑惑を持たれるような人物であってはならない。つまり、不審な受託者ではダメということだ。本人は否定するだろうが、支那人や朝鮮人の血を引く者は、心の奥底に我が国への憎悪を秘めているので、軍事・外政の議題になると、妙にアジア諸国に肩入れをしたり、日本に不利なことでも平気で行う場合がある。例えば、左翼議員の中には、北鮮に対する「戦後賠償」を提案したり、または、それに賛成する者、あるいは北鮮への経済支援を熱心に進めたりする者がいるのは確かだ。意識・無意識を問わず、彼らの根底には、朝鮮人の血統から由来する情熱があったりする。また、「従軍慰安婦への賠償を行え」とか、「日本は植民地支配を謝罪しろ」と述べる議員の中には、朝鮮人の親戚がいたり、帰化人の祖父母、あるいは朝鮮系の女房がいたりするんじゃないか。

  これからはもっと議員の素性が多国籍化してくる。支那人やフィリピン人の移民が増えれば、日支混血児や日比混血児の代議士が誕生するし、帰化したベトナム人や在日朝鮮人の子供が国会や地方議会へ出馬することもあるだろう。そうなれば、彼らの忠誠心が何処にあるのかが気になる。選挙のチラシにはいくらでも嘘を書けるので、せめて誤魔化せない両親や祖父母の血統を記すよう義務化すべきだ。日本人は国家意識が薄いので、国家の防衛が如何に重要であるのかを知らないまま暮らしている。例えば、自衛官になろうとする者がいても、政府や自衛隊は彼の家族背景を調べることはできない。もし、陸自の情報将校や防衛大の教官が探ったら即クビで、防衛大臣の首すら危なくなる。しかし、軍隊に配属される者の素性を調べるのが「違法」だなんて、全く以て馬鹿げている。軍人は国家機密を扱うし、最新兵器を使用する者や軍事作戦に携わる者もいるんだから、各隊員の思想や性格を把握するのは当然だ。もし、潜水艦の乗組員が情報を外部に漏らしていたらどうなるのか? あるいは、最新鋭の戦闘機や爆撃機の性能や構造を外国人に売り渡していたら大変だし、密かに情報を流すモグラが潜んでいたら尚更恐ろしい。さらに、防衛省の高官や公安の幹部に外国のスパイがいたら、我が国の安全保障はどうなってしまうのか。本当に背筋が寒くなる。

  マスコミは学歴詐称でいどで大騒ぎしているが、「血統隠匿」の方が遙かに深刻な問題である。自衛官や警察官、国会議員、知事といった公職者の家系開示に反対する政治家がいれば、国民はその政治家が「なぜ」反対するのかを追求すべきだ。血筋を公表することをためらう議員は、何かやましい事があるからで、祖先に朝鮮人や支那人が居たというだけで、恥ずかしく思うのはおかしい。古代ローマ人で元老院議員を務めた者は、祖先の胸像を作って大衆に見せびらかし、自分が如何に偉大な祖父の孫であるのか、あるいは立派な武勲を持つ父の息子であるのかを示した。日本人の国会議員も「誰の孫」で「誰の子供」なのかを明らかにすべきだろう。参議院の福山哲郎などは、ちゃんと出自を公表しろ。顔を真っ赤にして激怒するんなら、その理由をはっきりと言え ! 藝能人じゃないんだぞ !

Fukuyama Tetsuro 2新井将敬Korean family 1


(左: 福山哲郎 / 中央: 新井将敬 / 右: 朝鮮人の家族 )

  だいたい、テレビ局や新聞社は支那人や朝鮮人の祖先を持つ政治家を守ろうとするからおかしい。保守派が詮索すると「民族差別だ ! けしからん !」と憤慨するけど、「善人」を演じるマスコミ業界人こそ支那人や朝鮮人を「劣等民族」と思っているんじゃないか? 朝鮮系議員の家系をバラすことが「プライバシーの侵害」なんて馬鹿げている。昔、自民党に帰化鮮人の新井将敬(あらい・しょうけい/ 朴景在)がいて、證券スキャンダルが元で自殺したが、彼は包み隠さず素性を明らかにしていた。また、意外にも、NHKは藝人の祖先を探る番組を流している。だからNHKはテレ朝かTBSと組んで、「外人系議員さん、いらっしゃい!」という番組でも作ればいいんじゃないか。司会を桂三枝じゃなく、中川八洋先生にすれば、鋭い質問が飛び出るぞ。NHKが全国放送すれば、たとえ議員が嘘をついても、地元の知人が通報したりするから、面白いエピソードを知ることが出来るだろう。もっとも、こうした番組には出演拒否という「選択肢」もあるので、立候補者は必ず番組に出演し、視聴者からの質問に答えるよう義務化すればいい。こうなれば、案外「高視聴率番組」になるかもよ。たぶん、朝鮮系や支那系と疑われた政治家の回が、特に高視聴率を稼いだりしてね。視聴率30%も夢じゃないぞ。凋落する一方のフジテレビは、下らないドラマ制作を止めて、この企画で復活を考えてみたらどうだろうか。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68725189.html

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131. 中川隆[-13876] koaQ7Jey 2018年7月26日 15:09:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17314]

国策でグローバル人材を育成するという矛盾
古典を学ぶことが「エリートの反逆」を防ぐ
久保田 正志 : 2018/07/25
https://toyokeizai.net/articles/-/229367?display=b


2013年、内閣府・教育再生実行会議は「日本が再び世界の中で競争力を高め、輝きを取り戻す」ためには大学の再生が不可欠であるとの提言をまとめた。この提言を受けて、10年以内に日本で10校が世界ランキング1000位以内に入ることを目標とした「スーパーグローバル大学創成支援」事業が始まった。

しかし、はたしてこれらの方策が本当の意味で「大学改革」につながっているといえるのか。中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家)、施光恒(九州大学大学院准教授)の気鋭の論客3人と『反「大学改革」論』編者の一人・藤本夕衣(清泉女子大学特任講師)が、この間の「改革」の実態をふまえて語り合った。

マルクス主義から新自由主義へ

藤本:私は大学院に在籍していたころ、当時進められていた大学改革に違和感を覚え、以来大学論を研究テーマとしてきました。特に、人文学や基礎研究など、短期的に成果を出せないものが軽視されていることに問題意識をもってきました。

80年代末から現在まで続いている大学改革は政府と官庁の主導によるもので、その特徴は新自由主義的な競争原理の導入とグローバル化です。たとえば運営交付金を毎年1%ずつ減らして競争的資金の割合を増やしたり、特任教員という任期付きのポジションを教授から助手に至るまで大量につくりました。

その狙いは閉鎖的な学問の環境を打破し、教員を競争的環境に置いて研究の生産性を高めることでした。しかしそれに対し現場では、「こんなことでは研究基盤が弱体化してしまう」という批判の声が強くあります。安定したポジションがなくなっただけでなく、任期のないポジションにいる教員も、科研費などの資金の申請や、カリキュラム改革、社会貢献といった課題が次々と課せられ、雑務に追われて疲弊している。統計を見ても、改革が進むにつれて論文数はむしろ減っています。

にもかかわらず現状についての官庁側の見解は、「生産性が低いのは閉鎖的な環境で競争が足りていないことが原因。よりグローバル化を進め、競争せよ」というものです。


施:90年代の新自由主義の時代になってくると、それまでは現場から上がってきた声に合わせて運営していた大学に、「改革しろ」と言って予算を握る政府が口を挟むようになってきた。審議会政治といわれるように、外部のいわゆる識者たちの意見を取り上げるようになり、結果として現実とずれた改革案ばかり出てくるという状況があります。

藤本:現場では大学改革の価値観に従うかたちで研究や大学の運営が行われるようになっています。とりわけ1991年の大学設置基準の大綱化以降、官庁主導の改革に大学側が抵抗しなくなり、むしろその流れに乗ろうとする傾向が強まりました。

佐藤:戦後日本では80年代ぐらいまで、大学人の主流は左翼と相場が決まっていました。しかるに戦後左翼の主たる特徴は、自国政府への不信と否定。

よって、政府に反対していれば正しいと構える姿勢が、大学でも濃厚に見られました。けれども研究費、つまりカネの話になると、一転して政府に頼りだす。左翼なので、企業のカネをもらうことに抵抗があったんですね。

政府の不信・否定を主張しながら、当の政府に頼るというのは、明らかに矛盾します。かつての大学人は、この点を権威主義でかわしました。「大学は高邁な真理を探究しているのだから、そのためのカネはもらって当たり前」とやったのです。

ところが70年代、左翼の社会的影響力が衰えます。80年代に入ると、文化的な教養主義までが崩れる。90年代を迎えたころには、大学の権威は多分に形骸化してしまいました。そこに政府主導による改革の大波が来る。

しかも改革の方向性である新自由主義やグローバリズムは、国という枠組みの否定につながります。戦後左翼の理念と合致する形で、政府に頼るなと迫ったわけです。権威主義に頼れなくなった大学人が、抵抗できるはずがありません。

左翼を気取る大学教員

施:90年代はじめのころは、たしかに大学にも左翼が多かったと思います。ただ大学教員の場合、本気でマルクス主義を信じているというよりは、反戦という時代の雰囲気に乗って左翼を気取っていたところがあるように感じます。

小野寺龍太さんという九州大学名誉教授の『愚劣の軌跡――「共産主義の時代」に振り回された大学人たち』(春吉書房、2017年)という本に出ていたエピソードですが、ベトナム戦争の最中で九大でもマルクス主義が全盛だった1968年、建設中だった九州大学大型計算機センターに、米軍のファントム偵察機が墜落したんです。

これに九大の執行部が抗議して、「米軍は福岡空港から撤退せよ。それまで機体は返さない」と言ってファントムを人質に取った。半年ほどゴタゴタやっていたら、「建築中の計算機センターの予算を切るよ」と文部省に脅されたわけです。

そうなると「やっぱり予算のほうが大事だ」ということになって、結局は返したんですね。ただ執行部としては格好がつかないので、「何かわけのわからない勢力が出てきて、機体を奪っていった」という話にしてごまかしたそうです。反戦といってもしょせん、その程度なんです。

施:グローバリズムに対しても、心のうちでは「今推進されている大学の『グローバル化』って本当に意味あるの?」という教員がほとんどなのに、表立っては「グローバリズムはナショナルな閉鎖性に対するアンチテーゼ。コスモポリタンとしてそれを支持する」というスタンスです。そういう態度をとることがカッコいいという雰囲気があって、みんながそういう顔をしている。

大学教員にはそういう軽薄なところがあります。イギリスの政治哲学者ジョン・グレイなどは、「新自由主義はマルクス主義に取って代わった存在である」と指摘していますが、私も同感です。

ただ、昔は文部省はマルクス主義的な大学側と対立していたので、急進的な改革が進むことはなかった。ところが今は大学の教員も中央官庁の官僚たちもおしなべて新自由主義に染まっているので、結果的にそれに沿った方向で大学改革が急速に進んでいるのではないかとも思います。

翻訳学問を教えるのが大学の仕事

佐藤:日本の大学教育の基本は、西洋文明の習得と啓蒙です。問題は教員が、自分の教える内容を、自分でもちゃんと理解していなかったとしか思えないこと。

私は2014年、『コモン・センス 完全版』という本を出しました。トマス・ペインの名著の翻訳ですが、実はこれ、以前から岩波文庫で訳が出ています。ではなぜ、改めて訳したかというと、岩波版では話にならないと判断したからです。

文章が生硬で読みづらいうえ、民兵組織を「組合」(!)と訳したり、文中に登場する人名をめぐる脚注が間違っていて、同姓の無関係な人物のことを記述していたりする。あまつさえ、最後の節(私の訳では18ページあります)がまるごとカットされており、そのことに関する断り書きがない。あれでトマス・ペインの思想がわかるのか疑問です。


中野:人文系の外国の古典の場合、ほとんどの日本の学生は翻訳でしか読まない。で、読んでわけがわからないと、「わあ、難しいことを言っている。これをわかる先生はすごい」となって、なぜか権威が高まる。

佐藤:自分でもわかっていないから、権威主義に逃げるほかないんですよ。真剣に内容を理解しようとした学生から「ここ、どういう意味ですか。わかるように説明してください」と追及されたら、おそらく答えられない。だから多くの先生方は、そんな質問が出てこない雰囲気を作ることに必死になるわけです。

藤本:大正期の旧制高校の教養主義もエリートの特権と結び付いていた、と指摘されますね。翻訳された古典作品など、難解であるほど、一部の人にしか理解できないものとなって、そのように一部の人にしか理解ができないということで学問が権威づけられた、ということはあったと思います。

問題はそうした翻訳言語を中心に作られた学問の言語が、日常の言語から乖離してしまったことでしょう。それが学問としての哲学の実用性の低下を招き、歴史的に重要な概念の多くが理解されないまま今日に至ってしまったと思います。

中野:そういう権威付けの歴史は、明治に始まったものではないかもしれません。ある研究書を読んで知ったのですが、荻生徂徠は『論語』を当時の中国語の口語として理解しようとしたそうです。

『論語』は本来、日常生活の中で孔子が弟子たちに話した内容をまとめたものなのに、日本ではそれを「子曰く」という、いかにも高尚な響きの漢文として読み、みんなで「ははあ」とありがたがっていた。徂徠はそれではいけないと考えたわけですが、海の向こうから来たものを神格化し、わざわざ小難しい訳し方をして崇め奉るという伝統は、江戸時代からあったわけですね。

施:エリートの権威主義の弊害は大学だけでは。日本では組織の長や肩書を持った人よりも現場のスタッフのほうが優秀だという現象が普通に見られます。特に東日本大震災のときなどは、現場で作業している人のほうが優秀で責任感も強いという場面を繰り返し見たと思います。「偉い」とされる人たちが権威主義によってスポイルされ無能になっていくという構図が、社会全体にあるのかもしれません。

大学改革はなぜ始まったのか

中野:大学の先生は自分でもよくわかっていないことを、宗教の秘儀のごとくもったいぶって伝えてきた。多くの学生たちにとってはこの儀式は耐え難くて、「大学では何の役にも立たないことを無理にやらされた。本当に意味のないところだ」という思いが強く残っている。そういう大学に怒りを感じている人は、官僚の中にも結構いるように思いますよ。「何も役に立たないことばかり教えて、俺たちの4年間を無駄にさせやがって」と思っている。

学生は学生で問題で、僕の頃は「大学は遊ぶところだ」というのが常識で、ほとんどの学生がろくに勉強していなかった。


施:当時は企業の側も、「大学では部活か何かに打ち込んで、体力と協調性を身に付けていらっしゃい。変に勉強して、おかしな思想にかぶれちゃいかんよ」といった感じでしたね。仕事は会社に入ってからオン・ザ・ジョブ・トレーニングで覚えればいい、と。

藤本:私が学部生の頃も、経済学部は「パラダイス経済」と呼ばれていて、1・2・3回生は遊びに遊んで、4回生になって1年で4年分の単位をそろえて卒業することができていました。そうして遊んだ学生たちが、大手の銀行などに就職していくという状況です。そもそも、社会に出てから役に立つ実践力を教育することなど大学に求められていなかったわけです。

中野:80年代までのある意味で牧歌的な状況が、なぜ90年代に入って大きく変わったのかと考えると、冷戦終結と並んで影響が大きかったのがバブル崩壊でしょう。

景気が悪化して財政赤字がひどくなり、教育予算もカットされ、「これまでどおりのカネはやれない。自分で稼げ」という圧力が大学にきた。オン・ザ・ジョブ・トレーニングをやっていた企業のほうも、社員教育にコストをかける余裕がなくなってしまった。それで「大学でやってくれ」と、大学にその機能を押しつけた。

藤本:たしかに今の大学改革では「社会人=会社人」という設定が自明視されて、「何を学ぶか」ではなく「どんな能力を身に付けるか」に関心が移っています。大学教育のなかで「汎用的能力」を学生に身に付けさせなくてはならない、ということが何の疑問もなく主張されます。

あるいは、「キャリア」という言葉を冠する科目を作って、1年生から就職への準備をさせようという流れもあります。「就職活動を支援するためのレクチャーを開催しても、単位にしないと学生が集まらない。そうなると就職率が下がり、少子化の中で大学が潰れてしまう」というロジックで、「就職活動支援」や「汎用的能力育成」が大学教育に無批判に入ってきているのです。

施:ただ、企業がやってきたオン・ザ・ジョブ・トレーニングを大学がかわれるのかといったら、これは無理でしょう。ビジネスに必要な事務処理能力や交渉力といったさまざまな能力に欠けている大学の教員に、そんなことができるわけがない。

疑問の残るグローバル人材育成

佐藤:ヨーロッパの大学は、もともと教会と結び付いていましたので、「反世俗の砦」としての性格を持っている。ところが日本では、政府の視点に立つかぎり、大学は国の近代化という世俗的な目標の達成手段でした。

「グローバル人材を育成しろ」と命じたがるのも、その限りでは納得できる。今やグローバル化が国の目標になっていますからね。

藤本:大学におけるグローバル化の推進は、「スーパーグローバル大学」など一部の研究型大学の課題としてだけでなく、留学制度の強化、英語教育の強化などで、あらゆる大学の課題として強調されています。国策として「グローバル人材」の育成が進められているからです。

しかし「“国策”でグローバル人材を育成する」ということの意味は、どこまできちんと考えられているのでしょうか。たとえば、クリストファー・ラッシュに「エリートの反逆」という言葉がありますが、世界とつながっているという認識を持つ人は、国や地域的なコミュニティなどへの意識が希薄になりがちです。グローバルに活躍する人にとって「国家」がどのようなものなのか、考える必要があると思います。

施:その点、西欧では古典を学ぶことが、自国の文化への帰属意識を育むことにつながっているのではないでしょうか。古典を学ぶことを通じて自らの文化的アイデンティティを意識し、「私も伝統の恩恵を被っているのだから、いずれそれに対して寄与していかなければ」と考えるようになる。藤本さんの言う「エリートの反逆」を防止する機能を、古典が担っているのではないかと感じます。

佐藤:今はどうかわかりませんが、少し前までヨーロッパのエリートは、ギリシャ・ローマの古典教養と密接なつながりを保っていた。皮膚感覚があるというか、日々の人生と重なり合うものとして位置づけていたのです。

たとえば20世紀前半のフランスの外交官で、すばらしい劇作家でもあったジャン・ジロドゥなど、「銀の時代」(白銀期)のラテン語散文に影響されたと語りました。ラテン文学の白銀期って、紀元1世紀から2世紀ぐらいですよ。それを手本にして、フランス語の文章を書いていると来るんです。この調子だから、1930年代の欧州情勢をテーマにした芝居を書くときも、ギリシャ神話に出てくるトロイ戦争をモチーフにしています。

大学自身が自らの役割を忘れている

施:私が日本の大学のあるべき姿と考えるのも、輸入学問を翻訳して伝えるだけでなく、日本の生活や伝統に根ざした叡智を集めて蓄え、それを体系化して後世に伝えていくことなんです。


でも今のように任期つきの教員ばかりになって、「論文は英語で書いて、英語のジャーナルに載せてもらって大学の国際ランキングを上げろ」という話になると、そうした国学的なものは育ちようがない。業績にならないので、任期切れで追い出されてしまいかねません。

藤本:アメリカの政治哲学者アラン・ブルームは「大学は社会に出て学べることを学ぶ場ではない。社会に出ても学べないことを学ぶ場なのだ」と述べています。市民社会の価値観とは違う価値観を持つ場だからこそ、同時代の市民社会を相対化して、批判的な視点を提供することができる。それが大学の社会に対する貢献のしかたであって、「社会で即戦力として働ける人材を供給しろ」と大学に求めることは違うということですね。大学自身がそうした自らの役割を忘れて改革に翻弄されている、ということが、最も大きな問題です。


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132. 中川隆[-13875] koaQ7Jey 2018年7月26日 21:33:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17320]
日本の大学には「緊縮財政」という側面があったのです。


 文部科学省は、

大学改革に際したQ&A
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/houjin/03052702/002.htm

で、


Q2 国立大学を法人化するというのは、国の財政支出を減らすために、民営化するということなのですか。


 という問いに対し、臆面もなく、


A2 今回の法人化は、財政支出の削減を目的とした「民営化」とは全く異なるものです。


 と、回答しているのです。


 とはいえ、もちろん上記は「嘘」で、国立大学法人の運営交付金は、容赦なく削減されていきました。


【日本の国立大学法人運営交付金(億円) 】
http://mtdata.jp/data_60.html#daigaku


 緊縮財政やグローバリズムに基づく大学改革の下で、我が国の大学は「国家」から乖離していき、同時に劣化していきました。


 それどころか、ビジネスサイドの要求により、大学は企業の下請けとして「即戦力」の育成機関、しかも「実際には即戦力など育成できない育成機関」と化しつつあります。


 ビジネス優先で、誰もかれもが「カネ、カネ、カネ」と考え、中国に技術や人材を渡すことが、どれほど「人類」に害を与えるかさえ想像しようとしない。このままでは、我々現代を生きる日本人は、将来世代に亡国の国家を残す「最悪の世代」であると同時に、人類に対しても取り返しがつかない「罪」を犯すことになりそうです。


 日本国は国家の力を強め、中国への技術・人材流出を「禁止」しなければなりません。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/

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133. 中川隆[-13841] koaQ7Jey 2018年8月04日 16:45:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17599]

愛国的リバタリアンという怪物 - 内田樹の研究室 2018-08-04


これは2017年の6月に劇団態変の金満里さんの求めに応じて寄稿した一文である。
杉田水脈発言から「社会的弱者は殺してもいい」と言って19人を殺害した植松聖に言及する人が多かったので、旧稿を筐底から引き出して諸賢のご批判を請うことにした。

相模原の大量殺人事件のもたらした最大の衝撃は、植松聖容疑者が事前に安倍晋三首相宛てと大島理森衆院議長宛てに犯行を予告する内容の書簡を届けていたことにある。

それは単に権力者を挑発するための犯行予告ではなく、自分の行為が政権と国会多数派には「好ましい」ものとして受け止められ、権力からの同意と保護を得られるだろうという期待をこめたものだった。逮捕後も容疑者は「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言をしている。

もちろん、これは容疑者の妄想に過ぎない。けれども、何の現実的根拠もない妄想ではない。彼の妄想形成を強化するような現実が今の日本社会内部にはたしかに存在しているからである。

アナウンサーの長谷川豊は事件の直後の2016年9月に自身のブログに「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」というタイトルの記事を投稿した。これには批判が殺到し、専門医からも事実誤認が指摘されたが、この人物を日本維新の会は千葉一区から衆院の立候補者として擁立するということが先日発表された。

重篤な病人や障害者に対する公然たる差別発言にはまだ一定の社会的な規制が働いており、有名人の場合には、それなりの批判を受けて、社会的制裁が課されているが、在日コリアン、生活保護受給者やLGBTなどの社会的弱者に対する差別や攻撃の発言はほとんど何のペナルティもないままに垂れ流しされている。

際立つのが片山さつき議員で、生活保護受給者は「実質年収4百万円」の生活をしているという無根拠な都市伝説の流布に加担して、生活保護叩き発言を繰り返してきたが、最近も捏造投稿に基づいてNHKのニュース内容にクレームをつけて、生活保護受給者が社会福祉の「フリーライダー」だという世論の喚起に励んでいる。もちろん、本人がそう「信じている」という信憑の問題もあるのだろうが、「そういうこと」を公言すると選挙で票が集まるという現実的な打算も同時に働いているはずである。

アメリカではドナルド・トランプ大統領が「弱者叩き」の代表格である。「ラストベルト」のプア・ホワイトたちの輿望を担って登場したはずのトランプだが、就任後実施された政策は富裕層への厚遇措置ばかりで、移民排斥や、海外企業の国内移転への圧力などの「雇用対策」は今ここにいる社会的弱者のためには何の利益ももたらしてはいない。選挙公約だったオバマケアの廃止は、それによって2400万人が医療保険を失うという予測が公表されて、さすがに与党共和党も加担できず、改廃法案を撤回するという騒ぎになった。アメリカの有権者はそのような人物を大統領に選んだのである。

これはおそらく全世界的な傾向である。社会的弱者たちは、自己責任で弱者になったわけであり、いわばそういう生き方を選択したのだから、政府や自治体が、公金を投じて彼らを支援することは「フェアではない」というロジックは目新しいものではない。これは「リバタリアニズム(libertarianism)」というかたちで、建国当初からつねにアメリカ社会に伏流していた考え方である。アメリカが世界に冠絶する覇権国家となり、その国の作法や価値観が「グローバル化」したことによって、アメリカ的な「リバタリアニズム」もまたグローバル化したということだと私は理解している。

「セルフメイド・マン(selfmade man)」というのは建国以来、理想とされてきたアメリカ市民像だが、要するに誰にも頼らず独立独行で自己実現を遂げることである。「リバタリアン(libertarian)」というのは、その過激化したかたちである。
リバタリアンは、人間は自分の運命の完全な支配者であるべきであり、他者であれ公共機関であれ、いかなるものも自分の運命に介入する権利はないと考える。だから、リバタリアンは政府による徴税にも、徴兵制にも反対する。当然ながら、社会福祉のための原資の提供にも反対する。

ドナルド・トランプが徴税と社会福祉制度につよい嫌悪感を示すのは、彼がリバタリアンの伝統に連なっていることを示している。トランプは選挙期間中に対立候補から連邦税を納めていないことを指摘されて、「すべてのアメリカ人は納税額を最小化するために日々知恵を絞っている。私が連邦税を払っていないのは私が賢いからである」と述べて支持者の喝采を浴びた。これは別に露悪的な発言をしたわけではなく、ほんとうにそう思っているからそう言ったのである。彼に喝采を送ったプア・ホワイトたちは、自分たちとは桁が違う大富豪であるトランプの「納税したくない」というリバタリアン気質が「自分と同じだ」と思って、その発言に賛意を評したのである。

トランプは軍務の経験も、行政の経験もないはじめての大統領だが、それは軍務に就くことも、公共機関で働くことも、どちらもリバタリアンとしては「やらないにこしたことはない」仕事だからである。アメリカの有権者たちは彼の「公的権力を用いて私利私欲を満たすが、公益のためには何もしない」という態度がたいそう気に入ったのである。

今の日本で起きている「弱者叩き」はアメリカ原産のリバタリアニズムが日本に漂着し、日本独特の陰湿なしかたで退廃したものだと私は理解している。
トランプのリバタリアニズムはこう言ってよければ「あっけらかん」としている。ロシアとの内通疑惑が暴かれたことによって、彼が「愛国者」であるかどうかについてはアメリカ人の多くが疑問を抱いているだろう。けれども、リバタリアンにおいて、愛国者であることは「アメリカ人的であること」のための必要条件ではない(国家や政府などというものは「ない方がいい」というのが正統的なリバタリアンの立場だからである)。

けれども、日本では公的立場にある人間は「国よりも自分が大事」というようなことを(心で思っていても)口には出さない。仮に、安倍晋三が所得税を払っていなかったことが発覚したとしても、彼は「私は賢いから税金を払わずに済ませた」という言い訳をしないだろうし、その言い訳に喝采を送る有権者も日本にはいないはずである。日本ではリバタリアンも愛国的なポーズをすることを強いられる。
だから、日本では「リバタリアンでありながら、かつ愛国的」という奇妙な生き物が生まれてくる。現代日本に跋扈しているのは、この「愛国的リバタリアン」という(「肉好きのベジタリアン」とか「気前のいい吝嗇漢」というような)形容矛盾的存在である。

一方において、彼らは自分が獲得したものはすべて「自己努力によって獲得されたもの」だから、100%自分の所有に属し、誰とも分かち合う気がないと断言する。同じ理屈で、貧困や疾病や障害や不運などによって社会的弱者になった者たちについても「すべて自己責任で失ったもの」であるので、そのための支援を公的機関に求めるのは筋違いであると主張する。ここまではリバタリアン的主張であるが、日本の「愛国的リバタリアン」はこれに愛国主義(というより排外主義、外国人嫌い(ゼノフォビア))をぱらぱらとまぶして、社会的弱者というのは実は「外国人」であるという奇妙な社会理論を創り出す。ここが日本のリバタリアニズムの独特の歪みである。

日本型リバタリアンによると、社会的弱者やあるいは社会的弱者を支援する人たちは「外国人」なのである。仮に血統的には日本人であったにせよ、外国渡来のイデオロギーや理説に「感染」したせいで、「外側は日本人だが、中身は外国人」になっているのである。だから、社会福祉や教育や医療などの活動に公的な支援を求める組織や運動は本質的には「日本の国益よりも、彼らが忠誠を誓っている外国の利益に奉仕するもの」なのだという妄説が出来上がる。生活保護の受給者は多くが在日コリアンであるとか、日教組の背後にはコミンテルンがいるとか、朝日新聞は反日であるとか、翁長沖縄県知事は中国に操られているといった類のネトウヨ的妄説はその典型的なものである。

語っている本人もさすがにほんとうだと思ってそう言っているわけではいないだろう。にもかかわらず、彼らが「反政府的な人間=外国人」というスキームに固執するのは彼らにリバタリアンに徹底する覚悟がないからである。

リバタリアンであれば、話はすっきりしている。貧乏なのも、病気なのも、障害者であるのも、すべては自己責任である。だから、それについては他者からの同情や公的支援を当てにしてはならない。医療保険制度はいらない(医療は「サービス」なのだから金を出して買え。金がないやつは死ね)。公立学校も要らない(教育は「サービス」なのだから、金を出して買え。金がないやつは働いて学費を稼ぐか、有利子で借りろ)。社会福祉制度はいらない(他人の施しがないと生きていけないやつは死ね)と、ずいぶん非人情ではあるけれど、バケツの底が抜けたように「あっけらかん」としている。

しかし、さすがに日本では(心ではそう思っていても)そこまでは言い切れない(居酒屋のカウンターで酔余の勢いで口走ることはあるだろうが、公的な立場ではなかなか口にはされない。

その不徹底をとりつくろうために、日本的リバタリアンは「排外主義」的イデオロギーを装飾的に身にまとう。そして、貧乏人も、病人も、障害者も、生活保護受給者も、みな本質的には「外国人」であるという摩訶不思議な理説を噛ませることで、話のつじつまを合わせようとするのである。

相模原事件の植松容疑者はその意味では障害者支援をめぐる問題の本質をよく見抜いていたというべきだろうと思う。彼自身は生活保護の受給者であったが、その事実は「わずかな賃金を得るために、他人に顎で使われて、自分の貴重な人生を空費したくない」という彼のリバタリアン的な気質と齟齬するものではなかった。けれども、自分以外の生活保護受給者や障害者は彼の目には許し難い社会的寄生者に見えた。この矛盾を彼はどう解決したのだろうか。自分には公的支援を受けることを許すが、他人には許さないという身勝手な識別を可能にする境界線として最終的に彼が思いついたのは「私は日本人として日本の国益を優先的に配慮しているが、彼らはしていない」という「日本人/非日本人」スキームであった。

だから、植松容疑者がこれは「日本のために」したのだとか、「社会が賛同するはずだった」とかいう自己弁明を繰り返し、「国益を害するものたち」を「処分」する「官許」を首相や衆院議長に申請したことには論理的には必然性があったのである。彼は自分が「愛国的リバタリアン」という政治的奇形物であり、現在の日本の政界の指導者たちの多くが程度の差はあれ自分の「同類」だと直感していたのである。
http://blog.tatsuru.com/2018/08/04_1031.html


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134. 中川隆[-13760] koaQ7Jey 2018年8月16日 08:19:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17881] 報告

2018年08月16日
猛暑のエアコン不足 設置しても使わせないなど問題噴出


学校のエアコンは大きな議論になった

https://www.fnn.jp/image/program/671SAY?n=1&s=12_l

猛暑のエアコン騒動

2018年の夏は猛暑のためエアコンが話題になる機会が多く、さまざまな議論も巻き起こした。

日本の学校の過半数ではエアコンが設置されておらず、設置されていても使用しないように命令が出ているという。

理由は電気代がかかるからで、学校の部活動や体育で熱射病になり倒れる事例も続出しました。




中高年の体育系教員は「根性世代」なので、根性があれば暑くないのだと言い張り、水も飲ませない人がいる。

また職場でも「暑いのは精神が弛んでいるからだ」と言って屋外作業でも水を飲むのを禁止している企業が実在する。

老害もいいところだが、解雇や報復をおそれて40度近い猛暑で水を飲まずに倒れる人が多数出ている。


職場にエアコンがあっても使用禁止だったり、「省エネ」と称してただの扇風機になっている場合もある。

猛暑によって職場の非合理性が噴出していて、そういう会社では暑さで仕事の質や量が低下しても「精神力」「根性」を重視します。

夏の高校野球は毎年投手の投球回数が議論になるが、加えて今年は猛暑の中での開催に議論が起きた。


猛暑は日本人の生活や健康に大きな影響を与え、温暖化によって来年以降さらに悪化する可能性があります。

エアコンメーカーはあまり儲からない

猛暑でエアコンメーカーはみんな儲かっているかというと、すべてが儲かっているのではないようです。

一つには日本では電気工事士資格者以外は取り付け工事できないので、ひと夏に設置できるエアコン数は決まっているのです。

例年の2倍の需要があっても2倍売るのは不可能で、設置できる台数しか販売できません。


エアコン設置ができる簡易資格があったほうが良いが、日本政府は「国民のため」に法律を改正したりはしないでしょう。

エアコンメーカーの勝ち組はダイキン工業で前年比2桁増だが、国内メーカーの国内販売比率は各社とも20%以下にとどまる。

8割は海外販売なので、国内で急激に売れても設置の問題もあって大儲けにはなりにくい。


猛暑の中で屋外屋内のイベントが各地で開催されているが、屋外にはもちろんエアコンがなく、反射熱によって40度から50度にもなっている。

地面が土や草むらならもっと低くなるが、夏は気象庁の気温より10度は実際の温度が上がっているとされる。

屋内でもエアコンを効かせないと湿度によって体感温度が上がり、建物自体が熱を蓄えるのでさらに高温になる。


40度や50度になる世界では、今までとは根本的に考え方を変えなくてはならなくなる。
http://www.thutmosev.com/archives/77214359.html


カースト社会のインドの学校もそうですが、日本も私立進学校と公立学校とでは極端な差が出てしまいましたね。

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135. 中川隆[-13697] koaQ7Jey 2018年8月27日 13:39:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18115] 報告

日本の科学技術に関する残酷な現実 2018-08-27
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12400674524.html

 最近多いのですが、またもやショックな話。というか、皆さん(特に親アベの方々)があまり見たくない「現実」の話です。


 現実から目をそらし続けたいなら、読まないでいいです。現実を見据え、解決したいと望む方だけが読んでください。


 さあ、覚悟はいいですか。


 文部科学省の科学技術・学術政策研究所が、主要国の科学学術活動をまとめた「科学技術指標2018」を公表しました。


『科学技術・学術政策研究所「科学技術指標2018」報告書の公表について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/30/08/1408207.htm

 文部科学省科学技術・学術政策研究所(NISTEP, 所長 坪井 裕)では、日本及び主要国の科学技術活動を客観的・定量的データに基づき体系的に分析した「科学技術指標2018」を取りまとめました。「科学技術指標2018」から見た最新の日本の状況は以下の通りです。

 主要な指標を見ると、日本の研究開発費、研究者数は共に主要国(日米独仏英中韓の7 か国)中第3 位、論文数(分数カウント)は世界第4 位、注目度の高い論文数(分数カウント)では世界第9 位、パテントファミリー(2 か国以上への特許出願)数では世界第1位です。これらは昨年と同じ順位です。

 日本の大学と民間企業との共同研究実施件数及び研究費受入額は着実に増加しています。企業の論文数は減少していますが、そのうちの産学共著論文数の割合は増加しており、企業の論文を生み出すような研究活動における大学の重みが増しています。(後略)』


 文科省の解説だけを読むと、
「お、日本って意外に科学技術で検討しているんだな」
 と、思われるでしょうが、とんでもない。



 主要国の研究開発費総額の推移を見ると、以下のグラフの通りです。

【主要国の研究開発費総額の推移:名目額(OECD 購買力平価換算)】
http://mtdata.jp/data_60.html#kenkyu

 2016年の我が国の研究開発費総額は、18.4兆円(OECD推計は16.9兆円)となっています。


 最大の問題は、「対前年比▲2.7%」であることです。つまりは、日本は16年に至っても、研究開発費を「節約」しているのです。


 研究開発費の対前年比の内訳を見ると、


●公的機関 ▲7.3%
●企業 ▲2.7%
●大学 ▲1.1%


 と、政府の緊縮財政に企業や大学が引っ張られ、全ての部門でマイナスという情けない状況になっています。


 アメリカの研究開発費は51.1兆円で、「まだ」世界首位を維持しています。そして、中国が45.2兆円。すでに、日本の2.5倍であり、かつペースを落とさずに増やし続けています。


 グラフを見れば分かりますが、直近で研究開発費総額を減らしているのは、我が国のみです。


 政府が科学技術予算までをも緊縮し、順調に「衰退途上国」としての道を歩んでいるのが分かります。


 情けないことに、文部科学省は研究開発費総額が日本だけ落ちており、中国に2.5倍の差をつけられているにもかかわらず、
「日本の研究開発費、研究者数は共に主要国(日米独仏英中韓の7 か国)中第3位」
 と、「問題」を覆い隠す説明をしていることです。


 国民に真実を知ってもらいたいならば、
「日本の研究開発費総額は過去二十年、ほとんど増えておらず、直近で減っているのは日本のみで、すでに中国に2.5倍の差をつけられた」
 と、書かなければならないはずです。


 さもなければ、日本国民は「日本は技術大国なんだ」と、誤解します。我が国はすでに技術大国でも何でもありません。


 日本が落ちぶれた理由は、一つだけ。政府の緊縮財政、これに尽きるのです。


 日本は技術大国から凋落した。研究開発費総額は中国に2.5倍の差をつけられている。それにも関わらず、研究開発費を減らしている。


 という残酷な現実を認識し、政治に働きかけなければなりません。


 さもなければ、日本は国民が「我が国は技術大国だ」という誤解を振り払えないまま緊縮財政を継続し、このまま衰退。中国の属国というゴールが近づいてくることになります。



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136. 中川隆[-13656] koaQ7Jey 2018年8月29日 12:54:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18121] 報告

子どもの学力は「母親の学歴」で決まる…? 文科省の衝撃レポート
8/29(水) 9:00配信 現代ビジネス
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180829-00056752-gendaibiz-bus_all



文科省がとりまとめた分厚い調査報告書を読み解く

 小学6年と中学3年の全員を対象に、毎年4月に実施されている文部科学省の「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)。それぞれの対象学年100万人以上が一斉に受ける国内最大の調査では、都道府県別の平均正答率が公表されるため、「今年は秋田県が1位」などの報道を見たことをある人は多いだろう。

 しかし、テストに付随して行われる保護者対象の「アンケート調査」はあまり知られていない。じつはこちらの調査こそ、日本の「教育格差の真実」が凝縮して示されているとして、教育専門家の間ではむしろ注目されている。

 その調査はお茶の水女子大らの研究者が文科省から委託され、小6と中3の児童生徒の保護者から、無作為に10万人規模を抽出。保護者の年収や学歴といった家庭の社会・経済的背景を指標化して4階層に分け、テストの平均正答率との相関関係を分析している。

 これまで13年度と17年度に実施され、その調査結果からは「親の収入や学歴が高いほど児童生徒の学力が高い」といった傾向が浮かび上がっている。今年6月に公表された17年度の調査結果でも、学歴や収入が最も高い世帯は、最も低いそれらの世帯と比べ、たとえば基礎的な数学A問題では24・2ポイントもの差が付いており、エビデンスで裏付けられた。

 その一方で、学歴や年収が高くない世帯でも「日常生活で本や新聞に親しむことや、規則正しい生活を促している家庭では好成績の傾向がある」といったことが明らかになっている。規律正しい生活と好奇心、勉強への一定の意欲があれば、学習で工夫を加えれば、家庭環境を克服できる可能性が示された。

 こうした調査報告書の概要は報道済みで、保護者の感覚でもそれほど違和感のない内容だろう。

 しかし、文科省がとりまとめた分厚い調査報告書を読み解くと、新聞では報じられていない内容がふんだんに記載されている。そこからは、児童生徒の学力と家庭環境との「知られざる関係」がより明確に浮かび上がってくるのである。


父親の学歴より、母親の学歴との関係性が強く出る

 さっそく見ていこう。

 たとえば「家庭環境と子供の学力」の章は、「200万円未満」から「1500万円以上」まで100万円刻みで世帯年収と学力の関係を分析している。年収の高さに比例して正答率の高さも増しているが、注目されるのは、ある程度の高さの年収世帯になると「年収と学力」が直線的な関係を示さなくなることだ。

 たとえば、「年収1200〜1500万円」世帯の生徒の平均正答率は、「年収1500万円以上」世帯に比べて、国語A・B、数学A・Bのすべてで上回っている。必ずしも世帯年収が高いほど正答率が高くなるとは限らない一例といえよう。

 さらに興味深いのは、保護者の学歴と児童生徒の学力との関係だ。保護者の学歴が高いほど児童生徒の学力が高い傾向がみられるが、より詳しく見ると、児童生徒の学力は父親の学歴より母親の学歴との関係性がより強く出ていることだ。

 中3の数学Bでは、父親の最終学歴が「高等学校・高等専修学校」のケースだと正答率は44・1%、「大学」になると56・55%に上り、その差は12・4ポイント。一方、母親の最終学歴が「高等学校・高等専修学校」だと43・4%、「大学」になると60・0%になり、差は16・6ポイントに広がり、父親の学歴にともなう差より拡大していることがわかるのだ。
.

親の単身赴任と子の学力との興味深い関係性

 17年度調査では新たに保護者の単身赴任と児童生徒の学力との関係も対象となった。単身赴任世帯は各学校で一定割合含まれることから新項目になったとされるが、結果は「父親が単身赴任している子供の学力は、そうでない子供より高い」という分析が導き出された。

 データでみると、小6と中3の全科目で、「父親単身赴任」の児童生徒の正答率がそうではないケースを上回り、特に、中3の数学Aでは3・9ポイントの差がついた。

 一方、母親が単身赴任しているケースでは、逆の結果がでた。母親と同居しているケースに比べて児童生徒の正答率は10ポイント程度低くなり、とりわけ中3の国語Bでは52・1%にとどまり、72・5%の同居ケースに比べ20・4ポイントも差が付く結果となった。

 詳細な分析説明がないためデータの意味づけは不明だが、さきほどの母親の最終学歴と学力との関係と合わせて考えれば、子供の学力に対する母親の存在の影響力をうかがわせて興味深い。

父親は遅く帰ってきたほうが、子どもは伸びる!?

 「保護者の帰宅時間と学力」という調査も親にとっては気がかりなところだろう。結論から言うと、父親については22時以降の帰宅(早朝帰宅を含む)という家庭の子供の学力が最も高いことが明らかになった。

 たとえば、小6の国語Aでみると、父親の帰宅時間帯別の正答率は「就業していない」(68・9%)、「16時より前」(72・0%)、「16〜18時」(72・4%)、「18〜20時」(74・6%)、「20〜22時」(77・0%)、「22時以降」(77・9%)、「交替制勤務などで帰宅時間が決まっていない」(72・8%)。帰宅時間と正答率の相関関係を示しただけで、踏み込んだ分析は示されていないが、こうしたデータだけみれば、「父親の不在により、子供が自宅で勉強に集中できる環境がある」とも読めるが、いかがだろうか。

 ただし、こうしたデータを単純に鵜呑みにすることはできない。たとえば、国語Aの正答率について、年収や最終学歴など家庭の社会・経済的背景を指標化して4階層(Lowest、Lower middle、Upper middle、Highest)別にみると、遅い帰宅時間のほうが若干高いが、父親の帰宅時間と学力との間に明確な関係はみられなくなる。社会・経済的背景がよく似た世帯の子供には、それほど学力に違いがないことが浮かぶ。

 家庭の蔵書数と学力との関係もおもしろい。漫画や雑誌、子供向けの本を除いた蔵書が多いほど、子供の学力が高い傾向が示された。特に、国語より算数・数学の正答率で差が開く傾向が伺える。中3の国語Aでは「0〜10冊」世帯の生徒の正答率は70・4%だったのに対し、「501冊以上」は85・4%で15ポイントの開きがあった。

 一方、数学Aでは「0〜10冊」が55・0%、「501冊以上」は75・7%となり、20・7ポイントもの差がついた。家庭にある子供向けの本と学力の関係でも、冊数が多いほど学力が高くなる関係がうかがえた。

 全国学力テストに付随する保護者対象のアンケート調査結果は、巷間言われる「金持ちの子供は学力が高い」という言説をデータである程度裏付けるものであり、高収入と高学歴の親の子供が同じように高収入と高学歴という同じコースをたどり、教育格差が経済格差を固定化させ再生産するという見方につながることはある程度説得力があるのかもしれない。

 しかし、ここで示されるのは家庭環境と学力の相関関係であり、必ずしも因果関係ではない。公教育の役割は、経済格差の拡大を招きかねない教育格差の是正・平準化にあるはずだ。全国の学校現場で奮闘する先生たちには、ぜひこの報告書を読み込んでほしい。


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137. 中川隆[-13648] koaQ7Jey 2018年9月10日 11:03:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18412] 報告

大学院の変容・貧乏シフト - 内田樹の研究室 2018-09-10


人口当たりの修士・博士号取得者が主要国で日本だけ減っていることが文科省の調査で判明した。これまでも海外メディアからは日本の大学の学術的生産力の低下が指摘されてきたが、大学院進学者数でも、先進国の中でただ一国の「独り負け」で、日本の知的劣化に歯止めがかからなくなってきている。

人口当たりの学位取得者数を2014〜17年度と08年度で比べると、修士号は、中国が1.55倍、フランスが1.27倍。日本だけが0.97倍と微減。博士号は、韓国が1.46倍、イギリスが1.23倍。日本だけが0.90倍と数を減らした。

当然だと思う。さまざまな理由が指摘されているけれど、一言で言えば「大学院というところが暗く、いじけた場所になった」からである。若くて元気な人間なら、せっかくの青春をそんなところで過ごしたくはない。

と書いておいてすぐに前言撤回するのも気が引けるが、実は大学院は昔から暗くて、いじけた場所だったのである。にもかかわらず学術的生産性は高かった。どうしてか。

私が大学生の頃、大学院進学理由の筆頭は「就職したくない」だった。それまで学生運動をやったり、ヒッピー暮らしをしていた学生が、ある日いきなり髪の毛を七三に分けて、スーツを着て就活するというは、傍から見るとずいぶん見苦しいものだった。「ああいうのは厭だな」と思った学生たちはとりあえず「大学院でモラトリアム」の道を選んだ。私もそうだった。

ところが、こんな「モラトリアム人間」ばかり抱え込んでいた時期の大学院が、学術的にはきわめて生産的だったから不思議である。

それはちょうど日本社会が高度成長からバブル経済にさしかかる頃だった。同年配でも目端の利いた連中は金儲けに忙しく、世情に疎い貧乏研究者たちに「ふん、金にならないことしてやがる」という憐みと蔑みの視線を向けはしたが、「そんな生産性のないことは止めろ」とは言わなかった。人文系の学者が使う研究費なんて彼らからすれば「鼻くそ」みたいな額だったからである。だから、「好きにさせておけ」で済んだ。おかげで、私たち経済的生産性の低い研究者たちは、世間が金儲けに忙殺されている隙に、誰も興味を持たない、さっぱり金にならない研究に日々勤しむことができた。そして、それが結果的には高い学術的アウトカムをもたらした。そういう意味ではよい時代だった。

でも、バブルがはじけて、日本全体が貧乏臭くなってから話が変わった。「貧すれば鈍す」とはよく言ったもので、「金がない」という気分が横溢してくると、それまで鷹揚に金を配ってくれた連中がいきなり「無駄遣いをしているのは誰だ」と眼を吊り上げるようになる。「限りある資源を分配するのだ。生産性・有用性を数値的に格付けして、その査定に基づいて資源を傾斜配分すべきだ」と口々に言い出した。

「数値的な格付けに基づく共有資源の傾斜配分」のことを私は「貧乏シフト」と呼ぶが、大学も「貧乏シフト」の渦に巻き込まれた。そして、それが致命的だった。
というのは、格付けというのは「みんなができることを、他の人よりうまくできるかどうか」を競わせることだからである。

「貧乏シフト」によって「誰もやっていないことを研究する自由」が大学から失われた。

「誰もやっていない研究」は格付け不能だからである。

独創的な研究には「優劣を比較すべき同分野の他の研究が存在しない」という理由で予算がつかなくなった。独創性に価値が認められないアカデミアが知的に生産的であり得るはずがない。

日本の大学の劣化は「貧して鈍した」せいである。

「貧する」ことはよくあることで恥じるには及ばない。だが、「鈍した」ことについては深く恥じねばならない。
http://blog.tatsuru.com/2018/09/10_0945.html

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138. 中川隆[-13642] koaQ7Jey 2018年9月11日 14:09:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18430] 報告
2018.09.11
教育システムの破壊

思考力のある人びとは支配システムの不正に気づき、批判の声を上げる。
私利私欲で動く支配層にとって目障りな存在だ。

そこで1970年代から日本では「考えない庶民」を作る政策が継続されている。考えるのは一握りのエリートだけで良く、残りは支配層へ盲従すれば良いということだ。そうした政策のキーワードが「愛国心」である。

 教育課程審議会の会長を務めた作家、三浦朱門は自分たちが考え出した「ゆとり教育」について次のように語っている:

「平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」(斎藤貴男著『機会不平等』文藝春秋、2004年)


米政府に関税をかけられた米企業が戻りたくないほど米国は荒廃している



 アメリカのドナルド・トランプ大統領はアップルに対し、アメリカで生産するように呼びかけた。同大統領は重い関税をかけ始めているが、それが向けられている先には国外で生産するアメリカ系企業も含まれる。そうしたアメリカ系企業の象徴的な存在が中国で生産しているアップルだ。

 2011年2月、アメリカ大統領だったバラク・オバマはサンフランシスコのエレクトロニクス産業、いわゆるシリコン・バレーの幹部たちと食事をともにし、その際、​アップルのスティーブン・ジョブスに対し、同社のiPhoneをアメリカで生産しないかともちかけた​。同社はiPhoneだけでなく、iPadやほかの製品の大半を国外で作っている。


 それに対するジョブスの返事は、アメリカへ戻ることはないというものだった。アジアでは生産規模を柔軟に変更でき、供給ラインが充実、そして労働者の技術水準が高いという理由からだという。賃金水準の低さは問題の一部にすぎない。


 アップル側の推計によると、iPhoneを生産するためには約20万人の組立工と、そうした人びとを監督する約8700人のエンジニアが必要で、それだけの陣容をアメリカで集めるためには9カ月が必要。それが中国なら15日ですむ。

 アメリカでは最高レベルの教育は維持されているものの、生産現場で必要な中間レベルの技術を持つ人を育成してこなかった。これが致命的になっているという指摘がある。同じ現象は日本でも引き起こされていて、かなり前から日本でも技術系学生のレベルが落ちているという声を聞く。そこで、企業は中国やインドの学生に目をつけていた。

 そうした状況に陥った最大の理由は教育システムの破壊だ。思考力のある人びとは支配システムの不正に気づき、批判の声を上げる。私利私欲で動く支配層にとって目障りな存在だ。そこで1970年代から日本では「考えない庶民」を作る政策が継続されている。考えるのは一握りのエリートだけで良く、残りは支配層へ盲従すれば良いということだ。そうした政策のキーワードが「愛国心」である。

 教育課程審議会の会長を務めた作家、三浦朱門は自分たちが考え出した「ゆとり教育」について次のように語っている:「平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」(斎藤貴男著『機会不平等』文藝春秋、2004年)

 日本の生産活動は中小企業で働く優秀な職人に支えられていた。その職人の技術は徳川時代までに培われたもの。その技術力が急速に低下したのは1980年代からだろう。1970年代に庶民の購買力が減少、物が売れなくなり、企業は「財テク」に走った。金融マジックの世界へ入り込み、生産を軽視するようになったのだ。

 日本経済の強みは中小企業で働く技術水準の高い職人にあることを理解していたアメリカ支配層は「ケイレツ」を問題にして下請けシステムを潰しにかかる。そしてアメリカ支配層が仕掛けた円高は日本のシステムに多いなダメージを与えた。そして金融スキャンダル。日本の支配層が腐敗している状況を利用しての攻撃だったと言えるだろう。

 アメリカの貿易赤字を生み出している最大の要因は1970年代以来、歴代アメリカ政府が製造業を国外へ移転させる政策を推進してきたからにほかならない。日本や中国が原因ではない。

 1970年代の半ば、アメリカの議会は「多国籍企業」の問題を取り上げていた。その象徴的な存在がフランク・チャーチ上院議員だが、1980年の選挙で落選、84年1月に脾臓腫瘍で入院、4月に59歳で死亡した。

 1970年代、アメリカの議員は国境を越えた活動を展開する巨大資本の危険性を理解していたが、そうした議員の動きは潰されてしまい、国境を越えた資本の移動が自由になり、金融取引の規制はなくされて無法化していく。それを西側では「法の支配」と呼んでいる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809110001/

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

139. 中川隆[-13649] koaQ7Jey 2018年9月12日 06:11:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18448] 報告

スティーブ・ジョブズもビル・ゲイツもバフェットも唯の商売上手で、天才とは程遠い凡人

ジョブズ自身は何も発明していないし、パソコンを開発してもいない。

2018年09月05日
投資は損失を他の人に回すこと

プロ投資家が必ずファンド運営するのは「客に損失を負わせるため」


画像引用:https://www.etf-gateway.jp/wp-content/uploads/2016/06/dreamstime_s_11585145-1.jpg


成功者が言わないこと

成功者に投資のコツは、ビジネスのコツはと質問すると、表向きは紳士的な答えが返ってきます。

真面目に働くこととか誠実さ、人脈や自分なりの成功術を披露するかもしれません。

成功者が決して口にしないのは、失敗を誰かのせいにして押し付けている点です。

成功者は自分は成功報酬だけを受け取り、失敗した損失を誰かに回すことで成功しました。

たとえばビルゲイツはウィンドウズなどを発売してマイクロソフトを成功させたが、同じような試みで失敗した人は多い。

OS(オペレーションシステム)というアイディアはアポロ計画で生まれ、発展してきました。


OSが高度化してパソコンが量産商品になったとき、たまたまウィンドウズが時流に乗ったのが真相に近い。

ウィンドウズ以前にコンピュータソフトに貢献した人たちは1ドルも受け取れず、ビルゲイツは数兆円も受け取った。

ビルゲイツがお金を奪ったわけではないが、間接的に他の人に失敗を負わせて、自分は利益だけを手にした。


アップルのスティーブジョブズも同じような経緯で、ジョブズ自身は何も発明していないし、パソコンを開発してもいない。

コンピュータが開発されたのは大戦前後のアメリカまたはドイツで、やはりアポロ計画で急速に発展した。

コンピュータが個人に普及する時期に成功を手にしたのがジョブズで、それ以前の人は何も得られなかったのにジョブズは大金を手にした。


プロ投資家は負けても損をしない

ほとんどすべての成功者にこうしたストーリーがあり、失敗したときは他の誰かや何かに損失を押し付けた。

世界的な投資家のジョージソロスやWバフェットは自分の金ではなくファンド運営を行っている。

他の人が出資した金で投資して、手数料収入を得るのがソロスやバフェットのビジネスで、世間で思われているイメージとは違う。


ファンド経営では投資が失敗しても手数料収入は得られるので、自分の財布は痛まない。

自分の個人資産も運用しているのでその意味では損失は出るが、「損失は客に追わせて利益は自分が手にする」事をしてきた。

日本のある有名なプロディーラーは著書の中で「損をしても客の金だから関係ない」と悪びれずに書いていました。


多くの人は「プロなんだから責任感を持って投資している」と考えているが、そうではありません。

証券会社にしても銀行にしてもファンドにしても、「客に損をさせても自分の給料はもらえる」制度で働いています。

これらは勝ったときに歩合制で報酬が貰えるのではなく、勝っても負けても手数料収入は同じなのです。


だからプロ投資家は、損失は客に負わせて儲けは自分のものにできるのです。
http://www.thutmosev.com/archives/77425588.html

▲△▽▼

2018年09月07日
アップルとアマゾンが時価総額1兆ドル 巨大IT企業はどこから生まれたか

アメリカはアポロ計画で膨大なIT技術者を養成し、余った技術者はシリコンバレーで民間サービスを始めた


画像引用:https://amd.c.yimg.jp/amd/20170716-00000002-storyfulp-000-1-view.jpg

1兆ドルをめざす米IT企業

米IT企業のアップルとアマゾンが相次いで株式時価総額1兆ドル(約110兆円)を達成しました。

続いてアルファベットとフェイスブックも、やはり株価1兆ドルを超える可能性があるといわれている。

この中でもっとも創業が古いのはアップルで1975年に自宅でパソコンを作り始めた。


アマゾンは1995年にワシントン州でネット書店を開業した。

アルファベットのグーグルは1996年にフォード大学の構内で、検索エンジンの開発を始めていた。

フェイスブックは2004年にハーバード大学の学生が連絡を取り合うために開設された。


4つのうち3つは1995年のウィンドウズ95以降に誕生し、うち2つは学生が始めていた。

この中で計画性があったのはアマゾンだけで、創業者のベゾスはヘッジファンド重役を退職して開業した。

退職した時点では何をするか決めておらず、ネットブームに乗り遅れまいとネットで何かを売ろうと考えていた。


最初は偶然はじまった

結局本を売ることにしたのだが、最も簡単でありふれた商品を選んだと言える。

4つの巨大企業の誕生のほとんどは偶然で、国家プロジェクトなどとは関係ない。

最初のサービスや製品はとても初歩的なもので、少しでもタイミングが遅ければ通用しなかったでしょう。


創業者たちが成功した要因としてアメリカの旺盛なIT需要と投資、有り余るほどのIT技術者の存在があげられる。

最初の始まりは第二次大戦で、アメリカはITにつながる高度技術を開発し始めた。

その成果はレーダーと高射砲で、遠くの飛行機を探知して照準を合わせ、”命中しなくても近くで爆発する”装置を投入した。


日本やドイツの高射砲は事前に設定した場所で爆発するのに対し、アメリカのVT信管は飛行機に接近すると起爆した。

VT信管の投入前、日本の飛行機はほとんど撃墜されなかったが、投入後はほとんどが撃墜されるようになり敗戦の一因になった。

VT信管とレーダーの成果にアメリカは喜び、さらに高度な機械を開発し、アポロ計画も始まった。


アメリカのIT産業黎明期

アポロ計画は当時の国家予算に匹敵する金を使ったが、自己満足以上の成果はなく世紀の大失敗と言われた。

だがアポロ計画で膨大な人数の技術者が養成され、彼らが後にIT企業群の創設者や技術者になった。

たとえばジョブズやビルゲイツの大学には1970年ごろには世界最先端のコンピュータがあり学生が自由に使えるようになっていた。


学生が自分の金儲けのためにコンピュータを使い、教授がそれに協力するような環境が既にアメリカにはあった。

彼らが通った大学はアポロ計画にも協力していて、月に帰還する宇宙船が使用するコンピュータプログラムなどを開発していた。

こうして最初の技術はできたが忘れてはならないのが「投資家」の存在です。


成功するか失敗するか分からないが、とりあえず金を出そうという無謀な投資家が居て初めて事業を拡大できる。

もし学生のコンピュータ遊びに金なんか出さないという投資家ばかりだったら、アップルはファミコンすら作れなかったでしょう。

4大IT企業ともアメリカだから必然的に生まれたので、日本やソ連やドイツでは決して生まれなかった。
http://www.thutmosev.com/archives/77451079.html



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

140. 中川隆[-13648] koaQ7Jey 2018年9月12日 06:14:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18448] 報告

凡人のスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツが成功した理由

「囲い込み」というビジネスモデルの崩壊や賞味期限切れは来るか? │ ダークネス:鈴木傾城
https://bllackz.com/?p=4839


現在でも世界トップの資産家であるビル・ゲイツは、今でこそ慈善家として知られるようになっているのだが、かつてはマイクロソフトの創始者としてIBMやアップルと凄じい競争を繰り広げて勝ち抜いてきた経営者だ。

このマイクロソフトの決定的な市場独占は、ウィンドウズの成功によって成し遂げられた。

ところで、全世界を掌握したウィンドウズというOSは、決して「最高のOS」でもなかったし「独創的なOS」でもなかった。堅牢性で言えばUNIXに劣っていたし、グラフィカル・ユーザー・インターフェイスはアップルのOSの真似だった。

しかし、ウィンドウズはマーケティングに成功して優位性をつかんだところで、もはや他が追いつけないほどの圧倒的な独占を手に入れて、それがビル・ゲイツを世界最強かつ裕福な経営者に押し上げた。

最初に確固としたポジションを手に入れたことによって、その後は独占が独占を生む効果をもたらした。これは「囲い込み」と呼ばれるビジネス手法なのだが、「囲い込み」が世界で最も強烈に機能したのがウィンドウズだったのである。

ウィンドウズは、当初から「出来の悪さ」が批判されて、OSを改変すればするほど、重くなり、バグが増え続けていくのだが、それでも人々はウィンドウズを使い続けた。(鈴木傾城)


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141. 中川隆[-13652] koaQ7Jey 2018年9月14日 09:03:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18535] 報告

現地に在住し、低賃金に甘んじて、子供たちを導く優しい日本人もいる 2018.09.14


2018年9月11日。カンボジアでひとりの日本人が亡くなっている。現地に在住し日本語教師として働いていた日本人で52歳だった。

発見したのはふたりの日本人女性で、携帯電話で呼んでも応答がないことで異変を知り、自宅のベッドで死んでいるのを発見した。

事件性はなかった。病院での検死の結果、心臓発作であることが分かった。

日本に憧れるカンボジアの子供たちに日本語や日本の文化をきちんと教えるのが日本語教師の仕事だ。

調べてみると、カンボジアでの日本語教師の仕事の給料は800ドル(約8万9460円)から1300ドル(約14万5300円)あたりが相場のようだ。

日本人の感覚からすると決して大きな額ではないのだが、夢を持ったカンボジアの子供たちに、きちんとした日本語を教え、きちんとした文化を教える仕事だ。給料よりも何よりも、やりがいを優先した結果なのだろう。

これは、東南アジアを愛し、東南アジアに馴染み、東南アジアに貢献しようと決意した人だけができる仕事だ。不意の死で途絶えてしまったが、優しい人だったのだと思う。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

目次 閉じる 1. 「ここで暮らして骨を埋めたい」と思うように
2. 東南アジアやインドの病気や障害を抱えた子供たち
3. カンボジアで亡くなったひとりの日本人教師のこと

「ここで暮らして骨を埋めたい」と思うように

東南アジアに沈没し、汗にまみれ、東南アジアの底辺で人々と共に食事をし、現地の子供たちと遊んだり、女性たちと関わったりした人は、最初は自分の楽しみや経験のために「ふれあい」をしている。

しかし、彼らの文化や人柄や子供たちとの何気ないふれあいの機会が増えれば増えるほど、いつしか「ここで暮らして骨を埋めたい」と思うようになっていく。

あるいは、このように考える人もいる。

「無邪気に遊んでくれる子供たちとずっと一緒にいて、彼らに何かの技能(スキル)を与えて良い人生を送れるようにしてあげたい……」

その気持は分かる。私自身もインドネシアやフィリピンやインドでたくさんの子供たちと遊んできたし、無邪気に慕ってくれる子供たちと戯れているときに、「助けてあげたい」と心が大きく動揺することが何度もあった。

私はスラムに好んで棲み着いていたが、スラムの子供たちは汚れた服を着て、場合によっては靴すらも持っていない。ひとりやふたりではない。何人も、そんな子供たちに出会った。

病気の子供たちもいた。私がインドの商業都市ムンバイの安ホテルに泊まっていたとき、いつも私のホテルの前で物乞いをしていた男の子のひとりは片目が病気でふさがっていた。

この子はいつも片目に目ヤニをびっしり溜めていたのだが、驚くほど純真で私になついて地元の人が行くおいしい料理屋を教えてくれたりした。

私が店を出て、翌日に「おいしかったよ」と彼に言うと、彼は驚くほど明るい笑みを浮かべて去っていった。

こうした子供たちの後ろ姿を見ていると、ふとインドに暮らして、彼の病気を治してあげて少しでも力になりたいと思ったりする。この邪悪な世界に染まって誰も信用しなくなった私ですらも、そんな気持ちが芽生える。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

東南アジアやインドの病気や障害を抱えた子供たち

インドのコルカタでは、売春地帯「ソナガチ」で物乞いをしている顔見知りの少女がポリオにかかって手足が不自由になった身体で物乞いをしている姿を見て私は泣いた。

インドネシアのリアウ諸島で私が潜り込んだ村では、病気で痩せ細ってまだ子供なのに髪が半分以上も抜けてしまった少女もいて、私がこの村に訪れるたびにずっと私のそばにきて弱々しく笑っていた。病気だったが、好奇心が強い子だった。

数年後、私は再びこの村を訪れているのだが、彼女の姿はなかった。私は哀しい結末を知りたくなかったので、彼女については何も聞かなかった。聞くのが怖くて尋ねなかった。

インドではサダルストリートで物乞いしている女性たちと仲良くなって、彼女たちの住んでいるスラム村に訪れたことがあった。

そこでひとりの痩せた少女が大きな目で私に一生懸命に話しかけてくれたのだが、彼女は耳の聞こえない子で、手をひらひらとさせながら私に話しかけた。

私自身も2006年頃から原因不明のめまい・頭痛・吐き気を繰り返して、気がついたら聴力低下が進行する病気に見舞われていたので、彼女のことは本当に印象に残った。

耳のまったく聞こえないこの子が本当に愛おしく思って何とかしてやりたいという気持ちがふつふつと湧き上がった。

しかし私は「思った」だけで、結局は何もしないでこのスラム村を去り、以後は一度も戻っていない。この子は将来、どんな人生が待っているのだろうか。

貧しい村に生まれ、障害を抱え、教育もなく、病気を治すこともできない。

彼女にできる仕事は何か。

それは、コルカタを這い回り、物乞いをすることしかない。彼女の写真を見つめていると、私は懐かしい気持ちと共に胸の奥が締め付けられるような苦しみも湧く。

1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

カンボジアで亡くなったひとりの日本人教師のこと

貧困で苦しむ子供たちは東南アジアやインド圏にたくさんいる。誰からも見放されて、地を這い回りながら、苦しみながら生きなければならない子供たちがたくさんいる。

東南アジアから南アジア全域で、絶対貧困に苦しむ人々は少なく見積もっても約7億人は存在するはずだ。私たちは、こうした子供たちをみんな救うことはできない。

私たちは彼らをみんな救うどころか、ひとりやふたりの子供たちを救うことすらも難しい。

誰もが自分の人生を生き残るために必死なのだ。他人よりも「まず」自分を救わなければならない。だから、私たちは困っている人たちがいたとしても静かに目をそらすしかない。

では、彼らは夢を見てはいけないのだろうか。貧困で生まれた子供たちは、貧困のまま死んでいかなければならないのだろうか。

いや、無償の医療と無償の教育があれば、それを手がかりに上のレベルにいける子供たちも出てくる。外国語をうまく話せるようになれば、そこから収入を得ることもできるようになる。

現地に派遣される日本語教師は、エリート階級の子供たちを教えることが多いのだろうが、中には貧しい世帯の子供たちを教えることもあるはずだ。

貧困にあえぐ子供たちの中にも、語学に才能のある子供がたくさん混じっている。

現地に在住し、低賃金に甘んじて子供たちを導く優しい日本人もいるわけで、私はこうした人たちに大きな尊敬の念を持っている。

カンボジアで亡くなったひとりの日本人教師のことは日本ではニュースにもなっていない。しかし、私たちはこうした名もなき人たちが現地の子供たちに日本語を教えて「夢」を与えていることを知っておく必要がある。

私は悪人かもしれないが、こうした日本人の死に関心すらも寄せないほど冷酷ではない。(written by 鈴木傾城)

コルカタで知り合った耳の聞こえない少女。彼女は貧しい村で生まれて、教育もない。彼女にどんな人生が待っているのだろうか。それはとても厳しいものであることは想像するまでもない。
https://blackasia.net/?p=9355

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142. 中川隆[-13576] koaQ7Jey 2018年9月18日 20:20:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18622] 報告

小学生に英語を勉強させたら簡単な日本語の文章も理解できなくなった話

「教科書が読めない」子どもたち 教育現場から見えた深刻な実情
市岡ひかり,小柳暁子,柿崎明子2018.4.15
https://dot.asahi.com/aera/2018041200052.html?page=1


戸田市立戸田第二小学校では、AIを利用した英会話ロボットを導入した授業など、英語教育にも力を入れている(撮影/鈴木芳果)

【AIを利用した英会話ロボットを導入した授業の様子はこちら】
https://dot.asahi.com/print_image/index.html?photo=2018041200052_3



 子どもたちは想像以上に文章を理解できていない。「だが、解決策はあるはずだ」。教育の現場では、対策が始まっている。


*  *  *
「うちの子、算数の計算問題はできるけど、文章題はだめで」

 この傾向は、おそらく多くの親が実感しているのではないだろうか。しかし、なぜ文章題ができないのか。それを明らかにしたのが、国立情報学研究所の新井紀子教授が開発した、基礎的読解力判定のリーディングスキルテスト(RST)だ。

 RSTは、生活体験や知識を動員して、文章の意味を理解する「推論」、文章と、図形やグラフを比べて一致しているかどうか認識する「イメージ同定」、国語辞典的、あるいは数学的な定義と具体例を認識する「具定例同定」など、読解力を6分野に分け、その能力を問うものだ。

 このテストをいち早く取り入れたのが、戸田市(埼玉県)教育委員会だ。教育政策室指導主事の新井宏和さんは、その経緯を次のように語る。

「全国学力・学習状況調査の活用問題が解けるような子どもたちにしたかった。幸いにも新井教授と戸田市の戸ケ崎勤教育長が知り合いで、教育長がRSTに高い関心を示し協力して取り組むことになりました」

 テストは2015年から段階的に実施され、17年は市内の全中学生と、小学6年生全員の4500人が参加した。問題は、国立情報学研究所特任研究員の菅原真悟さんの指導のもと、市内の小中学校の教員が作成した。戸田第二小学校研究主任・狗飼英典(いぬかいひでのり)教諭は言う。

「夏休みや放課後を利用し、中学生の教科書などを参考にして作りました。教員にとっても初めての経験でしたから、どういう問いを立てたら答えにたどりつくのか、試行錯誤の連続でした」

 テストの結果は、イメージ同定、推論、具体例同定の正答率が半分に達せず、想像以上に子どもたちが文章を理解できていないことがわかった。

「今まで教科書は読めて当たり前で、その前提で授業を進めていた。教科書が読めていないという事実は、衝撃的でしたね」(新井主事)

 さらに担当者を混乱させたのが、その分析結果だった。学力テストとの相関関係を調べたところ、学力の高い児童・生徒がRSTの点数も高いわけではなく、関連を示すことができなかった。

「RSTが低いのに、なぜテストでは問題が解けているのか。問題のパターンを暗記して解いているのではないかと思われるのです。今の時点ではよくても、将来つまずくのではないか。小学校から読解力のスキルをつけていかなければ、と感じました」(同)

2年連続でテストに参加した戸田第二小学校も、意外な結果が出た。小高美惠子校長は言う。

「本校は学力調査では全国平均を上回っていたので、RSTも高い点数を出すと思っていたのですが、思った以上に低かった。特に推論とイメージ同定が弱かったですね」

 同校も学力テストの結果とリンクせずに、なぜこのような成績が出たのか分析できないでいる。ただし現場に立つ教員として、感覚的に理解できる点もある、と狗飼教諭は言う。

「たとえば、コミュニケーション力が足りていない児童の推論の点数が低いなど、能力や性格的な面が、RSTの結果に表れているような印象を受けました」

 子どもの読解力やコミュニケーション力に異変が起きている。その原因は何なのか。気になる調査結果がある。カギとなるのは、10年以降急速に普及し、内閣府の調査で今や青少年の約6割が使用しているスマートフォン。これが、言語機能やコミュニケーション機能をつかさどる脳の前頭前野に悪影響を与えている可能性があるというのだ。

 調査を行ったのは、ニンテンドーDS用ソフト「脳トレ」シリーズの監修者としても知られる東北大学の川島隆太教授だ。仙台市立小中学校の児童・生徒7万人を対象に追跡調査した結果、スマホの使用で明らかに学力が低下し、使用を中止するとまた学力が向上するということが分かった。

 なかでも、LINEなどメッセージアプリの影響が大きく、17年度の調査では、LINEなどを全く使用していない生徒の4教科の平均偏差値が50.8なのに対し、使用時間の長さに応じて偏差値は下がっていき、1日4時間以上使用している生徒の偏差値は40.6。実に10以上の差がついてしまった。川島教授によると、学習時間は十分にあっても、友人とメッセージをしながら……といったマルチタスク化が進むことで集中力がそがれ、勉強の効率が落ちてしまったことが要因の一つと考えられるという。

 さらに恐ろしいことに、スマホを長時間利用すると、読書をした時に活発に働く前頭前野に、安静にしている時よりもさらに働かなくなる「抑制現象」が起き、健常児でも言語機能の発達に遅れがでることがあるらしい。この抑制現象はテレビやゲームを長時間利用した時にも起こるという。

「スマホはお酒と同じで、『利用時間を1時間以内に留める』など、自制心を持って利用すれば悪影響は出ないことも分かっています。ただ、それは大人でもかなり難しいことだと思います」(川島教授)

相手の気持ちを思いやった上で言葉を発したり、試行錯誤したり、新しいアイデアを発想したり……。前頭前野が担うのは、AIが苦手で、かつ人間が得意とする「思考」や「発想」だ。AI時代を生き抜くために最も必要とされる能力が、スマホやテレビ、ゲームといった、かつて人が生み出した機器によって衰えつつあるとしたら何とも皮肉だ。

 とはいえ、悲観してばかりもいられない。教育現場も動きだしている。前出の狗飼教諭はRSTの結果を受けて、授業にも一工夫、加えるようになった。

「従来なら、この資料から読み取りなさいという問いを、複数の資料を見せて結果を先に提示し、なぜそうなったのか、道筋を考えさせるような授業を取り入れています」

 今後は学校の教員全員で研修をしながら、読解力をつけるための授業のあり方を模索していきたいという。小高校長は言う。

「昔から読解力の重要性は認識され、読書や作文が推奨されてきましたが、そもそも読解力とは何かという視点で分析されたことはなかった。RSTで6分野の視点を得たことは、授業改善のきっかけになる。分かった以上、逃げられないですね」

 本物の読解力や思考力を養うためには、家庭教育も重要だ。AIに詳しいメタデータ社長の野村直之さんは、膨大なデータを扱うのが得意な一方で発想の転換や真偽の解明が苦手なAIを扱える人材になるためには、「なぜ」を問える力を幼いころから養うべきだと指摘する。

「『なぜ宿題を忘れたの!?』などと『なぜ』を叱責に使う親が多いようですが、良くないと思います。むしろ、子どもの素朴な『なぜ』に答えてあげたほうがいい。そういう大人が身近にいれば、AIが決して太刀打ちできない、情操豊かで、今日のAIが苦手な論理を駆使できる人間に育つはずです」
『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』などの著書がある東北福祉大学の西林克彦さんも、一歩進んだ読解の訓練が必要だと説く。西林さんによると、読解力は知識に偏る面もあり、興味があったり、新鮮に感じる内容の文章は注意深く読める一方、表面的に「分かったつもり」の文や興味のわかない文は読み飛ばしたり、誤読をしたりする傾向があるという。自らの思い込みを疑い、もっともらしく書かれている部分は特に注意するという読み方も必要だ。西林さんは言う。

「読解とは文章の意味を理解すればいいものではなく、書いてある内容を知り、世界に迫るための道具です。『感想主義』に偏りがちな小学校、指示語の抜き出しなど構造理解を問う中高の国語教育だけでは、本物の読解力は養われにくい。文章を読んで理解した上で、知識として再構築する訓練をする必要があります」

(編集部・市岡ひかり、小柳暁子/ライター・柿崎明子)

※AERA 2018年4月16日号より抜粋


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143. 中川隆[-13570] koaQ7Jey 2018年9月19日 11:34:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18643] 報告

【日本の問題は、システムの創造性の弱さ】

日本という国は、稲作農業の上に、明治からは繊維産業を、戦後は
鉄鋼を先頭にした重化学工業を興し、1980年代からは、家電と自動
車で世界を制しました。しかしこれは、1995年付近までの「ハード
ウェアの時代」に適合したことでした。

Windows95が出た1995年以降、世界はインターネットとデジタル技
術(ソフトウェア)の時代に転換しました。この時、日本人が苦手
な世界最初の創造が必要なソフト技術では、激しく、後塵を拝した
のです。簡単に言えば、「インターネット時代の、人を興奮させる
新しい機能のプログラムが作ることができなかった」からです。家
電が凋落したのもこのためです。(注)アニメ風のゲーム以外の分
野のことです。

投資家によって変動する会社価値(=今後、利益を生む可能性の評
価)である、株価の時価総額が100兆円を超えたアップルやアマゾ
ンはこれを行っています。トヨタの時価総額は約20兆円であり、世
界の42位に落ちています(2018年8月)。中国のアマゾンであるアリ
ババ(約50兆円)の半分以下です。自動車工業と家電産業の株価は、
ハードウェアの時代の終わりを象徴しているものでしょう。

デジタルのソフト開発技術では米国が、その器であるエレクトロニ
クス・ハードの生産では、低いコストで中国と韓国が勃興しました

根本の理由は、米国人がもつ「システム化技術(新しい「系」を作
る技術)」に、日本人が遅れたことでしょう。系とは、ある目的を
持った機能の連携のことです。例えばワープロは、「文書を作る」
という目的のために、多様は機能が、支えあって連携しています。

コーディングするプログラマは、多数います。しかし、新しいシス
テムを個人が夢想し(一種のビジョン)、それを創造するシステム
エンジニアが少なかった。ソフトの創造が高くは評価されない会社
風土(企業文化)だったからでもあります。ハードのデザイナーは
高い地位でした。システムデザイナーの地位と評価は低かった。

教育で育成することもできなかった。部品をすり合わせて、精度を
高くして組み立てるハードウェア品質に優れた職人の国でした。約
25年間の低成長の根本の理由が、これです。

わが国の工業を先導してきた経産省は、これに気が付いているでし
ょうか。記憶ではなく、世界にない新しいものを夢想して作る、創
造を重視する教育の問題です。30年前に手を付けるべきことでした。

米国の大学教育は「**はこう考えて、この本を書いた。あなたの
考えはどうか」と教師が問って、発表させます。個人の創造を問っ
て、その考えの論理的なユニークさを評価する。日本の教育は、
「先人の考えを記憶し、記憶に対して〇×を付ける評価」が多い。

こうなった根本の理由は、「欧米に比べ、文化・文明・学問が遅れ
た国」という意識を、われわれ日本人が、根本でもっていたからで
しょう。遅れた国だから、欧米の「進んだ学説」を記憶させた。文
系の大学教授は多くが「翻訳家」でした。ここに、文科省の先導の
遅れがあります。理系でも似ています。
https://archives.mag2.com/0000048497/20180916103127000.html

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144. 中川隆[-13567] koaQ7Jey 2018年9月22日 05:38:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18739] 報告

帰国子女の漢字との闘い 2018年01月05日

皆さんは、漢字を書くのと読むのどちらが簡単ですか??

私は断然読むのが得意。

得意というか、読めるけどかけないという漢字は割とある。
圧倒的に読む方が楽。
という意味である。

しかし、どうやら帰国子女の頭の中は違うらしい・・・
彼らは漢字を図形のような形としてとらえているらしい。
(塾の先生談)

すなわち、図で覚えているため、覚えた漢字は書ける。

しかし、次に問題が・・・

書けるから大丈夫だと思っていた漢字が見事に読めない。。。

書くことと読むことは全く別物のようなのだ。

これは、日本生まれ日本育ちのお母さん的にはびっくりな大発見!!
みんな帰国子女ってこうなの?と思い友達にも状況を確認してみた。

6人中4人が同じ感じだというではないか!

そうなのね、、、

やっぱり漢字を図として覚えていたのね、
いや、絵とでも言おうか。

外人のtatooを見ていると漢字はかなり人気。
最初は不思議で見ていたけれど、アートとしてみてみると確かに漢字は美しい。

愛という漢字をtatooで使用している人の腕を見ていると、なんとも美しい絵だなと
思えてきた。

外人たちは、漢字をアートとしてみているのでもちろん意味なんて気にしていない。
先日は“甥”というtatooをしている人を見た。

なぜそのセレクト?
と思いきや、漢字をよく見ていると確かにかっこいいかもと思ったり。

話はそれましたが、何せ帰国子女の国語教育には
何よりも音読、読書が大事ということですね。。。

読書をすれば、読み方も覚え、意味も覚える。

それはわかっているんですけどね・・・
http://www.shellyno1.com/article/456001111.html

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145. 中川隆[-13566] koaQ7Jey 2018年9月22日 05:46:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18739] 報告

2008.12.16
帰国子女の漢字教育から学ぶ「勉強ができるようになる漢字指導」 (14)
https://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200812160000/

2年生まで外国で生活し、3年生になって、帰国したAさんを受け持ったことがあります。ご両親は、インテリでした。Aさんは、まじめな子でした。ところが、授業では、他の子が、分かっていることを、分からないような表情で、きょとんとして、考え込むことが、かなりありました。

このことと漢字指導は、どう関係があるのか、考えてみます。ご一緒にお考えいただけますとうれしいです。      ( 田村 利樹記)

Aさんは、どうして、考え込んでいたのでしょうか。それは、外国で、2年生まで、生活していたので、日本語が通じないことが時々、起こることが、分かりました。日本で生活していた子に比べれば、当然、日本語の習得では、ハンデイがありますから、そうなってしまったのでしょう。

Aさんのご家庭では、やがて、帰国することを考えて、Aさんが日本語を習得するための努力をしてきました。でも、日本で生活していた子に比べれば差は、出て来てしまうのですね。

では、このAさんに漢字を指導する時、どうしたら良いでしょうか。それは、当然のこと、その漢字(コトバ)の意味をまず、理解させることですよね。「漢字テストをするから、書きの練習をしてきましょう」では、Aさんには、きつすぎますよね。これは、ほかの子にもですがね。

でも、結構、このようなことが、日本中の漢字教育では行われていないでしょうか。

このような指導を絶対してはいけないことは、抽象的な漢字語の指導についてが、特別ですね。それは、子どもたちが、始めて接するか、あまり聞いたことがない漢字語が多いいからですね。

この抽象的な漢字語の中で学習に良く出てくる漢字語を「学習論理語彙」と言っています。それは、下記です。

この学習論理語は、70語程です。初めに、全体です。

武部の表 全体

全体の右半分です。

武部 右半分
           『たのしく学ぼう漢字』(ルックより)・・・下でご紹介しています。

この抽象的な漢字語の中の「学習論理語彙」に接した経験は、子どもの育った環境によって、まったく、違います。

僕が、育ったのは、山村の農家でした。育つなかで、上記の表の中にある本質・法則・現象・現実・矛盾・・・・・・・などの抽象語は、聞いたことがありませんでした。それは、家の人や、周りの人たちが、そのような漢字をを生活の中で、使わないからですね。

ですから、僕の場合は、抽象的な漢字語(「学習論理語彙」)の習得のことでは、先に書いたAさんの日本語の習得状況と似ていますね。始めて、接す漢字語ばかりです。これでは、読むことはでき、見れが書くことはできますが、意味は、分からない訳ですね。

使い方なんて、とってもですよね。

これは、本質・法則・現象などの言葉を先生が使って話をした時に、授業が分からなくなる決定的な要素となりますね。ですから、もし、そのような言葉を教師が使うなら、注意して使いたいものですね。そして、その言葉の質問があれば、説明が必要ですね。

学習の落ちこぼしは、この抽象漢字の習得と深く関係があると、以前から言われています。このことは、教育学会では、一般的なことになっていますね。

それは、落ちこぼしの背後には、その抽象的な漢字語の理解ができないことが、あるからなのですね。

ですから、中学年から出てくる抽象的な漢字語は、1字1字丁寧に指導することが大切なのですね。その丁寧な指導を僕らは、1セット5過程の指導といっています。

学校・先生などの目に触れ、耳で何度も聞いてきた日常語は、子供は、その意味、使われ方を知っています。

ところが、上の抽象語は、分からないのですね。

(***・・・この学流論理語彙の表は、高学年になったら、教室に情景し、意識的に使っていくようにするといいですね。慣れの中での学習が、できるからですね。僕は、6年担任した時は、そうしました。)

それから、漢字の書きも大切です。手首化(見ないでスラスラ書けること)しないと、使えませんね。でも、その書きを身に着けるには、まず、意味をしっかり理解することですね。

理解と言っても、本当の理解には、その漢字語を使えるようにする指導が必要ですね。それには、その漢字語を使って、文を書いてみることですよね。
https://plaza.rakuten.co.jp/zyx1830/diary/200812160000/

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

146. 中川隆[-13518] koaQ7Jey 2018年9月27日 06:21:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18838] 報告

小学生から英語を勉強させた為に、今の子供は日本語の簡単な文章も理解できなくなった


AI vs. 教科書が読めない子どもたち
2018/2/2 新井 紀子 (著)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4492762396/toyokeizcojp-22/

大事なのは「読む」力だ!〜4万人の読解力テストで判明した問題を新井紀子・国立情報学研究所教授に聞く
江川紹子 2/11
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20180211-00081509/

 ツイッターをやっていると、いろんな方からのリプライがある。楽しいやりとりもあれば、新たに様々なことを教わったりする場合もあるが、一定層からの批判、非難、揶揄、侮蔑、罵倒の類いが押し寄せる時もある。様々な考えがあって当然なので、私の意見や感じ方に同意や共感しない人がたくさんいるのは不思議でもなんでもないのだが、こうしたリプライには、トンチンカンな反応が少なくない。

 私が書いてもいない……どころか、考えたこともない「主張」に激しく反論するものも、かなりある。

「私の書いたことの意味が分かってないのではないか?!」

「文脈が読み取れていないのではないか」

と感じることは、しばしばだ。

 そんな経験が重なって、最近は、この手のものを瞬時に見分ける、ある種の勘も働くようになった。さっさとミュートやブロック機能を活用して削除することもできるようになったが、時々、そうしたメッセージを眺めては考え込んでしまう。果たして日本人の読解力は大丈夫なのだろうか……と。

リーディングスキルテストとは

 そんな私に、ある友人が国立情報学研究所の新井紀子教授の読解力に関する調査について教えてくれた。

 新井さんは、人工知能(AI)でロボットが東大に入学できるか、という「東ロボくん」プロジェクトで知られる数学者だ。今後、AIに多くの仕事が取って代わられることが予想されるが、そういう社会にあって人が活躍の場を確保し、より幸せに生きられるためのスキルとして、「読解力」に注目。全国の学校、さらには社会人も含めて、文章などの意味をどの程度正確に読めているのかを見るリーディング・スキル・テスト(RST)を行ってきた。すでに受験した人は4万人を超えた、という。

 RSTでは、

(1)主語述語や修飾語被修飾語など、文を構成する要素の関係(=係り受け)の理解 

(2)「それ」「これ」などの指示代名詞が何を示すか(=照応)の理解 

(3)2つの文が同じ意味を表すかどうかを判断する力(=同義文判定) 

(4)文の構造を理解したうえで、体験や常識、その他の様々な知識を動員して文章の意味を理解する力(=推論) 

(5)文章と図形やグラフを比べて内容が一致するかどうかを認識する力(=イメージ同定) 

(6)文章で書かれた定義を読んで、それと合致する具体例を認識する能力(=具体例同定)


――についての力を調べる。

 まずは、例題(1)。

https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20180211-00081509/

 もう1つ、今度は文とグラフが出てくる例題(2)をどうぞ。

画像

 いずれも簡単……と思いきや、中学高校での結果は次のようになっている。

画像

 特に(2)は、高校生でも正答率が3割以下しかない。その理由は、後で新井教授に解説していただくことにする。

教科書が読めていない、という衝撃の事実

 RSTの結果から読み解ける現状を、新井教授に伺った。


「教科書が読めてない子がたくさんいる、ということです。文章を読んでいるようで、実はちゃんと読んでいない。キーワードをポンポンポンと拾っているんです。

○○と○○と○○という言葉が出てきたら、こんなもんだろう、というような。

『……のうち』とか『……の時』『……以外』といった機能語が正確に読めていない。実は、それはAIの読み方に近いんです。


 AIにとって、Wikipediaを丸暗記するとか、医学論文を何百万件蓄積することは、実に簡単。そうして蓄積したデータに対し、いくつかのキーワードを使った検索をして、病名診断であれば『○○病の可能性がある』とか、歴史の問題であれば『オスマントルコである可能性が高い』という答えを出す。そうやって、東ロボくんも世界史で偏差値67くらいまでは行けるようになりました」

 しかし、AIにも弱点はある。


「数学の問題は、『……のうち』とか『……以外』『……と接する』などという言葉をちゃんと読まないと解けなかったりします」

 新井さんは、やおら自身のスマートホンを取り出して、語りかけた。

「この近くの、イタリア料理の店を教えてください」

 画面に、イタリアンのレストランのリストが並ぶ。

 続いて、新井さんはこんな注文を出した。

「この近くの、イタリア料理以外の店を教えてください」

 すると、画面にはやはりイタリアンの店がずらり。

「それは、AIが『……以外の』の意味を分かっていないからです」

子どもたちの”AI読み”とは?

 AIは、将棋や囲碁でトップの棋士にも勝つなど、その凄さばかりが伝えられるが、機能語の読み取りが苦手というのは、文章を読解するうえでかなりの弱点。その、AIに子どもたちの読み方が似ている、とは?

 これに対して、新井さんは上の例題の(2)を例に挙げた。

https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20180211-00081509/


「28%がアメリカ合衆国以外の出身、ということは、アメリカ合衆国の出身者は72%。なので当てはまるグラフは2番しかありえません。比較的すぐ分かる問題なのに、正答率が非常に低かった。こういう時には、間違った人が何を選んだのかを見るのが大事です。小学生から一流企業の会社員まで4万人のデータがあるんですが、能力値が中の上くらいまでは、4番を選んでいる人が多いんです。4番は、『アメリカ合衆国28%、ドミニカ共和国約35%』の図です。これを選んだという人は、『…のうち』『…以外』という機能語が読めていない。意味が分かっていないか、読み飛ばしていたということです。まさにAIみたいな読み方なんですね」

 どうしてそうなるのだろう。教育の仕方の問題もあるのだろうか。


「プリント学習がそうですよね。穴埋め型の学習が多い。蛍光ペン型学習とかもそう。これを一生懸命やっていると、いくつかのキーワードと数字で『たぶんこれだろう』となる。まさにAIみたいな解き方だな、と。ただ人間は、暗記量と計算量はAIに比べて非常に低いですから、これではAIには勝てない」

「読める」かどうかが、人生を決める

 東ロボくんは、東大合格は断念したものの、MARCH(明治、青山学院、立教、中央、法政)や関関同立(関西、関西学院、同志社、立命館)の一部の学科の入試は、合格率80%の判定を得た。AIもそこまでは、問題を読む力が向上している、ということになる。

 また、RSTの能力値と、偏差値の高い高校や大学への進学率を分析すると、高い相関関係があることも分かった。


「基本の読みとか論理的推論ができない子は、いくら知識を教えても、それを整合的に使えるようにならないんです。学力の差が、知識量とかやる気の問題であれば、勉強したくなった時にやればいい、とも言えますが、そうではなくて、『読める』かどうか、が大きい。読めている人は、それほど痛痒なく受験勉強をやって、入試を突破する」

 AIが進化して、従来は人間がやっていた仕事の中にはロボットに取って代わられるものが出てくることが予想される中では、「読める」かどうかは、人生を大きく左右することになる、と新井さんは警告する。

 例えば秘書の仕事のように、スケジュール調整をしたり、お礼状を書いたり、問い合わせに答えたり、1人で様々な仕事をやる職業の場合は、それをAIが全部肩代わりすることはできない。ただ、様々な支援をするシステムができれば、単位時間当たりの生産効率が上がって、10人でやっていた仕事が5人で済むということはありうる。そうなれば、5人が職場を去らなければならない。


「AIには、経験や人間としての倫理観や正義感に基づいて、あるいは所属している組織のブランド毀損にならないよう、その場で瞬時に、どれが重要かを判断したり、何らかの例外が起きた時の処理は難しい。そうした能力がある人は、AIが導入されても重宝されて、賃金も上がる。(AI導入で)職場を変わることになっても勉強して資格を得れば、その分生涯収入は高くなります。

 けれども、例外処理が苦手で定型的なことしかできないとか、他の部署や別の職種に移った時に柔軟に対応できない人は、低賃金となり、新たな賃金格差が生まれます」

 新たな知識やスキルを学ぶためには、教科書や参考書を読んで正しく理解する読解力がなにより大切になる。


「義務教育が終わっても、教科書が読めないような子どもは、運転免許の試験も学科で何回も落ちてしまったりする。通信教育で資格も取れない。そうなれば、低賃金の仕事をするほかなく、それで体を壊したりすれば、住む場所もなくなって路頭に迷う……ということにもなりうるんです。

 『ぼくはサッカー選手になりたい』というのはいいけれど、いつかは引退しなきゃならない。読解力が高い人は、選手をやめた後にもいろんな選択肢がある。コーチになるにしても、最新の体育科学を勉強して、どういうトレーニングをすれば最も効率がよく、選手生命も長くできるかを知って、よいコーチになれる。

 読めるか読めないかが格差を生む。読めることで柔軟に職業を変えたり、自分の夢を実現することに役立つんです」

サッカー選手もいつかは引退。読む力があれば、その後の人生の選択肢は広がる


今の学校に必要なことは

 それにしても、RSTは4万人ものデータが集まったというから、驚きだ。


「もう執念です(笑)。私の知り合いの学校だけにやってもらうのでは、東京近郊の私の実験を受け入れてくれるような意欲的な学校の結果しか得られず、ランダムサンプルとはいえない。やはり万の単位で調査しないと。それで、北海道から沖縄まで、頭を下げてお願いしたわけです。

 ただ、お願いしたからって、やっていただけるものじゃない。学校は、いろんな調査の依頼があって調査疲れしていますから。しかも、このテストはできるだけwebでやって下さいとお願いするんですが、普通の学校のコンピューター室には40台くらいしかない。なので、全校でやろうとすると1週間くらいかかって、すごく大変なんです。それを、多くの学校でやって下さったのは、現場の先生方が、『子どもたちの読解力こそ、今の最大の問題だ』って感じているからなんですね。

 学校に対しては、キャリア教育をやれ、プログラミング教育を入れろ、小学校で英語教育を始めろ、アクティブラーニングを取り入れろと、いろんな注文がつけられています。でも、『……のうち』『……以外』が読めない子に、どうやってアクティブラーニングさせるんでしょう。先生方も、内心そう思っていたということでしょう」

紙版RSTの問題集。現在も使っているものなので、例題以外は非公開


 日本で生まれ育った者は、日本語はずっと使っているので、分かって当たり前、という前提で、国語などの授業も行われているのではないだろうか。だから、読解力と言えば、「作者の言いたかったこと」「主人公の気持ち」をどう読み取るか、ということに力点がおかれがちだ。


「英語なら、文法なども教えますね。国語を体系的に教えるのは、多様化するこれからは、ますます必要です。国際結婚されて、一方が日本語をお話しにならない家庭も増えていますし、日系ブラジル人で移住されてきて、お子さんの母語はポルトガル語、という家庭もある。フランスやアメリカなど、よそからやってくる人が多い国では、『やっていれば、そのうち分かるようになるよ』というフワッとしたやり方ではなく、システマティックに国語を教えます。『気持ちを推し量る』国語の授業の半分を、ちゃんと意味が読めるための体系的な指導に移していく必要があると思います」

学校でやることを増やすのではなく減らす

 しかし、学校は時代に応じた様々な教育が求められ、すでにもう手一杯だ。


「小学生に英語教育とか、プログラミング教育とか言っている場合じゃありません。

プログラマーになろうと思ったら、情報は豊富にあって、ほとんどオープンソースで公開されています。なりたければ、読む聞く書くができれば、勉強してなることができます。

でも、読む書くができなければ、プログラマーになることは無理です。

 学校の問題というと、いじめとか不適格教員のことばかりにフォーカスがあたりがちですが、日本の社会資本としての人材を育てて下さっているのは学校、特に義務教育を担っている小中学校です。その学校で、子供たちが教科書も読めない状況で先生方は困っているという現実は、みんなが共有する必要があります。

 そして、学校でやるべき仕事を増やすのではなく、精査していく。キャリア教育もします、持続可能教育もします、グローバル教育もします、英語もやります、デジタルもします、そしてすべてちゃんとやっているかチェックするアンケートが行く……というのではなく、むしろ先生方にしていただくお仕事を絞っていくことが重要。何が必要なのかという選択と集中を、現実に科学的に向き合ってやっていくというフェーズに今はあるのではないでしょうか」

大人たちの”AI読み”

 ところで、RSTは大人たちも受けている。たとえば、次のような文章題では、どうだったか。


 次の文を読みなさい。

 アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。

 この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

 

 セルロースは(     )と形が違う。

(1)デンプン  (2)アミラーゼ  (3)グルコース (4)酵素

 新井さんは新著『AIvs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)で、「某新聞社の論説委員から経産省の官僚まで、なぜかグルコースを選ぶので驚きました」と明かしている。答えはもちろんデンプンだ。

 子どもたちだけでなく、大人たち、それも読んだり書いたりする機会の多い人の読解力も大丈夫だろうか。忙しさから、文章も単語を拾いながら飛ばし読みするうちに、”AI読み”の癖がついてしまったりはしないだろうか……。

 新井さんの話を伺って、教育のあるべき方向性が見えてくると共に、ツイッターでなぜ「意味が分かっていないのでは」「文脈が分かっていないのでは」と思うようなリプライが多いのかも、分かったような気がする。

彼らは、他人のツイートを”AI読み”しているのではないか。

頭の中に「江川紹子とはこんなヤツだ」という独自のイメージが出来上がっている影響もあるだろうが、ツイートの中のいくつかの単語を拾っただけで、「こんなことを言ってけしからん」と怒りを募らせているのだろう。

 また、私自身がそうしたリプライをろくに読みもせず消去しているのも、”勘のなせる技”などではなく、その手のメッセージにありがちな”頻出表現”を瞬時にチェックして、「消去」の結論を出しているのかもしれない。自分の心と時間を守るための防御反応とはいえ、このような”AI読み”が常態化しないよう、私自身、心しておかなければならない、とも思った。

【参考】 『総合教育技術』2月号(小学館)

https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20180211-00081509/




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147. 中川隆[-13528] koaQ7Jey 2018年9月28日 18:56:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18889] 報告

教育の場では、「グローバル人材」養成が叫ばれますが、「グローバル人材」とは、多国籍企業に使い勝手の良い人材にほかなりません。教育機関がいかに「グローバル人材」を作り出すか、つまり多国籍企業にビジネスしやすい環境をいかに提供するかという基準で測られるようになって来たわけです。

そして、多国籍企業の観点から望ましくないと判断されれば、「改革」の対象とみなされるようになります。独自の商習慣、伝統に根差した法律や各種ルールなどです。

日本の場合、日本語という言語まで問題視され、英語化を進めるべきだ!などという話が様々な領域で進んでいます。

このように、事実上、多国籍企業の支配力が非常に強くなったのが、いわゆる「グローバル化」なのです。

「グローバル化」ではなく、「多国籍企業中心主義化」と呼ぶようにしたら、問題がはっきり見えてくるのではないかと思います。
https://38news.jp/economy/12450

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148. 中川隆[-13476] koaQ7Jey 2018年10月03日 01:47:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18967] 報告

「ネイチャー誌、サイエンス誌の9割は嘘」 ノーベル賞の本庶佑氏は説く、常識を疑う大切さを
10/1(月) 20:40配信 BuzzFeed Japan


2018年ノーベル医学生理学賞の受賞が決まり、記者会見で笑顔を見せる京都大学の本庶佑特別教授=時事通信


ノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑・京大名誉教授が10月1日夜、記者会見で受賞の喜びを語った。本庶氏は自らの研究に対する姿勢を問われると、好奇心と「簡単に信じないこと」の重要性を強調。「(科学誌の)ネイチャーやサイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割」と語り、自分の目で確かめることの大切さを説いた。【BuzzFeed Japan / 吉川慧】

【ノーベル賞】過去の平和賞受賞者、何人わかる?日本人もいます
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冒頭発言「自分の研究、意味があったと実感」(全文)

この度は、ノーベル医学生理学賞をいただくことになり、大変名誉なことだと喜んでおります。

これはひとえに、長いこと苦労してきました共同研究者、学生諸君、様々な形で応援してくださった方々、長い間支えてくれた家族、本当に言い尽くせない多くの人に感謝致しております。

1992年の「PD-1」の発見と、それに続く極めて基礎的な研究が新しいがん免疫療法として臨床に応用され、そしてたまにではありますが「この治療法によって重い病気から回復して元気になった。あなたのおかげだ」と言われる時があると、私としては自分の研究が本当に意味があったと実感し、何よりも嬉しく思っております。

その上に、このような賞をいただき、大変私は幸運な人間だと思っております。

今後この免疫療法が、これまで以上に多くのがん患者を救うことになるように、一層私自身もうしばらく研究を続けたいと思います。

世界中の多くの研究者がそういう目標に向かって努力を重ねておりますので、この治療法がさらに発展するように期待しております。

また、今回の基礎的な研究から臨床につながるような発展というようなことを実証できたことにより、基礎医学分野の発展が一層加速し、基礎研究に関わる多くの研究者を勇気づけることになれば、私としてはまさに望外の喜びでございます。
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研究で大事なのは「自分の目で確信ができるまでやる」

会見では、報道陣から「研究にあたって心がけていることやモットーは」と問われる場面も。

本庶氏は著名な科学誌「ネイチャー」と「サイエンス」を挙げてこう語った。

------
私自身の研究(でのモットー)は、「なにか知りたいという好奇心」がある。それから、もう一つは簡単に信じない。

よくマスコミの人は「ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ」という話をされるけども、僕はいつも「ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だ」と言っていますし、大体そうだと思っています。

まず、論文とか書いてあることを信じない。自分の目で確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。

つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやるということです。
------
.

子どもたちに育んでほしい「不思議だなと思う心」

将来、研究者の道に進む夢を見る子どもたちに、どんなことを伝えたいか。

本庶氏は、こんなメッセージを語った。

------
研究者になるにあたって大事なのは「知りたい」と思うこと、「不思議だな」と思う心を大切にすること、教科書に書いてあることを信じないこと、常に疑いを持って「本当はどうなっているのだろう」と。

自分の目で、ものを見る。そして納得する。そこまで諦めない。

そういう小中学生に、研究の道を志してほしいと思います。
------

あくまで「自分の目」で確かめて納得することの大切さを重んじる、本庶氏らしいメッセージだった。


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149. 中川隆[-13475] koaQ7Jey 2018年10月03日 01:49:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18967] 報告

冒険する頭―新しい科学の世界 (ちくま少年図書館 74) – 1983/8
西村 肇 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%86%92%E9%99%BA%E3%81%99%E3%82%8B%E9%A0%AD%E2%80%95%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8-74-%E8%A5%BF%E6%9D%91-%E8%82%87/dp/4480040749


≪なぜこの本を書いたのか≫

 私は、自分が指導した6人の学生の卒論を審査した。すると、研究者が書いた論文になっているものと、学生の書いた実験報告にしかなっていないものと出来栄えにあまりに大きな差があるのでびっくりしました。(中略)


 大学の受験技術なしに希望の大学に入ることははなはだ難しい。しかし、いったんこういう技術を身に着けてしまった人たちを、いくら大学で教育しても、自ら研究する人に育てるのは、まず不可能に近いのです。

 卒論の例では、よい論文を書いた人たちは、そうでない人たちと比べると、あくなき好奇心があるかどうかの違いでした。…大学教育で好奇心を育てることはできないのです。

 私は、研究する人に重要なのは、モノに対するセンスと、知的好奇心だと感じていますが、これは学校教育で育つものではなく、各種環境の影響が大きい。


≪総合的にものを見る目≫

 総合的な視野と考え方は、たくさんの本を読んで身に付くといったものではなく、何か目的をもって一つの事を実践する中で身に付くのだというのは確かだと思います。

 だから研究テーマを選ぶ時、実践的関心からテーマを選びます。君たちが考えたり発言したりする時、とことん具体性を要求するからです。どんな仮説を抱いても良いが、実証する努力を要求するからです。

 私が今、なぜ、環境問題を研究しているかというとー私は決められている枠を少し越えてしまったのだがーそれは東大紛争がきっかけでした。

 この東大紛争が何であったかー評価はまちまちだがー若い世代の中には、深刻な影響を受けた人たちが数多くいます。それは東大の中に限りません。東大紛争は、けっしてナンセンスな事件ではなく、一つの大きな思想的事件でした。それは、思想的影響の上では、1945年の終戦につぐ大きな事件でした。

 日本の思想的戦後というのは、東大紛争後に本格化したと思います。これで思想的解放が進み、戦後が一段と定着したのだと思います。この解放の機会をとらえて、それまでにできなかったことをやりだした人は多いのです。現在日本の活力の重要な部分を支えているのは、この人たちではなかと思います。東大紛争で2年も3年も苦しまなければ、こんなだいそれた転進をすることはなかったと思います。


≪私の転機となった日〜先輩の忠告≫

 「公害の研究はそろそろお終いにしたら。みなさんが心配しているよ」
 私は頭をガーンと殴られたように感じました。(中略)

 人から言われたからといって、意味もない後退をするのは、自殺行為だと直観しました。と同時に、常識的な助教授のコースを外れて、少し変わった道を歩き出すきっかけになった、あの日のことが思い出されました。紛争派から闘争派に変わったあの日のことです。

 それは、間違った学生処分の撤回を求めて、総長室の前に座り込んだ学生を、大学側が機動隊を導入して追い出した直後のことでした。

(総長は、話し合いに出てきたが、明らかに言い逃れをしようとしていた。著者は思わず手を挙げて、大学当局を批判した。…著者は最後に「なによりも冒険する心と頭で」と結ぶ)。

【出典】『冒険する頭〜新しい科学の世界』西村肇/ちくま書房’83年


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150. 中川隆[-13474] koaQ7Jey 2018年10月03日 01:52:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18967] 報告

東大出だからといって「官僚は優秀」と言う前提は間違い 「天下り」15の疑問に答える
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/202774
2017年4月3日 日刊ゲンダイ
  
   元経産官僚の古賀茂明氏(C)日刊ゲンダイ

Q1
 官僚は優秀なのだから、退職後天下りして、民間で活躍してもらった方が日本のためになるのではないでしょうか?


 なるほど、そのとおりですね、と言いたいところですが、物事はそう単純ではありません。

 中央官庁では、課長を超えるポスト全体を「指定職」と呼んで、課長以下の官僚よりも優遇しています。部長、審議官、局長、政策統括官、事務次官などと呼ばれる人たちです。名称はとても偉そうですが、実は、彼らは必ずしも優秀だというわけではありません。

 官僚の多くは東大法学部や経済学部を卒業し、世間的に見れば、とても優秀に見えるかもしれません。

 ただ、ここでいう「優秀」という意味は、大学を出るまでペーパーテストにめっぽう強かったということです。子供の時から成績優秀で、東大を出て、公務員試験を通って官僚になる。つまり、試験に強い者だけが官僚になる仕組みがあるために、選ばれてしまったということに過ぎないのです。

 しかし、社会に出ると、試験ができるから役に立つとは限りません。紙を書かせれば一応もっともらしい文章を書くが、難しい課題を与えられると、「こいつどうしたの?」と思うくらい発想が乏しく、まったく対応できない人は極めて多いのです。また官僚は、上からの指示待ちで、リスクを取ることができないという傾向も強いようです。

 つまり、現在の激動する社会の変化を先取りして、難しい課題に挑戦することができない人たちなのです。そういう人は、民間で人の上に立つには向いていないのではないでしょうか。

 このように考えると、「官僚は優秀なのだから……」という前提で天下りを容認するのは問題だということがわかると思います。


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151. 中川隆[-13434] koaQ7Jey 2018年10月05日 06:40:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19012] 報告

安倍政権で研究費ジリ貧 日本からノーベル賞が出なくなる(日刊ゲンダイ) 
http://www.asyura2.com/18/senkyo251/msg/706.html
2018/10/04 日刊ゲンダイ

 
 一夜明けた本庶特別教授(C)共同通信社

「基礎研究をシステマチックかつ長期的な展望でサポートして、若い人が人生を懸けてよかったと思えるような国になることが重要だ」――。ノーベル医学生理学賞の受賞から一夜明けた2日、京大の本庶佑特別教授はそう語った。

 現状はどうなのか。研究開発費の推移を調べると、お寒い状況が浮き上がった。

 経産省が今年2月にまとめた調査によると、日本の官民合わせた研究開発費総額は、2007年度以降、17兆〜19兆円で推移している。つまり、10年以上横ばいで増えていないのだ。企業の儲けは内部留保に向かい、研究開発に投じられていないことがよく分かる。

 さらに驚くのが、研究開発費の政府負担割合だ。日本はわずか15.41%で、主要国から大きく引き離されて最下位(別表)。しかも、安倍政権発足前は16%超だったのに、発足後の2013年から右肩下がりなのだ。

「目先のことしか頭にない安倍政権は、研究開発とりわけ、基礎研究の重要性をまったく理解していません。一方で、軍事強化につながる基礎研究には力を入れています」(経済評論家・斎藤満氏)

 安倍政権は2015年度から「安全保障技術研究推進制度」を導入。国の防衛分野の研究開発に役立つ基礎研究を民間企業や大学に委託、カネを出す制度で、“研究者版経済的徴兵制”といわれている。軍事目的のための科学研究を行わない方針の日本学術会議は反発しているが、16年度予算6億円に対し、17年度は110億円に急増している。

「本庶さんは今年、ノーベル賞を受賞しましたが、何十年か前に、基礎研究にしっかり取り組めた環境があったからです。現在の安倍政権のような基礎研究に対するスタンスでは将来、ノーベル賞受賞者が出なくなるだけでなく、もはや日本は技術立国とは言えなくなってしまいます」(斎藤満氏)

 技術立国から軍事大国へ――早く、安倍首相を引きずり降ろさないとそんな国になってしまう。

本庶佑氏のノーベル賞受賞で基礎研究の重要さが見直されていますが、日本の研究開発費の政府負担はわずか15.41%。主要国から引き離されて最下位です。一方、安倍政権の軍事強化への基礎研究予算は16年度6億円に対し、17年度は110億円に急増しています。 https://t.co/WjC8Ff2TXO #日刊ゲンダイDIGITAL
— 日刊ゲンダイ (@nikkan_gendai) 2018年10月3日


アホぼん三世が、研究開発費の政府負担割合を引き下げ、主要国で最下位にした。こういうのは意識的計画的な反日政策。お人好しの日本人は、どうしてもそこがわからない。認めようとしない。教育を破壊して、米国のために戦争する国へ。その見返りは長期政権だ。https://t.co/SGkEf93vqN
— 兵頭正俊 (@hyodo_masatoshi) 2018年10月4日


安倍政権で研究費ジリ貧 日本からノーベル賞が出なくなる
 https://t.co/USJX3zx528
>さらに驚くのが、研究開発費の政府負担割合だ。日本はわずか15.41%で、主要国から大きく引き離されて最下位(別表)。しかも、安倍政権発足前は16%超だったのに、発足後の2013年から右肩下がりなのだ
— 荒馬紹介(護憲派ディレッタント) (@aryamashoukai) 2018年10月4日


安倍政権で研究費ジリ貧 日本からノーベル賞が出なくなる
「目先のことしか頭にない安倍政権は、研究開発とりわけ、基礎研究の重要性をまったく理解していません。一方で、軍事強化につながる基礎研究には力を入れています」(斎藤満氏)https://t.co/7615qRxbLA #日刊ゲンダイDIGITAL
— KAZUKO (@PeriKazuko) 2018年10月4日


安倍政権で研究費ジリ貧 日本からノーベル賞が出なくなる https://t.co/hTdEl9SMy9 #日刊ゲンダイDIGITAL:これはヒドイ!基礎研究の国家の出費はOECD最下位だ。オリンピックなどにはジャブジャブ出すのに。科学研究は国の富を生むのだ。バカどもに任せられない。
— 怪老医@doctor0621 (@doctor0621) 2018年10月4日


安倍政権で研究費ジリ貧 日本からノーベル賞が出なくなる https://t.co/VnnDVh99SN #日刊ゲンダイDIGITAL
安倍政権は2015年度から「安全保障技術研究推進制度」を導入。国の防衛分野の研究開発に役立つ基礎研究を民間企業や大学に委託、カネを出す制度で、“研究者版経済的徴兵制”といわれている。
— はな (@hanauta_hunhun) 2018年10月4日


悪い意味で日本を壊してしまった安倍。退陣後どう責任をとる?
安倍政権で研究費ジリ貧 日本からノーベル賞が出なくなる https://t.co/5BzDdsRk03 #日刊ゲンダイDIGITAL
— m7683 (@m7683) 2018年10月4日


とっくに抜かれている。2030年、毎年中国学者のノーベル賞受賞ニュースで昔の日本は良かった。いつどこで間違ったのかと中国企業の臨時雇用待遇の日本人は懐古する。安倍政権で研究費ジリ貧 日本からノーベル賞が出なくなる https://t.co/spy400BtzN #日刊ゲンダイDIGITAL
— 阿嘉尚敏 (@halcyon1990) 2018年10月4日


反知性主義の行きつく先
ボク・ソーリよりも優れた人が居ては困るからね。
漢字の読めない麻生、人気のない菅を外せない理由がよく分かる。

安倍政権で研究費ジリ貧 日本からノーベル賞が出なくなる https://t.co/GY4KryEfhi
日刊ゲンダイDIGITAL
— 加勢 仁 (@kase_jin) 2018年10月4日


日刊ゲンダイ|安倍政権で研究費ジリ貧 日本からノーベル賞が出なくなる https://t.co/F4ur3PMgKU「驚くのが、研究開発費の政府負担割合だ。日本はわずか15.41%で、主要国から大きく引き離されて最下位…しかも、安倍政権発足前は16%超だったのに、発足後の2013年から右肩下がりなのだ。」 pic.twitter.com/057BUrQZj3
— rima (@risa_mama117) 2018年10月4日


本庶佑特別教授が、ノーベル賞賞金等を若手研究者を支援する基金に投じるのも頷ける。

安倍政権で研究費ジリ貧 日本からノーベル賞が出なくなる https://t.co/NcfhbBnBsW #日刊ゲンダイDIGITAL
— 蓮池透 (@1955Toru) 2018年10月3日

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152. 中川隆[-13419] koaQ7Jey 2018年10月06日 08:13:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19036] 報告

製造業を弱体化させたアメリカはロシアなしにロケットを打ち上げることもできない状態で、中国で生産された製品なしには生活を維持することも難しい。

 2011年2月、アメリカ大統領だったバラク・オバマはサンフランシスコのエレクトロ産業の幹部たちと食事をともにした際、​アップルのスティーブン・ジョブスに対し、同社のiPhoneをアメリカで生産しないかともちかけた​。

 ところが、ジョブスはアメリカへ戻ることはないと答えている。アジアでは生産規模を柔軟に変更でき、供給ラインが充実、そして労働者の技術水準が高いという理由からだという。公的な教育システムが崩壊しているアメリカにおける科学技術の水準は低下、中国やインドに太刀打ちできないという話も聞く。

 アップル側の推計によると、iPhoneを生産するためには約20万人の組立工と約8700人のエンジニアが必要で、それだけの陣容をアメリカで集めるためには9カ月が必要だが、中国なら15日ですむとも言われたようだ。

 アメリカでは最高レベルの教育は維持されているものの、生産現場で必要な中間レベルの技術を持つ人を育成してこなかったことが致命的になっていると指摘されている。同じ現象は日本でも引き起こされているようで、かなり前から日本でも技術系学生のレベルが落ちているという嘆きの声が現場から聞こえてくる。それがアメリカや日本の現状だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201810060000/

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153. 中川隆[-13389] koaQ7Jey 2018年10月09日 14:20:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19096] 報告
2018-10-08
■みんな日本語の学術言語としての重要性を過小評価しすぎ
https://anond.hatelabo.jp/20181008215814


この件.

https://togetter.com/li/1274544

査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.

何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!

文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!

(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)

そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.

そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.

自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.

イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.

これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.

そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.

「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.

もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.

あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.

それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.

こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.

とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.

あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.

たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.

私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.

カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.

というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.

なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.

この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.

なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.

というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者〜教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).

別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.

私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.

文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.

別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.

すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.

日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.

英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.

最後に.

どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ〜〜〜〜〜〜.

追記


英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。

日本国内の、査読なし論文が実績になる分野の教授たちによって、査読された研究にも何らの価値も感じない。

anond:20181008221502


id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。

arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.

事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.

私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.


id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。

私もオタクですが.
https://anond.hatelabo.jp/20181008215814

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154. 中川隆[-13383] koaQ7Jey 2018年10月22日 07:59:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19450] 報告

ノーベル賞受賞の本庶教授、仰天の「研究費ばらまき発言」の胸の内 ほんとにヤバイ、日本の「研究費減」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57982
2018.10.21 ドクターZ 週刊現代  :現代ビジネス

3つ当たれば御の字の世界

「僕は、(基礎研究費を)もうちょっとばらまくべきだと思う」

こうメディアに語ったのは、ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑・京大特別教授である。

本庶教授はがん治療薬「オプジーボ」の開発で有名だが、日本の先進医療の先駆者がこのような発言をしたのは興味深い。事実、日本の研究費は削減傾向にあり、教育機関としての大学も世界の最先端から徐々に後れを取っているのが現状だ。

本庶教授の発言から、あらためて研究費の重要性を考えてみたい。

2016年に同じくノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典東工大名誉教授も、ノーベル賞受賞以前に、科研費や研究環境の問題について訴えている。

「現在の科研費、とりわけ基盤研究の絶対額が不足しており、採択率がまだ圧倒的に低い。今の2〜3倍になれば大学などの雰囲気も変わる」との発言があった。

現在、自然科学の基礎研究への財政資金や人材の投入について、「選択と集中」が言われている。有望な研究を見つけ出し、そこに資金を投じようとしているわけだが、これは前提からして間違っている。というのも、官僚に限らず、研究者でさえ、どの基礎研究が将来有望なのかどうかはわからないからだ。

本庶教授も、記者会見の中で、「何が正しいのか、何が重要なのかわからないところで、『この山に向かってみんなで攻めよう』ということはナンセンスで、多くの人にできるだけ、たくさんの山を踏破して、そこに何があるかをまず理解した上で、『どの山が本当に重要な山か』ということを調べる」と言っている。

どのような方向で研究したらいいかわからない―。これが研究者の裏腹な本心だ。基礎研究では、官僚の嫌う「無駄」が多い。1000の研究があれば3つも当たらない世界なのだから、極端な言い方をすればほとんど「無駄」だ。

だからといって基礎研究の総量を減らせば、そもそも有望な研究に当たらなくなり、社会への貢献もありえなくなる。この感覚は、自然科学を勉強したり、研究したりした人なら共感できるはずだ。しかし、多くの文系官僚は理解できないのだろう。

最近、日本人のノーベル賞が相次いでいるが、これは20〜30年前の研究成果である。そのころは、いまよりも潤沢な研究費が国から出ていて、その投資効果が活きているのだ。

財政として、基礎研究に回すおカネがないのであれば、未来への投資として国債発行を考えるべきだ。基礎研究のように「懐妊期間」が長く、大規模で広範囲に行う必要のある投資は、税金ではなく国債がいいだろう。

将来に見返りがあるから、国債発行して財源にするという話は、社会インフラ整備では、「建設国債」ということでこれまでもやられてきたことだ。財務省内にもこういう考え方はあったが、緊縮財政思想が蔓延したいまでは難しくなった。

「ばらまき」というワードには悪いイメージがあるが、それも「緊縮傾向」の財務省がマスコミに広く行き渡らせた結果だ。

研究開発については、正しくばらまかないと、取り返しがつかないことになる。このままであれば、あと10年もすると、日本人からノーベル賞は出なくなるかもしれない。

『週刊現代』2018年10月27日号より


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155. 中川隆[-13354] koaQ7Jey 2018年10月24日 05:24:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19486] 報告

身分制度は、頂点にいる人たちには「楽しい制度」であることに気づけ2018.10.24
https://blackasia.net/?p=2062

数年前、「1%の金持ちと99%の貧乏人」の存在が強調されて、世界で経済格差が凄まじく広がっている実態が問題になったことがあった。最近は、もう誰もこの「1%の金持ちと99%の貧乏人」の問題を口にしない。

この問題は解決したのか。

まさか。現在は世界で経済格差がどんどん広がっていて、もう富裕層と低所得層の乖離は埋められないほど大きなものになってしまっている。解決するどころか、問題はどんどん拡大しているのが現状なのである。

さらに、それは「金持ち」と「貧乏人」という身分制度として固定化されつつある。

こういった固定化された身分は是正されなければ社会に柔軟性が生まれない。しかし、実は逆にいったん経済格差や身分制度が生まれると、それを「解決したくない理由」が生まれるようになってくる。

「解決されたら困る」という人が出てくるのである。いったい、それはどういうことなのか?

経済格差が全世界で深刻化していく中で、これは考えなければならない問題だ。(鈴木傾城)

身分制度は、頂点にいる人たちには楽しい制度

経済格差は「1%の金持ちと99%の貧乏人」のピラミッド構造を生み出し、それがそのまま身分制度となる。

そしてピラミッドの頂点にいる階層は、身分制度の枠組みは自分たちにとって非常に有利であると考える。なぜなら、その社会では自分たちが最も有利な立場であり、既得権益になるからだ。

誰もが自分たちを敬ってくれる。誰もが自分たちを特別扱いしてくれる。やりたいことは、ほぼ何でもできる。自分が働かなくてもカネで誰かを働かせられる。カネで何でも解決できる。これほど、楽しいことはない。

身分制度は、そのピラミッドの頂点にいる人たちは「楽しい制度」なのである。

富裕層はその気になれば、一年中ハワイでもグアムでも行って遊んでいても暮らせる。旅行ばかりしていても問題ない。

富裕層の男はどんな美しい女でも金にモノを言わせて手に入れることもできる。富裕層の女も金にモノを言わせて靴でもカバンでもブラジャーでも倉庫いっぱいに買い揃えることができる。

望むのであれば、フィリピンの独裁者だったマルコス大統領の妻イメルダ夫人がそうしたように、宮殿に住んで靴を3000足も集めることも可能だ。そして、宮殿のような家に住み、下の身分の人間をあたかも奴隷のように使うことができる。

自分がそんな立場になれば、このピラミッド構造は「長持ちさせなければならない」と思うはずだ。身分制度が解決されてしまったら困るのである。

グローバル化した社会の中で成功した人たちもまた同じだ。富裕層は自分たちの財力や権力を誇示できる「下の人間」が必要だ。そして、社員を奴隷のようにコキ使うブラック企業の社長は、そのような低所得層がいなくなったら困る。

だから、経済格差や身分差別を解決したいなどとは絶対に思わない。むしろ、極限に達するまで身分が固定化した社会が続けばいいと願う。

身分が固定化したら、それを変革することは不可能

社会で影響力を持っているのは貧困層ではなく、富裕層だ。

彼らは政治家に金で影響力を及ぼし、カネで世論を動かし、カネで自分たちの都合の良い法律を作ることができる。

だから、いったん身分が固定化したら、それを変革することは不可能になる。富裕層の人々は富裕層のまま、貧困層の人々は貧困層のままという社会が続いて行く。

富裕層は、「貧困なのであれば、一生懸命に働いて金持ちになればいい。金持ちを恨むのは筋違いであり、努力が足りないのだ」というのだが、あまりにも格差が広がった場合、それは現実的ではない発言となる。

富裕層は金で金を生み出すことができる。10億円あれば、それを3%の株式に投資しているだけで、年間3000万円の配当が転がり込んで来る。

しかし貧困層が必死で働いても、せいぜい300万円だか400万円程度の年収にしかならない。それが数年続くだけで、ますます格差が広がるというのは、誰が計算しても分かるはずだ。

このような中で、徒手空拳で成り上がれる貧困層はごくわずかであり、低所得層の多くは低所得の人生で終わる。こういった社会の変革は、最後には社会転覆を伴った暴力的な「革命」しかなくなる。

もちろん、富裕層は自分たちが貧困層の上に君臨していたら不満を持たれることは承知している。では、どうするのか。経済格差や身分差別を解決するのか。いや、そうではない。もっと良い方法がある。

どうするのかというと、貧困層よりも、さらに下の貧困層を作るのである。つまり、下には下があるという社会にする。そして、その下の階層の人間には、何をしてもいい、という暗黙の了解を作る。

そうすると、鬱憤はさらに下の階層に向けられる。上に刃向かうより、下をいじめた方が楽だからだ。いったん、そうなると経済格差や身分差別は絶対的固定となる。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

社会システムは、常に不満のはけ口が用意される

人間社会は、それがどんな社会であっても、最後は必ず「身分制度」になるというのは覚えていた方がいいかもしれない。

最初に持てる者と持たざる者が分かれていく。次に、それが自分の子供、孫へと継承される。そうやって身分は固定化してしまう。

そして、身分制度の中では「極限の貧困者」が社会不満や閉塞感の「はけ口」のために作られていき、彼らにはどんな虐待をしても許されるようになる。

学校でも会社でも、まるで決まっているかのように、必ず「とことんいじめられる弱者」が生まれて、本当にみんなからいじめ抜かれる。社会システムは、常に「不満のはけ口」が用意されている。

上に刃向かうのではなく、下をいじめるような仕組みになっているのだ。

経済格差が固定化していくと、極限の貧困者が、はけ口として「わざと作り出される」のである。衝撃的かもしれないが、これが社会の仕組みでもある。

何のために生まれて来たのか分からないような、いじめられるだけの人生を送っている人たちもたくさんいる。

インドでは、カーストにも入れてもらえない「不可触民(ダリット)」という存在があった。不可触民は「サブ・ヒューマン」とも言われている。サブ・ヒューマンは日本語に訳すと「非人」である。

不可触民 = 触ることができないほど穢れた人。
サブ・ヒューマン = 人間になりきれてない人。
非人 = 人に非(あら)ず = 人間ではない。

これらの言葉は、激しく人格否定をしている言葉であることに気付くはずだ。社会が「この人たちは、人間ではない」と宣言して言葉として定着させたのである。

そして、あえて社会が「人間ではない層」を許容して、何かがあったときの「はけ口」に向かうように方向付けしている。

上に這い上がるのは難しく、下に落ちるのは簡単

どこでもそうだが、そういった最下層の身分の女性たちが、レイプされたり、強制結婚されたり、人身売買されたり、性奴隷にされたりしている。最下層は、そのために存在させられていると言ってもいい。

残虐だ。

こういった話は、先進国では「前近代的」「他人事」だと考える人が多いのだが、先進国を覆い尽くす経済格差がさらに極まっていったとき、本当に「前近代的」「他人事」と言っていられるだろうか。

その最下層の人権剥奪は、もしかしたらグローバル経済の最下層にも適応されても不思議ではない。

たとえば、今の日本はホームレスと言えば「個人」である。しかし、家族みんなが路頭に迷うと、いずれそれが「家族」になり「集団」となっていく。

何も持たない貧困層が個人から家族や集団になったとき、彼らはインドで言うところのダリットのような身分になってしまうかもしれない。

途上国ではホームレス家族は珍しいことでも何でもない。タイでも、路上で寝る妻に寄り添ってあげている夫の姿を見ることもあった。

大部分の貧困層が貧困層から抜け出せず、世代を超えてずっと貧困状態になる。大部分がそこから抜け出せなくなったら、それは身分が固定されたも同然なのである。

今のまま放置していると、このグローバル化の最終的な形はそういった「身分制度」になるまで突き進む。

上に這い上がるのは難しく、下に落ちるのは簡単なのだ。いったん経済格差が身分制度になると、本当にきれいなピラミッド型の構造になる。そして、身分が固定化したら、それを変革することは不可能になっていく。

しかし人々は黙っていない。「1%の金持ちと99%の貧乏人」の問題は、再び爆発する。(written by 鈴木傾城)

大部分の貧困層が貧困層から抜け出せず、世代を超えてずっと貧困状態になる。大部分がそこから抜け出せなくなったら、それは身分が固定されたも同然なのである。今のまま放置していると、このグローバル化の最終的な形はそういった「身分制度」になるまで突き進む。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

156. 中川隆[-13352] koaQ7Jey 2018年10月24日 09:45:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19489] 報告

【京都大学山極総長インタビュー】日本の大学は今、「緊縮」と「改革」で滅びつつある
藤井京都大学大学院教授 2018.10.22
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20181022/

▼ 今回のインタビューは、言論誌『表現者クライテリオン』の「ネオリベ国家ニッポン──『新自由主義』という悪魔の挽き臼」という特集の一環として、是非とも山極京都大学総長にお話をお伺いしたいということで、ご依頼申し上げたものです。お話をお聞きする前に、今回の背景からお話しさせていただきたいと思います。

 今、日本のあらゆるところに閉塞感が漂っていますが、この閉塞感の根源的な主要因のひとつが、新自由主義的な「改革」をとにかく善きものと考える現代日本の風潮にあるものと思われます。

いわば、こうした「改革」至上主義とでも言うべきものは、2000年代に展開された小泉・竹中流の構造改革がその象徴ですが、80年代のサッチャー、レーガンから今日の小池・橋下の自治体改革や、「アベノミクス第三の矢」における今日の構造政策に至るまで一直線に連なるものです。

それは、小さな政府、民営化、競争の重視と保護政策の忌避、それらのための旧体制の破壊がいずれも「善きもの」だと信じ込むイデオロギーです。

そして昨今の大学改革はまさに改革至上主義の典型例と言わざるを得ません。

小さな政府論で国の歳出カットにより研究費を削減。例えばあれだけ政府でもてはやされている「iPS細胞」の京都大学の研究所ですら、そこで雇えるのはその大半が「任期付き職員」。

その結果、大学の研究員の多くがその知的エネルギーを「次のポジション獲得」のために注入することになり、純粋に研究活動に注入することが出来なくなっています。

しかも、過剰な競争原理が今、大学に導入されていますが、その結果、多くの職員が「研究費獲得」のために多大な知的エネルギーを奪われています。

さらには、研究の「ビジネス化」が無根拠に善きものと見定められ、基礎研究が軽視され続けています。挙げ句に「人文系なんてホントは要らないんだよね」と嘯(うそぶく)方々が政府のど真ん中に居座って、大学改革を加速しようとしています。

これらの結果、純粋な研究に投入されるべき大学の知的リソースの「多く」ないしは「大半」が、個人のポジション獲得や資金獲得、ビジネス連携等に吸い上げられ、まともな研究が出来なくなりつつあります。それが昨今の日本の科学技術力の激しい劣化に目に見えてつながっているのは火を見るよりも明らかです。

・・・ついては・・・昨今の大学改革の流れをどのように認識されているのか、そして、それに対してどのように対峙していくべきなのか。

そういったあたりを、大学改革を理性的根拠不在のまま無理強いする風潮と「対峙」し続けてこられた国立大学協会会長、日本学術会議会長でもあられる京都大学の山極総長に、是非、お伺い致したいと考えた次第です。どうぞ、よろしくお願い致します。

<反故にされた国会の「附帯決議」。大学の民営化は「失敗」だった>

山極京都大学総長▼ ……全体の流れから言えば、1996年を境に企業が中央研究所を廃止したと同時に国家も財政危機を訴えはじめて、橋本内閣、小泉内閣あたりから「行革」がはじまり、国立大学の経営を国から切り離して民営化をするという案が浮上したのがやはり大きい。最終的には民営化は回避されましたが、法人化はされました。

重要なのは、このとき国会では衆議院でも参議院でも附帯決議があったということです。衆議院では法人化以前の運営費交付金をきちんと充当することと決議され、参議院では地方大学をしっかりと支えることとした。

しかし、文部科学省、政府はこの附帯決議の約束を守らなかったんです。

毎年、運営費交付金は1%ずつ削減されている。財務省の言い訳としては、その代わりに補助金や競争的経費を増やしたというわけだけど、それでは教員のポストは支えられないわけです。運営費交付金で人件費や物件費を賄っていたのに、この境がなくなってしまった上に、どんどん支出は増えている。

物価は上がっているし、電子機器の設置などの電子化の経費もかかる。

そこで運営費交付金が削減されてしまうと、どんどんジリ貧になっていくんですね。その結果として、教員ポストを削減していくしか手はなくなり、ますます大学は弱っていくという結果を導いてしまった。

これは本当に裏目に出たとしか言いようがない。

それゆえに、ぼくは「法人化は失敗だった」と言っているんです。

いま国大協(国立大学協会)は、法人化の時点まで運営費交付金と競争的経費の「割合」を戻せと、政府に要請しています。

もちろん、予算全体を増額してほしいという要求も出しているんだけど、今の財務省の方針に鑑みると、それほど多くは望めないだろう、と。だったら少なくとも運営費交付金と競争的経費の「比率」だけでも法人化時点の段階に戻してほしい、そうでないと「大学経営は不可能だ」と言っているわけです。

藤井▼ 安定的な研究は安定的な研究環境があっての話。競争的資金ばかり増えれば、期限付きのアルバイトの研究員しか雇えない。それでは、安定的な研究なんてできませんからね。

・・・

<「実学」のためにこそ、深い思想と基礎研究、そして幅広い教養が必要である>

藤井▼ (今、大学では研究の「ビジネス化」が無根拠に善きものと見定められ、基礎研究が蔑ろにされつつありますが)本来的に言いますと、「実学」を本当に先鋭化しようとすれば、深い思想や基礎的な研究が必要になります。

とりわけ新しい時代に対応するには、そうした深い思想や基礎研究がどうしても必要になる。

だから専門学校的に目先のマニュアル化を進めてしまうと、応用が全く効かなくなってくる。

つまり表面的に「実学」を進めれば進めるほど、「役立たず」になるわけですね。

そんな愚かな議論の代表として、最近よく政府でも取り沙汰されるのが、「G型大学」と「L型大学」という考え方です。

これは、経営共創基盤CEOの冨山和彦氏が主張したものですが、今の産業界における大学に対する認識の典型的な考え方です。

大学にはローカルな大学(L型大学)とグローバルな大学(G型大学)の二種類あって、東大や京大をはじめとするグローバルな大学は今のままでもいいとする一方で、L型大学においては、文学部では文学ではなく実学に適用できる英語、地元の歴史、説明能力の教育が必要で、経済経営学部では戦略論ではなく簿記や会計ソフトを使う教育が必要、法学部では憲法や刑法ではなく道路交通法や大型二種免許取得、工学部では力学ではなく工作機械の使い方を教えた方がいいんじゃないか、というような話です。

近年はこういう意見がかなり幅を利かせていて、政府内でもこういう声はかなり強い。要するに、G型大学は従来のままで、L型大学は職業訓練学校のような格好にすべしという主張です。こういう発想はいかがなものでしょう?

山極▼ ぼくは、それは間違いだと思いますよ。もちろん、L型大学が不必要だとは言わない。でも、それは専門学校であって、大学ではないですよね。

・・・・地方大学が、「L型大学」の発想で「専門教育だけでいい」となれば、そういう学生が「地方大学」にも入ってくるわけです。そして広い教養を身に付けない人間が大学を卒業してしまうことになる。

地方大学を出て社会に入った人たちは、いろいろな分野で社会をリードしていく人物になっていくわけでしょう。

そういう人たちが非常に偏った知識しか持っていないというのでは、日本という国をちゃんと支えられないという危うい未来になりかねないと考えています。

だから本来は高校教育で身に付けなければいけない教養が偏ってしまうとすれば、大学で、改めて幅広い教養を身に付けさせないといけない。そうした発想で、大学では、教養教育の復活が叫ばれている。

<国立大学における「GとL」や「三つの枠組み」は、単なる「罠」である>

藤井▼ 政府では「G」と「L」の分類はかなり人気があるんですが、これはいわゆる、文科省が定めた2016年の国立大学における「三つの枠組み」の仕組みの基礎理論になっているように思いますが──。

(*三つの枠組み:国立大学を以下の三つのタイプの大学に分類する。(1) 地域に貢献する取組み、(2) 強み・特色のある分野で教育研究を推進する取組み、(3) 卓越した成果を創出している海外大学と伍した取組み。この(1)がいわゆる「L型大学」であり、(3)が「G型大学」。(2)はその中間、と解釈しうるもの。無論この類型は、各大学の「改革」を進めるための仕組みとして活用されるもので、この枠組みに従って大学評価と資金の再分配が行われる。)

山極▼ ぼくは、言うなればあれは「詐欺」だと言えるのではないかと思う。

ぼくはあの頃、京大総長として国大協にいたんですけど、最初の文科省の説明では「ほんのわずかのお金の話ですよ」ということだった。

八六の国立大学が持っている「教育、研究、社会貢献」という三つのミッションは一切変わることなく、それぞれの大学はこれまでのやり方通りでよく、ただ、大学強化経費として0.8%から1.6%ほど「オーバーヘッド」して、それを補助金あるいはプロジェクト経費としてお返しします、という説明だった。

つまり、単なる色付けというか、調味料ぐらいの話だという説明だったわけですが、それがどんどん変わっていって、「三つの枠組み」が大学の主要なミッションのようにとらえられるようになった。

今年までは運営費交付金の0.8%から1.6%が再配分されていたわけだけど、突然これまでの期間の強化経費がいっしょくたに再配分の対象になり、これまでは年100億円だったものが、来年から4年分の400億円が対象になってきた。

これは、文科省の最初の説明とは全く異なる展開で、「話が違う」としか言い様がない・・・。

(続きは、『表現者クライテリオン 11月号』をご覧ください。全文は17,000字を超える長編。詳しくは下記HPをご参照ください。

・11月号はコチラ https://the-criterion.jp/backnumber/81_201811/
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157. 中川隆[-13367] koaQ7Jey 2018年10月28日 17:47:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19633] 報告

中国・韓国にも遅れを取る。基礎研究軽視の日本が行き着く末路
https://www.mag2.com/p/news/374094
2018.10.26 嶌信彦『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』 まぐまぐニュース


2018年までの日本のノーベル賞受賞者の延べ人数は非欧米諸国の中で最多となりましたが、今後は頭打ちとなるかもしれません。今回の無料メルマガ『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』では著者の嶌さんが、研究成果が実るまでを支える地道な「基礎研究」を軽視し、予算縮小傾向にある我が国の現状を、ノーベル賞受賞者自らが問題提起した事を取り上げ、日本の科学技術業界が抱える問題点を指摘するとともに、その打開策を探っています。

日本の基礎研究衰退 人材、支援資金、留学減少

日本で初めてノーベル賞を受賞したのは、1949年11月3日(文化の日)の湯川秀樹博士だ。日本が米軍(国連軍)の戦後占領期にあった時期である。まだ敗戦に打ちひしがれている時代だっただけに日本人にとっては、大いに溜飲を下げた受賞だった。私がまだ満7歳の頃で受賞対象となった「中間子理論」などはチンプンカンプンで全くわからなかったが、「日本人は頭がよく優れているんだ」と単純に喜んだものだ。世界の檜舞台で表彰される姿にメディアも興奮して報道していた。

ノーベル賞はダイナマイトや様々な爆薬の開発、生産で巨万の富を築いたアルフレッド・ノーベルによって設立された。スウェーデン人のノーベルは兵器売買で富を築いたため、一部から「死の商人」と批判され気にしていたという。そのせいか、自分の死後は総資産の94%を寄付。その資産でノーベル財団が設立され、前年に人類に対し最大の貢献をした人物に賞金を授けるとした。

ノーベル賞はノーベルが63歳で死去した1896年から準備され1900年にスウェーデンにノーベル財団を設立、1901年に初めて授賞式が行なわれた。ノーベル賞の部門は物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞とされていたが1968年に新たに経済学賞が設けられた。ただしスウェーデン・アカデミーが賛同していないためノーベル賞の名前は使っていない。賞金は800万・スウェーデンクローナ(約8,900万円)。これまでに個人の意思でノーベル賞を辞退した人物はジャン・ポール・サルトル(1964年文学賞)と、レ・ドゥク・ト(1973年平和賞)の2人とされている。

ノーベル賞受賞の常連になったが…

1901年から2018年までの日本人のノーベル賞受賞者は物理学賞9人、化学賞7人、生理学・医学賞5人、文学賞2人、平和賞1人の計27人で非欧米諸国の中で最も多い。

2018年のノーベル生理学・医学賞には京大特別教授の本庶佑氏が選ばれた。本庶氏は受賞の会見で「日本は基礎研究に対し、もっと長期的展望に立って科学研究に支援すべきだ」と訴え、最近の日本の基礎研究の弱体化に警鐘を鳴らした。事実、日本の基礎研究の危機は、様々な事例で指摘されている。


・世界の研究者に引用される影響力の高い論文の世界シェアは10年前の4位から9位にまで落ちた(2017年)

・国際会議で講演に招待される日本人研究者が少なくなった

・科学技術予算は2018年に3兆8,400億円だが2000年以降横バイが続いている。中国は16年に22兆4,000億円と2000年に比べ約7倍となってい る。アメリカは予算額2位で2000年比1.2倍の14兆9,000億円(17年)

・若い学生は博士課程に進まず、2003年をピークに博士課程への進学が減り続けている。政府は博士号を取得して次のポストを目指す「ポスト・ドクター1万人支援計画」を打ち出したが、大学も企業も雇用に消極的で高学歴となっても収入の少ない実情が続いている

・短期的な成果を求める風潮が強く、長期的な視野でじっくり研究に取り組む傾向がどんどん薄れている


──等々、かつての「科学技術大国を目指す」という志や情熱が薄れ、支援も少ないのが実情なのだ。

アメリカでは若い人たちの間からマイクロソフト、アップル、グーグル、フェイスブックなど次々と新しい企業が輩出され、社会を引っ張っているが、最近の日本にはそうした元気のある企業も生まれていない。明らかに日本の研究土壌は衰え、人材も伸び悩んでいるといえる。どこかで、しかも早急に手を打たないと中国や韓国に遅れをとる後進国になり下がってしまおう。



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158. 中川隆[-13378] koaQ7Jey 2018年11月01日 03:08:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19750] 報告

外国語学習について - 内田樹の研究室 2018-10-31


2018年6月12日に「文系教科研究会」というところで、私立の中学高校の英語の先生たちをお相手に英語教育についてお話した。その一部をここに掲載する。

ここで論じたのは英語だけれど、言語教育一般について適用できる議論だと思う。
ここ数日、「論理国語」と「文学国語」というカテゴライズをするという話がTLを飛び交っているけれど、それがほんとうだとしたら、それはたぶん言語というものについて一度も真剣に思量したことのない人間の脳裏に去来したアイディアだろうと思う。それはまさに「植民地における現地人への宗主国言語教育」とまったく同型的なものだからだ。

国語教育においても「植民地現地人」に求められる言語能力は同じである。

それは宗主国アメリカに仕え、アメリカに朝貢することで「代官」「買弁」としての地位を保全している日本の支配層たちが、同国人の知性の発達を阻害し、日本人を愚民化することで、属国日本をアメリカが支配しやすいようにするために作り出した仕掛けである。

以下がそのときの講演。途中からなので、話が見えにくいのはご容赦。

外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。

「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。僕たちの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

フランス語ができないとこの知的領域にアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語だったのです。

「スプートニク・ショック」として知られるように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。

理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。
これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。

わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。
でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」
「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は同意するわけにはゆきません。

僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。

外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

(中略)

今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

逆に、植民地的言語教育では、原住民の子どもたちにはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。

「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

(以下略)

「原住民には法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない」ということを英語教育について書いたら、国語教育でも同じことをしようとしているということを知らされた。

まことに情けない国に成り下がったものである。
http://blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html

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159. 中川隆[-13642] koaQ7Jey 2018年11月23日 06:40:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21016] 報告


2018.04.21
もう日本人の出る幕なし?外国人だらけのニセコに見る日本の未来
このままでは「観光大国」は遠い夢…
高橋 克英
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55346

いまや「日本で最も国際的なリゾート」といわれる北海道ニセコ。
街は外国人で溢れ、看板や物価も完全に富裕層向けにシフトしている。

高級ホテルの建設ラッシュに沸く同地区は、地価の上昇でも3年連続国内トップを記録した。ところが、当然ウハウハだと思われた地元経済の実態は……? 

毎年同地をスキーで訪れている金融コンサルタント、マリブジャパン代表の高橋克英さんが、最新事情から「インバウンド」という言葉にすがる日本の未来を読み解く。

日本人客にも「まずは英語で話しかける」ニセコ事情

パウダースノーで世界的に有名な北海道のニセコリゾート。オーストラリア人やフランス人に華僑を中心に、今年も世界中から多くのスキーヤー、スノーボーダ―が同地を訪れ、温泉とともにスノーシーズンを満喫した。

地元の倶知安町が、スイスのサンモリッツと姉妹都市の提携を結んでから54年、いまやニセコは「東洋のサンモリッツ」から「世界のニセコ」として、その名を世界のスキーヤーや富裕層に知られる存在となっている。


私事ながらスキーが趣味で、ここ数年、毎年ニセコを訪れているが、その変貌には目を見張るばかりだ。例えば、ニセコ地区にある4つのスキー場の一つ、東山エリアの中核ホテルである「ヒルトンニセコビレッジ」の館内表記は、日本語よりも英語が先にあり、ホテル従業員も基本、外国人。当然「公用語」は英語である。

館内の寿司屋では板前が、私のように、どこから見ても日本人にしか見えない相手に対してでも、まずは英語で話かけてくる。宿泊客や利用客の大半が外国人なのだから、見かけは日本人でも、ひょっとしたら外国人かもしれないと考えて接するのは合理的だろう。

こうしたサービスは、なにも外資系のホテルだから行われているというわけではない。

ニセコで最も栄えている「ひらふ」エリアは、まるでスイスやイタリアの高級スキーリゾートのようだ。ショップの看板や広告も英語表記オンリーで、日本語が一切ない店も珍しくない。ショップの客も従業員も外国人。ひらふ十字路を中心に、スキー場のリフトに乗る地点までのひらふ坂の両側には、欧風デザインのホテルや近代的なコンドミニアムが並んでおり、そのほとんどが外国資本による外国人相手のものだ。

現在も、ひらふ地区では、あちこちでクレーン車と英語表記の建設看板が立ち並び、さらなる開発が進められている。たとえば今年、私が訪れた際もシンガポールの大手デベロッパーであるSCグローバルが、外国人富裕層向け高級ホテルを建設中だった。


[写真]まるで海外のように英語表記の看板が建ち並ぶニセコの街(Photo by GettyImages)まるで海外のように英語表記の看板が建ち並ぶニセコの街(Photo by GettyImages)

日本であって、日本ではない

冬のニセコは、日本でもっとも外国人率が高い街であり、もはやここは日本であって日本ではない。

京都や金沢など、近年日本の多くの観光地には外国人観光客が訪れている。だが、それらとニセコには決定的な違いがある。それは、ビジネスの対象を外国人、それも富裕層に特化していることだ。しかも、その戦略は大成功を収めている。

欧米などのスキーリゾートを対象とした「ワールド・スキー・アワード」における、50室未満のブティックホテル部門で、ひらふ地区にある高級デザイナーズ・ホテル「ザ・ヴェール・ニセコ」が世界一に輝いている。カテゴリーが限定されているとはいえ、日本にあるホテルが世界的にこれだけ高く評価された例は過去にもほとんどないはずだ。

「ザ・ヴェール・ニセコ」の最上階に位置するペントハウスは、ニセコでも最高級とされる部屋の一つで、187uの広々とした室内には最高のプレミアム暖炉、バスルーム3つを備え、天井まで届く大きな窓からは北海道の名峰・羊蹄山の壮大な眺めを一望できる。スキーのあとは開放感あふれる57uを誇るバルコニーの露天風呂でゆっくりと星空を眺めながらリラックス。まさに至福のひとときに違いない。

このペントハウスは、トップシーズンでは1泊50万円を超えるのだが、なんと、すでに来年2019年のシーズンまで予約で満室状態だという。

ちなみに、ホテル予約検索サイト「エクスペディア」などで、今年12月から来年3月のスキーシーズンにて宿泊予約しようとしても、「ザ・ヴェール・ニセコ」はじめ、ニセコ地区の高級ブティックホテルは、軒並み既に満室や売り切れとなっている。繰り返すが、今年ではなく、まだ1年近く先の来シーズンの話だ。まるで、バブル期の東京湾岸エリアや都心のクリスマス時期のホテル予約のような狂乱ぶりではないか。

ニセコが世界的に注目されはじめたのは2000年頃からだ。最初はオーストラリア人から人気に火がつき、その後、SNSなどを通じて評判が広がると、フランスを中心に、イギリス、ドイツ、北欧など、ヨーロッパ各国からもスキーヤーが訪れるようになった。

理由はズバリ、雪質にある。ご存知の方も多いと思うが、ヨーロッパのアルプスなどの雪質は固く締まっており、初心者には荷が重いところが少なくない。それに対し、ニセコはサラサラのパウダースノーで、しかも毎日のように雪が降るから常に新雪。一度これを体験すると、その違いに病みつきになる人が続出するのも頷ける。しかも、ナイター施設なども充実しているのに加えて、温泉や北海道の食と魅力に溢れている。


物価も「世界の高級リゾート水準」

さらに、ここ数年は、香港やシンガポール、マレーシア、台湾などの華僑を中心とした富裕層や、フィリピン、ベトナム、タイなど、雪が降らない国からの観光客も急増した。大げさではなくニセコでは日本人を探すのが困難になるほど、外国人で賑わっている。

リッチな外国人客を相手にしているため、物価も世界の高級リゾート相場になっている。ゲレンデ周辺では、ランチの海鮮丼でさえ5000円というのが、ごく標準的な料金だ。すし盛り合わせになると松竹梅で、それぞれ1万円、2万円、3万円も珍しくない。価格に、5000円、1万円といったキリのいい数字がやたらと多いのは、両替や換算を意識してのことだという。

これだけお金持ちが集まれば当然、地元経済にも恩恵が大きいだろうと思われそうだが、残念ながらそうでもないようだ。

まずショップやレストランだが、いまでは客はもちろん、従業員までも外国人が目立つようになり、日本人の姿がめっきり減っている。私が毎年訪れているレストランでも、昨年までは地元の日本人女性2人が「May I help you?」と慣れない英語で接客のアルバイトをしていたが、今回は、夏場はロンドンで働き、冬はニセコでスキーを楽しみながらアルバイトしているというフランス人青年と、職を求めて中国本土からやってきた20代女性の2名にとって代わられていた。これだけ多くの国から観光客がやってくると、接客にも英語だけでなく、フランス語や広東語までが求められる。これでは、普通の日本人が出る幕はないかもしれない。

「99.9%お客さんは外国人。今日もフランス人の団体と、香港やマレーシアからのグループの予約で満席です。彼らが満足する接客は、日本人では難しいですね」と英語でアルバイトに指示を出しながら、日本人の料理長は話していた。


[写真]外国人客でごった返すニセコのスキー場の食堂(Photo by GettyImages)外国人客でごった返すニセコのスキー場の食堂(Photo by GettyImages)

ニセコ地区では、外国資本による別荘やコンドミニアムの開発も進んでおり、外国人スキーヤーや観光客だけでなく、外国人居住者も年々増加している。こうした外国人のために働く外国人従業員の増加もまた、続いている。地元の学校には外国人の子供が増え、新たにインターナショナルスクールも作られているという。


なぜか地元も国内資本も儲けられていない

流入人口が増えれば、当然地価は上昇する。3月末、国土交通省から発表された公示地価では、地元の倶知安町の住宅地の公示地価は前年比33.3%と3年連続全国トップ。しかもトップ3をニセコ地区が独占した。さらに、商業地でも35.6%と全国トップとなり、まさにニセコが日本全国を圧倒している。


そうなれば、少なくとも不動産開発の分野では、日本のデベロッパーや金融機関が荒稼ぎしているのだろうと思ったのだが、どうやら、それもないようだとわかって驚いた。

私が調べた限り、ニセコでの海外富裕層向けを中心としたコンドミニアムや別荘への不動産投資ニーズに、国内の不動産業者・銀行は、ほとんど応えられていない。海外不動産業者やプライベートバンクと海外富裕層との間には、独自のネットワークが形成され、日系企業が入り込む余地がほとんどない状態であるという。

ニセコは、まさに「外国人の、外国人による、外国人のためのリゾート」と化していると言っていいだろう。地元ニセコ町の分析でも、民間消費や観光業の生産額のほとんどが、町外に流出超過だとされている。観光客や投資の増加は、もはや地域の収入には十分つながっていないというわけだ。

もちろん、ニセコ興隆は悪いことではない。ただ、観光客やスキーヤーたちがこれほどお金を落としてくれているのに、地元や日本経済に恩恵がないというのは、もったいなさすぎる。「おもてなしの心」などという美学を奉じて、細やかな気配りを観光産業の中心にすえるのもよいが、奥ゆかしいばかりでハングリー精神に欠けては、世界を相手に、いただけるものもいただけないことになってしまう。


[写真]メニューの表示も英語のほうが目立つニセコのレストラン(Photo by GettyImages)メニューの表示も英語のほうが目立つニセコのレストラン(Photo by GettyImages)

折しも、来年のG20大阪開催にあわせ、G20観光相会議がニセコで開催されることが決まっている。それに合わせてパークハイアットやリッツ・カールトンといった外資系超高級ホテルやコンドミニアムの開業も予定されており、北海道新幹線の札幌までの延伸にあわせ、ニセコ地区にも新駅ができる予定だ。共存共栄の世界を目指して、出遅れている国内資本による投資の増加に期待したい。

そこでの成否が、「観光大国」を目指す日本の未来をうらなう試金石になる、と言っても、あながち大げさにすぎるということはないだろう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55346



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160. 中川隆[-13622] koaQ7Jey 2018年11月24日 10:53:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21067] 報告

世界でバカにされる日本人 - 今すぐ知っておきたい本当のこと - (ワニブックスPLUS新書)
谷本 真由美 ワニブックス 2018-08-22
https://www.amazon.co.jp/dp/B07GDB23F7?tag=cakespoc-22


海外でなめられまくっている日本 2018年9月11日
https://cakes.mu/posts/21698


日本では「日本スゲー」というTV番組が人気ですが、海外経験豊富な元国連専門機関職員の@May_Roma(めいろま)さんは、8月24日発売の『世界でバカにされている日本人』では世界における日本の心の姿を紹介しています。


かつてはあこがれの対象だった日本は、いまでは落ちぶれた可哀想な国という印象です。そのような変化がよく分かるのが、世界各国のネットでの反応です。

特に若い人や子供の間では今やネットで得る情報は動画が中心なので、ネット動画の世界で日本がどのように扱われているかをみることで、日本のイメージを知ることが可能です。

ネット動画の世界には、日本人 を舐めきっている外国人が存在します。その代表の一つは、2018年の初頭に話題になったユーチューバーのローガンポール氏による青木ヶ原樹海の遺体動画の事件でしょう。

相次ぐ外国人の“非常識”動画 「日本はなめられている」

ローガン・ポール氏はアメリカで有名なユーチューバーで様々ないたずら動画を投稿して莫大な再生回数を稼いでいます。

子供達の間で大人気なのですが、そのいたずらがあまりにも過激で下品なので、子供が真似してしまうと困り果てている親も少なくありません。

ローガン・ポール氏にとって日本は格好のターゲットです。日本に来て撮影した動画では、ナイロンできた女物のペラペラの着物を来て都内で犯罪スレスレのイタズラを繰り返します。

生のタコや生魚を都内の走行中の車に投げつけたり、渋谷の交通量の多い道路で寝転がったり、カフェで食事中の人達の窓に向かって生魚を投げつけたり、魚を触った手で店の商品を触りまくり、築地市場に行って仕事中のフォークリフトに乗ったり、売り物を指差して大騒ぎです。市場の人にあまり図に乗るんじゃないと小言を言われるシーンもあります。

さらに、青木ケ原樹海に探検に行き、亡くなったばかりの自殺者の遺体を動画に撮って、「怖い怖い」と茶化してレポートしたのです。削除前に彼のファンである多くの子供達がその動画を見てしまったことで大炎上してしまいます。

彼の日本で撮影した動画をみると、あまり教育レベルが高くない外国人が日本に対してどんな感情を抱いているのかということがよくわかります。

ローガン・ポール氏はオハイオ出身の田舎出身で教育レベルが決して高いとは言えないごくごく一般的なアメリカ人です。そういった人たちにとって日本人だけではなく東洋人全般というのは体が小さく文句を言わないちょっと奇妙な人々です。

これはアメリカにいる東洋系の人達も同じで、東洋系でアメリカ人とはいっても、体も小さいですし、白人に比べると闘争心がありませんし、親や祖父母のしつけがあるので暴力に訴えることはしませんから、おとなしい人が多いのです。

東洋人の典型的なイメージは、運動が苦手なガリ勉です。体育会系リア充がスクールカーストの頂点というアメリカでは、ガリ勉やオタクは日本や東アジアに比べて人権などないのに等しい存在です。

そのカテゴリに入ってしまう東洋人というのは常にからかいの対象で、スクールカーストの最底辺です。

また黒人やヒスパニックと比べると数が少ないので、組織化された圧力団体も多くはありません。政治力がありませんので、差別的なことを言われたりジョークに見せかけた差別をされることも少ないことではないのです。

東洋人はそういったイメージを持たれていますから、あまり教育程度が高くないアメリカのマジョリティにとってはからかいの対象です。

ですからローガン・ポール氏達はアメリカやヨーロッパであったら絶対にしないような悪戯を日本でしまくり、亡くなった人の遺体をビデオに撮影するようなことができたのです。

日本人をからかいの対象と見ていて、さらに同じ人間とは感じていないからです。

言葉も異なり、顔つきも違う、そしてアメリカの内陸部では食べない人の多い得体の知れない海産物をたくさん食べる日本人は、とても奇妙な人々なのです。

魚というのは彼らにとって生臭く、「魚の臭がする」というのは「女性器の臭いがする」という意味です。ですから、悪戯として魚を人に投げつけるのには、侮辱の意味があるわけです。

そんなものをありがたく食べている日本人は、教室の隅で勉強ばかりしていて、わけの分からない数学やプログラミングの話をしている東洋系ガリ勉と同じ変な奴らだ、というイメージです。

もし亡くなった方の遺体がアメリカの白人であったりヨーロッパの白人であったら彼らは同じように撮影することはできなかったでしょう。

しかし大騒ぎをしても、日本はおとなしい人が多く、外国人に対して寛容ですから、お店の人や通行人が訴訟を起こすことはありませんし、胸ぐらをつかんで殴りつけることもありません。

アメリカだったら同じことをしたら銃撃されている可能性もありますし、ヨーロッパであったらその場で押さえつけられてボコボコにされる可能性が高いです。

そもそも他の先進国では治安が悪いところも多く他所者が足を踏み入れた途端に注意されることだってあるからです。

こういう反応が当たり前ですから、日本人の謙遜や旅人への寛容さは「何かされることを受け入れている」「反撃する気力がない弱い奴ら」と思われてしまうわけです。

日本にはそんな所はありませんし一般の人たちも大変おとなしく心が優しいですから、彼らはそれを知っていて好き放題やるわけです。

日本人のこういった人の良さや大人しさは、ネットの動画を通じて世界中に広がります。それを素晴らしい、美徳だと賞賛してくれる人達がいる一方で、日本人はマヌケな奴らだと悪用しようとする人達もいるということは知っておいたほうが良いでしょう。

▲△▽▼


地下鉄落書き、樹海の遺体…相次ぐ外国人の“非常識”動画 「日本はなめられている」2018.1.30
http://www.sankei.com/smp/affairs/news/180130/afr1801300018-s1.html


落書きが見つかった東京メトロ日比谷線の車両(ツイッターから)


 東京都内の地下鉄各線で、電車の車体に塗料で落書きされる事件が相次いでいる。外国人グループの関与も疑われるというが、動画サイトには日本を訪れた人物が電車などに落書きをする様子も数多く投稿されている。なぜ日本が狙われるのか。(夕刊フジ)


 地下鉄車両の落書きは13日以降、東京メトロ千代田線や日比谷線であったほか、18日には東西線の車両でも見つかった。

 「自己承認欲求、特に仲間内で自慢したいという心理があるようだ」とみるのは、都市部の落書きに詳しい東京都市大建築学科の小林茂雄教授。

 「外国人が観光ビザ等を取得し、1週間や10日間程度滞在して落書きをして帰国するというケースが多いようだが、電車の落書きの場合、車両の保管場所や監視カメラの位置、逃走経路などを綿密に調査している。国内にも協力者がおり、情報をこまめにやりとりしているのではないか」

 壁などにメッセージ性のある絵や文字を描く「グラフィティ」は近年は芸術としての認知も高くなり、日本国内でも町おこしに生かす事例もあるが、所有者や管理者に無許可で描けば器物損壊罪と建造物損壊罪に問われてもおかしくない。

 2008年には6都府県の地下鉄の車両などに落書きを繰り返したスロバキア人とハンガリー人が大阪府警に逮捕された例もある。

 日本を狙った落書きについて小林氏は「注目を浴びるような街や都市がターゲットとなるが、ニューヨークやロンドンなどはテロ対策もあってセキュリティーが厳しい。東京は凶悪犯罪が少なくセキュリティーが甘いと考えられているのではないか」と分析する。

 ユーチューブには、外国人とみられる人物が、日本の鉄道の駅や車両基地に夜中に忍び込み、スプレーで落書き、逃走する様子を撮影した動画も数多く投稿されている。

 ITジャーナリストの三上洋氏は「『やってやったんだ』『簡単だぞ』という意味で、描く過程をネットにアップして自慢するのもグラフィティの目的の一つだ。中には自分たちのグッズを販売しているグループもあり、金もうけとみることもできる」と語る。

 昨年末には米国人ユーチューバーが、富士山麓の青木ケ原樹海で自殺したとみられる遺体の動画を投稿。「不快になった」などネット上で批判された一方で約600万回も再生された。

 前出の三上氏は「日本はきれいな国で人がやさしいというイメージだから、それをおちょくっており、多少なめられている。他の動画でも日本人をバカにしていて、差別感情ともとれるものもあった」と話す。

 日本の安全性に甘えた身勝手な行為。そんなに目立ちたいのなら、もっとヤバい独裁国家で挑戦してみてはどうか。
http://www.sankei.com/smp/affairs/news/180130/afr1801300018-s1.html

▲△▽▼


自分を知らない、言いなり=おもてなし、搾取されてもバカにされても気づかない日本人…(+_+) 2018年09月15日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12404933569.html


以前「日本の見世物小屋化の別称「観光立国」=外国人仕様を増やす=「外国人で儲ける」業界づくり→移民受入」という記事で、『マリカーは生活に必要な日本人のインフラである公道を、一部の人間がレジャーに使っているのです。でも外国人が喜ぶからと批判も出ませんが、その姿が卑屈なことに日本人自身が全く気付いていません。』ということを書きましたが、それとも通じる記事を見ました。左下矢印


海外でなめられまくっている日本(May_Romaさま)


かつてはあこがれの対象だった日本は、いまでは落ちぶれた可哀想な国という印象です。

こういう書き出しで始まるこの記事、「日本スゲー」派の人に読んでいただきたいと思います。


ところで、こんなニュースがひっそりとありました。


9月9日午後1時55分ごろ、走行中の東京発博多行き山陽新幹線のぞみ19号(16両編成)で、果物ナイフのような刃物を持った外国人の男性観光客がいるのが見つかり、北九州市の小倉駅に停車した。通報を受け駆け付けた福岡県警小倉北署員が降車させ、任意同行した。乗客にけがはなかった。


 小倉北署によると「旅先で使うために持っていた。ナイフが汚れていたので洗いたかった」と説明している。県警は同行の女性と一緒に事情を聴き、銃刀法や軽犯罪法の違反には当たらないと判断した。
 下り2本が最大11分遅れ、計約500人に影響した。

ここでもおバカ対応で舐められる事例を作ってしまいました。ばかぁ

以前新幹線で殺傷事件が起きた後、『国交省は省令の鉄道運輸規程の改正に着手し、適切に梱包されていない刃物の列車内への持ち込み禁止を明文化する方針。利便性への影響などを考慮し、現時点で手荷物検査の導入は見送った。』という内容の報道が出ました。


欧州でイスラムテロがナイフを使っていること、鉄道でも何件も起きていることを何度も紹介していますが、日本の鉄道がナイフの持ち込みをOKしているようでは、そのうち狙われるようになります。前出のMay_Romaさまの記事内でも次のような文章があります。


日本人の謙遜や旅人への寛容さは「何かされることを受け入れている」「反撃する気力がない弱い奴ら」と思われてしまう〜

今回たいしたことが無かったとしても、厳しく対処することでナイフを持ち歩く習性の外国人を震え上がらせなくてはいけなかったのです。アジア人だから、東洋人だから馬鹿にされるというのはいつもそうとは言えず、その国の対応で決まります。

今や、日本だから馬鹿にされるという状態です。rabbit*ハァ*


インバウンドで浮かれる業界ではこんな記事がありました。


【台風21号】大阪ホステルに聞いた 災害時の外国人対応「欧米人は『台風珍しい!動画撮りたい!』と外に出たがり静止するのが大変だった…」


ヨーロッパからの訪日外国人は、台風を知らない方が多いです。


日本人は、このような大きな災害があると自粛ムードに流されがちですが、訪日外国人はそんなことはありません。

とありますが、私達がサイクロンやハリケーンを知っているのに、欧州人は知らないというのでしょうか?

