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知ったら住みたくなるケンミン性 (第6回)魅力度ランキング2位「京都」に住んでわかる理想と現実
http://www.asyura2.com/09/ishihara13/msg/777.html
投稿者 軽毛 日時 2016 年 10 月 31 日 16:03:56: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 

知ったら住みたくなるケンミン性
【第6回】 2016年10月31日 ダイヤモンド・オンライン編集部
魅力度ランキング2位「京都」に住んでわかる理想と現実

秋の紅葉が美しい季節。京都の人気はますます高まります
 先日、2016年「都道府県魅力度ランキング」が発表された。毎年話題になるこのランキング。注目は、安定した最下位争いをする北関東3県だが、これまた上位3県も安定した確固たる地位を築いている。

 1位になったのは北海道で、2位は京都府、3位に東京都が続く。この並びは2年連続で、多くの人が納得する結果だろう。なかでも京都府は、このランキングを含む「地域ブランド調査2016」の他の主要な評価項目でも上位を獲得している。観光意欲度2位、訪問率2位、認知度3位、産品購入意欲度2位…。何をとっても京都は上位なのだ。

 また京都市も、全市区町村の魅力度と観光意欲度ランキングの両者で函館市に次ぐ2位。認知度は新宿区をおさえて全国トップとなるなど、これまた上位を獲得している。

 ここまで人気が高ければ、京都に憧れて住みたいと思う人も多いはず。実際、居住意欲度ランキングでは京都府、京都市ともに4位にランクインするほどの人気を誇る。

「移住説明会を開くと、1回で30人ほどが訪れますが、6対4くらいで女性が多いですね。単身の女性かご夫婦が多く、男性おひとりはほとんどありません」

 こう語るのは、京都移住計画で「住む担当」をしている岸本千佳さん。女性を中心に大人気ではあるものの、岸本さんが「京都観光と京都移住には、とても大きなギャップがある」と語るように、実のところ京都移住は簡単なことではない。

 一体、京都に住んでみると、観光では見えないどんな姿が浮かび上がるのだろうか。

京都市以外は「京都出身」じゃない!?
同じ府内で全く異なる姿


京都といえば、清水寺など有名な神社仏閣のイメージを持つ人が多いのでは?
 京都というと、京都市内をイメージする人が多いだろう。だが、京都は意外にも広く、一般的には知られていない場所がまだたくさんある。

 前出の魅力度ランキングを市町村別でみていくと、京都府内で京都市に続くのは宇治市(全国52位)、舞鶴市(189位)。北海道のように、函館市(1位)や札幌(2位)、小樽市(4位)、富良野市(6位)といった人気の街が続々上位にランクインするところと比較すると、限られた地域が京都府の魅力を作っていることがわかる。

 京都府は大きく「京都市」「山城」「南丹」「北部」の4エリアに分けられる。

 京都市内は神社仏閣を中心に観光地が多数あり、祇園や河原町など誰もが知る繁華街も擁する中心地だ。山城はお茶で有名な宇治市や京田辺市などがあり、大阪や奈良にも近い。南丹は京都市に隣接する亀岡市や南丹市、京丹波町があるエリア。北部は海に面する舞鶴市や兵庫県に隣接する福知山市、京丹後市などがある。

 4エリアに分けられる一方、各エリア出身者に話を聞いてみると、京都は「三層構造」になっているのでは?という確信にも似た疑問が湧いてきた。


福知山市街地。確かに「京都っぽさ」はあまりないかも
 一層目は、京都市内中心部の「洛中」と呼ばれる碁盤の目の中にある一帯。二層目が、京都市内の山間部や京都市に面する宇治市や亀岡市など。三層目が舞鶴や福知山といった京都市内から離れた主に「北部エリア」を含む地域だ。

 取材した福知山出身の男性に「京都出身なんて羨ましいです」と言うと、彼は食い気味に「いえいえ違うんです!」と勢いよく否定しながらこう話し始めた。

「出身を聞かれたら必ず『京都の福知山出身です』と言うようにしています。京都出身というと一気にハードルが上がりますから。福知山は本当に普通の田舎なんです。実は、亀岡出身の友人が京都市内出身の友人に『亀岡が京都を語るな』と言われていたことがありまして…。亀岡でそれなら、自分は絶対に“京都出身”なんて言えません」


宇治市にある世界遺産平等院
 確かに宇治生まれの男性も「京都市の人に『京都出身って言うな!』と言われたことがある」と話してくれた。しかし、一方で「福知山と舞鶴?あれは京都じゃない」との発言も飛び出す。つまり、宇治のような京都市に近いエリアの人たちの中には、京都出身のプライドを微かに抱きつつも、“本当の京都出身者”の顔色を窺いながら生きている人もいるようなのだ。

 そうした意味では、北部の人は潔いのかもしれない。都道府県魅力度ランキングを発表しているブランド総合研究所の田中章雄代表も「北部の人は自分たちの住む場所を“京都”と思っていない」と語るように、もはや自分たちは「京都出身ではない」と割り切っている。だからもし移住するのならば、京都府は「都」と「田舎」がはっきりと分かれており、自分はどちらが向いているのか、事前によく考えた方がいいだろう。

京都でも東京みたいな暮らしができる?
「もし京都が東京だったらマップ」

 さてそうした前提を理解したうえでも京都に憧れる人は多いと思うが、実際に住むとどんな暮らしが待っているのか。

「意外と東京と変わらない暮らしができますよ」

 こう語るのは、東京出身で京都市内に移住した30代の女性。彼女が「街がコンパクトで暮らしやすい」「普通にスタバもラウンドワンもある」と話すように、東京と変わらない暮らしをするのは十分に可能らしい。


夜の鴨川は雰囲気がとても良い。ここで2次会ができるのも京都ならでは
 また京都というと和食のイメージが大きいと思うが、普通にパン屋も洋食屋さんもたくさんある。実は京都、1世帯当たりのパン消費量は全国1位で、牛肉消費量も全国2位(総務省統計局・家計調査2014年)。毎日ヘルシーなおばんざいばかり食べているわけではないのだ。一方で京都らしさを感じるのは、「飲み会の2次会は鴨川でお酒を買って飲む」(京都市在住の女性)ことだろう。

 そんな魅力的な京都も、東京と比べると家賃は安い。単身向けなら、東京新宿区で9.2万円平均のところ、京都市の中心部にある中京区なら5.6万円と、3.6万円も安い。ファミリー向けでも京都市山科区だと7.8万円で住むことができる(不動産情報サイトHOME’S平成28年7月時点)。とはいえ、平均給与も全国5位(平成27年賃金構造基本統計調査)と高額。地方と都市のいいとこ取りができるのも京都の魅力といえる。


『もし京都が東京だったらマップ』の一部
http://diamond.jp/mwimgs/f/1/-/img_f116692f3ceaf4091d4327d115e30d0161737.jpg

 そんな東京っぽい暮らしも継続させつつ京都に住みたい人におすすめなのが、『もし京都が東京だったらマップ』だ。このマップを考えたのは、前出の京都移住計画の岸本さん。岸本さんは京都府出身で、現在は京都市内在住だが、東京での勤務経験もある。京都と東京のどちらも知る人だからこそ作れるマップなのだ。

 例えば、若者が集う街「渋谷」。京都でこれに当てはまるのが「河原町・烏丸エリア」だ。このエリアには多数商店街が連なり、その1つ「新京極」は約500メートルの間に映画館やゲームセンター、土産物店などがあり、若者や修学旅行生もたくさん訪れる。

 東京の高級住宅街といえば「田園調布」だが、京都でこれにあてはまるのが世界遺産・下鴨神社のある「下鴨」。また都内でも最近、谷根千として人気の「谷中」「根津」は、京都でいうと「西陣」「紫野」らしい。

 そして面白いのが、「京都駅」が東京駅ではなく「品川駅」になっているところ。京都駅には新幹線が止まるものの、周辺は取り立てて栄えておらず、あえて飲みにでかける場所でもない。「新幹線に乗るときしか行かない」という意味で確かにしっくりくる。

「京都」というブランドを
よそ者が邪魔してはならない


町屋に憧れる人は多いが、気軽な気持ちで住むのは避けた方がいいようだ
 京都に移住というと、町屋などをイメージする人が多いかもしれないが、岸本さんは「それもよく考えてから」と語る。

「確かに町屋は移住希望者の方にとても人気ではあります。ただ、町屋は冬とても寒かったり、ネズミが出たりすることもあります。私たちは最初マンションなどに住むことをおすすめしますね」(岸本さん)

 そして、もう1つ注意すべきなのは京都人のプライドの高さだろう。先ほど、洛中出身者以外は京都出身と認めない風潮があると紹介したが、京都市内では他県出身者はもちろん、京都府出身でも一度府外に出た人は“よそ者扱い”されてしまう。

「“京都”という神様がくれた宝物を守るのが京都の人々のミッション。それを阻害する人たちは、受け入れられないところがあります」(田中さん)


岸本千佳さんの著書『もし京都が東京だったらマップ』
 京都は、創業100年以上の長寿企業輩出率は全国1位(帝国データバンク・長寿企業の実態調査2014年)。また、地域団体商標出願・登録数、国指定重要文化財の建造物数、国指定伝統工芸品数が全国1位(いずれも京都府統計ナビ・京都府のいちばん2016年)でもある。つまり、先人が築いてきた伝統を守ってきたのが京都人で、それを引き継ぐのが最も重要なことなのだ。

 その一方、伝統技術を生かしつつ新しいものを取り入れ、先端技術が作られている不易流行的な側面も。現在、清水焼の焼成技術・高温加熱工程を活かしてセラミックコンデンサーや人工歯が作られたり、友禅染の捺染技術が半導体プリント基板印刷に活用されているのがよい例だ。

 もちろん京都は京都市内だけではない。京都市内に近接する地域や北部エリアに目を向けてみてもいいだろう。ただ、それでも京都市内への移住を考えるなら、“京都”という伝統を守る人々とともに生きる覚悟を持つこと。そして、“よそ者”として京都ブランドを阻害せずにどう新しい価値を提供できるか、よく考えてから移住することが大事ではないだろうか。

(ダイヤモンド・オンライン編集部 林恭子)
http://diamond.jp/articles/-/106024  

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コメント
 
1. 中川隆[4852] koaQ7Jey 2016年11月07日 14:39:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5271]
京都は殆どが部落地区

まともな住人は一人もいないよ



[12初期非表示理由]:管理人:混乱したコメント多数により全部処理

2. 中川隆[4868] koaQ7Jey 2016年11月08日 09:16:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5290]

ぶぶ漬けの世界 _ 住んではいけない・・・それが京都


58 :七つの海の名無しさん:2009/04/22(水) 01:39:29 ID:qsEUqLPo

キッシンジャー国務長官は来日したときに、京都でものすごいハイテンションで祇園遊びをした。

酒に酔ったキッシンジャーは隣にいた舞妓に舞妓は"Yes Yes”と答えるだけだった。

次の日、舞妓は驚くべき事実を告げられた。 なんとキッシンジャーが大激怒しているというのだ。

実はあの時キッシンジャーは舞妓に『今夜、私の部屋に来るか?』と問いかけていた。
舞妓はYesと答えていたので、てっきりOKと思ったキシンジャーは一晩中有頂天になって舞妓を待ち続けていたのだった。

160 :七つの海の名無しさん:2009/04/25(土) 03:28:01 ID:obWA5jPE
>>58
京都では Yes=No なのだよ。
わからん阿呆キッシンジャ−は

”田舎もん、どすな〜、キッシンジャ−はん。ぶぶ漬けでもいかがどすえ?”

(とっとと、帰れという意味)

京都の人の家に訪問して、「ぶぶ漬けでもどうどす?」と食事をしていくように勧められても、あくまでそれは婉曲表現であって、本心では「もう帰ってくれ」という意思表示なのです。

 私の知り合いの先生の体験ですが、京都で法事があり、その家の人に「ご飯食べて帰りよし」と何度も言われたので、ぶぶ漬け伝説は知っていたのですが、あまりの熱心さに「そんなに言わはるのやったら」と食べていかれたのです。すると遠くのほうから、「あの人、ほんまにぶぶ漬け食わはった」「ほんまや、ほんまや」と陰口が聞こえてきて、その後3日間ほど寝込んでしまったらしい(笑)。
http://www.dnp.co.jp/jis/g_gakko/talk/45/45_talk2_1.html

それは、友人Aが京都に旅行したときの時の話である

そのAには、京都に行ったら寄ろうと心に決めていた料理屋があった。ガイドブックに載るほどの有名店で、各界の著名人も多数出入りする店である。しかしAは、京都についての知識をそれなりに持っていたのでその店に入るのをためらっていた

なぜなら、京都の有名店、いや京都の料理屋は大概が「一見さんお断り」の店だと聞いていたからだ(※一見さん→誰からの紹介もなく、初めて店を訪れる客)

普通の料理屋でも「一見さんお断り」だという噂があるのに、果たしてその有名店に入れるのだろうか?

Aはビクビクしながらも、その有名店に足を踏み入れることにした
ダメでもともと!断られたら断られたでしょうがない。まずは、その店に行ってみよう
断られたら諦めよう、それでいいじゃないか。とにかく行かずに諦めるなんて悔いだけは残したくない

Aは勇気をふりしぼり、単身その店ののれんをくぐった

女将「おいでやすー」

A「あのー、はじめてなんですけど、食事できますでしょうか?」

女将は、オドオドしながら標準語で問いかける客に一瞬怪訝そうな表情をしたがすぐに笑顔でこう答えた

「どうぞ、入っておくれやす〜」

友人は、あまりにアッサリと店に招き入れる女将に多少面食らったものの憧れの名店で食事できる喜びと、店に入れた安堵感で有頂天だった

「一見さんお断り」なんて、ただの都市伝説だったんだ〜

おしぼりで手を拭きながら、友人はウットリとそんなことを考えていた

そして、まずは店員にビールを注文することに
緊張で乾いていた喉を、まずはビールで潤したかった

京都の有名店での食事。あれも食べたい、これも食べたい
何を食べようか迷う友人の所に、ビールを注文した店員とすれ違いに別の店員がやってきた

あれ、この店員は何をしに来たんだろう?食事の注文を取りに来たのかな?
そんなことをボンヤリ思った友人の目の前に置かれたのは…

京都名物ぶぶ漬け!


その、あまりにも早い登場にAは面食らった
まだビールも出てないのにぶぶ漬け!
座って5分も経たずにぶぶ漬け!
問答無用でぶぶ漬け!

あまりの衝撃と屈辱に言葉を失ったAは箸に手をつけることなく、席を立ちフラフラと店の出口へ向かった
その背中に女将からの声が響く

「あら?お客はん、もうお帰りどすか〜?」

とか「お代は結構どす〜、おおきに〜」

そんな台詞が、Aの背中に向かって投げかけられたそうな

女将の顔は見なかったが、Aにはわかったという
Aの背中を見ながらニタァーッと笑う、鬼か、はたまた化け狐の如く顔のゆがんだ女将の笑顔が、友人にはハッキリと見えていたそうな

http://taketaka.cocolog-nifty.com/mogu/2004/05/post_24.html

          /l
 ___       〉 〉           /l
 ヽ ゙i_       〉 __ヽ,_    r‐'" ノ
  l、__ `l_,.-'く く_コ `'l ,ヘ、,ヘノ  l~
    l  /ー-、ヽ─‐'"/.__\ /
    `/l ̄V''ーv l_ し'"V   / ヽ
      | l、__/   ゙、__/   l     あなたは幸運ですね
      |       rニヽ,       |   < 何故かって?
     |     lニニニl      /      ぶぶ漬けを食べられたからです
      \           /       
         `ーァ---──'''"ヽ,        ハッピー
        / / l,  i ヽ ` \

京都の人の家に訪問して、「ぶぶ漬けでもどうどす?」と食事をしていくように勧められても、あくまでそれは婉曲表現であって、本心では「もう帰ってくれ」という意思表示なのです。

 私の知り合いの先生の体験ですが、京都で法事があり、その家の人に

「ご飯食べて帰りよし」

と何度も言われたので、ぶぶ漬け伝説は知っていたのですが、あまりの熱心さに

「そんなに言わはるのやったら」

と食べていかれたのです。すると遠くのほうから、

「あの人、ほんまにぶぶ漬け食わはった」

「ほんまや、ほんまや」

と陰口が聞こえてきて、その後3日間ほど寝込んでしまったらしい(笑)。

「ゆっくりしていかはったらよろしやないの、今おいしいお茶いれまっさかいに。新幹線なんか待たしといたらよろしいがな」

といいながら、後ろにさかさぼうきが立っている。これが最初のサントリーのお茶のコマーシャルです。

これは市田ひろみさんが出演されていたコマーシャルの事です。

「さかさぼうき」とは、長居をしたり、食事の時間になってもなかなか帰らないお客さんがいる時に、玄関や出入口にほうきを逆さまに立てかけておくというもの。


京都のお宅を訪問するからには、自ら”ぶぶ漬け”を忍ばせて訪問するぐらいの備えと心構えが必要である。

そして敢えて長居を決め込み、

「ぶぶ漬けでも食べていきなはれ」

と言われたら、

「いえ、手持ちのものがありますから」

と、その場でオカ持ちから”ぶぶ漬け”を取り出してムシャムシャと食べ始める。もちろん、それだけじゃ許さない!! 

逆に「ぶぶ漬けいかがどす?」と、こちらから茶碗を差し出してやるのだ! 

”必殺ぶぶ漬け返し”! 

京の伝統に従って、ぶぶ漬けをすすめられた者は、その場を立ち去らねばならない。相手は自分の家であるにも関わらず、荷物をまとめてその家を出て行くことになるわけだ。

途方にくれた相手がとりあえずホテルで一泊を過ごそうとしても、先回りしてホテルの前に”ぶぶ漬け”を置いておく。ドラキュラが十字架を恐れるように、京都人は”ぶぶ漬け”を越えることができない。

仕上げはここからだ。途方に暮れる相手の前にタイミングよく現れて仲直りを持ちかけて温泉へと誘いだす。そして相手がリラックスして湯につかっているところに、ご飯とお茶っ葉をぶち入れて叫ぶのだ!

「どうだー! おまえが、ぶぶ漬けだー!!!」


だが一度噴火した怒りの火山は相手を退治したぐらいでは納まらない! 今度は、”ぶぶ漬け”宅配業者となって京の都を恐怖に陥れてやる! まず手近なラーメン屋に忍び込み、かかってきた注文の電話を何食わぬ顔でとる。そしてラーメンの出前を頼んだ気になって油断している客の家に、いきなり”ぶぶ漬け”を届けてやるのだ!

宅:「お待たせしました。来来軒でーす!」

家の奥から子供が走りだしてくる。

子:「わーい、らーめんらーめん!」

宅:「おい、ぼうず。これはな…ぶぶ漬けだーー!!!!」

子:「ぎゃーー!」

一家で出前ラーメンを食べるはずの楽しい夕べは、”ぶぶ漬け”によって家を追い立てられる悲劇の時間に変わるのだ!! 京都人である以上、この不文律を破ることは許されない。破れば京都人失格だ。京の都は家を失った人であふれかえる。子供達は全員トラウマだ。

更に今度は市の職員を装い、腹を空かせた人々の前に現れて食料配給を行うのである。もちろん、配給する食糧は”ぶぶ漬け”に決まっている。そして集まってきた人々に茶碗を差し出しながらこうささやくのだ…。

「ぶぶ漬け食べますか? 京都人やめますか?」
http://www1.odn.ne.jp/aaa55210/kara1/bubu1.htm


京都人はなぜ性格が悪いのか? aya1587asdfさん

京都のバスの運転手って、お客さんがバスに乗るために走っているのが見えているのに、あと5秒待ってあげればお客さんはのることが出来るのに、待ってあげずに発車をする事が多いですよね?

自分の体験なんですけど、5千円両替できますか?って言ったら「できへん」この一言だけでした。普通の運転手さんなら「お客様のなかでどなたか5千円刷を両替してくださる方は居ませんか?」とか言ってなんとか助けてくれるのに・・。仕方なく自分で両替してくれる人をさがしました。

あと、知人の体験ですが、高級な料理屋さんに入って、暑い日だったので、きゅうすに入れてあるお水を全部のんで、「お水ください」っていったら、すごく嫌そうな顔して「え?全部飲みはるなんて・・・」とか文句を言われたうえに、なかなかお水を出してくれなかったそうです。

お客が金はらって自由に水飲んで、何が悪いねんって感じなんですが、京都人にとっては「お水は全部飲まないのがマナー」もしくは「ただで飲めるお水ではなくて、何か飲み物を注文するのがマナー」なんでしょうか?それともチップを出さなかったからおこっているんでしょうか?

なんで京都人はこんなにも意地が悪いんでしょうか?特に京都の古いお店って、けっこうしょうもない品物の割に、つりあわない値段をつけてる場合が多いですよね。その上接客する人も偉そうだったり憮然とした態度をとるので(なんで憮然とされてるのかは分かりませんが)気分がわるいです。京都でも新しくできたような店はそうでもないんですが、老舗はひどいです。


昔は都はだったから、貴族の末裔みたいな人が多くて、おたかくとまっていたことが、抜け切れてないのかな?

でももう時代は変わったんだから、商売なんだから、お客様として接するのが当たり前だと思うんですが。

京都人って一体なに考えているんでしょうか?

補足 steamloco9600さん、建設的な回答はできないんですかね?あなたのしてることって下らない人間がすることにしか見えませんけど。

debuoyaji2さん、別に文句ばかり書き込んでるつもりはありませんよ。純粋に京都の土地柄とかしきたりとかについて質問しているんです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1415840374

京都人ってそんなに酷いの?質問者:zetzet 投稿日時:2004/07/24 11:47

大阪、神戸、京都あたりにセカンドハウスとしてマンションを借りようと思ってます。家族は京都が良いのではと言っていますが、いろんな所で京都の情報を見てみますと、

「暑い、寒い、人柄が悪い・・・」

というのが目立ちます。暑い、寒いのは良いのですが、人柄というのが気になってます。読んでいますと、こんなに居心地悪い所なのに、なぜ京都に行きたがる人が多いのか?観光だけだからなのか?と思ってしまいます。

そんなに京都というところは京都人以外に冷たいのでしょうか?
年代に関わらずそうなのでしょうか?

セカンドハウスと言いましても、祖母や祖父が度々行く予定なので、少し不安です。
京都へ引っ越された経験のある方、別荘をお持ちの方、感想をお聞かせください。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/937805.html?pg=0

No.1回答者:noname#113260 回答日時:2004/07/24 11:57

私も京都の人間は嫌いです。

よく言われるように、口で言うことと腹の中が違っている事が多く、口約束を当てにしてプランを進めて痛い目にあったのは再々です。知り合いでも、京都に転勤した者は大抵こういった京都気質で悩みますので、本などによく書いてある

「ぶぶ漬でも(お茶漬けでもいかがですか)」

と誘われ、まともに受けてご馳走になると「野暮な奴」とバカにされるのは本当かと思います。
こうした気質を飲み込めばどこも同じとは思いますが、私は馴染めません。
うちの妻も京都近辺の出身です。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/937805.html?pg=2

No.10回答者:springhills 回答日時:2004/07/25 18:08

畿内人はよそ者に冷たいは本当です。特に名古屋と東北に対してはかなり激しく馬鹿にします。出身県(私は東北の宮城以外)を告げると

「OO県なんかどこにあるか分からない」だの
「OO県って洞穴に住んでるんでしょ」、
「交通手段は馬なんでしょ」、
「冬は雪に埋もれて動けないでしょ。食料どうするの。店もないのに飢え死にしないの。あ、だから今こっちに来てんのか。乞食するために」

だのと言います。私だけではありません。同郷の友人たちも畿内に行ったときは、大体かんかんに怒って帰ってくるか、泣いて帰ってくるかどちらかです。

畿内の中でも京都は特にひどいのです。いまだに京都が都で日本で三番目ぐらいの大都市だと思っているらしいです。

名古屋や札幌に追い越され、今や福岡や仙台と大差ないことを知らないようです。京都で生まれ育って最近まで京都で働いていた人が福岡に転勤になったとき、「地方に飛ばされた」などと言って泣いていました。横滑り人事だったのですが。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/937805.html?pg=1


No.14回答者:verify 回答日時:2004/07/26 22:19

5年間住んでました。人柄は正直言って、最悪です。

有る程度覚悟していたのですが、参りました。地方から来た人間には蔑みが耐えられないでしょうね。

嫌な5年間でした。関西(特に京都・奈良)が水に合わなかったのかもしれませんが。ただ、四国や中国の方とは非常に気が合いました。近畿はホント特別ですね

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/937805.html?pg=1

No.24回答者:yuka27 回答日時:2004/08/12 10:51

マンションなら土地柄などは色濃く出ないような気がします。私が以前勤めていた場所はいかにも”京都”で先祖代々から住んでいるような家が並んでいました。

ある家の御主人が余所から婿養子という形でそこの町に来られましたが今だに周りからは旧姓で呼ばれる、というような話も聞いたことがあります。もう30年以上は住んでいるのに。私たちの仕事場はそういう土地の住民の方に理解を得て「建てさせてもらった」という立場でしたので、ある方はしょっちゅう目を付けていて

「タンポポの綿毛が飛んで洗濯物にくっつくから抜いて」とか

「エアコンの室外機の音がうるさいから防壁をつくって」とか、あと確か

「お宅の敷地の金網から蚊がすり抜けてきて玄関で人と喋っていると刺されるの」

とも言われた記憶が。。立場的にこちらは強く出られないので「はい、分かりました」と素直に?聞いて防壁を作る工事をしたりしていました。


腹黒いというよりもしたたかだなぁと思いました。「立場の上下」を利用されているようで。

恩を仇で返すような真似をしようものなら長くて静かな猛反発をくらうでしょう。でも顔は笑っている、、という感じでしょうか。

本気で腹を立ててもしょうがないのでよく私たちは話のネタにしていました。

No.22回答者:hiroki1179 回答日時:2004/08/04 01:51 No10の回答。

涙が出そうな話ですね・・・・。

それと思い出しました。
姉は京都の彼氏と付き合っていて、私の両親の出身地を聞いて、相手の両親に結婚を猛反対されました。
「この家系に、よそ者の血が混ざるなんて・・・。」
実話です。多分アホです。

No.21回答者:hiroki1179 回答日時:2004/08/04 01:39

大阪市出身のごく普通の会社員です。大阪の某大学に通っていました。
結論を言います。最悪です。

当時、京都の友達が多かったです(5人程)。そして彼らの彼女は全員京都人でした。

とにかく、大学生やというのに、行動範囲が狭いったりゃありゃしない。最悪でした。
遊ぶのはいーーーっつも、四条河原町。あとは地元(長岡)だけ。

「たまには梅田で遊ぼうや!」と誘っても、
「え〜遠い」
「電車賃高い」
「彼女がイヤがってる。京都まで来てくれ。」


猛反発くらいました。

「電車揺れるのがイヤやねん。」と言ってるふざけた彼女もいました。

いーーーっつも僕が京都まで行ったのを覚えています。

あと京都人は「京都は、あーだ、こーだ。」

聞いてもないのに、京都に誇りを持っています。

あげくな果ては

「”東京都”と書いて『”ひがし”の”きょうと”』と書く。」

と堂々と言ってました。多分首都を奪われたコンプレックスから生まれた、先祖代々受け継がれた言葉なのでしょう。
とにかく、よそ者に対しては手につけられません。
たまたまじゃないと思いますね。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/937805.html


京都人


7.両親の祖父母とも京都出身でないと、京都人と認めません。 「京都十代」といって、十代に渡って住み続けなければ京都人ではない。

十代に渡って住み続けた人見たことがない。明治初期20万の人口しかなかったので、統計的にほとんどいないことになる。 移り住んだ人も京都人らしく振舞うことが内外から求められるので「京都人の〜」といった本は良く売れる。

18.表面上、大阪を見下しながら、実は大阪に依存している。 京都を捨てて、大阪に出ていく人間が結構多い。

でも大阪人は京都人のことを「腹の底では何思ってるかわからへん」と敬遠してる。 自分たちのことを貶めてでも笑いとその場の和を大切にする大阪人に比べ、プライドだけが無駄に高くて排他的で腹を割って話ができないところが原因。もちろん例外的な京都人もいるが、「誇り高い京都人」はもう孤高でいてくれて結構。


28.旅慣れた者にとって、「京都人は最も冷たい。」は常識。 例えば(観光客などから)道を聞かれた場合でも、

「田舎モンの用事で、時間とらせんといておくれやす」

などと、心の中で考えるケースも・・・。


30.京都人以外で自分より格下だと思った相手には、親しげに接する(内心見下している)、自分より格上だと思った相手は存在しない事にして徹底的に無視する。

32.男のくせに非常に嫌味くさく憶測でものを言う人間が多い。 女は陰口や人の噂好きが多い。わがまま人間が多い。

33.京都市(または、その近郊)の出身者に対しては、「大阪(または神戸)の人ですか?」と聞くのはタブー。


34.京都人の異質性が強調されるが、フランス人、特にパリ市民に近い。 例えば極度に個人主義的な点、都会としての歴史が長く、異質なものに寛容な点、他人に不干渉な点など。

http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%BA%BA

京都が風雅な古都というのは名ばかりで、昭和30年代の汚らしい雑居ビルや安アパートやボロ一戸建てが無秩序に混在し、その中にぽつんぽつんと観光名所があるだけ。

駅ビルの高さを云々言う前に景観が著しく損なわれてるっちゅーの!

