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神輿の黙示録(22)(明治維新が大化の改新だ:復活した藤原氏と騎馬民族末裔の反乱)
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 01 日 10:56:58: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(21)(武士とサムライの戦い「2」:何故、役人の縄は不浄なのか) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 01 日 10:52:27)

歴史教科書でよく理解できないのは、江戸時代までは仏教文化であったのに、1868年明治維新となると、突然、国家神道文化に激変していることです。そして、その年に神仏分離が発令され、それにより廃仏毀釈運動が起こり、全国の仏寺は、秦氏末裔や役座達に徹底的に破壊され、その跡に神社が建立されていくのです。これは、正に、645年の「大化の改新」の逆バージョンです。
その仏寺の破壊運動が特に激しかったのは、鹿児島、広島、岡山です。それらの地域は、古来から秦氏末裔が多く暮らしていたからです。太陽神ミトラ(弾左衛門の時代では「インジンサマ」)を祀る秦氏末裔は、江戸時代に仏教思想に最もイジメられていた民族であったからです。
1868年神仏分離令が、明治新政府により発令されたことは、それまでは、平安時代中期に、本地垂迹説(仏が本尊で、神は仏の仮の姿という思想)が発明されたことにより、神社は仏寺に習合され、そのため、神社は仏教組織の下部組織とされていたのです。当然、日本全国には、仏寺から独立した神社などなかったのです。
しかし、明治時代になると、伊勢神宮は昔から神道の儀式で祀られていた、との「神話」が発明されていくのです。史実としては、広大な伊勢神宮の聖域には、江戸末期まで、本地垂迹説思想により、無数の仏寺が存在していたのです。そして、その伊勢神宮には、794年百済系桓武天皇が、秦氏の支配地である山背国(後の山城国)と、秦氏の犠牲をおこなう祭祀場のあった比叡山を乗っ取り、その比叡山に、中国から天台宗を導入し、821年延暦寺東塔を建立してから、121代孝明天皇(1846年〜1867年)までの約千年間、正式に参拝してはいなかったのです。
しかし、1867年明治天皇が即位すると、伊勢神宮に、平安時代からの空白時間から突然、正式参拝がおこなわれていくだけではなく、その伊勢神宮は、仏寺が跡形も無く整理され、皇室の神を祀る聖域となってしまうのです。明治維新での、これらの仏教から神道への宗教思想のすり替えの謎を解くには、日本史を創作した藤原氏の歴史を知る必要があるようです。
1616年徳川家康が死去(暗殺説あり)すると、藤原氏は本多正純を手先として、吉田神道思想で、徳川家康の霊を「明神」の神号で祀ることを提案するのですが、天台宗の怪僧天海により、百済系神道の山王一実神道思想の「東照大権現」で祀られてしまうのです。
その吉田神道とは、室町時代に、京都吉田神社の神官吉田兼倶により、密教、道教、陰陽道などの教理や儀式を取り入れられて発明された、と云われています。しかし、その吉田神道の祖神が、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と云われているのです。この命は、藤原氏の祖神と同じです。と言うことは、吉田兼倶は、藤原氏の流れにあるのです。それは、吉田兼倶は、藤原北家勧修寺流の公家で、その流れは卜部氏(うらべうじ)を遡るからです。
天台宗の天海に宗教闘争で敗れた藤原氏は、第三百済王朝の江戸幕府では、奈良と鹿児島で隠棲していたのです。それは、平安時代に、百済系桓武天皇により、藤原氏の宗教施設である仏寺の興福寺と、中臣神道の春日社が、奈良の都に封印されたことの再現です。
1868年第三百済王朝の江戸幕府が倒れ、戦国末期にイエズス会の軍事援助により近畿一帯の天下を治めた織田信長のように、イングランド東インド会社の結社会員の軍事援助により成功した明治維新で復活した藤原氏は、徳川家康の威光が消えた後の江戸時代を支配した百済系日本人から再び支配権を奪うために、日本最古の祭祀者一族であったとする、オリエント文化の飛鳥時代を仏教文化とした、奈良時代に成功した文化摩り替えのトリックを再び使うのです。それが、王政復興をスローガンとする「大化の改新」のトリックです。つまり、明治維新を、「大化の改新」の再来とするのです。
その手段のひとつとして、645年近畿地域から陸奥国へ東突厥帝国進駐軍を駆逐した唐国進駐軍へ、720年藤原不比等が創作した漢語による報告書、「日本国の最古の氏族が藤原氏である。」とするためのトリック書、「日本書紀」を中心に新日本史を創作するのです。
その「日本書紀」において、藤原氏の祖神である祭祀者天児屋根命を、秦氏が祀る太陽神ミトラを改竄して発明した天照大神の天岩戸物語で、登場させるのです。このことにより、この天児屋根命は、中臣神道や吉田神道の祖神であるばかりではなく、日本国古来からの神となってしまうのです。
しかし、その先住民族の神思想を乗っ取ったトリックの多くは、藤原氏独自が開発したものではないのです。先住民族の歴史を乗っ取るために、神話物語から歴史物語に続け、その中に自民族の歴史を挿入して、先住民族の歴史を乗っ取る手法は、ヨセフ物語の前にヤコプ物語を挿入した、ユダヤ教の「旧約聖書」のテクニックを真似たものなのです。
ここで注意しなくてはならないのは、ユダヤ民族とイスラエル民族は、同族なのではなく、異なる神を祀る、出自が異なる異民族であるということです。ユダヤ民族の祖は、メソポタミアからで、イスラエル民族の祖は、ヒッタイト帝国からエジプトに渡来した民族であったのです。
そして、ユダヤ民族は、唯一神ヤハヴェ(古代エジプトの太陽神アトンを改竄した神)を祀り、それに対して、イスラエル民族は、一神教ではなく多神教で、太陽神バアル(太陽神ミトラが変身した神)と牡牛を屠り祀る民族であったからです。それに、イスラエル民族は、紀元一世紀に24冊を合本した「旧約聖書」の存在を知らないのです。その合本の原著の多く(モーセ五書)が創作された時代、紀元前六世紀には、イスラエル十部族は歴史上から消えていたからです。
藤原氏の渡来歴史を調べると、その事跡がユダヤ教の事跡と酷似しているのは、藤原氏の祖である南インドから渡来した中臣族が、ユダヤ教徒の流れにあったからです。その根拠として、中臣神道の「塩と水によるケガレ祓い思想」、そして、その祭祀衣装や儀式の多くは、ユダヤ教に酷似しているのです。そして、藤原氏が創作した「日本書紀」の天地創造から始まる記述構成は、「旧約聖書」に酷似しているのです。更に、その「日本書紀」で藤原氏が創作した仏教伝来物語の主人公の「聖徳太子」(厩戸皇子)は、「聖書」のモーセ・ダビデ・キリストの事跡による合成人物であるからです。
ユダヤ文化色が濃い藤原氏が、日本列島古来からの民族ではないことは、三世紀末から七世紀まで続いていた、古墳での埋葬思想をみれば分かるのです。中臣神道では、死者はケガレ物であり、御祓いによりケガレ祓いする汚物的存在なのです。ですから、死者は、汚物のケガレ物として扱われるのです。
しかし、古代エジプトの埋葬思想と同じの、石室で石棺のある古墳での埋葬者は、生前の栄華をあの世でも再生させるため、豪華な装飾品や武具などで飾られて埋葬されていたのです。このことからでも、近畿地域の巨大古墳が、歴代天皇の稜ではないことが分かるのです。何故ならば、藤原氏の歴史では、天皇は「ケガレ祓い」の中臣神道思想で埋葬されていた、とするからです。
藤原氏が、「日本書紀」で創作した初代天皇は、神武天皇です。しかし、その神武天皇の稜は、江戸末期まで確定していなかったのです。
藤原氏の「日本書紀」によれば、神武天皇稜は、「畝傍山の東北の稜」とされているのです。しかし、藤原氏により、720年完成の「日本書紀」の記述の欺瞞性を指摘するために創作された、反藤原氏の秦氏末裔で万葉語学者の多人長により820年完成の「古事記」では、「畝傍山の北」とされているのです。そのように日本の歴史を綴っているとされる「日本書紀」と「古事記」での、神武天皇稜が一致しないため、江戸末期には、神武天皇稜の候補地は六つもあったのです。
しかし、幕末の生麦事件の翌年、攘夷論が最高潮の1863年公武合体を模索する宇都宮藩が中心となり、神武天皇稜の所在地を、橿原市大久保町字ミサンザイに決定するのです。そして、明治初年、1868年神武天皇稜がこの地として認定されたのです。しかし、この地は、百二十戸もある賎民部落があった処で、藤原氏一派により、明治維新にあわせて、幕末に突貫工事をして、神武天皇稜が創作されていたのです。賎民部落の地に、日本国初の神武天皇の稜が認定された意味は、何なのでしょうか。
明治新政府は、江戸時代の歴史文化を多くは引き継いではいないようですが、警察業務でのケイサツ隠語と役座隠語に共通点が多くあるのは何故でしょうか。その理由は、明治新政府は、警察官の多くを薩摩藩から採用していたからです。つまり、役座も薩摩藩士も、その祖は秦氏であったからです。
薩摩の地は、鎌倉時代以前は、藤原氏の荘園である島津荘があった処です。鎌倉時代に、騎馬民族末裔の源氏棟梁となった源頼朝が、平安時代から惟宗氏に変身していた秦氏末裔に、藤原氏の荘園である島津荘を与えたことにより、騎馬民族末裔の惟宗氏が、島津氏に変身して、その地を統治していたのです。そして、明治維新で復活した藤原氏により、島津氏が統治していた薩摩藩士の多くが、明治維新で警察業務についていたのです。
江戸時代の警察機構は、若年寄→与力→同心→岡引・目明、の系列であったのです。しかし、同心までは、江戸幕府の配下であったのですが、岡引・目明は、無給の非公認のケイサツ協力者にすぎなかったのです。
与力とは、「サムライ」が支配していた北条鎌倉時代では、「寄騎・よりき」と言われ、戦闘で騎馬武士(源氏末裔)として加勢するひとのことで、下級武士のことであったのです。その寄騎が、下克上の戦国時代になると、北陸の前田利家のように、寄騎から、在地の領主として出世するのです。ですから、戦国時代の寄騎は、在地の領主の意味であったのです。しかし、1603年騎馬民族末裔の徳川家康が、幕府を開いた時、直参の足軽の全てを、同心と呼んだのです。同心とは、同じ民族ということです。そして、下級武士も同心と呼んだのです。しかし、戦国時代に在地領主となった寄騎は、その同心と呼ばれることを快く思わなかったので、同心より格上の寄騎から与力と呼ばれるわけです。
第三百済王朝の江戸幕府は、町奉行配下の与力と同心に警察業務を任せるために、八丁堀に屋敷を与えていたのです。しかし、エドの町は、徳川家康の指示により、秦氏末裔の弾左衛門一派が開拓した地であったので、エドの町を実効支配した第三代目将軍徳川家光から始まる第三百済王朝は、エドの支配権を奪われ、エド払いさせられた秦氏末裔から、攻撃を受けるのです。喧嘩と火事は江戸の華と言われ、火付け強盗が頻繁に起こるほど、第三百済王朝の江戸の町の治安は悪かったのです。
そこで、同心は、私的手先として、無給で岡引や目明(関西では口問い)を使うのです。その岡引や目明は、秦氏末裔の博徒や役座であったのです。何故、博徒や役座が、無給で警察業務に就いたのかといえば、博徒や役座の生業である、博打や芝居興行での町奉行の目こぼしがあったからです。
この岡引や目明の業務をおこなうことを、博徒や役座は、「二足のわらじを履く。」、と言っていたのです。何故、博徒や役座が、警察業務に長けていたかと言えば、博徒や役座の祖は、「サムライ」支配の、第二百済王朝の北条鎌倉時代以前は、秦氏末裔の武士であったからです。その武士の祖は、第一百済王朝の平安時代、怨霊鎮めの「もののふ」で、武芸により、検非違使配下で公安警察業務をおこなっていたのです。
鎌倉源氏棟梁三代を陰謀で抹殺した、第二百済王朝の北条鎌倉政権は、六波羅探題により、源氏狩りをおこない、秦氏末裔の源氏武士を抹殺していたのです。その落武者となった源氏武士は、一部は戦において騎馬武士として、傭兵の「寄騎・よりき」となり、そしてまた、その一部は北条鎌倉政権に逆らうアウトローとなり、北条鎌倉時代を、博徒や役座となり生き延びていたのです。
因みに、役座とは、現代では「暴力団」の代名詞となってしまいましたが、北条鎌倉時代では、神社ネットワークにより同業者組合を組織した「座」を仕切る、闇の世界で警察業務をおこなう「役」のことであったのです。
では、江戸町奉行の同心の私的配下となり、警察業務に携わった博徒や役座を、岡引や目明と言ったのは何故でしょうか。
1590年徳川家康が、藤原氏傀儡の豊臣秀吉により三河からエドに追放されると、徳川家康は、北条鎌倉時代から関東に棲息していた秦氏末裔の古代エジプト伝承の土木技術を持つ者を集め、エドから小田原まで、ローマ帝国軍式幅広の直線道路を敷設するのです。そして、その直線道路の保安と治安維持のため、駅舎を造り、宿場町を各拠点に設置するのです。そして、徳川家康は、その宿場町を、役座に無償で管理させるのです。そのかわり、日没後の宿場での売春・賭博営業の目こぼしをおこなったのです。
そして、エドの治安警察は、関東の秦氏末裔を支配していた弾左衛門に委託するのです。しかし、徳川家康の威光が消え、第三代将軍徳川家光が、怪僧天海の指示により、上野の山に天台宗の寛永寺を建立すると、エド町の公安・治安警察を司っていた弾左衛門一派は、徳川家康が三河から関東の湿地帯に追放されたように、エド町の中心地から、浅草寺裏の湿地帯に追放されてしまうのです。
そして、徳川家康の威光が存続していた頃までは、江戸町奉行所に、草履取りを伴って参上していた弾左衛門は、第三百済王朝になると、エド治安警察組織から排除されてしまうのです。そして、弾左衛門は、関八州の「穢多」と呼ばれた秦氏末裔だけに、その警察権と裁判権を与えられたのです。
