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原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 3 月 14 日 16:54:33: 3bF/xW6Ehzs4I
 

広島原爆投下
http://www.youtube.com/watch?v=7OCkNa41A6g&feature=related

原爆 10秒の衝撃
http://www.youtube.com/watch?v=U835yjBMtk8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=t2WDX6OL3wA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=pBPBaqjWp8o&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Nho4MEK8ZfE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=DaWeJW9jSyk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=--7-TBCqHe0&feature=related


1. アメリカ人の原爆観
 
 フィラデルフィアで林間学校に参加していた16歳の時だった。ラジオで原爆投下を知った。周囲の子どもたちは歓声を上げた。私は我慢できず、一人で森の中に入り数時間戻らなかった。

もっと衝撃を受けたのは、ポルノ映画との触れ込みで50年代にボストンで上映された「ヒロシマ」という題の映画で、被爆者が沸騰した川に飛び込む映像を見ながら、観客が大笑いしていた光景だ。
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/428.html

ルーズベルト「日本人は獣である」

「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。

一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。 当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。

「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」

「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」

 
当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。

「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない!」


ウィリアム・ハルゼー海軍元帥

 日本軍との戦闘に際し「敵を殺せ!敵をもっと殺せ!猿肉をもっと作れ!」

など度々過激な発言を繰り返したことで知られているが、日本への原爆投下
に対しては批判的だった。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#ex15

ハイドパーク協定

1944(昭和19)年9月18日

フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相が
米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆投下と将来の核管理について
申し合わせた秘密協定

1972(昭和47)年に初めて公開された

ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸でルーズベルトと会談した英国の
ロナルド・キャンベル大使がルーズベルトから「劣等アジア人種」の品種改良と
いうとんでもない提案を受けたと本国に宛てた書簡に書き残している。

「インド系、あるいはユーラシア系とアジア系を、さらにはヨーロッパ人とアジア
人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。
ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」

ハル・ノート:日本が対米開戦を決断した無理な米国側の要求。

       米国に潜伏するソ連スパイが日米を衝突させるために作成した。
http://mikomo.hp.infoseek.co.jp/a-f2.htm#03

トルーマンのカバートへの返事

1945年8月11日

日本人の理解する唯一の言語は、彼らを爆撃することのように思われます。
獣と相対したときは、獣として扱う他はありません。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/RE_sammuel_1945_8_11.htm


トルーマン回想録

"Japanese are beast. So are treated as"(「日本人は獣だ。だから、そのように扱った」)


アメリカからみると対独戦より対日戦の方が、はるかに「人種戦争」という面が濃厚であった。

ダワー教授によれば、アメリカ側の、日本人に対するステレオタイプの典型は「猿」であり、野蛮人、劣等人間、人間以下、害虫、と続いた。それは、個性もなく次々とわいてくるものであったという。

ところがアメリカのヨーロッパでの敵は、ドイツ人自体ではなくヒトラー一派であり、ジャーナリズムも、日本軍の残虐行為については盛んに報道したという。

ダワー教授は、このような相手を人間以下とみなす発想は、日本人に対して初めてではなく、歴史上繰り返してきた非白人に対する蔑視、具体的にはインディアンと黒人に投げつけてきた表現が噴出したものにすぎないとしている。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#ex15

 


原爆投下は人間以下の動物とみなされた日本人の大量虐殺が目的だった

ハーバード大学総長で連邦科学行政官のジェームズ・B・コーナントの提案により、陸軍長官ヘンリー・スティムソン は、就業労働者が多数いて、周囲に労働者住宅が密集する軍需施設がもっとも望ましい原爆投下の攻撃対象になるだろうと同意した。  これについてネーション誌は次のように解説している。

 お上品な婉曲表現を剥ぎ取って考えれば、この議事録は非戦闘員である労働者とその妻子を殺戮する意図をはっきりと謳っている。これは第二次世界大戦の残虐行為の一部であった。

さら続けて、ネーション誌は指摘する。

 広島は軍事上の攻撃目標ではなかった。住民の大部分は非戦闘員だった。広島を原子爆弾の攻撃目標とするにあたって、米軍参謀部と文官指導層はそのことを正確に予想していた。原爆を投下する第1の目的は、敵の非戦闘員を大量に殺戮することにあり、さらにこれによって生存者を威嚇することにあった。
http://satehate.exblog.jp/7590315


リンドバーグが見たもの

1927年(昭和二年)にチャールズ・リンドバーグはニューヨークからパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功したが、この偉業は後に「翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」の題名で映画化された。彼は1944年(昭和十九年)にニューギニアの米軍基地で陸軍将校として四ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「第二次大戦日記上巻、下巻」として出版した。

それによると彼は戦場で見たものにショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。

たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラもないことを発見した。

そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単なる動物としか見ていなかった。

(米英にとっての太平洋戦争、下巻)

太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッセル・スーパーは述べています。

「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、気がとがめなかった。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すよりも悪いことではないと言明した。
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/445.html


サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と虐殺が誘発した

 昭和19年7月、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺したいわゆる“バンザイ・クリフ事件” 実は米軍による婦女暴行や虐殺が誘発した事件であったことが生々しい自殺説として『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著に綴られていた。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉である。

その手記の一部であるバンザイ・クリフ事件の項を紹介する。

「いまだにジャングル内に残っている日本の兵隊さん、住民に告ぐ。いまかけた歌は、なんと懐かしい歌ではありませんか。みなさんの幼い頃を思い返してください。一日も早く、平和な日が訪れるのを、故郷の父母が待っていることを忘れないでください」

 そしてさらに、「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」 投降を勧める放送は再三くり返された。 投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。

 我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。距離にして1000米くらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。

 そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。 幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。
 その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。

 やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。 絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかつていった。 ……なんたることをするのだ! 小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった)

 婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。

あの投降勧告はー体なんだったのか。常夏の大空をこがさんぱかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。

 残虐な行為は凄絶をきわめた。火から逃れようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴りとばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。「ギヤッー!」という悲鳴。人間がまるで蛙のようにまた裂きにされ殺されていく……。彼らは、それをやっては大声で笑った。無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。

『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著からの抜粋

ここにこんな写真がある。

これは1943年の「ライフ」誌に載っていた、南太平洋戦線で戦った米兵が婚約者に送った日本人の頭蓋骨である。

「あれがパリの灯だ」で有名な飛行冒険家のリンドバーグの手記に載っていたが、日本兵の捕虜を飛行場に集め、ブルドーザで生きているまま踏み潰した話、たくさんの日本兵の捕虜を殺害し残飯捨て場に捨てた話、この写真のように日本兵の頭蓋骨をお土産に持って帰るのが流行った話おまけにまだ緑色した頭蓋骨(皮を剥いで間もない)を衣のう(軍隊の大型の袋)に入れていて飛行場で注意を受けた話、大たい骨を削って靴べらにするのが流行った話等
http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/24845255.html

エノラゲイの元機長ティベッツは、2年前、我々の取材にこう答えた。

「人類にとって原爆投下が最善の道だった。我々は殺戮を止めたのだ。」
http://www.asyura.com/0505/war72/msg/986.html


注釈: 「我々は殺戮を止めた」の意味 : 害虫駆除には枯葉剤が一番


もし原爆が投下されなければ日本は人間の住めない土地になっていた:

対日枯葉剤(エージェント・オレンジ=ダイオキシン)散布作戦

ベトナム戦争のベトコンへの枯葉剤散布作戦は、もともと太平洋戦争末期、日本人に対して計画されて、幻に終わった作戦だったなんて。

枯葉剤エージェント・オレンジに含まれる史上最強の催奇性物質がダイオキシン。
ダイオキシンの中でも最強の異性体が「2・4・5T]。

この除草剤に含まれる催奇性物質は、DNAの合成を阻害する史上最悪の催奇性物質。

日本の6大都市東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の6大都市周辺の稲作地帯に枯葉剤を散布し、稲の全滅を狙ったらしいです。

ベトナム戦争後の枯葉剤の遺伝的影響を追っているフォトジャーナリストの中村梧郎さんの著書を読むと、その恐ろしさに慄然としてしまいます。

そんな恐ろしいことを日本に対して、計画していたなんて初めて知りました。おぞましさでは、個人的には原爆よりこちらの枯葉剤の方がコワイデス。


ベトナム戦争終結30年を追って=沢田猛

両目のない幼児(手前)ら重い障害の子どもたちを診て回る女性医師=ホーチミン市のツーズー病院内の施設で4月1日、沢田写す

 ◇枯れ葉剤の惨禍に慄然−−幻の対日散布計画も

 戦後60年の夏も終わったが、今年はベトナム戦争終結30年でもある。「北爆」という言葉をご存じの方はいま、どのぐらいいるのだろうか。米軍による北ベトナム(当時)への爆撃を指し、ベトナム戦争が生んだ象徴的な言葉の一つである。そのベトナムでは、戦争の後遺症ともいえる枯れ葉剤被害に苦しむ数多くのベトナム人が癒えぬ傷を抱えながら生きている。その被害の実態を確かめようと半年ほど前、現地を取材した。目の当たりにしたのはまだ終わっていない「戦争」の現実だった。

 15年余にわたるベトナム戦争で、枯れ葉剤が散布されたのは1961年からの10年間だ。米軍は、解放勢力が潜む拠点のジャングルを丸裸にする枯れ葉作戦を展開。総量は9万1000キロリットルと推計され、うち67%がオレンジ剤といわれるダイオキシンを含んだ枯れ葉剤だった。ダイオキシンの全体量は約500キログラムとみられる。

 枯れ葉剤被害調査国内委員会の代表を務めたレ・カオ・ダイ医師が著した「ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ(オレンジ剤)」(文理閣)は「動物実験からある科学者たちが計算した結果によると、ニューヨーク市の780万人の住民は、たった80グラムのダイオキシンが市の水道系に入っただけで全員死に至る」としている。猛毒といわれる理由もここにある。

 散布地域ではがん患者、先天異常児などが多発。2世、3世への影響も指摘される。ベトナム人被害者は100万人以上とされる。

私が訪ねたのはベトナム政府が被害者と認定した2世、3世たち。父、祖父がベトナム戦争に兵士として加わり、戦闘地域で枯れ葉剤を浴び、子や孫たちに影響したとみられる障害児だった。

 ホーチミン市の病院内の施設で、最初に会った幼児(3歳)は多発奇形症候群で知的障害。外見上性別の判断がつかず、両目がなかった。頭がいの下に脳脊髄(せきずい)液がたまる水頭症の女児(2歳)の頭は普通の2歳児の頭のほぼ倍の大きさだ。

 戦後30年のベトナム。そして、戦後60年の日本。枯れ葉剤被害を取材するにつけ、両国の戦争に、ある奇妙な因縁があるという思いを禁じ得なかった。それは、枯れ葉剤がそもそも、敗色濃厚な太平洋戦争末期の日本に散布される予定で準備されていたからである。

 対日枯れ葉作戦計画は第二次大戦中の米国機密文書公開を機に、米科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」に寄せた米スタンフォード大学の歴史学者、バートン・バーンスタイン教授の論文で明らかにされた(87年6月号)。

 同論文によると、45年5月、米陸軍に提出された枯れ葉作戦計画は、東京、横浜、大阪、名古屋、京都、神戸の6大都市周辺の稲作地帯に、枯れ葉剤を散布し、稲の全滅を狙った。しかし原爆投下を優先したことと、日本の降伏が早かったため、枯れ葉剤散布を免れたという内容だ。

 枯れ葉剤被害を30年以上にわたり追ってきたフォトジャーナリストの中村梧郎さん(64)は、「あの当時、日本の配給制度は最悪。そこへ米軍が枯れ葉作戦を展開すれば、日本国内では餓死者続出の状況だった。渡米し、バーンスタイン教授からは日本の降伏が長引けば、枯れ葉作戦は確実に行われたはずだという証言を得た」と話している。

 対日枯れ葉作戦計画は一般には知られていない。もし日本で使用されていたら、どんな被害がもたらされていたか。慄(りつ)然(ぜん)とするのは私だけではないはずだ。
http://asyura2.com/0510/war75/msg/861.html

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2.トルーマンの原爆観

どうしても害虫を駆除したがった_ハリー・トルーマン

トルーマンは、原爆を使わずに戦争を終わらせるなどとは考えもしなかった。

トルーマンは誕生したばかりの超兵器=原爆を使用したくてたまらなかった。人間のいない荒野で爆発させるのではなく、人間が密集する大都市の上で爆発させて、その破壊力を試してみたい気持ちに駆られていたのだ。人体実験をしたかったのだ。

トルーマンは日本から提示された降伏条件をはねつけ、日本への原爆投下を命じた。
しかも無警告で。2発も。そうしたうえでその降伏条件を認めたのだった。

トルーマンは、子供の頃からひ弱い坊やと言われ、ルーズベルトが急死した後を継いで大統領になった時は頼りないと言われた。本人も当初は自信が持てないと日記に書いている。だから、男らしいところを見せようと思って努力しているところへ原爆完成の報告がきたので、早速、原爆投下を決定したのだ。

トルーマンは自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。
トルーマン大統領は原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害した。

そして、被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。


トルーマン前米大統領は2日、CBSテレビ放送番組「今だから話そう」の対談に出演し、

「私は広島・長崎の原爆攻撃を指令したあとに、良心のとがめを少しも感じなかった。
これからも万一の場合、水爆使用はたしかだ」と語った。 〈中略〉

「我々が強力な新兵器を持っていた以上、それが大量殺人兵器だからといって、私はこれを使うことに良心のとがめを感じることはなかった。

戦争には反対だが、勝てる兵器を持ちながら、それを使わなかったとすればバカげたことである。」

トルーマン大統領の「罪」は、原爆の対日投下と、戦後の無秩序な核開発だけにとどまらない。彼は、1947年の国連による「パレスチナ分割案」を強力に後押しし、国連加盟諸国へ脅しの根回しをして、イスラエル建国を実現させた元凶でもあるのだ。
マスコミの連中がトルーマン大統領に聞いた。


「なんであなたはそんなにユダヤの肩ばかり持つんですか?」

トルーマン大統領はこともなげにこう言った。

「だって君、アラブの肩を持ったって、票にはならんだろうが」

このように、トルーマン大統領はユダヤ票欲しさに、イスラエル建国を支持するパレスチナ分割決議を推進したのである。

原爆投下といい、戦後の無秩序な核開発といい、イスラエル建国といい、彼は、自分の下した決定が、どんな深刻な悲劇を生み出すのか、あまり深く考える男ではなかったようだ。(ちなみに、トルーマンは父方がユダヤ系である)。 


不必要だった原爆投下

アイゼンハワー連合軍最高司令官(後の米国大統領)は、ステ
ィムソン陸軍長官から、原爆使用の計画を聞かされた時の事を思
い出して、次のように述べている。

 彼が関連の事実を述べているうちに、自分が憂鬱な気分にな
っていくのが分かって、大きな不安を口にした。まず、日本の
敗色は濃厚で、原爆の使用は全く不必要だという信念を持って
いた。・・・ 日本はまさにあの時期に、「面目」を極力つぶ
さない形で降伏しようとしていると、私は信じていた。[1,p11]

 当時の米陸海軍の高官たちは、異口同音に原爆使用が不必要だ
ったと述べている。たとえば:

   アーネスト・J・キング米艦隊最高司令官:(原爆も日本本
土への上陸作戦も必要ないとして)なぜなら、じっくり待つつ
もりさえあれば、海上封鎖によっていずれ石油、米、薬品など
の必需品が不足し、日本人は窮乏して降伏せざるをなくなるか
らだ。[1,p471]

 カーティス・E・ルメイ陸軍航空軍少将:(B29の空襲に
より、日本にはすでにめぼしい爆撃目標がなくなりつつあり)
ロシアの参戦がなく、原爆がなくとも、戦争は二週間で終わっ
ていただろう。[1,p485]

 同様な見解を漏らした米軍人としては、ウィリアム・D・レイ
ヒ海軍大将・大統領首席補佐官、チェスター・ニミッツ提督、ウ
ィリアム・ハルゼー大将、ヘンリー・H・アーノルド陸軍航空軍
司令官、そしてあのダグラス・マッカーサー元帥など枚挙に暇が
ない。

 これら米軍高官たちの意見を無視して、トルーマン大統領は広
島、長崎に原爆投下を命じた。その狙いは何だったのか?


日本は降伏しようとしている

 「日本は降伏しようとしている」とのアイゼンハワー司令官の
言葉は、まさに当時の米国首脳部に共通の認識であった。

 日本の暗号はすべて解読されており、日本政府内のやりとりは
筒抜けになっていた。7月12日には、東郷外相がモスクワの佐
藤大使にあてた電報が傍受されている。

 天皇陛下は、現今の戦争が日々、すべての当事国の国民によ
り大きな災いと犠牲をもたらしていることに配慮され、心より
早期終戦を望んでおられる。

 そして戦争終結に向けてソ連の支援を要望する親書を携えた天
皇の特使をソ連政府が受け入れるように要請していた。[1,p332]

 日本の降伏に最大の障害となっていたのは、ルーズベルト前大
統領が言い出した「無条件降伏」であった。無条件降伏ともなれ
ば、占領、賠償金、領土割譲、戦争指導者の処刑など、戦勝国に
何をされても文句は言えないわけで、国政に対して責任を持つ政
府が受諾できるものではない。無条件降伏を求める事は、「全滅
するまで戦うしかない」と相手を追い詰めることに他ならない。

 降伏条件を明確にすることで、日本が望む降伏への道を早く開
き、連合国側の犠牲を食い止める事ができる、というのが、当時
の米国首脳部の一致した意見であった。

 トルーマン大統領に対して、「降伏条件の明確化」を訴えてい
たのは、グルー国務長官代行、フーバー元大統領、レイヒ大統領
首席補佐官、スティムソン陸軍長官、バード海軍次官、統合参謀
本部など、米国指導者のほとんどであり、チャーチル首相と英軍
トップの指導者全員がこれを支持していた。[1,p432]

 さらに米国のマスコミも、ワシントン・ポスト、ニューヨー
ク・タイムズ、タイム、ニューズウィークなどが条件明示による
早期戦争終結を主張していた。

削除された「天皇制容認」条項

 日本側が受諾可能な降伏条件として、天皇制の存続を認めるこ
とが不可欠だという点は、米政府内の一致した見解であった。ま
た国内外に残る数百万の日本軍に降伏を受け入れさせるためにも、
天皇の命令が必要だと米軍トップは認識していた。

 このような主張をもとに、米国務省、陸軍、海軍三省の合同委
員会によってまとめられたポツダムでの声明案第12項には、次
のように、天皇制の存続を認める一節が含まれていた。

 これらの目的が達成され、日本国民の総意を代表する平和志
向で責任ある政府が疑いの余地なく樹立されるのと同時に、連
合国の占領軍部隊は日本から引き揚げる。

 そのような政府が将来の日本において侵略的な軍国主義の台
頭を許さないという決意で平和の政策を実施すると、平和を愛
好する国々(連合国)が確信をもてれば、現在の皇室の下で立
憲君主制ということもありうる。[1,p430]

 しかし、7月26日に発せられたポツダム宣言では、この後半
部分がトルーマン大統領とバーンズ国務長官により削除された。

 日本政府はそのために、ポツダム宣言をいったんは「黙殺」し
たが、8月6、9日の広島、長崎への原爆攻撃、および、8日の
ソ連の宣戦布告の後の10日、「国家統治の天皇の大権にいかな
る変更も加えるものではないという了解のもとに」受諾した。
翌11日、連合国側から日本の降伏を受け入れる回答がなされた。

 日本側の条件は、まさにポツダム宣言から削除されていた天皇
制容認条項と合致している。トルーマンはこの条項を一旦削除し
た上で、日本側から要求されると、すぐに了承したのである。

 マッカーサーは「アメリカが後に実際にそうしたように、天皇
制の維持に同意していれば、戦争は何週間も早く終わっていたか
もしれなかった」と述べている。[1,p508]

 となると、問題なのは、なぜトルーマンが一時、ポツダム宣言
から天皇制容認の条項を削除したかである。大統領の7月25日
の日誌にはこうある。[1,p436]

 われわれはジャップに降伏して命を救うように要請する警告
の声明を発表する。だが、やつらは降伏しないであろう。

 トルーマンは日本が受諾しないだろうと知りつつ、ポツダム宣
言から天皇制容認条項を削除し、戦争を長引かせるような措置を
意図的にとった事になる。

 そして、同じくこの25日早朝には、ポツダムからワシントン
の国防総省に、「8月3日以降なるべくすみやかに原爆を落と
せ」という命令が届けらた。原爆投下はポツダム宣言発表の前日
に、すでに命令されていたのである。

 トルーマンの意図について、歴史家のハーバート・ファイスは
こう述べている。[1,p457]

 原爆の威力を実際の戦闘で実証すれば、ソ連と対立していた
問題の解決でアメリカ政府の威信を効果的に増大できるだろう
と考えられていたことは大いにありうる。

 そして、彼らは誇示する力が強力であることを望み、また、
それは原爆の威力がおびただしい数の死傷者によって示されて
初めて可能だと考えられたと、さらに推論することができる。

 トルーマンは、ソ連を威圧し、極東での発言権を封じるために、
原爆の威力を実戦で見せつけ、原爆が−ソ連参戦でなく−日本を
降伏に追い込んだという形を狙った。そのためには、原爆投下前
の日本降伏は避けねばならず、ポツダム宣言を日本がすぐには受
諾できないように改変した。これが、[1]の著者アルペロピッツ
が唯一成り立ち得る仮説として述べているものである。

 原爆投下は第2次大戦最後の軍事行動というより、ロシアと
の外交上の冷戦における最初の主要な作戦だった。(イギリス
のノーベル賞物理学者P・M・S・ブラケット)[1,p181]
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog099.html


どうしても害虫を駆除したがった_ヘンリー・スチムソン陸軍長官

ヘンリー・スチムソンは、セオドア・ルーズベルト大統領の時代に政権に入り、以後、1950年に死ぬまで、7人のアメリカ大統領に仕えたことで知られている。第二次世界大戦中は、「マンハッタン計画」の最高責任者を務め、広島と長崎への原爆使用を決定した。

それ以前に、彼は、ロンドン海軍軍縮会議においてアメリカ代表団議長として、また、フーバー政権の国務長官として、日本海軍力の制限のために中心的に働いた。さらに、フランクリン・ルーズベルト政権においては、経済封鎖によって日本を窮地に追い込み、真珠湾攻撃へと駆り立て、ついに、アメリカを太平洋戦争に参加させた張本人である。

ルーズベルト大統領が急死すると、彼はトルーマン大統領の背後で、実質的にアメリカの戦争を指揮した。(トルーマンはスチムソンを全面的に信頼した)。
戦争が終わると、スチムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と発言(1947年2月)。

これが原爆使用正当化の定説となった。(「原爆神話」の誕生)。

スチムソンは、日系アメリカ人を強制収容所に送った最高責任者でもある。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#ex15


害虫駆除の実施はこうやって決められた:

英国政府は、米国が原子爆弾を使用する決定を「独立」と呼称して、米独立記念日〔7月4日〕の日、それを歓待することに決定した。

 その日、東京では、スイスからの新たな情報について協議していた。その情報とは、陸軍の主席和平特使である岡本中将からのものであった。岡本は第三者を通じ、在欧OSS(戦略事務局)長官、アレン・ダレスに、もしありうるなら、どのような事項を日本に譲る用意がありうるのか、探りを入れていた。これに対するダレスの返答は、「もし日本が降伏するなら」、連合軍が天皇制の持続を許すことになるであろうと米国は「理解」している、というものであった。

それは、数ヶ月前、日本の指導者たちが、最悪の場合が生じた時、その解決のために必要なただ一つの条件であった。しかし、それをどれほど信頼してよいものか、誰にもわからなかった。日本のスパイたちは、中国で、あてもなく、その確証をえようと打診を繰り返した。一方、7月2日、インディアナ出身の上院議員、ホーマー・カペハートは、「日本の降伏は差し迫っており」、「天皇の地位の持続のみが決定されるべき条件となっている」、と米国議会で発言していた。

 7月半ばに予定されているポツダム会議では連合軍指導者たちが東洋の命運を決定しようとしているとの報が、海外放送の分析から、裕仁に届けられた。またトルーマンは、日本への攻撃にアメリカ兵の損失を減らすため、ソ連軍や中国軍さえ合流させることを考えているかもしれなかった。

ソ連の参加という考えは戦慄をもよおさせるもので、かつ、中国による報復という考えは、冷たい汗を流させるに充分であった。

ワシントン時間の7月14日、連合軍の指導者たちがポツダムへと向っている時、最初の原子爆弾が、テストのため、ニューメキシコ州の砂漠にある塔の先に取り付けられていた。7月17日、ポツダム会談の朝、トルーマンはテストの結果についての最初の報告を受けていた。 その爆発の効果は、TNT火薬に換算して 2万トンであった。

7月22日、チャーチルは、詳細報告書を読んだ後、自分の椅子から前に乗り出し、葉巻を振り回して厳粛に言い放った。「スティムソン、火薬が何だ。とるに足らん。電気が何だ。無意味だ。原子爆弾は憤怒したキリストの再来だ。」

 チャーチルは後にこう付け加えている。「日本を降伏させるために、原子爆弾を使用するか否かの決断は、問題とするほどのことではない」。しかし、トルーマンにとっては、それは懸念の種であった。7月18日、その爆弾の能力についての報告を受け取った日、彼は軍事顧問あるいは価値ある意見が期待できるあらゆる人に相談をもちかけた。また、ポツダムを訪れていたアイゼンハワー将軍は、後年になって、その同じ日のことをこう回顧している。大統領から打診された彼は、「そうしたことを決して行ってはならないと考えること自体が、戦争を何か悲惨で破壊的なものへと導くのではないか」と自分の意見を述べたという。

 スティムソン陸軍省長官は、その爆弾は日本人が求めている降伏への口実を提供する可能性があり、「そもそも米国が言う無条件降伏とは何かを天皇にさとさせる、もっとも考えつくされた方法」 使用されるべきであると主張した。 チャーチルや他の政治家は、スティムソンに賛同した。

そして7月24日、ポツダム会議の最中、トルーマン大統領はカール・スパーツ将軍に、最初の「特殊爆弾」は、8月3日以降、「天候の許す限りすみやかに、第509混合部隊によって」投下されるべきであると、作戦命令を下したのであった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_2c.htm


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3. ユダヤ人の原爆観

日本を見るユダヤ人の目は今も厳しいのです。

ユダヤ人学生は、広島の平和記念公園に、ホロコースト慰霊碑があることに驚いて、
「ヒロシマ」の横に「アウシュヴィッツ」を並べて、同列に扱うのはおかしいと言いました。

「むしろ『南京虐殺』を並べて、原因と結果の因果関係を展示すべきではないか」と。

また、ホロコースト生存者の映画を撮ったユダヤ人女性は、
「原爆は日本への罰」と言いました。つまり、原爆の被害を受けた日本でも、
ユダヤ人から見れば、加害者でしかないということです。


ノイマンや投下の乗組員は差別主義者で狂ったサルには神の裁きをと死ぬまで攻撃支持しています。

エノラゲイではアロハシャツを着て原爆を落としていったとどこかで聞きました。

ポール・ティベッツは確か「人類初の原爆投下をした男」というTシャツを作って、得々として着ていたはずですし、「眠れない夜などない」発言でも知られています。


【原爆投下搭乗員の中のユダヤ人について】

原爆を落とした爆撃機の機長、ポール・ティベッツ大佐はユダヤ系のアメリカ人です。
その爆撃機はユダヤ人の母親の. エノラ・ゲイ・ティベッツにちなんで、「エノラ・ゲイ」と 名付けられました。

全人口に対してユダヤ人口が5〜6%にしか過ぎなかった当時のアメリカで、広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」の搭乗員として特別に選ばれた15名のうち、ユダヤ人が7名も占めていた。

機長のポール・ティベッツもユダヤ人である。広島に原爆を落としたとき、彼はまだ30歳だった。ポール・ティベッツ機長をはじめ搭乗員の多くは、戦後もずっと「全く後悔していない。夜眠れなくなったことも一度もない。あの時、我々は人類にとって最善のことをしたんだ」と述べ、原爆投下の正当性を強調している。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012944300


原爆投下を肯定する在米ユダヤ人組織「SWC」

「サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」というユダヤ人組織がある。
「SWC」は、第二次世界大戦中のナチスによるホロコーストを記憶し、ユダヤ人の人権を守るため、1977年に設立された組織である。その名前は“ナチ・ハンター”の異名を持つサイモン・ヴィーゼンタールを記念して付けられている。本部はロサンゼルスにあり、ニューヨーク、シカゴ、ワシントン、トロント、パリ、エルサレムにもオフィスを開設している。

「SWC」の副館長であるラビ、アブラハム・クーパーの見解:

新潮社編集部の「第二次世界大戦で人類に対する明らかな犯罪が2つあったと思います。ひとつはホロコースト、もうひとつは原爆投下です。その責任追及を『SWC』がする予定はないのでしょうか?」の質問の中で、次の問答がある。

◆編集部 : 原爆による無差別爆撃の事実は明らかで、これは戦争犯罪ですから、アメリカの戦犯追及を考えるべきです。

◆クーパー: 率直にお話ししますが、個人的に言うと、私は原爆投下は戦争犯罪だと思っていません。

◆編集部 : それは納得できません。非戦闘員の殺害は明らかに戦争犯罪じゃないですか。

◆クーパー: ノー。戦争というのは非常に悲惨な出来事なわけですけれども、2つの原爆を落としたことで、戦争が終わったという事実はあるわけです。もしトルーマンが原爆を落とさなければ、さらに多くの死傷者が出たでしょう。
 
●上の取材記事からも分かるように、「SWC」に代表されるシオニスト・ユダヤ人勢力は、自分たちのホロコースト体験は世界に向けて盛んに宣伝するが、他民族が体験したジェノサイド(ホロコースト)に対しては無関心(冷淡)のようである。現在、パレスチナで進行中のホロコーストに対しても冷淡で、むしろユダヤ人によるパレスチナ人の虐殺を積極的に支持している有様だ。

「SWC」を「平和・人権団体」と呼ぶ人がいるが、「SWC」は非ユダヤ人の平和・人権に関しては無頓着だといえる。その偽善ぶりに、最近では、「SWCはホロコーストを商業化している!」として、一般的なユダヤ人からも批判が出ている。


●なお、日本政府や日本の民間諸団体は、以前からイスラエル政府に、ユダヤ人の災難犠牲者と原爆被害者を合同で追悼するよう呼び掛けている。

つい最近、日本政府はイスラエル政府に、ユダヤの「イェド・ファシム機構」のような「日本災害機構」を広島市に建設する計画を提案したことがある。イスラエルからユダヤの災難を表す物品を提供してもらい展示するというものだった。 しかしこの要請は断られた。
イスラエル政府の外務省高官は、「日本には敬意を表するが、2つの災難を比較することは出来ない」と語った。
 
●このことから分かるように、在米ユダヤ人組織やイスラエル政府は、ユダヤ人が被った災難と、広島・長崎への原爆投下を同列に扱われることを非常に嫌がっているのだ……。

「アウシュヴィッツの悲劇」を、「原爆の悲劇」とは比較することのできぬ「人類史上最悪の出来事」として、このままずっと世界中の人々に強くアピールし続けていきたいのだろう。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#ex15

害虫駆除に貢献したユダヤ人


原爆の発案はユダヤ人シラード

原爆の開発をスタートさせたのはユダヤ系ルーズベルト大統領(強烈な親中反日主義者)

原爆を開発したのはユダヤ人オッペンハイマーを中心とするユダヤ人科学者グループ

原爆を警告無しに日本に投下するべきだと主張したのはユダヤ人オッペンハイマーとユダヤ人フォン・ノイマン

ユダヤ人オッペンハイマーは最初から最後まで投下目標について日本だけを論じドイツを投下目標として論じたことはなかった。

原爆投下を大統領に進言したのはユダヤ人大富豪政治家のバーナード・バルーク(後の国連原子力委員会アメリカ主席代表)

原爆投下命令を出したのはユダヤ系トルーマン大統領

原爆投下指揮官はユダヤ系ルメイ少将(ルメイは民間人への無差別爆撃の発案者で東京大空襲(死者10万人)の指揮官)

原爆を投下したエノラ・ゲイ乗組員15名のうち7名がユダヤ人で機長のティベッツもユダヤ人

戦争中原爆はユダヤ人コミュニティーの独占管理のもとにあり
原爆ホロコーストはユダヤ人によってその開発から投下に至るまで全過程が行なわれた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1322214533


「マンハッタン計画」とユダヤ人科学者

●戦後のアメリカの「軍」と「産業」の癒着構造(軍産官学複合体)を生み出す大きなきっかけとなったのは、「マンハッタン計画」である。
「マンハッタン計画」とは、第二次世界大戦中にアメリカが極秘にスタートさせた原爆開発計画のことである。5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された。(ちなみに、1940年の日本の一般会計は60億円、1945年で220億円)。ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス研究所」で、科学者たちは「原子爆弾」を完成させるべく日夜研究に没頭したのである。

この軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」は、多くのユダヤ人科学者が参加したことで知られている。具体的にみてみよう。

害虫駆除に貢献した科学者

●まず最初は、「コンピュータの父」として知られるフォン・ノイマンである。

彼はハンガリーの裕福なユダヤ人銀行家の家に生まれ、1930年に渡米。天才的頭脳の持ち主であり、現在のほとんどのコンピュータの動作原理であるストアードプログラム方式を考案した。アラン・チューリング、クロード・シャノンらとともに、現在のコンピュータの基礎を築いた功績者で、現在使用されているコンピュータは「ノイマン型コンピュータ」と呼ばれる。また、彼はゲーム理論におけるミニ・マックス法の発明者としてや、自己増殖オートマトンの考案、量子力学についての研究でも知られている。
大戦中は「マンハッタン計画」の軍事顧問として参加。

爆縮レンズ開発に従事し、爆薬を32面体に配置することにより核爆弾が製造できることを10ヶ月に渡る計算により導いた。また、地面ではなく空中で爆発させたほうが原爆の破壊力が増すことも計算により導いた。

その圧倒的な計算力と、極めて広い活躍領域から、「悪魔の頭脳」と評された。

「マンハッタン計画」に携わったユダヤ人科学者の中で、もっとも反日強硬派だったのはフォン・ノイマンだろう。彼は日本人を蔑視し、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張。京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたというまさにその理由によって、京都の破壊を求めていたのである。

しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の反対によって、京都は原爆のターゲットから外された。彼は、京都の代わりに長崎の追加を指示したのである(1945年7月22日)。

一般に、この時にスチムソンが京都を原爆のターゲットから外した理由として、「スチムソンは京都が歴史のある都市であることを理解していたから」という“美談”で語られる場合があるが、だまされてはいけない。この“美談”は、戦後、GHQがお涙頂戴好きの日本人を洗脳する為に、意図的に流したニセ情報である。

アメリカ軍部の一部は京都を原爆投下目標とすることを諦めず、空襲を実施しなかった。原爆投下後に原爆の影響を正確に把握するため、空襲が禁止されていたのである。京都が最後まで空襲されなかったのは、原爆投下の前に日本が降伏したからにすぎない。

スチムソン以外にも、「京都を戦果から救った恩人」と言われるアメリカ人が何人かいるが、すべて何の根拠もない流言に過ぎないのだ。詳しくは吉田守男著『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)を読んで欲しい。当時のアメリカ政府は、日本の文化遺産を根こそぎ破壊することに、なんのためらいもなかったのである。

最終的に、2個の原爆が日本に「無警告」で投下されたことに満足したフォン・ノイマンは、戦後のビキニ環礁の核実験に立ち会ってガンになり53歳の短い人生を終えた。

●「ロスアラモス研究所」の所長に就任して「マンハッタン計画」を主導したロバート・オッペンハイマ(彼はニューヨーク生まれのユダヤ人である)。

ロバート・オッペンハイマーといえば、「原爆投下は日本に警告なしに行なわれるべきだ」と反日的な強硬論を主張した人物である。彼は、最初から最後まで投下目標について日本だけを論じており、ドイツを投下目標として論じたことはなかった。

彼は戦時中、日本への原爆使用に反対した科学者たちを巧みにのけ者にしていった。そして、1945年7月に、ロスアラモスで最初の原爆実験に成功した際、狂喜して、「いま私は死神になった。世界の破壊者だ!」と叫んだ。


●害虫駆除に貢献したユダヤ人大富豪バーナード・バルーク

「バルーク家」はラビを生み出すユダヤ人指導者のファミリーで、ロスチャイルド家と深いかかわりをもち、彼は「アグダス=イスラエル・ユニオン」というユダヤ系結社の代表を務めていた。

バーナード・バルークは、相場の世界では冷徹な投資で巨額の資産を作った相場師として有名であり、政治家としても幅広く活躍した。 
第一次世界大戦中は、アメリカの「国家防衛会議」に所属し、総力戦体制の遂行のために設置された「戦時産業調整委員会(WIB)」の委員長を務め、独裁的権力を振るった。1916年のウッドロー・ウィルソン大統領の選挙資金集めでも決定的な役割を演じ、戦争が終わると、ベルサイユ講和会議に参加し、「賠償委員会」の委員長を務めた。そして、法外な賠償金をドイツに支払うように決め、ロスチャイルド商会傘下の国際銀行家たちやダレス兄弟と組んで、ドイツにヒトラー政権が誕生する手助けをした。
彼は、その後も大統領顧問を務め、ウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマンなど、6人から絶大な信頼を寄せられた人物だった。チャーチルの親友でもあった。(バーナード・バルークは「影の大統領」と呼ばれていた)。

第一次世界大戦前、バーナード・バルークは100万ドルの資産を持っていたが、それが終わった時には2億ドルになっていた。ヒトラーが戦争を起こすと、彼はチャーチル、ルーズベルトと語らってアメリカを参戦させた。

バーナード・バルークは、第二次世界大戦中は、原爆開発の有力な支援者となり、「マンハッタン計画」を指導した。「マンハッタン計画」は、最高機密の軍事プロジェクトとして厳しい情報管理が行なわれる一方、大統領直轄の最優先プロジェクトとして、膨大な資金と人材が投入された。この計画の存在については大統領や陸軍長官など限られた関係者のみに知らされ、議会への報告などは一切行なわれなかった。

そして原爆が完成すると、バーナード・バルークは大統領顧問として、原爆の対日使用を積極的にすすめたのである。彼にとって、日本人の命なんてどうでもよかったのだろう。(彼は京都への原爆投下を主張していた)。

戦争が終わると、バーナード・バルークは「国連原子力委員会」のアメリカの主席代表となり、原子力の管理に大きな影響力を持つようになる。彼は全米一のウラン採掘業者グッゲンハイム財閥の代理人として働くウォール街の投機業者でもあったのだ。

このように、ユダヤの大富豪であるバーナード・バルークは、第一次と第二次の2つの世界大戦で重要な役割を演じ、「原爆」と「冷戦」の誕生にも深く関与していたのである。彼は戦争によって自分の資産を増やしていた。一部の研究家の間では、バーナード・バルークは「戦争仕掛人」と呼ばれている。(バーナード・バルークは1965年に亡くなった)。


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4. 国際金融資本の原爆観


原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であった。

原爆開発を最初に立案したのはイギリスでした。 ところが、ナチスドイツとの戦争で疲弊したイギリスは財政的に逼迫し原爆開発は頓挫します。 そこでイギリスはアメリカにこの計画を売り込むのです。

チャーチルとルーズベルトは「ケベック協定」を結び、イギリスの原爆開発情報はアメリカに譲渡されたのです。 この裏にはもちろん、ロスチャイルド系イギリス企業インペリアル・ケミカルズとアメリカの企業デュポンとの蜜月関係が背景にあります。


第二次世界大戦中に暗躍した世界をまたがる金属カルテルの存在

先のインペリアル・ケミカル、デュポンを始め、モルガン系企業GE(ゼネラル・エレクトリック)、カナダのインターナショナル・ケミカル、はてはドイツのIGファルベンまでも単一カルテルを形成していた!

この金属独占大資本網こそが、物理学において原爆開発の兆しが見え始めた第二次大戦前あたりを境に「原爆製造」という巨大産業の実現に与した真の黒幕。

ドイツに原爆が落とされず、日本に落とされた理由もそこにある。
つまり、ドイツも最初からグルだったという事です!

