★阿修羅♪ > 昼休み42 > 662.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
日航ジャンボ123便 オレンジ色の樹脂破片が油圧配管残骸に挟まっていた。日本の海上自衛隊の演習用無人標的機物証ではないか
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak42/msg/662.html
投稿者 愉快通快 日時 2010 年 9 月 22 日 17:12:54: aijn0aOFbw4jc
 

オレンジ色の樹脂破片が油圧配管残骸に挟まっていた。日本の海上自衛隊の演習用無人標的機物証ではないか。
http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/images/2010/03/08/3bc7105d198ba933d2f053d6eff016e9.jpg
http://www.youtube.com/user/123ja8119osutaka


<参考>海自の標的機が刺さった可能性
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
確かに防衛庁が普通ではなかった(藤田)
12日夜、海幕があわてて走り回っていた
相当な地位に至る者まで湘南方面へ行った
海自だけ救援に参加せず、行動非公表
2010年8月の海保ヘリ事故における隠蔽との類似
「自殺」した自衛隊員の残した証拠写真
http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/images/2010/08/25/imgf8231919zikazj.jpeg
12日、垂直尾翼にオレンジの物体が食い込む
http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/images/2010/08/25/imgf8231919zikazj.jpeg
完全に垂直尾翼を回収[16]
「自殺」した空自2名の足元に、台がない[17]
http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/images/2010/08/25/imgf8231919zikazj.jpeg
藤田にCVRを提供した利光松男も不審死


<参考>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85


日本航空123便墜落事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
日本航空 123便
事故機のJA8119(1982年頃に伊丹空港にて撮影。1985年に胴体下部塗装がグレーに変更された)
概要
日付 1985年8月12日
原因 ボーイング社による不適切な圧力隔壁の修理(有力説)・垂直尾翼中央への異常外圧(1次的原因。事故調査報告書P.79、同付録P.116)・全油圧系統の喪失(2次的原因。事故調付録P.123)
場所 日本・群馬県多野郡上野村高天原山中
死者 520(胎児1名を含むと521名)
負傷者 4
航空機
機体 ボーイング747SR-46
航空会社 日本航空(JAL)
機体記号 JA8119
乗客数 509
乗員数 15
生存者 4
表・話・編・歴

伊丹空港羽田空港
JAL123便墜落地点 墜落地点
羽田空港 伊丹空港日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年8月12日18時56分に、日本航空(現:日本航空インターナショナル)123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根[※ 1]に墜落した事故である。

目次 [非表示]
1 概要
2 事故機
2.1 墜落前の事故
3 事故の経過
3.1 事故当日のフライトプラン
3.2 乗務員
3.3 離陸
3.4 緊急事態発生
3.4.1 緊急事態発生のメカニズム
3.4.1.1 垂直尾翼
3.4.1.2 CVR
3.4.1.3 DFDR
3.5 緊急事態への対応
3.5.1 教訓
3.5.2 機体
3.5.3 コクピット
3.5.3.1 墜落
3.5.4 管制(東京ACC)
3.5.5 羽田空港の着陸管制(APC)
3.5.6 米軍・横田基地
3.5.7 社内無線
3.5.8 客室乗務員
3.5.9 乗客
3.5.10 CVRに関する注意事項
3.6 飛行経路
4 捜索・救難活動
4.1 日本航空
4.2 東京航空局
4.3 警察
4.3.1 埼玉
4.3.2 長野
4.3.3 群馬
4.4 上野村
4.5 海上保安庁
4.6 自衛隊
4.6.1 航空自衛隊
4.6.2 陸上自衛隊
4.6.3 海上自衛隊
4.7 救援
4.8 残骸の回収作業
4.9 アメリカ軍の捜索協力
4.9.1 墜落位置の特定
4.9.2 関係機関の連携体制
5 遺体収容・検視・身元確認作業
6 日本航空123便墜落事故の報道態勢
7 事故の原因
7.1 異常外力
7.2 その他の仮説
7.2.1 機体による事故の可能性
7.2.2 当該機固有の事故の可能性
7.2.3 航空会社の課題(日本航空に限らない)
7.2.4 管制の課題
7.2.5 自衛隊の課題
7.2.6 異常外力
7.2.7 UFO説
7.2.8 被害拡大・原因究明不備の人的要因
8 乗客
9 その後
9.1 調査資料
9.2 誤報
9.3 御巣鷹の尾根と慰霊登山の現状
9.4 事故後の便名
9.5 事故調査委員会
9.6 JALの取組み
10 その他
10.1 遺族側による科学的事故の検証
10.2 事故を題材にした出版物など
10.2.1 小説
10.2.2 漫画
10.2.3 テレビ番組
10.2.4 演劇
10.2.5 映画
10.2.6 音楽
10.2.7 DVD
11 補足
12 出典
13 参考文献
14 関連項目
15 関連項目出典
16 外部リンク

概要 [編集]
運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書[1]によると、死亡者数は乗員乗客524名のうち520名、生存者は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2010年9月の時点で最多であり[※ 2]、単独機の航空事故でも世界最多である[※ 3][※ 4]。

夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者が出、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることもある。

1978年6月19日に航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機がしりもち着陸事故を起こした後のボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。これをもって公式な原因調査は終了している。遺族などの一部からは再調査を求める声があるが、行われていない。

事故機 [編集]
本事故により、同年8月19日に登録抹消される。日本の航空会社が旅客機として運航しているボーイング747SRで、墜落事故によって登録を抹消されたのは、本機が初めてである。

機体記号 JA8119
型式 ボーイング747SR-46
製造年月日 1974年1月30日
製造番号 20783
耐空証明 第48-028
総飛行時間 25,030時間18分
総着陸回数 18,835回
新規登録年月日 1974年2月19日
墜落前の事故 [編集]
1978年6月2日、羽田発の伊丹行き115便で伊丹空港に着陸しようとした際にパイロットが操縦桿の操作を誤ったため、通常より機首が上に上がりすぎ、滑走路に機体尾部を接触させ機体尾部にある圧力隔壁を破損。機体のバウンドによりケガ人が3名発生(日本航空115便しりもち事故)。この事故でのボーイング社による圧力隔壁の修理ミスが墜落事故の引き金になったとされている。この事故のあと、機体の歪みから後部のトイレや収納のドアの開閉などがうまくいかなくなることがあった。
1982年8月19日、羽田発、千歳空港行きの便で千歳空港に着陸の際、機体が右に逸れ、誤って第4エンジンを地上に接触させたため、機長は着陸復行を行った。原因は天候による視界不良および機長が副操縦士に着陸操縦を行わせたという社内規定違反である。
後者の事故によるエンジン損傷は事故調査報告書によれば、本墜落事故の直接の原因にはなっていない。

事故の経過 [編集]
事故当日のフライトプラン [編集]
使用されたJA8119の当日の運航予定は以下の通り。

503・504便で羽田 - 千歳線1往復
363・366便で羽田 - 福岡線1往復
123・130便で羽田 - 伊丹線1往復
123便としては羽田空港18時00分発、三原(伊豆大島)、相良(静岡県焼津市の南)、シーパーチ(大島から253度、74海里)、W27、和歌山県串本町串本VORTAC、V55、大阪府和泉市信太VOR/DME、伊丹空港18時56分着予定であった。巡航高度は24,000ftを予定していた。折り返し130便として伊丹発羽田行の最終便を運航する予定の為、3時間15分程度の飛行が可能な量の燃料を搭載していた。

乗務員 [編集]
以下のとおり計15人が乗務していた。年齢・総飛行時間は共に事故当時のものである。

コックピット・クルー(当日は機長昇格訓練の為、機長と副操縦士の着席位置が左右逆転している)
機長:高濱 雅己(たかはま まさみ、49歳・運航部門指導教官 総飛行時間12,423時間)[※ 5]。副操縦士席で佐々木副操縦士の指導・補佐、無線交信などの副操縦士の業務を担当。
副操縦士:佐々木 祐(ささき ゆたか、39歳・機長昇格訓練生 総飛行時間3,963時間)。機長席に座り操縦、クルーへの指示を担当。
航空機関士:福田 博(ふくだ ひろし、46歳・エンジニア部門教官 総飛行時間9,831時間)。羽田-福岡線363・366便から引き続きJA8119に乗務。
客室乗務員
チーフパーサー:波多野 純(はたの じゅん、39歳 総飛行時間10,225時間)
以下女性乗務員11人。
離陸 [編集]
事故調査報告書による、離陸から緊急事態発生までの123便の模様。

時刻 位置 高度 管制 管制から 123便から 備考
17時37分 - JAL羽田(GROUND) 危険品の搭載があります。貨物へ確認下さい 了解
18時03分 羽田空港18番スポット - 東京飛行場管制所 15L滑走路へ 了解 定刻どおり[※ 6]
12分 羽田空港15L滑走路[※ 7] 離陸 東京ターミナル管制所 浦賀へ誘導。高度13,000ftを維持せよ 了解
15分 約7,000ft 東京ターミナル管制所 200度へ右旋回せよ 了解
16分 約8,000ft 東京ターミナル管制所 2マイル左へ。上昇し高度24,000ftを維持せよ 了解
17分 浦賀を通過 9,400ft ACC 了解 シーパーチ直行を希望 遅延を取り戻すため
18分 約12,500ft ACC 三原を経由しないシーパーチ直行を承認 了解 積乱雲を迂回
20分 相模湾。大島の手前 約17,500ft (社内無線) 離陸は12分遅延
24分 相模湾。大島を通過 約23,900ft (機内) 了解 乗客離席

(出典:事故調査報告書P.271〜309)

緊急事態発生 [編集]
18時25分(離陸から13分後、東大地震研究所によると25分・離陸から13分後)、相模湾上空を巡航高度の24,000ft(7,200m)へ向け上昇中、23,900ftを通過したところで緊急事態が発生する。衝撃音とともにハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまい[※ 8]、フゴイドやダッチロールやフラッター現象を起こした機体は迷走するとともに上昇・下降を繰り返す。

機体への最初の異変は「HSTB(垂直尾翼の角度を示すデータ)が89.8ユニット(最大値)に振り切れた」ことで、垂直尾翼中央への異常外圧によって垂直尾翼は垂直安定板の下半分を残し破壊され、それによって垂直尾翼周辺で同時多発的に不具合が発生した(事故調P.79、事故調付録P.93、116)。

地震研と管制 CVRとDFDR 異常箇所 検知された異常 備考 出典
25分 15.6秒〜 24分 34秒〜 CVR周辺 CVR周辺に、特異な波形の音 CVR:L5ドア付近天井内部 事故調付録P.168、171
16.8秒 35.2秒 CVR周辺に、著しい機体の振動や激しい空気流 客室内は平穏(L5ドア付近の生存者2名) 同P.167
16.9〜17秒 35.3〜4秒 CVR周辺に、大きな空気流を伴う音 同P.168
17.1〜18.6秒 35.5〜37秒 垂直尾翼 衝撃音 垂直尾翼中央に外力 同P.116
17.4秒 35.8秒 HSTBが「垂直尾翼は最大値まで倒れた」と検知 垂直尾翼は垂直安定板の下半分を残し破壊
同P.93、103
19秒 37秒 CVR周辺 CVR周辺に、特異な波形の音 警報装置が作動開始 事故調P.311
21秒 39.4秒 25分21秒、管制と最初の交信 管制CVR
25分 21秒 CVR (4秒間に、CVRでは45秒間会話している) 事故調P.312

緊急事態発生のメカニズム [編集]
緊急事態発生のメカニズムは未解明の部分が多く、遺族と乗員組合などは再調査を求め、日本航空(経営再建中)はCVRとDFDRと垂直尾翼などを保管している。

垂直尾翼 [編集]
事故調査報告書は、垂直尾翼への異常外圧なしに本件は発生しないと結論付けている(事故調P.79、事故調付録P.116)。DFDR(垂直尾翼取り付け部に近い胴体上部にあり物理的衝撃を非常に受けやすかった)のエラーは3回(事故調付録P.88、90)発生している。再発防止のために、垂直尾翼中央への異常外圧の原因解明が期待されている。

時刻(18時) 状況 位置 直後 直前 出典
24分35秒 垂直尾翼に物理的衝撃、DFDRにエラー 相模湾 垂直尾翼の一部を喪失
機体後部の一部を喪失
フラッター現象
事故調付録P.87〜94
40分34秒 富士山周辺 失速寸前 39分32秒、ギアダウン
39分51秒、約420度の右旋回開始
事故調P.291
55分12秒 三国山手前 失速寸前 54分01秒、左旋回
54分50秒、約360度の右旋回開始
同P.293

CVR [編集]
事故調査報告書によると、衝撃音の正確な時間は、東大地震研(静岡県賀茂郡東伊豆町、帚木山)の18時25分15〜21秒の6秒間の波形がCVRの18時24分34〜40秒の6秒間の波形と一致していること、18時25分21秒に機長が管制に緊急事態の最初の交信をしていること、CVRは時刻は記録されないことから、25分17秒である。その場合、衝撃音から管制への連絡までは4秒となり、CVRにおける衝撃音から管制への連絡までの45秒間の会話などCVRに再調査が必要となる。

DFDR [編集]
上記の場合、CVRと同じく24分に衝撃を検知しているDFDRの内容にも再調査が必要となる。

緊急事態への対応 [編集]
123便は乗客全員が酸素マスクを着用する中、緊急降下しようとしていたが、17分間は20,000ft(6,000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(車輪などの降着装置)を降ろした後、富士山西麓から北麓へ向かい、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000ftから6,000ftへと一気に15,400ft(4,600m)も降下する。クルーは羽田方面に向かおうとするものの、機体は左へ旋回し埼玉県を通過し群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。降下し酸素マスク不要になる頃、コクピットの会話は頻繁になる。焦りは見えるが、昇格訓練中の佐々木副操縦士へのベテラン2名からの相次ぐ指示は迅速・的確・冷静であり、後進への教訓となっている。

教訓 [編集]
この事故から教訓を得ようとエンジン出力による機体制御を研究していたユナイテッド航空の機長兼訓練教官のデニス・E・フィッチは、ユナイテッド航空232便不時着事故で乗員乗客の半数とともに生還を果たした。

機体 [編集]
123便の機体は、衝撃音直後に機体の尾部のBS2658から後ろはなくなったと推定されている。その後、飛行中にBS2484〜2658を徐々に失い、墜落現場ではBS2484(隔壁後方1.5m)までのみが回収された(事故調付録P.103。事故調P.163に機体概要)。

