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こんな女に誰がした_1 (天皇陛下を恨んでね)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 3 月 20 日 22:30:40: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝 投稿者 中川隆 日時 2010 年 3 月 14 日 16:54:33)


日本女性への忠告  一米軍将校からの手紙

 1952年4月7日 読売 軽すぎる貞操観念 清浄な本来の姿に還れ

 私は日本占領軍としてこの国に駐屯している一米軍将校です。近く帰米するに当りどうしても日本の人々、ことに一部の助成にお話したいことがあります。

 私は日本に赴任以前はこの国のもつ伝統文化などに深いあこがれをもっていました。しかし占領軍の一員としてこの国に来たとたん日本女性の生き方と考え方について強い幻滅を感じました。この手紙に私が取り上げたいのは日本女性のモラルのことなのです。

日本は戦争に負けました。戦いをのろう日本人の心はよく理解出来ます。しかし日本の女性のみなさん、戦争中誤った指導によるとはいえ国を愛するがために戦った兵隊たちは皆あなたたちの父であり夫、兄弟、息子、そして恋人だったのではないでしょうか。戦闘を日本本土に近づけまい。妻、母、姉妹、そして恋人を戦いの中にまきこまぬよう必死に戦ったこの日本の兵隊は、南太平洋の孤島で、あるいはシャングルの中で傷つき、飢え、身を腐敗させて死んで行ったのではないでしょうか。

だがいま日本女性の多くはこの犠牲と言うべき男性に対して感謝の念を一片でも持っているのでしょうか。数千、数万の日本女性か終戦直後から現在まで、むしろ自分から進んで、喜んで外国兵の腕に抱かれ、戦いに勝ったために使えるわずかの品物、虚栄心の強い彼女たちには何物にもかえがたい品物なのでしょうか、そのために易々と肉体を売っているのです。私は職業的な特殊婦人のことよりもむしろ良家に育ち教養の日本女性がどんなに簡単に外国人に近よって行くかをこの眼で見てあえて苦言を呈するのです。

 彼女たちは羞恥の観念持っていません。戦後の欧州にももちろん同様な道徳的頽廃は起こりました。しかし“貞節”といわれた日本女性古来の美徳が忘れられてよいのでしょうか。もし戦死した日本兵たちがこのこと事を知ったなら“こんなことのために死んだのではない”と地下で泣き悲しむことでしょう。こういう彼女たちの態度は外国人に、“日本の女性はほとんど不義な肉体的快楽の対象物だ”と認識されているのです。そして数万の国連軍将兵は世界のすみずみにまでこういう日本女性の印象を持ち帰るのです。日本という国は品性も道徳もわきまえぬ動物的な女性ばかりの国だと。

 本当の日本の姿はそんなものではないことを私自身よく知っています。もはや独立国として面目を一新する日も近いのです。どうぞ日本の女性よ、一日も早く本来の姿に立ちかえり、富士山のような清浄な美しさを示して下さい。

東京にて一米軍将校 
http://www004.upp.so-net.ne.jp/imaginenosekai/yokota-letter.html


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1.こんな女に誰がした(パンパン編)__天皇陛下を恨んでね

 『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。

 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。

 この売春施設の目的は性のハケ口を設けることによって、占領軍がレイプ事件などを起こさないためにという「性の防波堤」とも言うべきものであった。が、実際は占領軍によるレイプ事件は日常茶飯事であった。

 さてRAAであるが、東京の大森を皮切りに各地に作られ全盛期にはそこで働く「パンパン」と呼ばれた女性は7万人を数えるようになった。しかしその後占領軍兵士が持ち込んだ性病が蔓延し、GHQは21年3月10日慰安所への兵士の立ち入りを禁止し、RAAは崩壊する。パンパンの彼女たちの多くは私娼となって街で客を求めるようになる。

 そのころ吉原はというと、戦時中に東京大空襲で焼け野原になるも政府の援助によってすぐに復興。そして終戦を迎えると、前述のRAAの慰安施設となる。

 GHQは占領軍のRAAの立ち入りを禁止すると同時に、日本政府に対して公娼廃止を求める。日本政府はこれを受けて公娼を廃止するが、実際は特殊飲食街を指定しその地域内での売春行為は取り締まらないようになった。これが「赤線」の始まりである。

 赤線地帯は吉原や新宿二丁目など戦前は貸座敷があったところが指定され、風俗営業取締法(以下風営法)によって「カフェー喫茶」などが営業されていた。この「カフェー喫茶」であるが、もちろん「喫茶」といってもただ単にお茶を飲むのではない。かつて花魁として働いていた女性が今度は女給という呼称で売春をしていたのである。その後赤線は朝鮮戦争の特需景気により営業する店が急増した。そのころの泊まりの料金は1000〜3000円。

 赤線が一応風営法というかたちで許可をとっていたのに対し、その許可を取らないで売春行為をしていたのが青線である。青線は表向き料理屋の形をとっているが客と交渉が成立したときは店を閉め売春をする。青線のほうが基本的に価格は安く、比較的所得・階層の低い人が利用していたと言う。

 しかし、赤線・青線地帯もやがて崩壊する。昭和33年4月1日売春防止法(以下売防法)が施行される。これはこれまで黙認してきた売春行為を禁止するものであった。なぜこの次期に売防法が公布・施行されたのか。それは日本が国連に加盟するためである。国連は昭和24年「人身売買及び売春行為の搾取禁止のための条約」を決議しており、国連に加盟するためには娼婦をなくすことが必要であったからである。

 売防法について、赤線で働いていた女性は猛反対していた。もし赤線がなくなれば彼女達は生きる術を失うことになる。政府は何も生活の保障や仕事の斡旋などはしてくれない。東京では「東京都女子従業員組合連合会」を結成し、売防法に反対するビラまきなどを行った。

 しかしながら売防法は施行され、そして吉原をはじめとする赤線地帯は消えていったのである。職を失った女性たちは、厚生施設に通い手に職をつけようとした者もいたが、白線・黒線と呼ばれる結婚相談所の形をとった売春組織で働く者もいたし、それ以外の性風俗で働く者もいた。 
http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html

赤線地帯 溝口健二監督 撮影・宮川一夫

出演者 若尾文子
三益愛子
町田博子
京マチ子
木暮実千代
http://www.youtube.com/watch?v=vBE4favGFZw&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=0&playnext=1
http://www.youtube.com/watch?v=CnfoMLE1uvc&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=1
http://www.youtube.com/watch?v=CsE9BH31D0c&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=2

http://www.youtube.com/watch?v=K_bfxPVbEZs&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=3
http://www.youtube.com/watch?v=oo54ArDnCxc&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=4
http://www.youtube.com/watch?v=9ZFbsOfFqiA&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=5

http://www.youtube.com/watch?v=zCBAQZWKGQM&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=6
http://www.youtube.com/watch?v=sdeSrCGqrvI&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=7

「戦争が終わってアメリカさんが来たら、素人さんを守ってくれ、防波堤になってくれなんて、いーい調子でおだてられちまってね」というセリフ!

映画のラスト。初めて吉原の店に出る生娘の少女が、ようやくのことで男を誘う呼び声を出すが、すぐに柱の陰に隠れてしまう。

彼女は、これから男に体を売って生きていかなければならない。その未来の始まりが映画の終わりだ。何という終わり方!

また、それが溝口監督の映画の最後のシーンになった
http://bojingles.blog3.fc2.com/blog-entry-682.html

記録映画「赤線」  官許遊郭の実態
http://www.youtube.com/watch?v=WOZEV7sh_TU&feature=related

赤線
http://www.youtube.com/watch?v=Czjvt2wB3Z8

記録映画『赤線』・ネオンきらめく吉原 1958
http://www.youtube.com/watch?v=w3b6A9fxSE0&feature=related

記録映画『赤線』・東京パレス(小岩) 1958
http://www.youtube.com/watch?v=tM45aDtaU-4&feature=related

記録映画『赤線』・洲崎パラダイス 1958
http://www.youtube.com/watch?v=I9iF39c-Hdk&feature=related


怒れる占領軍を親日家に変えたこの手腕__昭和天皇は偉大だった


昭和天皇は主席検事キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った(?)。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

田中隆吉は、すぐに、主席検事キーナンに親しいボディーガードとなった。二人は、両者に共通するフランス語を使い、田中はバーボンをあたかも「特級酒」ように楽しむことを覚えた。田中が出版した回顧録によれば、キーナンは田中を日本暮らしのガイドのように使った。

もし、キーナンが女性関係を望んだ時は、彼はただ会話に「Je suis fort. (私は強い)」 とだけ言えば、田中は電話をかけてその段取りをととのえた。

実際、田中は何事にも明るく、靴を脱ぐのを嫌うキーナンが、靴のまま畳の間に入り込んでも問題を起こさないような、そんなくつろぎの場をも手配した。キーナンは、アメリカ人将校と日本の上流婦人との間の関係を良しとしていなかった。彼はよく言った。

「私もちょっとしたあそびは好きだが、素人に手を出したりはしない。それはよくない。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm

マッカーサーの部下職員の宿泊所として徴用された旧東京記者クラブでは、22人のメイドと電話交換手が、夜、そうした職員の部屋で過ごしているところを発見された。占領後半年までに、少なく見積もっても、半分以上のアメリカ軍将校たちが日本人の愛人を持つと見られていた。

 10月、幣原内閣が発足しようとする頃、特殊慰安協会はその供給について、下士官と将校を分離し、50万人の占領軍全体がすべて同じように魅力的なサービスが受けるのは難しいと強調し始めた。そしてその日より、下士官には下級のホステスバーが、兵卒には「ウィロウ・ラン」となり、上等な老舗旅館は将校向けとなった。つまり、もはやだれもが十分に満足しえるものではなくなっていた。

みごとな庭園を持つ豪奢な別荘の幾つかにはアメリカ式浴室が設けられ、そして人々の視界からは消えた。米軍士官にもっとも人気のあったのは、東京中心部のネオン街にある、招待客のみを受け入れる、プライベートクラブだった。

 そうしたクラブの筆頭が「大安」で、裕仁の弟、海軍大佐の高松宮の親友、安藤明が経営しており、戦時に便乗して暴利を稼いできていた。

トラック運送あるいは建設業界のボスとして、最初の占領軍の着陸に際し、厚木基地のまたたくうちの修復工事を成し遂げて名を売っていたのが安藤だった。

そのクラブ「大安」では、米軍の高級将校に、活発で英語の話せる貴婦人を紹介し、夜ごと、その記念にと、御木本の真珠のネックレスが贈呈されていた。

彼の気前の良い商風は、幾度も彼を倒産の崖淵に追い込んでいたが、地下商売で大当たりを上げては再起していた。そして最後に短期の刑務所暮らしをした後は、引退して安楽な生活を楽しんだ。

 そうしたクラブとは別に、内閣官房楢橋渡や東久邇元首相の別荘では、極めて興味深い享楽が繰り広げられていた。東久邇のパーティーの様は余り記録に残されていないが、楢橋のそれは、見るからに露骨な誘惑そのもので、今日。老いたアメリカ人将軍たちが当時を思い出して顔を赤らめるものとなっている。

楢橋は熱海に別荘をもっていた。熱海の入江や山々、そして名高い温泉やホステスたちと、当地はその持ち味をあえて強調する必要もなく、かつ、楢橋は名うてのもてなし上手だった。その裕福な弁護士は、戦争中、北京で最大かつ最も儲けの良い情報収集源ホテル〔北京飯店〕を経営していた。

その彼の部下の鳥尾〔鶴代〕子爵夫人が、コトニー・ウィットニー准将に仕える将官〔民政局次長チャールス・ケーディス〕の愛人となった。ウィットニーは、連合軍最高司令部民政局を動かし、日本の法制改革の草案作りをしていた。その元ホテル経営者の楢橋は、自分と自分の「貴婦人」たちが、最後にはウィットニーの部下たちすべてを「とりこ」にするだろうと豪語していた。

 性的わいろに加えて、さらに特異な投資機会も存在していた。

マッカーサーの会計担当ハロルド・R・・ルース大佐は、占領軍将兵たちは、毎月、支払われる給料より800万ドルも余計に故国に送金をしているとの報告を行った。

日本人が中国から略奪してきた数々の骨董品は、日本産の秘蔵品とともに、米国へ送られる雑のうの中に入れられていた。

天皇の叔父、東久邇宮自身も骨董業を手がけ、後になって、要職にあるアメリカ軍士官たちに安売りし過ぎて破産したと、よく語っていた。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm

8月15日の降伏の日、近衛宮は警視庁長官、伴信也を呼んで言った。「我々は日本の娘たちを守らなければならない。特に君にはそれを理解してもらいたい」。用意周到な中産階級の人々は、女たちを山中に隠れさせ、いざという時のために青酸カリ剤を持たせていた。

スラム街には、貞淑であろうとする権利も、国を思って自ら愛国者であろうと考える暇すらも与えられたことのない数千人の女たちが残されていた。今や、そうした女たちの出番であった。

伴長官は、東京の主要な娯楽業界――旅館、レストラン、麻雀荘、お茶屋、バー、売春宿など――の代表を招集した。

8月23日、こうしたお歴々によって、連合軍下士官のための「特殊慰安施設協会」が設立された。この団体は、勧業銀行による二百万ドル相当の株発行を資本とし、その株券は天皇の友人たちに販売された。数週間のうちに、同協会は、東京で33個所、地方で5個所、そして二つの婦人専門病院での事業を始めた。 

また同協会の別事業として、東京下町にあった軍需品工場がホテルに改造された。刀を鍬に作り直す事業などより、はるかに儲かるビジネスだった。

後にこの施設が最終的に廃止されるまでに、 「ウイロー・ラン」 と呼ばれたその工場は、250人の女たちによる生産ラインを持ち、一日に平均3,750人の兵士たちを受け入れるという生産高をあげた。

 特殊慰安施設協会とその付属組織は、 「一年一円」衆と称して天皇に仕える工業界人団体によって支援され成長した。

この団体は、化学、海運業界の重鎮であり、過去十ヶ月、和平派に属し、木戸内大臣と幾度も会談を重ねてきた、山下太郎によって組織、統率されていた。山下とその賛同者は、二億円、およそ1,400万ドルの基金を集め、天皇に献上した。

この贈呈が、その受け入れに木戸内大臣が二日を要したところからみて、何らかの見返りが要求されていたことが伺える。


 山下と 「一年一円」衆が引き受けた仕事のうち、最も難しかったものは、マッカーサー及びその側近との間の連絡業務であった。

宮中のご婦人たちの助言によれば、無能な国内警察による通訳用務が放棄され、外国語に通じたそうした国際経験ある婦人たちがそれを代行するようになれば、連合軍司令部との関係ははるかに円滑になる、というものであった。そこで、パリやロンドンに暮らしたことのある王妃や侯爵夫人たちの一団は、米国での良好なコネを持つビジネスマンの一団と協力し合うことに同意した。折角の貯蓄も目減りして見る影もない戦争未亡人には、新しい着物を買うための資金も用意された。名家の別荘は、その品格と遊興施設の程度によってランク付けされた。西洋の首都で見られるようなものをまねて、会員制のクラブが作られた。

裕福な才女たちのグループは名うての芸者を招き、男たちをもてなす芸に取り組んだ。

 日本は、マッカーサーが自分の兵隊たちに予測していた気の緩みにつけ込むための準備を万全に整えていた。和平派の特殊慰安施設協会は、まさしくその目的のために、国をあげての娼婦力を動員していた。

最初に米軍の機動部隊が東京に到着し、所定の兵営や工場に収まり、そこに検問所を設置した時より、兵員たちは、幾台ものトラックに満載されてきた女たちが検問所前で下車して準備が整い、通訳から「特殊慰安施設協会からの御挨拶です」と説明されてびっくり仰天した。

この最初の進呈は受け取りを拒絶され、そのトラック満載の贈り物は未開封のまま返品された。だが数週間のうちに、それが日本側の騙し打ちではないと判ると、アメリカ人たちはそれに打ち解け始めた。そしてすぐににマッカーサーは、「広がっていると報じられる占領軍メンバーと不品行な日本女性との間の乱れた関係に大きな懸念と深い困惑」を表すこととなった。

 戦前、日本の売春婦は、その小柄さ、その恥じない快楽主義、そして彼女たちの自尊と誠実さを込めた甘美なサービスで、国際的な評判を得ていた。

彼女たちは、主要都市の街外れにある、壁で囲まれ、飾り立てられた街区に住み、働いていた。その最も著名なものは、東京の吉原で、きらめく提灯とごった返す小路を持つ40エーカー〔16万m2〕ほどの治安の良い一画を形成し、金張りの龍と朱塗りの門、着飾った客引きや曲芸師と砂糖菓子売り、格子を通して垣間見える池や庭と縁側や格子窓の向こうの女たちといった、集積された東洋の魅惑と悪徳の場であった。

 空襲を生き延びたそうした女たちは、首都圏全体に霧散していた。少しでも英語が話せるものは、特殊慰安施設協会に雇われ、郊外の古びた宿屋や、同協会が下町に作ったキャバレーや売春宿で、そのサービスを提供するのを待ち構えていた。

アメリカ人による需要は、ついには、横浜の「ビック・ティッツ〔「大きなおっぱい」の意〕・バー」や。東京の「ハード・オン〔「勃起した」の意〕・カフェ」のような目立った歓楽場所を生みだし、占領が始まって1ヶ月も経たない時点で、歓迎されるとみられる所では、目立たないようにながら、あたかも偶然を装い、そうした女たちが商売を始めていた。

 米兵のうちには、まるで麻薬の幻覚であるかのような、そうした初期の出来事を経験したものがいる。日本の地方で、武器の隠し場所を捜索していた元第8軍団の軍曹が、1945年10月末のある日の経験を述べている。


 彼と同僚は、その日、東京の東方にある小さな海辺の町のほこりっぽい広場に、彼らの乗るジープを止めた。そこで彼らが、昼食のためにK号携帯糧食を開こうとしていた時、シルクハットを被り、黒く盛装した一人の紳士がやってきて、たどたどしい英語で、粗末な場所だがその屋根の下で、食事を摂ったらいかがかと申し出てきた。彼は、ジープの後方バンパーに立ち、海を見下ろす崖の上へと、砂利道を案内した。竹藪の前で車を止めさせ、崖の淵にある、古い宿屋へと小道を下った。

その玄関では、着物を着た四人の麗しい娘が、彼らの靴を脱がせ、二階の、漆塗りの食卓の置かれた畳敷きの部屋へと通した。座布団が差しだされ、ふすまが開けられると、素晴らしい景色がそこに広がり、眼下では波が磯に砕け散っていた。女中が、K号携帯糧食に加えるべく、ビール、おひつに入ったほかほかのご飯、数々の前菜を持って入ってきた。娘たちは、間違った英語をにぎやかにしゃべり、はしを使って米兵たちにそれを食べさせた。そして、指やマッチ棒やビール瓶をもちいた接客ゲーム――言葉を超越した遊び――を彼らに教えた。とっくり入りの燗のついた酒も出され、それを杯で飲んだ。

やがて、食事と歓談に満腹したところで、娘たちが言った。「お風呂に入りましょう」。

 折り返した階段を下りて、崖下のほら穴状の部屋へと案内された。その岩の床はおだやかに傾斜し、一方の壁は海に向かった開口部だった。その床の中央に、タイル張りの湯気をあげる浴槽があった。

娘たちは着物を取り、男たちの服を脱がせ始めた。娘たちは、手おけで火傷しそうなその熱いお湯を自らあびた。その行為は繰り返され、兵士たちは大喜びしてそれをまねた。皆がそうして洗い終わった時、娘たちは浴槽の中に身を沈めた。男たちは、それに従い、その40度を越える熱いお湯に体を入れ、ゆっくりと首までつかったが、火傷はしないようだった。彼女たちは、兵士たちの顔を手ぬぐいでふいて、女中が運んできたビールを小さなグラスで飲ませた。遠くでは、崖の影が、海面の上に長く延びていた。

 皆がよく浸かった頃、女中が清潔な木綿の浴衣を持ってきて、男たちはそれを着て、その帯を前で結び、その結び目を背に回すことを教わった。そして娘たちは、彼らを、二階の個室へと案内した。そこでは、畳の床の上に厚い布団が敷かれ、またしても、ビールが幾本か、食膳の上に並べられていた。

一人の娘が、「アメリカ風の愛し方をして」と、軍曹に手を巻きつけながら言った。軍曹は、一瞬息をのみ、圧倒され、夢中となって、そして、それを拒むには自分が余りに誇らしくなっているのを感じていた。

翌朝、彼は一人で眼を覚ました。隣の部屋の仲間を起こし、そのぜいたくな遊びの代金を請求された場合を心配して、彼らの手持ちの金をかき集めた。

女中がお茶とご飯をもってきた。朝食の後、彼らは、その黒の盛装の男にそれでよいかを尋ねた。その男は、その代金は、一人につき、煙草二箱で結構と言った。玄関では、昨夜の相手をしてくれた娘たちが、靴べらを手にして待っており、満面の笑みをうかべて礼をして、彼らが帰途につくのを見送った。


 そのような、初期の接触がもたらした体験や物語は、親密関係無しといった公式占領政策をアメリカのMPによって徹底させることを不可能にした。ジャングルで闘ってきた精鋭部隊が、すべて「米国内」に帰還し終わるまでに、そうした女たちは、米国人宿泊所や定期的な一掃取締についてのあらましを知っていた。

連合軍隊員によって占められたかつての日本軍兵舎や武器改造工場は、消灯時ともなると、ヒールの音や漂う香水の香り、溜息や何かのきしみ音などが響く、不可思議な時間帯となった。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm

「米軍の本隊がまもなく到着する。宿舎は内村旅館である。

どのくらいの期間滞在するかわからないが、
署長は米軍から知覧の町民を守るようにとの中央の命令を受けている。

一番怖いのは婦女暴行であるが、これについては各方面の協力を得て、
彼らに当てがう女たちを確保した。

その女たちは、いわゆる慰安婦である。
 (赤羽礼子 石井宏著「ホタル帰る」草思社p188)

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 .'fi,;゙l;ヒ  : : ;:  :":・lll゙l,.'l・!°   |
   ゙'!,,,い:    ,‐ .,!.gl,,|i,,j,,\  .,l 私のせいで多くの女性が犠牲になった?
    .”゙l   /゜,,,,,lwew-ii,, ゝ ,l゙
     ll,  ゜,,l゙`:;,,,,l,ll,,、.゚ト.,,i   あ、そう! だから何?
    ,,,i'llr゚''ri,,,,,_ : :   : : _,r°
  ,,,iilllli,゙h,、`゚゙゙゙lllllllllilllllll"】 


米兵は日本の「慰安婦」を常用していた

エリック・タルマッジ
AP通信 2007年4月25日18時44分

http://c.fc2.com/imgsa/http%3A%2F%2Fblog-imgs-13.fc2.com%2Fr%2Fe%2Fd%2Fredfox2667%2F51064_640x480.jpg/

この日付のない写真は横須賀市によって公開された。東京の南に位置する横須賀の安浦遊郭前に集まる米水兵。日本の降伏後米兵に売春を提供するために日本側によって設置された多くの慰安所の一つ(提供:AP通信/横須賀市)

【AP通信:東京】 第二次大戦中、軍のために女性を奴隷化した日本の忌まわしい行いには、余り知られていない続編がある。降伏後日本は米兵に対しての同様な「慰安婦」を提供したのである。米占領当局の黙認の下に。

 これまで英訳されてなかったものを含むAP通信の史料再調査は、女性が売春を強要されていると言う内部報告に関わらず、米当局が公的な売春システムを許可していたことを明らかにした。またアメリカ側は、日本が戦時中に占領したアジア諸国で女性に残忍な扱いをしていた事も熟知していた。

 1946年春にダグラス・マッカーサー司令官が売春宿を閉鎖させたが、それまでに何万人もの女性が安値で米軍相手の売春婦として雇われていた。1945年8月に米軍の日本進駐を期に多くの売春宿が営業を開始した事が記録には書かれている。

 東京の東北に位置する茨城県警の公式記録には「遺憾ながら、我々警察は占領軍のために慰安所を設けなければならなかった。それが経験豊富な女性の特別任務であったのは、一般の女性や少女を守るための防波堤とする目的であった」とある。

 日本の降伏と占領に関して協議するため日本の代表団がフィリピンに発つ前日の1945年8月18日に、内務省の指令があった。茨城県警は直ちに準備に取りかかったが、丁度良い施設は独身警察官の寮であり、それはすぐに売春慰安所に模様替えされた。20人の慰安婦と共に海軍施設から寝具が運び込まれた。慰安所は9月20日に営業を開始した。


売春宿は大繁盛
http://c.fc2.com/imgsa/http%3A%2F%2Fblog-imgs-13.fc2.com%2Fr%2Fe%2Fd%2Fredfox2667%2F2007050102564097_1.jpg/


記録には「慰安所が開設されて以降予想通りに大繁盛だった。慰安婦たちは...昨日の敵に自らを売ることに抵抗があり、言語や人種の違いなど彼女達にも最初は大きな戸惑いがあった。しかし彼女達は高額の賃金を受け取り、徐々にその仕事を受け入れるようになった」と書かれている。

 政府の財源で運営された「保養慰安協会」(RAA) の援助の下に、警察と東京の業者は売春宿のネットワークを設立した。1945年8月28日、東京の南隣の厚木へ進駐軍の先行隊が到着、その日の夕暮れまでに軍は最初の売春宿を見つけることになる。

 RAAの情報課長だった鏑木清一氏は「私はRAA幹部と共にそこに急いで向かったが、路上に500-600人の米兵が列を作っているのを見て驚いた。アメリカの自治警察が兵達をコントロール出来ない状態だった」と1972年の回想録でそう書いている。

 警察と民間によって運営されていたとしても、このシステムは戦時中の海外の日本軍によって設立された慰安所を手本にしている。

 鏑木氏はまた「進駐軍の兵は前払いでチケットとコンドームを与えられた」と書いている。最初のRAAの売春宿「小町園 - The Babe Garden」は当初38人の売春婦だったが、必要に迫られててすぐさま100人に増員した。女性一人当たりが一日に15-60人を相手にした。

 アメリカ人の歴史学者ジョン・ダウアー氏の著書『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本』によると、売春婦との一回が15円で、タバコ一箱の半額であり、「突然の高需要のために売春宿の運営者は、認可された売春婦でない女性をやむなく公募した」とある。

 戦争で身内を失った小町園の滝田ナツエさん (当時19) は、事務職募集広告で応募したが、空いてる唯一の職が慰安婦であると言われ、仕事につくように説得された。1952年の占領終了後に出版された鏑木氏の回想録によると、滝田さんは売春宿開業の数日後に列車に身を投げたとのことだ。「最悪の犠牲者は...『新日本女性』の広告に応募して来た、未経験の女性であった」とダウアー氏は書いている。

 鏑木氏によると、1945年の末までに35万人の米軍が日本に駐留し、米兵のためにRAAは最高時7万人の売春婦を雇っていたとある。そのためにそこに日本人以外の慰安婦が海外から来たと言う説があるが、それに関する明確な証拠はない。

 広島歴史研究所の田中利幸教授は、鏑木氏の提示した数字は根拠に乏しいとしているが、RAAはそのごく一部であり、公式記録に載っていない民間売春業者の数は更に多いであろうとしている。田中氏が発見した記録によると、米駐留軍幹部は、進駐軍の相手をする慰安婦のためにペニシリンを日本政府に提供し、RAAの売春宿のそばに予防施設を作り、兵隊達に使用を許可したとある。

 旧日本軍のための慰安婦と、進駐軍のために募集された慰安婦の類似性を駐留軍幹部は見過ごさなかった。GHQ衛生福祉厚生部のヒュー・マクドナルド上級士官の1945年12月6日の回想録によると、日本の慰安婦はしばしば強要されていたことを米進駐軍は把握していたと言う。「貧困の極致の両親に促され少女は契約を無理強いされた。時には自ら進んで家族のために犠牲になったとあるが、しかしながらそれは情報提供者の主観であり、かつてよりは一般的ではなくなったにせよ、都市部では少女の奴隷化の習慣はまだ存在している」と書いている。

RAAの崩壊

 従軍牧師達の苦情と、売春宿の発覚が米国に帰国後の進駐軍に不名誉となる懸念から、1946年3月25日、マッカーサーは全ての売春宿や慰安所その他の売春所への立ち入り禁止を指令し、間もなくRAAは解散した。

 マッカーサーの主な心配事はモラルの問題ではなかった。田中氏によると、進駐軍の米兵の1/4以上がその時点までに性病に感染していたとのことだ。「全国規模の立ち入り禁止令は、15万人以上の日本人女性を突然失職させた」と田中氏は2002年の性奴隷に関する著書でそのように書いている。元慰安婦の大半が兵士相手の違法ビジネスを続けたが、その多くが性病を持ち貧困であったとある。
http://redfox2667.blog111.fc2.com/?mode=m&no=2

 アメリカの朝鮮戦争時における慰安婦施設について

 朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人女性の売春婦(慰安婦)を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

朝鮮の戦場から一定期間毎に交代で米軍の兵隊が送られてきた。
 (中川八洋「歴史を偽造する朝鮮」徳間書店p225) 
http://www.tamanegiya.com/iannfudoitu18.5.302.html

「国体護持」へ国策売春

『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。


 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。
 http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html

 1945年8月18日、俗に言う終戦の日の三日後、内務省警保局長は進駐軍用に慰安施設を整備するように全国に無電を発した。9月4日には内務省保安課長も同様の命令を出している。内務省警保局というのは今日で言う警察庁のような物であり、全国の警察の元締めである。

「これを受けて各警察は慰安所の設置や慰安婦確保に奔走する。その模様を詳述しているのが『神奈川県警察史』だ。それによると空襲で焼けた花街に女性は残っておらず、警察が業者に公務乗車証明書を発給し、疎開先を回って勧誘させた。また、慰安所の布団や衣類、化粧品、消毒薬などの手配や運搬には、直接警察官が携わったという。」
とある。

 東京では警視総監坂信弥が指示して売春業者と飲食店経営者に「特殊慰安施設協会」を作らせ対応したという。この特殊慰安施設協会には、後に吉原などのソープランド経営者に連なる者達が沢山いたという。更に当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。

「警察と大蔵省がバックの国策事業ゆえ、協会は堂々と新聞広告まで出して慰安婦を募っている。」

「進駐軍売春作戦の発案者とされる坂は、国務大臣近衛文麿から国体護持のために婦女子対策をと指示され、慰安所設置を決めたと生前語っている」
のである。占領下では米兵による強姦事件なども多かったために、反米感情が爆発して折角天皇制を存続させることに成功したのにそれが元の木阿弥となることを未然に防ぐためである。花街の女性を強姦に対する防波堤とした訳だ。

 で、特殊慰安施設協会に参加した売春業者達が戦時中に何をしていたかというと、当然の話であるが大日本帝国陸海軍の将兵相手に商売をしていた訳である。つまり従軍慰安婦=戦時性奴隷の手配に手を染めていたものも多数いた。

米軍相手に政府機関が売春婦を斡旋するという政策を取った背景には、日本軍将兵の間に強姦事件によって性病が蔓延したり占領地での人心掌握に支障が出ないように配慮した経験が生かされていた。

実際には日本軍の士気やモラルは非常に劣悪で、強姦殺人は日常茶飯事であった。毎日のこの記事だけでは従軍慰安婦=戦時性奴隷に日本政府や軍部が関わっていたことに対する状況証拠でしかないが、軍人に女性をあてがうという発想が、当時の日本人の感覚として極々普通の物であったことが分かるだろう。 
http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2007/08/post_cfe5.html

「江東区女性軍」強制連行……。
「本土決戦が叫ばれた昭和二十年(一九四五年)に、国土防衛軍である「江東区女性軍」の編成にくりこまれた女性青年団埼玉第一中隊の百三人は、終戦の日に帰してもらえなかった。

「耐えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき……」

 と、お上が手早くつくった「国際親善協会RAA」(占領軍慰安婦)のうち、都内の四カ所に強制連行され、やみくもに米軍との交接を強いられた。
 そのことは埼玉らず、広島の女子青年団、そして川崎のM軍軍需工場など、他地区にも多くみられた。
 当時−−天皇のために捧げてたてまつると、血の宣紙を捧げてあった娘たちは、

「血書を捧げた君たちの忠誠を、天はみそなわしたもうたものであろう。君たちでなければ、日本人の操を、進駐軍の手から守り通すことはできない」

 占領軍慰安婦の持ちかけがお上からだされたのは敗戦直後の八月二十一日、RAAの誕生とともに二十六日には慰安婦の徴募がなされ、二十八日はRAAが宮城前で誓詞をなし、同日は厚木進駐の米兵に横浜の小町園が開所した。
 RAA発表による占領軍慰安婦は、昭和二十年十一月まで二万人、最盛期七万、閉鎖時の昭和二十一年(一九四六年)三月二十七日、五万五千であり、閉鎖は性病兵が増えたという米軍側の主張によった。」


横須賀……。

「横須賀に上陸した兵は、バイラーと呼ばれる客引きに案内された。−略−
 街は建物のかげ、ボートの中、神社、学校、いたるところで性行為が見られた。
「外人が船に乗ってくるから、パンパンがよってくる。横須賀へ来た船の着くところをこわした方がいい」(『日本の売春問題』神崎清)」

子どもたちが目撃して、作文にしている……。
−−小泉はこんな環境で育ったのだろうか?

自己責任は小泉政権のスローガンでしたね。直接は関係ですが……。

「閉鎖までの慰安所料金は、ショートで百円、オールナイトで三百円であり、RAAは充分にもうかっていた。政府融資の国策事業なのに、慰安婦たちからは部屋代、食費、衣裳、雑品、化粧品などと、昔からの廓のしきたりをむしろ越えるほど取り上げ、揚句の果てに、病気や怪我も、慰安婦の自己払いであった。」


閣議より前に、業者たちを集めたという。
「前述の慰安婦指令は、閣議よりも四日も早く、広尾小学校の警視庁保安課より出されてたのだ。高橋保安課長と大竹風紀係長らが、さっそく業者を集めてかたりかけた。」


調布、三鷹……。
「RAAの仕事では、立石は黒人用慰安所とされた。
 調布の日本楽器の建物は「調布園」として、九月十日に慰安婦三十人で開店し、三鷹はキャバレー慰安所として、ニューキャッスルが開所した。」

「娘を売る光景」
「人売は昭和二十三、四、五年と、売春婦に売られたが一番多いとされている(労働省婦人少年局の調査による)。」

http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/0b9d55f0b563f7420ee0432b3a409d22


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三ミ| |:::|        /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|  
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   ノ .| |:::|  _/   /   /  |:. :.:.:.:.:.:.:|

確かに売春婦ですが一般の女性を米兵によるレイプから守るためでもありました。
進駐軍がモラルがあったから日本は幸せだったというのはGHQの報道管制のたまもの
白人は昔から現地の女性をレイプし生まれた混血児をその植民地の支配層にするという政策を取り続けていました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1430857764

進駐軍犯罪史

 読売新聞の調べによる昭和32年の国内10大ニュースのトップはジラード事件。これはちゃんとした世論調査に基くものなので、当時の国民が最も関心を示したニュースが直接、反映されるものだ。ジラードとは進駐軍の兵士の名前である。ジラード事件とは進駐軍の兵士が村議夫人を射殺したという事件であった。
 
 進駐軍犯罪といえば大規模なものでは松本清張が「黒地の絵」で描いた、小倉の黒人兵大量脱走劇に伴う地域住民への大規模なレイプ、暴力沙汰がある。昭和25年7/11、およそ160人の黒人兵による祗園祭の日の犯罪事件は進駐軍によって厳重な報道規制が行われ、事件をうかがわせるような記事は当時の在京各紙にはまるで見えない。結局、この事件は7/15に進駐軍による鎮圧で市街戦となるまで続いた。この市街戦についても徹底した報道規制が行われた。
 
 昭和20年8/15から昭和27年4/28の平和条約発効までの間、日本はアメリカ進駐軍の支配下にあった。この間、都内での進駐軍犯罪被害の届出は318件、全国では2万5500件であったが、この数字は「氷山の一角」とされていた。なぜなら進駐軍犯罪被害の届出は非常に困難だったので、実際の犯罪被害は届出件数の数倍はあったのではないかと当時の人の生活感覚では感じられていたのである。
 
 進駐軍犯罪被害で役所に届出を出すと、まず加害者が本当に進駐軍という証明書を要求される。さらに市町村長の証明書、警察の証明書正副5通を要求され、少しでも不備があれば受理されない。これをようやく揃えて、やっと届出が受理される。その数字が全国で2万5500件であった。つまり届け出なかった、書類に不備がありつき返された、揉み消されたなどの犯罪被害の件数は2万5500件の中には入っていないのである。
 
 届出が受理されても、その審理は粗末なものだった。子供が酔っ払いのアメリカ兵のジープに轢殺された母は被害届をようやくCID(陸軍犯罪調査部)に受理されるも、何の連絡もなく放置され、呼び出されて「裁判でお前が負けた」と言い渡されて終わり。裁判があったのかなかったのか、あったとしたらどんな審理がされたのか何も伝えられないというシロモノだった。さらには仕事帰りにアメリカ兵にジープに拉致されて走行中に道に飛び降りて死んだ娘は「身元不明の売春婦」として処理され、家族が訴え出てもまともにとりあってもらえぬという酷さ。他にも道路を横断しているのが誰の目にも明らかなのに、アメリカ兵の運転するトラックがスピードを落さずにそのままその歩いて道を渡っている日本人をひき殺すという事もあった。あるいは突然、理由なくアメリカ兵に射殺されたり、道を歩いていて殴り殺されたり、強姦されたりなどの犯罪被害は総計3万4000件と言われたが、うち2万件は泣き寝入りしたとされている。
 
 終戦直後、進駐軍の到着に備えて政府は婦女子に警戒を呼びかけてはいた。「婦女子は淫らな服装をせぬこと、また人前で胸をあらはにしたりすることは禁物である。外國軍人が『ハロー』とか『ヘイ』とかあるいは片言まじりの日本語で呼びかけても、婦女子は相手にならず避くること」。
 
 しかしアメリカ兵によるレイプ事件は昭和20年8/30、占領部隊の日本上陸第1日目にすでに発生している。これはワシントンの米政府機関が保管していた当時の日本の内務省警保局「米兵の不法行為」に記載されており、8/30午後1時30分には神奈川の横須賀市旭町で車運転手の家にアメリカ兵2人が押し入り、留守番をしていた運転手の妻(36)と長女(17)をピストルを手にレイプした事件が起きている。このアメリカ兵2人は午前11時30分に件の家を下見しており、中に女性しかいないのを確認して犯行に及んだのだった。また同日午後6時には横須賀市の鎮守府正門にあったガラス商の家で、女中(34)が1人で留守番をしていたところをアメリカ兵2人にレイプされている。アメリカ兵は交互に見張りに立ってレイプしたという。
 
 アメリカ兵の上陸したところにレイプ事件あり。9/1にはアメリカ兵による日本人女性レイプは房総に飛び火した。千葉の安房郡の漁村の漁師の家に3人のアメリカ兵が押し入って、出征中に戦死した漁師の息子の妻(28)が留守番中に輪姦されたのをはじめ、同じ村では押し入ったアメリカ兵4人のうちの1人が別の漁師の妻(36)をレイプする事件が起きた。同日午後6時には横浜市中区でアメリカ兵2人と日本人2人に連れ出された女中(24)が野毛山自然園の中の米軍宿舎でアメリカ兵27人に輪姦される事件が起きている。この女中は翌日、意識不明となっているのを元の家へと送り返されている。
 
 アメリカ兵の理不尽な暴力の被害に遭ったのは女性ばかりではない。9/15午後10時30分には川崎市木月の国民酒場で、店主の田中(47)と長男(16)が酔ったアメリカ兵3人によって射殺される事件が起きている。特に深い理由もなくアメリカ兵に突然、射殺されて泣き寝入りという実例となる事件であるが、こうした事件はほとんどが表沙汰となる事はなかったのである。
 
 アメリカ兵による犯罪が公に報じられたのは、9/9に事もあろうに葉山の御用邸に乱入して略奪の限りを尽くしたというニュースが最後であった。9/10よりGHQの報道管制が始まったため、それ以降は進駐軍のレイプ、強盗、暴行殺人などの犯罪は全く報じられず、こうした犯罪に対しては日本警察も手が出せないという状態が続いた。政府は性の防波堤としてRAA(特殊慰安施設協会=進駐軍相手の売春公社)を設置したが、当の進駐軍から廃止にされて街頭には米兵相手のパンパン(売春婦)が溢れるようになった。こうしたパンパンは蔑視の対象にされたが、米兵の一般婦女子への際限ないレイプへ歯止めをかけた功績は大きい。
 
 このようにしてアメリカ兵による犯罪はどんな些細な事件でも新聞での報道は厳禁とされたので、総じて日本人のアメリカ進駐軍への感情は悪くはなっていない。占領中のアメリカ進駐軍犯罪には損害賠償法令がなかったため、日本独立後の昭和31年5/22、進駐軍被害者連盟が結成されて政府に補償とそれまで報道が控えられていたアメリカ兵の犯罪事実の公表へ向けて活動するなどとした。
 
 ジラード事件は昭和32年であるから進駐軍犯罪への報道はタブーではなくなっていたものの、日本の裁判管轄権が進駐軍には通用しないという構図が日本国民の前にさらされてこうした事が反米感情などに火をつける事となっていく。
 
 1/30の事であった。アメリカ軍の群馬県相馬ヶ原演習場はアメリカ軍が演習中には立ち入り禁止区域となっていて、それを破った者には刑事特別法による懲役1年以下、罰金2000円以下という罰則規定まであった。しかしこの相馬ヶ原は地元住民らが地べたに落ちている銃弾の薬莢を拾って生計の足しとするのが慣わしで、この日も相馬村議の妻、坂井なか(46)が仲間らと薬莢拾いのために相馬ヶ原に立ち入っていた。
 
 なかと一緒にいた男性(30)ら5人の証言によれば、なかは米兵に追われて逃げる最中に突然、撃たれてそのまま絶命した。この事件は当初、伏せられていたものの、2/2に5人の目撃者の中から社会党の茜ヶ久保重光衆院議員に相談を持ちかけた者があり、一気に政治問題化していく。一般の国民が事件の概要を知ったのは2/3の新聞報道によってであった。
 
 なかを撃った米兵は第1騎兵師団第8連隊第2大隊のウィリアム・S・ジラード特務三等兵(21)で、なかには2発銃弾を浴びせていた事も判明。1発目が外れて2発目を発射したというから、事故などではなく完全な確信犯である事は明らかであった。
 
 事件が表に出されて慌てたアメリカ進駐軍は2/4、熊谷の籠原キャンプの憲兵隊から群馬県警へジラードが事件を自供したと報告、その後、ジラードは地裁に告発されたものの、日米行政協定がネックとなってジラードは公務中なので裁判権はアメリカにあるというアメリカ軍の主張に押し切られそうになる。日本の反米感情の激化を恐れたアメリカが結局は裁判権不行使という裏技で、ようやく日本側の手でジラードは起訴された。これが5/18である。アメリカではジラードの日本への身柄引き渡しを認めないよう訴訟が起こされ、7/11にアメリカ最高裁によってようやく日本での裁判権が認定された。11/19に前橋地裁は傷害致死で懲役3年、執行猶予4年の判決を下し、控訴されずに12/6、ジラードはアメリカへ帰国して事件は日本国民に割り切れない感情を残したまま幕を下ろした。
 
 ジラードがなかを撃つ前にも別の弾拾いの住民に向けて発砲していた事や、なかと小野関英治に「パパサン大丈夫、ママサン大丈夫」と話しかけて近くの壕を指して「ママサン、タクサンネ」と言っていた事が明らかになったのは公判によってであった。ジラードは発砲時にはビクター・ニール・ニクル特務三等兵と一緒におり、最初は小野関に向けて空砲を発砲、続けて「ゲラルヒヤ」となかを誘い、逃げたところを背中から撃っていた。さらになかが倒れた後、ジラードはなかに近寄って触っており、なかを殺害した事は認識していたものと思われた。
 
 ジラードは7/5に日本人女性と結婚、帰国の際には同伴しており、味噌樽を土産にアメリカに持ち帰った。昭和33年4月にオタワのジラード邸を訪問した松田ふみ子によれば、ジラード邸はペンキが剥げ落ちて板は腐って2間きりの狭い家だったが、当時、日本では珍しいテレビ、電気冷蔵庫、ガスレンジが完備していた。ジラードは帰国後、工場で荷物運びをしていたが失業し、妻のハルは英語が下手なのでジラードと意思疎通が出来ず、さらに5ヶ月でわずか5ドル(1800円)しか貯金がたまらない事もあり日本に手紙も出せない状態だったという。
 
 相馬ヶ原は榛名山の南側に広がる原野で大正9年に陸軍の演習場となり、周辺住民の薬莢拾いはその頃から軍に黙認された「権利」であった。周辺住民の土地を一部強制収容して演習場にしたため、周辺住民の生計の足しのための薬莢拾いについて陸軍でもとやかく言えなかったのである。演習場は戦後はアメリカ進駐軍に接収されたが、旧日本陸軍時代と違って実弾射撃で農家の萱などに被害が出るようになり、戦前よりかえって周辺住民の生活は圧迫されてしまう。
 
 相馬村の上新田地区では地域住民全員が薬莢拾いを主な収入源としており、桃井村住民と合わせ3、400人が薬莢拾いを行っていた。1日に2、3貫(7.5キロから11キロ)を拾い、週に1度来る鉄くず屋に1貫(3.75キロ)を7、800円で売り、いい稼ぎとなっていた。月平均で1人あたま2万円の収入となったという。勢い、薬莢拾いにも熱が入り、演習の最中に演習場の中に立ち入ったり、演習場の中に穴を掘って潜み、演習中の砲弾の爆発を待つ者までいた。こんな事をすれば生命の危険にさらされるのは無理もなく、1月には砲弾の破片で薬莢拾いの住民に死者が出ている。アメリカ軍側では再三にわたって危険だからと地域住民の演習場立ち入り規制を日本側に求めていたが、地域住民は送検されても過去に起訴された事はなかった。
 
 薬莢拾いは相馬ヶ原だけの風習ではなく、演習場のある地域ではどこでも行われていた普通の事であった。静岡の御殿場にあるアメリカ軍の東富士演習場の狐塚でも昭和31年9/7午前7時30分に地元の農婦(31)が演習中のアメリカ兵に撃たれて重傷を負っている。農婦が立ち入り禁止区域にいた事から農婦側の過失として事件は処理されていたが、ジラード事件では被害者女性が死んでしまった事や社会党が政治問題化した事から一気に国民の反米感情に火をつける事となったのである。ところが相馬村ではジラード事件調査に訪れた社会党県議団には非協力的な姿勢で、今回の騒動で薬莢拾いの「特権」が奪われる事を村民らは恐れていた事も当時の報道には記されている。事件後も相馬ヶ原では地域住民ら100人が毎日、薬莢拾いを続けていた。
 
 ジラードがなぜ薬莢拾いの村議夫人を撃ったのかは、演習の最中に手袋をはめてまだ熱い薬莢を拾ったりする地元住民らの姿をジラードの所属する部隊の中でどのように感じてどういう話題にしていたかがわかれば、その理由のいくばくかが見えてきそうな気はする。禁止された区域に立ち入ってくるのだから非は向こうにあるという意識がジラードの中にはなかったか。或いは薬莢拾いの地元住民だって家に戻れば人並みの暮らしをする普通の人間であるというところまでジラードの意識が思い及ばなかったか。
 
 このジラード事件で日本の対米世論が硬化する最中の昭和32年8/2午後3時、茨城の那珂湊市前浜の県道で工員の北条清(24)が母親のはる(63)を自転車に乗せて走行中、突然、低空飛行の飛行機が2人に接触してはるは胴体を真っ二つにされ即死、清は重傷を負った。この飛行機の正体はアメリカ軍水戸補助飛行場から飛来したL22型連絡機で、2人は尾翼に引っかけられたのだった。
 
 目撃者の男性(35)の証言によれば、アメリカ軍機は機首を落として畑すれすれに飛んできてそこで曲がりかけた後、再び地面すれすれを超低空飛行、尾翼を芋畑でバウンドさせて上昇する最中に2人を引っかけたのだという。2人は阿字ヶ浦に向かう途中であった。
 
 このアメリカ軍機を操縦していたのはジョン・L・ゴードン中尉(27)、ほかに下士官も同乗していたとされる。現場に飛来する直前にこのアメリカ軍機は近くの海水浴場でも低空飛行をして海水浴客が驚くさまを楽しんでいるかのようだったというから、故意に危険な飛行をしていたのは明らかであった。しかしアメリカ軍側は異常気流で操縦不能になったための事故と主張、茨城県警ではこのアメリカ軍側の主張を斥けて8/8、ゴードンを書類送検としたが8/21には不起訴となっている。
 
 ゴードンはなぜ危険な低空飛行をしたのか?実は類似の事件は戦前にもあった。操縦士が無意味な低空飛行を地上に人がいる場所で試みて、飛行機に人を引っかけて死なせてしまう事件である。昭和2年10/21、東京の芝区愛宕小学校で運動会が行われている最中、下志津飛行学校生徒の操縦する飛行機が低空飛行をして校庭の小学生のうち3人が引っかけられて1人が死亡した。この件では操縦士は後に不時着を試みたなどと弁明している。ゴードンの例も、この飛行学校生徒の例も、自らの操縦の腕を得意がっていたのではないか。衆人環視の場所で低空飛行を繰り返して地上の人たちが騒いだり驚くのを面白がる、そういう心理から危険極まりない行為に及んだのではないか。
 