日本人は同胞が大変な目に遭っているという心配の気持ちがありますが、外国人には所詮他人事、日本人が死と直面するような大災害も「愉快なエンターテイメント」なんでしょう。


<「関空」大混乱に巻き込まれた中国人留学生の手記>という記事もありました。

この方は日本語ができるので自力で何とかしたようですが、こう書いてあります。


 現在、日本は国を挙げて観光立国を目指しています。しかし台風に限らず、地震をはじめ日本は世界的にも災害の多い国です。外国人旅行者の災害への不安が広がれば、観光へのダメージは大きくなっていくでしょう。

 私のように日本語が話せるわけではない外国人旅行者は、今回のような災害が起きたら、帰国の目途を立てられず、避難すら大変だと思います。災害の多い日本だからこそ、外国人旅行者へのケアを充実させる必要性があるのではないかと、今回の体験を通して強く感じました。


仰る通り日本は自然災害大国です。人口密度も高く、気候変動もあってか、どこでも被災地、誰もが被災者のようになってきています。

このような中、遊びに来た外国人のために日本人の税金から便宜を図るために何かしろというのは無理なんです。

だから「インバウンド」とやらで儲けているらしい業界が自力でやればいいのです。


それに海外にいる日本人は皆さんその国の行政に頼り切って対処しているんでしょうか?

大使館や領事館が緊急時にメールなどで情報もくれますし、居住者ならば関係している現地の人たちが情報をくれたり助けてくれたりします。旅行者なら旅行代理店などが連絡にあたります。

中国では災害時に日本語で親切丁寧な対応をしてくれるんですか?


南国のようなのんびりしたリゾート地でもなく、年がら年中あちらこちらで自然災害が発生し、物価も安くなく、底の浅い知識で来るような外国人観光客を相手にする日本政府の「観光立国」は実は移民受け入れ政策の一環で、日本人に外人慣れを促し、外国人用の生活インフラを整備させるのが目的だと私は考えています。


外国人用インフラについてついでに言うと、あちらこちらの看板などで注意事項や禁止事項が日本語だけというのがまだ多いです。注意や禁止事項こそ全部に英訳が必要(多言語は不要です。かえって見にくくなります。母国語⇔英語の辞書は必ずありますから。)でイラストも効果的です。トラブル防止にも役立ち外国人の為にもなりますし、日本人が英語で注意するときにも役立ちます。


日本が少子化でも「ダントツ」で豊かになる道(東洋経済)という記事のなかに、コマツの坂根相談役がこう発言しています。


よく「この国の労働力は逼迫している」といわれていますが、欧米に比べて国全体として、ムダな事業や仕事に雇用をたくさん抱えています。その部分を整理することができれば、新たな労働力を生み出すことができます。

そして「日本人手不足は2020年代半ばには解消される可能性が高いからです。日本人が移民と共生する覚悟が十分にないのであれば、拙速な移民の促進はやめたほうが賢明なのではないでしょうか。」という問いかけに対して坂根氏は次のように答えています。


私も同じような心配をしています。おそらく業界内で競争力のない企業ほど外国人を安い賃金で雇いたいという願望が強いでしょう。ということは、同一労働していても外国人を日本人より安く使うといったことになり、結果的には、外国人労働者から見てこの国の魅力はなくなり、優秀な外国人労働者までもが日本に来ようとは思わなくなっていくでしょう。

むしろ本当の労働力といった意味では、国を挙げての少子化対策と高齢者や女性の労働力を活かすことをまず第一に考えるべきです。簡単に移民の受け入れに逃げてはいけないと思っています。無駄な雇用に手をつけないで移民に頼っていては、日本にせっかく変われるチャンスがきているのに、そのチャンスを逸してしまうことになります。


外国人雇用の拡充は「無能な経営者」の甘えだ 〜生産性向上のチャンスを逃す「愚策」を許すな(デービッド・アトキンソン)という記事を以前紹介しましたが、この中で彼は、日本政府は日本人労働者をバカにしていると書いています。


その日本政府は世界中で馬鹿にされているようにみえます。

日本人が馬鹿にされているのと同じ理由からです。


海外ニュース翻訳情報局さまからの次の記事はお薦めです。

元米軍海兵隊士官提言・必読】東京からの視点? 控えめな反応


プーチンからもシージンピンからもトランプからも鼻であしらわれているのに、さも世界中から重要人物扱いされているかのように安倍首相を持ち上げ、世界で起きている重要な変動を見ないふりしている日本は、ますます困ったことになっていくのではないかと思います。


国力が劣っているので我慢を強いられることもあるでしょうが、そんななか、自尊心もなくし外国人さまに媚び諂うことをおもてなしと言い、外からも内からも骨抜きにされているような感じがしてなりません。


EUでサマータイムが住民の意向で廃止されようかという時に、<「非常に良い解決策」、 IOCが東京五輪でのサマータイム導入を支持>というのも、日本人の外人崇拝を知っている森さんかJOCがIOCに言ってもらったんだろうなと思います。

それに、迷惑を被る日本人の反対を、迷惑を被らないその時だけの外国人が、それも運動会のために抑え込もうとしていること自体日本人が馬鹿にされているということなんです。


だからといって野党を応援しているわけではありません。

「第3子出産で1000万円」国民民主党・玉木代表「コドモノミクス」に注目集まる 「電子マネーで配布」「外国人は対象外」

このなかで、玉木氏は「国民の税金なので外国人にも行う政策ではない」と言っていますが、実際にそういう法律を政府が作れば外国人差別は出来ないのです。外国人も税金を払っているというでしょう?生活保護は憲法上国民が対象なのに実際は外国人がもらっています。

工作機関の朝鮮学校が「金出せ!」と裁判していますよね?

内外人平等が法整備された日本で、こんなことしか言わないような野党にも明日はありません。それとも裁判で負けて「仕方なく」外国人にも払うことが織り込み済みなんでしょうか。怒る


ダライ・ラマ氏があのスウェーデン・マルメでまともなことを言ってくれました。

「欧州は欧州人のもの」ダライ・ラマが法話で移民問題に言及

自国の再建に尽くさないで他人の財布で生きることを望むような外国人、又は受け入れてくれた国を自分好みに変えようと活動する人には耳が痛いでしょう。


移民が移民を呼び込み、受け入れてくれた国を自分の好きなように変えて、その国民にさらなる負担を強いる活動(いじめ問題と難民問題を同一視するサヘル・ローズさんなど)は、私たちの社会を軽んじているからこそできるのでしょう。


日本人は、日本人からも「いいカモ」として絞られています。

携帯の料金体系がカルテルみたいで異常な契約形態であるのは、そこに無駄に人が群がっているからで、NHKが不要なチャンネルを増やし1人で出来る番組に(芸の無い)芸人の生活救済のため多数を出演させギャラを払い、そのために国民から不必要に高額なお金を巻き上げているのもそこに無駄に人が群がっているからです。

そして、それを政治家が黙認して是正しないのは国民がその無駄を異常と思わず当然視しているからです。


余計な斡旋で5次6次受けみたいな業界を作り、労せずして丸投げで儲ける人たちもいます。

人手不足はこういう無駄な仕事を無くし、大量の余剰人員をまともな正業にシフトすることで解消できる部分もあると思います。

それをやるのが政治です。

それをしないで外国人移民を入れても上手く回らないだろうことは素人でも想像できますし、カルテルや、手数料を高額にして取れるところから最大限搾り取るようなビジネスモデル、仲介料を何段階も通って高額になるような仕組みがまかり通る日本には健全な社会が育たないと思います。このボッタクリから逃れるための「研究」サイトもありますが、そういうことに時間をかけることもまた日本全体を疲弊させますし、諦めた人は無駄な出費を強いられます。はこ怒る


日本の政治家にろくでも無い者しかいないのは、他力本願で、搾取されている自覚がなく、バカにされている自覚もない多くの日本人の代表だからではないかと思います。

外国からも同じ日本人からも騙され搾取されている、これを自覚しなければいけないのです。

日本人 大丈夫?

日本人である自分の将来が本当に心配です。
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12404933569.html



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161. 中川隆[-13621] koaQ7Jey 2018年11月24日 10:58:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21067] 報告
日本の見世物小屋化の別称「観光立国」=外国人仕様を増やす=「外国人で儲ける」業界づくり→移民受入 2018年04月30日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12372382304.html


なんだか頭にくるので本日2つ目の投稿!ムキー

日本人には不快で我慢ばかりさせる安倍首相肝いりの政策、それが「観光立国」!

日本人はとにかく「外人」に弱いので、気おくれしたり、大目に見たりと間違えた接し方をして馬鹿にされています。

文化の違う相手にマナーは通用しませんから、外国人には強力な規制、罰則が必要です。

マリカーは生活に必要な日本人のインフラである公道を、一部の人間がレジャーに使っているのです。でも外国人が喜ぶからと批判も出ませんが、その姿が卑屈なことに日本人自身が全く気付いていません。

公道カートなんて、

日本人が馬鹿にされているんですよ。

わかりますか?はこ怒る

貧困国がお金下さいとせがむから来てやった外国人様が我が物顔で迷惑行為をしていて、それを私たちが我慢させられているのです。途上国の貧困現地人並みの扱いなのです。困

対価をもらい公道を閉鎖してレースをするのではなく、私たちの生活はそのままで彼らを割り込ませて遊ばせているのです。(業者はタダで公道を商売に使っていることになります。)

公道カートの安全強化 2年後シートベルト義務化 国交省が基準改正(産経)2018/04/28

やっと規制するかと思ったら、外国人様が怪我をしないようにという改正です。

私は彼らがどうなろうと構いませんが、邪魔なので禁止にしてほしいのです。


外国人観光客 医療費未払いで入国拒否も 自民提言(毎日 2018/04/27)


未払いのまま出国した外国人の情報を医療機関から収集し、再び来日した場合には入国管理法に基づき入国を拒否することを求めた。

一方、外国人観光客が安心して医療を受けられるよう、外国語で診療を受けられる医療機関の充実や、薬局での多言語対応を進めるほか、習慣の違いに配慮した診療のための研修を行うよう要求。


外人による医療費踏み倒しも公立なら結局は税金で補填でしょう?

ビザなしで誰でも呼ぶからこういうことが起きるのです。母国では病院に行かない人も多いのです。善意は悪用されるのが常識です。外国人観光客は前払いでいいのではないでしょうか?

それと、医療機関に「習慣の違いに配慮した診療を要求」、こんなもの不要です。

金持ちがそれなりの対価を払って配慮してもらうならいいですが、私たちと同等のお金を払って特別待遇は許されることではないのです。外国人に配慮しすぎです。はこ怒る

それよりも海外旅行傷害保険加入を入国条件にする方がまともです。

(日本の健康保険は海外でも後から補填してくれます。これと同様の制度がない国から来た人は旅行医療保険を義務付けるべきです)

こちらの記事では海旅加入を入国時の条件にしている国があることを紹介しています。

日本と同等の医療を途上国で受けるには高額な費用を払います。

例えば、私は通訳もいる上等な病院へ行くと、診察代だけで60〜100ドル払います。

もし日本で3割負担なら診察だけで2千円〜3千円以上を窓口で払うことになります。

でもそんなに払いませんよね。生活保護受給者や子供ならタダですか?

日本の医療が高い水準なのに安く掛かれるのは日本人だからです。公衆衛生、予防接種、国民の生活向上のための政策でこうなっています。

これを、関係ない外国人に当てはめるのは不公平であり、まして配慮までして私たちと同額なら、日本人の税金が回ることになり、その分私たちへの待遇は確実に下がります。

外人用に設備やシステム、人員を確保させて、そのうち観光客が減れば、医療業界は「もっと外人下さい」ということになるでしょう?これで移民賛成業界がまた増えるわけです。

外国人に来てもらいたい「観光立国」のために、公道カートという迷惑行為が許され、犯罪の巣窟となるであろうアジト“民泊”を奨励に留まらず、嫌がる自治体を国が脅して無理やり全国展開、観光地は日本人を締め出し荒廃させ、民度の低い国から大量の単純労働者を入れ、それらの奏でるオーケストラ、相乗効果で不衛生や野蛮と相性の良い外国人や、私たちの税金を食い潰し私たちのサービスを低下させる外国人が常時日本に居座る国へと変貌していきます。

今政府はバラ色みたいなことしか言いませんが、経済面で移民の弊害が顕著化するのは少し後、ボディーブローのように効いてきますし回復しません。

これを短期間でやったのは安倍首相で、確かに安倍ちゃん以外に誰がいる?というくらいの破壊ぶりです。応援している人は日本が嫌いなんでしょうね、そう思うことにしました。ムキー

外人頼みしかない!という発想が一見正しく見えるのは、安倍首相が日本人を貧しくさせて、日本人が世界中から食い物にされるように仕向けたからです。はこ怒る


「低すぎる最低賃金」が日本の諸悪の根源だ 2020年の適切な最低賃金は1313円
(東洋経済 デービッド・アトキンソン : 小西美術工藝社社長 2018/03/02)
以前アトキンソン氏の観光についての記事が酷すぎるとブログに書いたことがありますが、今回の記事は納得しました。

この中で彼は、日本政府は日本人労働者をバカにしていると書いています。


https://ameblo.jp/evening--primrose/image-12372382304-14180751504.html

https://ameblo.jp/evening--primrose/image-12372382304-14180751509.html

日本人を徹底的に貧困化させて、穴埋めに外国人を呼び込んでいるのが安倍首相です。

安倍首相が人為的に操作しているのです。

日本人医師があんなに安い診察料であれだけ高度のサービスを提供することを考えても、労働賃金が安すぎですし、安全でおいしい食事が安すぎます。

グローバル化を進めれば、平民の日本人は間違いなく劣化したサービスや食料にしかありつけなくなります。

貧困化させた日本人の穴埋めに呼び込む観光客ですが、日本政府は弊害を隠しています。

観光客の害は先進地域でよく問題になっています。CNNがこんな記事を出しているほどです。

押し寄せる観光客、住民と切り離し ベネチアが新規制導入(CNN 2018/04/27)

私の持論au 着フル度を超えた観光を止めることこそ、環境保護、温暖化防止にも役立つはずです。

パリ協定がどうしたこうしたというより、観光縮小、多産禁止にした方がよほどエコです。


世界的に、先進国だったところが移民を受け入れる方向に行くことは自然ではなくて人為的に仕組まれています。

「生意気になってきた中産階級を没落させる仕組み」でもあることを、よく理解した方がいいと思います。
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12372382304.html


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162. 中川隆[-13727] koaQ7Jey 2018年12月03日 13:19:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21619] 報告
日本人はもうノーベル賞を獲れない?深刻な科学技術立国の危機(週刊ダイヤモンド)
http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/712.html
2018.12.3 週刊ダイヤモンド編集部


『週刊ダイヤモンド』12月8日号の第1特集は「日本人はもうノーベル賞を獲れない──科学技術立国の危機」です。21世紀に入ってからというもの、米国に次ぐ世界2位のノーベル賞受賞者を輩出している日本ですが、実は科学技術立国の足元は驚くほど揺らいでいます。その実態を知る関係者ほど「このままではもうノーベル賞など期待できない」と嘆きます。その理由を追いました。

 12月10日、スウェーデンのストックホルムでノーベル賞授賞式が行われる。今年は本庶佑・京都大学高等研究院特別教授がノーベル生理学・医学賞を受賞する。

 その本庶氏は、若手研究者支援のための基金を設立し、賞金の約5700万円(共同受賞者と分割した額)を全額寄付することを表明している。

 もっとも、基金自体の規模は数千万円にとどまるものではない。本庶氏の構想では「数百億〜1000億円規模」とのこと。この金額が意味するものは、本庶氏の持つ「日本の基礎研究分野に対する危機感」にほかならない。

 というのも、本庶氏はかつて本誌のインタビューで、日本の基礎研究の状況について「かなり瀬戸際だと思います。私たちの世代、次の世代までは何とかやってこられました。今の40代以下は大変つらい思いをしています」と答えている。未来への種まきが不可欠というわけだ。

 近年、日本人のノーベル賞受賞が続いている。だが、それは1980〜90年代までの研究環境による成果であって、その後の日本の科学技術政策を鑑みると、これから先はとても期待が持てない──。そう訴える研究者は多い。

 このところのノーベル賞ラッシュは、「日本の科学技術・冬の時代」を前にした、最後の打ち上げ花火になりかねないというのだ。

「2004年の法人化以降、大学として独自にやらなければいけないことが増えたにもかかわらず、運営費交付金は毎年減ってきました。その結果、大学の研究の力はもう完全に落ちてしまっています」

 そう嘆くのは、15年のノーベル物理学賞受賞者、梶田隆章・東京大学宇宙線研究所所長だ。

 2000年、日本の科学技術予算は3兆2859億円で、同3兆2891億円の中国と並んでいた。ところがその後、日本がほぼ横ばいで推移する中、中国は怒濤の勢いで科学技術予算を積み増していった。16年は22兆3988億円。日本の6倍以上である。

 当然ながら、同時に研究者数、論文数でも日本は中国に大差をつけられている(下図参照)。

 16年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典・東京工業大学科学技術創成研究院栄誉教授も、「現状を放置すれば日本の基礎科学は徹底的に駄目になるでしょう。さまざまな領域で世界レベルに対応できず、その穴を埋めるには何十年もかかる。しかし国の危機意識は非常に乏しいと感じています」と警鐘を鳴らす。

 1973年のノーベル物理学賞受賞者、江崎玲於奈・茨城県科学技術振興財団理事長も、基礎研究に対する世間の理解に苦言を呈する。「今は、基礎研究に対して『役に立たない』という不当な評価があります。当初から役に立つことを狙っているような基礎研究などあり得ません」。

GAFAが席巻する
企業の研究開発投資

 一方、日本の研究開発投資の8割を占める民間企業も頼りない。80年代には、大企業の多くが「中央研究所」を抱え、基礎研究の一翼を担っていたが、バブル崩壊以降は収益への貢献度を理由に撤退が相次いだ。

 企業における研究開発領域で存在感を強めているのは、米国のグーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルのGAFAを代表とするITジャイアントだ。

 米国でもAT&Tのベル研究所や、IBMのワトソン研究所など、基礎研究分野を担う中央研究所の存在感は薄れているが、新たな主役に躍り出たGAFAたちは、AI(人工知能)をはじめとするコンピューターサイエンスの研究成果を続々とITサービスのプラットフォームに投入し、収益に結び付けていく。さらに彼らの研究領域は、旧来型の製品・サービスのディスラプション(破壊)を伴うイノベーションを内包している例が多い。実は、中国のアリババ、テンセント、ZTE、バイドゥといった企業も、こうした米国型の研究開発で猛追を始めている。

 相変わらず製造業中心の研究開発に終始する日本企業は、ビジネスモデルの点でも置き去りにされているのだ。

 科学技術立国・ニッポンが置かれている状況は極めて厳しい。

日本人はもう
ノーベル賞を獲れないのか

『週刊ダイヤモンド』12月8日号の第1特集は「日本人はもうノーベル賞を獲れない──科学技術立国の危機」です。21世紀に入って以降、日本は米国に次ぐ数のノーベル賞受賞者を輩出しています。しかし、近年の科学技術政策の実態を知る関係者ほど、「このままではもうノーベル賞など期待できない」と警鐘を鳴らします。

 実際、前述したように各種データを見ても、科学技術立国の足元は驚くほど揺らいでいることがわかります。

 今回、過去のノーベル賞受賞者からも直接、問題提起をいただきました。過去、本誌に登場していただいた際の発言を再録したものも含め、江崎玲於奈氏(1973年物理学賞)、田中耕一氏(2002年化学賞)、益川敏英氏(2008年物理学賞)、山中伸弥氏(2012年生理学・医学賞)、天野浩氏(2014年物理学賞)、中村修二氏(2014年物理学賞)、大村智氏(2015年生理学・医学賞)、梶田隆章氏(2015年物理学賞)、大隅良典氏(2016年生理学・医学賞)、本庶佑氏(2018年生理学・医学賞)の10人のノーベル賞学者が、日本の科学技術が置かれている状況に関して持論を披露してくれました。

 また、彼らノーベル賞受賞者の出身高校についても考察しました。全26人の受賞者のうち、東日本の高校出身者はわずか7人。また、ほとんどが地方の公立高校出身です。

 東日本でも特に東京都となると極端に少なく、利根川進氏(都立日比谷高校)のたった1人。都内には受験界ではトップ校といわれる筑波大学附属駒場、開成、麻布、武蔵といった名門中高一貫校が多数あるにもかかわらず、です。小学校時代から塾に通い、過酷な中学受験を勝ち抜いた首都圏の偏差値エリートたちは、意外にもノーベル賞とは無縁なのです。中学高校の理科教育のテコ入れによって、未来のノーベル賞候補を生むことができるのでしょうか。

 その他にも、いまノーベル賞候補とされている日本人研究者25人のリストや、これから期待が高まる5大技術「AI・ディープラーニング」「全固体電池」「量子コンピュター」「ブロックチェーン」「ゲノム編集」について、技術の概要と注目のキーパーソンについてまとめました。

 12月10日のノーベル賞授賞式を前に、日本の科学技術の現状と行く末に目を向けてほしいと考え、今回の特集を組みました。是非、ご一読ください!




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163. 中川隆[-13736] koaQ7Jey 2018年12月05日 22:35:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21739] 報告

馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=ユダヤ人=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA
=マクロン、ヒラリー・クリントン、オバマ、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の官僚


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、J.F.ケネディ、トランプ、サダム・フセイン、カダフィ、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、安倍晋三


なんですね。


安倍晋三は調整型の政治家で権力基盤が弱いので、官僚や周りのグローバリストに引き摺られているだけで、本来はプーチンやトランプと同じナショナリストなのです :


【秋の特別対談】馬渕睦夫氏と語る - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BU4nkKMmVfo&app=desktop

ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
聞き手:水島総(日本文化チャンネル桜代表)


▲△▽▼


馬渕睦夫×水島総 「世界を統治する者との最終戦争が始まる!」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=L06Zs03T2D0

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)


▲△▽▼


馬渕睦夫『グローバリストが恐れる日本の底力』
◉講演「新嘗のこころ」第2部(グローバリズムとは共産主義である) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YoH3GG3WiAc&index=2&list=PL7MaEu9i584cGqauRwWXCapXVTxom8dDT


▲△▽▼


「古事記に学ぶ日本のこころ」 馬渕睦夫 〜天と地を結ぶ日本人の力〜 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=xcQ1sp6fV2g


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164. 中川隆[-13763] koaQ7Jey 2018年12月09日 14:44:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21877] 報告

ゆとり世代は空虚感を抱えたイエスマン - 内田樹の研究室 2018-12-08


学者の会のニューズレターから寄稿を依頼された。
一般の方の目に触れる機会のあまりない媒体なので、ここに再録する。

世代論というのはあまり好きではないのだけれど、どの世代でも、先行世代において支配的だった「作法」のようなものに対して集団的に反発するということはあると思う。

私は「全共闘世代」に類別されるが、次の世代は「しらけ世代」、その次は「新人類」と呼ばれた。その後はどうなったのか、よく知らないけれど、たしかに世代的な特徴というものはある。  

ある新聞の取材で「どうして今の若い人たちはこんな政治の現状に抵抗しようとしないのでしょう?」と質問されて、「空虚感を抱えたイエスマンだから」という答えがふと口を衝いて出て、言った自分で「なるほど、そうか」と妙に腑に落ちた。
「空虚感を抱えたイエスマン」というのは、わりと適切に今の20代30代の多数派の心性を言い当てているように思う。

イエスマン、事大主義者、曲学阿世、「野だいこ」の徒輩はいつの時代にも一定数いる。別に珍しい生き物ではない。けれども、イエスマンが多数派を形成するということはふつうはめったに起こらない。諫言することを恐れない硬骨漢から「下らん奴だ」と見下されるのが、けっこう本人にはつらいからである。イエスマンはそこそこ出世はするが、めったにトップには立てないし、同僚や後輩から信頼されたり慕われたりすることもない。だから、イエスマンは長期的には「間尺に合わない生き方」というのが世の常識であった。

ところが、どうもそれが覆ったようである。イエスマンが主流を占めるようになったのである。それは「空虚感を抱えた」という形容詞がくっついたせいである。
 「虚しい・・・」と言いながら、現状を追認し、長いものに巻かれ、大樹の陰に寄るのは、ただのゴマすり野郎とは違う。むしろクールでスマートな生き方だということを言い出す若者たちがわらわらと出て来たのはおよそ10年ほど前のことである。

社会のシステムは劣化し続けているが、このシステムの中以外に生きる場がない以上、その「劣化したシステムに最適化してみせる」他にどうしようがあるというのだ。そう暗い眼をして嘯く虚無的な青年は、上にへらへらもみ手するイエスマンよりだいぶ見栄えがいい。見栄えがいいと、フォロワーが増える。「こんな糞みたいなシステムの中で出世することなんか、赤子の手をひねるように簡単だぜ」という虚無的に笑ってみせると、額に汗し、口角泡を飛ばしてシステムに正面から抗っている愚直な「左翼」とか「リベラル」とか「人権派」より数段賢そうに見える。だったら、そっちの方がいいか。

出世や金儲けはともかく、「スマートに見えるかどうか」ということはいつの時代でも若者たちにとって死活的な問題である。というわけで、「ただのイエスマン」ではなく「身体の真ん中に空洞が空いたようなうつろな顔をしているイエスマン」が輩出することになった。

原発が時代遅れのテクノロジーだとは熟知しているが「それ以外に何か経済合理性にかなう代案があるとも思えぬ」と苦笑し、日銀による官製相場が毒性の強い政策だと知りつつも「国民の税金をオレの個人口座に付け替えてくれるなら安倍=黒田体制にはできるだけ長く続いて欲しい」と嘯く。この世界がろくでもないものであることをオレはよく知っているし、オレは誰よりこの世界を嫌っているけれども、それはこの腐った世界のシンプルな仕組みから自己利益を引き出すことを止める理由にはならない。

最初のうちは「変なのが出て来たな」と思っていたが、そのうちに「ああ、これが当今の風儀なのか」と気がついた。

そう言えば、ドナルド・トランプというのはその典型だった。彼はリバタリアンだから、兵役を忌避し、連邦税の支払いも拒んだ。公共のために私財や私権を犠牲にする気はないけれど、公共のものを私するにやぶさかではない。そういう生き方がクールでスマートに見える時代になったのだ。

ある種の「ポイント・オブ・ノーリターン」を通過してしまったらしい。
この軌道がこの先どこへ続くのかは、私には想像がつかない。
http://blog.tatsuru.com/2018/12/08_1936.html

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165. 中川隆[-13755] koaQ7Jey 2018年12月10日 16:31:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21892] 報告
帝国主義時代、宗主国(※日本除く)側にとって最も恐ろしい事態とは何だったでしょうか。それは、植民地の住民が「連帯」し、自分たちに歯向かうことです。 


 何しろ、植民地に滞在している宗主国側の人間は、絶対数で勝てません。植民地住民が手を組み、一斉に襲い掛かってきた日には、間違いなく皆殺しにされます。


 というわけで、英蘭仏米といった帝国主義諸国は、植民地の住民に教育を与えず、言語的な分断を推進し、情報の共有を防ごうとしました。併合(植民地ではありません)した元・他国の住民に教育を与え、学校を建てていったおひとよしは、日本人だけです。


 欧米諸国は、植民地住民の連帯を防ぐため、部族同士の争いを煽り、さらにはイギリスのミャンマー支配のように、中印の人々を「間に挟む層」として導入。直接的ではなく、華僑や印僑を通じての支配を進めました。


 そうすることで、植民地住民の怒りは自分たちではなく、中国人やインド人に向かうわけです。


 さて、現代の帝国主義であるグローバリズム(第二次)において、グローバリストが最も恐れることは何でしょうか。帝国主義時代から同じです。国民の連帯です。


 何しろ、民主主義の世の中でございますので、敵対勢力(ナショナリズム、経世済民派)に多数派を形成されると、グローバリストは絶対に勝てません。民主主義は、グローバリズムの天敵なのです。


 だからこそ、グローバリストはマスコミを支配することで、グローバリズム推進の世論を作り、さらにロビイストや政府の諮問会議(規制改革推進会議など)の民間議員と称する民間人を活用し、政治に影響を与えようとするのです。


 さらに重要なのは、反グローバリズム勢力を「分断する」ことです。


 何しろ、民主主義の世界では、多数派を形成できなければ勝ち目がありません。そして、反グローバル派に多数派を作らせないためには、些細なイシューで揉めさえ、分断するのが有効です。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12424927467.html


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166. 中川隆[-13568] koaQ7Jey 2018年12月22日 14:35:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

アメリカの大学の裏側 「世界最高水準」は危機にあるのか? (朝日新書) – 2017/1/13
アキ ロバーツ (著), 竹内洋 (著)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022737034/dot_asahi-22/


大学崩壊? 授業料高騰と人文系学問の消滅…すでにアメリカが迎えている危機とは 2018.12.5
https://dot.asahi.com/dot/2018120400028.html?page=1


連日多くの観光客が訪れるハーバード大学の授業料は年間600万円近くにも上る (c)朝日新聞社


 アメリカではすでに問題となっている、大学の授業料高騰。日本の大学も危機的状況にあると、現役のアメリカ大学教授であり、竹内洋・関西大学名誉教授との共著『アメリカの大学の裏側』(朝日新書)を出版したアキ・ロバーツさんは警鐘を鳴らす。授業料値上げが引き起こす問題とは? ロバーツさんにご寄稿いただいた。

*  *  *
 先日、日本のテレビ局の取材スタッフがアメリカに住む私のところにやってきた。12月5日放送の『緊急! 池上彰と考えるニュース総決算! 2018ニッポンが“危ない”』(TBS系)で日本の未来にかかわる危機的状況をいくつか取り上げるようで、高等教育がそのひとつだという。

 特に大学の授業料の値上げが近い将来起こることが懸念されているという。日本の大学のモデルとなってきたアメリカの大学での授業料の高騰とその弊害について質問を受けた。昨年刊行した拙著『アメリカの大学の裏側』でアメリカの大学の影の部分にフォーカスしたからか、他の問題点についても聞かれた。

 日本では大学の授業料の高騰はまだ未来の心配かもしれないが、アメリカではすでに起こっている現実問題だ。アメリカの大学の授業料は数十年かけて上がり続け、四年制私立大学の平均年間授業料は3万ドル(約340万円)以上にもなってしまった。これは日本の四年制私立の約4倍にもなる。ハーバードなどの有名私立では、年間600万円近くになるところもある。日本の国立や公立大学にあたる州立大学でも有名大学は授業料が高い傾向にある。例えば、カリフォルニア大学バークレー校の州外学生の年間授業料は400万円以上だ。

 授業料の値上げはさらなる問題を引き起こしている。一番深刻なのは「教育の市場化」である。大学は学生を高額の支払いをしてくれる「お客様」と扱いだし、彼らを満足させることに必死になっている。例えば良い成績の大判振る舞いである。アメリカの成績はA、B、C、D、F(Fは不合格)と上から五段階だが、四年制の大学では半分近くの成績がAであり、授業料の高い大学ほど成績インフレはひどい。

学生募集のために大学は教育とまったく関係のないアメニティーの強化を競い合うようにもなった。1980年以降に生まれたミレニアルズと呼ばれる若い世代は物質的な豊かさに慣れているので、設備の豪華さや快適さを大学選びの基準にしがちだからである。流れるプールつきのスポーツセンターを何十億円もかけて建てる大学もあるし、スキーリゾートが大学内にあるところもある。大学の寮や食堂というと質素なイメージだろうが、アメリカの大学では高級ホテルのようなところが多い。コンシェルジュを備える大学もある。

 大学スポーツ観戦が人気のアメリカでは、スポーツの強豪大学であるというのも大学選びの決め手になる。そのため大学はスポーツの強化にも莫大な資金をつぎ込むようにもなった。このような試みは授業料のさらなる値上げにつながり、結果的に学生にしわ寄せがいく。アメリカの学生ローンは年々増え続けていてついに100兆円を超えてしまった。70パーセント以上の大学生が負債を抱えて卒業するというのが現実である。

 日本でも取り上げられる人文系学問の消滅の危機も、アメリカの大学ではもうすでに深刻化している。これも授業料高騰の弊害のひとつといっていいだろう。卒業後のローンの支払いのために、学生は幅広い教養をつけることより、就職に直結する知識やスキルを学ぶことを要求する。近年ではアメリカの大学の専攻の半分以上が特定の職業につくための実用的な分野で、卒業後の職業が明確にできない伝統的なリベラルアーツの専攻をする学生は年々減っている。

 この他にも入試の点数だけでなく人物の全体像を審査するホリスティック入試の不公正さ、非常勤講師の多量採用など色々な問題が山積みとなっている。学生を惹きつける「売り」のない大学は、新入生が定員に満たず閉校するというケースも増えている。

 日本の大学でも少子化が進むにつれ授業料の値上げや学生争奪戦、それにともなう学生消費者主義の深刻化は避けられないだろう。日本の大学が近い将来直面するであろう「危機」は、日本の大学がモデルとしてきたアメリカの大学の現状を見るとよくわかるのではないか。しかしアメリカの大学の抱えている問題のほとんどが解決の糸口さえ見えていない。日本の大学は何をお手本として高等教育の危機を回避したらいいのだろうか。


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167. 中川隆[-13443] koaQ7Jey 2018年12月26日 13:46:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

2018年12月26日
アメリカの子育て費用 高校まで2600万円、大学で2倍


アメリカで「中間層」より下だとまともな子育ては難しい

アメリカの子育て費用の高さ

日本は子育てに費用が掛かり国は無理解だとされ、比較対象として欧米先進国が理想的に語られることが多い。

先進国の中もアメリカはそうでもないという話があり、2015に誕生した子供が17歳になるまでに2600万円かかる。

この数字は”2012年に生まれた子供”の時は2300万円だったので、3年で300万円増えている。(1ドル110円程度として)




米農務省が2017年に発表した数字は前年より3%増加し、中間所得者層で約23万ドルが必要と書かれている。

米国では中間層の水準がかなり高く総額5万9200から10万7400ドル、日本円で年収650万円から1200万円になる。

実態とかけ離れている気もするが、年収600万円以下の世帯はアメリカでは貧困者扱いになっている。


年収600万円以下の”低所得者”世帯でも子育て費用はあまり安くならず、17歳までに17万ドル以上(約1900万円)もかかる

これは高校までの費用だが、かなり良い大学に通わせるなら17歳までと同額程度の費用がかかる。

日本では大学まで私立だと総額2600万円、ずっと公立だと1300万円ほどとされるがこれは教育費のみです。


アメリカの計算では住居費、食費、交通費、洋服費、医療費まですべて合計している。

純粋な育児教育費だけだと1割か2割にすぎず、半分以上は住居・食費・洋服でかかっている。

日本も育児教育費の他に子供のための住居や食費、洋服代や医療費などで2倍は支出している筈です。

日本の子育て費用も安くない

するとアメリカでは大学卒業まで5000万円以上、日本はずっと私立だとやはり5000万円、ずっと公立で倹約生活なら3000万円程度でしょう。

日本で有名医学部に通って医師になるには4年間で2000万円程度かかり、どのレベルの教育を受けさせるかで大きく違う。

日本で大学に進学せず高卒で働けば2000万円程度ですみ、18年間で割ると年間110万円前後になります。


アメリカでは子供でもアルバイトでお金を稼ぐのが普通だが、日本は大学でも費用をすべて親に払ってもらう人が多い。

しかもアメリカでは大学費用は奨学金(という名の高利貸し)で自分で支払うが、日本では親が払っている。

このように考えると特に日本では、大学進学に伴う親の負担が大きい。


アメリカで「低所得者」として切り捨てられる年収600万円以下世帯では、大学進学は困難だろうと思われます。

それどころかニューヨークの小学生の1割がホームレスで、充分な食事がなく支援を受けている子供が多い。

ちなみにアメリカでは親戚に預けられたり施設に保護されていてもホームレスで、日本とは基準が違う。


アメリカでは高校まで義務教育で、公立だと授業料が無料で自宅学習でも卒業できる。

従って高校までの進学率は高く大学への進学率も高いのだが、低所得者や貧困層は相当ひどいことになっている。

結局アメリカでは年収600万円以下は貧困者とされ、統計すら取って貰えないのです。
http://www.thutmosev.com/archives/78535267.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

168. 中川隆[-13174] koaQ7Jey 2019年1月06日 19:23:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219] 報告

2019年01月06日
ITめぐるピント外れ議論 IT技術は「軍事技術」の戦争


シリコンバレーは軍事予算獲得のための米軍城下町

学生が自由な発想で自発的に集まったというのは作り話です

引用:http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/e/ebiyann0701/20120723/20120723142512.jpg

日本の敗北はアポロ計画から始まった

世界のIT企業は全てアメリカに集中していて、最近は中国企業も伸びてきている。

欧州はそこそこで日本はというと周回遅れで競争になっていないというのが定評です。

この状況は多くの日本人が危機感を持っているらしく、日本はどうしてIT先進国になれなかったかという分析が盛んです。


日本の企業文化とか政府の政策、日本人の国民性や学校教育などあらゆることで「日本は劣っている」と指摘されている。

だが米国の巨大IT成立の過程を見ると、話しはケネディのアポロ計画に遡り、さらに第二次大戦までさかのぼる。

米IT企業のほとんどはシリコンバレーで起業したが、シリコンバレーは米軍の城下町で、軍事研究の下請けが盛んでした。


第二次大戦中に米軍はハーバード大学にレーダー無力化の研究を依頼して「アルミホイルを撒く」という単純な解決法を編み出した。

単純だがこの方法は現在も世界中で使用されていて、民間軍事研究の先駆けになった。

この時の研究所RRLの指揮をとっていた人物がスタンフォード大学教授になり、教え子がヒューレット・パッカードを創設しました。


米軍の補助金を得るために軍事企業が次々に進出し、スタンフォード大学を取り巻くようにシリコンバレーが形成された。

シリコンバレーが科学の中心になったのは1961年から1972年のアポロ計画で、ついに月面に人を送り込んだ。


アポロ計画のためにコンピュータやOSが開発され、50年以上に渡ってIT研究の中心地になっている。

IT技術はその国の軍隊がいくら金をつぎ込んだかで勝敗が決まる「金の戦争」


140709-apollo-11-liftoff-composite1
画像引用:https://timedotcom.files.wordpress.com/2014/07/140709-apollo-11-liftoff-composite1.jpg


IT先進国は全て軍事国家

つまりIT技術とは1に軍事研究と軍事予算、2に宇宙開発と宇宙予算、金を求めて集結した企業群が米IT企業群を形成した。

ビルゲイツやスティーブジョブズの大学には学生が当時最先端のコンピュータを無制限に使えるようになっていた。

それだけでなく彼らの大学には世界最先端のコンピュータ技術者が教授や職員として働き、学生らは無料で世界最先端の指導を受けた。


問題はどうしてそのような環境があったのかで、当時アメリカの大学は米軍の軍事研究やNASAの宇宙開発の下請けをしていました。

米軍やNASAは毎年莫大な補助金を大学にばらまき、この金を求めて優秀な技術者や教授が大学に集まりました。

すべては「軍事研究」と「金目当て」で日本の研究者がいうような自由とか想像性とは無関係です。


アメリカの軍事費は年70兆円以上でNASAの宇宙予算は2兆円以上、対する日本の防衛費は5兆円で宇宙予算は3000億円以下とされている。

仮に米軍とNASAが予算の0.1%をIT研究に回したら800億円、それを50年間続けたら4兆円、もし軍事費の1%をIT研究に回したら50年間で40兆円になります。

最近ITで急速に進歩している中国の軍事費は日本の2倍以上で、他にIT研究費としてかなりの支出をしている。


ロシアもソ連時代から軍事技術には金をかけていて、欧州もEU全体としては大きい。

IT技術とは軍事技術であり、軍事研究費をいくら使ったかでIT技術の成果が決まります。

日本の知識人が言っている教育制度だの創造性だのは、平和ボケで寝ぼけているとしか思えない。
http://www.thutmosev.com/archives/78640333.html


とにかく、学生が優秀でも優秀でなくても、大学に金さえ滅茶苦茶ばら撒けば学問が発達するという事ですね。

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169. 中川隆[-13011] koaQ7Jey 2019年1月14日 07:52:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22222] 報告

ゆとり教育の成果で日本人はここまで幼児化した:


重度の「ひきこもり」は、親が死んで腐っても何もできないほど悲惨だ2018.12.28
https://blackasia.net/?p=10704

2017年12月、札幌市中央区の築40年のボロボロのアパートの1階でふたりの遺体が見つかった。このアパートの一室に住んでいた母娘の遺体だった。母親は82歳。娘は52歳。母親が先に栄養失調で亡くなり、次に娘が餓死していた。

52歳の娘は20代からずっと「ひきこもり」で、母親の年金に寄生してひっそりと生きていた。

母親が室内で栄養失調で死んでも、52歳の娘は誰にも助けを求めなかった。救急車にも警察にも電話をしなかった。電話がないのであれば、ドアを開けて隣の人に「母親が死んだ」と伝えれば保護されたはずだ。

ところが、彼女はそれすらもしなかった。彼女はどうしていいのか分からず、死んだ母親を放置したまま部屋にこもり、やがて自分も栄養失調で餓死してしまった。

冷蔵庫は空っぽで、床にはお菓子の袋が散乱していた。調味料も空っぽになっていた。口にできるものはすべて口にして餓死してしまったのだ。

ところが、である。

部屋には現金が9万円残されていた。金が一円もなかったわけではない。彼女はそれを持って外に出て買い物をすれば食べ物を買えたのだ。しかし、彼女は部屋にひきこもったまま餓死してしまった。(鈴木傾城)


母親が腐っていくのを見ても何もしなかった

2018年8月。アパートで異臭がするという匿名のメールが寄せられて警察官が調べたところ、長崎市小島2丁目の小さなアパートの一室で76歳の女性が死んでいるのを発見した。そして、死体と同居していた48歳の息子が死体遺棄で逮捕された。

この48歳の息子は「ひきこもり」だった。母親の年金で細々と暮らしていたのだが、アパートのまわりには大量のゴミを放置して近所トラブルになっていた。部屋の中もゴミだらけで76歳の母親はゴミの中に埋もれた状態で死んでいたのだった。

この48歳の息子は、母親が死んでもやはり警察にも救急車にも連絡せず、近所の人が匿名でメールをするまで何もしなかった。

2018年11月5日。神奈川県金沢区の団地で49歳の男が死体遺棄容疑で逮捕されていた。この男は76歳の母親と一緒に暮らしていたのだが、母親が死んだのを2周間近くも放置して、ただ自宅にひきこもっていた。

この男には妹がいたのだが、妹に連絡を取ることもなかった。団地に住んでいたのだから、やはりドアを開けて隣の人に助けを求めればいいだけなのに、それもしなかった。この男は一度も働いたことがなかった。ずっと母親が面倒を見ていた。

母親が台所で倒れて死んだので、男は母親を部屋に運んだ。3日もすると腐敗臭がするようになったので、男は母親の鼻や口にティッシュを詰めた。

それから2週間、母親が腐っていくのをじっと見つめて何もしなかった。

この男は40年間ひきこもって誰とも話せなくなってしまっており、警察とも筆談でやりとりしなければならないほどひどい状況だった。その筆談の中で「母が死んだのは分かったが何もできなかった」と話した。

2018年12月26日。千葉市稲毛区で71歳の母親の遺体を10ヶ月も放置していたとして45歳の男が逮捕されていた。母親の遺体は白骨化していたが、白骨化するまでこの45歳の息子は何もしなかった。

この男もまた「ひきこもり」だった。

自分が餓死するとしても何もしない

「ひきこもり」の子供を抱えて、年老いた親が限界に達して子供を残して死ぬ。何もできない40代、50代の子供が後に残される。

こうした「8050問題」が日本のあちこちで次々と起きている。(ブラックアジア:親が高齢化して、ひきこもった子供の面倒を見ることができなくなっている)

失業、退職、挫折などで社会から逃げるように部屋にひきこもり、それを親が面倒を見る。10年経ち、20年経ち、やがて30年経つ。親は歳を経て動けなくなる。しかし、ひきこもりの子供はまったく何もしない。

社会に出て仕事をしようとする気力があるかないかの前に、あまりの長いひきこもりのせいで、もはや「何もできない人間」と化してしまっている。

その「何もできない」という度合いは私たちが考えている「できない」とはレベルの違う次元にある。本当の意味で「まったく何もできない人間」になってしまうのである。それが究極的な事件として現れているのが「死体遺棄」だ。

自分を養ってくれている唯一の存在である親が死ぬ。目の前に遺体がある。普通の人であれば、その瞬間に警察に電話するとか救急車を呼ぶとか、隣近所に助けを求めるとか、自分にできることを何とかしようとする。

ところが「まったく何もできない人間」は、本当に何もしない。助けを求めるというのはすべて外界と接触するということなので、それができないのである。

どうするのか。最後の最後まで何もしない。親の亡骸が腐り始め、凄まじい異臭を放つようになっても何もしない。途中で外の誰かが気づくと死体遺棄で逮捕されるのだが、そうでなければどうなるのか。自分が餓死するとしても何もしない。

それほど何もしない。いや、何もできない。数十年も社会と断絶し、接点が親だけになってしまった「ひきこもり」の救いのなさがここにある。

何もしない方向に自らを最適化

「ひきこもり」を許すというのは、子供の人生を破壊するばかりか、親の人生をも破壊することになる。

ひきこもりが長くなればなるほど、そして社会と断絶すればするほど、子供は人生がゆっくりと台無しになっていき、やがて回復不能になってしまう。

そういった意味で、ひきこもりを許すのは「子供を破壊する親の犯罪」であるとも言えるし、逆にひきこもるのは「親を破壊する子供の犯罪」であるとも言える。

親は何としてでも子供を自立させなければならないし、子供は親から自立しなければならないのだ。

親が子供の面倒を見てもいいのは子供が学業を終えるまでだ。社会に出た子供は家から放り出さなければならない。たとえ、子供がどんなに可愛くても自分の手元に置いておくというのは間違いなのである。

逆に子供が親に甘えてもいいのは社会に出るまでだ。社会に出たら、子供は親の家から出なければならない。どんな事情があったとしても、社会に出ても親の家から出ないというのは真に自立していることにならない。

自分が何もしなくても親が何かしてくれるようになると、子供はやがて何もしない方向に自らを最適化させていく。

中途半端に何かできるようになると「やればできる」と見なされて、家から放り出される危険がある。しかし、まったく何もできなくなると、逆に親が「この子を放り出したら餓死してしまう」と思うようになって至れり尽くせりで面倒を見る。

そうすると、ますます子供は自発的に何もしなくなる。何もできないことに最適化するというのはそういうことだ。何もできなくなればなるほど親が面倒を見てくれるので、何もできなくなる方向に成長する。

そうなれば、終わりだ。

最後には本当に何もできなくなってしまい、親が死んでも警察を呼ぶことも救急車を呼ぶこともできず、腐っていく親の亡骸と共に暮すことになる。重度の「ひきこもり」は、親が死んで腐っても何もできないほど悲惨なのだ。

今後、こうした「何もできないひきこもり」が大量に問題を起こす。そうした時代に日本は入っていくことになる。(written by 鈴木傾城)
https://blackasia.net/?p=10704  



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親が高齢化して、ひきこもった子供の面倒を見ることができなくなっている2018.12.22
https://blackasia.net/?p=10639 ひきこもり, 格差, 貧困

「8050問題が深刻化している」と、現場から声が上がるようになっている。8050問題とは何か。それは「80代の高齢化した親と50代のひきこもりの子供の共に困窮化し、共倒れになる問題」を指す。

1990年のバブル崩壊後、この頃の若年層は未曾有の就職氷河期にさらされ、うまく仕事を見つけることができなかった。

(ダークネス:1971年〜1974年生まれは、自分たちは過酷な時代に生きる世代だと認識せよ)


彼らの一部は仕事をするのをあきらめて、そのまま「ひきこもり」となっていった。そして、30代や40代になっても彼らは依然としてひきこもったままだった。そのひきこもった子供を親が面倒を見ていた。

しかし今、その親も高齢化して貯金も使い果たし、親子共に困窮化し、共倒れになりそうになっているのである。

これが「8050問題」と言われている。「7040問題」と言われることもある。これも構造的には同じで「高齢になった70代の親とひきこもる40代の子供」の困窮の問題だ。

本来であれば子供が親の面倒を見なければならないはずなのだが、ひきこもる子供は何もしない。最後の最後まで親に依存したままだ。そして、次々と事件が起きるのである。(鈴木傾城)


完全に「生活無能力者」になった子供たち

兵庫県明石市二見町で、76歳の母親が49歳の長男に殴り殺された事件があった。この長男は仕事もしないで家の中でぶらぶらして過ごし、母親の年金に寄生して生きていた男だった。

早い話がこの男も「ひきこもり」だった。働こうとせず、自立しようともせず、ただ老いた母親にすがっていた。それならば母親に恐縮して大人しくしているべきだが、それもない。母親を奴隷か家政婦のように思っていた。

この49歳の働かない息子は「食事を作らなかったので腹が立った」ので、76歳の母親の顔を拳で殴った。

働かないでぶらぶらしている息子が食べさせてもらっている母親を殴るのだから、頭がどうかしている。結局、それが元で母親は死亡した。

ところで、その1ヶ月前にはよく似たような事件があった。

奈良県香芝市で起きた事件だったが、81歳の母親の年金に寄生して生きていた55歳の男が、死体遺棄の疑いで逮捕されていたのである。

81歳の母親が台所で倒れて死んだのだが、55歳の無職の息子はそれをそのまま5日間放置して暮らしていた。

この男も完全にひきこもって母親に食べさせてもらっている子供だった。55歳にもなってずっと無職で社会から縁が切れていた。そして、死んだ母親をどうしたらいいか分からずに5日間も放置していたのだった。異常極まりない。

この55歳の男は、あまりに長いひきこもりで完全に「生活無能力者」になっていたことが分かる。実は、何をどうしたらいいのか分からずに逃げたという事件は大阪市西淀川区でも起きていた。

81歳の母親が布団の中で死んでいたのだが、無職の51歳の男は「どうしたらいいのか分からなかった。動転した」として、放置したまま逃げていた。

これが「8050問題」である。完全に「生活無能力者」になった子供たちの姿がここにあるのが見えてくるはずだ。


気が付けばひきこもりになっていった

日本は1990年のバブル崩壊を経て、急速に就職口が減っていったのだが、それが深刻化したのが2000年代に入ってからである。

企業は正社員として若者を採用するのをやめて、どんどん非正規雇用を増やしていった。それによって若者たちは安い給料で時期が悪ければすぐに見捨てられる「使い捨て要員」にされてしまった。

最初から仕事が見付からないまま、親に面倒を見てもらうしかない若者がまずひきこもり化し、次に非正規雇用で働いていて契約が切れて新しい職場が見付からない若者がひきこもりになっていった。

日本経済はバブル崩壊の痛手から抜け出せず、2006年以後は政治の混乱も重なってますます若者を追い詰めることになった。

不幸だったのは、この混乱をさらに加速させる民主党が2009年から2012年まで政権を取ったことだ。日本史上、類を見ないまでの無能政党と言われた民主党は、異常な円高を放置して日本企業が破滅していくのを知らん顔をして見ていた。

そのため、雇用環境はさらに悪化して、若者の貧困は決定的になってしまったのである。最初は正社員になれれば何とか勝ち組だと言われていたが、やがてその正社員ですらもリストラで放り出される時代が到来した。

そんな厳しい社会の中で、次の仕事が見付からない若年層も中高年も次第に心を病んでいき、気が付けば一部がひきこもりになっていったのだ。

20代のうちに生活を成り立たせる仕事や収入を得ることができず、そのまま親に依存したまま30代を迎えた人たちが40代に入った。この頃から親の高齢化と重なって「7040問題」となり、それがより進んで「8050問題」になっている。

依存して生きる方法は正しいのかどうか

ひきこもりになって社会の接点を失うと、年齢がいけばいくほど社会復帰は難しくなる。まったく働いたことのないまま30代や40代になった無経験・無資格の人間を雇う企業はなかなかない。50代に突入したら、ほぼ絶望的だ。

そのため、ひきこもりになった子供が親が高齢化したからと言って何かが変わるわけではない。仕事を探すこともないまま、親が死んでしまうまで親の家の一室にひきこもっているのだ。

こうした環境にいる40代、50代のひきこもりが少なくとも60万人から100万人の規模で存在する。

親としては厳しい社会に叩きのめされている我が息子を必死で守ってきたと考えているのかもしれないが、結局は何もできない子供になって行き着く先は「親子共倒れ」の世界なのである。

親は子供を突き放すべきだった。本当に子供を愛し、子供を守りたいと思っているのであれば、子供を自立させる以外に方法はない。

本当に子供のことを思っている親は、恐らく親を頼ってくる子供を突き放す。それは非情に見えるかもしれない。しかし、その非情は大きな目で見ると正しいことだ。

寄生させないというのは、親にとっても子供にとっても正しいことなのである。人はいずれ自立して生きていかなければならないのだから。

8050問題はいずれは親の死によって、また次の問題となる。それはひきこもったまま生活無能力者となった人間をどうするか、という問題だ。

彼らは自分で生きることができない。ひとりで何もできない。そのため、結局は私たちの税金で彼らを養い、死ぬまで面倒を見ることになる。子供を自立させなかった親の後を継いで……。(written by 鈴木傾城)


厳しい社会環境の中でひきこもりになった子供たちがいる。それを高齢化した親が支えきれなくなって「8050問題」が深刻化している。彼らは自分で生きることができない。ひとりで何もできない。
https://blackasia.net/?p=10639

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2016年 12月 17日
やはりこの国は随分と壊れて来ました

最近のニュース見ていると、誰もが異常さを感じていると思います。例えば、毎日起こる身勝手な殺人事件。ストーカー殺人や親の子供いじめ。母親が娘をわざわざアレルギーを起こさせる事件。福島から疎開している子供達に対する卑怯な差別。学校で起こる信じられないような劣化した教師の言動。

逆行するのは、老人ばかりではありません。問答無用に沖縄の訴えを門前払いをする最高裁。意味の無いTPP法案の承認、突然出て来たカジノ法案の強行採決。22兆円もかかる福島の廃炉費用の電気料金への上乗せ。東京電力の誰も責任を問わない司法判断。放射能が下がらないのに通行させる高速道路。福島の反省が全く見えない原発の再稼働。訳の分からない東京ガスの汚染土壌への魚市場の豊洲市場への移転。一週間も使わないオリンピック会場の百億円単位の会場設備。理由さえつけばばらまきを続ける公共事業の利権。

電車にのれば会話も全くなく、10人に8人は携帯で、メールやゲームをしている不気味に静かな車内。しゃべっているのは圧倒的に増えた外人観光客ばかり。レストランで会話も無く、黙々と別々にメールを送っている恋人達。道を歩いても、自転車に乗っていても、乳母車を押していても、携帯をやりながらです。夜の公園にひたひたと押し寄せてくるポケモンに夢中な老若男女。ゾンビの集会かと思いました。孤独を恐れるのか、何万人も集まり盛り上がるコンサートやスポーツイベント。評判を読ければ、何百万人も見に来るアニメ映画。夢中になれる物を探している若者。

日本中どこに行っても同じコンビニとスーパーとファミレスの同じ食事。消毒ばかりを気にするお客と食中毒を怖がるあまり、過剰な殺菌をするレストラン側。鳥インフルエンザが発生するたびに起こる、数十万単位のホロコースト。いつかは必ず発生する巨大地震と数分で襲ってくる大津波。大都市の地下空間の壊滅。いつ発生するかわからない活断層の上の原発。スーダンまで飛ばされる自衛官・・・・

こんなに、不安が蔓延しているのに、正しい道を示せず、空虚で実のない言葉を繰り返す、ぶつぶつに細切れになった首相の言葉。外遊ばかりは山ほど行くけど、国内、沖縄や福島には行かない政府首脳。そして、政権与党の思考を失った厚かましさ。自民党は自浄作用を失い、連立パートナーに根幹を押さえられています。対決するはずの野党のひ弱さ。大阪の知事の沖縄の警官の暴言に対しての助長発言。

極めつけは決して三権分立していない国家体制。最高裁が存在しないかのような、自らの立場を放棄した最高裁。高齢による退位もままならない象徴天皇。それに対し反対をする参考人たち。だからといって、日本は決して大統領制には馴染まないのは、今までの知事の貴族のような経費の無駄図解を見れば分かります。それを助長しているのが地方公務員の特権意識です。このような状態が続くと、極端な意見をいうポピュリズムの政治が台頭してくるのです。今の世界の流れを見るとそれが一番恐ろしいことにつながります。


戦後70年間、我々の年代は、奇跡のような平和の時代を過ごしてこられてきました。そして前期高齢者になって何年か経ちました。私自身はまだ仕事をしているので、年金にはご縁がないのですが、周りの公務員や大企業にいた友人を見ると、大企業や公務員の退職金や年金の格差を実感しますね。生活のレベルの差が拡大していきます。

それでも、時間ができたので、足腰が元気なら山登りや旅行に行く人も増えているのもうなずけます。車で、ゆっくりと日本の温泉を回っている人も多いとききます。余裕があれば、美味しい料理を出す旅館巡りも楽しいでしょう。しかし私達の年代の人は、生まれ育った環境が終戦後の貧しい時代だったので、それが身についていて、最近還暦を迎える10歳ぐらい若い人達とは、生活スタイルが違う様に思えます。贅沢をするのに一種の恐れを感じているのです。美味しい物を食べても、一度経験したらそれで充分なのです。

我々の時代は、ワーカホリックと言われますが、仕事は大変ですが、仕事を通じて他の人の役に立っているときが一番楽しいのです。その積み重ねが大事なのだと思っています。今の電車の中でゲームに熱中している人達は、人が作ったゲームの中だけで大切な自分の時間を使っています。自らがおもいこんでいた枠を外して、行動を起こして欲しいと思います。人生は大変なのは当たり前だけど、やればその分必ず何かを得ると言う事を知って貰いたいと思います。お隣の国でおこっている財閥や学歴での格差の拡大は日本でも起こっているし、将来より深刻な事態を引き起こすのではと懸念しているからです。

  
三日前に書いた記事ですが、それからプーチンが来て、北方四島は首相の空振りになって、FRBの金利引き上げも発表されて、大企業は輸出がやりやすいでしょうが、石油はOPECが減産をやめ、円も下がり物価が上がってますますます貧富の差が拡大していくでしょう。戦前のような不景気化が進んで来ました。不安定要素はお隣にもあります。
http://tannoy.exblog.jp/27308527/



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内縁30年…死んだ妻は誰? 無戸籍か、身元分からず 2018年12月16日 06時00分

 福岡県大野城市内で10月、アパート一室に内縁の妻の遺体を遺棄したとして、死体遺棄容疑で男が逮捕された。妻は「ユミコ」と名乗り、一時は仕事もしていたが、県警が調べても身元を特定できなかった。免許証や住民票もなく、「無戸籍状態」だった。30年連れ添った男も「今となっては、妻がどこの誰だったのか分からない」と話す。

 男は住所不定、無職奥田義久被告(74)。起訴状によると、昨年10月下旬ごろ死亡した氏名不詳の女性(妻)の遺体を遺棄したとされる。一部白骨化し、死因は分からなかった。

 被告によると、妻とは33年前、北九州市戸畑区にあったキャバレー「太陽」で出会った。妻には4歳ぐらいの子どもがいたが、数年後に駆け落ちしたという。妻の言う通りなら1963年11月27日生まれで、死亡時は53歳だった。

 春日署は、キャバレー関係者や区役所に聞き込むなど「手は尽くした」(署幹部)。キャバレー関係者は「似た人がいたかも」と話したが、身元は特定できなかった。取り調べの最終日、捜査員は被告にこう声を掛けたという。「奥さんのことは分からなかった。ごめん」

   ◇    ◇

 福岡拘置所(福岡市早良区)で今月11日に被告に面会した。

 被告は淡々と半生を語った。2人は大野城市に移り、パチンコ店に住み込みで働いた後に、事件現場のアパートに引っ越した。妻は「奥田ユミコ」として食品加工会社などで働いた。給料は妻の銀行口座に振り込まれていた。不可解なことは多かったが「詮索はしなかった」。

 一昨年ごろ、妻は仕事を辞め、被告の年金で暮らしていた。妻は一度も病院に行ったことはなかったが、昨年、目が少しずつ見えなくなり衰弱していった。ズボンや下着を脱がせてあげないと用も足せなかった。

 病院に連れて行くため「昔の住所を言ってくれれば身分証作ってくるけぇ。借金してもいい」と何度も説得した。だが、かたくなに拒まれた。

 その年の10月下旬。野菜ジュースを飲ませると「あぁ、おいしい」とつぶやいたのが最期になった。冷たくなった妻を前に「頭が真っ白になった」。遺体をベッドに移して消臭剤を置き、そのまま暮らした。大家には「妻は実家に帰った」とごまかした。

 アパートの取り壊しに伴う退去期限が迫った今年9月末、遺体を放置して逃げた。「30年も一緒にいた。嫌いになってしたわけではない。『わかってくれ』という気持ちだった」

 妻は一体誰だったのか−。捜査関係者は「無戸籍だったとは思うが、妻がうそをついていたかもしれない。真実は分からない」と話す。17日、福岡地裁で被告の初公判が開かれる。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/473413/


   ◇    ◇


妻の遺体放置の男に判決 身元知らぬまま30年 福岡地裁
12月26日 11:32毎日新聞

 福岡県大野城市の自宅アパートに内縁の妻だった女性の遺体を放置したとして死体遺棄の罪に問われた無職、奥田義久被告(74)に対し、福岡地裁は26日、懲役1年、執行猶予3年(求刑・懲役1年)の判決を言い渡した。女性の身元は不明で、奥田被告は駆け落ちして30年以上連れ添ったが、本名を知らないままだった。国分進裁判官は「あなたのできる範囲できちんと供養してあげてください」と説諭した。

 判決や奥田被告の供述などによると、奥田被告は1978年ごろキャバレーで女性と知り合い、駆け落ちした。女性は「由美子」と名乗ったが、身元を知らないまま同居した。

 女性に本籍地を聞いても教えてくれず「籍を入れよう」と持ちかけても拒まれた。過去に触れられるのを嫌がったため、奥田被告は関係が壊れることを恐れて詮索しなかった。女性は食品加工会社などに勤めたが、勤務先からマイナンバーカードの提出を求められ、戸籍がないことを理由に退職。その後は奥田被告の年金で暮らしていたという。

 女性は昨年9月に体調を崩して寝たきりになったが病院に行くのを拒み、同10月に死亡。奥田被告は「戸籍がない女性と長年暮らしたことが問題になる」「戸籍がないと火葬できない」などと考えて死亡を届けず、朝晩に線香をあげて暮らした。今年9月にアパートが解体されることになったため逃げ出した。

 事件発覚後の捜査では女性の身元を特定できず、戸籍がなかった可能性もある。判決の事実認定でも女性は「自称・奥田由美子、氏名不詳」と述べられた。

 国分裁判官は「長年連れ添った女性が死んだのに公的機関に相談せず1年近く遺体を放置した動機に酌むべき点はないが、事実を認めて反省している」と述べた上で、奥田被告に女性への供養を求めた。奥田被告は「はい」と答えて頭を下げた。
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20181226k0000m040063000c.html


5. 中川隆[-13252] koaQ7Jey 2019年1月01日 18:23:09: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告
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「本当の世界はゲームの中」衰弱死1歳児の母親
1/1(火) 14:37配信 読売新聞


 親が、子どもに食事などを与えない育児放棄(ネグレクト)が深刻化している。警察庁によると、今年上半期の児童相談所への通告人数は過去最多の3795人で、4人の子どもが命を落とした。1歳の息子への保護責任者遺棄致死罪で懲役6年の実刑判決を受けた母親は拘置支所で読売新聞の取材に応じ、オンラインゲームが原因だったことを明かした。

 「本当の世界はゲームの中。現実世界は偽物だった」

 埼玉県桶川市のマンションの一室で昨年10月、1歳1か月の山辺晴(はると)ちゃんが衰弱死した事件で、今月14日に保護責任者遺棄致死罪で懲役6年の実刑判決を受け、期限までに控訴せず29日に刑が確定した母親(25)は取材に対し、そう話した。

 幼い頃から転校が多く、友人はほとんどいなかった。中学2年の頃からオンラインゲームを始め、家に引きこもりがちになった。

 2013年1月、オンラインゲームで知り合った夫(25)(懲役6年の実刑判決)と結婚し、3人の子どもが生まれた。

 自宅で四六時中、出会い系サイトやゲームに興じる夫の姿を見て、「自分もゲームにもっと時間を使いたい」と思うようになった。日中はスマートフォンのゲームをし、夜中に子どもたちが寝静まると一人で近くの実家に行き、パソコンでオンラインゲームをした。

 ゲームで知り合った人とチャットでやり取りをするようになると、スマホが近くにないと不安を感じるようになった。部屋の床にあった子どもたちの排せつ物も片づけずに放置した。

 生活は昼夜逆転し、食事を作るのもおっくうになった。4歳の長男と2歳の次男は冷蔵庫から自分で食料をあさって食べたが、1歳だった晴ちゃんには泣き叫んだ時にだけミルクを与えた。ゲームに課金しすぎて、ミルクを薄めて飲ませたこともあったという。晴ちゃんの死亡時の体重は約4キロで、標準体重の4割程度に痩せ細っていた。

 母親は、当時の心境について、「育児を誰も助けてくれず、心がぱんぱんだった。いつの間にかゲーム上の友人とのチャットの方が子どもより大切になっていた」と話した。



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これ読めば、自分のどこが逝かれてるか良くわかるよ:


ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html

ダメダメ家庭 カテゴリー分類総目次
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/mokuji/sougoumokuji.htm

映画とクラシック音楽の周囲集
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/index.html  


音楽・映画関係の超有名サイトでしたが、東北大震災後に更新が途絶え、リンク切れになり、ミラーサイトでだけ読める様になってしまいました。

消えない内に早くコピーを取って残しておいた方がいいです




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

170. 中川隆[-13010] koaQ7Jey 2019年1月14日 07:57:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22222] 報告
止めようのない中国の勃興を、日本はなぜそれほど苦々しく思うのだろう?
2019年1月11日 Andre Vltchek New Eastern Outlook
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-4b9d.html

 小説の閃きを得ようとして、早足の散歩したものだが、三重県の古い田舎の寺院からほど遠くない所に子供用の美しいブランコがあった。二年前、ブランコが錆び、放置され、手入れされていないのに気が付いた。昨日、ブランコ施設を囲んで、場所を閉鎖する黄色いテープを見た。遊び場を無くすという取り返しがつかない決定が既にされたように思える。

 一日前、豊かな名古屋駅で、贅沢なレストラン街を宣伝する大きな広告のすぐ下で、年がいったホームレスの男が眠っているのに気が付いた。

 約350,000人の住民がいる四日市市では、極めて一部を除く、ほとんど全てのバス路線がなくなった。市のまさに中心、近鉄駅真正面の大理石プロムナードに彫られた、優雅で、ユニークな、輝く十二宮図も消えていた。四日市を、名古屋と、実際ほとんど中部日本全体のために機能しているセントレア国際空港とを接続する湾の高速フェリーは、市の助成金が干上がり、操業停止した。今人々が飛行機に乗るには、湾を巡る有料道路約70キロを、燃料を費やしてドライブし、通行料と空港駐車料金を支払わなければならない。公共地、あるいは稲田だったものは、急速に憂うつな駐車場に換えらつつある。中部でも、遥か南西の長崎市でも、北の根室でもそれは起きている。

 ホームレスがいたるところにいる。急速に価値を失うにつれ、自動車(今日本には一人当たりアメリカより多くの自動車がある)は適切に処分するには多くの費用がかかるので、稲田の真ん中や、かつて美しかった森の端で朽ちている。田舎の村全体が、実際ゴーストタウンに変わり、人口が減少している。国じゅう至る所、錆び、まずい都市計画と公共施設の深刻な欠如がある。

 日本は衰退しつつある。日本は、惰性で、地球上最も金持ちの国々の首位にしがみついていたので、何年も、目を半分閉じて、それを無視するのは可能だった。しかしもはやそうではない。悪化は今や余りに目立っている。

 衰退は、フランスやアメリカやイギリスの一部の地域で目にするほど徹底的なものではない。だがそれは衰退だ。楽天的な、意気揚々とした国造りの日々は終わっている。自動車産業や他の企業は、そのライフスタイルを要求して、文字通り国を共食いしている。小都市では、運転者は、もはや横断歩道の歩行者に配慮しない。都市計画者にとっては、自動車が最優先で、一部の都市計画者は、自動車業界から賄賂を得ている。多くの場所が今や自動車以外では行けない。ほとんど何の公共運動具もなく、新しい公園もない。最も洗練された食物生産を誇りにしていた日本は、今や健康に良くない食料だらけの、いくつかのコンビニエンスストア・チェーンに完全に圧倒されている。

 何世代もの間、人々は、繁栄する、強力な、社会的に均衡した日本を築くため、彼らの暮らしを犠牲にしてきた。今、国民は、主に強力な企業、要は、大企業を支持するために生きていることは疑いようがない。日本には、独自の別のモデルがあったものだったが、今ライフスタイルは北米やヨーロッパで見られるものとさほど変わらない。日本は歴史上、二度、「世界に開き」(つまり、西側権益と、グローバル資本主義経済に対して)、アジア文化にとって徹底的に異質な概念を受け入れることを強いられた。結果は速やかに現れたが、要するに、徹底的に破滅的だった。

*

 第二次世界大戦後、日本は占領を受け入れなければならなかった。憲法はアメリカによって書かれた。敗北したが、再建し、地球上最も豊かな国々に加わろうと固く決意して、日本は、まず朝鮮への残忍な侵略を支援して(いわゆる「朝鮮戦争」)欧米との協力を始めた。日本は、独立を完全に断念し、欧米全般、特にアメリカの外交政策と区別するのが次第に不明瞭になった外交政策に完全に身をゆだねた。終戦から現在に至るまで、マスコミは東京の政権に支配され、検閲されている。日本の国営放送局NHK同様、主要な日本の新聞は、少なくともアメリカかイギリスの主流放送局の一社が「属」国マスコミが、どのように報じるべきかという基調の例を示さない限り、重要な海外記事の一つたりも、放送したり、掲載したりしないのだ。この点に関し、日本のマスコミは、インドネシアやケニアのような国々のマスコミと同じだ。もし「民主主義」が、人々による支配を意味するなら、日本は確かに「民主主義国家」ではない。伝統的に、日本人は、国に仕えるために暮らしてきたが、おそらく、これはさほど悪い概念ではなかったろう。それは少なくとも大多数にとって機能していたのだ。だが今、国民は、大企業の利益のために、自らの暮らしを犠牲にするよう期待されている。

 日本人は支配者に強奪される時でさえ反抗しない。彼らは衝撃的なほど従順だ。

 日本は衰退しているだけではない。日本は自分の失敗を、伝染病のように広めようとしている。日本は実際、その従順で従属的な外交、国内政策を広め、それを美化している。奨学金を通して、日本は継続的に貧しい東南アジア諸国や世界の他の地域からの何万人もの熱心な学生を洗脳し、知性的に効果的に去勢している。

*

 その間、文字通り「隣の」中国は科学研究、都市計画と社会政策でリードしている。今やその憲法の一部の「生態学的文明」で、中国は有機食糧生産と同様、代替エネルギー源や、公共輸送機関を発展させる上で、日本より遥かに先行している。2020年までに、中国の広大な領土全てで、極端な極貧地域はなくなるだろう。

 中国で、それはすべて共産党の赤旗の下で行われるが、日本の大衆は、それを嫌悪し、拒絶するよう教えられている。

 途方もない中国の決意、熱意、非凡な才能や社会主義精神は、現代日本や、日本を操る欧米支配者連中の、硬直化した、保守的で失地回復論精神と比較すれば明らかに優れている。この対照は実に衝撃的で、慣れない目で見ても極めて明らかだ。

 国際舞台では、日本企業が、国中を略奪し、政府を堕落させている一方、中国は、古き良き共産主義の国際主義的理想で、大陸全体の立ち直りを支援している。欧米は、中国と、その素晴らしい努力をけがすべく最善を尽くし、日本は新しい侮辱さえ発明して、同じことをしているが、真実を隠蔽するのは一層困難になっている。アフリカ人と話をすれば、何が起きているかすぐにわかる。中国を旅すれば、全てが一層明確になる。物事を見ないよう、たんまり金をもらっていない限りは。

*

 学んで、経済、社会システムを完全に変えると決めるのではなく、日本は負けっぷりの悪い国に変わっている。日本は、独立した政策、共産主義の看板の下で成功した中国が嫌いなのだ。人々のために設計された新しい美しい都市を造ったがゆえに中国が嫌いなのだ。地方や、環境を救うべく最善を尽くすことに対してさえ中国を憎んでいる。中国が、政治的に、社会的に、学問的にさえ、完全に独立しているので、中国が嫌いなのだ。

 中国は、欧米学界と裏取引をしようとしたが、ゲームはほとんどイデオロギー的侵入と中国の知的独立崩壊に近い状態に至り、命取りになった。だが少なくとも危険は確認され、欧米による破壊活動は、手遅れになる前、いわば真夜中5分前に素早く止められた。

 日本では、欧米グローバル帝国主義政権への服従と協力が、一種道徳的名誉の印になる。様々なアメリカやイギリス大学の日本人卒業生が、ほとんど地球丸ごと惑星を破壊しているシステムに協力しながら、自分の成功の大きい証明を象徴するかのように、大学卒業証書を額に入れ壁に掛けている。

*

 私はおよそ15年前、中国人観光客が、日本中いたる所で、新幹線のプラットホームに立って、カメラを用意して、夢見ていたのを覚えている。新幹線が通過すると、彼らはため息をついたものだ。

 今、中国には世界で最も大規模な最高速新幹線ネットワークがある。中国の列車は日本やフランスのものより快適で、比較にならないほど安い。皆が旅行できるよう、値段が付けられているのだ。

 中国人女性は、日本のデパート商品を、悲しげに注視したものだった。中産階級は、iPhoneを所有することを夢見ていた。中国人の日本観光客が、日本人と同様、優雅に服を着ている今、iPhoneは贅沢とは思われておらず、実際、ファーウェイや他の中国メーカーは今アップルより良い電話を製造している。

 私は同様に中国人の日本観光客が、近代建築や国際コンサートホールや優雅なカフェやブティックでどれほど感銘を受けたかを覚えている。

 今、北京や上海の文化的生活は、東京や大阪と比較にならないほど豊かだ。中国の近代建築はより立派で、中国の都市と地方両方の生活には、まだ日本での実施からほど遠い新しいアイデアがある。

 日本で公共遊び場が放棄されたり、駐車場に換えられたりしている間に、中国は川や湖地域を埋め、公共地に変え、巨大あるいは小さな新公園を建設している。

 日本の遍在する広告の代わりに、中国では、地下鉄でさえ、社会主義の美徳、団結、深い思いやりと平等について語る機知に富んだ教育的な漫画が多くの幹線に置いてある。エコロジー文明が基本的に至る所で「広告されている」。

 日本人は一層憂うつになるが、中国では確信ある微笑を全ての各段階で見ることができる。

 中国は上昇しつつある。それは止めようがない。中国の経済成長(政府は、もはや実際、余り経済成長に興味を持っていない)ゆえではなく、中国市民の生活の質が着実に向上しているためだ。

 それこそ、本当に重要な全てではあるまいか? 我々は、寛容で近代的な共産主義制度の下で、人々の生活を改善することが明らかに可能だ。人々が微笑えんでいる限り、人々が教養を身につけ、健康で幸せである限り、我々は明らかに勝っている!

*

 一部の人々は、いまだに自然のままの日本の森や湖という魔法のイメージを追いかけている。そう確かに、懸命に探索すれば、そういうものはまだある。喫茶店や木々、素晴らしい小川。だが人は懸命に努力しなければならず、日本の都市も地方も、醜い電線が至る所に架けられ、腐朽した自動車や、奇妙な鉄塔や、手入れされていない公共地で一杯な中、完ぺきな場面を捜して、編集しなければならない。金が貯まる限り、利益がある限り、何でもありなのだ。

 日本人は、この主題に関して、自分たちの感情を、系統立てて説明するのは難しい。だが要約すればこうだ。日本人は、かつて占領し、苦しめた国が、自分たちよりずっとうまくやっていることに落胆を感じているのだ。日本の帝国主義者にとって、中国人は単に「人間より劣る連中」だった。決して明言されてはいないが、日本は、欧米文化と欧米の力だけを尊重していたのだ。今や中国の「人間より劣る連中」は、大洋底を探検し、飛行機を作り、地球上で最高速の列車を運用し、素晴らしい芸術映画を制作している。

 一方、日本は何をしているだろう? 自撮り、ビデオゲーム、ばかばかしい無意味な虚無的な漫画、愚かなソーシャルメディア、創意皆無のポルノや、装飾「芸術」のなだれ、ポップ音楽や大量生産の自動車。日本の人々は意気消沈している。私は日本で30年暮らした経験があり、日本を親密に知っており、日本が好きだ。日本の多くのことが好きだが、明らかにそれが実際崩壊し、変化しているのを目にしているのだ。日本はそれを認めて、変わることを拒否している。

 私はその方向が好きなので、中国と働いている。私は近代的共産党モデル(私は決して「四人組」や、連中のカルトや貧困美化の熱心な支持者ではなかった)が好きだ。まもなく全ての中国人を金持ちにし、虐げられた世界全部を、同様に裕福にするのだ!

 だが、それは日本が欲するものではない。しばらくの間、日本は「独特だ」と感じていた。日本はアジアの唯一の金持ち国だった。欧米に、金持ちであることを許されている唯一のアジアの国だった。アパルトヘイト時代、日本人は南アフリカで「名誉白人」だと定義されていた。それは日本が欧米文化を受け入れたからだ。日本は、征服された国を助けるのではなく、ヨーロッパ人と北アメリカ人と一緒に、世界を略奪することに決めたからだ。色々な意味で、それは一種の政治的、道義的な売春だったが、それはうまみがあった。実にうまみがあった。それでその倫理観は全く論じられなかったのだ。

 今中国は、共産党の賢明な指導体制と、中央計画組織の下で、勇気、努力、人々と、全ての才能で勃興している。まさに、日本人が嫌うよう洗脳されたものの下で。

 これはいらだたしい。恐ろしい。すると、帝国に対する、あらゆる服従や、屈辱やお辞儀は無駄だった野田ろうか? 結局、勝利するのは中国だ。人間性に対して、最も素晴らしい奉仕をしている共産主義だ。

 そう、日本はいらだっている。最近、世論調査では、日本人のおよそ80%が中国人が嫌いだと言っている。

 私は日本のあらゆる地域の人々と話す中、日本人は潜在意識で、何十年間も「負け馬」に賭けていたと感じていると確信している。日本人は、それを言葉で表現するには余りに誇り高い。日本人は、それをじっくり熟考するのを余りに恐れている。だが日本の生活は、少なくとも多くの人々にとって、明らかに無意味で、陰鬱で、憂うつになっている。国が成功裏に非政治化される中、革命は地平線上に見えないままでいる。

 中国は、友人に囲まれ、独立して、自信を持って、建設し、発明し、苦闘し、前進している。

 日本は拘束され、自由を奪われている。日本は動くことができない。日本は、もはや動き方や、抵抗方法さえ分からない。

 それが、日本が中国が嫌いな理由だ!

 Andre Vltchekは哲学者、小説家、映画製作者で調査ジャーナリスト。彼は Vltchek’s World in Word and Imagesの創作者で、Revolutionary Optimism, Western Nihilism含めて多くの本を書ている作家。オンライン誌 「New Eastern Outlook」独占記事。

記事原文のurl:https://journal-neo.org/2019/01/11/why-is-japan-so-bitter-about-unstoppable-rise-of-china/


日本は拘束され、自由を奪われている。日本は動くことができない。日本は、もはや動き方や、抵抗方法さえ分からない。
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-4b9d.html


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171. 中川隆[-12186] koaQ7Jey 2019年2月13日 18:08:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

支援減少、大学は「危機的状況」
ノーベル受賞者らが新団体

2019/2/13 17:44 ©一般社団法人共同通信社


 大学の教育研究活動に対する国の支援が減少傾向にあり、日本の大学は危機的状況に置かれているとして、ノーベル化学賞を受賞した白川英樹筑波大名誉教授や同物理学賞の梶田隆章東大宇宙線研究所長らが13日、大学のあるべき姿を社会全体で考えていくためのフォーラムを設立した。

 国公私立大の教員ら51人が呼び掛け人となり、今後シンポジウムを開催したり、教育研究政策に関する声明を出したりする。東京都内で記者会見した白川氏は

「安易な見返りや成果を求める圧力が学内外で強まり、基礎研究の遂行が困難になったと聞く。高度な教育、高度な研究が衰退する懸念を拭えない」

と強調した。


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172. 中川隆[-12185] koaQ7Jey 2019年2月13日 18:09:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

日本企業が革新されない理由 2019/02/11


数日前、日本の超の付く名門企業が、自分たちの経営について語っているのを読んだ。改革への要請に対する企業側の見解である。その時に思ったのは、「さすが東大卒が固める企業や」と。要請や批判に対して、自分たちの対応とその正当性をそつなく述べる。秀才である。

日本企業が1990年頃を境に、世界的な地位を低下させているのは、この東大卒の秀才のせいではないのだろうか。もちろん、東大卒を責めるつもりはなく、秀才の代表として東大を引き合いに出しただけにすぎない。

要するに秀才は要領がいい。弁が立つ。過去にあった事例を頭に詰め込み、それを上手に引き合いに出す。日本の高度成長期を支えたのも、この秀才である。日本の官僚組織が東大卒で固められていたのは周知の事実であり、その官僚が欧米の事例、つまり過去の経験を手本に、日本経済の羅針盤の役を果たした。

その秀才だが、残念ながら過去に事例のない未来を語れない。育ってきた環境とはまったく違う場所において、拠り所を失うのである。

日本の超の付く名門企業も同じだろう。その企業では東大卒が羽振りを利かせている。彼らが拠り所にするのは、やはり過去である。つまり、既得権益であり、規制である。これらを要領良く守り、時代の要請に応じて少しずつ改変しながら生きている。官僚組織もまた東大卒中心であるので、そことの連絡網も名門企業にとって有利に働いている。

言い換えれば、秀才がやれることは過去の事例の踏襲であり、既得権益や規制を長生きさせ、そこからできるだけ多くの利益を長く獲得することである。
たとえば、何故、日本企業がiPhoneに行き着かなかったのか。ペン先に時計まで組み込んだ日本企業が、計算機に電話を組み込もうと考えるのは当然の流れだったはずなのに。

多分、電話回線が独占されていた社会環境のせいだろう。通信機器を作っていた企業の主要取引先がNTTだったため、それに遠慮したのだろうか。試作しようとしてNTTに持ち込んだが、やんわりと断られたのだろうか。考えてみればNTTも東大卒の組織である。

秀才は無から有を生み出さない。無から有を生み出すのは、天才か異常者かどちらかである。天才も異常者も同根なのだが。そこまで極端でないとしても、既存のものからの延長線上に革新はない。

日本の企業を観察し、どこが伸びるのかを推察する上で、マイナスのスクリーニング方法として、東大卒が役員の何割を占めているのかを数えるのがいいかもしれない。それが多ければ、革新度が小さい。その代わりに安定度が高いかもしれないが。学生が就職先を選ぶ場合も、この視点が参考になりえる。
http://www.hidetaka-kawakita.com/blog/2019/02/post-3131.html



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173. 中川隆[-11794] koaQ7Jey 2019年2月27日 21:27:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[186] 報告

経済コラムマガジン 2000/11/20(第186号)
日本のエリート考
http://www.adpweb.com/eco/eco186.html


•戦前・戦後のエリート

まず戦前の話から始める。戦前の日本の政治や社会が特におかしくなったのは、エリートと言われている人々が台頭してきて、政治の実権を握ってからと言う意見がある。エリートの具体的な典型例は、帝大や陸大を優秀な成績で卒業した人々である。これらの人々の特徴は、庶民とは隔絶された世界で教育され、考え方が極めて観念的と言うことである。特に陸大の出身者は、幼年学校時代から世間とは隔離された環境で育っており、考え方や目線といったものが庶民とはかけ離れたものであった。結果的には、このエリートが戦争を遂行し、日本を奈落の底に落した。このような指摘は故司馬遼太郎氏がしばしば行っていたことである。

戦前のエリートは、庶民の目線とは違う世界にいただけでなく、むしろ庶民感覚と言うものを敬遠することが「エリートの証」と考えたふしがある。
このエリート達は、米国を中心にした勢力に経済封鎖され、日本が窮地に立たされた時、一歩引き下がることより、打って出ることを選択した。英米にやりこめられることの方が、エリートにとっては我慢ができなかったことであった。

敗戦色が濃くなっても、エリート達は一般の国民のことは眼中にない。敗戦後の自分達の立場しか頭にないのである。「一億総玉砕」とか「特攻隊」と言った無謀なキャンペーンを行ったり、作戦を遂行できたのもエリート達が一般の国民を「将棋の駒」とか「物」としてしか見ていなかったからである。しかしむしろそのよう見方をするような教育を受けてきたからとも言える。もし彼等が一般の国民の痛みを理解していたなら、もっと早い時期に和平への道を模索していたはずである。

しかし指摘しておく重要なことがある。これらのエリートこそが国民から熱烈な支持を受けていたことである。反対に戦争を回避しようとしたり、軍事費を削ろうとした政治家は「卑怯者」あるいは「君側(くんそく)の奸(かん)」とレッテルを張られ、非難の的となった。英米との開戦は、軍部の独走だけでは説明がつかない。むしろ庶民の熱情が逆に軍部を動かした。軍部も引くに引けなくなった面がある。実際、開戦の日には「ああ、これですっきりとした」と多くの庶民は喜んだのである。

どうして自分達が苦しむと予想される開戦に一般の国民も突っ走ったのか、群集心理学の研究のテーマになる。実際、ドイツやイタリアでもよく似た動きがあった。そしてこれを解く重要なカギがマスコミの働きである。


歴史は繰返すと言うか、今日、日本では戦前とよく似た現象が起っている。「日米開戦」が「財政再建」や「構造改革」である。軍部などのエリートが加藤紘一氏や政策新人類と言った、世間知らずで、苦労知らずの「エリート二世議員」である。一方、財政による景気対策が必要と考える執行部は守旧派と言うことになる。そのように大袈裟な話ではなかろうと自分自身でも笑ってしまうが、今日の状況は、実に戦前の開戦までの状況に似てきた。

先日、中曽根元総理がテレビに出演して、加藤氏達の今回の行動を快く思っていないと発言していた。しかし中曽根氏自身は、自分の総理在任中、加藤氏を二度も防衛庁長官にすると言った異例の抜擢人事を行った(このことに当時の宮沢派は強く反発した)。それほど加藤氏をかっていたのである。その中曽根氏が非難しているのであるから注目される。さらに中曽根氏は加藤紘一氏達の行動を「2・26事件」の青年将校になぞらえていた。やはり筆者だけでなく、元総理も今日の日本にそのような戦前の徴候の現れを感じていると思われる。

忘れてならないのはマスコミの働きである。加藤氏達の行動のバックにはマスコミの存在があり、互に利用したり、利用されたりしている。また政策新人類の考えを聞き、行動を見ていると、彼等はまさに日経新聞の論説委員の「パシリ」みたいな存在である。

このような徴候は長野のような地方にも及んでいる。公共事業を止めることによって、むしろ新しい産業が興ると言った不思議な考えが支持され、大差で作家が知事になった。公共事業が減れば、大変になるのは選挙民の方のはずである。さらに菅直人と言ったアジテータもいて、まさに今日の日本には戦前のような混乱を再現するための役者も揃っているのである。

•日本のエリートの本質
森首相の命運も尽きようとしている。話題になっているのは次の総理である。河野、小泉、高村、そして加藤のいわゆる4Kが下馬評に載っている。そして政権の形も野党との連合などの可能性もあり、いくつかのパターンが考えられる。一番のカギを握っているのは加藤氏である。

とにかく筆者は、加藤氏や小泉氏、さらには民主党や小沢氏を中心にした政権の樹立を期待している。もっと言えば、これらの全ての政治家を巻き込んだ政権が理想的である。マスコミもこの政権を、自民党を中心にした政権よりも良い政権と、少なくとも最初は持ち上げるはずである。株式関係者の中にも変わり者がいて、「これで日本の経済構造改革が進み、株も上昇する」と手放しで喜ぶ者もいるはずである。

もちろん筆者が、これらの政治家の政策に期待しているのではない。全く逆である。彼等の政権によって、日本経済はもう一度危機的状況に追い込まれると筆者は読んでいるのである。ただでさえ来年の2,3月頃には、二回目の金融不安が起る可能性があると筆者は考えている。つまり経済が大混乱する可能性が強いのである。そうなれば彼等の新しい政権は潰れ、再び政権交代がなされ、今度こそ本格的な経済対策が行われると言う筋書である。残念ながらマスコミや世論に手枷足枷されている現状では、本格的な経済対策は無理である。むしろ一旦、加藤氏のような「財政再建派」に政権を委ね、失敗してもらった方が、世論の動向も変わる可能性があり、結局早いと考える。まさに先週号で述べた「急がば回れ」である。

そして加藤氏や小沢氏は自分達が主張している政策を遂行すべきである。先走るようであるが、その政策で日本経済が一段と落込んだら、今度こそこれらの人々には責任を取って政治家を辞めてもらいたい。


自民党には、加藤氏や小沢氏のような若い頃からエリートコースを歩み、将来を期待されてた政治家がいる。共通しているのは二世議員で、若くして国会議員になっていることである。同じ二世議員でも故小淵首相のように、福田元首相、中曽根元首相と言った有力政治家と同じ中選挙区で苦労していた政治家もいるが、多くの二世議員は親の地盤を引継ぎ、楽に当選を重ねている。加藤氏と行動を共にしている政策新人類の多くも二世議員である。

彼等エリートの特徴は、考え方が実際的でなく、観念的であることである。しかしこのエリートに周囲の人々は簡単にだまされる。特に年寄りが弱い。「若いのに将来のことをよく考えている」と持ち上げる。年寄り政治家も年が離れており、自分の立場を脅かすことがないと考えて安心している。マスコミや大衆も、叩き上げの苦労した政治家より、彼等の方が清新なイメージがあると歓迎する。

彼等は何を聞かれても直ぐに答える。しかし現実に起る諸問題の多くは、利害が対立した人々がいて、簡単には黒白をつけられないはずである。今日みたいに情報行き渡った時代の政治家は、むしろ互の利害を調整することを要求される。織田信長やナポレオンの時代とは違うのである。ところがエリート政治家は、実に簡単に結論を述べる。観念論者である彼等の頭の中では、どちらが良いとか悪いとかが始めから決まっているのである。それは彼等が現実を知らないか、むしろ現実を知ろうとしないからである。しかし彼等が主張する政策は実現が不可能か、明らかに逆効果のものばかりである。

彼等は「ここ10年間、100兆円もの財政による景気のテコ入れを行ってきたが、効果がなく一向に景気は良くならない。もはや構造改革しかない。」と簡単に言う。しかし財政による景気対策やらなければもっと経済が落込んでいたはずである。つまり効果は確実にあった。また財政支出の効果は増額分のみが効くことを忘れてはいけない。つまり実際の対策費は彼等が言っているほど大きくなかったはずである。また土地などの資産価格の下落の影響も無視できない。さらに筆者が主張するような、日本の過剰貯蓄の大きさを考慮すれば、これまでの財政の対策が小さ過ぎると言った考えもある。
とにかく彼等、エリートは観念論に染まりやすく、他人の意見を絶対に聞かないのである。とても今日の政治には向いていない。

加藤氏は、小淵内閣以来「癒しの政治」が続いているが、これは行き詰まっており、これからはむしろ財政改革が必要とさかんに言っている。しかし現実の日本では、失業や自殺者は減らず、上場企業さえ次から次へと倒産している。大阪では300人とか600人のホームレスがいる公園がいくつもある。筆者は、どこが「癒されている」と言えるのか聞きたい。いかにもエリート政治家が現実を見ようとしないかを物語っている。

加藤氏や小沢氏は政治家ではなく「宗教家」である。したがって最初は熱烈に支持する人々が寄ってくる。しかしそのうち、考えの薄っぺらさと内容のなさに気がつきどんどん人々は離れていく。最後に残るのは妄信的な信者だけである(小沢氏の前例があるが、実際何人の議員が加藤氏ついていくか興味がある)。

エリートは主張の具体的な内容を聞かれるとすぐぼろが出る。またぼろが出るので具体的な話を避けるのも特徴である。テレビで「構造改革の中身」を聞かれ、しょうがなく「通信業界の競争促進」と言っていた。たったそれだけのことかと筆者も呆れた。つまり彼等はたいしたアイディアは持っているわけではない。しかし持っていないのに、さもすごい考えがあるように周囲に思わせるのが彼等の特技である。

エリートと言うものは、順調に行っている時には良い。また彼等の特徴である「傲慢さ」もなんとなく周囲も認める。しかし一旦壁にぶつかると脆い。すぐ「一億総玉砕」的行動に走り、最後は簡単に自殺する。したがって組織体は、若くしてエリートみたいなつまらない存在を作るべきではない。そのエリートが、国を滅ぼし(戦前のように)、組織を壊すのである。


自民党はあまりにも安易に二世の国会議員を作り過ぎている。特に若く世間知らずの二世は避けるべきである。たしかに二世は当選しやすく、消エネである。そして当選回数を重視する自民党のこれまでのシステムでは、どうしても若い二世議員をエリートにしやすい。しかし今日の造反劇の見られるように、彼等は自分の立場が悪くなると、すぐに分裂騒ぎを起こすのである。

http://www.adpweb.com/eco/eco186.html

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174. 中川隆[-11437] koaQ7Jey 2019年3月14日 21:31:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[558] 報告
人気女優ら50人、裏口入学関与で訴追 米
3/13(水) 5:25配信 AFP=時事

米女優のフェリシティ・ハフマンさん(左、2018年9月16日撮影)とロリ・ロックリンさん(右、2017年1月18日撮影)。【翻訳編集】 AFPBB News


【AFP=時事】米検察当局は12日、子どもを名門大学に裏口入学させるための総額数千万ドル(数十億円)の詐欺行為に関与した疑いで、米ドラマ「デスパレートな妻たち(Desperate Housewives)」のフェリシティ・ハフマン(Felicity Huffman)さん(56)と「フルハウス( FULL HOUSE)」のロリ・ロックリン(Lori Loughlin)さん(54)の人気女優2人を含む50人を訴追したと発表した。

【写真】「フルハウス」の共演者と並ぶロックリンさん

 訴追された人々には企業幹部、資産家、ワイン醸造業者やファッションデザイナーも含まれ、自身の子どもをエール大学(Yale University)、スタンフォード大学(Stanford University)、ジョージタウン大学(Georgetown University)、南カリフォルニア大学(USC)などの名門大学に入学させるため、入学試験での不正や贈収賄を行った疑いが掛けられている。

 依頼人らは、カリフォルニア州在住のウィリアム・リック・シンガー(William Rick Singer)被告が運営する偽の慈善団体に巨額の謝礼を支払い、米大学進学適性試験の「SAT」や「ACT」での不正や、本来なら大学のスポーツチームに入団できない子どもをスカウトさせるための大学職員やコーチらへの賄賂の手配を依頼していたとされる。

 ハフマンさんとロックリンさんを含む33人の保護者に対しては、詐欺共謀の疑いが掛けられている。事件が立件されたマサチューセッツ州ボストンの検察当局によると、裏口入学の料金は20万〜650万ドル(約2200万〜7億2000万円)で、シンガー被告は保護者らから総計約2500万ドル(約28億円)を受け取っていた。【翻訳編集】 AFPBB News
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00000003-jij_afp-int


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2019年3月14日
コラム:史上最悪の裏口入学事件、米大学には「予期せぬ恩恵」

[ニューヨーク 13日 ロイター BREAKINGVIEWS] - 米国のエリート大学では通常、裕福な家庭の子どもが有利となる。今回発覚した史上最悪の大学不正入学スキャンダルと、関与していた親たちの「特権」は、米国の高等教育が最富裕層の1%を重んじる実態を改めて浮き彫りにしている。


まさに驚きの事件である。 米検察当局は12日、子どもを名門大学に入学させるための詐欺行為に関与したとして、著名な女優や企業の幹部など約50人を訴追した。

その中には、米プライベートエクイティ(PE)のTPG[TPG.UL]のグロース・マネジングパートナーのビル・マクグラシャン被告や、法律事務所ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガーの共同会長ゴードン・カプラン被告、テレビドラマ「デスパレートな妻たち」などへの出演で知られる女優フェリシティ・ハフマン被告などが含まれる。イエール大学などの名門校に子どもを入学させるため、賄賂を贈った疑いがある。

米司法省が12日明らかにした不正の手口は、第3者に替え玉受験や回答の修正を行わせたり、「スポーツ入学」の推薦を得るためにスタンフォード大やテキサス大などのスポーツコーチに賄賂を贈ったり、さらには実際にはスポーツ選手ではないのにまるで有力選手であるかのように受験者の写真を加工するなど、多岐にわたる。

マクグラシャン被告の場合、息子を南カリフォルニア大に入学させるため、上記のようなサービスを息子が受ける見返りとして、計25万ドル(約2800万円)の支払いに合意したとみられる。同被告と、捜査に協力した証人との会話記録は実に衝撃的だ。ただし、息子の関与を示すものはこれまでのところ出てきていない。

米国の教育制度は、すでにこうした富裕層の子どもに有利なようにできている。

入試準備クラスに通うことのできる富裕層の子どもたちは、ぶっつけ本番で試験を受けなくてはならない子どもよりも有利な立場にある。そのつながりは明確にはされないが、相当な額の慈善寄付を行うことは合格するためによく取られる手段だ。大学施設などの建設に十分な資金を提供した最富裕層には、入学が何世代にもわたって保証されることもあった。


 3月13日、今回発覚した史上最悪の大学不正入学スキャンダルと、関与していた親たちの「特権」は、米国の高等教育が最富裕層の1%を重んじる実態を改めて浮き彫りにしている。写真は12日、ロサンゼルスの裁判所に出廷した米女優のフェリシティ・ハフマン被告(右)のスケッチ画(2019年 ロイター/Mona Edwards)

今回の事件は違法行為である。だが、教育制度のバランスを取り戻したいと考える進歩主義者にとっては予期せぬ恩恵だといえる。親のカネに頼れない子どもはチャンスを逃すかもしれない。たとえそうした子どもたちが一流大学に入学できたとしても、別のかたちで支払わなければならない。

セントルイス地区連銀によれば、米国の教育ローン残高は2006年から2018年の間に3倍に膨れ上がり、約1.6兆ドルに上る。学費無償化を訴える次期大統領候補のバーニー・サンダース、エリザベス・ウォーレンの両上院議員の考えは今、かつてないほど耳を傾けられ、共感されるだろう



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175. 中川隆[-11434] koaQ7Jey 2019年3月15日 22:37:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[563] 報告
親の身代わりとなる子供

  他人の子供だから、親がどんな風に命名するかは個人の勝手だろう。しかし、名附けられた子供を考えると不憫に思えてくる。なぜなら、幾人かの子供は、あたかも親のペットみたいになっているからだ。筆者はたまにテレビ東京の『きらきらアフロ』を観て、笑福亭鶴瓶と松嶋尚美が繰り広げる「たわいない雑談」を楽しむ。しかし、松嶋が会話の中で紹介する子供の話を聞くたびに心が痛むことがある。彼女には長男と長女がいるそうで、息子の「珠丸(じゅまる)」が兄で、娘の「空詩(らら)」が妹になるそうだ。漫才師の松嶋がアホなのは藝の一つになっているからいいけど、子供の名前くらい真剣に考えればいいのに、と"つい"思ってしまう。

  子供は自分の名前を選べないから、不幸になることもしばしばある。小学生までなら「じゅまる」君で可愛らしいが、思春期になれば恥ずかしくなるんじゃないか。松嶋がよく引き合いに出す娘の方も、自分の名前を書いて先生や友達に見せたら、「何て読むの?」と質問されるはずだ。この漢字を目にした一般人で、「らら」と読める人は滅多に居るまい。それでも、多文化主義の平成だから仕方ない。だが、親になった松嶋の教育方針には賛同できないところがある。以前、彼女は「英語が上手く喋れたらいいのになぁ」と願うあまり、ついに英会話を習ったそうだ。しかし、単なる趣味の一環なので進歩が無かった。それでもまだ英会話に未練があるようで、松嶋は息子をインターナショナル・スクール附属の幼稚園に入れたそうだ。

  これはまさしく短絡的な「お馬鹿」の発想で、自分の夢を子供で実現しようとする典型例だ。よく、ピアニストに憧れた女性がレッスンを受けるが、中学生や高校生から始めるので全然ダメということがある。まぁ、楽譜さえチンプンカンプなんだから、指と頭がバラバラに動いて演奏が滅茶苦茶になるのも無理はない。普通なら「自分の努力が足りない」と反省するものだが、頭の弱い御仁だと、「小さい頃から練習しなかったから出来ないのよ! 」と考えてしまうそうだ。たぶん、責任を他者に転嫁することで自分のプライドを守りたいんだろう。

  アホな親だからしょうがないけど、こうしたアカンタレは娘を産むと幼稚園児の頃からピアノを習わせ、無理矢理ピアニストにしようとする。ところが、好きでも無い練習を強要される子供は堪ったもんじゃない。ヒステリーを起こして反抗するから、親子喧嘩が絶えず、終いには高価なスタンド・ピアノが部屋のデコレーションになってしまう。だいたい、クラッシカル音楽とは無縁で、カラオケ店に通えば、Jポップスや歌謡曲を熱唱する親が、自分を棚上げにして、娘に「ちゃんと練習しなさい!」と言えるのか? 一方、娘にとったら「音楽」は「苦役」以外の何物でもない。毎日が拷問のようでピアノが兇器に見えてくる。本人に演奏への情熱が無ければ、楽器の練習は苦痛でしかない。

  英語コンプレックスの親も似たような性質がある。近くに普通の幼稚園や小学校があるのに、わざわざインターナショナル・スクールに通わせ、英語を学ばせようとする親は現実を解っていない愚者である。母国語の習得は子供の一生を左右する重要な教育で、国語能力の低下は他の教科、すなわち数学や理科、社会、英語にまで影響を及ぼす。なぜなら、子供は母語で物事を考え、思索する言語で文章を理解し、自分の意見を述べる時も母語が基本となるからだ。例えば、数学の問題を解く時、母語を習得していない子供は、何を問われているのかさえ分からない。感想文や随筆を書く時だって、日本語が拙いと支離滅裂な文章になってしまう。また、物理や哲学の授業を受けた時、「論理的に考えろ」と言われても、そもそも論理的に書かれた説明文を理解できないからお手上げとなる。しかも、漢字を読めない、書けないとなれば、教師の方が厭になってくるじゃないか。

  松嶋は欧米諸国を旅行した時、現地の白人と会話できなかったことを悔やみ、「英語を喋れたらなぁ」と思ったそうだが、その程度の動機で外国語の勉強が続くとは思えない。英語の基礎を習得していないばかりか、記憶力さえ低下している中年女性が、仕事の合間に勉強したからといってマスターできるものじゃないだろう。松嶋は気づいていないだろうが、西ゲルマン語は日本語と文法・構造(syntax)が根本的に違うし、発音や語源さえ繋がりが無いのだ。ある意味、日本人にとって英語やドイツ語は暗号の塊である。だから、成人してから英語を学ぶ者は、しっかりと文法を理解し、語彙を増やさねばならない。ところが、よほどの執念とか野心が無い限り、大人は記憶する量が膨大になると嫌気がさす。不本意でも、途中で諦めてしまう人が続出するのは当然だ。

  こうした挫折を味わった親の中には、自分の怠惰を自覚せず、子供に夢を託す者が少なくない。高額な授業料を払っても、我が子をインターナショナル・スクール(西歐白人の学校)に入れて、理想の分身(親の代役)にしようとする。確かに、外人学校へ入れられた日本人の子供は、記憶力が旺盛だから、友達と遊んでいるうちに英語を覚えるかも知れない。それに、クルクルパーの親と比べれば発音が良く、早口で喋ることもできるから、「まぁ、うちの子天才!」と低能ママは喜ぶ。だが、家に帰れば日本人の親が待っており、コテコテの日本語で話しかけるから、子供の上達は中途半端だ。いくら幼稚園で外人教師と接触しようが、子供にとったら親の方が大切だし、密接な会話や躾は日本語でなされるから、日本語が主要言語となってしまう。したがって、幼児期からの英語教育は初歩的なものに過ぎない。

  松嶋のような日本人は、「親馬鹿」というより「バカ親」に近い。松嶋本人は「バイリンガルの息子になった!」とはしゃぐが、幼い子供は親が味わった屈辱を体験していないから、英語を喋れるようになっても、大した感動は無いはずだ。だいいち、「バイリンガル」になった日本人の子供は、外人教師の質問に反応しているだけで、利発な子供になった訳じゃない。サーカスの熊と同じである。しかし、「輝かしい国際人になってくれ」と願うバカ親は、長いこと劣等感に苛まれているから、子供の英語力が向上したと単純に感激する。ハッピーな教育ママは、我が子の学力や知能が半減している事に気づかない。本来、正しい日本語や多くの漢字を覚える時期に、英語の「お遊戯」や楽しい英会話で時間を潰してしまうと、やがて大切になる国語能力が低下してしまうのだ。バイリンガルで育った高校生や大学生の中には、戦前の随筆すら読めない者がいる。なぜなら、歴史的仮名遣いや正漢字が分からないし、歴史の知識も無いから意味が摑めないのだ。

  見栄を張りたがる親からすると、我が子が英単語をすらすら読め、日常会話も"ネイティヴ"並に交わすことができれば、お金を払うだけの甲斐があったと思ってしまう。しかし、こうした子供は小学校や中学校に進むにつれ、勉強が苦しくなることもあるのだ。幼稚園を卒業した後、米国や英国に移住するんなら別だが、引き続き日本で生活するとなれば、学問は日本語で修めることになる。大学に進む頃になれば、国語や数学、理科の知識も必要になってくるから、英語の点数だけではカバーしきれなくなり、幼少時の「お遊び」を後悔することになるのだ。もっとも、最近では名前を書くだけで入れる私立大学とか、入試は英語だけという学校もあるから、日本語が未熟でも困ることは無い。それに、有名藝人の息子ともなれば、「二世藝人」という就職先があるから、"ひけらかし"の英語力は特技の一つとなる。そもそも、テレビ藝人に"まとも"な日本語は要求されないから、英語を使って外人タレントにインタヴューできる方が得になるのだ。

  日本には脳天気な親が結構多い。「英語を流暢に喋ることができる」という"能力"は、実際のところ「幻想」に近く、日本でしか通用しない「特技」である。英国や米国に行けば分かるけど、街中のほぼ全員が英語を喋っているから、「英会話力」なんて自慢にならない。不法移民や乞食、犯罪者だってそれなりの英語を喋るし、警官からの職務質問にちゃんと答えている。様々な人種が混在する英米だと、ペラペラ話せることより、立派な論文を書ける方が重要となるので、語彙が豊富で表現の巧みな人の方が社会的評価が高い。さらに、教養人ともなれば、英語はもとより、ラテン語の読み書きができるとか、歴史や古典に精通しているということが必須となる。

  しかし、英会話を重視する国際派の教育ママは、欧米の知識人階級まで頭がまわらず、我が子が成人してから、「中身が空っぽ」の木偶(でく)人形であると気づく。筆者は昔、英語力を自慢する女子学生に、「わぁ、凄い。フィリピン人か支那人並ですねぇ~」と言ったことがある。彼女は激怒したけど、イギリス人やアメリカ人だって同じ意見を持つはずだ。たとえ英語を流暢に話せても、肉体が変化してアングロ・サクソン人になる訳じゃない。松嶋たちが目指す「国際的日本人」は植民地で白人にこびる黄色い奉公人と同じだ。日本の歴史や文化について何も語れず、"これ"っといった特技も無く、ただラップ・ミュージシャン並の英語をひけらかしても馬鹿にされるだけだ。まともな西歐人は洞察力が鋭く、間抜け面のアジア人を相手にすることはない。自国の文化を蔑ろにし、誇りを持たない奴は軽蔑されるだけだ。名誉を重んずる西歐人は、たとえ日本人を好きになれなくとも、名誉を尊ぶ者か否か、を判断できる。松嶋の息子や娘がどのように成長するか分からないが、今のような教育を続けている限り、英語を上手に喋るだけのチンピラにしかならない。

  理解しがたい名前を附ける親とか、英語を学ばせる親は、子供のためを思ってそのような行動を取るのだろうが、常識に欠けるため逆の効果をもたらすことになる。また、「海外で通用する名前にしたい」とか「欧米人に近づきたい」と思って子供に西洋風の漢字名、例えば、「健 / ケン(Ken / Kenneth)」「英土 / エド(Ed / Edward)」「登夢(Tom / Thomas)」とか「マリア/ 麻里亜 (Maria)」「ジュリア / 樹里亜(Julia)」といったものを附ける親もどうかしている。確かに、欧米人が聞けば理解できるが、「これって、日本人の名前なのか?」と思ってしまう。まぁ、キリスト教徒の日本人ならミドル・ネームに「ステファノ」とか「パウロ」があってもいいけど、実家が浄土宗とか真言宗なのにヨーロッパ風の名前なんてちょっとおかしい。

  今いる日本人だけでも「困ったちゃん」が多いのに、今年から更なる移民が増えてくるので、驚きの親が激増するだろう。日本にやって来る研修生とか高度技術者というのは、祖国を捨てて日本国籍を目指す下層民が大半なので、日本人の理解を超えた風習や文化を持ち込んでくる。現在はキラキラ・ネーム如きで驚いているが、マレー人やフィリピン人のイスラム教徒が増えれば、「ムハマッド」君とか「アブドル」君といった子供も普通になってくるはずだ。学校でも異変が起こり、「国語」の授業が「日本語」という名称に変わるかも知れないぞ。子供の会話で「君の家では何語を喋っているの?」という質問が出てくるし、外務省のホームページには、「日本の公用語は日本語です」という紹介が出るかも知れない。平成で日本らしい日本が終わり、次の御代では階級や民族でバラバラになった日本になるだろう。バルカン半島みたいに、我が国がバルカン列島になったら大変だ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68738682.html

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176. 中川隆[-11434] koaQ7Jey 2019年3月15日 22:45:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[563] 報告

雅子様がまさに幼少時からの英語教育の犠牲者ですね。

抽象的な思考や論理的思考が全くできないのに外国の王族や政治家と会話させられたから鬱病になったんですね:


雅子様C@学歴 日本語も英語も話せない釣書詐欺
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764

雅子様の学歴ロンダリング
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

雅子様の子弟枠を使ったインチキ外交官試験
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

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177. 中川隆[-11350] koaQ7Jey 2019年3月20日 12:15:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[655] 報告

英語が使えないと負け組…それでも覚えれない悩み… 2019/3/19
https://medi-labo.club/eikaiwa/uz/?cam=pc_3&gr_no=0006&sd=10

■男性の英語力別の年収平均

■女性の英語力別の年収平均

あなたは、ご存知でしょうか?

英語が日常会話レベルの人は、話せない人より年収で300万〜500万の差がつく事実を…

どの業界も今や英語力を人材に求めています。

2008年頃から

グーグル・アマゾン・フェイスブック

などの外資系企業も続々と日本に進出しています。

国内企業でも、訪日外国人対応やグローバル人材などで英語が出来る人材を求めています。


楽天では、「英語ができない役員は、2年後にクビ」となるほどです…


実は、私もこういった事実を知りながら自分は大丈夫だろうと楽観的に考えていました。

でも、会社のボーナスが減っていき徐々に不安を感じてきました。

そんな時、会社を辞めた元同僚の友人達と飲んでいる時、

A男:○○さん英語とかの取り柄がないと将来ヤバイよな!笑

B子:今、業績のいい会社って英語できる人材求めているからね!

C男:英語が出来ればもっといい職場あるの知らないのかな?

と言っている会話を聞いてしまいました。

もう恥ずかしくて恥ずかしくて…

何事も無かったように笑顔で過ごしましたが、辛すぎて早く逃げ出したかったです…

正直、いまさら英語を覚えるのをめんどくさがってました。

元同僚達は、今の仕事にやりがいを感じていたし給料も私よりはるかに高くなっていました。

このままではいけない!
https://medi-labo.club/eikaiwa/uz/?cam=pc_3&gr_no=0006&sd=10


こうして 思考力ゼロの英語バカが量産されていくのです。

日本人がいくら英語勉強してもフィリピンの10歳児にすら勝てないんだけどね。


将来の日本の大企業での序列と年収は

幹部:アメリカ人 年収1億円以上
管理職:英語ができる大卒のインド人・中国人 年収1000万円
平社員:一流大卒の日本人 年収400万円
非常勤社員: 二流大卒の日本人 年収 300万円




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178. 中川隆[-11348] koaQ7Jey 2019年3月20日 15:35:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[657] 報告

2019年03月20日
階級の固定化 / 分裂する日本社会 (後編)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68758337.html


大衆社会が誕生する前、大学は曲がりなりにも研究と教育を司るギルド組織であったが、段々と「階級」形成機関になってしまった。今じゃ、「最高学府」という名称も白々しい。身分制度が厳格な頃は、労働者の息子が大学を卒業しても、紳士や貴族になるわけじゃないから、大金を積んでまでオックスフォードやケムブリッジに進もうとは思わなかったが、出身大学の名前が立身出世の条件になるや、無理をしても我が子を大学に押し込もうとする親が増えた。貴族階級の無いアメリカでも事情は同じで、王侯貴族が居ない分、余計に身分形成への意欲は強い。とりわけ、平等主義が徹底している日本だと、出身大学の評価がそのまま卒業生の身分に繋転化するので、エリートを目指す高校生はうなぎ登り。勉強が苦手な雑魚やドジョウだって有名大学の登龍門にチャレンジするくらい。漫画だけど、「ドラゴン桜」という弁護士が、受験生の尻を叩いて東大に入れようとするんだから、悟りを目指す比丘(びく / 僧侶)もビックリだ。

 ちょっと脱線するけど、学歴社会の裏で実力主義が脈打つ日本は意外と素晴らしい。筆者が尊敬する武論尊(別名「史村翔」)先生や池上遼一先生、弓月光先生は輝かしい学歴は無いものの、ボンクラ官僚より輝いている。武論尊といえば、『ドーベルマン刑事』や『北斗の拳』の作者としてで有名だ。池上先生は『クライング・フリーマン』を手掛けた劇画家で、武論尊と組んだ作品には『サンクチュアリ』や『HAET 灼熱』『BEGIN』などがある。ヒット・シリーズの『甘い生活』で知られる弓月先生は、昔、受験戦争をモチーフにした恋愛漫画『エリート狂走曲』を描いていた。筆者にとっては想い出深い作品である。(秀作漫画を探している高校生は一度読んでみてね。)

Rick Singer 4 (左 / ウィリアム・リック・シンガー )
  話を戻す。今月、アメリカで大学への不正入学を巡るスキャンダルが発覚した。何と、我が子を有名校に入れたい裕福な親が、大金を払ってブローカーに頼んだというのだ。この賄賂を懐に入れた仲介者というのは、ウィリアム・リック・シンガー(William Rick Singer)という"コーチ"で、受験生のカウンセリングを行う「Edge College & Career Network」の創設者である。彼はまた、非営利団体の「Key World Foundation(キー・ワールド財団)」を運営する最高責任者でもあるそうだ。高額所得者の願望に目を付けたシンガーは、「お宅のお子さんを名門校に入れてあげまっせ!」と囁き、法外な値段を吹っかけたという。彼が唾を付けた大学は、イェール、スタンフォード、テキサス大学、南カルフォルニア大学、UCLA、サン・ディエゴ大学、ウェイク・フォレスト大学などである。

  日本の庶民にはちょっと無理だが、なんと言っても、金に糸目を付けぬ億万長者がゴロゴロ居て、「世の中すべてお金で解決できる」というアメリカだ。大金を払っても構わないという親は少なくない。今回の事件がマスコミの注目を浴びたのは、依頼人の中に有名なハリウッド女優が居たせいだ。『デスパレート・ハウスワイヴズ』で知られるフェリシティー・ハフマン(Felicity Huffman)は、長女のソフィーをスタンフォード大に入れるべく、「チャリティー献金」という名目で、「キィー・ワールド財団」に1万5千ドルを寄付したそうだ。(Sara Boboltz and Hayley Miller, "Felicity Huffman, Lori Louighlin Charged In College Admission Scheme With More Than 40 Others", The Huffington Post, March 12, 2019.) 慈善活動を賄賂の道具にするのは"けしからん"が、寄付金を税控除にするためには賢い方法である。ちなみに、フェリシティーの亭主は、映画『ファーゴ』で知られるウィリアム・H・メイシー(William H. Macy)だ。

Felicity Huffman & William MacyFelicity Huffman & Sophia & William Macy


(左: フェリシティー・ハフマンと夫のウィリアム・メイシー / 右: ハフマンの娘たち)

 もう一人のハリウッド・スターであるロリ・ロフリンは、日本でもお馴染みの『フルハウス』に出演していた女優である。彼女にはイザベラとオリヴィアという二人の娘がいて、南カルフォルニア大学にねじ込むため、50万ドル(二人分)を払ったそうだ。この娘たちはスポーツ枠を利用して裏口入学を謀ったそうだが、今回のスキャンダルで水の泡となってしまった。でも呆れたことに、彼女たちはその競技をしたことが無かったという。日本でもそうだけど、アメリカではどんなアホでも、バスケットボールやアメフトが得意なら、有名校に推薦入学できる。大学の理事長や部活のコーチは、スカウトマンを使って優秀な選手を集め、自校の名声を高めようとするから、学力なんか二の次、三の次で、終いにはどうでもよくなるそうだ。

Lori Loughlin & daughtersLori Loughlin & Mossimo Giannulli

(左: ロリ・ロフリンと二人の娘 / 右: 亭主と一緒のロフリン )

  しかし、アカデミックな業績を重要視する教授は、こうした風潮を嫌い、筋肉頭の学生に厳しい点数を付けようとする。だが、落第前に政治的な圧力が掛かり、低能学生は無事ご卒業となるらしい。小学生程度の学力しかない黒人学生が、有名大学の卒業生になっているのは、スポーツ入学と底上げ点数のお陰なのだ。ある大学教授が嘆いていたけど、英単語の綴りさえまともに書けない黒人学生とか、文法が滅茶苦茶なヒスパニック系の学生がいるんだって。それに、たとえスポーツ選手じゃなくても、「アファーマティヴ・アクション(有色人種優遇制度)」があるから、文系の一般学生には"いかがわしい"奴が多く含まれている。これは大きな声で言えないけど、鋭敏な白人は黒人の医者を避けるそうだ。どんな方法で大学に入ったのか分からないし、ちゃんとした業績でその地位を得たのか怪しいからである。有色人種だと、その肌の色で特別な出世を遂げたりするから、本当の実力なのか否か、不安で信用できない。

知識社会と所得格差

  不正入学事件はともかく、アメリカ社会で大学が果たす役割は大きい。特に、知識産業に携わる人材を育成し、高い身分や所得を形成する要因となっているから尚更だ。最近のアメリカ社会では貧富の格差が拡大し、それが固定化する傾向が強くなっている。例えば、トップ1%に属する人々は、一世帯当たり平均で421,926ドル(約4600万円)の年収があり、残り99%だと一世帯当たり平均で50,107ドル(約551万円)になるらしい。この数字だけ見れば「そんなにかなぁ」と思ってしまうが、上層中流階級を除く下層中流階級や労働者階級を区別して計算すれば、そのギャップは更に広がってしまうだろう。全米各地の所得格差を二、三箇所調べてみれば判るはずだ。

       上位1%での一世帯当たりの平均年収 / 下位99%における一世帯当たりの平均年収
ニューヨーク州 $ 2,202,480 $ 49,617
コネチカット州 $ 2,522,806 $ 67,742
カルフォルニア州 $ 1,693,094 $ 55,152
テキサス州 $ 1,343,897 $ 55,614

 今では信じられないけど、1960年代前半くらいまで、アメリカ人の所得格差は少なく、表面的には上流階級と中流階級の区別は曖昧だった。もちろん、富裕層と貧困層はあったけど、ほとんどの白人が自分を中流階級に属していると考えていたし、高額所得者もド派手な生活を送ることはなかった。例えば、上層中流階級のエリートたちが車種で差別化を図ろうとしても、選択肢は限られており、大都市ならメルセデスやジャガーを見かけることはあっても、それは例外である。第一、大都市でも輸入車のスペア部品は入手困難で、整備工も見つからないから維持費が掛かってしまう。だから、輸入車なんか買うより国産車の方がいい。

  じゃあ、キャデラックを買えばいいかというと、それはエリートから敬遠されたという。なぜならば、管理職や専門職に就くホワイトカラーは、「目立ちたがり屋」を避けるからだ。下品な都会人やレッド・ネックの田舎者なら、馬鹿デカいアメ車を乗り回して有頂天になるだろうが、洗練された趣味を持つ教養人は、平凡なアメ車かシックなヨーロッパ車を選んだりする。彼らはたとえお金があっても、ファイヤーバード・トランザムなんか買わず、フォルクス・ワーゲン社のビートルを選ぶ。屋敷に関しても同様で、プールやテニスコート附のメガハウスなんかには住まない。1960年代だと、新築物件の平均価格を二倍したくらいの値段で、高級住宅地に家を構えることができたのだ。

Richard Florida 2 ( 左 / リチャード・フロリダ )
  しかし、1970年代が過ぎ、80年代90年代と進むにつれ、新たな上流階級が現れてきた。 ハーヴァード大学教授で労働長官になったロバート・ライシュによれば、この新階層に属するのは、企業の経営者、技術者、科学者、法律家、学者、会社幹部や行政府の高官、ジャーナリスト、コンサルタントなどであるらしい。ジョージ・メイソン大学のリチャード・フロリダ(Richard Florida)教授によれば、新上流階級は、情報処理を仕事にする「頭脳労働者」、あるいはそれに見合った報酬を得ている者である。つまり「クリエイティヴ・クラス」に属する人々だ。具体的に言えば、音楽家、建築家、エンジニア、デザイナー、作家、藝術家、科学者、あるいはビジネス、医療、法律などに関わり、その中心的な部分において創造性を発揮する事を求められている人であるという。

  現在のアメリカ社会を見ていると、人種的差異もさることながら、報酬や地位で社会的評価がガラリと変わってしまうのだ。日本だと法科大学院まで進もうとする人は少数派だが、アメリカだと高額の授業料を払ってでもロー・スクールに通おうとする。憲法上の法解釈に携わる裁判官は有力者だし、黒を白にするドリーム・チームを抱える法律事務所となれば、莫大な報酬が期待でき、そこに所属する弁護士は高額所得者になること間違い無し。全米放送で雇われるキャスターやアンカーマンもビックリするような年俸を得るから、まるでメジャー・リーグの野球選手みたいだ。また、ニュース報道の方針を決めるマスコミ上層部、主要なメディアで署名入の記事を投稿している高名なジャーナリストやコラムニスト、映画やTVドラマの制作に係わるプロデューサーやディレクター、一流の大学や研究所に属する学者などもエリート層になるらしい。

階級で異なるライフスタイル

  日本人は階級を所得の面でしか見ないが、本当は生活様式での違いが決定的な相違点になっている。アメリカでは厭になるくらい、人種や階級でライフスタイルとか文化が違っているという。例えば、有名小学校に子供を通わせる保護者は服装からして違うし、乗っているクルマも大抵ヨーロッパ製の外車である。ケバケバしい化粧はせず、服装もコンサーヴァティヴで仕立てがいい。大阪のオバちゃんみたいに、ヒョウ柄などのアニマル・プリントやサンバイザーは絶対に好まず、合成繊維の服もダメ。これは論外だけど、入れ墨を彫っている紳士淑女なんて想像できない。有名幼稚園の面接では即門前払いだ。コンビニだって採用しないぞ。

  また、保護者の外見を眺めると、年齢層が違っているのに気づく。普通の小学校では母親の平均年齢は20代後半か30代前半であるのに、エリート校では20代の母親は稀で40代が多い。父親も40代後半か50歳代前半で、高校生か大学生の子供がいてもおかしくはない年齢である。もう一つの特徴は、見た目の違い、つまり体型が違うのだ。普通の小学校では、両親の3分の2が太り気味で、残りの3分の1が肥満である。日本でもオバタリアンは太り気味だけど、黒人やヒスパニックのオバはん達と比べれば、遙かにマシだ。黒人だと業務用のマヨネーズ容器かと思ってしまうほどのデブがいて、皮膚の下は脂肪だらけ。アフリカ系アメリカ人には、ホッテントットの遺伝子が混ざっているのかも知れない。

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(左: 肥満気味の黒人女性 / 右: 肥満体質の白人女性 )

  一方、有名私立小学校では、両親はだいたい痩せていて、肥満は稀である。新上流階級は健康と運動に気を配っているので、スポーツクラブに通って引き締まった体を保ってい人が多い。中にはマラソン大会とかトライアスロンに参加して、やり過ぎじゃないのか、と思える人もいる。他にはヨガ教室に通ったりする人や、週末にマウンティングバイクに乗る人、平日にプールで泳ぐ人など様々だ。彼らは自分のコレステロール値を知っており、ファストフード店に行くことはない。一部の新上流階級は、ファストフードを恥ずべきモノと考え、決して子供を連れて行こうとはしないのだ。フレンチ・フライに使われているショートニングにはトランス脂肪酸が多く、肥満の原因となっている。アメリカ人は小さい頃からジャンクフードに馴れているせいか、塩辛いポテト・フライにケチャップまで附けて食う奴がいるというから、本当に救いようがない。多少知識があって健康志向の親なら子供に食べないよう注意する。

  筆者がNYにいた時、「人間観察」の目的でバーガー・キングやマクドナルドに行ったことがあるけど、もう憂鬱になるくらい有色人種ばかりで、大抵の客は多かれ少なかれ皆、肥満気味。しかも、英語の発音が独特で、目を瞑っていても黒人と判る。店で注文できるのは、人工甘味料がたくさん含まれた炭酸飲料ばかりで、新鮮なオレンジジュースなんか無い。お金を払うのは気が進まなかったけど、試しにビスケット(日本で言うと「マフィン」)を食べてみた。案の定、パサパサで美味しくない。アメリカ人のお客が、どうして人工蜂蜜とかメイプル・シロップをタップリ附けて頬張るのか、その気持ちがよく分かった。(アメリカでの食生活を紹介すると長くなるので、別の機会で述べてみたい。)

fat American 3fat American boys 1


(左: 巨大ハンバーガーに齧り付く黒人 / 右: ジャンク・フードに慣れ親しむヒスパニックの子供 )

  新上流階級は飲み物の好みも違っており、彼らが口にするのはワインかクラフトビールくらいである。それも、軽くたしなむ程度。酒豪のアイリス人みたいに、瓶のバドワイザーをラッパ飲み、なんてことはない。一気飲みで急性アルコール中毒になるのは、日本の馬鹿な大学生くらいだ。新上流階級は、タバコを「キャンサー・スティック(癌を引き起こす棒)」と呼び、ほとんどの人が吸うことはない。

  次に、新聞や雑誌に関してだが、新上流階級は情報収集に熱心だから、リベラル派は『ニューヨーク・タイムズ』紙、保守派だと『ウォールストリート・ジャーナル』紙を毎日でオンラインでチェックする。雑誌は『ニューヨーカー』とか『エコノミスト』、老舗の『ジ・アトランティック』や『ハーパーズ』などを購読し、時折、ガーデニングや旅行雑誌、文藝評論などを読む。彼らは暇な平民と違って、あまりテレビを観ない。上流階級は平日だと仕事で忙しいし、家族との団欒を大切にするから、「アメリカン・アイドル」とか「リアリティー・ショー」といった下らない番組に没頭することはない。自分たちで楽しい事をしようとする。休日になれば、人里離れた湖までピクニックに行くし、別荘を持っていれば家族で週末を過ごしたりする。娯楽費に余裕のある彼らは、多彩な趣味を持ち、一般人だと手が出ない乗馬やテニス、登山、スキー、カヌーを楽しんだりする。また、彼らは遠く離れたカントリー・クラブでゴルフをしたり、ヨットでクルージングに出かけたりするから羨ましい。(チャールズ・マレー 『階級「断絶」社会アメリカ』橘明美訳、草思社、2013年、pp.63-66.)

Charles Murray 1 (左 / チャールズ・マレー)
  アメリカ社会を研究する政治学者のチャールズ・マレー(Charles Murray)は、職業と認知能力(cognitive ability)に注目する。科学技術やハイテク産業はもちろんのこと、金融や法律、医療業界においても高い知能が要求され、それに応じた報酬が与えられるという。確かに、高度な技術を発明・改良できる人には、複雑な問題を解決できる数学的能力とか、人並み外れた認知能力が必要になってくる。そして、こうした能力は幼い頃からの教育で取得されるので、家庭環境や学校のレベルがこれまた重要になってくるのだ。

  良い教育にはお金が掛かる。したがって、奨学金を得れば別だが、そうでない場合、親が高額所得者でないと有名私立学校に子供を通わせることは困難だ。公立学校は下層中流階級の子弟や、黒人やヒスパニックの低能児、移民や難民の子供たちで溢れているから、学力とか勉強どころの話じゃない。そもそも、躾ができていないのだ。知的好奇心なんか限りなくゼロに近い。数学や理科は天空の科目で、ざわついた教室ではモーゼの十誡を教えるだけで精一杯。つまり、「人を殺してはダメ」とか「盗むな」「淫乱はよくない」「麻薬は違法だ」「兇器を学校に持ってくるな」とか、呆れるほどの禁止事項が優先されている。言いづらいけど、黒人のガキどもに位相幾何学(トポロジー)なんて無用だ。性科学(セクソロジー)でさえ難しいから、教えるのはコンドームの使い方くらいである。

遺伝する知能?

  子供の知能は親の影響を多大に受けている。特に、母親との接触を通して形成されるみたいで、家庭での教育は非常に大切だ。新上流階級の女性は、妊娠に気づくや否や、子育て計画に没頭するという。知的な母親は先ず産婦人科選びから始め、自己管理を徹底し、アルコールを控えるのはもちろんのこと、栄養摂取量が適量になるよう食生活を管理するそうだ。また、自然分娩のためのクラスを受講し、産後の母乳は当たり前。ベビー用品は量販店でなく、インターネットで様々な商品を検索し、比較検討した後に購入する。子供の精神的発達を重視する女性は、一時的に職場を離れ、専業主婦となって子育てに専念するらしい。新上流階級の女性は高齢出産という危険を犯すが、無事出産すれば、20代の母親より円熟しているので、落ち着いて子供の躾をすることができるという。

white Americans 111American school 4

(左: 理想的な上層中流階級の家庭 / 右: 知的生活にはほど遠い家庭の子供)

  知能は部分的に遺伝するが、やはり環境の要因も大きい。だから、IQの高い親からIQの高い子供が育つ確率は高く、安定した家庭を築く経済力があれば、こうした子供は更に有利だ。マレーによれば、親の学歴や知能は子供の学力を左右するそうだ。夫婦とも高校中退だと、子供のIQ期待値は94で、名門校を出た両親の子供だと、IQ期待値は121になるらしい。つまり、鳶(トンビ)から鷹は生まれないと言うことだ。確かに、日本でも学校の勉強が苦手だった親から秀才が生まれる確率は低い。ファッションとダンスだけが得意なハッピー女子が、「我が子を東大に!」とかいうテレビ番組に感動し、北歐の教育玩具を購入しても、子供の知能が高くなるとは思えない。翻って、修士号や博士号を持つ母親が、娘のヒップ・ホップ・ダンスを褒めたり、一緒にカラオケでJポップスを唄うことは稀で、毛嫌いする方が普通である。パチンコなんか夢の中でもしないし、親子揃って髪染め、藝人気取りでプリクラを撮るなんてこともない。

  米国では大学入試としてSATやACTといったテストがある。2010年、SATの数学と英語700点以上を獲得した高校生の87%は、少なくとも両親のどちらかが大卒で、56%は少なくとも両親の片方が大学院卒であったという。「やはり」と言っては何だが、大卒者の親は子供の将来を考え、大学進学のための準備をするし、普段の生活でも子供の勉強に注意を払い、時には宿題の手助けをしたりする。たとえ、意識的に勉強させようと考えなくても、親が読書の習慣を持っていたり、知的好奇心の持ち主であれば、子供は自然と本に手が伸びるし、物事を深く考えたり、新たな知識を得ようするものだ。

  以前、数学者の森毅(もり・つよし)教授が述べていたけど、子供の頃は児童向けの本が無かったので、しょうがなく父親の書斎にあった難しい本を読んでいたという。森氏は何気なく述べていたけど、これは凡人の家庭と比較すると結構すごい。例えば、労働者の家だと、そもそも学術書が無いし、本があっても競馬必勝法とか、ゴルフの上達本、釣り雑誌とか週刊現代、ヤング・マガジンくらいだ。たとえ、本棚があっても、並んでいるのは『こち亀』全200巻とか、『ワンピース』や『ドラゴンボール』ばかりでお宅族のコレクションに過ぎない。また、『ゴルゴ13』があっても、内容が難しいので「積ん読」状態だったりする。頭の痛い家族だと、全員揃っての夕食でも、知的な会話というものは無い。両親の好奇心と言えば、隣人や同僚の噂話か陰口で、社会問題といっても新聞の三面記事をちらっと読むていど。後は、藝人の色恋沙汰とか、野球の試合結果といったところだ。

Rich Americans 3lower class Americams 1

(左: 知的産業で成功した大富豪 / 右: 生活苦に喘ぐ下層労働者)

  日本でも有名大学に進学するのは、高収入の親を持つ子供か、高学歴の家庭で育った子供であるという。知能の高い人は、それに見合った仕事に就く割合が多く、配偶者となる人も同じ職場に勤めていたりするから、双方とも高学歴で高収入という場合が出てくる。つまり、彼らは自分と同等の知力と経歴を持つ相手と結婚するということだ。マレーによると、新上流階級を形成し固定化するものは、同類婚(homogamy)らしい。これは個人的属性が類似している者同士が結婚する現象を指す。学歴が類似していれば学歴同類婚で、認知能力が似ている者同士が結ばれれば認知能力同類婚となる。ただ、高学歴の男性でも、相手が美人で魅力的なら高卒でも構わない、と思うから男女の仲は複雑だ。

  世間にはマレーの見解に腹を立てる人もいるけど、モノは考えようで、秀才と馬鹿が結婚するより、いわゆる「バカップル」の方が幸せな場合もある。趣味や知能が同じだからウマが合う。例えば、デートで洋画を観に行っても、吹き替え版で揉めたり嫌がったりすることはない。なぜなら、両方とも「日本語」の字幕を読むのが苦痛だから。もっと悲しいのは、翌日に内容を忘れていることだ。知性が等しいバカップルは、相手の缼陥(けっかん)に気がつかないから毎日が楽しい。恋人が「テイク・アウト(持ち帰り)」を「テイク・オフ(離陸)」と間違えても、それに気づかず自分も同じ事を言ってしまうし、「月極駐車場」を目にすれば、「月極(げっきょく)さんていう人は、たくさん駐車場を持っているのねぇ」と二人で感心してしまうのだ。(まぁ、「京極」という名前の人がいるから仕方ないかなぁ。) こんな訳だから、参議院と衆議院の違いが分からぬ有権者がいても不思議じゃない。

  日本と同じくアメリカでも、庶民の大学進学が普通になっている。マレーも触れていたが、1960年代くらいまでのアメリカ人は、高卒でも満足していたし、要職に就く人でも名門校卒という訳ではなかった。アイゼンハワー政権の閣僚を見れば分かるけど、有名大学卒の経歴を持つ長官がいる一方で、無名校卒の長官もいたのだ。例えば、内務長官のダグラス・マッケイは少年時代からの苦労人で、パッとしないオレゴン州立カレッジ卒である。しかも、オレゴン州知事になる前、彼は鉄道会社で事務員を務めていたし、一時は自動車のセールスマンでもあったのだ。農務長官になったエズラ・タフト・ベンソンは、11人兄弟の長男で、ユタ州立農業カレッジ卒である。労働長官になったマーティン・パトリック・ダーキンは、配管工を経て陸軍に入隊し、その軍歴を買われて政治家になった。商務長官のフレデリック・ミュラーは家具職人の息子で、通ったのはミシガン州立大学だ。

Douglas McKay 1Ezra Taft Benson 2Martin Patrick Durkin 1Frederick Muller 1

(左: ダグラス・マッケイ / エズラ・タフト・ベンソン /  マーティン・パトリック・ダーキン / 右: フレデリック・ミュラー)

  ところが、今や政治家や閣僚になるのは、裕福な家庭の出身者か有名大学を卒業したエリートがほとんど。軍人上がりの政治家でも、海兵隊の一兵卒じゃなく、士官学校卒の優秀なビジネスマンだったりする。財務省とか国務省に配属される議員や官僚になると、ゴールドマン・サックスとかメリルリンチといった金融業界出身者が多く、あとはハリバートン(ヒューストンの多国籍業)やCFR(外政問題評議会)の回し者みたいな人物ばかり。高い地位に就く人々は、プレップスクールや大学で人脈を作り、結婚相手も同じ階級の異性を選ぶ傾向が強い。議員や官僚、大富豪の閨閥(けいばつ)を調べると、意外な人物が親戚だったりする事がよくある。

  ということで、大学進学率が増えるにつれ、学歴同類婚の可能性が広がってきてもおかしくはない。クリスティーヌ・シュワルツ(Christine R. Schwartz)とロバート・メア(Robert D. Mare)の研究によれば、教育の程度による同類婚が結構みられるという。1960年代には、両方とも大卒という組み合わせは、全米カップルの僅か3%であったが、2010年には25%に跳ね上がっていた。この変化は特筆すべきものであり、既に新上流階級形成の重要な因子になっている。さらに重要なのは、認知能力同類婚の増加である。IQの高い両親を持つ子供は、やはり知能が高くなるそうで、名門大学に集中しやすい。日本でも子供の頃から大学附属の学校や進学塾に通っていた者は、東大や京大に合格する率が高いし、理系になれば圧倒的に有利だ。社会科学や人文科学でも、本当の意味で大学レベルの課題に取り組むには優れた言語能力が必要で、良い成績を収めたいと思ったら、かなりの言語能力はもちろんのこと、困難な課題に取り組む精力や継続的な努力が必要となる。田舎の学校でのんびりと暮らしている子供じゃ、都会のエリート高校生には勝てない。

  緊縮財政や意図的なデフレ継続のせいで、ここ数十年、庶民の生活水準は頭打ちか低下の一歩を辿っている。高額所得者は子供に充分な教育を与えるから、景気に関係なく名門大学に送ることができるけど、低所得の子供は中級大学か底辺大学しか進めず、就職先も大した能力や技術を要求されない企業となる。つまり、凡庸な一般人だと、給料は安いのに目一杯こき使われる業種にしか選択肢が無いということだ。さらに恐ろしいのは、支那人や朝鮮人、インド人などの移民が日本の大学を目指し、定員枠から日本人を蹴落とすことである。科挙の伝統を引き継ぐ支那人からすれば、教科書くらいで躓く日本人など敵ではない。移民や帰化人の子供が大学に増えれば、将来のエリート層には外人系が目立つようになり、グローバリスト的風潮は益々強くなるだろう。彼らは日本の伝統や歴史に興味は無い。支那人は支那人で群れるし、朝鮮人は在日同胞の利益を優先させようとする。政界や財界でもアジア人が増えれば、彼らは日系人に不利なルールや法令を作ろうとするはずだ。大学の推薦枠にも民族的要素が濃厚となり、支那人は支那人を引き入れるし、朝鮮人は朝鮮人を贔屓にしようとする。大学の人事も例外じゃない。帰化朝鮮人が朝鮮系の講師を優遇することはくらい、容易に想像できるじゃないか。

Catholic shool in TorontoAmerican school 6

(左: 支那人生徒だらけになったカナダ・トロントの学校 / 右: 黒人生徒が主流になったアメリカの公立学校)

  下層階級が固定化する日本というのは本当に恐ろしい。大した学歴も無いから、つまらない仕事しか選べず、いつまで経っても低所得のまま、という庶民が増えれば、日本人の中に無力感が蔓延してしまうだろう。低い知能が親から子へと受け継がれ、貧富の格差は悪循環となって固定化し、「努力したって生活は良くならない」という絶望感が庶民に拡散する。ただでさえ左翼教育で日本人の国家意識は低下しているのに、そのうえ階級社会となれば、日本人が伝統的に持っていた「国民の絆」はズタズタに分断されるだろう。国家を支える中流階級が没落すれば、日本はラテン・アメリカのようになってしまう虞(おそれ)がある。夏祭りの時だけ元気になる国民じゃ先が知れているよねぇ~。

  でも、日本人はどんどん劣化し、怠け癖までついてきた。今年は御代替わりがあるからしょうがないけど、10連休なんて異常じゃないか。日本には驚くほど休日が多い。西歐人が「海の日」とか「山の日」なんて聞いたら腰を抜かすぞ。まぁ、受験生は勉強すると思うけど、暢気な家庭の子供だと準夏休みだ。下層階級の親はテレビの前に坐って、一日中ボケ~と野球やゴルフを観戦しているし、できの悪い子供は何時間も携帯やTVゲームに夢中となる。賢いのは藝を覚えるペットだけ、という日本になったら本当に哀しい。人間なら、元「渡辺組」の猫組長くらい頭が良くないと、グローバル社会で成功しないぞ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68758337.html




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

179. 中川隆[-11325] koaQ7Jey 2019年3月21日 06:25:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[681] 報告

因みに、 >>178 で階級と言われているものは本当の階級ではなく、単に分割統治政策で疑似的に作られた貧富の差です:


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


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2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html

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60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

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ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

180. 中川隆[-11306] koaQ7Jey 2019年3月21日 11:57:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[700] 報告

資産数兆円のインド富裕層の結婚と、貧困にあえぐ売春地帯の娘のこと2019.03.21
https://blackasia.net/?p=12221


2018年12月12日。インドのあるカップルが結婚した。花婿の方はアナンド・ピラマル。花嫁の方はイシャ・アンバニ。「ピラマル」だとか「アンバニ」だとか言われても、日本人はまるでピンと来ない。

しかし、このふたりはインド有数、いやアジア有数の「超」富裕層の一族の子息子女である。

イシャ・アンバニの父親は、インド最大のコングロマリット「リライアンス・インダストリーズ」の創始者ムケシュ・アンバニ氏であり、その資産は4兆8780億円にもなる。一方のアナンド・ピラマルの父親は、インド最大の製薬会社ピラマル・グループの会長アジャイ・ピラマル氏であり、その資産額は1兆1,350億円である。

このふたりの結婚式は総額100億円以上かかっており、ボリウッドスターはもちろんのこと、前座にはアメリカの歌手ビヨンセが呼ばれ、ゲストにはヒラリー・クリントンが参加していた。

結婚式に100億円なのだからそのスケールは途方もないのだが、一族の資産を合わせて6兆円近い額になるのであれば、100億円くらい大したことはない。

インドは人口約13億人を抱える国で、その大半が貧困生活をしている。しかし、この超富裕層のスケールは凄まじい。その息子や娘でいられたアナンド・ピラマルやイシャ・アンバニは「運が良かった」と言えるだろう。

イシャ・アンバニの100億円結婚式

絶対貧困に苦しむ女性たち

私が知っているインド人は、こうした豪華絢爛に暮らすセレブのインド人ではない。まったく逆だ。私がインドで知り合ったのは、スラムに住み、地を這い、絶対貧困に苦しむ女性たちである。

私自身もずっとインドのスラムから出なかった。

言ってみれば、私が知り合ってきたインド人の多くは、それほど「運」に恵まれていなかった。「恵まれていない」という言い方は、正確ではないのかもしれない。「運が悪かった」というべきか……。

スラムには、薄汚れた服しかない人々もいる。物乞いをして生計を立てている人たちもいる。病気の子供たちもいる。

日本では、こうした極貧層は行政が保護するのかもしれないが、途上国であるインドでは放置されたままだ。そして、誰も彼らの存在を気にもしない。

「運」は平等ではない。人間には「運・不運」が生まれた時から付いて回るものだというのは、こうした世界を歩けばすぐに分かる。誰でもそんなことは最初から分かっているのだが、インドにいるとその事実の「重さ」は心から離れなくなる。

生まれた国や時代が少し違っただけで、親の境遇や生活が少し違っただけで、子供はその運命から一生逃れられない。

どん底に生まれ、日々生きるのが精一杯で、教育もなく、野良犬のように育てられた貧しい子供が、努力も運もなく社会的成功をする可能性はゼロに近い。

一方で、金持ちの家庭で生まれ、教育も受け、愛情もたっぷりと注がれた子供たちは、すくすくと育って社会的にも成功する可能性は高い。事実、イシャ・アンバニはイェール大学を卒業し、スタンフォード大学でMBAを取得している。

個人の努力を超えたところで社会的不平等の真っ只中に落ちてしまうと、もうどうしようもない。これを、運・不運と言わずして、何と言えばいいのだろうか。

個人の努力を超えたところで社会的不平等の真っ只中に落ちてしまうと、もうどうしようもない。これを、運・不運と言わずして、何と言えばいいのだろうか。

一緒にいたゴア出身の女性

インドの商業都市ムンバイには「カマティプラ」という売春地帯がある。ここま今も売春地帯である。ただ、かつてに比べると規模は縮小しつつあり、広大な売春地帯は削り取られるように消えていこうとしている。

2003年頃、私はこのムンバイのカマティプラにいた。

その時に一緒にいたゴア出身の女性は、1日に2度、ほんの少しの食事を取るだけで、あとは何も食べない女性だった。

客が取れなければ、1日1食の時もあると彼女は私に言った。売春の仕事をしても、その金はオーナーに収奪されるから自分の手元には残らない。

1日3度の食事が取れて間食までできる先進国の人間から見ると、彼女は明らかにカロリーが足りていない。しかし、金がないので自由に食べることができないでいる。そのせいで、まだ売春ビジネスの新米だった彼女はとても痩せていた。

ところが、彼女はそれでも恵まれている。

ムンバイの路上には、1日1食も食べられない人々が街に溢れていた。彼女は自分のサリーも何着か持っていたが、街には1着しかサリーを持たない女性もたくさんいた。安いサリーは3ドルほどで買えるが、それを買う余裕すらない。

インドの貧困は根深く、どこまでも救いがない。社会的・文化的な差別が、何重にも絶対貧困者を取り巻いている。

インド人は自分よりも下位カーストの人間を嫌い、彼らに対しては実に傲慢に振る舞う。下位カーストの人間に対しては、見事なまでに思いやりの一片もない。いつも、怒鳴り散らし、殴りつけている。

売春に追い込まれる女性は、多くが下位カースト、またはカーストにも入れてもらえなかった最底辺のダリット出身の女性が多い。

だから、どこの売春地帯でも、インドの売春地帯は怒声と罵倒にまみれている。女性たちは年中誰かとケンカしており、殴られたり、蹴られたりしている。

生まれた場所と時代が悪ければ、もしかしたら私たちがそうだったかもしれない。彼女たちは、本当に運が悪かったのだと私はしみじみと思わずにいられなかった。

次から次へと不幸が積み重なっていく

普通の人々が簡単に手に入れられるものが、貧困者にはとてつもなく遠い存在だ。何もかもが不足している。だから、次から次へと不幸が積み重なっていく。

たとえば、極限的な貧困状況に置かれている人々は、自分の教育や子供の教育のことなど考えるゆとりなどあるはずもない。だから、学校の存在は無視される。

しかし、読み書きや計算ができなければ、地位の向上のチャンスすらつかむことはできない。そうすると、良い仕事に就くことができない。低賃金の仕事ばかりで生活が困窮する。

生活が困窮すると、心身が荒み、アルコールやギャンブルに溺れやすくなる。そうすると、ますますそれが生活困窮を生む。そんな生活が長引くと、身体を壊しやすくなる。実際に身体を壊すと、また生活困窮の原因になる。

結婚して子供が生まれると、それも生活を追い込む原因となる。子供には教育を受けさせられない。病気になってもケガしても治療などできない。そうなると、子供もまた貧困の人生を歩んでいくことになる。

悪循環が「これでもか、これでもか」と貧困者に付いて回る。ひとつ乗り切る前に、また次の障壁が立ちふさがり、不幸が積み重なる。

考えればすぐに分かるが、字が読み書きできない人間よりも、字が読み書きできる人間の方が職業の選択が多いのは、現代社会では当然のことだ。

基礎教育は受けて当然のものなのだが、それを受けることができなかったというのは、社会で生きる上で最初から重いハンディキャップを背負っていることになる。いくら頭脳明晰であっても、それは現実の前に叩き潰される。

ブラックアジア:インド・バングラ編。普通の人々が簡単に手に入れられるものが、貧困者にはとてつもなく遠い存在だ。何もかもが不足している。だから、次から次へと不幸が積み重なっていく。

個人の能力では克服できない「運」

先進国に生まれるのか途上国に生まれるのか、富裕層の家庭に生まれるか貧困層の家庭に生まれるのか、そんなものは自分で決められるものではない。ゆえに、生まれながらに置かれた環境は「運」となる。

「運」の良し悪しは、自分の人生に最初からついて回る。一段上に這い上がることができる人もいるが、実際にはそれが容易ではない。「努力すれば報われる」というのは、社会がきちんとそのようにお膳立てしてくれた上で成り立つものである。

インドの貧困層を見ていれば、それが嫌でも分かる。社会全体が弱者に無関心で、彼らを見捨てていると、「努力すれば報われる」など単なる理想論でしかないのがすぐに理解できる。

インドでは、生まれが悪ければ、差別と貧困地獄の中で身悶えして苦しみ、自分の「運の悪さ」に愕然とするしかない。誰も助けてくれないから、青い肌をした神でも祈るしかなくなってしまうのである。

そういった目で見れば、私たちが日本に生まれて文句を言いながらも滞りなく食べていけているのは、それなりに幸せであるのは間違いない。

インドの貧困層に生まれていたら、果たして自分はどのような人生を送っていたのかと考えることもあった。それは、日本で生まれ育つよりも相当な苦難であったのは間違いない。

インドだけではない。たとえば、私たちがアフガニスタンに生まれていたら、まったく今とは別の人生を歩んでいたはずだ。どんなに向上心があって頭が良くても、アフガニスタンでは男は戦士や農民、女は無教育であることが一般的な人生である。

ソマリアで生まれていたら、男は海賊か失業者、女は男の財産として人生を全うする確率が高い。シリアで生まれていたら、今ごろ爆撃に怯え、イスラム武装組織の凶悪な暴力に震え上がっていただろう。

個人の能力では克服できない「運」がある。だから、必死で向上心を抱いて努力しても、不幸になる人も膨大にいる。逆に、何ら努力もしていないのに、たまたま金持ちの家庭に生まれることもある。

ひとりの人間の努力や能力をはるかに超えた「運・不運」は間違いなく存在する。人間には誰でも超えられない「運・不運」が付いて回る。運が悪くても、その中でもがくしかない。それが生きるという意味である。

インドの売春地帯カマティプラにいた女性のことを思い出す。今も彼女は苦しみながら生きているはずだ。もし、生き残っていれば……。

インドの売春地帯カマティプラの女性。ひとりの人間の努力や能力をはるかに超えた「運・不運」は間違いなく存在する。人間には誰でも超えられない「運・不運」が付いて回る。運が悪くても、その中でもがくしかない。それが生きるという意味である。
https://blackasia.net/?p=12221

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

181. 中川隆[-11240] koaQ7Jey 2019年3月24日 10:02:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[769] 報告

国を興す国語教育 〜 『齋藤孝のこくご教科書 小学1年生』から 2019/03/24
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201903/article_4.html


 この国語教科書は「自分が次世代の国民を育てる」という覚悟を持った親や教師に使って貰いたい。

■1.「学問のすすめ」から始まる小学生1年向け国語教科書

 齋藤孝・明治大学文学部教授がユニークな国語教科書を出した。目を見張るのは、小学一年生向けの教科書の冒頭から福沢諭吉の「学問のすすめ」を取り上げている点だ。

__________
 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の区別なく、万物の霊たる身と心の働きを以て、、、[1, p10]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これと、他社の標準的な国語教科書を比べてみよう。

__________
 うみの かくれんぼ

 うみには、いきものがかくれています。
なにが、どのようにかくれているのでしょうか。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 両者の違いは凄まじい。「学問のすすめ」は、すべての漢字に読み仮名が振ってあるとはいえ、小学校一年生がいきなり読めるものなのだろうか? 齋藤教授は、子供たち向けの解説文でこう語る。

__________
 いつも使っている学校の国語の教科書よりも難しく感じるかもしれないけれど、大丈夫。僕はたくさんの一年生に教えていたけれど、みんな、これぐらい読んでしまうからね。一年生でもすごい能力を持っているんだ。[1, p12]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■2.漢字はひらがなよりも難しいという思い込み

 両教科書で最初に気づく違いは漢字である。「うみの かくれんぼ」では全く漢字が出てこない。

「一年生でもすごい能力を持っているんだ」という齋藤教授の主張は、漢字教育に関しては長年の実証データで裏付けされている。石井勲氏という小学校教師が60年以上も前に幼児に漢字を教える教育を創始した。そこでは小学1年生が漢字700字以上を覚え、知能指数も大幅に伸びるという成果を得ている。「石井式国語教育」として、現在では広く普及している。[a, p171]

 漢字は形を表す象形文字で、抽象的なひらがなよりも覚えやすい。たとえば「鳥」は鳥の形を映しており、さらに鳩、鴉、鶏など鳥類は「鳥」を含んでいて、体系的に学ぶことができる。漢字は幼児には難しい、というのは、根拠のない思い込みなのだ。


■3.漢字は語彙力、思考力の基盤、

 さらに漢字は多様な語彙への扉を開く。たとえば、「うみ」とだけ習っても、それ以上の語彙の発展は限られている。「海」という漢字を習ってこそ、海洋、海底、海抜、海原などの語彙を増やす道が開ける。語彙に関して、齋藤教授は次のように指摘している。

__________
 小学校のうちはみんな割と読書をしますが、中学以降に読まなくなる。小学生が読むような物語は少ない語彙でも対応できますが、大人の本になると語彙が急に増えて、扱う対象も多様になってくるためです。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 語彙力は思考力の基盤だ。豊かな語彙を身につけてこそ、それらを使った幅広い、高度な思考力が発揮できる。こう考えれば、日本語で十分な語彙を学ばせることなく、英語に時間を割く事の矛盾が明らかになる。

 齋藤教授は「外国語を学ぶ時にも母語の限界が第二言語の限界になる」と指摘している。母語に関して中学3年生の国語力しかなければ、それ以上の英語力を身につける、ということはあり得ない。外国語に限らず、数学でも社会科学でも人文科学でも、すべて日本語を通じて学ぶのであるから、国語力が貧弱では他のすべての学科を学ぶにも支障がでる。

__________
 月に一冊も本を読まない大学生の割合が五十%を超えたという調査がありました。そんな知的向上心に欠ける国民に未来があるのか
と疑念が湧き上がります。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この憂国の危機感から「こくご教科書」は作られている。


■4.国語教育は人間教育

 国語教育のもう一つの眼目が「人間教育」であると、齋藤教授は主張する。

__________
 文章に込められた人格の深み、教養の深さ、広さを感じさせる書き手は日本に数多くいますし、また日本語に翻訳された優れた外国の作品もたくさんあります。それらをテキストにして日本語を充実させ、人格を成熟させる役割が国語にはあるのです。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 国語教育は人間教育、という主張は、たとえば弊誌1093号「人間教育としての国語教育 〜『“とっちゃん”先生の国語教室』から」[b]で紹介した。そこでは、国語教育一筋に生きた桑原暁一氏の「国語教育で文学作品をとりあげるのは、文学を学ぶためではなく、文学作品を通じて人間教育を行うためだ」という氏の信念を紹介した。

 また「伝説の国語教師」と呼ばれた灘校の橋本武氏が、中学3年間をかけて『銀の匙』という小説を読み込んで生徒たちの人間力を大幅に伸ばし、その副産物として「東大合格者数日本一」も達成したという事例もある。[a, p182]


■5.「勉強するのが大事」だけど「みんなちがって、みんないい」

 齋藤教授の「こくご教科書」が「学問のすすめ」から始まっているのも、「国語教育は人間教育」の実践だろう。ここでの子供向けの解説文には、次のような一文がある。

__________
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのはすごく有名なことばだね。みんな、生まれた時は平等で、本当は誰が偉い、誰が偉くないということはないはず。みんなが自由に楽しく生活できるはず。
ところがいまこの人間の世界を見てみると、かしこい人もいるし、そうでない人もいる。こうしたちがいがどうしてあるのかっていうと、それは学ぶと学ばないとによるものなんだって福沢諭吉はいっているんだ。だから「学問のすすめ」なんだね。・・・
キミも小学校一年生になったら、学ぶのが一番大事、勉強するのが大事なことなんだって、何度も繰り返し読んで心に刻んでね。[1, p11]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 しかし「勉強するのが大事」と言われても、成績だけで人を判断してはいけない、という事を、二つ目の作品で子供たちは学ぶ。「私と小鳥と鈴と」という金子みすゞの詩である。その冒頭と結びだけを引用すると:

__________
私が両手をひろげても、/ お空はちっとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のように、地面(じべた)を速くは走れない。
・・・
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 子供たち向けの解説は、こう語る。

__________
「みんなちがって、みんないい」という言葉がすごく有名だね。他の人にできて、自分にはできないことがあると、自信をなくすかもしれない。でも、「自分にはこれがある」と思えると、世界がちがって見えてくる。たいせつなのは、自分に自信をもつということ。みんなそれぞれちがいはあるければ、それぞれがそのままでいいんだよ、といっているんだよ。[1, p15]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 こういう文章を通じて、「勉強するのが大事」だけど、国語が得意な子、算数の好きな子、体育で活躍する子、できない子を助けてやる子など、「みんなちがって、みんないい」という大事な人生観を子供たちは学ぶのである。


■6.明治日本の原動力となった国語力

 国語力による思考力、人間力発揮がどのような威力を持つのかは、明治日本によって実証された。1853年にペリーの黒船がやってきた時は、日本は極東の閉ざされた島国で、欧米の植民地に転落するのも時間の問題かと思われた。

 しかし、半世紀後には世界最強の陸軍と屈指の海軍を誇るロシアを撃破し、有色人種は白人に勝てないという神話を打ち破って、アジア、アフリカの諸民族を勇気づけた。同様に立憲政治は白人の独占物と信じられていたのだが、明治日本は有色人種で最初の近代成文憲法を確立し、選挙に基づく議会政治を定着させた。[a, p206]

 こうした明治日本の世界史に刻まれる躍進の原動力となったのが国語力だった。幕末期の日本には全国で1万5千もの寺子屋があり、江戸での就学率は70〜86%。ほぼ同時代のロンドンが20〜25%というから、段違いの教育水準を誇っていた。[a, 113]

 さらにそこでの素読の教材とされていたのは、『論語』や『実語教』などの人間の生き方に関する文章で、これらを通じて子供たちは人間力を身につけていった。

 これだけの国語力と人間力を持つ一般民衆が、福澤諭吉の「学問のすすめ」を読んで、西洋近代の科学技術や社会・人文学を志した。当時の人口は3千万人で、「学問のすすめ」は3百万部売れたというから、10人に一人、さらに借りて読んだ人も含めれば、齋藤教授が次のように言う事態が生じたのだった。

__________
 これを当時、日本中の人たちが読んだ。だから日本人はこれからの時代はたくさん勉強する人になろうという気持ちを持ったんだ。[1, p11]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 さらに明治の先人たちは、西洋の科学技術、社会・人文科学の専門用語を漢字を使って翻訳し、日本語に取り込んでいった。

__________
Societyという言葉に当たる日本語がなかったので、それを「社交」や「社会」と訳しました。rightは「権利」「自由」「通義」と訳していました。
西洋の言葉を翻訳することによって新しい日本語を生み出したのです。明治維新は新たな言葉を生み出す絶好の機会となり、そこで日本語が大きく膨らみ、成長したのです。それらの言葉を通して日本人は西洋のものの考え方を身につけました。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 明治の急速な近代化は、江戸時代に広く一般国民に行き渡っていた国語力、人間力をベースに、漢字の造語能力をフル活用した語彙の急拡大によってもたらされたのである。


■7.文科省の黙殺

 一つ、不思議でならないのは、これだけ先人たちが国語力を通じて国を興すアプローチの見事な成功事例を残しているのに、なぜか文科省は完全にそれを無視していることだ。現代においても石井式国語教育で子供たちの「すごい能力」が実証されているのに、それを公教育で広めようという動きも見えない。

__________
 私はかつて文部科学省の教科書を改善する委員になった時に、小学校の国語教科書はもっと厚くていいし、活字(JOG注: 漢字?)も多くていいのではないかと提案をし、議論をしたことがあります。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 と、齋藤教授は書いているが、その結果は述べていない。教科書が変わっていない処から考えると、教授の提案は黙殺されたのではないか。そのくせ、文科省は「ゆとり教育」、その後の「総合学習」、そして現在は「主体的・協働的な学び(アクティブ・ラーニング)」など、実績もない目先の手法のみを追いかける。

 ひょっとして文科官僚自身が、自虐史観に囚われていて、戦前の教育はすべて悪であると忌避しているのではないか、とすら邪推してしまう。子供たちの「すごい能力」を封印しているのは重大な人権問題だし、その結果、「知的向上心に欠ける国民」を生み出しているのは、国難を内から作りだしているのではないか。


■8.「覚悟を決めて教える」

 齋藤教授は「あとがきにかえて」で、こう述べる。

__________
 かつて寺子屋で子どもたちが読んでいた『金言童子教』『実語教』『論語』などは素晴らしいものでした。それを大人が覚悟を持って教えていました。
この覚悟を決めて教えるということが非常に大切です。これからの子どもたちには、なんとしてもしっかりとした思考力と新しいものを生み出すだけの対話力を身につけさせなくてはいけません。そういう覚悟を共有して、質の高い国語を与えていくことは大人の責務です。[1, p228]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 齋藤教授自身の「覚悟」が伝わってくるような一文である。教育とは、次世代の国を支える国民を育てるという国家の大業である。その人作りの一丁目一番地が国語教育なのだ。

 そういう覚悟を抜きにして、文科省がこの教科書を全国の小学校に配っても、何にもならないだろう。あくまで「自分が次世代の国民を育てるのだ」という覚悟を決めた親や教師にこそ、この教科書を使って貰いたい。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の教育』、育鵬社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594077765/japanonthegl0-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー 1位(8/3調べ)、総合41位

b. JOG(1093) 人間教育としての国語教育 〜『“とっちゃん”先生の国語教室』から
「人生を考えはじめている青年と共に考える。ということは、実に当然、国語教師のしなくてはならない事柄である」
http://blog.jog-net.jp/201812/article_5.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 齋藤孝『齋藤孝のこくご教科書 小学1年生』★★★、致知出版社、H31
https://www.chichi.co.jp/specials/kokugokyoukasho/
(こちらから見本ページなども見られます)

2. 齋藤孝「日本の国語教育はかくあれ」、『致知』H3101

https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201903/article_4.html


▲△▽▼

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、 ケッ!!!