DFDR:機体はフゴイド運動・ダッチロール・バンクが生じ、ピッチング・ヨーイング・ローリングを繰り返し、ほとんどコントロールができずにいた。
機体:衝撃音直後に、BS2658から後ろが分離(事故調報告書付録P.103)
垂直尾翼:衝突音直後に、後ろ半分と上半分を喪失(事故調査報告書P.79)
方向舵・補助翼・スポイラ・昇降舵:作動しない(同P.80、117)
油圧:ゼロ。異常発生直後から、油圧系統全滅のため、操縦桿と油圧の操作の効果はほとんどなかった。
フラップ:油圧がきかないために電動でゆっくりと動かしたフラップは、極端に遅く効果がない。
ギア:ギアダウンにより、大きく降下。フゴイド運動の安定には効果。
エンジン出力による方向転換:実質的に不可能(同P.80)
CVR:操縦不能の原因は「油圧オールロス」(27分、福田)。異常は「荷物の収納スペース」(32分、乗務員)、「機体右側最後部 (R5) のドア破損」(35分、福田)。
エンジン出力による機首の上げ下げ:50分の高濱と福田の言葉によると、エンジンの出力の操作による機体の制御だけが即応性があった。
コクピット [編集]
CVRには、18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っていると公表されている。当時のCVRは本来30分の1/4インチ・エンドレステープレコーダー(始点と終点のない輪になったテープを巻いて用いるもの)であったが、30分を超える録音が残っているのは、たまたまテープに余分があったためである[2]。

18時24分12秒頃、始めに残っていた音声の内容は、シートベルト着用サインが消える前に、乗客の一人が「トイレに行きたい」と申し出たことに対する会話。佐々木と福田、離席を許可。35秒頃、ボイスレコーダーに残されていた最初の異変である衝撃音が一度(前向きの大きな衝撃)。36秒、衝撃音(下へ大きな衝撃)。39秒、高濱、「なんか爆発したぞ」。

時刻(18時) 高度(ft) 機体 乗員と主な担当 備考
高濱機長 佐々木副操縦士 福田航空機関士
進路の巡視、クルーへの指示など 操縦桿操作など(機長昇格訓練中) 機内外の連絡、クルーの支援など
24分 23,900 衝撃音、垂直尾翼に衝撃(1回目)、自動操縦解除 スコークを指示 管制に「スコーク77」 スコークを指示 マニュアル:手動操縦
25分 24,000 緊急事態宣言 「右旋回で羽田へ戻りたい」 (機体に反応がない) 海山論争
26分 フゴイドとダッチロール 「バンクそんなにとるな」 油圧「オールロス」 バンク:左右の傾き
27分 約25,000〜約22,000
32分 客室に破損の報告 降下を提案 内部爆発の形跡はない
33分 客室は全員酸素マスク中 了解 緊急降下を提案 酸素供給は約15分
35-37分 約23,000〜約22,000
38-39分 ギアダウン(電動) 了解 オルタネートを提案 ギア下げのみ可能
40分 垂直尾翼に物理的衝撃(2回目) DFDRにエラー
41-45分 急降下 420度右旋回、横田へ直進 「いっぱいやったか」 「舵いっぱいです」 舵の不具合(*1)
46分- 左旋回、山へ 「これはだめかもわからんね」
47分 約7,000 最大出力を指示、山に注意
48分 約6,600 「ふたりでやらなくていい」 「いま舵いっぱい」 「がんばれ」 福田、佐々木を手伝う
49分 約5,300 最大出力を指示
50分 上昇 全エンジンの出力最大 「どーんといこうや」「がんばれがんばれ」出力でピッチング制御を指示 「スピードが出ています」 元自衛隊の経験が生きた
51分 了解 フラップの操作を提案 オルタネートを提案 フラップを下ろす(電動)
52分 約13,000〜12,000
53分 ACCの管制指示でAPCへ管制変更 「APCに管制変更」 「はい」 「やろうか」 福田、APCとの交信に切り替えに専念
54分 降下 「リクエストポジション」「左旋回」 「左旋回」 APCに位置確認
55分 垂直尾翼に衝撃(3回目)、360度右旋回 「あたま上げろ」4回、「パワー」3回、「フラップ」4回 「ずっと前から支えてます」「上げてます」 「フラップアップ」3回 舵の不具合(*1)。電動フラップは遅く不安定化
56分00秒- 垂直に急降下 最大出力 「あたま上げろ」2回、「パワー」2回 (最大出力) 舵(*1)、尾翼(*2)、機体(*3)の不具合
14秒- 対地接近警報装置
17秒-22秒 約5,000 上昇 「もうだめだ」 速度346kt(640km/h)
23秒 5,020 木々に接触、右出力停止 (一本から松など木々を倒しつつ、上昇) 右出力は第4エンジン破損、第3エンジン停止
26秒 5,281 徐々に分解、全出力停止 (右主翼で尾根を削りつつ、上昇) U字溝を形成
27秒 全エンジン・尾翼など脱落、機首を大きく下げ裏返し (グライダーのように滑空) 速度263kt(487km/h)
28秒 5,135 CVR録音終了 (操縦桿を握ったまま発見) DFDRに異常な変化

1;ユナイテッド航空585便墜落事故参照UA585便(1991年)・UA427便(1994年)・イーストウインド航空517便(1996年)
2:テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故参照。KL4805(1977年)
3:シルクエアー185便事故参照。MI185(1997年)
(出典:事故調査報告書P.83、180〜181、290〜343)

墜落 [編集]
18時55分12秒、垂直尾翼に物理的衝撃(事故調付録P.88)、機体は右旋回を始める(事故調P.293)。コクピットは大混乱に陥る。

18時56分14秒、クルーの努力も空しく降下し続けた123便に対地接近警報装置が作動。

17秒頃、エンジン出力を最大にすることにより高度5,000ftで機体はわずかに上昇しだした。速度は346kt(640km/h)。

18秒〜23秒、エンジン出力は最大、降下が止まり、上向き。

21秒、高濱の「もーうダメだ」とも聞き取れる叫び声も記録された。標高6,165ftの高天原山が迫っていた。

23秒(東大地震研究所は27秒に微小な地震を観測)、衝撃音。一本から松(標高5,020ft、樹齢約200年)を地面から14mの位置で切断、第4エンジン(右主翼の端)が破損、第3エンジン(右主翼の胴体側)も出力が低下。機体は地面に接触した後、水きりのようにいったん上昇。U字溝と一本から松の間の木々は、U字溝側が一本から松側より20度高い三角形を作るかたちで斜めに切断されていたことから、機体は一本から松からU字溝では上昇していたことが分かる。

26秒(東大地震研は30秒に微小な地震を観測)、衝撃音。機体は右へ90度傾き、右主翼が樹木をなぎ倒す形で地面に接触しU字溝(標高5,281ft)を形成。右主翼などの部品が飛散、機体は徐々に分解。第1・第2・第3エンジンの出力がほぼゼロ。

27秒(東大地震研は31秒から約10数秒間の大きな揺れを観測)、U字溝から墜落現場へ向かって約40〜50m飛んだと考えられる地点。DFDR(垂直尾翼取り付け部に近い胴体上部にある)は、ここまで解析が可能(事故調P.83)。123便は4つのエンジン全て・垂直尾翼・水平尾翼・機体後部・右主翼の一部・フラップの一部がない状態で、速度は263kt(487km/h)であった。

18時56分30秒頃、123便は、高天原山(標高6,165ft)[※ 1]の尾根のひとつの斜面(標高5,135ft)に分解しつつ機首から墜落した。

32秒(CVRでは28秒)、CVRは録音が終了。

機体前部から主翼付近の構造体は、機首から激突し、高速墜落の衝撃によって原形をとどめないほどバラバラになり、天井部分から尾根に叩きつけられた。後の調査によれば、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと急降下で生じた高速から、機体前部は0.05〜0.2秒の間に数百Gの衝撃を受けたと考えられている。このため、この部分にいた人々は、即死と推定されている。羽田まで戻るために残されていた燃料からは、激しい火災が発生した。

機体後部は、前部と分離し、地面に平行に斜面を滑走、スゲノ沢の水源地から3、4m下の約30m四方の範囲に着地した。墜落時の衝撃が数十Gと小さく、尾根への激突を免れ、斜面に平行に近い角度で滑落し、樹木にさえぎられて時間をかけて減速し、火災を発生させず、稜線を超えたため機体前部の火災に巻き込まれず、右主翼・後部胴体・第1エンジン・第2エンジンなどが周囲を囲む形で発見されやすいなどの好条件が重なり、損傷は機体前部に比べると軽度にとどまり、生存者4名が発見された。生存者の証言によれば、機体後部が着地したスゲノ沢には墜落直後の時点ではかなりの数の乗客が生存していたが、捜索隊が到着するまでに次々と息を引き取った。検視にあたった医師らによると、あと10時間救助が早ければもっと多くの人を助けることができた。スゲノ沢周辺で発見された遺体は乗客144名、乗員5名[3][4]。人形を握りしめた3歳くらいの女の子など、五体満足の遺体が多かった。アナウンスを担当していた乗員は、きれいな姿で横たわっていた。

一本から松から墜落地点にかけて、垂直尾翼の前縁部分・水平尾翼など多数の部品が脱落し、木々が同じ高さでなぎ倒されていた。藤田は、佐々木副操縦士は最後の瞬間まで決してあきらめることなく操縦桿を握っていたと推測している。

管制(東京ACC) [編集]
123便に異常が発生したのは、東京管制区管制所(略称:東京コントロール、東京ACC)の管轄下であった。

時刻(18時 緊急事態について 行き先について 備考
123便から ACCから 123便から ACCから
24分 緊急信号「スコーク77」 緊急用トランスポンダ番号7700
25分 緊急事態を宣言
(2回目) 了解 羽田を希望 了解
右旋回を希望 了解。右旋回し真東へ 海山論争
27分 緊急事態を宣言
(3回目) 了解
28分 操縦不能 真東へ飛んで下さい
(2回目) 会話が成立していない
31分 羽田を希望
(2回目) 名古屋に緊急着陸しますか 名古屋空港:愛知県小牧市
40分 周波数を切り替えられますか
46分 このままでお願いします
(2回) 周波数をAPCへ変えますか
(2回)
47分 羽田、木更津へ誘導を
(3回目、大声) 真東へ飛んで下さい
(3回目)
操縦不能
(2回目) 操縦できますか 周波数をAPCに変えて下さい uncontrolable:操縦不能
53分 操縦不能
(3回目、大声) 周波数をAPCに変えて下さい
(2回目) 最後の交信

(出典:事故調査報告書P.309〜341。参考資料:インターネット上で公開されているCVR)

羽田空港の着陸管制(APC) [編集]
ACCからの管制変更の管制指示に基づいて、123便は54分に東京進入管制所(略称:東京アプローチ、APC)へ管制を変更した。123便から応答がなくなった後も、東京アプローチと横田のRAPCONは呼びかけを続けた。

時刻(18時) 123便 羽田の管制(APC) 備考
54分 周波数をAPCに変えました。位置を 羽田の北西45マイル 埼玉県堂平山付近
55マイル 埼玉県長瀞付近
熊谷市から25マイル西 群馬県上野村
55分 了解 羽田、横田、ともにいつでも着陸可能 最後の交信
(応答無し) 今後の意向は?

(出典:事故調査報告書P.341〜343。参考資料:インターネット上で公開されているCVR)

米軍・横田基地 [編集]
管制から提供されたテープによると、19時過ぎまで横田基地は着陸受け入れ体制を維持したまま123便に横田基地への着陸の呼びかけを続けた。「星条旗」によると、米軍機C-130が123便を追尾し不安定な状況を目視、123便が操縦不能で羽田へたどり着くことは絶望的に不可能と判断していた。55分以降も東京アプローチと横田のRAPCONは呼びかけを続けたが、123便から応答はなかった。

時刻 123便 横田基地の管制 備考
18時45分 uncontrolable(操縦不能) 対応可能 横田基地は123便の緊急着陸態勢
沖縄から飛行中のC130は、上空で着陸の順番待ち

46~55分 (操縦不能といいつつ、北上) 対応可能(1分に1回程度、呼びかけ)
56分 羽田でなく横田へ着陸するよう説得
現在位置は、横田基地のすぐ近く
横田基地へ最優先で着陸可能

19時01分 (失踪) 着陸の順番待ちしていたC130ヘリに捜索命令

(出典:事故調査報告書P.332〜343、公開されている管制の交信記録、「星条旗」)

社内無線 [編集]
時刻(18時) 123便から JAL TOKYOから 備考
27分 (佐々木、社内無線を希望)
33分 (123便を呼び出し)
35分 R5のドアがブロークン。緊急降下中 緊急事態の詳細な報告を 以前も、R5ドア不具合は数回(事故調P.104)
36分 待って下さい。緊急降下中。少ししたらコンタクトします。このままモニター下さい 最後の交信

(出典:事故調査報告書P.314〜323)

客室乗務員 [編集]
機体後部に取り付けられていたコックピットボイスレコーダー (CVR) には、幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送、不時着を想定した放送が墜落直前まで記録されている。波多野チーフパーサーは、全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示した。他の乗務員も着陸は「まもなく」と励まし続けた。

1人の客室乗務員によるメモによると、不時着後に乗客に出すアナウンスも日本語と英語で準備ができていた。

47分まで - 酸素マスクの装着の案内
47分以降 - 酸素マスクの酸素が切れた後は、緊急着陸に備えて救命胴衣の着用の案内が行われた。
乗客 [編集]
生存者の証言や死亡者の遺書によって、機内の様子の一端が判明している。記録された機内の様子は、以降の同様の航空機事故の再発防止に多大な貢献をしている。

乗客は、「頑張ろう」と互いを励ましあい、救命胴衣の装着を手伝い緊急脱出口への誘導を引き受けるなど、周囲の人々のために行動する人々もいた。

不安定な機体の中で複数の乗客(48D・43歳男性、48C・40歳男性など)が家族への遺書を残しており、のちに事故現場から発見された。一般的に墜落事故では、異常の発生から数分の余裕も無く墜落に至ることが多いが、この事故では異常発生から墜落まで30分以上あり、遺書を書く時間があったまれなケースである。異常発生後の客室内を撮影したカメラが墜落現場から見つかり、マスコミによって公開されている。