さて、周知の通り原爆にはウラン濃縮型とプルトニウム型の二種類ありましたが、前者に必要とされるプルトニウ235は、「ロックフェラー=メロン財閥」が主に製造したものであり、後者のプルトニウムは「モルガン=デュポン」(ロスチャイルド)が主に製造したもの。

そして重要な点はこれからなのですが、ロックフェラー勢の主導により時期的にも先行したウラン型爆弾の開発は比較的早い時期の完成を見ます。ところが、ロスチャイルド主導のプルトニウム爆弾の方は開発が遅れてしまいます。

アメリカ(いや、正確には原爆カルテル)としては、どうしても両タイプの原爆を使用したかったのです。 原爆プロジェクトの総指揮をとった陸軍長官ヘンリー・スティムソンはモルガン財閥と深い関係のある人物であり、終戦を引き延ばし、プルトニウム爆弾を是が非でも日本へ投下する使命を帯びていました。

そのためにこそ日本へ無条件降伏が突きつけられたのです。
これによって、日本は事実上降伏するためのカードを奪われる事となったのです。
http://bichir.blog95.fc2.com/blog-entry-20.html


原爆投下の理由について、新型爆弾である原爆を当初、米国の原爆を開発した科学者たちは、呉などの軍港の、それも沖合いに投下するという説明を受けていました。それを、当時の米国軍部は原爆の威力を測定する意味合いで、都市部に落とすことに変えました。人体実験を目的として日本に落としたと言えます。このことは、残された米軍の資料など、さまざまな証拠から明らかになっています。

ところが日本人の多くは、「第二次世界大戦を早く終わらせるために、アメリカは日本に原爆を投下せざるをえなかった」と教育され、いまだにそう思い込んでいます。

実際、昭和20年の東京大空襲など、一連の空爆による日本全土焼き払い作戦のときから、米軍部は日本に戦争遂行能力がないことをはっきりと知っていました。日本全土を焼き払うこと自体、すでに人体実験です。一般市民が無差別に死んでいくなかで、戦争の恐怖がどのように天皇を頂点にした国家を変えていくのか、研究していたのだと私は見ています。そして、その次に原爆投下です。敗戦前の少なくとも半年の間、日本人は国ごと一部の米国人の実験用モルモットとして、やりたい放題に殺されたというのが歴史の事実です。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/65994ae0b3913cc45916b22cb791d6a0


広島・長崎への原爆 米で「実験」と記載

【ラスベガス(米ネバダ州)4日=杉本宏】ネバダ核実験場を管轄している米エネルギー省ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中に、太平洋戦争末期に実施された広島、長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが4日、明らかになった。

この刊行物は同事務所が毎年、編集・発行しており、昨年5月に出された第12版が最新のもの。米国が1945年7月から91年12月までの間、同実験場などで実施した843回の核実験(英国との共同実験も含む)について、103ページにわたり実施時期、場所、爆弾の威力などを記載している。

この中で、米国の手による核爆発はすべて「公表された米核実験」としてくくられている。広島、長崎のケースは「第2次世界大戦、実戦使用──広島」などと表記され、その目的も「実戦」と書かれているが、時期別、実験名別のいずれの区分でも「公表された米核実験」の欄の中に分類・記載されている。

原爆の対日使用は「人体実験」だった。

「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカ
の覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への
『人体実験』である。

だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状について
の報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。

第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・
長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者の
ケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。

第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」

広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の 橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。

「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。

その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実です。私たちは焼け跡の草を
むしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありません
でした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html


ビキニ核実験も広島・長崎の人体実験の続きだった:


 @米側は、気象変化について気象学者らの警告を事前に受けながら無視し、実験を強行した。

 A死の灰が出ることが予測されていたうえ、過去の実験から居住地域に向かうことがわかっていた。

 Bロンゲラツプなど風下の4環礁の住民に対し、意図的に事前警告をせず、避難措置もとらなかった。

 C米兵は34時間以内に救出されたのに、住民の救出には最大4日かかった。同程度被ばくしたアイルツク環礁には避難措置はなく汚染した水や食料でさらに被ばくした。

 D汚染の残るロンゲラツプ環礁に対する安全宣言を出して避難した住民を帰還させ、人体への放射能の長期的影響を調べた。

 E全島が被ばくしたにもかかわらず、人体研究の対象となった環礁以外では、医療援助や総合的な検診がない―などだ。

マーシャル住民らに実施した人体研究「プロジェクト4・1」は、これまで 「医療ケア」プログラムとして知られていた。同研究の存在が明るみに出たことで、「ケア」の裏側で「放射能が人体に長期的に及ぼす影響」についての徹底的なデータ収集を進めていたことが判明した。現在も研究はエネルギー省の手で続けられており、特定の被ばく者集団を対象に40年以上にわたって追跡調査されたデータは、原爆傷害調査委員会(ABCC、放射線影響研究所の前身)が集めた広島、長崎の被爆者データとともに同省健康研究室で一括して管理されている。

 セリグマン同省次官補代理(同室長)は、一連の資料を「完全なデータセツト」と呼び、放射能の人体への影響を調べるうえでの基本資料であることを隠さない。マーシャル側が「モルモット扱いだ」と批判してきたのも調査目的の「二面性」とかかわる。

 これまでの調査から、「医療ケア」では説明できない事例も判明している。赤血球の追跡調査目的で、放射性クロムを注射した事例と、主として被ばく直後に放射性物質の除去のために使われるエチレンジアミン四酢酸(EDTA)という物質を被ばくから七週間たってから投与した例だ。

 米軍による一連の「放射能人体実験」について調査した米大統領諮問委員会は95年、「全体が人体実験だったとはいえない」としながらも、二例は患者の治療目的を逸脱した研究だったと結論づけた。
 こうした事例について、米政府は当時、マーシャル住民への説明や同意を得ずに実施したうえ、現在も「担当医師のプライバシー」などを理由に、対象にした住民らの氏名公表に応じていない。

マーシャル側は、独自調査で少なくとも20人以上が放射性物質を注射されたことを突き止め、うち生存者5人も特定した。ロンゲラツプ環礁の議員ナビ・クンさんの母アトミネさん(58)もその一人で、乳がんや脳しゅように苦しんでいる。クン議員は、「本人への情報開示がないため、『実験』との因果関係を調べることが難しい」と話す。

これに対し、研究にかかわった医師らは現在でも「ケアのために必要な措置だった」と強弁する。エネルギー省当局者はマーシャル側に「注射は、X線検査のようなもので害はない」と説明したという。

放射能実験にかかわる人権問題に詳しい米国人弁護士クーパー・ブラウン氏によると、米側が実施した被ばく者の甲状せん摘出手術についても、「摘出する必要がないのに、放射能以外の原因のがんや肥大との比較研究のために摘出された疑いがある」という。

ブラウン氏は同時に、当時の米原子力委について、

「(マーシャル住民は)文明化されていないがネズミよりは我々に近いと公言する幹部もいた」

と述べ、人体実験の対象になったアラスカ先住民らと同様、「人種差別的」な要素が合まれていた疑いを提起する。
http://www.ask.ne.jp/~hankaku/html/bikininews.html

米国防総省 広島、長崎の原爆被爆者データ 核戦争研究に利用
ABCC収集解禁文書で「モルモット説」裏付け

【ワシントン30日共同】米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)が広島、長崎の被爆者から収集した医学データを、国防総省が将来の核戦争を想定した軍事目的の研究にも利用していた事実がこのほど、同省や全米科学アカデミーなどの解禁文書で確認された。

国防総省は、核使用の際の医療対策に収集データが役立つと期待。広島、長崎のデータとビキニ環礁での原水爆実験の資料を比較し、爆心周辺で放射線から身を守るには服装をどうするか、などといった分野も研究していた。
ABCC設立当初から被爆者が抱いていた「モルモット扱いしているのでは」という疑いを裏付けるものだ。

また日本で「ABCCの研究は非人道的」との非難が強まることを恐れた米側が、病理標本やデータを重要機密資料として、その保護に極度に配慮していたことを示す文書も見つかった。

1946年11月26日、トルーマン大統領は「原爆が人間に与える長期的影響の研究を継続すべきだ」との陸、海両軍医務総監の勧告を承認。これを受けて全米科学アカデミー研究評議会に原爆傷害委員会(CAC)が設置され、現場機関として広島、長崎にABCCが発足した。

CAC議事録によると、47年3月のCAC第1回会議で海軍の代表が「防御的措置」と「攻撃的措置」の両面で被爆者データを利用することを提案した。またパターソン陸軍長官は同月、ジュエット科学アカデミー総裁に送った書簡で被爆者研究の「軍事的重要性」を強調し、極東司令部による協力を約束した。

翌48年6月に「特殊兵器プロジェクト」(国防総省国防核兵器局の前身)のハズブルック参謀長がまとめたメモは、被爆者データは「放射能戦争研究に非常に重要」だとして、核攻撃の際の死傷者数や負傷者の治療などに関する情報への利用に期待を表明した。

ABCCで収集されたデータや生検、解剖標本はこうして同プロジェクトや陸軍病理研究所で保管され、47−49年にまとめられた核戦争防護の各種研究に生かされた。
同プロジェクトのワイナント放射線防衛局長の論文は広島、長崎より良い防護施設がなければ「米国の大都市では10万人以上の死傷者が出る」と核シェルターの重要性を強調。ホートン同局医療部長の論文は、広島の被爆者の生殖能力や遺伝的影響などのデータを引用した。

さらにクーニー原子力委員会軍事応用局放射部長の論文は、広島、長崎でのデータとビキニ実験との比較から身体器官への影響を分析。「爆心から1.5キロ離れた地点なら軍服、シャツの着用でも防護になる」などと指摘した。
今さら驚かないが…

近藤幸四郎・広島県被団協事務局次長の話 中学生の時、先生に(調査のためABCCへ)行ってくれんか、と言われた。アメリカにはとても協力する気になれず断った。モルモット扱いは、我々は前々から言っていて今さら驚かない。50年たって、ようやく証明されたかという感慨が強い。

<ABCC> 原爆放射線の長期的な医学影響調査を主な任務として1946年11月、トルーマン大統領が設立を指示した。47年から広島、長崎で調査を開始、予算は米国原子力委員会などから出された。日本からは国立予防衛生研究所が参加。約12万人を対象に寿命(死亡)調査、成人健康調査、病理学的(解剖)調査、遺伝的調査などを実施した。(共同)(毎日新聞 1995/07/30)

核戦略用に設置? 米の研究所、治療はせず

米国は47年、原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立。広島、長崎に研究所をつくり、原爆が人体に与えた影響を調べ始めた。75年からは、米国エネルギー省と日本の厚生省が費用を折半する財団法人の放影研が調査を引き継いでいる。
87年から全米に散らばるABCC関連の文書を探し集め、ABCCの元所員らにインタビューして被爆者研究の歴史を調べているペンシルベニア大のスーザン・リンディー教授に尋ねた。

──ABCCの研究は軍事目的だったのですか。

「研究は、核兵器が人類にとってどんな意味を持つかを決めるためのもので、冷戦戦略の一部だった。米国の将来の核戦争に備えるためだったことは疑いの余地がない。ニューヨークに原爆が落とされたら社会的にどうなるか、人問がどうなるか、というモデルでもあった」

──ABCCは調査だけで治療はしないといわれてきました。なぜでしょう。

「治療すれば、原爆投下の謝罪につながると考えていたようだ」
ABCCは、多い時は1000人を超える職員を抱えていた。16万の被爆者を選び、どこでどんな状況で被爆したかを数年かけて1人ひとりにインタビューし、亡くなった7500人を解剖した。

現在も母集団の12万人について、亡くなるたびにその死因を追跡し、2万人を2年に1度健康診断する。8万人の被爆2世、そして2800人の胎内被爆者の調査も継続中だ。放射線以外でも、疫学調査としてこれを超える規模のものは世界に存在しない、といわれる。

被爆者をモルモット扱いしたと言われるABCCの姿勢は、放影研にも引き継がれてはいないだろうか。

占領史研究者、笹本征男さん(54)は、今年末に発行される「通史日本の科学技術〈国際期〉I・II」(学陽書房)の中で、ABCCの研究を引き継ぐ放影研の設立目的にも不明確さが残る、と指摘している。

財団法人の目的には「被爆者の健康保持及び福祉に貢献する」ことをうたっている。一方、両国政府が74年に交わした公式の外交文書では、目的は「放射線が人に及ぼす影響の調査研究活動」とされ、「被爆者のため」という文言はどこにもないのだ。


■年20億円の投入

6月末に訪れたワシントン郊外のエネルギー省で、「シーダ」という名前のデータベースを見た。

ハンフォード、ロスアラモス、オークリッジといった核兵器製造現場で働いた人たちの健康状況を1人ひとり追跡するデータベースだ。その中に「JALSSA01」というファイルがあった。

ABCC、放影研が集めた被爆者7万5991人の被ばく線量、性別、死因などの関連がオンラインで分析できる。利用するにはエネルギー省の許可が必要だという。

被爆者のデータは、実は原爆をつくり、落とした国の、核兵器をつくる省に管理されていた。

同省のセリグマン次官補代代理は「放射線の人体への影響を知るには、日本の被爆者の研究が最も基本となる」と話す。被爆者のデータは、核兵器、原子力関係の労働者から得られたデータと違い、一挙に放射線を浴びせられた子供から老人までの男女多数が、長期にわたって追跡されているからだ。

米国が今も年間約20億円を広島・長崎の研究に投じ、威力の見直しなども進めているのは、データの重要性が極めて大きいからと思えば納得できる。原子力発電、X線などの医療分野、そして核兵器工場でも、放射線をどれだけ浴びると有害かという基準づくりに、被爆者を追跡したデータは必要不可欠となっている。


被爆者治療せず 50年代の米公文書

原爆投下後に広島、長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)をめぐり、米政府が「原爆は特別な兵器ではない」との主張が揺らぐのを避ける意図で、被爆者の治療をさせなかったことが50年代の米公文書で明らかになった。

原爆投下への謝罪と受け止められることも懸念し、被爆者と他の戦災者を区別しない方針を固めていた。米国は当時の冷戦下で、非人道的と非難されて原爆が使いにくくなるのを防ごうとしていたとされ、研究者は「被爆者への対応も核戦略の中に位置づけられていた」とみている。

朝日新聞が米国立公文書館に対し、ABCCに関する複数の公文書の閲覧を請求した。いずれも50年代に作成された当時は機密扱いで、機密期間が過ぎた80年代以降に開示対象になった。

ABCCは被爆者を検査してデータを収集したが治療はせず、被爆者の間に批判があった。

50年代になって日本の報道機関も取り上げるようになっていた。
今回閲覧したうち、パーソンズ駐日公使が国務省北東アジア部にあてた文書(54年2月)には、治療しない理由について「ABCCには日本での医療資格がない」ことなどを列挙。さらに重要なこととして「(治療すれば)被爆者に特別な意味があり、他の兵器の被害者とは異なるという見方を支持することになる」と説明した。「原爆投下への謝罪と解釈されかねない」とも指摘した。

また、ロバートソン極東担当国務次官補にあてた文書(同年1月)の中で、北東アジア部の担当者は米政府の公式見解として「被爆者支援の責任は負わないし、その他の爆撃による被害者と区別することはできない」と述べている。

こうした考え方の背景について、核問題を研究する米ジョージタウン大歴史学部博士課程の樋口敏広さん(28)は「旧ソ連とにらみ合った冷戦下で、米国は原爆を使用可能な兵器と位置付ける必要があった。ABCCが被爆者を治療しなかった理由は核戦略と結びついていた」とみている。(朝日新聞 2007/08/06)

http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/atomic_bomb.html

●「マンハッタン計画」の舞台裏については、まだまだいろいろな情報がある。

「原爆の製造には、原料のウランが必要だった。ロスアラモス研究所では原爆製造のために、アフリカのコンゴ(現ザイール)からウランを調達していた。コンゴは当時最大のウランの産地であり、この鉱山利権を握っていたのがロスチャイルド財閥であった。そのためウラン原料を調達する監督官として国際的な役割を果たしたのがチャールズ・ハンブローであり、彼は戦時中にスパイ組織OSS(CIAの前身組織)を設立した大物でもあった。のちに『ハンブローズ銀行』の会長となり、イングランド銀行と南アフリカの大鉱山利権を支配した男である。」

「第二次世界大戦はユダヤ人にとってホロコーストの悪夢の時代であった。そのユダヤ人であるヴィクター・ロスチャイルド男爵、チャールズ・ハンブロー、ロバート・オッペンハイマーは、〈系図〉をみてお分かりのように、血のつながりを持つ一族だったのである。イギリスのロスチャイルド・ファミリーは金融王ネイサン・ロスチャイルドに源を発する一族だが、ちょうどその5世代ファミリーに、彼らが同じ血族として記録されているのである。オッペンハイマーは突然にニューメキシコ州の砂漠に現れた科学者ではなかった。

そしてここに、世界史の大きな謎がある。1989年にベルリンの壁が崩壊するまで続いた米ソの東西対立が、事実危険な対立であったか、それとも半ば両者が示し合わせた人為的な対立だったかという謎である。」

「ヴィクター・ロスチャイルド男爵の再従妹にナオミ・ロスチャイルドがいるが、その夫はベルトラン・ゴールドシュミットというフランス人だった。後に国際原子力機関IAEAの議長となるのだが、この男は『マンハッタン計画』の指導的立場にいた。その『マンハッタン計画』に物理学者として参加していたユダヤ人、クラウス・フックスは、原爆に関する極秘資料をせっせと旧ソ連政府に流し、旧ソ連の原爆第1号が製造される。(フックスはスパイ容疑で逮捕され、1950年に懲役14年の判決を受けたが、1959年に釈放された)。

このクラウス・フックスを操っていたのがイギリス内部に深く根差した『ケンブリッジ・サークル』という組織だった。共にケンブリッジ大学出身のイギリス諜報機関MI5、MI6の最高幹部4人が、この組織を通じてソ連に核ミサイルに関する極秘情報を流していたのだった。そしてその中にMI5のソ連担当官アンソニー・ブラントという人物がいた。ブラントは女王陛下の美術鑑定家としても名高くナイトの称号を与えられていたが、実はソ連の二重スパイとして女王陛下を裏切っていたのだった。そしてこのブラントはアーサー・ブラントという父を持ち、その血縁者エディス・ボンソワを通じてハンブロー・ファミリーと結ばれている。」

「先にオッペンハイマーの一族として示した〈系図〉のヴィクター・ロスチャイルド男爵は、1990年にこの世を去るまで、このソ連の原爆スパイとして有名なイギリスの『ケンブリッジ・サークル』の最大の黒幕とみなされてきたのである。」

「このように東西を密かに流通する大きなパイプが走っていたのだ。しかも、パイプの東側ではシベリアの原爆開発が進められ、西側では彼らが全世界のウラン鉱山を支配して、今日まで人類史上最大のカルテルを形成してきた。南アフリカから生まれた利権は、想像できないほど天文学的なものだったのだ。」

「核実験は、2つの目的を持っていた。1つは、高度で破壊力のある兵器を作るための軍事的開発である。しかしもう1つは、核爆弾を1発爆発させるごとに大量の札束を吹き飛ばす利権であった。東西の緊張が高まれば高まるほど、核兵器の開発は容易になったのである。」

「そして次に彼らに必要となったのは、原子力の平和利用へ移っていくなかでの“放射能の安全論”であった。ここで数々の生体実験を行なってきた科学者たちが所有しているデータに目がつけられたのだ。『マンハッタン計画』の命令系統には、大きく分けて2つの部門があった。第1が広島・長崎への原爆投下を実行した『原爆開発班』である。世界有数の科学者が集められ、核分裂を実用化した著名なグループだ。しかしそこに第2の部門として『医学班』が存在していたのである。放射能の危険性を研究した最高責任者がスタッフォード・ウォーレンであり、彼自身が生体実験を認可した当人であった。 〈後略〉」

「1947年にアメリカで『原子力委員会(AEC)』という国家機関が創設され、『マンハッタン計画』が受け継がれた。引き継ぎの際、明らかになったことは、過去7年間に原爆生産に投下された経費が22億ドルの巨額に達していたということである。その後、冷戦が展開されるに及んで、原子力予算は、まず年額10億ドル台になり、ついで20億ドルを超えた。

『1つの新しい産業が突如出現した。それは、初めてベールを脱いだその時からすでに巨体であったが、やがて体全体が成長し、単一の産業としては現代最大の産業になっている』と、1948年末、当時のAECの委員W・W・ウェイマックは原子力産業の巨大なスケールについて述べている。

原子力産業は、『死の商人』にとっては、もっともすばらしい活動分野であった。何しろ、その規模がどえらく大きい。年額20億ドルもの巨費が建設や運営のためにばらまかれる。その設備はといえば、『USスティール』『GM』 『フォード社』 『クライスラー社』の4つの巨大会社を合わせたよりも大きく、数十万の技術者、労働者を擁している。

この土地、建物、機械などの固定設備はむろん、AEC、つまり国家がまかなうが、その建設、運営は『デュポン社』だとか、『ユニオン・カーバイド社』(ロックフェラー財閥系)や、『GE』(モルガン財閥系)のような巨大企業にまかせられる。建設、運営をひきうける会社は自社製品を優先的に売りこみ、すえつける特権があり、また、運営の代償として『生産費プラス手数料』の原則でAECに請求して支払いをうけるが、この『手数料』は純然たる利潤だとAEC担当官さえ認めている。このほか、運営に当たっていれば、科学技術上の機密が自然入手できるが、これらの機密は、将来原子力産業が民間に解放される場合には、ごっそりいただくことができる。

『死の商人』にとって、こんなボロもうけの分野がかつてあったであろうか。
ジェイムズ・アレンが『原爆崇拝のかげで景気のいい一つの商売がおこなわれている。それは、国家の権威をまとい、えせ愛国主義の霊気に包まれているが、いうなれば“ボロもうけの商売”である。しかも、この事業の目的たるや、大量殺人でしかない』と慨歎しているのも当然である。」


■■冷戦で肥大化していった「軍産複合体(MIC)」

●陸・海・空・海兵隊・予備を含めて350万人以上の人間を擁し、あらゆる近代兵器を持ったアメリカ軍部は、そのメカニズムと力において他に類を見ない組織である。しかもその軍は、2万以上の企業と組んで、巨大な「軍産複合体(ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス)」を形成している。

●軍産複合体の根幹を成しているのが「ウォー・エコノミー(戦争経済)」である。そもそも軍産複合体は第二次世界大戦と、それに勝つために必要であった複雑な兵器とともに起こったものであった。「軍事省」や「戦時生産局」は、航空機・大砲・戦車などを作り出すためには産業に頼らざるをえなかった。電子工学や原子力が兵器となるとともに、頭脳力を供給するために大学が選ばれた。大学は、戦争に勝ち、民主主義を救うための必要な協力者であった。

●そしてこの「軍」と「産業」の癒着構造(軍産複合体制)を生み出す大きなきっかけとなったのは、軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」である。冒頭でも触れたように、「マンハッタン計画」では、5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された。(ちなみに、1940年の日本の一般会計は60億円、1945年で220億円)。

ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス研究所」で、科学者たちは「原子爆弾」を完成させるべく日夜研究に没頭したのである。
  
●そして第二次世界大戦が終結すると、今度はソ連を相手にした兵器近代化競争に打ち勝つため、アメリカ政府は膨大な補助金を大学の研究室に注ぎ込み、優秀な頭脳を結集して新しい武器の開発を求めてきた。

そこで得た研究成果は、「ダウケミカル社」「デュポン社」「ロッキード社」「ダグラス社」などに下ろされ、これら軍需産業が大量に生産。大学の研究室と産業と政府ががっちり手を結び、冷戦という獲物を手にして巨大な怪物へと成長した。

●この「軍産複合体」の中核に位置するのが、ペンタゴンとCIAである。1947年に「国家安全法」に基づいて、それまで独立機関であったアメリカ4軍を一元的にコントロールするために設けられたのが「国防総省(ペンタゴン)」で、更に同じ「国家安全法」に基づいて作られたのが「中央情報局(CIA)」であった。

このペンタゴンとCIAの誕生により、軍産複合体は一つのガッチリした“中央集権的組織”となって、アメリカに根を下ろしたと言えよう。 
 
●軍産複合体は年々肥大化し、ペンタゴンから発せられる莫大な「軍需注文」は、2万2000社もある「プライム・コントラクター(ペンタゴンと直接契約する会社)」と呼ばれる巨大な航空機メーカーやエレクトロニクス企業に一括して流されている。

更に、その周辺に彼らの下請け・孫請け会社1万2000社、彼らの金融面を司る多国籍銀行団、スタンフォードやハーバードなどの大学研究室が70以上、ランド研究所、フーバー研究所などペンタゴンと契約している「シンク・タンク」が16……などといったように、何百何千万人もの労働者や科学者、研究家、政治家、退役軍人、ロビイストたちが張り付いているのである。

●ちなみに、ペンタゴンと直接契約している企業は、まだ兵器を製造している段階で、多額の「推奨金(無利子の貸金)」を受け取ることができる。

例えば「ロッキード社」は、1968年12月の12億7800万ドルという支払い済み経費に対して、12億700万ドルの「推奨金」を与えられた。15億ドル近くの経費や設備を含む取引に対して、同社が調達しなければならなかったのは、7100万ドルの自己資金だけであった。

●ペンタゴンからの退役軍人の天下りの多さも無視できないものがある。

プロクスマイア上院議員のいうところによると、1968年財政年度には、主要軍需業の3分の2以上をやっていた100社は、その給与名簿に「2072人の大佐もしくは艦長以上の階級の退役軍人」を抱えていたという。トップは「ロッキード社」の210人で、その次に「ボーイング社」の169人、「マクダネル・ダグラス社」の141人、「ジェネラル・エレクトリック社」の89人と続くという。ペンタゴンの制服を着ていた時に、民間企業との多額の取引の交渉をやっていたその同じ人間の多くの者が、退役後は、その影響力や内部の知識を国防会社の利益のために行使していたわけだ。


●「軍産複合体」がアメリカ経済に対し、依然として強い影響力を持っていることに関し、国防産業協会の会長J・M・ライル元提督は以下のように言っている。

「もしも我々が軍産複合体を持っていなかったとするならば、我々はそれを考え出さねばならなかったであろう。というのは、今日の複雑な兵器を考案し、生産し、そして維持することは、必然的に、それを要求する軍部とそれを供給する産業との間の、最も緊密な協力と連携を伴うからである。」

●「ディロン・リード社」のジェイムス・フォレスタルや「ジェネラル・エレクトリック社」のチャールス・ウィルソンなどは、以下のような率直な見解を示している。

「アメリカが必要としているのは、永久的な“戦争経済”である。」

●ベトナムのある高官は以下のような告発をしている。

「……結局、一番もうかるのは、より性能のいい兵器により高い値札をつけてどんどん売りさばくことのできる“ビッグ5(国連常任理事国)”の兵器産業である。」
「ベトナム戦争ひとつを振り返ってみても、本当の“死の商人”が誰であったか一目瞭然だろう。まず、フランスが膨大な兵器を流し込み、その後をアメリカが引き継いだ。もちろん、そうなるとソ連も放っておけないから、北ベトナムやベトコンにどんどん新兵器を与え、やがては中国も介入していった。そうやって戦争がエスカレートして行きさえすれば、それぞれの国の兵器産業を中心とした軍産複合体もまたどんどん肥え太っていくわけだ。」

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5. 昭和天皇の原爆観__昭和天皇を襲った恐怖とは

アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

「日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。

1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm

昭和天皇の誤算は,中国の正規軍がいくら弱くても,中国人ゲリラには勝てそうもないという事だった. 今のイラクやアフガニスタンの米軍と全く同じですね.

そのまま行ったらソ連が参戦してきて日本は占領されてしまう. そして,昭和天皇が中国で行った組織的財宝略奪と それをカモフラージュする為にやらせた(?)大虐殺の黒幕だったことが明らかになってしまう.

昭和天皇は戦犯として処刑され,天皇制は廃止,昭和天皇の悪逆非道な行為は世界中で永遠に語り継がれる事になる.

そこで昭和天皇が考えた(?)起死回生の名案とは:

対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。

米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。

 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm

負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。
日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。

ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/beikoukanngagenbakutoukaseitoukawohatugen%20nihonsukuuzihibukaikouito.htm


日本は海外に巨大な権益を持つ帝国主義国であるがアメリカの屈辱的な植民地的隷属下にあるという特質を持っている。

 このような日本社会のさんざんな崩壊状況は第二次大戦に根源がある。
アメリカの対日参戦は、アジアをファシズム国の侵略から解放するためでも、社会主義ソ連とともに日独伊ファシズムとたたかって民主主義の世界を実現するためでもなかった。

アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。

 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。

自らすすんでアメリカによる日本支配を担うこと、日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばすことによって、自分たちの支配の地位を守ってもらう道を進んだ。

現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。

かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。

かつてマッカーサーは「天皇は一〇〇万の軍隊に匹敵する」といったが、
四万人ほどの米軍で日本を隷属支配しているのは、アメリカの意向をくんで自分から進んで働いて地位を得るという売国的な支配勢力の存在があるからである。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/anpokaiei50nensengo65nenwotyokusi.html


アメリカの完全なる属国に 戦後の日本社会

 A 第二次大戦後の日本社会の基本構図をみなが実感している。

日本は帝国主義国であるがアメリカの完全なる属国だ。高度に資本主義が発達した植民地。
先進資本主義国が植民地になっているのは歴史上も例がない。
日本の独占資本やその代理人たる政治家であれ、官僚であれ、
日本の支配機構を使って植民地支配してきた。この支配階級の売国性がすごい。
アメリカに身も心も売り飛ばして、日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばした。
ブッシュは「日本支配がイラク占領のモデルだ」と公然と主張したが、そういうことだ。

 日中戦争で満州を支配するのに、関東軍は60万人配置されていた。
ピーク時には100万人だった。外国を占領しようと思ったらそれほどの人員を要した。

日本国内に駐留している米軍は4万〜5万人。それなのにどうして支配できるのかというと、日本の支配機構を使っているからだ。
大新聞も戦争を煽り上げた反省もなく、戦後は廃刊にもならず、
そのまま何もなかったかのように発行しはじめた。同じ敗戦国のドイツは新聞はみな廃刊になった。

日本は廃刊になったところは一社もなく、そのまま機能しはじめた。
天皇制もしかり。財閥もそう。

D ドイツの場合は独立性を持っている。日本はまるきり隷属。この違いは何か。
ドイツは連合支配だった。日本は単独占領だ。そのための原爆投下だった。
ドイツはアメリカもいるがソ連もいるし、フランスやイギリスなど欧州の国国もいるなかで共同管理になった。一国がなにもかも隷属させることはできなかった。
日本はアメリカの思う通りに戦後の大改革がやられた。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/hinnkonntodokusaitosensounometubousurukunini.html

第二次世界大戦は、まぁ知っている人は知っているのですが、

海軍の上層部、山本五十六、米内光正、井上成美さんがコロッと洗脳されてしまって、日本敗戦への先導役を務めたというのは、まぁ知ってる人は知ってることなのですた。
ぇええ?

山本五十六ってあの真珠湾攻撃の時の日本連合艦隊、山本司令長官?
日本連合艦隊司令長官が奴らの手先?

何を言っているのだ、このバカキチガイ狸はと思う人も多いとは思うのですが、山本さんは最初からシナリオ通りに動いていただけのですた。

3百万以上と言われるにも多くの日本国民が戦死した太平洋戦争。
多くの日本人が無念のうちに死んでいった先の大戦は奴らが最初からシナリオを作り、そのシナリオ通りに動いた日本人たちによって引き起こされた。
信じたくなくても事実なのだからしょうがありません。

必ず戦争にはシナリオがある。

お互いにシナリオを決めて、さてこの線で始めますかなどとやっているのです。
ご多分にもれず、山本五十六さんたちは、日本を敗戦に導くようにわざと戦略上の失敗を繰り返します。

ミッドウェー海戦大敗北に至るまでの、数々のわざとらしい失策、別に戦史に詳しくなくても一般の人でも不自然に思うことでしょう。
あの戦争は、結局のところわざと負けたのですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-275.html

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だった。

天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。
これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。

責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。
そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。
大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。
だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


最終通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世

真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっている。一つは宣戦布告の通知が遅れた事、そしてもう一つは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては此れは最初からそう仕組まれたものであったと云う他は無い。

 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合う物であった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日、午後1時に行うものであっス。ところが野村、栗栖大使が実際に其れをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、其の時真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交が何故遅れたかに就いては尤もらしい説明が付けられている。

 対米最後通牒の電報は14通から成り、其の内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、其の日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。

 其の時の大使館員の様子は次の如くであったとされる

◆14通の電報は2種類の暗号を重ねた2重暗号であり、最初の13通は
 12月6日午後1時から入電を開始、粗同時に専門の電信官に依って暗
 号解読が始まった。午後8時半あ事務総括の井口貞夫参事官が解読作業
 中の若手外交官達を誘って行き付けの中華料理店”チャイニーズ・ラン
 ターン”の一室で夕食会を開く。此れは寺崎英成1等書記官の中南米転
 任送別会を兼ねていた。

◆7日、早朝13通分の電文タイプを開始、寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、及び妻の母と共に郊外に車旅行、連絡も付かない状況であった。

◆7日の朝、大使館の電信課宿泊員で若い熱心な基督教徒である藤山楢一
 は14通目の電報ともう一通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入
 手したが、其の日は日曜日であった為、教会の礼拝に出掛け、電信課の
 責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官及び松平康東一
 等書記官に対し連絡を怠った。

 14通目の電報が7日の何時から暗号解読され始めたかの公式記録は無い。だが前日に受信した13通の電報が既に解読されており、事の重大性に大使館全員が気付かぬ筈は無い。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、其れ以前の13通分に就いても事前にタイプを済ませて何時でもハル国務長官に提出出来る様にして置くのが当然であったろう。だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半あからであり、14通目の暗号解読が終ったと推定される午前10時あ迄は奥村一等書記官に依るのんびりした調子(ペース)であった。

 ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬ様指示されていた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。

 此の外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむのである。

 先ず外務省であるが、僅か残り数行に過ぎない14通目と最後通牒文である第901号電を何故態々其れ迄の13通より遥かに遅れて発信したのか。更に此の重要な時期に何故寺崎一等書記官を転任させる処置を取ったのか。又何故秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか等である。

 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。此れは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。

戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相に此の最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局此の件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶の一人であった。当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。

 日米開戦の最後通牒が遅れ真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になった事で米国人の世論は開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。
http://www.asyura2.com/2002/dispute3/msg/413.html
http://www.asyura2.com/08/wara4/msg/253.html


日本帝国海軍の中枢は欧米派であった。このため、日本海軍はあらゆる太平洋上の戦闘で不可思議な動きをする。それは、敵に手ごころを加え、まるで、負けることを目的としたかの如き戦いぶりであった。また、日本陸軍についても同様のことが言えた。大本営参謀本部の高級参謀たちはつねに無謀極まる作戦計画を立てては日本軍に多大な損害を与え、多くの将兵を失う結果を招来した。

国家としてあろうことか、日本はこのような売国的戦争指導者たちによって太平洋戦争を戦わなければならなかったのである。欧州では昭和14年第二次世界大戦が勃発していたが、欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはフランクリン・D・ルーズベルトの基本戦略であった。ルーズベルトはチャーチルと共謀し、日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激高させ、対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

山本五十六はルーズベルトとチャーチルに協力してハワイ真珠湾攻撃の構想をねった。真珠湾に集結していた戦艦はいずれも1910年〜1920年代に就役した旧式艦で攻撃しやすいように並べて停泊してあった。また真珠湾は海底が浅く、海底に沈座しても引き上げが容易で短期間で修理可能であった。真珠湾攻撃は一種の茶番劇であった。
宣戦布告の通知の遅れたのも仕組まれたものであった。大使館員全員無神経怠慢な動きをとっていることは、無能な集団でない限り確信犯である。戦後、その責任については吉田茂にうやむやにされてしまったが、当時の大使館員達は「功労者」としてその後栄進している。

また、真珠湾の陸上軍事施設対する攻撃不徹底も、アメリカ空母が真珠湾にいなかった日を真珠湾攻撃の日としたことも山本長官の策謀である。ミッドウェーで山本長官がなぜ空母のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたかは謎であったが、山本長官はルーズベルトやチャーチルとの約束により、ミッドウェーで日本の空母を壊滅させ次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行い、自らはブーゲンビル上空で自殺する。(山本五十六も辛かったんだね)
http://watch-fr-br.iza.ne.jp/blog/entry/926847/

真珠湾攻撃の計画はもともと「世界支配層」およびアメリカ、それに山本長官の深慮遠謀から生まれた計画であった。

  山本五十六は、連合艦隊司令長官にあるずっと以前、恐らくは海軍次官の頃からアメリカ側と連絡をとり、もし日米が開戦になった時は先ず真珠湾を奇襲し、アメリカの対独戦を合理化させると同時に、日本へのアメリカ国民の参戦気分を一気に高揚させるという計画を練り上げたに違いない。

 アメリカ側でこの計画を推進したのはもちろんフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領であった。そしてこの計画にはヘンリー・スチムソン陸軍長官、フランク・ノックス海軍長官、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、ハロルド・スターク海軍作戦部長、そしてコーデル・ハル国務長官が加わっていた。

 日本側でこの計画を知っていたのは、山本五十六以外にはほんのひと握りの人間であろう。それはもと首相や海軍大臣、そして外務省の高官たちなど最高度の機密を保てる者に限られていた。

  昭和15年(1940年)ルーズヴェルト大統領は米海軍首脳の反対を押し切って、それまで西海岸カリフォルニア州のサンディエゴ軍港にあった太平洋艦隊を年次演習の目的でハワイの真珠湾に進出させた。第2次大戦が勃発し、山本五十六が連合艦隊司令長官として対米戦を計画している最中であった。ルーズヴェルトは山本長官と共謀して、日本側に格好の攻撃目標を提供したのである。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/105.html
http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama29.html

東京裁判では絞首刑になったのは陸軍の軍人ばかりで、海軍で有罪になったのは3人だけだ。さらには米内光政は起訴さえされず不可解だ。単に米英派だったというだけで起訴を免れることが出来るのだろうか? 永野修身も米軍病院で謎の死を遂げているがルーズベルトとの密約をばらされない為の謀殺ではないかという疑いもある。

日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

日米戦争を指導した海軍の上層部は、すべて英米派であった.

敗戦をとおして、日本は、アメリカの属国のような国になった。戦時中、英米派として憲兵隊に捕らえられ、戦後、首相になった吉田茂は、それを勝利とよび、憲法改正や国防に、いっさい、関心をしめさなかった。

強国の庇護の下にはいることが、長期的には、日本のためになるのだという敗戦革命の思想が、ニューマ(空気)として、国際派や海軍に浸透していたのであれば、海戦前夜から真珠湾攻撃、南太平洋における壊滅的敗北までの、日本海軍の不可解なうごきに、一応の説明がつくのである。

真珠湾攻撃を計画させたのも、ルーズベルトー永野修身のラインがさせた可能性が強い。ルーズベルトと永野修身とはハーバード大学で二つ違いの同窓生だった。山本五十六もハーバードの同窓生でありこの三人が共謀すれば真珠湾攻撃は成功間違いなしだ。
海軍の最高幹部が無責任極まりない発言を繰り返した背景には、永野や米内などはアメリカと共謀して「敗戦革命」を企んでいた可能性すら伺えるのだ。もちろん海軍だけではなく、外務省の吉田茂や白洲次郎や尾崎秀美など近衛のブレーンとなっているメンバーは「敗戦革命」を企んでいたのかもしれない。

確かに日本は大陸にずるずると深みに嵌って抜け出せなくなり、陸軍は陸軍で身動きが出来ない状況になり中国からの撤兵の目処が立たなくなってしまった。内閣はクルクルと総理大臣が変わり、5,15事件や2、26事件などで政府が軍部を統制することも出来なくなってしまっていた。しかし当時の軍人に当時の世界情勢が分かるわけではなく、海外からの謀略に引っ掛けられて戦争に突き進んでしまった。

このような情勢になれば「敗戦革命」を企むグループが出来てもおかしくないのであり、海軍の中にも米内、永野、山本、井上などのグループが敗戦を承知でルーズベルトと共謀した可能性がある。あるいは知らずに操られたのかもしれない。それほど真珠湾攻撃はアメリカにとっては都合が良かった作戦なのだ。

日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」という本に書いてある通りに、海軍の戦略や作戦には不可解な事が多く、このような疑問は最近になって指摘されるようになった。アメリカとの開戦は避けてインド洋に進む戦略をとれば、ドイツとの連携で勝てる見込みもあったと考える。開戦理由が石油の確保というのならばインドネシアはもとより中東の油田地帯の占領も考えるべきだったが、そのような作戦は全く検討されなかった。

山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。

軍人である艦隊司令長官に、日米開戦の責任をおしつけるのは、筋違いである。真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。戦後、GHQの協力者となった米内光政を、平和主義者として立てる論調が、とくに、親米保守派や文壇の大御所周辺でつよくなったため、そのことを、だれもいわなくなっただけの話である。

支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。

ハーバード大学留学組で、長年の駐米武官を経験して、アメリカに友人や知已が多かった永野が、なぜ、やみくもに、アメリカと戦争をしたがったのであろうか。
戦後、だれも、真珠湾攻撃の不自然さを口にしない。真珠湾を攻撃しなければ、日本は、日米戦争に勝てた、ということも。それが、永野の怪死によって封じられた、日米戦争最大のタブーだったからである

当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。

ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。
日本にとって、百害あって一利もなく、アメリカにとって、参戦の切り札になる真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があったとすれば、戦後、アメリカが、永野を生かしておくだろうか。

戦後、GHQから、「なぜ、自決しなかったのか」と問われて、「陸軍の真似(阿南の切腹)と思われるのが不本意だったから」とのべた永野が、戦犯で収監中、巣鴨プリズンで風邪を引き、治療のために収容された米陸軍病院で、急死した。

当時、だれも謀殺の疑いをもたず、たとえ、もったとしても、口にはだせなかったろう。東京裁判で、ルーズベルトとのあいだに密約があったと、永野が証言したら、ルーズベルトが、真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたどころの騒ぎではない。東京裁判で、日本側の被告は全員無罪になり、アメリカの原爆投下、都市空襲の非人道性が、あらためて、問われることになったはずである。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/405.html


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6. 原爆投下まで

@第二次世界大戦は国際金融資本が金儲けのために仕組んだ。
原爆の開発目途はついていたので、それを使用することが目的のひとつであった。

Aその決定で、日英同盟が破棄され、アメリカでオレンジ計画がスタートする。

B日本の最高幹部と海軍は筋書きどうりに戦争を始めた。 陸軍はほとんど関知していない。
昭和天皇は命令どおりに動かされただけだ。

C昭和天皇とジョセフ・グルーは、終戦時期について討議したが、原爆を二発落とすまで終戦はさせてもらえなかった。
戦争が長引いたのは、原爆の開発が思った以上に遅れたからだ。

D広島は昭和天皇が決めた。だから、自分の嫌いな者達を広島に集合させ、見殺しにした。

E長崎はクリスチャンの教会が多いことで選ばれ、三菱のドックを目標とした。海軍は三菱にいたアメリカ人の捕虜を事前に救出していた。

F日本の情報機関は原爆の開発、投下時期、投下目標をすべて承知していた。もちろん昭和天皇も承知だ。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/02/post_b7ff.html

ルーズベルトやトルーマンは単なる飾り物で、原爆を落とす命令はすべてスティムソンによってなされた。その情報は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/07/post_3bbd.html

原爆を投下される迄 日本が頑張った理由

第二次世界大戦中、昭和天皇は、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。

 天皇とドレイパーは、兵器密売の共同事業者として、兵器販売促進のため日米戦争を行っていた。

 戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。

 戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。

天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。

 これが、「同業者、兵器密売企業の共同経営者」天皇とドレイパーの密約である。
http://alternativereport1.seesaa.net/


アメリカのロックフェラー、モルガンという巨大な財閥が戦前の世界金融を支配していた。 

ロックフェラーとメロン両財閥は共同作戦をとり、ウラン爆弾の開発に乗り出した。すると少し遅れて、モルガン財閥もデュポンという巨大な化学トラストと組んで、プルトニウム爆弾の製造に着手した。ここに、新しくてしかも巨大な軍需産業が出現したのである。

ウラン爆弾は、ウラン238からウラン235を抽出し、このウラン235を使い原爆を製造する。プルトニウム爆弾は、ウラン238から原子炉を用いてプルトニウム(引用注:に変換後)を抽出し、これを使って原爆を製造する。

ウラン爆弾の製造は一九四五年の春には完成していた。しかし、プルトニウム爆弾の製造は遅れた。しかも、核実験しなければ実用の可能性があやぶまれた。一九四五年七月十六日、プルトニウム爆弾の実験がようやく成功する。時あたかも、トルーマン大統領とチャーチル首相(英国)、スターリン首相(ソ連)がポツダム会談をしていたときであった。

この実験が遅れたために、プルトニウム爆弾の完成が遅れたために、日本の降伏も遅れたと私は書いた。それは、核兵器カルテルのために日本の敗戦が遅れたことを意味するのだと私は結論した。

この原爆製造と投下の総指揮をとったのは、陸軍長官ヘンリー・ステイムソンである。彼はモルガン財閥の一員でもある。 アメリカのみのためではなく、モルガンのために、国際金融寡頭勢力のために、要するに核兵器カルテルのために、スティムソン陸軍長官は原爆投下の総指揮をとったのである。

そのために、スティムソンは日本の「あるルート」を通して昭和天皇との秘密交渉を続けた。原爆を完成し、これを広島と長崎に落とすまで、天皇に敗北宣言をさせなかったのである。

無条件降伏とは、原爆を落とすために考え出されたアメリカの謀略であった。何も知らない日本人は完全にスティムソンと天皇に騙されたのである:

「あるルート」 = ヘンリー・ステイムソン → ジョセフ・グルー
→ ヨハンセングループ( 吉田茂, 牧野伸顕, 樺山愛輔, 白洲次郎,岡田啓介, 米内光政) → 貞明皇太后 → 昭和天皇


第二次大戦末期、米国そしてロスアラモス研究所は、日本が米国に降伏の準備を行っているのを知りながら広島・長崎に原爆を投下した。 

ロスアラモスの目的は、原爆兵器の効果を広島・長崎で「人体実験」する事にあった。

米国は日本に対し戦争で勝つ事は十分に知った上で、人体実験のために広島・長崎に原爆を投下した。 何故ならロスアラモスもFEMAも、新型兵器の効果とそれが「どの位抵抗心を失わせ支配を容易にするか」の実験、研究を元々専門にした機関、つまり「心理戦争局」だったからだ。
http://satehate.exblog.jp/9318506/


プリンシプルのない男・白洲次郎の物語

前項の中で、私はグルーのもう一つの顔について触れた。その中でグルー[外部リンク]が太平洋戦争前から駐日大使を勤めた約十年間に、吉田茂、樺山愛輔らの間に、尋常ならざる交流を結んでいたことを書いた。この二人のルートで、グルーは御前会議の内容など日本の当時の最高機密を受け取り、アメリカ国務省や陸軍省に打電していた。この間の事情はグルーの著書『滞日十年』に書かれている。

このグループは"ヨハンセン・グループ"といわれていたこともすでに書いた。

ここでは一人の男を中心に、プリンシプルのない男たちの物語について書こうと思う。日本が、アメリカの原爆情報を受げ取り、原爆投下の日本での準備工作に入っていたことを知るためである。  

白洲次郎という男がいた。その男の書いた随筆や座談記録などが一冊にまとめられて、世に出た。その本の題名は『プリンシプルのない日本』(二〇〇六年)という。

白洲次郎の経歴が載っている。

一九〇二(明治三五年)、兵庫県芦屋の実業家の次男として生まれる。神戸一中卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は英字新聞記者を経て商社に勤務するが、一九四三(昭和一八)年、日本の敗戦を見越して鶴川村(現・東京都町田市)で百姓となる。四五年、吉田茂に請われて終戦連絡事務局参与となり、日本国憲法成立などに関与。その後、貿易庁長官に就任、通商産業省を誕生させる。以後、東北電力会長などを務め、一九八五年逝去。妻は白洲正子。

ケンブリッジ大学時代のことを妻・白洲正子は『遊亀』(一九八九年)の中の「わが師わが友白洲次郎」で、「次郎の趣味は、自動車と、大工と、ゴルフであった。ロビンと暮らした大学時代には、その頃は金持ちだったから、ベントレーのほかに、ビュザッティというレーシング・カーを持ち、自動車競争にしじゅう参加していた。そういうカー・キチのことを、英語では『オイリー・ボーイ』と呼んだが、彼は死ぬまでオイリー・ボーイであった」と書いている。

ここには重大なことがらが欠落している。白洲はケンブリッジ時代に突然貧乏になっている。父の経営する白洲商店が倒産したからだ。彼はウォーバーグ財閥の援助で大学生活を送り、その間、陸軍と三菱が闇貿易のためにつくった昭和通商の一社員として生活していたのであった。白洲次郎について書かれた本には、英国時代の記述がない。また、吉田茂は駐英大使時代、大使館に白洲を寄宿させている。常識では考えられないことである。白洲次郎はユダヤ財閥ウォーバーグの配下の情報員であり、陸軍と三菱の隠れたエージェントでもあった姿が浮かび上がってくる。

青柳恵介の『風の男白洲次郎』(一九九七年)には次なる記述がある。


当時白洲が最も信頼していた先輩が「吉田というガンバリスト」であった。吉田が昭和十一年にロンドンの大使館に赴任する前から岳父との縁で白洲は「吉田のおじさん」と呼んで親しかったが、「大人の付合い」が始まったのはロンドン時代からだった。セール商会[外部リンク]、日本水産の仕事で英国に渡った際の彼の常宿は日本大使館となった。

『白洲次郎の流儀』(二〇〇四年)の中に「白洲次郎年譜」が記載されている。


一九三七年(昭和一二年)三五歳三月、日本食糧工業(同月、共同漁業に吸収合併され、後に日本水産株式会社)の取締役(後に取締役外地部部長)に就任。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く」とある。

前掲の『風の男白洲次郎』は白洲の伝記と銘打ってはいるが、日本水産株式会社時代の記述がほとんどない。白洲は鯨油の販売を担当したのは間違いのない事実である。しかし、この時代も、太平洋戦争が始まる直前の白洲は並みの行動をしてはいない。

