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(回答先: 恐るべき”破壊力”を持つ書ー鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕〜昭和天皇は知っていた』 投稿者 仁王像 日時 2011 年 11 月 18 日 21:17:05)
第一章だけで、止めるはずだったが、読み進みながら第二章以下を前稿に断片的にぶら下がらせる結果になった。ここに整理し再アップさせていただく。
また、長くなるので引用はしなかったが、第四章では湯川秀樹が俎上に上がっている。広島に原爆が落とされることが、彼のルートで8月より3か月も前の5月に入ってきて、これを聞かされた京大の学生が、両親を広島市から近郊に疎開させて難を逃れた実話が紹介されている。ノーベル賞は、少なくとも仁科芳雄と二人で授賞すべきものではなかったかとの、指摘もある。
また何故、湯川が生涯「世界連邦主義者」だったのかも究明されている。これまでの湯川秀樹観を打ち砕く内容である。
さらに補足すれば、鬼塚氏をここまで突き動かしてきたのは被爆者たちの手記であった。手記や記録から氏はエネルギーを供給され続けてきた/仁王像
鬼塚「私はたくさんの記録を読んできた。…原爆患者たちの手記を記録を読んで、私は彼らから、この本を書くエネルギーと勇気を与えられ続けたのである」p168。
第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する
<日本侵攻計画と第二総軍との「不可解な暗号」>
・スティムソンは原爆を日本に確実に落とす、という約束をロックフェラー、モルガン、イギリスの金融界の面々としていた。そこでスティムソンは、原爆(ウラン爆弾とプルトニューム爆弾)が完成するまで戦争を延ばさなければならなかった。スティムソンはマーシャル参謀総長に話を持ちかけ、オリンピック作戦をつくらせた。そして、この計画をグルー(国務次官、元駐日大使)のルートで「日本の指導者の一部」に伝えた。
・NHK広島放送局原爆取材班の『原爆搭載機「射程内に在り』を続けて読む。
「アメリカ軍がオリンピック作戦を練っていく一方、日本軍は本土決戦の体制を整えつつあった。このため創設された第二総軍をはじめとして、広島への各部隊への集中は凄まじいものがある。…」
この8万人にものぼる軍人たちが、8月6日にほとんど被爆死するのである。生き残ったものはごく少数である。これには理由がある。彼らのほとんどは、原爆投下中心地からごく近いところにいたからである。
<発令されなかった警戒警報>
(略)
(「暗号」→「符号」の間違いではないか/引用者)
<演出された投下時間「8時15分の意味」>
・中条一雄『原爆は本当に8時15分に落ちたか』(2001年)と、もう一冊、諏訪登『広島原爆 8時15分の意味』(2003年)を読み、私は一つの結論に達した。「広島原爆は完全に仕組まれていた!」と。…アメリカ側と日本側は「8時15分」で合意に達していた。
私が諏訪の本を読みつつ思ったのは、「8時15分」が最も劇的に、広島市民を大量虐殺しえる時間ではなかったか、ということである。歌田明弘が『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた』の中で、「日本、ソ連、アメリカ国民―この三通りの観客に向けて最大の効果を発揮すべく、原爆投下という“スペクラクル”は周到に準備された」と書いている(姉妹書「国外編」でも紹介)。
第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である。
<「長崎は小倉の代替地説」のウソを暴く>
・1945年4月27日に、目標検討委員会の初会合が開かれた。『資料マンハッタン計画』の中の…文中に「最高指揮官」とあるのはスティムソン陸軍長官である。「いつ、どのように出撃するかについて責任をもつ」と書かれている。
すなわちスティムソン(ヘンリ・スティムソン=モルガン財閥の一員)が、8月6日午前8時15分に広島に原爆を落とさせたのである。トルーマン大統領は何も知らされず、ポッダムからの帰りの軍艦の中でこのことを初めて知ったのである。
<カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ>