このような乗客の証言や、遺書を残す余裕があったという事実から、「航空事故調査委員会による結論」とされる圧力隔壁破壊で発生するはずの急減圧、室温低下などの現象の発生が窺えない点を疑問視する意見が日本航空のパイロット・エンジニア・航空関係者・遺族などにある。

時刻(18時) 乗客 証言 出典・参照先
41歳男性(写真) 娘(9歳)と妻の記念写真撮影後、窓の外を撮影。ななめ後方から何かが近づく
衝撃音 12歳(女児) 客室内の破損は後部天井
26歳(デッドヘッド乗務の客室乗務員) 酸素マスクが落下、その他、客室内の状況を7時間証言。ボ社・JALの主張を否定 新潮社「墜落の夏」
41歳男性(写真) 客室内は-40度ではなかった 事故調報告書 付録P.74
30分 51歳男性(遺書)
29歳男性(遺書)
40歳男性(遺書)
45分 43歳男性(遺書)
降下 34歳(母)、8歳(娘) 何回かに分けて降下 朝日「日航ジャンボ機墜落」
26歳(デッドヘッド乗務の客室乗務員) 酸素が切れた頃、救命胴衣着用後、富士山近くで降下が始まった。長かった 新潮社「墜落の夏」
墜落 最後は垂直な急降下、回転はしない。衝突は1回だけ。墜落直後は多数が生存
12歳(女児) 父親が手を広げて家族をかばった。墜落直後は父親と妹が生存
不明 墜落時刻は18時56分(遺品の時計)

CVRに関する注意事項 [編集]
公表されているCVRの解釈にあたっては、以下のような点に注意する必要がある。

事故調査に必要ではないと思われる部分は、書き起こされていない(例。24分の「探すべ!何か爆発したぞ!」の「探すべ!」はテープ起こしされていない)。
CVRには、時刻・時報は記録されない。CVRの時刻は、管制における時報・管制との会話時刻・DFDRなどからの推定である。
警察などのCVR解析担当者ら多数は、調査報告書上は高濱・佐々木とされる声の中で、実際は機体制御に関する重要な判断は福田の声であると指摘している(例:ギア確認:24分、油圧確認:24分、緊急降下:28分、33分、ギアダウン:38分、フラップ:44分、55分、エンジンで機体制御48分、50分など)。
CVRとされるテープが不自然に編集されていることを示唆する部分。
CVRとDFDRの不一致(例:衝撃音後、「ライトターン」の指示前に、大きな右旋回)
CVRと管制との交信の不一致(例:衝撃音4秒後に管制に緊急事態を報告しているが、CVRでは衝撃音後約1分コクピットで意味不明な会話した後に管制と交信)
CVRとリークの不一致(例:墜落寸前、3人が「ウワー」と叫んだ部分はない(朝日新聞、1985年8月30日)
CVRとされるテープの内容は、藤田らパイロットやエンジニアにはわけの分からないちぐはぐな会話で「ある機長はこんな会話では仕事にならないと感想を漏らしている」(藤田日出男「隠された証言」P.178)
CVRで事故原因を報告している「油圧オールロス」の部分で、管制側のテープは途切れて原因不明の扱いになっている
123便が入間基地上空で目撃された(朝日新聞社「日航ジャンボ機墜落」P.41)頃の管制側のテープは非公開扱いになっている
藤田に届いた匿名の手紙。藤田らパイロットが明らかに編集されていると確信しているテープについて「公表されている内容が事実です」と念押ししている
インターネットで入手可能なCVR音声は、テレビで放送された音声を繋ぎ合わせたもの、米田憲司著「御巣鷹の謎を追う」付録DVDの音声を転載したものである(例:24分は、「何か爆発したぞ!スコーク!33045!ギア見てギア」「何か爆発したぞ!スコークスコーク!33045!ギア見てギア」「何か爆発したぞ!スコーク!ギア見てギア」の3通り)。
インターネットで入手可能なCVRの提供元は、2つある。
2000年頃、報道関係者にリークされたもの
2002年にTBS[5]から公開された、日本航空経営陣から藤田へ提供されたテープのコピー。藤田はテープを機長の遺族のみに聞かせるように強く指示されていた(藤田日出男著「隠された証言」P.224)が、事故の模様を知ることで事故から立ち直ろうとしていた人々(婚約者を失った女性など)もいたことから公開に踏み切った。藤田によると、このテープの音質より、報道関係者向けテープの音質がより鮮明である。
飛行経路 [編集]
48分から55分(三国山で目撃)については、事故調査報告書によると、レーダー記録の乱れのため正確な飛行経路は不明である(P.81、付録P.94〜111)。この頃の123便の目撃情報は、横田基地周辺や埼玉県内の市街地であり、長野での推定より約10分早いものなどがある。

都道府県 事故調の調査 CVR 目撃情報 出典
衝撃音 静岡県賀茂郡東伊豆町周辺(25分) (24分) 事故調付録P.168
静岡県内 河津駅(賀茂郡河津町)
焼津市、静岡駅(ともに30分すぎ) 「日航ジャンボ機墜落」
山梨県内 大月市 大月市 事故調P.23
神奈川県内 相模湖(46分) 事故調P.333
東京都内 日原(49分) 青梅、日原(46分) 日本テレビ、事故調付録P.191-206
埼玉県内 堂平山・長瀞周辺(ともに54分) 浦和市、三芳町 事故調P.341、「日航ジャンボ機墜落」
群馬県内 上野村(54分) 事故調P.341
長野県内 北相木村、川上村 事故調P.7、「日航ジャンボ機墜落」
群馬県内 上野村(55分) 事故調P.7、98〜99
事故調付録P.89、90
墜落 群馬県多野郡上野村(56分) 上野村(56分) 上野村(40分、45分)

捜索・救難活動 [編集]
18時56分02秒、123便の機影はレーダーから消失した。高度3,000m以上は通常レーダーにより監視されていることから、レーダーにも映らない低空飛行、地上への墜落、のいずれかの事態が考えられた。なお、レーダーのアンテナは箱根山の山頂にあった。

18時59分、東京航空局東京空港事務所救難調整本部(RCC、救難調整本部)が警視庁、航空自衛隊、海上保安庁に通報。しかし、一部関係者は低空飛行をし続けていることを願い、JAL、東京航空交通管制部、横田基地管制などが123便に対して呼び出しを続けていた。社内専用無線では同僚たちからクルーへの励ましの言葉も伝えられたと言われている。

19時21分までに、米軍と自衛隊機が大規模な山火事を発見、位置を通報。19時半を過ぎても依然としてレーダーに123便の機影は写らず、どの空港や基地にも123便が着陸したとの情報もなかった。たとえ低空飛行を続けていたとしても燃料が払底する頃と推測されたことから、墜落と考えざるを得ず、各機関は捜索準備に取りかかる。レーダー消失地点などから捜索エリアは群馬県と長野県の県境付近と設定された。当時のヘリコプターの装備・仕様では、夜間における接近は困難であったため、地上からの救出に全力を注ぐこととなった。レスキュー隊が墜落現場に向けて動き出したのはあくる13日午前4時前だった。大半は徒歩で現場まで向かい、付近は険しい地形だったため、墜落現場に到着したのは事故から14時間ほど経った13日午前8時半であった。また、123便が輸送していた医療用放射性同位体や、一部動翼のマスバランスに使われていた劣化ウランなどによる周辺への放射能汚染の警戒も、到着が遅れた一因となった。各機関は、いたずらや誤報に惑わされ、連携が充分にとれずにいた。

このため、現場に一番早く到着したのは、土地鑑を有し、山ですべりにくい地下足袋をはき、日の出とともに登った地元の消防団であった。

日 米軍 防衛庁 県警 群馬県 報道各社 備考
空自 海自 陸自 長野 群馬 上野村
12日 迷走 123便の緊急着陸を最優先。C130は上空で着陸の順番待ち 監視(注1) 相模湾で公試(注2) 110番通報(長野県警臼田署)
18時55分「煙を上げて墜落」
19時5分「墜落し、黒煙」
注1)空自編隊は緊急事態宣言直後に緊急発進、富士山周辺で発見(自衛隊OB)。注2)防衛庁で海幕が走り回り幹部は湘南へ(藤田)
失踪 着陸待ちのC130に、19時01分捜索命令、19時15分炎上中の残骸発見。20分防衛庁などに連絡(注3)
1分後、F4到着と発表(注3) 19時、長野県臼田署が「ぶどう峠」(誤報)。20時21分、埼玉と長野のパトカー、群馬県で炎上中と報告 「長野県」(誤報) 注3)空自F4と米軍は現場に同時にいない(米軍関係者)。空自は米軍到着前に帰還し米軍が第一発見者にされた
救援 20時50分に到着した厚木ヘリの2名が降下中、防衛庁から2機に即時帰還命令、空自ヘリに交替(注4) 20時42分、救援ヘリ着。21時頃帰還命令、21時15分帰還(注4) (海上の捜索は海上保安庁) 陸自、御座山(長野県)へ誘導。陸路は全員、たどりつけない(注5) 注4)防衛庁は米軍と空自を帰還させた理由を公表すべきと、米軍関係者が批判。注5)防衛庁、誤報
13日 再発見 (防衛庁が断わった) 1時「ぶどう峠」、4時「扇平山」(注6) (相模湾で公試) 5時と5時45分の2回「御座山」(注6) 5時37分、県警ヘリが御巣鷹山と確認 5時、テレビ中継を見た上野村村長が、御巣鷹山とスゲノ沢と確認 ヘリ中継 注6)防衛庁、長野県警発表(正)を否定するなど、誤報が続く
救助 (注7) (注7) 10時、県警レスキュー隊、生存者の児童を発見 10時、上野村消防団が生存者の親子らを発見 注7)自衛隊ヘリは救助より何かを釣り上げるのを優先との証言

(出典:事故調査報告書、「星条旗」、朝日新聞社「日航ジャンボ機墜落」、飯塚「墜落現場」)

位置情報

所属 機種 離陸時刻 到着時刻 帰還時刻 火災 残骸 救助 位置情報 備考
空自 F4戦闘機 19:01 百里基地
(注1) 19:21
(注2) (注3) 確認 - - 横田から300度、32マイル 誤報 注1)18時25分頃(自衛隊OB)
注2)19:21に御巣高にいない(米軍)
注3)米軍到着前に帰還の可能性

米軍 C130 沖縄から飛行中 19:20 21:20
(注5) 確認 確認 降下 横田から305度、35マイル (注4) 注4)空自V107の誘導に成功
注5)交替に現れた自衛隊機に引継ぎ

空自 V-107ヘリ 19:54 百里基地 20:42 30分後 確認 - - 横田から299度、35.5マイル 危険として、写真撮影して帰還
空自 V-107ヘリ 00:36 入間基地 01時頃 確認 - - 入間から291度、36.3マイル 誤報
空自 V-107ヘリ 00:36 入間基地 01:35 確認 - - ぶどう峠から210度、3マイル 誤報
空自 V-107ヘリ 立川基地 04:39 - 確認 - 三国山の西3km、扇平山の北1km 誤報
陸自 OH6ヘリ 立川基地 05:10 - 確認 - 御座山の東5km 誤報
陸自 公式発表 05:45 - 確認 - 御座山の東7km、南4km 誤報
長野県警 ヘリ 05:37 - 確認 - 御巣鷹山 ○
上野村 テレビ中継 5時頃 - 確認 - スゲノ沢 ○
陸自 V107(6機) 07:54 習志野 08:49 - 確認 開始 (10:19 全員のリペリング完了) 救助開始

(出典:事故調査報告書、「星条旗」、朝日新聞社「日航ジャンボ機墜落」、飯塚「墜落現場」、藤田「隠された証言」)

日本航空 [編集]
19時頃 - 日本航空の関係者に123便失踪の緊急連絡。JALは羽田オペレーションセンターに対策本部を設置
19時15分 - 東京航空局から123便のエマージェンシーコールについて「123便は大阪・名古屋・東京のどこに着陸するか検討中」と連絡
19時19分 - 米軍から火災発見の報告
21時30分頃 - 墜落を発表。123便は搭載された燃料がなくなる時刻をすぎても姿を現さなかった
東京航空局 [編集]
19時15分 - 東京航空局から、運輸大臣など関係者に123便の緊急事態について第1報。内容は不正確であった。
第1報 事故調査報告書
緊急事態の報告 18時25分 18時31分 18時26分、ACCからRCCへ
緊急事態の理由 操縦不能(重障害) ドアブロークン(軽微な障害)
着陸 18時31分から何度も123便は羽田を希望 ACCは名古屋・大阪・羽田か確認中
東京ACCの対応 ACCは、APCへの管制変更を強く何度も重ねて指示 ACCは切り替えの指示をしていない。管制はACCのまま
APCの対応 APCへの管制切り替え1分後、失踪 123便にAPCは関与していない
123便の失踪 速やかに救助を要請すべきだった(要請は20時) 別室で報告書作成を優先
横田基地レーダーから消えただけと報告
ACCは大阪・名古屋・東京への着陸を確認中と報告
18時56分、APCからRCCへ
出典 「隠された証言」、朝日新聞2010年8月10日 事故調査報告書

2010年8月12日、前原誠司国土交通大臣は、関係者が処罰を恐れることなく事実を証言し、再発防止できるよう、事故調査のあり方を見直すと発表している。報告書作成優先・飛行中との誤報などなく、救援隊がすみやかに現地へ向かえば、生存者はより多く救助されると期待される。

警察 [編集]
123便は埼玉・長野・群馬の境界である三国山を一周し、目撃情報も長野と群馬から寄せられたため、墜落地点の確認は難航した。

埼玉 [編集]
12日
19時30分すぎ - テレビなどで、123便は埼玉県秩父市でレーダーから消えた、と発表された
21時頃 - 埼玉県警はパトカーで現場周辺を回り、墜落地点は埼玉でないと確認(「日航ジャンボ機墜落」朝日新聞)
長野 [編集]
長野県警は、墜落位置の確認、生存者救助などの役割を果たし、救助に大きく貢献した(飯塚訓「墜落現場」「墜落遺体」)。

12日
19時30分すぎ - テレビなどで、123便は長野県で炎上中、と発表された
20時30分頃 - 長野県警は、パトカーで現場周辺を回って墜落地点は長野でないと確認
23時すぎ - 長野県警は、記者会見を開いて墜落地点は長野ではないと発表
13日
5時37分 - 長野県警ヘリが「御巣鷹山」と123便の墜落位置特定の第一報
7時 - 降下できる場所を探し、県警ヘリからロープで降下、水平尾翼発見
10時 - 消防団らが親子を救出するために集まって、生存者の児童が上下さかさまにはさまれている瓦礫の上に集団で乗ろうとしているのを発見して制止するなど、長野県警レスキュー隊は救助全般に幅広く貢献
群馬 [編集]
群馬県警は、1400人規模の捜索隊を派遣するとともに、上野村と上野村猟友会などに支援を依頼、救援に大きく貢献した。