しかし、第三百済王朝の江戸町奉行所の与力や同心は、江戸町の裏社会の公安・治安警察に未熟なため、前政権の秦氏末裔の者達である博徒や役座を手下として、無給で雇い入れたのです。その見返りが、博打と芝居興行での、江戸町奉行所の目こぼしだったのです。
しかし、その同心配下の目明は、秦氏末裔の自民族を白徒(シロウト)と呼び、そして、第三百済王朝側の者を、黒徒(クロウト)と呼び、日常の警察業務で逆差別していくわけです。
何故、目明と同族が白徒というのかと言えば、秦氏は太陽神ミトラを祀る民族で、そのシンボルカラーが「白色」だったからです。では、黒徒とは何かと言えば、それは、徳川家康の菩提寺の浄土宗の影響力をエドから排除した天台宗の僧侶は、黒衣の一団だったからです。つまり、太陽信仰民族が「白徒」で、仏教信仰民族が「黒徒」だったのです。
現在では、「シロウト」と「クロウト」との意味が変わってしまっていますが、江戸時代では、権力者は、そのように宗教思想を利用して異民族を弾圧していたのです。
目明は、日常での白徒と黒徒との諍いでは、当然、同族の白徒を優遇していたのです。そこで、第五代将軍徳川綱吉は、秦氏末裔の勢力を削ぐ目的として、1687年生類憐みの令を発布するのです。この生類憐みの令は、徳川綱吉が1709年死去するまで、何回も発令されていたのです。
この発令により、秦氏末裔の生業は疲弊してしまうのです。それは、秦氏末裔の祖は、騎馬民族であるから、当然、農耕民族が稲を刈った後に、藁で草鞋を作るように、死弊牛馬の毛皮を剥いで、なめして皮から革を作っていたのが、この生類憐みの令により、公にはできなくなってしまったからです。
更に、その生類憐みの令の内容がエスカレートして、犬を虐待したと言って死罪となった者が多くいたのです。そして、その令に違反したとして、八千人とも三千人とも云われるひと達が囚人となっていたのです。
この生類憐みの令は、五代将軍徳川綱吉が死去すると、すぐに廃止されたのですが、秦氏末裔には、思想的に大打撃だったのです。それは、動物の皮を剥ぐことは、公に「悪」となってしまったからです。騎馬民族末裔の秦氏末裔が、動物の皮を剥ぎなめし革を作っていたことで、ケガレ者の意味の穢多と呼ばれ、賎民とされたように、秦氏末裔の武人を祖とする「もののふ」である「武士」も、「サムライ」が支配する第三百済王朝の江戸幕府時代になると、「俘囚の末裔」と蔑まされてしまうのです。
そのように、天台宗の怪僧天海が画策した第三百済王朝の勢いが増すと、騎馬民族末裔の徳川家康の威光により勢力をエドの町で張っていた、秦氏末裔の社会的存在が低下していくわけです。関八州の秦氏末裔の棟梁である弾左衛門が、江戸時代初期に、二本差しの羽織袴で籠に乗りエド城に登城していた時代が「ウソ」のように、第三百済王朝の江戸時代では、秦氏末裔は賎民「穢多」として位置づけられていたのです。
そのことは、第八代将軍徳川吉宗が、同心の私的配下の目明を、岡引と呼んだことで分かるのです。目明とは、その文字の意味から、日常の出来事を見聞きして明らかにする公安・治安警察業務内容であることが分かるのです。しかし、目明を、岡引とした意味は何だったのでしょうか。勿論、岡引は、尊称ではなく、蔑称です。
岡引の、岡の意味を探れば、お祭りで「馬鹿」にされる存在の「ひょっとこ」と「おかめ」のペアが居ます。「ひょっとこ」とは、「火男」のことで、産鉄民族末裔の蔑称です。そして、「おかめ」とは、「岡女」で、岡に住む「女」の蔑称です。そして、第八代将軍徳川吉宗は、秦氏末裔の勢力を削ぐ目的で、岡引の生業のひとつである、お祭り時の神社境内での屋台の出展を禁止してしまうのです。その神社でのバザール(屋台)ビジネスは、オリエントから渡来の秦氏の祖が、ユーラシアで活躍していた頃、騎馬民族の商業手段(バザール)として、野外のテントでの商業活動が源であったのです。
では、その「岡」とは、何を意味しているのでしょうか。「岡」の対称語は、「陸」です。その「陸」は、「ろく」とも云われ、「ろくでなし」の「ろく・陸」でもあるのです。「陸」は、「ゆがみなく正しい。」の意味があります。ですから、「陸でなし」の「岡」は、「ゆがみがあり正しくない。」の意味となります。つまり、「陸」でない「岡」は、「闇の世界」の隠語となるわけです。
では、「岡」とは、何処にあるのでしょうか。「岡」は、土地の小高い所であり、小山の意味です。小山は、古代エジプト語で、「ナーベ」です。
古い神社の多くは、こんもり茂った木々のある小山の上に建立されています。何故、そのように神社が、小山の上に建立されていたのかは、それは、その小山とは、塚であったからです。塚とは、土の家で、古代の墓であったのです。つまり、神社のある小山は、古墳であったのです。
古代の神社は、神を祀る施設ではなく、死後再生すると信じる民族により葬られた、古墳に眠る前政権者の霊を封印する施設であったのです。神社の日本列島での出現が、日本列島古来からではないことは、三世紀末から七世紀まで続いた古墳時代以降であるからです。神社が日本国古来の宗教施設ではないことは、古墳の上に建立されていることで理解できます。
神社が、霊を封印する施設から、神として祀る施設となったのは、菅原道真が、901年藤原氏の陰謀により大宰府に左遷させられ、903年大宰府で死去し、菅原道真の怨霊が雷神となって、百済系醍醐天皇が統治する平安京を、落雷で襲ったことにより、923年菅原道真を本官に服し、947年祠を北野に建立して「神」として祀った頃以降からなのです。
神社に封印された小山に住む民族は、奈良時代には唐進駐軍傀儡の藤原氏に、そして、平安時代には、独断専行の藤原氏を見限った唐進駐軍傀儡の百済系王権に追われた民族で、それらは農耕民族ではなく、騎馬民族や産鉄民族であったのです。それらの民族の末裔が住む小山は「岡」とよばれ、「ろくでなし」が住む処となっていたのです。つまり、岡引とは、「闇の世界の者」、との蔑称であったのです。そして、岡場所とは、幕府公認の遊郭ではなく、非公認の私設遊郭のことであったのです。
歴史教科書で、日本列島史を勉強しても、真の日本列島史を知ることはできないでしょう。それは、日本の古代史を探るために、「古神社」にある古文書を調べることと同じです。それは、神社は、日本列島古来からの宗教施設ではなく、七世紀以降の出現であるからです。
645年以降に日本列島の歴史を乗っ取った藤原氏と、794年以降に日本列島史を乗っ取った亡命百済貴族末裔により、四世紀頃に南インドから南九州坊津に渡来した中臣族を祖とする藤原氏と、663年母国を新羅・唐連合軍により滅亡させられた百済系日本人には不都合な歴史は隠蔽、或いは、改竄しているからです。それに対して、オリエント文化・巨石文化の飛鳥時代に近畿一帯を支配していた騎馬民族の歴史は抹殺するか、或いは、紀元前六世紀の釈尊の仏教思想とは百八十度異なる、紀元一世紀に国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教思想を改竄した漢訳仏教思想の血・肉食の禁忌により、不可触賎民史として描いているからです。
藤原日本史が、真実(表歴史も裏歴史も同等に述べるの意味)の日本列島史を述べていないことは、先程の「岡」について納得できる説明が、歴史教科書にはないことで理解できるでしょう。そして、岡場所の遊女の名が、何故、「源氏名」と言うのかの説明も、歴史教科書にはないでしょう。
藤原日本史が真の源氏の歴史を述べないのは、源氏の歴史を述べると、平安時代の陸奥国を支配していた蝦夷の実態を知られてしまうからです。蝦夷とは、縄文時代以前から日本列島に居住していたアイヌ民族を祖とする民族ではなく、オリエント文化の飛鳥ヤマトでの軍事部族末裔であったのです。
その蝦夷の祖は、552年中央ユーラシアに騎馬民族国の突厥帝国を建国した、チュルク族トメン(土門)であったのです。その突厥帝国軍団が、六世紀中頃、日本列島の近畿に渡来して、高句麗・百済・新羅の進駐軍が三つ巴の戦いをしていた飛鳥ヤマトを、騎馬軍団により軍事支配したのです。その頃の歴史を、藤原日本史では、架空の天皇である欽明天皇が統治する大和朝廷とし、渡来したその突厥帝国軍団の長を、大臣の「蘇我稲目」とするわけです。しかし、その頃には天皇は存在していなかったのです。つまり、日本列島での初の天皇は、672年即位の新羅系天武天皇からであったのです。
そして、藤原日本史は、オリエントから渡来した牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏の存在を抹殺するために、三世紀末に河内湾の岬(ワタ・ナーベ)に渡来し、河内一帯に石室と石棺による古代エジプトの埋葬思想で古墳を築いていた、オリエント渡来の技術集団の「秦氏」を「物部氏」とし、隠蔽するのです。その突厥帝国軍と秦氏の軍事部族が、645年唐進駐軍と中臣軍(藤原氏の祖)に破れ、鈴鹿の関を越えて、東北に逃げ延びた者が、唐進駐軍により、蝦夷(ヒゲのあるエビス)と蔑称されたわけです。
江戸時代、その蝦夷末裔がおこなう売春事業で、何故、遊女名を「源氏名」と云うのかと言えば、それは、騎馬民族末裔である源氏末裔の徳川家康が天下を執った後、売春事業を源氏末裔に限ったからです。
売春は、戦国末期、イエズス会傀儡の織田信長と、騎馬民族末裔の徳川家康とが軍事協力し、近畿一帯の経済・文化を実効支配していた、比叡山延暦寺を焼討ちし、僧兵軍団を壊滅するまでは、治外法権の仏寺内でおこなわれていた事業だったのです。その漢訳仏教の三大裏事業であった売春・賭博・借上(高利貸し)は、アウトローの役座が発明したものではなく、漢訳仏教が隆盛していた奈良時代まで遡れるほど、由緒正しい(?)事業であったのです。
藤原日本史では、騎馬民族が支配していた飛鳥ヤマトの史実を知られたくないため、「騎馬民族は日本列島に渡来していない。」、とするようですが、古墳から多く出土する馬埴輪や馬具をどのように説明するのでしょうか。
騎馬民族の日本列島への渡来否定者の根拠として、「肉食民族である騎馬民族が渡来していたならば、何故、食糧とした獣の骨が生活圏内から出土しないのか?」、があります。その答えとして、騎馬民族は、食糧とした獣の骨も大切に消費するために、「骨粉」として利用していたからです。江戸時代、骨粉を農業の肥料として生産していたのは、明治維新後に廃仏毀釈で仏寺を徹底的に破壊していた、大坂と鹿児島で、それらは、秦氏末裔が多く暮していた地域だったのです。
そして、平安貴族を太刀(反りのない刀)で武装しガードする、百済系武人の「サムライ」が騎馬に優れていなくて、それに対して、平安中期(天慶の乱)に出現した源氏武士が騎馬による集団戦闘に優れていたことを、どのように説明するのでしょうか。更に、、実戦的でない、大きな角のある冑と豪華絢爛な鎧で、曲がる折れる刃毀れする片刃の反りのある「日本刀」を、「もののふ」と云われた源氏武士が携帯していたのは、何故でしょうか。それらのことについての納得できる説明は、何故か、藤原日本史にはないのです。藤原日本史に隠蔽・改竄された騎馬民族の日本列島史は、どのような歴史であったのでしょうか。その騎馬民族や秦氏の歴史を知るヒントは、エド文化にあるようです。
「エド文化」と「江戸文化」との明らかな違いは、その葬儀にあります。葬儀は、その民族文化の中枢だからです。
エド文化とは、徳川家康が、関東の湿地帯(穢れ地→穢土→エド)を干拓して拓いた地に起こった文化です。それらは、徳川家康の移転元の「三河文化」を引き継いでいたのです。三河には、革製造技術者の「カワタ」が多く暮していたように、騎馬民族末裔の文化を引き継いでいたのです。騎馬民族には、「勇者は再生する。」、と信じられていたので、死者は火葬ではなく、土葬だったのです。
しかし、徳川家康の威光が消滅し、百済系天台宗の怪僧天海が、その本性を現した、1623年第三代目将軍徳川家光を傀儡とした、第三百済王朝になると、1637年島原の乱により、キリシタンの弾圧に掛かるのです。それは、キリシタンは、戦国末期の1573年イエズス会傀儡の織田信長により、天台宗の総本山である比叡山延暦寺を焼討ちし、その僧侶と寺内にいた娘(女色用)や茶坊主(男色用)全てを惨殺していたからです。更に、織田信長は、仏教組織の経済基盤を破壊するために、延暦寺の利権であった、市と座を開放し(楽市楽座)、寺関所を撤廃していたのです。そのように、天台宗にとって、キリシタンは仇敵だったのです。この織田信長の処置により、貴族並みの生活を保障されていた天台宗組織は、他の事業を生活の糧としなければならなくなったのです。そのひとつが、江戸時代に始まる葬儀事業です。
今日では、仏教が、葬儀をおこなうことは、当たり前と思われています。しかし、仏教と葬儀は、江戸時代前までは、貴族にも、一般庶民にも関係が薄かったのです。奈良時代、藤原氏の仏寺興福寺でも、葬儀などおこなっていなかったのです。その頃の仏寺は、文化・娯楽センターのような施設であったからです。
寺の歴史は、死者とは関係がなかったのです。紀元一世紀の中国大陸で、仏教が伝来した頃の寺(じ)とは、外国人のための関税施設であったのです。その寺に、宗教関係者を装った国際交易商人が寝泊まりし、その商売品の仏典や仏像を保管していたのです。やがて、その寺(じ)施設が、中国大陸から日本列島に渡来して、「テラ」となるのは、寺(じ)が、死者が眠る処となってからです。それは、「テラ」の意味が、死者の眠り処で、あるからです。
そもそも、紀元前五世紀に仏教を発明した釈尊の思想には、葬式などなかったのです。それは、「ひとは身分により輪廻転生する。バラモンはバラモンとして、不可触賎民は不可触賎民として転生する。」、とするバラモン教のバラモン僧に都合の良い思想に対抗した釈尊は、二度と輪廻転生しない方法を発明したのです。
それが、この世とあの世との中間で暮らす、「非人」の発明です。「非人」は、生きていても、ひとではありませんから、死んでも輪廻転生などしません。そして、一切の生産手段に携わらないことで、バラモン僧が支配する人間社会のシガラミから解放される、「乞食」の生き方を発明したのです。