 ジラード事件、低空飛行殺傷のゴードンの事件の記憶さめやらぬ昭和33年9/7午後2時、西武線下りの飯能行き列車が埼玉の狭山市入間川ジョンソン基地内の武蔵藤沢−稲荷山公園間を走行中、1両目に銃弾が飛び込み、乗客の武蔵野音大絃楽科1年の宮村祥之(21)の背中に命中、午後3時に運ばれた基地内の病院で死亡した。列車を撃ったのはジョンソン基地憲兵隊臨時勤務のピーター・E・ロングブリー三等航空兵(19)で、「空射ちの練習をしていたところ実弾が入っているのを忘れて撃った」としたがすぐさまアメリカ軍に逮捕された。
 
 宮村は母子家庭で、母は郷里の熊本の荒尾で日雇人夫をしながら女手一つで宮村を育て、音楽家を夢見ていた息子を東京の大学へと進ませていた。宮村は昭和30年に上京、初めは東洋音楽短大に通っていた。事件の直前にはコントラバスのバイトが見つかり、母に仕送りをもう受けなくても大丈夫と連絡があったばかりであったという。
 
 アメリカ軍では当初、公務中の出来事で事故だとしたものの、いくら空射ちのつもりだったと主張しても列車に向けて発砲したのでは言い逃れのしようがなく、公務時間中の出来事ではあるが列車を撃ったのは公務とは到底認められないという見解を出した。早速埼玉県警はロングブリーを書類送検、昭和34年5/11に地裁で禁固10ヶ月の判決が出ている。
 
 アメリカ進駐軍がらみの事件ではこうして全国的な話題になった事件以外にも無数の犯罪が起きているが、それらは公にされる事は稀であった。昭和34年4月には青森の上北郡六ヶ所村で三沢基地の米軍機が訓練に際して爆弾を誤って落としていく事が頻繁となり、東京でも報道されている。六ヶ所村は米軍三沢基地の天ヶ森演習場と高瀬川を隔てた場所にあり、以前より米軍機が爆弾を誤って落としていたが、およそ3ヶ月に1発の割合だったので特に問題化していなかった。3ヶ月に1発のレベルでは報道すらされていなかったという事で当時はこの手の米軍の無法ぶりが基地の近くでは日常的だった事がわかる。
 
 しかし昭和33年9月より米軍ジェット機の練習用爆弾が昭和34年4月までに六ヶ所村に30発落下しており、うち10発は民家から2、30メートル以内の場所で爆発していた。米軍機の速度が向上して爆弾を標的に当てにくくなり誤爆しやすくなったらしい。昭和33年12月には125キロ爆弾が六ヶ所村倉内の農家の近くに落下し馬小屋に穴が開いて山火事となったほか、昭和34年3月下旬には農作業中の男性の3、4メートルの場所に爆弾が落ちて男性は気絶、さらに3/20、同じ男性の水田に爆弾が落下し爆発して5、6メートル四方の穴が開く出来事があった。米軍は模擬爆弾なので大丈夫だなどと説明していたが、死傷者が出ないのが不思議なほどであった。六ヶ所村では米軍機が爆弾を落とす標識を海上にするように陳情していた。
 
 昭和35年3/10午前10時、沖縄の伊江島の伊江村の米軍演習場の立ち入り禁止区域で弾拾いをしていた農業の島袋武盛(20)と大城敏一(19)が、米空軍ジェット機から機関砲で砲撃されて島袋は右足を銃創貫通、大城は右腕切断という重傷を負った。米軍演習場での弾拾いは沖縄に限らず内地でも付近の農民の「特権」として暗黙の了解事項になっており、伊江島ではそのための信号旗を持って農民は弾拾いをしていたが砲撃されたのだった。
 
 昭和36年11/20午後3時30分には茨城の那珂湊市釈迦町の旅館など民家8軒が、アメリカ軍水戸射撃場からの機関砲弾13発を浴びた。米軍機の誤射によるもので、旅館では窓ガラスが撃ちぬかれて座布団に直径20センチ、長さ75センチの砲弾が突き刺さっていた。ほかにも家の中や庭先などに被弾しており、旅館の女将は寝ていたら音がして、座布団や畳から煙が出ていたという。過去にも被弾事件は200件起きていた。
 
 昭和37年5/5午前3時30分、神奈川の横須賀市汐入町巡査派出所に私服の米兵5人が酔って市民を暴行していると通報があり巡査2人が駆けつけたが、うち遠藤寛巡査(37)が米兵1人に蹴られ倒れそうになったので警棒で押し返したところ、警棒を奪われたのでピストルで威嚇しながら交番へと連れて行こうとした。しかし50メートルの途中で遠藤巡査は5人の米兵に組み伏せられ、奪われたピストルで頭と右腕を撃ち抜かれて死亡、犯人の米兵はそのまま逃走した。午後7時30分、在日米海軍は20歳4人、19歳1人の二等水兵が遠藤巡査殺害の際の5人であったと発表、いずれも横須賀港に入港していたLST(戦車揚陸艦)トモグリー号の乗員で、裁判は日本で行われるとされた。
 
 昭和39年7/20午前1時30分には静岡の御殿場市中畑の米海兵隊キャンプ・フジで近所の農家の妹、勝又(45)が立ち番中の米兵に小銃で下腹部を撃たれ死亡する事件があった。この女性は酔っており、うずくまっていて米兵の日本語、英語の呼びかけに答えなかった。3回呼んでも返事がない時は撃ってもいいという管理規則だった。この女性は独身で知恵遅れ、酔うと放浪癖があったという。アメリカ軍は撃った兵士は不明であるとし、また公務中なので裁判管轄権はアメリカにあるとした。この事件については報道はなされたものの、ジラード事件と違って社会問題化せず、実際に事件自体について知らない人がほとんどである。
 
 昭和47年9/20午後には沖縄の米海兵隊基地キャンプハンセンで、米海兵隊第4師団第3大隊のジェームス・S・ベンジャミン上等兵(25)の部屋で靴を磨いていた基地従業員の栄野川盛勇(37)にベンジャミンが10ドル紙幣が消えたと難癖を付けて口論となり、ベンジャミンがライフル銃で栄野川を射殺した事件があった。9/21に警察庁がベンジャミンは公務中ではないと見解を出してアメリカ軍に犯人引き渡しを要求したが、アメリカ軍は公務中として応じなかった。9/22、インガソル米駐日大使は1次裁判権は日本にあるとし、在沖縄米海兵隊基地司令部もベンジャミンは公務中ではなかったと認め、9/23午後11時50分、沖縄県警はベンジャミンを書類送検した。10/3、ようやくベンジャミンの身柄は日本に渡されて殺人罪での起訴となった。しかしその後、ベンジャミンには心神喪失で無罪の判決が出ている。

http://www.geocities.jp/showahistory/history04/32c.html


占領時、米軍も「慰安婦」調達を許可 

【ワシントン=古森義久】終戦直後の日本国内で占領米軍の許可により売春施設が多数、開かれ、日本人「慰安婦」数万人が米軍に性の奉仕をして、その中には強制された女性もいたことが米側にいまになって伝えられ、米議会下院に慰安婦問題で日本を糾弾する決議案を出したマイク・ホンダ議員は4日、議会調査局に調査を依頼した。しかし同議員は戦争中の日本の慰安婦は旧日本軍が政策として一様に拘束し、強制した女性ばかりだった点が米軍用慰安婦とは異なると述べた。

 AP通信の4日の報道によると、終戦直後の1945年9月、日本当局が占領米軍からの許可で東京都内などに多数の米軍用の売春施設を開き、合計数万人の日本人「慰安婦」が雇用、あるいは徴用されたことを証する日本側書類が明るみに出て、ホンダ議員は米軍用慰安婦に関して米軍自体がどんな役割を果たしたかなどの調査を議会調査局に依頼したという。

 AP通信は4月26日、東京発で米占領軍が進駐直後、日本の政府や旧軍当局に売春婦の調達や売春施設の開設を許可した一連の日本語書類が発見されたと報じ、その内容として(1)1945年8月末から9月にかけ、米軍の命令を受けて日本政府の内務省などが東京はじめ茨城県などの地方自治体に「慰安婦」集めを指示し、合計7万人以上の女性が売春に従事した(2)米軍当局はそれら女性の一部は強制徴用されたという報告があることを知りながら、慰安所開設を認め、連日連夜、米軍将兵が詰めかけることを許した−と報道した。同報道はこの米軍慰安所にかかわって当時の日本側関係者数人を実名で紹介し、その談話をも引用した。しかしこれら日本の米軍用慰安所は連合軍最高司令官のマッカーサー元帥の命令で1946年3月末には閉鎖されたという。

 日本側でも終戦直後に米軍から売春施設開設を許可されたことについては旧日本軍が米軍進駐受け入れの準備組織として結成した「有末機関」のメンバーたちの証言が残っている。
(19/05/06 03:21)
http://tamezou.at.webry.info/200705/article_1.html

1945年9月28日、進駐軍は都衛生課に慰安施設の開設を要求した
『占領秘録』 中公文庫 住本利男著

坂信弥氏の話

それから婦女子の問題は内閣でも非常に心配した。私は内閣に呼ばれ近衛公から

『日本の娘を守ってくれ、この問題は一部長に任せず君が先になってやるように』

と言われた。一般の婦女子を守るために防波堤を築くことも考えました。慰安施設を作り、そうしたところで働く女性を集める。こう言う矢面に立とうという人があったればこそ、あとの若い人たちが救われたのだと思う。

なにしろ、米軍が進駐したその晩に、早くも左官級の人々がジープを飛ばして東京にきた。そして丸の内警察署を警視庁と間違えてか、入ってきて、女を世話しろという。そういうものはないと答えると、あの辺に大勢いるではないかといって、日比谷辺りを歩いている女の人たちを指さした。あれは良家の子女だといって納得させるのに骨が折れたようだった。

良家の子女が間違われる心配は多かったのです。

とにかく警視庁で、この際国民のためになるならという人を集め、向島や大森などに設備をした。それからすぐに特殊慰安施設協会(RAA)というものが料亭SやYの主人達によって作られ、資金は三百万円を勧銀から借り出して経営したわけです。


ペニシリン 東京へ

都衛生課が一番はじめに受けた命令は、「女」の問題だった。

九月二十八日に総司令部に来い、というので、与謝野博士がでかけてゆくと、軍医総監のところへつれてゆかれた。総監は、大きな東京の地図を前にしていて、女の問題を持ち出したのだった。その時に公衆福祉局長のサムス准将(当時は大佐)に紹介され、それから同氏との交渉がはじまった。

赤坂は焼けてしまい、新橋は休業、柳橋はない、という有様で、都内の花柳界で残っていたのは五ヶ所きりだった。それに特飲街が十七ヶ所あったが、博士は先方の要求で進駐軍用としての割ふりをやった。

葭町は将校用とか、向島はなに、というふうに決めたのだが一番困ったのは黒人兵の割当てであった。与謝野博士は、業者からやみ打ちをうける覚悟で、五、六ヶ所を考えて相談した。初めは女たちも泣いて嫌がったようだが、黒人兵のほうからすれば、日本人は「白人」の部類に入る。だから女に対しては親切をきわめ、サーヴィスにつとめたものだった。それでニ、三日すると、黒人兵大歓迎ということになり、博士も心配していただけにホッとしたものである。
その時の命令は、

「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはならない。だから都の責任で検診を厳重にやるように・・・」

ということだった。週一回の検診では不足だという。「花柳病予防法」というものがあったが、それではやれないので、すぐに「性病予防規則」を作り、花柳界、特飲街、それから「特殊慰安施設協会」(RAA)などに検診や治療をやったのである。もっとも都側は、日本には治療するにも薬がない、完全に命令を履行するため薬をもらいたい、と申し出た。その結果、ダイヤジンやペニシリン、梅毒のマハルゾールの三種の薬品が大量に与えられたのであった。ただその代償として女から治療費などをとってはならぬ、無料でやれ、ということだった。

こうして、進駐軍用に、焼け残った都内の花柳界、特飲街が割りあてられてしまい、日本人用はたった一つ特飲街の千住があるだけだった。

引揚者や家族を疎開させた単身者が多かったので、風紀上何か問題が起きはしないかと心配されたのだが、事故も起こらなかった。ニ、三ヶ月後には千住だけでなく、ニ、三の場所もよいことになったが、こんどは、日本人の客があまり歓迎されない、という妙な現象が起こった。

翌年の四月ごろになると、進駐軍兵士で性病にかかるものが多くなってきた。これが理由で、総司令部は全部の花柳界を「立ち入り禁止」(オフ・リミット)にしてしまった。

病気のことも原因だが、花柳界のことが米国の新聞特派員によって本国に報道されたため、兵士の母親や家族では大問題となったからであった。我々の師弟が、そういういかがわしい特飲街に行っているのは怪しからん、という非難がサムス准将のところへ殺到したものだった。花柳病は実際はそんなに多くはなく、むしろ減っていたのだが、これを口実にして、サムス准将は政策の切りかえをやったのである。


「パンパン」の発生

占領下にできた新しい社会現象は「パンパン」であろう。軍隊の後には女が行進する、ということは歴史が語る事実である。進駐してから形もかわり、場所も移ったが、いつも軍隊の後を追っていた。
米国の軍人や軍属などが日本に落とす金は一億八千五百万ドルといわれるが、「パンパン」のかせぐドルは、その半ばに達するだろうという。

パンパンの発生は二十一年の夏頃であった。最初は立川、東京市内の日本劇場の周り、有楽町などで、数も五百人ぐらいだったが、そえがまたたく間に二千人、三千人になろうという有様だった。「パンパン・ガール」は健康診断を受けないから性病の罹患率が高くなってきた、と言うので、進駐軍の方が困ってしまった。

東京都が性病予防規則をつくった時、厚生省は、自治体だけでああいう規則をつくるのはけしからん、というので叱ったことがあった。しかし、都側は進駐軍から命ぜられたから仕方がない、という立場をとっていた。与謝野課長はハーグの陸戦法規に、「出先官憲は占領軍の命令を守らなければならない」と書いてあるのを見て、厚生省に説明し、そこで初めて厚生省は、花柳行予防特例によって、全国府県知事の責任で検診をやることにした。占領軍当局は、進駐軍を相手とするダンスホールのダンサー、ビャホールの従業員まで検診をやれ、といいだした。ダンサーも気の毒だったが、ビヤホールの従業婦などは、年少の人たちが多くて、ひどい飛ばっちりを受けたものだと、関係者は言っている。

特例の規定にしたがって、検診をしたものは、写真入のカードを持たせたが、これを思っていれば安全、というわけで、ヤミ屋がカードを売り出すような始末となった。そこで進駐軍はカード制はだめだといいだし、特例はすぐに廃止するわけにも行かないので、「申合せ」で発行を中止してしまった。

「パンパン」に対しては無検診だからというので進駐軍は一斉検挙を日本側に申し入れた。日比谷にあった憲兵司令官とか軍医関係のものがやればよかったのだが、東京には十一の憲兵分隊があり、分隊では下士官が命令し、警察官が協力して逮捕したものだから、場合によっては行きすぎもあった。とうのは何人捕まえたという報告を出さなくてはならなかったので、数をあげようとする傾向があった。

社会的な問題となったのは、東上線大山駅で、電車をとめて、乗っていた若い女たちを全部引っ張った事件だった。日本の警察官がついていたのだから、これはそうじゃない、といえばよかったのだし、またその意見もきけばよかったのだが、先方は日本の警察はヤミ取引があるのではないかと疑う。それで商売女でないことが判っていながら、みすみす吉原病院に送るというようなことがあった。病院のほうは、きたものは検査する義務を持っていたから、送られて来たものはすべて検査した。普通のお嬢さんがそうした目にあうことはしばしばだった。警視庁に、負けたとはいえ日本は法治国家ではないか、という抗議がいくたびかきた。


与謝野光氏の話

「我々のほうは進駐軍の命令にしたがった、国際公法によってやったのだとい理屈はある。しかし、これはやり方の問題で、やはり警官が弱かった。私は、なるべく前によく聞きただせ、といっておいたし、幾人かは帰しもしたけれど、ひどい目にあった人が相当あったと思う。米軍は自分の国の兵隊を守ることに急なため、日本の女性に迷惑をかけることになった。

進駐軍が性病を持ち込んだこともあったろう。しかし特に悪性のものもでなかった。むしろ米兵から、どこで遊んだら病気になったというような報告が多かったので、日本側は信用されず、米軍の軍医が直接検診に乗り出したこともある。

たとえば日本橋のどこで、目が黒いとか、背丈がどのくらいだが、というだけで名前も判らない。これを探すのは容易ではなかった。

 『パンパン狩り』は、狩り込みを先方がやってこちらが検診するというやり方だったが、後に、二十六年の九月からは、先方が検挙するのはやめて、日本側でやることになった。総司令部の公安課から、日本の法務府検務局長に対して、今後は日本でやること、ただし今までの成績を落とすようなことがあったら、責任者を即刻クビにする、という強い命令がでた。検務局長と警視庁、それに私が総司令部によばれて、依頼をうけた。しかしどうして検挙するかが問題だった。私のほうでやるには性病予防法の第十一条でやるほかない。

第十一条というのは、常習売淫の疑いあるものは、地方長官が検診の命令を出すことができる、というものでした。私は検務局長に対し、私のほうでやれといっても、第十一条は検診の命令で、検挙してもよいとは書いていないがいいのか、と聞いたものです。いいからやってくれ、というので警視庁は暴力で妨害するものを防ぐために『売春班』をつくった。ところで警察のほうは、検挙すると調書をとらなくてはならない。事務手続きが厄介で、そうしないと人権蹂躙になる。とにかく、今でも周一回、警視庁、私のほう、それから混成の三種類でやっていますが、私たちのほうはやめたいのです。

おかしなことに総司令部も二つに意見が分かれていた。公衆衛生局と憲兵司令官は病気をなくしたいといって我々に強く要求してくるが、法務局のアップルトン検務局長は、私をよびつけて、

『怪しからん、人権蹂躙ではないか。君は連れて行く権限は無い。第十一条は禁止命令で、lつれていく権限は書いていない。文化国家のやるべきことではない。また常習淫売というのは、一回だけではだめで、二回以上行わなければなりたたない。しかも現行犯だけをつかまえること、また検診命令も即刻出頭なんていう命令ではいけない。四十八時間のうちに出頭するように命じ、納得ずくでやれ』というのだが、四十八時間内に出頭しろといっても、来るものではないのです。

検務局長の意見に従っていても、たとえば立川基地などの現地の司令官は軍人なのだから、こちらのいうことなどはききはしません。週一回やらない限り、『立入禁止』(オフ・リミット)にするという。業者などは、これをやられると困るので、我々のほうになんとかやってくれ、といってくる。占領下では先方の命令でやられたのだが、独立したこれからは、法律的な根拠がなければやれないのであって、法の改正を厚生省などに要望してもなかなか実現しないのです。

性病が増えたように思う人が多いが、戦前に比べるとぐんと減っています。性病についての統計は今までは発表してはいけないというので公にされていないが、減少しています。東京だけをみても終戦当時に比べて四分の一位に減っている。これからもますます減ると思います。パンパンのよな野放しのものも減っているのです。初め彼女らの罹病率は60パーセントくらいだったが、今は10−15パーセントくらい。まして花柳界は減っている。いずれにしろ、占領行政のうちで、我々公衆衛生に関係した部門は一番めぐまれていたといえましょう。積極的に援助を受け、総司令部が先にたってやってくれたので、業績は大いにあがったのでした。」
http://urara225.iza.ne.jp/blog/entry/203155/


堕ちた大和撫子たち

 パンパンが街を闊歩する

 アメリカ軍が進駐して来て、大方の兵隊は市民には危害を加えないということが分かってくると、ようやく街も落ち着きを取り戻し、市民の表情にも安心感が現れ始めた。

 この頃、パンパンという言葉が流行った。パンパンというのは、進駐軍の兵士を相手にして、春を売る日本女性のことである。これには、オンリーというのがあって、兵隊の中でも上級階級専属で、このクラスになると住居も与えられ、いわゆるダンナから手当てをもらい、アメリカの、当時の一般の日本人がとても手にすることの出来ない衣食物を供与されて、贅沢な生活をしていた。

そうでない、不特定多数の下級の兵士を相手にするクラスの彼女らは、街角に立ってアメリカ兵の袖を引いていた。当時は、小倉には米軍の24師団が駐屯していたので、街にはアメリカ兵が多く、商売相手には事欠かなかったらしい。小倉の真ん中を流れる紫川にかかる常盤橋(当時)のたもとには、夜になると彼女たちがズラリと並んでいたものである。

 彼女たちの化粧や服装は、完全にアメリカナイズされていた。今なら普通と言えるかも知れないが、当時、人々は目をみはった。茶色に染めた髪、真赤な口紅、ピンクや紫などの手足の爪、肩をあらわにしたドレス、踵の高いカラフルなハイヒール、どれをとっても昨日まで、「撃ちてし止まむ」と化粧気もなく、耐乏生活に耐えていたモンペ姿の日本女性だとは思えなかった。

 人々は「大和撫子も堕ちたもんよ」と眉をひそめた。しかし、中には「あれらのおかげで、普通の家庭の娘が、アメ公(アメリカ兵の蔑称)どもに悪さをされなくて済んでるんだから」とそれなりの評価をする大人もいたが、ほとんどは陰で「パン助」と言って白い目でみていた。

 しかし、彼女たちは、そんな視線を尻目に、ハイヒールの音を響かせて、アメリカ兵の片腕にすがって街を闊歩した。それは夜だけでなかった。昼間も堂々としていた。敗戦という現実に心身ともに打ちひしがれた市民のなかにあって、彼女たちだけが生き生きとしていた。

 パンパンの語源は定かでないそうである。英語のpompom(これは性交という意味があるそうだが)が基になったという説もあるし、単純にペンペンという三味線の音、つまり芸者を意味しているというのもあったりする。しかし、広辞苑には原語不詳とあるが、「第二次大戦後の日本で、街娼、売春婦のことを指した」とある。

 私は、最初に彼女たちを目の当たりに見た時にはとても驚いた。それまで接してきた女性と言えば、母であり、姉、近所のおばさんたち、学校の教師などの通常の女性であったから、まるで異国人を見る思いがしたものである。しかし、それにはすぐに慣れた。彼女たちは、戦後の風俗となって、一時期世間に定着していた。

 確かに売春というのは、道徳的ではない。しかし、終戦を境に、彼女たちは自分の女体を武器にして、それまで鬼畜と喧伝されてきたアメリカの兵士といち早く関わり、その持てる金やモノを吸い取って、人々が一夜にして変わった混乱の中で、空腹を抱えて打ちひしがれている時に、図太く生きていた。大人たちは、彼女たちを口では軽蔑していながら、心のどこかで羨望していた。一見しただけで、その服装や持ち物が違っていた。物資の豊富なアメリカがそこにあったのである。

 常盤橋の両側には、靴磨きが多く並んで客待ちをしていた。中には、戦災孤児と言われた少年もいたが、戦闘帽を目深に被った白衣の傷痍軍人も多くいた。その中には義手を着けた人もいて、椅子に座って客が片方づつ履いたまま磨き台に載せる靴をかがみ込んで器用に磨いている。客のほとんどは、アメリカ兵や彼らと手を組んで歩くパンパンたちであった。日本の大人たちには、金を払って靴を磨かせる余裕などなかったということだ。

 あの白衣の傷痍軍人たちは、昨日まで誇り高き天皇陛下の軍隊として、日の丸の下で、聖戦完遂に命を賭けて鬼畜アメリカ兵と戦っていたに違いない。それが今日はその元敵兵の足元に膝を屈して靴磨きをせねばならないように、一夜にして世の中が変貌してしまった、ということだ。同時に私は、少年の幼い心情ではあったかも知れないが、そのアメリカ兵が磨き終わり、交替して椅子に座ったパンパンが、その元軍人の鼻先に足に履いたままの真っ赤なハイヒールを突き出して磨かせる光景に、何かしら義憤めいたものを覚えたものである。

 彼女は、普通では手に入らない洋モク(当時、憧憬を込めて外国のタバコをこう呼んだ)を、チュウインガムを噛みながら紅い唇に咥えてくゆらし、隣のアメリカ兵と何やら片言の英語を交わしながら、時にキャッ、キャッと甲高い笑い声を発している。その靴磨きは、下を向いたまま、黙々と彼女の靴を磨いている。私は、こんな光景に出くわす度に、なんだかこのような元軍人が可哀想で、同国人にいささかの遠慮もなく、思いやりを示さないそのパンパンが心から嫌いになった。
http://enjoynaming.cocolog-nifty.com/sudou34/2008/11/post-f3d2.html


パンパン狩り

性病が蔓延したため、強制検査のために街娼の狩込みを強化する警察やMP。有病者は強制入院させられる。池袋でもよく行われた西口闇市での取締りの光景。

RAA慰安所(米兵相手の慰安施設)や花柳街・特殊飲食街では GHQの要請で米兵を性病から保護するため 公娼や私娼に強制検診が行われていた 公娼制度廃止でRAAの慰安婦たちが何の補償もなく解雇されると 街娼(戦後自然発生)が急増 性病罹患数も増え
 強制検査のために「パンパン(米兵相手の街娼)狩り」が行われるようになる
http://com-support.co.jp/war_and_peace/after_johoku-daikusyu/index7.html


パンパンの狩り込みは、昭和二十一年(一九四六年)一月二十八日から東京ではじまった。GHQの要請でだが、占領軍の性病防止のためといえた。

京都は昭和二十三年の検挙者は二千四百二十二名であった。年齢は大正生まれが七十八名、昭和生まれがほとんどで、彼女のように十九歳から二十四歳ぐらいまでが百三十六名と一番多かった。(国家地方警察本部防犯課の資料による)


昭和21年、パンパンの一斉手入れ。こんな女に誰がした?

昭和21年の朝日新聞に、品川駅付近のホテルに出没する売春婦、いわゆるパンパンの一斉取り締りが報じられているそうです。

全部で300人が検挙されたが年齢は16歳から38歳までいた。けっこう若いじゃんと思われるかもしれません。暮らしに困って売春をなさる方の中には、恐ろしいほどの年配の方もいます。 専業は少なく、官庁や会社の事務職の者も混ざっていた。 参考資料によれば、「ダンサー、女給」など、売春業に手を染めやすい方々もおいでですが、「女工や会社の事務職、公務員」など、いわゆる堅気の女性もいたらしい。

300人のうち、性病にかかっていた者が60人いた。2割ほどの確率で病気をもらって帰るのでしょうか。当時、一番恐れられていたのは梅毒です。HIVと比べれば可愛い病気かもしれません。

「どうせ日本は負けたのだから、私たちが好きなことをするのは勝手だ」と取調べで煙草を吸う女もいた。
http://blog.q-q.jp/200702/article_17.html


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2.こんな女に誰がした(バスガイド編)__従軍慰安婦と同じ様に管理しただけさ


戦後、進駐軍指定慰安施設の閉鎖により町にあふれ出でパンパンガール
と呼ばれる街娼になった女達はGI達に性病が蔓延し始めると、MPと
警官による「パンパン狩り込み」と称する街娼の一斉検挙によって逮捕
され晒し者のように手錠腰縄で数珠繋ぎにされて強制検黴施設に連行され
全裸に剥かれて陰部を強制検診され、外性器に異常が無くても梅毒の潜伏
期間とされる一週間の拘留を申し渡され一日一度の強制検診を義務づけられた、
さらには明らかにパンパン狩りを見物しているに過ぎない女学生や主婦を
員数合わせや面白半分に連行する事も有り、沢山の悲劇が生まれた。

パンパンが安宿で全裸で淫売行為に及んで居る所に狩り込みが入ると、性行為の
動作を途中で停止させて写真を撮り、局部を拭くことも許さずに全裸のまま連行して
性器から検体を採取、そのまま一週間の拘留の刑罰を下されるので寒い時期には大変
だったそうだ

パンパンの狩り込みに度々引っ掛かったのは、終バスの乗務を終えて帰宅する
バスの女子車掌で、彼女達は料金着服防止の防犯検査で乗務終了後の裸体検査
を義務づけられているため、裸を人に見られることに慣れており、さらに泊まり番
の時は運転手と雑魚寝するために全て非処女、検挙後、検黴施設ですっ裸に剥かれても
婦人科検診台に昇って丸裸で大股開きになっても、日頃から全裸性器肛門点検を
毎日されている女子車掌は平気の平左のために常習淫売を疑われて、米軍発行の
商売女認定証、通称グリーンカードを発行され、売春婦登録となると週に一度の
性病検査を義務付けれて、さらに同じ職場の女子車掌全員が検挙されて強制検黴
を受けさせられ、売春婦登録される大騒動に発展した、さらに売春婦となった事実は
戸籍謄本に暗号で記載され、後の女子車掌の結婚に大きな妨げになった

いかにもの商売女の中に、素人臭い娘が混ざっていると取り調べの刑事どもも
昂奮して、証拠写真を撮るためと称して刑事部屋の汚い床に娘を全裸で仰向けに
寝かせて、座布団に張型をくくりつけた物を抱かせ淫売の手口を実演させて
楽しんだそうだ

東京でも省線電車を突然停車させて、若い女を全員降ろしトラックで病院に送り込んで
丸裸にして皮膚症状をチェック、婦人科検査台に昇らせて股を開かせ局部検査、ここで
処女と解かれば帰宅させるが、残りは潜伏期間の間は留置場に拘留なんて荒療治がまかり通った

そんな無茶なと思われるかもしれないが、梅毒を筆頭に各種性病の蔓延で奇形児の出産が相次いでおり、進駐軍が奇形胎児のホルマリン漬けを突きつけて日本側要人に対策を迫る新聞も病毒蔓延を書き立てるなどしたため、どんな強行手段も容認されたのだが
一部には夜のパンパン狩り同様、若い女に手錠腰縄を掛けて数珠繋ぎにし性病専門病院に連れ込むのだから、精神的抵抗も凄まじく数々の悲劇が生まれた
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/33/1218787155/l50

バス女性車掌身体検査

女子バス車掌身検制度

全裸身体検査といえば昭和初期から30年代くらいまでにかけて行われたバス車掌身体検査のほうが凄まじい。

当時のバスは運転手のほかに運賃を扱う女性車掌が乗っていたのだが、着服を防ぐために男性検査官による身体検査が行われていた。

当時のバス車掌というのは女性にとって花形職業であり、15〜6才から20代後半くらいまでが大半だった。

この娘たちを全裸にするのはもちろん、足を開かせて穴の中まで徹底的に調べたらしい。


バス車掌の思い出

中学を卒業してすぐにバスの車掌になりましたが、車掌の仕事は現金を
扱うために、料金着服防止の為の身体検査が義務付けられており、乗務
を終えて運行事務所に戻り、精算が済むと、制服、制帽、車掌靴を返納
して、下着姿で、防犯係りの前で、福引きの機械に似た、検査機を回さ
され、青玉なら通常検査、そのままシミーズの上からなで回して検査
黄玉なら特別検査、シミーズを脱いで、ズロースに手を突っ込んで検査
で済むのですが、赤玉なら精密検査を受けさせられました。

赤玉を引くと「そぉれ,裸ン坊だよ!」と大きな声で命令されて
事務所の奥のカーテンの奥に連れ込まれ、ズロースを脱がされ、「それ
カンカン踊り!,早くする!」と大きく足を拡げて、両手で両足首を
握ってお尻を突き出すように強制され、陰部と肛門にワセリンを塗られて
ゴムサックをはめた防犯係りの指と、検査棒で、中身をつつき回され
ました、

また、検査の後は入浴が義務付けられており、脱衣所で、衣服を
検査係りに渡した後、浴場の入り口に、甘字架という、張りつけ台のような
物があり、この台に上ると、性器、肛門がぱっくりと開くような姿勢に
なるんですね、是に必ず登って、さらし者にならなければ、お風呂に
入れない構造になっておりました,

料金着服の疑いをかけられている車掌は ここでも、衆人環視の中で、
性器、肛門の中身を、容赦なく点検されました、

当時、車掌は裸踊りも仕事の一部だとされており、乗務中の車内でも、痴漢
さんに、

「どうせ、会社に帰れば、泥棒の疑いで、丸裸の四つん這いにさ
れて、尻の穴までつつき回されるんだろう、是くらい平気だろう!」

ってからかわれながら、いろんないたずらをされた物です、会社からは、お客様
に失礼の無いよう、どんなことにも我慢しなさいって言われてましたから
抵抗も、口答えも出来ません、ただ、火照ってくる体と屈辱に、身を震わせ
ながら、悔し泣きするだけだったのです、こんな、恥ずかしい検査の事を、
会社では「女の兵隊検査」と呼んでおりました。


ちなみにこれをネタだと思うヤツは、以下の本を読んでみるといい。

「バス車掌の時代」ISBN 4-7684-6611-7

日本図書館協会選定図書なので、大抵の図書館にもある。
さすがにここまで具体的には書いてないが、似たようなことが書いて
あるぞ。

バス車掌の話、「ユメノ銀河」って映画のワンシーンであったね
浅野忠信が出てて、主演は、何とか麗奈って娘(なんかのドラマのいじめっ子役の、、)

さすがにぼかしは入ってたけど、、、苦痛に歪む表情がタマランカッター
小刻みに震える足の指がクワッ!!って拡がるシーーンで逝ってしまった、、

昭和初期から30年代にかけてはマイカー等が普及していなかったため、公共機関
全盛期でした。特にバス会社は日本中に何百社とできたので、バス車掌の扱い方についても地方や会社によって全然違かったのかもしれません。
(特に関西が凄かったという話です・・・未確認)

余談ですが、このバス車掌身体検査は昭和30年代のある事件(濡れ衣を着せられた
車掌が拷問の挙げ句自殺してしまった)を境に全国的に廃止されました。
その後、昭和40年代になってワンマンバスの出現により、女性車掌自体が廃止されて
しまいました。


あの時代は女子の就職先自体がほとんど無かったので、電話交換手と並んで
バス車掌は花形職業だったそうです。
女は家庭を守るものという意識が根強い反面、戦争によって父親を亡くした母子家庭
も多く、生活していくためには働かなければならず、そのためバス車掌などの職業に
就けるだけでも恵まれている、という認識があったようです。

そのため、どんなにひどいセクハラを受けても会社に反抗したり辞めたりする人は
いなかったようです。


美空ひばりの「青春はりきり娘」と言う映画に、バスの女子車掌の、
集団裸体身体検査の様子が出てくる、一列に並べられた、バスの女子車掌が、
次々にホールドアップの姿勢で両手を上げさせられ、制服のボタンをはずされ、
ズボンのベルトを抜かれて、ズボンが足下に落ち、ズロースを膝まで
引きずり降ろされ、悲鳴を上げながら、局部に指を突っ込まれて性器、
肛門の検査をされる、後ろからの描写で、直接、尻や性器は見えないが、
エロ度は高い。

これは、昭和30年代まで、実際に行われていた、バスの女子車掌の、
料金着服防止の防犯検査を、映画用に、表現をソフトにして、再現した物で、
実際は、全裸にされ、両手で両足首を握り、大きく脚を開いて、けつを突き出し、
ゴム手袋と、検査棒で、徹底的に性器肛門をつつき廻して検査したそうです。

この検査を受けた体験談を赤裸々に告白していたのは、
日本人ボンドガールの浜美枝さん、彼女は、中学卒業と同時に、
バスの女車掌に身を落として、名状しがたいような屈辱的裸体身体検査を、
乗務前、昼食時、乗務終了後、外出先の抜き打ち屋外裸体検査と、
涙が涸れ果てるほど受けてきたと波瀾万丈伝のなかで告白しています。

そして、当時、エロ映画界には、バスの車掌は、裸が平気で、明日から使える
という評判が有ったそうで、浜美枝さんも、おなじ身体検査を受けている、
車掌仲間と、出かけた、セクシー女優登用試験の面接で、堂々と裸体を
披露度胸の良さを買われて「若い素肌」でデビューしたそうです、

ボンドガールになったきっかけも、この役が、縄ふんどし一丁の
裸海女の役だったため、英語の達者な本格女優がみんな断ってしまい、
英語もしゃべれず、泳げないという、浜さんに、裸度胸をみこんで、
仕事が舞い込んだそうです、その後も、週刊プレイボーイなどで、
全裸で逆立ちするなど、当時としては破天荒なエロシーンに、
敢然と挑戦していました。

参考: DVD[歌え!青春 はりきり娘]
  ttp://www.rakuten.co.jp/cfc-co/596371/600351/602957/
 モノクロ84分/1955年度作品/モノラル/スタンダードサイズ

【STAFF】監督:杉江敏男 脚本:八田尚之
【CAST】美空ひばり/久保明/小泉博/藤原釜足/寿美花代/清川虹子

■発売元:東宝 ■販売元:東宝

昭和二十年代に出されたSM雑誌「裏窓」なんかには、
バス会社ごとの裸体検査の方法の違いなどがのっていた。


第043回国会 法務委員会 第28号
昭和三十八年六月二十七日(木曜日)   午前十一時五十九分開議

○志賀(義)委員
神戸市交通局の松原事務所の車掌若林栄子さんの、不当な疑いによる
取り調べで自殺した事件について、人権擁護局に調査を依頼しておきましたが、
その結果はどうなりましたか、お知らせ願います。

○稻川政府委員
結論としてはっきり申し上げますと、調査はまだ完了しておりません。
その後、いろいろ根本的にむずかしい問題がありますので、
この際そういう問題も調査しておきたいという考えで、まだ終了しておりませんから、
もう少しお待ちください。

○志賀(義)委員
では大臣が来られるまでもう少し質問いたしたいと思います。
〔林委員長代理退席、委員長着席〕
この前、私が刑事訴訟規則で身体捜査には判事の拘引令状が必要だと申しましたが、
私、先日神戸に行きまして、六月二十三日その事務所に参りまして、
いろいろと調べを受けた場所、並びに当局の言う

検査を受ける場合の、簡単な調べを受けるときに青玉が出る、
赤玉が出たら入浴して脱衣場に置いたものを全部調べられる。

その赤玉、青玉のことを新聞記事を読んだだけではわからなかったのですが、
行ってみましたら、こんな箱の中に青いビー玉を四つ、赤いビー玉を二つ入れて
引っぱり出しますと平均して確率で二回ほどは青・一回は赤玉が出る。
赤玉が出たら入浴して検査を受ける。その入浴場も私は見てきました。

どうもその道具を見ますと、いささかこっけいな気がする道具なんですが、
そんなことでそういう検査が行なわれるということでございますが、
こういう検査は神戸法務局の人権擁護課の話では、バス車掌の身体検査は
ある程度やむを得ないと思うが、行き過ぎのないよう最小限度にとどめるべきだ、
今度の場合遺書もあるというが、それが直接原因とすれば問題だ、
人権侵害の疑いも考えられるので、訴えがなくても関係者を呼んで独自の調査を
始めるということになっておりますが、その報告はまだきていないのですね。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/043/0488/04306270488028c.html


女子車掌が裸体検査をどのように思っていたかを示す婦人雑誌の記事に、
中学の進路指導でバスの女子車掌採用試験の内容を兵隊検査と説明され、
受験を希望して帰宅したら、小学生の弟から

「ネェちゃん、ケツの穴に指突っ込まれんノンか」

と聞かれ、恥かしい噂は近所中に広がっていたと出ています、
度胸を決めて臨んだ身体検査会場は町の商工会館の二階会議室で、
ズロース一丁で衝立の前に整列させられ一人づつ呼び込まれるのを待っていると

「ズロース脱いで、早くする、両手両足を印のところに置け」

と指示されているのが聞え、四つん這いにされるんだと思っていると、
名前を呼ばれて中に入ると、試験官のお偉いさん達の位置から
丸見えに成っているのが解かり、全身がカッと羞恥で真赤になるのを感じながら、
言われるままに全裸になり、大きく股を開いて膝を付けずに四つん這いになり、
思いっきりケツをもったてると、

「ブスっといくぞ」

の声が掛り、まず性器を二本指でこね回してからケツの穴に指を突き立てられ、
前後にピストン運動された後、すっと指が引き出されパシッとケツを叩かれて、
医者と看護婦、一部始終を見ていたお偉いさんに

「有難う御座いました」

と挨拶した、帰宅してからは父母にも検査の様子を聞かれ、

「なんもなかった、ちょっと見られただけじゃけん」

と答えたが、寝てから肛門に突っ込まれた指の感触を思い出して、
きゅうりを突っ込んで散々オナニーしてしまったそうだ


昔のグラフ雑誌などに、若い女性がシミーズ姿で涼んでいたりする写真や、
ズロース一丁で乾布摩擦してる写真が載っており、特に戦後の混乱期は
若い女性も裸を恥かしがらない風潮が強かったので、バス女子車掌が運行掛りに
行なう乗務点呼がシミーズ姿で有ってもさほど恥かしくは無かったのだろう、

「大内吉子、十八番線朝勤乗務します、防犯検査御願いします」

と申告して、防犯掛りがシミーズの上から撫で回し、
すそをまくってズロースの中を探り、パシッと尻を叩いて

「点検終り、異常なし」

と告げると、制服と車掌鞄などの受取り札を貰って
車掌乗降口に廻って服装を整えて乗務したそうだ
バスの女子車掌が防犯検査でケツ穴を検査されるのは世間で良く知られていたが、
もっと凄い噂として、バス女子車掌は糞舐め女だとか運転手のケツ穴を舐めさせられる
という話しが流布されていて実際に広く行なわれていた

糞を舐めさせられるのは糞付きの防犯掛りの指や検査棒を検査終了後に、

「ほれ、舐めて綺麗にするんだよ、早くする!」

と号令を掛けられて舐めさせられた、そして当時のバスの運転手は大陸の戦線などで
退廃的な風俗嬢を体験してるので、泊まり番で女子車掌と雑魚寝するときには
ケツ穴リップを強要した為で、当時のバス女子車掌はズベ公が多かったから
プレー感覚でまんざら嫌がらずにやっていたそうだ


バス女子車掌の裸体検身を写した有名な写真は、

事務所の衝立の陰の検身台の上ですっ裸の四つん這いにさされている女子車掌の横を
忙しそうに立ち歩く女子事務員の姿と、脱がされた衣服を点検する防犯掛り、そして
衝立の向こうに映るごく普通の事務所で伝票整理したり、窓際で談笑したりする人を
姿が映りこんでてすっ裸で性器肛門丸出しで四つん這いにさされた女子車掌の屈辱が
匂い立つような作品です


1 名前:屈辱の日々@[] 投稿日:02/03/07(木) 12:01 ID:+GTe8s9i

昭和三十年代まで、中卒でバスの車掌になった女の子たちは、料金着服
防止のための防犯検査、通称『泥棒検査』を受けなければ帰宅がゆるさ
れ無かったのです。

 検査は乗務終了後、制服を返納して、シュミーズ一つの姿で事務所の
カウンターに並んでクジを引かされ、『青玉』なら通常検査、その場で
なで回して検査、『黄玉』なら特別検査、シュミーズを脱ぎズロース一
丁でカウンターの中へ入ってズロースのなかへ手を突っ込み性器や尻の
割れ目をなで回して検査、『赤玉』なら、大きな声で『赤玉です、裸検
身御願いします!』と申告させられ、『そぅれ、裸ん坊の御通りだよ。』
と肩を押されて、事務所の奥の身検室(隅に三角形にカーテンをつるし
ただけ)に連れ込まれて、通称『女の兵隊検査』。全裸のままで、膝を
付けずに四つん這いになり思いっきりケツを突き出した格好で、ゴム手
袋をした指と、棒でしつこく性器と肛門をつつきまわされ、検査を受け
た後は一週間くらいひりひりしたものでした。

 そして、おとり捜査で印をつけた千円札何かが、清算金に入っていな
かったら、もう大変、拷問まがいの取り調べを特高上がりの『密行』と
よばれる防犯係(なんと、男!)から長時間全裸のまま受けなければな
らず、自白を拒めば、自宅へつれていって両親の前で、全裸性器肛門検
査を強要される事さえ、有ったのです。


2 名前:屈辱の日々A[] 投稿日:02/03/07(木) 12:03 ID:+GTe8s9i

また別のバス会社では、女子車掌は、揺れるバスのなかで、立ったままの姿
勢で、長時間勤務するにもかかわらず、当時(昭和2.30年代)、まともな生
理用品がなかったため、バス会社から貸与される赤ゴム製のゴムふんどしで、
脱脂綿を固定していたそうです。バスの車掌は低学歴の娘でも、女工さんの
三倍もの給料を貰えた反面、労務管理はかなり厳しい。特に女子車掌が料金
を着服するのを防止するため、乗務終了後は全裸で身体検査されていたので
すが、このゴムふんどしを付けていた時は、検査係が、『ギュー』と伸ばし
ておいて、『パッ』と放し、『ビシッ』と裸の尻に当てていじめたとか。強
力なゴムなので、青アザが出来るほど痛かったそうです。また、この赤ふん
どしを借りるためには、男もいる運行事務所で、ズボンを膝まで下げて、
『輪島車掌区、本多寿々子!本日よりメンスが始まりました!生理帯の貸し
出し御願いします!』と大声で申告しなければならず、時には『おい、ズロ
ースも脱いでよく見せてみろ。脱げないなら、誰か手伝ってやれ!』などと
いわれて下半身スッポンポンの屈辱を味わわされたりしたそうです。

 ちなみに、この赤ゴム製のゴムふんどしは、看護婦出身のバス会社幹部夫
人が子供の脱腸帯を見て、考案されたものです。


バスの女

子車掌全裸検査制度は、日弁連の人権白書などにも、取り上げられており
学校でも、憲法、労働法なんかをとれば、かならず取り上げられていたものです。

美空ひばり主演の映画なんて(「歌う青春、はりきり娘」だったか)大衆的な作品
にも、ひばりさんがバスガールに扮して恋を実らせるという設定で、大部屋女優が行列
させられて、男の防犯係から、ホールドアップの姿勢をとらされ、制服のボタンをはず
され、スカートのベルトをとられて、さらにブラウスの前をはだけられ、手をさしこま
れる検査シーンが出てきます、

何人か調べた後で、怪しい素振りを見せた娘を、女の
防犯係に、「こいつ奥で調べて!。」と指示して、なにか電話がはいり、シーンはうつりますが、こういう、大衆娯楽の分野でも、バスガールを登場させるなら、裸検査を連想させるシーンを登場させる事はお約束でして、彼女たちが素っ裸の検査を受けさせられていることは、世間の常識だったんです。
http://www.oocities.com/masako_69_love/0352.html


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参考 : 従軍慰安婦の管理法

日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。


 「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中という者は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、
次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。

 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。

この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。
 ある日、田中という者は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に

「俺もしたから、お前もやれ」

とそそのかし、私に×××させた。

私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。

 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」

 日帝野獣は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。

かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、
乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。

 日帝は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、
死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。
http://www.piks.or.tv/date/japan/20040826.htm

『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』


耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で
切り落とすと傷口から真っ白な脂肪が溢れ出してきて、やがてそこから血が流れ出した。

731部隊やら南京大虐殺と並んで有名な従軍慰安婦問題。
A級戦犯が永眠る靖国を総理が未だに参拝している事が大陸で問題視されているのも、生の声を聞くと頷ける。
http://www.eigaseikatu.com/imp/14905/152813/

兵隊は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいまし た。ところが、両親は私たちを残して死ん でしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお 母さんに続いて死んだのです。

  住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして 弟たちを養いました。   私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋 に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。

彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。
弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだの で私は振り返ろうとしたのですが、
男たち に蹴られてトラックに押し込められました。

その中には、幼い少女から20歳前後までの 娘たちでいっぱいで100人くらいいました。
男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴っ たりして黙らせたのです。

  水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大 連へ連れて行かれました。
私たちが列車の 外をのぞこうとすると、「何を見ている」 と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりし ました。 私は、弟たちのことも心配だしこ れから何が起きるかという不安で泣き出し たのですが、そしたらまた殴られたのです。

兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江な どで娘たちの一部を汽車から次々と降ろし て行きました。 私は東寧県で汽車を降ろさ れ、20人くらいの女性たちとトラックでプ チャゴルに連れて行かれました。

到着する と将校が「天皇と軍の命令だ。言うことを 聞かないと殺す」と言いました。
私は5号室に入れられ、着いたその日か ら強姦されたのです。

あちこちの部屋から も悲鳴が聞こえてきました。
それからは、 少ない日でも30人くらいの日本兵の相手を しなければなりませんでした。

  ある日、2人の女性が兵隊の相手をする のを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。

兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。

その娘たちは兵隊に「犬のよう なお前たちの言うことなんか聞かない」と 言いました。

そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。

血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。

  彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って 沸いた湯の中に入れました。
そして、その 煮汁を私たちに飲めと強要しました。

拒否 すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。

  女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。

ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。

板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように
足の神経を切られてしまったのです。

  そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。
私は、 鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。

すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。

この時の火傷はケロイドになってし まったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。

  ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。
私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。

私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいま した。
私はここの「慰安所」に8年間いま した。

  体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。
1947年に帰国しましたが、 故郷には帰れませんでしたし、子どもを生 むこともありませんでした。
http://www6.ocn.ne.jp/~kitanisi/knews/knews0109.html

日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか:

A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのか
と尋ねたために、日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、
裸にされて、たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を
切られた。

さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で
『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』と述べ、死んだ女性の死体を
煮て食べるように強要した。


B. 韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令
され、そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。


C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を
切られ、ぶつ切りにされた。


D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦
の面前で引きちぎられて殺された。


E. 多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。


F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。


G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、

「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」
と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。

(上記の申立書、ならびにハウスフェルド法律事務所の各種資料は、
http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm



__________________________

4. こんな女に誰がした(アメリカ移民編)__天皇陛下を恨んでね


天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。

しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。
貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。
天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html

高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。

「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。
<中略>

天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。
この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。
詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。
日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。

娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。

「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」

福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。 片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。


男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。


このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社


日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、
欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、
欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。
そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを
公然許可すべき」という指示を天皇に与える。

賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に
「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、
天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。
(福沢諭吉全集 第15巻)

1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い
仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で
大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は
天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」
日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は
「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の
売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族の
サギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。
その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性を
だまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の
売春業者であった。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」
された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に
売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。

これが従軍慰安婦の原型である。

日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、
三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、
全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の
新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を
「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する
「売春業参加のお礼」として建設された。
(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。


また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と
協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。
こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が
蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた

米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で
1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、
女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、
ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で
「無給」で重労働を行っていた。
そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって
戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく
自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し
略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に
運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」
という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争
は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、
「天皇一族は金銭ギャングである」
と吐き棄てるように語っている。
(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)


1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は
この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、
海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、
スイスに850万ポンド、
ラテンアメリカに1004万ポンド等、

広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、
天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した
蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。
(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。


広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本を
どのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、
天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金
を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が
日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そして
スイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた
日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されて
いる最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など
何も考えていない事は明白である。

(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」
マルジュ社)。


なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた
商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の
対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは
何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が
「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員
であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を
借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、
港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、
莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の
金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は
「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を
「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが
虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのも
スイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に
「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族
の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪
ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。
(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 

ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。


1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い
女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が
社会問題化し、それを禁止した法律であった。

天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」
(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の
「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、
1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、
日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇
の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し
米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、
人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語る
のがジャーナリストの仕事である。
天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の
無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607


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彡三ミミヽ       | ..|ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠|    天皇・・・・・
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参考__日本の女性売買史

有史以来「売春婦」は存在したと見ても間違いないだろう。平安時代には「白拍子」と呼ばれていたが、室町時代には戦乱による社会の混乱で、その数が急増、社会的地位も最低となった。

天正13年(1585)豊臣秀吉は、業者を指定し、散在していた売春婦を集めて大阪傾城町(新町)に「遊郭」を造らせた。我が国の「公娼制度」の始まりである。次いで京都島原などが造られ、これらは「遊郭」「郭」「色里」とも呼ばれた。

江戸時代の元和3年(1617)江戸に元吉原ができ、更に遊郭以外の私娼街も各地に誕生したが、黙認されていた。享保3年(1720)に幕府は遊郭の制度化を図り、江戸吉原、京都島原、大阪瓢箪町、下関稲荷町、博多柳町、長崎丸山など25ヶ所が許可された。そのほか深川など半公認の私娼街も在った。「遊郭」の多くは郊外に設置され、周囲に溝を回らし、大門(オオモン)だけが通行できた。

「遊郭」の中には特異な習慣、作法、郭詞(クルワコトバ)、揚屋制度等があり、江戸文化形成に一定の影響を与えた。江戸芸術の多くが「遊里」と何らかの関係があるのは、ここが芝居と同様の社交場になっていたからである。明治時代になると単なる売春地帯に変貌し、その数が急増した。明治5年(1872)マリア・ルース号事件で政府は公娼制度廃止の布告を出した。

【ペルー国籍のマリア・ルース号が清国からペルーへ苦力(クーリー)を輸送途中、横浜に寄港した時、虐待に耐えかねた苦力が逃亡して英国軍艦に助けを求めた。神奈川県令大江卓は裁判で苦力を釈放し本国へ送還した。この措置に対しぺルー側は日本の公娼制度も「人身売買」であると非難した】

当時の司法卿江藤新平が“娼妓、芸妓は牛馬と同じ。牛馬に借金の返済を迫る理由はない”と言ったことから「牛馬解放令」とも言われた。この布告は、江戸以来の遊女制度に打撃を与えたが、古い遊郭は「貸座敷」に再編成されたに過ぎず、公娼制度の実態は変わらなかった。大正13年(1924)には全国に544ヶ所の遊郭があった。

「公娼制度」は、性犯罪の防止及び性病予防に一定の効果があった。昭和6年(1931)満州事変勃発以降、遊女は軍により「従軍慰安婦」として動員され、高まりつつあった「廃娼運動」は大きくつまずいた。「遊郭」の実状は、遊郭経営者の家庭で育ち、つぶさに遊郭を観察された作家宮尾登美子氏の数々の作品で語られている。 http://www.c-able.ne.jp/~tseiso/jibunsi/panpan.html

 まず、鎌倉時代の「長者」。長者とはもともと名望家や富豪の旧家の主人をさしていた。そしてこの長者の家に貴族や高位の武士が旅をするときに泊まる風習があった。このとき長者は自分の妻に身の回りの世話、さらには夜伽の相手、いわば売春接待をしていたのである。その後、客の接待のために専属の女性を雇うようになり、鎌倉時代中期以降は、それが営業化して娼家のようになったのだという。

 次に蓮葉女。これは港の商家の問屋が取引上の顧客や船頭を家に泊め、その接待婦として専属に雇われていた人たちである。

 街道の旅籠屋(宿屋)で、給仕の女が売春することが多かった。江戸時代に「飯盛り女」と言えば駅妓を指す。また茶屋も売色をすることが目的の「遊び茶屋」が少なからず存在した。

 また江戸時代には湯女風呂というものが流行した。これは蒸し風呂があって、女たちが垢を落とし、また当然色を売ったりもしたのである。

 この辺りがフーゾクの原型である。

 ところで、ここからは公娼の話。公娼制とは幕府や政府といった為政者が売春を公式に管理する制度。

 公娼制の存在がはっきりわかっているのは16世紀後半、豊臣秀吉が大阪・京都で認可した遊郭である。

 さてその後徳川家康が江戸城に入城し、辺りを開拓していくのだが、地方から商人や労働者が集まってくると当然遊女も集まってくる。その後江戸が繁栄し出すとあちらこちらに遊女の店が出来る。「それは風紀上よろしくない。一ヶ所にまとめてしまおう」と幕府に提案したのが庄司甚内。1612年のこと。その5年後にこの提案が幕府に受け入れられ、作られた遊郭が吉原である。

 吉原は3万坪ほどの広さで、周囲が溝で囲まれており、一箇所しかない門からしか外に出れないようになっていた。中には3000人ほどの遊女があり、江戸の前期は大名などが、後には商人や庶民がここで遊ぶようになったという。

 この頃の遊女というのは、もとは地方などの貧しい家の娘が、お金と引き換えに女衒というブローカーを通してつれてこられた女達であり、基本的に約10年その親の借金のためにそこで売春をしなければいけなかったのである。連れてこられたときの年齢は14やそこらである。また彼女らの死亡記録をみると20代前半が多かったことを付け加えておく。

 吉原は唯一の幕府公認の遊郭として繁栄していくのだが、徐々に岡場所などといった私娼窟が勢力を伸ばし、吉原は衰退していく。原因としては、吉原の遊郭の「サービス料」の高さと形式ばったところが嫌われたのではないかといわれている。

 さて、明治維新。遊郭はそのままの形で残ったのだが、しばらくしてマリア=ルース号事件が起こる。これはどんな事件かって言うと、ペルーの汽船が日本に入港したら船に乗せていた清国人奴隷(苦力:クーリー)の一人が、イギリス軍艦に逃げてしまった。それで「奴隷を返せ」っていうペルーと「いや、奴隷は人権違反だ。返せん」なんていうイギリスとの間で裁判を行うことに。日本がその裁判を引き受けることになったんだけど、日本の裁判長の大江卓は「奴隷売買は国際法違反だ」という判決を下して、清国人の身柄は母国に戻せって言ったんだ。

 そしたらペルーは怒って「奴隷契約が国際法違反だったら、おまえの国の娼婦はなんなんだ」って言ったんだ。そしたら日本は「それもそうだ。公娼は解放の方向で取り組みます」なんていって、明治五年「娼婦解放令」が発令される。

 遊女たちは「これで帰れる」なんて喜んでいたみたいだけど、結局家に戻っても貧乏には変わりないから、行く場所がない。結局「貸座敷」という形で遊女屋はほとんどそのまま残り、女たちはそこで働くことになった。

 明治・大正・昭和になっても相変わらず地方は貧しい。そしてたくさんの娘たちが金と引き換えに貸座敷に連れてこられたという。山形県のある地方では9万の人口がいたのだが、そこで2000人もの女が娼妓になって村から消えたなんて話もある。

 昭和恐慌と東北を中心とする農村の壊滅的な貧困により、この身売りはピークを迎える。日本史で受験をした人なら資料集などで「娘身売りの場合は当相談所においで下さい」なんていう張り紙がしてある光景の写真を見たことがある人も多いと思うが、当時親が娘を連れて行くのはこの相談所ではなく、身売りの斡旋をする周旋所であった。

 戦前、軍人たちはよく吉原などの貸屋敷で遊んでいたという。そして戦争がはじまると、兵士たちは出征の前に馴染みの遊女に挨拶に行き「生きて帰ってきたら一緒に所帯を持とう」などと誓ったという。また、徴兵されることになったまだ若い息子を連れて父親が吉原に来たこともあったという。その父親にとって息子が女を知らずに死んでしまうことはやるせなかったのだろう。

 戦争が激しくなったが吉原は引き続き地味にではあるが営業を続けた。しかし、やがて空襲により吉原は全焼。中にいた遊女たちは多く焼死したという。一方従軍慰安婦として海外に渡りそこで死んだ遊女たちも少なくない。
 http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai25.html

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4. こんな女に誰がした(キリシタン編)__キリスト教を恨んでね


豊臣秀吉の「バテレン追放令第10条」と奴隷貿易をしていたキリシタン大名・天草四郎

徳富蘇峰の近世日本国民史に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっています。

『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』

ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、マラーノのアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタンの悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万もいるという。

肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。

鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。

ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』


豊臣秀吉は準管区長コエリヨに対して次のように命じています。

『ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。 従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ。』

2002.7.9日付北國新聞の「バテレン追放令」も当時の「宣教師達による日本人女性人身売買」について触れています。
豊臣秀吉のバテレン追放令第10条の「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」を紹介し、次のように述べています。
『バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。』

豊臣秀吉は、この奴隷狩りを止めさせるために、イエズス会の司祭、コエリュに詰問しています。

「九州に来る西洋の商人たちが日本人を多く購入し連行していることをよく知っている。いままで誘拐して売り飛ばした日本人を返せ。それが無理なら、ポルトガル船に買われて、日本にいる監禁されている日本人だけでも開放しろ。そんなに金が欲しいなら、代金はあとで渡す。」

これにコエリュが答えて

「日本人売買の禁止はかねてからのイエズス会の方針である。問題なのは、外国船を迎える港の領主(キリシタン大名や天草四郎)であり、厳しく日本人の売買を禁止しない日本側に責任がある。」

このやり取りで、秀吉は激怒し、奴隷売買禁止令を発します。

天草四郎があれだけ最新鋭の鉄砲で武装できたのも、奴隷狩りの豊富な資金があったからです。
彼らは現在の絵や小説やドラマに描かれているようなムシロ旗に竹槍の武装などしてないんですね。 鎧を着て、銃で武装した組織的武士団です。

戦前までは、この事実はよく知られていたそうです。
そのため、古い物語などに出てくる天草四郎は魔回転生に出てくるような化け物として描かれています。 しかし、戦後はあべこべに日本人がキリスト教徒を迫害したのだと教科書で教育しています。 奴隷貿易で子供や女性を連行されたのは日本人の方なのに。


日本の歴史教育ではキリシタン殉教者の悲劇は教えます。
しかし、天正少年使節団が報告した日本人女性50万人が奴隷として売買されていた悲劇を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇を、どうして教えないのでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q2869029.html

日本人女性をドレイとして売り飛ばした切支丹大名の非人間性、これが武士か、日本人か


キリシンタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが天正少年使節団としてローマ法王のもとに行ったが、その報告書を見るとキリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

 「行く先々で日本女性がどこまでいってもたくさん目につく。ヨーロッパ各地で五十万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国まで転売されてゆくのを正視できない。 鉄の枷をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている。」


 この少年たちの父や叔父たちが日本女性を数十万単位でポルトガルの教会の師父たちと共謀して売った悪なのである。これがキリシタン大名や小名、豪族たちの偽らざる真実の姿なのである。ポルトガルの教会の師父が世界的売春組織のボスであることを知って、キリスト教のなんたるかを連想されるがよい。

日本のキリシタン大名が、キリスト教(カトリック)の宣教師、そして、ポルトガルの奴隷商人に、火薬一樽につき五十人の日本の美しい娘を奴隷として、ヨーロッパなどに売り飛ばした、と言う一件である。

 この件は、日本側に、日本の娘たちを捕らえて、キリスト教の奴隷商人に売り渡す勢力が存在しなければ、全く成り立たない。実際、十六世紀以降、キリスト教ヨーロッパの征服者たちは、サハラ以南の黒人、アフリカ地帯から、合計数千万人の黒人奴隷を中南米、北米大陸に連行した。しかし、この件は、黒人側に、奴隷売買の権力者が存在しなければ、成り立たない。

 我々は歴史書によって、当時、アフリカ黒人部族の首長たちが、ヨーロッパキリスト教奴隷商人から資財を受け取り、それと引き換えに、黒人同胞を売り渡して居たことを承知して居る。

 しかし、全く同じことを、戦国末期の一部の日本人権力者がやって居たことを始めて知って、正直なところ大きなショックを筆者は受けた。

 九州のキリシタン大名大友宗麟は、カトリックの宣教師に煽動されて、永禄四年、宇佐八幡宮を焼いた。天正九年十月八日には、豊前彦山の三千坊といわれる坊舎を焼いたと。
 大友宗麟は、カトリックの極悪悪魔主義者たる宣教師と、ポルトガルの商人から、火薬の原料硝石を輸入するために、豊の国の神社仏閣を焼き払い、若い娘たちをドレイとして、売り払ったと。

 このような人物こそ、日本史上極悪の民族への裏切り者、売国奴、国賊、として特筆大書され、徹底的に日本国民に、教えなければならないのではないか。
 しかし、大友宗麟のみでない。日本人キリスト教徒は、全員大友宗麟と同類の顕在的また潜在的な売国奴、ではないのか。
http://www.asyura.com/0411/bd38/msg/361.html

キリスト教布教に躍起になり、日本人を奴隷として連行するのは何故かと秀吉は耶蘇を詰問


大分(豊後)は、キリシタン大名・大友宗麟の領地です。
織田信長は、ポルトガル(+イエズス会・サビエル、大友宗麟経由)から大量の武器・資金援助を受けていたようです。

当時、大友宗麟・有馬晴信・大村純忠・高山右近・小西行長・黒田如水・細川忠興らのキリシタン大名たちは、武器輸入のかたに日本人を奴隷として売買して利益を上げた、と言われています。

天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
 
http://www.asyura.com/0411/bd38/msg/354.html

 大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷

天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。

「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」

「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」

といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。

 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、

「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」

と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。

「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」

といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。

 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。

 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。−−奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html
 

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コメント
 
01. 中川隆 2010年3月21日 14:31:55: 3bF/xW6Ehzs4I

祗園の姉妹(1938年)

監督・原案:溝口健二
脚本:依田義賢
撮影:三木 稔

キャスト(役名) - 祇園の姉妹
小野道子 (美津ひろ)
木暮実千代(美津次)
中村玉緒 (美津丸)
勝新太郎 (木村保)
進藤英太郎(工藤三五郎)

http://www.youtube.com/watch?v=RV97niIi-_8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=4WVsmnEDiwI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=V4WJPHJD-y0&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=vqAoDjgZDGM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=u6Dv6HTzlVo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=7hLThDNMcMU&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=bIo31t6WiJc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=CooEptQ7wz8&feature=related


祇園囃子(1953)  

原作:川口松太郎
監督:溝口健二 
脚本:依田義賢 
撮影:宮川一夫
音楽:斉藤一郎
美術:小池一美

キャスト(役名) - 祇園囃子
木暮実千代 (美代春)
若尾文子 (栄子)
河津清三郎 (楠田)
進藤英太郎 (沢本)
菅井一郎 (佐伯)

http://www.youtube.com/watch?v=3Y4UkMDBfN0&feature=PlayList&p=AAEF1FBFD9A3091E&playnext=1&playnext_from=PL&index=9
http://www.youtube.com/watch?v=ARpjGn3g1eA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=BhYY45YtyV8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=nK2arO5vvdY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ciCIPLT-P2Q
http://www.youtube.com/watch?v=U44nO5bTRUc
http://www.youtube.com/watch?v=02xRSjhNZqo&feature=related

溝口健二の「祇園囃子」(ぎおんばやし)

20数年前に二度ほど見て、若尾文子が可愛らしかったぐらいの記憶しかなかったのですが、最近出たDVDを見てみると、20数年前よりも感心することが多くて、すっかり感動してしまいました。

花柳界のちょっとしたエピソードを描いた1953年の90分足らずの作品です。芸者木暮実千代と妹分の舞妓若尾文子が得意客と寝るのを断ったために、お茶屋の女将浪花千栄子を怒らせてしまい、どこの茶屋にも呼ばれなくなる。しかたなく木暮は好きでもない客と寝て、二人は再び座敷に呼ばれるようになる。

芸者と舞妓はどう違うのだろうと調べてみたら、舞妓というのは20歳ぐらいまでの芸者見習いのようです。若尾文子は、このとき20歳少し前でしたが、映画の中では16歳の役だから、実際の自分よりも若作りの演技をしてるらしく、よけい可愛い。同じ頃に「十代の性典」というヒット・シリーズにも出ていて、ブロマイドの人気が1位だったそうです。

芸やお茶やお花を習う教室の帰り道、同じ年頃の舞妓が「62歳の旦那をとらなきゃならないの」と若尾に打ち明けます。その後、若尾は、旦那のような存在の河津清三郎に抱きつかれて抵抗しているうちに彼の舌か唇を噛んでしまい、木暮とともにお茶屋から締め出しを食らってしまうのですが、若尾が通りでしょげていると、62歳の旦那をとったであろう舞妓が若尾を見つけて、舞妓仲間たちとともに「がんばってね」と励ますシーンは、舞子たちのけなげさに目頭が熱くなりました。

若尾文子よりも木暮実千代のほういいなあと思うようになったのは、私が年をとったからでしょうか。売れっ子だから、好きな男としか寝ないということができたようですが、若尾を妹分にしたがために窮地に立たされ、「好きな男にしか体を許さないなんて、お金持ちが言うことでっせ」というようなことを浪花千栄子に言われ、好きでもない男と寝ることで自分と妹分を守るのです。

浪花千栄子の女将もいい味出してます。彼女は私が物心ついたときからテレビでおなじみだったけど、これまで特に彼女に関心を持ったことはないし、映画だと小津の「彼岸花」しか印象に残っていません。このたび興味を持ってキネ旬の「日本映画俳優全集・女優編」を読んでビックリ。小さい頃は信じられないぐらい不幸な境遇で、舞台の女優になっても苦労続き。40台半ばのの1952年にラジオ番組「アチャコ青春手帖」で人気が出て、映画にも出演し始めたというから、「祇園囃子」のときはまだ2年目じゃないですか!(もっとも、20歳ぐらいだった1920年代後半、サイレント映画に出演していたらしい。)

それにしても、52年に「西鶴一代女」、53年に「雨月物語」と「祇園囃子」、54年に「山椒大夫」、「噂の女」、「近松物語」という溝口健二の充実ぶりはどうだ!

舞妓たちが芸を習うのを短いショットを重ねてダイジェスト風に紹介するのは「西鶴一代女」と「雨月物語」で国際的名声を得た溝口健二か大映が外国を意識したということでしょうか。教室の先生毛利菊枝は「富士山と芸者は世界に知られているから、国際的に恥じないような芸者にならなければなりません」というようなことを言ったり、基本的人権の話をしたりします。ただ、この先生は芸者のきれいな面しか見ていないようで、現場はもっとシビアなのです。

撮影中の様子を見せてくれる特報というのがオマケにあって、短いけど面白い。主な出演者たちが撮影所の庭で撮影の開始を待っているところへ舞妓姿の若尾がやってきて、きれいな衣装を披露します。河津清三郎や進藤英太郎が「きれいだね」と声をかけたり、手持ち無沙汰の浪花千栄子が閉じた扇子を指先で回したりしています(手馴れた自然な仕草がカッコいい)。みんなの前を通り過ぎると、向こうのほうの椅子に溝口健二と木暮美千代が座っていて、若尾は二人の前で舞妓姿を見てもらいます。

http://cinechameau.cocolog-nifty.com/polkatei/2006/11/post_dc28.html


02. 中川隆 2010年3月21日 19:25:46: 3bF/xW6Ehzs4I

千と千尋の神隠し

http://www.youtube.com/watch?v=f-UegPFBZCs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=yvX0IIfX0GE

荻野千尋、10歳。親の都合で田舎に越すことになり、道中ずっと膨れっ面をしていた。父の車が途中で侵入する道を誤り、奇妙な建物の前に出てしまう。俄に無謀な好奇心を発揮した父と母が建物の隧道に潜り、厭な気配を感じながら千尋はそのあとに従った。

出た先にあったのは、人気のない奇妙な町。食べ物のかぐわしい匂いに誘われ、店頭に並んだ食べ物を貪りはじめる両親を放っておいて、千尋は町の探索に出た。
その奥にある、「ゆ」と書かれた大きな暖簾の下がった建物。その前に架けられた橋の取っ付きで初めて千尋は美しい少年と出会う。

だが、少年は会ってすぐさま「日が暮れる前にここを出ろ」と命じる。何が何だか解らないままに町を駆け抜ける千尋だったが、そうこうしているうちにも夜の帳が降り、町中には黒い人影が溢れはじめる。そして漸く見つけた両親は、食べ物を貪るだけの豚と化していた。こんなのは夢だ、と否定する彼女自身の躰が透けていく。

 そこへ、先程の少年が現れて彼女に一粒の食べ物を与える――ここでは、ここの食べ物を口にしないと消える運命なのだ、と。ハクと名乗った少年は、千尋に生き延び両親を救う唯一の手立てとして、釜爺を介して湯屋の主・湯婆婆(ゆばーば)に会い、ここで雇って貰うよう指示する。

湯屋とは日本全国に存在する八百万の神が憩うための湯治場であり、本来人間の立ち入っていい場所ではなかった。案の定、巨大な頭を持つ湯婆婆は難色を示すが、粘り強く頼み続けた千尋に最後は折れて雇用を約束する。代わりに、千尋は千尋という名前を奪われて、「千」という小間使いにされた。――そうして、千尋の生き延びるための戦いが始まる。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~tuckf/cinema/Chihiro.html


『湯屋は娼館である。 まあ、アメリカ人でも見ればわかるのだ。だって湯婆々の服装は19世紀欧米の娼館の女主人(マダム)そのものだから。

少女が娼婦に身を落として、自分や親の罪を贖うという物語は実は世界中のあちこちにある。お姫様や絶世の美女が苦界に落ち、我が身を男たちに与えていくが、本当の優しさにめぐり合った時、天女になって天に召されるという草紙だ。

千と千尋の客が神様(全員男)なのは、古来、神に仕えるものと娼婦は同一視されていたからだ。神社や神殿の巫女は売春もしていた。最も聖なる者と最も下賎なる者は同じと考えられていた。日本に限らず、世界中で神に仕える女性は同時に娼婦でもあった。

神に身を捧げることと、誰にも分け隔てなく我が身を与えることは、同じことだからだ。

タルコフスキーの『サクリファイス』で象徴的に描写されているように、キリスト教以前の社会では、巫女との性行為を通じて人は神と対話した。

また、中世のキリスト教教会は娼館として機能していたこともあった。
民俗社会においては、巫女は、神の妻であり、人間にとっては処女であり(誰の妻でもなく)、、同時に娼婦でもある(誰の妻でもある)。

だから湯女たちは巫女の衣装を着ている。
性職者は聖職者だった。古今東西。
http://blog.livedoor.jp/deal_with0603/archives/51331139.html

千と千尋の湯屋をただのお風呂屋さんだと思ってる方が
いらっしゃったら大きな間違え犯してらしゃいますので認識を改めて下さいね
宮崎監督御本人が日本版『プレミア』の2001年6月21日号の『千と千尋』インタビューで

「今の世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えばそれは風俗産業だと思うんですよ

日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」


と答えているそうです。 『千と千尋』は、現代の少女をとりまく現実をアニメで象徴させようとしたので性風俗産業の話になったらしいです。

風俗産業で働く少女を主人公にするというアイデアを出したのは鈴木敏夫プロデューサーで

「人とちゃんと挨拶ができないような女の子がキャバクラで働くことで
心を開く訓練になることがあるそうですよ」

というようなことを宮崎監督に話したら「それだ!」とアニメの発想がひらめいたそうだ。
http://ameblo.jp/beautiful-japan/entry-10428654289.html


欄干に足を出している千尋の動きや、腹掛けのようなものを着て背中を出しているシーンに「エロティシズム」を感じる。また湯婆婆がカオナシのいる座敷に千尋を差し出すシーンは、遊女が初めて客を取らされるような「エロ」を感じる。

 「宮崎が想定しているのは戦前の日本、帝国としての日本であり、油屋という湯屋は巨大な遊郭を思わせる。そこに訪れる客はいずれも男である。湯婆婆と契約して『千』という源氏名を与えられる千尋は身売りをした芸者見習いのようであり、実際千尋がオシラサマと一緒にエレベーターに乗る場面はかなり際どいエロティシズムが感じられる」
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/sento.html


千尋は不思議な世界に迷い込みます。

親と引き離され、あやしい美少年の導きで、ソープへ沈められ湯屋の仕事を紹介されます。

やり手ババァユバーバによって、名前を奪われ、源氏名働きやすい名前を付けられてしまう。

タコ部屋に軟禁住み込みで働くことになります。

お客様は神様です。どんなに不潔で、臭くても、洗ってあげなければなりません(涙

くされ神さまのふところ深く、千はかわいい手を突っ込み、十五センチくらいの硬い棒状のものを探り当て、握りしめ…抜きます(射

神様は、昇天し、どこかへイッちゃいます。
一方、千は、臭い液でドロドロに。。
http://blog.livedoor.jp/deal_with0603/archives/51331139.html

『千と千尋の神隠し』−その1−

この映画は説明の必要もないと思いますけど、宮崎駿の最新作であの『タイタニック』を抜き興行成績日本一、そして三大映画祭の1つベルリン映画祭で金熊賞を受賞するという怪物みたいな映画です。

本題の『千と〜』に入る前に、ちょっと宮崎駿の近作からおさらいしておきましょう。

   漫画版『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』

前作の『もののけ姫』には僕は全く不満だった。かなり肩透かしをくらった
感じがした。それには漫画版『風の谷のナウシカ』の印象が強かったことが
あげられると思うんです。漫画版『風の谷のナウシカ』は誰もが認めるとおり
傑作でした。思想的にも深かった、その後小難しい解説本がいっぱい
出ちゃうほど難解だったけど、素晴らしかった。

色々難しい説明はあれど、やはりあの作品の最大の魅力は、ナウシカの決意にあると思います。それも追い詰められたギリギリのところでの雄々しい決意のカタルシス。約束された美しい未来よりも、業苦の現在を、そして自己のうちに欺瞞を背負いながら生きていこうとする決意。決して明るいものではなく、微妙に支離滅裂で、或いは問題の先送りであるかも知れないけれど、その決意する瞬間そのものが
読み手に激しい高揚感と力をもたらしてくれる。

漫画版『風の谷のナウシカ』はそんな作品だった。


で、『もののけ姫』はどうだったかというと、提示されている問題は漫画版
『ナウシカ』同様深く入り混じったものであったとしても、主人公たちの問題
に対しての掘り下げがどうも漫画版『ナウシカ』程深くされていない。

自然界と人間界は分かり合えない、そして自然界同士、人間界同士ですら
分かり合えない。それぞれに立場があり、それぞれが懸命に生きています。
アシタカと「もののけ姫」サンはその間におかれた者なんですね。

だけど、ラストでの、

「アシタカは好きだ。でも人間は許すことが出来ない」

「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場でくらそう。共に生きよう。
会いに行くよ」

という二人の対話は、なるようにしかならなかったとでも言うような印象を
受けてしまいます。物語も二人の決意による選択ではなく、ただもう必然に
よって流されていった感じですよね。それだからラストの二人の台詞も
白々しい。(ただ、実際の戦争というものはそういうものなのかもしれない
けど)

宮崎駿は『もののけ姫』が最後の作品になるだろうと言ってましたよね。
『もののけ姫』を見た後で、確かにこれ以上は無理かと思ってしまいました。
だってもう、理屈がどん詰まりだもん。


で、『千と千尋の神隠し』が公開される。タイトルも何か地味じゃんね。
期待してなかったんです。

それがよかったのかもしれないな。そうしたらやたら素朴に胸にしみる映画だった。宮崎駿自身も肩の力を抜いて作ったのかもしれない。そしていちいちワクワクドキドキさせる演出の魅力!

理屈ぬきで楽しませることに徹した映画だった。しかし、『もののけ姫』で
シリアスなテーマを扱ったものが限界になったので、次は子供向きのものに
しておいた、というような妥協的な産物ではないです。『もののけ姫』と同じ
くらい宮崎駿がこの映画に全精力を注いでいるということは見ればすぐに
分かる。

漫画版『ナウシカ』や『もののけ姫』を作ったことにより宮崎駿が
得た技術なり成熟を、土俵をかえて遺憾なく発揮した作品、それがこの
『千と千尋の神隠し』なのではないでしょうか。

この還暦過ぎのおじいちゃんは、10歳の千尋が可愛くてしょうがないんで
しょうね。その過剰な愛情が画面いっぱいにヒシヒシ伝わるから、

見ているこっちも手に汗握って千尋を応援してしまう。千尋が、一粒一粒がおっき
すぎる涙をボロボロと零しながらこれまたおっきすぎるオニギリを両手に
持ってばくばく食べるシーンなんかを見るとこっちも千尋が可愛くてしょう
がなくなってしまう(やばいかな)

物語は千尋の一家が引越しをするところから始まります。この引越しから
始まるという展開は『となりのトトロ』と同じ。ただ違うのは、『トトロ』の
サツキとメイは冒頭でまずいんじゃないかってくらいのハイテンションで
はしゃぎ回るけれど、千尋のほうはちょっと落ち込み気味で倦怠感を漂わせ
ている。現代っ子(この言葉ももう古臭いけど)ってわけなのでしょう。

そんな一行は、引越しの途中で道に迷い、古びたテーマパークのような場所
に行き着く。両親の後におどおどとついていく千尋の表情が実に繊細に描かれ
ています。そこで無人の屋台にあった食べ物を勝手に食べてしまった千尋の
両親は何と豚にされてしまいます。宮崎駿って豚好きだよねぇ。そこから両親
を取り戻すための千尋の冒険が始まります。謎の美少年ハクや蜘蛛みたいに
手がいっぱいある釜爺などに助けられながら、不思議な町の中心にある湯屋
「油屋」を支配する湯婆婆のもとで働き始めるんです。

この怪しいもののけたちの世界が実は現実の社会を照らしているというのは、
すぐに分かりますよね。いかにもとろい現代っ子の千尋が先輩のリンや
湯婆婆たちに怒られながら働く姿に、僕はダメ新入会社員だったころの自分を
思い出しましたよ。そういう人は多かったんじゃないのかな。

「油屋」で働く人たちは千尋に厳しいし、金の亡者である。しかしそれでも
優しいんですね。「油屋」の世界には様々な、破ってはならない「決まり」
がある。湯婆婆でさえもそれに従わなければならない。この「決まり」は
現実社会の常識のようなものなのではないだろうか。部長も課長も係長も
主任もみんな社会の常識に縛られて生きている。その常識に反する新参者を
叱りつける。そしてやっぱり自分が大事だしお金も儲けたい。でも、千尋の
ように率直に真剣にそれに向き合えば、みんな暖かく見守ってくれる。

幸いなことに僕の入った会社はそうだったのですが、しかしこうした厳しい
けど優しい社会は失われていっているのかもしれません。しっかり地に足を
ついた大人がいなくなってる。それは千尋の両親たちが態度がでかくなった
だけでちっとも大人になっていないということにも示されています。だって
勝手に人の料理を食べちゃうんですからね。
http://www.geocities.jp/pkfgd816/sen1.HTM


宮崎駿『千と千尋の神隠し』その2

映画館に二回観に行ったのですが、二回共大泣きしてしまいました(笑)。

 しかし、何にそう感動させられたのか、と言われると非常に答え難い。僕自身
は、〈「千尋」と「ハク」の淡い恋心〉の描かれ方に感動したのだとは思うのです
が、「千尋」と「ハク」という「人物の関係」だけを抽出しても同じものは得ら
れない。

ということは、世界観と多様な人物配置によって緻密に築かれた「物語」
自体に心を動かされた、ということになる。そこで僕の方では、〈「千尋」と「ハ
ク」の関係〉をその中心に置いて、『千と千尋の神隠し』という「物語」につい
て話してみたいと思います。


 まず始めにしておかなければならないことは、宮崎駿の諸作品(『千と千尋の神隠し』以前)についての検討ですが、『もののけ姫』は、その前に月刊『アニメージュ』誌上での約12年という長期連載を終え単行本化された大傑作である漫画版
『風の谷のナウシカ』と比べて惨憺たるものだったと思います。

『もののけ姫』で宮崎が何を訴えたかったのか、はよく判るのですが、それはあくまで登場人物達の生の(生きている)台詞としてではなく、意図的に無理矢理に言わされている、という感じでしか我々に伝わってこなかった。

 思うに、ただ何かを訴えたいだけならば、学者・研究者・思想家・批評家等に
任せておけばいい。しかし彼らと違い、芸術家(ここでは映画監督・漫画家)が
訴えることの方がより多くの人の心を打つのは、「物語」の中に観客(読者)を
引きずり込み、「言葉」では表せないものを「感じ」させられるからこそ、なの
ではないでしょうか。

流れとしてだけの物語を敷いて、登場人物達に訴えたいことを言わせても、男同士の pas de deux よろしく噛み合うものではない。要するに、のめり込んでしまうような流れの物語と、登場人物達の生きている鼓動が噛み合った、我々を心から感動させ・納得させ・考えさせられるような、何かを「感じ」させられるような、そんな「物語」、が『もののけ姫』においては創られていない、ということです。                 

 さて話を戻して、本編である『千と千尋の神隠し』の「物語」について、最初
はマクロ的な視点から話していきたいと思います。そのためには、まずこの作品
のメイン・テーマとなるポイントを三つ程出し、それを解体しながら進めていき
ましょう。
                 ・
 一つ目は「名前(言葉)」です。この物語を通しての統一的なテーマで、宮崎
自身がそこら中のインタビューで答えていることでもあります。しかし、皆が言
うように、「千尋」が「千」と名前を変えられてしまい、自分の名前を忘れた人々
が、生きるため(または欲望のため)だけに働き続ける世界に、「固有名の喪失」
から現代社会に対する暗喩、を求めても構わないのですが、僕にはむしろ「名前
(言葉)」の無深慮な使われ方に対するアンチ・テーゼとしての世界、と見えま
した。「固有名」=「自分」という概念に対する攻撃かな、と。

「固有名」というものは、その人が他者と異なる存在である時に始めて必要となるものであって、その人が他者と大差がないならば付ける必要などない、ということです。「自分(アイデンティティー)」というものを掴めている、独立した一個人、となった時に初めて自分で自分に対して「固有名」を付けられる(名乗れる)のではないでしょうか。

だからこそこの物語では、「千尋」という「名前(固有名)」は元々
親が付けたもので自覚はない、そして彼女には自分の「千尋」という名前の裏に
ある「自分」を掴めていない。それゆえ彼女は他の10歳の女の子と大差ないた
めに「名前」を失い、独立した一個人としての「自分」を掴んだ時にやっとそれ
は自分のところに戻ってくる、言い換えれば自分で自分に対して「千尋」という
「名前(固有名)」をもう一度付けた、と。要するに宮崎としては、「名前(言葉)」の裏にある重み、をきちんと感じて使っているのか、ということですね。
                 
 二つ目は「目的意志」です。これは前述の「名前(言葉)」と関連したもので、
「自分(アイデンティティー)」を掴むために必ず欠かせないものです。独立し
た一個人、となるためには「自分」が他者と異なる存在でなければなりません。
それは外見や表層的な思想などではなく、内面や根本的な思想の部分です。

千が「千尋」という「名前」=「自分」を掴むために戦い(頑張り)、それを成し遂げられたのには、ハクを救いたい・両親を救いたい・自分は自分(千尋)であり
たい、という強い「目的意志」がその結果へ導いたのではないでしょうか。

そしてその千尋と対照的な存在として現れるのが「カオナシ」でしょう。カオナシは自分が何をしたいのかを全く失っている、要するに「目的意志」の欠如した存在
です。

物語において「カオナシ」という存在は、「目的意志」を持った人間達の
「シャドウ」(註)という役割を持っているのではないでしょうか。

それゆえ皆はカオナシを嫌悪し、否定する(なぜなら、見たくない自分がそこに表われているため)。ここに、誰の心の中にも「カオナシ」がいる、という言葉の意味も判ってきますね。

しかしカオナシを否定せずに、少し前の自分、と正直に考え、その全てを受け入れられるようになったからこそ、千は、それゆえに「千尋」に、要するに「名前」を取り戻せたのです。

(註) ユング心理学の用語で、六つの「元型」の一つ。その人間の「影」に
    あたる人格であり、その自己(他者)否定・自己(他者)嫌悪といった
    否定的な側面の象徴。この「影」の存在を自覚し受容していくことが、
    人格の統合が成される上で非常に重要とされている。

 三つ目は、「純粋性」です。これは千尋と彼女の両親を比較してみると良く判
ります。

千尋は、恐い時には怯え、哀しい時には泣き、危ないと感じたら動かな
い。

これを「コドモ」という一語で片付けてしまうのが彼女の両親だろう。確か
に千尋が「コドモ」のままであったならば、「千」のままであったわけで、その
点では「コドモ」を卒業することは「自分」を掴むのと同義といえます。
しかし彼女の両親がなっているものは「大人」ではなく「純粋さ」を失った存在です。

「大人」とは、「自分」を掴んでいる存在なのであって、年齢でなるものではあ
りません。見たもの・聞いたもの・感じたものを、そっくりそのままに吸収する、
それが「コドモ」であり、その「コドモ」が持っているものこそ、「純粋さ」な
のではないでしょうか。

千尋は「純粋さ」を持っていたからこそ、危険を察知して豚にならなかったし、哀しい時には大粒の涙を零せる(感情を正直に出せる)ので自分の名前も忘れなかったのです。「コドモ」と「純粋性」はイコールではありますが、

「自分(名前)」を掴み「コドモ」を卒業して「大人」になった人は、同時に「純粋性」も持ち得ているのです。

最後のシーン、冒険を終えた千尋と、豚にされていただけの彼女の両親を見比べれば、それがよく判ると思います。
                 
 これら三つから判ることこそ、宮崎がよく言っている、「生きる」ということ
への思想ではないでしょうか。「生きる」とは、ただ生存する、のとは違います。
「自分」を掴み・「目的」を持ち・喜怒哀楽を正直に出し・「意志」の下に強く生
き抜くこと、それこそが、「生きる」という「言葉(名前)」の本当の意味だ、と。


 では、上記を踏まえた上で、僕にとっての主題である、「物語」の中に見える
〈「千尋」と「ハク」の関係〉について話していきましょう。
                 
 千尋とハクの間にあるのは、遠い日の思い出です。

「幼い千尋」と埋め立てられる前の「コハク川(琥珀川)」、二人の関係は互いに遊び合った仲です(「幼い千尋」はコハク川で遊び、それは同時に、川の神様である「ハク」にとっても彼女と楽しく遊んでいる、ということになる)。

だから「幼い千尋」が溺れそうになった時、「トモダチ」として「ハク」が彼女を救うのは当然ですよね。

 しかしここで重要となるのは、そのことを千尋が忘れている、ということです。
反対にハクは、「幼い千尋」との関係は憶えているが自分の「名前」を忘れてし
まっている。過去は忘れたが現在を忘れていない千尋と、過去は忘れていないが
現在を忘れているハク、二人が正反対にいながらも互いに通じ合えたのには、他
の人と違い、そのどちらか一方を忘れていないからなのでしょう。
 ここで、銭婆が言う、

  「一度あったことは忘れないものさ」

という言葉の重要性が出てきます。自分にとって本当に大切な事は、普段は思い
出す事がなくても、それを本当に大切だ、と心の底で思い続けているならば必ず
思い出せる、と。だからこそハクは「名前」を取られていても、他の人達とは違
う、なぜなら記憶があるからこそ、彼は「自分」を芯からは見失わなかったので
すし、また千尋も「コハク川」を思い出せたのです。

 そして、物語は進み、千尋はハクに淡い、非常に淡い「恋心」を抱きます。そ
れは、その渦中にいる千尋自身、自覚ができているのかさえも判らないくらいに
淡いものです。千尋にとって、「生きる」こととハクへの「恋心」はイコールの
関係で結ばれています。それも、非常に純粋無垢なカタチで。だから彼女は「恋
心」というものだけを独立して自分の中から引き出す事は出来得ない。これこそ
が、千尋にとっての「初恋」として宮崎は描いているのではないでしょうか。

「初恋」だからこそ、それはいずれ大きくなるにつれ、記憶の底の方へ流れ、「コハク川」を忘れていたように、その思い出も忘れてしまうだろう。

最後のシーン、千尋の髪の、銭婆がくれた髪止めが映る時、我々の胸に去来する切なさは、どんな大切な思い出も時の流れの中でやがて忘れてしまうものだ、という哀しく寂しい事実、を垣間見せられるからなのではないでしょうか。

 しかし同時に希望も湧いてくる。千尋にとってそれは本当に、本当に大切な思
い出だからこそ、「コハク川」をそして「ハク」を、忘れない、思い出せるので
す、「自分」を掴んでいるから。前述の銭婆の言葉の意味は、たとえ忘れていて
もいつでも思い出せる、ということです。それは、「生きる」と結び付けるなら
ば、「いつも何度でも」立ち上がれる・頑張れる、ということなのではないでし
ょうか。

 〈「千尋」と「ハク」の関係〉の中に、「物語」としての、この「切なさ」と
「希望」が巧みに折り込まれているからこそ、我々(特に僕)は感動の渦の中へ
引き込まれてしまうのでしょう。


僕はどうも「世界観」よりも「登場人物」でこの作品は観てしまいましたね。それぐらい、今迄の宮崎作品と比べて、際立ってキャラクターが立っていた気がします。それは、普通の女の子「千尋」だからこそ、なのかもしれませんね。
http://www.geocities.jp/pkfgd816/sen2.html


☆ 宮崎駿『千と千尋の神隠し』その3

この映画は本当に細かいところにやたらとこだわっています。何度見ても退屈しないくらい、というか一回では味わいきれないくらい多彩な世界が広がっています。
例えば銭婆の家から迎えに来たランタンに足の生えた生き物。玄関のところにくるとクルクルっと門にぶら下がってしまうという発想がまた楽しいけど、ハクと千
が銭婆のもとを去るときちゃんと門にぶら下がったままこのランタンは手を
振ってるんだよね。この細かい演出!「油屋」に訪れる神々たちの不気味だけ
ど次第に可愛く見えてくる楽しさも特筆すべき。相撲取りのお化けみたいな、
最初に千をエレベーターで救ってくれたちょっと怖そうな神様も、後半では
ノリノリで陽気に踊っていたりして笑わせてくれます。

そう、細部を楽しむ、ということもこの映画のメッセージだと思いました。

千尋を取り巻く、一見恐ろしい、そして下世話な世界も、よく見るとこんなに
面白い、そして美しい世界である。それを千尋の目を通してだけではなく、
見ている僕たちの目でも実感してしまいます。

「油屋」が現実社会を映しているのなら、下世話なこの現実社会もまた美しいのではないか。この世の中の僕らを取り巻く様々な事象のその多くが見過ごしてしまっているが、実は非常に多彩な魅力を放っている。もっと子供のような、好奇の目で世界を見る、そして世界との一体感を回復する。そこでの世界とは自然も人工物も人間たちもなく、ただ僕らを取り巻く全ての事象であるのでしょう。

そして美しい世界との一体感を取り戻すという決定的な場面が、やはりクラ
イマックス直前の千尋とハクが空を飛びそして落ちていくシーンでしょう。

龍になったハクの上に「日本昔ばなし」みたいにのっかった千尋は空を飛び
ながら、水の中につつまれる自分のイメージを思い出す。

「ハク、聞いて。お母さんから聞いたんで、自分ではおぼえていなかったんだ
けど、わたし小さい時、川に落ちた事があるの。

その川はもうマンションになって埋められちゃったんだって。でもいま思い出したの。その川の名は、その川の名はね、コハクがわ、あなたの本当の名はコハクがわ」

そう千尋に告げられた龍のハクは、ばらばらと体中のうろこを落とし人間の
姿に返る。

そして千尋と共に落下していく。この落下は決して恐ろしいものではなく、むしろほのかな官能のイメージを漂わせる。

「千尋、ありがとう。私の本当の名はニギハヤミコハクヌシだ。

私も思い出した、千尋が私の中に落ちた時の事を。くつを拾おうとしたんだよ」

「そう、コハクがわたしを浅瀬に運んでくれたのね。うれしい・・・」

千尋とハクは向かい合って手をつなぎ落ちていく。この映画の中でもっとも
感動的な至福のシーンです。

 ここでのハクと千尋の一体感、つまり人と川の一体感は、『もののけ姫』で
語られたような、自然と人間の複雑な関係ではなくもっと素朴な関係です。

たとえば『となりのトトロ』におけるメイちゃんが一人で自然と戯れている
ときのような自然、自分を取り囲むものとの一体感。川に落ちた千尋を浅瀬
に優しく運んでくれる自然。それに対しての千尋の言葉は「うれしい」。
ね、いい話でしょ。

 という感じで、僕は千尋とハクの関係を、恋愛関係というより、官能的な
周囲と千尋との一体感という見方で捉えました。

何故恋愛関係と見なかったかというと、やっぱりハクの印象の薄さだと思います。二人の恋愛と見るにしてはちっとも対等には思えない。それこそアニメに出てくる美少年って感じで。あんまりヤツは好きじゃないんだよね、無表情だし、千尋のこと「そなた」って呼ぶのも微妙だし、面白みのないやつだなって(ヤキモチか!?)

だからハクが川でよかったって感じでした。川ならしょうがないや、みたいな。

これ、全くの想像ですけどひょっとして宮崎監督もそうだったんじゃないで
しょうか? 完全に個性のある男を千尋の恋人として登場させることに躊躇し
て、「淡い恋愛」、というより僕はむしろ「ほのかな官能」という言葉のほう
がぴったりくるんだけど、そのほのかな官能のエッセンスだけ千尋に味わわせ
て、リアルな男との交渉は許しません!って感じで。

       カオナシ、もう一人の主人公

 さてさて、この映画のもう一方の主人公とも言えるカオナシの話です。
彼は真っ白い面をつけて体は真っ黒で、ボーっと立っているやつだったんです
が、千尋に優しく接してもらったために、千尋のストーカーみたいになっちゃ
うという変な神様(?)です。ものすごく悲しい声でなくんですね。鳥が死ぬ
間際に出しそうな声で。

カオナシは自分に優しくしてくれた千尋を喜ばせようと薬湯の札や金を千尋に
差し出すんですね。でも千尋の欲しいものはそんなものではないから断られて
しまう。千尋の望みは、傷ついたハクを救うことだったり、豚にされた両親を
救い出すことなわけです。

それもよく考えてみると、自分の大好きな人たちとともに過ごす幸福な時間ということなのでしょう。一方でカオナシは物によるコミュニケーションしか知らない。自分という人間そのものを出すことが出来ない。彼の持っているものは全て複製なのです。言葉は青蛙から取り込んだものだし、札や金も「油屋」でみかけて複製したものです。名前のとおり自分の「顔」が彼にはないんです。

しかし、そんなカオナシが千尋に求めるものは、決して物によりかえることが出来るようなことではないはず。千尋という人間を求めているのです。実際「千欲しい、千欲しい」と悲しい声で囁きます。

ただ、それでは千尋の何が欲しいのか。そこまではカオナシには分かっていな
いません。分からないが千尋に対しての欲望だけは膨らんでいく。そう、カオ
ナシに複製ではなく自前のものがあるとすれば、淋しさと欲望の二つなので
しょう。

その欲望が拒絶されて反転し、カオナシは千尋に襲いかかります。
その途中途中で飲み込んだ「油屋」の従業員を吐き出して小さくなり、最後
にはもとの大人しいカオナシに戻ります。悲しみと欲望を主張する手段として
の凶暴性さえ、彼には自前のものではなかったんですね。

僕はカオナシを「目的意志」を持つことの意味も分からない、深い虚無の存在だと思います。宮崎駿の「生きろ」というメッセージは『もののけ姫』を見れば分かるとおり根拠がないんですね。そして誰かれ構わず、生まれやイデオロギーにかかわらず「生きろ」なんだと思います。こうこうこういう理由で生きろなんて言ってくれないんです。それに対して、「何で」って内部から問いかけるような存在がこのカオナシなんじゃないでしょうか?
 