明治政府の私設「広報官」である福沢諭吉は、『学問のすすめ』(8編・明治7年)の中で、

「男も人なり女も人なり。・・・其功能如何にも同様」

と宣言していたのですが、『差別の諸相』の注解者・ひろたまさきは、福沢諭吉の女性論は、「文明的な良妻賢母の要請を求める主張」であり、「娼婦的存在には同情を示さなかった」といいます。

福沢諭吉は、その『品行論』において、

「そもそも娼妓の利害に就いては今更これを論ずるもの少なく、所謂道徳家の所望に任ずれば無き方が宜しと云ふは勿論のことなれども、人間世界は道徳のみの世界に非ず。人類の身も之を二様に分かつときは、一方は人にして一方は禽獣に異ならず。・・・」


というのです。


「遊廓」は「人間世界には非ざるなり」と説く福沢諭吉にとって、その世界に身を置く「遊女」(娼妓)は、「人に非ず」、「人非人」に等しい存在としか見えなかったのでしょう。

福沢諭吉にとって、「遊女」(娼妓)は、「人身の自由」が保障される「臣民」(人間)の対象外だったのでしょう。


福沢諭吉は、

「仮に今、人間世界に娼妓を全廃して痕跡おもなきに至らしめん歟、その影響は実に恐るべきものならん。」

といいます。 遊郭を廃止すると、数ヶ月を経ないで、「満都」に「獣欲」氾濫して、「良家の子女」がその餌食となるというのです。「遊女」(娼妓)が遊廓という苦界で、うめこうが苦しもうが一向に構わないが、「良家の子女」がその被害にあうのは「社会の秩序」を守る上で無視できない・・・というのです。


福沢諭吉は、「遊女」(娼妓)は、「最も賤しく、最も見苦し」い存在であるといいます。


「其業たる最も賤しむ可く、最も悪む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞いなり」と断定するのです。


『品行論』において、福沢諭吉は、売春制度に対する自らの主張を明らかにします。


「我輩は娼妓を廃せんとする者にあらず、却って之を保存せんと願」う

というのです。福沢諭吉は、諸外国から日本の遊廓制度に対する批判、「人身の自由」に対する批判があれば、それをさけるため、「深く之を隠すの注意なかる可らず。」と提言します。


日本の公教育における歴史教育で、福沢諭吉はどのような人物として教えられているのでしょうか・・・。

「福沢諭吉は豊前中津藩(大分県)の士族で、緒方洪庵の適塾(大阪)で洋学を学び、幕末に欧米に留学し、イギリスの自由主義を学んだ。帰国後、慶応義塾を設立し、欧米思想の紹介と教育に一生をささげた。」

(文英堂『くわしい学習事典・中学歴史の精解と資料』)と教えられているのではないでしょうか。福沢諭吉の顕彰は、紙幣に刷り込まれることによって、いまでも続けられているのはなぜでしょうか・・・。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2006/09/post_4f75.html


■福沢諭吉と慶応大が嫌いな理由。


そもそもアンチ論についてぐだぐだ述べるのは好きではありません。

でもコレだけは言いたい、と思ったので書きます。


福沢諭吉といえばあまりに有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。

そう一万円札のあのヒトです。

学問のすゝめの著者であり、某K大の創始者であられる御大。

その福沢諭吉、をネット検索したくらいじゃ出てこないちょっと深いところのソースから引っ張ってきた文章をどうぞ。

福澤の男女同等論

福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、


「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した。


『男女平等、女性にも男性と同様の教育を』


うん、そうだね。現在に通じる平等の基礎。

…此処まではまだいいのですが。


福澤は、男女同等論を唱えながら存娼論者でもあった。

妾を養うことも芸者を買うことも隠してせよ、

と隠匿論を述べ、公娼制度を積極的に肯定し、『品行論』(明治18年12月出版)のなかでは「社会の安寧」「社会の秩序」のために公娼制度はぜひ必要であると主張している。しかし、

その娼婦を称して

「其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし」

と罵り、隠れて遊べと言っている。

此処です。此処。

『愛人、売春婦とは隠れて遊べ。

社会のために(男性社会のために)売春婦を容認すべきである。

しかし売春業を行なうものは卑しく憎むべきであり、人の倫理に背いた人非人である』


と。なにこれ。


あー、何度読んでも腹立つ!

教育の権利だけが男女平等で、それ以外は???

人格的におかしいのではと思えるほど矛盾甚だしい。


実はコレ、wikipediaで福沢諭吉について以前書かれていた記事の一部分です。

とりあえず今現在wikiではこの引用の後半部分がきれいにまるっと削除されています。

それどころか著書『品行論』についての記事そのものがまるきり空っぽになっていて、不気味なかぎり。

まぁ、仕方ないのかとは思いますが。

巨大な後援会めいた存在が現代に残されていますしね。大学という形で。

深く詮索していくと、日本に巣くう恐ろしく根深い問題にまでたどり着いてしまいますのでこれ以上は此処では書かないことにしておきます。

しかしアカセンあったほうがいいけどそこに働く人は下賤である、だなんて。

教養ある人の発言とはおおよそ思えませんね。あなおそろしや。


一万円札は好きでも、あの肖像画はあんまり直視したくなくなること請け合いです。
http://d.hatena.ne.jp/NextLounge77/20100508/p1



▲△▽▼


★ 大学の教師をしていた頃、「それは間違い。原文を読んで」と、学生達の先入観を正すのに苦労したハナシをご披露したいと思います。それと言うのも、ブログやSNSの日記を見ていると、同じ間違いが随分、多用されているからです。


今日、お話ししたいのは、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず・・・・」の”故事”成句のこと。


★ 私は、大学で「人権論」という講義を担当していました。”天賦人権”を語ると、多くの学生は

「知ってます。福沢諭吉の”天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず” 人間平等の原理」

などと、即答します。高校でそう教えているのですね。

★ その度に、繰り返して来た言葉:


 「それは間違い。その言葉は、福沢諭吉の『学問のすすめ』の一番、最初に出てくる言葉だね。

でも、もう一度、しっかりと原文を読んで来なさい。福沢諭吉は、決して、そうは言っていない。 

福沢諭吉は天賦人権論者ではないョ。 全く逆。 

それをしっかり確かめて来なさい」


★ そのハナシをすると、多くの方々が、「エッ!」と、怪訝な顔を私に向けます。

どなたも日本で最初に人類普遍の原理「平等」を説いたのは福沢諭吉と信じておられるようです。


「天は人の上に・・・・・と言ったのは福沢諭吉では???」


★ 無理はありませんね。 例えば、手軽なネット百科事典として、誰もが利用する「ウィキペディア」にもこのように書かれています。

天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とは、すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思想家により主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に具体化された。日本では明治初期に福澤諭吉・加藤弘之らの民権論者によって広く主張された。


★ しかし、これは間違い。確かに福沢諭吉も、加藤弘之も、明治初期の啓蒙家として、天賦人権の思想を紹介はしていますが、二人とも「天賦人権論者」ではありません。加藤弘之などは、逆に社会進化論の立場からそれを否定しておりますし、福沢諭吉も加藤弘之の社会進化論に近い”学問至上主義”の立場、天賦人権などには否定的です。


★ それをしっかり確かめるために、是非、福沢諭吉の著書『学問のすすめ』を原文で読んでみて欲しいです。巻頭第1ページ冒頭にある、その行を引用してみましょう


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。

そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

         福沢諭吉著 『学問のすすめ』


★ 確かに福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な言葉で、この論文を書き始めています。

大事なことは、それに続く「と言えり」の4文字。「と、言われている」 が、しかし・・・と、以下に続いています。

福沢諭吉が言いたいのは、その先です。 後の文章は、全部、「そうではない」と、その理由を述べています。


◎ 現実は、そうじゃない、賢人愚人、貧しき者、富める者、貴人下人・・・雲泥の差があることは明白。それには理由がある。と言うのです。

つまり人間の優劣は学問によって決定される。優れたものが劣っているものを支配するのは当然のこと。


◎ (天賦人権のような考えより) 我が国で平安時代から子弟の教育に用いられて来た教科書「実語教」にあるように、賢者と愚人の差は、学ぶか、学ばないか、によって定まる。 肉体労働と知的職業に別れるのもそのためだ。

◎ だから医者、学者、政府の役人、富める商人、大地主などは、高い身分の貴人なのだ。


と、そういう論理を展開しています。 

天賦人権論の先駆者どころか、その敵である「社会進化論」の側に立つ主張者ですね。一般に信じられている福沢諭吉像とは全く逆です。 

学問による”弱肉強食” 能ある者が能乏しき者を支配するのは当然、と言っているのです。


★ 「・・・・と言われているが、そうじゃない」と、引用されている「・・・・」句が、短絡にが本文から独立し、しかもその引用句が引用者自身の言葉として一人歩き。 誰も正さないうちに、いつの間にか”故事成句”に成熟して熟語化し、戦後の民主主義の御代になると、爆発的に流行し始めた各種の「人権論」講座の枕詞に用いられる。 

そして我が国における人権論の先駆者として、疑われることもなく君臨し、社会の通念にまでなる。

★ 言葉としては誰もが知っている”社会常識”。 

だが、それを口にするほとんどの人が原文を読んだことがない。

そして間違った”偶像”が信奉され、もはや、誰も疑うものがない・・・・思えば、コワイハナシです。


★ そこで言いたい私の「学問のすすめ」は、故事成句を使うなら、必ず原文を読んで、その真意を確かめよう。 私の大学の恩師は「読書とは師との向かい合いである」と教えられました。その大切さを、今、思います
http://zenmz.exblog.jp/13489906/



▲△▽▼

安川寿之輔さんの福沢諭吉批判を聴いて考えたこと


安川寿之輔さんが、「「暗い昭和」につながる「明るくない明治」」と題する講演をされた。


1.福沢諭吉の天賦人権論の虚実


 「明るい明治」と「暗い昭和」を対置する司馬遼太郎の歴史観は、近代日本を「明治前期の健全なナショナリズム」対「昭和前期の超国家主義」と捉える丸山真男の二項対立史観をわかりやすい表現に言い換え、踏襲したものである。そして、その丸山が明治前期の健全なナショナリズムの代表格として評価したのが福沢諭吉の天賦平等論であり、一身独立論であった。

 しかし、福沢の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズは、「・・・と云へり」という伝聞態で結ばれていることからわかるように福沢自身の思想を表したものではない(アメリカの独立宣言を借りたことばであった)。


丸山氏はこの点をすっぽり落としている。

「万人の」という意味では後掲の福沢の天皇制論に見られる愚民籠絡論や、ここでは紹介できないが工場法反対論にみられる貧困市民層に対する蔑視の思想、家父長制的な女性差別論などは、福沢の人間平等論の虚実を示す典型例といえる。

こうした福沢の天賦人権論の虚実を精緻な文献考証を通じて徹底的に立証した点で安川さんの研究には特筆すべき価値があると感じた。

2.福沢諭吉の「一身独立論」の変節


 福沢が『文明論の概略』の中で、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という正しい認識を記していた。(もっとも、順序としては「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、(一身独立のような)其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べ、「自国独立」優先の思想を明確にしていたが)。

 また、福沢は自ら、アメリカ独立宣言を翻訳するにあたって、「人間(じんかん)に政府を立る所以は、此通儀(基本的人権のこと)を固くするための趣旨にて、・・・・・・政府の処置、此趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、・・・・新政府を立るも亦人民の通儀なり」と訳し、人民の抵抗権、革命権を正当に訳出・紹介していた。


 しかし、かく紹介する福沢も自分の思想となると、「今、日本国中にて明治の年号を奉る者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約のこと)を結びたる人民なり」と記して国家への国民の服従を説いた。

 さらに、その後、自由民権運動と遭遇した福沢は1875年の論説において、


「無智の小民」「百姓車挽き」への啓蒙を断念する


と表明し、翌年からは宗教による下層民教化の必要性を説き、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」

という人間蔑視の思想を憚りなく公言するに至った。こうして福沢は啓蒙期の唯一の貴重な先送りの公約であった「一身独立」をも放棄したのであった。


 ところが丸山真男は、福沢自身が優先劣後の区別をした一国独立と一身独立の議論の実態を無視し、さらにはその後の福沢が一身独立の思想を放棄した現実を顧みず、個人的自由と国民的独立の見事なバランスと言い換え、両者に内在する矛盾、軋轢――後年の福沢の一身独立論を変節に導く伏線となる要因――を無視して、福沢賛美の根拠に仕立て上げたのである。

3.福沢の変節の極みとしての神権天皇制論


 安川さんの講演の中で開眼させられた一つは福沢の天皇制論に対する言及だった。福沢は『文明論の概略』の第9章までの記述の中では、たとえば、「保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず」と記し、「新たに王室を慕うの至情を造り、之(人民)をして、真に赤子の如くならしめんとする」のは「頗る難きこと」と述べて、天皇制に批判的な考えをしていた。

 ところが、福沢は1882年に「帝室論」を書く頃には天皇制論を大転換させ、「帝室・・・・に忠を尽くすは・・・万民熱中の至情」などと言いだした。これについて、福沢は国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて人心の軋轢を緩和する「万世無欠の全壁」たる帝室の存在が必要になったと説くとともに、「其功徳を無限にせんとするが故に」帝室は日常的には政治の外にあって下界に降臨し、「一旦緩急アレハ」天下の宝刀に倣い、戦争の先頭に立つよう説いた。

 ところが、丸山真男は福沢が日常的にはと断って説いた皇室=政治社外論を一般化し、福沢が「一貫して排除したのはこうした市民社会の領域への政治権力の進出ないしは干渉であった」と誤解したのである。

4.福沢のアジア侵略思想の歩み


 1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国  政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、


「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」


を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。


 また、これに続けて福沢は、


「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」


と公言して憚らなかった。


 さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、


「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」


と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。


 こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 

また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。

植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。

5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔


 私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。


 まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。


 吉岡弘毅(元外務権少丞):

「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」

 徳富蘇峰:

「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」


 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。


にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、

丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、

福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――

とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。


 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。


 戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。

権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。

しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。

丸山思想の決定的欠陥 鍜治正啓


丸山真男は「文明論の概略を読む」を書いて福沢諭吉を礼賛しましたが、そこでは福沢の侵略思想を見落としており、私はこの見落としを丸山思想の決定的欠陥だと考えます。


福沢諭吉の実像は、日本の民主化への貢献というよりは、軍国主義を煽ったことの方にありました。


「時事小言」の社説で、


「印度・支那の御(ぎょ)し方を英人に見習うのみならず、その英人をも苦しめて、東洋の権柄を我が一手に握るべし」


とか


「滅亡こそ朝鮮人民の幸福」


などという非常識で勇ましい文章を書きなぐっていました。(このことは安川寿之輔氏の研究に詳しく書いてあります。)


この福沢の実態の見落としは、単なる軽率と済ませられるものではなく、丸山思想の根本的欠陥と見るべきと考えます。


福沢諭吉が日本の侵略主義を煽ったのは、自分の国は自分で守る気概を持った国民を作ること、つまり国民国家を作るためでした。こういう「国民」を作り出すためには、民族の一員としての平等感と国政への参加意識を持たせる必要がある、と考えました。

これが人民主権(民主主義)の思想の役割でした。

福沢にとって独立日本国を作ることが第一義で、民主化はそのための方便という二義的な意味しか持っていませんでした。


ところが丸山は「国民国家を作るための民主主義」という思想構造を理解できなかったために、福沢の民主主義の部分だけしか見えず、一方では福沢が重視した侵略思想の方を見落としたものです。


しかしながら福沢のこの思想は、福沢の性格のゆがみとか間違いというような個人的なものではなくて、明治期の時代の空気であったことに留意する必要があります。


この侵略思想は、自由民権運動の中にも顕著に現れていることは、板垣退助、大井憲太郎などの過激な侵略思想を見れば明らかです。福沢や民権派の運動の効果もあって、この思想が順次政府によって実行されて、挙句の果てに昭和の戦争を招いたものであり、長い眼で見れば、彼らは昭和軍国主義の先駆者ということが出来ます。


しかし福沢や民権派の人々が、この日本近代の侵略主義を作りだしたと言ってしまっては、彼らの力の過大評価になります。

彼等はこういう日本の近代化の時代の空気を代表して表現しているに過ぎません。

問題は日本の近代化という大きな流れの方にあるといえます。

この時代の空気を丸山は分析的に見ることが出来なかったのですから、思想家としては失格だったと言えます。

結論として、丸山は近代化の持つ暗黒面に気がつかなかったという意味で、「近代と言うものが理解できなかった近代主義者」だった、と言えます。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-79b8.html


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182. 中川隆[-11159] koaQ7Jey 2019年3月27日 08:00:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[856] 報告

「聞く」「話す」重視=日常の場面想定−発音など検定で修正・英語教科書
3/27(水) 7:08配信 時事通信


英語を聞き正解を選ぶリスニングをさせる小学校の英語教科書


 2020年度から初めて小学校で使われることになる5、6年の英語教科書は、7社が申請し検定を受けた。

【図解】教科書検定の流れ

 基礎的な英単語や日常会話などを、豊富なイラストを交えて教えるほか、「聞く」「話す」を重視し、能動的な授業を進めるための工夫がなされている。

 新学習指導要領は、小学校卒業までに600〜700の英単語を学ぶとしている。大半の教科書は、自己紹介などで英語を聞き、話す体験によって興味を引く導入部を置き、アルファベットの読み方と書き方、曜日や月、動植物を示す名詞、「走る」といった動詞、形容詞を覚えていく構成とした。

 また、「私は〜が好きです(できます)」などの基礎的な構文、「what」「who」を使った疑問形の作り方を紹介。料理の注文や道案内といった身近な場面を多用し、児童がたくさん話す機会を設けた。音声を聞いて、内容と合うイラストを選ぶなどリスニングの項目も多い。

 一方、計15冊の教科書には「学習指導要領に照らして不適切」とする意見が、各教科の中で最も多く付された。文部科学省幹部は「初めての作成で、出版社もどこが指摘の対象かつかみにくかったのでは」と推測する。

 各社にほぼ共通したのは、発音やアクセントに関する説明が足りないという指摘。各社は「文のどこが強く読まれるかな」といった注釈を加えたり、発音に焦点を当てたコラムページを設けたりする修正を施した。

 他方、「Nは舌の先を上の歯ぐきに付ける」など、発音の仕方の細かな説明は「児童が理解しがたい」として削除に。出版社側は「きちんと説明すれば理解を深めると考えたが、逆にこれを見て英語嫌いになる子がいると判断されたのだろう」と推し量る。

 また、「しかし」を意味する「but」などの接続詞が小学校で指導対象外とされているため、教科書の例文は接続詞を使わないシンプルな文章に修正された。

 児童の使いやすさを目指した工夫も随所に見られた。「習ったことを子どもが自分で繰り返しやるのが重要」(出版社)として、QRコードなどを印刷し、音声や動画を視聴できるようにした教科書が目立った。 
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190327-00000021-jij-pol


これで日本企業の経営者が全員アメリカ人になっても、日本人とのコミュニケーションで困る事はなくなりますね。

間に合って良かった、良かった。

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183. 中川隆[-11034] koaQ7Jey 2019年4月01日 15:25:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[989] 報告

英語に堪能、母語に不自由 2019年3月29日


 次期学習指導要領で小学校5・6年生を対象に英語が正式教科となり、11歳、12歳の子どもたちが2年間で習得する英単語数は600〜700にもなるという。現在、中学校では1200単語、高校では1800単語のあわせて3000単語を習得させているが、中学校段階の半分以上を前倒しして小学校段階で覚えさせ、さらに疑問詞や代名詞、動名詞や助動詞、動詞の過去形などの表現も学ばせるのだという。そして上級学校に進学すると、中学校で1600〜1800単語、高校で1800〜2500単語にまで増やし、高卒段階の習得単語を3000からいっきに4000〜5000に引き上げるという。国を挙げてこれほど英語学習にムキになっているのは何のため、誰のためなのだろうか。

 「英語ができるオレは格好いい」の風潮なのか、はたまた英語熱の微妙な浸透による影響なのか、最近は何でもかんでも日本語の会話のなかに英単語を交えて話す人が増えてきた。一昔前ならルー大柴の芸風として笑われていたものが日常生活のなかで当たり前となり、いつの間にか意味や印象も脳味噌にすり込まれているから不思議だ。その度に「日本語でいえよ」と思いつつ、みずからが無意識のうちに使っている単語もままある。日本語で文法を使いこなしながら会話しているのに、単語は英語という奇妙な取り合わせである。

 企業ではコンプライアンス(法令遵守)やガバナンス(統治)といった言葉が当たり前に使われるようになり、会議や打ち合わせはミーティングなどという。選挙になれば公約といえばいいのにマニフェストといい、主導権を握ることをイニシアティブを握るといい、スターバックスに行くと、大中小でなくとも、せめてS・M・Lでよかろうものをスモール、トール、ラージ、グランデからサイズ(大きさ)をチョイス(選ぶ)し、「テイクアウト(持ち帰り)ですか?」と聞かれたりする。アイドルのAKB48は「アキバシジュウハチ」ではなく「エーケービー・フォーティーエイト」。昼飯に行こう→ランチに行こう、心から尊敬している→マジ・リスペクト、潜在能力を秘めていますね→ポテンシャルが高いね、売り切れています→ソールドアウトです−−。日常のなかに浸透している英単語はまだまだある。そして、暴力亭主→DV男(ドメスティックバイオレンス)、コストパフォーマンス(価格性能比)→コスパ、キャパシティ(収容能力)→キャパなどのように短縮して独自の和製英語化を遂げているものもあったりする。そして、昔の人がDをデーといおうものなら笑い者にするような風潮すらある。英語ができるものがすごいという価値基準から、そうでない者を卑下するのである。

 さて、話を本題に戻すと、常用漢字すら習得できていない小学生が、漢字の筆記学習(毎日習慣づける)に加えて英語の単語学習(スペルを何度も筆記したり、反復学習するほかない)までこなし、これまで中学校1年生段階で学んできたはずの学習量を受け止め、消化できるのかは甚だ疑問だ。恐らく無理な話で、取り残されて置いてけぼりを食う子どもが続出することは疑いない。よほどの秀才でない限りは、家庭での自学による蓄積がなければ英単語も漢字も覚えられるものではなく、そのために費やす学習時間分ほどその他が疎かになる関係だろう。現状でさえ読み書き計算ができず、そのまま放置されている子どもたちが多いなかで、一部の「できる子」とその他の多数を占める「できない子」との溝はさらに深まることが予想される。

 母語である日本語の読解力が落ち、テストで文章題の意味が理解できない子どもが増えていることがニュースになった。文章力についても、句読点の打ち方やてにをはの使い方、接続語の使い方などに不自由な子どもたちが増え、大学では卒論を書こうにも起承転結や文章のつなぎ方がわからない学生も増えているという。読書量の圧倒的不足など要因は様様あるだろうが、日本語に不自由であるというのが特徴だ。

 英語でもスペイン語でも中国語でも、語学に堪能であることにこしたことはない。何カ国語も操れるような人をみると、その努力に大いに感心する。しかし、現在のように母語を押しのけてでも政府挙げて英語学習に傾斜しているのは、植民地従属国としての仕様を完成させ、英語への反射神経を高め、外資に牛耳られたグローバル社会に適応するためでしかない。母語や母国から切り離れて世界を漂流するコスモポリタン(無国籍主義者)の道を進むという政府の宣言なのだろう。       
https://www.chosyu-journal.jp/column/11286

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

184. 中川隆[-10664] koaQ7Jey 2019年4月10日 20:42:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1377] 報告

留学生大量失踪の東京福祉大、元教授が緊急会見。
元総長が「120億のカネが入るわけだよ」と会議で発言。金儲けのために留学生受け入れか
4/10(水) 19:03配信 HARBOR BUSINESS Online
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190410-00189873-hbolz-soci



◆渦中の東京福祉大、元教授が緊急記者会見

 大量の留学生が行方不明となった東京福祉大学(東京都豊島区)。同大学の教授だった田嶋清一氏は4月10日に記者会見を開き、元総長である中島恒雄氏が「金儲け」のために留学生を大量に受け入れていたと告発した。

 同大学では、2018年度に「研究生」として受け入れた留学生3200人のうち、688人が行方不明となっている。2016年度からの3年間では累計で1400人が所在不明になっているという。

「研究生」とは、学部の正規課程に進学するための準備として、日本語や日本文化を学ぶ留学生のことを指す。授業に出席するのは、週に10時間以上でよいという。

 同大が大量の留学生を受け入れたのは、収入の確保が目的だったのではないかと指摘されてきた。

◆「そしたら、ガバチョガバチョじゃん」

 田嶋さんは2011年9月に行われた会議の議事録と録音データを公開。実際に、中島氏から「金儲け主義」とも思えるような発言があったと指摘した。議事録によると、経営学部の新設を目指す会議の中で、中島氏は以下のような発言をしている。

「120億の金が入るわけだよ、専門学校で。大学より大規模になっちゃう、もうかるの。何でそれをやらんの。聞いてんだよ、おい」

「そいで4年間やりゃあ、上手にやりゃ、おまえ、今の勝手な試算だけど、120億入るって。どうだ伊藤、すごいだろ、おまえ。このアイデアは」

「そしたら、ガバチョガバチョじゃん」

(表記は全て議事録ママ)

 これ以外にも中島氏は、“いくら儲かるのか”という話を繰り返ししている。田嶋氏は、「学校運営の目的が、教育や研究ではなく、金儲けにすぎなくなっている」と中島氏を批判した。

◆出所後も大学の経営に関与

 中島氏は2008年1月に強制わいせつ罪で逮捕され、懲役2年の実刑判決を受けている。それ以降、表向きは大学の教育と研究に関与してこなかったが、実際には影響力を保持し続けていた。今年3月末の職員研修会にも参加し、大学側に問題はないことや報道が誤っていることを主張していたという。

 女子留学生への不適切な行為もあったという。田嶋氏は「十数年前から自宅に女子留学生を宿泊させています。中島氏に近しい人物によると『留学生たちに夜の相手をさせている』といいます」と話す。裁判で意に反した性行為があったことを認められた留学生や示談金を支払われた留学生もいる。

◆「留学生30万人計画」の影で留学生が食い物にされている

 指宿昭一弁護士は、「こういう大学があってもいいのか」と同大のあり方を批判する。

「留学生は金儲けの道具ではありません。『留学生30万人計画』の影で、こうした不適切な学校に食い物にされる留学生が後を絶ちません。大学と中島氏の責任を明確にするべきでしょう」

 2008年に策定された「留学生30万人計画」。留学ビザの発給基準も緩和され、2018年5月には、大学や日本語学校などに在籍する外国人留学生が約29万8000人に達した。こうした拙速な受け入れが、大量の留学生の行方不明というひずみをもたらしたと考えられる。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190410-00189873-hbolz-soci

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

185. 中川隆[-10323] koaQ7Jey 2019年5月04日 10:53:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1768] 報告
雅子さま高学歴の大嘘 《要保存 大拡散希望》2019-05-03
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/cd6e4af98193c8099941cc7d736cf69f

退位、即位と続く報道を見ていると壮大な茶番劇、白昼夢でも見ている感じです。嘘まで塗り重ねての雅子さま上げ。昨日のフジテレビ朝のワイドショーでは小倉さんが雅子さまに関して「ハーバード、東大、オックスフォードものすごい超学歴」ふうなことを言っていて、これでまた内情を知らない国民は信じ込むのだな・・・・・とうんざりしました。

通常の入学と卒業をしたのは、ハーバードだけでオックスフォードは落第なのに。しかも、そのハーバードもいわくつき。

雅子さまはハーバードに入学したわけではなく、もともとはラドクリフ大学に、アファーマテイブ枠で入ったのです。affirmative actionというのは、大学が民族などに依る落差を是正、公平化するために設けた制度でありいわば人道的お情け枠、小室ssiの国際基督教大学の枠と同じです。小室ssiは在日枠ともう一つ別枠(貧困家庭枠)と計2枠の特殊枠を活用しての入学でした。

雅子さまがお情け枠で入ったラドクリフ大学が、ちょうどハーバードと合併したのです。運が強いのでしょう。雅子さまが入ったのはハーバードではなく、ラドクリフです。このことには、一切触れませんが。そのラドクリフ入学も実力によるものではなかったことに留意。

そしてハーバードは無論一流大学ですが(フランクフルト派の巣窟だけど)、有力者コネクションで入学できることでも知られています。ハーバードでは当時、雅子さまの父小和田恒氏が教えていました。
他にたとえばブッシュ大統領の子弟がコネと金銭入学。

ハーバードではありませんが、偏差値の低い関東学院大学(37.5〜42.5)からいきなりコロンビア大学院に入ったのが小泉進次郎氏です。通常あり得ません。しかし、ここも有名人の父親コネで特別枠です。あのキャラですから進次郎氏父純一郎氏が「息子は可愛いからね」と、けろっと漏らしています。

アメリカ名門では意外にも有効な、地位高い人のコネとカネ。小室ssiの普通ならない、フォーダム大での優遇も含めて。

擁護派は雅子さまがMagna Cum Laude(という賞)を獲得したと言い張りますが、入学すらコネ・カネが効く大学だということをお忘れなく。賞金が出るわけでもない賞を例に引かれても基本の嘘を消すのは無理。さすがに最高ランクのSumma Cum Laudeを大学は雅子さまには与えてはいませんが。

一般教養科目の成績も含めたLatin Honorとは別に、専攻科目毎に与えられるEnglish Honorがありますが雅子さまは超有利な環境にあったにもかかわらず、こちらも獲得出来ていません。

            英語は貧弱

高校はベルモント市の公立ベルモントハイスクール に編入したのですが、英語が出来なかったのでESL (English as Second Language)の下のクラスに振り分けられたのでした。普通に出来ない子より、もっと下のクラスです。のちにワングレードアップして普通に出来ないESLのクラス入りしたのですが「英語が喋れない、書けない子」扱いであったことに変わりはありません。

いわば「英語劣等生クラス」からいきなりハーバード大の講義についていける英語を身につけるなど、現実にはあり得ません。しかしとりあえず入学して卒業したのは事実ですが、この時父親の小和田恒氏が教授として同大にいたことを忘れてはなりません。
雅子さまはオックスフォードは単位が取れず落第帰国されましたが、オックスフォードに小和田恒氏は関係していませんでした。大学も外務省も、父親がいたからこそで、父親の力が及ばない所では落第生。

東大も確か、小和田恒氏が名誉教授であった(要再検証ですが、東大に関わっていたのは事実)時代かと思いますが正規入試に依るものではなく帰国子女枠で東大に編入されていて、講義にはほぼ出ていず一年で中退しています。これを擁護派は外務省入省試験に通ったので、と言い繕いますがそれならなぜ、わざわざ枠を使ってまで東大に「とりあえず」入られたのか、箔付けのためだったのでしょうか。世間はきれいに騙されて、東大もきちんと入学、単位をきちんと取得しての卒業だと思い込まされてしまっています。

その外務省入省も、当時は5枠あった「VIP子弟枠」を使用しての入省です。
ハーバード、東大双方に小和田恒氏という父親の権力が介在。
小和田氏の存在がない、オックスフォードでは外務省から9人派遣留学されていてそのうちの1人ですが、普通1年間で修士号が取れる所、雅子さまお一人取得が出来ず倍の2年間もい続けたのに結局、落第、すごすご帰国して国費一説には1500万円を溝に捨てた形、国費の無駄遣いはその頃からです。
これに関して擁護派は「外務省から呼び戻されたので単位が取れなかった」と言い繕うのですが新米ペーペーの省員を呼び戻すほどの重大な用件があるはずもなく、御本人がヘタれて帰国したか普通の倍の年数いてもまだ単位が取れないでいる雅子さまに外務省が見切りをつけたか、どちらかでしょう。9人いて雅子さまを除く8人は1年間で単位を取得、すんなり外務省に戻っているのだから。

以上、細かく述べましたがものごとをもっとシンプルに言うなら、雅子さまの英語レベルでハーバードの講義をまともに受けて卒業するのは絶対にないです。動画で僅かに残っている英語のスピーチは今は見つかりませんが(どうせ証拠隠滅で消されているでしょうが)初めて耳にした時は尻もちをつきました、その英語の稚拙さに。それが学歴に疑いを抱き調べ始めた動機です。

⇒動画 https://m.youtube.com/watch?v=6gqE5G_sA9U&feature=youtu.be

雅子さまの英語力の低レベルなのは、外国人歌手がばらしてしまっています。利害のない外国人が何よりの証言者でしょう。皇太子時代の新天皇陛下の英語については、当時のオーストラリア人の教師が「ナルちゃん、頭悪い。英単語もろくに覚えない」として、暴露されています。家庭教師付きのフランス語も中途挫折。人工膀胱の尿袋については、ネパールの留学生がさらっと書いています。

雅子さまが晩餐会など外国要人に会いたがらずご体調の波で欠席なさりがちなのは、英語のその稚拙さを知られたくないからとも思えます。
雅子さまが数カ国語堪能など、笑止です。英語さえおぼつかないお方が。
日本語も怪しげなのは、有名です。「くわがた、くわがた、あの、あの」発言を筆頭格として、あれこれ記録されています。語学には日本語も含まれます。日本語に能力を持たない人が、英語に対してだけ卓越しているということはありません。幼少期から英語圏で育ち日本語を余り使わない生活環境でない限りは。

雅子さまが皇室に馴染めないのは、海外でのお暮らしが長いせい、とも擁護派は言うのですが、紀子さまも同様です。紀子さまの英語はひんぱんに動画に残っていますが、雅子さまのは見つけたのはたった一つ。

雅子さまはお立場にもかかわらずWould youという丁寧語すら用いてないのです。せめてMai Iでしょう。英語の拙さと共に、お里が知れる逸話です。またこの時、警備の都合から時間が厳密に限られていたのですが、雅子さまがサインねだりで時間を超過、警備を混乱させています。
第一、皇太子妃がミーハー言葉で芸能人にサインをせがむなど。

その時の雅子さまの言葉がEnglish Journal 2008年11月号に記録されています。「Oh,no,oh,wait,we want you to sign something for us」

これは些細な一例でこだわることもありませんが、雅子さまがアメリカの高校で英語が出来ない人たちのためのクラスにいたことは、どう擁護説明するのでしょうね?「英語が出来ない外国人の子」が3年後に突然ハーバードと奇跡はどう説明するのでしょう。自然界には芋虫や毛虫が蝶になる奇跡が存在しますが。雅子さまは芋虫並の奇跡を体内に秘めていらしたのでしょうか。

雅子さまのハーバード論文への疑義は、貶める目的の想像によるものではなく 論文手伝いの1人糠沢和夫氏の証言が公にあります。糠沢氏の他に論文に手を貸したのは当時経団連理財部長と東京銀行の真野調査部長、 国際金融情報センターの榊原総務部長で、経緯は 『THIS IS 読売』1993年4月号で述べられています。

証言者の糠沢 和夫氏は、経済人、外交官。むつ小川原開発社長、経団連専務理事を経て、経団連出身者として初の特命全権大使や、 民間人初の外務省大臣官房文化交流部長を務めた人です。

綺羅星の如き財界人3人を結集した雅子さまの卒論が、ハーバード大で落とされるわけもないのです。

外交官としてバリバリ活躍していた優秀な雅子さまが、無理強いに皇室に入れられて病んだ、という嘘がまかり通っていますが、上記を見れば虚偽だと解かるでしょう。入内は遥か前から路線として仕組まれていたことです。嫌なら付き合っている男性が他にいると言えば、簡単に逃げられたことであり、歴代のお后候補の人たちは巧みに処しています。入内してからあれこれの言い訳は無用、覚悟もなしに入ったのが悪いのだしいよいよ嫌なら離婚も選択肢として可能でした。それを今更。

雅子さまのいとこ(男。小和田家か江頭家かは不明)が大阪の精神病院に長いこと遺棄状態であることから、元々家系的に精神の病の因子はお持ちだったのではないでしょうか。以前、その内因した精神病の発端は、外務省での不倫相手の死がきっかけだった、とそれなりに信用できる筋から聞いたことがあり、その時は聞き流していたのですが、今ふと思い出して調べてみました。

●奥克彦参事官死去45歳 2003年11月29日
●雅子さま 長い療養生活への出発点は2003年12月4日。40歳の誕生日を5日後に控え、帯状疱疹を発症して入院。

日時はピタリと符合していました。このように負の部分はすべて他のせいになり、作り上げた美点は御本人の優秀さとして広報されます。

雅子さまの事実に根ざさない上げ底褒めは、今後もいよいよ続くと思われます。「生前退位」の違法性と共に、国民が永久に騙されていていいことではありません。いきなり真実が明らかになることはありませんが、年数をかけて皇室内の嘘と虚飾、企みはいずれ日の本に明らかになる、と断言しておきます。
たとえそれが、令和に生きるすべての人々がこの世を去ってから後のことであるにしても。

真実はいずれ、明かされなければなりません。書き続けた記事はそのための捨て石であり、一時的な批判で書いてきたわけではありません。

虚言で称揚される雅子さまと新天皇陛下ですが、それと反対に虚言でさんざん貶められているのが秋篠宮家です。


公務継承、さらに多忙に=「皇嗣」秋篠宮さま−6月に初の海外訪問

時事通信

これまで新天皇、新皇后の担うべき公務を地道に一家でこつこつ続けてこられたのが秋篠宮家なのに、「さらに多忙に」とは痛ましいことです。
雅子さまが当初こそ多少は務められるでしょうが、いずれまたドタキャンドタ出は必定、それなら最初から出ないほうが、現場の要らざる疲弊がなくなります。

秋篠宮家が「さらに多忙」の中には、海外からの賓客接待が含まれますがそのために必要な公的場所含めた建物の建設を、秋篠宮殿下の私的な「贅沢」だとして喧伝する連中は、汚いです。人として最低。
ヤフーニュースにつくコメントの、虚偽を含めた常識では考えられない罵詈雑言、愛子さまの未発達なご様子を悠仁さまにスライドするのを始めとして、天皇側の不備を秋篠宮家に転化してのやり口は、雅子さまの背後にいる創価勢力ではないかと見ています。信者の数を考えれば、千、2千の工作員動員は何ということもありません。新天皇と皇后の僥倖に、旗振り要員と「雅子さま素敵〜」や「愛子さま、お可愛らしい〜」の掛け声係として駆り集められる連中です。

紀子様の堕胎説や、川嶋教授の怒鳴り込み説なども創価ともう一つ、自分の上にある秋篠宮家を憎んでいた某宮家が名誉会長を務めていたワールドメイトの信者が手分けして広めたデマです。

堕胎など医師の守秘義務を破ってもらす医療関係者が、全国津津浦浦に隈なく存在しているあり得なさを考えてみればよいのです。やれどこそこの院長が言っていた、婦長がここだけの話として教えてくれた、などなど冷静に考えてみればあり得ないことを信じ込まされている人達がいます。

創価大学の学生には、「東宮夫妻お出まし」のための歓迎サクラ要員募集記事がHPに載っていました。(スクショと共に記事にしました)。毎度報道されるお迎えの集団が本物なら、動員の必要はないでしょうに。

創価婦人部は複数名が一組となって電車の中で、周りに聞こえる程度のひそひそ話で「ねえ、聞いた?」「紀子さまってば」「秋篠宮殿下って実はね」として、秋篠宮家の貶め作戦を行って来ました。
同じ女たちが、別の電車で同じ芝居をしている所を目撃したというコメントを、コメ欄にかつて頂きました。

眞子さま問題を機として、秋篠宮殿下のすべてがよいとは強弁しないし、ご発言も時機を外してどうかと思われることもありますが、また眞子さまと佳子さまへのコントロールもいかがなものかと、その点は率直に思いますが、これまでの総体としての誠実なお勤めを帳消しにするほどの欠点ではありません。

悠仁さまへのご教育を懸念して、だから愛子さまを天皇にという論のいいかげんな凄まじさ。両親を「パパ、ママ」と呼ばされ、そのパパは口を開けば「雅子が、愛子が」、即位でやっと「国家国民」規模のご発言があったようですが、遅きに失します。お心が本当にあれば、とうに発言はなされていたはず。

第一、国民は一まとまりのしっかりとした言葉を悠仁さまから聞いたことは何度かありますが、愛子さまがまともに語っているのを見たことがありますか?中学入学時には記者たちへ簡単な受け答えも出来ず傍らの雅子さまに「なんて言えばいいの?」これは音声に残ってしまっています。傍らの雅子さまはひきつった笑顔で、囁き女将。皇太子は落ち着きをなくした時の癖で、ポケットに手を突っ込みそうになったり。

6歳の悠仁さまがお出来になった玉串奉奠を、愛子さまは中学生で出来なかったのですよ?

拙ブログで検証することを躍起に打ち消しているブログが複数あり、そのうちの3つほどは小和田家関与プラス創価勢の可能性を疑っていますが、なぜこちらに直接いらして抗議しないのでしょうね。辺境サイトで書くより、ランキングから外したとは言えまだ2万人前後のアクセスが日々ある拙ブログのほうが拡散できるでしょうに?もっとも、反駁は無論させてもらいます。

秋篠宮家の存在となかんずく悠仁さまが邪魔なのは、女性宮家設立を端緒に女性天皇擁立、そして女系へと引っ張っていく反日左翼、在日勢を含めた勢力です。皇室の弱体化が日本の衰退につながるからです。

以下、こんな日本語さえ整理してしゃべれない方のどこが「ご優秀」、どこが英語堪能。あまつさえ複数多言語も堪能だとか、喋っているのを聞いたことがありません。日本語の能力と外国語のそれとはリンクしています。


愛子さま偏差値72のヨタ話も思えば随分前から出回っています。当時から愛子さま天皇は画策されていたのです。

並び順すら心得ないお方のどこが「ご優秀」。これで、中学生のとき「御堂関白記」を読みこなし読書感想文を書いた、と喧伝する上げ底。

「ご優秀な」内親王に「パパ」と呼ばせてはばからないその「パパ」も、マイクロバスの出口にぼーっと立ちふさがって他国の皇太子に注意されるお方。

暴く意図はないのです。ただ国民を騙して上に立たせようとするある勢力、そのためにこじつけて嘘までついて秋篠宮殿下を妃殿下を貶めるやり口が人として許しがたく汚いので繰り返し述べています。

即位以降はこのような実情を書くメディアも絶えるでしょう。そして国民は捏造美化を信じ込み、こと皇室に関しては北朝鮮レベル。

皇室は王室並みに堕ちて行きます。韓国から「日王」と呼ばれても怒れない状況を迎えるでしょう。

これがこの方の性根。紀子さまが満点とは言いませんが、このての下卑た恫喝根性があらわになった写真はありません。

末尾に・・・・ティアラにひっかけてBBが「ティアラを雅子さまがヤフオクで売りに出した」と書いたとして、手を変え品を変えHNを変え執拗にコメ欄に書き込んでくる手合がいます。全部を公開しているわけではありません。こういう勘違い意見もあるという参考に、いくつかを公開しています。

ティアラをヤフオクに出した、などと書いたことはいっさいありません。
ティアラなどヤフオクに出したら一発で犯人がばれるのに、そんなもの出すわけもなく、それを出したと書くことなどあり得ません。
コメ欄では定住の読者さんが応戦してくださっているように、ヤフオク出品物の何点かにお品の名称誤認があるとして、あげつらわれていますが、それは拙ブログ主も承知で訂正がてら記事にもしています。

あの膨大な出品物の数点に事実誤認があったとしても、残りの出品物への言い訳にはなりません。ありていに言えば盗品ではないですか、しょせん。そして
外部の一般人が、あれらを皇室内からドサドサ持ち出すことなど不可能です。ヤフオク告発とティアラへの疑念とは全く別問題だということすら解らない頭でスレチで書き込みに来られても迷惑、削除の手間が鬱陶しいのでおやめ願います。

ヤフオク擁護者は、一般人があの膨大な数の宮中のお宝を外に持ち出して売りに出すことが不可能ではない、という論拠を述べないと、騒ぎ立てるだけでは犯人側と、何とか騒動が広がらぬよう苦慮した警察機構と政府を改めて追い詰めるだけのことです。そういう意味ではむしろ、もっと騒いで欲しいとすら思います。ヤフオク事件は現実にあり、そして唐突に報道は消えたのです、犯人が誰かという検証に行き着く前不自然に。
見せかけの祝典の影に隠された、あまりにも禍々しい盗難事件です。

心ある国民はヤフオクと、水俣事件を決して忘れません。ずっと言い続けます、御代が正しく変わるまで。


___


コメント


BB様 、英会話動画ありました! (らむ子)2019-05-03 12:54:56頭から ギスミー・グレイッ・・プレジュア〜シャアーデスイブニングウィッ・スユ〜
https://m.youtube.com/watch?v=6gqE5G_sA9U&feature=youtu.be

2分43秒から オーゼッラブリー・ソーフラッフィー、オッ!ライクユー・ヤ〜
http://jp.youtube.com/watch?v=zVs_0E0_RAc

最後のライクユーは…凍てつきました。

豪州の病院を訪問した雅子さまが、足が不自由で介護用歩行器を使用している少年に対し、よちよち歩き用歩行器で歩く愛子さま(1歳)の写真を指して、「あなたと同じね」と言って笑っているんです。ホラーです!


ヘイリーに、あんた署名しなさいよ事件

アメリカ人に教えてもらった奥様のレポによると…
May I have your autograph?とたずねるのがベストだとか。
We want you to sign here. だと 「あんた、ここに署名するニダ!」
生命保険の受け取り人変えさせられた方いましたねぇ、そういえば。

私も見ました 2 (都鳥)2019-05-03 13:44:59BBさま、皆さま、こんにちは。

本日も更新ありがとうございます。

私も女性皇族のドレスやティアラについてとのサブタイトルにひかれ、見ました。
かねがね思っておりましたことですが、皇后陛下はあのような報道を恥ずかしいと感じることはないのでしょうか?

英語、ドイツ語、フランス語も堪能とのことでしたよね。以前は寝言もロシア語で仰っるほどロシア語もとのことでした。ハーバード大学の卒論もメディアの方々は本当にご存知ないのでしょうか。
オックスフォード大学の件も恥ずかしいですね。どのような顔でお帰りになられたことかと。始めから辞退されればよかったものを。

それと今更ではございますが、雅子さまのお相手は某首相のお孫さんの〇智さんと聞いたこともあり、どちらかしらと思っておりましたが、やはり奥参事官だったのですね。
先日の記事で、雅子さまのお好きなメガネインテリとかでお顔も忘れたので調べました。youtubeにお迎えになられた奥さま、お子さま方の様子を見つけ、涙が
出ました。罪なことをなさったものです。

お仕事中の映像もありましたが、お気の毒なほど酷いアトピーでいらっしゃるのですね。首の辺りなど青紫になっていらして。何度も繰り返し放送されたので、
改めて驚きました。

そして肝心のティアラについてですが。
雅子さまはオランダ国王の晩餐会にも第二ティアラを
おつけになっていらっしゃいます。お有りであれば、何故おつけになられなかったのかが分かりません。
皇太子妃の第一ティアラさすがに今回は紀子妃殿下がなさっていらっしゃいましたが、本当に不思議に思います。皇后陛下の素晴らしいネックレスも3連から1連になったりこの度は2連でした。
国の財産ですし、宮内庁は説明の必要があるのではないでしょうか。体格に合わせ、3連を2連にしました、
どなたかのティアラに作り変えましたなど。
あまり、信じられませんけれど。😜

素晴らしいティアラと思っておりましたが、華奢で楚々とした紀子妃殿下にはあまりお似合いではなかったように感じました。紀子妃殿下にはやはり皇后陛下のお使いになられるティアラがお似合いです。

乱文お許し下さいませ。

黒点と皇室 (伊藤知昭)2019-05-03 15:25:41BB様、皆様

救国のブログ、何時も有り難う御座います。

巧妙に騙されて盗み取られた神国日本。

[  天皇陛下に「 親しみ 」82 % 女性継承賛成 79 %、 共同通信  -  ( 共同通信 )  -  Yahoo ! ニュース  ]  2019年05月02日(木) 16時18分 配信  KYODO
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190502-00000061-kyodonews-soci

冷遇され貶められる秋篠宮殿下妃殿下。

[  上皇ご夫妻の待遇 退位後も維持 皇嗣秋篠宮さまは公務大幅増で皇族費が 3 倍 に  -  ( スポニチアネックス )  -  Yahoo ! ニュース  ]  2019年05月02日(木) 05時30分 配信  スポニチ Sponichi Annex
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190502-00000090-spnannex-soci

> 交通機関での移動は、ご夫妻と天皇、皇后両陛下が同じ待遇。 ( 中略 ) 飛行機も専用機。

> 一方、秋篠宮さまはこれまで通り一般客と同じ車両や航空機を利用する。

皇室批判の矢面に立たされるのは秋篠宮御一家。

[  皇位継承の関連費用は 166 億 円 : 前回より 3 割増  -  ( nippon . com )  -  Yahoo ! ニュース  ]  2019年05月02日(木) 18時20分 配信  益田 美樹 文  nippon . com
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190502-00010001-nipponcom-soci

贅沢三昧の上皇后とシモ皇后への反感の皺寄せ。

[  新しい時代「 令和 」を迎える喜びの中、秋篠宮家の警戒警備の重要性  -  ( ニッポン放送 )  -  Yahoo ! ニュース  ]  2019年04月30日(火) 17時52分 配信  ニッポン放送  FM93 AM1242 ニッポン放送
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190430-00010027-nshaberu-soci

それこそ社会格差でバカ笑いは上皇后とシモ皇后。

[  両陛下が予定時間を大きくオーバー 満面の笑みで興味示した「 吹き戻し 」  -  ( 神戸新聞 NEXT )  -  Yahoo ! ニュース  ]  2019年05月02日(木) 05時32分 配信  神戸新聞 NEXT
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190502-00000000-kobenext-l28

喧伝された多様性で荒ぶ精神と国土。

[  水から見た社会と国土  -  ( 中村 晋一郎 )  -  個人  -  Yahoo ! ニュース  ]  2019年04月01日(月) 14時51分 配信  中村 晋一郎 名古屋大学 大学院工学研究科 土木工学専攻 准教授
https://news.yahoo.co.jp/byline/nakamurashinichirou/20190401-00120572/

御花畑と左翼が毛嫌いする安保。

[  水道民営化 賛成する自治体 、反対する自治体  -  ( 橋本 淳司 )  -  Yahoo ! ニュース  ]  2018年12月11日(火) 11時30分 配信  橋本 淳司 水ジャーナリスト、アクアスフィア・水教育研究所 代表
https://news.yahoo.co.jp/byline/hashimotojunji/20181211-00107296/

国土防衛のみならず、食糧と水も安全保障の根幹。

[  呼吸を止めたマザーレイク。 「 異常 」で片付けるべきではない水と温度の奇妙な関係  -  ( 橋本 淳司 )  -  個人  -  Yahoo ! ニュース  ]  2019年04月11日(木) 09時30分 配信  橋本 淳司 水ジャーナリスト、アクアスフィア・水教育研究所 代表
https://news.yahoo.co.jp/byline/hashimotojunji/20190411-00121880/

琵琶湖の水辺とトンボは原風景。

[ 河川舟運 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%B7%9D%E8%88%9F%E9%81%8B

水運で唆されたシモ皇后の旦那。

[ Riverboat ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Riverboat

敢えて中国南北朝鮮が狙う海運。

[ 海運 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%81%8B

外と内から制海権と水源地狙い。

[ Maritime transport ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Maritime_transport

平和憲法護持で失う原風景。

[  中国はアジア開銀融資卒業を = 麻生財務相、 新興国向け「 サラ金と同じ 」  -  ( 時事通信社 )  -  Yahoo ! ニュース  ]  2019年05月02日(木) 20時56分 配信  JIJI. COM  時事通信社
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190502-00000071-jij-pol

原資は上皇后と小和田勢力が牛耳り続けた日本。
昨今国連で喧しい持続可能性と皇室女性の構図。

元々フランクフルト学派が日本を成長資金の供給源。
世界中が様々な歪みで温暖化や海洋汚染に異常気象。

注目される太陽黒点の周期性。
天照大神と高天原の時空解析。

[ 地球工学 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E5%B7%A5%E5%AD%A6

今後はジオテクノロジーが覇権の鍵。
気象工学や地球工学と呼ばれる分野。

[ Climate engineering ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Climate_engineering

見方次第では皇居で神々の気に逆らう勢力への監視。
フランクフルト学派が持ち出した持続可能性に対抗。


恐れ入りますが、入力ミス等には後日対応させてください。


日本大事、天皇大事、万世一系の秋篠宮御一家による宮中祭祀が大事。

ただし、このままでは毒された内親王を除く。

文仁親王と悠仁親王の御代を目指して。

御多忙中、大変失礼致しました。
big newsです! (眠り猫)2019-05-03 19:31:24「小和田さんのお父さんが色々コントロールするんじゃないかと、色んな指示をしたりですね、漏れ聞くところによると小和田さんはややもう認知症ぎみになってしまってそういうことはできないという話は聞いています・・・」
youtubeにあります「雅子皇后陛下のご体調問題、ご公務(と、その他のことなど…)。|花田紀凱[月刊Hanada]編集長の『週刊誌欠席裁判』 」花田編集長情報です。

花田編集長におかれましては、93年の女帝批判のときの恐怖体験をちゃんねる桜にてぜひ語って頂きたいです。
タイトルは「皇室を牛耳る正田美智子とは一体何者だったのか」なんていうのはどうでしょうか。
安倍官邸は、福田&小和田が官邸に意見してくるのを警戒していたなんて記事もありました。
女帝の後継者のマサオの後ろ盾であった、反日の実行犯がぼけてしまったら、マサオの失脚も遠くないようなと期待しています。

都鳥さま (朝路)2019-05-03 20:47:09奥克彦参事官、越智隆夫議員双方ともに昔の男です。
越智議員は結婚まで考えていたと身内に漏らしています。二股ではさすがにないと思いますが、奥参事官が後発ですね。大野医師は噂先行で解りません。深夜まで延々二人きりで部屋に閉じこもっていたと言われていますが、治療のためだったかもしれないし?


三者共通なのはメガネのインテリ男子。
これも噂の真偽は解りませんが、アメリカ時代の男とされた中国系アメリカ人デビッド・カオもメガネ。交際自体は目撃されています。
年齢からしたら、多くはないのかも? 民間なら普通。
でもだから余り年のいった女性を婚約者にするのは、その時点で慎重であるべきでした。30歳で経験無しという確率は低いですから。
三代揃って虚構 (美しい日本)2019-05-03 20:54:51BB様  こんばんは

小和田恆さんが、LL.M.(法学修士)を取れなかった理由について、
本人の弁は、下記の記事【雅子さまご尊父小和田恒氏修士論文盗難事件 & 最後の晩餐は「ベリーエキスペンシヴレストラン」事件】に詳しいです。

小和田恒 | Dosuko Wiki
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

愛子内親王ご優秀伝説の破綻
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-752.html

優秀伝説 | Dosuko Wiki
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%84%AA%E7%A7%80%E4%BC%9D%E8%AA%AC


ついでに

「皇太子のせいでアポイントに遅れます笑」 ホリエモンのツイートがまたまた物議
https://www.j-cast.com/2014/06/18207992.html?p=all
☆So good sense of humor!!☆ (おおやまよしの)2019-05-03 22:17:20BBさま

>自然界には芋虫や毛虫が蝶になる奇跡が存在しますが。雅子さまは芋虫並の奇跡を体内に秘めていらしたのでしょうか。

もう、こういうの大好きです!新皇后様は奇跡の塊ですよね。

でもリアルタイムで「紀子ちゃん大ブーム」と、ご成婚前に持ち上げようと頑張っても全然盛り上がらなかった雅子様ブームもどきを見ている者としましては、何を今さらアゲアゲされましても…、の気分です。

あの頃皇太子様は、ひたすら紀子様より上に見える女性と結婚したかったのですよね。僕の妻はハバドで東大でオックスフォードなんだよって。


認知症 (凛子)2019-05-03 22:17:25
初めてコメントさせていただきます。
眠り猫様の小和田氏の認知症の件ですが、小和田氏の講演情報をどこかで読みました。まだお元気だな〜と心にとめたのはつい最近です。認知症と講演ピンときませんね。まだらボケになっても、いつまでもだらだらと、長生きしてる人がいますので、手に負えなくなるまでには、時間がかかるかもしれませんね。


Unknown (桃くんのママ)2019-05-03 22:36:56
一年以上前に数回コメントさせて頂きました
その時使用した名前を忘れました為、新しい名前で失礼致します

日本を貶めようとする勢力や事柄が、まるでモグラ叩きのように国内中で頻発している事に
焦燥感に打ち拉がれ、皇室関係の事柄や憂国の方のブログから遠去かってしまって居りました
平成の終わりからのサブリミナルの報道で
正に白昼夢・悪夢を見ているようでなんだか此方の正気がおかしくなりそうです

近所の学会の人と仲良くしている姉が、
「礼宮は鬱なんだってね
アルコール依存でどうにもならないらしいよ」と言ってきたので凍りつきました
勿論否定して、公務はほとんど秋篠宮両殿下がこなされている事、どれだけ素晴らしい方かを伝えようとしましたが、学会の洗脳は本当に恐ろしいですね
学会じゃない人間にまで広めて、学会じゃない人間がその嘘を更に人海戦術で拡げていると思いました
自分の姉ながら、自分で知る努力をしない人間、情報を嗅ぎ分ける力のない人間はコロッと騙されてしまうのだと思い知りました

BB様、変わらずに此処に居て下さって有難う御座います
心の指針になります
価値の無いアバズレ (会社員)2019-05-04 00:37:32ベルモントハイスクールで普通に出来ない以下のクラスから普通に出来ないクラスへの編入時に小和田恒が怒り狂ってハイスクールに抗議をしたと、確か’ドス子の事件簿’で読んだ。
何年経っても普通に出来ない以下のクラスから普通にできないクラスへ進級できないので、小和田恒が裏の手を使ったわけで、小和田雅子の眉毛が象徴する如く 頭脳は恐ろしいほど低いのだろう。厚かましい根性だけは人一倍あるようだが。
よくこんな女を皇后にしてしまったものだ。
今は、大勢の日本人が、事の事実を知るしかないか、、、、、。
 毎日、奴らに天罰をと祈っている。
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/cd6e4af98193c8099941cc7d736cf69f


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186. 中川隆[-10359] koaQ7Jey 2019年5月10日 18:11:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1745] 報告


小学校教員の採用試験の倍率低下について - 内田樹の研究室 2019-05-10
http://blog.tatsuru.com/2019/05/10_1501.html

 2018年度の全国の公立小学校の教員採用試験の倍率は平均3・2倍で過去最低となった。7年連続の減少で、就職氷河期に公務員が人気だった00年度(12・5倍)の4分の1。

 倍率3倍を切ると教員の質の維持が難しく、「危険水域」に近づいている。

 文科省によれば、倍率低下の原因は80年代に大量採用した教員が一斉退職を迎えたための採用数増、民間企業の採用の活発化、教員免許を出せる大学の減少である。

 しかし、最大の理由は、小学校教員が魅力のある職業ではなくなったせいだろう。

 2016年に文科省が実施した調査によると、小学校教員の平均週勤務時間は57時間25分。10年前より4時間9分増え、3割が「過労死ライン」を超えた。にもかかわらず、学習指導要領の改訂に伴い、これから英語やプログラミングが必修化され、教員の負荷はますます増大する。この後、仮に教員定員を満たすことができなくなれば、定員以下で現場を回さなければならない教員の負担は耐え難いレベルに達し、次々と教員たちが「バーンアウト」して脱落した後、教育現場は制御不能のカオスと化すだろう。
 
 教員の確保のために何が必要なのかは誰にでもわかる。
 それは教員の負担軽減と、給与の増額である。
 でも、政府はそれをしなかった。

 財源がなかったのだという言い訳はわかる。だが、それでも「教員の負担をどうすれば軽減できるか?」ということを問うくらいのことはできたはずである。

 過去四半世紀、文科省の役人はそう自問したことはあるのか。
 私はないと思う。

 少なくとも、私が大学教員をしていた29年の間に「文科省の通達があって、これまでしていた仕事をしなくてよくなった」ということは一度もなかった。

 私の在職中、大学が果たすべき仕事はひたすら増え続け、提出すべき書類はひたすら増え続け、開かなければならない会議はひたすら増え続けた。

 「教育改善」のために提出を義務づけらたれ膨大な書類作成と会議のために、教員たちは実際の教育活動に割くべき時間を犠牲にしなければならなかった。自己評価だとかシラバス作成だとかPDCAサイクルだとかいう工学的タスクのために、教員たちの研究時間は容赦なく削り取られた。そうして、日本の高等教育の学術的発信力は劇的に低下した。

 文科省は何か根本的な勘違いをしているのではないか。

 学校教育をうまく進めるための効果的な方法は一つしかない。それは現場の教員が機嫌よく教育活動に専念できることである。

 そして、教育方法上の創意工夫を凝らし、子どもたちの発する微細なシグナルを感知するためには、教師の側に「余裕」がなければ話にならない。

 けれども、日本の教育行政の政策立案者たちは「どうすれば教員たちが機嫌よく働けるようになるのか?」という問いをたぶん過去に一度も立てたことがない。反対に、教員たちを管理し、恫喝し、査定し、無意味な労働を強い、屈辱感を与えることに政策的努力の過半を投じて来た。

 確かに、そういうプレッシャーを与え続ければ、最終的には上位者が命じる無意味なタスクに抵抗しない「イエスマン教員」だけが生き残り、教育現場に政府や自治体が政治的に介入することはきわめて容易になるだろう。

 組織の効率的な管理ということを優先すれば、これは正しい政策である。
 そして、たしかにこの教育政策は「大成功」を収めたのである。
 文科省はそのことを認めるべきだろう。

 これは政府が自覚的に進めて来た政策の帰結なのである。それが所期の成果をあげた姿なのである。

 問題は「こんなことをずっと続けていたら、いずれ教師になりたがる若者がいなくなり、学校に行きたがる子どもがいなくなり、学校が知的活動の場ではなくなるのではないか?」というリアルな疑念が教育政策の立案者たちの脳裏に一瞬も浮かばなかったということである。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/10_1501.html

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187. 中川隆[-10321] koaQ7Jey 2019年5月12日 08:49:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1790] 報告

ゆとり教育の成果


科学論文の引用回数 米中が各分野の1位独占 日本はなし/nhk
2019年5月12日 4時08分https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190512/k10011913021000.html?utm_int=news-culture_contents_list-items_001

引用回数が多い科学論文の各国の割合を151の分野ごとに比較したところ、アメリカと中国が各分野の1位を独占し、日本は1位となる分野がありませんでした。集計した科学技術振興機構は、日本の研究力が相対的に下がっていると警鐘を鳴らしています。

科学技術振興機構は、引用回数で世界の上位10%に入る質の高い自然科学系の論文について、人工知能やバイオテクノロジー、天文学など151の分野ごとに各国の割合を比較し、順位の推移を分析しました。

その結果、最新の2017年までの3年間平均では、151分野のうち80分野でアメリカが1位でした。
残りの71分野は中国が1位となり、米中が首位を独占しました。

日本は1位の分野がなく、がん研究など2つの分野の3位が最高でした。

日本と中国はともに1997年までの3年間平均では1位の分野はありませんでしたが、中国は20年の間に、機械工学など産業に関わる分野を中心に大きく順位を上げ、日本を引き離す結果となりました。

また5位以内の日本の順位をみても、1997年までの3年間平均では151分野のうち83分野で日本はトップ5に入っていましたが、最新の2017年までの3年間では18分野にまで減りました。

科学技術振興機構の伊藤裕子特任研究員は「予算が突出した米中がトップになるのはある意味当然といえるが、5位以内をみても日本の研究力低下が鮮明になった。深刻に受け止めるべきだ」と警鐘をならしています。


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188. 中川隆[-10394] koaQ7Jey 2019年5月17日 17:24:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1909] 報告

 アメリカは1970年代から製造業を国外へ出し、生産力は低下した。その象徴がかつて自動車産業の中心だったデトロイトの衰退だろう。1991年12月にアメリカの支配層は自国が「唯一の超大国」になったと考えたことが影響したのか、そうした傾向は強まったように見える。

 2011年2月、こうした傾向を懸念した​バラク・オバマ大統領(当時)はアップルのスティーブン・ジョブスCEO(同)に対して同社のiPhoneをアメリカで生産しないかともちかけた​ところ、アメリカへ戻ることはないと言われる。中国では必要な組立工やエンジニアを集めることが容易で、生産規模を柔軟に変更でき、供給ラインが充実しているうえ、労働者の技術水準が高いからだという。

 労働者の技術水準が高い大きな理由は教育システムが整備されていることにある。アメリカや日本では考えない、つまり騙しやすい人間を作り出すため、政策的に公教育が破壊されてきた。その結果、生産現場で必要な中間レベルの技術を持つ人が育っていないのだ。かなり前から日本でも技術系学生のレベルが落ちているという声を聞く。

 アメリカや日本が生産力を回復したいなら、AI化やロボット化を進めた工場を建設するしかない。つまり人間を必要としない工場だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905170001/

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

189. 中川隆[-10399] koaQ7Jey 2019年5月18日 10:53:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1919] 報告

論理は跳躍する - 内田樹の研究室 2019-05-18
http://blog.tatsuru.com/2019/05/18_0922.html

少し前に「すばる」でも教育についてのインタビューを受けた。そのときに「論理国語」について話したことがテープ起こしされて戻ってきたので、加筆してここに掲げる。

 今度、兵庫県の国語の先生たちの集まりで講演をするのですが、その打ち合わせに来た先生たちに伺うと、現場の話題はやはり学習指導要領の改訂で登場した「論理国語」のようです。いったい何なの、とみなさん疑問に思っていらした。本当にわからないらしい。

 そのときに「論理国語」に準拠した模試の問題の現物を見せてもらいました。驚きました。生徒会の議事録と生徒会の規約を見せて、年度内に生徒総会を開催することは可能かどうかを問うものだったんです・・・。

 契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作問されたものだと思いました。

「論理国語」を「文学国語」と切り離して教えることが可能だと考えた人たちは、文学とは非論理的なもので、何か審美的な、知的装飾品のように思っているんじゃないですか。だから、そんなもののために貴重な教育資源を割く必要はないと思っている。現にそう公言する人は政治家とビジネスマンには多くいますから。自分たちは子どもの頃から文学に何も関心がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった。現に、まったく文学と無縁のままにこのように社会的成功を収めた。だから、文学は学校教育には不要である、と。たぶんそういうふうに自分の「文学抜きの成功体験」に基づいて推論しているんだと思います。政治にもビジネスにも何の役にも立たないものに教育資源を費やすのは、金をドブに捨てているようなものだ、と。そういう知性に対して虚無的な考え方をする人たちが教育政策を起案している。これは現代の反知性主義の深刻な病態だと思います。

「論理国語」という発想に対して僕が懐疑的なのは、試験問題を作る場合、「正解」がわかっていて、受験生は論理的にそれをたどってゆくと「すらすらと」結論に達するというプロセスが自明の前提されていることです。たぶん、彼らの考える「論理」というのは、そういうものなんでしょう。でも、論理的にものを考えるということを実際にした経験のある人ならわかると思うけれど、論理的に思考するというのは、平坦な道を歩くようなプロセスじゃない。むしろ、ある種の「深淵」に直面して、それを跳び越えるという「命がけ」のプロセスなんです。

 僕は子どもの頃にエドガー・アラン・ポウやアーサー・コナン・ドイルを読んで「論理的にものを考える」ということがどういうことかを学びました。「論理的にものを考える」というのはオーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズ「のように考える」ということだと最初に刷り込まれた。それは今でも変わりません。

 名探偵の推理こそ「論理的にものを考える」プロセスの模範だと思いますけれど、ここには「正解」を知っていて「作問」している人はいません。登場人物が現場に残された断片から推理して、その帰結として正解を「発見」するんです。名探偵の行う推理というのは、ひとつひとつの間に関連性が見出しがたい断片的事実を並べて、それらの断片のすべてを説明できる一つの仮説を構築することです。その仮説がどれほど非常識であっても、信じがたい話であっても、「すべてを説明できる仮説はこれしかない」と確信すると名探偵は「これが真実だ」と断言する。それは「論理」というよりむしろ「論理の飛躍」なんです。
 
 それは実際に学術的な知性がやっていることと同じです。

 カール・マルクスや、マックス・ウェーバーや、ジーグムント・フロイトはいずれもすばらしい知的達成をなしとげて人類の知的進歩に貢献したわけですけれど、彼らに共通するのは常人では真似のできないような「論理の飛躍」をしたことです。目の前に散乱している断片的な事実をすべて整合的に説明できる仮説は「これしかない」という推理に基づいて前代未聞のアイディアを提示してみせた。「階級闘争」も「資本主義の精神」も「強迫反復」もいずれも「論理の飛躍」の産物です。同じ断片を見せられて、誰もが同じ仮説にたどりつく訳じゃない。凡庸な知性においては、常識や思い込みが論理の飛躍を妨害するからです。
  
 例外的知者の例外的である所以はその跳躍力なんです。彼らの論理的思考というのは、いわばこの跳躍のための助走なんです。こうであるならこうなる、こうであるならこうなる・・・と論理的に思考することによって、思考の速度を上げているんです。そして、ある速度に達したところで、飛行機が離陸するように、地面を離れて跳躍する。そうやって、ただこつこつと理屈をこねている限りは絶対に到達できないような高みに飛び上がることができる。

「論理的にものを考える」というのはこの驚嘆すべきジャンプにおける「助走」に相当するものだと僕は思います。そこで加速して、踏切線で「常識の限界」を飛び越えて、日常的論理ではたどりつけないところに達する。

 でも、凡庸な知性は、論理的に突き詰めて達した予想外の帰結を前にして立ちすくんでしまう。論理的にはそう結論する他ないのに、「そんなことあり得ない」と目をつぶって踏切線の前で立ち止まってしまう。それこそが「非論理的」ということなんです。

 フロイトの『快感原則の彼岸』は20世紀で最も読まれたテクストの一つですけれど、フロイトはここで症例研究から、そのすべてを説明できる仮説として「反復強迫」さらには「死への衝動」という驚嘆すべきアイディアを取り出します。これは「跳躍」です。フロイト自身は「思弁」と呼んでいます。これは論理的にものを考えるということの本質的な力動性について書かれた重要な言葉だと思います。フロイトはこう述べています。

「次に述べることは思弁である。誰もが、それぞれの見地から価値をみとめたり、あるいは軽視したりするかもしれな行き過ぎた思弁にもなる可能性がある。つまりそれは、ある理念がどんな結論をみちびき出すかという好奇心から、その理念を首尾一貫して利用しつくそうという試みである。」(フロイト、「快感原則の彼岸」、『フロイト著作集6』、井村恒郎他訳、人文書院、1970年、163頁)
 論理的にものを考えるというのは「ある理念がどんな結論をみちびきだすか」については、それがたとえ良識や生活実感と乖離するものであっても、最後まで追い続けて、「この前提からはこう結論せざるを得ない」という命題に身体を張ることです。

 ですから、意外に思われるかも知れませんけれど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は「勇気」なのです。

 学校教育で子どもたちの論理性を鍛えるということをもし本当にしたいなら「論理は跳躍する」ということを教えるべきだと思います。僕たちが「知性」と呼んでいるのは、知識とか情報とか技能とかいう定量的なものじゃない。むしろ、疾走感とかグルーヴ感とか跳躍力とか、そういう力動的なものなんです。

 子どもたちが中等教育で学ぶべきことは、極論すれば、たった一つでいいと思うんです。それは「人間が知性的であるということはすごく楽しい」ということです。知性的であるということは「飛ぶ」ことなんですから。子どもたちだって、ほんとうは大好きなはずなんです。
 
 今回の「論理国語」がくだらない教科であるのは、そこで知的な高揚や疾走感を味わうことがまったく求められていないことです。そして、何より子どもたちに「勇気を持て」という論理的に思考するために最も大切なメッセージを伝える気がないことです。

 そもそも過去四半世紀の間に文科省が掲げた教育政策の文言の中に「勇気」という言葉があったでしょうか。僕は読んだ記憶がない。おそらく文科省で出世するためには「勇気」を持つことが無用だからでしょう。

 官僚というのは「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達した人たちが出世する仕組みですから、彼らにとっては「勇気を持たなかったこと」が成功体験として記憶されている。だから、教育の中でも、子どもたちに「恐怖心を植え付ける」ことにはたいへん熱心であるけれど、「勇気を持たせること」にはまったく関心がない。それは彼ら自身の実体験がそう思わせているのです。「怯える人間が成功する」というのは彼ら自身の偽らざる実感なんだと思います。だから、彼らはたぶん善意なんです。善意から子どもたちに「怯えなさい」と教えている。「怯えていると『いいこと』があるよ。私にはあった」と思っているから。

 でも、知性の発達にとっては、恐怖心を持つことよりも勇気を持つことの方が圧倒的に重要です。

「勇気」というのは、知性と無縁だと思う人がいるかも知れませんけれど、それは違います。スティーヴ・ジョブスはスタンフォード大学の卒業式で、とても感動的なスピーチをしました。いまでもYoutubeで見ることができますから、ぜひご覧になってください。その中でジョブスはこう言っています。

The most important is the courage to follow your heart and intuition, because they somehow know what you truly want to become.

「最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気を持つことである。なぜなら、あなたの心と直感はなぜかあなたがほんとうに何になりたいのかを知っているからである。」

 ほんとうに大切なのは「心と直感」ではないんです。「心と直感に従う勇気」なんです。なぜなら、ほとんどの人は自分の心と直感が「この方向に進め」と示唆しても、恐怖心で立ち止まってしまうからです。それを乗り越えるためには「勇気」が要る。

 論理的に思考するとは、論理が要求する驚嘆すべき結論に向けて怯えずに跳躍することです。

「論理が要求する結論」のことを英語ではcorollaryと言います。日本語ではこれを一語で表す対応語がありません。僕はこの語を日本の思想家では丸山眞男の使用例しか読んだ記憶がありません。でも、これはとても重要な言葉だと思います。それがどれほど良識を逆撫でするものであっても、周囲の人の眉をひそめさせるものであっても、「これはコロラリーである」と言い切る勇気を持つこと、それが論理的に思考するということの本質だと僕は思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/18_0922.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

190. 中川隆[-10150] koaQ7Jey 2019年5月25日 19:41:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2197] 報告

若者を借金奴隷にする奨学金 大卒から20年返済の道のり… 2019年5月25日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/11799


まるでサラ金 前途を摘んでいるのは誰か?


 日本は先進国のなかでも教育にあてている国の予算の割合は最低レベルで、とりわけ高等教育(大学・大学院等の教育)の負担は家庭に重くのしかかっている。そのもとで学生たちは「奨学金」という名の多額の借金を背負って社会に出て行かざるを得ない状況が蔓延している。日本学生支援機構による苛烈な取り立てによって家族もろとも破産に追い込まれたりといった事態も頻発してきた。参議院選を前に安倍政府は「大学無償化法」を成立させたが、対象者は住民税非課税世帯に限定されているうえ、国が指定した教育機関に通うことが条件というもので、無償化とはほど遠い内容だ。日本の将来を担う若者を借金漬けにして食い潰す構造が学生たちの人生のみならず、日本社会をもむしばんでいる。

 日本では高等教育機関で学ぶ学生のうち約半数が何らかの奨学金を借りて学生生活を送っている。そのうち独立行政法人日本学生支援機構(JASSO、旧日本育英会)の奨学金を受けている学生が大多数だ。日本学生支援機構によると2017年度には学生348万人のうち129万人(37・2%)が同機構の奨学金を利用しており、その割合は学生の2・7人に1人にのぼる。10年前の2007年度が3・4人に1人だったのと比較しても、その割合は上昇し続けている。

 奨学金を借りなければならない学生が増加しているもっとも大きな原因は、大学の授業料が異常なほどに値上がりしていることにある。「安い」というイメージのある国立大学の授業料は、1971年までは年間1万2000円、月にするとわずか1000円というものだった。それが1980年代に入ると新自由主義にもとづく大学改革が実行され、「受益者負担」を掲げて国立大学の入学金と授業料が交互に値上げされるようになった。

 こうして現在では53万5800円と、当時の約45倍にまで高騰している。入学金を含む初年度納付金は1969年の1万6000円から81万7800円と約50倍である。1960年代〜70年代のように国立大学の学費が私立大学と比べて格安だった時期は、国立大学に合格すれば下宿をしてもかなり安く大学に通うことができた。しかし、今では仕送りとアルバイトだけでまかなえる水準ではなくなっている。さらに日本の場合、国立大学は全国に86校しかなく、学部学生のおよそ7割が、学費が国立大学の1・6倍の私立大学に通っている。私立大学の授業料は平均で86万4384円、私立大医学部になると初年度納付金(平均)は約756万円で、6年間の授業料総額(平均)は3321万円にもなる。

学費は高騰 仕送りは減 経済的理由の中退も

 政府は2004年の国立大学の独立行政法人化以降、国の運営費交付金を毎年削減して競争的資金を拡大し、大企業、さらには防衛省や米軍などから資金を得て研究を進める産学協同、軍学共同へと誘導しようとしてきた。財務省は2015年に運営費交付金の削減とそれに対応した授業料値上げを求める方針をうち出したが、それが実行されれば2031年には授業料が約93万円になるという試算もある。

 70年代以降、国立・私立ともに学費は上昇し続けたが、バブル崩壊以前はそれらの費用がまかなえるだけの経済状況にある層が一定数存在し、また年功序列賃金のもとで、子どもが成長するに従って親の収入が増加していたため、奨学金を借りる学生は少数派だった。さらに大学を卒業すれば正規雇用の職に就けていたため、かりに奨学金を借りて大学に通ったとしても返済は比較的可能だったことから、学費の値上げが現在ほど問題になることはなかった。

 しかし、バブルが崩壊するとその状況は大きく変化していった。大卒者の就職は困難となる一方で大学進学率は上昇を続けた。その背景には高卒者の就職が大卒者にも増して厳しくなっていたことがあるといわれている。高卒求人はピークの1992年に167万6001人あったものから急速に減少し、1995年には約半分の64万人台に、2011年には19万4635人へと、わずか19年で約9割減となった。少子化のなかで求人倍率の上昇が喧伝されている今年3月末を見ても求人数は42万人台であり、ピーク時の2割超に過ぎない。高卒者の就職が厳しいことから、大学は「高等教育を受ける」というより、進路や就職先を確保するツールという色合いを強め、無理をしてでも大学に通わせる親たちも多くなっていった。

 高等教育に対する公的支出が極端に少ない日本では、その費用は家計負担でまかなわれている。しかし、この期間に労働の規制緩和によって終身雇用・年功序列賃金制度が解体され、親たちの収入は減少していった。非正規雇用が働く人の4割を占めるまでになるなかで、「子どもが大学に通うころには賃金が上がる」保証のある家庭はむしろ少なくなり、親たちの仕送りは年年減っている(グラフ参照)。

 全国大学生活協同組合連合会の学生生活実態調査によると、下宿生のうち月の仕送り額が10万円以上の学生は1995年には62・4%いたが、2018年度には33・5%へと半分にまで減少した。一方で、仕送り0円の学生は95年の2・0%から18年は7%へ、5万円以下(0円を含む)も7・3%から23%へと増加している。18年度の支出を見ると、食費が2万6230円、住居費が5万2560円となっており、たとえ10万円の仕送りを得てもその大半が消えてしまう関係だ。

 東京私大教連が私立大学の新入生を対象におこなっている調査でも、昨年度の月平均仕送り額(初年度の出費の多い時期を過ぎた6月以降)は8万3100円と過去最低を更新している。1994年度の12万4900円と比較すると33・5%もの減少だ。一方で家賃の平均は前年度から1200円上がって6万2800円となり、仕送り額平均(6月以降)に占める家賃の割合は75・6%にのぼった。仕送り額から家賃を除いた生活費は2万300円で、1日当り677円と過去最低水準となっている。親たちの生活がいかに困難になっているかがここから浮き彫りになる。

 こうしたなかで学生たちは、家賃や食費、生活費、書籍や教科書代、通信費など、大学に通ううえで必要な経費を自分で稼ぎ出さなければならない。かつて学生のアルバイトは自身の趣味やサークルなど自由に使うお金を稼ぐためにおこなわれていたが、親からの仕送りを十分に得られない学生が増加するなかで、それは大学生活を継続するために必要な資金を稼ぐものへと変化している。アルバイトをやめたくてもやめられない、アルバイトのために学業がおろそかになるという事例が蔓延しているのも、こうした家計の事情からだ。経済的な理由で大学を中退する学生は年間2万人に迫る。下宿代が高いため片道3時間以上かけて自宅通学する学生が珍しくないといわれ、首都圏の主要大学は首都圏の高校出身者が6〜7割を占めるまでになった。

6割が有利子の奨学金 返済総額600万超も

 物価上昇をはるかにしのぐ学費の高騰と家庭の貧困化−−。現在の大学生をとりまく環境は、一昔前のそれと大きく異なっている。

 こうしたなかで学生たちは大学を卒業するために奨学金に頼らざるを得ない。独立行政法人日本学生支援機構の奨学金を借りる学生は90年代の20%から急増しておよそ4割にまでなっている。1人の学生が借りる額で見ると、4年間の平均貸与額は学部生で無利子の第一種奨学金は237万円、有利子の第二種奨学金は343万円にのぼっている(グラフ参照)。

 問題は、世界的には返さなくてよい給付型奨学金が一般的であるのに対して、日本の奨学金のほとんどは返済が義務づけられた貸与型奨学金だということだ。しかも貸与型のなかでも有利子である第二種奨学金の割合が、人数・金額ともに約6割を占めており、事実上の教育ローンとなっている。近年、奨学金問題がクローズアップされ、第一種の割合が増加傾向にあるが、半数以上の若者は借り入れた額に上乗せして金融機関のもうけになる利子分まで返還しなければならない。

 奨学金返済について具体例で見てみると、国立大学で自宅通学の学生が無利子の第一種奨学金を受けた場合、毎月4万5000円借りることができ、4年間の貸与総額は216万円になる。それを毎月1万2857円ずつ168カ月(14年)かけて返還することになる。有利子の第二種奨学金の場合、国立・私立関係なく毎月12万円借りたとすると4年間の貸与総額は576万円となり、利子を年利0・63%の固定金利(2016年3月貸与終了者の場合)としても毎月2万5624円ずつ240カ月(20年)かけて返済しなければならない。返済総額は614万9683円にふくれあがる。

 通常、借金なりローンを組む場合、年収や返済計画など厳格に資格審査がおこなわれるが、将来の職業も決まっておらず、安定した収入を得られるかも分からない若者たちに巨額の借金をかぶせ、しかも金融機関の利子分までを背負わせる異様な仕組みだ。また、小・中・高校の教員になれば奨学金の返済が免除される制度も、1998年3月に廃止された。

給料差し押え等9000件 自己破産者も急増

 さらに社会問題となってきたのはJASSOの教育的配慮があるとは思えない「サラ金以上」ともいわれる取り立てである。非正規雇用化と、若者を使い捨てにする労働環境が広がるなかで、大学を卒業しても奨学金を返済しうるだけの収入を得られなかったり、正規雇用として就職しても過重労働などで体調を崩し、離職せざるを得ないといった事情でも、返済が滞ると容赦ない取り立てが待っている。特別の事情があって収入がゼロでも、返済猶予は10年間しか認められず、10年をこえれば収入がゼロのままであっても返済しなければならない。

 JASSOは、奨学金の返済が滞ると滞納1〜3カ月で本人や保証人に督促を開始し、滞納が3カ月を過ぎた時点で奨学生の個人情報を個人信用情報機関(ブラックリスト)に登録する。延滞が解消しても5年間はローンやクレジットカードの審査が通りにくくなる。滞納4カ月目に入るとサービサー(債権回収専門会社)による取り立てが始まり、9カ月をこえると一括で元本が請求され、裁判を起こされる。奨学生が2週間以内に意義を申し立てて裁判を起こさないかぎり、サービサーは給料差し押さえなどの法的措置をとる。2015年にJASSOがとった法的措置は8713件にも達し、2011〜2016年の5年間で奨学金にかかわる自己破産者は1万1223人にのぼった。本人6300人、連帯保証人と保証人が5700人である。

 さらに延滞金の問題がある。奨学金の返済が滞ると、利子率をはるかに上回る年率5%の延滞金が加算され、年とともに増えていく。しかも返済を開始したとしても延滞金、利子の順に充当されていくため、元本が減らない「借金地獄」に追いやられるのだ。

 JASSOは「我が国の大学等において学ぶ学生等に対する適切な修学の環境を整備し、もって次世代の社会を担う豊かな人間性を備えた創造的な人材の育成に資する」ことを目的に掲げている。しかし次世代の育成どころか奨学金事業が銀行や投資家の「優良投資先」となる金融事業に変質しており、さらに利益率を高めようとするJASSOによって強硬な回収策がとられていることを、奨学金問題にとりくむ研究者らは指摘している。

 JASSOの2017年度決算を見ると、奨学生からの取り立てによって手にした利益は、利息収入349億5000万円、延滞金収入40億5300万円にのぼっている。JASSOは投資家向けに第一種97・8%、第二種96・6%(当年度分)という高い回収率をアピールし、さらなる回収率向上に向けて、債権回収会社への回収の委託、個人信用情報機関の活用、法的措置の強化を掲げている。

 これらでばく大なもうけをあげているのは民間の銀行や投資家だ。たとえば三井住友銀行は1861億円を年利0・465%でJASSOに貸しており、これだけで約87億円の利息収入を得ている。奨学金返済の問題が社会問題化する前まで、利子付きの第二種奨学金ばかりが拡大し、本来無利子で借りられるはずの成績優秀者まで利子付き奨学金しか受けられなかったケースも相当数にのぼる。それを含め、若者が無理を重ねて返済しているものが利益となって金融機関に還流する仕組みとなっている。

 こうした金融機関のために多額の借金を抱えて社会に出る若者たちは、20〜40代の期間にこれらの返済をしなければならず、それが結婚や出産を躊躇する大きな要因になっている。奨学金の存在が少子化を加速させていることは明白だ。

世界に逆行する日本の奨学金制度

 国際的に見ても日本の教育に対する公的支出は最低水準だ。北欧やヨーロッパの先進国ではそもそも学費が無料で、そのうえに生活費として給付型奨学金が支給されている国が多い。欧州では教育によって利益を得るのは学生本人だけでなく社会全体だという考え方から、「社会が税金で負担するのが当たり前」ということが社会的な合意となっている。

 北欧諸国やドイツなどは低授業料・高補助で、アメリカ・イギリス・オーストラリア・カナダ・オランダ・ニュージーランドなどは高授業料・高補助、低授業料・低補助の国がオーストリアやフランス、イタリア、スペイン、チェコ、ポーランド、ポルトガルなどだ。そして高授業料・低補助の国は日本、韓国、チリのみとなっている。しかし日本と比べて経済的に困難な状態にあるチリでも学生たちの運動が高まり、2015年12月に高等教育無償化に向けた法案が可決され、家庭の所得水準が下位50%までの学生の学費が無料となっており、チリ政府は今後も無償化の対象を広げようとしている。

 一方アメリカではハーバード大学など有名私立大学の学費はこの20年ほどで3倍近くまではね上がっており、年間の学費が4万j(約500万円)以上、生活費込で6万j(約750万円)を下らない。比較的学費が安いとされている公立の州立大学でも学費は生活費込みで約5万5000jだ。

 約46万人の学生を擁し、全米最大のカリフォルニア州立大学が委託した調査によると、同大学では10人に1人にあたる約5万人の学生が特定の住所を持たないホームレス状態にあり、さらに4〜5人に1人にあたる10万人が食べ物の確保ができていない。路上や施設で暮らしたり、定住先を持たないため友人や知人などの家を渡り歩いたり、「カウチ・サーフィン(インターネット上で提供される無料民泊)」で日日をしのいでいるという。

 アメリカでは高校を卒業していない人の年収は大卒の半分以下で、失業率は3倍近くにのぼる格差がある。そのため将来、高収入の職に就くことを前提として高利子の学生ローンを組んで進学することが一般的となっている。しかし近年可処分所得を上回るペースで大学費用が高騰する一方で、不景気によって大学を卒業してもウエイターや小売販売など一般的に低所得の職に就く人が増えている。そのため大学を卒業しても学生ローンの返済が困難になるケースが増加しているのだ。

 最近、アメリカの富豪が卒業生約400人分の学生ローンを肩代わりすると表明し話題となったが、その金額は4000万j(約44億円)にのぼる。つまり、大学卒業時に1人当り約1100万円もの借金を抱えているということになる。

 現在アメリカで学生ローンを借りている人は4400万人をこえ、負債額はトータルで1兆5000億j(約169兆6800億円)にのぼる。2016年を見ると、学生ローンの平均借入額は3万7172j(約420万円)だが、2017年には4万j(約452万円)近くになっている。アメリカの消費者が抱える借金の種目別ランキングでは、1位の住宅ローンに次いで学生ローンが2位にランクインしており、自動車ローンやクレジットカードローンを上回るまでになっている。学生ローンの借金は2007年以降3倍となっており、2013年と比べても5000億j(約56兆5600億円)も増加している。

 アメリカでは2010年にオバマ政府が、学生ローンの一部を民間が提供する制度を廃止し連邦政府が全額融資するようにした。しかしその結果、大学側が学費の値上げに踏み切るようになり、政府から学生への貸し付けは2010年以降、約2000億jから約9000億j以上に膨らんでいる。学生ローンの増加分のうち、70%は借入額が増えたことに起因するという。

 政府の救済プログラムである「所得連動型返済プラン」では月月の返済額が所得に応じて抑制され、返済期間も通常の10年から最大20〜25年へと延長される。しかしその分金利負担が増し、負債総額は膨れあがる。ニューヨーク連銀によると、2014年末に返済が予定通りに進捗している借り入れは全体の37%しかなく、17%がデフォルトか返済が遅延(30日以上)している。残りの46%は金利しか払っていないのが現状となっている。

 学生ローン債務を抱える60歳以上の人口は、過去10年間で70万人から280万人へと4倍にも増加している。その債務額は10年前の80億jから670億jにもなり、債務者の多くは、公的年金から支払いをしている。

 「奨学金」と銘打った日本の教育ローンはアメリカの後追いをしているともいえる。日本の未来を発展させるうえでも、高い学費を大幅に値下げすること、学生の時期から金融機関の餌食にして食い潰すような奨学金制度を是正することが緊急の課題となっている。
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/11799

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

191. 中川隆[-9922] koaQ7Jey 2019年5月31日 12:09:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2432] 報告
内田樹 「英語教育について」2019-05-31
http://blog.tatsuru.com/2019/05/31_0824.html


昨年の6月12日に東京の私学の文系教科研究会(外国語)」で行った講演録が出版された。「東京私学教育研究所所報」84号に掲載されているが、ふつうのひとはあまり手に取る機会がない媒体なので、ここに採録する。

○司会者  今回は、ここ最近の外国語の文系教科研究会では例をみないほど多くの先生方にお集まりいただきました。6月の今ごろは、夏休みがそろそろ見えてきて、でもまだまだ遠くて、体力的にも精神的にもだいぶ苦しいころ合いだと思います。にも関わらず、これだけ多くの先生方が今回は集まってくださり、おかげさまで満員札どめとなりました。理由はたった1つです。今回、当研究会では、内田樹先生をお招きして講演会を開催できる運びとなりました。忙しくても体力的にきつくても、この方の話ならば何としても聞きたい、それが内田樹先生ではないでしょうか。

 内田先生は、現在は神戸女学院大学名誉教授であるとともに、神戸市で武道と哲学研究のための学塾「凱風館」を主宰していらっしゃいます。もともとのご専門はフランス現代思想ですが、武道論、教育論、映画論、文学論、漫画論などなど、実に多くの専門領域をおもちで、あらゆる領域について、あらゆる人に、万人に届く言葉を発信していらっしゃいます。

 内田先生の言葉の特徴は「届く」ということだと思っております。一見複雑で込み入った情況であっても、それについて内田先生が書かれた文章を読むと、目の前の混沌にさっとマップがかかり、そこにおいて自分がどのように歩みを進めていけばいいのかがすっと理解される。内田先生のご著書を読んで、そのような経験された先生方も多いのではないでしょうか。

 内田先生の文章を読むと、そこに書かれた内田先生の言葉が、もともと自分のいいたかったことを言ってくれた、と思える経験がよくあります。実際はそんなことは考えたこともなかったことなのに。そんな風に、言葉が、読んでいる自分の内側にまで届いて、響くのです。また、言葉というもの、読書というものは、本来そのようなメカニズムやダイナミズムをもっているのだ、ということも、実は、内田先生から私は学ばせていただきました。

 フランス現代思想がご専門ということもあり、言語というものに実に造詣の深い内田先生に、本日は「英語教育の危機」という演題のもと、激動期、大変革期といってもいい現在の英語教育界について、それから、英語に限らず、言葉を学ぶ、教えるとはどういうことかについて、存分に語っていただこうと思います。

 それでは、内田先生、よろしくお願いいたします。


○内田  過分のご紹介にあずかりました。内田でございます。

 一日の仕事が終わった後の、お疲れのところお集まり頂きまして、まことにありがとうございます。今、私が登壇する前に(公益財団法人東京都私学財団より外部検定試験料に関する)助成金の話がありましたけれども、実は今日もこちらに来る新幹線の車内で、「検証 迷走する英語入試」という、これは岩波のブックレットですが、これを読んでおりました。帯には、「緊急出版、混乱は必至」と書いてありますけれども、多分今の日本の教員の中で本当に最も困惑しているのは中高の英語の先生だろうと思います。本当にお気の毒だと思います。

 本当にどうしてこんなことになってしまったのか、僕にはよくわからないのです。みなさんにもよくわからないのではないかと思います。これから民間試験が入試に導入され、センター試験の英語がいずれなくなるという流れになっていますけれども、どうしてこんなことが現場の英語教員たちの意向を無視して行われていくのか。誰に訊いても、よくわからないと言う。いったい、誰にとって、どんな利益があって、こんな制度改革を行うのか。

 教育の目標は、子どもたちの市民的成熟を支援することに尽くされるわけですけれど、こんな制度改革で、子どもたちがどういう利益を得ることになるのか。子どもたちの知性的な成熟にこの改革がどう資するという見通しがあって、こんな改革を進めているのか、全くわからない。

 今回のことに限らず、日本の外国語教育は迷走し続けています。そもそも何のために外国語を学ぶのかという根本のところについての熟慮が不足しているからです。もちろんここにいる先生たちこそ、まずそれについて考えなければいけない立場ですけれども、日々の業務から、このような猫の眼のようにくるくる変わる制度改革にキャッチアップすることに手いっぱいで、「子どもたちはどうして外国語を学ばなければいけないのか」という最も根源的な問いを深めていく余裕がない、そんな状況ではないかと思います。

 英語の先生たちは、余りそういう話は聞きたくないかも知れませんけれど、自動機械翻訳が今すごい勢いで進化しています。文科省は、オーラル・コミュニケーションが必要だ、とにかく英語で話せなければダメだとさかんに言い立てていますけれど、そんな教育政策とは無関係に翻訳テクノロジーの方はどんどん進化している。

 去年の「中央公論」で自動機械翻訳の専門家と英語の専門家の対談がありました。今の機械翻訳はこれまでとシステムが違って、ただ用例を溜め込むだけでなく、「ディープ・ラーニング」ができるようになって、これまでとはまったく別物になったらしい。

 英語だと、今の自動機械翻訳が大体TOEIC600点ぐらいまでだけれども、数年のうちに800点になるそうです。対談の中で、自動機械翻訳の専門家が、だから、もう学校で英語を教える必要はなくなると言っていました。外交官とか通訳、翻訳とか、英語のニュアンスを精密に吟味する必要のある仕事では英語についての深い理解が必要だけれど、日常的なコミュニケーションについてはそんなものはもう要らない。だって、人間より機械の方が速く、正確になるから。英語の専門家は1%くらいいれば済む。後は機械に任せておけばいい、と。エンジニアらしい、いささか乱暴な議論でしたけれど、英語の先生たちはこの挑発的な発言に異論を立てる義務があると思います。小学生から英語を教える必要なんかないし、中学でも高校でも、特殊な職業をめざすもの以外には英語を教える必要がないと言い切ってるんですから。

 僕は毎年野沢温泉にスキーに行くのですけれど、今年も3月に野沢に行ったら、もう外国人ばかりなのですね。僕らが泊まった旅館は七、八割が外国の方でした。食堂に案内された時に、座席表が外国名ばかりだったので、仲居さんに「大変ですね、英語で接客するんですか?」と訊いたら、「いいえ。私ら英語できませんから、全部Google翻訳です」とこともなげに答えられました。

 僕はある禊の会に入っておりまして、ときどき禊の行に行くのですけれど、四月に行った時は、ロシア人が団体で来ておりました。聞くと驚く方が多いと思いますけれど、ロシア人も神道の禊をやる人たちがいるんですよ。モスクワにも道場があるんですが、やっぱり本場の日本で本格的に修行したいという人たちが来ているのです。この時はロシアの人とベネズエラの人が来ておりました。道場は祝詞を唱えたり、座禅を組んだりという行をしているところですから、もともと外国人の参加なんか予測していないし、もちろん外国語が堪能な人が揃っているわけではない。
 来たロシア人たちは英語もあまりわからないということで、どうやって意思疎通するんだろうと心配しておりましたら、道場長が、「これがあるから大丈夫」と言って、小さな機械を見せてくれました。Pocketalk という手のひらサイズの自動翻訳機械でした。まさに『ドラえもん』の「ほんやくコンニャク」でした。そこには60ヵ国語が入っていて、ボタンを押して、日本語を言うと、外国語になって音声が出てくる。外国語音声を入力してもらうと、日本語の音声に訳される。さっそくロシア人たちとその機械で会話をしてみました。

 僕はそういうガジェットに目がないので、家に帰ってすぐにAmazonで検索して、購入しました。SIMカードを入れると世界中どこでも使える。それが3万円台。仰天しました。いつの間にこんなものが・・・と思いました。われわれの知らないうちに、テクノロジーはどんどんと進化しているわけです。AIの「シンギュラリティー」が来ると産業構造が変わり、雇用環境が激変するとさかんに報道されていますけれど、そんな先の話ではなくて、自動化・機械化はあちこちでもう起きているわけです。

 これまで英語をいやいや勉強してきた「のび太」君のような子どもたちにとって「ほんやくコンニャク」はまさに夢の機械だったわけですけれど、それが今やSIMカード付きで、3万円台で手に入る。いずれ価格競争が起きて、「ほんやくコンニャク」がコンビニで電卓程度の価格で売られる時代も来るかも知れない。電卓が普及したせいで筆算や珠算の能力に対するニーズが失われたように、機械翻訳が日常的なものになってきたら、オーラル・コミュニケーション能力を身に付ける必要もなくなります。よく「町で外国人にいきなり道を尋ねられたときに英語ができないと困る」というようなことを英語学習の動機づけとして語る人がいますけれど、これからはポケットから出せば済むわけですね。

 今の「ほんやくコンニャク」は、まだ一度に聴き取れるセンテンスが短いですけれども、技術的な改良はこれからもどんどん進み、いずれどこでどんな外国語で話しかけられても、日本語でスムーズに対話できるようになる。『スターウォーズ』にすべての宇宙の言語が話せる通訳ロボットC−3POというのが出てきますけれど、個人用のC−3POをみんなが連れて歩けるようになるようなものです。

 こういうところで僕がしゃべっている音声を、すぐに文字起こしして後ろのスクリーンに投影するというテクノロジーはすでに開発されています。もともとは聴覚障害者用に開発されたものです。手話通訳者がいなくても話を理解できるようにということで開発された。話し始めのうちは、技術者が文章に手を入れます。日本語は同音異義語が多いですし、人によってかなり特殊な言葉づかいをしますから、技術者がいったん文字起こしされたものを、意味が通るように修正する。でも、時間が経つと、機械が話し手の語彙や「話し癖」に慣れて、技術者が介入しなくても、機械が講演をタイムラグなしにスクリーンに映し出すようになる。僕がそのシステムを使って講演したのはもう1年半ぐらい前です。恐らく今はもっと技術が進化していると思います。

 外国語教育はどうすれば効率的であるのかという話をわれわれは教育者という立場で必死にしているわけですけれど、そういうわれわれの側の努力とはまったく無関係に、科学技術は進化して、場合によっては英語教育についての根幹部分についてのこれまでの工夫や議論を無効化してしまうような変化が起きている。そのことをまずみなさんにはご理解頂きたいと思います。

自動機械翻訳がオーラル・コミュニケーションにおける障害の多くを除去してくれるということになったら、一体何のために外国語を学ぶのか? 日本の小・中・高の英語の先生方は、「何のために英語を学ぶのか?」ということについて、今や根源的な省察を要求されています。これまではそんなことを考える必要がなかった。英語を学ぶことの必然性・有用性は自明のものだと思われていた。でも、それが揺らいできた。

 僕自身は長くフランス語を勉強してきて、大学では語学の教師をしていたわけですから、「なぜ外国語を学ぶ必要があるのか」に関してはずっと考え続けてきました。特に、フランス語やドイツ語のような第二外国語については、「そんなものを学生に履修させる必要がない、そんな時間があったらもっと英語をやらせろ」というタイプの議論に何度も巻き込まれましたから、「なぜとりあえず不要不急のものであるフランス語を学ぶ必要があるのか?」という問いについてはかなり真剣に考えて来ました。

 僕の結論は「どんなものであれ、外国語を学ぶことは子どもたちの知的成熟にとって必要である」ということでした。これが僕の基本的な立場です。こればかりは譲れません。「ほんやくコンニャク」ができようと、ポケットマネーで通訳が雇えようと、そんなことは全く別のレベルで、人は外国語を学ぶ必要がある。でもそれは、文科省が言っているような「英語ができる日本人をつくる」といった功利的な目的とは無関係な話です。

 今日、この中に文科省の方はいらしていますか。いらしたら、自動機械翻訳がどのように日本の外国語教育を変えていくのかについて、これまで省内ではどういう話し合いをされてきたのかお訊ねしたいです。調査はされていますか? 実際に機械をお使いになってみたことがありますか? 今、自動機械翻訳がどうなっているかを知っていれば、「英語ができる日本人」養成プログラムのような、ビジネスの場面でオーラル・コミュニケーションがうまくないと、侮られる、損をする、というようなことを英語習得の主目的を掲げているプログラムは存在そのものが無意味になるかも知れないということにもっとショックを受けていいはずなんです。でも、その気配もない。ということは、文科省の方々は自動機械翻訳については何もご存じないということだと思います。教育プログラムの根幹を揺るがすようなテクノロジーの進化について「何もご存じない」のだとしたら、それは教育行政を司る省庁として「あまりに不勉強」とのそしりを免れないのではないかと思います。
 
 外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。

 僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。われわれの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FENでロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。

僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

 僕もそうでした。英語の成績は中学生からずっとよかったのですが、僕の場合、一番役に立ったのはビートルズの歌詞の暗記でした。ビートルズのヒット曲の歌詞に含まれる単語とイディオムを片っ端から覚えたのですから、英語の点はいいはずです。

 つまり、英語そのものというよりも、「英語の向こう側」にあるもの、英米の文化に対する素朴な憧れがあって、それに触れるために英語を勉強した。英米のポップ・カルチャーという「目標文化」があって、それにアクセスするための回路として英語という「目標言語」を学んだわけです。

 その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。

 僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス・・・と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。

 フランス語ができないとこの知的領域にはアクセスできない。当時の日本でも、『パイデイア』とか『現代思想』とか『エピステーメー』とかいう雑誌が毎月のようにフランスの最新学術についての特集を組むのですけれど、「すごいものが出て来た」と言うだけで、そこで言及されている思想家や学者たちの肝心の主著がまだ翻訳されていない。フランス語ができる学者たちだけがそれにアクセスできて、その新しい知についての「概説書」や「入門書」や「論文」を独占的に書いている。とにかくフランスではすごいことになっていて、それにキャッチアップできないともう知の世界標準に追いついてゆけないという話になっていた。でも、その「すごいこと」の中身がさっぱりわからない。フランス語が読めないと話にならない。ですから、60年代―70年代の「ウッドビー・インテリゲンチャ」の少年たちは雪崩打つようにフランス語を学んだわけです。それが目標文化だったのです。 

 のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

 ロシア語もそうです。今、大学でロシア語を第二外国語で履修する学生はほとんどいません。でも、若い方はもうご存じないと思いますけれど、1970年に僕が大学入学したとき、理系の学生の第二外国語で一番履修者が多かったのはロシア語でした。「スプートニク・ショック」と言われたように、60年代まではソ連が科学技術のいくつかの分野でアメリカより先を進んでいたからです。科学の最先端の情報にアクセスするためには英語よりもロシア語が必要だった。でも、ソ連が没落して、科学技術におけるアドバンテージが失われると、ロシア語を履修する理系の学生はぱたりといなくなりました。もちろんドストエフスキーを読みたい、チェーホフを読みたいというような動機でロシア語を履修する学生の数はいつの時代もいます。目標文化が「ロシア文学」である履修者の数はいつの時代もそれほど変化しない。けれども、目標文化が「ソ連の科学の先進性」である履修者は、その目標文化が求心力を失うと、たちまち潮が引くようにいなくなる。

 僕の学生時代はフランス語履修者がたくさんおりました。でも、その後、フランス語履修者は急減しました。ある時点で中国語に抜かれて、今はもう見る影もありません。理由の一つは、日本のフランス語教員たちが学生たちの知的好奇心を掻き立てることができなかったせいなのですけれど、それ以上に本国のフランスの文化的な発信力が低下したことがあります。フランス文化そのものに日本の若者たちを「目標」として惹きつける魅力がなくなってしまった。

フランス語やロシア語の例から知れる通り、われわれが外国語を学ぶのは目標文化に近づくためなのです。目標文化にアクセスするための手段として目標言語を学ぶ。

 しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

 何年か前に、推薦入試の入試本部で学長と並んで出願書類をチェックしていたことがありました。学長は英文科の方だったのですけれど、出願書類の束を読み終えた後に嘆息をついて、「内田さん、今日の受験者150人の中に『英文科志望理由』に『英米文学を学びたいから』と書いた人が何人いると思う?」と訊いてきました。「何人でした?」と僕が問い返すと「2人だけ」というお答えでした「後は、『英語を生かした職業に就きたいから』」だそうでした。

 僕の知る限りでも、英語を学んで、カタールの航空会社に入った、香港のスーパーマーケットに就職した、シンガポールの銀行に入ったという話はよく聞きます。別にカタール文化や香港文化やシンガポール文化をぜひ知りたい、その本質に触れたいと思ってそういう仕事を選んだわけではないでしょう。彼らにとって、英語はたしかに目標言語なのですけれど、めざす目標文化はどこかの特定の文化圏のものではなく、グローバルな「社会的な格付け」なのです。高い年収と地位が得られるなら、どの外国でも暮らすし、どの外国でも働く、だから英語を勉強するという人の場合、これまでの外国語教育における目標文化に当たるものが存在しない。

 これについては平田オリザさんが辛辣なことを言っています。彼に言わせると、日本の今の英語教育の目標は「ユニクロのシンガポール支店長を育てる教育」だそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」はもちろん有用な仕事であり、しかるべき能力を要するし、それにふさわしい待遇を要求できるポストですけれど、それは一人いれば足りる。何百万単位で「シンガポール支店長」を「人形焼き」を叩き出すように作り出す必要はない。でも、現在の日本の英語教育がめざしているのはそういう定型です。

 僕は大学の現場を離れて7年になりますので、今の大学生の学力を知るには情報が足りないのですけれども、それでも、文科省が「英語ができる日本人」ということを言い出してから、大学に入学してくる学生たちの英語力がどんどん低下してきたことは知っています。それも当然だと思います。英語を勉強することの目標が、同学齢集団内部での格付けのためなんですから。低く査定されて資源分配において不利になることに対する恐怖をインセンティヴにして英語学習に子どもたちを向けようとしている。そんなことが成功するはずがない。恐怖や不安を動機にして、知性が活性化するなんてことはありえないからです。

 僕は中学校に入って初めて英語に触れました。それまではまったく英語を習ったことがなかった。1960年頃の小学生だと、学習塾に通っているのがクラスに二三人、あとは算盤塾くらいで、小学生から英語の勉強している子どもなんか全然いません。ですから、FENでロックンロールは聴いていましたけれど、DJのしゃべりも、曲の歌詞も、ぜんぶ「サウンド」に過ぎず、意味としては分節されていなかった。それが中学生になるといよいよ分かるようになる。入学式の前に教科書が配られます。英語の教科書を手にした時は、これからいよいよ英語を習うのだと思って本当にわくわくしました。これまで自分にとってまったく理解不能だった言語がこれから理解可能になってゆくんですから。自分が生まれてから一度も発したことのない音韻を発声し、日本語に存在しない単語を学んで、それが使えるようになる。その期待に胸が膨らんだ。

 今はどうでしょう。中学校一年生が四月に、最初の英語の授業を受ける時に、胸がわくわくどきどきして、期待で胸をはじけそうになる・・・というようなことはまずないんじゃないでしょうか。ほかの教科とも同じでしょうけれど、英語を通じて獲得するものが「文化」ではないことは中学生にもわかるからです。わかっているのは、英語の出来不出来で、自分たちは格付けされて、英語ができないと受験にも、就職にも不利である、就職しても出世できないということだけです。そういう世俗的で功利的な理由で英語学習を動機づけようとしている。でも、そんなもので子どもたちの学習意欲が高まるはずがない。

 格付けを上げるために英語を勉強しろというのは、たしかにリアルではあります。リアルだけれども、全然わくわくしない。外国語の習得というのは、本来はおのれの母語的な枠組みを抜け出して、未知のもの、新しいものを習得ゆくプロセスのはずです。だからこそ、知性の高いパフォーマンスを要求する。自分の知的な枠組みを超え出てゆくわけですから、本当なら「清水の舞台から飛び降りる」ような覚悟が要る。そのためには、外国語を学ぶことへ期待とか向上心とか、明るくて、風通しのよい、胸がわくわくするような感じが絶対に必要なんですよ。恐怖や不安で、人間はおのれの知的な限界を超えて踏み出すことなんかできません。

 でも、文科省の『「英語ができる日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてある。

「今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を超えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。」

冒頭がこれです。まず「経済」の話から始まる。「経済競争」「メガコンペティション」というラットレース的な状況が設定されて、そこでの「果敢な挑戦」が求められている。英語教育についての基本政策が「金の話」と「競争の話」から始まる。始まるどころか全篇それしか書かれていない。

「このような状況の中、英語は、母語の異なる人々をつなぐ国際的共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが21世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」という書いた後にこう続きます。

「現状では、日本人の多くが、英語力が十分でないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も起きています。」
「金」と「競争」の話の次は「格付け」の話です。ここには異文化に対する好奇心も、自分たちの価値観とは異なる価値観を具えた文化に対する敬意も、何もありません。人間たちは金を求めて競争しており、その競争では英語ができることが死活的に重要で、英語学力が不足していると「制限を受けたり」「適切な評価が得られない」という脅しがなされているだけです。そんなのは日本人なら誰でもすでに知っていることです。でも、「英語ができる日本人」に求められているのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」なのです。

 外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。

 でも、この文科省の作文には、外国語を学ぶのは「日本人なら誰でもすでに知っていること」の檻から逃れ出るためだという発想がみじんもない。自分たちの狭隘な、ローカルな価値観の「外側」について学ぶことは「国際的な相互依存関係」のうちで適切なふるまいをするために必須であるという見識さえ見られない。僕は外国語学習の動機づけとして、かつてこれほど貧しく、知性を欠いた文章を読んだことがありません。

 たしかに、子どもたちを追い込んで、不安にさせて、処罰への恐怖を動機にして何か子どもたちが「やりたくないこと」を無理強いすることは可能でしょう。軍隊における新兵の訓練というのはそういうものでしたから。処罰されることへの恐怖をばねにすれば、自分の心身の限界を超えて、爆発的な力を発動させることは可能です。スパルタ的な部活の指導者は今でもそういうやり方を好んでいます。でも、それは「やりたくないこと」を無理強いさせるために開発された政治技術です。
 ということは、この文科省の作文は子どもたちは英語を学習したがっていないという前提を採用しているということです。その上で、「いやなこと」を強制するために、「経済競争」だの「メガコンペティション」だの「適切な評価」だのという言葉で脅しをかけている。

 ここには学校教育とは、一人一人の子どもたちがもっている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています。子どもたちの知性的・感性的な成熟を支援するのが学校教育でしょう。自然に個性や才能が開花してゆくことを支援する作業に、どうして恐怖や不安や脅迫が必要なんです。勉強しないと「ひどい目に遭うぞ」というようなことを教師は決して口にしてはならないと僕は思います。学ぶことは子どもたちにとって「喜び」でなければならない。学校というのは、自分の知的な限界を踏み出してゆくことは「気分のいいこと」だということを発見するための場でなければならない。

 この文章を読んでわかるのは、今の日本の英語教育において、目標言語は英語だけれど、目標文化は日本だということです。今よりもっと日本的になり、日本的価値観にがんじがらめになるために英語を勉強しなさい、と。ここにはそう書いてある。

 目標文化が日本文化であるような学習を「外国語学習」と呼ぶことに僕は賛成できません。

 僕自身はこれまでさまざまな外国語を学んできました。最初に漢文と英語を学び、それからフランス語、ヘブライ語、韓国語といろいろな外国語に手を出しました。新しい外国語を学ぶ前の高揚感が好きだからです。日本語にはない音韻を発音すること、日本語にはない単語を知ること、日本語とは違う統辞法や論理があることを知ること、それが外国語を学ぶ「甲斐」だと僕は思っています。習った外国語を使って、「メガコンペティションに果敢に挑戦」する気なんか、さらさらありません。

 外国語を学ぶ目的は、われわれとは違うしかたで世界を分節し、われわれとは違う景色を見ている人たちに想像的に共感することです。われわれとはコスモロジーが違う、価値観、美意識が違う、死生観が違う、何もかも違うような人たちがいて、その人たちから見た世界の風景がそこにある。外国語を学ぶというのは、その世界に接近してゆくことです。 

 フランス語でしか表現できない哲学的概念とか、ヘブライ語でしか表現できない宗教的概念とか、英語でしか表現できない感情とか、そういうものがあるんです。それを学ぶことを通じて、それと日本語との隔絶やずれをどうやって調整しようか努力することを通じて、人間は「母語の檻」から抜け出すことができる。
 外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的分節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです。

 でも、今の日本の英語教育は「母語の檻」からの離脱など眼中にない。それが「目標言語は英語だが、目標文化は日本だ」ということの意味です。外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ、と。言っている本人はそれなりにリアリズムを語っているつもりでいるんでしょう。でも、現実にその結果として、日本の子どもたちの英語力は劇的に低下してきている。そりゃそうです。「ユニクロのシンガポール支店長」が「上がり」であるような英語教育を受けていたら、そもそもそんな仕事に何の興味もない子どもたちは英語をやる理由がない。

 達成目標があらかじめ開示された場合に、子どもたちの学習努力は大きく殺がれます。教育のプロセスをまじめに観察したことがある人間なら、誰でもわかることです。「勉強するとこんないいことがある」とか「勉強しないとこんなひどい目に遭う」というようなことをあらかじめ子どもに開示すると、子どもたちの学習意欲はあきらかに減退する。というのは、努力した先に得られるものが決まっていたら、子どもたちは最少の学習努力でそれを獲得しようとするに決まっているからです。

 学習の場では決して利益誘導してはならないということを理解していない人があまりに多い。でも、長く教員をやってきてこれは経験的にはっきりと申し上げられます。賞品で子どもを釣ったり、恐怖で子どもを脅したりしても子どもたちの知的な能力は絶対に向上しません。彼らはどうやったら最少の学習努力で目的のものを手に入れるか、そこに全力を集中するようになるだけです。

 大学で最初の授業のときにオリエンテーションをやると、必ず「先生、単位をもらえる最低点は何点ですか」と「この授業は何回まで休めますか」という質問が出ます。単位をとるための最低点と最少出席回数をまず確認する。「ミニマム」を知ろうとするわけです。これは消費者マインドを持って教室に登場した学生にとっては当然の質問です。「これいくらですか?」と訊いているわけですから。

 彼らにとって単位や学位や免状や資格は「商品」なんです。そして、学習努力は「貨幣」です。だから、買い物客が「この商品の価格はいくらですか?」と訊くように、「この授業で求められる最少学習努力はどの程度ですか?」を訊いてくる。
 求める商品にそれなりの価値があることは彼らだってわかっているのです。でも、どんな価値のある商品であっても、一番安い価格で買うというのは消費者の権利であり義務であるわけです。特売コーナーで同じ商品が安く売っていたら、カートに入れた商品を元の棚に戻して、特売コーナーの同一商品をカートに入れる。それは買い物をする人間としては当たり前のことです。「元の棚」がかなり遠いところであっても、ごろごろカートを押して、そこまで戻しにゆく。その手間を別に惜しいとは思わない。それが消費者です。

 ですから、消費者としてふるまう学生たちの目には、出席をとらない科目、毎年同じ試験問題を出す科目、丸写しレポートでも単位をくれる科目は「特売コーナー」に置かれている商品のようなものとして映る。「特売商品」で同じ単位がもらえるなら、そういう「楽勝科目」だけを集めて卒業単位を稼ぐのが最もクレバーな学生生活であることになる。消費者マインドが骨までしみついた学生たちは、大学に来てまで「どうすれば最も少なく学べるか」をめざして努力するようになる。
 もし書店に「3ヵ月でTOEICスコアが100点上がる」という参考書があったとします。それを買おうと思って、横を見たら「1ヵ月で100点上がる」という本があった。当然、そちらを買う。でも、その隣に、「1週間で100点上がる」という本があった。これはもうこちらを買うしかない。でも、そのさらに横には「何もしなくても100点上がる」という本があった。もう迷わずこれを買う。

 そういうものですね。学習の達成目標が決まっていれば、あとはいかに少ない学習努力でそれを達成するかというところに知恵を使う。それが最も合理的であるということは子どもにだってわかります。ですから、学校で「勉強すると、こんないいことがある」という仕方で功利的に誘導するのは自分で足元を掘り崩しているようなものなのです。

 車を買うときだって、ふつうの人は何軒もディーラーを回って、だいたい車格が同じくらいの車を値踏みして、「おたくはいくら引くの?」と訊いて回りますよね。そして、一番値引き率の高いディーラーで買う。子どもたちだって、そういう親たちのふるまいを見て育っています。だから、一番安いところで買うためには、一日かけて何軒もディーラーを回るくらいの苦労はしても当然だということを学ぶ。だから、学校でも「最少の学習努力で教育商品を手に入れるために最大限の努力を惜しまない」という非合理な行動をするようになる。

 僕が教務部長をしている時に、単位をよこせとどなり込んできた学生がいました。事情を聴くと、レポートの期限に遅れたので、担当の教師が受理してくれなかった、それで単位を落としたというのです。期限に遅れたのは、提出期限が一日前倒しになったのを知らなかったからです。先生はうっかりして、入試があって学生入構禁止の日をレポートの提出期限として指定したしまったのです。大学の事務からそれを指摘されて、締め切り日を一日繰り上げて、学生たちには教室でそのことを告知したのですが、その学生はその日授業に出ていなかったのでそれを知らなかった。そして、大学構内に入れない日にレポートを持ってきて、ガードマンに追い返されてしまった。その学生と親たちが教務課の窓口に来て抗議しているわけです。「レポート提出期限の変更は授業を休んだ学生全員に周知徹底するのは大学の義務だ」と言う。「ちゃんと掲示板に告知してありました」と言ったのですが「中には掲示板を見ない学生だっている。教師は欠席した学生全員にひとりひとり電話をかけて知らせるべきだった」とごねる。ついに「弁護士を立てて大学を訴える」と言い出した。

 この一家のご努力にはほんとうに感動しました。どうして教務課で騒ぎ立てることについてはこれほど努力を惜しまないのに、授業に出ることや掲示板を見ることにはこれほど努力を惜しむか。担任の先生に出席簿を出してもらって調べたら、その学生は15週のうち6回しか出席しておりませんでした。それを知らせたら、さすがに親も引き下がりました。その学生は親には「ほとんど全部出席していた」と嘘をついていたのでした。

 この親子は消費者マインドで学校に来る人間の典型だと思います。「最低価格で商品を手に入れる」ためにはいかなる努力も惜しまない。それが倒錯的なふるまいだということが本人にはわからないのです。教務課相手に何日もかけてタフな交渉をするより、ふつうに授業に出ていた方がずいぶん楽だし、知識も身に着くので「一挙両得」ではないかと思うのですけれど、そういう計算が立たない。
 
 親や学生だけではありません。学校にもいます。市場原理で教育を語る人間が。「学校は店舗だ。われわれが売っているのは教育サービスだ。保護者と子どもたちはクライアントだ。消費者に選好される教育商品を売るのが教育活動なのだ。だから、市場のニーズを見きわめ、ターゲットを絞って、マネジメントをしなければいけない」というようなことを言う人間が。本人はビジネスマインドで教育を語って、わかった気になっているようですけれど、本当に頭が悪い。そんなことをしたら、学力はどんどん下がるに決まっているではないですか。

 だって、彼の言う「クライアント」が求めるのは「最低の学習努力で手に入る、価値のある教育商品」なわけですから、最終的には「勉強しなくても、学校に来なくても、試験を受けなくても、レポートを書かなくても、学習努力ゼロでも学位を差し上げます」というところを選ぶようになるに決まっている。

 最近よく「在学中に1年留学」ということを謳っている大学がありますね。大学は学生から授業料を徴収して、留学先の大学に研修費を払って、差額を手に入れる。教育活動ゼロでそれなりの授業料が入るわけですから笑いが止まらない。学生の25%が大学に来ないんですから教育コストは大幅に軽減できる。人件費も光熱費も25%節約できるし、トイレットペーパーも減らないし、校舎の床も階段も損耗しない。そのうち「だったら留学期間2年にしたらどうか」と言い出すやつがきっと出てきます。それなら教員を50%減らすことができる。「それならいっそ留学3年必須にしたらどうか」と誰かが言い出し、ついには「いやそれより4年間留学必須にしたどうか」と言い出すやつが出て来る。そうすれば大学は何も授業せず、集めた授業料を留学先の研修費に払った差額はまるごとポケットに入る。もう教職員を雇う必要もないし、キャンパスさえ要らない。教育活動を一切しないでも金が入ってくる。

 そうなんです。市場原理に従うなら、大学はできるだけ教育活動にコストをかけない方が儲かる。ですから、論理的には「大学がない」ときに利益率は最大化する。

 実際に21世紀はじめに林立した株式会社大学の中には、貸しビルに部屋を借りただけでキャンパスを持たず、専任教員を雇わずに職員に講義させ、ビデオを見せて授業に代えたりして、最少の教育コストで「大儲け」を狙ったところがありました。もちろん、すぐに潰れました。でも、経営者は「どうして市場原理に従って経営したのに失敗したのか」最後まで理解できなかったのではないかと思います。

 教育に市場原理を持ち込んだら、学生たちは「最少の学習努力」をめざし、学校経営者たちは「最少の教育コスト」をめざすようになる。それが当然なのです。でも、そんなものは教育ではない。そんな簡単なことさえわからない人間たちが、教育がどうあるべきかについて論じ、政策を決定して、現場にあれこれとお門違いな命令を下して、ひどい場合は大学を経営している。それが今の日本です。学校教育が劣化するのも当たり前です。

 もう一つ、申し上げておきたいことがあります。それは学校に競争原理を持ち込んではならないということです。このエピソードも何度も本に書いたことですけれど、印象的な事例なので繰り返します。

 僕のゼミの学生で、学習塾でバイトをしていたものがいました。そこは学習習慣のない子どもたちのための塾で、マンツーマンで勉強を教えていた。一生懸命教えた甲斐があって、その学生が担当していた子どもがようやく学習習慣が身についてきて、教室でも長い時間机に座っていられるようになった。そして、ある日ついに塾の学習進度が学校を超えた。学校でまだ習っていない単元に進んだのです。そうしたら、その子は、学校で自分が知っていることを先生が教え始めたら、立ち上がって歌を歌い出したというのです。

 学校の先生から親に相談が行って、親から塾で担当していた学生に相談が行って、学生から僕が相談を受けて、「先生、一体この子は何のためにそんなことをしたのでしょう?」と訊かれたので、彼は彼なりに合理的な行動をとったのだと思うと答えました。

 この子はずっと学校の勉強に遅れていた。それがようやくわずかながらも級友よりも先に進んだ。このアドバンテージを維持するためには、周りの級友たちの学習を妨害するのが最も効果的である。そう考えたわけです。

 実際に、子どもたちは実に小まめに級友たちの学習妨害をしています。「学級崩壊」ということがある時点から言われ始めましたけれど、それは子どもたちが急激に反社会的になったからではなく、むしろ過度に社会化されたからではないかと僕は思っています。子どもたちは実際に合理的に行動しているのです。自分の学力を上げるための努力は自分ひとりにしかかかわらないけれど、学級崩壊はクラスメート全員の学習を妨害できる。同学齢集団内部での相対的な優劣を競うという観点から言うと、自分の学力を上げる努力よりも、周囲の学力を引き下げる努力の方が費用対効果が高い。

 昔からそういうのはありましたね。進学校だと、試験前でも「全然勉強やってないよ」と言って級友を油断させたり、試験の前日に麻雀に誘って勉強の邪魔をしたりとか、そういう「せこい」ことをやっていた。でも、今はもっとそれを組織的かつ無意識的にやっている。競争原理的には合理的なふるまいなので誰も止めることができない。

 偏差値というのがまさに競争原理がもたらした倒錯の典型です。偏差値は学力とは無関係です。あれは、同学齢集団のどの辺にいるのかという「格付け指標」です。今、偏差値70の子は、僕が中学生だった頃に連れ来たら、とてもそんな偏差値はとれないでしょう。競争相手の同学齢集団の規模が二倍以上だし、学力そのものも年ごとに低下していますから。でも、偏差値というのは集団そのものの学力が低下しても、格付け機能だけは変わらない。そういう競争に子どもたちを追い込んだら、当然子どもたちは「最少の学習努力で高い偏差値をとる方法」を工夫するようになります。そして、そのためには「集団全体の学力を下げる」のが最も効率的であるということは誰にでもわかる。

 僕は神戸の住吉というところに住んでいます。近くには灘高とか六甲学院といった中高一貫の進学校があります。電車に乗ると、よくそういう学校の生徒たちに会います。ついにじり寄っていって、どんな話をしているのか立ち聞きしてしまう。みごとなほど知的な会話をしていない。直接教科の内容にかかわることでなくてもいいのです。今だったら、「米朝会談どうなると思う」というような話をしてもいいじゃないですか「金正恩はこれからどう出るか」とか「南北は裏で話がついていたのか」とか「CIAが絡んでいるのかね」とか、高校生だって、そういう話をしてもいいじゃないですか。「これから日本の政治はどうなるのか」とか「東京オリンピックはほんとうに開催できるのか」とか。自分たちのこれからにかかわることなんですから。でも、そういう話をまったくしていない。

 例えば、生徒たちがそれぞれ手分けして海外のネットニュースを読んだり、本を読んだりして情報を集めて、それを共有すればいいと思うんですよね。頭のいい子たちなんだから。でも、そうやってお互いの知的リソースを富裕化するという作業はみごとなほどまったくしていない。おしゃべりの内容は、「そんなことを知っていても、試験の点数が一点も上がることのない話題、話し相手の知性が少しも活性化しない話題」に限定されています。もう、みごとなほど。無意識にやっているんですよ、そういうことを。同学齢集団の競争相手たちの知性が活性化することを本能的に回避しようとしている。そういうことを社会全体でやっている。学力が低下し、大学の学術的発信力が先進国最低にまで下落するのも当然なんです。

 いったいどうすればいいのか。僕からの提案はシンプルなんです。でも、これは無理だと皆さんは言うと思います。それは「成績をつけない」ということです。成績をつけない。生徒たちを格付けをしない。教えたいことがあるので教える。聞きたい人は聞いてくれ。そういう授業をする。そんなことをしたら管理職からも、親からも、生徒たち自身からも「止めてくれ」と言われると思いますけれど、日本の学校教育を蘇生させる道はそれしかないです。点数をつけない。成績をつけるのを止めれば、格付けによって資源を傾斜配分するというルールを止めれば、日本の子どもたちの学力は一気にV字回復します。それは断言してもいい。

 成績をつけ、格付をして、得点の高いものに報奨を与え、得点の低いものは処罰するというのは「微量の毒」のようなものなんです。毒もうまく使えば薬になるけれど、所詮は毒です。短期的に、一気に限界を超えさせるためには、格付けによる差別は有効です。でも、そういう無理は長続きするものじゃない。どこかで子どもたちの心身が壊れ始める。ほんとうに自己の知的限界を超えるためには、時間がかかるんです。教師は生徒たちの学びへの意欲が起動するまで、長い時間待たなければいけない。学びに促成栽培はあり得ないんです。

 同学齢集団の中で相対的な優劣を競わせるのは「促成栽培」です。農作物を育てる時に、農薬や肥料を大量に投与したり、人工的な環境で育てるのと同じです。すぐに効果は出るけれど、それはほんとうに力がついたわけじゃない。

 学校で子どもたちが身に付けるべき能力は、学校を出てから役立つものでなければ意味がありません。学校を出た後はすぐに年齢も違う、性別も違う、専門も違う人たちと共同的にかかわることになります。自分とものの考え方が違う人たちとのコラボレーションができなければ仕事になりません。同学齢集団内で相対的な優劣を競ってきた能力なんか、そういう場面では何の役にも立ちません。コラボレーションで必要なのは、汎用性の高い知的能力です。交渉力、調停力、胆力、共感力、想像力...そういうものです。だから、学校教育の本旨はそういう汎用性の高い知的能力を育ててゆくことでなければならない。それが子どもたちに本当に必要な、生きる知恵と力なんです。そういう力を高めてゆくことが、子どもたちの市民的な成熟を支援するということです。同学齢集団内の相対的な優劣を競わせて、お互いの知性が活発化するのを邪魔し合ってゆけば、子どもたちの生きる知恵と力はどんどん減退してゆく。それは今の日本の現実を見ればわかるはずです。

 僕は、神戸の道場で合気道という武道を教えています。門人は今300人ぐらいです。僕のところでも段位や級は出しています。そういうものがある方が励みになるらしいから。ですから、門人たちは昇段級審査の前になると集中的に稽古をします。なんとか時間をやりくりして道場に来て、自主的に稽古をしている。そういうふうに集中的に稽古することで、ある「壁」を超えるということも現にあります。ですから、僕は段位や級を出すことの効用は認めてます。でも、それは「そういうもの」がある方が一人一人の力が伸びる確率が高いという経験知に基づいてのことです。段位の上下を比べたり、誰が早く昇段したのか、誰が遅いかというようなことは一切口にしない。別に抑制しているわけではなく、僕はそんなこと考えたこともないから。門人同士を比べて、この人の方がこの人より巧い、この人の方が強い、というようなことは考えたことがない。門人同士の相対的な優劣を比較することなんか、修業上何の意味もありません。優劣を比較する対象があるとしたら、それは「昨日の自分」だけです。「昨日の自分」と比べて「今日の自分」がどう変化したのか、それは精密に観察しなければなりません。昨日まで気づかなかったどういう感覚が芽生えたか。昨日までできなかったどういう動きができるようになったか。そこには注意を向けなければいけない。でも、同門の他人と自分を比べて、その強弱や巧拙などを論じても何の意味もない。ほんとうに何の意味もないのです。修業の妨げにしかならない。

 僕の師匠は多田宏先生という方です。以前先生から「他人の技を批判してはいけない」と教えられました。僕はその時はまだ若くて、先生の意図よくわからなかった。口には出しませんでしたけれど、「他人の技の欠点に注目するのは有用なのではないか」と内心では思いました。先輩の技を注視して、あの人はここがよくない、あの人はここが優れている、この道場では誰それさんがやっぱり一番うまい、あの人は段位は高いが技術は劣るとか、そういうことを同門同士で論じ合ってもいいんじゃないかと思っていたからです。それが修業の役に立つと思っていた。

 たぶん僕が得心のゆかない顔をしていたからでしょう、先生は僕の方を見て、「他人の技を批判してうまくなるのなら、俺も朝から晩まで他人の技を批判しているよ」と言って笑って去っていかれた。その時の先生の言葉が今でも心に残っています。他人と自分の間の技術の相対的な優劣など論じても、そんなことは自分の修業に何の役にも立たない。それを骨身にしみるような言葉で教えられました。

 それはまさに武道修業者の基本として、澤庵禅師の『太阿記』の冒頭に掲げられている言葉です。

「蓋(けだ)し兵法者は、勝負を争わず、強弱に拘(こだわ)らず、一歩を出でず、一歩を退かず、敵、我を見ず、我、敵を見ず、天地(てんち)未分(みぶん)陰陽(いんよう)不到(ふとう)の処に徹して直ちに功を得べし」。

 兵法者の心得として、まず勝負を争わないこと、強弱にこだわらないことと書いてあります。修業の第一原則がこれなんです。相対的な優劣にこだわってはならない。それは自分の力を高めていく上で必ず邪魔になる。勝てば慢心するし、負けたら落ち込む。そんなことは修業にとって何の意味もありません。修業というのは、毎日淡々と、呼吸をするように、食事をしたり、眠ったりするのと同じように、自然に、エンドレスに行うことが肝要なのです。だから、修業には目標というものがありません。

 スポーツの場合だと、試合というものがあります。ある場所、ある時点に能力のピークが来るように設定して、それが終わったら、しばらく使い物にならないというようなことが許される。それは試合がいつどこでどういう形態で行われるか事前に開示されているからです。でも、武道が涵養している能力はそういうものではない。どんな危機的局面に際会しても、適切にふるまって、生き延びる力です。その語義からして、「危機」とは、それが何であって、いつどこで遭遇するかわからないものです。天変地異でも、テロでも、パンデミックでも、ゴジラ来襲でも、どんな状況でも適切に対応できる力を「兵法者」は修業する。それは試合に合わせて「ピーク」を設定するとか、ライバルとの相対的な優劣について査定したり、成績をつけたり、それに基づいて資源分配するということとはまったく別の活動です。
 われわれは子どもたちを格付けして資源分配をするために教育をしているのか、それとも子どもたち一人一人のうちの生きる知恵と力を育てるために教育しているのか、そんなことは考えるまでもないことです。そして、一人一人の生きる知恵と力を高めるためには他人と比べて優劣を論じることには何の意味もありません。まったく、何の意味もないのです。有害なだけです。でも、現在の学校教育ではそれができない。全級一斉で授業をするという縛りがありますから、一人一人をそれほど丹念に観察できないというのはわかります。でも、授業を子どもたちの査定や格付けのために行うことについてはもっと痛みを感じて欲しいと思います。それはほんとうは学校でやってはいけないことなんです。

「日本の学校教育をよくする方法がありますか」とよく聞かれます。ですから、僕の答えはいつも同じです。「成績をつけないこと」です。でも、それを言うと、教員たちはみんな困った顔をするか、あるいは失笑します。「それができたら苦労はないですよ」とおっしゃる。でも、ほんとうにそれほど「それができたら苦労はない」ことなんでしょうか。

 僕は現に武道の道場という教育機関を主宰していて、そこでは「成績をつけない。門人たちの相対的な優劣に決して言及しない」ということをルールにしていますが、実に効率的に門人たちは力をつけて、ぐいぐいと伸びています。道場では査定ということをしない。寺子屋ゼミという教育活動も並行して行っていますけれど、ここでも研究の個別的な出来不出来についてはかなりきびしいコメントをすることもありますけれど、ゼミ生同士の優劣について論じることは絶対にしません。
 どうして教育の場で、教わる者たちは、指導者によって査定され、格付けされ、それに基づいて処遇の良否が決まるということが教育にとって「当然」だと信じられるのか、僕にはそれがわかりません。明らかにそれは教育にとって有害無益なことです。それは40年近く教育という事業に携わってきた者として確信を以て断言できます。

 僕は、一昨日に千葉の保険医たちの集会に呼ばれてお話をしてきました。懇親会で隣にいた保険医の方から「医療と市場原理はどうしてもなじまないのですけれども、どうしたらいいでしょう」と訊かれました。その質問には「苦しんでください」と答えました。にべもない答えだったとは思いますけれど、仕方がないのです。医療と市場原理は並立しないからです。並立しないものを並立させてようとしているのだから、苦しむ以外にない。

 医療というのは、医療を求める全ての人に、分け隔てなく、最高の質の医療を、ごくリーズナブルな代価で、できれば無償で提供することを理想としてます。そういう仕組みを作ることが医療の理想なわけですけれども、市場原理の中では、そうはゆかない。市場原理に即して考えると、医療は医師の技術・医療機器・医薬品・看護介護のサービスという「商品」として仮象する。だから、需給関係に従って、その「商品」に一番高い値を付ける人が所有することができる。アメリカはもうそうなっています。医療は市場で貨幣で買うものだと思われている。だから、お金をもっている人は最高の医療技術を享受できるけれど、貧困層は最低レベルの医療しか受けられない。富裕層は金に糸目をつけずに最高の医療スタッフを「侍医」として雇用することができるけれど、保険医療しか受けられない患者は、最低の医師、最低の看護師、最低の医療設備の病院にしか行けない。そのような最低の治療さえ受けられない人もいる。

 でも、本来、医療というのはそういうものであっていいはずがない。「ヒポクラテスの誓い」というのは古代ギリシャの医療人の誓いで、いまでもアメリカの医学部卒業式ではこの誓言をするはずですけれども、そこには「患者が自由人であろうと奴隷であろうと医療内容を変えてはならない」と謳ってあります。最古の医療倫理が「医療は患者の個人的属性に従って変えてはならない」ということなのですが、そのヒポクラテスの倫理がもう守られていない。これはヒポクラテスの誓いの方が正しくて、市場原理の方が間違っているのです。だから、「どうしたらいいでしょうか」と訊かれても「苦しんでください」としか言いようがない。医療の理想は実現することが難しい。かといって市場原理に従ってゆけば、超富裕層が医療資源を独占して、貧しい者は医療の恩恵を受けられないという古代ギリシャ時代以前の未開社会にまで退化してしまう。市場原理に委ねるとある種の領域では制度は限りなく劣化するという平明な事実を直視すべきなんです。それを直視したくないというのなら、苦しむしかない。

 それは、教育も同じです。われわれの共同体を担っていく次世代の若者たちの知性的な、感性的な、そして、霊性的な成熟を支援することが教育本来の目的です。ヒポクラテスの誓いと同じく、本来であれば全ての集団の、すべての子どもたちに同じ質の教育機会が与えられるべきなんです。だから「義務教育」なんです。集団には次世代を教育する義務が課されている。

 何万年も前の小さな集団で暮らしている太古の時代から、子どもたちがある年齢に達したら、年長者たちが子どもたちを集めて、「生きる技術」を教えました。狩猟の仕方とか、農耕の仕方とか、魚の獲り方とかを教えた。そういう技術を学ばないと子どもたちは生き延びることができず、集団が消滅してしまうからです。集団を存続させるためには、子どもたちに、ある年齢に達したら「生き延びるための知識と技術」を教え込む。それが教育です。

 教育する主体は集団なのです。そして、教育の受益者も集団なのです。集団が存続していくというしかたで集団が受益する。でも、今の教育では、子どもたちは消費者として「教育商品」を購入している気でいます。高い学歴を持ち、ハイエンドな資格とか免状を持っていたら、社会的地位が上がり、年収も上がり、威信も享受できる。だから、教育は商品だ、と。よい教育を受けたいというのは、よい洋服が欲しい、よい時計が欲しい、よい車が欲しいというのと同じだ、と。そういうものは自分の身を飾るものなのだから、自分の財布から金を出して買え、と。どうして税金を投じて、すべての子どもたち公教育を施さなければいけないのか、意味がわからないという人が現にいくらでもいます。

 でも、何度でも申し上げます。教育は買い物とは違います。教育は集団の義務なんです。教育の受益者は子どもたち個人ではなく、共同体そのものです。共同体がこれから継続し、そこで人々が健康で文化的な生活ができるように、われわれは子どもを教育する。

 でも、市場原理を持ち込んでくると、この筋目がまったく見えなくなってしまう。市場原理では、教育する主体は先生たち個人だとみなされる。集団ではないのです。教員個人の「教育力」なるものが数値的に表示されて、それに対して報奨や処罰が用意される。高い教育力を持つ教員個人が高い格付けを受けて、高い給与や地位を約束される。教育力の低い教員は低い格付けを受けて、冷遇される。それと同じように、教育を受けたことの利益は個人にのみ帰属する。知識も技術も、自分がその後他の同胞たちよりも高い地位に就き、高い年収を得るために、排他的に利用される。それがフェアネスだと信じている人が現代日本ではマジョリティを占めている。

 教育するものからも、教育を受けるものからも、「共同的」という本来の契機がまったく脱落したのが、現在の教育です。教育活動は個人のではなく、集団の営みであるということを理解していない教員さえたくさんいます。

 大事なことなので、何度でも申し上げますけれど、教育の主体は集団です。教育は集団で行うものであり、教育を受けるのは個人ですけれど、その個人の活動から受益するのは集団です。「ファカルティー(faculty)」というのは「教師団」という意味です。教育活動を行うのは「ファカルティ―」であって、教員個人ではありません。「ファカルティ―」というのは、同じ学校で、同じ学期に、職員室で机を並べて仕事している同僚たちだけのことではありません。今教えている子どもたちがこれまで就いて学んできたすべての教師たち、子どもたちの周りにいたすべての年長者たちと共に、われわれは「ファカルティー」を形成している。僕たちは、僕たちに先行する教師たち・年長者たちからいわば送り出され、手渡された子どもたちを受け取り、自分たちに教えられることを教え、それを次の教師たちに「パス」してゆく。そのすべての大人たちが「ファカルティ―」を形成している。

 僕が神戸女学院大学に在職していた頃の話です。あの学校は同窓会の結束が固くて、卒業生がしばしば遺産を学校に贈与してくれます。部長会の席で、亡くなった卒業生から遺言で学校宛てに何千万円のご寄贈がありましたということを経理部長がしばしば報告してくれました。それを聞く度に、「ありがたいことだ」と思いながら、微妙に気持ちが片づかなかった。

 85歳ぐらいで亡くなった卒業生からの遺産贈与だとすると、その人が神戸女学院に通っていたのは、今からもう70年ぐらい前なわけです。70年前ぐらいに受けた教育に対する感謝の気持ちを遺産として遺してくださったわけですけれど、僕たちはもうその人を教えた先生たちの顔も名前も知らない。みなさん、とっくにお亡くなりになっている。その人たちが行ったすばらしい教育への感謝の気持として遺産贈与があるのだけれど、今この学校で働いている教員たちに、果たしてそれを受け取る資格はあるのか、そう考えてしまったのです。だから、片付かない気持ちがした。

 でも、しばらく考えて、これはやっぱり受け取っていいのだと思うようになりました。というのは、僕が今ここで必死に教育を行って、そのおかげでそれから後の人生が豊かなものになったと思ってくれた卒業生が、仮に今から70年後に神戸女学院に対して遺産を寄贈してくれたとします。その場合、遺産を受け取ることになった教員たちは、僕たちのことなんかもう覚えていないわけです。名前も知らないし、何を教えたのかも知らない。でも、もしそういうことがあったら、70年後の教師たちにはその遺産を喜んで受け取って欲しいと思います。というのは、教育活動というのは、「ファカルティー」が行うものだからです。70年前にここで教えた人たち、70年後にここで教える人たち、もう死んでしまった教師たち、まだ生まれてもいない教師たち、彼らを僕たちは一つの「ファカルティ―」を形成している。150年にわたってこの学校で教えた、これから教えることになるすべての教師たちと共に僕は「ファカルティ―」を形成している。卒業生の感謝の気持はたまたまその事案が発生した時に在職していた教職員が受け取るのではなくて、「ファカルティー」が受け取るのです。

 教育の主体は集団である、教育は集団的な事業であるというのはそのことです。「教師団」には、今この学校で一緒に働いている人びとだけではなく、過去の教師たちも未来の教師たちも含まれている。そういう広々とした時間と空間の中で、教育活動は行われている。そして、そういうような時代を超えた集団的活動が可能なのは、教育事業の究極の目的が「われわれの共同体の存続」をめざすものだからです。

 だから、教育政策の適否を計る基準は一つしかないと僕は思っています。それはその政策を実行することが子どもたちの市民的成熟に資するかどうか、それだけです。市民的成熟に資することであればよい。市民的成熟に関係のないこと、それを阻むものは教育の場に入り込ませてはいけない。それだけです。そういう基準で教育政策の適否を判定したら、今の文科省が主導している教育政策のほとんどは、子どもたちの市民的成熟にまったく何の関係もない、むしろそれを阻害するものだということがわかると思います。でも、そういうまっとうな基準で教育政策の適否を判定する習慣をわれわれは失って久しい。それが現在の日本の教育の混乱と退廃をもたらしている。

 では、どうしたらいいのかと。まだもう少し話す時間が残っているようですから、ちょっとだけ話します。大した知恵がなくて、できないことばかり言って本当に申しわけないのですが、一つは、保険医の方に言ったのと同じで、「とにかく苦しんでください」ということです。そして、先ほども言ったように、できることなら成績をつけないでもらいたい。成績をつけてもそれほど教育活動が阻害されない教科もあるかも知れませんが、できればどの教科でも何とか成績をつけないで進めて頂きたい。カリキュラムのどこかに、子どもたちが誰とも競争しないで済む時間帯を設けて欲しい。昨日の自分と今日の自分の変化を自分ひとりで観察する。そのような学びの場を何とか立ち上げて頂きたいと思います。

 もう一つ、今は英語教育にとりわけ中等教育では教育資源が偏ってきています。他の教科はいいから、とにかく英語をやれという圧力が強まっています。別にそれは英語の教員たちが望んだことではないのだけれど、教育資源が英語に偏っている。特に、オーラル・コミュニケーション能力の開発に偏っている。何でこんなに急激にオーラルに偏ってきたかというと、やはりこれは日本がアメリカの属国だということを抜きには説明がつかない。

「グローバル・コミュニケーション」と言っても、オーラルだけが重視されて、読む力、特に複雑なテクストを読む能力はないがしろにされている。これは植民地の言語教育の基本です。

 植民地では、子どもたちに読む力、書く力などは要求されません。オーラルだけできればいい。読み書きはいい。文法も要らない。古典を読む必要もない。要するに、植民地宗主国民の命令を聴いて、それを理解できればそれで十分である、と。それ以上の言語運用能力は不要である。理由は簡単です。オーラル・コミュニケーションの場においては、ネイティヴ・スピーカーがつねに圧倒的なアドバンテージを有するからです。100%ネイティヴが勝つ。「勝つ」というのは変な言い方ですけれども、オーラル・コミュニケーションの場では、ネイティヴにはノン・ネイティヴの話を遮断し、その発言をリジェクトする権利が与えられています。ノン・ネイティヴがどれほど真剣に、情理を尽くして話していても、ネイティヴはその話の腰を折って「その単語はそんなふうには発音しない」「われわれはそういう言い方をしない」と言って、話し相手の知的劣位性を思い知らせることができる。

 逆に、植民地原住民にはテクストを読む力はできるだけ付けさせないようにする。うっかり読む力が身に着くと、植民地の賢い子どもたちは、宗主国の植民地官僚が読まないような古典を読み、彼らが理解できないような知識や教養を身に付ける「リスク」があるからです。植民地の子どもが無教養な宗主国の大人に向かってすらすらとシェークスピアを引用したりして、宗主国民の知的優越性を脅かすということは何があっても避けなければならない。だから、読む力はつねに話す力よりも劣位に置かれる。「難しい英語の本なんか読めても仕方がない。それより日常会話だ」というようなことを平然と言い放つ人がいますけれど、これは骨の髄まで「植民地人根性」がしみこんだ人間の言い草です。「本を読む」というのはその国の文化的な本質を理解する上では最も効率的で確実な方法です。でも、植民地支配者たちは自分たちの文化的な本質を植民地原住民に理解されたくなんかない。だから、原住民には、法律文書や契約書を読む以上の読解力は求めない。

 今の日本の英語教育がオーラルに偏って、英語の古典、哲学や文学や歴史の書物を読む力を全く求めなくなった理由の一つは「アメリカという宗主国」の知的アドバンテージを恒久化するためです。だから、アメリカ人は日本人が英語がぺらぺら話せるようになることは強く求めていますけれど、日本の子どもたちがアメリカの歴史を学んだり、アメリカの政治構造を理解したり、アメリカの文学に精通したりすること、それによってアメリカ人が何を考えているのか、何を欲望し、何を恐れているのかを知ることはまったく望んでいません。

 言語は政治的なものです。オーラル・コミュニケーションはとりわけ政治的な力の差が際立つところです。一方が母語で話し、一方が後天的に学習した外国語で話して、そこで議論する、対話する、合意形成するということがどれほどアンフェアで、不合理なことか。英語が国際的共通語であるのは、英米が二世紀にわたって世界の覇権国家であったからです。それだけの理由です。だから、英語圏の人々は母語を話せば国際会議で議論でき、国際学会で発表できる。われわれ非英語圏の人間は、英語学習のために膨大な時間と手間をかけなければならない。それは計り知れないハンディキャップを課されているということです。超大国の覇権が恒久化されるように、言語状況そのものが設計されている。それは冷厳な歴史的事実なわけですから仕方がないことです。でも、「アンフェアだ」ということは言い続ける必要がある。

 もう一つオーラル・コミュニケーションが重要視されるのは、オーラルだと、その出自が一瞬で判定できるからです。ネイティヴ・スピーカーなのか、長くその英語圏の国で暮らして身に付けた英語なのか、日本の学校で日本人に習った英語なのか、一瞬でわかる。これをverbal distinctionと言います。「言語による差別化」です。映画『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショーの『ピグマリオン』という戯曲ですが、映画でも戯曲でも、テーマはこの「言語による差別化」でした。

 映画の冒頭に、ヘンリー・ヒギンズ教授が、オペラハウスの前で、見知らぬ人に向かって、「あなたはどこの出身だ、職業は何だ」と次々と言い当てて気味悪がられるという場面がありますね。ヒギンズ教授は音声学の専門家ですから、一言聞いただけで、その人の出身地も階層も職業も学歴もことごとく言い当てることができる。でも、ヒギンズ教授はその能力を誇ってそうしているわけではないのです。イギリスでは、誰もが口を開いた瞬間に所属階級がわかってしまう。そういうかたちで「差別」が自動的に行われている。教授はそれはよくないことだと考えているのです。そして、自分はこのような「言語による差別化」を廃絶して、すべての人間が「美しい英語」を話す社会を実現するために研究をしているのだ、と語るのです。そこに花売り娘のイライザがあらわれて、すさまじいコックニーで話し始める。そこからご存じの物語が始まる。

 でも、今日本で行われているオーラル中心の英語教育は、この時のヒギンズ教授の悲願とは、まったく逆方向を目指しています。一言しゃべった瞬間に、オーラル・コミュニケーション能力が格付できるシステムを構築しようとしている。これはまさに植民地の言語政策以外の何物でもない。

 植民地英語を教えようとしている人たちの言うことはよく似ています。文法を教えるな、古典を読ませるな、そんなのは時間の無駄だ。それよりビジネスにすぐ使えるオーラルを教えろ、法律文書と契約書が読める読解力以上のものは要らない。そう言い立てる。それが植民地の言語政策そのままだということ、自分たちの知的劣位性を固定化することだということに気が付いていない。

 植民地的な言語教育の帰結は、母語によっては自分の言いたいことを十分に表現できなくなるということです。フィリピンは現地語のタガログ語がありますけれども、旧植民地ですから、宗主国の言語である英語ができないと、官僚にもビジネスマンにも教師にもなれない。それは、生活言語であるタガログ語では、ビジネストークもできないし、政治・経済についても、学術についても語れないからです。母語にはそのための語彙がない。ある程度知的な情報を含む会話をするためには、英語を使うしかない。「フィリピンの人は英語がうまくて羨ましい」というようなことを無反省に言う人がいますけれど、フィリピン人が英語に堪能なのは、アメリカの植民地であり、母語を豊かなものにする機会を制度的に奪われていたからです。その歴史も知らないで、「なぜフィリピンの人はあんなに英語がうまいのに、日本人はダメなんだ」というようなことを言っている。そして、「そうだ。日本をアメリカの植民地にしてしまえば、日本人は英語が堪能になるに違いない」と本気で思っている。

 母語を豊かなものにするというのは、あらゆる言語集団にとっての悲願です。というのは、すべての知的イノベーションは母語で行われるからです。先ほどは「母語の檻」からどうやって離脱するかというようなことを言っていたのに、話が違うではないかと思われる方もおられるでしょうけれど、そういうものなのです。全てのものには裏表がある。いいところもあれば、悪いところもある。外国語を習得するというのは「母語の檻」から出て知的なブレークスルーを遂げる貴重な機会なのですけれど、私たちは他の誰にもできないような種類の知的なイノベーションを果たすためには、それと同時に母語のうちに深く深く分け入ってゆくことが必要なのです。ほんとうに前代未聞のアイディアというのは母語によってしか着想されないからです。

 僕はおととし池澤夏樹さん個人編集の「日本文学全集」で、『徒然草』の現代語訳をやりました。高橋源一郎さんが『方丈記』、酒井順子さんが『枕草子』を訳して、僕が『徒然草』というラインナップの巻です。池澤さんから依頼があった時に、『徒然草』なんて大学入試の時から読んでないので、できるかなと思ったのですが、とにかく引き受けて、古語辞典を片手に一年かけて訳しました。

 やってみたら、結構訳せました。『徒然草』は800年前の古典なんですけれど、なんとか訳せた。そして、こういう言語的状況というのは、他の東アジアの諸国にはちょっと見られないんじゃないかなと思いました。古典を専門にしているわけでもない現代人が辞書一冊片手に古典を読んで、訳せるというようなことは中国でも、韓国でも、ベトナムでも、インドネシアでも、まず見ることのできない景色だと思います。

 どうしてそんなことが可能なのか。それは日本語が大きな変化をこうむっていないからです。明治維新後に、欧米から最新の学術的な概念とか政治や経済の概念が輸入されましうたけれど、テクニカルタームを加藤弘之、西周、中江兆民、福沢諭吉といった人たちが片っ端から全部漢字二語に訳してしまった。natureを「自然」と訳し、societyを「社会」と訳し、individualを「個人」と訳し、philosophy を「哲学」と訳し...というふうにすべて漢字二字熟語に置き換えた。これはたいした力業だったと思います。

 こういうことができたのも、日本列島の土着語に中国から漢字が入って来た時も、現地語を廃して、外来語を採用するということをせず、土着語の上に外来語を「トッピング」して、ハイブリッド言語を作ることで解決した経験があったからです。昔は「やまとことば」の上に中国語をトッピングして日本語を作った。ひらかなもカタカナも漢字から作った。明治になったら、今度は英米由来の概念を漢訳して、それを在来の母語の上にトッピングして新しい日本語を作った。日本語はこういうことができる言語なんです。そのおかげで、日本は短期間に近代化を遂げることができた。

 中国の近代化が遅れた理由の一つは、欧米の言語を音訳したからです。中国語そのものを変えることを望まなかった。欧米の単語を漢訳して、新しい語を作るということは、中国語には存在しない概念が中国の外には存在することを認めるということです。これは世界の中心は中国であり、すべての文化的価値は中国を源泉として、四囲に流出しているのだという「中華思想」になじまない。だから翻訳しないで、そのまま音訳して中国語の言語体系に「トランジット」での滞在を認めただけで、言語そのものの改定を忌避した。

 孫文はルソーの『民約論』を参考にして辛亥革命の革命綱領を起案したそうですけれど、孫文が用いたのは中江兆民の漢訳でした。兆民はルソーをフランス語から和訳と漢訳を同時に行ったのです。そういうことができた。土着語に漢語を載せるのも、土着語に欧米語を載せるのも、プロセスとしては同じことだったからです。

 漱石も鷗外も荷風も、明治の知識人は漢籍に造詣が深かった。漱石は二松学舎で漢学を学んだあと英語に転じます。漱石がイギリス文学と出会っても、それに呑み込まれることがなかったのは、英文学のカウンターパートに相当する深みのある文学的なアーカイブが自分の中にすでに存在していたからです。すでに豊かな言語的資源を自分の中に持っていたからこそ、自在に新しい外国語に接することができた。だから、外国語を学ぶことと並行して、母語を深く学ぶ必要がある。そうしないと外国語に呑み込まれてしまう。知的なイノベーションで大きなハンディを背負うことになります。

 というのは、ネオロジスム(新語)を作ることができるのは母語においてだけだからです。後天的に習得した外国語では新語や新しい概念を作ることはできません。僕が英語やフランス語で、勝手に新しい言葉を作っても、相手には全然通じない。I went というのは不規則変化で面倒だから、これからはI goed にしようと提案しても、英語話者は誰も相手にしてくれない。言っても鼻先で笑われるだけです。

 でも、母語の場合だったら、「そんな言葉はない」「そんな意味はない」というかたちで新語が否定されることはない。だって、通じてしまうから。誰かが言い出した新語の意味がわかると、次は自分がそれを使い始める。ある人が、ふっとネオロジスムを思いついた時点で、それは潜在的には日本語のボキャブラリーにすでに登録されているのです。

 前に温泉に行ったときに、露天風呂に入っていたら、あとから若い学生が二人入って来て、湯に浸かると同時に「やべ〜」と呟いたことがありました。もう10年近く前でしょうか。その時に「ああ、そうか。『やばい』というのは、『大変気持ちがいい』という新しい語義を加えたのだな」とわかりました。実際に今出ている国語辞典には「最高である、すごくいい」という新しい語義がすでに加筆されております。

「やばい」はもとからある語に新しい語義が加わった事例ですけれど、「真逆」というのは新語です。最初に聴いたのは高橋源一郎さんとしゃべっている時でした。「まぎゃく」という音を聞いただけで「真逆」という文字が自動的に脳裏に浮かびましたし、「正反対」の強い表現だということもわかりました。説明されなくても、わかる。

よく考えたら、これはすごいことですよね。新語や、新概念は発語された瞬間に、母語話者にはそれが何を意味するかがわかるのです。それは新語、新概念というのが、個人の思い付きではなくて、母語の深いアーカイブの底から泡のように浮かび上がってきたものだからです。最初にそれを口にした人はその「泡」をすくい上げて言葉にしたのです。創造したわけじゃない。だから、母語話者にはその意味がすぐわかる。

 イノベーションというのは新語、新概念を創造することです。新しい言葉が、誰も聴いたことのない新しい言葉であるにもかかわらず、発語された時点ですでに母語において「受肉」している。だから、「あ、そういうことね」だと理解される。「それって、これまで誰も言ったことがないことだね」と理解される。変な話ですよね。新しい言葉が「これまで誰も言ったことのない言葉」として、その意味も用法もセットで受け容れられるんですから。母語ならそれができる。そして、外国語では、できない。

 だから、本当に新しいものを発明しようと思ったら、われわれが作り出したものが世界標準になるとしたら、それは母語における新語というかたちで潜在的にはすでに語彙に登録されたかたちで登場してくるのです。

 母語のアーカイブはそれだけ豊かだということです。日本の古語はある種の外国語なわけですけれど、少し読み慣れると、すぐにニュアンスがわかるようになる。古典を読んでゆくと、1000年前、500年前の日本人に世界がどう見えていたのか、彼らがどのようなコスモロジーのうちで生きていたのかが追体験される。これもやはり「母語的現実」からの離脱の経験であるわけです。

 ただ、古典を学ぶというのと、英語を学ぶというのはぜんぜん異質の経験です。古典といっても日本語です。僕たちが今使っている現代日本語は、この古語から生まれて来た無数の「新語」の蓄積で出来ている。もとはと言えば、すべての日本語はこの古語のアーカイブのうちに起源を持っている。そこから浮かんできた「泡」の集大成が現代日本語なんです。吉田兼好を800年前からタイムマシンに乗せて現代に連れてきても、たぶん一月くらいで現代日本語をだいたい理解できるようになると思います。同じ生地で出来ているんですからわからないはずがない。

 古典はある種の外国語であるにもかかわらず、その習得が異常に簡単です。なぜなら、知らないはずの単語や言い回しの意味が「なぜかわかる」から。『徒然草』で面白かったのは、『徒然草』の専門家の方からメールを頂いて、「訳文が正確だ」とほめて頂いたことです。特に係り結びの訳し分けがよかったと書いてありました。僕は係り結びにいくつもの意味の違いがあって、それは厳密には訳し分けないといけないということを知らなかったので、びっくりしました。文法規則を知らなかったのに、正しく訳せてしまった。そういうことが起きるのは、それが日本語で書かれていたからですね。

 自国語の古典をまず学ぶこと。アクセスしやすい外国語をまず学んで、異なる言語形式で世界を分節する人たちの思念や感情を想像的に追体験すること。これはそれから後に外国語を学ぶ基礎としてとても有用な経験になるだろうと思います。

 1960年代はじめに、江藤淳がプリンストン大学に留学したことがあります。江藤はプリンストンで日本文学を講じていました。英語で授業をやり、英語で論文を書いて、途中から夢も英語でみるようになったそうです。けれども、帰ってきた後に、新しいものを作ろうと思ったら、日本語で考えるしかないと思うようになった。思考がかたちをなす前の星雲状態にまで遡ることができるのは母語においてだけだからというのです。

「思考が形をなす前の淵に澱むものは、私の場合あくまでも日本語でしかない。語学力は習慣と努力によってより完全なものに近づけられるかも知れない。(...)しかし、言葉は、いったんこの『沈黙』から切りはなされてしまえば、厳密には文学の用をなさない。なぜなら、この『沈黙』とは結局、私がそれを通じて現に共生している死者たちの世界−日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路だからである。」(『近代以前』)

 われわれが使っている日本語のアーカイブのうちには、これまで日本列島に住み、言語を語ってきたすべての人々の記憶と経験が蓄積されていて、「淵」のようなものをかたちづくっている。この「淵」からしか、新しい言語的な創造を汲み出すことはできない。

 江藤はこの母語のアーカイブのことを「沈黙の言語」と呼びます。かつて同じ言語を語ったすべての死者たちから遺贈された言語経験の総体、その「淵」に立つことによって初めて文学的な創造ができるのだ、と。

 これとほとんど同じことを村上春樹も書いています。村上春樹はアメリカやイギリスやイタリアやギリシャや、世界中で暮らしていて、最後にボストンで河合隼雄さんと出会い、それが一つのきっかけになって日本に帰ってくるのですけれども、江藤淳と非常に似たことを言っています。

「どうしてだかわからないけれど、『そろそろ日本に帰らなくちゃなあ』と思ったんです。最後はほんとうに帰りたくなりました。とくに何が懐かしいというのでもないし、文化的な日本回帰というのでもないのですが、やっぱり小説家としての自分のあるべき場所は日本なんだな、と思った。というのは、日本語でものを書くというのは、結局思考システムとしては日本語なんです日本語自体は日本で生み出されたものだから、日本というものと分離不可能なんですね。そして、どう転んでも、やはり僕は英語では小説は、物語は書けない。それが実感としてひしひしとわかってきた、ということですね。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)

 村上さんはデビュー作『風の歌を聴け』を最初は英語で書いて、それを自分で日本語に訳すというかたちで書き出したそうです。それがあの独特の文体の原型になった。でも、村上春樹さんも最終的には世界文学になるためには日本語の「淵」に立ち戻ってきた。その消息は河合隼雄さんとの次のやりとりから伺えます。


「村上 あの源氏物語の中にある超自然性というのは、現実の一部として存在したものなんでしょうかね。

河合 どういう超自然性ですか

村上 つまり怨霊とか...