釈尊の生き方の思想は、簡単だったのです。それは、「非人」となり、「乞食」するだけでよいからです。しかし、釈尊の死後五百年して、知恵者が現れて、この世には「欲、色、無色」の三界があり、あの世には「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の六道があるとし、ひとは生前の行いにより、死後、それぞれの行き先が決定される、との思想を創作するのです。
そのように釈尊の仏教思想には、葬儀などなかったのです。しかし、バラモン教思想を否定するための釈尊の仏教思想が、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教に乗っ取られると、バラモン教の霊肉分離思想による、霊が遊離した死者は、ただの物質にすぎないため、死者を燃やして川に捨てるインドの葬儀風習が、大乗仏教に導入されていくのです。
第三百済王朝の江戸時代、天台宗の仇敵のキリシタン弾圧のための「宗門改帳」が、1635年寺社奉行の設置と供に、寺請制度として、全庶民はどこかの寺に強制的に所属しなければならなくなっていったのです。寺請とは、寺に登録したことにより、寺がキリシタンではないことを証明することを請け負う、ということです。更に、「宗門人別帳」により、戸主と家族の生まれから死亡までを書き込み、庶民を宗教的に支配したのです。そして、寺の私文書「過去帳」には、戒名まで書き込んでいたのです。
そのように、死者を土葬とするエド文化に対して、仏教思想により火葬する江戸文化に激変した裏には、1651年由比正雪の乱があったからです。この慶安事件は、鎌倉源氏を抹殺した、1221年承久の乱と同じストーリーです。
そのストーリーとは、源氏棟梁三代を陰謀により抹殺した、百済系北条氏は、河内に残存する武家源氏壊滅のため、源氏に反乱を起こさせ(承久の乱)、その残存源氏一族を抹殺していたのです。そして、源氏一族を抹殺した北条政権は、1232年御成敗式目を制定し、源氏武士の武断統治政策から、百済系「サムライ」の文治政治に変換していくわけです。
徳川家康による源氏武士による統治制度を壊滅するため、百済系第三代目徳川家光は、大名の改易政策、お家断絶、領地没収などで、徳川家康の忠臣であった源氏武士末裔を狙い撃ち、抹殺に取り掛かるのです。そして、壊滅できない源氏武士末裔は、江戸から遠方に改易し、1635年参勤交代制を確立し、江戸に人質を捕り、源氏武士末裔の大名の台所を枯渇させていくわけです。
その江戸に人質を捕るために、各大名に江戸に領地を分け与えたのです。そのため、従来から暮していた秦氏末裔やお家断絶させられた武士は、江戸の中心地から追放されるのです。これらの第三百済王朝に不満を持つ浪人武士が、由比正雪の下に集結していくのです。このことに脅威を感じた江戸幕府は、その源氏末裔の浪人集団抹殺の陰謀をおこなうのです。これが、慶安事件です。
慶安事件とは、1651年由比正雪が中心となって、江戸幕府を転覆し、天下を盗る事件として喧伝されています。しかし、江戸幕府を倒し、大坂城を乗っ取ると云われた大ストーリーとしては、実際の捕り物では、駿府の旅籠梅屋で切腹して果てたのは、由比正雪の他十名程であったのです。その事件後、由比正雪の家族、一族郎党はもとより、全国の源氏武士末裔は、理由も無く捉えられ、佐渡金山の穴掘り人夫として送り込まれていったのです。これは正に、百済系北条鎌倉幕府の、六波羅探題による、源氏狩りの再演です。
由比正雪の出自は不明ですが、その父岡村弥右衛門の職業が、紺屋であることから、秦氏末裔の弾左衛門配下であったことが示唆されます。それは、紺屋は、賎民と云われた秦氏末裔弾左衛門一派の限定職であったからです。更に、由比正雪の道場では、槍術を伝授していたことは、ロンギヌスの槍術を伝承する、ギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅)花郎騎士団を祖とする、源氏武士末裔を示唆します。佐渡の槍術は、その由比正雪の弟子が、佐渡に流され、そこで槍術の道場を開いたからだと云われています。
この慶安事件後から、「武士」による武断統治政策から、「サムライ」による文治政治となっていったことは、正に、北条鎌倉幕府と同じです。
百済系「サムライ」に江戸を支配され、その結果江戸から排斥された新羅系「武士」は、浪人身分となり、百済系の徳川家光が第三代目将軍となった、1623年に洛中から追放されていくわけです。そして、1635年参勤交代制を確立した江戸幕府は、百済系将軍の徳川家光に忠誠を尽くす、各国の譜代大名の人質を堀内に住まわせ、江戸城(藤原氏傀儡の豊臣家が徳川家康を侮蔑し命名した蔑称カワタ城→革タ→川タ→センタ→千田→チヨ田→第三百済王朝では尊称千代田城・江戸城に変身)の防備を固めるわけです。その結果、三河文化のエド時代(1590年〜1623年)では寒村であった処が、百済系日本人が支配した江戸時代(第三百済王朝)になると、参勤交代のために各国から「サムライ」が江戸に移住して来たために、人口が急激に膨張し、庶民が暮らす土地が少なくなっていくわけです。その異文化を持った日本各地から移住してきた新住民が暮らす、江戸の治安機構はどのようになっていたのでしょうか。
歴史教科書での説明では、江戸のピーク人口が百万であったと述べています。そして、江戸時代の約三百年間は治安が安定していたと述べています。しかし、治安の最高責任者である町奉行は、南北奉行がひと月交代の月番制で、町奉行の下に25人の与力(鎌倉時代では寄騎と云われ、騎馬による傭兵。与力は、治安警察業務で騎馬を許されていた。200石程の御家人。)と、その下に200人程の同心(30俵5人扶持で、治安警察業務で騎馬を許されていない。)と、同心の私的配下の目明(岡引)で、百万都市の江戸の治安を護っていたのです。
何故、火事と喧嘩は江戸の華と言われた治安状態が悪い江戸の町を、幕府の月番町奉行警察組織人員が300人程(南北奉行要人合わせると600人程)で江戸の治安を護ることができたのかの納得できる説明は、歴史教科書にはありません。
江戸の町の治安が約三百年も維持されていたのは、同心の私的配下の目明(=岡引・実態は博徒と役座)の活躍と、町人の住む居住地に木戸を設け、門限を付けていたからです。三代目将軍徳川家光の時代では、治安維持のため、その門限は、暁九つ(午前零時)から明六つ(午前六時)であったものが、治安の悪化と供に、夜四つ(午後十時)から明六つとなり、更に、夜五つ(午後八時)が門限となっていたのです。
その江戸町の庶民が住む長屋を、板塀で囲い、木戸を設け、その門限を限り、夜の外出禁止をしていたことは、江戸町の住民は、東洋の「ゲットー」(被差別民族の居住地)に暮していたわけです。そして、その長屋での一世帯の居住面積は、間口九尺(約2.7m)、奥行二間(約3.6m)であったのです。
その木戸で門限を取り締まる木戸番は、江戸幕府の町奉行の要人ではなく、「番太」(「○太」の「太・タ」とは、蔑称のための接尾語)と云われる、江戸幕府から賎民秦氏末裔であると云われた弾左衛門の配下であったのです。実際の江戸町の公安・治安警察業務の末端は、第八代目将軍徳川吉宗の時代、1718年南町奉行の大岡忠相(越前守)がとび職人を組織して町火消しの制度を定め、1720年江戸町火消しいろは組の創設までは、秦氏末裔の博徒や役座などのアウトローが取り仕切っていたのです。
長吏頭弾左衛門(王権は穢多頭とする。)を頂点としてエド町を支配していた騎馬民族である秦氏末裔を、江戸町警察業務からの排除を画策する八代目将軍徳川吉宗は、無給の私的警察官である目明制度を廃止するだけではなく、江戸町末端の公安・治安警察業務からも、秦氏末裔を排除してくのです。これ以降、江戸町での警察業務に携わっていた目明は、岡引と蔑称されていくわけです。
子供の遊戯のカルタにある、「犬も歩けば棒に当たる。」という一文があります。この一文の表(おもて)の解釈では、「物事を行う者は、時に禍いにあう。また、やってみると思わぬ幸いにあうことのたとえ。」と云われています。しかし、藤原日本史ではなく、野史による解釈では、「たとえ番太と同族の、秦氏末裔(騎馬民族であるため、王権より「犬」と蔑称されていた。)であっても、門限を破る者は、目こぼしをされずに番太の棒で殴られるお仕置きにあう。」、との秦氏末裔への戒め文となるのです。
では、エドの三河文化は、江戸文化により乗っ取られてしまうのですが、その江戸文化のルーツは何でしょうか。各民族の文化の中心は、葬儀にありますが、日常の生活様式にも文化があります。
江戸時代も中期となり、エド町を拓くために多大な援助をしていた秦氏末裔の弾左衛門の威光も、騎馬民族末裔の徳川家康が百済系天台宗の施設である日光に祀られたことにより、騎馬民族文化や三河文化であったエド時代の歴史が抹殺されてしまったことにより賎民に落とされた、六代目弾左衛門(弾家は、世襲名で、明治維新と供に第十三代で消滅した。)は、幕府に書状を提出し、鎌倉幕府を開いた源氏棟梁であった源頼朝よりのお墨付きにより、秦氏末裔の長吏頭弾左衛門の由緒の正しさを述べるのです。
源頼朝の鎌倉時代からの弾左衛門の配下であったのは、長吏、座頭、舞舞、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋などです。
しかし、それらの多くの配下は、弾左衛門の権勢を削ぐ目的で、石切、髪結、青屋を残し、弾左衛門配下から、三代目将軍徳川家光から始まる第三百済王朝になると、順次、全ての技術者が離脱させられてしまったのです。最後に残ったものは、製革業と燈芯草栽培の独占による蝋燭製造業となってしまうわけです。そして、それらの弾左衛門配下から離脱させられた技術者達は、江戸町のゲットーに隔離させられ、江戸時代を生き延びていくわけです。
では、江戸時代の文化の源は、それらの秦氏末裔の文化であったのかと言えば、そうとも言えないようです。それは、江戸物品文化の一役を担う商売人の経営者の多くは、京都本店からであったからです。
徳川家康の忠臣であった「武士」が、1623年エド町から浪人身分で追放され、弾左衛門一派も人形町などのエド町の中心地から、浅草寺裏の湿地帯に追放された後、日本橋界隈には、京都を本店とする越後屋や伊勢屋などが出店してくるのです。そして、それらの京都からの商人は、エド時代の商品や技術を、「くだらぬもの。」、と蔑視していくのです。
「くだらぬもの。」とは、江戸町からの上方、つまり、京都から下ってきた商品や技術ではない、との意味です。この「くだらぬもの。」の言葉の本来の意味は、第一百済王朝である平安時代、「百済ではない者」、つまり、「皇族ではない、下賎な者」の意味であったのです。
794年唐進駐軍の軍事的支援により、秦氏の支配地である山背国と比叡山を乗っ取った、亡命百済貴族末裔は、814年「新撰姓氏録」を創作し、亡命百済貴族を「皇族」とし、南インドから渡来した祭祀氏族中臣族を祖とする藤原氏を「神族」とし、そして、オリエントから渡来し、河内一帯に古代エジプトの埋葬思想により巨大古墳を築いていた秦氏を「蕃族」として、民族差別をしていたのです。
江戸町の商業を支配していたのは、その京都を本店とする日本橋の商人であったのです。江戸文化の象徴と云われる歌舞伎も、その発生は京都であったのです。江戸時代初期、1603年(慶長8年)京都の五条河原や北野神社境内で、出雲大社の巫女と称する阿国という女性が、男装して舞ったものが、阿国歌舞伎(ややこ踊り)の発生といわれています。
江戸時代初期では、歌舞伎の「かぶく」とは、社会の常識からはずれた言動をすること、と言う意味であったのです。「おんな」が、「おとこ」のいでたちで舞う姿は、正に「かぶく」ことであったのです。
この「かぶき」の舞が、京の街で評判と成ると、遊女たちにより、四条河原でおこなわれていくのです。そして、この遊女歌舞伎には、三味線が演奏に加わっていくのです。この遊女歌舞伎が、江戸町に下って、江戸町でも遊女歌舞伎が盛んになると、風紀が乱れたことにより、江戸幕府より、遊女歌舞伎の禁止となるのです。その裏には、若い男歌舞伎役者と大奥の女との「不適切な交際」が幕府の知るところとなり、それが、1714年の絵島事件と云われるものです。それは、歌舞伎興行では、表では、「歌舞伎芸」を売っていたのですが、裏では、若い女役者や男役者は「からだ」も売っていたからです。
遊女歌舞伎が、江戸幕府より禁止されると、次には、若衆歌舞伎がおこなわれていくのです。これは、若い男による舞だけではなく、軽業も加わるのです。しかし、裏では、「男色」をおこなっていたのです。この裏芸が江戸幕府に知られると、1652年若衆歌舞伎も禁止されるのです。
そこで現れたのが、中年男による野郎歌舞伎で、女形が生まれるわけです。舞を踊るのが中年男なので、裏芸で「女色・男色」を売れなくなったので、芸に工夫を凝らし、中国京劇の派手な厚化粧技術を真似、そして、寸劇から劇的世界を表現するために、衣装や大道具に工夫を凝らし、時空の移動を表現するために引き幕が用いられ、元禄15年(1702年)歌舞伎の基礎が完成し、今日の歌舞伎に至るわけです。
しかし、京都で発生した歌舞伎は、京都では廃れ、そして、大坂では人形浄瑠璃の隆盛により衰退し、今日、江戸歌舞伎だけが生き残っていくわけです。
江戸歌舞伎が生き残ったのは、初期の歌舞伎舞台は、能と同じ舞台を用い、楽器は小鼓、大鼓、太鼓だけであったのが、倹約を奨励する享保の改革において、謡いを加え、歌舞伎舞台には、セリ上げや廻り舞台の工夫もしていたからです。
江戸文化の華といわれた歌舞伎のルーツも、京都にあったのです。では、江戸っ子文化のルーツは何であったのでしょうか。
江戸っ子と言えば、粋な啖呵を切り、竹を割ったような性格で、勧善懲悪思想で、人情に厚く、涙もろい、とのイメージがあります。そのような性格イメージを持つ江戸っ子文化のルーツは何処にあるのでしょうか。
江戸は、徳川家康が1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により三河から関東に追放され、その湿地帯を干拓、そして、開拓する以前は、荒川や利根川などの支流が流れ込む河口の湿地帯であったのです。その湿地帯を、古代エジプト伝承の高度土木技術により、駿河台の小山を切り崩し、堀を造るために削掘した残土で、湿地帯を埋め、住宅地としてきたのです。