だから相当やばいやつなんですよ。

最終的に千尋はカオナシを最後は銭婆のところに置いていってしまいます。
よく考えると、カオナシの抱える淋しさや欲望はちっとも解決されていないん
ですね、ただ複製するものを失ったから大人しくなっただけで。カオナシの問
題はそのまま何の解決もされずにこの映画は終わるんです。

解決しようがないのかもしれないし、安易に解決することを拒んだのかもしれない、どちらにしろ千尋の手におえる存在ではないんですね。千尋はナウシカみたいに博愛の人ではないですから。豚のお父ちゃんお母ちゃんを救い出すことが先決だし。

        一度あったことは忘れない

それでもってやっぱり出てくるのが、銭婆の言葉。
この言葉はラストシーンの千尋が異世界のことを覚えているのかどうかという
問いだけではなく、映画全体にかかわってくる大事な言葉な気がします。
銭婆はこう言います。

「一度会ったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」

小さい頃ハクに助けられたことも千尋は、思い出せなかっただけで忘れてはい
なかった。

人間は生まれてから死ぬまで様々な体験をする。しかしその殆どを
忘れてしまう。今の生活のことしか考えられなくなっている。

それではかつて体験したはずの貴重な体験はどこへ行ってしまったのだろうか。そんな切ない疑問に対して、この映画は優しく声援を送ってくれる。そしてもし思い出せなかったとしても、恐らく過去の体験は僕たちの生活を影で支える力となってくれているのだろう。恐らく、異世界での経験が今後の千尋の人生を幸のあるも
のにしてくれるだろうことと、同じようにね。
http://www.geocities.jp/pkfgd816/sen3.html


03. 2010年3月21日 20:23:02

女の子を持つ親からみた『千と千尋の神隠し』
 
 昨日日テレでやっていた『千と千尋の神隠し』を久々に観た。そして今更ながらに知ったことがあった。この物語の中で、千尋は初潮を迎えるらしい。です。

それは、ジブリプロデューサーの鈴木敏夫さんが糸井重里さんとの対談でそのようなお話をされていたそうで。。
「えー!」と思って良くみたわたし。ありました。そんな描写のシーンが。


両親を豚に変えられ、湯屋で働く仕事を湯場婆に与えられ、りんに着替えを用意してもらっている千尋。

そのとき、気分が悪くなり、お腹を押さえてうずくまる。

そして夜が明けてハクが声をかけるまえ、千尋はひとりで早朝に目が覚めて(寝られなかったのか)ぶるぶる震えていた。

そのあとは、あんなに怖がっていた階段も、ものともせずに淡々と歩く。きっと、自分の中でもっと大きなことが起こったからそれどころじゃなくなってるんだろう。


ここかー・・こんなの最初に観たときに気づく人って。ジブリアニメの女の子は、そういえば『魔女の宅急便』の「キキ」以外、ナウシカもシータもサンも皆初潮後の女子なのね。

「キキ」は意外と不安定な女の子。以前知人男子が、『魔女の宅急便』が好きじゃないという理由で、トンボが心配して訪ねてきたシーンで、キキが自分の気分でテンション低くトンボの好意を無下にするシーンがあるんです。それが「イヤな奴」に見えるみたいで。なるほど。と思ったわたし。女の子ってこんなものだよね。10歳そこらで、自分の複雑な部分を知ってしまうこと。その事件たら、同年齢の男の子にはわからないものかも。

うーん、物語の中で初潮になるなんて。両親が醜悪な豚になるとかって、そういった時期の嫌悪感を出してるのだとしたら巧い。

でね、わたしが面白かったのは、自分のこの物語の感想が、不思議と変わっていたのでした。

以前、23,4の頃にみたときは、「うわー、おもろいなー。」って純粋に面白がってたんだけど、だがしかし。昨日は。

「きもい。生理的にきもい。」だったのだ。

小さい千尋が、汚される描写が多いように感じる。小さい千尋は無垢すぎて餌食にされてるようなひやひや感がある。

例えば

●湯場婆の部屋に向かうエレベーターの中で一緒になる大根みたいな神様。ボンヨボンヨしてて、千尋を押しつぶす(結果隠す)のだけど、満員電車にいる怪しいお方みたい。

●湯屋で働く千尋のところに汚い神様が来て、その汚物まみれに千尋が裸足で歩いていくところ。

●一番はカオナシ。千尋のいくところに幾度となくヌボーン・・ヌボーンと現れるカオナシ、あれは、痴漢だ!痴漢をみたときと同じ嫌悪感があると感じた。千尋に執着してどんどん肥大化するところなんて、あちゃー。である。

前はこんなこと思わなかったのに、まず、千尋がちょっと娘にみえたりする自分がいた。ほっぺがぽよーんとしてて、まだ世界の汚いものを知らなくて、千尋のへにょへにょした、生き物として弱い、壊れそうな感じ。

 その小さい女の子が、親と離れて湯屋の世界であらゆる事象にまみれていく感じ。リアル。

豚になった両親が、鼻をはたかれるシーンとか、ドキっとする描写が多く、なるほど、全編を通して人の生理的感覚をうまく逆なでするのがうまいんだろう。惹き付けるのがうまいのかしら。世界的大ヒットだものね。

子どもを産んで神経過敏になったのだろうか、この自分の感想の変化は本当に面白かった。だからといって作品を「不潔!」「全面拒否!」とは決して思わないのだけど。ああ、こういう風に描いてたんかー、って新たに納得しました。

あの世界に、悪と正義が二分して描かれていないことが心地よかったのはこういうことだったんだあ。

千尋は湯女として描かれている。

江戸時代に市井の湯屋で客の世話をする女、湯女、その記録を描いた図を探したらすぐに見つかった。湯場婆がいる湯屋と全くおなじね!面白い。


もともと、鈴木敏夫プロデューサーが、「挨拶もろくにできない女の子がキャバクラで働いて成長するということがあるらしいよ。」という話から、宮崎監督が「それだ!」となり作った作品らしいです。

なるほど、2001年に封切りされ劇場鑑賞したとき、物語の最後に千尋が大きな声で

「お世話になりました!」

といって走り去るシーンを観て、納得したわたし。こんな伏線がはられていたとは。

以上女の子を持つ親になった身の、わたしの変化なのでした。

でも、だからといって、娘を純粋培養の温室で、ずっと育てていくわけにもいかない。娘には強くなってもらって、これからたくさん汚い手が伸びてくることがあっても、キリっとはねかえしていつか大人の女になり、強く生きていってもらわないと、困る。わたしがそうだったように。

http://mamma-man.jugem.jp/?eid=120



04. 2010年3月21日 20:52:08

宮崎駿『千と千尋の神隠し』について (立教講義草稿:01/10/15)

東アジアの民俗的記憶へと導く「混沌の力」

 僕は宮崎駿にたいしては、今度の『千と千尋の神隠し』のほかは、『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』しか買っていません。前回お話した鼎談記事[※01年夏に刊行された「ユリイカ」増刊の『千と千尋の神隠し』特集所収――出席は小黒祐一郎さん、切通理作君、それに僕の面子]では、『千と千尋』に連関するものとして、『となりのトトロ』の言及がありました(僕の発言は、紙面圧縮の要請からか消されていますけど)。これも一般的にはすごく成功作とみなされている作品ですが、僕はあまり好きではありません。たしかに、この作品は『千と千尋』同様に、一家が引越し先にたどりつく直前から作品がはじまる。それからヒロインを一連の怪異現象が包みこむ。また、ヒロインそのものにも共通点がある。つまり、年齢的にも、顔の造作・表情変化という点でも、「千尋」は、『トトロ』のふたりのヒロイン、「さつき」と「メイ」を足し算して2で割った結果として登場しているのではないか。もちろん「ススワタリ」という、ミニマルな妖怪も両作に登場してくる(これは、とうぜん『もののけ姫』の「コダマ」につうじる――神秘的「気配」が、最小単位の、しかも「消えやすい」ものの集合として、ともに描かれているからです――ただし、そのなかでは『千と千尋』の「ススワタリ」が最も擬人化され、しかも『トトロ』のそれとちがって、脚をもっているんですが)。

 けれども、『トトロ』の霊々(かみがみ)たちは本質的に「無気味」ではない――大中小のトトロにしてもネコバス(これは宮澤賢治的キャラクターの融和ととれる)にしてもススワタリにしても。それぞれが「無言」の威厳を湛えてはいるけれども、人間を害すかもしれないという危機意識をあたえない。それに僕は無言よりもヘンな言葉を喋る怪物のほうが、怪物としてはより本質的だとおもいます(『千と千尋』にそういうルイス・キャロル的言語が混入していれば完璧だったんですが)。それと、『トトロ』での怪物はいまいった3種にすぎない。いっぽう『千と千尋』の霊々の「数」は可能なかぎり、多数化・多種化していて、それがまた「無気味さ」の根拠にもなるんですね。これらのことが『トトロ』と『千と千尋』との、まず大きなちがいです。

 それと、『千と千尋』の霊々たちは、宮崎駿自身というよりも、日本人の民俗的/民族的記憶台帳から完全に生じている。しかも、そのなかに差異創造的な「ズラシ」があってそれが美的なんです。いっぽう本質的に「怪物」との出会い方にはルイス・キャロル『ふしぎな国のアリス』への依存がある(樹のうろに落下するときの運動性がモロだ)『トトロ』では、もっとアニメならではの「キャラクー輪郭」が明瞭になっているんですね。とくにトトロは西洋的です。さきの鼎談で小黒祐一郎さんは、《『トトロ』という作品の恐ろしいところは、自分はそういう体験をしたことがないにもかかわらず、子どもの頃あたかもそういうことをしたかのような記憶をもってしまうところなんですね》と発言なさっているけど、この発言(それは正しい発言です)に注意してください。そこでは、具体的な怪物との出会いの記憶ではなく、そういう怪物に出会ってしまうような自分自身の童心・純粋さ・未分化の記憶のほうが語られているんですね。

 けれども自分自身の「童心・純粋さ・未分化」――それへの「振り返り」は、かならず具体的ではなく抽象的なレベルで発露するものではないか。言い換えると、メイ、それからさつきをつうじて観客が刺激されたのは、「怪物と出会った」という具体的な記憶ではなく、「過去の自分自身と出会った」という抽象的な記憶のほうなんではないか。産出されたものは、これまた、抽象的な「ノスタルジー」。これ、ひじょうにマズイです。ノスタルジーは処方箋ではなく、人に行動を起こさせないようにする劇薬だから。これに包まれると世界は停滞します。宮崎アニメの作品ごとのフィルモグラフィはノスタルジーの産出をつよめてゆくという点においてこれまでつねに逼塞的だったんですよ。

 『トトロ』のノスタルジーがマズい――その証拠が、あの作品で「さつき」が「お父さん」のためにつくる弁当でした。ピンクの甘い「デンブ」と緑の「うぐいす豆」の甘煮で仕切られたカラフルな弁当。昭和30年前後という、まだ貧しい時代色を背景に、「いかにも」小6の女のコがつくりそうなカラフルな弁当という見立てなんでしょうが、その「いかにも」のなかに抽象性が隠されています(この「いかにも」は嵐の夜、家屋が立てる気味悪い物音に対抗してお風呂ではしゃぐ、父娘の混浴場面でも僕はつよく感じました)。考証としてもどうか。あの「デンブ」と「ウグイス豆」は、総菜屋などで買った「できあい」でしょう ――それがあの田舎でまず売られていたかどうか。それに、あれを「できあい」として見た途端に、作品が訴えようとする不器用な父親への娘の愛情に、「人工性」の色彩が付着する。僕、生年からいって、昭和30年代前半に、貧乏な家の子供が喜びそうな(すなわち作りそうな)弁当がどんなものだったか知っています。むろん、タクワンのみを付録にした「日の丸弁当」じゃない(これならば『巨人の星』)。やっぱりウィンナー(もしくはシャケ)と卵焼き。これが貧乏な家の子の「煮物だけ」の弁当に対抗する、貧乏ながらも「夢の」弁当だったはずです。

 観客が主要キャラクターとともに怪物と出会うのではなく、観客が作品をつうじて自分自身と出会ってしまう――そういう具体性を欠いた抽象体験が組織されるところに『トトロ』の弱点があった。その弱点はむろん、観客動員の点では強みとなる――観客は抽象性が好きですから。でも、『トトロ』が細部の風景・家屋内部の質感・男のコ=「カン太」(これも日本の昔の少年にたいする「抽象的」命名です)の容色に――つまり絵柄の局面に民俗的=民族的な既視感をもっていたとしても、ドラマ発想の根本では抽象性を病んでいる――この点は見逃されるべきではありません。

 トトロがくれた木の実を庭の畑に埋めると、それが爆発的に成長する――アニメならそこで終わっていい。終わるべきだ。ところがそこにさらに「夢オチ」が介在し、「けれども」翌朝見ると、木の芽が地面からわずかに顔を覗かせていた。それでさつき・メイの姉妹は「夢だけど・夢じゃなかった」と踊る。これもまた、政治手法のように「抽象的」な解決にすぎない。その結果、「怪物との出会い」を描くべき作品が、「母の病状悪化を予感した妹メイが」「母にトウモロコシを届けようとして」「迷子になり」「それを姉が探すために」「トトロとネコバスの助けを借りる」という、まったく抽象的な話に転落してしまうわけです。話に「主体」がない。そういう作為的なクライマックスのもっていきかたに「感動」をおぼえてしまった観客は多かったろうけど、僕はあの作品を劇場でみて、まったく白けてしまった記憶があります。

 もともと前回授業でいったように、腐海をつうじ80年代から90年代の精神風土に合致するような、「相殺」を運動化した「循環回路」を、しかも「魅惑」をともなってつくりあげてしまった宮崎のオリジナル劇場アニメは、それ自体、「抽象化」に傾斜してゆくような危機を孕んでいたんです。宮崎アニメに伴う「ノスタルジー」は、僕にとってはぜんぜん美点とならない――それは抽象化を作用させる先兵だから。『ラピュタ』はアクションの具体性が――天空的なものと地底的なものの相殺が――具体的な魅惑に富んでいたんですよ。作品の終わりのほうで登場する天空の島「ラピュタ」もそう。あれには、ルービックキューブ的な現代とギリシャ的な古代とが実に「具体的に」混淆されている。たった一体のロボットを乗せ、天空の島が浮遊するままにどこかへ消えてゆくという、ラピュタを取り巻く最後のシチュエーションの哀しみは、ダグラス・トランブル『サイレント・ランニング』のラストや、萩尾望都『銀の三角』のユニコーンの化身エルグの余生を思わせます(ともに絶対性の「宇宙的孤独」を強調される)。これも経緯が具体的なんです。

 けれども、彼のアニメはその具体性を、『トトロ』を契機に喪失してくる。まず「働く女性の自立」「まこごろの大切」を主題化した『魔女の宅急便』(この作品ではキャラクターに具体性が失われてくる)。次に「やせ我慢と童心に貫かれた男たちのダンディな生きざま」「こんな古き佳き時代(しかしいまは失われた時代)があったこと」を主題化した『紅の豚』(この作品では飛翔場面に魅力がなくなってくる)。それから「青春期の自己規定に伴う悩み」を「歌声喫茶趣味」で装飾した(作画と脚本を担当したかぎりは宮崎駿作品と見なすべき)『耳をすませば』(この作品では現代の風景への実写をアニメにトレースするという実験がおこなわれたはずだが、それ自体、アニメを創造的につくることにたいする錯誤がある)。――そう、みんな具体的ではない。

 そして宮崎というひとは、抽象性に傾斜してゆくと、作風が「恥ずかしくなる」という曰く言いがたい個性をもっているわけ。それは失敗のしかたが意欲的であっても、『もののけ姫』をも貫く欠点だとおもいます。だから、僕が『ナウシカ』『ラピュタ』そして今回の『千と千尋』を限定的に好きだといったのは、具体性を喪失していないと同時に、それらが「恥ずかしくない」作品だったからでもあるんですね。僕は一般に、自分よりも5歳から10歳年下のアニメマニアが、こうした「恥ずかしさ」にたいする感覚をひどく鈍磨させているんじゃないかという危惧もあります。切通君などは、恥ずかしさのレベルではひとに云々させない「英断」がすごく魅力的なんですが。

 鼎談に出て、僕がおぼえた違和感は、たとえば先程僕がくさした『トトロ』を、切通君も、小黒さんも、「表現に迷いがない」という点で一緒に褒めてしまうところなどで感じました。「迷いがないために」「恥ずかしさ」へと転落してしまった『トトロ』に現れている宮崎特有の個性――その病理のほうが僕には問題で、そのとき「表現」などは、僕にとっては二次的になってしまう。とくに宮崎アニメは、TVのトレンディドラマ同様、作品論よりもたぶん受容論(観客論=視聴者論)のほうが先行すべき分野に属しているはずなんです。なのにアニメマニアは、「表現論」に、自分の活路・アイデンティティをみいだそうとする。そういう彼らの「表現」重視は、『千と千尋』のなかでは、前半と後半のトーンがちがうという指摘となって鼎談記事中で現れた――おそらく僕はそうした指摘にも乗れなかったんだろうとおもう。

 たしかに前半は無気味でおどろおどろしい。湯婆婆をはじめ、霊々たちも怖く、たぶん画面経緯には「ショック」の醸成も図られている。ところが、後半になると湯婆婆は孫思いで少々我がままなだけの気のいい婆さんに、怪物的な寸法異常をもっていた赤ん坊の「坊」も、千の肩にのる、小さなムーミン(トーベ・ヤンソン)的形状をもつ「坊ネズミ」に変化してしまう。そのとき、作品は、労働の強制のなかで怪物たちとの出会いを重ねるという作品前半の「物語なき物語」から、空を泳ぐ龍に化身する美少年ハクを千が救済する「着地点をもちやすい」物語へと変貌してゆく――小黒さんや切通君の主張はそういう点にあったとおもうんです。たしかにそのとおりではあります。ところが彼らは表現の段階的「達成」をみて、その生成状態をみていないという誤謬を犯してはいないだろうか。シーンの変遷から作品の有機的連関を捉えるという態度が不完全なのではないだろうか。

 まず、坊−坊ネズミの極大から極小への変化。『ユリイカ』の臨時増刊に掲載された安達まみさんという英文学者の論考では、フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュア物語』に同様の巨大な赤児の設定があったと指摘されています。この指摘は本質的です。この作品がラブレー的「無気味さ」(それは、バフチンのラブレー論では転倒と同時に豊饒な産出を結果する)に通底しているという見解を内包しているはずだから。『千と千尋』−ラブレーの連関は、同じ本でどなたかが指摘していた、『千と千尋』−オルフェウス神話(ラスト、オルフェウスは冥界から去るとき「振り返っちゃいけない」と命じられるが、それと同じ科白を千はハクからいわれる)よりもずっと本質的です。僕はラブレーを憶いださず、縮率異常を、ジョナサン・スウィフト『ガリバー旅行記』の巨人国/小人国に結びつけてしまった(『ガリバー』にも登場する「ラピュタ」を、独自なかたちではあれ『天空の城ラピュタ』で導入した宮崎駿がスウィフト好きだという点は明白だとおもいます――その点がスウィフトを修士論文にした四方田犬彦からの痛罵を呼びこむ要因となったかもしれない)。ともあれ、この縮率異常は、宮崎アニメが最も力をもっていたときに駆使された用法だった。とくに腐海の昆虫たちの巨大化がそう。芋虫と三葉虫と百足を合体させたような王蟲があれほど大きかったのも同じ意味合いからでしょう。いっぽうあの作品での極小は、やっぱりナウシカの肩に乗るキツネリスに顕著だったかもしれない。

 宮崎風の事物の縮率異常――そのなかで巨大化はむろん「恐怖化」と結びついています。宮崎アニメでは基本的に大きなものが怖い。そして小さなものは、あのキツネリスのように、もとは怖くはあっても馴化されたものの印になる――しかも小動物を肩に乗せるヒロインに擬制されているのは、孤児性のつよいヒロインが旅先で即成の「家族」をもったということなんです。ところで坊−坊ネズミの巨大→縮小化(親和化)は、とうぜん作品のなかでほかに縮率異常なものがないかと考えることで有機的に捉えられるはずです。まずあの作品で通常の縮尺をはずれてデカいものとしてヒヨコのお化け「オオトリさま」が挙げられる。それから、湯婆婆の顔や眼球。デカさ=恐怖という図式がここで簡単に成立するわけですけど、それは、デカさの方向に縮率異常を起こした作品中の最大のものに「恐怖」をあたえる方便にすぎない。それは何か――「食べ物=料理」です。

 引越しのためのクルマの運転中、道を誤った千尋の一家は道の終点、トンネルに行き着く。明治時代にできた駅舎のように古い建物から出ると、そこは不思議の町。バブル時代のテーマパークの廃墟だろうとタカを括った両親は、そこで「いい匂い」を嗅ぎ、カウンター形式の中華料理店風の店先で、すでにできあがっている料理を食べ始めてしまう。そのときその両親が食べる鳥の唐揚げやスペリリブ、あるいは春巻や魚のオカシラ風のものはすべて、常軌を逸して巨大です。しかも食べ物の柔らかさ、伸縮のようすに、どこか魔的なものが秘められていて、そういう物質感をアニメ表現で実現したとき、宮崎駿はそのトレードマークとなった「飛翔の快楽」の次の次元に行き着いたのだと作品に接しながら確信していました。ともあれ最初のほう、千がハクに連れられて、不思議の町をかけぬけるとき、食料倉庫にある魚もすべて巨大、それから、やがて登場する怪物「カオナシ」が、結果的には贋とわかる砂金の結晶を大盤振舞いしながら飽食を繰り返すとき、「油屋」の仲居たちが運んでくる料理もみな縮率異常的に巨大です。その巨大さがこの作品では「恐怖」と結ばれている――食べ物が恐怖化している ――まずその点に注意をしてください。

 ところで、僕がこの作品を買うのは、その巨大な料理がたとえばフランス料理的ではなく、すべて満漢全席的――つまり中国的だという点です。それは、不思議の町の提供料理を表す飲食店の看板に、「人肉」「蟲」「狗」「唇」という漢字が使われている点と同位です。「人肉食」(「喫人」)は魯迅の「狂人日記」にあるように、中国的伝統に象徴化されるし(それが事実か否かはこのさい問題ではない)、狗にはむろん赤犬(チャウチャウ)を食べる伝統のある中国−朝鮮の色彩がかぶせられている。「蟲」は蚊の目玉、そして「唇」ももしかすると熊の掌を重宝する中国人のように、ある動物の唇だけを食べる伝統が中華料理にはあるのかもしれない。いずれも無気味なイメージを発します。ともあれ、東アジアの漢字圏の国々がもつ、漢字そのものの堅牢な――それゆえに停滞から抜け出させない完璧な象徴化作用がたぶんここで問題になっているんです。

 漢字は完璧であるとともに空無だ――だから停滞を呼び込む。古代中国のつくりあげた形象の堅牢さはいっけん魅力的かつ機能的だが、東アジアはすべてそれに呪縛された――卜占・都の設計・科挙制度・「家」を重んじる父権的儒教思想などに。それらはすべて中国の大河・黄河が運んできた黄色い土のなかから生じてきたもので、色を当てれば黄色になる。その黄色が東アジア的無変化・無時間を象徴する色となる。しかしその無変化の土壌には、変化の因子が撒かれてもいる――それは色でいえば「青」だ。侠を象徴する刺青の青がそれだろう。僕は前期の授業で、谷川雁の最晩年の著作『幻夢の背泳』から、そういう黄−青の弁証法を紹介したことがありました。

 満漢全席が中国的停滞と結びついていたのはたしかだとおもいます。中国では天遣革命思想に乗って、為政者が刻々と変わる。ジュリア・クリステヴァが『中国の女たち』でいうように、その歴史は実体的ではなく陰−陽の抽象的な繰り返しにすぎない。それに無防備に巻き込まれる民衆のレベルでは、「明日をも知れぬ」現状を享楽するために、「今日」ひたすら美食を体験しようとする。それで中華料理は、山海の珍味が集められ、料理法が徹底追求され、食べられないほどの分量の皿が食卓を覆うものになった――だから満漢全席は中国的停滞――革命主体として自分たちを考えないがために招来される停滞の最大象徴なんですよ。停滞は刹那主義の別名。それが『千と千尋』では恐怖化されている。

 それと僕は、さっき魯迅の「狂人日記」を例示しましたけど、あの作品の最後に、中国的伝統――「喫人」にまだ染まっていない存在として「子供」が前後の文脈をとつぜん断ち切って登場してくる。そして唐突に、「せめて子供を救え」という言葉で作品は終わる。子供の救済は、根拠を例示しておこなうのではなく、徹底的に「無根拠」になされなければならない――それが魯迅の考えでした。僕は、その命脈が、この『千と千尋』で受け継がれているとおもいます。だから「名前を失う」というアイデンティティ・クライシスに直面した千尋がこの作品では、実は無根拠に――夢の文脈で、救われるんだとおもいます。そこが圧倒的に正しい。僕が宮崎駿を魯迅の愛読者だとおもうのは、前回講義で述べたとおり、『風の谷のナウシカ』に同じ魯迅の「非攻」の匂いを嗅ぎつけたからです。

 『千と千尋』が魯迅小説の細部を想わせるという点でもうひとつ指摘できることがあるとおもいました。湯婆婆の部屋にいて、賽子のようにゴロゴロ転がる緑色のオヤジの首――3つ併せて「頭(かしら)」と、パンフなどではネーミングされている妖怪です。あれはやがて銭婆によって「坊」に変身させられてしまうんだけど、あの3つの首は、魯迅の短篇「鋳剣」のラスト、煮えたぎる鼎のなかで踊る王様・黒い男・眉間尺の3つの首じゃないでしょうか。

 漢字という話題でもう一、二点。この作品でひじょうに人気のあるキャラクターに「釜爺」がいます。作品の主舞台――千が働くことになる場所は、全体の外観としては、遊郭に似た建物のなかです。しかしこれは遊郭ではなく、「油屋」というお湯屋――温泉だということがわかります(実は四国の道後温泉に油屋とそっくりな、有名な重文建造物があります)。そしてそこに霊々たちが季節的に湯治にやってくる。さっきいった釜爺というのは各湯船にお湯を提供する役目をもったお爺さんで、菅原文太が声優を演じています。釜爺は具体的に何をしているのかというと、彼は地下のボイラー室でお湯を炊く(そのとき彼は「ススワタリ」たちを働かせている)。それから湯治客の霊々に合うように個々の湯船のお湯のために薬草を調合している。その薬湯を個々の湯船に、非常に不思議な方式で提供もする。立場上は薬の神様と鍛治神の合成みたいなんだけど、そこには既存の神様への典拠はないと僕はおもいました。

 顔そのもののキャラクターは、『ラピュタ』のドーラの息子たち、あるいは『紅の豚』の空中海賊と同じです。つまりサングラスを着用した、「愛らしい」髭達磨。けれども、無気味きわまりない。なぜなら、座って作業をしている彼には右左に3本ずつ、腕があるからです。その腕が同時に釜の作業と薬草をとりだす作業を間断なくおこなうから、腕の多数性が極度に強調される。まるで蜘蛛みたいです。当初彼には脚がみえない――脚萎えかともおもう。やがて脚が見える。それで蜘蛛とまったく同じく、脚が8本あると判明するわけです。

 そのとき、実は「塩爺」にちかい、「釜爺」という可愛いネーミングの発見がこのキャラクターの造形にすべてをもたらしたんではないかという直観が働くんじゃないでしょうか。つまり「釜爺」の漢字上部は「父」「父」の連鎖です。その意味で彼は「父の父」――お爺さんでもあるわけですが、その部分を熟視してください。すると「父」「父」計8画の線が俄かに動きはじめる。そこで、両方の腕と脚の計8本の「釜爺」というキャラクターが自然に想像裡に動きはじめますから。つまり「釜爺」というキャラクターの誕生は、漢字の――すごくタイポグラフィックな想像力に負っているのだとわかるはずです。

 ところで「不思議の町」の飲食店の看板以後、漢字は、実はこの作品では論理的整合性を組織しません(看板はあるかなきかで「食材」を示しているという判断となり、それでとくに「め」からは無気味な感触が生じます)。実は、「不思議の国のアリス」的言語迷宮は、この漢字の次元に実現されていたわけです。僕が笑ったのは、「オクサレさま」を玄関から引き入れるとき屏風にみえる「回春」の文字でした。「回春」、わかります? 役に立たなくなったお爺さんのアレが再び現役復帰することです。子供の客があの「回春」の文字をみて、母親か何かに「どういう意味?」と訊いたらどうするんだと咄嗟に考えた自分の道義性そのものが可笑しかった。

 それから湯婆婆のところにゆくため、千尋がエレベータで階を昇ってゆく場面(オシラさまが相客です)。階は「漢数字+階」ではなく「漢数字+天」で表示されます。で、「二天」という表示になる。これ、剣豪宮本武蔵の雅号ですね。なんで剣豪の雅号がここに脈絡なく出てくるんだと僕らのような年齢の観客はおもうはずです。だがそれに理由などない――そうおもったとき、それもまた笑いに転化する。それと、それぞれのお風呂の「○○湯」という漢字3文字のネーミングも実にいいかげんです。

 ということでいえば、湯屋全体が「油屋」というネーミングでした。湯(ゆ)−油(ユ)という音訓の同音だけども、ここには「水と油」という含みが隠されています。それとこの作品全体の日中混交は、湯の訓読みと油の音読みが同音という強引な接着剤によって接合されているんだという直観も、ここから生じるはずです。僕はそういう細部がこの作品で楽しくてしょうがない。

 ところで、千尋は、画面に初登場した時点で、手足が棒状の、異様な痩身と印象づけられるはずです。拒食症のイメージです。けれども彼女は、食べることでは救われない。食べればそれはいぎたない粘液状の涎を垂らし、彼女の両親のように豚になってしまう結果を招くから。じっさい彼女は限定的な、信頼できるものしか作品のなかで食べていない――ハクからもらうおにぎりにしても、リンからもらう饅頭にしても(ただ、それらは巨大化したもの=恐怖化したものではなく、掌に入るサイズのものです)。だから作品には明らかに現代的な飽食への批判がある。信頼できる食べ物とは、ここでは信頼できる友達にあたえられる食べ物として集約されています。しかしそれでもそれは救いとはならない。

 では異様な痩身の彼女を救うこととは、この作品ではどう考えられているか――(1)走ること、(2)機転を閃かせること、(3)友達の苦境を親身になって打開すること、(4)相手をよく見ること、(5)疑似家族を伴って旅をすること、です。作品テーマ上は「労働すること」として設定されているはずなのに、いわば宮崎駿の本能がそれを回避して、上記(1)−(5)が「救い」のための鍵となる――この作品ではそういうブレが美しいのです。

 だいぶ話が先回りしてしまいました。食べ物はこの作品では、恐怖化の様相を基本的に離れることがない――いま僕がいいたかったのはその点です。この世界ではラブレー的カーニヴァルに位置づけられるべき飽食が中国的伝統のなかに開花していて、それはラブレーにたいするバフチンの卓抜な読みとはちがって、問題を停滞させるものとして設定されている――なぜなら宮崎駿はこの作品で終始、「肉体」に直結する、「感触的なもの」を忌避しているからです。まず、不思議の町でガツガツと中華料理風なものを食べる両親から「一緒に食べろ」といわれても、千尋だけはそれを「ほしくない」と拒絶します。あるいは肉体に直結する「感触的なもの」は、この作品ではほかにもうひとつあります――それが「カオナシ」が振舞う砂金の固まりです。食べ物とカネはこの作品では同位なんです。だからこそそれも千は「いらない」と拒絶します。たぶん、ロリコンの気のある宮崎は、そうした拒絶能力を、純粋化された少女性に特有的にみいだしています。それを小黒氏などは、「偉くなった」オヤジ宮崎が現実の少女から軽視された実体験の反映として捉えていますが、僕はそういう「反映論」的な作品解析法をいっさいとりません。宮崎の――あるいはジブリの「楽屋裏」を特権的に学んだことと、作品の受容にいったい何の関わりがあるのか理解できないのです。逆に僕は、「肉体」に直結する、「感触的なもの」に囲いこまれる現在の少女たちに、単純に(1)走れ、(2)機転を閃かせよ、(3)友達の苦境を親身になって打開せよ、(4)相手をよく見ろ、(5)疑似家族を伴って旅をせよ、という託宣をあたえる宮崎の精神態度が、ここではアニメ作品の具体性を伴って発露されているだけと考えるだけです。

 上記(1)−(5)の主張というのは、「まごころを大切にしよう」とか「童心を貫くことでダンディに生きよう(豚から人間に回帰しよう)」などといった、白痴的なご託宣とはまったくレベルを異にした実践的・現在的なものだとはおもいませんか。みなさんが自分を取り巻く現状を考えてみればわかることだとおもいます。

 僕が提起した問題にもどります。つまり、この作品の前半と後半のトーンがちがうということは、非難に値する問題だろうかという点です。僕の考えでは、作品の前半は作品に動勢をもちこむための世界観の設定期間だった。そこでは、大きな物語とは本質的に関係のない事態が、ロールプレイングゲーム的に――つまり千の一人称で進む。作品の前半は後半のための助走期間。そして後半、作品は動勢を帯びる。そのときに、いわば「自動的な」感触をともなって、上記(1)− (5)の命題が、千の実際の行動を貫きはじめるんですね。これは実は人工的なクライマックス設定ではない。千が、ハクの苦境を救うために、坊ネズミとハエドリを伴って銭婆のところに電車で旅に出るというのは、作品の本質が要請する物語です。だからそれはとってつけたような、『トトロ』における妹探し−やがての発見という、クライマックス設定とはちがう。

 作品の感触が前半と後半で異なるというとき、後半、人物に前触れなく急に「親和的な」感触が生じてくるという問題も出ていました。しかしそんなことを問題とするに値するでしょうか。みなさんはたとえば小・中学校のとき転校した経験をもってはいないですか。最初、新たに自分の級友となった者たちは、すべてその顔・表情が、自分にとっての異質性――違和感に染められていて、ひじょうに「事物」のようにみえる。それが、だんだん、親和性を帯びてきたとき、彼らは自分の友達になる。視界を親和性において組織するというのは、「他者」を取り込む方法なんですね。宮崎が前半を「非親和」、後半を「親和」としたのは、むろん、そうした作品全体の進行(流れ)を価値化するためにほかなりません。

 というか、このような前半・後半の乖離がないと作品自体が成立しないんですよ。最初の構想段階では話はもっと長かった――物語に終わりがつかない――それで「カオナシ」に劇的振幅の大きい変貌のドラマをあたえ、ハクを救うために千たちを旅に出すようにした――宮崎駿は、製作発表の場所でそう語ったそうです。でも、もし「カオナシ」にそういう役柄をあたえず、千たちにそういう冒険をさせなかったら、作品全体はどうなっていただろうか――それは誰にも想像がつかないとおもいます。つまりそうしてできあがる作品は、初期設定はたとえ同じであっても、それは『千と千尋』ではない。ところが、その宮崎の作品短縮の方策を作為化の結果と受け取り、「だから」『千と千尋』は前半と後半の感触が別作品というほどに異なるんだと考える――これは、宮崎の発言を事大視したがために、本当の意味で作品を対象化しなかった証拠になるんじゃないでしょうか。『千と千尋』の前半後半にトーンの不統一がある――それ自体は非難の対象ではない。その不統一性をどう考えるかのほうが批評の方法となるはずなんです。

 作品前半で強調されるのは、「息」=プネウマです。まず千尋は、油屋につうじる橋を渡るとき、人間とバレないように、息を止めろとハクからいわれます。ところが小さな蛙の化け物が飛び出したために、千尋は息をしてしまい、「人間がいる」という気配を発散してしまう。このとき「息を止めろ」という命令は、観客にたいしても行われるんです。だから「同じ息を止める」という行為によって、千が観客のなかに主体化されてゆく。このとき、作品冒頭、引越しの場面でブームクレていた千尋が主情化されるという作用が起こるんですね。あるいは、千がハクのいうとおり、釜爺のところに行き着くために、油屋の外階段を駆け降りる――息が限りなく切れる。ここではその息切れによって肉体化された「危機」が観客と千尋のあいだに共有されます。この過程はいい意味で計算ずくなんじゃないでしょうか。「息」をする千尋――千は、番頭や湯女たちから、「人間くさい」と顔をしかめられる。このとき、この作品が従来の宮崎アニメにたいして転倒的な位置に立っていることも明白になります。なぜなら宮崎アニメにおいては「人間臭さ」――「ヒューマニズム」が絶対的な価値だったわけですから。そのことを冷笑する怪物たちに肩入れをするようなポジションに、この作品は立っているということです。

 もうひとつ、「透明性」という問題が作品冒頭では生じてきます。「不思議の町」はとつぜん夜になる。ハクはいま逃げないと戻れなくなるといい、「不思議の町」の入り口まで行くように千尋を促す。ところがもうそこは水没していて、霊々たちが乗船する豪華客船風の船が近づいてきている。このときの夜の水面にきらびやかな光が反映する感触が、通称「ジャンボ」というレストランのある、香港の観光名所にそっくりです。で、「春日様」を中心にして霊々たちが下船してくる。あの「春日様」はその顔部分に紙の護符をつけ、中国の文官のような帽子・黒衣をまとっているんだけど、あれは最初僕は顔に護符をつけたまま蘇った中国版ゾンビ――『霊幻道士』シリーズに描かれた死者だとおもいました(あれが秀逸だったのは、腕を前方に水平に伸ばし、ピョンピョン跳ねる――そのTVゲーム的、デジタルなアクションにもありましたが、「紙」が中国世界においていかに霊力をもっているかという民俗的想像力を駆使していたからでもあります ――ちなみにいえば、その「紙」は『千と千尋』においては空を飛ぶハク[龍]を襲う紙の小片――千に取り憑く紙[銭婆の化身の姿]――へと作品内で変遷してゆきます。あるいは「面」的なものは、自我のない「カオナシ」がアリバイ的につけている面へと隔世遺伝します。そういう同じ物質的想像力の「連鎖」が、あの作品においては前半顕著だった非親和性を緩和させる動力になっています)。

 このとき、「透明」という問題が現れる。下船してくる春日様は下半身が透明で、怪物たちは反世界に、透明→不透明化というベクトルを伴って実体化してくるんだという判断が生まれるんだとおもうんです。千尋はどうか。彼女はとつぜん自分を取り巻いた空間的変異にパニックになり、「みんな消えろ」と呪詛を吐きます。するとその言葉は彼女自身に返って、彼女の身体が刻々と透明化してくる。彼女は消滅の危機を迎える――その危機を救ったのがハクです。ハクは丸薬を飲ませ、彼女を透明性から元の身体に戻します(この丸薬もまた、作品世界では反復されます――千は、汚濁から元の姿にもどったオクサレさまに、作品世界では「苦薬」と称されている丸薬をもらうのです。それを「なぜか」彼女は豚になった両親を人間に戻す丸薬として認識するんですが、実際はそれは「なぜか」吐薬として使用されます――最初は銭婆の「呪い」を飲み込んで七転八倒する龍の姿のハクのための――次は酒肉はおろか番頭たちまで飲み込んで怪物化した「カオナシ」のための吐薬として)。霊々たちは透明性→不透明性という手続きを踏んで作品のなかに実体化してくる。以後は作品のなかでは透明になりません。

 ところがあの反世界のなかで本質的に違和をしるす者は、透明化する危機を内包しているんです。その示唆のために、千尋を透明化が襲った。もうひとつ、とくに下半身に透明性を病んでいるのが、あの作品では「カオナシ」です。そこで千と「カオナシ」は疑似等号で結ばれる。「カオナシ」は千の化身なんですね。「カオナシ」は顔がない。千は湯婆婆の専断によって、本名――「千尋」を失っている。だからどちらもアイデンティティクライシスの現在形といえます。ともあれ、世界にたいして「親和性」をしるさないものが「透明な存在」として自らを認識する――このとき、犯行声明文で自らを「透明な存在」と擬した「酒鬼薔薇聖斗」のことがやはり自然に想起されるでしょう。

 作品前半では千尋の「透明な存在」ぶりが定着的に描かれます。ハクにいわれて気配を消している彼女は番頭や湯女たちに気づかれません。視線を向けられないからです。あるいは、エレベータに「オシラさま」と同席してしまう場面。そこでも「オシラさま」は千尋に視線を向けず、彼女の存在に気づきません。というか「オシラさま」は他者の存在などどうでもいいというように、退化した自己閉塞のなかにいるようにも見受けられます。ドローンとした眼。僕、このオシラさまが大好きなんです。パンフレットにはこれは大根の神様で、東北地方で信奉されている農神に延源をもつというふうに紹介されているんだけど、垂れた両頬の位置でぶるんぶるん揺れるあの白い大根は、ふつう誰もが乳房として意識するとおもう。しかも二タ割れになった大根の股の部分に、髭が生えているんだけど、あの髭もまた卑猥極まりない。そういう卑猥を、僕同様に、客席の子供も喜んだとおもうんですね。

 ちょっと話がズレました。ともあれ、そこにいるのに、いないように扱われている――それがこれらのときの彼女を取り巻く状況です。しかしこのとき逆転が生じます。それは「無視」という手ひどい状況だったはずなのに、作品の「物語」に乗ることで、千尋が周囲に気取られずに目的地にゆく――いわば「ポコペン」と同じ、冒険的状況に転位するからです。このようなかたちで「救い」を刻々と連打してゆく宮崎駿の発想はすごく具体的だとおもいました。千の賦活もまた全部、具体行動のなかに実現されてゆきます。彼女は「元気になれ」「苦境を脱しろ」といわれることなく、元気になり、苦境を脱してゆくのです。逡巡の時がなく、行動あるのみだからです。つまり『もののけ姫』のように、作品世界の位相が言葉によって抽象的に説明されることがこの作品ではいっさいない。

 言葉上の説明をネグったことは、同時にこの作品が矛盾撞着によって組成されていることとも表裏しています。たとえばいまいったように、あるときは千尋が周囲の番頭・湯女、あるいは霊々たちから気配を気取られないようにするのが千尋にとっての至上命題だった。だがその問題は、千尋が千となって油屋で働くようになるや、忘却されてしまいます。また、千は湯婆婆から「働け」という至上命令をだされる。ところが、ハクを救うために銭婆のところに彼女が赴く作品末部では、彼女が油屋のために働くような細部は一切存在しなくなる。だけどもそれでいいのです――なぜならこの作品は、刻々と忘却を重ねてゆく「夢の文法」によって組成されているから。この作品が子供たちのため――あるいは童心をもつ者のためにあるというのは、そういった次元です。

 作品が進行に従って初期設定の忘却を重ねてゆく顕著な子供向けの映像作品としては、野島伸司が脚本監修したTVドラマ『家なき子』もありました。ひたすらな進行――それが両者に共通しています。進行は矛盾撞着を刻々と飲み込んでゆく。ところが作品世界が言葉で外在化されると、矛盾撞着は作品進行にたいしブレーキ機能をもってしまう。言葉の消去はそのための方策だというわけです。あとは漢字がタイポグラフィ的感触のみを残して、意味連環の外に残骸のように浮遊し、それがラブレー的カーニヴァルとは位相を変えた東アジア的カーニヴァルを形作る――それがこの作品の世界設定だということです。

 作品進行にしたがって細部が忘却されてゆくこの作品の反世界を体験した千=千尋が、人間世界の地上に両親とともに舞い戻ったとき、とうぜん、千尋はこの作品が描いた反世界自体の記憶を失っているか否かという判断が生じてきます。宮崎駿はたぶん作品ラストでこういっている――彼女は経験したすべてをもはや憶えていないかもしれない――だけど、彼女の身体の深さのなかに沈潜した身体的記憶=無意志的記憶=民俗的記憶は、彼女のあずかり知らぬところで――ちょうど銭婆が彼女にあたえた髪止めのように実在している――と。

 切通君は、そのことを淋しさという美しい体感のなかで反芻していました。このとき、銭婆が千にいった科白がひじょうに重要な意味を帯びてきます。銭婆はこういったのです――《一度体験したことは忘れない。ただ憶えていないだけだ》。その言葉どおりに、僕は、この作品の全体が子供たちにたいしては、東アジア的な民俗記憶の無意識レベルでの「刷り込み」として機能するんだとおもうんですね。

 この作品では、身体の奥底に日本人の誰もがもっている無意志的記憶が扱われている。そうであれば、中国的な細部が作品のある部分を覆うのも当然なんです。作品は、それらを解放しろ、といっている。そのとき、宮崎駿が霊々たちを、何かに典拠しつつ、実際は存在しないという、ズラシの文脈で登場させたことが積極的価値をもつんだとおもう。千尋が湯屋につづく橋を息を殺して渡るとき、同じように橋を渡っている妖怪たちがいる。僕は鼎談でそれらを『ガロ』的だと形容しました(そこには、高橋実さんがいうように、『もののけ姫』のタタリ神が『どろろ』的、シシ神が『火の鳥』的――つまりは手塚治虫的だったことの対比意識が生じていました)。

 けれども、気をつけてほしいのは『ガロ』的ではあっても水木しげる的ではないということです。あそこには一本足の傘のお化けはいそうでいない。一反木綿や、塗り壁もいない。水木しげるの妖怪たちは、民俗学的典拠をもっているんです。ところが宮崎駿が『千と千尋』で描いた妖怪たちは、民俗学的典拠をいわばコラージュした、新次元の妖怪たち――美学的な妖怪たちだといっていい。その類型の混ぜかたにいわば「悪趣味」が混在してくるんです。

 夏休みに、四国に旅行にいってきました。高知の写真店の店頭では「よさこい祭り」の写真があふれるように展示されていました。みな、婆娑羅的な扮装し、チーム別に振りを決めて街路を練り踊り、得点を競うんですね。しばしば誤解されるように、「よさこい祭り」はそれほど起源の古いものではない。町起こしのために挙行された、せいぜいが十年ぐらいの浅い歴史しかもっていないんです。ところが、各チームの扮装や踊りの振りを写真でみていて、僕はおもった――いわゆる不良性感度の高い若者たちに、すごく凝縮的に民俗的記憶が噴出していると。彼らは、西洋的な美意識からすれば、たんなる「悪趣味」に括られる。「悪趣味」にはいろんな局面があるけど(とくにアメリカ型の悪趣味というのがメディア作用のなかではひじょうに大きな役割をもっているけど)、生産的な「悪趣味」とは、民俗的記憶を、自らの身体表面に蘇らせることなんです。

 評論家の平岡正明も近著『キネマ三國志』のなかでそういっていた――とくに「在日」はわざとキムチ臭い仕種をすることで、方法悪としての「悪趣味」で日本人に一歩先んじていると。「在日」は三世・四世ともなれば、ハングル語を話せない。日本語しか喋らない。けれども彼らはやはり日本人ではない――その意味ではデラシネなわけです。その彼らがわざとキムチ臭く振舞うとき、自らにあたえるアイデンティティの符牒が意志的――方法論的なものとなる。国籍上の立脚点は無にちかいものたちが、仕種において民俗性(民族性)を発現する――そのときに、暴動の予感のように大地を踏み鳴らすわけです。それで彼らは「悪趣味」の体現者となる。この場合の「悪趣味」は「良識」への攻撃材料である以上に、変革・現状打破のための装いなんですね。

 その次元のものがいまの日本にはいっぱいある。コギャルのガングロや臍だしファッション、浴衣好きなど、みんなそうではないか。携帯電話の扱いにおいて日本人みながヤクザっぽくなっているのもそうではないか。絶望がある。だがそれは、絶望の奥底に変革がもとめられているからでもある。宮崎駿『千と千尋』の奇妙な民俗的記憶の噴出――「悪趣味」は、いわばその次元に突き刺さっているのではないか。だから現状的なんです。

 それは、「対立軸にないものが対立しその結果、作品世界内の線引きに混乱が起こった」ことが、現状の政治を暗喩した点でのみ現状的、あとは現在にいっさい当たらなかった『もののけ姫』からは大きく進展した点ではないでしょうか(もっとも『もののけ』における憤怒や怨念が相手ではなく自らを灼くというメッセージは、やはり現在的に捉えられる必要がありますが)。

 『千と千尋』を「悪趣味」とおもうゆえんをもう少し列挙してみましょう。まずは「オクサレ様」。糞尿とヘドロでドロドロになり、その汚泥で瞼すら重たげにみえるあのもののけも僕は大好きです。「悪趣味」の与件としては、性愛的なものの露呈(それがオシラ様の乳房状の大根や、スクール水着風の腹掛けによって大きく開いた千の裸の背中です)とともに、それに隣接するもの――つまりは糞尿譚的なものの露呈がある。ただしたしかに小黒さんのいうとおり、オクサレ様のドロドロは、デフォルメのために細部が跳んでしまっていて、それ自体は腐そうではないかもしれない――これは宮崎駿の教育論的配慮でもあるでしょう。しかしその臭さにビリビリくる千と湯婆婆のリアクションによって、臭さは記号的には充分に表現されています。

 それから、性愛的な意味では、「カオナシ」の乱行を止めるように湯婆婆から駆り出される千に、水揚げに直面した半玉芸者のようなイメージが二重化されます。そして、糞尿と境を接するのが吐瀉物。「カオナシ」は、圧倒的なゲロを吐き続けます。グロテスク極まりない。そのゲロが、物語の下支えを受けていて、理路のなかに置かれるとき、ゲロの物質的突出が忌避されます。これはいわば宮崎の、ゲロへの救済といってもいい事態だとおもいます。そして子供は、乳房や糞尿、さらにはゲロに驚きをおぼえる。その「驚き」が子供の場合はそのまま「それが好き」という証拠となります。その意味でこの作品は、先の「忘れっぽさ」と併せ、児童アニメ的なんですよ。たんに整然とした物語意識に乗っかった『トトロ』は、子供のためのアニメというより、ノスタルジアを買いにきた大人のためのアニメという気が僕にはする――対照的でしょう?