河合 あんなのはまったく現実だとはいます。

村上 物語の装置としてではなく、もう完全に現実の一部としてあった?

河合 ええ、もう全部あったことだと思いますね。だから、装置として書いたのではないと思います。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)


 河合隼雄さんはこの時に『源氏物語』に出て来る六条御息所の生霊は文学的虚構ではなくて、平安時代の人たちにとってはありありとした現実だったと断定するわけです。そのような物語的現実の中で人間は生き死にしているのだ、と。それを聞いて村上さんはそれ以外の外国語では文学的虚構でしかないものが、日本語のうちでは現実としてありありと顕現することがあり得るということに深く納得する。現実を創り出すのは、それを語る言語である。だから、本当に「世界のここにしかないもの」を創造しようと望むなら、自分の母語のうちに立ち返るしかない、村上春樹はそう考えた。江藤淳が日本語の「淵」に立ち返ろうと思って日本語に帰ったのと、これは同型的なふるまいだろうと僕は思います。

 本当に創造的なもの、本当に「ここにしかないもの」は、母語のアーカイブから汲み出すしかない。ですから、どれだけ深く母語のうちに沈み込んでゆくかということと、母語をどうやってより豊かなものにするかということが、同時に文学者の課題になるわけです。それこそがそれぞれの国や地域の文化の質を高めるためにまずなすべきことなのです。

 でも、今の日本では、母語に深く沈潜することも、母語を豊饒化することも、教育的課題としてはまず語られることがありません。日本人が日本語によってしか表現できないような新しい概念なり理説なりをどのように提示して、それを世界標準たらしめるのか。それを人類全体の知的資源に登録して、人間の文明をより多様なもの、より豊かなものにしてゆくことにどうやって貢献できるのか。そういう議論を教育論の中で聴くことはまったくありません。

 母語の過去に遡ること、母語の深みに沈み込んでゆくこと、これが創造において決定的に重要なことなのです。これもまた僕たちが日常的に囚われている「現代日本語の檻」から離脱するための重要な手立てであるのです。

 村上春樹の話ばかりになりますけれど、村上さんはエッセイの中で、はっきりと自分は上田秋成の後継者をめざすと書いています。「雨月物語」と村上文学は直接に繋がっている、と。明治時代の自然主義文学があるけれど、自分は近代文学の文学史的系譜とは無関係であって、上田秋成からダイレクトに繋がっている、と。

 まことに奇妙な符合なのですが、上田秋成と現代文学を繋がなければならないということを江藤淳も書いているのです。半世紀以上の隔たりがありながら、江藤淳と村上春樹がともにアメリカから帰ってきたあとに、ほとんど同じことを書いている。それは日本語という回路を通じて、作家はかつて日本語を語ったすべての死者たちと共生しているということです。日本語は「日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路」だということです。二人ともに自国文化の「近代以前」の深い闇の中に降りてゆくことが新しいものを創造するためには必要なのだと書いている。そういう言語的な覚醒の経験をこの二人は共有している。

 外国語を学ぶことも、母語の「淵」深く沈潜してゆくことも、ともに「母語の檻」から抜け出ることをめざすという点では少しも矛盾していません。言葉を学ぶということは、この二つのいずれをも欠かしてはならない、僕はそう思います。

 学校教育の場で子どもたちに教えるべきことは、「君たちは君たちの言語の虜囚である」ということです。君たちは自由に思考し、自由に感じ、自由に言葉を操っているつもりでいるかも知れないけれど、君たちは実は君たちが閉じ込められている集団的な「言葉の檻」から出ることができないでいるのだ。君たちの語彙も、音韻も、ストックフレーズも、君たちが使うメタファーもレトリックも、すべて「既製品」なのだ。君たちは与えられた言語の中で感じ、考え、語ることを強いられている。でも、君たちの中には自分が「檻」の中にいることを薄々感づいていて、もっと清涼な空気を吸いたい、もっと自由に語りたい、もっと自由に考えたいという願いを抱いている人がいると思う。その人たちに教えたい。「母語の檻」から出るには二つの方法があるよ。一つは外国語を学ぶこと、一つは母語を共にする死者たちへの回路をみつけること。これはとても大切な教えだと思います。

 僕は武道を教えていますけれども、それは今の子どもたちに「君たちが自然だと思っている身体運用以外の仕方がある」ということを教えるためです。身体の使いかは言語と同じように構造化されています。子どもたちが現代的な言語運用のルールに繋縛されているように、現代的な身体運用のルールに繋縛されて、それが自然だと思って暮らしている。すべての人間は自分と同じように身体を使って外界を感じ、身体を動かしている、そう素朴に信じ切っているわけです。人間の身体は太古から現代まで、世界中どこでも「同じようなもの」だと信じ切っている。でも、彼らの身体運用はまさに2018年の現代の都市で暮らしている子どもたちに選択的に強制された「奇妙な」身体の使い方なのです。一つの民族誌的奇習なのです。歩き方も、座り方も、表情の作り方も、声の出し方も、すべて集団的に規制されている。
 それとは違う身体の使い方があることを、例えば中世や戦国時代の日本人の身体の使い方があることを僕は武道を通じて教えているわけです。子どもたちをその文化的閉域から解放するために武道を教えているわけです。君たちは学べば、ふだんの身体の使い方とは違う身体の使い方ができるようになる。その「別の身体」から見える世界の風景は彼らがふだん見慣れたものとは全く違ったものになる。それは外国語を学んで、外国語で世界を分節し、外国語で自分の感情や思念を語る経験と深く通じています。自分にはさまざまな世界をさまざまな仕方で経験する自由があること、それを子どもたちは知るべきなのです。

結局、教育に携わる人たちは、どんな教科を教える場合でも、恐らく無意識的にはそういう作業をしていると思うのです。子どもたちが閉じ込められている狭苦しい「檻」、彼らが「これが全世界だ」と思い込んでいる閉所から、彼らを外に連れ出し、「世界はもっと広く、多様だ」ということを教えること、これが教育において最も大切なことだと僕は思います。


 最初のトピックに戻りますけれども、今行われている英語教育改革なるものは、子どもたちをさらに狭い母語的現実の中に封じ込めようとしています。彼らに現代日本固有の民族誌的奇習を刷り込んで、「これが全世界だ」と錯覚させようとしている点で、ほとんど犯罪的なことだと思います。

 いささか過激な言葉を使いましたけれども、おそらく多くの先生方は、実感としては僕に同意してくださると思います。すべての教育実践は子どもの知性的な、感性的な成熟を支援するためにある、それに資するかどうかだけを基準にして教育実践の適否は判断されるべきである。これは教育者として絶対に譲れない、どんなことがあっても譲れない一線です。僕と同じように感じてくださる先生方が一人でも増えて下さることを願っています。それを今の日本の学校の中で、やり遂げるのはたいへんなことだと思います。さぞやご苦労されることと思います。

 でも、一昨日の保険医さんに言ったように、教育というのは苦しむ仕事なのです。人類が始まった時から存在する太古的な仕事ですから、市場経済や国民国家ができるよりはるか前から存在した職能ですから、市場経済や国民国家となじみがよくないのは当たり前なのです。でも、われわれはすでに市場経済の世界に暮らしており、国民国家の枠内で学校教育をする以外に手立てを持たない。だから、葛藤するのは当たり前なんです。学校教育がらくらくとできて笑いが止まらないというようなことは、現代社会では絶対にあり得ないのです。それは学校教育のやり方が間違っているからではなくて、学校教育は市場経済とも国民国家とも食い合わせが悪いからです。それについては諦めるしかない。むしろ自分たちのほうがずっと前から、数万年前からこの商売をやっているのだからと言って、無茶な要請は押し返す。Noと言うべきことについてはNoと言う。とにかく子どもたちを守り、彼らの成熟を支援する。彼らが生き延びることができるように生きる知恵と力を高める。それがみなさんのお仕事だと思います。

何だか、応援しているのか呪っているのかわからないような講演でしたけれども、とにかくつらい現実をまずみつめて、それから希望を語るということでよろしいのではないかと思います。ご清聴ありがとうございました。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/31_0824.html

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192. 中川隆[-9912] koaQ7Jey 2019年5月31日 15:12:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2443] 報告

2019年05月31日
アメリカ大卒者の半数が、店員など高卒と同じ職業に就いている


学生ローンの負担を含めると生涯収入が高卒を下回る人が増えている


画像引用:https://finance-gfp.com/wp-content/uploads/2018/01/student_loan_entai201801.png

大卒の生涯収入が高卒を下回る

生涯収入を増やすのに最も有効なのは学歴を増やすことで、大卒者の収入は高卒者より多かった。

だがこれはもうアメリカでは過去の話になりつつあり、高卒の生涯収入が大卒を上回る事態になっている。

原因その一は大学卒業に4年かかり、生涯の就労年数も高卒者より4年間短くなるが、従来は年収の多さでカバーしていた。


原因その2は大学卒業までに必要とする費用で、小学校から高校まで良い学校に通う必要がある。

めでたく大学受験に合格してもアメリカの学費は非常に高額なので、学生ローンを借りる事になる。

大学を卒業した時点で多額の教育費を親が負担しているうえに、子供は500万円以上の学生ローンを背負って社会に出る。


加えて高卒者より4年遅く最初の給料をもらい、マイナス500万円から社会人生活をスタートします。

もっとも大学卒業までの教育費や学生ローンを負債として差し引かないなら、大卒の収入は高卒者より多い。

アメリカの学費ローンの残高総額は1.5兆ドル(約164兆円)、平均的なアメリカの大学生は卒業時に400万円の借金がある。


アイビーリーグと呼ばれる有名大学だと、年間費用(学費、寮、その他)は5万3千ドルなので4年間で21万2千ドル(約2300万円)にもなります。

親が金持ちなら自分で払わなくて良いが、そうでなければバイトと学生ローンで払わなくてはならない。

この金額は日本の都内有名大学の4倍以上に達している。(学費は2011年時点なので、現在はもっと高くなっている)

大卒の半数は運転手や店員をやっている

日本でも学生ローンが卒業に重い負担になる奨学金問題が指摘され、破産する人もいるようです。

日本とアメリカの学生ローンには決定的な違いがあり、アメリカのは国がお金を貸しているので自己破産できません。

どれだけ貧困で返済困難であっても破産できないので、破産できるだけ日本の奨学金は良心的と言えます。


アメリカの大学進学率は88%に達していて、もはや高収入を得られる学歴ではなく、最低限必要な学歴になっている。

昔は大学を出れば高収入を得られたが、今は大学を出ても他の人と同じ学歴でしかなくなっている。

そこで学歴で高収入を得ようとする人は、アイビーリーグのようなよりお金がかかる大学を目指している。


こうした高学歴競争が「学歴インフレ」を加速させ、際限のない学費上昇と学生ローンの負担になっている。

調査によると大学卒業者の半数は大卒資格が必要ない職業に就いていて、事実上大学に掛けた時間とお金は無駄になった。

大学で学んだ内容が就職して役立っているなどはあるが、大卒だから高収入とは結びついていない。


大卒で運転手、消防士、店員、サービス業などについている人が半数で、これは社会のメカニズムから考えて止むを得ない。

例え大学進学率が100%になっても運転手やウエイターや店員は必要なので、全員が高収入管理職になることはない。

日本の大学進学率は57%でアメリカより30%も低いので、まだ大卒のメリットが残っている。


だが日本でも大学進学率が8割になったら、半数が高卒と同じ職に就くようになり、大卒だから高収入という事はなくなるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/79958540.html#more

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193. 中川隆[-9838] koaQ7Jey 2019年6月02日 18:01:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2522] 報告

[櫻井ジャーナル]経済問題を民族問題にすり替え、
貧困の深刻化で支配/被支配階級を作り上げたいらしい曽野綾子 2015/02/19
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=85324


竹下雅敏氏からの情報です。


 道徳が義務付けられるようになるようで、この曽野綾子なる人物は、なんでも道徳の教科書で取り上げられ、どうも模範的人物として扱われるという冗談のような話があります。あべぴょんの関係者なのだから、同じタイプの人間だということは明らかで、この記事の内容は実に納得出来ます。
 驚いたのは、文末の彼女の夫である三浦朱門氏の言葉です。これを読むと、ゆとり教育は失敗ではなくて、完全に成功したのだとわかります。ゆとり教育の目的は学力の低下だったわけです。要するに、庶民に対しては“余計なことを考える力をつけさせたくない”ということだったようです。


(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————

経済問題を民族問題にすり替え、貧困の深刻化で支配/被支配階級を作り上げたいらしい曽野綾子

転載元より抜粋) 櫻井ジャーナル 15/2/18

 曽野綾子なる人物が産経新聞に書いたコラムの内容が問題になっているようだ。

「若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めなければならない」ということだ。違法にしろ合法にしろ、移民が増えている欧米では賃金水準の引き下げや労働環境の悪化が問題になっている。支配層にとって労働移民は労働者の力を削ぐ手段のひとつで、だからこそEUでは移民を規制すべきだという政党への支持が増えているのだ。

 介護の現場で問題になっているのは労働力の不足ではなく、低賃金で劣悪な環境で働く若者を集められないことにあり、適切な対価を事業者や労働者へ支払えば解決される。この問題の根は非正規雇用の増大や残業代ゼロ法案と一緒だ。

 非正規雇用の問題でも支配層は働き方の多様化というようなことを宣伝していたが、ならば、賃金だけでなく保険や年金についても同一条件にしなければならない。勿論、実際は違うわけで、本音は賃金の引き下げと労働環境の劣悪化を推進したいということにほかならない。

 曽野のコラムを読むと、「高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ」と主張している。「優しければそれでいいのだ」という。

 介護のためには専門的な知識が必要なのであり、「孫」が面倒を見るにしても、知識を得るために専門家からアドバイスを受ける必要がある。運動能力を維持させるだけでも専門家と施設が必要だ。こうした知識がなく、経済的な余裕もないことから悲劇が起こってきた。

 コミュニケーション能力を無視しているということは、介護者だけでなく、介護を受ける必要のある高齢者の人格を考慮していないということでもある。「姥捨て」の発想だ。

 曽野が想定している労働移民は、賃金の引き下げと労働環境の劣悪化を意味している。当然、貧困問題が深刻化し、犯罪も増えるだろう。これは「他民族の心情や文化」の問題ではなく、経済の問題だ。

 貧富の差が拡大していけば、アメリカのように居住地域は所得/経済力によって色分けされてくる。経済力による棲み分けが起こるのが先だ。「高級住宅地」に低所得者は住めない。曽野綾子は原因と結果を取り違えている。アメリカでは歴史的な背景から人種と経済力に相関関係があり、人種の問題のように見えるが、実際は経済問題。

 南アフリカでも同じことが言える。ヨーロッパ系の人びとが先住の人びとを支配するアパルトヘイトと戦ったネルソン・マンデラは1993年にノーベル平和賞を受賞したが、批判の声はある。彼は政治的な平等を実現するために努力したものの、経済の仕組みが温存されたため、貧富の格差は解消されず、そうした格差に基づく社会不安は解決されなかったからだ。南アフリカの問題も「他民族の心情や文化」ではなく、経済に根ざしている。

 アメリカでは貧困を犯罪にしようという動きもあるが、アパルトヘイトは特定の地域を収容所にするという制度であり、問題を力で封じ込めるという政策だ。現在、イスラエルで導入されている。「他民族の心情や文化」を強調するのは、被支配者を分断したいからにほかならない。

 本来、居住をともにするために理解し合う努力をしなければならないのであり、交流すれば、自然と理解は進む。そうした理解が進むことを恐れるのは支配層だ。フランス国王ルイ11世は「分割して支配せよ」と言ったそうだが、互いに反目させ、争わせ、統一的な反対勢力を形成させないようにするのは支配者たちの常套手段である。

 ところで、曽野の結婚相手で教育課程審議会の会長を務めたことのある三浦朱門は「ゆとり教育」について次のように語っている:

 「平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」(斎藤貴男著『機会不平等』文藝春秋、2004年)

 被支配階級である庶民には「実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」ということだ。余計なことを考える力をつけさせたくないということだろう。介護者は「優しければそれでいいのだ」という曽野の主張と共鳴し合っている。
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=85324

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

194. 中川隆[-9440] koaQ7Jey 2019年6月20日 19:31:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3041] 報告
『高等教育の機会均等−−権利としての無償化』 
大学の危機をのりこえ、明日を拓くフォーラム第2回シンポジウム 2019年6月20日
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/11989


 大学の危機をのりこえ、明日を拓くフォーラムの第二回シンポジウム「高等教育の機会均等−−権利としての無償化」が16日、明治大学で開催された。現在深刻な問題となっている奨学金問題や高等教育無償化に携わっている4人が現場からの報告をおこない、この問題を通じて大学教育の在り方と日本の将来を考えるシンポジウムとなった。以下、報告の要旨を紹介したい。

奨学金被害の救済の現場から  

         弁護士  岩重佳治

 奨学金問題の諸悪の根源は高い学費だ。国公立の初年度の納入金は1970年に1万6000円だったのが、2010年には80万円をこえ、今では90万円をこえる勢いだ。大変な伸び率だが、この間の物価の上昇率は3倍にもかかわらずこれだけ学費が値上がりしている。これは大学に対する公的な支援がどんどん減らされてきたからだ。私立大学の学費も非常に高い。おそらく世界でもトップレベルだ。

 これだけ学費が高くなってきている一方で、アルバイトに追われる学生など、学生や親の生活はどんどん大変になっている。実際に学生の生活費は、2000年度には大体160万円くらいで親からの仕送りで生活していた。それが2012年になると120万円になる。12年間で家庭からの仕送りが4分の3になる。学費が高くなることで家計が苦しくなるために学生はアルバイト漬けになっているし、奨学金を借りざるを得なくなっている。

 あくまでも借金だから将来返していかなければならない。しかし、今の雇用形態というのはほとんど崩壊している。私の祖父は55歳定年で、その後は仕事をしないで年金で生活していた。それまでは会社に入ってしまえば年功序列で賃金も上がっていって安定した生活ができていた。子どもができれば企業がいろんな手当をしてくれることになっていて安心した暮らしができていたが、今はそういう状況ではない。学生たちがたとえ正社員になったとしても、ブラック企業というのはたくさんある。過酷なノルマを課されて、達成できないと何人かの幹部に呼ばれて自分のどこが悪かったかということで反省点をとうとうとのべさせられる。そういうことをくり返しているうちに鬱になってやめる。従って必要な定員の2倍くらいの人を雇って3年後には半分くらいになっている会社はとても多い。雇用が崩壊している。働いてどうにかなる世の中ではない。

 従って返せなくなるのだが、そのときに出てくるのが利子の負担だ。日本学生支援機構の奨学金は有利子の第二種奨学金と無利子の第一種奨学金がある。奨学金事業予算の推移を見ると無利子の奨学金は1999年からずっと2000億円ほどで増えていないが、有利子の方は4000億円ほどだったのが増え続けて、2012年には1兆2000億円まで増えている。

 この背後にあるものはなにか。奨学金事業の財源を見ていくと、【グラフ参照】実は一種と二種で大きく違う。第一種の無利子の財源は一般会計と返還金で賄っている。問題は有利子の二種の財源だ。民間借り入れは、大手の銀行などからお金を借りているということだ。財投機関債というのは債権だ。投資家向けに債権を募集して買ってもらう。日本学生支援機構のホームページを見ると、学生への説明よりもよほど熱心に投資家向けに投資を呼びかけている。そして財政融資資金というのは公的なものだが、もともとはみなさんのお金だ。国が予算を出さずに外からお金を引っ張ってきている。

 もしみなさんが投資家で、この奨学金事業に投資をしようと思ったらなにを重視するか。一番は安全性だ。何を安全性の担保にするかというと回収率だ。回収率が高いことを謳わなければお金を集めることはできない。実際に日本学生支援機構の回収率というのはだいたい96%くらいで、メガバンクの債権並みの回収率を誇っている。いろんな国では、2割、3割の貸し倒れを前提に貸しているが、日本だけが回収率96%。これは無理な取り立てをしているか、借りている人が無理な返済をしているかのどちらかだ。こういう構造が奨学金の悲劇を生み出している。

 取り立てが滞ると裁判所に呼び出しを受ける。延滞3カ月で延滞者情報が個人信用情報機関、ブラックリストに登録され、4カ月になると債権回収会社が乗り出してくる。債権回収会社というのは借り手のことは一切考えていない。自分たちが回収すればするほど手数料は高くなるからだ。そして延滞9カ月になると裁判所からの手続きが送られてくる。その数は年年増えており、2000年には338件だった裁判所の手続きが2011年には1万件をこえた。

 救済措置があって初めて奨学金といえるはずだ。ここに問題がある。一つ例を挙げると、奨学金の返済に困ったときに救われるはずの制度に返還期限の猶予というのがある。これは病気や収入が少ないときに経済困難な場合には年収300万円以下という目安で、そういう人が申請をすると1年ごとに返還を先延ばしにしてくれる制度だ。しかしこれは利用期間に制限があり、10年を過ぎたら助けてもらえない。昔は10年もあれば安定した仕事に就くことができたかもしれないが、今は違う。一度安定した職を失うともう一度それ以上に安定した職に就くことは極めて難しい。

 そして延滞があると返還期限の猶予が利用できない。奨学金の返済に困った人はすでに何年間か延滞をしている。例えば過去8年間返済を延滞していた人が、借金が膨れあがって、年収300万円以下だということでこの猶予申請をするが蹴られる。延滞があるならこの制度は使えない。延滞するなら延滞を回収してから使ってくれといわれる。おかしな話だ。このことに対して文句をいっていくと、制度が変わり2014年から延滞据え置き型の猶予というのができた。本当に苦しい人は延滞があってもそのままで猶予を使うことができるというものだ。良かったと思っていたが、私の所にこんな相談が舞い込んできた。

 Aさんは40代男性で、年収が30万円。神経的な病気を持っていて入退院をくり返している。つまり生きていくのが精一杯の人だ。このAさんに2011年に日本学生支援機構から請求が来る。元金が150万円、延滞金が150万円。奨学金というのは毎月、毎年返していくものだが、返還日から10年経つと時効になる。Aさんは時効を主張したが、裁判では認められなかった。Aさんは分割で返済をしたいと申し出た。なぜ年収30万円のAさんがそのようなことをいったのかというと、保証人に叔父さんがついており迷惑をかけたくないという思いからだ。すると相手の代理人は「分割で返済するのはかまわないが月に5万円以上は払ってくれ」という。払えるわけがない。だから私の所に相談に来た。

 Aさんは年収が30万円で「延滞据え置き型の猶予」が使えるはずだが、それを教えてもらえなかった。だから2014年11月にその申請をして一件落着かと思われた。ところが、法的手続きに入った事案、時効を主張された事案などは、延滞据え置き型の猶予が使えないように制限された。運用が制限されたのは2014年の12月で、彼が申請をしたのは同年の11月。しかし機構は2014年4月にまでさかのぼって運用を制限した。こういうことを平気でやる。なぜそんなことができるのかというと、規則には猶予「する」とは書いていない。猶予「できる」、免除「する」ではなく免除「できる」としか書いていない。だから猶予するかしないか、免除するかしないかは、すべて機構の裁量でしかないという。機構の裁量で決められるのであれば救済制度の意味がない。

高学費に苦しむ学生とFREEがめざすもの

         FREE代表  岩崎詩都香

 高等教育無償化プロジェクト(FREE)というのは、大学生、専門学校生、大学院生を中心としたアドボカシー(政策提言)グループだ。去年9月に立ち上げた。学生の学費や奨学金に関する実態や、どういった思いを抱えて学校に通っているのか、今の学生生活がどういったものになっているのかを実態調査アンケートを中心に集めて、社会に届けていこうというのが私たちの主な活動だ。私たちが目指しているのは、「すべての人への無償化」だ。

 実態調査は、友だちにお願いしたり、協力してくださっている先生に授業のときに集めさせてもらって現在5000人をこえる学生から集めることができた。そのなかの声を今日は紹介したい。

・4年制の大学を受験しようと思っていたが、年の近い弟の大学受験もすぐなので、早く働いて親の負担を減らすために短期大学を選んだ。

・3人兄弟で一人親のために家計が厳しく、勉強が好きな友人であったが、大学進学を選択肢として考えることすらできていなかった。

・私は一部(昼間部)に行って国家資格の受験資格を得たかった。しかし経済的事情でそれは叶わず、二部(夜間部)への進学を決めた。

・私立医学部に受かったものの、学費が払えず退学。夢を諦めて国公立の工学部に編入した。

・自分が私学に進学したことで下の兄弟の大学進学の圧力となってしまった。

・片親で兄弟もいる友だちは自分が働かないと生活ができないということで介護施設で働いている。たまに会うとやっぱり大学生活を送っているのは羨ましいと話していて、学費が無償になればいいなと思った。

・本当は看護学部のある大学に行きたかった。けれど母子家庭で、当時弟も高校生でまだ学費もかかるしといろいろ考えていたら、高い学費がかかる大学に行くのは母の負担になるからと安い学費で交通費もかからない地元にある看護専門学校に行くことを決めた。弟も結局親の負担を考えて自分の行きたかった学校への進学を諦めて就職した。

・バイトのために学校を休まざるを得ないときがある。

・バイトをしないと生活費が足りないが、バイトをすると時間をとられ授業準備やゼミ準備ができない。

・やりたい活動が思うようにできない。1日3食だった食事が1食もしくはゼロ食のときもある。1年生の4月からは3カ月ぐらい毎日自炊していたがアルバイトなど時間がなくなり、コンビニ食になり、ますます1食にお金がかかるようになり食べられなくなった。

・学費を自分で賄っていて、時給や予定の関係で夜勤をせざるを得ず、一限、二限に出席できずに単位がとれなかった。出席できても明らかに疲れている。

・月8万円の奨学金で必要な支出(学費・交通費・教科書代など)をして、アルバイトの月2万円でサークルの費用を支出している。一人暮らしをしたいが、そのお金がないので往復で3時間半以上かけて通っている。そのせいで課外活動の時間や睡眠時間などが制限されている。電車が混雑しているととても疲れるし、それなのに眠って回復することができないので、次の日に疲れが残っていて朝起きるのが辛かったり、大学へ行っても頭が働かずに授業をしっかり受けられなかったりすることがある。

・週5でアルバイトをしているので、ゼミの発表準備、レポート、テスト勉強をする時間がなく、徹夜で乗り切ることがあるため、つらい。

・生活をしていくためにどんなにきつくてもアルバイトをしなければならないこと。

・日日の生活を送るのにもギリギリなのに加えて、奨学金を毎月借りる(借金)ことで追い打ちをかけられる。テスト期間などでバイトを休む期間が長く続くと、翌月の生活に影響が出るため大変。

・院に行きたいが、研究者として生計を立てられるようになる前に返済は始まるだろうし、家族にも反対されることがわかっているからいい出しにくい。やはり「安定でそれなりの給料」ということしか進路の決め手にならない。

・家庭の経済状況を考慮すると、弟妹が今後も学業を続けていくためには大学卒業後の生活費等はすべて自分で賄う必要があり、進学ではなく就職を考えるようになった。

・結婚時に奨学金という借金がある。

・自分の子どもに不自由なく大学に進学してもらうために、自分のやりたい仕事ではなく給料の高い仕事を選ばないといけないのではないかと悩む。

・奨学金を借りていて、親も定年が近く、大学院という選択肢は全く考えられなくなった。

・専門職養成の意味合いが強い大学だが、どこの企業も福祉専門職であっても賃金が低いので奨学金を返せない不安がある、という声を同期の学生から聞く。

・大学院の入学金が高かったのと、大学院に通いながら今まで通りバイトをできる自信がなかったため進学を諦めた。また、資格をとってなりたかった職業もあるが、収入があまり安定しておらず、奨学金返済の負担になるため諦めた。

・弁護士になるために法学部に進んだが、経済的な理由で院進できず、また予備試も難しすぎて受からないため一般就職した。

 こんな感じで、将来自分がもっと学びたいと思ったときに奨学金というものが重くのしかかったり、あるいは大学院も高い学費があるのでこれ以上親に負担はかけられないとか、学費を自分でどうにかすることができないということで進学を諦めているという人もたくさんアンケートに声を寄せてくれた。

 よくこの活動をしていて、学生や大学の先生とも研究室で話す機会があるが、学費の値下げというのが現実的ではないのではないかという声をいただくこともある。しかし現実的に考えるならばこの学生の生活実態というのがより現実だと思う。この現実に即した政治的判断というのがされるべきではないかとこの活動をしていて思う。

 どうやって私たちが無償化を目指すのかというと、学生自身の声をもっとたくさん集めることだ。その声をもっと社会に広げて、社会の空気を変えることができるのではないかと思う。FREEのメンバーには、まさに自分が奨学金を借りているという当事者もいるが、自分は奨学金を借りていないし家も貧困家庭ではないけどこの活動を頑張っている人もいる。未来の世代が同じような気持ちを持つことがないようにしたいというのがFREEの活動の原動力だ。未来の世代の若い人たちが今と同じように苦しい生活を強いられるとしたら、日本はどんどん暗くなってしまう。今進む方向性を切り替えてもっと明るい未来になるように活動している。

修学支援法と教育の機会均等

      名古屋大学大学院教授  中嶋哲彦

 修学支援法というのは今年5月10日に可決成立した法律だ。来年の4月から施行予定となっている。この法律の特徴は、

@授業料の減免と学資支給(給付型奨学金の支給)、

A国公私立の大学(大学院を除く)・短期大学・高等専門学校・専修学校(専門学校)の学生が対象。これは高等学校卒業後の学校すべてを同じ基準で制度の対象にするというのが新しい点だ。これをどう評価するかというのは議論の必要がある、

B支給を受けるための個人要件…とくに優れた者であって経済的理由により極めて修学に困難があるもの、

C機関要件…社会で自立・活躍する人材育成のための教育を継続的・安定的に実施できる等として確認された大学等であること、がある。

 この修学支援法については3つのことがいえる。

 1つは経済困窮世帯の支援という位置づけだ。これは子どもの貧困対策推進法の枠組みとも一致しているものだ。子どもの貧困対策推進法は、現在貧困の状態にある子どもたち、人たちを直ちに貧困から離脱させるということの権利性を確認しているわけではない。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が憲法に規定されているが、この法律では貧困からの即時離脱を権利として保障しているわけではない。そして貧困対策の対象を子どもに限定している。子ども以外の家族構成員については対象になっていない。したがって生活保護の全体としての改善はまったく考えていない。それから子どもに関して、貧困からの即時離脱ではなく貧困の連鎖の遮断のための自立支援だということ。親の貧困を子どもに連鎖させないために子どもに対する自立支援をおこなう、その一環として教育の支援が位置づけられている。学歴獲得による経済的自立のためには政策上教育支援を重視するというもので、そのため貧困からの離脱はあくまで自己責任というものだ。

 さらにそれが人材育成政策と融合していく。2014年に閣議決定された子どもの貧困対策大綱で、「子供の貧困対策は、法律の目的規定(第一条)にもあるとおり、貧困の世代間連鎖を断ち切ることを目的とするものであるが、それとともに、わが国の将来を支える積極的な人材育成策として取り組むということが重要である」と書かれている。貧困対策といいながら貧困家庭にある子どもを人材として有効に活用していくための政策だ。

 2つ目は競争力人材育成政策だ。競争力人材というのは、貧困にある子どもだけを念頭に置いているわけではなく、大学高等教育を、国際競争のインフラとして位置づけている。高等教育を無償化し、機会均等化するといいながら、その大学・高等教育というのは国際競争のためのインフラということだ。その役に立たないような高等教育を受ける者まで政府の政策として保障するつもりはないということだ。

 さらにそれは人材育成のための政策としておこなうわけだから、意欲と能力のある者に対する支援になる。それから大学院への進学・学費に関しては法律の対象になっていない。それは職業を身につけて経済的自立をしてもらうための政策であるという理由からだ。それと繋がるように専門職大学制度の創設がおこなわれる。

 3つ目に大学に対して機関要件をもうけていることを先ほどのべた。その機関要件の内容を見ていくと、大学の教育内容や教育方法への国家介入、国公立大学に対する大学ガバナンス改革の押しつけ、私立大学の法人経営者の権限を強化するというもので、無償化とは随分違う要件を押しつけることによって、学生の授業料を軽減したいのなら大学改革を飲めということになっている。

権利としての教育無償化

      神戸大学大学院教授 渡部昭男

 2010年に各新聞社の検索覧で教育無償化という文字を打ち込んでみるとほとんど記事が出てこない。教育無償化というものに大きく反応していくのは2016年、2017年からだ。だんだんと関心は高まっている。

 日本国憲法のなかでも教育を受ける権利は保障されているが、私が重要だと思うのは教育基本法第四条の教育の機会均等、経済的地位による差別禁止、修学困難者への奨学の措置をどう忠実に実現していくかが大切ではないかと思っている。

 ユネスコ人権平和職のフォン・クーマンズ教授は、「国際人権A規約一三条の教育への権利というのは、高度人材養成であったり職業自立という書き方はしていない」という。教育への権利というのは、人格を形成する、社会に貢献する、人生・生活をコントロールする、社会を統治する、社会階層を上るといった形で人人をエンパワーしていく。それから働く権利や健康への権利、政治参加の権利、完全参加と平等の権利などを享受するための鍵となる権利だとのべている。この権利を高等教育段階まで保障しようというものだ。

 隣国の韓国では市民運動によって、大学の給付型奨学金を勝ちとってきた。学生運動ではなく、市民運動として大学の無償化がたたかわれている。2018年には入学金は実費以外はすべて削減され、学生が安価に生活できるよう学生寮の増設もされている。

 高等教育の無償化は人材の開発や投資論など経営サイドの傾向に陥りがちだが、そうではなく、学問の自由や学術の発展、教育を受ける権利、若者と社会の未来をひらく教育無償化を志向していかなければならない。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/11989

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195. 中川隆[-9396] koaQ7Jey 2019年6月21日 15:09:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3088] 報告

大学受験に英語の「話す」は本当に必要か?開始前に大混乱の英語教育改革
阿部公彦・東大教授に聞く 2019年6月21日
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16557


阿部教授(中央)。1966年生まれ。東京大学文学部卒。ケンブリッジ大学で博士号取得。現在、東京大学教授。2017年に「史上最悪の英語政策―ウソだらけの『4技能』看板」(ひつじ書房)から発刊。

 2020年度から、大学入試センター試験の後継となる「大学入試共通テスト」に、英語4技能を測る民間業者の資格・検定試験が本格導入される。大学受験に「話す」能力を測る項目も加わり、読む・書く・聞く・話す、の4技能が問われることになる。

 高校3年生と既卒者は、4月から12月の間に「英検」「TOEFL iBT」など計8種類の民間試験の中から受検し、2回まで結果を大学入試センターに提出できる。新たな入試制度のスタートまで事実上10カ月を切ったが、公平性の担保や指導法などの点で課題は山積しているため、民間試験利用の中止を求める声が高まっている。

 6月18日、民間試験導入に反対する大学教授らが、都内で記者会見を開き、希望者全員がトラブルなく受検できるめどが立たず受験生に不安が広がっており、多くの受験生が制度不備の犠牲となると訴えた。趣旨に賛同した約8000筆の署名を添えた嘆願書を一部の衆参議員に提出した。文部科学省の担当者にも要請文を手渡した。

 要請書の中では、受験体制が整っていないことへの懸念、受験会場や経済的負担など受験機会の不平等を訴える項目のほか、複数の民間試験の結果を評価する際に欧州言語共通参照枠(CEFR)が使われることに対する問題点の指摘なども含まれている。

 CEFRと対照させることは科学的裏付けがなく、そもそも国際標準規格でないあくまで目安である概念を受験に使用することは問題だという。要請者代表の羽藤由美・京都工芸繊維大学教授は、「CEFRは最近項目に改定が行われたが、今回の入試改革で対照表として使用されるものは変更ないまま。このような誤用、使われ方をしている時点で、入試制度としてアウトだ」と強く批判した。

 同じく会見に出席した阿部公彦・東京大学大学院人文社会系研究科教授は、「シンプルであるべき試験制度が、民間試験の導入によって分かりにくいものになっている。その説明がないまま、制度改革で英語が話せるようになるというバラ色の説明ばかりされてきた。一方で、塾・教育業界や英会話教室は4技能ができないと大変だと生徒たちの不安をあおった。それらが裏目に出て、今の混乱につながっている」と訴えた。

 東京大学で学生に英米文学を教える傍ら、今回の問題を著書などで厳しく指摘してきた阿部氏。「4技能」を強調する今回の文科省の政策について考えを聞いた。

「入試がマーケットに」

Q 大学入試の英語で民間試験を導入することについて

A 大学入試を利権争奪のための「マーケット」に作り替えようとしたのが混乱の原因だ。業者としてはいままでやってきたビジネスを守るためには、この動きに乗り遅れるわけにはいかず、せっせと献金するなどして政治家とも仲良くしなければならなくなった。業者が利益を追求しようとするのはある程度、仕方が無いだろう。しかし、ことは公教育だ。本来、「公」の観点と「私」の利益追求のバランスを見据えなければならない政治家が、むしろ貪欲な利潤追求を煽っているのはおかしい。「英語の4技能の向上」などというのはみせかけの理屈にすぎない。

Q 4技能をバランス良く身につけることが重要だといわれているが

A 見かけ倒しもいいところだ。民間試験推進派の主張を聞いても、念仏のように「4技能」とか「バランスよく」などと連呼しているだけで、具体的な方策がみえない。これは盲目的で内容空疎な「4技能教」にすぎない。中高生の勉強時間はかぎられている。そのなかでどう優先順位をつけ、どういう順番で学習を進めるのかこそ考えなければならないのに、4つにわけたテストにしさえすれば、すべてがバランスよく身につくかのように宣伝するのは明らかにミスリーディングで、詐欺同然だ。

 まず「バランス良く」とはどういうことか、答えてほしい。多くの高校生は読めるレベルはそれなりだが、しゃべるのは小学生以下。「均等」を掲げて、すべてを小学生レベルに引きずりおろすのだろうか?伸びやすい部分や、大学教育で必要とされる部分、基礎として大事な部分をまずはしっかり鍛えるべきだ。「均等に」という声も聞こえるが、何を均等にするのか。能力なのか、費やす時間なのか、単に配点なのか、しっかり考えた形跡がない。

 日本語のことを考えればわかるように、たとえ母国語でも読み書き話し聞くといった能力は、均等に身についているわけではない。私たちは自分ではとても書けない高度なものでも、読んで理解することはできる。自分では言葉にできない内容でも、説明をきけばわかる。第2言語の習得でも、当然そうした現実を見据える必要がある。何と言っても一番難しいのは「書くこと」。スタートは「聞くこと」、そして「読むこと」。中高生レベルで4技能を均等に身につけるなどいう発想自体がファンタジーだ。

「なぜ日本人は話せないか」

Q 日本人はどうして英語が話せないのか

A 「話せないとビジネスで困る」「英語が母国語でない別の国の人でも話しているではないか」とよく言われる。しかし、日本人がなぜしゃべれないかが十分に考えられていない。ほとんど日本語だけで用が足りる日本のような国は世界でも珍しい。そのために、言語のスイッチを切り替える習慣がなかなか育たない。外国語で話すときに過剰に緊張したり照れたりするのも、日常的に言語を切り替える習慣がないからだ。

 また、そもそも日常生活の中で英語にふれる機会も必要もないのに、学校で週4時間か5時間英語の授業を受けただけで出来るようになるわけがない。6カ月ほど海外に行って英語漬けで暮らすと、突然英語の音が聞き取れるようになると言われる。これは英語のリズムを体が覚えるからだが、漫然と聞いていても効率は悪い。やはり英語の中で暮らし、追い込まれて必要に迫られると、集中力が高まり、学習の能率も格段にあがる。日本で英語の勉強をするときも、要はどれだけ集中して英語と接することができるかが課題。宿題の出し方など、学校の先生の腕の見せ所だ。

Q 日本語と英語ではアクセントの置き方など話し方の違いがある

A 決定的に違うのはストレス・アクセントだ。ストレス・アクセントは英語の根幹で、日本語にはない運動法則に基づくと考えるといい。これは日本語話者にとっては基本的には「未体験ゾーン」なので、最終的には体で覚えたいが、入り口はいろいろある。英語に慣れないうちは、どうしても闇雲にぜんぶの音を聞こうとするが、英語はリズムが強くなった部分を中心に聞くとわかるような仕組みになっている。そこに特化した練習をするのもいいだろう。

 その点からして聞くことにはもっと力を注ぎたい。日本人は「話せない」とよく言うが、話せないのではなく、聞き取れてないことが多い。聞き取れてなければ、話そうにも話せない。また聞いたことが耳に残れば、自然と言葉が出てくるようになる。

 また同じく忘れてはならないのが、日本語と英語では音の数が違うということ。英語では日本語話者が「音」と見なさないものも、区別して聞き取らなければならない。話すときも、ふだん使わない音を口にする。そりゃあ、恥ずかしいよ、と思う。日本語話者にとって英語の音声は付き合いにくいもの。だから明治以来、ずっと日本人は「英語がしゃべれない」と言われてきた。ロシア語やスペイン語の方がよっぽど楽だそう。

 それだけハンディキャップがあるのだから、英語の聞き取りや発声は難しいよね、うまくいったらラッキーだよね、くらいの気持で勉強させなければできるものもできなくなる。英語は日本語とは全く違う「種目」だと思ってやるしかない。スピーキングを試験に入れればしゃべれるようになるなどと考えるのは、いかに現状がわかっていないかの証拠。生徒は受験対策だけして、やりすごすだろう。「話す」ことにかかわる能力ほど、モチベーションが必要なものはない。 

 それに「しゃべる」というのはあくまでやり取り。今回の民間英語試験の多くでは、タブレットに向かって音を吹きこむというような方式が採用されるが、1分間で機械に向かって言えるだけのことを言いなさいなどという人工的な試験で、実際のやり取りの練習になると考えているのだろうか。

文科省の英語政策にも原因

Q 日本人が「英語ができない」だとしたら、文部科学省の英語政策に原因があると指摘されているが

A その原因は過去20〜30年間の文科省の英語政策に原因があると考えるのが自然なのではないか。1989年から始まったコミュニケーション重視の教育政策によって、明らかにしゃべる方に重点がおかれるようになった。そのあげくに、10年ほど前から「英語の授業は英語で」ということが学習指導要領で明示されるようになった。文法の説明はするな、訳読はするなというお達しもある。まったく非現実的で、現場でもたいして守られていない。

 オーラルの練習をすること自体は悪くはないが、あまりに極端。海外で流行している学習法をすぐに振りかざす人もいるが、そうした方式の問題点をきちんと見極めていないので、日本の現状にすぐわないことが多い。

 本来、ビジネスの現場でも英文を読んだり書いたりする力こそが大事なのに、今、うわすべりのオーラル英語偏重のために学生の基礎力はがた落ちで、単語も知らないし、構文のルールもわからないということが起きている。これは大学で教えている実感だ。

 経済界の人も、日本人は英語を話せない!とヒステリックに反応するのではなく、なぜそうなのか、ほんとうに目指すべきなのは何かということを冷静に考えて欲しい。しゃべれないのは事実なので、やり取りの力を向上させる取り組みは必要だが、「しゃべるためには、とにかくしゃべる練習を」というのは誤った思い込み。英語の場合は、日本語よりもずっと書き言葉と話し言葉の差は小さいので、リーディングやライテング、ヒアリングを組み合わせるほうが効率のいい勉強ができる。

Q 民間の英語の試験を導入するいまの流れを止めるための代案としては何が考えられるか

A 世の中が口頭での「やり取り」の力の向上を求めていること、大学側もそうした要請に応えようとしている現状を無視することはできない。しかし、「スピーキング」の試験を受験生全員に課す必要性は全くない。先にも言ったように、スピーキングほどモチベーションなしでは向上しないものはない。しゃべる内容がなければスピーキングも何もない。

 そういう意味では、スピーキングは選択制にして、受けたい人だけ受けるオプションにすればよい。しゃべるのが苦手な人や興味のない人は、筆記やリスニングのテストで代用すれば十分英語の基礎力ははかれる。そういう人もいずれ必要性を感じたら勉強を始めるかもしれない。

 オプションとしてのスピーキングテストは、いずれは大学入試センターが管理するべきだが、それまではスピーキングテストだけを民間業者が提供すればいい。「4技能」などと称して無理矢理抱き合わせ販売にするから、受験生に無駄なお金がかかったり、地域の不公平感などの格差が生じたりする。

 24年以降も、共通テストは継続するべきだ。大学入試センターの試験が完全になくなり、さらに進んで2次試験まで民間業者が行うようになったりしたら、英語教育は「終末期」といっていだろう。英語力は壊滅状態。

 話すのが得意でなくても英語に興味のある受験生はたくさんいる。ダイバーシティということを言うなら、「4技能均等」などという非現実的なイデオロギーを振りかざしたり、安易な英会話の流行に流されるのではなく、「やれることからやろう」「やりたいことをやろう」とのびのび勉強させたい。

 ついでに言えば、スピーキングは国によってカルチャーの違いもある。欧米では流麗に話すのが良いとされるが、日本ではむしろ訥々と話した方が説得力があったりする。つまり、「言葉を話す」ことをめぐる根本的なルールが違うのだ。おそらくそうしたことも、日本人が「英語しゃべれない」と言われる原因の一つになっている。

変化見られる欧州の姿勢

Q 日本語が十分に分かっていない時期である小学生から英語を教えることについては

A ほんとうに大事なのが何かをしっかり見極めたい。そんなに英語を話させたいなら英語圏に住めばいいだけ。しかし、そこでは英語がしゃべれても「ただの人」だ。もちろんそういうオプションもありだろう。しかし、日本語をしっかり土台にすえたいなら、インターナショナルスクールに入れるなどの「英語漬け」のリスクはしっかり認識したい。

 小学生のうちに英語に触れること自体は悪いことではない。まずはリスニングからやりたい。外国語を学ぶことで日本語を忘れてしまうという危険のない範囲で、外国語に触れるのは悪いことではない。

Q 第2言語の学習を評価する上で日本が参考にしてきた欧州にも変化がみられるようだが

A 欧州ではいまは「4技能」という枠組みそのものが見直されている。「7技能」という言い方も出て来たようだが、これもまた改変されるかもしれない。所詮流行に過ぎない。ただ、そこに共通しているのは、自分の得意とする能力を伸ばさせるという姿勢だ。うわすべりの「4技能教」は、早晩、「昔の話」となるだろう
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16557

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196. 中川隆[-9288] koaQ7Jey 2019年6月26日 04:26:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3211] 報告

いずれわが国は、どんな言語を話せるかで階級が決まる社会になるのではないか。
2019/06/24
https://kenjisato1966.com/%e3%81%84%e3%81%9a%e3%82%8c%e3%82%8f%e3%81%8c%e5%9b%bd%e3%81%af%e3%80%81%e8%a8%80%e8%aa%9e%e9%9a%8e%e7%b4%9a%e7%a4%be%e4%bc%9a%e3%81%a8%e3%81%a7%e3%82%82%e3%81%84%e3%81%86%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%ab/


わが国では目下、

いかに移民が流入しようと

移民だと認めさえしなければ

移民が増えたことにはならない

という爽快な発想のもと、

移民、もとへ外国人労働者の受け入れが進んでいます。

一時はあれこれ反対した保守派と呼ばれる人々も

いかに問題が深刻化しようと

問題だと認めさえしなければ

問題が深刻化したことにはならない

という爽快な発想のもと、

移民よりも憲法改正だの、

週刊誌の皇室報道批判だのに熱中している様子。

けれども現実の事態は、容赦なく進行してゆきます。

どうぞ。

外国人の日本語教育は国と地方の責務 推進法成立

(NHKニュース、21日配信)

外国人の日本語教育を充実させるための「日本語教育推進法」が

21日の参議院本会議で全会一致で可決され、成立しました。

「日本語教育推進法」は外国人の日本語教育を充実させる施策の実施を

国と地方自治体の責務と位置づけ、

国はその基本方針を定めなければならないとしています。

そのうえで、教育水準を向上させるため

外国人の子どもを指導する教員の配置や養成に必要な施策の実施や、

働く外国人への日本語研修などを支援することを国に求めています。

また、関係省庁が参加する「日本語教育推進会議」を設け、

日本語教育の推進に向けた関係機関との調整を図るよう国に義務づけています。

もとの記事こちら。

この法律を取りまとめたのは

およそ30名の超党派衆参議員によって構成される

日本語教育推進議員連盟。

中心となっているのは

河村建夫(衆議院・自民党・元文科大臣。連盟会長)

中川正春(衆議院・自民党・元文科大臣。連盟会長代行)

馳浩(衆議院・自民党・元文科大臣。連盟事務局長)

里見隆治(参議院・公明党。連盟事務局次長)

石橋通宏(参議院・立憲民主党。連盟事務局次長)

の5名とのこと。

しかるにですな。

2018年8月、

日本語教育推進法(当時はまだ法案)との関連で

議員連盟の活動を紹介した

AATJ(AMERICAN ASSOCIATION OF TEACHERS OF JAPANESE,

全米日本語教育学会)の記事には

しっかりこう書いてあります。

移民を少子化問 題の解決策と考える国会議員、

中央省庁官僚、ビジネスリーダーは少なからずおり、

日本としての移民政策を議論すべきという意見を時折出 している(。)

(日本語教育推進法案も)名目上は、

国内の日本語教育に関する法案だが、

日本の移民問題を議論する突破口としても考えられている。

元の記事こちら。

「あら、あっさり語るに落ちたわね」(※)お姉さまのお言葉です。

馳浩事務局長も

一般社団法人「全国日本語学校連合会」によるインタビュー

(「留学生通信」114号、2019年4月13日付)で

このように語っています。


韓国や台湾(は)、外国人材の獲得におい て、

より専門性のある職種も、

第一次産業もそうですが、

様々な実業の現場で、働く外国人 を獲得するために手を打っています。


今や世界は、獲得競争に入っている時代です。

にも関 わらず、我が国は遅れているのが実情です。

従って、外国人は母語を大切にしながらも、

と くに子供さんの場合には、母語を大切にしながらも、

わが国で働き、生活していく上で必要 な

コミュニケーションツールとしての日本語を習得してもらう、

支えることが必要です。

(明らかな誤字を一字修正)

元の記事こちら。

要するに

移民と認めない形で移民の数を増やしておいて

「日本語を(満足に)話せない人が増えちゃ困るだろ?」と

外国人にたいする日本語教育の必要性を説くことにより

それらの人々がわが国に定住する存在、

つまり移民であることを受け入れさせようという話でしょう。

(※)記事の内容と直接の関係はありません。


日本語教育推進法案が

日本の移民問題を議論する突破口としても考えられている

と喝破した、AATJのナガノ・トモノリさんの見識は

その点であっぱれと言わねばなりません。

ただし、ここで思い出すべきは

わが国は英語化の推進にも力を入れているということ。

議員連盟には文科大臣経験者が3名もおりますが

当の文科省は

「今後の英語教育の改善・充実方策について」という文書で

こう述べているのです。

社会の急速なグローバル化の進展の中で、

英語力の一層の充実は我が国にとって極めて重要な問題。

これからは、国民一人一人にとって、

異文化理解や異文化コミュニケーションはますます重要になる。

その際に、国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、

アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべきである。

東京オリンピック・パラリンピックを迎える2020(平成32)年はもとより、

現在、学校で学ぶ児童生徒が卒業後に社会で活躍するであろう2050(平成62)年頃には、

我が国は、多文化・多言語・多民族の人たちが、

協調と競争する国際的な環境の中にあることが予想され、

そうした中で、国民一人一人が、様々な社会的・職業的な場面において、

外国語を用いたコミュニケーションを行う機会が格段に増えることが想定される。

元の文書こちら。

実際、4月22日の記事

「国のあり方に筋を通さなければ、国語力も英語力も向上しないという話。」

で紹介したとおり、

今や政府は中高生の英語力について

数値目標まで設定して尻を叩いているのです。

達成できてはいませんがね。

だとしても

グローバル化の名のもと

外国人にたいする日本語教育の重要性を説きながら

日本人にたいしては

グローバル化の名のもと英語教育の重要性を説くとは

どういう話だ、一体?!

♬認知す〜る〜な〜ら、チョイと不協和音頭、ヨイヨイ


・・・お分かりですね。

つまり日本語教育推進の対象となっている人は

英語がしゃべれると見なされていないのです。

ずばり言ってしまえば、

途上国を中心とした非英語圏からの単純労働者が

想定されているに違いない。

これについても馳浩議員が

しっかり語るに落ちて下さっています。

先に引用した箇所で

(韓国や台湾は)より専門性のある職種も、

第一次産業もそうですが、

様々な実業の現場で、働く外国人 を獲得するために手を打っています。

というフレーズが出てきたのにご注目。

つまりこれは

(韓国や台湾は)専門性のある職種に限らず、

第一次産業を含めた単純労働についても

移民を積極的に受け入れている

という意味なのです。

さらにインタビューには、こんな発言まで出てくる。


この法案が必要だと考えた一番のきっかけは、

リーマンショックの後に、 ずいぶん外国人労働者が解雇されたが、

十分な対応がなされていない。

日系人の場合、家族 で来ておりました。

とくに日系ブラジル人の場合、子供の教育が中断される。

本国に帰るの か、転職するのか、

正直言いまして外国人集住都市においては、ずいぶんと混乱が起きました。

(※)ブラジルの公用語はポルトガル語です。

となれば法案作成の意図はこうなる。

これからの時代、英語ができない単純労働者の移民が

家族を連れてどんどん定住するだろう。

それらの人々が日本語までできなかったら、どうにもならない。

だから外国人の日本語教育に力を入れるべきだ!

当然、裏にはこういう含みがある。

専門的な技術や知識を持つ移民、

いわゆる高度人材様については

むしろこちらが英語で対応できるようにならねばならない。

だから日本人の英語教育に力を入れるべきだ!

グローバル化の名のもと

外国人への日本語教育強化と

日本人への英語教育強化が同時に叫ばれるという

なかなかにパラドキシカルな事態も

こう考えれば、すっきり筋が通るのであります。

けれどもこれは

日本に以下の4種類の人間が暮らすようになることを意味する。

1)英語ができる日本人(上級国民)。

(※)英語は話せないが、フランス語、ドイツ語、ロシア語など、

  他の主要国の言語を話せる日本人もこれに準ずる。

2)英語ができて、専門知識や技能のある移民(高度人材)。

(※)英語は話せないが、他の主要国の言語を話せる移民もこれに準ずる。

3)日本語しかできない日本人(一般国民)。

4)英語も日本語も不自由な移民(単純労働者)。

(※)英語を話せこそするものの、学歴や職歴に見るべきものがなく、

  専門知識や技能がない移民もこれに準ずる。

カッコ内の語句が示すとおり

これは単なる言語上の区分ではありません。

社会的・経済的な階層、すなわち階級であります。

たぶん2020年代には

「英語」に「中国語」が追加されたうえ、

一般国民の貧困層が「下級国民」として

移民の単純労働者と一緒くたにされるでありましょう。

これらの人々の日本語力も貧弱でしょうからね。

すなわちわが国は

どんな言語を話せるか(あるいは話せないか)で階級が決まる

言語階級社会とでも呼ぶべきものになってゆくのです。


こうして一つの国に二つの言葉が根づき、

戦乱の種子が撒かれたのだ。

──『ジュビリー』(デレク・ジャーマン監督、1978年)

「ね、令和ニッポンって爽快でしょう♥」(※)お姉さまのお言葉です。

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ちなみに1月7日の記事

「今年から移民受入が本格化するが、外国籍の子どものうち2割は就学状況が不明である。」

でも述べたとおり

わが国ではすでに

1万6000人もの外国籍の子どもが

学校に通っているかどうか確認できません。

その中には所在不明の子や

住民票を残したまま転居した子もいると見られます。

とはいえ子どもには親がいるでしょうから、

これは足取りのつかめない外国人の親が、1万人単位で存在する恐れが強いということ。

国や自治体の義務とか言っているけど、

そんな人々にどうやって日本語を教えるの?

令和の時代は、こうして日に日に収拾がつかなく・・・

もとへ、爽快になってゆくのでありました。
https://kenjisato1966.com/%e3%81%84%e3%81%9a%e3%82%8c%e3%82%8f%e3%81%8c%e5%9b%bd%e3%81%af%e3%80%81%e8%a8%80%e8%aa%9e%e9%9a%8e%e7%b4%9a%e7%a4%be%e4%bc%9a%e3%81%a8%e3%81%a7%e3%82%82%e3%81%84%e3%81%86%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%ab/

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

197. 中川隆[-9254] koaQ7Jey 2019年7月04日 15:30:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3411] 報告

真偽不明ですが面白そうなので貼っておきます:


渡部昇一が言ったのは日本国籍のユダヤ人を増やそう!と言った【イエスズ会特殊スパイ渡部昇一である】2017-12-11
https://blog.goo.ne.jp/j4goocast/e/c4eb11e08a0eff81f137521975ef9147

 ユダヤ人が有利になる日本を作る=金貸しがやり放題できる日本を作る!という話が渡部昇一が言っていたことだ

われわれはユダヤ人を知らない ユダヤ人は蓮舫とかアグネスのように二重三重の国籍を持つ河を渡ってきたなんとか?と古代エジプト人は言っている われわれ日本人は馬鹿正直と言われるぐらい正直に生きてきた民族だ!こんなふしだらな処世術を持つ民族と共生できるのだろうか?と思ってしまう?


日本人はバカにされていることを知らなければなりません 在日といえば朝鮮人ですがかれらもパスポートはふたつもってます 二重国籍なのです 国会議員が数年前に日本には二重国籍者が60万人います!と証言しています 

私はこの動画をYouTubeにアップしています ニコ動にもあります

動画=赤池誠章(あかいけまさあき)【国籍唯一の原則】
https://www.youtube.com/watch?v=3LylDHuwEfc

 渡部昇一は日本人を反米にしない一点で日本で活動したザビエルと同じイエスズ会ジェズエット(イエスズ会士)である スパイである 中国の因間・内間・反間・死間・生間のうちでは生間に該当するらしい

<曽野綾子老人は死ね>
 曽野綾子は戦後のあの皇居を望む生命保険会社を本部とするGHQに事務員として勤務していた そして怪しい日本人(GHQにとって)の尾行までやっていたらしい 芥川賞には候補として上がった(お礼)らしいが受賞はしなかったのだろう? なにしろ才能(文才)が当時の最高に厳しい!審査員の心を打たなかったのだろう?才能のない者は金でなんとかすることだ

 曽野綾子が「GHQ検閲官=約10,000名」と同等の仕事をしたことが今日の曽野綾子の有名さ加減である=もちろんあれ(なんとか財団)であることであるが・・・われわれ日本人は当時にその職にあった者達(日本人)は普通にGHQ検閲官と呼んでいた=これをマスコミとか学者はかくしているのでGHQ検閲官という名称さえ知らない=甲斐弦(かい ゆずる)著「GHQ検閲官」単行本1900円ぐらい←あなたがロスチャイルド血流の若者が原爆関係書類を一読して原爆を理解したIQ180あろうとハーバード出てようと豚のようになにされることを知ることはできません=かれらの考えを知るにはこの本をおすすめします 

なお、江藤淳「閉ざされた言語空間」はマーケット理論を使ったスピン(そらし情報)ですのでここらへんのサイオプス(心理操作)をくぐり抜けてください

 GHQ検閲官を経験した者は知事、市長、議員、経済人、教育界、とか日本の支配階層になったのだ しかしかれらは日本の支配階層を三流の人物で固めたことをわれわれは承知しなければなりません 反日ユダヤ人グリーンバーグ(ジャパンハンドラー)が首相はバカにしかやらせない!と言っていることがこの三流という意味です 国会を見ても経済界を見ても(稲盛和夫がその三流の代表であること)三流の人物だけが大手を振っているからだ

曽野綾子は笹川の私生児である!文才はまったくない!

こういう幼稚な文章を書くものを持ち上げる=これが彼らの人類の文化芸術を猿程度まで能力を落とすことである 

ノーベル文学賞候補であるあのお方もなにがなんだか?わかんない文章を書く!=これがかれらのお気に入りであることだ NY美術館に展示されているトイレの芸術作品である(トイレそのものが飾ってある=一目で人をバカにしてんな?とわかる)

優生学である 完全に優生学の考えである 優生学とは人種差別に基づいた劣等民族の遺伝子を体系的に根絶やしにしようとする考え方である

 バートランド・ラッセルのローマクラブに通じるもの 無駄飯食い穀潰し(ごくつぶし)はいらない 人口削減である かれらはアダム・スミスの時代から盛んに民を操ることがお祭りになった アダム・スミスの任務は無駄な経済学を学徒に学ばせて通貨発行権を隠す任務であった 現在の最新のマルクス同様(フリードマンの新自由主義はマルクス共産主義の通名なのだ)の任務らしい?フランスのなんとかいう若い学者(ピケティ)も通貨発行権については述べていない そして環境保護というキーワードで民の資産を奪うことは最新のタヴィストックユングである ボート屋の娘と言われている? 

このように何の才能もない者をノーベル賞とかを与えていることが芸術文化をおとしめることである つまりサル程度の者にノーベル賞を与える 

音楽でも441だか?440ヘルツ?とかのことを決めたのは彼らである(ロックフェラーらしい?実は彼らである)本当はこれではなく500台が人間の本来のものらしい? 

文学とか音楽もかつての輝きを失った ズバリ言えば低級になったのだ 雑音でしかないロックとは性交そのものを意味する言葉らしい? 

その後のビートルズはブードゥのリズムを入れて麻薬空中浮遊状態を演出する麻薬セールスマンの役をビートルズに与えこれを成功させた サル程度に文学、音楽、をもっていくユングなのだ! 

最近でもノーベル賞と騒がれていたぼやけた小説を書くぼんやりしたカモメが飛んだみたいなやつがアンデルセン賞らしい? 

ニセ代筆のヒトラー・マインカンプと同じアンネの日記はギンギンに作り話のシオニズムを全世界に広めることである このぼんやりさんもグローバリズム(国境なんてないのよ!というジプシー音楽)を広めるためのサル道具でしかない! 輝く才能がないのだ! 輝く才能のない者(全世界でやられていること)に地位と名誉を与え、麻薬を語らせ、麻薬と同性愛を広めることをやらせているのが彼らである

 彼らは民にルネッサンスをやって欲しくないのである 民は昔ながらの洗脳された民でいてほしいだけなのだ

このおばちゃんも才能のかけらもないのにベストセラーになるのは同じようにキリスト教(=異教徒を敵とする個人主義=民族の団結力を、集団の団結力を、削いで彼らの思い通り投資、大儲け、をするため)を広めるための彼らにとってヒトラーのサル日本人に過ぎないのかもしれない?ことを知るべきである

「グローバル2000」はアメリカの公式政策として受け入れられた大量殺戮協定である ケムトレイルが国家により行われていることを日本人は知らない つまりアメリカの正式な政策として受け入れられた大量殺戮協定グローバル2000は米国植民地である日本でも有りて在るものであるということ・・・

 日本でノーベル文学賞を受賞したあのおっちゃんも才能(うなるような作品はないのだ)もないのに受賞したのはおっちゃんの言説(新自由主義かな?共産主義かな?)をわれわれが受け入れることを見越して文学を猿レベルに落とし込むことである

 この人を食った表情がマッソンであることを示している こちらをけだものとして見る白人の目だ

<ピーター・ハンス・コルベンバック>
 なぜ?この人物を出すのか?それは・・・日本の大学を10年間で500校から800校に2倍近く増加させたのはイエスズ会(キリスト教会?)であるからだ 江戸末期から明治維新前後に新興宗教を多数設立したのはこのこのであることだ(わかってほしい文章) 日本を移民大国にしようとしているのがこのこのだ!廃仏毀釈をやらかして日本のどの街にも数ヶ所あるいは数十ヶ所のキリスト教会を作ったのもこのこのだ かれらは何世代!何十世代!もかけて廃仏毀釈をやって日本人の頭を一神教奴隷にすることだ!=これが徐々にバカな日本人が増えていることだ=若者がかんけ〜ね?とキリスト教個人主義を叫ぶことがこれだ!子供が権利がある!なんて夢遊病者になっていることもこれだ!子供と若者の目を見ればわかる!目が泳いでいる!ほこりの無い目だ!知識だけはあるが誇りがないのだ!これが渡部昇一とか生き方上手の殺人医師らジェズイット(イエスズ会士)のジェズイットとしての任務である=黒毛が地肌に見える?あのお方もそうらしい?私ははジェズイットに気をつけろ!と言いたい!このことはこれから何世代も永遠に語り継がなければならないことだ ヴァチカン銀行はロスチャイルドが管理している!(白人研究者が述べていること)しかし日本の大学増設(ほとんど99%キリスト教系)は自らの国民の資産・財物で創立されたことが残念無念のことである 私立大学となったこじき風ものもらい九大にはヴァチカン学部(なんという名前かは知らない=共創学部)ができたらしい

 ある話がネットにあってキリスト教会に入ったらそこだけで100人ものフィリピーノが来ていたらしい これを書くと人種差別だと言われるかもしれないが私の50m先にもフィリピーノが住んでいる(もう帰化したと思われる) あなたの生きてる間は平穏だが孫の代はお孫さんが子供も産めない差別されるカースト制度最下級貧民となる予定であるらしい(このまま世が進めばだが?)

 1979年のCIA要員イラン・ホメイニがイスラム原理主義で登場したことはこのピーター・ハンス・コルベンバックが関係している!と私は夢想している?当たっているかもしれない?イラン・ホメイニ=自慢していた得意ワザ=ホード(ひっかけ)を言っていた これがCIAの陰謀論(アンビリーバブルとして否定すること)とか?タルムード<ひとをだますこと>と共通点があるからだ

フェミニズムはイスラム社会をめちゃくちゃにすることに使われる!と白人の研究者は語っている ピーター・ハンス・コルベンバックはイスラム社会へのフェミニズム刷り込みでイスラム社会を崩壊に導く任務かもしれない?

イスラム教とキリスト教の合一・統一 ピーター・ハンス・コルベンバック イエスズ会で教皇より力がある? 中東に飛んだ アラブ語ペラペラ 黒い教皇

最近わかったことだが、フランシスコ教皇はイエスズ会トップだということ? ローマ教皇とイエスズ会トップが一致したのだ つまりヴァチカンはイエスズ会に完全に乗っ取られた?らしい?

 実は・・・フランシスコ教皇がイエスズ会のトップだということがわかりました フランシスコ教皇で初めてイエスズ会トップと教皇が一致したのです どんな?ことを?意味するのか?自分にはわかりません?

 皇室が明治維新からキリスト教だとわかったら日本人はびっくらこいてひっくり返るでしょうね?

<キリストの幕屋>
キリストのまくや ジェズイット山谷えり子 ジェズイット=イエスズ会士
イスラエル

<キリストの幕屋>
キリストのまくや
イスラエル

<山谷えり子>
イスラエル

<山谷えり子>
CIA創設統一教会=アメリカは神の国!日本はサタンの国!

<日米合同委員会(横田基地開催)>
 日本の政治家は出席できません 超エリート官僚だけです しかし統一教会阿部正寿(あべまさのり)事務局長は出席できます=基地司令官の隣に座っているのが阿部正寿統一教会事務局長=これは統一教会がCIAであることを示す写真です

 横田基地司令官の隣の阿部正寿氏は司令官の上官も上官!横田基地司令官に命令する上官です

 統一教会(CIA)が日本に命令している写真であることです=これを知っている日本人はごくわずかです

なお、日米合同委員会はあの丸いホテル(米軍基地です)とか外務省とか、横田基地でも開催されることを示しています
CIA統一教会=アメリカは神の国!日本はサタンの国!

日野原はこいつは長州人です わかっているお方はこの長州人ということばを聞くだけですべてを理解します

 こいつはがん利権を作った一人です 日本人をがんで殺すことです

 聖路加をなぜ?改築新築したか?オウム真理教日比谷サリン事件を想定してホールを野戦病院のごとく広くしたらしい あとで自慢していましたが前もって知っていたのです キリスト教徒「敬天愛人」の西郷隆盛みたいな人物でしょう?明治維新は徳川慶喜と西郷隆盛の戦いだったのです 西郷隆盛が勝ちました だから西郷隆盛が英雄となっている「長州幕末歴史検定試験」歴史なのです 私は歴代首相とくに橋本龍太郎どののケツから微量の毒物?というくだりにこの人物のかかわりを推測しています 役割としてはジェズイット(イエスズ会士)渡部昇一のような特殊任務スパイということらしい?渡部昇一は日本人を反米にしない!こと!の一点で動き回る!活動する!特殊任務スパイであった


神父様はこれを見てすぐわかります!あ?イエスズ会だね?と・・・日本を滅ぼそうをするイエスズ会ザビエルです

地毛が黒だという話があります!本当かどうかはわかりません?背乗りを示唆する文章を見たことがあります なぜ?キッパトなのか?これも考えています なぜなのか・・・と? なぜ?背乗りと言われるのか?と?

 聖路加の屋上からは東京大空襲の位置を示す懐中電灯が振られました そして銀座四丁目のあの焼け残ったビルです いまでもあのビルに行くと日本人だとわかるとバカにされますですこと・・・

 そして黒の地毛が見える?というお方もいます?どんなことかは?私にはわかりません?
https://blog.goo.ne.jp/j4goocast/e/c4eb11e08a0eff81f137521975ef9147


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198. 中川隆[-9146] koaQ7Jey 2019年7月10日 07:23:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3537] 報告
  歐米の高等教育と比較すれば分かるけど、我が国の大学教育は片輪というか、左巻きの奇形組織になっている。例えば、経済学部に入った学生は、金融システムとかマクロ経済学、歐米の経済理論、税制などを勉強するが、軍事を学ぶことは滅多にない。左翼学生は論外にして、先進国にいる普通の大学生は、兵器開発からのスピンオフとか民間企業と軍事産業の連携を当たり前と思っている。したがって、政府の軍事予算に対して猛烈に反対することはない。しかし、日本の学生は財政問題を扱う時、軍事技術の発展は考えず、ほとんどが医療福祉の拡大とか子育て支援の充実ばかり。戦略爆撃機や攻撃型原潜の独自開発は、端っから頭に無いのだ。アメリカやロシアは生物・化学兵器の分野に力を入れ、昔からずっと研究を進めてきたのに、日本だと左翼が悲鳴を上げて大反対。物理学や医学を専攻する学生なら別だけど、有名大学の学生でも文系になれば、「国防高等研究プロジェクト局」、通称「ダーパ(DARPA / Defense Advanced Resaech Project Agency)」の名前すら聞いたこともないのだ。筆者が昔、国際関係論を専攻する学生と雑談していた時、「レイセオン(Raytheon)」の名を知らない者がいたので驚いたことがある。ミサイルの誘導装置を知らなくても、レイセオンが開発した電子レンジくらいは使ったことがあるじゃないか。

  まぁ、日本人の軍事音痴は根深いから、ゴチャゴチャいってもしょうがない。でも、「マーティン・マリエッタ(Martin Marietta)」と話して、「アメリカのコメディアン?」訊かれれば、「えっ!」と驚くじゃないか。暢気なキャンパス・ライフを送る若者は、大手の「ロッキード」社と合併した兵器会社とは思わない。こんな調子だから、軍事が科学技術の発展に貢献し、国家の底力になると考えなくても当然だ。しかし、実際は戦争が科学を進歩させ、一般人の生活を向上させるのは常識となっている。軍事に応用される科学技術の進歩は驚くほどめざましい。例えば、ロボット・アームを使った遠隔操作の外科手術は、戦場で負傷した傷兵の応急治療に役立つし、人工皮膚のスプレーやパウダー血液の開発は画期的だ。信じられないけど、戦闘で火傷(やけど)を負った兵卒の体に、本人皮膚から培養した皮膚をスプレーで噴射するというのは結構凄い。また、熱帯地方の戦場で、輸血するためには保存する血液の温度に注意せねばならぬが、粉末状にした血液なら、温度を気にしなくても済む。筆者を疑う人は、サン・アントニオにある合衆国陸軍ブルック・メディカル・センターを訪ね、ジェフリー・ジョンソン准将(Brig. Gen. Jeffery Johnson)に訊いてみることだ。

  日本人は自国の科学水準が著しく低下している事にもっと関心を持つべきだ。安倍総理は教育の無償化とか保育園の増設ばかり述べているが、義務教育や大学教育の衰退には目を覆いたくなる惨状が多い。たぶん、安倍氏は左翼役人の囁きだけに耳を傾け、数学や物理学を習う子供たちの惨状についての認識が無いのだろう。もちろん、大半の国会議員だって五十歩百歩だ。彼らは柄の悪い朝鮮人や傲慢な支那人、劣等種族のフィリピン人、出稼ぎ目的のベトナム人を輸入することに熱心でも、日系日本人が被る被害については冷淡としか言い様がない。だいたい、躾の悪いアジア人と一緒にされたら、日本人の子供は学問への知的好奇心を無くしてしまうだろう。底辺校に通う日系人の子供たちは大切な事を学ばず、移民の子供が話す下品な言葉を覚え、破廉恥な行動に倣う。こんな状態で子育て支援を行えば、ぐうたらな子供か不良の落第生を大量生産するだけだ。政府は日系人の教育を軽んじているのに、アジア人留学生はウェルカムで、無償の奨学金を与えて育てている。ところが、日系人の血を引く学生には冷酷で、彼らは奨学金という借金を背負って会社に勤めねばならない。日系人は下働きに甘んじながら税金を献上するが、日本の教育を受けて上級職に就くアジア系帰化人は、日系土人をこき使って更なるゼニ儲けに走る。アジア帰化人は巨額の献金で政治家を買収するから、優遇税制は拡大する一方だ。かくして、日本人の階級格差は固定する。支那人や朝鮮人の富豪が日本社会に君臨し、土着の日系人を見下ろすんだから、将来の日本は本当に恐ろしい。

  政府が国債を発行して景気を刺激するのはいいけど、それは日系日本人を優先し、日系日本人の子孫へ向けての投資でなければならない。ソフトバンクの孫正義やロッテの重光武雄(本名 / 辛格浩)、パチンコ屋マルハンの韓昌祐(密入国者)などの子孫が繁栄する社会になっては駄目だ。日本人の税金や国債は、日本という家族国家の中でグルグル回せばいい。不愉快な外人を太らせるのは論外だ。財務省は緊縮財政を理想としているが、正常な日本人なら「お前らの背後に誰がいるんだ?」と訊きたくなる。大半の官僚は上司に従う忠犬なんだろうが、組織の中枢には清廉の士を装う工作員や協力者がいるんじゃないか。岡本事務次官は「シゲーリン」なる渾名で呼ばれているが、「ゾルゲ」というコードネームなら大変だ。日本には防諜組織が無いから摘発できないけど、主計局や理財局に赤い官僚がいたり、日銀や大臣官房に外国のスパイが紛れていた、という可能性だってあるだろう。プライマリー・バランスの呪縛で日本を衰退させるのは、「戦わずして勝つ」というドクトリンに適うから、荒唐無稽な妄想とは言えまい。一般国民は消費税10%くらいで大騒ぎしているが、財務官僚は28%の近未来を目指しているのかも知れないぞ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/

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199. 中川隆[-8760] koaQ7Jey 2019年8月19日 07:12:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3982] 報告

2019年08月19日
自国に誇りを持たない日本人 黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html


ノルウェー人の日本人蔑視

  8月14日に放送されチャンネル桜の番組で、キャスターの高山正之が白人の日本人蔑視について持論を述べていた。彼が持ち出したのは、1999年のカンヌ国際広告祭で金賞を獲得したCMで、ブローテン航空(現在は「SAS Braathens」)が作ったTV広告だ。この映像は、外国語を知らない日本人乗客が、スチュワーデスから差し出された袋入りのサンドウィッチを「おしぼり」と勘違いして顔を拭いてしまう、という設定になっている。具体的に言えば、機内食を渡された日本人が、かけていた眼鏡を外し、ビニール袋の中にある白いパンを「おしぼり」と早合点するという設定になっていた。そして、何も疑わず顔を拭いたら、ピーナツバター(あるいは生クリーム)がベッタリと附いてしまったというオチになっている。さらに、第二幕があって、しばらくすると、スチュワーデスが再び例の袋をもってきた。ところが、ノルウェー語(または英語)を全く話せない日本人は、「お腹いっぱいです」というジェスチャーで答える。ここで観客は大爆笑、という筋書きになっていた。

  高山氏はこうしたTV広告を作ったブローテン航空に怒っていたが、それにもまして、金賞を与えた審査員に日本人がいたことで腹を立てていた。テレビ業界に詳しい人なら驚かないが、審査員の中に電通から派遣された日本人が含まれていたのだ。事件に興味を持った高山氏は博報堂のある社員に接触し、内情を探ってみたという。すると、件(くだん)の審査員は「田中」という人物で、英語が流暢に話せる帰国子女ということが分かった。金賞を与えるには全員の同意が必要であったというから、田中氏も賛成票を投じた訳だ。高山氏は番組の中で日本人意識に缼(か)けた電通社員に憤慨し、「なぜ、こんな侮辱的作品に賞を与えたのか。日本人なら反対しろ」と不快感を表していた。

  こうしたエピソードを聞くと、「やはり、帰国子女だと日本人の立場ではなく、西歐人の立場で考えてしまうんだろうなぁ〜」と思ってしまう。まぁ、日本で生まれ育ち、日本の学校に通った日本人でも、「日本国民」という意識の無い者が多いから、田中氏だけを責めるのは酷だろう。でも、西歐人の前に出ると、途端に卑屈な態度を示す日本人には吐き気がする。特に、歐米人が主催する国際会議や文化評議会などに出席する文化人とか大学教授がそうだ。現地で使用される言葉は英語かフランス語になってしまうので、ゲルマン語が苦手な日本人は、中々発言することができない。まるで「入れ歯を忘れた老人」か「貧血の吸血鬼」みたいだ。

  たとえ共通語を話せたとしても、日本語のように上手く駆使できない場合、思ったことを充分に伝えることはできないから、不満を残す結果となる。もっとマズいのは、拙い英語で相手に誤解を与えてしまうことだ。また、外人に対して反論したくても、反論するだけの知識や論理、度胸すらも無いから、多数派に賛同してお茶を濁す場合だってある。誠に情けないけど、日本国内で威張っている官僚だって似たり寄ったりだ。普段は傲慢不遜な高級官僚でも、アメリカやヨーロッパで開かれる国際会議に出席したりすると、借りてきた猫みたいにおとなしくなる。イギリス人やフランス人相手に猛反論して、日本の国益を守ろうとする役人なんかほぼゼロ。ちょうと、WBAのヘビー級ボクサーに挑戦するバンタム級のアマチュア・ボクサーみたいなものだから、最初から試合を投げている。

大切だが無視される科目

  戦後の日教組教育で洗脳された日本人には、「日本人」としての自覚が無い。もちろん、外国旅行をすれば、いくら暢気な国民でも「自分は日本人」という意識くらいは持つ。だが、それ以上の知識が無いから、「日本人の矜持」をどう保持したらいいのか分からない。日本にいる時は、日本人という意識を持たなくても暮らせるから、敢えて「日本人」ということは考えなくても済む。けど、こんなのは温室の中で大股広げて寝ているデブ猫と同じである。もし、こうした日本人が仕事の都合でアメリカやブリテン、フランス、ドイツなどに転勤したら大変だ。それに、もし家族ぐるみの移住となれば、現地の学校に子供を通わせる選択になるから一大事。ところが、脳天気な親は何とかなるだろうと楽観する。しかし、後になって国語(日本語)や社会(歴史)といった重要科目に気づく。自分の子供がどんな風に育ってしまうのか予想できない親は結構多い。

  例えば、息子がイングランドやアメリカの学校に通ったとする。たぶん、こうした子供は両親よりも上手に英語を話すようになるだろう。英語に劣等コンプレックスを持つ母親だと、「いゃ〜ん、ウチの子、英語ペラペラやん〜 !」と嬉しくなるが、肝心の母国語がお粗末になっていることに気づかない。確かに、日本にずっと居たら大金を払って英会話塾に通わせても、一向に上手くならないから、“お得”な感じがする。アホらしいけど、単純な親は「日本に帰ったらみんなに自慢しよう !」と大喜び。しかし、こうした“バイリンガル”の息子は、どのような日本語を話し、どれくらいの読解力、および作文能力を持つのか? なるほど、イギリス人のクラスメイトを持つ子供は、平均的日本人以上に上手い英語を話し、英語である程度の文章(随筆)くらいは書けるようになる。

  ただし、日本語となれば、どうなのか? 一般的に帰国子女の場合、知っている漢字の数が少ないし、常用漢字以外の正字や歴史的假名遣いを知らないから、ちょっとした古い本を読むこともできない。例えば、「體」を「体」の正漢字と分からないし、「燈油」が「灯油」、「證據」が「証拠」とも判らない。「辨」と「辯」の違いも分からないから、「辨當」を「べんとう」とは読めないし、「花瓣」という漢字を見て「かべん」と発音できないこともある。「欠」が本来は「あくび」で、「闕席(けっせき)」とか「缼陥(けっかん)」使用する漢字ではないと知らない場合もあるから困ったものだ。また、高貴な人物に関する言葉遣いだってあやふやになるから、「天皇陛下から御諚(ごじょう)を賜る」と聞いても、何が何だか見当もつかないし、「袞龍(こんりょう)の袖に隠れる伊藤博文」という陰口を耳にしても、「天子様の御衣のことかぁ」とは思わない。日本の随筆に馴染みが無い帰国子女だと、「判官贔屓(ほうがんひいき)」と聞いて、源義経じゃなく「ハルク・ホーガン(有名なプロレスラー)を好きな人かなぁ〜」と思ってしまう。バイリンガル女子で英語の発音を自慢する人は多いけど、谷崎潤一郎とか森鷗外の小説を原文で読むことができない人は結構いるぞ。まづ、歴史的假名遣いと舊漢字が分からないから、ついつい本を閉じてしまう。こんな状況なら、幸田露伴の小説なんてもっと無理。

  歐米諸国の学校に通う日本人の子供が直面する問題の一つが、歴史の授業だ。もし、イングランドの学校に通うことになったら、英国の歴史を学ぶことになるけど、日本の歴史を学ぶ機会は無い。子供の将来を心配する親なら、日本史の教科書を与えて勉強させるかも知れないが、文科省の教科書なんてつまらないから、子供は直ぐ投げ捨てたくなる。運良く歴史好きの親であれば興味を引くような説明もできるが、一般の親だと副読本を買い与えて終わりだ。普段の宿題で忙しい子供は、日本史を知らないまま地元の高校を卒業し、そのまま歐米の大学に入るか、日本に戻って「帰国子女枠」で推薦入学というパターンになる。試験入学を選ぶ者であれば、英語を中心とした筆記・面接試験を受け、「国際関係学部」とか「比較文化学科」などに進むタイプが多いんじゃないか。でもこれでは、「日本に“留学”する日本人学生」になってしまうだろう。ただし、「国際化時代」とやらを歓迎する大学ならOKだ。何しろ、“国境に囚われない地球市民”が理想ときている。日本語能力なんて端っから価値は無い。英語が上手ならトコロテン式に御卒業だ。

  一般の日本人はさほど重要に思っていないが、「歴史」の授業はある意味、数学や理科の授業よりも重要になってくる。なぜなら、「良き公民」を育成するための必須科目であるからだ。幾何学の試験で30点ないし20点しか取れなくても、成人すれば投票権を与えられるし、元素記号を全て暗記していなくても社会問題は理解できる。しかし、日本の過去を知らないと現在“懸案”となっている政治問題の経緯が分からない。ちゃんとした歴史認識知識を備えていれば、支那人や朝鮮人からのイチャモンにひれ伏すことはないが、カラっぽの頭じゃ平身低頭、有り金を献上して赦しを乞う破目になる。こうした人物は祖先の名誉を傷つけても心が痛まない。そもそも、家庭教育に「名誉」を重んずる徳目が無いんだから。

  日本国民全てが数学者や物理学者になる必要はないが、社会に責任を持つ有権者が記憶喪失状態では困る。祖先との繋がりを忘れ、国家の威信を損なう政策に賛成する国民が増えれば、国家の衰退は避けられない。現在だけを生きている日本人には理解できないだろうが、まっとうな「日本国民」とは、その職業に関係なく、祖先の遺産を引き継ぐ伝承者であり、将来の子孫へ遺産を手渡す保管者でもある。「死んだ後に核戦争が起きても、多民族国家になっても俺の知ったことじゃない !」と言い切る日本人は、自分の息子や娘、幼い孫の顔を見てから断言すべきだ。

帰国子女は祖国に「根」を持っているのか?

  国史を学ばない日本人には、真の愛国心は育たない。かつて、フランスには保守的知識人が少なからずいて、心から自分の郷里を、祖父母の亡骸(なきがら)が眠る大地を、偉大な伝統を誇る祖国を愛していた。例えば、「アクション・フランセーズ(Action Française)」を率いるシャルル・モラスや、反ユダヤ主義を掲げてフランスらしいフランスを守ろうとしたモリス・バレス(Maurice Barrés)が挙げられる。ちなみに、トランプ大統領の補佐官を務めていたスティーヴ・バノンは、マラスを称讃していたそうだ。(Michael Crowley, The Man Who Wants toUnmake the West, Politico Magazine, March/April 2017)

Charles Maurras 1Maurice Barres 1Steve Bannon 1


(左 : シャルル・モラス / 中央 : モリス・バレス / 右 : スティーヴ・バノン )

  とりわけ、バレスの思想は注目に値する。彼と比べたらジャン=ジャク・ルソーやジャン=ポール・サルトルなんて屑に等しい。普遍主義とか世界市民を理想にする左翼知識人と違い、バレスはフランスの大地に“根”を張った国士であった。彼にとってフランスとは「平等」とか「博愛」といった安っぽい言葉で成り立つ共和国ではない。フランスとは王家や教会との赤い絆で結ばれた歴史的結晶体であった。フランス文化の髄液を吸収して育ったバレスにすれば、各国を渡り歩き、ゼニ儲けに専念するユダヤ人など、根無し草のコスモポリタン、すなわち地球上をうろつく寄生民族に過ぎない。「真のフランス人」とは、祖先の遺灰が染み込んだ郷里に根を張る地元民、すなわち王国を築いてきたガリア人である。バレスはフランスの衰退を憂い、祖先との一体感を強調することで祖国を救おうとした。
  
 ・・・私たちが祖先からの連続だということをきっちり理解する、それも単に口先でというだけでなく、感受性鋭くありありと思い描くかどうかにかかっている。このことは、解剖学的にも正しい。祖先が私たちのなかで考え、語っている。一つながりの子孫たちは、同じ存在でしかない。周囲に存在する生命の働きかけのせいで、きわめて巨大な複雑さがそこに出現するかも知れない。しかし、だからといって、何も変質しはしない。それは、完全に仕上げられた建築の秩序に似ている。つねに同一の秩序である。それは、部屋の配置を変更した家に似ている。同じ土台の上に建てられているだけでなく、同じ切り石でできている。つねに同じ家である。(モーリス・バレス 『国家主義とドレフュス事件』 稲葉三千男 訳、創風社、pp.23-24.)

  バレスによれば、フランスの個人は家族の中、民族の中、国家の中で自己発見するそうだ。また、彼は巨大な中央集権によって支配されるフランスに危機感を覚えた。この保守派知識人は、地方色豊かなフランス、独特な歴史の中で育ってきた国、地方から成るフランスを愛し、中央から国家を統制しようと謀るコスモポリタンに対抗しようとした。バレスは言う。「フランス全体の国民性は、地方の国民性で形づくられている」。(上掲書、p.110.)

  愛国者のバレスは、国際主義者によって破壊されようとするフランスを目の当たりにした。そこで彼は地方主義を掲げる。つまり、フランスの大地に根を持つ国民を鼓舞して、自らの援軍にしようとしたのだ。彼は次のように宣言する。

  に心からの忠誠を捧げる。なぜなら、私はプロヴァンス人で、プロヴァンスを熱愛しているからだ。フランス国家の伝統を救おうと立ち上がった全ての人と、私は忠実に連帯する。(上掲書、p.201)

  バレスから見れば、フランスとはガリア人とフランク人の血が流れる巨木のような国家である。もし、大地からの養分を吸収する根が切断されれば、その枝や幹は衰弱し、やがて枯れてしまう。革命に酔いしれた左翼分子は、太古から脈々と続く王国の幹と根を巨大な斧で切り離すことに喜びを感じていた。ちょうど、王侯貴族や聖職者の首を刎(は)ねたように、彼らは何の躊躇もなく国家の連続性を切断しようとする。ただし、中央官庁で国家を牛耳るグローバリストは、ギロチンではなく法律という鋏(ハサミ)でフランスをズタズタに切り裂こうとした。バレスは行政官が作り出す法律によって、家庭や生誕地への愛を維持する地方の風俗や慣習が破壊されたと嘆く。

  先祖伝来のものは全て馬鹿げているから、新案の混合物に取り代えねばならない、と世間ではいう。そうすることで精彩のない愚劣な人びと、あらゆる種類の浮浪者たち、古くから土地々々の伝統を捨てて祖国および祖国を象徴する国旗を軽蔑する人びとを生み出した。(上掲書、p.103)

  本来、国家を形成する公民には、本能とも言える素朴で強固な祖国愛があるはずだ。しかし、祖先の歴史から切り離された子供達、すなわち、意図的に頭を改造され、下らない知識を詰め込まれた記憶喪失者には、祖国への愛や誇り、過去と未来に対する使命感や義務感が無い。こうした孤児(みなしご)が求めるものは、目先の銭であったり、見栄を張るための学歴、儚くも消えてしまう世間からの評判、セックス、スクリーン(映画や娯楽)、スポーツにグルメ(食欲)などである。したがって、日本の歴史を学ばなかった帰国子女に、祖国を誇りとする精神や先祖に対する感謝と敬意が無いのも当然だ。もっと酷い奴になると、傲慢な歐米人と一緒に祖国を小馬鹿にし、それが“進歩的人間”の証しだと思ってしまう。西歐諸国で育った日本人は、日本にどんな価値があるのか知らないから、西歐的な思考や行動様式の方が“上等”なんだ、と勝手に思ってしまうのだ。

  しかし、根無し草の日本人には困った事がある。たとえ、どんなに英語が上手でも、彼らは白人にはなれない。西歐諸国に住んでいれば有色人種と見なされ、日本に帰国すれば日本人のツラをした異邦人。「バイリンガル」になったと喜んでいる親は、現実に直面すると、我が子が「コスモポリタンのエイリアン(異質な浮浪者)」になってしまったことに愕然とする。「日本語や日本史なんて勉強しても価値が無い」と思う親は、フランスに住んでフランス人の友人をつくり、彼らに向かって次のように言ってみればいい。

  「フランスに住めば誰でもフランス語を喋れるし、フランス史を学んでも大金を摑める訳じゃないから、そんな事をしても時間の無駄よ」、と。

  まともなフランス人なら、顎を外すくらい驚くだろう。たぶん、「哀れな奴だ !」と見下すに違いない。常識的なフランス人は、我が子が正しい発音でフランス語を話し、優雅で論理的な文章を書けるよう教育する。子供にとって、美しいフランス語は貴重な財産だ。また、ヨーロッパ文明の中心であるフランスの歴史を学ぶことは喜びであると共に、国民になるための基礎である。パリの街をうろつくジプシーならいいけど、偉大なるフランスに属し、ガリア人の血を引く正統な国民であれば、祖先の栄光と悲劇を心に刻まなければならない。一方、フランスに潜り込んだアルジェリア人やギニア人なんか、フランス史を学んでも「外国史」と変わらないから、「何で俺達が死んだ白人を褒めなきゃならないんだ?!」と唾を吐く。彼らはゲットーの壁に落書きを刻むのが精一杯。しかも、卑猥な言葉か汚い罵倒語だけ。苦笑してしまうが、たまに綴りが間違っていたりする。

  電通の社員なんかに日本国民としての名誉や義務を求めるのは、端っから無理と分かっている。が、こんな連中を「上等国民」と勘違いする庶民も情けない。いくらテレビ局を牛耳る大企業といっても、所詮は銭を最優先するビジネス組織じゃないか。ブローテン航空のCMに反対しなかった田中氏はエリート社員だったのかも知れないが、日本人としての誇りは持っていなかった。もしかしたら、西歐人と真っ向から対峙して、「日本人を馬鹿にするな !」と怒ることを恥じていたのかも知れない。なぜなら、左翼リベラリズムを格好いいと思う西歐人は、国民国家を優先するナショナリズムを「カビ臭い因習」と見なすからだ。でも、田中氏は一体どの国に属していたのか? もし、彼が日本人であったなら、「自分も日本人である」といった事実を忘れていたことになる。英語をネイティヴ並に喋ったからといって、イギリス人に変身できる訳じゃない。歐米で育った帰国子女の中には、自分を白人と錯覚している者がいて、ブローテン航空のCMで描かれる日本人を目にすると、「私はあんな日本人じゃない !」という態度を示す。こういう人物には、「そうだよねぇ〜。君は西歐人みたいだ。だが、君の両親や祖父母は、あの間抜けな日本人と同し種類なんだよ」と言ってやれ。どんな顔つきになるのか楽しみだ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68777235.html




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200. 中川隆[-8764] koaQ7Jey 2019年8月19日 13:21:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3978] 報告

【Front Japan 桜】ピジンイングリッシュで良いじゃないか [桜R1-8-14] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=k_3m3SLm2co


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201. 中川隆[-8719] koaQ7Jey 2019年8月22日 08:16:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4027] 報告

【世界から】教育ローン1億円超も 米、異常≠ネまでに高騰する大学学費
2019/8/20 16:16 (JST)
https://this.kiji.is/536424466294096993?c=39546741839462401


「学生の借金を終わらせろ」などのプラカードを掲げ民主党のサンダース上院議員を支持する人々=2016年5月26日、カリフォルニア州(AP=共同)

 日本では大学生の2人に1人が利用しているとされる奨学金。返済に苦しんだり、中には行き詰まって破産する人が増加するなど社会問題化している。米国でも同様で、大学に通うかなりの学生が学費の一部、あるいは全てを自分で賄っている。といっても、この間まで高校生だった若者が十分にお金を持っているというわけではもちろんない。大半の学生は教育ローン、つまり借金をして学費に充てることになる。卒業後に働いて返すわけだが、米国ではごく一般的なことで、統計などによると2018年に大学や大学院を卒業した人のおよそ7割が何らかの教育ローンを抱えているという。

▼高騰する学費

 米国の大学の授業料は非常に高い。私立大学では年間平均約3万3千ドル(日本円で約350万円)、州立大などでも約9600ドル(同約100万円)が必要になる(ちなみに30年前は私立で1万5千ドル、公立3千190ドルだった)。ハーバード大やコロンビア大などで構成する「アイビーリーグ」などの名門校はさらに高額だ。もちろん、これは授業料のみ。下宿代や食費は別だ。それらの費用は安く上げても年間1万ドル(同約100万円)は下らないだろう。都市部の私立大学では日本円に換算すると年間約400万円以上が必要で、一般家庭には相当の負担になる。日本に目を転じると、大学生の1年間にかかる費用は平均156・9万円(日本政策金融公庫調べ)。これには学費に加え、学費や教科書代などを含んでいる。米国の大学生がいかに多くの負担を強いられているかが分かる。

 あまりに高い学業コストは親の援助では追いつかず、米国の大学生の多くは何らかの借金をすることになる。ローンには大きく分けて(1)連邦政府が提供するもの(2)銀行などの教育ローンなど―があり、金利も返済期間もさまざまだ。

  15年に発表された連邦準備銀行の統計によれば、16年に大学を卒業予定だったローン利用者の平均借入額は約3万7千ドル(同約390万円)だという。連邦政府のローンを使い、金利を約7%と仮定して完済まで20年と想定すると、返済額は月約300ドル(同約3万2千円)となる。そして、やっと返済が終わる時は40代半ばになっているケースも珍しくない。

 大学院に行く場合、生活はさらに圧迫される。ビジネススクール(経営大学院)の年間学費は4万〜6万ドル(同約424万〜636万円)。全てをローンで賄えば、卒業する頃には10万ドル(同約1060万円)近い借金を背負う。これに大学時代のローンが加われば、毎月の支払いは約1千ドル(同約10万6千円)を超える。さらに、学位を取ったからといって職が保証されるわけではない。米国では業績の上がらない社員はすぐにクビを切られる。そうなったら直ちに返済が滞ってしまう。

大学のキャンパスで楽しそうにくつろいでいる学生たち。だが、多くの学生が返済しなければならない重いローンを背負っている

▼破産が認められないローン

 そんな状況では破産するしかない―。そうと思ったとしても、米国の教育ローンにおいては破産という最後の手段に訴えることが極めて難しい。住宅などのローンと異なり、病気その他で最低限の生活費さえままならないなどといったような「不当なまでに困難な状況」にあることを証明できない限り、教育ローンを理由とした破産は認められないのだ。

 昨年、「ウォールストリート・ジャーナル」に教育ローンに苦しむ歯科矯正医師の記事が掲載され、全米にちょっとした衝撃を与えた。37歳のこの歯科医はエリート大の歯学部を卒業し、第一線で活躍する医師だが、その過程で106万ドル(同約1億1千200万円)もの学費ローンを抱えることになってしまった。医師という立場では「不当なまでに困難な状況」からはほど遠く破産は不可能。それゆえ、一生涯借金のために働き続けるしかないのだ。利子も払いきれない状況で、借金は毎日130ドル(同約1万4千円)ずつ増えているという。これはあまりに極端な例だが、教育省の発表によれば、10万ドル(同約1060万円)以上の教育ローンを抱える人は全米で約250万人に上るという。この事実はもう「異常」としか表現できない。

▼膨らみ続ける貸付額

 教育ローンの利用状況を全米規模で見てみると、その異常さがさらに際立つ。現在ローンを返済中の人は現役学生を含めおよそ4400万人、実に米国人の7人に1人がローンを抱えていることになる。その総額は19年現在1兆6千億ドル(同約170兆円)にまで膨れ上がっている。この数字は米国人のクレジットカードの借金総額を上回り、米国の国内総生産(GDP)の7・5%に迫るほどだ。もっとも、これには子供のために学費を借りた親も含まれるが、米国人の肩にのしかかる教育ローンの重さがいかほどかは理解できるだろう。米国家庭の借金の中で教育ローンが占める割合は、住宅ローンに次いで大きいのだ。

 厳しい状況の中、支払いができなくなる元学生の債務者は後を絶たない。シンクタンクの「ブルッキングインスティテュート」は昨年、04年に教育ローンを借りた人々の40%が23年までに債務不履行に陥るだろうという予想を発表した。

 こうなってくると、高額の借金を背負ってまで大学教育を受けることに意味があるのか、という疑問が浮かんでくる。17年の米国労働統計局の発表では、高校卒業者の週給の中央値は712ドル(同約7万5千円)、大学卒業者が1173ドル(同約12万円)だという。相応の差はあるものの、教育ローンの支払いを考えると実質収入では逆転も起こりかねない。

 ニュースサイト「ビジネスインサイダー」の調査によると、教育ローンを借りて大学を卒業した20代の若者の21%が「まったく価値に見合わなかった」、23%が「恐らく価値に見合わなかった」と答えている。あまりに高額になった米国の教育環境は、プラクティカル(実用的)な米国人にとって、納得のいく費用対効果をもたらしてくれなくなりつつある。(東京在住ジャーナリスト、岩下慶一=共同通信特約)


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202. 中川隆[-8636] koaQ7Jey 2019年8月27日 17:54:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4115] 報告
2019.08.27
社会が崩壊した米国には自国の企業を受け入れる能力がなくなっている


 カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、アメリカの7カ国とEUの首脳がフランスのヌーベル・アキテーヌにあるビアリッツで8月24日から26日にかけて会議を開いた。経済、外交、軍事などあらゆる分野で影響力が低下しつつあるアメリカとそのアメリカに従属する国々の集まりにしか見えない。

 親分とも言えるアメリカの大統領、ドナルド・トランプはアメリカ企業に対して中国から出るように訴えたというが、似たことをバラク・オバマは2011年2月に言っている。当時、オバマは大統領だった。

 オバマはサンフランシスコを拠点とするエレクトロ産業、いわゆるシリコン・バレーの幹部たちと食事をともにしていたのだが、その際、アップルのスティーブン・ジョブスに対して同社のiPhoneをアメリカで生産しないかともちかけたのである。同社はiPhoneだけでなく、iPadやほかの製品の大半を中国など国外で作っている。

 しかし、ジョブスの返事はつれないものだった。​アメリカへ戻ることはない​と言われたのだ。アジアでは生産規模を柔軟に変更でき、供給ラインが充実、そして労働者の技術水準が高いという理由からだという。

 新自由主義に支配されるようになった1970年代の後半からアメリカでは投機家が目先の私的な利益を増やすために製造業を解体して売り飛ばし、仕事は国外へ移動した。1980年に中国が新自由主義へ舵を切り、その中国を支配できると考えたのかもしれない。エリートの子どもがアメリカの大学へ留学するようになったこともアメリカの支配者を安心させたかもしれない。

 アメリカの支配層はターゲット国に手先を作り上げるため、エリートの子どもを留学させてきた。アメリカに従えば地位とカネと快楽が約束されるとすり込むわけだ。そうした快楽には違法行為も含まれ、その行為は記録され、後に脅しの材料に使われる。

 留学先になる大学の水準は維持されているかもしれないが、アメリカでは庶民が通う公的な学校は崩壊状態にある。思考力のある庶民は危険であり、忠誠心だけを養っておけば良いということ。そのための「道徳」である。

 アメリカと同じように日本でも公教育が破壊されているが、その結果、生産現場で必要な中間レベルの技術を持つ人が消滅した。いや、日本でトップクラスと言われる大学を卒業した学生の水準低下もかなり前から指摘されている。

 アメリカ企業が自国へ引き上げても企業を支える基盤が崩壊している。中国から高度な製品を生産する工場を移転させられる国は思い当たらない。教育システムが崩壊しただけでなく、職人の技術が継承されずに韓国や中国などへ流出した日本も無理だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908270000/


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203. 中川隆[-8542] koaQ7Jey 2019年9月03日 11:55:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4221] 報告

2019-09-03 道徳について - 内田樹の研究室


 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 道徳の本を書くように頼まれました。

 何を書いたらよいのかわからないままに、「うん、いいよ」と引き受けてしまいました。ふつうは何を書くか決まっているから引き受けるんでしょうけれど、このときは何を書けばいいかわからないのに、引き受けてしまいました。書きながら考えてみようと思ったからです。

 この本はそういう本です。道徳について書かなければいけないのですけれど、何を書いていいかよくわからない。だから、「道徳について何を書いていいかわからないのはなぜか?」というところから書き始めることにします。

 どうして「何を書いていいかわからない」のか。それは「道徳」ということばの意味が僕にはよくわかっていないからです。いや、ある程度はわかっているのでしょうけれど、あくまで「ある程度」です。ちゃんとわかっているわけじゃない。だから、人に向かって「そもそも道徳とは・・・」というような説教ができる気がしない。

 でも、それって変ですよね。

 だって、「道徳」って、ごくごくふつうの、誰でも日常的に使うことばだからです。そういう「誰でも日常的に使うことば」の意味がよくわからないということがあるんでしょうか?

 あるんです。

 道徳ということばを僕も使います。まるで、その意味がよくわかっているかのような顔をして使います。

 でも、こうして改めて「道徳の本を書いてほしい」と言われると、自分がいったい道徳について何を知っているのか、どのようなことを言いたいのか、よくわからない。

 ふだんふつうに使っていることばなのに、改めて「それはほんとうのところ、どういう意味なんですか?」ときかれると、とっさには答えられない。

 きっとそれは、道徳というのがそれだけ手ごわいことばだからだと思います。
 簡単に扱うことを許さないこの「手ごわいことば」について、これから考えてみることにします。
 
 これからあと僕が書くのは、あらかじめ用意していた話ではありません。書きながら考えたことです。だから、あまりまとまっていないでしょうし、読み終わったあとに「なるほど、そうか」とすっきり気持ちがかたづくこともないと思います。

 でも、それでいいんじゃないですか。

 僕くらい長く生きてきた人間が、あらためて「道徳とは何か?」を考えたときに、うまく説明できないということそのものが、とてもたいせつな情報だと思うからです。

 世の中には、よく使われているのだけれど、実はそのことばのほんとうの意味をだれもよく知らないということばがあります。「あります」どころか、見渡すと、そんなことばばかりです。

でも、意味についてみんなが合意していないと話が先に進まないということはありません。

 たとえば「神さま」というのは、それがほんとうは何を意味することばなのか、誰も知りません。だって、誰も見たことがないんですから(「私は見た」という人がときどきいますけれど、それはちょっとわきに置いて)。そもそも「神さま」というのは「人知を超えたもの、人間の感覚や知力をもってしては感知することも理解することもできないもの」なんですから、「神さまというのは、これこれこういうものだよ」と人間に説明できるはずがない。

 でも、「神さま」ということばが何を意味するかよくわからないから、そういうことばは使ってはいけないということになるとむしろ困ったことになります(「『神さま』ということばって、何を意味するか、よくわからないですね」ということさえ言えなくなりますから)。

 だから、意味がよくわからないけれど、使う。意味がよくわからないけれど、教会に行ってお祈りしたり、お寺でお参りしたり、神社で柏手を打ったりすることが僕たちにはできます。そういうときには、自分がなにをしているのか、なんとなくわかっている。なんとなくわかっているなら、正確なことばの定義なんかできなくても、それでいいと思っている。僕もそれでいいと思います。なんとなくにしても、こどもの考える「神さま」と大人の考える「神さま」はたぶんずいぶん違うものです。いろいろなふしぎな経験をしたり、つらいことやたのしいことを経験したあとになると、大人たちは「神さま」について、ことばの意味はよくわからないままに、子どものころよりは深い考え方をするようになります。ひとによって「神さまはたしかにいる」と確信を深めたり、「神も仏もあるものか」とふてくされたり、さまざまですけれど、それらのことばには経験のうらづけがある。だから、深い実感がこめられる。

 意味は定義しがたいけれど、いろいろな経験を積んでくるうちに、「個人的にはこういうふうに理解することにした。私はこういう意味で使う」ということばがあります。ほかのひととそのまま共有することはできません。でも、ひとりひとりの個人が、自分自身の経験から引き出してきた「ことばの意味」はそれなりにずしりとした重さやたしかさがある。よく意味がわからないままに、使われることばというのは、たぶんそういうものではないかと僕は思います。

 道徳もそれと似ています。

 何を意味するのかよくわからないけれど、ひとりひとりなんとなく自分なりに「だいたいこういう意味かな」と思っているものがある。だから、ひとりひとりの個人的な経験によって、ことばの厚みや奥行きや手ざわりがずいぶん違ったものになる。

 もちろん、道徳にも辞書的な定義はあります。たとえば、手元の新明解国語辞典にはこうあります。

「社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき、行為の規準」。

 なるほど、その通りですね。でも、ここにも書いてありますね、「一人ひとりが」って。一人ひとりが守ることであって、「みんないっしょに」守るべきものではない。ということは、僕たちの一人ひとりが、自分で、自分の責任で、その「行為の規準」を定めるわけで、どこかにいる誰かが僕たちに代わって定めてくれるものじゃないということになります。誰かが僕たちに代わって定めてくれる、一般的な「行為の規準」であるなら、それは「みんなで守る」べきものであって、「一人ひとりが守る」という限定は不要です。あえて「一人ひとりが」と書いてあるのは、決めるのも自分、守るのも自分、ということです。

「こういう考え方が道徳にかなっている。こういうふるまいが道徳的である」と自分で判断して、自分で行う。他人に判断してもらうことも、他人に押し付けることも、できない。もし、誰かが皆さんに「こういうふうにふるまうのが道徳的なのだから、そうしろ」と命令してきたら、(たとえ、その命令がなかなか正しそうに思えても)「そういうことは、やめてほしい。自分で決めるから」と言ってよい。そういうことです。

「道徳的であること」とはどういうことか。それは先ほどあげた「神さま」の場合と同じように、一人ひとりの経験の差によって、ずいぶん違ったものになります。
それでいい、と僕は思います。

 こう言ってよければ、人によって、薄っぺらな道徳と厚みのある道徳がある。底の薄い道徳と奥行きの深い道徳がある。手触りの冷たい道徳と手触りのやさしい道徳がある。軽い道徳とずしりと重たい道徳がある。でも、正しい道徳と間違った道徳があるわけではない。

 どれもそれぞれの仕方で「正しい道徳」なのです。ただ、そこには程度の差がある。その程度の差をもたらすのは、こう言ってよければ、一人ひとりの成熟の差です。

 成熟した人の道徳は深く、厚みがあって、手触りがやさしくて、ずしりと重い。未熟な人の道徳は、そうではない。それだけのことです。そして、できることなら、成熟した人間になって、成熟した道徳にしたがって生きてゆきたい。僕はそう思います。

 具体的な事例をあげたほうがわかりやすいかもしれないですね。こんな場面を想定してみましょう。

 電車が満員で、座席がありません。そこに片手に赤ちゃんを抱いて大きな荷物をもった女の人が乗ってきました。誰か席を譲ってあげればいいのにと見回してみたら、高校生たちがおしゃべりに夢中になっていて席を譲る様子がありません。

そこでひとりのおじさんがその高校生の一人に向かって、「この人に席を譲ってあげなさい。君は若いんだから」と言ったとします。

 そういうこと、ときどきありますよね。

 ところが、そしたら、席を譲りなさいと命じられた高校生が、きっと顔を上げて、「あなたはいま僕を指さして『立て』と言われたけれど、どうして僕が席を譲らないといけないんですか」と口をとがらせて反論してきました。
さあ、大変です。

「高校生だって疲れ切っていて、あるいは外からは見えにくい身体的不調のせいで席を立ちたくないということだってあるでしょう。あなたは僕の健康状態について何をご存じなんですか?この車両にいる他のすべての座っている人たちの中からとりわけ僕に座る権利を放棄するように命じたことにあなたの側に何か合理的根拠があるのですか?」と反問してきました。まあ、ふつうの高校生はこんなしゃべり方をしませんけれど、話をわかりやすくするためです。

 たしかに、おじさんとしても、そう言われると困ります。電車の中で誰が席を譲るべきかについての一般的な基準なんかないからです。外から見ただけでは、誰が「立っても平気」な健康状態にあるのかなんてわかりゃしません。
でも、言ったおじさんは、こういう場合は平均的にいちばん体力がありそうな高校生くらいが席を譲るべきだという彼なりの道徳的判断に従ってそう発言したわけです。

 それに対して高校生の方は「それは、あなたが勝手に作った、主観的なルールに過ぎない。誰でも納得できるような、一般性のあるルールによって裁定して頂きたい」という異議を申し立てた。さあ、どちらの言い分に従うべきでしょうか。

 たしかにいずれも言うことは正しいのです。おじさんも正しいし、高校生も正しい。でも、二つの「正しさ」がかみ合ってしまった。二人ともたしかに道徳的に考え、道徳的にふるまっているんです。にもかかわらず、当面の問題(「誰が子連れの女性に席を譲るか?」という問題)はまったく解決していない。むしろ、おじさんと高校生がにらみあっているせいで、車内は険悪な雰囲気になってしまった。子連れの女の人も、自分のせいでそんなことが起きたので、かえっていたたまれない気持ちになった。「もういいですから、私は立ってもぜんぜん平気ですから」とおじさんと高校生にむかって小さな声でつぶやくのですけれど、その声は頭に血がのぼったふたりには届きません。

 おじさんが「道徳的」にふるまい、高校生が「道徳的」に応じたことで、事態は誰も何もしなかったときより悪化してしまった。よくあるんです。こういうこと。せっかく人々がそれぞれのしかたで「道徳的」なふるまいをしたのに。

 それは先ほど書いたように、道徳の規準が「ひとりひとり」に委ねられているからです。しかたがないことなんです。

 道徳の規準を自分ひとりだけに限定的に適用している限りはこういうトラブルは起きません。道端に落ちている空き缶を拾うとか、同時にドアの前に立った時に「あ、お先にどうぞ」と道を譲るとか、雪の降った朝に早起きして家の前の道の雪かきをしておくとか、とか。

 こういうのは一人で「やろう」と決めたら、誰の許可も同意もなしに、できることです。そして、ささやかだけれど世の中の役に立ちます。

 でも、そういう「よいこと」でも、他人にも押し付けようとするとだいたいうまくゆかなくなります。見知らぬ他人から「おい、おまえ、そこのゴミ拾えよ。世の中、住みやすくなるから」と命令されると、「かちん」と来ますよね。

 「道徳的な行い」は、自分ひとりで、黙ってやっている分には「社会秩序を保つ」役に立ちますが。でも、同じ行いでも、それを人に強制しようとすると、むしろ「社会秩序が乱れる」ことがある。なかなか難しいいものです。

 では、どうすればいいのか。

 車内ではおじさんと高校生のにらみあいがまだ続いております。そこにもう一人の人物が登場してきました。

 これまでのやりとりをじっと聞いていたひとりの紳士が席を立って「あ、私、次で降りますから。ここ、どうぞ」と女の人に席を譲ってくれたのです。いや、よかったです。みんなほっとしました。女の人も素直に「あ、そうですか、どうもありがとうございます」と空いた席に子どもを膝にのせて座ってくれました。高校生はまた居眠りに戻り、説教したおじさんは、いささかばつが悪そうですけれど、まあ「子連れの女性に座席を提供する」という本来のミッションは果たしたわけですのでそれなりに満足しました。

 よかったですね。

 でも、この席を譲ってくれた紳士は実は「次の駅で降りる」わけじゃなくて、もっと先まで行く予定だったのです。おじさんのやや高圧的な態度と高校生のきびしい反論のせいで車内がちょっと気まずくなったので、とっさに、緊張緩和のために「次で降ります」と嘘をついたのです。そして、その気づかいが他の人に知れないように、次の駅で降りて次の電車を待つことにしたのでした。

 この紳士のふるまいもやはりとても道徳的だと僕は思います。でも、この人の道徳はさっきのおじさんや高校生の道徳とはちょっとレベルが違うように思われます。良し悪しではなく、ちょっと手ざわりが違う。微妙に深くて、微妙にやさしい。

 その第一の理由は、この紳士が自分の気づかいが他の人に知れないようにしたからです。
ここが「深い」と僕は思います。

「私、次で降りますから」と言って席を譲った紳士が、すぐに降りたはずの駅のベンチに座って、次の電車を待っている姿をもし車内の人から見られてしまったら、「あら、あの人はこの場をおさめようとして、自分の席を譲り、自分の時間を少し犠牲にしたんだ」とわかってしまいます。そうなると、おじさんも高校生も気恥ずかしくなりますし、譲られたお母さんもかなり申し訳ない気分になります。みんなちょっとずつ気持ちが落ち込んでしまいます。ですから、席を譲った紳士はたぶんその気づかいが他の人に知られないようにしたんじゃないかと思います(電車が発車して、自分の姿が見えなくなるまで、ホームをゆっくり出口に向かって歩いてみせるとかして)。

 道徳的なふるまいにおいてたいせつなことは、「その気づかいが人に知られないようにする」ことです。でも、これはなかなかわかりにくい話なんですよね。

 ふつうは「いいこと」をしたら、それをできるだけみんなにアピールして、できることなら「おほめのことば」を頂きたいと思う。そうですよね。でも、「いいこと」をしても、黙って、そっと立ち去るということも時には必要なんです。「時には」どころか、できればあらゆる機会にそうである方が、世の中は暮らしやすくなるんじゃないかな・・・と僕は思います。

 例えば、こんな状況を考えてください(例えば、というのが何度も出てきますけれど、こういう問題は具体的な事例を想定しないと、なかなかぴんとこないんですよ)。

 ある人が村のはずれの川沿いの道を歩いていたら、堤防に小さな穴が開いていて、そこからちょろちょろと水が漏れているのを見つけました。そこで、小石を拾って、その穴に押し込んで、水を止めました。そのおかげで、しばらくして大雨が降った時に、その堤防は崩れず、村は水没をまぬかれました。

 でも、その人は自分が押し込んだ石が堤防の決壊を防いだことを知りませんし、村人たちもその人が村を救ったことを知りません。

 こういう人のことを指す英語があります。

「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」というのです。「その功績が歌に歌われて、称えられることのない英雄」という意味です。たいへんな功績をあげたのだけれど、人々はそのことを知らない(場合によっては、その人自身も自分がたいへんな功績をあげたことを知らない)。

 実際に、歴史上そういう人はたくさんいました。その人たちの目に見えない気づかいのおかげで、多くの人が、多くの街や、多くの文明が救われた。でも、その人を「英雄」として称える歌は誰も歌わない。知らないから。

 でも、これは僕の個人的な意見ですけれど、みんながその功績を知っていて、みんなに「称えられる英雄」よりも、「誰も(本人さえ)その功績を知らない英雄」の方が、ほんとうの英雄ではないかと思います。

 というのは「アンサング・ヒーロー」たちは、たぶん自分たちの英雄的行為を、なにげなく、とくに「こういうことをすれば、これこれの結果が導かれるかもしれない」というような予測もせずに、ごく日常的なふるまいとして行ったはずだからです。

 例えば、雪の降った日に、朝早起きして、雪かきをした人がいたとします。その人は一通り雪かきを終えると、家に入ってしまいました。あとから起き出して通勤通学する人たちは、なぜか自分の歩いている道だけは雪が凍っていないことにも気づかずに、すたすた歩いてゆきました。でも、この人が早起きして、雪かきしてくれなかったら、その中の誰かが滑って、転んで、骨折したりしたかもしれません。さいわいそういうことは「起こらなかった」。起こらなかったことについては、誰もそれについて感謝したり、それを称えたりはしません。でも、たしかに雪かきした人はこの世の中から、起こったかもしれない事故のリスクをすこしだけ減らしたのです。

 この人もまた「アンサング・ヒーロー」です。

「アンサング・ヒーロー」とはどういう人か、これで少しわかったと思います。
 それは誰かがしなければいけないことがあったら、それは自分の仕事だというふうに考える人のことです。

誰かが余計な責任を引き受けたり、よけいな仕事をかたづけたりしないといけないなら、自分がやる。そういうふうにふだんから考えている人。そういう人は高い確率で「その功績を歌われることのない英雄」になります。

 誰かがしなければいけないことがある。それは誰がやるべきか。

 ふつうはそういうふうに問いを立てます。もちろん、その問いの立て方で正しいのです。少しも間違いではない。でも、そういう問いの立て方は道徳としては「浅い」ということです。

 繰り返しご注意申し上げますけれど、それは「間違い」ではないんですよ。ただ「浅い」「薄い」「軽い」というだけのことです。

 誰かがしなければならないことがあるなら、それは私の仕事だ。こういう考え方をする人はそれほど多くありません。そして、実際にそれほど多くの人がそういう考え方をする必要もないんです。30人に一人、いや50人に一人くらいの割合でそういうふうに考える「変な人」がいてくれたら、それだけで、もうこの世の中はじゅうぶんに住みやすいものになります。そういう人は、道に落ちている空き缶を拾ったり、席を譲ったり、雪かきをしたりというのは「誰の仕事でもないのだから自分の仕事だ」と思っている。それが当然だと思っている。

「だって、誰かがやらなくちゃいけないわけでしょう。だったら、『誰かがやらなくちゃいけない』と最初に気がついた人がやればいちばん効率がいいんじゃないですか?」

 こういう人は満員電車で席を譲るのと同じように、床に落ちているゴミを拾い、エレベーターで先を譲り、そして、たぶんふだんと同じような口調で「難破船から脱出する救命ボートの最後の席」を間にした時も「あ、お先にどうぞ」と言えるんじゃないかと僕は思います。

 というのは、「救命ボートの最後の席」を誰が譲るべきかなんてむずかしい問いは頭で考えて結論が出るものじゃないからです。いくら考えたって、納得のゆく結論なんか出るはずがない。こういうのは、「そういうときには『あ、どうぞ』と言うこと」がもうすっかり習慣になっていて、身体にしみついてしまって、自動的にそういうことを言ってしまう人にしかできません。たぶん本人も言ってしまった後になって、「あれ、今オレ、救命ボートの最後の席を譲っちゃったけど、それってオレが死ぬってことじゃん・・・」とちょっとびっくりしたんじゃないかと思います。そして、「でもまあ、言っちゃったことはいまさら取り消せないしなあ」と涼しく諦めたんじゃないかと思います(見て来たわけじゃないので、知りませんけれど)。

『タイタニック』という映画がありましたね。レオナルド・ディカプリオ君とケイト・ウィンスレットさんが主演した恋愛パニック映画です。それ以外にも、これまでもタイタニックの沈没を描いた映画はいくつもあります。生存者がずいぶんいましたから、沈没間際に何が起きたのかについては、かなり信頼性の高い証言が残されていて、それに基づいてそれらの映画は作られていたはずです。僕も何本か見ましたけれど、どれも沈没間際に、「お先にどうぞ」と救命ボートの席を譲った人たちが出てきました。そのほかにも、最後まで自分の持ち場を離れずに仕事をやりとげた人たち(『タイタニック』では管弦楽を演奏する音楽家たちが印象的でした)が描かれていました。「そういう人」が実際に少なからぬ数いたんだと思います。「お先にどうぞ」とふだんの勢いでつい言ってしまった人たちが。

 それでは、そろそろ「まとめ」に入りたいと思います。

 道徳的であるというのは、ひとことで言ってしまうと、「誰かが引き受けなければならない仕事があるとしたら、それは私の仕事だ」という考え方をすることです。というのが僕の意見です。

 それは別に合理的ではないし、フェアでもありません。でも、そういうふうに考える人が集団の中に何人か含まれていないと、人間は共同的に生きてゆくことはできません。これは断言します。でも、全員がそうである必要はない。何人かでいいんです。ほとんどの人は「誰かが引き受けなければならない仕事があるとして、それを誰がやるかは、みんなで相談して決めればいいんじゃないの」というふうに考えます。それでぜんぜん構わないのです。でも、そうやりかたは、場合によっては、それほど合理的ではない。

 だって、ものすごく簡単なこと、例えば、床に落ちているゴミを拾うとかいうことについて、それを誰がやるかについて、「みんな」で集まってもらって、「このゴミは誰が拾うべきか」について相談するなんて非効率すぎるでしょう。みんなに声をかけて、時間を調整して、会議室をおさえて、「誰がゴミを拾うべきか」会議を開くくらいなら、その暇にみつけた「私」がすいと拾って、ゴミ箱にぽいと放り込めばいい。

 あるいはものすごく難しいこと、さきほどの「タイタニック号の救命ボートの最後の一席」を誰が譲るかのような問題って、「みんなで相談」なんかしている暇なんかあるわけがない。即決しないといけない。そういうときは、いつもの調子で、エレベーターの入り口で先を譲るような口調で、「お先にどうぞ」とすぱっと言う人がいてくれないとどうにもならない。助かる命も助からない。

 そういうことです。

 最後にひとつだけ。それはどうしたらすぱっと「お先にどうぞ」って言えるようになるのかということです。どうしたら、そういう習慣が身につくようになるのか。

 それは別にむずかしいことではありません。
 ハッピーな人生を送っていればいいんです。

 これまでの人生、とっても楽しかったなあ。いいこといっぱいあったなあ。他の人よりもずいぶん恵まれた人生を送ってきたんじゃないかな。そういうふうに思えたら、どんなときも、自然に「あ、どうぞお先に」って言えると思うんです。自分はもう十分に幸福だったから、これ以上幸福であろうと願うのはちょっと欲張り過ぎかな・・・というふうに思えたら、人間は「お先にどうぞ」ということばを自然に口にすることができる。僕はそんなふうに思います。

 逆に、今の自分は不幸だ。これまでも不幸つづきだった。だから、こんなところで人に先を譲るほどの余裕はないぞ。そう思う人は決してよけいない「雪かき仕事」はしてくれません。しかたがないですよね。少しでも生き延びて、幸福になるチャンスを求めたいわけですから。自然な感情ですもの、そう思って当然です。

 だから、世の中を住みやすく、気分のいい場所にしようと思ったら、「お先にどうぞ」とすらっと言える人の数を増やせばいい。そして、みなさんが「お先にどうぞ」と言える人になるためには幸福になればいい。簡単ですよね。

 道徳の本をここまでずらずらと書いてきて、最後にたどりついた結論は僕にとってはすとんと納得のゆくものでした。みなさんは「自分の人生はいいこといっぱいあったなあ。他の人たちよりもずっと恵まれ人生だったな」と思えるように生きてください。それが道徳にかんする僕からの唯一のアドバイスです。

 みなさんのご多幸を願っています。
http://blog.tatsuru.com/2019/09/03_0951.html


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204. 中川隆[-8604] koaQ7Jey 2019年9月13日 19:05:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4181] 報告

2019年9月13日
「英語入試改革」で教育現場は大混乱
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学

「大学入試改革」が揉めていますね。特に、TOEFL(トーフル)などの民間の英語検定試験を導入することに対して、様々な疑念が生じています。

現在は「大学入試センター試験」ですが、2020年度から、つまり現在の高校2年生から「大学入学共通テスト」を受けるように変わります。新しい「大学入学共通テスト」では、英語の試験として民間の英語検定試験が導入されます。「読む」「聴く」「話す」「書く」の四つの英語の技能を測定するためには、民間検定試験を用いるのが手っ取り早いと文科省が考えたからです。

TOEFLやIELTS(アイエルツ)、英検、ケンブリッジ英語検定、GTEC(ジーテック)、TEAP(ティープ)など6団体7種類の民間検定試験から、受験生が好きなものを選び、受験年度の4月〜12月の間に最大2回受験し、一番良い点数を大学入試の際に用いるという制度が想定されています。どの程度、民間検定試験の結果を活用するかは、現在のところ、各大学の裁量に任されています。2023年度までは、大学入試センター試験でも現行通り、「読む」「聴く」を問う英語の試験を続けますが、将来的には、民間の英語検定試験のみで入試の英語試験が行われるようになる予定です。

去る9月10日に、全国高等学校長協会が、文科省に英語民間試験の導入の延期を求める要望書を提出しました。

「全高長、英語民間試験の導入延期求める 来年度の大学入試」(『産経ニュース』2019年9月10日付)

https://www.sankei.com/life/news/190910/lif1909100029-n1.html

導入の延期を求めるのは当然だと思います。

いくつかの理由が上記のリンク先の記事にも書かれています。

一番多い懸念は、民間試験で公平性が確保できるのかというものです。民間検定試験導入では、入試の公平性が損なわれてしまうのではないかと様々な観点から指摘されています。

例えば、「経済格差」の問題です。民間検定試験のなかには、一回の受験料が約2万5000円に達するものもあります(例えばIELTS。TOEFLもほぼ同程度)。裕福な家庭の子は、高校1年生あたりから何度も受験し試験の形式や雰囲気に慣れ、受験年度に備えるということができるでしょうが、貧しい家庭の子どもはなかなかそれができません。

あるいは「地域格差」です。検定試験のなかには大都市しか受験できる会場がないものもあります。離島など辺鄙な場所に住む受験生は、会場に行くのに泊りがけになる可能性もあります。この点でも、大都市に暮らす受験生は、何度も受験し、実地に訓練を積むことが可能でしょうが、田舎の子には難しくなってしまいます。

試験としての「透明性」も問題視されています。多くの民間検定試験は、実施団体が対策問題集を作成し、販売したりしていますが、下手をすると問題の漏洩につながることはないだろうかという指摘もなされています。多くの受験生を集めるために、あるいは問題集を購入してもらうために、本番の試験に近い問題を掲載した問題集を実施団体が作ったりしないだろうかということです。

これ以外にも、さまざまな問題点が指摘できるでしょう。

私が一番、懸念するのは、それぞれの民間検定試験は、試験本来の目的も、出題形式もさまざまですので、高校の英語の授業が大混乱に陥ってしまうのではないかということです。

例えば、TOEFLはそもそも、米国の大学や大学院などの高等教育機関で英語の非母語話者が学ぶための英語力を測定する目的で開発された試験です。IELTSは、英国やオーストラリアなどの高等教育機関でやはり英語の非母語話者が学んでいけるかどうかの英語力を測るものです。他方、英検など日本の団体が作成するものは、日本人の英語力の測定のために開発されたものです。

それぞれ目的も出題形式も違います。出てくる語彙や文章のタイプも異なります。

高校の英語の授業は、進学校であれば特に、大学入試を意識せざるを得ませんが、そのとき、どの検定試験を念頭において授業を進めればよいか混乱するでしょう。

おそらく、高校の英語の先生方は、どの検定試験でも受験できるように総花的な授業を行うようになるのではないでしょうか。しかし、生徒たちの多くは、どれか一つの試験に特化して対策を練るのではないかと思います。そうなれば、大学受験に熱心に取り組もうとする生徒ほど、どっちつかずの高校の英語の授業よりも塾や予備校、英会話スクールなどの民間業者のほうを頼りにし、学校の英語の授業を軽視するようになってしまうでしょう。

他にも、受験の機会が複数回あるというのも、高校の教育現場を混乱させると思います。前述のとおり、大学入試で実際に使われるスコアを申請できるのは受験年度に最大2回だと定められていますが、検定試験は7種類あり、それぞれバラバラに試験日が設定されています。高校三年生を担当する教員は、ほぼ常に検定試験の日にちを意識して指導に当たらなければならなくなります。学校行事や部活動に、多くの生徒が真剣に取り組まなくなってしまうのではないでしょうか。教員も、そうなってしまうでしょう。

英語入試改革が拙速に進められる背景には、かつて私が拙著『英語化は愚民化』(集英社新書、2015年)で指摘したように、教育的観点というよりも、ビジネスの現場で即戦力となるような人材を育ててほしいという経済界の意向が強くあるといっていいでしょう。

しかし、経済界の狭い、短期的な視野で考えれば、教育現場は大混乱に陥ります。

改めて、「日本人が英語を学ぶ意義とは何か」「将来の日本をどのような国にしたいのか」「将来の世界はどのようなものになるだろうか、どのようにしていくべきか」といった大きな問題意識のなかで、英語教育のあり方、そして大学入試のあり方を考えていくべきなのです。
https://38news.jp/politics/14597

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205. 中川隆[-11299] koaQ7Jey 2019年9月19日 16:41:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1493] 報告
2019年09月13日
「教科書が読めない人」は実はこんなにいる
http://web.kansya.jp.net/blog/2019/09/7087.html


「読解力」といえばあらゆる勉強の基礎。文章が読めなければ問題の意図もつかめず、あらゆる教科が理解不能になってしまいます。そのまま大人になれば、メール文さえ意味不明、マニュアル人間どころかマニュアルすら読めない・・そんな悲惨な状況になってしまいます。

ところがこの「教科書が読めない人」は意外な多く存在するようなのです。

今回はその実態を紹介します。



以下(https://toyokeizai.net/articles/-/300847)より引用します。
————————————-
〇理不尽かつ不可解な非難の裏側にあるもの

前著『AIvs.教科書が読めない子どもたち』を出版してから1年半。多くの方から「腑に落ちた」という感想をいただきました。

まずは、文筆業をされている方たち。「物を書いて世に問うのだから批判されるのは覚悟している。けれども、近年あまりに理不尽かつ不可解な非難が多くて議論にならない。よほど悪意があるのかと思っていたが、この本を読んで、『もしかするとそういう人たちは文章を読めていないのかもしれない』と思い始めた」と言うのです。

次は学校の先生たちです。小学校では、「算数の文章題を解けない生徒の多くが、『(問題で)何を聞かれているかわかる?』と聞いても答えられない。図にすれば解けるのだろうけど、図にすることができない。だからドリルは満点でも、文章題の答案は真っ白のままという生徒は少なくない。それを読解力と結び付けて考えたことがなかったが、この本を読んで『確かに読解力が足りないんだろう』と思った」と言います。

私たちが考案した基礎的・汎用的読解力を測るリーディングスキルテスト(RST)には、「同義文判定」という問題群があります。200字に満たない2つの文の意味が同じか、異なるか、二択で選択します。この能力は記述式問題の答え合わせをするうえで欠かせない能力です。例えば、こんな問題です。

・幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。
・1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。

以上の2文は同じ意味でしょうか。
もちろん、答えは「異なる」です。けれども、中学生の正答率は57%にとどまりました。この話を、とある自治体の教育委員会でお話ししたとき、多くの委員が「信じられない」という顔をしました。何かの間違いではないか、成績に関係ないテストだからやる気が出なかったのではないか、コンピュータで受検するという形式に慣れていなかっただけではないか、との質問が出ました。

ところが、私のすぐ後に登壇した現役の高校の国語の先生がこう言ったのです。新井さんの言うことは真実です。実際に定期試験で、先程の例題の2つ目のような解答を持ってきて、「先生、どうしてこれは×なのですか?」と聞きにくる生徒が少なからずいます、と。「意味が違うでしょう」と言うと、「でも、(キーワードとなる語は)全部合ってます。部分点は出ないんですか?」と食い下がるそうです。

〇解答にさんざん時間をかけても間違える生徒たち

RSTで提示するのは、長文ではなくツイッター程度の短文です。主たる出典は教科書や新聞です。それで「同じ」「異なる」の二択の同義文判定の問題の正答率が3分の2(66%)に届かないような中高校生がかなりの割合でいたのです。

私はうたぐり深い性格です。数千程度のデータで「短文すら読めない中高校生がいる」などとは思いません。やる気がないから適当に答えた生徒が相当数いたのだろう、と当然疑いました。

RSTは他のテストとは異なり、パソコンやタブレットを使って解きます。問題は離れたところにあるサーバーからインターネットを経由して出題されます。ですから、受検者の解答パターンや解答するまでにかかった時間などをモニターすることができるのです。

確かに「数秒以内に解答し、しかも全部@番の選択肢を選び、正答率はランダム並み」という生徒もいました。ですが、その割合は予想をはるかに下回りました。さんざん考えた末に間違えるという生徒のほうが圧倒的多数だったのです。しかも、地域が誇る伝統校――かつては旧帝大に卒業生を送り、その地域の名士や国会議員を輩出したような高校──でも、予想外に成績が悪い。

「意味を理解して読むことができない」という現象が想定外に広がっているのではないか、という疑念が確信に変わったのは、バイトに来ている東大生に頼んで、正答率が低かったRSTの問題を、東大のゼミ仲間に解いてもらった結果を聞いたときです。前著『AI vs.教科書が読めない子どもたち』に出てくる、悪名高き「アミラーゼ問題」に日本人大学院生は全員不正解。唯一正解したのが中国からの留学生だったというのです。

「アミラーゼ問題」とは以下のような問題です。
次の文を読みなさい。

『アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。』
この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
セルロースは(?????)と形が違う。
(1)デンプン?(2)アミラーゼ?(3)グルコース?(4)酵素
(答えは最終ページ参照)

ところが、日本にも世界にもこのような現象を認識し、分析している研究が存在しない。教科書をどう教えるかについては微に入り細をうがって研究している教育系の学会でも、「教科書を生徒は読めるのか」という問題意識を持っていなかったことには驚かされました。「真剣に読もうと思えば、読めるはず」「
読めなかったのはうっかりしただけ」と思い込んで、見過ごしてきたのでしょう。

〇企業現場での読解力不足はトラブルのもと

加えて企業の中間管理職の方たちからも感想をいただきました。「上からは生産性を上げろと言われるが、現場はメールや仕様書の誤読による予期しないトラブル続きで働き方改革どころじゃない。すると能力の高い人材から転職してしまう。一度そのサイクルに陥ると、なかなか立ち直れない」と言います。

こうした危機感が共有されたのでしょう。前著からわずか1年間で小学6年生から一流企業のホワイトカラーまで14万人がRSTを受検しました。それまでの3年間と合わせると、受検者数はのべ18万人を突破しました。

ただ、RSTは(問題の流出や替え玉受験を防ぐために)基本的には実施機関がパソコン教室などの施設を準備し、機関ごとに受検する方式をとっています。例題を数問公開していますが、全体像がなかなかわからない、というご意見が少なからずありました。

そこで、新著『AIに負けない子どもを育てる』では、RSTの最新の研究成果をお伝えするとともに、RSTを体験していただくコーナーも設けました。ぜひ、挑戦してみてください。「事実について淡々と書かれた短文」を正確に読むことは、実はそう簡単なことではなく、それが読めるかどうかで人生が大きく左右されることを実感することでしょう。

基礎的・汎用的読解力を身に付けて中学校、そして高校を卒業させることこそが、21世紀の公教育が果たすべき役割の「一丁目一番地」だと共感してくださる方が1人でも増えることを切に願っています。
(※アミラーゼ問題の答えは、(1)デンプン)
———————————
『「でも、(キーワードとなる語は)全部合ってます。部分点は出ないんですか?」と食い下がるそうです。』

いかにも試験で点を取るための勉強しかしていない「試験脳」的発想ですね。

でも読解力というのは、学校の勉強や試験で身につくものではないように思います。知りたい、理解したい、伝えたい、という根源的な欠乏なくして読解力は向上しないのではないでしょうか。やはりここでも、強制的な勉強の習慣が、追求に向かう情動に蓋をしてしまっているのではないでしょうか。

http://web.kansya.jp.net/blog/2019/09/7087.html


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206. 中川隆[-10962] koaQ7Jey 2019年10月11日 16:39:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1872] 報告

2019年10月11日
施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
「世界秩序構想としての「翻訳」の意義に関する政治社会学的研究」

英米では1980年代から、日本では1990年年代半ばから本格化した新自由主義に基づくグローバル化は、もう終焉を迎えつつあります。グローバル化で各国の普通の人々の生活環境はボロボロになり、社会はすっかり疲弊してしまいました。

米国のトランプ大統領の選出、英国のEU離脱、フランスの黄色いベスト運動など、欧米では、もう数年前からグローバル化路線に対する反発が顕著です。

日本でも来年の東京オリンピックが終わったあたりから、社会の疲弊がますます顕著になるでしょう。我慢強い日本人もさすがに耐えかねて、現在のグローバル化路線に対する疑念があちこちで浮上してくることになると予想します。

今回の共同研究は、そうなるであろう近い将来を見据えて、ポスト・グローバル化(グローバル化以後)の日本の国づくりや世界秩序のありかたを考えていこうというものです。

その際、「翻訳」という理念に着目します。現在のグローバル化路線の欠陥を是正するのに必要なものが、「翻訳」という理念に含まれているのではないかと考えるからです。

現在のグローバル化の背景にある見方では、人間は、文化や言語から切り離されうる存在です。人間は、文化や言語を自由自在に選べるようになるし、そうなるべきだと考えます。

「自由な人間」とは、生まれ育った文化(母文化)や言語(母語)の拘束から離れ、より普遍的で合理的な世界に暮らす存在だと考えられます。グローバル化の見方では、グローバルな市場やグローバル・ガバナンスといったもので作られている合理的な世界で暮らすことこそ、人間にとっての自由の実現だと考えるのです。

しかし、グローバリズムの背後にあるこの人間観は、当然ながら間違っています。

人間は、母文化や母語から切り離されうる存在ではありません。むしろ、母文化や母語のなかで育ち、それらをきちんと身に着けることによってはじめて一人前になる存在です。

もちろん、文化的適応力や言語能力に優れた少数の人々は、母文化や母語から離れ、外国で暮らしてもどうにかやっていけるでしょう。しかし、外国語を母語並みに操れるようになるには、優れた資質と長年の鍛錬が必要なように、外国の文化や言語のなかで十分にやっていくのは、とても困難なのです。(よほど天才的な言語能力を持っていない限り、外国語で、すぐれた小説や詩を書くことはまず不可能です)。

ごく一握りの天才は別として、大多数の普通の人間は、やはり母語や母文化のなかでこそ、自分の能力を磨き、発揮し、いきいきと生きていける存在です。

私は、グローバリズムの思想的な誤りとは、根本的には人間観のこうした誤りだと考えています。人間を、文化や言語から切り離されうる存在だと非現実的に想定してしまったことです。

ですので、ポスト・グローバル化の新しい国づくりや世界秩序づくりの構想は、人間とは自分たちの文化や言語から簡単には切り離せない存在だとみる、より常識的な人間観のうえに立つものでなければなりません。

そういう常識的な見方では、ひとり一人を自由にするには、その人の母文化や母語をできる限り豊かに、充実したものにする必要があります。

日本人が、自由自在に、日常的なことからノーベル賞級の難しいことまで考えたり、話したりすることができるようになるには、日本語が充実していなければなりません。つまり、日本語が多様で豊かな語彙や表現を備えていなければなりません。

日本語だけでなく言語一般に言えることですが、ある言語が多様で豊かな語彙や表現を備えるためには、翻訳が大切です。さまざまな国のさまざまなモノや考え方を表す語彙や表現を、自分たちの言語という土台のうえに、適切に取り入れ、位置づけていくことが必要なのです。つまり、翻訳が必要なのです。

これは、言語にかぎったことではなく、文化一般にも言えます。(ごくごく少数の天才ではない)普通の人々が、多様な経験をし、自分自身を磨き、いきいきと生きていくためには、自分たちの文化という土台を基礎に、外来のさまざまなモノや考え方、生き方を取り込み、うまく位置づけ、自分たちの文化を充実し、豊かなものにしていくことが必要なのです。

つまり、広い意味での「翻訳」(文化の「翻訳」)が大切なのです。

幸いなことに、我々の先人である過去の日本人は、伝統的に「翻訳」が得意でした。近代以前は、中国やインドなどから、さまざまな文化を学び、それを巧みに日本化してきました。近代以降は、国をあげて、欧米から多様な事柄を学び、日本化し、日本の文化を豊かにしてきました。一握りのいわゆる特権階級だけではなく、日本の多くの普通の人々が享受できるようにしてきました

「翻訳」の作業を通じて、多くの普通の人々がアクセスしやすい多様性を作り出し、日本文化を充実させてきたのです。

グローバル化で疲弊しきってしまった日本や世界を立て直すために、日本のいわば伝統的な知恵でもあり特技でもある「翻訳」に注目する必要があると考えています。「翻訳」こそ、ポスト・グローバル化の秩序構想のカギ概念なのです。
https://38news.jp/default/14745

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207. 中川隆[-10634] koaQ7Jey 2019年10月22日 12:14:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2226] 報告

[2019.10.21放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=SwhnH9hERsY

ゲスト 浜崎洋介

今週のテーマは『教育改革という名の病』です。

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208. 中川隆[-10441] koaQ7Jey 2019年10月30日 12:18:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2434] 報告

英語民間試験の導入でついに現実となった優生学的教育制度 二極化・格差社会の真相
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/263918
2019/10/30 日刊ゲンダイ


「身の丈」とはどういうことか(萩生田文科相)/(C)日刊ゲンダイ

 萩生田光一文部科学相の暴言が話題になっている。来年度から始まる「大学入試共通テスト」で導入される英語の民間試験が、居住地や経済力に恵まれていない受験生を著しく不利にする問題について、「身の丈に合わせて頑張ってもらえば」とホザいたのだ。

 24日に放送されたBSフジの番組。かりそめにも文科相の肩書を持つ者が、何という言い草か。とうとうここまで来てしまったかと、天を仰いだ。直ちに連想したのは、1990年代末の取材だ。私は拙著「機会不平等」に書く目的で、それまで教育課程審議会の会長だった作家の三浦朱門氏(故人)に会っていた。2002年度から小中学校の授業時間と内容が3割がた減る、平均学力の低下が懸念されますがと尋ねると、彼は、

「平均学力が下がらないようではどうにもならん。できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい」

 教育とは裕福で、教育熱心な家庭の子のためのみにある、と言い放たれたようなものだった。零細な鉄屑屋の倅で、落第スレスレの“ビリメン”都立高校生だった経験のある私は(居座ったが)、目の前の相手をぶちのめしたい衝動を必死で堪えつつ、こんな言葉も引き出した。

「欧米の(平均)点数は低いが、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければ。それが“ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどくいっただけの話だ」

 三浦氏は文化庁長官だった80年代にも、スポーツ雑誌で〈女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきこと〉だと、それこそ男として恥ずかしい異常な理屈を開陳し、国会で取り上げられた前科がある。教育関係の審議会をそんな人物に託した政府自体の異常性も問われるべきだった。

 あれから20年。私が警鐘を乱打し続けてきた優生学的教育制度の不安は、完全な現実となった。“グローバル人材”の育成と愛国心の涵養を両輪とする教育改革の狙いは自明だ。彼らにとって下々の人生など、ただ己に奉仕させる道具以上でも以下でもないのである。

 萩生田氏は謝罪したそうだが、その程度で済ませては絶対いけない。こんな手合いを放置していたら、権力に近くない家庭の子どもは、みんなあの連中の奴隷か私兵にされてしまう。


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209. 中川隆[-10555] koaQ7Jey 2019年11月01日 15:31:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2326] 報告

2019年11月1日
9割の日本人に英語は不要 成毛眞氏インタビュー
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17789


マイクロソフト日本法人で社長を務め、

『日本人の9割に英語はいらない』(祥伝社黄金文庫)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%EF%BC%99%E5%89%B2%E3%81%AB%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%81%84%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84-%E6%88%90%E6%AF%9B%E7%9C%9E/dp/439661392X


を執筆した成毛眞氏に、日本人ビジネスマンと英語の向き合い方について考えを聞いた。

編集部(以下──)近年、多くのビジネスマンが英語学習に追われている印象だが。


成毛 眞(なるけ・まこと):HONZ代表。元マイクロソフト日本法人社長。インスパイア取締役ファウンダー。元早稲田大学ビジネススクール客員教授。近著に『amazon 世界最先端の戦略がわかる』(ダイヤモンド社)、『俺たちの定年後−成毛流60歳からの生き方指南』(ワニブックスPLUS新書)ほか。
(写真:WEDGE)

成毛:海外赴任や留学など実際に英語を使う必要性もないまま、漠然と英会話や資格の勉強をする人が多い。語学は強固な自己意識に支えられた熱意によってしか習得できない。本当に英語が必要なのは、外資系企業や商社社員、企業の海外部門、官僚、研究者のほか、インバウンドで来日した外国人と直接接する職業の人たちだ。その人数を概算すると、せいぜい日本人の1割。それ以外の大多数の日本人に、英語は必要ない。

──入社基準に資格試験の点数を使用する企業や、若手社員に英語力を課す企業もある。

成毛:1割の日本人に英語は必要だが、若手社員は生きた英語を仕事の中で覚えればよい。私の娘は商社に入り、穀物部門に配属された。そこでTOEICのスコア800点が必要と会社に言われたが、私は娘に「TOEICの勉強はしなくていい。大麦や小麦など穀物に関して誰よりも勉強しろ」と言った。娘はTOEICの点数こそなかなか上がらなかったが、仕事を通じて業務で必要な英語は身につき、さらに穀物に関する知識が豊富という理由で、海外の取引先から指名され、誰よりも早く出世した。仕事の基礎を覚える重要な時期に、英語だけに時間を削(そ)がれるのはもったいない。

──外資系企業で社長を務めたが、英語で苦労しなかったか。

成毛:当初はほとんど話せなかった。海外出張などを通じ仕事の中で身につけていった。英語が使えるか不安な人も多いだろうが、間違いが許されないよほど重要な商談の案件は、通訳をつければよいだけの話。むしろ「読む」ほうが難題だ。ビジネスの現場ではメールや社内資料、契約書、当然ながらすべて英語。貿易や経済用語、法律用語などはしっかり学ぶ必要がある。

──外国人相手のビジネスの場で特に必要と感じたことは。

成毛:すべての英単語を覚えることはできないから、知らない単語や難しい単語を別の言葉で表現できる力が求められる。また海外のビジネスの場では、自国の文化や歴史なども多く聞かれる。世界で活躍する外国人はみな自国のことをよく知っている。その意味で、日本のことを深く知り、自分なりの考えをしっかりと持ち、それを相手に伝えられる人こそ、海外で通用するビジネスマンだ。

──「スピーキング」を含めた4技能の英語改革が進められている。

成毛:生徒の英語力のベースが上がるなら望ましいことだが、重要なのは学ぶ目的意識だ。本当に英語を使う必要がある仕事に就く意志があるならば、大学に入ってから、あるいは職に就いてから、しっかり学べばよい。目的意識なくただ英語に触れるだけでは、いつまでも英語を使えるようにはならないだろう。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17789

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

210. 中川隆[-11273] koaQ7Jey 2019年11月03日 13:22:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1621] 報告
2019.11.03
安倍政権が進める英語政策の目的は国民の英語力を向上させることにはない


 大学入試共通テストで活用されるとされていた英語の「民間試験」が見送りになったという。「2020年のオリンピック・パラリンピックを見据え」て進めてきた政策が破綻しているのだろう。

 私企業に試験を任せるという問題だけでなく、安倍政権が進めてきた英語教育政策に対する批判は英語教育に携わっている学者から批判されてきた。そうした批判は無視されている。

 萩生田光一文科相の格差容認発言が「民間試験」見送りの理由にされているが、格差拡大は安倍晋三政権も推進している新自由主義の基本。社会にはさまざまな理由で厳しい生活を強いられる人びとが存在しているが、そうした人びとを切り捨てるのだ。

 勿論、こうした考え方を否定する人も少なくない。社会的な弱者を救済するため、仏教には喜捨、イスラムにはザカートやサダカという仕組みが存在する。キリスト教にもそうした考え方があり、ヨーロッパの中世では「世俗の乞食さえも折々は、有産者に慈善という善行の機会をあたえるところから、『身分』として認められ、評価されることがあった」のだ。(マックス・ウェーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店、1989年)

 こうした考え方を新自由主義は否定、強者による富の独占を推進するのだが、このイデオロギーは資本主義の基本原理。このイデオロギーが広まった19世紀には弱者を救済する仕組みが切り捨てられていく。イギリスでは1834年に新救貧法が導入されるが、この法律は庶民の貧困化を深刻化させた。

 貧富の格差が拡大すれば社会は不安定化、それを抑え込むために治安システムが強化され、他国を侵略して植民地化、富を奪うという流れ。その略奪した富も最終的には支配階級へ集中し、強大な私的権力が生み出される。

 ウォール街と敵対関係にあったフランクリン・ルーズベルトは大統領時代の1938年4月29日に次のように語った:「もし、私的権力が自分たちの民主的国家そのものより強くなることを人びとが許すならば、民主主義の自由は危うくなる。本質的に、個人、グループ、あるいは私的権力をコントロールする何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」

 新自由主義は私的権力に社会を支配させようというイデオロギーであり、ルーズベルトの定義を採用すると、それはファシズム。新自由主義とはファシズムの別名だということになる。

 この体制の中心にはアメリカの巨大資本、つまり私的権力が存在している。このアメリカを中心とする支配システムを支えている柱のひとつが基軸通貨としてのドルを発行する権利。その仕組みを維持し、潜在的なライバルを潰して世界制覇を実現するために存在しているのが軍隊や情報機関。そうした支配力によって英語が世界の「共通語」として扱われるようになり、英語を母国語とする人びとは有利になった。

 そうした情況を「言語帝国主義」と表現する場合もあるが、少し前からインターネット上の翻訳ソフトの能力が上がり、使えるレベルに達して言語の障壁が低くなっている。ところが日本語が関係すると相変わらず使えない。意図的にそうしているのではないか、つまり日本人が世界の情報に接しにくくしているのではないかという疑惑もある。

 この疑惑が事実かどうかは不明だが、日本人が外国へ情報を発信したり、外国の情報を入手すること、日本人が外国人とコミュニケーションすることを日本の支配者は嫌がっている可能性が高く、日本の庶民の英語能力が上がることも嫌がっているのではないだろうか。

 英語云々の前に、庶民から教育を受ける権利が奪われつつあることは本ブログでも指摘してきた。進学の仕組みが幼少期から資金を投入できる家に有利で、学費も高騰している。

 言うまでもなく、学費が高騰すれば庶民には大きな負担。例えば、2012年にイギリスのインディペンデント紙が行った覆面取材の結果、​学費を稼ぐための「思慮深い交際」​を紹介する、いわゆる「援助交際」を仲介するビジネスの存在が明らかになり、​ギリシャでは食費を稼ぐために女子学生が売春を強いられ​、売春料金が大きく値下がりしていると伝えられている。


 アメリカ上院のエリザベス・ウォーレン議員によると、アメリカでは教育が生活破綻の大きな原因になっているという。少しでもまともな教育を望むならば、多額の授業料を払って私立へ通わせるか、公立の学校へ通わせるにしても不動産価格の高い住宅地に引っ越す必要がある。低所得者の通う学校では暴力が蔓延して非常に危険な状態で、学習どころではないのだ。

 トルーマン・カポーティは『叶えられた祈り』の中でウォール街で働いているディック・アンダーソンなる人物に次のようなことを言わせている。

 「二人の息子を金のかかるエクセター校に入れたらなんだってやらなきゃならん!」(トルーマン・カポーティ著、川本三郎訳、『叶えられた祈り』、新潮文庫)「ペニスを売り歩く」ようなことをしなければならないというのだ。

 ウォーレンによると、そうした経済的な負担に耐えられなくなり、破産する人が少なくないという。結局、経済的に豊かな愚か者が高学歴になる一方、優秀でも貧しい子どもは落ちこぼれていくことになる。

 アメリカはそれより進んでいると見られているが、少し前から話題になっているのは「シュガー・ベイビー」なるシステム。女子大学生(シュガー・ベイビー)と富裕な男性(シュガー・ダディー)を引き合わせ、「デート」のお膳立てをするというビジネス。売春の斡旋と見られても仕方がないだろう。現代版のクルチザンヌだと言う人もいる。

 登録している大学のリストを見ると、有力校と考えられている南カリフォルニア大学(583名)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(614名)、コロンビア大学(1008名)、ニューヨーク大学(1676名)も含まれている。

 日本で進められている英語教育の目的は日本人の語学力を引き上げるにあるのでなく、英語を利用した支配階級と被支配階級の固定化にあるのではないかとも思える。少なくとも、そうした方向へ動きそうだ。

 蛇足だが、1980年代に某大手企業の役員からこんなことを聞いた。アメリカへ進出するにあたり、語学力で送り込む人間を決めたのだが、失敗に終わった。そこで営業力で選んだところ事業は軌道に乗ったという。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911030000/

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211. 中川隆[-14959] koaQ7Jey 2019年11月13日 19:13:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2052] 報告
英語民間試験問題にみる高等教育の貧困 公的支出削り受験ビジネスに 2019年11月13日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200

 全国の高校・大学の教員や受験生たちが中止を求めていた英語民間試験について、文科省は1日、2020年度からの導入を見送り、24年度実施をめざして今後一年かけて再検討すると発表した。延期されたとはいえ、根本問題はまだなにも解決されていない。逆に今回の問題をつうじて、日本政府の高等教育に対する政策が世界のなかでいかに貧困であるか、本来国の将来の担い手を育てる事業として貧富にかかわりなく平等に保障されるべき高等教育がビジネスの対象にされ、それによっていかに若者が食いものにされているかという現実が浮き彫りになっている。記者座談会で論議してみた。


 A 萩生田文科相が英語民間試験の実施延期を発表したのは1日の朝で、この日は当事者の高校2年生がシステムのID登録を開始する日だった。


 高校の教員たちはみな、以前から延期と制度の見直しを求めていたし、現場をひきずってでも強行しようとする文科省に憤りを語っていた。それでも受験生のために、前日まで一人一人のIDのチェックに細心の注意を払っていた。「延期はよかったが、まだ何も解決していない」と、気持ちは複雑だ。

現場の受けとめは複雑 「一から再検討を」

 A 大学入学センター試験にかわって2020年度から始まる大学入学共通テストは予定通りおこなわれるし、そのなかではじめて実施される国語の記述式問題はベネッセの子会社が61億円で落札し、1万人のバイトを雇って採点する。そのことにも不安がある。入試改革は「ゼロベースで一から再検討せよ」という声は強い。


 B 文科省は来年1月、30年近く実施されてきた現在の大学入試センター試験を廃止し、再来年から、つまり今の高校2年生から大学入学共通テストにかえる。同時にその前段で、今問題になっている英語の民間検定試験の受検を義務づけた。これと連動して指導要領も変える。


 英語民間試験は、これまでのセンター試験の英語の「読む」「聞く」に加えて「書く」「話す」の4技能を評価するために導入するのだという。全国に50万人以上いる受験生は来年4月から12月までの間に、英語民間試験を本番2回まで受けることができ、そのうち成績のいい方を大学受験に使う。再来年の1月16、17日が大学入学共通テストとなり、その後2〜3月にかけて希望する大学の試験となるが、そのさい英語民間試験の成績が出願資格となったり、受験の成績に加点されたりする。出願資格になると、英語が苦手な子はその時点で門前払いとなる。


 問題は、この4技能を評価する英語試験の実施と採点、結果公表を、文科省が民間事業者に丸投げしたことだ。

 C 昨年6月には大学の研究者たちが試験の中止を求める請願を国会に提出し、全国高等学校長協会も7月と9月、試験の延期と制度見直しを求める要望書を文科相に提出した。萩生田文科相が格差拡大を容認する「身の丈」発言をおこなった直後には、当事者である高校2年生が共通テストの中止を求める署名を開始し、数日間で4万筆が集まった。国立大学協会が全受験生への実施を決定したものの、この試験を受験には使わないと表明する大学が次次にあらわれ、9月末で国公立大のうち約3割が態度を決めかねていた。


 高校生や教員たちが問題にしているのは、第一に、家庭の収入や住んでいる場所によって格差が生まれることだ。それ自体が教育の機会均等に反している。下関市内のある高校教員は「高校に通わせるだけでも必死な家庭が増えているのに、出口まで高額なお金が必要になる。それで子どもたちの将来を左右してはいけない」といっている。


https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200


 英語民間試験を受けるには、1回につき5800〜2万5850円と高額の検定料がかかるし【図1参照】、受検回数に制限はないのだから、何度もウォーミングアップができる家庭とそうでない家庭とで大きな差が生まれる。そのうえ都会と地方では、受検機会に差がありすぎる。山口県では英検とGTECしか受けられないと思われるが、その他の試験を福岡県や広島県に受けに行くと、離島の子など1泊か2泊が必要となるし、交通費と宿泊費が大きな負担だ。都会が圧倒的に有利なのだ。


 第二に、民間事業者に丸投げして試験の公平、公正が担保されるのかという問題がある。文科省は民間英語試験に6団体7種類の検定試験を指定しているが、ビジネスでの活用を目的としたもの、資格・検定試験として国内で長く使われてきたものなど、それぞれ目的が違うし、難易度にも大きな幅がある。たとえばTOEFLは英語圏(とくに北米)の大学への留学希望者が、必要な英語能力を習得しているかどうかの評価を受けるもので、扱われる内容は北米の大学や生活に関するものが多いという。このようにそれぞれ測ろうとする能力が違う複数のテストを同時に実施して、受験生の選抜に使うことに根本的な間違いがある。


 異なる英語民間試験の成績を比べるために、CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)を基準にして文科省の作業部会が強引に「対照表」をつくったが、それには科学的な裏付けがないというのが専門家の意見だ。ある大学の英語教員は、五〇b走のタイムと立ち幅跳びの成績を比べて体力の優劣を決めることができないように、GTECと英検の成績を比べて英語力の優劣を決めることはできないといっている。

 A それを一緒くたにして大学受験に使うというのだからひどい話だ。しかも短期間に50万人の答案を採点しなければならないので、大量に学生のアルバイトを雇うといっている。文科省が「採点ミスがあれば業者の責任」といって責任を回避していることにも現場の教員は怒っている。


 D そしてこの英語民間試験のために、高校の現場が振り回されることになる。今回、数カ月前になっても試験会場も日程も発表されないことが大混乱を引き起こしたが、実施されると民間事業者の出す参考書中心の授業に変質しかねないし、運動会や文化祭といった学校行事や、各運動部の大会日程なども見直しが必要になる。

楽天社長ら介入し一転 民間に丸投げ決定

 B 今回の大学入試改革にかかわった大学教員は、英語民間試験の決定過程に重大な問題があると指摘している。入試改革が本格化するのは安倍内閣になってからだが、当初、文科省が招集した高大接続システム会議(大学の学長らで構成)では、民間に丸投げせず、現在のセンター試験と同じ方式でやるという最終答申を206年3月に出していた。ところがそのわずか5カ月後、文科省は一転して民間検定試験の活用をいい出した。


 実はそれには伏線がある。安倍内閣発足直後から経済同友会で楽天社長・三木谷浩史が「TOEFLなどの民間試験の活用」を主張し、2014年には文科省の有識者会議が「センター試験の英語試験を廃止し、英語の資格・検定試験に替える」との報告をおこなった。このときの文科大臣が受験産業との関係が取り沙汰される下村博文だ。この民間試験ありきが押し切ったわけだが、三木谷はこの有識者会議のメンバーにも入り、2017年7月に民間試験の導入が決まってまもなく、楽天は英語教育事業を立ち上げている。また、有識者会議の傘下の協議会にはベネッセと英検の担当者が入っていた。


 C 異なる英語民間試験の成績を比べる「対照表」を作成した、文科省の作業部会の審議自体が非常に不透明だ。これも大学の教員が暴露しているが、この作業部会は、実施団体として審査される側の民間試験事業者の代表者5人と、民間試験の開発に携わった研究者3人で構成されていた。つまり成績の評価にとって決定的な「対照表」が、実証データにもとづく根拠も、英語教育関係者の経験にもとづく根拠もなにもないまま、当事者を含めた官民一体でつくられ、異なる試験の評価をつなぎあわせてつじつまをあわせただけのものだった。


 E 現場の教師は生徒のために英語の力、また総合的な学力をつけさせようと奮闘している。一方民間の英語産業は、ビジネスチャンスを拡大して利益を上げるために参入しようとし、文科省がそれに奉仕している。双方は相いれないものだ。


 そもそも入試の運営と受験対策とを同一の民間企業がやること自体、弊害が大きい。民間企業が利益を増やすためにテストの仕様を変更し、そのための問題集やセミナーを新たに売り出したり、蓄積した受験生のデータを使って新たなビジネスを展開することも可能になるからだ。水道など公共インフラの民営化が問題になっているが、今回の英語試験の市場化が、共通テスト全体、ひいては英語教育本体の市場化につながることを専門家は心配している。


 A ビジネスのために受験生が食いものにされ、貧乏な家庭の子弟は大学で勉強する機会そのものを奪われかねない。これは日本の未来にとって大きな損失だ。ただでさえ少子化の世の中で、金持ちの子弟しか大学に行けなくなったらどうなるか。過去を振り返ってみても、苦学生が爪の先に火を灯すようにして勉強し大成した例は多い。


 B 今回の英語民間試験にとどまらず、貧富にかかわりなく平等に教育を受けることができるという教育の機会均等が、日本社会では大きく損なわれている。義務教育である小・中学校でも父母負担が大きいことが問題になっているが、高等教育ではとくにひどい。


 大学進学率が50%をこえた日本で、子どもを大学に通わせることは親にとって大きな経済的負担だ。学費が諸外国に比べてもあまりにも高いからだ。国公立大学の授業料は、1969年には年間1万2000円で、入学金などを含めた初年度納入金はあわせて1万6000円だった。それが50年後の現在、授業料は53万5800円となり、初年度納入金は学部によっては90万円近くになる。この間の物価上昇率は3倍なのに、学費は45倍という異常さだ。


 それは、政府が高等教育に予算を回さないからだ。ヨーロッパでは次代の担い手を育てるために大学教育無償の国は多い。高等教育の公的負担割合を見ると、OECD平均で公的負担70%、家計負担21%だが、日本の場合は公的負担35%、家計負担51%と、世界的に見てもダントツで高等教育の家計負担が大きい。


 C これは日本学生支援機構が調べた学生生活調査(2016年)で、国立か私立か、自宅か下宿かを区別しない平均額だが、大学生の年間支出(学費+生活費)は188万4200円。大学院に進んで、修士課程だと176万300円、博士課程になると225万700円となっている。つまり大学4年間で800万円近くが必要となるし、大学院を修了して研究者になろうと思えば9年間で2000万円近い金が必要になる。それが一家庭にのしかかるのだから大変だ。あまりに金がかかりすぎるので、この十数年間で大学の理工系院生の数が半減したという調査もある。科学技術立国を支える博士の卵がいなくなっているわけだ。


 A 一方、勤労世帯の平均年収は、1990年代以降減り続けている。親の仕送りを期待できないし、バイトに明け暮れていては勉強がままならない。だから学生たちは奨学金に頼らざるを得ない。


 日本の奨学金事業は日本学生支援機構(JASSO)が金額の9割を占めるが、その利用者が急増している。2002年度が67万人だったのに対し、206年度は131万人と、全学生の4割が奨学金を借りている。しかも、JASSOの奨学金には返す必要のない給付型はなく、すべて返済が必要な貸与型で、その貸与型にも無利子(第一種)と有利子(第二種)があるが、第二種の有利子が2000年以降、急速に伸びている【図2参照】。有利子の方がより高い金額を借りられるからのようだ。

https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200


 一人当りの合計借入金の平均は、無利子の場合237万円で、有利子の場合は343万円。つまり社会人になる門出で、一人が数百万円の借金を抱えているわけだ。それを十数年から20年かけて、毎月約2万円ずつ支払わなければならない。JASSOの総貸出残高は9兆円だという。


 B 日本の奨学金制度が諸外国と比べていかに貧困かを見ないといけない。世界的には低学費、あるいは学費無償と、返さなくてよい給付型奨学金の二つが高等教育政策の柱となってきた。その国の科学技術や文化水準を維持し、高めるために、大学で必要な資金は公的に供給するという考えからだ。


 ところが日本の場合、給付型奨学金の比率はOECD諸国のなかで最低で、ほとんどが貸与型だ【図3参照】。つまり奨学金とは名ばかりで、サラ金と変わらない教育ローンなのだ。夫婦あわせて返済総額1200万円、毎月の返済額6万円を抱え、出産・子育てをあきらめたという話がある本に出ていた。


 E しかも今、日本の労働環境は劣悪だ。就職したものの、非正規の不安定な低賃金労働であったり、苛酷なノルマと長時間労働のブラック企業で転職せざるを得なくなったり、またはそのなかで本人が病気になって仕事ができなくなったりすると、たちまち奨学金の返済は行き詰まる。


 返済が滞ると、電話での督促に始まって、3カ月後には個人情報がブラックリストに載ってローンが組めなくなり、4カ月後には債権回収専門会社に回収業務が委託され、9カ月後には裁判所に申し立てをし、給料差し押さえなどの強制執行に進む。JASSOがとった法的措置は年間1万件に迫り、強引なとり立てで自己破産になった人が年間600人にのぼるという報告もある。


 D そこにはJASSOの奨学金が、投資家に安定した利益をもたらす有利な投資先になっているという事情がある。有利子の第二種奨学金の財源は、返還金に加えて、民間の銀行や投資家からの投資で成り立っている。だからJASSOは、96%という高い回収率を売りにして投資を促すが、それが無理なとり立てによる悲劇を生んでいる。若者たちが金融資本の餌食にされている。


 A 将来、社会に出て有用な仕事をするために、大学に進学して学びたいという意欲を持った若者がいるのに、そこに国が必要な金を回さず、次世代の育成を放棄し、それどころかビジネスの食いものにしてはばからないという本末転倒した事態が進行している。それがいかに彼らの無限の可能性をつぶし、国の未来をつぶす馬鹿げたことであるかだ。


 JASSOの総貸与残高が9兆円、国立大学86校と私立大学約600校の授業料はあわせて年間約3兆円だという。アメリカのためにF35など高額な兵器を買うのをやめ、オリンピックやリニア新幹線などの無駄な事業に国家予算を湯水のように注ぎ込むのをやめるなら、奨学金の返済をチャラにし学費を無償にすることは可能だ。意欲のある若者を育てる環境を整備する方が日本の未来にとってはるかにいいことははっきりしている。
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/14200

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212. 中川隆[-14799] koaQ7Jey 2019年11月20日 18:00:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1885] 報告
9時10分前を理解できない若手を生んだ日本語軽視のツケ
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191120-60690903-business-soci
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00049/

河合 薫 健康社会学者(Ph.D.) 2019年11月19日 全5372文字

 先日、講演会後の懇親会で、管理職が20代の社員たちの日本語能力に悩まされているという話で盛り上がった。

 「9時スタートの研修会なのに1分前にドサドサと入ってきて、5分、10分の遅刻は当たり前。なので『9時10分前には集合するように』と言ったら、キョトンとした顔をされてしまって。ま、まさかと思いつつ『8時50分に来るのよ』と念押ししたんです。そしたら、『あ、そういうこと』って。もう、わけが分かりません」

 こんな“珍事件”に面食らった上司たちの嘆きが、「これでもか!」というくらい飛び出したのである。

 確かに、私自身、店で領収書をもらおうとしたときに、「???」という事態に何度か出くわしたことがある。

【ケース1】
河合「領収書をお願いします」
店員「宛名はどうしますか?」
河合「上、でいいです」
店員「うえで、ですね!」←自信満々感満載
河合「……は、はい」
するとなんとその店員は宛名の部分に「上出」と書いた。

【ケース2】
河合「領収証お願いします」
店員「宛名はどうしたらいいですか?」←必死で丁寧に振る舞っている
河合「カタカナで、カワイ、でお願いします」
店員「カワイですね」←自信満々!
河合「(失笑)」

 ……どちらも20代。ケース1は「上様」を知らず、ケース2は普通は「カワイ、様ですね」とか「カワイ、様でございますね」となるのに、いきなりの呼び捨て。笑ってしまった。

 まぁ、これらは日本語の問題というより、常識の問題。つまり、こういう対応が気になるようになった私が年を食っただけのことだ。

■若者の国語力が下がっている

 一方、上司たちの「言葉が通じない」嘆きは日常の業務にかかわること。たとえ一つひとつはささいなことでも日々繰り返されるとストレスになる。

 というわけで今回は「言葉が通じないワケ」についてあれこれ考えてみようと思う。
 まずは冒頭の懇親会で聞いた“珍事件”から。

「部下に『そのタスクは結構、骨が折れるから覚悟しておけよ』って言ったら、『え? 肉体労働なんですか?』って返された。どうやら骨が折れるを骨折と間違えたようだ」

「社長に褒められた部下に、『現状に胡座(あぐら)をかいてると、後輩に追い越されるぞ!』って活を入れたらキョトンとされた。あぐらをかいて座ることだと思ったみたいです」

「送られてきたメールが一切改行されてないので『読みづらいから、項目ごとに改行しろ』と言ったら、『改行って何ですか?』と言われてあぜんとした」

「営業先で『お手やわらかにお願いしますよ』と言われ、会社に帰る途中で『あの人、やわらかいんですね。どうしたらやわらかくなるんですか?』と真顔で聞かれた」

「高齢のお客さんに取扱書の内容を説明するのに読み上げるだけだったので、分かりやすく自分の言葉で説明してあげてと伝えたが全く改善されず。理由を問いただしたら、取扱書の文章を理解できていなかった」

「分からない語彙があったらその都度辞書で調べるようにと、辞書を渡したら、引き方が分からないみたいで、異常に時間がかかった」

「英語で書かれた仕様書を翻訳させようとしたら、英和辞典に書かれている日本語の意味が分からないと突き返された」

「業務報告書を手書きで書かせているのだが、漢字の間違いが多すぎる。混乱を困乱。特にを得に。性格を生格……」

「消費税が2%上がるという、2%を理解させるのが大変だった」

 ……ふむ。どれもこれも嘘のようなホントの話。もちろん20代でも、日本語を巧みに使い、理解度も高く、文章力がある社員もいる。だが、上司たちは「日本語の能力が低下してる」と日々感じているのだという。

会話はできても文章理解力は低かった自分

 もっとも、漢字が書けないとか間違った漢字を使うとか、慣用句を知らないというのは、その都度学べばいいだけの話だ。問題は語彙力の乏しさからもたらされる日本語の読解力の低下だ。

 個人的な話で申し訳ないが、私自身、小学校4年から中1まで米国で暮らし、その間日本語の教育を受けていないので学生時代は壊滅的に語彙力が乏しかった。不思議なことに知ってる語彙が少なくとも日常的なおしゃべりに困ることはなかった。

 ところが、高校生になって現代国語の校内実力テストで、長文問題を何度読んでも理解できなかったのである。

 漢字が読めないとか、読めない字があるとか、そういったことじゃない。ちゃんと音読できるのに、意味が分からない。古文でもなければ漢文でもない。ただの現代文。なのに書いてあることが、ちっとも理解できなかった。生粋の日本人なのに、なぜか日本語が理解できない。漢字が読めないことを笑われても気にならなかったけど、日本語の文章が理解できないという現実はかなりショックだった。その結果私は文章を避けた。28歳でお天気の世界に入るまで、本を一切読まなくなってしまったのだ。

■会話はできても文章理解力は低かった自分

 実は同様のことは米国でも経験していて、英語の本を読めても日本語に訳せない。俗っぽくいうと、フィーリングでなんとなーく理解するものの、物語が描いている世界観や言葉に込められた深層構造を理解することができなかったのである。

 言語を習得するにはたくさん聞くだけじゃなく、たくさん読むことが必要不可欠で、言葉の運用力を高めるには語彙力が影響する。実際、 読書経験を重ねることで、語彙力が高まり、それが文章理解力の向上につながることは、国内外の調査から一貫して報告されている。

 米国人大学生を対象にした様々な調査では、小さい頃から本をたくさん読んでいる学生ほど、スペルの間違いが少なく文章を理解する力が高いとされているし、日本人大学生を対象した調査では、新聞や雑誌ではなく小説の読書量が強く影響することもわかっている(「大学生の読書経験と文章理解力の関係」澤崎宏一)。

 小説でつづられる母語の名文を繰り返し読んだ経験が、日常生活で身につく経験や情報と結びつくことで、文章を理解する力が高まっていくのである。

 デジタル世代の若者たちは、日々携帯メールやラインの送受信を繰り返しているので、日常的な会話量は半端なく多い。だが、おしゃべりは所詮おしゃべりでしかない上に、親密になればなるほどメールでの言葉は省略され、絵文字だけでもやりとりが可能になる。いわばメール版「あうんの呼吸」だ。

 フェースtoフェースなら、相手に伝わるまで言葉を脳内から振り絞ったりすることがあるが、デジタルの世界ではその必要もない。要するに、若い世代は圧倒的に語彙を増やす機会に乏しい社会に生きている。しかも、本を読む子供たちが激減しているという悲しい現実もある。

 平成28年度委託調査「子供の読書活動の推進等に関する調査研究」(文部科学省)によると、不読率(1カ月で読んだ本の冊数が「0冊」と回答した生徒の割合)は、小学生が1割未満、中学生が約1〜2割、高校生が約3〜4割で、読書時間・読書冊数ともに、学年が上がるにつれて増加傾向にあることが分かった。

 また、「第54回学生生活実態調査の概要報告(2018年)」(全国大学生活協同組合連合会)では1日の読書時間が「0」と答えた学生は48.0%。17年の53.1%より減少したものの、半数近くの学生に読書習慣が全くない。

■小学生で本を読まないとそのまま大人になる

 この調査では、大学入学までの読書傾向も聞いているのだが、

小学校高学年では読書時間が30分以上だったと回答した人が54.1%いるが、高校になると33.0%に減少

小学校入学前から高校にかけて「全く読まなかった」人は、現在の読書時間も「0」が多く、特に高校時代に「全く読まなかった」人のうち現在も読書時間「0」の人が72.7%(全体平均48.0%)を占める。

小学校入学前と高校で120分と長時間読書している層は現在の読書時間も長い傾向がある

といった関係性も認められている。
https://www.univcoop.or.jp/press/life/report.html

 「学校の成績は国語力が9割」ともいわれるように、日本語の読解力、記述力は国語だけでなくすべての教科で必要な基礎となる能力だ。日本語の読解・記述力が不十分だと、数学の文章問題は理解できない。理論構成が支離滅裂な解答しかできない。思考力も想像力も、母語の運用能力に支えられている。

 そもそも言語は、単なるコミュニケーションのツールではない。言語と思考とは互いに結びついており、特に母語の役割は果てしなく大きい。

 母語により私たちは目に見えないものを概念として把握し知覚する。精神的な世界は言葉がないと成立しない。また、目の前に何か見えたとしても、その何かを示す言葉がないと、それを理解できない。

■語彙の豊かさが思考力や豊かな感情を育む

 例えば、日々暮らす場所であるという意味を「家」という語彙で概念化することで、形や色が違っても「家」と知覚することができる。性的ないやがらせをする行為を「セクハラ」という語彙で概念化することで、そういった行為が明確に意識され、「ああ、そういったことはやってはいけないんだ」と規範を学んでいく。

 つまるところ、言語で表せる範囲がその人の認識世界。語彙が豊富であればあるほど知識は広がり、感情の機微も、複雑な人間関係も理解でき、世界が広がり、創造力も高まっていくのである。

 英語教育にすったもんだ続きの文科省は、2003年3月31日に「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を示し、そのなかの「英語教育改善のためのアクション」の6番目に「国語力の向上」を掲げている。

 具体的には、「英語の習得は母語である国語の能力が大きくかかわるものであり、英語によるコミュニケーション能力の育成のためには、その基礎として、国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成するとともに、伝え合う力を高めることが必要である」 と。

 ところが、これだけ日本語が理解できない大人が増えているのに、英語力の低さばかりに関心が集まり、揚げ句の果てに民間試験導入などどわけの分からない方向に進んでいる。

 実際には母語である日本語力の低下、具体的には語彙力の低下が背後にあり、それが英語力の低下につながっているのだ。

 大学関係者であれば学生に英和辞典を引かせる苦労を経験している人は少なくないはずだ。10年以上前に某新聞社が「日本人の日本語力の低下」について連載し、その中の珍事件が大学でちょっとした話題になった。

 ある大学で英文の講義で学生に「often」の意味を調べさせたところ、英和辞典に書かれていた「しばしば」という意味が理解できなかったのだ。当然ながら「頻繁に」という訳語も理解できない。そこで教師が、「よく〜する、ってことだ」と説明したところ、「よく、は『good』の意味」としてしか認識できない学生がいたというのである。

■興味あるテーマから次々と読む経験を増やす

  さて、と。ここまで書いたところで今回の問題をどう締めようか、考えあぐねている。つまり、コミュニケーションで悩むのは常にアクションを起こしている側なのに、コミュニケーションではアクションを起こされている側に「決定権」がある。いかにも不条理でコミュニケーションが永遠のテーマになるわけだ。

 ただ、日本語力の低い人でも、「誰が(主語)、何を(目的語)」をきちんと文章に加えた完全文にすると理解しやすくなるとされている。

 会話では主語が省略されがちなので、そのあたりを気をつけるだけでも少しは変わるはずだ。と同時に、部下が主語や目的語を省略している場合も、「誰か?何を?」と尋ねるだけでもすれ違いは防げる。めんどくさいかもしれないけど、試してみる価値はあると思う。

 そして、もし素直で殊勝な心を持ち合わせている部下なら、興味あることの本を読め!と勧めてください。

 というのも、長文が理解できなかった私がコラムやら本やらを書けているのは、お天気の世界に入り小学生向けのお天気図鑑を徹底的に読んだからだ。

 お天気図鑑を何度も何度も理解できるまで読んだら、次々といろんなお天気の本が読めるようになり、難しい物理式が書かれているものまで読めるようになった。健康社会学の世界に入ってからは、山のように論文を読みあさってきたし、それは今も続いている。

 その結果、語彙が増え、並行してインタビューを続けているので、自分の無意識の認知世界が意識化され、内部に宿る価値観やら考えを表現できるようになったと個人的には理解している。

 それでも……まだまだ日本語がおかしいという自覚がある。だからこそ「また書こう、書かなきゃ」というモチベーションにつながっている。日本語って……本当に難しい。


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213. 中川隆[-14877] koaQ7Jey 2019年11月21日 20:23:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1960] 報告

「学校に行けない」外国籍児に必要なのは「教育」ではなくて「滞在ビザ剥奪」と「退去強制」2019年11月20日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12546842309.html

増税と貧困化が進む日本で、どうして勝手に来た外国人のことで私たちが悩んだり援助したりする必要があるのでしょうか?そんな余裕はありません。

日系人というだけで就労せずとも定住資格が取れるような、そんなビザは止めるべきですし、子供を教育できないような低レベル移民の家族帯同を認めてはいけません。

最近見た日本の報道下矢印ですが、これが進化したのが欧米にいる移民ギャングです。

日本の治安と財政悪化にしか貢献しない外国人は一刻も早く追い出すべきです。ムキー


彼らは都合の良いことに外国人だから「言葉が出来ない」とか「差別された」ということを理由にしますが、彼らは母国にいても同じように言葉が流暢な犯罪者や落ちこぼれだったでしょう。日本政府はこういう質の移民を入れて日本人を痛めつける以外何をしたいのでしょうか?