ですから、江戸城は、海抜十mの人工山の上に築かれていたのです。室町時代末期に、太田道灌が築いたエドの砦は、広大な湿地帯の海抜2.5メートルほどの小山にあったのです。つまり、江戸の町は、十七世紀に突然現れた、人工の町であったのです。
その湿地帯を干拓してエド町を造り、そこに、最初に移住してきたのは、三河の徳川家康の家人や配下と、そして、土木事業をおこなった、秦氏末裔の弾左衛門配下の者達であったのです。
では、その者達が、江戸っ子のルーツかと言えば、そうではないのです。誰が決めたのかは不明ですが、「三代続いて初めて江戸っ子」の掟があるからです。江戸っ子の定義としては、河口付近の開拓地、日本橋、浅草、神田などの居住地に、三代続いて暮していた者が、純粋な江戸っ子である、とするのです。しかし、江戸っ子が住む江戸町の境界線は曖昧であったので、川柳では、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と詠われていたのです。
三代先の先祖が、その江戸町に暮していない場合は、その子孫は江戸っ子ではないのです。その江戸っ子の定義によれば、三河から移住していた者達と、エド町を造った秦氏末裔の弾左衛門一族は、江戸っ子ではないのです。それは、1623年に江戸幕府三代目将軍に就任した徳川家光により、それらの者達は、エド町の中心である日本橋、神田界隈から追放されていたからです。
そして、新たにそのエド町の中心地に移住してきた者達を初代として三代目以降が、江戸っ子と言うわけです。では、その江戸っ子のルーツは、何処であったのでしょうか。そのヒントは、江戸っ子文化の中枢である「粋・いき」思想にあるようです。その「粋」思想は、京都文化の中枢である「粋・すい」思想からの借り物なのですから、江戸町文化には、京都文化の影響が認められます。
三河文化・秦氏末裔のオリエント・騎馬民族文化であったエド町ではなく、江戸町文化のルーツは、京都だったのです。それは、1625年東の比叡山である上野の山に、東叡山寛永寺が、建立されていたことからでも分かります。そして、百済系天台宗の怪僧天海が設計した江戸町が京都のコピーであることは、江戸町の宗教拠点である上野の寛永時が、比叡山延暦寺のコピーであるからです。それに、上野の不忍池とは、琵琶湖のコピーであるからです。
788年亡命百済貴族の命により最澄が、比叡山に延暦寺を創建したのは、そこが、京都を護る鬼門であったからです。794年からの京都と同じように、1623年より、百済系の第三代目将軍徳川家光により、江戸町は、百済系日本人により支配されてしまったのです。
その江戸町を漢訳仏教思想で支配していた中心的存在の寛永寺は、1571年イエズス会傀儡の、アラブ系海洋民族末裔を祖とする「平家」末裔(「平氏」はツングース系亡命百済末裔武人)の、漢訳仏教組織に賎民「余部・あまべ=海部」とイジメられていた民族末裔の織田信長と、騎馬民族末裔であるため漢訳仏教組織により「穢多」とイジメられていた民族末裔の徳川家康との連合軍により、徹底的に破壊されたように、江戸時代末期、藤原氏傀儡の薩摩藩を中心とした官軍の指揮官、漢訳仏教組織に「穢多」と歴史的にイジメられていた秦氏末裔の西郷隆盛により、上野の山の寛永寺は、徹底的に破壊されたのです。
その寛永寺とは、ひとつの寺院を言うのではなく、上野の山に無数に存在した寺院群の総称であったのです。その上野の山の寛永寺は、第三百済王朝の宗教を支える拠点であったので、その第三百済王朝を支える宗教施設が壊滅したことにより、1867年明治維新により、奈良時代、そして、平安時代の一時期を支配していた、ユダヤ教に酷似した儀式、祭祀衣装の中臣神道を祀る、ユダヤ系藤原王朝が復活するわけです。
その復活藤原氏が、百済系天台宗の漢訳仏教儀式に替え、国家神道儀式を発明するわけです。その国家神道を支えるために明治天皇が行った十三の儀式の多くは、日本列島古来からの儀式ではなく、明治初期に発明された儀式であったのです。そもそも、日本神道は、漢訳仏教渡来後の七世紀以降に、藤原氏の祖である、南インドのマラバル沿岸より南九州坊津に渡来した中臣族により発明されたものだったのです。
では、江戸時代の文化が、全て京都文化のコピーであったのかと言えば、そうではないのです。江戸文化の中核には、エド文化が生きつづけていたのです。そのエド文化のルーツは、日本列島史のルーツでもあるのです。
日本国の伝統文化と言えば、それらは、「能楽」の他に、「茶道、華道」などの「道」がつく文化があります。何故、日本伝統文化と云われるものの多くは、「○道」と言うのでしょうか。
日本伝統文化といわれているものの多くは、第二百済王朝の北条鎌倉時代に漢訳仏教組織により、騎馬民族を蔑視するために、インドの賎民思想である遊牧民族トラヴィダを賎民に落とすために発明された「不可触賎民チャンダラー」(施陀羅)から、穢れが多い意味の「穢多」を発明されイジメられた秦氏末裔により、1333年秦氏末裔の源氏足利尊氏が百済系「平氏」の北条鎌倉幕府を倒し、「源氏」が支配した室町時代に開発されたものであったのです。
それらの日本伝統文化を開発した者の多くが、「阿弥」を名前に付けるのは何故でしょう。いったい、その「阿弥」とは、何を意味しているのでしょうか。
「阿弥」と言えば、「阿弥陀様」を思い浮かべるでしょう。その阿弥陀様とは、一般的常識では、仏教の仏様のひとりであると信じられています。しかし、その阿弥陀様は、漢訳仏教組織に導入される前は、古代エジプトの「太陽神アトン」であったのです。それは、アトン(古代エジプト)→アミ(バクトリア)→阿弥陀(中国)と変化していったのです。
紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラは、紀元前三世紀のギリシャ文化継承国バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年。秦(紀元前221年〜紀元前206年)の始皇帝の母国)の地にあったのです。そのバクトリアには、ギリシャの哲学者プラトン一族のように、王権により迫害された学者や宗教関係者が、古代エジプトのアレキサンドリアからの亡命民として多く暮していたのです。ですから、紀元一世紀その地で発明された大乗仏教には、古代エジプトやギリシャの宗教思想が色濃く写し摂られていたのです。
釈尊は、輪廻転生思想でチャンダラー(施陀羅)をイジメるバラモン教思想を否定するため、バラモン教の宣伝道具である偶像の崇拝を否定するために、仏像の制作を一切禁止していたのです。
しかし、釈尊が没した五百年後に発明された大乗仏教では、釈尊の言葉を綴ったとされる仏教経典をギリシャ語(紀元一世紀に合本された「聖書」は、ヘブライ語やアラム語ではなく、ギリシャ語で創作されていた。「法華経」と「マタイの福音書」が瓜二つなのは、その原著がガンダーラでギリシャ語で著述されていたからです。)で創作し、そして、大乗仏教の宣伝キャラクターとして、ギリシャ彫刻技術を駆使して写実的なギリシャ系仏像を創作するのです。
その台座にある蓮華台とは、古代エジプトの太陽神アトンの化身のひとつである「蓮」からの導入であるのです。朝日が昇ると同時に開花する「蓮・ロータリー」は、古代エジプトでは太陽神の化身であったのです。
そのような観点から大乗仏教を眺めてみると、江戸時代、第八代目将軍徳川吉宗の時代に同心の私的警察官である「目明」を、「岡引」と蔑称し、その岡引である博徒や役座の秦氏末裔を、自警団組織である江戸町火消いろは組を創設して江戸町警察組織中枢から排除し、騎馬民族の秦氏末裔の弾左衛門一族も、漢訳仏教思想の血・肉食の禁忌により「穢多」としてイジメていた時代に、秦氏末裔が多く住む大阪の醤油屋の富永仲基は、「出定後語」で、お経の文言を研究しているうちに、その矛盾に気づき、後人が先人の説に自説を加えてお経を創作したとの「加上説」を唱えたのです。そして、結論として、大乗仏教の経典の全てには、「釈尊のお言葉はない。」、と唱えたのです。
そもそも、経典の原著がサンスクリットで書かれるはずはなかったのです。サンスクリットは、バラモン僧が使う言語であったので、そのバラモン教思想を否定する釈尊は、小乗仏教組織が伝承している、パリー語を使って説法を解いていたからです。では、大乗仏教はどのようにして、漢訳仏教に変身したのでしょうか。
釈尊の仏教思想の原点は、バラモン教思想の否定です。バラモン教の教えでは、ひとのこころの奥底には「アートマン」という生死を越えて変わらない非物質があり、生き死にも、生まれ変わりも、そのアートマンによる、と言うのです。その輪廻転生するアートマンの存在を、釈尊は「非人」思想で否定したのです。
紀元一世紀、そのバラモン教のアートマン思想が、中国に渡来すると、そのアートマンを「我」と訳すのです。ですから、釈尊の「非人」思想は中国では、「無我」思想となるわけです。
釈尊の輪廻転生を否定する「無我・非人」思想は、三世紀になるとバラモン僧ナーガルジュナ(龍樹)により、釈尊の「無我」思想を「この世のすべては、互いに関連し合って成り立ち、ひとつとして永遠不変なものは存在しない。それが私の法(ダルマ)の基本である。」と拡大解釈され、そこからインド数学思想の「0・ゼロ」から、「無我」から「空」思想を発明するわけです。
そのナーガルジュナの「空」仏教思想が、405年後秦の国師となったバラモン僧の鳩摩羅什が、北方の騎馬民族に苦しめられていた農耕民族の王に迎合して、騎馬民族への蔑視語のバラモン教の肉食民族蔑視思想の不可触選民の「チャンダラー」を、「施陀羅」と漢訳し、無数に創作されていた仏典にちりばめてしまうのです。ですから、鳩摩羅什により漢訳された漢訳仏教経典には、肉食する騎馬民族を蔑視する「施陀羅」などの民族差別語が盛り沢山あるわけです。
その騎馬民族差別語が沢山ある漢訳仏教が、中国大陸北方を支配する騎馬民族国家の突厥帝国(552年〜630年)を粉砕した唐進駐軍により、645年飛鳥ヤマトを支配していた突厥帝国進駐軍が壊滅させられることにより、日本列島に伝来するわけです。
騎馬民族国家の突厥帝国のコロニーであった飛鳥ヤマト政権が壊滅した645年以降、その唐よりもたらされた騎馬民族差別語がちりばめられた漢訳仏教が日本列島にもたらされると、中臣族から変身した藤原氏、そして、亡命百済貴族は、古代オリエントから渡来し、古代エジプトの埋葬思想を用いた石室・石棺を内蔵した巨大古墳を築造していた、ギリシャ文化継承国バクトリアを祖国とする秦氏をイジメる道具として利用していくわけです。
仏教伝来は、藤原不比等が創作した720年完成の「日本書紀」では、552年伝来(亡命百済貴族は538年を主張。)とするのですが、それは「ウソ」であることは、その仏教布教のキーマンである「厩戸皇子」(亡命百済貴族により「聖徳太子」となる。)の存在が疑わしいからです。
それに、538年から552年の飛鳥ヤマトは、突厥帝国進駐軍の支配時代であったのです。その根拠として、飛鳥ヤマトの男王の「アマタリヒコ」が、遣隋使「ソインコウ」(「日本書紀」では小野妹子。ソ「蘇」とは、ギリシャ・ローマ文化保持国「新羅・秦羅」の古語。ソインコウとは、「秦羅のインコウ」の意味。)を隋に派遣し、その返礼に、608年隋使裴清(「日本書紀」では裴世清)が、飛鳥ヤマトに渡来し、男王「アマタリヒコ」に謁見したと、隋の煬帝に報告していたのです。
812年秦氏末裔の万葉語学者の多人長が「古事記の暗号」で推古天皇以前の日本列島史を否定していたように、「日本書紀」で述べている、608年の飛鳥ヤマトには、女帝推古天皇など存在していなかったのです。
日本国の伝統文化を調べると、飛鳥時代の元風景が思い浮かぶのです。その伝統文化とは、「能楽」です。
第二百済王朝の北条鎌倉幕府を、1333年に倒した、秦氏末裔の源氏足利尊氏は、百済系天皇の後醍醐天皇を吉野に追放すると、ここに王権が、後醍醐天皇の吉野朝廷と、足利尊氏が征夷大将軍となり傀儡天皇を支配する京の朝廷(後の室町幕府)とが並存するのです。この南北朝は、1392年南北合体し、室町政権が確立するわけです。
北条鎌倉時代、騎馬民族蔑視思想を内在している「法華経」思想を布教する比叡山延暦寺で学んだ学僧により発明された、鎌倉仏教組織の浄土真宗や日蓮宗などの新興仏教思想により、平安初期に錬金術師空海により仏教国唐よりもたらされたインドのバラモン教思想の「施陀羅悪人ナリ」の真言から、騎馬民族末裔は肉食することから、ケガレが多いの意味で「穢多」の騎馬民族差別語が発明されるわけです。
北条鎌倉時代にその民族差別語によりイジメられ、山奥に隠棲していた秦氏末裔が、秦氏末裔の源氏足利氏が天下を盗り室町幕府を開くと、山から里に下りて来るのです。そのことにより、漢訳仏教文化と異なる文化の華が咲くわけです。
1402年秦氏末裔の世阿弥は、能楽書の「風姿花伝」を著し、その中で、能楽の祖は秦河勝であると述べるのです。世阿弥の「阿弥」とは、太陽神アトンのことです。芸能者の多くが「阿弥」を名前に付けるのは、太陽神信仰民族であることを主張していたのです。
その能楽の祖秦河勝は、「日本書紀」の仏教伝来物語に登場するのです。その秦河勝は、聖徳太子の忠臣で、弥勒菩薩を安置する寺である広隆寺を建立したことになっているのです。
しかし、広隆寺は、後の世に再建された寺で、秦河勝が建立した寺は蜂岡寺であったのです。では、その「広隆寺」に安置された弥勒菩薩とは何でしょうか。一般的常識では、弥勒菩薩とは、仏教の仏様と信じられているようです。しかし、弥勒菩薩の遍歴は、太陽神ミトラ(古代ヒッタイト帝国)→太陽神アトン(古代エジプト)→マイトレーヤ(古代インド)→弥勒(中国)→弥勒菩薩(日本)となるのです。