 ただ、この作品の「悪趣味」は、そういう具体的な個々の霊々たちのディテールにのみ集約されるものだろうか。様式やタッチの不統一そのものが「悪趣味」ではないかということです。たとえば先程言及した「オクサレ様」は、千の献身によって汚れをすべて洗い流され、からだに含んでいた川の汚物をすべて引きずりだされることで、本来あった河の神の姿に復帰します(この河の神がやがて隔世遺伝して、ハクの出自へと変化します――これも作品が連環組成をもっている点の証になるとおもいます)。このときの絵柄の変遷を憶えていますか。さっきもいったように、ドロドロだったオクサレ様には、ひじょうにTVアニメ的なデフォルメがかけられている。それからそこから引きずりだされた川の塵芥はすごくハイパーリアル。そして、ついに出現した河の神の顔は、円空や木喰の木彫のようにというか、東南アジア彫刻のようにというべきか、すごく民俗的です。この短い一聯で、これほどの画柄の不統一がある。

 こうした不統一ってこの作品では延々つづくでしょう。飽食した「カオナシ」が大暴れしている部屋に千が入ったとき、絵の具チューブを捻ってそのままブチまけたような凄惨な画柄が観客の息を飲ませた。ああいう画柄は、ほかの場面にはない。あの場面もまた突出した不統一なんですね。不統一というなら、湯屋の建物全体がそう。中国式、日本の遊郭式のディテールがありながら、天守閣のような欄間と、かび臭い遊女小屋が同居している。上階の湯婆婆と坊の部屋にはペルシャ絨毯が敷かれ、デカい古伊万里の壷(それ自体はどこか朝鮮的でもあります)がある。ではこれが現在ではないのかというと、理容店があったりもする。脱中心性。その感触がこの作品を、全体的にかつての香港映画に近づけているんだとおもいます。そして香港映画の「悪趣味」もまた、民俗性の噴出の次元に認められます。

 まあともあれ、誤解によってバロック調とロココ式を混在させた三島由紀夫の豪邸の「悪趣味」、あるいは豪華絢爛のために過去のあらゆる美術様式を混在させたバヴァリアの狂王ルードヴィヒU世の「悪趣味」が、ここではアジア大に実現されているわけです。しかも、鼎談でいったように、吹き抜け、ハクが落ちるダスターシュート、エレベータなどが通っている湯屋の建物の全体性は、空無が内部を侵食しているという意味ではひじょうにスポンジ的組成をもっていて、どこかその空間性の根拠に怪しげなところがあります。だからこそ、美術様式の混在が突発的というか玉手箱的な愉快さへと変じる。宮崎は湯屋の建築は「江戸東京たてもの園」の擬洋風建物にインスパイアされたといっていますけど、それが極度に創造的な次元へと加工されている点は、つよく意識すべきでしょう。

 質感の不統一は、アニメ特有の、無気味な平面還元に逆らうという意味で、大きな意義をもっているとおもいます。本当は不統一性、その結果としての「悪趣味」こそが、アニメ表現の打開にもとめられているものだった。それでアニメは多声体(ポリフォニー)、ロンド、もしくはバラエティ(エイゼンシュテインのいう「アトラクションのモンタージュ」)、コラージュ、さらにはデクパージュになる。押井守や大友克洋もそれぞれ彼らの様式でそれを実現しています。

 それと前回、僕はフロイトの論文「無気味なもの」を援用して、無気味なものは同一性によって組成されたものか、幼時体験的なものになるといいました。そしてそれはすべてのアニメ表現にとって必然ともいいました。宮崎駿は、ここでは糞尿譚的欲望によって、まず幼時的なものへと遡行しています。そして民俗的記憶の連打によって、幼時的なものは、さらに未生時間へと溯ってゆきます。その感触が画面をつうじて蘇るとき、親しんでいたものが蘇る際の――「ハイムリッヒ=ウンハイムリッヒ」という図式がここで成立したんです。

 いっぽうで、同一的なものは、アニメ表現のディテール上の統一感の剥奪によって遮断されてしまいました(その結果、作品全体が創造的な「悪趣味」となった)。ところでフロイトがいう同一的なものとは、「自己対自己」という閉塞的な図式のなかにもっともつよく滲みます。その自己対話性もまた、ここでの千にはほとんど到来しません――なぜなら彼女は動きつづけるからです。だから千=千尋はアイデンティティクライシスに直面しているのに、アニメ史上、もっとも星飛雄馬に似ていないヒロインとなった。そうして作品全体は、無気味なものを指標しつつ、アニメがもつ決定性からは身を引きはがしたという、誰も実現できなかった達成を遂げたのです。僕がこの作品を、これまでの宮崎アニメ以上に評価するのはそのためです。

 そして、彼は自らの『ナウシカ』で分泌した無時間=ノスタルジーの呪縛を逃れることともなった。『ナウシカ』の無時間は未来・過去の相殺作用の果てに生じたものです。一方この作品は無時間ではなく多時間です。季節とりどりの花がいっぺんに咲いているのは、無時間ではなく多時間の表徴だと僕は鼎談以後、おもいなおしました。無時間では多様性が殺される。多時間では多様性は温存されるどころか、さらに拍車をかけられる。僕は鼎談で『千と千尋』にたいし《今回は混乱ではなく同一性の中にある多様性の追求でしょう》と喋りました。その真意もいまや明白だとおもいます。アニメがアニメ表現である以上、最終的に「同一性」からは逃れられない。その桎梏のなかで、『千と千尋』は驚くほどの多様性を展覧したということなんですね。

 最後に「カオナシ」の話題。いま『千と千尋』のTVスポットでの追い広告では「あなたのなかにも、カオナシはいます。」というキャッチが流れています。さきほど僕は、千とカオナシは、アイデンティティクライシスのなかで表裏をなしているともいった。そしてこのカオナシから発散されるアイデンティティクライシスこそが、この作品がもっとも現代性をもっている証左となるんです。カオナシは作品全体がしめす反世界にすら違和をかたどるために、その下半身が主に透明状態――あるかなきかの状態で表象される。彼は喋れない。飲み込んだ者の言葉遣いや声をもちいて喋ることはできる。彼が一見もっている顔は仮面にすぎない(しかし何という見事な仮面でしょう――角度によって表情が変わり、とくに俯いたときには悲哀を発するのです)。そして縁側から湯屋に入るときふと登場する寂しげな彼の片足は、彼が飽食を繰り返し、番頭や仲居を飲み込んだときには、怪物的に多足化してしまう。自らと同質な者と見込んで眷恋した一見「寂しげな」対象・千には、「あなたにはあたしのほしいものは出せない」と拒絶されてしまう――ここではたぶん「おたくは自身を他者に反射できない」という真実が語られているはずです。

 この作品は有機的な連環を、作品組成にもっているという話をしました。坊は湯婆婆によって買い与えられた玩具のなか――ディズニーランドのような楽園のなかに幽閉されています(引きこもり状態にさせられています)。その連環でカオナシが映しだされるから、カオナシもまた、『千と千尋』の作品世界のなかでは引きこもり青年(少年)の役割をあたえられているとみるべきなのです。彼の行動の意義は、他人への波及性をもたない。その結果、ますます行動が夢想的な次元にあるようにみえる(彼が掌から砂金の結晶を吐き出すのはその夢想性によってです)。それは彼が湯屋のなかに「いるのにいない」という現れとなる――「いま」「このときに」湯屋は彼の「家庭」にすぎないのに。彼はたとえば千に自分の申し出を撥ねつけられると、「家庭内暴力」を起こす。つまり、彼は同一性の内部にあるあらゆるものと関わりがもてない――おそらく自分自身とも。

 『千と千尋』の製作時期に着目しましょう。宮崎が作品を構想していただろう二〇〇〇年――公開前年の上半期には、引きこもり青年の犯罪がつづいていました(「てるくはのる」事件、新潟少女監禁事件)。このことも考え併せ、宮崎はたぶんカオナシに引きこもり青年の面影を盛ったのではないでしょうか。そして、彼の欲望は対象を失って、過食に走ります(ハードな身体感覚を欲すれば、ひとは容易に性行為過剰か過食へと傾斜するのです)。そして彼は吐く。しかも壊滅的に吐く―― ここで彼の過食症のイメージは確定します。そしてすべてを吐き終わった彼に待ち受けるのは稀薄感です。だから彼は、拒絶されても、千を追うことしか方策は残されていない。

 その彼が千たちとともに乗る海上の電車の場面は、すごく胸をうちます。影絵となった稀薄な乗客がいる。水平線の遠景には「かいやぐら」めいた未来都市の幻影もある。とおりすぎる遮断機と警報音のノスタルジー。やがては坊ネズミとハエドリが千に兆した母性のなかで眠ります。この誰もが宮澤賢治の「銀河鉄道」をおもう電車には、切通君のいうように、哀しい荷担ぎの一般人が多く乗った戦後すぐの電車から、未来電車まで、多時間が重ねあわされています(何しろ夜になると電車は歓楽的なネオンの光をも掠めてゆくのです)。そのとき「カオナシ」が「おたく」の属性をもつことで、電車内は、一瞬、庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』の影絵電車の幻影まで招き寄せます。奇蹟のような連環性です。

 「カオナシ」には最終的に銭婆のもとで暮らす結末があたえられました。それで彼は、アイデンティティクライシスから脱却する。でもなぜでしょうか。おそらく、ひとの役にたつ――たったそれだけのことで、自意識のなかだけに幽閉されていた彼の亜地獄的状況が打開されたんです。ならば「ひとの役に立つ」――そういう局面がなぜ彼に招来されたのでしょうか。それはひと(ハク)の役に立とうと奮励刻苦する千の熱情がカオナシに自然転移されたからです。この転移の運動がこの作品では異様に美しい。説教ではない。たんに転移があればいい――そう希むこと。その希みと隣り合わせで、この作品では民俗的記憶の、観客への転移が図られている。そのような図式になりうるのは、この作品が有機的連環によって全体を組成されているからにほかなりません。

 最後に、宮崎駿関連で出た新著のうち、めざましいものを紹介しておきます。今日の講義でもさんざんその名前が出てきた切通理作さんの『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)です。まずこの本に驚愕するのは、彼がものすごい膂力で宮崎駿にかんする同時代文献を漁っているということです。結果、この本は作家論というよりも、日本の80年代以降全体を射程に置いた、ちょうどパリの19世紀にたいしてそれをしたベンヤミンの『パサージュ論』のようにみえます。新書だから全体の口調はいっけん啓蒙的にみえますが、彼の怪物性はそれを上回っています。細部が充満しているんです。そして、そのなかに、たとえば宮崎アニメの飛翔場面についての彼の創見があります。とにかくいい意味で執念ぶかい本です。それは新書最大の文字量を誇っている点にも明らかだとおもいます。

 さて、今日話した「悪趣味」、それが実は今期のサブカル講義の主要テーマとなります。「悪趣味」を肯定価値とすること。それを現状打開の方途とすること ――今期のテーマとはそういうことです。ですので、これから僕がとりあげる漫画家、ミュージシャン、写真家なども、すべてこの「悪趣味」の文脈に乗ることになります。

http://abecasio.s23.xrea.com/text/notes/10.html


05. 中川隆 2010年3月21日 21:06:48: 3bF/xW6Ehzs4I

千と千尋の神隠し アニメ無料動画

http://www.veoh.com/browse/videos/category/animation/watch/v14272568aEPt64gA#

http://www.veoh.com/browse/videos/category/animation/watch/v14299124nkq4Gjz5#

http://blog.livedoor.jp/yosh007/archives/50352116.html


06. 中川隆 2010年3月21日 23:02:27: 3bF/xW6Ehzs4I

これが日本本来の風俗


30年前に徳山ダム予定地で水没する運命だった徳山村に入って民俗調査したとき、飲み屋のママが「「毎晩、若い衆が「やらせろ」と忍んでくるので本当に困る」」 とこぼしていた。徳山など西日本の閉ざされた村では、後家さんが若衆の性教育をする義務があった。

 女子は初潮が来れば離れに住まわせ、赤飯を配った。これが「おいで」の合図で、その晩から近所の若衆が娘の元に夜な夜な忍んでくる。これを「夜這い」と呼び、1960年代まで、西日本では、ありふれた習俗だった。

 当然、子供ができるが、お腹が膨らめば、娘は忍んできた若衆のなかから一番気に入った男を夫に指名する権利があった。若衆は、これを拒否することはできなかった。もし拒否すれば、村から叩き出されるほどの指弾を浴びた。 

夫指名はお腹の子の種男である必要はなかった。どうせ、生まれた子供は、村の共同体みんなで育てるのであって、誰の子でも構わないのだ。子供は村全体の財産であり、みんなで育てる義務があった。村の共同体では、困ったことは、みんなで相談して解決するのであって、一人でも飢える者を出すことは許されず、餓死するときが来れば、みんなで一緒に餓死したのである。そこには貧しくとも、孤独という苦悩は皆無であった。
 
 やがて若衆が都会に出るようになり、都会の家畜的労働者の習俗を村に持ち帰ることによって、夜這いも廃れ、共同体も瓦解していったが、祭りなどには、そうしたフリーセックスの習慣が遅くまで残り、1980年代まで村の祭りは無礼講であり、どの人妻と寝ても良かった。

できた子供が、父親の子である必要があるのは、権力と財産を相続する必要のある名主や武家に限られいて、共同体生活をしてきた民衆には、受け継ぐべき権力も財産もなく、したがって父の子を特定する理由がなかったのである。
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/1805329.html


「夜這い」

 筆者は若い頃から民俗学が大好きで、宮本恒一の熱狂的ファンを自認し、その真似事をしながら、山登りの途中、深い山奥の里を訪ねて、その土地の人と世間話をしながら、新しい民俗的発見をすることを楽しみにしていた。

 かつて、揖斐川の上流に徳山郷 という平安以前に起源を持つ古い村があって、その奥に能郷白山や冠山という奥美濃山地(両白山地)の名峰があり、このあたりの山深い雰囲気に惹かれて何度も通った。今は無意味な形骸を晒すのみの巨大なダム底に沈んだ徳山の里は、筆者の足繁く通った1970年代には、いくつかの立派な集落があり、春から秋までは渓流釣りマニアでずいぶん賑わったものだ。

 そのなかに、名古屋からUターン里帰りした中年女性の経営する小さな飲食店があった。そこでよく食事をして世間話に興じながら、おばちゃんに村の事情を聞いていたが、実におもしろい話がたくさんあった。

 一番凄いと思った話は、近所の農家の中学生の娘が妊娠したことがあったが、その相手は祖父だったという。しかし、当時の徳山では、この程度は全然珍しいものでなく、ありふれていると言ったことの方を凄く感じた。

 夜になると近所の若者が飲みにくるが、必ず店仕舞のときまでいて「やらせろ!」としつこく強要し、うっとおしくてかなわないという話や、この村では後家女性がいれば、婿入り前の若者たちの性教育係を務めるのが村の伝統的義務とされているというような話も驚かされた。

 参考までに、昔の性事情を知らない若者たちに言っておくが、戦前の日本では、とりわけ西日本における古代弥生人の末裔たちの里にあっては、国家によって定められた一夫一婦制結婚形態というのはタテマエに過ぎず、それが厳格に守られた事実は存在しない。つまり適当なものであった、というより、民衆レベルでは自由な乱交が当たりまえであって、生まれた子供が自分の子供である必要はなかった。

 というと、ほとんどの若者たちが「ウソー!」と驚くに違いないが、これが真実なのだ。例えば一番典型的だった中国山陽地方の集落では、一つの集落で、結婚まで処女を保つ娘は皆無だった。初潮が始まると、親が赤飯を炊いて近所の若者宅に配る。それが「おいで」の合図となる。その日から娘は離れの座敷に寝泊まりするのである。

 これは、山陽地方(西日本の古い農家といってもいい)の古い農家の作りを見れば分かる。必ず夜這いのための娘の泊まり部屋が設けられていたはずだ。古い民俗家屋展示を見るときは、昔のこうした光景を見るのだ。すべての構造に歴史の深い意味が隠されていると知ってほしい。

 若者の男たち、ときには、なりすましの親父たちも、赤飯の出た家に夜這いをかけて、初々しい少女を抱いて性欲を満足させたわけで、これなら風俗性産業が必要なはずがない。昔だって男たちに強烈な性欲があった。それが、どのように処理されていたか? 考えながら、赤線・性産業の由来・必要性を考えるのだ。
 夜這いの結果、もちろん子供ができてしまうわけだが、生まれた子供が誰の子であっても、事実上関係ない。子供の父親を指名する権利は娘にあった。別に実の父親である必要はなかった。夜這いをかけた誰かの内、一番好きな男を父親に指名するのである。これが、やられる側の娘の権利であった。

 夜這いを拒否することは、男にとって大きな屈辱だった。そんなことをすれば後々まで男に恨まれて「八つ墓事件」のような事態が起きかねない。津山殺戮事件の裏には、こんな背景も考える必要がある。

 父親を特定することが意味を持つのは、子供たちに受け継がせるべき財産・権力のある有力者に限られていて、持たざる民衆にあっては、受け継がせるべきものもなく、名もない我が子種を残す必要もなく、したがって、女房が誰の子を産もうと、どうでもよいことなのである。

 生まれた子供は「みんなの子供」であった。集落全体が一つの大家族だったのだ。みんなで助け合って暮らし、みんなで子供を育てたのであって、小さな男女の家族単位など、権力が押しつけたタテマエ形式にすぎなかった。

 タテマエとしての結婚家族制度は、明治国家成立以降、政権が租税・徴兵目的の戸籍制度整備のために、それを強要したのである。
 それは権力・財産を作った男性の子供を特定するための制度であった。それは名主・武家・商家・有力者などの権力・財産を「自分の子供に受け継がせたい」インテリ上流階級にのみ意味のあることであり、このために女性を婚姻制度、貞操に束縛したのである。

 農民をはじめ一般大衆にとっては、束縛の多い不自由な一夫一婦制など何の意味もなく、たとえ配偶者がいても、誰とでも寝るのが当然であり、生まれた子供は「みんなの子供」であって、集落全体(大家族)で慈しんで育てたのである。

 このようにして、かつての日本では夜這いに見られるような自由な性風俗に満ちていた。「集落全体が大家族」という考え方で助け合い社会が成立していて、夫を失った後家は、若者たちの性教育係になり、冒頭の飲食店のオバサンも、徳山の若者たちから、そのように見られていたわけで、決して徳山の若衆が性的変態だったわけではない。

 そうした自由な性風俗は1960年あたりを境にして、急速に失われていった。その後、読者が知っているように、女性に貞操観念が求められるようになった理由は、世の中全体が豊かになり、個人が財産を蓄積する時代がやってきたことによるのである。

 豊かになれば財産を「自分の子供」に相続させたくなる利己主義が芽生えるのである。「自分子供」を特定するために、誰の子かはっきりさせる必要があり、女性の自由な性を抑圧し、貞操観念に閉じこめる必要があった。
http://protophilosophy.noblog.net/blog/t/10590234.html

夜這と村落共同体

日本における夜這の事例が数多く紹介されていますが、村落共同体の実態が紹介されないで、性関係だけが取り出されていると、一対婚しか知らない現代人には違和感の方が強くなりかねません。夜這いを理解するためには、村落共同体がどんなものだったかを理解する必要がありそうです。

大きな特徴は、村落の構成員に大きな変化が少なく、長年にわたって婚姻を重ね、地縁・血縁が複雑に重なり合った共同体であることでしょうか。現代は、苗字があり家族以外は他人という強い意識がありますが、当時は苗字等もなく、村中の人たちが大きな家族のようなものだったのでしょう。

村全体で、田植えをし、水路を整備し、里山を管理し、稲刈りもしていた。年貢を納めるのも、村全体の課題だったかもしれません。子を育てるのも、家を作るのも、共同作業で家だとか個人とかいった観念は非常に稀薄であったように思えます。

みんな家族のようなものだから、誰の子種でも気にする必要は無いし、どっちみち、みんなで育てるのだから更に、誰の子でも良い。年貢もみんなで払うのであれば、相続なんて形式的なもので、どうでも良い。

このような状況では、家と言う意識が稀薄であり、家父長権は殆ど存在せず、色んなことは寄り合いでみんなで決めていた。

みんなが生まれたときから生活を共有し、気心も知れた者どうしだから、警戒心も違和感も好き嫌いもなく、支配も被支配もない。だから村人同士であたりまえのように性を満たしあう。

一対婚は私有制度を母体にした婚姻制度であり、このような血縁と地縁の双方で一体化した村落共同体には、一対婚制度こそ全く相応しくない制度だったといえそうです。

このように考えてみると、明治以降村落共同体を破壊し、夜這から一対婚に変わっていった原因に、家父長権の法制度化が存在する可能性が見えてきます。

それまでは、武士階級にしか存在しなかった家父長権が、明治憲法により農民にも拡大され、名字と一緒に一人ひとりの男に権利が与えられました。その結果、農村にも支配権力が発生し、私権意識、家意識が少しずつ浸透していき、ついに農村も私権を中心とした家が、村落共同体の紐帯を解体し始めた。

そして、村落共同体の中で貧富の差などの、身分意識が形成され、夜這制度も解体されていくという流れをたどったのではないでしょうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=83440

★娘の通経を村内へ披露する理由

遠州国曳馬村地方:女子に初めて月経が来ると、隣家では米二・三合を袋に入れて贈り、『初花が咲いてお目出とうございます』と祝詞を述べた。女子は月経の度に別に立ててある小屋に入ることとなっていた。

讃岐国小豆島:娘が十七歳になると村内の若い衆を招き、『娘も通経があるようになったから、何分ともよろしく頼む』と披露することになっていた。もし娘の家が貧しく披露の宴をひらけないときは、若衆が各自醵金して宴を張る定めであった。

八丈島:女子の初潮のときは『タビ祝い』として村内の若者が芋酒一升と里芋一籠を持ち寄って祝宴を開いた。娘が一人前の女―即ち妻となり母となる資格ができたことを村内に披露するのである。

「而して此の女子が通経を機会として、その事実のあったことを部落中へ披露―即ち若者の共有に提供することに就いては、種々なる方法と手段が存していたのである。他屋(月屋またはひま屋または汚れ屋などとも言う)と称する定められた家屋に別居することもその一つであるし、十三詣り(この事は後に述べる機会があろう)と称して神社仏閣へ参拝するのも又たその一つであった。」

★村内の娘を女にしてやる若者の権利

阿波国山城谷村:未婚の娘と寡婦は、村中の若者の自由になると考えていたから、他の村の者が娘に通じようとすれば、まず村内の若者に酒を買い黙認を受けることになっていた。守らなければ石打または殴打されるのが普通であった。

磐城国草野村付近:娘が年頃になると村の若者が集って、旧正月十五日の夜に『誰々の家の娘は、まだ女になっていぬから、あれを女にしてやろう』といって、娘達を呼び出して女にする行事が近年まで存在していた。

下野国氏家町:五人の若者を我が家に引き入れた娘に親が怒り、娘を裸にして外に立たせ、通行人に向かってこれが浮気女のよい手本ですと懲罰の意で説明したことを若衆が知り、神聖なる淑女を侮辱する不法の父母なりとして押しかけて大論判をした事件があった。


梁田村(筆者の生まれた隣の村):明治二十五六年頃、寺の娘が若者数名に悪戯され、親である寺の住職が立腹して告訴すると息巻くのを、村内の故老が調停に立ち、言った。

『昔は娘は若者持で身分の高下なく自由にして差支なかったのである。それに村の娘が他日嫁入りする際に不具者であるようなことがあれば、ただに親の恥辱ばかりでなく村の名折れになる。

それ故に嫁入りする前に娘が不具でないか否かを試験するために若者はこれを自由にする権利が与えられていたのである。

此の村の古い掟も知らずに告訴して表沙汰にするというのなら、住持は傘一本で追い出してしまう』

こうしてその住職は屈服しなければならなくなり、そのまま結末を告げた。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000485.html

★処女は若者の共有物たりし類例

陸奥国東通村:明治の初期までは村の娘と出戻りの婦人とは青年男子の共有物であった。

娘達は十五歳になると娘宿に泊まりに行き、村の青年達の要求には絶対に従う事になっていた。

理由なく拒絶すると、拒絶された男子は直ちにこのことを娘の父兄に知らせると同時に村中に報じる。

娘の父兄は娘を一室に二週間も監禁して村の掟を説くが、それでも従わなければ村から放逐する。

また、反対に外来者に対しては、娘達は絶対に貞操を固守せねばならず、背くと同じく放逐される。実際に、区長が娘を青年に提供しなかった為に、襲撃された事実がある。


羽後国檜木内村:妙齢の女子を持つ親達は、旧正月十五夜に、一定の場所に仮小屋を設け、青年の男女を会合して徹夜させることになっていた。

もしこの会合に娘を出さぬ親があると、大勢の青年が押しかけて砂石を飛ばし誹謗をなし、さらにその娘の嫁入の妨害まで行なった。


★娘の嫁入には若者の承諾を要件とす

羽後国秋田群の村々:「媒介者の斡旋で縁談が進むと、新郎新婦の双方とも家族や親属の承認を経ることは勿論だが、更に村内の友人(即ち若者達の意)の異議の無いということが成立の要素となっていた。

かくてこれ等の者が総て承知すれば内約を取り結び、改めて組頭へその旨を口頭で届け出で式を挙ぐることになっていた。」


こうして若者の異議の有無を確かめるということは、未婚の女子は村の若者の共有であるという習慣から導かれたもので、親達と言えども、若者の承諾を得なければ嫁入りさせる事はできなかった。


★露骨で極端なる女子共有の風俗

「越後三條南郷談」より:明治四五年までは毎年盂蘭盆になると、村の若者が盆の休日間だけの妻女を村の娘の中から籤(くじ)引きで決めた。

もし自分の気に入らない娘が当たったら、清酒一升を出せば取りかえてもらえた。

勿論、この盆くじが縁で夫婦となる者も多い。村内の男女の数に過不足があるときは、その数だけ白籤を入れ、引いたものはその年だけ妻なしで過ごす。ただし酒を出して娘を譲ってもらう事はできた。


★村の娘の結婚の許可権は若者の手に

加賀国能美群:処女は村の若者の共有である。認めぬ家があると、若者が大挙してその家の屋根をめくり、またその娘の嫁入りを妨げて婚期が遅れるようにした。また、その娘が生活に困っても、同情せぬのを常とした。

美作国勝北群:娘は若者の共有物であり、他村に嫁ぐには若者団体の承認を要した。もし若者団体が異議を唱えたら、若者と仮に配婚して、その後に他村へ嫁ぐ習俗となっていた。

丹波国志賀郷村:村内の男女同士で結婚することが慣わしであり、これを破ると両人を素っ裸にして提灯を持たせて村民がその後ろにつき、村内を囃しながら歩かせる制裁があった。

安芸国十二ヶ浦:娘が他村のものと関係することは禁じられていた。

破ると、『樽入れ』と称して、村の若者から僅かな酒肴をその娘に送る。これを受けた娘は日時を定めて氏神の社に村内の人々を招き、できるだけ手厚い酒食の饗応をせねばならず、これを『樽開き』と称した。

これに要する莫大な費用は他村の男の負担となり、この樽開きをしないとその男と結婚することはできなかった。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000481.html

共同婚(乱婚とも雑婚とも称し、部落中の男女が共同的に婚姻するものをいう)

共同婚の遺俗としての嬥会(かがい)

『常陸風土記』に現れた嬥会は、共同婚の遺風として認められる。『他妻に吾も交らむ、吾妻に他も言問ひ』とある。そこに参加した女は、「嫂財」として「貞操を提供する義務が負わされた」のである。

嬥会は、国初時代に入ると、歌垣として各地で行われるようになり、この系統の結婚方法は、明治初期まで行われていた。


土佐国西豊永村:毎年七月六日の例祭には、近隣から数千の男女が集まり参詣。夜になると男女で押し問答し、女が答えられぬようになると、男の意に従うことになっている。

三河国の山中村:毎年春に未婚の男女が盛装して山行を行い、夫婦の約束をすれば、父系は必ずこれを承認せねばならない。婚約の出来なかった女は笑いものになるので、近頃では山行の前に内約させたり、他村の青年を養子として必ず婚約できるように仕向けたりしている。


美濃国東村:三日間行われる秋祭りで、村中の若者が鎮守の森に集まって輪になって踊り続け、夜が更けると村長・村会議員・青年会長なども交じって、踊りながら共鳴した男女が交わる。

「此の奇習によって生れる幾多の喜悲劇は、総て神の裁きとして解決され、且つこの踊りが縁となって結ばれた男女は、氏神の許した夫婦として、村人から羨望される」


紀伊国白崎村:「旧暦の盆踊の最中に双思の男女は婚約するのを習いとしている。此の約束が出来ると後で他家からその女を貰いに来ても、身代や身分がどうあろうとも盆踊で約束したと断り、一方、断られた者も盆踊で約束した中では言うて引き退がるのを常としている。」


  この種の土俗が結婚の礼式となって存在する例を、次に挙げる。

下野国の宇都宮市を中心とした村落:「新婦の一行が乗りかけ馬で新郎の家の前まで来ると、門前に二人の男が立っていて『大勢して一体どこから来た』と問う。

新婦の方では『若者に美しい花をやるために来た』と答える。

かくて両者の間に押問答が始まるのであるが、先ず嫁方から口達者な一人の女が出て、婿方の男二人を相手に問答し合う。若し此の問答に嫁方が負けると、馬は元へ引き返してしまう。実に念の入ったものであるが今では稀にしか行なわれぬようになった。」


信州木曾山中の婚礼:花嫁が婿の家に往く道すがら、おこしを撒き散らしながら行く。媒酌人は、顔一面に墨を塗って婚礼の席に出る。

「嫁婿の座が定まると嫁は携えてきた小豆一升を入れた麻袋を取り出し、婿へ投げつけながら『わりゃ(私)、うね(郎)を頼りに来たぞ』と言うと、婿は『オウ石の土臺の腐るまで居ろよ』と答え、此の問答が済んでから盃事になるのである。」


 これらは、嬥会系に属する掛け歌の形式化・単純化されたものであると推知される。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/11/000477.html

★我国にも貸妻の習俗は各地に在った

阿波国澤谷村:かなりの山奥で十三戸しかない寒村であるが、宿屋がないので旅客は普通の民家に宿泊する。

旅客を迎えた家では、その夜は娘(なければ妻)を同衾させる。

もし旅客が娘に振られるようなことがあると、娘は『出戻りさんだ』と大声を発し、親や夫が出てきて夜中であろうとその旅客を追い出してしまう。一度『出戻りさん』の名を負わされると、その村では宿を得られない。


肥前天草島:他地方から旅客が来ると良家の子女が自らすすんで枕席に侍る。こうして多くの異性に接するほど、早く良縁が得られると信じていたためである。


肥前国富江村:殊の外に外来人を忌む風俗がある。それは昔から今(昭和二年の秋)に至るまで、外来人が『あの女を借りたい』と言うと、処女でも妻女でも貸さなければならぬ習慣があるためだと言われている。


他に、山陰の因幡・伯耆や越後国三面村等でも、貸妻が行なわれていた。それらは物質的な報酬を受けるのではなく、全くの好意に外ならぬのである。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000485.html


07. 中川隆 2010年3月22日 21:20:32: 3bF/xW6Ehzs4I

ルイス・フロイスが見た日本女性の姿


日本における中・近世に到る時代をさかのぼってみましょう。当時の第一級の資料は外国人の宣教師ルイス・フロイスに求めることができます。

ルイス・フロイスはキリスト教の一派イエズス会の宣教師として来日し激動の時代を過ごしました。永禄五年(一五六二)より慶長二年(一五九七)長崎の地で没するまでの三〇数年間に多くの書簡を戦乱策謀の揺れ動く京都・堺・平戸・横瀬浦・口の津・長崎から発しております。

それには日本の政治情勢は勿論の事当時の権力者織田信長、豊臣秀吉、徳川家康そして竜造寺隆信、大村、有馬氏等耳慣れた人々の動きまで含まれております。加えて一般民衆の生活まで細かく興味深く書かれております。歴史から民俗学まで含む非常に貴重な報告書です。

ルイス・フロイスの「日欧文化比較」により当時の女性の姿に迫ってみてみましょう。ただルイス・フロイスがヨーロッパにおいては身分が高い宣教師であり、日本においても身分の高い人々の事を書いたとは思われます


日本の女性とその風貌、風習について、日欧文化比較より

 一、ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と尊さは貞操であり、またその純潔がおかされない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる。

 二九、ヨーロッパでは夫が前、妻が後ろになって歩く。日本では夫が後ろ、妻が前を歩く。

 三〇、ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。

 三一、ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、又結婚もできる。

 三二、ヨーロッパでは夫が妻を離別するのが普通である。日本ではしばしば妻が夫を離別する。

 三四、ヨーロッパでは娘や処女を閉じこめておく事は極めて大事なことで厳格に行われる。日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける。 

 三五、ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へでない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。

 四三、ヨーロッパでは尼僧の隠棲および隔離は厳重であり、厳格である。日本では比丘尼(尼)の僧院はほとんど淫売婦の町になっている。

 四四、ヨーロッパでは尼僧はその僧院から外に出ない。日本の比丘尼は何時でも遊びに出かけ、時々陣立(じんたち、軍陣の事、戦場か)に行く。

 五一、ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人たちは料理を作る事を立派な事だと思っている。

 五二、ヨーロッパでは男性が裁縫師になる。日本では女性がなる。

  五三、ヨーロッパでは男性が高い食卓で女性が低い食卓で食事をする。日本では女性が高い食卓で、男性が低い食卓で食事をする。

 五四、ヨーロッパでは女性が葡萄酒を飲む事は礼を失するものと考えられている。日本ではそれはごく普通の事で祭りの時にはしばしば酔っ払うまで飲む。

日本における結婚の様式 

日本において古来より婚姻は婿入り婚と呼ばれる方式がとられていたようです。

男性が女性の家に通い女性に気に入られればその家に入り婿となります。

したがって結婚が成立するまでの女性は自宅で男性の来訪を待ちそれも相手は一人だけの場合は珍しく複数相手の場合の方が一般的であったようです。

一方男性も訪ねる家が一軒だけでは不安であり、数人の女性の家を回っていたと解するのは常識でしよう。このような状態、すなわち婿入り婚の様式からルイス・フロイスの見たような男女関係ができあがってゆきました。

したがって万葉集にはおおらかな恋の歌が含まれているとよく書かれておりますがそれは真っ赤な嘘で男性にすれば就職運動の歌、女性にすれば良い男を見つけだす儀式の歌と解すべきでしよう。それにしてもおおらかな日本の女性の地位を象徴しております。

中世以前より家屋敷等の財産は母から娘へと受け継がれ女性が財産の相続権、管理権があったようです。ただ男性は父の官職をそのまま世襲しますから現在とは少し違ってはいるようです。

 江戸時代においても医者、儒者、大名等の系図を調べて見ましても婿入りが多い事に率直驚かされます。中・近世は婿入り婚が普通であり当然な現象でありました。

婿入り婚は優秀な男の後継ぎを見つけることができ、財産を分ける必要がなく、嫁姑の紛争もなくはぼ理想的な家庭が築けます。現在、婿入り婚が一般的になれば家族の問題、独居老人等の大部分問題が解決を見る事になります。私の故郷香川県塩飽の島々では最近まで漁師の間では婿入り婚がつづいておりました。

 ルイス・フロイスが書き残した女性に関する事柄はこの婿入り婚を前提に考えればそんなに飛躍した考えをしなくても想像することができます。

それにしても中世の女の人は明るく、結婚前から夜遊びはするし、人生を謳歌し、祭りにはおおぴらに酔っ払い、男を従えて歩き、良く遊び、堂々と男を離縁していたようです。

  日本における結婚の様式その二、

 異端な人々の台頭ー 関東武士

 ところが日本には婿入り婚ばかりではありませんでした。現在にも続く嫁入り婚の習慣を持つ勢力が台頭してきます。中世始め嫁入り婚の文化を持つ勢力が天下を握ります。鎌倉に幕府を開いた関東武士団です。

関東武士団は常に荒れる関東平野から育ち、特に京都を中心とした日本古来の文化を持ちませんでした。関東平野は季節風、洪水等自然条件が厳しく農業といっても境界争いは日常茶飯事で戦闘を職業とする武士団でなければ勤まらず、男性が家を継ぎ一夫一婦制でした。

例をあげればこの文化の違いは源頼朝とその妻政子の確執の原因となったようです。京で育った婿入り婚の文化を持ち政子以外の夫人のところを訪ねる事に疑問を持たなかった頼朝と一夫一婦制のなかで育った政子とではとかく問題になったようです。源頼朝から続く源氏の政権がいろいろな問題を起こし悲劇的な終末に終り、関東武士の流れを組む北条氏へと政権が移ったのは余りにも違いすぎる文化だった事も原因の一つでした。

この鎌倉時代と共に武士が権力を握るにつれ武士の社会が確立し、日本では異端であった嫁入り婚が徐々に広がってきます。しかし武士が人口に占める割合は少なく、京都を中心とする公家文化は従来の通り婿入り婚の様式でした。当時の公家社会及び西の文化を持つ者からみますと関東武士団は東の夷、田舎の風習、身分の低い武士の物真似などする必要もありませんでした。

中世より近世に移る時代にしてもルイス・フロイスが見た通りの社会でした。江戸幕府とともに全国的に武士の社会の結婚は先に述べた関東武士の風習が広まっていったようです。


  日本における離婚の方法

 結婚があれば離婚もあり、結婚と離婚とは裏表の関係にありますがルイス・フロイスは日本における離婚の方法にも驚いているようです。ルイス・フロイスの文章は日本の女性は男性に従属するような内容は読み取れません。

逆にどうみても日本の女性が上位であり逆にヨーロッパの女性が下位のように読み取れます。実際ルイス・フロイスの文章によれば日本ではしばしば妻が夫を離別すると書かれてあります。

近世における離婚にあたっては男より女性に「みくだりはん」(通常、三行と半分に書かれた。しかし例外もあり。現在の離婚証明書)を渡すことによって成立しました。この事をとらえ江戸時代は男が一方的に離婚できた根拠にしておりますが実際は相当違う様です。最近は民俗学の方面からいろいろ研究が進んでおります。それによりますと離婚にあたり男性側が「みくだりはん」を女性側に出す事は勿論ですが、男性にしても女性より「みくだりはん」の受取り証を貰わなければなりませんでした。これを「返し離縁状」もしくは「返しみくだりはん」と呼んでおりました。

男性は離縁した女性よりの受取り証なしに再婚すれば、何か事ある時に「返し離縁状」がなければ重婚罪となり「所払い」の追放刑の重罪が待っておりました。「みくだりはん」の前提としては女の持参金、嫁入り道具を全て返さねばならず一点をも欠けては「みくだりはん」は出せなかった事は勿論です。

ある地域の「みくだりはん」の調査によりますと現存する「みくだりはん」と家系図を比べて見ますとほとんどが婿入りの家であったとの報告だったと思います。後継ぎが出来ると女は男に「みくだりはん」を書かせ手切金を渡し家から追い出したのががほとんどであったとのことです。

これまたルイス・フロイスの記述どおりです。

ルイス・フロイスは中世の日本でこの報告書を執筆したおり、日本に関するこの報告書が絶対にヨーロッパにおいては絶対に信用してもらえないだろうと思って書いた事でしょう。


ルイス・フロイスによって描かれた日本を丁寧に見ますと現在の社会との違いに驚かされます。

日本的に完成された社会が一大変革を迎えたのは明治維新に求めることができます。明治維新は長く日本に続いた家族制度をも破壊しました。江戸時代に形式だけであった女性の地位も西洋の法律を丸写をした為にほとんどなくなりました。

ルイス・フロイスの描くヨーロッパの世界は男女同権の世界ではなく男尊女卑の社会であった事は間違いありません。日本における家族制度と家父長の考え方は軍国化する時代すなわち日清、日露戦争の時期に完成しました。明治維新は理念、すなわち革命目標がなかった事で有名で新しい国家を作るにあたり理想像を外国に求めた事にみられます。

 明治の革命の主役薩長土肥の下級武士達は自分達の武力革命を正当化する為に江戸時代は悪い時代と盛んに学校教育の場を利用しその影響は現在にも続き教科書は勿論の事、多くの歴史書もこの影響から抜けだすことができないのは誠に残念です。

 永い歴史を持つ日本史の上で女性の最大の悲劇の歴史は明治より昭和二〇年間の七五年間であった事は明らかです。

女工哀史、カラユキさん、戦争未亡人等々明治維新以後は多くの男の血と女の涙が流れました。又日清・日露の戦い・シベリヤ出兵、支那事変太平洋戦争等一〇〇〇万人を越える人々の血が流れました。その中でも昭和史は女の涙の歴史でした。

 江戸時代二五〇年間は島原の乱の死者約五万人が最高で誠に平和な時代でした。日本史において戦死者が一番少なかった事は特筆に値します。今こそ現代人にとって江戸時代とは何かを真剣に考えてもいいのではないでしょうか。
http://www.fsinet.or.jp/~yukio/ishis/onnaisa.htm


08. 2010年3月22日 21:51:04

本当は怖かった日本の農村

世間には「犯罪とは都市で起こるものであり日本古来の農村地帯は牧歌的で秩序だっていて、近代の都市部とは違い平和で犯罪はなかった」という誤解があります。
しかし、そういう閉鎖された農村地帯とか地方コミュニュティーというのは実は陰鬱でおかしな犯罪の温床でもあったのです。

例えば、間引き、夜這い、村八分、村の権力者による暴行、強姦、犬神や狐憑き殺人のような迷信や因習に縛られた暴行事件、実は殺人事件であった神隠しなど犯罪行為はゴロゴロありました。

まあ村の女性がレイプ同然に暴行されてたり、村のある一家が村八分で酷い目に合わされたり、嬰児が大量に間引きで処理されても、お上には訴えられず表立った犯罪にはなりにくいということはありますけどね。

「昔は村や地元の秩序状態が犯罪にはなりにくい犯罪を誘引していた」が正解です。

ただ、夜這いについては現代では少々、誤解があり、まるで村の女性が村の男に有無を言わさずレイプされてしまうよう言われてますが、実際は

当時の独身女性には貞操観念などなく、しかもセックスは最大の楽しみであり、村の女性たちは

「村の男が私を悦ばせにやってくる」

と夜ワクワクして床についたそうです。

薩摩だったかの逸話に村の男が男色に耽り女性とのセックスをサボりだしたのに怒った女性たちが、男たちが集まって男色している所に殴りこんで乱闘になったという逸話すらあります。

「当時の村の女は夜這いによって無理矢理犯された哀れな性奴隷であった」

という現代の誤解は「女性が自分の意思でセックスを求めるわけがない」という歪んだ女性像から来ています。

第二に女性の側にちゃんと自分の体調や相手によっては拒否権があり、
もしも、それを破って強引な夜這いに及んだ男は村八分などの制裁を受けます。

つまり夜這いは「村の男女の性の捌け口であり最大の娯楽」という男女共に楽しめる平等なものでした。

しかし、これもあくまで過去の時代の話しで現代では夜這いは一般的風習にそぐわない単なる犯罪行為になってしまったのも事実です。
夜這いの習慣の名残は各地でトラブルを生みました。

例えば単なる旅行者の女性が村の若者に村の夜這いの習慣によって集団レイプされた事件とか南九州で東京から来ていた女性が地元の男に略奪婚の習慣で拉致されて、親子ともども「うちにもやっと嫁さんが来た」と泣いて喜んだ事件とか表立った騒ぎになった事件がいくつもありました。

あと名張毒ブドウ酒事件とか津山三十人殺しも動機は夜這いのもつれらしく、
陰鬱な農村型犯罪です。

他に月ヶ瀬村の殺人や殺人事件とは思いにくいですが「便層で死んだ男」事件などもそのカテゴリでしょう。
http://pandaman.iza.ne.jp/blog/entry/526459/


09. 中川隆 2010年3月23日 23:16:49: 3bF/xW6Ehzs4I

津山30人殺し
http://www.youtube.com/watch?v=yKnhrK3Fiv8&feature=related

丑三つの村 特報
http://www.youtube.com/watch?v=0vlnBB3idyk


津山三十人殺しは、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両部落で発生した大量殺人事件である。2時間足らずで30名が死亡し、3名が重軽傷を負うという、日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件であった。

津山市加茂町行重
http://maps.google.co.jp/maps?oe=UTF-8&ie=UTF8&q=%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%8A%A0%E8%8C%82%E7%94%BA%E8%A1%8C%E9%87%8D&fb=1&gl=jp&ei=X7SoS9W2G5SYkQWt3b2HDA&ved=0CBIQpQY&hl=ja&view=map&geocode=FZqDGAIdryH9Bw&split=0&iwloc=A&sa=X


都井睦雄は大正6年、岡山県に生まれた。両親はともに肺結核で病死、姉と祖母との3人家族だったが、彼は祖母に溺愛されて育った。知能は高く、成績いたって優秀であったが、「病弱で学校を休みがち」だった。しかしその実は、祖母が可愛い孫を風雨の強い日などは外に出さないからであった。

 小学校ではずっと級長をつとめたほどの優等生だったが、中学校には進めなかった。教師は強く推薦したのだが、祖母がうんと言わなかったためである。しかし都井はこれにさして抵抗せず進学をやめている。

 とはいっても彼に百姓仕事などできるはずもなかった。彼は巡査と教員の資格をとるべく勉強をはじめる。が、軽い肋膜炎にかかり、彼はすぐ勉強を放棄した。彼の中には強い肺病への恐怖があった。(事実、両親だけでなく姉ものちに発病している)

 この「肺病への恐怖」が強まったことが、都井の性格の変化の一因と見られている。彼は「陰性」「無気力」「怠惰」、かつ「自暴自棄」な男へと変貌していく。実際には病気はたいしたことはなかったのだが、自分より成績の劣っていた同級生たちが、経済的に豊かであるというだけで進学していったことも、彼の劣等感と被害妄想に拍車をかけたのかもしれない。

 さて、この当時の山村にはまだ「夜這い」の風習が色濃く残っていた。村や集落の女を「共有」するという考え方にもとづくものである(だから他村の者がしのびこんできた場合には、発見されると袋叩きにされた)。 都井もまた、この風習に馴染んでいた者の1人だった。

 当時の山村の貞操観念はきわめてルーズであり、それが普通とされていた。姦通罪はあったが、いさかいは相手の男が「酒を一升、夫に買ってやる」ことでたいていカタがついた。人妻であってもそれは「みんなのもの」だったのである。

 それに都井は顔青白く、そのへんのがさつな農婦などよりよっぽど物腰の柔らかな繊細な感じのする美少年だった。女たちはどうも、最初はすすんで彼にちょっかいを出していたふしがある。

 都井は村の10人前後の女性と関係を結んでいた。上は50歳から下は19歳という。

 都井は次第に村の女たちに疎まれることになる。最初は「ちょっとかわいい」からと媚態を示したものの、都井は病気でぶらぶらしているばかりで家も貧しいし、長く関係していたところでなんの得もないのだった。しかも彼はしつこかったし、肺病やみの家系でもある。女たちは急速に彼を避け、拒みはじめた。都井は戸惑ったが、しつこくすればするほど、女たちの拒絶はきつくなるばかりである。

 のちに事件を起こした都井の憎悪の中心は、この女たちへのものであった。
 彼は村の人間に村八分にされている、馬鹿にされている、と感じ、憎悪をつのらせた。

もとより根拠のまったくないことではなかったが、優等生としてのプライドの崩壊、病気への恐怖などが過敏な神経をさらにいらだたせ、関係妄想を強めさせた。妄想が拡大した結果、復讐計画はますます大規模かつ周到なものとなり、ついには村全体を標的とするまでになったのである。

 都井は峠の頂上において、心臓を撃ち抜き自殺しているのが見つかった。
 かたわらには遺書があり「うつべきをうたず、うたいでもよいものをうった」という言葉が見つかった。

彼がもっとも憎んでいた「あれほど深い仲だったのに、病気になった途端、掌を返し」た女は、虫の知らせか、その数日前に転居していた。

そして彼が男の中で憎んでいた「村の裕福者で、女たちを1人じめにしていた」者は、彼の女房が健気にも、撃たれながら必死で戸を押さえていたため殺すことができなかった。
http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/mass.htm

以前から関係のあったA子が急に冷たくなり、「お国のためになれない肺病患者がゴロゴロしおって・・・」というような罵詈雑言を浴びた。

都井は、A子のみならず、以前から関係していたB子、C子などが急に冷たくなったり、一言も告げずに嫁いでいったりしたことを恨んだ。

「学校の級長、総長にまでなり、村の神童とまで言われた俺がなんでこのような侮辱を受けねばならないのだ」と激昂した。
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage393.htm
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/tuyama.htm

夜這いを拒否することは、男にとって大きな屈辱だった。そんなことをすれば後々まで男に恨まれて「八つ墓事件」のような事態が起きかねない。津山殺戮事件の裏には、こんな背景も考える必要がある。
http://protophilosophy.noblog.net/blog/t/10590234.html


女性の側にちゃんと自分の体調や相手によっては拒否権があり、もしも、それを破って強引な夜這いに及んだ男は村八分などの制裁を受けます。

夜這いの習慣の名残は各地でトラブルを生みました。 あと名張毒ブドウ酒事件とか津山三十人殺しも動機は夜這いのもつれらしく、陰鬱な農村型犯罪です。
http://pandaman.iza.ne.jp/blog/entry/526459/

事件の要因は都井が西隣に住む中年女性、Nさん (Tさんの姑) から恥辱を受けた事である。

彼女に年配の男性と関係を持っていると言い掛りをつけ犯そうとしたところ、嘘だと見破られ涙を流しながら畳に額をこすりつけて口止めを頼んだがNさんはこの一件を部落中に告げた。
 
これが元で都井は修羅と化し、未曾有の凶行に走る。

都井自殺現場にあった遺書の最後の一文が殺人鬼が書いたと思えぬ程美しく、印象深い:

もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
http://iai1016.jugem.jp/?eid=766

6 名前:修羅 投稿日: 2003/10/21(火) 01:55
 小生は、当時の風俗その他状況証拠(噂等含む)からも、都井睦雄の遺書が大筋真実で、
女達の供述は死んだ都井に原因を全て被せようとする嘘に違いないと思いますが 
都井に感情移入しているせいでしょうけど、女達の態度が許せないと思います


8 名前:修羅 投稿日: 2003/11/01(土) 01:18
当時の同年代の加茂町周辺在住のおばあちゃんが、事件のことを
語りたがらないというHPをどこかで見ました 夜這いの慣習はあり、女の
側が誘うケースも多々あったのではないかと連想させられます

丑三つの村の映画、小生も見ました 「田中美佐子の裸以外見るべき
所のない三流エロ映画」という酷評もありますが(^^;)、津山事件を
うかがい知るには、八つ墓村よりも遙かに(というか八つ墓村は元々違う
のですが)、村の女達も、結核に対する差別も、そして雰囲気全般も、
「当時はこんな感じではなかったか」と思わせる秀作だと思っています
奥山和由作品とのことですが、どうなんでしょう・・


12 名前:サキ子 投稿日: 2003/11/15(土) 16:03
やっぱり殺しちゃうのはよくないかなとは思うのですが、
都井に対する村人の態度は許せないものがありますよね。
特に嘘をついてデマを流し、病気だった都井を
精神的に更に追いつめた女達はひどすぎますよね。