12日 - 墜落地点とされた場所が誤報で、たどりつけない。
13日 - 上野村による墜落地点確認後、上野村猟友会に先導されて現場に到着
上野村 [編集]
上野村は、墜落位置の確認、捜索隊の先導、生存者救助などの多様な役割を果たし、救助に幅広く大活躍した(飯塚訓「墜落現場」「墜落遺体」)。

12日 - 墜落地点とされた場所が誤報で、たどりつけない。
13日
5時頃 - 上野村村長が上野村林業組合のリーダーに電話し、テレビ中継を元にスゲノ沢に間違いないと確認
6時頃 - 上野村猟友会の先導で、上野村消防団、群馬県警、自衛隊などの大規模捜索隊出発
10時 - 生存者発見。消防団は山にあるものを組み合わせて簡易担架を作るなど、救援に貢献した。
猟友会は、県警・自衛隊を先導して数千人の救助隊を現地へ案内し、後続部隊が到着するたびに何度も往復した。
海上保安庁 [編集]
海上で異常が発生しドアが故障した123便から投げ出された人がいるかもしれないとして、広く捜索活動が行われた。

13日
2時30分 - 捜索依頼。ただちに第三管区海上保安本部は、駿河湾の巡視船「おきつ」、下田港の「まつうら」、清水港の「しずかぜ」3隻で捜索開始
7時 - 航空機で海上捜索開始
21時 - 館山湾内で、海上保安庁の巡視船「あさづき」が、海自公試中の「まつゆき」から垂直尾翼の一部を引き取る
22時40分 - 横浜新港埠頭へ
22時45分 - 横浜新港埠頭で確認
自衛隊 [編集]
自衛隊の救助活動は、即応性に欠けていたとされている。装備・訓練については事故後改善されている。

 装備の不足 - 当時の自衛隊(陸上、海上)には、夜間装備は十分ではなく、夜間しかも山間部での救難活動が可能なヘリコプターがなかった。また、事故発生直後、事故現場上空で捜索活動を行った航空自衛隊・百里救難隊所属の救難ヘリコプターV-107「バートル」には現場周辺を明るく照らす照明弾が装備されていたものの「照明弾が地上に落下した後、燃焼熱で山火事を誘発する危険性がある」として使用が出来なかった。これを教訓として、夜間捜索が可能な赤外線暗視装置を装備したUH-60 ブラックホーク救難ヘリコプターが1990年より順次調達・配備されている。
派遣命令の遅れ - 自衛隊は、正式な災害派遣命令が下された後に、陸上自衛隊の部隊などが現地入りして捜索救出活動を行う義務があるが、羽田空港・東京空港事務所長は、火災は墜落を確定しないとして情報収集に専念し、なかなか自衛隊に災害派遣命令を出さなかった。
過酷さ - 現場は険しい山中であったために車輌の進入やヘリコプターの着陸は容易ではなかった。
準備不足 - 装備の不備・訓練の不足・事故現場到着の遅れ・救援の遅れ・位置報告ミスによる誤誘導などを改善すべき事実もあった。
危険物 - 12日20時頃、放射性物質(医療用アイソトープ)が123便の積荷に約90個あると情報提供があった。搭載されていた大量の医療用アイソトープは、現場周辺に広範囲に飛散した、123便の燃料で生じた激しい火災に巻込まれており、炎上中の医療用アイソトープが救援隊に及ぼす健康被害は未知数であった。大量に派遣することになる救助員の健康を守る義務から、火災・消火後における放射性物質の安全性を見極めてから救助すべしとの意見もあった。
航空自衛隊 [編集]
航空自衛隊中部航空方面隊(司令官:松永貞昭空将)は19時頃に救援体制に入り、米軍輸送機は偶然近くを通りかかって発見した火災と残骸の位置を知らせるために上空を旋回しつつ救援隊を待ったが、災害派遣命令はなかなか出なかった。

12日
18時25分 - レーダーサイトの第44警戒群(峯岡山基地)が123便の緊急事態を確認。
直後にF4編隊がスクランブル発進し富士山周辺で発見したものの、123便に方向指示はしなかったので非力に陥ったとの証言(自衛隊OB、「疑惑」)
18時56分02秒 - 123便は埼玉県秩父市上空でレーダーから消失。
18時57分頃 - 航空自衛隊レーダーサイトは123便は墜落したと判断、中部航空方面隊へ救助を具申。
18時59分頃 - 123便はレーダーの範囲を出て低空飛行している可能性があったため、松永空将が捜索機の緊急発進を了承。
19時 - 百里基地で第305飛行隊のF-4EJ戦闘機、航空救難団でV107ヘリとMU2救援機が待機状態に入り、災害派遣命令を待った。
19時01分 - F4戦闘機などの編隊が捜索に向かった。
19時54分 - 百里救難隊からV-107ヘリ(林三等空佐)が離陸。
20時33分 - 東京空港事務所長から航空自衛隊中部航空方面隊に災害派遣出動要請。
20時42分 - 林三佐が現場に到着、米軍の輸送機C-130と交信。
13日
朝、報道機関のヘリコプターが多数、墜落事故現場上空に殺到し、現場上空の航空管制のため、航空自衛隊入間基地航空総隊司令部飛行隊所属のYS-11FCが派遣された。
陸上自衛隊 [編集]
8月12日から10月13日までの63日間、第12師団を主力に延べ3万8千人の人員が生存者の救出等に携わった。

遺体収容に先立って生存者4名が陸上自衛隊の輸送ヘリコプターV-107によって現場から救出・搬送された。この際の、上空でホバリング中のヘリコプターによる生存者の収容作業は、当時の救出活動を象徴する報道映像となった。

12日
21時 - 第13普通科連隊の偵察隊が松本駐屯地から出発する。
21時30分 - 東京空港事務所長から災害派遣出動要請を受け、第12偵察隊が相馬原駐屯地から出発する。
13日
6時過ぎ - 第1空挺団に出動命令が下りる。
7時56分 - 総隊員67名が搭乗するV-107が6機習志野駐屯地から離陸する。(任務は生存者の捜索・救出。現場地形の把握)
8時49分 - 現場上空に到着
 生存者搬出
以降1週間
猛暑の御巣鷹山に野営し、乾パンと水のみ
以降約2ケ月間
山中を捜索
海上自衛隊 [編集]
鶴マークの鶴の右手先端1本が入った垂直尾翼の一部を、公試中の「まつゆき」が相模湾で偶然発見した。

12日 - 事故発生時、海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」(艦番号DD-130)が公試中であったとされる。
13日
18時10分 - 相模湾の居島灯標から246度、8.1海里の地点で発見
18時55分 - 回収
21時 - 海上保安庁の巡視船「あさづき」へ館山湾内で引き継ぐ
ジャンボ機事故の及ぼす多大な社会的影響と人命への脅威と比較して、海上自衛隊の相模湾の捜索は不十分であったと批判されている。

防衛庁周辺では、残骸を発見することを意図して「まつゆき」に13日に相模湾で公試させた、という見方が一般的である。

救援 [編集]
救援隊の到着時に現場で実際のところ何人が生存していたのかについては、情報が錯綜した。生存者4名は発見から数時間は現場からのヘリ搬送が行われず、特に34歳女性と8歳女性の親子はたいへんな重症であるにもかかわらず、猛暑の中で体力を消耗した。テレビで放送された白い服を着た児童ら4名以外にも、黒い服の男の子などさらに4名が生存しているという情報もあった。生存者か遺体かの判別は、心拍音を聴診器で確認するなどではなく、呼びかけたり叩いた時に反応があるか手で触って脈があるかなどで行われていた。最終的に生存者4名が病院に搬送され、それ以外は遺体として体育館へ運ばれた。

残骸の回収作業 [編集]
123便の残骸は、房総半島の太平洋側沿岸から御巣鷹の尾根にかけて幅広い範囲から、回収された。

墜落地点周辺:地面に接触した一本から松から御巣鷹の尾根まで
海上:房総半島の太平洋側沿岸・東京湾内・相模湾沿岸・相模湾内
陸上:伊豆半島・静岡県富士宮市・青梅近くの日原
13日18時10分、鶴マークの鶴の右手先端1本が入った垂直尾翼の一部を、海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」(公試中)が相模湾で偶然発見、18時55分に回収。

なお、鶴マークの残りの部分について、12日23時30分、長野県警は、長野県北相木村の臼田営林署職員の目撃情報として、「尾翼に鶴のマークのついた飛行機が長野県から群馬県上野村へ向かって飛んでいった」と発表している。

アメリカ軍の捜索協力 [編集]
墜落位置の特定 [編集]
墜落機の飛行状況は、在日米軍も把握していた。テレビで放送された録音テープによれば、横田基地の管制官は迷走飛行中の123便に対して繰り返し呼びかけていた。


在日米空軍のC-130墜落場所も早い段階で把握していたとされており、迷走飛行している123便の近くを偶然飛行していたアメリカ空軍のC-130輸送機のパイロットが19時15分頃に「火災を発見」と報告している。

関係機関の連携体制 [編集]
在日米軍による現場特定・ヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流されたが、翌日未明には「アメリカ軍の現場特定及び救出活動の申し出はすべて誤報であった」として否定された。

当時航空幕僚監部広報室長であった佐藤守は後日、「在日アメリカ軍報道部長から確認したこと」として、「アメリカ軍から援助の申し出があったのは事実であるが、当時の在日アメリカ軍は特殊な機材を搭載したヘリコプターを装備しておらず、具体的な支援の内容は救出された怪我人の搬送等であり、さらにそれを日本側が拒否した事実もない」とし、「オーストラリアの新聞記事に無批判に追随した報道各社がデマを広げた」と批判した[6]。これらの報道の流れは事故原因に関する憶測を生む一因ともなった。

なお、事故より10年後に「在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であった」という報道があった。この内容は後年に新潮社の週刊誌に詳細記事として掲載された。

当時の東京消防庁航空隊には強力なサーチライトを搭載したアエロスパシアル製ヘリコプターが2機配備されており、事故当夜は関係省庁からの要請に備え、いつでも出動できるように待機していたが、東京消防庁に出動要請は来なかった。のちに運輸省・警察庁・防衛庁ともに、この東京消防庁所有の高性能ヘリコプターの存在を知らなかったことが明らかになった。東京消防庁も自ら出動を申し出なかった受身の状態だったこともあり、緊急時における縦割り行政の救難体制の問題点が浮き彫りになった[7]。

遺体収容・検視・身元確認作業 [編集]
墜落現場から直線距離で約45km離れた群馬県藤岡市への遺体搬出作業が8月14日午前9時ごろ開始された。搬出には陸上自衛隊・近隣各県警・警視庁・海上保安庁のヘリコプターが投入された。

藤岡市立藤岡第一小学校・校庭がヘリコプター発着場所となり、「藤岡市民体育館」に遺体検視兼安置所が設置された。家族待機所・遺体安置所として藤岡市内の小学校・中学校・高校の体育館と校舎が開放された。

地元群馬県警察医師会所属の医師のほか、群馬県内外の医師、群馬大学医学部及び東京歯科大学の教授陣、法医学者、法歯学者、歯科医師、看護師、赤十字関係者などが身元確認作業に従事した。しかし、墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた。盛夏であったこともあり、遺体の腐敗の進行も早かった。当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったため、身元の特定は困難を極めた。

最終的な身元確認作業の終了までには、約4カ月の時間と膨大な人員を要し、最終的に確認できなかった遺体片は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行われ、火葬に付された後に墜落現場に近い上野村の「慰霊の園」へ納骨埋葬された。

日本航空123便墜落事故の報道態勢 [編集]
時事通信
午後7時13分、「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」とのニュース速報を配信[8]。
日本テレビ
日本テレビは午後7時45分頃に『大きなお世話だ』放送中にニュース速報で第一報を報道し、午後8時から生放送されていた『ザ・トップテン』では、冒頭報道センターからの臨時ニュース後、順位発表の合間に最新情報を報道センターから随時挿入して報道した[※ 9]。午後10時からの『スター爆笑Q&A』を休止し、『NNN報道スペシャル』を放送して、その後の番組内容も変更して事故関連ニュースを終夜放送した。翌13日朝の『ルンルンあさ6生情報』『ズームイン!!朝!』『ルックルックこんにちは』も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えた。
NHK
NHK総合テレビにおいては午後7時の定時ニュースの終了直前(午後7時26分)に、短く第一報を伝えた後、NHK特集『人間のこえ・日独米ソ・兵士たちの遺稿』が予定通り始まった。しかし午後7時35分頃には中断され、事故関連のニュースが終夜放送された[9]。翌13日朝からの通常番組を休止して報道特番態勢が続けられ、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えた。事故関連ニュースはNHKラジオ第二放送でも続けられた。
テレビ朝日
テレビ朝日は午後7時半頃『月曜スペシャル90』冒頭「ニュース速報」で第一報を伝え、同番組の途中に臨時ニュースを入れ最新情報を伝え、午後9時前の定時ニュースでも最新情報を伝えた。午後11時からの『ANNニュースファイナル』は放送時間を30分に拡大し、以降の番組も休止した上で終夜放送とした。翌13日朝の『おはようテレビ朝日』や『モーニングショー』も内容をこの事故のみとし、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えた。
TBS
TBSの第一報は、『クイズ100人に聞きました』放送中の午後7時半頃流した「ニュース速報」だった。午後8時からの『水戸黄門』では文字速報、午後8時54分からの『JNNフラッシュニュース』で最新の速報を伝えた。その後は、最新情報が入り次第随時文字情報による「ニュース速報」を流し続けた。翌13日午前0時02分からの『JNNニュースデスク』は内容を大幅変更し、午前0時32分から予定していた深夜番組を休止させ、午前1時30分まで延長して放送した。以後「JNN報道特別番組」に切り替え終夜放送した。13日朝は『朝のホットライン』や『モーニングEye』なども報道特番に準じた態勢をとり、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えた。
フジテレビ
フジテレビの第一報は『月曜ドラマランド』開始直後の「ニュース速報」だった。その後も番組を中断せず文字情報による「ニュース速報」のみで対応した。午後10時から『FNN報道特別番組』を開始し、そこからCMなしで約10時間に渡り事故関連ニュースを放送した。翌13日朝は『FNNモーニングワイド』や『おはよう!ナイスデイ』ともに報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。フジテレビのスタッフが生中継に必要な機材を墜落現場に運び上げ、現場上空の同社ヘリが受信中継した。墜落現場へ向かっていたスタッフからの生存者発見の一報を受け、『FNNニュースレポート11:30』において生存者救出の映像を事故現場から唯一生中継した。他局は生中継機材が間に合わず、録画取材となった[10]。正午からの『笑っていいとも!』は放送開始後10分で中断され、生存者が陸上自衛隊ヘリに引き上げられる映像の生中継に変更された。
ニッポン放送
AMラジオ局のニッポン放送は、通常放送の生番組の中で随時速報を入れた。12日深夜1時(13日午前1時)からの生放送番組『中島みゆきのオールナイトニッポン』は休止され、午前1時から5時までの4時間にわたる全国ネットによる報道特番を放送した。
毎日放送
大阪の放送局・毎日放送ラジオ(MBSラジオ)は、当日22時からのレギュラー番組『MBSヤングタウン』のほとんどを関連のニュースに充てた。事故があった便から別な手段に切り替えて来阪した明石家さんま(当時の月曜メインパーソナリティ)に配慮して、ニュース以外の部分では音楽が流された。また、テレビの方はTBSと同じ編成だったが、翌13日の『MBSナウ』では関連ニュースを中心に伝えた。
新聞各紙
翌朝の新聞一面はこの事故がトップとなったが、夜間だった影響で墜落地点の情報が錯綜したまま朝刊締切時間となり印刷され、「長野で墜落」や「長野・群馬県境付近で墜落」などの見出しとなった[11]。
写真週刊誌など
最初に現場へ到着したカメラマンは、FLASHが専属契約をしていた大学生アルバイトだった。カメラマンらの撮影した遺体を含む現場写真の多くが、写真週刊誌(Emma(廃刊)、FRIDAYほか)に無修正で掲載された。
記者会見
8月13日午前8時、羽田空港オペレーションセンターで、高木養根日本航空社長による5分間の記者会見が行われた。8時30分ごろ羽田空港21番スポット(VIP用〈当時〉)に到着した遺族搭乗の大阪発臨時便のタラップ下で高木社長が遺族に頭を下げた。機内で行う予定だったが報道陣のため降りた。その写真をAFPが配信、ニューヨーク・タイムスの8月14日の記事や、8月17日の社説などに取り上げられた[12]。
事故の原因 [編集]