古都の美名にあぐらをかき、観光客へのサービスも最悪。改善のための努力を怠ってるから京都を訪れる修学旅行生も激減。それでも「俺様は田舎者に華の都(プ)を見せてやってるんだ感謝しろ」の高慢ちき。

伝統も、悪い伝統ばかりが目立つ旧態依然のムラ社会。極端な差別主義とそれに対する逆差別が横行し(これ以上は書けない・・・・)、言論の自由すらない不穏な非民主主義社会。

京都の人間は、笑止な選民思想を持っており、自分は1200年の伝統が醸し出す洗練された人間と勘違いしているが実は野暮ったい田舎っぺそのもの。前述の通り差別(逆も含む)が凄まじく、閉鎖的なムラの論理ばかりが横行し、新住民や新しい文化、気質を受け入れない。住みやすいなんてのは全くの嘘。

「比叡山より東は蛮族の棲み家」

が彼らの口癖。 究極の井の中の蛙!東京って知ってる?

頭の中は坂上田村麻呂征夷大将軍の時代で止まっているらしい。おそらく彼らの世界観は高句麗や唐、せいぜい天竺どまりで、地球が丸いことも知らないのだろう。京都が学術の都というのもガセ。確かに大学数が多いが、殆どが極右、極左で、何も知らないで入学すると変な思想で洗脳され、卒業するときとんでもない人間になってたりする。

人口も、もはや茨城県にも抜かれ停滞気味。それでも京都「府」という特権意識だけは非常にがめつい。

最後に自称雅やかな古都の礼儀作法「三度の辞退」をば。


他県人「どうぞつまらんものですが、召し上がって下さい」

京都人「いいえ、けっこうです」

他県人「まあそうおっしゃらずに、軽い気持ちで遠慮なくどうぞ」

京都人「いいえ、けっこうなんです」

他県人「本当にいらないんですか?」

京都人「はい」

他県人、それならと差し出したお菓子を引っ込めようとする。京都人、突然ブチ切れる。

京都人「何やボケ!そんな謙遜を真に受ける奴がおるかこの田舎者め!わしに食わさんとは礼儀知らずなやっちゃのう!!!」

他県人「・・・・・(唖然)・・・・」


「はるばる田舎からようきやんしたなあ」

「あの、東京から来ました」

「それはそれは」

「はるばる田舎からようきやんしたなあ」(爆

京都で進学・就職後、今関東にいるが、京都気質がぬけず苦労している。

京都では、徹底して相手をこきおろす社会やったから、なかなか他人を信じられない。人間不信、瞬間にして敵・味方を判別、相手を罵倒・威嚇する。この癖は当分、なおらんと思う。


京都に旅行に行ったとき、やたらと「差別をなくそう!」という看板やビラがあり、その時は何のことかさっぱりわからなかった。(東北出身なもので)

事実を知り、ゾッとした。

古都とか日本情緒あふれる・・・なんて優雅なイメージは表だけ、実は非常にドロドロした所だと感じた。京都には住みたくありません


京都生まれ・京都育ちのくせに「この人性格いいな」と思ったら、大抵その人の両親は、他府県出身者。ジジババのころから代々京都生まれの奴に、ロクなのがいない。

「ゆっくりしていかはったらよろしやないの、今おいしいお茶いれまっさかいに。新幹線なんか待たしといたらよろしいがな」

といいながら、後ろにさかさぼうきが立っている。これが最初のサントリーのお茶のコマーシャルです。

これは市田ひろみさんが出演されていたコマーシャルの事です。

「さかさぼうき」とは、長居をしたり、食事の時間になってもなかなか帰らないお客さんがいる時に、玄関や出入口にほうきを逆さまに立てかけておくというもの。


京都の人は本当に恐ろしいですね.

他府県出身で、京都に住んでも何とかなるのは、大学生だけ。一般人は踏み込むべきではありません。

京都の常識は、世間では非常識!!

京都人ほど、高慢ちきで、人間関係において内・外を使い分ける人種を他に知らない。他人を無視するのでも一度無視したら、あいつら何年という期間で無視するやん。ホンネはいわへんし、執念深いし。したたかで、ずる賢くて他人を利用するし。こんな陰湿な常識が、他の世界に通用するか?

大半の人間は、驚いて「あしらう」レベルに到達しいひんで、ただオロオロするだけちゃうか?

ただし、極少数のいい人がいるのも事実。知っている限りでいい人達の特徴は、京都生まれで京都育ちだけど両親が他府県出身のひとたちと、高卒の人達が多かった。京都の私学の附属あがりの金持ち連中及び西陣・祇園の商売人の息子・娘たちは、ホント高飛車にも程がある、根性腐った奴が多かったよ。


オレも京都嫌い。
湯豆腐1000円で売ったり、あんなチャッチい野菜高く売りつけたりする
ボッタクリ商売人は氏んで欲しい。消費者の敵。

オレ、和牛オーナーだったが預託会社が高槻に高級肉の直売店を建てたところ
京都のクサレ食肉団体がカス議員→ゴミ警察に圧力掛けてその店を潰した。
そのせいで預託会社は倒産して金は返ってこなくなった。
金返しやがれカス!


京都駅の八条口にタクシー乗り場がありますが運賃値下げをしたMKタクシーは“村八分”状態にされて乗り場内に立ち入ることを他のタクシーが阻止していた。


新幹線で大坂から東京に帰るとき、自由席だと京都から乗ってくる人が何とか席に座ろうとして、あまりにもあさましいのを何度も見てるからです。でも、京都の人のあの独特の性格は必要悪だと思っています。あの異常なまでの誇りがなければ、他の地方都市と同じようにミニ東京になってしまうでしょう


ヤフーで個人売買していた際に最も嫌な思いをした取引相手は京都人でした。もーずうずうしいったらありゃしない。
京都ではそうかもしんないけど、東京や神奈川は違うんだよ!!
あたしゃずっと神奈川だからさ、そんな京都の常識語られたって知らんよ、もう。

ちなみに取引物は某少女趣味のブランド服。
勝手に電話番号調べてきて「他の人より高く買うから自分に譲ってくれ」と文句たれ。あんまり煩いからそれでOKしたら今度は「東京は知りませんけど京都ではこの服もっと安く買えるからもっと安くしてくれ」だって。
最初と話ちがうじゃん。

「こっちもね、主婦だからたいへんなんですよ。」って知るかもう・・・・。
この態度がまた自分のほうが正当である!!とさも言わんばかり。
あーもうアンタ逝っていいよ・・・・と何度口から出そうになったことか。

この厨房主婦の次の京都人も最悪だった。
それ以来京都人を見る目がかわった。もー逝ってくれ。


京都人の武器はやはり口です。そして彼らに口で勝つのは至難の業です。

彼らはこちらが失敗などして劣勢にあるとき、落ち込んでいるとき、つまり反撃できない状態にある時を機敏に察知して、攻撃してきます。

やり方は「○○ちゃうんけ!」といった言葉をややヒットアンドアウェイぎみにかますことが多いと思います。(あとでむかついてくる)

また、こちらが一般的に優位な立場にある場合は、過去の細かな失敗を適当に誇張して、こちらを蹴落とす世論を構築しようとします。

この行動はこちらも察知できて、しゃくなのですが、そのような細かい事をいちいちとがめることも出来ず、非常にストレスがたまります。

で、一番言いたいのは、このような理不尽な行いも受け止めることです。
彼らが何故このようなことをするのか、道徳的に心の中で批判してみてもこちらのストレスがたまって参ってしまいます。そういうものなのだと受け止めて下さい。

彼らのなれなれしい言葉、親切に心を開かないこと、また、とりあえず下手に出て彼らの弱みを握るチャンスを得ること、これが対策法だと思います。

おれが大学で東京に住んだときはなんちゅう「ばか正直」なやつが多いんやとおもったなあ。普通にしゃべる中で、ちょっとかま掛けても「そうなんだ、ふうん」とかえされて、こまってしもたわ。

私は東京出身だけど、京都で働いてた時によく地元の人に「あんた。素直やねぇ」とよく言われました。バカ正直って意味なのね。ごめんなさいね。関東人の美徳なのよ。

私は、知的でセンスがあって、出が良くて気の利いた会話が出来ても性格が屈折して陰険な人物は最初から(人として)低いと思うけどね。


京都は関西のくせに、隠れ見栄張りが多いね。そのくせして、居酒屋とかで飲んでも、1円単位まできっちりと割り勘にする。このギャップにずいぶんとまどった。見え張りというよりも、やせ我慢に近い。。。

ようするに、せこいくせに、プライドだけは一人前って事。
矛盾してるのに、認めようとせずに、突っ込まれたら急に、流暢な京都弁でさらりとかわす・・これが手口。


京都の富裕層、特に金持ちの商売人(祇園・西陣)が最悪やね。あと、材木屋・漬物屋・かんざし屋とか地場産業の連中。洛南出身の人達は、おそらく京都の富裕層階級の子弟だと思われる。


だから、言ってるやん。京都の金持ちは、根性汚いのが多いって。全員が全員やないけど、私の知っている限りの、京都の有名私学の金持ち連中たちの世界は別世界。ほんまに極悪!!!


ちなみに、私の妹は小学校途中で左京区の学校に転校したが、卒業するまで、いじめぬかれたよ。絶対、よそもんは入れない社会やね。


悪いけど、京都を日本と思ったらあかん、京都の常識は、世間の非常識やしね。


京都は怖くていけないよね…。


自分の知らないしきたりで意思表示されても知らないから、裏で陰口言われるんだろうね。


「あの人、嫌だって言ってるのに居座りつづけてるよ。 だから、東京の田舎もんはやなんだ。」


http://mimizun.com/log/2ch/yasaitr/971890080/



3. 中川隆[4869] koaQ7Jey 2016年11月08日 09:24:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5291]

京都=街じゅうに部落がある
京都は怖い


118:名無しさん@12周年 2011/06/23(木) 17:02:57.84 ID:mqEiYUkE0

まあねえ知り合いが京都に赴任する際
住んでいい場所リスト渡されたそうだからなあ


642:おさかなくわえた名無しさん:2007/07/04(水) 14:51:10 ID:yPpFqWPa

俺、京都に引っ越して最初に言われたのが

「(地図を指して)この辺には近づくな、どうなっても知らんぞ」だったなw

641:おさかなくわえた名無しさん:2007/07/04(水) 14:38:13 ID:d4BDJWr2

京都と言うと綺麗なイメージがあるけど、京都駅のすぐ近くは■があって結構こわい。

今は駅が綺麗になってあまり変な人を見かけなくなったけど、25年位前は八条口の方にトップレスのバーチャンホームレスとか結構いた。

170:本当にあった怖い名無し 2009/04/28(火) 15:20:02 ID:Rvkyszos0

20年くらい前に京都市の北の方の■地区の近くのスーパーで、バイトしてたんだけど、

おばさんの集団がまわりの目もまったく気にせずに、化粧品やシャンプーなどを大量に万引きしてたんだ。

俺は慌てて店長を呼んできたんだけど、普段きびしい店長が、そいつらには見て見ぬ振りをした。

「あいつらにかかわると恐ろしいから」

と、いい訳してた。 万引きも公認とはなんて恐ろしいのだろうと、思った。

275:本当にあった怖い名無し 2009/02/06(金) 04:58:54 ID:GzLLkQQiO

昔京都の■9のやつとトラブった事があってそのあとの嫌がらせが凄かった。

出かける為に出たら家の前にうんこ。車のドアノブ全部、屋根、ガラスにうんこ。

帰って来たら玄関、ドアノブ、新聞入れにうんこ。

二週間ほぼ毎日うんこ置かれたり塗られたりしましたorz

260:本当にあった怖い名無し 投稿日:2011/05/13(金) 22:14:35.83 ID:icKiTE850

京都駅すぐ近くなら京都最大の■地区で、一番危険な地帯。

京都新聞に載った事例(命に影響ないレベルの軽い話)

東寺近くの某ビルの満員エレベーターに、無理矢理最後に飛び込んで来たガキのせいでブザーがなる。

ガキが喚くので、とある人がそいつをつまみ出したら、ボケだのバカだのと散々悪態をつく。

(とある人をAさんとする)でもそのガキを追い出してエレベーターを発進させたら、三日後、そのガキに暴力を振るったのを見たという大人三人が、警察に出頭。
ガキを被害者として、Aさんへの告発状が出される。

・・・京都地裁が、告訴権の濫用だかなんだかで却下

この地域で、態度の悪いガキを見つけて注意したら、警察に捕まる可能性あるかもな。

992:本当にあった怖い名無し 2009/03/22(日) 06:23:37 ID:Yv+oDnEkO

予備校(Yゼミ)時代、K都市M区の予備校寮に住んでた。

JRのバカでかい駅のすぐ近くではあるが、関西では有名すぎる■と■のコンボ地域。

近所で殺人事件が起るわ、

月に2回は恐喝現場を目撃するわ、

隣のボロアパートから「お母さんやめて!!死ぬ!!死ぬ!!」って子供の叫び声が聞こえるわ、

町内掲示板にハングルが書いてあるわ、

町内会が勝手に無防備都市宣言してるわ、

寮の周りがチマチョゴリ屋と焼肉屋だらけだわ、


四国から出てきた田舎少年にはエキサイティングすぎる土地だった。

でも数年前はもっと酷かった、と当時5浪してた先輩は言っていた。

ちょっと前まで豚の皮や首が吊されてたり、謎の儀式が行われてたりしてたんだそうな。

結局京都の大学に進学し今に至るんだが、今住んでる所も周囲肉屋だらけ。

近所のスナックの名前は「ムクゲ」で定食屋が「オモニ」。

そのうえ有名な心霊スポットで、ここ3年で2回ほど見た。
   

363:名無しさん@九周年 2009/05/06(水) 04:45:40 ID:0kj3AYo10

大学卒業して5年ぐらいして下宿先を覗いてみたんだが、やたらガラの悪い市営団地、焼肉店・・ここまでは当時のまま。

しかし下宿先の2件隣が■■総連だったって事を知った時は愕然とした。

市バスのオッサンは始発の整理券取ってない学生に

テメーらクソボケぶっ殺す

とかわめいて恐ろしくキチガイ。


友人には遠い過去の話だと思って軽く■■って言葉を口にした瞬間
顔色変えて口にしないほうがええでって言われる。

なんか変だとは思ってたが全て繋がった瞬間。

京都は怖いよ。

523:本当にあった怖い名無し 2009/05/20(水) 22:45:29 ID:ULgj2qLP0

行政でも■側でもなく、一般人が拒否している場合もある。一例をあげる。

京都最大の■があるHJ付近で、K川に橋を架ける話が持ち上がった。

欧州の某国式の立派な橋の予定だったが、■と橋一本で行き来出来るようになる川向こうの高級住宅街居住の一般人が死力を尽くして反対した。

おかげで計画は流れたが、その付近の知り合いは計画が流れるまでの数ヶ月の間に他の場所に引越しした。

   

60 :山師さん:2014/11/26(水) 01:21:46.01 ID:C5tTpARK526:ニョイスミレ(コネチカット州) 2009/08/27(木) 13:41:58.98 ID:RNGNWC7o

京都駅前に■中の事務所があるし、

九■・十■あたりとか■■人のキムチ屋が小学校の近くにあって■■漬け臭いしヤクザいるし

■田街道沿いは■地区で有名だし治安悪すぎ


■草■浦町もヤバすぎ

昼間なのに暗くて危ない雰囲気がプンプンするよ

そういや調べものあって■大■草学舎に行ったら
警察学校とヤクザの事務所が側にあってクソワロタw

特に■都駅の南側と三■・四■・五■あたりには気をつけるといい


528:ニョイスミレ(コネチカット州) 2009/08/27(木) 13:48:17.40 ID:RNGNWC7o

ちなみに■草はレイプ多発地帯が大学周辺(特に川沿い)にあるから気をつけろって地元警察が言ってた

警察が常時周回してるから

ちなみに三■・四■・五■あたりはヤクザの事務所あったりしてコワイよ(会津虎鉄とか)

301:名無しさん@12周年 2011/06/23(木) 18:29:33.32 ID:abZDyNMfO

大学のときに京都に住んでたんだが、近くが■■地区で、

ときどき、生ゴミ?動物の内臓?みたいなものが道路にぶちまけられてたり、

夜中に現地のDQNが原チャバイクに悪戯?窃盗?してる場面をなんどか見かけた。

あと住んでたアパートの水道を隣の個人商店が勝手に盗んで使ってたのはわらけた。

なにやってんだろうと思ってみてたらものすごい剣幕で逆ギレされた。

さすが■■の本場といわれるだけあってこっちのほうがすさみ具合がひどかったね。

公営団地、個人経営のホルモン・キムチ・焼肉屋がたくさんあった。

差別だって言われても、こんなとこ住みたくないわな。


62 :山師さん:2014/11/26(水) 09:59:20.26 ID:foK4fayh

平成元年から平成12年までちょうど11年間、京都市伏見区に住んでた。

1年半は深草西浦町、その後は隣接する竹田久保町。

西浦町では朝起きるとアパートの部屋の前の二層式洗濯機が盗まれてた。
買って4年の中古だったけど。軽トラで持っていったよう。

殺人事件があった、と聞いたことはある。

ダイエーのあった藤森寄りに右翼ビルと組事務所が接近してあった。

だけど、夜道歩いてもとくに怖いことはなかったな。

住めば都。慣れればなんでもないよ。
それより十条あたりの川沿いや川の上に無理やりつくった掘っ立て小屋のほうが気になったわ。


京都は、盆地のため夏くそ暑くて、冬は寒い。

紳介も言ってたけど、気候のせいか代々の京都人は性格悪いのが多い。

エエ格好しいだが、しぶちん。

ケチは出すもんは出すが、シブチンはそれも出さん金の亡者だから不幸だね。
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/stock/1416530818/l50


インターネット版部落地名総鑑
http://同和地区.みんな/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E7%89%88%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%9C%B0%E5%90%8D%E7%B7%8F%E9%91%91

京都府

京都市: 右京区太秦青木元町 右京区太秦中筋町 右京区太秦宮ノ前町 右京区京北周山町上ノ段 北区紫野北花ノ坊町 左京区鹿ケ谷高岸町 左京区‎田中玄京町 下京区下之町 中京区西ノ京新建町 西京区松尾鈴川町 伏見区醍醐辰巳町 伏見区竹田狩賀町 伏見区納所(続く地名あり) 伏見区深草加賀屋敷町 伏見区淀樋爪町 南区上鳥羽清井町(上鳥羽山ノ本町) 南区上鳥羽南唐戸町 南区吉祥院菅原町 南区久世大築町 山科区川田欠ノ上
福知山市: 天座 天田(奥岡) 天田(箕越) 猪崎下猪崎 行積 大江町金屋 大江町河守(新町) 大江町千原 大江町二箇 大江町南有路(枯木) 上天津石本 上天津波江 上小田小田 上小田(長祖) 新庄 大門 長田 畑中 堀(今宮) 堀(段畑) 堀(東堀) 堀(堀口) 前田 三和町菟原下 三和町大原(蛇ヶ谷) 三和町川合(上川合・下川合あり) 三和町岼 夜久野町板生(中田) 夜久野町額田
舞鶴市: 余部下(荒田) 市場 大川 桑飼上(守谷) 桑飼下 志高(川向) 長浜 八田 浜 福来 丸田 水間 行永
綾部市: 安国寺町 井倉 位田町 上延町旦寺 岡安町 上原町 私市町上野 栗町 小西町有坪 志賀郷 下八田町大迫 多田町鳴田 中筋町 味方町 宮代町 物部町岸田 物部町建田 八津合町片山 八津合町竹原下
宇治市: 宇治池森 宇治善法 五ケ庄(岡屋) 木幡河原
宮津市: 大島 国分 上司 杉末 日置(薬師)
亀岡市: 余部町加塚 大井町金岐(南金岐・北金岐あり) 篠町野条 並河(野寺) 西別院町犬甘野 ひえ田野町天川 東本梅町松熊 保津町 馬路町
長岡京市: 長岡(北開田)
八幡市: 下奈良二階堂 八幡軸
京田辺市: 三山木谷ノ上
京丹後市: 網野町郷 大宮町五十河(入谷) 大宮町善王寺(長谷) 大宮町周枳(谷奥) 久美浜町佐野 久美浜町須田 久美浜町橋爪西橋爪 丹後町成願寺 丹後町平 峰山町長岡 弥栄町堤 弥栄町溝谷
南丹市: 園部町小山西町大垣内 園部町木崎町 園部町城南町 園部町仁江 園部町埴生 園部町半田 日吉町天若 日吉町田原渕谷口(興風) 美山町和泉 八木町神吉知ノ浦 八木町北屋賀
木津川市: 加茂町北小谷 木津清水
久世郡久御山町: 坊之池河原田
綴喜郡井手町: 井手段ノ下
相楽郡笠置町: 有市
相楽郡和束町: 別所
相楽郡精華町: 祝園佃
船井郡京丹波町: 安栖里 出野 下大久保 新水戸 豊田(上豊田) 長瀬 東又 細谷 升谷
与謝郡伊根町: 本庄上
与謝郡与謝野町: 男山 算所

________

コリア・タウン

京都府


・京都市:南区東九条や右京区西院など、旧朝鮮籍系の住民や店が多い地区がある。東九条は映画『パッチギ!』の舞台となった。

宇治市:伊勢田町。詳細は、

ウトロ地区
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%AD%E5%9C%B0%E5%8C%BA

を参照。


4. 中川隆[4870] koaQ7Jey 2016年11月08日 09:26:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5292]

京都人の陰湿さの背景

★京都人は日本人ではありません。

★遺伝的にも朝鮮人であると完全に証明されています。


▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』

▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』

▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』

▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』

▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』

▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』

▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』

▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』

▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『京都を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』

▼網野善彦(山梨県出身・歴史学者)
『以前サントリーの会長が東北には未開なクマソが住んでると言って問題になりましたが、あれは関西人の発想です』

▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離 (山口敏『日本人の顔と身体』より)

0.000…朝鮮半島 ←★チョン★
0.007…近畿地方 ←★チョン★
- - - - - - - - - - -
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方

▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い

+2.12…畿内 ←★チョン★
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州 ←★天皇家★


▼身体的特徴から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・阪大教授による)

     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14(小顔・足長の美しい日本人DNA)
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33(小顔・足長の美しい日本人DNA)
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)


62 :実名攻撃大好きKITTY:2012/03/10(土) 17:57:52.11 ID:vzRVNzqX0

☆B44-DR13の分布
朝鮮半島   7.0% ←
近畿地方   6.6% ←
関東地方   5.7% ←


★B54-DR4の分布
朝鮮半島   4.4% ←
近畿地方   6.6% ←
関東地方   7.5% ←


☆B44-DR13→近畿で頻度が高い。
『モンゴロイドへの道』(朝日選書)

日本人はるかな旅展(国立科学博物館)

赤色 縄文系の人々
黄色 渡来系の人々(朝鮮半島周辺)

(図1)縄文時代
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_01.jpg
(図2)弥生〜古墳時代
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_02.jpg
(図3)歴史時代
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_03.jpg

赤色→北海道、沖縄、北東北、鹿児島
中間→南東北、関東、新潟、九州
黄色→近畿

仮想混血集団の混血率
http://www.geocities.jp/k_saito_site/abc2.gif

       縄文系 弥生系
中国地方   2    8
近畿地方   1    9
関東地方   3    7

今日朝鮮半島からの大規模な人の移動を示す遺物として朝鮮系の土器に注目されるが、それらの故地や、流入時期、分布状況に際立った特徴のあることが指摘されている。 それによれば、

土器の故地は加耶諸国を中心とし、それらの流入は五世紀中葉から六世紀初頭に限られる時期に最も多いとされる。

また列島内における分布は、畿内の河内、大和にとりわけ多く、吉備、筑紫地方がこれに次ぎ、半島からの地理的な距離にかかわらない偏在性が強く認められる。

(『アジアからみた古代日本』、『橿原考古学研究所論集』九)

67 :実名攻撃大好きKITTY:2012/03/10(土) 22:14:49.76 ID:vzRVNzqX0


▼解剖学者・松村博文先生(兵庫出身)の常識的見解
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf

『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』


筑波大の原田先生(鹿児島出身)の研究

渡来人は中央権力のあった近畿地区を目指して移り住んだ。だから、そのルートには下戸が多いと推理する
http://27.media.tumblr.com/tumblr_l5mx3u4UoG1qz7zrao1_400.jpg

都道府県別アセトアルデヒド分解酵素活性型遺伝子の保有率上位分布状況
http://www.geocities.jp/k_saito_site/sake.gif

各地方毎のALDH2*1頻度と飲酒量
http://homepage1.nifty.com/koutarou/insyuryou.jpg


__________


6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0
貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ

17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ


41:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:22:19.86 ID:T8Am9NQl0
武家政権になってからは常にトップは色々考えてるし、平時の趣味も座禅や弓矢やら硬派だぞ

53:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:26:59.80 ID:T8Am9NQl0
精神を鍛錬して武芸を磨いてたおかげで元に勝ったわけで
貴族の和歌よりはよっぽど役に立つ

210:名無しさん@涙目です。(三重県):2011/10/28(金) 21:53:29.65 ID:5UrmWtqv0
武家政権が一番強固な時代だったしね。
ラッキーだったとしか思えん。
ぬるま湯平安時代とかにやってきたらボコボコにされてたろうな。

28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0
平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した


37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0
藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな

45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな

4 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 10:47:12
平安期の貴族は糖尿病と見られる症状が出ていたらしい。 世界の貴族と同じ。
だが、後に日本の支配者となった武家にはそのような記録はほとんどないはず。

86 :日本@名無史さん:2007/05/02(水) 15:34:48
平安時代の貴族は糖尿病が多い。
史料には「飲水病」と書かれ、水を異常に欲しがる様子が描かれ、糖尿病のことらしい。

後一条天皇、藤原伊周などはこれで死んだらしい。


131 :日本@名無史さん:2007/06/08(金) 02:52:26

NHK 知るを楽しむ 『歴史に好奇心』 教育テレビ 6月7日 午後10:25〜10:50
「藤原道長の食卓・衝撃の偏食」

平安時代、宮廷や貴族の祝宴で出された「大饗料理」は、第一に見せる料理である。

塩辛い「乾きもの」が多く、味付けはいたってシンプルだったが、素材の切り方、盛り付け方には異様なほど神経を使った。

「この世をば我が世とぞおもう」の藤原道長は毎日のように大饗料理を食べ、糖度35パーセントという猛烈に甘い日本酒を愛飲して中年期から糖尿病に苦しんだ。

しかも牛乳を濃厚なチーズ状にしたものにたっぷりと蜜をかけた「道長スペシャル」ともいうべきデザートを手放せず病気を悪化させていく。見栄えは良いが多すぎる塩分と糖分で生活習慣病を頻発させた平安貴族の食生活を描く。


29 : 風吹けば名無し: 2011/10/18(火) 23:28:42.30 ID:kIPo3rgn [3/3回発言]
NHKで平安貴族の食事を再現してて酒がありえないくらい糖分でドロドロだった。
見た目からして糖尿病まっしぐら。
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/


要するに、

@ 京都人は奈良時代まで途絶える事無く続いた渡来人の流入の為に、遺伝子も容姿も考え方も日本人とは全く違ってしまった。

A 長い間の特権的地位や文化の為に日本人を差別し、搾取の対象としか見なくなった。


という事でしょう。 インドのアーリア人と土着民族との関係と全く同じですね。


5. 中川隆[4872] koaQ7Jey 2016年11月08日 09:36:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5294]

収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが…


暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。


『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)
「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」
「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」
「あとがき」

から要約する。


現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。

このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。

紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。

しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。

その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。

彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。

1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。 清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった。

同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。

その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。

ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。

丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。

藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。

当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。

さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。

それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。

王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。

1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。

だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。

地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。

しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。


宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。
果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。

『殴り合う貴族たち〜平安朝裏源氏物語』繁田信一著 柏書房刊

序 素行の悪い光源氏たち
藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」

によると、


988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。

橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。

ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。

この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。


これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html


暴走の源流=平安貴族2 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた

国府を焼く平忠常の乱 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族)
では、

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたこと。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。

ということを提起しました。


今回記事では、

●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めていきます。

 『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「第2章 公共事業費を横領し尽くす」から要約します。 


@収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族から生命を狙われていた。

1007年の7月1日、鎮西の大宰府において大隅守菅野重忠が殺されるという事件が起きた。

歴史書の『日本紀略』によれば、重忠を殺したのは、大宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高であった。その光高が、重忠を弓矢で射殺したのである。 こうして生命を落とした大隅守重忠は「王朝貴族」と呼ばれる人々の一人であった。彼は、受領国司として鎮西に下向した王朝貴族だったのである。従って、その重忠が非業の最期を遂げたという話は、当時の貴族層の人々に大きな衝撃を与えたことだろう。

大隈守菅野重忠を射殺した大蔵光高の父親は、1019年の「刀伊の入寇」の折に異国の賊徒を相手に奮戦するように、鎮西の軍事貴族の一人であった。しかも、大宰府の三等官である大宰大監を務めたことから見て、鎮西において相当に有力な軍事貴族であったらしい。その彼を「豪族」と呼ばずに「軍事貴族」と呼ぶのは、彼が従五位下以上の位階を持つ厳密な意味での貴族の一人だったことが推測されるからに他ならない。

ただし、大蔵種材という実在の軍事貴族は、おそらく、大隈国の有力者だったのだろう。また種材の一族は、大隅国内の権益を守るため、ときとして同国の受領国司である大隅守と衝突しなければならなかったに違いない。そして、歴代の大隅守たちの中で最も激しく種材の一族と対立したのが、寛弘4年に種材の息子によって射殺された菅野重忠だったのではないだろうか。

このように、一条天皇が玉座にあった1007年、わが国の西の辺境である鎮西において、大隅守が大隅国の軍事貴族によって殺害されるという事件が起きていたわけだが、これは、けっして希有な出来事ではなかった。

例えば、一条天皇の曾祖父にあたる醍醐天皇の治世にも、かつて本朝の東の辺境であった上野国において、同国の豪族たちが上野介を殺すという事件が起きていた。

そして1002年の年末もしくは、その翌年の年頭には、平維良という下総国の軍事貴族が、下総守の公邸である下総守館に焼き討ちをかけていたらしい。『百錬抄』という歴史書によれば、長保五年二月八日の公卿会議において、「平維良が下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国の公有財産を掠奪したこと」が議題にされているのである。

受領国司の生命を狙って守館に焼き討ちをかけるという事件は、鎮西の軍事貴族よって引き起こされている。すなわち、一条天皇の息子の後一条天皇が帝位にあった長元2年(1029)の春もしくは夏、大隅国を活動拠点とする従5位下平兼光などとともに、大隅国府や大隅守館などを襲撃して火を放ったのである。この一件でも、大隅守自身は難を逃れていたようだが、『小右記』によれば、国府・守館に攻め込んだ季基・兼元の一党は、その場に居合わせた人々を殺戮しつつ、大隅国の国有財産を掠奪したらしい。

A地元の王朝貴族(受領)は、地元の豪族から恨まれていた。その証拠として
 「尾張国郡司百姓等解」という文章があります。


■「尾張国郡司百姓等解」

永祚元年(989)の2月5日および同6日、両日の公卿会議における議題の一つは、「尾張国の百姓などが朝廷に尾張守藤原元命の違法行為を告発したこと」であった。 尾張守元命は、任国の百姓たちからのみならず、国守を助けて働くべき郡司たちからまでも、その罷免を強く望まれていたことになろう。そして、尾張国の百姓たちと歩調を合わせて朝廷に尾張守の交替を求めた尾張国の郡司たちというのは、尾張国内の各郡の統治にあたる地元出身の地方官人たちである以前に、それぞれの郡内に地盤を持つ古くからの豪族達であった。
 
ここで朝廷に尾張守元命の更迭を要求したとされている「尾張国の百姓」というのは、映画「七人の侍」やテレビドラマ「水戸黄門」に登場するような、汗と泥にまみれて朝から晩まで働き続けながらも食うや食わずの生活を送らねばならないという、貧しく憐れな農民ではない。むしろ、そうした無力な農民たちを自在に使役することによって広大な田地から膨大な収益を上げようとしていた、才覚ある農業経営者として理解されるべきであろう。王朝貴族が「尾張国の百姓」と呼んだのは、尾張国において豪族のような立場にあった人々であり、あるいは、尾張国の豪族そのものとみなされるべき人々であった。

尾張守元命の罷免を望む尾張国の百姓達は、元命の行った31種類もの違法行為を書き連ねた解を、元命の頭越しに朝廷に提出したのである。そして、その嘆願書あるいは告訴状こそが、われわれが「尾張国郡司百姓等解」や「尾張国解文」などの名称で聞き知っている文書に他ならない。

その嘆願書なり告発状なりに示されているは、郡司あるいは百姓として尾張国に根を張っていた大勢の豪族達の総意なのである。


■5種類の悪行

「尾張国郡司百姓等解」の冒頭に置かれたのは、文書の表題の役割を果たす次のような一文であった。この嘆願書もしくは告発状を朝廷に提出したのが尾張国の郡司と百姓とであるということは、ここに改めて確認されよう。

「尾張国の郡司および百姓が解を提出して朝廷によるお裁きをお願い致します。」
「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命殿は、本年を含む3カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法を行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて31ヶ条にも及びます。これが本状の趣旨です。

そこで、尾張国の郡司や百姓が数え上げる尾張守元命の不正は、おおむね、以下の5つに分類されよう。

A.不当課税および不当徴税(9ヶ条)
B.恐喝およびさ詐欺(3ヶ条)
C.公費横領(10ヶ条)
D.恐喝および詐欺の黙認(4ヶ条)
E.その他(4ヶ条)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002566.html

暴走の源流=平安貴族3 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?


