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白石晃士 超・悪人 2011年 アートポート
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/642.html
投稿者 中川隆 日時 2016 年 5 月 27 日 10:07:13: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: グロテスク UNRATED VERSION 2009年 ジョリー・ロジャー 投稿者 中川隆 日時 2016 年 5 月 14 日 16:07:54)

白石晃士 超・悪人 2011年 アートポート

超・悪人 動画
http://mhometheater.com/2014/09/japanesepainting/20867.html


監督・脚本:白石晃士


キャスト

宇野祥平
高橋真由美
清瀬やえこ
しじみ
久保山智夏

とある実録犯罪系雑誌の編集部にある日、1本のビデオテープが届く。
そこには、過去10年間に107人もの女性を強姦したと豪語する自称「悪人」の男からの告白と、ある強姦殺人事件の一部始終が収められていた。

編集者の白石とルポライターのヤエコは、その男を取材するため指定された場所へ向かうが……。

_____


男がカメラに向かって話しかけている。

ジャンパーを羽織り、厚手の手袋をはめ、風変わりなサングラスをした坊主頭のその男は、手にしたハンディカムをあらぬ方へと向ける。どうやらそこはマンションの一室であるらしい。

女がいる。

部屋主と思しきその女はガムテープで拘束され、その顔は恐怖に泣き濡れている。だが男はかまうことなく品のない言葉で女に告げる。

 自分が強姦魔であり、彼女が107人目の獲物であることを。
そして男は女にこう問いかける。

@仲良くエッチする。
Aズボラれ、ショブられる。
Bショブられて、ズボられるか。

どれがええ

 女はやむをえず@を選ぶ。だが当然耐えきれるはずもない。
ついに女は男を「悪人」と罵り、反抗的な態度を向けてしまう。
逆上した男はハンマーを取り出して――。


 白石晃士監督の最新作『超・悪人』はこのようにして衝撃的に幕を開ける。
この冒頭の犯行シーンの映像と強姦魔の次のターゲットの映像が収められたビデオテープが、強姦魔自身の手で実録系ルポ雑誌の編集部に投稿される。
かくして白石コージと女記者黒瀬やえこの両名による強姦魔=「悪人」への取材が始まることになる。

 冒頭の犯行映像は10分以上も続く長回し(実際はそう見せているだけだが)で撮られている。
『ノロイ』『オカルト』『バチアタリ暴力人間(以下、バチ暴)』等、フェイク・ドキュメンタリーの手法を洗練させてきた白石監督ならではの導入だといえよう。
これにより物語の行き先を観客にまったく予想させることなく、緊張感に満ちた映像を生み出している。途中からユーモラスな掛け合いがみられるようになるものの展開そのものはキツく、容赦なく繰り広げられる暴力に目を背けたくなった観客も多いのではないかと思う。

 もし仮に本作がウチにとってはじめての白石監督作品だったとすれば、本作の凄みに震えることが出来たのかもしれない。しかし極端な暴力によって無軌道に物語が展開する不安感という点で、本作は白石監督の学生時代の短編『暴力人間』の路線に近い。また二人の記者を巻き込んでいく辺りのノリは『バチアタリ暴力人間(以下、バチ暴)』にも似ている。このエンタメ路線とバイオレンス路線の折り合いがやや中途半端で、そのために本作に焼き直しの感があるのは否めない。フェイク・ドキュメンタリーの手法が洗練されているだけに、この点はなおさらもったいなく感じてしまった。

■■

 ところで宇野祥平演じる本作の主人公の江野祥平はアウトローであり、同情する余地のない下劣な強姦魔であることは間違いない。彼にはまさに「悪人」いや「超・悪人」の名が相応しい。

それにもかかわらず彼に感情移入してしまった観客は少なくないだろう。そしてそのことに気付いてハッとしてしまった人もいるのではないか。それもそのはずで、本作を上映したポレポレ東中野のHPには、本作の紹介文に「犯罪者に芽生えた奇跡の愛」といった文句が載せられている。驚くべきことに本作は強姦魔を主役としたれっきとした純愛物語なのである。