私たちは日本人の犯罪者を出さないように教育または更生させるだけで手一杯です。

国籍に関係なく負担させられるなら、税金の枠組みはなぜ≪国≫なんですか?

彼らは日本人ではなくてブラジル人やペルー人です。価値観、倫理感が違います。

日本人には手に負えません。言語で苦労しない母国に返すべきです。

考えてみてください。この逆の日本国籍移民ギャング団って海外にいますか?もしいたら、そしてこの報道のように犯罪三昧なら強制退去になっています。それと同じなんです。被害者にとっても許せないことです。国籍国が保護して面倒を見ることがルールです。

人類が持つ国境を越える移住の権利は、自国を出る権利と、国籍国(あるいは永住権のある国)に「帰国(再入国)する権利」だけです(世界人権宣言第13条)


世界人権宣言 13条

1 すべて人は、各国の境界内において自由に移転及び居住する権利を有する。
2 すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。

外国人が日本に住む権利はないのですから、日本語の出来ない外国人への定住や永住を認めなければいいのです。住みたければ自分で努力するでしょう。

とても簡単なことなのです。

クリップいい加減にして日本政府!外国籍児童への日本語教育は税金ではなく受益者(=移民)負担で行うべき という過去記事からも一部抜粋します。


外国人でも、無料で公立学校に通えて、児童手当ももらえ、医療もほぼ無料

憲法では日本国民に教育を受ける権利が保障されています。

そして、国際条約等※を批准している日本では、外国人にも教育を受ける権利があります。

※社会権規約13条と児童の権利条約28条、どちらも初等教育を義務、無償としている

しかし、外国人の親や本人に教育を受ける意思が無い場合、また、公立校に通学しながら日本語を学ぶ努力をしない場合、私たちは彼らに頭を下げ、お金を払って勉強してもらうより、国外追放した方が国益に適っていると考えます。

外国人は日本居住する権利がありませんから、懇願までして勉強してもらうのは変です。

私が動物には寛容なのに人間には厳しいと感じる人がいるかもしれません。

それは、人間は平等で同じ権利があるからです。

地域猫や多頭飼育の対策として、不妊去勢手術をして一代限り大切に飼う※というものがあります。それが人間に対してできますか?また、動物には悪意がありませんが人間にはあります。

助けた動物が私たちを犯罪のターゲットとして襲撃するようなことはないのです。

人間として同等の権利を主張するならば、彼らに努力と責任を要求することは当然です。情けをかける必要もありません。彼らが私たちの税金を猫ババするなら追い出したい、犯罪者なら許さない、そう思うのも当たり前の感情です。対等だからこそ警戒しないといけないのです。それを自分が移民より優位だという傲慢さから怠ったのが、自殺中の欧州です。

※TNR(Trap/捕獲し,Neuter/不妊去勢手術を行い,Return/元の場所に戻す,その印として耳先をさくらの花びらのようにV字カットする)という愛護活動があります。詳しくは公益財団法人どうぶつ基金のサイトをご覧ください。

https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12546842309.html


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214. 中川隆[-15250] koaQ7Jey 2019年11月27日 09:53:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2329] 報告

東大医学部卒のノーベル賞受賞者が0人のワケ
和田 秀樹 2019/11/27


2019年10月、旭化成名誉フェローの吉野彰氏がノーベル化学賞を受賞した。

ここ数年、京都大学の吉野氏や名古屋大学の天野浩氏など地方国立大学からノーベル賞学者が出ているが、東京大学出身者は意外に少なく、さらに国内最難関の東大理V(医学部)は1人もいない。精神科医の和田秀樹氏は「これは日本の大学全体が極めて閉鎖的で、真に自由な研究ができない土壌であることを示している」という——。
なぜ国内最難関の東大理Vからノーベル賞が1人も出ないのか

10月に旭化成名誉フェローである吉野彰氏がノーベル化学賞受賞に決まったことは、2019年を代表するグッドニュースだろう。

修士で就職した企業内研究者がノーベル賞を受賞したことは、多くの企業内研究者の励みになるという声が大きい。私も同じ日本人として大変誇らしい。

いっぽうで気になる点も出てきた。

吉野氏は京都大学出身だ。ここ数年、この京都大学や名古屋大学など地方国立大学出身の学者がノーベル賞を受賞する傾向がある。ところが、東京大学出身者のノーベル賞受賞は少なく、またわが国において入学時の偏差値が最高とされる東大理科V類の出身者が過去に1人もノーベル賞をとっていないのはどういうことか。“偏差値秀才”はノーベル賞を取れない、などという言説も時に耳に入ってくる。

そこで今回は、「受験勉強は“偏差値”を上昇させるが、ノーベル賞を受賞するような発想を阻害するのか(賢い子をバカにするのか)」を考察してみたい。

偏差値教育とノーベル賞との関係を考察する

最初に筆者自身の意見を述べよう。「受験勉強がノーベル賞を受賞するような発想を阻害する」ということは断じてない。

東大出身者は文学賞・平和賞を含めて7人が受賞しており、その数は京大の8人に次ぐ。また、京大に合格するにも東大と同等の努力が必要であり、受験勉強に意義がないとは言えない。むしろ少科目受験の私立大学出身者はこれまでノーベル賞を取っていないことからも、いろいろな科目を勉強することは研究のベースを作る上で必要だと考える。筆者の経験では、ハーバードのビジネス・スクールなどの欧米の名門グラデュエート・スクールなどでも日本の元受験秀才の評価はおおむね高い。

必死に“偏差値”を上昇させようとする日本の受験勉強を批判する声は以前からある。その主張の背景にあるのが、日本以上にノーベル賞を受賞している欧米ののびのびとした教育法だ。例えば、アメリカではハードな受験勉強が不要なAO型入試が多い。

だが、そうした現地の教育を受ければ才能を開花させる可能性が高まるわけではないだろう。なぜそう言えるのか。アメリカに日系人が150万人もいるのにこれまで日本人のDNAを持つ人が現地の教育を受けてノーベル賞を受賞した人がゼロだからだ(子供時代に長崎県からイギリスへ移住した文学賞受賞者のカズオ・イシグロ氏を除く)。

というふうに考えると、日本の「受験勉強」は手放しで賞賛される学習スタイルではないにしろ、ノーベル賞を受賞できるような先進的で独創的な発想を阻害するというわけではないと思うのだ。

日本の初等教育は世界的に高評価、大学は低評価

ただ、1点、これだけは認めなくてはならない。

日本の大学あるいは大学院以降の教育はけっして芳しいものとは言えない、と。もっと言えば、大学・大学院の「教育」の質は低い。80年代以降、アメリカやイギリス、東南アジア諸国は、初等中等教育改革の手本を日本のそれとした。しかし、日本の大学を見習おうとした国はない。アジアの優秀な学生も日本を素通りしてアメリカの大学や大学院に入りたがるのは周知の事実だ。

なぜ、不評なのか。理由はさまざまだが、もっとも大きな問題は、学生や院生の成果に対する評価の方法がひどいことだ。

筆者自身の経験をもとに類推すると、日本の大学で研究することが「自由な発想」を阻害しているように思えてならない。

凡庸な博士論文ほど認められ、新奇な内容は落とされる

現在、老年精神医学、精神分析学、集団精神療法学を専門として、クリニックを開いている筆者は、東大医学部を卒業後、アルツハイマー病患者の肺炎に関する研究論文で東北大学より博士(医学)の学位を取得した。

その前年に、不名誉なことに、3年に一度しか落とされることがないとされる(約350人に1人のペース)、同大学の博士論文に落とされた経験をしている。

自分の論文は、高齢者の精神療法でうまくいったケースを数例集めて、現代精神分析でもっとも人気のある学派の自己心理学を用いると治療する際に有用性が高い、ということを論じたものであった。旧来型の精神分析を用いなかったのがポイントだった。落とされた理由は、「統計処理されていない。これは論文でなく論説だ」。主査(審査委員長)は精神科の教授である。

この論文は、年間約15編の優秀論文を掲載するアメリカの自己心理学の国際年鑑に日本人として初めて選ばれたものである。だから言うわけではないが、日本の大学の問題のひとつは、「仮説を立てるより検証(証明)が重要だ」とする土壌にある。つまり、「仮説のみ」という論文はほとんど許されないのだ。

350人中1人しか落とされない。言い換えれば、350人中349人は落ちない。凡庸な内容であっても、検証しやすい仮説を立て、動物で実験して、統計的に有意差のあるデータを残すことができれば、普通に博士号がもらえるということだ。逆説的に述べれば、退屈で平凡な内容こそ論文に絶対必要な条件なのだろう。

ノーベル物理学賞の湯川秀樹の論文は「仮説のみ」

これではユニークな発想が出てくるはずがない。いや、むしろ人が考えないような新奇な発想は博士論文「合格」の邪魔になる。

あの湯川秀樹が日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞した理由は、中間子の存在を証明したからではない。その存在を仮定して、後にそれが発見されたことがノーベル賞につながった。日本でも、物理の世界では、ユニークな仮説を立てる人間を評価する気風があるようだ。だから物理学の世界では留学せずに日本で研究を続けていてもノーベル賞がいくつも取れるのである。

筆者のケースからさらにいうと、日本では心のケアのように統計に反映しづらい分野の研究をする人がどうしても少なくなってしまう。なおかつ、半ば教授の好き嫌いが、その弟子的存在である研究者の研究テーマに大きな影響を与えるということだ。

東北大学の筆者の博士論文の主査の精神科教授は16年間の任期中、薬や脳波など精神医学の生物学的な研究には学位をすべて合格にしたが、筆者の論文を含めて精神療法(カウンセリング的な心の治療)の論文に在任中学位を与えることはなかった。

患者のためになる新説でも権威学者が受け入れないと無視される

教授の気に入るテーマでないと研究ができないのなら、その教授が、視野が広く器の広い寛容な人でないとユニークな研究や新しい分野での研究ができない。教授が専門分野とする旧来の定説がなかなか変えられない。

日本の医学の世界では、新説がいくら患者のためになるものであっても権威とされる学者が受け入れないという事例が数多くある。

例えば、慶應義塾大学病院でがんの放射線治療の専門家として活躍された医師の近藤誠氏だ。乳がんの場合、旧来型の治療は乳房を全部切除し、その周りの筋肉も外すというものだった。それに対して、近藤氏は「がんだけを取って放射線を当てる治療法でも5年生存率が変わらない」というアメリカの論文を雑誌『文藝春秋』で紹介したが、医学界からほぼ無視された。結局、そのような権威の医師たちがすべて引退するまでその治療法は標準治療とならなかった。それにより15年のタイムラグが生じてしまったのである。

筆者の場合も、学位審査の主査だった東北大学の教授は東北6県の精神科の教授人事にも介入したとされていた。その真偽は不明だが、以降、東北6県には精神療法を専門とする教授がいない状態となった。そのため2011年の東日本大震災の際にトラウマの治療ができる(これは薬では治らない)医師が不足して、今でも後遺症に悩む人が多い。筆者は今でもボランティアで福島の沿岸部(原発のあった地域)の心のケアに1カ月に一度通っている。

教授に無断でテレビに出演したことが逆鱗に触れた

ここまで読んで、そうした閉鎖的な環境が所属する大学にあるのなら、いい論文を書いてよその大学で認められればいいではないかと考える読者もいるだろう。しかし、日本の学会はよその大学の教授への忖度(そんたく)が強いようだ。

例えば、眼科で教授とけんかして出ていった人間は、私の知る限りよその大学の眼科の医局では引き受けてもらうことはまずできない。

診療科を変えると、その医局に入れてもらうこと(たたし、別の大学である)はできるようなので、どうしてもがまんしなければいけないことはないようだが、それまでのキャリアをふいにすることになる。

文系の学部でも似たようなことがある。筆者の知るある優秀な女性研究者は学会新人賞を取った優秀論文を教授がどうしても認めず学位が与えられなかった。どうやら内容を問題にされたのでなく、教授に無断でテレビに出演したことが逆鱗(げきりん)に触れたらしい。

しかも、別の大学で学位を取ろうと、知り合いの別の教授に相談に行ったら、「ホテルに部屋を取ってあるので、そこで相談しよう」と言われたので断ったという。10年以上前の話なので、今でもセクハラ案件があるかどうかはわからない。ただ、その優秀な学者はいまだ学位をもらえず、ホテルを用意すると言った教授はその後も順調に出世し、その学会長になったのは事実だ。

教授に気に入られないと博士にすらなれない土壌

結局のところ、教授に気に入られないと博士にすらなれないのでは、とても自由な研究ができるとは言えないだろう。それに比して、ノーベル賞を受賞した旭化成の吉野氏のような企業内研究者はこうした窮屈さはないのではないか。もちろん、成果を出さないと配置転換されるリスクはあるが、研究環境としては自由なのだろう。現に企業研究者の受賞は欧米の国より多いくらいだ。

企業内研究でなくても、海外に留学すれば忖度しない研究姿勢が身につく、要するに上司(=教授)に気に入られるかどうかどうかより、研究業績で勝負すればいいという発想が身につくかもしれない。

国内でも同じ東大(もしくは京大)の物理学の教室のように、自由な研究を許す土壌がある研究室もあるに違いないが、ノーベル賞の受賞者を見る限り、あるいは、私が35年間医学の世界にいて見聞きした限り、それは例外の中の例外と言っていい。

日本の大学が賢い人をバカにする土壌がある

以上、日本の大学のネガティブな側面を書き連ねたが、どうすればこうした現状を打破できるのだろうか。最初に言えるのは、教授会で教授を決めるシステムが続く限り、その土壌に大きな変化は期待できないということだ。アメリカのようにスカウト係のような人(ディーンと呼ばれる)が教授を決める仕組みなら、いい研究をすれば上に逆らっても出世できるが、今の日本のシステムでは上に気に入られるかどうかという情実がどうしても入ってしまう。

また、一度教授になれば定年までほぼ身分が保証され、さらに医学部のように講座の主任教授が研究費もそのテーマも差配する権限をもつ制度では、教授のパーソナリティが寛容であれば自由な研究が可能だろうが、そうでない場合は、10年から20年にわたって、どんな研究をするにしても教授の顔色をうかがいながらということになってしまう。

くり返しになるが、偏差値が日本でトップの東大医学部からノーベル賞が出ないことをもって、「ハードな受験勉強によって自由な発想が阻害される」とは筆者は考えない。

東大を含めて、医学部の臨床科(基礎医学分野でない)で研究した人がノーベル賞を取ったことがないことからも推察されるように、あるいは物理学以外は何十年にもわたって日本の大学だけで研究した人がノーベル賞を取っていないことから推察されるように、あるいは、企業研究者がノーベル賞を取ることが欧米よりむしろ目立つくらいなことから推察されるように、「日本の大学が賢い人をバカにする土壌がある」と筆者は考える。国が大学の研究費を増やすとともに、こうした悪しきシステムの改革をしないと日本の科学研究はますます立ち遅れたものになることを、声を大にして警告したい。

こうした問題は、一般の企業でも同じで、「硬直化した人事制度」や「自由な発想ができない環境」は賢い人をたちまちバカにしてしまう可能性が高い。

以前、高校(灘校)の同窓会に出たことがあるが、自分と同じように東大に入学し卒業しても民間企業に入った人はびっくりするほど愛想がよくなって、私にビールなどを注いでくれるのに、官僚になった人たちは、民間企業に入った同窓生がビールを注ぐのを椅子に座って悠然と待っているのに唖然(あぜん)としたことがある。

自分が身を置く環境によって本来頭のいい人がバカになっていないか、自問自答する姿勢を忘れてはいけないだろう。

---------- 和田 秀樹(わだ・ひでき) 国際医療福祉大学大学院教授 アンチエイジングとエグゼクティブカウンセリングに特化した「和田秀樹 こころと体のクリニック」院長。東京大学医学部卒業。ベストセラーとなった『受験は要領』や『「東大に入る子」は5歳で決まる』ほか著書多数。 ----------
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%9d%b1%e5%a4%a7%e5%8c%bb%e5%ad%a6%e9%83%a8%e5%8d%92%e3%81%ae%e3%83%8e%e3%83%bc%e3%83%99%e3%83%ab%e8%b3%9e%e5%8f%97%e8%b3%9e%e8%80%85%e3%81%8c0%e4%ba%ba%e3%81%ae%e3%83%af%e3%82%b1/ar-BBXnQ1D?ocid=ientp

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215. 中川隆[-15230] koaQ7Jey 2019年12月03日 19:36:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2297] 報告
『生きづらさについて考える』 著・内田樹
書評・テレビ評2019年12月3日

 神戸女学院大学名誉教授である著者が、この数年間、新聞や雑誌に投稿したり、大学の学生たちに語った文章をまとめたもの。そのなかで多くの紙幅が割かれている日本の教育、とくに大学教育の現状について注目して読んでみた。

 「日本の大学教育の30年の失敗」を初めて特集したのは、米誌『フォーリン・アフェアーズ』2016年10月号だった。そこでは、日本の大学の論文数の減少(減少しているのは先進国の中で日本だけ)や、GDPに占める大学教育への支出(OECD諸国内で常に最下位)、研究の国際的評価の低下などをデータにもとづいて記述したうえで、とくに著しく欠けているものとして、「批評的思考」「創造力」「グローバルマインド(価値観も行動規範も違う世界の人人と協働する意欲)」をあげた。翌年の英誌『ネイチャー』も同様の特集を組んだ。

 当初、日本の政府・文科省も大手メディアもこれを黙殺した。研究者から声が上がり、ようやく昨年の科学技術白書がこれを認めたが、遅きに失している。

 日本の大学の学術的生産力の劇的低下は、大学の株式会社化の必然の帰結だ、と著者は断言する。国立大学の独立法人化、大学への公費支出の削減、終身雇用から任期制へ、PDCAサイクルによる評価活動などは、大学を普通の株式会社と同様の組織にするためのプログラムであった。

 その原理は、@トップに全権を集中し、独断専行する(教授会自治の否定)、Aトップの下す経営判断の適否は、マーケットに選ばれるかどうかで事後に評価される(市場原理主義)、B組織のメンバーはトップに同意する者が重用され、非協力的なものは排除される(イエスマンシップと縁故主義)である。大学の教育内容は、卒業生の買い手たる産業界から要請された「グローバル人材」の提供に偏ることになり、どんな理不尽な業務命令であろうが上司の指示には逆らわないというイエスマンシップを教え、「キャリア教育」は「お辞儀の角度」「業種別化粧の仕方」といったナンセンスなものに堕している。若い研究者たちは不安定な任期制の身分に置かれているため、プロジェクトのボスのやり方に疑問を挟めば失職のリスクをともなうことから、創造的な研究など生まれないし、それが論文捏造の温床にもなる。

 要するに株式会社は目先の利益至上主義であり、投資した分を短期でいかに回収するかで動いている。これを大学教育に持ち込んだために、大学教育は破綻した。なぜなら教育は商品の売買ではないからだ。著者は「教育事業の利益は、教育を受けた若者たちがやがて人間的な成熟を遂げて、共同体の次世代を支えるという仕方で未来において償還される。教育事業の受益者は教育を受ける個人ではなく、共同体の未来であり、それは50年、100年といったスパンで展開する仕組みなのだ」と強調している。

 「子どもは国の宝」というが、そこには現代とは比べものにならないほど発展した社会をつくってほしいという大人たちの願いが込められており、そうした新時代を切り開く創造的な世代を生み出すために教育という営みがある。次の世代をこの腐敗した社会に従順な、ひからびた「手軽な商品」にするためではない。

変わる韓国教育

 本書を読んで驚くのは、以上のような立場に立つ著者の著作が教育論を中心に十数冊韓国語訳されて、教育関係者に熱心な読者も多く、毎年韓国に講演旅行に行っていること、ここ3年ほどの招聘(へい)元は韓国の教育監だということだ。教育監とは、戦後直後の日本にあった公選制の教育委員会とでもいおうか。韓国では全国が17の教育区に分割され、それぞれの区での教育の責任者である教育監は数年前から住民投票で選ばれている。多くの教育区で教員出身の教育監が生まれ、できるだけ教員を管理しないで、現場の創意工夫に委ねる方針をとって成功しているという。

 「不当な支配に服する」よう強いられる日本とは真逆の方針だが、このなかで毎年著者が各地の教育監に正式に招かれ、多くの教員たちを前に講演している。韓国の教育といえば、詰め込み教育一辺倒、猛烈な受験地獄で、受験当日にはパトカーが遅れそうになった受験生を先導する……といった印象を持つ読者も多いと思うが、すでに過去のものだという。

 著者は、反共法のもと多くの人人がまともな裁判も受けずに長期投獄された時代を覚えている日本人なら、100万人デモが整然とおこなわれ朴槿恵大統領を退陣に追い込んだことに、もっと驚愕してよいはずだとのべている。韓国社会そのものが急速に変化している。今の日本の政治や文教政策が、いかに時代の流れからとり残された遅れたものであるかだ。

 今の日本を閉ざされた金魚鉢に例え、その金魚鉢の外の世界について学ぶこと、またこの金魚鉢がどういう時代的背景のもとで形づくられたか、そして時代の変化とともに必然的に壊れていかざるをえないかを学ぶこと、そのことこそ人文科学の使命だと新入生に訴えている文章は感動的だ。(毎日新聞出版発行、B6判・302ページ)
https://www.chosyu-journal.jp/review/14520

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216. 中川隆[-15229] koaQ7Jey 2019年12月03日 19:38:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2296] 報告

内田樹の研究室
街場の教育論 韓国語版序文 2019-12-03
http://blog.tatsuru.com/2019/12/03_1405.html


 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 このたび『街場の教育論』の韓国語版が出ることになりました。
 次々と僕の本を翻訳してくださっている朴東燮先生と、出版してくださっている韓国の出版社(今回はご縁の深いEdunietyからです)の皆さんに改めて感謝申し上げます。
 日韓関係はいま戦後最悪という状態にあります。外交関係は硬直したままですし、経済関係も冷却し、日本の観光産業を支えていた韓国からのツーリストも激減しました。一刻も早い日韓関係の修復と相互理解の進展を日韓両国とも多くの国民が願っているはずです。そういう状況下で、僕の本が翻訳、出版されることが日韓関係の改善にわずかでも寄与することができることを願っています。
 
 この本は「まえがき」「あとがき」に説明がありますように、2007年度(もうずいぶん昔のことです)の神戸女学院大学の授業を録音して、それをテープ起こししたものを添削した本です。
 その頃は教務部長という役職に就いていて、毎日のように会議に出て、業務に忙殺されていたので、本を書き下ろしている余裕がありませんでした。そこで窮余の一策、講義やゼミを録音して、それを文字起こししたものに加筆して「一丁上がり」という「一石二鳥システム」を採用することにしました。
 これがなかなかうまく行きまして、『街場の中国論』『街場のアメリカ論』『街場の文体論』『私家版・ユダヤ文化論』といった著作はどれも講義録を土台にしてできた本です。
 目の前にいる学生院生たちに話を聴いて、理解してもらわないという「待ったなし」の事情がありますので、こちらにも切迫感がある。聴いている学生たちが目をキラキラさせてくれれば「お、この話は受けているな」ということがわかるし、学生たちがばたばたと眠り出すと「このトピックは学生たちには切実なものではないんだ」ということがわかる。そういう双方向的なやりとりの中で作られた本ですから、書斎にこもって、ひとりでうんうん唸りながら書いている本よりも、だいぶ読みやすいものになっていたのではないかと思います。
 さいわい、この本は日本では好意的に迎えられ、いくつか書評にも取り上げられましたし、何より、多くの学校の先生たちに読んでもらいました。「読んで、ほっと安心しました」という感想を何人もの先生から頂きました。「学校でつらいことがあって、教師の仕事に迷いが出た時には、この本を取り出して、明日の活力を補給しました」という先生もおられました。そういう感想を頂いたことは僕にとってもたいへんうれしいことでした。

 いまの日本の教員たちと韓国の教員たちが置かれている環境がどれほど違うのか、僕にはよくわかりません。でも、僕の教育に関する書物が何冊も韓国語訳されていることから推して、「困っていること」については、いくつかの共通点があることは間違いないと思います。そして、おそらく両国の学校教育の最も重要な共通点は学校教育を市場原理に基づいて語る作法だと思います。
「学校教育を市場原理に基づいて語る」というのは、「マーケット」とか「ニーズ」とか「費用対効果」とか「組織マネジメント」とか「工程管理」とかいう工学的・マーケティング的な用語が教育について語るときに繰り返し口にされるということです。
 そういうのが流行りなんです。日本でも90年代からそういうふうになりました。21世紀に入って、さらにその傾向は強化されてきております。
「社会に出てすぐ役立つ知識や技術だけを教えろ」「人文科学的教養は実用的でないから教える必要がない」「学者ではなく、実務経験者を教員に登用して、社会の現実を学生たちに教えさせるべきだ」というような手荒な要求が財界や政治家たちからは次々と出されて来ますが、教育の現場それに対してなかなか有効な反論ができずにいます。
 でも、僕はそういう風潮を肯定的には評価できません。はっきり言って、「実用」とか「有用性」とか「生産性」というようなビジネス用語で教育を語って欲しくない。でも、まことに残念ながら、僕と意見をともにしてくれる人はいまの日本では少数派です。
「市場原理に基づいて」と上に書きましたけれど、もっと限定的に言うと、「工場での工業製品製造原理に基づいて」です。工場のラインで缶詰や自動車やコンピュータを製造することが産業の主要形態であったかなり昔のモデルに基づいて、いま学校教育は制度設計されています。
 正直言って、僕はその古さと非現実性にうんざりしているのです。
だって、もうそんな時代じゃないんですから。
 工場でものを作ることが産業の主要形態である時代はとうに過ぎてしまった。なのに、どうしていまだに「自称実務家」たちは「工場で缶詰を作る」ような気分で学校教育をしたがるのか、僕には理解できません。
 勘違いして欲しくないのですけれど、僕は「もうそんな時代じゃない」から、古典的な中枢的な工程管理を止めて、「いまふう」にしろと言っているわけじゃないんです。誤解しないで下さいね。学校教育もこれからはスタンドアロンのアクターたちが自由に離合集散してアドホックにプロジェクトを遂行するリゾーム的なネットワークにしろとか、そういう目がちかちかするような話をしているわけじゃないんです。そうじゃなくて、学校教育というのはもともと惰性の強いものなんだから、時代に合わせてころころ変えるとろくなことはないと申し上げているのです。
 社会のニーズなんかいいから、基本的なことだけをきちんとやればいい、と。なにしろ、学校の本質は人類史の黎明期からたぶんほとんど変わっていないはずだからです。
 学校の人類学的機能は要言すれば一つしかありません。
 それは「共同体の次世代の成員たちが生き延びてゆけるように、その成熟を支援すること」です。それに尽くされる。
 ですから、あらゆる教育事業は「これは子どもたちの生きる力を高めるのだろうか? 子どもたちの成熟を支援する役に立つのだろうか?」という問いを通じて、その適否を吟味する。それだけで十分です。それ以外のことは学校教育にとってはすべて副次的です。
 例えば、「子どもたちの相対的な優劣を競わせ、格付けを行うこと」は教育にとってとりわけ優先的な仕事ではないと僕は思います。子どもたち同士に優劣を競わせて、格付けを行ない、高いランクの子どもを厚遇し、低いランクの子どもを処罰するということが子どもたちの市民的成熟に資すると僕は思いません。僕の知る限り、「競争と格付け」が子どもたちを成熟させる、子どもたちの生きる力を高めるということを科学的に証明したエビデンスは存在しません。
 そんなエビデンスがあるわけない。科学的に実験しようと思ったら、子どもたち二つのグループに分けて、一方は「競争」を優先する環境に置き、一方は「成熟」を優先する環境において、20年くらい経年変化を見ないとわからないからです。でも、20年やってみて「あ、こちらのグループの教育は失敗したようです。みんな不幸になりました・・・」と言って済ませるわけにはゆかない。子どもは実験台にはできません。
 にもかかわらず、現在の学校では、限りある教育資源は「確実にリターンがあるところ」に傾斜配分すべきだという「選択と集中」理論があたかも科学的真理であるかのようにのさばっている。「すぐに金儲けにつながりそうな領域に金を投じ、なさそうなところには金を使わない。先行き役に立ちそうな子どもに手をかけて、できの悪いのは放っておく」というルールが教育現場を支配している。
 ここには「未来の共同体を担う次世代の若者たちの成熟を支援する」という配慮はかけらほどもありません。ゼロです。当然ながら、子どもたちを競争させ、厳密に格付けしても、それによって彼らが「賢い、まともな大人」になるということはありません。むしろ、競争的環境は彼らの成熟を阻むと僕は考えています。
 その理屈をちょっと噛み砕いてご説明します。
 同学齢集団の中で相対的に優位に立つためには二つ方法があります。一つは、自分の力を高めること。一つは、競争相手の力を弱めることです。問題が「相対的な優劣」である限り、この二つは同じことです。そして、「競争相手の力を弱める」ことのほうが圧倒的に費用対効果が高い。自分の競争相手たちをできるだけ無能で無力な人間にすればいいわけですから。
 やり方は無数にあります。
 努力している人の足を引っ張る、成熟した大人になろうとしている人に「かっこつけるな」とか「えらそうにするな」といやがらせを言う、個性的な人を「変だ」と言って排除し、迫害する。もっとシンプルにただ「大声を出して教室を走り回る」でも、ことあるごとに教師に食ってかかって、教師の尊厳を掘り崩すとか・・・やることはいっぱいあります。すべて「同学齢の競争相手の生きる力を減殺する」という目的にはかなっている。そして、現に子どもたちはそうやって日々クラスメートたちの生きる力を殺ぐべく努力しています。
 愚かなふるまいだと思うかも知れませんけれど、「短期的な自己利益の増大」という点だけを見れば、これは合理的なふるまいなのです。これで正しいんです。
 でも、そうやって閉ざされた集団内部での相対的優劣を競っている限り、集団の力はしだいに弱まってゆく。当然です。集団成員の全員が、お互いに「自分以外のメンバーが自分より学力が低く、自分よりメンタルが弱く、自分より未成熟であること」を願っているんですから。そんな集団が「強いもの」になるはずがない。
 それこそまさにいまの日本で起きていることです。
 日本社会では「いじめ」とか「パワハラ」とかいうことが社会問題になっています。
 よく僕のところにも取材が来ます。「いったい、どうしてこんなことが起きるのでしょう?」と訊かれます。「社会制度に瑕疵があるのでしょうか? もっと管理を強化すべきでしょうか? 処罰を厳格化すればいいのでしょうか?」いろいろと訊かれます。
 僕の答えは、「どんな病的な行動にも主観的な合理性はある」というものです。
「いじめ」も「パワハラ」も、自分と同じ集団に属するメンバーたちの生きる力を減殺させることを目的としています。これは集団が存続してゆく上ではきわめて有害なふるまいですが、集団内部的な競争においては、「いじめるもの」「ハラスメントするもの」に利益をもたらすふるまいです。集団として、長期的に見ると、自殺的なふるまいですが、個人として、短期的に見ると、自己利益を増大させる合理的な行為です。だから、そういう行為を人々は「努力」して行っているのです。別に邪心に衝き動かされているわけではなく、競争で相対的な優位に立つためには、競争相手の生きる力を殺ぐのが効果的だという経験則に従って行動しているのです。
 船底のあちこちに穴が空いて、漏水して沈みかけている船がありました。この船に乗り合わせた人たちが「水を汲み出す力」を基準にして乗員たちを格付けすることにしました。そして、水汲みの力の低いものについては、ご飯の量を減らしたり、寝かせなかったり、鞭で叩いたりして差別しました。そんなふうにいじめられた人たちは弱り切って、使い物にならなくなりました。そして、気がつくと、水を汲み出す人手が足りずに、船はぼこぼこと沈んでしまいました。おしまい。
 今の日本で起きているのはこんな感じのことです。
 国民個人の格付けに熱中しているうちに、国の力そのものが衰微してしまった。
 そのことに気がついていない。それは集団的に、長期的にものごとの適否を考えるという思考習慣が失われつつあるからです。
 それは日本だけではなく、いま全世界に広がった病態なのかも知れません。きっと韓国でも似たような現象は観察されているのではないでしょうか。
 ですから、僕からのご提案はごくシンプルなものです。
 学校教育は専一的に「子どもたちの成熟を支援する。子どもたちの生きる知恵と力を高める」ように営まれること。それだけです。
 もちろん、言ったからといってすぐに実現できるような話ではありません。
 でも、とりあえずはそこから始める。まだ答えは出さなくていいんです。とりあえずは問うだけで十分だと思います。

 僕からは以上です。
 両国の成熟した市民たちの対話を通じて、日韓両国の相互理解と連携がふたたび基礎づけられることを強く願っています。僕のこの願いに共感してくださる方が韓国の読者の中にもいてくださるとうれしいです。

2019年12月
内田樹
http://blog.tatsuru.com/2019/12/03_1405.html

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217. 中川隆[-15185] koaQ7Jey 2019年12月09日 14:33:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2250] 報告

2019年12月09日
馬鹿になる日本人の子供 / 悪化する教育現場
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68791335.html

本当はPISAの結果より悪い?!

German choldren 2Germany school 20
(左 : 段々消えゆく従来のドイツ人家庭 / 右 : 多数派になりつつある「新ドイツ人家庭」)

  今月、世界各国の教育水準を測るPISA(国債学習到達度調査)の結果が公表され、日本の惨状が明らかになった。OECDは世界79ヶ国で、15歳の子供を対象に基礎的な試験を課した訳だが、日本人の子供は読解力で前回の8位から15位に転落し、数学的応用力でも後退したそうで、5位から6位となった。さらに、科学的応用力でも凋落したそうで、2位から5位に順位を落としたらしい。(2019年12月3日附『産経新聞』) この調査結果を受けて、文部科学省は読解力における子供の学力向上を検討すると述べた。

  「国語能力の低下」という一報を受けて、各マスコミはその原因を探るべく、大学や研究機関の“専門家”に意見を求めた。産経新聞は広島大学の難波博孝教授に見解を尋ね、意見を求められた難波教授は、考えられる要因を述べていた。難波教授によれば、先ず活字媒体に触れる機会が減ったためだという。社会のデジタル化が進み、本や新聞といった紙媒体を読む環境が失われ、そうした習慣すら無くなってしまったそうだ。デジタル機器が普及した現代では、紙の書籍に代わるタブレットやスマートフォンを使い、電子書籍を深く読む経験を積ませるべきなのに、日本の学校はそうした教育を行っていないから問題なのだ、という。

  また、家庭環境にも原因があるらしい。子供達はデジタル機器を持っていても、SNSやゲームといった消費的な使い方しか行わず、文章を熟読する事はないという。要するに、情報を流し読みするだけ。これでは「活字に触れる」とは言えず、何も頭に残らない。様々な情報を文中から探し、文章を組み立てて評価するといった読解力の訓練は、教えてあげないと身につかないそうだ。そして、子供達には頭に残るような「深読みする」といった“慣れ”も必要であるらしい。他の要因として考えられるのは、「テスト疲れ」であるという。調査対象となった高校一年生は「脱ゆとり教育」のせいで、様々な試験を課せられているから、学校の成績に関係ないPISAのテストに意欲を示さないそうだ。

  産経新聞は別の専門家にも尋ねており、国立情報学研究所の新井紀子教授によれば、インターネット上でのチャットが原因となっているそうで、短い文章のやりとりは読解力の向上とならず、生産的ではないらしい。だから、学校教育では長い文章のレポート作成に力を入れるべきだという。結局、読解力の低下は、デジタル機器に熱中するあまり、書物をじっくり読む習慣がなくなり、文章作成といえば、携帯電話でのチャットしかない、という現状が問題なんだろう。

  赤点学生だった筆者が教育問題を云々する資格は無いけど、難波教授や新井教授の分析は何となく“しっくり”こない。もちろん、スマートフォンやパソコンばかりに熱中する子供が馬鹿になるのは分かる。携帯電話をいじっている子供が検索するサイトなんて、大抵はゲーム関連か藝能ゴシップ欄の類いだ。まさか、電子タブロイドを見つめている子供が、最新科学の学術論文を呼んでいる、なんてことはないからねぇ〜。高校生の読解力とか文章作成能力が低下しているのは、読書不足という面が否めないが、根本的には学習意欲の低下に原因があるんじゃないか。もし、「たくさんの事を知りたい、教科書以外の事柄をもっと学びたい !」という欲求があれば、パソコンを開いて様々なサイトを見るだろう。インターネットが無い昭和の頃なら、ブラックホールとか化学物質の分子構造、人体の神経組織などを知りたいと思ったら、書店で参考書を探すか百科事典や図鑑を手に入れて調べるしかなかった。ところが、今ならネットで調べれば直ぐ分かるし、詳しく知りたいと思えば大学教授やキイエンス・ライターが説明する動画サイトもあるし、料金だって発生しないから結構お得だ。

  しかし学力低下の子供は、いくら重宝なデジタル機器を所持していても、アカデミックなサイトを開くことはない。なぜなら、彼らには知的な探究心が無いし、どこを、どう探したらいいのか、糸口さえ摑めないのだ。例えば、スマホやパソコンの液晶ディスプレイを見ていても、それがどんな仕組みで設計され、如何なる素材で製造されているのかに興味が無い。昔は小学生でも理科の実験セットを購入し、天体観測やトランジスタ・ラジオについて勉強したものだ。筆者が小学生の頃は、プラモデルで使うモーターを一つだけ分解し、その構造を調べることに興味があった。中学生になればマンガン(亜鉛・炭素)電池とリチウム電池の違いを理解できるようになるし、岩波書店の「ブルー・バックス」シリーズを調べれば、学校では習わない物理や化学、生物、数学の知識を得ることもできた。

  進学校を卒業した中高年の大人や理系の学生は笑ってしまうだろうが、筆者は子供の時、学習教材で買った磁石を使い、色々なモノに近づけて遊んだことがある。従兄弟からマイケル・ファラデーの単極誘導モーターや磁力、永久磁石、さらにはジャイロスコープの原理を教えてもらって、とても面白かったのを覚えている。(ちょっと理科に興味がある高校生ならファラデーの「アラゴの円盤」を聞いたことがあるんじゃないか。今はデジタル機器に置き換えられたけど、昔の一般住宅には積算電力計が設置されていて、東京電力のオバちゃんたちがやって来て、家庭の電力使用量を記録していたものである。 計器の中にはクルクル廻る円盤があったんだけど、今じゃ骨董品になっているのかなぁ〜。) ちなみに、東北大学の「金属素材研究所」は磁力の研究で世界的に有名だ。本田光太郎博士は一流の科学者で、知らない人がいないくらい。また、「インターメタリックス社」を創業した佐川眞人(さがわ・まさと)博士は、博士過程のとき下平三郎教授のもとで勉学に励み、金属素材研究所で研鑽を積んでいる。言うまでもなく、佐川博士はネオジム磁石を開発した第一人者。

Wander Johannes de Haast(左 : ウァンダー・ヨハネス・ド・ハース / 右 : アルバート・アインシュタイン )
  神童は別格だから、問題は凡庸な子供の方である。庶民のボンクラ息子は、アホらしい発想でもいいから何かに興味を持たねばならない。筆者は小学生の時、砂鉄や磁石を使って遊んでいたが、不思議なことに鉄板とか銅は磁石にくっつくのに、水銀みたいな液体は近づけても引き寄せられなかったので、「変だなぁ〜、やっぱり板状じゃないと無理なのかなぁ〜」と思ったものである。(今の子供でも『ターミネーター2』の液体金属マシーンT-1000を見れば、水銀が磁石にくっ附くと勘違いするはずだ。水銀は体温計を壊せば手に入るけど、よい子のみんなは危険だから絶対に真似しないでね。今は誰も使わないけど、昔「赤チン(Mercurochrome)」という塗り薬があって、メルブロミン液には殺菌作用のある有機水銀化合物が含まれている。劇薬は黴菌を殺すことに役立つという訳だ。) インテリ家庭の子供は鼻で笑ってしまうけど、学歴の無い親に育てられるとこんなものである。まさか、普通の親が「アインシュタイン・ド=ハース効果」に言及し、磁気の回転効果を説明したり、コイルを巻いて磁石を作るなんてことはしないだろう。ちなみに、「ド=ハース」というのは、ライデン出身の物理学者、ウァンダー・ヨハネス・ド・ハース(Wander Johannes de Haas)のこと。(もし、中学生のよい子が磁石に関して興味をもったら、理科の先生に尋ねてね。たぶん、図解を以て詳しく教えてくれるはずだから。)

  脱線したので元に戻す。PISA試験の惨状分析は専門家によってマチマチになってしまうけど、筆者は貧困家庭と崩壊家庭の増加に関連があるんじゃないか、と思っている。子供が自然や物質に興味を抱いたり、教科書の予習や復習を日課とするためには、ある程度、子供を監督する親に経済的な余裕がなければならず、親が日々の仕事に追われ、月給稼ぎで精一杯だと子供の教育どころじゃない。とりわけ母子家庭だと、親は帰宅して食事を作るのがやっとだ。(中には、ちゃんと立派な教育を施している賢母もいるけどね。) たとえ、子供の教育を気に掛けていても、「ちゃんと宿題をやってるの?」と説教するくらいで、知的な会話など一切無い。こうした家庭だと、子供は学校の宿題くらいはするけど、後は刺戟的だが受け身的なTVゲームに熱中したり、友達と携帯電話で長話、というのが関の山だ。読書といっても、週刊漫画やTVゲーム攻略法を手に取るくらいで、文学作品なんか埃(ほこり)を被っている。

Jews 334(左 / 伝統的民族文化を維持するユダヤ人)
  でも、家に“まとも”な本があればいい方で、ゴシップ雑誌や競馬新聞くらいしか読まない親だと、子供の知性を高める方法すら思いつかない。そもそも、自分が勉強したことがないので、知的な訓練は学校の先生か塾の講師に丸投げだ。途方に暮れた親から「先生お願いします !」と頼まれたって、教師は困ってしまうだろう。心の底で「私は神様じゃありません。本人次第です !」と呟きたくなる。そりゃそうだ。親の言うことを聞かない子供が、他人の言うことを聞くのか? 「出来ない子」には勉強より、先に“躾”が必要なのだ。ちゃんと落ち着いて、書物に目を通し、遅くてもいいから確実に内容を理解することが大切である。ユダヤ人に優秀な子供が多いのは、タルムード(Talmud)やミシュナー(Mishnah)を丹念に勉強する慣習が備わっているからで、彼らは何千年もこうした行動様式を守ってきた。だから、剣術や狩猟にしか熱中しないヨーロッパのキリスト教徒を凌駕することなんて朝飯前。ちなみに、「タルムード」とは簡単に言うと、口伝律法を集めた権威の書物で、「ミシュナー」は教訓や逸話などを交え、祈りや結婚、葬儀、律法などについて書かれた経典を編纂したものである。

  文部官僚は世間からの批判を躱(かわ)すために色々な政策を打ち出すが、実際の教育現場はPISAの結果より酷いんじゃないか。だいたい、“勉強の出来ない”子供に「ちゃんと勉強して成績を上げろ !」と命令したって糠に釘である。そもそも、自宅で勉強する習慣が無いし、勉強する目的すら分かっていないのだ。基礎学力に乏しく、嫌々ながら机に向かう子供が、1時間ないし2時間もじっと勉強する訳ないだろう。試験秀才の官僚や学者があれこれ提案しても、そんなのは所詮「優等生の模範解答」に過ぎない。彼らは実戦を経験しないで作戦を立てる軍官僚と同じだ。もし、“叩き上げの”中隊長が参戦本部の「大和魂を以て突撃せよ !」という命令を拝聴すれば、「アホか ! なら、お前が先陣を切って突っ込め !」と言いたくなる。授業の内容すら理解できない子供は、先生から「何か質問は?」と訊かれても、「自分がどこを分からないのか」、「どんな質問したらいいのか」という出発点でまごついてしまうのだ。土台となる基礎知識が無いから先生の説明を聞いてもチンプンカンプン。何しろ、以前の学習内容を咀嚼(そしゃく)していないから、授業を拝聴していても、単にお尻で椅子を暖めているだけ。劣等生は気がつくと小学校を卒業し、中学校で再び空虚な授業を受けている。こんな子供は一生、学問に目覚めることはない。

  とにかく、「出来ない子」には知的好奇心が欠落している。親とか友人から刺戟を受けない子供は、ただボケ〜とテレビを見ていたり、話題のゲームに没頭するくらいで、外国や宇宙に対して「なぜこうなんだろう?」という興味を持つことがない。教師が親切心から面白いエピソードを話しても、初歩的な教養が無いので、「ああ、そうか !」という“引っかかり”すら摑めないのだ。昔、小遣い稼ぎのため塾の講師とか家庭教師をやったことがあるんだけど、英語が苦手な生徒は数学や理科も駄目で、不思議な現象やミクロの世界を話しても目を輝かせることすらない。筆者は英語を担当していたけど、脱線して数学や物理のトリビアとか、西歐史のエピソードを混ぜることが多かった。少しでも好奇心の掘り起こしになればと思ったんだが、ポカ〜んと聞く子供を見て「駄目だこりゃ」と思ったことがある。仕事だから割り切って授業をこなしていたけど、練習問題を教えながら「英語なんて要らないよなぁ。それよりも先ず国語や国史を勉強した方がいいんじゃないか」と思うこともしばしばあった。

  ある時、雑談の中でコンピュータで使われる二進法やカラー・コードの話をしたので、ついでにプリテンの貨幣の話をしたことがある。でも、教えてやった子供は二進法どころか、十二進法すら理解できず、説明するのにもかなり苦労した。英語の授業ということで、「ポンド・スターリング(pound sterling)」を引き合いに出して、色々なエピソードを話してやったけど、反応はイマイチ。英語を習っている高校生だって、英米の度量衡を理解していない子が多かった。例えば、1ポンドは20シリングの価値があり、1シリング12ペンスだから、1ポンドは240ペンスと等しくなる(20×12=240)、と教えたら、「そうなんだぁ〜。でも、それって学校の試験に出るの?」といった反応がほとんど。 今の中学生や高校生でも、1ペニーとか2ペンス、20ペンス、50ペンスという貨幣単位を訊かれたら、どれくらいの価値なのか答えることはできまい。「1パイント(pint)入りの缶ジュース」とか、「3ガロン(gallon)のガソリン」 、「10オンス(ounce)のボクシング・グローブ」、「100エイカー(acre)の土地」と聞いたって、ピンとこないんだから、英会話なんて無理だろう。中学生が英国のアマゾンで本を買うことはないと思うけど、£40や£85の表示価格を見て、「安い」とか「ちょっと高いなぁ」と分かるようになれば、イギリス人と景気の話をするときに便利だ。

  まぁ、黒板で貨幣の説明をしただけじゃ分からないと思ったから、実物、すなわちブリテンの紙幣や硬貨とか、アメリカおよびカナダの通貨を見せてやったら、「へぇ〜、こんなお札とかコインなんだぁ〜」と結構興味を持ってくれたので嬉しかった。(やっぱり、お金には魔力がある。) たぶん、普通の子供だと歐米の紙幣や硬貨を手にすることはないから珍しかったのだろう。(紙幣の肖像画についても話そうと思ったが、ややこしくなるから止めることにした。第一、学校の西洋史なんか当てにならないから。) ちなみに、「スターリング」はエドワード1世の頃に鋳造された硬貨のデザインに由来するそうで、綴りは違うけど「ムクドリ(starling / スターリング)が元になったそうだ。他には、「強い」とか「固い」を意味する言葉であったから、という説もある。

  知的な会話の無い家庭で育ってしまうと、子供は様々なトリビアを話しても食いつかない。例えば、英国だと「12」という数はあちこちで目にする。1ダース(dozen)のビール・ケースには、12本のボトルが入っていて、1グロス(gross)になると12ダース分になるから、144本(12本×12ケース)のボトルが入っている計算になる。パソコン世代の子供達はトンボ鉛筆を使わなくなったけど、昔は12本入りのケース売りが当たり前だった。また、長さの単位でも十二進法が使われており、1フィートは12インチだし、暦の365日は30日で割れば約12となる。「十二進法」というのは便利な位取り記数法で、2人あるいは3人、4人、6人で食事をしたとき、難なく割り勘にできる。10進法の勘定だと、3人の時に端数が出て困ってしまう。二十進法も覚えておいて損は無い。スポーツで使う英単語の「スコアー(score)」は、「総計」とか「たくさん」という意味を持っているが、「20人とか20個」を意味する言葉でもある。一説では、羊の数を数える時に、「20」を底にする位取りであったからだという。たぶん、ヨーロッパ人は1から20までを数える、または板に刻むのが精一杯で、「20」匹も集まれば、「たくさんの羊がいる」という感覚になったんじゃないか。(以前、日本語は複数概念が無いから劣っていると仄めかした学者がいたけど、西歐の複数形なんて「2」以上を表しているだけ。「3つ」を越えれば「いっぱい」という頭になってしまうのだ。)

下層外人の到来でもっと悲惨になる学校

  文部科学省や教育学部の教授達は、「子供達の読解力が低下して大変だぁぁ〜」と志村けんみたいに騒いでいるが、これからの教育現場はもっと酷くなる。なぜなら、財界や政府が低賃金の移民労働者を招いているからだ。第19世紀から20世紀前半まで、イングランドやドイツは比較的、国民の人種的同一性が高かった。しかし、今では有色人種が雪崩れ込み、とてもゲルマン人の国家とは思えない雑居長屋と化している。ナチズムの前科で“もがき苦しむ”ドイツでは、国民の大半が罪悪史観で洗脳されてしまい、憐れなくらいのクルクルパーになっている。この弱みを察知したアラブ人やトルコ人、シリア人およびアフリカ人は大挙してドイツを目指し、豊かな異国生活をエンジョイしようと企んだ。この盲流を前にしたドイツ人は、銃を構えて追い払うどころか、逆に諸手を挙げて大歓迎。馬鹿に附ける薬は無い。

  日本でも注目された2015年には、約80万人の難民が押し寄せたんだから、普通のドイツ国民だって「右翼」になろうと思ってしまうじゃないか。(Carla Bleiker, 'How to integrate refugee kids in German school', Deutsche Welle, 15 October 2015) 最近の選挙で「ドイツのための選択肢(AfD)」が躍進しても不思議じゃない。本来なら、「ドイツはドイツ人(ゲルマン人とかチュートン人)の国」というのが常識で、キリスト教が主流なのも当然。いくらキリスト教徒とはいえ、黒人や中東アジア人が「私はドイツ人です」と自己紹介したら、普通の日本人は「えっ ! この人がドイツ人・・・・?」と驚く。でも、今ではアフリカ人やトルコ人の「ドイツ国民」なんて珍しくないし、白人みたいなアラブ系混血児や色黒のドイツ人がゴロゴロ居るから、別に驚くことではない。

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(左 : ドイツに定着した異民族の小学生 / 右 : ドイツの学校で学ぶ難民の子供 )

  豊かな先進国だから仕方ないけど、チュートン系のドイツ人は年々減少している。が、アフリカやアジアからやって来る移民は多産で、計画出産なんか考えず、ネズミのように家族を増やしているそうだ。2016年の国勢調査によると、子供を産む女性の種類と出生率に違いが生じているという。例えば、移民の家系を持たない女性が産む子供の数は平均して「1.2人」なのに、移民の家系に属する女性だと、平均して「1.4人」産むらしい。そして、こうしたグループの内、自身が移民である女性は平均して「1.6人」の子供を産むそうだ。("The Changing Face of the Country", Der Spiegel, April 19, 2018.) 要するに、ゲルマン系の白人女性は一生独身のままか、結婚しても子供を1人くらいしか産まないけど、移民の女性は2人以上の子供を産んでしまうということだ。労働移民としてのトルコ人でさえ問題なのに、さらに約140万人の難民を抱え込むなんて、ドイツ人は常軌を逸している。異人種が流入すれば混血児の数も増えるから、将来の“ドイツ人”は、ほとんどが混血児か、あるいはシリア人とかガンビア人、アフガン人の血統が主流の「ドイツ国民」になる可能性が高い。もし、両親とも移民出身者であれば、父親がクルド人で母親はアルバニア人とか、父親がモロッコ人のイスラム教徒で母親がエリトリア人のキリスト教徒というケースだって有り得る。

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(左 : 多民族社会となったドイツの現状 / 右 : 白人児童が少数派になった歐洲の学校)

  ドイツ人は「外人嫌悪(xenophobia)」の非難を受けると、仔犬のように怯えてしまうが、全部の外国人を嫌っている訳ではない。例えば、スウェーデンやイングランドから来た移民がドイツに住んでも迫害を受けるという事は滅多にないし、ネーデルラントやデンマークからの移民なんて外人の部類に入らない。ドイツ参謀本部のモルトケ参謀総長(Helmuth K. B. von Moltke)は、コペンハーゲンの士官学校を卒業し、「デンマーク」の軍人であったが、元々は北プロイセンから移住してきた軍人の息子だからドイツ人と変わりなかった。英国のヴィクトリア女王だって、普通のドレスに着替えてハノーヴァーの街中を歩けば、中流のドイツ人女性と間違われるだろう。夫のアルバート公はドイツ出身だから、コーブルクやザクセン、シュレスヴィヒ地方を旅行しても違和感は無い。また、幼児洗礼を受けたルター派教会からアングリカン教会に鞍替えしたってプリンスには変わりがなく、そんなのは些細なことだ。

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(左 : ヘルムート・フォン・モルトケ / 中央 : ヴィクトリア女王 / 右 : アルバート公 )

人種的に近い移民なら、ドイツで住むことは難しくない。国境で線引きされたって、容姿が似たり寄ったりだから問題じゃないんだろう。実際、ズデーテン地方のゲルマン系チェコ人とかボヘミアに住むスロヴェニア人なんかドイツ人と見分けがつかない。例えば、筆者が好きなガブリエラ・グンチコヴァ(Gabriela Gunčikova)はチェコ人の歌手なんだが、ドイツの街中で見かけたら「別嬪のドイツ人」と思ってしまう。2016年、彼女はドイツのロック・バンド「プライマル・フィアー」のマット・シナーと一緒にコンサートを行ったことがあるが、ガブリエラが「ドイツ人歌手」と紹介されても違和感は無い。人気TVドラマ『ヴァイキングズ』に出演しているキャサリン・ウィニック(Kathryn Winnick)だって同じ事。彼女はウクライナ系カナダ人の役者だが、海賊の女戦士を演じてもサマになっているし、ドイツに移住したって「外人」に見えない。共演者のガイア・ウェイス(Gaia Weiss)なんかポーランド系フランス人なんだけど、フランクフルトやアルザスで見かけるような白人女性だ。もし、イギリス人と嘘をついても分からない英語力と容姿を持っている。

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(左 : マット・シナー / ガブリエラ・グンチコヴァ / ガイア・ウェイス / 右 : キャサリン・ウィニック )

  しかし、ユダヤ人となれば別。ウクライナ出身のユダヤ人といえば、サイモン・ヴィーゼンタール(Simon Wiesenthal)とか、元イスラエル首相のゴルダ・メイアー(Golda Meir)とモシェ・シャレット(Moshe Sharett)の二人が思い浮かぶ。だが、彼らはどんなにドイツ語が上手くても「ドイツ人」と思われない。日本人だって「偽装ドイツ人じゃないのか?」と勘ぐってしまうだろう。人類学者のフランツ・ボアズ(Franz Boas / ユダヤ人)に追従するユダヤ人は、「人種なんて社会的な構築物だ。容姿でユダヤ人とドイツ人の見分けなんかつかない」と豪語するが、セム種族の血が濃厚なユダヤ人はドイツ人に見えない。シオニズムの父、テオドール・ヘルツル(Theodor Herzl)だって、ウィーンに住んでいたけど、ゲルマン系オーストリア人には程遠い人物だった。彼は「自己嫌悪のユダヤ人」として有名で、同胞をパレスチナに導くためなら、財産を奪って移住に同意させるべき、と思っていたのだ。こんなユダヤ人がいたから、ヒトラーやヒムラーはシオニストの活動家と密約を結ぶことができたのである。

Golda Meir 2Simon Wiesenthal 1Franz Boas 1Theodor Herzl 1


(左 : ゴルダ・メイアー / サイモン・ヴィーゼンタール / フランツ・ボアズ / 右 : テオドール・ヘルツル)

  脱線したので話を戻す。大勢の難民を抱えてしまったドイツ政府は、異邦人に対する福祉や同化対策でテンテコ舞い。2017年には、住宅供給や語学教育などの公共プログラムで、140億ユーロの予算を組んだそうだ。("Germany's Ongoing Project to Westernize Its Refugees", Der Spiegel, May 12, 2017.) また、移民や難民が流入すると、ドイツ各地に異人種のゲットーが形成されてしまい、現地のドイツ人にとって脅威となる。例えば、ノルトライン・ウェストファリア州には移民や難民が密集してしまい、外人だらけの小学校が出現しているそうだ。ドイツの地理に詳しい人なら、デュッセルドルフやドルトムント、ドゥイスブルク、歴史的にも有名なアーヘン、ミュンスター、ケルンに移民が溢れていると知って驚愕するだろう。都市部や地方の小・中学校に、アラブ人やトルコ人、シリア人の子供が大挙すれば、算数や理科どころか、国語の授業だって成り立たない。ドゥイスブルクにあるマックスロー(Marxloh)では、中東アジア人やアフリカ人の「住民」が増えすぎてしまい、カトリック教会系の「ヘンリエッタシュトラーゼ小学校」では、何と児童の約95%が移民家庭の子供であるという。これと比べれば、神奈川県の「いちょう小学校」(横浜市飯田にある「多国籍学校」)なんて、たいした問題じゃない。

  ドイツにある学校の幾つかは、ドイツ語で授業を行うことすら困難な状態にある。昔から居るトルコ人だって中々同化しないのに、その上シリア人とかアフガン人、イラク人、エチオピア人が混ざるなんて悪夢だ。たとえ白人といっても、ルーマニア人やブルガリア人、スロヴェニア人、ボスニア人だと家庭の教育水準が低いから、普通の学問を授けようとしても大変だ。ジプシーなんて問題外で論外だ。ドイツ政府はドイツ語が不得意な子供のために余計な税金を使わねばならず、増税に喘ぐドイツ人は憤懣やるかたない。財政難のギリシア政府だって厭なのに、北アフリカの劣等種族なんてまっぴら御免だ。当事者である学校側も大変で、移民や難民の子供達を少しでも救うべく、アラビア語やトルコ語、ウルドゥー語を話す補助教員を動員しなければならないし、イスラム教に配慮した学校運営を考えねばならない。

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(左 : 左翼教育を受けるドイツ人の子供 / 右 : 「ドイツ国民」になるべく同化教育を受ける移民の子供)

  さらに、厭なのは人種問題が浮上することである。ドイツ人同士のイジメだって厄介なのに、ゲルマン人キリスト教徒vsアラブ人イスラム教徒の喧嘩となったら社会問題だ。教師からすれば、単なる「子供の諍い」なのに、民族対立にまで発展するから、PTAを巻き込んだスキャンダルになる。でも、子供と親の板挟みになった担任教師は、どうしていいのか分からない。ドイツ人の保護者からは「なんでウチの子が、あんな異邦人と一緒にされて、学力低下に苦しまなければならないの !」との抗議を受けるし、移民の親からは「あんなネオナチどもの言うことを聞くのか? やっぱり、ドイツ人は根っからの人種差別主義者だ !」と罵られる。歴史の授業になれば、もっと厄介で、教師はどちらの側にも与することはない。中立の歴史観なんて“つまらない”が、イスラム教徒の子供がいるから、一方的に「大トルコ戦争(Großer Türkenkrieg)で勝ったぞ !」と喜ぶことはタブーとなる。ドイツの学校なら、ドイツ人の過去を誇るようなカリキュラムにすべきだが、移民やユダヤ人に配慮した内容になると、中身が空洞の愛国心しか育たない。近現代史の授業が「懺悔の時間」になっているんだから、まともなドイツ人が激減し、左巻きのアホが増殖するのも当然だ。

Turkish immigrants 1Immigrants in Germany 5

(左 : ドイツに住みつくトルコ系の「ドイツ人」 / 右 : アフリカ諸国からやって来た難民)

  ドイツ政府は移民を同化させるため、学校教育で多民族・多文化主義を導入しているが、これはドイツ系児童の学力低下ばかりではなく、アイデンティティーの喪失や崩壊にも繋がっている。なぜなら、移民に配慮する教育方針というのは、ドイツ人の子供が持つはずの愛国心を削ぎ、根無し草の副作用を含んでいるからだ。本来なら、ドイツ人の若者は国家の礎となった祖先に感謝し、その文化的遺産を継承しようとする。ドイツ民族の伝統はゼニ・カネの問題じゃない。ところが、リベラル思想とか多様性礼賛の教育を受けた青年は、ナショナリズムと排外主義に過敏となり、ドイツ人だけで結束することは危険だ、と怯えてしまうのだ。移民国家になると、原住民が一方的に譲歩するようになり、自分達の文化や伝統を変質させることが「善」となる。そして、このような状態になると、祖国に住んでいても、段々「自分の国」と思えなくなるのだ。

  そういえば、ドイツ語には「家」や「郷里」を意味する「Heimat(ハイマット)」という言葉がある。これは「自分が属している家」というニュアンスを含んでいるらしい。日本では「何とか荘」と呼ぶべき長屋に、よく「ハイム」という横文字が附いているけど、たぶんドイツ風のイメージを作りたいからだろう。ドイツ人にとって「ハイマット」は「祖父の国(patria)」とか「先祖代々の土地(Vaterland)」といった言葉に近い。したがって、彼らが口にする「私の国(mein Heimat)」という表現は、「私と同じ種族が住む郷里」といった響きをもっている。今は解散してしまったけど、昔、ロック・バンドのモトリー・クルーが「ホーム・スウィート・ホーム」という曲を歌っていたが、「ホーム」という言葉には何か温かくホッとするような「懐かしさ」がある。

  しかし、異民族が流入してくると「ドイチュラント」はもはや麗しの「ハイマット」ではなく、雑居ビルのような「アパルトマン」になってしまうのだ。茶色のベルベル人や褐色のイラク人がウヨウヨしているドイツの街なんてゾッとするじゃないか。歴代の神聖ローマ皇帝が戴冠したアーヘンや聖人が眠るランスに、髭面のサラセン人がうろついていたら、スペインのグラナダみたいだ。ちなみに、筆者は「老人ホーム」という言葉に違和感がある。なぜなら、「養老院」は家族が暮らす温かい「ホーム」じゃなく、瀕死の老人が収容される「病院」や「姥(うば)捨て山」の一種であるからだ。なんでインテリやマスコミは日本語を使わず、西洋語で曖昧にしようとするのか。分かりやすい言葉にすると、何らかの不都合があるんだろうね。

Alaa Kassab 2(左 / 子供に英語を教えるアラア・カサブ )
  ブリテンやフランス、カナダ、オーストラリアと同じく、ドイツでも移民を受け容れようと躍起で、民族的多様性を肯定するカリキュラムが盛んになっている。本来、ドイツの公立学校は、“善きドイツ人”を育成する国民学校(volksschule)であるべきなのに、ゲルマン人の子供は異邦人みたいになっている。例えば、ポツダム大学は「難民教師プログラム(Refugee Teachers Programme)」を企画し、外国人の教師をテスト校に派遣して「移民の統合」を促進しようとした。このプログラムに参加したアラア・カサブ(Alaa Kassab)というシリア難民は、故郷のアレッポで英語を教えていたから、ドイツの子供にも“お得意”の英語を教えたいと張り切っていた。(Josie Le Blond, "German scheme eases refugee teachers back into class", UNHCR, 21 February 2018)

  普通の日本人なら、「イギリス人の先生がいいなぁ〜」と思ってしまうだろう。せっかくイングランドの言葉を勉強するんだから、せめてアングロ・サクソン系のアメリカ人やカナダ人でなきゃヤル気が起きない。大手英会話スクールなんか生徒集めに熱心だから、TV広告でブロンド女優のキャメロン・ディアスやスコット系男優のユワン・マクレガーを使っていた。実際に彼らが教えることはないけど、日本人はインド人やフィリピン人の教師より、西歐系の教師を選ぶことの方が多い。もし、ドテルテ大統領のような教師が英会話教室に現れたら、女子生徒は「えぇぇぇ〜、何でこんな先生なのぉぉ !!」と不満を爆発させてしまうだろう。中には「お金返して !!」と凄む生徒もいるはずだ。いくら教育学や言語学で博士号を取った講師でも、アジア人とかアフリカ人じゃ抗議の嵐となる。

Emily Blunt 2Katie McGrath 6Fiona Bruce 5Laura Trevelian 1


(左 : エミリー・ブラント /ケイティー・マクグラス / フィオナ・ブルース / 右 : ローラ・トレヴェリアン)

  理想を言えば、エミリー・ブラント(Emily Blunt)やケイティー・マクグラス(Katie McGrath)みたいなブリテン人がいいんだけど、実際はテレザ・メイ前首相とかヘレン・ミレン(Helen Mirren)みたいなオバちゃん先生が普通なんだよねぇ〜。だから、せめてBBCニューズのフィオナ・ブルース(Fiona Bruce)やローラ・トレヴェリアン(Laura Trevelian)みたいな人を採用した方がいい。やはり、正しい英語を学びたい人は、美しいブリティッシュ・アクセントを話す教師を求めるものだ。ラップ音楽を好きな日本人は例外で、ブルックリンの黒人が話す英語じゃ勉強する気にならない。今の大学生なら黒人のタラジ・ヘンソン(Taraji Henson)やオプラ・ウィンフリー(Opra Winfrey)でも気にしないんだろうが、筆者の世代だと「勘弁してくれ」と言いたくなる。日本語を学ぶイギリス人なんてごく少数だろうが、もしロンドン大学で日本語を専攻したり、我が国の大学に留学するなイギリス人学生なら、朝鮮人やフィリピン人の日本語じゃなく、京都の魅力的な女性が話すアクセントや山の手の士族が話す日本語の方を好むだろう。

Helen Mirren 1Theresa May 1Opra Winfrey 4Taraji Henson 3


(左 : ヘレン・ミレン / テレザ・メイ / オプラ・ウィンフリー / 右 : タラジ・ヘンソン)

  脱線したので話を戻す。件(くだん)のアラア・カサブは意気揚々とドイツ人の子供に英語を教えていたが、授業を受ける子供はどう思っていたのか。彼女は補助教員の身分だけど、異国のドイツで生き甲斐を見つけることができて嬉しかったそうだ。彼女がどれくらいドイツ語をマスターしたのか分からないが、英語能力はヨーロッパへ脱出する勇気を与えてくれたそうで、ギリシア経由で密入国をする時に役立ったそうである。というのも、仲介者の船が密航の途中で何度もエンジン・トラブルを起こしてしまい、命の危険に晒されたからだ。しかし、ここで語学能力が助けとなった。彼女は英語を話すことができたので、船が遭難しそうになった時、携帯電話でボランティア活動家に連絡を取り、救難活動を求めることができたという。もし、アラビア語しか話せなかったら、助けを求めることができたのかどうか分からない。

  国連職員のドミニク・バーチによれば、難民が就職先を確保するのは、最も効果的な統合プロセスになるそうだ。しかし、子供を預けるドイツ人の親はどう考えているのか? まぁ、シリア難民が受け持つクラスだから、たぶん移民が混ざった公立学校で、生徒も労働者階級の子供が大半だろう。知識人階級や高度専門職の親なら、移民のいない名門私立学校に通わせているはずだ。こうしたエリート校では、シリア人が英語教師になることは先ずない。これは筆者の推測だけど、「モルモット」にされる白人児童は、知的雰囲気の無い一般家庭の出身者で、簡単な英会話を学んでいるだけなんじゃないか。冷酷な見方かも知れないけど、こうした小学校の「英語授業」は、移民や難民の職場を確保するために“わざと”作られた教室なのかも知れないぞ。

mixed race working place 1German girls 6


(左 : 素晴らしい多人種社会になったドイツ / 右 : 評価が下がるアーリア系のドイツ人)

  シリアやイラクからの難民なら、地元の低賃金工場でこき使われるのが普通だが、ホライトカラー職を求める難民がいるので、役所が無理やり「特別プログラム」を作り、そこに押し込んだとも考えられるのだ。また、こうした企画を実行するとマスコミ受けがいいし、「我々は積極的に多民族教育や同化政策に取り組んでいます !」との宣伝にもなる。無責任体制の役人やリベラル思考の教育委員会はそれでいいけど、“社会実験”の道具にされたドイツ人は堪ったもんじゃない。沢尻エリカのように「別に !」と言えればいいけど、大抵のドイツ人は腹が立つ。基礎学力を附ける初等教育なのに、こんな「お遊び授業」を実施されたんじゃ将来が台無しだ。ドイツ人の子供には、美しいドイツ語を学ばせ、愛国心と共に論理的思考を身につけることが第一。国家の支柱となる子供は、移民や難民の子供と隔離すべきで、同胞との絆を深める授業を行うべきである。異人種の子供にとって、ドイツ史など所詮「他人の過去」だから、愛国心など芽生えず、むしろ嫌悪感と無関心を増幅しているだけだ。

  日本政府は子供の学力向上を謳っているが、やっていることは真逆である。消費税は上げるのに、教育予算は増やさず、代わりに移民を増やして学力低下を目論む。支那やベトナム、フィリピン、タイ、マレーシアからの移民を許せば、必ず彼らは家族を引き連れてくる。たとえ、独身移民でも日本に定住すれば、故郷の家族(親兄弟姉妹・親戚)を呼び寄せるし、日本人と結婚すれば、何人もの混血児をもうけるだろう。低賃金で酷使できる外人なんて、大抵は下層階級のアジア人だから、子供の教育レベルなんて高くない。こうした外人家庭では両親の母国語が使われるので、子供の日本語は未熟なままだ。語彙が乏しく、学校の授業に追いつけない場合がほとんど。

Korean kids 1Filipina 12


(左 : 将来の日本を担う朝鮮系の子供 / 右 : 次世代の「日本人」を産むフィリピン人女性)

  担任教師だって本当に困ってしまうだろう。只でさえ、日々の雑用が詰まっているのに、その上さらに外人の面倒なんて冗談じゃない。異民族混合クラスでは、授業を成立させるだけで精一杯。知的好奇心の喚起なんて無理。自然科学の知識を身につけさせるとか、論理的思考の涵養なんて別次元の話である。日本語がおぼつかない子供を抱えるクラスでは、スムーズに授業が進まないから、日本人児童の学力水準まで下がってくる。日本の科学技術レベルは毎年低下しているのに、それを更に加速させるなんて正気の沙汰ではない。不安になった保護者は、余計なお金を払って塾に通わせるしかなく、家計の逼迫は目を覆うばかりだ。移民を招いた大企業の幹部は、高額な授業料をモノともせず、名門私立に我が子を通わせ、一安心。一報、移民を望まない庶民は、私立学校なんて高嶺の花だから、地元の底辺校(異民族混淆学校)で我慢するしかない。馬鹿らしいというか、本当に悲しくなるけど、これが現実だ。一番被害を受ける庶民は移民や難民の到来に無関心だから、悲惨な現実に直面するまで移民社会の恐ろしさを理解できない。今は読解力の低下を心配しているけど、いずれ国語問題なんかより、もっと深刻な民族問題に悩むことになるんだぞ。

  日本語の授業を「国語の時間」と呼んでいる日本人は幸せだ。近い将来、「国語って、どの言語?」と尋ねる子供が増えてくる。筆者には「国語って・・・日本語のことじゃないの?」とビックリする保護者の姿が目に浮かぶ。もし、普通の日本人が授業参観に訪れ、北京語や福建語、マレー語、朝鮮語、タガログ語、ペルシャ語、ウルドゥー語が飛び交う教室を見たら腰を抜かすんじゃないか。「ここ、シンガポールの学校?」と呟く母親が居てもおかしくないぞ。でも心配ご無用。日本の学校は国際化に熱心だから、いずれ英語が公用語になって日本語が選択科目になっているから !
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68791335.html

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218. 中川隆[-15136] koaQ7Jey 2019年12月15日 18:43:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2185] 報告
9時10分前を理解できない若手を生んだ日本語軽視のツケ
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191120-60690903-business-soci
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00049/

河合 薫 健康社会学者(Ph.D.) 2019年11月19日 全5372文字

 先日、講演会後の懇親会で、管理職が20代の社員たちの日本語能力に悩まされているという話で盛り上がった。

 「9時スタートの研修会なのに1分前にドサドサと入ってきて、5分、10分の遅刻は当たり前。なので『9時10分前には集合するように』と言ったら、キョトンとした顔をされてしまって。ま、まさかと思いつつ『8時50分に来るのよ』と念押ししたんです。そしたら、『あ、そういうこと』って。もう、わけが分かりません」

 こんな“珍事件”に面食らった上司たちの嘆きが、「これでもか!」というくらい飛び出したのである。

 確かに、私自身、店で領収書をもらおうとしたときに、「???」という事態に何度か出くわしたことがある。

【ケース1】
河合「領収書をお願いします」
店員「宛名はどうしますか?」
河合「上、でいいです」
店員「うえで、ですね!」←自信満々感満載
河合「……は、はい」
するとなんとその店員は宛名の部分に「上出」と書いた。

【ケース2】
河合「領収証お願いします」
店員「宛名はどうしたらいいですか?」←必死で丁寧に振る舞っている
河合「カタカナで、カワイ、でお願いします」
店員「カワイですね」←自信満々!
河合「(失笑)」

 ……どちらも20代。ケース1は「上様」を知らず、ケース2は普通は「カワイ、様ですね」とか「カワイ、様でございますね」となるのに、いきなりの呼び捨て。笑ってしまった。

 まぁ、これらは日本語の問題というより、常識の問題。つまり、こういう対応が気になるようになった私が年を食っただけのことだ。

■若者の国語力が下がっている

 一方、上司たちの「言葉が通じない」嘆きは日常の業務にかかわること。たとえ一つひとつはささいなことでも日々繰り返されるとストレスになる。

 というわけで今回は「言葉が通じないワケ」についてあれこれ考えてみようと思う。
 まずは冒頭の懇親会で聞いた“珍事件”から。

「部下に『そのタスクは結構、骨が折れるから覚悟しておけよ』って言ったら、『え? 肉体労働なんですか?』って返された。どうやら骨が折れるを骨折と間違えたようだ」

「社長に褒められた部下に、『現状に胡座(あぐら)をかいてると、後輩に追い越されるぞ!』って活を入れたらキョトンとされた。あぐらをかいて座ることだと思ったみたいです」

「送られてきたメールが一切改行されてないので『読みづらいから、項目ごとに改行しろ』と言ったら、『改行って何ですか?』と言われてあぜんとした」

「営業先で『お手やわらかにお願いしますよ』と言われ、会社に帰る途中で『あの人、やわらかいんですね。どうしたらやわらかくなるんですか?』と真顔で聞かれた」

「高齢のお客さんに取扱書の内容を説明するのに読み上げるだけだったので、分かりやすく自分の言葉で説明してあげてと伝えたが全く改善されず。理由を問いただしたら、取扱書の文章を理解できていなかった」

「分からない語彙があったらその都度辞書で調べるようにと、辞書を渡したら、引き方が分からないみたいで、異常に時間がかかった」

「英語で書かれた仕様書を翻訳させようとしたら、英和辞典に書かれている日本語の意味が分からないと突き返された」

「業務報告書を手書きで書かせているのだが、漢字の間違いが多すぎる。混乱を困乱。特にを得に。性格を生格……」

「消費税が2%上がるという、2%を理解させるのが大変だった」

 ……ふむ。どれもこれも嘘のようなホントの話。もちろん20代でも、日本語を巧みに使い、理解度も高く、文章力がある社員もいる。だが、上司たちは「日本語の能力が低下してる」と日々感じているのだという。

会話はできても文章理解力は低かった自分

 もっとも、漢字が書けないとか間違った漢字を使うとか、慣用句を知らないというのは、その都度学べばいいだけの話だ。問題は語彙力の乏しさからもたらされる日本語の読解力の低下だ。

 個人的な話で申し訳ないが、私自身、小学校4年から中1まで米国で暮らし、その間日本語の教育を受けていないので学生時代は壊滅的に語彙力が乏しかった。不思議なことに知ってる語彙が少なくとも日常的なおしゃべりに困ることはなかった。

 ところが、高校生になって現代国語の校内実力テストで、長文問題を何度読んでも理解できなかったのである。

 漢字が読めないとか、読めない字があるとか、そういったことじゃない。ちゃんと音読できるのに、意味が分からない。古文でもなければ漢文でもない。ただの現代文。なのに書いてあることが、ちっとも理解できなかった。生粋の日本人なのに、なぜか日本語が理解できない。漢字が読めないことを笑われても気にならなかったけど、日本語の文章が理解できないという現実はかなりショックだった。その結果私は文章を避けた。28歳でお天気の世界に入るまで、本を一切読まなくなってしまったのだ。

■会話はできても文章理解力は低かった自分

 実は同様のことは米国でも経験していて、英語の本を読めても日本語に訳せない。俗っぽくいうと、フィーリングでなんとなーく理解するものの、物語が描いている世界観や言葉に込められた深層構造を理解することができなかったのである。

 言語を習得するにはたくさん聞くだけじゃなく、たくさん読むことが必要不可欠で、言葉の運用力を高めるには語彙力が影響する。実際、 読書経験を重ねることで、語彙力が高まり、それが文章理解力の向上につながることは、国内外の調査から一貫して報告されている。

 米国人大学生を対象にした様々な調査では、小さい頃から本をたくさん読んでいる学生ほど、スペルの間違いが少なく文章を理解する力が高いとされているし、日本人大学生を対象した調査では、新聞や雑誌ではなく小説の読書量が強く影響することもわかっている(「大学生の読書経験と文章理解力の関係」澤崎宏一)。

 小説でつづられる母語の名文を繰り返し読んだ経験が、日常生活で身につく経験や情報と結びつくことで、文章を理解する力が高まっていくのである。

 デジタル世代の若者たちは、日々携帯メールやラインの送受信を繰り返しているので、日常的な会話量は半端なく多い。だが、おしゃべりは所詮おしゃべりでしかない上に、親密になればなるほどメールでの言葉は省略され、絵文字だけでもやりとりが可能になる。いわばメール版「あうんの呼吸」だ。

 フェースtoフェースなら、相手に伝わるまで言葉を脳内から振り絞ったりすることがあるが、デジタルの世界ではその必要もない。要するに、若い世代は圧倒的に語彙を増やす機会に乏しい社会に生きている。しかも、本を読む子供たちが激減しているという悲しい現実もある。

 平成28年度委託調査「子供の読書活動の推進等に関する調査研究」(文部科学省)によると、不読率(1カ月で読んだ本の冊数が「0冊」と回答した生徒の割合)は、小学生が1割未満、中学生が約1〜2割、高校生が約3〜4割で、読書時間・読書冊数ともに、学年が上がるにつれて増加傾向にあることが分かった。

 また、「第54回学生生活実態調査の概要報告(2018年)」(全国大学生活協同組合連合会)では1日の読書時間が「0」と答えた学生は48.0%。17年の53.1%より減少したものの、半数近くの学生に読書習慣が全くない。

■小学生で本を読まないとそのまま大人になる

 この調査では、大学入学までの読書傾向も聞いているのだが、

小学校高学年では読書時間が30分以上だったと回答した人が54.1%いるが、高校になると33.0%に減少

小学校入学前から高校にかけて「全く読まなかった」人は、現在の読書時間も「0」が多く、特に高校時代に「全く読まなかった」人のうち現在も読書時間「0」の人が72.7%(全体平均48.0%)を占める。

小学校入学前と高校で120分と長時間読書している層は現在の読書時間も長い傾向がある

といった関係性も認められている。
https://www.univcoop.or.jp/press/life/report.html

 「学校の成績は国語力が9割」ともいわれるように、日本語の読解力、記述力は国語だけでなくすべての教科で必要な基礎となる能力だ。日本語の読解・記述力が不十分だと、数学の文章問題は理解できない。理論構成が支離滅裂な解答しかできない。思考力も想像力も、母語の運用能力に支えられている。

 そもそも言語は、単なるコミュニケーションのツールではない。言語と思考とは互いに結びついており、特に母語の役割は果てしなく大きい。

 母語により私たちは目に見えないものを概念として把握し知覚する。精神的な世界は言葉がないと成立しない。また、目の前に何か見えたとしても、その何かを示す言葉がないと、それを理解できない。

■語彙の豊かさが思考力や豊かな感情を育む

 例えば、日々暮らす場所であるという意味を「家」という語彙で概念化することで、形や色が違っても「家」と知覚することができる。性的ないやがらせをする行為を「セクハラ」という語彙で概念化することで、そういった行為が明確に意識され、「ああ、そういったことはやってはいけないんだ」と規範を学んでいく。

 つまるところ、言語で表せる範囲がその人の認識世界。語彙が豊富であればあるほど知識は広がり、感情の機微も、複雑な人間関係も理解でき、世界が広がり、創造力も高まっていくのである。

 英語教育にすったもんだ続きの文科省は、2003年3月31日に「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を示し、そのなかの「英語教育改善のためのアクション」の6番目に「国語力の向上」を掲げている。

 具体的には、「英語の習得は母語である国語の能力が大きくかかわるものであり、英語によるコミュニケーション能力の育成のためには、その基礎として、国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成するとともに、伝え合う力を高めることが必要である」 と。

 ところが、これだけ日本語が理解できない大人が増えているのに、英語力の低さばかりに関心が集まり、揚げ句の果てに民間試験導入などどわけの分からない方向に進んでいる。

 実際には母語である日本語力の低下、具体的には語彙力の低下が背後にあり、それが英語力の低下につながっているのだ。

 大学関係者であれば学生に英和辞典を引かせる苦労を経験している人は少なくないはずだ。10年以上前に某新聞社が「日本人の日本語力の低下」について連載し、その中の珍事件が大学でちょっとした話題になった。

 ある大学で英文の講義で学生に「often」の意味を調べさせたところ、英和辞典に書かれていた「しばしば」という意味が理解できなかったのだ。当然ながら「頻繁に」という訳語も理解できない。そこで教師が、「よく〜する、ってことだ」と説明したところ、「よく、は『good』の意味」としてしか認識できない学生がいたというのである。

■興味あるテーマから次々と読む経験を増やす

  さて、と。ここまで書いたところで今回の問題をどう締めようか、考えあぐねている。つまり、コミュニケーションで悩むのは常にアクションを起こしている側なのに、コミュニケーションではアクションを起こされている側に「決定権」がある。いかにも不条理でコミュニケーションが永遠のテーマになるわけだ。

 ただ、日本語力の低い人でも、「誰が(主語)、何を(目的語)」をきちんと文章に加えた完全文にすると理解しやすくなるとされている。

 会話では主語が省略されがちなので、そのあたりを気をつけるだけでも少しは変わるはずだ。と同時に、部下が主語や目的語を省略している場合も、「誰か?何を?」と尋ねるだけでもすれ違いは防げる。めんどくさいかもしれないけど、試してみる価値はあると思う。

 そして、もし素直で殊勝な心を持ち合わせている部下なら、興味あることの本を読め!と勧めてください。

 というのも、長文が理解できなかった私がコラムやら本やらを書けているのは、お天気の世界に入り小学生向けのお天気図鑑を徹底的に読んだからだ。

 お天気図鑑を何度も何度も理解できるまで読んだら、次々といろんなお天気の本が読めるようになり、難しい物理式が書かれているものまで読めるようになった。健康社会学の世界に入ってからは、山のように論文を読みあさってきたし、それは今も続いている。

 その結果、語彙が増え、並行してインタビューを続けているので、自分の無意識の認知世界が意識化され、内部に宿る価値観やら考えを表現できるようになったと個人的には理解している。

 それでも……まだまだ日本語がおかしいという自覚がある。だからこそ「また書こう、書かなきゃ」というモチベーションにつながっている。日本語って……本当に難しい。
 


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219. 中川隆[-14837] koaQ7Jey 2020年1月05日 14:45:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1831] 報告
ホームランが打てなくなった日本の科学 島村英紀 2020年1月5日

 しまむら・ひでき 1941年東京都生まれ。東京大学理学部卒業。北海道大学地震火山研究観測センター長、国立極地研究所所長を経て武蔵野学院大学特任教授。世界に先駆け海底地震計を開発し、海底の地下構造や海底地震の解明につとめた。著書に、『「地震予知」はウソだらけ』(講談社文庫)、『人はなぜ御用学者になるのか』(花伝社)、『「地球温暖化」ってなに? 科学と政治の舞台裏』(彰国社)、『多発する人造地震―人間が引き起こす地震』(花伝社)など多数。
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 日本の大学の理系の論文数が、2000年ごろから伸びが止まってしまって、その後、落ちてしまっていることが分かった。

 世界では、質の高い論文の本数がこの20年で世界的に増加していて、米国や中国の論文数が飛躍的に伸びている。「質の高い論文数を示す国別世界ランキング」で日本は2000年の4位から2016年は11位と、急激に落ちた。

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 その間に、中国は2015〜2017年の「質の高い科学論文の国別シェア」で、理系の151研究領域のうち71領域で首位を占めた。

 中国が首位なのは、工学や材料科学などの分野に多かった。計算機科学の基礎になる数学も首位だった。中国は1995〜1997年には上位5位以内に入ったのはわずか2領域だけだったが、2005〜2007年には103に急増、2015〜2017年には146とほぼ全領域を占めるまでに急成長した。

 米国は中国に追い抜かれた領域も多い。しかし、生命科学分野の大半などで首位を堅持しているなど、約20年前から一貫して全領域で上位5位以内に入っている。

 この間、日本は約20年前は83領域で5位以内だったが、最近は18領域に減少。首位はなく、2領域での3位が最高という現状なのだ。がん研究と洗剤や医薬品などに幅広く応用されるコロイド・表面化学の3位が最高だった。

 従来、日本が強いとされてきた化学や材料科学でも徐々に上位論文の割合が減少している。

■■

 日本では2004年から、すべての国立大学が一斉に独立法人になった。経営陣を大学外部から招き、国の予算を効率的に使うことや、大学自身で金を稼ぐことが求められることになった。学内の教官たちによって選ばれた学長候補をさしおいて天下り官僚が学長になったところもある。

 国立大学を運営する予算である運営交付金も年々減らされ、10年間ごとに13%も減額された。自分で金を稼ぐこと、つまり外部資金を導入することが大学にとって不可欠になってきているのである。

 国の予算を効率的に使うことや、自分で金を稼ぐことなど、改革の中身は「一見、合理的」に見える。しかしじつは、大学で行われている研究にとっては、話はそう簡単ではない。

 たとえば理学部などに多い基礎科学にとっては大きな危機を迎えることになってしまった。独立法人では、数年以内に成果が出るような業績、もう少しありていに言えば、「明日のゼニになる研究」だけが優先されることになるからである。

 一方、工学部など応用科学では、もともと外部の会社や国の外郭団体と連携して研究資金を得て、共同で研究することが多かった。「明日のゼニを得る」研究がしやすい環境にあると言える。

 科学の内容を分野外の他人が判断することは、とても難しい。それゆえ、求められる「成果」は、結局は論文や発表の数で数えられるしかない。この道は、ある意味では、研究者にとってやさしい道だ。大物を狙わなければいいのだ。

 つまり、三振かホームランかというバットの振り方はしなくなって、研究者の主な仕事は、内野越えの確実なヒットやバントといった研究ばかりを狙うことになる。

 息が長い、そしてリスクはあるが大きな成果が出るかも知れない研究は、以前と違って、とてもやりにくくなってしまったのである。

 しかし、これらのバットを大きく振った研究、もしかしたら空振りになるかも知れない研究こそが、20〜30年後、あるいはもっと将来に、人類のために花開く学問である可能性が高いのである。その結果が早くも現れてきているのが、最近の日本の凋落ぶりなのである。

 「明日のゼニになる」研究はある意味ではたやすい。研究目的がすぐ近くにあって明確なものだから、研究資金が豊富で多くの研究員を雇えるならば、材料や手法を替えながら大量の実験を繰り返すことによって「研究」が進むからだ。つまり研究にとっての革命的な進歩である研究の質的な向上をしなくても、目の前でできる研究だからである。

■■

 しかし研究の革命的な向上がなければ、いずれ、必ず技術は枯渇する。いま、いろいろな分野で使われている技術は、20〜30年前の基礎的な研究の質的な革命ゆえになり立っているものがほとんどなのだ。

 現在の研究全体のありようは、過去にはあった研究の質的な革命を生み出すことを止めてしまって「明日のゼニになる」研究だけに注力しているのが問題なのである。

 ノーベル賞の受賞者は70歳を超えていることが多い。つまり20年以上も前の業績のことが多い。日本は近年こそノーベル賞の受賞者を比較的多く輩出しているが、それが、今後大幅に増大するとは思えない。

 日本の凋落は、日本政府による研究予算の抑制の影響が大きい。つまり、日本の凋落は根が深く、これから長く続く。近年の日本政府の科学技術振興の方針が裏目に出たことを示している。
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/15110

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220. 中川隆[-14790] koaQ7Jey 2020年1月06日 12:34:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1781] 報告
国語教育について - 内田樹の研究室 2020-01-06 lundi
http://blog.tatsuru.com/2020/01/06_1024.html


去年国語教育について、国語科の教員の先生たちの集まりで講演した。もうだいぶ前のことである。同じようなことはこれまでもブログに書いてきたけれど、たいせつなことなので、何度も繰り返して言い続ける。

 今日は国語教育についてお話しいたします。多分、現場の国語の先生たちはとても苦しい立場に置かれて、これから先、どのようにして国語教育を進めていったらいいのか、正直言って分からないというところにいるのではないかと思います。今度、学習指導要領の改定がありまして、これまでとずいぶん違った形で、国語教育を進めなければいけなくなりそうだということこの間ずっと話題になっています。論理国語と文学国語という区分が何を意味しているのかよく分からない。

 先般、今日の講演の打ち合わせのためにいらっしゃった先生方と早速その話になりまして。「論理国語って何ですか、一体。意味が分からないです」と伺いました。ネット上では、かなり批判的なことが書かれていましたけれども、「論理国語」の実体が分からないので、コメントしようがない。

 そうしたら、そのときにいらっしゃった先生が、論理国語の模試の試験なるものを見せてくれました。ご存じの方も多いと思うのですけれども、生徒会の議事録と生徒会の規約が掲載されていて、その議事録と生徒会の規約の文言を読んで、年度内に生徒総会を開くことは可能かどうかについて答えよというのが「論理国語」の模試問題でした。思わず、天を仰いで絶句しました。

 どうやら、論理的な思考力というのを、契約書を読んだり、例規集を読んだり、マニュアルを読んで理解する能力のことだと考えた方が作問したようです。これはいくら何でも「論理」というものについての理解が浅すぎます。

「論理的にものを考える力」それ自体はたいへんけっこうなものです。文章の階層構造を理解したり、断片から全体の文脈を推理する力は複雑な文章を読む上では必要不可欠ですから。でも、申し訳ないけれど、規約とか契約書というのはまったく「複雑な文章」ではありません。誤解の余地のないように、一意的に理解されるように書かれたものです。そういう「可能な限り簡単に書かれたテクスト」を読むために、わざわざ「論理国語」というかたちで教育内容を分離して、従来の国語では教えられなかったことを教えるということの意味が僕にはわからない。そんなものを「論理」とは呼ばないだろうと思いました。

 論理国語の問題を読まされて、「論理とは何のことか?」と改めて考えました。まずその話をします。

「論理的に思考する」というのは、僕の理解では、断片的な情報を総合して、一つの仮説を立て、それを検証し、反証事例に出会ったら、それを説明できるより包括的な仮説に書き換える・・・という開放的なプロセスのことだと僕は思います。
 僕自身の子ども時代のことを回顧すると、最初に「論理的に思考する知性」に出会ったのは、エドガー・アラン・ポウの『黄金虫』だったと思います。小学校4年生ぐらいのときのことです。

 主人公は砂浜で拾った羊皮紙の断片をキッド船長の宝物の地図だと仮定して、暗号を解読し、ついに海賊の宝を見付けるという話です。ポウ自身が暗号の専門家であったせいで、この暗号解読のプロセスは本当にどきどきします。

 ポウはオーギュスト・デュパンという名探偵も造形しています。『モルグ街の殺人』と『盗まれた手紙』でデュパンは大活躍しますけれど、これもまた、胸躍る読書経験でした。どちらの物語でも、ふつうに考えたら「ありえない仮説」をデュパンは立てるのです。でも、断片的な事実を総合すると、「それ以外の仮説では、このすべてを説明することができない」というふうに推理する。

 名探偵の推理が凡庸な警察官の推理と違うのはそこです。警察官の推理がある限界を超えられないのに対して、名探偵はその限界を軽々と超えてしまう。「たしかに論理的にはそういう仮説もありうるけれど、常識的に考えて、そんなこと、あり得ない」というふうに凡庸な知性はある時点で立ち止まって、論理をそれ以上進めることを止めてしまう。論理が「この方向に進め」と命じているのに、「常識的に考えて、それは無理」という縛りにとらえられて、足を止めてしまう。

 名探偵の名探偵たる所以は、そこで「足を止めない」ということです。論理がそちらを指すなら、どんな「あり得ない」仮説であっても、とりあえずそれを受け入れて、検証してみる。この「大胆さ」が実は論理性ということの実体なのだと思います。

『黄金虫』の「私」が最終的に海賊キッドの宝を見つけることができたのは、最初に羊皮紙を拾ったときに、「これは海賊の宝の地図ではないか」という「あり得ない仮説」を立てたためです。確率的には散歩していて、海岸で海賊の宝の地図を拾うというようなことはあり得ません。でも、「私」は「そういうことも万が一あるかも知れない」というふうに解釈可能性を広げて現実を観察した。確率的にどれほど低くても、論理的にはあり得るなら、「あり得る」という可能性を捨てない。それが論理的知性というものの本質的な働きだと僕は思います。

 そうやってポウから推理小説に入って、当然、その後は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズに行きつくわけです。10歳から12歳くらいのときに、僕はホームズを耽読しましたけれど、そのときに僕はたぶん「論理的に思考する」とはどういうことかということの基本を刷り込まれたと思います。それは「大胆さ」ということです。

「ある前提から論理的に導かれる帰結」のことを英語では「コロラリー(corollary)」と言います。日本語にはこれに当たる適切な訳語がありません。コロラリーはしばしばわれわれの常識を逆撫でし、経験的な知識の外側にわれわれを連れ出します。僕は「論理的に思考する」というのは、それがどれほど非常識であろうと、意外なものであろうと、論理がその帰結を導くならば、自分の心理的抵抗を「かっこに入れて」、それをとりあえず検証してみるという非人情な態度のことだろうと思います。

 シャーロック・ホームズの推理がまさにそうです。ホームズとスコットランドヤードの刑事たちは犯罪現場で同じ断片を前にしています。そこにある全ての事実を説明できる「ストーリー」をホームズはみつけようとする。警察官たちは、そうではありません。いくつかの事実については、それらを「なかったこと」にして、残った事実を説明できる「よくある仮説」を選好する。ホームズとの違いはそこです。ホームズはすべての断片がぴたりと収まる「ストーリー」を探す。警官たちは、まず蓋然性の高い「ストーリー」を考えて、それに当てはまる断片だけを拾い上げて、当てはまらない断片は捨てる。

 ホームズの論理性と、警官たちの論理性の違いは、そこにあり、そこにしかありません。すべての断片を説明しようとすると、探偵はしばしば「あり得ないような、とんでもない仮説」を採用しなければならない。警官たちは、それを恐れます。できるだけ「よくある話」に回収したい。でも、ホームズは「よくある話」に収めることには何の関心もない。すべてを説明できる仮説がどのような法外な物語であっても、それを恐れない。

 途中までは論理的に思考しながら、ある時点でそれ以上の可能性を吟味するのが怖くなって、思考停止すること、それが「非論理的」ということです。それが探偵小説に出てくるすべての凡庸な警察官たちに共通する弱点です。あるところまでは、名探偵と一緒に論理的に思考するのだけれど、ある限界に達すると、目を背けて、思考を停止する。「こんなこと、あるはずがない」という自分の日常的な感覚を論理よりも優先させる。

 論理的にものを考える人間と考えられない人間の違いはここにあると僕は思います。

 論理的に思考するというのは幅跳びの助走のようなものです。ある程度速度が乗って来て、踏み切り線に来た時に、名探偵はそこで「ジャンプ」できる。凡庸な警官たちは、そこで立ち止まってしまう。まさに「ここで跳べ」という線で立ち止まってしまう。論理性とはつきつめていえば、そこで「跳ぶ」か「跳ばない」かの決断の差だと思います。

 長じてから、これは探偵小説に出て来る名探偵たちだけでなく、すべての卓越した知性に共通する特性だということに気づきました。卓越した知性と凡庸な思考の決定的な差は知的能力の量的な違いではありません。「跳ぶ」勇気があるかどうか、大胆であることができるかどうか、それだけなのです。

 例えば、ジークムント・フロイトがそうです。フロイトの『快感原則の彼岸』は間違いなく20世紀で最も読まれ、最も頻繁に引用されたテクストですけれど、この中でフロイトは徹底的に論理的に思考することを通じて、「強迫反復」と「タナトス」というわれわれの常識を逆撫でする概念を提起しました。

 フロイトの立てた問題は「なぜ人間は不快な経験を反復するのか?」という問いでした。不快な経験は不快なわけですから、快感原則に従うなら、不快な過去の記憶は忘却された方がいい。けれども、トラウマ的な経験をした人たちはそれを繰り返し悪夢に見て、悲鳴を上げて起き上がる。なぜ人は不快な経験を反復するのか。
 その症例研究から始めて、フロイトは「反復すること」への固執は「快・不快」よりも優先するという命題を「論理的」に帰結します。そして、そこから「タナトス(死への欲動)」というまったく「非常識な」仮説を導き出す。

 観察したすべての症例を説明するためには、人間には死への欲動があると仮説せざるを得ない、と。このときにフロイトは「跳んだ」わけです。

 このときに、フロイトは「思弁」という言葉を使います。これから、私が述べることは思弁的である。現実の生活実感の裏づけがない。市民的常識を逆撫ですることかも知れない。けれども、症例研究からの論理的帰結はこれしかない、と。「死への欲動」は厳密なコロラリーである、と。

 僕が『快感原則の彼岸』を読んだときに、一番震えたのは、結論の「死への欲動」という概念そのものの意外性のもたらす衝撃ではなく、フロイトが具体的な症例研究から始まって、「強迫反復」と「タナトス」に至るときに、ある踏み切り線を「跳び越えた」ことについてです。「すごい」と思いました。「勇敢だなあ」と思った。この人は自分の論理性に体を張っていると思った。「こう、こうなら、論理的帰結はこうしかないか。世間の人が何と言おうと、常識が何と言おうと、論理的にはこう結論するしかない」というフロイトの豪胆さに、僕は震えたのです
 カール・マルクスもそうです。マルクスは『共産党宣言』で歴史上の四つの社会的対立の事例を取り上げて、歴史の動力は階級闘争であるという結論に一気に持ってゆく。四つの個別的な事例から「すべての・・・は・・・である」という全称言明を導くのは帰納的推理の仕方としてもいささか乱暴に過ぎるんですけれど、手順としては「これらすべてを説明できる一般的な法則はこれしかない」というかたちで「跳ぶ」わけです。

 マックス・ウェーバーもそうです。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の冒頭で、ウェーバーは「これから資本主義の精神とプロテスタンティズムの倫理の関連について話そうと思うが、『資本主義の精神』というのは単なる仮説にすぎない」と断定します。「資本主義の精神」というのは自分の脳内に浮かんだ一つのアイディアに過ぎない。これまで誰もそんなものがあると言ったことがない。でも、自分はそれを思いついてしまった。何だか知らないけれども、「資本主義の精神」というものがあるのではないかという気がしてきた。もし、そのようなものがあるのだとしたら、それがどのようなかたちを取って現れてくるのか、その具体的な事例をいくつか例示してゆこうと思う、と。そういうふうに話を始めるわけですね。

 これは名探偵の推理の仕方の本質を、いわば裏側から明らかにしているんだと思います。結論がいま頭の中にぽっと浮かんだ。どういう根拠でそういうアイディアが浮かんだのか、まだ自分にはわからない、というところから話を始める。推理が逆転しているのです。どうして自分はこんな結論を思いついたのか、何を見てそう直感したのか、それを逆方向に遡行してゆく。それが『資本主義の精神』におけるウェーバーの手法なのですけれど、これはたしかに名探偵の推理の本質なんです。
 さきほど名探偵は「散乱している断片をすべて説明できるストーリーを見つける」というふうに言いましたけれど、ほんとうは違うんです。名探偵はなぜか最初に「犯人はあいつだ」ということがわかってしまうんです。わかった後に「どうして私はあいつが犯人だとわかったのか」という問いを遡行していって、自分が直感した根拠となった「断片」を列挙してゆくのです。

 これは卓越した知性についてはだいたいそうなんです。たしかに論文を書くときには、いくつかの実証された事実を前にして、それらをすべて説明できる仮説を立てる、という順序で進むんですけれど、実際に脳内に起きているのは「結論が先」なんです。いきなりアイディアが浮かぶ。どうしてその結論に自分は立ち至ったのか、何を見て、私はそう思ったのか、・・・というふうに時間を遡って、自分が着目した断片的事実を列挙してゆく。

「資本主義の精神」というアイディアがふとウェーバーの頭に浮かぶ。きっとそういうものがあるに違いないという気がする。でも、どうして「そんなこと」を思いついたのだろう。おそらく、何かを見て、そう思ったのだ。さて、私は何を見たのか。これがウェーバーの推理の順序です。

 シャーロック・ホームズにはモデルがいるということをご存じでしたか。コナン・ドイルがエンジンバラ大学の医学部の学生だった頃の先生でジョセフ・ベルという人がいました。その人がホームズのモデルです。

 ベル先生は初診の患者が診察室に入ってきて、椅子に座るまでの数秒間の観察だけで、その人がどこの出身で、職業が何で、家族構成がどうで、どういう既往症を患っていて、今回どういう病気で診察に来たのかをずばりと言い当てたそうです。コナン・ドイルたち医学生は後ろでベル先生の超人的な診断を聴いて肝をつぶしたそうです。

 ホームズがワトソン博士とはじめて会ったときに、アフガニスタンから負傷して戻ってきた軍医だということをずばりと言い当てる『緋色の研究』の冒頭シーンはベル先生の診断を下敷きにした逸話です。

 ベル先生の場合は「どういうわけか」わかってしまう。医学生たちが「どうしてわかるんですか?」と質問したらあるいは何を観察してそう判断したのか、二三の断片を示して教えてくれたかも知れませんけれど、実際には数秒間のうちに患者が発信している膨大な量の断片的情報をスキャンして、そういう結論に達していた。結論はわかった。でも、自分がどうしてそういう結論に達したのか、自分は何を「見た」のか、それは時間をかけないと言えない。

「論理国語」を別建てにするというのでしたら、「論理的に思考するとはどういうことか」ということについてこの程度のことは考えて欲しいと思います。過去の卓越した知性がどのように論理的に思考してきたのか、それについて一秒でいいから考えてから「論理」というような言葉は口にして欲しい。「論理」という語を生徒会規約と議事録を読んで年度内に生徒総会の開催が可能かどうかを「推理」するというような知性の行使について使うのは、言葉の誤用だと僕は思います。そんな「推理」のためには論理的知性なんか要らないから。論理的知性というのは、「跳ぶ」能力のことだからです。

 レヴィ=ストロースもやはり「20世紀で最も頭のいい人」の中の一人だと僕は思っています。レヴィ=ストロースも論理的に助走してから「跳ぶ」人です。
『悲しき熱帯』は彼がブラジルのマト・グロッソのインディオたちの生活を観察したフィールドワークですけれど、レヴィ=ストロースは観察しているうちに、文化人類学者である自分自身の思考形式、自分自身の論理形式そのものが実はヨーロッパに固有の「民族誌的偏見」ではないのか、という疑問に取り憑かれます。この世界には、自分たちがしているのとは違う論理形式で思考している人がいるのではないか・・・と思い始める。インディオたちは、未開人だから、文明人であるヨーロッパ人よりも幼児的な仕方で思考をしているので、いずれ「開花」されると、ヨーロッパ人と同じように思考するようになる。というのが進化論以後の「ふつうの考え方」でしたが、レヴィ=ストロースはそれを退けます。彼らの理解しがたい様々な制度や習慣は「幼児的」であるのではなく、われわれとはまったく独自の体系と論理をそなえてすでに完成された一つの世界理解の方法に基づくものではないのか。彼らの「野生の思考」もまた人間が達成した堂々たる文明史的な到達点の一つであり、その知的な尊厳・威信に対して、われわれはそれにふさわしい敬意を示すべきではないのか、と。

観察事例を説明できる仮説を論理的に求めているうちに、「自分が現に思考しているプロセスそのものが一個の民族誌的偏見ではないのか」という懐疑にとらえられる。現実にレヴィ=ストロースが観察したことを論理的につきつめてゆくと、それが導くコロラリーは「われわれヨーロッパ人が『論理的』だと思っている思考の仕方とは別の仕方でも人間は論理的であり得る」というものでした。おのれの論理性の極限において、おのれの論理性の限界に出会い、そこから翻って、おのれの思考を律している臆断そのものを可視化してゆく。レヴィ=ストロースはそういうアクロバティックなことをしてみせたわけです。僕はこういうものを真の論理性と呼びたいと思います。

 レヴィ=ストロースは目の前の事象を説明しようとして、手持ちの論理を限界まで駆使した結果、この「手持ちの論理」そのものが、一般性を要求することのできない、地域限定・時代限定のものではないかという懐疑に囚われました。

 フロイトのタナトスにしても、マルクスの階級闘争にしても、マックス・ウェーバーの資本主義の精神にしても、レヴィ・ストロースの「野生の思考」にしても、ある思考の枠組みの中から出発して、論理的な手順をていねいに踏んで、そして、自分たちを規制している思考の見えざる枠組み、自らの思考を律している臆断を可視化する。真の知性の働きはそこにあると思います。

 子供たちに学校教育を通じて何を教えようとしているのか。もし、子供たちの中で知性が活発に働くことを教えようとしているのだとしたら、子供たちに教えるべきことは「知性はジャンプする」ということだと僕は思います。

 しかし、実際に、子供たちも「ジャンプ」しているのです。それは子供を観察しているとわかります。子供たちを自然の中に連れていって、そこにしばらく放置していると、わかる。子供たちの知性は「論理的に」活動し始めるのが観察されます。

 養老孟司先生が、「子供たちなんて学校で教育なんかすることないんだ。自然の中に放り込んどきゃいい」と割と乱暴なことをおっしゃいますけれども、これは一理あるのです。子供たちを自然の中に連れて行って、ゲーム機や携帯やマンガや玩具の類を全部取り上げてしまう。何も持たせずに、ぽんと自然の中に放り出しておく。するとどうなるか。子供たちは死ぬほど退屈する。まず退屈するというのがとてもたいせつなのです。

 退屈しのぎに、子供たちは必ず何かを観察し始めます。ほうっておいても、そうなります。退屈しているんだけれど、手元に退屈をまぎらわすための道具が何もない。そんなとき、人間は何かをぼんやり観察し始めます。空の雲を見たり、鳥の声を聴いたり、虫を眺めたり、川の流れを見たり、海の打ち寄せる波を見たり。何か自分の好みの対象を選んで、それをぼんやりと観察し始める。

 最初のうちは、ただぼーっと見ているだけです。自然をぼんやりと観察している。でも、そのうち、何かの弾みで、子供の目がきらりとする瞬間がある。それは「パターン」を発見したときです。

 自分の前に展開しているランダムな自然現象の背後に、実は法則性があるのではないか・・・というアイディアが到来したときに、子供の目がきらりと光る。そういうものなんです。一見するとランダムに生起する事象の背後に数理的な秩序があるのではないか、という直感が到来する。雲の動きでも、虫の動きでも、波の動きでも・・・ずっと観察しているうちに、そこに繰り返しある「パターン」が再帰しているのではないかというアイディアがふと浮かんでくる。そうするといきなり集中力が高まる。もし自分の仮説が正しければ、「次はこういう現象が起きるはずだ」という未来予測が立つからです。果たして、その予測通りの現実が出来するかどうか・・・子供だって、そのときは息を詰めるようにして、次に起きることに意識を集中させます。

 うちの娘は、子供の頃、とても植物が大好きでした。小学校はすぐ近くで、子供の足で歩いても5分もかからない一本道でした。学校が終わって、友達が遊びにきて、うちの娘は、るんちゃんというのですけれど、「るんちゃん、いますか?」と訊くから「え、まだ帰ってないよ」と言うと「おかしいなあ。一緒に出たのに」と言う。自分たちは一度家に帰って、ランドセルを置いて、それからうちに遊びに来ているのに、学校から一番近いうちの娘だけがまだ帰っていない。

 気になって、とことこ坂道を降りて学校の校門の方に向かったら、坂の途中にいました。しゃがみ込んでいる。何をやっているのだろうと思って、遠くから見ていたら、道ばたの雑草をじっと見ているのです。ずいぶん長いこと見ていて、そのうちに、「ふう」とため息をついて、立ち上がって、歩き出す。でも、また数歩歩いて違う雑草を見付けると、立ち止まって、座り込んで、また観察を始める。

 遠くから娘の姿を見ながら、ちょっと声をかけるのがはばかられました。それくらいに深く観察対象にのめり込んでいたから。きっと、何か植物学的な仮説を立てて、それを実物に即して検証していたところなんだと思います。ある法則性を発見したことに興奮して、友だちと学校が終わったら遊ぼうねと約束していたことも忘れて、植物の観察にのめりこんでいた。そういうものだと思います。

 自然の前に子供を長時間放置しておくと、いずれ何かを選んで観察し始める。そして、パターンや法則性を発見したと思うと深く対象に沈潜してゆく。自分で仮説を立てて、その仮説を実験的に検証しているときの顔は、それが子供でも、ノーベル賞級のアイデアを思いついて実験で検証しているときの科学者の顔とあまり変わらないんじゃないかと思います。たぶんそれこそ人間が最も知的に高揚するときだから。ふと思いついた仮説が現実に適用できるかどうか、実験してその結果を待っているときの高揚感にまさるものはありません。

 子供たちを知的に成長させるために必要な経験は、極言すれば、それだじゃないかと思います。世界の背後には数理的で美的な秩序が存在する。そう直感して、その秩序の一部を自分がいま発見したという高揚感。これは探偵の推理と同じですね。断片的に散乱している事象の背後に、きれいな1本のストーリーが見えたと感じたときに探偵が感じる達成感。平たく言えば、これが論理的であることの「報奨」だと思うのです。

 自然科学というのは、まさにそういうものです。ある仮説を思いつく。実験でそれを検証する。反証事例が見つかる。仮説を書き換える・・・この無限のサイクルが自然科学的に思考するということです。信仰を持つこともそうです。一見するとランダムに見える事象の背後に「神の摂理」が働いていると感じること。宗教的知性と科学的知性は構造的には同じものなのです。だからニュートンのライフワークが聖書解釈であり、伝道の実践だったということには少しも不思議はない。

 ネガティヴなかたちでは、陰謀史観もそうです。すべての政治的・経済的事件の背後にはユダヤ人の世界政府がいる、フリーメーソンがいる、イリュミナティがいる、コミンテルンがいる・・・という類の理論は思考パターンとしては同一です。一見すると無関係に見えるさまざまな事象が「すべてを差配している張本人」を仮想するとみごとに説明がついてしまう。その高揚感と全能感があまりにも大きいので、人々は簡単に陰謀史観にアディクトしてしまう。

 でも、これは確かに責められないわけで、「複雑に見える事象の背後にはシンプルなパターンがある」という直感ほど人をわくわくさせるものはないからです。だから、陰謀史観というのも、幼児的ではあるけれど、ひとつの知性の活動ではあるのです。ただ、そういうものに溺れるのは、子供の頃から世界を観察して、繰り返し自力で仮説を立て、そのつど知的高揚を味わった・・・という仕方で論理を突き詰めた経験を持たなかった人たちなんだと思います。子供の頃から「知的興奮」をし慣れていたら、こんな薄っぺらな仮説には何の知的高揚も感じないはずだからです。そんな単純な説明のどこが面白いのか、さっぱりわからないから。だから、そんなものは相手にしない。子供のころから繰り返し「宇宙の真理を発見した!」とひとり興奮しては、「あ、違った・・・」という落胆を味わうということを繰り返ししてきた人は、こんなシンプルなストーリーにはひっかかりません。

 学校教育で教えるべきことは、「跳ぶ」ことの喜びだと先ほど申し上げました。目の前に散乱している断片的な情報や事実を観察しているうちに、すべてを説明出来る仮説を思いつく。おお、ついに統一的で、包括的な真理を発見したと思って、欣喜雀躍する。論理的思考が導くならば、それがどれほど法外な「コロラリー」であっても、それを検証しようとする。それが「跳ぶ」ことです。

 でも、「跳ぶ」ためには勇気が要ります。ある程度までは論理的に思考しながら、最後に「そんな変な話があるものか・・・」と言って、立ち止まって、論理が導く結論よりも、常識の方に屈服してしまう人たちがいます。彼らに欠けているのは、知性というよりは勇気なんです。

 今の日本の子供たちに一番欠けているのは、こう言うと驚かれるかも知れませんけれど、知力そのものではなくて、知力を駆動する勇気なんです。自分の知力に「跳べ」と言い切れる決断力なんです。

 でも、子供たちに向かって「勇気を持ちなさい」と語りかける言葉を学校で聞くことはほとんどありません。文科省がこれまで書いた教育についての指示や提言を読んでも、そこに「勇気を持て」という文言はまず出て来ません。逆です。文科省が教員や子供たちに語って聞かせているのは、いつでも「怯えろ」「怖がれ」ということです。学力がないと社会的に低く格付けされ、人に侮られ、たいへん不幸な人生を送ることになる。それがいやなら勉強しろ・・・というタイプの恫喝の構文でずっと学習を動機づけようとしてきました。

 知性は勇気によってドライブされるという言明を過去に日本の教育行政が認めたことは一度もないと思います。でも、僕が見て来た限り、すべての卓越した知性は、世間の誰もが同意しないアイディアについても、自分の直感を信じて、それを現実で検証してみせた。

「勇気」という言葉で、最も印象に残っているのは、スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学の卒業式の式辞です。今もYouTubeで検索すれば見られます。感動的なスピーチでした。

 ジョブズがスタンフォード大学の卒業生たちに向かって言ったのはこういう言葉でした。The most important is the courage to follow your heart and intuition, because they somehow know what you really want to become
「最も重要なのは、あなたの心と直感に従う勇気です。なぜなら、あなたの心と直感は、あなたが本当は何になりたいのかをなぜだか知っているからです。」

 このステートメントでのキーワードは「勇気(courage)」です。気をつけてください。ジョブズは「あなたの心と直感に従うこと」が最も大切だと言っているのではありません。「あなたの心と直感に従う勇気」が最も大切だと言っているのです。それは「あなたの心と勇気に従う」ことを周りが許さないからです。「何をバカなことを言っているんだ」「そんな非常識なことを誰が認めるものか」。必ず反対される。ほとんどの若者たちは、ある時期になると「こういう生き方をしたい」「こういうことを学びたい」「こういう仕事をしてみたい」というアイディアを抱きます。その多くはたしかに「心と直感」がもたらしたものです。でも、ほとんどの若者はそれを実現することができません。周りが反対するからです。「そんな夢みたいなことができるものか」「分相応の生き方をしろ」という言葉で回りが冷水を浴びせかける。そして、実際に、多くの若者はそれでしょんぼりして、自分の「心と直感」が教える「自分がほんとうになりたいもの」になれずに終わる。彼らに欠けていたのは何でしょう。こういうふうに生きたいというアイディアはあったんです。こういうことがしたいという欲望はあったんです。でも、それに従う勇気がなかった。

 心に浮かんだ夢を実現するためにはいろいろな社会的能力が要ります。お金やコネクションや、幸運も要ります。でも、心と直感に「従う」ためには、とりあえず勇気さえあればいいんです。そこからしかものごとは始まらない。最初の一歩は「勇気」なんです。

 子供たちにほんとうに伝えなければいけない言葉は、「親が反対しても、教師が反対しても、友だちが反対しても、世の常識が反対しても、それでも自分の直感と心に従う勇気を持ちなさい」ということなんです。でも、おそらくそれは今の学校教育で最も教えられていないことだと思います。(後略)
http://blog.tatsuru.com/2020/01/06_1024.html

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221. 中川隆[-14127] koaQ7Jey 2020年1月28日 12:17:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-920] 報告
子どもの言語獲得と早期英語教育の盲点  福岡大学・山田英二教授(言語学博士)に聞く 2020年1月27日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/15514


 ひとがことばを理解できるのは、お互い同じものを持っているからだ。発音や単語の組み立て方、言葉の仕組みなどに共通したものがある。その共通性に着目し、言語学者のノーム・チョムスキーという人が生成文法という理論を生み出した。言語について「人は同じシステムを遺伝子的に頭のなかに持って生まれてくる。それがあるから、人は言語を獲得(習得)できるのである。動物はそれがないから言語を獲得できない」といっている。

 日本人の親を持つ子どもでも、生まれてからすぐに英語圏で生活するようになれば、完璧な英語を話すようになる。スワヒリ語を話す地域で育てば、完全なスワヒリ語のネイティブスピーカーになる。人種などで言語が決まるのではないということだ。世界で6000から7000の言語があるが、どの子どももどの言語でも獲得できる能力を持っていて、問題はどこで育つかということだ。

子供が言語を獲得する仕組み
    
 人間はどうして3〜5歳ぐらいまでの短期間に言語を獲得することができるのだろうか。まだ算数もできない、走ることも十分にはできない幼少期の子どもがなぜ言語を獲得することができるのだろうか。子どもは周囲が話す言葉を聞いて覚えているだけだという見方もある。耳にする言葉を聞きながら規則的な何かを探り出して文法をつくっているのではないかという考え方がある。だが日本語を覚えて日本語の文法をつくる、英語を覚えて英語の文法をつくるという考え方では説明できないことがたくさんある。子どもたちは、日本語や英語、スワヒリ語の個別言語を耳にしながら、その言葉のなかには表面的には出現しない情報を感知し、それを自分のことばに組み入れ、話せるようになることが知られている。

 これを説明するには、人間は脳のなかに遺伝子的に言語の種のようなものを持っていると考えるしかない。普通、植物の種ならば同じ芽が出てくるが、言語の種は、環境により芽の出方や枝の分かれ方が違ってくる。その違いが、英語になり、スワヒリ語、日本語になる。そう考えるとそれぞれの言語の根っこは共通であり、そういう意味で共通するところがたくさんあるといえる。この言語の種を普遍文法と呼んでいる。

 簡単に説明しよう。すべての言語には動詞、名詞、前置詞、副詞的なものがあり、語順がある。これは当然のようだが不思議なことで、仮に宇宙人がいるとして、地球の言語を見ると「地球の言語は共通しているな」と考えるだろう。

 だが多くの人は「英語と日本語は全然違う。中学から大学まで勉強しても外国人の前では話せないではないか」と言うだろう。もちろん日本語と英語は違う。では何が共通しているのだろうか。

 例えば「私はボールを蹴る」という日本文がある。これを二つに分けると、「私は」と「ボールを蹴る」になるだろう。「ボールを蹴る」という部分を、動詞を中心とした「動詞句」と呼ぶ。英文の場合は「I kick a ball」になる。これも「I(私)」と「kick a ball(ボールを蹴る)」に分かれ、「kick a ball(ボールを蹴る)」が動詞句だ。この場合、主語が先にくる語の並び方は同じだ。

    
 ところが大きく違うのは、動詞句の中で、日本語では、目的語になる「ボール(を)」が先に来ている。「蹴る」という動詞が右側にくる。英語は「kick a ball」で、動詞の部分が左側に来る。英語の場合は、動詞句をつくっている主要な部分である「動詞」は左側になる。日本語は動詞が右側になる。この右か左が大きく関わってくる。

 枝の出方をどちらにするのか、それを決めるのが「主要部」という考え方だ。子どもは「この言語は主要部をどちらに置くのか」を考えながら言葉を聞く。いくつかの日本語に接すると「主要部は右側だな」と考え、そのように設定する。英語では「主要部は左側だな」と考え、そう設定する。そうすると、それ以外の文法の各部もそれに従い、自動的に決まってくる。

 前(後)置詞句も同じだ。例えば「東京で」の後置詞句の主要な要素は「で」で右側になる。英語でいえばそれを表す前置詞句は「in Tokyo」になり、主要部の「in」が左側になる。だから主要部が右側と決まれば、その文法全体の各部の主要部の位置が右側になる。左側と決まれば、各部も左側になる。このような仕組みをわれわれはパラメーターという。動詞句の主要部を左に選ぶか右に選ぶか、その一カ所が決まれば、動詞句以外のその他の部分もほぼ決まってしまう。子どもはそれを設定しながら文法を獲得していく。このような「仕組み」がどの言語にも共通なのだ。

 子どもは頭のなかにあるこのようなもともとの仕組みを使って、右に入れるか、左に入れるかの「スイッチを入れる」作業をしているということだ。比喩的な言い方をすると、コンピューターをつくっているマザーボード内にいくつかのスイッチがあり、そのスイッチを入れていくといえる。そうすると基盤は同じだから言語の共通性はそれで説明できる。違うところはスイッチの入れ方といえる。このような仕組みを調べるのが生成文法であり、そのなかの中心に普遍文法というものがある。だがそれだけでは言語は獲得できない。単語自体の意味と形はそれぞれ覚えていく必要がある。

 さて、このような仕組みは、ことばの「音の世界」にもあり、私は強勢(アクセント)の位置を決める仕組みもこれと同じような方法で説明できるのではないかと考えている。私は音の分野で生成文法の考え方が当てはまるかを研究している。

 Q 「ネイティブスピーカーになるには幼少期から英語をやろう」という宣伝が出てきているが、生成文法の考え方から見たらどうだろうか。

 A 日本語の環境で暮らす子どもの場合、獲得される第一言語は日本語になるが、そのスイッチ入れの作業の大部分は5、6歳までにほぼ終わってしまう。仮に幼少期に1時間、2時間の英会話をやったとしても、親や地域の人たちが日本語で話す環境であるならば、英会話の時間だけでは英語スイッチが入ることにはならない。だからそのような方法で英語のネイティブスピーカーにしようとするのは無理ではないだろうか。

 Q 今、小・中学校で話す英語、耳で聞く英語をやっているが、それだけでは意味がなく、逆にいえば言語には法則があるから、それをつかめば英語も理解できるということか。

 A 今の小学校からの英語教育に反対している人たちは、ことばの仕組み、論理的な仕組みに「気づく」ことが大事であるといっている。もっといえば、その「気づき」があれば、日本語もきちんと話せるし外国語も英語も学ぶことができる。それがないと言語を本当には獲得することはできない。単純会話の応答レベルでとどまっている限り、外国語で議論もできないし、深い内容については理解することができない。だから小学校からの英語教育より、むしろ日本語教育の方が大事ではないかと主張している。

「使用人」英語教育でよいか
    
 Q 他の国の言葉の仕組みを知る前に、自分の国の言葉を使って、ことばへの「気づき」を得ることが大事ということか。

 A そうだ。母語であれば、その言葉の仕組みや論理性についてはそれほど深く考えることはないだろう。自然に獲得した母語の仕組みについて通常は意識することはない。だからこそ、小学校で、ことばの仕組みや論理性に気づけるようにしておけば、中学になって、日本語とは違う仕組みを持つ言語を学ぶとき、それがおもしろいと感じるだろう。それを抜きにして、話すための英語だけをすることは本当に危うい。

 これほど国が力を入れている英語教育の目的を「東京オリンピックで海外の人から英語で道を聞かれて対応するため、グローバルな人材を育てるため」などという人がいる。しかし、今おこなわれようとしている英語教育は、いわゆる「使用人」英語でしかない。相手(ご主人)がいったことに従って行動できる程度のものだ。

 本当に反論する力、思考する力は、母語としての日本語で文学や小説などを読むことから生まれてくる。今、文科省を中心に国をあげて「文系廃止」といっている。高校の国語教科書から文学作品をなくすといい、マニュアル文を読むような内容が国語教育になろうとしている。

 文学を読むことは、どう生きるかなど思想的な物事を考える機会にもなる。そのために文学は必要だが、生き方や国のあり方を考える人間がいない方がいいのだろう。極論をいえば、外国語教育の目的を上滑りの英語教育にしようとしていること、文系廃止、文学はいらないといっていることはつながっている。

 しかも現在の英語教育改革論議で問題なのは、これまでの英語教育がダメだったから変えるといっていることである。今、日本人はノーベル賞を比較的多く受賞している。彼らは英語で論文を書いてきた。しかも、彼らは30、40年前の英語教育を受けてきた人たちだ。それで成果が出ている。今後、20、30年後に日本から同じようにノーベル賞をとる人たちが出てくるだろうか。現時点でいって、非英語圏でのノーベル賞受賞数を見ると日本はかなり多い。そのことからしても、「日本の英語教育は失敗だった」とは断言はできないのではないか。

 「英語教育は失敗だった」という人たちは、6年間勉強しても話せないということをその根拠にしているが、そもそも「教育」自体が、実用を主目的としているのかどうかという問題もある。その辺りの議論はなされずに、なんとなくで英語教育改革が推し進められてきた。その中身は、「なんとなく聞ける、話せる」レベルであり、それは「使用人」レベルの英語である。それではノーベル賞は出ない。(文責・編集部)
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/15514

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222. 中川隆[-14193] koaQ7Jey 2020年1月29日 19:48:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-882] 報告

片山さつきの悪質な嘘


2020年1月29日
消費「減」税は是か非か? 〜片山さつき議員とのTV討論報告〜
From 藤井聡@京都大学大学院教授
https://38news.jp/economy/15287


先週、テレビ朝日の「羽鳥慎一のモーニングショー」のそもそも総研というコーナーの「消費減税 是か非か?」という企画で、消費減税賛成派の立場で登壇いたしました。「減税反対派」の方としては、自民党の税制調査会幹事(以下、税調幹事)の片山さつき衆議院議員が登壇されました。
この内容は、SNSなどを通して様々に拡散されたようです。消費減税の可能性について多くの方々にご一考頂く機会となり、大変有難く感じているところです。こうした機会を設けていただいた番組作成者、ならびに、ご議論いただいた片山さつき議員に心より感謝申し上げます。
このTV出演については既に
https://foomii.com/00178/2020012416024463005
でもご報告差し上げていますが、今日は改めて、消費税減税が必要なのか否かを判断いただく際の基礎情報のご提供という趣旨で、片山自民党税制調査会幹事のご発言をご紹介いたしたいと思います。
(1)現在の景気の低迷は「台風」が原因と主張
まず、当方から今、消費、小売りが大幅に冷え込んでいること、しかもその冷え込みは、2014年の8%増税の時よりも激しい水準だと言うことを、下記データを用いて解説しました。

https://pbs.twimg.com/media/EO7YuT2U8AAG91N.jpg
これに対して片山議員は、現時点の景気の冷え込みは「台風」が大きな影響であると主張されました。
このご発言に対して、当方からは、消費増税直前の9月に大きな駆け込み需要があったことから考えて、この10月の消費の冷え込みの主要因は消費税であることは確実だと考えられます、と解説しました。

https://pbs.twimg.com/media/EO7YuT2U8AAG91N.jpg
当方と片山議員の見解は相違していますが、いずれの主張が正しいのでしょうか・・・? ご判断は是非、皆様にお任せしたいと思います。
(2)現在の消費の成長率の下落は「少子高齢化」が原因と主張
続いて、当方からこちらのグラフをお示ししながら、

https://twitter.com/bakutaro2/status/1220138689084325890/photo/1
過去、消費税増税を繰り返すたびに消費が冷え込み、かつ、その「成長率」が下落していっていることを解説しました。
そうしますと、この長期的な消費の伸び率の下落は「少子高齢化」が原因だと主張されました。
このご発言に対して、当方からは、次の様に発言差し上げました。
「少子高齢化の影響はゼロとは言わないけれど増税した途端にストンと下がって伸び率が下がってるんですから、このグラフを見て消費増税の影響がないって考える理性的な人は僕はこの世に存在しないと思う。詭弁を吐く人以外、消費増税が関係ないとは、絶対言えない。ですから、これを少子高齢化(が原因だ)と言うのは詭弁に過ぎると思う。」
筆者はどれだけ考えても、詭弁を弄しない限り、「少子高齢化主犯&増税無罪」説を唱えることは不可能だと思うのですが・・・いかがでしょうか?
(3)「奈落の底なのかどうかを、今見てるわけですよ」
さらに、討論の中で、片山さつき議員が、「人口が減っていくなか、社会保障費を確保するために消費増税が必要だ」とご発言されたので、当方から、今片山先生がおっしゃったのが政府の今の公式の見解だが、その政府の考え方は「完全に間違いだと大学教授として確信している」と申し上げました。
そもそも、片山先生がおっしゃったように人口が減っていくのだから、成長するためには、一人当たりの消費を増やさなければいけない、一方で、経済成長のメインエンジンは消費で、消費税は消費の罰金として働く、だから、そんな時に消費増税やったら、経済が奈落の底に落ちていくのは間違いない。1人あたりの消費を増やすのに、消費減税ほど効果的なものはない、と申し上げました。
そうしますと、片山議員は、
「奈落の底なのかどうかを、今見てるわけですよ」
とご発言されました。
これは、片山税調幹事は、消費増税をすると、奈落の底に落ちるリスクがある、そして、今、まさにそうなっている可能性がある、という認識を持っている、と解釈可能でしょう。
なお、当方はこのご発言について特に発言差し上げませんでしたが、奈落の底に落ちている可能性をご認識されているのなら、是非とも、その認識の下、消費減税も含めた徹底的な対策を政府与党としてさらにお進めいただきたいと思います。
(4)「マレーシアは消費税の代わりに物品税を導入してるから、結局、消費の伸び方は、消費税導入後も変わっていない」
最後に、ちょっと細かい点ですが・・・もう一つご報告します。細かすぎて、あまり詳しく説明するのは気が進まないのですが、あの番組を見て、筆者の説明に「間違い」「切り取り」等があったと誤解している視聴者も中にはおられるかもしれない・・・という点がありましたので、説明させていただきたいと思います。
今回の討論で、当方は5%への消費減税を行うことで、消費は確実に拡大すること、そしてそれを通して、税収も大幅に拡大するであろうという数値シミュレーションを報告差し上げました。

https://ameblo.jp/kinakoworks/image-12569605977-14701596986.html
その上で、これはもちろん一つの試算ではありますが、97年増税後の「実績」と類似した計算結果であることは、本試算の信ぴょう性をサポートする傍証だと思われる、と述べました。
さらに、
1)マレーシアでは消費税を廃止した直後、消費「増加率」が上昇したこと、
2)しかしその後に(消費税と類似した)売上税を再導入した結果、消費「増加率」はまた下落してしまったこと、
3)ただし、導入された売上税の方が廃止された消費税よりも規模が小さいことから、消費税導入直前よりも、売上税導入後の方が、消費「増加率」が高い状況となっている、
という実データを紹介し、こうした
「減税すると消費の伸び率が上昇する」←上記の1)
「増税すると消費の伸び率が下落する」←上記の2)
という動きは、今回の筆者の計算事例と全く同じ動きを示しているのであり、したがって、このマレーシアのデータもまた筆者の試算の正当性を部分的にサポートする傍証の一つだとお話しました。
以上で話が終わっていればそれでよかったのですが・・・これに対して、番組コーナーが終わり、もうCMにいかないといけない・・・というタイミングで、片山幹事長は、
a)実はマレーシアは、(藤井は触れてなかったが)消費税をなくしたんじゃなくて、結局、売上税を入れてる(!)。
b)しかも藤井さんは、消費増税の直前からのデータしか示していないが、「消費データ」の推移をみると、実は、増税前からマレーシアは成長していたのが分かりますよね(!)、だから、増税した後も、結局同じように成長しており、藤井さんが言うような増税の影響なんて見られないんです(!)。
という趣旨のお話をされました。
この説明を聞いたスタジオの人びとは、「結局どっちも都合のいいデータをもってきて、切り取って話ししてるだけなんだな」という空気になってしまいました。
反論したかったのですが、既にCM時間に食い込んでいる発言だったため、発言が全くできず、片山議員が藤井のデータの不当性を暴露したかのような雰囲気で番組が終わってしまいました。
・・・が、この片山議員の藤井批判は、完璧なる「藁人形論法」と呼ばれる詭弁です。
なぜなら、第一に、実際は当方は「消費税を廃止した後、売上税を導入した」と説明していたにも関わらず、片山議員はa)にて藤井がさもそれを無視しているかのように話をして、藤井の説明が不当である印象付けをされています。
しかも第二に、当方は消費の「伸び率」のグラフを示しており、それが消費税をなくし、売上税を導入する間に上昇し、かつ、売上税導入後にそれが下落している、という説明をしているのに、その説明の一切を無視して、ただ単に、消費税廃止&売上税導入の前後で「消費はどちらも同じように右肩上がりに伸び続けている」という事実をもってして、藤井の説明が不当である、という印象付けをされています。
したがってこの片山議員の最後の説明は、「藤井の説明の信頼性を毀損する印象操作のための藁人形論法」という詭弁と考えざるを得ないと思うのですが・・・・ご判断は全て、視聴者にお任せしたいと思います。
・・・
当方は、こうした議論が、万人が目撃できるTVという媒体で30分以上に渡って展開されたことだけでも、「真実」を国民に届ける大変に有難い機会になったものと思っております。
ついては繰り返しますが、TV局の関係者、そして、議論をさせていただいた片山さつき議員に、心からの感謝を申し上げたいと思います。
ありがとうございました。
追伸1:
片山さつきさんが、なぜあんな発言をされたのか? について、最新の「キッチュ=まがい物/ウソ話」に関する社会心理学研究に基づいて、解説差し上げました。是非、ご一読下さい! 『「消費税を巡るTV討論」を、「キッチュ」の視点から人文学的・社会心理学的に考察しました。』
https://foomii.com/00178/2020012416024463005
追伸2:
今週の「週刊クライテリオン・ラジオ」でも、「政府のウソ」についてお話しました。是非、お聞きください!
『「ウソをつく政府」と「ウソを許す国民」 日本はなんでこんな国になったのか?』
https://www.youtube.com/watch?v=rVwFSRNUUg8&feature=emb_logo


https://38news.jp/economy/15287

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223. 中川隆[-13764] koaQ7Jey 2020年2月15日 14:21:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-381] 報告
教育を受けたら得るどころか失うものもある。たとえば「個性」は抹殺される 2020.02.15

日本の文化や風土にもともと均質的傾向があった。そのため、工業化の本質は均質化であることを日本人は素早く気付き、均質的であることのメリットを最大限に活かして成功した。そのため高度成長期に入ってからの戦後日本は、まるで当たり前のように、あらゆる面でこの「均質化」を徹底的に推し進めていった。(鈴木傾城)

あらゆる面でこの「均質化」を徹底的に推し進めていった

今まで人々を守ってきた「国家」は恒常的な財政赤字で苦しむようになっていき、国民の生活を守るどころか税金を苛烈に取り立てるようになって国民を追い込むようになってきている。

今まで人々を守ってきた「企業」は資本主義の変質で常に利益向上を求められるようになっていき、社員を終身雇用で雇う余裕は消え去ってどんどんリストラに励むようになってきている。

その結果、人々は自分自身の能力で生きなければならない社会になっているのだが、「自分自身で生きる」ためには、他人との差別化が重要になる。すなわち「卓越した個性」「飛び抜けた個性」が求められるようになる。

しかし、日本人は個性を発揮するよりも個性を殺す方が得意な民族である。それは仕方がない面もある。かつての日本は村社会であり、近代の日本は会社社会であり、組織の中で常に「均質」であることが求められていたからだ。

この均質化を強化したのは「工業化」でもある。

日本は戦後まもなく高度成長期に入っていったが、この高度成長期を支えていたのが「工業化」だった。工業化とは何か。工業化とは「同じ物を大量に作る」ということだ。完全に、色も形も重さも一致させた「規格品」を大量に作る。
工業化によって作られた物質は個性があってはならず、完璧なまでに「同じ」である必要があった。

大量生産の中での「個性」とは欠陥なのである。だから色が薄かったり、濃かったり、少し大きかったり小さかったりしてはならなかった。製品は、何もかも同じである必要があった。

こうした均質的な工業製品を作り出すというのは日本人の性格に合った。なぜなら、日本人は昔からほぼ単一民族社会であり、農耕民族であり、村社会だったから、「他と同じである」ことに馴染みがあったからだ。

そして均質化主義は、人間の均質化にも向かった

日本人が尊ぶ「型」や「作法」や「道」は、実は均質化を芸術的なまでに突きつけたものであると気づいているだろうか。

日本の文化や風土にもともと均質的傾向があった。そのため、工業化の本質は均質化であることを日本人は素早く気付き、均質的であることのメリットを最大限に活かして成功した。

高度成長期に入ってからの戦後日本は、まるで当たり前のように、あらゆる面でこの「均質化」を徹底的に推し進めていった。

「規格化」「大量生産」「標準化」「効率化」とは、要するに同じものを作るための仕組みである。大量生産が重要だった時代、寸分狂いなく同じであることを追求することで儲かった。

均質化は一概に悪いことではなく、効率と合理化のために役立つものである。そして、大量生産できるシステムこそが現代文明を支えている。それは非常に重要なものであるのは誰も否定できるものではない。

しかし、その均質化主義は人間の均質化にも向かったことで歪みが生じた。規格化された工業製品を作るためには、能力や考え方や生き方にバラツキのない「均質化された人間」が大量にいた方が使いやすくていい。

考え方も、気質も、生活リズムも、みんな同じ「均質」である規格化人間が、規格化された製品を作るとうまくいく。だから、日本は均質化された人間を生み出す教育を取り入れた。

日本人は教育によって完全に均質化された。大量生産の中では不良品が許されないように、日本の教育の中では生徒の個性など「あってはならなかった」のだ。

学校は何かを学びに行く「だけ」の場所ではない


個性的な教育、個性的な教師、個性的な生徒。

こういったものは工業化時代には役に立たないものだった。そんな人間は大量生産を黙々と作れないからだ。日本に必要なのは、大量生産品を作れる規格人間だった。個性よりも均質化された人間を社会は必要としていた。

だから日本国中で同じ教科書が使われ、同じ教育方法が取られ、同じカリキュラムで教育が進められた。生徒の個性を奪うために、子供は制服という同じ色・同じ作り・同じ品質の服を着せられ、場合によっては髪型も同じにさせられた。

同じように行動するために「団体行動」をきちんとできるように徹底教育された。「組み体操」も危険だと言われながら今も続けられているのは、やはり規格化された成果を見せるためでもある。

「組み体操」をする子供たちのひとりひとりは、大量生産品の部品として機能していることの表示だったのだ。

規格化された存在は集団では強い。だから規格化されたメリットは確かにある。しかし、それは集団で見たときの話であって個人で見るとどうなのだろうか。
日本の学校教育は何かを学びに行く場所だと勘違いしている人がいまだにいる。そうではない。日本の学校教育とは「みんなと同じになる」ように矯正される場所でもあったのである。

日本の教育は「みんなと同じにする」ための場所になった。だから、優秀な部分を伸ばすという教育に力を入れることはほとんどない。
そんなことをすれば生徒ひとりひとりが「個性的」になってしまうからだ。個性的というのは「他とは違う」ということで、均質性の人材を求める社会にとっては邪魔者である。

個性を消して人間そのものを規格品のようにするためには、どうすればいいのか。簡単だ。優秀な部分を抑え、不得意科目を補習させて平均に近づければいい。
分かるだろうか。得意を抑え、不得意を平均に近づけ、「同じ人間」になるように徹底的に躾けている。それをを日本では「教育」と呼ぶ。

その規格に馴染まない人間を何というか。「不良」という。なぜ「不良」というのか考えたことがあるだろうか。

規格に合わない製品は「不良品」だ。
教育に合わない人間は「不良」だ。

要するに、大量生産からはみ出した人間は、工業製品の不良品と同列で「不良」と言われているのである。そういった人間は、規格に合わないので、規格品を作るための会社は受け入れない。
地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから
教育を受けて何か得たのではなく失ったのかも……

日本の会社は、規格品を大量生産する場所だ。だから、教育からはみ出した人間は「規格品として合格していない」から雇わないで弾く。

会社は個性は求めていない。だから、日本企業は人材を採用するときには学歴を重視する。学歴が高ければ高いほど「規格品」だと分かるからだ。

よく覚えておいて欲しい。規格化された製品を作るには、個性などない規格化人間が必要になるのだ。工業化社会だったから、そんな人間が大量に必要だったのだ。
そのために教育の現場では、子供たちを規格化するために、制服・平均点・団体行動を重視する教育を推し進め、ありとあらゆる仕掛けで子供たちを没個性化した。これは「型が重要だ」という話や「守・破・離」とは別次元の話だ。
意図的に、可も不可もなく、没個性的で、自分の意見もなく、団体行動だけが得意な人間を教育が生み出したのだ。

言われた通りにしか動けない。言われたことしかできない。自分で考えることはない。マニュアルに沿って動く。考えずに質問してその通り動く。そういう人間を企業が求め、政府はその企業の要請に沿って教育によって子供たちを没個性に仕立てた。

私たちは自分だけは違うと思うかもしれない。自分に個性があることは自分自身が一番よく知っているから、自分が均質化されたとは思わない。
しかし、日本の教育を受けたのであれば、均質化を押し付けられ、得手を封印された犠牲者である可能性がある。教育を受けて何か得たと思っているが、逆だったのかもしれない。奪われたのかもしれない。

あなたは自分が本当の得意だったもの、自分の能力、自分の武器を「均質化を重視する教育」で掻き消された可能性を考えたことがあるだろうか。本当は、自分の個性と可能性を教育で失ったのかもしれない。

とは言っても、ほとんどの日本人はそれを憂うことはないだろう。なぜなら、教育で「個性を奪われた」など想像したこともないからだ。本来は「卓越した個性」「飛び抜けた個性」があったのかもしれないが、それが「矯正された」と想像したこともないからだ。

https://blackasia.net/?p=17187

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224. 中川隆[-13762] koaQ7Jey 2020年2月15日 21:31:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-360] 報告
55名無しさん@ゲレンデいっぱい。2020/02/15(土) 20:55:23.01

幼稚園にかかる学費(授業料/給食費/園外活動費)
公立幼稚園…年22万2264円/3年間666万6792円
私立幼稚園…年49万80008円/3年間149万4024円

小学校にかかる学費(授業料/学校給食費/学校外活動費/修学旅行/学校納付金/学用品/通学費)
公立小学校…年32万1708円/6年間…193万248円
私立小学校…年153万5789円/6年間…921万4734円

中学校にかかる学費(授業料/学校教育費/学校給食費/学校外活動費)
公立中学校…年48万1841円/3年間…144万5523円
私立中学校…年133万8623円/3年間…401万5869円

高校にかかる学費(授業料/学校教育費/学校外活動費)
公立高校…年40万9979円/3年間122万9937円
私立高校…年99万5295円/3年間298万5885円

大学にかかる学費(入学費用/在学費)
国公立…4年間484万9000円
私立文系…4年間695万1000円
私立理系…4年間879万7000円

小中高の無償化は「授業料だけ」
制服、教材、給食費、設備、旅行、社会学習はすべて自腹…有料だよ
部活動、塾、習い事…贅沢させるともっとお金かかる!!!
東京下宿させると年220万円(月額18万3416円)が必要

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

225. 中川隆[-13319] koaQ7Jey 2020年2月29日 19:15:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[202] 報告
「今さえよければそれでいい」
社会が“サル化”するのは人類が「退化のフェーズ」に入った兆候
内田 樹 2020/02/29
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/「今さえよければそれでいい」社会が“サル化”するのは人類が「退化のフェーズ」に入った兆候/ar-BB10xLno?ocid=ientp

「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」――。
新著『 サル化する世界 』で、利己的で近視眼的なものの見方をする人々が増殖する社会を“サル化”と定義した思想家・内田樹氏が、世界的なモラルハザードを喝破する。

◆◆◆

「今さえよければそれでいい」という発想

――現代社会の趨勢を“サル化”というキーワードで斬った思いは何でしょうか?