任国に赴く受領(因幡堂縁起) 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族2 収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた)
では、


●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めました。

この地元の受領たちが恨まれていた証拠として、「尾張国郡司百姓等解」という書物が残っています。今日はこの書物に綴られている悪行の数々について具体的な中身を紹介していきます。


■悪用された公的融資制度

[第1条]公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

 王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なもの見えるような公的融資を行っていた。それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率と利息とを回収するというものであった。

こうして公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。しかし、これは借り手の意志を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓達は、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府から融資を受けなければならなかったのである。そしてこの融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

 結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられた上に、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

 986年に着任した尾張守藤原元命は、こうした従来よりの規定を平然と無視したという。988年までの3ヶ年に合計で2万1500石を超える額の強制融資を追加して、百姓たちから6400石以上もの米を利息として取り立てたのである。

 ちなみに、こうして元命が尾張国の百姓たちから巻き上げた米6400石は王朝時代の大半の人々にとって、一生を費やしても稼ぎ出し得ないほどの巨富であった。当時一般的な雑役に従事する労働者は、朝から晩まで働いても、一升(0.01石)もしくは二升(0.02石)ほどの米しか手にできなかったのである。そんな庶民層の人々にしてみれば、6400石というのは、数百年分から千数百年分の年収に等しい額であった。


■着服のための増税

 尾張国の富を吸い上げられるだけ吸い上げるつもりであった元命は、本来的な課税制度をも、存分に悪用したのである。

[第2条]課税対象ではない田地からも税を取り立てた。

 当然のことながら、本来は徴収されないはずの税は、徴収された後、国府の財政に組み込まれることもなければ、朝廷に上納されることもなかった。非課税のはずの田地から不当に徴収された税の行き先は、言うまでもなく、尾張守元命の懐であったろう。


[第3条]朝廷の許可を得ずに税率を大幅に引き上げた。

 違法な税率を用いて百姓達から税を取り立てた尾張守は、けっして藤原元命だけではない。王朝時代の尾張国においては、法定に倍する税率での課税が慣例化してしまっていたようなのである。だが、そんな尾張国に生きる百姓たちも、元命が986年に新しく採用した税率には、さすがに憤慨せずにはいられなかった。というのも、元命の提示した新税率が1町につき21.6石というあまりにも高いものだったからである。それは従来の違法税率の1.8倍から2.4倍の税率であり、法定税率と比較すれば4.8倍にもなる高すぎるほどに高い税率であった。


[第4条]着服するためにまったく名目の立たない税を取り立てた。

 一町につき8.4石というのは、尾張守元命が任国の百姓たちに臨時で課した特別税の税率である。これが本来の税の法定税率の2倍に近い高い税率であることは、ことさらに言うまでもないだろうが、この高税率の特別税は、一片の正当性もないまったく違法なものであった。すなわち、この税は、ただたんに元命の懐を温めるためだけに課されたものだったのである。


[第5条]前3条の不正によって毎年のように5万石を超す不当な利益を上げた。

 15万石というと、王朝時代の一般的な労働者の2万年分の年収を上回る額である。それは、当時の庶民層の人々にとって、まったく現実感のない数字であったかもしれない。だが、確かな現実として、尾張国の百姓達は3年間の間にそれだけの富を尾張守元命によって巻き上げられていたのである。


■公務としての掠奪


[第6条]絹織物の公定価格を不正に改変して事実上の増税を行った。

尾張国の百姓たちが負っていた税には、2.4町の田地について一疋(0.67メートル×15.56メートル)の絹織物を納めるというものもあった。そしてこの税の税率は、田地一町につき米2石というものとして理解されていた。


[第14条]絹織物を納付する期限を不当に早めた上に乱暴な取り立てをした。

 尾張守に就任した藤原元命には、任国の百姓の都合など、まったく考慮するに値しないものであったらしい。元命が絹織物の取り立てを開始したのは、毎年、いまだ多くの田地において田植が完了していなかったであろう5月中旬だったのである。それまでより半月以上も早く絹織物が徴収されはじめるようになったことは、尾張国の百姓たちをひどく困惑させたことだろう。

 しかも、尾張守元命による絹織物の徴収は、実に乱暴なものであった。元命の配下の徴税使は、その郎等や従者を百姓たちの家宅に踏み込ませ、徴収するべき絹織物の他、めぼしい物品の全てを、手当たり次第に奪い去ったというのである。これでは強盗団の掠奪と何ら変わるところがあるまい。いや、強盗よりも始末が悪かったかもしれない。というのは、あくまで公務を遂行していることになっていた徴税使たちには、手向かう者があった場合、尾張守元命の名のもとに容赦のない刑罰を与えることも可能だったからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002571.html

暴走の源流=平安貴族4 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?(第2回)


今回も、引き続き古文書から平安貴族の実態を暴きます!

以下引用は、繁田信一氏「王朝貴族の悪だくみ〜清少納言危機一髪〜」からです。

●熱心な取り立て

藤原元命のような悪徳受領は、ときとして、あたかも謹厳な国司であるかのような顔をすることもあった。

〔第八条〕過去の未納分の税を無関係な郡司や百姓から不当に取り立てた。

元命が尾張守を拝命した当時、どこの国の国府の帳簿を見ても、ずいぶんと昔の国司たちが取り立て損ねた税が、累積しつつ繰り越され続けているものであった。が、当時の朝廷は、そうした税を徴収することを、すでに締めていたらしい。そうした意味では、過去の未納分の税というのは、あくまでも帳符上の数字にすぎなかったのである。

そう、税の徴収が大好きな尾張守元命は、すでに時効を迎えたものとして扱われていた過去の未納分の税をも、かなりの熱意を持って完璧に取り立てようとしたのであった。

つまりその時点で尾張国内に住んでいた郡司や百姓が、まったく理不尽にも、かなり以前に赤の他人が滞納した税を負わされたのである。「尾張国郡司百姓等解」 によれば、このときの徴税もまた、掠奪さながらに実行されたらしい。


〔第十五条〕課税対象でない作物にも税を課した。

しかし、貪欲な元命は、そうした非課税の作物にさえ、徴税の手を延ばした。尾張何の隅々から、麦や豆をも容赦なく取り立てたのである。

そして、もちろん、任期中に多量の漆をせしめておくことも忘れなかった。彼の治めた尾張国には、上質の漆を産出することで知られる丹羽郡があったのである。


●不払いを決め込む受領国司

王朝時代の受領国司は、税として徴収した米を財源として、さまざまな物品の買い上げを行った。

というのも、任国にて調達した多様な物品を朝廷に上納することもまた、当時の受領たちが帯びていた重安な任務の一つだったからである。

 だが、尾張守藤原元命のような悪徳受領は、そうした公務としての買い上げの際にさえ、私腹を肥やさんとして、あまりにもえげつない不正を働いたのであった。

                                     
[第七条] 買い上げの名目で種々の物品を騙し盗った

元命が尾張守として尾張国において買い上げたのは、絹織物・麻織物・漆・油・苧麻・染料・綿といった品々である。そして、これらの物品を生産して元命に売ったのは、尾張国の百姓たちだったわけだが、その百姓たちの不満は、元命が物品を不当に安く買い上げたことにあった。そうした不公正な買い上が尾張国の百姓たちにもたらした損失は、絹織物に関してだけでも、数千疋にも及んでいたという。

貸しつけというかたちで元命のために絹織物を用立てた百姓の中には、その貸しっけを踏み倒された者もあった。


〔第九条〕借り入れの名目で大量の絹織物を騙し盗った

この絹織物の借り入れに関して、元命が一瞬でも返済の意思を持ったことがあったとは思えない。おそらく、ここでの借財は、当の元命にとって、返済するつもりなど初めからまったくない、事実上の接収だったのだろう。彼が、彼が借り入れの名目で集めた絹織物の総量は、一二一二疋にも及んでいたという。

尾張守元命が踏み倒した借り入れの総額は、当時の庶民層の人々にとって、八〇〇年分ほどもの年収に相当するものだったようだ。

ちなみに、こうした不正によって元命のもとに番えられた富を都に運び上げたのは、運送業をも営む百姓たちであったが、そうした百姓たちは、ここでもひどい目に遭っていた。


[第二十二条]物品の運送に雇った人々に不当に安い賃金しか支払わなかった


どうやら、貪欲な元命は、払うべき運賃の四割弱ほどしか払わなかったらしいのである。

●救民策の完全な放棄

 さて、尾張守藤原元命が悪辣な受領国司であったことは、ここまでに見てきたところからも、すでに十分に明らかであろう。しかし、元命の行った悪事を数え上げる「尾張国郡司百姓等解」は、まだまだこれでは終わらない。尾張国の郡司や百姓は、元命による公費横領の数々をも、かなり強い口調で弾劾しているのである。


〔第十条〕 貧民救済に充てる費用の全てを着服した

〔第十三条〕灌漑施設補修費および災害対策費の全てを着服した

地方諸国の漑漑施設の補修は、当時、受領国司たちに期待されていた重安な役割の一つであった。

また、それは、当の受領たちにとっても、切実な意味を持つ事業であったろう。任国から少しでも多くの利益を上げたかった彼らは、それぞれの任国の農業力を維持あるいは強化するため、ある程度漑施設を整えておかねばならなかったはずなのである。

しかし、王朝時代を代表する悪徳受領として知られる尾張守元命は、潅漑施設補修費および災害対策費として計上されていた六〇〇石余りの米の全てを、何のためらいもなく横領したという。

●食い尽くされた公共事業費

尾張守藤原元命が任国において横領した公共事業費は、灌漑施設補修費や災害対策費だけではない。

〔第十一条〕公的な連絡網を維持するための費用の全てを着服した。

〔第十二条〕公有の馬の飼育費および購入費の全てを着服した。


「駅」と呼ばれる施設を置いていた。そして、朝廷から諸国への命令や諸国から朝廷への報告は、駅から駅へと運ばれるかたちで、ほぼ確実に伝達されていたのである。
それぞれの駅には、多数の馬が用意されていた。駅ごとに馬を替えながら情報や使者を選ぶというのが、王朝時代の国家的な連絡網としての駅の制度であった。

また、その広域連絡網の結節点であった諸国の駅は、それぞれの国を治める受領国司の責任において維持されることになつていた。つまり、諸国に下った受領は、駅を維持するために、一定の規模の財源を確保しなければならなかったのである。

 しかし、尾張守藤原元命の場合、そうしたことに意を砕くことはなく、むしろ、駅のために支出するべき費用を丸ごと自分の懐に入れていたらしい。

そして、その尻拭いをさせられたのは、尾張国の郡司たちであったという。尾張国を治めていた三ケ年の問、同国の駅の全ては、同国の郡司たちの私財によって維持されていたのである。

しかも、これと同様の不正は、水上交通網の整備を巡っても行われていた。

   任地に赴く受領

●罰あたりな横領

〔第二十四条〕国分尼寺の再建に充てられるべき費用の全てを着服した。

王朝時代の受領国司たちは、国分寺や国分尼寺を存続させることに意を用いねばならなかった。要するに国分寺・国分尼寺の修理や改築などは、受領の責任において行われなければならなかったのである。

 ところが、尾張国の受領国司となった藤原元命は、任国の国分尼寺が火災によって失われていたにもかかわらず、けっして同寺の再建に必要な費用を支出しようとはしなかった。いや、それどころか、国分尼寺再建費に充てられるべきであった米九〇〇石に相当する財を、悪びれることなく自分のものにしてしまっていたのである。

〔第二十五条〕国分寺の僧および国分尼寺の尼への公的な布施の全てを着服した。
ここで元命が横領したとされる布施の総額は、六〇〇石強にもなったというが、それは、本来、国分寺あるいは国分尼寺において仏法を行う僧尼の生活費となるべき財であった。


●給料未払い

こうして、多様な名目の公共事業費を着服し尽した藤原元命であったが、そんな悪徳受領の元命は大胆にも、彼以外の尾張国司たちの給料にまで手を出していた。


〔第二十条〕掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう)など下級国司の給料を全て着服した。

諸国の国司としては、長官である守と次官である介との下に、文書の作成や管理などに当たる国府の書記官のような官職もあった。これら国司の給料というのは、諸国の国府が行なう公的融資の利息を財源として支払われることになっていた。しかし、尾張国では、元命がその大半を横領し、結果として、下級国司には給料はほとんど支払われていなかった。


〔第二十一条〕国府に勤務する国司以外の人々の給料の全てを着服した。


「尾張国郡司百姓等解」が国府関係者の給料に関する不正をも糾弾しているのは、右の二カ条に見える横領によって損害を被った下級国司や国府職員の多くが、毛張国諸郡の郡司を兼任する人々だったからに他ならない。つまり、ここにおいてもまた、元命によって少なからぬ財を巻き上げられたのは、尾張国の郡司たちだったのである。 

以上は、役職を利用した横領や着服ですが、次の文を見ると、配下の者を使って、直接略奪を働いていたようです。こうなると完全なギャングです。


●受領に仕える野獣たち

王朝時代の受領国司にとっては、連れ下った子弟・郎等・従者こそが、任国における悪辣な蓄財活動の実行委員であった。尾張守藤原元命、彼の子弟や郎党や従者は、尾張国の郡司や百姓から財を巻き上げるため、元気に横暴の限りを尽くし続けた。


[第十六条]徴税使が人々に贅沢な接待や土産を強要するのを黙認した。

[第二十七条]子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し取るのを黙認した。

[第二十八条]息子が馬を持つ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。

[第二十九条]子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。


 尾張守藤琴冗命の徴税便を務めたのは、当然、元命が都から連れ下った子弟や郎等や従者であった。そして、この連中は、公務にかこつけて頻繁に尾張国内の村々を訪れては、接待や土産などの名目で、郡司や百姓から多くの財を脅し盗っていた。「尾張同郡司百姓等解」によれば、そうして奪われた尾張国の冨は、数千石にも及んだらしい。

また、尾張守の威光を振りかざす元命の子弟や郎党は、尾張国の人々のもとに何か欲しいものがあれば、とにかく何でも奪い去ったという。これを「尾張同郡司百姓等解」は。「民の物を奪ひては、則ち京洛の家に運ぶ」と訴え、また、「日に見る好物は乞ひ取らざる莫く、耳に閃く珍財は使を放ちてしひ取る」と弾じる。

そして、尾張国の郡司や百姓による元命の手下たちについての総合的な評価は、おおよそ次のようなものであった。「尾張守殿の子弟や郎等の様子は、辺境に住む野蛮人と異なるところがなく、むしろ、山犬や狼のような野獣に近いほどです」。

●隠匿された法令

藤原元命が尾張守の任にあった三ケ年の間、尾張国の人々が悩まされ続けたことの一つは、ありにも頻繁に都への物品の移送に駆り出されることであった。

[第二十三条] 物品の還送のために国内の人夫や荷馬を動員することが不当に多かった。

[第二十六条]任地の大半を都の自宅で過ごして郡司や百姓からの陳情機会を奪った。

都からそう遠くない国々を預かる受領の場合、任国の支配を郎等たちに任せて、自身は多くの時間を住み慣れた都で過ごしていたのであった。

〔第三十条〕 官人身分の悪人たちを積極的に国内に連れ込んだ。


尾張守元命が下向の折に任国へと連れ込んだのは、位階や官職を持つ宮人であり、中級貴族層あるいは下級貴族層に属する人々であった。当然、彼らは、それなりに身元の確かな者たちであったろう。だが、この連中こそが、尾張守に仕える野獣の如き郎等たちの主力となったのであった.

[第三十一条]受領国司に都合の悪い新規の法令を発布しなかった。

●幸運な悪徳受領

さて、以上に「尾張国都司百姓等解」 の内容を少し詳しく見てきたわけだが、これによって明らかになったように、尾張守藤原元命がその任国において犯した罪は、あまりにも大きなものであった。

数々の悪行が尾張国にもたらした損失は、経済的なものだけを見ても、十七万数千石にもなっていたのである。それは、王朝時代において、一般労働者の二万数千年分の年収に匹敵する額であった。そして、国司の権力を振りかざして欲望のままに犯行を重ねた悪徳受領は、989年の四月五日、ついに尾張守を罷免されることになる。

右に見た『小右記』の一節に明らかなように、元命を失職に追い込んだのは、「尾張国都司百姓等解」あるいは「尾張国解文」として知られる一過の文番であった。朝廷に元命の更迭を決断させたのは、この嘆願書もしくは告発状だったのである。そして、件の「尾張国郡司百姓等解」を朝廷に提出したのは、当然のことながら、尾張国に暮らす郡司たちや百姓たちであった。

とすると、受領ぶりを遺憾なく発揮した尾張守藤原元命は、尾張国に地般を持つ豪族たちからひどく憎まれていたということになろう。そう、元命の更迭を願って「尾張国郡司百姓等解」を作成した尾張河の郡司たちや百姓たちというのは、要するに、同国に根を張る新旧の豪族たちだのである。

このことからすれば、現実には罷免されるだけですんだ尾張守元命も、ことによっては、任国の豪族たちの手により、むごたらしく血祭りに上げられていたかもしれないのである。

すでに幾つかの事例を紹介したように、受領国司たちが任国の軍事費族や豪族に生命を狙われるというのは、王朝時代において、まったく珍しいことではなかった。激しく憎まれていた尾張守元命ならば、彼に恨みを持つ豪族たちに襲撃されて血塗れの最期を迎えていたとしても、それは、実に似つかわしいことであろう。


・・・・以上が平安時代の貴族の実態です。これでも日本人か?もうこれ以上の悪は居ないだろう・・・と思うくらいですね。

でも上には上が、もっと悪い奴が居たようです。「尾張国郡司百姓等解文」という告発文により藤原元命は解任されたのですが、もっとあくどい奴は、このように告発されないように、事前に手を廻して押さえつけていたようです。次回紹介します。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002574.html


暴走の源流=平安貴族5 

自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じする貴族たち

前回までの記事は、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪についてまとめました。
 
平安貴族たちの悪行はこれだけに止まりません。
 
今回は自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じしまくった貴族たちについてまとめます。
 
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』より抜粋引用します。
  
  『餓鬼草子』に描かれている貴族の食事
 
  『餓鬼草子』に描かれている庶民の様子

 
○告発者の親兄弟を皆殺しにした『藤原文信』

尾張国の豪族たちが「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」を通じて朝廷に強く求めたのは、要するに、悪徳受領の罷免であった。そして、この国司更迭の請願は、あっさりと聞き届けられることとなった。すなわち、「尾張国郡司百姓等解」によって尾張守藤原元命(おわりのかみふじわらのもとなが)の度を越した悪辣せを知った朝廷が、永祚元年(九八九)の四月五日、元命に代わる新たな尾張守を任命したのである。

そして尾張国の豪族たちは、藤原元命の追放を成し遂げた後、その成功に味をしめてか、朝廷に受領国司の解任を要求することを繰り返すようになる。

 
 ところが、現存する史料を見る限り、藤原元命の後任の尾張守については、朝廷によって罷免されたという事実もなければ、尾張国の豪族たちから退任を要求されたという事実もない。どうやら、元命の次の尾張守は、その任を無事に務めおおせたようなのである。

そして、その藤原元命の後任の尾張守というのは、藤原実資の『小右記』の藤原文信であった。
  
尾張国の豪族は藤原元命の悪行に怒りを示し、「尾張国郡司百姓等解」を作成し、朝廷に罷免を求め、見事成功。それ以来、受領国司の解任要求を朝廷に繰り返すようになります。

しかし、元命の後任の藤原文信は地方豪族ではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪だったようです。
 


 だが、この事実は、文信が善良な受領国司であったことを示すとは限らない。また、尾張国の豪族たちが文信に好感を抱いていたことを示すとも限らない。任国の豪族たちから明白なかたちで拒絶されることのなかった尾張守文信は、ことによると、尾張国の郡司や百姓にとって、現に彼らの働きかけによって尾張守の職を追われた元命や経国などよりも、はるかに厄介な受領だったかもしれないのである。もしかすると、文信というのは、地方豪族などではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪な受領だったのではないだろうか。

というのもこの藤原文信という中級貴族には、恐ろしい前科があったからに他ならない。実は、かつて筑後守の任にあった頃の文信は、自身に不都合な筑後国の住人を抹殺しようとしたうえ、その筑後国人の親兄弟を皆殺しにしていたのである。

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朝廷が藤原文信を尾張守に任命したのは、永祚元年四月五日のことであったが、その直前となる同月一日、当の文信が暴漢に襲われて頭部に傷を負うという事件が起きていた。

そして、永祚元年四月六日の『小右記』には、次のような記述が残されている。

「藤原文信を負傷させた安倍正国(あべのまさくに)が、伊賀国の以忠(もちただ)という名前の追捕使によって捕獲されたらしい。

そこで、検非違使の右衛門尉藤原惟風(うえもんのじょうふじわらこれかぜ)が、伊賀国追捕使以忠から正国の身柄を引き取ったところ、件(くだん)の正国は、両手の指を切断されたうえ、脚をへし折られていたらしい。また、その文信襲撃事件の犯人と見られる男は、鎮西(ちんざい)において文信に父母・兄弟・姉妹を殺されたことから、その報復をしようと、文信が隙を見せるのを待っていたらしい」。

 こうして検非違使が安倍正国の身柄を確保したことで都の人々の前に明らかにされたところによれば、前筑後守藤原文信が正国に生命を狙われねばならなかったのは、かつて文信が正国の家族を殺害していたためであった。検非違使が正国の口より「鎮西において文信に父母・兄弟・姉妹を殺された」との供述を引き出したことから見て、また、正国がたった一人で家族の仇を討とうとしていたらしいことから見て、筑後守であった頃の文信は、その任国において、正国の家族を皆殺しにしていたにちがいない。

 
このように、藤原文信は安倍正国の家族を皆殺しにし、そのあだ討ちに来た正国自身も返り討ちにし殺してしまいます。しかも、両手の指を切断し、脚をへし折るという残虐なやり方で、、、

この凶暴さに地方豪族もびびってしまい、文信が朝廷に受領の任期を伸ばす要請を出しても止めることができず、長期間受領を勤めることができたようです。
  

文信の筑後守の任期は、本来、天元四年正月の四年後の正月となるはずであった。

文信が受領としてその任国から富を吸い上げ得る期間は、正規のかたちで正月に任命された受領の場合に比して、ほとんど一年間も短くなってしまうはずだったのである。

 だが、これに納得できなかった文信は、彼の筑後守としての任期を天元五年正月からの四年間とするよう、文章を通じて朝廷に願い出たのであった。そうして少しでも長く受領国司の任にあり続けようとするのは、当時の中級貴族層の人々にとって、あまりにも当たり前のことであったろう。

そして、『小右記』によれば、文信から上げられた申請が朝廷において検討されたのは、天元五年、の二月二十五日のことであったが、この新任の筑後守の切実な願いは、すんなりと承認されたものと思われる。

 
○自分の横領を知った盗人の口を封じる『伯耆守』
 

王朝時代の人物と思しき橘経国(たちばなのつねくに)は、伯耆守(ほうきのかみ)の任にあった頃、国府の倉庫に忍び込んだ盗人を、捕らえた途端に処刑したことがあった。その盗人は、四十歳ほどの男であったが、身形もよく肌の色も白かったというから、おそらくは、伯耆国に地盤を持つ新旧の豪族たちの一人だったのだろう。そして、そんな人物が盗みなどに手を染めたのは、折からの飢饉のため、食べるものがまったく手に入らなかったからであったという。
      
しかし、王朝時代のこととはいえ、ただの盗人が死刑に処されるというのは、尋常なことではない。そもそも、当時の朝廷の方に従えば、わが国の臣民を死刑に処し得たのは、日本の国の主である天皇だけであり、天皇の名代として諸国を治めるにすぎない受領たちは、その任国の住人に対してさえ、独自の判断で死刑を科してはならないはずであった。

 それにもかかわらず、伯耆守経国が盗人の処刑を強行したのは、『今昔物語集』によれば、「後の聞こえも有り」という事情を鑑みてのことであったらしい。つまり、同様の犯罪の再発を防ぐため、敢えて盗みの罪を犯した程度の罪人に死刑を科したというのである。

 だが、『今昔物語集』が語るのは、経国の本音ではあるまい。

 というのは、伯耆国府の倉庫に忍び込んだ盗人が、そこには何もないことを目撃していたからである。これは、『今昔物語集』も認める事実であるが、国府の倉庫が空になっていたというのは、受領国司が国府の財を横領していたことの動かぬ証拠であろう。そして、そんな重大な証拠を握ってしまった盗人を、悪徳受領が放置するはずはなかったのである。
 
当然、筑後守藤原文信も、国府の倉庫に入った盗人を生かしてはおけなかっただろう。また、その盗人が倉庫の中で見たことを彼の家族に話したとすれば、盗人本人のみならず、その家族までもが、文信に生命を狙われることになったにちがいない。そして、安倍正国の家族が皆殺しにされた理由は、もしかすると、こんなところにあったのかもしれない。

 
前稿でまとめたように、当時の貴族達は横領を当たり前のように行っていました。そのため、倉庫が空になったのだと思いますが、それを知ったものは口封じのため容赦なく殺されたようです。
 
藤原文信が安倍正国に命を狙われたのもこんなやりとりがあったからかもしれません。
 
 
○殺人を隠蔽する『常陸介』 

 ところで、王朝時代において、受領国司が任国の住人を殺害するというのは、少しも珍しいことではなかった。いや、むしろ、当時の受領たちについては、殺人の常習犯であったと見ておいた方がいいようにさえ思われる。

 しかも、自分の犯した殺人の罪を姑息に隠蔽しようとするのが、王朝時代の受領たちの常であった

常陸国(ひたちこく)において同国に住む公侯有常(きみこのありつね)が殺害されたのは、万寿元年(一〇二四) のことである。そして、その頃に常陸介(ひたちのすけ)として常陸国の受領国司であった平維衡(たいらのこれひら)が朝廷に報告したところによると、有常の生命を奪ったのは、常陸国住人の公侯有材(つねもと)であった。
 ここに登場する公侯有常と公侯常材とは、それぞれの氏名から推測されるように、おそらく、かなり近い親類であったろう。 

しかし、常陸介維衡によれば、そんな二人の間でおきてしまったのは、あろうことか、生命のやりとりであった。つまり、万寿元年に常陸国で起きた殺人事件は、同国の責任者として事件の捜査を指揮した維衡の言うところ、親類間のいざこざが激化した末の悲劇だったのである。
 