都井をかばうとかじゃないんだけど、遺書を読むと、都井の悲しみが
流れてきて、こんな風に簡単に書くのもどうかと思うのだけど、
せめて一人でも彼の本当の気持ちを解ってあげられる人がいたならと
思ってしまいました。
それでもやっぱりどうなったかはわからないのだけど。


17 名前:加茂 投稿日: 2003/11/24(月) 01:40
隔離された山村では、昭和に入っても夜這いという風習が行われていたんですね・・・


18 名前:田舎っぺ 投稿日: 2003/11/27(木) 01:27
この事件はたしかに夜這いという風習も無視できないだすね。女性は村の共同
財産で、村の男が共有できるという考え方だすね。昔は地方だったら、どこでも
行われていたらしいだす。大和撫子だとか貞操観念だとかそんなもんあった
もんじゃなかったらしいっす。都井もかなりの色物で、大阪の遊郭まで足を
運んでたし、村の複数の女と関係してただす。


34 名前:修羅 投稿日: 2004/02/18(水) 02:09
当時の新聞の他の記事や広告を見て、何となく当時の雰囲気が分かった気になりました
そのうちの一つでかなり目に付いたのが、健康増進の記事や
広告記事でした 現在なら雑誌の広告特集に載っているよう
な「体験談」等が、新聞広告として大きく掲載されていました

読むと「・・?」と思う、科学的根拠が乏しいと思われるものも
多くありました 都井睦雄が結核治療のために石油を飲んだ、
という逸話もうなづけます

そして結核で誰々が死亡という記事も多く目に付きました 間
違いなく、当時は結核は怖れられていて、患者は避けられ、
差別されていたのだろうと思いました


36 名前:えふ 投稿日: 2004/02/19(木) 23:57
田舎に住んでいるとよく分かりますが、田舎へ行けば行くほど
「自分たちとはどこかが違う」人に対しての風当たりがきつかったりします。
極端な言い方をすると「目立つ」だけで時には「困った存在」に
なる事もあるぐらいですね。
都井睦夫をかばうとかというのではないですが、
かつての田舎(都井の故郷だけでもないですが)は「村の秩序の中で横並びに
生活できる」事が重要だったんだろうと思います。


47 名前:ゼロ 投稿日: 2004/05/14(金) 01:23
都井睦雄の頭の中は村人との関係において不治の病に罹ったことで自分がのけものにされているという妄想が支配していたんでしょうね。文武両道という言葉がありますが、成績優秀にもかかわらず祖母に反対されて進学することを断念し、徴兵検査では不合格になり、仲の良かった女にもそっぽをむかれ、、、いいことないですね。


49 名前:ムチヲ 投稿日: 2004/05/18(火) 01:11
中村氏は精神分裂病の可能性を明快に否定されてますねー。
都井睦雄の場合、敏感関係妄想と発揚性神経闘争症という2つの性格が
1人の人間のうちに凝縮している例だと分析されています。

55 名前:オペロ〜ン 投稿日: 2004/08/23(月) 21:06
都井の遺書を読むと、確かに都井のことが不憫に思えます。
生い立ちのあたりを読んでも、特にこんな事件を起こすような感じにも思えませんでした。
やはり「迫り来る死」がわかったことによって、至って自分中心の考え方しかできなくなってしまったのでしょうか。

逆に事件に至る直前のあたりを読んでみると、都井のどうしようもない部分が感じ取れました。どんどん自分で破滅へと向かってますもの。
いくらなんでも、単純に銃を持って村の中をうろついてたら、誰だって避けるに決まってますからね。
周囲の村人も十分悪いと思いますが、やっぱり自業自得感は否めませんね。
でもどっちかと言うと、その行為を肯定するわけじゃないですけど、事件を起こした都井の感情の部分、私は納得できる。

そんな中、私が一番興味を惹かれたのは、2.26事件と密接に関係してる点ですね。 あのクーデターが要するに軍の覇権争いなワケですよね。
で、結局軍事国家になってしまった、というワケですよね。

そこで男子でありながら、結核になってしまった都井は、軍人になれない、「使えない人間」の位置づけになってしまう。そのため、周囲の目が一転してしまう。

この時代、都井だけではないでしょうけど、こういった人の為の「受け皿」がなかたことが、事件の発生につながったように感じます。


68 名前:はな 投稿日: 2004/09/01(水) 21:52
 この事件の起こった要因は、いろいろあるのでしょうが、
一番の大きな要因というか、起因は「祖母からの溺愛」であると、私は思います。

 過度の「溺愛」は、ある意味、一つの「精神的虐待」であると思います。
過度の溺愛というのは、愛しているかのように見えて、実は子供を、愛してないと思います。

自分の心の欠けてる所を補おうとして、子供の心と癒着し、子供に必死に、しがみついているのです。
子供が「自分の一部」になることを望み、自分の中に「取り込もう」としてるのです。

 やっかいなことですが、多くの場合、やってる本人はまったく自覚がなく、
むしろそれが「愛情」だと信じて疑わず、「良かれと思って」やっています。
べったりと、身も心も子供と癒着してますが、
決してその目を「子供自身」に向け、見ようとはしません。

実際は自分のことしか考えておらず、「自分の為」に子供を利用しているのです。
自分の支配下で、無言下に自分の思い通りに動くのを期待してるのです。

 子供は、自分(心)を取り込もうとする親(親に代わる対象)に追い込まれ、
脅威を感じ、窒息しそうになり、そして無意識ながらも「決してこの人は
本当の自分を見てはくれないのだ」という絶望感と孤独にさいなまれます。
そして、一番身近で頼るべき存在の親が「自分という存在を見ようとせず」に、
暗にずっと『自分の存在を否定され続けて』育つわけですから、自ずと
無意識の強い「自己否定感」と「抑圧された自我」を持つことになります。

 また、心が未熟で、自分自身が自立できてない親は、子供との癒着によって
自分の心のバランスを取ろうとするので、子供が精神的に自立し、成長し、
自分から離れていくということは、決して許せません。

 それ故、身体的虐待に限らず、「溺愛」といった精神的虐待も、子供の心を蝕み
その精神的成長を著しく阻害し、また破壊して『病的な心』を生む大きな要因と
なるのだと思います。また「過干渉」「無関心」も同様です。

 近年の少年少女による殺人の多くは、目に見える身体的虐待だけでなく、
『一見ごく普通で、よく見える家庭』で、その実「精神的に未熟で自立できてない親」による、親自身も自覚してない、目に見えない精神的虐待に、
大きな原因があるのでは?という気がしています。


70 名前:シアン 投稿日: 2004/09/02(木) 00:05
私も愛情を注ぎすぎるのも問題だと津山事件を知った時に思いました。
津山事件の場合、両親が早くに亡くなり、都井家を継ぐ
長男という事で目に入れても痛くないかわいさだったのでしょうね。

よく自分の子供より孫の方がかわいいと聞きます。
孫可愛さに学校には行かせない手元においておきたいという祖母の愛情をいい事に
働きもしないで、畑仕事やご飯の支度まで年老いた祖母にさせるとは!!と
ちょっと腹がたつところもあります。


77 名前:シアン 投稿日: 2004/09/24(金) 09:49
ミステリーの系譜よりも圧倒的な情報ですごいですよね。
でも、1歳からの生い立ちはどうやってあんなに詳細にわかるのか不思議です。
都井の友達の話がすごいなと思いました。
蝶よ花よと育てられた(違)結果が都井の性格になってしまって
両親の存在は大きいのだと実感させられますね。


78 名前:ポーロック 投稿日: 2004/11/12(金) 20:19
この事件に関してですが、大学の図書館で少し調べたことがありますが、
当時の内務省の調査資料と司法精神医学に関する文献に事件の概要などが
詳細に記載されています。
被疑者の心理学的プロファイルも作成されており、仮に逮捕されて裁判
にかけられても心神耗弱が認められる公算が大な事例であったと記憶して
おります。


79 名前:昔話 投稿日: 2004/11/15(月) 18:53
この事件のことを、何回も父親や叔父達に詳しく聞いた事があります。
明方半鐘が鳴り、祖父たちが山狩りに出かけた事や、風穴の開いた死体、
都井の自殺現場、(何かにもたれて膝の上に猟銃があり、死んでいるのか、
寝ているのか判らなかったそうで、石を投げつけたり、棒でつついたりしたそうです)

都井の生い立ち、当時の結核患者に対する地域意識などなどの話の中で動機について、みな一様に自分でもそうしたであろうと言う風に断言はしませんがそれに近い事を云っていました。

何で?と、質問すると渋染め一揆から後の色々な事件、騒乱の話をしてくれました。

当時、都井は正常で、生い立ちより両親を肺病で亡くして倉見を後にし(肺病で両親を亡くせば自然と敬遠された筈)、祖母の生地に都井家を構えたが、肺病の系統の家、都井家の継続の狭間で、自分も肺病にかかり小さい集落の中での奈落の底の差別を受けてただ死ぬことは出来ない!というようなことを話していました。結論的に言うとなるべくしてなった。

と、言う事です。


82 名前:昔話 投稿日: 2004/11/17(水) 14:51
近づけば当然判るのですが、林の中で、見通しが悪く都井らしき者が横たわってる
程度しか最初は判らなかったみたいです、武装した凶悪犯ですから、いつ撃たれるかも知れないので恐ろしくて皆、声は掛けても、なかなか近寄れなかったみたいです。

 今でも津山警察に犯行時都井が着ていた装束一式を、展示してあると思いますよ。


90 名前:奈々 投稿日: 2005/01/26(水) 12:36:49
>売春、買春と呼ばずとも夜這い、間男、女狐など日本の山間部やどこの田舎にも存在していたことは事実のようですよ。

所謂「パンパン」とも異なり、生活のために身体を張った女性達の存在とも何処か違うのは「性の捌け口」を求めて夜な夜な彷徨う田舎の若者や年寄りたち子どもに至るまで映画以上だと聞きます。祖父達がどうも話したがらない口の重い問題でもあるようです。

先ず貞操観念は皆無だったのではと思わせる事実関係として、女性は伴侶に亡くなられ未亡人になると次から次へと嫁に出されていた訳です又旦那の不在中には裏戸の鍵を閉めていなかった「戸が開いていた」とも言われています。

田舎ほどに開放的?であり長閑な集落で陰惨な殺人事件が発生しても不思議ではないようです。

犯罪に女性の存在があった無秩序であり閉鎖され口減らしも背景にあると思われています。

ストライクゾーンが血縁でも行われていた事実であると認識しています。

実際に起こった事です。

昭和20年母方の田舎では、近所で女性を巡り他所様の女房に手をかけて挙句の果てに旦那を殺している事件があったそうです。

語り部さんも口を憚るあっという間で噂も広がり親族が出て行くと言う悲しい出来事も存在していたようでした。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1064241807/


都井睦雄の遺書は3通あった。2通は自宅で発見された「遺書」と「姉上様」と書かれたもの。他1通は都井が自殺した現場から発見された。 自殺現場から発見された遺書を掲載する:


いよいよ死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、

二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、
姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、

病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。

思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、 しかし寺井ゆり子は逃がした、

又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、
岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。

もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage393.htm

八つ墓村 異談・横溝正史と津山30人殺し
http://www.youtube.com/watch?v=yoW7eV2MacQ&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=GqqR9qBzp1E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=DYv8Kr7HH1A&feature=related

八つ墓村 村人惨殺シーン
http://www.youtube.com/watch?v=N5jLvL4L0ew&feature=related


10. 2010年3月23日 23:36:34

津山30人殺し コレクションサイト
http://s1.shard.jp/sizimikaikann/tuyama0.html

11. 2010年3月24日 22:19:33

津山事件: 津山事件報告書
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/1340

津山事件報告書 その2
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/1346

津山事件: 都井睦雄の進学先
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/1093
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/1120

津山事件: 70年目の新証言
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/189
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/category/%e6%b4%a5%e5%b1%b1%e4%ba%8b%e4%bb%b6


» 寺井ゆり子(筑波本で使われていた仮名、都井睦雄が最も執着していた女性)

ゆり子の孫が死んで「そりゃーバチがボチボチ当たらにゃー」と言われたという話について。「ダークサイドJAPAN」2001年10月号に下記のような記述があります。

実はゆり子は事件から半年余り後、嫁ぎ先で娘を出産した。結婚から出産までの短さを考えると、あまりにも不自然なことだ。そこで、ゆり子の家の近所の老人たちは、これを都井の子供ではないか、と陰でささやいている。

「ゆり子の夫は、元々結核持ちで、戦争末期に兵隊にとられて、すぐに兵舎で死んでしまったのです。明らかに持病のせいだったのですが、ゆり子は徴兵中に夫は結核に感染し、死亡したと申請し、その後かなりの金額の遺族年金を受給し続けました。だから、都井をだまし、夫の死因をだまして生きてきて、よくバチがあたらないね、と噂していたものです」(ゆり子の近所の古老)


ゆり子はその後罪の意識から新興宗教に入信していたとのことです。
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/257
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/tag/%e5%af%ba%e4%ba%95%e3%82%86%e3%82%8a%e5%ad%90



12. 2010年3月26日 00:39:12

266 :本当にあった怖い名無し[sage]:2008/06/17(火) 02:07:41 ID:f6XGXFTU0

睦雄は過去に関係のあった岸田栄子42歳と会話中に
姉に似ている寺井ゆり子のような女が好みだと言った。

睦雄は世間を甘く見ており、これで誰かがゆり子との仲を
取り持ってくれるだろうなどと考えたが、逆に岸田栄子は
友人の西川須磨子にこの件を話し、須磨子はゆり子と
隣村の男との縁談を急ぎとりまとめた。

同時に栄子と須磨子は睦雄と交際していた寺川みゆきに
睦雄はゆり子が好きだったと話した。

怒ったみゆきは睦雄の幼馴染である丹波隆の所に嫁入りした。
ここに及んで睦雄の村の女への疑心暗鬼は一層高まった。
http://s1.shard.jp/sizimikaikann/tuyama30.html

「お前は肺病で徴兵をハネられたんやないか。それやったら1日も早く病気を治して、お国のためにご奉公するのが若いもんのつとめやないか。

それもせえへんで、肺病やいうてのらくらしくさっているんくせして、女に手え出すちゅうのんはなんじゃい。

それにうちは亭主持ちじゃぞい。人のかみさんに手え出すちゅうのんは、とんでもないこっちゃ。

お前がそないに恥知らずとは知らんかった。こら強姦やからな。お前のおばはんに話しして、駐在所にも知らせにゃいけん。このままほっといたらなにやらかすか恐ろしけんの」
http://s1.shard.jp/sizimikaikann/tuyama4.html

只友登美男さんは22歳の時に隣の地区から嫁をもらいました。その嫁の実家が都井君の近所だったのです。

この「嫁」というのが「西川秀司」方の長女「良子」さん(当時22)。

「登美男」さんによれば、結婚して3ヶ月ほどたった5月20日、「登美男」さんの妻「良子」さんの友人である同郷の女性が、「弟が結婚したから、祝いをかねて里帰りする」から一緒に帰らないかと誘ったといいます。

「寺井ゆり子」さん(当時22)さんは都井君のいわば「本命」ということのようですが、都井君によれば「良子」さんとも「関係」があったとのことで、たまたまこの日2人が里帰りしていたのが犯行のきっかけとなったといわれています。

「登美男」さんは「ゆり子」さんについては、彼女が嫁に行く時に都井君が茅を積み上げて通せんぼしたという話しをして、2人の「関係」を強調しています。

「ゆり子」さんは都井君を振ってこの年の1月に同じ部落の「丹羽卯一」と結婚しましたが、都井君がこれにも夜這いをかけるので3月に離婚しています。

5月には上賀茂村大字物見の「上村岩男」と再婚していて、この度の里帰りは再婚してから2週間目ですから、これは土地の習慣に習ったもののようです。

都井君は「おまえを残しちゃいけんのや!」と言って、床下に隠れた「ゆり子」めがけてバンバン撃ち込んだようです。その際「ゆり子」さんの喉元を銃弾がかすめ、擦過傷を負わせました。
http://worstblog.seesaa.net/archives/20080513-1.html


花輪和一 画 :都井睦雄と女性達
http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=obseenko&logNo=80055864389&viewDate=¤tPage=1&listtype=0

睦雄は寺井ゆり子に徹底的に振られているばかりか、他の女性たちからも蛇蝎の如く嫌悪され、村の中では「へのけ」にされ、青年団への入団の勧誘もなく、完全に孤立した状態に置かれています。

そしてそれは最終的には性的な孤独であって、「共同の閨」としての村の性的なネットワークに参入出来ないこと、「なんでおれだけさせてくれんのじゃ」という絶望的な怒りなのです。

そうであってこそ、あるいは銃弾を女たちの下半身にぶち込み、あるいは日本刀で女たち刺し殺しまくるという惨劇にも納得がいくというものでしょう。
http://worstblog.seesaa.net/article/96842633.html

非常時局下の国民としてあらゆる方面に老若男女を問わずそれぞれの希望をいだき発刺と活動している中に僕は一人幻滅の悲哀をいだき寂しく此の世を去っていきます。

 姉上様何事も少しも御話しせず死んでいく僕、何卒御許しください。自分も強く生きて行かねばならぬとは考えては居ましたけれども不治と病と言われる結核を病み大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き遂に生きて行く希望を失ってしまいました。たった一人の姉さんにも生前は世話になるばかりで何一つ恩がえしもせずに死んで行く此の僕をどうか責めないで不幸なるものとして何卒御許し下さい。

僕もよほど一人で何事もせずに死のうかと考えましたけれど取るこ取れぬ恨みもあり周囲の者のあまりのしうちに遂に殺害を決意しました。

病気になってからの僕の心は全く砂漠か敵地にいる様な感じでした。周囲の者は皆鬼の様なやつばかりでつらくあたるばかり病気ほ悪くなるばかり、僕は世の冷酷に自分の不幸な運命を毎日のように泣いた。

泣き悲しんで絶望の果て僕は世の中を呪い病を呪いそうして近隣の鬼の様な奴も。

 僕は遂にかほどまでつらくあたる近隣の者に身を捨てて少しではあるが財産をかけて復讐をしてやろう思うようになった。それが発病後一年半もたっていた頃だろうか、それ以後の僕は全く復讐に生きていると言っても差し支えない。

そうしていろいろと人知れぬ苦心をして今日まで至ったのだ。目的の日が近づいたのだ、僕は復讐を断行します。

けれど後に残る姉さんの事を思うとあれが人殺の姉弟と世間のつめたい目のむけられることを思うと、考えがにぶる様ですが、しかしここまで来てしまえばしかたがない。どうか姉さん御ゆるしの程を。

 僕は自分がこのような死方をしたら、祖母も長らえては居ますまいから、ふびんながら同じ運命につれてゆきます。道徳上から言えば是は大罪でしょう。それで死後は姉さん、先祖や父母様の仏様を祭って下さい。祖母の死体は祖父のそばに葬ってあげて下さい。僕も父母のそばにゆきたいけれどなにしろこんなことを行うのですから姉さんの考えなさる様でよろしい。

けれど僕は出来れば母のそばにゆぎたい。そうして冥土とやらへいったら父母のへりでくらします。何しろ二、三歳で両親に死別しましたから、親は恋しいです。それから少しの田や家はしかるべく処分して下さい。尚簡易保険が二つ、五十銭ずつ毎月はるやつがあるのですがもらえる様でしたらもらって下さい。おねがいします。

 ああ僕も死にたくはないけれど家のことを思わぬではないけれど、このまま暮していたらどうせ結核にやられるべきだろう。

そうしたら、近隣の鬼の様な奴等は喜ぼうけれど僕はとてもうかばれぬ。どうしてもかなり丈夫で居る今の間に、恨みはらすべきです。復讐々々すべきです。

では取急ぎ右死する望み一筆かきおきます。僕がこのような大事を行ったら、姉さんは驚かれるでしょう。すみませんが゛とうかお許し下さい。

 こういうことは日本国家のため、地下に居ます父母には甚だすまぬことではあるが、しかたがありません。兄さんによろしく


 五月十八日記之

 おなじ死んでもこれが戦死、国家のために戦死だったらよいのですけれども、やはり事情はどうでも大罪人と言うことになるのでしょう。

(どうか姉さんは病気を一日も早く治して強く此の世を生きて下さい。僕は地下にて姉さんの多幸なるべきを常に祈って居ます)

死するに当たり一筆書置申します、

決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものもうった。

時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ。まことにすまぬ。二歳の時からの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど後こ残る不びんを考えてついああした事を行なった。楽に死ねる様にと思ったらあまりみじめなことをした。まことにすみません。

 涙 涙 ただすまぬ涙が出るばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません許して下さい。つまらぬ弟でした。

この様なことをしたから(たとい自分のうらみからとは言いながら)決して墓をして下さらなくてもよろしい。野に腐れれば本望である。

病気四年間の社会の冷淡、圧迫にはまことに泣いた。

親族が少なく愛と言うものの顔の身にとって少ないにも泣いた。

社会もすこしりみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた。今度は強い人に生まれてこよう、

実際僕も不孝な人生だった。今度は幸福に生れてこよう。

思う様にはゆかなかった

もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

http://www.unkar.org/read/bubble6.2ch.net/archives/1161653541
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/tuyama.htm



13. 2010年3月26日 18:03:30

千と千尋の神隠し アニメ無料動画

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14. 2010年3月27日 12:28:14

風の谷のナウシカ アニメ無料動画

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15. 2010年3月27日 12:54:35

宮崎駿監督を悩ませた、『風の谷のナウシカ』の「3つのラストシーン」

王蟲(オーム)が突進してくる前にナウシカが降り立ちます。

宮さんは最初、そこでエンドマークというつもりだったんです。あそこで終わっていたら、あの映画はどうだったんだろう? あまりにもカタルシスがないと思いませんか? こういうとき、宮さんはサービス精神が足りないんですよ。

 ラストシーンの絵コンテを見て「これでいいのかなあ」と思っていたら、高畑さんもそう思ったらしい。二人で喫茶店に入って、「これはいかがなものか」という話になった。

高畑さん「鈴木さん、どう思う?」、ぼく「終わりとしては、ちょっとあっけないですね。いいんでしょうか?」。

高畑さんの疑問は、要するに、これは娯楽映画だ、娯楽映画なのにこの終わり方でいいのか、ということなんです。。

 で、「鈴木さん、手伝ってください」と言うので、二人でラストシーンの案をいろいろ考えた。案は3つでした。

A案は宮さんの案そのまま。王蟲が突進しその前にナウシカが降り立って、いきなりエンド。これはこれで宮さんらしいけどね。

B案、これは高畑さんが言い出したもので、王蟲が突進してきてナウシカが吹き飛ばされる、そしてナウシカは永遠の伝説になる。

C案、ナウシカはいったん死んで、そして甦る。


「鈴木さん、この3つの案のなかで、どれがいいでしょうかね」

「そりゃ死んで甦ったらいいですね」

「じゃ、それで宮さんを説得しますか」

 それで二人、宮さんのところへ行きました。

「宮さん、このラストなんですけど、ナウシカが降り立ったところで終わっちゃうと、お客さんはなかなかわかりにくいんじゃないですか? 

いったんバーンと跳ね飛ばされて、死んだのかと思ったところで、じつは甦る、というのはどうでしょう?」

 そのときもう公開間近で、宮さんも焦っていた。宮さんは話を聞いて、

「わかりました。じゃ、それでやりますから」と言って、いまのかたちにした。

『ナウシカ』のラストシーンに感動された方には申しわけないんですが、現場ではだいたいこんな話をしているんですよ。


 このラストシーンがじつはあとで評判になってしまいます。原作とまるでちがうじゃないかという声もあって、いろいろ論議を呼びました。宮さんはまじめですからね、悩むんです。深刻な顔をして「鈴木さん、ほんとにあのラストでよかったのかな」と言われたときには、ぼくはドキドキしました。いまだに宮さんはあのシーンで悩んでいますね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 あのラストシーンに感動してしまい、涙が止まらなかった僕としては(映画を観て泣いたのはあれが生まれてはじめてのことだったので、いまでもよく覚えているんです)、

「あのラストでいいに決まってるじゃないですか!というより、あれ以外にありえない!」と強く主張したいところではあります。

あの「青き衣をまといて金色の野に降りたつ」ナウシカの姿こそが、『風の谷のナウシカ』の「最大の見せ場」のはずなのに。

 
 ところが、スタジオジブリの名プロデューサーであり、宮崎駿・高畑勲両監督の盟友でもある鈴木敏夫さんによると、あのラストシーンは、「本来、宮崎駿監督が考えていたもの」とは、全然別物になってしまったんですね。

 もし、「王蟲が突進してくる前にナウシカが降り立った場面でエンドマーク」とか、高畑さんの案の「王蟲が突進してきてナウシカが吹き飛ばされる、そしてナウシカは永遠の伝説になる」というようなラストになっていれば、たぶん、『風の谷のナウシカ』に対する世間の評価というのは、まったく違ったものになっているのではないでしょうか。

 完成版のラストシーンよりも「メッセージ性は高い」ような気もしますけど、その結末を見せられれば、気分よく映画館を出てくるのは難しいはず。

この本を読むと、「宮崎駿のもの」だと思い込んでいた「ジブリ作品」は、けっして、宮崎駿ひとりの力で成り立っているのではないのだな、とうことがよくわかります。高畑勲監督のさまざまなエピソードも紹介されているのですが、それを読んでいると、高畑監督に比べたら、宮崎駿監督のほうが、まだ「常識人」だと感じずにはいられません。

 にもかかわらず、高畑勲という人間と一緒に仕事をすることを最も望んでいるのは、やっぱり宮崎駿監督なんですよね。そして、高畑さんは肝心なところではいつも、「宮崎駿の弱点」をしっかりサポートしているのです。
 
 もし鈴木さんがいなければ、少なくとも、ラストシーンへの違和感を宮崎駿監督に告げなかったら、『風の谷のナウシカ』は、ここまで歴史的な作品にはならなかったでしょう。どんなに優れた作品でも、ラストシーンの印象って、すごく大事ですから。

 そして、『ナウシカ』が失敗していたら、現在の「スタジオジブリ」も存在しなかったと思われます。

 もちろん、鈴木さんの力だけで「ジブリのアニメ作品」そのものを制作することはできないでしょうけど、「ジブリの作品は、宮崎駿ひとりのものではない」のです。
 
 それにしても、「いまだに宮さんはあのシーンで悩んでいる」という鈴木さんの言葉には驚かされます。売れたからいい、世間で評価されているからいい、というふうに割りきることができないのが、宮崎駿監督の「らしさ」であり、「創作者としてのプライド」なのかもしれませんね。
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20080831


16. 2010年3月27日 17:04:49

風の谷のナウシカ(1984)

かつて人類は自然を征服し繁栄をきわめたが、「火の7日間」と呼ばれる大戦争で産業文明は壊滅した。それからおよそ千年、わずかに生き残った人類は巨大な蟲類が棲み、有毒な瘴気を発する菌類の広大な森・腐海に征服されようとしていた。

腐海のほとりに、海からの風によって瘴気から守られている小国・風の谷があった。その族長ジルの娘ナウシカはメーヴェにのって鳥のように飛び、人々の嫌う巨大な蟲・王蟲と心をかよわせる自然との不思議な親和力を持っていた。

ある夜、風の谷に巨大な輸送機が墜落し、翌日巨大な血管のかたまりのようなものが発見された。それは、「火の7日間」で世界を焼き尽くしたという兵器・巨神兵だった。

ペジテ市の地下から掘り出され、それを奪い取った世界統一の野望を持つトルメキア王国が、輸送中墜落したのである。墜落を知ったトルメキアの皇女クシャナは、大編隊を風の谷に送り込んで来、ジルを殺しナウシカを人質として連れ去った。

トルメキアの船はペジテのアスベルに襲われる。ナウシカは腐海に落ちたアスベルを救出し、腐海の秘密を知った。腐海の樹々は汚染された世界を浄化するために大地の毒を自らに取り込み、きれいな結晶にかえて砂となっていた。蟲たちは自然を破壊するものから森を守っていたのだ。

ペジテに戻ったナウシカとアスベルは、市長から風の谷のトルメキア群を壊滅させるため、蟲を使って襲わせようという計画を聞いた。ナウシカはアスベルの母に助けられ、捕われた船からメーヴェに乗って脱出した。

一方、風の谷では村人が一斉に蜂起を始めていた。風の谷に向かうナウシカは怒りで目を真紅に輝かせてばく進する王蟲の大群を見る。群れの向かっている方向には一機の飛行ガメが浮かび、それは瀕死の王蟲の子をぶら下げていた。ペジテの計画とはこのことだったのだ。

王蟲の暴走を知った風の谷の人々は大パニックに陥り、クシャナは巨神兵を使うことを決意する。だが、時期が早すぎたため少しの力をだした後、くずれ去ってしまった。ナウシカは武器も持たずに攻撃されながら飛行ガメの中へ飛び込んで行った。その衝撃で飛行ガメは落下し、ナウシカは酸の湖の中へ入ってしまおうとする王蟲の子を身を挺して止めた。赤かった王蟲の子の目が青に変わった。

ナウシカは王蟲の子と共に、王蟲の大群の眼前に降り立った。あっという間に、王蟲の群れはナウシカの身体をも包み込んでしまったが、靄が晴れた後、青い目の王蟲の群れの真中に彼女は横たわっていた。

王蟲の中の一体がナウシカの遺体の下に触毛をまわして持ち上げた。あたりが光り輝き、奇跡が起こった。ナウシカがゆっくりと目をさました。

http://www.fan.hi-ho.ne.jp/ainoura-k/rennsai/nausikaframe.htm



17. 2010年3月27日 19:24:48

となりのトトロ アニメ無料動画


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18. 2010年3月27日 19:58:48

『となりのトトロ』はモデルになったと言われている事件がある。

トトロの舞台となった所沢の隣町である狭山で昭和30年代に起きた"少女惨殺事件"である。

 行方不明になった少女が数日後にバラバラ死体として発見されたという話だが、この際姉が妹を探し回っていたり、片親の家族だったりと共通点も多い。

 何よりも、妹を探していた姉が放心状態で見つかり、警察の事情聴取にも「化け猫を見た」とか「大きな狸にあった」など、脈絡の無い答えが返ってくるばかりだったという。

 この事件はどちらかというと、犯人逮捕に焦った警察が、別件の小さな盗みで同じ頃逮捕された男性を、暴力的な取調べで強引に自白させた冤罪事件として有名になった(ちなみに冤罪の申し立ては門前払いされ続け、その男性は現在も名誉回復に至っていない)が、結局のところ真犯人が捕まる事は無く、唯一残った証言は被害者の姉の残した「化け猫」や「大きな狸」というキーワードだけであった。


 さてこの事件を念頭において『となりのトトロ』を見てみると、大分印象が変わるというか新しい解釈、新しい発見がある。

 まず"トトロは子供にだけ見える"という印象だがサツキの同級生であるカンタには見えないなどの矛盾がある。そこで登場したのは"トトロは妖精のようなものであるから、死に近い人間が見える"という事だ。
 死期の近づいた老人が、先に死んでしまった家族を見るなど良くある話である(大概はもうろくしたと片されるがね)

 つまりサツキとメイは、あの段階で死期が近づいていたのである。

 結論から言うとメイは母親に会うために1人で病院に向かう最中に死んでしまったのである。

村の人たちの捜索で沼でサンダルが発見され、サツキは「メイのじゃない」と否定するが、実はあの段階でメイは既に水死していて、現実を認めたくないサツキがひきつった顔で「メイのじゃない」と言って走り去ってしまうという流れである。

 そして森の精霊であるトトロにすがり「メイがいなくなっちゃったの! お願い、メイに会わせて! きっとあの子、1人で泣いてるわ!」と言って、サツキは妹に会うため"自らの命を捨てる選択をする"

 そう猫バスとはこの世とあの世を結ぶ乗り物なのだ。物語中盤で登場した猫バスに、サツキが乗る事を恐れた理由も、ただ単に異様であるというだけでなく、「乗ってしまったらもう戻れない」と本能的に感じ取ったからであろう。

 その辺は、「凄い、木が避けてる!」や「みんなには見えないんだ…」のセリフからも、猫バスが実体の無い虚無の存在であると伺える。

 そして重要な証拠としてよく挙げられるのは、沼でサンダルが発見されたシーン以降、"作画からメイの影が無くなっている"のである。作画レベル世界一と言われるジブリがミスをするとも思えないし、何よりも「以降全て無い」というのは明らかに不自然である。

 そして自分が死んだ事に気づかずにさ迷っていたメイの元に、冥界の乗り物である猫バスとともにサツキが迎えに来て、姉妹は再会する。

 そうしてサツキとメイは母親の入院する病院を訪ね、メイが渡したかったトウモロコシを渡すのだが、このシーンでも不自然なポイントが2つ。

 何故サツキとメイは、お母さんに直接会って渡さなかったのだろうか?
 そして何故、病室の窓の外目の前の木に座っていた2人を、両親は見えなかったのか?

 ………ふと風が通り過ぎ、両親が窓の外を見ると、「おかあさんへ」と書かれた紙と共にトウモロコシが置いてあり、母親がふと窓の外の木を見つめ(絵では目の前に座っている)、「今…サツキとメイが笑ったきがしたわ」

 もうここまで来ると反論の余地が無い。


 そして更に悲劇としては、母親の入院している七国山病院というのは、八国山病院という実際にあった病院がモデルなのだが、その病院は"不治の病の末期患者や、精神疾患者を半ば強制的に収容していた病院"だったそうだ。明らかにお母さんの方も先は長くない…。

 映画はその病室のシーンでエンディングを迎えるが、その後に父親が知る事実と悲しみを考えればあそこで終幕なのがベストだろう。

 エンディングと共に流れるハッピーエンド風味の映像…

「サツキとメイが家に帰ってきて、おばあちゃんと再会し抱き合う」、

「お母さんの病状も回復して家に帰ってくる」、

「そして家族4人で幸せに暮らす」


 この流れを加味すると、このエンディングは全てが終わってしまった後、1人残されてしまったお父さん(作家)が、こうだったらよかったと想像する「最良の可能性」だったのであろう。
http://mp.i-revo.jp/user.php/ewalrqsy/entry/329.html


『となりのトトロ』の舞台は狭山丘陵が広がる、埼玉県所沢市松郷地区。当時、所沢周辺は結核患者の療養地であった。

「トトロ」の由来は、宮崎駿監督の知り合いの女の子(姪?)が「所沢」と言う地名を言えず、「トトロザワ」と言ったことに由来する。

2人の子供の名前はサツキ→「皐月」、メイ→「May」でいずれも5月を表している


さつき とメイは途中で本当は死んでしまい、それを父親が想像で生きていたらこうなっていて欲しかったと書いたのがとなりのトトロであり、作中でずっと書いていたのはその原稿。

さつきとメイがトトロと一緒にでかい木の上で何か吹いていたシーン、

あそこでお父さんがチラッと木を見やり、少し満足げにして書類に向かう。

確かに違和感あり。父の想像を臭わせます。

まず、トトロというのは死神、冥界への使者であり、トトロに会った人は死が近い、もしくは既に死んでいるという裏設定。

『トトロ』とはサツキがメイに「トロルのこと?」と聞き直した様に、トロルをモデルにしています。

トロルは地方によって異なりますが、死神であったり、気に入った者には幸福をもたらしたり、またある時は子供をさらうと言われています。


そして母親の入院していた七国山病院のモデルとなった八国山病院という実際にあった病院は末期患者や精神疾患患者を収容する場所であった。

当時の所沢周辺は実際に結核患者の療養地でした。


母親の病気は結核であるとウィキペディアにも記されています。
結核は1950年までは日本人の死亡原因のトップ。となりのトトロの時代設定は1950年代・・・

メイが行方不明になって池でサンダルが見つかる騒ぎが途中でありますが、
あの時既にメイは池で水死しており・・・

「これ・・これだよ」

老婆の差し出したサンダルを見てサツキは凍りついた。それはメイの物であった。
しかし、サツキはぐっと唾を飲み込み、言った。

「メイのじゃない・・・」


(確かに引きつっていました。)


今ここで本当の事を言えば、間違いなく老婆は卒倒するであろう。
老婆の身を思い、サツキは嘘をついたのだった。
妹の死を悟り、その場にしゃがみ込むサツキ。

(メイのサンダルの詳細。

ピンクで、つま先の方が2〜3本のひもで、踵にも一本あるタイプだ。
沼から出てきたのは、つま先が2本、踵ヒモもあるタイプだ。そしてピンク。)


メイの物ではないと聞き、安堵してしゃがみ込む老婆。
そしてサツキは気付いた。メイは病院へ行こうとしていた。
ならばメイの魂は未だ病院を目指して迷子になっているに違いない。

「このままではメイの魂は永遠に迷子のままになってしまう・・・」
「いや、もしかしたらどこかで生きているかも知れない・・・」
サツキは決心した。かつてメイがトトロに会ったという場所で語りかけた。

「お願い・・・トトロに会わせて!!」
木のトンネルを進むサツキ。その先には以前は無かった道があった。
サツキの言葉が冥界への扉を開いたのだ。
そしてその道の先には冥界の番人、トトロがいた。


「トトロ、メイが迷子になっちゃったの。探したけど見つからないの。
お願い、メイを探して!今頃・・・きっとどこかで泣いてるわ・・・
どうしたらいいか分からないの!」

「みんなには見えないんだ・・・」

というセリフから分かるように、さつきは自ら冥界への扉を開け、
魂を運ぶ乗り物である、猫バスに乗ってメイの元へ向かったのです。
(ネコバスの行き先表示の札に「墓道」が出てきているのも暗示・・・)


さらに病院のシーンでは母親が

「今、あの木のところで、さつきとメイが笑ったような気がした」

と言う。なぜ母親だけに二人の姿が見えた気がして、尚且つ二人は近くまできているのにも関わらず、実際には両親に会わずにメッセージ付きのトウモロコシを置いていったのでしょうか?

それは二人が既に死んでいるからです。

そして、父親は全く気が付かなかったのに対し、母親だけが死んだメイとサツキの気配に気づいたのは、母親にも死期が近づいていることを現しています。


(生きている子供のことについて、「あの木のところで・・・」なんて言うでしょうか?

そして、母親に会わなかったのは心配かけまいとして・・・と言うのであれば、なぜメッセージ付きのトウモロコシは置いていったのでしょうか。

メイとサツキは父親にはトトロのことも猫バスのことも揚々と話していました。
「心配をかけまいとトウモロコシだけ置いて帰った」というのは、不自然すぎます。)


母親の発言に対し、父親も「案外そうかもしれないね。」

もし生きているなら「こんなところにいるわけがないだろう。」

が自然な台詞です。否定しないのは、父親は二人が死んでいるのを知っているからです。


・メイが行方不明になった後から、メイの影がなくなっている。

・最後のシーンでは全員が若返っており、実はあれは後の話ではなく、生前の昔のシーンをくっつけハッピーエンド風に仕立てただけ。 もしくはエンディングの歌が始まって以降は本編とは別の終わり。
(サツキの服装を見ると、スカートではなくつなぎのようなものを着ています。これは現実ではなく、父の想像かも知れません。)


・所沢市に隣接する狭山市で起きた、女子高生が殺害された狭山事件をモデルにしている?

サツキ=皐月
メイ=May=五月
狭山事件発生日が5月1日

狭山事件では誘拐された女子高生の姉が犯人との交渉に参加している。

トトロの舞台は狭山丘陵が広がる、埼玉県所沢市松郷地区(所沢市)。


狭山事件(さやまじけん)とは、1963年5月1日に埼玉県狭山市で起こった、高校1年生の少女を被害者とする誘拐殺人事件。

同年5月23日に被差別部落出身の石川一雄(当時24歳)が容疑者として逮捕されたが、一審の死刑判決後に冤罪を主張。その後、無期懲役刑が確定して容疑者の石川は服役した(現在は仮釈放されている)。

しかし、捜査の過程におけるいくつかの問題点がさまざまな立場から提起されており、石川とその弁護団及び支援者が、冤罪を主張して再審請求をしている。また、容疑者が被差別部落出身であったことから、この事件は部落差別との関係を問われて大きく取り扱われることになった。なお、差別による冤罪を主張する立場からは、この事件に関する裁判は狭山差別裁判と呼ばれる。


ここまでなら「偶然5月だった」という解釈も出来るのですが、宮崎駿監督は左翼としても有名な方です。ググれば一発です。彼が学生運動に参加している時代に狭山事件は起きています。

(どなりのトトロと同時上映された「蛍の墓」もメインテーマは妹の死でした。)


つまり、宮崎駿監督がこの事件について精通している可能性は高く、これを皮肉って『となりのトトロ』に盛り込んだのでは、という見方も出来るわけです。

一見平和で高度経済成長によって最先進国となった”完璧な日本”が『となりのトトロ』の表向きな姿であり、しかしその裏には人種差別や理不尽な国家権力という巨悪が潜んでいるのに、なぜ気がつかない?そんなメッセージの可能性はないでしょうか。

「となりのトトロ」の劇場での上映が、戦争によって死んで行く悲しい兄弟の話「火垂るの墓」と同時上映だった点からも、何か通じるものを感じます。


さつき、メイ・・・被害者、子供、無垢な存在

トトロ・・・闇、巨悪、日本、一見して平和的で良い子(国民)の味方
しかしその真の姿は・・・。

お父さん・・・監督

視聴者・・・日本国民、気づかない人達

・エンディングでメイちゃんとばあちゃんが抱き合って泣いてるシーンを無視。

→最後はおばあちゃんもしんじゃったんだろうな
魂になってやっとメイ達と会えたんだね
自分達の死に気づかずに家に帰るラストシーン


・もし本当にメイとさつきが死んでたとしたら
ラストの病院のシーンでお母さんが
『退院したらあの子たちにめいいっぱい甘えさせてあげたい』
なんて言わないんじゃないかな?


→母はまだ知らされてないのさ
病人だからね
父は知っていたが心配させまいと・・・。
もしくは、末期患者が入る病院にいる為、既に正気ではなく記憶が曖昧になっているのかも。

・婆ちゃんが死んだとしても、
どうしてラストでかんたとさつきが話せているか説明がつかない
ってことはかんたも死んだのか?

→カン太は生れつきの霊媒体質なんだよ

(ウィキぺディアから抜粋)
最期のシーンで「サツキとメイに影がない」ことについて、都市伝説として「トトロは死神でサツキとメイは死んでいる」という噂が流布している。
これについて、スタジオジブリがブログで「サツキとメイの影は省略しただけなので、トトロは死神でもないしサツキとメイは死んでいない」と一蹴した。

この見解はスタジオジブリの総意であって、宮崎駿の見解ではないことに注意したい。製作発表の時、宮崎監督はこの映画は「サツキとメイの魂の開放」といった

今トトロのCDを見てみたら、さつきとメイががったいしたおうなひとがトトロの横に立ってました・・・

その場面って猫バス待ってるときの場面なんですけど、バストップの影しかなく、メイ&さつきの人の影なんかありませんでした(/´△`\)


CDの歌詞カードのところの裏見てみたら、また絵がありました。

そこにはトトロの世界へ行くときの穴を見ているメイの後ろ姿なのですが、そのメイにも影がありませんでした(T∇T )( T∇T)

死んじゃったんですね><残念です・・・これがほんとじゃないことを祈りつつ・・・娘には教えないでおきます;;ぁぁぁぁこわい><(@_@;)


たぶん香恋さんと同じCDありました〜〜〜!!ほんとにそのとうりです( -ノェ-)まじでこわい・・・・しかも、そのCDの中にある、「まいご」という曲の歌詞がどうしてもおかしいのですが・・・・・・ひまなかたは少し長いですがお付き合いのほうよろしく
お願いします( *・ω・)ノ
今からまいごの歌詞を(問題の場所まで)下に出します。


さがしても みつからない まいごの子
はなをつまみに いったの
ふりむかないで トンボをおいかけていったのかしら
おばけが出てきたら どうしたらいいの
かくれんぼだーいすき
なきむしのあまえんぼ
へんじして おねがいだから きえてしまった小さな子
(中略)
どうしよう こまったわ
のはらにひとりきり かえってきておねがいだから
わたしのだいじないもうと
どこかしらどこかしら


と書いてありました。これは死んでしまったメイの魂を探しに行くさつきの、あのシーンの話だと思います。これはまいごということで聞くのよりも死んでしまっているという設定のほうが絶対に自然だと思いました。
こわいですねぇ;; くれは


宮崎さんはヒットするまでさまざまな作品をテレビ局などに出されてたって聞きました

その中には、「魔女の宅急便」や「天空の城ラピュタ」など、いまでは誰もが知っているようなジブリ映画の“もと”となった作品も多くあったそうでもちろんその中に「となりのトトロ」もありました

その“もと”の作品ではトトロが子供をさらうおばけのような存在であったんです。

ですからこの作品を“もと”にして子供向けでもあるこの映画を作るにあたって、
その内容ではいけない、子供でも楽しめるように、と宮崎さんが改良されたのが
いまの「となりのトトロ」なんです。

セリフとか、事件とか私は分からないけど、根本的に間違っているところは
“裏設定”じゃなくて昔のとなりのトトロつまり“原作”だったというところだと思います。


たぶん、宮崎監督は、狭山事件のことをみんなに知らせたかったんじゃないのかなhttp://houtobega-eien.at.webry.info/200705/article_17.html


19. 2010年3月27日 21:23:38

[ 作中の違和感 ]

・ラストの病院の木のシーンで、母親にメイとサツキの姿が見えなかったのは何故?

・物語が進むにつれて、メイとサツキから「影」が消えていく(※注1)

・「トトロのテーマはサツキとメイの解放なんです」 と宮崎監督自身がコメント

     →「解放」の意味するものは!?

・始まって15分ぐらいに荷物の食器を片付けている後ろの箱に狭山茶って書いてある。

     →狭山事件(※注2)を連想させる描写?

・家の2階に上がる階段付近に違和感がある

     →「階段が存在するはずの空間に何もない。

     →「雨戸の外には「階段」があるはずの家の壁が見えず、外の景色が見えていなかった?

     ※作画上のミスかもしれないし、意図的なものかもしれない。

・メイが描いたトトロの絵が、どう見てもトトロに見えない。

・池で発見されたサンダル、メイのじゃなければ一体誰の物?

・ネコバスが行き先表示するときの「めい」になる前が「墓道」(※注2)

[ 狭山事件との奇妙な共通性 ]

(狭山事件)
5月1日の日が沈んだころ、被害者(当時16歳)が通学に使っていた自転車がいつもの場所にもどっていた。本人はすでに死んでいるのに。外は雨。サドルがぬれていない。いったい誰が・・・。そのころ長男が被害者を探しにいく。脅迫文には「西武園の池に沈める」とあるが、実際はちがった。

(作品)
メイとさつき、雨の中、バス停で父を待つ。日がくれる。自転車に乗ったレインコートが通りすぎる。トトロとネコバスがやってくる。西武園は、まさにトトロの森のすぐそば。
______________


(狭山事件)
死体発見現場は川にほどちかい茶畑の農道。まるで棺を埋める穴のように掘られた穴に、儀式を行ったかのごとく埋められていた。
(作品)
耕された畑で儀式のシーン。新しい芽が顔を出す。三人のトトロと中を舞うメイとさつき。
______________

(狭山事件)
真犯人と巷でうわさされた長兄は、東京タイムスで勤めた経験がある。また、目白の経理学校に通った経歴がある。

(作品)
徳間書店←東京タイムス最後の親会社。宮崎←学習院大政経学部(経済)宮崎は姉と同い年、カンタとさつきは同い年。

______________

(狭山事件)
被害者の実母は精神病院に入院し、10日後急死している(脳腫瘍とのこと。10日で脳腫瘍が急変することはない)。その時、被害者の年齢は5〜6歳。姉12〜13才。病院は小平市(狭山から15km程度)。兄弟は6人だが、2人は特に仲良かった。母なきあとは、まるで姉が母のようであった。姉は、犯人との接触を買って出るほど、主体的にかかわった。

(作品)
自宅所沢から小金井を歩いて通勤したことがある。逸話となっている。位置関係が平行移動の関係。「3時間」を確かめたのか・・・。母のようにお弁当を作るさつき。トトロに会いに行くさつき。


______________

(狭山事件)
被害者には、同居する2人の兄と1人の弟がいた。被害者の死後、まもなく、後を追うように姉は命を絶った。妹と2人でいるときが幸せだったと書き残して。目撃情報によれば、3人の男と車があった。長男は、顔面神経痛と脊椎の病気を患っていた。車が足であり、顔であったようだ。次男はしばらくの後、自殺。3男は養子にだされ、家には長男が残った。

(作品)
3人のトトロと2人の姉妹とお父さん、お母さんの物語。トウモロコシを命がけで母に渡そうとするメイ。「おかあさんへ」「いもうところし」。遊んでくれない父を横目に、トトロの寝床に迷い込むメイ。トトロはメイとさつきにしか見えない。決して怖くないトトロたち
http://darknarice.jugem.jp/?eid=656

■【となりのトトロ】作中との共通(?)点

(1)トトロの舞台が、狭山丘陵(埼玉県所沢市松郷地区)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  事件の場所と酷似。

  実際に、時代設定の1950年代の所沢周辺は結核患者の療養地。

(2)迷子をイメージした歌詞…少女が行方不明になる

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   参照⇒となりのトトロ歌詞

  ●「誰かがこっそり小路の木の実埋めて」

   ⇒事件では、少女が農道に埋められていた。

  ●「雨降りバス停、ずぶ濡れオバケがいたら」

   ⇒事件当日は大雨だった

(3)入院中のお母さん

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ●七国山病院のモデルとなった、八国山病院は実在した。

  └末期患者や精神疾患患者を収容する場所であったらしい。

  ●お母さんの病気は結核

   ⇒事件の被害者の母が入院10日後に亡くなっている

(4)サツキとメイの関係

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ●5月

   ⇒事件があったのも5月

  ●姉が妹を探す

   ⇒事件では、被害者の姉が犯人との交渉に参加した

  ●お父さんとサツキは似ているがメイは似ていない

   ⇒被害者とその姉は異父姉妹だった

(5)メイの靴が池に浮いていた

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  事件の脅迫文に「子供は○○池の中に死んでいるとある」

  とあった。

はい。

ここまでが予備知識。

あ、ちなみに、「トトロ」の名前の由来は、宮崎駿監督の知り合いの女の子が「所沢」と言う地名を、「トトロザワ」と言ったこと。らしいです。
http://d.hatena.ne.jp/hachi-88/20080521

6 :名無シネマさん :2006/11/15(水) 00:15:19 ID:UMZDBDtt
たまにめいちゃんの陰がなくなるとか
お父さんがうつろな目をするのがヒントだとか
あそこに引っ越したのは子供が死んじゃったからとかいろいろあるらしい。

友達の友達が昔ジブリに問い合わせたらよくわかりましたねって言われたってww


9 :名無シネマさん :2006/11/15(水) 01:34:33 ID:F+vfE66h
あの田舎の村が、あの世なんだよね

死んだ姉妹がお父さんお母さんに、会いに行く物語なんだ
お父さんは想像で作り出した人物だけど、ラストのお父さんは本物

他にも色々ある

10 :名無シネマさん :2006/11/15(水) 01:40:44 ID:F+vfE66h
>お父さんは想像で作り出した人物だけど
ここは、ちょっとニュアンスが違ったかも、実在のお父さんが死んだ娘を想う気持ちが作り出した生霊
お父さん本人は気づいていないけど、それが死んだ娘と交流している姿

14 :名無シネマさん :2006/11/15(水) 02:18:36 ID:F+vfE66h
あの村が、あの世だ
バスだけで外界とつながっている

だから、村の住人は死者

18 :名無シネマさん :2006/11/15(水) 02:41:31 ID:MQUC3Vw/
あの土地を舞台にしたのは狭山事件と無関係ではないんだよね。。。
狭山事件は60年代起きた少女誘拐殺人事件で有名な冤罪とされる事件。

宮崎監督は事件のことをかなり調査していて自分なりの解釈をトトロに盛り込んだ。
映画の景色は事件当時の狭山そのものだし。

犯人は被差別部落の青年とされ結審したけど、
冤罪を訴える人々はは犯人は実は被害者の…
これ以上はやばすぎるからやめとく。。。

カンタとおばあさんは部落の人だよね

ちなみに狭山丘陵には七国山病院のモデルになった病院もある。
http://www.geocities.co.jp/playtown/1541/totoro-tour.html
見に行くとサツキとメイが登ってた木が実際にあるんだけど


32 :名無シネマさん :2006/11/19(日) 00:57:51 ID:AE8TDUWT
村の人みんな死んでて、糸井お父さんだけは生きてるってこと?
独りごと言いながら暮らしてるってこと?

