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  1985年8月12日・日航ジャンボ機 123便墜落の黒い霧とは ?(上)
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/8612.html
投稿者 青木吉太郎 日時 2017 年 8 月 19 日 20:54:22: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


1985年8月12日・日航ジャンボ機123便墜落の黒い霧とは ?
      (上)

佐宗氏の主張:JAL123便を、米国の戦闘機が後部からミサイルで撃墜した !


(「植草一秀の『知られざる真実』」:2017/08/14より抜粋・転載)
────────────────────────────────────
1)日航ジャンボ機墜落事件については、多数の人が、
真相究明の努力をしてきた !

35年前の日航ジャンボ機墜落事件については、多くの関係者などが強い疑問を持ち、さまざまな真相究明の努力を注がれてきた。

しかし、本格的な事故調査は、実は行われていない。
事故=事件が発生したのは1985年8月12日。
羽田空港1800発大阪伊丹空港行き日本航空123便が、18時56分に、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した。


2)航空事故調査委員会は、事故原因は、圧力隔壁の破損
だと公表して、真相に蓋を閉じた !

事故から2年後の1987年6月19日に航空事故調査委員会が、同機が、1978年6月2日に伊丹空港で起こした、しりもち着陸事故後のボーイング社修理が、不適切であったために圧力隔壁が破損したことが、事故原因であるとの報告書を公表して、蓋を閉じられたままになっている。

しかし、圧力隔壁が破損したのなら、機内与圧が急激に低下し、白い水蒸気のような気体が充満するはずであるが、生存者の落合由美氏は、「白い霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。」
と証言しており、圧力隔壁破損の他の航空機事故の状況とは明確に異なっている。

また、圧力隔壁が破損して、機体に穴が開いたのなら、機内の気圧が急低下して、ほとんどの乗客、荷物が、機体の外に吸い出されたはずである。


3)実際には、外部から何らかの衝撃が加えられて尾翼が
破損し、機体の操縦が不能になったのだ !

実際には、外部から何らかの衝撃が加えられて尾翼が破損し、機体の操縦が不能になったのだと考えられる。当時の日航DC10機に乗務されていた機関士の方から連絡があり、その方の推察内容を教えていだいた。

また、私が8月12日付記事に記述した内容に、一部誤りがあったので、この点も訂正させていただく。日航ジャンボ機123便が、操縦不能に陥り、緊急着陸を試みようとした空港は、調布ではなく、米軍横田基地である。


4)日航ジャンボ機が、横田基地に緊急着陸していれば、
すべての乗客の生命が、守られた可能性が高い !

横田基地に緊急着陸していれば、すべての乗客の生命が守られた可能性が高い。
しかし、同機は横田基地への着陸を阻止されて、群馬県山中に誘導された。
そして、御巣鷹山山中に胴体着陸を試みたのだと推察される。
問題は、墜落場所が早期に確認されたにもかかわらず、人命救助措置がまったく取られなかったことである。

「123便」に乗務した、グループに所属していた、元日航客室乗務員、青山透子さんの著書、
『日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ』(マガジンランド、2010年4月刊)
https://goo.gl/FmG2dF、が注目する1995年8月27日付「星条旗新聞」=” Stars and Stripes”
に、事故当時に横田基地に配属されていた、米国空軍の輸送機U130のパイロット、マイケル・アントヌッチ中尉の証言がある。


5)墜落直後、墜落機の位置をつかんでいた米国空軍の
輸送機U130のパイロットの証言がある !

この証言を米田憲司氏の著書、『御巣鷹の謎を追う』(宝島SUGOI文庫)
https://goo.gl/uuwskt、から紹介する。
「当機は、陽が長くなった、夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺は、とても起伏が多かった。
地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は、大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。
当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。


6)米国海兵隊が、救難に向かう準備をしており、
 墜落現場に、1時間で到着できただろう !

事故現場から、横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で、当局は、墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地から、米国海兵隊が、救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。」
「当機は、8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが、救助に向かっているので、方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。


7)米軍将校が、「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」
といったので、横田基地に帰還した !

午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。われわれに、司令部に、連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので、「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。」

C130は、午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れたのを確認して現場を引き揚げた。
ジャンボ機の墜落現場は、米軍機によって、墜落して20分後には、確認されていた。
そして、墜落から2時間後には、米軍救援ヘリが、現場に到着している。


8)最初の日本のヘリコプターが、現場にやっと到着したの
は、翌日の午前4時40分だった !

ところが、最初の日本のヘリコプターが、現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分(ジャンボ機に衝撃音・事故発生から10時間超後)である。
午前7時15分(ジャンボ機に衝撃音・事故発生から12時間30分超後)になって日本の捜索隊は、自衛隊のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。

米軍ヘリコプターによる、救援活動が、許可されなかった時点から、11時間もたっていた。
情報を寄せてくださった、元日航機関士の方は、当初の一連の動きから、「米軍の戦闘機説」をとっているとのことだ。


9)米軍か自衛隊の標的機か、地対空ミサイル等の誤射により、
ジャンボ機の尾翼が破損し、ジャンボ機が操縦不能に陥った !