だが、万寿二年の三月、都の貴族社会の人々は上の殺人事件に関して、それまでに得ていたのとは全く異なる情報を与えられることになる。
 
 同月二十六日の『小右記』から知られるように、前年より公侯有常殺害事件の犯人と見なされていた公侯常材が、みずから朝廷に出頭したうえで、有常の最後について「国司の為に殺される」と証言したためであった。

結論から言えば、有常殺害事件に関する事実は、常材が捨て身で告発した通りであった。
すなわち、同年七月二十一日の『小右記』によると、維衡の後任の常陸介となった藤原信通(のぶみち)が、朝廷の指示に従って事件の捜査をやり直したところ、かつて犯人断定の決め手とされた被害者の妻の証言は、維衡によって捏造されたものだったのであり、また、そうして常材を殺人犯に仕立て上げた維衡こそが、有常殺害の真犯人だったのである。

 
常陸介は自分に都合の悪い人間を殺しておきながら、それを他の人間、しかも親縁に罪をなすりつける
 
○書生に帳簿を改ざんさせ口封じのために殺した悪徳受領『日向守』
 

 地方諸国の国府に勤める下級事務職員として「書生(しょせい)」と呼ばれた人々も、その本来の姿は、それぞれの国に根づいた豪族であった。それゆえ、任国の豪族たちから富を吸い上げようとする悪徳受領にしてみれば、公式には彼の下僚ということになっている書生たちも、けっして信頼できる部下などではあり得なかっただろう。いや、それどころか、現に国府の事務処理に携わっていた如くに読み書きに長じていた書生たちは、いつ受領国司の不正を告発しないとも限らない、どうにも厄介な存在であったにちがいない。

 一方、その書生たちの側でも、任国で蓄財に励むことしか考えていない悪徳受領に対しては、けっして気を許すわけにはいかなかったはずである。とくに、何らかの事情で受領国司の不正行為に手を貸してしまった書生ともなれば、不正の露見を未然に防ごうとする悪辣な上司に消されてしまわないよう、つねに警戒していなければならなかったことだろう。

 そして、実際のところ、日向国の国府に勤務していた一人の書生が、若くして生命を落とさねばならなかったのは、強いられてのこととはいえ、悪徳受領である日向守(ひゅうがのかみ)の不正の片棒を担いでしまったがゆえのことであった。

 その日向守某が手を染めていた不正の多くは、おそらく、「尾張国郡司百姓等解」が弾劾する違法行為や脱法行為と同じものであったろう。すなわち、問題の日向守もまた、尾張守藤原元命と同様、さまざまな機会に不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領といった悪事を働き、郡司や百姓として任国に暮らす豪族たちから、多くの財を巻き上げていたと考えられるのである。

 それにもかかわらず、この日向守の場合、受領国司としての任期を全うすることができたわけだが、任期満了を迎えた日向守某は、後任者の下向を待つ間、それまでに多くの不正が行われてきた痕跡を消し去ることに余念がなかった。すなわち、自身の行った不正が次の日向守によって暴かれることのないよう、何か辻褄の合わないところのある書類を徹底的に洗い出し、それらを全て整合性のあるものへと書き直していったのである。当然、それは、かなり根気の要る作業であったろう。

 そして、この困難な隠蔽作業のために重用されたのが、かねてより日向国府に出仕していた一人の書生であった。機転が利くうえに字も上手かったという彼は、国府の一室に監禁され、二十日ほどもの間、書類を改竄する作業を続けさせられたのである。


もちろん、切れ者であった書生は、自身が悪事に関与していることに気づいていた。が、日向守某の従者たちに厳しく監視されていたため、逃亡することもかなわず、命じられるままに偽装書類の作成を続けるしかなかったという。

 しかも、こうして意に反して不正行為に荷担することになった書生は、その役割を終えるや、彼に不正への関与を強いた悪徳受領の勝手な都合により、あっさりと殺されてしまう。『今昔物語集』巻第二十九第二十六の「日向守口口□□の書生を殺す語」という話によれば、書類の改竄を完了した日のうちに、日向守某の郎等に射殺されたのであった。

日向守某が私利私欲のためにまったく非のない書生の生命をを奪ったというのが、正真正銘の史実であったとすれば、やはり、『今昔物語集』の編者としては、「日向守□□□□」の氏名を明かすわけにはいかなかったにちがいない。

 
このように、平安貴族達は自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じしまくっていたようです。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002575.html

うーん、漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらないですね。  


6. 中川隆[4873] koaQ7Jey 2016年11月08日 09:39:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5295]


京都のおもてなし文化を全身で体感したかったらここ

京都御艶の会席料理 お品書き
http://www.kyoto-gyoen.com/menuSystem.html


おいでやす、京都ならではの「おもてなしの文化」を現代に色濃く伝える『京都御艶』へ

デリヘル「京都御艶」(京都) by ナンニバル氏


 お世話になってます。ナンニバルです。

 すごい悪徳な店を見つけました!と、よろこんでもいられないのですが、せめて皆さんのお役に立てばと投稿します。

【店名】:京都御艶
【業種】:デリヘル
【HP】:http://www.kyoto-gyoen.com/
【日時】:10月下旬
【場所】:とあるホテル
【費用】:95分15000円+指名料2000円


 サイトの写真を見ると、なかなか可愛い子がいて、しかもなぜか値段が安い(その時点で気づけよ、自分)。電話をしたら

「75分12000円です」

とのこと。「30分ほどかかります」とのことで、じっと待つ。待つ。待つ。

 しかし来ない。何の連絡も入らないまま1時間以上が経過。んー。まあ寝るかなあ、とおもったらチャイムが鳴る。ノゾキ穴から外を見ると、男が一人つったている。ドアをあけると、遅れたことにわび一つなく、

「どうも。12000円と指名料2000円で合計14000円です」

と言い放つ。ドライバーらしい。

「じゃ95分で」というと、「合計で17000円です」と答える。

支払いを済ますと「じゃ今から女の子上げますから、しばらくまってください」。

 5分ほどするとチャイムがなる。

 これはいわゆる..「アナタハドチラサマデスカ?」現象だ!  指名した子とはまったくの別人。

パネルマジックとか、そんな生やさしいもんじゃないぜ。完全な別人だ。

ヤニだらけの歯、そばかす面、とがった口、マジックペンで書いたかのようなアイシャドウ、そして茶髪のおばさんが、サングラスをかけミニスカートを履いてそこにいるのだ。

その容姿は、絶滅した恐竜T.rexを彷彿とさせた。T.rex。まさに「暴君」にふさわしいその容姿が与える恐怖はタダゴトではなかった。

 「うわああああああああ(心の叫び)」。

完全なる戦意喪失。しかし支払い済みなこともあり、仕方なく部屋へ入れる。「シャワーを」というので、「どうぞどうぞ」と万全の注意を払いながらシャワーへ誘導。T.rexが衣服を脱ぎきったところを見計らって、こちらもすばやく裸になりシャワーへ。

 体型は、下腹部プックリ、タレ気味の乳房、力強い太もも。加えて猫背ぎみの姿勢。やはり、暴君T.rex(ただしメス)。

 こちらはさっさと先にシャワーを出て、再度の対峙に備える。なんとかやってみよう。心を落ち着かせよう。目をつむってみた。決戦の時は迫っている。

「ガラアァァッッッ」

ドアが開いた。前傾姿勢をとりつつのっそり出てくる様子には、やはり隙がない。

「さあプレイしようよ」

というドスの効いた威嚇がこちらに向かって発せられた!

とりあえず、どうでもいい会話を交わしつつ、ソファへ移動。

 すると、携帯が大音量で鳴る。T.rexは着信を確認。どうしようかなあと思案しながらどうでもよいさらに会話を続けていると、また携帯が鳴る。T.rexが確認。さらに5分ほど後、またしても着信。

 T.rexの咆吼。

「いかなきゃあああ」。

「はあ?まだ30分もたってないよ」

「忙しいの」

「いや、115分で頼んでるけど」

「だから忙しいっていってるでしょ。なんでそんな自分勝手なこと言うの!」

「自分勝手もなにも、115分で頼んだから」

「じゃあドライバー呼ぶから話したら。まったく、人の都合も考えないで」。

 来た!T.rexの本領発揮だ!

とりあえずは穏やかだった顔が、おそろしい形相に。そして吠えまくる。

プレイ時間115分は30分に。

こりゃ、時短なんてレベルじゃないぜ!

そして一瞬にして悟った。これ以上の抵抗は無駄だと。即時退却を決心する。

 T.rexは、到着時の遅れとは対照的な素早さでドアを開け、最後の雄叫びを上げて走り去っていった。「まったく嫌な奴やな!」

 おう...。やれやれ、命だけは助かったようだ。


 では評価です。

【嬢】T.rex
【サービス】サービス?なにそれ食べられるの?
【店員】店ぐるみのぼったくりです。
【金額】人生勉強にはこんなものか。

 みなさん、くれぐれも気をつけてください。命は大切にしようね!
http://www.kyoto-gyoen.com/


7. 中川隆[4874] koaQ7Jey 2016年11月08日 09:43:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5296]

京都は美しい街、 しかし幽鬼の住む死の世界


いい日旅立ち 京都へ
http://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA&feature=related
https://www.youtube.com/watch?v=xPZXIQdHaZ0

遥かな しまなみ 錆色の凪の海
セピアの雲は流れて どこへ行く

影絵のきつねを追いかけた あの頃の夢を今もふところに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち ふたたび風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに


蛍の光は 遠い日の送り火か
小さく見える景色は 陽炎か

出逢いも別れも 夕暮れにあずけたら自分の影を捜しに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち 朝焼けの雲の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人が居る
いい日旅立ち 憧憬は風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに


いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html


8. 中川隆[4875] koaQ7Jey 2016年11月08日 11:32:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5297]

被差別部落出身の有名人は?_ 氏姓制度は日本のカースト制
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html

いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは… _ 能の幽玄について
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html

京都の「おもてなしの文化」 とは _ わかる人にはわかる日本一ハイ・センスな京都 俵屋旅館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/231.html

天才料理長を失った嵐山_吉兆と雲仙_半水盧のその後
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/276.html

祇園円山公園 長楽館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/623.html

京都 東山 ジャズ喫茶 YAMATOYA _ ヴァイタボックス
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/426.html

超絶人気の名曲喫茶ネルケンのマダム _ 京都 名曲喫茶 柳月堂
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/281.html


9. 中川隆[4959] koaQ7Jey 2016年11月15日 20:07:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5384]

京都の会津小鉄会も分裂があるのか?京都は人権左翼、同和、ヤクザ、神社仏閣、宗教などドス黒い街。 2015/11/20


京都は凄いややこしい!

エセ人権派団体、在日、右翼、左翼、同和・部落解放系団体、神社仏閣、宗教団体、会津小鉄会などなど。

山口組も京都の繁華街にはなかなか入り込めてない。

同じ関西でも神戸や大阪、奈良、和歌山のようには京都はいかない。

独特の排外主義みたいなのがあって入れない。

関東で言う横浜みたいな感じ。

山口組は田岡親分の時代に京都に進出しようとしますが1962年の図越会長率いる会津小鉄会(中島会)との木屋町抗争以後山口組は京都の繁華街には入らないということになりました。

そこの閉鎖された京都に食い込もうと、当時の弘道会の高山の若頭が東海大を出て滋賀銀行に入ってたカタギで京都の会津小鉄会4代目長男の高山義友希さんを弘道会直参にして京都を攻めようとしたけど、山口組当代でさえ人権左翼に嵌められて京都に入れなかった。。

その事件のせいで高山若頭は今だ府中刑務所に収監されています。

あとは宅見若頭が新神戸オリエンタルホテルのロビーで中野会に射殺されたきっかけは、宅見若頭が京都の会津小鉄会を使って京都八幡の散髪屋で中野会長を襲撃したからでした。

その失敗のために宅見若頭は殺されることになります。

この事件のせいで当時の山口組で資産200億以上と言われた宅見若頭が殺されてしまい、当時山口組最強武闘派と言われた中野会も山口組から追い出されてしまうことになります。

散髪中に不意をついて多数で襲っているにも関わらず失敗したので、会津小鉄会は宅見組と中野会の同士討ちを狙ってわざと失敗したのではないかとも言われていました。

戦後の大物フィクサー許永中が逮捕されるイトマン前後のKBS京都など舞台は京都でした。

許永中も京都に行かずに大阪だけだったら逮捕されてなかったかもしれません。

真意はわかりませんが、それくらい京都はドス黒い街です。
http://daiwaryu1121.com/post-3506/


10. 中川隆[7565] koaQ7Jey 2017年4月06日 19:29:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8050]

関西空港総合案内の感じの悪い女

関空の総合案内「?」の女に、タイガーエアのことについて聞いたが、非常に居丈高で不快な態度。

こちらが下手に出てやると偉そうな態度になる。少し声を強めて荒い言葉遣いにすると、かえって低姿勢になる。

関西人の卑劣な特徴をよく表している。京都人がこの典型だ。日本人の卑しい性格の発祥地は関西だとわかる。

アメリカが京都、神戸、大阪に原爆を落としてくれればよかった。ケロイド狂乙女どすえでちっとは謙虚になったかもしれない。京都は徹底的に爆撃すべきだった。高山さえ空襲されたのだ。

日本人の異常な予防線に驚いた。

昨日は、日本人のアジアでも最悪な性根の悪さを見せつけられた。関西空港にいる関西豚エッタどもだが、みんな同じである。

案内係として立っているくせに、何か相談しようとすると、まず露骨な予防線を張ってくる。相談者を見下す眼差しで、「できることなら」と冗長に付け加える。

誰もできないことをやれとは言っていないし、できないことを押し付けようがないだろう。この関西豚どもは何を恐れて予防線を張るのか?実際は何も恐れていない。奴ら関西豚は、ヤクザのゴリ押しなら、できないこともやるからだ。

つまり、関西豚日本人が話を聞く前に「できることなら」と予防線を張るのは、力を持たない者に対する侮蔑の表現に過ぎない。要するに「お宅のいうことはハナから聞く気はないよ」という関西豚の日常感情の表現である。

これが、関空にいるやつみんななのだ。関西訛りを喋るやつはみんな。関西豚には、他者の人格を尊重するという原理は存在しない。そもそも関西弁の世界には人格という観念がないからだ。

ずっと昔からテレビの白痴番組を通じて、この人間の価値を否定する関西豚思想が、日本全体に浸潤している。日本が、全土、核と放射能で滅ぶにふさわしい国になったのも関西豚思想の支配の故かもしれない。(現に神様は日本豚に福島事故をお与えになった。東京だって汚染はひどい。こんなことは東京に遊びに行く外人の間でも常識だ。物見遊山ならチェルノブイリ爆心至近にでも行くのだ)
https://kuantan.me/2017/04/05/april-5-2017-at-1018am/

関西豚の特徴


マレーシアへ戻るか。大阪に泊まりたくない。

エアアジアの場合、自己責任で乗り遅れた場合でも、いくらか割増料金を払って事後的に予約変更扱いで次の飛行機に乗れたことがある(クアラルンプールで)。

しかしタイガーエアはそういうことは一切ないらしく、全額払って買い直し。しかもカウンターで買うときは、ネットの倍ぐらいの値段になるとか。

それにしても、関空の職員はいちいち感じが悪い。

関西弁を喋るやつには遠慮は禁物。

関西人と喋る時には、相手が決まり悪くなるようなこと、ことさら強調して言ってやったほうが良い。「そんなことひと言も聞いてないだろ。低IQ」とか、相手のちょっとした矛盾を突きつけて恥をかかせるとか、そういうことをバンバンやるのが良い。強気の相手には卑屈に下手に出るのが関西豚の特徴。関西人のIQが低いのも明らか。
https://kuantan.me/2017/04/04/april-4-2017-at-0251pm/


11. 中川隆[7634] koaQ7Jey 2017年4月10日 14:20:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8121]

ジェットスターと関西空港は避けるべし


関西空港は昔から土地柄の悪いところで、乗客でもない地元民がたむろして利用客に因縁をつけたりしていた。私は筋の悪い感じのおばさんに絡まれたことがある。「大阪のおばさん」の冗談で済まされない粘着攻撃だった。

関西空港は、働いている人間も無礼な関西弁話者が多い。お笑いタレントならどうか知らないが、給料をもらって仕事中に、関西弁を喋っていいと思うのだろうか?それとも彼らにとっては、仕事もお笑い程度か?しかも関西弁のこの職員たちの利用客を見下した態度が鼻につく。関西空港はいまやLCCターミナルで金持ちは利用しない。だから馬鹿にして良い、という関西人の思想だ。

ジェットスターは、他の航空会社は現に不問に付している500グラム程度の手荷物重量オーバーにもイチャモンをつけ、荷物を預けさせ、最低4000円課金する。

関西空港は使わざるを得ないことがあるが(エアアジアは九州や沖縄には飛ばない)、ジェットスターは避けるのが良い。

LCCならエアアジアXが安全で良心的。
https://kuantan.me/2017/04/10/april-10-2017-at-1223pm/


12. 中川隆[7820] koaQ7Jey 2017年4月17日 12:20:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8310]

川端康成 美しさと哀しみと 1965 松竹 無料動画
http://www.bilibili.com/video/av6298390/

監督:篠田正浩


キャスト

大木年雄:山村聰

大木文子:渡辺美佐子

大木太一郎:山本圭

坂見けい子:加賀まりこ

上野音子:八千草薫

音子の母:杉村春子

作品中の人物「坂見けい子」を加賀まりこが演じることになり、川端は原作者として加賀と初対面した。川端は加賀のリハーサルの演技を見て、

「加賀さんの熱つぽい激しさに私はおどろいた」

「私がまるで加賀まりこさんのために書いたやうな、ほかの女優は考へられないやうな、主演のまりこがそこに現はれた」

と述べ、登場人物の「けい子」というエキセントリックで妖精じみた娘に、

「演技より前の、あるひは演技の源の、加賀さんの持つて生まれた、いちじるしい個性と素質が出てゐた」

と褒めている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%95%E3%81%A8%E5%93%80%E3%81%97%E3%81%BF%E3%81%A8

京都でのお正月ーーこれは30年ほど前の憧れであった。

小説≪美しさと哀しみと≫‐川端康成作。
冒頭ーーーー
除夜の鐘を聴く為に京都へ行くという男 大木の描写から始まるその小説のシーンがなぜか強烈に頭に残っていてその京都行きに憧れたからだ。

今思えばなんと少女趣味なと思ってしまうが、京都へ通うようになってその動機は忘れて、それが当たり前のようになった。

大木は除夜の鐘を聴きに行くのか、24年前に別れた女性音子に逢うためなのか
分からないまま列車に乗る。

24年前音子は16歳
大木は31歳であった。

音子に子を身ごもらせたが事情はいろいろあって音子は自殺未遂を図り破局を迎える。

その音子をモデルに書いた小説が図らずも大木の出世作となった。

京都で日本画家として著名になっている音子に24年ぶりに逢うのだが、大木はそこで音子の女弟子のけい子の妖しい魅力に魅かれてしまう。

大木との哀しい恋を知った、音子を敬慕するけい子は大木への復讐を誓うのであった。

大木を誘惑し、その息子太一郎を誘惑し、その事実を双方に分からしめ、一途な太一郎をけい子は命をかけて心中に追い込む。

というストーリーであるが、この映画でけい子に扮した加賀まりこが鮮烈な個性を見せた。

川端の文章は、抒情と、時間と、色情のロマネスクを著わすなかで得意の京都の美しい風雅をたっぷりと描いた。

その京の雰囲気を音子に紛する八千草薫が演じ、55歳になった元恋人を山村 聡が、そして、息子太一郎を当時人気絶頂の山本圭が演じた。

原作は昭和30年代に書かれ、遠からずして、鬼才篠田正浩がメガホンを取った。

小説は川端得意の男女の恋模様を書いているわけだが三文小説とはっきり違うのは
主人公達の背後に感じさせる知性、教養といったものの重みの描写であろう。

京の歴史の重みや、川端の伝統文化への憧憬、そういったものが小説に厚みを加えている。

今でこそ全国、はたまた海外旅行とこぞって出かけるがやはり昭和30年代にこういうものを読んでも京旅行など小説の世界で堪能するのがせいぜいであったはず。

こういう京旅行の味わい方もあるんだと知ったのが昭和40年代でした。
そして実行したのが昭和50年代。

京旅行の主旨も連れも小説とはかけ離れていましたが大晦日の夜の京のお散歩は一年間の垢落としと同時に新年の希望をしみじみ感じる贅沢な時間でした。

晦日の京滞在のきっかけとなった小説の映画化。


加賀さんの少女の顔のなかに宿る魔性の女の魅力と
京美人の大人の魅力の筈の八千草さんが
幾つになっても少女の面影を失わない素敵さ
それを上手く映像に溶け込ませた篠田監督。

川端文学をどこまであらわせたか、また全然違う!と感じるかは
  見た方たちそれぞれのものでしょう!
https://plaza.rakuten.co.jp/nadeshikosumika/4048/


古都  川端康成 
http://blog.livedoor.jp/sambockarie/archives/51988614.html


   美しい作品である。 一読すれば平易な作品ともおもえる。


川端康成「古都」は、昭和36年10月から翌年1月にかけ朝日新聞掲載小説として当初執筆、内容文章を修正後刊行。

作者曰く、当時睡眠薬過量内服し続けていたため

「何を書いたかもよくはおぼえていなくて」

「果たしておかしいところ、辻褄の合わぬようなところが少なくなかった。校正でだいぶ直したが」

という有様、事情であったとか、ただしお言葉通りの事情ではないだろう。

当時の日本は戦後のどさくさから高度成長期に変遷し、
京都の美に対する大衆の憧憬、渇望が募っていたのかもしれない。

同時期、両親に連れられ小学生であった私は何度か京都観光に向かった。
まだ山陽新幹線のなかったころである。特急でも6時間、退屈苦痛であった。
あちこちの寺社を巡ったが、当時の父は建築、日本庭園に魅了されるも、仏像、書画、その他には興味はなかった。

仁和寺、西芳寺、金閣、銀閣から鷹峯の光悦寺、宇治平等院まで廻った記憶がうっすらとではあるが蘇ってくる。

当時の三十三間堂、今よりもずっと薄暗くうらぶれており気味が悪かったし、仏像も修復の及んでいなかったものもあり、荒んだ印象であった。
まだアメリカ式のホテルが殆どなかった。いつも日本旅館が宿になった。

一度だけ大昔の俵屋旅館に父の友人、京都市内の歯科開業医の伝手で宿泊したことがある。
ひたすら底冷えの寒さ、炬燵の中に潜り込むが退屈してくる、天井が低く暗く狭い廊下、弟と一緒に廊下を走り回っていたら宿のおじさんに叱られてしまった。
子供のいくところではない。


久々に手にした「古都」である。 懐かしく読み進む。

なにしろ昭和30年代後半の京都が舞台であるから、懐かしさも時代がかってはくる。

春夏秋冬にちなんで桜の平安神宮、仁和寺、夕暮れの東山、清水寺であり、冬は雪の北山杉等々、華やかな祭礼の数々、盛りだくさんである。

しかし、この作品の骨格がけして情緒的、恣意的なものではなく、あらかじめ計算しつくされた設計図を基に制作された精密機械であることにやがて気づかされる。
まず古典、本歌どりのごとく散りばめられ、あらわにそれと名指しはできないものの、どこかで思い起こさせるがごとき筋立て、一見奇妙に思えるエピソードだが前後の流れを辿ると、読者の思念を様々に逍遥させる、かのごとき構造が作者によって巧妙に構築されている。

別離したまま再び巡り会う双子の姉妹、そのままの筋立てというものは少ないものの、竹取物語、伊勢物語、堤中納言物語であり、とりかえばや、源氏のどこかの巻でもあったのかもしれない。

更に最も重要な点は、古今東西の共通項、エデイプス的葛藤が中枢に鎮座している点である。

千恵子の抱く実父の死に対する罪悪感、幻想なのであるが、それは典型的ではある。

また養父太吉郎に対する複雑に交錯する感情、献身的親孝行、「絶対的服従」もその「罪滅ぼし」であろう。その古典的描画の上でしか千恵子は動かないのであるし、その行動は予め定められているのである。川端が幼少期に両親と死別した体験とも重なっていく。

かくの如き骨格が綿密に塩梅良くも見積もられた上に、この美しい物語は形作られていく。

ノスタルジックに読み進むうち、作品の中盤である。
主人公の千重子、双子の妹である苗子が意外なことを言い始める。

千重子は、観光化によって頽落していく京都を批判する。

まずやり玉に挙がったのが門跡院青蓮院である。次いで南禅寺周辺の料亭、旅館、今ではブランド化し殷賑を極めている「名店」なのであるが。

この時すでに大家の名を確立していた川端康成に名指しで批判(あくまで二十歳の町娘の言であるが)されたこれらの方々、相当な打撃であったろう。当時の有様を歴史に残るノーベル賞受賞作家の記述として掲載されるとは、思ってもみなかったであろう。

これで批判が終了ならば、よくある観光地批判で終わったろうが。

川端康成の筆はさらに意地悪く先鋭化する。
あくまで北山の山村で労働に勤しむ小娘の言としてであり、うまくアリバイ作りをしたのであろう。

純朴な娘苗子は言う。
北山杉についてである。

「人間のつくった杉どすもの。」

「この村は、まあ、切り花つくっとるもんどっしゃしゃろ・・・。」

前述の千恵子の言に戻ると、養父太吉郎の「盆栽」という言葉にこたえて言う。
「それが京都やおへんの?山でも、川でも、人でも・・・・・・。」

 川端康成、その「毒」を評したのは、三島であったろうか、私の記憶が定かではないが、どこか破滅的、毒を内包させた作家であった。

美しい日本の私、の清潔に整えられた言語世界の中にもどこかに毒が几帳面に埋伏されている。

それは日本の美、という超越者化した、読みかえれば神化した呪物である。川端における美の隠喩とは、健全な、それこそアポロン的なものではけしてなく、死を予感させつつ平安の世以前から近世、現代までに連綿と続く不死の美なのである。

その呪物が乗っかった神輿、或いは山鉾を飾り立て担ぎ続けるもの、そのもっとも端的な人々、その世を経た人々こそが京都の人々である。

この毒に冒され、全身に回りきった毒、それに恍惚とするものが数寄者に代表される人々である。その毒は京都を中心に、やがて日本の津々浦々までに拡がっていくのであるが。

川端自身、その毒を自覚しそれを諦念し果て、更に体現していた。
彼の骨董収集の情熱は名高い。

国宝となった近世画の玉堂、大雅、蕪村を所有していたし、家計は常に火の車であった。

死後の借金は大変なものであった、とか。

また京都の粋筋、東京では銀座でもよく周遊していたとか
支払いは附け、ですぐに忘れてしまったとか。

その粋筋を知り尽くした川端康成が描き出した粋人、主人公千恵子の養父太吉郎である。

この人物、なかなか興味深く描き出されている。

嵯峨野の寂れた草庵で古代ぎれを眺めつつ、新たな帯の柄を模索し、煩悶する。その姿とはよくありがちな趣味人のそれの域を出ない。

その域を出てしまうのが、チンチン電車の中で出会った美しい少女というよりも幼女、

上七軒で預かっているお茶屋の娘であったが、に強い関心、執着を示す。

これで終われば今の世でもよく耳にする変態、ロリコンおじさんで済むかもしれないが。

今の世でも不可思議な挿話が続く。

昔通いなれた上七軒のお茶屋に「しんどなった、やすませてくれ」と昼間に上がり込むのはよいが寝てしまう、

かと思うと、若い芸妓をよんでしまう、芸妓は来るが太吉郎は居眠りしかかっている、

気が乗らない中で芸妓に喋らせまくり、彼女のとっておきの話「セクハラ客の舌を血が出るほど噛んでやった」を聞き興味を抱く。

で「お前の歯を見せろ」と太吉郎が迫る超セクハラエピソード。

こんな無粋なことを昭和30年代とはいえ、お茶屋でやるのだろうか。門外漢にはうかがい知れない。

なにか川端の倒錯ごのみ、というかあまりに清らかで美麗な物語の裏打ちには汚泥こそが相応しい、という陰鬱な思いがあったのだろう。

私的には、こちらの世界のお話のほうがずっと興味深いと思うのだが。


  
写真はお花見で登場した御室仁和寺、酔っ払いが多いと太郎吉に嫌われた場所。

古い門跡時らしく、また華道の家元でもある。

豪華な宸殿と庭園、御所漉きであろうか、植木の手入れも万全であった。

火災のため宸殿は意外と新しく明治に入って。
明治、大正の職人たちの腕の冴えが窺われる。 

国宝の茶室は人だかり激しく、見るのを諦めた。
http://blog.livedoor.jp/sambockarie/archives/51988614.html


13. 中川隆[7859] koaQ7Jey 2017年4月18日 17:57:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8350]

映画 古都 1963年 松竹 無料動画
http://www.bilibili.com/video/av7557419/
http://freemovie.nekomoe.net/2016/1217173322.html

『古都』(松竹) カラー105分。 1963年(昭和38年)1月13日封切。

監督:中村登
脚本:権藤利英
音楽:武満徹

主演:岩下志麻(二役)、吉田輝雄、長門裕之

古都 監督・中村登 1963年
http://2ndkyotoism.blog101.fc2.com/blog-category-50.html


岩下志麻の着物姿が艶やかな映画の紹介です。

京都を舞台にした映画の中で、もっとも美しい作品の一つがこの1963年に制作された『古都』かもしれませんね。

京都が町としての奥ゆかしさを残していた最後の一瞬を奇跡的にとらえた映画・・・といえば大袈裟でしょうか。第36回アカデミー賞外国賞にノミネートされますが、残念ながら受賞にはいたりませんでした。


川端康成の原作発表から時を経ず、京都の町には高層ビルも見あたらない時代。墨色、鼠色の甍がまさに碁盤の目のように整然とならぶ背の低い京都の町では、町家の室内もどこか陰気で薄暗く、もの悲しさすら感じさせます。


甍のならぶ京の町
http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/20101220173101685.jpg