白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。

柴田哲孝の『下山事件最後の証言』(二〇〇七年)に次なる記述がある。

「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和二〇年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ……と来たんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと二〜三日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が三月の九日か一〇日だと言ってました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです……」

これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲[外部リンク]の日時を知っていたのか。
もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか……。

柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥の癒着のなかから誕生した昭和通商と結びつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。

この本や白洲次郎に関する有馬頼寧の日記を見てもわかるように、白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない。柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑間を投げかけている。私は「大いにあった」と答える。次章以下で陸軍参謀本部と原爆の関係を追求するなかで、その証明をすることにしよう。

徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』(二〇〇七年)には次なる記述がある。

一九八五年、彼〔白洲次郎〕は生涯を閉じたが、英国流ダンディズムと気骨あるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起こしている。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した"密使"であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の"エージェント"としての顔だ。

徳本栄一郎の『英国機密ファイルの昭和天皇』には、「エピローグ 皇居を見据えるユニオン・ジャック」として、白洲次郎とウォーバーグ財閥について書かれている。

クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウォーバーグから肩書きも受け取っていなかった。しかも一九八二年、創業者のシグムンド・ウォーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見人役を続けた。
「ウォーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウォーバーグ卿から頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」

「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのが、ロスチャイルドとウォーバーグのユダヤ財閥である。一度彼らのエージェントになった者は、死ぬまで、その任務を解かれることはない。

引用文中のクリストファーとあるのはクリストファー・パービスで、英国系投資銀行SGウォーバーグの幹部で東京支店長を勤めた男である。創業者のシグムンド・ウォーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠を持つウォーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウォーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。そのウォーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。ロスチャイルドとウォーバーグ家は一枚の系図の中に入る。

FRB(連邦準備制度理事会)をつくりあげたのはポール・ウォーバーグ。その息子のジェームス・ウォーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当官となる。

白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループに流していく。

白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、貞明皇太后と同じくクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。 徳本栄一郎が「それは太平洋戦争直前、皇室や吉田の意を受け……」とあるのはなんとも甘い表現である。 「白洲次郎はシグムンド・ウォーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。

父親からの仕送りがなくなり、貧乏のどん底に落とされた留学生白洲は、シグムンド・ウォーバーグの援助にすがって生きた。そこに、永遠のエージェントとならざるをえない状況が生じたのである。

白洲は日本水産から帝国水産と異動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱……に情報を伝えていたのである。

私は前著『日本のいちばん醜い日[外部リンク]』でヨハンセン・グループについて詳述した。

その中で、外務省編『終戦史録(5)』の中に掲載されている「大井篤手記−−天皇制と太平洋戦争」を紹介した。もう一度ここに紹介し、この項を終わりとする。この中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている。私は「目標検討委員会初回会議覚書」(一九四五年四月二十七日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。

彼等は、天皇は間違っていると考えました。彼等には驚くべきまでに、機微な情報がその真実性は私には判りませんが−−入手されていました。彼等の見るところでは、天皇は弱虫だから終戦をいそがれているのである。原子爆弾が怖いのだ。その弱虫をさらに皇太后が焚きつけている。皇太后は御所内に堅固な防空壕を作ってくれと軍に催促されるが、資材不足でそれが出来ずにいる。そこへ原子爆弾の話が、尾ひれをはやして皇太后の耳に入ってくる。ジットしておられなくなって天皇に訴える。彼等はこの情報を信じておりましたし、又陸軍では一般に原子爆弾はそう恐しいものでないと信じられておりました。

後述するが、原爆の情報は、皇室、軍部、ヨハンセン・グループに流れ続けていたのである。しかし、原爆は広島と長崎に落とされた。その真因を追求し続けねばならない。
http://mblog.excite.co.jp/user/satehate/entry/detail/?id=9332877


昭和天皇に入れ知恵した(?)ジョセフ・グルーの正体

アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。

 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。

  グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。グルーはトルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物である。
 
 原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であった。 それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。

 憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。

 白洲次郎はスティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男である。

 白洲次郎の父・文平は綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築いた人物である。明治時代にハーヴァード大学を卒業しているから、このときすでにユダヤ財閥と関係を持った(工作員となった)はずである。 次郎はケンブリッジ大に留学する。学者を目指したとされるがウソだろう。神戸でチンピラやっていて、英国に行っても高級車を乗り回すしか能がない男が学問だなんて笑わせるんじゃない。工作員として教育されるためにケンブリッジ大学に呼ばれたと見るべきであろう。

 そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。

 次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。

 白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。

 ソ連の工作員だった朝日新聞の記者、尾崎秀実はゾルゲ事件に連座して死刑になったが、おそらく同じような工作を担当していた米英側の工作員・白洲次郎は生き延びて、さらに戦後GHQの手先まで務めたのである。アメリカ側が戦時中に白洲に手を出すなと日本の官憲に厳命した可能性はある。それは白洲も尾崎も同じ手先であったが、戦後は冷戦構造を演出しなければならなかったから、日本をアメリカの統治下におくので、ソ連系の尾崎は邪魔になったのだろう。尾崎は日米戦を実現させた意味で、勲一等ではあったが、アメリカ系スパイの白洲と組んでいたことがわかれば、まずいからではなかったか。

 ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。
 
 白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。

  Wikipedia にはこうある。

 1950(昭和25)年、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

 1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年)11月19日から昭和29年(1954年)12月9日まで外務省顧問を務めた。

 よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。 白州がお目付役となって随行したにすぎまい。

 日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下はセットになっている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。

 鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。

 その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。
 
 その同盟通信社はヨハンセン・グループの樺山愛輔の父・資輔が設立したものであった。樺山愛輔が天皇の意向を受けて「ignore」と訳して返事とした。そこに樺山の娘婿の白洲次郎が一枚かんでいるかもしれない。

 白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。
http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html


・ロスチャイルド財閥を中心とする国際金融同盟は、原子力に注目し、これに莫大な資金を投資し、ウラン鉱の買収を大戦中に始めていた。原爆の実験はそのために是非とも必要だった。日本がその標的にされた。スティムソン陸軍長官が(このことを)6月8日直前に天皇宛の文書でヨハンセン・グループのルートで送ったとみられる。P511
・あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は“天佑”だと叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。その時だけが例外ではない。P521

・日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。
天皇はこの直後に、アメリカから“天皇制護持”の約束を与えられていることだ。
そして、御前会議を開き、ポッダム宣言受諾を決定する。
間違いなく、原爆投下と交換条件である。

アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。…国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。P522

・天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ではどうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。

 この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。

ひとり、畑元帥のみが、この総司令部に行っていないのである。P524-528
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/230.html

 「原爆の秘密 [国外篇] 殺人兵器と狂気の錬金術」 鬼塚英明著 成甲書房 を読みました。 

この本の著者鬼塚氏は、「どうしてアメリカは日本に原爆をおとしたのであろうか」と考えて資料を読みあさっているうちに、私たち日本人はだまされてきたのだと確信するようになりました。広島・長崎の悲劇を繰り返さないため、日本人は現実を直視しなければならないと、鬼塚氏は訴えています。

  日本がすでに終戦工作をしていたにもかかわらず、原爆投下は決まったこととして、進められ、ウラン、プルトニウムの両方を落とすために、終戦が引き延ばされたと著者は見ています。また、イギリス留学中に実家が破産してウォーバーグ財団の援助を受け、岳父が貞明皇太后と密接な関わりを持っていた白州次郎を介して、皇室と皇太后の周囲にいたヨハンセングループと言われる吉田茂らに情報が渡っていたと思われます。鬼塚氏は、アメリカが天皇制の存続を条件に、ポツダム宣言を「無視する」とのことばを天皇に言わせたと見ています。少なくとも天皇は事前に知っていたのです。

 鬼塚氏は、ルーズヴェルトは原爆を落とす前に日本に警告するべきと主張したので、殺されたのではないかと推理しています。次の大統領に成ったトルーマンも繰り人形に過ぎず、実際に指揮をとっていたのはスティムソン陸軍長官でした。スティムソンはエール大学でスカルアンドボーンズという組織(ジョージ・ブッシュや大統領候補だったケリーも入会していた)の会員で、ロスチャイルドのザ・オーダー(国際金融寡頭勢力)の中枢にはいっていた人物とのことです。

 マンハッタン計画の資料によれば、そのスティムソンが討議すべき問題として挙げているのは、「現在における」ではなく、「将来に置ける」兵器や国際競争です。ウォール街の利益のため、ザ・オーダーのために戦争を長引かせたのだという著者の主張が納得できる気がします。

 つまり、湯水のように税を投入したマンハッタン計画の効果を国民に見せるため、スペクタクルが必要だった。実際投下すると非難の声が上がり始めたので、犠牲者を減らすために必要だったと宣伝し始めた。もちろん投入された資金は原爆カルテルの懐に入り、それ以降も原爆産業として成立していったわけです。また、ソ連に見せつける効果もありました。

 日本に2発以上の原爆を落とす計画がうまく行くためには、天皇がポツダム宣言をその前に受諾しては困るので、国内にも協力する勢力があったはず、ということで、「原爆の秘密 国内篇」に続きます。
http://plaza.rakuten.co.jp/sawakai/diary/200808180000/


鬼塚英昭著「原爆の秘密 国内篇」(成甲書房)を読みました。

・広島の原爆で、爆心地近くに集められていた徹底抗戦派の軍人たちは全滅したのに、第2総軍司令部は山腹にあり、ほとんど死者を出していない。

・東京ローズがアメリカ軍向け宣伝放送で、第509航空群(原爆投下のために作られた航空群団)を名指しで挙げ、Rの記号がついているからすぐわかる、日本軍にやられないうちにおかえりなさい、と言っている。

・謀略機関で働いていた人たちは、戦後戦犯として裁かれるのを免れた上に、権力と富を手にしている。

・原爆投下数日前に爆心地近くに学童・生徒が集められていた。

・アメリカ兵捕虜は原爆投下時、長崎にいなかったので、犠牲者がいない。しかし投下後、アメリカのジャーナリストが取材にはいったときには存在した。どこから出てきたのか?


以上のことは何を表しているのでしょうか?

鬼塚氏は、天皇、日本の陸軍参謀本部とアメリカが終戦工作のために通じていたと考えます。

第509航空群団の飛行機にRのマークがついたのは、東京ローズの放送直前のこと、そんなことを知っているとは、そうとしか思えない。国策通信社である同盟通信社と陸軍参謀本部が作った原稿を東京ローズに読ませたのだろう、ということです。同盟通信社と吉田茂たち貞明皇太后周辺にいたヨハンセングループは深い関係にあった。同盟通信社の幹部だった松本重治、長谷川才次は、戦後ロックフェラー財団と気脈を通じて甘い汁を吸っているし、陸軍参謀本部の有末精三陸軍中将は「有末機関」をつくり、米軍に協力した。

参謀部は原爆投下を前もって知っていたので、助ける人と原爆死させる人を選別した、また、あらゆる人が犠牲になることでスペクタクルを盛り上げるべく、生徒たちが動員されたのだろうと、推測しています。

 考え過ぎかもしれない、と思う部分もありますが、世界の世論の非難をかわすために、放射能は存在しないことにされ、被爆者が見殺しにされたこと、高松宮が総裁だった日本赤十字が治療薬を断ってしまったことなどに対する著者の怒りには、共感せずにいられません。

 ペンタゴンがABCC(原爆病等調査委員会/アメリカの調査団と厚生省の国立予防研究所が協力してできた)に対し、データ収集のため、治療をしてはならないという内部通達を出していたこと、18000人がなお追跡調査対象になっていることが、2002年に、公表されたこと、ご存知でした?
http://plaza.rakuten.co.jp/sawakai/diary/200809160001/


昭和20年8月15日には、実は広島にあった陸軍の半分を指揮する第二総軍司令部は、8月6日の原爆で既に壊滅していた。だからクーデターは起こせない状況にあった。天皇一派は、陸軍による戦争継続を求めるクーデターを一番警戒していた。そのために終戦決定に当たっては、陸軍の叛乱が絶対に起きないように手を打っておかねばならなかった。  広島にあった陸軍の第二総軍司令部が原爆で壊滅したのは、偶然ではなかったのだ。

 天皇一族は、なんと昭和20年6月の時点で(!)ヨハンセングループを通じて、原爆投下の情報を実質的米国権力者のスティムソン陸軍長官からの指令で受け取っていた。ヨハンセングループとは、米国機密文書に出てくる秘密名の日本側組織であり、参加者は、牧野伸顕・吉田茂・樺山愛輔・岡田啓介・米内光政たちであった。このグループは、当然ながら戦犯に指定されていない。

 スティムソン陸軍長官からグルー駐日米大使、さらにヨハンセングループへとルートがあり、そのルートを通じて天皇一派は戦時中も米英勢力と繋がっていたのである。
昭和天皇は20年6月にスティムソン側から、原爆投下の場所と日時を決めるよう要請を受けた。そして広島に、8月6日午前8時頃と回答したのは、天皇一派であったのだ。その仲介をしたのがヨハンセングループであった。

つまり天皇は敗戦によって自分の生命と財産が保全されることが連合軍に保障されたので、ポツダム宣言受諾という形で敗戦を決めたが、それを陸軍に邪魔されたくなかったので、米軍に頼んで広島の陸軍司令部を叩き潰してもらったのであり、広島市民40万人はその犠牲にされたのである。

 当時の陸軍大臣阿南惟幾は8月15日未明に割腹自殺を遂げているが、その直前に部下に「米内(海相)を斬れ!」と言い残している。阿南陸相は一連の原爆攻撃から終戦工作の経緯を知っていたのかもしれない。

 ヨハンセングループの連中は、戦後、口を揃えて、原爆投下は終戦のための「天啓」だったなどとヌケヌケと発言したのであった。 それにしても、天皇やヨハンセングループが原爆投下の場所・日時を指定していたことは、ソ連参戦をも承知していたのであろう。ソ連軍が満州に侵攻する準備が整うまで、戦争を引き延ばしていたとも取れる。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6670188e626bc9a6e9269a37b1c57f5e
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7. そしてついに害虫駆除が実施された

広島の害虫駆除は大成功


 ・貴機は、硫黄島まで行きそこで他の二機のB29と合流する。うち一機がそれを運ぶ。

 ・他の二機は観測機器と写真装置を運ぶ。三機は互いに交信してはならず、無線沈黙を厳密に維持する。

 ・気象観測機が、該当国および標的地域上空より帰還する。それらは貴機とは直接交信せず、あたかも、テニアン島の基地と交信しているかに通話する。貴機は、したがって、極めて注意してその報告を聞く。もし、その報告が聞き取れなくても、無線を通じて発信してはならない。その報告は繰り返されるよう、あらかじめ手配してある。

 ・貴機は標的に対地速度480キロメートル/時で接近し、約9,000メートルの投下高度を維持する。
 爆弾投下は目視でおこなう。もし、選択した都市の視界が利かない場合、貴機の判断で次の標的に向かう。

 ・爆弾が投下されるやいなや、貴機は150度旋回する。

 ・標的の上を飛行するという、通常の爆撃方法に従ってはならない。・・・繰り返すが、貴機は、その爆発の上空を飛行してはならない。

 ・爆弾が投下された後は、その装置の爆発による爆心の上を飛行しなくてもよいように、急激な旋回をおこなう。貴機は、自機と爆心との距離をより長くとるため、飛行高度を下げてもよい。

 こうした詳細手順に従って、第509混合部隊の爆撃機は、17日間にわたり、トーペックス火薬〔爆雷用の高性能爆薬〕を用いた奇妙な形をした“かぼちゃ”を、日本のいくつもの都市に投下した。日本の対空監視員は、三機編隊でやってきて一発の爆弾を落とすだけで大した被害のない、B29の機影に慣れてきていた。日本の無線工作員は、重要性と機密を鼻にかけていると第509混合部隊をなじる、テニアン島の米軍の地上員ののん気なおしゃべりを傍受していた。東京ローズ〔日本が流した対連合国軍宣伝のためのラジオ放送の女性アナウンサーに米国兵がつけた愛称〕は、同部隊が、アメリカのとっておきの策、「魔法」の訓練をやっている、と報じていた。

 1945年8月6日、第509混合部隊のエノラ・ゲイは、魔法でもかぼちゃでもなく、「リトルボーイ」――細長い容器で、中に、発火を待つ少量のウラン235を一端に、他端に多量のそれをもつ、つまり原子爆弾――を搭載していた。テニアン島を離陸して6時間半後の、日本時間の午前8時15分17秒、特製の爆弾倉の扉が開けられ、〔爆撃照準機と連動した自動投下装置でなく〕トグルスイッチにより、パラシュートの付いた爆弾が投下された。ポール・W・ティベッツ大佐は、爆撃航程パイロットのトーマス・W・フェアビー少佐から機の操縦を引き継ぎ、急旋回をおこない、全速力で帰還に入った。約二分後、24キロメートル離れたところで、エノラ・ゲイは、まるで野生馬のように跳び上がった。航行記録をつけていた機長のロバート・ルイスは、「我々が標的を爆撃するまでの間、ちょっとの休息があるだろう」と直前に記録していたが、今度は、「おお神よ」と、驚嘆のみをしるしていた。

 その爆弾は、晴れた青空の中、24万5千の人口をもつ市の、北西中心部、地上約450メートルで炸裂した。その瞬間、あたかも太陽の中心部のような、直径75メートルの火の玉が空中に出現、6万4千人の市民が瞬時に燃え上がり、あるいは木っ端微塵に粉砕された。さらに、2万6千人余りは、中性子とガンマ線が無数に体を刺し抜き、焼かれ、数分、数日、数週、あるいは数ヶ月以内に死亡した。

 その閃光は、160キロ先にまで届いた。爆発の衝撃波により、瞬時に6,820棟の建物がなぎ倒され、その音は16キロの彼方にもとどろいた。幅1.6キロの市の中心部全体が炎に包まれた。熱気と灰――建物や人間の灰――の巨大な気流が空中へと吹き上がり、キノコ型の雲となって広がった。その灼熱のキノコ雲の足元に生じた真空状態に向かって、冷たい空気がどっと流れ込み、爆発から2ないし3時間、次第に速度を増す時速48キロから64キロの突風が、街を焼く炎を煽った。その火の嵐の周辺部では、熱波の先端が燃えやすいもの全てを発火させ、あたかも炎の舌のように、地上をなめつくしていった。数時間のうちに、10平方キロが焼けつくされていた。

 大気に吹き上がった塵のとばりは空をおおい、燃える市街を暗闇につつんだ。市内の河川の水が蒸発して吸い上げられ、ひょうの大きさの泥水の粒となり、その雲のあちこちから、雨という形で降りそそいだ。電離化した大気は、稲妻の付近でにおう、あるいは溶接の火花がもたらすような、電気的においを広がらせた。その火の嵐の縁では小さな竜巻がおこり、廃墟を巻上げ、ようやくでも立ち残っていた木々を倒した。

 爆心近くの倒壊した建物からなんとか這いずり出れながらも呆然自失の人びとは、戸外にいてひどい火傷を負い、まだ生きていながらも幽霊のようにさまよっている人びとの列に加わった。火傷は中度でも放射線照射にさらされた人びとは、火の地獄と現世の境で、肉親を探していた。そうした人びとは、何かにつまずき、熱で皮膚をはがれたり、黒く炭化したり、いまだ泡噴いていたり、灰色の断片と化していたりした人の死体をその目で見、そのシーンを脳裏に焼け付けた。市の中心を流れる三つの川は、大人や、ことに、火傷を癒そうと水に入った子供たちの死体で埋まり、流れさえ止まっていた。

 火の手の拡大は、怪我を負い、倒壊した建物の下敷きとなっていたたくさんの人々を飲み込んだ。そこを通り過ぎる避難民は、幾人かを助けることはできたが、他の人々には目をつぶった。肉親を探していた男は、立ち止まりながらも、わが身を助けることを第一としなければならないことを詫びなければならなかった。市の何箇所かでは、公園や広場に避難した人々が、周囲を火で囲まれ、瀕死の状態にあった。そうしたにじみ寄る火との戦いにさらされた人びとは、破壊された水道管や流水からえた数杯の水を分配しながら、子供に話しかけ、何がおこったのかの推測を交換し、この先何が起こるかうわさを広げていた。一機の低空をとぶ飛行機が、機銃掃射の恐怖をもたらしていた。異様な雨は、最後のいけにえをつくるため、市にガソリンが撒かれたのだという声もあった。兵士たちは、アメリカの落下傘降下兵を捜索しようとしていた。

 最初の30時間、生存者は、瓦礫の中を掘り返して回って、知らないとはいえ、恐しい放射線輻射に身をさらしていた。電気は消え、水道管は7万箇所で壊れていた。45の病院のうち、3病院が破壊をまぬがれ、290人の医師のうちわずか28人が、1,780人の看護婦のうち126人が、無傷でいたのみであった。そのような状態でも、生命は生き続いていた。それは後日に発見されたのであるが、たとえ爆心地でも、地面からわずか十数センチ下では、みみずがうごめいていた。

 序々にではあるが、地上でも、表面的な秩序は復活していた。爆撃の翌日、県知事は、「被害を受けた市の復興と悪魔のようなアメリカ人を絶滅させるために、戦う精神の高揚」を呼びかけていた。軍隊は、すべてが未熟ながら、比較的、近代的で効率的な組織であり、救援体勢をとった。被災者は病院へと集められた。軍の食料および毛布の貯蔵が放出された。山をなす遺体は、ガソリンが撒かれて焼却された。火災は三日にわたって燃え続き、その残り火も、数日にわたりくすぶり続けた。
 六ヶ月後の最終的な集計では、9万人以上の民間人と、1万人の兵士が死亡していた。さらに、数千人余りが、白血症や他の放射線障害で、この先の十年で死に至ろうとしていた。

長崎の害虫は全部駆除できなかった___困ったね

 
 アメリカは、第二のタイプの原子爆弾、「ファットボーイ」を日本に投下する準備をととのえていた。その原型は、すでに、ニューメキシコの砂漠の試験塔の先端で爆発実験をすましていた。ファットボーイは、その威力を、核分裂性の極めて高い、プルトニウムという、自然には存在しない、ワシントン州のコロンビア・リバーの施設で人工的に製造された物質によった。プルトニウムの原子は、核反応を予防するため分離され、外側を通常火薬のつまった球状容器で囲まれた爆圧縮装置内にほぼ均等に配置されていた。火薬に点火され爆発がおこると、プルトニウム原子は内側へと吹き飛ばされて圧縮され、第二の部分と強く結合し、広島で使われたウラニウム爆弾のショットガン式のものより、いっそう大きな核分裂が発生した。実際、ファットボーイは、リトルボーイの少なくとも3倍の爆発力が期待されていた。

 ファットボーイは第二の原子爆弾であったので、その投下にかかわった誰もが、畏怖にたる歴史を作ろうとしていることを自認していた。広島に関しての犠牲者の見積もりもすでに公表されていた。ラジオ放送は、原子時代の幕開けの意義について、解説や憶測を報じていた。すなわち、日本はすぐに降伏するにちがいない。神風特攻隊員であっても、自国の都市が一つひとつ消滅させられてゆくのを、名誉と歯を食いしばってはいられまい。

 加えて、ソ連の戦車が、満州・ソ連国境に集結し、崩壊しつつある日本の帝国の大陸部分をもぎ取ろうとしていた。そして、ソ連の侵攻は、日本時間の8月8日の真夜中をもって開始された。トルーマン大統領は、その一時間後、その報告を受け、さらにそのニュースが報道された。早朝の離陸体勢に入っていた太平洋の爆撃部隊員は、コーヒーを飲みつつ、任務指示を受けていた。

 ファットボーイは、8月11日、日本に投下されるよう計画されていた。ソ連の進撃が開始される数時間前の8月8日の午後、ファットボーイ爆撃チームは、太平洋に「かぼちゃ」を投下する訓練をしていた。その夕方、「ボックス・カー」と命名されたB29が太平洋のテニアン島の空軍基地に着陸し、チームは、その夜すぐ再離陸できる準備をするようにとの突然の命令を受け取った。

今回は本番であった。太平洋上では、台風が発生しようとしていた。日本南部は、翌日の天候は曇りで、その後四日間、雲で閉ざされることが予想されていた。どんな誤りをも避けるため、トルーマン大統領は、レーダーによらず目視によるファットボーイの投下を命令していた。

二度目の原子爆弾をいつ投下するかの判断権を与えられていたテニアンの司令官、トーマス・ファーレル大将は、その日を、11日から繰り上げて、9日の朝とすることを決定した。

 しかし、ボックス・カーのチームは、その出だしから、悪運につきまとわれているようであった。未明の離陸に備えるためには、彼らは、2時間の睡眠しかとれなかった。午後11時に起床し、真夜中までに任務指令を受け、軽食をとり、爆弾の搭載を見とどけ、そして、複雑なすべての機器類のチェックを行った。だが、その最後の段階で、航空機関士は、補助燃料ポンプが働かず、長距離飛行の帰路に用いる2,300キロリットルの補助燃料が使えないことを発見した。ボックス・カーの操縦士、チャールス・スウィーニー少佐は、「地獄行き」を決断し、同機は、日本時間の午前1時56分、離陸した。

 1時間後、ボックス・カーの乗組員は、テニアン島の本部からの異例な無線沈黙の中断によって困惑させられた。随行する二機の写真撮影機の一機が、科学観測上不可欠な高速度カメラを操作するはずであった物理技士を乗せ忘れてきていた。無線を通じた全関係者を巻き込んだ30分のやり取りのため、日本の電波探索者により、その聞いたことのない名のカメラの操作方法を、盗聴されてしまった恐れがあった。さらにその一時間半後、ファット・ボーイを監視し制御するブラックボックスが赤いランプを点滅しはじめ、すべての点火回路が作動し始めたことを示していた。ただちに、同乗の電子技術担当の大尉がそのブラックボックスを精査しはじめ、その間、機の乗組員は、核分裂が起こるかもしれない緊迫した30分間を過ごさねばならなかった。だが、その点滅は、スイッチの欠陥によるもので、意味もない警告が発せられているだけであることが判明した。そしてその後1時間半は、仮眠と通常作業の時間に当てられた。午前8時12分、ボックス・カーは、日本の南方沖で、二機の写真撮影機の一機と落ち合った。一方、物理学者を乗せ忘れた第二の写真撮影機は、やや北側を、さらに高い高度で飛行していた。40分間、三機は互いを目視しようと旋回をつづけたが視界に入らなかった。8時56分、操縦士スウィーニーは、それ以上の探索は燃料の不足のため不可能と判断、標的に向けて北に航路をとった。先行する気象観測機からは、天候は良好との報告が入った。朝霧が晴れつつあり、青空が輝きはじめていた。

 当初の標的は、長崎ではなく、17万の人口をもつ、日本最南部の主要な島、九州北沿岸の工業都市、小倉であった。この都市は、それまでに小規模の爆撃はうけていたが、第一の標的であった。小倉は、平野地帯に位置し、戸畑、若松、八幡――後に四市は合併して北九州市という日本第五の大都市となった――という工業都市と隣り合わせていた。

もしその朝、ボックス・カーがファットボーイを小倉に投下していたら、四市合計61万の人口のうち、30万人が死亡することが予想されていた。

 午前9時30分、小倉に接近した時、スウィーニー少佐は、天候は変わらず、空は晴れ上がり、視界が良好であることに安堵した。しかし、機が標的上空にさしかかった時、爆撃手のカーミット・ビーハンは、照準地点として使うはずの兵器工場が目視できないと報告してきた。工場の煙突からの煙がそれを覆っていたからであった。スウィーニー少佐は旋回し、二度目の爆撃航程に入った。しかし、再び、市が眼下に入り、川や他の目標物は明瞭に見えたが、兵器工場は相変わらず目視できなかった。再度、爆撃手ビーハンは、「投下せず」と呼号した。三度目の爆撃航程の際、乗組員は、日本の対空砲火が高度を捕らえ始め、また、日本の戦闘機が上昇してきていると不平を言った。三度目も、爆撃手ビーハンは照準器に標的を捕らえることができず、「投下せず」と叫んだ。

旋回しながら市の上空の対空砲火の白い煙玉を観察し、スウィーニー少佐は、投下を断念し、第二の標的である140キロ南の長崎に向かうことを通知した。すでに、燃料は限界にきており、テニアンまで戻る可能性は無くなっていた。機は、硫黄島か、最近獲得した沖縄の飛行場で給油を受けるかのいずれしかなかった。

 ボックス・カーは、午前11時数分前、長崎に向け出力を上げた。いらいらした乗組員は前方の雲を見、レーダー投下を要望した。しかし、爆撃の全権を持つ海軍司令官、フレッド・アシュワースは即座にそれを拒否した。スウィーニー少佐は、「標的の300メートル以内に達する自信があります」と彼に確約した。それに、重い爆弾を沖縄まで運ぶ燃料は残っていなかったので、他にとり得る唯一の策は、ファットボーイを海に捨てることであった。一瞬のためらいの後、司令官アシュワースは、トルーマン大統領の命令を無視する決断を行い、その承諾を与えた。

 長崎は、V字型の湾の奥に位置していた。港にそう二本の大通りが市の中心で交差し、狭い谷間に伸びていた。識別の容易なX型の市は、レーダー画面でも明瞭に確認できた。爆心は、そのXの中心であるはずだった。しかし、ボックス・カーがそれに迫った時、爆撃手ビーハンは、雲の合間に運動競技場を捕らえた。それは、偵察写真で彼が見ていたものであった。「これをやる」と彼は叫んだ。彼は右方向への航路修正を求め、それがなされた。一分以内の午前10時58分、彼が爆弾を目視で投下すると、ファットボーイを爆撃倉から切り離した機体は突如浮き上がった。スウィーニー少佐は、自機を大きく傾かせ、沖縄での強制着陸を目指し、南方へと機首を向けた。

 機の背後では、パラシュートから吊り下げられたその「仕掛け」は、後で「ピカドン」と地上の人びとに呼ばれるようになるのだが、空中にただよっていた。それは、標的から300メートルどころか、3,000メートル以上も外れて投下されていた。それは、長崎の最も重要な軍需工場、三菱大砲製造所のある、浦上の鍋状の谷の上を降下していた。また、この谷にそって、もうひとつの重要な標的――その半島上の都市と他の日本とを結ぶ鉄道が走っていた。

生き残り、元気になり、何かを書き残した数十人の日本人は、その時、青空を探して空を見上げていたことを思い出した。うち何人かは、機影を見、二人は爆弾とパラシュートを目撃していた。三菱の工場で、旋盤に付き、魚雷や小火器を製造していた労働者には、何も聞こえなかった。東洋で最大のローマカトリック教会である聖母マリア教会での金曜会合に集まっていた人びとは、何も見ていなかった。機械の轟音やステンドガラスの不透明さは、彼らを死へと向かう恐怖から救っていた。 

 投下から4分後、上空約450メートル、鉄道から60メートル東の地点で、爆弾は炸裂した。その直下では、その破壊は広島よりもさらに完璧で、死は即死であった。しかし、浦上の谷状地形は、長崎の他の部分への放射線の直撃をさえぎった。火災の嵐は生じず、泥の雨も降らなかった。谷間の3.2キロの大通りは、まったくのさら地と化せられた。その爆発音は周囲の山々に反響し、飛び去るボックスカーをとらえ、少なくとも5回の頭を殴られたような振動を与えた。6ヶ月後の集計では、39,214人の男、女、子供が死亡していた(##)。

(##) 爆撃手ビーハンの3,000メートルの爆撃ミスがなかったとしたら、もう5万から7万5千人の犠牲者を生んでいた。ビーハンはただ、そのミスが全くの誤爆であるとはしていない。彼は、爆弾を投下した場所がどこであるか知っていたし、雲の切れ目より目視した運動競技場は「第二の標的」であったと語って自己防衛した。
確かに、戦略空軍司令官のカール・スパッツ大将の段階においてその人的ミスは認可されていたようだ。そのような高価な兵器の殺傷力を無駄にしないことは、戦況も大詰めに差し掛かっているだけに、有効な判断であったろう。
爆弾投下の5分後、ボックス・カーの無線手は、テニアンにこう通信している。「結果は技術的には成功。しかし、関係する他の要素は、次の段階に移る前に討議される必要あり。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_2a.htm


害虫駆除の奥義教えます (こっそり)

反転爆撃

戦時中、広島で原爆を体験した若木重敏氏は、アメリカ軍の爆撃機B29は、広島への原爆投下に先立って「巧妙なトリック」を仕掛け、人間の被害を極大にしたと述べている。

若木氏によれば、8時15分の前に、爆撃機は広島市上空を旋回し、警戒警報を出させ、その後いったん飛び去り、警報が解除されて市民が安堵感から防空壕や家から外に出てきた頃合いを見計らって、直ちに「反転」して広島市上空に戻り、原爆を投下したという。

その証拠に、「エノラ・ゲイ号」とその僚機の当日の航路など、具体的な行動記録については現在に至るまで公表されていないという。

「爆撃を行なった当のアメリカの権威ある数多くの著書のどれにも、エノラ・ゲイ号が日本に近づいてから、どんな航路を取り、またどこでどのように進路を変えたかの具体的な記述をしたものは一冊もない。
これは実に異様なことである。

その異様さの第一は、日本の海軍も陸軍もNHKの放送も、豊後水道および国東半島を北上した大型3機が広島上空に来襲し旋回したので警戒警報が出されたといっているのに、アメリカのどの文献にもその3機のことについての記載が全く出てこないことだ。またアメリカの文献では一様に気象観測機のストレート・フラッシュ号が広島を襲ったので7時9分に警報が出されたと書いている。日本のどの記録にも、ストレート・フラッシュ号のことなどは問題にしていない。問題にしているのはアメリカ人だけである。
第二は、広島が被爆したときに空襲警報も警戒警報も発令されていなかったことは明白な事実なのに、アメリカの代表的な著名文献の全てが、被爆時、警報は発令されていたと、例外なく書いているのである。

この明白な2つのウソをなぜ揃いもそろって書かなければならなかったのだろうか。それは、この2点こそが、アメリカ空軍の作戦を立てた人が、日本人に、いや世界の人に最も知られたくない問題点であったからではないかと私は思うのだ。」

 
●そして若木氏は自著の中で数々の「傍証」をあげながら、次のように述べている。

「私は自分の得た情報に基づき、エノラ・ゲイ号らは、いったん広島上空を西から東に飛び、ついで方向を東から西に変え、いわゆる『反転爆撃』をしたのではないかと推測している。

爆撃機(3機のB29)が広島上空を旋回し警戒警報を出させ、播磨灘に抜けたのは7時25分であり、警報解除になったのが7時31分である。 〈中略〉

……すなわち、私は爆撃機がいったん広島上空を飛んで警戒警報を出させ、ついで飛び去り、警報が解除になり人々が防空壕から出て、リラックスしたその瞬間を狙って爆弾を炸裂させた、謀略的に人間の大量殺戮実験を行なったのではないかという懸念を抱いているのだ。 〈中略〉

広島爆撃の2ヶ月前の名古屋空襲でも、警報解除後を見計らっての爆撃という同じことが行なわれ、恐るべき人員殺傷効果を上げた事実がある。警報発令、次いで解除された状態で、アメリカ空軍が爆撃して大きな殺傷効果を上げたことは、すでにヨーロッパで実験済みである。」

広島の空に白く大きく華やかに開いた「落下傘」の謎
●1945年8月6日、「エノラ・ゲイ号」とともに作戦に参加したB29「グレート・アーティスト号」(科学観測機)は、原爆投下と同時に爆発力測定用のラジオゾンデを吊るした「落下傘」を3つ落下させた。 この青空に目立つ直径3mの「落下傘」は、空を見上げた市民たちに目撃されている。
 
●広島の被爆者である河内朗氏(元・国連本部の財務官)は、著書『ヒロシマの空に開いた落下傘』(大和書房)の中で、このパラシュートの落下は一般に説明されているように、原爆の爆発を確認するための電波を出させる器具であったばかりでなく、人々を死に誘い出すための工夫であったと主張している。

■ヒロシマの空に開いた落下傘 / 河内朗著 (1985年)
原爆攻撃は最初から最後まで、綿密かつ完壁に計画された。
まず10ヶ月の長きにわたり、訓練している。1発だから1機でいいのに、2機も伴走させて人々がいかに死ぬるか、観察した。その3機を見て人々が逃げ出さないよう、あらかじめ馴らした。このような準備は、すべて、可能なかぎりたくさんの人を殺そうとしたからである。 〈中略〉
同じ理由から攻撃の時刻もわざわざ計算に入れた。
月曜日の朝、8時15分。通勤・通学のラッシュ・アワー。人々は勝手を知った身辺の防空壕を離れて移動中であった。

……そして、ひどいと言えば、いまひとつ非道が残っている。

パラシュートである。

朗は江川隆の眼球が溶けて真珠になったのを目撃し、親友が「見てくれ、おれはこうして死んだ」と呼んだのだと信じた。でなければ、あれだけ多数あった死体の中で、かれとも知らず、その一体にだけ惹きつけられた理由がない。
眼球が溶けた、すなわち江川は、何かを、見ていた。
何を見つめていたのか気になった。
爆撃機は点であったし、爆弾は石ころのように落ちたのだから見えはしない。見えたのは、その数分前に、広島の空に、大きく開いた3つの落下傘に間違いない。

落下傘は「観測筒」を吊ったという。

直径35cm、全長1.6mの「観測筒」の内部にはリレーだのスイッチだの発信装置らしいものが入っている。説明も気圧測定のラジオ・ゾンデと同じように原子爆弾炸裂時の圧力その他を無線で送信したとあり、一般もまたそのように納得した。

しかし、それは日本側の自己解釈だから、マンハッタン機構側の裏づけを取る必要がある。ところが、どうしたわけか、観測データどころか、「観測筒」そのものについても説明が見つからない。犠牲者が出るとわかっていたからその場で観測したと発表するのにとがめを感じたのだろうか、とにかく、「観測筒」についてもデータについても話が全く出てこない。 〈中略〉

マンハッタン計画の司令官グローブス少将の陰険な性格と自己顕示の心理からして何かわけがあると直感し、つぎのように調べてみると、なんと、爆発力測定が無益無用であった。

兵器専門家、火薬担当官などに尋ね、科学書で裏づけを取ってみると、爆薬の強さは爆風圧で測るが、爆風圧は距離の二乗に反比例してツルベ落としの急激さで弱まるので、距離はごく精密に設定しなければならない。
1mの誤差があってもダメだという。だからこそ爆弾でも砲弾でも直撃点から少し離れてさえいれば助かる。逆に新しい種類の爆薬の効率を測るには、まず爆発点とセンサー、すなわち感知機との距離を正確に測定する。つぎに爆発させてセンサーの度合いを調べ、それを既知既定の度合いと比較する。したがって正確な2点間の長さが決め手となる。

ということは気圧源との距離を無視するラジオ・ゾンデとは全く似て似つかぬ方法なのであった。

ヒロシマの場合はどうか。

落下傘にブラ下がってフワフワ降りる「観測筒」は風向き次第、感知器はどこへ行くやら知れたものではない。一方、爆弾は石ころのように落ちる。このどちらも動いている両者の間の距離は、絶対に、測り得ない。また、そうまでムリをして概算しなくても7月16日、アラモゴードでは、動かない地上の2点間をあらかじめキッチリ測り、爆発力はすでに計算してあった。

とすると「観測筒」は全く無用──。

しかしあのグローブス少将が不必要なことをするはずがない。

よく考えてみると「観測筒」は見せかけのラジオ・ゾンデとして皆を欺くためであり、実際に必要なのは、だれ一人としてその意味を疑わないであろう「落下傘」なのであった。

なぜ「落下傘」か?