ボーイング747型機の後部圧力隔壁(機内側より)航空事故調査委員会(委員長:武田 峻)と、NTSB(アメリカ国家運輸安全委員会・主任調査官:Ron Schleede)が結論付けた事故原因の要点は以下の通りである。

1978年6月2日、羽田発伊丹行日本航空115便として運航した際、伊丹空港で同機がしりもち事故を起こした。その際、割れた後部圧力隔壁下部の交換を含む機体後部の修理を米国ボーイング社に発注。
米国ボーイング社による修理は不適切なもの(交換部分との繋ぎ目に挟む鉄板が、途中で2枚にカットされていた為、2列必要なリベットが、1列分しか効かない状態)であったが、修理後の日本航空による目視検査ではシール用のパテに隠されて不可視となり、修理ミスを発見できなかった。
飛行のたびに客室の与圧と減圧を繰り返すため、圧力隔壁の修理部分で金属疲労が進行した。
疲労が限界を超えたため、飛行中(与圧中)に圧力隔壁が破壊した。
圧力隔壁の破壊部分から、客室内の空気が垂直尾翼内の点検用の穴を通って垂直尾翼の一部と方向舵を破壊した。さらに、4系統ある油圧パイプも破壊、オイル防漏用の弁が油圧パイプに装着されていなかったため、4系統すべての作動油が流出し、3舵全てが操作不能になった。
異常外力 [編集]
事故調査報告書は、異常外圧なしに本件は発生しないと結論付けている(事故調P.79)。異常外圧の着力点は、垂直尾翼中央である(事故調付録P.116)。

すなわち、事故調査報告書の論点は2つある。第一に異常外圧、第二に異常外圧以降に操作性が失われた機体後部の異常を克服できなかったことである。

事故調査報告書は、第一の異常外圧は指摘に留まるが、第二の操作性については惨事の克服方法について詳細に報告・分析し米国などに対処させた。

異常外圧は、落雷・隕石などはDFDRから否定され、空自隊員提供とされる写真の垂直尾翼中央に事故調付録P.116と一致する位置にオレンジ色の物体が確認される。写真は、天井に白いあかりがともる施設内で撮影され、幾つかの破片から成る完全な鶴マークと海上・陸上で発見された部分と海上で紛失したとされる部分が全て揃っている。写真が事実であれば、自衛隊ヘリが現場から収集後に相模湾へ一部投棄する前の撮影であるか、情報公開前に事故調が大量廃棄した証拠の一部となる。

その他の仮説 [編集]
航空事故調査委員会による結論以外に様々な仮説が出されているが、科学的検証が不十分な(もしくは全く無い)仮説が散見されており注意が必要である。

「航空事故調査委員会による結論」では、当時の乗員・乗客の行動や生存者の証言との矛盾点として、圧力隔壁破壊が発生した場合に起きる急減圧、室温低下などの現象が証言からは発生したことが窺えない点が指摘されている。それによれば、7000メートルを超す高空で圧力隔壁が破壊された場合、機内の気圧が急激に低下し、減圧症により乗員・乗客が意識喪失してしまう可能性が高いと考えられている。実際に、2005年8月14日にキプロス・ヘリオス航空のボーイング737型機がギリシャ北部の山中へ墜落した「ヘリオス航空522便墜落事故」では、与圧装置のモード変更ミスによって同レベルの高高度で上記の「急減圧」が発生し、操縦士が意識を喪失したことが墜落の主原因とされ、救援に向かったギリシャ空軍戦闘機のパイロットが操縦士が昏倒していることを操縦席の窓越しに目撃しており、急減圧が発生すれば人体への影響が大きいことを示している。また、1972年にDC-10の貨物ドアが設計・製造時の欠陥のため飛行中に破損した「アメリカン航空96便貨物ドア破損事故」では、貨物ドアが壊れて急減圧が起きた瞬間、機内では埃が舞い上がって何も見えなくなってしまったとされている。しかし、123便の機内でそのようなことが起きた形跡はない。遺書を残したり、機内を撮影していた乗客がいることを考えると、急減圧は起きていなかったのではないかとも推測される。

この矛盾のため、フラッター現象や、機体の構造的欠陥(2002年に機体の老朽化によりチャイナエアラインのボーイング747が南シナ海海上で空中分解を起こした「チャイナエアライン611便空中分解事故」がある)などの事故原因を主張する専門家やジャーナリストも多い。

また、垂直尾翼が破損した後、多くの部品が相模湾に落下したにもかかわらず、事故調査委員会がそれらの部品の捜索を早期に始めなかったことや、すぐに打ち切ったことが、「航空事故調査委員会による結論」に疑問的見解を持つ者たちの一つのより所になっている。

一方では、当時ボーイング社が事故原因の結論を急いでいたとの指摘もある。これは同年6月に大西洋上でインド航空のボーイング747が墜落する「インド航空182便爆破事件」(後に爆破テロと判明)が発生しており、ボーイング747シリーズ全体に重大な欠陥が存在していた可能性があると考えられたためである。結果的に事故機固有の欠陥が原因であるとされたが、-400型では垂直尾翼の設計が変更になっている。このことから、ボーイング747型機の気密安全の構造上の問題(急激ではない、慢性的な圧力漏れがあった際には、圧力隔壁後部の機体側に存在する安全弁が働かない可能性など)を隠し、世界中で運航されていた747型機を飛行停止にさせないため、事故原因を単なる修理ミスによる圧力隔壁の急激な破壊として、事故の早期解決を図ったとの意見もあり、実際に、事故後に400型機へと改良された際に、上記の気密安全構造が改修されているという事実も存在する。

操縦室内の音声を記録したコックピット・ボイスレコーダーは現在JALが管理しており、今後、再調査の必要が生ずれば提供する用意があるとのことである。日本航空機長組合[13]、日本航空乗員組合[14]は2006年11月現在も事故調査結果に納得しない旨、再調査を求める意見をウェブサイト上に掲げているが、事故から20年を迎えた2005年に航空・鉄道事故調査委員会は「現在のところ事故の再調査をする予定はない」と公表している。

機体による事故の可能性 [編集]
可能性 物的証拠・証言 反証
尾翼部の設計ミス ○ 米NTSB、尾翼部の設計変更を勧告(事故調P.129)
米FAA、垂直尾翼点検孔へのカバー装着を命令(事故調P.130)
ボ社、全機の垂直尾翼点検孔へカバー装着(事故調P.131)
400型では垂直尾翼の設計が変更
運輸省、一斉点検を指示(事故調P.132)
JAL、垂直尾翼を設計変更(事故調P.133)
尾翼の設計変更が必要(八田事故調委員長、95年、朝日新聞)
アメリカン航空587便墜落事故

油圧系統の設計ミス ○ 米NTSB、油圧系統の設計変更を勧告(事故調P.129)
米FAA、油圧系統の改修を命令(事故調P.130)
ボ社、油圧系統の改修(事故調P.131)
運輸省、一斉点検を指示(事故調P.132)
JAL、油圧系統を改修(事故調P.133)

圧力隔壁の安全設計ミス ○ 米NTSB、後部圧力隔壁の安全設計を勧告(事故調P.129)
米FAA、後部圧力隔壁の安全設計を命令(事故調P.130)
ボ社、後部圧力隔壁の安全設計の再評価(事故調P.131)
ボ社、強化型の開発(事故調P.131)
運輸省、一斉点検を指示(事故調P.132)

方向舵の設計ミス(JALのB747の構造的欠陥) ○ 事故後、ボ社は方向舵の設計を変更
方向舵の破壊
DFDRにフラッター現象
方向舵はJAL国内線(短距離)用に設計変更しなかった
運輸省、一斉点検を指示(事故調P.132)

航空機の安全基準の不備 ○ 航空機の乗客の安全確保は、乗用車以下
シートの強度の不備
シートベルトによる胴体切断の回避の不備
事故機の垂直尾翼を他機へ転用する慣行
テネリフェ空港衝突事故機の垂直尾翼

APUの不具合・設計ミス × APU空気取り入れダクトは、海上から回収された(事故調P.183)
24分の衝撃音の発信源は、隔壁後方10〜20インチ(隔壁後方25〜50cm「隠された証言」P.182)
これは隔壁やそのリベットではなく、APU周辺
APU取り付け部周辺には、焦げた痕跡や、APUの破片がささっているなど爆発を思わせるものはなかった(「悲劇の真相」)
APUは、着陸時のみ使用し、飛行中は作動させない(同)
APUは、飛行中に爆発する可能性がない(同)

ドアの設計ミス x 乗客の遺書(急減圧は発生していない)
アメリカン航空96便貨物ドア破損事故(1972年)

当該機固有の事故の可能性 [編集]
可能性 物的証拠・証言 反証
1978年のしりもち事故に修理ミス ○ 墜落現場で発見された圧力隔壁に修理ミス
米NTSBの勧告(事故調P.129)
修理方法の再評価を勧告
検査の変更を勧告
修理技術の指導を勧告
米FAAの命令(事故調P.130)
修理方法の再評価を命令
技術スタッフへの指導を命令
ボ社の対応(事故調P.131)
修理方法の再評価
検査方法の変更
運輸省の指示(事故調P.132)
一斉点検を指示
JALの対応(事故調P.133)
修理方法の再評価を実施
検査方法を変更
事故調の調査結果(事故調査報告書 付録P.74)
異常発生後に急減圧が生じていない
客室室温は異常5分後頃に-40度でない
遺書(48D・43歳男性、異常15分後の状況)
生存者全員の証言(最後部座席周辺)
乗員全員の行動(CVRでは、全員平常通り)
ボ社の機体発売前の発表では、圧力隔壁の破壊で墜落しない(東大・近藤教授)
音の発信源は、隔壁後方10〜20インチ(藤田)
ヘリオス航空522便墜落事故

機体後部にゆがみ ○ ボ社は、機体後部を切断しての修理後、ずさんに接続(事故調P.102)
機体(JA8119)の不具合は、機体後部に多発(JAL乗員組合)
後部トイレのドアが開閉困難
R5・L5ドアの不具合

方向舵に不具合 ○ 下側がわずかに左を向く(JAL乗員組合)

航空会社の課題(日本航空に限らない) [編集]
可能性 物的証拠・証言 反証
機体後部が反応しない操縦不能状態の訓練の必要性 ○ 同様の訓練をした場合、着水での生存の可能性はある(事故調P.84~86)
同様の訓練していない場合、機長でも生存は難しい(同)
同様の訓練をした教官は、ユナイテッド航空232便不時着事故(1989年)で生還
訓練が必要(八田事故調委員長、1995年、朝日新聞)
乗客を乗せた機体で、操縦不能の訓練
繁忙期かつピーク時でほぼ満席の機体で、操縦不能の訓練

旅客機は、放射線物質を搭載禁止すべき ○ 炎上中の放射性物質による救援の遅延を回避
炎上中の放射性物質による救援隊の被爆を回避
医療用放射性物質搭載の通報後、救援が14時間遅延

緊急事態の訓練の不足 ○ 他社機は、緊急事態宣言をした他機に与えられる優先権を、平然と無視
他社機は、管制官から緊急事態の他機の優先権を通知された後も、平然と無視
他社機は、123便の優先権を考慮することなく管制と通信、実質的に123便を見殺し
インターネット上で公開されている管制通話参照

会社側の不備の隠蔽 ヒューマンエラーを機械故障でごまかす慣行

管制の課題 [編集]
可能性 物的証拠・証言 反証
左旋回(着水)を指示すべきだった(海山論争) ○ シミュレーションに参加した全機長が着水を選択(事故調P.84~86)
USエアウェイズ1549便不時着水事故(2009年)
訓練がない場合、着水・着陸ともに生存は難しい(事故調P.84~86)
繁忙期のピークの時間帯で、他機多数が三原・シーパーチなど海上を飛行中
他機に海上を譲ったことで、他機との衝突による2次被害を回避