内田 “サル化”というのは「今さえよければそれでいい」という発想をすることです。目の前の出来事について、どういう歴史的文脈で形成されたのか、このあとどう変化するのかを広いタイムスパンの中で観察・分析する習慣を持たない人たちのことを“サル”と呼んだのです。

 歴史学的なアプローチも探偵の推理術も同じです。目の前に断片的な情報が散乱している。そこから「何が起きたのか」をいくつかのパターンで考え出し、すべての断片をつなぐことのできるストーリーを選ぶというのが探偵の推理術です。それが論理的思考ということです。でも、今の日本では、政治家も官僚もビジネスマンもメディアも、論理的にものを考える力そのものが急速に衰えた。広々とした歴史的スパンの中で「今」を見るという習慣がなくなった。時間意識が縮減したのです。それが「サル化した社会」です。
「サル化」という言葉は「朝三暮四」の故事から

――確かに社会のさまざまな局面で長期ビジョンが失われ、刹那的な傾向が強まったように思います。


内田 「サル化」という言葉は「朝三暮四」の故事から採りました。サルたちにこれまで給餌していた8つの栃の実を7つに減らすことになったとき、「朝3、夕方4ではどうか」と言ったらサルは怒り出し、「じゃあ、朝4、夕方3は?」と言ったら狂喜した。朝の自分と夕方の自分が同一であるということが仮想できなかったのです。ある程度長い時間を通じて自己同一性を保持できない人を笑ったのです。

 中学の漢文の授業で習ったときは「変な笑い話だ」と思っていたんです。どうして「こんな話」が何千年も語り伝えられるのか、意味がわからなかった。でも、よく考えたら、漢文で習う「守株待兎」も「矛盾」も「鼓腹撃壌」も、全部春秋戦国時代のものですが、本質的に「同じ話」なのです。どれも時間意識が未成熟な人間を笑っている。

適切な時間意識を持たないと人に笑われるぞという “脅し”
「矛盾」の武器商人は、「矛を売っているときの自分」と「盾を売っているときの自分」が同一であるということをうまく想像できない。切り株に偶然ウサギがぶつかったら、次の日から野良仕事を止めてしまった「守株待兎」の農夫には「確率」とか「蓋然性」という概念がなかった。「鼓腹撃壌」では「皇帝の善政のおかげでみんな幸福に暮らしている」と歌う子どもたちと「オレの日常に皇帝は何の関係もない」とうそぶく老人が対比的に扱われていますが、この老人には「因果」という概念がない。「矛盾」も「蓋然性」も「因果」もすべてある程度長い時間を俯瞰する視座に立たないと発生しない概念です。

 これらの逸話が春秋戦国時代に集中しているということは、おそらくその時期に「時間意識が成熟した人間」と「時間意識が未成熟な人間」が混在していたということだと思います。だから、「時間意識が未成熟な人間」を文明化することが社会的急務だった。こういう逸話が集中的に語られたのは、適切な時間意識を持たないと人に笑われるぞという「脅し」によって、人々を教化しようとしたからだと思います。

――有名な故事の数々が、時間意識のトレーニングになっていたというのは驚きです。

内田 時間意識とは「もう消え去った過去」と「まだ到来していない未来」を自分の中に引き受けることです。過去の自分のふるまいの結果として今の自分がある。未来の自分は今の自分の行動の結果を引き受けなければいけない。そういう骨格のはっきりした、ある程度の時間を持ちこたえられるような自己同一性がその時代から要求されるようになった。

 エマニュエル・レヴィナスが「時間とは主体と他者の関係である」という非常にわかりにくい命題を語っていますが、僕たちがそれが「わかりにくい」と思うのは、「時間意識」というものが伸縮するということを忘れているからです。ごく限定的な時間意識しか持たない人間と、広々とした時間意識を持つ人間がいる。
 一神教信仰は信仰者にこの「広々とした時間意識」を要求します。「造物主による創造」という想像を絶するほどの過去と、「メシアによる救済」という想像を絶するほどの未来の間に宙吊りにされている今の自分というものを把握できたものだけが一神教のアイディアを理解できる。そこから人間の知性と倫理性が発動する。そういうアイディアが生まれたのが紀元前1000年から500年くらいのことであり、それが人類史的な特異点(シンギュラリティ)を形成したのだと思います。
現代人が「退化のフェーズ」に入ったことの徴候ではないか

 だから「今だけ、自分だけよければ」という現代人に特徴的な時間意識の縮減は、それから2000年、3000年経って人類が「退化のフェーズ」に入ったことの徴候ではないかと思ったのです。

 ――いまは日々あまりに忙しすぎて、目の前のことにあくせくせざるを得ないという社会環境も大きいと思います。

内田 産業構造の変化のせいだと思います。経済活動が人間的時間を超えた速度で活動し出した。株の売り買いなんかはマイクロセコンド単位で、アルゴリズムが行うわけですから、今の経済活動の基本時間はもう人間的時間ではない。人間の身体感覚や知性が賦活される時間の流れ方ではないのです。

 僕が子供の頃、1950年代はまだ生産者のうち農業従事者人口が50%を占めていました。ですから、経済活動を考量するときの時間単位が「植物的」だった。ですから、学校教育でも、子どもたちの成長は農業のメタファーで語られていました。「種子を撒いて、水と肥料をやって、日に当てて、風水害や病虫害から守ると、収穫期には果実が実る」という言い方で家庭教育も学校教育も語られた。
 子どもたちは「種子」ですし、育ち方はお天道さま頼りですから、先行きどのようなものに結実するか予測できない。キュウリができるのか、トマトができるのかは分からないけれど、きちんと手入れをすれば、この子が持ってる潜在可能性は開花するだろうという、諦観と楽観の入り混じった感情で子どもは育てられた。いくら手入れをしても、さっぱり芽を出さない子については「大器晩成」といって、そのうち何か大きなものに結実するんじゃないかというような気楽なことが言われた(笑)。
かつての植物的な時間の中での子育て

――ゆったりとした植物的な時間の中で子供も育まれていたわけですね。

内田 植物的時間というのは、基本四季のサイクルですからね。のんびりしたものでした。子どもは工場で工業製品を作るように、仕様を決めて、納期を決めて、規格を決めて、全工程を管理したら出て来るものだという考え方をしなかった。親や教師が管理できるのはせいぜい全体の2〜3割であって、8割ぐらいは自然力任せという感覚があった。日光や雨量やイナゴの来襲は人力ではコントロールできませんから。

 人類史のなかで農業が支配的な産業だった時期は長いです。だから、「子育て」についてのプロセスは無意識に農業のメタファーで語られていました。たとえば、ガリ版で刷った学級通信なんてだいたい「めばえ」とか「わかば」とか「みのり」(笑)というようなタイトルだったでしょう。幼稚園のクラス名などもよく植物の名前が使われていた。「うめ組」とか「ひまわり組」とかね。でも、産業構造が変わって、第二次産業が基幹産業になると同時に、工場での工業製品の生産プロセスに準拠したメタファーが用いられるようになった。そういう転換は無意識のうちに行われたので、誰も気づかなかった。

人間は生身の生き物なんであって、缶詰や乾電池じゃない

 今は学期ごとに学習到達目標が数値的に示されて、そこで示された「納期」と「仕様」に合わせて「生産」がなされなければいけないとみんな思っている。まるで自動車やコンピュータを作るように精密な工程管理と製品の質保証がうるさく言われるようになった。教育について語る言葉遣いも工学的になってきた。「シラバス通りの授業をしろ」とか「学士号の質保証」とか「PDCAサイクルを回す」とかいう、どれも工業の用語です。

 それと同時に四季のサイクルを基準にした植物的時間が棄てられて、その代わりに納期と仕様に合わせて工業製品を生産する工学的時間が採用されるようになった。人間では制御できない巨大な自然力が子どもの成長に介入するという考え方そのものが廃棄されて、すべては人工的に管理できるということが前提になった。
 でもね、人間は長らく植物的な時間のなかで子どもを育ててきた。それで何千年かやってきて、うまくいったんです。産業構造が変わったからと言って、教育まで支配的な産業構造に合わせて変える必要なんかないと僕は思います。子どもは植物的時間の中で成長すればいいじゃないですか。人間は生身の生き物なんであって、缶詰や乾電池じゃないんですから。

長期スパンで見たときのドナルド・トランプ

――近年、とみに政治家が平気で嘘をつくようになりました。嘘の答弁を並べ立てたり、フェイクニュースを垂れ流すのもまた時間意識の縮減でしょうか。

内田 Honesty pays in the long runということわざがありますね。「長期的に見れば、正直は引き合う」という意味ですが、それは逆に言えば、「短期的に見れば、嘘は引き合う」ということです。だから時間意識が縮減して、「短期的に見る」ことしかしない人間にとっては「嘘をつくことの方が引き合う」んです。

 ドナルド・トランプは100年単位の長期的なスパンでとらえたら、米国史上でもっとも愚鈍で邪悪な大統領として歴史に名を残すでしょう。長期スパンで見たときに、アメリカの国益を大きく損なった人として世界史に記録されることは確かですが、短期的に見れば大成功している。ファクトチェックによると、就任からすでに1万以上の嘘を重ね、フェイクニュースを垂れ流したことによって成功したわけです。「嘘は引き合う」の最も説得力のある事例です。

アメリカでも日本でも“サル化”が進行している

 約束を守るとか、隣国との信頼関係を構築するのは、短期的にはコストがかかるかも知れませんけれど、長期的には安全保障コスト、外交コストを引き下げることになる。でも、今のアメリカにはそれができない。他国を恫喝して、外交的な危機を煽ったほうが有権者は喜ぶし、兵器産業は儲かる。トランプが今もアメリカ国民の相当数から支持されてるということは、アメリカ人でも“サル化”が進行しているということだと思います。

 日本でも同じです。安倍晋三も嘘に嘘を重ねてきましたけれど、本人はそれほど罪の意識はないと思います。「長期的に見た場合、こんな嘘を言って帳尻は合うのか」という考え方をしない人間にとっては「嘘をつかない」インセンティブはありませんから。世界中が“サル化”しているわけで、日本だけが特別悲惨なわけではないということです。そんなことを言っても何の慰めにもなりませんが。


――嘘が蔓延する一方で、露悪的に暴言を吐いたりヘイト発言をする人が、ある一定層にウケている現象についてはどうご覧になってますか?

内田 暴言を吐く人は昔からいました。でも、そういう「下品な人間」はあまり人前には出てこられなかった。そういうことは人前で言うもんじゃないという常識の抑制がかかっていたし、人前で下品なふるまいをする人間にはそれなりのペナルティが科された。でも、今はネットで匿名で発信できます。実社会で、固有名で発信した場合には相応の社会的制裁を覚悟しなければならないことでも、匿名でなら、責任をとるリスクなしにいくらでも下品になることができる。だから、これまで抑制されてた下品さが噴出してきた。下品な人間の比率そのものは時代によって変わりはしません。別に日本人が全体として下品になったわけじゃなくて、これまで隠れていた下品な人間が可視化されただけなんです。

さっぱり楽しくない「気まずい共生」とは?

――そうした時間意識が社会の分断化をより強めてきたようにも思います。どうしたら互いに溝の深い人々とも同じ共同体を形成することができるのでしょうか。

内田 哲学者のオルテガ・イ・ガセットが言うとおり、「敵と共に共生する、反対者とともに統治する」というのがデモクラシーです。だから公人たる者は反対者たちの意向も代弁して集団の利益を代表するのが仕事であって、自分の支持者の利益を代表するわけではない。それがいまや、デモクラシーというのは多数決のことだというシンプルな理解が支配的になった。選挙結果が51対49だったら、敗けた49についてはまったく配慮する必要がないと公言するような人物が首長になったり議員になったりしてる。彼らは自分が公人であるという自覚がない。自分の支持者を代表しているだけなら、「権力を持った私人」でしかない。

 デモクラシーの原点に立つなら、公人たる者は、自分の個人的な思いは痩せ我慢してでも抑制して、異論と対話して、反対者と共生する作法を学ばなければいけないと思います。それが本書にも書いた「気まずい共生」ということです。「気まずい」わけですから、さっぱり楽しくない。合意形成にもやたら時間がかかる。でも、それがデモクラシーのコストなんです。デモクラシーのコストを引き受ける気がないなら、独裁制か無秩序か、どちらかを選ぶしかない。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/「今さえよければそれでいい」社会が“サル化”するのは人類が「退化のフェーズ」に入った兆候/ar-BB10xLno?ocid=ientp

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226. 中川隆[-13135] koaQ7Jey 2020年3月03日 20:35:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[394] 報告

教育についての「いつもと同じ話」 - 内田樹の研究室 2020-03-03
http://blog.tatsuru.com/2020/03/03_1212.html


 ある媒体に教育論を寄稿した。あまり人目に触れることのないマイナーな媒体なので、ブログに採録しておく。

 そちらの編集部から教育について寄稿をお願いされたので、「いつも同じ話をしているので、改めて書き下ろすようなことがありません」とお断りしたら、「ありものの使い回しでもいいです」ということだったので引き受けた。でも、さすがに「ありものの使い回し」で原稿料頂くのは良心が咎めて、結局全部書き下ろしてしまった・・・でも、書いている人間は同一人物なので、中身は「いつもと同じ話」である。 

 教育についての個人的意見を記す。

 もう20年近くほとんど同じことを繰り返し訴えている。20年近くほとんど同じことを繰り返し訴えなければならないのは、私の主張が同時代日本人の同意を得ることができないからである。だから、以下に私が書くのは「日本社会のマジョリティによって受け容れられていない主張」である。

 私が言い続けてきたのは

(1)学校教育をビジネスの言葉づかいで論じてはならない
(2)学校教育の受益者は集団全体である

 という二点に尽くされる。

 それが日本社会のマジリティによって拒絶されているのは、「学校教育はビジネスの言葉づかいで論じられるべきである」と「学校教育の受益者は個人である」ということがひろく常識とされているからである。常識を覆さなければならないのであるから以下の話はいきおいくどく、長く、わかりにくいものになる。その点をご容赦願いたい。

 最初に学校教育をビジネスの言葉づかいで論じることの弊害について述べる。
「マーケット」とか「ニーズ」とか「費用対効果」とか「組織マネジメント」とか「工程管理」とか「PDCAサイクルを回す」とかいう経営工学的な用語が教育についての論に繰り返し登場するようになったのは、90年代の半ばからである。歴史的に言えば、91年の「大学設置基準の大綱化」が起点となった。

 もう30年も前の教育行政の転換のことだから、若い人は何のことだか分からないだろう。まずそこから説明を始める。

「大綱化」というのは要するに「大枠だけ決めておくから、細かいところは、それぞれの大学で勝手にやってください」ということである。それがどうして「一大転換」であるかと言うと、それまで文部省は大学について、校地面積や教員数や教育プログラムについて、「箸の上げ下ろし」まで小うるさく規定していたからである。これは「護送船団方式」と呼ばれた。文部省が「戦艦隊」で、それに守られて、非武装の船舶である大学がしずしずと航海する・・・というイメージである。護送されている船舶には航路を選択したり、速度を変えたりする自由はないが、撃沈されるリスクは減ずる。

 それが変わった。戦艦がもう護送任務を行わないと宣言したのである。「これからは各自で好きな航路で進んでくれ」と告げて、船団を離れたのである。これから大学はそれぞれで教育プログラムを自由に決めてよい。もううるさい口出しはしない。その代わり、その個性的な教育プログラムが評価されず、志願者が激減して、大学が潰れても文部省は与り知らない、と。というこの方針もその後なし崩し的に転換されて、今の文科省(2001年から名前が変わった)が「口は出すが、責任は取らない」という「ないほうがまし」な省庁に劣化したことはご案内の通りであるが、それでも91年に最初の転換点があったという歴史的事実に変わりはない。
 どうして文部省がそのような劇的転換を図ったかというと、18歳人口の減少が始まったからである。大学数と大学定員は18歳人口の増大と進学率の上昇を追い風に増大し続けた。しかし、少子化でその勢いが止まった。市場がシュリンクすれば会社は倒産する。明治以来、教育行政の本務は「国民の就学機会を最大化する」ことであった。学校数を増やしていれば誰からも文句が出なかった。それが「学校を減らす」という前代未聞のタスクを負託された。「増やす理屈」は熟知しているけれど、「減らす理屈」を文部官僚は知らなかった。困り果てた文部省がすがりついたのが「市場に丸投げ=自己責任論」であった。

 護送を失って自由航行を始めた船舶のどれが生き残り、どれが沈没するかは一つ一つの船の自己責任である。大学の教学プログラムの適否はこれからは文科省ではなく「市場」が判断する、と。このとき、学校教育への市場原理の導入が公的に認知されたのである。

 大学は「企業」に擬された。志願者は「顧客」で、教育事業は「商品」である。だから、顧客満足度の高い商品を開発し、提供できた企業は生き延びる。それができない企業は潰れる。シンプルな話だ。

 だが、ここにはそれ以上に重大な教育についての発想の転換が含まれていた。

 それまでは「どういう教育が『善きもの』か」という原理的な議論が存在した(戦時中の軍国主義教育も、戦後の民主主義教育も、「学校はどのような国民を育てるべきか」というところから話が始まった)。それが「どういう学校が選ばれるか」という話に変わったのである。

 これからは「売れる商品」が「よい商品」だとルールが変更されたのである。仮に学校が「ジャンクな商品」を提供しても、志願者たちが「欲しい」と言えば、その選択に余人は容喙すべきではない。現に、市場ではカスな商品が好感されて、質の高い商品が見向きもされないというようなことは日常茶飯事である。だから、これからは子どもたち(と保護者たち)は学校にいったい何を望んでいるか? それが最優先の問いとなる。

 だが、子どもたちが消費者気分で学校教育の場に登場すると、学校教育のあり方は一変する。というのは、もし単位や卒業証書や資格が「商品」であるならば、子どもたちがそのために差し出す「代価」には親が負担する学費だけではなく、彼らの学習努力も含まれるからである。「教育サービス・教育がもたらす利得=商品」ならば「学費・学習努力=代価」となる。これは論理の経済が導く結論である。そして、もしそうだとすると、親たちは同じ教育商品を提供する学校が複数あれば、その中で最も学費の安いところを選択するだろうし、同じ理由で、子どもたちは親が選んだその学校を最少の学習努力で卒業しようとするだろう。というのは最も安い代価で求める商品を手に入れることは消費者の権利であるだけでなく、消費者の義務でもあるからである。ここに教育をビジネスの言葉づかいで論じることの根本的なアポリアが存在する。

 ここで言う「学習努力」には勉強だけでなく、教員に敬意を表したり、校則を守ったり、級友たちと適切なコミュニケーションを行うなどの「学習環境を整える」すべての努力が含まれる。だから、消費者として学校教育の場に登場する子どもたちが学習努力を最少に抑制しようとすると、まじめに授業を聴き、教師に敬意を表し、校則を守り、級友たちと穏やかな友情を結び、親密なコミュニケーションを立ち上げるインセンティブは損なわれる。

 もちろん、子どもたちも学校教育がそれなりに「価値あるもの」であることは分かっている。でも、消費者として喫緊の問題は、それをどうやって最少の学習努力=貨幣で手に入れるかなのである。書店に行ったら、『3カ月でTOEICのスコアが100点上がる』という英語の参考書があったとする。買おうとしたら横に『1カ月で100点上がる』という本があった。当然、こちらに手を伸ばす。すると、そのさらに横に『1週間で100点上がる』という本があった。おお、これを買うしかないぜと思ったら、その横に『何もしないで100点上がる』という本があった・・・この本を「選ばないロジック」を消費者は持っていない。同じ結果であれば、最少の学習努力でそれを達することを子どもたちは文字通り強いられているからである。

 同じことを学校も実はしているのである。最近「1年間留学必須」という大学をよく見かける。これは大学にとっては「おいしい」話である。学納金から留学先の授業料を引いた分が大学に入る。何も教育活動をしないで金が入ってくるのである。人件費も光熱費もトイレットペーパーの消費量も、校舎の損耗も25%カットできる。するとそのうち「2年間留学させたらどうか」ということを言い出す人間が出て来る。それなら経費の50%がカットできる。これはよいアイディアだ。すると、それを聞いた誰かが「どうです、いっそ4年間留学させたら」と言い出す。そうしたら、もうキャンパスも要らない、教職員も要らない、コストゼロで大学が経営できるじゃないですか!

 そうなのである。教育機関の利益は教育経費を削減するほどに増大する。理論的には、いかなる教育活動もせず授業料だけ取る時に大学の利益は最大化する。だから、ビジネスマンが大学を経営すると「どうやって教育活動に要するコストを最少化するか」を優先的に配慮するようになるのは理の当然なのである。彼らにとってそれが合理的なのである。しかし、「できるだけ教育活動をしたくない」という人間は教育活動には不向きであるということは誰にでも分かるはずだ。

 2003年の小泉政権時代に特区で認可された「株式会社立大学」というのものがあった。市場の仕組みを熟知しているビジネスマンたちに大学開設の機会を与えたものであった。いざ蓋を開けてみたら、学生はぜんぜん集まらず、株式会社立大学はばたばたと倒産した。

 当然だと思う。倒産は「いかに教育活動をしないで学生たちから金を集めるか」に知恵を傾注したことの論理的帰結だったのであるが、その理路がこの実務家たちには理解できなかったのである。
 
 市場原理を学校教育に適用すれば、学校はできるだけ教育をせず、子どもたちはできるだけ勉強しないように努力するようになる。よい悪いではなく、「そういうもの」なのである。

 もちろん、現実の学校は惰性が強い制度なので、そこまで極端な事態は起きない。今がそうであるように、学校は「そこそこ」教育をし、子どもたちは「そこそこ」勉強する。でも、どの程度の「そこそこ」が適正であるかについて理論的な根拠は誰も知らない。何となく惰性でそうしているだけである。何をどこまで教えたらいいのか、何をどこまで学んだらいいのか、誰もそれを確信を込めて言うことができない。それが日本の現状である。

 多くの日本人はこのことのリスクを理解していない。だから、相も変わらず、「即戦力を育てろ」とか「実用的な知識だけを教えろ」とか「実務経験者を教員に登用しろ」というような手荒な要求が財界や政治家たちから出されて来る。だが、この人たちは実務家主導の株式会社立の失敗をどう総括しているのか、まずそれを聞きたい。先方は「四半期以上前のことなんか誰が覚えているか」と言いたいのだろうが、学校教育の成果は20年、30年後になってかたちをとるのである。15年前のことを忘れるような雑な頭の人間には制度設計は任せられない。

 もう一つ言いたいのは、学校教育を「実務」に即してと主張する人たちが脳内に描いている「実務」の具体的なイメージが工場での製品製造プロセスだということである。工場で缶詰や自動車や乾電池を製造することが産業の主要形態であった時代の生産モデルに基づいて彼らは学校教育を構想している。

 仕様書に従って、規格通りの製品を、納期に間に合うように製造すべく全工程を管理するというのは前期産業社会においては支配的なスタイルだったが、今はもうそういう時代ではない。「シラバス通りに授業をしているか」とか「学士号の質保証」とかいうのは20世紀なかばまでの工場でモノを作っていた時代の用語である。GoogleやAmazonの開発会議で「PDCAサイクルを回して」などと口走ったら、その場は凍り付くことだろう。別に世界トップ企業の真似をしろと言っているわけではない。けれども、「実務家」を自称する人々が半世紀も前の産業形態をモデルにして教育を語っていることに無自覚なのは滑稽を通り過ぎて悲劇である。

 私が子どもだった頃も、教育制度もまた「以前に支配的だった産業形態」をモデルに制度設計されていた。農業である。

 私が生まれた1950年に労働者の50%は農業従事者だった。その比率は以後激減したのだが、にもかかわらず、教員たちも親たちもしばらくは農業モデルで教育を語ることを止めなかった。それは「種子を蒔く、水や肥料をやる、日に当てる、風水害や病虫害から守る、収穫期に『自然のめぐみ』を享受する」という農業用語で教育が語られたということである。私たち子どもは「種子」と見なされていた。先行きどのような果実となるのかは正確には予測できない。なにしろ工程のほとんどが自然に委ねられているのである。太陽の光も、雨量も、イナゴの飛来も、人力ではコントロールできない。だから、何が実るかは分からない。それでも、何が実を結ぶにせよそれは「天の恵み」であって、人間による精密な工程管理の所産ではない。

 実際に、教員たちがガリ版で刷っていた学級通信のタイトルには「めばえ」とか「わかば」とか「みのり」とか植物にかかわる語が頻用されていた。こういうメタファーは「教育とは何か」についての、ある時代に固有のイメージを無意識的に表出している。

 ともあれ、当時の子どもたちは自分のことを「どんなものに結実するかわからない何か」だと思いなすように訓練されていた。だから、「自分探し」などという言葉はなかったし、「自分らしさ」を早く確定して、得意分野に資源を集中しろというようなことも誰も言わなかった。本人も周りも「先行き何になるかわからない」が無言の前提だったからである。その頃は中高生になっても、ぼんやりして、将来何になるのか予想もつかない子どもについては、苦笑とともに「大器晩成」という形容がよくなされた。今はもう死語だ。

 今の学校で子どもたちの自己イメージは「種子」ではなくて、「消費者」である。消費者は登場した瞬間にすでに完成している。変化しないことが前提なのである。消費者というのは「自分が何を欲しているのか知っていると想定された主体」のことである。だから、人間的属性は不問に付される。消費者の成熟など誰も問題にしない。6歳の幼児も80歳の老人も、同額の貨幣を持って店に行けば、「いらしゃいませ」と同じ挨拶を受け、同じ商品が買える。子どもたちを「消費者」と規定する限り、彼らに成長を求めることは論理的に不可能なのである。

 一方、教員たちの自己イメージは「工場労働者」である。仕様書通りに、納期に間に合うように、規格通りの製品を仕上げること、壊乱的なファクターやバグが工程に関与しないように目を光らせることがその本務である。だから、「不良品」が出た場合には教員の管理責任が問われる。農作物のように「日照時間が短かったですから」とか「台風が来て」というような言い訳は通らない。製品の質については「工場」が全責任を引き受けなければならない。ずいぶんな話である。

「現実的である」ということはその時代に支配的な世界観に同期するということである。そうしないといろいろ不便だから、「現実的」であることは必要である。けれども、「その時代に支配的な世界観」はやがて変わる。今、教育関係者が口にしている「ビジネスの言葉づかい」なるものはすでにずいぶん時代遅れのものである。それが無効であることは、日本の学校教育の壊滅的な現状を見ればわかるはずである。

 もう紙数がないので、第二の論点は駆け足で述べる。それは「学校教育の受益者は個人ではなく、集団全体である」ということである。

 学校教育の場に消費者として登場する子どもたちにとって、学校教育は「買い物」である。学校で得られる知識であれ情報であれ技能であれ、あるは資格や免状であれ、それらはすべて「個人資産」にカウントされる。それによって彼らが将来的に高い社会的地位に就き、高い年収を受け取り、レベルの高い配偶者を得ることができるのだとしたら「買い物」に際して他人の財布を当てにすることはできない。「この車買いたいんですけど、お金が足りないので、公金で補填してくれませんか」と言い出す消費者はいない。けれども、学校教育ではそれが通る。

 もし、学校で子どもたちが手に入れるのが「個人資産」であるなら、「受益者負担」の原則を適用して、学校教育に要する全てのコストは受益者たる子どもとその親たちが支弁すべきだということになる。学校教育に税金を投じるべきではないということになる。公立学校も奨学金もあってはならないということになる。教育コストを負担できる家の子どもたちだけが私立学校に通う。貧乏人の子どもが学校に行きたければ、まず働いて、学資を貯めてから行けということになる。


 別に想像を書いているわけではない。18世紀のアメリカに公教育が導入されようとしたときに、実際にこう言って学校教育への税金の投入に反対した納税者たちが少なからず存在した。彼らはこう言った。われわれは努力と才能によって今の地位を手に入れた。だから、個人資産を投じて自分の子どもには学校教育を受けさせている。けれども、何が悲しくて、自分たちほど努力もせず、才能もなかった人間の子どもたちを教育し、われわれの子どもの「競争相手」にすることにわれわれの血税を投じなければならないのか、と。

 そのときに「なるほど、受益者負担の原則に基づけば、学校教育に税金を投じるのは間違ってますね」ということで国民的合意が成っていたら、今でもアメリカは文字が読めず、四則の計算もできない貧しい国民を大量に抱え込んだ「後進国」だっただろう。さいわいそうなっていないのは、口うるさい納税者たちを黙らせて、「学校教育の受益者は個人ではなく、集団全体である」と言い切るだけの常識をアメリカ市民が具えていたからである。

 子どもたちに生きるために必要な知識と技能を教えるのは集団全体の義務である。そんな当たり前のことを今さら声を大にして言わなければならないのは、本当に情けないことである。

 原始時代だって、大人は子どもたちがある年齢になったら、狩猟や漁労や農耕を教えた。「生きる知識と技能の受益者は子どもたち自身なのだから、まず入学金と授業料を耳を揃えて持ってこい、話はそれからだ」というような「せこい」ことを言う大人はいなかった。当たり前である。子どもたちが然るべき時期に生きる知識と技能を身につけることができなければ、遠からずその集団の成員たち全員が飢え死にすることになるからである。

 教育というのは共同体の生き死にのかかった営みなのである。それを「自動車を買う」とか「服を買う」ような行為と同列に論じることがいかに的外れであるか、そろそろ気がついてもよいのではないか。

 というようなことを久しく私は言い続けてきたのだが、耳を貸してくれる人は依然としてまことに少ない。
http://blog.tatsuru.com/2020/03/03_1212.html

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227. 中川隆[-12846] koaQ7Jey 2020年3月10日 15:42:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[703] 報告
2020.03.10
新自由主義の現実を浮かび上がらせた新型コロナウイルス


 新型コロナウイルスの感染が拡大しているという理由で安倍晋三政権は学校を一斉に閉鎖、コンサートなどイベントを中止させた。クルーズ船ダイヤモンド・プリンセスの艦内で患者が見つかった際、厚生労働省は適切な対応をせずに批判されたが、そうした批判を利用して戒厳令の予行演習らしきことを行っているように見える。世界的に見ると中国人差別にも感染が利用されているが、欧米では黄色人種差別に利用され始めている。

 今回の感染は世界の現実を明らかにする役割も果たしている。新自由主義が推進した「グローバル化」によって経済システムが脆弱化していることは株式相場の急落を見てもわかるが、そうした政策によって社会が崩壊している現実も見えやすくなった。

 新自由主義が政策として最初に導入された国は軍事政権下のチリ。この国では1973年9月11日にオーグスト・ピノチェトがサルバドール・アジェンデ政権を軍事クーデターで倒したが、その背後にはCIAの破壊工作部門が暗躍していた。その部門を動かしていた人物がヘンリー・キッシンジャー。巨大資本の代理人だ。この政策はマーガレット・サッチャーが首相だったイギリスでも採用され、そこから全世界へ伝染していった。

 この政策は通貨システムを重視して生産活動を軽視、富を一部の人間に集中させ、貧富の差を拡大させてきた。アメリカでは公的な年金や保険が事実上存在せず、公的な教育は崩壊している。暴力が蔓延している刑務所のような学校もある。アメリカの刑務所は命の危険があるのだが、学校もそうした危険があるということだ。

 アメリカの私立学校は授業料がとてつもなく高額で、庶民が通うことは無理。少しでもましな公立高校へ入れようとするなら高級住宅地に住まなければならない。住宅を買うことは不可能だが、家賃も高額。経済的な負担が親の肩に重くのしかかり、破産することになる。表面的には破産の理由が不動産にあるように見えても実際は教育が原因だということである。

 勿論、高級住宅地に住むことが端から無理な子どもも少ないない。例えばニューヨーク州教育局によると、​2018年から19年にかけての年度におけるホームレスと認めた生徒は11万4085名に達し、3万4000名以上がニューヨーク市のシェルターで生活している​。こうした情況にあるため、生徒を街頭へ放り出すことになる学校閉鎖をニューヨーク州は実施できないのだという。

 中曽根康弘、小泉純一郎、安倍晋三、菅直人、野田佳彦といった政治家は日本へ新自由主義を導入するために大きな役割を果たしてきた。そうした中、教育の破壊も着々と進められている。庶民は考えず、支配者の言うことを信じていれば良いという考え方が教育破壊のベースにあるのだろう。

 教育課程審議会の会長を務めたことのある作家、三浦朱門は自分たちが考え出した「ゆとり教育」について、「平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」(斎藤貴男著『機会不平等』文藝春秋、2004年)と語っている。

 教育改革国民会議で議長を務めていた江崎玲於奈は、「いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。」と主張しているという。(前掲書)

 安倍晋三が敬愛しているらしい彼の祖父は成績が良かったらしい。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003100000/


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

228. 中川隆[-13230] koaQ7Jey 2020年3月27日 15:51:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1674] 報告
2020年3月27日
カタカナ語氾濫の背後にあるもの
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
https://38news.jp/column/15584


「パンデミック」、「クラスター」。「オーバーシュート」「ロックダウン」。ほんと、新型コロナウイルスについての報道、わけのわからないカタカナ語が蔓延してますよね。「トリアージ」とかもときどき出てきて、「なんじゃこりゃ〜、わかいやすい日本語でいわんかい」と私も思っていました。

(ちなみに、「パンデミック」は「感染症の世界的大流行」、「クラスター」は「小規模の感染者集団」、「オーバーシュート」は「患者の爆発的増加」、「トリアージ」は「患者の治療の優先順位」だそうです)。

ですので、先日の河野太郎防衛大臣の3月24日の発言にはまったく同感です。産経の記事を引用します。

***

河野太郎防衛相は24日の記者会見で、新型コロナウイルスに関する政府の説明に片仮名用語が多いとして疑問を呈した。日本語で分かりやすく説明するよう、厚生労働省など関係省庁に求める考えだ。

河野氏は、ロックダウン(都市封鎖)、オーバーシュート(爆発的患者急増)、クラスター(小規模の感染者集団)を例に挙げ、「ご年配の方をはじめ『よくわからない』という声は聞く。日本語で言えばいいのではないか」と述べた。(略)

***

「ロックダウン、オーバーシュート…「日本語でいい」 河野防衛相」(『産経新聞』令和2年(2020年)3月25日付)
https://www.sankei.com/politics/news/200324/plt2003240022-n1.html

本当に、カタカナ語が氾濫していますね。企業などが宣伝文句でカッコつけるだけならまだましなのですが、近年は、公務員や政治家、あるいは公共放送のはずのNHKまで、わけのわからないカタカナ語を多用します。

私が以前、非常に疑問に思ったのは、2018年9月の北海道での大規模停電のことでした。このとき、NHKの報道番組まで大規模停電のことを「ブラックアウト、ブラックアウト」と連呼していたので強い違和感を持ちました。「ブラックアウト」などとカッコつけずに、

「大規模停電」「全域停電」「大停電」などといったほうがどんな人にもよくわかります。

(まあ、NHKは昔の「教育テレビ」ではなく、数年前から「Eテレ」に名称変更したことからも、日本語を大切する気があまりないのはわかってましたが…)
(´・ω・`)

ちなみに、こういうカタカナ語は、多くの場合、英語だとも言い難いものです。例えば、英語で「クラスター」(cluster)とは、「類似したモノや人の集まり」ぐらいの意味です。「クラスター」だけでは「感染者の集団」という意味は思い浮かびません。英語が良くできる人でも、「クラスター」と聞いただけでは「感染者集団」だとは普通、わからないのです。

カタカナ語を多用すると、専門家やその分野に精通している人以外、よくわかりません。初めて見聞きする言葉は、説明がないと理解できません。また、記憶にも残りがたいのです。

その点、日本の伝統的な外来語の取り入れ方である漢字熟語を用いて、外来語を置き換えていくやり方は優れています。

「クラスター」や「ロックダウン」では初見ではなんのことかわかりませんが、「小規模感染者集団」とか「都市封鎖」と書けば、普通の日本人はすぐわかります。また、記憶にも残ります。

(この点について、以前、言語学者の鈴木孝夫氏の議論に触れながら、当メルマガに書いたことがあります。こちらもぜひご覧ください)。

施 光恒「日本人の底力」(「『新』経世済民新聞」2013年10月18日)
https://38news.jp/archives/02491

私は、特に、役人や政治家、公共放送たるNHKなど、公けの物事に関わる人々や機関がわけのわからないカタカナ語を得意げに使う風潮は大いに問題だと思います。
公けの物事を報じたり論じたりするときに大切なのは、なによりもまず「わかりやすさ」です。「万人によくわかること」です。

よくわかれば、その後、「問題の深刻さはどの程度なのか」「その問題に対処するためにはまず何をすればいいのか」などを一人一人が考えることにつながりやすくなります。

例えば、「ブラックアウトが生じた」では何をすべきかよくわかりませんが、「大規模停電(全域停電)が生じた」であれば、「これはまずい」とすぐに感じ、「その地域の電力供給の仕組みのどこに問題があったのか」、「一人一人は予期せぬ事態にどう対処し、何に気を付けるべきなのか」という思考に進むこともできます。
(以前、カタカナ語の多用が問題をぼかしてしまい、物事をさらに深く認識し考えることを妨げているのではないかということについて、「ヘイトスピーチ」という言葉を例に書いたことがあります。こちらもご覧ください)。

施 光恒「『ヘイトスピーチ』 レッテル貼りの恐れは」(『産経新聞』(九州山口版)2015年1月22日付)
https://www.sankei.com/region/news/150122/rgn1501220036-n1.html

では、なんで、こういうわかりにくいカタカナ語が、公けの事柄を論じるときにも多用され、蔓延してしまうのでしょうか。

もちろん、「インテリぶりたい」「カッコつけたい」などという理由も大いにあるでしょう。それに加えて私は、政治や災害報道などの公けの領域にも、ビジネスの論理が広まってしまっていることに一つの原因があるのではないかと考えています。

「ちょっとわかりにくくても、目新しい感じがし、人目を引くことができる」「その言葉を使っている人や組織が、かしこそうで素敵に見える」ほうがいいというのは、ビジネスの場面では大切なことが多いでしょう。新商品のキャッチフレーズや企業のイメージ広告では、そういう印象が優先されるのが普通でしょう。

わかりにくいカタカナ語が政治や行政、報道などにまで蔓延しているのは、そういう領域にもビジネスの論理がどんどん越境して広がってしまっているからではないかと考えます。そして、役人や政治家や公共放送の職員らの少なからぬ人々が、公けの仕事の意義を忘れ、ビジネス偏重の風潮に染まってしまっているからではないかと思うのです。

たとえば、近頃の行政の現場では、コンサルタント会社などに多くの業務を委託しています。このこともカタカナ語の氾濫の一因ではないでしょうか。

コンサルタント会社の人々が、業務の受託を目指しプレゼンテーションをする際、自分たちの企画を良く見せようとカタカナ語を多用することが結構あります。また、彼らが作った企画書や報告書などを公務員や政治家が使うことも多いでしょう。

また、地方自治体や大学の業界でもそうですが、緊縮財政主義の流行のもと、各種の補助金は、競争的に獲得していくべきだということが言われるようになってきました。ビジネス以外の領域にも、ビジネスのような競争を持ち込んで「効率化」をはかろうというのです。

こういう補助金獲得競争では、コンサル会社の場合と同様、プレゼンテーションが重視されますし、プレゼンでは他者に勝つために「よくわからないけど、目新しく人目を引くこと」「かしこそう、頭よさそう、素敵そう」に見えることが優先されがちです。

このようなかたちで、ビジネスではない公けの領域にビジネスの理屈や空気が持ち込まれるようになったことが、そして役人や政治家や公共放送の職員などが「公共に奉仕する」という本務を忘れ、それに浸ってしまったことが、政治や報道の世界でもカタカナ語が得意げに多用されるようになったことの背景にあるのではないでしょうか。

そうだとすれば、これはやはり問題です。

政治や行政、あるいは今回のような感染症の報道などについては、「万人によくわかり、正確に伝わること」が何より大切です。ターゲットにしている一定の消費者層だけではなく、お年寄りも若者も、高学歴層にもそうでない層にも、その問題に興味がある人にもそうでない人にも、よくわかることが大切です。

そのためには、目新しさやカッコよさは二の次で、たとえ泥臭い言葉だと感じられたとしても、ともかくわかりやすい、日常的な言葉で語ることが必要です。

つまり、当たり前ですが、政治や行政、報道といった公けの事柄に、ビジネスの理屈が持ち込まれてしまってはまずいのです。政治や行政、報道が語り掛けるべき相手は、そういう多種多様な人々がいる国民全体ですし、国民全体のことを何よりも考えて行動すべきなのです。

言葉に関して言えば、政治や行政、報道では、変にカッコつけることなく、万人にわかりやすい日常の言葉で語りかけることが何よりも大切なのです。

追伸
政治や行政の領域に、ビジネスの理屈が持ち込まれ、そちらのほうが「かっこいい」「優先されるべきだ」とみなされがちな昨今の風潮への疑問について、少し前に次のような文章も書きました。こちらもご覧くだされば幸いです。

【国家を哲学する 施光恒の一筆両断】「公務員らしさ」の大切さ(『産経新聞』(九州山口版)2020年3月2日)
https://www.sankei.com/region/news/200302/rgn2003020006-n1.html
https://38news.jp/column/15584


https://38news.jp/column/15584

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229. 中川隆[-13061] koaQ7Jey 2020年4月06日 18:38:10 : pusBXgIaZg : MVFpUkJNanQydFE=[10] 報告

中国権力者の息子はばかでもハーバードに入学できる

中国の共産党上層部や地方政府の幹部、公的企業や資産家などは巨額資産を溜め込んだり、普通の人とは違う特権を持っていると言われている。

中国の平均所得は2019年に一人70万円台で、今も日本の5分の1程度だが、1980年代に比べて何十倍にもなりました。

だが実は極端な超富裕層が少数いるとしたら、実際の人々の平均所得は発表よりずっと少ないでしょう。

共産党幹部の子弟を太子党と呼ぶが、生まれたときから普通の人とはかけ離れた人生コースに乗って一生を過ごす。

幹部の子供は学力に関係なく、ハーバード大学など超名門校に入学し、4年間遊んで暮らしているのも分かっている。

アメリカでは人種差別を撤廃する観点から、白人より黒人、アジア人やアフリカ人を「優遇しなければならない」と決められています。

しかも共通一時のような押し付け入試はないので、教授の推薦があれば誰を入学させても問題ないのです。


白人は頑張ってトップクラスの成績を上げないと入学できないが、中国人で国の推薦がある留学生なら、バカでも入学できるのが事実です。

中国からハーバード留学生の大半を、太子党と呼ばれる共産党権力者の子供が占めていて、有名大学留学生の過半数は親が富裕層だったり特権階級だったりしている。
http://www.thutmosev.com/archives/66980808.html#more

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230. 中川隆[-12709] koaQ7Jey 2020年5月11日 16:17:06 : ZFPKQ6yhyA : VnB4VFpVWUR4ZEE=[9] 報告
研究力ランキング、日本勢初のトップ10陥落…中国勢が躍進
2020/5/11

 英科学誌ネイチャーは、主要科学誌に2019年に掲載された論文数などにもとづく研究機関の研究力ランキングをまとめた。日本勢は東京大の11位が最高で、ランク付けを始めた16年以降、初めてトップ10から陥落した。

 ランキングは、自然科学系の82雑誌で発表された論文への貢献度を、研究機関別に調べた。その結果、50位以内に入った日本勢は11位の東京大(前年8位)、37位の京都大(同29位)だけだった。1位は5年連続で中国科学院だった。中国勢は今回、新たに2機関がトップ10にランク入りするなど、躍進が目立った。

 また、国別のランキングでは、日本は米国、中国、ドイツ、英国に続く5位。16年以降、上位7か国の順位に変動はないが、論文貢献度は今回、中国が前年比で15・4%増と急上昇した一方、日本は5・1%減だった。

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231. 中川隆[-12711] koaQ7Jey 2020年5月13日 11:41:10 : bdtAPQH1aM : cWpqa0tHQTNSakE=[15] 報告
ようやく開いた図書館 2020年05月13日


興味深いのは「本屋を守れ」〜読書とは国力〜だ。

著者の「藤原正彦」氏は数学者(名誉教授)で過去に「国家の品格」というベストセラーがある。あの「新田次郎」氏と「藤原てい」氏(両者ともに作家)のご次男である。

表紙の裏に次のようなことが書いてあった。

「日本人の15歳の読解力はOECDの学習調達度調査で急落。月に1冊も本を読まない中高生や移動時間に新聞や文庫本を読まずスマホしか見ない大人たち。

町の本屋は減る一方。著者曰く、これらは国家全体に及ぶ”読書離れと教養の低下」にほかならない。めざすは”書店の復活”である。

”国語力なくして国力なし””町の書店がなぜ大切か””インターネットの情報で教養は身につかない””デジタルは記憶に残らない”

愛国の数学者が独自の直感と分析によって達した結論が日本人の常識になったとき、わが国は再び輝きを取り戻すだろう。」

以上、成る程と、つい釣られてざっと拾い読みしてみた。

まず、一番興味を惹かれた「デジタル本がなぜ記憶に残らないか」の要点だが、「本のタイトルが日常的に自然に目に入ってくるか否かの違い」が結論だった。

つまり、パソコンの内部に入れておくと、いちいち立ち上げるのが手間だし面倒くさいのでいつのまにか忘れてしまうというわけ。同感です(笑)。

これは音楽ソフトについて「レコードやCD」と「HDD」の関係に当てはまるかもですね。

次に、「英国紳士が絶対に使わない言葉」(122頁)が面白かった。

ちょっと長くなるが抜き書きしてみよう。

「アメリカと英国の両方で暮らした経験からいうと、英国人の目から見たトランプ氏はあたかも本を1冊も読みとおしたことがない人物のように映ります。アメリカ的なビジネスマンの典型で無教養な不動産成金。

第一の理由は彼のアメリカ的な言葉遣いにあります。たとえばアメリカ人は「得る」「手に入れる」というとき、何でも「get」を使いたがる。

しかし、英国紳士はできるだけこの言葉を避けようとします。なぜならエリート養成のパブリックスクールで「getは美しい英語ではない。君たちエリートが口にする言葉ではない」と厳しく教わったからです。代わりに「obtain」を使うようにといわれる。

ところがアメリカでは「obtain」という表現はすでに文語であり、現代会話ではほとんど使われていない。

同じ母国語として英語を使っても英米の間には大きな意識の差があります。

とくに英国紳士にとって不可欠なものは教養だからいくら大富豪になっても教養がないものは紳士階級に入れないという伝統があります。」

以上のとおりだが、これから新たなオーディオ機器を手に入れたときは「ゲット」という言葉を使わないようにしようと固く誓った次第(笑)。

言葉づかいもさることながら、「音楽サウンド」にしても英米の違いはとても大きい気がするが皆様はいかが思われますか?
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/4f0473433097107e5ae76754c82c67d5

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232. 中川隆[-12687] koaQ7Jey 2020年5月14日 21:25:31 : GrdHVrkjxE : N1ZMb0QuOWt4R2s=[3] 報告
「9月入学推進派の3つの大罪」コロナを利用したメディアの悪徳商法
2020/05/14




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233. 中川隆[-12643] koaQ7Jey 2020年5月20日 13:06:32 : shpkqj4psg : cTNDYkJuYkp2dUk=[6] 報告
フェアではないのに競争社会。「夢を持て」は「もっと競争しろ」の裏返しだ
2020.05.20


「夢は実現する」こういう明るいメッセージは実に口当たりが良くて人々を酔わせて気分を良くさせる効果があるので、社会はメディア等を使って繰り返し繰り返しそのような言葉を美化して人々に送り届ける。その結果、どうなるのか。確かに「一部」は思う通りになった人もごくわずかにいる。しかし、「大半」の人は思い通りにならない。(鈴木傾城)

蹴落とされた人の精神を徐々に蝕んでいくもの

現代社会は「競争社会」である。私たちは子供の頃から何かと競争させられる。学業で競争させられ、スポーツで競争させられ、特技で競争させられる。
受験も競争だ。受験というのは、自分の知識や知恵を向上させるためにやるものではない。他人よりも一問よりも多く問題を解いて、「他人を蹴落とすため」にやるものである。

社会人になっても、良い会社、良い給料、良い待遇、良い地位を求めて競争する。残業するのも、資格を取るのも、すべては競争に打ち勝つためである。結果的に見ると、それはすべて他人を引きずり降ろすためにやっているのだ。

ありとあらゆる日常の細部に競争が取り入れられており、人々は「何とか他人より抜きんでなければ」という強迫観念にさらされる。

競争に負けると惨めになる。だから誰も競争に負けたくない。本人は気が付いていないのだが、社会は競争という大きなプレッシャーを人々に与えており、そのプレッシャーが蹴落とされた人の精神を徐々に蝕んでいく。

競争に次ぐ競争で疲れ果てても、競争を止めてしまうと資本主義社会の「おいしいポジション」から脱落してしまうのだから絶対に競争から逃れられない。おいしい思いができないと、競争から降りること自体がストレスになってしまう。
そして、人々は追い立てられていくのである。


無気力になるというのは、一種の自己防衛である

今や、ありとあらゆる機会で、人々は競争を煽り立てられる洗脳の言葉を聞かされている。それは、「もっと競争しろ」「もっと他人を蹴落とせ」という直接的なメッセージでやって来るのではない。それは、このような口当たりの良いセリフと共にやってくる。

「あなたは、やろうと思えば何でもやれる」
「強い想いがあれば、すべてが可能である」
「夢は実現する」

こういう明るいメッセージは実に口当たりが良くて人々を酔わせて気分を良くさせる効果があるので、社会はメディア等を使って繰り返し繰り返しそのような言葉を美化して人々に送り届ける。

その結果、どうなるのか。確かに「一部」は思う通りになった人もごくわずかにいる。しかし、「大半」の人は思い通りにならない。

そして、できるはずだと思い込んでいたことができなかったり、強い想いがあったのに可能でなかったり、夢が実現できなかった人が、次第に意気消沈し、疲れ果て、精神的に追い込まれてしまうのだ。

無気力になって家に引きこもり、何もしなくなってしまう若者も続出している。無気力になるというのは、一種の自己防衛であることに気付かなければならない。

「自分には才能がある。だから、本気を出せば実現できるが、本気じゃないから実現できない」

才能がないというのを認めてしまうと自己崩壊してしまうので、それは認められない。しかし、今の自分は何も実現できていない。だから、「本気ではない」ということにしなければ自己が保てなくなっている。

やればできるという聞き心地の良いメッセージ

何でもかんでも「強く願えば夢は実現する」というのは、客観的に考えれば「事実ではない」と誰でも分かることだ。それは、大いなる幻想である。能力の限界、気力、運、環境、運不運によって強く願っても叶わぬ夢はある。
ところが多くの人は、あまりにも強く、長く、執拗に「やればできる」という聞き心地の良いメッセージで無防備に洗脳されてしまっているので、それが現実的ではないことに気付けない。

できなくても、「想いが足りないのだ」「努力が足りないのだ」と自分のせいにして、最初から現実的ではなかったことには目を向けない。
「こうありたい」という想いがあまりにも強くなりすぎて、まわりが見えなくなってしまうのだ。そして挫折を繰り返しているうちに現実を見失い、心のバランスを失ってしまう。

どうすれば良かったのか。

夢を持ち、それを追うのは決して悪いことではない。夢は持ってもいい。夢を持たない人よりも持っている人の方が健全だ。しかし、夢を見る一方で、常に現実の方も見てバランスを取らなければならなかった。

客観的に見ると、子供の頃や学生の頃は大きな夢を持つ年代である。自分の限界が分からない上に、世の中のことも知らないからだ。

しかし、こうした夢は現実を知れば知るほどゆっくりと軌道修正されていくようになる。現実が見えるようになり、自分が見えるようになるからだ。自分が何者かが徐々に分かってくるようになる。

自分の得手不得手も見えるし、自分の関心が持てるものと持てないものも見えるし、自分が社会で置かれている位置さえも見えてくるようになる。
さらに自分の出身、性別、階級、人種という属性から、時代、社会、経済的な位置という自分を取り囲むものもゆっくりと見えてくるようになる。

「フェアでないのに、競争社会」という残酷さ

現実の社会が見えてくるというのはどういうことなのか。

それは、この世はスポーツのようにスタートラインを同じにして一斉に走り出して勝敗を決めるようにはなっていないということに気付くことだ。
私たちが生きている社会は、スポーツのように階級制もない。競争の条件がフェアにもなっていない。

たとえば、途方もない金持ちと、途方もない貧困層の子供が同時に競争するのがこの世の常である。生きている国や場所が違うと、教育すらも満足に受けることができずに世の中に放り出される。

日本ではどんな子供でも字が書けて当たり前だが、世界はそうではない。子供の頃に教育が受けられず、字も書けず、計算もできない人で溢れている。

たとえば、東ティモール、セネガル、ガンビア、ベナン、シエラレオネ、ギニア、アフガニスタン、ソマリア、チャド、ニジェール、ブルキナファソ、エチオピア、スーダン、マリと言った国は国民の半数以上が「文字が読めない」国である。
高度情報化の中で、文字が読めないということがいかにハンディなのかが分かるはずだ。政府の支援もなく、親の協力もなく、人脈もなく、世間がどうなっているのか知らないまま、ひとりで生きていけと宣告される。

一方で先進国の多くは識字率が高く、基礎教育がしっかりとしており、大学進学率も高い。

グローバル化の時代になると、こうしたまったく環境の違う人間が同時に競争することになる。競争が成り立たないのが分かっていながら、資本主義の世界での競争に追いやられる。

不平等で、不公平で、不備だらけの社会で、底辺の人たちがもがいている残酷な姿は正視できないほど恐ろしい。私たちは資本主義の中で競争しているのではない。競争させられている。


フェアでないのに競争社会……。

この言葉の残酷さが分かるのは、精神的に年を取らなければならないのかもしれない。それは、身の毛がよだつほど恐ろしいことなのだ。

この世は「フェアでないことを知る」というのが、現実的になるということである。フェアではない戦いを仕掛けられて、私たちは戦わなければならない。だから、いかに現実がいびつで残酷なのかを見つめるのは意義がある。
https://blackasia.net/?p=18493



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234. 2020年5月31日 17:10:45 : UHql1moG6Q : Q3Y1RVZWZ2RzVlE=[20] 報告
2020年05月31日
アメリカの白人排除政策 受験・就職・昇進で差別される白人男性


アメリカの白人男性は社会から排除されている。
能力や学歴が同じなら白人を差別しなければならない、と法律で決められているからです。

引用:http://www.pbs.org/newshour/wp-content/uploads/2015/12/RTX1XCP2-1024x683.jpg

イスラムロンドン市長誕生の背景

アメリカでは有色人種の大学合格枠が決められていて、同じ成績なら必ず白人を不合格にしています。

企業の採用や昇進でも白人は差別され、中でも女性が優遇されるので、白人男性は競争に参加できない社会になっています。

イギリスでは2016年、ロンドン市長にイスラム教徒のアラブ人移民が当選しました。

2016年にオバマ元米大統領の娘マリアが、ハーバード大学に入学したのが話題になっていました。

関係が無さそうなこれらの出来事は、英米で起きている同じ事が原因だと考えられています。

ロンドンもニューヨークも、欧米のほとんどの国の首都で、移民や移民の子孫が多数派、最初から居た人種が少数派になりました。


欧州はEU成立からわずか20年ほどで「原住民」が少数派になり、移民が多数派になっています。

移民は職を求めてやってくるので、自然とその国の経済の中心地にあつまり、仲間を呼んで増えて行きます。

すると「原住民」は移民を嫌って郊外や地方に逃げ出すので、中心部で移民の割合が増えます。


イギリスの国家統計局によると2012年に、ロンドンの820万人のうち、白人は10年前の58%から45%に減少しました。

たった10年で13%減ったように見えるがそれだけではなく、実は移民の多くは他の国から来た白人だった。

すると実際には10年間で15%とか20%も、元から住んでいたイギリス人がロンドンから消えた事になります。


こうなるともうイギリス系白人に発言力はなくなって、勢いは完全に移民に移りイスラム教徒の市長誕生に繋がりました。

努力した者を貶める国

アメリカの主要都市もどんどん白人が減少していて、発言力が日々縮小し、オバマ大統領が誕生しました。

オバマの娘は父親と同じハーバード大学に入学したが、親のコネで入学したといわれています、

ただの推測ではなく、アメリカの有名大学では、卒業生の子供が受験すると3分の1の割合で合格している。


ハーバードの一般入試合格率は5%以下なのに、卒業生の子供は33%だったのでした。

アメリカの大学は日本のように共通一時とか画一的な入試ではなく、学生の個性を重んずるのが知られています。

これを幅広く解釈すれば、教授の好き嫌いで合格させる事もでき、受験でコネが効くのです。


今や有名大学合格者の多くは親が富裕層だったり同じ大学の卒業生で、真面目に受験して入学する人は少ないとされている。

アメリカではこんな状況を皮肉って「世襲競争主義」と呼ばれています。

アメリカの政治家も資産家も実業家も、どんどん世襲が増えて、まるで日本のようになってきています。


統計によるとアメリカの富裕層の40%は、単に富裕層の子供に生まれたというだけで、富裕層になりました。

単純な話、富裕層の3割くらいは、生まれた瞬間から富裕層であり、親のコネで有名大学に入れるのも決まっているのです。

良い教育を受けたものだけが競争に参加でき、親のコネや資産がない人は、一生競争に参加できません。


親が黒人で富裕層、権力者なら、学力が劣っていてもハーバードに入学でき、一生を保証される。
アメリカはそんな社会になった。

引用:http://pds.exblog.jp/pds/1/201410/28/63/c0192063_11541969.jpg


反実力社会アメリカ

アメリカの白人にとってさらに状況を悪くしているのが「人種差別と性差別」で、有色人種を差別している訳ではありません。

日本でも在日特権が話題になる事があるが、受験は公正に行われているし、経営者が在日でなければ、日本人だからという理由で不合格にはならないでしょう。

だがアメリカでは「有色人種」「移民」「女性」を優遇する政策が取られていて、あからさまに白人男性を排除します。


大学受験で同じ評価のアフリカ移民の女性と、白人男性がいたら、100%白人男性が不合格になります。

移民を優遇しなければならず、女性は優遇しなければならず、有色人種も優遇しなければならないので、こうなっているのです。

もし大学が同じ成績の白人男性を合格させ、アフリカ女性を不合格にしたら、裁判で訴えられて大学は負ける。


逆アパルトヘイトと呼ぶべき政策には「アファーマティブ・アクション」という名前が付いていて、表向きは弱者の救済措置になっています。

現実にはこうして白人、特に白人男性を競争から排除し、受験や採用試験、出世や給与で貶めているのでした。

政治の世界でも白人男性は差別され、女性と有色人種がどんどん増えています。


テレビを見ているとアメリカの報道官とか長官の多くが女性か有色人種ですが、白人男性を制限する政策だからでした。

日本でも安倍首相が「女性閣僚を増やす」と言って女性を増やしたら、ほとんどが不祥事や不適切な発言で問題を起こしました。

能力に関係なく女性を増やしたら男性は排除されるし、アメリカでは白人男性が社会から排除されています。


親のコネが無い平均以下の白人男性となると、もうアパルトヘイトの下層民衆と同じです。

能力が同じなら100%女性や有色人種が競争に勝つし、よほど優れていないと「人種差別政策」で落とされるからです。

こうした不満がトランプ大統領への支持に集中していると言われています。


ハーバードに合格したオバマの娘はバカで有名で、「黒人優遇措置」「親のコネ枠」で合格し、実力で合格したのではありません。

なお日本人は有色人種だが先進国出身なので、白人と同じ「身分」になっていて優遇措置は無い。

http://www.thutmosev.com/archives/60146939.html

235. 中川隆[-12370] koaQ7Jey 2020年6月17日 10:25:18 : Ws5ejKARWA : UTFndFNYR2lEVUk=[9] 報告
2020年06月17日
ルー大柴のような政治家 / 青山繁晴の正体(後編)
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68815069.html
劣等感に悩む日本人

日本人は子供から大人まで、様々な階層が英会話に夢中になるが、英語の発音だけは苦手なようで、ネイティヴ・スピーカー並の発音に憧れているのか、「アメリカ人と対等に話したい! 」と“こだわる”人が多い。それゆえ、一般の日本人はイギリス人やアメリカ人のように話す“バイリンガル”を尊敬するようだ。未熟な若者ならまだしも、いい年をした中年までもが英会話学校に通い、大金を払ってるんだから情けない。仮に、目標が達成されても、会話の内容がお粗末で、チンピラ黒人より“ちょっとマシ”といった程度だ。本人の努力は尊重するけど、たとえ格好のいい“英語屋”になっても、そんなのは“せいぜい”フィリピン人かインド人の類いである。テレビ広告では「イーオン」とか「ECC」が盛んに「夢」を語っているが、あんなのは「幻想」で、実際のイギリス人やアメリカ人にとって、英語を話す東洋人なんて珍しくもない。なぜなら、カイロの青空市場で骨董品を売るエジプト人や、ダマスカスの喫茶店でコーヒーを運ぶシリア人、香港で観光客に近づく支那人でも、ちゃんと英語を話せるからだ。非英語圏の外人が英語を話すなんて当たり前。アムステルダムやロンドンで爆弾テロを計画するイラク人でさえ、一端の英語を喋っている。英語で“上級国民”に昇進できるのは日本だけだ。

  そもそも、イギリス語という言語は、ブリテン島に渡ったゲルマン人が喋るドイツ語の一種(方言)に過ぎない。それなのに、「英語」とくれば、日本人は劣等感の塊だ。たぶん、中学生の頃から英語の試験に晒され、点数で序列をつけられてきたからだろう。そのうえ、憧れのイギリス人やアメリカ白人から発音を馬鹿にされてしまうから、精神が歪んでしまうのも当然だ。この精神病はは中高年になるほど酷い。昔、総理大臣になった宮沢喜一は訪米し、たまたまACBの「This Week」に出演したが、この卑怯者が英語で喋ると、まるでシンガポールの政治家みたいだった。宮沢本人は同世代の老人に向けて、「俺の英語力は凄いだろぉぉ〜」と自慢たっぷりであったが、司会者のデイヴッド・ブリンクリー(David Brinkly)の方が遙かに素晴らしく、イギリス紳士のように優雅で、ローの人のような威厳に満ちていた。それゆえ、対談を見ている日本人の方が恥ずかしくなる。(たぶん、親分の池田勇人も草葉の陰から「あのバカ野郎 !」と怒鳴ったんじゃないか。ちなみに、宮沢は議員になる前、池田の秘書をしていた。同じく、池田の元秘書で政治評論家になった伊藤昌哉も、宮沢をボロクソに貶していた。)

  NHKのワシントン支局長を務めていた日高義樹も“見栄っ張り”で、“お得意”の英語を口にすると有頂天だった。彼はテレビ東京で冠番組を持っていて、しばしばヘンリー・キッシンジャーにインタヴューする機会があった。しかし、稚拙な語学力であったため、キッシンジャーの意見に反論できず、丁稚の小僧みたいに「そうですか!!」と相づちを打つだけ。これなら、番組名を「ワシントン・レポート」から「ごもっとも対談」に変えた方がいい。本来なら、有能な通訳をつけて、厳しい質問を浴びせかければ良かったのに、日高氏は自分の英語力を披露したいがため、一生懸命“苦手”な英語を使っていた。でも、文法は滅茶苦茶、論理的な切り返しもできない。それゆえ、視聴者が知りたい本音は引き出せず、キッシンジャーの独演会に近いものだった。(筆者はこの番組を毎回録画していたので、日高氏がどんなミスを犯していたのか、今でも検証できる。) 会場には日本人の在米ビジネスマンも来ていたが、彼らがどう思っていたのか興味がある。たぶん、心の底でせせら笑ってたんじゃないか。何しろ、コネ入社が横行するNHKだ。局員の評価なんて伸縮自在、蜂蜜よりも甘いんだから。おそらく、日高氏は「特別な能力」でワシントンに派遣されたのだろう。

  以前も述べた通り、筆者は自分をイギリス人と勘違いしていないから、英語は外国語に過ぎず、意思疎通の道具だと思っている。もちろん、イギリス人やアメリカ人にとったら、御先祖様から継承する大切な遺産で、微妙な言い回しや思考の発達に欠かせない言語である。手段以上のものであることは間違いない。しかし、日本人はイギリス人じゃないから、国語(日本語)を粗末にしてまで学ぶ価値は無いと思う。日本の小学生や中・高校生にとって、英語より日本史を学ぶ方がよっぽど重要だ。たとえ、数学や理科で多少苦労する子供でも、歴史だけはしっかりと勉強すべきである。なぜなら、歴史教育は国防意識を涵養するうえで欠かせない科目であり、もし子供達が我が国の過去を知らないと、自分がどんな国家に生まれ、どのような恩恵を受けているのかが解らないからだ。それに、国家の名誉も判らない奴が、愛国心を持って戦うことができるのか?

  でも、やはり、英会話が不得意な事に劣等感を覚える人は多い。例えば、藝人の松嶋尚美は英語を学んでも、全く身につかず、劣等感を抱いているそうだ。そこで、息子と娘をインターナショナル・スクールに入れて“バイリンガル”にしたいそうである。でも、そうして育った子供は、中途半端な日本人にしかならず、歐米人から蔑まれる「植民地の土人」程度だ。考えてもみよ。単に、御主人様の命令を理解できる「召使い」が、「尊敬の対象」になるのか? フランスの貴婦人(ケルト系白人)は、いくら冗談やゴマすりが上手いベトナム人の道化がいても、「対等の人間」とか「友人にしたい外国人」とは思わないぞ。ソルボンヌ大学を卒業したって、ベトナム人はベトナム人のまま。フランス語を聴いて「お坐り」をする犬と同じだ。

  日本人はとかく英語に価値を置きすぎで、日本語を習得をおろそかにする傾向が強い。試しに、イギリス人やアメリカ人で、日本語を話せる者がどれくらい居るのかを考えてみれば、英会話ブームが如何にアホらしいかが解るはずだ。昔、藝人の山田邦子が面白いエピソードを話していた。信じられないけど、彼女は「アメリカ人=白人」と思っていたそうだ。「じゃあ、黒人は?」と訊きたくなるが、そうした発想は彼女の頭に無かった。また、山田氏が国際線の飛行機に乗っていた時の逸話が絶品だ。(どうも、山田氏は友人と一緒に坐っていたらしい。) 彼女がアメリカ人のスチュワーデスから「何か欲しい飲み物は?」と訊かれたので、「アイ・アム・オレンジジュース」と答えたそうだ。すると、その客室乗務員は心配そうな表情を浮かべ、「いいえ、あなたは人間ですよ !」と諭したらしい。たぶん、山田氏は英語が分からず、安直な翻訳をしたのだろう。

  筆者は昔、ハワイ旅行をしたオバはんから土産話を聞いたことがある。団体旅行の中高年女性らが、現地の商店に赴き、それぞれが好みのアイスクリームを注文したそうだ。すると、一人の婦人が「バニラ・アイス」を頼んだところ、アメリカ人の店員が差し出したのは、何と「バナナ味」のアイスクリームであった。購入者の日本人は、「注文と違うじゃないか !」と不機嫌になったが、英語で叱りつけることも出来ず、その場は我慢し、仕方なく「バナナ味」のアイスを舐めたという。たぶん、オバちゃんの発音が悪く、「バニラ」が「バナナ」に聞こえたのかも知れない。だが、中高年の奥方には話題が尽きないもので、勘定の時に「いくら」払っていいのか判らなったそうである。そこで、一応、「足りない」と言われないために、20ドル紙幣を差し出して、レジ係の店員に取ってもらい、米ドルの「おつり」を貰ったそうだ。

  「オバタリアン、何処に行ってもオバタリアン」というのが中年女性の特徴で、海外で困った場面に出くわしても、笑いながら大胆なことをする。件(くだん)のオバちゃん等は、アメリカ人の店員から「値段」を言われても、何を喋っているのか聞き取れなかったので、当てずっぽうで「代金」を推測したというから凄い。さすが、日本のオバちゃんは度胸が据わっている。ただし、こんな肝っ玉かあちゃんでも子供扱いされたことが悔しく、日本に帰ってきてから、「あ〜ぁ、英会話が出来たらなぁ〜」と嘆いたらしい。通訳ガイド抜きの「冒険」をしたら、とんだ「逸話」を残してしまうなんて、日本のオバタリアンは本当に愉快だ。(綾小路きみまろが喜びそうな逸話である。)

「米語(ベーゴ)」の達人

  脱線したので話を戻す。青山繁晴議員も、英語に関し何らかの“劣等感”を抱いているのか、日本人相手の会話なのに“ちょくちょく”英語を挟んでくる。彼が好んで言及する「CIA」とか「FBI」の話になると、急にアクセントを強くして、「シっ・アイっ・エー!!」とか「エッフ・ビィー・アィッ !」と発音してしまうのだ。彼は“わざと”「コケイン」と発音し、直ぐさま「あっ、コカインか!」と言い直す。もう見え見えの演技だが、青山氏は「つい、うっかりして得意の米語で発音してしまった !」と聴衆に教えたいのだ。番組を聴いている一般人は、「えっ、何で“そこだけ”ルー大柴になっちゃうのぉ〜?」と驚く。父親がアメリカ人というモデル藝人の「シェリー」や、DJの「ハリー杉山」だって、日本人が相手なら日本式に喋るぞ。青山先生は「米語の達人」を宣伝したくてウズウズしているようだ。(筆者がここで紹介する「シェリー」は、アイドル歌手だった「シェリー」とは別の女性。ついでに言えば、彼女の本名は「安部玲子」で、実の父親はフランス人。明石家さんまが若い時、一緒に司会をしていた女性と言えば、思い出す人もいるんじゃないか。一方、杉山氏は英国人ジャーナリストのヘンリー・ストークスを父親とする混血児。ストークス氏は『大東亜戦争は日本が勝った』、『戦争犯罪国はアメリカだった』の著者。)

  青山氏が使うのは英語は「米語(ベーゴ)」らしく、ブリテン島のイギリス人やスコット人が話す伝統的な「アングル人の言葉」じゃない。しかし、青山氏が度々口にする「米語」とやらは、アメリカ人でも「えっ !」と驚くような“特殊性”を持っている。例えば、青山氏が我々に注意した人名の発音だ。彼は「みのもんた」が司会を務める「よるバズ」という雑談番組に出演し、通訳としても有名な小西克哉の隣に坐っていた。番組の中で小西克也がCIA長官のポンペオに言及すると、青山氏は彼の発言を遮り、「小西さんもご存じの事を、敢えて、皆様のために申し上げると、余計な事ですが、ポンペオというのは止めてほしい。“パンピィーオ”ですから ! 違う人に聞こえちゃうから !」と訂正したのだ。

  まぁ、青山氏はなんて「優しい人」なんだろう ! アメリカ英語(or米語)を分からない人のために、“わざわざ”“余計な事”に言及するなんて・・・。でも、この時、横で聴いていた小西は、苦笑しながら「違う !!」と反論していたが、“暴走機関車”の青山氏は“ご自慢”の「米語」を振りかざし、止まる気配が無かった。迷いが一切無い青山氏は、目の前のゲストに向かって、「パンピぃぃ〜オですから !」と間違いを正していた。でも、「英語」に詳しい小西教授は、「困ったなぁ〜」という表情で、「違う、違う、ポンペイオ ! ポンペイオですから !!」と何度も否定していた。しかし、小西克也は自信たっぷりの青山氏には勝てない。なぜなら、隣で興奮している“インテリジェンス”の専門家は、何度も何度も、ラングレー(CIA)やクワンティコ(FBI)の高官と「ベーゴ」で話した経験を持っていたからだ。(ただし、誰もその場面を録画・録音していないから、実際どうなのか判らない。)

  筆者は米語の達人じゃないから、偉そうなことは言えないが、アメリカの大学に留学した時、アメリカ人の教授とアメリカ人の級友がいる授業を受け、アメリカ人だらけの学生寮に住み、アメリカ人のルームメイトを持っていたから、多少、アメリカ式発音の英語が分かる。だから、青山氏の発音レッスンには納得できない。でも、彼の「ベーゴ」発音は強烈で、一度聴いてしまうと中々忘れられず、しっかりと脳裏に刻まれてしまうのだ。先月、FOXテレビでローラ・イングラム(Laura Ingraham)の「The Angle」を観ていたら、丁度、Mike Pompeo(マイク・パンピィ〜オぉ〜)長官のインタヴューが行われていたので、イングラム氏の発音は“どう”なのかと、注意して聴いてみた。すると、やはり、彼女も「ポンペイオ」と呼んでいたのだ。しかも、はっきりと発音していたから、日本人が聴いても容易に識別できる。しかし、筆者の頭の中には、青山氏の「パンピィ〜オぉ〜」という声が鳴り響いてしまい、それが何回も繰り返されたので、もう爆笑の渦から抜け出せなかった。結局、筆者はイングラム氏とポンペイオ長官が、どんな会話をしたのか全く記憶が無い。

Laura Ingraham 3Mike Pompeo 2


(左 : ローラ・イングラム / 右 : マイク・ポンペイオ)

  しかし、この発音レッスンには後日談がある。青山氏は「よるバズ」に出演したあと、視聴者から多くの反論を受けたようで、「虎ノ門ニュース」に出演した時、自身の発音問題に触れ、その失態を必死で誤魔化そうと図っていた。青山氏はよほど恥ずかしかったのか、「ポンペイオ長官の名前の発音には3種類ある !」と言いだし、何と、アメリカ国務省にも質問したというのだ。普通の日本人なら、「えっっっ〜 ! そんな下らない事を一々国務省のアメリカ人に訊いちゃうのぉ〜 ! 」と呆れてしまうが、これこそ、まさしく「議員特権」である。米国式発音に“こだわる”青山氏は、国務省の役人に対し、「正式には何と発音するんですか?」と尋ねたそうだ。にわかに信じられないが、青山先生がそう言うだから本当なんだろう。 ところが、世の中には不届き千万な人がいて、一部の日本人は「ホントかよぉぉ〜? いつもの法螺(ホラ)話じゃねぇのかぁ〜?」と小馬鹿にしたそうだ。まさか、自民党所属の参議院議員が、ありもしない架空の問答を捏造する訳ないじゃないか。たぶん、真顔で国務省の役人に質問したのだろう。

  それでも、青山氏には“心苦しい”点があるのか、人によってはアメリカ人でも「パンピーオ」もしくは「パンペーオ」、「パンペイオ」と言うので、「ポンペイオ」と発音しても良いらしい。青山先生は「癪だけど、NHKが発音するように、虎ノ門ニュースでもポンペイオでいきましょう」と述べていた。何か、苦し紛れの妥協というか、降参を認めない敗北宣言みたいで滑稽だった。ところが、自身の英語能力を守りたいのか、青山氏は入念な自己弁護に徹していた。曰わく、「日本人だと“POM”を“パン”と読むことには抵抗があるから、“ポン”でいいと思います」と付け加えていたのだ。さらに、青山氏は厳密な英語発音は日本語表記だと難しいところがある、と述べ、居島一平さんが“ちょっと”不審な目で見つめると、「そんなこと言ったら、トランプだって間違いですよ ! 正確にはトゥランプだから・・・」と熱弁をふるっていた。でもさぁ〜、こうした弁解を聴くと、「そんなに片意地張らなくてもいいじゃん ! 素直に御免なさい、と謝っちゃえば済むのに・・・」とつい思ってしまう。

  筆者はベネッセ・グループの「ベルリッツ(Berlitz)」という英会話学校を知らなかったが、世間では有名な英会話スクールらしい。一般国民は疑惑の態度を示していたが、青山氏は自分の英語能力を自慢し、ベルリッツの評価段階で、「レベル10」と明確に述べていた。(チャンネル桜で放送する「青山繁晴の答えて、答えて、答える」における発言。) そこで、「ベルリッツ」の評価基準を調べてみた。すると、「レベル10」にある人は、「プロ級」レベルで、「ネイティヴ・スピーカー並」に話せる、と書かれているじゃないか !! 青山先生、凄い ! 凄すぎる !! 筆者なんか「レベル1」か、せいぜい「レベル2」程度だ。それにしても、共同通信の記者っていうのは、語学の達人が揃っているのか? ただし、青木理(おさむ)みたいな奴もいるから、全員がネイティヴ並に米語を話せる訳じゃないだろう。となれば、青山氏だけが「卓越した敏腕記者」という事なのかな? 「世界ふしぎ発見」のスタッフに調べてもらいたい。

  「米語」の達人たる青山氏、といえども、状況によっては「英語(ブリテン式)」発音を用いるそうで、ラジオ番組ではアーティストに「気遣い」を示し、英国式の発音で喋る時もあった。青山氏はFMラジオで「On the Road」なるレギュラー番組を持っている。番組の中で彼が、「Badfinger」というバンドの「Day After Day」(曲)を紹介した時、青山氏はいつもの「米語」で「ベェーッド(bad)」と発音せず、英国式に「バッド(bad)」と発音していた。なぜなら、「バッドフィンガー」が“イギリス”のバンドであるからだ。さぁ〜すが、由緒正しき「武士(?)」の家系は違う。鈴木健二も感心する程の気配りだ。でも、このバンド(元々は「The Iveys」)はウェイルズの「スワンジー(Swansea)」で結成されたから、往年のファンは「ウェイルズのロック・バンド」と思っている。青山氏は英国人に敬意を払っているそうで、「ジェネシス」の名ドラマー「フィル・コリンズ(Philip D.C. Collins)」を紹介する時も、米国式の「カリンズ」じゃなく、英国式の「コリンズ」で紹介するそうだ。筆者は「日本人のリスナー相手なんだから、普通にコリンズでいいじゃん」と思ってしまうのだが、 「ベーゴ」に執着する青山氏にとっては、ハッキリさせねばならぬ「違い」らしい。

  「ベルリッツのレベル10」を自称する青山議員だが、時たま“意外”な間違いをする。まぁ、“うっかりミス”なんだから、そんなに目くじらを立てなくても、と思ってしまうが、一般視聴者は厳しい。例えば、虎ノ門ニュースで「タックス・ヘブン(租税回避地)」を話題にした時、青山氏はそれを「税金天国」と呼んでいた。しかし、目の前に居る「アメリカ人弁護士」のケント・ギルバート氏から、「天国(heaven)じゃなくて回避(haven)」ですよ !」と指摘されるや、青山氏は大慌て。(「まったく、もう、変な人だなぁ」といった“笑み”を浮かべるギルバート氏は、親切にも「逃げ場」ですよ、と教えていた。) しかし、「リスク・マネージメント(危機管理)」の「専門家」でもあるのか、青山氏の「ダメージ・コントロール」は素晴らしく、「税金天国」を即座に打ち消し、「え〜、ですから、逃げ場としての天国みたいな場所」と言い直していた。すごぉぉぉ〜い切り返し! さぁぁ〜すが、青山先生はそこら辺の通訳とは、ひと味もふた味も違うぞ。青山氏は、くれぐれも「天国と誤解せぬよう」我々に注意を促していた。ところが、摩訶不思議。青山先生は「米語の達人」であるはずなのに、なぜか手元にあるラップトップ・パソコンで「haven」の意味を検索し、まるで初めて知った中学生のようにジッと液晶パネルを見つめていたのだ。どうしたんだろう?

  「ネイティヴ・スピーカー」並に「米語」を話す青山氏でも、時には中学生のように発音や綴りを間違える。例えば、青山議員は虎ノ門ニュースに出演し、在留資格を持つ外国人の説明をした時、「特定活動」の意味と定義が解っていなかった。彼は大学教授や藝能人を「特定活動」の範疇に入れていたのだ。でも、青山先生が指していた法務省の一覧表では、ちゃんと「教授」や「興行」の項目があり、「特定活動」なるものは、「外交官等の家事使用人、看護師、介護福祉師候補者等」と説明されていた。よって、大学教師や歌手、俳優は別の範疇に属するはずだ。ところが、もっと驚いたことに、青山氏は、「特定活動」の用紙に筆記体で「designated activity」と書いており、この英単語を見ながら、「デザイネイテド・アクティヴィティー」と読んでいた。これには筆者もビックリ。今時、普通の受験生だって、「designated」を「デジグネイテド」と発音するはず。それなのに、青山先生ときたら・・・。おそらく、青山氏は「デザイン(design)」の綴りに釣られてしまい、発音を混同したのだろう。(もしかしたら、「designated」という英単語を知らなかったりして・・・。いや、青山先生に限って、そんなことは絶対に有り得ない。たぶんね ! 以前、当ブログで紹介した、キーファー・サザーランドのTVドラマ、「デジグネイテド・サヴァイヴァー(Designated Survivor)」を読んでくれた人は解っていると思うけど。) また、青山先生は水道法について解説していた時、「コンセッション」に言及したが、自分で印刷物に書き込んだ「コンセッション」の綴りが間違っていた。青山先生の「consession」は間違いで、正しくは「concession」と書く。でも、先生はアメリカ人みたく「カンセッション」と発音していた。さすが、青山先生だ !

  青山氏は「米語」の達人ばかりではなく、米国の政治や軍事にも詳しい。所謂「アメリカ通」だ。しかし、頻繁に訪れる「国防総省」については何か“変”。「米語」で発音しているんだが、どうも納得できない。青山氏によると、我々が発音する「ペンタゴン(Pentagon)」は間違いで、「ベーゴ(米語)」では「ペェナゴーン」と言うそうだ。また、日本は「ジャパン」じゃなく、「ジャペぇぇ〜ン」と発音するらしい。何となく、ルー大柴の「スタンド」が現れてきそうだ。(「金粉」が腕から湧き出る青山先生だから、「ゴールド・セネター」というスタンド名だったりして。まさか、「パープル・ブルー・マウンテン」というスタンド名にする訳にもいかないし・・・。原作者の荒木飛呂彦先生も笑ってしまうだろう。だいいち、「紫の青」って、「やや紫」という色になるのか?)とにかく、小堺一機や関根勤を前にしたギャグならいいけど、青山氏は真剣に述べていたから厄介だ。

「多才な能力」を披露する政治家

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(左 : 「よるバズ」に出演した青山議員 / 右 : ラジオ番組を収録中の青山議員とアシスタントの女性)

  もしかしたら、青山先生は郷ひろみの「二億四千万の瞳」を上手に歌えるのかも知れないぞ。たぶん、モノマネ藝人の「古賀シュウ」よりウマいはず。こうなると、神無月さんが青山先生のモノマネをする日も近い。昔、タモリは「徹子の部屋」に出演し、イタリア語やフランス語に加え、支那語や朝鮮語のモノマネをして黒柳徹子を笑わせていたから、青山先生も「徹子の部屋」に出演し、「本場の米語」を披露したらどうか。そうすれば、独立総合研究所の講演会は超満員となり、お金がザクザク入ってくるぞ。ついでに、青山氏ご自慢の「現代アート」も紹介すればいい。青山氏は「個展」を開いて、奇妙な色紙や弁当箱を何十万円の値段で売っていたけど、あまり買い手がいないようだから、テレビでもっと宣伝すべきだ。ホント、青山先生はルネッサンスの巨匠を彷彿とさせる、「万能の藝術家」なんだから。

  「レベル10」の英語力を誇る青山先生は、拙い英語を喋る日本人にとても厳しい。青山氏はまだ陣笠議員なのに、ラジオ番組で安倍総理の英語を容赦なくこき下ろしていた。でも、青山先生は叱るだけじゃない。ちゃんと、ご自身の「お手本」を披露していた。「ザ・ボイス」に出演した青山先生は、安倍首相の英語演説を取り上げ、喋り方というか発音が駄目で、ブズブズに切れており、「うまくない」と批判していた。そこで、青山先生は番組のリスナーに対し、ご自身の「生演説(朗読)」を読み聞かせ、「どうだ ! 俺の米語は!」と大変ご満悦であった。(青山氏のニコニコ顔が目に浮かぶじゃないか。) なるほど、青山議員は安倍首相よりも早口で喋っていた。けど、アメリカ人を真似た中高年みたいで、「こんなもんなのかぁ〜?」と拍子抜けするような朗読であった。たぶん、筆者の聴力が劣っているからなんだろうが、何回聴いても「ジャングリッシュ(日本的英語)」にしか思えない。

  ラジオ番組で「米語」を語る青山は活き活きしており、安倍総理だけじゃなく、歌手の佐藤竹善(さとう・ちくぜん)さんもバッサリ斬っていた。筆者は聴いたことがないが、佐藤氏は「イーグルス」の名曲「One of These Nights」をカバーしたそうだ。すると、「発音」にうるさい青山氏は、佐藤氏が「nights」の複数形部分をハッキリと発音していないから、「ズッコケ」ちゃうらしい。興奮する青山先生は、こんなの「有り得ない」と嘆いていた。(筆者には佐藤氏が誤魔化しているとは思えないんだけど。) 有頂天の青山氏は、「たぶん、周りで言ってくれる人が居ないんじゃない?」と馬鹿にしていたが、その言葉はそのまま青山先生にも贈りたくなる。おそらく、青山先生の周りに居る人、例えば事務所の秘書とか、番組スタッフ、出版社の編集員も判っているんだろうが、激怒されるのが怖くて誰も指摘できないのだろう。「触らぬ神に祟り無し」だから。

  青山先生は「米語」だけじゃなく、様々な「才能」に溢れている。サーフィンを始めたら、直ぐに波の上で楽しむことができたと言うし、支那に行くと直ぐ北京語や上海語を喋れるようになるし、南米に行っても“たちまち”スペイン語を習得してしまうそうだ。しかし、日本に帰国するや、全部忘れてしまうらしい。それでも、現代アートに秀でた青山先生は、ポップ・ミュージックやロック音楽、さらにクラッシック音楽まで、幅広く知識を有しており、各ミュージシャンについて詳しい情報を暗記しているという。例えば、ラジオ番組で「チャカ・カーン(Chaka Khan)」を紹介したとき、彼女の名前は「チャカ」じゃなく「シャカ」なんだと教えていたし、彼女の名前は「赤」とか「炎」を意味するアフリカ語に由来するとまで述べていた。すごぉぉ〜い。さすが、青山先生は博識だ ! アフリカ人の言語にまで精通しているなんて !

  青山先生の頭脳はフラッシュ・メモリーみたいに大容量で、ミュージシャンの細かな情報まで蓄えている。例えば、歌手のボニー・タイラーが喉にポリープが出来ていたのに、そのまま唄っていたとか、エリック・クラプトンが高層ビルの53階に住んでいたとか、熱心なファンと同じくらい詳しい藝能記事を知っていたのだ。でも、まさか、手元に置いてあるラップトップ・パソコンで「ウィキペディア」を覗いている訳じゃないよねぇ〜。だって、先生の説明はウィキペディアの「文言」とソックリなんだもん ! まるで、Wikiの文章を朗読しているみたいだ。ラジオ番組だから、何をしてもバレない、と思っているのだろうか。いや、そんなことはない。青山先生はミュージシャンのプロフィールやエピソードを全部「記憶」しているというから、そんな詐欺はしないだろう。なにせ、千人分の質問を全て暗記できる程の記憶力を持っているんだから。青山先生は「天才バカボン」に出てくる「ハジメ」ちゃんみだいだ。何しろ、青山先生は驚愕の神童であった。生まれたての赤ん坊なのに、盥(たらい)の上に立ったという。これなら、藝能ネタくらい1億件でも2億件でも覚えられるさ !

  音楽にも詳しい青山議員は、ラジオ番組で言いたい放題。亡くなった歌手のホイットニー・ヒューストンを紹介する時も、わざわざ「米語」で発音し、口を尖らせて「フゥィットニー・ひ〜ストゥン」と呼んでいた。米語にうるさい青山氏は、人気ミュージシャンのブルース・スプリングスティーンが話す英語にケチをつけ、「彼の発音は好きじゃない。舌が短い !」と嫌っていた。さらに、女優のリース・ウィザースプーンが歌手になると、冷徹にこき下ろす。青山先生曰わく、「声が出ていない、声に張りが無い !」と手厳しい。タイガース時代の沢田研二についても容赦なく、「音程の取り方が悪い ! そもそも、歌い方が駄目 !」と辛口評論。しかし、ビートルズだけは例外で、彼らの名曲を紹介して上機嫌。アシスタントの前で、その美声を披露。青山先生は、かすれた声で歌っていた。青山氏の追っかけファンなら感謝感激だ。でも、ファンじゃない人が聴けば、下手くそな裏声で、音痴の鼻歌にしか思えない。

  国際政治や軍事・外政に詳しい青山先生は、何と日本の文化にも精通しているそうだ。現在、青山先生は自民党の保守派勢力を集めて皇室の維持にも努めている。ただ、何故か青山氏は「男系」という言葉が嫌いで、「父系に変えましょう」と我々に呼びかけていた。先生曰く、「男系とか女系という言葉を使うと国際的に問題となるから、父親の系統で継承される皇位」と表現した方がいいらしい。また、“国際派”でアメリカにも多くの“友人”がいる青山氏は、外国人にも日本の文化を理解してもらおうと、お得意の「米語」で日本の皇室伝統を説明し、その際、「父系」を「ファ〜ザーズ・ライン」と翻訳したそうだ。テレビ東京の対談番組に出演した時、青山先生は官邸キャップの篠原裕明を前にして、「王室を持たないアメリカ人でも、“father's line”と言えば一発で理解できます !」と豪語していた。まぁ、「ファ〜ザーズ・ライン」でも間違いじゃないが、まともな大人であれば、「paternal line」 とか「patriliny」、「paternal-line ancestry」という言葉を使って説明するんじゃないか。

  イングランドの「英語」では、「父上」を「pater」と呼ぶし、「家長(族長)」は「patriarch」で、「ローマ貴族」や「世襲貴族」は「patrician(patricius / patricii)」と言うから、アメリカ人でも簡単に理解するはずだ。しかも、アメリカ人にはキリスト教徒が多いから、「アブラハム→イサク→ヤコブの系譜を思い出してくれ」とか、「古代フランク族のサリカ法(Lex salica)でも、王位継承は男子に限られていたじゃないか」と言えば、アメリカ人だって「あぁ、そうだなぁ〜」と言って納得してくれるだろう。たとえ、メロヴィング朝のクローヴィス(Chlodovechus)とかサリカ法典を知らなくても、日本人の前で「西歐史を知らない !」とは言えないから、「日本の皇室もそうだったのか !」と頷くはずだ。それにしても、青山先生の「米語」は直訳過ぎる。まさか、「ペイトリオティズム(patriotism / 愛国心)」を知っている青山氏が、「父や祖父から受け継ぐ土地や世襲財産(patrimony / patrimonium)」を意味する英単語を知らないことはないよねぇ〜。きっと知っているはずで、アメリカ人の子供でも解るように、わざと「ファ〜ザ〜ズ・ライン」と述べたのだろう。(ちなみに、「母系」は「マザァ〜ズ・ライン」であるそうだ。「maternal line」でも良さそうなのに。一般の主婦だって「マタニティー・ドレス(maternity dress)」とか、「産休(maternity leave)」いう英語を知っている。) まぁ世間には色々な意見があるけど、本当に、青山議員は親切だ。

  今や、国際社会で活躍する商人や国会議員には、「英会話」能力が必要条件となっている。青山議員によれば、通訳を介して国際会議に臨むと、約三倍の時間が掛かってしまうそうで、国会議員たる者は、必ず「英語力」を身につけるべきなんだって。「米語」の達人たる青山氏は、アメリカに行っても、東南アジア(ASEAN)の会議に出ても、必ず人気者となる。なぜなら、青山議員は国際会議に出席すると、ご自慢の「米語」で熱弁をふるうからだ。さぁぁ〜すが、青山先生は外交手腕に長けている。先生の自慢話によると、参加者の外人はみんな青山議員の発言を解ってくれるし、誰もがその英語スピーチに感謝するそうだ。会議が終わると大使や公使などが青山氏のもとへ近づいてくるというから、実に羨ましい。そこで青山氏は大胆な提言をする。日本の国会議員の一部には、英語を苦手とする者がいるので、「ちゃんと勉強しなきゃ駄目だ !」と叱り飛ばし、選挙に出る奴には予め英語の試験を課せ、とまで述べていた。

  青山先生のお説教は更に加熱する。ASEAN諸国の政治家が喋る英語なんて、CNNのキャスターが口にする英語に比べれば、遙かに遅いから、一般の国会議員でも解るはずだ、と。ただし、国際社会で揉まれてきた青山先生は別。CNNのキャスターだと、マシンガン・トークみたいに早口だから、「僕くらいの英語力じゃないとダメだけどね・・・」と青山先生は暗に自分の「米語力」を自慢していた。他者に厳しい青山議員は、「英語が苦手だから」という理由で日本語で外人と話す政治家には賛成できず、「ゆっくりでもいいから英語で話せ」、と勧める。しかし、青山先生でも時として“ゆっくり”とした英語を話すそうで、アメリカ人がはっきりと理解できるよう、青山先生は敢えて“遅い”英語を喋ってあげるんだって。いやぁぁ〜、青山先生は本当に優しい。

  さすが、ペンタゴンの軍人と秘密の会話ができたり、CIAの知り合いと「米語」で語り合ったりするだけの人物だけある。(ただ、不思議なのは、どうやって相手のアメリカ人がCIAの局員だと判ったのか? 普通、高度な軍事・外交情報を扱うCIA局員は身分を隠しているはずなのに。もしかしたら、落合信彦みたいな人脈を持っているのか? そういえば、以前、筆者が『SAPIO』誌の編集者に「落合さんはCIAに友人がいるんですかぁ?」と尋ねたら、笑いながら誤魔化していた。筆者も敢えて追求せず、「まぁ、秘密ですよねぇ〜」と笑いながら応対したのを覚えている。まったく、ハッタリ屋を相手にする編集者も大変だ。)
  
  青山先生が伝える数々の「奇蹟」を信じない人もいるだろうが、いくらなんでも参議院議員になった“国士”が嘘をつくとは思えない。おそらく、全て本当の事なんだろう。青山先生が秘蔵する「心霊写真」だって、国務省の高官と話す「米語」だって、高価な値段を附ける「藝術作品」だって、南米で強盗を倒した「武勇伝」も、お金や名誉も要らぬという「愛国心」も、どれもこれも全て「真実」だ。「法螺(ホラ)だろう」と馬鹿にする奴には罰(バチ)が当たるぞ。いつも夜遅くまで仕事をこなし、睡眠時間が僅かで「死にそうだ」と苦しむ先生が、国民を騙す訳がない ! たとえ、「話を膨らませた」としても、きっと表に出来ない「裏の事情」があるんだろう。青山先生は「死を覚悟した護国の鬼」なんだから、ゼニのために政治家をやっているんじゃないぞ。たとえ、講演会で何百万円もの利益が出たとしても、青山先生はそれを着服せず、きっと何らかの政治活動に廻すはずだ。「日本の尊厳と国益を護る会」だって、我々の文化や皇室伝統を守るために結成されたのであって、青山氏が目立つため、自民党の執行部が利用するガス抜き集団、保守派の票田を確保するための別働隊、なんかじゃないぞ。青山議員の「志(こころざし)」は立派なんだから。

  でも、こうして青山先生について書いてみると、何となく、段々と虚しくなるのは“何故”なんだろう。もし、阿藤快さんが生きていれば、「何だかなぁ〜?」の神髄を教えてくれるんだけど・・・。「天才バカボン」の原作者である赤塚不二夫(あかつか・ふじお)先生なら、「これでいいのだ !」と言って気にしない。ところが、筆者には疑問が残ってしまう。「モヤモヤさまぁ〜ず」じゃないけど、何か胸にモヤモヤが溜まってしまうのだ。「チャンネル桜」のキャスターあたりが、青山先生の真実を解説してくれれば助かる。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68815069.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

236. 2020年6月21日 13:05:42 : bK79sxhxJ9 : OThFc3ZjV20uLmc=[11] 報告
2020年06月20日
女帝の言葉は外国風 / 日本語だと格好悪い ?
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68815070.html

カタカナ英語を使いたがる人々

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  「横文字(西歐語)」が好きな日本人は、だいたい二つ種類に分けられる。一つは、職業柄、「商売」の一環として、わざと外国語(カタカナ英語など)を使う人だ。例えば、手品師の「ピェール」は、「フランス生活が長いマジシャン」というキャラクターで客前に出る。彼は手品の最中、わざと「シル・ヴ・プレ(sil vous plaît)」と述べた後、「あっ、ついフランス語を喋ってしまいました!」とギャグを飛ばす。でも、お客さんは「いつもの冗談」と判っているから、ゲラゲラと笑って赦してくれる。「ハクション大魔王」みたいに、墨でクルッと髭を描くピェールだが、そのカード・マジックは絶品で、観客は奇抜なトリックに釘付けとなり、いつの間にか惹きつけられて行く。滑稽なメイクとは裏腹に、流れるような手さばきを見せるから、お客さんは自然と大拍手。ピェールのような一流マジシャンなら、横文字を口にしても異論は無い。

  もう一つのタイプは、大した知識も無いのに矢鱈と横文字を使う見栄っ張りだ。この典型例は東京都知事の小池百合子。彼女は日本人が相手なのに、ちょくちょく英語を交ぜてくるから、「何だこのオバはん ! ルー大柴かよ !」と突っ込みたくなる。 そこで小池語録を繙くと、過去の事例が次々と湧き出てくる。ノア・ウェッブスター(英語辞書の編纂者)も脱帽するが、「ワイズ・スペンディング(賢い支出)」、「ダイヴァーシティー(多様性)」、「ガヴァナンス(統治・管理)」、「コミットメント(誓約・献身)」、「サステイナブル(持続可能な)」といったカタカナ英語がズラリ。アラブ人相手でも英語を用いる東京都知事は、「私は国際派なのよ !」と鼻高々。でも、日本人相手の記者会見なんだから、日本語を使うべきだろう。どうして、必要も無いのに横文字を使い、その直後に「言い訳」のような「和訳」を述べるのか? ところが、小池都知事は英語だけじゃなく、ドイツ語にも堪能なようで、「メルクマーク(Merkmal / 指標)」とか「アウフヘーベン(Aufheben / 止揚)を口にして「インテリゲンチャ」を演出する。目立ちたがり屋の小池氏のことだ。「こっちを向いて !」と言うときも、フランス語風に「アトンション(attention) !」と呼びかけるんじゃないか? また、不都合な事を訊かれたら「パルドン(Pardon)?」と聞き直して逃げたり、「ケスクセ(あら、何かしら? / Qu'est-ce que c'est?)」と言って“とぼけたり”する可能性もある。だが、“得意”なアラビア語だけは、何らかの“事情”で封印しているようだ。

  小池都知事は日本国民のためにスピーチを行っているのか、それとも自分を売り出すためにコンサートを上演しているのか、筆者にはさっぱり解らない。彼女は人々が武漢ウイルスで困窮しても、あるいは移動制限で不自由になっても、お得意の英語でロックンロール。神妙な表情を浮かべながら、「ロックダウン ! (都市封鎖)」とか「オーヴァーシュート ! (患者の急増)」、「クラスター ! (集団感染)」といったカタカナ用語を並べ立てる。「誰にでも解るように、ちゃんと日本語で言えばいいじゃないか !」と言いたくなるが、日本語だけで述べたら野暮ったい。なるべく“スマート”に喋らないと、“インテレクチュアル”に思われないから。(あっ ! 筆者も、つい「ルー大柴モード」になってしまった。) こんな風に言うと、「タカ&トシ」のトシ(三浦敏和)から「欧米か!」と叱られそうだが、ユリコ様は宝塚のトップ・スター以上の存在だからOK牧場。(小池都知事ならガッツ石松のセリフを堂々とパクってもお咎め無し。)

  とにかく、仮にもユリコ女史は東京都知事なんだから、重要な発表であれば、ちゃんと「日本語」で話すべきだろう。だいたい、「ステイ・ホーム(Stay Home !)」って何だ? やけに居丈高じゃないか。普通の日本語ほ使って「家に居ろ !」とか、「自宅から出るな !」と言えばいいのに、カタカナ英語で「スティ・ホーム」なんて、人を小馬鹿にしている。我々は犬じゃないぞ !! ユリコ様(公方様?)は、給付金を配る時にも、「待て ! (Stay / Wait !)」とか「伏せ ! (Down !)」、「グルっと転がれ ! (Roll over !)」とでも言うのか? 小池氏のことだ、よく出来たら、オっちゃんオバちゃんに対しても、「グッド・ボーイ ! グッド・ガール !」と褒めそうだ。小池と同じく、役人も横文字が趣味のようで、「コンセンサス(合意)」、「コンプライアンス(法令遵守)」、「ウィンウィン(両方が得)の関係」などと言って偉そうにする。小池や官僚はエリート意識満々なんだろうが、一般国民だって教養はあるんだ ! コケにするんじゃない !

滑稽な日本の外国かぶれ

  だいたい、インテリ気取りの日本人は、何かにつけ外国語を使いたがる。例えば、マスコミは「アパートメント(or flat)」を「マンション(mansion)」と呼ぶが、アメリカ人が聞けば「一軒家の豪邸」を思い浮かべてしまうぞ。不動産屋が「マンション」と称して紹介するのは、たいてい「コンドミニアム(condominium)」みたいな物件である。新聞やテレビの報道記者は、日本語で「長屋」と言えばいいのに、白銀台とか高輪、恵比寿などに建つ高層ビルだから「マンション」と呼んで恥じない。それなら、「高級長屋」でいいじゃないか。分譲された一角に住んでいるだけなんだから。他にも、巷の賃貸物件を見ていると、様々なカタカナ名称があって何がなんだか判らない。例えば、「マカロニほうれん荘」はフィクションだけど、普通の貸しアパートなら「何とか荘」と呼べばいいはずだ。それなのに、奇妙な和製英語の「コーポ(corporate house)」、高台にある訳じゃないのに「ハイツ(heights)」と称する二階建ての貸家、フランス風に「メゾン(maison)」を附けるプレハブ住宅、ドイツ風に「ハイム(heim)」と名付けられた洋風長屋、インド総督が住んでいる訳じゃないのに「レジデンス(residence)」と呼ばれる集合住宅など、詐欺物件みたいな家ばかり。

  それでも、やっぱり日本人は横文字が大好き。特に、テレビや雑誌は奇妙な和製英語で溢れている。例えば、昔、マスコミや被服業界では「ハウスマヌカン(house-mannequin)」という言葉が流行っていた。筆者は洋服店の「マネキン(人形)」かと思ってしまったが、ブティックで働く「販売員」の呼び名と知って驚いた。実際は「女性の売り子」なんだから、「女子店員」でいいんじゃないか。ついでに言えば、「カリスマ美容師」という呼び名もあって、筆者は「新興宗教の床屋」かと思ったが、よく聞いてみると「腕のいい散髪屋」あるいは「人気の美容師」とのことだったので、「なぁ〜んだ、そんな意味かい !」と呆れたことがある。だって、「カリスマ(charisma)」と言えば、神様から与えられた特別な能力とか魅力を指す言葉なので、一般的には宗教学または社会学の説明で使われる学術用語だ。

  最近のホテルでも似たことがある。例えば、よく「コンシェルジュ(concierge)」という言葉を耳にするが、宿泊客の要望や相談に応じる「世話係」なら、フランス語じゃなくて日本語の役職名を用いた方が親切だろう。病院だと「インフォームド・コンセント」なる外来語を使うが、「説明して同意を得ること」でいいじゃないか。市役所も「環境アセスメント(assessment)」なる言葉を使いたがるが、要するに「環境への影響を評価する」ということだろう。日本人が口にする変な英語は非常に多く、ホテルやレストランでの「クレーム」というのは、「苦情(complaint)」のことで、「主張(claim)」じゃおかしい。不可解な横文字は他にもあって、「歌手がブレークする」とか「今年ブレークした新人」という表現があるけど、どうして脚光を浴びるようになった藝人に対して「break(壊れる、途切れる、割る)」といった英語を使うのか? 筆者は未だに解らない。

  和製英語を口にするが、その意味や由来を知らぬまま使っている人は多い。例えば、二人並んで撮った写真を「ツー・ショット写真」と呼ぶらしいが、被写体が3人、4人、10人、36人、100人と増えたら、どう呼ぶのか? 筆者は修学旅行の時、約30名で集合写真を撮ったことがある。なら、こうした写真は「サーティ・ショット写真」というのか? 「ツー・ショット写真」と聞けば、普通は「二回シャッターを切る」と思うはずだ。この「ショット(shot / 弾丸・射撃)」は酒場でも使われる言葉で、小さなコップにテキーラを注いで飲む時、「1杯(one shot)」「2杯(two shots)」と数える。一方、英語と思っている言葉が、実はフランス語由来という場合もあるので、話す相手によって注意せねばならない。例えば、洋菓子屋の「シュークリーム」はフランス語の「ショアラクレム(Chooux à la crème)」が訛った言葉で、イギリス人が聞けば「ケーキ屋で靴墨(shoe cream)か!」と驚いてしまう。

  和製英語は「カタカナだから正しい英語」と思ってしまう虞(おそれ)がある。例えば、文房具の「ホチキス」も日本だけの呼称で、英語では「ステイプラー(stapler)」だ。昔、日本人が「ホチキス社(E.H. Hotchkiss Company)」から輸入したので、この名前が附いたらしい。遊園地の「ジェット・コースター(jet coaster)」も和製英語で、「ローラー・コースター(roller coaster)」が正しい。考えてみれば当たり前で、ジェット・エンジンなんか附いておらず、「ローラー」で滑走しているんだから、最初から「ローラー・コースター」でいいはずだ。

 日本人はある英語を別の英語で使うことも多く、改築(修理)を「リフォーム」とか「リニューアル」呼ぶが、正しくは「リノヴェイション(renovation)」と言うべきだし、「バージョンアップ」は「アップグレイド(upgrade)」、「バイキング料理」は「ビュッフェ(buffet)」、「ペット・ボトル」は「プラスチック・ポトル(plastic bottle)」と呼ぶべきだ。「メリット」や「デメリット」も日本的な使い方で、本来なら「アドヴァンテイジ(advantage)」とか「ディスアドヴァンテイジ(disadvantage)」と言う方が分かりやすい。

  日本人は色々な国から言葉を入れてしまったので、語源の種類が解らなくなっている。例えば、オランダ語から入った「コップ(kop)」だが、英語で言えば「カップ(cup)」となり、日本人の子供は何が違うのか解らない。水だと「コップ」一杯となるが、清酒だと「ワン・カップ」となる。(ガラス製の「グラス」でも、人によっては「コップ」と呼ぶからややこしい。) 野球やゴルフの試合で貰う「優勝杯」の時は「カップ」と言い、「優勝コップ」と呼んだら、景品で貰う「マグ・コップ」みたいだ。余計な事だが、白米を盛る「茶碗」は「カップ」じゃなく「ボウル(bowl)」である。日本人だとピンとこないが、この「ボウル」は「窪地」をも意味するから、「フットボールの競技場」を指すこともある。

  一般的には意識されないが、日本語にはヨーロッパ由来の言葉とカタカナ英語が併用されているので面白い。例えば、「輪ゴム」の素材は、オランダ語の「ゴム(gom)」で、口で噛むゴムは英語の「ガム(gum)」だ。しかし、歯茎を指す「ガム」は古英語の「goma」から来ているので別口となる。医療用語にはドイツ語が使われ、有名なのは医者が書き込む「カルテ(karte / krankenbericht)」である。「ガーゼ(英語 / gauze)」はフランス語(gaze)から来ているが、元々はパレスチナの地名で、ユダヤ人とアラブ人が血みどろの戦いを繰り広げる「ガザ(Gaza)」が起源であるらしい。確かに、たくさんのガーゼが必要だ。

  ついでに言うと、現在の中学生や高校生は、福沢諭吉や勝海舟が蘭学を志し、「オランダ語」を勉強していた事は知っているが、オランダに関しては意外と知識が無い。そもそも、「オランダ」は「州名」で「国名」じゃない。「ネーデルラント王国(Koninkrijk der Nederlanden)」は、「フリースラント(Friesland)」や「フローニンゲン(Groningen)」、「ヘルデルラント(Gelderland)」、「ドレンテ(Drenthe)」、「フレヴォラント(Fleboland)」、「リンブルク(Limburg)」、「ゼーラント(Zeeland)」、「ユトレヒト(Utrecht)」、「オーファーアイセル(Overijssel)」などの州で形成される連邦国家だ。ちなみに、南半球にある「ニュージーランド(New Zealand)」の国名は、元々オランダ語の「新しいゼーラント(Nieu Zeeland / Nova Zeelandia)」で、オランダの冒険商人であるアベル・ヤンソン・タスマン(Abel Janszoon Tasman)がこの島に到達したから、この名前で呼ばれたという。(第17世紀にアジア大陸に進出したオランダ人の活動は、「オランダ東インド会社」の歴史を調べてみれば分かる。) 最初は「南海の島(Staaten Land)」という名前で呼ばれていたが、後に本国の「ゼーラント州」に因んで「新しいゼーラント」と呼ばれ、さらに英語風となって「ニュージーランド」に変わったらしい。

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(左 : アベル・ヤンソン・タスマン / 中央 : アントニー・ヴァン・ディーメン / 右 : サイモン・ベーカー )

  ついでに言えば、オーストラリアの隣にある「タスマニア(Tasmania)」島は、元々タスマンの上司であるアントニー・ヴァン・ディーメン(Anthony Van Diemen)に因んで「ヴァン・ディーメン島」と呼ばれていたが、後に部下のタスマンに因んだ「タスマニア」という名前が一般的になった。 もう一つのトリビアを述べると、人気ドラマ『ザ・メンタリスト(The Mentalist)』で主役を務めたサイモン・ベーカー(Siomon Baker)は、タスマニア出身の俳優である。彼自身も米国のトーク・ショーで「タスマニア育ち」と答えていたから本当なんだろう。ニュージーランドやタスマニアを旅行する日本の大学生でも、国名の由来を知らない人は結構多く、イングランドの地名から取った名称と思っている。確かに、オーストラリアのシドニーやメルボルンには、「カンタベリー(Canterbury)」といった英国風の街があるから、イギリス系入植者が本国を真似たんだろうなぁ、と推測してもおかしくはない。でも、第17世紀や18世紀の頃は、オランダ人も海外で領土拡大を目指していたから、オランダ風の地名はあちこちにある。

  さらに脱線するが、NY州のマンハッタン島(ニュー・アムステルダム)にオランダ系の地名が多いのは、イギリス人と共にネーデルラント人が多く入植したからだ。有名な入植者と言えば、統治者となったピーター・スタイヴァサント(Petrus Stuyvesant)が挙げられる。彼の子孫には名士が多い。例えば、フランクリン・D・ローズヴェルト大統領の学友で、後に批判者となった下院議員のハミルトン・フィッシュ3世(Hamilton Stuyvesant Fish III)は、ピーターの末裔である。その他にもオランダ系の地名は多く、ナッソー(Nassau)とかハーレム(Haarlem)は誰でも判る。日本人旅行者も訪れるクィーズの「フラッシング(Vlissingen)」とか、ブルックリンの「ブッシュウック(Boswijck)もオランダ系の地名だ。「クリニッチ・ヴィレッジ(Greenwich Village)」の名前もオランダ語の「Groenwijck」からきている。

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(写真 / ネーデルラントの風景)

  話を戻す。日本人が呼ぶ「オランダ語」と言っても、それが「標準ネーデルラント語(Standaardnederlands)」なのか「ホラント方言(hollandais)」、「フラマン語(vlaams)」あるいは「フリジア語(Frysk / Fries)」なのか判らず、高校生だと一つの「国語」と思いがちだ。(公用語は「一般教養ネーデルラント語(Algemeen Beschafdt Nederlands)」である。まぁ、山の手言葉を土台にした標準日本語みたいな言葉と思えばいい。) ネーデルラントの地理となれば更にあやふやで、フランス人が呼ぶ「低地国(Pays-Bas)」と聞いても、「オランダ(Hollande)」という州なのか、それとも連邦全体を指す「ネーデルラント王国」なのか、はっきりしないのだ。今の高校生や大学生は「バタヴィア」と聞けば、インドネシアの首都「バタヴィア」しか頭に思い浮かばないが、元々はネーデルラント王国の北部、つまり現在のアムステルダムやハーレム、フリースラント辺りを指す古い地名である。タキトゥス(Tacitus)などの古代ローマ人は、ここを「バタウィア(Batvia)」と呼んでいた。それで、この地域に住むゲルマン人を「バタウィア人」と呼んでいて、近くにはザクセン人も住んでいたから、オランダ人とイギリス人(アングロ・サクソン)が容姿や風俗の点で似ているのは当然である。(1795年から1806年にかけて「バタウィア共和国」というのも存在した。)

  今のご時世、日本語で言える物事でも、英語で言うと「格好いい!」という風潮は実に多い。筆者は昔、小遣い稼ぎで子供に英語を教えていたことがある。その当時、雑談で日本語を用いたら中学生や高校生の女子に馬鹿にされたから、今でも悔しい。例えば、女子高生が穿いていた「ルーズソックス」が思い出せず、「蛇腹の靴下」と言ったら、ゲラゲラ笑われてしまった。子供だからしょうがないけど、日本語の語彙が不足している子供は多く、中には「“ジャバラ”って何?」と訊いてくる女の子さえいた。さらに、筆者が「襟巻き」とか「乳母車」と口にしたら、「先生、言い方が古いよぉ 〜」と笑われ、「マフラー」や「ベビーカー」と訂正されてしまった。筆者はムっときたから、「じゃあ、エリマキトカゲはマフラー・トカゲなのか?」と反論したら、「それは別 !」と簡単にあしらわれてしまった。それでも腹立たしいので、「ベビーカーというのは和製英語で、正しくはストローラー(stroller)とかバギー(buggy)、プッシュチェアー(oushchair)なんだよ」と教えたら、「えっ、そうなの !」と驚いていた。(日本で「バギー」と言えば、山道や砂浜を走る四輪駆動車か、ゴルフ・カートを思い出すから意外なんだろう。食料品店で使う「ショッピング・カート」も、英語では「バギー」だ。もう、和製英語はなくしてもらいたい。)

  乳母車ついでに教えたのは、赤ん坊を指す俗語の「アンクル・バイター(ankle biter)」とか「スプログ(sprog)」といった英単語である。日本の公立学校だと「sprog(ガキんちょ)」や「lad(若者)」という単語は教えないし、固い表現を中心に教科書が作られているから、実際のイングランドやアメリカで戸惑う日本人は多い。例えば、普通の高校生だと「約束する」を「I promise you.」と訳してしまうが、アメリカ人なら「You have my word.」と言うだろう。今ではTVドラマ『24』の影響もあって、ジャック・バウアーの名セリフを口にする人も少なくない。外国語を習得するには、現地に住むことも有効な手段だ。筆者が米国の学生寮に入居した時、ベッドの掛け布団が必要だと気づき、近くの雑貨店に赴いたことがある。そこで、寝具コーナーの店員に「デュヴェイ(duvet)ありますか?」と訊いたら、「ああ、コンフォーター(comforter)ね !」と言われたので慌ててしまった。筆者が日本人だから「おしゃぶり(dummy)と間違がわれたのかも?」と思い、すかさず「あの、キルトやブランケットのような物」と言い直した。

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(左 : 「おしゃぶり」をしている赤ん坊 / 右 : ヘソを曲げた少女)

  でも、その店員は理解していたようで、ちゃんと掛け布団コーナーへと案内してくれ、筆者は無事買うことができた。それにしても、布団の名称が赤ん坊の「おしゃぶり」とは・・・。確かに、アメリカ人は「おしゃぶり」を「パシファイアー(pacifier)」と呼ぶから混乱しないが、日本人からすると焦ってしまう。ちなみに、腹話術の人形とかは、「ドール(doll)」でもいいんだけど、筆者は何となく「ダミー(dummy)」の方を使ってしまう。自動車の安全検証の時に用いる人形も「ダミー」なので、間違いとは言えない。でも、洋服を着せた人形だと「マネキン」なので、英語というのは本当に難しい。ちなみに、「ダミー」は「間抜け」も意味するから、本当に厄介な言葉である。(日本では人を騙すための「偽会社」という意味で「ダミー会社dummy company」を使う場合がある。) そういえば、人名が変な風に使われるから、これまたややこしい。例えば、「ゲロを吐く」というときに「ラルフ(ralph)」を用いるし、便所を指すときに「ジョン(John)」と言う時がある。「リチャード(Richard)」の渾名は「デック(Dick)」だけど、この言葉は「ペニス」も意味するから、アメリカ人はどう思っているのか。民衆党員なら、軽蔑を込めてチェイニー元副大統領を「デック」と呼ぶんだろうけどね。

  ここでは関係無いけど、日本で英語を勉強しても、いざアメリカで暮らすと米国式英語で混乱することがある。例えば、ニューヨークの軽食屋で、隣のアメリカ人がマフィンみたいなパンを食べているので、筆者が何かと訊いたら、「ビスケット(buiscuit)」と教えてくれた。日本で「ビスケット」は「森永のビスケット」みたいなお菓子だが、米国だと「クッキー(cookie)」となる。筆者はあまり違いを考えていなかったので、「そういえば日本人は両方使うよなぁ」と改めて考えたことがある。「コーン(corn)」も“ややこしい”英語で、米国だと「トウモロコシ」で、英国だと「穀物(grain)」を意味して、小麦などを指す。「コーン」は穀物から「粒」を連想するから、「コンビーフ(corned beef)」は「塩粒」で漬けた牛肉となる。トウモロコシが入っていないのに「コーンのビーフ」と言うから、日本の子供が首を傾げてしまうのは当然だ。イギリス人は「トウモロコシ」を「メイズ(maize)」と呼ぶから、日本の中学生は更に頭が混乱する。度量衡も英米で違いがあり、「1パイント(pint) 」のジュースは、米国で0.473リットルだが、英国だと0.568リットルなので気をつけないと損をする。クルマに給油をする時も、米国と英国では違っているから注意。1ガロン(gallon)は米国だと3.78リットルだが、英国だと4.54リットルなので、1ガロンありの値段を日本円に換算する時には、よく考えないとねぇ。

  英米人との会話では、英語の使い方で悩むことがある。日本人は「ポテト・チップス」みたいなのを「チップス(chips)」と呼ぶが、イギリス人なら「クリスプス(crisps /固く焼いた物)」で、アメリカ人が相手だと、そのまま直訳で「チップス」でいい。たぶん、イギリス人は煎餅みたいな感覚なんだろう。奇妙なことに、日本の「ポテト・フライ」は米国で「フレンチ・フライ(French fies)」と呼ばれるが、英国では「チップス」だ。英国を旅行すれば誰でも食べる「Fish and Chips」では、日本でいう「ポテト・フライ」が出てくる。「湖池屋のポテト・チップス」ではない。日英では変な共通点があって、イギリス人と日本人は便所を「トイレット(toilet)」と呼ぶが、アメリカ人は「バスルーム(bathroom / restroom)」と呼ぶので、日本的感覚からすると何となく奇妙だ。食堂で「バスルームはどこですか?」と訊けば、風呂を探しているみたいでおかしい。また、米国で「炭酸水」を注文する時は「ソーダ(soda)」でいいけど、英国だと「ポップ(pop)」だから頭が混乱する。筆者がアメリカ人の子供に「横断歩道」を指して「zebra crossing」と言ったら、「crosswalk」と言い直されたことがあるけど、英国なら「シマウマの渡り」で通じるようだ。

  その他、和製英語で紛らわしいのは、「トレーナー(正しくはsweatshirt)」という服の種類の名称で、北米だと「運動靴」と間違われてしまう。イギリス人やカナダ人は「トレーナーズ(trainers)」と呼び、アメリカ人は「ランナーズ(runners)」とか「スニーカーズ(sneakers)」と呼ぶ。英語らしいのに間違った英語というのも多い。例えば、銀行のATMで、「タッチ・パネル」というのがあるけど、本当は「タッチ・スクリーン(touch screen)」なので、「最初から正しく表記すればいいのに」と思ってしまう。「電子レンジ」も同じで、輸入当初から「マイクロウェイヴ・オーブン(microwave oven)」と呼んでいれば、紛らわしい混乱は無かったはずだ。和製英語で馬鹿らしいのは、「OL」という名称で、だいたい「会社で働く貴婦人」っておかしいだろう。「office worker」でいいのに、誰がこんな変ちくりんな言葉を考えついたのか? 「ヤクルト・レディー」も同じで、「ヤクルトおばさん」じゃ駄目なのか? たぶん、ヤクルトは化粧品の訪問販売をする「エイヴォン・レディー(Avon Lady)」を真似たんだろう。でも、「エイヴォン・マン(Avon Man)」に輝いた英国のトップ・セールスマンを真似て、男性販売員を「ヤクルト・マン」と呼んだら、「ひょうきん族」のキャラクターみたいで滑稽だ。(なんか、伊東四朗かアーノルド・シュワルツネッガーがやりそう。)

タカナ英語は「うどん屋の釜」

  日本人が西歐語を「格好いい」と思う気持ちには、幾つかの理由がある。誰でも思いつくのは、明治時代に“近代化”を目指した日本人が、“西歐の文明”を輸入して富国強兵に努めたことだ。誰もが知っているように、我々が言う「近代化」というのは「西歐化」に他ならない。新しい日本が模範とする先進国は歐米諸国のみ。聖人君子がいると思われた支那、そして儒教を崇めていた朝鮮は、停滞した古代国家、あるいは因習に凝り固まった劣等国。したがって、漢籍を売り物にしている支那学者なんて、カビ臭い書物に埋もれた腐儒、ないし役立たずの屁理屈屋といったところだ。朝鮮語に至っては、選択する外国語じゃなかった。平成の初めまで、朝鮮語を学ぶために大学へ進もうとする高校生は“ほぼ”皆無。もし居るとしたら、よほどの変人か朝鮮系の子供くらいである。あの“みすぼらしい”民族の言葉を習うなんて、プライドの高い日本人じゃ、死んでもできない。渡部昇一先生は、英語学を「男子一生の仕事」にする価値はある、と述べていたが、朝鮮語じゃ馬鹿らしいというか、牢屋に入ったような気分になるから論外。英語を除いて日本人が自主的・積極的に学ぶのはドイツ語かフランス語、あるいはイタリア語くらいまでで、貴重な時間とお金を費やすのは、魅力的な西洋語に限る。

  今のところ、青山繁晴や小池百合子は、大して上手くもない英語を口にして、「どう? 格好いいでしょう !」と上機嫌だが、アジア移民が増えれば、英語は気取り屋の玩具じゃなく、必要な手段となってくる。なぜなら、インド人やマレー人、フィリピン人の出稼ぎ労働者が増大すれば、職場で交わされる共通語は英語しかないからだ。しかし、日本で使われる英語は、アジア人用の低級英語に過ぎないから、職場で飛び交う英語はゼンジー北京かケイシー高峰レベルの外人語。アジア移民の子供と一緒にされる日本人の子供もいい迷惑だ。アジア人の子供は日本の学校に通っても、親とのコミュニケーションは祖国の言語となるから、カタコトの日本語を話す“バイリンガル・キッズ”が増えるだけ。しかも、こうしたバイリンガル児童が話す言葉は、ダログ語とかマレー語、ベトナム語だから、日本人の子供は“格好いい”とは思わない。一方、既に移民大国となったブリテンでは、300種以上の外国語が公立や私立の学校で話され、全小学生の20%に当たる、約90万人の児童が英語以外の言語を話しているそうだ。(Elizabeth Bailey and Emma Marsden, "Hundreds of languages are spoken in the UK, but isn'talways reflectedin the classroom", The Conversation, August 21, 2017.)

Aoyama 221(左 / 笑顔の青山議員)
  外国語を流暢に話して喜んでいる「国際派」の知識人は、多言語社会をどう思っているのか? そういえば、我らが青山繁晴先生はラジオ番組で、お得意の「米語」について話していた。あろうことか、国際派の青山先生は訪米した時、アメリカ人の入国管理官から怪しまれたそうだ。曰わく、「お前は日本の旅券を持っているのに、どうしてそんなに英語が上手いんだ?」と疑われ、詳しく尋問されたそうである。うぁぁぁ〜、すごぉぉぉ〜い ! さずか、青山先生は我々と違う! アメリカ人の入管職員がビックリするほど上手な「米語(ベーゴ)」を話したなんて! いゃゃ〜ぁ〜、羨ましいなぁぁ〜。アメリカ人が「アメリカ人?!」と勘違いするほどネイティヴな発音なんて ! でも・・・、もしかしたら、単に「怪しい東洋人」に思えたから尋問されたのかも知れないよ。大変失礼だけど、アメリカ人の入管職員が先生の「米語」を理解できなくて、「何だ ! こいつ、ゴチャゴチャ喋りやがって!」と不機嫌になる場合もいるからさぁ。でも、そんなことはないだろう。だって、ベーゴをスラスラ喋る青山先生を誤解するアメリカ人なんか・・・居るはずがない。青山先生は自慢していたけど、普通にハワイでブラブラしていると、現地人から「アメリカ人」と間違われるそうだ。先生の「米語」はハワイ人が誤解するほどの「ネイティヴ」発音なんだって ! でも、現地の白人は、先生を「日系人」と思っていたからじゃないのか?

Sadiq Khan 1(左 / サディク・カーン)
  話を戻す。日本でも「研修生」とか「留学生」の名目で、ドンドン「移民」が押し寄せてくるから、やがてブリテンやフランス、ドイツのように異人種の坩堝(るつぼ)と化すだろう。そうなると、東京や大阪といった大都市圏では、外国系の市議や知事が誕生するかも知れない。悪夢の到来はもう少し。1960年代までのブリテン人(ゲルマン系やケルト系の白人)で、ジャマイカ人やインド人の市議会議員や市長が誕生すると予想する人は少なかった。しかし、現在のロンドン市長は茶色人種のサディク・カーン(Sadiqu Khan)で、彼の両親は1968年に移住してきたパキスタン人。日本だって東京に支那人や朝鮮人、インド人、フィリピン人、ベトナム人が増えれば、アジア系の都知事が誕生する可能性はある。何しろ、東京は行政能力よりも知名度や人気度で都知事が選出されるので、候補者にはある程度の知名度が必要だ。たとえ、財政や金融に精通していても、地味な人物なら当選は難しい。でも、小池百合子みたいに口達者な女優タイプだと、枕営業と綺麗事だけで当選してしまうのだ。

Koike Yuriko 76(左 / 若い頃の小池百合子)
  いずれにせよ、小池百合子がカタカナ英語を好むのは、知的な雰囲気を漂わせたいだけで、都民の利益を考えているからではない。彼女の演説や公約は「うどん屋の釜」と同じ。「ゆ(湯)うだけ」で「中身が無い」のだ。この厚化粧知事は、鏡の前で帽子や宝石を身につけ、店員に「どう見えるかしら !」と尋ねているオバタリアンと変わりがない。こういったインテリ風の女は、ちょいと洒落た「布きれ」でも、「素晴らしいスカーフ(scarf)ですね !」とか、「御洒落なショール(shawl)」、「ゴージャスなストール(stole)」と呼んでやれば喜ぶ。たとえ、ヘンテコな絵柄でも「有名デザイナーによる特注品です」と言えば満足するんだからアホらしい。表面だけで物事を判断する人物は、イタリアに住む支那人が作った革靴でも、「ミラノでも指折りの職人が作ったハイヒールです」と囁けば、2倍の値段でも買ってくれる。目利きのようなフリをして、「やっぱり、作りが違うわ !」と言って蘊蓄(うんちく)を述べるから、本当にチョロい。小池氏のような英語屋は、目を大きくして「ファビュラス(fabulous / 素晴らしい)」とか、「マーヴェラス(marvelous / 素敵)」、「インクレディブル(invcredible / 信じられない)」と言いそうだ。ピエールなら“お決まり”の「トレヴィアぁぁ〜ン」だろうなぁ〜。

  小池百合子が嘘つきでも人気があるのは、上品な物腰で真剣な話をするからだ。しかし、その口の中には黒い舌が二枚ある。都合の悪い質問を受ければ、笑顔でヒラリと躱(かわ)し、「持ち帰って後ほどお答えします !」と煙に巻いて終わり。昨日は昨日で、今は今。「ケ・セラ・セラ」と唄って、バイバイだ。本人に罪悪感が無いから、矛盾した発言でも、荒唐無稽な提案でも、一向に恥じることはない。これだから、都民は何回だって騙される。上昇志向の小池百合子にとって、都政の舵取りなんか退屈である。彼女は鮫のように華やかな舞台を求め、孔雀のように自分を飾り立てる。オリンピックがどんな形であれ、世界中の観客に英語で語りかけ、「私って最高 !」と自己満足に耽るのが小池の夢だ。このオバはんなら、「ジャパニーズ・ドリィィーム」と言うかも ! ただし、我々にとったら「ナイトメアー(nightmare / 悪夢)」なんだけど・・・。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68815070.html  


237. 2020年8月01日 11:36:08 : gXX2MKPhiY : dVYxWTg3bzVOQWc=[5] 報告

2020年07月30日
教育格差が拡大する将来の日本
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68797862.html

格差社会における教育の質

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(写真 / 「教育格差」社会で成長するアメリカの子供達 )

  日本の国民はかつて教育熱心だった。しかし、今きや教育は銭儲けか見栄を張るための道具と化し、「学歴」という看板を積んだロバの大量生産になってしまったようだ。ほとんどの日本人は目先の事件に目を奪われ、長期的な視野を持って現在を見る事ができない。今年は武漢ウイルスが蔓延して、多くの国民が生死の境をうろついたから、視聴率至上主義のマスコミは大喜び。マンネリ化した「花粉症騒ぎは何処へやら?」だ。政府は感染症患者を見つける一方で、地方の国民に旅行を勧めている。どうせ、税金をばら撒くだけの選挙対策だろう。だが、テレビのワイドショーは二階俊博を糾弾せず、連日連夜、武漢ウイルスの脅威を煽って二次感染の嵐を待っている。老人は武漢肺炎に怯え、中高年は飲み会を断念してショボクレているが、未来を背負う子供達はマスクを着けながら遠隔授業を受けていた。

  本来なら、小学校から大学まで新入生を迎えて陽気な勉強生活を送っているはずなのに、今年は、みんなでマスクを装着し、「リモート授業」とやらでお勉強だ。(既に中学生や高校生は学校へ通っているようだが、大学生は未だに学級閉鎖で憧れのキャンパス・ライフは無いらしい。)でも、いくらパソコンの画面を通しての遣り取りといっても、これじゃあ「通信教育」と同じじゃないか。小学生なら休み時間に皆で遊んで給食を食べる、という“楽しみ”があるはずなのに、4月から自宅待機で母親相手の“個人学習”じゃ厭になってくる。独りっ子だと毎日「ママと一緒」でつまらない。やはり、学校で「プロレスごっこ」とか「ボール遊び」で汗をかかなきゃ。(筆者が子供の頃はアントニオ猪木とかスタン・ハンセンが人気だったから、“自習”時間には「卍固め」や「コブラ・ツイスト」の練習で忙しかった。しかし、今、冷静に考えて見れば判るけど、本当の格闘技であんな複雑な技を掛ける奴はいないだろう。そもそも、敵の協力を得て必殺技をカマスなんて有り得ない。)

  「インターネットを通しての授業」なんて聞こえはいいが、こんな授業を子供は喜んでいるのか? 確かに、知識というものは、最終的に本人の努力次第であるが、身につける過程において“どう”勉強するかは非常に重要だ。自宅でポツンと坐って練習問題をこなしているだけじゃ味気ない。友達と席を並べて切磋琢磨したり、侃々諤々の議論を通して考えることも大切なのである。いくら、のんびりした性格のボンクラだって、隣の友人が一生懸命勉強していれば“競争心”に火が付くし、「一番になりたい !」という野心を抱く子供だっているだろう。また、“優越感”を得るために一生懸命、辛い鍛錬に励むこともあるはずだ。おそらく、このまま「リモート授業」が長期化したり、「自宅学習」の時間が多くなれば、色々な家庭環境にある子供達の間で、取り返しのつかない教育格差が生まれてくるだろう。

  教育評論家は否定するかも知れないが、子供の人生は親の遺伝子や家庭環境で、かなり違ったものになる。例えば、黒人の親を持つ子供はその遺伝的肉体のお陰で優秀な短距離走者とかボクサーになれるし、美人の遺伝子を有した女性は、高額所得のスーパー・モデルとか映画女優になれるだろう。(ただし、男性ファッション・モデルは高給取りになれないそうだ。意外だけと、男のスーパー・モデルというのは滅多に存在しない。) スポーツ分野とは異なり、知的分野だと後天的要素が大きくなるので、本人の努力次第で夢を叶えることもできる。例えば、一般の科学者とか技術者、演奏家、法律家、建築士、医者、薬剤師になろうと思えば一般人でもなれるし、オリンピックで金メダリストになるくらいの狭き門じゃない。しかし、下層階級の親に育てられた子供だと事情が違ってくる。彼らはいくらホワイトカラーの職種を望んでみても、そこに辿り着くまでの学力が不足しているし、大学あるいは大学院に進むための費用を賄えない。やはり、高学歴の親とか、高額所得者の親、あるいは教育熱心な親を持つ子供の方が有利だ。

  日本の教育現状に関しては様々な本が出版れており、松岡亮二の『教育格差』といった新書も出ているので、一般人でも手軽に知ることができる。松岡氏の著書では、親の学歴とか収入、社会的地位、住んでいる地域とか学校の種類で子供の学力が左右されることが述べられているが、その中でも注目すべき点は、親から子へと相続される「文化資本」であろう。これはフランスの左翼社会学者、ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)とかイェール大学のポール・ディマジオ(Paul DiMaggio)が研究して有名になった。我々でも予想がつくけど、こうした文化資本には3つの形態があるらしい。すなわち、本や美術品などの物財である「客体化された文化資本」、学歴や資格などで承認される「制度化された文化資本」、そして言語力や知識、教養など、簡単に相続されない「身体化された文化資本」である。これらの資本は主に、家庭を通して“ゆっくり”と時間を掛けて伝承される遺産であり、この継承者は高い成績を上げたり、教師から好意的な評価を受けるそうだ。

Pierre Bourdieu 1(左 / ピエール・ブルデュー)
  マルキストの変種としか思えないブルデューだが、このフランス人が研究した文化的再生産(Cultural Reproduction)の論文を読んでみると、階級社会で雁字搦めにされたフランス社会への怨念がひしひしと伝わってくる。確かに、家庭のタイプで子供の知的水準が決まってしまう確率は高い。親がどんな読書をしているのか、子供を連れて博物館や劇場に赴いたり、海外旅行を何回経験したのか、あるいは、どんな課外活動に参加したのかや、文化に関する親子間の会話などを調べてみれば、「この親にして、この子あり !」と頷けることもある。ただし、中には「鳶(トンビ)が鷹(タカ)を産む」というケースもあるから、一概に「平凡な親はダメ」とまでは断定できない。でも、一般的には「蛙の子は蛙」というケースが大半だ。昔はよく、恋愛ドラマや少女漫画のキャラクターに惚れて、アホな母親が幼い娘にピアノを習わせたりしたが、大抵の子供は意味が解らず、三日坊主で厭になったものである。第一、母親自身がクラシカル音楽を聴かず、楽器なんか弾いたこともないんだから、子供からすれば迷惑以外の何モノでもない。

  だいたい、勝手な願望で我が子に夢を託す親の方が間違っている。娘にショパンやモーツアルトを勧めているくせに、本人はカラオケ店に行って、八代亜紀や石川さゆりの曲を大熱唱とくれば、厳しいレッスンを受け子供は不満爆発だ。もし、娘をピアニストにするなら、先ず母親が弾き馴れたピアノ曲を娘に聴かせ、如何に美しいメロディーであるのかを示すのが先だろう。学校の勉強も同じで、学問に熱中したことが無い親が、子供に対して「有名校を目指した猛勉強しなさい!」と言ったところで、息子や娘は馬耳東風である。もし、父親が「勉強しなくちゃ駄目だぞ!」と叱る一方で、その愛読書が『ヤング・ジャンプ』とか『ビッグコミック・スペリオール』じゃ説得力ゼロだろう。取っている新聞も『スポニチ』で、パソコンを開けばエロ動画のオンパレードじゃ、子供だって百科事典には目もくれず、お父ちゃんと同じ趣味に没頭するぞ。

  国立教育政策研究所の調査報告書によれば、両親共「非大卒者」の家庭だと蔵書数(雑誌や教科書、電子書籍を除いた冊数)は10冊くらいで、専門書や学術書は極めて少ない。一方、「大卒者」の親がいる家庭では蔵書数が格段に増え、100冊を超えるケースもある。まぁ、高学歴の教養人なら、シュテファン・ツヴァイクの伝記とかカント全集、エドワード・ギボンの『ローマ帝国の興亡』などが書斎にあるんじゃないか。しかし、小説すら苦手な労働者階級だと、せいぜい『こち亀』の単行本全200巻とか、『ミナミの帝王』全197巻、『キャプテン翼』全37巻が関の山だろう。ただし、漫画の中には『ゴルゴ13』とか『沈黙の艦隊』など、国際政治を扱ったジャンルもあるから一概に悪いとは言えまい。極左学者のエルンスト・ゲルナーとかエリック・ホブズバウム、白井聰、姜尚中の有害図書を読むくらいなら、健全な精神に基づく教養漫画を読んだ方がよっぽどマシである。

  ヨーロッパと比べたら日本はほとんど身分格差の無い平民社会だ。しかし、それでも家庭によっては「知的雰囲気」がかなり違ってくる。例えば、親が子供に勉強を教えるとか、何らかの技術を授ける時には、やはり高等教育を受けた親の方が頼もしいし、与える知識の量が断然多い。これは日常会話を調べてみても明白で、高学歴の親だと理数系の知識や藝術にまつわるエピソード、あるいは外国の歴史や地理について詳しく述べることができる。最近は、遠隔授業で英語の教科書を学んだり、数学の練習問題を説いたりする子供が増えたけど、理数系の科目を苦手とする親だと中学生の宿題でも苦労するし、高校の数学や物理となればお手上げだ。非進学校卒の母親が子供の前で、微分積分の問題や数列、あるいは代数幾何を説明するなんて無理だし、かといって横の亭主に助けを求めても、同じ程度の頭だったりするから、「明日、先生に訊いてみようね !」でお終いとなる。だいたい、ギリシア文字なんか習ったことがないから、「ラムダ(λ)」、「ファイ(φ)」、「シグマ(ς)」、「ゼータ(ζ)」を見ても発音できない。かろうじて判るのは「カッパ(κ)」とか「オメガ(Ω」、「ベータ(β)」くらいで、「カイ(χ)」とくれば、「X-Japanの“エックス”じゃないの?」と目を丸くする。

  アメリカの大学に通った人なら入試で「SAT」を受けるから実感すると思うが、数学の試験を英語で受けると、色々な和訳用語が判って頷くことがよくある。例えば、有名なのは「関数」で、昔は「函数」と書いたけど、英語だと「function」である。ちなみに、「保形関数」は「automorphic function」、「楕円関数」は「ellipetic function」と言う。「素数」は「prime number」で複素数は「complex number」だ。(中学生には難しいけど、一応説明すると、任意の実数a、bと「虚数単位imaginary unit」の「i」を用いたa+ibという表現が複素数。) 面白いのは「虚数」で、これは「虚しい」からではなく、「想像上の数」ということで、英語だと「imaginary number」だ。「ユークリッド幾何学」の「幾何学」は「geometry」の和訳で、この学問は元々耕地の測量に用いられたから「ge(地)」という言葉がついている。高校生の良い子は数学の先生に「シケリアのディオドロス(Diodorus Siculus)について教えて !」と頼んでね。そうすれば、古代バビロニアで世界史を記した人物とナイル河の氾濫などを詳しく説明してくれるから。あと、ついでに古代ギリシアの数学についても訊いてみればいい。ピタゴラス学派の秘伝を暴露したヒッパソス(Hipasos)なんか、神罰を受けて海で溺れたそうだから。学校の先生は質問しないと教えてくれないから、何も質問しないで黙っていると損である。

  脱線したので話を戻す。息子や娘の勉強を監督する親にとって、子供からの“素朴”な質問は結構答えるのが難しい。例えば、息子が「ねぇ、ママ、どうして負(マイナス)と負(マイナス)を掛けると正(プラス)になるの?」と訊けば、「うぅぅ〜ん、決まりだから !」と答えるしかない。まさか、複素数平面を持ち出して説明する訳にも行かないだろう。紙に横軸(実軸)を書いて、縦軸(虚軸)を引き、「i」を1回掛けると90度回転し、2回掛けると180度回転するから、と解説しても、子供はチンプンカンプンだ。高校生だって普通の子はフリードリッヒ・ガウス(Johann Carl Friedrich Gauss)を知らないから、「ガウス平面(Gaussuan plane)」を説明されても、半数くらいの生徒は鳩みたいにキョトンとするだけ。(あるいは、コロッケさんのティラノサウルスみたいになっちゃう。) 高校生の数学になると親だって匙を投げるから、研究所に勤める科学者とか技術者の親じゃないと、子供に数学や理科を教えることはできない。例えば、文系の親が「バーゼル問題」を訊かれたって、母親は「今、洗濯物にアイロンかけるから、パパの帰りを待っていてね !」と答えるので精一杯。国文科の母親なんか、逆数が並ぶ数式を見ただけで目眩がする。素数なども「遠い記憶」となっているから、「ルジャンドル予想(Legendre's conjecture)」など“問題外”で、せいぜい「双子素数」を覚えているくらい。サイン・コサイン・タンジェントの三角関数でも記憶が曖昧なんだから、教科書の座標を見たら厭な過去が蘇るだけだ。

Friedrich Gauss 01Adrien Marie Legendre 1Dattaraya Kaprekar 1

(左 : フリードリッヒ・ガウス / 中央 : エドリアン・マリー・ルジャンドル / 右 : ダタトレヤ・R・カプレカ )

  一方、文化資本が豊かな親だと、様々なトピックで我が子に知識を授けることができる。例えば、息子を連れて車に乗っている時、前方を走るクルマのナンバー・プレイトを指して、「カプレカ数(Kaprekar's numbers)」を探すこともできるのだ。この「カプレカ操作」は結構病みつきになる。例えば、「173」とか「293」、「495」といった3桁の数字を並べ替え、最大の数から最小の数を引いて元の数になれば「カプレカ数」である。(この数字に気づいたダタトレヤ・R・カプレラは、英国式の教育を受けたインド人であったが、英国の大学教授とはならず、インドの学校で教師になっていたそうだ。)

   173 は 731 − 137 = 594   (残念 !)
293 は 932 − 239 = 693   (残念 !)
495 は 954 − 459 = 495   (当たり !) 

もし、これが「5829」とか「6174」という4桁の数字になると、

    5829 は 9852 − 2589 = 7263  (ハズレ!)
6174 は 7641 − 1467 = 6174 (ビンゴ!)

日本の一般家庭と同じく、労働者階級の父親だと理数系の学問はおろか、歴史や地理でも「ギブ・アップ」となってしまう。しかし、子供の頃から聖書だけは読んでいたりするから、初代皇帝のアウグストゥスやティベリウス帝を含むローマ史とか、地中海の地理くらいは知っている。ただし、当時の知的遺産には無縁だから、プラトンやアリストテレス、ストア派のギリシア哲学なんかは解らない。たとえ、「ヨハネの黙示録」を読んで、神様(天主、救世主イエズス)が「アルファであり、オメガである」と教えられても、かろうじて森羅万象を支配する主権者、ないし全宇宙を設計した超越者といった程度のイメージだ。(「ヨハネの黙示録」1章8節、21章6節、22章13節を参照。) とは言っても、神様はあまりにも漠然としているので、その実態は中々摑めない。例えば、もし天主ヤハウエが「有限」だと宇宙の創造主にならないし、「有限」の外がどうなっているのかが問題になってしまう。だから、西洋の神学者は「無限」と考えることにしていた。でも、今じゃ「宇宙は複数有るかも知れない !」というので、「一体、神様はどんな世界を拵えたのか?」と科学者を悩ます謎となっている。(昔の科学者には「理神論者(deist)」が結構いたものだ。)

  それでも、ちょいと教養のあるオヤジなら、「神様は無限なんだけど、数学上の無限には種類があるんだぞ。例えば、最も濃度の小さい“アレフ・ゼロ”があって、その集合に1とか何か別のモノを加えると、“アレフ・ゼロ1”とかになっちゃうんだよねぇ〜」と教えることができる。これは集合論と1対1対応を使って説明できるので、中学生や高校生の子供にも理解できる。ところが、藝能ゴシップしか興味の無い親だと、「アレフ(alep)」といったヘブライ文字を聞いたって、何のことやら解らないので、TVドラマの「アルフ(ALF)」しか思いつかない。(この番組は、1986年から1990年にかけて放送されたNBCのコメディー・ホームドラマで、「メルマック星」からやって来た犬型の宇宙人が「ターナー家」に住む居候となる喜劇。日本ではNHKが放送し、宇宙人「アフル」の声優を所ジョージが担当していた。)

  目に見えないけど、親子で相続される「文化資本」が、なぜ重要なのかと言えば、それが子供の知的好奇心を喚起するからだ。田舎の公立学校や所謂「底辺校」で勤務する教師なら共感すると思うが、労働者階級の家庭では、親が子供の勉強とか生活態度に干渉しない“放任教育”が通常となっている。親自身が凡庸であったり、元不良だったりするから、幼い子供に本を読み聞かせる事はないし、自然現象に関しても無頓着で説明する事はない。大抵、帰宅してもパチンコに行くか、テレビの野球観戦にかじりつく程度。子供との会話で豊かな教養を授けるなんて皆無だ。両親が近所の噂話で夢中になっているかと思えば、子供はその隣でTVゲームとかスマートフォンに熱中となる。読書の習慣は一向に身につかず、参考書なんか部屋の隅で「積ん読」状態。こんな子供が相手じゃ、いくら学校教師が張り切っても、学力向上なんて夢のまた夢である。

  文科省の高級官僚は、学習指導要綱をいじくれば何とかなると思っているが、凡庸な腕白小僧と低学力の児童をまかされた教師は堪ったもんじゃない。こうした子供に欠けているのは、家庭で育まれる「知的好奇心」なのだ。最初からアホというのであれば救いようが無いが、非教養人家庭に生まれた子供は、TVアニメとか漫画を無限に許され、一日中ボケ〜と眺めるだけである。彼らは自分で積極的に物事を探求しようとせず、只、刺戟的な映像を求めるだけ、というか、送られてくるのを待っている。それゆえ、自分から文章を読んで、何が書かれているのかを探求しないし、そもそも理解しようとする意欲が無い。もっと悲惨なのは、その気力さえ湧かない子供が居るということだ。

Breaking Bad 2(左 / 『ブレイキング・バッド』の主役と共演者)
  不運な状況が重なり、知識不足となった子供は、いくら成長しても、別の視点から物事を考える能力が無い。文系に進んだ者にも、数学とか理科の知識が必要なのは、抽象的な思考を身につけたり、多角的に見る習慣を養うためだ。様々な教養を積むことは、将来の職業に役立つ。例えば、大人になってから異業種の者と会話する時、余計な知識を備えていると、ひょんなことで意気投合となり、人脈を広げることもできるのだ。以前、筆者が友人と雑談をしていた時、米国の人気TVドラマ『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』に言及したことがある。シーズン2か3の時、合成麻薬を密造する登場人物が厄介な遺体を処理するために、浴槽の中に酸を入れて死体を溶かそうとするシーンがあった。そこで、筆者が「あんなに時間がかかるなら、フルオロアンチモン酸(fluoroantimonic acid)で溶かしちゃえばいいのに・・・」と呟いたところ、「おい、それは危険過ぎてマズいだろう !」という答えが返ってきたが、「でも、妙案かもなぁ〜」と感心していた。

  普通の犯罪者なら、工場でかすめ取った硫酸を使うけど、ドラマの主人公は優秀な化学者であったから、「マジック酸」を考えてもおかしくはない。俗に言う「マジック酸(Magic acid)」とは、五フッ化アンチモンとフルオロ硫酸の混合物で、かなり危険な猛毒だ。それよりも凄いのが「フルオロアンチモン酸」で、100%硫酸よりも20京倍強いという。だから、人間の遺体なんか一瞬で溶かすことができる。学校で教える理科の教科書は、スリルに欠けるから退屈な解説や実験が多い。無味乾燥の授業で化学式や元素記号を暗記させるより、「どうやったら核爆弾が作れるのか」とか、「最強の化学・生物兵器はどんなものなのか」といった話をして、生徒に興味を持たせる方が効果的。何の目的も無く、ただ「受験の科目だから」という理由で、物理や化学を勉強する生徒は存在するけど、全体からすれば少数派である。

  普通の家庭で育った凡庸な子供は、研究所に勤めるプロの科学者を目指していないから、一般教養の科学でいいはず。知的好奇心を持たずに、理科の授業を受けるのは苦痛なだけである。話を戻すと、こうしたアホな雑談をしても、ある人々にとっては「刺戟的な会話」となるそうだ。情報のアンテナを広げる企業経営者とか投資家は、一風変わった人物にも興味を抱き、「何か知らないけど、面白い奴だ」と見なす。だから、彼らは「今度、俺の家でパーティーを開くけど、来ないか?」と誘ったりする。特にアメリカ人のビジネスマンには、変人を招く趣味があるので、彼らには藝術家とか知識人の友人は少なくない。

  脱線したので話を戻す。放任主義と娯楽生活で成長した子供は、インテリ家庭の子供が集う名門私立じゃなく、地元の子供が通う公立学校に入る。だが、親からの文化資本をもらっていないので、学校の勉強だけで青息吐息で四苦八苦。知識の積み重ねが問われる数学や英語では、段々と追いつけなくなり、気がつくと成績は「中の下」か「底辺をウロチョロ」だ。中学で躓いた生徒は奈落の底へ一直線。大学受験を目指す進学校じゃなく、競争心が全く無い不良高校か工業高校に入るから、もう大学進学など考えない。担任の教師だって、英単語の綴りさえ覚えていない生徒に英作文を教える訳だから、心の底で「投げやり」となってしまうのだ。子供の学力水準アップには、どのような友達を持つのかも重要で、ディスコ通いを優先するような連中とツルめば学問なんか藪の中。(亡くなった立川談志師匠も、娘の教育には相当手を焼いたらしい。)

  しかし、家庭の躾が良く、向上心に燃えた友人を持ては、それに釣られて「自分も頑張ろう」という気持ちになる。よく、アメリカの黒人が白人学校に通いたがるのは、「勉強する雰囲気」と「優秀な級友」を欲しいからだ。もし、黒人だらけの公立学校に入ってしまえば、周りは下品な不良か、犯罪者予備軍、学問とは無縁のヒップ・ホップ・ダンサーくらい。とても勉強する環境じゃないだろう。だから、中流階級の黒人は我が子を白人と混ぜてもらって、その学力を少しでも引き上げたいと願っている。(ヒラリー・クリントンやオカシオ・コルテスみたいなリベラル派は反撥するけど、現実はやはり否定できない。)

Black boys in Sagging PantsBlack children in America 4

(左 : 黒人街をうろくつ黒人少年 / 右 : 黒人が主流の公立学校に通う子供達)

  下層階級の子供は電車内や学校でも、携帯電話とか電子タブレットに夢中だが、上流階級の子供は案外「伝統的な教育」を受けている。上層中流かスーパーリッチの親は子供の生活に介入し、電子機器の使用を制限したり、TVゲームやスマートフォンを与えなかったりする。例えば、「マイクロ・ソフト社」の創設者であるビル・ゲイツ(Bill Gates)や、「アップル社」の共同創設者で2012年に亡くなったスティーヴ・ジョブス(Steve Jobs)は、自分の子供を心配し、ハイテク機器を与えなかったそうだ。たとえ与えても、その使用時間を制限したらしい。ゲイツ氏はメリンダ夫人との間に、ジェニファー、ローリィ、フィーブという三人の子供をもうけているが、この大富豪は娘がビデオ・ゲームに目覚めると、その使用時間に一定の制限を加えていたという。(Chris Weller, "Bill Gates and Steve Jobs Raised Their Kids Tech-Free And It Should've Been a Red Flag", The Independent, 24 October 2017.)

Bill Gates 02Steve Jobs with family 1


(左 : ビル・ゲイツ氏の家族 / 右 : スティーヴ・ジョブズ氏の家族)

  一方、ジョブズ氏はロウリーン夫人との間に息子のリード、娘のエリンとイヴをもうけていた。IT産業で成功したジョブズ氏は、新製品のiPadが世に出た時、子供達にその使用を認めなかったそうである。シリコン・ヴァレーの重役達は偽善者というか二枚舌の持ち主で、他人の子供には最新型のスマートフォンや高性能のタブレット、あるいは高価なパソコンを売りつけているが、自分の子供には“昔ながら”の教育を施し、“紙”の本を与えて「創造性」が豊かになるよう育てている。高度な知識を持つアメリカ人は、電子機器の中毒性に気づいているので、可愛い我が子に与えることをためらう。ハイテク産業の大御所たちは、巨額な宣伝費をかけて新製品を売り込んでいるくせに、「こんなモノを与えたらウチの子供が馬鹿になるじゃないか!」と危惧している。一方、何も知らずに買い与えている平民の親は、子供と一緒に大はしゃぎ。高額な通信料金を払っても、新製品の魅力にゾッコンだから、子供への影響なんて考えない。それにしても、こうしたIT業者を眺めていると、つい、禁煙を信条とするタバコ会社の経営者を思い浮かべてしまう。大企業を運営する者は、巷の流行に流されず、長期的な視野で物事を考える。だから、易々とハイテク教育に追従しないのだろう。

  家庭における知育とか徳育に加え「食育」も大切な科目だ。日本人はビックリしちゃうが、アメリカの下層階級には太った子供が多い。これは子供の健康を管理する親が、食材や栄養分に無頓着で、ジャンクフードや加工食品を気軽に与えてしまうからだ。日本でも、子供を連れてマクドナルドに入る母親がいるけど、フレンチ・フライなんか「パーム・オイル」で揚げだ毒と変わらないぞ。頭が空っぽな親は、息子や娘と一緒に有害食品を口にしているけど、子供を太るために金を払っているとは思わない。アメリカでは「カウチ・ポテト族」が生まれるほど、ポテト・チップスの人気は高いが、これも少量の毒を食べているのと同じだ。ジャガイモを油で揚げると成分のアスパラギンがアクリルアミドに変化するので、かなり有害である。この「アクリルアミド(acrylamide)」は接着剤や塗料に用いられる物質だから、本来なら子供に食べさせる代物じゃない。筆者はファストフードを食べないけど、アメリカの黒人を観察するため、昔、NYのバーガーキングやマクドナルドに入って、黒人客の親子連れを眺めたことがある。ミッシェル・オバマ夫人は黒人の成人病を防ごうと躍起になっていたけど、黒人の肥満って中々根絶できないぞ。

  アメリカで子育てをするのは大変で、いくら自宅で健康な料理を作っても、子供が友達の家に招かれれば、家庭の努力は一瞬で水の泡だ。何しろ、提供されるのがバケツに入ったアイスクリームか、巨大なオレオ、恐ろしく甘いスニッカーズ、チョコレートに砂糖を加えたブラウニー、脂肪がつきやすいラザーニャとか冷凍ピザときている。三宅一生の服を気に入っていたジョブズ氏は、健康を気遣っていたのか、前々から菜食主義者で、特に日本の料理を好んでいた。まぁ、有害食品のベーコンを焼いてハッシュド・ポテトを貪るアメリカ人からすれば、日本の食事はどれも健康食品に見えるんだろう。正体不明のホットドックに保存料てんこ盛りのケチャップをかけて喰うのは庶民階級のアメリカ人くらい。高額所得のエリート・ビジネスマンは食事の“質”を考慮し、なるべく有害食材を回避するよう普段から心掛けている。アメリカ社会を詳しく調べてみれば判るけど、下層階級の労働者が異常に太っている一方で、大企業の重役とか知識人には痩せている人が多い。これは、「自分の健康を管理できない奴が会社を管理できるのか」という思想に基づいているからだ。

  現在、保守派国民は日本の学力が落ちていると心配している。でも、そんな事は何十年も前から分かっていることだ。軍隊を放棄した日本では兵器の開発や製造が疎かになったから、科学技術が段々と衰退したのは当然の帰結である。また、左翼教師が学校を占拠し、平等主義を以てエリート撲滅に邁進していれば、日本人の知的水準が低下し、愚民が増えるのも当たり前だ。思考能力が劣る文科省の官僚は、学校に銭をばら撒けば学力が向上すると思っている。しかし、そんなことをしても、公立学校で問題となっている無気力児童の改善にはなるまい。親が出来ないことを教師に求めるなんて、基本的に間違っている。只でさえ、教師には余裕が無く、雑務に追われているのに、これ以上「きめ細かな教育指導」なんて無理。教師の方が不登校になってしまうだろう。

  とにかく、学校の改善より厄介なのは、親と子供が持つ意識の改革で、これは家庭の問題となるので非常に難しい。教育論は誰でも参加でき、様々な「持論」が飛び交ってしまうので、結局、「現状維持」か「他人任せ」という方針になってしまいがちだ。そもそも、日本人自身がどんな国家を目指しているのか曖昧なんだから、国民教育は各家庭の自由裁量となってしまうだろう。高学歴で高収入の親は、子供を学習塾に通わせ、有名大学に送り込むのを目標としている一方で、学歴と所得が低い親は、子供に相続させる文化的遺産が無いから、本人の努力を期待するしかない。昔の日本ならこれでもいいが、アジアから安い労働者が入ってくる時代となれば別。異人種が増える「これからの日本」だと、公立学校は益々酷くなるはず。アジア移民の子供と一緒にされた日本人の子供は学力低下に悩み、低所得の仕事にしか就けないから、下層階級の悪循環に陥って一生抜け出すことができない。教育格差と身分階級が固定化する未来はすぐ間近である。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68797862.html

238. 2020年8月14日 09:04:34 : CG1A7NUEbq : YXdVbzBEUkJTOEE=[6] 報告
【藤井聡】文科省迷走、鼻でわろてまうわ
2020/08/13





239. 中川隆[-11876] koaQ7Jey 2020年8月14日 10:07:14 : CG1A7NUEbq : YXdVbzBEUkJTOEE=[9] 報告
愚民化教育・ゆとり教育の背景


2020.08.14
生活に余裕がなければ国際問題も国内問題も考えられない
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202008130000/


 日本の庶民は自分たちを貧困化させ、社会を破壊する政治家を当選させてきた。最近あった東京都知事選挙も例外ではない。日々の生活に追われ、国際問題は勿論、国内の政治や経済についても考える余裕がないからだと考えている人もいるようだが、おそらく、それは正しい。


 「革命的人民」は「人民」に生活の余裕がなければ存在できない。だからこそ権力者は庶民を貧しくし、公教育を破壊し、メディアを支配しようとするのだ。そうしておけば、庶民の不満が高まってもコントロールできる。ターゲット国の庶民を操ることもできる。


 日本では1970年代から富の集中が加速度的に進んだ。マーケットを崇拝、「民営化」という名目で私的権力を強大化して国を上回る力を彼らに与えた結果だ。それにともない、大多数の庶民は貧困化していく。世界をこうした方向へ導いた信仰は「新自由主義」と呼ばれている。


 この信仰で教祖的な役割を果たしたのがシカゴ大学の教授だったミルトン・フリードマン。その先輩とも言える学者がフリードリッヒ・フォン・ハイエクだ。ハイエクはアメリカの株式相場が暴落した後、1930年代に私的な投資を推進するべきだとして、政府の介入を主張するジョン・メイナード・ケインズと衝突した。そのハイエクの教え子にはデイビッド・ロックフェラーも含まれている。


 新自由主義が庶民を疲弊させ、国力を衰えさせることは明かだったことからリチャード・ニクソン大統領でさえアメリカへ導入することをためらった。この信仰に基づいて体制を最初に作り替えたのはチリだ。


 チリでは1973年9月11日にCIAを後ろ盾とするオーグスト・ピノチェトが軍事クーデターを成功させ、サルバドール・アジェンデ政権は倒された。その際、アジェンデ大統領は死亡している。CIAの背後にはヘンリー・キッシンジャーがいた。


 1979年から90年にかけての時期にイギリスの首相を務めたマーガレット・サッチャーもハイエクと親しかった。「先進国」と呼ばれている国の中で最初に新自由主義を導入したのはサッチャー時代のイギリスである。1970年代にイギリスはシティを中心にしてオフショア市場/タックス・ヘイブンのネットワークを作り出している。その中心は言うまでもなく金融の中心地、シティだ。


 日本へ新自由主義を導入したのは中曽根康弘であり、その政策をさらに進めたのが小泉純一郎、菅直人、野田佳彦。それを安倍晋三が引き継いだ。中曽根の民営化を象徴するのが「国鉄」だとするならば、小泉は「郵政」だ。現在、年金や健康保険の仕組みが破壊されようとしているが、それだけでなく食糧や水も私的権力へ渡されようとしている。


 郵政民営化には三井住友出身の西川善文をはじめ、竹中平蔵、ゴールドマン・サックスのCEO(最高経営責任者)を務めていたヘンリー・ポールソン、そしてCOO(最高業務執行責任者)だったジョン・セインが深く関与している。その後、竹中は人材派遣会社、パソナの会長に就任する。


 言うまでもなく、人材派遣会社は非正規社員の増大で大儲けした。そうしたことを可能にする政策に竹中も深く関与している。そうした政策が庶民を貧困化させている原因のひとつだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202008130000/  

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

240. 中川隆[-11793] koaQ7Jey 2020年8月18日 06:56:46 : wMNaZtQUxg : d3ZObTZIaS8yN1E=[4] 報告
「うがい薬買い占め」で露呈する、日本の学校教育の致命的欠陥
https://diamond.jp/articles/-/245187

■今度は「うがい薬」に殺到
なぜ真に受ける人が多いのか

「免疫力をアップさせてコロナに効くらしい」と、品薄になった納豆に続いて、今度は「うがい薬」が店頭から消えてしまったようだ。

 大阪府の吉村洋文知事が、府内の新型コロナ患者にポビドンヨード入りうがい薬を使用したところ、唾液からウイルスが検出される人が減ったと発表したことを受けて、もはや風物詩になりつつある「買い占め」が起きてしまったのである。

 パニックぶりは、ドラッグストアだけにとどまらない。メルカリでは「うがい薬」が高額転売されたほか、うがい薬の製造販売をしている明治ホールディングスの株価は年初来高値を叩き出した。この調子でいけば、「コロナウイルスを撃退!ポビドンヨード入りサプリメント」などという怪しげな健康食品が登場するのも、時間の問題だろう。

 という話を聞くと、「なんでこんな話を真に受ける人がいるの?」と首をかしげる方も少なくないのではないか。

 発表直後から、テレビでは研究者が登場して、「対象としている患者数が少なくて医学的根拠にならない」とバッサリやっている。ネットやSNSでも同様に懐疑的な声が多く、吉村知事に対しても「不確かな情報でパニックを煽っている」とボロカスだ。

 にもかかわらず、ドラッグストアへ駆け込んでうがい薬を買い求めるというのは、いったいどういう気持ちなのかと、なかなか理解できない人も多いはずだ。

 もちろん、シンプルに転売目的の人もいるだろう。が、転売の難しい納豆も似たような情報が流れたことで品薄になったことを踏まえると、世の中には「これがコロナに効くらしいよ」という話をノンフィルターで受け入れるピュアな人たちも、かなりの割合で存在しているのは間違いないのだ。

 では、なぜこんなことになってしまうのか。経済分野のエラい先生などは、「本当に効果があるとわかったときに入手できないと困るから、とりあえず買っておくか」という、ゲーム理論に基づく消費者の自然な行動だという。また、日本人は権威に弱いので、公的な立場の人間が言うことは無条件で信頼する、と説明する人もいる。

 どの説明も「なるほど」と納得できる一方で、もう1つ大きな要因があるのではないかと考えている。

 納豆が効くと聞いてワッと飛びつき、うがい薬が効くと言われると買い漁り、という感じで、いともたやすく操れる人が多いというのは、我々日本人が、そういう教育を受けてきたからではないのか。

 つまり、幼いころから「偉いセンセイの言っていることは素直に信じましょう」としつけられてきたので、知事自身が「ウソみたいな本当の話」と前置きするような眉唾な話でも、素直に信じてしまう人が多いのではないか、と申し上げたいのだ。

■OECDの調査から見て取れる
明らかに非常識な日本の教育

「そんなムチャクチャな暴論こそ信じられねえよ」と冷笑する人も多いだろうが、経済協力開発機構(OECD)が、48カ国・地域の小中学校段階の教員を対象に行った『国際教員指導環境調査2018』(TALIS 2018)の中には、日本の教育についてクスリとも笑えないシビアな現実が指摘されている。

 48ヵ国の教員たちが実践している指導の中で、「批判的に考える必要がある課題を与える」という項目がある。批判といっても、クレーマーのように無理筋のイチャモンをつけるのではない。目の前に提示された話をハイハイと鵜呑みにするのではなく、客観的事実に基づいてゼロベースで論理的に考える力をつける、という立派な教育だ。

 このような指導をしていると回答した教員の割合は、やはりというか欧米豪が高い傾向があり、アメリカは78.9%、カナダ(アルバータ)は76%、イギリス(イングランド)は67.5%、オーストラリアは69.5%となっている。

 ただ、他の国もそれほど低いというわけではなく、アジアではシンガポール54.1%、台湾48.8%、韓国44.8%。イデオロギー的に国民の体制批判に敏感な中国(上海)でさえ53.3%、ロシアも59.7%なっており、48カ国の平均でみると61%だった。

 このOECD調査から浮かび上がるのは、子どもたちに対して、「なんでもかんでも言われたことを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で論理的に考えてみなさい」と教育するのは、社会や文化に関係のない「世界の常識」ということだ。

 が、この常識に頑なに背を向けて、我が道をつき進む国が1つだけある。そう、我らが日本だ。先ほどの調査で47の国・地域が40〜87%の範囲におさまっている中で、なんと日本だけが12.6%と、ドン引きするほどダントツに低いのである。

 ちなみに、これほどではないが、日本の教員がほとんど実践しない指導がもう1つある。「明らかな解決法が存在しない課題を提示する」という項目だ。48ヵ国平均が37.5%という中で、日本は16.1%。下にはチェコやリトアニアという旧共産圏の国しかなく、ビリから3番目だ。

 つまり、我々は何かにつけて、「ここまで識字率が高くて、レジでもお釣りの計算を間違えない国民が多い国は他にない」などと日本の教育レベルの高さを誇るが、実は一方で、世界のどの国でも当たり前にやっている「複雑な問題を先入観ゼロで自分の頭で考える」ということを子どもに教えない、ダイナミックな教育理念を持つ国だったのである。

■「ゼロから調べるレポート」で
宿題の存在意義を調べてはいけない不思議

 そう言われてみれば、皆さんも身に覚えがあるだろう。小中高の授業で先生から、「世の中で当たり前となっていることを疑ってみる」というようなことや、「そもそもなぜそんなルールがあるのか」などということを考えさせられたという経験のある人は、かなり少数派ではないか。もちろん、それは最近の学校も変わらない。

 少し前、知り合いの子どもから非常に興味深い話を聞いた。その小学校では、夏休みの宿題として、自分が興味を持ったことをゼロから調べてレポートにするという課題が出された。テーマは自由で、「なんで地球は丸いのか」ということから、「なぜ戦争がなくらないのか」というような壮大なものまで、興味を持てばなんでもいい。レポートは休み明けに、クラスのみんなの前で発表する。

 そうした教師の説明を受けて、盛り上がる子どもたちの中で1人がこんなことを言い出した。

「じゃあ、僕はなんで学校には宿題があるのかについて調べます」


 しかし、教師は間髪入れず、「はい、そういうのはダメです」とピシャリ。「テーマは自由」だと言いながらも、なぜ学校に行かなくてはいけないのか、校則があるのか、などのテーマはNGだというのである。

 確かに、ゼロから考えた結果、「宿題をしなくてもいい」「校則なんてなくていい」という結論になってそれが発表されたら、「学級崩壊」につながるかもしれない、学校のガバナンスが保てないということなのだろうが、この話を聞いて、筆者は先ほどのOECD調査の「12.6%」という数字が頭をよぎった。

 なぜ、学校に行かなくてはいけないのか。なぜ、みんなで同じ制服を着て、髪型まで決められなくてはいけないのか。そもそも、勉強というのは何のためにするのか――。みなさんも子ども時代、一度は考えた素朴な疑問だろう。本来、人が学ぶのは、このような明確な答えが出ない難題に対して、自分なりの答えを探すためである。

 教師は子どもたちとこういう疑問について話し合い、学校に行く意義や、集団生活でルールを守ることの大切さ、「学ぶ」ということが何かということを、一緒に考えていかなければいけない。が、多くの小中学校ではそういう根本的な議論は避けられている。文科省の指導要綱で決められたことをしっかりと子どもたちに叩き込むことが「教育」であって、現行のシステムに疑問を持たせるようなことは、むしろ教育の妨げという扱いなのだ。

■「素直な子ども」は
ルールを守る「素直な大人」になる

 それをうかがわせるような話が、先日の『日本経済新聞』に載っていた。常葉大学の紅林伸幸教授らの研究チームが、教員を目指す学生が大学の教職課程で4年間どう学び、どんな意識を形成していくのかを調べたところ、卒業に近づくほど授業技術のウェイトが増し、社会の広い関心、友人や社会との繋がりを議論するような体験が減少したという。ここから紅林教授は、以下のような結論を出した。

《日本の大学は学校の現実を批判的に捉えて独創的に工夫する教師ではなく、決められた教育を堅実に行える教師を育てている》(日本経済新聞2020年8月3日)

 とにかく日本では、決められたことを決められた期間内にきっちりと教えるのが、「良い教師」というわけである。こういう教師が量産されて、全国の教育現場に配置されれば、現実を批判的に捉えて独創的に工夫するのではなく、学校や親が語ることを肯定して、文句ひとつ言わずに従う「素直ないい子」が大量に育つ、というのは容易に想像できよう。

 実はこのあたりが、眉唾な情報やデマを鵜呑みにして買い占めに走るようなピュアな人が、日本に多い原因なのではないだろうか。

「素直ないい子」が成長すれば「素直な大人」になる。彼らは、「決められたルール」に従うのがデフォルトなので、自分の頭で考えて動くことができない。そうなると、テレビに出ている有名人や、政治家や役所が言うことを素直に信じて、素直に行動に移すしか道はないのだ。

■規律正しい国民性には
排他性という負の側面も

 べつにディスっているわけではない。幼い頃から、「現実を批判的に捉えて独創的に工夫する」という教育を受けたこともないので、無理をしているわけではなく、それが当たり前なのだ。

 与太話に付き合い切れないと思う方も多いかもしれないが、日本という国が世界の中でもかなり「異常」な教育を子どもたちに施しているのは、動かし難い事実だ。

 もちろん、物事には必ず良い面と悪い面がある。国民みんながマスクをしたり、いきなりスーパーでレジ袋を使わなくなくなったりという「世界一規律正しい日本人」は、個々に「批判的思考」を教育していないからこそ、実現できているのかもしれない。

 しかし一方で、この全体主義的教育が「社畜」という個を殺して組織に奉公するというスタイルや、「みんなと同じことをしない人間」への強烈な憎悪、イジメ、差別を生んでいるという負の部分もある。

 ちなみに先ほどの調査で、48カ国の中で2番目に「批判的に考える」という指導に熱心なのがブラジル(84.2%)だ。新型コロナにかかってもマスクをしないで、「あんなもの風邪みたいなもんだ」とうそぶく大統領がまだそれなりに支持されているのは、国民性云々以前に「教育」によるところも大きいのだ。

 ならば、日本で起きている「コロナ差別」や「自粛警察」の根っこにも「教育」があると考えることは、それほど荒唐無稽な話ではない。

「うがい薬が店頭から消えました」と大騒ぎをして終わるだけではなく、なぜこんなにも我々は「扇動」に弱いのか、なぜデマや偏見に踊らされやすいのか、という根本的な原因を、今のコロナ禍を機に、しっかりと考えてみる必要もあるのではないか。

(ノンフィクションライター 窪田順生)  

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241. 中川隆[-10948] koaQ7Jey 2020年10月09日 19:41:51 : yrjMIAA0P3 : NDRaMkxRWk5XM2c=[26] 報告
山中伸弥教授が「阿倍野の犬」と揶揄…日本の研究分野が世界に劣る理由を内田樹と岩田健太郎が斬る
https://dot.asahi.com/dot/2020100200057.html
2020.10.8 11:30 AERA dot.