そんな町家の日常とは対照的に、平安神宮の桜、清水寺の夕景、嵯峨の竹林、北山杉の緑、祇園祭の提灯、大文字の灯、時代祭の祭列・・・さらに何よりも主人公・千重子の美しさは、その着物の着こなしとともに、凛とした艶やかさがスクリーンにいっそう映えて見えるのです。


東京生まれの岩下志麻が京都弁に苦労したであろうことは、劇中のイントネーションを聞けばわかりますが(笑)、千重子と苗子の演じ分けは見事です。


もし一人二役と言われなければ、よく似た役者を起用しているのかと思うほど・・・言い過ぎかな。少なくとも一人二役によくある安っぽい違和感は全く感じられません。


町育ちで洗練された着こなしの千重子と、山育ちで朴訥な苗子ですが、苗子の方が眉毛が太く、頬もふっくらしていますね。


川端康成の『古都』はいくつかの映像作品となっていますが、この作品ほど原作を忠実に再現している映像はありません。撮影現場に足を運び、監督よりも口うるさくリアリティを追求した川端康成のこと。作品の改変なんてもってのほかだったのでしょう。

1980年に制作され山口百恵引退記念作品『古都』(監督・市川崑)では、原作にない清作という役を三浦友和が演じていますが、川端康成が健在であれば卒倒ものだったことでしょうに(笑)。


本作の中村登監督は、千重子と苗子の姉妹のほかに、京都の町そのものを物語の主役として捉えていたようです。原作の通り、四季や祭りを描き出すとともに、町かどや山々のカット等をふんだんに多用し、情感豊かな映像美に仕上げました。

1960年に松竹へ入社した岩下志麻。『極道の妻たち』シリーズや、象印マホービンの気の抜けたCMなど、最近の岩下志麻しか知らない人にとっては、目を見開くほどの美しさです。これほど“鼻筋の通った”という形容が似合う横顔の女優もそう、いないでしょう。


http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/2010122017420864c.jpg

平安神宮での枝垂れ桜の観賞シーン。しかし撮影は12月。枯れた桜の枝に造花がつけられての撮影だったとか。


http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/201012201742078b7.jpg


夕暮れの清水寺で、幼馴染みの真一(早川保)に千重子(岩下志麻)は自分が捨て子だったと打ち明けます。真一は幼い頃に祇園祭のお稚児さんに選ばれた大呉服店の次男坊。千重子をたびたびデートに誘いますが、彼女は彼に男としての魅力は感じていないようです。


千重子の父・太吉郎(宮口精二)は呉服問屋の商いだけではもの足りず、嵯峨の寺に籠もって帯の下絵を創作します。様子を見に来た千重子が持ってきたのは森嘉の豆腐。


西陣の織屋の息子・秀男(長門裕之)に千重子の帯の制作を依頼する太吉郎。秀男は職人気質で陰気ですが、若いながらも腕は確か。千重子に憧れを抱くも、父親に身分の差をたしなめられ、諦めます。そして、千重子の双子の妹・苗子に求婚するという役どころです。秀男の父・宗助役には東野英治郎。黄門様より職人役がこの人には似合います。


http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/20101220174207184.jpg


友人の真砂子(環三千世)と北山杉の里を訪れる千重子。そこで千重子に瓜二つの女性を見かけるのです。


祇園祭の宵山の夜。四条寺町の御旅所で、初めて対面する姉妹(岩下志麻の一人二役)。この時代、二重露光という技術が、どれほど難しく面倒な作業だったのかはかわかりませんが、カメラワークも見事ですね。撮影は成島東一郎。成島は後に、赤江瀑原作の映画『オイディプスの刃』(1986年)の監督もしています。

同じく宵山の夜、四条の橋の上で千重子に間違えられ、秀男に帯をつくらせて欲しいと頼まれる苗子。


突然、妹に会い、産みの親が亡くなっていることを知って顔色の悪くなった千重子。彼女を気遣って、家まで送ってやる真一とその兄・竜助(吉田輝雄)。四条大橋の後ろに見える建物は、かのCMで有名な「いづもや」です。
この映画で、唯一、役柄として浮いているのが竜助役の吉田輝雄。役の上では千重子を助け、頼もしい彼に千重子も結婚を決意するという設定なのですが・・・顔も演技も“濃すぎ”。堅い無表情が不気味です・・・。


京都会館前のバス停で顔見知りの上七軒の女将に出会う太吉郎。もちろん女将役は浪花千栄子です。達者すぎて、ちょい役でもインパクト大はさすがっ。溝口健二監督『祇園囃子』でお茶屋のお女将役を好演し、ブルーリボン助演女優賞を受賞して以来、女将役が当たり役となったのですね。


http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/201012201742505a9.jpg


苗子をたずねて北山杉の里を訪れた千重子。突然の激しい夕立にあうシーン。抱き合う二人が双子であることを強く実感する重要な場面ですね。
雷を怖がる千重子を苗子がかばうこの杉林は、セットでの撮影です。現地の杉林から丸太350本を切り出し、北山を再現したのだとか。


苗子のために帯を織ってほしいと千重子に頼まれた秀男が、北山杉の里に帯を届けた際、苗子を時代祭に誘います。そして再会した苗子に結婚を申し込むのです。しかし、苗子は秀男が自分に千重子の面影を求めていることを知っていて、素直に申し出を受け入れることができません。


双子であることを他人に知られては千重子の家族に迷惑が掛かると、店員が帰った夜遅く、千重子の家に泊まりに来る苗子。千重子の両親はそんな彼女を歓迎します。


一晩、床をならべて一緒に寝るのですが・・・、


http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/201012201743292cc.jpg

まわりの家々が起き出す前に、千重子に別れを告げ、「また、来とくれやすな」という千重子の言葉には悲しそうに首を振り、雪で白くなった町を駆け足で去って行くのです。


おまけ。

http://blog-imgs-38-origin.fc2.com/2/n/d/2ndkyotoism/20101220174330ae2.jpg

この映画唯一の、千重子の洋装シーン。フードを被る姿も美しい! 北山杉の里に洒落た着物で来てはいけません。山の天気は移ろいやすいのですから。
http://2ndkyotoism.blog101.fc2.com/blog-category-50.html



14. 中川隆[-6639] koaQ7Jey 2017年8月22日 12:56:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

京都人(近畿人)というのは、中国大陸や朝鮮半島からやってきた異民族である。

古代、京都人(近畿人)が降り立った日本には、先住民=縄文人=東北人がいた。
先住民がいてはもちろん近畿人が住む場所などはない。

彼らは、東北人=縄文人を侵略・虐殺・強制連行(俘囚)することで、国を築いたのだ。

蝦夷征討とは、有史以前からずっと続く、近畿人による先住民一掃、
単なる東北人虐殺に他ならない。それは有史以後も傷跡を残し続けるほどのものだったのだ。
 

京都人(近畿人)が渡来系民族そのものである証拠。 東北人とは全く異民族であることがわかる。 


▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離
(山口敏『日本人の顔と身体』より)
0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
– – – – – – – – – – –
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島

●1 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解

http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/press/2008/20080926_1/20080926_1.pdf
(図 4 日本の各地域の遺伝的な分化と地理的な傾向 参照)

近畿人クラスターは東北人のクラスター(縄文人)と遺伝的に全くオーバーラップしていない。異民族ということ。


2008年9月26日 独立行政法人 理化学研究所

1 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解 明 - 病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析のよりよい研究デザインが 可能に -


病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無は、私たちそれぞれで違っています。この 個人の体質の違いの遺伝的な要因を明らかにして、それぞれの人の特質に見合った治 療を行うオーダーメイド医療がスタートしています。心筋梗塞、糖尿病、関節リュウ マチなど、さまざまな疾患の原因遺伝子を同定するために、ゲノム全体をカバーする 1塩基多型(SNP)を使った関連解析が、わが国ばかりか世界規模で展開されています。

わが国では、この研究の中心となっているバイオバンクジャパンが、約30万人 の日本人のDNA、血清を集め、情報基盤としての役割を果たしています。 この研究を推進してきた理研ゲノム医科学研究センターは、これらの情報を活用して、大部分の日本人が2つのクラスター、本土クラスターと琉球クラスターに大別で きることを明らかにしました。

この結果は、従来から提唱されていた日本人集団の「二 重構造説」と矛盾しない内容です。2つのクラスター の間のSNPの頻度の違いは小 さいのですが、耳垢のタイプを決めるSNPや髪の毛の太さに関わるSNPの頻度には 明らかな違いがありました。また、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確に なりました。 今後は、病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析において、今回の 研究結果を活かすことによって遺伝的背景のバランスを調整できますので、よりよい 研究デザインが可能になります。

図 SNPを活用した日本人の集団構造の解析 ほとんどの日本人は、本土クラスター(赤) と琉球クラスター(緑)に大別

図 SNPを活用した日本人の集団構造の解析 図 本土の遺伝的な地域差


報道発表資料
2008年9月26日 独立行政法人 理化学研究所

1人あたり約14万個所のDNA塩基多型を用いて日本人の集団構造を解明
- 病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析のよりよい研究デザインが 可能に -


◇ポイント◇

・7,000人以上の日本人の常染色体上のDNA塩基多型情報を解析

・ほとんどの日本人は、本土クラスター、琉球クラスターの2つに大別

・本土でも遺伝的な地域差があることが判明 独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、1 人あたり約 14 万個所のDNA 塩基多型の解析により、日本人の集団構造を大きく2つのクラスター(集団)にわけ ることができることを明らかにしました。

これは、理研ゲノム医科学研究センター(中 村祐輔センター長)統計解析・技術開発グループの鎌谷直之グループディレクター、 加畑(山口)由美研究員らによる研究成果です。

私たちそれぞれが持っている遺伝子と個人の病気のかかりやすさ、薬の副作用の有 無などの関係を調べる場合、病気や薬の副作用を持つ集団(患者集団:ケース)と持たない集団(対照集団:コントロール)について、遺伝子上のSNP(1塩基多型)※1を 測定し、その頻度を比較する手法が一般的に行われています。

この手法はケース・コ ントロール解析と呼ばれ、この解析からわかるSNPの頻度情報は、個人に合った投薬 や治療を行う、オーダーメイド医療を目指した研究の基盤情報として非常に有用です。しかし、対象にした集団に分集団構造があり、ケースとコントロールのサンプル の仕方に偏りがある場合、偽陽性の結果を検出する率が上昇してしまいます。今後の ゲノムワイドなケース・コントロール解析のよりよいデザインのためにも、ゲノム全 体を網羅するSNPを用いて、日本人の集団構造を調べることが大変重要です。

研究グループは、日本人 7,001 人と中国人 45 人のサンプルについて、1 人あたり 約14万個所のSNPの遺伝子型データを用いた主成分分析※2を行いました。

その結果、 日本人の大部分が本土クラスターと琉球クラスターに大別できることを明らかにしました。

さらに、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確となりました。

今回明らかにした、日本人の集団構造に関する知識により、ゲノムワイドなケー ス・コントロール解析の研究デザインの向上が期待されます。また、今後さらに多く のアジアの近隣諸国の人のSNPと共に解析することによって、集団間の違い、民族の 歴史、人の移動の程度を含めた詳細な集団構造の理解などが可能になると期待できま す。 本研究は、文部科学省「個人の遺伝情報に応じた医療の実現プロジェクト(オーダ ーメイド医療実現化プロジェクト)」の一環として行われたもので、研究成果は、米 国の科学雑誌『 The American Journal of Human Genetics 』( 10月号)に掲載され るに先立ち、オンライン版(9月25日付け:日本時間9月26日)に掲載されます。


1.背 景

病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無などと遺伝子の関係を調べる場合、病気 や薬の副作用を持つ集団(患者集団:ケース)と持たない集団(対照集団:コント ロール)について、ゲノム上のDNA塩基多型のタイプを測定し、その頻度を比較す る手法「ケース・コントロール解析」が一般的に行われています。このケース・コ ントロール解析で用いる1塩基多型(SNP)の頻度情報は、病気や副作用と遺伝子 の関係を解明し、個人に適合した投薬や治療を行うオーダーメイド医療を目指した 研究の基盤情報として非常に有用です。

理研ゲノム医科学研究センターは、ゲノム全体を網羅するSNP解析の手法を確立し、これまでに、心筋梗塞、関節リウマチ、変形性関節症、糖尿病性腎症などをは じめとする数多くの疾患に関連する遺伝子を特定してきました。また近年、欧米の 研究機関においても、同様の解析による疾患関連遺伝子研究が急速に進んできてい ます。一方、SNPの頻度は人種、国、地域によって異なっており、民族の歴史の影 響を受けています。このような状況を踏まえ、日本人の病気や薬の副作用に関連す る遺伝子の探索をさらに深めていく上で、日本人の集団の遺伝的多様性と集団構造 の理解の必要性が高まっています。

現在のケース・コントロール解析は、解析対象の集団の中では、疾患に関係のないゲノム領域のSNPの頻度は個人の疾患の有無と関係がない、という仮定を立てて います。そのため、もし対象の集団に、さらに細分化した分集団構造があって、ケ ースとコントロールのサンプルの取り方に偏りがある場合(図1)、あるいは、コン トロール集団に比べてケース集団の方がより近縁である場合は、疾患に関係のない ゲノム領域でも、SNPの頻度に統計的な有意差が出やすくなり、偽陽性の結果を得 る率が上昇します。

これまで理研ゲノム医科学研究センターは、日本人の集団を対象として、多くの 疾患関連遺伝子を特定してきました。しかし、今後のさらなる研究を進める場合、 より多数のサンプルを用いて解析を行うと、検出力が上がる反面、集団の構造化に よる偽陽性の結果を得る率が上がってしまうことが懸念されます。

日本人の遺伝的多様性と起源についての研究は、これまでミトコンドリアDNA※3 やY染色体※4のDNA塩基多型を用いた研究が主流でした。

それらの先行研究では、 興味深いことに、日本人集団の「二重構造」説※5を支持するものや、ミトコンドリ アDNAのハプロタイプ※6の多様性を示すものがあります。

そのため、今後のゲノム ワイドなケース・コントロール解析が、偽陽性の結果を得ることがないようにするためにも、ゲノム全体を網羅するSNPを用いて、日本人の集団構造を調べることが必要です。

2. 研究手法と成果

今回の研究では、国際ハップマッププロジェクト※6の4つの集団(西・北欧系ユ タ州住民60人、ナイジェリアのヨルバ族60人、東京在住の日本人45人、北京在 住の中国人漢民族45人の合計210人)のSNPのデータに加えて、バイオバンクジ ャパン※7の日本人7,003人の、常染色体※8上にある1人あたり140,387個所の SNP を解析に用いました。

この日本人7,003人は、心筋梗塞、糖尿病、関節リウマチな ど35種類の疾患のいずれかの患者であり(バイオバンクジャパンでは47種類の対象疾患があります)、病院の所在地により、 7つの地域(北海道、東北、関東甲信越、 東海北陸、近畿、九州、沖縄)にグループ分けされています。

研究チームは、これらの人々からの常染色体上のSNPの遺伝子型データを用いて、 主成分分析を基礎にした解析手法により、個人間の遺伝子型の相関を基に個人間の 近縁関係を解析しました(図2)。

まず、欧米人、アフリカ人を含んだ解析により、 日本人7,003人のほぼ全員が東アジア人のグループに属することを確かめました。

次に、この内の7,001人を中国人45人のサンプルと共に解析した結果、7,001人は 本土クラスターと琉球クラスターの2つの主なクラスターに大別されることがわかりました(図3)。

つまり、前者には本土の6 つの地域で採血された大部分の人が含まれ、後者には沖縄で採血された人の大部分が含まれていました。本土クラスター と琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違い は大部分についてはわずかでしたが、約14万個所という数多くのSNPを用いたために、2つのクラスターを観察できたと考えられます。

さらに、本土の中でも遺伝 的な地域差があることが明確にわかりました(図4)。

今回の結果は、従来から提唱 されている日本人集団の「ニ重構造」説と矛盾しないものです。 本土クラスターと琉球クラスターの違いが、どのSNPでもっとも顕著であるかを 調べたところ、6番染色体のHLA領域※9に見つかりました。

また、アミノ酸を変化 させるSNPの頻度の違いを比較したところ、髪の毛の太さと関連のある EDAR 遺伝 子※10のSNP、耳垢のタイプと関連のある A BCC11 遺伝子※11のSNPの頻度がもっとも大きい違いを示しました。

さらに研究グループは、日本人の集団構造が疾患関連遺伝子探索のケース・コン トロール解析にどの程度影響するかを調べるために、2つのクラスターや地域を分 集団として、個人をランダムにサンプル抽出し、シミュレーションを行いました。

その一つとして、本土クラスターのケース集団(200人)とコントロール集団(200 人)を基に、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合を増やしていき、 ゲノム全体のSNPの遺伝子型頻度の違いの統計量がどのように増大するかを調べ ました。その結果、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合が23%にな ると、偽陽性の結果を得る率の増大が無視できなくなることを明らかにしました。 この結果は、ケース・コントロール解析では、患者の住む地域や遺伝的背景を考慮 した解析デザインが必要であることを示しています。

3.今後の期待

日本人における遺伝的な集団構造と地域差が、ゲノム全体を網羅するSNPで解明されたことにより、次のような発展が期待されます。まず、今回明らかになった 日本人の集団構造についての知識は、今後のゲノムワイドなケース・コントロール 解析の研究デザインの向上に生かすことができます。今後の解析では、検出力を上 げるために、より多数のサンプル数で解析すると予想でき、今回の研究の知見を生 かせば、ケース集団とコントロール集団のバランスがとれるように前もって調整す ることで、偽陽性をなるべく抑える研究デザインが可能になります。また、進行中 あるいは検証中の研究であっても、今回の研究で示した通り、サンプルの抽出の偏 りが及ぼす偽陽性への影響の程度を考慮することによって、構造化による偽陽性の 問題を解決することが可能になります。さらに、本土と琉球の2つのクラスターの間で頻度の違いが大きいSNPがあることを示しているため、どのSNPやどのゲノ ム領域で偽陽性が起こりやすいか、ということについても役立つ情報を提供します。

このように、集団構造の理解や、分集団間の違いを理解することからケース・コン トロール解析の精度が上がるため、疾患関連遺伝子同定の精度の向上が期待され、 より確かなオーダーメイド医療の実現化につながると考えられます。 また、日本人の集団構造が、今後、アジアの近隣諸国の人のデータと共に解析さ れることによって、集団間の違い、民族の歴史、人の移動の程度を含めた詳細な集 団構造の理解が進むことになります。近縁な集団間における遺伝的な関係や違いの 程度を理解することで、SNPと疾患の関係を解明する研究が、アジアの近隣諸国で も加速していくと注目されます。 今回の研究により、アミノ酸を変化させているSNPの中で、本土クラスターと 琉球クラスター間のもっとも大きな違いが、髪の毛の太さや耳垢のタイプのような、 表現型の違いにかかわるものであったことは、非常に興味深い結果です。今後、近 縁な分集団の間で頻度の違いの大きなSNPを調べることによって、人類の歴史に おいて過去に働いた自然選択が、表現型に違いを生じるようなSNPの頻度の変化 に影響を与えてきた例をさらに探し出すことができる可能性があると期待できま す。


(問い合わせ先) 独立行政法人理化学研究所 ゲノム医科学研究センター統計解析・技術開発グループ グループディレクター 鎌谷直之(かまたになおゆき)
Tel : 03-5449-5708 / Fax : 03-5449-5564

横浜研究推進部 企画課 Tel : 045-503-9117 / Fax : 045-503-9113

(報道担当) 独立行政法人理化学研究所 広報室 報道担当 Tel : 048-467-9272 / Fax : 048-462-4715 Mail : koho@riken.jp


補足説明

※1 SNP(スニップと発音されることが多い) DNAの1塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism)で、過去に起きたDNA の点突然変異による。ヒト集団では染色体をランダムに2本選んで比較すると、 1,200〜1,500塩基に1つの割合で、SNPがあると推定されている。ヒトゲノム上 では、約12,000,000のSNPが報告されている。


※2 主成分分析 複数の変数間の共分散(相関)を少数の合成変数で説明する手法。共分散行列の固 有値問題の解として得ることができる。この研究では、各個体点を座標のばらつき がなるべく大きくなるように直交軸を取り直して眺めている。


※3 ミトコンドリア DNA 細胞内小器官のミトコンドリアが独自に持っている環状のDNA。過去に細胞内で 共生したほかの細胞が由来である、と考えられている。ミトコンドリアDNAは、 受精卵の細胞質により母から子に伝えられる。DNA複製のエラー修復機構を欠き、 分子進化速度が核のDNAよりも速い。ヒトのミトコンドリアDNA は約16,600 塩基対と短いが、塩基多型の割合が核のDNAよりも高い。ヒトの遺伝的多様性と 移動の歴史を推測する研究によく使われている。


※4 Y 染色体 性染色体の1つで、ヒトでは Y染色体があると男性になる。通常の男性の性染色体 の核型はX染色体とY染色体が1本ずつで、 Y染色体は父親から息子に遺伝する。 ヒトの遺伝的多様性と移動の歴史を推測する研究によく使われている。


※5 日本人集団の「二重構造」説 埴原和郎(はにはらかずろう)氏の「二重構造モデル」。日本人の祖先集団は、縄 文人、そして北東アジアから渡来した弥生人に由来しており、この2集団は日本列 島内で徐々に混血したが、アイヌ人と南西諸島の人においては、北東アジアからの 渡来人の影響は少なかった、とする説。


※6 国際ハップマッププロジェクト/ハプロタイプ ハップマップとは、ハプロタイプ地図を略したもの。ハプロタイプは1本のゲノム (染色体)上のDNA塩基多型の組み合わせである。このプロジェクトは、疾患関 連遺伝子同定のためのゲノムワイドなケース・コントロール解析を加速させること を第一の目的に発足した。日本人、中国人、ヨーロッパ系アメリカ人、アフリカ人 からの4集団270人について、ゲノム全体を網羅するSNPの遺伝子型が決定され、 データベースで公開されている。


※7 バイオバンクジャパン 文部科学省「個人の遺伝情報に応じた医療の実現プロジェクト(オーダーメイド医 療実現化プロジェクト)」の基盤となるDNAサンプルおよび血清サンプルを収集し 臨床情報とともに保管している世界でも有数の資源バンクの名称。バイオバンクへ 約30万人のDNAおよび血清試料を集め、それらを利用してSNPと病気との関係、 薬剤の効果などの関係を明らかにする研究を行っている。心筋梗塞、糖尿病、関節 リウマチなど47種類の対象疾患がある。情報は個人情報管理に配慮し幾重にも厳 重に管理されており、東京大学医科学研究所内に設置されている。

※8 常染色体 ヒトでは1〜22番染色体のこと。細胞内の染色体の全セットのうち、性染色体(X 染色体とY染色体)を除いたもの。


※9 HLA(human leukocyte antigen)領域 ヒトの6番染色体短腕(6p21)上に存在し、その領域にある多重遺伝子族(遺伝子 重複によって生じた遺伝子の中で相同性が高いもの)は、自己と非自己の認識、免 疫応答の誘導に関与する白血球抗原をコードしている。MHC(major histocompatibility complex;主要組織適合性複合体)領域とも呼ばれる。


※10 EDAR 遺伝子(ectodysplasin A receptor) シグナル伝達に関与する遺伝子の1種で、2 番染色体上に存在する。370番目のア ミノ酸変異(アラニンまたはバリン)の頻度は、東アジア人と他の人種で大きく異 なっており、髪の毛の太さに関与することがわかっている。東アジア人は他の人種 と比べて髪の毛が太く、アラニン型の頻度が高い。


※11 ABCC11 遺伝子(ATP-binding cassette, subfamily C, member 11) ATP 結合機能を持ち、輸送にかかわるタンパク質のファミリーをコードする多重遺 伝子族のメンバーの1つで、16番染色体上に存在する。薬剤排出の機能を持つ。 180番目のアミノ酸変異(グリシンまたはアルギニン)は、耳垢の乾型、湿型を決 めることがわかっている。そのSNPの頻度は東アジアと他の地域で大きく異なっ ており、東アジア人では乾型のアルギニンのタイプの頻度が高い。

図1 ケース・コントロール解析で偽陽性率が上がる条件

分集団1、分集団2では、多数のSNPの座位(形質に関係のないゲノム領域のSNP の場所)について、SNPの頻度が少しずつ異なっている。この例では、ケース(患 者集団)のサンプルにおける分集団1からの人の割合1(f)が、コントロール(対照集団)における分集団1からの人の割合(g)よりも大きい。このようなサンプルで関 連解析を行うと疾患に関連していないSNPであっても、統計的に有意な関連(偽陽 性)を検出する率が上がってしまう。

図2 たくさんの個所のSNPの遺伝子型を使った個人間の近縁関係の解析

個人からなるべくたくさんのSNPの遺伝子型を数値化(1)して、人数×SNP数の総 データを作る(2)。次に、統計解析のために数値を標準化する(3)。そして、個人対 個人の総当りの、遺伝子型の相関の度合いのデータを得る(4)。主成分分析により、 個人間のばらつきを最大にする軸をきめ、上位の軸(例えば、第1成分と第2成分) でプロットを作成する(5)。第 1成分の軸は、個人間のばらつき最大になるように選 ばれている。第2成分の軸は、個人間のばらつきが次に大きくなるように選ばれてい る。


図3 ほとんどの日本人は、本土クラスターと琉球クラスターに大別される

日本人と中国人漢民族で個人間の近縁関係を解析したところ、主な3つのクラスター に分かれた。1つは中国人のクラスターである(橙)。日本人は、本土クラスター(赤) と琉球クラスター(緑)の2つに大別される。

図4 日本の各地域の遺伝的な分化と地理的な傾向

本土クラスターの中の人の分布は、地域によって偏りがあることがわかった。近畿の 人は、上の図では本土クラスターの左上に偏りがあり、中国人のクラスターに比較的 近い。対照的に、東北の人は、本土クラスターの右下に偏っていて、中国人のクラス ターから見て離れている。
http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/press/2008/20080926_1/20080926_1.pdf



京都人と京都の被差別部落民は遺伝子が全然違う

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html



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15. 中川隆[-6384] koaQ7Jey 2017年10月02日 09:03:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

千年の都 京都の闇と知恵・・学校教育をも蝕む『差別』の2文字
http://www.asyura2.com/10/social8/msg/807.html
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38


最近京都近辺で3つの事件が起きた。祗園暴走事故、亀岡無免許事故、大津いじめ殺人事件。このうち二つは千年の都京都の闇、いや穢れを嫌う日本人の本質にかかわる根深い問題にかかわる事件だった。

私は北関東に生まれ、東京で大学時代を過ごし、入社後東京→四国→九州と転勤したの後、京都に5年ほど住んでいました。はじめは京都府下福知山市に約3年、その後、京都市西京区に住んでいました。

福知山から京都に住む際、皆口をそろえ、五条より下に住んではいけない、六条七条は余所者の貴方はまだセーフだが、絶対京都駅より南には住んではいけないと知り合いすべてから言われた。

結局家賃が安く皆様の助言で
桂離宮近くの京都市西京区に住んだ。桂駅から四条烏丸駅まで電車で通い皆正解だと言われた。

京都市民にとって何処に住んでいるかでその人の人格を計る尺度である。
京都のOLに四条大宮に住む年収300万円大工さんと東九条に住む年収3000万円の自営業社長、どっちと結婚したいと聞けば10人中9人が躊躇なく前者を選ぶであろう。

北関東生まれの私にとってはじめは、なんて差別的なことを言うのか・・・だから京都では差別が無くならないのだ。京都市民は余所者に冷たいと言われるのだろうと思ったものだった。

だが、子供が市内に引越し娘が小学校に上がるとき、京都人の知恵を理解できた。問題がある地区の小学校のカリキュラムを見て背筋が寒くなったのだ。

朝から晩まで人権教育ばかり、まともな学校行事が潰されているのだ・・・・
これでは問題のある地区の小学校へ子供を行かせたくなくなる。

京都人は問題がある地区の人とは、はじめから関わらないようにしているのだ。
お友達になるにもまず住む場所でその人を見るのだ・・・千年の知恵としか言いようがない。


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16. 2017年10月08日 08:25:10 : 45qP55FaI2 : 6VuA8Te7WTo[95]
京都は世界の桃源郷。観光客は四千万人。ハワイが300万人。
徳川家康はよく見抜いていて『京都では仕事にならない』
武士がフニャフニャになる、遊び呆ける、と言って江戸に遷都を決断した。
その発言は記録に残っている。
 夢心地の大都会 京都

17. 中川隆[-5868] koaQ7Jey 2017年11月18日 13:32:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

京都人の「ぶぶ漬け」本当? 市民100人に聞く


「ぶぶ漬けでも」と言った・言われたことは?

(アンケートは、京都市内で生まれ育った人、または嫁いできておおむね30年以上暮らす人を対象に実施した)

「ぶぶ漬けでも」と言った・言われたことは?

(アンケートは、京都市内で生まれ育った人、または嫁いできておおむね30年以上暮らす人を対象に実施した)
 

「ぶぶ漬けでもどうどすか?」。

といっても、茶漬けは実際には用意せず、客に対して暗に帰るよう促す−。

京都人の「イケズ」な気質を象徴する話として、全国に流布されている。
でも、ホンマにそんな人いるの?


 アンケートではなんと、経験者が3人も。
このうち、明確に「帰れ」の意味で言われたという人も1人いた。


 「22、23歳のころ、上京区の友人宅で彼の母親から勧められた」と、伏見区の緒方正清さん(65)。「食べてしまったが、後で友人から意味を聞いて恥ずかしかった」と苦笑する。残る2人も友人宅で親から言われたが、ともに子ども時代の話で、真意は今となっては分からない。

 左京区の井上直也さん(58)は、経験こそないが「明治生まれの祖母から、『嫌な客に帰ってくださいという意味で言う』と聞いた」。同様の答えは複数あり、昔は慣習として言っていたのかもしれない。しかし、伝聞の域を出ず、回答の大半は「ノー」。京都人は本当にぶぶ漬けで客を帰らせるのか、決定打は得られなかった。

 では、いつ頃から、なぜ、そんな「伝説」が定着したのか。そもそも「ぶぶ」って?