京の広隆寺の弥勒菩薩とは、京の元支配者である秦河勝が、蜂岡寺で祀っていたのは、仏像などではなく、太陽神ミトラ(後に王権により「魔多羅」に変名された。)であったのです。その根拠として、蜂岡寺の遺跡が示すには、仏教建築思想の南北軸に対して、南北軸より西側に約20度傾いていたからです。法隆寺境内から発掘された建物跡も、南北軸から西側に約20度傾いていたのです。飛鳥ヤマト時代に、そのように仏教建築思想と異なる建築基準で建設されていた建物があるのは、太陽信仰民族が、飛鳥ヤマトを支配していた証拠のひとつとなります。
太陽信仰民族は、太陽の再生日である冬至を聖なる日として祀る傾向があったのです。ローマ・キリスト教のクリスマスの日が、太陽神を祀るミトラ教の神の生誕日である「12月25日」であるのは、ローマ・キリスト教がミトラ教の太陽神を祀る儀式を導入していたからです。
では、能楽の祖である秦河勝は、飛鳥ヤマト時代にどのような芸能をおこなっていたのでしょうか。歴史教科書では、秦河勝の芸能を「猿楽」と述べていますが、それは違います。猿楽は、秦氏の芸能を蔑視するために、亡命百済貴族が支配した平安王朝から付けられ「蔑称」です。そして、猿楽とは、秦氏の祭祀の「秦楽」を隠蔽するために発明されたのです。それは、秦楽→しん楽→申楽→さる楽→猿楽となるのです。
では、その秦楽とは何かと言えば、それは、ギリシャ仮面劇を祖とする聖劇であったのです。能楽が能面を付けて霊界物語を語るのは、その祖が、ギリシャ文化継承国バクトリアから渡来したギリシャ仮面劇の聖劇であったからです。
そのバクトリアから渡来した秦氏の芸能民一族は、太陽神を信仰する民族であったので、その末裔は名前に「阿弥」を付けていたのです。その「阿弥」を名前に付ける秦氏末裔は、源氏が支配した室町時代に、能楽の他に、華道、茶道の原型(茶道の完成は戦国時代)、庭園などの文化を開発していたのです。では、日本伝統文化の多くには、「道」が付くのは何かと言えば、それは、仏教組織がそれらの日本伝統文化を蔑視していたからです。
それらの芸能者(「芸」とは、「カミ」を楽しませる技術のこと。)は、仏教組織が蔑視して、「七道の者」と言われていたのです。「七道」とは、漢訳仏教が発明した、死んだら転生すると言う「あの世」、「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上(後に極楽)」の「六道」の外の意味であるのです。つまり、「七道」とは、「外道」の意味であるのです。その外道である、非仏教徒の太陽信仰民族による芸能が、仏教徒から「○道」と言われていくわけです。
古代から伝承されている文化や芸能には、藤原日本史を基盤として創作された歴史教科書が隠蔽している多くの史実が隠されているのです。では、エド時代から江戸時代の変換期の文化・芸能には、どのような史実が隠されているのでしょうか。
エド時代から江戸時代に変換された、1623年百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光が、天下を盗ると、暫くして、江戸町の民間に「あそび」が流行るのです。それが、「ひな遊び」といわれる人形遊びです。それは、後に「ひな祭り」となっていくのです。
第三代目将軍徳川家光が、徳川家康の騎馬民族の血筋でないのは、実父といわれる第二代目将軍徳川秀忠が、日光に祀られていないからです。もし、徳川三代、徳川家康、秀忠、家光が同族であるのならば、日光には秀忠を祀る建物があるはずです。しかし、家康の東照宮、そして、孫といわれる家光を祀る大猷院はあるのですが、秀忠を祀る建物は何ひとつ日光には無いのです。第二代目将軍は、浄土宗の芝の増上寺に今も眠っているのです。
もし、第三代目将軍徳川家光が、徳川家康の血筋であるのならば、天台宗系の日光などに自分を祀ることは拒否するはずです。それは、騎馬民族を血・肉食禁忌思想でイジメる「法華経」を布教する天台宗は、騎馬民族の敵宗教だからです。
第三代目将軍徳川家光の出自は不明なのです。(家光は、徳川家康と春日局の子との一説あり。)それは、第二代目将軍徳川秀忠の妻は、戦国時代末期に天台宗の総本山の比叡山延暦寺を焼討ちし、その僧侶全員を打首にしていた、イエズス会傀儡の織田信長の妹の三女お江与であったのです。織田信長の祖は、アラブ系渡来民族末裔の「平家」で、仏教組織から、賎民余部(アマベ・海部)としてイジメられ、三代先信定の墓は、賎民部落の垣外(かいと)にあったのです。
その第二代目将軍徳川秀忠の実子が、第三代目将軍徳川家光であったならば、徳川家康の遺言で建立された質素な日光の「東照宮」を世良田部落に移築し、その跡に、騎馬民族を蔑視する天台宗系怪僧天海の設計による金ピカの日光東照宮など建立するはずはないのです。そして、実父と言われる第二代目将軍徳川秀忠を祀らず、第三代目将軍であるのに、自らを「第二代目将軍徳川家光」として日光に祀るはずはないのです。
その第三代目将軍徳川家光の時代に、突然、「ひな人形」が江戸の町に現れたのです。この謎は、何を物語っていたのでしょうか。
一般的常識の雛人形の歴史は、形代(古代)→天児(あまがつ・男子)・這子(ほうこ・女子)(平安時代)→立雛(鎌倉時代か?)→室町雛(室町時代)→寛永雛(江戸時代)→享保雛(江戸時代)→次郎左衛門雛(江戸時代・京都)→古今雛(江戸末期)→現代雛の流れと説明しています。そして、人形(ひとかた)が、中世の頃、人形(にんぎょう)となり、子供の遊びとなった、と説明しているのです。
しかし、その説明では腑に落ちないのです。それは、形代や人形は、子供の「あそび道具」なのではなく、漢訳仏教を祀る亡命百済貴族が嫌う呪術道具で、病気や災厄をはらい無事を祈る、仏教の敵、道教から発明された陰陽道の宗教儀式道具であったのです。宗教儀式道具を「あそび」に使うと罰が当たるのは、昔も今も同じです。
更に疑問なのは、古代と近代を繋ぐ「室町雛」の存在です。室町雛は、江戸時代の次郎左衛門雛風に頭の髪が毛仕上げになっているのです。この室町雛が、室町時代のものではなく、江戸時代のものであったのならば、歴史教科書で述べている雛人形の歴史は「うそ」と言うことになります。では、雛人形のルーツは何かと言えば、考えられるのは、平安時代から現れた、流浪の賎民と云われた人形使いの傀儡子の存在です。
では、エド時代から江戸時代に変換した寛永時代(1623年〜1643年)に突然現れた、髪の毛のない、冠と一緒に黒塗り仕上げの、女には唐衣も裳もない、天冠も載せていない雛が登場した歴史的背景は、どのようだったのでしょうか。
その雛人形登場の謎を解くヒントは、お内裏様とお雛様を飾る時の配置にあります。江戸では、お雛様は左側(向って右側)で、お内裏様は右側(向って左側)なのですが、京都では、その逆です。それは何故でしょうか。
そのお内裏様とお雛様の配置の違いが、民族の違いを表していたのです。騎馬民族では、左側が、右側よりも優位であったのです。それは、草原地帯の北半球を支配する騎馬民族は、緑茂る南半球を支配する農耕民族国を攻撃する時、中央に指令官を置き、太陽が最初に昇る東側、つまり、南面して左翼軍団が先陣を切ったからです。その左翼軍団に続いて、右翼軍団が攻撃に出陣したのです。ですから、騎馬民族国家では、右翼軍団より、左翼軍団の方が挌上であったのです。しかし、北面する農耕民族軍団では、右翼軍団が、左翼軍団よりも挌上であったのです。
騎馬民族と農耕民族とでは、左右の優位が逆であったのです。しかし、漢民族化した騎馬民族国の唐が、中国大陸だけではなく、日本列島の近畿一帯を支配した平安時代になると、右思想が、左思想より優位となってしまうのです。唐進駐軍の軍事支配の下で平安時代が、騎馬民族国ではなく、農耕民族国となった根拠のひとつとして、「右」の言葉が、「左」の言葉より優位になるだけではなく、「左」には蔑称の意味がこめられてしまうのです。
左遷(僻地にとばされること)、左官(天子を見捨てて他の諸侯に仕えること)、僻左(卑しいこと)、左前(物事が順調にいかないこと)、など「左」には劣ることの意味づけをしているのです。それに対して、右姓(尊い家柄)、右職(地位の高い官職)、右腕(もっとも信頼している部下)、など「右」には優位であることの意味づけをしているのです。
では、何故、江戸時代の寛永年間に突然現れた雛人形の配置が「左と右」とで、江戸と京都では異なっていたのでしょうか。
雛人形のルーツは、古代の形代とは何ら歴史的関係はなかったのです。それは、徳川家康の孫、第二代目将軍徳川秀忠の娘和子(まさこ)が、1616年徳川家康の死後三年して、後水尾天皇の中宮として入内し、皇子興子(おきこ)が生まれたのです。この皇子興子が、1629年に第109代女帝明正天皇となるのです。ここに、騎馬民族の徳川家康の血が流れる女帝が誕生したのです。しかし、この後水尾天皇から女帝明正天皇への譲位には、紫衣事件と春日局事件が背景にあったのです。
騎馬民族末裔の徳川家康は、1615年大阪夏の陣で、藤原氏傀儡の豊臣家を倒すと、豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を徹底的に粉砕していたのです。それは、血と肉食禁忌の漢訳仏教思想を利用して、秦氏末裔の同族を「穢多」「革多」としてイジメていたのが、百済系天皇家を裏で駆る藤原氏と亡命百済貴族末裔であったからです。
そして、徳川家康は、1611年には後陽成天皇を退位させてもいたのです。そして、天皇家の経済を支えていた、仏教僧への紫衣の着衣認定料を停止するために、「禁中並公事諸法度」により、仏教僧への紫衣着衣禁止を唱えたのです。それに対して、天皇家も仏教組織も頑強に抵抗していたのです。
その決着が付いたのが、1629年で、織田信長殺しの下手人とされてしまった明智光秀の重臣斉藤利三の娘、お福が藤原氏の流れにある三条西家の仮の一員として、宮中に参内を強行し、後水尾天皇に意見を述べ、このことにより、後水尾天皇は厭世気分となり、六歳の興子内親王に王権を譲位してしまったのです。この功績により、興子内親王の母親中宮和子より、お福は「春日局」の局号を授かるわけです。
漢訳仏教嫌いの徳川家康が仏教僧の紫衣着衣に我慢できなかったのは、紫衣とは、道教思想で、天子(てんぐり・北極星、後に「天皇」の表号となる。)の世話をする真人(まひと・北斗七星)だけが着衣できる高貴な衣であったからです。それが、道教の敵宗教である漢訳仏教僧が権威付けのために、天皇家へ多大の寄付金上納の見返りに、天皇から着衣を許されることに我慢できなかったのです。
幼くして京都で女帝となった明正天皇を気遣う母親の中宮和子(東福門院)は、娘に挿し物の掛け軸を贈ったのです。その掛け軸には、美男美女が描かれていて、左側に美女が描かれていたのです。
この天皇交代の寛永年間に、左側に女帝であるお雛様と右側にお内裏様が配置された雛人形が、北関東で作られ、江戸町で売り捌かれていくのです。これが寛永雛といわれるものです。
その寛永雛を生産する北関東とは、秦氏末裔が支配していたエド時代(1590年〜1623年)に、エド町の中心である日本橋、神田、人形町に暮していた秦氏末裔が、1635年から始まる参勤交代制のために、各国の人質を江戸に住まわすために、秦氏末裔の支配地を取上げるため、第三代目将軍徳川家光により追放された地であったのです。
その寛永雛は、享保年間になると変化を見せるのです。享保年間(1716年〜1735)年とは、第八代目将軍徳川吉宗の時代で、長吏頭弾左衛門配下の博徒や役座が副業として、同心の私的警察官の目明として江戸町の治安警察業務をしていたものを、大岡忠相(越前守)により、長吏頭弾左衛門配下から抜けた鳶職人による自警団組織の江戸町火消し「いろは組」を組織して、その「目明」を「岡引」と蔑称し、江戸町警察業務から排除した時代であったのです。
その享保年間に制作された雛人形の特徴は、男雛は太刀を差し、笏を手に持ち、そして、女雛は五衣(いつきぬ)、唐衣、そして、袴には綿を入れて膨らませていたのです。これが享保雛といわれるものです。
十八世紀後半に、その騎馬民族末裔の秦氏末裔の武器製造者が作る江戸雛人形に対抗して、亡命百済貴族末裔が暮す京都では、左側にお内裏様右側にお雛様が座る次郎左衛門雛が作られ、庶民の雛人形であったものが、公家や上級武家にも重んじられていくのです。
更に、1830年代に、その左側にお内裏様が鎮座する京雛飾りに対抗して、江戸では、七段飾りが作られるのです。その七段飾りの随身である左大臣と右大臣は、左側を上座として老武者を置き、右側を下座として若武者を置いていたのです。そして、お雛様には、ギリシャ式王冠である三樹冠を被らせたのです。
騎馬民族国では、女帝の存在は当たり前だったのです。騎馬民族色が濃かった新羅(秦羅)系天武王朝(672年〜770年)では、第41代女帝持統天皇、第43代女帝元明天皇、第44代女帝元正天皇、第46代女帝孝謙天皇・第48代女帝称徳天皇が在位していたのです。そして、天武天皇の母国であるギリシャ・ローマ文化継承国の新羅(秦羅)が女帝国であったのは、中国の歴史書にも記述されているのです。
第三代目将軍徳川家光により、北関東に追放された秦氏末裔の武具製作技術者は、漢訳仏教文化に染まった江戸町で、雛人形を作ることにより、女帝国で、左側優位思想の騎馬民族文化を伝えていたのです。
この享保雛には、騎馬民族文化の暗示を示すものがあったのです。享保年間になると、秦氏末裔の博徒や役座が江戸町警察機構から排除されたように、秦氏の騎馬民族文化が、天台宗を頂点とした漢訳仏教文化により隠蔽されてしまっていたのです。そこで、漢訳仏教思想の血・肉食禁忌により「穢多」としてイジメられていた秦氏末裔の武具製作技術者は、享保雛にメッセージを託したのです。それが雛人形のお内裏様用に太刀を出現させたのです。
日本の武人の武器のひとつとして、「かたな」があります。その「かたな」の意味は、「片刃・かたは」であったのです。その「かたな」は、奈良時代と平安時代とでは、異なっていたのです。奈良時代の「かたな」は、直刀であったのです。しかし、平安時代になると、その直刀が、反りのある「かたな」となるのです。何故、直刀が反り刀に変化したのでしょうか。
奈良時代は、唐進駐軍が、仏寺の興福寺と中臣神道の春日社を支配する祭祀氏族の藤原氏を傀儡として、近畿一帯を支配していた時代であったのです。ですから、武人が携帯する武器は、唐軍仕様であったのです。