・ジョージ・ウェラー著、アンソニー・ウェラー編『ナガサキ昭和20年史』(2007年)には、「GHQが封印した幻の潜入ルポ」という副題がついている。ジョージ・ウェラーが残した記録を息子のアンソニー・ウェラーが60年を経て編集し、出版したものである。
その中に「長崎港にある二つの連合軍兵士捕虜収容所におよそ1000人が収容されているが、…原子爆弾で7人のオランダ人とイギリス人一人が死んだ」とある。しかもアメリカ兵は一人も死んでいない。
・長崎ではこの(プルトニューム)爆弾が炸裂した。グローブス将軍やオッペンハイマー博士の予想を上回る成果を上げた。
しかし、ここで奇跡が起こった。爆心地から近いところにいた捕虜収容所の人々はほとんど死なず(1000人中8人が死亡)、原爆病にもかからなかったのである。(第四章に「これは、太平洋戦争最大のミステリーであろう」と著者は書いている)
第四章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ
<日本政府も認めた公式見解「広島・長崎に放射能なし」>
・姉妹書の「国外編」でこう書いた。
「原爆は、二種類がつくられた。その一つはウラン爆弾であった。それは威力が小さかった。もう一つのプルトニーム爆弾は威力が強かった。どうしても両方を落とさないと、アメリカは、ロックフェラーとモルガンに申し訳ない事態に陥ることになる。それが、広島、長崎への原爆投下の理由であった」
これが現実化された、そのためには落とされる側の全面協力が必要なのは自明の理である。日本人は半世紀以上すぎても、この自明の理を理解しえていないのである。第二総軍の創設も、長崎港にいた1000人ものアメリカ人の捕虜が、あの瞬間だけ姿を消すのも、すべて自明の理なのである。
第五章 見捨てられた被爆者たち
<原爆はどのように報道されたのか>
・国際金融寡頭勢力にとって、放射能汚染による被爆者たちの死が存在するということは、あってはならなかったのである。彼らはアメリカ政府を動かし、マッカーサーを動かし、ついに日本政府と日本の言論機関への口封じに入るのである。
国家が「原爆患者は存在しない」と発表するのである。原爆による放射能汚染は広島と長崎には存在せず、従って原爆患者は存在しないから、海外からの患者への薬は要りません、と発表するのである。
・国家がなくなってもよい。しかし、なくなったはずの国家が、原爆を落としたアメリカの手先となって、財産も失った者たちに、国際赤十字が提供しようという薬を、与えないで下さい、という権利があるというのか。
私がたった一人で、汚れちまった、かの時の、天皇を天にいただく国家を告発する理由がここにある。
<国際赤十字社、もうひとつの顔>
マッカーサーとジュノー博士の努力を裏切ったのは日本赤十字社である。この日本赤十字社の総裁は天皇裕仁の弟の高松宮であった。明確にしたい。天皇裕仁と高松宮がこのジュノーとマッカーサーの申し出を断ったのである。
どうしてか? スティムソンとの約束(「私には確約がある」との発言※)が怪しくなったからである。天皇は自分自身の安全が脅かされだしたからである。
・原爆被爆者を日本赤十字は裏切ったのである。広島と長崎の被爆者に、「お前たちはくたばってしまえ」と言った人々に対して、読者よ、拳を握りしめて、天誅を加えよ。それらの人々は、この高松宮の日記の中にも、日記の外にもいるのである。
※)8月14日(午前)、昭和天皇が畑、永野(修身)、杉山、三人の元帥に
「皇室の安泰について敵側もこれを確約しあり」と語ったことが、
畑俊六『元帥畑俊六獄中獄外の日誌』(1992年)にある。
・2007年の秋、私は報道写真家福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』(2003年)を読んだ。…このABCC(原爆障害調査委員会)を告発し続けた男こそは、原爆写真家、否、日本最高の勇気ある写真家・福島菊次郎であった。
彼は、天皇の皇弟高松宮を総裁とあおぐ日本赤十字社がすすんで原爆被爆者を見捨てたことを、はっきり書いている(略)。
読者よ、この福島菊次郎の「アメリカに生殺与奪の権を委ね切った国」という怒りの言葉を、私は書き続けてきたのだ。誰がどのように国家の生殺与奪の権を、誰に委ねたのか。その点に焦点を絞って私は書いてきた。
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