 本作でどんな純愛を描いているかはさておくとして……犯罪者にまつわるこの映画を語るにあたって、本来ならば本作は『悪人』との比較で語られるべきなのかもしれないが、残念なことにウチは『悪人』を観ていない。

その代わりに

園子温監督作『冷たい熱帯魚』
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/640.html

を引き合いに出したいと思う。

埼玉愛犬家連続殺人事件という実際の事件をモチーフにしたこの作品もまた、本作と同様に傲慢な犯罪者の残虐な行為を映した「悪人」の映画だ。しかしこの作品における極悪非道な犯罪者の村田幸雄は、江野祥平とは根本的な所から異なっている。

 『冷たい熱帯魚』の村田幸雄は、ロードサイドに店舗を構える熱帯魚専門店の経営者だ。店長という表向きの顔と口先のよさでうわべを装ってはいるが、ワケありの少女たちを店員として雇い、いかがわしい制服を着せていたり、ヤクザものとつるんでいたりするなど見るからに胡散臭い。その一方で村田は残忍な犯罪者としての裏の顔を持っている。客を騙して金をせしめた後はためらいもなく殺し、その死体を手馴れたやり方で「透明にし」てしまう。情婦とふざけあいながら風呂場で死体を切り刻む彼の姿には戦慄を禁じえない。彼は吹越満演じる主人公を脅し、殴り、怒鳴りつけ、自分の犯した殺人の証拠隠滅に荷担させる。村田は圧倒的な強者であり、彼の前では通俗的な道徳や正義など通用しない。

 ベテランのでんでんが演じるこの村田のキャラクターは「お調子者だが人情味のあるオヤジ」という、これまでにでんでんが演じてきたイメージの延長線上にある。巧みな話術で客を騙す一方で、おびえる主人公に対して浪花節の説教をかます。しかしその笑顔は張り付いているかのようで目が笑っていない。

確かにこういうタイプの人間は現実にも存在するが、誇張されたその性格とでんでんの凄みのある演技によって、村田幸雄は理解不能でおぞましいサイコパスとして成立している。もし観客が村田に共感する余地があるとすれば、それは彼の自主自立の精神と満ち溢れた野心だろう。己の力で世の中を生き抜いてきた村田が彼なりの人生観を持っている。小市民で甲斐性のない主人公に「お前は空っぽの人間か」と激しく罵る場面があるが、数ある村田の怒号の中でこれが一番真に迫っているように思える。

 だがこうした村田のキャラクター造形に関して興味深い点がある。それは彼の犯行の動機が実は思いの外希薄なことだ。埼玉愛犬家連続殺人事件では犯人の犯行動機に経営難があったようだが、村田はとりわけ金に困っているようには見えず、かといってとどまる所を知らない強欲な人間という風でもない。そもそも村田は詐欺そのものには成功している。あえて危険な殺人という大きなリスクを冒す必要はないはずだ。相当せっぱ詰まった状況に置かれない限り、普通の人間はまず他人を殺さないし、捕まる恐怖や罪の呵責に耐え切れないだろう。村田の犯行はもちろんリスクの考慮と絶対的な自信の裏付けがあるのだろうが、切羽詰まった状況に置かれているようには見えない。生活の一部として淡々とやってるのだとしても、経営難といった外的な動機は作中の描写からは伺えない。そのために表向きの顔で充分やっていけるのではないだろうかと思ってしまう。

 村田の本当の犯行動機は何か。これはあくまで想像に過ぎないが、村田は他人からあらゆるものを奪い取り、己の空虚を埋めようとしているのではないか。彼が精神的に欠落した人間なのは明らかだが、それを過剰な暴力性とヒステリックな言動で隠蔽あるいは埋め合わせようにも思える。