地上の人間の注意を喚起するためである。落下傘は現在ですら珍しい。当時とすれば尚更のことで、結構な見世物になった。かすかな爆音に気づいたヒロシマの人たちが不安を感じてその方角を見上げると、青く晴れた空にポッカリ、見たこともない落下傘が白く大きく華やかに開く。

思いがけない光景に人びとは袖を引き、他の人に声をかけ、アレヨアレヨと皆で3個の落下傘を見守った。

その背後に「原子爆弾」がツーと落ちつつあるとも知らないで……。

そしてその人たちはすべて死ぬか、目を焼き切られた。

「そういえば、爆音がして一番先に気づいたのは落下傘だった」と繁が言った。

「ぼくも見た」と優が言った。

シルク・ロードを描いて有名な平山郁夫画伯をのぞき、他にあの「落下傘」を見て無事な人はいない。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#ex15

天皇の原爆しょうがない発言

昭和天皇の原爆しょうがない発言について、当時の新聞にもしっかりと縮刷版に載っていたのだが、ここではそれを「ママオコシ」で文字おこしした内容を示す。これは、現在発売中の鬼塚英昭氏の『日本のいちばん醜い日』に引用された、松浦総三という作家の『松浦総三の仕事』という本からの引用である。この記者会見の模様はユーチューブに動画も何個か落ちている。

この会見の場で、

「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・

こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、

広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」


と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html


      ..,,,,,ll,,,,,,,|||Illllla,,_
    : .,,,illlllll゙゙¬゙|ll|l》゙|ト砲,、
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 .'fi,;゙l;ヒ  : : ;:  :":・lll゙l,.'l・!°   |
   ゙'!,,,い:    ,‐ .,!.gl,,|i,,j,,\  .,l 世界大戦は私のせいで多くの人が死んだ?
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     ll,  ゜,,l゙`:;,,,,l,ll,,、.゚ト.,,i   あ、そう! だから何?
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コメント
 
01. 中川隆 2010年3月14日 23:52:07: 3bF/xW6Ehzs4I

原爆ホロコースト:広島

私は一人で司令部裏の石段を登って行くと、いつものこの位置から木の間越しに見えはじめるはずの天守閣の姿がないことに気づいた。天守閣がない!真っ黒に焼け残った大木が立ち並んでいるだけであって、その向こうにあるべき「天守閣」が見えないのである。考えてみれば、当然すぎるほど当然なことで、広島全市がこれほどの被害を受けているのに、あの天守閣だけが生き残ることができないのは、全く疑う余地もない。

(中略)

その石段を登りきったところから、天守閣の付近まで約二百メートルの間に軍司令部のほとんど全員の犠牲者の屍が散乱しているのであるが、その中で軍司令部のすぐ裏にあたる広場付近には三、四十名の女学生たちが集まって折り重なるように倒れていたのである。

この広島では毎朝八時より、約三十分全員が集合して朝礼をやることが日常の行事になっており、その行事の最初に高級副官の音頭で「決戦訓」を朗読して、それが終わると戦意昂揚のために将校・下士官は軍刀の素振り、兵員は銃剣術の基礎練習、その中に交じって女子挺身隊の真剣な竹槍訓練が実施されることになっていたのであるが、「午前八時十五分」は、ちょうどその訓練を開始したばかりの時間に相当することになる。

事実はまさにそのことを証明するように、女学生たちの目を蔽うような屍の傍には、多くの竹槍がそのまま投げ出されており、中にはその手にしっかり青竹が握られている姿も目にはいってくる。

宍戸幸輔 『広島が滅んだ日』 より(鬼塚英昭 原爆の秘密[国内篇] 第二章 原爆殺しの主犯を追跡する p066に引用がある)


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一九四五年七月九日広島

各地の放送局に波長を合わせたラジオが一〇台以上も置かれていたが、その部屋の中は天井に取り付けてある扇風機の低くうなる音の他は、ほとんど音がしなかった。それぞれのラジオは、その前に坐っている人のイヤフォンにしか音が伝わらないようにしてあった。そこにいる人がやっていることは、日本の他の人間がしたら死刑になるかもしれないことだった。彼らはアメリカの放送を聞いていたのである。彼らはラジオのモニターであった。二四時間ぶっ続けに、太平洋およびそれよりまだ向こうの地域の放送を聞く仕事の、午前の班であった。これは畑元帥の第二総軍司令部の通信部の一部であった。

この部は畑元帥の司令部の神経中枢であって、西練兵場の近く、二葉山の麓にある元国民学校校舎の二階建ての長い建物の中にあった。この通信部は特設の通信線で東京の大本営陸軍部と結ばれており、また福岡、佐世保、長崎、鹿児島などの九州の軍事要点との間にも他の通信線が通じていた。地元では、呉軍港、宇品船舶司令部、および広島城内の中国軍管区司令部とも結ばれていた。

この傍受室はこの通信部の一番重要な施設で、東京郊外にある特種情報部だけがこれに匹敵することができた。

この数週間、傍受室はいままでになく忙しくなったが、それは有末中将の部下ですご腕のアメリカ事情専門家、大屋角造中佐が畑元帥の諜報主任将校として広島に赴任してきてからのことであった。

ゴードン・トマス&マックス・モーガン=ウィッツ 『エノラ・ゲイ』 p256−257より (鬼塚英昭 原爆の秘密[国内篇] 第一章 原爆投下計画と第二総軍の設立 p023−025に引用がある)

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畑元帥と大屋中佐は、刻々と変更される投下日時の把握に追われていた。それで、大屋中佐はもう一つの傍受室をつくるのである。

『昭和史の天皇』から引用する。被爆の瞬間、軍の中枢である第二総軍司令部参謀一課にいた井本熊男高級参謀の談話である。もちろん井本は負傷していない。

このとき、あけてあったドアから廊下へはじき飛ばされた橋本参謀と大屋参謀は、そのまま無意識のうちに廊下の窓にかけてあったナワばしごで建物の外に出て防空壕に向かったが、参謀室にまだ人がいたことに気づいて引き返してきたのだった。その橋本氏の話にかえる。

「二人で歩きながら、直撃弾をうけたにしても爆痕がない。これはいったい何だろう、とわたしがいったら、大屋君が、そういえば妙な新兵器の海外放送を聞いたが、それかもしれんという。この海外放送は実は大本営にはないしょで、情報の大屋君が主として女性の二世を二十人ほど集め、鯉城に近い浅野候の別邸に傍受所を設けて、内外の動きを見ていたのだ。当時、わたしたちが気にしていたのは、政府首脳が軍の本土決戦のカゲで、どうやら終戦工作をやっているらしいということだ」

大屋中佐は鯉城(広島城)の近くに女性の二世を二十名ばかり集めて、ブロークン・イングリッシュを解読させていたのである。彼は、この情報を有末中将に伝え、有末中将は同部に所属する皇弟・三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)中佐に伝えていたのである。

テニアンから刻々と入る情報で、「八月六日八時十五分」の投下時刻を正確に知ると、畑元帥と大屋中佐は大衆動員(引用注:八月三日〜八月六日、義勇隊三万人、学徒隊一万五千人)を原爆中心地近くにかけ、大阪から鹿児島までの将校たちを八月六日午前八時(これは九時に変更される)に爆心地近くの陸軍の社交場・偕行社に集まれとの司令官命令を出すのである。戦争終結に導くためのスペクタル・ショーの演出をやってみせるのである。

『エノラ・ゲイ』の続きを見ようではないか。秘密が、第二総軍が隠し続けてきた秘密が見えてくるのである。

一日のうちで最も忙しいのは正午から夜の零時までの間であった。その間、この部屋のラジオの半数が、沖縄、硫黄島、マリアナ諸島から発せられる通信の傍受に向けられた。モニターたちは、遠くはグアム島から発せられるアメリカ軍の命令の放送を聞こうと耳を澄ました。その命令は多くは暗号だったが、そうでない生まのものもかなりあって、すぐに役立つような情報が手に入ることがあった。

この傍受には軍のラジオ通信ばかりでなく、B29の通信兵が離陸直前に行なう簡単なラジオの言葉も入った。

日本とマリアナ諸島との間には一時間の時差があるから−−広島のほうがテニアン島より一時間遅かった−−そのラジオのテストが広島の時間で午後三時か四時頃行なわれるとすれば、モニターはその夜空襲のあることを知りえた。

モニターを傍受したテストの回数で、空襲にやってくる敵機の数をおおよそつかむことができた。モニターはその報告を上司に渡し、上司はそれを通信司令室へ送り、そこから西日本全体の防空組織へ情報が流された。それだけのことがわずか数分間でできた。  

爆撃機が日本の上空に接近すると、モニターは乗員同士の断片的な会話の交信をキャッチし、上司はそれによって爆撃機が日本のどの地域を攻撃するつもりかの見当をつけることができた。そういう情報は海上の艦船同士のラジオ通信の傍受記録と一緒にタイプされ、あとで分析された。畑元帥と大屋中佐はそれをもとにして、敵の兵力と意図とを驚くばかり正確に察知することができた。

大屋中佐は広島に来てからは、この仕事を自分がいかに重視しているかをモニターたちに見せるために、定期的にこの傍受室に顔を出した。

畑元帥と大屋中佐がどれほどテニアン基地の情報を知りえる立場にあったかが、この文章を読めば理解できる。

しかし、一つの謎が残る。畑と大屋は他の誰にも知られたくない独自の情報網が必要ではなかったのか。それで鯉城の近くに、わざわざ二世の女性を二十人ばかり使った秘密の傍受室、そして、応答室をつくった。そこで、テニアンにいる秘密室と直接に原爆情報のやりとりをした。

二世の女性たちは、あるときから不自由な生活を強いられていたのではないのか。どうしてか。それは鯉城の近くに原爆が落ちたから推測できるのである。彼女たちは死んだはずである。生き残った女性たちは沈黙を守るようにきびしく言われたであろう。鯉城の近くにいた人々で生存者はほとんどいない。原爆投下を知って、第二総軍の傍で傍受されなかったのは、深い意味があったからだ。証拠隠しである。第二総軍から情報が流されていたと書かれているが、原爆の情報は中国軍管区に届いてはいない。原爆の情報はすべて、畑と大屋の二人で闇のうちに処理されたのである。どうしてか?劇的な演出で、多くの広島市民に死んでもらうためである。スペクタクルが必要であった。天変地異に比すべき出来事が演出されなければならなかったのだ。

スティムソンは天皇にそれを期待したのである。天皇の特命を受けた畑は、大屋を三笠宮と有末のもとから強引に呼び寄せ、演出を担当させたのである。

原爆投下を事前に多くの人々が知っていたのである。どうして第二総軍においておや、である。あの東京ローズの放送も、畑と大屋の情報が有末のもとへと伝わり、甘く美しい声に乗って、テニアンの原爆機の担当者たちの胸を強く打ったのである。


鬼塚英昭 原爆の秘密[国内篇] 第一章 原爆投下計画と第二総軍の設立 p028−p031より

−−
もう一つ重要なことがある。それは、第二総軍が広島市民たちを爆心地近くに動員したことである。原爆遺跡保存運動懇談会編『広島爆心地中島』(二〇〇六年)から引用する。この本の中に、「長谷川氏の手記」というものが載っている。

学校関係者は、口を揃えて、〔動員された生徒が〕危険な作業に出ることを極力反対しました。しかし、軍関係者は、承知せず、防災計画上、一日を争う急務だからと強く出動を要望しました。会議は長時間にわたり平行線をたどったのであります。
出席の軍責任者の○○中将は、いらだち、左手の軍刀で床をたたき、作戦遂行上、学徒出動は必要であると強調し、議長(内政部長)に決断を迫りました。議長は沈思黙考、双方の一致点を見出そうと苦慮され、やむなく出動することに決定、空襲の際は早く避難できるようにと引率教師を増やし、少数の集団として、終了時間は一般より二時間位早くすることでようやく妥結しました。

この中の「○○中将」についての解説があるので記すことにする。

〔○○中将とは〕当時、広島の陸軍部隊には三人の中将が配属されていた。一人は船舶司令部(暁部隊)の佐伯文郎中将、一人は編成中の赤穂部隊の河村参謀中将であり、もう一人は広島の第五九軍司令官(元広島師管区司令官)であり、中国軍管区司令官の藤井洋治中将であった(『広島原爆戦災史』『広島師団史』)。「軍責任者」とは藤井中将に外ならない。
したがって最高責任者、司令官自身が前述の学徒動員実施要綱にもある一、二年生への配慮も、学校関係者の「口を揃えての」反対をも無視したこと、さらには秋吉威郎内政部長が沈思,黙考苦慮した経過が明らかになった、

以上のことを裏づけるように、『広島県史(近代H)』の「原爆と敗戦」の項では、「広島地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は八月三日から連日義勇隊約三万人、学徒隊一万五〇〇〇人の出動を命じた」と記している。

この解説の中に、「広島地区司令部の強い要請により」とは、藤井洋治中将の要請により、と理解される。彼を最高責任者としているが、私は広島の軍を指揮した最高責任者は畑元帥であったと思っている。畑元帥が藤井洋治中将に命じ、広島県知事を動かし、「八月三日から連日着勇隊三万人、学徒隊一万五〇〇〇人を出動させた」ものと確信する。

どうして、八月三日から六日までなのか。エノラ・ゲイは八月三日から六日にかけて、天気のよい日を見つつ、出撃の秒読み体制に入り、八月三日すぎに「八月六日投下」と正式決定をするのである。これは偶然では決してありえない。畑元帥とテニアン島のルメイ司令官、そしてグローブス将軍、そのボスのスティムソン陸軍長官が、日本側に求めてやまなかった準備工作である。だから、夏の朝、八時ごろから子供たちが駆り出されて、強制疎開という名の瓦運びなどをさせられたのである。

八月六日朝、偕行社に行く準備をしていたであろう藤井洋治中将は爆心地近くの宿舎で夫人とともに被爆死するのである(一説には偕行社にて死んだと書いた本あり)。藤井中将は予備役であったが、第二総軍創設の四月に畑元帥から広島地管区司令官に迎えられ、六月に第五十九軍司令官中国軍管区司令官となる。畑元帥の命令で子供たちを爆心地へ連れ込んだのである。広島市長は、藤井中将ではなく、高野知事でもなく、畑元帥に直接、「溢れる軍人をなんとか少なくしてくれ」と依頼している。この事実は、かのとき畑元帥が広島の最高指揮者であったことを示しているのである。
http://satehate.exblog.jp/9381417/


参照

世界権力構造の秘密 Eustace Mullins 2 原爆ホロコースト
http://satehate.exblog.jp/7590315

スカル&ボーンズとホロコーストの陰謀 by Clifford Shack
http://satehate.exblog.jp/7954379/

ホロコーストの秘密の起源:さてはての前書きと「ユダヤ人」ホロコースト
http://satehate.exblog.jp/7922652/

ホロコーストはなぜ起こったのか? by Clifford Shack
http://satehate.exblog.jp/7962130/

JFケネディとホロコーストの秘密 by Clifford Shack 目次
http://satehate.exblog.jp/9212783/

サバティアン・フランキスト・イルミナティ;全能の目カルトとしても知られる。
http://satehate.exblog.jp/7920212/

黒い貴族 デーヴィッド・アイク「最大の秘密」(訳書では「大いなる秘密」)よりの抜粋 by Clifford Shack
http://satehate.exblog.jp/8022382/

ロスチャイルド一族、日本をとる。 by Clifford Shack
http://satehate.exblog.jp/7983092/

白洲次郎のプリンシプルとは? by 鬼塚英昭 原爆ホロコーストへの道
http://satehate.exblog.jp/9332877/

原爆の秘密 by 鬼塚英昭 を原爆ホロコースト真実の書として推す。
http://satehate.exblog.jp/9318506/

原爆投下は予告されていた by 黒木雄司
http://satehate.exblog.jp/9358512/

アメリカ兵捕虜の予告 「八月六日、ヒロシマは焼け野原になる」
http://satehate.exblog.jp/9365812/

東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」 by 鬼塚英昭
http://satehate.exblog.jp/9373582/

東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」 2 by 鬼塚英昭
http://satehate.exblog.jp/9379355/

原爆産業の裏側 by オルタ
http://satehate.exblog.jp/9356555/

日本のみなさん、世界のみなさん、黒幕が同じであることがわかってきたでしょうか?



02. 中川隆 2010年3月14日 23:56:34: 3bF/xW6Ehzs4I

東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」

「東京ローズ」をご存じだろうか。第二次世界大戦中、太平洋戦線にいたアメリカ兵への宣伝放送を、魅惑的な英語で読んでいた日本人女性アナウンサーのニックネームである。彼女たちの甘美で美しい声は、故国を遠く離れた若い米兵たちの郷愁をかきたてたという。

だが、その東京ローズについて書く前に、ゴードン・トマスとマックス・モーガンHウィッツの『エノラ・ゲイ』(一九八○年)からある文章を引用する。


とても奇妙なことが書かれている。その文章は「一九四五年七月一二日−−テニアン島」の項の中にある。テニアン島の基地から原爆投下機が広島、そして長崎に向かったのである。

ビーザー〔テニアン島に派遣された諜報将校〕は、テニアン島占領の時に戦死したアメリカ兵の墓地の近くのかまぽこ小屋にいた。その墓地には、彼が目撃した墜落事故で死んだ爆撃機乗員たちの遺体も葬られていた。ビーザーはその後、焼夷弾をぎりぎりまで満載したB29のそうした墜落事故はテニアン島では珍しくないことで、嫌でも逃れられぬ人生の現実であることを知るようになった。ビーザーは服を着ると、かまぼこ小屋の中が空っぽなのを知った。仲間の将校たちはおそらく浜辺へ海水浴に行ったのだろう。
小屋のラジオのスイッチをひねると、センチメンタル・ジャーニーの曲が雑音のなかから聞こえてきた。そしてその曲が止むと、続いて甘い美しい声が響いた。それはビーザーがしやくだけれども引きつけられているものだった。
東京ローズが太平洋地域のアメリカ軍向けの定時の宣伝放送を繰り返していた。

日本放送協会(NHK)で戦時宣伝放送「ゼロ・アワー」が開始されたのは一九四三年(昭和十八年)三月であった。参謀本部情報局管轄のもとに行われた対連合国向けの謀略放送である。命じられるままに、東京ローズは太平洋地域のアメリカ軍向けの放送を流していた。『エノラ・ゲイ』の続きをみよう。

東京ローズはもう二度も第五〇九航空群のことを名指しで取り上げて、隊員たちの胆を冷やした。第一回目は、第五〇九航空群地上勤務部隊が五月三〇日のメモリアル.デー(戦没将兵追悼記念日)にテニアン島に上陸した直後のことであった。東京ローズは彼らの到着したことに触れ、日本軍の餌食にならないうちにアメリカヘお帰りとすすめた。

第五〇九航空群の隊員のなかにはその言葉を嘲笑したものもいたが、また心配したものもいた。そういう隊員は、一体、東京ローズがどうやって、アメリカ全航空隊のなかで最も秘密のこの部隊のことを知ったのだろうかといぶかった。

それから二週間後に、東京ローズはまた第五〇九航空群のことを言った。彼女は、第五〇九航空群の爆撃機は、尻に「R」の記号がはっきりついているから、日本軍の高射砲隊はすぐ見分けられるぞと警告した。今度は誰も馬鹿にはしなかった。その記号が機に書き付けられたのは、そのすぐ前のことだったからである。


『米軍資料原爆投下の経緯』(一九九六年)を見ることにする。


第五〇九航空群団が米軍資料に登場するのは、「資料A-3/グローヴス将軍ヘテリー大尉から。主題:一二月二八日に貴官グローブスの執筆室で開かれた会議のノート」(日付一一九四五年一月六日)である。

8、今後のティベッツ大佐の群団の計画について、以下の通りに決定をみた。
a、第五〇九〔航空〕群団の全機は、陸軍の規格爆弾が運べるように爆弾倉内の懸架装置を改修する。この作業は、群団の訓練がバティスタ飛行場で完了したのち、四月一五日ごろに特別改修工場で行う。
b、ティベッッ大佐の群団が作戦に使用できるように、月当り最低九発の大型爆弾を提供する。
c、デリー大尉は、将軍(グローブス)のために、第五〇九航空群団の、一月一日から三月一日を経て六月一五日に至る間の、作戦の概要をまとめて提出するように求められた。

第五〇九航空群団は原爆投下のために作られた特別の航空群団であった。この群団は一九四四年十二月二十八日に正式に発足した。
この会議記録のなかに気になることが書かれている。

7・六月一五日と七月一五日の間の、東京上空の気象条件はどうかという問題が出された。アッシュワース海軍中佐は、八月一五日までは比較的に雨が多いと指摘した。

なお、「大型爆弾」とは、ファットマンと同一の弾体を有し、火薬だけを詰めたものと提示された、と書かれている。カボチャ爆弾と後に呼ばれたものである。

どうして東京ローズは第五〇九航空群のことを知り得たのか? 彼女はNHKに雇われた二世の女性である。彼女の人生を知りたい人は、上坂冬子の『東京ローズ』(一九九五年)を読まれるがいい。しかし、この本は、東京ローズが放送で米兵に語りかけた肝心の内容についてはまるで触れていない。

『エノラ・ゲイ』の続きを見ることにしよう。

ビーザーは、東京ローズがそこら辺ぢゅうのことを知っているらしいのに不安は覚えたが、それでもその日本からの妖しい魅惑的な声には耳を傾けた。今朝も彼女は相変わらず、アメリカのごく最近の野球試合の点数、ブロードウェーの内外の劇場にかかっているドラマやコメディの知らせ、フィクションとノンフィクションのベストセラーの詳細を知らせ、その間に現在のヒットパレードの曲を流した。
今日は第五〇九航空群の名前は出なかった。ビーザーはラジオのスイッチを切って、東京ローズに他のホームシックの兵隊の慰間をまかせた。

引用文中のビーザーとはテニアン島に派遣された検閲将校である。東京ローズのニュース放送を検閲していたのである。

この東京ローズに関する文章を読むと、日本の陸軍参謀本部が原爆のことを知っていたことに気づくのである
http://satehate.exblog.jp/9373582/


東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」 その2

戦前戦中、東京・駿河台の現在は文化学院がある場所に「駿河台技術研究所」(後に駿河台分室と改められた)があった。上坂冬子の『東京ローズ』から引用する。

技術研究所とは申すまでもなくカモフラージュのための偽称である。
私がこの蔦のからまる文化学院にことさら注目するようになったのは、
「謀略放送といえば東京ローズのゼロ・アワーが真先に引き合いに出されますが、実はあれはいわゆる謀略放送のほんの一部にしかすぎません。主流は何といっても駿河台技術研究所(捕虜の間では通称文化キャンプ)の捕虜たちの行った放送ですよ」
と述懐した元参謀本部宣伝主任恒石重嗣中佐の一言にひきつけられたからである。

上坂冬子は捕虜たちのことを詳述するが、どんな内容を彼らは喋らされたのかについては書いていない。しかし、興味深いことを書いているので引用する。

十四人の捕虜のうち三人(ヘンショー、ブロボー、マクノータン)は翌日早速NHK第五スタジオヘ赴いて、同盟通信社(昭和十一年連合通信社と日本電報通信社通信部門を合併して設立した国策通信社で社長は吉野伊之助、幹部には松本重治、長谷川才次、井上勇の各氏など)の用意した原稿を読み上げ、かくて我が国初の捕虜による謀略放送第一回「日の丸アワー」は放送されたのである。

この上坂冬子の文章を読んで分かることがある。あの「黙殺」発言を「イグノア」と訳したのが、国策通信社による謀略であったということである。松本重治や長谷川才次は戦後にアメリカのロックフェラー財団と気脈を通じて甘い汁を吸った謀略家たちであった。

あの東京ローズのニュースも一種の国策であろう。陸軍参謀本部と同盟通信社が共同でニュースを作成し、東京ローズに喋らせたのである。彼ら陸軍参謀本部のエリートや同盟通信社の幹部たちは、第五〇九航空群の爆撃機の尻に「R」のマークがついている秘密まで知っていたのである。これが何を意味するかは考えるまでもないことである。


彼らは、ロックフェラーやモルガンと通じていたのだ。そして、原爆が落とされるまで日本を降伏させないように猿芝居を演じていたのである。この同盟通信社とヨハンセン・グループに深い因縁があることはすでに姉妹書『原爆の秘密国外篇』で書いた。

上坂冬子は「その八課(参謀本部の)の人々は戦後から今日まで『駿河台会』という名の親睦会を持っており、ほぼ毎年一回の割で集りをつづけて、すでに三十回を越えている」と書いている。そして、一九七七年七月+二日午後五時、上坂冬子は会場の霞が関ビル三+四階の一室に、取材許可を得て出席する。そこに元参謀本部第二部長有末精三陸軍中将が出席していた、と上坂冬子が書いている。この有末精三陸軍中将の発言を上坂冬子は書きとめている。


ついに八十二歳の有末精三元中将まで立ち上り、

「東京ローズの生みの親というオーストラリアのカズンズ少佐に、一度だけ駿河台で会ったことがあるんだが、私はこういうザックバランな男だから、こちらからグッドモーニングと手をさしのべて『食い物はどうだ』と聞いたら、彼は即座に『ワンダフル』と答えましたな」


戦争が終わったとき、多くの軍人や政治家、文官たちが戦犯となったり追放処分となった。しかし、謀略機関で働いた連中は、一部の例外はあるものの、ほとんどが自由の身となり、それだけではなく、権力と富を得た。有末精三も例外ではなかった。「有末機関」をつくり、米軍に協力した。これは何を意味するのか。彼らはアメリカとグルであったことを意味するのではないのか。アメリカのために働いてきたのではなかったのか。
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03. 中川隆 2010年3月15日 00:06:21: 3bF/xW6Ehzs4I

鬼塚氏は、昭和天皇と同じカテゴリに、いわゆる「吉田反戦グループ」(ヨハンセン・グループ)や海軍大臣の米内光政を入れて、宮中グループとヨハンセン・グループとして理解する。

米内は、原爆投下を「天佑」だとはっきり述べている。

「しょうがない」という思いは、昭和天皇が1975年に発する前に、そして、思想的に複雑骨折を経ている戦後の久間大臣が誤解される形で、宮中グループとは別の意味で「しょうがない」と発言したよりも遙か前、戦争終結直前に米内によって表明されていた。

米内と昭和天皇は、保守派の文春文化人にとってヒーローである。陸軍はたたくが、海軍は批判しないというプレスコードが未だに残っている。
このグループが、皇室の財産保全のために、日本赤十字や、スイス銀行を使った資金の移し替えを行っている傍ら、終戦工作に乗り出していた、と鬼塚氏は指摘する。

これを裏付ける、ポール・マニングという作家の記述や、共同通信が二〇〇一年と二〇〇二年八月一三日が載せた記事もある。だからあながち否定できない。
さらに、このヨハンセンはグルーやスティムソン陸軍長官から、何らかの形で広島に原爆を投下するという情報を察知していたとするのだ。この根拠として、広島には陸軍の元帥・畑俊六がおり、畑元帥は原爆投下時に「松本俊一(外務次官)父君の別荘」にいて、司令部には出勤していなかったために、難を逃れた不自然さを挙げている。私は、東京裁判に立ったこの畑元帥の八月六日の行動について、この鬼塚書で初めて知ったので、これ以上コメントできない。(松本俊一は、いわゆる「シゲちゃん」こと松本重治とは関係ないようだが・・・)

ここで、鬼塚氏の主張を私なりに咀嚼すると、広島に原爆を落としたのは、抗戦派の陸軍の第二総軍を壊滅状態に置くという狙いがあったという。また、同じく第一総軍は、本部を東京に持ち、この指揮官の中に第一二方面軍の田中静壱大将がいる。鬼塚氏は、田中大将の45年8月24日の「自決」の時刻が、「森大尉が斬られた同じ時刻」である「午後11時すぎ」という、蓮沼侍従武官長の死の直前の回想記を根拠に、半藤本が書く「森大尉殺害」の時刻は実際よりも2時間も遅れていた、つまり半藤は嘘をついていると書いたのである。

そもそも鬼塚氏は、この本の前半では違うテーマで書いていて、後半と前半で全く手法を変えているのだ。つまり、この本のタイトルが示すように、本の目的は、半藤一利の「日本のいちばん長い日」(文春文庫、大宅壮一との共著が本当だろう)の嘘を暴くということにあった。だから、本の三分の二は、半藤本や、秦郁彦本の矛盾点を、下村湖南(終戦時の情報局総帥)の終戦記録(「終戦秘史」)や、外国のレスター・ブルークスの「終戦秘話」、バーガミニの「天皇の陰謀」などの本を使って明かしていく。文春などの週刊誌の回顧録の類も多用している。バーガミニはどの程度信頼できるか疑問だが、彼の主張のきっかけになったと理解すればいいのではないか。

要するに、鬼塚氏は、この本の中で、半藤一利が大宅壮一と共作した、「日本のいちばん長い日」というのは小説であり、皇室の関与を殆ど書いていない、というのだ。この半藤著では、クライマックスというか、話の中心に、八月一五日の終戦を回避し徹底抗戦を天皇に向かって要望する、青年将校の畑中少佐(陸軍省軍事課員)や椎崎中佐(陸軍省軍事課員) などの「小物」をけしかけた黒幕がいると語っており、これを「某中佐」というバーガミニ本の記述をきっかけに検証するという仕掛けになっている。

結論を言えば、この中佐とは、鬼塚氏は、塚本誠(戦後、広告代理店の「電通」に就職した)のことであり、この人物(情報将校)が終戦直前に台湾から呼び戻され、反乱の機運盛んな陸軍の青年将校たちをたきつけて、「宮城事件」というクーデターを起こさせたのだという。この事件は、皇居に籠城して、「君側の奸」を排除し、天皇を目覚めさせて抗戦を要求することを目的にし、途中で天皇の「玉音放送音盤」を放送させないように奪い取るという「トレジャー・ハンティング」のイベントが加わったということになっている。

ところが、この録音盤捜索というのは「創作」である可能性すらあるらしく、宮内庁に入り込んだ数十名の将校の目的は、御璽(天皇の決済印)ないしは木戸内大臣を捜すことにあったというのだが・・・。確かに、森大尉殺害と録音盤捜索のシーンは、映画プロデューサーでも関わったかのように、「嘘くさいくらいにリアルな描写」を半藤氏は行っている、と鬼塚著を読む前に急いで半藤本を読んだときに感じた。要は半藤本のは後の時代の「お化粧」であるというのが鬼塚氏の説である。確かに日本刀で森大尉(近衛師団長)を斬り殺す描写は「映画」的というしかない。

このクーデターを支援するように、阿南陸軍大臣に直訴した青年将校は、「軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐」。が、この中の井田大佐は、畑中、椎崎の二人と違って、自害もせずに生き残り、岩田と改名して、なんと「電通」に入社したという。

鬼塚氏が細部にわたって論証しているのは、少々うんざりもした。半藤氏の向こうを張って、自分なりの時系列でのドキュメントを書いたの地に、解説編で資料分析をやった方が良かったのではないかとも思った。
が、いろいろの記述を読んだ結果、要点として、鬼塚氏は、「半藤本には、塚本中佐の話や、阿南陸軍大臣が終戦の前日の14日から15日の間断続的に、皇族の一人である三笠宮と個人的に会って激しい議論をしていたことが書かれていない」、ということが言いたいのだと理解した。

そして、下級将校にすぎない畑中、椎崎らがなぜ自由に皇居に入り込めたのかという本質的な問題点を指摘する。確かに。これは鬼塚氏は、「皇族レベルの手引きがなければ出来ない話だ」というのである。

鬼塚説では、三笠宮は昭和天皇の名代である。要するに、跳ねっ返りの青年将校による「偽装クーデター」(むろん、青年将校たちは真剣であるが)を演出するのは、皇室サイドをクーデターの被害者として演出し、効果的に陸軍抗戦派の志気をそぐという目的があったということである。この構図は、『神々の軍隊』で浜田政彦氏が示した、「2・26事件」における青年将校の一人芝居ぶりと似ている。皇族はあくまでリアリスティックに自分たちと財産の存続を計るために、国際金融資本と交渉していたにも拘わらず、熱心な天皇崇拝者の青年将校が、勝手に理想の皇室像をプロパガンダによって描いてそれを信じていた。エリック・ホッファーのいうTrue Believerになっていたという、あの視点である。

文春や岩波系の文化人もこの等しく結局「天皇教」の呪縛から逃れられない、と鬼塚氏は前の「天ロザ」に引き続いて書く。

私(アルル)も、元来この天皇教信者だったようだが、「原爆しょうがない発言」でようやく、脱洗脳をしたと思っている。天皇は、あくまで普通の戦争指導者だったんだろうなあ、とこう思わないわけにいかない。そして、やはり昭和天皇は、戦争の責任によって退位するべきが当然で、それをさせなかったアメリカは問題をこじらせたから悪い、ということになる。日本は総括させてもらえなかったということになる。これが今の戦争責任問題をめぐる不毛な「勝った、負けた」の論破合戦になっていると思うのである。

要するに天皇の身の保全はアメリカの戦争指導部によって保証されたわけだ。グルー大使とスティムソン陸軍長官が保証した、というのでいいだろう。マッカーサーが天皇の姿に感動したというのは、たぶんとってつけた話だろう。「身を守ってくれたアメリカの実行した東京裁判も、原爆もこれは容認せざるを得ない。下手に突くと、やぶ蛇が出る」と昭和天皇は考えたのではないか。だから、富田メモのような靖国宮司批判をやったのではないか、というのが今の私の勝手な考え。
ただ、鬼塚さんたちに言いたいのは、この宮中グループというか、ヨハンセンの功績というのもある、というところ。

グローバリストのヨハンセン・グループは、吉田茂を初めとして、国際金融資本グループの「実力」を明確に理解していた。だから、憲法九条によって、戦争に巻き込まれることを避ける、という決断をした。グローバルに「奴ら」の恐ろしさを本当に分かっていたからこそ、戦争放棄というウルトラCの憲法を逆用して、少なくとも軍事的には国際秩序に積極的にコミットしていくことを封じるとという「妙手」を可能にしたのだろう。経済的にはむしられているけれども。
この当たりがヨハンセンのギリギリの遺産だったのだろうと思うのである。というのは甘い見方か?

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ところで、問題のシーグレイブについては鬼塚氏も真偽に判断をあぐねているようだ。これは私も同感である。鬼塚氏は、幾つかの資料を駆使し、昭和天皇の直接の父親が西園寺公の養子であり、大正天皇と同年代だった、西園寺八郎であると断定している。これを裏付ける証言として、犬養毅元首相が「これは親父と息子の方角を違えたのかな、フウム」という当時の東京朝日に掲載された談話を証拠としているほか、八郎が東宮職御用掛を初めとして、幼少の頃から付き従っていることをあげる。実の息子の公一(きんかず)よりも、皇室を気に掛けることがおかしいというのである。

もとより病弱の大正天皇が何人も子供を授かったという話こそ、確かに信じがたく、昭和天皇の父親は誰か、西園寺公かはたまた・・・という議論があったことは私も知ってはいた。だから、これを読むと真偽のほどは分からないが、「ありそうな話」という判断が出来る。なお、大正天皇の后であった九条節子(貞明皇后)は、鬼塚氏が引用している『昭和の劇 映画脚本家・笠原和夫』によれば、「宮中某重大事件」(昭和天皇の后を決める際に山縣有朋が介入した件)において、山縣と画策して(アルル:この辺は疑問)、自分のかわいがっている秩父宮を皇位に付けるべく画策した、という。(アルル:この話は反山縣の皇室内クエーカー勢力だったはずの貞明皇后とするシーグレイブと違うし、皇后は他の宮中のグループと一緒に婚約破棄に反対したはず・・・)皇室のいわゆる「秘め事」の話は仲々難しい。

この部分はともかく、二子である秩父宮が、二/二六事件の首謀者の安藤大尉に担ぎ出されて、直接、弘前にまで出向いた昭和天皇に説得されて、クーデター組に参加しないことを決めた、という記述も『笠原和夫』には出てくる。これは正しいのではないかと思う。秩父宮が結核の療養として富士に行くのも「追放」だとする意見も、なるほどと思った。しかし、秩父宮が『共和制・大統領制」を指向していたという笠原のコメントについては判断しようがない。そんな人物をなぜ皇道派のクーデター将校が担ぎ上げるのだろうか。ただ、昭和天皇、三笠宮と秩父宮で勢力構図が分かれていたのではないか?とする鬼塚説は折に触れて参照したいと思った。

共同通信の報じた、皇室の隠し財産の記事、これは重要であるから、「佐賀新聞」のデータベースを使って調べて保存しておかなくては為らない。
結局、鬼塚氏もまた、中央銀行ネットワークであるBIS(国際決済銀行)に行き着いた。このBISは、戦時中も敵味方となく資金決済をしていた。だからこそ、アメリカのロックフェラー・スタンダードやロスチャイルドのシェルが、パナマ船籍という抜け道を使って、日本やナチスドイツに石油を輸出し続けた、という話になる。あるいは、赤十字の船という抜け道をつかったらしい。
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html

原爆投下成功に大喜びした米内光政

1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し、海軍大臣米内光政大将は、1945年8月12日、次のように語った。

「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。

国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。

私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。

従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」

(『海軍大将米内光政覚書』:ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)


原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは、広島・長崎への原爆投下を、終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり、ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏、国体護持を請うたのが、終戦の聖断である。
http://suyap.exblog.jp/5842042

阿南陸軍大臣は自決する前に 「米内を斬れっ!!」 と言い残した.


●戦争終結前の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)首相の「ポツダム宣言の黙殺」を鈴木首相に押しつけたのが米内だった

●米内は単に親米派であるだけでなく、日本の中国大陸進出に対しては、むしろ徹底的に積極派・推進派だったと思える行動が多い

●近衛首相の「国民政府を相手にせず」という有名な近衛声明をださせたのも米内だという。

●だから、最後の最後で米内が裏切り者と気がついた、阿南(あなみ)陸軍大臣が、「米内を斬れ」と叫んで、そのあと自分は、責任をとって腹を切って死んだ。 陸軍は海軍のトップの裏のある人間たちにずっと騙されて、3年半の血みどろの負け戦をアメリカとやったのだ。

●海軍からは、たったひとりの刑死者を出していない。海軍は誰も死んでいないのである。
「リメンバー・パールハーバー」なのに!

●不思議なのは、米内が「アメリカ留学」もしていないのに、あの当時の日本で「米英の走狗」(今で言えばポチ保守に該当する言葉)と呼ばれていたことだ

●米内光政・山本五十六・井上成美(いのいえしげよし)については、阿川弘之という小説家が伝記小説を書いているが、この人物が戦後、ロックフェラーの資金でアメリカ留学をした男であり、現在の親米派の広告塔である前駐米公使・阿川尚之(あがわなおゆき)氏の父親である。

米内については、阿川のフィルターを通した内容しか出回っていない。米内についての資料は、阿川氏によって一連の小説が書かれるに当たり、海軍善玉史観にとって都合の悪いものは全部処分されたのではないか。
http://nikkidoku.exblog.jp/4854808/


04. 2010年3月16日 21:29:11

猿の惑星

テイラーたちが不時着した星は、猿が人間を支配する猿の惑星だった。

言葉を話す猿たちと、首輪で繋がれ家畜として扱われる人間たち。この逆転した世界からなんとか逃げ出したテイラーが最後に見たものとは・・・


http://www.youtube.com/watch?v=CvR2mCx-Jnc
http://www.youtube.com/watch?v=31QUOUxqz2M


出演

テイラー : チャールトン・ヘストン

ノバ :リンダ・ハリソン

中国人 : orangutan

黒人 : gorilla

日本人 : chimpanzee

チャーチル 「日本人は中国娘と猿との野合の末に生まれた類人猿のようなもの」


トマス・ブレーミー将軍:「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。」


ウィリアム・ハルゼー海軍元帥 : 日本軍との戦闘に際し
「敵を殺せ!敵をもっと殺せ!猿肉をもっと作れ!」



05. ファイブ68 2011年5月17日 13:39:58: eZiCZu0B8cWcE : WhvuLlFDEM
大変参考になりました。米軍には三軍とも武士道精神など無かったのですね。根本は人種差別。工藤俊作艦長が422名助けあげた話と米軍が沈めた日本船の漂流者を機銃掃射した事実は当時のアメリカ思想そのものに思えます。だからと言って今私は反米、嫌米ではありません。悪かったのは科学的根拠に基ずかない戦争を始めた昔もそして今も国民のレベルの問題だと思います。究極はここに行きつくのではないでしょうか。

06. 中川隆 2011年8月08日 23:00:42: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

NHKスペシャル「原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報」


2011-08-08


NHKはこの番組で「日本軍大本営は米軍による広島と長崎への原爆投下を事前に知っていた」という驚愕的な事実を独自調査で明らかにしました。

日本軍大本営は諜報部隊からの情報で以下のことを事前に知っていたのです。


(1)テニアン島の米軍特殊部隊が大がかりな対日攻撃を準備していること

(2)8月6日に米軍特殊部隊がテニアン島から広島へ迫って来ていること

(3)8月9日に米軍特殊部隊が長崎へ「第2の原爆」攻撃を仕掛けてくること


日本軍大本営は知っていたにもかかわらず何らの対策もとらず空襲警報さえも鳴らすさず20万人の国民を皆殺しにしたのです。

http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/68bfb0e3c111092d4aaecd29ce084a6a


広島・長崎あわせて20万を超える人々の命を奪った原子爆弾。これまで日本は、アメリカが原爆攻撃の準備をしていることを知らないまま、“想定外”の奇襲を受けたとしてきた。しかし実際は、原爆投下に向けた米軍の動きを事前に察知していたことが、新たな証言と資料から明らかになってきた。日本軍の諜報部隊が追跡していたのは、テニアン島を拠点に活動するある部隊。軍は、不審なコールサインで交信するこの部隊を、「ある任務を負った特殊部隊」とみて警戒していたのだ。

8月6日、コールサインを傍受した軍は、特殊部隊が広島に迫っていることを察知。しかし、空襲警報さえ出されないまま、原爆は人々の頭上で炸裂した。そして9日未明、軍は再び同じコールサインを傍受、「第2の原爆」と確信した。情報は軍上層部にも伝えられたが、長崎の悲劇も防ぐことはできなかった。

番組では、広島・長崎への原爆投下を巡る日本側の動きを克明に追う。情報を掴みながら、なぜ多くの人々が無防備のまま亡くならなければならなかったのか…。原爆投下から66年、その問いに初めて迫る調査報道である。

http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/843.html

原爆の広島投下は昭和天皇の依頼によって実現したのですから、日本軍の諜報部隊とは関係なく、海軍上層部はみんな原爆投下の日時を事前に知ってたんですけどね。


07. 2011年9月07日 01:29:45: ieWTAudjoA
ものすごく貴重で膨大な資料をありがとうございます。また続きは明日よませていただきます。

08. 2012年1月04日 11:11:24 : 41yM66w6wk
「ようつべ」に漂流中の日本軍のパイロットを米軍艦上から米水兵がピストルで射殺する映像がありました。
立場が逆なら、日本水兵は間違いなく戦犯送りだなと。
日本軍がアメリカ中の都市を焼き尽くしてから日本の敗戦になっても、日本軍の空襲の責任者や実行者は訴追されないですんだのかな。
日本の重慶爆撃でかなり民間に被害がでているんでしょうが、その責任車は井上中将でしょうか。東京裁判で訴追されたのでしょうか。
南京南京とうるさいのに重慶爆撃はなにも騒がないのはどうしてなのでしょう。
トラウトマン工作の時の米内海相(山本次官、井上軍務局長)と広田外相はどうにも理解できません。
日米諒解案の時も外務省の動きがサボみたいで。

9. 中川隆 2015年8月10日 09:46:38 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

「原爆投下は人体実験だった」
http://ameblo.jp/ba7-777/entry-12013608274.html


虎ノ門ニュース 8時入り!4/9木曜日〜青山繁晴・居島一平〜
http://www.youtube.com/watch?v=jQFDXlMhVko

1:58:40頃から人体実験の話が始まります

※文字起こし


アメリカは原爆の恐ろしさを知ってる国、日本よりも。なぜか。落としたのは人体実験のためだから。

ヒロシマナガサキに落としたのは戦争を終わらせるためじゃない。ずっとアメリカ人に言ってるんですよ。アメリカに行くたびに。戦争が終わりそうだから落としたと。早くしないと人体実験できないから。そうするとアメリカ人は怒って「学校で教わってない」って言うから、「学校で本当のことを教えてないのは、この部分はアメリカも同じなんだ」と。日本と同じで、間違ってて。

もしも戦争を終わらせるためだったら、8月6日、ヒロシマ一発でいいでしょと。なぜ3日後にナガサキに落としたかというと、ウラン型とプルトニウム型で違う物を落として、両方の効果を見たかったと。これが人体実験の証拠なんだと。

たとえば被曝した少女を、病院に預かる。そして東京大学の優秀な医者が見ながら、治療せずに。少女と家族は治療されてると思ってたけど、本当は検査してるだけで、段々放射線障害で蝕まれて、死んで行くのを克明な記録を残して。

少女が死んだら、東京帝国大学を出た医者が解剖して、内臓を取り出して、ホルマリン漬けにして、アメリカに運んだんです。これは日本に戻されたんです。そこはさすがにアメリカの情報公開に基づいて。ニュースじゃほとんどやらない。これは人体実験だった証拠なんです。


10. 中川隆 2015年10月28日 14:40:02 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日米合作の原爆投下を告発 2015年10月7日付

 原爆投下知り握り潰した大本営 予告聞いた被爆市民の経験

 藤原章生(ジャーナリスト)の近著


湯川博士、原爆投下を知っていたのですか
最後の弟子$X一久の被爆と原子力人生 – 2015/7/31
藤原 章生 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E5%8D%9A%E5%A3%AB%E3%80%81%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9A%E3%80%9D%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%BC%9F%E5%AD%90%E3%80%9F%E6%A3%AE%E4%B8%80%E4%B9%85%E3%81%AE%E8%A2%AB%E7%88%86%E3%81%A8%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E4%BA%BA%E7%94%9F-%E8%97%A4%E5%8E%9F-%E7%AB%A0%E7%94%9F/dp/4103394315

は湯川秀樹の「最後の弟子」で、「原子力ムラ内の批判派」といわれた故・森一久の半生をたどっている。森は広島で被爆しておりそれを知る湯川秀樹から生活上の配慮、世話を受けていた。著者は、森自身がその背景に湯川が戦時中に広島に原爆が投下されることを知っていたことがあるのではないかとの思いをめぐらせていた事情を明らかにしている。

 それによると、今も現役の水田泰次・大阪合金工業所会長が、京大工学部冶金教室に入学したばかりの1945年5月、西村秀雄主任教授から広島市内に住居がある学生として呼び出され、アメリカの原爆開発について情報を得たことを、森と同じ旧制・広島高校の同窓会誌に書いていた。

 第1回現地テストを広島で 米国学会から知らせ

 水田青年はそこで、「米国の学会から秘密裡にニュースが先生に送られ、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行う予定が決まったから、出来るだけ早く親を疎開させなさい」といわれたこと、それを受けて「早速帰広し、特高警察等の関係のため、誰にも話すことが出来ないまま、父を無理矢理、理由も云わずに、廿日市まで大八車で、家財を積んで疎開させた」と証言していた。

 森が水田と直接会って確かめるなかで、「そのとき湯川博士が同席していた」ことを知らされ、大きな衝撃を受けたという。

 本書では、森がこの問題に自問自答しつつ結局解明されないまま他界したことを明らかにしつつ、著者自身もそのことの真相に迫れないままもどかしさを残して終えている。

 本書では明らかにされていないが、湯川博士とアメリカの原爆製造計画(マンハッタン計画)に携わった科学者との間で、戦前から学術的な連携関係があったことは事実である。

また、アメリカでは原爆が投下される半年前に、「原爆使用反対」の声や「日本の都市に落とす前に警告を発すべきだ」などの要請が、原爆開発に携わった科学者の間から出されていた。湯川博士が、その中心となったシカゴ大学冶金研究所のコンプトン所長と親しい関係にあったことも知られている。

 だが、この問題はあらためて、広島、長崎への原爆投下について一部の人は事前に知らされており、さらに疎開して助かった者がいたことを考える機会を与えることになった。この種の証言はこれまでもいくつか活字でもなされてきた。

 敵国の放送聞いてはならぬ 市民の情報遮断し

 たとえば、織井青吾著『原子爆弾は語り続ける―ヒロシマ六〇年』(2005年、社会評論社)は、当時14歳の織井氏が原爆投下の直前、陸軍通信隊(当時広島文理大に駐留)の兵士から次のような話を聞いたことを明らかにしている。

 「米軍の情報によるとね、明日6日、広島に新型爆弾を投下するから、非戦闘員、つまり坊やとか女子供、年寄りの人たちは、今夜から郊外に避難せよと通告している……それを知らせてあげようと思ってね……」

「兄さんも避難したいが、兵隊だからそれは出来ない。しかし、坊やなら出来る」


 これは、「日本児童文学者協会・日本子どもを守る会」編『続・語りつぐ戦争体験一ーー原爆予告をきいた』(1983年、草土文化)に掲載された宮本広三氏の体験と重なるものである。宮本氏は当時25歳で、広島逓信局の監督課無線係として勤務していた。8月1日、受信調整をおこなうとき、サイパンから流されるアメリカの日本向けラジオ放送(「ボイス・オブ・アメリカ」)が「8月5日に、特殊爆弾で広島を攻撃するから、非戦闘員は広島から逃げて行きなさい」と数回くり返したのを聞いた。

 宮本氏は、「敵国の放送は聞いてはならない」と厳命を受けていた。しかし、これまでときおり聞こえたこの放送局からのニュースや空爆の予告が、実際に起こった空爆と合致していたことから係長にこのことを報告する。だが、「敵性放送を聞くとはなにごとだ、デマをもらしてはいけんから、おまえは家に帰さん!」と叱り飛ばされた。

 5日には何事もなかったかのように見えたが、翌朝、警戒警報が解除されて係長が出勤し「やっぱりなにもなかったじゃないか」と話したときに、原爆の直撃を受けた。

 黒木雄司著『原爆投下は予告されていた!』(1992年、光文社)も著者が中国戦線の航空情報連隊情報室に勤務していたとき、インドのニューディリー放送による広島・長崎への原爆投下の予告を傍受した体験を克明に記録したものである。

 著者はその「まえがき」で次のように書いている。

「このニューディリー放送では原爆に関連して、まず昭和20年6月1日、スチムソン委員会が全会一致で日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと。次に7月15日、世界で初めての原子爆弾爆発の実験成功のこと。

さらに8月三3日、原子爆弾第1号として8月6日広島に投下することが決定し、投下後どうなるか詳しい予告を3日はもちろん、4日も5日も毎日続けて朝と昼と晩の3回延べ9回の予告放送をし、長崎原爆投下も2日前から同様に毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた」