123便の優先権を無視 ○ 緊急事態宣言をした航空機に与えられる優先権を、123便に対しては無視
123便は、大声で何度も、ACCと他機の交信に割り込んでいる
実質的に見殺し

ACCからAPCへ管制を切り替えない場合の生還率向上 ○ 123便はACCを希望
123便は、パワーコントロールだけが有効であった
山岳地域におけるパワーコントロールは、佐々木(機長昇格訓練中)のスキルを超え、福田に交替していた
福田は、管制切り替え・位置確認の間、パワーコントロールができなかった
ACCによる放任が、福田によるパワーコントロールと123便を延命させていた
訓練がない場合、生存は難しい(事故調P.84~86)

管制スキルの維持 ○ 緊急時はベテラン管制官に速やかに交替すべき

管制ミスを隠蔽するべきでない ○ ヒューマンエラーを機械故障でごまかす慣行

自衛隊の課題 [編集]
可能性 物的証拠・証言 反証
随伴機による生還率向上 ○ ただレーダーを見ていた
レーダーから消えるまで何もしていない
生存中に随伴機を出すべき
乗員は、随伴機を必要としていた
随伴機があれば生還した可能性
123便の異変直前、空自定期便が近くを急降下した可能性
F4を緊急発進するなら、墜落前にすべき
対応の必要性(事故調 はじめに)
乗員が事態を十分に把握できない場合
乗員が判断を下すのが困難な場合
効果は期待できない(事故調P.86)
あらかじめ訓練をしない場合、生存は難しい(事故調p.84~86)
自由な判断なしに、生存者4名は生還しなかった
ギアダウンによる降下
一本から松での上昇
U字溝での上昇
滑空

訓練日の見直し ○ 曇りの日にミサイル訓練すべきでない(12日)
ミスが確認できない
救助中、人命救助を最優先すべき(13日)
遭難者がいる可能性を知りつつ、訓練を優先

訓練海域の見直し ○ 旅客機のエリアで訓練すべきでない
公試中の時刻に、公試エリアで123便に事故発生
確かに12日夜の防衛庁が普通ではなかった(藤田)
海幕があわてて走り回っていた
相当な地位に至る者まで湘南方面へ行った

迅速な救援 ○ 御巣鷹山の捜索における不可解な行動(12日)
事故直後、多くの乗客が生存していた
防衛庁は、米軍2機を、引継ぎと称して即時撤退させた
防衛庁は、米軍から引継ぎを受けた自衛隊救援機も撤退させた
御巣鷹山の捜索における不可解な行動(13日)
夜明けも、なかなか救助しようとしなかった
生存者救助を後回し
墜落現場から何かをつりあげることを優先
相模湾の捜索における不可解な行動(13日)
海自は、遭難者がいる可能性を知りつつ、訓練を優先
民間船艇に公試させ、尾翼を発見させる必要があった可能性
活動に参加した各機関は最善を尽くした
夜間の捜索
墜落地点は登山道がなかった
墜落地点は落石の危険が多い山岳地域
救難活動は困難を極めた
炎上中の大量の放射性物質による被爆を懸念
放射能汚染の懸念
火災による放射性物質の拡散への懸念

捜索の費用負担などの見直し ○ 相模湾の捜索における不可解な行動
再発調査に不可欠
多くの部品が落下していた
捜索を早期にしない
捜索を早期に打ち切り
優先すべきは、訓練でなく、再発防止
費用は、捜索してもしなくても同額
人件費
訓練費を捜索費に回す
事故調の予算不足

異常外力 [編集]
可能性 物的証拠・証言 反証
異常外力 ○ DFDRの記録値(事故調P.79)
DFDRの横方向の加速度
異常外力が発生した
異常外力なしに説明不可能
CVR(24分)
「オレンジや」「オレンジエア」と聞こえる音声
管制の許可を得る前に右旋回、降下
地上・海上から123便は見えなかった(生存者)

APUへの衝突 ○ 衝撃音の発信源は、APU周辺(「隠された証言」P.182)
隔壁後方10〜20インチ(隔壁後方25〜50cm)
隔壁やそのリベットではない
APU空気取り入れダクトは、海上から回収(事故調P.183)
APUの爆発はない(「悲劇の真相」)
APU取り付け部周辺には、焦げた痕跡がない
APUの破片がささっているなど爆発の痕跡がない
APUは地上でのみ使用し、上空で作動させない
APUは飛行中に爆発する可能性がない

海自の標的機が刺さった可能性 ○ 真下で公試中に事故発生
DFDRの記録値(事故調P.79)
DFDRの横方向の加速度
異常外力が発生した
異常外力なしに説明不可能[15]
CVR(24分)
「オレンジや」「オレンジエア」と聞こえる音声
管制の許可を得る前に右旋回、降下
地上・海上から123便は見えなかった(生存者)
オレンジ色の細長い物が飛行し近づく写真(R5ドア近くで撮影)
確かに防衛庁が普通ではなかった(藤田)
12日夜、海幕があわてて走り回っていた
相当な地位に至る者まで湘南方面へ行った
海自だけ救援に参加せず、行動非公表
2010年8月の海保ヘリ事故における隠蔽との類似
自殺した自衛隊員の残した証拠写真
12日、垂直尾翼にオレンジの物体が食い込む
完全に垂直尾翼を回収[16]
自殺した空自2名の足元に、台がない[17]
藤田にCVRを提供した利光松男も不審死
DFDRの最初の異変は、前への加速度

標的機の刺さった123便にミサイル ○ ミサイルは、エンジンに当たる
一本から松で第4エンジンの破損の場合、墜落に至る
墜落直前、前方から若い女性の叫び声(生存者)
生存者救助より、墜落現場から何かをつりあげることを優先
ミサイルで撃墜すればきりもみ状態になる
きりもみ状態にならなかった(生存者)
123便は45度の角度で楕円形に墜落
ほぼ垂直に墜落した例
ユナイテッド航空585便墜落事故(1991年)
USエアウェイズ427便墜落事故(1994年)
バージェン航空301便墜落事故(1996年)
シルクエアー185便事故(1997年)
エールフランス447便墜落事故(2009年)
中華航空006便急降下事故(1985年)

落雷 x 事故直後、日航は落雷関連の可能性を発表
乗客の離席許可は、シートベルト着用中
雷雲のためにシートベルトの可能性
雷雲を避けて不測の事態に遭遇した可能性
落雷は発生していない
DFDRに、前への加速度


UFO説 [編集]
可能性 物的証拠・証言 反証
UFOによる撃墜説 × 日航ジャンボ機UFO遭遇事件
UFOは、航空母艦・オレンジが目の前・コクピット焼死と自衛隊誤射説を正確にトレース[18]

宇宙人が犠牲者を食べた説 ×

被害拡大・原因究明不備の人的要因 [編集]
ボ社 ACC JAL 防衛庁 運輸省事故調査委員会 警察
設計ミス ○(後部が弱い) - ○(後部が弱い) - 米国に改善を要求 -
修理ミス ○(後部が弱い) - ○(後部が弱い) - 米国に改善を要求 -
緊急事態の訓練をしていない - ○(ほぼ満席の旅客便で緊急事態の訓練) - - -
緊急事態の123便を誘導しない ○(ほぼ無視) - - - -
ACCの支援を求める123便に管制変更指示 ○(5回以上) - - - -
位置情報の誤報 - ○(御巣鷹と認めない) ○(異常) - 迅速、正確
捜索の遅延 ○(19時15分飛行中と周知) ○(救援でなく、全員分の棺を手配) ○(異常) - 迅速、正確
相模湾の捜索の打ち切り ○(隔壁説) - ○(落合証言) ○(打ち切り) ○(予算不足) -
CVRの一部が意味不明 ○(藤田証言) - -
123便固有と主張 ○(修理ミス説) ○(落合証言) - -
事故調査が中途半端 ○(刑事告発回避を呼びかけ) ○(管制変更を否定) ○(落合証言) ○(相模湾の打ち切り) ○(申請した予算が大幅に削られた) -
備考 善意の内部告発者
善意の内部告発者
善意の内部告発者
米国政府に設計変更を要望
善意の内部告発者
現在も事故調査報告書を保存・公開

乗客 [編集]
事故が発生した日は夏休み中で、「お盆の入り」の前日であった。同機には出張帰りのサラリーマンのほか、帰省客や観光客が多く搭乗した。最終便での「積み残し」を防ぐためにも最終便1本前の同機は、ほぼ満席の状態だった。

以下の著名人やその関係者が多く乗り合わせていた。

坂本九(歌手)
北原遥子(元宝塚歌劇団娘役で女優)
中埜肇(阪神電気鉄道株式会社専務取締役鉄道事業本部長・阪神タイガース球団社長)
浦上郁夫(ハウス食品代表取締役社長)
塚原仲晃(大阪大学基礎工学部教授・医学博士)
藤島克彦(コピーライター)
伊勢ヶ濱親方(大相撲・元大関・清國)の妻子
吹田明日香(タレント)の母など
ヴァイオリニストのダイアナ湯川は銀行家の父をこの事故で亡くしている(ダイアナ湯川自身の出生は、事故から1カ月後)。

元・宝塚歌劇団雪組トップスターの女優の麻実れい、タレントの明石家さんま、当時フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝の家族らも同機に搭乗する予定だったが、直前にキャンセルし、難を逃れた。東京モノレール羽田線が10分程度遅れたために搭乗を逃したり、バスやタクシーで羽田空港に向かっていたものの、渋滞に巻き込まれ搭乗できず、結果的に難を逃れた客もいた。

また、新聞などで公表された搭乗者リストの中に名前があり、生存が絶望視されていた最中に自宅に帰宅した者、実は乗っていなかったという者が少なくとも3名以上いた。本人名義で既に購入していた事故機の航空券を直前に金券ショップに名義を変えずにそのまま売却したり、その場で第三者にその航空券を譲渡したりしたためである。結果的に名義人は難を逃れたが、その航空券で搭乗して犠牲になった第三者は当初搭乗者リストに載らなかったため、第三者の遺族への連絡も大幅に遅れ、現場の遺体の識別作業に時間を要することとなった。

生存者は4人。全員女性。26歳のJALの非番の客室乗務員・34歳と8歳の母子・12歳少女。

その後 [編集]
ボーイング747は世界中で就航し、機体後部に同様の不具合がある場合はそのどれにでも同様の事故が起き得た。一連の事故調査でこの構造上の欠陥が発見された結果、同型機の全機のみならず全航空機に対して機体後部の設計改修と修理の見直しが施され、多くの人命が救われることになった。

調査資料 [編集]
事故から15年を目前とした2000年、乗務員の遺族が長年訴え続けたコックピット・ボイスレコーダー(CVR)の音声が、乗務員遺族のみに聞かせる条件でカセットテープで提供された。同年7月から8月にかけて、事故調査の資料がマスコミなどに大量に流出した。この中にはCVRの音声テープも含まれ、以前に乗務員遺族が聞いた音声よりも鮮明だったという。8月8日には一部音声がテレビで全国放映された。この報道では、過去に報じられたような操縦ミスはなく、乗務員が墜落を回避しようとする必死の努力を行っていたことが明らかとなった。これによりそれまで乗務員に対して憎悪していた多数の乗客遺族達から、感謝の念と非難や暴言を吐いたことへの反省・謝罪の手紙・声が乗務員の遺族に届けられたという。

同年8月、運輸省の航空事故調査委員会が保管期間の切れた一部の事故調査資料を廃棄していたことが毎日新聞により報じられた。再調査を求める遺族からは運輸省側の対応を批判する声が上がった[19]。

2010年現在、CVR・DFDRは日本航空に保管されており、過去の調査結果と矛盾する新たな資料が出てきた場合に照合することとなっている。

誤報 [編集]
事故直後報道で、「原因」の一つとして、航空機の知識に欠けるマスメディアによって取りざたされていたものの一つに「操縦ミス説」があった。事故前当時、日本航空ではトラブルが多発していた上、事故の3年前に日本航空が起こした羽田沖墜落事故では、機長の異常な操縦が原因で墜落し、大惨事を起こしたということもあり、世間は事故原因が特定されていないにもかかわらず、感情的に日本航空関係者やクルー、その家族にまで怒りをぶつけた。

クルーの遺族には連日、嫌がらせや抗議の電話や手紙などが相次ぎ、遺体安置所では日本航空社員が乗客遺族らから暴言、暴行を受ける被害が出ていた。このため、クルーの遺体確認の際は乗客遺族を一度全て退出させた後、裏側から入室、数十分間の限られた時間、あるいは、乗客遺族が帰った深夜に確認を行う措置をとった。

誤報の陰には、刑事責任を回避したい悪意の関係者の思惑だけでなく、再発を許すまいとする善意の関係者と遺族に買わせようという販売戦略などがあった。[要出典] 2010年8月10日にも、ACCの管制官はAPCへの管制切り替えを管制指示していない、などと主張する当時の関係者の証言が朝日新聞・時事通信に掲載された。


昇魂之碑 御巣鷹の尾根と慰霊登山の現状 [編集]
墜落現場である「御巣鷹の尾根」[※ 1]には事故の翌年、慰霊碑が建立され[20]、毎年8月12日には慰霊登山などが行われている。事故発生から20年以上が経ち、遺族の高齢化が進んでいることから、2006年8月より墜落現場付近を通る砂防ダム工事用道路が村道兼林道として一般開放され、墜落現場まで歩く距離が約2.2kmから約800mに短縮された[21]。

現場には多数の墓標があるが、それは事故後、群馬県警察が遺体発見場所の地図を作成したものを元に建てられたものである。

事故後の便名 [編集]
事故以降、日本航空123便は翌日(8月13日)は欠航[※ 10]、その後8月14日から31日までは123便のままで運航していた。9月1日から1カ月間は同ダイヤで応急的に133便となり、同年10月以降は同ダイヤで125便として運航が継続されることとなった。以降、日本航空123便は無期限の欠番となる[※ 11]。

1994年9月には関西国際空港が開港し、大阪便としての便数振り分けに伴って伊丹便は減便され、同ダイヤで107便となり、120番台は使われなくなった。2000年4月には昼間時間帯に増便されたため、同ダイヤで109便となった。

1997年7月には羽田 - 高知線が開設され、再度120番台便名が使用されたが、2往復中、羽田発が121便と125便、高知発が122便と126便で、123便と124便は使われていない。

2003年4月には日本エアシステムとの統合準備に伴い、羽田 - 高知線はJASによる運航に統一されたため、再度120番台は使われなくなった。翌年の便名4桁化まで使われることはなかったため、この時点で日本航空の120番台便名は一旦消滅した。