33 :名無シネマさん :2006/11/19(日) 02:07:14 ID:TBnuipdP
そうらしいね
かなり寂しすぎる


36 :名無シネマさん :2006/11/23(木) 01:35:37 ID:OGFX4Xko
ラストでは、娘のサイン入りのトウモロコシが病室の窓に置かれていたけど、
どうみても怪奇現象だろ。

それに驚くことなく受け入れる両親とそれを外から眺めてる半透明の娘達。

37 :名無シネマさん :2006/11/24(金) 18:19:12 ID:BiqYOeu/
メイが迷子になった後から メイの影が無くなるらしい (見てないけど
つまり迷子になったときに死んだ

49 :おせち(1d):2006/12/27(水) 01:31:42.32 ID:VGZZ7TWnO
七国山病院

実際には八国山病院という病院が実在して、そこは末期患者を収容する所とか

メイはあの池で水死したんだろ?

http://blog.livedoor.jp/news2chplus/archives/50630935.html


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「となりのトトロ」と狭山事件について

どうやら、「『となりのトトロ』は狭山事件を下敷きにした、亡くなった被害者姉妹に対するオマージュを込めたお話である」という都市伝説があるようです。「狭山事件 となりのトトロ」でググって当サイトを訪問されている方が結構いるので調べてみたら、そういう都市伝説があるらしいということを知りました。

まず最初に言っておくと当然ですが狭山事件とトトロの間には一切共通点はなく、都市伝説として流れているものはすべて曲解か明らかな誤りです。一応念のため下記に事実関係をまとめておきます。

「事件後に姉が行方不明になった妹を必死に探している姿が目撃されております。との証言」は存在していません。

「妹の酷い殺され方をした遺体が見つかった時、姉は錯乱状態に陥り『猫のお化けを見た』『大きな狸に会った』などの謎の言葉を発したと伝えられています。との証言」も存在していません。

ネット上でこれらの証言を書き込んでいる人たちはみな都市伝説の一環として書いているだけで、出典を示していません。狭山事件は昭和38年に起きた事件で、次姉は昭和39年に自殺していますから、このような証言が本当にあって、それが現代まで残されたのであれば、書籍や新聞に残っているはずです。


次姉は刑札に対する証言やその後の裁判での証言でもきちんとした受け答えをしています。もちろん、猫や狸に関する発言は(伝えられている限り)していません。ただし、石川さんの死刑判決以降ノイローゼになり、自殺してしまったことは事実です。


投稿者: ゲストユーザ on 2010年02月11日(Thu) 03:11 JST

16分割とかバカな言い様は間違いなく月姫とかいうクズアニメの受け売りなのは分かっていたので、間に受けてはいませんが、このトトロという話において、

子供の見る映画として、入れるひつようのない描写(池に浮いたサンダル、病気の母親)があるのはどうしてなのでしょう……?

私には何かしら死をイメージさせているとしか思えません。
故に、この都市伝説はあながち間違っていないようにかんじるんですよね……
http://flowmanagement.jp/sayama/article.php/20090505183024460


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となりのトトロ

1958年(昭和33年)の(設定上は昭和30年代前半)日本を舞台にしたファンタジー。田舎へ引っ越してきた草壁一家のサツキ、メイ姉妹と、“もののけ”とよばれる不思議な生き物「トトロ」との交流を描く。

狭山事件(さやまじけん)とは、1963年5月1日に埼玉県狭山市で発生した、高校1年生の少女を被害者とする誘拐殺人事件である

この事件では中田家を中心に不幸な出来事が続いた。

まず、事件後に中田家の農業手伝いのAさん(当時31歳)が自分の結婚式の前日に農薬を飲んで自殺。

続いて、不審な人物を見たと警察に証言したBさん(当時31歳)がナイフを突き刺して自殺。

さらに捜査線上に浮かんでいた付近の養豚場勤務のCさんが自殺した。

更に驚愕したのは、佐野屋で犯人と唯一会話した善枝さんの姉が石川の死刑判決直後に自殺。

善枝さんの次兄も自殺した

不可思議な事は、石川被告の家宅捜査は3回行われたが、第一回の家宅捜査(5月23日)で徹底的に捜査して何も事件につながるものが出てこなかったのに3回目の家宅捜査で善枝さんのピンクの万年筆が勝手口の鴨居から発見された。

捜査員自らこれを取らず被告の兄に取らせて写真を撮影するなど実に不思議なことが起こっている(尚、この第三回目の家宅捜査の時間はたったの24分間で、第一回と第二回の家宅捜査では2時間以上を費やしている)。公判ではこのピンクの万年筆が物的証拠として有罪の決め手になっている。

取り調べ中も「自供したら10年で出してやる」と自白を強要したり、留置場から浦和拘置所に移された後、この留置場の床に「中田よしエさん ゆるしてください」と書かれていたとして川越警察署が証拠として提出したりしている。

が、前述の通り、石川は字が書けないのである(自分の名前、住所のみ漢字で書ける程度)。

その他の状況も含めて鑑みると「真犯人は別に居る」と見た方が素直である。だから尚更、警察は「何が何でも石川」という演出に走っていったと思われる状況が多々ある。だが、一審の判決は「死刑」、二審で「無期懲役」の判決によって平成6年12月の仮釈放になるまでの実に31年7ヶ月間を獄中で過ごす事を余儀なくされた。
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage51.htm


警察にも関与者が居るような気さえしてくる。強引に冤罪者を作ったり、
後に何人も出てくる自殺者の状況も怪しきものばかり。

●次姉は空井戸に落ちているのに警察は溺死と判断。

●養豚場の経営者が踏切に飛び込んで自殺。狭山市・入曽の両駅の日誌から、なぜか当日のページが紛失(破り取られる)。

●事件当日に死体発見現場のそばで怪しい3人連れを見たと届け出た証人が包丁で胸を突いたとして死ぬ。(警察で犯人扱いされ厳しい取り調べでノイローゼ状態)
 (もしかすると重要な証言者だったのかも…)

また、気持ち悪いのが次兄の首吊り自殺。
オカマでも無いのに自殺の遺書は女言葉で綴られている。

事件そのものじゃなくて、後々に沢山出てくる自殺(死)者だけでも謎深いよ。


この家庭は良い家柄だけど、変わった家庭らしくて被害者の母が嫁入りした時も
家の庭に墓石やそとばが大量に投げ込まれていたらしい…

ちなみに被害者の少女は1963年当時16歳だけど、事件で犯される以前にも何度かの性体験があったということが検死(処女膜より)によって明らかになってる。

当時としては早いと思うけれど、もしかして、もしかして兄とやってた??


http://jbbs.livedoor.jp/study/56/storage/1149838795.html


狭山事件の何が「面白い」のか。大雑把にまとめると下記のようになります。

1.謎

事件から45年を経過した現時点でなお、真犯人が誰なのかわかっていません。石川一雄さんが逮捕されて有罪とされましたが、その判決文を読むと物理的にも論理的にもありえないことが大量に書かれていて、「推理」とも呼べないようなものです。

本当にこの事件を起こしたのは誰なのか。事件直後から様々な「推理」が提示されましたが、未だに万人を納得させるものは登場していません。


2.猟奇

この事件の関係者(被害者の家族(兄と姉)、容疑者、重要な目撃者など)が次々と謎の死を遂げています。

「謎の死」という月並みな言葉を使いましたが、この事件に関しては本当に謎な死に方なのです。

公式にはことごとく自殺あるいは事故死として処理されていますが、それをそのまま信じるなんてとても無理だろ常考。という死に方です。


3.トリック

事件に際して、奇妙な、当て字を多用した脅迫状が被害者宅に届けられています。例えば「警察」を「刑札」と書いています。

刑札ではこれを「知能が低い者の犯行」と見ましたが、その「刑札」でもわかるように微妙に意味が通る当て字で、なおかつ当の刑札自身がこの脅迫状に「車出いく」と書いてあったのを真に受けて身代金受渡し場所で犯人を取り逃がしていたりして、少なくとも刑札よりは知能が高い者の犯行であることは確実です(笑)。


さらに、身代金受渡場所に犯人自身が現れて、身代金を持ってきた被害者の姉と会話しています。その様子は張り込んでいた刑事たち(複数)も聞いています。

その上で犯人は悠々と包囲を突破して逃げおおせています。それを「単なる偶然」と片付けることは可能でしょうが、堂々と脅迫状を出した上に、警官38人の包囲をサクっと突破して逃げる犯人というだけでも推理小説のネタになるでしょう。


4.陰謀

上の「謎」で名前が出た石川一雄さんは、なぜ「犯人」に仕立て上げられなければならなかったのか。あるいは、被害者はなぜ殺されなければならなかったのか。そのあたりにプチ陰謀論の種も大量に転がっています。

特に、石川さんを犯人に仕立て上げるにあたっては、数多くの「証拠」がでっち上げられています。このでっち上げは誰が何の目的で行ったのか。そこにも陰謀のニオイをかぎつけることは可能でしょう。

くりか江す(これも脅迫状にあった誤字です)と、これは実際に起きた事件です。

しかし、「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、下手な推理小説よりずっと面白い、と私(管理人)は考えています。
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/192


20. 2010年3月28日 16:07:30

狭山事件: 被害者の家族

父親。明治38年(1905年)生まれ。平成2年(1990年)没。

母親。明治41年(1908年)生まれ(?)。昭和28年(1953年)没。享年45。死因は脳腫瘍。入院して10日前後で急死したこともあり、この死に疑問を感じる人もいる。1933年に嫁入りしてきた翌朝、庭に墓石が投げ込まれていたという話がある。

長女。昭和9年(1934年)生まれ(?)。事件の8〜9年ほど前に家を出て東京で働いていた。実家とはほとんど縁を切っており、その後結婚して子供が出来た時も実家に入れてもらえなかった。

長男。昭和12年(1937年)生まれ(?)。ご存命。

次女。昭和15年(1940年)生まれ(?)。昭和39年(1964年)没。享年24。自殺だった。中学卒業後、高校に行かず家業を手伝っていた。さのヤに身代金(に見せかけた包み)を持っていった。

次男。昭和19年(1944年)生まれ(?)。昭和52年(1977年)没。享年33。自殺だった。女言葉で書かれた奇妙な遺書を残している。

四女。昭和22年(1947年)5月1日生まれ。昭和38年(1963年)5月1日(?)没。享年16。狭山事件の被害者。

三男。昭和27年(1952年)生まれ(?)。後に他家に養子に出た。


被害者はもともと7人きょうだい(三男四女)でしたが、長兄以外のきょうだいは全員死去するか通常でない形で家を出るかしています。

_______________________________

648 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/07/07 22:51

・父母の結婚式、中田家の庭に大量の墓石投入事件

・前日まで元気だった母を、精神病院に強制入院、数日後に死亡事件

・長姉の中田家縁切り家出事件

・末っ子の被害者だけタネちがい

これらの事は、じつは母親が事件の真相に係わっていることを意味している。
狭山事件は、すでに母の死から始まっていた。

652 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/07/08 01:36

時間的関係がわかるよう648をもう少し詳しく紹介すると


昭和8年5月12日被害者の母故ミツは隣村である川越市中福から中田家に嫁いだが婚礼の翌朝、村落の墓地の墓石や卒塔婆が大量に庭に投げ込まれていた。

ミツは平素から素行になにかと噂があり、この時も結婚を妬んだかっての男たちが嫌がらせに行ったのだと囁かれている。

また結婚当時「中田家に生まれた女子は育たない」という予言めいた噂も流れたが、長女は事件前に家族と対立して勘当同然に家出、次女登美恵が事件後「自殺」三女善枝が事件で殺害され、結果的にその通りになった。

ミツは昭和28年12月30日午前10時30分に東京都北多摩郡小川町(当時)の国立療養所精神科で、死亡診断書によれば「脳腫瘍」で死亡した。病名とは関係のない精神科で死亡していること、自宅から近い川越や所沢の病院でなく、遠い縁のない病院に入院していること、入院から約10日で死亡しているが、近隣住民の目撃によるとミツは入院前日まで畑仕事をしていた、脳腫瘍がそれほど短期間に発病して死に至るとは通常考えられない、などの疑惑が囁かれている。

ミツは結婚後も男との噂が絶えず、当時地元ではミツに振られた男が腹いせに毒を飲ませた、近所の病院では噂が広まり世間体が悪いので、家族が医者に金を含ませて遠隔地の病院に入院させ死亡診断書も工作させたとの噂が流れた。この事件の犯人と善枝の出生、後年の善枝殺害との間に関連をみる人もいる。


725 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/10 15:19

被害者の母親は農村のタブーに触れた女性だったようだ。

被害者もまた勝気で現代的な女性で、ボーイフレンドも多かったそうだが、
彼女もまたなんらかのタブーを犯したとは考えられないか。
特にその異性関係において。

インドやパキスタンの田舎では、異性間の交渉でタブーに触れた女性は
親戚縁者がよってたかって私刑をくわえたり、場合によっては殺してしまうことさえいまだにあるらしい。これを「名誉殺人」というのだそうだ。
警察もこの名誉殺人については見てみぬふりをすることが多く、犯人が逮捕され起訴されても一般の犯罪に比べて刑が軽いと聞いている。

別に狭山事件が「名誉殺人」だと主張するつもりはないが、犯人側と被害者家族側との利害が一致する時点がどこかであったような気がしてならない。
むろん警察の利害も同様である。

三者とも、事件の真相が明るみになることだけは絶対に避けたいとの思いが強いことは間違いなさそうだ。


733 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/10 23:09

中田家の闇の部分は母の件と、
善枝が近親相姦によって生まれた子だということ。

735 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/11 14:17
>>733
その話は、私も耳にしたが事実なのでしょうか?


736 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/11 19:28
善枝ちゃんの父親はいったい誰???


729 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/10 20:22
長兄のあの手記は、非常に意味深だ。
石川氏逮捕の日、まだ彼が本当に犯人かどうか分からない時点で、
記者に「石川が犯人だと思う」と語った上であの文章を書いたのは、なにか真犯人へのメッセージのような気もする。

「農村という古くからの何者かが潜んでいたのではないのか」

とは、

「妹は農村という古くからの因習の犠牲になった」

という風に長兄が思っていることを吐露したものではなかろうか。

その古き因習の中に自分自身も身をおいているので、真犯人の名を明かせずに
いることへの自責の念も読みとれる。

最後の二行を離して書いていることも奇妙だ。
つまりこれは、あの脅迫状を書いた犯人に宛てた「返書」なのではないだろうか。

_______________________________


686 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/02 17:59

簡単に説明。

黒幕とは、中田家と土地の利権(それ以外にも?)で対立していた元区長のO1氏と、その親分格の市会議員U氏。

中田家の秘密を子飼いの同家元作男OGから聞き出したO1は、中田家を秘密の
暴露をネタに同家をゆするがうまくいかず。Uに相談し中田家を揺さぶることにした。

Uは配下の元暴力団幹部O2に指示して事件を計画。

実行犯はO2の手下の未成年A・B・Cの3名。3人のアリバイはO2が作っていた。

最初の計画では善枝さんを殺害する予定ではなかったが不測の事態が起き、
彼女を殺してしまったので営利誘拐事件に見せかけることになった。

脅迫状を書いたのは元作男のOG。
彼はのちに嵌められたことを気付き、犯人扱いされることを悲観して自殺?

佐野屋には、善枝さんとは幼なじみで3人の中では最も度胸があるAが事前に
警官の配置を調べた上で近づき、身代金を取りに来たふりをしてうまく逃走した。

その後、捜査撹乱のために一味の意を受けたTNが、事件当日やげん坂で怪しい男たちを見たと警察に届けるが、警察はこれを不審に思い、彼を二日間厳しく取り調べる。

ノイローゼ状態になったTNに対し、犯人一味は寝込んでいた彼を襲い、ナイフで
心臓を一突き。口封じをした上、自殺に見せかけてすばやく逃げ去った。

警察の一部の捜査員はA・B・Cを怪しいとにらみ、取り調べたが、結局アリバイが崩せず、そのあと石川氏が逮捕されたこともあり、その線の捜査は打ち切られた。

以上、前スレで898さんが彼の伯父さんである警察の元捜査官に聴いた話です。

176 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/02 11:17

「元区長」って、O富G治さんが中田家のあとに作男をしたO富E助さんかな?
だとしたら信じられないな〜? ほんとかな〜?

黒幕Uってのは、U田さんだろう? これまた信じられん話だよ。

それより田中さんが捜査かく乱で目撃情報を持って警察に行ったとき、警察は
その企みを見破り、田中さんを二日間ひとりで歩けなくなるほど責めたてたんなら、背後関係も掴んだはずだが、UにもOにもその手下?にも事情聴取をした形跡はない。 第一、このときの調書の証拠開示すらしていない。

http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/1.html
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html#R680


21. 2010年3月28日 21:03:31

396 名前:384:02/11/15 16:25

狭山市川越に住む反骨精神旺盛な部落の人・荻原祐介氏は、事件発生直後から
独自を調査を重ねた結果、真犯人が石川青年ではありえないことを確信した。
そして石川氏が一審で死刑判決を受けたことを権力の謀略といち早く見抜き、
石川氏に面会して、あの有名な二審冒頭での爆弾発言、

「裁判長殿、私は善枝ちゃんを殺していません!」

という「名文句」を授けた人でもある。
正に石川氏とその家族が「命の恩人」として慕う人でもあった。

荻原氏は同時に石川氏を死刑台に送ろうとした首謀者たちを法廷に引きずり出して、その卑劣な仮面を引き剥がそうと目論み、様々な告発を行なった。

その中の一部に、浦和簡易裁判所宛に提出した、当時の埼玉県警本部長警視監・
上田明氏を被告とする緊急証人喚問請求がある。

以下にその一部を紹介する。

尋問事項

一、被告は中田善枝さんの母、故ミツ(明治42・11・18生、昭和28・12・30死亡)
  の存命中の素行を熟知しているか。


二、母故ミツが中田栄作と昭和8・5・12、婚姻したが婚礼中の翌朝中田家の庭に
  何が持って来て置いてあったか。


三、○○○○は男好きの奔放な女性で死亡まで肉体関係をしていたという色男が
  十人位いたということを知っているか


四、母ミツは昭和28・12・30午前十時三十分に東京都北多摩郡小平町小川六六二〇
  国立療養所精神科病院に於て「脳腫瘍」という一万人に一人位しかいないと
  いう珍しい病気にて昭和28・12・19に入院して昭和28・12・30午前十時三十分
  に死亡しているが、この母故ミツの死因について村人たちは○人いたという○○
  の中の誰かがやきもちをやいて毒を呑ました、中田家で死んだのでは世間体が
  まずいので、遠い所の病院へ運んで死なせたのだ、といっているのである。

  原告が専門医の意見を徴たる処、国立武蔵野療養所は患者は全部精神病者にして、
  外科医の治療を受けねばならぬ脳腫瘍患者が専門外の精神病院に収容されたこと
  及び脳腫瘍という病気は発病してから三年位患ってから死亡するのが此の病気に
  なった患者の発病から死亡するまでの過程であるという。

中田家周辺の住民は母故ミツは病院に連れていかれるまで毎日丈夫で働いていたという
  ことからして、発病して三年経過しなければ死に至らぬという病気が僅か入院して
  十日位で死亡していることは何か臭い、死亡診断書が臭いとの意見である。


五、被害者中田善枝は、昭和22・5・1生まれで、十六歳であったが、体格は一人前
  の女に成長し、性格は死ぬまで○○○○をしていた○○が十人もいたという
  多情多感、○○な母に似て中学一年位の頃から既に男性に積極的で○○○○を
  持ち、母故ミツに劣らぬ○○が相当いたはずと村人はいっているのである。

  中田善枝さんが強姦されて死んでいるのではなく、和姦の後、格闘乱闘、抵抗の跡
  もなく、おとなしく殺されていたという殺害の状況よりして、村人たちは十人以上
  居た善枝さんの○○の中の誰かが、合意に依る和姦の後、殺害したのに間違いない。
  
  真犯人は善枝さんと事件以前から肉体関係を持っていた○○以上の色男の中
  の誰かであるといっているのである。
  故に善枝さんを見たことも聞いたこともない通りがかりの男が慾情にかられ
  て殺したのではないと異口同音に村人たちは話している。


六、被告は被害者善枝に○○関係をしていたという○人以上の○○の所在を突き止め、
  以てそのアリバイを確認する捜査をしたか。


七、狭山市、入間川の菅原部落及び柏原の下宿部落には、環境の相違よりして中田善枝を
  知っている男性は一人もいないのである。
  この犯人のいない所謂部落に集中捜査攻撃が加えられたことは差別的偏見による
  偏見捜査であったと断定せざるを得ない。

  原告に多分の暇があれば詳細なるききこみを続行して十人以上いたという○○の所在を
  突きとめ、真犯人を発見するのだが、毎日多忙の体でそれができず遺憾である。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html


22. 2010年3月28日 23:57:49

418 名前:417:02/11/17 16:43

中田家

 父栄作 善枝の父、富豪、地域の有力者

 母ミツ 神経性疾患で10年前に死別、近親憎悪の対象?

  健治  長男、事実上の家長?、あいまいな証言

   K   長女、近県の他家へ嫁ぐ、

 登美恵 二女、自殺、真相を知る?、善枝の理解者

       三女、夭折?

 喜代治 二男、14年後自殺

  善枝  四女、被害者、異父姉妹

  武志  三男、堀兼小学校6年生

   Y  登美恵の婚約者、健治と同級生


重要人物

石川一雄 事件犯人?、被差別部落民

奥富玄二 B型の血液、1週間後に自殺、中田家の元作男、土建会社と中田家の仲介人

石田養豚場
石田登利造 長男、アリバイ不明、3年後自殺、ひこつくしが得意

     一義 弟、養豚場経営者、スコップを盗まれたと証言

事件証言者、協力者

増田秀雄 元PTA会長、村の有力人物、現金受け渡し時に協力

内田幸吉 怪しい人物が訪ねる、あいまいな証言

  田中登 矢けん坂で不審な3人を目撃、10日後自殺

2ちゃんソース(ソースごとにスペースで区切ってあります)

Q 40代、軍隊経験者、実行犯?

X  30代 主犯?警察の動きを把握する、医学・薬学関係者

H 訓読みではA、事件直後取調べを受ける、その後行方不明

C  17歳、町の不良少年、取調べを受けるがシロ

B  A,Cの仲間、唯一車の免許を持つ、事件後行方不明

A  18歳、Cの親分格、怪しい背後関係、矢けん坂に自宅

O  中田栄作と対立する元区長、土建会社を経営

U  大物市会議員、Oと懇意にしている

O2 Uの経営する店の従業員、暴力団関係者、アリバイ工作に協力

 K      元浦和の部隊所属の軍人、石田Tと事件の協力する、S30〜S35増田の元で働く

内山(仮)  狭山市議員、水利工事を牛耳る

田中     内山(仮)の経営するバーに出入りする、善枝さん誘拐・監禁実行犯?

土建会社K 狭山市の水利工事を担当、内山(仮)議員が工事の都合をつける
        奥富に対立する中田家との交渉を依頼

森(仮名) 戦後復員し、紡績業を営むが村の「講」を破り追放
  善枝さんの実の父親?川越の周辺を渡り歩く。母親の秘密?

森の次男 中田家を恨む。石田登利造の仕事を手伝う。真犯人?


420 名前:417:02/11/17 17:01

前スレ898さんの伯父さんの話や448さんの話に登場した人達と、
重複している箇所があります。ズバリ、同一人物だと思われますか?

K=Q=森?森の次男? 軍隊経験者

U=内山議員

O2=田中=田中登?? 内田の経営するバーに出入り

土建会社K=元区長Oの経営する会社

http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html

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415 名前:入曽歴3年:02/11/17 15:40

自転車は何故納屋に収められていたのか、これは中田長兄がO,Gさんの指示でおそ
らく菅原の祠あたりに置いておいた自転車を回収したと考えているそうです。

では長兄は犯人グループか?

ということになります。ここからは少し長くなります。


当時農地への水利事業が狭山市主導で進められていました、各地の区長も計画に
参加し後は予算と計画の練り直しと考えられていました。それが農水省主導により
県が計画推進することに計画が大きく変更されました。

県は浦和市にある大手建設会社に工事を依頼します、そして大手は狭山市内の工事については入間川にあったKという土建会社に工事を依頼しました。 つまり丸投げをしたと考えられます。

その工事と予算をKに持ってきたのが内山(仮名)という市会議員であり工事の規模は当時の価格で六千万円ほどであったといわれています。

もともと地元の小さな土建会社が各地域で3分割ほど工事を分け合い施工
されるはずが特定の1社のみが工事を請け負う形となったわけです。

地元の、とりわけ責任のある区長らは反発しました。しかし時期が経つにつれ工事
は少しずつ計画に乗っていったと言われています、

しかし最後まで工事に反対していたのが中田栄作区長でありました。

それは計画の大きな変更もありますが自分の土地を通る水路の計画も最も気にいら
ない点であったと考えられます。



416 名前:入曽歴3年:02/11/17 16:14

入間川のK社はしだいにあせり出したのかもしれません、あまりに反対が続くと県が地域民に考慮して計画を変更するかも知れないからです。

そうして内山議員に泣きついたのではないでしょうか。当然内山議員にしても自分のマージンが削られる事になるかもしれないので何かしら打つ手を考える必要があった事でしょう。

そして自分の息の掛かった会社の社員であったO,Gさんを交渉役として抜擢したのではと思われます。交渉役にされてからはO,Gさんは仕事よりもそちらを優先するように仕出したようです。

O,Gさんは当初栄作さんに直接考えを改めるよう交渉しだしたと思われますが時期が経つに連れ無理と判断し長兄にその矛先を替えたのではと考えられます。

長兄はある時期から父親には悟られぬように工事計画を飲んではどうだ、と家の中
で発言しだしたのではと予想されます、しかし父親の意見は最後まで変わらなかっ
た。それどころか父親が自分とO,Gさんが密かに意見を交換している事に感ずいたらどうなるかと考え出したのではと思われます。

そして内山議員は中田家四女を内山議員の経営するバーに出入りする田中という
二枚目に接触させ拉致監禁しその間長兄に父親の考えを変更させようという計画を
O,Gさんを通し伝えさせたのでは無いかと。

しかし田中なる人物は諸事情により当初から監禁にとどめる気はまったく無くむしろこれを機に中田家を落とし入れる考えがあったのではと。

737 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/11 20:37

長男は真犯人ではないが、真犯人(黒幕)が誰か判っていた上で、彼らとの「取引き」に応じたのなら、事後従犯とでもいうべきか。

その心情があの新聞手記にはよく表れているような気がする。
こう考えると二審で長男が突然健忘症になったのもうなずける。

次姉の婚約者も、彼女が自殺したとき中田家の秘密と事件の真相の一部を知らされたのだろう。

愛する婚約者の通夜にも葬式にも行っていないのだから、よほどのショックを
受けたのではないだろうか?(婚約者も二審では健忘症状態)
戸籍上は夫だったわけだから、当然彼が喪主だったはず(次姉の墓の姓は彼の苗字になっている)。

喪主が葬式にも出ないとは、普通考えられない。特に昔の農村ではなおさら。
「夫はあまりのショックで式には出られない」とでも説明したのだろうか?


837 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/30 21:13

電話脅迫を受けて、ガード下に自転車を貨物用自家用車で取りに行ったのは長兄。

したがって石川氏が7時半頃、その自転車に乗って脅迫状を差し入れに来たという
確定判決が、あり得ない話であることは誰よりも長兄がよく分かっている。

自転車を運んできて納屋の前に置いたのと、脅迫状を持ってきたのは、
他ならぬ自分自身なのだから。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html

110 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/10/23 14:18

善枝さんは乱暴されたのではなく合意の上だったというのは多分間違いないと思う。それは善枝さんが激しく抵抗したあとがないことと、強姦時には必ず残る太もも内側の内出血がなかったことによる。

それに父親が証言しているように、善枝さんは男勝りのスポーツ・ウーマンで、
見知らぬ男のいいなりになって付いていくような性格ではないのと、トマトと白米(おにぎり?)の接待を受けて、それを食べていることをみても強姦などではないことが分かる。

ではB型の血液型は元作男というと、地元の人に聞いてみても二人が付き合っていたという事実がどうしても確認できない。 それどころか元作男は性的な悩みを抱えていて、結婚前にそれを苦にして自殺したのではないかと言う人もいるくらいだ。性格的にも気が弱くお人よしで、とても女子高校生と浮気するなど考えられない。ただ、お人よしの性格が災いして事件の共犯に仕立てられた可能性はあると思う(脅迫状を書いたことと新居の提供)が、真犯人ではないと思う。

事件の日、誕生日のお祝いを口実に善枝さんをデートに誘い、トマトなどを振舞って性交したのは、やはり彼女のボーイフレンドのひとりだったのではないかと思う。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html


23. 2010年4月07日 20:01:06: MiKEdq2F3Q

狭山事件の詳細は

日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html


24. 2010年4月21日 20:33:27: MiKEdq2F3Q

性風俗規制の意味を考えよ

 近年、青少年ポルノ犯罪規制が異様に苛酷化している事情に気づかない人はいないだろう。20年前まで、深夜にテレビをつければ、必ず女性の美しいヌードが溢れていた。今はどうか? ほとんどエロッティックな表現など見ることができなくなった。これはマスコミの自主規制によるものだ。

 アニメや市販雑誌の分野でも、エロを題材にしたものはめっきり少なくなった。一番ひどいのは児童ポルノだ。日本では、とうとう「児童」の定義が18歳以下にされてしまった。先の選挙で自民党が負けていなければ、18歳以下と見なせる漫画の少女の絵を所持するだけで、児童性犯罪として検挙され、懲役2年の実刑に処せられるという信じられない異常な法律が上程されようとしていた。野田聖子らは、未だに、必ず再上程すると表明している。

 日本の法律によれば、児童とは、かつて13歳だった。今の子供たちは5歳も老けてしまったわけだ。18歳以下の若者と性行為をすれば、それだけで懲役5年の重大犯罪だ。かつて単純殺人の法定刑は7年だった。強姦でもしようものなら、刑期は10年を超える可能性さえある。性行為が殺人以上の犯罪というわけだ。

 民法では女性は16歳で結婚できるが、この場合、18歳以下の女性と結婚した男性が、妻に性行為に及べば、立派に児童強制猥褻や強姦罪が成立するわけだ。法自体が信じられない齟齬を来たし、自己矛盾に満ちている。これは立法者も司法者も、法についての基礎的な知識、認識がないことを示している。

 日本人は、かつて性について大らかな民族だった。我々の子供時代まで、西日本の田舎では、事実上のフリーセックスが容認された地域が少なからずあった。少女が初潮を迎えれば、近所に赤飯を配って、娘を離れに寝泊まりさせ、夜半に近所の若衆が忍び込んで性行為に及んだものだ。

 誰も指摘していないが、茶道に使う茶室は、そうした娘を寝かせる離れを利用したものだった。小さな躙口(にじりぐち)の意味は、実は夜這い用の出入り口で、合掌造りにもあるし、西日本の旧家にはよく見られるものだ。もちろん、複数の男子が性行為に及ぶわけだから、父親の不明な子を孕むことになるが、その父親を指名する権利は孕んだ娘にあった。夜這い男は絶対に断ることはできない。実の父親でなくともかまわない。どうせ、生まれた子供は、「みんなの子」として、集落全体が育てるのだから。

 日本では、こんな風俗が数千年も続き、娘も、初潮を迎えれば一人前とみなされたわけだから、18歳なんてのは昔では、とっくに「ババー」だ。

 こんな大らかな性風俗の日本に、どうして、信じられないような苛酷な性風俗規制が持ち込まれたのか? アグネス・チャンや野田聖子が性的被害妄想に苛まれて、こんな倒錯した法律を作ったわけではない。その背後には統一教会や全世界のカトリックの性道徳運動(冗談のような(ΘoΘ;))があるし、さらに背後にはユダヤ人勢力の思惑があることに気づかねばばならない。

 なんで、ユダヤ教徒が、性道徳を苛酷にする必要があるのか? これが問題だ。

 実は、我々は健康ならば誰でも猥褻・卑猥な性的欲求を持っている。春先、匂うような美しい少女が白い肌を露わにして目の前に現れるなら、どんな男でもチンチンが元気になるようにプログラムされているのだ。これは、人間が子孫を残すために仕組まれた生物本能であって、観念的な意志とは無関係に、あたかも食欲と同じように自然に存在するものだ。そうした自然現象に対して、猥褻だとか卑猥だとか、あたかも重大犯罪であるかのように決めつけて、人々を法の暴力で弾圧し、自然な欲求を弾圧しようとしている。

 この狙いは、いったい何であるのか? はっきりと見る必要がある。

 人々は、とりわけ女性たちは、「猥褻が悪」であるかのような被害妄想に囚われる人が多いが、女性たちが健全な性欲を、あたかも中世カトリックの魔女狩りのように犯罪扱いし、アグネス・チャンのように大声で「やっつけろ!」と叫び回っていることで、男たちは大いに萎縮し、健全な性欲を備えた青少年たちも萎縮してゆく。

 人々は、自然な性欲を持つ自分自身が生来の犯罪者であるかのように思いこみ、自分自身が罪深い存在であるかのように勘違いしてゆくのだ。

 まさに、これこそ上流階級、支配階級の真の狙いなのだ。

 人々は、権力が無理に弾圧しなくとも、自分で自分を犯罪者だと思うようになり、毎日の生活さえ、コソ泥が警官に怯えながら過ごすような矮小な人生を送るようになる。まさに家畜人ヤプーが、ここに成立するのだ!

 萎縮した人々は、権力に対して反抗する気力も萎え、言われたことを奴隷のように、こなして毎日が過ごせればよいと思うようになり、世界支配を狙う連中にとっては、民衆を家畜として操作する環境が整うことになるのだ。

 どうだ? これが、性犯罪苛酷化の真の狙いなのだ。それは人々を怯えた臆病な家畜にするための洗脳戦略なのである。

 我々は、美い少女の色気を見て、喜び、自然に性的要求を来すようにプログラムされている。そして、人類誕生のときから今に至るまで、健全な性欲によって、人類を維持してきたのである。宮沢りえのサンタフェは美しい。眺めて喜べばよろしい。それは断じて性犯罪ではない!

 その所持を犯罪と決めつけ、懲役刑で弾圧しようとした自民党は、今、崩壊しているが、アグネスチャンも野田聖子も石原慎太郎も健在だし、彼らの背後にいる統一教会も、まだ崩壊していない。

 我々は、これらの「真の人間弾圧、犯罪勢力」に対して、断固、「自然な性欲の何が悪い!」と主張し、戦い抜かねばならないのだ!
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm


25. 2010年4月21日 20:40:27: MiKEdq2F3Q

児ポ法改悪で国民全員が逮捕だ!! ● 

*(児童ポルノには18歳まで、あなたの子供時代の水着写真も含まれます)  
男女関係ありません
                                                          
*(同級生、同僚や上司、特に官僚や政治家といったエリートを抹殺するのにも効果的)          

*(後から邪魔になった規制派工作員もこれで斬り捨てて口封じできます)  

6 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2009/06/27(土) 11:20:30 ID:KZC6Rcyj0
児ポ法改正案質疑応答ハイライトw

自民「メール、郵便、FAXでポルノモノを持ってるだけで逮捕します」
民主「冤罪増えるだろ死ね。足利事件は反省してねーのか」
自民「メールがきたらポルノだと思いなさい」

------その他の名言集------------

自民「映画、出版物、大女優だろうと関係ない、
今までの映画も本も写真も18歳以下のヌードなら全部捨てろ」

自民「ジャニーズは児童ポルノである」
自民「電子メールに児童ポルノが添付されているかどうかは、ファイルを開く前に分かるはずだ」

自民「えっちでぃ(たぶんハードディスク)に入っている画像を、何回開いたかチェックして、故意かどうかを調べる」

自民「宮沢りえのサンタフェ捨てなきゃ逮捕」(刑罰の遡及肯定)

官僚国家では、国民を支配する方法として、守る事の出来ない法律を作り、違法状態を野放しにし、いつでも「裁量」で摘発する方法があると書いた事がある。官僚にとって好ましくない人物は摘発され、従順な人物は見逃される。すると国民は官僚にすり寄り、言う事を聞くようになる。政治家もその方法でコントロールされる。
http://www.asyura2.com/09/senkyo63/msg/460.html


裁判員裁判、感情的なリンチ裁判傾向が鮮明に・・・・

日本は裁判員制度によってヒステリー司法監獄国家になりつつある

 【裁判員裁判の量刑、殺人や性犯罪で重い傾向 4月16日21時47分配信 読売新聞
 昨年8月に始まった裁判員裁判では、プロの裁判官のみによる裁判(裁判官裁判)と比べ、殺人や強姦(ごうかん)致傷といった事件では、量刑が重くなる傾向がみられることが、最高裁が16日に公表した裁判員裁判の実施状況の調査で分かった。 国民の常識を判決に反映させることが目的の裁判員裁判で、量刑に変化が表れるか注目されていた。

 今年3月までに判決が言い渡された裁判員裁判412件と、2008年4月以降の判決で裁判員法の施行(昨年5月21日)よりも前に起訴された裁判官裁判2908件の量刑を罪名別に比較した。執行猶予か実刑かを分けたうえで、実刑については死刑と無期懲役のほか、懲役30年以下の有期刑は2年ごとに分類して件数を比較した。

 この期間の殺人事件は、裁判官裁判で計453件あり、最も多かった量刑は懲役9年超11年以下の69件だったが、裁判員裁判の63件では、同15年超17年以下が11件と最も多かった。傷害致死では裁判官裁判の場合、3年超5年以下が109件と最も多かったのに対し裁判員裁判は5年超7年以下が11件で最多だった。

 性犯罪である強姦致傷や強制わいせつ致傷でも同様の傾向がみられ、強姦致傷では、裁判官裁判では3年超5年以下にピークがあったが、裁判員裁判では5年超7年以下が最多だった。 一方、事件数の最も多い強盗傷害や覚せい剤取締法違反(営利目的輸入)では大きな差がみられなかった。

 こうした傾向についてある刑事裁判官は、「裁判員は被害者の状況を自分に置き換えて受け止める人が多く、生命にかかわる犯罪や性犯罪では、やや量刑が重くなりつつあるのではないか」と指摘する。一方、執行猶予付き判決では、裁判員裁判の方が、保護観察を付ける割合の高いことも鮮明になった。裁判官裁判では計383件のうち、保護観察を付けたのは36・6%に当たる140件だったが、裁判員裁判では計71件のうち42件に保護観察が付き、59・2%に上っていた。 】

http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm


裁判員裁判は移民とセットになっているんですね.

プロの裁判官だと移民に対しても日本人と同じ基準で判決を下さないといけない.

しかし,素人だと移民に重い判決を出してもそのまま通してしまえる.

アメリカの刑務所は黒人ばかりだというのも,こういう制度を悪用しているんですね.


____________________


26. 中川隆 2010年10月15日 23:51:29: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

( 4. こんな女に誰がした(アメリカ移民編)__天皇陛下を恨んでね) に追記

人身売買と近代日本の成立 

自国女性を海外に売るのが「ロイヤルビジネス」だった



「からゆきさん」と呼ばれたどちらかといえば普通の「娘の身売り」の陰には、さらに悪質な詐欺的人身売買が、国策として、天皇のロイヤルビジネスとして、白人商人と連携して組織的に、国策会社日本郵船(=三菱)により、大々的に行われていた。

そして、その人身売買こそが、日本資本主義の原初的蓄積過程だった。

つまり、近代日本国家は自国女を売って成立した。

「オルタナティブ通信」などを通じて知るようになったこの事実ですが、まとまった知識を持った人をTwitterで見つけました。

http://twitter.com/urashima2

戦前の日本は民族差別に反対してたとか言ってる方がいまだに多いが、実際のところは人身売買する上で邪魔だったというのが大きな理由のようだ。

そもそもアメリカが排日移民法を作らざるを得なかったのは日本からあまりに膨大な日本人女性が売られてきたからにほかならない。


戦前の日本が差別を許さないとか、プロパガンダにもならない妄想…。

世界最大の賤業婦人(売春婦)輸出大国だったのに。

それも騙して海外へ連れ出すという極悪非道ぶり。


いわゆる「からゆきさん」なんてハイカラな名称付けられているのが、それ。

ジャパゆきさんは自分の意志でオーディション受けて、どういう場所で働くか承知で来るかも知れない、からゆきさんの大半は国策として騙された人や誘拐・拉致同然に連れだされた方々なのでまるっきり違う。


からゆきさんと言っても中国だけじゃない。

世界中に貨物船の片隅に押し込められ売られており、明治から昭和にかけて、その数は30万人以上とも言われている。

戦争責任を追求する大手マスコミでさえ、からゆきさんについては非情に及び腰。

理由はロイヤル・ビジネスだから。

おもに日本郵船=三菱と組んでいるが、三菱といえば岩崎弥太郎。

岩崎といえば龍馬。龍馬といえばグラバー。

グラバーといえば武器商人…ってな具合に背後は真っ黒の助。

そもそも武器を買うための資金として人身売買をはじめた。

グラバーといえばマセソン商会の元社員で代理人。

マセソンといえばアヘン商人。

ようするに茶を買うためアヘンを売るのが、武器を買うために女性を売る…にかわっただけ。

長州ファイブを留学させたのもマセソン商会。

岩崎=長州閥=天皇家は一蓮托生でアヘン・武器商とつるんでた。


騙して日本人女性を売った金で武器を買う。

その両方でピンハネすればボロ儲け。


三菱財閥が巨大化した最大の理由が人身売買…

などとは歴史の教科書や社史にも出てくるわけない。


人身売買であげた利益で武器を買い、それで戦争を行っては国民を虫けらのように死なせた。

そういうビジネスを明治以来一貫して下衆なアヘン・武器商人と結託しながらやってきた。


宗教も人種も違う連中を奴隷貿易するでもなく、自国の同胞女性を詐欺まがいに海外へ大量に売り飛ばすという豪快なことをしていた日本。

さうがの毛唐も

「オーマイガッツ!

ジャップのやつ正気の沙汰とは思えない。

オークレイジー」

なんて驚いたことだろう。


そういう背景により、クレージーなジャップによる人身売買を阻止するため、アメリカは排日移民法をつくってくれた。

それを、差別だとかいうのだから凄い。

戦争の原因について

「カリフォルニア州への移民拒否については、 日本を憤慨させるに十分なものであった」

とは裕仁天皇のお言葉。

これが戦争の原因なのだというから素晴らしい。

戦前の国策による人身売買の実態を隠蔽するため「からゆきさん」と混同されるようにイメージの偽装転換が巧妙になされている。

実際はからゆきさんなんてレベルをこえた国策の人身売買が壮大なスケールで行わていた。


本来の「からゆきさん」なんてのは九州の貧しい農村部の女性が女衒に連れられアジアの娼館で働くというものだが、日本郵船とかがやってたのは基本的に詐欺。


「海外で教養を身につけよう」

「あこがれのアメリカで働こう」

なんてかんじで良家の子女から寒村にいたるまで処女を集めた。


私もこのブログで、アメリカの人身売買報告書が日本に異常に厳しいことを人種差別ではないかと批判したことがありましたが、見当違いだったかもしれません。

彼らは当然ながらこういう過去の事実を知っている。

この件の被害者は日本人であり、欧米商人も関与していたので、あえて言挙げはしないが、日本国がこういう体質をもっているということには留意している。

このような過去の犯罪行為について、日本人がほとんど知らされておらず日本国内に批判も反省もないことも見ている。

普通に「人身売買を防止する」という観点から見て、日本が要警戒国になるのは当然ですね。

これから必然的に貧しくなっていく日本ですが、日本女性は日本国家および天皇一族を警戒したほうが良いといえます。

同時に、従軍慰安婦問題や南京強姦事件で騒いでくれる近隣国の人々に感謝しなければならない。

被害者が日本人だけなら、誰も騒がず、語ろうとする者は口封じをされ、そんな過去はなかったことになります。

天皇と三菱とが一体になり、外国商人と連携して、国策でこのような犯罪行為を行った歴史が「なかったこと」にされている。

何の反省もない。

このままでは、日本国家にカネが必要なときにはまた同じことが繰り返されることになるでしょう。


日本国=天皇=三菱等、

はその成立時から人身売買マフィアであり、芯から腐っていると言えます。


初めから腐っているものはどうしようもありません。

「日本の解体」が是非必要です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/


天皇=売春業者
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49608120.html

天皇一族は売春業者
http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html

武器販売促進のため第二次世界大戦を起こした武器密輸商人=天皇
http://alternativereport1.seesaa.net/article/73148617.html

武器密輸商人である天皇一族は兵器販売促進=自分の金儲けのため日本を戦争に引きづり込んだ
http://alternativereport1.seesaa.net/article/111703855.html


27. 2010年10月16日 21:03:47: MiKEdq2F3Q

あめゆきさんの歌、山田わか

 日系アメリカ人の歴史の本を読んでいた時に、

「アメリカの日本人の嚆矢(はじまり)は日本人売春婦」

という記述に出会って、愕然としたことがある。


 コロラドに、江戸時代の日本人売春婦の墓標が残されているそうだが、日米和親条約(1853年)が締結される以前の話である。

日本から、アメリカに直接に向かうことができなかったので、アジアを経由して、密航者としてアメリカに渡ったらしい。

 この女性たちの歴史の発掘に尽力されたのが、サンフランシスコの日本語協会の石崎五郎さん(UCデイビス校の獣医学の教授、故人)だった。

石崎さんは、そうした女性の存在を不憫に思われたようだ。


 中国や東南アジアに渡ったからゆきさんのことは、森崎和江や山崎朋子の著作で知ってはいたが、そうした事実が、このアメリカでもあったのだ。


 明治の新聞ダイジェストを読んでいた時に、オーストラリア行きの船の船倉で、日本人売春婦が窒息死体となって発見されたという記事を目にしたことがあるが、日本人売春婦は、オーストラリアにも、密航させられていたようだ。

 十九世紀末のアジアに渡った日本人売春婦を意味する”からゆきさん”という言葉から、山崎朋子(ノンフィクション作家)が、”あめゆきさん”という言葉を作り、「あめゆきさんの歌:山田わかの数奇なる生涯」という本を書いたのが、1978年。

 プラムさんに、山田わかが働いていた場所を訊ねられた私は、シアトル時代の山田わかの手掛かりを求めて、この本を読み返した。

 この本の記述とシアトル旧日本人街明細図から、20世紀初頭に、彼女が白人相手の売春婦として働いていた場所が分かった。

現在のシアトル・アジア人街のあるインターナショナル・ディストリクトの一角だ。

 私自身、以前、インターナショナル・ディストリクトを訪れた時に、山田わかはどこで働かされていたのだろうと、漠然とした疑問をもちながら、同地域を歩いていたのだが、今回、キング・ストリートと5番街の角のアロハ・ハウス(現在は別のお店になっている)で働いていたことが分かった。


 1906年に、26歳で日本に帰国した山田わかは、近所に住んでいたことから平塚らいてふと知遇を得て、青鞜に参加。

『朝日新聞』の人生相談の回答者になって、アメリカ帰りの女流評論家として成功した。


 アメリカの図書館で、私は、戦前に発行された山田わかの本を2冊、見掛けたことがあるし、サンフランシスコで、彼女の夫となった山田嘉吉の教える英語塾で山田わかに出会ったことがあるという人から話を訊いたこともある。

 私が渡米した頃には、ヤングさんと呼ばれた日系一世の若手がまだ、生きていたのだ。

ヤングさんは、英語の勉強のために、サンフランシスコの山田嘉吉の英語塾に通ったようだ。

 山田わかのシアトル時代の記述については、サンフランシスコで発行された『あめりか新聞』(1937年)のオリジナルをUCLAのライブラリー(special collections library)で読んだこともあるし、山崎朋子が出会ったリン(林)司書から、直接、お話を聞いたこともある。

リンさんは、UCLAのアジア関係の生き字引のような方だったが、1990年代の前半に退職された。

第二次世界大戦後、山田わかが心血を注いだ仕事に、売春婦の更生施設の建設、運営があった。

 売春婦から更生して家庭人となった彼女だからこそ、更生が、いかに大切であるかということを知っていたのであろう。

 私は、アメリカに住む日本人のことをリサーチしている理由の一つに、日本人は、アメリカから何を学ぶのだろか、ということがある。

山田わかの場合は、不屈の向上心だったのではないだろうか。

http://plaza.rakuten.co.jp/katiebooks/diary/200408240000/


28. 2010年10月31日 14:09:07: MiKEdq2F3Q

昔アメリカで、ハロウィーンに英語もできないくせに白人様の真似をして調子こいていた馬鹿な日本人留学生が射殺された事件がありました。

しかし、アメリカ白人がやったことなので日本人は怒りません。

その因縁のハロウィーンを、やがて日本人たちはアメリカ白人と一緒になって馬鹿騒ぎして祝うようになりました。

だいたい日本人に同胞意識などない。

自分が白人様にでも引き立てられれば、黄色人種の同胞なんてクソみたいなものです。

日本人で出世して偉くなる人はみんなそう思っています。


天皇のロイヤルビジネスは、日本人の素人女性を騙して、日本郵船の貨物船に乗せて海外に性奴隷として売り、外貨を稼ぐというものでした。


日露戦争などの戦費もそれで出した。

同胞の日本人女でさえ騙して奴隷にして、船内で白人船員に強姦させて売春婦教育し、外国の売春宿に平気で売る事をしてきた日本人なので、

朝鮮人従軍慰安婦の強制連行や戦地や日本軍進駐先(前記事のタイにも進駐していた)での住民強姦など朝飯前のことです。

(そんなことを否定したり事実を争ったりする方がどうにかしています)。


日本はもともとそういう麗しい国なのです。

なので、マトモな人間なら、日本人であれ外国人であれ、「反日」になるのが自然です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/


29. 中川隆 2013年5月25日 23:39:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


時空ミステリー 津山三十人殺し
http://www.youtube.com/watch?v=1VaOe0H7lu0&feature=player_embedded


都井睦雄に子供がいた!?
睦雄が愛した女性は今も生きている!?
本当の死者数は36人!?
夜這いってどんな感じだったの!?
あの津山三十人殺しの知られざる真相に迫る!!!!