しかし、天武天皇が始めた一世一代の、道教思想に基づいた大嘗祭から、秋の収穫祭として毎年おこなう新嘗祭を発明し、その祭りで五節舞により「藤原の女」を天皇家に提供し、天皇家を支配下に置いて増長した藤原氏は、764年恵美押勝の反乱でも分かるように、唐進駐軍を排除して、藤原氏独裁を画策していたのです。
その藤原氏が得意とする、敵を密告と暗殺とにより葬る暴虐無人の行動に見切りをつけた唐進駐軍は、下級官僚としてうらぶれていた亡命百済貴族を、藤原氏の替わりに使うのです。それが、794年平安京遷都をした、百済系桓武天皇であったのです。唐進駐軍の傀儡となった桓武天皇は、藤原日本史によれば天照大神を祖神とするところを、実父の光仁天皇を祖神として祀り、唐式の儀式により即位していたのです。
桓武天皇は、藤原氏色の強い軍団を解散して、792年健児兵制度を確立して、飛鳥ヤマトを支配していた突厥帝国軍団残党が支配する陸奥国侵略を企てるのです。それは、桓武天皇の母国百済を、663年に滅ぼした新羅(秦羅)軍団末裔も、突厥帝国軍団残党と共闘していたからです。
この後、秦氏が支配していた山背国(後の京都)を乗っ取った亡命百済貴族末裔は、新羅(秦羅)末裔の社会的抹殺を謀るため、新羅末裔の秦氏を賎民に貶め、イジメ続けていくのです。日本列島において、民族差別が京都で発生した理由のひとつが、その百済対新羅の戦いの後遺症だったのです。
陸奥国の豊富な資源を狙う唐進駐軍は、桓武天皇軍団を傀儡軍として、陸奥国侵略戦争を開始するのです。しかし、陸奥国を支配する軍団は、その祖は、ユーラシア大陸を騎馬戦で支配していた騎馬軍団末裔であったので、歩兵中心の桓武天皇の大軍団は、弓馬に優れていた少数の陸奥国軍団に翻弄され、全戦全敗であったのです。
そこで、陰謀を得意とする桓武天皇軍は、801年金髪の坂上田村麻呂を指揮官として、陸奥国軍棟梁の赤毛のアテルイを騙して、京に連れてくると、即刻そのアテルイの首を刎ねて、その首を京で晒してしまうのです。その棟梁アテルイを失った陸奥国軍団は、厭世気分となり、胆沢城以北を残し陸奥国は平定されてしまうのです。
そして、敗残兵の陸奥国兵士の多くは、人種的にチュルク系であったのでヒゲが濃いため、毛が薄いツングース系の桓武天皇軍から、「ヒゲのあるエビス」の意味の「蝦夷」と蔑称されてしまうのです。
その捕虜の蝦夷は、傭兵とされるのです。それは、唐進駐軍の母国唐は、隣国ウイグルや吐番からの侵略を受けていたからです。そこで、蝦夷をその侵略軍を阻止する傭兵軍として唐に送り込むために、近畿一帯の捕虜収容所に連行するわけです。その捕虜収容所は後に、別所、散所、湯浅、垣外などと呼ばれていくのです。
桓武天皇軍団により、陸奥国が平定されて束の間、百済系三代目嵯峨天皇になると、810年百済系二代目の平城天皇から寵愛を受けていた藤原薬子が、奈良時代の栄光を取り戻すために反乱(薬子の乱)を起こすのです。
平安初期の京は、藤原氏軍団残党だけではなく、陸奥国から連行した蝦夷が捕虜収容所から脱走したりして、治安が乱れていくのです。それに対して、嵯峨天皇は、京を護る治安警察のために、816年検非違使を置くのです。
しかし、京の都は盗賊の狼藉だけではなく、地震や雷の転変地変が頻繁に起こっていくのです。これは、桓武天皇が、実弟の早良親王を謀殺した祟りと、陸奥国の蝦夷を騙して惨殺した祟りだと言い出す者がいたのです。そこで、平安王朝は、その祟りを鎮めるために、検非違使の配下として、怨霊を鎮める「もののふ」を組織するのです。
「もののふ」の「もの」とは、仏教思想や中臣神道が渡来する前、日本列島の「精霊」であったのです。神仏の思想が渡来する前は、日本列島には精霊である「もの」が精神的に支配していたのです。その「もの」の僕(しもべ)が「もの・のふ」と呼ばれていたのです。
しかし、645年唐進駐軍と中臣族軍とにより、突厥帝国進駐軍と秦氏により支配されていた、オリエント文化の飛鳥ヤマトが壊滅すると、唐で流行っていた、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教思想が、「もの」思想を排除し、その結果、仏教の敵神である「鬼」の仲間として、「ものの怪・け」とされて山奥に追放されてしまうのです。
その漢訳仏教思想渡来の後に、中臣族により発明されたものが、ユダヤ教儀式と酷似した中臣神道で、山奥の「ものの怪」の土の家である「塚」の上に、神社を建立して、「ものの怪」を封印してしまうのです。
平安初期に、その「ものの怪」が、祟り神として、地震や落雷となって京の都を襲ってきたと、天皇家は解釈したのです。そのように平安京で怨霊思想を煽ったのが、漢訳仏教に敗れた道教から派生した陰陽師です。そこで、「ものの怪」の霊を鎮めるために、前政権の子孫により「もののふ」を組織したのです。その「もののふ」となった者が、散所や別所に収容されていた蝦夷であったのです。それは、陸奥国の蝦夷の祖は、飛鳥ヤマトの武人であったからです。
「もののふ」は、前政権の「もの」を封印している神社で、芸により怨霊を鎮めるために、兜に牛の角をモチーフとした飾りを創作し、そして、鎧を煌びやかに飾ったのです。しかし、「もののふ」は、蝦夷捕虜であったので、王権は蝦夷捕虜の反乱を恐れて、それらの兜、鎧を総革製としたのです。そして、怨霊の魂を鎮めるために、芸をおこなうためのパフォーマンス用に、チュルク系騎馬軍団の武器である反りのある短刀である蕨手刀の刃先を伸ばして、片刃のそりのある「かたな」を創作するのです。この「かたな」が、後に「日本刀」の祖と呼ばれていくのです。
それらの武具で武装する「もののふ」は、怨霊封じ込め施設である神社境内で、怨霊の御魂鎮めのための芸が「武芸」と呼ばれていくのです。その「もののふ」が、939年から941年にかけて起こった平将門と藤原純友の反乱を騎馬による武力で鎮圧したため、平安王権より、武芸者である「もののふ」が、「武士」と呼ばれていくのです。
その「武士」は、実戦向きではない、祭祀儀式のための派手な兜と鎧、そして、片刃の「かたな」で武装はしていたのですが、その「武士」の実践用武器は、弓矢と槍であったのです。「かたな」は、実践用ではなかったのです。
江戸時代、京都で発生した「かぶきもの」による「ややこ踊り」は、ポルトカル人が北アメリカから持ち込んだ風土病の梅毒と供に、江戸町で流行すると、秦氏末裔の能舞台を乗っ取り、そこで、女歌舞伎を興行し、梅毒を流行させるのです。
それに対して、江戸幕府は、女歌舞伎を禁止すると、次に、若衆歌舞伎となるのですが、梅毒の流行は止められなかったのです。そこで、幕府は、中年男性による野郎歌舞伎だけを許可するのです。「春」を売れない野郎歌舞伎は、生き残るために、中国の京劇を真似た隈取による化粧や、寸劇からストーリー性のある演劇を開発していくのです。
公家が多く暮らす京都と異なり、江戸は参勤交代のための各国の人質がいるため、それらを警護する、壮年の武人で溢れていたのです。その武人相手の演劇のテーマは、武闘物が好まれたのです。
演劇は、実際の生活のストーリをデフォルメして表現するわけです。しかし、1543年鉄砲伝来以前の戦闘では、弓矢と槍が主な武器で、儀式用「かたな」は、実戦では使われていなかったのです。しかし、狭い演劇小屋の舞台での戦闘場面では、弓矢と槍を用いての戦闘の再現はできません。そこで、演出家が、「かたな」による戦闘場面を取り入れたところ、評判がよかったのです。そこで、演劇で、「かたな」による戦闘場面が定着すると、戦国時代以前を知らない民衆は、「武士」は、実戦では弓矢と槍が主武器であったものが、「かたな」を主武器として戦闘していたと勘違いしていくわけです。
そして、第三百済時代の江戸町は、武断統治政策から文治政治となって久しいので、1651年由比正雪の乱の由比正雪の開いた道場では、実践用の槍術であったのに、「武士」が排斥された江戸町の道場では、「剣術」となってしまったのです。このような「演劇」と「剣術道場」により、「武士」は「かたな」で戦闘をしていたと誤解されて現在に至るのです。
「日本刀・かたな」を製造するための鉄器製造技術は、紀元前14世紀のヒッタイト帝国で発明された鍛造法の鉄器製造法が、騎馬民族スキタイに伝承し、その鍛造鉄器製造法が東進し、中央ユーラシアのタタールを経由して、朝鮮半島に伝播し、そこから技術集団秦氏と供に日本列島に伝来し、「タタラ製鉄」技術として定着したのです。
オリエントから渡来した秦氏末裔である蝦夷の武器は、蕨手刀から改良された儀式用武器の「日本刀」となり、武芸者である「もののふ」の「魂」となったのです。そして、その後、その武士の「かたな」は、戦闘で倒した敵将の首を落とすための、神聖な「武器」となったのです。
江戸時代、享保年間に出現した雛人形に、その「日本刀」を、お内裏様に携帯させた意味は、それは、北関東に暮す雛人形職人である秦氏末裔が、キリシャ式三樹冠を被せた女王をお雛様とし、そのチュルク系騎馬民族の武器である蕨手刀から改良した「日本刀」でお内裏様を「武士」として表現していたのです。
この秦氏の騎馬民族・オリエント文化を表現した享保雛の出現は、平安時代の810年に「古事記」が出現したことと同じです。それは、秦氏末裔の多人長が著述した「古事記」は、645年オリエント文化の飛鳥ヤマトを乗っ取り、そして、北九州から移築した仏寺により、その地を仏教伽藍で埋め尽くし、720年藤原不比等が創作した「日本書紀」により、仏教伝来552年と飛鳥ヤマトの歴史を改竄し、その「ウソ」をつく為に創作された女帝推古天皇(593年〜628年)以前の歴史を否定するためのもだったのです。
では、ギリシャ式女王冠とチュルク系騎馬民族の武器から改良された「日本刀」を出現させた享保雛は、どのような歴史を否定するために創作されたのでしょうか。
この享保雛が出現した享保年間とは、第八代目将軍徳川吉宗が、未だ健在の騎馬民族末裔の徳川家康の血統である「御三家」の根絶やしを開始した時代だったのです。
1603年天下を盗った徳川家康は、戦国末期に豊臣家を傀儡とした藤原氏や、亡命百済貴族末裔の百済平氏からの反撃を防ぐために、1607年徳川家康の九男徳川義直を尾張家、十男徳川頼宣を紀州家、そして、1609年十一男徳川頼房を水戸家として、その「御三家」を、徳川家康幕府の中枢としていたのです。その「御三家」の使命は、秦氏末裔の「武士」の幕閣とは別の立場から将軍を補佐し、宗家に嗣子のないときはこれを継承することだったのです。
しかし、1623年百済の血が流れる徳川家光が第三代目将軍になると、天台宗系怪僧天海、そして、明智光秀一派末裔の春日局との陰謀により、秦氏末裔の源氏武士と騎馬民族末裔の徳川家康の血統の抹殺を図られるのです。
その手段が、1635年参勤交代制や、「末期養子の禁」で、徳川家康の忠臣である源氏武士末裔の大名家の断絶、そして、秦氏末裔の源氏武士狩りである、1651年の「由比正雪の乱」の演出だったのです。
しかし、徳川家康直系の「御三家」の血統抹殺計画の実行は、第八代目将軍徳川吉宗の時代(享保年間/1716年〜1735年)まで待たなければならなかったのです。
第八代目将軍徳川吉宗は、その手始として、1717年大岡越前守を江戸町奉行に登用し、1720年長吏頭弾左衛門配下から離脱した「鳶職人」による自警団組織の火消し組織の「いろは組」を創設し、秦氏末裔の長吏頭弾左衛門配下の博徒や役座による「目明」である同心の私設警察官の、江戸町警察機構からの排除をおこなったのです。これにより、エド時代から徳川家康体制を裏社会から支えていた、役座による江戸町警察組織が壊滅するわけです。
その第八代目将軍徳川吉宗が開始した、徳川家康が創設した「御三家」の壊滅計画は、第十一代目将軍徳川家斉により完成するのです。それが、「御三家」に替わる、「御三卿」です。
「御三卿」とは、徳川家康の支族で、田安家、一橋家、そして、清水家のことです。この「御三家」と「御三卿」とは、徳川家康の威光が消え、そして、その徳川家康の威光を裏社会から支えていた長吏頭弾左衛門の権勢が削がれ、「長吏頭」を「穢多頭」と蔑称された江戸中期になると、対立関係となっていたのです。
勿論、第三百済王朝の江戸中期では、百済系「御三卿」の権勢が、騎馬民族系「御三家」を圧倒していたのです。
その「御三卿」の創設は、第八代目将軍徳川吉宗が、次男宗武に田安家を、そして、四男宗尹に一橋家を創設させたのです。そして、第九代目将軍徳川家重が、次男重好を初代とし清水家を創設させることにより、ここに、騎馬民族末裔の徳川家康の「御三家」に対抗する、百済系の「御三卿」が歴史上登場するわけです。
そして、第十一代目将軍徳川家斉の時代(1786年〜1837年)には、徳川家康の血統を最後まで護っていた「御三家」の尾張家の血統が根絶やしにされていたのです。
藤原日本史のトリックは、鎌倉時代を源氏支配と錯覚させたのと同様に、江戸時代に「御三家」が江戸末期まで存続していたと錯覚させたことです。
鎌倉時代は、秦氏末裔の源氏武士が支配したのは、源氏棟梁の源頼朝、源頼家、そして、源実朝の三代(1192年〜1219年)までで、その後は、百済系平氏末裔の北条氏が、騎馬民族蔑視思想を内在する「法華経」を布教する、百済系天台宗の漢訳仏教思想を利用して、秦氏末裔を不可触選民「穢多」として貶めて、1333年まで支配していたのです。
江戸時代は、秦氏末裔の源氏徳川氏が支配したのは、徳川家康、そして、徳川秀忠の二代(1603年〜1623年)までで、その後は、百済系徳川家光の血統が、百済系天台宗の怪僧天海が創設した第三百済王朝となり、漢訳仏教思想の「法華経」などにより、肉食する騎馬民族末裔である秦氏末裔を不可触選民「穢多」として貶めて、1867年まで支配していたのです。
第三百済王朝の江戸時代では、「おサムライ様」はあっても、「お武士様」はないのです。それは、「サムライ」の祖は、平安時代初期に中国山東半島からの亡命百済移民の子弟が、第一百済王朝である平安京で、亡命百済貴族を、側で「侍い・さぶらい」する秘書兼警護使であったからです。