 「この一連のニューディリー放送にもとづいて第5航空情報連隊情報室長・芦田大尉は第5航空情報連隊長に6月1日以降そのつど、詳細に報告され、連隊長もさらに上部に上部にと報告されていた模様だったが、どうも大本営まで報告されていなかったのではないだろうか。どこかのところで握りつぶされたのだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ」


 爆心地に市民集め大虐殺 天皇、支配層の延命条件に

 これらのアメリカからの情報が、大本営、天皇とその周辺に伝わっていたことはいうまでもない。『広島原爆戦災誌 第一巻』(広島市役所編)によると、すでに8月3日には大本営から

「8月4日から7日にかけて、アメリカ空軍の特殊攻撃がある。十分注意を怠らず。対戦処置をとるべし」

という暗号電報が広島の各部隊に入っていたのである。だが、それは箝口令のもと、広島市民にはまったく知らされなかった。そればかりか、原爆搭載機の侵入を手助けする形で警戒警報を解除し、広島市民がもっとも街頭で活動する午前8時15分、アメリカが史上もっとも残虐な兵器を投下できるよう犬馬の労をとったのである。それは長崎でも同じであった。

 大本営は広島市内に、警戒を発した8月3日から連日、学校関係者が口をそろえて危険な作業に極力反対したにもかかわらず、広島市内に義勇隊約3万人、女子学生・中学生の学徒隊1万5000人を動員させた。こうして、「小銃を渡すこともない編制中の玉砕予定部隊の老兵」「竹槍の女子挺身隊員」「女子学生や中学1、2年生」ら、中学生以上の市民を爆心地周辺に集めて被害を拡大させることまでやってのけた。

 古川愛哲著『原爆投下は予告されていたーー 国民を見殺しにした帝国陸海軍の犯罪』(2011年、講談社)は、「本土防衛を任務」とすることを掲げて広島に置かれた第2総軍司令部が、原爆が投下されることを知りながら市民に緊急警報や退避命令を出さなかったこと、それどころか箝口令を敷いて、原爆で広島市街が焼かれるのを待ったことを怒りを込めて暴露している。

 この著者も、アメリカが短波、中波のラジオ放送を使って原爆投下の日時、目標地を日本の支配層に向けて知らせていたこと、日本の支配層もそれを傍受して対応していたこと、アメリカ政府や軍の通信の傍受、空からまかれた宣伝ビラ(伝単)、さらに捕虜の供述などから大本営はもとより一般市民の間でも原爆が投下されることはささやかれる状況にあったことを浮き彫りにしている。

 第2総軍司令部は広島、長崎に向かうB29原爆投下機の動向については当日も、レーダーや無線ではっきりととらえ追跡していた。だが広島では高射砲でエノラゲイに照準を合わせていながら、「撃て」の命令は出されなかった。長崎でも、大村航空隊で迎撃の態勢をとっていたにもかかわらず、出撃命令が出されなかった。

 著者は、このような異常な状況が生まれた根拠、その背景について、海軍の極秘裏の敗戦工作、とくにアメリカとの「国体」の護持をめぐる取引がからんでいたことを強調している。

 広島、長崎への原爆投下はイギリスと情報を共有して進められた。チャーチルはすでに45年7月24日、原爆実験の成功を聞いた直後に

「8月5日に爆弾が投下され、15日に日本は降伏するだろう」

と語っていた。著者はそこから、「広島と長崎の原爆投下の日付をOWI(米戦時情報局)のボイス・オブ・アメリカがアメリカ標準時の日付で放送する。ただし、日本海軍は原爆投下の妨害をしない」という取引がなされたと、推測している。

 とくに、ライシャワー(戦後の駐日大使)の具申によって、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)や中国からの短波放送、日本の支配層や日本語に通じたザカリアス大佐による中波のサイパン放送などを通して、グルー国務長官(元駐日大使)やザカリアスと公私とも親密な関係にあった米内光政・海相らに働きかけ、日本側のアメリカ向け短波の逆発信によるやりとりがあったことについてくわしく論じている。

 また、原爆投下がなされたのちも、被爆市民に原子爆弾とは知らせずに、「新型爆弾」「調査中」という情報隠ぺいによって、放射能被曝に意図的にさらし、ますます市民を被爆させたことを糾弾している。

 著者は長崎についてもアメリカのドキュメンタリー映画が、原爆投下直後の1945年8月9日、連合軍捕虜を救出するために米軍が空母機動部隊による救出作戦で長崎に上陸したことを描いている事実を明らかにしている。そのとき、小舟で長崎に上陸したが、その水先案内を日本側が務めたという証言がやられていた。日米共同の救出作戦が秘密裡におこなわれていたというものである。

 当時長崎市内では「米軍が上陸してくる」という噂が流れ、多くの市民が山の方に避難したという幾多の証言にふれて、また捕虜収容所の被爆や避難状況、捕虜収容数の記録のあいまいさ、被爆市民が見た捕虜の様子などから、その「噂」は根拠がないものではなかったと見ている。

 著者は、諸外国と比べて「日本国内では政治家や官僚、高級軍人の多くが生き残った」という第2次世界大戦の異様さへの疑問からこのテーマに挑んだこと、そこで判明した厳然たる事実は「近代的な軍の本土防衛とは、本土の国民を守ること」だとされる常識は成り立たず、「国体護持」つまり天皇の支配の延命のために、国民の生命を差し出し見殺しにしたことを告発している。

 アメリカの広島、長崎への原爆投下でとった日本の支配層の対応は、東京をはじめとする都市空襲、沖縄戦、さらには外地で320万人もの国民を無惨に殺りくした戦争全般に通じるものである。被爆70年の現実は、それが、アメリカが日本を単独占領し戦犯をそのまま支配層につけて属国支配する必要から、国民がみずから主人公となる社会を築く力をはく奪するためのものであったことを教えている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/nitibeigaltusakunogenbakutoukawokokuhatu.html


11. 中川隆 2015年10月28日 16:46:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

語れなかった東京大空襲の真実

首都圏制圧のための大虐殺130回で25万人殺傷2015年10月2日付

 【本紙記者座談会】

 米軍の下請として武力参戦を可能にする安保法制に対する国民的な憤激の高まりは、第2次大戦から70年続いてきた対米従属構造に対する歴史的な怒りを伴って発展した。本紙はこの間、東京に原爆展キャラバン隊を派遣し、都民の中に渦巻く東京大空襲の経験とその怒りをつかむことに力を入れてきた。そこから見えてきた東京大空襲の真実はあまり知られていないむごたらしさに加え、今日の対米従属構造に繋がる徹底したものであった。安保法制まできた戦後政治の根源としての東京大空襲の全貌を、キャラバン隊メンバーと本紙記者による座談会で描いた。
 
 無傷だった皇居、財閥、軍施設

 司会 東京での原爆展キャラバン活動では、都民から東京大空襲の体験が堰を切ったように語られた。1晩にして10万人が殺された世界的にも類を見ない大惨事であったにもかかわらず、70年目を迎える今も公の慰霊碑も記念館もないことを痛切に訴えてくる人が多かった。東京都民の経験と切実な思いから出してみたい。

 A 東京空襲について、一般に死者10万人といわれるが、真珠湾攻撃から5カ月後の1942年4月の最初の空襲から、最も被害の大きかった1945年3月10日を含めて終戦の日まで130回以上もの連続的な空襲がやられ、東京都の調査資料には、死傷者・行方不明者は25万670人、罹災者は304万4197人と記録されている。犠牲者の数だけ見ても広島・長崎、沖縄戦をこえる規模だ。

 とくに3月10日の大空襲のように、たった2時間余りで10万人以上を殺すような空爆は世界中で後にも先にもない。イラクやシリアどころではない惨劇だ。それが「これまで語ることができなかった」といわれる。


 B 都内の街頭で原爆と戦争展をやると、どこでも例外なく東京大空襲の経験があふれるように語られた。「四六人の家族親戚が殺された」という人や「なぜいまだに慰霊碑がないのか!」とすごい怒りにこちらが衝撃を受けた。

 浅草の空襲体験者の男性は、

「疎開で小学校の卒業式に帰ってきたときに空襲にあい、同学年が30人殺された」

といい、

「自分は言問橋を渡って逃げたが、ちょっと逃げ遅れた人たちは丸焦げになり、消防車も炎に呑まれて運転手がハンドルを握ったまま白骨になっていた。まるでマグロのように並べられた死体が数百ではなく2000、3000人という規模で転がっていた」

と話していた。

 「戦後は飢餓状態になり、区を通じて米軍支給品のコンビーフなどを配給した。“犬と同じ餌付けだ”と感じたが、食べなければ死んでしまうからみんな列をつくって並んだ。アメリカは日本人など虫けらぐらいにしか思っていないのに、日本の偉い連中はアメリカのために死ねという法案を通す。私たちには今も怨念がある。どんどん暴いてくれ。銀座のど真ん中でやってほしい」と訴えていた。


 C 原爆投下後の広島、長崎に匹敵するような悲惨さだった。米軍は春風の強く吹く3月という時期、民家を効率よく焼き払うための油脂焼夷弾の開発、空襲の手順も含めて用意周到に準備し、一般市民の民家が密集する下町地域をとり囲むように爆弾を投下している。火の壁で逃げ場をふさいで集中砲火を浴びせ、火の海を逃げ惑う人人に機銃掃射までやっている。

 「機銃掃射で狙い撃ちしてくるパイロットが笑っていた顔が忘れられない」と何人もの人が語っていた。黒焦げの死体だけでなく、窒息死してピンク色をした遺体が蝋人形のように散乱し、それらが公園や学校などで山積みにされて焼かれたという。墨田区錦糸町では、錦糸公園で約1万4000体が焼かれて仮埋葬されたというが、それを伝える看板一つない。あまりの多さで処理できない遺体は何日もかけて川や海に捨てられていたという。

 隅田川にかかる橋の欄干や、総武線のガード下などには今でも積み重なって焼き殺された人間の油がそのままの形で染みついて、何度ペンキを塗っても浮き出てくるのだと語られていた。5月の品川での空襲でも「真夜中にガソリンを撒いて焼夷弾をばらまいた」といわれていたが、「あれが戦争犯罪でなくてなんなのか!」と、7、80代の年配者が語っていた。とても昔話という雰囲気ではない。本当に語る場所がなかったからこその鬱積した思いがある。公園などに仮埋葬された11万体といわれる遺骨は、関東大震災の慰霊堂(墨田区横網)に一緒に入れられている。

  東京空襲を弔う単独の慰霊施設はいまだにない。なぜそんなことになっているのかだ。

 「戦争を忘れさせよ」 慰霊碑許可せぬGHQ


 D 大空襲で壊滅した江東区森下5丁目町会では今年3月、町内の空襲犠牲者789人の名前を刻んだ墓誌を建立した。町会役員によれば、当時の町会長が戦後すぐに空襲による町内の犠牲者を調べ、焼失を免れた戦時国債購入者名簿を頼りに『戦災死没者過去帳』という約10bにもなる巻物をつくって保管していたから建立できたという。遺族の「この地域に住んでいた人人の証となる供養の場所がほしい」という願いが70年をへてやっと実現した。


 E 墓誌をつくるための調査で、1家12人が全滅した家もあったことなど、地元の人も初めて知る事実が明らかになっているが、都にも当時の犠牲者名簿などの資料があるにも関わらず遺族が申請しても公開されないのだといわれていた。

 地蔵や碑の建立についても「宗教的なものは受け付けない」とかの理由で許可は下りず、「黙認する」程度だという。行政から助成も受けられないため、発起人を中心に町内外に呼びかけたら、続続と寄付が寄せられてつくることができたといっていた。

 終戦直後にも数千人が空襲で亡くなった墨田区の菊川橋のたもとに慰霊碑を建てようとしたが、区役所から拒否されている。河畔を改装するたびに白骨がたくさん出てきたので「これ以上放っておくわけにはいかない」と住民が独自に地蔵を建立して毎年法要している。


 D ある遺族から、1947(昭和22)年に東京都長官官房渉外部長から通達された行政文書のコピーを見せてもらった。当時、遺族によって計画された隅田公園への戦災慰霊塔の建設計画に対して、官房各課長、支所長や局長、区長など都の行政担当者に宛てた通達だ。

 「一、日本国民に戦争を忘れさせたいのである。二、戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない」と米占領軍の指導方針が明記され、これに協力するため「この方針を徹底的に守るようにしなさい」と記されている。

 70年たっていながらこの占領下のプレスコードがいまだに続いていることに驚いた。


 A 25万人もの都民を殺戮しながら意図的に攻撃対象から外したものもある。ここからアメリカの東京空襲の狙いが見てとれる。

 C 代表格は皇居だ。東京のど真ん中に広大な面積を持つ皇居について、米軍ははじめから「攻撃対象にしない」という指令を徹底していたし、天皇側もそれを知っていた。皇居北側の近衛師団司令部、東部軍司令部などの軍中枢部や、市ヶ谷の陸軍省・参謀本部(現・防衛省)など、本来狙われるべき軍中枢が無傷だった。赤坂離宮(現・迎賓館)、青山御所、新宿御苑、浜離宮、上野公園などの皇室所有地や、官僚機構の一端を担っていた皇族住居はことごとく攻撃の対象外だ。

 東京駅は焼失したが、皇居に挟まれた丸の内の金融ビル街も残った。三菱本社、三菱銀行、三菱商事、日本興業銀行、横浜正金銀行、東京銀行、第一銀行、勧業銀行、関東配電(東京電力)などの財閥のビルが林立している。朝日、毎日などの新聞各社、放送会館(NHK)も残った。八重洲では日銀、三井本館。永田町や霞ヶ関でも、内閣府、国会議事堂、警視庁、内務省、大蔵省などが残された。ちなみに上野公園に隣接する三菱財閥統帥の岩崎久弥邸も攻撃を受けていない。広島、長崎、下関空襲でも三菱の主要工場は無傷であり、政財界とアメリカの盟友関係を裏付けている。

 軍施設がほとんど残されているのが特徴で、陸軍の心臓部といえる赤羽の陸軍造兵廠、陸軍火薬庫、工兵大隊、陸軍被服本廠、兵器支廠、東京第一、第二兵器補給廠も周囲が焦土になるなかでわざわざ残されている。代々木の近衛輜重大隊、陸軍輜重連隊官舎、広大な駒場練兵場や野砲隊の官舎群もみな無傷だ。


 E 工業施設でも、東芝本社のある芝浦工業団地から品川駅付近の港湾施設も攻撃されなかった。全滅した深川区に隣接する石川島造船所、佃島、月島など東京湾に面した工業施設、南部工業地帯の蒲田でも中心市街地が徹底的に焼き尽くされたが、羽田飛行場などの軍需施設はほとんど攻撃されていない。

「米軍作戦任務報告書」に記された工業的目標はわずか22カ所に過ぎないが、そのうち破壊したのは18%だと記されている。

実は無差別爆撃ではない。絨毯爆撃ではあるが、アメリカの対日支配に役立つものは残し、その邪魔になる庶民は殺すと極めて明確に選別している。


 B 「暗闇のなかであれほど緻密な爆撃がどうしてできたのか?」という疑問も多く語られていた。「目標から外す目印のために誰かが下から光を当てていた」と証言する人もいた。原爆投下と同じく「戦争を終わらせるためにやむをえぬ」というものではなく、日本を単独占領するために国民の抵抗力を摘むための大量殺戮だった。

 米軍の皆殺し作戦 殺すに任せた支配機構

 A 東京空襲にも不可解な点がいくつもある。

例えば、空襲直前に警戒警報を解除している。

広島、長崎での原爆投下も直前になって警戒警報を解除し、みんなが安心して表に出てきたときに投下されている。

あれは軍中枢が協力しなければできないことだ。300機をこえるB29の接近に気づかないわけがないが、物量で太刀打ちできないとはいえ、まともな反撃すらせずに米軍のやりたい放題を開けて通している。

 F 広島、長崎への原爆投下でも、軍はB29に対してレーダー照射をして来襲を事前につかんでいた。大本営は原爆投下機の接近を信号を受信して知っていた。

長崎では、B29を迎撃する部隊が大村航空隊で待機して出撃命令を待っていたが、結局、命令は下りなかった。NHKも当時のパイロットが怒って証言する場面を放映していた。

 A 終戦末期になると特高警察がマークしたのは青年将校だった。敗戦が濃厚になるなかでこれらが反乱を起こすことを恐れた。左翼は早くに壊滅しているが、青年将校らは戦斗経験もあり、速やかにアメリカの占領下に誘導しようとしていた軍上層部にとっては脅威だった。敗戦が決定的になっても国民には「一億総玉砕」を叫んで、若者には特攻作戦をやらせ、本土を死守させる体制をとりながら、上層部が終戦工作にいそしむことに彼らの反発はすごかった。

 天皇の「終戦の詔勅」の放送を前に、陸軍の青年将校が近衛師団長を殺害し、録音盤を奪おうとした事件もそうだが、マッカーサーが厚木に降り立つときにも迎え撃つという騒動があり、青年将校に影響力をもつ高松宮が必死になって抑えて回ったというのは有名な話だ。


 B 敗戦直後、内地では軍を通じて直ちに武装解除させた。あれは天皇の命令だけでは動かない。軍司令部の指揮系統が動かなければできない。それを米軍上陸前にやらせるためには軍中枢を残しておかなければいけない。

もともと海軍をはじめ軍中枢部分には親米派が多かった。陸軍も中国大陸で行き詰まって南進作戦に切り替え、南方の島島に兵隊を放り込んで食料も弾薬も送らない。ニューギニア戦線の体験者も「毎日イモばっかりつくっていた」という。南方はほとんどが餓死と病死だ。


 D 敗戦を迎えるにあたって、あのドサクサのなかで米軍上陸、単独占領に誰が荷担したのか。東京大空襲で無傷だった施設を見ただけでも歴然としている。戦後は「財閥解体」といったが、財閥はしっかりと温存された。戦争に国民を投げ込んだ天皇はじめ、官僚機構も丸ごと温存された。

開戦時の商工大臣をしていた岸信介が、その後CIAのエージェントとして力を与えられたのが象徴的だが、政界、官僚世界などが叩きつぶされることもなく、対日占領の協力者としてせっせとアメリカに媚びて戦後も機能していった。メディアでも大本営の中枢にいた読売新聞の正力松太郎や朝日新聞の緒方竹虎などがCIAのエージェントとして活躍する始末だ。

 イラクでもアフガンでも、他国を占領しようと思えば必ず抵抗があるし、何年かかってでも肉弾戦で侵略者を叩き出そうとするものだ。日本の場合、なぜ無抵抗に近い形で単独占領することができたのか。それは支配機構が丸ごと占領の協力者になり、国を売り飛ばしたからだ。支配機構が軍事支配を受けながらアメリカの道具になって戦後は機能していった。それが今日まで続いている。


 E 空襲で生き残った下町の人たちは、戦後は食べ物がなくて生活できないのでみんな市外に出て行ったという。国民を抵抗できないようにバラバラにさせている。抵抗力を削ぐために徹底的に空襲を加えたし、首都圏の人人はとにかくその日を生きるのが精一杯の状況になった。首都圏制圧のためにあれほどの空襲をやって、まさにショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)で占領していった。


 C 食料を意図的に統制したので、戦後の方が食料難がひどかった。当時の調達係の人が証言していたが、米軍が国内の食料倉庫を統制して食料危機に追い込んだ。米軍は関門海峡などの機雷封鎖も「スターべーション(飢餓作戦)」と名付けていた。国内から戦地へ食料を送らせない、大陸から送られてくる食料を遮断するための飢餓作戦だった。

 都市部はとにかく食べるものがない。配給でもらった大豆をポケットに入れて、それを食べて水を飲んで膨らませて空腹をしのいでいたという。飢え死にが出るような飢餓状態に追い込んでおいて、ララ物資などのアメリカからの、それこそ家畜の餌になる食料が入れられた。そんな屈辱に国会で感謝決議したこともあった。

 E 戦後の上野や浅草には、空襲で親を失った戦災孤児や浮浪者があふれかえり、餓死寸前の子どもたちは生きるために窃盗や売春をせざるを得なかった。GHQは「治安対策」を名目にして浮浪児を見つけ次第捕らえる「狩り込み」をやり、米軍の要請によって、脱走ができない水上の台場につくられた収容施設に強制的に送致し、檻(おり)に入れて監視・収容することまでやった。


 B すでに武装解除しているのに進駐軍は必ず銃を携行して、電車も絶対に米兵専用車両に乗るし、接収した建物も日本人は立ち入り禁止にした。「彼らは日本人の反撃を恐れていた」と語られていた。


 A 例えば、日本軍が満州を占領統治するのに100万人の軍隊がいったといわれる。日本を占領するには本来100万では足りない。それを日本の支配階級が従って代理政治をすることで米軍の負担を軽くできた。イラクやシリアを見ても、むき出しの占領支配になれば人民の抵抗を抑えることは難しい。それを天皇以下支配階級が全面的に協力し、それによって地位を守るという関係があったから占領できたということだ。


 F 同じ敗戦国でも、ドイツではナチス関係者は戦後はみんな追放された。新聞社などもみな解散させられた。連合国による全面講和を結び一国に縛られなかったから、独立の自由性がある。アメリカが単独占領した日本との違いだ。

 90年代の米ソ二極構造が終わったときもドイツは独立の方に行き、日本は対米隷属の方に行くので、ドイツ首相から「慌てるな」となだめられたほどだ。その従属路線が現在までエスカレートして、安保法制まできている。

 A 現在でも官僚機構も含めて各省庁ごとにアメリカ直結だ。財務省も経産省も防衛省もだ。政策についてもアメリカ大使館の指示の方が強い。

 米財務長官サマーズが何度も日本の財務省に直接怒鳴り込んできたし、原発事故のときもアメリカ政府関係者が首相官邸に乗り込んでいって菅直人を怒鳴りつけて指示を出す。アメリカの圧力なしに、民主党の鳩山、菅から野田までの変遷ぶりというのは理解ができない。現在の安倍の突っ走りにいたるまで対米従属の系譜だ。

 財閥やメディアも米軍占領下で地位守る

 C 原爆展キャラバンのなかで、戦時中に赤坂見附に住んでいて親族がアメリカ大使館に出入りしていたという婦人が、

「アメリカ大使館の外側は私服警察の警備で物物しかったが、中にいる在日米国人は戦時中にもかかわらず中庭でゴルフをしていたり、まるで勝ち戦の後のような余裕ある生活をしていた」

と疑問を語っていた。


 F 当時の駐日大使ジョセフ・グルーがアメリカ本国に帰国するのは真珠湾攻撃の半年後だった。グルーは日本では天皇を中心とする「宮廷外交」を基本にし、軍部の反米派と対立傾向にあった天皇側近の木戸幸一、重光葵、吉田茂、近衛文麿などを「自由主義者・穏健派」と見なして親交を深めていた。開戦後の半年間で終戦までのプログラムをつくる工作をやっていた。

 グルーは秩父宮に「安心しろ」といって帰国したが、アメリカ本国では

「皇居は攻撃してはならない」、

天皇は「軍国主義崇拝に役立ったと同様に象徴として役立つ」

と説いて回り、吉田茂とも直接手紙をやりとりしていた。

 のちの駐日大使ライシャワーは当時諜報部員だったが、この方向で「天皇を傀儡にして間接統治する」という占領プログラムをつくった。そこでは、戦争中も「短波放送の聴取が許される500人ぐらいの日本のエリートに常に知的な情報を粘り強く伝達せよ」と米陸軍に提案している。実際、1945年5月から「ザカリアス放送」という日本の上層のごく限られた者しか聞くことができない短波の日本向け放送をやり、いつどこを空襲するとか、広島、長崎への原爆投下をいつやるかも全て伝達していた。

 これら米軍からの情報を集中しながら六月段階で、米軍の攻撃を全部開けて通して、「アメリカに敗北することで自分たちの地位は保証されることが約束されている」と側近の木戸幸一が天皇に提言している。

 A 2月には、アメリカから情報を得ていた吉田茂が近衛文麿に天皇上奏文を書かせた。

「米英は国体(天皇制)の変更までは要求していない。最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴っておこる共産革命だ」

というものだ。彼らの関心は戦争の勝敗などではなく、いかに国民を押さえつけてアメリカの占領下で地位を守ってもらうかだった。そのためなら原爆を落とされることも甘受するし、東京を焼き払って人民大衆をへとへとに疲れさせることはむしろ好都合という関係だった。


 F 財界も最初から通じていた。三菱財閥統帥の岩崎小弥太は、開戦にあたっては「アメリカとは友人だから心配するな」と訓示し、敗戦時は「これから愉快に仕事ができる」と発言している。

また、戦争末期には、日本商工会議所会頭の藤山愛一郎、日産コンツェルンの鮎川義介、浅野財閥の浅野良三などの財界代表が内閣の顧問会議を形成していた。

藤山によれば、終戦6日前の閣議でアメリカとの経済関係をただちに回復させる計画を発表し、「自分たちの時代がやってきた」と喜び、軽井沢の別荘でシャンパンのコルクを抜き、新時代到来を祝して乾杯したという。はじめからアメリカは自分たちを大事に扱うことを確信していた。

グルー自身が三菱とつながりの深いモルガン財閥の代理人で、戦前から投資していた権益、金融資産を含めてどう守るかというのが主任務だった。日本の財界人との関係ではアメリカ留学組が多く、鮎川とフォード、浅野とルーズベルトなど、人脈もできあがっていた。

 A 天皇をはじめとする支配中枢も財界も、中国への侵略戦争で行き詰まり、負けることはわかりきっているが、中国に負けることになれば日本における支配的地位が失われる。だから日米開戦に突っ込んでいき、アメリカに降伏することで地位を守ってもらう。そのためには国民を犠牲にしなければいけないという意図が貫かれている。


 C 東京はすべての政治勢力の本部があるところだが、東京空襲の慰霊碑問題をみても、都民の切実な要求をすくい上げるところがなかった。そこには、第一に米軍による抑圧、宣伝がある。いかにもアメリカが平和と民主主義の味方であり、日本を解放するための戦争をやり、原爆も空襲も戦争を終結させるためにはやむをえなかったかのように徹底的に宣伝したし、戦前以上の言論統制と弾圧をやり、反米につながる原爆や東京空襲についての言論を封殺した。

 もう一つは、人民の側に立つべき共産党の指導部が「アメリカは解放軍」と規定して、旧軍部を批判するが、原爆にしても東京空襲にしてもアメリカの犯罪を問わずに来たことが大きい。都民はアメリカと共産党指導部の両方から抑圧され、ものがいえなくなる関係だ。

 B 大衆のなかでは東京空襲への鬱積した怒りがあるが、東京で生まれた戦後世代でもほとんどその全貌を知らずにきた。そこでは革新勢力が進歩的な装いで

「日本軍が重慶を先に空襲したから、それを反省すべきだ」

「日本がひき起こした戦争だから仕方がない」

という論調をふりまいてきたことが大きい。原爆投下を「日本の軍部から解放するために必要だった」というのと共通している。

 F 共産党は戦前、天皇制の弾圧もあるが、大衆と結びつけず自然消滅をたどった。そのことの反省もなく「獄中18年」を威張り、アメリカを解放してくれた友と見なす一方で、庶民を戦争に協力したと蔑視してきた。特攻隊経験者や戦地に駆り出された者も、「予科練崩れ」「戦争加害者」などといって攻撃し、敵と友を転倒させてしまった。

 徳田球一ら指導部中枢は、米軍に釈放されてすぐの人民大会でGHQまでデモ行進し、「解放軍万歳」を3唱した。「民主主義革命の端緒を開いた」といってマッカーサーに感謝し、GHQに入り浸り反米の情報を提供していた。東京空襲も原爆についてもそのような感謝が根底にあるから、正面から批判させない。知識人のなかでも対米従属問題についてなかなか触れることができないということも独特の抑圧構図を象徴している。


 A アメリカがプレスコードをかけて行政機構が協力したし、東京空襲についても語らせなかった。そして共産党はあれほどひどい目にあった都民のことを無視して、アメリカを平和と民主主義の友と見なした。敵と友を転倒させて、むしろ大衆を敵扱いしていった。だからいまもって東京空襲について無関心できている。都民の苦労というものにまったく思いがなかったということだ。


 C アメリカ民主主義がよかったというが、70年たってみてどうか。日本の富はみな吸い上げられて散散な状況になっている。遠慮知らずのアメリカが、終いには米軍の身代わりで自衛隊を戦地に引っ張り出すところまできた。それで安倍晋三がせっせと協力している。売国政治の根っこは何もかわっていない。

左翼の戦後出発について先ほども触れていたが、都民の苦難に足場を置かずに抽象的な全国政治か何かを主張しても話にならない。大衆的というのは地方的で具体的だ。そこに足場を置かなければ全国の普遍性は見えない。東京にはあれだけ政党の本部があって、学者も日本一いながら東京大空襲の惨劇について怒りをもってアメリカを糾弾する勢力がいない。


 A 東京大空襲の経験は語れないできた。意図的に抹殺されて、慰霊碑も何もない。これは原爆を投下された広島と比べたら明確な違いがある。広島には平和公園も資料館も供養塔もある。八月六日になるとみなが早朝からお参りに足を運んでいる。十数万人の命日だからだ。そして町のいたるところに町内会、学校、職場などいろんな単位の慰霊碑がある。何が違うのかだ。広島はたたかってきたからだ。戦後は広島でもプレスコードがかかっていて原爆のことを語らせない力が働いていた。「終戦のためにやむを得ぬ手段だった」というので原爆投下への怒りをかき消し、徹底的にとり締まっていた。

 しかし当時、風呂屋に行くとみながケロイドを見せながら延延と語っていたという。それを当時の広島では「アメリカの人類に対する犯罪だ!」と真っ向から暴露して斗争がはじまった。占領下の50年8月6日の斗争が端緒を切り開いた。そして5年後には世界大会まで発展した。

 この運動を指導したのが福田正義主幹(本紙)をはじめとした共産党中国地方委員会だったが、当時も東京の共産党中枢が「アメリカ解放軍」規定で中国地方におけるたたかいを弾圧していた。これと同じ構造が東京では現在でも生きている。日本人民の苦難の側から敵を暴露するのでなく、友と見なす。戦後出発に大きな違いがあった。

 分かれ道は敵は誰か、友は誰かが鮮明でないといけない。あれほど殺されているのにアメリカ民主主義のインチキに幻想をもったら大変なことだ。アメリカが日本を侵略した敵だ。日本人民は戦中も戦後も大変な目にあってきた。人民の敵に対する憎しみと人民への愛情が統一されていないといけない。その人民を代表して敵を暴露する立場でないといけない。東京でもそれが問われている。


 A 東京をはじめ首都圏は、沖縄に次いで米軍基地が多い。東京都だけでも総面積は約1603f(東京ドーム約340個分の広さ)に及ぶ。空襲で攻撃対象から外された軍事施設は、ほぼ例外なく米軍基地や自衛隊施設へ変わった。横田基地は在日米軍司令部であり、すべての在日米軍と自衛隊を統括する指揮所だ。神奈川県には、原子力空母を擁する米海軍第七艦隊の拠点である横須賀基地が盤踞し、在日米陸軍司令部、第一軍団前方司令部など米陸軍司令塔であるキャンプ座間をはじめ、爆発事故をおこした相模総合補給廠、通信施設、燃料貯蔵施設、住宅地、演習場などがひしめいている。

 とくに横田基地は3350bの巨大滑走路を持ち、米軍人数は約3400人、国防総省文官200人、米軍家族含め約1万4000人もおり、米軍のアジア戦略における最重要拠点だ。その影響力から「横田幕府」とさえいわれる。米本土やハワイ、グアムなどから運んできた兵器や軍事物資を相模総合補給廠に備蓄し、戦時になると横浜ノースドックから搬出し、横田基地から空輸する体制で、西太平洋・東アジアを管轄する兵站補給基地だ。

 東京都港区の六本木ヒルズがある都心にも赤坂プレスセンターといわれる米軍基地がある。その中身は、陸軍研究事務所、海軍アジア室、米軍の機関紙「星条旗新聞社」、保全連絡分遣隊、座間基地第78航空隊、独身将校宿舎、麻布米軍ヘリ基地だ。横田基地を経由して日本に侵入する基点として提供され、入国審査や税関などの規制は一切なく、ここから入国する人物については情報公開義務がない。地図上でも「白地」にするほどの機密扱いだ。

 そのほかにも府中、由木、大和田、硫黄島の通信施設、日米合同委員会をおこなうニューサンノー米軍センター(港区)、米軍家族専用の娯楽施設である多摩サービス補助施設がある。敗戦直後208カ所あった米軍施設は住民の頑強なたたかいで「返還」されたが、実質どの施設もいつでも使える体制にある。朝鮮戦争の出撃基地となった立川飛行場は基地拡張が砂川斗争で頓挫し「返還」されたが航空自衛隊基地は米軍との共同使用であり、広大な国営公園、広域防災基地、道路、運動場として当時の施設はそっくりそのまま残されている。

 地元でも「道路はいつでも滑走路に転用できるように周辺には高い建物や民家の建築規制がある。ひとたび戦争になれば街全体が一気に軍事基地に様変わりする」といわれていた。

 B さらに首都圏の上空には、「横田ラプコン」と呼ばれる1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)にまたがる、広大な米軍専用空域がある。この空域の高度約7000b以下には米軍の許可なしには日本の民間機はいっさい進入できない。

 羽田空港や成田空港を離着陸する航空機は、通常の離陸はできないため急激に高く上昇してラプコンを飛び越えるか、大回りしなければならない。それが離着陸時の事故、ニアミス事故の頻発につながっている。首都上空を飛行するのに米軍の許可が必要な国など他にはない。

 A 沖縄が前線基地なのに対して、司令部が集中しているのが首都圏だ。日本の支配中枢を軍事で抑えつけることで日本全国を占領下に置く。その目的のために、大空襲であれほど殺し、戦後も軍事力を配置しているのだ。沖縄の問題はよそ事ではない。

真珠湾でもフィリピンでも、ベトナム戦争でも、いったん攻撃をさせて「報復」を掲げて参戦するのがアメリカのやり方であり、司令部が集中する東京こそミサイルの標的にされる可能性は高い。

 B 本所の東京空襲体験者の男性が、

「アメリカが問題なのははっきりしているが、どの政治家や政党がこれとたたかえるのか! 結局、自分の地位を守るために裏切る政治屋ばっかりだ」

と吐き捨てるようにいっていた。空襲後に軍隊に志願入隊して整備士として厚木飛行場に配置されたが、地下壕を掘らされるばかりでその地下施設を今は米軍が使っている。

「戦後は焼け跡から町工場を営んできたが、TPPに参入すればこの仕事が奪われていく。全部アメリカのためだ。そういうことをもっと暴いてくれ」

と切実に語っていた。昔から自民党の支持基盤であってもみんな上を信じていないし、内に秘めた思いは少少ではない。

 F 東京大空襲は広島、長崎、沖縄に匹敵する大量殺戮だった。その真実をおおいに語り継がなければいけないし、それは日本を再びアメリカの戦争に引きずり込むことを許さない全国的な世論を発展させていく大きな力になる。そのためには、私心なく大衆のなかから意見を集中し、それを代表して導いていく政治勢力が必要だ。そこでは、自己主張ではなく、大衆的であると同時に敵を鮮明にして人民に奉仕する思想でやり抜くかどうかが問われる。

 司会 今回の安保法制まできて、対米従属構造こそ日本の平和を脅かす根幹であり、これとの対決なしには再び日本は戦場にされるというのが圧倒的な大衆世論になっている。第二次大戦の深刻な経験に根ざしているから党派をこえている。東京原爆展キャラバン隊の活動は、政党・政派、思想・信条にかかわらず都民の抜き差しならない経験に足場を置いて、これを発動するために奮斗するなら、壮大な基盤をもった平和運動を発展させることを教えている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/katarenakaltutatoukyoudaikuusyuunosinjitu.html


12. 中川隆[3449] koaQ7Jey 2016年7月28日 09:26:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3802]


《櫻井ジャーナル》 ソ連消滅で暴走を始めた米国
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201607270000/


 漠然とした「思いやり予算」から沖縄を意識、項目が具体的になったのが1997年の頃だが、その背景にはアメリカにおける戦略の変更がある。冷戦の終結で世界は平和になるという脳天気なことを言う人がいたが、アメリカの支配層は平和を憎悪している。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトや「平和の戦略」を訴えたジョン・F・ケネディはそうした支配層と対立していた。

 核兵器を手にしてからアメリカの支配層は世界制覇の野望を膨らませ、1949年にアメリカの統合参謀本部はソ連の70都市へ133発の原爆を落とす計画を立て、1952年には水爆実験に成功している。

 この段階における核兵器の輸送手段はSAC(戦略空軍総司令部)の爆撃機。1948年から57年にかけてSACの司令官を務めていたカーティス・ルメイ中将は大戦の終盤、日本の大都市に大量の焼夷弾を投下して庶民を焼き殺す「無差別爆撃」を推進した人物として知られている。1945年3月10日に行われた東京の下町に対する空爆では約300機のB-29爆撃機が投入され、10万人以上の住民が殺されたと言われている。

 SACが1954年に立てた計画によると、600から750発の核爆弾をソ連に投下し、2時間で約6000万人を殺すことになっていた。また

SACが1956年に作成した核攻撃計画に関する報告書
http://nsarchive.gwu.edu/nukevault/ebb538-Cold-War-Nuclear-Target-List-Declassified-First-Ever/


によると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標に対する攻撃では水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下することになっていた。攻撃目標にはモスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が含まれている。

 ソ連に対する先制核攻撃の準備が始まったのは1957年だと言われている。この年の初頭には「ドロップショット作戦」が作成された。300発の核爆弾をソ連の100都市で使うというもので、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたともいう。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 アメリカがソ連を先制核攻撃した場合、反撃をどのように押さえ込むかが問題。そこでアメリカがICBM(大陸間弾道ミサイル)で圧倒している段階で攻撃しようということになる。1959年の時点でソ連は事実上、ICBMを保有していなかった。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、ライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長やルメイ空軍副参謀総長を含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だった。

http://prospect.org/article/did-us-military-plan-nuclear-first-strike-1963


それより遅くなるとソ連もICBMを配備すると見ていたのだ。核攻撃の障害になっていたケネディ大統領は1963年11月22日、テキサス州ダラスで排除されたが、CIAの情報操作をFBIはリンドン・ジョンソン大統領へ伝え、開戦には至らなかったと言われている。

 中国を核攻撃する場合、沖縄が出撃拠点になる可能性が高い。その沖縄では「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めた人物が後の統合参謀本部議長、レムニッツァーだ。この人物は第2次世界大戦の終盤、フランクリン・ルーズベルト大統領を無視する形でアレン・ダレスたちとナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」を実行していた。

 世界制覇の野望にとって最大の障害だったソ連が1991年12月に消滅したわけで、その野望が眠りから目覚めるのは必然だった。そして1992年の初めに国防総省内で作成されたのがDPG。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンだ。

http://www.nytimes.com/1992/03/08/world/us-strategy-plan-calls-for-insuring-no-rivals-develop.html


旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようというものだ。


戦争機械に組み込まれた日本


 1995年2月に公表された「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」では、10万人規模の駐留アメリカ軍を維持するだけでなく、在日米軍基地の機能は強化され、使用制限は緩和/撤廃されることになった。

 この報告が作成される切っ掛けを作ったのは国防大学のスタッフだったマイケル・グリーンとパトリック・クローニンで、ふたりは友人のカート・キャンベル国防次官補を説得し、ナイとエズラ・ボーゲルに彼らの考えを売り込んだという。

 ナイ・レポートが公表された2年後に「新ガイドライン」は作成され、「周辺事態法」が成立した1999年にはNATOがユーゴスラビアを先制攻撃する。アメリカで大統領選があった2000年にはネオコン系シンクタンクPNACがDPGの草案をベースにして「米国防の再構築」という報告書を発表、2001年に登場するジョージ・W・ブッシュ政権はこれに基づく政策を推進していく。

 2000年にはナイとリチャード・アーミテージのグループによって「米国と日本−成熟したパートナーシップに向けて(通称、アーミテージ報告)」も作成されている。この報告では武力行使を伴った軍事的支援が求められ、「日本が集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟協力を制約している」と主張、「この禁止を解除すれば、より緊密かつ効果的な安保協力が見込まれる」としている。集団的自衛権はアメリカ側の要求、あるいは命令だということだ。

 こうした動きを加速させる出来事が2001年9月11日に引き起こされた。ニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されたのである。これを利用してアメリカの好戦派は国内で憲法の機能を停止させ、国外では軍事侵略を本格化させた。

 日本では2002年に小泉純一郎政権が「武力攻撃事態法案」を国会に提出、アメリカがイラクを先制攻撃した03年にはイラク特別措置法案が国会に提出され、04年にアーミテージは自民党の中川秀直らに対して「憲法9条は日米同盟関係の妨げの一つになっている」と言明した。改憲の要求、あるいは命令だ。

 2005年には「日米同盟:未来のための変革と再編」が署名されて対象は世界へ拡大、安保条約で言及されていた「国際連合憲章の目的及び原則に対する信念」は放棄された。2012年にもアーミテージとナイが「日米同盟:アジア安定の定着」を発表している。


戦争を始めた米国の好戦派


 その間、2006年に興味深い論文が発表された。外交問題評議会が発行しているフォーリン・アフェアーズ誌に掲載されたキール・リーバーとダリル・プレスのもので、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるとしている。1963年後半にアメリカの一部支配層はソ連を先制核攻撃しようとしたが、その精神状態と似ていると言えるだろう。

 この時期、日本の有権者はナイやアーミテージに操られている日本の「エリート」に対する怒りを膨らませていた。そして始まったのが東京地検特捜部とマスコミがタッグを組んだ小沢一郎と鳩山由紀夫に対する攻撃だ。この攻撃は首相になった鳩山由紀夫が2010年6月に辞任するまで続く。

 その間、アメリカは中東を制圧する秘密工作を始めている。シーモア・ハーシュがニューヨーカー誌の2007年3月5日号に書いた記事によると、その時点でアメリカ、イスラエル、サウジアラビアはシリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラに対する秘密工作を始めたというのだ。この構図は今も続いている。

 2008年8月にはジョージア(グルジア)の大統領だったミヘイル・サーカシビリは自国軍に南オセチアを奇襲攻撃させたが、ロシア軍の反撃で惨敗した。ジョージアの背後にはアメリカとイスラエルが存在、軍事物資を提供し、将兵を訓練していたことがわかっている。イスラエルが作戦を立てたという情報もある。

 その後もアメリカの支配層はアル・カイダ系の武装集団やネオ・ナチを使って「レジーム・チェンジ」を目論む。こうした侵略行為をロシアだけでなく、そしてアメリカ軍の情報機関なども危険だと警告していたが、それを承知の上でのことだ。日本でカルト色濃厚の安倍晋三たちを使うのは必然なのだろう。

 しかし、そうしたアメリカ支配層の好戦派は足下がぐらつき始めている。核戦争の脅しでロシアや中国を屈服させるという「凶人理論」や「狂犬戦法」に固執していることに危機感を持つ人が増えてきているようだ。この戦術がロシアや中国に通用しないことから離反する「友好国」も現れている。恐らく、最後の望みはヒラリー・クリントンなのだろうが、彼女に対する風当たりも強い。

 第2次世界大戦の前、日本の支配層はJPモルガンをはじめとするアメリカの巨大資本に支配されていた。これは本ブログで何度も指摘してきたことだ。その日米関係が1932年の米大統領選挙で破綻した。JPモルガンの手先だったハーバート・フーバー大統領が再選に失敗、ウォール街と対立していたニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのである。

 1933年から34年にかけてニューディール派を排除してファシズム政権を樹立させようというクーデター計画もスメドリー・バトラー少将の議会証言やカウンター・クーデター宣言などで失敗する。JPモルガンはジョセフ・グルーを駐日大使として送り込んだが、日本は迷走を始め、真珠湾攻撃でアメリカと戦争を始めた。グルーはその後も日本に滞在、1942年に離日する直前、岸信介からゴルフを誘われている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)このときと同じ間違いを岸の孫は犯している。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201607270000/


13. 中川隆[3586] koaQ7Jey 2016年8月11日 05:22:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3955]

決断なき原爆投下 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B1%BA%E6%96%AD%E3%81%AA%E3%81%8D%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B

決断なき原爆投下 米大統領 71年目の真実 2016年08月10日


 本日の表題は、8月6日夜に放送されたNHKスペシャルの番組名です。もちろん8月6日は原爆が広島に投下された日で、本日(8月9日)は長崎に投下された日です。

 NHK取材班が米国で丹念に資料や録音テープを探し出し、浮かび上がった「真実」をまとめた秀作です。さすがに2016年度予算で5581億円という「世界最大の制作費」を使うNHKなので、たまには(本当にたまにですが)こういう番組も出てきます。

 以下は、この番組の内容に本誌の「知るところ」を加えたものです。また番組そのものはユーチューブにアップされていますので、削除されないうちにご覧になってください。

 真珠湾攻撃から10か月たった1942年10月、フランクリン・ルーズベルト大統領が核兵器開発プロジェクトを承認します。プロジェクトは「マンハッタン計画」と名づけられ、大規模なプラント計画に慣れている陸軍の担当となり、レズリー・グローブス准将が責任者に任命されました。

 ところで晩年のルーズベルト大統領は明らかに正常な判断力を欠いていました。ほぼ大戦の勝負がついた1945年2月にわざわざクリミア半島のヤルタまで出かけ(チャーチル首相と)、スターリンに「全く必要がなかった寛大な戦後の分け前」まで提供してしまい、この「マンハッタン計画」も至急実施可能とするように命令します。