2004年4月の日本航空とJASの統合後は、便名4桁化に伴い、同ダイヤで1525便として運航されていたが、2005年11月に運航ダイヤが調整され、1525便は羽田18時30分発に変更された。

2007年4月より羽田発着の幹線を中心とした主要路線の一部便名を3桁に変更した。羽田 - 伊丹便では2004年3月までと同様に100から(149まで)が使用されることとなり、再々度120番台便名が使用されることとなったが、羽田発は121便の次は125便、伊丹発は120便の次は124便となっており、122便と123便は使われていない。

123便の運航時刻上の流れを汲む1525便は、2007年4月より事故の翌月に応急的に使用された133便となり、18時25分発に変更された。

「123」は「任意の3桁の数字」として便宜的にしばしば用いられる数字である。そのため、航空に関する事項の説明を行う際、「日本航空123便」が航空便名の例として用いられることがある。

事故調査委員会 [編集]
事故調査委員会は米・日本航空に加担しており機能していないとして、遺族などから民営化を求める意見もある。

しかし、米国に設計変更をさせたのも、ボ社の隔壁説を否定するシミュレーション結果を公表したのも、運輸省航空事故調査委員会の功績である。

事故調査委員会は、JALの調査に私情を挟むことがないよう、子弟が日本航空関係者であった八田委員長などをDFDRとCVRの解析を終えた時点で速やかに交代させている。調査資料は廃棄されても、オリジナルであるDFDRとCVRは再解析できるよう保管されている。

事故調査委員会を離れても、八田委員長は乗客の乗らない機体で尾翼不具合の訓練と操縦不能の訓練をするよう苦言を提し、日本航空に対して厳しい姿勢を貫いた。

もし、事故調査委員会が民営化されれば、より限られた予算でしか調査ができなくなるので、今後同様の事故が発生した際に航空機メーカー・航空会社への発言力・強制力は大きく弱まる。メキシコ湾の油田事故同様、利潤追求を至上目的とする民間企業に、高度な専門スキルのある人材が集まっても、その調査結果が会社の利益を目的にゆがめられる可能性は否定できない。その結果、航空機メーカー・航空会社のさらなる利益追求を許すばかりでなく、新たな大量の犠牲者・新たな惨事を許すことにもなる。

ここから、人命保護の観点から、事故調査委員会の民営化には慎重な意見が根強くある。

JALの取組み [編集]
2006年4月24日、羽田空港整備地区に日本航空安全啓発センターが開設された[22]。JA8119残存機体の一部(後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席、フライトデータレコーダ、コックピットボイスレコーダなど)を含め、事故に関する資料が展示されている。社内向けの施設であるが一般にも公開されており、事前に申し込みをすれば見学することができる。館内は特別の場合を除き撮影禁止となっている。

その他 [編集]
事故に関して日本航空が支払った賠償金[※ 12]の総額は、当時の額で約600億円である。
日本航空・全日本空輸・日本エアシステム共、航空の利用者は減り、東海道新幹線およびその他の鉄道路線の利用客は増加した[23]。
JA8119の遭難直前のフライトである福岡発羽田行366便には、11日の平和台球場での中日戦を終えた阪神タイガースのナインが13日からの後楽園球場での試合に備え搭乗していた。この事故がきっかけで、野球選手の地方遠征時の移動は、新幹線と飛行機に分乗するようになった。
上記の福岡発羽田行366便には当時の運輸大臣(第2次中曽根内閣)であった山下徳夫も選挙区の佐賀から帰京する際に搭乗していた。
この事故から、航空機パイロットの間で、エンジンパワーの操作だけでもある程度までは飛行機の操縦が可能であることが知られるようになった[24]。
事故発生当初、「ドアが破損した」という交信があったことから、1974年に発生したDC-10の墜落事故のように貨物室ドアが外れたため操縦系統に損傷を受け、操縦不能に陥ったと疑われていた。
NHKはこの事故を契機に、山岳での報道に対応できる体制を整備した。
江口克彦「上司の哲学」(PHP文庫)によると、御巣鷹山の土を木箱に詰めて1箱5万円で遺族に売りつけようとして、轟々たる非難を受け倒産した企画会社が実在するという。
2006年頃から、電子部品の通信販売を行っているあるWEBサイトにおいて、「おすた化硬貨」「御巣鷹木炭粉末固形化ボール」「御巣鷹温泉石鹸」なるものが販売されていた[25][26]。御巣鷹山を「中性子爆弾の中性子線を浴び放射化した山」だとし、「御巣鷹山の岩のそばで中性子線を浴びた」ものだという。「参考写真集」として「123便 メモ」というサイトへのリンクがあり、同じ頃に流布された中性子爆弾によって撃墜されたという怪説の発信元であった。
2007年頃から、youtubeにサンプルを掲載して事故機の飛行を再現した動画のDVDを販売している業者が存在する。
事故の当事者である日本航空は、慰霊登山の登山道整備事業において、2010年から3年かけて、登山道を整備した財団法人・「慰霊の園」に返すことを申し合わせていたが、経営難により、負担金を支払えなくなり、財団側が取り崩す事態となった[27]。
遺族側による科学的事故の検証 [編集]
遺族会員で技術者であった川北宇夫は専門的視点から、犠牲者がシートベルトで腹を割かれて前方座席に頭を強打する形で死亡していた事実から、3点式シートベルトの採用や、座席を後ろ向きに設置する案を提起している。これに対して製造元からは座席の位置の変更を行っても床の強度が同じではあまり意味がなく、また、後ろ向きの姿勢は居住性を損なう可能性があり、あまり実用的な提案ではないとの回答が返ってきた[28]。

3点式シートベルトの採用は経費や重量増加の問題をクリアできる可能性があり、すでに一部の小型自家用ジェット機の客席のシートベルトにオプションとして採用されている。ヘルメットやエアバッグの設置、遊園地のジェットコースターのような座席への固定装置の採用は、快適性との兼ね合いさえクリアできれば、現実的な選択肢である。2008年現在、エアバッグ内蔵のシートベルトは実用化されており、日本航空国際線のプレミアムエコノミークラスでも採用されている。

事故時にシートベルトを軸に体がくの字に折り曲げられる現象は、航空業界では「ジャックナイフ」という名前で認知されている[29]。

事故を題材にした出版物など [編集]
この事故が社会に与えた影響は大きく、この事故をテーマにした文学作品や漫画なども数多い。一方テレビでは、ドキュメンタリーやドキュメンタリーと実録ドラマ並行形式などがあり、20年目となる2005年には8月12日を前後に放送が相次いだ。