 ぶぶは「おぶー」とも言い、熱い茶を吹く音が言葉化したとの説がある。ぶぶ漬け伝説の発祥は江戸期の落語「京の茶漬け」にあると、エッセイストの入江敦彦さんは著書「イケズの構造」で紹介している。1700年代後半の笑話本に、同じような話がある。落語はこれが基ネタと考えられる。

 中京区に代々住む京都人で映画などの京ことばも指導する龍谷大の泉文明教授(日本語学・京都学)は伝説に懐疑的だ。「相手が意味を知っていたら嫌われ、いただきますと答えられたら困る。どちらもメリットがない」

 ただこうも続ける、「京都人は配慮や気遣いから、はっきり言わない」。例えば、誘いを断る時。今日は用事があると言えば済むのに、「誘われたことへの感謝や行けない理由を長々と話し、なかなか結論に至らない」と泉教授は指摘する。

 その過剰ともみえる気遣いによる遠回しな物言いや態度が、他地域の人に「イケズ」という印象を与えるのかもしれない。ぶぶ漬け伝説は、その代表的なエピソードとして落語で笑い話となり、広まったのだろうか。

 アンケートでは客に帰ってほしい時の対処法も尋ねた。「お茶をさっと下げる」「それとなくサインを送る」など、多くの回答から「気づいてほしいが、相手を傷つけたくない」との思いが伝わってきた。


◆ぶぶ漬け、着倒れ、応仁の乱…。「京都といえば」と府外市外の人に問えば、お決まりのように返ってくる答えがある。でも、「それってホンマ?」。真相に迫るべく、京都市民100人に聞いてみた。(連載「おもしろ わがまち 京の探検隊」より)
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170416000059

[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

18. 中川隆[-5474] koaQ7Jey 2018年3月09日 13:08:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06

同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

___

Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
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穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097

2013年12月17日 形質人類学のデータ

エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


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19. 中川隆[-5473] koaQ7Jey 2018年3月09日 13:13:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

裏には裏の道があり  2011/2/25(金)

たまたま1月に新年のご挨拶ということで、工藤会系の事務所へ足を運んだ時、いろんな人と出会って話をさせてもらいました。その中にA氏はいました。


A氏は田川市の出身。部落差別の中で気が付いたら893のご職業をされているということだった。

残念ながら筑豊地方や北九州市内というのは無数の部落が存在している。15歳になって中学を卒業すると当たり前のように働きに出るのだが、もちろん仕事が無い。
部落出身ということを隠してうまく就職できても結局、後からバレてクビになる。

男性の場合はかなり働き口が狭いので、多くの人間が余ってしまう。それでしょうがないから裏社会へと入ることになる。

そちらのことはまた追々。今回は女の子の方の話。


とりあえず15歳になって中学を卒業したらお水商売の世界へ入るのが半ば、常識のようになってしまっている。在日の経営するパチンコ店などに働きに出るのもいいが、正直、稼ぎが段違いなのですぐに辞めてしまうという。


そのA氏は斡旋をする仕事をしてる。

中洲がもちろんメインではあるが、大阪の飛田新地、名古屋、札幌、東京などにも顔が広く通じていて、15歳になった女の子を広く斡旋しているということを話してくれた。


部落の地域だと常識なんて無い。 我々の考える常識とはかけ離れた世界がそこには存在している。暗く・・・絶望と悲観と・・・ 


A氏が、15歳になった少女と出会い、話を聞いてみると、

初体験は小学生の時で、部落の中でも何度も何度もレイプされたり、

時には父親にレイプされたり、祖父にレイプ、義父にレイプされたり、

さらにその全員に順番にレイプされたりして育つ。

ちょっとキレイめで可愛らしい子になると、15歳の時にすでに男性経験は500人というとんでもないのもいるのだそうな。


だから、中学を卒業したばかりの女の子に声をかけると、喜んでお水で働きたいと言うらしい。今までは襲われてもただ快楽を得るだけで、お金にはならなかったが、これからはセックスが金になると知って喜ぶのだそうだ。 私にはまったく信じられないが、それが部落の世界なのだそうだ。


15歳でいきなりソープデビュー。15歳という若さで本番ありということだから、料金は8万でも10万円にも設定しても客は殺到するという。ほとんど中学生のような少女と金を払えば合法的(?)にセックス出来ると聞いて金の使い道に困っている男達は群がる。1回10万円でも1週間に30回の予約を入れた強者もいたらしい。凄過ぎる。


本人の取り分は半額。それでも、中学を卒業したばかりの少女が1年でもの凄い金額を稼ぎ出す。


さすがにまだ本番までは抵抗があるという少女の場合はお触りだけのピンサロやキャバクラで働く。ソープにはかなわないが、やはり中学卒業したばかりの女の子がってことで固定客はいっぱい付くからなかなかの収入になるという。

入った金で整形をして綺麗にして、うまくいけばAVにでも出てまたそれなりのお金を稼いで部落出身の男と結婚してはすぐ離婚、また結婚してはすぐ離婚を繰り返す人生を送る。


娘が生まれると金になるってことで、金が欲しい父親は娘をレイプして子どもを産ませたりする。男の子だとガッカリし、女の子だと大喜びする。

私が出会ったことがある女性は、祖父との子どもを産み、義父との子どもを産んだことがあるって平気な顔で話してくれたから、驚いたことがありました。


精神病を患っている人も部落にはたくさんいて、産まれてくる子どももまた精神病に。


A氏が話してくれた悲惨な女の子の話。

産まれてすぐに精神病と分かり、父親が育児放棄。母親は自殺。

その後、祖父母が育てたが、小学校に行く頃からさらにおかしくなり、いつも下着姿でその辺を徘徊したりしてどうしようもなかったという。

で、部落の大人の男性たちが毎日レイプ。
集団で次から次へとレイプ。

中学生ぐらいの年齢の頃には2人の子どもがいたという。

そんな年齢でも服を着ないでその辺を徘徊しているものだから、男性が寄ってきては普通に道端でレイプされているとのこと。誰も止めないし、いつもの光景といった感じ。それで次から次へと精神病を患った子どもが出来たという話を聴いた。


A氏が言うには、その少女は部落の人間に毎日レイプされるためだけに生きている、とのこと。


なんだろうね・・・・悲惨を通り越して、言葉が出なかった。


A氏が言うには、そんな精神病患者でも植物を言われた通りに育てることぐらいは出来るのだそうだ。だから、大麻を育てさせては、少ない生活費を渡すということが行われているのも普通のことなんだそうな。たぶん、それが大麻だと知らずに育てるんだろう。育てるとお金がもらえるから一生懸命育てる。普通だったらおかしいと思うが、残念ながらそう思う回路を持っていない。


そんなことを繰り返しては、A氏は少女と大麻で組の中でものし上がっていったそうな。

やはり経済力を持った893は上からも当然重宝されるし、金を山ほど持ってる構成員は出世も早い。

「にいちゃん、金に困った時はいつでも電話ちょうだいな。金ならいくらでもあるからいつでも助けてやるわ」

って、にやっとしながら話してくれた。

「大丈夫、金には困ってないから」

そう伝えると、またにやっと笑いながら奥の部屋へ入っていった。
http://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/13f7cdcd736285b2acfdb818a1be2ff2


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20. 中川隆[-5473] koaQ7Jey 2018年3月09日 13:22:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

京都のおもてなし文化を全身で体感したかったらここ

京都御艶
http://www.kyoto-gyoen.com/main.html

おいでやす、京都ならではの「おもてなしの文化」を現代に色濃く伝える『京都御艶』へ
http://pinsalo.info/rpt10/nhv_derh.htm
http://yoikoworld.blog77.fc2.com/blog-entry-64.html
http://blog.livedoor.jp/kutikomitaikenki/archives/51475418.html
http://www.f-lib.com/fbbs/cbbs.cgi?mode=res&namber=18853&page=&no=0
http://www.f-lib.com/fbbs/cbbs.cgi?mode=res&namber=18873&page=&no=0

では 京都の「おもてなしの文化」の評価です。


【サービス】サービス?なにそれ食べられるの?

【店員】店ぐるみのぼったくりです。

【金額】人生勉強にはこんなものか。


 みなさん、くれぐれも気をつけてください。命は大切にしようね!
http://pinsalo.info/rpt10/nhv_derh.htm


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21. 中川隆[-5477] koaQ7Jey 2018年3月09日 21:08:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

名高 達男(なだか たつお、本名:名高 達夫、1951年2月9日 - )は俳優、画家、タレント。血液型はA型。京都府京都市伏見区出身。


金沢工業大学機械工学科卒業後、名高 達朗の芸名でファッションモデルとして活動。1976年、TBS『東芝日曜劇場』「婚約時代」(十朱幸代主演、石井ふく子プロデュース)から本格的な俳優業に転じた。

1986年にタレント西尾かおるとの婚約を破棄し話題を呼んだ。記者会見では、芸能レポーターからの質問に、沈痛な表情で「お答えできません」を連発した。

婚約解消の理由は諸説あるが、未だに名高本人の口からその理由は語られていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E9%AB%98%E9%81%94%E7%94%B7


275 :名無しさん@恐縮です:2008/09/01(月) 07:20:06 ID:JghdQabSO

山城が名高達男に紹介した女性が名高と婚約するも、直前で婚約破棄。
婚約破棄の理由はこの女性が部落の出自ということで名高が家族に大反対されたから。
http://beutifulbaseboll.seesaa.net/article/72944667.html

名高達男「お答えできない」を連発した婚約解消会見 1986年9月


 甘いマスクで二枚目俳優として活躍する名高達男が86年9月、元ミス日本の西尾かおるさん(当時25)との婚約を式直前に破棄して世間を驚かせた。名高(当時達郎=35)は会見で26回も「お答えできません」を連発した。

 2人が知り合ったのは86年1月。同年5月には婚約が発表され、その後、挙式の日取りは10月8日、媒酌は小林桂樹夫妻と決定した。ウエディングドレスは芦田淳が手がけ、7メートルのベールはパリに特注。この他、金糸銀糸を織り込んだ1億円ともいわれる豪華な打ち掛けも作られた。

 都内のホテルで行われる披露宴の招待客は670人。食事はシェフ120人が海外から空輸した食材を用いて作るフランス料理。費用は総額2億円ともいわれた。

 9月5日には挙式を1カ月後に控え、目黒サレジオ教会でリハーサルが行われた。西尾さんは「とてもうれしかった」とコメント。名高も「彼女をいたわって、愛を貫きます」と語った。

 しかし、9月22日、突然、婚約解消が発表された。ホテルのキャンセル料だけでも3000万円とも。翌23日に記者会見が開かれた。名高は目を真っ赤にし、「お答えできません」を繰り返すのみ。西尾さん側からも理由の発表はなかった。

 その後、名高は傷心を癒やすかのように40日間にわたってグアム島やトラック島など南の島々を回る旅に出発。西尾さんもパリに旅立った。

 謎に包まれた婚約解消劇に、マスコミの間では西尾さん側が芸能人との結婚に疑問を持ったというものや、西尾さんの母と名高の事務所の対立が原因とするものなど臆測が乱れ飛んだ。

 騒ぎの中、ある興信所の副社長がマスコミに対して“婚約解消原因”とされる調査報告書を発表した。副社長は紅白出場経験もある歌手の仲宗根美樹の元夫。名高側から調査を依頼されたという報告書には、西尾さんの学歴詐称や男性関係、プロダクションとのトラブルなどが書かれていて、マスコミはこれらが婚約解消の引き金になったと書き立てた。

 だが、報告書の内容はズサンなものだった。例えば学歴詐称問題。西尾さんが卒業後、母の再婚で姓が変わったので卒業名簿に載っていなかっただけのことだった。事実誤認のまま書かれた部分が多く、西尾さんは帰国後、87年3月に興信所らに対し、「調査内容は事実無根」と民事、刑事の両面で訴訟を起こした。裁判は興信所ら側が謝罪するなど、西尾さんの全面勝利の形で和解した。

 婚約解消の理由は今も不明なまま。西尾さんは88年に女優として芸能界デビューするが、ほどなく引退。90年に医師と結婚した。一方、名高は94年に達男に改名し、17歳年下の女性と結婚。現在も俳優として活躍中。
http://world.agent-b.com/archives/99.html


347:可愛い奥様:2011/10/29(土) 17:04:00.29 ID:ko4mHmCr0

私は昔のワイドショーネタ話になると名高達郎元婚約者の西尾かおるさんを思い出す。
好みはあるけどすごく綺麗で清楚な人だった。
今思うとマスゴミ、よくも一般人をあそこまで追い詰められたもんだと驚くわ。

387:可愛い奥様:2011/10/29(土) 19:02:01.63 ID:FmlU0z3L0

名高達郎の件は

「相手がBである事隠してたから婚約破棄って それはないやろ」

と山城が暴露してしまった。


388:可愛い奥様:2011/10/29(土) 19:06:16.31 ID:W2CZ0xLd0

西尾かおるさんだっけ。


389:可愛い奥様:2011/10/29(土) 19:07:58.99 ID:+iAsHYkR0

うちの知り合いの土地長者の長男が、B出身の女と結婚したいって連れてきて
家族が大反対したのに聞かずに入籍しちゃったので
土地やビルの名義を全て長男以外の子供と親戚の名前に変えて、長男には一銭も残らないようにしちゃったよ。

「土地の名義を変えたから、もう財産は全くありません。二人でイチから財産作りなさい」

って長男夫婦に宣言したら、嫁がキレてすぐに離婚しちゃったけどw


391:可愛い奥様:2011/10/29(土) 19:11:55.90 ID:FmlU0z3L0

山城は芸能界の男女関係テッテ的に暴露した遺稿が見つかったが
関係者が ヤバ過ぎる・・・と棺桶に入れて燃やしてしまったそうだ。


392:可愛い奥様:2011/10/29(土) 19:12:53.83 ID:v3LLwmwt0

山城の言う事なんか当てにできないけど、
西尾さん、青学卒でもないのにわざわざ青学の卒業式に袴を着て卒業証書を入れる黒い筒持って青山学院と書かれた正門前で写真撮っているのは筋金入りだと思った。


407:可愛い奥様:2011/10/29(土) 20:03:09.93 ID:ko4mHmCr0
>>392
西尾さんは青学卒ですよ。2部です。
卒アルも当時週刊誌に出てましたよ。


423:可愛い奥様:2011/10/29(土) 20:49:05.67 ID:v3LLwmwt0
>>407
卒アルじゃないよ。
当初青学卒業の証明のように出回ってたのが>392の写真。
卒アルになかったから騒がれ始めた。

412:可愛い奥様:2011/10/29(土) 20:12:37.41 ID:ko4mHmCr0

一般人なのに本人が悪いわけじゃないと思うのに記者会見して釈明しろ攻撃がすごくて可哀そうでした。 会見して泣きながら

「青山大学も2部ですが卒業しております」

と言ってたよ。 年齢も詐称とか言われたらしいけど、公表がそうであっただけで(なぜか知らないが) 名高側は実年齢はもちろん知っていたそうです。

母親はちょっと怪しかったけど、名高の事務所に自分も口出したいみたいな、
でもかおるさん本人は純粋に好きだから結婚したいような感じでした。


474:可愛い奥様:2011/10/29(土) 23:16:21.66 ID:np6BFw0Z0
>>412
でもその「2部」を言わなかったと。それはやはり作為を感じるわ。
つかあの人、素敵エピとして、桜の散った花びらをハンカチに包んで名高に見せに行った、って。なにその森ガール設定きいいいいいいい!


438:可愛い奥様:2011/10/29(土) 21:47:11.24 ID:ko4mHmCr0
>>423
私は>>392のいう袴の写真は見てないです。
卒アルの写真ははっきり週刊誌に出てたよ。
まさしく2流タレント風の笑顔で写っていました。
アルバムの名前は西尾ではありませんでした。
お母さんが再婚されて西尾姓になったはず。


448:可愛い奥様:2011/10/29(土) 22:07:26.60 ID:ko4mHmCr0
>>438
確か松本かおるという名前でした。昔ながらの証明書写真みたいのがずらーっと並ぶ卒アルでした。 名高側弁護士が

「調べたら青山大学出てません!年齢も詐称してます!」

なんてテレビでしゃべってしまったもんだからそれの検証みたいな感じで
週刊誌のフォーカスが、いや、二部にいましたよって写真付きで記事にしてたんです。

年齢詐称も名高には本当のことは言ってあるということで
確かその弁護士はそのあと西尾さん側に訴訟されて敗訴してるはず。


499:可愛い奥様:2011/10/30(日) 00:08:38.64 ID:az1fiKau0

いやだから、名高嫁はチマチマと、自分の経歴をちょっとずつ詐称する感じたったんだと思う。言わなければいいが、そのちょっと詐称経歴を売りにしたから。


601:可愛い奥様:2011/10/30(日) 10:29:04.25 ID:DZfhyuNQ0

名高家が医者かなんかでB出身の嫁を認めるような家じゃなかった
結果あの娘も必要以上に経歴を詐称した
http://2chnull.info/r/ms/1319769616/1-1001#res423


京都は部落が多いので、人と会ったときはまず部落出身者かどうかを見るのですね。

部落出身 → 家族の仕事はヤクザか風俗、子供の頃から近親相姦・乱交していた

という条件反射的判断になってしまうのです。


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22. 中川隆[-5456] koaQ7Jey 2018年3月19日 02:26:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

松本清張スペシャル・書道教授・美しい未亡人の妖しい家 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NQF3Lzbfs3M
https://www.youtube.com/watch?v=5iBhd0N5LnM


2010年3月23日21:00-23:18、日本テレビ系列にて放映。

制作局 日本テレビ

原作 松本清張『書道教授』

脚本 ジェームス三木

撮影協力:
清水寺、大覚寺、頂法寺、京都四條南座、元離宮二条城事務所、彩雲堂本舗、湯の花温泉 すみや亀峰菴、京福電気鉄道、京聯自動車 ほか

プロダクション協力:松竹京都撮影所

キャスト
川上克次:船越英一郎 (双葉銀行の銀行員)
勝村久子:杉本彩 (書道教室の教授)
神谷文子:荻野目慶子 (ホステス)
川上保子:賀来千香子 (克次の妻)


主人公は、妻・保子(賀来千香子)とごく普通の夫婦生活を送っている銀行員・川上克次(船越英一郎)。陰では、ホステス・神谷文子(荻野目慶子)を愛人にし、愛欲の蟻地獄から抜け出せずにいた。

この主人公が、書道教室の女性教授・勝村久子(杉本彩)の書に心打たれて弟子になり、個人指導を受けるため教授の元に通ううち、屋敷内に漂う奇妙な雰囲気に気づく。未亡人の書道教授は、お手伝いと二人暮らし。しかし、屋敷内では、どこからともなく微かに女の話し声が聞こえてくる。やがて、殺人事件が発生・・・

そして主人公の妻が妊娠。これを知り、態度を一変させる愛人。主人公は、次々と運命の大波を浴び、翻弄され始める。

____


松本清張生誕100周年記念スペシャルドラマ「書道教授」
杉本彩オフィシャルブログ


京都を舞台に繰り広げられる
このサスペンスは、


船越英一郎さん演じる
銀行マン川上が、
3人の女性たちの間で

別の顔を見せ、


いつしかその糸が縺れはじめ、
罪に手を染めていきます。


加来千香子さん演じる妻…


荻野目慶子さん演じる
愛人のホステス…


そして、
私が演じるのは、
祇園の芸妓上がりの書道教授です。


周りを固めるキャストも、
私と同郷の

野川由美子さんや、
嶋田久作さん、
友情出演で的場浩二さん、など
実力と個性を備えた
素晴らしい方々ですビックリマーク


男と女がいて、
愛と欲望がある限り、
根っからの悪人でなくとも、
誰もが罪人になる可能性があるのだと、


松本清張作品は、
リアリティーを持って
観る者を作品の世界に引き込んでくれます。


重い本格派サスペンスだから

生まれる緊迫感と、
愛と欲望から生まれる苦悩、
主人公の人生が壊れていく様を、
ドラマを越えた
映画テイストで撮っています。
https://ameblo.jp/sugimoto-aya/entry-10487428837.html

杉本 彩(すぎもと あや、1968年7月19日 - )

京都市立弥栄中学校を経て、京都府立北稜高等学校中退。

東山区祇園出身。母方の祖父母が着物関係の仕事をしていて母はテーラー、父は洋服の生地を扱うサラリーマンだったが、杉本が中学生の時に父親が脱サラし母もテーラーを辞め小料理屋を始める。 しかし、知り合いの借金の保証人になってしまい、その知り合いが借金を返済しないまま失踪してしまう。悪徳金融業者に借りた借金は、法外な利子で雪だるま式に増えていったという。 住んでいた家は差し押さえられ、金融業者の執拗な催促が連日続いた。杉本は両親と共に悪徳金融会社に連れて行かれ、一緒に頭を下げさせられたこともあったという。 杉本は高校受験をひかえていたが、進学費用の捻出もままならないほど杉本家の経済状況はひっ迫し、母親はそんな父親に愛想をつかし新しい恋人に走り、家庭は崩壊する。

精神的に追い詰められた杉本は15歳のときに刃物で手首を切り、自殺を図るが、母親の発見が早かった為に一命を取り留めた。その後、両親は離婚した。 杉本は「母親と母親の恋人が用意してくれた家に住むのは息苦しい」という理由から、生活費を稼ぐために16歳のときに家出。高校は1年で中退し京都市でモデルとなる。 モデルやキャンペーンガールなどの経験を重ねるなか、彼女の大人びた容姿に興味を持ち話しかけてきた芸能事務所スターダストプロモーションのスカウトにより全国区のデビューを持ちかけられ、芸能界入りが決定した[2]。当時、芸能界は憧れて入ったわけではなく、「自分が自立して生きていくための一番の近道だった」と語っている。

東京でも当初はモデルとしてデビュー。スタイルの良さから水着やボディコンシャスな服を着用するキャンペーンガールなどに起用される。 19歳当時には『オールナイトフジ』で中村あずさのアシスタント役に抜擢。堂々とした立ち居振る舞いや媚びのないセクシーさから、女性からの支持も多く集めた。また、音楽活動にも活躍の場を広げ、特に学祭出演が多かったことから「学祭の女王」の異名も持った。

1991年(平成3年)、24歳の時に個人事務所株式会社 オフィス彩を設立。 1993年(平成5年)の『ENFIN』を皮切りにヘアヌード写真集を多数発表。官能小説を執筆したり、団鬼六の代表作『花と蛇』の映画化の主役に抜擢されるなど「エロスの伝道師」を標榜し、バラエティ番組の出演も増えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%9C%AC%E5%BD%A9




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23. 中川隆[-7836] koaQ7Jey 2018年4月07日 15:01:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10006]

京都のエタ部落は戦後 在日朝鮮人に乗っ取られた

被差別部落民と在日韓人  −社会経済史的視点−
              
    河 明生(かわ めいせい 社会経済史、経営史)
友常 勉(聞き手=ともつね つとむ・地域研究


(『現代思想 特集 部落民とは誰か』第27巻第2号所収、平成11年2月、青土社)

(友常)今日は、『韓人日本社会移民経済史−戦前篇』(明石書店、1997)の著者・河 明生さんにお話を聞こうと思います。本書は、戦前の被差別部落民と在日韓人との社会経済的関係を明らかにしており、部落問題に携わる者として注目しておりました。今日のお話しの中から、これから私たちが、今後の両者のあり方を考えていくための指針を得ることができればと願っています。


(河)よろしくお願いします。

(友常)まず、本書の問題意識からお聞きしたいと思います。

(河) 社会は、マジョリティとマイノリティによって構成されています。ここでは、マイノリティを社会的権力をもたない異質な少数派と定義します。日本社会も例外ではありません。マイノリティが存在します。それは二つに分類できます。一つは、民族的マイノリティです。たとえば、韓人、中国・台湾人、アイヌなどです。もう一つは、非民族的マイノリティです。被差別部落民が該当します。その中、私が選んだ研究客体は、在日韓人です。

 在日韓人問題は、権力と反権力、差別と反差別、加害者と被害者という視角からの研究に偏在集中してきた感が否めません。それは史実ですし、評価すべき業績です。けれどもそれだけで良いのでしょうか。在日韓人社会は百年近い歴史があり、その間、日常生活を支えた労働がありました。それは人間の基本的な営みです。その解明なくして、在日韓人問題を理解することはできません。しかし、それを正面から論じたものは少ない。在日韓人問題の社会経済的活動実態が明らかにされていませんでした。それではいけない。日本の社会経済史や労働史などにおけるマイノリティ史の空白部分を補完したい、というのが執筆動機でした。

(友常) 従来、1939年から始まる「朝鮮人強制連行」以前の渡日者をどのように位置づけるのか、という問題がありました。河さんは移民とみなしていますが、その点はいかがでしょうか。

(河)日本では、移民というと自ら望んで郷里を捨て、中南米や北米などに移住するというイメージがあります。しかし、それは間違いです。ここではふれませんが、欧米での移民に相当する概念は多種多様です。

 在日韓人を移民労働者とみなした場合、二つの論点が生じます。第一に、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題です。賃金水準や雇用機会などへの影響はそれに該当します。第二に、韓人が、日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題です。

(友常) そもそもこういうテーマを選んだのは、河さん自身が、在日二世だということと関わりがあるのでしょうか。

(河) 関係があります。ただ、諸先輩方の関連研究を読みながら、研究を進めていく中で、自分の生い立ちを超えたいと思うようになりました。客観的論述に徹したいと。日本人研究者からすれば、当然のことです。しかし、被差別マイノリティ出身の研究者が、その出身母体を研究客体とする場合、自己の生い立ちを超えることは容易なことではない。どうしても被差別体験が、文章にあらわれてしまう。怒りのようなものでしょうか。これは世代的宿命なのかも知れません。私の論文にも、たとえば「差別」という概念は使用されます。けれどもその「差別」が不当であるか否かは、読み手が判断すれば良いと考えています。

このような感覚を持てたのは、私が上の世代に比べれば恵まれた環境で育ったからです。当然、それは日本社会、とくに日本人の若い世代の変化によってもたらされた環境です。学校で、金とか、李とか名乗っていると、かっこいいとか、個性的だとか、もてはやされる時代なんです。けれども、彼らですら、在日韓人問題については白紙に近い状態です。歴史教育が疎かにされているからでしょう。これからの研究者は、そういう若い世代に、なごやかに語りかけて行かねばならないと思います。

(友常) 被差別部落出身でない僕が、部落問題に出会うのは大学時代です。江原由美子さんがかつて「差別の構造」という論文を書かれましたが、差別されている側とマジョリティの間には対称関係はない、差別されているという体験において、マジョリティの側がその体験を知りようがない以上は、自分の基準で相手を比較したり考えたりできなくなってしまう。

ところが相手が知らないことについて、差別されている側は訴えるしかないわけですね。それを訴えても相手には絶対に通じないという非対称的な関係、それが差別の構造だというわけです。部落問題の研究を進めながら、実際の差別の話を聞いて、気づくのはそういうことです。そういう非対称的な関係は一体どういう状況で生まれてくるのかということを追求したいというのが僕の研究の動機です。それは確かに歴史的な出自を持っている。

たとえば近代社会とか、そういう方向での自分の中のモチベーションです。必ずしも実体化された倫理主義的な態度をとることはないと思いますが、差別−被差別という構図でなければ見えない、あるいは研究でしか摘出できないような研究の方法論とか問題の設定がありますから、そういうスタイルは間違いなくあるでしょう。多分そういうふうにいったからといって、河さんとはそれほど大きな違いはないのではないかと思っています。


朝鮮不熟練労働市場における韓人と中国人移民労働者との競合

(友常) では、具体的なご著書の中で、何が直接明らかにされたのかということに移っていきたいと思います。僕にとっておもしろかったのは、まず朝鮮で中国人労働者と朝鮮人労働者との間で葛藤がある。それに少なからぬ影響を受けつつ、在日韓人移民労働者が形成されたという。

(河) 被差別部落民と在日韓人との関係を考察する際、有用ですので、若干主題とははずれますがお話ししたいと思います。

 在日韓人形成の最大の要因は、日本による朝鮮の植民地支配です。従来、その形成史が日本と朝鮮という二国間関係だけでとらえられてきたのはそのためです。しかし私は、植民地支配以外の渡日要因を再検証すべきであると考えました。在日韓人形成史は、中国をも含めて考察すべきであると考えます。つまり、朝鮮下層労働市場に進出した中国人移民労働者の存在を忘れてはならないのです。


(友常)それはまったく新しい視点ですね。その根拠は何でしょうか。

(河)在日韓人の出身地の大部分は、農業の中心地であった朝鮮南部であり、前職は農民です。当時、朝鮮工業は朝鮮中北部において展開されました。離農間もない朝鮮南部出身者が、何故、陸路で移動可能なソウルや平壌などの朝鮮中北部への出稼ぎを選択しなかったのか。宗主国の日本に、海を越えて出稼ぎに行くというのは、心理的なプレッシャーがあったはずです。言葉も通じないのですから。そういう予想される不安や困難をこえて渡日したのですから、何か合理的な渡日理由があったんだろうと考えました。

それは、日本と朝鮮との賃金および雇用機会の格差です。第一次世界大戦による好況時に、紡績業などの日本企業が、人手不足を補うため、朝鮮で労働者公募を行いました。それに応じた韓人が、渡日して工業労働に従事しました。契約期間がきれたり、先祖の祭礼祭祀のために帰郷します。きれいな服を着て、お金やおみやげをもって田舎に帰ってくるわけです。農村の生活しか知らない朝鮮南部の人々にとって、それはまぶしい光景だったと思います。日本に行って働ければ金になる、ということになります。でも、もし仮に朝鮮に働く場所があって、日本の企業と同じ賃金がもらえるというのであれば、わざわざ渡日する必要はありません。朝鮮に働き場所が少なく、もらえる金も少なかったからこそ、日本への出稼ぎを選択したと考えます。もちろん、日本の賃金が高いというのは相対的なものです。むしろ朝鮮における「低すぎる賃金」に問題があると考えました。