 さらにルーズベルトは、「マンハッタン計画」にも関わっていた副大統領のヘンリー・ウォレスを更迭して、4選を果たした1944年11月の大統領選挙では全く無名で「小物」のハリー・トルーマンを副大統領に指名していました。

 そんなルーズベルト大統領が1945年4月12日に脳卒中で急死したため、「小物」のトルーマンが大統領に昇格してしまいました。「マンハッタン計画」も含めてルーズベルトが推進していた重要プロジェクトは、何ひとつ引き継がれていませんでした。

 そうはいっても米国大統領は米軍の最高司令官でもあるため、グローブス准将はさっそく極秘だった「マンハッタン計画」をトルーマン大統領に進講します。ところがトルーマンはあまり興味を示さず(NHKの放送ではそうなっています)、グローブスはそれで承認されたことにしてしまい投下予定地の選定に入ります。

 NHKの番組冒頭に、グローブスは22億ドル(当時)もかけたマンハッタン計画は誰にも(大統領にも)止められない、とうそぶく肉声が出てきます。

 グローブスは当初、京都に投下するつもりだったようですが、ホワイトハウス(スティムソン陸軍長官)に一般市民が犠牲になると却下されたため、今度は広島と代替地の小倉を「軍事都市で一般市民の犠牲は最小限」と虚偽の報告をトルーマンに行います。

 そして7月16日にニューメキシコ州・ロスアラモスでの実験成功をへて8月6日に広島への投下となるのですが、ここでトルーマンが原爆投下命令に署名していたかどうかが確認できません。だから「決断なき原爆投下」となるのです。

 原爆投下の一報を(たぶん事後報告を)移動中の大西洋上で聞いたトルーマンは、その時点でも広島を「軍事都市」と信じていたようですが、帰国して原爆投下直後の広島の写真を見せられてようやく「真実」を知ります。

 しかし(そこは小物でも大統領なので)、すぐに全米向けラジオ演説で「原爆投下は戦争を早期に終結させ、多数の米兵の命を救うためやむを得なかった」と即興で米国民に呼びかけました。これが今でも米国内で広く信じられています。

 ところがその演説直後に、これもトルーマンが事前に承認もせず知らされてもいなかったはずの2発目の原爆が長崎に投下され、そこで初めてトルーマンが原爆投下禁止令を出します。これも原爆投下が一般市民を多数犠牲にするからではなく、単に陸軍が自分の承認を得ず勝手に2発も投下したことに腹を立てただけと考えます。

 「確信犯」のレズリー・グローブスは1948年に退役するまで陸軍特殊兵器計画本部長を務め、中将まで昇進しています。

 時は移って本年5月27日、オバマ大統領が現職として初めて広島を訪れました。しかしそこでの演説の冒頭は「71年前のある晴れた日の朝、空から死神が舞い降り、世界が一変した」であり、どこまでもオバマらしい表現だけ綺麗な他人事でした。

 死神が舞い降りたのではなく、功名心にかられた陸軍が「小物」の大統領を無視して暴走した結果、20万人以上の命が失われたのです。

 悲劇の再来はどうしても避けなければなりませんが、ただ安直に「憲法9条を死守」などと叫んでいるだけではどうにもならないと強く感じます。
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-1799.html


14. 中川隆[3974] koaQ7Jey 2016年9月11日 07:25:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4366]

世界最大の脅威は米国にほかならず、朝鮮だけでなく露国や中国も核戦争で脅す「ならず者」国家


 東アジアは言うに及ばず、全世界にとって最大の脅威はアメリカである。自国の軍隊を使って侵略することもあるが、NATO軍、アル・カイダ系武装集団、ネオ・ナチなどの手先を利用することも少なくない。各国に築いた手先のネットーワークを使ってクーデターも繰り返してきた。

 アメリカ支配層が最終的に使う脅しの手段は核攻撃。本ブログでは何度も書いてきたように、第2次世界大戦後、アメリカは先制核攻撃を計画している。

例えば、JCS(統合参謀本部)は1949年に出した研究報告の中で、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすと想定、54年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を考えていた。

そして1957年初頭には300発の核爆弾でソ連の100都市を破壊するという「ドロップショット作戦」が作成されている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、ライマン・レムニッツァーJCS議長やSACの司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりにソ連を先制核攻撃する予定だった。

その頃にアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。この攻撃を成功させるためにもキューバを制圧し、ソ連の中距離ミサイルを排除する必要があった。

1963年11月、この計画にとって最大の障害だったジョン・F・ケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺され、暗殺の背後にソ連やキューバがいるとする噂が流されたが、新大統領のリンドン・ジョンソンはFBIからの情報もあり、核攻撃を承認していない。

 そして現在、アメリカはロシアや中国に対し、自分たちに従属しなければ核戦争を始めると脅しているのだが、効果はなく、アメリカの好戦派は挑発をエスカレートさせ、核戦争勃発の可能性は高まっている。

戦争ビジネスや巨大金融資本を後ろ盾にし、ネオコン/シオニストやイスラム同胞団とも緊密な関係にあるヒラリー・クリントンが大統領になった場合、かなり危険な状態になるだろう。

 そうした中、先制核攻撃の放棄をバラク・オバマ大統領は考えたようだが、断念したという。アシュトン・カーター国防長官やジョン・ケリー国務長官を含む政府高官の反対、あるいは日本や韓国の首脳から懸念が表明されたことなどが理由として挙げられている。

こうしたアメリカの動きに呼応するかのようにして、9月9日に実施されたのが朝鮮の核実験だ。ちなみに、アシュトン・カーターは好戦派として有名な人物で、2006年にはハーバード大学で朝鮮空爆を主張している。

 1963年や83年などに核戦争の可能性は高まったが、そうした時期に比べても、今は非常に危険な状態にある。そうした状況になった最大の原因はソ連の消滅にともない、アメリカ支配層が自分たちを「唯一の超大国の支配者」だと思い込んだことにありそうだ。

 1991年12月にソ連が消滅したことを受け、1992年の初めに国防総省で作成されたのがDPGの草案。旧ソ連圏、西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、ライバルを生む出すのに十分な資源を抱える西南アジアを支配すとしていた。この草案は国防次官だったポール・ウォルフォウィッツを中心に作成されたことから、「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれ、今でもその方針に従ってアメリカ政府は動いている。

 このドクトリンが作成された2年後、国防大学のスタッフだったマイケル・グリーンとパトリック・クローニンがカート・キャンベル国防次官補を介してジョセフ・ナイ国防次官補やエズラ・ボーゲルに会い、日本が自立の道を歩き出そうとしていると主張、そして1995年に発表されたのが「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」。1997年には「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」が作成された。

 「周辺事態法」が成立する前年、1998年にアメリカでは金正日体制を倒し、朝鮮を消滅させて韓国が主導する新たな国を建設することを目的とした作戦、OPLAN 5027-98が作られている。この年の8月、朝鮮は太平洋に向かって「ロケット」を発射、翌年の3月には海上自衛隊が能登半島の沖で「不審船」に対し、規定に違反して「海上警備行動」を実行した。

 1999年になると、金体制が崩壊、あるいは第2次朝鮮戦争が勃発した場合に備える目的でCONPLAN 5029が検討され始めた。日本は朝鮮戦争に備えるためにアメリカ軍が日本や太平洋地域に駐留することを認めたという。なお、この5029は2005年にOPLAN(作戦計画)へ格上げされたという。このほか、朝鮮への核攻撃を想定したCONPLAN 8022も存在している。

 2003年3月にアメリカ軍はイギリス軍などを引き連れてイラクを先制攻撃するが、その頃に空母カール・ビンソンを含む艦隊が朝鮮半島の近くに派遣され、また、6機のF117が韓国に移動、グアムには24機のB1爆撃機とB52爆撃機が待機するという緊迫した状況になった。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201609090000/


15. 中川隆[4169] koaQ7Jey 2016年9月25日 11:53:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4575]

バルバロッサ作戦でソ連に攻め込んでいたドイツ軍がスターリングラードの戦いでソ連軍に敗北、1943年1月31日に降伏する。慌てた米英は同年5月にワシントンDCで会議、同年7月にアメリカを中心とする部隊はシチリアに上陸し、9月にイタリアを制圧する。ハリウッド映画で有名なオーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)は1944年6月のことだ。米英の作戦はドイツではなくソ連が相手だと言うべきだろう。

 1945年4月にルーズベルトは執務中に急死、5月にドイツが降伏したときにはウォール街がホワイトハウスの主導権を奪還していた。その直後、ウィンストン・チャーチル英首相はJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連へ軍事侵攻する作戦を立案するように命令、そこで考え出されたのがアンシンカブル作戦。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。

 チャーチルは1945年7月26日に退陣するが、翌46年3月5日にアメリカのミズーリ州フルトンで、「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、47年にはアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいたという。

 アメリカの統合参謀本部が1949年に作成した研究報告にはソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていたが、54年になると内容がより具体的になる。その年、SAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成したのだ。1957年初頭には300発の核爆弾でソ連の100都市を破壊するという「ドロップショット作戦」が作成されている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 SACが作成した核攻撃計画に関する1956年の報告書によると、モスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が攻撃目標に含まれていた。

 このように1950年代から核攻撃の準備は始まり、テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、ライマン・レムニッツァーJCS議長やSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。この攻撃を成功させるためにもキューバを制圧し、ソ連の中距離ミサイルを排除する必要がある。この計画に反対していたジョン・F・ケネディは1963年11月にテキサス州ダラスで暗殺された。核戦争を始めるための大きな障害が排除されたということだ。

 そうした流れの中でロシアに対する核戦争も語られている。シリアの「停戦」はロシア軍とシリア軍の手を縛り、アメリカ側が侵略部隊を立て直して新たな攻勢を始めるための時間稼ぎにすぎないことも本ブログで何度も指摘してきた。アメリカ政府の要求を受け入れるロシア政府の姿勢を懸念する声は西側の元政府高官などから聞こえてきたが、ロシア政府は話し合いで解決する道を探してきたのが実態だ。アメリカ政府のこうした姿勢から目をそらせるだけでも犯罪的である。

 アメリカ支配層の一部は戦争への道を驀進している。予想されていた通り、アメリカ大統領選挙の投票日が近づくにつれ、軍事的な緊張が高まってきた。ヒラリー・クリントンの病状も今後の展開に少なからぬ影響を与えるだろう。万一、クリントンが病死した場合、「暗殺」が演出される可能性もある。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201609230001/



16. 中川隆[5159] koaQ7Jey 2016年11月27日 12:27:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5593]

カストロが率いて成功させたキューバ革命によって米好戦派が計画した対ソ先制核攻撃計画は困難に
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201611270000/
2016.11.27 03:20:03 櫻井ジャーナル


 11月25日にキューバのフィデル・カストロが死亡したという。言うまでもなく、カストロはキューバ革命の英雄。アメリカ支配層の傀儡だったフルヘンシオ・バチスタ政権を倒すため、1953年7月26日に実行されたモンカダ兵営襲撃から革命は始まり、59年1月1日にバチスタがキューバを逃げ出し、8日にカストロがハバナ入りして終わった。アメリカでは1953年1月から61年1月までドワイト・アイゼンハワーが大統領を務めている。

 この当時、アメリカ支配層の好戦派はソ連に対する先制攻撃を考えていた。この計画とキューバ情勢は深く結びついている。

 第2次世界大戦で殺されたソ連人は2000万人以上、工業地帯の3分の2を含むソ連全土の3分の1が破壊されている。しかもソ連軍で装備が十分な部隊は3分の1にすぎず、残りの3分の1は部分的な装備しか持たず、残りは軍隊の体をなしていなかった。これはアメリカ支配層の中でも好戦派として知られている。ポール・ニッツェの分析だ。本ブログでは何度か指摘したように、アメリカ軍はドイツ軍とまともに戦っていない。

 日本がポツダム宣言を受諾すると通告してから約1カ月後にはJCS(統合参謀本部)でソ連に対する先制攻撃を必要なら実行すると決められている。この決定はピンチャーという暗号名で呼ばれた。もっとも、この時点でアメリカが保有していた核兵器は2発にすぎないと言われているので、全面核戦争というわけではないだろう。

 1948年後半になると、心理戦の専門家で特殊部隊の産みの親とされている「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、翌年に出されたJCSの研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)を落とすという内容が盛り込まれていた。1952年11月にアメリカは水爆実験に成功している。

 この当時、原爆の輸送手段は爆撃機。その任務を負っていたのがSAC(戦略空軍総司令部)で、1948年から57年まで司令官を務めたのがカーティス・ルメイ中将だ。日本の諸都市で市民を焼夷弾で焼き殺し、広島や長崎に原爆を落とした責任者だ。

 1954年になるとSACは600から750機の核爆弾をソ連に投下、2時間で破壊し、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。1957年の初頭になると、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定した「ドロップショット作戦」を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)1958年にアメリカが保有する核兵器の数は3000発に近づいた。

 1960年の大統領選挙で共和党の候補者だったリチャード・ニクソンはアイゼンハワー政権の副大統領。そこで、軍事的にアメリカが圧倒していることを知っていた。それに対して民主党のジョン・F・ケネディ上院議員は1958年8月にソ連がミサイルで優位に立っていると主張、「ミサイル・ギャップ」なる用語を使って危機感を煽り、有権者の心をつかんだ。こうした話をケネディに吹き込んだのは、元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だとされている。

 もっとも、ケネディが好戦的だったと言うことは正しくない。例えば、1954年4月には議会でフランスがベトナムで行っている戦争を支持するアイゼンハワー大統領を批判、また57年7月には、アルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対、60年の大統領選挙ではアイゼンハワーとジョン・フォスター・ダレス国務長官の好戦的な外交政策を批判している。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 結局、選挙でケネディが勝利した。その段階で彼はジョン・フォスター・ダレスの弟でCIA長官だったアレン・ダレスやFBIのJ・エドガー・フーバーを解任するべきだと考えていたようだ。ケネディの父親、ジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だということを話していたと言われている。

 しかし、選挙結果が僅差での勝利だったことからケネディは両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 ケネディが大統領に就任した3カ月後、1961年4月に亡命キューバ人の部隊がキューバへの軍事侵攻を目論んで失敗する。その背後にはCIAがいた。ダレスCIA長官など好戦派はそうした作戦の失敗を想定、アメリカ軍の本格的な軍事介入を予定していた可能性が高いと考えられている。実際、チャールズ・キャベルCIA副長官は航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したが、却下されてしまう。その後、キャベル副長官はアレン・ダレス長官やリチャード・ビッセル計画局長とともに解任された。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 7月になると、ケネディ大統領に対してライマン・レムニッツァーJCS議長をはじめとする軍の幹部が1963年後半にソ連を核攻撃するという計画を大統領に説明した。大統領から1962年の後半ならどうなのかと聞かれたレムニッツァーは使用できる十分なミサイルが不足していると答えたという。

 レムニッツァーは大戦中の1944年からアレン・ダレスと面識がある。ふたりは秘密裏にナチスと接触し、降服に関してスイスで話し合っているのだ。その先にはナチスと手を組んでソ連と戦うという道筋ができていた。

 キューバに対するアメリカ軍の侵攻を正当化するため、レムニッツァーたちは偽旗作戦を考えている。例えば、キューバのグアンタナモにあるアメリカ海軍の基地をキューバ側のエージェントを装って攻撃、マイアミを含むフロリダの都市やワシントンでの「テロ工作」も展開、アメリカ人が操縦するミグ・タイプの航空機で民間機を威嚇、船舶を攻撃、アメリカ軍の無人機を破壊したり、民間機のハイジャックを試みたり、キューバ側を装ってその周辺国を攻撃したりする計画もあった。

 それだけでなく、民間旅客機がキューバ軍に撃墜されたように装う計画もあった。民間機のコピー機をフロリダ州にあるエグリン空軍基地で作り、本物は自動操縦できるように改造、空港から人を乗せたコピー機に離陸させ、途中で自動操縦の飛行機と入れ替え、それをキューバ近くで自爆させ、キューバ軍に撃墜されたように見せかけようとしていた。そのほか、4ないし5機のF101戦闘機をキューバに向かって発進させ、そのうち1機が撃墜されたように見せかける計画もあった。(Memorandum for the Secretary of Defense, 13 March 1962)この偽旗作戦をレムニッツァーは1962年3月にロバート・マクナマラ国防長官に長官のオフィスで説明しているが、拒否されている。(Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)

 アメリカの好戦派、つまり疲弊したソ連を先制核攻撃で殲滅しようと考えていた勢力がキューバへの軍事侵攻に執着した理由は中距離ミサイルいよる反撃を恐れたからだと考えることができる。

 アメリカがソ連に対する先制核攻撃を考えていることはソ連政府も知っていたはず。長距離爆撃機やICBM(大陸間弾道ミサイル)で対抗できなければ中距離ミサイルを使うしかない。アメリカもソ連もそう考え、両国はキューバに注目したのではないだろうか。

 そして1962年8月、アメリカはソ連がキューバへミサイルを運び込んでいることに気づく。偵察機のU2がキューバで8カ所の対空ミサイルSA2の発射施設を発見、9月には3カ所の地対空ミサイル発射装置を確認したのだ。(Jeffrey T. Richelson, "The Wizards of Langley," Westview Press, 2001)ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明した。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 こうした事態を受け、10月9日にケネディ大統領はJCSのメンバーと会談、ルメイを中心とするグループは運び込まれたミサイルを空爆で破壊すべきだと主張した。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだというのだが、ケネディは同意していない。

 ケネディ大統領は10月22日、キューバにミサイルが存在する事実をテレビで公表、海上封鎖を宣言した。戦略空軍はDEFCON3(通常より高度な防衛準備態勢)へ引き上げ、24日には一段階上のDEFCON2にする一方、ソ連を空爆する準備をしている。27日にはU2がキューバ上空で撃墜され、ニューヨークにいたソ連の外交官たちは機密文書の処分を始めたという。27日にはシベリア上空でU2がソ連のミグ戦闘機に要撃されている。この出来事を受け、マクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2が同じことを繰り返した。(Richard J. Aldrich, "The Hidden Hand," John Murray, 2001)

 それだけでなく、アメリカ海軍の空母「ランドルフ」はカリブ海で対潜爆雷を投下するが、その近くにはキューバへ向かう輸送船を警護していたソ連の潜水艦がいた。その副長は参謀へ連絡しようとするが失敗する。アメリカとソ連の戦争が始まったと判断して核魚雷の発射準備に同意するようふたりの将校に求めるが、政治将校が拒否して実行はされなかった。この日、カーティス・ルメイ空軍参謀長などJCSの強硬派は大統領に対し、即日ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 結局、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられたのだが、ベトナム戦争の実態を内部告発したダニエル・エルズバーグによると、キューバ危機が外交的に解決された後、国防総省の内部ではクーデター的な雰囲気が広がっていたという。(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)

 当時、マクナマラ長官はキューバへ軍事侵攻した場合のアメリカ側の戦死者数を4500名になると推測していたが、30年後、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 その翌年、1963年6月10日にケネディ大統領はアメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行った。アメリカが軍事力で世界に押しつける「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」を否定することから演説は始まり、アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)だと語りかけたのだ。ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのはその年の11月22日。当時のダラス市長はCIA副長官だったチャールズ・キャベルの弟、アール・キャベルだ。

 ソ連に対する攻撃をアメリカの好戦派だけが考えていたわけではない。第2次世界大戦の終盤、1945年4月12日にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、5月7日にドイツが降伏するが、その直後にウィンストン・チャーチル英首相はJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、5月22日にアンシンカブル作戦が提出されている。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからだ。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 もし、カストロたちの革命が成功せずキューバをアメリカが支配していたなら、ソ連に対する先制核攻撃が実行された可能性はかなり高くなるだろう。そうした戦争が始まったなら、沖縄をはじめ、日本は核兵器の発射基地になり、報復の対象になったはずだ。


17. 中川隆[7074] koaQ7Jey 2017年3月12日 14:03:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7540]
2017.03.12
14年前の3月に米軍は偽情報を口実にしてイラクを先制攻撃、中東/北アフリカを破壊と殺戮の地に

2003年、今から14年前の3月20日にアメリカ軍はイギリス軍などを引き連れてイラクを先制攻撃、中東から北アフリカにかけての地域を戦乱で破壊と殺戮の地にした。この地域に存在する自立した国を破壊しようという人びとは現在でも侵略戦争を続けている。

 2006年10月にイギリスの医学雑誌「ランセット」はジョンズ・ホプキンズ大学とアル・ムスタンシリヤ大学の共同研究による調査報告を掲載、それによると、2003年3月から2006年7月までの間に65万4965名以上のイラク人が死亡、そのうち60万1027名は暴力行為(要するに戦闘)が原因だという。イギリスのORB(オピニオン・リサーチ・ビジネス)は2007年夏までに約100万人が殺されたという調査結果を公表している。

 イラク攻撃を推進していたのはネオコンと呼ばれる親イスラエル派で、その中心グループに属すポール・ウォルフォウィッツは1991年にイラク、シリア、イランを殲滅すると口にしている。これはウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官が2007年に語っている。(3月、10月)1991年当時、ウォルフォウィッツは国防次官を務めていた。

 1991年12月にはソ連が消滅、ネオコンたちはアメリカが「唯一の超大国」になったと思い込み、目前に「パクスアメリカーナ」の時代があると認識、自立した「雑魚」を潰しにかかる。その基本プランが1992年2月に国防総省で作成されたDPGの草案。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンだ。

 ソ連の消滅で世界は平和になると思った人びとは冷戦の構造を見誤っていたということである。武力による世界支配というアメリカ支配層の野望をソ連の存在が押さえ込んでいたのだ。実際、アメリカ支配層がソ連に圧勝できると考えたとき、全面核戦争の危機が高まった。そうした時期のひとつが1960年代の前半だ。

 アメリカの統合参謀本部(JCS)が1949年の段階に作成された研究報告で、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすということが書かれている。1954年にSAC(戦略空軍総司令部)が作成した計画では、1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すことになっている。そして1957年初頭には、300発の核爆弾でソ連の100都市を破壊するという「ドロップショット作戦」が作成された。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1960年10月から62年9月までJCS議長を務めたリーマン・レムニッツァーやSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。そのために偽旗作戦のノースウッズも作成されたが、この目論見はジョン・F・ケネディ大統領によって阻止された。

 ウォルフォウィッツ・ドクトリンは2001年9月11日の攻撃で一気に動き出す。ネオコンの基本戦略はシリアとイランを分断することにあり、そのためにイラクのサダム・フセインを排除して親イスラエルの傀儡国家を成立させようとした。その口実に使われたのが大量破壊兵器。

 実際はそうした兵器をイラクが保有、あるいは開発している事実はなかったのだが、西側の政府や有力メディアは偽情報を盛んに流す。そうした中でもニューヨーク・タイムズ紙のジュディス・ミラー記者は目立った。その偽報道が露見すると彼女は同紙を2005年に辞めるが、07年には政策研究マンハッタン研究所へ迎え入れられ、08年にはFOXニューズに入る。2010年にはケイシーの家族やリチャード・メロン・スケイフという富豪が支援していたニューズマックスへ移籍した。また、偽報道の功績からか、CFR(外交問題評議会)のメンバーにもなっている。つまり、支配層から仲間として迎え入れられている。

 CFRが発行している雑誌、フォーリン・アフェアーの2006年3/4月号にアメリカはロシアや中国との核戦争で圧勝するとする論文が掲載された。これを書いたのはキール・リーバーとダリル・プレスで、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるとしている。アメリカの好戦派は1960年代と似た心理になっていたと言えるだろう。

 これに対し、ロシアはシリアで自分たちの軍事能力をアメリカに見せつけた。通常兵器での戦闘ならアメリカはロシアに負けると考える人は少なくない。歴史的に見てアメリカ軍が勝ったのは先住のインディアン、すでに国力が衰退していたラテン・アメリカのスペイン軍、そして日本くらいだろう。核兵器を手にして自分が世界の支配者になったと思ったようだが、ベトナムでもイラクでも勝てていない。シリアではアル・カイダ系武装集団やダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)などワッハーブ派/サラフ主義者を主体とする集団、ウクライナではネオ・ナチを使って侵略戦争を繰り広げている。現在、ロシアや中国を軍事的に挑発しているが、通常兵器では勝てない以上、アメリカは核兵器に頼らざるをえない。2003年の先制攻撃によって、私たちはそうした世界に突入してしまった。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703120000/


18. 中川隆[7853] koaQ7Jey 2017年4月18日 15:03:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8344]

2012年02月14日 原子力産業の仕組みもロスチャイルドが作った。
http://ameblo.jp/deathplaymate/entry-10953331904.html

 ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲン が1895年にX線 を発見したことから原子力産業はスタートしました。 翌年、フランスの物理学者アンリ・ベクレル が、偶然にもウラン鉱石から発する天然の放射線を発見します。放射能の量を表す単位「ベクレル」は彼の名にちなんでいます。


 その後、ピエールとマリのキュリー夫妻 が放射性物質の研究を行い、ポロニウムとラジウムを発見しました。彼らが「放射能(Radioactivity)」という用語を作り、原子力エネルギー研究の先駆けとなります。


 この研究に目をつけたのが金融王ネイサン・ロスチャイルド の曾孫アンリ・ロスチャイルドです。アンリはキュリー夫妻のスポンサーとなってラジウム研究所を建て、キュリー基金を設立しています。これから伸びる可能性のある分野には惜しげもなく投資し、産業として育て、やがて投資に見合う利益を回収するのがロスチャイルド一族です。


 1866年、南アフリカで農夫がダイヤモンドを発見すると、相次いで金鉱も発見され、南アフリカはゴールドラッシュに沸きました。良質なダイヤモンドを産出するキンバリー鉱山一帯を握っていたセシル・ローズ の「デビアス」に、ナサニエル・ロスチャイルド (金融王ネイサンの三男)が融資をし、のちにデビアスは世界のダイヤモンドを独占支配するダイヤ・シンジケートを築いていきます。(何故潤沢な資源を抱えながら彼らが裕福になれないのかが分かりますよね。)


 セシル・ローズが他界すると、アーネスト・オッペンハイマー がロスチャイルド家 の支援を受け、鉱物会社「アングロ・アメリカン」を設立。現在も南アフリカを支配するオッペンハイマー財閥の始まりです。


 発掘した金や銀を精製するには水銀が必要となります。その水銀が豊富なアルマデン鉱山はスペイン王室が所有していましたが、ユダヤ十二大富豪と言われるワイスワイラー家が事業を行っていました。


 ちなみにアンリ・ロスチャイルドの妻はワイスワイラー一族のマティルド・ワイスワイラーです。アルマデン鉱山は亜鉛(ジンク)も豊富に産出し、これがのちにロスチャイルド家のリオ・ティント銅山と合併し、1962年にウラン・シンジケートの支配者「リオ・ティント・ジンク」が誕生します。


 金あるいはダイヤモンドのために鉱山を採掘すれば、当然、他の鉱物資源も同時に産出されます。ダイヤモンドの「デビアス」、金の「アングロ・アメリカン」、そしてウランなどの非鉄金属を扱う「リオ・ティント・ジンク」、この三社がロスチャイルドによる鉱物支配の主要企業です。原子力産業は、ウランなどの鉱山事業の利益を目的として誕生したものと言ってもよいでしょう。


 1939年、原爆製造のマンハッタン計画 がスタートします。ウランの調達は、アフリカのベルギー領コンゴ、カナダのグレートベア鉱山、アメリカのコロラド州カルノー鉱山で行われましたが、3カ所ともロスチャイルド一族の支配下にある鉱山でした。


 マンハッタン計画の監督を務めたのが、ロスチャイルド一族で、のちにハンブローズ銀行の会長となるチャールズ・ハンブローです。CIAの前身である諜報機関OSSを設立した超大物であり、南アフリカの鉱山を握る「ブリティッシュ南アフリカ社」の重役でもありました。


 マンハッタン計画は、核物理学や資源確保という面で国際的な作戦計画であり、そのリーダーは、のちに国際原子力機関 (IAEA)を創設するベルトラン・ゴールドシュミット(何故かwikiに無い)でした。このベルトラン・ゴールドシュミットの妻は、ヴィクター・ロスチャイルド卿の再従妹ナオミ・ロスチャイルドです。


 米国原子力委員会(AEC)の初代委員長として、核兵器と原子力の平和利用を強力に推進したルイス・L・シュトラウス(原発マフィアの中曽根康弘の大勲位を没収せよ ←リンク先でシュトラウスの事を少し詳しく説明してます。)は、ロスチャイルド商会の米国代理店であるクーン・ローブ商会 の共同経営者であり、1950年から53年までロックフェラー兄弟基金の財務担当顧問でした。


 ルイス・L・シュトラウスの資金源となっていたのが、ウォールストリートの投機家であり、ロスチャイルド一族の鉱山王グッゲンハイム財閥と組んでウラン鉱山への投資・開発を行っていたユダヤ人大富豪バーナード・バルーク です。バルーク家は18世紀からロスチャイルド家と深い関わりを持つユダヤ人指導者のファミリーで、バーナードは「アグダス=イスラエル・ユニオン」というユダヤ系結社の代表を務めていました。


 バーナード・バルークは、原爆開発の有力な支援者としてマンハッタン計画を指導し、大統領顧問として原爆の対日使用を積極的に勧めた人物です。戦後は国連原子力委員会の米国主席代表となり、すべての核技術を国際的な管理下に置くことを提案し、それが国際原子力機関(IAEA)の設立につながります。


マンハッタン計画に参加した科学者の多くはユダヤ人でした。


 ハンガリー生まれの亡命ユダヤ人レオ・シラード は、原爆のアイデアを思いつき、同じユダヤ人でドイツから米国に亡命したアインシュタインの知名度を利用して、ルーズベルト大統領に原爆開発を促す手紙「アインシュタイン書簡」を送ったことで有名です。この手紙がきっかけとなって米国の原爆開発はスタートしました。


「コンピュータの父」として知られるフォン・ノイマン は、ハンガリーの裕福なユダヤ人銀行家の家に生まれ、1930年に渡米。コンピュータの動作原理であるストアードプログラム方式を考案しました。マンハッタン計画には軍事顧問として参加し、爆薬を32面体に配置することにより核爆弾が製造できることを10カ月にわたる計算により導きました。また、地面ではなく空中で爆発させた方が原爆の破壊力が増すことも計算により導いています。


 原爆を長崎に投下する指示を出したのは、このノイマンでした。


「原爆の父」と言われるニューヨーク生まれのユダヤ人ロバート・オッペンハイマー は、ロスアラモス研究所の所長に就任して、マンハッタン計画を主導しました。


 オッペンハイマーは「原爆投下は日本に警告なしに行われるべきだ」と反日的な強硬論を主張した人物です。
 1945年7月にロスアラモスで世界初の原爆実験に成功したとき、狂喜して「我は死神なり! 世界の破壊者なり!」と叫びました。


 ハンガリー生まれの亡命ユダヤ人エドワード・テラー は、核分裂だけの核爆弾から核融合を用いた水素爆弾へと核兵器を発展させるべきだと主張し、1952年には水爆実験に成功しました。1954年に起きた「第五福竜丸事件」の際に使用された水爆はテラーが作ったものです。


「水爆の父」テラーは歴代政権の核戦略、防衛政策に影響力を行使し続け、レーガン政権時代には「戦略防衛構想(SDI)計画」を推し進めています。


 その他、ノーベル賞(※1)を受賞した多くの著名なユダヤ人科学者がマンハッタン計画に参加しています。「近代量子論の父」ニールス・ボーア (1922年ノーベル物理学賞受賞)、ジェームズ・フランク (1925年ノーベル物理学賞受賞)、ハロルド・ユーリー (1934年ノーベル化学賞受賞)、ユージン・ウィグナー (1963年ノーベル物理学賞受賞)、リチャード・ファインマン (1965年ノーベル物理学賞受賞)、ハンス・ベーテ (1967年ノーベル物理学賞受賞)などです。


一方、冷戦の相手国であるソ連の原爆開発にもロスチャイルド=ユダヤ人脈が密かに関与していました。「ソ連の原爆の父」と呼ばれたユダヤ系科学者ユーリ・ハリトン 博士によれば、ソ連の核開発はドイツからの亡命したクラウス・フックス がスパイした情報をもとに、米国製原爆を真似てつくったものだったということです。


 クラウス・フックスはドイツ共産党に入党していましたが、ナチスの弾圧を恐れてイギリスに亡命。1943年に渡米してマンハッタン計画に参加し、その極秘情報をソ連政府に流していました。また、「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーやニールス・ボーア博士もソ連スパイに情報を提供していたことが明らかになっています。


 このクラウス・フックスを操っていたのがイギリスの「ケンブリッジ・サークル」という秘密組織でした。「ケンブリッジ・サークル」とは「ソ連の二重スパイ組織」であり、ケンブリッジ大学出身のキム・フィルビー、アンソニー・ブラント、ガイ・バージェス、ドナルド・マクレーンの4人がメンバーとして知られ、イギリス諜報部や外務省、英国放送協会(BBC)、あるいは王室にまで潜入し、KGBに情報を送り続けていたのです。


 この「ケンブリッジ・サークル」の黒幕と目されていたのが英国諜報部員でもあったイギリス家当主ヴィクター・ロスチャイルド卿でした。


 1947年に極秘計画であるマンハッタン計画が終了し、過去7年間で原爆開発にかかった費用が22億ドルに達していたことが明らかになりました。その後、冷戦が深刻化するなかで、原子力予算は年間10億ドルから20億ドル(7300億円)と膨らんでいきました。


 ちなみに1940年の日本の一般会計予算は60億円、1945年で220億円です。原子力業界にとって、まさに原子力は「金のなる木」。決して手放したくはないでしょう。


以上 、知らない方が幸せかもしれない 原発大震災の超ヤバイ話 より参照


※1)ユダヤ王ロスチャイルドとノーベル家がノーベル平和賞を決定するのである。戦争と平和はこの黒い貴族たちが決定する重要事項である。中立国とは黒い貴族たちの最終的な避難国である。彼らは死の嘆きを交わしつつ割れ目や亀裂を平和の地に作ろうとする。そして乱を演出して平和を取り戻す。その時に、ノーベル平和賞や経済学賞を用意する。彼らの『平和』に貢献した者たちへの褒美のために。

ノーベル産業とは武器銃火器を敵と味方両方に支援(売却)する産業。拠点がスイスにあります。お分かりですね。何故永世中立国か何故占領された事が無いのか。

ノーベル賞の歴史は戦争の歴史といっても過言ではない。

僕が尊敬していた物理学者の数々がこうしてユダヤ人でそれを知らず大学では今も脈々と彼らの著書を参照している。
http://ameblo.jp/deathplaymate/entry-10953331904.html


お金のしくみを作ったのがロスチャイルドなら
原発のしくみを作ったのもやはりロスチャイルドだった!


「二酸化炭素の増加が温暖化の原因」という理論が広まったのは、チェルノブイリ事故の2年後、1988年6月23日に米国上院議員ティモシー・ワースが主導したエネルギー委員会の公聴会で、証言に立ったジェームズ・ハンセン博士の持論をマスコミが一斉に取り上げたのが始まりです。

 1997年にはメディア王テッド・ターナーが国連に10億ドル分のAOLタイム・ワーナー株を寄付し、その資金で地球温暖化問題に取り組む「国連財団」が設立されました。この「国連財団」の筆頭理事がティモシー・ワース上院議員であり、専務理事にはエマ・ロスチャイルドが名を連ねています。


地球温暖化=二酸化炭素犯人説を『不都合な真実』によって定着させたアル・ゴアの活動資金は、ジェイコブ・ロスチャイルドの友人であるユダヤ人大富豪マーク・リッチが提供してきました。マーク・リッチは投機家ジョージ・ソロスの資金源であり、国際的な鉱物業者です。

 アル・ゴアの父親は、ソ連に利権を持つユダヤの政商アーマンド・ハマー(米国共産党創設者の息子)の企業で、世界各地で環境汚染を引き起こしてきたオクシデンタル石油の副社長であり、ウラン鉱山を所有する子会社オクシデンタル・ミネラルズの経営にも関与していました。アル・ゴアの娘カレナは、ロスチャイルドの米国代理人ジェイコブ・シフの曾孫アンドリュー・N・シフと結婚しています。

 アル・ゴアは、ロスチャイルド系投資銀行ゴールドマン・サックスの重役と組んで排出量取引ビジネスを行ったりして、世界初の「エコ長者」となっています。つまり、アル・ゴアは原子力業界のために活動する腕利きセールスマンなのではないでしょうか?
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/c/734064174886c2a4574346cc9297c097


19. 中川隆[-7820] koaQ7Jey 2017年5月01日 14:44:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


20. 中川隆[-7681] koaQ7Jey 2017年5月11日 18:28:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本から受けた恩を原爆投下で返した卑劣なユダヤ人

53名無しの笛の踊り 2016/11/14(月) 08:40:18.58 ID:T5aMvQnX

・東条英機  −満州に逃げてきたユダヤ人に穏健な措置を取るように指示し、ドイツからの抗議を一蹴。

・松岡洋石  −凍死寸前のユダヤ人難民のために列車を手配。神戸に来たユダヤ人のために便宜を計らう。

・荒木貞夫  −文部大臣の時、ドイツから在日ユダヤ人教師の追放を要求されるも、民族差別には 同意できないと拒否。

・東郷重徳  −亡命ユダヤ人医師の婚約者を救出。恩義を感じたその医師は、東郷の主治医となり、日本で死去。

・広田弘毅  −命のビザを発給した杉原千畝の尊敬する人物。亡命ユダヤ人音楽家の身元保証人となる。

・板垣征四郎−五相会議において、ユダヤ人も公平に扱うべきと主張し、その結果、ユダヤ人を公平に扱うのが日本の国策となった。
https://mint.2ch.net/test/read.cgi/classical/1454617348/



21. 中川隆[-6838] koaQ7Jey 2017年8月07日 07:32:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
2017.08.07
広島へ原爆を投下して以降、米国支配層は一貫して先制核攻撃を目論み、沖縄の軍事基地化も進めた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708070000/


広島が原子爆弾で破壊されたのは72年前の8月6日のことだった。64キログラムのウラニウム235を使った原子爆弾「リトル・ボーイ」をアメリカ軍の爆撃機が投下、兵士2万人以上のほか、市民7万人から14万6000人、合計すると9万人から16万6000人に達する。勿論、その後も環境中に放出された放射性物質によって人間を含む生物が殺され続けてきた。8月9日には長崎にも原爆が投下されている。

広島と長崎のほか、日本の大都市は焼夷弾で焼かれた。破壊された都市のひとつが東京。1945年3月9日から10日にかけて約300機と言われるB29爆撃機が深川、城東、浅草などを中心に空爆した。その際、そうした地域の周囲に焼夷弾を落として火の壁をつくって逃げ道を奪い、それから攻撃している。10万人、あるいはそれ以上とも言われる住民が殺された。こうした住民逆去るを目的にした空爆を指揮した人物がアメリカ空軍のカーチス・ルメイ少将(当時)。

この軍人による非武装の住民虐殺は第2次世界大戦の後も続く。1948年にSAC(戦略空軍総司令部)の司令官に就任したルメイは1950年に勃発した朝鮮戦争でも同じような空爆を朝鮮半島の北部で実施、3年間に人口の20%を殺したと本人も認めている。アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トン、朝鮮戦争では63万5000トンだと言われている。

ルメイがSACの司令官になった1948年、「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、翌年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

1954年になると、ルメイが指揮するSACはソ連に600から750発の核爆弾を投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。

1956年にSACは核攻撃計画に関する報告書(SAC Atomic Weapons Requirements Study for 1959)とその分析を作成した。それによると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下することになっていた。1957年初頭に作成されたドロップショット作戦も先制攻撃が想定され、300発の核爆弾をソ連の100都市で投下、工業生産能力の85%を破壊することを予定している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

こうした先制核攻撃計画がアメリカで練られているころ、沖縄では「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づく暴力的な土地接収で、武装米兵が動員されている。1955年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になった。

1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めた人物がライマン・レムニッツァー。この軍人は決して有能ではないのだが、第2次世界大戦の終盤、シチリア島上陸作戦を指揮したイギリスのハロルド・アレグザンダーに取り入ることに成功してから要職に就くようになった。

アレグザンダーはイギリス女王エリザベス2世に近い人物で、上陸作戦の際、下にいたのはイギリス軍のバーナード・モンゴメリーとアメリカ軍のジョージ・パットン。モンゴメリーはウィンストン・チャーチルに近い。

アレグザンダーはモンゴメリーに花を持たせようとしたことから連絡将校だったアメリカの軍人が怒って対立、替わってそのポストに就いたのがレムニッツァー。この人物は貴族が大好きで、モンゴメリーの操り人形になる。レムニッツァーとアレン・ダレスを引き合わせたのはアレグザンダーだと言われている。そして、レムニッツァーとダレスはフランクリン・ルーズベルト大統領に無断でナチスの幹部と秘密交渉を始めた。サンライズ作戦だ。

1945年5月にドイツが降伏した直後、チャーチル英首相はJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、そして作成されたのがアンシンカブル作戦。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、これは参謀本部の反対で実現していない。その直後にチャーチルは下野する。

首相でなくなってもチャーチルは大きな影響力を維持、1946年3月にはアメリカのミズーリ州フルトンで演説し、その中で「鉄のカーテン」が降りていると発言、冷戦の幕開けを宣言している。そして1947年、彼はアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会った際、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んだと伝えられている。

そのトルーマンはルーズベルト大統領の急死を受け、副大統領から昇格したのだが、このふたりは親しくなかった。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供し、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えた富豪のひとりだ。

アレン・ダレスやライマン・レムニッツァーと同じようにソ連を先制核攻撃しようと目論んでいたひとりがカーティス・ルメイ。この好戦派グループとケネディ大統領は対立、キューバ侵攻作戦ではアメリカ軍が軍事侵攻することを認めず、ミサイル危機を話し合いで解決する。つまり、ソ連を攻撃するチャンスを潰してしまった。

アメリカ軍がキューバ軍を装って「テロ」を繰り返し、キューバに軍事侵攻するというストーリーのノースウッズ作戦も拒否した大統領はダレスをはじめとするCIA幹部を解任、レムニッツァーの議長再任を認めない。レムニッツァーはNATOを指揮するようになるが、NATOには秘密部隊が存在、イタリアやフランスで要人暗殺や擬装テロを繰り返すことになる。

テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーやルメイを含む好戦派は1963年の終わりにソ連を奇襲攻撃する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。そのために偽旗作戦のノースウッズも作成されたのだが、1963年6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。そして11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。その翌年、日本政府はルメイに対し、勲一等旭日大綬章を授与している。

アメリカの支配層にとって核兵器は一貫して攻撃のためのもの。これが「抑止力」や「核の傘」の実態だ。守りという点から考えると沖縄に基地を集中させるのは得策でないが、使い捨ての出撃基地だと考えれば納得できる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708070000/


22. 中川隆[-6624] koaQ7Jey 2017年8月18日 08:34:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

原爆が投下された広島の惨劇は、いよいよ重みを増していく
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20150806T1651080900.html

閲覧注意
1945年8月6日、リトルボーイと呼ばれたウラニウム型原爆が広島上空高度約600メートルの上空で爆発した。

これによって爆心地500メートル圏内が一瞬にして吹き飛び、燃え上がっていった。

この圏内にいた人のほとんどは即死、即死を免れてもその後の数ヶ月で放射能症で死亡している。死亡率は99%。

この1%の中には、燃料会館の地下室にいたことで奇跡的に生き残った野村英三氏がいる。ただ、原爆の爆発の難を逃れても、放射線の症状が始まって生死の境をさまよい、そんな中で奇跡的に生き残った希有な人物だ。

500メートル外でも被害は甚大だった。爆心から4キロ離れたところでも、木造住宅の場合は爆風で屋内の人も畳と一緒に吹き上げられていた。

床が抜け落ち、建物が崩れて下敷きになった人もいた。そして、下敷きになったまま火に焼かれた。

当時の広島の人口は約35万人だったが、そのうちの半数が数ヶ月内に死んでいる。人類史上でも類を見ない未曾有の大惨事だった。

原爆。人類史上でも類を見ない未曾有の大惨事

原爆が投下されたのは朝8時15分頃だったが、この頃、広島市内では多くの学生が「勤労奉仕」を行っていた。

この当時、すでに日本軍は沖縄で壊滅的打撃を受けて戦況が悪化していた。そのため人々は「本土決戦」を想定して、防空壕の建設や建物疎開作業を行っていたのである。

男たちの多くは兵隊に取られて人員が足りなかったので、こうした作業に駆り出されたのは、中学生や女子学生だった。

すでに学校は勉強を教える場所ではなくなり、学生たちは畑作業や軍需工場の手伝いをするようになっていた。これを「勤労奉仕」と当時は呼んでいた。

原爆が落ちた瞬間、屋外にいたこの勤労奉仕中の中学生や女学生たちが一瞬にして熱線に焼かれ、即死した。生徒が全滅してしまった学校もあった。

500メートル圏内で熱線の直撃を受けた者の中には身体が溶けて蒸発し、「影」として残った者もいる。爆心地の温度は3000度以上に達していたのだ。

爆風は凄まじく、彼らの着ていた服は剥ぎ取られ、あるいは燃え上がり、建物やガレキと共に吹き飛ばされて、全身がズタズタになってしまった者もいる。

爆圧の直撃で、眼球が飛び出し、破れた皮膚から内臓がこぼれ落ちたまま、よろよろとさまよっていた人たちもいた。

多くの人は火傷を負っていたが、その火傷の状態は凄まじかった。皮膚は熱でドロドロに溶けて垂れ下がり、全身が腫れ上がり、親子でさえも相手が判別できないほどの状況になっていたという。