それに対して、「武士」の祖は、オリエント文化の飛鳥ヤマトの武人を祖とする陸奥国蝦夷で、「もののふ」の武芸者であったからです。その「武士」の歴史により、第三百済王朝では、「武士」は、「俘囚の末裔」と蔑まされていくのです。そして、「サムライ」により江戸幕府機構から排斥された「武士」は、「野武士」や用心棒となり、明治革命まで生き延びていくのです。
その明治革命に至る歴史において、藤原日本史では、その明治革命の陰の主役であるイギリス東インド会社の存在を無視して、薩摩藩と長州藩を中枢とした官軍(?)により江戸幕府が倒れたと記述しているのです。
その薩摩藩の南九州は、鎌倉初期に源頼朝により、藤原氏の荘園であった島津荘を賜った秦氏末裔が多く暮らす地であり、そして、飛鳥ヤマト時代以前では、藤原氏の祖である中臣族が、南インドのマラバル沿岸から渡来した坊津があるのです。そして、長州藩には、秦氏末裔の海洋民族の源氏武士である松浦族末裔が多く暮らす地でもあったのです。
その薩摩藩と長州藩には、江戸中期以降、漢訳仏教思想の血・肉食禁忌により不可触選民「穢多」としてイジメられていた、秦氏末裔が多く暮していたのです。
その長州藩の地に、1776年イギリス王国から独立したアメリカ合衆国で不要になった最新式銃を満載した船で、1863年イギリス東インド会社のエージェントが渡来したのです。そして、同年7月そのイギリス軍艦は、薩摩を砲撃し、薩英戦争が勃発したのです。イギリス海軍に砲撃された長州藩と薩摩藩がともに、倒幕の中枢軍となったのは、何を意味しているのでしょうか。
八世紀、カスピ海沿岸を支配していた国際交易国ハザールは、西の東ローマ帝国と東のイスラム帝国との戦闘に巻き込まれることを避けるために、弱小宗教組織のユダヤ教に改宗して、ハザール人はユダヤ教徒に変身するのです。
紀元前932年唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族は、太陽神バアルと太陽神化身の牡牛を屠るイスラエル民族と袂を分けると、ユダ王国を興したのですが、隣国の侵略を度々受けても、かろうじてユダヤ民族は、その血統を保っていたのです。しかし、イスラエル民族は、紀元前722年アッシリア帝国に破れると、それ以降、その十部族で構成するイスラエル民族は歴史上消えて現在に至るのです。
そのユダヤ民族は、人種的にセム族系の有色民族であったのです。しかし、八世紀にユダヤ人となったハザール人は、人種的には白系チュルクであったのです。その白系チュルクのユダヤ人は、本来の有色ユダヤ人から、白いユダヤ人と呼ばれていくのです。
その白いユダヤ人は、国際交易商人であったので、古来から全世界にそのネットワークを持っていたのです。ここに、国際的な金融組織を持つユダヤ人が出現するのです。
このことにより、八世紀以前、イスラム民族と細々と共存していた有色ユダヤ民族は、白いユダヤ人が加わることにより、国際的ユダヤ民族となり、世界の歴史に影響を与えていくのです。
1600年、海賊貿易で隆盛するプロテスタントのイングランド王国は、ローマ・キリスト教のイスパニア王国の東アジア支配国を奪取するために、イギリス東インド会社を設立し、東インド経営に乗り出すのです。
未知の国を軍事支配するには、その国の情報が必要です。それには、現地の支配層を取り込めれば、その現地支配層から貴重な情報を取れるだけではなく、その支配層を傀儡として情報発信もできるわけです。そこで、その仕掛けとして、イギリス王国を裏から支配する国際金融組織は、その異国での情報収集の手先組織として、1716年国際秘密結社フリーメーソンを設立するのです。
戦国末期、織田信長を軍事的支援をしてきたイエズス会が、その援助と統制が乱れた原因は、イエズス会を軍事・資金的に援助していたイスパニア王国の無敵艦隊が、海賊交易立国のイングランド王国の海軍に、1588年壊滅されていたからです。このイスパニア王国の無敵艦隊が、イングランド海軍に敗れたことにより、世界の海上権がイングランド王国に移っていくのです。
イングランド王国は、イスパニア王国の支配地であったインドを、1757年ブラッシーの戦いにより支配下に置くのです。更に、イエズス会の中国・日本列島布教(侵略?)基地であったマカオに進出すると、インドで仕入れたアヘンを清帝国に売りつけることにより、1840年アヘン戦争を起こすのです。
そのように、遠い異国で戦争がおこなえたのは、1694年国際金融組織の援助でイングランド銀行を設立して、広く諸外国から金集めができたからです。戦争は、膨大な資金がなければできない「事業・ビジネス」であるからです。
イギリス船が、日本に渡来したのは、1613年長崎で、徳川家康が通商許可を与えたため、平戸貿易が始まったのです。しかし、徳川家康の顧問であるオランダ人ヤン・ヨーステン(日本名は耶揚子。東京の「八重洲」の語源)の忠告で、イギリスによる東インドでの海賊交易の実態を知ることにより、イギリスなどの西欧船の来航は、平戸と長崎に制限したのです。
この徳川家康の貿易制限の処置がなかったならば、日本列島は、イギリス交易船により、清帝国のように、アヘンを日本列島に持ち込まれ、アヘン列島になっていたかもしれないのです。しかし、イギリス平戸商館が閉鎖されたのは、徳川家光が第三代目将軍となった1623年であったのです。
イギリスの東アジアでの国際交易の基本は、イギリスから羊毛・木綿製品をインドに持ち込み、その商品をアヘンと交換し、そのアヘンを中国で売り捌き、金・銀を手に入れて、それをイングランド銀行に貯金するわけです。その国際交易の中枢が、イギリス東インド会社であったのです。その会社員の中には、フリーメーソン結社員がいたことは勿論です。
オランダ人を顧問とした徳川家康により、日本との交易を制限されたイギリス交易商人は、鎖国体制の江戸幕府が揺らぐのを、イエズス会から引き継いだ極東侵略基地のマカオでじっと待っていたのです。
1776年7月4日フリーメーソン結社員を中枢とした、イギリス王国への反乱軍は、アメリカ植民地独立戦争に勝利すると、トマス・ジェファーソンが起草者となり、アメリカ十三州の独立宣言をおこなうのです。そして、同年、紙幣委員会が設立され、アメリカ合衆国の通貨である一ドル札のデザインが、フリーメーソン結社員であるベンジャミン・フランクリン等によって決定されるのです。
今、米一ドル紙幣を持っているひとは、その裏側をながめてください。その左側には、ピラミッドがあります。そして、そのピラミッド上方には、目が描かれているのがわかります。この目のあるピラミッドが、フリーメーソンのシンボルマークなのです。
更に、そのピラミッドの上と下に文字が、書かれているのがわかります。しかし、その文字は、英語ではなく、ラテン語です。何故、アメリカ合衆国の基本通貨である一ドル札に、目のあるエジプトのピラミッドとラテン文字があるのでしょうか。
実は、この一ドル紙幣のピラミッドマークと文字には、フリーメーソンのメッセージが隠されているのです。
上の文字は、「ANNUIT COEPTIS」、とあり、下の文字は、「NOVUS ORDO SECLORUM」、とあります。そして、ピラミッドの階段は、十三段です。これらのメッゼージは、一体何を表しているのでしょうか。
ピラミッドの十三階段は、アメリカ合衆国の十三州だと解釈するには、単純すぎます。それは、その後、アメリカ合衆国十三州は、イスパニア、フランス、そして、メキシコの領土を奪い取って、合衆国数は増えていったからです。だったらフリーメーソンの階級かと言えば、最高階級は33階位であるので、それも違います。
実は、それらのピラミッド十三階段と、ふたつの文字を繋ぎ合わせると、ひとつのメッセージとなるのです。
そのメッセージとは、十三階段は、紀元前十三世紀のユダヤ二部族とイスラエル十部族の十二部族に、紀元八世紀に新しくユダヤ教に加わった国際交易国家のハザール人を第十三部族とし、ハザール人のユダヤ第十三部族が、NOVUS ORDO SECLORUM「新しい世紀の秩序」を創る、ANNUIT COEPTIS「我々の計画に同意せよ」、となるのです。つまり、「白いユダヤ人が、新しい秩序を創る。我々の計画に同意せよ。」、となるのです。
因みに、何故、エジプトのピラミッドが、フリーメーソンのシンボルマークかと言えば、ユダヤ教の神、唯一神ヤハヴェは、紀元前十四世紀の古代エジプトで、アメンホテプ四世がおこなった、性急な宗教改革で、ヒッタイト帝国から持ち込んだ太陽神ミトラから改竄した、唯一神である太陽神アトンから変身した神であったからです。
このフリーメーソンのメッセージが書かれた一ドル紙幣が、この後、国際金融組織に支援されたエージェントにより世界にばら撒かれ、世界の歴史に影響力を与えていくのです。
勿論、日本列島も、その例外ではなかったのです。フリーメーソン結社本部があるイギリスの金融を支配するイングランド銀行の支援で、1882年「株式会社日本銀行」が設立されたのです。そのことにより、日本国は、隣国と国際戦争ビジネスができるようになり、1894年日清戦争、そして、1904年日露戦争ができたのも、イングランド銀行の金融支援があったからです。そして、日本国政治の中枢建物、国会議事堂の屋根を「ピラミッド」としたのです。
その不可解な近代日本国の歴史の流れの源流が、江戸時代にあったのです。
その頃の日本列島では、江戸時代中期の頃で、漢訳仏教思想の血・肉食禁忌により、庶民を統括していたことに疑問を持つ者が現れてくるのです。
江戸時代の第三百済王朝の手先となり、庶民を農耕民族の良民と騎馬民族の賎民に民族差別して、「穢多寺」など発明して、寺請制度で縛りつけていた百済系天台宗思想に疑問を持った者のひとりが、禅宗の白隠禅師です。
白隠禅師は、騎馬民族を差別する無数にある仏典には「悟りを得るためのものは何もない。」、と宣言するのです。それ以前にも、大阪の醤油屋の富永仲基は、「出定後語」で、お経の文言を研究しているうちに、その矛盾に気づき、後人が先人の説に自説を加えてお経を創作したとの「加上説」を唱えていたのです。
そのように、第三百済王朝を支える漢訳仏教思想に疑問を持った本居宣長は、平安時代の810年から埋もれていた埃まみれの「古事記」を引っ張り出して、その「古事記」には、渡来宗教である漢訳仏教世界などとは異なる「誠の日本原風景が描かれている。」と誤認してしまい、「まほろばの世界」を、描くことを思いつくのです。
それが、1778年「古事記伝上巻」となるのです。「古事記伝」上巻、中巻、下巻は、二十年の歳月をかけて、1798年に完成するのですが、その原著者である、秦氏末裔の多人長の意図とは別物となっていたのです。
多人長は、藤原氏が創作した「日本書紀」での仏教文化が発祥したと言う飛鳥ヤマト時代の歴史物語を否定するために、日本列島の最初の天皇が、騎馬民族系で、新羅系の天武天皇であることを示すために、812年「古事記」三巻を「サイファー式暗号」で著したのです。
しかし、その多人長の意図に気づかなかった本居宣長は、「藤原氏のトリック」に引っかかり「古事記伝」を著してしまったのです。この本居宣長が創作した「古事記伝」44巻により、日本列島の歴史が、藤原日本史として再度認識され、現在に至るのです。
特に、庶民に強い影響力を発揮した、日本神話は、奈良時代ではなく、江戸時代の本居宣長により創作された、と言っても過言ではないのです。
多人長は、藤原氏が創作した日本列島の誕生を説明する神話物語を否定するために、「日本書紀」の始めに出演する神の国立常命を、「古事記」では、始めの出演神を天御中主命としたのです。何故、国立常命ではなく、天御中主命かといえば、その神は、天の真ん中にいる神だからです。
その「古事記」に最初に出演した神の天御中主命とは、「北極星」のことであり、天武天皇が、672年壬申の乱により、663年母国百済を唐・新羅軍に滅ぼされた、亡命百済王朝である近江朝を武力で倒し、その戦いで赤旗をたなびかせて大いに貢献した、アラブから渡来の海洋民族の支配地である伊勢に、685年祠(道観)を建てたのです。そして、その伊勢の祠で、天神を祀る道教思想から発明した一世一代の大嘗祭により、北極星から天命を受けて、騎馬民族の神「天子」(テングリ)から、日本列島初の「天皇」として即位していたのです。
唐進駐軍が支配した奈良時代、藤原氏は、その伊勢に建つ道教式の祠(道観)を徹底的に破壊して、その跡に、藤原氏の中臣神道思想で伊勢神宮を建立し、「太一」である北極星を、太陽神天照大神に摩り替えていたのです。その摩り替えを隠蔽するための物語を、「日本書紀」に挿入したのが、多人長が「古事記」で否定した「天照大神の神話物語」であったのです。そして、藤原氏は、その天照大神の天岩戸物語で、こっそりと藤原氏の祖とする天児屋根命を出演させるのです。
そのようにオリエント文化であった飛鳥ヤマトを、藤原氏が創作した天照大神の世界があったと誤認してしまった本居宣長により創作された「古事記伝」での「大和神話物語」により、まほろばの飛鳥ヤマトは、伊勢神宮の天照大神が守護する都となってしまって、現在に至るのです。
この本居宣長が著した「日本神話」が流布した頃の日本列島では、伊豆大島の噴火、九州大隈桜島の噴火、関東大洪水、浅間山の噴火など、天変地変がおこっていたのです。このような自然現象をとらえ、天台宗を中心に騎馬民族を賎民として差別していた漢訳仏教に抵抗する勢力が現れたのです。
それが、1787年米価高騰を原因とする天明の打ちこわしです。不思議なのは、大阪と江戸とが連動するように暴動がおこっていたのです。この後、何度も暴動が起こるのですが、それらも大阪と江戸とが同調していたのです。何故でしょうか。
その天明の打ちこわしの暴動が起こる十数年前、長崎の出島に渡来していたオランダ人により、蘭学が盛んとなり、日本各地に蘭学校が設立されていたのです。そのオランダの蘭学者の多くは医者であったのです。
漢訳仏教伝来時でも、仏教僧は「医術師」として、日本列島に渡来していたのです。そして、寺子屋で勉学をおこなっていたことは、オランダ人の蘭学者と同じです。異教国に潜入する手段は、古代も近代も同じだったのです。