 離農間もない韓人は、不熟練労働者です。たとえば、100人の不熟練労働者が同一労働市場に存在し、その中の10人が失業者や求職者であったと仮定します。この場合、少数派である失業者や求職者によって不熟練労働市場の賃金相場が左右されます。土方の相場が1円だとすると、失業者や求職者はとにかく働きたいわけですから、それを90銭でもやる人が現れます。1円で働いていた人は、失業の危機にさらされます。不熟練労働は代替が容易だからです。もともと1円で働いていた人が、90銭で働かなければ、就労を確保できなくなり、その賃金相場が下がる場合があります。そして再び失業者や求職者は、それよりもさらに安い労働力の提供者となって賃金相場を下げることが予想されます。結果、朝鮮労働市場での「低すぎる賃金」が維持・強化されたと考えます。

 この議論の前提となるのは、不熟練労働市場における失業者や求職者の存在です。それは、工業都市への人口集中や移民などによる過剰労働力を背景にしていると考えました。私が、注目したのは、植民地朝鮮に進出した山東省を出身地とする中国人移民労働者の存在でした。朝鮮総督府は、中国人移民労働者の朝鮮入国を規制しませんでした。1922年の朝鮮総督府調査では、在朝中国人人口は、約3万1千人です。それが8年後の国勢調査では、約9万2千人に増加しています。しかし、中国人移民労働者の実数は、正確には管理できなかったと思います。何せ陸路と海路から続々と入国してくるのですから。彼らの絶対多数は不熟練労働者でした。朝鮮総督府は、韓人は大日本帝国臣民なので、外国人である中国人の雇用が増え、韓人が失業するという状況を好みませんでした。だから、再三再四にわたり、在朝日本人経営者に中国人を雇ってはいけない、という通達を出したり、何人までは雇ってもいいといった割合を決めたりもしましたが、当局の思う通りにはなりませんでした。彼らが韓人よりも低賃金で働くからです。不平不満をいわずに。移民労働者の特性ともいえます。彼らには帰る郷里があるから、「低すぎる賃金」でも我慢して働くんです。食費などの生活費を抑えて残った金を郷里に送金したのです。低賃金を武器とする中国人移民労働者の朝鮮労働市場への進出は、韓人の雇用を脅かし、あるいは雇用機会の減少をもたらしました。とくに、その傾向は、離農間もない農民が就労可能な朝鮮不熟練労働市場において顕著であったと考えます。そのことが朝鮮の「低すぎる賃金」を維持・強化しました。結果、韓人の一部が相対的に高い賃金を求めて日本への出稼ぎを選択した、というのが私の仮説です。


日本不熟練市場での被差別部落民と在日韓人との競合

(友常) そういう要因が重なり合って在日韓人が形成されたのですね。そして日本の労働市場の中で彼ら自身の特性を形成していくことになるんだろうと思います。では、先程おっしゃった第一の論点、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題とは何でしょうか。

(河) 従来の定説を要約すると、戦前の日本における韓人の急増は、新たな労働問題を引き起こした。韓人が低賃金を武器としながら日本労働市場に進出したため、日本人労働者が失業の脅威にさらされたからです。日本人労働者が、自己の雇用を守るためには、低賃金や長時間労働を甘受しなければならなくなった。そのことが結果として、戦前の日本労働市場における低賃金の維持・強化につながった、というものです。

 しかし、韓人の日本労働市場進出によって失業の脅威にさらされた日本人労働者は、一部であって全部ではない。渡日した韓人の大部分は、工業労働経験が全くない不熟練労働者でした。能力的限界を否定できない韓人が、日本のあらゆる労働市場に進出することは不可能であったはずですし、日本人の熟練労働者が韓人の急増によって失業の脅威にさらされることは稀であったと考えます。

 戦前の韓人移民労働者問題は、日本における外国人労働者問題の嚆矢とみなすべき歴史的事例問題です。研究客体の特定なくして史実を明らかにすることはできません。そこで、韓人が進出した労働市場を下層労働市場と限定し、失業の脅威にさらされた日本人労働者は、いわゆる下層労働者、とくに被差別部落民であった、と主張しました。たとえば、1925年の中央融和会調査によれば、神戸の日雇い労働者の失業率は、韓人が24.3%であったのに対し、部落民はその二倍を超える52.8%でした。これは部落民が、韓人によって雇用機会を奪われた結果であったと考えます。

(友常) 近代の部落史の話の中で、先行研究の流れでいうと、たとえば、馬原鉄夫などがいった議論があります。部落差別は独占資本の形成過程の中で作られたもので、労働市場の中で低賃金構造のしずめ石として部落差別は作られている。おそらく同じような帝国主義下のしずめ石として植民地収奪にさらされて日本に強制的にあるいは半強制的に移住させられた韓人労働者がいる。それらが日本の資本主義の低賃金のしずめ石なるという研究の仕方は、60年代に支配的でした。そうではなくて、河さんの話ですと、下層労働市場だという限定がまずあるわけですね。全体の資本主義の構造というよりは、これは下層労働市場で発生している問題だ、そういうふうに問題を定義すると、戦後の移民労働者の問題にまでその視角というのは展開できるものだということになる。それは非常に重要な問題提起です。そのように、移民労働者の問題を考えるということが、同時に行動的特性の分析にもつながります。そこで研究客体としてのより踏み込んだ研究につながっていくと思います。しかしそういう意味で、移民労働者の問題を移動の合理性として立てていくのは、決してまだ支配的ではないですね。

(河) はい。少なくとも戦前の在日韓人を移民としてとらえるのは少数派です。また、在日韓人と被差別部落民とが、下層労働市場で競合したと言いきるのも、おそらく私が始めてではないかと思います。だからこそ、こうして私が、友常さんからインタビュ−を受けているんだと思いますが、いかがでしょうか。(笑)

(友常) おっしゃるとおりです。さて、被差別部落民と在日韓人との下層労働市場での競合の端緒は何だったのでしょうか。

(河) 中小零細企業が集積する工業地帯近隣の被差別部落での両者の混住です。ここからが第二の論点、つまり韓人が日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題となります。

(友常) 従来、韓人が住居を被差別部落や、その周辺に定着したことはよく知られていましたが、それも韓人の特性とみなしてよいのでしょうか。

(河) はい。一般の日本人下層労働者は、被差別部落には定住しなかったと思います。住所が被差別部落やその近隣だと部落民とみなされ差別される可能性があるからです。ただ、移民間もない韓人の場合は事情が異なります。日本の社会事情に疎いというか、被差別部落がどういう状況におかれているのかを知りませんでした。被差別部落やその周辺に定着することについて、一般の日本人よりも、抵抗感が少なかったと思います。たとえば、中央融和事業協会が、1925年から1935年まで、大阪府内の九ヶ所の被差別部落への新規移住者・約1千2百人の出身地を調査したところ、その七割強が朝鮮でした。

 被差別部落に移住した韓人古老に対して聞き取り調査を行ったのですが、自分は被差別部落だとは知らないで住んでしまった、気付いてみたら白丁がたくさん周りに住んでいた、というんですね。認識に若干ずれがありますが。(笑)だからといってそこを離れるわけではありません。その古老も、今日まで60年以上、そこに定住しています。

 問題は韓人の被差別部落流入経路です。韓人の目的は出稼ぎのための就労です。そこで彼らの就労経路から被差別部落流入経路を推論しました。戦前の京阪神行政調査によると絶対多数の韓人は、知人を通じて職場を斡旋してもらう個人紹介や個別的な就職活動による自己志願などによって就労しました。個人紹介は、紹介者と就労希望者とが同郷であるか否かという地縁を紐帯として実行されました。他郷出身者を紹介することが稀だったのは、出身地毎の反目や方言による言語の不通などが原因でした。済州島出身者は、とくにそういう傾向が強かったようです。

しかし、個人紹介は、移民当初から可能だったわけではありません。工場主の韓人紹介者に対する一定の信用に基づき成されたものであり、それは多くの場合、その工場での先駆的就労者=紹介者の就労実績によって培われたものであったと考えます。

(友常) 本書で先駆的就労者の就労経路を重視した理由はそこにあるのですね。

(河)はい。先駆的就労者の就労経路は、日本企業の朝鮮現地での労働者公募とそれ以外とに分類できます。朝鮮紡績と呼ばれた岸和田紡績は前者の典型でしょう。しかし、労働者公募は大戦後の不況により減少します。

 問題は後者です。就労先が定まらずに漠然渡日した無計画渡日者の就労経路です。彼らは時代が下るに連れ急増しました。山口県警特高課が、下関に上陸した韓人の所持金を調査したところ、約67%が五円未満の金しかもっていませんでした。次ぎなる行動は、労働予定地への移動ですが、彼らが購入した電車の切符を調べた大阪市調査から、その多くが京阪神に向かうことを知ることができました。阪神の企業による労働者公募が影響を与えていると思います。彼らが京阪神の目的地にたどりつくまで、小額の所持金は交通費や食費に費やされます。目的地に到着する頃には、無一文状態になりました。

 彼らは、住居と職場を確保しなければならない。両者は同時に併行して行われたと考えます。しかし、職場はすぐにはみつかりませんので、当面の雨露をしのぐ住居の確保が優先されましたが、所持金はすでに使い果たしています。しかも当時の京阪神大都市部の借家難は深刻でした。つまり韓人の大部分は、レイシズムニよる入居差別以前に無一文なのでまともな住居を借りることはできなかったのです。

 韓人の次ぎなる行動は大まかに二つに類型化できます。一つは、沿岸、河川、湿地などの公有地や更地の原っぱなどの私有地にバラックや堀立小屋を建てました。もう一つは、被差別部落やスラムへの流入です。私が、注目したのは、被差別部落に流入した韓人です。

 被差別部落には、韓人を新規の住民として呼び寄せる理由がありました。低廉な家賃です。日雇い労働に一日従事すれば払っていける額でした。しかも権利金も保証人もいりませんでした。被差別部落には、又借りや又貸しの習慣がありました。たとえば、六畳一間の賃貸物件を借りている部落民が、その中の三畳だけを他人に貸したり、納戸を貸していたのです。それは正常な労働市場から疎外されていた部落民が、低額所得者であったことと関係があります。部落民は又貸しすることにより家賃支出を軽減したのです。権利金や保証金が要求されなかったのはそのためです。また、被差別部落に住んでみるとスラムとは異なり食料品の物価が安いのも韓人にとっては魅力でした。商業者が部落民の低所得に合わせたからでしょう。

味噌、醤油、塩などの小売の量も低く設定されていたようです。さらに、被差別部落の周辺に屠場がある場合、日本人が食べなかった牛や豚の内臓をただ同然で譲ってもらえたと考えます。焼き肉のホルモンの語源が、ほおるもん、つまり捨てるものからきているという説もあります。このような経緯により韓人は被差別部落に移住しました。

(友常) それがどのように下層労使市場での部落民との競合と結びつくのでしょうか。

(河) 被差別部落内やその周辺に朝鮮部落が形成されますが、その形成には、ある条件が満たされなければならなったと思います。その近隣に不熟練労働者である韓人を吸収する下層労働市場が存在することでした。韓人無計画渡日者の最大の関心事は就職ですが、すぐには見つかりません。低賃金であろうがなかろうが、差別されようがされまいが、人は生きて行くために働いて金を稼がなければなりません。何のあてもない彼らは、住居近隣を徒歩で徘徊しながら、工場前に張り出された求人の張り紙を目安として、飛び込みによる自己志願を根気よく実行しました。ただ、そういう求職活動には体力的にはもちろん精神的にも限界がありますので、遠出は敬遠し、近隣の工場を物色したと考えます。

 韓人は工業地帯近隣の被差別部落に定着したのです。その近隣に下層労働市場が存在したからです。たとえば、ゴム靴工業の集積地・神戸市長田近隣の番町部落などです。また、中には、被差別部落そのものが、伝統的部落産業の集積地だった場合もありました。皮革業の集積地・大阪市の西浜栄部落はその典型でしょう。韓人不熟練労働者の就職活動にもっとも適したのが工業地帯近隣の被差別部落だったということになります。この条件を満たした被差別部落では、両者の混住が促進されました。そして被差別部落内やその近隣にいわゆる朝鮮部落が形成されていくのです。

(友常) 韓人が部落民が携わっていた労働のまねをする、つまり労働模倣が行われたという重要な指摘をなされていますが。

(河)私は、韓人無計画渡日者が、被差別部落に流入・定着した時点で、彼らの職業が決定されたと考えます。韓人が、先住部落民の生業を模倣したからです。つまり、先住被差別マイノリティの就労実績は、後からきた出稼ぎ目的の韓人に就労先の目安を与えたと考えます。少なくとも出自による差別が少ないということは解りますから。被差別者は就労の際、能力以前に出自による差別を受けるのではないか、という一種の恐怖感をもちます。出自を隠し通せれば良いのですが、現実は難しいようです。日本には、履歴書に書かなければならない本籍や住所から、出自を判断し差別するという悪しき習慣がありますので、被差別者は履歴書をできれば書きたくなかったと考えます。仮に、虚偽を書いたとしても本採用の際、戸籍謄本提出によって解ってしまいます。部落民はそういう事情にあったと思われます。韓人の場合は、本籍を日本本土に移すことを禁止されていましたから、「本籍 朝鮮」と書かなければならず、日本名を使い堪能な日本語を駆使して日本人を装ったととしても出自が解ってしまいます。また、履歴書を書くほどの経歴がないということや、無学のため漢字が書けないということも履歴書提出をためらった理由でした。

雇い主も彼ら被差別マイノリティがおかれている状況を知っていますから、本人が働きたいといえば、履歴書をださなくても、明日から来な、ということになります。被差別マイノリティにしてみれば、出自を理由として門前払いをくらわない、門戸が開かれた職場だったのです。韓人も例外ではありません。彼らの就労は、先住部落民の就労実績によって門戸が開かれていたのです。

 また、そこは彼らにとって働きやすい職場だったともいえるでしょう。同じ境遇の仲間がおり、差別されることが少ないという意味で一種の安心感のようなものがあったと思われます。余談になりますが、私は、阪神淡路大震災の直前まで、長田のゴム靴工業地域を調査していました。ある神父から聞いた話ですが、ベトナム難民が長田に定住し、ゴム靴の内職に従事していました。低賃金だし、一日中、部屋に閉じこもって不健康だからという理由で、神父が就職先を斡旋しました。しかし、みんなやめて、長田に戻ってきちゃう。みな一様にゴム靴の仕事がしたいという。どうしてだと神父が聞くと、月給になれていないので不安だという。ゴム靴の内職は、出来高制なので一日の労働量がわかりやすい。目に見える形で終われば、その場で金をくれる、というわけです。しかも同胞とベトナム語を話してベトナムの歌を歌いながら楽しく仕事ができる。疲れたら休めるのも良いということでした。まさにマイノリティ的感覚だとは思いませんか。移民当初の韓人は、同じ様な感覚をもっていたと思われてなりません。働いた分だけ金をくれるということが、魅力だったと思います。

(友常) 時間感覚につての階層差、近代的な時間というものを機械から疎外されているから長期的な展望で将来を考えたり、貯蓄したりする習慣を持たないからなんだと下層労働者をブルデューは説明するんですが、そういうふうにするよりもむしろ、不払いとか労働意欲の発生が感じられるような就業形態からの説明ができますね。

(河) 被差別マイノリティの立場からすれば、お金は嘘をつかないということになるでしょう。マジョリティと同じ権利行使を可能とする唯一の手段でした。被差別者として疎外感が強くならざるを得ない人間というのは、目に見えるものしか信じないという意味で実証的になります。毎日、働いた分だけの金をもらえるというのは、彼らに安心感と満足を与えます。月給というのは、移民間もないマイノリティには馴染まないですね。被差別マイノリティの生業が、現金商売に遍在集中するのは、そのためです。

(友常)水平社運動の昂揚も韓人の雇用を拡大したと指摘されていますが、その点いかがでしょうか。

(河)中小零細企業が部落民を低賃金および長時間労働で使用したのは、それが企業存立上の絶対条件だったからです。経営者からみれば、通常の労働市場から閉め出されている被差別部落は低賃金労働力の安定した供給源であり、しかも不況の際には容易に解雇できる従順な労働者とみなしていたと思われます。ところが、1920年頃から事情が変わります。労働運動が昂揚したからです。1922年には水平社が創立されました。それは、下層労働市場で低賃金を甘受させられていた部落民の労働者としての権利意識を高めました。逆に、そのことは中小零細事業者にとって、最大の不安だったと考えます。組織的な労働争議へと発展していきますから。けれども低賃金労働者は確保しなければなりません。

ちょうどその頃、比較的権利意識の低い新たな被差別マイノリティが、工場近隣の被差別部落やスラムに流入し、自己申込みによる就職活動を開始したのです。植民地民族の韓人は、中小零細業者から、部落民よりも低位な階層、従順なる低賃金労働者とみなされ代替労働力として利用されたと考えます。その目安になったのが、両者の労働運動に対する国家・社会的許容度だったと思われます。韓人による組織的労働運動は、朝鮮独立運動と結びつく可能性が高く、実質的に内政問題にとどまるものではありませんでした。内務省や特高によって徹底的に弾圧されたのはそのためです。もちろん水平社運動も弾圧されましたが、それは内政問題にとどまる性格上、ある程度は許容されていたと考えます。そのことは中小零細業者からすれば、彼らを雇い入れる際の判断基準になったと思われます。当時はいずれの工場においても労働争議は現実性を帯びていたからです。つまり、部落民よりも抑圧されていた韓人を雇うほうが、労働争議のリスクが少なかったのです。結果、部落民の雇用機会は減少し、韓人のそれは拡大されたと考えます。


京都における被差別部落民と韓人

(友常)その際の仕事をかなり詳細に調べられていますね。京都の場合だと西陣織と友禅染。それが在日韓人と部落民に多いと部分的にはいわれていましたが、河さんの本で論証されたと思います。

(河)京都は被差別部落が多い地域です。戦前の京都市調査によると、三條部落では、韓人排斥運動がおこり、彼らを新規の住人として受け入れなかったと報告しています。しかし、それは例外で、大部分の被差別部落では、韓人を新規の住民として受け入れました。

 戦前の在京韓人の典型的生業は、西陣織りや友禅染めなどの織物染色工、土方、ボロチャンサと呼ばれた屑生地回収業、その他となります。それらの生業は、韓人がいずれの被差別部落に流入・定着したかによって決定されたと考えます。たとえば、養正部落流入者は友禅染めに、崇仁部落流入者は土方に従事しました。それは韓人が、先住部落民の生業を模倣した結果であると考えます。一世による労働模倣は、二世、三世に引き継がれます。彼らは親や親戚、同じ地域に住む先輩や知人の生業に従事する場合が多いことが解りました。多くの場合、養正部落の二、三世は友禅染工業に、崇仁部落の二、三世は土方にそれぞれ従事したのです。

(友常) 友禅染工業での部落民と韓人との関係をどのようなものだったのでしょうか。

(河)京都の友禅染工場は、室町の問屋街に近い堀川を中心に集積していました。しかし、1924年に京都市都市計画により工業地域が指定され、友禅染業者は、移転せざるを得なくなったのです。しかし、工業地域ならどこでも良いということではありません。友禅染めの特徴は、織物生地への後染めです。多品種の染料によって染色し、蒸し箱に入れて密閉し、蒸気で蒸します。これを蒸しといいますが、夏は地獄の暑さだったといわれています。この蒸し業を担ったのが韓人でした。その後、染め生地の表面に附着させた色糊を流水で洗わなければなりません。これを水洗といいますが、川を利用して行われたため冬が苛酷でした。その作業には大量の水が必要です。

1920年の後半から、この水洗業を担ったのは韓人でした。日本人の心の故郷といわれる京都の風物詩として観光の目玉にもなっていた友禅流しを想起して下さい。それは、実は被差別マイノリティによって担われていたのです。また、友禅染めは生地が10メートルを超えるものもあり、水洗後にそれを乾かすために広い場所も必要となります。設備投資をせずに両方の条件を満たせるのが、川の側ということになります。堀川を追われた友禅染め業者が、太秦や高野・一条寺などの川の近隣に移動したのはそのためです。京都の場合、川の側には、被差別部落があります。その中の一つを調査しました。

(友常) 洛北と呼ばれる高野・一条寺近隣の養正・田中部落のことですね。

(河)はい。戦前に田中部落に移住し、戦後、友禅染めで成功した韓人古老は、1920年代後半には、すでに韓人の蒸しや水洗業者が存在したと証言しました。京都商工会議所による友禅染調査も同様の指摘をしています。問題は、彼らの就労経路です。京都の友禅染め工場が、朝鮮現地に赴き労働者を公募したことはありません。ただ、来京間もない韓人が、いきなり事業主になるとは考えられません。その先駆的就労者は、飛び込みの自己申込みによって友禅染め工場に就労した無計画渡日者であったと思われます。彼らは何年か勤務する過程でスキルとノウハウを修得し、独立したと考えます。

しかし、徒弟制度を採用している友禅染工業界では、最低でも三年間は、運搬や掃除などを担当する追い回しと呼ばれる下働きをしなければなりませんので、韓人の先駆的就労の嚆矢は、早くても1920年代前半ということになります。

私は、被差別部落に移住した韓人は、先住部落民の生業を模倣したという仮説を主張しています。その大前提となるのは、田中部落の先住部落民の洛北友禅染め工業への就労実績です。

(友常) 聞き取り調査から有効な証言を得られたのですか。

(河)だめでした。私は、聞き取り調査に関する限り、韓人問題よりも部落問題の方が困難だと感じました。とくに、一般日本人は口を閉ざします。たとえば、友禅染会館の職員に、韓人の友禅染工業就労について質問したところ、戦前の友禅染めには、半島の方が多く携わっていた、と躊躇なく答えてくれましたが、部落民はどうか、と質問したところ、一瞬顔色をかえ、忙しいので、といって逃げるように立ち去ってしまいました。

そこで京都部落史研究所などを利用して資料収集に尽力したところ、『大阪朝日新聞』や『京都日々新聞』などから、1930年頃、洛北友禅染工業界で起こった労働争議に、田中水平社が関係していたことを知りました。つまり、田中部落の部落民は、洛北友禅染め工場に就労していたのです。

次ぎに、問題となるのが部落民の先駆的就労時期でした。それは京都市民政局『友禅労働者の実態−京都市養正地区における調査』から、1918年以前であったと推論しました。つまり、部落民は、韓人よりも早い時期から洛北友禅染めに就労していたことになります。田中部落の典型的生業は、土方と廃品回収などでしたが、一部とはいえ、友禅染めに従事する部落民が存在したのです。就労者数よりも、部落民が皮革や靴などの伝統的部落産業以外の新しい業種に雇われたという就労実績が重要なんです。それは後身の被差別部落民の雇用機会の拡大をもたらしました。そういう状況下で韓人が田中部落に移住してきたんです。

彼らに、幸いしたのが、加茂川や高野川に近接する田中部落の自然環境でした。職を求めて転々としたであろう初期の韓人無計画渡日者は、加茂川や高野川で行われていた部落民による水洗作業を目撃し、その就労を知ったと考えます。部落民であっても出自を問われず採用されるという事実は、韓人に希望を与えました。彼らは部落民の生業を模倣すべく洛北友禅染工場に自己申込みを行い、その中の一部が採用されて先駆的就労者になったと思われます。戦前から田中部落に定住している元友禅染工の韓人古老に、その就労理由を尋ねると、家から近かったから、と答えています。つまり田中部落から、友禅染め工場が移転した高野・一条寺までは徒歩で移動可能な通勤圏だったのです。その古老は、無計画渡日者でしたが、職業に特別な希望をもっていたわけではありません。生きていくために、働き場所を求めて徘徊し、飛び込みによる自己志願を行ったのです。

(友常)西陣織りはいかがでしょうか。

(河)西陣織りには独特な賃機制度があります。西陣織手は、親方と呼ばれる家内工業者との間に徒弟関係を結びます。親方も織元に従属し、生産材料の大部分を依存しなければなりませんでした。移民初期の韓人は、住み込みの織手となり、宿舎と食糧を確保したと考えます。

 西陣は、商業資本家に支配されている囲いのない工場のようなものでした。そこには「出機有り」とか「織手募集」いう求人張り紙が出ていました。それを目安にした自己申込みによって先駆的就労が可能になったと考えます。西陣織手であった韓人古老によると、職を探して西陣を歩いていると「織手募集 但し内地人に限る」という張り紙に憤慨し、それを「織手募集 但し朝鮮人に限る」書き換えて乗り込んだそうです。親方は、彼を一瞥して張り紙を見なかったのか、帰れ、と怒鳴ったそうです。すると彼は、みてきた、と書き直した張り紙をつきつけました。親方は、あきれたようです。彼は、まじめに働くから、一度でいいから雇って判断して欲しい、と懇請したようです。

結局、親方がおれ、様子をみようということで、何とか、住み込みで働けることができるようになります。たとえ与えられた部屋が南京虫がたくさんいるせまくてきたない部屋であっても屋外よりはましだったのです。その古老は、はえのたかっている腐った飯を食わされたと証言しています。けれども飢えるよりはましだったのです。もちろん自己申込みを行ったすべての韓人が雇われたわけではありません。中には、すぐに辞めさせられる人もいました。しかし、辞めさせられなかった韓人は、親方との間に信頼関係を築いたようです。彼は先駆的就労者となり、同郷の韓人の就職を斡旋することが可能となります。親方は、朝鮮人だけどあいつが紹介するならまちがいないだろう、ということになったようです。このように、先駆的就労者の就労実績に基づいて次々に同郷の韓人が雇われて行ったのです。

(友常)不熟練労働者であったはずの韓人が、何故、西陣織りに従事できたのでしょうか。

(河)西陣織の技術は六ヶ月あれば習得可能な簡単なものだったからです。とくにビロ−ド生産は簡単でした。伝統的部落産業である下駄製造業者との関連が深まります。在京韓人は、下駄の鼻緒を作ることになったのです。奈良の被差別部落民の下駄業者との関係が深かったようです。

(友常)戦後も両者の関係は継続したのでしょうか。

(河)はい。敗戦直後、韓人は解放国民となり、いわゆる治外法権と類似の状況におかれました。たとえば、韓人が京都駅前のヤミ市で活動したとしても、京都府警はそれを取締まることはできませんでした。ヤミ市は、日本人、韓人を問わず野心的な人たちにとってまたとない経済的機会でした。部落民も同じです。物を作れば高値で売れるのですから。しかし、部落民は日本人ですので、警察に摘発されます。そこで部落民業者の一部は、韓人との関係を一層深めていったようです。西陣織手だった韓人古老によると、奈良の部落民下駄業者が、奈良県警に捕まった際、特別親しい関係でもないのに身元引受人として助けに来てくれと懇請され、助けてあげたそうです。


神戸における被差別部落民と韓人

(友常) 神戸の場合は、どうでしょうか。

(河)戦前の神戸市調査によると、韓人が流入した被差別部落は、葺合の新川部落と林田の番町部落です。新川部落の韓人は、土方や仲士といった屋外肉体労働従事者が多かったようです。新川部落民の生業を模倣したものと考えます。

 問題は番町部落流入者の生業です。もともと番町部落の生業は農業でした。それが神戸のマッチ工業の勃興により変化します。初期のマッチ工業は、かなり危険な作業で、囚人の労働としてスタ−トしました。やがて囚人による製造は廃止され、零細な民間業者が群生します。その際、重要な役割を担ったのは華僑商人でしたが、その説明ははぶきます。 零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもマッチ工業は労働集約型工業であり、利潤の根源である量産を生産手段の機械化に求めるのではなく、もっぱら低賃金労働力の確保に求めました。ですからマッチ業者の成功は、低賃金労働力の確保如何にかかっていたのです。そこで彼ら零細業者たちが注目したのが、番町部落の部落民でした。低賃金で雇えるからです。新興マッチ業者たちは、低廉な部落民労働力を求めて番町部落近隣に工場を建設したのです。そして部落民も、それに応えるかのようにマッチ工になりました。

(友常)マッチ工業は、神戸に限らず明治30年くらいから部落の生業となります。硫化硫黄を使いますので大変危険な作業でしたが、職業選択の自由を奪われ、生きて行くためにはどんな危険があっても、またどんなに安い賃金でも働かざるを得なかったと思います。

(河)このような経緯により、林田はマッチ工業の集積地となります。番町部落の生業にマッチ工業が加わったのです。少数ながら韓人のマッチ工も確認されています。部落民の生業を模倣したと考えます。

 しかし、大戦終了後、スウェーデンマッチが市場を席巻し、日本のマッチ工業は苦境に立たされます。とくに、零細業者が多かった林田のマッチ工業は深刻でした。大部分が廃業に追い込まれます。当然、部落民の失業者も急増しました。この苦境を救ったのが、新たな産業として台頭したゴム靴工業でした。その嚆矢は、奈良の部落産業で修業した後、林田にもどって開業した部落民業者であったと私は考えています。前述したように、零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもゴム靴工業は、マッチ工業同様、労働集約型工業です。当然、新興のゴム靴工業者は、低賃金労働力を希求します。林田にゴム靴工場が群生したのは、衰退したマッチ工業から大量の低賃金労働力を吸収することができるという目論見があったからだと思います。また、マッチ工場からゴム靴工場に転業する業者もあらわれました。結果、マッチ工から、ゴム靴工へと転職する部落民が続出したのです。

 ちょうどその頃、番町部落には新たな被差別マイノリティが増加していました。韓人です。番町部落に流入した韓人無計画渡日者は、近隣の林田ゴム靴工業地域、現在の長田を徘徊し、求人の張り紙を目安に飛び込みの自己申込みを行ったと考えます。そしてその一部はゴム靴工業に就労しました。それを容易にしたのは、番町部落の先住部落民が、すでにゴム靴工業に就労していたからだと考えます。