大火傷を負った多くの人たちが、両手を前に突き出すようにして、よろよろと燃え上がる町をさまよい歩き、その多くが本能的に水を求めて川に集まった。

そのため川はたちまち力尽きて死んでしまった人たちの遺体で埋まり、それが海に流され、瀬戸内海は原爆で死んだ人たちの遺体がおびただしく漂流していたと言われている。

放射能をたっぷり含んだ「黒い雨」が降り注いだ

原爆によって広島市は壊滅し、病院もほぼ機能しなくなっていた。医師も被爆しており、看護婦もおらず、病院の建物も破壊され、薬もなかった。

にもかかわらず大量の患者が押し寄せて、そこで死んでいった。神社の境内にも多くの被爆者が集まり、そこで固まるようにして死んでいった。

この地獄を生き残った人の手記では、力尽きた人が死体に折り重なって亡くなっていくので、誰が集めたわけでなく、自然に亡くなった人の山ができていったという。

行政機関も停止していた。市の中心地にいた職員のほぼ全員が死傷してしまっていたからだ。

原爆が落ちて町全体が黒煙を上げて燃えている最中、今度はそんな中を激しい雨がいきなり降り出したという。これが、放射能をたっぷり含んだ「黒い雨」だった。

雨は一時間近く降り注いだ。被爆者の多くはこの「黒い雨」を浴びている。これが生き残った人たちを執拗に苦しませる「原爆症」を発症させる原因ともなった。

この「黒い雨」は爆心地から19キロも離れたところでも降っていたことが分かっている。

アメリカと日本政府は後に爆心地から2キロ範囲内にいた人たちを「被爆者」として扱うことにするのだが、これが「被爆者」に入れられなかった人たちの悲劇を後に生み出すことになっていく。

野村英三氏の手記によると、この雨はとても冷たかったと言う。氏は、このように証言する。

「雨が止んだ頃には寒さのためにふるえだして歯の根も合わない。そこで又火の方に近づいて体を温め二三十分もしたらやつと人心地がついた。八月の盛夏、大火事の中心にいて寒さのために火に近寄るということは何としたことだろう?それ程あの時の雨は身に應えたのである」

それは、ケガをしていない人をも蝕むものだった

原爆が落ちたのは8月だった。真夏の町に放置された死体はすぐに腐り始め、被爆地はハエとウジで埋め尽くされた。ガレキに埋まった遺体、路上に放置された遺体、川に浮かぶ遺体、ありとあらゆる遺体にウジが湧いた。

そして、まだ生きている人の大火傷した皮膚にもハエが卵を産み付け、ウジが這い回るような悲惨な状況になった。

生き残った人たちが、それを箸(はし)で取ってあげていたのだが、どんなに取ってもまたウジは湧いたという。

そうしている間に、今度は無傷だったはずの人が血を吐いて倒れはじめた。高熱と、下痢、点々と浮き出る紫や赤の斑点、喀血、脱毛、歯茎からの出血……。

この頃、まだ放射能の知識が医者にもなく、何が起きているのか誰も分からなかった。下痢が続くので、赤痢ではないかと判断する医師もいた。

しかし、すぐにそうではないことが分かってきた。「新型爆弾」は、ケガをしていない人をも蝕むものだったのである。

爆心地で放出された放射線はガンマ線は103シーベルト、中性子線は141シーベルトだったという。放射能は人間の細胞を崩壊させていく。そのため、身体のあちこちが機能しなくなる。

こうした原爆症が次々と発症する中、次第に被爆した人たちは差別を受けるようになっていく。それは伝染病のようにうつると思われたのだった。

それが伝染病ではないことは後に一般人も理解するようになるが、だからと言って放射能に汚染された人たちの身体が健康体になることはない。戦後70年経った今も、原爆症は生き残った人たちを苦しめている。

戦後70年。2015年5月、私は広島を訪れて原爆ドームや平和記念公園を見て回り、原爆で死んでいった人々の無念に祈りを捧げてきた。

原爆が投下された広島の惨劇は、風化していくのではない。これから、いよいよ重みを増していく。これから世界は暴力の時代に入っていくのだから……。

高熱と、下痢、点々と浮き出る紫や赤の斑点、喀血、脱毛、歯茎からの出血……。原爆による直接被害を免れても、放射能による影響で多くの人たちが亡くなっていった。
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20150806T1651080900.html


23. 中川隆[-6623] koaQ7Jey 2017年8月18日 08:37:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?
空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html


24. 中川隆[-5707] koaQ7Jey 2017年12月13日 08:13:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
2017.12.13
中国とロシアが軍事的にも強く結びつく中、米国が日本と韓国を従えて軍事演習を実施した背景

アメリカ、日本、韓国は12月11日から合同軍事演習を実施した。アメリカから参加した2隻のイージス駆逐艦、「ステセム」と「ディケーター」を中心に、日本のイージス駆逐艦「ちょうかい」、韓国のイージス駆逐艦が演習を実施した。東シナ海ではアメリカのB-B爆撃機やF-35戦闘機、F-18戦闘機、また日本から4機のF-15戦闘機が飛行したという。

この演習は朝鮮を想定しているとされているが、実際の相手は中国とロシアのはずである。アメリカと緊密な関係にあるイギリスでは1945年5月にドイツが降伏した直後にソ連を奇襲攻撃する計画を立て、アメリカは1949年に中華人民共和国が建国されてから中国への軍事侵攻を目論んできた。今もその延長線上にある。

イギリスの奇襲計画はウィンストン・チャーチル英首相がJPS(合同作戦本部)に命じて作成させたもので、「アンシンカブル作戦」と名づけられた。それによると、1945年7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、参謀本部に拒否されて実行されていない。日本が降伏する前にソ連を攻撃した場合、日本とソ連が手を組む可能性があると懸念する人もいたようだ。

この計画が流れた後、7月26日にチャーチルは退陣するのだが、日本が降伏して第2次世界大戦が終わった翌年、1946年の3月に彼はアメリカのミズーリ州で「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステに至まで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説して「冷戦」の開幕を宣言している。

それだけでなく、1947年にチャーチルはスタイルス・ブリッジス米上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいたと報道されている。チャーチルは執拗にソ連の破壊を目論んでいた。ドイツ軍の主力がソ連に攻め込んでいたとき、西側が手薄になっていたにもかかわらずチャーチルはドイツを攻撃させていない。

フランクリン・ルーズベルトが1945年4月に急死した後、副大統領から昇格したハリー・トルーマン大統領は1947年3月、世界的な規模でコミュニストを封じ込める政策、いわゆるトルーマン・ドクトリンを打ち出した。

ジョージ・ケナンがXという署名でソ連封じ込め政策に関する論文を発表したことも有名な話だが、これらは1904年にハルフォード・マッキンダーというイギリスの学者が発表した理論と合致する。イギリスは一貫してロシア制圧を目論んできた。

マッキンダーは世界を3つに分けて考えている。第1がヨーロッパ、アジア、アフリカの世界島、第2がイギリスや日本のような沖合諸島、そして第3が南北アメリカやオーストラリアのような遠方諸島だ。世界島の中心がハートランドで、具体的にはロシアを指し、そのロシアを支配するものが世界を支配するとしていた。そのロシアを締め上げるため、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、その外側に外部三日月地帯をマッキンダーは想定している。日本は内部三日月帯の東端にあり、侵略の重要拠点であるのみならず、傭兵の調達地と認識されていた。

第2次世界大戦後、アメリカでは外交官や軍人の好戦的な勢力がソ連の打倒を目指す。例えば、トルーマン・ドクトリンが発表された2年後、アメリカの統合参謀本部はソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容の研究報告を作成、1954年にアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)はソ連を攻撃するための作戦を作り上げた。SACの作戦は600から750発の核爆弾をソ連に投下、約6000万人を殺すという内容で、この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。300発の核爆弾をソ連の100都市で使うという「ドロップショット作戦」が作成されたのは1957年初頭だ。

こうした動きの中、沖縄では1953年に布令109号「土地収用令」が公布/施行され、アメリカ軍は暴力的な土地接収を進める。1955年には本島面積の約13%が軍用地になったという。沖縄の軍事基地化はアメリカの世界戦略と結びついていると言えるだろう。

こうした軍事基地化が推進されていた当時、1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めていたのがライマン・レムニッツァー。第2次世界大戦でイギリス軍のハロルド・アレグザンダー元帥に取り入り、アレン・ダレスを紹介されている。ダレスとレムニッツァーは大戦の終盤、ナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」をルーズベルト大統領に無断で実施している。

レムニッツァーは琉球民政長官の後、ドワイト・アイゼンハワー政権時代の1960年から統合参謀本部議長に就任するが、次のケネディ大統領とは衝突、議長の再任が拒否されている。衝突の主な原因はソ連に対する先制核攻撃をめぐるものだった。

本ブログでは何度も書いてきたが、テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、レムニッツァーやカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりにソ連を奇襲攻撃する予定だったという。その頃になればアメリカはICBMを配備でき、しかもソ連は配備が間に合わないと見ていたのだ。そのために偽旗作戦のノースウッズも作成されたのだが、1963年6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。そして11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。その翌年、日本政府はルメイに対し、勲一等旭日大綬章を授与している。

これも繰り返し書いてきたが、「核の傘」とはアメリカの先制核攻撃の拠点になることを意味する。1991年12月にソ連が消滅した直後、ネオコンをはじめとする好戦派が作成した国防総省のDPG草稿、いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンはソ連がアメリカの属国になったという前提で立てられた世界制覇プラン。21世紀に入るとロシアがウラジミル・プーチンの元で再独立に成功、国力を回復させたのだが、それでもアメリカ支配層の内部にはボリス・エリツィン時代のイメージが残っていたようで、例えば、キール・リーバーとダリル・プレスはフォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載された論文の中でロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるようになると主張している。

その論文が出た2年後の2008年にアメリカ支配層の幻想を打ち破る出来事があった。その年の7月10日にアメリカのコンドリーサ・ライス国務長官はジョージア(グルジア)を訪問、8月7日にミヘイル・サーカシビリ大統領は分離独立派に対して対話を訴えてから8時間後の深夜に南オセチアを奇襲攻撃したのだ。

ジョージアは2001年以降、イスラエルの軍事会社から無人飛行機、暗視装置、対航空機装置、砲弾、ロケット、電子システムなどを含む武器/兵器の提供を受け、軍事訓練も受けていた。2008年1月から4月にかけてはアメリカの傭兵会社MPRIとアメリカン・システムズが元特殊部隊員を派遣している。つまり、アメリカやイスラエルは周到に準備した上でジョージアに南オセチアを奇襲攻撃させたのだ。圧勝する予定だったのだろうが、ロシア軍に粉砕されてしまった。この時点でアメリカ軍やイスラエル軍はロシア軍に通常戦で勝てないことが明らかになったと言える。その後、力の差が開いたことはシリアでの戦闘が示唆している。

それでもアメリカ支配層の一部はロシアと中国を制圧しようとしている。アメリカ経済は半世紀近く前に破綻、その後は資金のコロガシ、投機市場の肥大化で誤魔化してきたのだが、その仕組みが揺らいでいることが大きい。ドルが基軸通貨の地位から陥落しそうだなのだ。投機市場が縮小しはじめたなら大変な勢いで西側支配層の富は消えていく。ロシアと中国が健在である限り、そうした展開になってしまうだろう。来年、アングロ・シオニストの支配者たちはギャンブルに出る可能性がある。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201712120000/


25. 中川隆[-5502] koaQ7Jey 2018年3月23日 07:43:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8592]
2018.03.23
東京の下町が米軍の空爆で10万人前後の市民が焼き殺されて73年経つが、変わらない米支配層の体質


 今から73年前の3月9日から10日にかけて東京の下町、深川、城東、浅草などがアメリカ軍の投下した焼夷弾で火の海になり、7万5000人から20万人の非戦闘員が殺された。焼夷弾とは一種のクラスター爆弾で、中には38個の小爆弾が収納されていた。上空約610メートルで子爆弾はバラバラに飛び散り、建造物や地面に到達すると数秒後、焼夷剤のゲル化ガソリンが燃え上がる仕組み。


 日本の軍や警察による政策が被害を拡大させた要因のひとつではあるだろうが、アメリカ側の作戦や戦略を徹底的に検証することも重要だ。たとえ、それが不都合な真実であったとしても。


 この時の爆撃は典型的だが、ターゲットは軍事工場でなく一般市民。先住民を殲滅したように、日本の市民を皆殺しにしようとした作戦であり、都市部の爆撃は「無差別」でなく「計画的」だったとする人もいる。


 この作戦を指揮したアメリカ空軍のカーチス・ルメイは広島と長崎に対する原爆投下、あるいは朝鮮戦争における空爆の責任者でもある。1950年6月に勃発した朝鮮戦争でルメイは朝鮮半島北部の78都市と数千の村を破壊、多くの市民を殺している。ルメイ自身の話では、3年間に人口の20%にあたる人を殺したという。勿論、カーチス・ルメイが独断で行った大量殺戮ではないだろう。彼の周辺には仲間がいる。


 ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官に就任、朝鮮戦争が休戦になった翌年の54年にはソ連を核攻撃する作戦を立てている。それによると、600から750発の核爆弾をソ連へ投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すことになっていた。


 ​SACが1956年に作成した核攻撃計画に関する報告書​によると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下するとされている。軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだが、市民の大量虐殺自体も目的だ。この当時もSAC官はルメイ。


 この計画で攻撃目標とされた都市はモスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、タリン(現在はエストニア)、キエフ(現在のウクライナ)といったソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が含まれていた。


 日本列島が中国に対する攻撃の拠点として想定されていたことは確かだろう。1953年4月に沖縄では布令109号「土地収用令」が公布/施行され、基地化が強引に進められた。土地の強制接収は暴力的なもので、「銃剣とブルドーザー」で行われたと表現されている。


 沖縄の基地化が進められていた1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めたライマン・レムニッツァーは後に統合参謀本部議長に就任、ルメイを同じようにキューバへの軍事侵攻、ソ連への核攻撃を目論んでいる。つまりルメイとレムニッツァーは仲間。第2次世界大戦の終盤、アレン・ダレスはフランクリン・ルーズベルト大統領の意向を無視してナチスの高官を保護する「サンライズ作戦」を実行したが、レムニッツァーもその作戦に参加していた。


 レムニッツァーとダレスを引き合わせたのはイギリスの軍人。連合軍大本営最高司令官だったイギリス人のハロルド・アレグザンダー伯爵だ。レムニッツァーはイギリスの貴族に憧れを持っていた人物で、シチリア島上陸作戦の際に知り合い、アレグザンダーから目をかけられることになった。


 この人脈が影響したのか、1960年10月にレムニッツァーは統合参謀本部議長へ就任、CIA長官になっていたアレン・ダレスとキューバへの軍事侵攻を目論む。その背後にはソ連や中国に対する先制核攻撃計画があった。この攻撃計画にはダレス、レムニッツァー、ルメイも参加している。


 レムニッツァーとルメイはジョン・F・ケネディ大統領と激しく対立した。ケネディ大統領がソ連に対する先制核攻撃に反対、戦争の準備だったキューバ侵攻作戦ではアメリカ軍の直接的な介入を阻止する。


 キューバ軍を装って「テロ」を繰り返し、キューバに軍事侵攻するという「ノースウッズ作戦」をレムニッツァーは1962年3月に国防長官のオフィスで説明するが、ロバート・マクナマラ長官は拒否する。(Thierry Meyssan, “9/11 The big lie”, Carnot Publishing, 2002)ケネディ大統領はその年の10月、レムニッツァー議長の再任を拒否した。そのレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがハロルド・アレグザンダーだ。


 再任拒否の直前、1962年8月にアメリカの偵察機U2がキューバで対空ミサイルの発射施設を発見、10月にはアメリカ軍がキューバを海上封鎖する自体になっていた。いわゆるキューバ危機だが、これを外交的に解決したケネディ大統領に好戦派は反発、ダニエル・エルズバーグによると、その後、国防総省の内部ではクーデター的な雰囲気が広がっていたという。(Peter Dale Scott, “The American Deep State,” Rowman & Littlefield, 2015)


 本ブログでは何度も書いてきたが、レムニッツァーやルメイのような好戦派は1963年の後半がソ連を核攻撃するチャンスだと考えていた。先制攻撃に必要なICBMが準備できる見通しで、ソ連が追いつく前に戦争を始められると考えていたのだ。


 ところが、1963年6月にケネディ大統領はアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴える。ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのはその年の11月のことだ。その翌年、日本政府はルメイに対し、「勲一等旭日大綬章」を授与した。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803230000/


26. 中川隆[-10487] koaQ7Jey 2018年4月19日 10:46:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11248]
後戻り不可能な非核化 2018-04-18

トランプ大統領は、昨日、米朝首脳会談に先立ち、「極めてハイレベル」の直接対話を既に開始したことを明らかにしました。


 ところで、先日のシリアへの軍事攻撃決断には、新たに国家安全保障問題担当の補佐官に就任したジョン・ボルトン氏が影響を与えたと言われています。


 ボルトン補佐官といえば「超タカ派」として有名ですが、核・ミサイル開発を止めようとしない北朝鮮に対し「先制攻撃」を唱えています。


 日本のマスコミは、米朝首脳会談開催について、
「これで北朝鮮が非核化し、平和が来る」
 的な、まさにお花畑の報道を繰り返していますが、現実がそれほど甘いはずがありません。

 そもそも、北朝鮮が核を「放棄」するなど、到底、考えられません。また、なぜトランプ大統領がこのタイミングで、ボルトン氏を大統領補佐官に据えたのか。


 先日の、チャンネル桜の討論、


【討論】激変する世界の真実[桜H30/4/7]
https://youtu.be/16qNbZU3yuc
 
 で、西岡先生が解説して下さいましたが、アメリカは北朝鮮に対し「リビア方式」の核放棄を要求すると考えられています。


 と言いますか、新補佐官のボルトン氏が、かねてから北朝鮮に関し「リビア方式」による非核化を唱えてきたわけです。


 2003年、リビアのカダフィ大佐は、アメリカおよびイギリスとの秘密交渉を経て、核を含む大量破壊兵器の放棄を宣言。IAEAの核査察を受け入れ(西岡先生によると、CIAやMI6も受け入れたそうです)、核開発関連の全ての情報を公開。弾道ミサイルも廃棄しました。


 まさに「後戻り不可能な非核化」ではあったのですが、アラブの春を経て、カダフィ大佐は欧米が支援する反政府勢力に殺害され、リビアは大混乱に陥ります。


 北朝鮮の労働新聞は、
「米国の誘惑と軍事的恐喝によって銃床を下ろすことが、どれほど残酷な結果を招くかはイラクとリビアの悲劇的現実が物語る」
 と、指摘しています。


 カダフィ大佐の最期を知る金正恩が、「リビア方式」の核放棄に応じるとは、到底、思えません。逆に、アメリカ側は「後戻り不可能な非核化」以外は受け入れないでしょう。


 今後数か月で全てが決まる可能性が高いわけですが、事態が「朝鮮半島の安定」に落ち着くことは、まずありないと感がるべきです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12369259341.html


27. 中川隆[-12542] koaQ7Jey 2018年5月25日 06:13:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14293]
2013年1月16日
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島 Unit 731, Hiroshima/Nagasaki, Chernobyl, Fukushima
http://savekidsjapan.blogspot.jp/2013/01/japan-victim-and-perpetrator.html


XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島
Unit 731, Hiroshima/Nagasaki, Chernobyl, Fukushima


思えば、日本と言う国は、世界で初めて米国からの原爆を落とされ、20万という人命をその年のうちに広島と長崎で失い、その後も後遺症に悩まされる人々が現在も数十万いる中、日本政府と米国政府が当時ABCCという機関を創設し、多数の学者や医師らが参加して、被爆者への治療を施すわけでなく、被爆者の体で研究をしました。


Looking back, Japan is a A-bomb victim country with 200,000 death toll in Hiroshima and Nagasaki in1945 alone, and still there are hundreds of thousands radiation late effects suffers as of today. Meanwhile, the US and Japanese government established Atomic Bomb Casualties Commission with the participation of both countries’ number of scholars who conducted research on radiation exposed people. However, these scholars did not treat or cure the patients and they simply checked and studied them.



実際、広島第一陸軍病院宇品分院では、原爆投下1ヶ月後から1ヶ月間米国の医学者の調査団が日本の医師団に連れられてやってきましたが、日米の両方の医師たちは、生存者の治療よりも遺体解剖を優先し、患者の救援活動に従事したのは多くは看護婦や衛星兵だったと言う記録も残っています。


In fact, it is reported that the US medical team came to Hiroshima Army 1st Hospital Ujina Clinic accompanies by Japanese Tokyo University medical team, and they focused on autopsy rather than treatment, while patients were mainly treated by nurses and corpsmen.



しかも徹底的に内部被曝の影響を隠ぺいし、急性被曝で死んでしまった者、また原爆の落とされた半径2km以内に住んでいるもの以外への健康被害はないものとして長年されてきました。ようやく2008年になって、ある一定の距離以上離れたものでも、放射性物質の微粒子を体内に取り込んだことによる原爆症を発症したことが裁判で認められてきたのです。原爆が落とされて半世紀以上、広島・長崎の医師たちが患者側ではなく、国側について隠ぺいに加担していたことは特筆すべき事実です。


In addition, the effect of internal radiation has been concealed for many years, and scholars have said that there have been no health effects apart from those who developed acute syndromes or those who were living in 2km of the epicenter. As late as 2008, it was admitted that those who were living further than 2km radius area could have been exposed to radiation by the intake of radioactive materials in their bodies. In this way, more than half a century, doctors and scholars have been on the side of the governments (Japan and the US) than the A-bomb survivors.



さらにチェルノブイリ事故の後には、日本からはこのABCCを前身とする放射線影響研究所、RERFからの重松逸造氏や長瀧重信氏を中心に、住民、なにより子供たちに健康被害が出ているにもかかわらず、チェルノブイリの事故の過小評価をすることに加担してきました。


After Chernobyl accident, former directors of Radiation Effects Research Foundation (RERF), the successor of ABCC, Dr. Itsuzo Shigematsu and Dr. Shigenobu Nagataki played important roles to downplay the health damages observed among residents, especially children in the contaminated areas.



非常に恥ずべきことです。日本は被曝問題において、被害国であると同時に、大いなる加害国でもあるわけです。原爆を落とされた国でありながら、自国内の被爆者に対しても、また他国における原発の被曝者に対しても、目の前で患者が苦しむのを見ていながら、核産業側・政府側について人々の健康障害を長年無視もしくは過小評価してきたのです。


This is such a shameful history of Japanese medical circles. Japan is the victim of A-bombs, but at the same time, Japanese medical doctors have been downplaying or ignoring the sufferings of the nuclear weapons and nuclear power victims to take the side of the nuclear industry and the governments.



その悲しい歴史が、今福島で繰り返されています。チェルノブイリで過小評価をした長瀧重信氏やその弟子である山下俊一氏、また放射線治療の権威である東大の中川恵一氏らが一緒になって「このくらいの放射能なら安全である」と福島県民に説いて回り、医師会などにおいては、「福島事故で健康被害を受けたものは、1人もいない」という理論を事故から2年近くった現在でも公に発表して廻っているのです!


This sad history has been repeated now in Fukushima. Dr. Shigenobu Nagataki, who denied the health damages after Chernobyl, and his follower, Dr. Shunichi Yamashita, along with the Tokyo University Hospital radiology authority, Dr. Keiichi Nakagawa are telling Fukushima residents groundlessly that this level of radiation has no health damage. Even nearly 2 years after the accident, Japanese medical societies officially states that has never been a single person whose health was affected by radiation after Fukushima accident!



第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。


During the World War II, Unit 731 with more than 3000 medical staff under the Japanese Imperial Army, conducted horrendous human experiments including pregnant women and children.  While some medical doctors in the Far East Trial were executed for abusing the POWs, the former 731 Units members were not sued at all. The Unit 731’s immunity from punishment was obtained in exchange of providing the data to the US military and cooperating the studies on Hiroshima and Nagasaki A-bomb survivors.!

The Japanese Army's Secret of Secret

Unit 731

By Peter Williams and David Wallace, BBC documentary program producer/director

1列目の左から5番目が石井四朗



2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。原爆投下後に行われた日米合同調査団への参加には、元731部隊で病理解剖が専門の石川太刀雄丸が、米軍による限界な統治下の中、1945年12月に原爆被害を詳述しています。


In a NHK program in 2010, there was a testimony made by a former Japanese Imperial Army doctor saying, “(Beside providing the human experiment data to the US,) cooperating the research on A-bomb victim was used as a card for obtaining immunity of Unit 731.” In fact, as early as December 1945, a booklet on A-bomb causalities was prepared by Dr. Tachiyumaru Ishikawa, an expert of pathological autopsy in Unit 731.



731部隊の司令塔「陸軍軍医学校防疫研究室」嘱託の緒方富雄東京帝大名誉教授、同嘱託の木村廉京の名前があり、米国からもプルトニウム注射による人体実験をしたスタッフォード・ウォーレン医師、後にUNSCEAR創設時のメンバーであり、被爆者疫学研究で有名になるシールズ・ウォーレン医師が合同調査団として来日し調査したのでした。


Other names in the US-Japan Joint Research Team on A-bomb were, Dr. Tomio Ogata from Tokyo Imperial University and Dr. Ren Kimura from Kyoto Imperial University, Dr. Stafford Warren who was leading human experiment with plutonium injection, Dr. Shields Warren later became a founding member of UNSCEAR and famous for his A-bomb survivors’ epidemiological study.



このように米国の人体実験にかかわった医師と日本の人体実験に関わった医師らも協力して、被曝研究を進めていったのです。1946年にはオースチン・ブルースらABCC人体実験医が、東京、京都、大阪、広島、長崎を含む日本の主だった大学病院を廻り、元731部隊の研究員と会って、ABCCに協力する人々の人脈づくりをし、翌年ABCCが正式発足したというのです。


This is how ABCC was born. Doctors in the US and in Japan, who got involved in inhumane experiments, came together for further study of radiation exposure. Dr. Austin Bruce, who conducted human experiment on A-bomb victims, went to major medical schools including Tokyo, Kyoto, Osaka, Hiroshima and Nagasaki, met the former Unit 731 members and built up the network for the foundation of ABCC inaugurated in 1947.



広島長崎の被曝およびチェルノブイリ・プロジェクトで1991年に被曝による健康を否定した有名な疫学者で重松逸造氏という人物がおります。RERFの重松逸造氏(東京帝国大学→ハーバード大学公衆衛生大学院)の直弟子の長瀧重信氏(東京大学医学部→ハーバード大学医学部→長崎大学医学部)とともに、広島長崎、そしてチェルノブイリの甲状腺ガン以外の健康被害を否定しました。そして長瀧の弟子の山下俊一氏(長崎大学→福島県立医科大学)は、チェルノブイリの否定から今回の福島事故後の被曝による健康被害を完全否定しています。


The epidemiological expert, Dr. Itsuzo Shigematsu (Tokyo Imperial University, Havard University School of Public Health), is well known as RERF director who downplayed the health hazards among A-bomb survivors. He is also known as the IAEA Chernobyl Project leader who denied any health hazards among residents in contaminated area in 1991. Dr. Shigenobu Nagataki (Tokyo University, Havard Medical School, Nagasaki University)was one of Dr. Shigematsu’s followers, and both of them denied the health effects by Hiroshima, Nagasaki, and Chernobyl (later admitted only thyroid cancer.) And Dr. Shunichi Yamashita (Nagasaki University, Fukushima Prefecture Medical University), the follower of Dr. Nagataki, has been denying heath hazards in Chernobyl and now in Fukushima.



福島で子供で甲状腺異常が5割に届くほど出ているのに、異常なしとし、放置しているやり方に過去の731部隊の人体実験と共通する残酷さを常々感じていた私は、調べてみましたら、なんとこの山下氏の恩師の恩師に当たる重松逸造氏は731部隊とつながっていました。


I have been always felt the same kind of cruelty as Unit 731, on Dr. Shunichi Yamashita’s thyroid examination on Fukushima children, whose anomaly rate is nearly 50%. Then I found out that there is a connection between Unit 731 and Dr. Itsuzo Shigematsu, who was Yamashita’s teacher’s teacher.



重松氏の恩師に731部隊の重要人物がいます。731部隊に生物兵器の開発・実戦に従事した多くの医科学者を送り出した、東京帝国大学伝染病研究室の疫学研究室の主任の野邊地慶三医師です。


Dr. Shigematsu had his own master in epidemiology who played an important role in Unit 731. His name was, Dr. Keizo Noheji, the director of Tokyo Imperial University Epidemiology Laboratory, which sent many medical scientists to Unit 731 for developing biological weapons.



戦後この東大疫学研究室が、東大医科学研究所、国立公衆衛生院、国立予防衛生研究所(予研)と、3つの研究所に分かれました。戦後、予研が731部隊の資料と被曝者の資料を米軍に伝達していたと言います。


This Epidemiology Laboratory was later divided into 3 institutes; Tokyo University Medical Science Institute (Currently conducting WBC radiation exposure human experiment in Minamisoma city. Please see http://savekidsjapan.blogspot.jp/2013/01/vii.html ); Institute of Public Health and National Institute of Health(NIH). NIH gave the materials of both Unit 731 and A-bomb survivors’ data to the US military.



戦前、東大疫学研究室長であった野邊地慶三氏は、1950年代からABCCの疫学部長に就任、その門下の重松逸造氏も後にABCCの理事長に就任したのです。731部隊から原爆被爆実験に至る、東大を介したABCCとの重大な人的接点はここあったのです。


Since 1955, Dr. Keizo Noheji, the former director of Tokyo Imperial University Epidemiology Laboratory, became the epidemiological director of ABCC, and since 1981, Dr. Itsuzo Shigematu became the director of RERF, the successor of ABCC. We can see the strong personnel connection here from Unit 731 to ABCC (human experiment on A-bomb victims) through Tokyo University.



前身が東大疫学研究室である、東大医科学研究所が、今現在福島の南相馬市で、子供を含めたWBCの人体実験を行っていることは先に述べた通りです。上昌弘教授は、個人的発言としては、「南相馬は危ないよ」「将来福島県民は集団訴訟とかするんだろうなあ」と発言したことで知られています。http://savekidsjapan.blogspot.jp/2013/01/vii.html


As I mentioned before, Professor Masahiro Kami and Dr. Masaharu Tsubokura from Tokyo University Medical Science Institute are conducting human experiment including children using WBC in Minamisoma city in Fukushima. In his personal conversation, Professor Kami was saying, “Minamisoma is at risk.” “In the future, Fukushima people may file a class action lawsuit.” http://savekidsjapan.blogspot.jp/2013/01/vii.html



また福島事故後に有名になった医学者の一人に同じく東大出身で、東大病院放射線科の中川恵一準教授がいます。彼は、「福島で健康被害は出ていない、今後も出ない」と主張する学者の代表格です。私は中川医師の『被ばくと発がんの真実』という著書に、科学的な疑問点が100か所以上見受けられたので、質問を送りましたが、どれひとつとしていまだに回答をいただいておりません。http://koukaishitsumon.blogspot.jp/2013/01/blog-post_31.html


In addition, another prominent figure after Fukushima accident is an associate professor of Tokyo University Hospital Department of Radiology. In his book, “Truth on Radiation Exposure and Carcinogenesis,” he states that there have been no health damages observed and will not be observed in Fukushima. Since there are many scientifically doubtful points in his book, I sent him more than 100 questions, but none of them have been answered yet.  http://koukaishitsumon.blogspot.jp/



実は免責された731部隊は、放射線医療業界にも歴史的につながっています。例えば731部隊、レントゲン班でも致死量を当てる人体実験が行われ、リーダーのひとりであった宮川正は、戦後放射線治療の専門家になりました。第五福竜丸事件の後、福竜丸以外の船員が放射線障害で苦しんでいても、放射線障害ではないだろうという理論を展開し、800あったと言われる被曝船は、一隻とされたのでした。


Historically, immuned Unit 731 members have ties with the society of radiation medicine. For example, Dr. Masa Miyagawa, a leader of X-ray team, which conducted lethal dose irradiation on human experiment, became later became the leading professor of radiology class at Tokyo University Medical Department after the war. Dr. Miyagawa denied radiation damages on fishermen other than the Fifth Lucky Dragon ship, though it was said that there were approximately 800 boats that were exposed to radiation from the H-bomb.



この元731部隊レントゲン班の東大医学部放射線医学講座の主任教授、宮川氏は、放射線医学総合研究所の立ち上げ準備にあたりました。放射線医学総合研究所は、その後も原子力推進の政策を追認する機関として今日に至っており、UNSCEARの日本代表は半世紀以上、ずっと放医研のスタッフです。


Dr. Miyagawa, the former chief of X-ray group in Unit 731, later became the leading professor of radiology class at Tokyo University Medical Department and involved in the establishment of Nuclear Institute for Radiological Science (NIRS). NIRS has been functioning as the organization to follow the pro-nuclear government policy, and the Japanese representative of UNSCEAR has been always NIRS member for the past half century.




長崎においても、731部隊からABCC,そして今日の福島にも有名大学を通じてつながりがあります。長崎で、胎児・新生児の数千例の解剖を手掛けた長崎医科大学の林一郎(京都帝国大学出身)も、元731部隊員であり、731部隊長石井四郎(京都帝国大学)の恩師で同部隊の病理解剖の最高権威であった清野謙次(京都帝国大学出身)の門下でした。林一郎医師は、731部隊長の石井四郎と兄弟弟子であったわけです。


Also, there are connections between Unit 731, ABCC, and Fukushima through famous universities. In Nagasaki, Dr. Ichiro Hayashi (Kyoto Imperial University, Nagasaki University), who conducted thousands of autopsy on fetus and babies of A-bomb survivors used to belong to Unit 731 and his master was Dr. Kenji Kiyono (Kyoto Imperial University), whose followers were Dr. Shiro Ishii (Kyoto Imperial University), the leader of Unit 731.



この林一郎氏は、世界は恐怖するという1957年制作の映画の中で、昭和24年から25年にかけて、被ばく者から生まれた子どものうち、22.3%が奇形だった。同じ時期に被曝していない親から生まれた奇形児は、8.7%だったと発表していると引用されています。しかしなぜかこの引用は後から林氏自身によって否定され、広島長崎で遺伝的な影響はなかったこととされています!何と不可思議なことでしょうか。


Dr. Hayashi’s study was once cited in the film called, “The World is Feared (Sekai wa Kyofu suru)” (1957) in which the narrator said that 22.3% of babies born among A-bomb survivors had malformation while 8.7% among non-survivors. However, this citation was denied by Dr. Hayashi himself and the genetic effects after Hiroshima and Nagasaki is said to have been not observed, which remains as a mystery.




また、731部隊長石井四郎の右腕であった内藤良一は、薬害エイズで2000人の血友病患者を感染させた日本ミドリ十字社の前身である日本ブラッドバンクの創設者であり、このミドリ十字社と厚生省がグルとなって薬害エイズ事件の原因となったことは有名です。Dr. Ryoichi Naito, a right-hand man of Unit 731 leader Dr. Shiro Ishii, is a founder of Japan Blood Bank, predecessor of Japan Green Cross, which caused the infection of HIV to thousands of hemophiliac patients in collusion with Ministry of Health.



今回福島県民健康調査のリーダーである山下俊一氏が、福島事故の直前までエイズ患者対象の研究を行っていたことは特筆に値すると思います。彼はエイズ研究を始めるにあたり、「過ちは二度と繰り返しません」と書き、その後、福島事故が起きて、福島医大に行き、住民たちには100mSvまで心配することはないと説得しました。「人々の健康を第一に考えない医学がなぜ存在するのだろう。」、そして「患者を検体として接するような医者は許さない」と、私の知人の薬害HIV患者の方も非常に怒っています。


It is amazing that Dr. Shunichi Yamashita, the leader of Fukushima Prefectural Health Examination was assigned as the leader of HIV infected hemophiliac patients just before the Fukushima nuclear accident took place. In his report on the start of the HIV patients study, he said that this kind of mistake shall never take place, and immediately after that, he went to Fukushima Medical University responding to the nuclear accident to persuade the residents not to worry about radiation upto 100mSV. My friend HIV patient is feeling strong resentment on Dr. Yamashita’s behaviors saying, “How could there be a medicine that does not focus on the health of people for the first place?” “I would never forgive any doctor to treat anybody as a specimen of human experiment”



そして今、福島では有名大学の様々な医者や学者が関わり、子供や妊婦までを研究利用しています。これは明らかに時間軸の伸びた人体実験と言えますし、歴史を見れば、誇張でないことが分かります。


Today, various scholars and doctors from many famous universities and institutes, are using even pregnant women and children for their studies. This is obviously a human experiment in the extended period of time span, and the history shows that this is not an exaggeration.



今現在、この瞬間にも被曝しながら、命を削っている福島その他の汚染地帯の子供たちを助けるためにも、私は、この過去と現在における日本の医学界の犯罪性を全世界の人々に知ってほしいです。


In order to save the lives and health of children whose health have been deteriorating, I would like the people in the world to know the criminality of Japanese medical societies in the past and present.
http://savekidsjapan.blogspot.jp/2013/01/japan-victim-and-perpetrator.html


28. 中川隆[-12887] koaQ7Jey 2018年6月05日 08:15:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14935]

GHQによる原爆投下に対する検閲とマスコミの自主規制 18/06/04
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=336195

1945年から、GHQによる検閲が開始された。

勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』によると、占領軍の検閲は、原爆投下を批判した新聞社を処分することからはじまっている。

「占領軍の検閲第一号となつたのは、広島・長崎のかうした悲劇に対する、日本人の抗議の声であつた。九月十四日、同盟通信社は二日間の業務停止処分を命じられたが、その理由の一つになつたのが、『この爆弾は…野蛮人でなければとても使えなかった兵器である』といふ報道だつた。続いて九月十八日、朝日新聞も二日間の発行停止を命じられたが、その理由となつたのも鳩山一郎の次のやうな談話であつた。

『「正義は力なり」を標榜する米國である以上、原子爆弾の使用や無辜(むこ)の國民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の國際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう。」(『抹殺された大東亜戦争』)

30人以上の日本人カメラマンが、核物理学者、医者、生物学者、建築家たちの協力を得て、1945年8月から12月にかけて、記録映画にとりかかった。ところが、、アメリカ軍憲兵(MP)が長崎で撮影中のカメラマン1人を逮捕し、飛行機でGHQに連行、直ちに撮影中止を命じた。

また1947年4月に行なわれた広島市長選では、ある候補者がラジオで話をしている途中に、GHQが放送中止を命令。その候補者が原爆について肯定的なことを言わなかった事が理由。

(原爆とタブー)
http://www.prideandhistory.jp/book-archive/book1/section1/chapter4/clause4/000312.html


原爆に対する検閲は被爆少女の手記にまで及んだ(『雅子葬えず』の発禁処分)。

原爆に触れる場合でも、次のような手法が用いられた。

「…次には占領軍は、南京やマニラで日本人の『虐殺』行為を捏造・強調することで、自らの贖罪意識を相殺せんとする挙に出たのである。

その典型的な事例が、有名な永井隆の『長崎の鐘』である。この書物は、カトリック教徒でもあった医師の永井が、長崎における自らの被爆体験を綴ったものであるが、長崎の原爆とは何の関係もない『マニラの悲劇』といふ百三十頁にも及ぶ連合軍総司令官諜報課提供の『特別付録』との抱き合わせで出版することを余儀なくされた。

占領軍の手になつた同付録序文はかう述べてゐる。

『…マニラ市民に加えられたこのような残虐非道な行為は、…野蛮人にもまさる蛮行だといえよう。(中略)或る一人の男が突然暴れだして、路上に行き會う誰彼を見境なしに殺して廻ったとしたら、警官は彼を捕まえなくてはならない。これが、日本がアメリカと全世界に課した宿題であり、この無差別な殺傷行為を止め、戰爭を終結させるために、アメリカと全世界とが原子爆弾を使用せざるを得なかった所以(ゆえん)である。」(『抹殺された大東亜戦争』)

「マニラの悲劇」は現在問題にされることは殆どなく、信憑性そのものに疑いの残るものだが、この作品に連合軍の諜報課が『特別付録』をつけた意図は明らかである。

また占領軍の検閲を担当していたPPB(出版・演芸・放送)課長のスポールディングは、1949年2月10日付でこのように述べたという。

「ナガサキ・ヒロシマはマニラや南京で行った日本人の残虐行為と、たとえそれ以上でないにせよ、ちょうど同じくらい悪く、彼らの罪と相殺されるものである」(モニカ・ブラウ『検閲1945-1949―禁じられた原爆報道』)

この発言は、アメリカの戦争犯罪を薄めるために日本はもっと悪かったという歴史を広めることを企図したものであることは明らかである。

占領軍による検閲は、昭和20年9月からはじまり、占領軍にとって不都合な記述は、たとえ真実であっても、徹底的に排除された。次のURLリンク に新聞雑誌などに適用された「プレスコード」の全項目が書かれているが、アメリカ・イギリス・中国など戦勝国への批判や占領軍へ批判はもとより、第三次大戦や冷戦への言及、占領軍と日本女性との交渉などあらゆることが検閲の対象となった。

これらは 「出版物検閲に関する非公式覚書」として指令された。 民主国家アメリカにとって、検閲は決して公にすることができない部分であったからであろう。

これは日本だけの問題ではなく、原爆を落とした国であるアメリカにおいても、自由な言論が許されている訳ではない。

1995年にスミソニアン国立宇宙博物館が終戦50周年を記念して広島に原爆を展示した「エノラ・ゲイ展」を計画したが、博物館が用意した展示台本や写真などが、米議会の政治的圧力によって展示を禁止されてしまった。 クリントン大統領は、4月に行われた記者会見の席上、トルーマンの原爆投下決定を是認する表明を行った。(中略)米国政府からの批判にさらされて3ヵ月、5月にハーウィット館長は辞任した。」(『抹殺された大東亜戦争』)

戦後50年もたった時点のアメリカにおいてすら、広島や長崎の真実を伝えようとすると、強力な圧力がかかり、展示が出来なかったのである。

占領期の検閲や焚書では、原爆問題ばかりではなく戦勝国批判につながる史実や論調の多くが封印された。そしてそれと並行して、出版社やマスコミは、表現の自主規制を始める。

占領期が終了してからも内外の圧力を出版社やマスコミなどにかける手法で、実質的に「プレスコード」が維持され、今もマスコミからは、戦勝国の犯罪行為を追及する姿勢は殆ど見られない。

参考:

「GHQの検閲」
http://www.tanken.com/kenetu.html

「しばやんの日々」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-186.html


29. 中川隆[-13418] koaQ7Jey 2018年7月09日 23:10:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16399]

「調査すれども治療せず」放影研が被爆者に謝罪の意
テレビ長崎 2018年6月19日

長崎の被爆者を前に初めて謝罪の意を示しました。被爆者の健康調査を行っている放射線影響研究所の理事長が19日、「調査するものの治療をしない」と批判されていた前身のABCCの姿勢について、残念に思うと述べました。


 長崎市で開かれたABCC・放射線影響研究所の設立70周年の記念式典には被爆者70人あまりが招待されました。放影研の前身は1948年7月にアメリカが設置した「長崎原爆傷害調査委員会」=通称「ABCC」で、1975年から日米が共同で運営する研究機関「放影研」になりました。


 放射線影響研究所 丹羽太貫理事長「放影研の前身であるABCCは、設立の当初に『調査すれども治療せず』といった多くの批判がございました。ABCCの後を継ぐ者として、この不幸な時期について大変残念に思っております」


 70年経ってようやく謝罪の意を示したことについて、参加した被爆者は複雑な表情を浮かべています。


 県平和運動センター被爆連 川野浩一議長「その子たちが異口同音に言うのは『またABCCがジープで迎えに来っとばい』と」「行ったっちゃ、血液や皮膚や髪の毛ばとられるばってん、薬いっちょくれるわけじゃない。みんな嫌がってましたよ」


 長崎被災者原爆協議会 田中重光会長「検査の対象になった人たちはもうあんまり生きてないと思うんですよね。もっと早く謝罪をしてもらったら」


 長崎原爆病院 朝長万左男名誉院長「被爆者の心に寄り添うという意味でちょっとそれが足らなかったということでしょうね」


 放影研は「この過去を忘れることなく、透明性を持って原爆による放射線の人体への影響を調査し、記録し続けたい」としています。


30. 中川隆[-13904] koaQ7Jey 2018年7月25日 11:23:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17305]
被爆治療阻むGHQと京大研究者たちの抵抗 1951年の京都大学総合原爆展の背景
2018年7月24日


倒壊する前の大野陸軍病院

 1945年9月、枕崎台風が原爆の惨禍に苦しむ広島を襲い2400人もの人命が奪われた。原爆が幾十万もの市民を焼き殺しただけでなく、広島はその後も甚大な自然災害に見舞われたのだった。枕崎台風によって、佐伯郡大野町(現・廿日市市)にあった大野陸軍病院が土石流によって倒壊し、原爆症患者100人をはじめ156人が犠牲となった。そのなかに、当時病院で診療と調査をおこなっていた京都大学医学部の教授ら11人が含まれていた。