 いずれにせよ村田の犯行動機の希薄さと行為の残虐性は、村田の欠落した精神のあり様を強調し、観客の同情の余地をもたない。村田はもはや人間ではない。理解不能な「モンスター」だ。

■■■

 話を『超・悪人』に戻そう。江野は村田のように「モンスター」ではない。
確かに彼は殺人を辞さないし、女性に対しても容赦なく暴力をふるう。しかし彼の犯行の目的はあくまで「ズボり」にあり、その行動は動物的本能に忠実だ。彼自身が述べるように殺しはあくまでも最終手段にすぎない。

女性を脅迫することで、彼は和姦を強要する(つまりは強姦だが)。
関西弁で犯行対象である女性に対して(あくまで彼なりの)思いやりを見せる。
もちろん最終的に彼は女性に裏切られ、怒って女性を「ショブっ」てしまう。
江野は暴力を振るうのにためらいがないが、それでも彼の暴力はある意味衝動的なものだ。その点が江野はプロセスとして淡々と殺人を行う村田と異なっている。

 そして何より彼の記念すべき108人目の「ズボり」ターゲットであるミームちゃんとの純愛物語が、江野が満たされない孤独を抱える「人間」であることを如実に示している。

運命の出会いをミームちゃんに見いだす江野の姿はいささかロマンチストだが、他人を蹴落としてでもひとりで生き抜こうとする村田よりは「人間」らしい。
江野は確かに悪人には違いないが、村田とは違っていまだ我々の理解の範疇にありまぎれもなく「人間」であるといえる。

 また江野と村田の差はその犯行の描かれ方にもみてとれる。
「モンスター」である村田の犯行はとにかくディテールが細かい。店舗の内装から詐欺の手段、死体を山奥のボロ小屋の雰囲気、「透明にす」るための段取りまで、とても丁寧に映し出されている。特に「透明にす」るまでのプロセスの丁寧さは村田の残忍さを強調し、村田がどこかで人間性を捨ててきてしまった人間なのだと観客に理解させる。

 これに対して江野の「ショブり」は徹底して簡素だ。
どのようにして女性の部屋に侵入したかも、殺した後にどのように遺体を処分したかも映像には映らない。江野が使い込んできたであろうハンマーも古びた様子がなく新品のように見える。もちろんこれは尺と予算、それに「青春H」という題材の制約ゆえの作りこみの甘さであるかもしれない。だが少なくともこの細部の省略によって、江野の残忍さ(凶暴性ではなく)は目立たなくなる。そして江野自身による長まわし撮影の手法と合わさることで、江野とレイプ対象の女性との関係そのものが強調されることになる。

 また江野の素性や来歴、普段どんな生活をしているのかは物語中でついぞ明かされない。強盗でもしているのか、フリーターなのかどうかも不明だ。だがおそらく江野は、本能に正直過ぎる自分の性格のために不器用な生き方を強いられていることだろう。そうであるとすればこれもまた、社会をうまく渡り合うための表向きの顔を持つ村田とは異なる点であるだろう。 

実際、人目に付く場所にいるのにもかかわらず江野は、怒りに任せて二人の記者に対して暴力を振るっていた。江野は村田のように表向きの顔を器用に使い分けることが出来ないのだろう。

 二人の違いをまとめると次の通りだ。

『冷たい熱帯魚』の村田は社会的な表の顔を持つ。
他人に対してうわべだけの言葉をペラペラと話すが、一転して凶暴性をあらわにする。
彼の犯行はディテールまで表現されることでその残忍さが強調される。
しかし村田にはそもそも強固な犯行動機が存在しない。まるで自身の空虚を犯罪行為とヒステリックな態度で埋めようとするかのようである。村田は他人を必要としない、精神的に欠落した「モンスター」である。

