★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6 > 7125.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
   大河ドラマ:『真田丸』・「完封」と 「砲弾」のあらすじと時代背景は ?
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/7125.html
投稿者 青木吉太郎 日時 2016 年 11 月 22 日 20:58:20: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


大河ドラマ:『真田丸』・「完封」と「砲弾」のあらすじと時代背景は ?

『大坂の陣』とはどんなものだったの?

天下強奪のため、徳川家康の大謀略 !


1 大河ドラマ:『真田丸』 第45回「完封」

(www.nhk.or.jpより抜粋・転載)

 2016年11月13日(日)
幸村(堺雅人)が築いた真田丸砦(とりで)に、家康(内野聖陽)は大きな脅威を感じる。徳川軍の中には、信之(大泉洋)の2人の息子たちや、景勝(遠藤憲一)らの姿もあった。幸村は、大助(浦上晟周)らとともに徳川軍を挑発。苛立った一部の徳川兵は一気に真田丸を落とそうと攻めかかる。しかし、そのことを知った家康は激しく憤る。真田丸では、又兵衛(哀川翔)や勝永(岡本健一)、盛親(阿南健治)らの牢人(ろうにん)衆が待ち構えていた。


☆苦難、上杉主従
幸村が築いた堅固な出城・真田丸を警戒する家康。真田丸を攻略するため、家康は上杉主従を本陣に呼び寄せ…。

☆破天荒、茶々
徳川軍に大坂城を取り囲まれた豊臣。秀頼は甲冑をまとい共に戦いたいと望むが、有楽斎らに止められてしまう。すると茶々は…。

☆決戦、真田丸
幸村が巧みな策で真田丸に敵兵をおびき寄せ、豊臣軍と徳川軍が激突! 日の本一の兵(つわもの)・真田幸村の名が天下に轟く!


U 大河ドラマ:『真田丸』第46回「砲弾」

(www.nhk.or.jpより抜粋・転載)

真田幸村(堺雅人)が築いた、真田丸砦(とりで)を攻めあぐねる家康(内野聖陽)は、幸村に10万石の領地を約束するなどさまざまな調略に乗り出す。有楽斎(井上順)らの強い勧めで、秀頼(中川大志)は、和睦を決意するが、幸村は、有楽斎の言動には裏があると、あやしむ。
真田幸村は、意を決して、茶々(竹内結子)への直談判に挑む。一方、家康の陣には、イギリスから取り寄せた大砲が到着した。運命の砲弾が、大坂城に向けて放たれる !
☆ 信尹、調略する
家康に幸村を調略するように命じられた信尹(栗原英雄)。陣を訪ね、久しぶりに対面した信尹は幸村に…。

☆秀頼、迷う
秀頼に和睦を勧める有楽斎と大蔵卿局(峯村リエ)に対し、幸村らは強く反対。決断を迷う秀頼に幸村は…。

☆夜討ちの団右衛門
名を轟かせるため、敵陣へ夜討ちを掛けることを画策する団右衛門(小手伸也)。これを知った又兵衛(哀川翔)と勝永(岡本健一)らは…。


☆イギリスから取り寄せた大砲を大阪城に撃ち込む直前、家康は、大阪城の様子を知る大名に淀君のいる部屋を尋ねるが、淀君への砲弾発射を心配して答えない。

家康は、淀君のいる部屋を避けて、大砲を撃つためだと言って、淀君のいる部屋を尋問した。
しかし、実際は、徳川家康のウソと謀略で、大砲は、淀君のいる部屋をめがけて、何度も、発射されたのだった。

◆真田幸村役の堺雅人さんへのインタビュー

11月13日(日)放送の第45回「完封」は、いよいよ真田丸決戦。
大坂冬の陣の真田丸決戦ロケを終えた直後に、真田幸村役の堺雅人さんにお話を伺いました。

Q.真田丸のオープンセットをご覧になった感想をお願いします。

ロケの直前に台風が来たので、その影響を心配していたのですが、美術部のスタッフさんが本当に頑張ってくださいました。合戦で城や砦(とりで)を守るのも大変ですが、撮影のためにセットを守るのも本当に大変なんだなと思いました。

関係する、みなさんの努力が凝縮されているので、ロケがわずか2日で終わってしまうのが、本当にもったいないのですが、ご覧くださる視聴者のみなさんにもスケールの大きさや、合戦の臨場感が絶対に伝わり、お楽しみいただけると思います。


Q.クランクインから1年にわたり真田幸村(信繁)を演じてこられ、今、改めて赤備えの甲冑(かっちゅう)を身にまとわれているわけですが、心境の変化はありましたか?

第1回「船出」の冒頭のシーンで初めて甲冑を身に付けた時は、ものすごく重たいという印象でした。しかし、そのあとに他の甲冑を2領くらい身に付けて撮影をしたので、それに比べると当世具足というだけあって、随分と動きやすいという印象に変わりました。

最初はこれで1年間演じられるかなと不安だったのですが、思っていたよりも軽く感じられたのがすごく意外でしたね。

ただ、兜(かぶと)については改めて大変だなと思いました。前立の鹿角が随分とバランス悪いんですよ。


Q.これまでは2・3番手であった幸村が、真田丸決戦ではリーダーとして采配を振るうわけですが、心境の変化はありますか?