米軍演習の標的機、または、自衛隊の標的機、あるいは、地対空ミサイルなどの誤射により、
日航ジャンボ機の尾翼が破損し、ジャンボ機が操縦不能に陥った。
ジャンボ機は、横田基地に着陸しようとしたが、真相発覚を阻止する目的で、同機は、横田基地に着陸できず、群馬県山中に、誘導されて、墜落した。

現場は、墜落から20分後に確認されたが、翌朝7時まで、救援活動が行われなかった。
確定できていない部分が残るが、全体像は、これに近いのではないか。


10)衝撃音・事故発生から12時間30分超後まで救援しなかった、
日航機墜落事故は、闇に葬らずに、真相を解明すべきだ !

日航ジャンボ機墜落事故は、闇に葬らずに、真相を解明する必要がある。
 上記の日航元機関士は、次の事実を指摘される。
1.墜落事件の原因は大阪でのしりもちをついた時のボーイング社の整備技術陣による胴体後部の隔壁の修理ミスにされた。
2.このことが発表される前に、ボーイング社の技術陣が来日し、日本航空の手の整備陣を総動員し、墜落現場でまだ遺体収容中でありながら隔壁を集めて、いち早く海上保安庁の格納庫に並べて修理ミスを発表した。
3.通常、航空機メーカーは自分たちの不利になるすべての事柄に対して、自ら自分たちのミスであると発表することはないが、ボーイング社は率先して事故原因が自社にあるとして、遺族補償まですると発表した。
4.垂直尾翼が相模湾で発見され、相模湾の海底の捜索が行なわれようとしたが、米軍が反対してできなかった。
5.海底の捜索を米軍が妨害したのは、ミサイルの機体後部に装備されているAPU(補助電源装置=Auxiliary Power Unit)が回収されることを恐れたためである。

   ―この続きは次回投稿します−

(参考資料)

8.12日航ジャンボ機墜落事故 !  30年目の真実について

http://www.asyura2.com/13/nihon31/msg/576.html

投稿者 佐伯まお 日時 2015 年 8 月 02 日 00:11:44: tdlRyu1TRbdKI

お世話になります。佐伯まおです。今年は特に暑く感じております。
外出時は水分・塩分補給と休憩をお忘れにならないでください。


◆1985年8月12日、日本航空123便墜落事故 !

今回は、日本航空123便墜落事故についてです。
1985年8月12日(月)18時56分に発生した墜落事故です。
今年で30年目を迎えます。毎年テレビでこの事件の「真実」と称して放送されております。
毎年新しい事実が出てくるのでしょうか?
実際の表に出せない事実があるから、墜落事故の真実だの真相だのと称して、テレビ報道しているのではないでしょうか?


◆墜落事故の真実を講演された、佐宗邦皇さん、
休憩中に倒れ、死亡された !

この事件について、佐宗邦皇(さそう・くにお)さんが、裏には真実があり、大変な事実が隠されていたことを講演されました。
しかも、講演休憩中に倒れ、故人になられました。
真実を知られたくない者たちに消されたとする見方があります。
佐宗さんは、JALの社員だった方で、内部の事情を良く分かる立場であった方です。


◆佐宗邦皇(さそう・くにお)さんは暗殺された ?

この方の言われた内容は、第3者の方より説得力があり、消そうとする理由も納得できます。
佐宗さんが倒れたことは、真実の裏付けになります。
佐宗さんの命をかけた講演をお聞き頂きたく思います。5分程度です。


■「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について !」

佐宗邦皇代表 :https://www.youtube.com/watch?v=Y-rbgPbmmTo

■急減圧はなかった !
急減圧は事故調によって創作されたものだ !

http://sky.geocities.jp/joggle_joggle/Main1.html

☆JAL123便を、米国の戦闘機が後部からミサイルで撃墜した !

佐宗さんは、アメリカの戦闘機が後部からミサイルで撃墜したと主張されております。
一般的に、内部隔壁が損壊したことが原因と言われている説は、あれはウソだと言っておりました。
なぜそのようなことをしたのかという問いでは、
アメリカがプラザ合意を押し付けるために、武力で脅すために、
このような旅客機撃墜を実行したという主張です。
日本航空の社員だった佐宗さんは、この問題に熱心に取り組んだ結果の結論でした。

■プラザ合意(ネットより抜粋)

1985年9月 22日にニューヨークのプラザホテルで開催された先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議 G5で討議されたドル高是正のための一連の合意事項をいう。
当時,アメリカは巨額の財政赤字や高金利を背景にドルの独歩高を通じて膨大な貿易収支の赤字を発生させ,世界的な対外不均衡が問題となっていた。

☆日航機墜落事故のすぐ翌月に、プラザ合意が締結 !

日航機墜落事故のすぐ翌月に、プラザ合意が締結されております。
アメリカはこの時、経済的に追い込まれていました。
アメリカは何としてもこの条約を結びたかったわけですから、武力で脅したという説の状況証拠になる事実です。本当であればアメリカの飛行機の欠陥で起きた事件なら、まだ事故の影響が落ち着いていない翌月にアメリカのための条約を結ぶのも逆に変な話しです。普通の感覚なら、あえてこの時期に余計結びたくないはずです。


 

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