そのオランダ人の医者には、医学の普及とは別のミッションが、ある組織から与えられていたようです。1774年前野良沢と杉田玄白は、オランダ人の医師から入手した人体解剖図を教科書として、長吏頭弾左衛門の処刑場である小塚原で、弾左衛門配下の「穢多の老人」が解剖した人体内臓をスケッチし、「解体新書」を著していたのです。
その翌年、ツンベルグがオランダ館の医師として渡来したのです。そのツンベルグの生徒である長久保赤水は、1779年日本與地路全図を作成したのです。そして、そのツンベルグは、医療活動の傍ら、日本列島の植物を観察し、それを記録していたのです。オランダ人医師は、鎖国の日本列島で、「何を」目的に渡来していたのでしょうか。
1828年オランダ人医師シーボルトは、江戸幕府からスパイ容疑を受け、翌年日本国から追放されたのです。その容疑は、伊能忠敬が作成した日本国全図を模写し、オランダへ持ち出そうとした、ということです。
しかし、伊能忠敬が作成した日本国全図の模写図は、日本から持ち出されていたのです。そのシーボルトにより持ち出され日本地図を、1853年浦賀に渡来した米使ペリーが持っていたのです。不思議なのは、そのペリーの艦隊は、アメリカから直接日本の浦賀に渡来したのではなく、わざわざマカオを経由して渡来したのは、何かの意味があったのでしょうか。それは、オランダ人とアメリカ人、遠い異国を結ぶものが、秘密結社の存在だったのです。
1865年摂津と隠岐に打ちこわしの暴動がおきると、その翌年江戸と大阪に同時に打ちこわしの暴動が起きるのです。その江戸と大阪に暴動が起きた頃、薩摩藩と長州藩との連合が成立したのです。
その薩長連合成立以前、1854年日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約と、諸外国と立て続けに侮辱外交によりおこなわれた条約に対して、屈辱を感じた下級武士は、攘夷を唱え始めていたのです。その先鋒のひとつが、秦氏末裔が多く住む長州藩であったのです。
1862年生麦事件でのイギリスに対しての江戸幕府の屈辱的外交に対して、攘夷論が最高潮に盛り上がっていくのです。その延長線上に、1864年の長州征伐があるのです。この事件は、長州藩の謝罪で終わるのですが、長州藩の下級武士の攘夷の勢いは止まらなかったので、翌年、第二次長州征伐がおこるのですが、第十四代目将軍徳川家茂(いえもち)の死去により再征伐が中止になっていたのです。
その薩長連合成立の翌年、ええじゃないか運動が、名古屋に起こり、全国各地に広がっていくのです。そのええじゃないか運動の中心が、平安時代から神仏習合で仏寺が多くあった、そして、平安時代から約千年間も百済系天皇家が正式参拝していなかった、「穢れ地」にある伊勢神宮(無数にある建物の総称。)だったのです。そのええじゃないか運動が起こる前、伊勢にあった無数の神仏習合の仏寺が綺麗に整理されていたのです。
何故、伊勢のお札が最初に降ったのが、名古屋だったのでしょうか。名古屋とは、徳川家康の血統を継ぐ、徳川御三家の尾張家の支配地であったのではないでしょうか。その尾張家の地から、民衆を巻き込む倒幕運動が開始された原因は、第七代目将軍徳川家継まで遡るのです。
騎馬民族末裔の徳川家康の血統は、第二代目将軍徳川秀忠までで、第三代目将軍徳川家光は、百済系であったのです。その徳川家康が、騎馬民族の血統を絶やさないように、九男義直を尾張家、十男頼宣を紀伊家、そして、十一男頼房を水戸家の御三家で保とうとしていたのです。
しかし、天台宗系天海と春日局に担がれた第三代目将軍徳川家光は、騎馬民族の血統を抹殺するべく、徳川家康の忠臣であった騎馬民族末裔の源氏武士を江戸幕府機構から排除すると、その家光の意思を後継者に伝えていたのです。
徳川家光が、咳気の大病を患ったことを知った徳川家康の九男の尾張家初代の徳川義直が、幕府の許可を得ずして、江戸に家光を見舞いに行くことを、途中の関所で咎められ、江戸に見舞いにもいけずに名古屋にもどったのです。その尾張家初代の徳川義直の行動に、徳川家光は、「尾張家は隙あらば将軍職を狙う。」と吹聴して、以後、尾張家から将軍を招くことを忌避することに決定していたのです。
そのように百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光により、騎馬民族の血を止められた二代目尾張家の徳川宗春は、第三百済王朝の基盤を確立した第八代目将軍徳川吉宗の倹約令に逆らっていたのです。その結果、尾張家の当主徳川宗春は、蟄居謹慎を受け、二十五年も幽閉生活の後、この世を去ったのです。そして、その徳川宗春の墓石には、ええじゃないか運動が起こる幕末まで、金網が被せられていたのです。
そして、第十三代目将軍徳川家斉の時代、騎馬民族の血が流れる尾張徳川家の血統が抹殺されていたのです。その騎馬民族の血が流れる「御三家」に替わり、百済の血が流れる田安家、一橋家、そして、清水家の「御三卿」が、第三百済王朝を幕末まで支えていくのです。
その名古屋は、第三代目将軍徳川家光が、源氏武士の大名家の経済を疲弊するために考え出した、参勤交代の上洛行程で、避けて通った「穢れ地」でもあったのです。
「穢れ地」に立つ伊勢神宮、「穢れ地」名古屋でのええじゃないか運動、この仕掛けは、誰が考え出したのでしょうか。そして、そのええじゃないか運動の延長線に、1867年明治革命が勃発するのです。
この江戸末期から明治革命にかけての歴史が、明治維新で復活した藤原氏(近衛家)を中心として改竄されたのは、645年オリエント文化の軍事都市飛鳥ヤマトで、唐進駐軍と中臣族軍(藤原氏の祖)により突厥帝国進駐軍王朝を壊滅した後、720年の奈良時代に藤原不比等が「日本書紀」を創作して、建築基準軸が南北軸より西に約二十度傾いていた、太陽神ミトラ信仰民族の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、北九州から移築した南北軸の「法隆寺」などで、仏教文化発祥の地と改竄したことと同じです。
歴史教科書で、幕末から明治維新への流れが歴史改竄物語で述べられている根拠として、二つの言葉があります。それは、「神社」と「志士」です。
「神社」は、「ジンジャ」で、「志士」は、「シシ」と読むのですが、その二つの言葉は、明治革命後に「発明」されたものなのです。
それは違う、「神社」、の言葉は、古文書にあるではないか、と言っても、その古文書での明治革命以前の発音では、「ジンジャ」ではなく、「モリ」、とか「ヤシロ」「ホコラ」と発音していたのです。
そもそも、1017年の平安時代に本地垂迹説が発明されて以降から明治革命以前まで、神社(モリ・ヤシロ)は、仏寺に習合され「神宮寺」として存続していたのです。903年藤原氏より謀殺された菅原道真を祀る社(ヤシロ)は、天満神社(ジンジャ)ではなく、天満宮(グウ)であったのです。つまり、神社(ジンジャ)とは、明治革命後に発明されたものなのです。1869年明治革命での死者を祀るために、九段に建立されたのは「招魂社」で、「ジンジャ」と呼ばれていくのは、明治維新から少し経った後であたのです。それが、靖国神社(ジンジャ)です。
では、「志士」はどうか、「勤皇の志士」などの言葉が、歴史教科書にあるではないか、と言っても、その「志士」を説明する、角川書店の「日本史辞典」一版、二版での「坂本竜馬は幕末の志士」が、平成8年発刊の第三版では、「幕末の倒幕運動指導者」とあるのです。何故、「志士」が、「指導者」となってしまったのでしょうか。
その謎解きは、その「志士」なる言葉は、明治革命以降に、明治革命の歴史を創作した人達により改竄されたものが、平成時代になり、その「志士・シシ」の本来の意味が分かったからでしょう。
その「志士」といわれるひと達は、薩摩藩や長州藩の官軍側の武人で、敵側の百済系徳川家の忠臣会津藩士から、有志と自称する「浮浪の徒」、と蔑視されていたのです。このことは、江戸時代の第三百済王朝で、江戸幕府を支配した百済系「サムライ」により、江戸幕府機構から追放された秦氏末裔の「源氏武士」が、「俘囚の末裔」と蔑視されたことと同じです。
では、会津藩士が、長州や薩摩の武人を蔑称した「志士・シシ」とは、何を意味していたのでしょうか。その「シシ」の語源は、唐進駐軍の後ろ盾により、亡命百済貴族が、陸奥国を支配していた騎馬民族を平定した、平安時代まで遡るのです。
弥生時代、古代オリエントから日本列島に渡来していた、太陽神ミトラを祀るため太陽神化身の牡牛を屠る秦氏により、奈良時代まで続いていた「血の祭祀」儀式は、平安時代にはゾロアスター教の儀式を導入した漢訳仏教の「火の祭祀」儀式により抹殺されたのですが、その秦氏の「血の祭祀」儀式の一部は、芸能として、今日まで細々と続いているのです。それが、獅子舞です。
獅子舞には、中国の獅子舞と日本の獅子舞があります。しかし、その獅子の顔が明らかに異なるのです。中国の獅子舞の獅子の顔は、竜です。しかし、日本の獅子舞の獅子の顔は、竜ではありません。
では、日本の獅子舞の獅子の顔は、何を象徴しているのでしょうか。「獅子」とは、イノシシのシシで、「シシ」とは、「野獣の総称」です。
平安時代に突然現れた獅子舞とは、平安王朝より貶められ、「秦楽」が「猿楽」と言われたように、野獣踊り(シシ踊り)、と言われていたのです。そして、その獅子頭とは、ミトラ教での太陽の化身、牡牛の「牛頭天皇」を隠蔽していたのです。ですから、その獅子の顔は、竜ではなく、牛に似ているわけです。
では、正統獅子舞での、胴体となる布の模様が忍冬唐草であるのは、何故でしょう。この獅子舞の歴史を辿ると、王権に隠された、騎馬民族の歴史が現れてくるのです。
獅子舞に使われる胴体となる布の模様の忍冬唐草模様とは、その発祥はどこなのでしょうか。その起源は、古代エジプトと言われています。
その唐草模様とは、蔦が四方に伸びるウコギ科キヅタの植物を図案化したものです。その古代エジプトで図案化された唐草模様は、紀元前五世紀の古代ギリシャのパルテノン神殿の、エンタシスと言われるアカイヤ式円柱の遺跡に認められます。この中央が少し膨らんだ柱、エンタシス柱は、日本の法隆寺の柱にも認められます。
奈良の法隆寺が、ギリシャ文化渡来の北九州筑紫(秦王国)から移築された根拠のひとつが、そこにあります。
そのギリシャでの唐草模様は、アレクサンダー大王(紀元前336年〜紀元前323年)により、東方へもたらされ、ギリシャ文化を継承したバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)に至るのです。
そのバクトリアでの唐草模様は、バクトリアの衛星国である秦国(紀元前221年〜紀元前206年)を経て中国の呉国(222年〜280年)から朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国新羅(356年〜528年)を経由して、九州筑紫(527年〜528年、藤原日本史では、「筑紫国造磐井の反乱」とする。しかし、国造制度は、六世紀後半に現れ、この頃にはなかった制度。)に上陸するわけです。
このことを裏付けるように、七世紀前期と思われる、宇佐八幡境内から発掘された軒平瓦には、唐草模様が描かれていたのです。その宇佐とは、「秦王国」(後に簒奪王権により「豊国」と改竄される。)があった地域だったのです。その九州の秦王国を、608年渡来した隋使は、「その地は華夏(中国)と同じ文化である。」、と隋帝に報告したことが「隋書」で述べられているのです。
唐草模様の渡来ルートは、七世紀前期九州筑紫←ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)←中国呉国←秦国←バクトリア←古代ギリシャ←古代エジプト、となるわけです。
その古代オリエントから渡来した唐草模様のある獅子舞は、平安時代に突然現れ、野獣踊りと言われ、百済系王権により秦氏の祭祀場から追放された、河原者によりおこなわれていたのです。つまり、河原者とは、会津藩士が言うように、「浮浪の徒」であるのです。
その河原者の祖は、奈良時代の秦氏末裔の祭祀者だったのです。唐から漢訳仏教を持ち込んだ百済系平安王朝により、秦氏の太陽神ミトラを祀る祭祀場の比叡山や、山背国(秦王国)の太秦の蜂丘(岡)寺などの「血の儀式」をおこなう祭祀場から、中洲の河原に追われた者が、河原者と言われたわけです。
その秦氏の「血の儀式」をおこなう祭祀場である「蜂岡寺」が、藤原氏や亡命百済貴族により改竄され、「日本書紀」の仏教伝来物語により、秦河勝が、聖徳太子の命により、弥勒菩薩を安置するために「広隆寺」を建立した、と改竄されていたのです。
因みに、国宝第一号と云われる、歴史教科書に写真が掲載されているアルカイックスマイルと云われる「弥勒菩薩像」は、「聖徳太子」の古来から保存されていたものではなく、明治革命後に、何処かで発掘された原型を留めていないボロボロの像を、明治の仏像職人の感性により「復元」されたものであったのです。
明治革命で活躍した「シシ」とは、藤原日本史が述べるように「志士」などではなく、秦氏末裔の「河原者」のことであったのです。
ですから、騎馬民族末裔の血が流れる初代将軍徳川家康の系統を断った、百済の血が流れる第三代目将軍徳川家光の異母弟と云われる保科正之を始まりとした、百済系王朝の天皇家を京都で守護する百済系の「サムライ」である会津藩士は、その平安時代から河原者の賎民として貶められていた秦氏の歴史を知っていたからこそ、明治革命で活躍した薩摩や長州の秦氏末裔の「源氏武士」末裔の武人を、「有志と自称する浮浪の徒」と蔑視していたのです。
坂本竜馬は「幕末の指導者」なのではなく、「幕末のシシ=河原者」であったのです。そのような、「志士」ではなく、「シシ・河原者」の眼から、もう一度、幕末から明治革命までの流れを眺めて見ましょう。そこには、藤原日本史が爽やかな物語で綴った明治維新の裏に、どのような歴史があったのでしょうか。  

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