大阪における被差別部落民と韓人

(友常)大阪はどうだったのでしょうか。

(河)大阪は日本有数の工業の中心地ですが、中小零細企業の比重が高いことでも知られています。そのことは、大阪が潜在的に低賃金労働力需要が高いということを意味しています。1930年の第三回労働統計実施調査によると、被調査工場の六割にあたる562工場が韓人を採用しています。しかし、この調査は韓人の主たる就労先であった零細企業を調査しておりませんので、実際の韓人採用工場はそれ以上だったと考えます。韓人はありとあらゆる工場労働に進出しました。とくに、ガラス工業の窯業への就労は顕著でした。大阪市内の窯業労働者の3人に1人は韓人だったと報告されています。

 また、戦前の大阪は、スラムや被差別部落などの不良住宅地が多いことでも知られています。そこは京都や神戸同様、韓人の移住先となりました。京都や神戸と異なるのは、大阪の工場労働に積極的に従事したのが済州島人だったということです。済州島人は、朝鮮本土の人たちからは差別されていました。朝鮮本土の韓人は、彼らを作業服と比喩したといわれています。そういう人たちが大阪に一極集中し、工業労働に従事したのです。

(友常)部落民と韓人とはどのような関係だったのでしょうか。

(河)京都や神戸と似ています。まず、大阪の韓人も被差別部落に移住しました。そこには保証人も権利金もいらない廉価な借家があったからです。また、被差別部落内やその近隣には、韓人を容易に雇ってくれる下層労働市場が存在しました。そして韓人は、先住部落民の生業を模倣したのです。たとえば、西浜栄部落と三開部落の部落民が従事する職業には必ず韓人が従事しており、中には、その従事比率が部落民を上回るものもありました。とくにこの傾向は、工業において顕著でした。西浜栄では17業種中、10業種において、三開では18業種中、11業種において韓人の従事比率は部落民のそれを上回ったのです。先住部落民の職業模倣は、何も市内に限ったことではありません。たとえば、大阪府泉北郡信太村と八坂町の被差別部落に移住した韓人総世帯の三割に当たる80世帯が、部落民の生業であった人造真珠工業に従事しました。


韓人が就労した工場労働の共通点


(友常)韓人が就労した工場労働の共通点は何でしょうか。

(河)第一に、その大部分が一般の日本人が忌避する低ステ−タス産業だったということです。たとえば、京都の友禅染めといえば、百貨店で展示された高価な高級品というイメ−ジがあります。しかし、旦那衆と呼ばれた商業資本家や先生と呼ばれる図案作成者を除けば、生産者のステ−タスはそれほど高くはありません。戦前の韓人の場合、追い回しの奉公が終わると、蒸しと水洗の職人見習いになったようです。蒸しも水洗も工賃が相対的に安いわりには重労働なので、いやがられる仕事でした。何らかのアクシデントにより、完成品の色が落ちたり、傷ついたりした場合、職人がペナルティーを課せられ買い取らされるんです。さらに、戦前の京都では友禅染めに限らず、職人は極道商売といわれていました。たとえば、職人間の博打が盛んだったようです。花札はもちろん、シラミを走らせて早さを競わせたりしたようです。親方が賭場を開いて職人の賃金を巻き上げるということもよくありました。

(友常) 低ステータス産業だったいうのがポイントなわけですね。それは部落民と韓人とが競合する仕事にも共通しているように思います。

(河)第二に、工程作業が複雑で機械化に適さない労働集約型工業でした。また、季節や流行によって需要が左右されるため、大量生産にも限界があり、多品種少量生産にならざるを得ない工業でした。つまり大企業が参入しにくい業種です。そのためその生産を担うのは、中小零細企業ということになります。これら業者は資本力に限界があり、商業資本に従属せざるを得ません。商業資本主導により、生産工程毎の分業が促進され、小さな零細事業者が増加します。分業の促進は、作業を簡易化します。不熟練労働者であっても比較的短期間でその生産技術の修得を容易にしました。不熟練労働者であった韓人が雇われたのはそのためです。

 そして地域全体があたかも囲いのない工場になりました。京都の西陣、神戸の長田、大阪の西浜栄などはその典型でしょう。零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。分業が促進されて零細業者が増えれば増えるほど低賃金労働力需要が高まります。韓人は、その低賃金労働力需要に適応したと考えます。

韓人は、何故、被差別部落民との下層労働市場における競争に勝利できたのか


(友常)1920年代の段階で、被差別部落は収入が非常に不安定になっているという調査があります。不熟練労働に従事する部落民の構成比の変化も現れています。それは河さんの結論、つまり韓人労働者が京阪神下層労働市場において部落民と競合し、それに勝利したということです。それはいかにして可能となったのでしょうか。

(河) 戦前の韓人は、同種の労働に従事した日本人労働者よりも相対的に低賃金でした。にもかかわらず、戦前の行政調査は韓人の一部に余剰金が生じていると報告しています。それを郷里に送金したり、貯蓄したというのです。余剰金の多寡よりも、出稼ぎ労働者としての目的を達成できた人々が存在したという事実に注目しました。彼らの大部分は、単身渡日者だったと思われます。

 低賃金労働者であった彼らが、如何にして余剰金を生じさせたのかが問題となります。行政調査では、韓人の生活費が低いから、それが可能になったと推定していますが、それよりは、むしろ移民労働者となった彼らが、植民地朝鮮に進出した中国人移民労働者同様、生活費をあえて抑制したと理解すべきです。在日韓人の大部分は、日本に永住するために渡日したわけではありません。そこが部落民と違うところです。部落民は日本人ですから日本以外に帰るところはないんです。ですから生活費支出を抑制するにも限界があります。しかし韓人は、苦しくても、それは一時的なものであって、帰れる郷里があると考えたはずです。彼らは郷里の家族のために送金しなくてはいけない。だから日本での生活を切り詰めたと考えます。生活レベルに対する欲望は、在日歴が長くなるに連れ、徐々に芽生えてくると思うんです。それは定住によってもたらされた同化の所産です。

 韓人は多くの場合、下層労働市場での部落民との低賃金競争に勝ちました。大阪の西浜栄や三開の事例を見てみましょう。そこは、部落産業の皮革・製靴工業の中心地であり、その従事者の大部分が部落民でした。皮革・製靴工業は一般人の就労が稀であったという意味では、閉鎖的な労働市場を形成しており、そのことが部落民の雇用機会を保障したともいえるでしょう。ところが、相対的低賃金を武器とする韓人の登場はその状況を変えました。つまり、韓人移民労働者の皮革・製靴工業への就労によってもたらされた直接的効果は、相対的高賃金であった部落民の失業や雇用機会の減少だったのです。それが可能であったは、韓人が生活費の支出を押さえることができたということにつきると思います。移民労働者である韓人の行動的特性といえるでしょう。その際、重要な役割を担ったのが、韓人が経営した下宿業でした。たとえば、1923年の大阪市調査によれば、韓人下宿業は、一畳当たり2.17が住んでいることになり、押入も、縁縁も、台所も韓人であふれていたと報告しています。大阪市調査では、被差別部落民の密住実態が指摘されていますが、韓人は、それよりもさらに密住の度合いが高いことが判明しました。たとえば、1929年に実施された調査によれば、東成区中浜町の韓人の一戸当たりの平均居住者は、22.5人です。1928年11月の大阪市の一戸当たりの平均居住者が4.3人ですので、雲泥の差といわねばなりません。

 大阪市の西浜栄部落と三開部落でも比較しました。いずれにおいても部落民より韓人の方が密住の度合いが高かったのです。たとえば、西浜栄部落の場合、一人当たりの畳数が二畳以下の部落民世帯は、部落民世帯総数の35.○%であるのに対し、韓人は韓人世帯総数の62.7%でした。三開部落の場合、部落民世帯は41.3%であるのに対し、韓人は71.6%となります。このように、韓人は、混住者である部落民よりも、住居費支出を抑制していたのです。

(友常)その指摘も従来見落とされていた視点だと思います。本書では、生活費支出の抑制を韓人の行動的特性とみなしており、それを実行しうる者だけが、下層労働市場における低賃金労働力需要に継続的に適応することが可能であった、と主張されていますが、それはどういう意味でしょうか。

(河)求職出稼ぎを目的とする韓人は、何よりも就職を優先しなければなりません。彼らが進出できたのは、下層労働市場でしたが、その雇用は不安定なものでした。わずかな付加価値しか生まない不熟練労働は、新たな低賃金労働者の出現によって容易に代替されるからです。新たな不熟練労働者として、既存の韓人就労者の脅威となったのは、実は、新規渡来の韓人だったと思われます。彼らが就労を優先するあまり、すでに就労している韓人よりもさらなる低賃金を武器とし、その下層労働市場に進出しようとしたからです。日本政府が、中国人移民労働者の内地への入国を規制していたこともそういう状況をもたらした要因であったと思います。日本には、朝鮮不熟練労働市場で韓人離農者の前にたちはだかった中国人移民労働者というライバルが存在しなかったのです。

 雇用を脅かされた韓人の一部は、労働争議によってこれに対処しました。しかし、それは全部ではありません。既存の韓人就労者の一部は、生活費支出抑制に慣れていましたから、余剰金の形成にこだわらなければ、自己の低賃金をさらに低下させても生活することができました。つまり余剰金の額を一定の目安として、賃金をさらに下げることにより、その雇用を確保したのです。この韓人間のいわば生存競争が、その下層労働市場における低賃金のさらなる低下を促進しました。これが日本下層労働市場における低賃金構造の維持と強化をもたらした要因であったと考えます。そのことが結果として、韓人よりも相対的に高い賃金で、生活費支出の抑制に限界のあった日本人下層労働者、とりわけ部落民を失業の脅威にさらしたのです。


部落民と韓人との反目と今後の課題

(友常) 内部の識別についてはどうでしょうか。非常にインフォーマルな交渉関係があって、それは杉原達さんの『越境する民』でも指摘されている「対面関係」という視点にかかわります。河さんが指摘されているおもしろい問題としては、初期のレイシズムというものが近代社会で支配的になるとして、対面関係によるマイノリティ同士のレイシズムはイデオロギーとしてのあるいは公的言説としてのイデオロギーと少し違う。

 杉原さんが紹介されている例ですと、代書屋の例がでてきまして、済州島出身者を相手に代書屋が商売するということですが、やりとりがうまくいかないと、韓人が変な言葉を発して逃げていく。それはていねいに分析していくと、実は済州島の方言だったということがあります。これは落後の話なんですね。そのような形での対面関係が発生していた。先ほどのお話でも、内地人に限るというビラを書き換えていきますね。ねばり勝ちなのかもしれませんが、それでも発生する関係ですが、市場をめぐっては厳しい対立関係があったけれども、またそういう関係もあったということですね。その中で説明はされなくても、あいつは部落出身だとか、どこの出身だとかいうことがお互いにわかってしまう。そういうものが発生している空間は・・・・・・。

(河) 被差別マイノリティは敏感です。とくに、普段、出自を隠している人はその傾向が強いと思います。わかるんですね。相手の出自が。それを説明するのは難しい。感覚的なものだと思います。たとえば、西陣織り業者の中には、韓人もいれば部落民もいます。在日韓人業者は日本名を使っていますし、二世以降になると京都弁もうまいので、識別は困難です。部落民は出自を公表しません。ですからマジョリティの業者にはわかりません。けれどもマイノリティ同士は意識しているのです。交流はないんだけど、お互いの出自を知っているんです。

(友常) 京都では部落問題と在日韓人問題との一つの接点として「オールロマンス事件」というのがありました。ここでは触れませんが、当時の韓人と部落民とはどのような関係だったと考えますか。

(河)両者は基本的に避けていたと思います。喧嘩はしないんですけども、お互いに見下していたと思います。一部の人は連帯したかも知れませんが、それは少数派です。韓人、とりわけ一世は自分のことを両班の末裔だと信じていました。今は没落しているが血統的に正しいという確信があります。一世は、朝鮮の被差別民衆・白丁を部落民におきかえながら、乱暴な言葉を使えば「あいつらと自分は違うんだ」という優越感をもっていたと思います。部落民の方も乱暴な言葉を使えば「あいつらは植民地民族の二等国民だ」という優越感をもっていたのかも知れません。しかし、両者は反目していても社会経済的には結びついていました。このインタビュ−でふれたとおりです。

 また、両者は混住したのですから、生活面でも何らかの結びつきをもっていました。たとえば、田中部落出身の二世の韓人は、父親が食用の赤犬を捕また際、自分で殺さなかったといいます。部落民の屠殺業者に金を払って依頼したそうです。赤犬は彼の目の前で屠殺されました。その光景は、今でも忘れられないと証言しています。関西地域の被差別部落やその近隣で生まれ育った韓人は、多かれ少なかれ、そういう体験をしているようです。

(友常) 政策的な契機が入ってきて発生するイデオロギーがあると思いますし、またそれが介在しないである種やったりやられたりというルールがある世界では差別があっても、競合しても、共存する関係が対面関係の論理だと思います。差別があるわけだけれども、実体的にレイシズムになっていくということとは少し局面が違うということです。それ全部を同じ差別、レイシズムだと考えるとちょっと問題がありますね。

(河)在日韓人問題に関する限り、レイシズムのみを強調すべきではありません。在日韓人は差別されているといいながらも、実は、経済的活動は許容されていました。そうでなければ、ロッテ、大和製罐、平和、モランボンなどの企業は存在していません。もちろんそれは組織的闘争により勝ち取った権利です。けれども経済的活動すら保障されていないマイノリティが世界には存在します。韓国の被差別マイノリティ・華僑はその典型です。在韓華僑は、約1万8千人です。彼らは経済的活動を法制度的に規制されています。しかし、民族教育は保障されています。在日韓人とは対照的です。日本政府は、在日韓人子弟に対する韓民族的教育の保障には消極的です。基本方針が同化だからです。逆に、韓国政府は、在韓華僑子弟に対する漢民族的教育を保障することにより、同化を阻止しようとしています。中国人で中国語ができれば、海外で生活できるだろうということで民族教育を保障しているわけです。そのかわり華僑の経済的活動は規制します。日本とは逆なのです。彼らは韓国政府の思惑通り、海外に移住します。行く先は台湾が多いようです。しかし、台湾でも韓国語訛の中国語をしゃべるという理由で疎外されるようです。横浜中華街周辺にもそういう事情で日本にきた華僑がいます。

(友常) その視角はかなり有効だと思います。先ほどの「対面関係」という領域を設定されたということが河さんの議論で重要なところだと思います。エティエンヌ・バリバールなんかがいっているレイシズムというものとは違う差別の論理はあるんだけれども、共存関係の領域を設定できるということは、一枚板で差別を語るのではなくて、杉原達さんの議論でいうと、帝国主義国家をどう考えるのか、こちらからどう構成するのかということです。マイノリティに対する差別があるということが当たり前のことであって、それとどういうふうに向き合ったり、つきあったりしていくのかというとで問題を立てると、全く違うようなアイデンティティの取り方とか、マイノリティにとっての社会という考えがでるんではないでしょうか。
最後に、被差別部落民問題と在日韓人問題との方向性について、どのようにお考えですか。

(河) 被差別部落問題と在日韓人問題とは、それぞれの研究者に別次元の問題とみなされ、乖離してきたような気がします。それぞれの差別改善運動も同じ状況にあります。しかし、それは改善すべきです。両者は、日本における被差別マイノリティという点で、歴史を共有しているからです。とくに、過去の両者の歴史は総括しなければなりません。部落民や韓人、そしてそれを支えてきた日本人も、差別はいけない、差別をなくせ、と主張してきました。しかし、両者は、一部とはいえ、お互いを差別してきたと思うんです。

差別は誰にでも味わえる快楽です。自分が受けた差別を他人に転嫁することほど、気持ちの良い行為はないのかも知れません。また、両者には感情的にしっくりいかない事件があったはずです。田中部落で生まれた在日二世の人は、部落民は許せないといいます。彼が子どもの頃、同和事業の一環として田中部落に市営住宅を建設することになりました。そこに混住していた両者は、一時立ち退きの条件として市営住宅への優先的入居権を連帯して主張し、京都市と交渉したようです。彼はきれいな家に引っ越せると親から聞き楽しみにしていたそうです。しかし、彼の期待は裏切られました。市営住宅建設後、部落民は約束通り入居できたのですが、韓人は外国人であることを理由に入居を拒否されたのでした。結局、彼の一家は田中部落を離れました。彼は引っ越しのトラックの中で両親に、きれいな家に引っ越せないのは何故かと尋ねたそうです。すると両親は、白丁が裏切ったからだ、と答えたそうです。真偽はわかりません。しかし、少なくとも彼は傷ついたようです。そういう体験は、部落民の方もあるかも知れません。

ある韓人古老は、子弟教育のために、部落民の子女と同じ学区にならないよう引っ越したと証言していました。結婚の場合も反対されることが少なくありませんでした。このような関係は残念です。両者の歴史を総括した上で、お互いの差別意識に基づいた不幸な歴史を清算しなければいけません。そのためには、両方の研究者が共同で「在日マイノリティ史」なる歴史書を作成していく作業が必要です。難しいことですが、やらなければいけない課題であると思います。

(友常)聞き手としての私は今日は本当に勉強させていただきました。河さんの研究を踏まえて、部落問題と移民労働者問題の共同研究が確立できるといいと思います。本日はあがとうございました。
http://www.jita.jp/kawa/text/hyouron-1.html


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24. 中川隆[-12938] koaQ7Jey 2018年6月09日 11:58:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15094]

DavidBowie 1980 Japan CM - YouTube 動画
京都洛北西賀茂にある正伝寺で撮影されたCM。ボウイ自身が指定したとか。
https://www.youtube.com/watch?v=jUz75C9ay_Y

デヴィッド・ボウイの愛した京都/7分ダイジェスト【WOWOW】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=JHuj9vyA3O8

正伝寺
http://shodenji-kyoto.jp/
http://jpmanual.com/shodenji


京都市 北区 西賀茂 北鎮守菴町 72

正伝寺 - Google マップ
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%AD%A3%E4%BC%9D%E5%AF%BA/@35.062361,135.736923,15z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0xeda96e05403dbbe8!8m2!3d35.062361!4d135.736923?hl=ja


正伝寺 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%AD%A3%E4%BC%9D%E5%AF%BA

D・ボウイが涙した静寂(時の回廊)
正伝寺の枯れ山水庭園 京都市 2016/2/19
https://www.nikkei.com/article/DGXLASHC10H69_S6A210C1AA2P00/

 1月に死去した英ロック歌手のデビッド・ボウイさん(享年69)がたたずみ、涙を浮かべた寺が京都市北区の西賀茂にある。比叡山を借景にした枯れ山水庭園が美しい禅寺の正伝寺(しょうでんじ)だ。

比叡山を借景にする正伝寺の枯れ山水庭園

■焼酎のCM撮影

 ボウイさんは1979年12月、テレビCMの撮影で京都を訪れた。起用したのは宝酒造。中高年の男性の大衆酒というイメージの焼酎を女性や若者に浸透させようとした。大の日本好きで美的感覚の豊かなボウイさんに社運を託したのだ。

 「撮影場所は他の寺院を考えたが、京都通のボウイさんが指定したのは正伝寺だった」。当時の宣伝部次長で、後に同社会長を経て京都市副市長を務めた細見吉郎さん(79)は話す。

 鎌倉時代創建の臨済宗の正伝寺は、境内に別坊が6つある大寺院だった。だが明治初期の仏教排斥運動で別坊は全て消滅した。現在の正伝寺は昭和中期に開発されたゴルフ場に囲まれ、森の中にひっそりと立つ。

 細見さんは学生時代から25年間京都で暮らしていたが、この寺の存在は知らなかった。撮影に同行し「ボウイさんが正伝寺を指定した理由が分かった」。整然とした枯れ山水庭園やその先にそびえる比叡山の眺めに感動した。訪れる観光客は少なく、静寂に包まれていることも好印象だった。

 「撮影中にボウイさんは庭園を見つめ、涙を浮かべていた」と細見さんは振り返る。「景観に感動したのか、何か悲しい思いをしたのかは聞けなかった。繊細で純粋な人だった」と記憶をたどる。

 ボウイさんは「クリスタル・ジャパン」という曲をCMのために作った。自身が奏でるシンセサイザーの旋律や「純ロック・ジャパン」の宣伝文句の効果は大きかった。宝焼酎「純」の販売数量は80年からの5年間で11倍に増えた。

寺の縁側で思索する谷村さん=所属事務所のダオ提供

■谷村新司さんも

 正伝寺は音楽界の巨星を引き寄せる磁力を持つようだ。シンガーソングライターの谷村新司さん(67)も「自分と向き合う時間が持てる」と敬愛を示す。

 始まりは中学生だった60年代前半。京都好きの3歳年上の姉に「とてもいいお寺を見つけたよ!」と教わった。1人で大阪の自宅から地図を片手に電車とバスを乗り継いで行ってみた。里山の風情があり「山門にたどりついたときの感激は今も覚えている」という。

 高校・大学時代から今に至るまで「数えきれないくらい通っている」と谷村さんは語る。「冬の静けさは格別で、本堂の縁側に座っているだけで時間を忘れ、心が静かになっていくのを感じることができる」

 庭園は江戸初期に造られ、サツキの刈り込みと白砂の景観は昭和初期に完成。重文の本堂も江戸初期の建築で、伏見城(京都市伏見区)の遺構が移された。襖絵(ふすまえ)は狩野山楽の作。中国・杭州の西湖(せいこ)の景色を描いている。住職の山崎伝宗(でんしゅう)さん(67)は「比叡山を借景にした枯れ山水の庭園は趣がある。参拝者にわび・さびの禅の精神文化を感じてもらえれば」と話している。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASHC10H69_S6A210C1AA2P00/

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25. 中川隆[-13452] koaQ7Jey 2018年7月11日 10:31:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16471]

素泊まり1泊100万円 仁和寺の新ビジネス、最初の利用者は?
7/11(水) 7:00配信 NEWS ポストセブン



 世界遺産の仁和寺(京都市)が、斬新すぎるビジネスを始めた。なんと「1泊100万円」の高級宿坊を開設したというのである。
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 日経新聞電子版(7月4日付)の報道によれば、仁和寺が境内にあった「松林庵」という木造2階建ての古い家屋を1億5700万円かけて全面改修し、宿泊事業を始めたという。
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 宇多天皇が888年に創建した後、明治期まで皇子や皇族が代々住職(門跡)を務めた由緒ある名刹がなぜ“ナマグサ”に思える商売を始めたのか。仏教界に詳しいジャーナリストで現職の浄土宗僧侶でもある鵜飼秀徳氏はいう。
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「皇族や公家が住職を務めた門跡寺院は格式が高い反面、財政の柱になる檀家がいません。頼みの綱は拝観料ですが、少子化による修学旅行客減で拝観者数が低迷し、財源は先細っている。仁和寺の場合、文化財の修繕費用を確保するために、国内外で注目されている体験型の宿坊事業に目をつけ、さらに付加価値を加えたのでしょう」
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 ただ、インターネットで検索しても、1万1000円(1泊2食付き)という従来型の宿坊の情報のみで「1泊100万円」は見当たらない。「松林庵」が境内のどこにあるのかも、公式サイトに記載がないのだ。
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 仁和寺に問い合わせると、「あえてウェブサイトなどに案内は出していません」(管財課)と断わった上でこう説明した。
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「宿泊施設というよりは寝室を含めた『体験の場所』を提供しているものです。文化体験としてお坊さんの法話を聞くのも、御殿で宮廷ゆかりの雅楽やバイオリン演奏に耳を傾けていただいてもいい。
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 ただ100万円といっても、奏者を呼ぶのに必要な費用などは利用者に別途ご負担していただきます。食事や車は希望があれば、委託している会社を通じて手配できますが、最高級のベッドといったサービスはありません。超高級ホテルのスイートルームとは比較されても困ります」
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 驚いたことに“素泊まり100万円”だというのだ。
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「表には出さず、外国からいらっしゃる富裕層向けの通訳さんなど、口コミを通じて告知しています。といっても、年間100件、200件となると建物の傷みにもつながるので、正直なところ受け入れ人数はコントロールしたい」(同前)
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 ターゲットは企業の創業者など、「資産に余裕のある方」だというが、すでに利用した人物がいるという。
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「5月にいらした“第1号”は、ヨーロッパの有名な経済人でした。名前は明かせませんが、聞けば誰でもご存じの方です」(同前)
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 値段に見合う価値のある1泊となったのか、ぜひ聞いてみたい。
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※週刊ポスト2018年7月20・27日号


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26. 2018年7月22日 17:16:00 : ovSefYTfFM : ggUpwRQVi3k[2]
京都以外が田舎者ってことことだろう。

27. 中川隆[-13361] koaQ7Jey 2018年10月12日 02:40:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19126] 報告

金閣寺に足利義満が造成した幻の池 発掘調査で
10/11(木) 21:43配信 京都新聞

金閣や鏡湖池の南側で行われた発掘調査。写真手前側で南池跡の堤や建物礎石が見つかった(いずれも京都市埋蔵文化財研究所提供)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181011-00000050-kyt-l26.view-000


 京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)の発掘調査で、同寺や市埋蔵文化財研究所は11日、金閣に面した鏡湖池南側にあったとされる「南池跡」について、創建した足利義満が造成し、未完に終わった池だったことが分かり、同時期の礎石建物も近くで新たに見つかったと発表した。義満が晩年を過ごした「北山殿」では金閣のほか、国内最大級の北山大塔が存在したことがすでに明らかになっている。幻とされた南池跡の出土は、北山殿が現在の建物規模より大規模に造成されたことを裏付け、室町幕府最盛期を築いた権力者・義満の権勢を示すものという。

 金閣寺の境内整備に伴い、市埋文研が2018年8月までの約2年間、約840平方メートルを調査していた。

 南池跡では、池を囲うように東、西、南側に盛り土し、堤(高さ0・6〜1メートル、幅2〜5メートル、総延長170メートル)を築いているのを確認した。池内部や堤沿いに、直径6〜20メートルの島状の高まりが3カ所あった。遺物の出土状況から、北山殿が築かれた14世紀末ごろに造成されたとみられる。

 ただ、造成土からは防水のために施す粘土層が見つからず、周縁部に護岸石もなかったため、未完だったとみている。

 堤は15世紀後半ごろにかさ上げされ、高さ約2メートルの土塁のようになっていた。応仁・文明の乱(1467〜77年)で西軍の陣地になった際、防御用に造り替えられたのではないかとする。

 一方、南池跡の北東辺では、東西5・4メートル、南北6メートルの小型建物跡が出てきた。礎石13個が並び、正面方向で人目に付く東側柱や縁側には、30センチ四方に加工した白い花崗岩(かこうがん)を用いていた。土を固めて整えた舞台のような「三和土(たたき)」(東西10メートル、南北7メートル)が東南方向に広がっており、私的な空間として儀式などを行っていた可能性があるという。

 北山殿は、義満が死去する1408年まで約10年間を過ごし、政務を行う会所や御所もあり、近くに武家や公家、門跡寺院住職らも集住したと、貴族や僧侶の日記から推定されている。近年の発掘調査では100メートル級の高さとされる北山大塔の頂部分を飾った相輪が見つかっている。

 京都市埋文研は「今回見つかった大規模な造成跡や精密に加工された礎石から、義満の北山殿が想像以上に大規模な構造だったことが分かる。ただ、建物の配置や使い方に不明点が多く、文献に基づく検証を進めたい」としている。

 □京都産業大の鈴木久男教授(考古学)の話 南池は、北山殿をさらに拡張してゆく手始めとして造営したのではないか。金閣をよく眺められ、一番目立つ場所から着手したとみられ、義満が存命であれば水を張った池が完成していただろう。強大な権力を握った義満が築いた北山殿だが、今回見つかった礎石建物を含めて不明な点が多い。北山殿の全容を復元する上で、貴重な基礎的な資料が得られた。

 ◇足利義満と金閣寺 室町幕府3代将軍・義満は将軍職を息子・義持に譲ると、1397年に隠居所として「北山殿」の造営を始め、移住。武家に加え、公家や寺社勢力も従える強大な権力を握り続け、ここに海外貿易のために中国・明の使者を迎え、国内最大級とされる北山大塔の建築に着手した。1408年、後小松天皇の行幸後、突然死去して遺言により鹿苑寺になったが、金閣以外の多くは移築、焼失した。


コメント

nex*****
義満と言えば金閣寺も凄いけど、相国寺も凄いんだよ!当時にして100m級の塔が建立してあって天皇の御所を見下ろせるようになってた

cha*****
元々「北山第」は義満が全ての官職と地位を返納し、氏長者のみを手許に残し、政治の表舞台からは隠居したとのメッセージを世間に知らしめる目的で建造されたものとされています。

 がしかし、それはあくまで「表向きの事由」ではあっても、本質的には出家する形で現世(世俗全て)に対し超越的な権力を以て支配するとの意思を示していたともされています。

 あの北山第(きたやまだい、もしくはきたやまていと呼ぶ)にある「第」の文字が何を意味するかといえば、それは奈良時代の藤原仲麻呂の邸宅である「田村第」と同じ機能を発揮し、そこに天皇家に連なる人物がいた(若しくは立ち寄った)場所を意味します。

 北山第ならば後小松天皇の行幸がそれにあたります。言ってみれば、北山第は義満の御所でありプライベートな空間を同時に兼備させていたとの位置付けでしょうね。

g95*****
金閣寺は雪と緑の赤松、池の水面に映る冬景色がとりわけ美しいと思う。あの周辺に北山第が有ったのですね。公家の家や寺社までも!
当時としては、他を圧倒する壮大な景観だったのでしょうね。戦国の世になり、立ち去るものや焼かれたモノがあったり、様々でしょうが、
黄金の金閣はただ一つ残された歴史の証人なのかもしれない。



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