 日本の研究分野が世界に遅れを取ることになったのは、「ワンチーム」や「絆」を好み、他人と「ずれる」ことを許さない日本人特有の性質に原因がある。コロナ時代の生き方は、むしろ「ずらす」ことが重要かつ有用だと、思想家の内田樹さんは岩田健太郎さんとの共著『コロナと生きる』(朝日新書)で指摘する。困難な時代だからこそ求められる「生きる」ことに対する価値観とは?

※第1回対談「医療費削減の先にある恐怖…アメリカのパンデミックが収束しない理由を内田樹と岩田健太郎が指摘」よりつづく

*  *  *

■他人とずれてよし

内田:前回の対談で、「誰かが得するなら、みんなで損をしたほうがマシだ」と考える人がいる、というお話をされましたが、そういうふうに「一蓮托生」に持ち込んで、最終的に誰も責任をとらずに終わるというのって、日本人の得意技のような気がしますね。「ワンチーム」とか「絆」とかいう言葉を東京五輪絡みでよく聞かされましたけれど、限られた環境でみんなが生き延びようと思うなら、他人と合わせるんじゃなくて他人と「ずれる」のが基本なんですよね。たぶん岩田先生もそうだと思うけど(笑)、僕もすぐ多数派からはずれる人なんです。生まれてからずっと「樹は変だ」と言われ続けてきた。親にもそう言われたし、先生にも言われたし、友だちにも言われた。とにかくすぐに「浮いちゃう」んです。それでずいぶん叱られたし、いじめられたりもした。

 でも、しかたがないんですよね。「みんなが平気にやれること」が僕にはできないんですから。身体が拒否するので。でも、僕一人が他人と変わったことをしていたからと言って、マジョリティの邪魔をしているわけじゃないんですよ。ただ隅っこにいて、自分がやりたいことをこそこそやっているだけなんだから、放っておいてほしいんですよ。でも、放っておいてくれないんです。必ずそばにやってきて「一人だけ変なことをするのを止めろ」と干渉してくる。どうして、主流派の方たちは「ずれた人」にこれほど不寛容なのだろうと久しく不思議に思ってきたんですけれど、あるときにわかりました。人と違うことをやってる人は査定になじまないからです。

 前にも書いたことですけれど、院生の頃に、フランス文学会でレヴィナスのことについて発表しようと思って指導教官に相談したら、「止めたほうがいい」と言われた。理由を尋ねたら「レヴィナスの研究をしてる人間が他にいないから」って。日本では知られていない哲学者ですから、ご紹介するつもりで学会発表しようと思ったわけですけれど、誰も知らない哲学者について研究発表しても査定対象にならないと言われた。先行研究がいくつもあれば、それと照合して出来不出来について査定ができるけれど、先行研究ゼロの分野だと、発表そのものが「査定不能」とされる。「業績が欲しければ、みんながやっていることをやれ」と諭されました。

 たしかに、そうなんです。ある時期から若手の仏文研究者が19世紀文学に集まるようになったんですけれど、それはその領域に世界的権威の日本人研究者がいたからなんです。その分野なら、研究業績については客観的で厳正な査定が下る。だから、精密な査定を望む秀才たちはその領域に集まってきた。でも、もともと仏文というのは、中世から現代まで、歴史や詩や小説や哲学など、多彩な領域に研究者が「ばらけて」いたんです。みんなが勝手なことをやっていた時代の仏文は面白かったけれど、特定領域に若い研究者が集中するようになってから仏文の空気が一変して、なんだか重苦しくなった。

 結果的に、仏文科に進学してくる学生がいなくなり、仏文科がなくなり、仏文学教員のポストがなくなり、学会そのものが見る影もなく地盤沈下してしまったんですけどね。

岩田:内田先生はその仏文学の衰退の話を、いろんな本でよく書かれていますけど、じつはそれって、日本の学術界全体で起きていることでもあります。ノーベル賞の山中伸弥先生が「阿倍野の犬」という喩え話をよくされるんですけど、「アメリカの犬は頭を叩くとワンと吠えたから、大阪の阿倍野でもアタマを叩くとワンと吠えるかどうか確かめてみよう」みたいな二番煎じの研究が、自然科学分野でもかなり増えているということです。なぜならやはり、査定が簡単だからですよね。論文も書きやすいし、手法も知られているので査読者の覚えもいいんですが、そんな研究には何のイノベーションもありませんよね。

内田:ほんとにね。

岩田:今、大学の運営交付金が毎年1%ずつ削られているなかで、研究者は科研費を獲得するよう、大学側からハッパをかけられています。科研費は「競争的資金」と呼ばれていて、国は「独創的でイノベーティブな研究に交付する」と建前上言うんですが、実際のところ本当にイノベーティブな研究にはほぼ下りないんです。なぜなら役人が査定できないから。

 例えば、iPS細胞で山中先生がノーベル賞をとると、「iPS細胞の研究なら科研費がもらえるぞ!」と、みんなで寄ってたかってiPSの研究を始めるんです。2011年に震災が起きたら、防災対策の研究ばかりに科研費が下りるようになりました。そんなふうに右へならえで、同じテーマの研究ばかりが増えていくんです。

 その間、世界を見渡してみると、iPS細胞って再生医療に使うには効率が悪いことがわかってきたので、最近はES細胞を使うのが主流になってます。ところが日本はiPSに掛け金をオールインしちゃったので、今さら方針転換できないんです。内田先生のお話を聞いて、理系分野もこれからどんどん衰退していって、仏文学の後追いをするのではないかと心配になってきました。

内田:元凶は評価主義なんです。客観的な査定を行い、格付けをして、それにしたがって限りある資源を傾斜配分するという仕組みそのものがすべての学問領域のレベルを引き下げている。

岩田:大学の医学部では、研修医や学生の成績もできる限り計量的に評価するようにしろ、と圧力がかかってます。しかし、医者としてあるべき振る舞いなんて数値化できないですよね。「客観的な評価ができないことは切り捨てていい」と彼らは言いますが、医学生なんてみんな頭がいいし、点取り虫なので、どうすれば高い評価が得られるか簡単に予測できるんです。でも、それで優秀な医者が育つかというと、非常に疑問ですよね。

内田:そのとおりです。

岩田:今、大学では「360度評価」といって、学生を含めたいろんな人に評価をさせる仕組みを導入していますが、これも「とにかく評価をしさえすれば、見えないことが見えてくる」という考えの表れです。しかしスポーツ選手とか、文学者とか、ミュージシャンとか、優れた人ほど評論家の言うことなんて一切無視してますよね。昔、僕は恩師の微生物学者に、「他人の基準で自分の生き方を決めるな。自分の生き方の基準は自分で決めろ」と言われて、実際にそうやって生きています。

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

242. 中川隆[-10946] koaQ7Jey 2020年10月09日 20:29:43 : yrjMIAA0P3 : NDRaMkxRWk5XM2c=[28] 報告
「素人がコロナを語ると専門家が怒る」という日本は明らかにおかしい
内田 樹,岩田 健太郎 2020/09/23

新型コロナウイルスをめぐって、SNSなどでは「専門家以外は発言すべきでない」という意見が目立つ。それに対して神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏と神戸大学大学院医学研究科教授の岩田健太郎氏は「素人といわれている人たちがコロナについてあれやこれや言うのは当然だ」という——。


※本稿は、内田樹・岩田健太郎『コロナと生きる』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

イノベーションは評価主義になじまない

【内田】僕は評価主義とはできるだけ関わりたくないんです。だから、「お前を査定してやる」という人が出てきたら、そっとその場から離れる。そういう人とディベートして、「あなたの意見と僕の意見のどちらが正しいか決着をつけよう」というのが嫌なんです。それだと評価主義の再生産にしかならない。あなたと僕のどちらが賛同者が多いかとか、どちらがSNSのフォロワー数が多いかとか、どちらが社会的地位が高いかとか、それを比較することでそれぞれの意見の理非を決するというふるまいは、それ自体が査定なんです。僕はそれが嫌なんです。

僕は誰とも論争なんかしたくない。ただ、ちょっと言いたいことがあるので言っているだけなんです。みんな僕の意見に賛同しろとも言わないし、意見が違う人に向かって「黙れ」とも言わない。だから、僕のことは放っておいてほしい。隅っこで言いたいことをぼそぼそ言わせてくれよ、と。それだけなんです。

イノベーションというのはそもそも評価主義になじまないんです。その成果の価値を測る「ものさし」がまだ存在しないようなもののことをイノベーションと呼ぶわけですから。だから、学術的なイノベーションをほんとうに支援したいと思ったら、やりたいやつに好きなようにやらせて、「放っておく」のが一番なんですよ。

日本の1億2000万人が全員「コロナ評論家」
【岩田】まったく同感です。うちの娘たちにも事あるごとに、「他人の評価を気にするな」と伝えています。

【内田】人の評価は気にしちゃいけません。ほめられようが、けなされようが、右から左にスルーすればいいんです。ほめられて増長するのも、批判されて落ち込むのも、どちらも意味ないです。「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」。勝海舟の言うとおりです。出処進退は自分で決めるから、評価はそちらで勝手にやってくれ、と。他人の評価なんかどうでもいいよということは、このコロナ禍でますます確信に至りましたね。

【岩田】今まさに、コロナの分析や予想をめぐって起きていることとも、それは重なります。ネットを見ていると、日本の1億2000万人、世界の70億人が全員コロナ評論家と言ってもいいぐらいじゃないですか。

【内田】そうですね。

素人がコロナを語ると、専門家が怒る
【岩田】みんなコロナについて、何か語らずにはいられない。それぞれコロナのせいで害を被っているんだから、当たり前です。パンデミックって、そういうふうに「全員」に影響を与えるものなので。

ところが素人がコロナについて語ることを、専門家は怒るんですね。「素人のくせに俺たちの専門領域について、デタラメなことを言って」「テレビにまで出やがって」みたいなセリフをよく目にします。テレビの件は、大体テレビに出られない人が言うんですけど(笑)。

フェイスブックを見ていると、僕の業界の人はすごく怒っているんですよ。みんなが評価主義の塊になって、「にわか専門家がテレビで知ったようなことを言うな」みたいなことを本気で書いている。「そんなに頭にくるなら、テレビを観るのやめればいいのに」と思うんですが。

【内田】ほんとに観なきゃいいのにね。それに素人があれこれ言ったっていいじゃないですか。言わせてあげたらいいのに。

日本では「半ちく野郎」とか「半可通」とか「一知半解」とか、「半」という字がつく罵倒の言葉が多いんですよね。中途半端な知識に基づいてものを言う人間を徹底的にバカにする。「よく知らないけど、俺はこんなふうに思うんだよね」と言うと、自称専門家が「黙ってろ、素人は!」と頭ごなしに叱りつける。叱られたら黙る。専門家だけが発言権を持ち、それ以外の者は知らないことについては黙る。自分の経験や知識に基づいて、個人的な意見を述べることは「許されない不作法」ないし「笑うべき愚鈍」と見なされてきた。

素人がアイデアを出すほうが、生産的ではないか
【内田】でも、それっておかしいと思う。半ちくな素人の思いつきがときに思いもかけない創見をもたらすことって実際にあるから。それに僕自身、自慢じゃないけどレヴィナス哲学と合気道以外は、全分野で半ちく野郎なんです(笑)。文学も、映画も、マンガも、能楽も、宗教も、政治も、さまざまな領域でたくさん本を書いていますし、インタビューされたら意見を述べますけれど、どの分野でも専門家というのにはほど遠い。

ただ、「このトピックについては、あんまりよく知らないんですけども、ちょっと意見言ってもいいですか?」って、つい手を挙げたくなるんです。ちょっと何か言いたくなるのは、僕が思っていることを専門家が誰も言わないからです。誰かが先に言ってることなら僕が繰り返す必要ないです。誰も思いつかないようだから、つい手を挙げて言ってみたくなる。別に定説を覆すとか、常識に冷水を浴びせるとか、そんな攻撃的な意図があるわけじゃないんです。ただ、「こういうふうに考えたら、ちょっと面白くないですか?(よう知らんけど)」というだけのことで。でも、そういう「いっちょかみ」に対して専門家たちって、ほんとうに不寛容なんですよね。「素人は隅にいて黙ってろ」って一喝される。

専門家だけが発言できるより、素人が面白がって次々にいろんなアイデアを出したほうが、結果的に学術的にも生産的じゃないかと思うんですけどね。

専門家も慌てて「にわか」で勉強している
【岩田】確かにそうなんです。コロナに関しても今、素人の方から面白いアイデアが出てきています。今朝のニュースで観たんですが、ある学校では熱中症対策とコロナウイルス対策を両立させるために、「子どもたちは傘を差して登校する」ことにしたそうです。日傘で日光が遮られますし、傘を差すことでお互いが近づけなくなるから、ソーシャルディスタンスを保てるんですね。とても面白いアイデアだと感心しましたし、専門家からは出てこない発想だと思いました。

感染症の専門家といっても普段何をやってるかというと、患者さんの検査と薬を出すことがメインの仕事です。だから例えば、「コロナ対策のために、飛行機の空調やエアコンの設定をどうすればいいでしょうか」なんて聞かれても、正確には答えられないんです。航空機内の空調システムまで知悉している専門家は、非常に少数派で、旅行医学という専門分野のさらに細かいエアロメディシンという領域を勉強した人だけです。感染症のプロでもそこまでやっていた人は本当に少数派でしょう。慌てて「にわか」で勉強した人はいると思いますが。

テレビに出ている専門家も、よく知らないことを聞かれたら、慌てて文献を読んでにわか勉強して「10年前から知ってますよ」みたいな顔して言ってる人がほとんどなんですよ(笑)。実際の話、マスクがどれぐらいウイルスを防ぐかといった重要な知識も、前々から勉強してる人はあまりいませんでした。みんな急いで勉強して、にわか専門家として意見を述べているだけなんです。専門家とそうでない人の差は、案外大きくはない。少なくとも、特定のトピックにおいては。

だから、素人といわれている人たちがコロナについてあれやこれや言うのは当然だと思うし、全員がコロナには利害関係があるわけですから、出てきたアイデアは真面目に検討すべきだと僕は思います。

---------- 内田 樹(うちだ・たつる) 神戸女学院大学名誉教授 1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。著書に『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)『日本辺境論』(新潮新書)、街場シリーズなど多数。 ----------

---------- 岩田 健太郎(いわた・けんたろう) 神戸大学大学院医学研究科教授 1971年島根県生まれ。島根医科大学(現・島根大学)卒業。ニューヨーク、北京で医療勤務後、2004年帰国。08年より神戸大学。著書に『新型コロナウイルスの真実』(ベスト新書)など多数。 ----------

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e7%b4%a0%e4%ba%ba%e3%81%8c%e3%82%b3%e3%83%ad%e3%83%8a%e3%82%92%e8%aa%9e%e3%82%8b%e3%81%a8%e5%b0%82%e9%96%80%e5%ae%b6%e3%81%8c%e6%80%92%e3%82%8b-%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e6%98%8e%e3%82%89%e3%81%8b%e3%81%ab%e3%81%8a%e3%81%8b%e3%81%97%e3%81%84/ar-BB19k8SY?ocid=ientp

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

243. 中川隆[-10945] koaQ7Jey 2020年10月09日 20:30:25 : yrjMIAA0P3 : NDRaMkxRWk5XM2c=[29] 報告
事大主義 権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ

内田樹 『日本習合論』ちょっと立ち読み
2020-10-09
http://blog.tatsuru.com/2020/10/09_1315.html


『日本習合論』の販促のために、第一章の一部、共感主義について書いたところを再録しました。ちょっと立ち読みしていってください。

 世を覆っている共感主義の基本にあるのは先ほど来僕が指摘している「多数派は正しい」という信憑です。多数派に属していないということは「変なこと」を考えたり、しているからであって、それは多数派に合わせて矯正しなければならない。そういうふうに考える人がたくさんいる。若い人にも多く見かけます。でもね、そういうのを「事大主義」と言うのです。

 あるインタビューで「じだいしゅぎ」と言ったら文字起こし原稿には「時代主義」と書かれていました。なるほど、「時代の趨勢(すうせい)に逆らわない」から「時代主義」なのか。インタビュアーは若い人でした。熟語は知らないけれど、造語能力はあるなあと思いました。

でも、「じだい主義」の「じだい」は時代じゃなくて事大です。「大(だい)に事(つか)える」。弱い者が強い者の言いなりになって身の安全を図ることです。「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」と同じ意味です。

 マジョリティというのは「大」「大樹」「長いもの」のことです。多数派の言うことはその正否を問わずにただ従う。それが身の安全である。それが当今の作法ですけれど、もちろん今に始まったことじゃありません。「事大」の出典は『孟子』ですから、それくらい昔からそういう生き方は存在していた。

 そういう生き方もたしかに一種のリアリズムではありますけれども、それにしてもマジョリティであるかマイノリティであるかは、それぞれが主張していることの真偽正否とは関係ありません。

 たしかに、「和を乱さない」ということは集団を安定的に維持するためには必要なことです。でも、ものには程度というものがある。日本の場合は、その度が過ぎます。
 僕が「和」をあまり好まないのは、「和」を過剰に求める人は、集団の他のメンバーに向かって「そこを動くな」「変わるな」と命ずるようになるからです。自由に運動しようとするもの、昨日までとは違うふるまいをしようとする人間が出てくると、たしかに集団は管理しにくくなります。だから「和を尊ぶ」人たちは、基礎的なマナーとして「身の程を知れ」「おのれの分際をわきまえろ」「身の丈に合った生き方を知ろ」という定型句をうるさく口にするようになる。

 こういう言葉は僕の子どもの頃まではよく使われました(僕もよくそう言って叱られました)。でも、ある時期から言われなくなった。1960年代からあとはほとんど耳にすることがなかった。むしろ「身の程を知らず」「分をわきまえず」「身の丈を超える」生き方こそが奨励された。

 高度成長期というのはまさにそういう時代でした。人々は「身のほどを知らない欲望」に駆動されて、「おのれの分際をわきまえず」に枠を踏み外し、「身の丈に合わない」大きな仕事を引き受けた。国に勢いがある時というのはそういうものです。「早めに自分のキャラを設定して、自分のタコツボを見つけてそこに一度まり込んだら、そこから出るな」というようなことを僕は若い時には誰からも言われたことがありません。たまにそれに類することを言う人がいても、鼻先でせせら笑って済ませることができた。だって、こちらは現に「身の程を知らないふるまい」をしていて、それでちゃんと飯を食っていたわけですから。

 その定型句がなぜか二十一世紀に入ってから、また復活してきた。気がつけば、頻繁にそう言われるようになった。それは単純に日本人が貧乏になったからだと僕は思います。
 少し前に僕の友人の若手の研究者が同世代の学者たちと歓談した時に、談たまたま僕のことに及んだことがあったそうです。するとたいへん僕は評判が悪かった。どこがダメなのと僕の友人が興味にかられて訊いてみたら「専門以外のことについて口を出すから」だというお答えだったそうです。学者は自分がきちんとアカデミックな訓練を受けた守備範囲から出るべきではない。フランス文学者ならそれだけをやっていればいい。それ以外のことについては素人なんだから、口を噤んで専門家に任せるべきだ、と。

 なるほどと思いました。時代は変わったなあ、と。

 でも、そんなこと言われも困るんですよ。僕は「専門以外のことについて口を出す」ことで飯を食ってきたわけですから。フランスの哲学や文学についてはいくつか論文も書きましたけれど、興味はそこにはとどまらない。ついあちこちに食指が動く。武道論も、教育論も、映画論も、身体論も、マンガ論も、能楽論も、自分の興味の赴くままに、書きました。でも、どれも専門領域というわけではありません。

 武道は四十五年修業していて、自分の道場を持って、数百人の門人を育ててきましたけれど、武道の専門家と名乗るのは今でも恥ずかしい。教育は三十五年それを職業にしてきましたけれど、教育学や教育方法の専門家ではありません。「教壇に立ったことがある」というだけです。映画は若い頃から年間二〇〇本くらいのペースで見てますし、映画についての本も何冊か書きましたけれど、昔から映画の筋も俳優名も観たら忘れてしまう。能楽はそろそろ稽古を始めて二十五年になりますけれど、ただの旦那芸です。

 どの領域でも僕は「専門家」とは言えません。でも、半可通の半ちく野郎ですが、何も知らないわけじゃない。ちょっとは齧(かじ)ったことがあるので、その領域がどういうものか、「本物」がどれくらい凄いかは骨身に沁みて知っています。自分にはとてもできないということはわかる。

 僕の学問だって、こう言ってよければ「旦那芸」です。でも、どの分野についても、その道の「玄人」がどれくらい凄いのか、それを見て足が震えるくらいのことはできます。そこがまるっきりと素人とは違います。自分が齧ってみたことがあるだけに、それぞれの専門家がどれくらい立派な仕事をしているのか、それを達成するためにどれくらいの時間と手間をかけたのかがわかる。そういう半素人です。

 でも、そういう半素人にも存在理由はあると思うのですす。専門家と素人を「つなぐ」という役割です。僕の仕事は『私家版・ユダヤ文化論』も『寝ながら学べる構造主義』も『レヴィナスと愛の現象学』も『若者よマルクスを読もう』(これは石川康宏さんとの共著)も『能楽は楽しい』(これは観世流宗家との共著)も、どれも専門家と素人をつなぐための仕事です。

どの分野においても、僕は専門家ではないけれど、専門家の仕事を読者に噛み砕いてお伝えすることはできる。そうやって底辺を広げることはできる。底辺が広がらないと高度は得られないと思うからです。でも、そういう仕事は「専門家のもの」としては認知されない。そして、たまに「専門領域でもないことについて中途半端に口出しをするな」と叱られる。

 でも、それが僕には納得できないんです。僕のような半素人が一知半解の言説を述べたとしても、そこにいくばくかの掬(きく)すべき知見が含まれていることもある(かも知れない)。それがおもしろいと思う人は読めばいいし、読むに値しないと思う人は読まなければいい。それでいいじゃないですか。「掬すべき知見が含まれているかどうか」は先方が判断することであって、僕が決めることじゃない。ましてや、僕に向かって「決められた場所から出るな」と言われてもおいそれと肯(うべな)うわけには参りません。繰り返し言うように、僕は決められた場所から出て、好きなところをふらふら歩き回ることで食ってきたわけで、「やめろ」というのなら休業補償して欲しい。

 でも、この「おのれの分際をわきまえろ」「身の程を知れ」という恫喝は最近ほんとうによく聞くようになりました。

 小田嶋隆さんが前にツイッターで財務大臣について批判的に言及したら、「そういうことは自分が財務大臣になってから言え」という驚嘆すべきリプライがついていたことがありました。でも、こういう言い方は、たしかに近頃ほんとうによく目にします。
 僕が政治的なことについて発言した時にも「それならあなた自身が国会議員になればいいじゃないか」と絡まれたことがあります。僕の知り合いが、ある有名ユ―チューバーについて批判的なコメントをしたら、「そういうことは再生回数が同じになってから言え」と言われた。ある若手経営者について批判したら「そういうことは同じくらい稼いでから言え」と言われた。

 全部パターンが同じなんです。批判したければ、批判される対象と同じレベルにまで行け、と。だから、「権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ」ということになる。それはいくらなんでも没論理的ではないですか。
「現状に不満」というようなことは現状を変えることができるくらいの力がある人間にしか言う資格がない。無力な人間には、そもそも「現状に不満である」と言う権利がない。こんな言明にうっかり頷いてしまったら、もう「現状を変える」ことは永遠に不可能になります。だって、今あるシステムの内部で偉くなろうとしたら、まずシステムを受け入れ、そのルールに従い、他の人たちとの出世競争に参加して、そこで勝ち残らなければならないからです。勝ち残ることができなくて、途中で脱落すればもちろん現状は変えられない。勝ち残ってしまったら、「自分を出世させてくれたシステム」を変える必然性がなくなる。グルーチョ・マルクスのように「自分を入会させるようなクラブには入会したくない」ということが言えるのはごく例外的な人だけです。ふつうの人は「自分が偉くなれる仕組みはよい仕組みである」と考える。

「現状に不満があったら、まず現状を変えられるくらい偉くなれ」という言明は人を現状に釘付けにするためのものです。人を今いる場所に釘付けにして、身動きさせないための「必殺のウェポン」として論争で愛用されている。実に多く人たちが喜々としてその定型句を口にしている。

 こういうのは時代の「空気」を映し出しているんです。どういう「空気」かというと、「自分に割り振られたポジションにいて、そこから出るな」という圧力です。その圧力が大気圧のように日常化している。日常化しているので、圧力がかかっているということ自体が実感されない。

 共感主義者たちは「和」をうるさく言い立てます。異論を許さず、逸脱を許さない。みんな思いを一つにしないといけない、われわれは「絆」で結ばれている「ワンチーム」なんだ、と。でも、この時に彼らがめざしている「和」なるものは、多様なものがにぎやかに混在して、自由に動き回っているうちに自然に形成される動的な「和」ではありません。そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。

「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。

 共感なんか、なくてもいいじゃないですか。そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる。その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。でも、そのことをアナウンスする人が少ない。
 http://blog.tatsuru.com/2020/10/09_1315.html  

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244. 2020年10月22日 04:04:05 : aqJrPGiyr2 : dGEwdjFMc0FTbi4=[10] 報告
内田樹「日本学術会議問題は『大学人』=『学者』の認識違いに始まる」
https://dot.asahi.com/aera/2020102000064.html
2020.10.21 07:00 内田樹 AERA dot. AERA 2020年10月26日号

 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

*  *  *
 日本学術会議の会員任命拒否に対して多くの学会が一斉に抗議の声を上げた。この事案は、そもそも日本学術会議法違反であること、従来の政府の法解釈と齟齬していること、任命拒否の理由を開示しないこと、誰が任命拒否の責任者であるかを明らかにしないこと、ネットを使って論点ずらしと学術会議への攻撃を始めたことなど、政府対応の知的・倫理的な低劣さは眼を覆わんばかりである。

 たしかに安倍政権は久しく政権との親疎(というより忠誠度)に基づいて政治家、官僚、ジャーナリストを格付けしてきた。権力者におもねる者は累進を遂げ、苦言諫言をなす者は左遷された。国民はもうそれに慣れ切ってしまった。「能力ではなく忠誠度で人を格付けすることができるほどの権力者には服従する他ない」という無力感と諦念のうちに日本国民は浸っていた。だから、官邸は今度は学者を相手に同じことをしようとした。日本学術会議は若干の抵抗はするだろうが、最終的には任命拒否を受け入れる。官邸はそう予測していた。過去に成功体験があったからである。

 2014年の学校教育法の改正で大学教授会はその権限のほとんどを奪われた。「教授会自治」というものはもう日本には存在しない。いま大学は限りなく株式会社に近い組織に改変された。でも、その事実を多くの国民は知らない。大学人たちが組織的に抵抗しなかったからである。法改正に反対して職を賭して戦った大学人のあることを私は知らない。みな黙って権利剥奪を受け入れた。そのとき、官邸は「学者というのは存外腰の弱いものだ」と知った。

 だが、彼らは「大学人」と「学者」は別ものだということを知らなかった。大学人は大過なく定年まで勤めることを切望している「サラリーマン」である。学者は違う。学術共同体という「ギルド」で修業を積んできた「職人」である。どれほどの「腕前」であるかがギルド内の唯一の査定基準である。そのものさしを棄てたらもうギルドは存在理由を失う。政府は「サラリーマン」を支配したのと同じ手で「職人」を支配しようとした。そして思わぬ抵抗に遭遇した。私はそう見立てる。

245. 中川隆[-10078] koaQ7Jey 2020年11月08日 07:41:24 : clChoBGbOA : L3dzaVcvS1dSVkE=[3] 報告
日本の「人口あたり論文数」が先進国で最下位に 研究者が中国に向かう背景とは
2020年11月5日号掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/11080557/?all=1


「千人計画は、中国におけるハイレベルな人材を招致する計画であり、さまざまな報道や議論があることは承知している。政府としては引き続き高い関心を持ち、動向を注視していきたい」

 そう語ったのは加藤勝信官房長官。10月22日の定例会見で、記者から「日本学術会議」問題で一躍その名が知れ渡った「千人計画」について、政府の見解を問われた際の発言である。

 2008年から中国政府国務院と中国共産党が、多額の資金を武器に世界中の優秀な科学者らを招聘してきた謎のプロジェクト。最先端の知財が秘密裡に盗まれたとして、アメリカでは参加した科学者などが40名以上も逮捕されている。

 欧州や豪州をはじめ西側諸国が警戒を強める一方、多くの学者が参加している日本はあまりにも無防備なまま。10月22日号から本誌(「週刊新潮」)が報じてきたように、この計画では東大をはじめとする一流大の日本人研究者が、軍事兵器を積極的に開発する大学などに招かれていた。

 前回までを簡単におさらいすれば、「軍民融合」を掲げる中国では、民間の研究であろうと軍から求められれば、その成果を無条件に提供しなければいけない。斯様(かよう)な義務を法的に課す国で、自らの研究が「軍事転用」される危険性に無自覚な科学者たち。背景には、日本で研究予算が削られポストがなく、「中国に行くしかなかった」状況があると抗弁するのだった。

 すぐにでも手を打つべきところ、冒頭の官房長官発言でも分かる通り、日本政府は「動向を注視」するに留まる。その間にも、中国は強(したた)かに成果を上げているのだ。

 東大名誉教授ながら、「千人計画」で中国トップの北京大学と並ぶ最高レベルの大学として知られる清華大学丘成桐数学科学センター教授となった二木昭人氏(66)はこう話す。

「優秀な人が、日本で早く安定した職に就けるようにする必要があると思います。私が若い頃は、国公立の大学教員は教官と呼ばれ公務員でしたから、職を持てば定年まで身分保証があった。しかし、国立大が法人化されて就職時の約束は形式上、反故にされてしまった。現在は短期的に成果の上がる研究を繰り返すことを余儀なくされ、腰の据わった深い研究をすることは難しくなってしまいました」

 同様に「千人計画」で長春理工大学の特聘教授となった富江敏尚氏(69)は、

「産業技術総合研究所時代の教え子に、中国人がいました。母国に帰って研究室を持つようになってから、“先生が定年になったら迎え入れたい”と言ってくれていた。中国には先生を大切にする文化があるようで、恩返しをしたいと思ってくれたのでしょう。私が定年を迎える頃に、たまたま『千人計画という制度がある』という話になって、自分の知識や経験を役立てることができたらと思い日本を離れました。中国の大学では教え子の研究室のレベルが上がるように、指導やサポートを行っています」

 本来なら日本で後進の育成にあたるはずだった優秀な研究者らを、言葉巧みに中国が奪っていったことで何が起きたか。20年前、我が国の自然科学系の論文数は、アメリカに次ぐ世界2位を誇ったが、今や1位は中国。2位はアメリカ、そしてイギリス、ドイツと続き日本は5位に転落したのだ。むろん論文は数のみならず「質」も重要だが、目安となる「引用数」でも大幅に低下する始末。材料科学の分野に限っても、およそ20年前は東北大が世界1位だったところ大幅に順位を下げ、代わりにトップに立つのは中国科学院である。

コピー代もままならず
「人口あたりの論文数の推移で見ても、欧米に韓国を加えた主要先進16カ国の中で日本は最下位です」

 と解説するのは、『科学立国の危機 失速する日本の研究力』の著者で鈴鹿医療科学大学学長の豊田長康氏(70)。

「人口の少ない台湾や香港も含めたデータだと、日本は38位で東欧の旧社会主義国であるスロバキアやセルビアと同等でした。日本で学術論文を生産してきたのは圧倒的に国立大学ですが、中小の国立大、特に理工や数理系分野では、ピーク時から20%も落ちている。ノーベル賞受賞者は東大や京大の出身者が多くいますが、iPS細胞の山中伸弥教授は神戸大出身で、青色発光ダイオードの発明者・中村修二教授も徳島大OB。旧帝大以外の国立大からも、輩出してきたわけです」

 ところが、04年に国立大学が法人化されて以降、文科省は「選択と集中」をスローガンに掲げ、旧帝大などトップの大学に偏って「競争的資金」を投入してしまう。文科省から全国の国公立大学に配られていた運営費交付金も見直され、減額されてしまったというわけだ。

「運営費交付金の削減は、日本の研究力に大きなダメージを与えたと言っていいでしょう。そもそも論文生産数は、旧帝大も中堅国立大もほとんど変わりはありませんでしたが、『選択と集中』によって資金配分が見直され、日本の論文数は増えるどころか減り、国際競争力が低下しました」(同)

 科学立国を担う国立大の現状は、貧すれば鈍すると言っても過言ではない。

 植物分子遺伝学が専門で静岡大学農学部教授の本橋令子氏(53)に聞くと、

「国からの運営費交付金は研究室にとっての基礎体力。それが法人化以降、半減かそれ以下になりました。私の研究室では年間25万円くらいしか貰えず、コピー代もままなりません。学生からプリントはカラーの方が見やすいと言われても、予算が足りないとインク代は持ち出しになってしまう。それで仕方なく白黒で刷るしかないのです」

 大学との決まりで研究室の電気代は半額自己負担、実験用マウスの飼育室や植物の栽培室にも「スペースチャージ」、つまり場所代を支払わなくてはいけなくなった。お金がないことで、学生への教育にも余裕がなくなっていると明かすのだ。

「試薬代などで1回5千円かかるような実験だと、予算の都合から学生には“失敗しないでね”とつい言ってしまう。大きな発見には、膨大な失敗や偶然の結果から生まれたものが多くある。本来は学生の思いつくまま、自由な発想で実験をさせてあげたいのですが、予算不足で叶いません」

 岡山大学に8年ほど籍を置き、現在は京都薬科大薬理学分野教授の田中智之氏(50)は、こう話す。

「日本の研究環境は急激なスピードでやせ細っています。東大で予算が潤沢な研究をしていた若い研究者が、仮に地方へ移ったとしても結果を出し続けることがかつてはできた。そこに留まり研究者として出世したり、また東大に戻るなど国内における人材の良い循環が生まれていた。ところが『選択と集中』の結果、一度でも地方の国立大などに移ると成果を出すことは難しい。人材市場が循環しなくなって、日本人が自分たちの力で若い世代に教育を施せなくなってきています」

 なぜ日本は国立大に大鉈を振るい、中国を利する結果を招いたのか。その当事者に尋ねると、耳を疑う答えが返ってきた。

「どんどん行けばいい」
「国立大学の法人化は失敗でした。若手の研究者を雇う余裕がなくなり、日本の科学技術のレベルが低下したのは事実です」

 とうなだれるのは、東大総長から政界に転じ、自民党所属の参院議員として小渕政権下で文部大臣を務めた有馬朗人氏(90)である。

「バブル崩壊後、行革の一環で公務員を削減する動きの中で、国立大学の法人化は、私が文部大臣を務めていた1999年に実質的に決まりました。大臣の諮問委員会で方向性が決定し骨子ができたのです。法人化に向けては自民党で委員会が作られ、私は委員長である麻生太郎さん(現・財務相)をサポートしていたんですが、法案には付帯決議として“必要な運営費交付金を確保する”旨を盛り込んだ。ところが、蓋を開けたらビックリ仰天。毎年、交付金が減らされていったわけです。昨年、麻生さんに直接文句を言ったところ、ニヤッと笑っただけでしたが……」

 今や日本の大学レベルが中国に抜かれてしまったことについて尋ねると、有馬氏はこう言い放つ始末なのだ。

「私は81年以降、毎年のように中国へと足を運んでいます。日本でいえば東工大にあたる上海交通大学の名誉教授でもある。向こうでは、基礎物理学の原子核構造を研究して論文を書いている。100本くらい私の名前が載っていますよ」

 まさに中国の思う壺ではないかと問うたところ、

「私は中国へどんどん行けばいい、大いにやれという考え方ですよ。中国の科学研究が発展しているのなら、日本人やアメリカ人が出向き、その知識や経験を持って帰ってくればいいと思う。『千人計画』だって、私に時間があれば行ってやろうという気持ちですよ。もちろん、AIや宇宙の研究などは軍事に結びつく危険がある。軍事研究に該当するのであれば私は協力しないという態度を、きちんと表明した上での話ですが」

 日本は「遣唐使の時代」に立ち返れと言わんばかりなのだが、中国への無警戒さには只々呆れるばかり。有馬氏は何処ぞの国のために“大学革命”を推し進めていったのではあるまいか。疑いたくもなる。

 核融合の専門家で、さる旧帝大の名誉教授である男性はこう嘆く。

「原爆を作った一人であるオッペンハイマーが理論物理学者だったように、核とは何かということに非常に詳しい人であったわけです。たとえば原発の使用済み核燃料に含まれるプルトニウムは原爆の原料に使われますからね。いかに効率よく原子炉を動かすかを研究すれば、プルトニウムを合理的に製造する方法に転用できてしまう。特に中国は、どこの大学でも軍事研究が当たり前の上に、民主主義の国ではないことに日本の科学者は無自覚なのでは」

 お花畑で暮らす研究者たちは、かの国にとってみれば格好の餌食だ。

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246. 中川隆[-9930] koaQ7Jey 2020年11月15日 11:57:45 : WBwhDwKyTw : MGZIdEtpL1hETS4=[28] 報告
旧帝大で国家プロジェクトに入り込む「中国人研究者」たち 日本の技術が中国で軍事転用も
週刊新潮 2020年11月12日号掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/11150558/?all=1


入国の緩和で「千人計画」は再び拡大か

 中国政府が推進する「千人計画」は、世界中の優秀な研究者を好待遇で集めるプロジェクト。多くの日本人研究者もこれに招かれているが、反対に中国人研究者も日本に渡り、最先端の研究プロジェクトに参加している。千人計画に参加する東大名誉教授に「知財流出を防ぐ手立てはない」とまで言わせる実態とは。

 ***

 中国大陸と我が国との往来が、本格的に再開の兆しを見せている。11月1日から、中国、韓国など11の国と地域からの入国者は、羽田や成田空港などでの新型コロナウイルスの検査を受ける必要がなくなったのだ。水際対策の緩和で、再び海の向こうの人々との交流が活発になれば、「中国千人計画」の更なる拡大が懸念されるのは言うまでもない。

 日本のみならず欧米など西側諸国の科学者たちを招聘し、中国で研究に従事させる。結果、さまざまな知財を吸い取らんとする謎に満ちた極秘プロジェクトの実態を、本誌(「週刊新潮」)はこれまで3度に亘って報じてきた。実際に我々の取材に応じてくれた参加者は、東大、京大など旧帝大の教授たちや、研究予算の削減などで日本にポストがなく大陸へと渡った若い研究者など。彼らの声に耳を傾けて見えてきたのは、中国の強(したた)かな戦略だった。

 今回紹介するのは、これまでと異なる形で日本の知財を吸収しようとするやり口――。つまりは、我が国に直接乗り込まんとする中国の姿である。

「中国人の学生を東大に入れた」
東京大学
中国人留学生が集う旧帝大(他の写真を見る)

「中国に行く日本人よりもっとずっと大きな問題は、日本で研究する中国人の存在だと思います」

 とは、「千人計画」に参加した70代の東京大学名誉教授。絶対匿名を条件にその実情を語るのだ。

「日本で国家プロジェクトに参加するような最先端の大学の研究グループでは、実験を担う博士課程の院生の多くが中国からの留学生です。このような現実の中で、日本の科学技術の海外流出を防ぐ手段はまず考えられません。その原因は、日本では21世紀に入ってからずっと、優秀な学生が大学院に進学してこないという状況が続いていること。それほど遠くない将来、日本から漏洩するような知財はほとんどなくなっているでしょう」

 そう口にして、彼の国へと渡った経緯を振り返る。

「中国の大学へ行ったのは、定年退職を前にして国内での良い話がなかったから。そうこうするうちに、東大の博士課程を経て中国の大学教員になった教え子から招聘を受けた。条件は組織、設備、研究費など、どれをとっても日本では絶対に考えられないくらい良かった。もちろん周囲から知財流出の危惧についてはアドバイスを受けましたが、私の研究分野は環境バイオ。中国の汚染された環境を修復するために役に立つことは、なんの問題もないと考えました」

 この分野では、中国の実力が上がりつつあるそうで、

「若手研究者の数、研究費の差などからみて、多くの研究分野で日本がこれから中国と対抗していくのはとても大変です。遣唐使の時代に戻るとは思いませんが、安全保障と関係が薄い分野では、日中の科学技術交流は日本が生き残るために必須と考えます。もはや『知の流出』が避けられない以上、国際交流なしに国家の存続はあり得ません。日本が『知(血)』の純潔を守ろうとすれば、それは国家衰退への道だと信じます」

 事実、日中の架け橋になっていると自負するのだ。

「すでに日本に行きたいという中国人の学生を何人か東大に入れていますし、他にも欧米に留学していった教え子もいます。10年後に彼らが中国に戻ってきて、母国の環境問題解決に貢献するのが今一番の楽しみ。日本では有望な中国人が多く育っています」

 中国からすれば、「千人計画」で一流大の研究者を招聘すると、将来が嘱望される中国人を日本に送り込む窓口にもなってくれる。まさに一石二鳥というわけだ。


日本の叡智が中国の軍事研究を推進
 憂うべきは、多くの中国人を抱える東大に、「国防七校」に絡む留学生らが在籍していることだ。「国防七校」とは、中国人民解放軍との繋がりが深く、ミサイルや戦闘機など軍事兵器の研究開発に力を入れている大学だ。ちなみに、経産省は大量破壊兵器などの開発への関与が懸念される海外の研究機関を「外国ユーザーリスト」として公表。「国防七校」では、北京航空航天大学と哈爾濱(ハルビン)工業大学が掲載されている。なお本誌ではこれまで、「千人計画」でこれらの大学に招聘された日本人学者の証言も紹介してきた。

 ざっと東大の理工系研究室のホームページを確認しただけでも、北京航空航天大のロボット研究所や飛行機設計学科、また哈爾濱工業大の出身者が所属していることが見てとれる。東大以外の旧帝大でも、JAXAの公募プロジェクトで航空機に関わる研究を行う教授は、北京航空航天大の出身者を受け入れていた。

 さらに北京航空航天大や哈爾濱工業大などの教授の経歴も辿ってみれば、幾人もが、東大や京大、東工大などへと留学していた旨を、誇らしげにウェブ上で公表してもいるのだ。

 その最たる人物として挙げられるのが、2016年に中国共産党創立95周年大会で、習近平国家主席から「中国の航空事業に多大な貢献をした」として表彰された北京航空航天大の宮声凱教授(64)だろう。

 彼は1988年に東工大で博士号を取得。世界に先んじて大型戦闘機に転用できるエンジン技術を完成させたとされるが、所属する北京航空航天大のウェブサイトでは、こう紹介されている。

〈80年代初頭から宮声凱は日本に公費留学し、94年に帰国後は北京航空航天大の材料科学・工程学院院長に就任した。帰国した頃の心境について、宮教授は語った。「科学に国境はないと言いますが、しかし私は思うのです。科学者には祖国があり、中国人は自分の国のために貢献すべきだと」。国家的な課題に直面すると、一人の優秀な共産党員として、宮声凱は一度も諦めることはなかった〉

〈「我々は宮先生というリーダーの下、祖国の航空事業の発展のため、国家戦略に応じて、国防に奉仕し続ける」。これは宮声凱、またはその他の研究員の心の声であり、北京航空航天大学の研究者の真実の姿を映している〉

 日本の血税により磨かれた叡智が、中国の軍事研究を前進させていたのだ。

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247. 2020年12月27日 17:12:05 : FRaqZnrJmP : eVhnV01CT2dEcWc=[22] 報告
新型コロナで揺らぐ「科学立国ニッポン」の土台 2020年12月25日
NHKスペシャル「パンデミック 激動の世界」シリーズ
田部康喜 (コラムニスト)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/21714


 「科学立国ニッポン」は、新型コロナウイルスに打ち勝つことができるのか。NHKスペシャル「パンデミック 激動の世界」シリーズは、日本の科学の屋台骨が揺らいでいるのではないか、と問う。「“科学立国”再生への道」(12月20日)は、民間から文部大臣となり、その後も日本の科学教育のあり方にかかわってきた、有馬朗人さん(7日死去、享年90)の最後のインタビューを軸として、コロナと戦う研究現場を舞台にした迫真のルポルタージュである。

 番組の冒頭、有馬さんのインタビュー映像が流れる。

 「(日本の)教育環境のひどさは大変だ。日本がアジアで一番だと思っていたが、みんな下がっちゃった」

 新型コロナウイルスに関する論文は、世界で約8万本が書かれている。国別のトップ3は、米国と英国、中国である。欧州各国が続き、日本は16位に過ぎない。テーマ別でも「ワクチン」や「免疫」などの主要な分野で、日本の貢献度は低い。

 「科学立国ニッポン」の衰退の原因について、番組は「科学研究の司令塔」の不在に迫る。

 新型コロナウイルスに対するワクチン開発などでリードする、米国の国立衛生研究所(NIH)と、日本のコロナ対策は対照的である。

 NIHは今回のコロナ対策費として、米政府から最大2000億円の資金配分を任された。さまざまな研究チームに配分すると同時に、研究データは一元管理する。そのデータを検討して、必要と認めれば資金を追加投入する。

 さらに、ワクチン治験の最終関門でありかつ最もハードルが高い、臨床試験においては、全米で15万人の試験を受けるひとのネットワークをつくって、ワクチン開発者にこたえた。

 NIH・NIGMS所長のジョン・ローシュさんは、「(NIHは)開発から臨床まで一貫して指導する」という。

 日本はどうか。政府はワクチン開発の資金として、5つの研究チームに対して計485億円を配分した。

 大阪大学寄付講座教授の中神啓徳さんのチームは、110億円の資金を得た。ワクチン開発のスピードをあげるために、中神チームはウイルス利用ではなく、世界的に初の試みとなるDNAを活用した「遺伝子ワクチン」の開発を目指している。遺伝子情報をとりだして、免疫をつくり、大量生産が可能なDNAの特性に目をつけたものだ。

 開発に向けて、動物実験など、さまざまな段階を10カ所の研究機関に分担させるなど、スピード重視である。12月初旬に500人を対象にした、臨床実験にこぎつけた。これまでに比べると、異例の早さである。

 しかし、安全性を確認するには、1万人規模の治験が必要で、その確保は研究チームに委ねられている。そもそも、欧米に比べて感染者が相対的に少ない日本では、大規模な治験は難しい。共同研究している、創薬メーカーからは、海外での治験の提案があるが、そのためには新たに政府の資金を求める必要がある。

再生の芽はあるのか

 大きな問題は、科学研究を担う若手研究者の疲弊である。期限付きの研究者の割合が急速に増加して、若手は安心した研究環境を得るのが困難になっている。

 国立大学の40歳未満の教員において、「期限なし(長期雇用)」と「期限付き(短期雇用)」の割合をみると、2007年には、「なし」が61%に対して、「付き」が39%だった。ところが、2019年になると、「なし」が34%、「付き」が66%と大きく逆転している。

 国立大学が2004年に独立行政法人になったことが要因である。政府からの資金は、従来からの大学運営費に相当する「運営交付金」と、新たに「競争的資金」の2本建てになった。後者は研究者が政府に申請して、資金を獲得するインセンティブを与えて大学を活性化する目的があった。

 ところが、2006年の財政改革によって、「運営交付金」が毎年1%ずつ削減されることになった。この費用は人件費が大部分を占める。若手研究者は「期限なし」の職を得ることが困難になった。「競争的資金」による「期限付き」雇用が増えた。

 「科学立国ニッポン」の再生の芽がないわけではない。番組は、沖縄科学技術大学院大学(OIST)に目を向ける。2011年に設立された大学は、故・有馬朗人さんも理事としてかかわった。世界の大学、研究機関のなかで、影響力のある論文を発表しているベスト100のなかで、東京大学が40位なのに対して、OISTは9位である。世界トップクラスの研究機関と肩を並べている。

 OISTの特徴は、3つに集約される。第1は、研究期間を短期に縛らない。第2は、研究状態の不断のチェック体制がある。第3は、研究分野を超えた連携である。

 研究チェックを担当するのは、プロボス(Provost)と呼ばれる役職である。研究の司令塔役を果たす。研究予算の配分を統括し、進捗状態に応じて資金の追加もする。

 プロボスのメアリー・コリンズさんは、生物学者として欧米の研究機関のチームにかかわって成果を上げてきた人物である。次のように語る。

 「科学とは何度も挑戦して、失敗しなければ答えが得られない。私の役割は、科学者の先輩として助言を行うことです。ただ、上から管理するのではなく、着実に成果に導くような支援が重要なのです」と。

248. 中川隆[-8526] koaQ7Jey 2021年1月06日 17:50:27 : ZA3yXgdpkw : QUlhc0NGL0RrdVE=[28] 報告

自由を失った日本の科学の凋落 武蔵野学院大学特任教授・島村英樹
2021年1月6日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/19749


 しまむら・ひでき 1941年東京都生まれ。東京大学理学部卒業。北海道大学地震火山研究観測センター長、国立極地研究所所長を経て武蔵野学院大学特任教授。著書に『火山入門』(NHK出版新書)、『「地震予知」はウソだらけ』(講談社文庫)、『「地球温暖化」ってなに? 科学と政治の舞台裏』(彰国社)、『完全解説 日本の火山噴火』(秀和システム)など多数。

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 2020年、日本はノーベル賞を逸した。いくつかのテレビ局が発表の瞬間の中継を狙ったが、空振りに終わった。

 1901年から始まったノーベル賞の100年あまりの歴史の中で、日本は非欧米諸国の中で最も多い28名の受賞者を出している。21世紀に入ってからでは、自然科学部門の国別で日本は米国に続く世界第2位のノーベル賞受賞者数だった。

 もちろん、ノーベル賞には否定的で厳しい評価もある。狙って獲るものだという話もある。また、白人優先はあるだろう。しかし、2020年はゼロだったことが象徴しているように、これは日本の科学の凋落ぶりを示している。

 日本の大学の理系の論文数が、2000年ごろから伸びが止まって、その後落ちてしまった。他方、世界では質の高い論文の本数がこの20年で増加していて米国や中国の論文数が飛躍的に伸びている。「質の高い論文数を示す国別世界ランキング」で日本は2000年の4位から2016年は11位と急激に落ちた。

 2016年に発表された中国の論文数は約43万本で、約41万本だった米国を抜いた。日本は2015年にインドに抜かれ、2016年は中国、米国、インド、ドイツ、英国に続く6位だ。米国は中国に抜かれた領域も多い半面、生命科学分野の大半などで首位を堅持していて約20年前から一貫して全領域で上位5位以内に入っており、トップレベルの研究力を維持している。

 日本は約20年前は83領域で5位以内だったが最近は18領域に減少。首位はなく、2領域での3位が最高という現状なのだ。従来、日本が強いとされてきた化学や材料科学でも徐々に上位論文の割合が減少している。

 その間に、中国は2015〜2017年の同ランキングで理系の151研究領域のうち71領域で首位を占めている。これから中国はノーベル賞の獲得数でも多くなるに違いない。

◇   ◇

 日本の科学の凋落には、いくつかの理由がある。

 ひとつの大きな要因は2004年にすべての国立大学が一斉に独立法人にされたことだ。国立大学を運営する予算である運営交付金も年々減らされ、10年間ごとに13%も減額された。自分で金を稼ぐこと、つまり外部資金を導入することが大学にとって不可欠になってきているのである。これは多くの基礎科学分野にとってのつらい制約だ。また、経営陣を大学外部から招いたほか、学内の教官たちによって選ばれた学長候補をさしおいて天下り官僚が学長になったところもある。

 そもそも、科学のための金が、付け焼き刃でしかなく、しかも、いまの日本の政治と直接に結びつきやすくなったことが日本の科学の凋落の大きな理由でもある。日本の官民合わせた研究開発費総額は、2007年度以降、17兆〜19兆円で推移していて10年以上横ばいで増えていない。他方、企業の儲けは内部留保に向かい、研究開発に投じられていない。研究開発費のうちで政府負担割合は日本はわずか15%で、主要国から大きく引き離されている。

◇   ◇

 たとえば2014年に木曽御岳で戦後最大の火山被害が出た。63人の死者・行方不明者が出たのだ。その直後、政府は慌てて、火山研究に金を出すことを決めた。典型的な付け焼き刃である。

 しかし金だけつければいいものではない。
 日本中で火山研究を積極的に研究している科学者は、じつは両手の指で数えられるくらいしかいないし、大学で火山学を専攻しているところもせいぜい数カ所しかない。私立大学にはまったくない。気象庁にも、火山の大学院教育を受けた職員はほとんどいない。陸上の火山の7分の1が、陸地の面積の0・28%に集中しているという火山大国・日本はお寒い現状なのである。

 金を出すことそのものには反対ではないが、これは根本的に改善すべき教育の方針そのものの問題である。急に水だけやっても植物が育つわけではない。

 火山学研究には限らない。人口当たりの修士・博士号取得者が、主要国では日本だけ減っている。日米英独仏中韓の7カ国で人口100万人当たり取得者数では修士号の取得者数は、中国で2008年度比1・6倍、フランスで1・3倍などで、日本以外は増加しているのに、日本だけが2008年度比0・97倍の570人と減っている。博士号も同じ傾向で、日本の博士号取得者は2006年度をピークに減少に転じている。


◇   ◇


 政府は2015年度から「安全保障技術研究推進制度」を導入した。国の防衛分野の研究開発に役立つ基礎研究を民間企業や大学に委託、金を出す制度だ。公募は防衛装備庁が提示する研究テーマに沿っている。防衛装備庁は基礎研究が主体と主張している。

 2020年度には応募は120件で、そのうち21件の研究課題が採択になった。2020年は企業や公的研究機関が応募したために応募件数総計だけを見ると過去最多になったものだ。大学の採択は二つだ。玉川大学と情報セキュリティ大学院大学である。このほか、海洋研究開発機構や理化学研究所などの国立研究所が入っている。

 軍事目的のための科学研究を行わない方針の日本学術会議といくつかの大学は、この防衛分野の研究に反発している。このためもあって大学の応募は2015年度には半数以上の58件が大学からの応募だったのに、2020年度は9件に減少している。大学からの応募は年々減少傾向で2016〜2019年度でも23、22、12、9になっていて、じり貧状態だ。

 しかし研究者は、そもそも金、つまり研究費に飢えている。独立法人化や減らされている運営交付金という環境の中で、研究に使う研究資金が年々高騰しているので、数年前よりはずっと研究に使える金が減っているのだ。「どこからの金でも良い、貰えるならば」からは紙一重なのである。

 この「安全保障技術研究推進制度」は金がほしい研究者の足元を見ている。“研究者版経済的徴兵制”だという指摘もある。しかし、喉から手が出るほど欲しい金であることも事実なのである。

◇   ◇

    
 日本では考えなければならないことがある。それは短期的な付け焼き刃ではなく、長期的な視点で底上げを図ることだ。

 欧州などいくつかの国では大学は無償である。たとえばノルウェーやアイスランドは無償だ。デンマークにも無償教育があり、18歳以上の学生、または18歳未満で高等教育を受けている学生に対して毎月の給付金を支給している。アルゼンチン、ブラジル、キューバ、チェコ、ギリシャ、ハンガリー、トルコ、ウルグアイなどは無償だ。2013年からはエストニアも無償の高等教育の提供を始めた。全員が無償で大学教育を受けられる。

 これは大学の無償化は「国力」だという考え方によっている。まさに「国力」で、将来への投資としては、もっとも有望なはずである。

 ところで日本では2019年5月に大学などの学費を無償化する「大学等における修学の支援に関する法律」が成立した。2020年4月から大学生に対する支援策が始まる。この政策は「大学無償化」として議論されてきたが、実際には低所得層に限定した支援策だ。全員が無償で大学教育を受けられるという、欧州その他の国々で導入されているような施策とは大いに違っている。

 ないよりもマシだが、私のいう本筋ではない。 

https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/19749

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249. 2021年2月03日 16:39:05 : HOrFCQMYeE : QzVQOWd1WExGdnM=[11] 報告
【Front Japan 桜】規模10兆円!大学ファンドの何が問題か?[桜R3/2/3]




キャスター:室伏謙一・saya
■ 規模10兆円!大学ファンドの何が問題か?
250. 中川隆[-7695] koaQ7Jey 2021年2月05日 13:40:50 : rbwCQpuSgs : eEc0YkNkUVZqY0E=[23] 報告
2021年2月5日
【施 光恒】英語化が拍車をかける日本の衰退
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
https://38news.jp/politics/17556

先日、産経新聞の地方版(九州・山口版)のコラムに、久しぶりに英語化問題について書きました。

【国家を哲学する 施 光恒の一筆両断】「英語化は本当に経済を活性化させるのか」(『産経新聞』(九州・山口版)2021年2月1日付)
https://www.sankei.com/region/news/210201/rgn2102010004-n1.html

昨年4月から小学校での英語正式教科化が始まりましたが、これが推進された主な要因は、経済界からの強い働きかけでした。

経済界はしばしば次のように主張していました。

「日本経済の昨今の停滞はグローバル化の波に乗り遅れたせいだ。英語が堪能な『グローバル人材』を増やさなければならない。英語化が進めば、経済が活性化する。また、国籍にとらわれず英語で多様な人材が交流できれば、日本の企業や社会の創造性も増すはずだ」。

上記の産経のコラムのなかで、私は経済界のこの主張は大いに疑わしいと論じました。

その際、ドイツの経済学者C・ビンツェル教授らの最近の論文「俗語化と民主化」というものに触れました。(この論文の存在、京大の柴山桂太さんに教えてもらいました)。
(Binzel, C., Link, A and Ramachandran, R., “Vernacularization and Linguistic Democratization,” CEPR Discussion Paper 15454, 2020)

この論文、非常に面白いものでした。ビンツェル教授らは、中東地域を主な研究対象とする経済学者です。アラブ諸国の経済発展がなぜ進まないのかという問題意識から、アラブ社会の言語状況に興味を抱きました。アラブ社会では、書き言葉と話し言葉が現在でも異なっています。主にエリート層が用いる書き言葉と、庶民が日常生活で用いている各地の話し言葉が大きく違っているのです。

これはちょうど、中世ヨーロッパでは、エリートの言語と、庶民が日常で使う言語が異なっていた状況と似ています。中世ヨーロッパのエリートはラテン語で交流したり、知的活動に従事したりする一方、庶民はラテン語を理解できず、各地の俗語(現在の英語やドイツ語のもとになった言語)のみを使い暮らしていました。

アラブ社会の言語状況が中世のヨーロッパの言語状況に似ているということから、ビンツェル教授らは、ヨーロッパの近代化の過程に関心を持ちます。ヨーロッパ諸国は近代化に伴って、経済が成長し、社会の活力や創造性も増したが、その際、言語を取り巻く状況がどのように変わったのか、調べたのです。

中世ヨーロッパでエリートの言語がラテン語だったのは、ローマ・カトリック教会の影響力が大きかったからです。ローマ・カトリック教会がラテン語を公用語に定め、礼拝などの儀式はラテン語で行い、聖書をラテン語から各地の俗語に翻訳することも禁じていたからです。

この状況を変えたのは、周知のとおり16世紀前半の宗教改革です。

聖書が各地の俗語に翻訳され、庶民が日常言語で聖書を読めるようになりました。また、翻訳で知的な語彙が増えたことなどにより、各地の俗語は次第に鍛えられていきます。各地の俗語は、知的で抽象的な事柄も論じられる洗練された言語へと発展したのです。

その結果、宗教改革以降、特にプロテスタンティズムを採用した国では、俗語で書かれる出版物が急激に増えました。この流れのなかで、一般庶民が知的事柄に接する機会が著しく増大します。ラテン語を知らない庶民でも、日常の言葉で様々な本を読み、学び、考えることができるようになりました。多数の普通の人々が知的能力を磨き、発揮することが容易になったのです。

このあたりの話、私も以前、拙著『英語化は愚民化』(集英社新書、2015年)でわりと詳しく論じました。宗教改革以降、各地の俗語が発展し、知的な言語となり、俗語で出版物が増え、高等教育も受けられるように徐々になっていった。そのため、多数の庶民が知的能力を鍛え、開花させる可能性が以前よりも非常に大きくなった。実際、多くの庶民が能力を鍛え、発揮し、社会の様々な分野に参加できるようになった。そのおかげで、ヨーロッパ諸国の活力が大いに増し、近代化につながったのだ。そういうことを強調しました。

(下記の本メルマガ記事などでも、以前、触れました。)
施「グローバル化は中世化」(メルマガ『「新」経世済民新聞』2016年3月18日付け)
https://38news.jp/politics/07102

ビンツェル教授らは、私とほぼ同じ観点に立ちつつ、こうした推論を、「俗語での出版物の増加数」、「俗語での出版物が増えたことにより、本を書く人々の出身階層がどのように変わったか」などの歴史的資料に当たりつつ、補強していきます。

ビンツェル教授らは、資料に基づき、俗語での出版物が大きく増加した地域では、急速な経済成長がみられたと推測しています。また、歴史に名を残す著名な人々が数多く生まれたことを明らかにし、社会の創造性が高まったとも言えるだろうとも述べています。

そして教授らも、エリートの言葉と庶民の言葉が一致し、多数の普通の人々が日常の言葉で知的事柄を論じ、社会の様々な場面で活躍できる環境が整えられたことが、活力ある近代社会がヨーロッパで成立した要因だと示唆しています。別の言い方をすれば、これこそが、大きな経済成長を生み出し、創造的活動を活発化させる要因だろうと考察しています。

ビンツェル教授や私のこうした推論が正しければ、やはり昨今の日本社会の英語化は、経済成長を促すどころか、その妨げになる恐れがありますよね。

明治以来、日本が近代化に成功し、曲がりなりにも経済大国になったのは、日常の言葉である日本語で知的事柄を学び、考え抜くことができる環境が整備されてきたからでしょう。

先人が外国語の文献を数多く翻訳し、日本語を鍛え、日本語で森羅万象を論じ考えられる環境を作ったおかげで、多数の普通の日本人が能力を磨き発揮しやすい環境が整えられたことが、日本社会の活力を養ったのだと思います。

英語化が今後も進めば、学問やビジネスの第一線では英語を使うものとされ、日本語は日常生活のみで使われる卑俗な言葉に堕ちてしまうかもしれません。「エリート層は英語、庶民層は日本語」というふうに分かれてしまうという事態です。そうした事態に陥ってしまえば、日本経済は成長するどころか著しく衰退してしまうでしょう。

(小学校での英語正式教科化が、エリート層と庶民層の分断を進めるきっかけとなるのではないかという懸念について、下記をご覧下さい)。
施「英語化と「国のかたち」」(『「新」経世済民新聞』2015年7月10日)
https://38news.jp/archives/05867

実際、「社内公用語」の英語化をいち早く進めた楽天も、あまりうまく行っていないようです。
(「楽天、トラブル続出の原因は「英語公用語化」? 時間が2倍かかり効率低下、意思伝達ミス」(『ビジネス・ジャーナル』2021年1月10日配信)
https://biz-journal.jp/2021/01/post_199929.html

創造性の開花という点でも、日常の言語である日本語で、多種多様な分野の先端の事柄を知り、考え、論じられる環境が整えられていることが大切です。多数の普通の人々が、様々なことを知り、考え、論じることができる環境があることが、社会の創造性を増し、活力を生み出すのです。

その貴重な環境を壊してしまう恐れのある英語化路線やその背景にある現在のグローバル化路線を、やはり大いに疑ってかかる必要がありそうです。

https://38news.jp/politics/17556

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251. 2021年2月20日 11:52:13 : ju7Z3TUXdE : Y29DLzluTWRZMFU=[4] 報告
2021年2月20日
【施 光恒】「翻訳」と理想的な世界像
From 施 光恒(せ・てるひさ)@九州大学
https://38news.jp/economy/17668

前回のメルマガで、ドイツの経済学者C・ビンツェル教授らの議論を参照しつつ、日常生活で使っている言語で知的事柄を学び、考え、議論できる環境が整っていることの大切さについて書きました。
(施 光恒「英語化が拍車をかける日本の衰退」(『「新」経世済民新聞』2021年2月5日付))
https://38news.jp/politics/17556

ビンツェル教授らは、16世紀の宗教改革のあと、西欧(特にプロテスタントの地域)でラテン語ではなく各地の日常の言葉(俗語)での出版物が急速に普及したことと、この地域の経済成長との関係について論じています。

つまり、この地域では、俗語で書かれた出版物が急速に増えたため、多くの一般庶民がそれまでよりも容易に様々な知識に触れ、自らを高め、社会に参加できるようになった。このことが大きな経済成長をもたらし、ひいては西欧が他の地域に先駆けて近代化できたことの理由ではないか。ビンツェル教授らはそのように推測しています。

日本の近代化の歴史を振り返ってみても、この点について同様のことが言えるでしょう。

明治以来、日本が近代化に成功し、曲がりなりにも経済大国になることができた大きな要因は、日常の言葉である日本語で知的事柄を学び、考え抜くことができる環境が整備されてきたからです。

先人が外国語の文献を数多く翻訳し、日本語を鍛え、日本語で森羅万象を学び、考え、論じることができる環境を作り、多数の普通の日本人が能力を磨き発揮しやすい社会ができたからこそ、日本は近代化できたのです。

このあたりの話について、私は以前の著書『英語化は愚民化』(集英社新書、2015年)でも、明治時代のいくつかのエピソードに触れながら書きました。

https://www.amazon.co.jp/s?k=%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%8C%96%E3%81%AF%E6%84%9A%E6%B0%91%E5%8C%96&i=stripbooks&hvadid=386549498051&hvdev=c&jp-ad-ap=0&tag=asyuracom-22&ref=pd_sl_5w0mfdz1eu_b


今回は、『英語化は愚民化』で触れなかったエピソードを一つ紹介しつつ、日常生活の言語の充実の重要性、およびそのことから導かれる世界の理想的なありかたについて少し考えてみたいと思います。

紹介したいエピソードというのは、早稲田大学の学長も務めた経済学者・天野為之(あまの・ためゆき)(1861−1938)のものです。

天野は、日本人の手による初の読みやすい経済学の本『経済原論』を1886年(明治19年)に出版しました。これは画期的なことでした。明治の前半までは、日本の大学では多くの場合、英語やドイツ語、フランス語など西洋の言語で授業が行われていました。あるいは日本語を使うとしても、外国語の原書に大きく頼りながら授業を講じていました。

当然ながら、英語など外国語で専門的な講義を受けても、十分に理解できる者はごくわずかの優秀な学生だけです。そのため、大学の講義を日本語でできるようにしたい、また、日本人が日本語で読みやすい専門書が書けるようにしたい、というのが当時の日本の悲願でした。

天野の『経済原論』は、そういうなかで書かれました。『経済原論』を出した冨山房(ふざんぼう)という出版社の社史のなかで、天野が当時のこと(1880年代半ば頃、つまり明治10年代後半頃)を振り返っています。

長いですが、明治半ばの状況がよくわかる文章なので、引用します。
(以下は、『冨山房五十年』(冨山房、昭和11年(1936年))に収録されている天野の文章からの引用です。天野がこの文章を書いたのは昭和6年頃のようです。読みやすいように旧字体を書き直すなどしています)。

*******
従来、政治学、経済学などいわゆる泰西(西洋)の学問を説くには、英・米・仏・独などの原書か、あるいはその翻訳書によったものである。学者の講義も原書あるいは翻訳書で行っていた。

慶應の諸教員のごときも、もっぱら原書によって講義をしておったようである。帝大の前身東京大学では、外国人が外国語を以て講義し、あるいは英米などの原書を教科書として講義していた。また坊間に行わるる経済書あるいは政治原論は、皆原書か翻訳書に限られていた。しかるに原書は少数の外国語に通ずる人の読むに限られ、翻訳書は晦渋で十分にその意を尽くしがたい。

ゆえに外国語を十分に学んでいない満天下の人士は、政治経済の学問に通ずることが不可能であった。これは学問の普及には非常の障碍であった。この障碍を取り去るには、ぜひとも日本人が邦語をもって経済原論などを科学的に著述するほかはない。

ところがこれが果たしてできるかどうかという議論が行われ、我々はこれを可能と信じた。そこで早稲田の学校でこれを実行し、いわゆる原書を教科書とせず、全然日本語で泰西の学理を提唱説明してみた。しかも私は、私の専門の経済学のうえに試みたところ、これが想像外に成績良く外国語の知識なき生徒にもよく理解される。

この成功に力を得て、この早稲田に於ける講義をまとめて世間に分かち、外国語の心得なき一般の人々の間に広く経済の学問を普及せしめんと試みたのが、私の最初の著作「経済原論」の出版である。

私の考えも友人たちの考えもまた冨山房の考えも、この書物がさほど世の中に歓迎されて売れようとは思わなかった。ところが出版してみると意外にも盛んに売れたものである。

今から五十年前の日本は、人口も富も少なく、したがっていわゆる読書階級に属する人も、きわめて少数であったにもかかわらず、想像外に多く読まれた(『冨山房五十年』、488−489頁)。
*******

上記の引用部分で私が特に興味深く感じたのは、「原書は少数の外国語に通ずる人の読むに限られ、翻訳書は晦渋で十分にその意を尽くしがたい」という部分です。

翻訳書は、翻訳してある分だけ原書よりもましですが、それでもまだわかりにくいものです。一般の日本人にはあまりなじみのない出来事や知識を背景に書かれていますし、また、考え方や叙述のスタイルは、国によって少しずつ異なります。

そのため専門書の翻訳は、一般の日本人には読みにくいことが多いのです。原書や翻訳書だけでは、学問的知識は多数の人々の間で容易には広まりません。

やはり、日本人が日本語で大学の講義を行い、それを書物にまとめ出版する必要があります。

実際、天野が、早稲田大学で原書を用いず日本語で講義を行ったところ、わかりやすいと好評でした。それに力を得て『経済原論』を著して出版しました。冨山房のこの社史によると、天野の『経済原論』は「生硬な直訳を離れ、万人のために平易通俗の語」(487頁)で初めて経済を解説した本で、「経済」という語自体が普及したのもこの本が良く売れたからだということです。

冨山房からは、『経済原論』ののち、歴史学や地理学、植物学、国文学などの多様な分野で、日本人の手による本が続々と出版されていきました。

こうしたなかで、普通の多くの日本人が容易に先進の知識を学び、自らを知的に鍛えていく環境が整っていったのです。多数の人々が自分の能力を鍛え、そしてそれを発揮していったことが経済成長を含む日本社会の近代化に大きく寄与したと推測できるのではないかと思います。

拙著『英語化は愚民化』でも他のいくつかのエピソードに触れつつ、こうした推測を行っています。また前回のメルマガで触れたように、ビンツェル教授もいくつかの歴史的資料に基づきつつほぼ同様のかたちで西欧の近代化について推測しています。

こうした推測、つまり各地の日常の言葉が高められ、多数の普通の人々が日常の言葉で様々な先進の知識を学び、考え、論じられるようになることが経済成長を促進し、ひいては活力ある近代的社会の形成につながるという推測が妥当だとすれば、現在の「グローバル化」についての見方は大幅な修正を迫られることになります。

グローバル化を良しとする現在の見方では、経済成長を促し、社会を活性化するには、国境線をなるべく取り払い、各地の特殊な文化的慣行を改め、合理的で普遍的な共通のルール(例えばアングロサクソン的な市場経済のルール)や法、言語(例えば英語)を広めるべきだということになります。

しかし、もしビンツェル教授や私の推測が妥当だとすれば、だいぶ違ってきます。大切なことは、各地の多くの普通の人々が慣れ親しんでいるそれぞれの土着の文化や言語、ルールを洗練し、高め、その土台のうえに、近代的社会を作っていくよう努めなければならないということです。それが、多数の人々が能力を磨き、発揮できる環境を整えることになり、ひいては経済成長や社会の活性化につながるのではないかということです。

西欧の近代社会の成立の過程、あるいは日本の明治の近代化の過程を見る限り、ビンツェル教授や私の推測のほうが正しいのではないかと思います。

もしそうだとすれば、グローバル化や、その文化面の現れである英語化は、経済成長にも社会の活性化にもつながらない愚行なのではないかなと考えざるを得ません。

必要なのは、「グローバル化」ではなく、「国際化」なのではないかと思います。
(「グローバル化」と「国際化」の違いについては、以下をご覧ください。)
施「脱・グローバル化の世界構想を」(『産経新聞』2019年10月2日付)
https://special.sankei.com/f/seiron/article/20191002/0001.html

また、目指すべき理想的な世界像とは、グローバル化を含む「帝国」路線ではなく、「多数の国々からなる世界」なのではないでしょうか。
(これについては、以下をご覧ください。)
施「なぜトランプ大統領は「知識人」に嫌われるのか」(『「新」経世済民新聞』2021年1月8日付)
https://38news.jp/politics/17397

https://38news.jp/economy/17668

252. 中川隆[-7207] koaQ7Jey 2021年2月22日 00:03:09 : 8zr4M1HZ5I : d2dDT2ZmcVFyV00=[29] 報告
新自由主義と公教育の危機 教育研究者・鈴木大裕
2021年2月21日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/20311


すずき だいゆう 16歳で米国に留学し、大学、大学院で教育学を学ぶ。帰国後、通信教育で教員免許を取得し、6年半、千葉の公立中で教壇に立つ。2008年に再渡米し、大学院博士課程へ。2016年、研究の成果である『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店)の出版を機に、一家で高知県土佐町に移住し、2019年4月に土佐町議会議員選挙でトップ当選。教育を通した町おこしにとりくんでいる。

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 今、なぜいろいろな問題が子どもたちや学校現場で起こっているのかを考えたとき、それをとり巻く社会が鏡のように映し出されているだけだと思う。教育関係者は狭い教室や学校のなかで答え探しをするという罠に陥りやすいが、逆に子どもや先生たちに起きている問題を通して社会のあり方そのものを問い直すという作業が求められているように思う。

 最初に自分の紆余曲折について話したい。私は16歳から大学院の修士課程までアメリカで勉強した。日本に帰って自分の目で教育現場を確かめてみたいという思いがあり、千葉で公立中学校の教員になった。当初から日本の教育全体に関心を持っていて、一人の教員として子どもの教育でやれることはたくさんあるが、日本の教育システムに対してできることは限られていると感じた。

 当時、アメリカでは新自由主義教育改革といって市場原理をとり入れた斬新で大胆な改革がおこなわれていた。それを研究して日本に帰って教育システムを変えていきたいという思いを持って再渡米した。研究していくうちにつれて疑問点が見えてきた。何よりも自分の子育てを通して感じるところが大きかった。

 私が在籍していたコロンビア大学はニューヨークのマンハッタンにあるが、同地域はアメリカ黒人文化の拠点の一つであるハーレムに隣接していた。最初はモーニングサイド・ハイツといわれる「山の手」の方に住んでいたが、再渡米2年目から家賃が安いハーレムの方に移った。

 そして娘が小学1年生になるときに驚いた。ニューヨーク市は、学校選択制で20校を選んで教育委員会に提出するという制度だった。私は公教育にプライドを持っていたので「選ばないこと」を選んだ。その結果、フタを開けたら娘の同級生はみんなアフリカ系やラテン系アメリカ人だった【写真@】。アメリカは経済格差が肌の色、人種の違いとして出るのだ。もっと驚いたのが、学校に音楽、美術、体育の先生もいないことだ。さらにもっと驚いたのが貧困率で、8割以上が最低生活水準以下の家庭の子どもたちだった。さらに5人に1人がホームレスで毎朝違う場所から通学する状態だった。


【写真@】鈴木氏の次女が入学したクラス。ハーレムにおける人種隔離が顕著にわかる(鈴木氏撮影)

 一方でわずか2`しか離れていない隣の学区では、音楽、美術、体育の正規教員がいる。その他にバレエ、バイオリンを専門に教える先生がおり、屋上にビニールハウスがあって、そこで栽培した無農薬野菜を給食でシェフが出してくれる。生徒たちの肌も明らかに白い。何が「公」で何が「私」なのかの境界が揺らいでいると感じた。考えてみれば20校の学校説明会に行くゆとりのある親、膨大な情報を精査分析できる能力のある親は限られている。「平等な競争」というがそれは幻想にすぎない。

 ハーレムという貧困地域では、テスト教育を徹底的にやるが逆に音楽や美術といった感性を養うような全人教育をやっていなかった。自分はやれることを全部やろうと思い保護者会長までやり、校長と組んで感性を育てる教育にも力を入れていった。それによって生徒数はどんどん増えていった。残念で皮肉なのが、その学校は今ではエリート校になってしまって、生徒も白人が多くなって地元の子が少なくなっている。

 私はどこでどの学校に行っても遜色ない満足のいく教育が受けられるのが公教育だと思っていた。

 ところがアメリカでは経済格差が、教育格差となり、学校を通して格差社会を再生産しているように感じた。また、テスト対策ばかりをして塾と何が違うのかという疑問もあった。何をもって教育というのか。「公」と「教育」という民主主義社会の根幹をなす二つの概念そのものが崩壊しつつあるという問題意識を持った。2016年に執筆した『崩壊するアメリカの公教育:日本への警告』のタイトルはそのような思いからつけた。ではなぜアメリカではこのような格差が許されるのだろうか。

数値化で子どもを管理 投資削り競争煽る

 1983年のレーガン政権のもとで『危機に立つ国家』という報告書が出された。アメリカの公教育が危機的な状況にあり、読み書きも満足にできない子どもたちが多く、このままいけばグローバル経済における国家の衰退は目に見えている、という内容をセンセーショナルにうち出した。問題の根幹は富裕層と貧困層の教育格差にあり、読み書きができないのは貧困層の子どもたちで、教育予算もままならず十分な教育を受けられていないからだった。本来は、富の再分配をおこない、貧困層の子どもたちの教育を手厚くするという選択肢もあったが、アメリカがとったのは、市場原理を導入して公教育を市場化する選択肢だった。競争原理を導入すれば、教育だってよくなるという考えだった。その流れの根底にある考え方が、新自由主義だ。

 新自由主義についてミシェル・フーコーが「社会のあらゆる活動を経済的にのみ分析するまったく新しい世界観」と定義している。そうなると人間は経済的合理性が行動の基準になって、一人一人が起業家という新しいアイデンティティを身につけて生きていくことになる。では、新自由主義が教育にどんな影響を与えるのだろうか。教育は個人に対する「付加価値的な投資」とみなされ、お金を出せば市場で買える「商品」へと形を変える。子どもは「将来の労働力」と見なされる。学校と教員は、教育という商品を提供する「サービスプロバイダー」になって、子どもと親はそれを受けとる「カスタマー(消費者)」になる。教育委員会はといえば、「カスタマーサービス」へと性質を変えていくのだ。

 アメリカで市場原理をとり入れた教育改革の一環として、公設民営学校、教員の能力給制度、ビジネスマンを校長に迎えるなどのイノベーション(改革)と呼ばれるものがおこなわれた。それが国策として前面に出たのが2002年の「落ちこぼれ防止法」だった。そもそも「落ちこぼれ防止法」は、1965年に貧困撲滅キャンペーンをやったジョンソン大統領のもとで出された「初等中等教育法」の改定法だ。

 1965年のときは教育格差は「教育機会の格差」だといわれ、教育の平等保障のために「国家の投資責任」が問われた法律だった。ところが「落ちこぼれ防止法」では、同じ法律にもかかわらず、教育の平等保障の概念が180度変わり、教育格差は「学習到達度の格差」だとみなされた。いかに国家が貧困層に投資をするかではなく、いかに教育現場、学校や先生たちが工夫や努力をして、貧困層と富裕層の学習到達度の格差を解消するかという問題にされ、政府の投資責任から、「教育現場の結果責任」へとすり替えられた。

 こうして始まったのが学力テストと結果責任を軸とした教育の徹底管理だ。州や市の学力調査で、成績の悪い学校が廃校に追い込まれた。テストの点を上げるだけだったら民間の方がいいではないかという発想になり、税金を公立学校ではなく、民間に渡して塾のような公設民営学校が出てきた【写真A】。これは人気の公設民営学校の抽選時の写真だ。公教育のなかで「あたり」と「はずれ」があって当然ということが正当化され、義務教育における公立学校の序列化が進んだ。テストの点数だけで学校や教員や生徒が評価されるため、朝7時には登校して、夕方6時まで勉強をするというスパルタ式の公設民営学校も出てきた。


【写真A】人気の公設民営学校の入学抽選会の風景

マニュアル化する授業 評価はAIに委ね

 当時アメリカでは教育産業と政治の癒着が激しかった。教育産業にしてみればテストをすればするほどもうかる。そのため州のテスト、区や町のテスト、模擬テストやドリルなどどんどんテストが増えてきた。公立小・中学校のランキング本が書店で売られ、それを親が読んで学校を選ぶようになってきた。

 そんななか、貧しく教育的ニーズが高い子どもたちが集中する地区で教えることが教員にとってリスクになっていった。点数が悪い学校は廃校にされたり、教員が解雇されたり、減給されるリスクがあるからだ。だから、選べる教員は郊外の富裕層の子どもが通う、テスト漬けとは無縁の全人教育をしている学校に移るようになった。そして都市部の貧困地区の子どもを教える教員が不足した結果、大学出たての教員免許も持っていない素人でも教えられるように、誰でも点数がある程度上げられるように授業のマニュアル化が進んでいった。また、テストの点数を上げるだけで良いのであれば、「カリスマ講師」の授業をまねればいい。こうやって「教え」というものがテクニックとなって売られるようになっていった。

 誰でも子どもを扱えるように、生徒指導のマニュアル化も進んだ。例えるならば、ベルトコンベアで流れてきた野菜を、形や大きさが悪いという理由で、どんどん排除していくようなシステムだ。大事なのは、排除される子どもたちの中には点数のとれない子や特別支援を必要とする子たちも含まれていったことだ。究極的にいえば、生徒の点数をあげるだけでいいなら、もはや教員はいらずAIに任せておけばいいのだ。この【写真B】は、ロケットシップ・エデュケーションといって、当時アメリカで最も急成長していた公設民営学校チェーンだ。この学校ではこのシステムによって、1時間で最大130人の生徒を見ることができる。こうなったら教員免許を持った先生はいらない。教育という人間の営みをコンピューターに委ねてしまい、非正規の教員を監督官として1時間15jで雇うことによって、年間に約5000万円の経費を削減できるという。それが経営者の利益になるのだ。


【写真B】仕切りの中で勉強する子どもたち(LaborNotesのウェブサイトより、2013年12月)

 後にカリフォルニア州立大学の名誉教授となったアーサー・コスタは、次のようにいっている。「教育的に大事で測るのが困難だったものは、教育的に大事ではないが測定しやすいものと置き換えられてしまった。だから今、われわれは学ぶ価値のないものをどれだけ上手に教えたかを測定しているのだ」。ここから見えてくるのは、計測可能なエビデンスに翻弄されたアメリカ教育界の姿だ。

米国の後追いする日本 GIGAスクール等

 では日本の教育はどこに向かっているのか。一番大きかったのが、2007年の第一次安倍政権のもとで43年ぶりに復活した全国学力調査だ。もしその名の通り調査であるならば、サンプリングで十分なはずだが、あえて全員参加形式にした。なぜか。第二次安倍政権で、規制緩和がされて都道府県別の成績が開示されるだけでなく、教育委員会が許可すれば学校別の成績まで開示できることになった。すべての学校がテストを受けて、知ろうと思えば学校別の成績も知ることができる。そうなった時点で、市場原理の歯車が動き始めている。そうして「市場型」学校選択制への道が開けたのだ。教育の多様性というよりも、教育市場で保護者がカスタマーとなって子どもの学校を選択して、学校は生き残りをかけて生徒を奪い合うというシステムだ。もちろん税金を投じて民間企業に学校の運営を委託する公設民営学校という発想も出てくる。実際に大阪では1校の公設民営学校の運営が始まっている。

 各学校でテストも確実に増加している。2018年には、都道府県の約7割が全国学力調査に加えて、都道府県独自の学力調査をやっている。そして政令指定都市の85%が市独自の調査をおこなっている。それに加えて中学校は毎学期ごとに定期考査がある。アプリをつかった補習などもおこなわれるようになってきた。東京都足立区では教員の初任者研修を大手の塾に委託している。テストの点数を上げればいいのであれば、カリスマ講師がいる塾にテクニックを学べばいい。AIの活用も始まっている。そうなれば教師が教える必要もなくなるわけだ。先生はコンピューターに不具合があったり、生徒が寝ていたら起こすだけでよくなってしまう。

 コロナ禍でGIGAスクール構想なども動き出している。タブレットやICTは単なるツールにすぎず、よくも悪くもない。ただ、私は優先順位の問題だと思っている。教員不足が叫ばれているにもかかわらず、莫大なお金をコンピューターの方に費やしている。優先順位がおかしいのでは、と問うていく必要がある。

 一方でコロナ禍で少人数学級制を求める運動が起こり、40人学級から35人学級にするという一定の成果があった。でもこの運動の意義は、学級の人数が5人減ったことではない。1人1台タブレットを持たせるというGIGAスクール構想が多額の予算をかけておこなわれているなかで、もし少人数学級を求める運動が起こっていなければ「全部リモートでいいじゃないか」「授業もオンラインで受けられるなら学校に行く必要がない」「先生をそんなに莫大な予算を使って雇う必要はない」という声が上がり、1人の監督官が130人を相手にするというアメリカのようになりかねなかった。

 その意味でGIGAスクール構想に対するブレーキとして一番価値があったと思う。ただ、GIGAスクールは少人数学級制の57・3倍の予算を投じている。ここの優先順位の問題を議論しなければならないのではないだろうか。

 学校はそもそも複合的な機能を持っている機関だ。託児所、食堂、学習塾、ヤマハ音楽教室、スポーツジム、修学旅行というJTBみたいな機能まである。そういう豊かな学校教育から、授業だけを摘出してオンラインでやることの愚かさを考えなくてはならない。

 日本では2020年度から新学習指導要領が始まった。そのうえで見落とされている大事なポイントがある。学習指導要領は本来は、何を教えるか、何を学ぶかというカリキュラムの基準だったはずだが、何ができるかという学習到達度のパフォーマンスの基準へと形を変えようとしている。こうなったら早く安く効率的にいかに点数を上げるかという議論になりかねない。注意をはらうべきだと思う。

 そのなかで日本の教育改革を象徴するような事件が起きた。大阪市の吉村市長(当時)が、大阪市が全国の政令指定都市のなかで学力調査の結果が2年連続最下位だったことに怒って、「翌年度からは全国学テの結果を校長のボーナス、教員の給料、学校への予算配分に反映していく」といい始めた。そして「子どもたちの学力向上の努力をし、結果を出す教員が高く評価されるのは当然だ」といった。この発言にどう答えるか。

 元マサチューセッツ工科大学(MIT)の博士ノーム・チョムスキーは「民衆を受け身で従順にする賢い方法は、議論の範囲を厳しく制限し、そのなかで活気ある議論を奨励すること」といっている。今、全国学力調査の点数をどうにか上げようと各都道府県や学校や先生が活発な議論をしている。そんななか、何をもって「学力」というのかが問われていない。フタを開けてみれば、国語と数学の2教科(理科は3年に1回)の点数なのだ。たった2教科で子どもや学校や教員を評価していいのか。「学力とは何か」を問うことで見えてくるのは、極端に狭く偏った土俵で勝負を強いられているのは子どもたちだということだ。

見失われる人間的成長 標準化された「学力」

 教育の数値化、標準化の象徴的なものとして、経済協力開発機構(OECD)によるPISA(国際学習到達度調査)がある。なぜフランスに本部があるOECDが、世界の公教育を遠隔で評価し、比較できるのか。

 それに関して、なぜ西洋社会ではここまで数値に依存するようになったのか。その歴史を紐解いているのが、セオドア・ポーターという歴史学者だ。研究を通して、彼は数値化を「距離のテクノロジー」と称している。その象徴が、教育の世界でいえばPISA型学力テストだ。「学力」を数値化し、標準化することによって、学校に行かなくても、子どもや先生や授業を見なくても、地域の環境を見なくても評価できてしまう。

 だが、学校では授業だけではなく休み時間や給食時間、部活の時間など、ずっと子どもを近くで見守っている教員だからこそわかるその子の長所や課題があるはずだ。それを抜きにして教育の評価を数値化し、その子に会ったこともない人に評価を委ねるというのは、教育者にとって自殺行為なのではないか。数値化の暴力性すら感じる。だがPISAが各国の教育政策に多大な影響を与えていることを私たちが当然のように受け入れている事実は、新自由主義が私たちの心の奥底まで浸透していることを物語っている。

 『崩壊するアメリカの公教育』の八章で、西岡常一さんという法隆寺最後の宮大工棟梁の話を紹介している。『木のいのち 木のこころ』という本のなかで、昔の宮大工の棟梁は、1本1本の木の癖を見抜き、それらを組み合わせることで、木を上手に、長く生かす心構えを持っていたという。同じヒノキの山でも斜面によって生え方が違い、南側の斜面に行けば、太陽をさんさんと浴びて幹の太い立派な木がなっているが、そういう木は柔らかく柱には向かない。逆に過酷な環境で育った木の方が強く柱に向いているという。斜面を変えれば風向きが変わる。風向きが変われば、風に折られないように木はねじれる。「癖は何も悪いものではなく、強さであり生命力なのだ」と西岡さんはいう。しかし資本主義の発展にともない、そのような宮大工の知恵と技はすたれていった。より速く、より安くと効率性が求められるようになり、捻れた木をまっすぐに挽く製材の技術が発達し、企画通りの建築ばかりが増えていった。

 設計書ありきで、それに合わせた使いやすい木を製材所からとり寄せて組み立てるのか、それとも棟梁がプロの距離感で、木の癖を見抜き、組み合わせることで、唯一無二の建物を創造するのか。ここにこそ、今日本の教育界が求められている「生かす」というパラダイムシフトがあるような気がする。

どんな社会を作るのか 教育の商品化に抗し

 教職員に講演するとき「目の前の子どもだけ見ていても、その子のことは救えない」といっている。私たちは選挙に関心を持つ必要があるし、社会のいろんな問題に目をむけて点と点を線でつないでいく必要があるのではないかと思う。本の九章でシカゴの教職員組合のストについて書いた。先生たちが教育だけでなくて貧困や人種問題、政治などの問題に声を上げて、点と点を線でつないでいった。それに保護者や市民が理解を示し、協力した。アメリカの保護者のなかで広がった新自由主義教育改革への反対運動が「オプトアウト」だった。

 保護者たちが「私たちがデータを提供しているから、このシステムが成り立っている」といい、子どもたちにテストを受けさせないという運動だった。私たちは「学力向上」という否定のしようのない、でも空っぽなスローガンに踊らされている。そしてそれを支えているのもわれわれ自身だという視点が大事だ。

 私たちは何を子どもたちに教えたいのか、どんな学校であってほしいのかをまず議論しなければならない。しかし、それもせずに「学力向上」に邁進することで私たち自身が新自由主義的なシステムの歯車になってしまっている。インドのガンジーが「いかなる搾取も搾取される側の協力によって成り立っている」といった。これはとても大事な視点だと思う。新自由主義を支えているのは私たち自身だという認識を持たなければパラダイムシフトは起きないと確信している。

 この度、新書大賞をとった斎藤幸平さんの『人新生の「資本論」』でも、SDGsを新自由主義のパラダイムのなかでやっても意味がなくまやかしに過ぎない、ということをいっている。今のパラダイムを抜け出さずに「教育改革」を追い求めても新自由主義に絡めとられるだけだ。必要なのは子どもの教育を通して社会のあり方そのものを問い直し、パラダイムシフトを起こすことだと思っている。

https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/20311

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253. 2021年3月05日 08:12:42 : ERMXrJ34fI : blFVOGd3LjJ2Ym8=[10] 報告

2021年03月04日
お金で人生を買えるか? 成功者の子供は成功しやすい現実
http://www.thutmosev.com/archives/85254907.html


親が金持ちや権力者だと行列の先頭から人生がスタートする


お金があれば時間を買える

お金がたくさんあると人生の8割の問題は解決するそうですが、お金で時間を買える場合もあります。

すぐ目につくのは行列で、行列に並ぶのは自分の時間を使ってお金を節約したり欲しい商品(サービス)を得る為だと思います。

お金がある人は高い店に行くので行列は無く、混んでいたら予約を入れてから行くでしょう。

お金持ちは様々な事で優遇されていて、例えば銀行からは1%以下で無制限にお金を借りれます。

審査も形だけですぐに超低金利で融資してくれるので、自分のお金を使うより借りた方が物価上昇分安く済みます。

これがお金がない人だと厳重な審査をされた上、融資額は10万円が限度で年利16%以上とかになります。


車を購入するとするとお金持ちは銀行に電話するかネットで手続きするだけで、レクサスの新車を現金を使わず購入できる。

お金がない人は車を買う金額を融資してもらえないので、お金を貯めてから買うしかありません。

住宅ではもっと差がついて、お金がない人は数十年労働してお金を貯め、ローンが通っても30年間ローン返済だけの為に労働します。


お金で時間が買えるとはこの事で、お金持ちはカードを出して数秒で済むのに、お金がないとそのために労働をしてお金を貯める必要があります。

住宅の平均金額は5000万円ほどで自己資金は2000万円、平均ローン金額は3000万円ほどだそうです。

その3000万円を30年ローンで返済し、返済し終わった家は査定ゼロでまったくの無価値(土地の価値は残る)、これが残酷な現実です。

お金があれば人生も買える

住宅を買うお金がない人は、住宅を買うために平均40年は過酷な労働をしています。

対して親から家とお金をもらった人は40年間という時間を自分の好きなように使うことが出来る。

そういう人は教育の機会にも恵まれていて、親からいろいろな教えを受けるので成功する確率は非常に高くなります。


これらが何もない人は自分の努力と才能だけで人生を切り開く必要があるが、成功する確率は非常に低い。

良く「ハングリー精神」という言葉が使われますが、実際の社会では苦労人より「苦労知らずのボンボン」の方が有能だったりし悔しい思いをします。

政治家の2世が日本では多いですが、裏返すと親が政治家ではない人は政治家として有能ではないと言えます。


芸能人からスポーツ選手、政治家や実業家までこれだけ2世が幅を利かせているのは、有力者の子供は生まれた時点でかなり有利だからです。

芸能人の子供が芸能人になるのは親が強引に入れた場合もあるでしょうが、芸能人の親を見て育つので生きた教科書に倣うようなものです。

米軍の戦闘機パイロットは意外にも親が戦闘機パイロットだった人が多く、操縦技術もうまいそうです。


純粋に技術や能力で勝負する世界であっても、優秀な親の子供は優秀である場合が多い。

そうなるとお金や地位や能力を受け継いでいない人が勝つのは難しく、身分制度のようになっていきます。

総理の嫁とか総理の息子が必ず問題を起こしますが、あんなの総理の息子じゃなければ誰が相手にするかという話です

http://www.thutmosev.com/archives/85254907.html

254. 2021年5月14日 11:01:24 : CU8lM4oEXo : Y25nUHBzRG42OW8=[24] 報告
母国語で高等教育を受けられることの意義 平成27年3月10日 衆議院予算委員会第四分科会〜文部科学〜【委員会質問動画シリーズ】 あんどう裕
2021/05/14




255. 2021年5月14日 11:02:55 : CU8lM4oEXo : Y25nUHBzRG42OW8=[25] 報告
00:38 東京大学理学部グローバルサイエンスコースの概要と設置の目的について
01:52 同コースの選考基準について
03:02 同コースに入学した方の国籍、待遇について
04:31 国費留学生の卒業後の日本の国益について
07:27 国費留学生の留学理由について
09:31 東京大学の英語での講義について
11:06 母国語以外での最高学府の教育について
12:48 外国語授業と母国語授業の教育環境について
19:09 「THE正解大学ランキング」について 大学ランキングを上昇させるための対策とは
20:31 ランキング評価を上げる外国人採用について
25:41 科学技術で世界の中で立国をしていくには


母国語で高等教育を受けられることの意義
平成27年3月10日 衆議院予算委員会第四分科会〜文部科学〜
【委員会質問動画シリーズ】 あんどう裕

256. 2021年6月12日 12:28:34 : SMioo6dT5M : TU9xanMxb00ydkE=[11] 報告
詰め込み教育との違い【ゆとり教育】ゆっくり解説【失敗した試み?】
2020/09/20



257. 2021年8月24日 18:29:26 : 5OWTGPVP0Y : UEdURTJseDhHc3M=[30] 報告
第249回 研究論文が過去最低!予算をつけると反対するのは財務省
2021/08/24


258. 2021年8月30日 14:11:48 : 8AEwqZnhmE : WlBlQUpoZDhFMHc=[30] 報告
日本の科学技術力は、なぜ凋落したのか?
2021-08-30
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12695026697.html

 2003年、国立大学法人法が成立。翌04年、99の国立大学が89法人に再編されます。いわゆる、国立大学法人化です。


 国立大学法人化の目的は、表向きは「各大学が自主的・自律的に大学運営を行い、教育研究水準の向上を図る」というものでした。

 が、実体は単なる緊縮財政。

 国立大学を法人化することで、国家の大学への関与を減らし、同時に「予算を減らす」という話に過ぎなかったのです。


 自主的・自律的な大学運営といえば、聞こえはいいですが、要するに、
「これからは各大学の自己責任。当然、政府はカネを出さない」
 という、緊縮財政の言い訳に過ぎません。


 文部科学省は、国立大学法人化に際し、
「今回の法人化は、財政支出の削減を目的とした「民営化」とは全く異なるものです。」
 と、説明していました。


 とはいえ、実際には「国立大学法人運営費交付金」の削減が目的でした。

【国立大学法人運営費交付金予算額の推移(億円)】


http://mtdata.jp/data_76.html#daigaku

 法人化時点では1.24兆円だった交付金が、今は1.1兆円を切っています。


 この間、各大学の教授は、
「自分で企業からカネを引っ張ってこい」
「短期の成果を出せば、予算を付ける」
 と、滅茶苦茶な環境に放り込まれ、当然ながら日本の科学技術力は凋落の一途をたどることになります。


『日本の研究力、低落の一途 注目論文数10位に
「科学技術立国」を掲げる日本の国際的な存在感が低下している。文部科学省の研究所が8月上旬にまとめた報告書では、科学論文の影響力や評価を示す指標でインドに抜かれて世界10位に落ちた。世界3位の研究開発費や研究者数も伸び悩んでおり、長期化する研究開発の低迷に歯止めがかからない。(後略)』

 後略部で、日経にしては珍しく「事実」を書いています。

『低迷のきっかけに04年の国立大学の法人化を挙げる声は大学関係者の中で多い。その後、国から配られる大学の運営費に関する交付金は年々削減されていき、大学は人件費や管理費の抑制を進めたという指摘がある。』

 低迷の切っ掛けというか、低迷の「主因」が国立大学法人化と、運営交付金削減という緊縮財政です。


 とりあえず、国立大学法人化以降の、
「緊縮路線、短期成果主義、自己責任」
 という研究スタイルを、真逆にする「転換(ピボット)」をしない限り、我が国の科学技術力の凋落は止まらないでしょう。

 財務省の緊縮財政は、科学技術大国だった我が国を完全に凋落させたという「事実」を、是非とも周囲に伝え、緊縮転換のためのツールの一つにして下さい(他にもツールはいっぱいありますが)。

https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12695026697.html

259. 中川隆[-16633] koaQ7Jey 2021年9月03日 05:49:00 : AdlhFoaS2w : QXM0RlZyZ1JBZjI=[1] 報告
【言いたい放談】日本とドイツ、教育制度と世の無常[桜R3/9/2]
2021/09/02




今回は、凋落著しい日本の教育レベルを中心に話し合っていきます。

出演:クライン孝子(ノンフィクション作家)・水島総(日本文化チャンネル桜代表)


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260. 2021年10月10日 09:54:42 : MKtlKLYSaM : cGpaQUJRN3pRcjI=[11] 報告
天才児をも殺す「親ガチャ」の現実。児童130万人が就学困難、なぜ日本はクソ運営で自ら弱体化するのか=鈴木傾城
2021年10月9日
https://www.mag2.com/p/money/1109627


子どもの教育に理解のある親とない親では、必然的に子どもの学力の差になって現れる。低所得層の子どもが低所得になりやすいのは、社会の最底辺では、そこから抜け出すための環境が揃っていないからである。1つ2つの要因ではなく、日常のすべての環境が勉強から遠ざける環境になっている。


社会が貧困者を拡大させている以上、子どもの貧困も増える
コロナ禍で非正規雇用者の両親が減給や失業や一時休業に見舞われた結果、じわじわと生活が困窮し、子どももまた一緒に貧困に苦しむようになっている。

日本の底辺では以前から貧困が拡大しており、子どもにも親の経済的な問題による就学困難が定着するようになっていたのだが、コロナ禍はそれを加速させている可能性がある。今後の統計に注意したい。

経済的理由により就学困難と認められた「要保護及び準要保護児童生徒」は2008年のリーマンショック以後、どんどん増えて東日本大震災のあった2011年に約157万人のピークを付けた。

以後は減少の傾向にあって、2019年あたりは約130万人レベルになったのだが、コロナ禍の中では再び就学援助率は増えていくのではないかと予測されている。

ちなみに、東日本大震災以後は就学援助率が下がっていった傾向はあるのだが、それは貧困問題が解決しつつあるからではない。貧困の子どもがゆっくりと減ったのは、「少子化の影響が出てきた」からだと文部科学省自身は推測している。

経済格差が定着し、富裕層と貧困層が分離して貧困層の数が増えているのに、子どもの貧困が自然に解決するわけがない。社会が貧困者を拡大させている以上、子どもの貧困も増えることになるのは必然だ。

就学援助を受ける子どもたちは、親が生活保護を受けていたり、生活保護世帯に近い経済状況にあると見なされた子どもが受けるものである。

服が買えない、教科書が買えない、ランドセルが買えない、制服が買えない、文房具が買えない、給食代が出せない子どもたちが、就学援助でかろうじて救われている。

親の経済格差が子の教育格差につながっていく
しかし、そうやって就学援助で環境を与えられても、それだけで低所得層の子どもが学校で学力を発揮できるようになるわけではない。

最底辺の子どもたちは食事に事欠くほどシビアだ。その親は子どもに食べさせるだけでも精一杯であり、とても教育のための費用など捻出できない。それは貧困層の子どもたちが、塾に通うことができないことを意味している。

日本はコリア国際学園の理事をするような寺脇研のような人間が、日本の子どもたちの学力を徹底的に低下させる「ゆとり教育」を推進していた。

日本の子どもたちの学力を意図的に低下させようとして教育は劣化させられているのを察知した金のある親たちは、子どもを塾に通わせてそれに対抗するようになった。

塾は無料ではない。指導方法によって年間20万円から100万円まで、場合によってはそれ以上かかるのだが、こうした金額は貧困層でなくても重いものだ。

そうは言っても学校の勉強だけでは、子どもたちの学力低下が深刻になるので、塾通いをやめさせられない。良い大学を出ないと一流企業に入るのが難しいのも事実なので、親も必死になって子どもの教育をサポートする。

ところが、貧困家庭の子どもたちは最初から弾き飛ばされている。親が文房具すらも買って上げられないような貧困の中では、塾に行くどころの話ではない。塾どころか学校に行くことですらも精一杯なのだ。

その差はじわじわと学力の差となってあらわれていく。時間をかけて良い教育を受けた子どもたちは、何も受けていない子どもたちを凌駕するのは当然だ。

つまり、親の資力の差で、子どもたちの学力までもが決まっていく。そして、社会に出る前のスタート時点ですでに勝負が付いてしまうのである。

「親の経済格差が子の教育格差につながっていく」のは、否定できない現実である。子どもにやる気があれば貧困であっても向上できるはずだと言うのはあまりにも無責任すぎる。


貧困の子どもたちは、あらゆる場面で学びの場を失う
貧困の子どもたちは、自分を向上させられる唯一の「細い糸」である学校でも孤立することが多い。

学校が終わった後に子どもたち同士で遊びに行く中でも、貧困の子どもたちは小遣いなどほとんど持っていないので、仲間と遊びに行っても、どこの店にも入れない。

自転車が買ってもらえなかったり、ゲーム機が買ってもらえなかったり、他にもちょっとした「仲間と同じ物」を所有することもできず、結局は疎外されていくことになっていく。

自分が仲間から外れていくこともあれば、お金を持っていないことを仲間にからかわれたりいじめられたりすることもある。子どもの世界は残酷で容赦ない。そうやって貧困の子どもたちは「自分だけが違う」という意識の中で孤立していくことになる。

その結果、もう学校に行くこと自体が苦痛になって自ら学業放棄したり、ひきこもりになったり、逆に非行に走ったりして、表社会で活躍するための「細い糸」だった教育をプツリと切ってしまう。

貧困の子どもたちは、家で勉強する環境もないことも多い。勉強部屋などないのは当たり前だ。だから、兄弟や親にしばしば勉強を邪魔されることになる。

親が四六時中テレビを大音量で流していると、子どもも勉強よりもテレビに向いてしまうだろう。親自身が教育で恩恵を受けたことがないために、教育に理解を持っていないこともある。

だから、じっと勉強している子どもを見て「勉強なんかしても無駄だ」と冷たく言い放つこともあれば、「勉強している暇があれば親の用事を手伝え」と逆に勉強を中断させることすらもある。

親が子どもに知識を与えられないことも多いので、子どもに何か聞かれても「知らない」「うるさい」と追い払い、子どもの勉強意欲を削いでテレビを見て笑っているような親も多い。

また、親が子どもに悪態をついたり子どもを放置したりすることもある。子どもに満足な食事を与えないこともある。子どもを虐待することもある。そんな中で、子どもの学力は伸びるだろうか?

断ち切れぬ貧困の連鎖。学力の差で社会の裏側に落ちていく
子どもの教育に理解のある親とない親では、必然的に子どもの学力の差になってあらわれるのはここから来ている。

低所得層の子どもが低所得になりやすいのは、社会の最底辺ではそこから抜け出すための環境が揃っていないからである。1つ2つの要因ではなく、日常のすべての環境が勉強から遠ざける環境になっている。

「親の経済格差が子の教育格差につながっていく」というのは冷徹な真実なのだ。だから、高学歴・高収入の親を持つ子どもたちが素直に学力を伸ばして、親と同じく高学歴・高収入の道を歩み、有名大学は高学歴の親を持つ学生であふれることになる。

一方で、低学歴・低収入の親を持つ子どもたちは、学力を放棄し、学校をドロップアウトし、社会をドロップアウトし、低収入の仕事を転々とするようになり、社会の裏側に落ちていくことになってしまう。

低収入に甘んじて流されて生きている人たちは、もともと知能が足りなかったのではなく、知能を伸ばす教育から子どもの段階で引き離されていたからという要因もある。

就学困難が定着するようになっている現実は危険だ
もっとも、人生はすっぱりと白か黒かで決まるものではない。つまり、高所得層の子どものすべてが成功してエリートになるわけではない。恵まれ過ぎて転落することもある。甘やかされて自滅する子どももいる。

逆に、低所得層の子どものすべてが貧困にあえぐわけではない。何もないところから、試行錯誤しながらバイタリティを武器に成り上がっていく逆転劇もある。

しかし、客観的に見れば、「金もない、塾もいけない、仲間からも孤立している、理解してくれる親も教師もいない、学歴もない、職歴もない、人脈もない、何もない」貧困の子どもたちは、苦心惨憺の人生が待っているのが現実である。

だから、日本の底辺ではじわじわと貧困が拡大しており、子どもにも経済格差による就学困難が定着するようになっている現実は危険なのだ。

潜在能力が引き出せない子どもたちが増えるというのは、社会にとって大きな損失である。就学困難に落ちている約130万人の子どもたちの中には、日本を代表する「何らかの天才」がいるかもしれないのだ。

261. 中川隆[-15997] koaQ7Jey 2021年10月15日 13:05:30 : 3arTuvWsoQ : UHhWa0FFaE5VT2M=[31] 報告
旭川の教育の荒廃は内地との経済格差と自民党の北海道無人化政策から生まれた

底辺の子供ばかりの旭川の公立学校では既にドラッグ、レイプ、強制売春が蔓延している

日本政府は札幌以外の北海道全土の無人化を押し進めており、旭川人は仕事を失って食べていけなくなっている。底辺に落ちた旭川人の子供たちはその影響から逃れることができない。

経済格差が広がると、教育もまた崩壊していく。最初にそれが指摘されたのはアメリカだった。アメリカではレーガン大統領時代に入ってからレーガノミクスという今で言うところの「新自由主義」「市場原理主義」を取り入れた。
その結果、国民の間で格差が急激に広がり、金持ちの子供は私立に、貧困層の子供は公立に通うという分離が出来上がり、貧困層が集まる公立校が急激に荒んでいった。暴力が蔓延し、学級崩壊し、いじめも急激に増加した。

それを嫌って金持ち層がますます公立校を避けて私立に向かうようになり、教師も逃げ出したので、さらに公立校が荒廃していった。そして生まれたのが「暴力教室」の出現である。

学校内で、ドラッグ、レイプ、銃撃戦が行われるようになり、授業が成立しなくなった。しかし、そうだと分かっていても、貧困層は公立の学校に子供を通わせるしかない。市立では学費が払えない以上、選択肢はないのだ。

教育が所得で分離し、教育の荒廃がアメリカに大きな影を落とすようになった。経済格差が子供たちの学力の差となり、それが子供たちの人生に大きく悪影響を及ぼすようになったのだ。

経済格差と教育の劣化は比例して起きる現象だ。経済格差が大きい国であればあるほど教育の劣化は大きくなる。親の資産によって子供たちが通う学校が分離し、底辺の子供たちは学級崩壊しやすい環境になるからだ。

貧困層の子供たちは親が教育熱心ではなく、子供の面倒をきちんと見ないこともある。その結果、子供たちは荒れていく。それがそのまま学校の荒廃につながる。貧困層の子供たちが通う学校が学びの場でなくなっていく。

特に、誰でも受け入れなければならない公立校で事態は深刻化する。とすれば、貧困層が特に多い旭川もまた公立校は暴力にまみれていくことになるというのが分かるはずだ。

また、体罰も禁止された。体罰については賛否両論も強いが、それが厳格に禁止されると、秩序を乱す生徒がいても教師は最後の手段が取れない。

口で言っても言うことを聞かない子供は、どこにでも一定数はいる。そういった暴力傾向の強い子供たちを放置するのは学校を無法地帯にするのと同様だ。だから、生徒を退学させることのできない公立校が暴力教室へと変貌していく。

そういった環境での教育は質の低下が著しいので、最終的に教育は破綻する。教育を満足に受けさせるためには私立校の進学が必須になるが、私立校こそが教育費の増大に拍車をかけるものだ。

その結果、中流以下の家庭は荒廃した公立校に向かい、質の悪い教育しか受けられなくなる。それは子供たちの知的レベルの低下につながるので、ますます経済格差は固定化されるという現象と化す。

旭川はすでにその悪循環にはまっている。旭川のどん底《ボトム》の若者たちは、ほとんどが良質な教育を受けられなかった人たちであるが、コロナ禍が終わったらますますどん底《ボトム》の若者たちは増えるのだ。

しっかりとした教育が受けられなかった人、あるいは経済的な事情で低学歴のまま社会に出た若者ができるのは、その多くが非正規・肉体労働・単純労働だけである。これらの労働環境では豊かになるのは難しい。

当然、自暴自棄に落ちる若者も出てくる。一瞬の怒りで引き起こされる暴力や短絡的な事件も加速度的に増えていく。社会のどん底で暴力が渦巻くようになるのは、どこの国でも同じだ。

貧困社会の次は暴力社会がやってくることをよく認識すべきだ。教育がなければ成り上がることもできない。単純労働ではその日暮らしが精一杯だ。

必死で働いたところで、教育がない以上、もはや手遅れであることだけは分かっている。そんな環境に置かれたとき、人間がどのように変質していくかを今から研究しておくべきだろう。

間違いなくどん底《ボトム》で暴力が台頭していくのである。

これは、誰にとっても他人事ではない。教育と常識を学ぶことができず、自暴自棄に陥った人間がまわりに溢れるからである。旭川の社会がそういう子供たちを大量に生み出すことになる。

将来に希望が持てない人間は、鬱々とした不安や、絶え間ない失意や挫折感でいっぱいになる。そして、毎日そのような挫折感と折り合って生活しなければならない。そこに芽生えてくるのが自暴自棄な感情と、反社会的な破壊欲求だ。

今後は旭川の底辺層は想像以上に増えていき、それが旭川の標準的な光景になっていく。そんな中、未来がない状態で生きることになる若者たちの心理は、不満と破壊衝動でいっぱいになっても仕方がない。女は身を持ち崩して売春や風俗へと向かっていく。

▲△▽▼

1996年12月にも、女子中学生を中学校内で集団goukanし、被害者が先生に助けを三回も求めていたにもかかわらず『校内の性行為は自由』という『思想』のため、集団 rape を黙認した事件が旭川であったことを知っていますか?

初めのうちはクラスのマドンナ的存在であった女子生徒に対する、スカートめくりなどの軽度の性暴力から始まったと言われる。男子生徒10人は、女子生徒が1年生の時から胸や尻を触る等を繰り返した。女子生徒が誰にも訴えなかった為、その後行為はエスカレ−ト、中学2年生の夏に男子生徒の一人の家に連れ込まれるようになった。

男子生徒たちは公園や橋の下などで毎朝、kouin をさせた後「今日もおいしい牛乳を有難うございました。」という屈辱的な言葉を言わせていた。

中学3年の5月からは、下着の着用と自由な haiben を禁止した上、公園内のトイレにて kanchou 器具を用いてhaisetuを強要していた。

事件は1994年秋から1996年の冬にかけ2年間にわたって続きました。クラスのアイドル的存在だった真面目な女子中学生が被害者です。舞台となったのは当時の北海道旭川市立北都中学校でした。

犯行に及んだのは地元でも有名だった10人の不良グループです。彼らは学校の廊下をバイクで乗り回すような手のつけられない暴れ者達でした。

被害者女子中学生が不良グループの一人からの告白を袖にしたことがきっかけでした。それから不良グループによる性的暴行が始まりました。

女子中学生は不良グループに性的暴行のために特別教室に連れ込まれそうになった際、通りかかった女性教師に助けを求めています。それを聞いて反応しかかった女性講師は不良達に「帰れ」と一括され、その場を立ち去り何の対処もしていません。

まだ不良達の嫌がらせが初期段階の時、女子中学生は勇気をふるって担任の教師に体を触られることを訴えています。ところが担任は訴えから2〜3日後のクラス会で軽く注意する発言をしただけでした。不良達の暴行はこれを境に一気に凶暴化しており、担任の対応のまずさが浮き彫りになっています。

不良グループ達はいわゆる地元の札付きで、教師達には見て見ぬふりが当たり前という一種の空気感があり、毅然とした姿勢を示せなかったと思われます。

▲△▽▼

教員 「だってどうしようもないじゃないですか。止めろと言って止めてくれる生徒なら何回でも言いますよ。でもそうじゃない生徒だっているんです。手を上げて無理やり止めさせれば良かったんですか?」

教員 「手を上げたら体罰。懲戒。変にクビを突っ込めば職を失うんですよ?こんなご時世でどうしろって言うんですか?教員だって人間です。自分の生活を第一にして何が悪いんですか!」

教員 「下手に不良生徒から恨みを買って刺されでもしたらどうするんですか。彼らは悪魔みたいな笑い方をするんですよ。他人を殴っておいて。報復が怖くてもいいじゃないですか。なんでそこまで教員にあれこれ求めるんですか!」

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262. 中川隆[-15996] koaQ7Jey 2021年10月15日 13:06:29 : 3arTuvWsoQ : UHhWa0FFaE5VT2M=[32] 報告
自民党の北海道無人化政策が旭川を児童売春をさせないと食べていけない極貧の無法地帯にした
急激な人口減を迎えている地方では、これまで「文明のエリア」と「野生のエリア」の間にあって、緩衝帯として機能していた里山が無くなりつつあり、里山に無住の集落が発生してきています。無住の集落は短期間に廃村となり、山に飲み込まれます。

 21世紀の終わりの日本の人口は厚労省の中位推計で4850万人です。今の人口が1億2600万ですから、80年間に7000万人以上減る勘定です。年間90万人というペースです。日本政府はこの人口減少に対して、国としての基本方針を示しておりません。シナリオは「資源を地方に分散する」か「都市に集中するか」の二つしかありません。

 本来なら、政府はこの二つのシナリオを国民の前に提示して、それぞれのメリット、デメリットを列挙した上で、合意形成をはかるべきなのですが、それをしていない。国策についての国民的議論を回避したまま、「都市一極集中」というシナリオを無言で実践している。これは民主国家においてあってはならないことだと思います。国民の同意を取り付けないままに、「地方切り捨て」を黙って続けて、ある時点でもう地方再生が不可能というポイント・オブ・ノーリターンを過ぎてから、「やはり都市集中しかない」となし崩しに持って行く。政官財はそういう計画でいます。しかし、黙って政策を実行しているので、地方が切り捨てられた場合に「何が起こるか?」ということは議論のテーブルに上がってこない。その話はしない約束になっている。そして、「人口の少ないところに暮している国民は、都市に暮している国民と同等の行政サービスを受ける資格がない」という主張だけが、一部の政治家やメディアを通じて、拡散されています。すでに、JRは赤字路線を次々と廃線にしています。その時のロジックは、「人口の少ないところに住んでいる人たちは、そこに住むことを自己決定しているわけだから、自己責任で不便に耐えなければならない」というものです。自分の好きで過疎地に住んでいる人間が「便利な暮らし」を求めて、税金の支出を求めるのはフェアではない、と。

 実際に、そのようなロジックに基づいて、公共交通機関は廃止されています。行政機関も統廃合されている。そして、過疎地では、医療機関もない、学校もない、警察も消防もないという状態になりつつある。そういう不便なところに住むことを自己決定している人間は、その不便に耐えるべきだという意見はもう既に日本国民のマジョリティを占めていると思います。
 しかし、この言い分に一度頷いてしまうと、後もどりが効きません。この後、人々が里山を捨てて、地方の中核都市に移動したとしても、遠からずそこも「過疎の都市」になります。そうしたら、同じロジックで、「不便なところに自分の意思で住んでいる人間は、その不便を甘受すべきで、税金を投じて都市と同じサービスを享受する権利はない」と切り捨てられる。そんなことが二、三回続けば、日本国内に文明的な生活が出来る圏域は太平洋ベルト地帯の都市部だけになります。
 現在の日本政府はそういうシナリオを描いていると思います。それを国民に開示して、議論したり、同意を求めたりということをしないのは、「地方を捨てます」と宣言した途端に地方の選挙区で自民党が惨敗して、政権から転落することが確実だからです。だから、人口急減という危機的局面を迎えながら、それについては「何も言わない」という任務放棄が公然と行われている。

 しかし、すでに過疎地での「野生の侵略」はかなりのスピードで進行しています。僕の友人の話ですが、先祖のお墓が西日本の過疎地にあります。お墓の管理はいとこがしてくれている。祖父母のお墓参りに行こうと思って、そのいとこに連絡したところ、「もう無理」という返事があったそうです。お墓のある集落が無人になり、「山に呑まれて」しまったというのです。集落へ行く道も藪に覆われて、通れない。獣も出るし、蛇もいるので、怖くて、かつて祖父母のいた集落にはもう入ることができないと言われたそうです。これに類したことは、急激な人口減を迎えている日本中の土地で今同時多発的に起きていると思います。

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

263. 2021年11月21日 16:10:34 : DfWLM8FXvA : a3duYW1jOVYzc2c=[26] 報告

日本の学術の地位 急激に低下 大学法人化後の惨憺たる崩壊 借金地獄で研究者育たず
2021年11月20日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/22133


 2004年の小泉純一郎政権のもとでの国立大学法人化以降、声高に「大学改革」なるものが叫ばれ、「社会に開かれた大学」などという耳に心地良いフレーズとともに各大学で文字通り「改革」が断行されてきた。そして17年が経過した今、国公立大学では東大でも京大でも法人化を契機として国による財政的支配が強まり、学長選考や大学運営を巡るすべてにおいて教授会の意志(学内民主主義)が否定されたり、「私物化」ともつながったトップダウン型の支配が強まっていることが問題になっている。政治及び大企業・資本による権力・金力をともなった学問領域への介入によって、大学は新自由主義路線のお先棒を担ぐ道具のように扱われ、一方では理系偏重はじめ軍事研究へと誘っていくようなやり方があらわとなっている。こうした国家機構や巨大な資本に奉仕させる「大学改革」の結果として、日本の学術は発展したのか? である。近年の趨勢や大学教員及び研究者をはじめとした現場の人々への取材や明らかになっている統計から、記者たちで議論してみた。

世界大学ランキングTop20に中国2校、東大は35位

 A イギリスの教育情報誌である『タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(通称THE)』が毎年発表する、世界の大学の教育研究活動に関するさまざまな項目を評価する「世界大学ランキング」というものがある。最新の2022年版では、世界99カ国にある1600以上の大学を対象として、論文引用数や教育・学習環境、研究、国際性などを評価してランキングが発表されている。いわゆる偏差値を比べたものではなく、大学の教育研究機関としての一定の指標として注目されているものだ。

 このなかでアジアに拠点を置く大学としてトップ20入りしたのは、16位だった中国の北京大学、o同じく16位の清華大学のみで、他はみなアメリカ、イギリスの大学だった。日本国内の最高学府と見なされている東京大学は35位、京都大学が61位で、トップ200のなかにはこの2校のみとなった。中国の大学はトップ200以内に10校、韓国の大学は6校、そのほかにも21位のシンガポール国立大学、30位の香港大なども上位に名を連ねている。

 台頭する中国をはじめとしたアジアの各大学に対して、日本の大学がおしなべてこの10年来で急速に順位を下げており、この最大の要因は研究力の低下にあると指摘されている。日本の科学技術分野の論文数が近年質・量ともに停滞していることはかねてより問題になってきたが、相対的に地位が低下している。ジリ貧ともいえる状況だ。なぜなのか?

 B 教育研究機関として生命線なのが研究力で、それは必然的に学術論文の質や量に反映する。どれだけ他の論文に引用されたかは、その研究の注目度や信頼度、影響力の大きさを映し出すものでもあるが、例えば文部科学省の科学技術・学術政策研究所が発表したところでは、2017〜2019年に自然科学分野の学術論文のうち、他の論文に引用された回数が上位10%に入る影響力の大きな論文の数で、日本は過去最低の世界10位に後退した。中国が米国を抜いて世界1位に上り詰めたのとは対照的なものだった。

 論文総数では中国が35万本超、米国が28万本超、日本は4位の6万5700本余り。論文の数そのものは世界4位だった。しかし、肝心要の世界の学術世界に影響を与えた「注目度の高い論文」となると、1位の中国が4万200本、2位の米国が3万7100本だったのに対して日本は3800本の10位であり、その国際的地位は揺らいでいることを示した。インドにも抜かれた。2007〜2009年には注目度の高い論文で世界5位、さらに10年前の1997〜1999年には4位だったのからすると、ジワジワと地位が低下してきているのがわかる。この10〜20年来で日本の大学に何が起こったのか? を見ないわけにはいかない。

 これは、やれ中国に抜かれてけしからん! とかの排他的なことをいっているのではない。中国は中国で国力の豊かさを反映した爆発的な発展を示しているだけだろうし、米中の科学技術分野における覇権争奪の入れ替わりであったり、国際的にも存在感が増していることがわかる。それに対して、日本の学術レベルは中国がどうであれ、なぜこれほど劣化してきたのか? を客観的に見る必要があるのではないか。

 C ノーベル賞を受賞した本庶佑京都大学特別教授をはじめとした研究者たちが、日本の基礎研究の停滞を危惧して基金を立ち上げたり、オプジーボの和解金も大部分を京大関係機関に寄付して注目されているが、こうした人々がこぞって日本の研究環境への危機意識から警鐘を乱打してきたことは無視できない。近年、ノーベル賞を受賞する日本人研究者はあいついでいるが、それはかつての研究が評価されているのであって、現在の日本の研究環境では、将来的にはノーベル賞受賞者などいなくなるのではないかと危惧されている。開発研究や応用研究ばかりに目を奪われて基礎研究が疎かになり、しかも研究者が置かれている地位も極めて低いことが問題になっている。足下で地盤崩壊ともいえる状況が深刻なものになっている。

 目先の成果に追われて論文の捏造もあいついでいるが、例えば「STAP細胞」でとり沙汰された小保方女史を叩けば解決するという代物ではない。そこには構造的な問題が横たわっているように思えてならない。全般として真理真実を自由に探究するゆとりや、それを保証する金銭をともなう社会的保障が乏しく、研究環境が劣化してきたことが背景にある。それは、昨今のノーベル賞受賞者たちが在籍していた時代の日本の大学の研究環境とは様変わりしており、だからこそ彼らが危機感を抱いて問題提起しているのだ。

 D 大学関係者たちの多くが指摘しているのは、やはり2004年の国立大学法人化以降にくり広げられてきた「大学改革」なるものの犯罪性だ。大学はこの10〜20年のケチ臭い「大学改革」で大きく変貌してきた。それは国が手を突っ込んで劣化させたといっても過言ではない。

 研究費の配分については「選択と集中」などといって、目先の成果が期待される分野や花形であろう研究分野に重点的に研究費が配分され、そうではない基礎研究などは切り捨てられてきた。国立大学は法人化にともなって国から運営費交付金をガッポリと削られ、科研費(重要研究として認められた研究のみ研究費が支給される)の争奪戦に追い込まれたり、足りない分は企業など民間から資金を引っ張ってこい! という競争世界に放り込まれた。

 要するに国が学術分野への投資を切り詰めたのだ。そして産学連携といって企業に奉仕させる研究や、軍産学連携で軍事研究へと誘導するなどの囲い込みも進んだ。極めて意図的な政策だ。その兵糧攻めの結果、各研究室への研究費の配分も減り、貧しい研究環境をよぎなくされたり、大学としては教員採用を抑制したり、非正規雇用に置き換えるなどして人件費を抑えたり、しわ寄せは末端にまで押し寄せた。

不安定な研究者 任期付雇用のポスドク

 A こうした「大学改革」を実行した結果、世界的にも学術分野における地位を低下させているのだから、反知性主義がやることは反社会的でもあると思うのだが、2000年代以降の20年来についての大学の変化を捉えないことには問題の解明には至らない。

 B 研究費がなく出張や資材購入も自腹とかは大学教員からもよく聞く話だ。年間数十万円の研究費でなにができるのかという話だ。そのくせ論文数が評価にも直結することから追いまくられている。論文も数が多ければ良いというものではなく、やはり質や社会的有用性がともなってなんぼのはずなのに、数値だけに追われるという本末転倒がある。ゆとりがなければ研究に没頭もできないが、まず第一に安心して研究できる環境にないことがあげられる。これではいくら尻を叩いても日本の学術の世界における地位復権などとてもではないがおぼつかない。

 A 現役の大学教員たちも大変だが、その卵たちになるとさらに劣悪な環境に晒されている。ポストドクター(通称ポスドク)問題といって、博士課程を終えて学位を取得したものの、任期付きでしか雇用してもらえず、若手研究者が極めて不安定な状態に置かれていることも問題になっている。博士課程修了後にストレートで大学助教や公的な研究機関の研究員といった雇用期限のない安定した仕事にありつけるのはおよそ1割といわれ、それ以外の者は1年とかの契約更新で場合によっては切られる立場におかれている。研究者として安定した地位に這い上がっていくのは至難の業だ。

 2018年に九州大学の箱崎キャンパスの研究室で46歳の男性が焼身自殺した事件があった。常勤の研究職の道に進むために頑張っていたが、収入を得るために勤めていた専門学校の非常勤職の雇い止めにあい、経済的にも破綻して研究室暮らしがはじまり、いくつも肉体労働を掛け持ちした末に絶望しての自死だった。大学院から研究者の道に進もうとしてもポストがなく、男性と同じような境遇をよぎなくされている人は少なくない。大学職員や研究者の非正規雇用も随分と広がっている。東京大学でも非常勤職員の雇い止め争議が起きたが、雇用の調整弁としての非正規化が各大学で進んでいる。それもこれも、元を正せば独立行政法人化以後の運営費交付金の削減が発端であり、大学という学術研究の足場を崩壊させている原因だ。行財政改革などといって国の未来とも関わった学術研究への投資をケチり、自国の学問レベルを劣化させているのだ。

 D 頑張って博士号の学位を取得したところでポスドクが関の山なら、あえて研究者になろうとは思わない。というか、大学の4年間学問に励むだけでもすこぶるカネがかかり、大学生はみな奨学金という名のローン地獄に叩き込まれている。国公立大学の授業料だけ見ても1970年代には年間7万円前後だったのがいまや53万円。そのために多くの学生が有利子の奨学金を借りて、社会に巣立つ際にはスタートラインから300万〜500万円とかの借金を背負わされる。もっと大きな金額を背負っている若者もいる。

 研究者にならなくとも、その返済のために結婚や子育てが制約されて手足が縛られる。その数は580万人にもなるというから、社会的にも大変な問題だ。奨学金チャラの徳政令を実施せよと叫ぶ政党も出現しているが、580万人にとっては切実な問題なのだ。

 C 研究者の立場も不安定だが、学生そのものも不安定。みんなが安定した状況から追いやられている。これで学問に打ち込める環境なのかだ。先程からのポスドクの問題とも関わって、修士課程から博士課程に進学する学生の数も近年はめっきり減っている。

 博士課程に進学する学生の数は、ピーク時の平成15年度に1万1600人いたのが減り続け、昨年度は6000人を割っている。独立行政法人化以後に半減したということだ。博士課程を終えても大学や研究機関で働ける保証などないのだから、当たり前だ。大学4年間だけでも経済的負担は大きいのに、博士課程まで終える9年間に必要な学費・生活費は平均値で1779万円にのぼると日本学生支援機構の調べでも明らかになっている。

 アメリカでは学費免除などもあり、中国でも院生への手厚い支援が施されているが、日本では奨学金という名のローン地獄の餌食みたいな状況に追いやられている。これでどうして「学問を究めたい」と思えるのかだろう。それは日本社会から次第に科学者がいなくなることを暗示している。

学問の自由を抑圧 横行する非民主的運営

 B 大企業や資本にとっては、大学とはハイスペックな人材を供給するための育成機関にすぎず、自企業で育てるのではなく大学で即戦力を育成せよ! が要求だ。新自由主義路線のもとでますます露骨な要求になっている。TOEICなど英語能力がことのほか重要視されるようにもなったが、グローバル人材育成のアウトソーシングみたいなものだ。そうした人材が新卒で借金を山ほど抱えておれば、雇う側としてはカゴの鳥みたいなもので、サラリーに縛り付けるのにも最適という関係にほかならない。いわゆる社畜にならざるを得ないような環境に端から追い込まれている。ただでさえ少子化で学生も少ないのに、経済的にも過酷な状況がある。

 A 昨今の大学崩壊は「独立行政法人化が契機になった」と大学関係者たちは異口同音に指摘するが、それ以後の新自由主義路線による「大学改革」とはなんだったのかが問われなければならない。学術レベルの後退は既に結果としても出ている。その崩壊も歴然だ。

 理系では軍産学協同の母体として大学を研究開発に組み込み、人文社会系は切り捨てていく。目先の経済的利益をもたらさない文系は切り捨て、理系を中心とした軍産学によるグローバル競争に資する大学へと変貌させることが狙いだった。大学はそのための道具にすぎないという扱いだ。そのような大学に変質させるためのトップダウン型であり、学長選における学内での意向投票の廃止や学部長の任命権を学長が全て掌握するなどの非民主主義的な大学運営が横行するようになった。国の統制に忠実な学長ならばその暴走は許容され、筑波大学のように軍事研究にのめり込むならなおさらだ。学者としての矜持を持って抗ってくるなど、支配を強めたい国としては言語道断という関係にほかならない。

 こうして一方では運営費交付金を減額して財政的に支配し、国および資本のある側に大学を従属させ、その利害のために縛り上げていくという政策がやられてきた。日本学術会議の任命を巡る問題もその延長線上にある。政治がいくらでも手を突っ込むし、学者の自由な発言や自由な行動を奪い、トップダウンによって国家権力のもとに縛っていくという力が働いている。そして、都合の良い研究には資金を与え、そうではない研究は切り捨て、ついには人文系廃止まで口にするようになった。学問と自由の関係であったり、豊かな創造性ともつながった緩さやゆとりの必要性であったり、まったく無理解なものが恣意的に従属させようとしてきて発展の芽を摘み、今日のような「劣化」「後退」「崩壊」などといわれるような状況が生み出されている。

 D 新自由主義というのは、もはや有名な表現にもなったが「今だけ、カネだけ、自分だけ」をどこまでも追求する。国家100年の計など念頭にない。目先の利害を追い求めるためには、社会がどうなろうが2の次3の次で、社会的利益とか公共性を否定する。この20年来でやられてきた「大学改革」なるものは、まさにそうした日本社会全般とも共通して新自由主義路線に身を委ねたもので、反発が強いからこそ強権的であるというのが特徴だ。しかし、結果として大学崩壊がどこでも顕在化し、質の高い論文を求めて尻を叩いたところで、いまさらどうにもならない崩壊状況が露呈している。自国の学術レベルを劣化させるなど為政者としてはバカではあるまいかと思うが、こうした状況に追い込んだ国の責任は重大だ。

 A ただ、絶望するだけでは展望がない。独立行政法人化以後の劣化が問題なら、単純な話としてはそれ以前の状態にまずは戻すことなしには始まらないし、学長選考規定なども元に戻し、歪んだ従属構造を強いるために減らした運営費交付金も元に戻して、安心して研究に従事できる環境を整えることが必要だ。研究者の卵が減っている問題も、「日本から科学者がいなくなる」を放置するのではなく、大学院生たちが学問に集中できるような手厚い支援を他国と同様に実施することだ。それらは全て国の未来、将来がかかっているのだから、何をケチ臭いことをしておるのかという話だ。

 B 学問から自由や無駄を奪うことがいかにとぼけているのか、今日の惨憺たる大学崩壊の現実から捉えなければならないのではないか。独立行政法人化は開かれた大学を目指して人類社会のために貢献することを謳っていたが、人類社会すなわち世界から一人負けする状況に向かい、貢献するどころか相手にされなくなったことを浮き彫りにしている。世間一般には見えづらく、わかりにくい分野の話ではあるが、大学関係者たちにもできるなら学者用語の難しい感じではなくわかりやすく発信してもらって、その構造的問題についてメスを入れ、解決のために社会的運動にすることが重要だ。大学生の奨学金問題もポスドクも単体ではなく、すべてはつながっているのだ。

https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/22133

264. 中川隆[-14495] koaQ7Jey 2021年12月22日 08:30:25 : dFWaWpqW2w : MDFPdlB3Uno4eFE=[16] 報告
【第39回】ゆとり教育が格差社会の原因?どん底に落ちないために(鈴木傾城 × 森永康平)
2021/12/20



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理
265. 2021年12月25日 10:24:06 : JVw9jOa6p2 : d2hzWHdPUzAuVDI=[2] 報告
『二極化する学校―公立校の「格差」に向き合う』 著・志水宏吉
2021年12月24日
https://www.chosyu-journal.jp/review/22355

https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E6%A5%B5%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E2%80%94%E2%80%94%E5%85%AC%E7%AB%8B%E6%A0%A1%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E3%80%8D%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%8D%E5%90%88%E3%81%86-%E5%BF%97%E6%B0%B4-%E5%AE%8F%E5%90%89/dp/4750517089/ref=sr_1_1?adgrpid=127190302753&hvadid=538522487162&hvdev=c&hvqmt=b&hvtargid=kwd-1462893305207&hydadcr=1310_13411335&jp-ad-ap=0&keywords=%E4%BA%8C%E6%A5%B5%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B%E5%AD%A6%E6%A0%A1&qid=1640395422&sr=8-1


 イギリスのサッチャーによる新自由主義改革を真似て、この20年間、小泉・安倍政府が教育に市場原理や成果主義を持ち込もうと動いてきた。小・中学校をめぐっては、全国一斉学力テスト(2007年開始)をおこない、その成績を公表し、その結果によって子どもや保護者が自由に学校を選べる学校選択制(2000年の東京都品川区が最初)を導入するというのが柱の一つだった。だがその後、テストの成績の公表は「不必要な序列化につながる」という批判が強く、大阪府を除いて慎重な対応がとられており、学校選択制は当初かなりの自治体で採用されたものの、10年もたたないうちに下火となり、その後廃止や見直しをおこなう自治体があいついでいる。

 著者は全国の学校の調査や聞きとりをもとに、この20年あまりの教育の新自由主義改革の問題点を明らかにするとともに、今後の公教育のあり方として「在日外国人を含む日本に暮らすすべての人に無償の普通教育を」という方向を提起している。

格差固定化した学校選択制

 イギリスやアメリカを手本にした教育の新自由主義改革は、日本では中曽根内閣のつくった臨教審が「画一化から個性重視へ」のスローガンで開始した。学校選択制を日本ではじめて導入したのは東京都品川区で、2007年のこと。当時の教育長・若月秀夫の強力なリーダーシップのもとに、小学校では区を四つの地域に分け「ブロック選択制」とし、中学校では区全域の学校を選択できる「自由選択制」とした。

 開始後五年間の調査では、小・中学校とも全生徒の三割が校区外の学校を希望するという結果になった。まだ全国一斉学力テスト導入前なので、その理由は「学校の近さや通学のしやすさ」「子どもの人間関係(いじめや荒れなど)」が多かった。そして「一貫して流入者の多い学校」と「一貫して流出者の多い学校」、つまり「選ばれる学校」と「選ばれない学校」との二極化があらわになった。

 別の調査では、「選ばれない学校」が「選ばれる学校」に転じる例はほとんどなく、格差が固定化していること、「選ばれない学校」のなかには閉校や廃校に追い込まれる学校も出たこと、子どもたちの移動によって地域と学校との関係がどんどん切り離されていったこと、大量の転出入で教育活動にも大きな不安定要因になっていること、競争的な場としてのイメージを強め、子どもたちに大きな精神的負担をかけていること――が明らかになった。

 開始後10年以上を経た2012年の調査では、すでに全国の学校選択制導入の勢いはストップし、新たに採用する自治体はなくなった。実施していたのは全体の15・2%、234自治体にとどまり、その後、廃止や縮小を決定したところが出始めた。前橋市や長崎市、東京都杉並区や江東区、多摩市などがいったん採用した選択制の廃止、または大幅縮小を決定した。北区、中野区、世田谷区、大田区は採用しなかった。

 例えば2010年度で廃した前橋市は、廃止理由として「地域自治会や子ども会など、居住地域との関係が希薄化する」「登下校の安全確保が困難(集団下校の見守りなど)」「生徒数の偏り(減少する学校が固定化)」などをあげている。これは他の自治体にも共通するもので、改めて子どもは地域のなかで育つということを確認させるものだ。

 品川区も2020年度から、選択制の内容を修正した。

時代に逆行した大阪の事例

 これに逆行したのが大阪市で、2014年度から学校選択制を始めた。市長は橋下徹である。

 大阪市の学校選択制は、学力テストの結果の公表とセットになっているのが特徴で、2013年から市内の各小・中学校の校長にはホームページ上での成績公表が義務づけられた。これは学校現場への大きなプレッシャーとなったが、それでも実際に校区外の学校に進んだ子どもの比率は一ケタにとどまり、品川区と比べてもかなり少ない。そこには子どもや父母の無言の抵抗があったようだ。

 著者はこの大阪に立ち入って調査をおこなっている。茨木市では、全国学テがスタートした直後から「一人も見捨てへん教育―すべての子どもの学力向上に挑む」を開始。全市の学校関係者が一つになり、すべての子どもの学びの土台となる力を丹念に育み、低学力層の子どもたちの力を伸ばし、全体としての学力が向上した。

 それと対照的なのが大阪市だった。たとえば貧困家庭が多く、高校に入っても途中でやめる生徒が多い大阪市西成区では、2014年と2019年を比べると、「流入者が多く人気のある中学校」3校は成績が上がり、「流出者が多く人気のない中学校3三校は成績が低下した。つまり「勝ち組」と「負け組」の差がますます拡大した。しかし「負け組」といわれる学校の出身者で、後に飲食店で成功したり土木建築の現場で活躍する子どもは少なくないという一面もある。

 以上のことは、教育に市場原理や成果主義を持ち込んで差別・選別と序列化を進め、格差を拡大し続けるかぎり、さまざまな分野で国の将来を担う担い手を育てることはできないこと、貧富の差なく平等に教育を受けさせることがいかに大事かということを示している。また、それを求める世論がいかに強いか、である。

 大阪市も今年度末には大規模な保護者アンケートを実施し、学校選択制に対する抜本的な見直しを図ることをうち出しており、その行方が注目される。

 (亜紀書房発行、四六判・326ページ、定価2000円+税)

https://www.chosyu-journal.jp/review/22355

266. 中川隆[-14278] koaQ7Jey 2022年1月09日 05:25:35 : ExFlQfpN42 : b1RZTFVzeWxLZFk=[3] 報告
「選択と集中」というのは、要するにパイが縮んでいる時には、誰が無駄をしているのかを暴き出し、誰の取り分を減らすかを決めるということ

年始のインタビュー - 内田樹の研究室 2022-01-04
http://blog.tatsuru.com/2022/01/04_0800.html


毎日新聞に年頭のロングインタビューが掲載された。インタビュアーは吉井理記記者でした。

「−選択と集中」は、限られた人やカネの使い方を吟味し、より有用だと思われる事業や部門に多く振り向けたほうが効果的だ、という考えです。毎日新聞には1993年5月の大手繊維メーカー社長のインタビューで初めて登場します。以来約30年間、1400本超の記事で語られてきました。これを「捨てる」とはどういうことでしょうか。

「パイ」が大きくなっている時には、「選択と集中」というようなことは誰も言いませんでした。90年代初めまでは、大学でも研究費は潤沢でした。僕のような文学研究者の研究費なんか自然科学系に比べるとごくわずかですから、使い切れないほど予算がつきました。分配比率のことなんて、誰もうるさく言わなかった。

でも、右肩上がりの時代が終わり、「パイ」が縮み始めると、とたんに人々が「パイの分配方法」をやかましく論じ出した。「選択と集中」という言葉が出てきたのはその時です。

分配にはルールが必要だ、無駄遣いをなくせ、制度のフリーライダーを叩き出せ、資源は社会的生産性や有用性に応じて傾斜配分すべきだ、という「せこい」話になった。

―それは合理的に見えますけれど......。

僕も最初のうちは生産性・有用性に基づく資源の傾斜配分には合理性があると思っていました。でも、よく考えたら、どの研究に将来的な可能性があるかなんて実は予測できないんです。

加えて、「なぜこの研究が有望か」を説明するために、書類書きやプレゼンで膨大な時間とエネルギーを費やさなければならなくなった。「パイの取り分」を確保するためには研究教育のための時間を削るしかない。

予算規模が大きい自然科学分野では、「金策」に忙殺されて肝心の研究が進まないという悲劇が起きました。

―確かに文系の研究者からも同じ声を耳にしたことがあります。いかに結果を出したか、それっぽく見える書類作成に研究よりも時間が割かれる、と嘆いていました。

でも、無駄をゼロにして、成功するプロジェクトだけに資源を集中するということはできないんです。それは「当たる馬券だけ買え」というのと同じ無茶な要求なんです。

どんな分野でも、どの研究が空振りし、どれが「大化け」するかなんて事前にはわからない。だから無駄をゼロにすることは原理的に不可能なんです。

でも、今の研究者たちは、自分の研究は無駄ではないことを証明するために、研究時間を犠牲にして、膨大な量の作業を強いられている。この作業は何の価値も生み出していない。

―なるほど。しかし現実にパイは縮小している。分配できるお金も少なくなっていますが......。

少ないお金でも、とりあえず満遍なくばらまいておく方が、「役に立つ研究」だけに資源を集中しようとしてたいへんな手間暇をかけるより結果的には費用対効果がよいと僕は思います。

「選択と集中」というのは、要するにパイが縮んでいる時には、誰が無駄をしているのかを暴き出し、誰の取り分を減らすかを決めるということです。

査定や評価というのはそれ自体では何の価値も生み出さない典型的な「ブルシット・ジョブ」なんです。

日本の国力がいまどんどん衰えているのは、人々が他人の取り分をどうやって減らすかということだけに熱中して、新しい価値を生み出すための努力を怠っているからです。

学術の世界だけではありません。政治でも経済でも同じことです。「競争勝者に資源を優先配分する」というゲームを30年していたら、どの領域でも「誰でもできることを他人よりうまくできる人」ばかりが出世し、「誰もしていない全く新しいことを試みる人」は見捨てられた。

「誰もしていないことを企てる」人の中からしかパラダイムを転換できるようなイノベーターは出てこないんですから、そういう人たちをこそ支援しなければならないのに、それを制度的に怠ってきた。

ですから、科学技術上のイノベーションも新しいグローバルビジョンも日本から生まれなかったのは当然です。

―その危機感が社会で共有できていませんね。

それは「選択と集中」のせいで、どれくらいのものを失ったのか、メディアが現状を正確に伝えていないからです。

―確かに......。

才能ある人たちは、このばかげた評価と査定のシステムから逃げ始めています。無駄なことに貴重な時間とエネルギーを使いたくないのは当然です。

最近、米国から帰国した友人から聞いた話ですが、米国の大学院で学ぶ自然科学系の留学生の6割が女性だそうです。たいへんによく勉強するんだそうです。

―どういうことですか。

米国の大学や企業に就職するためです。米国で学位をとって日本に帰っても、女性研究者には能力にふさわしいポストが用意されていないからです。だから、米国で就職先を探す。

そうやって優秀な女性研究者が日本からどんどん流出している。優秀な人が逃げ出すようなシステムを日本社会自身が作り上げているんです。

すでに研究環境も韓国や台湾のほうが日本より良くなってきています。条件がよければ海外の研究機関に移りたいという研究者はこれからさらに増えるでしょう。

どうやったら海外に流出している女性研究者を日本に惹き戻すかを考えることが喫緊の課題なのですが、「どうぞ日本に帰ってきてください。厚遇しますから」というシグナルは日本の大学も企業も発信していない。

―日本へも海外から優秀な人が来てくれれば、とも思いますが......。

これほど研究環境が劣化している局面では、海外からすぐれた研究者が来てくれるはずがありません。

米国が世界の学術のトップでいられるのは世界中から人材が集まってくるからです。彼らが科学技術上やアートのイノベーションを担っている。

―米ケーブルテレビ局「CNN」の2019年の報道では、米国人受賞者の3分の1は移民の出自、とありました。一方、日本は移民に否定的ですし、21年12月21日に東京都武蔵野市で在留外国人にも住民投票に参加できる条例案が否決されたことが海外でもニュースになるほどです。

そうです。これからはある意味で「人の奪い合い」になる。生産年齢人口がこれから急減するのは、中国も韓国も一緒です。だから、マンパワーを確保し、マーケットのサイズを保とうと思ったら、海外から人を入れるしかない。それだけではありません。米国がそうしているように、学術的なイノベーションを担うことのできる才能を海外から受け入れる必要がある。

市民的自由を求めている人、人権の保護を求めて、受け入れてくれる先を探している人たちは世界中にいます。彼らを受け入れる制度を整備していれば、米国ほどではなくても、その中から卓越したイノベーターが出てきて、日本の未来を牽引してくれる可能性はあります。

日本は治安もいいし、社会的インフラも整備されています。ご飯も美味しいし、自然も美しい。だから、「日本は外国人を大切にしてくれる国だ」という評価が得られれば、たとえ多少給料が安くても、海外から優秀な人材が来てくれるかも知れない。

でも、武蔵野市の条例案を否決した後に、与野党の政治家が「安心した」「良識を示した」などと言ってしまった。これは外国の人に「日本はあなたたちを歓待する気はない」と意志表示をしたのと同じことです。

―「安心した」という政治家の発言を喜ぶ人たちもいます。

そうでしょうね。政治家が自分自身の選挙のことだけを考えているなら、選挙民が当座喜ぶことを言っておいたほうが有利だということのでしょう。愚かなことです。それは「自分が選挙に勝てるなら、国力がいくら衰微しても構わない」と告白しているようなものですから。

生産年齢人口が急減する局面を迎えている日本は、海外からマンパワーの安定的な供給がないともう経済が回りません。でも、そのことを政治家は認めないし、メディアも指摘しない。

そのような窮状にありながら「日本は外国人を歓待する気はない」と言い切る政治センスのなさには愕然とします。

―内にも外にも「意地悪な国」になっている、という印象があります。

昨秋の衆院選では、「議員・公務員の削減」といった「身を切る改革」などとにかく統治コストの削減を訴える日本維新の会が関西で躍進しました。

行政コストの削減は端的によいことであるというふうに日本国民の多くは信じ切っているようですけれど、それはいずれ市民への行政サービスの質の低下を帰結する。自分が「切られる」側にいるのにどうして平気でいられるのか、僕には理解できません。

―年初から暗いインタビューになってしまいました。メディアはつい安易に「ならば処方箋は」と聞きがちなのですが、その暗さにきちんと目をこらし、処方箋を自分で考えることから始めないと......。

まずは「選択と集中」という愚策を止めることです。評価と査定というブルシットジョブに無駄な手間暇をかけることを止める。そんな暇があったら、足元の空き缶を一つでも拾った方がいい。

『右大臣実朝』で太宰治は「人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」と書いています。「暗い」うちはたぶんまだ大丈夫です。

http://blog.tatsuru.com/2022/01/04_0800.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

267. 2022年2月14日 03:05:40 : CQayNaUQn2 : dGxPVlVIT2FaMFU=[2] 報告
岸田政府 10兆円規模の大学ファンド計画 大学独法化に続く学術研究の破壊
教育・文化2022年2月13日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/22735


 岸田政府は1日、総合科学技術・イノベーション会議を開き、「新しい資本主義」の柱として大学ファンド(基金)計画を決定した。これは政府が支出する10兆円規模の基金を株式や債券で運用し、そこで得た利益を全国の国公私立大から選ばれた5〜7校程度の「国際卓越研究大学(仮称)」に年間数百億円ずつ配分するというものだ。

 これに対して各地の大学の教職員からは、「大学の独立行政法人化の失敗が明らかになっているのに、同じ轍を踏むものだ」「ごく少数の大学への資金投入でなく、裾野が広い基礎研究を重視し、日本全国の大学の底上げこそめざすべきだ」との厳しい意見が出されている。

国公私立大から7校を選抜

 この大学ファンド計画は、内閣府と文科省の有識者会議がまとめたもの。10兆円の基金の大半を政府の財政投融資でまかなうとしている。それによって大学へ民間の投資を呼び込み、とくに人工知能(AI)や量子などの最先端技術の競争力復活をめざすという。

 ただ、これだけの巨額な資金を市場運用に回した例はなく、想定されている運用益も年4・38%と、国民の年金を運用しているGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の20年間の運用実績よりもかなり高い。もし運用に失敗すれば、国民にツケが回されることになる。

 また、大学ファンドの対象となる「国際卓越研究大学」には、年3%の事業成長が求められることが決まった。ということは、大学がこれまで以上に産業界や国が求める研究に頼ることにならざるをえず、国の側が軍事研究への誘いを強める契機ともなりかねない。

 さらに、国際卓越研究大学には、学外者でつくる経営意思決定機関を新設し、この機関に学長を解任できる権限など人事権を与えることも決まった。
 政府は今国会に関連法案を提出する。大学ファンドは2021年度中に運用を開始し、2024年度から運用益を配分するという。

 これに対して現場が強い危惧を抱くのは、2004年に国立大学の独法化が実施されて以降、日本の学術の国際的地位が急激に低下している現実があるからだ。

日本の学術 地位低下は深刻

 日本の大学改革は、新自由主義を基調とする米国式大学運営を日本に持ち込んだものだった。それは企業や個人の投資や寄付によって大学が自己資金を集め、その運用益で大学の運営費を調達するというもので、資金運用のプロが雇われ、経営陣にも企業からの出向者が増えた。

 また、大学の授業料が基本的に無料であるヨーロッパの大学とは対照的に、米国の大学は授業料を引き上げ、その支払能力のある学生を呼び込んできた。

 これを手本にした小泉内閣は、独法化後、国の運営費交付金を毎年削減する一方、「選択と集中」「競争と評価」を掲げて財界や国の求める研究で業績をあげた大学に資金を集中するようになった。大学は教職員の数を減らさざるを得なくなり、基礎研究は衰退した。

 続いて安倍政府は学校教育法と国立大学法人法を改定し、それまで人事や予算決定の権限を持っていた教授会からその権限を剥奪し、学長のリーダーシップを強めた。また、財界が必要としない教員養成系や人文系学部の廃止や転換をうち出した。

 この間、ノーベル賞を受賞した学者たちが、「すぐに成果が出る応用研究ばかり重視するのでなく、日の目を見るまでに30年、40年かかるけれども、長期的な社会課題の解決や新産業の創出につながる基礎研究を重視すべきだ」「今のままでは質の高い研究人材は確保できず、日本人のノーベル賞受賞者は出なくなる」とくり返し警鐘を鳴らしてきた。だが、政府はこれを無視し続けた。

 その結果、昨年の世界大学ランキングで東大は35位、京大が61位で、トップ200の中に日本はこの2校のみ。自然科学分野の学術論文のうち、他の論文に引用された影響力の大きい論文数で、日本は過去最低の世界10位に後退した。教育・研究・教員人事について教員たちの意向を無視してトップダウンで決まる事件があいつぎ、優秀な人材は去り、学生は学問の府で学問が学べない状況に直面している。

 最近、独立行政法人化の方向性を決めた有馬朗人元文部大臣(当時)自身が「国立大学法人化は失敗だった」と発言し、関係者のなかで話題になっている。


 20年にわたる大学の新自由主義改革を見直す世論が渦巻くなか、それに逆行する新自由主義そのものの大学ファンド計画に厳しい視線が注がれている。

https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/22735

268. 2022年7月02日 16:58:45 : Um9rwUBqT2 : M2MveUZhL3EwL2s=[1] 報告
「中学の理数授業少ない世代、特許出願数少ない」 研究チームが警鐘
朝日新聞社 - 3 時間前

 中学で理数科目の授業時間数が少なかった世代は、特許出願数も少ない――。そんな研究結果を、神戸大学経済経営研究所の西村和雄・特命教授らのチームが1日に発表した。「日本の研究開発能力の低下は、背景に学習指導要領の改訂があることを強く示唆している」としている。


 研究チームによると、2020年に調査会社を通して国内の研究・技術職の人にアンケートを実施し、5千人から有効回答を得た。

 その結果、中学時代に理数科目の授業が840時間あった52〜60歳(調査時点)の世代は、1人あたりの年間特許出願数が0・156件だったが、授業が735時間に減った40〜51歳は、出願数が3割ほど減って0・108件に。さらに授業が減った31〜39歳は、出願数もさらに少なかった。

 研究チームは16年にも別の調査会社を使って同様の調査をしている。特許出願数は一定の年齢を過ぎた頃から増えるが、年齢と出願数の関係をみると、今回の調査は前回からちょうど4歳ほど年をとるかたちで、同様の傾向が見られた。このことからも、出願数に世代が関係していることが確認できる、としている。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%90%86%E6%95%B0%E6%8E%88%E6%A5%AD%E5%B0%91%E3%81%AA%E3%81%84%E4%B8%96%E4%BB%A3-%E7%89%B9%E8%A8%B1%E5%87%BA%E9%A1%98%E6%95%B0%E5%B0%91%E3%81%AA%E3%81%84-%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%8C%E8%AD%A6%E9%90%98/ar-AAZ6rWe?ocid=EMMX&cvid=02b32e2142e14a24b587616a47c2da18

269. 2022年7月03日 05:20:38 : 2OgxkND5Jg : V25PQVpmVi8xc0U=[1] 報告
大学数学をも翻弄した「ゆとり教育」の"呪い" 令和の数学教育は払拭できるか? 「技術立国日本の再建」担う若者に期待
芳沢 光雄 - 昨日 6:00

日本の歴史から考える大学数学の学び
先日の記事〈大学数学にも浸透してきた『暗記だけの学び』〉では、初等中等教育で「理解無視の暗記だけの数学学習」が広がってしまった問題点について述べ、それが大学数学の学びにも浸透してきた状況を改善する目的ももって『新体系・大学数学 入門の教科書』(上・下)を上梓したことを述べた。

今回は、日本の数学の学びに関する歴史的視点から、現在の状況を考えてみたい。

まず、しばしば耳にすることだが、少しでも日本に関心のある海外の人達が疑問に思うことに、「日本は第二次大戦の後で、どうして目覚ましい発展を遂げたのか」ということがある。それに対して筆者が真っ先に思いつく回答は「工業化に向けた数学の教えと学びが、江戸時代から脈々と生きていたから」ということである。

江戸時代には、数学教科書『塵劫記』(吉田光由)が国民の間に普及したこともあって、国民の数学レベルは世界的にも相当高かった。明治維新を成し遂げた人材を松下村塾で育てた吉田松陰は、後に杉浦重剛が品川弥二郎の談話として残した「先生は此算術に就ては、士農工商の別なく、世間のこと算盤珠をはづれたるものはなし、と常に戒しめられたり」(「松陰四十年」、日本及日本人、政教社)という言葉からも分かるように、数学教育をとくに重視していたのである。


技術立国・日本の礎を築いた数学教育者
英国の応用数学者・数学教育者で、熱力学第二法則などで有名なケルビン卿(ウィリアム・トムソン)の門下生であるジョン・ペリー(John Perry、1850-1920)は、1875年から1879年まで日本の工部大学校(東京大学工学部の前身)で教鞭を執り、特に数学の応用面を熱く説き、その後の技術立国・日本の礎の一角を築いた。

ペリーが1901年にグラスゴーでの数学教育に関する講演で述べた8項目は、いずれも重要であるが、筆者がとくに注目するのは、それらの中にある

「数学の学びで得た成果は、人類共通のものだという喜びがある」
「昔も今も、試験に合格するという狭い範囲で数学をとらえる見方があることは残念である」
「数学は自己のためということから離れて、物事を考える重要性を学ぶ」
「数学を介していろいろな原理がよく理解できる」
等々である。

戦後の指導的人材を輩出した"特別科学組"
第二次大戦の末期に、優秀な科学者の育成を目的として設けられた特別科学学級(特別科学組)は、1944年12月から1947年3月までの僅か2年半であったが、その出身者のリストをネットで見ても分かるように、戦後の日本を築いた指導的立場の人達を数多く輩出した。

筆者はかつて、その一人である鈴木淑夫(元日本銀行理事、元野村総合研究所理事長)からレポートをいただき、旧制中学の三学年末までに微分積分や(複素)関数論まで学んだことを教えていただいた。この内容は、現在では大学理系学部の教養レベルである。