30. 中川隆[-11409] koaQ7Jey 2018年4月27日 15:03:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12433]
イエズス会は日本で何をしてきたか
 

○日本人の奴隷貿易

1587年九州平定過程にあった秀吉は、 イエズス会の日本のトップである、ガスパル・コエリョに、イエズス会の日本での行為について詰問している。

「予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。」(ルイス・フロイス「日本史4」)

当時キリスト教は教義で奴隷を公認しており、イエズス会は商船の奴隷貿易に関する許認可権をもっていた。コエリョ自身がポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名した記録もある。日本人奴隷貿易は15世紀後半には16世紀の後半には、ポルトガル本国やアメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまで及んでいた。

『東洋ポルトガル古記録』には「ゴアにはポルトガル人の数より日本奴隷の数の方がより多い」「日本人奴隷は男よりも女が好まれた。行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、ポルトガル本国にも相当数入っている」と記されている。 ローマに派遣された少年使節団も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれているのを目撃して驚愕している。

彼らは大村、小西らキリシタン大名らにより捕虜とされたもの達や仲介商人によるものである。奴隷売買と引き換えに当時日本では希少価値であった硝石と交換され、硝石一樽と日本人女性50人が交換されたという記録もある。当時の日本人の奴隷売買は人口1200万に対し2万人から4万人余と推定される。

○寺社の破壊と僧侶の殺害

秀吉は同じくイエズス会のコエリョに「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院を破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」と詰問する。

秀吉は農村秩序の核になっている寺社の破棄を、かなり重く見ていた。

実際特に九州では寺社破壊は凄まじく、例えば大村領では神社仏閣が破壊され、その結果6万人以上のキリスト教信者が生まれ、87の教会ができたという。寺社破壊はキリシタン大名の統治する地域で日本各地に及んだ。キリシタン大名であった高山右近は大阪の高槻城主であった時に、普門寺、本山寺、広智寺、神峯山寺、金龍寺、霊山寺、忍頂寺、春日神社、八幡大神宮、濃味神社といった大寺社を焼き討ちにより破壊したといわれている。イエズス会のコエリョをはじめ当時の宣教師の多くは仏像や仏教施設の破壊にきわめて熱心であり、九州では信者を教唆して神社仏閣破壊させたことをフロイス自身が書いている。


○島原の乱の真相

キリシタンの悲劇として描かれている最大のものが1637年の『島原の乱』である。教科書からは島原・天草地方のキリシタン弾圧が酷く、重税を課したことから農民たちが圧政に立ちあがったと読める。しかし事実はかなり異なっている。

当時の反乱勢は3万7千人、篭城戦時では幕府軍は12万以上で圧倒的な差がありながら制圧に半年を費やしている。しかも緒戦においては板倉重昌率いる幕府軍4万人は惨敗。一揆勢の死傷者が僅かに7名なのに対し、幕府軍の死傷者は4千名にのぼった。しかも板倉は討ち死にしている。

これは、反乱勢が大量の武器弾薬を保有していたからにほかならない。では、彼らが大量の鉄砲などを保有していただけではなく、その使い方にも習熟していたのは何故なのか。

まず、一揆勢の中心が百姓ではなく、キリシタン大名だった有馬や小西の残党だったことである。有馬と小西は関が原の合戦において西軍側につき、他国に移封される。『天草征伐記』と『徳川実記』等の記述にも、キリシタン大名であった小西行長の遺臣が中心になって、それに有馬の旧臣も加わって、困窮した農民を糾合して蹶起したとある。

しかもただの「農民」とは思えない行動が目立つ。一揆勢の行動で目に付くのは寺社への放火や僧侶の殺害である。有馬村では村民らが、所々の寺社を焼き払ってキリシタンに戻ると宣言し、これに周辺八ヵ村の村民らが同調して寺社に火を点け、キリシタンにならない村民の家には火をかけている。さらに島原城の城下町でも江東寺、桜井寺に放火している(『別当利杢左衛門覚書』)また彼らは、代官の林兵左衛門を切り捨てた後、村々へ廻状を廻し、代官や『出家』『社人』(下級神官)らをことごとく打ち殺すように伝達した為に、僧侶、下級神官や『いきがかりの旅人』までが殺されたという(『佐野弥七左衛門覚書』)。

その後彼らは、九州諸藩の討伐軍の接近を知って島原半島に移動し、島原の旧主有馬家の居城で廃城となっていた原城に籠城する。島原と天草の一揆勢が合流し、大量の鉄砲と弾薬を保有してこの場所に立て籠もったのである。彼らが原城に籠城したのはポルトガルなどの外国勢力の支援を期待していた可能性があり、少なくとも幕府はポルトガル等の支援を警戒していた。それには理由がある。

ポルトガルやスペインには明と朝鮮を日本の傭兵を使って占領する計画があった。その際幕府と対立することは確実で、九州のキリシタン大名を幕府から離反させる計画であった。

そのためには長崎周辺を軍事拠点化する必要がある。クルスがイエズス会に宛てた書翰によれば、 九州が日本から離反する際には、キリシタン大名達がポルトガル人に基地を提供することは確実で、特に小西行長が志岐港を差出すことを確実視している。キリシタン大名たちとの間で計画は相当詰められていたようだ。

更にフランシスコ会の宣教師の本国への報告によれば「有馬や長崎は1590年には軍事要塞工事が行われており、イエズス会の宣教師達は、長崎近辺に有している村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えた」とある。イエズス会は来たるべき戦いの為に、多くの武器弾薬を準備し、長崎近隣の信徒達に火縄銃の訓練をさせていたのだ。乱の中心勢力は小西行長や有馬の家臣である。スペイン・ポルトガルの影を幕府が想定したのは不思議ではない。

この3万挺の銃などの大量の武器の押収記録はない。大量の武器は島原、天草、ポルトガル船などに分散して隠され、訓練は江戸時代に入ってからも密かに続けられていた可能性が高い。そう考えないと、島原の乱における単なる百姓一揆とは思えない軍事行動や、大量の武器の調達や島原藩や唐津藩などの正規軍を一時圧倒したことの説明は困難だろう。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=335080


31. 中川隆[-13753] koaQ7Jey 2018年8月16日 20:09:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17887] 報告

終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた 「次から次へ、体じゅう痛くて…」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962
2018.08.15 貴志 謙介 元NHKディレクター・プロデューサー 現代ビジネス

ようやく見えた「戦後ゼロ年」の真実

今年も8月15日がめぐってきた。だが、73年前の敗戦をめぐる記憶は日々確実に薄れている。

とりわけ記憶の劣化が著しいのは、敗戦直後の一年間、いわゆる「戦後ゼロ年」であろう。みじめな焼け跡暮らし、占領の屈辱、飢え、虚脱感、思い出したくもないヤミ買い。高度成長という威勢の良い華やかなサクセス・ストーリーの陰で、暗い役回りを押し付けられたせいかもしれない。

だがもっと本質的なことは、敗戦直後の時代には、その時代を経験した人であっても知ることのできなかった秘密がたくさんあるということだ。

占領軍は、情報をコントロールしていることを悟られないような巧妙なやり方で検閲をおこない、メディアを支配する情報戦を仕組んでいた。その結果、占領政策にとって都合の悪い出来事や情報は隠されたまま、いわばブラックホールのなかへ姿を消してしまった。

「戦後社会の原点」とみなされる時代であるにもかかわらず、多くの真実が欠落し、核心がぼやけたまま風化してしまったのである。

ところがここへ来て、思いがけず、戦後ゼロ年をめぐる新しい視野がもたらされようとしている。原動力のひとつは、機密資料の公開である。たとえば、2007年に機密解除された10万ページのCIA文書があり、150万点に達するGHQの検閲記録がある。A級戦犯に対するIPS(国際検察局)の尋問記録やアメリカ戦略爆撃調査団の調査報告も公開された。

こうした極秘文書を多くの証言とつきあわせていくと、驚くべき真実が続々と浮かび上がってくる。まず、時計の針を敗戦から3日後の1945年8月17日にあわせてみよう。

日本政府がつくった「性の防波堤」

この日、組閣された東久邇内閣の国務大臣に就任した近衛文麿がなによりも急いだことは何だったか。

実は近衛は入閣直後、ただちに警視総監の坂信弥を呼びつけ、米軍相手の売春施設を作るよう要請したのである。

40万人の占領軍上陸を2週間後に控え、日本の戦争指導者がもっとも恐れたことは、兵士による性犯罪であった。そして「性の防波堤」と位置づけられたのが、「国策売春組織」、すなわち「特殊慰安施設協会(RAA)」であった。

RAAをめぐる公式記録『R・A・A協会沿革誌』はこう述べている。

〈R・A・A協会が、その使命を忠実に達成する為、真先に開業したのは慰安所である。進駐軍将兵にとって、何よりも先ず慰安すべき面はセックスの満足であった〉

電光石火のごとく霞が関が動いた。外務省・内務省・大蔵省・運輸省・東京都・警視庁など、主要官庁がこぞって協力。座長役を務めたのは、大蔵省の主税局長・池田勇人(のちの首相)である。池田の号令で大蔵省がポンと3300万円を出す。現在の価格に換算すれば10億円を超える。

占領が始まる前に、政権の中枢にいた政治家や軍人、そして官僚が何を置いても、外国の軍隊による性暴力にこれほど強い恐怖感を抱いたのは、なぜだろう。国家が主導した売春施設を準備した警視総監・坂信弥は、内務省の資料のなかでこう証言している。

「東久邇さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。(略)それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」(大霞会編『続内務省外史』、地方財務協会)

軍国主義者がおびえていたのは、結局のところ、来るべき占領軍の蛮行というよりも、鏡に映った己の姿、日本軍の影だったのではあるまいか。

「からだじゅうが痛くて…」

8月28日、午前9時、RAAの幹部20名が皇居前広場に集合した。『R・A・A協会沿革誌』によれば、ここで全員が宮城に向かい宣誓式を行ったという。宣誓の主旨はこうである。

〈(RAA協会は)戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる。(略)『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、(略)「国体護持に挺身せんとするに他ならざることを重ねて直言し、以て声明となす〉

敗戦国であるドイツやイタリア、あるいはソ連に占領された東ヨーロッパの国々にも、占領軍を相手にする売春婦は大勢いた。しかし、国家が号令を発して、莫大な予算を投じ、官僚がプロジェクトを組み、「国体護持」のために女性を犠牲にするという“理想”を高らかに掲げた国はほかにない。

8月27日、RAAは、占領軍の上陸地点に近い品川の大森海岸に「慰安所第一号」として、「小町園」を開店した。ポツダム宣言の受諾からわずか2週間しかたっていない。

50人の女性、それも大半はシロウトの女性が送り込まれ、10畳、20畳の大部屋をカーテンや屏風で仕切り、30ほどの部屋が作られた。待ちかねたように、米兵がどっと押し寄せ、障子や襖を蹴破って、土足のまま押し入ってくる。女たちは恐怖のどん底へ投げ込まれた。

「恐怖におびえるまもなく、兵隊が入ってくるなり私を抱くと、しびれるほど唇を吸う。(略)入れ替わりに、つぎの兵隊がくる。(略)つぎからつぎへと抱いては送り、送っては抱き、(略)からだじゅうが痛くて……。」(『東京闇市興亡史』より)


RAAが横須賀に設けた慰安施設「安浦ハウス」(米軍資料)

女とみると、手あたりしだい

『R・A・A協会沿革誌』によれば、小町園を皮切りに、立川「キャバレー富士」、調布「調布園」、福生「福生営業所」、北多摩「ニューキャッスル」、築地「宮川」、人形町「花家」、向島「迎賓館大蔵」、若林「R・A・Aクラブ」が次々とオープン。

東京だけで33か所。従業員は450人。ダンサー2000人。350人の「慰安婦」。ひとりの女性が最高で一日60人を相手にした、との証言もある。


銀座松坂屋近くにRAAがつくったキャバレー“Oasis of Ginza”(Photo by gettyimages)

一方、RAAの幹部連中は何をしていたか。戦前に吉原で遊郭を経営していた経歴を持つRAA営業所長・岡本清次の談。

「RAAの仕事は国家の肝煎りですから、国から給料もらっているような身分でした。基本給千百円、手当て千百円の計二千二百円というのは、当時としてはそうとうな高給取り」

「食事のほうは、米兵からの土産もあったし、なにしろ警視庁から食券がきていましたから。(略)兵隊がもってくる牛肉は、ブ厚くてスキヤキにするとほんとうにうまかった」

当時、警視総監であった坂は、「RAAがあったおかげで占領軍兵士による強姦事件はほとんどなかった」と主張している。しかし、近年公開された米軍の極秘資料は、それがまぎれもなく“虚偽の申告”であり、実態はむしろ逆であったことを示唆している。

米兵による暴行事件は、8月30日にはじまり、RAAの営業によっても止むことがなかった。1945年11月中に発生した米兵の犯罪は、婦女暴行、強姦、盗み、おどし、たかりなど、554件に達している。報道が禁止されていたゆえ、一般に知られなかっただけなのである。

特に強姦事件や強盗事件が多かったのは、小町園に近い大森海岸であった。売春婦の紹介業を務めていた菅原道雄は、その理由をこう証言している。

「大森で、強盗・強姦事件が頻繁におきたのも慰安所と関係ありますね。タバコや洋服を『金にかえてくれ』といってくるヤツが多かったし、それもないヤツは強盗をしてまで女を抱く金を得ようとする。慰安所にはGIが行列をなしていてあぶれちゃうヤツがでるんですよ。そうなると、手あたりしだい、女とみると襲いかかるのです。

夜の八時ころだったでしょうか。大森から大森海岸へ行くまっ暗な道で女の人の悲鳴をきいたことがあります。たぶん素人の人でしょうが強姦されていたんです。私は一目散に逃げましたよ。だって、アメちゃんは刃物をもってましたからね」

RAAの組織と人脈から、占領終了後、赤線や基地売春が生まれた。国家がつくりだした巨大売春施設こそ、戦後の売春産業の源泉であったのである。

いまも残る「東京ブラックホール」

戦後ゼロ年のブラックホールに迷い込んだのは、国家の「いけにえ」となった女性ばかりではない。占領下の東京には、いたるところに、ブラックホールが存在していた。

あらたに発掘された映像からも、その痕跡がみつかる。たとえば、東京湾から引き揚げられた大量の金塊の映像。数兆円にもおよぶ日本軍の隠匿物資の一部である。もとはといえば、本土決戦のために軍が国民から徴用した物資であり、こうした莫大な財産は国民には返還されず、高級軍人や官僚など特権階級に横領されて、ヤミ市に横流しされていたのである。

戦後ゼロ年、飢餓やインフレは、戦争中より深刻だった。もし、隠匿物資が国民を救うために使われていたら、どれほど多くの戦災者が救われていたことだろう。

人々を苦しめた敗戦直後の地獄は、物資の隠匿に狂奔したエリートの不正によってもたらされたのである。その事実を、私たちの記憶のなかに、あらためて刻み込んでおかなくてはならない。

膨大なCIA文書から、戦後ゼロ年にどのような権力構造が生まれていたかを知ることもできる。たとえば、占領軍は、表向きは「日本を民主化し、軍国主義者を追放する」政策を推進したが、裏では大本営の参謀を戦犯の訴追から外し、対ソ諜報戦の手先にしていた。

米軍の諜報機関に囲い込まれた軍や特務機関の残党は、アメリカの後ろ盾を利用して密輸や謀略を重ね、密かに影響力を拡大していく。軍国主義の残党、ヤミ成金、官僚や政治家を問わず、占領軍に深く食い込んだ者だけが権力を確保し、利権を得た。

こうして戦後ゼロ年を出発点として、アメリカの秘密工作に積極的に協力した日本の支配層との合作で「世界最大の親米国家ニッポン」が造られていく。そのときできあがった権力構造のDNAは、いまも日本を支配している。

戦後ゼロ年は、戦前のしがらみを断ち切った年ではなく、むしろそれを温存し、戦争を推進した旧支配層を取り込んで、アメリカの国益に沿った日本社会の改造が開始された年だったのである。

『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』という本では、いままで視界から失われていた闇を見つめ、わたしたちの記憶の欠落を埋めていくことを試みた。復元された戦後ゼロ年の姿を現在の日本と重ね合わせれば、いまの日本を呪縛する仕掛けも見えてくるにちがいない。

32. 中川隆[-13273] koaQ7Jey 2019年1月01日 08:29:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

 【日本人慰安婦の話〜橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより)

 今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。
あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。

 従軍慰安婦というのは半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。メディアは終戦記念日に近くなると、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。

 でも従軍慰安婦の人たちは直に話を聞けないんですよね。

 韓国と中国の従軍慰安婦の人ばかりが取り上げられますけれども、日本人の従軍慰安婦の人たちもいたんですよ。いっぱいいたんです。

 でも日本人慰安婦たちは何故取り上げないのかといったら、その人たちが、もう酷い目に遭ったんですね。

 まず、私が何故そんなことを知っているかと言いますと、終戦後にその人たちが満州、つまり今の中国から引き揚げてきたんですね。

 引き揚げてきて私、長崎でございましょう。長崎には丸山遊郭という有名な、女郎さん遊女たちがいて売春する、そういう街があったんですね。
坂本龍馬なども遊んでいたような有名な所ですね、日本の3大遊郭という。

 これが、戦争中にカフェやバーも遊郭もみんな閉店させられて全部が商売営業停止になったんですよ。そしてその人たちは行き場が無くなったんですね。

 どういう人たちが遊女になっているかというと、人身売買が当たり前の時代でしたから、貧しい農家の娘さんたちが、自分が売られていけばお父さんもお母さんも弟たちも飢え死にしないで済むからといって、女衒(ぜげん)と言われる人買いに連れられて遊郭に身を売られていったんですね。

 一家の犠牲になっている貧しいお嬢さんたちが多かったんです。

 閉鎖されて行き場が無くなった時に、軍の出先機関で大政翼賛会という組織があったんです。

 そこの人に「満州に良い仕事があるぞ」と声をかけられ、カフェとか遊郭があるから、そっちへ行って稼げばいいということで、そして喜んでそちらへ行ってみたらなんと、話が違って従軍慰安婦だったというんですね。

 従軍慰安婦の人たちは、軍に従うと書いてあって第一線を付いて周るんですね。
そして筵(むしろ)みたいなものを敷いて、コーリャンという麦よりももっと不味(まず)い穀物で作った真っ黒いおにぎりですけれど、私も長崎で食べたことがありますけれど、食べられた物じゃないです。

 それを枕元に置いて食べながら、表には兵隊たちが木札をもってズラリと並んで、それを一人ひとり(セックスの)相手をして。

 そして敵が来たら身を守るためといって銃の練習をさせられて、敵が押し寄せてきますでしょう、馬賊とか匪賊(ひぞく)とか。そうすると兵隊と一緒に戦うんですって。

 戦って流れ弾に当たって死んだら、今度は日本婦人がそういうことをしていたというと恥になるからといって、モンペやなにかを脱がして支那服に着替えさせられて、そして放り出されるんですって。

 そして埋めてももらえない。焼いてももらえない。野ざらし、雨ざらし。山犬の食い荒らすままになっていて。

 終戦後に引き揚げてくるときに、まず軍人の将校たちと家族がトラックに乗って逃げて、自分たちは置いてきぼりになったんですって。

 他の移民団、開拓団の人たちと一緒になって、命からがら引き揚げてきて村に帰ったら、村の恥さらしとか面汚しとか言われて。

 そして家へ帰ったら、自分はお父さんお母さん、一家のために売られて行ったのに、「お前のやっていたことが世間様に知られたら、家の恥になる、出て行ってくれ。」と。

 だから、みんな自分が従軍慰安婦だったというのを隠しているんですよ。

 だから日本人の従軍慰安婦は一人も出てきませんでしょう。そういう事情があるんですね。

33. 中川隆[-11450] koaQ7Jey 2019年3月14日 08:20:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[545] 報告

ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇
3/13(水) 19:40配信 AbemaTIMES
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00010024-abema-soci


 ソ連軍が侵攻した旧満州国で男性兵士に性接待をさせられたという体験を日本人女性が告白した。女性たちに一体何があったのか。12日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、当事者の証言などを基に紐解いた。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


日本と満州国の歴史


■子どもたちに語ることができなかった過去

 1932年、現在の中国東北部に建国された満州国。日本政府は補助金を渡すなどして移民を奨励し、およそ800もの満蒙開拓団が海を渡った。

 そして太平洋戦争末期。ソ連軍157万人の勢力が国境を越えて侵攻、関東軍が南満州方面に後退したことで、開拓団も人々が置き去りの状態になり、現地民やソ連軍による略奪や強姦の被害に遭い、村ぐるみの集団自決も相次いだという。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


安江菊美さん


 元黒川開拓団の安江菊美さん(85)は、語り部として地元の小学校を回り、子どもたちに体験を伝える活動をしている。「国境に配置されて、私たちは日本の兵器に使われたと言っても過言じゃない気がする。ソ連兵が入ってきていつ死ぬか分からなかった。隣の開拓団が集団自決して、私の母親も日本刀を枕元に置き、“小さい子を殺すから、お前は自分で死になさい“と、長女の私の枕元には短刀を置いた」。

 しかし、菊美さんには子どもたち語っていない記憶がある。それが“接待所“についてだ。

 極限状態の中、開拓団は生きて日本に戻るため、ソ連の将校らに守ってもらうことを願い出た。その見返りが、18歳以上の未婚女性15人をソ連兵に差し出すことだった。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


黒川開拓団とは


 満蒙開拓平和記念館館長の寺沢秀文さんは「性接待という言葉自体が適切かどうか考えないといけないと思う。性暴力だと言えると思う。他の開拓団も含め、当時、“根こそぎ動員“といって、18〜45歳の男性は兵隊に取られてしまっていて、高齢者、女性、子どもしかいない状況だった。周辺住民などからの暴力から団を守るためにはソ連軍に守ってもらうしかないという極限状態だった。その中で、幹部の皆さんは辛い決断をしていた」と説明する。

そして17歳以下の少年少女たちは、案内係や洗浄係を任されていた。当時小学生だった菊美さんも、性接待に向かう女性たちのために風呂を沸かし、性器を洗浄する係に就いた。「“ソ連兵のところに行くから風呂炊きなさい“と。そして、行ってきたらすぐ医務室に入って洗浄する。兵隊さんの“うがい薬“を薄めてビンに入れて、ホースで洗浄させていた。発疹チフスが流行っても、自分に熱が出ても出ていかれた。助けてくださるという気持ちしか分からなかった」。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


安江善子さん


■2013年、生存者が声を上げる

 2013年になり、そんな辛い体験を打ち明けたのが安江善子さん(当時89歳)だ。

 「本当に悲しかったけれども、泣きながらそういう将校のお相手をしなければいけない。ボロボロになって自分の心の中に寝ても覚めても忘れられない。ときどき夢にうなされて」。講演でそう語った2年後に、善子さんは亡くなった。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


善子さんの遺した手記


 生前の善子さんに事実を語り継ぐよう頼まれ、手記を託された菊美さんだったが、「今までずっと見せなかった」と話す。

 善子さんの手記には「べにや板でかこまれた元本部の一部屋は、悲しい部屋であった。泣いても叫んでも誰も助けてくれない。おかあちゃん、おかあちゃん、の声聞こえる」と綴られていた。銃を持ったままのソ連兵に怯える女性たちの泣き叫ぶ声が響いた接待所は、400人が避難する旧国民学校の校舎のすぐ裏にあったという。

 「ダーっと部屋が並んでて、みんな雑魚寝みたいな格好で。(ソ連将校は)何人もいるから、1回に4人くらいいくよ。大人はみんなわかってるから近づかない。大人がやらせてるんだから」(菊美さん)。

 黒川開拓団の曽我久夫さんによる手記には「接待するこの乙女たちの泣き声がもれてきた。我々団員は心の中で泣いた」と綴られている。また、別の接待役の女性は「汚いものを触るみたいに、銃の先で私たちを動かして、銃を背負ったまま私はやられた。抵抗して暴発したら死んでしまう。友達と手を繋いで“頑張りなね“しか言えない状況だった」と証言。「ベルトが外れる音がずっとトラウマになってこの70年頭から離れることがなかった」と語る女性もいた。

岐阜県・ひるがの高原に住む佐藤ハルエさん(94)も、そんな悲惨な体験をした黒川開拓団の一人だ。「“団を守るために、どうか頼む““あんたら娘だけでどうか頼む“って。それは忘れない。頑張ってどうにかして日本に帰りたい。それだけが念願で、犠牲になった。当番が決めてあった。今夜はこの人、明日はこの人って回ってきて。みなさん病気になられて、順々に亡くなっていった」。

 総勢約600人で満州に入植した黒川開拓団は約400人が生還した。しかし犠牲になった女性たちを待っていたのは、身内からの中傷だった。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


佐藤ハルエさん


 菊美さんは「接待に出てくれと頼んだ人が、帰ってきてから“いいことした“でいいじゃないか、って中傷した。酷いと思うよ。そんな無責任なことはないってみんな泣いて怒ってたけどね」。

 故郷を離れ、独身のまま亡くなった人もいる。ハルエさんも、弟から“黒川では嫁のもらい手がない“と言われて故郷を離れた。そして他の村の出身だった健一さんと結婚し、荒野だったひるがの高原の土地を開墾し、酪農を始めた。「ここで乳絞りましたけどね。大きな借金をして。主人だって義勇隊で満州体験して南方から帰ってきたんで、何もかもわかってくれて、本当に良い主人だった」と厩舎で語るハルエさん。
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佐藤茂樹さん


■当事者たちの親族の苦悩

 戦後を生き抜き、子どもも孫もできた女性たちが、近年になって事実を明かした理由は何だったのだろうか。

 ハルエさんは「もうそういうことを公表しようと思う犠牲者もいないでしょう。亡くなっちゃって。みな揃って帰ってこれた。その元になれたと思えば、今生きているうちに喋るのは恥ずかしいこととも何とも思わない」と振り返る。

 しかし、周囲の人たちにとっても、この事実は重いものだった。ハルエさんの息子・茂樹さん(65)は「いくら母親でも、そういう体験があったことは子どもとしては嫌だった部分があった」と話す。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


安江泉さん


 また、善子さんの長男・泉さん(65)は「我々には一言も言わなかったことを表で発表したところに重要度を感じる。“性暴力は発表するものじゃない、隠すものだ”っていう思いが、帰ってきてからの彼女たちを何十年も苦しめた」と話す。


ハルエさんが「お父さんが来られると“嫌だ“と思った」と振り返るのが、8年前に黒川開拓団遺族会の会長になった藤井宏之さん(67)の父親だ。当時、女性たちをソ連兵に差し出す“案内係“をしていた開拓団員だった。

 遺族会会長になって初めてその事実を知った藤井さんは、犠牲になった女性やその遺族を訪ねて回り、タブー視されてきた史実を碑文として残すことを呼びかけた。「碑文は役員会を何回も開いて当時の人たちの気持ちになって作ったものですから」と藤井さん。菊美さんは「藤井さんは責任を感じている。(碑文を)書き直しては、これでいいか、これでいいかと何枚紙をもらったやら」、元団員の新田貞夫さん(83)は「何回も手を入れた。反対意見もあったようだし、いろいろあったが、私はよかったと思っている」と明かした。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


“乙女の碑文“


 そして去年11月、女性たちの勇気ある告白と、それを受け止めた家族。そして開拓団遺族の贖罪の気持ちが結実した“乙女の碑文“が完成した。

 碑文には「生きるか死ぬかを選択させられた黒川開拓団の幹部は、生き抜くことを選んだ。(中略)。数えで十八歳以上の未婚の女性たちを集め、ソ連軍将校に対する『接待役』を強いた。女性たちは逃げたかったが団全体の生死が関わる事態に嫌だとは言えず交代で相手をさせられた。日本への引き揚げ後も恐怖は脳裡に焼きつき、その上中傷もされた」と、性接待の事実が刻まれている。ハルエさんは「書いてもらった方がいい。そういう歴史があったことを伝えていかなきゃならん。そういうことを伝えていくのが生きとる者の大きな使命じゃないか。本当にはっきりした。あれができて、私は死んでも後悔はない」と清々しい表情で笑顔を見せた。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


藤井さんと佐藤さん


 しかし藤井さんは「これを掲げたから終わりじゃない。生存している方に寄り添っていかなきゃいけない」と話し、今もハルエさんや遺族たちの所に足を運ぶ。「ハルエさんたちのおかげで、今の僕らがここに生きてる。もっと早くああいったことをしなくちゃいけなかったと思ったし、申し訳なかったと思ってる」とハルエさんに語りかけていた。

 善子さんの長男・泉さんは「戦争という異常状態になってしまうと何が起きるか分からないわけでしょ。性接待の問題も行けといったのは同じ団の人たちなんだから。皆おかしくなっちゃう。そういう状態に陥らないように努力するのが我々の大事なことだろうと思う」と語っていた。

■“第二の加害者“が生まれた理由に向き合うべき

 性接待をした15人の女性たちのうち、4人は現地で亡くなり、祖国の土を踏むことはなく無かった。健在なのはハルエさんを含む4人だけになった。

 寺沢さんは「黒川開拓団の問題を含め、満蒙開拓、あるいは満州開拓というのは戦後あまり語られてこない、送り出した側としては国民を危険な場所に追い込んだ、いわば不都合な歴史だからだ。しかし、不都合なことに目を瞑る社会はまた同じ過ちを繰り返す。悲しい経験をした人々の言葉に向き合って、二度と同じような悲しい犠牲者を出さないような国や時代にするにはどうすればいいか、学んでいかなければいけないと日々思っている」と話す。
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ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇


小川アナ


 ライターの速水健朗氏は「この問題には、“第二の加害者“がいると思う。それが日本帰ってきた後、犠牲にした未婚の女性たちを共同体に受け入れなかった人たちだ。なぜそういう排除が起きたのか知りたいし、そこに向き合わないと、この問題を受け止めたことにはならないと思う」と指摘。小川彩佳アナは「私たちは、戦争の中に生きた人たちの生の声を聞ける最後の世代ともいえる。この女性たちにとって、戦争はずっと続いていたんだなと感じた。何度も言葉で蹂躙され、トラウマに苦しめられ、どれだけのことに耐えてこられたのか。敬意を表する。最近のMeTooの流れとシンプルに一緒にしてしまうのは良くないが、共感してもらえるかもしれない、という望みも生まれているのだと思う。そういう女性たちの癒やしていくことができるのであれば、共有し、共感して、戦争の地続きの今を感じることが必要だ」とコメントしていた。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)

34. 中川隆[-8856] koaQ7Jey 2019年8月10日 20:01:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3877] 報告
1日に何十人もの米兵と……! 歴史の闇に葬られた「日本の慰安婦」たち 2018年7月30日掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/07300650/?all=1

終戦から2週間足らずで慰安所第1号が開業


 太平洋戦争終結から73年。戦争を知っている世代が絶える時も着々と近づいているが、歴史にはまだまだ埋もれた秘話がある。たとえば、日本にも「慰安婦」がいたという不都合な真実――。

 終戦から2日後の8月17日、東久邇内閣が成立。最初の閣議後すぐに、国務大臣の近衛文麿は警視総監の坂信彌に対し、「日本の娘を守ってくれ」と依頼した。坂はすぐさま東京都料理飲食業組合の役員2名を呼びつけ、「特殊慰安施設協会」(通称RAA)の設立を指示。設立声明では「狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と謳った。(RAA協会沿革誌より)

「進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」という求人看板が銀座のど真ん中に立ち、8月27日には慰安所第1号として「小町園」が東京都大田区に開業。終戦から2週間足らずである。開業までのスピードも目覚ましかったが、規模も空前絶後だ。小町園を皮切りに、立川、調布、福生、北多摩、築地、人形町、向島などに次々と慰安所が開業、千人規模の慰安婦を募集する求人広告が新聞紙上を頻繁に賑わせた。5千人の女性が慰安婦として肉体を酷使したとされる。

 集められた慰安婦たちは大部屋をカーテンなどで仕切っただけの場所で、1日に何十人もの米兵の相手をさせられた。60人という記録もある。数十分に1人とセックスした計算だ。当然、劣悪な環境下で性病にかかったり、腰が立たなくなったり、精神に異常を来す女性が続出。鉄道に飛び込んで自殺した19歳の女性もいた。慰安所では毎日血にまみれた洗濯物が風にひるがえっていたにちがいない。「日本の娘を守ってくれ」の結果が、この阿鼻叫喚の風景だったのである。


『水曜日の凱歌』
乃南 アサ 著


 RAAをとりあげた小説『水曜日の凱歌』(乃南アサ著)にこんな一節がある。慰安婦たちと同居することになった14歳の少女の前で警察官に、ある慰安婦がこう絶叫するのだ。「日本の男ども! 誰もかれも、女のまたの間から生まれたくせに、その恩も忘れやがって、利用するときだけしやがって! 戦争中は『産めよ殖(ふ)やせよ』で、戦争に負けた途端に、今度は同じまたを外人どもに差し出せとは、何ていう節操のなさなんだっ!」。見てはいけないものを見てしまった多感な年頃の少女の気持ちを思うと切ない。

 占領軍は1946年3月、兵士に性病が蔓延するのを怖れ、慰安所への立ち入りを禁止した。「民族の純潔」という美辞麗句のために売り飛ばされた上、今度は職を失った「新日本女性」たちは、街娼となって街の闇へと消えていったのであった。
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/07300650/?all=1

35. 中川隆[-8685] koaQ7Jey 2019年8月23日 14:16:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4062] 報告

忘れられた国家売春の過去 2019/8/23
江刺昭子
https://this.kiji.is/537464166415926369?c=39546741839462401

1945(昭和20)年8月30日、厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥(中央)。先遣隊のアイケルバーガー米第8軍司令官(右端)らが出迎え

 74年前の夏、敗戦で多くの日本人が茫然自失しているなか、東久邇内閣が手をつけたのは、占領軍将兵に女を提供する慰安所をつくることだった。

 終戦からわずか3日後の8月18日、内務省警保局長が現在の知事にあたる全国の府県長官宛てに「外国軍駐屯地における慰安施設について」を打電。速やかに性的慰安施設、飲食施設、娯楽場を設けるよう指令した。

 国務大臣の近衛文麿は警視総監を呼んで、「国体護持」のため慰安所設置の陣頭指揮をとるよう要請している。国体とは天皇を中心とした国家体制のこと。それと売春施設はどう関わるのか。事態の推移がそれを明らかにする。

 これを受けて警視庁は東京料理飲食業組合の組合長らを呼び出し、資金は政府が援助するから、至急、各種慰安施設をつくるよう命じた。

 都下の接客業7団体を擁する同組合は、23日には特殊慰安施設協会(のち「RAA協会」と改称=Rはレクリエーション・Aはアミューズメント・最後のAはアソシエーション)を立ち上げ、28日に皇居前広場で宣誓式を行っている。ついこないだ、天皇の終戦詔勅を聞いて集まった人びとが地べたに伏して嗚咽(おえつ)した場所である。

 協会は「新日本再建の発足と、全日本女性の純血を護るための礎石事業たることを自覚し、滅私奉公の決意を固めた」と胸を張っている。(『RAA協会沿革誌』)

 「全日本女性の純血を護る」とはどういうことか。

 昨日まで「鬼畜米英」と呼んだ軍隊がやってくる。そうなると日本民族の純血が汚れる。国民が騒ぐ。国体の護持が危うくなる。「性の防波堤」として女性たちを差し出そうというのである。

 28日は占領軍の先遣隊が上陸した日で、協会は女性をかき集めて大森海岸に第1号慰安施設「小町園」をオープンしたが、慰安婦の数が足りない。

 そこで事務所を構える銀座7丁目の「幸楽」前に看板を出した。

 「新日本女性に告ぐ 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳迄。宿舎、被服、食糧全部当方支給」

 新聞にも「急告 特別女子従業員募集 衣食住及高給支給 前借ニモ応ズ 地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス」という広告を載せた。

 戦災で親や家を失い途方にくれている女性たちにとって、住む場所だけでなく、食べる物も着る物も支給してくれるとはありがたい。まさか売春が仕事とは思わず、第一次募集だけで千人以上も集まったという。

 神奈川県では警察部保安課が挙げて取り組み、横浜や横須賀など県下23カ所に慰安施設を設けた。その一つはマッカーサーが来日直後に執務室として使ったホテルニューグランドの目と鼻の先にある互楽荘。400室もあるモダンなアパートメントだった。

 小町園にも互楽荘にも占領軍将兵が長蛇の列を作った。それでも米兵による多数の強姦・強盗があったことが記録されている。

 ところが、慰安所に並ぶ兵士たちの写真が米国のメディアで報じられたことから、米国の留守家族や女性団体からの抗議がマッカーサー司令部に殺到。性病もはびこったため、GHQは46年1月、各地の慰安所を「オフ・リミット」にした。「国体護持の女」は放りだされ、許可を受けた集娼(しゅうしょう)地域に流れるか、「パンパン」「闇の女」と呼ばれる街娼(がいしょう)になっていった。

 歴史上、戦争で負けた国はたくさんあるが、政府と警察が主導して占領軍相手の売春施設をつくった国は聞いたためしがない。日本は明治以来、公娼(こうしょう)制度を設け、軍隊の行く先々に慰安婦を伴って当然とした国である。男性それぞれが自分の所有物とみなしている妻・娘・良家の子女たちに害が及ばないように、一部の女性たちの性を犠牲にしたことになる

 日本の女性団体も黙っていたわけではない。明治時代から廃娼運動をしてきた日本基督教婦人矯風会が内務省にRAAの廃止を求めた。だが、それは慰安婦の存在が「国家の恥辱」だからという理由であって、彼女たちの人権問題とはとらえていない。女性たちは分断されていたのだ。

 正史はこの国家売春の過去を顧みない。敗戦後の混乱期のこととして忘れ去り、消し去っているかに見える。

 だが、今もセクハラなどの性暴力がまかり通っているのは、こうした過去に真摯に向き合わってこなかったからではないか。自分の生と性をどのように生き、他者のそれをどのように尊重するか。重い教訓が含まれているはずだが。(女性史研究者・江刺昭子)
https://this.kiji.is/537464166415926369?c=39546741839462401

36. 2020年6月24日 05:41:04 : 6DMAcH498w : YVZGVE5NNDQyWXM=[2] 報告
1日に何十人もの米兵と……! 歴史の闇に葬られた「日本の慰安婦」たち
2018年7月30日掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/07300650/?all=1


終戦から2週間足らずで慰安所第1号が開業。劣悪な環境下で性病にかかったり、腰が立たなくなったり、精神に異常を来す女性が続出。鉄道に飛び込んで自殺した19歳の女性も(他の写真を見る)



 太平洋戦争終結から73年。戦争を知っている世代が絶える時も着々と近づいているが、歴史にはまだまだ埋もれた秘話がある。たとえば、日本にも「慰安婦」がいたという不都合な真実――。

 終戦から2日後の8月17日、東久邇内閣が成立。最初の閣議後すぐに、国務大臣の近衛文麿は警視総監の坂信彌に対し、「日本の娘を守ってくれ」と依頼した。坂はすぐさま東京都料理飲食業組合の役員2名を呼びつけ、「特殊慰安施設協会」(通称RAA)の設立を指示。設立声明では「狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と謳った。(RAA協会沿革誌より)


「進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」という求人看板が銀座のど真ん中に立ち、8月27日には慰安所第1号として「小町園」が東京都大田区に開業。終戦から2週間足らずである。開業までのスピードも目覚ましかったが、規模も空前絶後だ。小町園を皮切りに、立川、調布、福生、北多摩、築地、人形町、向島などに次々と慰安所が開業、千人規模の慰安婦を募集する求人広告が新聞紙上を頻繁に賑わせた。5千人の女性が慰安婦として肉体を酷使したとされる。

 集められた慰安婦たちは大部屋をカーテンなどで仕切っただけの場所で、1日に何十人もの米兵の相手をさせられた。60人という記録もある。数十分に1人とセックスした計算だ。当然、劣悪な環境下で性病にかかったり、腰が立たなくなったり、精神に異常を来す女性が続出。鉄道に飛び込んで自殺した19歳の女性もいた。慰安所では毎日血にまみれた洗濯物が風にひるがえっていたにちがいない。「日本の娘を守ってくれ」の結果が、この阿鼻叫喚の風景だったのである。

 RAAをとりあげた小説『水曜日の凱歌』(乃南アサ著)にこんな一節がある。慰安婦たちと同居することになった14歳の少女の前で警察官に、ある慰安婦がこう絶叫するのだ。「日本の男ども! 誰もかれも、女のまたの間から生まれたくせに、その恩も忘れやがって、利用するときだけしやがって! 戦争中は『産めよ殖(ふ)やせよ』で、戦争に負けた途端に、今度は同じまたを外人どもに差し出せとは、何ていう節操のなさなんだっ!」。見てはいけないものを見てしまった多感な年頃の少女の気持ちを思うと切ない。

 占領軍は1946年3月、兵士に性病が蔓延するのを怖れ、慰安所への立ち入りを禁止した。「民族の純潔」という美辞麗句のために売り飛ばされた上、今度は職を失った「新日本女性」たちは、街娼となって街の闇へと消えていったのであった。

デイリー新潮編集部
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/07300650/?all=1

37. 中川隆[-11364] koaQ7Jey 2020年9月15日 16:54:47 : CPdEo490W2 : Lm5MY01XbzF4VlU=[15] 報告

からゆきさん 2020年09月15日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1249.html

 明治新政府が成立して、日本政府が、島原や五島周辺の貧しい娘たちを、海外に連れ出して売春させ、ピンハネしていた歴史的事実を明らかにしたのは、山崎朋子の小説「サンダカンダ8番館」であり、熊井啓によって映画化された。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%AB%E3%83%B3%E5%85%AB%E7%95%AA%E5%A8%BC%E9%A4%A8_%E6%9C%9B%E9%83%B7

 これは「からゆきさん」と広く総称され、明治末まで、性奴隷売買として政府の介入によって行われた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%95%E3%82%93#:~:text=%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%95%E3%82%93%EF%BC%88%E5%94%90%E8%A1%8C%E3%81%8D,%E3%81%8C%E4%BB%8B%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 明治政府で、性奴隷売買に関わったのは、三菱創業者である岩崎弥太郎や福沢諭吉であるという。

 明治維新は、日本の女子に何をやったのか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=360170


 日本史を探れば、日本女性を性奴隷として海外に売り飛ばした者たちは少なくない。
 古代史には、「生口」と呼ばれる、日本人奴隷が多く海外に売り飛ばされたとの記述が複数ある。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%8F%A3

 http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-2/2-3-4.pdf

 日本に火縄銃を伝えたポルトガル人は、銃器や火薬を大名に売って、見返りとして、莫大な金銀や、若い娘たちを性奴隷として船で連れ帰った。
 娘たちは、アジア各地の交易港で下ろされて、現地の奴隷市場で売られ、残酷な人権侵害に遭っていた。
 https://www.susanoo.net/historical-fact/japan/japanese-slave
 これを、遣欧使節団らが記録に残している。その総数は50万人に達していたとされる。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93

 歴史上、もっとも残酷かつ醜悪だったキリスト教(カトリック)2020年08月17日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-date-20200817.html

 この性奴隷貿易に関与したのは、小西行長らキリシタン大名であるともいわれるが、歴史ドラマなどで人間性豊かな大名として描かれていた彼らが、背後で奴隷売買を行っていたとするなら、歴史的評価は一変するものになる。
 また秀吉や家康の、バテン連追放弾圧令も、再評価されるべきだろう。

 さらに、明治新政府の要人たちが、性奴隷貿易にかかわっていたとするなら、明治新政府に対する評価も一変させなければならない。
 実は、明治新政府は、甚だしい人権侵害でも利益のためなら平然と実行するような浅ましい、利権第一主義のような発想をする要人たちが少なからずいて、新政府に招かれて、北海道で高級官職を与えられた松浦武四郎も、その官僚制度の汚さに不快感を抱いて、職を蹴飛ばして故郷に戻った。

 台湾総督府初代長官だった後藤新平は、台湾でアヘンを大量に売りさばいて、民衆の資産を吸い上げた。これをモデルにして、麻薬王と呼ばれた里見甫が、岸信介らと共謀して、中国・満州・朝鮮で大規模な日本政府によるアヘン密売組織を成立させたのである。
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-320.html

 当時、清国アヘン戦争問題もあって、すでにアヘン売買は国際的に犯罪視され、日本国内でも強く規制されていたにもかかわらず、後藤新平や日本陸軍は、独立派の弱体化と、資金吸い上げを狙って実行した。

 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 人倫を放棄してでも、カネの荒稼ぎを狙った性奴隷やアヘン売りつけの手口を見れば、明治新政府の一部は、完全にマフィア化していたと言うべきだろう。
 従来の歴史観は、日本を美化したがる輩によって虚構の歴史が作られていたのだ。

 その意味では、明治政府による明治天皇の捏造=孝明天皇を伊藤博文・井上馨らが暗殺し、代わりに、自称南朝末裔の大室寅之佑を明治天皇にでっちあげた史実を含めて、明治政府の虚構性について、知っておくべきである。
 そもそも、天皇家は、幕末まで、幕府にとっても、民衆にとっても「伊勢神宮の大神主」にすぎなかった。
 これを「2600年続く日本の現人神」に仕立て上げ、国民に信仰を強要したのが、山県有朋だった。

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-date-20181006.html

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-332.html

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-333.html

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-334.html

  http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-335.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-336.html

 これによって、民衆は見事に洗脳され、「天皇様のおかげで日本があり、自分たちの生活がある」と勘違いさせられた人々を大量に生んだ。
 このことを、私が繰り返し書いていて、その結果、「家を燃してやる」とか、「殺してやる」とかの脅迫を数十回も受け続けた。
 これを信奉しない人間は、真実の有無、正義ではなく、無条件に弾圧し、殺害してきたのが日本政府なのだ。
 だが、誰かが真実を明らかにしなければならない。

 この日本女性の人身売買が、たった今、現代も大規模に続いているとすれば、あなたはどうする?

 統一教会 その1 2018年05月09日
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-341.html

http://aszxcv.blogspot.com/2011/09/blog-post.html

 http://the-soliloquy-of-ishikawa-quon.blog.jp/archives/1064999000.html

 統一教会は、日本の若い女性を信仰で洗脳し、合同結婚式という幻想を用意して、多くを韓国の貧村のDV男の嫁に送り込んだ。
 彼女らは、故郷との連絡も絶たれ、性奴隷として事実上監禁状態だといわれる。
 これを指図したのは、文鮮明である。この男は、「日本の娘を韓国の貧村に送り込んで性奴隷にすることが、戦前の日本支配に対する報復になる」と発言している。

 つまり、現代にあっても、統一教会によって、日本の娘たちが性奴隷として韓国に売り飛ばされているのだ。
 こんなことが放置されるなら、ザビエルの時代と、何ら変わりないではないか?
 日本女性は、性奴隷に売り飛ばされるために生きているのではない!
 韓国は、今すぐ、統一教会に洗脳されて、性奴隷として送り込まれた日本女性を帰せ!
 それは、北朝鮮による拉致問題より、はるかに大きく深刻な問題なのだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1249.html

38. 2021年8月17日 10:12:40 : sazZhf9RME : bHZwdXZPbWZIMWs=[13] 報告
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