 この京都大学医師たちによる献身的な治療と研究によって、被爆者の症状が原子爆弾によるものであることが明確となり、適切な治療とそれに対応した薬品などの救援が求められた。だが、GHQはそれを無慈悲に拒絶したばかりか、京大をはじめ全国の医師たちが広島の患者たちから得た医学的資料を根こそぎ奪い、アメリカへ持ち帰った。さらに、日本の医師たちが原爆症についての研究を学会などで発表することを禁止した。広島・長崎の原爆症治療発展が阻まれたことは、今日まで尾を引いている。

 京大「綜合原爆展」のとりくみは、そのような医療・学問研究への弾圧と大衆的にたたかう内実をともなっていた。この原爆展はアメリカ占領下、被爆5年にして広島で初めて被爆被害の実態と原爆投下の犯罪をあばいてたたかわれた50年8・6斗争の翌年、京大学生自治会(同学会)が主催して7月14日から24日まで京都駅前の百貨店において開催され、3万人の市民が参観し大きな反響を呼び起こした。それは、その後原爆展が全国各地で活発に展開され、日本の原水爆禁止運動を全国、世界に広げるうえで歴史的な契機となった。

 当時、医学部学生として「綜合原爆展」にとりくんだ川合一良氏(医師)は『京都南病院医学雑誌』(2001年3月)で、これが「京都大学原子爆弾災害総合研究調査班と大野浦の悲劇」と関連していったことを強調している。

 京都大学原子爆弾災害綜合研究調査班は原爆被害の実態を科学的に正確に把握することを目的に組まれたプロジェクトで、物理学部物理学教室の荒勝文策教授と医学部病理学教室の杉山繁輝教授のチームで構成されていた。医学部班は、被爆直後の遺体の解剖もおこなった。

 「綜合原爆展」開催のきっかけは、その年の春季文化祭で医学部と理学部の学生が専門的な立場から原爆の実態を模造紙に書いて展示したことにあった。医学部の学生は原爆症について調べてパネルを作成した。医学部の原爆講演会では、当時から血液学の国際的な権威であった天野重安・助教授が講師となり、大野浦で遭難した教授たちが採取した人体標本などの資料も紹介した。

 天野助教授は敗戦直後、京大調査班の第2陣として9月17日に広島へ向けて汽車で出発したが、枕崎台風で不通となったため京都へ引き返し、難を免れていた。調査班遭難者の葬儀が10月11日、京都大学の本部大講堂で大学葬としておこなわれ、殉難者の業績をむだにしないことを誓い合った。天野助教授は杉山教授の仕事を引き継ぎ、広島から持ち帰った25体の被爆者剖検標本を分析し、1945年秋には、原子爆弾症について先駆的な概念を確立していた。

 そして、50年からは占領政策違反を覚悟して、担当の病理組織学実習の一コマを使って、原爆症の特別講義をおこなった。講義は評判を呼び、講堂は満員となった。春の文化祭での講演はこうしたなかで学生たちが要請したもので、聴衆に大きな感銘を与えた。川合氏は、「綜合原爆展」パネルのうち医学部学生によるシナリオの主要な部分は、この講義にもとづくものであったと証言している。また、天野助教授が、「綜合原爆展」の作業のさなかでも助言と指導をおこなったことにもふれ、これは「京大調査班同僚の遭難死への天野の思いと、朝鮮戦争という厳しい情勢が天野を動かしたためではないだろうか」と訴えている。

 不戦を誓いあった5年後に朝鮮戦争が引き起こされ、警察予備隊が組織されるなど再軍備へと向かい、「11月30日にはトルーマンが“朝鮮戦線で原爆使用を考慮している”と発表した」。こうしたことが原爆展をとりくむ学生たちをつき動かしていたからでもある。

覚悟決めた医学者の行動 屈辱を甘受せず

 天野は後に、このように書いている。

 「原爆展に私は多くの資料を提供した。……この資料提供には相当な覚悟が必要だった。占領下だから被爆の実態はアメリカ軍の機密だったのだ。私のところへも、占領軍当局から資料の公開はお前の責任でやれといってきた。その意味は、軍の秘密にふれて問題になったときはお前をとらえるぞということだ」(「平和は求めて追うべし」1960年)

 天野の覚悟を決めた行動をつき動かした背景には、大野浦の殉難者の業績を受け継ぐうえで最初から、アメリカ側からのさまざまな妨害と屈辱を受けたことがある。

 早くも1945年12月、京都大学で病理学会が開かれたとき、アメリカ人医師・エール大学のリーボウ博士が天野に対して、京大にある被爆者研究資料を提供するよう求めた。それはこの年9月、「原子爆弾の影響に関する日米合同調査団」が東京大学を中心に組織され、「日本側記録、病理解剖資料、患者病歴の再検討」「調査資料や病理解剖資料の収集」「写真・フィルム等の入手」などを定めたことを受けたものであった。

 その直前の11月30日、学術研究会原子爆弾災害調査研究特別委員会が第1回の報告会を開いたとき、占領軍総司令部経済科学局のケリー博士が発言を求め、「日本人による原子爆弾災害研究は、総司令部の許可を必要とする。またその結果については公表を禁止する」といい放ち、都築正男・東大教授が「広島と長崎では、今……多数の人が原爆症のために次々と死亡しつつある。原爆症はまだ解明されていない新しい疾患であり、その本態を解明しないことには、治療をおこなう方法がない。たとい進駐軍の命令であっても、医学上の問題について研究発表を禁止することは、人道上許しがたい」と抗議するできごとがあった。

 「科学の進歩には、データと実験の積み重ねと発表を受けた人々による追試が何よりも不可欠である。特に医学においては、臨床例の積み重ねが効果的な治療法究明の最大の決め手である。その発表を禁止されては、被爆者の治療をあきらめろというのと同じであった」「京大の研究者は、一旦資料を渡してしまえば自分たちの手元には決して返らないのではないか、と誰もが危惧していた」(『医師たちのヒロシマ』1991年)

 さらに、翌年1月に血液学会春期大会が京大医学部会議室でおこなわれたとき、京大の報告「原子爆弾被爆者の末梢血液変化について」に対して、アメリカ占領軍の許可なく勝手に発表したと横やりが入ったため、この資料をすべて隠すということもあった。

 リーボウの求めに対して、天野は「資料の大半は水害で流れてしまった」として、杉山教授が似島で採取した3個の血液学的スライドを渡すことで、ことを収めようとした。だがリーボウは医学部の他の研究室を歩き回り、研究者が所持するスライドや資料を調べあげ、水害を免れた牛田での標本を多数持ち去った。天野はアメリカ側に対して、この資料は殉難者が調査した資料であり、京大側の了解なしに研究発表しないことを約束させた。

 こうしたアメリカによる被爆資料の収奪は各地でおこなわれた。アメリカはその結果、調査事例1万3500例、病理解剖資料217例、写真等1500枚という膨大な資料をわずか2カ月あまりの間に持ち去った。こうして、日本研究者による研究の根拠を奪い去ったうえに、アメリカ陸軍病院病理学研究所などに保管した。そして、それらにもとづくアメリカの医学研究者の発表が日本の研究者との約束を笑うかのように相次いでおこなわれた。

 ちなみに、京都大学は60年9月、大野町現地に殉難者の慰霊碑を建立し、毎年“慰霊の集い”をおこなってきた。主催は芝蘭会(京都大学医学部同窓会)広島支部に委託してきた。89年度からは「平和を追求する学問を目指すものの象徴として大学全体で継承する」として、京都大学主催事業となっている。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/8726


31. 中川隆[-13757] koaQ7Jey 2018年8月03日 05:49:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17476]

14万人の広島市民を殺戮した米国の原爆、「戦争終結早めた」論はいかに捏造されたのか?
http://biz-journal.jp/2018/08/post_24282.html
2018.08.02 文=筈井利人/経済ジャーナリスト Business Journal


 米国が第2次大戦中、原爆開発を推進した「マンハッタン計画」関連地の米国立歴史公園が、原爆投下による人的被害などの非人道的な側面を展示する計画を進めている。施設の展示計画の策定は2019年にも着手し、2年以内の完成を目指す。

 米政府は15年11月、マンハッタン計画の中心地のニューメキシコ州ロスアラモスやテネシー州オークリッジ、ワシントン州ハンフォードの原爆研究開発施設や周辺区域を国立歴史公園に指定。広島・長崎両市が「原爆投下の正当化が強調されかねない」と懸念を伝え、人体への影響を展示するよう求めていた。

 今回の展示計画が異例なのは、米国では「原爆は戦争終結を早め、多くの米兵の命を救った」などとその使用を正当化する世論が根強いからだ。1995年には国立スミソニアン航空宇宙博物館が企画した原爆展が退役軍人らの反発で事実上中止されている。日本でも、米国でのこうした世論に反感を覚えても、どこが間違っているか具体的に反論できる人は少ないのではないか。

 しかし原爆投下を正当化する米国での世論は、歴史的事実に照らして誤りであることが判明している。しかもその誤りは、米国の政府や軍が情報操作によって意図的に撒き散らした嘘なのである。

■原爆投下を正当化する主な主張

 広島市立大学国際学部教授の井上泰浩氏が6月に上梓した『アメリカの原爆神話と情報操作』(朝日選書)などに基づき、広島・長崎への原爆投下を正当化する主な主張を検証してみよう。

 まず「一般市民に犠牲をできるだけ出さないよう、軍事基地を攻撃した」という主張である。当時のハリー・トルーマン米大統領は広島に原爆を投下した3日後の45年8月9日、ラジオ演説で「民間人の死者を可能な限り避ける」ため、軍事施設である広島に原爆を落としたと述べた。

 しかし広島は、日本が奇襲したハワイの真珠湾とは違い、都市であり、およそ30万人が住んでいた。軍事施設はあったが、広島港には機雷が投下され、米海空軍が日本周辺で制海権を握っていたので、広島にいる日本軍は事実上制圧されたも同然だった。

 原爆の攻撃目標は軍事基地ではなく市内繁華街だった。民間人の死者を可能な限り避けようとしたけれども偶然、人口密集地に落ちてしまったのではない。むしろ原爆の最高政策決定機関は市民の死者を可能な限り多くするよう決定していた。都市の完全破壊と市民の殺傷を最大化することで原爆の威力を見せつけ、心理的効果を最大にしようと図ったのである。

 次に、先に触れた「原爆は戦争終結を早め、多くの米兵の命を救った」という主張である。救われた米兵の数は100万人とも50万人ともいわれるが、いずれも根拠のない数字だ。45年6月18日、米軍の最高幹部らが出席した会議では、日本上陸作戦を決行した場合に予想される戦死者数は2万人と公式に報告されていた。

 人命の重みを数で単純比較することはできないものの、2万人の米兵の命を救うために、原爆で少なくとも広島14万人、長崎7万人の市民の殺戮が正当化できるはずはない。
 
 女性や子供を含む一般市民を原爆で多数殺傷したことに対しては、米軍幹部の間にも批判があった。連合軍最高司令官で後に米国大統領となったドワイト・アイゼンハワーは、原爆の使用計画を知らされたときのことをこう回想する。

「私は2つの理由で反対だと述べた。第一に、日本は降伏しようとしており、あの恐ろしいもので攻撃する必要はなかった。第二に、私は我が国がそのような兵器を使う最初の国になるのを見たくなかった」

 原爆投下を正当化する主張の3つ目は「放射能の影響はない」というものである。1945年9月12日、原爆開発責任者のひとり、米軍のトーマス・ファレル准将は東京で記者会見を開き、現地調査の結果、広島には放射能はないと断言する。さらに自分の意見として、破壊された地域に住むことは現時点で危険ではないと語った。

 しかしその後、10カ月に及ぶ調査の結果、46年6月末に公表された公式報告書は放射能の存在を明記し、こう述べる。

「放射能の影響の深刻さは、爆心から3000フィート(約1キロ)以内にいた生存者の95パーセントが、放射能障害を被っていることからわかる」

■米ニューヨーク・タイムズの存在

 以上述べた通り、原爆投下を正当化する主張は、米政府や軍がでっち上げた神話にすぎない。だがそのような神話がなぜ、今に至るまであたかも真実のように信じられているのだろうか。

 そこで大きな役割を果たしたのは、世界のジャーナリズムで最も権威ある新聞のひとつ、米ニューヨーク・タイムズである。同紙は米政府や軍の情報操作に協力し、虚偽の神話を浸透させる手助けをしていた。

 前出・井上氏の著書によれば、広島・長崎への原爆攻撃を報じた1945年8月7日から11日までの5日間に、ニューヨーク・タイムズ紙は原爆に関する記事を132本掲載。そのうち放射能の影響について報じたのはわずか1本で、しかもそれは放射能の影響を否定する記事だった。

 タイムズ紙は、それ以前は放射能による被害について社会に警鐘を鳴らす報道をしていたし、原爆投下の際も他の米紙の多くは放射能の影響を読者に伝えていた。ところが原爆投下を境に報道姿勢が一変。終戦後も放射能の存在や影響を無視、矮小化、否定する報道を続ける。

 この報道姿勢の背景には、タイムズ紙と米政府・軍との特別な関係がある。同紙の科学記者、ウィリアム・L・ローレンスは、社主アーサー・ヘイズ・サルツバーガーの許可の下、軍の情報操作に協力していた。ローレンスはマンハッタン計画の全貌を知ることを許された唯一の記者であり、タイムズ紙に政府・軍の意向を反映した記事を書いたほか、トルーマン大統領の原爆使用声明や前述のラジオ演説を起草。原爆に関する軍の報道発表資料、メディア向けの「模範記事」のほとんどを執筆した。

 タイムズ紙はこの裏取引の見返りに、広島への原爆投下や日本の降伏について政府から事前に知らされる。こうした政府との共謀を背景に、タイムズ紙は「新聞社として組織的に政府の要請に従い、あるいは、政府の意向を忖度して、放射能の影響を隠蔽してきた」と井上氏は推測する。

 最近、トランプ米大統領は北朝鮮の金正恩委員長、ロシアのプーチン大統領と一連の首脳会談で核軍縮への意思を示したが、米国内には「弱腰」などと批判の声もある。核軍縮の機運を一段と高めるためにも、原爆正当化の神話を事実によって突き崩す努力が欠かせない。

(文=筈井利人/経済ジャーナリスト)

●参考文献
井上泰浩『アメリカの原爆神話と情報操作』(朝日選書)
ガー・アルペロビッツ『原爆投下決断の内幕 悲劇のヒロシマナガサキ』(上下)鈴木 俊彦他訳、ほるぷ出版
Ralph Raico, Harry Truman and the Atomic Bomb, Mises Institute


32. 中川隆[-13847] koaQ7Jey 2018年8月04日 15:43:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17599]
2018.08.04
アメリカの核兵器



 アメリカは1945年8月、2発の原子爆弾を日本へ投下した。8月6日にウラニウム235を使ったリトルボーイを広島市へ、またプルトニウム239を使ったファット・マンを長崎市へ落とし、その年の末までに広島では約14万人、長崎では7万4000人程度が死亡したと言われている。晩発性の放射線障害による犠牲者を含めれば、数字はさらに膨らむ。

 少なからぬ人が指摘しているように、アメリカは原爆を投下する必要はなかった。ソ連制圧を目指していたドイツ軍の主力はスターリングラードの戦いに敗れて1943年1月に降伏、ドイツなしに連合軍と戦う力のなかった日本の敗北も時間の問題だったからである。第2次世界大戦の勝敗は1943年の初頭に決していた。これを受け、アメリカやイギリスは慌てて上陸作戦を始めたのである。

 実際にドイツが連合軍に降伏したのはフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死した翌月の1945年5月だが、その間、ウォール街の代理人でOSS(アメリカの戦時情報機関)の幹部だったアレン・ダレスたちが大統領に無断でナチスの幹部と新たな同盟について話し合っていた。この話し合いを経てアメリカはドイツの科学者やナチス幹部たちを救出、保護、ほとぼりが冷めてから雇用している。

 ドイツが降伏して間もない5月22日にウィンストン・チャーチル首相の命令でJPS(合同作戦本部)はソ連に対する奇襲攻撃計画を作成している。アンシンカブル作戦だ。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第三次世界大戦」を始める想定になっていた。

 この作戦が実行されなかったのはイギリスの参謀本部が反対したからだが、理由のひとつは防衛を重視すべきだという判断、もうひとつは米英独がソ連と戦争を始めた場合、まだ降伏していない日本がソ連と軍事同盟を結ぶ可能性があると懸念したからだとも言われている。

 7月16日にアメリカがニューメキシコ州でプルトニウム原爆の爆発実験(トリニティ実験)を成功させたことも展開に影響しただろう。通常兵器による奇襲攻撃から核攻撃へ切り替えられた可能性がある。そして広島と長崎へ原爆が投下された。ソ連を意識して原爆を投下したことは間違いないだろう。

 実際、チャーチルは大戦後、ハリー・トルーマン大統領に対してソ連を核攻撃するように働きかけ、アメリカでは1948年後半までに特殊部隊の産みの親とも言われている「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、1954年になると、SAC(戦略空軍総司令部)は600から750機の核爆弾をソ連に投下、2時間で破壊して118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 その後も作戦は修正され、1957年になると軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)この年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、ライマン・レムニッツァーJCS議長やSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だったという。​
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201808040000/


33. 中川隆[-13846] koaQ7Jey 2018年8月04日 15:45:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17599]
2018.08.04
日本とイスラエルの核兵器


 1963年11月22日、戦争を回避し、ソ連との平和共存の道を模索していたジョン・F・ケネディ大統領は暗殺され、CIAは暗殺の黒幕はキューバやソ連だと宣伝していたが、この話は嘘だということをFBIがリンドン・ジョンソン大統領へ伝え、開戦には至らなかった。そこで、ケネディ大統領暗殺には偽旗作戦の要素があったと主張する人もいる。

 その後、歴代アメリカ政府は核攻撃を諦めていない。​バラク・オバマも大統領時代に核兵器の開発に積極的​で、より多くの核弾頭、より多くの核運搬システムを製造しようとしているだけでなく、小型核兵器にも興味を持っていた。オバマ政権下の2014年の推計では核兵器関連でアメリカは30年間に1兆1000億ドルを投入するとされている。


 言うまでもなく、日本の核政策はアメリカの事情で進められてきた。1954年3月に2億3500億円(235)という原子力予算案を中曽根康弘が国会へ提出して始まり、65年に訪米した佐藤栄作首相はジョンソン大統領に対し、日本も核兵器を持ちたいと伝えたと伝えられている。そして1967年10月に動力炉・核燃料開発事業団(核燃料サイクル開発機構を経て日本原子力研究開発機構)が設立された。この当時から日本が核兵器の研究開発を本格化させたと各国の情報機関は信じ、動燃のシステムにはCIAがトラップドアを仕込んで監視していたと言われている。

 原爆の原料として考えられていたプルトニウムは日本原子力発電所の東海発電所で生産することになっていた。この発電所で高純度のプルトニウムを年間100キログラム余り作れると見積もっていた。つまり、長崎に落とされた原爆を10個は作れるということになる。(NHK「“核”を求めた日本」2010年10月3日)

 ジミー・カーター政権は日本の核兵器開発を懸念していたが、アメリカの一部支配層は逆に支援している。アメリカでは1972年からCRBR(クリンチ・リバー増殖炉)計画がスタートするが、カーター政権は基礎的な研究計画を除いて中止させる。

 ロナルド・レーガン政権が始まった1981年に計画は復活するが、87年に議会はクリンチ・リバーへの予算を打ち切る。その間に160億ドルが投入されたという。

 そこで高速増殖炉を推進していた勢力は日本に目をつける。ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、推進派のリチャード・T・ケネディー陸軍大佐はクリンチ・リバー計画の技術を格安の値段で日本の電力会社へ売ることにする。こうした動きをCIAは懸念するが、国務省やエネルギー省は賛成していた。核武装した日本はアジアにおけるアメリカの軍事負担は軽減されると考えた国防総省もプルトニウムや核に関する技術の日本への移転に国防総省も強くは反対しなかった。(Joseph Trento, “United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium”)

 そして日本の科学者がクリンチ・リバー計画の関連施設を訪れるようになり、日本側は最も欲しがったサバンナ・リバーにある高性能プルトニウム分離装置の技術を手に入れることに成功する。RETF(リサイクル機器試験施設)だ。RETFは使用済み燃料から核兵器級プルトニウムを分離する施設であり、核兵器級のプルトニウムを製造する中心的な存在である。

 トレントによると、2011年3月11日に東電福島第1原発が過酷事故を起こした当時、日本には約70トンの兵器級プルトニウムがあったという。自らが生産した可能性もあるが、外国から持ち込まれた可能性もある。

 事故の3日前、2011年3月8日付けのインディペンデント紙は東京都知事だった​石原慎太郎のインタビュー記事​を載せている。それによると、外交力とは核兵器であり、核兵器を日本が持っていれば中国は尖閣諸島に手を出さないだろうと石原は発言したというのだ。「脅せば屈する」というネオコン流の思考が埋め込まれている。


 核兵器は弾頭だけでは役に立たない。運搬手段が必要だ。日本が開発していた「月探査機」のLUNAR-Aと探査機打ち上げに使われる予定だったのがM-Vがそれだと考える人もいた。月を周回する軌道に入った段階で母船から観測器を搭載した2機のペネトレーターを発射、地中約2メートルの深さまで潜り込ませることになっていた。技術そのものは弾道ミサイルへ直接応用できる。こうした懸念が高まる中、2007年1月にLUNAR-Aの計画は中止になった。

 福島第1原発が事故を起こした直後、日本側は外部の専門家が発電所へ近づくことをかたくなに拒否した。そこで、日本政府は核兵器に関する何らかの作業をしていたのではないかと疑う声が国外であがる。

 東電福島第1原発の警備を担当していたのはイスラエルのマグナBSP。セキュリティ・システムや原子炉を監視する立体映像カメラが原発内に設置されていたと​エルサレム・ポスト紙​や​ハーレツ紙​が伝えている。


 言うまでもなく、イスラエルは世界有数の核兵器保有国である。1986年10月にサンデー・タイムズ紙が掲載したモルデカイ・バヌヌの内部告発によると、イスラエルが保有している核弾頭の数は150から200発。水素爆弾をすでに保有、中性子爆弾の製造も始めていたという。中性子爆弾は実戦で使う準備ができていたとしている。その後、実際に使った可能性がある。

 また、イスラエルの軍情報機関ERD(対外関係局)に勤務、イツァク・シャミール首相の特別情報顧問を務めた経歴を持つアリ・ベンメナシェによると、1981年に時点でイスラエルがサイロの中に保有していた原爆の数は300発以上で、水爆の実験にも成功していたという。(Seymour M. Hersh, "The Samson Option", Faber and Faber, 1991)カーター元米大統領はイスラエルが保有する核兵器の数を150発だとしている。(BBC, May 26, 2008)

 こうした核兵器の開発や製造はネゲブ砂漠にある原子力研究センターで行われている。1990年代の初めにこの施設で大規模な事故があったと噂されている。内部の様子は不明だが、外部からは炎が見えたという。

 この施設は1990年から94年頃まで閉鎖されたのだが、公的な説明はアメリカ政府からの圧力だったとされている。バヌヌの内部告発が影響したとも考えられるが、事故の影響だったという推測も成り立つ。

 もし深刻な事故が起こったという推測が正しいなら、核兵器の生産が困難になっている可能性がある。そうなると、どこかで核弾頭に使うプルトニウムやウラニウムを製造しなけらばならない。イギリスかフランスで作ることも考えられるが、日本ということもありえる。勿論、証拠があるわけではない。単なる想像だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201808040001/


34. 中川隆[-13726] koaQ7Jey 2018年8月21日 13:16:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17998] 報告
詩人アーサー・ビナードが語る 倫理なき科学と原爆投下の裏側 2018年6月29日
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/8492

 科学の軍事化、軍学共同に反対する科学者の運動は、市民各界との連携を広げて発展している。そのなかで原爆の開発と投下をめぐって、科学者が果たした役割について深め反省する意義が論議になっている。昨年7月、東京の江戸東京博物館で開催されたシンポジウム「タブーに踏み込む科学・科学者−−軍事研究、遺伝子操作について考える」(主催・ゲノム問題検討会議)で、特別ゲストとして報告に立ったアーサー・ビナード(詩人)の発言が、反響を広げている。

 ビナードは日本語で詩を書くアメリカ人である。このシンポでは、言葉たくみに世論を操作する広告代理店が原爆投下に果たした役割にふれて、科学者と文学者が共通の課題を掲げてともに進む意義、さらに第2次世界大戦の歴史認識にかかわって、あらまし次のように語った。

 経済の必要から科学を奴隷のように使って、亡びていくのを見つめるか、歯止めをかけるのか。科学(サイエンス)は、現実の自然界を知れば知るほどおもしろくなる、発見につながるからおもしろいというのが元の意味だ。だが、軍事研究や命をいじくるゲノム編集など現代の科学が抱える問題は、知れば知るほどつまらなくなっている。おもしろさ、大切さを大事にしながら知っていくのが科学の進む道ではないか。

 だれよりも先になにかを発見して、研究としても科学者としても輝いてノーベル賞をもらえるように、という花のある方向がもてはやされる。しかし、福島第一原発をどうするかという方向にはいかない。金は出すが、そのような方向は見捨てられる。そこに向かおうとする人は長期的な視点、良心の欠片(かけら)のある人だ。今だけ、金だけ、自分だけ、あとは野となれ山となれとなっている。

 科学を使って歴史的に世界の庶民の命がどれだけ失われたか。それは計算できない。そのことが正確に伝わっていれば、正確に認識できていれば、事態は大きく変わっていただろう。マンハッタン計画(アメリカの原爆開発)に比べればナチスなどは、かわいいものだ。

 子どもたちに科学博物館で夢を語るが、子どもたちの未来を考えるなら同時に、科学がどのような損害をもたらしたか、冷静に認識できるようにすることだ。なぜそうならないのか。そこには広告代理店の存在がある。

 19世紀末から20世紀にかけて、広告代理店はアメリカの言論空間に大きな存在をもたらした。第1次世界大戦で、ウィルソン大統領は軍需産業と企業の利益のために、多くの若者を戦場に送り出して殺した。それなのに、なぜ謝罪もせずにいられたのか。広告代理店の仕業だ。

 ウィルソンは軍需産業の利益のためであることを隠して、「民主主義が機能するため、安心、安全のための戦争、世界を安全にするための戦争だ。そのための最後の戦争だ」といった。そのときはウィルソンにだまされたが、「これで終わりだ」といったのに次の戦争に入っていくから、広告代理店の力でいくら宣伝文句を並べても国民は企業だけがいい目にあったと、ウィルソンのペテンを見抜いた。

 それが第2次世界大戦にいく歯止めになっていた。ルーズベルトが巧みにキャンペーンをはってもだまされなかった。アメリカ憲法では、宣戦布告がなければ戦争ができない。また、議会が承認しなければ宣戦布告はできない。


ルーズベルト

 アメリカ政府は12・8(日本の真珠湾攻撃)まで、宣戦布告が出せなかった。ルーズベルトは「マンハッタン計画が始まっているのに、どうしよう」と困った。1940年にはプルトニウムが生産される。手ぐすね引いて戦争しようとするのだが、アメリカ国民がなびかない。

 ルーズベルトの判断だけでは戦争はできない。やりたい世界制覇のプロジェクトがやれない。そのためのPRが必要だ。そのときに下請の「第2米軍」に頼んだのだ。それが「飛んで火に入る日の丸の虫」だった。

 当時、日本帝国は破綻していた。1937年に中国の八路軍と蒋介石は犬猿の仲だったが、抗日統一戦線を形成した。10年はかかるかもしれないが、37年の時点では日本が勝てないことは明確だった。

 38年になると、日本政府は36年に東京に誘致し、やるやると大宣伝していたオリンピックをドタキャンした。行き詰まって運動会の開催ができない組織が、その3年後にアメリカとどうして戦争したのか。最初から勝つつもりはない。負ける相手を選んでいたのだ。支配層は、中国に負けたら殺処分にされる。ソ連だったら千代田区ゼロ番地に再就職はできない。


マッカーサーと昭和天皇

 アメリカがこの日本との戦争で最後まで守ったルールが一つある。最後の最後まで貫いた最大の鉄則は、爆弾を千代田区ゼロ番地に落としてはならないということだった。1発も落としていない。日本の津津浦浦の都市を空襲し、広島に古いウラン弾を投下し、長崎にプルトニウム爆弾を投下し、日本の庶民が想像を絶する被害を受けた。東京大空襲は権力の中枢を殺処分するものではなく、そこには1発も落としてはいない。

 日本は竹槍だ。1942年のミッドウェー海戦の時点で、戦争はとっくに終わっていた。鈴木貫太郎はポツダム宣言の受諾を出さない。天皇の決定をあおげない。もしも、7月のポツダム宣言を受けて、日本が戦争を止めたとなったとき、トルーマンは一歩間違えば処刑される身だった。ルーズベルトは憲法を踏みにじって、膨大な利益を得ようとしていた。

 軍産複合体の巨大な構造のもとで、戦争省と共謀してアメリカ国民にはなにも知らせず人類史上の最大の金額を費やして、核兵器をつくっていた。憲法では、戦争の予算はすべてすみやかに国民に提供しなければならないとされている。国民監視のもとでは、マンハッタン計画は本来できない。この犯罪は死刑に値する。

 巨額の金を注ぎ込んで綱渡りしながら、飛び道具を手に入れてしかけることに賭ける。大きな犯罪を犯しながら、あとは野となれ山となれの話だ。

 ルーズベルトはそれが「必要だったから」としかいえない。そこで、広告代理店だ。世界を制覇するために、どこより早くプルトニウム爆弾を先につくって使い、その成功例を示して、「皆さんの命を守るために、安全安心のためにやりました」というキャンペーンをはった。


長崎 鳴き声も出ないほど弱り切った幼児たち(山端庸介氏撮影)

 そのために、日本をターゲットにして、広島と長崎に投下した。ドイツやヨーロッパではなく、従順に従う民族を選んだ。日本政府は、国民が焼夷弾で殺されても、政府は再就職できる。どこかで降伏しなければならないが、みんなに「最後の最後までたたかう」「1億火の玉」「ほしがりません勝つまでは」といっているのに、やめるとはいえない。それでは、トップが殺処分される。国民のしもじもの想像しないことが起きなければならない。

 それをクリアできるのは新型爆弾だ。これがないと、降伏する宣言受諾の発表ができない。終戦の詔書に「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻リニ無辜ヲ殺傷シ……」とある。私は詩人の嗅覚だが、原稿は英語だと思う。アメリカとグルになっていたとしか考えられない。日米合同詐欺で原爆を落としたのだ。

 日本国民もアメリカ国民も「原爆で第2次世界大戦を終わらせた」という、同じところでだまされてきた。歴史上、核兵器が役に立った事例はない。それを認めると、大前提が崩れる。核開発を進めてきた科学の力がうさんくさいペテンとして化けの皮が破れる。そうならないように、核開発の隠れ蓑として「平和利用」を持ち込んできた。

 人類の言葉の技術を倫理観のないもののために、広告代理店が使っている。同じ技術を、現実と歴史をつなげて、科学の役割とそれが果たした役割を明らかにしていかねばならない。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/8492

35. 中川隆[-13647] koaQ7Jey 2018年8月31日 09:24:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18139] 報告
2018.08.31
フランケンハイマー監督の映画「5月の7日間」が上映されます


 ジョン・フランケンハイマーの監督した映画「5月の7日間」が9月26日に東京琉球館で上映されます。

 この映画の原作はジャーナリストのフレッチャー・ネベルとチャールズ・ベイリーが1962年に書いた小説。1961年7月にアメリカ空軍の参謀総長に就任したカーティス・ルメイをインタビュー、それが小説を書くひとつの切っ掛けになったようです。

 ルメイは第2次世界大戦の終盤、東京を含む日本の都市を焼夷弾で焼き尽くして多くの非戦闘員を殺した作戦の責任者で、1948年にはSAC(戦略空軍総司令部)の司令官就任します。

 1950年6月に勃発した朝鮮戦争では日本以上の空爆を実施、朝鮮の人口の20%を殺したと本人も認めているほどです。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下したのは約16万トンですが、朝鮮戦争で投下された爆弾は約63万5000トンに達しました。

 1960年10月から統合参謀本部議長を務めたライマン・レムニッツァーもルメイと同じように好戦的な人物で、1961年1月に大統領となったジョン・F・ケネディは1962年9月、レムニッツァーの再任を拒否しています。

 レムニッツァーが出世できた理由はイギリスの軍人、ハロルド・アレグザンダーに気に入られたからだと言われています。アレグザンダーは1943年7月にシチリア島の上陸作戦を指揮、その下にジョージ・パットン司令官の第7軍(アメリカ軍)とバーナード・モントゴメリー司令官の第8軍(イギリス軍)がいました。

 アレグザンダーの紹介でレムニッツァーはアレン・ダレスと親しくなり、大戦の終盤にダレスたちが行ったナチ高官を救出するサンライズ作戦にも参加しました。大戦後、1955年から57年にかけてレムニッツァーは琉球民政長官を務めています。

 1957年の初頭にアメリカ軍はソ連に対する先制核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成、その内容は300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊するというものでした。1950年代に沖縄では「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められましたが、これはアメリカの戦争計画と関係しているはずです。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によりますと、1961年7月、軍や情報機関の幹部は大統領に就任して半年のケネディ大統領に対して先制核攻撃計画について説明し、63年の後半にはソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたそうです。この計画を阻止したケネディ大統領は1963年11月に暗殺されました。

 そのケネディ大統領は1962年、ホワイトハウス報道官だったピエール・サリンジャーを介してフランケンハイマーにネベルとベイリーの小説を映画化するように頼みました。アメリカの民主主義が危機に瀕していることをアメリカ国民に知らせたかったと言われています。

 言うまでもなく、ケネディ大統領はこの映画を見ることはできませんでした。1964年2月に公開されたのですが、その3カ月前に暗殺されていたからです。その年の12月、カーティス・ルメイは日本政府から「勲一等旭日大綬章」を授与されました。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201808310000/

36. 中川隆[-13624] koaQ7Jey 2018年9月16日 13:29:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18592] 報告

2004年7月17日のNHK BS「世界を変えた56日間の闘いーボー・グエン・ザップ93歳の証言」という番組の中で、次のような驚くべき史実が明らかにされている。

 すなわち、ディエンビエンフーの戦いの終結交渉が行われようとしていた1954年4月24日のジュネーブ会議の2日前に、ジョン・フォスター・ダレス米国務長官がフランスを訪問し、外相ジョルジュ・ビドーと話し合った時の事だ。

 ダレスは原爆2発の譲渡を申し入れたのに対し、ビドー外相は断った。

 その時に次のようなやり取りがあったというのだ。

 ダレス 「ディエンビエンフーを救うために原爆を2発差し上げるとしたら、どうでしょう?」

 ビドー 「ディエンビエンフーに原爆ですか? そうなったら(フランス)駐屯部隊とベトナム人の両方を破滅させることになってしまいます。」

 このやりとりを、当時フランス外務官僚だったクロード・シェソンが後日次のように証言している。

 「答えは簡単でした。原爆を使うという考えをフランスが受け入れることはできなかった。フランスは原則として原爆の使用には反対ではありません。反対だったら自ら原爆は作らないでしょう。しかしベトナムに関しては、原爆を使うというのは解決策にはなりえませんでした。ベトナム人を殲滅させることが目的ではなかったのですから。」

 ベトナム戦争の時の話ではない。

 ベトナムがフランスから独立しようとした戦争の時の話である。

 広島・長崎への原爆投下から10年も経たない時の話である。

 ジョン・フォスター・ダレスと言えば、日米安保条約を日本に押しつけ、米国の好きな時に、好きな場所に、好きなだけの米軍を日本に配備すると日本政府に豪語した男だ。

 その米国が、日本への原爆投下にとどまらず、ベトナム対して、しかも1発ではなく2発の使用を薦めていたというのだ。

 ここに米国と言う国の本質がある。

 そしてダレスのような男は今も米国の有力者の中に多数存在する。
http://kenpo9.com/archives/4190

37. 中川隆[-13451] koaQ7Jey 2018年10月04日 08:24:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19003] 報告
2018.10.04
沖縄の米軍基地は先制核攻撃のために建設され、その計画は今も生きている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201810040000/


 沖縄県知事選で翁長雄志前知事の政策を継承するとしている玉城デニーが勝利した。名護市辺野古へ新しい基地を建設するという計画に沖縄県民は反対している。そのことを改めて示したと言える。

 沖縄県にある基地を存続させたがっているのは日本政府であり、アメリカ政府は執着していないという議論がある。悪いのは日本政府であり、アメリカ政府は悪くないと言いたいのだろうが、これには疑問がある。

 ヨーロッパを見るとアメリカ軍/NATO軍はロシアとの国境近くまで勢力を拡大し、国境近くにミサイルを配備している。東アジアでは韓国にTHAAD(終末高高度地域防衛)を強引に持ち込み、日本はイージス・アショアが配備される。中国やロシアとの国境近くにミサイルを配備しているのだ。その理由は先制核攻撃の態勢を整えたいからにほかならならず、沖縄の基地を放棄できないのもそのためだ。

 アメリカやイギリスの巨大資本は第2次世界大戦の前からソ連が的だった。ウォール街はドイツと深く結びついていた。そのドイツが軍の主力にソ連を攻撃させるが、スターリングラードで反撃にあって壊滅、1943年1月に降伏する。これでドイツの敗北が決定的になった。

 そこで慌てたのがイギリスとアメリカの支配層。両国はソ連との新たな戦争について協議している。イギリスではウィンストン・チャーチル首相が中心になったが、アメリカではアレン・ダレスたちOSSの幹部がフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でドイツ側と接触している。

 そして1945年5月、ドイツが降伏した直後にチャーチル首相はJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、5月22日に提出されたのがアンシンカブル作戦。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。これはイギリスの参謀本部が反対して実現していない。7月5日には総選挙があり、保守党は敗北してチャーチルは辞職した。下野したチャーチルは大戦後に冷戦の開始を宣言、ソ連に対する核攻撃をアメリカのハリー・トルーマン大統領に要請したことは本ブログでも書いてきた。

 核兵器を手にしたアメリカはソ連に対する先制核攻撃を目論む。例えば1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 1954年になると、SAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(前掲書)

 実際にソ連を先制核攻撃するための準備が始まったのは1957年だと言われている。この年の初頭に作成されたドロップショット作戦では、300発の核爆弾をソ連の100都市で使うというもので、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(前掲書)

 核爆弾の運搬手段は戦略爆撃機かICBM(大陸間弾道ミサイル)。1959年の時点でソ連は事実上、ICBMを保有していなかった。ソ連がICBMの生産でアメリカに追いつく前なら核戦争でアメリカは圧勝できるとライマン・レムニッツァーJCS議長やカーティス・ルメイ空軍参謀長を含む好戦派は考えた。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、​1963年後半に核攻撃するというスケジュールを決めた​とされている。その作戦を実行する上で最大の障害だったジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。


 ケネディ大統領は1962年にレムニッツァーの議長再任を拒否するが、イギリス軍の幹部によってNATO軍の司令官に就任する。大戦中、このイギリス軍幹部の紹介でレムニッツァーはアレン・ダレスと知り合い、ナチス幹部を救出するサンライズ作戦に参加した。これはルーズベルト大統領に知らせず実行されている。

 1950年代に沖縄では「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていく。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になった。これがアメリカの先制核攻撃計画と密接に結びついていることは言うまでもないだろう。そうした土地の接収が行われていた1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めた人物がライマン・レムニッツァーだ。

 この当時からアメリカの基本戦略に変化はない。ロシアとの戦争に突き進む姿勢を見せていたヒラリー・クリントンを批判、ロシアとの関係修復を主張して大統領になったドナルド・トランプだが、有力メディア、議会、司法省/FBIからの執拗な攻撃を受け、今ではロシアや中国との軍事的な緊張を高める政策を打ち出している。それがアメリカ支配層の意思であり、日本の政治家、官僚、マスコミはその意思に従う。改憲や緊急事態条項はそうした背景から出てきている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201810040000/

38. 中川隆[-11434] koaQ7Jey 2019年3月16日 08:54:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[563] 報告
2019.03.16
先制核攻撃を目論んできた米国の好戦派はその政策を放棄しない

 アメリカ軍のトップ、​ジョセフ・ダンフォード統合参謀本部議長は上院軍事委員会に出席、軍事政策を変更して核兵器の先制使用を禁止することに反対​すると述べた。

 核兵器が開発して以来、アメリカの好戦派はその先制使用を目論んできた。当初、そのターゲットはソ連。今はロシアと中国を想定しているだろう。これまで先制核攻撃を実行しなかったのは、準備が整う前にソ連が反撃能力を持ってしまったからだ。アメリカがロシアや中国を圧倒できると信じる状況になれば、核攻撃をいつ始めても不思議ではない。

 第2次世界大戦でドイツが降伏した直後、1945年5月に米英軍数十師団とドイツの10師団米英独でソ連を奇襲攻撃するアンシンカブル作戦を立てさせた​ウィンストン・チャーチル首相は下野した後の1947年にアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んだ​と伝えられている。

 その2年後、アメリカの統合参謀本部はソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容を含む研究報告を作成、1952年には初の水爆実験を実施、54年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を立てている。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(前掲書)このドロップショット作戦は実行するつもりだったと見られている。

 アメリカが初めて水爆実験に成功したのは1952年11月だが、ソ連も53年8月に成功させている。この間隔から考えてソ連は独自に開発しているのだが、放射性物質の分析から技術的にはソ連が上だということが後に判明した。

 それでもアメリカ支配層が先制核攻撃に積極的だった理由は核弾頭の数とその運搬手段。核弾頭をターゲットまで運ぶためには戦略爆撃機かICBM(大陸間弾道ミサイル)が必要なのだが、1959年の時点でソ連は事実上、このタイプのミサイルを保有していなかった。

 アメリカが必要なICBMを準備でき、しかもソ連が準備できていないタイミングで先制核攻撃をすると考えた好戦派の中には統合参謀本部議長だったライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったカーティス・ルメイが含まれていた。そして1963年後半に先制攻撃するというスケジュールが決まったと​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授​は主張している。

 しかし、この計画には大きな障害が存在した。ジョン・F・ケネディ大統領である。アメリカ側の計画を察知していたであろうソ連がキューバへ中距離ミサイルを持ち込んでいることが発覚したのは1962年10月。ICBMに対抗するためだったのだろう。

 アメリカの軍や情報機関の好戦派は即時攻撃をジョン・F・ケネディ大統領に要求したが、大統領は話し合いで解決してしまった。1963年後半に予定した先制核攻撃計画でもケネディ大統領は大きな障害。その障害が取り除かれたのは1963年11月22日のことだった。大統領がダラスで暗殺されたのだ。

 暗殺の直後、CIAはソ連やキューバが黒幕だとする偽情報を流したが、FBIがその事実を新大統領へ伝え、米ソ開戦には至らなかった。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、レムニッツァーは1955年から57年にかけて琉球民政長官を務めている。沖縄では1953年に布令109号「土地収用令」が公布/施行され、武装したアメリカ兵を動員した暴力的な土地接収が行われる。いわゆる「銃剣とブルドーザー」による接収だ。1955年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になった。その後、現在に至るまで沖縄はアメリカ軍の基地に苦しめられている。

 沖縄の基地問題はアメリカの先制核攻撃計画と密接に結びついている。CIAは沖縄を中国や東南アジアに対する秘密工作の拠点として使ってきたが、それだけではないのだ。アメリカ軍が沖縄をはじめとする日本に基地を建設している目的を「防衛」だと考えるべきではない。

 そうした意味で、2006年当時は非常に危険な状況にあった。アメリカ支配層の機関誌的な存在である​フォーリン・アフェアーズ誌の2006年3/4月号に掲載されたキール・リーバーとダリル・プレスの論文​によると、アメリカ軍の先制第1撃でロシアと中国の長距離核兵器を破壊できるようになる日は近いというのだ。つまりアメリカはロシアと中国との核戦争で一方的に勝てるとこの筆者は考えていた。おそらくアメリカ支配層の相当部分もそう考えていたのだろう。アメリカは2002年にABMから離脱している。

 この分析は2008年に崩れ去る。この年の8月、イスラエルやアメリカの支援を受けたジョージア軍が南オセチアを奇襲攻撃したのだが、ロシア軍の反撃で侵略軍は粉砕されてしまったのだ。つまり、アメリカやイスラエルの軍隊はロシア軍と同じような規模で衝突すると負けるということ。さらに、シリアでの戦争でロシア製兵器の性能は高いことが確認された。

 通常兵器での戦闘でロシア軍に勝てないアメリカ軍は2010年7月にポーランドとイージス・アショアの設置で合意、ルーマニアが続いた。日本も購入することになっているこのシステムが使用するランチャーは攻撃型の巡航ミサイルであるトマホークと同じで、ソフトウェアーを変更すれば攻撃用の兵器になるとされている。韓国へはTHAAD(終末高高度地域防衛)を強引に配備した。アメリカが先制核攻撃を放棄したなら、この軍事的な脅しが使えなくなってしまう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903160000/

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