 一方、『超・悪人』の江野は、社会的表の顔をもたない(ないしは不明である)。
所構わず容赦のない暴力を他人にふるうが、動物的本能には忠実であり、嘘のつけない男である。
江野は「ズボり」を通して己の欲望を満たそうとするが、それは己の孤独を埋める行為でもある。その行為が女性によって裏切られることに怒り、江野は殺人を犯してしまう。
江野の犯行においては細部が省略される。それによって彼の残忍さは軽減され、代わりに江野と「ズボり」対象との関係が注目されることになる。
常識というブレーキこそ持たないが江野はまぎれもなく、孤独を抱えた「人間」である。

■■■■

 そもそも白石監督のフェイク・ドキュメンタリー作品では、ぎりぎりの所で理解可能な異端者が被写体に選ばれる。『ノロイ』の堀、『オカルト』の江野、『バチ暴』の笠井・山本、彼らは皆、社会から外れた者たちだ。彼らはドキュメンタリーのお決まりの語り口に収められることを拒否するかのごとく、本能のままに暴力性や非常識を発動する。その結果として彼らは人間性を次第に露にしていく。村田が人間の皮を被った「モンスター」なのとは対照的だ。

 では白石作品に理解不能な「モンスター」的なものが存在しないのかといえばそうでもない。渋谷のアップリンクファクトリーで『バチ暴』が上映された際の白石晃士監督×鈴木卓爾監督によるトークショーにて鈴木監督は、白石作品における撮影者は被写体の暴走を止めない所か、最後はその行為に加担してしまうことの不可思議さを指摘していた。この点はこれまでの白石作品を観た方ならわかるだろう。

  白石作品におけるフェイク・ドキュメンタリーには、登場人物としての撮影者や監督が存在する。白石自身をモデルにした役を本人が演じることもあれば、『ノロイ』のようにそうでないこともあるが、いずれにせよ撮影者は物語の展開に深く関わっている。彼らは思惑から外れて展開していく眼前の事態に対して中立でいられない。ある時、彼らは魅入られるかのようにして一線を越えてしまう。その飛躍の具合にウチは「モンスター」性を感じるのだ。

 今回の『超・悪人』においては、撮影者の白石コージは比較的中立な立場だ。
だが江野の脅しに屈服したその後、自分が殺される瞬間までカメラを向け続けるあたりは相変わらずだ。
今回の場合はむしろ女記者の黒瀬やえこに「モンスター」性が顕著だ。
こういうと彼女の正体については伏線が張られてはいるので何ら飛躍ではない、というツッコミがあるかもしれない。実際それはその通りなのだが、黒瀬が江野の正体を知りつつ無防備な状態で会っているのは流れとして不自然であり、そのためにあたかも黒瀬が豹変したかのように映っていることに注目したい。

 もし江野に出会わなければ、きっと彼女はその怒りを溜め込んだまま、これまで通りの生活を送っていたことだろう。江野という異端者との遭遇が彼女自身に手を染めさせ、黒瀬は「モンスター」へと転じさせたのだ。

■■■■■

 自分が観た限りでは『放送禁止』『邪願霊』『クローバー・フィールド』『第9地区』『ブレアウィッチ・プロジェクト』等、多くのフェイク・ドキュメンタリー(ならびにドキュメンタリータッチを取り入れた)作品が撮影者(カメラ)を完全な中立な立場においているか、もしくは物語の登場人物にカメラを持たせているに過ぎないかのどちらであった。

しかし白石監督のフェイク・ドキュメンタリーにおいては、かならずしも撮影者は特権的な位置を有しない。異端者を映していく過程で被写体の人間性が露になり、その代わりにとりこまれていくかのようにして、撮影者自身が理解しがたい行動に走り、異端の側に加担することになる。

その結果生み出されるのが、恐怖か、感動か、はたまた笑いかは作品によりけりだが、いずれにせよ観客もまた自らの安全な立場を揺るがされることになる。
http://d.hatena.ne.jp/tkihrnr/20110524/1306245729  

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