特別科学学級に関する他の資料からも分かるが、現行の中学1年、2年、3年に相当するその学年での数学授業時間数は、週8時間であった。数学教育における時間数の問題は、後で詳しく述べたい。

上で述べたような流れが、戦後の工業立国としての目覚ましい発展の礎になったと考える。参考までに述べると、現在の大学数学の基礎として微分積分と並んで学ぶ線形代数は、経営数学の前身である輸送問題*がきっかけとなって戦後から始まったのである。

*輸送問題:ある製品を生産地から消費地まで最も安い費用で輸送する方法を求めるという問題

「ゆとり化」で削られてしまったもの
高度経済成長期が終わる1970年代後半から初等中等教育では、いわゆる「ゆとり化」の数学教育が始まった。1998年の学習指導要領改訂で「ゆとり教育」の骨組みが定められ、数学を中心に教育内容や授業時間数を3割削減するなどの目標が設けられた。

ちなみに、「ゆとり教育」時代の中学校での数学授業時間数は1年、2年、3年とも週3時間で、これは世界でも最低レベルである。驚いたのは、その3割削減した内容が、当初は「ゆとり教育」の「上限」であったことである。それ以上勉強してはいけないという、まるでどこかの国の文化大革命を思い出すような内容であった。

2002年に遠山敦子文部科学大臣(当時)が「学びのすすめ」を発表して学習指導要領の内容を「下限」とするまでは、その内容を「上限」とする指導まで規定されたほどである。もし「学びのすすめ」が無ければ、日本は没落国家に至ったと振り返る。

さらに90年代後半には、数学の授業時間数が今後減ることで、いくつかの県では高校の数学教員がゼロ採用になった。

それどころか、「数学の教員はもはや役に立たない。教員室でのあなたの机はない。家庭科の教員免許を取ったら残してあげる」、などと校長から肩叩きされた優秀な数学教員が何人もいたのである。そしてテレビの情報番組では、家庭科の教員になった元数学教員が、エプロンを付けさせられて面白おかしく取り上げられたこともあった。

そのような出来事が続いたからこそ、筆者は朝日新聞「論壇」(1996年11月7日号)への寄稿を皮切りに、数学の意義を活字にして訴え始めたのである。当時、筆者のもとに寄せられた意見の中で、とくに次の2点に関しては、なんとも悔しい気持ちを抑えることができなかった。

2つの本質的な問題
1つ目は、「ゆとり教育」を支持する方々から、「ゆとり教育を御批判される方々は『円周率約3はケシカラン』とよく言われますが、教科書にはちゃんと3.14と書いてあります。御批判の前に教科書をちゃんと見ましょう」と散々言われたことである(今でも言われる)。筆者は、その都度、このように説いたものだ。

確かに、3.14という記述はあります。しかし、それは意味のない3.14なのです。

たとえば、半径が11cmの円の面積を求めると、次のような計算が現れます。

11×11×3.14=121×3.14

ここで、3桁同士の掛け算が出てきます。

ところが「ゆとり教育」の筆算では、2桁同士の掛け算は教えるものの、3桁同士の掛け算は学習指導要領範囲外となって、そこでは「円周率は約3として計算してよい」となったのです。

したがって、この場合は、円周率が3.14で近似されることを示しながら、実際には「3」として計算することになります。つまり、問題の本質は「3桁同士の掛け算」を学習指導要領範囲外にしたことなのです。

【写真】3桁の掛け算
© 現代ビジネス
【写真】3桁の掛け算
2つ目は、「ゆとり教育」時代の前後に「数学は単なる計算技術だから、計算機が発達した時代を考えると、数学は不必要になってきた。数学科なんか卒業したって、学者を別にすると学校の先生しか就職口はないだろう」などと散々言われ(今でも言われる)、そうした意見を反映したかのように、それまで多くの成果を上げてきた横浜市立大学や上智大学の数学科が廃止となったことである。

しかし、これらの問題も、年月とともに解決の兆しが見えてきたのである。

なぜ3桁の計算が大切なのか?
最初の問題に関しては、諸外国の算数教科書でも3桁同士の掛け算を指導しているが、それが必要であることの本質的な理由にはならない。この問題に関しては、1、2、3、4、5……と成り立つ性質の理解が本質にある。掛け算でいえば、2桁同士、3桁同士、4桁同士、5桁同士……についての筆算ができるということの理解である。

数学でこのような対象に関しては「数学的帰納法」という証明法があるが、筆者は長い教育経験から数学的帰納法を用いる前に、n=1のとき成り立つ、n=2のとき成り立つ、n=3のとき成り立つ、というように、少なくても「3」までは確かめることによって、一般のnについて成り立つことを予想するのが自然である、という考えをもつ。

およそドミノ倒し現象だろうが、ボックスティッシュの紙が続いて出てくる現象だろうが、nが1と2の場合だけでは理解が不十分であり、nが3の場合のときが重要である。

それは、たとえば3枚のドミノを並べたとき、真ん中のドミノは倒されると同時に倒す作用があり、これが繋がる性質の本質である。

456×789の筆算を考えると、1段目の5×9のところでは、6×9によって繰り上がってきた5を加えると同時に、5×9に5を加えた50の5を上の位に加える作業が必要になる。この2つの作業は、3枚のドミノ倒しを行う場合の真ん中のドミノの動きに相当していることが分かるだろう。

再び注目される「掛け算の桁数」
筆者は、そのような理解をもっていたがゆえに、「ゆとり教育」の以前から「3桁同士の掛け算の指導は必要である」と新聞・雑誌・講演などで、強く訴えていた。そして2006年7月に、国立教育政策研究所は「特定の課題に関する調査(算数・数学)」(小4−中3約1万9千人対象)に関する次の報告をおこない、それは筆者の持論を証明するかのようなものだった。

小4を対象とした「21×32」の正答率が82.0%であったものの、「12×231」のそれが51.1%に急落したこと。さらに小5を対象とした「3.8×2.4」の正答率が84.0%であったものの、「2.43×5.6」のそれが55.9%に急落したこと。

それを機に掛け算の桁数の問題は注目されるようになり、筆者は文部科学省委嘱事業の「(算数)教科書の改善・充実に関する研究」専門家会議委員に任命され(2006年11月〜2008年3月)、掛け算の桁数の問題、四則混合計算の問題、小数・分数の混合計算の問題、等々についての持論を最終答申に盛り込んでいただいた。その後の学習指導要領下の算数教科書では、それらの問題は改善され、現在がある。

大学数学も新たな動きへ
2つ目の大学数学科の問題に関しては、2つの数学科の廃止に対しては、当初から関連する2つの学科等が他大学に設立されて成功すれば、プラスマイナス0になるだろう、と単純に考えていた。それに向けたチャンスは意外と早く訪れたのである。

ひとつは2007年に桜美林大学にリベラルアーツ学群が設置され、その中に筆者も参加した数学専攻が設けられたこと。もうひとつは、同志社大学で工学部が理工学部に改組した2008年に、そこに数理システム学科が設置されたことである。

桜美林大学の数学専攻については教員スタッフがたった3人という小さい専攻であるが、コンスタントに20名近くの数学メジャーの学生が集い、また中学や高校の数学教員をほとんど毎年のように輩出している。数学専攻の学生が、論文コンクールで観光庁長官賞を受賞したこともある楽しい組織である。

客観的に見れば、大学の数学系の学科等の問題に関しては、同志社大学の数理システム学科が成功するか否かの方が、はるかに大きな問題である。

幸い、旧友の教員が勤務する学科ということもあり、当学科の設置前後から数年前まで筆者は、高校生対象の当学科主催の講演会や、当学科の非常勤講師を担当させていただいた。もちろんそれらの効果は、あっても微々たるものであることは心得ていたが、横浜市立大学や上智大学のことを思い出すと体は自然に動いていた。

かつて三重県で行った高校生対象の出前授業に参加された高校生と、数理システム学科での筆者の授業で再開したときも嬉しかったが、何年か前に感激して涙が溢れて止まらないことがあった。

それは、数理システム学科の教員から、卒業生の主な就職先の資料を見せていただき、金融工学や符号・暗号理論に関係する企業に卒業生が続々と就職してきたことが分かったときである。同時に、このような情報が日本でもっと広がることこそが緊要な課題であると考えた。

【写真】数学科を巣立った者たちの活躍を知る
© 現代ビジネス
【写真】数学科を巣立った者たちの活躍を知る
「技術立国日本の再建」を握る数学
間もなくして、その思いが現実となることが起きたのである。2019年3月26日に経済産業省で発表されたレポート「数理資本主義の時代〜数学パワーが世界を変える」である。これは、数学関係者にとって大きな励ましになったことは言うまでもないが、これから数学を本格的に学ぼうという若い人達にとっても大きな励みとなるものである。

そのレポートの冒頭では、社会のあらゆる場面でデジタル革命が起き、「第四次産業革命」が進行中で、この第四次産業革命を主導し先へと進むために欠かすことのできない科学が3つあると捉えている。「それは、第一に数学、第二に数学、そして第三に数学である!」と述べている点は、驚くばかりである。

全文50枚に及ぶレポートはネットで読めるようになっており、海外ばかりでなく国内でも数学系の人材が求められていることを詳しく述べてある。戦後の工業立国としての目覚ましい発展の礎には微分積分などの解析学が大きなウエイトを占めていたが、現在はそれに加えて、符号・暗号の基礎となる代数学や離散数学も重要になってきていることが、図によって視覚的にも理解できる。

大学数学の入り口の学びに関しても、そのような変化を鑑みることが必要と考え、6月に上梓した『新体系・大学数学 入門の教科書』(上・下)の章立てで参考にした次第である。

さらに同書の出版直前に、数学界をリードする東京工業大学の加藤文元教授の注目すべきインタビュー記事〈GAFAで数学系の人材がひっぱりだこな理由。純粋数学はもう「ポケットに入っている」〉が「Forbes」6月9日号に掲載された。

上述の経済産業省のレポートを純粋数学の視点からブラッシュアップした記事であり、微分積分学の厳密な基礎になる「ε‐δ論法」や(代数学の群、環、体などを想定した)「数学的抽象概念の言葉」の学びにも言及している点に、頭が下がる思いがした。このインタビュー記事によって、「技術立国日本の再建」を夢見る若い人達が、数学の世界に飛び込んで来ることも期待したい。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%95%B0%E5%AD%A6%E3%82%92%E3%82%82%E7%BF%BB%E5%BC%84%E3%81%97%E3%81%9F-%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%95%99%E8%82%B2-%E3%81%AE-%E5%91%AA%E3%81%84-%E4%BB%A4%E5%92%8C%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%AD%A6%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AF%E6%89%95%E6%8B%AD%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%8B-%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%86%8D%E5%BB%BA-%E6%8B%85%E3%81%86%E8%8B%A5%E8%80%85%E3%81%AB%E6%9C%9F%E5%BE%85/ar-AAZ5xBq?ocid=EMMX&cvid=66fbef85913d45b89d968d980ef165bf

270. 2022年8月10日 06:10:32 : s8UPUR2OAI : Uk1HNGI5a1ZRWE0=[3] 報告
注目論文数、過去最低の12位
スペインと韓国に抜かれる
2022/8/9
© 一般社団法人共同通信社

 研究内容が注目されて数多く引用される論文の数で、日本はスペインと韓国に抜かれて前回の10位から過去最低の12位に転落したことが9日、文部科学省の科学技術・学術政策研究所が公表したランキングで分かった。研究開発費や研究者数で日本は3位だが、21世紀に入って横ばい状態。増加傾向にある諸外国に対して「じり貧」の傾向が強まっている。

 各国の2018〜20年の平均論文発表数などを分析した「科学技術指標2022」によると、日本の注目論文数は横ばいの3780本で、スペインは3845本、韓国は3798本だった。1位と2位は中国(4万6352本)と米国(3万6680本)。
https://nordot.app/929702808203476992?c=39546741839462401

271. 中川隆[-12871] koaQ7Jey 2022年11月04日 17:33:29 : qG7s5cUDes : RVlYRW9naFFGa3M=[2] 報告
サコ先生との対談本の「あとがき」 - 内田樹の研究室
2022-11-03
http://blog.tatsuru.com/2022/11/03_1036.html

中央公論新社からウスビ・サコ先生との対談を中心にした本が出ることになった。ゲラはもう戻して、最後に「あとがき」を書いた。

 ウスビ・サコ先生との対談を中心にまとめた本を出すことになりました。サコ先生は日本ではじめての「アフリカ出身でムスリムの学長」です。多様な出自の人々を同胞として迎える心構えにおいて日本社会はまだまだ十分な成熟に達していないと僕は思いますけれども、それでもサコ先生のような人が登場してきたこと、サコ先生の言葉に耳を傾ける人がしだいに増えてきたことは、日本の未来について僕を少しだけ楽観的な気持ちにさせてくれます。僕が日本の未来について「楽観的になる」ということはほとんどないのですけれど、サコ先生は僕にその「ほとんどない」経験をさせてくれる稀有の人です。
 この本で、僕たちは主に日本の学校教育について論じています。学校教育が僕たち二人の「現場」だからです。僕はもう定期的に教壇に立つということはなくなりましたけれども、いまでもいくつかの大学に理事や客員教授としてかかわっているので、大学で「今何が起きているのか」はある程度わかっています。そして、大学に関して言えば、楽観的になれる材料はほとんどありません。大学教育は制度としてはどんどん劣化しているし、研究教育のアウトカムはどんどん低下している。それも加速度的に。
 その原因については本書の中でも繰り返し述べています。それは「教育研究を中枢的に統御し、管理しようとする欲望」がもたらしたものです。「諸悪の根源」というような激しい言葉を僕はあまり使いたくないのですけれども、「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因であることは間違いありません。
 でも、不思議な話です。「統御し、管理しようとする欲望」は「秩序」をもたらし、「効率」や「生産性」を向上させることをめざしているはずです。でも、それがまったく逆の結果を生み出してしまった。どうしてなんでしょう。
 それは「創造」と「管理」ということが原理的には相容れないものだからです。そして、「管理」がどういうものであるかはほとんどの人が知っているけれど、「創造」がどういうものであるかを知っている人はそれに比べるとはるかに少ないのです。
日本社会では「管理」したがる人の前にキャリアパスが開かれています。彼らは統治機構の上層に上り詰め、政策決定に関与することができます。でも、「創造」に熱中している人はシステム内での出世にはふつう興味がないので、創造的な人が政策決定に関与する回路はほぼ存在しません。
 ですから、資源分配の決定を「管理が好きな人たち=創造とは何かを知らない人たち」が下す限り、その集団が創造的なものになるチャンスはまずありません。自分の出世しか興味がないサラリーマンが組織マネジメントを委ねられると、組織はどんどん息苦しく、みすぼらしいものになることは避けがたい。
 というのは、「管理」が大好きな人たちは、あらゆる仕事に先立って「まず上下関係を確認する」ところから始めるからです。「ここでは誰がボスなのか」「誰が命令し、誰が従うのか」「誰には敬語を使い、誰にはため口でいいのか」「誰には罵倒や叱責を通じて屈辱感を与えることが許されるのか」ということをまず確認しようとする。彼らはまずそれを確認しないと仕事が始められないのです。
 この集団はそもそも何のためにあるのか、いかなる「よきもの」を創り出すために立ち上げられたのかとか、メンバーたちはそれぞれどういう能力や希望があるのかということには副次的な関心しかない(それさえない場合もあります)。関心があるのは「上下」なのです。
 ですから、日本の組織においては、上司が部下に対して最初にするのは「仕事を指示すること」ではなくて、「マウンティングすること」ことなんです。目下の人間にまず屈辱感を味合わせて、「この人には逆らえない」と思い知らせることがあらゆる業務に優先する。そんな集団が効率的に機能すると思いますか? 朝の会議で上司が部下に「発破をかける」ということが日本の会社ではよく行われますが、あれは別に今日する仕事の手順を確認しているわけではありません。誰が「叱責する人間」で、誰が「黙ってうなだれる人間」かを確認をする儀礼なんです。そんなこと何時間やっても仕事は1ミリも先に進まないのに。
 でも、管理が好きな人たちは、その因果関係が理解できない。しっかり管理しているはずなのに、トップダウンですべての指示が末端まで示達されているはずなのに、なぜか組織のパフォーマンスはどんどん下がる。
 どうして、仕事がうまくゆかないのか。そう問われると、彼らは反射的に「管理が足りないからだ」と考える。「叱り方が足りないからだ」「屈辱感の与え方が足りないからだ」と考える。そして、さらに管理を強化し、組織を上意下達的なものにし、査定を厳格にし、成果を出せない者への処罰を過酷なものにする。もちろん、そんなことはすればするほど組織のパフォーマンスはさらに低下するだけなわけですけれども、その時も対策としては「さらに管理を強化する」ことしか思いつかない。
 軍隊には「督戦隊」というものがあります。前線で戦況が不利になった時に逃げ出してくる兵士たちに銃を向けて「前線に戻って戦い続けろ。さもないとここで撃ち殺す」と脅すのが仕事です。軍隊の指揮系統を保つためにはあるいは必要なものかも知れませんが、もし「半分以上が督戦隊で、前線で戦っているのは半分以下」という軍隊があったとしたら「管理は行き届ているが、すごく弱い」軍隊だということは誰にでもわかると思います。今の日本の「ダメな組織」はこの「督戦隊が多すぎて、戦う兵士が手薄になった軍隊」によく似ています。学校現場もそうです。
 教育行政が発令した政策はこの四半世紀ほぼすべてが失敗しました。でも、それを文科省も自治体の首長も教育委員会も自分たちのミスだとは認めませんでした。すべて「現場のせいだ」ということになった。指示した政策は正しかったのだが、現場の教員たちが無能であったり、反抗的であったりして、政策の実現を阻んだので、成果が上がらなかった。そういうエクスキューズにしがみついた。
 そこから導かれる結論は当然ながら「さらに管理を強化して、現場の教員たちに決定権・裁量権をできるだけ持たせない」というものになります。そうやって次々制度をいじっては、教師を冷遇し、査定し、格付けし、学長や理事長に全権を集中させ、職員会議からも教授会からも権限を剥奪しました。こうすれば「現場の抵抗」はなくなり、教育政策は成功するはずでした。でも、やはり何の成果も上がらなかった。この失敗も「現場が予想以上に無能だったからだ。現場が予想以上に反抗的だったからだ。もっと管理を強化しろ」と総括された。そして、学校現場における「督戦隊」的要素だけがひたすら膨れ上がり、「前線で戦う兵士」の数はどんどん減少し、疲弊していった...というのが日本の現状です。
 いま学校教育現場で最も深刻な問題は「教師のなり手がいない」ということです。毎年、教員採用試験の受験者が減っている。倍率が低いので、新卒教員の学力が低下し、社会経験が乏しいせいでうまく学級をグリップできない教員が増えている。それを苦にして病欠したり、離職する教員も多い。こんなことは教員たちから権利を奪い、冷遇し、ことあるごとに屈辱感を与えてきたわけですから、当然予測された結果のはずです。でも、たぶん文科省も自治体の首長も決してそれを認めないでしょう。
 もう一度繰り返しますけれど、「管理」と「創造」は相性が悪いのです。
 創造というのは「ランダム」と「選択」が独特のブレンドでまじりあったプロセスです。平たく言えば「いきあたりばったり」でやっているように見えるのだけれど、実は「何かに導かれて動いている」プロセスのことです。やっていることは見た目は「いきあたりばったり」ですから「管理」する側から「何をやってんだ」と問い詰められもうまく答えられない。やっている当人は自分がある目的地に向かって着実に進んでいることは直感されるのだけれど、それが「どういう目的地」なのか、全行程のどの辺りまで来たのかは、自分でもうまく言葉にできない。「このまま行けば、『すごいこと』になりそうな気がします」くらいしか言えない。そういうものなんです。完成品が何か、納期はいつか、それはどのような現世的利益をもたらすのかについて答えられないというのが「ものを創っている」ときの実感です。
「創造」は科学や芸術に限られたものではありません。例えば、食文化というのは本質的にきわめて「創造的なプロセス」だと僕は思います。
 食文化の目標は何よりもまず「飢餓を回避すること」です。ですから、「不可食物」の「可食化」がその主な活動になります。実際に人類は実に多様な工夫をしてきました。焼く、煮る、蒸す、燻す、水にさらす、日に干す、発酵させる...などなど。それまで不可食だと思われていた素材を使って最初に美味しい料理を創った人は人類に偉大な貢献を果たしたわけですけれども、こういう人たちはそれまで知られていたすべての調理法を試したわけではないと思うんです。よけいな迂回をしないで、割と一本道で目的地にたどりついたんじゃないかと思うんです。じっと食材を見ているうちにその人の脳裏に「これを食べられるものにするプロセス」がふと浮かんだ。まったく独創的な、これまで誰もしたことのない調理法を思いついた。試してみたら、いささか試行錯誤はあったけれど、「美味しいもの」ができた。
 このプロセスはまったくの偶然に支配されていたわけではないと僕は思うんです。創造的な調理人は「何となく、こうすれば、これ食えるようになるんじゃないか」という「当たり」をつけてから始めたはずです。でも、どうしてその「当たり」がついたのかは本人もうまく説明できない。「なんとなく、そうすればできそうな気がした」というだけで。
「だいたいの当たりをつけてから、そこに向かう」プロセスのことを「ストカスティック(stochastic)」なプロセスと呼びます。ギリシャ語の「的をめがけて射る」という動詞から派生した言葉です。創造というのは「ストカスティックなプロセス」であるというのは多くの創造的科学者たちが言っていることです。
 数学者のアンリ・ポワンカレによれば、数学的創造というのはそれまで知られていた数学的事実のうちから「これとあれを組み合わせたらどうなるかな」という組み合わせをふと思いつくということだそうです。その場合の「これ」と「あれ」はいずれも「長い間知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた」事実です。誰も思いつかなかったその結びつきにふと気づいた者が創造者になる。
 創造的な調理人もそうだと思うんです。これまで不可食とされていた植物や動物は目の前にランダムに散乱している。調理法も経験的に有効なものがいくつかが知られている。ある日、ある調理人が「長い間知られていたが、たがいに無関係であると考えられていた」ある不可食物とある調理法の組み合わせを思いついた。それが新しい料理の発明につながり、人類を飢餓から救うためにいくらかの貢献を果たした。たぶん、そういうことだと思います。
 創造というのは「外からはまるで行き当たりばったりのように見えたのだけれども、ことが終わってから事後的に回顧するとまるで一本の矢が的を射抜くように必然的な行程をたどっていたことがわかる」というプロセスです。だから、「ストカスティック」なんです。
 多くの創造的な人たちは、学者でもアーティストでも、自分たちの創造の経験を似たような言葉で語るのではないかと思います。
 こう説明するとわかると思いますけれど、これはまったく「管理」になじまないプロセスです。僕やサコ先生の関心は、どうやってもう一度「創造」を活性化するかということだと思います。それについて二人ともずいぶん真剣に考えてきたし、いろいろ「実験」もしてきました。本書に出てくる、ソウルに焼肉を食べに行ったり、空港で学生たちとばったり会って旅行にでかけたり・・・というのは、どちらもそのときは「思いつき」ですけれども、あとから振り返ると、「それがあったから、次の展開があった」という重要な足場でした。でも、その時点では成算があったわけじゃないし、どういう効果が期待できるかもわからなかった。何となく「これは『当たり』じゃないかな」という気がしただけです。でも、サコ先生も僕もその直感を信じた。
 サコ先生も僕も「管理する側」から見たら、とても手に負えない人たちだと思います。でも、それは僕たちがただ反抗的であるとか、反権力的であるとかいうことではなく、「創造」ということにつよいこだわりを持っているからです。そのことをぜひこの本を通じてご理解頂きたいと思います。

 なんだかやたら長くなってしまいましたので、もう終わりにします。最後になりましたが、本書の成立にご尽力くださいました稲賀繁美先生、ラクレ編集部の黒田剛史さん、『大学ランキング』の小林哲夫さん、夕書房の高松夕佳さんにお礼を申し上げます。そしてつねに驚くべき話題で知的刺激を与え続けてくださったウスビ・サコ先生に感謝を申し上げます。みなさん、どうもありがとうございました。

(2022-11-03 10:36)

http://blog.tatsuru.com/2022/11/03_1036.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

272. 2022年12月01日 15:47:01 : CxSmNCdMk6 : RkJZdUpZVUFOMTY=[1] 報告
日本人の6人に1人は偏差値40以下、5人に1人しか役所の書類を申請できない…“見えない格差”をつくった知識社会のザンコク
11/30
https://news.yahoo.co.jp/articles/9392448a4c8442006646e78f2a8de02339f256e5


文春オンライン

 ヒトは徹底的に社会的な動物で、家族や会社、地域社会などの共同体に埋め込まれている。しかしそこには、善意の名を借りた他人へのマウンティングや差別、偏見などが存在する。人間というのは、ものすごくやっかいなのだ。

 ここでは、作家・橘玲氏が社会の残酷すぎる真実を解き明かした著書『 バカと無知 』(新潮社)から一部を抜粋。知能・能力が大きくばらつく社会の実態を紹介する。(全2回の2回目/ 2回目 を読む)

◆◆◆

日本人の3人に1人は日本語が読めない?
 集団ですぐれた意思決定をするための条件は、人種、民族、国籍、宗教、性別、性的指向などが異なるメンバーを集める多様性と、その全員が一定以上の能力をもっていることだ。このふたつの条件を満たすと、多様な意見が「化学反応」を起こし、とてつもないイノベーションが生まれる可能性がある。

 ところが、自然に生まれる集団ではこれとは逆のことが起こる。

 ひとは生得的に、自分と似た者に惹かれる性質があるので、アメリカのような多文化社会では、人種や民族、宗教ごとにコミュニティがつくられるが、知能や学力で選別するようなことはない。知識社会は産業革命以降に成立したので、そんなグループ分けをする本能は脳に埋め込まれていない。だからこそ有名大学やシリコンバレーのIT企業は、人為的な方法(入学試験や高報酬)で能力の高い者だけを集めているのだ。

 その結果わたしたちは、なんの多様性もなく、知能・能力だけが大きくばらついている社会で暮らしている。これが、民主政を擁護するひとたちの期待に反して、「熟議」が混乱しか生まない理由だろう。

「読解力」「数的思考力」「ITスキル」を実際に調べてみた
 では、知能はどの程度ばらついているのか。これについては「日本人の3人に1人は日本語が読めない?」として何度か書いたことがあるが、重要な「ファクト」にもかかわらずほとんど誰も触れようとしないので、ここであらためて述べておこう。

 PIAAC(国際成人力調査)はPISA(学習到達度調査)の大人版で、OECD加盟の先進国を中心に、24カ国・地域の16〜65歳約15万7000人を対象に、2011〜12年に実施された(※1)。

 ヨーロッパでは若者を中心に高い失業率が問題になっているが、その一方で経営者から、「どれだけ募集しても必要なスキルをもつ人材が見つからない」との声も寄せられていた。プログラマーを募集したのに、初歩的なプログラミングの知識すらない志望者しかいなかったら採用のしようがない。

 そこで、失業の背景には仕事とスキルのミスマッチがあるのではないかということになり、仕事に必要な「読解力」「数的思考力」「ITスキル」を実際に調べてみたのだ。

5人のうち4人はツイッターの内容を理解していない可能性が
 PIAACの問題はレベル1から5まであり、レベル3は「小学校5年生程度」の難易度とされている。

「読解力」のレベル3の問題例では、図書館のホームページの検索結果を見て、「『エコ神話』の著者は誰ですか」という問いに答える。あまりに簡単だと思うだろうが、正解するためには、問題文を正しく読めるだけでなく、「検索結果をスクロールし、そこに該当するものがなければ『次へ』の表示をクリックする」というルールに気づかなくてはならない。

 この問題に正答できない成人は日本では27・7%で、3〜4人に1人になる。

 レベル4の問題では、150字程度の本の概要を読んで、質問に当てはまる本を選ぶが、日本では8割近い(76・3%)成人がこのレベルの読解力をもっていない。ツイッターの文字数の上限は140字なので、5人のうち4人は書いてあることを正しく理解していない可能性がある。

「数的思考力」のレベル3は立体図形の展開で、日本の正答率は62・5%だ。レベル4は単純なグラフの読み取りで、ビジネスでは必須の能力だが、このレベルに達しているのは日本人の約2割(18・8%)しかいない。

「ITスキル」のレベル3では、メールを読んで会議室の予約を処理する。事務系の仕事では最低限必要な能力だと思うが、日本人でこれをクリアしたのはわずか8・3%だけだ。

惨憺たる結果でも日本人の成績は先進国で1位
 この結果をまとめると、次のようになる。

 (1)日本人のおよそ3分の1は「日本語」が読めない。

 (2)日本人の3分の1以上が小学校3〜4年生以下の数的思考力しかない。

 (3)パソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は1割以下しかいない。

 だが驚くのはこれだけではない。この惨憺たる結果にもかかわらず、日本人の成績は先進国で1位だったのだ。

 OECDの平均をもとに、先進国の労働者の仕事のスキルを要約すると次のようになる。

 (1)先進国の成人の約半分は簡単な文章が読めない。

 (2)先進国の成人の半分以上が小学校3〜4年生以下の数的思考力しかない。

 (3)先進国の成人のうち、パソコンを使った基本的な仕事ができるのは20人に1人しかいない。

 だがこれは、一般に知られていないだけで、専門家には周知の事実だったはずだ。

日本人の6人に1人は偏差値40以下
 PIAACに先んじて、アメリカでは仕事に必要な成人のリテラシーを計測するために、1985年、1992年、2003年に大規模な「全米成人識字調査」を行ない、「文章リテラシー」「図表リテラシー」「計算リテラシー」を調べている。その結果を要約すると、以下のようになる。

 (1)アメリカの成人の43%は仕事に必要な文章読解力がない。

 (2)同じく34%は仕事に必要な図表課題をクリアできない。

 (3)同じく55%は仕事に必要な計算能力がない。

 なお、この調査では学歴別の結果も調べており、高度な事務作業に必要な計算スキルをもつ成人は大卒では31%だが、高卒では5%、高校中退では1%しかいない。この「学歴(知能)格差」によって白人労働者層が仕事を失い、トランプ前大統領の岩盤支持層になった。

 これらの結果は衝撃的だが、学力(偏差値)がベルカーブになることを考えれば当たり前でもある。

 正規分布では、平均(偏差値50)から1標準偏差離れた、偏差値40〜60の範囲に68・3%の事象が収まる。2標準偏差離れた偏差値60〜70と30〜40はそれぞれ13・6%、3標準偏差離れた偏差値70〜80と20〜30はそれぞれ2・15%だ。

 日本では高い偏差値ばかりが注目されるが、人口のおよそ6人に1人は偏差値40以下だ。だがこのひとたちは、高度化する知識社会のなかで「見えない存在」にされている。

この現実になぜ気づかないのか
 問題は、知識社会が(無意識のうちに)ひとびとの知能を高く見積もっていることだろう。

 税務申告書から生活保護の申請まで、説明を読んで役所の書類を正しく記入するためには、偏差値60(MARCHや関関同立)程度の能力が必要になる。そうなると、自力で申請できるのはせいぜい5人に1人で、残りは(お金を払って)誰かに頼るか、あきらめるしかない。

 この現実に気づかないのは、社会を動かしているのが高学歴のエリートで、自分のまわりにも同じような高学歴しかいないからだ。

 ダチョウは、追いつめられると頭を砂に埋めるという(事実ではないらしいが)。「民主主義」を信じているひとたちも、それがうまくいかないと、「知能の格差」という不愉快な事実から目を背け、このダチョウのように、「資本主義批判」という砂のなかに頭を突っ込んで安心しようとするのかもしれない。

※1・・・国立教育政策研究所編『成人スキルの国際比較 OECD国際成人力調査(PIAAC)報告書』明石書店

「反撃できない者を徹底的にいたぶる『集団リンチ』と同じ」皇族の結婚問題、生活保護受給者バッシングに“共通するもの” へ続く


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「反撃できない者を徹底的にいたぶる『集団リンチ』と同じ」皇族の結婚問題、生活保護受給者バッシングに“共通するもの”
『バカと無知』より #2
https://bunshun.jp/articles/-/58824?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink

ヒトは徹底的に社会的な動物で、家族や会社、地域社会などの共同体に埋め込まれている。しかしそこには、善意の名を借りた他人へのマウンティングや差別、偏見などが存在する。人間というのは、ものすごくやっかいなのだ。

 ここでは、作家・橘玲氏が社会の残酷すぎる真実を解き明かした著書『バカと無知』(新潮社)から一部を抜粋。皇族の結婚問題や生活保護受給者へのバッシングから人間の“自尊心”を紐解いた内容を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)

◆◆◆


皇族は「上級国民」
 自尊心をめぐる闘争ほどやっかいなものはない。面と向かって罵倒されたり、SNSで罵詈雑言を浴びせられることは、脳の生理的反応としては、殴られたり蹴られたりするのとまったく同じに感じられる。

 皇族の1人がまさにこのような状況になって、複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)と発表された。病名について異論はあるかもしれないが、「殴る蹴る」の精神的暴行を数年にわたって受けつづければ、こころに深い傷を負うのは当然だ。

 いちばんの問題は、皇族やその関係者には、直接反論したり、裁判で名誉毀損を訴えることが事実上、封じられていることだ。これは反撃できない者を徹底的にいたぶるのと同じで、「集団リンチ」以外のなにものでもない。

 さらにグロテスクなのは、「あんな男と結婚したら不幸になると、善意のアドバイスをしただけだ」などと述べる者がいることだ。そもそもなぜ、わずかな税金を払っているというだけで、見ず知らずの他人の恋愛や結婚に口出しする権利があるのか。自ら選んだわけでもない「身分」によって、どんな誹謗中傷にも耐えなくてはならないのなら、自由や人権、プライバシーの保護はどうなるのか。


 哲学者サルトルは、「地獄とは、他人だ」と書いたが、彼女はまさに「善意の他人」という地獄を体験したことになる。

アメリカの人種問題が再燃
 自尊心というのは、そのひと固有のパーソナリティというよりも、他者との関係性で決まるものだ。相手に対して圧倒的に優位なら、自尊心が傷つけられることはない。たいていの親が幼い子どもに反抗されてもなんとも思わないのは、大きなちからの差があるからだ。これが愛情の問題でないのは、思春期の子どもが反抗すると、(親の優位性が失われつつあるので)しばしば逆上することからもわかるだろう。

 アメリカの白人は圧倒的なマジョリティだったので、有色人種(黒人)から批判されてもなんとも思わなかった。冷戦終結後のアメリカは唯一の超大国で、圧倒的な軍事力で世界に君臨していたので、反米運動にもさしたる関心はなかった。

 近年、アメリカの人種問題が再燃しているのは、レイシズムが強まったというよりも(異論はあるだろうが、人種を理由にした犯罪は一貫して減少している)、白人(とりわけ労働者階級)の地位が低下して、優位性がなくなってきたからではないか。イラク・アフガニスタンでの無益な戦争や中国との対立も、アメリカの国力が落ちたことと関係しているだろう。――ロシアによるウクライナへの無謀な侵攻は、ソ連崩壊によって国際社会におけるロシアの優位性が危機に瀕したことを抜きにしては理解できない。


アジアの国々が高度経済成長を迎え、中国のGDPは日本の3倍に
 1970年代に田中角栄首相が東南アジアを歴訪したとき、各地で大規模な反日デモが起きたが、国内ではほとんど関心をもたれなかった。当時、アジアのなかで日本の経済力は圧倒的で、中国は文化大革命の混乱の真っ只中だし、軍事政権の韓国は世界の最貧国のひとつだった。多くの日本人は、「貧しい国のひとたちはかわいそう」と思っていたのだろう。

 それがバブル崩壊後、日本経済が低迷する一方で、中国を筆頭にアジアの国々が高度経済成長の時代を迎え、日本との差が縮まってきた。いまや中国のGDPは日本の3倍で、国民のゆたかさの指標である1人あたりGDPでもマカオ、シンガポール、香港に大きく引き離され、韓国に並ばれようとしている。


その結果、(コロナ前は)日本の庶民には手の届かない名門ホテル・旅館や一流レストランにアジアの富裕層が殺到した。80年代は、ふつうのOL(死語)が週末の弾丸ツアーで香港に行き、5つ星ホテルに泊まってブランド物を買いあさっていたのだから、その栄枯盛衰には愕然とするしかない。

経済格差による怨恨があちこちで噴出
 日本がどんどん「貧乏臭く」なっていく過程と、2000年以降の嫌韓・反中の排外主義の急速な広がりは見事に一致している。韓国や中国はそれ以前からずっと「反日」だったのだから、この変化は、「アジアで一番」という日本人の自尊心が揺らいだことでしか説明できない。

 徹底的に社会的な動物である人間は、集団としての自尊心が低下すると攻撃的になるが、それと同様に、個人としての自尊心が揺らいだときもきわめて危険だ。経済格差が拡大すると、自分が虐げられていると感じる層が増えて、あちこちで怨恨(ルサンチマン)が噴出する。これは世界的な現象で、アメリカではトランプ現象を引き起こし、日本では「上級国民」批判となって表われた。母子が死亡した池袋の交通事故の炎上騒動はその典型だろう。


 皇族の結婚問題にしても、ネットに掲載された記事へのコメントを見ると、その大半は「国民の税金で食わせてもらっているくせにわがままだ」という罵倒の類だ。これにもっとも近いのは、生活保護(ナマポ)受給者へのバッシングだ。

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ネットでルサンチマンを噴出させている者が求めているもの
 皇族とナマポに共通するのは、「働かずにうまいことやって暮らしている」ように見えることだ。それに比べて「下級国民」の自分は、不安定な身分とわずかな給料(あるいは年金)でかつかつの暮らしをしている。建前では「みんな平等」というけれど、生まれや制度の歪みによって、自分より恵まれている者がたくさんいるではないか、というわけだ。

 脳は上方比較を「損失」、下方比較を「報酬」と感じるように進化の過程で設計されている。上位の者を引きずり下ろすことは、脳の報酬系を刺激し自尊心を高める効果がある。ワイドショーのコメンテーターといっしょに「義憤」に駆られ、ネットのコメント欄に皇族や婚約者母子への誹謗中傷を書き込むことは、ものすごく気分がいいのだろう。

 キャンセルカルチャーは、セレブリティの不品行を「正義」の名の下にバッシングし、その地位を「キャンセルする(奪う)」運動だ。そう考えれば、いま起きているのは皇族に対するキャンセルだ。ネットでルサンチマンを噴出させている者たちが求めているのは、上級国民の特権の剥奪、すなわち天皇制廃止ということになる。

皇室に対する風当たりの強さは今後も強くなるのでは
 その一方で、皇室に「理想の家族」を求める高齢者層の批判には、(かつては「欠損家庭」といわれた)母子家庭への偏見が垣間見える。だが近代の市民社会で、「親の借金問題を子どもが解決しないと結婚が許されない」などということがあっていいはずがない。

 王制や天皇制は、有り体にいえば「身分制」で、自由恋愛が当然とされるリベラルな社会ではきわめて不安定だ。ヨーロッパの王室もしばしばスキャンダルで炎上するが、アジアで孤立する天皇制は、それよりずっと脆弱だ。


 皇室はいま、「わたしたちの夢を壊すな」という高齢者(および右翼・保守派)と、「特権は許さない」という「下級国民」からの激しい攻撃を浴びている。そしてこの風当たりは、今後ますます強くなっていくだろう。

 “平等”な社会では「主権者」である市民が絶対化し、政治家や官僚など「権力者」の地位はすっかり地に落ちた。次は皇族の権威が引き下げられて、「国民の下僕」としてしか存在を許されなくなるかもしれない。

 果たしてそのとき、天皇は「日本国の象徴」でいられるだろうか。

273. 2023年1月12日 07:36:49 : LSksLRiNoE : VEdNVFVrSUFiNmM=[1] 報告
2023年1月11日
【藤井聡】甘利さんに「15%消費増税」発言をさせた「ザイム真理教」の「緊縮思想」。その社会心理学的メカニズムとは何か?
From 藤井聡@京都大学大学院教授
https://38news.jp/economy/23638

みなさん、こんにちは。表現者クライテリオン、編集長の藤井聡です。

皆様も既にご存じかと思いますが、甘利元自民党幹事長の発言には、誠に驚きましたですね。日本を救うためには消費減税が必要だと議論しているこの大不況状況にある現在の日本の状況の中で、甘利さんは、少子化対策のためには15%の消費増税が必要だと示唆する発言を行ったわけです。

理性ある人、常識ある人にしてみれば、こんなことを言う甘利という男は完全なる基地の外の人なんじゃないかとすら感ずるかと思いますが、彼にしてみれば至って真面目にそういう発言をしているのです。彼は本当に、日本の為に消費税15%が必要だと思っているのです。

甘利氏はなぜ、そんな事を考えているのでしょうか?

この問題について、当方のメルマガ『表現者クライテリオン・編集長日記』(https://foomii.com/00178)にて、数回にわたって詳しく解説差し上げましたので、その冒頭部分を下記にご紹介差し上げます。

まず……繰り返しますが、理性があれば、完全に基地の外としか解釈できない狂った信念ですが、

(基本認識1)今、日本の借金は凄まじく多く、このまま借金が膨らみ続ければ、日本は破綻して、日本が沈没する。
(基本認識2)だから、政府支出は削らなきゃならん。
(基本認識3)にもかかわらず政府支出を増やしたいなら、増税するしかない。

という三つの基本認識から構成される「緊縮思想」という思想を信じ込んだ人々にとっては、甘利発言というのは至って当たり前の理性的なものだと感じているわけです。

しかし、これらの3認識は完全に間違い。

日本政府は円建て債券では破綻しないし、したがって、政府支出カットも増税も要らないのです。しかも、こうして緊縮思想が蔓延すれば、日本は確実に滅び去る、ということも真実です。

したがって、こんな緊縮思想を蔓延させている財務省というのは、メチャクチャに悪い悪の組織であり、その職員たちも、超悪人達だ……という風に思えてくるのも当然だと思います。

しかし、そういう認識は半分正当ではありますが、半分間違っています。

まず、財務省は、「組織」としては、学者まで使って真実を歪め、メディアの論調まで支配して世論を歪め、それらを通して日本の政治を歪め、日本経済に深刻なダメージを与えているわけですから、「悪の組織」と言わざるをえません。

しかし、そこで働く財務省の職員は決して、反社会勢力の極悪人の様な人々とは決して言えない人々ばかりなのです。

かれらは概して優秀で、真面目で、日本を潰そうというよりはむしろ、日本にとって良いことをしたいという気分を僅かなりとも持っていることは間違いありません。一人一人とつきあえば、決して悪の権化の様な人格をしているのではなく、どこにでもいるような、普通の人間、むしろ、普通に優秀な人間達です。

しかし、彼らは、財務省という組織の中の「組織人」であることに相違はありません。彼らは東京大学をはじめとした難関大学に入れる程に優秀な人々です。そうした難関大学に入ろうとすれば、大人社会が用意した「問題」に何の疑問も挟まずに取り組み、同じく何の疑問も挟まずに、大人社会が用意したその問題の「答え」に辿り着こうと必死で努力し、より効率的、効果的にその「答え」に辿り着くための競争に、幼少期、青春期の貴重な時間を十年以上も費やして取り組み、そして勝ち残った方々です。

したがって彼らが優秀なのはあくまでも「大人社会が用意した問題に取り組み、大人社会が用意した答えに辿り着く」というゲーム≠ネのです。このゲームにおいて重要なのは、「真実」や「真理」を見いだす能力ではありません。あくまでも「大人が用意した答え」を見いだす能力なのです。したがって、彼らは、理性を働かせて実態を読み解く能力が秀でているとは限らないのです。彼らが秀でているのは、「大人社会が用意した答えは何かを忖度≠キる能力」だけなのです。

そしてそんな「大人社会への忖度#\力」なんてものは、「社会を救う」だの「社会をよくする」だの「幸せになる」「人を幸せにする」だのといった、正解のない問題を乗り越える能力とは全く別のものです。もちろん、両者が重なる部分というのはあるでしょうが、重なるとは限らないのです。というより、難関大学になればなる程、その両者の重なりは少なくなっていき、現実問題の対処能力とは無関係の能力が鍛え上げる様になっていくのです。

まさに日本の戦後教育の歪みそのものを体現している若者達が財務省にこぞって入ってくる、というわけなのですが、兎に角彼らは、財務省に入れば、まず最初に、

「この財務省では、どういう風に振る舞うことが正しい振る舞いなのでしょう?」

という忖度を必死になって行うのです。つまり、彼らは決して、「日本のために、時に上司や組織とも対立しながら戦う存在」になろうとは一切考えず、あくまでも、「善き、善良な財務省の役人」になろうと考えるのです(繰り返しますが、そういう風に20年以上の時間を費やして育て上げられてきたのが彼らなのです)。

そんな財務省の中に蔓延しているのは、言うまでも無く「緊縮思想」です。

そんな「緊縮思想」に徹底的に染め上げられた頭脳を持ち、ありとあらゆる言動を緊縮思想と整合させることができる役人こそが、「理想的な善き財務役人」であり、そうでない役人、つまり、緊縮思想に疑いを持ったり、そんな緊縮思想と調和しない言動をしてしまうような役人こそ「出来損ないの二流品の財務役人」と見なされる事になります。

こういう特定の思想が支配する組織に属する人々の精神は、オウム真理教や統一教会などの新興宗教のそれと何ら変わりません。したがって、こうした財務省における緊縮思想を巡る思想的共同体は、しばしば『ザイム真理教』と揶揄されています。

もちろん、ザイム真理教に染まりきらない役人も一定数程度は財務省には入省してくる筈ですが、残念ながら、そういう役人が役所の中で出世していく可能性は決して高くありません。やはり、敬虔なる『ザイム真理教』信者としてふる舞い続ける役人の方が出世していく可能性が高くなります。

その結果、財務省という組織は、より強固な「ザイム真理教」教団となっていくわけです。

……誠に恐ろしいメカニズムですが、このザイム真理教があるからこそ、甘利発言があるのであり、そして近未来においてホントに岸田総理によって消費税は15%にまで上げられてしまうのです。

何とかこのメカニズムを止める手立てを考えねばならないのです。

我々が直面している最大の問題はまさに、ここにあるのです。

追伸:本稿に続く続編記事として、下記を配信しています。

『ザイム真理教』の社会心理学分析 〜矢野康治氏はどうやって℃末ア次官にまで上り詰め、なぜ&カ藝春秋でバラマキ批判せねばならなかったのか?〜
https://foomii.com/00178/20230108100000104101

さらに、こうした議論の学術的な根拠についても、下記にて論じています。
財務省が、マスメディア・政治家にどれだけ強大な影響を持ち、情報を歪めて来たのかについての客観的な学術研究≠ご紹介します。
https://foomii.com/00178/20230110105636104195

是非、ご一読下さい!
https://38news.jp/economy/23638

274. 2023年1月13日 12:18:22 : uHncoApHUU : aTNNWlZsQVYzbU0=[3] 報告
スティーヴ・ジョブズやビル・ゲイツは自分の子供には電子機器を与えない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14079927

ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html

275. 2023年1月13日 12:19:56 : uHncoApHUU : aTNNWlZsQVYzbU0=[4] 報告

2023年01月12日
中流階級の没落 / 貧困化と無気力の日本人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68921522.html


学力低下の子供が増えている
American school kid 432Black kids in America 1

  昭和の頃、京都大学で教授を務めていた会田雄次先生が、戦後の日本社会を評論したことがあり、敗戦のせいでようやく芽生えてきた中流階級が崩壊してしまった、と嘆いていた。会田先生によれば、バブル景気で誕生した「中流階級の国民」というのは、単なる小金持ちに過ぎず、国家の支柱であることを自負する中流階級ではない、というのだ。つまり、主流メディアが呼んでいた「一億層中流」というのは、所得が増えただけの庶民を指すだけで、士族階級の矜持を持たぬ“成金”程度の連中である。ルネッサンスの美術やヨーロッパ歴史を専攻した会田先生にとっては、ミドル・クラス気取りの日本人などは紛い物に見えたのかも知れない。

  平成不況と日本経済の衰退に関しては、現在、様々な経済評論家が分析を公表しているので、ここでは金融財政の賛否には触れず、日本社会の凋落がもたらす現象や影響について述べてみたい。

  昔から日本人は「人材」の重要性を認識し、子供の教育を大切にしてきた。しかし、敗戦後、愚民化を促進する「デモクラシー教育」が実施され、受験秀才だけは輩出することは出来たが、洞察力や判断力に優れ、愛国心を持つ教養人の育成には失敗したようだ。悪循環というのは恐ろしいもので、日本全体が貧しくなると、貧しさから這い上がろうとする若者が減少し、現状で満足するか、「これ以上は無理」と諦める若者が増えてしまう。

  「ゆとり教育」のせいなのか判らないが、「長い文章を読むのが苦痛」とか「ツイッター用の短い文章しか書けない」という子供が増えているのは、学力低下による社会現象なのかも知れない。筆者にとってショックだったのは、「結果を知ってから映画を観る」とか、「字幕版だと物語を理解できないから、吹き替えで洋画を観る」といった若者が増えていることだ。昔、筆者がドイツの映画館でハリウッド映画を観ようとした時、吹替版しかなかったから諦めたけど、ドイツ人にとったらドイツ語を話すアメリカ人は奇妙じゃない。

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(左 : レスリー・アン・ダウン / 中央 : 主人公のハリソン・フォードと恋人役のレスリー・アン・ダウン / 右 : ドイツ軍人に偽装したクリストファー・プラマーと部下役のフォード )

  例えば、英米合作映画の『ハノーヴァ−・ストリート』に出演したレスリー・アン・ダウン(Lesley-Ann Down)やクリストファー・プラマー(Christopher Plummer)が、原語のイギリス語じゃなくドイツ語を喋っていても、何らおかしくはない。また、母親がドイツ人のブルース・ウィリスや、オーストリア出身で州知事になったアーノルド・シュワルツネッガーの吹替版も同じで、この俳優達がドイツ語を喋っていても、ヨーロッパの観客には違和感なく聞こえてしまう。ところが、日本人の声優が喋っていると本当に奇妙だ。日本語の吹き替えになると、せっかくの演技がぶち壊しになる。

  脱線したので話を戻す。確かに、親が教育にかける時間と金銭に事欠けば、子供達の知的レベルが低下するのも当然だ。一概に親の素質と子の学業を結び着けることはできないが、所得や学歴の高い親を持つ子供は最初から有利で、所謂「エリート街道」を進むことも可能となる。一方、低所得の家庭に生まれ育った子供は様々な面で苦難にぶち当たり、もし何らかの夢を実現したければ、相当な自助努力を積み重ねるしかない。しかし、希望を抱いても現実の壁は分厚く、途中で挫けてしまう子供が大半だ。

  本音を言えば、筆者は教育論を述べたくはない。大帝の国民が、それぞれ独自の教育論を持っているからだ。でも、専門家の意見なら傾聴に値するだろう。例えば、「MP人間科学研究所」の代表で、心理学を専攻する榎本博明(えのもと・ひろあき)博士は、 家庭環境がどのように子供の学力に影響を及ぼすのかを述べていた。注目すべきは、知的な刺激に満ちている場所に子供を連れて行く親の行動である。具体的に言うと、「子供と一緒に美術館や劇場、博物館、科学館、図書館などに行く」ことらしい。榎本氏によれば、こうした親を持つ子供の方が、より学力が高くなるという。(榎本博明「学力の高い子ども、親の習慣や家庭環境に化『共通の傾向』…文科省調査で判明」Business Journal、 2018年10月14日)

  映画館に子供を連れて「ポケモン」か「ドラゴンボール」を観に行く親は多いと思うが、知的好奇心の促進からすれば文化施設の方が重要で、教養が身につく場所へ「ほとんど行かない」「行ったことがない」という親の比率は、高学力層と低学力層で大きな差があるらしい。「ほとんど行かない」と答えた親は低学力層に多く、高学力層の1.5倍以上である。「行ったことがない」という親も低学力層に目立ち、高学力層の2.5倍程度になっているそうだ。「月に1回以上連れて行く」という親は、高学力層に多く、低学力層の3倍近くになっている。

  親の読書習慣も子供の発育に関係があるようで、蔵書数が多い家庭の子供は、比較的「学力が高い」という傾向がみられたそうだ。ただし、榎本氏の見解を聞くと、「蔵書」の種類にも注意が必要となってくる。筆者の感想になってしまうが、「蔵書」といっても『こちら葛飾区亀有公園前派出所』全201巻とか、『ジョジョの不思議な冒険』を第1部から第9部まで揃えている、というのは駄目らしい。やはり、夏目漱石や幸田露伴、あるいはヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテやウォルター・スコット卿の小説、ないしアリストテレスやジョン・ロックの哲学書といったアカデミックな本じゃないとOKにならないと思う。麻生太郎大臣も愛読する『ゴルゴ13』は、国際政治や軍事の勉強になるような、ならないような微妙なことろである。そもそも、麻生氏の「教養」には問題があるから。

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(左 : ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ / ウォルター・スコット卿 / アリストテレス / 右 : ジョン・ロック)

  教育ママだと「親の社会・経済的背景と蔵書数は何らかの関係があるのでは?」と思ってしまうが、やはり、そうした関係は明らかなようだ。経済的に余裕があり、社会的地位や学歴が高い親の家庭だと、蔵書数が多くなっているという。蔵書数と子供の学力は直接結びつかないが、子供の知的好奇心を促進したり刺戟したりする材料にはなっているようだ。

  確かに、現実を見れば判るけど、親が学術書を読まず、文化施設にも行かないのに、子供にだけが優秀になることは稀である。だから、頭ごなしに「本を読め !」とか「勉強しろ !」と命令したって無駄に終わってしまうだろう。「蛙の子は蛙」だし、「鳶が鷹を生む」のは例外だ。よく上昇志向の母親が、幼稚園の娘に向かって「ピアノ教室に通ってね !」と命じるが、その母親自身がクラシカル音楽に興味が無く、好きな「音楽」といえば演歌やJ-POPとなれば、ピアノを練習する娘だって馬鹿らしくなるじゃないか。インテリもどきの親だと、パガニーニー(Paganini)のヴァイオリン協奏曲を聴いても、1分で退屈になってしまうだろう。ただし、「“パガニーニ”って、新しいパスタ料理?」って訊いてくる親よりもマシだけど。

  昔、幼い子供を英会話教室や英米系のインターナショナル・スクールに通わせる親を見かけたことがある。劣等感の塊みたいな母親は、子供と同じく英語が苦手で、白人の先生が何を喋っているのか判らない。でも、何らかのコミュニケーションが必要なので、カタコトの英語をつぎはぎしたり、身振り手振りで説明するしかなかった。日本で生まれ育った日本人の親子なのに、どうしてフィリピンやインドみたいな植民地の土人になりたがるのか不思議である。頭が弱い親ほど国語(日本語)の価値を知らず、英語(宗主国の言語)をマスターしたいと躍起になる。

  中学受験の指導でカリスマ的存在と呼ばれる小川大介先生によると、頭が良い子、つまり勉強が出来て賢いの子供が育つ家庭には、必ず「辞書」や「地図」「図鑑」があるらしい。「図鑑」が素晴らしいのは、「1つ調べると芋づる式に関連するキーワードがわーっとたくさん目に入ってくる点」であるという。確かに、図鑑の絵や写真は色彩豊かで、眺めているだけでも飽きない。

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(左 : 伝統的な教育方法で勉強する白人の子供 / 右 : 携帯電話が当たり前の黒人少女)

  地図帳や地球儀も有益で、「世界を俯瞰する目」が育つそうだ。「辞書」は言葉を知るだけでなく、「他人と繋がる道具」らしい。小川氏曰わく、「言葉を知れば、いろんな人と話せて、その人の経験をもらうことができます。年齢を超えて誰かと話したり、違う国の人ともつながっていけるんです」と。まぁ、国語事典や漢和辞典をめくるだけでも、色々な表現や熟語を覚えるから、子供に取っては有益だろう。肝心なのは、親も「判らない、知らない言葉」に出逢ったら、辞書を引く習慣があるかどうかだ。

  小川氏の解説に加えるとすれば、筆者は親の「語彙力」を挙げたい。日本に住んでいるとあまり意識しないが、歐洲や米国で暮らしてみると、親の知能や教養レベル、さらには階級、家系、出身校によって使う言葉や表現が異なってくる。階級社会のブリテンだと、「イートン」や「ハロー」といったパブリック・スクールに通った親は、労働者階級とは違ったアクセントで話すし、服装や趣味まで違ってくる。家庭に招く友人や同僚も教養を兼ね備えた人物だから、小学生の子供だって“それなり”の礼儀作法が身につく。

Richard Wagner 2Thomas Carlyle 3(左 : リヒャルト・ワーグナー / 右 : トマス・カーライル)
  ドイツでも階級格差は著しく、「ギムナジウム(大学への進学校)」を卒業した親と「レアルシューレ(実科学校)」でお終いの親とでは、教育理念が違うし、使っている語彙も異なっている場合が多い。他のヨーロッパ諸国と同じく、ドイツでもエリート主義の精神は充ち満ちている。偉大なる作曲家であるリヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)は、英国の歴史家であるトマス・カーライル(Thomas Carlyle)に傾倒し、上流階級の意識が骨の髄にまで染みついていた。ドイツの伝記作家ヨアキム・ケーラー(Joachim Köhler)は、カーライルに共鳴したワーグナーについて述べている。

  ドイツの文化遺産と英雄的資質を全人類の模範とした歴史思想家カーライルの信念は、大衆軽視とつながってワーグナーの確信になった。カーライルが「民主主義的政府」とイギリスの「三千万の国民」のことを「大半のばか者」とあざけると、ワーグナーは「大いに」喝采した。カーライルは民衆解放というテーマについても断固としたエリート主義的意見を表明しており、ワーグナーは彼を自分の信条の保証人として引用した。(ヨアヒム・ケーラー『ワーグナーのヒトラー』橘正樹 訳、三交社、 1999年、p.146.)

  話を戻す。科学者とか専門職、および高学歴の家庭では、ギリシア語やラテン語由来の言葉を使うのも当たり前だ。教養人家庭の子供は、幼い頃から自然と難しい単語の綴りを習っている。一方、下層中流階級や黒人家庭だと、ギリシア語はおろか、フランス語が語源となる単語が飛び交うことはほとんど無い。一般的じゃない「heterogeneity(異種混成)」とか「pneumoconiosis(塵肺症)」といった言葉は使わないし、「sin」「crime」「peccancy」の区別なんか曖昧だ。「sin」はアングロ・サクソン人が持ち込んだ言葉で、ドイツ語の「Sünde」と同じである。「crime」は古いフランス語から来ており、ノルマン貴族が法廷で使ったから、刑法上の罪に用いられている。「peccancy」はラテン語由来で、「的(正しい道)から逸れる」とか、「道徳的な誡律から外れる」といった意味を含んでいる。

  歴史的事件から作られた言葉も下層階級には縁が無い。例えば、「Pyrrhic victory(ピュロスの勝利)」といった熟語を聞いても、その由来なんて判らない。日本でも「判官贔屓」という言葉を見ても、「はんがん」か「ほうがん」と読むのか分からない子供がいるし、この言葉が源義経に由来する事すら知らない国民もいるのだ。令和の高校生だと「ケータイ世代」なので、「袞龍(こんりょう)の袖に隠れる伊藤博文」という文章を読んでも、明治大帝を思い浮かべる生徒は非常に少ないし、携帯電話の文字変換で現れないから「これ何の意味?」と尋ねてしまうのだ。

  アメリカでは、庶民でも聖書を読んでいるが、教会史となれば別である。メガ・チャーチ(大手の福音派教会)に通うアメリカ人でも、西歐キリスト教の過去には興味が無い。ちょっとマシな大学生に、アルベルト・マグナス(Albertus Magnus)やローマのアエギディウス(Aegidius Romanus)、クレルヴォーのベルナルドゥス(Bernardus Claraevallensis)、ニコラス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus)、パドゥアのマルシリウス(Marsilius de Padua)といった著名な神学者について尋ねても、「えっ、誰それ!?」といった反応しかない。亡くなった政治学者のサミュエル・ハンチントン(Samuel P. Huntington)は、西歐キリスト教文明に基づくアメリカ文化を強調したが、左翼思想に汚染されたアメリカ人には、イングランドはおろか、ヨーロッパの知的遺産にすら関心が無いのだ。

Samuel Huntington 1Immanuel Kant 213Aix la Chapelle 111


(左 : サミュエル・ハンチントン / 中央 : インマヌエル・カント / 右 : アーヘンにある大聖堂)

  アメリカの黒人やヒスパニックの子供にも、教養とは無縁の下層家庭で育つ者が多い。それゆえ、中世ヨーロッパの地理や歴史となれば“お手上げ状態”で、地図を広げたこともない、あるいは家に歴史地図帳が無いという現状だ。リヒテンシュタイン公国に関する知識なんて皆無だし、チェコやハンガリーの位置すら摑めない。ロシア領になったプロイセンの「ケーニッヒスベルク(Königsberg / カリーニングラード)」に関する質問なんか論外。インマヌエル・カントが生まれた場所とは知らないし、祖父のハンスがスコット人ということすら知らないのだ。

  アメリカ人の高校生は米国史を学ぶだけで精一杯。とても西歐史にまで手が出ない。そもそも、ヨーロッパ史に興味が無いから、歴史的な大聖堂や修道院なんか頭になく、有名な「アーヘン(Aachen / Aix-la-Chappel)」が何処にあるのか見当もつかない。ちょっと笑ってしまうが、ブロンクスとかジャマイカに住む黒人の高校生に「北朝鮮」の場所を訊いても、「南朝鮮の隣」と答える始末。こうしたアメリカ人は、地図上でアフリカ大陸を見つめながら、北朝鮮の場所を探しているので、唖然とするほかない。

Frederick the Great 002(左 / フリードリッヒ2 世)
  ドイツ史の授業でも同じで、「フリードリッヒ2 世」を語ってもチンプンカンプン。「ホーエンシュタウヘン家(Hohenstafen)」の君主でシチリア王になった神聖ローマ皇帝なのか、「ホーエンツォレルン家(Hohenzollern)」のプロイセン王なのかすら判らない。そもそも、ヨーロッパ史全般に興味が無いから、「シュタウヘン朝」と聞いても「糠に釘」といった状態だ。ラップ音楽やBLMに夢中な黒人に、ブランデンブルク辺境伯とかブルグンド王国、ロタリンギア、サンマリノ、アラゴン王国といった国名を聞いても無駄である。馬耳東風なんだから。

自分の子供には電子機器を与えないIT王者

Black family 5532Asian family 6342

  こうした現状を踏まえて、アジア移民が押し寄せる令和の日本を考えてみれば、「そうだよなぁ 〜」と寒気がするはずだ。出稼ぎ労働者のアジア人は、低賃金のままでも、日本で落ち着くと家族を呼び寄せるが、その子供達が日本の学校に通っても、日本人の知的レベルを挙げることはない。むしろ、日本人生徒の学力水準を下げてしまうだろう。

  ついでに言うと、岸田総理は「少子化対策」として、僅かながらの「育児手当」とか「子育福祉」を目論んでいるが、子供1人につき5万円とか10万円を渡したって、出生率の増加には繋がらないだろう。簡単に結婚するフィリピン人やタイ人の女性なら、僅かな額でも補助金を喜び、第二第三の赤ん坊を産んでしまうが、日本人女性だと無理。ちょっとでも賢い日系人の母親なら、「何、こんな端金(はしたがね)で三人目や四人目を産むとでも思っているのかしら?」と呆れてしまい、鼻で笑ってしまうのがオチだろう。問題なのは、アジア移民やアジア帰化人の家庭にも、ら日系人と同じ福祉金を与えてしまうことだ。どうして、先祖代々「日本人」である日系国民と国籍を取ったばかりのアジア帰化人が同じ扱いなのか? 日本人の常識では納得できない。

  話を戻す。第21世紀に入ると、一般国民は益々、携帯電話やパソコンに没頭するようになった。以前なら、電車内で文庫本や新聞を読む人が大多数だったが、今ではスマートフォンを凝視する人ばかり。高校生や大学生でも小説には見向きもせず、YouTube 動画やTVゲームに夢中の人が普通だ。平成末期生まれの子供達は、物心ついた頃からiPadやパソコン漬けなので、百科事典とか偉人の伝記とは無縁の世界に住んでいる。

Steve Jobs & LisaSteve Jobs & family

(左 : 若き日のスティーヴ・ジョブズと娘のリサ / 右 : ローレン夫人と子供を伴ったジョブズ )

  ところが、上流階級や富裕層の子供達は違うようだ。「アップル社」の共同創設者で、CEOを務めていたスティーヴ・ジョブズ(Steven Paul Jobs)は、他人の子供達に対してはIT機器を勧めていたが、自分の子供達には消極的で、むしろ伝統的な生活を共にしていた。一般の日本国民だと驚いてしまうが、ジョブズ氏は自分の子に「iPod」や「iPhone」「iPad」などを使わせないようにしていたそうだ。ジョブズ氏曰わく、

   実際、私は家でiPadを許していないんだ。子供達にとって有害と思っているからさ。(Eames Yates, 'Here's why Steve Jobs never let his kids use an iPad', Business Insider, March 4, 2017.)

  ジョブズ氏は「iPad」の中毒性を認識していたそうで、取材記者に対して次のように答えていた。「一旦、君の目の前にiPadを置くと、君はこの中毒性の強いプラットフォームにアクセスしようと常に考えてしまうだろう。これは非常に抵抗し難い」と。

  スティーヴ・ジョブスの伝記を書いたウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)によると、ジョブス氏は自宅でのハイテク生活を嫌っていたようだ。このIT王者が家族や友人などと一緒に食事を取る時、彼は文学や歴史の話をして楽しんだが、みんなで議論をしている時、誰もiPadやコンピューターに手を伸ばさなかったという。(Doug Bolton, 'The reason Steve Jobs didn't let his children use ab iPad', The Independent, 24 February 2016.) もしかすると、ジョブズ氏は人間と人間が心で繋がる時間、そして温かい交流がもたらす知的な会話を望んでいたのかも知れない。

  亡くなったジョブズ氏には四人の子供がいる。先妻のクリスチャン・ブレナン(Christian Brennan)との間には、リサ・ブレナン・ジョブス(Lisa Brennan Jobs)が生まれている。クリスチャンと別れた後、ジョブズ氏はローレン・パウエル(Laurene Powell)と再婚した。彼は後妻との間に息子のリード(Reed Jobs)と娘のエリン・シエナ(Erin Siena Jobs)、および末っ子のイヴ(Eve Jobs)をもうけている。父親の伝統的教育が実ったのか、四人の子供達はそれぞれ高等教育を受けていた。リサはハーヴァード大学に進み、リードとイヴはスタンフォード大学、エリンはチューレーン大学に入ったそうだ。アイザックソンによると、ジョブズ氏の子供達はパソコンとか携帯電話への中毒性は無かった。

Lisa Brennan Jobs 29932Reed Jobs 2Erin Siena Jobs 1Eve Jobs 6632

(左 : リサ・ブレナン・ジョブス / リード・ジョブズ / エリン・シエナ・ジョブズ / 右 : イヴ・ジョブズ )

  マイクロソフト社のビル・ゲイツも電子機器への中毒性を解っており、子供達がビデオ・ゲームに夢中になることを心配していたそうだ。それゆえ、彼は自分の娘が14歳になるまで携帯電話を与えなかったという。(Allana Akhtar and Marguerite Ward, 'Bill Gates and Steve Jobs raised their kids with limited tech — and it should have been a red flag about our own smartphone use', Business Insider, May 16, 2020.) また、ゲイツ氏はメリンダ夫人と三人の娘が一緒に食事を取る時、家族の会話を邪魔されぬよう、テーブルには決して携帯電話を置くことを許さなかったそうである。マイクロソフトやアップルの愛好者である一般人は、ベッドルームで愛人と寝ていても、ショッピングを楽しんでいる時も、常に携帯電話を手放さない。家庭やレストランで食事を取る時も同じで、いつも側に携帯電話がある。ところが、IT業界の大御所達は昔ながらの“ローテク生活”を営んでいたのだ。

Bill Gates & family 4432Black & WHite girls 213

(左 : ビル・ゲイツ夫妻と子供達 / 右 : SNS時代の若者)

  上流階級の実態を知らない日本人は、iPadの新機種が出る度に「わぁ〜ぁい、凄いぞぉ〜」と喜び、親子共々こうした電子機器に夢中になっているが、その子供達は創造性や好奇心、学問への情熱、忍耐、人的繋がりに欠ける生活にドップリと漬かっており、アホな大人に育ってゆく。知識どころか、判断力や決断力に欠ける日本人は、やがてアジア移民と同じ生活水準に陥り、気がつけば下層階級の労務者となっているはずだ。格差社会が固定化し、貧困生活が常態となれば、労働者階級に生まれた子供達は、出世の階段を昇ることが出来なくなる。というより、最初から這い上がるための梯子が無い、という事態になるだろう。悲しいけど、サミュエル・スマイルズが持て囃される時代ではないのだ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68921522.html

276. 2023年1月13日 14:11:48 : uHncoApHUU : aTNNWlZsQVYzbU0=[5] 報告
スマホを使うとバカになる
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277. 2023年1月29日 20:01:33 : 0QNtZEPUIs : c3pZTjlnYjYvRDY=[1] 報告

2023年01月28日
不正と嘘がはびこるアメリカ / カンニングで優秀になる学生
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「公正厳格」という神話
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  日本の一般人と同じく、米国の庶民も「フェア・プレー(fair play)を尊ぶアメリカ」とか、「公正なルールに基づく実力主義のアメリカ」という幻想を抱いている。確かに、アジア・アフリカ・南米の諸外国と比べれば、あからさまな不正行為や瀆職役人は意外と少ない。

  例えば、アメリカに住む日本人が、道路を走行中にスピード違反で停車命令を受けたとする。たいていの場合、近寄ってきたパトロール警官は、運転免許証とクルマの登録証を求めるが、その時、ニヤリと笑って免許証と共に50ドル札か100ドル札を渡す日本人はいないだろう。これができる日本人は相当なワルだ。普通の日本人は警官を買収する度胸は無いから、言われた通り、おとなしく従うだけである。たとえ、ニューヨークやカルフォルニアのような都市部でも、「袖の下」を実行すれば即逮捕だし、正常な日本人なら恐ろしくて出来ない。
  
  かつて、日本の学校では教室の壁に「誠実」とか「正直」という揮毫の額が掲げられていた。アメリカでも1950年代くらいまではキリスト教やギリシア・ローマの古典文化による影響が強く、「正直は美徳」という社会常識があった。今では信じられないが、ゲイやレズビアンなんて論外の御法度だ。プロテスタントのキリスト教徒でも、聖トマス・アクィナス(S. Thomae Aquinatis)や聖アンセルムス(S. Anselmus Cantuariensis)の教えを尊び、「勇気(fortitudo)」や「正義(iustitia)」「思慮(prudentia)」といった倫理道徳を守っていた。

  しかし、ベトナム戦争を経たアメリカは違う。麻薬の使用やフリーセックスが肯定され、フラワー・チルドレンーが街をうろつくなんて当たり前。大学の教室はフランクフルト学派の左翼に牛耳られ、父親のみならず、神父や牧師の権威まで侮蔑される始末。さらに、自由競争の拡大解釈で、所得格差は急激に広まり、不正手段を使っても立身出世を成し遂げようとする若者が増えてきた。社会学者のチャールズ・マレー(Charles Murray)が嘆いたように、昔のアメリカなら極端な貧富の格差は無く、社長と社員の所得格差だって数倍くらいだ。

  日本の学校教師は生徒に教えないが、「自由」の基礎は「財産」である。資産が無いと言論の自由を確保できないし、家族すら養って行けないから、どうしても余裕のある生活を維持するだけの金銭は必要だ。「クビ」が怖いサラリーマンは、不満があっても上司や社長に服従せねばならない。それに、プラグマティズムが浸透するアメリカでは、裕福な者が大いなる自由と快楽を享受する。階級ピラミッドを昇るにしても、裕福な家庭に生まれることが条件だから尚更だ。昔、スウェーデンの人気グループ「ABBA」が、「The Winner Takes It All(勝者が全てを取る)」という曲を唄っていたけど、今のアメリカでは「勝ち組が旨味を食べて、負け組がおこぼれを拾うだけ」の状態となっている。

  なかなか認めたくないけど、高額所得者になれなかった者は、一生、社会の底辺で這いずり回り、決して「命令者の地位(command post)」に就くことはできない。米国の賃金労働者が、なぜ野球やアメフトの観戦に熱中するのかと言えば、それは惨めな勤め人でも、スタジアムやテレビの前で“監督”になれるからだ。しがない下っ端職員は、いつも工場長や部長に命令されるだけで、自分の意見を通すことはできない。だから、自宅に帰った時くらいはコーチや監督の気分になって、相手チームの有名選手を野次ったり、ダメな奴に向かって「選手交代」と叫ぶ。同じ階級の友人たちと集まり、一緒にピザやビールを口にし、心に詰まった溜飲を下げれば、もっと気分爽快だ。

  そもそも、アメリカ人は白人に生まれたって、立派な学歴が無いとエリート層に迎えられる国際金融業者や大企業の重役にはなれない。それゆえ、一般の平民はがむしゃらに勉強して有名大学に入ろうとする。しかし、中にはボンクラも居るから、地元の州立大学で我慢するしかない。でも、高額所得者の子弟は別。一見するとアメリカは厳しい競争社会に思えるが、ある程度の金額を持つと、目の前の世界がガラッと変わってくる。「カネで買えないものは無い」とは言わないけど、「たいていのモノは買えてしまう」というのが現実のアメリカだ。幼児ポルノ業界を見れば判る。気持ち悪いおっさん達でも、ブローカーに大金を渡せば、金髪碧眼のモデルや小学生の児童だって注文でき、秘密の豪邸で弄ぶことができてしまうのだ。ジェフリー・エプシュタインの例があるから、日本人でも察しがつくだろう。

「不正行為」が「当たり前」となっているアメリカ

  日本以上かも知れないが、米国だって相当な学歴社会だ。となれば、華々しい学歴を得るために何らかの“ズル”が横行していてもおかしくはない。例えば、NYのブロンクスにある私立学校の「ホレイス・マン高校(Horace Mann School)」は、様々な不正行為で有名だ。アイヴィー・リーグを目指していた或る女子生徒は、授業で課される期末レポート(term paper)を作成する際、インターネットからダウンロードした文章やウェッブサイトからの盗んできた文章を使ってしまった。

  ところが、他の生徒も同じサイトから剽窃してレポートを提出したことが判ったので、件(くだん)の女子生徒は大慌て。直ぐさま担当教師のもとに走り、提出したレポートを“手直し”したいと願い出た。運良く返却してもらえたので、彼女は「盗作」の“発覚”を免れることができたという。その後、彼女は無事に一流大学に進学でき、「ハーヴァードの学生」になれたそうだ。(David Callahan, The Cheating Culture : Why More Americans Are Doing Wrong to Get Ahead, , 2004. p.197.)


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  1982年、フランスの『ザ・カンニングIQ = 0 (Les Sous-doués Passent le Bac)』という映画が日本で公開されたけど、筆者も劇場に赴き、笑いながら鑑賞したのを覚えている。しかし、現在のアメリカで行われるカンニング(cheating)はなかなか巧妙で、ハイテク製品を使っているから摘発されにくい。

  例えば、ある生徒はハッカーの如く学校のコンピュータ・システムに侵入し、自分の成績を改竄することで知られていたそうだ。別の者はカンニング用に改造したペンや鉛筆を持ち込み、その中にメモを隠していた。アメリカの学校だと、数学の試験では電卓の使用が許可されるので、その中に「虎の巻(解答に導くデータ)」を仕込んだりする者もいるそうだ。SAT(英語や数学の共通大学入試)でもズルをする奴が多く、試験の途中で便所に行き、こっそりと携帯用の辞書を見る者も居たらしい。また、別の生徒は「学習障碍」という手口を使い、試験監督官に陳情して「制限時間無し」という特別待遇を得たという。つまり、大金を払って悪徳業者(or 銭ゲバの医者)から架空の診断書を購入した、ということだ。

  NYにある名門校でアイヴィー・リーグへの進学率が高い「ストイヴサント高校(Stuyvesant High School)でも、所謂“ズル行為”が横行しているそうだ。この学校にはユダヤ系や東歐系ばかりじゃなく、パキ人やベトナム人の生徒も混じっているそうで、低所得層から這い上がろうとする子供達であふれている。学校側も進学率を上げようと必死になようで、数学、理科、英語、歴史の科目で高い得点を求めているそうだ。

  しかし、上昇志向の生徒達は、大量の宿題や課題を背負い込むだけじゃない。親からの多大な重圧も受けている。学歴重視の親達は、息子や娘のGPA(Grade Point Average / 成績評価点の平均)に目を光らせているから、猛勉強する子供達も大変だ。親からの要求と期待に応えねばならぬ子供達は、「不正行為」と解っていても、自然と「ズル」に手を染めしまうらしい。それゆえ、「みんながズルをしているから、私も・・・」という“空気”が言い訳になるそうだ。インターネット世代の子供が「悪の道」を歩むのは意外と簡単で、携帯端末を使ってカンニングする子供も居れば、優等生を取り込んで奇妙な成績を伸ばす生徒も居るらしい。支那人の子供だと大人を真似るのか、極小のイヤホンを耳に装着して、外部からの指示に従うこともある。女子生徒なら長い髪で耳のハイテク機器を隠すから、試験官の先生にバレにくい。

  学校で子供が「不正行為」を展開すれば、親の方だって更なる不正を考え出す。“教育熱心”な親達は、幼稚園の前から出世競争の火蓋を開く。ハーバード大学に入るよりも難しい名門幼稚園があるいというから呆れてしまうじゃないか。寄宿制のプレップ・スクールに我が子を入れる親達は、大学進学が視野に入ってくると、今度はプロの進学カウンセラーを用意する。親に雇われた学習指導者は、入試に向けた長期計画を提案し、当事者たる中学生や高校生の坊ちゃん達は、推奨された「課外活動」を実践するそうだ。彼らは入試論文や面接の話題に出来るよう、海外旅行や社会奉仕に勤しむ。おそらく、養老院の高齢者や身体障碍者を助けるボランティアになれば、面接官の印象が良くなると考えているんだろう。

  米国ではサービス産業が盛んである。大学入試の“お手伝い”をする「アイヴィー・ワイズ(Ivy Wise)」という会社では、受験指南用の「プラチナム・パッケージ(platinum pakage)」というサービスがあるそうだ。料金は約3万ドル(345万円 /1ドル = 150円で換算)で、相談の頻度は24回くらい。高校二年生以上が対象となっている。(上掲書、p.206.) 大学へ合格した新入生の聞き取り調査で、入試カウンセリングを受けたかどうかを尋ねてみると、驚きの結果が得られたという。1990年代には僅か1%くらいだったのに、2000年代に入ると約10%の学生が何らかの有料カウンセリングを受けていたのだ。   

  高額所得者の親達は、こうしたカウンセラーだけでは満足できないし、なんとなく心配で安心できない。そこで、彼らは高い給料を払って家庭教師を雇う。ただし、こうした先生には教員免許や倫理規範なんて関係無い。ゼロが幾つも並んだ小切手をもらえばOK。学習指導に関しては「結果」が全て。それゆえ、お雇い教師はレポートの代筆もやるし、難しい宿題をこなす幽霊にもなる。もし、良心に従って代理を断れば、即座にクビになるから厭でも代行するしかない。時には、親から「無言の命令」があったりする。(高校生の良い子は、「あれ、秋篠宮家の悠仁殿下みたいだ !」なんい言っちゃいけないよ! 担任の先生が鬼の目になるから。)

  笑っちゃいけないけど、家庭教師の“助力”による作文だと、あまりにも指導が良すぎるため、どこが教師による文章で、どの部分が子供自身の文章なのか判らなくなるケースがあるらしい。また、不正作文を判別する学校教師も大変で、「教育コンサルタント」による代筆を見破るのはとても難しいという。それゆえ、困った先生は学校の授業で筆記試験を課す。そうすれば、教室内で本人の“実力”が判るので、誰が幽霊作家を雇っているか、だいたいの目星がつく。(筑波大附属高校の教師も参考にすべきだ。)

 ある女性の家庭教師が告白していたが、彼女は子供から“せがまれて”宿題を代行したことがあるそうだ。(上掲書、p.208.) ただし、彼女は自分のルール違反を悪いと思っていたが、“より広範囲な枠組み”の一部と考えていた。確かに、こうした家庭教師は受験産業の駒に過ぎない。たとえ彼女が断っても、他に幾らでも「代わり」がいるから、拒絶するだけ損である。

  「バナナ・リパブリック(南米にある腐敗国家)」と化してしまったアメリカでは、個人の「正義」なんて、いくら振り回したところで所詮「鼻糞」程度である。富裕層の親は学校に多額の寄附をしているし、理事長と顔見知りだったりする。学長にも個人的な電話を掛ける仲だったりするから、鈍くさい子供でも裏口からスルッと御入学だ。(筑波大学や一橋大学の経営者は耳が痛いだろう。) 倫理的には問題となるが、家庭教師を雇う親からすれば、「必要悪」といった感じである。「みんながやっているんだから、ウチの子だけやらないのは、非常に不利じゃないか !」という理屈らしい。

  学歴は全能の神じゃないけど、魔法の杖くらいにはなっている。日本企業と同じく、米国企業も新入社員の採用では学歴を重視するという。なぜなら、新卒者の採用には、多くの時間がかかるうえに、「ダメ社員」をつかまされるリスクが伴うからだ。個別的に見れば、有名大学卒の新入社員だから“優秀”とは限らない。しかし、「劣悪な人材」を採用する危険性は比較的少なくなる。世間からの非難が湧き起こりそうだが、企業経営者からすれば、無名大学のボンクラ学生よりも、一流大学を卒業した優等生の方が安心だ。難関校をくぐり抜けてきた者となれば、複雑な仕事の覚えも良く、理解力や実行力にも富んでいる。Fランク大学の学生じゃ、潰しのきかない碌でなしか、窓際族の予備軍にしかならない。

  「一旦淫売、一生淫売 ! (Once a whore, always a whore.)」という言葉があるように、高校で「ズル」をしてきた奴は、大学に入っても「ズル」をしたがる。1960年代、コロンビア大学の研究者であるウィリアム・バワーズ(William J. Bowers)が、『大学生の不誠実と大学での管理(Student Dishonesty and Its Control in College)』という本を出版した。彼が99校で5千名を超える学生を調査したところ、全学生の4分の3が何らかの不正に関与していた、という実態が判明した。1960年代だと学生運動が盛んで、左翼思想の黄金期であったから、キャンパス全体が背徳の温床になっていても不思議じゃない。

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(左 : 裏口入学を斡旋したユダヤ人と依頼人となった有名女優 / 右 : 不正が発覚したロリ・ロフリンと娘達)

  アカデミック界隈の不正に関しては、ラトガーズ大学で教鞭を執っていたドナルド・マケイブ(Donald L. McCabe)教授が、その道の第一人者であろう。今は教授職を引退しているが、彼は「学問誠実センター(Center for Academic Integrity)」の創設者となっている。マケイブ氏によると、大学での不正行為レベルは1960年代よりも酷くなっているそうで、今日の学生による不正の方が遙かに深刻らしい。彼がビジネス・スクールでの不正行為を調べたところ、大学院生の56%が何らかの不正行為、あるいは疑問視される行動を取っていた、というのだ。ビジネス・スクール以外の大学院生だと、その割合は47%であった。(Donald L. McCabe, Kenneth D. Butterfield and Linda Klebe Trevino, ‘Academic Dishonesty in Graduate Business’Programs : Prevalence, Causes, and Proposed Action

278. 2023年1月29日 20:03:19 : 0QNtZEPUIs : c3pZTjlnYjYvRDY=[2] 報告
アカデミック界隈の不正に関しては、ラトガーズ大学で教鞭を執っていたドナルド・マケイブ(Donald L. McCabe)教授が、その道の第一人者であろう。今は教授職を引退しているが、彼は「学問誠実センター(Center for Academic Integrity)」の創設者となっている。マケイブ氏によると、大学での不正行為レベルは1960年代よりも酷くなっているそうで、今日の学生による不正の方が遙かに深刻らしい。彼がビジネス・スクールでの不正行為を調べたところ、大学院生の56%が何らかの不正行為、あるいは疑問視される行動を取っていた、というのだ。ビジネス・スクール以外の大学院生だと、その割合は47%であった。(Donald L. McCabe, Kenneth D. Butterfield and Linda Klebe Trevino, ‘Academic Dishonesty in Graduate Business’Programs : Prevalence, Causes, and Proposed Action', Academy of Management Learning & Education, Vol. 5, 2006, p.299.) 

  大学で蔓延する「不正」を更に調査するため、マケイブや共同研究者らは、アンケートの他に大学生達を集めて討論をさせ、その心情を探ろうとした。「アメリカで成功するには何が必要か?」という質問に対して、参加者らは冷笑し、ある学生は次のように述べていた。

  世の中は公平じゃない。欲しい物を得るため、あるいは到達したい場所に行くためには、何らかの誠実性を犠牲にせねばならない。(上掲書、p.218.)

  別の学生はこう述べていた。

  パーセンテージの大小はどうであれ、一部の学生は成績を上げるため、既に不正を犯している。そういう私も自分のためにズルをしてきた。だいたい今の世の中、“成功者”の何割かは、その人生においてズルをしてきたに違いない。彼らが成功したのは、捕まらないよう賢く振る舞っていたからさ。(上掲書、p.218.)

  また、別の学生は以下のように述べている。
 
  成績が最も重要なんだ。成績次第で医学部に行くか、清掃人になるかが決まるんだから。


  金銭と成功が表裏一体となっているアメリカでは、中学や高校だけじゃなく、大学や大学院、会社や官庁でも不正・腐敗が罷(まか)り通っている。日本人が名門校とか最高学府と呼んで崇めているハーハヴァード大学やコロンビア大学でもズルが珍しくなく、倫理道徳が涵養される修練所ではない。たとえ、リベラル派の教授を揃えたって、世俗まみれの学長や理事長は別である。強いアメフト・チームを作って大学を有名にしたい理事長は、黒人選手の脳味噌が筋肉でも一向に「お構いなし」だ。もし、教育倫理を振り回す教授が、「あんな小学生並みの学生に単位を与えることはできない」と抗議すれば、アメフト部のコーチや監督が現れ、学長や理事長の意思(命令)を伝えて弾圧する仕組みになっている。世界中から学生を集める有名大学というのは、今や、オールド・ボーイズ・ネットワークを構築しようとするグローバル企業となっている。有名企業の重役を務める親とか、財団を創って租税回避をする大富豪から、多額の寄附金をもらえば、どんな馬鹿息子でも受け容れてしまうのだ。

倫理道徳が蹂躙される不正社会

  「誠実」「正直」「忍耐」「献身」といったキリスト教的徳目(virtù)は、大学生が求める目的(telos)ではなく、むしろ出世を妨げる陋習となっている。高い学歴を取得し、政財界で成功するのが人生の勝利者だ。他方、高卒や中卒で労働者となる者は、どんなに頑張っても出世できない敗北者となる。大金を手にする者だけが「幸せ(eudaimonia)」の体現者となっているのが現実だ。

  なるほど、正直は美徳なのかも知れない。だが、そんなモノは貧乏人だって持っている。日本のヤクザだって「素直さ」を持っているじゃないか。昨年末、神戸山口組に参画した侠友会の寺岡修会長は、古巣であった山口組の司忍組長と高山清司若頭に詫びを入れ、侠友会を解散して、素直に引退を表明した。いつまでも権力の座にしがみつき、公約を破っても恥じない小池百合子とは大違いだ。

  話を戻す。アメリカでは利益のために「善人」の仮面をつける偽善者が矢鱈と多い。毎週日曜日に馴染みの教会に通い、地域コミュニティーでボランティア活動に勤しむ紳士だって、確定申告の時には大手の会計事務所を通して、巧妙な「節税工作」に励む。中流階級の自営業者や団体職員なら、犬の餌代まで必要経費にしてしまうのだ。スーパー・リッチの銭ゲバ達は、色々な国でビジネスを展開し、各国の税制を悪用して所得税を払わないようにしている。ケイマン諸島や米国内のタックス・ヘヴン(租税回避または脱税地域)を利用したり、わざと赤字にして蓄財に努めている奴も多い。

  アメリカ社会の内情に疎い日本人だと信じられないが、この共和国では「札束ビンタ」で奇蹟を起こすことができる。住宅や自動車の借金返済に追われているような庶民には無理だけど、郊外の豪邸に住む富裕層は、金銭(カネ)と権力(ちから)を行使することで、欲する事の大半を実現する。大統領選挙でも不正のオンパレードだったのを思い出せば判るだろう。

  去年、小室圭の「司法試験合格」を聞いた時、筆者はなかなか信じられなかった。たぶん、マスコミが言う通り、「試験の合格」は小室氏本人の「実力」なんだろう。しかし、筆者は最近、現実と妄想の区別がつかなくなったので、「小室圭の合格には何らかのトリックがあるんじゃないか?」と思っている。これは根拠無き推測となるが、アメリカではびこる様々な不正行為を知ってしまうと、「NYの法曹界にも腐敗の影が伸びているんじゃないか?」と思えてしまうのだ。さすがに、500ドルくらい払っても試験の内容は入手できないが、ある程度の大金を払えば、試験問題をリークしてくれるブローカーが見つかるかも知れないのだ。

  例えば、「進学カウンセラー」を名乗る仲介業者に指定された“献金”を払えば、どこからともなく「サンプルの問題集」が部屋に舞い込み、事前に練習した問題が本番の試験で出題されたりする。受験に挑んだ者は、「予想問題が当たったぞ!」と大喜び。だが、“手数料”を払った庇護者は「やれやれ、大金を払った甲斐があったなぁ〜」と胸をなで下ろす。まぁ、こんなのは映画や小説で語られるフィクションかも知れない。だが、一般人の中には「実際にあり得るかも・・・」と疑う人もいるはずだ。何しろ、小室圭の背後には皇室や外務省、秋篠宮家とグルになった財界人や著名人がウヨウヨいる。だから、ちょっとでも不審な点があれば、その疑惑は雪だるま式に増えてしまうのだ。

   皇室支持派、とりわけ秋篠宮家を擁護する一般国民は、「まさか、そんなことはないだろう」と否定かるが、案外、現実の世界では「まさか」という事態が起こってしまう。真相は闇の中で、一般人の我々は常識で考えるしかない。たとえ、皇室支持派から「誹謗中傷」と非難されても、「異常な事」は「異常」としか思えないのである。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68921527.html

279. 保守や右翼には馬鹿し[24] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年2月27日 11:54:28 : uBg5Ktb9tw : MEdJSGhNYW83MmM=[9] 報告
『君たちのための自由論』あとがき - 内田樹の研究室
2023-02-16 jeudi
http://blog.tatsuru.com/2023/02/16_1659.html

 ウスビ・サコ先生との対談を中心にまとめた本を出すことになりました。サコ先生は日本ではじめての「アフリカ出身でムスリムの学長」です。多様な出自の人々を同胞として迎える心構えにおいて日本社会はまだまだ十分な成熟に達していないと僕は思いますけれども、それでもサコ先生のような人が登場してきたこと、サコ先生の言葉に耳を傾ける人がしだいに増えてきたことは、日本の未来について僕を少しだけ楽観的な気持ちにさせてくれます。僕が日本の未来について「楽観的になる」ということはほとんどないのですけれど、サコ先生は僕にその「ほとんどない」経験をさせてくれる稀有の人です。
 
 この本で、僕たちは主に日本の学校教育について論じています。学校教育が僕たち二人の「現場」だからです。僕はもう定期的に教壇に立つということはなくなりましたけれども、いまでもいくつかの大学に理事や客員教授としてかかわっているので、大学で「今何が起きているのか」はある程度わかっています。そして、大学に関して言えば、楽観的になれる材料はほとんどありません。大学教育は制度としてはどんどん劣化しているし、研究教育のアウトカムはどんどん低下している。それも加速度的に。その原因については本書の中でも繰り返し述べています。それは「教育研究を中枢的に統御し、管理しようとする欲望」がもたらしたものです。「諸悪の根源」というような激しい言葉を僕はあまり使いたくないのですけれども、「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因であることは間違いありません。
 でも、不思議な話です。「統御し、管理しようとする欲望」は「秩序」をもたらし、「効率」や「生産性」を向上させることをめざしているはずです。でも、それがまったく逆の結果を生み出してしまった。どうしてなんでしょう。
 それは「創造」と「管理」ということが原理的には相容れないものだからです。そして、「管理」がどういうものであるかはほとんどの人が知っているけれど、「創造」がどういうものであるかを知っている人はそれに比べるとはるかに少ないのです。
 日本社会では「管理」したがる人の前にキャリアパスが開かれています。彼らは統治機構の上層に上り詰め、政策決定に関与することができます。でも、「創造」に熱中している人はシステム内での出世にはふつう興味がないので、創造的な人が政策決定に関与する回路はほぼ存在しません。
 ですから、資源分配の決定を「管理が好きな人たち=創造とは何かを知らない人たち」が下す限り、その集団が創造的なものになるチャンスはまずありません。自分の出世しか興味がないサラリーマンが組織マネジメントを委ねられると、組織はどんどん息苦しく、みすぼらしいものになることは避けがたい。
 というのは、「管理」が大好きな人たちは、あらゆる仕事に先立って「まず上下関係を確認する」ところから始めるからです。「ここでは誰がボスなのか」「誰が命令し、誰が従うのか」「誰には敬語を使い、誰にはため口でいいのか」「誰には罵倒や叱責を通じて屈辱感を与えることが許されるのか」ということをまず確認しようとする。彼らはまずそれを確認しないと仕事が始められないのです。
 この集団はそもそも何のためにあるのか、いかなる「よきもの」を創り出すために立ち上げられたのかとか、メンバーたちはそれぞれどういう能力や希望があるのかということには副次的な関心しかない(それさえない場合もあります)。関心があるのは「上下」なのです。
 ですから、日本の組織においては、上司が部下に対して最初にするのは「仕事を指示すること」ではなくて、「マウンティングすること」ことなんです。目下の人間にまず屈辱感を味合わせて、「この人には逆らえない」と思い知らせることがあらゆる業務に優先する。
 そんな集団が効率的に機能すると思いますか? 
 朝の会議で上司が部下に「発破をかける」ということが日本の会社ではよく行われますが、あれは別に今日する仕事の手順を確認しているわけではありません。誰が「叱責する人間」で、誰が「黙ってうなだれる人間」かを確認をする儀礼なんです。そんなこと何時間やっても仕事は1ミリも先に進まないのに。
 でも、管理が好きな人たちは、その因果関係が理解できない。しっかり管理しているはずなのに、トップダウンですべての指示が末端まで示達されているはずなのに、なぜか組織のパフォーマンスはどんどん下がる。
 どうして、仕事がうまくゆかないのか。そう問われると、彼らは反射的に「管理が足りないからだ」と考える。「叱り方が足りないからだ」「屈辱感の与え方が足りないからだ」と考える。そして、さらに管理を強化し、組織を上意下達的なものにし、査定を厳格にし、成果を出せない者への処罰を過酷なものにする。もちろん、そんなことはすればするほど組織のパフォーマンスはさらに低下するだけなわけですけれども、その時も対策としては「さらに管理を強化する」ことしか思いつかない。
 軍隊には「督戦隊」というものがあります。前線で戦況が不利になった時に逃げ出してくる兵士たちに銃を向けて「前線に戻って戦い続けろ。さもないとここで撃ち殺す」と脅すのが仕事です。軍隊の指揮系統を保つためにはあるいは必要なものかも知れませんが、もし「半分以上が督戦隊で、前線で戦っているのは半分以下」という軍隊があったとしたら「管理は行き届ているが、すごく弱い」軍隊だということは誰にでもわかると思います。
 今の日本の「ダメな組織」はこの「督戦隊が多すぎて、戦う兵士が手薄になった軍隊」によく似ています。学校現場もそうです。
 教育行政が発令した政策はこの四半世紀ほぼすべてが失敗しました。でも、それを文科省も自治体の首長も教育委員会も自分たちのミスだとは認めませんでした。すべて「現場のせいだ」ということになった。指示した政策は正しかったのだが、現場の教員たちが無能であったり、反抗的であったりして、政策の実現を阻んだので、成果が上がらなかった。そういうエクスキューズにしがみついた。
 そこから導かれる結論は当然ながら「さらに管理を強化して、現場の教員たちに決定権・裁量権をできるだけ持たせない」というものになります。そうやって次々制度をいじっては、教師を冷遇し、査定し、格付けし、学長や理事長に全権を集中させ、職員会議からも教授会からも権限を剥奪しました。こうすれば「現場の抵抗」はなくなり、教育政策は成功するはずでした。でも、やはり何の成果も上がらなかった。この失敗も「現場が無能だからだ。現場が反抗的だからだ。もっと管理を強化しろ」と総括された。そして、学校現場における「督戦隊」的要素だけがひたすら膨れ上がり、「前線で戦う兵士」の数はどんどん減少し、疲弊していった...というのが日本の現状です。
 いま学校教育現場で最も深刻な問題は「教師のなり手がいない」ということです。毎年、教員採用試験の受験者が減っている。倍率が低いので、新卒教員の学力が低下し、社会経験が乏しいせいでうまく学級をグリップできない教員が増えている。それを苦にして病欠したり、離職する教員も多い。こんなことは教員たちから権利を奪い、冷遇し、ことあるごとに屈辱感を与えてきたわけですから、当然予測された結果のはずです。でも、たぶん文科省も自治体の首長も決してそれを認めないでしょう。
 もう一度繰り返しますけれど、「管理」と「創造」は相性が悪いのです。
 創造というのは「ランダム」と「選択」が独特のブレンドでまじりあったプロセスです。平たく言えば「いきあたりばったり」でやっているように見えるのだけれど、実は「何かに導かれて動いている」プロセスのことです。やっていることは見た目は「いきあたりばったり」ですから「管理」する側から「何をやってんだ」と問い詰められもうまく答えられない。やっている当人は自分がある目的地に向かって着実に進んでいることは直感されるのだけれど、それが「どういう目的地」なのか、全行程のどの辺りまで来たのかは、自分でもうまく言葉にできない。「このまま行けば、『すごいこと』になりそうな気がします」くらいしか言えない。そういうものなんです。完成品が何か、納期はいつか、それはどのような現世的利益をもたらすのかについて答えられないというのが「ものを創っている」ときの実感です。
「創造」は科学や芸術に限られたものではありません。例えば、食文化というのは本質的にきわめて「創造的なプロセス」だと僕は思います。
 食文化の目標は何よりもまず「飢餓を回避すること」です。ですから、「不可食物」の「可食化」がその主な活動になります。実際に人類は実に多様な工夫をしてきました。焼く、煮る、蒸す、燻す、水にさらす、日に干す、発酵させる...などなど。
 それまで不可食だと思われていた素材を使って最初に美味しい料理を創った人は人類に偉大な貢献を果たしたわけですけれども、こういう人たちはそれまで知られていたすべての調理法を試したわけではないと思うんです。よけいな迂回をしないで、割と一本道で目的地にたどりついたんじゃないかと思うんです。じっと食材を見ているうちにその人の脳裏に「これを食べられるものにするプロセス」がふと浮かんだ。まったく独創的な、これまで誰もしたことのない調理法を思いついた。試してみたら、いささか試行錯誤はあったけれど、「美味しいもの」ができた。
 このプロセスはまったくの偶然に支配されていたわけではないと僕は思うんです。創造的な調理人は「何となく、こうすれば、これ食えるようになるんじゃないか」という「当たり」をつけてから始めたはずです。でも、どうしてその「当たり」がついたのかは本人もうまく説明できない。「なんとなく、そうすればできそうな気がした」というだけで。
「だいたいの当たりをつけてから、そこに向かう」プロセスのことを「ストカスティック(stochastic)」なプロセスと呼びます。ギリシャ語の「的をめがけて射る」という動詞から派生した言葉です。創造というのは「ストカスティックなプロセス」であるというのは多くの創造的科学者たちが言っていることです。
 数学者のアンリ・ポワンカレによれば、数学的創造というのはそれまで知られていた数学的事実のうちから「これとあれを組み合わせたらどうなるかな」という組み合わせをふと思いつくということだそうです。その場合の「これ」と「あれ」はいずれも「長い間知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた」事実です。誰も思いつかなかったその結びつきにふと気づいた者が創造者になる。
 創造的な調理人もそうだと思うんです。これまで不可食とされていた植物や動物は目の前にランダムに散乱している。調理法も経験的に有効なものがいくつかが知られている。ある日、ある調理人が「長い間知られていたが、たがいに無関係であると考えられていた」ある不可食物とある調理法の組み合わせを思いついた。それが新しい料理の発明につながり、人類を飢餓から救うためにいくらかの貢献を果たした。たぶん、そういうことだと思います。
 創造というのは「外からはまるで行き当たりばったりのように見えたのだけれども、ことが終わってから事後的に回顧するとまるで一本の矢が的を射抜くように必然的な行程をたどっていたことがわかる」というプロセスです。だから、「ストカスティック」なんです。
 多くの創造的な人たちは、学者でもアーティストでも、自分たちの創造の経験を似たような言葉で語るのではないかと思います。
 
 こう説明するとわかると思いますけれど、これはまったく「管理」になじまないプロセスです。僕やサコ先生の関心は、どうやってもう一度「創造」を活性化するかということだと思います。それについて二人ともずいぶん真剣に考えてきたし、いろいろ「実験」もしてきました。本書に出てくる、ソウルに焼肉を食べに行ったり、空港で学生たちとばったり会って旅行にでかけたり・・・というのは、どちらもそのときは「思いつき」ですけれども、あとから振り返ると、「それがあったから、次の展開があった」という重要な足場でした。でも、その時点では成算があったわけじゃないし、どういう効果が期待できるかもわからなかった。何となく「これは『当たり』じゃないかな」という気がしただけです。でも、サコ先生も僕もその直感を信じた。
 サコ先生も僕も「管理する側」から見たら、とても手に負えない人たちだと思います。でも、それは僕たちがただ反抗的であるとか、反権力的であるとかいうことではなく、「創造」ということにつよいこだわりを持っているからです。そのことをぜひこの本を通じてご理解頂きたいと思います。
 なんだかやたら長くなってしまいましたので、もう終わりにします。最後になりましたが、本書の成立にご尽力くださいました稲賀繁美先生、ラクレ編集部の黒田剛史さん、『大学ランキング』の小林哲夫さん、夕書房の高松夕佳さんにお礼を申し上げます。そしてつねに驚くべき話題で知的刺激を与え続けてくださったウスビ・サコ先生に感謝を申し上げます。みなさん、どうもありがとうございました。

http://blog.tatsuru.com/2023/02/16_1659.html

280. 保守や右翼には馬鹿し[25] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年3月01日 08:04:55 : 4T4m4xhEbk : SmlNVjFXUDhQRUU=[1] 報告
03-01 高額で研究者を引き抜く中国は日本よりも研究を重視しているのか?
妙佛 DEEP MAX
2023/03/01
https://www.youtube.com/watch?v=NOz3wMsPTYg
281. 保守や右翼には馬鹿し[237] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年6月15日 12:03:30 : eOlT9mr8NQ : ZnEyV01pSmFJVW8=[2] 報告
<■151行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
「漢字が読めない」日本の識字率ほぼ100%は幻想か 見過ごされてきた「形式卒業者」の存在、注目集める夜間中学
2023/06/15
https://nordot.app/1038705390451458905?c=39546741839462401

石尾彰さんが勉強に使っている漢字ドリルとノート。現在は小4レベルを学んでいる
 日本では憲法で教育を受ける権利が保障されていて、ほぼ全ての人が中学校を卒業している。「文部科学統計要覧」によると、統計が始まった1948年から義務教育の就学率は99%台で推移し、2022年も99・96%だった。
 しかし、学校関係者の間で長年認識されながらも見過ごされてきた「形式卒業者」の存在が近年、クローズアップされている。病欠や不登校などで学校に十分通えず形式的に中学を卒業した人を指す。自身に卒業したとの認識がない人ですら一定数いるとされる。
 今や中学生の二十数人に1人が不登校と言われる時代。義務教育が十分に受けられなかったことで基礎学力が足りず、抱えることになる生活上の不便は想像以上に深刻だ。読み書きに不安を持つ人々が学び直す場としての夜間中学が、今再び注目されている。(共同通信=浦郷遼太郎)


香川県三豊市の夜間中学の授業風景。5月末時点で10〜80代の18人が学んでいる=2022年10月
 ▽切符が買えない
 岡山市の井上健司さん(38)は今も読み書きに不安がある。漢字が読めず、電車の切符が買えない。住所の漢字も覚えられず、30歳過ぎまでメモを持ち歩いていた。
 「5の段」が覚えられなかった。小学3年の時、九九が覚えられずに先生に怒られ、友人と2人で居残りさせられたことを今も鮮明に覚えている。同じ時期に友人トラブルも重なって学校が嫌になり、不登校になった。遺伝性の糖尿病も発症し、退院した後も学校にはほとんど行けなかった。かといって家で勉強を教えてくれる人もいない。入退院を繰り返し、テレビアニメを見て過ごす日々が卒業まで続いた。
 中学入学後も不登校は続いたが、友人に誘われ3年の1年間は通った。ただ、1年ごとの学習の積み上げがないままでは、授業の内容はちんぷんかんぷんだった。友人とたわいもない話をして過ごす学校生活は楽しく、そのまま通い続けたが、受け取った卒業証書に実感は湧かなかった。


岡山市の自主夜間中学に通う井上健司さん
 卒業後、読み書きができず困り始めることになる。就職するにも、まず履歴書の書き方が分からない。説明書きにある漢字が読めなかった。土木作業員や警備員の仕事を始めたものの、派遣先の地名が漢字で理解できない。日報には平仮名ばかりが並んだ。「漢字が書けないのか?」と上司に言われても適当にごまかした。「なかなか理由は言えず、ただ謝っていた」と振り返る。
 その後は持病が悪化し、20代はほとんど働けず生活保護を受けながら生活した。車の運転免許の取得も試みたが、学科試験対策の引っかけ問題に苦戦し、挫折した。
 読み書きが難しいと、外出にも支障をきたす。行ったことがない場所へ足を運ぼうとしても不安やストレスから腹痛が起きる。買い物で街中に出ても、用が済めばすぐ家に帰る始末だ。海外へ旅行や留学する人を見ると、「不安じゃないのかな。僕だったらあり得ない」とこぼす。
 井上さんは、かかりつけ医の紹介で5年ほど前から「岡山自主夜間中学校」(岡山市)に通っている。週3日開校しているが、糖尿病の人工透析を受けながら福祉施設で働く日々なので、通って机に向かえるのは土曜日だけだ。現在は漢字検定8級(小3修了程度)の合格に向け勉強に励んでいる。
 「学校に通えなかった後悔がある。自分を変えたい。全力で学び直していきたい」と話す。


香川県三豊市の夜間中学に通う石尾彰さん。授業で分からないところがあれば、左にある「HELP」の札を立て意思表示する=2023年5月30日
 ▽授業では「いない存在」に
 50歳を過ぎて学び直す人もいる。香川県三豊市の石尾彰さん(55)は幼い頃から体が弱く、入退院を繰り返してきた。小学校でも腹痛で欠席することが多く、小4の時に精神的な不調から半年ほど入院したことがきっかけで本格的に勉強が分からなくなった。
 中学でも状況は変わらない。本当は小学校の勉強からやり直したかったが、先生はそこまで面倒をみてくれなかった。授業では他の生徒が順番に当てられていく中、石尾さんは飛ばされた。勉強ができない子とレッテルを貼られ、授業では「いない存在」にされたと感じた。「気分は悪かった」と振り返る。小学生の頃より体調は良かったため、学校には通い続けた。

香川県三豊市で開かれた夜間中学の開設式で、新入生に祝辞を述べる山下昭史市長=2022年4月
 卒業後は職業安定所の紹介で、車の整備工として働いてきた。だが車検項目のチェックリストに書いてあることが読めない。漢字も書けない。仕事は見て覚えたが、上司にメモを取るように言われることは苦痛だった。
 心の中でもう一度学びたいと強く願ってきた石尾さん。その思いは家族にすら伝えられず、どうすればいいのか分からなかった。そんな中、三豊市の夜間中学(市立高瀬中夜間学級)が設置されることをニュースで知り、すぐに市の教育委員会に電話で問い合わせた。
 2022年4月にスタートした三豊市の夜間中学は5月末時点で10〜80代の18人が在籍する。石尾さんは小4の漢字ドリルを使って読み書きを中心に学び直しを続ける。今の目標は高校に進学し、電気工事士の資格を取ることだ。


石尾彰さんが漢字練習に使っているノート。ページの右端まで書けるだけ反復して書いて覚えるようにしているという=2023年5月30日
 ▽小卒80万人の衝撃
 小中学校での義務教育の内容を理解していることは、人生をよりよく生きるための土台として必要不可欠だ。文部科学省は義務教育の目的の一つに「国家・社会の形成者として共通に求められる最低限の基盤的な資質の育成」を挙げている。
 2020年の国勢調査では、約80万人が最終学歴を「小卒」と回答した。戦中、戦後の混乱期で教育を受けられなかった人が多いため、80歳以上は約74万人。一方、50代以下でも約2万人いた。中卒と回答した人は約1126万人。既卒者の全体に占める割合は約11%となる。

夜間中学の意義について講演する城之内庸仁教諭
 ただ、中学を卒業したとしても、十分に義務教育を受けたことを示すとは限らない。不登校を含め、年間30日以上登校しなかった長期欠席者は小中学生で約41万人に上るとのデータがある。
 昼間の中学校でも勤務経験があり、今は三豊市の夜間中学で教える城之内庸仁教諭が明かす。「公立の学校現場では、明らかに出席日数や学力が足りないと分かっていても、教育的配慮の名のもと、年齢に応じて進級あるいは卒業させている実情がある。この考え方自体を見直さないといけない時期に来ている」。事実、小中学校の卒業に出席日数は必須ではない。こうした人が形式卒業者となって“無学”のまま社会に押し出されている。


夜間中学を併設している香川県三豊市立高瀬中学校
 ▽不登校にフォーカスする夜間中学
 夜間中学は戦後の混乱期に、さまざまな事情で義務教育が十分に受けられなかった人たちを対象に誕生したが、近年は高齢者に加え、外国人労働者の受け皿としても期待される。
 夜間中学は自治体が設置する「公立夜間中学」と、民間で運営される「自主夜間中学」の二つに分けられる。公立は教員免許を持った教員が指導。授業は週5日で学費は無料。全課程を修了すれば、中学卒業資格が得られる。これまでは中学を卒業していない15歳以上が入学するのが一般的だった。だが、文部科学省は2015年、形式卒業者の受け入れを認める通知を出している。
 一方、井上さんが通うような自主夜間中学は民間のボランティアで運営される。公立と違って入学要件はない。授業は週に2〜3回。学校としての認可を受けていないため、中学の卒業資格は得られない。
 公立夜間中学の中には、特殊な位置づけの学校もある。香川県三豊市の夜間中学は不登校中の“現役”中学生を受け入れる。文科省から「不登校特例校」に指定された、全国で唯一の夜間中学だ。不登校生の実態に配慮した授業時間の削減や、習熟度に応じた柔軟な教育プログラムを実施し、現在2人の生徒が在籍する。形式卒業者予備軍の生徒にとって社会に出る前の“最後のセーフティーネット”かもしれない。
 新たな役割を担い、重要性がクローズアップされつつある夜間中学。文科省は都道府県と政令指定都市にそれぞれ1校以上の公立夜間中学の設置を促す。文科省によると、今年4月現在、17都道府県44校まで広がった。2025年度までに28都道府県に拡大し、新たに14校が設置される見通しだ。


香川県三豊市の夜間中学で実施された識字調査
 ▽識字率の実態は?
 基礎学力を測る最もベーシックな尺度は「読み書き」で、識字率として数値化することができる。しかし、識字率の現状を把握する全国規模の識字調査は、実は1948年以来行われていない。
 戦後、連合国総司令部(GHQ)の占領下で約1万7千人を対象に「日本人の読み書き能力調査」として一度実施されただけだ。その結果、読み書きが全くできない「非識字者」は1・7%で、読み書き能力の水準は極めて高いとされた。この結果や、戦後も義務教育の就学率が高水準のまま維持されてきたことを背景に、国内の識字率は「ほぼ100%」と認識され、識字問題は「終わった課題」とされてきた。
 しかし近年、小・中卒が一定数いることや外国人労働者が増加していること、また形式卒業者の存在にも光が当たり始め、全国的な識字調査を目指す動きも出ている。

取材に応じる国立国語研究所の野山広准教授
 日本語学などの研究機関である「国立国語研究所」(東京)が、一部の夜間中学で試行調査を進めている。その結果、井上さんが通う岡山市の自主夜間中学では約2割、石尾さんが学ぶ香川県三豊市の夜間中学では、ほぼ全ての生徒が「識字に問題を抱えている可能性」があった。 


 国語研究所は、調査対象を日本語教室などにも拡大する方針。将来的な全国規模の調査につなげたい考えだ。
 調査チームの野山広准教授はこう指摘する。「実際にどれくらいの人が日本語の読み書きに生活上困っているかを計る基礎的な資料を提供したい。調査を通じて識字率がほぼ100%とされてきたことが『共同幻想』だったと世の中に知ってもらい、必要な施策を取らなければならない」
https://nordot.app/1038705390451458905?c=39546741839462401

282. 中川隆[-12492] koaQ7Jey 2023年6月15日 12:05:23 : eOlT9mr8NQ : ZnEyV01pSmFJVW8=[3] 報告
<△25行くらい>
日本人の3人に1人は日本語が読めない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14068776

日本語は難し過ぎる
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14094861

外国語学習について - 内田樹の研究室
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14094875

日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14004524

ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html

女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 通産官僚 宗像直子は何故こんなにアホなの?
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/544.html

スティーヴ・ジョブズやビル・ゲイツは自分の子供には電子機器を与えない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14079927

スマホを使うとバカになる
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14055416

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

283. 中川隆[-12401] koaQ7Jey 2023年8月03日 15:08:32 : awbqu1JH26 : SDYyLmxBN2FkekU=[5] 報告
<■63行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2023.08.02XML
学資ローンで債務奴隷化した医師や弁護士に社会正義を求めることは困難
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308020000/

 アメリカでは出世の道が開かれている大学は「アイビー・リーグ」と呼ばれている。そうした大学へ入るためには多額の授業料を支払う資産とコネが必要だ。資産とコネがあれば相当愚かな人物でも入学が認められる。

 そうした大学へ入学させるためには私立の進学校へ子どもを通わせる必要があるが、そこでも膨大な学費を支払わねばならない。そうした支出は中産階級にとって困難。公立の学校は荒廃が進んでいるため、少しでもマシな学校へ子どもを通わせるためには不動産価格の高い地域に住む必要がある。その結果、不動産で家計が破綻する人もいる。

 トルーマン・カポーティは『叶えられた祈り』の中でウォール街で働いているディック・アンダーソンなる人物に次のようなことを言わせている。

 「二人の息子を金のかかるエクセター校に入れたらなんだってやらなきゃならん!」(トルーマン・カポーティ著、川本三郎訳、『叶えられた祈り』、新潮文庫)「ペニスを売り歩く」ようなことをしなければならないというのだ。アメリカの中では高い給料を得ているはずのウォール街で働く人でも教育の負担は重い。

 大学へは入れても授業料を支払うことが困難な学生は少なくない。少し前から話題になっているのは「シュガー・ベイビー」なるシステム。女子大学生(シュガー・ベイビー)と富裕な男性(シュガー・ダディー)を引き合わせ、「デート」のお膳立てをするというビジネス。バイシュンの斡旋と見られても仕方がないだろう。現代版のクルチザンヌだと言う人もいる。

 登録している大学のリストを見ると、有力校と考えられている南カリフォルニア大学(583名)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(614名)、コロンビア大学(1008名)、ニューヨーク大学(1676名)も含まれている。

 体を売らなければ大学へ通えないという状況はアメリカ以外の国でも問題になっている。例えば、2012年11月にイギリスのインディペンデント紙が行った覆面取材の結果、学費を稼ぐための「思慮深い交際」を紹介する、いわゆる「援助交際」を仲介するビジネスの存在が明らかになった​のである。

 アングロ・サクソンの後を追いかけている日本でも学費の負担が庶民に重くのし掛かっている。低所得層の子どもは教育を受ける権利を奪われているのが実態だ。教育課程審議会の会長を務めた作家の三浦朱門に言わせると、「できん者はできんままで結構。・・・限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」(斎藤貴男著『機会不平等』)

 こうした状況を改善するためには法律面からの働きかけも必要になるが、そうした問題に取り組むような弁護士が出てきにくいシステムに変えられている。司法試験を受けるまでに多額の資金が必要になり、試験に受かっても司法修習生に対する給付制が廃止になって新人弁護士の多くは借金まみれ。カネになる仕事、カネを出せる人物や組織の仕事を弁護士になって稼がざるを得ない。

 アメリカでは体を売るような手段で学費を稼がずに済んでも、富豪の子供でない限り、学資ローンで卒業時に多額の借金を抱えることになる。その借金を返済するためには高収入の仕事に就かねばならない。その仕事を失えば破産だ。医師や弁護士が権力者の不正に沈黙する理由のひとつはここにある。彼らは一種の債務奴隷なのだ。日本もそうしたシステムに近づいている。

 最近、アメリカの下院議員19名がジョー・バイデン大統領に書簡を送ったが、その冒頭、学生ローンの返済免除は有能な学生を軍人に雇う上でマイナス要因になると批判している。

 かつてアメリカには徴兵制があった。建前上、全ての男子は軍隊に入る義務があったのだが、支配的な立場にある人びとは自分たちの子どもを戦場へ送り出さずに済む仕組みがあった。そのひとつが「シャンパン部隊」である。この部隊は戦場へ派遣されない。CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)の「フォーチュネート・サン」はこうした部隊のことを歌っている曲だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202308020000/



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

284. 2023年8月30日 08:44:32 : f5aAJxaigM : My55WmpLS0YxZWM=[1] 報告
エリートは自分の頭では何も考えられない

「伊藤 貫」という男 2023/08/30
https://www.youtube.com/watch?v=a6LN6DANFwk

285. 2023年9月04日 02:52:45 : CnptSemzSg : Mi9XbGhEM0d6OXc=[1] 報告
<■72行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
アメリカが抱える最大の問題は教育
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14147158


米有名大学は金で学歴を「販売」 名門大学生の半分がコネと金入学
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/934.html

米大統領選の争点に浮上した大学生の巨額借金問題
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/532.html

エリート洗脳システムとしての 留学制度
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14118494

刑務所以下にひどい「アメリカの給食」とは?
ナオヒロ / Naohiro
2023/03/17
https://www.youtube.com/watch?v=fKH3xLZcLIA

「AI社会」で中間層が消える? アメリカでは高学歴のワーキングプアが増加
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/328.html

アメリカ人の家計は火の車だった のしかかる住宅、医療、教育費
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/964.html

アメリカの田舎ではインターネットや電話さえ通じない _ 就職場所は農場しかない
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/972.html

アメリカの企業数が半減 寡占化進み新規起業は昔話
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/967.html

退任するCEOの半数、辞任ではなく解任
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/668.html

非ユダヤ系アメリカ人にはバカしかいない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14138805

日本の労働者の方がアメリカの労働者より裕福だった _ マンハッタンのダイソーは270円
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14027380

これが竹中平蔵先生の理想の国 アメリカ
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14017630

アメリカに1年住んだ この国ヤバすぎだぞww
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14093367

崩れ始めた アメリカ帝国
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14116245

アメリカで富裕層の民族大移動が起きている―ゾンビタウン・サンフランシスコ
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14134714

アメリカでは強盗を通報すると解雇される
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14129465

“独立”する富裕層  政府による所得再分配は努力して金持ちになった人の金を盗む行為だから許せない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/701.html

アメリカでは10万人以上が麻薬過剰摂取によって亡くなり、 2,100万人が麻薬依存症になっている
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14133859

男女平等とは「女も死ぬまで働け」という 制度
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14142121

Microsoft創業者ビル・ゲイツの優生学
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14142318

Microsoft創業者ビル・ゲイツの思想と生い立ち|茂木誠
2023/08/19
https://www.youtube.com/watch?v=JZkf3tQrZ5Y

ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの正体
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/727.html

286. 2023年9月05日 13:45:55 : SZjRDyF8iU : SWZ5LmxBelpXcWs=[1] 報告
故郷を忘れた日本人へ (前編) 現代の若者が人生に“無気力“なワケ [2023 8 28放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ
https://www.youtube.com/watch?v=0scQLd2rguU&t=29s

[2023.9.4放送]「故郷を忘れた日本人へ」Part2、行きすぎた英語教育は国力を下げる(藤井聡/KBS京都ラジオ)
https://www.youtube.com/watch?v=D6WhJH79yZA


▼動画で紹介した、仁平千香子氏の著書「故郷を忘れた日本人へ」の詳細はコチラ
https://www.amazon.co.jp/dp/4899920814/

287. 中川隆[-12341] koaQ7Jey 2023年9月18日 00:21:13 : OAbKpP6CuU : V1A4cHpRSlZ2S2c=[3] 報告
<▽34行くらい>
アメリカでは低所得層の子どもは 教育を受ける権利を奪われている
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14149656

アメリカが抱える最大の問題は教育
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14147158

米有名大学は金で学歴を「販売」 名門大学生の半分がコネと金入学
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/934.html

米大統領選の争点に浮上した大学生の巨額借金問題
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/532.html

非ユダヤ系アメリカ人にはバカしかいない
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14138805

エリート洗脳システムとしての 留学制度
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14118494

アメリカの富裕層の税負担が貧困層より低い理由
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1093.html

国家を亡ぼす「狂った税制」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/730.html

“独立”する富裕層  政府による所得再分配は努力して金持ちになった人の金を盗む行為だから許せない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/701.html

アメリカの闇 政治を金で買う超富裕層
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/634.html

アメリカのロビイストは政治家に「この法案を成立させたら何億ドル差し上げますよ」と働きかける
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/530.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

288. 2023年10月16日 05:32:50 : iAzz8XuUjk : dEZtSC83Vy52NFU=[2] 報告
日本はなぜ世界の国際政治のリアリズムを理解できないのかA|伊藤貫×室伏謙一
2023/10/15
https://www.youtube.com/watch?v=AT3H75BaqOU
289. 2023年11月21日 19:39:04 : uEH0Rv03KQ : NmpPVzdmcERwaVE=[1] 報告
<■234行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
学問探究投げ捨てる愚行 議論もなくスピード可決した国立大学法人法改正 国立大学まで政財界の利権の具に
2023年11月21日
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/28277


 臨時国会でひっそりと審議入りした国立大学法人法改正案が17日、衆院文部科学委員会で採択され、与党の賛成多数で可決された。同法改正は、一定規模の国立大学を「特定国立大学法人」に指定し、最高意思決定機関として文科大臣の承認を要する委員で構成される「運営方針会議」の設置を義務づけるもので、大学運営のあり方を根本的に改変するものとなる。大学関係者は「大学の自治に死刑を宣告するものであり、日本の学術研究の衰退に拍車をかけ、国力をも損なうもの」として総反発している。学術レベルの著しい衰退を招いた一連の「大学改革」を見直すこともなく、大学を政治や財界の末端機関とする軽薄な法改正に批判が高まっている。

学術レベルの低下を招く「大学の自治剥奪」

 国立大学法人法の改正案が10月31日に閣議決定され、臨時国会に提出された。その内容は、内閣府が組織し、財界代表者らも参画する「総合科学技術・イノベーション会議」(CSTI)の有識者会合(9月7日)で初めておおまかな概要が明かされた。国民はおろか大学関係者にも知らされることなく、当事者間の開かれた議論もないまま、わずか1カ月で法案化された。

 改正の主な内容は、一定規模の国立大学に政令で「運営方針会議」という新たな合議体を置くことを義務付け、中期目標・中期計画の作成、予算決算に関する事項の決定権を持たせるというものだ【図参照】。これまで学長や理事など主に大学内の人員で構成される役員会が握っていた大学の運営権限を、この新たな合議体が握り、そこで決めた方針通りに大学運営を実行させるためのトップダウン体制の強化となっている。

 新たに各大学に設置される運営方針会議は、文科大臣の承認を得たメンバー(委員)で構成され、運営方針通りに大学運営がされているかどうかを学長に定期的(3カ月ごと)に報告させ、運営方針に従っていないと見なされる場合は、学長に改善措置を指示する権限を持つ。また、「学長選考・監察会議」に対して、学長選考の方針に意見したり、学長が運営方針会議と対立するなど解任事由に相当すると認められた場合は報告するという、実質的な解任権限まで持つことになる。

 学内の構成員は大学の運営や大学内部の資源配分について発言する権限を実質的に奪われることになり、大学の自治を担ってきた学内組織は形骸化せざるを得ない。

 さらに、これまで「国立大学の公共性や公益性を損なう」として認可制にしていた国立大学法人による土地貸付も届出のみで済むようにしたり、長期借り入れ・債券発行などの対象事業も拡大するなどの規制緩和も盛り込まれている。

 総じて、政府や経済界の意を汲んだ運営方針会議を使って学長(大学法人)をコントロールし、国立大学が保有する資産や教育組織(人間)を総動員して、学術研究よりも利益を生む「稼げる大学」へと邁進させるための体制づくりを促すものとなっている。

 現在、「特定国立大学法人」に指定される見通しにあるのは、東北大学、東京大学、東海国立大学機構(名古屋大学・岐阜大学)、京都大学、大阪大学の五法人となっている。これらの大学の職員組合は10日、改正案に反対する共同声明を発表。全国110の国立大学や関連機関の教職員組合連合体である全国大学高専教職員組合(全大教)中央執行委員会も六日に反対声明を発した【ともに別掲】。国は、大規模国立大学を皮切りに同様の仕組みを他の国立大学にも広げていく方針を示しており、すべての大学関係者にとって他人事では済まされない。

研究の自由奪う「司令塔」作り 大学教員らの指摘

 NPO法人「国立人文研究所」が11日におこなったオンライン会見で、北海道大学教育学研究院の光本滋准教授は、「“稼げる大学”は、昨年の国際卓越制度の議論の過程でたびたび使われてきた。古くは90年代ごろから始まっているが、直近では2015年当時の五神真(ごのかみ・まこと)東大総長が、財政制度審議会で“産業界が維持できなくなってきた中長期のための投資の受け皿を大学につくる”と表明し、大学内に産学一体のプラットフォームをつくるイメージを示した。今回の法改正は、“学術研究よりも経済社会に貢献する大学”(CSTI)を進めるために、研究・教育組織の上に“全学的な司令塔”をつくるものだ」と指摘した。

 またこの間の一連の「大学改革」をふり返り、「2004年の国立大学法人化で、国立大学では政府の政策を学長の権限によって実施させるトップダウン体制が決定づけられた。2014年の学校教育法等の改正によって多くの大学で教授会が教員の選考権を失った。そして、学長選考会議が学内投票に拘束されずに済むような規定改正もおこなわれ、学長と学長選考会議が一体となって大学を私物化する事態が頻発した。今回の法改正は、運営方針会議が学長を支配する体制をつくるものであり、政府や産業界が運営方針会議を支配することになれば、大学はそれらに従属せざるを得なくなる」とのべ、「国立大学の法人化は、研究水準の向上や発展のためとされていたが、20年たった現在、研究力低下がさかんに問題にされている。その反省もない法改正だ」と警鐘を鳴らした。

 特定国立大学法人への指定が名指しされている京都大学、東京大学、名古屋大学、大阪大学の職員組合も15日、声明発表とともに記者会見をおこなった。

 京都大学の高山佳奈子教授は、「京都大学職員組合は、国際卓越研究大学制度について、研究機関である大学を特定の利権の下に置こうとするものであるという観点から反対してきた。結局、東大も京大も国際卓越には認定されなかったが、その理由の一つとしてトップダウンがうまく機能していないということがいわれている」とのべた。

 国際卓越研究大学制度とは、国が10兆円規模の基金(ファンド)を設立し、その株式運用益を餌にして政府直結の「稼げる大学」をつくるという構想で、関連法が昨年5月に成立。9月に東北大学が初の認定候補に選出された。

 高山教授は、「京都大学では総長が各分野のボトムアップを重視して、(国際卓越を)ゴリ押ししなかったことから候補に入らなかったが、それを覆す形で今般の国立大学法人法改正案が出てきている。利権を持っている人たちはどうしても大学を従わせ、利権のための道具として利用したい。国際卓越大学という“お金”をちらつかせてもダメだったからこその朝令暮改であり、私たちとしては狙い撃ちにされているという感じを受けている」とのべた。

 また、日本学術会議が国によって解体されようとしていることにも触れ、「この状況下で、日本の学術研究や教育の国際競争力が低下しているというのは、当たり前のことだ。自由な研究のなかで、失敗から成功が生まれてノーベル賞につながるような発見が生まれるが、その自由な研究は、基盤的な研究費がある程度確保されたうえに成り立っている。私たち研究者は、自分たちの専門的知識は、学術全体から考えるとわずかな部分であるという認識のもとで研究に従事している。だが、今進められようとしているものは、その専門知識すらない人々、ごく少数の人々が思いつく範囲で、すぐに成果が上がるようなものについてだけお金を出すというものだ。目指すものは利権であり、その下に大学や学術会議を置くという制度だ。これでは人類の福祉に資するべき学術活動が実現できるはずもない。そもそも学術研究は、特定の範囲の人についてだけ考えておこなわれるものではない」と批判した。

 また「(日本で)もっと自由な研究活動ができれば、他分野と協力して新しいものが生み出されていくチャンスが広がる。海外で研究成果が上がっているのは、自由な研究ができる基盤的な資金が確保されているからだ。だが特定の狭い範囲の思いつきで、目先のお金を稼ぐことを学術の目的とするのなら、特定の人の利権になるだけで、国力はさらに低下していくことになる。日本で政治資金が厳しく規制されているのは、たとえ紐付き資金でなくても、寄附に頼るようになれば、寄附をくれそうな人にとって利益になるような活動にインセンティブが働いてしまうからだ。同じように特定の利権に縛られた大学になれば、人類的な課題に資する自由な研究は確保できるわけがない」と問題点を指摘した。

 東京大学教職員組合の井上聡委員長は、「東京大学も国際卓越大学に応募して落選したが、応募に至る学内的議論はほとんどなかった。私たちがしっかりした方針が出せなかったのは、東京大学ではすでに年間60億〜70億円という欠損が生じ、私たちの部局でも年間数千万円という赤字が出て、基礎的な資金が“兵糧攻め”でかなり追い込まれていることがある。どういう形であれ、お金が入ってくれば良いのではないか…という考えがなきにしもあらずだった」と自戒を込めてのべ、「そもそもの大学のあり方から考えなければならない。研究の自由度が上がらないまま、外の経営や行政の専門家が大学運営に入ってきてもうまくいくわけがない。そのようなことを次々と振りまかれ、次第に大学が弱っていくのを感じる」と現状を吐露した。

 名古屋大学職員組合の渡辺健史委員長は、「名古屋大学での国際卓越研究大学応募に向けた議論もトップダウン的に決まっていったのが実情だ。それ以外のことでも外部を意識してトップダウンで決まることが増え、運営費交付金も削減され、人事も思うように進まず、教員も時間がなく疲弊している。今回の改正案で採り入れようとしている合議体(運営方針会議)を置くことになれば、さらに外ばかりを意識しなければならなくなる」とのべた。

 続けて、「大学はすでに力を失っており、外に還元することばかり考えると、わずかに残っている貯金も使い果たして立ち直れなくなり、研究力を含めて大学の自律性が極度に低下するのではないかと危惧している。国が大学運営に介入しようとしていることが透けて見える。大学の自治を侵害する大きな問題だ」とのべた。

 大阪大学教職員組合の北泊謙太郎書記長は、「教職員給与削減をめぐる団体交渉の場で、大学理事が“国際卓越研究大学制度の選考に阪大が落ちたのは、大学の組織改革が足りないからであり、もっとドラスティックに組織を改革し、雇用もさらに流動的にして、次こそは国際卓越に採用されるように大学として一丸となってとりくむ”という趣旨の発言をした。今回、国際卓越に採用された東北大学では、テニュアトラック(一定の研究実績に基づいて研究環境や雇用が保証される資格)も付いていないような、任期付き雇用の若手教員が多いことが採用理由の一つだという。大阪大学でも短期で若手を雇い、どんどん入れ替えていく雇用の流動化を進める意志が表明されたものだと受け止めている。大阪大学は文科省と手を組んでトップダウンで決めていくことが多く法改正でそれに拍車が掛かるのではないか。大学の自治にとどめを刺すようなものだ」とのべた。

オンライン署名呼びかけ 各大学の研究者有志

 各大学の研究者有志でつくる「『稼げる大学』法の廃止を求める大学横断ネットワーク」は現在、国立大学法人法改正に反対するオンライン署名を募っている。そこでは、概略以下のように法案の背景と反対理由をのべている。

■国立大学の「失われた20年」


 今年は国立大学を法人化する法律が制定されてから20年目にあたる。大学の自律性を高めるための「改革」なのだという表向きの説明とは裏腹に、法人化後、国立大学の自治と自律性は段階を踏みながら破壊されてきた。

 第1段階として、国は、大学運営にかかわる基盤的経費(運営費交付金)を10年近くかけて1割以上カットした。第2段階として、国立大学のトップである学長の選考について、政財界の意向が及びやすい仕組みをつくった。第3段階として、「選択と集中」の名の下に国が一方的に定める評価指標の達成度に応じて、基盤的経費を増減することにした。そのため、多くの学長は、予算を少しでも増やすために文科省の意向を忖度するようになった。第4段階として、大学が株式市場やベンチャー企業に投資することを奨励しつつ、企業から投資を受けて「稼げる大学」に変身することを要求した。

 この20年間を振り返ってみると、政財界の狙いは、バブル崩壊後の産業界の国際競争力を立て直すために大学を「活用」することにあった。経済がクローバル化する中で、多国籍化した企業にビジネスチャンスを与えることが重視された。

 たとえば2017年には、国立大学法人に土地の貸付を認める通知がなされ、今回の改正案では、これまで文科大臣の認可が必要であった土地の貸付を届出のみで可能にすると規定した。土地貸付によって国立大学法人が利益をあげ、これを利用した企業がその「有効利用」によって利潤をあげることもあるだろうが、そこでは、学生にとっての運動場や寄宿舎、学生食堂、保健管理センターなどのキャンパス空間がいかに重要であるかは度外視される。学生たちがリーズナブルで安全安心な生活をおくれることを優先していたら、「稼げない」からだ。

 これに限らず、大学を「稼げる大学」に変えようとする力は、学生を授業料の額に応じてサービスを受けるべきカスタマー(顧客)、教職員をコストカットに協力すべき従業員へと変質させた。大多数の国立大学で、学長を投票により選出する権利が剥奪されたことが象徴的だが、今改正案は、「運営方針会議」なる合議体を設置し、大学の運営・研究・教育にかかわる方針(中期目標・中期計画)や資源配分のあり方(予算・決算)を決定する権限を与えると定めている。しかも委員の任命にあたっては文科大臣の「承認」を必要とするとしている。


 これは、学生や教職員と、政府の方針に忠実な「経営判断」をおこなう少数者(運営方針会議委員、学長、学長選考・監察会議委員)とを分離し、学生や教職員の意見を無視また否定できる制度を完成させようとするものであり、「大学の自治」への死刑宣告にも等しい内容といえる。

■「稼げる大学」「稼げる自治体」の行く末


 わたしたちは、「大学の自治」だけが守られればよいと考えているわけではない。むしろ日本社会全体を多国籍企業にとって稼ぎやすい場にしようとする実践の一環として、今日の大学「改革」を捉えている。

 たとえば地方自治体も「稼げる自治体」となることを迫られてきた。具体的には「公共サービスの産業化」を合言葉として、地方行政や社会保障などの公共サービスを民間企業の市場として開放することが求められてきた。その結果として生じたのは、公務の外部委託や派遣社員雇用の拡大であり、地域社会内で循環するはずのお金が、東京に本社を置く大企業や多国籍企業に吸い上げられていく事態だった。その結果、公共サービスの担い手が減り、場合によっては自治体そのものが吸収合併により消滅させられた地域も少なくない。

 地方自治体の場合には、住民は主権者として首長を選挙により選出することができる。合併にかかわる住民投票でこれを否決することも可能だ。ところが、国立大学の場合には投票による歯止めがもともと慣行としてしか成立していなかったために、独裁的な体制がいとも簡単に形づくられてしまった。公立大学や私立大学の場合には大学により代表を選出する仕組みはそれぞれ異なるが、国立大学以上に「稼げる大学」になる圧力にさらされてきた。

 わたしたちは、研究が結果としてイノベーションにつながり、新たな産業や文化を生みだすことの素晴らしさや、研究や教育の意義について市民社会に対して説明する責任は感じている。だが、研究や教育にまつわる創造性はつまるところ個々人の創意工夫と安定した環境に由来する以上、政財界の意向を体した人物がもっぱら経営的な判断に基づいて「計画」なり「目標」を定めていくことは、大学の研究力や教育力を低下させることにしかならないと確信する。国は、だれもが「大学で学び研究する権利」を保障するために大学政策を根本的に転換し、基盤的経費の充実と安定財源化に努めるべきだ。

 「稼げる大学」「稼げる自治体」「稼げる保育園」「稼げる公園」…というように、なにもかもが近視眼的に考えられた経済的利益に還元される社会の行く末には、いったいなにが待っているのか。それを透視し、その打開策を考えることも大学の重要な役割だ。大学人がその役割をきちんと果たせるようになるためにも、改正案に反対の意向を表明し、国の大学政策の根本的な転換を求める。
https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/28277

290. 中川隆[-12134] koaQ7Jey 2023年11月27日 14:04:13 : wj5rnFyqmk : aEdMd3dSd1RuQmc=[3] 報告
国立大学法人法”改正”は30年の破壊の総仕上げ【内田樹の談論風発】4
https://www.youtube.com/watch?v=AQkGLqVLGwo


内田樹さんの新刊

『街場の米中論』(東洋経済新報社 2023.12.6.)
https://str.toyokeizai.net/books/9784492444795/

『街場の成熟論』(文藝春秋社 2023.9.13.)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163917566

お相手: 池田香代子

2023年11月24日 収録



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291. 中川隆[-11412] koaQ7Jey 2024年3月02日 14:36:05 : Sonm4MgY9U : TExMTVh0NWlZU1E=[1] 報告
<■57行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
内田樹の研究室
文字の書けない子どもたち
2024-02-27
http://blog.tatsuru.com/2024/02/27_1129.html

 高校の国語の先生から衝撃的な話を聴いた。生徒たちが文字を書けなくなっているというのである。教科書をただノートに筆写するだけの宿題を毎回課すが、やってくるのは半数以下。授業中に書いた板書をノートに写すようにという指示にも生徒たちは従わない。初めはただ「怠けているのか」と思っていたが、ある時期からどうもそうではないらしいことに気がついた。
『鼻』の作者名を問うテストに「ニコライ・ゴーゴリ」と答えを書いた生徒がいた。ゴーゴリもその名の短編を書いているが、教科書で読んだのは芥川龍之介である。どうしてわざわざゴーゴリと書いたのか生徒に訊ねたら「漢字を書くのが面倒だったから」と答えたそうである。 
 生徒たちの提出物の文字が判読不能のものが増えて来たという話は大学の教員たちからも聴く。学籍番号までは読めるが、名前が読むのが困難で、コメントの文字に至ってはまったく解読不能のものが少なくないという。何を書いたのか学生自身に訊いてみたら、自分でも読めないと答えたそうである。
 一体何が起きているのか。どうやら文字を書くという動作そのものに身体的な苦痛を感じる子どもが増えているらしい。
 文字を書くというのはかなり精密で繊細な身体運用を要求する。筆で書くなら、ひとさし指と中指をかけて親指で筆を抑え、肘を上げて穂先をまっすぐ立てる。これを「懸腕直筆」という。昔お習字の時にそう教わったはずである。この姿勢をとると体軸が通る。
 武道家として言わせてもらえば、体軸が通っていないと手足の自由は得られない。文字を書くためには、まず身体の構造が整っていないと始まらない。当たり前の話なのだが、どうも当今の子どもたちはその身体の構造そのものが崩れ始めているように思われる。
長い話になりそうなので、続きはまた次週。
 
 先週の続き。「文字の書けない子どもたち」がどうして生まれて来たのかについて武道的立場から考察したいと思う。
 筆で字を書く時にかなり精密な身体運用が求められる。能筆の人は横に一本線を引く時も、勢い、太さ、濃淡を細かく変化させながら筆を運ぶことができる。
 最後の首切り役人だった八世山田朝衛門は斬首の一閃の間に涅槃経を唱えたと後年述懐している。右手の人差し指を下ろす時に「諸行無常」、中指を下ろす時に「是生滅法」、薬指を下ろす時に「生滅滅已」、小指を下ろす時に「寂滅為楽」。そこで首がぽとりと落ちるのだそうである。一瞬の動作を四句十六文字に分節していることになる。斬ることの本質が力ではなく、動作の精密さと多分割にあることがよくわかる逸話である。
 精度の高い身体運用をなしうることは生きる上での必須の能力である。それができなければ、包丁で葱を刻むこともできないし、針の穴に糸を通すこともできないし、文字も書けない。しかし、どうやらその基礎的な「生きる能力」が今の子どもたちは衰えているらしい。
 文字なんか書けなくても、キーボード叩けば済む。葱だって刻んだものを売っているし、靴下の穴なんかけちくさく繕わずに買い替えればいい。そうかも知れない。でも、身体の構造が崩れて、細密動作ができないという子どもたちを制度的に創り出しているかもしれないという危機感を大人たちは持った方がいい。
 文字を書くというのは、罫に沿って、あるいはます目に合わせて、複雑な図形をかたちよく配列することである。字間調整も必要である。おそらく古人は子どもたちが書字によって身体の精密な運用を学び、生きる力を高めるということを知っていたのだろう。だから、子どもたちに「黙って臨書しろ」と命じたのだと思う。今さら習字を必修にすることはできない。
 では、どうしたらいいのか。私にもわからない。
http://blog.tatsuru.com/2024/02/27_1129.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

292. 中川隆[-11048] koaQ7Jey 2024年3月31日 18:14:41 : 9529qE9Jts : MzhrV0VKWW4zU0k=[11] 報告
<■308行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2024年03月31日
英語の先生は白人の方がいい / 混迷する英語教育 (前編)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956517.html

ネイティヴの先生が欲しい

teacher 44Filipino teacher 442
(左 : 「理想的な英語教師」と思われるアメリカ人女性 / 右 : 「現実的な英語教師」となるフィリピン人女性 )

  近い将来、日本は「アジア圏に埋没した東洋のブラジル」になる。というのも、“グローバリゼイション”が日本の潮流となり、アジア人が大量に住み着く多民族国家になるからだ。歴代の自民党政権、とりわけ岸田内閣は移民の輸入に熱心で、外国人労働者を“育成”するという名目で家族連れの移民を増やす政策に舵を切った。

  実に恐ろしい方向転換だが、政府は輸入目標を82万人くらいに設定し、介護や食料製造業のみならず、自動車産業や運輸業界、バスや鉄道などの分野でも外国人労働者を増やすつもりらしい。(「特定技能の外国人、5年で82万人に拡大 政府が閣議決定」日本経済新聞、2024年3月29日) 日本政府は国境の壁を低くして安価な労働力を獲得する一方で、日本人にも“アジア化”の努力を要求している。

  日本に入ってくるアジア人やアフリカ人は、日本語研修でコミュニケーションが取れるよう訓練されるそうだが、日本人の方も「英語」で外人と意思疎通が出来るよう訓練されるという。実際、英語教育は小学校から始まり、三年生と四年生は英語に親しむ「外国語活動」を受講し、週1コマ、年間35時間ほどの“調教”を受けるそうだ。五年生や六年生になると英語の授業は「教科」となり、週2コマ、年間70時間くらいの授業になるという。

  こうした英語教育は中学校になると更に強化され、教室には直接あるいは間接的に外国人の「ALT(Assistant Language Teacher / 外国語補助教員)」が現れる。形式的には、生徒に“本場の発音”とやらを伝授する方策というが、実際は“お遊び”の一環だ。たぶん、日本人の教師だと英語の発音が下手糞だから、ネイティヴ・スピーカーを雇って“臨場感”を体験させるつもりなんだろうが、そんな授業で“英会話力”がつくことはない。もし、英国のコメディー番組を子供達に見せたら、「先生、何を話しているのかサッパリ解らない!」という反応だけが返ってくるはずだ。

  文部省の役人は対面教育を企画したが、実際にイギリス人やアメリカ人、つまり西歐系の白人を雇うとなれば費用が嵩むから、現実的な対策としてフィリピン人やインド人、あるいは香港の支那人を雇うことにしたのだろう。こうしたアジア人を雇えば、多少なりとも経費の節約になるからだ。

  そもそも、歐洲や北米から白人教師を招こうとする発想じたいが間違っている。文部省の役人は「JETプログラム(Japan Exchange and Teaching Programme)」を拵えて、ネイティヴ・スピーカーを招こうと考えたが、日本の学校で英語を教えたいと望む白人青年は、いったい何人いるのか? キリスト教のプロテスタント宣教師なら「日本行き」に手を挙げるかも知れないが、普通の白人青年だと難しいぞ。

  政府は年間で約280万円から396万円を払い、渡航費用や住宅手当、健康保険料などを負担するというが、そんな条件で適切な人材が集まるとは思えない。(総計で1人当たり約600万円の費用となるらしい。) 確かに、効果的な宣伝を繰り返せば、ある程度の人数を確保できようが、“まとも”な西歐人は応募しないだろう。実際、教員の確保に困った学校は、民間の派遣業者に頼っている。

  歐米諸国と同じく、日本の役所も人種問題には敏感で、全国の小中学校に補助教員を派遣しても、実際にどんな人物なのか、つまり「国籍」ではなく「民族・血統」での分類、経歴や能力のレベル、生徒による正直な評価を公表することはない。補助教員の大半はアメリカやカナダからの教師らしいが、それだって黒人なのかヒスパニックなのかも判らないし、ひょっとしたら「カナダ国籍の支那人」という場合だって有り得る。民間業者に頼っても西歐人の教師を獲得できない学校は、在日フィリピン人を雇うか、フィリピンからのオンライン授業で誤魔化すしかない。つまり、“安上がりの外人”で困難を克服しようとする訳だ。

  ところが、フィリピン人の「ALT」じゃ不満というか、「そんな先生じゃイヤだ!」という拒絶反応が、生徒や保護者から出てくる。最近、大阪府の堺市でちょっとした騒動が起きた。3月13日に行われた市議会特別委員会の席で、水ノ上成彰・市議が「フィリピン人に英会話を教わるなら、日本人の教師に教わればいいのではないか」と述べたらしい。彼は現在の英会話授業に疑問があるらしく、日本の子供達は「かつてアメリカの植民地だったフィリピン人に英語を教わっている。これは決して愉快な話ではない」と発言したそうだ。(「市立中でフィリピン人が英会話講師『愉快な話ではない』『日本人に教われば』…市議発言に厳重注意」読売新聞、2024 年3月26日)

  現地の市民グループは直ちに水ノ上市議の発言を「ヘイトスピーチ」と非難したが、一般国民の中には彼の意見に共鳴する人も居るんじゃないか? 批判を受けた水ノ上市議は新聞記者の取材に対し、「フィリピン人の方を下に見るつもりではなく、日本人がもっと頑張れというつもりだった。委員会での発言を全部聞けば分かってもらえる。撤回するつもりはない」と話していた。

  主流メディアの論説員や御用学者は、水ノ上氏の発言を捉えて「差別だ! 人種偏見だ!」と糾弾するが、それなら訊くけど、新聞社の重役や大株主、広告企業の経営者は、自分の子供達を普通の公立学校に通わせ、フィリピン人の教師に預けているのか? 例えば、テレビや新聞に広告を出すトヨタ自動車とか三菱UFJ、住友商事、三井物産、NTT、ソニーといった有名企業の重役は、自分の息子や娘に“エリート教育”を授けるが、庶民の子供が集う公立学校に通わせ、フィリピン訛りの英語を学ばせることはない。

  具体的に言うと失礼になるけど、港区のタワーマンションに住む高学歴の“リベラル・ママ”は、足立区や荒川区の公立学校を選択しないだろう。慶應義塾の幼稚舎、暁星幼稚園、成城幼稚園などで“英才教育”を受ける箱入り娘は、西歐白人の教師から“ちゃんとした英語”を学び、西洋風の“国際感覚”を身に付ける。お金持ちの家庭だと、アメリカ白人の家庭教師を雇って、自宅でのプライベート・レッスンだ。ちなみに、安倍晋太郎は若き平沢勝栄を家庭教師に選んだが、息子の晋三がどう反応したのか判らない。まぁ、晋三坊っちゃんは、「えっ!、この人、江戸時代の水呑百姓みたい!」と思ったんじゃないか? (知らんけど。) とにかく、安倍家の人選にはセンスが無かった。

  一般的に、校長先生や教育評論家は、生徒の自主性とか言論の自由、独立精神の涵養など、綺麗事を並べて自前の教育論を披露するが、実際は違っており、権威主義の“事なかれ”学校とか、規則で雁字搦めの“お役所的学校”が多い。「俺の在任中だけ問題が発覚しなければいい!」という校長や教頭がほとんど。日本各地がこんな有様だから、普通の公立学校には「選択の自由」は無い。教室の壁によく、毛筆で書かれた「誠実」とか「真理」の紙が貼られているけど、こんなのは滑稽な標語だ。「臭い物には蓋」という壁紙に変えればいいのに。

Kate Middleton 6203Meghan Merkel 772(左 : キャサリン・ミドルトン / 右 : メーガン・マークル)
  話を戻す。もし、本当に生徒がATL教員を選べるとしたら、校長先生が真っ青になる事態が起こってしまうだろう。例えば、ブリテン英語を授けるため、地方の中学校がイングランドから補助教員を2名招いたとする。一人はキャサリン・ミドルトン(Catherine E. Middleton)のようなイギリス人女性で、もう一人はメーガン・マークル(Meghan Markle)の如き黒人女性だ。仮定の話だが、もし生徒100名に「選択の自由」が与えられ、アンケート調査を行ったら、どんな結果になるのか? もし、97名が「ミドルトン先生がいい!」と答えてしまい、残りの3名が仕方なく「メーガン先生」を選んだとしたら、担任の先生や校長は冷や汗ものだ。おそらく、生徒の希望は却下され、教師の勝手な裁量で50名が「ミドルトン・クラス」に、そして残りの50名は「メーガン・クラス」に振り分けられるだろう。

学校英語は「実用的」じゃない

  学校での英語教育に関しては、昭和の頃から色々な苦情があり、言語学者の故・渡部昇一・上智大学教授も持論を述べていた。英文法史を専攻していた渡部先生は、学校の授業は英文読解と文法理解にあると喝破していた。もちろん、先生は英会話の重要性を知っていたが、それは“慣れ”というか、英語圏内で暮らしているうちに身につく“反射神経”のようなものだ、と説明していた。大切なのは、英語の文章を正確に理解できるよう文法を勉強し、きちんとした文章を書けることにあるらしい。なるほど、英米の大学では、教師の前でペラペラ喋ることができる学生より、論理的で立派な論文を書ける学生の方が高く評価される。それゆえ、教養人になりたい日本人は「読み書き」の勉強をした方がいい。

  もう一つ、渡部先生が共著『英語教育大論争』の中で討論した事で、とても印象的だったのは、学校の穎悟教育を受けた日本人には、「恨み(resentment)」があるという指摘だ。勉強熱心な人でも、「俺は中学から大学まで、ずっと英語を勉強してきたのに、実際にアメリカ人と会うとしどろもどろで、まともな会話が出来ない! しかも、英語の発音が悪いし、相手が何を喋っているのかさえ解、ちっともらない。これは学校教育に問題があるからだ!」と嘆く人が多い。こうした辛い経験をした人が役所の中にも多いから、「もっと英会話力を強化する授業が必要なんだ」という意見が多数派になってしまうのだろう。高級官僚の中にも、ハーヴァード大学やジョージタウン大学に官費留学をする人がいるから、文部省の“改革”に賛成する人は少なくなかった。

  しかし、「英会話力」は一部の人だけに必要な能力だ。自分の「英語力」を嘆く人は、独自の努力で身に付けるしかない。英文学の研究家として著名だった福原麟太郎も、英語教育に対する世間の非難を取り上げていた。福原氏によると、「英会話力」というのは畢竟「実用的価値」であり、日本国民全体が没頭する勉強じゃないという。一般国民の大多数は国内で生活し、イングランドやアメリカ、オーストラリアで仕事をする人は極少数だ。福原氏に言わせれば、外交官や貿易商などの“特殊な人々”が必要とする能力である。

  確かに、スイスの国民なら、ドイツ語を日常語にする人でもフランス語やイタリア語を多少なりとも知る必要があるし、香港やシンガポールの人々なら英語は必須科目だ。もちろん、シンガポールやマレーシアの華僑は、家庭内で上海語や広東語を話しているが、商売では便利だから、もっぱら英語で通している。フィリピンでも土人が英語を話しているが、それは現地語だと近代文明の学問が出来ないからだ。例えば、タガログ語やセブアノ語では学術論文どころか、小学校の理科や数学ですら出来ない。インドと同じで、支配者の言語で勉強するしかないのだ。

  学校の英語教育に関して、福原氏は「必要が才能を生むので、学校教育とは無関係である」と述べていた。(福原麟太郎『この国を見よ』大修館書店、昭和36年、pp.109-110.) 昭和の頃、よく多国籍企業や大会社の重役などが、英会話の苦手なヒラ社員を見て「学校の教師は何をしているんだ!」と文句をつけていたが、福原氏は苦々しく思っていたという。なぜなら、下っ端の若い社員たちは、たとえ経済学士や法学士であっても、入社すればソロバンの稽古や簿記の勉強をしたりする。もし、会社の上司が「実用英語」を要求するなら、新入社員に「英会話」という能力を仕込めばいいじゃないか、という訳である。1年くらい“みっちり”稽古すれば、英会話や商業通信くらいできるはずだ。

  なるほど、福原氏が言うように、英語の訓練だけは学校に押しつけ、重役どもが一方的に「学校の授業など役に立たない!」と不満をぶつけるのはおかしい。英語の専門家である福原氏は、しばしばラジオの座談会などに招かれ、英語教育に関する質問を受けたというが、そうした時には次のように答えたそうだ。「私はいつも実用になるようになどと思って私は英語を教えてやりません、学校の英語は実用になりません」と。(上掲書、p.110.)

  一般的に、我々は学校教育に期待しすぎる。平成時代になると「モンスター・ペアレント」なる保護者が現れ、子供の躾まで教師に要求するようになった。実の親がしないことを担任教師に押しつけるなんて言語道断だ。福原氏によると、学校の英語教育における目的は、「言葉の不思議さ」を体験させることにあるという。福原氏は次のように説明していた。英語は日本語とかなり違うことが子供にも解る。日本語だと1頭でも100頭で「馬」という単語に変化は無いが、英語だと1頭の馬(単数)と2頭の馬(複数)とでは言葉が違ってくる。子供はこうした言語の違いに直面した時、心に何らかの振幅を抱く。福原氏によれば、これこそ学校英語の「功徳」らしい。学校英語というのは「非実用的」で、西洋人に会った時、「おはよう」と言うためのテクニックを教えるのが主眼ではないという。

  文部省の役人が提言する教育理念は単純だ。幼い頃からネイティヴ・スピーカーに接触し、彼らと直接“会話”し、それに慣れれば、自然と“英語力”が身につく。グローバル化した社会では、英語を流暢に話せる者は有利だ。「さぁ、皆さん、レッツ・スピーク・イングリッシュ!」と呼びかける。だが、福原氏が指摘するように、英会話が必要となれば、その時に猛勉強すればいいのである。大切なのは学校で基礎知識を身につけることだ。すなわち、英文法をしっかりと勉強し、明確で論理的な文章を書けるようになれば、英会話の訓練にも充分対応できる。これがもし、英文法の知識が曖昧で、英語論文すら正確に理解できない人は、ブリテンやアメリカに行っても英会話力は身につかない。

  まぁ、長いこと暮らせば、簡単な日常会話なら出来るようになるだろう。日本でもフィリピン人酌婦が、日本語を覚えて客の相手をしているから、日本の一般人でも不可能じゃない。だが、英米の教養人を相手とした会話は無理だ。なぜなら、アメリカやブリテンには腐るほど「英語を話せる人」が存在し、流暢に話せたくらいじゃ尊敬されないからだ。よく、日本の英語教育に不満を漏らす日本人は、「アメリカやイングランドで暮らせば、自然と流暢に話せるようになる!」と思い込んでいる。

  しかし、こうした意見は妄想だ。愚かな学習方法を信じる日本人は、呆れるほど語彙が乏しく、専門知識も無いから、話している内容も幼稚でつまらない。上層中流階級のイギリス人やアメリカ人は、たとえ拙くとも“面白い”話をする日本人の方を好む。つまり、歐米の知識人というのは、自分が知らない事を教えてくれる外国人や、知的好奇心を喚起するような会話、もっと知りたくなるような刺戟的で深みのある会話が大好き。NYやLAの黒人ラッパーが話す程度の英語じゃ笑われてしまうぞ。

  英語の発音が下手糞な日本人は劣等感に苛まれ、英語を流暢に話す日本人を羨むが、そんなのは愚かな発想だ。米国だと、黒人のアメフト選手やコメディアンが早口で流暢に喋るが、手紙や論文を書かせると、「小学生並」だったりする。英米だと乞食やシャブ中だって英語を話すが、そんなことで尊敬する人は虫眼鏡で探しても居ないだろう。英会話に劣等感を抱く親は、「早期教育が大切だ」とばかりに、我が子を無理矢理、遠くのアメリカンスクールや“白人生徒”が通うインターナショナル・スクールに通わせたりする。だが、そんなのは資金と時間の無駄でしかない。

  本来なら、日本語能力を先に附ける方が重要なのに、幼稚園から英語を学ばせれば“インターナショナル”な秀才に育つと思っているのだ。でも、実際は学校の英語と家庭の日本語で、子供の頭が混乱してしまい、どちらも中途半端になってしまうのがオチである。可哀想なのは、ペットにされた子供の方である。不充分な言語能力で勉強となるから、論理的思考を基礎とする理科や数学の授業について行けなくなるのだ。試験の設問を読んでも理解できない子供が、正確に答えを述べることが出来るのか?英会話に夢中の親は、子供が中学生や高校生になった時に自分の間違えに気づいたりする。
 
日本語で暮らせる日本

  文部省の役人は「有識者」という提灯藝者を集め、「自分たちの意見」を正当化する。「グローバル化に対応した英語教育改革の五つの提言」という報告書なんて実に馬鹿らしい。ここで披露されている「提言」なるものは、呆れてしまうほどの妄想で、「別の魂胆があるんじゃないか?」と疑いたくなる。例えば、次のような文言があった。

 国民一人一人にとって、異文化理解や異文化コミュニケーションはますます重要になる。その際に、国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべきである。今後の英語教育改革において、その基礎的・基本的な知識・技能とそれらを活用して主体的に課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等を育成することは、児童生徒の将来的な可能性の広がりのために欠かせない。

  「アジアの中でトップを目指す」だって? どうして日本がアジア諸国に参入し、アジア人と比較されねばならぬのか? 日本は昔から「アジアの国」でもないし、「儒教圏」でもなかった。日本人は独自に日本文化圏を築き、日本人同士で暮らしてきたから、素晴らしい民族となったのだ。別の機会で述べたいが、近くに住んでいようが、支那人や朝鮮人は日本人にとって「エイリアン」でしかない。ベトナム人やフィリピン人も、全くの“異邦人(よそ者)”である。明治維新後の日本人は、「やっと海外渡航が解禁になった!」と喜んで、朝鮮半島や支那大陸、東南アジア、インド、アフリカを漫遊したが、現地の土人を目にしてビックリ仰天だった。明治の頃は共同通信社の「禁止用語集」や「PC(政治的に正しい言葉遣い)」が無かったから、露骨な評論が多かったけど、正直な感想だから本当に面白い。

 「報告書」の有識者は、次のような事も述べていた。

 現在、学校で学ぶ児童生徒が卒業後に社会で活躍するであろう2050(平成62)年頃には、我が国は、多文化・多言語・多民族の人たちが、協調と競争する国際的な環境の中にあることが予想され、そうした中で、国民一人一人が、様々な社会的・職業的な場面において、外国語を用いたコミュニケーションを行う機会が格段に増えることが想定される。

  こうした「提言」を聞いていると、もうウンザリしてしまうが、文部省の役人が取り上げる「思考力」や「判断力」を育成したいのであれば、先ず国語や歴史の授業に力を入れるべきだろう。日本人は日本語で考え、日本語で意思疎通を図り、日本語で表現するのが普通だ。ルー大柴みたいな藝人は例外だし、ゼンジー北京は偽の支那人だった。小池百合子は「コンプライアンス」とか「ウィン・ウィンの関係」といったカタカナ英語を得意とするが、江戸の庶民は日本語で暮らしているんだぞ。小池都知事はアラビア語を“習得”したというが、本当に学術的なアラビア語論文を書けるのか?

  元キャスターの小池百合子は、武漢ウイルスがちょっと終熄した時、「ゴー・トゥー・トラベル」と口にして一般国民に旅行を勧めていたが、我々はサーカスの犬じゃない。日本語で「みんな揃って旅に行こう!」でいいじゃないか。もし、小池都知事に「伏せ、お坐り、でんぐり返し」と言われたら、東京都民はそうするのか? 今流行(はやり)の「SDGs」なんて、支那人の悪徳業者かヤクザが儲けるためのスローガンである。
 
  有識者の面々は、“アジア化”された日本の未来を喜んでいのか、「外国語を用いたコミュニケーションを行う機会が格段に増えることが想定される」と述べていた。しかし、一般の日本国民はバラ色の国際化社会を望んで居るのか? なるほど、楽天やユニクロといった無国籍企業に就職すれば、「外国語を用いたコミュニケーション」ということで英語での会議や交流が“普通”になるんだろう。だが、一般国民の大半は、英語を使って仕事をする訳じゃない。もしかすると、財界人と霞ヶ関の役人は、日本語を不得意とするフィリピン人やマレー人とコミュニケーションを取るため、簡単な英語を使え、と仄めかしているんじゃないか?

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(左 : 日本に移住しかねないアジア人 / 右 :「未来の日本」を想像させるアジア人労働者 )

  政府は深刻な「人手不足」を解決するため、アジア諸国から労働者を輸入するという。しかし、彼らが複雑怪奇な日本語は習得するには、大変な努力と膨大な時間を要する。それなら、「カタカナ英語」で会話をする方が簡単だろう。おそらく、介護施設の管理責任者や食品工場の係長は、マレー人やフィリピン人、あるいはインド人やパキ人、ケニア人、エジプト人の部下に小学生程度の英語で語りかけ、ジェスチャーを交えて命令を下すようになるのかも知れない。そして、何となく解った外人社員は、“ジャングリッシュ(日本語発音の英語)”に慣れた同胞に確認し、見よう見まねで作業に就く。文書による命令だとアジア人はお手上げだから、日本人上司が英語の書類を作成し、外人の部下に説明するしかない。

  歐米の資本家に買収された会社だと、そこに勤める日本人従業員はもっと大変だ。英文の報告書はもちろんのこと、会議でのプリゼンテーションも英語となるから、前日から頭が痛くなる。小便の時だけ、同僚と日本語で話せる会社なんて、本当に気の毒だ。役人は「グロール化時代の日本」と宣伝するが、そんなのは「根無し草の世界」でしかない。「日系日本人による日本的国家」が本来のにほんだ。我々は子孫のためにも、日本語で幸せに暮らせる社会にすべきなんじゃないか。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68956517.html

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