責任感の重さというか、“ここを突破されたら本当に困る”という思いが違いますね。例えば、堤防を守る市役所の土木課の課長さんとか、同じような感覚なのかなと思っているんです。幸村は基本的に公務員のイメージで演じているので。

合戦ですので、幸村は人を殺すという残酷なことをしているわけですが、持ち場を守るという意味では、現代と通じるものがあるのかなと考えています。
たぶん台風の日にセットの様子を見に来た美術部の現場責任者も、同じような気持ちだったと思いますよ。

Q.久しぶりのロケとなりましたが、スタジオでの撮影とは違いますか?

開放感が全然違いますね。いい意味でも悪い意味でも、舞台を大坂に移してから今まで、すごく緻密なお芝居が続いていたので。僕はインドア派でスタジオが大好きなのですが、たまにはロケもいいなと思いました。気持ちよかったですね。

それにしても、今回はエキストラとして上田市・東吾妻町・大多喜町のみなさんが集まってくださったのですが、徳川兵をやっていただいたので、敵としてやっつけるのが本当に忍びなかったですね。

申し訳なかったのですけれど、出城「真田丸」をご覧になるのに一番良い場所での撮影でしたので、楽しんでいただけたのではないかなと思っています(笑)。

V 『大坂の陣』とはどんなものだったの?

(rekishizuki.com:2016年7月29日より抜粋・転載9

大阪冬の陣

片桐且元が、10月1日大坂城脱出との報に接した家康は、この”片桐且元追放”を大坂方の宣戦布告と見なして、同日にはもう軍令を発しました。戦の準備不足の大坂方と違い、既に豊臣討伐軍は、戦準備を終えていて、10月11日早暁には、家康自身が駿府から大阪へ向けて出陣をすると云う、驚くほどの手回しの良さでした。

豊臣方も取り急ぎ戦準備に入り、10月2日豊臣秀頼の親書をもった使者を豊臣恩顧の諸大名に発して大坂城への参陣を求めます。

ところが、関ケ原以来14年も経っており、この時秀頼の求めに応じて、馳せ参じる大名は、一人もいない有様で、大坂方の思惑は大きく崩れてしまいます。
結果、牢人衆を求めざるを得ないことになりました。

当時、『関ケ原の戦い』で、西軍へ付いて、改易になった大名が、90家、減封4家、慶長7年以降に取り潰しにあった大名36家もあり、合計およそ1千万石分となり、計算上約30万人もの牢人(失業武士)が発生する事となります。

勿論、一方で加増になった、大名もいることになりますから、腕の立つ武士は、再就職していたとしても、かなりの人数の武士が、リストラされて”就活中”だったようです。
それで”豊臣家の武士募集の噂”を聞きつけて、質はともかく人数だけは、就活牢人が全国から押し寄せて、あっと云う間に10万人ほど集まったようです。

その中で、大将クラスが、真田信繁(さなだ のぶしげ)、長曾我部盛親(ちょうそかべ もりちか)、毛利勝永(もうり かつなが)、明石全登(あかし てるずみ)、後藤基次(ごとう もとつぐ)の5名でした。

それに豊臣家家臣の大野治長(おおの はるなが)、大野治房(おおの はるふさ)、仙石秀範(せんごく ひでのり)、木村重成(きむら しげなり)、浅井周防守(あざい すおうのかみ)の5名を加えた10名が豊臣方の100騎以上の兵を与えられた侍大将だと伝えられています。

慶長19年(1614年)11月15日に、徳川家康率いる総勢20万の幕府軍が大坂城近くに到着しました。

緒戦は11月19日に木津川口にあった城方の砦を幕府軍の蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)・浅野長晟(あさの ながあきら)の兵が奇襲して落したことから始まりました。

最大の激戦は、11月26日大坂城南東方面の鴫野・今福地区における幕府軍佐竹義宣(さたけ よしのり)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)VS豊臣軍木村重成・後藤基次の戦いでしたが、勝敗相半ばで引き、その後の戦いで、幕府軍に押されて、11月30日には豊臣軍は、砦を放棄して籠城戦に入ります。

幕府軍の大阪城攻めは、12月4日夜の”真田丸”の攻城戦から始まります。
真田軍の度重なる挑発に、業を煮やした前田利常軍が打ち掛かり、次いで松平忠直(まつだいら ただなお)・井伊直孝(いい なおたか)軍も続き、真田丸の空堀に軍勢が入ったところを、真田軍6000名の集中砲火を浴び、壊滅に近い大損害を受けたようです。

当時のイエズス会の年報によると、当日の被害は、3万人の戦死者を出す”大虐殺”だったと誇大報告があり、数字は大きすぎるにしても、幕府軍が数千人におよぶ大損害を出したことは、間違いないようです。

この報告を受けて、徳川家康は、早速、真田信繁の叔父で、徳川家にいた真田信尹(さなだ のぶただ)に命じて、真田丸の大将の真田信繁の「寝返り工作」を行ったほどでした。

このこともあり、力攻めしても難しい大坂城に対して、家康は、心理作戦に出ます。

つまり、運んできた鉄砲・大砲をもって、射程に関係なくガンガン城内へ撃ち込み、大坂方を心理的に追い詰めて行きます。

合わせて、講和工作も、既に開戦前の11月18日の時点で城内の織田有楽斎(おだ うらくさい 織田信長末弟・淀殿叔父)に対して、家康側近の本多正信が連絡を取り合っており、『大筒作戦』の継続とともに『講和』を進めました。

結果12月19日に、”二の丸三の丸の破却と堀の埋め立てと云う条件”で折り合い『和議』は、成立しましたが、ここに天下の難攻不落の名城”大坂城”は、防御力を失った、ただの「裸の城」となりました。


 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
ペンネーム登録待ち板6掲示板  
次へ