小説 [編集]
『沈まぬ太陽』
山崎豊子原作。当時の日本航空をモデルとして、社内からの視点で描いたフィクションの作品。2009年に映画化。
『クライマーズ・ハイ』
横山秀夫原作。当事故の報道における地元新聞社の苦悩を描いた作品。2005年にテレビドラマ化、2008年に映画化。
漫画 [編集]
『御巣鷹山の暑い夏』
小林源文作。自衛隊による事故現場処理の様子を描いたドキュメンタリー形式の劇画で雑誌『PX MAGAZINE』に掲載[30]。2010年4月「GENBUN MAGAZINE」別冊Vol.1として単行本化(ASIN: B003ET1GXO)。
テレビ番組 [編集]
NHKスペシャル『思いをつづった文集-あの日を忘れないで-日航機事故 20年目の遺族』(NHK)
2005年8月12日放送。
『ボイスレコーダー-残された声の記録-ジャンボ機墜落20年目の真実』(TBS)
2005年8月12日放送。高濱機長夫人や原因究明に奔走する先輩機長から見た視点を中心に、事故発生からボイスレコーダー公開に至るまでの経緯について描かれた。
金曜エンタテイメント特別企画『8・12日航機墜落事故 20年目の誓い?天国にいるわが子へ?』(フジテレビ)
2005年8月12日放送。2007年12月15日一部地域で再放送。甲子園での高校野球観戦をするため、1人で搭乗し亡くなったある小学生の母親から見た視点で描かれている。また合間には、東京航空管制部での対応や生存者をスクープしたフジテレビカメラマンの話も実録ドラマで描かれている。
NNNドキュメント『ドキュメント05.「あの夏…御巣鷹山・日航機墜落それぞれの20年」』(日本テレビ)
2005年8月14日(深夜)放送。
坂本九没後20年ドラマスペシャル『上を向いて歩こう?坂本九物語?』(テレビ東京)
2005年8月21日放送。
土曜ドラマ『クライマーズ・ハイ』(NHK)
2005年12月10日・17日放送。2006年9月30日・10月7日再放送。
『メーデー!:航空機事故の真実と真相 第3シーズン第3話・御巣鷹の尾根』(ナショナルジオグラフィックチャンネル)
演劇 [編集]
『赤い鳥逃げた…』
劇団離風霊船が1986年に初演。1988年、1989年、1995年、2005年に再演。 物語は、事故の生存者と同じ事故に遭ったが自らの死を受け入れられない生存者の家族を軸にしており、役名も実際の生存者の名前を使っている。またラストでは生存者の1人が語ったとされ、メディアでも取り上げられた証言が一言も変えずに使われている。タイトルは、本事故とほぼ同時期にヒットしていた中森明菜の楽曲である「ミ・アモーレ」の異名同曲異歌詞である「赤い鳥逃げた」と当時日本航空の旅客機に描かれていた「鶴丸」に掛けている。
『CVR チャーリー・ビクター・ロミオ』
実際に発生した航空事故のCVRを再現した舞台演劇作品。そのうちのひとつが本事故。1999年アメリカ合衆国で初演。日本では燐光群によって2002年に初演。
『8・12(はってんいちに)』
「劇団裏長屋マンションズ」の座長である赤塚真人が、同事故で親友を失った事実をもとに書き下ろした作品。2004年に初演、事故後20年の節目となった翌年には続編(第二章)が上演され、2008年「8・12 ?絆?」として再演される。 物語は、父親との確執を抱えたまま事故機に搭乗した青年の思いを軸に、実在したクラブハウスを舞台に描かれる。同劇団では、作品の上演にあたり毎年御巣鷹山[※ 1]への慰霊登山を実施しているという。
映画 [編集]
『御巣鷹山』
渡辺文樹監督作品。自主制作のフィクション。上野村をはじめ全国で上映会を開いており、上映前会場周辺に「ファイヤービー」などの文字の入った捨て看板が設置される。2006年公開。
『クライマーズ・ハイ』 - 同名小説の映画化。
2008年7月公開。
『沈まぬ太陽』 - 同名小説の映画化。
2009年10月公開。
音楽 [編集]
『RAMP IN』
『SONG FOR YOU』
角松敏生の楽曲。1985年11月に発売されたアルバム「T's BALLAD」に収録。歌詞カードの『RAMP IN』の項には「Dedicated to the stewardesses of JAL 123」、『SONG FOR YOU』の項には「Dedicated to the souls of the passsengers of JAL 123』の記載がある。
『RAMP IN』は、1993年発売のアルバム「角松敏生1981-1987」にストリングスアレンジを変えた新録音バージョンが収録された。ライナーノーツには、「この楽曲は85年に起きた飛行機事故の乗員乗客に捧げた」という解説が改めて記載されている。
『Last Flight』
上述2曲と同じく角松敏生の楽曲。2003年に発売されたマキシシングル「君のためにできること」のC/Wに、アルバム「Summer 4 Rhythm」に収録。
『涙 tear』(?(?))
韓国の男性歌手ルイ (??) の2001年に発売された事故を題材にしたデビュー曲。ミュージック・ビデオにはハ・ジウォンやコ・スなどが出演している。
DVD [編集]
『日航123便』
稲川淳二のDVD「怪異夜話」に収録。以前、稲川本人が出演した番組の関係者でこの事故の犠牲となった1人についての怪談。また稲川本人もこの機に乗る予定だったが体調を崩し乗らなかったと語っている。
補足 [編集]
^ a b c d 事故当時、墜落地点は御巣鷹山と報道されたが、正確には高天原山系(たかまがはらさんけい)に属する無名の尾根であり、御巣鷹山の南隣に位置する。この尾根は後に、上野村村長であった黒沢丈夫によって事故現場に最も近い御巣鷹山から「御巣鷹の尾根」と命名された。
^ この事故以前の日本国内で最多の航空機事故死者数は1971年7月30日に発生した「全日空機雫石衝突事故」の162名だった。
^ 世界で最多の死者数を出した航空事故は1977年3月27日に発生した「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」で、滑走路上で2機のボーイング747が激突した事故によって583名の死者を出している。
^ この事故以前の単独機の航空機事故死者数が最多のものは1974年3月3日にフランス・パリ郊外で発生した「トルコ航空機墜落事故」の346名だった。
^ 高濱機長は海上自衛隊から日本航空に入社。海自時代『イラン・イラク戦争』で邦人救援の救援機操縦に名乗り出たが、時間が間に合わず結局日本から救援機を飛ばせなかった。
^ 国内線では、15分以内の遅れは定刻出発としている
^ 事故調査報告書による。
^ エンジンと電気系統は無事だった。
^ 午後8時20分ごろの速報では、長野県警発表の「北相木村に墜落」と報道、午後8時40分ごろにも前と同様の内容を報道し、午後8時50分ごろの速報では「川上村と北相木村の間にあるぶどう峠付近に墜落」と報道した
^ 同時刻に臨時便として羽田-大阪間の運航をした。
^ 事故による番号の欠番については、2005年4月25日のJR福知山線脱線事故で事故列車の列車番号であった「5418M」を無期限欠番とした例もある。また、1966年2月4日の全日空羽田沖墜落事故の「60便」は、事故便と同じ羽田 - 札幌線で最近まで使用されていたものの、現在は何らかの理由で欠番となっている。
^ 正確には日本航空が支払ったのではなく、賠償金は全て日本航空が加入していた保険から支払われた。
出典 [編集]
^ 事故調査報告書
^ 『悲劇の真相−日航ジャンボ機事故調査の677日』 鶴岡憲一 北村行孝 読売新聞社
^ 『墜落の夏―日航123便事故全記録―』(吉岡忍・著、1986年8月、新潮社、ISBN 4-10-363001-9)
^ 運輸省航空事故調査委員会(当時)による認定[1]
^ 「ボイスレコーダー?残された声の記録?ジャンボ機墜落20年目の真実」(TBS)2005/8/12
^ 「いわれなき批判に反論する(その2)」。 「いわれなき批判に反論する」も参照のこと。
^ 昭和60年8月28日に行われた「第102回国会 交通安全対策特別委員会」議事録中ほどにある、当時の衆議院議員・坂井弘一委員と運輸省航空局管制保安部長・中村資朗の質疑応答を参照[2]
^ 御巣鷹の真実(時事ドットコム)
^ http://tvwatcher.fc2web.com/JAL123_001.html
^ http://tvwatcher.ojiji.net/JAL123.html
^ http://www.geocities.jp/joox_tv2/jal123/
^ 新藤健一『映像のトリック』講談社現代新書 1986年 ISBN 4-06-148804-X
^ http://www.jalcrew.jp/jca/
^ http://www.jalcrew.jp/jfu/
^ 尾翼だけ90度に傾いた
^ 垂直尾翼に突き刺さるオレンジの物体。鶴マークに破損はない
^ 自殺説
^ Japan airlines Boeing 747 meets UFO over Alaska in 1986
^ 「日航機墜落事故資料を廃棄 1トン『保存期間切れた』--運輸省航空事故調査委員会」『毎日新聞』大阪夕刊、2000年8月4日。
^ 「悲しみ新たに『御巣鷹の尾根』 昇魂之碑の除幕式」『朝日新聞』東京夕刊、1986年8月1日。
^ 「御巣鷹・21年目の夏 (3)  聖地  慰霊の道、守り続ける」『毎日新聞』東京朝刊、2006年8月8日。
^ http://www.jal.com/ja/press/0000535/535.html
^ 昭和61年度 運輸白書 - 輸送動向
^ 機長の告白◎生還へのマニュアル(著:杉江弘 ISBN4-06-210329-X にて、本件の事故調査委員会によるシミュレーション、および、1989年7月19日のUA232便のアクシデントの概要を紹介)
^ [3]「ようこそ http://現品.com のサイトへ」web.archive.orgより
^ [4]壊れ行くサイト、「現品限り」スラッシュドット・ジャパン
^ 日航、経営難で御巣鷹負担金を支払えず 読売新聞 2010年8月3日
^ 2007.9.21『朝日新聞』
^ 内田幹樹『パイロット・イン・コマンド』文庫版P.259
^ 『ストライク アンド タクティカル マガジン』2007年11月号にP.36のセルフリメイクで再掲載。
参考文献 [編集]
『日航ジャンボ機墜落事故』 朝日新聞社会部、朝日新聞社、1985年12月。ISBN 4-02-255441-X。
文庫版 1990年8月。ISBN 4-02-260606-1。
安部譲二 『日本怪死人列伝』 産経新聞ニュースサービス、2002年4月。ISBN 4-594-03487-X。
文庫版 2004年3月。ISBN 4-594-04558-8。
飯塚訓 『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』 講談社、1998年6月。ISBN 4-06-209259-X。
文庫版 2001年4月。ISBN 4-06-256515-3。
飯塚訓 『墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実』 講談社、2001年5月。ISBN 4-06-210746-5。
池田昌昭 『JAL123便墜落「事故」真相解明:御巣鷹山ファイル』 文芸社、1998年1月。ISBN 4-88737-053-9。
池田昌昭 『JAL123便は自衛隊が撃墜した:御巣鷹山ファイル2』 文芸社、1998年9月。ISBN 4-88737-153-5。
池田昌昭 『JAL123便空白の14時間:御巣鷹山ファイル3』 文芸社、1999年4月。ISBN 4-88737-309-0。
池田昌昭 『インターネットで解くJAL123便事件:Osutakayama file』 文芸社、2001年7月。ISBN 4-8355-2302-4。
池田昌昭 『完全犯罪JAL123便撃墜事件』 文芸社、2003年8月。ISBN 4-8355-6289-5。
井上赳夫 『航空大事故の予測 日航ジャンボ機墜落の謎』 大陸書房、1985年11月。ISBN 4-8033-0942-6。
運輸省航空事故調査委員会 『航空事故調査報告書. 昭和62年2』 運輸省航空事故調査委員会、1987年6月。ISBN 4-10-363001-9。[形態:2冊(別冊とも)]、全国書誌番号:87051796
加藤寛一郎 『壊れた尾翼-日航ジャンボ機墜落の真実』 技報堂出版、1987年8月。ISBN 4-7655-4337-4。
文庫版 講談社、2004年6月。ISBN 4-06-256854-3。
河村一男 『日航機墜落 123便、捜索の真相』 イースト・プレス、2004年8月。ISBN 4-87257-448-6。
河村一男 『日航機遺体収容 123便、事故処理の真相』 イースト・プレス、2005年8月。ISBN 4-87257-574-1。
杉江弘 『機長の「失敗学」』 講談社、2003年4月。ISBN 978-4062118002。
角田四郎 『疑惑―JAL123便墜落事故』 早稲田出版、1993年12月。ISBN 4-89827-152-9。
鶴岡憲一・北村行孝 『悲劇の真相:日航ジャンボ機事故調査の677日』 読売新聞社、1991年7月。ISBN 4-643-91059-3。
内藤一郎 『真説日本航空機事故簿』 亜紀書房、1994年10月。ISBN 4-7505-9412-1。
藤田日出男 『隠された証言―JAL123便墜落事故』 新潮社、2003年8月。ISBN 4-10-462001-7。
文庫版 2006年8月。ISBN 4-10-129351-1。
吉岡忍 『墜落の夏―日航123便事故全記録―』 新潮社、1986年8月。ISBN 4-10-363001-9。:生存した乗員の7時間のインタビュー
文庫版 1989年7月。ISBN 978-4-10-116311-6。
米田憲司 『御巣鷹の謎を追う-日航123便事故20年』 宝島社、2005年7月。ISBN 4-7966-4667-1。
関連項目 [編集]
山本夏彦
ナショナルジオグラフィックチャンネル(「メーデー!:航空機事故の真実と真相」第3シーズン第3話で当事故の発生時などの状況を再現して放送)
関連航空事故・事件
パンアメリカン航空845便離陸衝突事故 - ボーイング747、1971年。進入灯に接触し、4本の油圧配管のうち床下を走る3本を破断。ボーイング747初めての人身事故。内田幹樹は著書の中で、この事故後に適切な設計変更がされていれば123便の油圧喪失は防げたのではと語っている。
BEA706便墜落事故 - ビッカース ヴァンガード、1971年。
アメリカン航空96便貨物ドア破損事故 - DC-10、1972年。飛行中貨物扉が与圧に耐えられず脱落。急減圧により床下の操縦索を損傷。このときの機長は油圧のみで操縦する第3世代の機種に不安を抱いており、油圧喪失時の操縦を研究していた。
トルコ航空DC-10パリ墜落事故 - DC-10、1974年。アメリカン航空96便の経験が活かされなかった。123便の事故が発生するまで、単独機航空事故として世界最大の死亡事故だった。
オペーレーション・ベイビー・リフト - C-5、1975年。
大韓航空機撃墜事件(大韓航空007便) - ボーイング747、1983年。INSの故障でソ連を領空侵犯しミサイルを発射される。ミサイルは尾翼に命中し操縦索や油圧系統を損傷したとみられ、また急減圧が発生して緊急降下を試みたが墜落した。
タイ航空機爆発事件(タイ国際航空620便) - エアバスA300、1986年。乗客の持ち込んだ爆発物により圧力隔を損傷。急減圧が発生し油圧喪失。
ユナイテッド航空232便不時着事故 - ダグラスDC-10、1989年。本事故の教訓から油圧系統が全滅した場合の操縦方法を研究していたパイロットが搭乗していたため、着地は不完全であったものの空港への帰還に成功した。
チャイナエアライン611便空中分解事故 - ボーイング747、2002年。1980年に起こしたしりもち事故で修理した圧力隔壁が、金属疲労で壊れて墜落した。
DHL貨物便撃墜事故 - エアバスA300、2003年。テロリストの発射した地対空ミサイルが命中し全油圧を喪失したが、バグダード国際空港への着陸に成功。
日航ジャンボ機UFO遭遇事件 - ボーイング747、1986年。ぶどう酒を満載したJAL貨物特別機に、オレンジ色の物体が接近し、航空母艦のようなUFOが出現。米アラスカ上空でレーダーなどで観測された[1]。前年のJAL123便の事故を正確に再現しているのではないかと話題になった。以降、UFOが123便を撃墜して乗客乗員を食べたなどと主張する意見は下火になった。しかし翌1987年、レーガン大統領は国連でUFO危機説を展開。1997年、名君として知られるカルムイキア共和国のキルサン・イリュムジーノフ大統領がUFOに乗った宇宙人の友好的な訪問を受け、地球人にUFOの存在を知らせたいと誤解を訂正するよう依頼された。
大韓航空機爆破事件 - 1987年。荷物の収納スペースに爆弾をしかけられた大韓航空機が墜落、死者115人の大惨事となった。日本航空123便もCVRで32分に荷物の収納スペースが壊れたと報告されているため、日本航空123便も北朝鮮の犯行ではないかと話題になった。
関連項目出典 [編集]
^ Japan airlines Boeing 747 meets UFO over Alaska in 1986
外部リンク [編集]
日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る20年間の記録(1985年から現在までの記事を蓄積)
航空事故調査報告書概要(Aircraft Accident in Japanより)
[5](Wayback Machineによる記録)
航空事故調査報告PDF(国土交通省 運輸安全委員会より)
国土地理院・地図閲覧サービス(墜落現場周辺)
Google Map 現在の墜落現場。中央に見えるV字型に色の薄くなっている部分
JST失敗知識データベース > 失敗事例 > 御巣鷹山の日航ジャンボ機の墜落
日航123便 鎮魂の賦 コックピットボイスレコーダー音声・交信全記録
日本航空安全啓発センター
JAL123便墜落事故記録
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85」より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事/2010年8月 | 日本航空の航空事故 | 1985年の航空事故 | 日本で発生した航空事故 | ボーイング747による航空事故 | 1985年の日本 | 昭和時代戦後の災害 | 群馬県の歴史 | 陰謀論
個人用ツール
新機能 ログインまたはアカウント作成 名前空間
本文 ノート 変種表示
閲覧 編集 履歴表示 操作検索
案内
メインページ コミュニティ・ポータル 最近の出来事 新しいページ 最近の更新 おまかせ表示 練習用ページ アップロード (ウィキメディア・コモンズ) ヘルプ
ヘルプ 井戸端 お知らせ バグの報告 寄付 ウィキペディアに関するお問い合わせ ツールボックス
リンク元 関連ページの更新状況 特別ページ一覧 印刷用バージョン この版への固定リンク この項目を引用する 他の言語
Deutsch English Español Suomi Français עברית Bahasa Indonesia Italiano 한국어 Nederlands ‪Norsk (bokmål)‬ Polski Português Русский Svenska 中文 最終更新 2010年9月20日 (月) 09:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。

プライバシー・ポリシー ウィキペディアについて 免責事項  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2010年9月22日 17:56:13: yCgHRkKwnk
http://www.seguintx.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85/49
日本航空123便墜落事故とは?

異常外力
【】
【可能性】
【物的証拠・証言】
【反証】

【異常外力】
○ |
•DFDRの記録値(事故調P.79)
◦DFDRの横方向の加速度
◦異常外力が発生した
◦異常外力なしに説明不可能
•CVR(24分)
◦「オレンジや」「オレンジエア」と聞こえる音声
◦管制の許可を得る前に右旋回、降下
•地上・海上から123便は見えなかった(生存者)
|
【APUへの衝突】
○ |
•24分の衝撃音の発信源は、APU周辺
◦隔壁後方10〜20インチ(隔壁後方25〜50cm「隠された証言」P.182)
◦隔壁やそのリベットではない
•APU空気取り入れダクトは、海上から回収(事故調P.183)
•APUの爆発はない(「悲劇の真相」)
◦APU取り付け部周辺には、焦げた痕跡がない
◦APUの破片がささっているなど爆発の痕跡がない
◦APUは地上でのみ使用し、上空で作動させない
◦APUは飛行中に爆発する可能性がない
|
【海自の標的機が刺さった可能性】
○ |
•真下で公試中に事故発生
•DFDRの記録値(事故調P.79)
◦DFDRの横方向の加速度
◦異常外力が発生した
◦異常外力なしに説明不可能
•CVR(24分)
◦「オレンジや」「オレンジエア」と聞こえる音声
◦管制の許可を得る前に右旋回、降下
•地上・海上から123便は見えなかった(生存者)
•確かに12日夜の防衛庁が普通ではなかった(藤田)
◦海幕があわてて走り回っていた
◦相当な地位に至る者まで湘南方面へ行った
◦海自だけ行動非公表
◦海自だけ救援に参加していない
•2010年8月の海保ヘリ事故における隠蔽との類似
|
DFDRの24分の最初の異変は、前への加速度


【海自の標的機の刺さった123便に海自がミサイルを放った可能性】
○ |
飛んでいく火の玉の目撃情報(朝日「日航ジャンボ機墜落」)

•横田基地周辺
•長野
|
【海自のミサイルで撃墜】
× |
•生存者救助より、墜落現場から何かをつりあげることを優先
|
•ミサイルで撃墜すればきりもみ状態になる
◦123便は垂直に墜落
•ほぼ垂直に墜落した例
◦ユナイテッド航空585便墜落事故(1991年)
◦USエアウェイズ427便墜落事故(1994年)
◦バージェン航空301便墜落事故(1996年)
◦シルクエアー185便事故(1997年)
◦エールフランス447便墜落事故(2009年)
◦中華航空006便急降下事故(1985年)

【戦闘機が飛行中だった】
○ |
•飛行機の高い音がした(朝日「日航ジャンボ機墜落」)
◦雨雲が低くたれこめていたので見えなかった
◦高い音:戦闘機
◦123便:雷のような音
|
【!落雷】
x |
事故直後、日航は落雷の可能性があると発表

|
•落雷は発生していない
•DFDRの24分の最初の異変は、前への加速度


02. FBI 2011年2月26日 00:35:31: AZAiSFXhxsTDU : kZT9YWVlFI
お金の流れを止められたので

頭に来たから日航123便の1985/08/12数回に渡る撃墜の証拠動画と

F−14とF−19戦闘機内の

コクピットの会話を録音したものを

世にだす!!


  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)|(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(なしでも可能。あったほうが良い)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 コメントの2重投稿は禁止です。  URL紹介はタイトル必須
ペンネームの新規作成はこちら←  最新投稿・コメント全文ページ
フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 昼休み42掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 昼休み42掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